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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

2バックアップ:2002/02/20(水) 13:45

2 名前: nanasinokoibito 投稿日: 2002/01/31(木) 18:27

仏とはなんなのでしょう?
そして、我々の成仏への道は?

3バックアップ:2002/02/20(水) 13:45

3 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/01(金) 03:21

nanasinokoibitoさま:

> 仏とはなんなのでしょう?
> そして、我々の成仏への道は?

上述の文章は疑問形になっていますが、質問にも、発題にもなっていません。

小学生に「仏とはなんでしょうか」と問うたら「片仮名のイとムを並べて書くと仏になる」と答えるかもしれません。しかし、あなたが聞きたい答えはこのようなことではないでしょう。また、弁護士事務所に法律相談に出向き、「法律とはなんですか」と訊いたら、弁護士に呆れられるだけでしょう。

(1)仏のなにを質問しているのか、具体的に発題しなおしてください。

それと、質問をする最低限の礼儀として、「自分はこのように思っている」という自分の責任で、自分の考えを述べるべきでしょう。それはまた、自分が理解していることを相手に告知し、質疑応答の無駄を省く役割をもつものです。

(2)以上のことから、あなたが考える「仏とはなにか」「成仏の道はなにか」を提示してください。あなたが考えるです、創価学会の友人が言ったなどは必要ありません。

4バックアップ:2002/02/20(水) 13:46

4 名前: nanasinokoibito 投稿日: 2002/02/04(月) 19:49

以前にも書きましたが、私は皆様のように仏法に精通している者ではありません。
様々な教義を持った方々の話を聞いている中で、何が真実なのかを模索している
最中です。
自分がこう思っているというしっかりとした意見は恥ずかしながらありません。
では、質問し直します。
「日蓮大聖人の仏法の中で顕される仏」とは具体的にどんな存在をいうのでしょうか。
また、仏とは実在する存在なのでしょうか。

日蓮仏法の教示している「成仏」とはどういった現象もしくは状態なのでしょうか。
また、「成仏」という結果を得る為には何が必要なのでしょうか。

また、できましたら皆様が体験された現象に基づいた解説をいただけると、具体性
が増し、納得できると思のでお願いいたします。
いますどのような宗教も元は民衆救済という名目では同じだと思っています。
ですが、実際に皆様は日蓮仏法を熱心に信仰されているという事は、日蓮仏法
にしかない「何か」があるのでは?とも思います。
もし、よろしければ皆さんの信仰する理由も聞かせていただけると、嬉しいです。

5バックアップ:2002/02/20(水) 13:47

5 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/04(月) 20:41

nanasinokoibitoさま:

一週間ぶりの登場ですか。少し質問が具体的になりましたね。

>「日蓮大聖人の仏法の中で顕される仏」とは具体的にどんな存在をいうのでしょうか。
また、仏とは実在する存在なのでしょうか。

ここでは、まず「存在」を問うて、のちに今度は「存在なのか」と自らの前言に疑問を投げかける形になっていますね。まあ、細かい点を特に拘るのはやめましょう。

まず、仏教は大前提として、何の存在も説いていません。説いているのは縁起だけです。
「仏」の意味は仏教辞典でも繙く努力をしてください。私は個人的に『織田仏教大辞典』を薦めます。著者・織田得能師の血の滲むような精進も共に俯瞰していただければ、仏教を学ぶ人間の努力の一端を垣間見られるのではないかと思います。

さて、日蓮聖人が説く「仏」とは他のスレッドでも記すところですが、法華経寿量品の久遠五百塵点成道本門教主釈尊ということです。しかし、これは存在ではありません。

> 日蓮仏法の教示している「成仏」とはどういった現象もしくは状態なのでしょうか。

成仏は現象でもなく、状態でもありません。

> また、「成仏」という結果を得る為には何が必要なのでしょうか。

聖人の教説に添えば、本門教主釈尊を本尊として、南無妙法蓮華経と題目を唱えることとなります。この結果がどのようなものであるのか、それは言語道断・心行所滅の境地でしょう。解説を求めること自体、既に方法論として間違っています。

> また、できましたら皆様が体験された現象に基づいた解説をいただけると、具体性
が増し、納得できると思のでお願いいたします。

私自身の個人的な体験としては、やはり、唱題の最中の実感ということになります。

> 宗教も元は民衆救済という名目では同じだと思っています。

民衆共済というより、慈悲の顕現ということであろうかと存じます。とはいうものの、私自身は、社会一般のなかに帰っていく活動、社会福祉、障害者問題、青少年問題、高齢者・福祉問題への取り組みという形で具体化を目指しています。根幹となるのは仏教の慈悲の精神です。

> 実際に皆様は日蓮仏法を熱心に信仰されているという事は、日蓮仏法
にしかない「何か」があるのでは?とも思います。

私にとっては、やはり、唱題の実感ということになります。
しかし、これを文章で表わすことはできません。

6バックアップ:2002/02/20(水) 13:47

6 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/04(月) 21:44

独歩さま
わたしも『織田仏教大辞典』(通称「おだぶつ」)がよいと思います。
仏典や論書からの出典がたくさん出てくるのがよいですね。

あと、岩波の「仏教辞典」もお薦めですね。
これは、サンスクリット語、パーリ語が明記されているので、漢訳化されるもともとの意味を知るのに、とてもよいです。

本格的なのは「望月大辞典」ですよね。10巻以上ありましたか。滅多に引くことはありませんが、よくもまあ、あそこまで作りましたよね。

7みなみつくし:2002/02/22(金) 12:38
すごく変な質問ですが…。

コスプレって謗法なのでしょうか。
自分自身はセーラームーンの大ファンで、
セーラー服とかナースとかの洋服を着るのが大好きですが、
元邪宗の修行僧だった職場の先輩に「コスプレしていいの?」と
突っ込まれました。
また、自身はUFOと宇宙人が好きでラエリアルムーブメントに興味が
ありますが、あれは宗教なのでしょうかそれともただのサークルなんでしょうか。
バレンタインはキリストの祭りだということはしっていますが、
何故か宗門内であげてるひとがいましたがそれは果たしていいのでしょうか。
また、バレンタインに代わるプレゼントの渡し方を教えてください。
本命は正宗信者だから理解してくれてるけど、他の男性が心待ちにしています。
でもあげないのはかわいそうだし…。

8問答迷人:2002/02/22(金) 14:38

うーん、難しい。

私は、習俗になった事柄は、本来は他宗教に由来する事であっても、多少の事は、そのまま認めて良いと思います。コスプレだって、バレンタインのチョコレートだって、構わないと思いますが…。

9みなみつくし:2002/02/23(土) 20:00
ありがとうございます。バレンタイン、終わっちゃってた…。
今からでも間に合いますか?(爆)

ラエリアルムーブメント。やっぱり気になります。
本厚木のパンフでは、「サークル」ですが、
他に、
宇宙人はGOD(神)と間違われた。
地球人は宇宙人によって作られた。
クローン人間にYES。
科学を止めるものは悪である。
等、ありました。

10板東:2002/02/23(土) 20:05

コスプレは知らんけど,バレンタインも謗法!と,オレがいた寺の住職の女房は,女子部が所化にもってきたチョコレートをたたき返していたね.
その前にチョコを受け取る所化の顔見てたんだけど,あれが出家ってやつかね,まったく,殴って根性たたきこんでやろうかとおもったもんだ.
おっと,不適切発言かな?

11板東:2002/02/23(土) 20:10

ラエリアルムーブメントが好きなんだ.
むかし,創価学会にいたころ,2001年宇宙の旅に出てきたモノリスを「あれはご本尊だ」と言った男子部がいたもんだ(爆)
似たようなもんかね,考え方は.宇宙人だ,UFOだで日蓮正宗の信じてますってか.
つながるわけなんだ.ふ〜ん.ま,どう考えようと自由だけんどねえ.

12みなみつくし:2002/02/23(土) 21:57
いや、ラエリアンが好きって訳ではないんですけど。
宇宙人にはすごく興味があります。
変な教団とかセックス宗教とか噂されてるけど真相が知りたいのです。

13tokumei:2002/02/24(日) 14:00
この団体は倫理的に問題があると思います。

14問答迷人:2002/03/02(土) 10:32

前から、不思議に思っていることがあります。聖人の御在世当時は、御僧侶が盛んに、他宗の僧侶を折伏して、改宗させています。例えば、熱原の法難でも、寺院をそっくりそのまま折伏する、という事が行われています。ところが、本宗の御僧侶が、他宗の僧侶を折伏した、という話は聞いた事がありません。なぜなんでしょう。

15tokumei:2002/03/02(土) 10:53
そうですか。
大聖人様滅後は、本宗の御僧侶は他宗の僧侶を折伏していないのですか。

16一講員:2002/03/02(土) 11:41

問答さん
tokumeiさん

>大聖人様滅後は、本宗の御僧侶は他宗の僧侶を折伏していないのですか。

そんなことはないでしょう。昔はバンバンやってたと思いますよ。だけど、最近、特に明治以後はあまり聞きませんね。勿論、江戸時代は、寺請制度で、折伏はできてません。今の僧侶を見ていると、本宗に限らず、みんな家族を持っていて、半ば、僧侶という家業を継いでいるように見えます。だから、その宗教が間違っていると判っても、商売だから止められない、そんな事情があるんだと思いますよ。それで、宗門も、あまり効果が上がらないものだから、信者の折伏に精を出すことになってしまったのではないかと思います。

17問答迷人:2002/03/02(土) 12:59

tokumeiさん
一講員さん

>大聖人様滅後は、本宗の御僧侶は他宗の僧侶を折伏していないのですか。

書き方が悪かったです。『今日においては』という意味です。聖人のころは、他宗の僧侶が改宗した場合、事実関係は良くは分かりませんかが、宗門僧侶として受け入れていた様に思われます。現在は、もう一度、所化から修行しなおさなければならないし、所化になれるかどうかも難しいのではないのでしょうか。御存知の方、御教示お願い致します。

19一字三礼:2002/04/12(金) 17:12
また、皆様から御教示いただきたいのですが。
十如是についてですが、実は私は一年ぐらい前から三転読していません。もともと三転読は、「是相如・・如是相・・相如是・・」と読みかえることを報身・応身・法身の三身、空・仮・中の三諦、法身・般若・解脱の三徳と観じて「我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり」(御遺文は一念三千法門です。真蹟も古写本も無しですが、三転読の意味は同じであろうと引用しました。)と知るところにあると思うのです。しかし、そもそも方便品読誦の意義は五人所破抄によれば「純一無雑の序分には且く権乗の徳果を挙げ、廃迹顕本の寿量には猶伽耶の近情を明かす。」為としています。また「方便読誦は本意に非ざれば只是牒破の一段なり」と言うことであれば、方便品はそのまま読誦すればいいのであって、ことさら一念三千や三身如来と結びつける必要を感じません。なにより、教義を経典にあてはめて読み替えをすることが本末転倒に思えるのですが。掲示板を御覧の方々はどのようなお考えをお持ちか、ぜひお聞かせください。

20独歩:2002/04/13(土) 01:32

一字三礼さん:

> 教義を経典にあてはめて読み替えをすることが本末転倒に思えるのですが

私は、この考えには大いに賛成です。

21一字三礼:2002/04/13(土) 10:15
独歩さん:
少々ほっとしました。
御賛同いただいた点は、蓮祖聖人の基本スタンスさと思いますので、聖人御自身も三転読なさらなかったのではないか、とまで考えておりますが、この点につきましては、どのようにお考えですか。

22独歩:2002/04/13(土) 14:26

一字三礼さん:

> 聖人御自身も三転読なさらなかったのではないか

これはどうでしょうか。この点を決定付ける資料は考え付きません。
ただ、三転は玄義「釋名三法妙」に現れる

依義讀文凡有三轉。
一云。是相如是性如。乃至是報如。
二云。如是相如是性。乃至如是報。
三云。相如是性如是。乃至報如是。

に拠りますから、その継承者であれば、この点を否定したとは考えづらいような気がします。私は、むしろ、三転読誦と言いながら、経文の字句どおりを、3回繰り返して三転読誦というのではなく、玄義文の如く、読み替えながら読経していたのではないのかと考えています。

ただし、これは資料によるものではありません。この点、どなたか確かなところをご教示いただければ幸甚です。

いずれにしても、聖人の読経の行儀と違っているのは方便品を十如で打ち切り、その後、世雄偈を唱えないほうが、よほど相違している点ではないのかというのが、私の見解です。

23一字三礼:2002/04/13(土) 21:05
独歩さん:
>十如で打ち切り、その後、世雄偈を唱えないほうが、よほど相違している点ではないかと・・・
とても勉強になります。そうでしたか、当時は世雄偈も唱えていたのですか。さほど長くも無い世雄偈を、削る理由もわかりませんし、世雄偈ではまだ、二乗作仏も説かれていませんね。二乗作仏まで来れば、所破の為とする意味はわかるのですが。となると、方便品読誦の目的は、理の一念三千ということになりますね。また、三転読誦については、蓮祖聖人の経典至上主義も天台三大部の前には、鈍るのではなく、別の視点で御覧になっていた、と思いたいです。

24独歩:2002/04/13(土) 22:31

一字三礼さん:

> 蓮祖聖人の経典至上主義も天台三大部の前には、鈍るのではなく、別の視点で御覧になっていた…

私も以上のように考えています。
天台宗は当然、天台の釈義を金科玉条に扱うわけですし、さらにそこに本覚論的展開が加わり、さらにことをややこしくしていたわけでしょう。その意味において、聖人は、まず本覚論の排除から、さらに教典の原典主義に戻っていこうとされたのだと私は考えます。

先に少し記しましたが、そもそも三身論にしても真蹟で見る限り、聖人は極めて消極的にしか扱っていないように私は感じてきたのです。そもそも天台宗における三身は応身・釈迦、報身・阿弥陀、法身・毘盧遮那という見解であってそれが一身に具わるという展開です。念仏が天台宗から出た所以、さらに真言宗との親和性は、ここいらからすれば、むしろ当然のことであったろうと思えるわけです。

しかし、それなのに、聖人は阿弥陀も大日も斥け、久遠実成の釈尊ばかりを本尊と規程し直すわけです。この時点で、私は聖人の本尊観はある意味、天台以上に法華経に忠実であったと、私は思うわけです。

そのお考えは先鋭的で、寿量(品)仏と無量寿仏(阿弥陀)と同等性を論じる天台義すら、敢然と排斥していったわけです。
私は聖人の、この肉薄に感動すら覚えるものです。

なお、やや余談ですが、この聖人の姿勢とは別に法華経と浄土教は近隣・兄弟関係にある点は安楽行品の“安楽”がスカバティ(極楽)に充てられた初期の漢訳語であった点から天台の阿弥陀受容もまた致し方のない点であったろうとは思います。

やや余談ですが安楽行品の“安楽”は極楽を意味するスカバティの訳語に使われていることから四安楽行が極楽での修行で語ることは説得性を持つものである気がします。ただし、これは梵本における教学展開ではなく漢訳仏典を基礎とする仏教展開である点は注意を要します。


「スカヴァティー「極楽」の訳語としての定着までの推移」

年    訳語    出典
179  須摩提   『般舟三昧経』
186  須摩提、   須阿提 漢訳
253  須摩題    呉訳
252  “安楽”   魏訳
253  須阿摩提  『慧印三昧経』
269  須摩提   『方仏泥【シ+亘】経』
312  須訶摩提  『菩薩受斎経』
316  須訶摩提  『三曼陀[風友]陀羅菩薩経』
402  極楽    『阿弥陀経』
479  極楽    『如来智印経』
713  極楽     唐訳
1001  極楽     宋訳

25モモ:2002/04/14(日) 06:06
たまたまネットを眺めていたらば、日達上人から日顕上人への相承はなかった、
というページを見つけてしまいました。石田次男氏の話が書かれてます。
また日顕上人の御本尊では功徳はなく、罰がでる、ということも書いてあります。
いかが思われるでしょうか。最近は情報がめちゃくちゃでどう考えていいかよく
わかりません。

http://www.linkclub.or.jp/~taroh/rihen/rihen_18_2_1.htm

26宮本:2002/04/14(日) 16:31
モモさんへ:
今日は。
 御存知かもしれませんが、学会の公式見解も
 聖教新聞では、相承は、なかったとなっております。
 で、必然的に同様に

 >日顕上人の御本尊では功徳はなく、罰がでる、ということも書いてあります

と同様になっております。

  それで、具体的にどうしたらいいのか・?ということになりますが
 なかなか結論が出ない場合は、御本尊様にお尋ねする形をとるのも
 いかがかと、僭越ながら思います。(これじゃ答えになってないかな)

27独歩:2002/04/14(日) 17:06

モモさん:
宮本さん:

顕師の相承を学会がとやかく言うのは如何のものでしょうか。
私は、元学会でしたが、池田さんがエレベータの中で戸田さんから血脈を受けたと読んで大笑いしたものでした。「そんな馬鹿な」と個人的には思っています。
しかし、やめてしまった他団体が作り話であったとしても、実際のところ、池田さんを中心に動いているのは事実のわけですから、他人がとやかくいうことではないでしょう。言った所で非難としかとらえられません。

同じことで、喧嘩別れをした団体がいう敵対相手の公式見解など、悪口の域を越えるものではありません。

それに仮に顕師の相承がなかったというのであれば、あることを前提に会員を動かしてしまった会の責任は追及されるべきでしょう。池田さんは居士衣までもらって法華講総講職を受け、それに基づいて会員を動かした最高責任者であるわけです。

いまの時代、議員秘書や、事務員が言ったやったことで代議士が引責辞任させられる時代でしょう。

なお、曼荼羅についていえば、顕師の血脈の可否によって功徳を云云するのは、私はナンセンスであると思っています。内証を写したとは思いませんが、750年已来の化儀に基づいて書写されたものでしょうから、拝する側の御信心の問題であろうと思うわけです。

そんなことより、他団体の歴代曼荼羅を印刷頒布したもの、大きく伸ばして会館にかけた曼荼羅なんかに功徳なんかあるのか? 罰はないのかという問題のほうがよほど考えるべき問題ではないのかと私は思っています。

そもそも信心の血脈(こんな考え方自体、私は否定的ですが)は、団体に流れるのではなくて、個人の信心に流れるものならば、印刷業者や、販売頒布者、さらには書写の人の預かり知らないところではないのでしょうか。

曼荼羅を拝し、何を掴み取るのか、それを真剣に考えるとき、販売頒布団体、書写の血脈の可否に気を取られていれば、何も得るものはないのではないでしょうか。

顕師曼荼羅に罰が当たるなら、寛師曼荼羅を勝手に印刷頒布したものであっても罰は当たるのであろうと思います。しかし、私は、こんな議論は実に馬鹿らしい、自讃毀他以上のなんの意味ももたない不毛な思惑であろうかと存じます。

それぞれの団体のご都合によって構築された詰り合いは無視するに限ると私は思います。

28宮本:2002/04/14(日) 19:39
独歩さんへ
  私の書き込みの前半は、公式見解を書いたのですが
それは、あくまで、現状の説明です。他意はありません。
(聖教新聞(公式見解)の信頼度は、ほとんど、ありませんから)
 で、
 >・・拝する側の御信心の問題であろうと思うわけです。
 と
 >御本尊様にお尋ねする形をとるのも
 >いかがかと、僭越ながら思います。
 で
  独歩さんと、同様のつもりです。

 >それぞれの団体のご都合によって構築された詰り合いは無視するに限ると私は思います。
 
  その通りなんですが、実際は、心が安定するまで、揺れるものなんです。
 それで
 >最近は情報がめちゃくちゃでどう考えていいかよく・・。
 と書かれているのです(私の推測ですが)

  私のような二世三世でもないものは、比較的、割り切れる人が多いのですが
 やはり、
 >他人がとやかくいうことではないでしょう

(その通りなんですが)といかんのでしょうね。

 先生以下、入信暦の長い方とかは、まだ、とやかく言いたいのでしょうね。
たくさん供養をした方とかも、過去のいきさつとかあって、
なかなか納得出来ないようです。

 独歩さんが、仰っておられるように、
 早急に別々の宗派であるという前提に立ってもらいたいものです。
 (こう書くと学会員失格なのかもしれませんが)

29独歩:2002/04/14(日) 20:09

28 宮本さん:

どうも私は判読能力がないようで、いつも意を取り損ねております(笑)

私は曼荼羅の利益というのは(功徳は積功累徳の意味で善根の蓄積を言うので、やや富士周辺での使用は違うであろうと思いますので利益と敢えて言いますが)以下の、私のサイトにアップしてある楠山師の発言に尽くされていると思います。

有り難いと思って唱える人にとって、他から罰が当たると思う曼荼羅でもちゃんと歓喜と利益の実感を得られるものなのであろうと思うわけです。

楠山師は朗門の御僧侶ですけれども、虚心坦懐に偏見なく読める人には曼荼羅の利益を得られるであろうと、むしろ私は思うのです。

【問】その板本尊も、創価学会特定の印刷本尊も功徳利益があるというのですが、実際利益はありますか。

【答】利益―功徳はあるでしょうよ。元来、利益というものは自分の観念の上にとらえられるものですから、何宗でも利益はあります。「僕は利益をいただいた。罰が当たった」と素直に受け取る人が幸せなのです。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/n_kusuyama_001.html

30宮本:2002/04/14(日) 21:30
独歩さんへ
 >どうも私は判読能力がないようで・・・。
 当方こそ、書き込みがたらず、すみません。(面談ですと、こんなことないのですが)
>有り難いと思って唱える人
>虚心坦懐に偏見なく読める人
実際の所、私にとっては、常にこの生命状態を保つのは、難しいです。
 では、また失礼致します。

31独歩:2002/04/15(月) 00:16

宮本さん:

特定の組織に入っていると、どうしても他組織の言葉は素直に読めないものでしょうね。
それでも宮本さんは必死にその壁を超えようと呻吟されている心情はわかる気がします。

32モモ:2002/04/15(月) 03:40
宮本さん、独歩さん、レスありがとうございます。

>それぞれの団体のご都合によって構築された詰り合いは無視するに限ると私は思います。

まさしくそのとおりだと思います。

私が驚いたのは石田次男氏が日顕上人から日達上人への御相承を否定されて
いることです。
石田氏は当時、戸田城聖氏に創価学会の三代会長に推薦された、という話が
あります。ゆえに今では創価学会ではなく法華講ではないかと私は思ってました。
石田次男氏とはどういう人なのでしょうか。池田氏に煙たがられ、窓際に追い
やられてしまった、という話も聞いたことがあります。

33独歩:2002/04/15(月) 04:34

モモさん:

> 石田次男氏とはどういう人なのでしょうか

戸田さんの直弟子で、次男という名前に引っ掛けて、「次の会長はおまえ」だと言われていた人です。

『現代諸学と仏教』という本を著して、池田さんの教学が外道義であると喝破した人でした。

不思議なのは、顕師の相承を否定したというけれど、その葬儀は故人の遺志によって石山に拠ったと記憶しています。

人望のあった人で、正信会、また内藤邦夫さん、福島源次郎さん、原島高さんをはじめ、人々が慕っていたということでした。

なにより清貧の人で生涯、本当に貧乏であったといいます。ご本人と共に私はご夫人も尊敬いたします。

ただ、この方は一つの組織に偏る人ではなかった。正理を基にされる人であった。つまりは、組織、故人の絶対を論じることなく、善い面、悪い面、両面をしっかりと告知された方であったと拝察します。

教学的には、惜しくも本覚義その他の考証は浅いところがあり、真偽考証も甘かった点は惜しまれます。

私は、実は福島源次郎さんから紹介いただく約束を取りながら、その直後に逝去され、お会いできなかったという経緯があり、今でも悔いを残しているのです。でも穏やかな好人物であったと聞いております。

34菊水護国:2002/04/15(月) 08:23
石田次男さんと言えば中杉さん(現平和神軍)との関係を思い出しますが・・・。

35独歩:2002/04/15(月) 09:00

菊水護国さん:

お久しぶりです。

> 石田次男さんと言えば中杉さん(現平和神軍)との関係…

そうでしたね。あのころは、平和神軍ではなく、正理研究会、上述した『現代諸学と仏教』の出版も、この人に係ることでした。

36モモ:2002/04/16(火) 06:30
独歩さん、菊水護国さん、レスありがとうございます。

32のレスの御相承については「日達上人から日顕上人」です。謹んで訂正いたします。

>不思議なのは、顕師の相承を否定したというけれど、その葬儀は故人の遺志によっ
>て石山に拠ったと記憶しています。

そうなのですか。やはり日蓮正宗で葬儀をしたいというのが当然の心情だと私も思い
ます。

>ただ、この方は一つの組織に偏る人ではなかった。正理を基にされる人であった。
>つまりは、組織、個人の絶対を論じることなく、善い面、悪い面、両面をしっかり
>と告知された方であったと拝察します。

仏法に限らず、それが真理を求める本来の姿勢だと私も思います。

>教学的には、惜しくも本覚義その他の考証は浅いところがあり、真偽考証も甘かっ
>た点は惜しまれます。

このようにしっかりと批判することは大事だと思います。「真偽考証」まで踏まえて
教義を批判すべきである、ということは言われてみれば当然のことですが、私はこの
掲示板ではじめてその意義を知りました。

>石田次男さんと言えば中杉さん(現平和神軍)との関係を思い出しますが・・・。

私も中杉氏の大石寺批判を読んだことがあります。この掲示板で批判されている内
容と同じようなことも書かれてありました。

37問答迷人:2002/04/16(火) 13:17

独歩さん

27の、「なお、曼荼羅についていえば、顕師の血脈の可否によって功徳を云云するのは、私はナンセンスであると思っています。内証を写したとは思いませんが、750年已来の化儀に基づいて書写されたものでしょうから、拝する側の御信心の問題であろうと思うわけです。」

私も、そのように判断しています。聖人のお認めを正しく写された曼荼羅を拝して、罰が出るとか、利益がないとか、変てこな議論だと思います。そんな議論とは、一線を画すべきであろうと考えています。


モモさん

36の「『真偽考証』まで踏まえて教義を批判すべきである、ということは言われてみれば当然のことですが、私はこの掲示板ではじめてその意義を知りました。」

私も、従来は考えてもいなかった視点です。独歩さんはじめ、徹底して聖人の教えを求める方々は、やはり、そこに行き着かざるを得ないと思います。そういう真偽考証を単なる学問として蔑み、信仰は学問とは違うんだ、と仰る方々が、現実には大勢でしょうが、その方々に、どの御書が真蹟御書なのか、とお聞きしてみると、答えに窮される場合が、多いのに驚きます。宗派、所属団体のアナウンス通りに信じることが、はたして、信仰のあるべき姿でしょうか。私は、つい、次の、立正安国論の末文の一節を思い浮かべてしまいます。

『我(われ)一仏を信じて諸仏を抛(なげう)ち、三部経を仰ぎて諸経を閣(さしお)きしは是(これ)私曲(しきょく)の思ひに非ず、則ち先達(せんだつ)の詞(ことば)に随ひしなり。十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。』

38いちりん:2002/04/17(水) 21:06

これ、かなり素朴な質問なのですが。
日蓮さんの遺文は、たくさん残っていますが、どうして弟子の手紙がないのでしょうか?
日蓮さんと弟子とのやりとりの部分の、日蓮さんの手紙しか、後世に残っていないですよね。
波木井さんが日興さんに出した手紙は、残っていますよね。
富木さん、四条さん、上野さんなど、実在した人物の、日蓮さんあての手紙が、おそらく一つも残っていません。
これは、どうしてだと思いますか?

39いちりん:2002/04/17(水) 23:40

いちおう、叩き台として、わたしなりに考えてみたのですが。

1)リサイクルした

当時は、紙が貴重であったし、佐渡や身延の時代には、なおさらのこと貴重であった。
だから、弟子の手紙を、すきかえしたりして、日蓮さんは、それを手紙にしたためた。

2)大切にしなかった

後生の弟子たちは、日蓮さんのお手紙だけを大切にしたので、弟子の手紙は大切に保存しなかった。

3)都合が悪かった

最蓮房などのように、架空の人物に仮託して、偽書を作ったりしたので、弟子からの手紙があったりなかったりすると、偽書がバレてしまうので、全部、処分してしまった。

40顕正居士:2002/04/19(金) 04:13
日蓮は二度の流罪に遭っています。当時の法律に照らしてこれが合法的な処置で
あったか否か別として、思想犯罪者として逮捕されたのであるから、檀信徒からの
手紙などは証拠資料として押収されたのでないでしょうか?しかし身延時代のも
ほぼ存在しない理由はわかりません。

41顕正居士:2002/04/19(金) 04:36
身延時代にも三度目の流罪の噂があったというから、幕府が安全視していたわけではない。
弟子や檀信徒が日蓮に遣った手紙には危険な内容を含むことがあり得るから、焼却したこと
は考えられます。

42菊水護国:2002/04/19(金) 07:52
全てではありませんが、あります。
重要文献として、信徒さんが預かっている物が結構あります(確認済)。

43顕正居士:2002/04/19(金) 08:59
高森大乗師の「日蓮聖人の情報網と連絡網」
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents30.html
では

「門弟からの手紙は多くは反故にされたとも推測できる」

「反故裏を何かしら利用している(略)事例は確認されていない」

44いちりん:2002/04/19(金) 09:37

菊水護国さん

>重要文献として、信徒さんが預かっている物が結構あります(確認済


たとえば、どなたのお手紙が残っている(残っていた)のでしょうか。
どんな内容なのか、わかる手だてはありますか?

45いちりん:2002/04/19(金) 09:39

顕正居士さん

ありがとうございます。
高森大乗さんって、若手のしっかりした研究者のようですね。
いちど、「法華会」のほうに、出かけてみようかと思います。

46独歩:2002/04/19(金) 10:38

顕正居士さん:

ご紹介の高森大乗師の「日蓮聖人の情報網と連絡網」を拝見しました。
有り難うございました。

47菊水護国:2002/04/19(金) 12:02
勝手に氏名を書くと怒られるので・・・
身延信徒が「太田殿の関係文献」を持っております(僕が確認したのはこれ)。
池上信徒にも数通あります。
身延等の管長の許可を得れば公開可能だとは思います。

48独歩:2002/04/19(金) 12:15

菊水護国さん:

> 身延等の管長の許可を得れば公開可能だとは思います

つまり、これらは個人所有、また門外不出、あるいは著作権問題などが絡み、公開できないという意味なのでしょうか。

49いちりん:2002/04/19(金) 16:32

菊水護国さん:

それって、日蓮さんの真筆の手紙のような気もしますが。
もしも、信徒の日蓮さんに対する手紙が現存していたら、たいへんな発見じゃないでしょうか。
それは、一宗門の管長の許可云々という次元じゃないような気もしますが。

日蓮さんの真筆の手紙の断簡でしたら、わりと日蓮宗のお寺さんで、持っていたりしますよね。

50菊水護国:2002/04/19(金) 21:37
いちりん様
お寺にあるかは知りませんが、身延系の御僧侶が写しを立正大学の講義で持ってましたから、身延系では常識の範疇なんじゃありませんか。

51菊水護国:2002/04/19(金) 21:40
続き
というわけで、講義で写しを使っている位ですから、新たな発見でも何でも無いんでは・・・。
管長の許可云々と言ったのは大学が身延系ですから、所有権も身延系にあると推測しただけです。
誤解を与えましたことお詫び申します。

52一字三礼:2002/05/15(水) 16:59
本当に素朴な疑問です。

初詣に友人と柴又の帝釈天に行ってきたのですが、有名な法華経の彫刻を見ていたら奥から唱題が聞こえてきました。
そこでは、南無妙法蓮華経の南無を正確に“ナム”と発音していました。

池上本門寺では“ナン”と発音していたし、中山法華経寺では“ナム”で唱題していました。

どちらかが正しいというような類ではないのでしょうけれど、どちらが正しいのでしょうか(笑)

疑問ではありませんが、いちりんさんが挙げてくださった、蓮祖聖人の随身仏の15万円のレプリカ拝見しました。
通肩の衣に施無畏と与願の印。なんか一般的すぎて・・・。私としては、時代は下りますが、円空さんの彫った様のような素朴な仏様を想像していたのですが・・。

53菊水護国:2002/05/15(水) 19:53
帝釈天とは柴又の日蓮宗題経寺ですね。
寺男の、がじろうはいませんでしたか(寅さんじゃ無いって)。
南無を「ナン」と読むか「ナム」と読むかは、宗派によって違いますね。
富士門では大聖人以来の読み方が伝わっていてそれが「ナン」だとなっています。
どちらが正しいかどうかは、ご自分でご判断下さい(私は無責任だな)。
言い易い方でどうぞ(何て言ったら、堅い法華講員に怒られるかな)。

ちなみに、本門正宗のページに行くと、もっとも正しい読み方と称する声が聞こえてきます。
しかし、あれは出鱈目だな(爆)。

54一字三礼:2002/05/15(水) 22:01
菊水護国さん

そうです、寅さんの題経寺です。
私自身は、「寅さん」とか「水戸黄門」、「サザエさん」のような超マンネリズムの世界は生理的に受け付けないので、行きたくなかったのですが、どうしても断りきれなくてしぶしぶ行って来たんです。それでも彫刻だけは見事でしたよ。

しかし、日蓮聖人御親刻と伝わる毛彫りのような「帝釈天」は、目を凝らして見ていると、だんだん甘栗太郎の絵に見えてきました。(檀家の方ごめんなさい)

>「ナン」と読むか「ナム」と読むかは、宗派によって違いますね。

御教示ありがとう御座いました。やはりそうですか。まあいまさら「ナム」が正しいと言われても、体に染み付いている富士派流の唱えかたは、変えられそうにありませんが。

55独歩:2002/05/17(金) 15:27

一字三礼さんの書き込みを拝見して、池上本門寺も「なん」であるというのは以外でした。富士門系の特徴であると思っていたからです。


石山の勤行でも“引き題目”は「なーむ」ですね。
たしか教学部見解で立宗の時、朝日に向かってお唱えは、この引き題目であったと聞いております。

「ナメキョ、ナメキョ、ナメキョ」と、なんだか鶏みたいな早口の唱題、あれは出きるだけ短期間に題目を唱えるという池田さんのアイディアでしたか。勤行3分なんていう裁判記録もありましたね。これ、悪口になるでしょうか? もっとも、学会批判者の故内藤国夫さんでさえ、招待されて、数千人の唱題を聞いたときには圧倒されたと書いていましたが。

この早口唱題の起源を、小僧さんの寒経なんかの修行などにその原形が見られると、とある僧侶に指摘を受けたことがありました。

まったく余談ですが、古来の日本語には「はひふへほ」の音はなかったと大野晋博士が書いていましたね。では、どんな音であったかというと「ぱぴぷぺぽ-pa・pi・pu・pe・po」であると言います。それが中世には「ふぁふぃふぅふぇふぉ」になり、「はひふへほ」に変化してきたと言います。「んな、馬鹿な」と思いたいところですが、たとえば「か」と「が」を発生する時、口唇咽喉の形状は同じです。他のか行の音もそうです。これはさ行・た行も同様。しかし、は行だけは清音の発生では唇を開いたまま、濁音を発生する時には閉じていた唇をはじくように開いて発生します。ところが半濁音である「ぱぴぷぺぽ」を発生する時の口唇咽喉の形状は濁音と同様。このことから、は行は本来、P音であったと言われるわけです。

そうなると南無妙法蓮華経は「なむみょうぽうれんげきょう-Nam・Myou・Porengek・you」となってしまうわけです。しかし、これは一概に否定できないのです。なぜならば、真蹟のない『御義口伝』ですが妙法蓮華経の梵語を「薩達磨芬陀梨伽蘇多覧」とあります。これは現在、「さだるま“ふ”んだりかそたらん」と訓読みされるのですが、「芬陀梨伽」は梵語の pundarika の音写ですから、プンダリーカ。通じていえば、sad-dharma-pundarika-sutra 、これを日本語的に読めば「さだるま“ぷ”んだりかすーとら」となり「ふ」ではなく「ぷ-pu」であるからです。

さらに定着しませんでしたが、日本語の旧仮名遣いでは「きょう」は「けふ」となりますが、平安文学の研究などでは、この旧仮名遣いは文字どおりに読んでいたのではないのかといわれています。「なむみょうほうれんげきょう」を旧仮名遣いで記すと「なむめうほふれんげけふ」となるのでしょうか? すると Nam・Mehu・Pou・Renge・Kehu という音に近いことになるようです。

また、古代人は現代人よりはるかにゆっくりと話していたと言われ、たとえば歌舞伎のあのゆくくりとした発生のスピードが標準的なものであったのではないのかとも言われていると教えてくれた先生がおりました。

700年の時間の経過は文語的な変化ばかりではなく、それ以上に口語的変化があったことは否めません。

ここで素朴な疑問です。いったい、聖人が唱えられていたお題目は、如何様なものであったのでしょうか。

あと、よく言われることですが、座法も、正座ではなく、胡座であったことは御影像からも間違いのないことであるようですね。

ここでも、素朴な疑問です。しかし、女性はどうであったのでしょうか。ここら辺はよくわかりません。ご存知の方、いらっしゃりましたら、ご教示ください。

56独歩:2002/05/17(金) 20:06

【55の訂正】

誤)発生
正)発声

57いちりん:2002/05/17(金) 22:53
>座法も、正座ではなく、胡座であったことは御影像からも間違いのないことであるようですね

こないだ日蓮さんの涅槃図というのを観ました。
作られた年代は、よくわかりませんけど、相当古そうな。
釈迦の涅槃図にならって、日蓮さんの涅槃の姿を中心にして、弟子たちが描かれていました。

そのとき、描かれている弟子たちは、みんな胡座をかいているんですね。
一人として、正座していない。
ああ、なるほど、もしかして、鎌倉時代あたりは、胡座がちゃんとして座法だったかもしれないなあと思いました。

正座が正式な座り方になったのは、お茶の作法からという話もありますよね。
狭い茶室でお茶をいただくときには、胡座だと狭くなってしまうので、正座になったとか。

わたしは唱題は、やはり丹田に力が入るので正座で行いますけど、ながあく唱えるときや、インドの太鼓などを響かせながら、瞑想的に唱えるときには、坐禅の坐布を敷きまして、ヨーガの瞑想みたいな座り方です。

唱題しては、瞑想、そして唱題、そして瞑想なんてのも、なかなかよいです。

58一字三礼:2002/05/17(金) 23:27
うーん。そうなると、古来の日本語と現代語との相違で、濁音も気になりますね。
現代では「がぎぐげご」は文頭にこない限り、「んがんぎんぐんげんご」のような、鼻濁音で発音しますよね。関東圏に限るかもしれませんが。
少なくとも私の所属している南池袋の某寺院では、読経の時には意識的に注意して濁音と鼻濁音使い分けていたように感じました。

この濁音と鼻濁音の使い分けが、古来よりの伝統であったとして、また蓮祖聖人は現在の千葉県の御出身ですから、もしかすると「なんみょうほうれんんげきょう」と発音なさっていたかも。
いや、独歩さんの示された旧仮名使いと合わせれば「なむめうほふれんんげけふ」となるかも。
・・なんか原型とどめていませんね。

胡座での唱題ってなかなかイメージ湧きませんね。だいたい座像の御影像は、説法像が多いから。
でも考えてみれば天台流の止観行を深化継承している観心行として、唱題行をとらえると胡座でも自然かなとも思えます。

59独歩:2002/05/17(金) 23:28

57 いちりんさん:

聖人の涅槃図ですか。興味深いですね。

臨滅度の曼荼羅も懸かっているのでしょうね。伝説では入滅に当たり図示されたなどとありますが、それなのに、入滅図ではすでに表装されている(笑) ここらへんの乱暴さは微笑ましい分類でしょうか。

唱題と瞑想、発声と無声の差異はあるのでしょうけれど、根本的には同じなのでしょうね。正座と胡座、私は半結跏趺坐がいちばん、しっくりと合うんですね。

この前、とある誤僧侶と話していたら、「日蓮宗系は行道(経行)が欠けている」と。なるほど、言えていると思ったものです。いつしか、動的な要素が欠けてしまったのでしょうか。

海外の寺院などでは、むしろ、遶仏・遶堂は一般的なのでしょうね。
あと、五体投地も廃れてしまっていますが、『忘持経事』に常師が「教主釈尊御宝前…五体投地」とあるのを見て、当時は門下も当然、行っていたのだ思ったものです。
この辺を、いちりんさんの旅行経験からご教示いただけませんか。

60独歩:2002/05/17(金) 23:39

58 一字三礼さん:

「なむめうほふれんんげけふ」というより、「なむめう“ぽ-po”ふれんんげけふ」
たぶん、「なああむ・めえう・ぽおう・れえんげい・けいふう」というような感じかもしれません(笑)

鼻濁音ですか、なるほど。その問題もありますね。「む」音と「ん」音、限りなく近い音になりますね。

あと、御影像が胡座であるから唱題は胡座であったというのは、実は、私は石山教学部任務の僧侶から聞いたことです。まあ、石山では半ば公式見解でしょう。でも、たしかに御影は説法像ですね。大衆に向かって置かれることを想定した御影像が合掌礼で造立するのには抵抗はあったのでしょうね。

61菊水護国:2002/05/18(土) 12:45
> 勤行3分なんていう裁判記録もありましたね。

いえいえ、勤行0分だったと思いますよ。
ただし、裁判の証拠資料の池田さんのタイムスケジュールですが。

62独歩:2002/05/19(日) 08:10

池田さんを庇うわけじゃないけれど、“題目を上げる”音声はなかなかよかったのを覚えています。

けれど、いつか会合で顕師からもらった居士衣を着て正座していたら足がしびれて苦しんでいるところを写真に撮られて報道されてしまった(笑)それで「3分勤行」で物笑いにされたわけです。で、私は「なんだ、そんなもんだったのか」と思ったわけです。
ところが、故福島源次郎さんに会ったとき、「私は一緒に1時間、題目を上げたことがあるから、ああいった批判はよくない」、こう言っていました。公然と池田さんを批判していた人だけに、私はこの福島さんの発言は立派だと思いました。

感情的、侮蔑的批判は、批判する本人の人格を帰って疑われることになるものだと改めて考えさせられたものでした。

63川蝉:2002/05/26(日) 10:26
唱題の発音に関連して、

妙法尼御前御返事(弘安元年七月十四日・真在)
「めうほうれんぐゑきやう」と仮名で書かれていますね。

どなたかが、「池上本門寺ではナンと発音している」とコメントされていましたが、池上本門寺では「なむ」と発音することになっています。

臨滅度の曼荼羅は、入滅に当たり図示されたという伝説があるのですか?。知りませんでした。
弘安三年三月とされていますね。欠けていて見にくいですが、弘安三年太才庚辰三月と書かれているようです。

64独歩:2002/05/26(日) 13:14

川蝉さん:

ご指摘有り難うございます。

> めうほうれんぐゑきやう

の「ぐ」は編集の段階でよみの便宜に濁音を補ったのでしょうね。「ゑ」は既に失われた母音なので、実際はどのように読まれていたのでしょうか。大野晋説を敷衍すれば

「 Meu-Pou-Rengu“e”-Kiyau 」

とでもなるのでしょうか。
編集段階の表記の改めというのは、けっこう、ありますでしょう。聖人は吃音を「ん」で表記されていたと読んだ覚えがあります。となれば、「思って」は「おもんて」などとなり、実際のところ、当時はそんな発声であったのであろうと私は想像しています。

> 臨滅度の曼荼羅は、入滅に当たり図示されたという伝説があるのですか?

これは朗門系の方から聞いたでした。仰るとおり、図示年が記されてあり、やはり伝説の域を出ない話でしょうね。

65いちりん:2002/05/26(日) 14:45

ナムって、深く帰依するとか、信じたてまつるとか、心から尊敬するということでしょうが。
わたしなどは、まあ「おまかせ」という感じでとらえています。ちと真宗っぽいかなぁ。

で、南無の発音のことです。

インドあたりでは、「ナマステー」と挨拶しますが、ナマス(尊敬します)テー(あなた)ということですね。

「オーム・ナマ・シヴァーヤ」というマントラは、もっとも親しまれていますが、これはシヴァ神に帰依しますということになりますね。

神さまに捧げる儀式では、「オーム・サッチダーナンダ・ナマハー」という唱え方があります。
サッチダーナンダ(サット・チット・アーナンダ 至福につつまれている究極的な意識=自受法楽である神)に帰依します、というような意味でしょうか。

スリランカやタイあたりの坊さんは、「ナモー・タッサ・バガヴァト・アラハト・サンマー・サンブッダ・サー」と唱えますね。
阿羅漢である聖なるブッダに帰依しますということになります。

南無の原音は、ナマー、ナマハ、ナモー、ナームという感じがします。
これは、学術的な話じゃなくて、わたしのインドあたりのフィールドワークで感じたことですが。

まあ、「ナム」でも「ナン」でも、なんでもいいとは思いますが、心ゆくまで唱える、喜びで唱える、深い祈りで唱える、ありがたいと思って唱えるのがいいんでしょうね。

というか、唱えていると、心ゆくまで唱えられてくる。唱えていると、喜びに包まれる。唱えていると、深い祈りになる。唱えていると、ありがたいと感じる。ということになりましょうか。

唱えたから、祈ったからそれで、願いが叶うかどうかということもありましょうが、それよりもなによりも、しんどいてきでも、つらいときでも、よろこびのときでも、そのときのありのままに、唱えられる。それが、すばらしいことだと思います。

もっともシンプルで、難しいことではありますよね。

67モモ:2002/07/18(木) 00:52
質問です。御供養について。「貧女の一灯」「砂の餅」の話をひくと仏様に
なす御供養は大きな功徳を積むといいます。御法主上人の御指南によると大
六天の魔王も仏様に御供養して第六天の魔王になったそうです。

とはいっても所属寺院に御供養を沢山したいとは今はあまり思いません。な
んで信者が頑張れば頑張るほどお寺が儲かる仕組みになっているのでしょう
か。お坊さんもお金が集まるから思い上がるのでは、と思います。お寺と信
者を預かっているという意識の薄い僧侶もいるのではないかと思います。私
の寺院ではお講などの法要の時間が10分から20分ぐらい遅れるのはいつ
ものことです。そんなものでしょうか。私はこれでは参詣している信者に失
礼だし、明らかにマナー違反だと思いますが、講頭、副講頭をはじめ、誰も
なにも言いません。

御供養について、それならば大石寺に御供養すればよいのでしょうか。

私は感情論ではなく、御供養の功徳を積み、成仏したいと思っています。

68犀角独歩:2002/07/18(木) 02:54

御供養をすると功徳が積まれ、成仏するというのは本当でしょうか。

石山寺院に拠出した金品も、大石寺に拠出した金品も、けっして仏様の元には届かないでしょう。宗教法人○○寺、宗教法人大石寺の、それぞれの住職に届くだけです。それが供養といえるのでしょうか。

読経唱題こそ、仏様への供養なのではないでしょうか。

ただし、仏の使いである聖僧日蓮への報恩は、正しく日蓮の教説を伝える僧を供養することは否定すべきではないと思います。(ただし、それが石山僧であるというわけではありません)

聖僧の恩をば凡僧に報ずべし

まさに身命を捨て菩薩道に邁進する僧に報ずべきであると私は思います。

69モモ:2002/07/18(木) 03:37
独歩さん、レスありがとうございます。

>御供養をすると功徳が積まれ、成仏するというのは本当でしょうか。

新池御書に「信心もよはく、僧をも恭敬せず、供養をもなさず云々」
とありますが、これって真筆も写本もないのですね。驚きました。

>まさに身命を捨て菩薩道に邁進する僧に報ずべきであると私は思います。

今の大石寺にはなかなかそのような御僧侶は見当たらないのでは、といったら
おこられてしまうでしょうか。全部が全部とは言いませんが。

70犀角独歩:2002/07/18(木) 12:56

モモさん:

>> 身命を捨て菩薩道に邁進する僧に報ずべきである
> 今の大石寺にはなかなかそのような御僧侶は見当たらない

そうですね。いなければ、報ずべくもないということなのであろうと思うのです。
私は個人的に、石山僧と限定もしませんし、僧と限定もしません。
尊い菩薩の道を歩まれる方であれば、宗派の違いもなく、僧俗を区別するもなく、仰いで供養讃歎するばかりです。

71いちりん:2002/07/19(金) 10:04
「供養」とか「お布施」って、どこか「取引」っぽい心情がつきまといますね。
「供養したから、いいことがあるぞ」という。
「立派な、偉大な、正義の、真実の聖者とか僧侶とか教団とかに供養したら、いいことがあるに違いない」と。
それって、それはそうかもしれませんが、なにか「取引」「投資」みたいな感じがしますね。

で、そういう気持で「供養」とか「お布施」をすると、期待どおりにならないと、怒りが出てきたりするんじゃないでしょうか。

まあ、創価学会の言動を見ていると、そんなサンプルでしょうか。
日蓮正宗は偉大である、真実である、だからさんざん供養してきた。にもかかわらず、なんだ! という怒りがみられますね。

72いちりん:2002/07/19(金) 10:12

インドに行きますと、もうすごい数の乞食さんに出逢います。
もう、しつこいのなんのって、、、。
で、いくらか(日本円にして、10円とか5円くらいです)渡します。

で、あちらの乞食さんは、感謝の言葉も態度もありません。あったりめえだという顔をして、通り過ぎていきます。(少額だからというわけではないのです)

わたしとしては、なあんだ、少しは嬉しそうな顔をしたり、ありがとうみたいな表情でもしてくれたらいいのに、という気持になります。

どうして、インドの乞食さんは、感謝しないのだろうかと、わたしなりに考えたのですが。
たぶん、こう思うのです。

「お前さんは、わたしがいるから、御布施ができたんだよ。御布施によって、功徳が積めたんだよ。わたしらみたいなのがいなければ、お布施をしたくても、できないじゃないか。
だから、感謝するのは、お前さんのほうなんだよ」

……と。
お布施(あるいは供養)をするには、「お布施をする人」と「お布施を受ける人」がいないと、なりたちませんよね。
「お布施を受ける人」がいてはじめて、お布施が成り立つ。
そして、もうひとつ。「お布施するもの」が必要ですね。

「もの」というのは、たとえば、「お金」です。あるいは、「知識とか情報とか技術とかの手助けになるもの」もそうでしょうし。
あるいは「やさしい言葉」「にこっと微笑む」「穏やかな波動」みたいなものでも、「お布施するもの」になるんだと思います。

でまあ、そういうのは、「こういうことをしたら、いいことがある」という気持だったり、あるいは「感謝されること、見返りを期待するという気持」でやったとしたら、なかなか心は穏やかに澄みきることはない、と。ますます、執着を生むだけかもしれないなあと、思うわけです。

73いちりん:2002/07/19(金) 10:24
で、やっかいなのは、宗教は「正しさ」に依存することがあることだと思います。
「わたしたちは正しい」「わたしの信仰するものは正しい」「わたしの行は正しい」と、とにかく「正しい」というエネルギーがすごく出ます。

これが、信仰の力でありますが、じつのところ、これがいちばんなやっかいなものだと思います。
なにしろ「わたしは正しいことをしている」というのですから。

正しいと思いこんで、信じ込んで、まあお布施とか供養とかに、すごく頑張ってしまう。
頑張れば頑張るほど、わたしは正しいという思いが強くなる。そして、ますます頑張る。

でも、それって、もしかして、
仏教の正しい道を歩んでいる、正しい修行をしていると思いこみながら、じつは執着を強めて、怒りの心を増幅させているってことも、あるんじゃないかと思うわけです。

お釈迦さまのいいたかつたことは、「いいことをしなさい。悪いことはやめなさい」ということもできますが、それが本質じゃないと思いますね。
「いいことをして、悪いことはやめることによって、心を清らかにすること。清らかになること」だと思います。

心が清らかになるということは、たぶん、
これは自分のものだ、自分の成果だ、わたしの力だ、どうだすごいだろう、どうだみたか……という、そんな執着とかとらわれから自由になっていることなんじゃないかと思います。

で、そのとらわれの、執着の心が、よおく観察できるのは、お布施をするときですよね。
やっぱり、お布施をすると、感謝されたいという心があるから、それがないと心が穏やかでないから。

ああ、だから、カッコいいことをいっても、わたしはまだまだだなあ、などと自分の心を観察するいい機会になりますね。

自分のみっともなさ、醜さ、駄目なところを、よおくよおく観察して、気づいていく道。それが、心を浄めていく道。それが、お釈迦さまの説いた道と思うわけです。

74五月雨:2002/07/19(金) 11:47
ご供養のお話ですが、私は二年前の宗務院役僧と法華講連合会役員の全国行脚の指導会に参加したことがあります。その時の話では、Y沢さんが「ご供養をしたら功徳がある」とハッキリ言ってました。だから多くの人に功徳を積ませるために奉安堂ご供養に参加させてあげなくてはならないと。
もう一人の登壇者は、前年度のご供養の集まりが悪かったから「今年は去年の轍は踏まない」と言ってました。ご供養は真心なのに、“去年の轍”とは何事だと心の中では思いました。それでまあ前年度よりも多く出した記憶があります。宗内では「ご供養をしたら功徳がある」常識です。どこで狂ってきたのでしょうね。いちりんさんの仰った心根の“ご供養”のあり方は最初から無かったのでしょうか

75犀角独歩:2002/07/19(金) 11:47

供養の見返りを考えること、御利益信仰にはつきものですね。
そもそも、朝晩、勤行をするのも、「いいことがあるように、願いが叶うように」という欲求に基づいている人は多いのでしょうね。
供養は、喜捨ともいい、喜んで捨てること、捨てるから見返りを期待しないことと言われるわけですが、しかし、本当にそのような思いで御供養をする人は稀でしょう。

私の母親はここの掲示板で話題になる宗教団体の昭和28年からの信者でした。
40年間、居続けたのですが、財務、供養、出版物購入、レコード、テープ、興業チケット、活動費…、いったいいくらぐらい使ったのか計算してみたことがあります。ざっと7000万円、溜息が出る金額でした。

ふつうだったら、これだけの金品と労力、時間を費やして、言われた“効能”がなければ、裁判沙汰にもなるところです。たとえば統一協会であれば霊感商法被害などで訴訟となっているわけです。ところが、石山周辺ではならない。なぜだろう。しんみりと考えてみたことがありました。

私の母は「出した供養はあとになって倍になって返ってくる」という指導を本気で信じてつぎ込んでいったわけです。供養を出すときには、出すときに叶えたい願望、つまり祈願・祈念も篭めていました。

結局、出した供養があとになって倍になって返ってくることなんか、もちろん、ありませんでした。それでも文句は言わない。なぜなのか。これは要するに「倍になって返ってくる」ためには前提条件が付されているからでした。条件とは「もし、あなたの信心が強盛であれば」ということです。「叶う叶わないは各人の信心による」というやつです。もう少しわかりやすく言うと、叶わない=信心がない、叶う=信心があるという条件が付いていることになります。つまり、「叶わない。倍になって返ってこない」ということは「信心がない」ことを意味するレトリックが仕組まれているわけです。

信心をしている人は、たいがい、自分は信仰心があるという自尊心があるから、「信心がない」というレッテルを貼られることを、幹部になればなるほど、恐れることになるわけです。だから、叶わなくても、倍になって返ってこなくても、叶ったような、戻ってきたようなポーズを取るはめになります。それ故、「倍になって返ってくる、願いが叶う」という宣伝文句に偽りがあっても、文句を言う人はいないことになります。

また、これだけではなくて、倍になって返ってこなくても、願いが叶わなくても「お金という形で戻ってこなかったけれど、願いも念じた形ではなかったけれど、いま私がこんなに幸せを感じているのは、あのとき供養したからだ。自分に信心があったからだ」とすり替えられて肯定化されていく構造があります。

このような人の心理を、とことんわかったうえで、「倍になって返ってくる。願いは叶う」と指導して、恥じないのが、この組織というものであったわけです。

欲望・煩悩の肯定が大乗仏教だと吹き込まれた末路の常の有様です。
信者の多くが体験発表やらなんやらで、自分の成功、幸福をアピールしてやまないのは、実はこんな事情がひそんでいるのだと思います。

年老いた母の小さくなった背中を見ながら、この宗教の名を騙る悪徳商法の手口を、今頃になって気付いた、己の愚かさを思う自分があります。

そういえば、私の所属していた寺院の住職は、「ふつうの生活ができることが幸福なのです。つつましやかな生活の何が悪いのですか」と上述の在家団体にこするように御講で説法していたものでした。しかし、その当人が1億円近い個人預金を貯め、上場企業の部長クラスの給与を受け取り、国産最高級車を乗り回している私生活を知る側にとっては、空しく響く虚言であるとしか思えないものでした。

76犀角独歩:2002/07/19(金) 12:55

五月雨さんが引く話は、そもそも石山義に反します。
中興の祖・有師は紙一枚、半銭であっても、多額の供養であっても志を表すことに代わりはない、同じように仏様に取り次ぐことを石山の在り方としているわけです。

享師はこれを註するなかで、殊に多額の供養をする人に特別の表彰などを行って他を釣るような行為を厳重に誡めています。

達師もこれを略解して「供養の志は同じですありますから、そのまま平等に御本尊様にお供えすべきであります。もし僧が供養の物に、多少とか善悪の考えを持つと、すでに貪欲の心が生ずることになるから、地獄、餓鬼、畜生の三悪道に墜ちることになります」と、しっかりと記しています。

この意を、私は供養の多少で人を計り、多額の斡旋をする心中が既に三悪道に墜ちている相(すがた)であると解します。つまり、今の石山の供養斡旋が五月雨さんが記す如くであれば、現代の法華講連合会は先師の遺誡に背き、三悪道の浅ましい相を曝しているわけですから、石山においても、まして仏教の本義においても、それに従うことは仏法に背くこととなるのでしょう。

Y沢などと名前を伏せる必要はありません、柳沢さんでしょう。連合会で集めた金で最高級車を兄貴を運転手に乗り回して、金集めの斡旋をやっているこの人の、この指導が三悪道に墜ちた醜態であるということでしょう。金集め、堂塔伽藍の整備、人集め、こんなことでしか、信仰を表現できないこの人を私は哀れに思うのです。

・以下、参考に

【有師・化儀抄】
一、人の志を仏け聖人へ取り次ぎ申さん心中大切なり、一紙半銭も
百貫千貫も多少ともに志の顕はし物なり、あらはす所の志は全く替
るべからず、然る間、同等に多少軽重の志を取り次ぎ申すべし、若
し軽重の心中あらば必ず三途に堕在すべし云云。

【享師・註解】
一紙半銭を上つる猶志の薄きにあらず・故に取次を為す
僧分にては物資の軽重多少と其供養主の貧富とを邪計して一には重
大な供養を取別け鄭重に取り扱ひ・叩頭百拝は無論の事特別の作法
まで設けて其篤志を表彰して密に他を釣るの方便に供し・能施の人
に衒名驕恣の念を起さしむ、此に引きかへて軽少の供養に対しては
懇の挨拶をも為さず此様な取次は面倒なりと云ひたらんやうの顔し
て、能施の人に信仰供養の志念の萎縮せしむるに至る、此れ决して
善き取次ぎ方にあらず、二には猥りに能施者の意中を推量して、彼
の家にして此の志の薄きは何事ぞ、彼人にして此志の厚きは怪しき
等と・能施者の貧富と其場合と其物資の厚薄とを連想し猥りに其志
の厚薄を断定して、或は懇に或は踈かに本仏の宝前に披露せん事亦
决して其人其場合全力を尽したる絶対無上の供養と見て懇に御披露
申すべき事なるが故に・能施の弟子檀那も其の場合出来得る限り絶
待無上の志を表はすべき事勿論の事なり、「同等に多少軽重の志」等
とは・此時取次の心中に能施の物資の多少・志の軽重に偏執するこ
となく・其儘数量の有の儘をのみ宝前に披露すべしと云ふ事なり、
「若し軽重の心中」等とは・取次の僧分が一念も軽重に偏執して或
は踈かにすることあらば、其罪に依りて三悪道に堕ちて永く信行権
を停止せられ浅間敷苦労を為すべしと告誡し給へり

77五月雨:2002/07/19(金) 15:09
ご供養の仔細良く分かりました。させて頂く心掛けがあるように、仏様に取り次ぐ心掛けもあって当然ですよね。こんな事は言いたくないけれど
ウチの住職は、お寺に赴任した頃(まだ25才の若さでした。)に、母親に
御講に参詣した信徒の下足の数と、ご供養の封筒の数を数えさせ、二つが合致しないと御講の法話の中で、していない人はして帰るようにご指導?していました。石山はどんな教育を僧侶にしたのでしょう。でも、日達上人のお弟子の彼は、独歩さんが引いた達師の言葉に完璧に違背していますね。
 柳沢さんの名前は伏せても意味はありませんか。柳沢さんは法華講の中ではすごい信心をしていると尊敬されています。(指導は長いけれど僧侶の指導よりも現実的でした)
学会も連合会も大幹部は、信仰心を利用したお金で贅沢三昧してるなんてやっぱり“ドッチモドッチ”です。

78いちりん:2002/07/19(金) 15:36
しかし、あれですねえ。
ブッダたちは、ほとんど衣と鉢とサンダルくらいし持ってかなかったのでしょうけど。
出家というものの、どこの宗派の坊さんたちも、いろいろ持っていますね。
お金を持っている、家を持っている、車を持っている、肩書きを持っている、家族をもっている。
ひとつの「職業」ですね。
そして、停年退職のない、リストラもない、なかなかいい仕事だといえるかもしれませんね。

79いちりん:2002/07/19(金) 15:40
とくに創価学会の躍進時代には、日蓮正宗の坊さんは、二十代で住職になることができました。
でっかい寺の主ですからね。
収入もすごいし、所化さんもいて、人も使って。
それじゃあ、やっぱり勘違いしてきますね。

人が参拝して当然、御供養を持ってきて当然、相手が先に自分に頭を下げて挨拶するのは当然、……当然、当たり前……というような心になってしまいがちです。

で、それって、いつかは清算しなくちゃいけないこともあって。
やはり人間として一人前になるには、あとでいろいろと、苦労もしなければならんのですよね。

80犀角独歩:2002/07/19(金) 16:42

> 柳沢さんは法華講の中ではすごい信心をしていると尊敬されています

そう、あんな「すごい信心」はしたくありませんね(笑)

81犀角独歩:2002/07/19(金) 17:24

> ウチの住職は、お寺に赴任した頃(まだ25才の若さでした。)に、母親に御講に参詣した信徒の下足の数と、ご供養の封筒の数を数えさせ、二つが合致しないと御講の法話の中で、していない人はして帰るようにご指導?していました

本当ですか。寺院名を挙げるとご自身の匿名性が失われるのでしょうが、私は、このような摘発が事実であれば、どしどし実名で非を説くべきであると思っています。

こういうことを黙って聞いてはいけないのです。「あんた、なにを言っているんですか」と窘めて、自分のこめかみを人差し指でトントンと二回叩き、「ここ、大丈夫?」と、惚けたおつむが壊れていることを、ちゃんと教えてあげなければいけませんよ。

こんなものを指導教師、手続の師匠、僧宝尊信なんて言って、持ち上げるからいい気になるんです。いちりんさんの仰るとおり、どこかでちゃんと精算してあげないといけないのです。はっきり言って、こういう手合いを僧侶などと思っていけないのです。真跡はありませんが、彼らが使う御書に「法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし法師と云う名字をぬすめる盗人なり」とあります。このような者は僧侶ではなく、法の盗人です。御講で商う売僧というしかないでしょう。

私が学生時代に種々指導を受けた僧侶は「僧の僧たる自覚をあたえるは檀那なり」というのが石山の義であると教えてくれたものでした。古い檀家さんなんかは、小僧さんなんかが悪いことをすると怒鳴って叱りつけたりするものです。まあ、住職にそんなことをするとなると緊急事態ですが、若い世間知らずの者が住職になったのであれば、一般常識を教えるのは檀家の努めでしょう。これは自分の寺を檀家が責任を取るということです。それでもし、役を追われようと、寺を追われようと、断固たる信義を貫くのは祖師・日蓮への御報恩であり、必ず冥加に叶うと心得るべきであろうかと思います。

そして、決して等閑の供養はしないこと、道に外れた僧侶の供養は差し止めることが仏教の本筋です。聖人は『立正安国論』に

能仁(のうにん)の以後の経説(きょうせつ)は則ち其の施を止む。

と記されます。僧侶に理不尽な行動・言動があれば、その非を責められないまでも、供養をやめることは檀那として、正しい在り方でしょう。

82犀角独歩:2002/07/19(金) 17:26

ちょっと、文章がうまくありませんでした。

> どしどし実名で非を説くべき

というのは、五月雨さんが実名でということではなくて、この寺院と住職を実名でという意味です。

83現時点:2002/07/20(土) 23:34
金ゃ供養を求める宗教団体・教団はつたない経験から思うとシャキャムニの教えではない

にせものだと思います

ノルマ的な折伏や新聞啓蒙、組織活動を要請する宗教はにせものだと思います

供養とは見返りを求めないこと、シャキャムニの教えとは何かに依存しないで自立して生きよ

と思うのです

お山や学会の組織信仰をやめたのです

シャキャムニの言う 自灯明 で この現実を 何かに依存しないで 生きると

現時点でそう思います

84五月雨:2002/07/21(日) 00:12
住職の実名=私の実名がバレテしまいますね。私はここに書き込む事によって、本人は読んでいるだろう、そして期待もしていないが、心情的には本人の少しの反省もあるだろうと少々思っています。今まで書き込んできた事は、本人にはすぐ分かる事柄ばかりです。独歩さん、彼に限って言えば今まで書いた事実なんて序の口です。
「僧の僧たる自覚をあたえるは檀那なり」 
講頭初め役員も、何度も話し合ったのですが、しもじものものが何を言っているんだという彼の態度に、皆諦めました。くっらぁい(暗い)気持ちで、御本尊様対自分だと諦めての信心で、足を運んでいる法華講のじぃちゃん、ばぁちゃんばかりです。
ウチのお寺も二十年で消滅やねと言ったら、法華講のばぁちゃんは十年もたへんと言ってました。泣き笑いのウチのお寺の現状です。

85モモ:2002/07/21(日) 03:42
今日は御登山の日です。独歩さんをはじめ御教示ありがとうございました。
今日はやはり大石寺に御供養申し上げようと決めました。今の私にはそれが
必要なことだと主観的に思ったからです。

五月雨さんも講中活動において悩まれたことと思います。

ここで私の体験をお話ししようと思います。私もお寺の中で3歳年上の執事に
いじめられていました。具体的に話してしまうと正体がばれてしまうので細か
いことはやめておきますが、役職を降りるときに追い討ちをかけるようなこと
を言われたり、「自分は君の面倒を見ているんだ」みたいなことを言われたり、
無視、仲間はずれ、そんなのばかりでした。私が冬の寒い日にお寺に参詣する
とストーブを消されたり。本人は意識していないでしょうけど、そんなことを
されたら普通の信者はどう感じるでしょうかね。そんなのばかりでしたよ、は
っきり言って。それが、今年の3月に移動になったのですね。喜んだこと、喜
んだこと。ばんざーいって感じでしたよ。ちゃあんと仏様のお計らいってある
のかなって思いましたね。もちろん自分にも反省すべき点はあったのですが、
その分を差し引いても正直言って傷つきました。取りあえずこれ以上はやめて
おきますが、いずれにせよ私はこれからも仏道を求める信者でありたいと思っ
てます。

86現時点:2002/07/21(日) 08:06
深い反省をこめて言えば、盲信、原典にあたらない二次的情報への鵜呑み、社会的常識等の

知性の不足等によりだまされてきたと思います

上記に記されているところの組織の信仰はその意味でやるに価値ない信仰ではないのか、そうも

思えます

登山の強要や金銭的供養等が信仰だとするなら、それはシャキャムニの教えではないと

思います

87現時点:2002/07/21(日) 08:26
仏様は供養を求めたでしょうか、仏様はおいしいものやぜいたくな暮らしをしていた

でしょうか

おこりっぽかったり、ひとをさげすんだり、絶対正しいなどと言ったでしょうか

私にはそうは思えません

だとすれば、その反対のことどもをなしているものは、シャキャムニの教えではないと

私には思えてなりません

なけなしのお金などを供養しても誰もあなたが困ったときに守ってはくれないのですよ

大切な人生と生きるために大事なお金や時間を無駄遣いしないこと

深い自省をこめて今の私は思います

88菊水護国:2002/07/21(日) 09:07
実は古い寺院では宗教法人の責任役員に在家もなっております。
その代表役員は住職ですが、決議権は平等に1票有ります。
新しい寺院では宗教法人の責任役員体制はどうなっておるのでしょうか。
知っている方、御教示ください。

89問答迷人:2002/07/21(日) 13:19

私のお寺では、信徒総代3名が責任役員になっています。創価学会寄進による、お寺です。形式上、毎年、県と、宗門と、寺院控えの3通の会計報告書に承認印を押すために寺院に呼ばれます。そして、形式的に報告書の簡単な説明を受けて、帰って来ます。総代は、自嘲して「判子総代」と言って苦笑いしています。

90犀角独歩:2002/07/21(日) 16:29

五月雨さん、皆さん:

> 講頭初め役員も、何度も話し合ったのですが、しもじものものが何を言っているんだという彼の態度に、皆諦めました

要するに、これは寺院・住職と檀信徒の関係にしか目がいっていない発言であると思うのですよ。
しかし、宗教法人というのは公益、公共に係る法人、つまり、信者であるとかないとかではなく、世の中に利益に関わる存在であり、その健全維持は檀信徒に委ねられているという関係が見落とされていませんか。寺院というのは宗教団体と僧侶、檀信徒のためにあるのではないのです。責任は信じている側が担っています。諦めてはいけないのです。

ただし、私は石山・末寺に日蓮の神(たましい)はもはやなしと判断しましたので、その場を去りました。しかし、祖師日蓮を片時も忘れたことはありません。そして、その祖師が「御恩、報じ難し」とまで言われた釈尊を仰ぐために、自分なりの道を選んだのです。

短い一生です。愚痴を言っている暇はありません。
私は私のやり方で、この問題にはきちんと片を付け、仏祖に対する報恩を果たそうと思っています。

91ワラシナ:2002/07/21(日) 22:03
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題」

0、暑いので体力的にきつくてここでは論証的には書けませんから、かいつまんで
述べますと。結論的にいえば「あるタイプの信者はこの問題で理念矛盾を抱え込ん
でいるため在家信者としての力、パワーを100パーセント生かし切ることができ
なくなっている、このタイプを信者総体としてみればったかなりのの割合でいる、
と観察される。
したがって、今後長期的には教団が社会に与えるよい意味での感化力、影響力は縮
小されたものになるだろう。(言い換えれば、社会にとっては存在していないのも
同然扱いになる)」と考えられる。

1、この抱え込んだ理念矛盾とは、「正宗入門」の信者の評価基準を見れば明らかで
よき信者の「よき」とは「旦那」語義と同じで「寄進の量的な規模の大なること」で
ある。決して「布教の量的な達成の大なること」にはないのである。
この二つを原理的に突き詰めて考えるとき、ふと陥る考えが、これは矛盾相克ではな
いか、というものである。ひとりが一年にひとり入信者を作る布教活動でそこそこの
御供養をやっていく地道な活動のどこが矛盾なんだと抗議される方のためにもう少し
説明すれば、人生の限られた時間と経済の中で遂行されるべきものとしての「経済と
信仰の二者択一、優先順位付け」をどう理想的にやっていくべきか、についての、そ
の信仰哲学的な指針みたいなものが、一元的に統一したあり方で信者に示されていな
いのが現状ではないのか、ということを感ずるのである。

2、いいかえれば、信者の信仰増大と私生活の充実の両者の調和を目指したような適
切な割切り方がガイドラインとして示されていない、不足しているように感ずる。

3、であるから、こんごはつい先頃あった事件、教団対立問題での思想的な相克が克
服できず自殺に追い込まれてもその為の事後策が打ち出された形跡もない、この現状
では、同様に逼迫する経済問題と信仰の理想との両者の達成の戦いに敗れて自殺の追
い込まれる信者さんも多くなることと予想される。

4、対策としては、信者は「入門」のガイドラインにお示しのように信者たるべき者
の第一優先順位を「金(カネ)」の確保に置き、信仰活動を第二順位、二義的にせざ
るを得ないのである。

92五月雨:2002/07/21(日) 22:43
独歩さんの見方は、世間から見た寺院・住職と檀信徒の関係ですね。私は、日蓮正宗については当てはまらないと思っていました。“邪宗とは違います”から。一緒にしたら怒られますよ、法華講員に。そんな雰囲気です。指導教師の事を、会合の時など何と呼ぶかご存知でしょう。「御尊師」て゜す。(私は頭の中ではつい「ご損師」と思い浮かべてしまいますが・・・余談でした。)「御尊師」と呼ぶように指導教師から教わりました。自称「御尊師」の尊い方に、日頃の行いをご注進申し上げるには言葉遣いに気をつけて、細心の心遣いでお話していました。丁寧な物言いのお願い口調の叱咤は、やはり通じません。そして彼はあまりに鈍感でした。持って生まれた性格によるものて゜しょうね。仕方ありません。世間付き合いは嫌いと、世間との関わりは極力避けて、ご近所での評判も悪いお寺ですので、きっと公共の利益にはかかわらないと思います。こんな考え方はいけないと言われそうですね。私は自分の信仰の矛盾にやっと気付いたところです。まだまだ勉強しなくてはいけません。そしてこの矛盾が自分の言葉で語れるようになるまで、時間はかかりそうですが、独歩さん初め、このサイトでご発言の皆様方には勝手ながらいろいろとご指導・ご教示をいただけますように心からよろしくお願い申し上げます。なるべく愚痴は言わないように致しますので、お許し下さい。
 
>私は私のやり方で、この問題にはきちんと片を付け、仏祖に対する報恩を果たそうと思っています。

独歩さんのやり方はどんなやり方ですか。差しつかえが無ければ教えてくださいませんか。それと、独歩さんは御書の拝読について常に真書を読む事の大切さを訴えておられますが、真書かどうかはどうすれば分かるのですか。書いてる書物などがあるのでしょうか。お教え願えませんか。「生死一大事血脈抄」「兄弟抄」はどうなのでしょうか。
よろしくお願いします。

93アネモネ:2002/07/21(日) 22:51
私のお寺は、派閥争いが絶えなくて、私が入信してからでも、派閥争いがもとで3回も講頭以下役員が変わってます。
最初は、任期目前にいきなり住職の命令で役員全員が辞表を書かされ交代し、そうかと思えば、次の講頭と副講頭は一ヶ月ほどで講中への説明もなく自ら辞表を出して投げ出してしまい、仕方なく前の講頭が再任されましたが、その後も派閥争いは続き、一昨年前には講中の全く知らないところで、「常任会議」などという秘密めいた組織が数人のメンバーでつくられ、そこで講頭・副講頭罷免が決議され、さらに次の現講頭・副講頭まで決められ、それを住職も承認してまた交代し、現在に至っています。
その都度きちんとした説明もないまま、いわゆる「しもじもの講中」の知らないところで、勝手に役員が決められていくことがあまりに不可解で、私は幹部の人に「法華講規約を見せてほしい」と申し上げました。そうしましたら、「規約は誰も見たことがないんですよ」というお返事。「そんなのおかしいです」と続けようとすると、何か意味不明なことを繰り返して、私の言葉は遮られてしまいました。
ところがです、今度は派閥内での内部抗争が起きたようで、講頭を罷免する会議「常任会議」のメンバーだった一人が粛清にあったらしく、罷免会議のときの文書を御講のとき講中の人に配ったんです。(この文書で「常任会議」の存在と現講頭選出の経緯を知りました)
その文書を見てびっくりです。「講頭、副講頭の罷免について」の項目があって、そこには、「○○寺支部規約則り、少なくともトップは互選されるべき」と、規約の内容が記されています。講頭などの幹部は支部講中で互選されなければならないということですね。これまでのどの役員選出も、講中互選の手続で選ばれてきたとはとうてい思えません。しかも、この常任会議そのものだって講中で承認したものではないわけです。この秘密会議で現講頭が互選されたとしても規約違反ですし、それまでの幹部選出にまつわるすべての経緯が、明らかに規約違反だったのです。
だけど、講中のほとんどの人は、規約を見たことはなく、その内容はもちろんのこと、もしかしたら存在すら知らないのが現状です。恐らく、どこのお寺でもそうなのではないでしょうか。

先日、私のところにお電話をかけてこられた代々の法華講で地方部の連合会で役に就かれている方にも、「信徒に法華講規約を開示していないこと自体おかしい」と言いましたら、
やはりその人も「規約は見たことないなぁ。あるのかなぁ」と、明らかにとぼけるのです。私は、「規約を開示したがらないのは、規約に不正な形で講が運営されていてるからじゃないのでしょうか」と言いましたら、「規約、規約と教条主義的に運営するもんじゃないでしょ」と怒鳴られました。私は、「そんな組織なら所属したくありません」と言いましたところ、今度は「規約もこれから変えて行かなければならないでしょう」と小声でブツブツ。「見たことないなんてウソじゃない」と言ったら、とうとう黙ってしまわれました。
それにしても、ごく当たり前に規約を持ち出しただけなのに、まさかそのことを「教条主義」と返されるとは思いもよりませんでした。
だいたい、信徒に規約を見せないこと自体、宗教法人としての責務に反しているのではないでしょうかね。

ちなみに文化庁のホームページにはこういうことが記載されています。
http://www.bunka.go.jp/frame.asp?tm=20020721210321
宗教法人の運営は規則に決めたとおりにしましょう。
1まず,みなさんの法人の規則を見てください。
規則は,みなさんの法人を運営するための根本原則です。
みなさんの法人が,その運営方法について所定の手続きを経て正式に作成し,所轄庁の認証を受けたものです。言い換えますと,みなさんの法人の運営方法について公に示したものです。ですから,法人の運営を規則に従って公明正大に行うことは,法人として当然の責務であり,社会的な信用を損なわないよう適正な管理運営が求められています。

94アネモネ:2002/07/21(日) 22:52
五月雨さん、モモさん

私はこんな調子でしたので、お寺の中では、特に幹部からはものすごく疎まれてました。
メチャメチャわざとらしく挨拶を避けられる方もいるんですよね。いやな感じです。
寄らば大樹の陰で、強い者に巻かれる心理の人が大半ですから、私なんかのちょっとした質問はすぐにかき消され、質問した私がいかにも悪いみたいに言われるんですね。また、そんなことに気をとられているうちに、いつのまにか今度は自分が修羅の心になってしまっていたりして、この空間はなんなんだ!って感じでした。
五月雨さんとモモさんが、どんなに情けない気持ちでお寺に参詣されていたか、本当によくわかります。
きっと口にはできなくても心の中で、同じことをなんとなく感じている人はたくさんいて、五月雨さんやモモさんの書き込みを目にして、共感していることと思います。

95アネモネ:2002/07/21(日) 22:52
ワラシナさんの「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題」賛成です。
『第一優先順位を「金(カネ)」の確保』にはちょっと抵抗もありますが、でもそのくらいはっきり示さないと変革されないでしょうしね。
お寺の方に、「信心第一、仕事第二のご指導は納得できない」と言いましたら、「そんな指導は聞いたことないな」とぼけられました。私はいやというほど、御講で聞かされたんです。「ウソつき!」と言いたかったです。

96犀角独歩:2002/07/21(日) 23:19

五月雨さん:

> 独歩さんの見方は、世間から見た寺院・住職と檀信徒の関係ですね

違います。世間からの見方と信者との見方に隔壁がある異常さの指摘です。

> 御尊師…

ですから、もしそちら重職がやっていることじじつであれば、「御尊師と呼べ」と言われたら、そう呼ばなければいけない理由がどこにあるのですか。やっていることは法盗人、「この泥棒!」と窘められればよいわけです。

事実、私は、そういうところではまったく妥協がありません。
ここでは丁寧、儀礼をもって書いていますが、現実の私は相手が。間違っている判断するとき、何の妥協も躊躇もなく、思ったことを、身振り手振り、過激な言動も含めてしっかりと伝えます。つけあがらせる必要はありません。

御尊師をご損師と思うならば、そのまま、相手に伝えればよろしいわけです。私はそのようにします。こそこそ裏で言って、本人なあなあで付き合うなどという二枚舌は私にはできません。

>> 私は私のやり方で、この問題にはきちんと片を付け、仏祖に対する報恩を果たそうと思っています。
> どんなやり方ですか

ここで簡単に記すことはできません。しかし、私を知る人はこう記せば、すぐに了解されることでしょう。五月雨さんとお会いすることが、今後、あるかどうか。しかし、追ってここで記した意味はご理解いただけるようになるでしょう。時のしからしむるのみです。

> 真書かどうかはどうすれば分かるのですか

真跡が残っていれば、真書でしょう(笑)
これは祖書学の基本です。
以下のような頁があります。
また、お持ちの御書の目次にも真跡の有無は記されています。

http://www.raidway.ne.jp/~ben/data/g-list2.html


> 「生死一大事血脈抄」「兄弟抄」はどうなのでしょうか

もう何度も記してきたことですが、『生死一大事血脈抄』の対告衆と係る御書は架空のものでしょう。方や『兄弟(きょうてい)抄』は、もちろん真跡でしょう。

97犀角独歩:2002/07/21(日) 23:26

ワラシナさん:

お久しぶりです。
現在、身延オフを企画しています。ご参加いただけませんか。

K会では席を失うほど、優れたご提言をなさってこられたこと、敬服いたしております。同じく、同様の勢いで、いまの有様の過ちをどしどしと改変される慧眼をお示しいただければ、私も参考になります。

僧侶の立場を考慮して、状況を鑑みるなど、ワラシナさんには似つかわしくないところと存じます。

かつて私が市中の独覚とお呼びした提言の冴えの復活を心待ちしております。

98ワラシナ:2002/07/22(月) 10:07
アネモネさんへ

*結論命題「既存の産業社会あるいは、その中での教団経済との関係現実などが当然視され、仏教の、宗祖の理想としたような経済システムの存在が発想されない事」

1、「金(かね)」の確保が最優先されなければならない訳は、教団の信仰活動の現実そのものだから。
1ー1、登山には費用がかかり、何回も行く為には、仕事を休まねばならず、最近増えて来た賃金体系である(日給月給)では、その日の信仰の為に明日一日の自分のくびを絞める所作、になる。
1ー2、塔婆代のコストダウンをすれば浮かばれる先祖のカズがふえて先祖も喜ぶと思うのに、今の値段では、何本もできない、ここでも、先祖供養という信仰をよりよくする為には、金が沢山必要になる。

2ー0、結論的にいえば「まず」ですよ、「まず」金が無いと信心活動が(うまく)できないシステム」なんです。まず金が無ければ何も出来ない、なんて当然じゃないかと、言う方もおられるでしょうが、その既存の当然性を疑り得る発想を許したのが「宗教の価値」じゃなかったかと思う。

99五月雨:2002/07/22(月) 11:39
独歩さん
 キビシイお言葉の数々、肝に銘じました。

>世間からの見方と信者との見方に隔壁がある異常さの指摘です。

ウチのお寺の状況は“異常”なのでしょうね。ウチのお寺の信徒は「元・学会員/現・法華講員」の集まりです。代代の法華講信者のいない中において、僧侶との関わり方を知りませんし、住職に御注進申し上げるのも、腹に据えかねてやっとの思いで、やんわりと回りくどく言うのが正しいあり方だと思っていました。それ以上の事は批判・中傷で「僧宝」に対する謗法に当たると自重してきたのです。「僧侶批判は罰が当たる」と皆思っています。「功徳か罰か」行動の基準です。罰が当たる事はしたくないというのは本音です。そんな気持ちが強かったので何も言えなかったのです。現在お寺に通っている人も同じ思いでしょう。私がお寺を見限って以来も、講の人たちは同じ事をこぼしています。私も散々な事を言われ続けてきましたが、やはり墨染めの衣を着て僧侶の形をしている人間に対して、どんな酷い言葉を投げ付けられても、言い返す時は丁寧語で十のところを三くらいしか言えませんでした。「私らは奴隷よ、犬畜生以下よ」前・副講頭がよく言ってました。独歩さんみたいに強い信徒がいれば彼などボコボコにしてたでしょうね。今度彼に会う事があったなら、独歩さんに“二枚舌”と言われないように素直に彼の苦手な「関西弁」で気持ちを言います。
 真書の件、早速に教えて戴きまして有難うございます。あまりの不勉強の輩に呆れて物も言えないのではないですか。でも、ここのサイトでお会いしましたのも何かの縁と諦めていただきまして(勝手な事を言ってゴメンナサイ)こんなクダラン質問をする私をご容赦ください。

100いちりん:2002/07/22(月) 11:52
信仰というのは、どんなときでも、誰でもできることだとは思いますが。
それこそ、幼児から臨終間際の人でも、寝たきりの人でも。

でも「恒産なければ恒心なし」というのは、ありますよね。
経済的な基盤がなければ、食うや食わずの生活では、もう余裕はなくて。

かつては、農家の次男や三男で、食って行かれないと、寺に預けて坊さんにしてしまうなんてことがあったんでしょうね。

いまの日本では、出家するにも、すごくお金がかかりますね。
袈裟だの法具だの師匠や本山に対するお布施だのと。まあ100万円くらいは必要なんでしょうか。

いろんな団体とかみていますと、まあ、どこもやはり金がかかる。
まあ金がかからないで、文無しでも、暮らしていける団体があるとしたら、ヤマギシあたりかなあ、なんて。(お金のある人は、ぜんぶ寄付してしまうわけですが。逆に、なんにもない人は、寄付するものもないから、ラクなわけです)

ヤマギシににいる、もと坊さんがいましてね。
彼が言うには「寺にいるときには、土地も車も持ちきれないほどのものがありました。山木虫に入って、いまわたしの持ち物は、風呂敷一枚に入るものしかありません。どちらが出家かといえば、寺よりもこちらのほうが出家だと思います」と。

インドに行きますとね。まったくお金を取らないで、もう何年でも、いられるアシュラムがたくさんあります。泊まるところも食事も、お金を取りません。ただ、セヴァといいまして、魂の成長となる奉仕活動はします。

瞑想とか修行が好きなら、まったくお金が必要なくても、修行のできる場がインドにはたくさんあるんですね。

もともと日本の寺も、そういう場だったんだと思いますけど。

101いちりん:2002/07/22(月) 11:54
入力ミス
山木虫に入って→ヤマギシに入って

102無徳:2002/07/22(月) 13:17
独歩さん:

何時もながら八面六臂のご活躍に敬服しております。

<もう何度も記してきたことですが、『生死一大事血脈抄』の対告衆と係る御書は
 架空のものでしょう>

とのことですが、果たしてこの対告衆の最蓮坊は架空の存在でしょうか?
現在の日蓮宗学においては、日像による『祈祷経之事』や身延三世の日進による
『立正観抄』の書写等によって最蓮坊実在説が定説化されているように思います
が如何なものでしょう。   無徳

103無徳:2002/07/22(月) 13:23
訂正ー最蓮坊(誤)ーーー最蓮房(正)

104犀角独歩:2002/07/22(月) 16:50

無徳さん:

この手のことを書くと突っ込んでくれると言うことは、いつもロムしてくださっていると言うことでしょう。有り難いことです。

そうですね。架空と言い切ってはいけないかもしれません。
最蓮房がというより、最蓮房に仮託した書がという意味です。

もっとも、こう記しても納得をしないのが本覚論者、無徳さんの主張でしょうが。
私は像師・進師の写本のみでは決定づけられないという立場です。
まあ、ここは意見の相違があるでしょうね。

105犀角独歩:2002/07/22(月) 17:15

五月雨さん:

涅槃の疏に云はく「仏法を壊乱するは、仏法の中の怨なり。慈無くして詐り親しむは、是れ彼が怨なり。能く糾治せん者は、是護法の声聞、真の我が弟子なり。彼が為に悪を除くは、即ち是彼が親なり。能く呵責する者は、是我が弟子。駈遣せざらん者は、仏法の中の怨なり」

とあります。聖人は『立正安国論』に

予(よ)少量たりと雖も忝(かたじけな)くも大乗を学す。蒼蠅驥尾(そうようきび)に附(ふ)して万里を渡り、碧蘿松頭(へきらしょうとう)に懸(か)かりて千尋(せんじん)を延(の)ぶ。弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事(つか)ふ。何ぞ仏法の衰微(すいび)を見て心情の哀惜(あいせき)を起こさざらんや。その上涅槃経に云はく「若し善比丘ありて法を壊(おぶ)る者を見て置いて呵責(かしゃく)し駈遺(くけん)し挙処(こしょ)せずんば、当(まさ)に知るべし、是の人は仏法の中の怨(あだ)なり。若し能(よ)く駈遺し呵責し挙処せば是(これ)我が弟子、真の声聞なり」と。余、善比丘の身たらずと雖も「仏法中怨(ぶっぽうちゅうおん)」の責を遁(のが)れんが為に唯大綱(たいこう)を撮(と)って粗(ほぼ)一端を示す。

と仰せになります。法盗人、食法餓鬼と詐(いつわり)親(したしむ)ことは祖意に反します。もちろん、我々は善比丘ではありません。故に進言を僭越と思われるのであれば、まずは施(供養)を止めることです。

ただ「厳しい」というお言葉もあったので、少し息抜きを申し上げましょうか。
ここのところ、話題にしている小田晋師は『なぜ、人は宗教にすがりたくなるのか』(三笠書房)のなかで、

心理学や精神医学の目的は、人々に不安との“距離”の取り方を教えることなのだ(P30)

と述べています。石山系信徒は、この“距離”感覚が欠落するために無為な精神的な苦痛を生じさせているのですよ。

五月雨さんがいまだ戒壇之曼荼羅、大石寺、あるいは寺院に心残りがあるのであれば、精神的な不快感にならない程度の距離をみつけることです。

そして、登山や法事にはその信徒の地位を利用し、あとは自由に他の寺院に出向いてみたり、ここの掲示板にやってきて、自由意志で仏法に接するという方法です。

石山の世間知らずの僧侶に指導などできるはずもなく、けれど、典礼や法式、塔婆書きはできるのでしょうから、費用を出してやってもらえばいいのです。所詮、理想を望むことが現実とのギャップがある以上、土台無駄なことでしょう。私は、こんな惚けた名ばかりの僧と付き合うことを「時間の無駄」というのです。

ここの掲示板が始まった頃、住職に進言するという意見が大勢を占めたとき、私は「やめたほうがいい」と申し上げたものでした。

しかし、そうは言うものの、実際に議論の現場になったとき、単に見過ごすわけにはいきません。けれど、進言をするときに、怒り、憎悪があっては仏意に背きます。哀れみをもって、僧侶にまでなってなんもわからぬ世間知らずに「お可哀想に」と教えてあげる、そんな境地に、もし立てないのであれば、まずは距離を置いて、自分を修練することが先とすべきでしょう。これは石山僧に対する皮肉でも何でもなく、本当に私は、このように思います。要するに石山僧は「その程度の存在」と現実を見極め、ストレスのない、身のある信仰生活を自力で獲得することです。

106犀角独歩:2002/07/22(月) 18:10

> 信仰というのは、どんなときでも、誰でもできることだとは思いますが。
それこそ、幼児から臨終間際の人でも、寝たきりの人でも。

まったくそのとおりですね。
いま、小田師の資料を整理しているところなので、またまた引用してしまいますが、

日本では一般に、宗教を信仰するといえば、特定の宗派または教団といった組織に入ることを意味している。漠然と神や仏を信じている場合はそうはいわない。特定の教団に入信し、父親や母親を代わりをつとめている教祖は宗派(教団)幹部のいうことをなんでも無条件で服従するとなると、教祖や幹部が邪悪な人であったりすれば、どんなことでもしてしまうおそれが生じてくる(『なぜ、人を宗教にすがりたくなるのか』三笠書房 P57)

この服従は「文句を言いつつもやってしまう」も含まれるのでしょう。不満を懐いている人は自分が被害者のような気持ちを懐いているものですが、社会一般から見れば、結局、やってしまうその人を含めて、その教団が、国民の精神環境を含めて社会悪になっている片棒を担いでいる一人に数え上げられている現実がわからないでいるわけです。

しかし、信仰はいちりんさんが仰るよう、誰でも、どこでも、一人でもできなければ、価値はないのだと私は思います。

107アネモネ:2002/07/22(月) 19:35
>日本では一般に、宗教を信仰するといえば、‥(『なぜ、人を宗教にすがりたくなるのか』三笠書房 P57)

この次のページにはこんなことも書いてますよ。

それに対して宗派(教団)の中には、カリスマ的教祖に無条件で服従することのみを人々に強い、人間としての判断を放棄することを求めるものがある。人間としての判断とは、人類的な良識とその人の内側からの良識に従うことである。
 ところが面白いことに、どこの宗派(教団)も自分のところはそんなことはしていないと主張する。もちろん、すべての教祖が、信者をだまして自らの個人的利害や権力欲に奉仕させるために宗教をはじめたわけではないだろう。
 しかし、あとで詳しく述べるように、宗教の布教活動には、マインド・コントロールの要素が含まれている。というより、マインド・コントロールの技術そのものが、一面では宗教の布教方法を心理学的に分析することによって編み出されたものである。(『なぜ、人を宗教にすがりたくなるのか』三笠書房 P58)


この本、随分前に読んだつもりでいましたが、奥付をみてみると2000年2月15日第一刷になってました。私が読んだのは、2年半前だったようです。(人のことウソつきなどと言えませんね。私もかなり記憶がいい加減です)

小田晋氏は、岡山県ご出身ということ、私の両親が岡山県の日蓮宗ですので、なんかすごく親しみを感じます。
それから、バリ島の話が講演で出てましたが、もうかれこれ20年前に、バリ島に旅行に行ったことあります。現地に移住されている日本人ガイドの方によるバリ島の魅力とは、生きていくうえで必要なものだけを欲して、それ以上のものは自然に欲しくなくなって、それがかえって満たされた気持ちでいられる、そんな不思議なところだって言ってましたね。
バリニーズはすごーく日本人を好きでいてくれて、とても親切に仲良くしてくれるんですね。ほんわかと心に残る人たち‥、いつかまた行きたいところです。

108アネモネ:2002/07/22(月) 21:53
ワラシナさん

>2ー0、結論的にいえば「まず」ですよ、「まず」金が無いと信心活動が(うまく)できないシステム」なんです。まず金が無ければ何も出来ない、なんて当然じゃないかと、言う方もおられるでしょうが、その既存の当然性を疑り得る発想を許したのが「宗教の価値」じゃなかったかと思う。

確かにそうですね。そこのところを曖昧模糊にするから、信心がすっかりキレイ事になって、一向に実生活と結びつかなくなってしまう。現実をきちんと見据えたご提言ですね。

ところで、お塔婆のコストダウンということがありましたが、私のお寺では使いまわしをしているらしく、そのことを怒っている信徒の方もいらっしゃるのです。が、私はこのことをどう考えていいのかわからないのです。
私など、お塔婆をお願いしても、先祖のお墓は遠方ですので持ち帰ったことは一度もないんですね。熱心に参詣していた頃は、毎月のようにお塔婆をお願いしたものですが、そのとき、ふと思うようになったんです。もしかして、これって環境破壊とかになってないのかな‥と。私は内心、仏法上で使いまわしでも差し支えないのならそのほうが‥とも思うんです。けど、差し支えるなら問題だし、けど環境破壊はどうなんだろう‥。宗門で塔婆料から植樹とかしてるのかな‥とか、リサイクル資材とかじゃだめなのかな‥などなど、余計なこととは知りつつ、それなりに考えたりしてました。
実際、どうなんでしょう。

109アネモネ:2002/07/22(月) 21:56
昨日は、福沢諭吉を掲示板にご紹介しましたが、ワラシナさんの書き込みを読みまして、三井財閥の始祖の三井高利の遺訓を思い出しました。またご紹介させて頂きます。遺訓の最後には、信仰活動について戒めてます。

三井宗竺遺書
 一 御公儀時々御法度の趣、主人は申すに及ばず、手代下々まで早速申し聞かせ、堅く相守り申すべく候。ならびに博奕・諸勝負など堅く仕るまじき事
 一 同苗ともますます心を同じうし、上に立つ者は下をめぐみ、下たる者は上をうやまうべし。我々は兄弟にしてむつまじく、この末はまたさにあらず。しからばいよいよ心をひとつにし、建て置く家法・礼義をみださず、よく慎み守る時はますます栄えるの利、   人おのおのその心にあり、かれが心をくみ、我を計りて事をなさばよく調る。
 一 商人は不断の心掛けうすき時は、他よりその商をうばう。
 一 手代を見立てる事専要に候。少なき失をあげて大なる益を捨てる事なかれ。
 一 仏神を敬い儒学を心掛け候事は人道に候。しかれども、いずれにても過ぎ候えばその身の家業おこたり、おのずと異形の人のように罷り成り候。仏に志し過ぎたるものは出家のごとく、神道にたより候えば、禰宜・巫のようになり、儒者は利に屈し、人をあな   どる。おのずと商売うとくなり、家滅す。各それぞれの行作あり。しかるに外の事に気を移し、代々の家職疎略に致し候事、仏神の妙慮に叶うべき哉。また仏神のために金銀財宝をなげうち、莫大の費え致し候事大きなるひが事と存じ候。仏神はその人の心にあり。しかるを金銀出して善を調え候ようなる事はあるまじく候。


宗教との距離感を自己管理するというのは、最も難しく最も大事なことかもしれないなと思います。私にとっても、これは課題です。

110犀角独歩:2002/07/22(月) 21:58

アネモネさん:

> 107

そうありましたね。
というか、この本は参考資料の宝庫みたいな本です。

たしか前にアネモネさんが書いていましたが4章の『心を蝕む宗教、身体を侵す宗教』で挙げてある事例は、言わずと知れた組織信者のものですね。これは「独特の教条主義“正法と三障四魔の闘争”を契機に犯罪へ至った鑑定例」を元にしたものですが、さすがに2000年の発刊となると、その団体への遠慮が窺えるわけです。実名でやってもらいたいと思ったものです。

小田師も、最近、パワーが落ちてきたので残念に思っています。

111五月雨:2002/07/22(月) 22:15
独歩さん
 私の文章作成能力の無さで、私の言いたい事の半分も伝わっていないのかも知れません。それが独歩さんに“不愉快感”を生じさせているのかもしれません。もしそうであれば陳謝いたします。

>戒壇之曼荼羅、大石寺、あるいは寺院に心残りがあるのであれば、精神的な不快感にならない程度の距離をみつけることです

距離は遠の昔に置いたつもりです。もう1年以上お寺には寄り付いてもいません。行きたいとも思わないし、考えるだけでゾッとします。しかしながらこういう状態にありながらも、大聖人様の本当のお教えは何なのかを考えていたところここのサイトに巡り合ったのです。目からウロコの事ばかりでした。そうだったのかと時には失望感を味わった事もありますが、自分の中では全ての辻褄が合いつつあるところです。本当は信心を辞めてしまった方がさっぱりして良いのかも知れませんが、さりとて大聖人様の本当のお教えには未練があるし、それが分かるまでは信心は続けていたいと思っています。独歩さんは、私の心残りをどんな点でかんじられるのでしょうか。三十万登山に参加するからでしょうか。私自身は
戒壇の大御本尊様、石山、所属の末寺には本当は何の心残りも無いのですが、つれあいが寺院参詣・組織活動はしなくても心残りはあるみたいで、三十万登山には行きたがるのです。自分でもこの目で見たろかという気持ちもあるしで行くことにしました。もしかしたら最後の登山になるかもしれません。独歩さんの言われた事は自分では実践しているつもりでしたが、そう言われますと悩むところです。

112五月雨:2002/07/22(月) 22:22
皆様、今夜を限りに書き込む事をやめます。今まで色々とお教えくださいまして有難うございました。これにて失礼致します。

113犀角独歩:2002/07/22(月) 22:40

五月雨さん:

このような場所は「来る者は拒まず、去る者は追わず」が鉄則でしょうから、やめるやめないも自由と言うことになるでしょう。

ただ、私のほうとしては2点ばかり、誤解があるので、その点は記しておきます。

> “不愉快感”を生じさせているのかもしれません

と記されていますが、これはまったく誤解です。私は何ら不愉快と感じていません。

> 距離は遠の昔に置いたつもりです。もう1年以上お寺には寄り付いてもいません。行きたいとも思わないし、考えるだけでゾッとします。

この“距離”の意味を誤解されているように感じます。
私は申し上げているのは精神的な距離、わかりやすく言えば、「冷静に考えられる心の余裕」と言ったところでしょう。ですから、考えるだけでゾッとするというのは、その意味で距離がないということです。

多分に誤解のあるままで投稿の打ち切りを表明される、表現は不適切かも知れませんが、そのような過敏反応がむしろ距離感のない故であると私は思うのですよ。

また、距離を置くほうがよいということにも何ら強制力があるわけではなくて、そのような状態になったほうが「心が平安になれるから」という意味を超えるものではありません。

「書くことにした・書かないことにした」という二者択一論に走ることが、つまりはステレオ・タイプといわれる権威主義的パーソナリティの特徴です。このハードルを越えないと、寺院参詣をやめた、投稿をやめたとか、そういう選択をしていっても、心は穏やかとならないことでしょう。

実は両極端に走るところでも、心の中で距離均衡を保つことができていないように感じます。ただし、このように記すことは批判でも、憤慨しているからでもなく、ご理解いただけるかどうかわかりませんが、あなたを案じているからに他なりません。

まあ、極端に走らず、距離感ということを、もう少し考えてみることをお薦めします。

114アネモネ:2002/07/22(月) 23:02
五月雨さん

私も、ここの掲示板はドップリお邪魔したかと思えば、めっきり立ち寄れなくなったり、三ヶ月置きくらいの、すっごい波があるんですよ。だから今夜限りなんて‥、そんな気分になるときもあるけど、そう言ってしまわないで、ね。
そう書いてしまったからって、その言葉に縛られることないからね。

115ワラシナ:2002/07/23(火) 06:46
独歩さん、ご無沙汰してました。

1、せっかくのお誘いですが、日程が詰まっていて、オフ会には出られません。

2、>僧侶の立場を考慮して、状況を鑑みるなど、、私らしくない、、とのことです
が、御僧侶も同じ人間ですし、立場を考慮します。

3、「4月21日のオフ会の思い出」
この日の朝不思議な偶然があった。寺での早朝勤行の拝読御書は日曜ごとにページが
変わるものでここの所報恩抄だった。私は当日になってもオフ会にいくべきかどうか
迷っていた。そして、勤行が終わって当日の拝読御書の部分を見てびっくりしてしま
った。終わりの部分が最澄の「諸宗に独歩す」だったから。
御聖訓奉読の後は当然題目三唱で締めくくられた。だから「どっぽすうう、なんみ
ょうほうれんげきょう、、、」とお名前を拝んでしまったのだ。

この一件に気圧されていかなければまずいような気分になり行ったのだった。

116犀角独歩:2002/07/23(火) 07:09

ワラシナさん:

オフ会の朝の御書拝読のこと、貴寺、住職に感謝します。久方にワラシナさんにお会いできたのですから。

遠雷を直下で受けるようなワラシナさんの閃きが私は好きです。
また、お話を伺いたいと思います。

レス、有り難うございました。

117五月雨:2002/07/23(火) 10:12
独歩さん
 昨日の投稿で終わりにしたかったのですが、何かすれ違っているような気がして
もう一度だけ私の気持ちを書かせて下さい。私は学も無く、文章力も無く、ここにお集まりの皆さんのような博識ぶりに付いていくのもやっとの状態です。そんな私が書き込む事は、教学で裏付けされた事でない現実にあった体験だけです。あまりに場違いの事ばかりです。読まれている人にはさぞかし不愉快に感じられた事でしょう。議論の場の掲示板に私の投稿は不適切過ぎたと反省し、何も言わずに消えていくのが良かったのだろうけれども、いろいろと教えて頂いたお礼だけは伝えたくて、最後の書き込みをしたのです。

118五月雨:2002/07/23(火) 10:22
アネモネさん
いつも温かいお言葉を有難うございます。もう少し私が賢ければ良かったのですが。
いつもいつも、アホな質問ばかりしていましたが、皆様にはこころよく答えて頂いて本当に有り難く思っています。これからはいろいろと教えて頂いた事を実践していきます。

アネモネさんとはもっとやり取りをさせていただきたかったので、メールアドレスをのせて置きました。また今度お暇な時にでもメールを頂ければ幸いです。
自分勝手な事ばかり言ってすみません。

119犀角独歩:2002/07/23(火) 11:26

五月雨さん:

堅苦しく考えないことです。
少なくとも私の知識など、博識などと呼ぶほどのものではありませんよ。
五月雨さんと、そんな大差があるわけではありません。

まあ、それでも私の書くことはどうやら難しいようで、よくそんなお叱りを受けます。
私は両舌・綺語がないように努めています。それはよいとしても、ですから、言葉に優しさがないようで、どうもいつも誤解されます。気分を害されたところがあれば、お詫びいたします。

ともかく、ここは問答名人という懐の深い管理人さんが運営されるサイト、お気軽に、ゆったりと、思いつくまま、わからぬことがあれば思うままにお尋ねになればよろしいと思いますよ。私も問われる限り、お応えします。また、わからぬことは「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」とばかり、ずけずけとしつこくどこまでも尋ねたりします。

ともかく、お気軽に。

120犀角独歩:2002/07/23(火) 11:28

【119の訂正】

呼び捨てになってしまいました。打ち間違いです。訂正してお詫びいたします。

誤)ここは問答名人という
正)ここは問答名(迷)人さんという

121アネモネ:2002/07/23(火) 12:37
五月雨さん

>あまりに場違いの事ばかりです。読まれている人にはさぞかし不愉快に感じられた事でしょう。議論の場の掲示板に私の投稿は不適切過ぎたと反省

全然そんなこと、ナイナイ。そんなこと思っている人、おらへんよ。

考えてもみれば、お寺に対する愚痴っていうのは、いわゆるお寺に対するクレームで、言い換えれば、『問題意識の提示』ということで、遠慮せずに自分の言葉で書いていいのよ。
自分の言葉で書くからこそ、インパクトがあって、そこから見えてくる新しい発見もたくさんあるし、何よりもマインドコントロールの中にいる人が、ハッと我にかえるキッカケにもなるかもしれない。
そうした混沌とした内容を受けて、独歩さんが教学や社会心理学のうえからビシッと論を立てて分析してくれて、むしろこちらは専門用語だからこそ、いわゆる「上のほうの人」への起爆力にもなってるんですね。これも大事なことです。
だから、独歩さんも言ってるように気楽に、そして無理なく気長に参加していきましょうよね。

それからメールアドレスありがとう。関西弁でメール交換しよね!

122犀角独歩:2002/07/24(水) 01:30

五月雨さん:

>> さぞかし不愉快…
> そんなこと思っている人、おらへんよ

そうそう。いませんよ、そんな人。
独歩は言葉がきつくてイヤな奴と思う人がいるだろうけど(笑)五月雨さんの投稿をみんなほほえみながら、読んでいますよ。
ここに来ている人は、ほんとにいい人なんですよ。なんで、少し物を知らないようことを書いたからと言って不愉快になるんですか。
みんな、私も含めて。なんにも知らないところから徐々に徐々に、少しずつ少しずつ、ですよ。

ともかく、決めつけないこと、前に、こう言ったからと言って自分を限定しないこと。思うことがあったら、気にせず、どんどん投稿してください。

はっきり言います、前言を翻すことは恥ずかしいことではありません。私もそうだし、実は多くの参加者も、潔く前言を翻してきたのですから、いいんですよ、人は日々、変わっていくものなのですから。教の自分を脱皮する、その繰り返しが精進なのかも知れませんよ。

123:2002/07/24(水) 04:05
  
   五月雨はんが帰って来はって、ほんま、助かったわあ。
   正直、そう思います。
   何の知識も無いあちきとしては、五月雨はんの金魚のウンコみたいにして、質問してきたのですから。

124五月雨:2002/07/24(水) 10:49
皆様のあたたかいレス有難うございます。私如きにこんなに励ましの言葉を掛けて頂きまして、信心の世界に身を置いて初めての事です。たあいの無い事ばかり質問しましても、辛抱強く又快く、回答を頂いてきました事を、本当に有り難く思っています。その上に掲示板への復帰を勧めて頂き、色々と教えて下さるとの事にどれほど嬉しい想いでしょう。関西のオバちゃんの「ド・厚かましさ」は日本国中に知れ渡っているとか。私も関西のオバちゃんのはしくれとして、又厚かましく掲示板で色々と教えて頂きたく、書き込ませていただきます。皆様、また再びよろしくお願い申し上げます。

独歩さんには、何かとご迷惑をお掛けいたしましたがお許し下さい。そして、またご教示下さいませ。

アネモネさん、励ましのお言葉をほんまおおきにありがとう。また色々とお話聞かせてください。

あ さん、何も知識が無いなんて何をおっしゃいますやら。私の方こそ学ばせて頂いてます。今後ともよろしくお願いしますね。

125犀角独歩:2002/07/24(水) 11:03

五月雨さん:

> 何かとご迷惑をお掛けいたしました

いやいや、ぜんぜんかかってませんよ(笑)
まあ、私は口が悪い。あんまり気にしないでください。

> ご教示下さいませ。

ご教示なんてたいそうなものではありませんが、わかる範囲でしたら、なんでもお応えします。お気軽にどうぞ。

126五月雨:2002/07/25(木) 10:49
独歩さん
 有り難いお言葉を頂きました。早速にお言葉に甘えさせて頂きます。この前に御書の真蹟の見分け方というのを教えて頂き、「日蓮聖人真蹟遺文」のサイトを開いたのですが、「曽存本」という意味が分かりません。辞書を引いても見当たりませんでした。また御書の目次も見ましたが、「真蹟所在」「古写本」に何も書いてない御書もありましたが、無いのも真蹟とみなして良いのでしょうか。
あー又幼稚な質問を書き込んでいると、笑ってくださいませ。自分でもホンマに何も知らなさ過ぎると反省しています。

127犀角独歩:2002/07/25(木) 12:04

五月雨さん:

「いつか通った道だ」って、かつての経験を語るときに使う言葉があります。
五月雨さんがされるご質問はかつて私も通った道、みんなも通った道です。
まだ通っていない道もあって、私が通っていない道を既に五月雨さんは通っているかもしれません。まあ、そんなときは私にも教えてください。「この道はこうなっていて、でもこっちの道の報が近いですよ」と(笑)

> 「曽存本」という意味が分かりません。

そう、祖書学では当たり前のように使われる言葉ですが、こんな熟語は一般的ではないのです。辞書に載っていないでしょうね。

曽(かつて)存(あった)本という意味です。要するに、ある時期まで真跡があったことが確認されている書ということです。

聖人の御書は何度か収集、編纂されてきたのですが、取り分け身延山中興の祖と仰がれる行学院日朝師が真跡を集めたのです。これは大した業績であると思います。ところが身延山久遠寺に火事になった時があり、燃えてしまった真跡が多数あります。これなどが曽存本に当たります。ただ、朝師の収集に基づいて教学の研究がなされていましたから、真跡書であることは各門それぞれが認めるものであるわけです。真跡に基づいた写本も残っているわけです。ですから、この曽存本は限りなく真跡に近い扱いとなるわけです。

> 「真蹟所在」「古写本」に何も書いてない御書もありましたが、無いのも真蹟とみなして良いのでしょうか

いえ、これは逆です。書かれていないものは真跡も古写本もないということです。ですから、この中に偽書が含まれている可能性があるわけです。日蓮の書と言われるものの中で、ほぼ半数はこれに当たります。

この辺の研究を石山系で真面目にやっているのは正信会です。本年、公開された御書検索システムというのは、この結実した成果です。私は高く評価しています。

この研究の一端から本門戒壇の文証とされる『三大秘法稟承事(三大秘法抄)』に疑義を投げかけ、石山教学を根本から見直そうとする姿勢は立派であると思っています。

私のサイトでも紹介しています。平易に書かれた文章です。読んでみてください。お奨めです。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ssk_sandaihiho_001.html

128いちりん:2002/07/25(木) 12:25
>書かれていないものは真跡も古写本もないということです。ですから、この中に偽書が含まれている可能性があるわけです。日蓮の書と言われるものの中で、ほぼ半数はこれに当たります。

おお、なんと「ほぼ半数」ですか!
日蓮の書ということで出回っているもののうち、偽書率というのは、何割くらいなるんでしょうね。

まるっきり偽書でなくても、「改竄」したのもありますよね。
書き加えたり、一部を削除したり、意図的に読み間違えたり……。

しかしまあ、冨士門流における枢要な書は、まあほとんど偽書ということになりそうですね。
「御義口伝」「百六箇抄」「五人所破抄」「二箇相承書」などなど。

あるいは「三大秘法抄」も。

名文であって、日蓮さんでなければ、書けないのではと思われるものでも、偽書の臭いが強いのは。
「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」「阿仏房御書」「日女御前御返事」とか、

「新池御書」にしても「種々御振舞御書」にしても。。

最蓮房関係の御書は、まあほとんどすべて偽書っぽいですね。
若いときは、こういう御書が好きだったのですが。

しかし、かくも多くの偽書が混ざり合っているので、日蓮さんの心を学ぶというのは、なかなか至難ですね。

129五月雨:2002/07/25(木) 14:13
独歩さん
恥を忍んで、お聞きしたかいがありました。こんなに大きな意味があったのですね。
「聞かぬは一生の恥」をまっとうするところでした。ご丁寧に教えて頂きまして有難うございます。調子にのってまたお聞かせいただくと思いますが、よろしくお願い致します。
 
いちりんさんも驚かれていますが、偽書が想像以上に多いのですね。いちりんさんがどうかなと疑義を持たれている御書は、御書を知らない私が知ってる御書ばかりです。ちょっとショックです。

130五月雨:2002/07/25(木) 14:48
また、アホな事を聞きますが、「二箇相承書」というのは「日蓮一期弘法付属書」「身延山付属書」を指すのでしょうか。真蹟所在も古写本も無いとありますが、こんなに大切な御書を、何故大石寺では厳重に保管していなかったのでしょうか。しかし随分前にお虫払いに行った時に、「日蓮一期弘法付属書」だったと思いますが、猊下が広げていたように記憶しているのですが。ものすごく古い紙で黒っぽく変色していたのを覚えています。七百数十年の歴史を物語っていると感動していました。それとともに学会が何と言おうと、この相承書は血脈のある証拠なんだと確信していましたし、学会員にも胸を張って主張してきました。あの時にみた紙は一体なんだったのでしょう。お虫払いであの紙を見られた方はいませんか。私の思い違いでしょうか。

131問答迷人:2002/07/25(木) 16:01

横レス失礼いたします。

五月雨さん はじめまして

もともとなかったのだと思われます。偽書ですね。北山本門寺から、武田勝頼によって盗まれたとされていますが、もし、盗まれたとしても、もともと偽書だったと思われます。お虫払いで、見られたのは、第九世の日有上人の時に、左京阿日教という方が、京都の要法寺から大石寺に持って来た写本です。第9世以前は、大石寺には、二箇相承はなかったのです。

132五月雨:2002/07/25(木) 17:30
問答迷人さん
 はじめまして、よろしくお願いします。
もともと無かった『偽書』!!!だったのですか。お虫払いの法要のクライマックスに、猊下は堂々と掲げられ、「どうだ!見たか!」って感じでした。あの時の感動は一体・・・ふーため息でもついとこ。
でも、大石寺の平成御書の目次には、古写本はないとありますが。大石寺にあれば、書いてるはずですよね。
古写本は無いと云いつつ、お虫払いでは登場する。う〜ん理解できません。

133問答迷人:2002/07/25(木) 18:08

五月雨さん

何時の時代から、古写本とされるのか、判りませんが、左教阿日教の写本では、いかにも都合が悪いから、書いてないのでしょうね。創価学会版の御書全集にも、古写本なしとなっています。

134無徳:2002/07/25(木) 19:14
皆さん今日は:

日蓮御坊の御書類に関しての真偽論は古くて新しい問題と私は考えています。

 真偽未決とされる御書類が半数を占めるということであって、偽書と決めつ
けるのは如何なものでしょう。           無徳

135問答迷人:2002/07/25(木) 19:42

無徳さん
皆さん

こんばんは

そうですね、状況証拠から、僕は、二箇相承は偽書だと思っています。まあ、決め付けてしまうには、少し、証拠不足ですので、「僕は、状況証拠から、偽書であると考えている」程度に訂正いたします。

ただ、万一、真筆であったとしても、北山本門寺から盗まれたとされている訳で、大石寺の相伝書でない事だけは確かです。偽書か真筆かの議論は別としても、他山の相伝書を、あたかも自山の相伝書のように宣伝して来た、大石寺の有り様は、パクリとしか、考えようがない、浅ましい姿だと思います。

136犀角独歩:2002/07/25(木) 21:17

> 真偽未決とされる御書類が半数を占めるということであって、偽書と決めつ
けるのは如何なものでしょう

これはまあ、そのとおりであろうかと思います。ただ、この点は逆も真なのであって、真跡もなく、真偽未決とされているものを、恰も真書のように扱うことも誡められるべきであろうかと思います。

なお、二箇相承について言えば、歴史的にこの二書は、ただの一度も石山にあったことはありません。北山に相続されてきたのです。それはつまり、中の文面の一切は北山本門寺に該当することであって、石山とは何の関係もないことです。

興師が寂してから目師の天奏途上の寂までに半年あります。
条々事が興師の真筆であるとする蛮勇は私には起きませんが、もしこれが真筆であったとしたら、何故、二箇相承は目師に譲られなかったのでしょうか。もちろん、この疑問は仮に真筆であったとして、の仮定で言えることです。

また、聖人の葬送録をはじめ、弟子分帳を残されるなど、興師は資料性を重んじられた方でした。また、聖人のお筆曼荼羅にも一々端書きを書き込まれるなど、綿密な点が多々見られるわけです。そのような興師が聖人から相続されたはずの二箇相承について、ただの一度も触れられることもなく、また、譲り状すら残されていません。興師の性格からこのようなことは有り得ないと私には思えます。つまり、興師は二箇相承の存在をご存じなかったとしか思えないわけです。

しかし、「白蓮阿闍梨日興に付属」と記された書面を本人が知らないなどと言うことはあり得るでしょうか。また、聖人は寂に先立ち本弟子六人を取り定められています。それなのに、その直後に唯授一人血脈相承を行うなどということは有り得ないことでしょう。

二箇相承は真筆説は希薄であり、さらにそれが真筆であっても北山本門寺の相続であるという二重の相違を石山は枉げて論じているのに過ぎないと私は結論しています。

137現時点:2002/07/25(木) 22:17
私も二箇相承説には懐疑的ですね。

まあ、真筆だという方に対して争う気はありませんが。

独歩さんが以前言っていた六老僧という聖人の選定に何か隠された聖人の意向を思う

このごろです。

138孤独な迷子:2002/07/25(木) 23:28
 皆さん、初めまして。しばらく前からこのサイトに辿り着き、色々と読んでは勉強させて頂いています。
法華講に籍を置いて久しいのですが、最近では組織から離れています。 日蓮正宗だけは、真に大聖人様の
教えが純粋に伝えられていることと思っていましたが、その認識は間違っていたようです。

 五月雨さん、この掲示板を去らないで良かったですね。心配していましたが、もう安心ですね。
 五月雨さんが抱く疑問や質問は、心ある信者さんならば誰でも抱くことではないでしょうか?私もその一人
です。五月雨さんを気遣う皆さんの温かい心に触れてとても嬉しく思います。このような心が、今の組織には
欠如しているような気がしてなりません。

139一字三礼:2002/07/25(木) 23:42

日興上人の「原殿御返事」に

・・守護の善神此の国を捨去すと云う事は不審未だ晴れず候。其の故は鎌倉に御座し候御弟子は諸神此の国を守り給う尤も参詣すべく候、身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらるるの条、日蓮阿闍梨は入滅候誰に値いてか実否を決すべく候と、委細に不審せられ候の間、二人の外弟子の相違を定め給うべき事候。師匠は入滅候と申せども其の遺状候なり、立正安国論是なり。

ここで、“鎌倉方と身延方で意見の相違が出て、どちらが正しいか決しがたい”と日円師が言った時、日興上人は“遺状があります。立正安国論がそうです”と仰っております。
もしも「二個相承書」が存在したとすれば、この時点で日円師に「二個相承書」を見せて、日興上人御自身が他の五老僧に対する優越・正当性を示せば、神天上法門で揉める事もなかったでしょうし、ましてや身延離山などに至らなかったでしょう。
また、「二個相承書」が存在してもなお、示さなかったと言うのであれば、師匠・日蓮聖人の御遺志を蔑ろにしたことになります。

140アネモネ:2002/07/26(金) 02:52
孤独な迷子さん

はじめまして。
五月雨さん、元気になって本当に良かったよね。
ねぇねぇ、孤独な迷子さんは本当に孤独なわけじゃないよね‥。

141いちりん:2002/07/26(金) 09:30
二箇相承について、わたしは「常識」で考えれば、「おかしいな?」ということは、わかるんじゃないかと思っています。

なにしろ「二箇相承書」のうち、「池上相承書」は、弘安五年壬午十月十三日に日蓮さんによって書かれたとされています。
---------------------------------------
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり、背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。
  弘安五年壬午十月十三日  武州池上
日蓮在御判
---------------------------------------

弘安五年壬午十月十三日というたら、日蓮さんが、亡くなった日であります。

日蓮さんは、池上の館に到着して、波木井氏に与えたのが最後のお手紙です。九月十九日です。亡くなる一ヶ月前です。

そのとき、自らしたためずに、口述筆記で、日興さんが書いています。口述筆記の場合には、最後には花押を書くものですが、しかし「所らうのあひだはんぎやうをくはへず候事恐れ入り候」と言っています。

「九年間もお世話になってありがとうございます、自分の墓はどんなことがあっても身延に立ててください」という内容に、花押を入れないのはおかしいですからね。もしかしたら、そのとき花押を書くほどの元気もなかったかもしれません。

で、これ以降、日蓮さんは手紙を書いていません。おそらく筆を手にすることもなかつたと思います。
それほどまでに重体であったろうと思います。

それをですよ。「亡くなる当日」に、「日興さんだけ」を枕元によんで、この「相承書を墨で書いた」というのです。このあたりが、常識で考えて、もうおかしいですね。

師匠が亡くなりそうだというのであれば、大勢の弟子旦那が、日夜、日蓮さんを見守っておられたんじゃないでしょうか。師匠の亡くなるというのに、ほっておくわけがありません。

しかるに、どうして、日興さんだけをひそかに呼んで、筆でしたためたたりできるでしょうか。

142犀角独歩:2002/07/26(金) 11:01

二箇相承の真偽につき、一字三礼さんのご指摘に、私も賛成です。

いちりんさんが身延山付属書を挙げてくださったので、改めて眺め「もしや」と思い、調べてみました。“久遠寺”という寺名、やはり、真跡中には一度たりとも使用されていませんね。真偽未決を通して見ても、この身延山付属書のみでした。

つまり、身延山付属書は聖人の御在世に身延の草庵が久遠寺と呼ばれていた前提に基づいているわけです。また、身延山付属書という名ですが、円師は聖人を、草庵を結んで身延山に住まわせたものの、山一つ寄進したわけではないでしょうね。こういうと、「身延山は山名ではなく、久遠寺の山号である」という反論もあろうかと思いますが、しかし、聖人が出山されたとき、わずか一草庵しかなかった場所を、たいそうに身延山久遠寺などと公称していたのでしょうか。


身延山久遠寺の命名がいつだれによるのかということは、この書の真偽を見極める一つの鍵になるでしょうね。

143五月雨:2002/07/26(金) 13:20
>しかるに、どうして、日興さんだけをひそかに呼んで、筆でしたためたたりできるでしょうか

 I先生の「エレベーター相承」とA上人の「誰も知らなかった秘密の相承」を思い浮かべました。共通するのは、二人っきりで行われたということですよね。しかし、しかし石山の正当性を証明して、絶対正しいと保証するこの二つの御文が、石山に関係なくその上偽書とは。・ ・ ・ 言葉が出ません。



孤独な迷子さん
 初めまして、よろしくお願いします。ご心配して下さったのですか。すみません、私のワガママで皆様方にはご迷惑をお掛けしました。皆様方のあたたかいお心で、去らずに済みました。早速に独歩さんには重要なご教示を頂きまして、知識が増えました。ここの掲示板で学ばせて頂く事は、とても大事な事ばかりなのに組織に居る時には聞いた覚えがありません。結局組織の中においては不都合な真実だったのかなと思います。

>このような心が、今の組織には欠如しているような気がしてなりません。

同感です。私が一年数ケ月前に組織活動をしないと宣言した後の住職・講から受けた数々の仕打ちは「講から離れて良かったぁ」と実感させてくれました。孤独な迷子さんも組織から離れているそうですね。「大聖人様の祖意」の見当たらない組織にいても、無駄なだけです。「大聖人様の祖意」に従った信心をしていきたいものです。


アネモネさん 有難う。元気になりました。

144五月雨:2002/07/26(金) 16:46
問答迷人さん

>左教阿日教の写本では、いかにも都合が悪いから、書いてないのでしょうね。

左教阿日教という方はどんな方なのでしょうか。お教え下さい。

145川蝉:2002/07/26(金) 16:58
142 : 犀角独歩さんへ。

身延山久遠寺の命名について。

宗門の伝えでは、弘安四年十一月に十間四面の大坊、小坊、馬屋を落成して、妙法華院身延山久遠寺と命名したと伝えられています。ただし、しっかりした文献はないようですね。
池上に正本がある「身延山久遠寺番帖事」(宗全第二巻106頁)に、
「身延山久遠寺」とあります。(ただし西山本は、墓所可守番帖事となっている)
また、静岡本覚寺に正本がある日位上人記「大聖人御葬送日記」(宗全第一巻53頁)にも、
「甲斐国波木井郷身延山久遠寺大聖人御遷化次第」
とあります。
この二書が「身延山久遠寺」の初出のようですね。
弘安四年十一月に大坊建立に合わせ「身延山久遠寺」を正式名称としたことは可能性大のようですね。

146問答迷人:2002/07/26(金) 18:02

五月雨さん こんにちは

>左教阿日教という方はどんな方なのでしょうか。お教え下さい。

うろ覚えで、いい加減な事を書くと、申し訳ないので、詳しく御存知の、独歩さんにお願いしたいと思います。


独歩さん

御無沙汰しております。五月雨さんから 左教阿日教師について、質問がありました。、申し訳ありませんが、正確なお答えをお示しいただけませんでしょうか。よろしくお願いいたします。

147無徳:2002/07/26(金) 18:12
川蝉さん今日は:

 いつも正確で丹念な探求を感じさせる宗学理解に敬服しております。

ところで、富士門流の二箇相承に関して日蓮宗関連側から最初に疑義が提起
されたのはいつ頃になりますでしょうか?もしお判りでしたら御教授くださ
い宜しくお願いします。   無徳

148無徳:2002/07/26(金) 18:45
皆さん今日は: 

 山口範道師が『日蓮正宗史の基礎的研究』の中で富士では上古から二箇相承
書の存在説が常識化していたことの、証拠文献として以下20個古い順に挙げ
ています。

 A.D
(1)1308 聖滅27年 徳治三年九月二十八日、日頂の本尊抄得意抄添書?に「興
  上人一期弘法の附属を受け日蓮日興と次第」の文あり(宗全1ー44)
(2)1380 聖滅99年 庚歴二年六月四日、妙蓮寺日眼の五人所破抄見聞に「日蓮
  聖人之御附属弘安五年九月十二日、同十月十三日御入滅の時の御判形分明
  也」の文(要4ー8)
(3)1468 聖滅187年 応仁二年十月十三日、(要山十六代)日廣、重須にて二箇
  相承全文書写、其の奥書に云く、「日廣云、於富士重須本門寺以御正筆奉
  書畢、応仁弐年十月十三日」(傍系)要山十八代日在云、先師日廣上人詣
  富士之時如之直拝書之給也云々(雪文三十大遠日是転写本。夏期講習録2
  ー8富谷日震)
(4)1488 聖滅 207年 長亨二年六月十日、左教日教「類聚翰集私」に二箇相承
  全文引用(要 2ー314)(正系 )
(5)1489 聖滅208年 延徳元年十一月四日、左京日教「六人立義破立抄私記」に
  全文引用(要 4ー44)
(6)1514 聖滅233年 永正十一年、越後本成寺日現「五人所破抄斥」に全文引用
  (要 4ー44)
(7)1545 聖滅264年 天文十四年四月、日我申状見聞に「身延池上の両相承」云
  々の名目を出す(要 4ー81、 112)
(8)1547 聖滅264年 天文十六年、要山日在、富士立義記(日叶作)を添削前後
  補接百五十箇状として編録二箇相承全文引用(要2ー182)
(9)1556 聖滅275年 弘治二年、要山日辰重須に於いて日耀をして二箇相承を書
  写せしむ(西山蔵)
(10)1559 聖滅278年 永録二年、重須日出、要山日住に二箇相承を拝見せしむ
  (要 5ー56)
(11)1573 聖滅292年 天正元年、日主上人二箇相承を書写(大石寺蔵)
(12)1579 聖滅298年 天正七年、北山本門寺宝物目録に二箇相承を挙ぐ(要9ー
  20)
(13)1581 聖滅300年 天正九年三月、武田勝頼の臣重須を襲い二箇相承を奪う
  (要 9ー17・20)
(14)1582 聖滅301年 天正十年、重須日殿二箇相承返還を訴え憤死す(富士年
  表・日蓮教団史92)
(15)1582 聖滅301年 天正十年十五月西山日春甲府総檀中ヘ書を送り二箇相承
  返却方を促す(西山蔵・蓮華3 −22)
(16)聖滅300余年、房山日我等二箇相承紛失証明を記す (要 9ー22)
(17)1611 聖滅330年 慶長十六年、家康駿府城に於いて重須より奉持の二箇相
  承を拝す(駿府政事録・駿国雑誌三十一ー中ー74)
(18)1611 聖滅330年 本光国師二箇相承を道春(林羅山)より得て日記中に記す
  (仏教全書、本光国師日記1 ー165)
(19)1617 聖滅336年 元和三年、要山日廿四代日陽重須に至り二箇相承を拝す。
  (要 5ー60)
(20)1656 聖滅375年 明歴二年、西山一八代日順、日耀写しの二箇相承の日辰
  奥書に重ねて奥書す(西山蔵・富士門徒の沿革と教義45)

 そして、山口範道師は真蹟が現存しないので古来二箇相承の真偽の論難があ
るが、今日二箇相承が存在しなかったという証拠を上げることは難いが、存在
したと思われる証拠は多分にあるとしています。

 更に、二箇相承が武田方に奪われて紛失し、日我等の紛失証明が残っている
にもかかわらず、その後30年して重須の養運坊(日健代)が二箇相承を駿府
城に奉持して家康に拝見させたという記録があることからして、今後の研究に
俟つところが多分にあるとしています。参考までに    無徳

149問答迷人:2002/07/26(金) 21:42

無徳さん

引用された文書の内、

(2)1380 聖滅99年 庚歴二年六月四日、妙蓮寺日眼の五人所破抄見聞

については、妙蓮寺日眼師ではなく、西山八代の日眼師であり、年代的には1480年頃と思われ、(4)の、左教日教師と同時代と考えられます。根拠は、五人所破抄見聞の末文に有ります。

1 五人所破抄重須本奥に云く嘉暦三戊辰年七月草案 日順。(1328年)

2 応永廿二●正月廿九日。日代聖人御筆大事の書也可有る重宝也。太夫阿闍梨日円に授与す之を  日任華押 (1405年)

3 日眼見聞蓮山本の奥に云く。伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼在御判 (1380年)

4 日諦私に云く右写本は古抄本に●文字不分明なら或は朽破或は蟲食等不可ら称計す(乃至)吾門弟尋正本を云云。万治元戊九月十八日○。(1658年)

ここで注目するのは、年代が2と3とで、逆転している事です。これは有りえないことであり、又、2は西山第四代の日任師であることから、3は西山第八代の日眼師と取り違えたと考えるのが妥当であろうと思われます。そうすると年代は文明年間であり、左京阿日教師と同時代で辻褄が合う訳です。

なお、(1)1308 聖滅27年 徳治三年九月二十八日、日頂の本尊抄得意抄添書?については、資料が手元に有りませんので、真筆なのか、あるいは後世の付加部分なのか、偽書なのか、判断が尽きかねます。

150無徳:2002/07/26(金) 23:15
問答迷人さん今晩は:

この辺の古文献に関する知識には全く疎い私ですが、

2 応永廿二●正月廿九日。日代聖人御筆大事の書也可有る重宝也。
 太夫阿闍梨日円に授与す之を  日任華押 (1405年)

 この文献は変ですよね、何故かなら応永22年は1415年にあたりますよ
ね、とすれば日任華押(1405年)とは整合性がとれないと思いますが如何
なものでしょう。

3 日眼見聞蓮山本の奥に云く。伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢 本化末
 弟日眼在御判 (1380年)

 は年代的には合っています。従ってこの日眼は妙蓮寺日眼で良いのではない
でしょうか?もし西山の日眼とすると<康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟
日眼在御判 (1380年)>というのは日代が西山の開祖ですから整合性がと
れないと思いますが如何なものでしょう。

 いや、もしかしたら私が問答迷人さんの主意を取り違えているのかもしれま
せん。それに、前にも記しましたがこのあたりの文献に対する知識に私が疎い
ための誤解かもしれません。その辺はご容赦ください。  無徳

151問答迷人:2002/07/26(金) 23:45

無徳さん

ごめんなさい、訂正です。

2の文書は1415年です。この年代は宗学要集には無く、僕が追加したもので、 応永廿二年を、応永十二年と取り違えました。慎んで訂正します。

3の日眼見聞の文は、2の、日任師が写本した五人所破抄に対する見聞録であり、当然、1415年以降で無ければならない訳です。ところが、1380年となっているから、これは、誤りであると考える訳です。なぜなら、1384年に妙蓮寺日眼師は亡くなっており、1415年の西山日任師むの写本を視る事が出来るはずがないからです。

152無徳:2002/07/27(土) 00:03
問答迷人さん:

早速のレスありがとうございました。

取り違えの件は了解しました。

3の日眼見聞の文は、2の、日任師が写本した五人所破抄に対する見聞録で
あり、

 とありますが、日興上人の五人所破抄の直筆の見聞録であった可能性はないの
でしょうか?それから日任師の写本でなく他の人による五人所破抄写本の見聞
録であった可能性もあり得るのではないでしょうか?

 もっとも、これら古文献に疎い私の全くの想像ですので的が外れているかも
しれませんので、この点もご容赦ください。  無徳

153無徳:2002/07/27(土) 00:20
訂正ー日興上人の五人所破抄(誤)
   日順上人の五人所破抄(正)

154犀角独歩:2002/07/27(土) 03:37

145 川蝉さん:

ご指摘有り難うございます。
通日蓮宗では身延山久遠寺の命名については、ここら辺で落ち着いているわけですね。

ところで『身延山久遠寺番帖事』というのは、これは真筆なのでしょうか。
石山では、この書は完全に偽書扱いです。たぶん、これは享師の古文書研究を踏襲しての記述ですが、『日蓮大聖人正伝』に

日興上人のご執筆による『定 墓所可守番帳事』は『宗祖御遷化記録』の末尾第五紙に連なり、その継ぎ目の裏にそれぞれ合議、承認の意を含めた、日昭、日朗、日興、日持と法臘の順に四人の老僧の署名(花押)があり、日向、日頂は「他行」と記されて、欠席していることがうかがえる。…
この西山本門寺蔵の『定 墓所可守番帳事』に対して、池上本門寺にも『身延山久遠寺番帳事』なる文書があり、これも日興上人の筆と称されている。
しかし、池上本は『墓所可守番帳事』ではなく、『久遠寺番帳』と久遠寺の別当職の輪番に変えられ、「蓮華阿闍梨」、「白蓮阿闍梨」という大聖人が定められた本弟子が「蓮華房」「白蓮房」となっているなど、日興上人に偏見を持つ人の後世の偽作であることは明らかである。
とくに池上にある番帳及び『御遺物配分事』に認(したた)められている日興上人の花押は、日興上人の御本尊及び西山本の『番帳事』とは全く異なるものであり、この他にも、池上本の疑問点を挙げれば枚挙にいとまがない。(P440)

としるされています。注意が引かれるのは興師の真筆には「身延久遠寺」という名前が見られない点です。方や後世の偽書という池上本にはこれが見られます。私は、この点から興師が葬送記その他を記述された段階では、久遠寺の名前がなかったと思うのは以上の理由からです。如何なものでしょうか。

155犀角独歩:2002/07/27(土) 03:43

問答名人さん:

ご無沙汰致しております。図々しくお邪魔し続けております。

> 左教阿日教

せっかくのご指名ですので、少し文章を整理してから、追って記させていただきます。

156問答迷人:2002/07/27(土) 07:07

無徳さん

> 日興上人の五人所破抄の直筆の見聞録であった可能性はないのでしょうか?それから日任師の写本でなく他の人による五人所破抄写本の見聞録であった可能性もあり得るのではないでしょうか?

勿論、それは有りうると思われます。但し、どの様な可能性を考える事が出来たとしても、2の、1415年の日任師の署名の後に、1384年に、先に亡くなったはずの日眼師が署名する事は不可能ではないでしょうか。

157問答迷人:2002/07/27(土) 07:12

際角独歩さん

>図々しくお邪魔し続けております。

とんでもありません。忙しさにかまけて、掲示板の運営を独歩さんに押し付けてしまっています。申し訳有りません。

日教師の件、以前、この掲示板で詳しくおうかがいしておりますが、該当箇所に当たれません。再度、宜しくお願いいたします。

158五月雨:2002/07/27(土) 08:36
独歩さん
 左教阿日教という方についてのご説明よろしくお願いします。重ねて教えて頂きたい事があるのですが、御書の真蹟、古写本にマーカーで印をつけていてふと気付いた事がありました。
真蹟所在・○○寺外△ヶ所と書いてありますが、真蹟がいくつもあるという事なのでしょうか。多いのは二十九ヶ所となっています。真蹟というのは一つしかないと思っていましたので、釈然としません。また古写本の欄に左京日教筆とあるのはお聞きしている左教阿日教さんと同一人物なのでしょうか。よろしくお願い致します。

159犀角独歩:2002/07/27(土) 08:57

五月雨さん:

投げかけられるご質問、実は疑問に思っている方はほかにも多くいらして、このやり取りは、案外、参考になさっている方々もいらっしゃるかもしれません。ですから、どしどし遠慮なく質問をお寄せください。

教師の件は、ちょっと整理してから投稿します。先に以下の点をお応えしておきます。

> 真蹟所在・○○寺外△ヶ所と書いてありますが、真蹟がいくつもあるという事なのでしょうか

真跡書というのは、いくつにも切り分けて、別々の場所で保管されることがあります。
そのために、真跡所在が何カ所にもなっているのです。

副次的な話ですが、ですから、そのように断片化した真跡の前後のつながりがわからないこともあり、さらに間違ってつないで一書とみなしてしまうことも起きています。

まだ、断片のすべてが残っているとは限らず、一部、あるいは大半がなくなってしまっている場合もあります。

さらにもう一点、御秘符という言葉をお聞きになったことがあろうかと思います。
聖人の御筆の文字には神秘的な力があるとされ、文字を切り取り、飲む秘法が中世にはあったようです。そのために文字の欠損が生じている真跡もあります。
(現在、石山で出される御秘符は、違います)

それでは「曼荼羅も飲むのか」という突っ込みを受けそうですが、この事例については、私は知りません。しかし、ないとは言い切れないかも知れません。

> 左京日教筆…左教阿日教さんと同一人物なのでしょうか

通常は左京日教と記述されますが、同一人物です。
この人は名前を何回か変えているます。

左京のほか、本是というも同一人物で、日叶という同一人物です。
詳しくは追って記します。

160川蝉:2002/07/27(土) 10:10
154 : 犀角独歩 さんへ。

>ところで『身延山久遠寺番帖事』というのは、これは真筆なので
>しょうか。

執筆日興とあって、日持・日興・日朗・日昭の判があるそうです。昔から具眼の学者が書き判等を見て、正本と判断しているので、日蓮宗では正本としているのでしょう。
仮に興師の書き判が正宗の言う通り興師のものでないとしても、他の日持・日朗・日昭との書き判がそれぞれのものであるなら、入滅時には「身延山久遠寺」と呼んでいたことになりますね。

ただし、如何なる訳で輪番の違いがあるのか分かりません。
池上所蔵の『身延山久遠寺番帖事』にだけでなく、先に挙げました日位上人の「大聖人御葬送日記」にも「身延山久遠寺」言う名称がありますので、少なくとも入滅時までには「身延山久遠寺」と呼んでいたと考えて良いと思います。

161川蝉:2002/07/27(土) 10:12

147 無徳 さん今日は。

陣門流でしたか、本成寺八世の日現(1459年〜1514年)が「五人所破抄斥」で「一向御正筆に非らず」と指摘したのが古いようです。
山口範道師が二か相承が存在したという根拠の6番目の日現の「五人所破抄斥」のことです。

山口範道師が言っているように、二か相承なるものがあったことは確かでしょう。ただし、それが本物であったと言う事の証明には成らないですね。

>(1)1308 聖滅27年 徳治三年九月二十八日、日頂の本尊抄得意抄副>書
は、宗全第一巻43頁に収録されているものですね。
編者が「こお原本は佐渡世尊寺の所蔵に係る、未だ真偽を断ずべからず」と注記しています。読んでみましたが史料としてはちょと採用できないのではと思いました。

祖滅百年前後には、中古天台の秘密相承の影響と、門流対立から、浜門流、比企谷門流、中山門流等が唯授一人の相承を立てるに至ったそうです。有名な朗師譲状もあります。
それらが興門の二か相承より先か後か、私には分かりませんが、互いに相承を誇ったと言うことは、互いに他が偽物だと批判しあった事になりますね。

162五月雨:2002/07/27(土) 11:40
独歩さん

そういう意味があったのですね。昨日から目からウロコが落ちっぱなしです。お恥ずかしい話ながら、私は御書の目次をはじめてしげしげと見ました。真蹟だとか偽書だとか学会員の時にも、講に移ってお寺でも聞いた事も無いし、興味もありませんでした。どうしてそんな信仰の根幹に関わるような重要なことを触れもせず、と思ったけど触れたらマズい事があったのでしょう。

>投げかけられるご質問、実は疑問に思っている方はほかにも多くいらして、このやり取りは、案外、参考になさっている方々もいらっしゃるかもしれません。

そうであれば、私の初歩的な質問も誰かのお役に立っているのでしょうか。とすればしたかいがありました。独歩さんにいつも丁寧にご親切に答えていただいているお陰です。

左京日教という方は、一体いくつ名前を持っているのでしょう。ますます気になります。「七つの顔をもつ男」(映画の題名)でしょうか。ご教示楽しみにお待ちしております。

163いちりん:2002/07/27(土) 12:06
川蝉さん

>祖滅百年前後には、中古天台の秘密相承の影響と、門流対立から、浜門流、比企谷門流、中山門流等が唯授一人の相承を立てるに至ったそうです。

なるほどねえ。あちこちの門流が、「われらこそ正統なり。正式な相承を受けているのだ」と主張していったのですね。そして、おのおのが「相承書」というものを、持っていたりする。もちろん、すべてが偽造されたものだったのでしょうね。

>有名な朗師譲状もあります。

これは、弘安五年十月三日。日蓮さんが、亡くなる十日前です。日朗さんに相承したという書ですよね。真蹟在京都本圀寺というのですが。まあ、偽書でありましょう。
---------------------------------------
釈尊一代の深理も亦日蓮一期の功徳も残る所無く、悉く日朗に付属する所なり。寿量品に云く「我本立誓願(乃至)皆令入仏道。毎自作是念(乃至)速成就仏身」。
  弘安五年十月三日                   日蓮花押
---------------------------------------

「釈尊一代の深理」「日蓮一期の功徳」を「悉く日朗に付属する」というわけです。

「偉大な人」から「唯一の継承者」であるというお墨付きを大切にしたいという心。「わたしたちこそが、正しい。正統。真実」と言いたい心。
そこが、おもしろいですね。

なぜ、こうなるかなあと思ったりするのですが、まあ人間のもっている「わたしは、あんたらとは違う」と言いたい心なんでありましょうか。

日蓮さんをくさすわけじゃないけど、日蓮さんがやはり、「正統」とか「唯一」とか「われこそはあ……」という思いが強い傾向性があったから、弟子達もそういう影響を受けたという気がしないでもないです。(あ、ここは、わたしのつぶやきですから。。)

164一字三礼:2002/07/27(土) 13:20

日興上人のお手紙を調べていて、犀角独歩さんの示された通り、「身延久遠寺」はたしかに出てこなかったのですが、そのまま他を調べていましたら。

日円状(富要8巻3頁)に

はるの□□□の御よろこひかたかた申しこめ候(イ)ぬさてハくをんしにほくゑきやうのひろまらせをハしまして候よしうけ給ハり候事めてたくよろこひ入(ッ)て候・・

日円師から日興上人宛のお手紙に“くをんし(じ)”と称しております。やはり、「久遠寺」の呼称は川蝉さんの仰るように上古までさかのぼるようですね。

165アネモネ:2002/07/27(土) 14:09
横レス失礼します。
左京日教さんについては、六巻抄のスレッドの30〜50あたりでレスがあるようですよ。
そのとき、辞典からの抜粋をレスしてましたので、参考までに以下まとめて辞典から抜粋しておきます。

日教
(1428年−?)大石寺第九世日有上人の弟子。正長元年(1428年)出雲に生まれ、初め朝山妙蓮寺日耀の門に入って本是院日叶と名乗った。後、住本寺に入る。文明元年(1469年)出雲日耀等とともに京都住本寺日広の代官として幕府に諌状を呈している。文明12年(1480)年に、百五十か条を著した。翌年に京都鳥辺山に大聖人の碑を建立。百五十か条は造仏不造と方便不読を述べて日蓮大聖人の本仏論を主張、従来の日尊門流の教学に反対したもので、住本寺系と意見を異にしたため、住本寺を出ることになった。文明十三、四年ごろ、大石寺第九世日有上人の門に帰し、左京阿闍梨日教と名を改めている。文明十五年(1483)年、五月十日、御調寺の日乗に宗義相伝書を授け、日向に行き、穆作(むさか)の地で翌十六年一月七日穆作抄を著した。しかし、穆作の地においても日郷系の日門徒に嫌われ、再び大石寺に戻り、後に重須に行ったと伝えられている。長享二年(1488)一月十一日、五段荒量を著す。六十歳の時、同年六月十日、類聚翰集私を著し、翌延徳元年(1489年)十一月四日、六人立義破立抄私記を著している。なお寂年は不明」(新版仏教哲学大辞典 聖教新聞社刊より)

あわせて辞典の「百六箇抄」のところでも日教について書かれてましたので、その箇所のみ以下抜粋します。

「要法系の学僧で、後に総本山大石寺九世日有上人に帰伏した左京阿闍梨日教(日叶より改名)が、長享二年(1488)に著した「類聚翰集私」(富要二巻303ページ)に、百六箇抄の中から二十余項目を引用して種脱の本尊・末法御本仏・日蓮大聖人・代々法主即日蓮等を論じている。」(新版仏教哲学大辞典 聖教新聞社刊)

166犀角独歩:2002/07/27(土) 14:18

川蝉さん:

番帳事、別当をみんなで役回し、こんなことあるのだろうかと私は思うのです。第一、日朗譲状と整合性がなくなりますね。

川蝉さんは日蓮宗の目利きが正しいというのだから、間違いないという立場のようですが、私は宗派を背負った発言は信用しないという立場、差があるようです。

一字三礼さん:

なるほど、円師の状に「くをんし(久遠寺)」とありましたか。
これは貴重なご指摘、有り難うございました。

167犀角独歩:2002/07/27(土) 14:33

アネモネさん、有り難うございます。
石山で言われる教師の説明は、165に挙げたいただいところのようですね。

五月雨さんが感嘆するように教師は幾つか名前があってややこしいのです。
執行海秀師『日蓮宗教学史』では「顕応日教」の題名で第9章興門の教学 第2節に別節されて載っています。アネモネさんが引用した創価学会の資料は、この執行師の文章のパクリで、ただ、有師の弟子であることを誇大に記している点で執行師と異なる程度です。

一般的には日蓮本仏論を鮮明に論じた、法主本仏論を論じた歴史的な人物、二箇相承を京から富士に将来した張本人であるとされるという点を書き添えておけば、だいたいの人物像はつかめるでしょうか。

168犀角独歩:2002/07/27(土) 15:04

> 山口範道師が『日蓮正宗史の基礎的研究』

かつてワラシナさんも挙げた二箇相承真筆説の石山の定番文書ですね。
それにしても新しいものでは聖滅336年を経た文書を挙げて、「富士では上古から二箇相承書の存在説が常識化していた」とは少し言いすぎではないですか(笑)

この20の資料を提示した山口師も

今日二箇相承が存在しなかったという証拠を上げることは難いが、存在していたという証拠は多分にある。
今、二箇相承が存在したという証拠文献を大略次第してあげてみると次の通りである。(P35)

といい、示すのが無徳山が示した20項目ですね。
しかし、この論の展開、まことに奇妙ですね。こんなことが言えるのであれば「戸田会長から池田会長にエレベーター内での血脈がなかったという証拠を上げることは難いが、人間革命、聖教新聞、大白蓮華など血脈したことを記す文章は大略あげることができる」というようなものでしょう。まるで学的姿勢から逸脱しているとしか言いようがありません。

さて、この中で上古と言えるのは聖滅27年とされる頂師の本尊抄得意抄添書だけでしょう。
(五人所破抄見聞の考証は問答名人さんが記されているので、ここでは省略します)

引用の本尊抄得意抄副書と仮題されるこの書は、一瞥して頂師の真筆とはどうにも承知しがたい書です。川蝉さんが上げているように【編者云】と断って真偽、どちらかという偽に近いという調子で断りがついています。まあ、これを偽としたいのは、山口師が引く文に続く部分にもあるように感じられます。続けて挙げてみます。

興上人一期弘法の附属を受け日蓮日興と次第シテ、日興ハ無辺行ノ再来トシテ末法本門ノ教主日蓮ガ本意之法門直受タリ、熟脱を捨テ下種を取ルベキ時節ナリ

ここでは興師を無辺行菩薩の再来、教主釈尊ではなく教主日蓮(本因妙)、さらに種脱判と思える論を展開しています。教学史的に見れば、どうしても石山で言えば時師以降の思想系譜であって、重須教学よりもさらに後代の趣を漂わせ、どこかと言えば尊門系の雰囲気を醸し出していますね。

第一、「一期弘法の附属を受け日蓮日興と次第」と二箇相承に合致する文章があるから、二箇相承があった証拠というのはまったく短絡なのであって、百歩譲って、この頂師文書が真筆であったとしたら、これをヒントに二箇相承が作られたと考えることもできるはずです。

ここら辺の考証がまったくなされない山口師のいう「証拠」というのは本題に掲げる「〜研究」というにはまことにお粗末と言うしかない私には思えます。

もっとも享師に篤信蹲踞する老僧の悪口雑言をなそうというのではなく、石山で言う研究というのは、そもそもこのように「最初に結論ありき(二箇相承ありき)」から、都合のよい資料を羅列する僧学であるという点を僭越ながら指摘せざるを得ないという意味です。もちろん山口師の人間性を否定しようと言うのではありません。

169犀角独歩:2002/07/27(土) 15:29

再度、川蝉さん:

読み直しまして…

川蝉さんは160に「昔から具眼の学者が書き判等を見て、正本と判断しているので、日蓮宗では正本としているのでしょう」と記したのに、私は166に「川蝉さんは日蓮宗の目利きが正しいというのだから、間違いないという立場のよう」と記しましたが、これはまったくの私の判読の間違いでした。単に川蝉さんは日蓮宗の番帳事への考えを総括してくださっただけでした。慎んでお詫び申し上げます。

170五月雨:2002/07/27(土) 16:57
アネモネさん、独歩さん
 
左京日教師について有り難うこざいます。六巻抄のスレッドも読みました。皆様すごい高尚な議論をされていますね。
二箇相承を京都から石山に持ってきた時に、それが本物かどうか疑った人は誰もいなかったのでしょうかね。それと御書の目次の古写本の欄が空いているのがどうしても気になります。「産湯相承書」の古写本の欄には「左京日教筆大石寺」とあるのに、二箇相承書には書かれていない。どういう風に都合が悪いのでしょう。低次元の疑問ですみません。

171問答迷人:2002/07/27(土) 17:56

五月雨さん 難しい問題ですね。

僕はこう考えています。二箇相承は、今日の日蓮正宗においては、肝心要とされています。それが、真筆は北山に有ったとしても、日興上人、あるいは日目上人の写本ぐらいは大石寺になければおかしい訳です。ところが、左京阿日教のもたらした写本しか、大石寺にはない事が、はっきりすると、二箇相承が、本当に大石寺の相伝書なのかと、疑問を持つ可能性が有ります。むしろ、空欄にしておけば、門外不出の、写本があるのだろうと、勘違いする訳です。

まぁ、そんなところではないだろうかと思います。宗門は書かない方が良いと判断したのではないでしょうか。

172顕正居士:2002/07/27(土) 21:25
二箇相承

は 1-北山本門寺で作られ、2-作成時期は15世紀、3-これが尊門に伝わり、
4-左京日教が大石寺にも将来したのでありましょう。二箇相承が訴訟の資料に
呈出されたことがあります。
-以下引用-
永正年間大石寺日鎮師は「富士山本門寺なる號は本門戒壇建立以後初めて公称
すべきものなるにも拘はらず重須が本門寺と號するは興師の正意にあらず」と
主張したから重須本門寺日國師は小泉久遠寺日継師と共に之を領主今川氏親に
訴へ、斯くて氏親の前に於て対決となったその時重須方から呈示したのが所謂
二箇の相承である、其時氏親は其等を以て真書として左の判決を下して居る。

従日蓮聖人的々相承並本門寺々號支証明鏡之上領掌無相違者也 仍状如件
永正十二年乙亥(祖滅二三四)六月二十六日 修理大夫 書判 本門寺日國上人
「富士日興上人身延離山の研究」
(早川一三著、昭和11年刊、同48年再刊ニチレン出版)
*日蓮聖人従(よ)り的々(ちゃくちゃく)相承並に本門寺々號、支証明鏡の
上は領掌相違無き者也、仍(よ)て状(さた)件(くだん)の如し。
*早川一三-後、北山本門寺法主。

重須本門寺は(頂)、澄、順師(談所派)の上古に教学的発揮があった。
台当分別(天台宗と日蓮宗と何が異なるのか)と事戒壇(公度僧、戒律)で
ある。時代が経つと、五-一思想(日興と他の五老に対立があった)に観念化
されるが、上古の実際的の対立はむしろ別の五-一(日向と他の五老)である。

173犀角独歩:2002/07/27(土) 22:10

> 171

なるほど。これは鋭いご指摘ですね。

他の書もざっと見てみたのですが、就註法華經口傳(御義口伝)の古写本が「(上巻)大石寺(下巻)要法寺」となっていますが、これは元亀の開版を指すのではないでしょうか。それとも元となる古写本があり、それまで石要で分けた保管してたというのでしょうか。疑わしいですね。

あと面白いと思ったのが『御講聞書』で、向師述なのに、要法寺(京)に古写本あり。これは身延にこそ、真筆があってしかりであろうに、真跡所在なし、「ああ、やはり」という感じでしょうか。

以前にも、問答名人さんと議論したところですが、御書全集に載らない所を富要から拾うとこれまた171のご指摘のような事態が明瞭になります。

血脉両抄・産湯相承事は全集にあるので、省きますが、重要相伝といわれるものを列挙すれば、

日蓮・御本尊七箇相承/房州日山
?・本尊三度相伝/水口日源
日蓮日興・寿量文底大事/房州日山
日興・上行所伝三大秘法口訣/要山日辰
?・三時弘教次第/筆者不明

となっており、主要な相伝書も石山に伝わるものがありません。
また、創価学会時代の御書学習会の延長かどうかしりませんが、真偽論考は行われない、いわば「素人騙し」のような有様は嘆かわしいものがあります。

余談ですが、せっかくの機会でしたので、山口師の『日蓮正宗史の研究』を再度、通読してみました。同師の人柄が偲ばれるソフトタッチの文の進みは好感が持てます。またその研鑽の深さはなるほど、人望を集めるに足る歴々たるものがありました。

『古文書会の一隅』というエッセイ風の文章はなかなかのものでした。そのなかに

鑑定。資料の真偽を鑑別するということは、最も重要なことである。古文書は歴史編纂の一級資料となる。けれども古文書であれば何でも資料になるということではない。古文書は“鑑定”という関所を通過してこそはじめて正史料になることができるのである(P13)

ごもっとも慧眼である。けれど、何故、これが二箇相承の上古二つの史料を挙げるのに少しも活かされていないのかと思いました。奥付を見れば1993年の発刊となっています。とすれば、頂師史料のことも、なおさら見聞・眼師の疑義も周知の事実であるのに、触れもしないというのは、自語相違と言われても致し方のない怠慢であると思った次第です。

こんな調子の石山教学、困ったものだと思いました。

174五月雨:2002/07/27(土) 23:38
問答迷人さん

結局石山はご都合主義なんでしょうね。一部の隙もなく絶対正しい宗教のほころびを見た思いです。

175いちりん:2002/07/28(日) 00:44

まあとにかく「絶対」に正しいなあんてものは、「絶対に」ありえないのかもしれません。
ただ「絶対に正しい」と「思いこみたい」「しがみつきたい」心があるだけと。

「うちは正しいぞ」と宣伝するところは、だいたいロクなところではない、アブないと、わたしは思っています。

それよりも、自分とこの「間違い」「愚かさ」「どうしようもなさ」を認めるとしたら、それが「正しい」のかも、などと思ったり。
そのときの「正しい」とは、固定した動かないものではなくて、つねに「生きていて」「変化していて」「鋭敏な心」なんじゃなかろうかと。

「正しい」とは「思いやりが深いこと」と言った人がいましたが。

176五月雨:2002/07/28(日) 10:27
いちりんさんのお話は心にスーと浸しみてきます。宗門にあっても学会にあっても私の方が絶対正しいと争い続けています。ホント、ロクな所じゃありませんね。昨日も法華講の人の話を聞いていると、本来ならこの世の苦しみから救ってくれる信心なのに、それ故に日々苦しまなければならない矛盾。それに対してきちんと話が出来ない無力な自分が情けなかったです。

>「正しい」とは「思いやりが深いこと」

いい言葉ですね。いちりんさん、また良いお話を聞かせてください。

177ワラシナ:2002/07/28(日) 15:57
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 2」

投稿no108アネモネさんへ。私の抱いた素朴な疑問とその解法を解説します。

0、No91番での私の語句「あるタイプの在家信者が抱え込んだ理念矛盾」のなかの「あるタイプのとは、「聖職者が本分的に担うべき領分としての布教、信仰指導、興学など、を越境的に抱え込み僧侶もどきの思想信状で信仰する過剰適応症信者」を指します。

2、この場合、普段の精神生活では行動指針が二重基準になっていて、余裕のあるうちはやっていけそうでも、二者択一を迫られる局面になれば精神は破綻してしまう。
「金も信心も一緒に」というダブル基準では暮らしていけなくなってその理想が崩れてきてどっちかをあきらめざるを得なくなった。ダブル基準に徹しきれなくなっただけでも挫折なのに「金か信心のどっちか」という新しい択一基準で生きなければならなくなった、としたら二重の挫折である。

3、これは、このタイプの在家信者にとって理想信徒条件たる「信心即生活」がまっとうできなくなった事即ち敗北に等しい。
これは四重にきつくて在家仲間からは「信心さぼった罰」扱い、教団側からはその生活面において信心の実証を示せなかった「法を下げる恥
さらし」と両者から冷笑されてしまう可能性があるであろうし、さらに未入信家族からは「何が信心か!!」と糾弾を受け、自身に対しては「自分は今まで何をして来たのか」と多年に渡る信仰も挫折の危機を迎える、からである。

4、わたしは機関紙での体験発表にある「信心第一でビジネスの勝利者」の真実を疑るものではない。
だが、そのいわゆる信者の成功体験発表の事例を総量的に見た場合、「信心即生活」の勝利者(うまくやっていけた)は信者全体の4分の1位ではないか、と予想してみている。
大部分の4分の3は失敗しているのではないか、と推測している。ここで使った「失敗」とは「そこそこの暮し以下に成ってしまった」程度のものでは無く、「自分の描いた理想像に近い職業生活の未達成」を言う厳しい基準なのである。

5、これは実証的なデータを見なければなんともいえないから4分の1、4分の3の数字は推測としておきますが、定性的な考察2から推測したのである。
ここではまたそれを補足する意味で付け加える。まず、上に例で挙げた「ダブル基準に生きた信者」が「理念矛盾を抱え込んだまま」に等しい事を説明すれば、「出家の本分」「在家の本分」なる言葉を考えてみれば解かる。
在家も出家もそれぞれに相応しい本分が一つあれば沢山で、いかに思い込みは激しい在家
とはいえ出家の本分迄越境的に抱え込んでしまったことにも訳があるのである。
一つにはそのタイプの信者が在家主導型の講組織(学会、顕正会)出身である事が多いからで、これは、それらの組織に濃厚な、意図的に出家の本分を不当に貶める政策の悪影響を受けたからであろう、と思う。
(6−9へ続く)

178ワラシナ:2002/07/28(日) 16:01
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 3」
*アネモネさんへ

6、4/3以上が理想達成レベルを目標にした場合には「信心即生活」が失敗しているとは
確かに思い切った表現であるが、これはあくまで自分個人の活動経験的な観察に基づいていったものにすぎない。
それによれば、信心即生活が文字どおり理想的に達成されるのは出家者だけで、在家信者がそれを深刻的に目指そうとすれば必ず信心か仕事のどちらかが犠牲にならざるを得ない仕掛けになっている、と観察されたのである。
そこそこに暮らしてる、或いは理想的なレベルで信心即生活の実証を示せた模範信徒の事例でも、よくよくみれば、職業的成功へと導いた要の兵法としては、「戦略レベルで信心を根本にした」上での「戦術レベルで仕事最優先」の政策を採った為ではないかと思われたのである。

問題はここに在って「戦略レベルでの信心根本」と「戦術レベルでの仕事第一」「戦術レ
ベルでの信心第一」の三つの関係、差異が日々月々年々の節目節目で錯綜した形で顕れて要領よく応用するのが難しい事なのである。

だから、「戦略レベルでの信心根本」と「戦術レベルでの信心第一」とが一緒になると「信心第一」という心情は気持ちだけでは済ま無くなってそのまま「生活時間の拘束の一番手に信心活動が位置する」という物理になってしまう。こういうときも必要だろうが何時もこれでは苦しくなる。 上の信心第一の「第一」をさらに内面的な精神活動に理解すれば信心活動で心の中も体も
すべて第一番に占められている状態が「信心第一の生活」なのである。
一体こうなった状態のどこに職業生活上の目標達成が第一順位に置かれていようか。

さて、現代では、よりよい職業生活上の創意を実現する為に必要な非営業的な社交がますます重要になっているのが今日のビジネス社会の特徴であって、その中での生き残りの為にもかっては軽視されていた趣味や私生活の充実が求められてきているのである。

だから、世間での稼ぎで苦労してる在家信者はこの事を本能的に知っていているから、ケースバイケース、で、生活態度の根本順序を「(そこそこの信心を根本にした上での)仕事最優先」に置いていると思うのである。

7、こうでもして、お茶を濁した生き方をしなくては、社会人としての必要な健全なバランス感覚が失われてしまうであろう。
いや肝心の布教を理想的な自然な形で実現するためにもこれからは益々「職業生活上の充実」が必要になってきているのである。
寺院の荘厳さだけが無言の折伏になっているのではなく、信者が失業しないで非信者より小遣いのゆとりがあり、この不況の中でも家族で旅行をたのしむほど豊かな暮らしをしている、それでいて、根底の命に清々しいものが流れているような姿こそが、現代では最高の無言の布
教推進パワーになると思われるのである。

8、だが、現状ではどうか。個々の信者の資産を増大させるような政策が発想されているか。 またあこぎな観察かもしれないが、社会的な影響力が強い年収一千万以上の富裕層を積極的に育成していく発想があるか。デートにもそこそこにカネがかかる現状に於いてできるだけ多くの男女をいかに幸せな結婚に導いていくか、カップルを作っていくか、という発想があるか。

更に言えば現代では「職業生活を中心にした自己実現に最高の幸せを感ずるのが人間にとっての幸福」であって、在家信者にとっては特に肝に銘じていなければならなかった筈の上の「」内の一行であったが、これと青年期に出会った正宗信仰の幸せ観との微妙な「ずれ」の意味するものについて丁寧に説明されたことがあったか。(これが無いために思春期にこの信仰に入った人の中で、あるタイプの人は、合理的な割きりができず、二重基準がマイナスに作用して社会人としての成熟にブレーキがかかったようになる。)

全てが無い無い尽くしだが、先年亡くなったボランティア僧として異色だった松藤師(正
信会系のkagamiさんもみとめておられた)が私の不満に応えたような先駆的な思索と行動
の軌跡を残していることを正宗教団の名誉のために記し置きたい。(雑誌「道心」に論文がいっぱい残っている。)
(9−12最後へ続く)

179ワラシナ:2002/07/28(日) 16:03
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 4」
*アネモネさんへ

9、だが現実には、あるタイプの信者、(割り切り不全、不健全症)では私生活の充実に完全に失敗し、その理念矛盾、という悪循環の結果理想的な形での布教ができないのである。(どんな環境に陥ってもそこそこの布教はできるが。)
そしてその根本原因について「必ず信心か仕事のどちらかが犠牲にならざるを得ない現実への直視ができなかった為ではないか」と書いたつもりである。
自分は長い間、これが、なかなか自分には認められなかった。必ず両立出来る筈と思って頑張って来たがとうとう出来なかった。それは誰の所為でもなく残念ながら自分に本当の意味での知識と教養が無かった為である。

その失敗の原因は特に三つA、B、Cあった。

A「戦略レベルでの信心根本」と「戦術レベルでの仕事第一」「戦術レベルでの信心第一」の三つの関係と差異に気がつかなかったこと。信仰というものが人生の長期間にわたる営みであることの意義を現実に即して(論語的に)考えなかったこと、観念的に捉えてしまったこと。言い換えれば信仰に入った若い時に戦略的人生設計を立てられなかったこと。

B、宗祖仏法の信仰の中身が、御利益信仰と哲学信仰の無数の交互的堆積でできていることがわからなかった事。御利益信仰面でいう「功徳と感ずる」の「感ずる」態度の他に「(功徳である)、、と知る」主知的な哲学的姿勢が「感ずる」反対側にあってバランスをとっていた事に気が付かなかったのである。だから御利益依存症になってしまい、強調される「理想の信心」の中にあるもう一方の目的であるー法の中道を「知る」と言う中性的思想的な態度に自己を立脚させる目的ーの方に気がつかなかった事。

これが欠けていた為に、合理的な生活設計人生設計を立てる重要性への認識ができてこなかった、と考えられるのである。
また、この視点がなかった事が、逆に現実的な幸福である、「職業生活を中心にした自己実現の確立で感じる最高の幸せ」構築への取り組みを鈍くしてしまった、と考えられるのである。上の8で言った「二つの幸福観の微妙なずれ」の意味である。

C、そして、最大の失敗は「自分という人間の出来上がり方、タイプ、特性への無知」で、自分がどういう人間か、特に人と比較してみた場合特徴、タイプ、への無知」であった。
これと、Bの宗祖仏法信仰の特質への無知が重なっていた点が致命的だったと思う。

ここに冒頭から強調している「或るタイプ」語の重要性がある。これはあくまで「その或るタイプに限っていえば」という前提で言っている事なのである。

逆に言えば、そのタイプに当て嵌まらない信者が「信心即生活」に見事に成功している事実を認めるのがわたしの立場なのである。

、だから、教団の教団的使命があるとすれば、それは「信心即生活」に失敗しそうな信者タイプの発見とそれに対する矯正的予防的ケアの必要である、と言っているのである。

10、私はそのタイプだった。だからその性向として、かっては私生活を犠牲にすることが広宣流布への献身の証として、誇りに思っていつかこの陰徳が陽報にと、漠然とした期待を抱いていたが、犠牲にしてきたその私生活の充実
こそが今では理想的布教の必須の手段になっていたのだったと気が付いて愕然とした。ここに教団全体の活力の急速の落ち込みの一因を見る思いがする。

11、いつもカネに注目した書き方しかしないのも「何が真の現実感覚なのか」を呼び戻すのにカネが一番適切な素材だからである。
カネは、ごまかしが聞かない、もってるかもってないか、出せるか出せないか。待った無しに堂々と請求がくる。金が無いと、月々の支払に追いまくられてものを考えられなくなり理念的探求が後回しになりる。
だが、かねそのものは文句なく有難いけどかねの扱いに託された信仰の理想と情熱こそ求めているものである。

12、最後に、、。宗教界のサイトではせっぱ詰まった情報をこそ提供されるべきと思っているから次の話題で最後を締めくくりたい。

或筋の情報では某自治体のホームレス受け入れ宿泊所にいる人の元職業は4割が土木建設関連作業員、6割が個人経営店舗の店員だとか。
入所するにも抽選合格する必要があり、2ヶ月間は新たな職探しを義務づけられ、見つからなければ追い出される、もともと失業して就業に失敗したからこそホームレスになったのだから対策が空回りしてる面がある。職場が見つかりアパートが借りられれば、仕度金が少し出るが、保証人は自分で探す必要がある。
注意すべきはこういう光景のなかでは必ずやーさんが生活の資をえている。話にはよく聞く生活保護費の不正受給みたいな働きかけをやってるらしい。だから、本当に困ったら正規の自治体の福祉担当課をたずねていった方が騙されないで済む。(h14/7/26)

180無徳:2002/07/28(日) 23:55
ワラシナさん今晩は:

「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 」を読ませていただき、思
わず<ウーン!!>と唸ってしまいました。

 もしかしたら私自身の内心ではワラシナさんと共通の問題意識は有ったのか
も知れませんが、ここまで意識化して考察したことはありませんでした。

 しかしながら、ワラシナさんの考察に触発されて、自分なりに考えを巡らせ
ながら、自らの過去の有様や現在置かれている位相を顧みますと、様々な思い
が交錯し、かつ錯綜して脳裏を駈け巡ります。(どちらかと言えば苦い思いが
心を占領しそうになることを禁じ得ません)

 29年間に亘る創価学会体験と創価学会を脱会してからのその後10年を越
える、私なりの如何にして日蓮仏法の信仰者たらんかとしての、呻吟と探求は
未だ燭光が見えるどころか、深く闇に閉ざれて先が見えないというのが正直な
状況です。

 私が知る幾人かの嘗て学会活動を共にした人達も、未だに生活レベルでは決
して豊かとはいえず、中には巨額の借金苦に今にも押しつぶされそうな友人も
居ります。

 私が創価学会の男子部隊長をしていた頃、創価学会の青年部においては最も
喧伝されていたのは、星野登山部長?(もしかしたら既に政治の世界に入って
いたかも知れません)の「今は小僧たりとも」というフレーズでした。

 「青年部は現在はいろいろと大変な時ではあるが、今は福運を積むときであ
り、将来は立派な家を持ちロールスロイスに乗って悠々と学会活動を楽しむよ
うになろうではないか」が合い言葉でありました。

 そのためには現在池田先生が指揮をとっていらっしゃる「法戦」にどんなこ
とがあっても退転することなくついていくことが、最も肝心であるとの指導で
ありました。

 それを具体的な実践の証とするために、班長会や隊長会はもとより部隊会の
ような会合にも一分として遅れることを咎められ、遅れた人間は会場に入れて
もらえず、外で中の様子を伺っているという状態でした。

 今考えれば全く意味のない愚かな実践であり、組織の原理に振り回され自ら
の主体性など全く無かったと言って過言でない状況でありました。

 おろかにも、そんな創価学会の指導に踊らされ振り回され、経済的な自立が
出来ない男子部が沢山沢山居りました。世の中はまもなくバブル経済による高
度経済成長の時代を迎えても、一向に経済的自立を達し得ないため、立派な家
やロールスロイスどころか、今度は借金苦に振り回されている始末です。

 私自身も様々な仕事に挑戦しましたが、呆気なく失敗の連続で女房には苦労
のかけっぱなしで男として面目有りません。やっと最近は趣味を活かしたパソ
コンのサポートとタクシーによる収入でどうやら経済的には先が見えたかなと
思ったら人生の先が見える年齢になってしまいました。(笑い)

 長々と愚痴めいたことを書き連ねましたが、ワラシナさんの仰ったことを私
の経験から具体的な裏付けであり、事例としてこの拙文を書いてみました。

181アネモネ:2002/07/29(月) 02:08
ワラシナさん

レスありがとうございます。何度も繰り返し読ませて頂きました。ワラシナさんがどれだけ純粋で、まじめな方なのか、その文面と内容からとても伝わってきました。少しご返信させて下さい。

>余裕のあるうちはやっていけそうでも、二者択一を迫られる局面になれば精神は破綻してしまう。

幼い子供に、「お父さんとお母さんのどっちが好き?」と聞くのと同じですね。もっと言えば、離婚するお父さんお母さんの目の前で、「どっちと一緒に暮らしたい?」と迫られ心を痛める子供の心理状態と同じですね。しかも、親の離婚に直面する子供の大半は、自分が悪い子だったからだと思い込み情緒不安定になる傾向が強いと聞きます。この状況にとても似ています。

>即ち敗北に等しい。これは四重にきつくて‥
>大部分の4分の3は失敗しているのではないか、と推測している。

本当に八方塞で心の逃げ場のない心理状態ですね。そして大半の信者は、その予備軍ですね。潜在的にたくさんいることと思います。

>在家も出家もそれぞれに相応しい本分が一つあれば沢山で、

仰る通りだと思います。あれもこれも信徒が背負わされてます。

>在家信者がそれを深刻的に目指そうとすれば必ず信心か仕事のどちらかが犠牲にならざるを得ない仕掛けになっている、と観察されたのである。

結局、ここのところのある意味での整合性から、在家教団における職業幹部が出てきたともいえるでしょうね。信心がそのまま職業になっていれば、理屈のうえで精神的破綻は回避されるわけですものね。

>すべて第一番に占められている状態が「信心第一の生活」なのである。
一体こうなった状態のどこに職業生活上の目標達成が第一順位に置かれていようか。

ワラシナさんはじめ、多くの真面目で純粋な信徒の方々の、これまでの苦しい葛藤の声を聞いた思いがします。

私のかつての地区長さんは、毎朝朝の勤行にお寺に参詣し、夜には会社帰りに一時間の唱題でお寺に参詣し、そして毎月月例登山に参詣し、そして毎月折伏をされてました。だけど、いつのまにか彼のもとからは、家族が離れていってしまわれたようです。それでも、信心活動のリズムは今も変わらず続けられ、先日、お寺の方のお葬式で久しぶりにお目にかかり、席が隣り合わせになりましたら、すかさず「30万登山に申し込んで下さい」と言われました。この方にとって、死者を見送る場さえもが活動の場になっていること、本当に哀れに思えてなりませんでした。

>これからは益々「職業生活上の充実」が必要になってきているのである。

私が御文を示すのは、本当に僭越ですが、
「御みやづかいを法華経とおぼしめせ。『一切世間の治生産業は皆実相と違背せず』は此なり。かへすがへす御文の心こそおもいやられ候へ」
私はここでの「御みやづかい」を、世間一般の労働を含めた生活の営み全てと拡大解釈してます。そうすると、二十四時間信心なんですね。本当の意味での信心即生活とは、これじゃないかと思ってます。お寺の方にもいつもそう言ってます。仏壇に向かっているとき、お寺に参詣しているとき、活動をしているときだけが信心じゃないってね。はっきり言うことにしてます。日蓮正宗の信心じゃないって言われますけど、気にしません。

182アネモネ:2002/07/29(月) 02:09
(つづき)

>信者が失業しないで非信者より小遣いのゆとりがあり、この不況の中でも家族で旅行をたのしむほど豊かな暮らしをしている、それでいて、根底の命に清々しいものが流れているような姿こそが、現代では最高の無言の布教推進パワーになると思われるのである。

本当ですね。小手先の言葉で無理な布教をするよりは、充実した生き方そのものが示されることこそ、布教推進パワーですね。

>言い換えれば信仰に入った若い時に戦略的人生設計を立てられなかったこと。

ワラシナさんのこの教訓を生かすならば、思春期の青年を信仰に導くことは、もっともっと慎重でなければいけないですね。

>ー法の中道を「知る」と言う中性的思想的な態度に自己を立脚させる目的ーの方に気がつかなかった事。

法の中道については、ほとんどお寺では教えられてませんね。本当は在家信徒にとっては、これがとても大事なことのように思います。極端に走らない。バランス感覚を持つ。集団心理に陥らない。これらは一般的な現代人なとっても、とても大事なことだと思います。

>逆に言えば、そのタイプに当て嵌まらない信者が「信心即生活」に見事に成功している事実を認めるのがわたしの立場なのである。

なるほどです。皮肉なことに適当な人のほうが、中道にかなってしまった‥。

>だから、教団の教団的使命があるとすれば、それは「信心即生活」に失敗しそうな信者タイプの発見とそれに対する矯正的予防的ケアの必要である、と言っているのである。

これは目を向けて頂きたいですね。この人たちこそ、最も心ががんじがらめに捕らわれ苦しんでいるわけですね。本当に救いが必要です。

>金が無いと、月々の支払に追いまくられてものを考えられなくなり理念的探求が後回しになりる。

私もその現実に、日々直面してます。生きていくために、まず、稼がなければなりません。まず、生きていかなきゃ、信心も出来ませんね。

>だから、本当に困ったら正規の自治体の福祉担当課をたずねていった方が騙されないで済む。

病気になれば病院に行く、それと同じことなのですね。

ワラシナさん、たくさんのレス本当にありがとうございます。ワラシナさんが書かれたような内容の葛藤を、人に言えずに抱えていらっしゃる方たっくさんいることでしょう。まじめで純粋な人ほど、その苦しみを自分ひとりで抱えてしまうものです。弱みをなかなか人に見せないものですから、この苦しみの根は皆深いと思います。
今、考えなければならないことは、これ以上、このような葛藤に苦しむ人を増やさないよう、たとえば宗教サイトを使って声をあげていくことも、ひとつの解決手段ですね。
本来、宗教家の言葉とは、このような苦しみを和らげるために発せられるもののはずなのに、逆に苦しみを増幅するものになってしまっています。しかも何度も何度も繰り返し聞かされているわけですね。その言葉にどれほどの人々が苦しんでいることでしょう。
このことに気が付いた人から、出来る範囲でいいから、まやかしを自分の言葉として声に出していくことだと思いました。掲示板はそのひとつの場ですね。人知れず苦しんでいる人こそ、この場にたどりついてほしいと思います。

183犀角独歩:2002/07/29(月) 11:00

私もワラシナさんの投稿に強い感銘を覚えました。
「ああ、私の人生もそうだった」と思いました。

184いちりん:2002/07/29(月) 11:29
創価学会などの教団に属して信仰をすると、いろいろ仕事に生きてくるものはありますね。
まず、日々の勤行と唱題。
毎朝、毎夕、おこなうわけですから。やはり、生活のけじめが付いてリズム正しくなります。

朝のお勤めをしたら、よしやるぞー!と元気に爽快になりますし、夕方のお勤めでは、その日にごちゃごちゃしたことがあっても、心は穏やかになります。

また、なにかしんどいこと、つらいこと、達成しなくてはならないことなどがあったら、集中して唱題をして祈りを深めていけば、やはり事態はうまいこといくものです。

それで、やり遂げるぞ、負けないぞ、達成するぞというような心が、定着してきます。これは、すごい力になりますね。

それから、組織の人間関係。いろんな人がいますから、アドバイスもらったり、励まされたり、慰められたり。ヒントをもらったり、仕事の情報ももらえます、人脈も増えます。人と人との関係でもまれますから、人柄もまるくなってきます。仕事とは別の社会だから、発想の転換、気分転換にもなります。もちろん、違うストレスもあるわけですが。



これはいいところです。じゃ、よくないところは、というと。
わたしなりに振り返ると、「この信仰はすごいからに、正しいから」という意識が強いから、それが日常のなかで、そういうエネルギーが出てきますね。「自分は正しいのだ」というエネルギーです。あるいは「自分の尺度で物事を見る」というクセというか。

で、「自分は正しい」というような心で仕事をしていますと、これはうまくいきませんね。だいたい、自分が正しいということは、世の中にはほとんど少ないわけですから。正しくても、じつは正しくないと思った方がいいかも。それで、どこか人間関係で、ぎくしゃくします。ぶつかります。それで、疲れますし、応援してくれる人があらわれなくなったりします。「自分が正しい」というような案行きを発する人には、応援する気がしませんからね。

日蓮主義の特徴として、「観心」といいながら、ちっとも「わが心を観る」ということをしません。「正しいのだ」「すごいのだ」「正義なのだ」というエネルギーが強くて、「自分の愚かさ」「どうしようもなさ」「いたらなさ」をよおく見つめるということをしません。

それで、やはり、どこか元気だけれども、勘違いしている。なにか思いこみが強くて、硬直した人格に、なりやすいんじゃなかろうかと、感じるわけです。
で、そういう人格は、なかなか仕事はスムースにはいきませんよね。

185犀角独歩:2002/07/29(月) 11:42

いちりんさん:

> どこか元気だけれども、勘違いしている。なにか思いこみが強くて、硬直した人格に、なりやすいんじゃなかろうかと、感じるわけです

こんなところをもって故田中角栄氏は池田さんをして「法華経を持ったヒットラー」と評し、宝島の特集であったと思いますが、創価学会をして「笑うファシズム」と評したのでしょうね。もっともこれは創価学会に限ることではないでしょうが。

全然、関係ありませんが、この前、いちりんさんを知るとある日蓮宗僧の方が「彼は30代までに300万遍の唱題を達成しているんだよね。うちの本堂でも2時間ばかり、お題目を唱えていったけれど、鍛錬された音声(おんじょう)で300万遍達成は事実だろうと実感した」と話されていました。

そのいちりんさんが語る勤行唱題の善い面・悪い面、実に参考になります。

186いちりん:2002/07/29(月) 11:48

そして、これもわたしに即して振り返ってみると、日蓮主義とくに冨士門流は、きわめて「理屈が強い」というエネルギーになりやすいんですね。

なんたら相対だの、本果第一番成道が、文底がどうたらと、小難しい論議がえんえんとあります。あるいは、知識のストックをたくさん持っていて、引き出しをあけて、「ああそれについても、誰それはこう言っています。原典ではこうですね」みたいなことが、好きになります。

で、いつしか、頭で理屈とか意義付けしながら行動するみたいな人格になりやすいのかもしれません。大脳の左半分の言語能力が鍛えられて、逆に、右半分の直感とか感性の能力が抑圧されていく。

で、世の中というのは、だいたいはいい加減で、デタラメで、ワケが分からんということですよね。理屈ではなんともならない。ひとつひとつ価値判断を加えて考えて理屈をもってしたら、身動きができない。

むしろ、直感ですぱっと動く、いいなあと感じたら進んでみる、みたいなにほうがうまくいくこともある。

なにより、「自分が好きなこと」に打ち込まないと、力が出てこない。好きでないことをやると、すごい努力が必要だし、長続きしない。

で、どうも、冨士門流の教義というかエネルギーには、「好きなことに打ち込め」というのが、排斥されるんですね。なにか、広宣流布だとか、正義だとか、そういう形作られた理念みたいなものに邁進するがすばらしいと思いこまされる。で、自分が好きでもないのに、○○のためにといって、頑張る。

頑張るというのは、好きでないのに、しんどい努力をしいられることですよね。それは、好きでないから、ワクワクしたビジョンや発想がない。「つらいことを頑張っている、我慢している自分はすごい」というような、へんな満足が出てきたりする。それで、ますます感性が鈍感になっていく。

というわけで、なかなかいい仕事ができないのかなあと。。
これは、わが人生を振り返りましてのことで。。

187孤独な迷子:2002/08/01(木) 07:31
アネモネさま

お返事を頂いていたのですね、有り難うございます。

 > ねぇねぇ、孤独な迷子さんは本当に孤独なわけじゃないよね‥。

「当たらずと雖も遠からず」と言うところですね。何しろ人間が重いのもで、心も身体も。

そのことが信心を始めた動機にもなっていますから・・・。


 一つ質問があります。

 よく大百法等に体験発表の記事が掲載されるていますね。あれって事実なのでしょうか。

 私のよく知る人は毎年数世帯の折伏をして、活動も積極的な人でした。面倒見もとても良く、
困っている人がいると見過ごせないような方でしたが、数年前に癌で亡くなりました。
まだ50代前半でした。猊下に御祈念して頂いているということでしたので、また元気な顔を
見られるものと思っていましたので、とても残念でした。

 また、ある学会員の方が私の所属する組織に移ってきました。何度かお会いしているうちに
解ったのですが、高校時代の同級生の親御さんでした。その同級生はアルコール依存症で本人も
そうですが、特に親御さんは苦しんでいるようです。

 私の周りでは、信心で良くなった(適切な表現かどうか分かりませんが)という話はほとんど
聞こえてはきませんでした。

 その親御さんも今では組織からは遠のいているようです。時々組織の方が家庭訪問に来るそう
ですが、同級生のことには触れずに、30万登山の話をして帰ってゆくようです。
先日、その親御さんと話す機会があったのですが、最後に「法華講は冷たいね。」と言われ、
言葉を失いました。

 
 なんだか、重たい書き込みになってしまい、申し訳ありません。


 五月雨さま、また書き込みをなさっていますね、本当に良かった。


 独歩さま、はじめまして。

 独歩さまの書き込みの中で、次のような一文が目に留まりました。

 >私は、この言いつけを守り、1年間、雨の日も風の日もお寺に
 >通いました。拒食症、極度の神経障害と闘っているときです。

 大変失礼かと存じますが、どのようにその状態から脱せられたのかお教え願えれば幸いです。

188五月雨:2002/08/01(木) 08:56
孤独な迷子さん
 
厚かましくも何事も無かったかのように、また書き込みをさせて頂いております。あれからも皆様方には色々とご教示頂きまして、ひとつもふたつもそれ以上賢くなりました。皆様の温かいお心のお陰です。
孤独な迷子さんが抱いているような疑問を私も持ちました。回りの人間を見ていると「?」とばかり思っていました。それで、こう考えました。大聖人様の教えーご戒壇様ー猊下ー指導教師ー信徒の順に信心体系(?)がありますね、正しい大聖人様の教えを信じている、だから信徒も正しいと思っているんじゃなかろうかと。それにしても修羅の争いに身を投じている人々を見ていると、とても正しい信心をしているようには見えません。そこで信徒ー指導教師ー猊下ーご戒壇様ー大聖人様の教えと反対に繰っていきました。ここの掲示板での過去ログを読ませて頂いたり、教えを乞うたりしながら見えてくるものがありました。今は「二箇相承書」が偽書だったというショックを乗り越え(?)ながら真実を探っています。孤独な迷子さんの疑問が早く解決される事を祈ってます。

189五月雨:2002/08/01(木) 11:48
「納骨」について不思議に思うことがあるのですが、自分の先祖代々の墓に入れるよりも、本山に納骨する方が良いみたいな風潮がありますよね。あれはどんな意味があるのでしょう。奥さんを亡くされた方が、お墓を持っているのに「納骨は本山にした方がいいですよ」と講頭に言われて困っていました。化義の中にあるのでしょうか。どなたかご存知の方は居られませんか。

190犀角独歩:2002/08/01(木) 12:23

孤独な迷子さん:

はじめまして。よろしくお願いいたします。
どうぞ、お心遣いなく「さん」付けでけっこうです、ここでは、みんなそんな感じてやってきましたので。私もそうさせていただきます。

ご質問のところは、私が極度の神経障害から、どうやって脱したかということでしょうか。そのように判断して、記させていただきます。

これには、何段階かありました。
私が症状を自覚したのは、10代の後半のことでした。倒れたのは26歳の時です。
救急車で運ばれ、検査入院して、この時、今でいう神経障害であることが告げられました。その後、悪化し、次々と拒食症も含めて、死ぎりぎりのところまで行きました。

このようなときは常に睡眠障害を伴うわけで、私も例外ではなく、夜と昼とが逆転していました。このような1日の時間帯の狂いを直すのに、毎日の寺院参詣はよく働いたと思います。

当時はまだ、「心療内科」を掲げる町中の病院がなかった頃でしたが、住まいの近くの大学病院にはあったのです。そこで出会った先生が、私の改善にもっとも合っていました。ご存じかもしれませんが、森田療法というものです。これに自律訓練法を組み合わせて、3年ほどで快癒することになります。以来、15年以上が経過しました。2度と症状は起きていません。

いちおう、寺院参詣についても記しておきます。毎日、参詣するようになったのは昭和56年頃のことでした。既に御講には昭和54年頃から、気が向くと参詣はしていました。
56年から58年くらいまでは、ほとんど毎日のように参詣していました。その頃、父を喪い、独立したこともあり、いったん足は遠のくのですが、例の第2次紛争以降、約5年間は、まるで寺院に住んでいるように詰めっぱなしの状態になります。

実質数十世帯の小さな講中でした。しかし地域が東京でも創価学会の多いところでしたから、宗創問題が起きるや、怒濤のように脱会者が押し寄せてきました。講頭と一丸になって、数年間、寝食を忘れて、会報、コンピュータの導入、名簿、組織構築、会合運営方法の構築など、講中組織の整備に当たり、ようやくと形が整ったと思ったとき、元学会幹部であった人々がグループをなし、住職に日参して、私の人身攻撃が始まりました。結局、苦労してシステムができあがった段階で、元大幹部たちは、私はよけて、その席に座ることになりました。労せず出来上がったシステムの上に入れ替わったわけです。

結果的には、私自身が見切りをつける形で寺院を去ることになります。
その後、幸いにも、カルト問題と闘う多くの識者と知り合う機会を経、現在に至っています。結果的に寺院から脱却が私にとって、40年に亘った創価学会・石山への依存を断つことになりました。

いま振り返ると「拝み方を間違えると、かえって症状を悪化させることもあるよ」と呟くように言われた良医の一言。初めて会ったカルト研究科の大学先生に、帰り際に「じゃあ、先生がんばります」と私が挨拶したとき、「いやいや、違いますよ。頑張らなくて好いんですよ」とにこやかに返された一言。その先生が紹介してくれたカルト問題と闘う他宗僧侶の方とおっかなびっくり会ってみたら、石山で吹き込まれていたことと全然違っていたこと、ボランティアの現実に踏み込んでみてきたこと、多くの宗教問題に悩む方々に年間延べ1000人を超えて会ってきたこと、そんな流れの中で、私の神経は根治され、さらに精神的な健全性も獲得できたのだと思います。

ご質問の趣旨とずれておりましたら、お気軽に重ねてお問いかけください。

191犀角独歩:2002/08/01(木) 12:29

五月雨さん:

> 本山に納骨する方が良いみたいな風潮

こんなことがあるんですか。
浄土真宗じゃあるまいし、こんな化儀は石山にはありませんでしょう。
おかしな話ですね。

192五月雨:2002/08/01(木) 13:21
独歩さん

えっ無いのですか。私はこういう話は学会時代でも法華講に移ってもよく聞くことでしたので化義でもあるのかと思っていました。勝手に言っていただけなのでしょうか。浄土真宗ではあるというならば、浄土真宗的な思考をしているという訳ですね。

193犀角独歩:2002/08/01(木) 14:42

五月雨さん:

まあ、浄土真宗的思考をしているかどうかはわかりませんが、何を根拠にこんなことを言っているのか皆目見当がつきません。

194五月雨:2002/08/01(木) 17:30
独歩さん

今、現役法華講員のおばぁちゃんに聞いたところ、「よく聞いた話だけど邪宗のお寺の墓に入っても、そのお寺の宗教で供養してもらう訳であるまいし、入るのに問題はないのだからわざわざお山まで行かなくても」と言ってました。その方も理由に思い当たる節も無く、僧侶自体もそれを奨励してもいないのだから、結局個人が勝手なことを言っているのではという結論になりました。奥さんを亡くされた方も、この方のアドバイスで早々に墓石を建てて納骨をしたという事です。いろいろな考えがあってもいいけれど、首をかしげるような話を真に受ける人がいないとも限りません。私の周りは例外だといいのですが。

195アネモネ:2002/08/01(木) 23:52
孤独な迷子さん

>「当たらずと雖も遠からず」と言うところですね。

私、なんだかいきなり馴れ馴れしい言葉使いでレスしておりましたようで、大変失礼をいたしました。
私の入信の動機はいろいろな事情が重なったものですが、間違いなく当時の私も、親にすらさらけ出せない「孤独」を少しばかり抱えていました。だから、「孤独」という字に敏感に反応してしまったんですね。
私が入信して、変わったことがあるとすれば、家に御本尊さまがご安置され、それまでの「孤独」な心境が少しばかり変わったことでしょうか。入信間もない頃の私にとって、朝夕の勤行は、孤独である現実を忘れるかけがえのないひととき、やはり日蓮聖人とまみえるひとときと感じていましたね。だけど、そういうのは他の宗教でも同じでしょうね。神に祈れば、神とともに自分があると感じ孤独を忘れる。心の持ちようということからすれば、宗教にはそんな心の作用があるのだと思います。そうしたことは奇跡でもなんでもなくて、今でもそういうのは私は否定しないんですよ。
そういえば、奇跡など起きていない私の最初の体験発表とは、そんな心持ちになれたことを語ったものだったと思います。これが私の「初心の功徳」ではないかと締めくくりましたが、奇跡を語らない私の発表は、あまり歓迎されない異色なものだったようです。

>よく大百法等に体験発表の記事が掲載されるていますね。あれって事実なのでしょうか。

何かの偶然や巡りあわせを単純に結びつけていくと、奇跡のように語れるものではないかと思います。信仰に依らなくても、癌が消えた人はいますし、何も悪いことはしていないのに、不慮の死を遂げてしまう人もいますね。突然、愛する家族が通り魔に理由もなく殺され、突然人生が変わってしまった人もいて、「なぜ自分がこんな目に‥」と心がさいなまれる一方で、富士門の信仰では「過去世の業」と言ってしまう。簡単に結びつけて、因果を説いた気になっているわけですが、そんな言葉こそ、悲しみに追い討ちをかける、「言葉の暴力」以外のなにものでもないと私は思っています。

ワラシナさんが統計的な予測を書かれてましたが、恐らく信徒全体の四分の三は、苦しみの中にいるのが現実だと思います。世間の苦しみだけでなく、石山信心の重圧によって一層苦しみが深くなっているのが現状ではないでしょうか。

私のお寺のある人は、仕事の合い間の時間を使って、たくさんの人を折伏し、体験発表も多く語ってきています。必ず、折伏成就と結び付けているのは、仕事において営業成績が常にトップであるということなんですね。これだけを聞く限りでは、信心ゆえの奇跡と感じることでしょう。仕事を一生懸命にしなくても、信心活動第一に折伏をしていけば、自然と大きな契約が不思議ととれる。そんなことを結びつけて、何度も何度も発表されていました。
だけど、それは表向きのことなんですね。

営業成績トップであることは事実のようですが、信心の結果というよりも、彼女自身が仕事が好きで、人より努力を惜しまなかったからという当たり前の結果なんですね。しかし、そうしたことは体験発表の文面には入れないんです。その仕事への頑張りを精神的に支えたのは、信心であったことは嘘ではないと思いますが、必要以上のこじつけや誇張で、奇跡のように語られているものだと思います。体験発表の大半がそうではないかと類推します。また本人にしても、そのように結びつけて因果と思うことが習慣となって身についていますし、そのような信心の捉え方が大聖人の仏法だと疑うことなく書いていることでもあります。
しかし、現実的な問題としては、そう書かないと原稿のOKが出ないんですね。大白法だけでも毎月のように奇跡のような体験発表を読まされているわけですから、どのような原稿が体験発表としてふさわしいかは長年にわたって刷り込まれているわけですね。早い話が、暗黙のうちに書かされているのだと思います。

196アネモネ:2002/08/01(木) 23:54
(195からのつづき)

私は彼女が人知れず、息子さんのことでとても苦しんでいることを知っています。しかし、そのことを信心と結びつけて体験発表することはほとんどないです。語る時がくるとすれば、息子さんの苦しみが解決されて、それは信心活動の結果だとして話さなければならないのでしょう。
良いことは信心の結果、悪いことは罪障もしくは魔とか法難、場合によっては仏罰。信心していない人の不幸は全て謗法の結果。そういう単純な方程式が出来上がっているのだと思います。方程式にのっとれば、奇跡話になるというものです。

彼女の息子さんはとっくに成人しているのですが、就職しても一ヶ月と続かず、失業と就職を何度も繰り返して一向に自立せず、時には荒れ狂って母親である彼女に暴力を振るうこともあると聞きます。彼女は、営業努力で金銭的には余裕があるものですから、働かない息子に小遣いだけは必要以上に与えてしまう習慣がついてしまっているんですね。よけいに息子は、社会的自立の必要に迫られないわけで悪循環です。
彼女にしても、息子さんが小さいときから子育ては仕事や信心ほど好きではなかったらしく、そんなうしろめたさもあってか、結局は子供にたくさんのお金を与えることで、親としての責任を果たそうとしてきたのだと思います。そのことは本人もわかっているのです。
そして今では、御主人が早くに亡くなったこともあって、女一人、荒れる息子と日々向き合っているわけですが、時には地獄だと漏らしていたこともあります。

そこそこ長年のお付き合いのなかで、彼女の話にはパターンがあることに気がつきました。息子の就職が決まったときは、「この仏法をやってきたお陰だ」と歓喜の電話をかけてきます。しかし、一ヶ月も経たない頃には、せっかく決まった会社をいきなり辞めてきたと嘆きの電話があり、そしてこう言うんです。「これは私の宿業なのよ。あの子は題目唱えながら産んだ子だから、私の罪障が全て出るの。私にはわかるの。そういう命なのよ。この仏法はおまけはないから、私は折伏する使命からは逃れられないようになっているのよ。私は本当に宿業が深いのよ。長いこと信心してきたから、よーくわかってるの」と話されます。結局は、さきほどの単純な方程式に当てはめているだけなんですね。
私は、「そうじゃないんじゃないの」と言うのですが、興奮してますから全く私の言葉は耳に入りません。

息子さんは石山信心からは全く遠のいており、勤行もしなければお寺にも全く行きません。そんな退転状態だから仕事が続かないんだなどと、彼女は毎日のように叱咤してきたようです。
しかし考えてもみれば、なぜその子がそのように社会人としてきちんと自立しきれないのかというのは、信心をやってこなかったからというよりは、もっと根本的な原因があると思うんです。それは先にも書きましたが、その子の成長過程において最も母親の愛情を必要とする大事な時期に、ほったらかしてしまったという事実なのですね。ただでさえ仕事を持つ彼女には子供と接する時間は少ないのです。なのに子供と向き合える貴重な時間さえも、信心活動に費やしてきてしまったんです。息子さんは寂しい思いをしていたことと思います。自分から母親を奪ってきた信心など、おいそれとするわけがないんですね。
そしてそのことは、母親である彼女本人が、とっくに気付いていることなんです。因果を説くというならば、それが本当のところだと思います。だけど、なかなかその現実と向き合おうとはせず、石山信心の因果に逃げているとしか思えないのです。

彼女は今でも私のところへよく電話をかけてきてくれて、私は掲示板で勉強したことを少しずつ話してきました。私には何も出来ませんが、息子さんの問題について話が出たら、彼女の心ゆくまで聞かせてもらい、そして宿業なんかじゃない、信心しないからじゃない、そう話しかけてきました。その少しずつの積み重ねを経て、ほんの少しずつですが彼女も自分がマインドコントロールされてきたことに気がつき始めてきているのです。

197アネモネ:2002/08/01(木) 23:57
(196からのつづき)

彼女はもともと文章を書くことが嫌いだということで、最後の体験発表の原稿作成は、私もお手伝いさせてもらい、折伏のいきさつを聞きながら、一緒に仕上げました。しかし、あの単純な方程式を無視して奇跡を語らないその原稿は、講頭にとっては都合が悪く「お寺のご指導と違います」の一言で、内容が書き換えられてしまったと聞きます。
彼女は、事実を捻じ曲げた内容のものは発表できないと、体験発表を断ったそうです。そしてその後、幹部の方から彼女の家にはひっきりなしに電話やFAXなどのいやがらせが頻繁に入るようになり、ついに電話番号まで変えて、今ではすっかりお寺から距離を置くようになりました。
そしてお蔵入りとなった、もともとの原稿は、彼女のお友達が読んでくれたとのこと、そのお友達も今では、彼女の言葉を通してお寺のおかしさに気付き始めていると聞きます。
また、お寺から距離を置くようになった彼女は、精神的に落ち着きを取り戻し、心に余裕をもって息子さんと接することが出来るようになってきたのです。

先日、彼女とそのお友達にゆっくりとお会いする時間がありまして、掲示板で知ったことなどを、まとめてお話しいたしました。信心歴うん十年のお二人にとって、こうした石山のまやかしに目を向けることは、どれほど勇気のいることかわかりません。だけど彼女たちは、「残された自分の人生を大事にしていくことこそ、今できる本当の信心なのかもしれない」と、つきものがとれたように明るい声でお電話を頂きました。
息子さんの抱える苦しみから逃げたりせずに、きちんと向き合いながら今からでも親子の信頼関係を築いていかれること、私も見守りながら、彼女の人生の片隅に付き合っていこうと思っています。

>最後に「法華講は冷たいね。」と言われ、言葉を失いました。

私のお寺を見る限りのことですが、活動を励ます(煽る)ことはあっても、人知れず抱える苦しみに対してはまるで無関心ですね。心を励ますことはもちろんのこと、慰めることだって少ないです。せいぜい陰で無責任な因果を説いているのが関の山でしょう。
かつて、私が法華講に理想を求めていた頃、ひきこもりが社会問題になっていることを座談会で持ちかけてみたことがありました。ところがそのテーマは、私にとっては思いもよらない方向に展開してしまいました。結局、ひきこもりは、外道の人たちの宿業深い謗法の結果なだから、そういう家庭をみつけたらポストに大白法を入れようとかいう話になったんですね。本当にそんなことをしたら、余計苦しみを与えるだけです。私はこの結論に、ものすごい責任を感じましたよ。

>なんだか、重たい書き込みになってしまい、申し訳ありません。

とんでもありません。これからも思うところをなんでも書き込んで下さい。同じ苦しみを抱えていらっしゃる方の、気持ちの負担を和らげるものになることと思います。

私は、仕事の波があったりして掲示板を開けない時期もあるものの、時間が許されるときには出来るだけ毎日のように開いて、レスを読み、書き込みもさせて頂いてきました。表情が見えないぶんだけ、誤解が生じたり、またときには知らないうちに人を傷つけてしまうようなことも書いてしまい落ち込むこともありますが、だけど、ものを書くという作業は、非常にプラスの面が大きいなと思ってます。書くという作業は、自己分析が出来るひとつの方法なのかもしれないと思うのです。また書いたものを自分以外の人が読んで感想をもらうことで、自分では気がつかないところなども見えるようになります。時には意見がぶつかることもありますが、まさにそれは産みの苦しみですね。長い目で見れば、それも大事なことです。
お陰で、掲示板で毎日たくさんの方にお会いしている気持ちになっています。こうして孤独な迷子さんにもお会いできました。どうか、心身にご無理のないところで、これからもよろしくお願いいたします。

198犀角独歩:2002/08/02(金) 00:05

アネモネさん:

横レス、ごめんなさい。

195、196に記されたことは、実際の宗教カウンセラーにも匹敵するすばらしい内容です。
私は深く感動し、敬服いたしました。

199犀角独歩:2002/08/02(金) 06:45

【198の訂正】

誤)195、196に記されたことは
正)195から196に記されたことは

200アネモネ:2002/08/03(土) 00:57
犀角独歩さん

カウンセラーにも匹敵などと言われると、ふと自分のしていたことが恐ろしくもなります。
だけど今回の場合は、お付き合いも長い仲でしたので、なんとなく苦しみを打ち明けてくれたことが良かったです。もしも私にまでつっぱって、良い部分の自分を繕い続けていたなら、彼女はいつか自分で自分を追い詰めることになり、もしかすると精神的に破綻していたかもしれません。まぁ私も彼女には苦しみを漏らすこともありましたし(そのときは因果を説かれましたけど‥)、そういうことが話せる間柄というのが良かったのかなと思いました。その場合、聞いたことをお寺で絶対に口外しないってこと大事ですね。彼女が私に悩みを漏らすことが出来たのは、そこのところの安心感があったのではないかなと思ったりもします。

大半の人は、信心するほどに、かえって気持ちが追い詰められていく感じがします。苦しみや悩みを抱えていても、うっかり誰かに話せば何を言われるかわかりません。だから講中では、誰にも自分の悩みを打ち明けることなく、表面を繕った人間関係が築かれてます。必要以上に自分を繕うとなると、これはとても危険な状態だと思います。元気で幸せな自分しか見せられない、落ち込んで悩んでいる姿をどこにも見せられない。これは、とても精神的負担の大きい人間関係だと思います。

独歩さんが、神経障害になられた話を読ませて頂きましたが、きっとたくさんの人がそんな切迫された状態にあるのではないかと思いました。潜在的にとても多いのではないでしょうか。それを表に出すわけにはいかないのですから、本当につらいと思います。
多くは、家族共々信心をしているわけですから、家族にさえ弱音は吐けないでしょうし、信心仲間となるとこれまたある意味でライバルみたいなものですから、当然、何を言われるかわからないので相談できない。しかも講の中では、プライバシー保護の意識などまるでないですから、信頼して打ち明けたつもりが瞬く間に講中全体の知れるところにもなりかねません。ならば外部の人となると、これは本来折伏する相手で、この人たちにこそ幸福な姿を示さなければならない相手ですから、自分の苦しみなど打ち明けては、法を下げることを意味し、口が裂けても言えない。
本当に八方塞、心が休まる暇がありません。結局、ひとりで抱えるしかないわけですね。
こんな状態になれば、よほど図太い神経か、いい加減な人でない限り、誰だって神経障害を起こしてしまうことでしょう。純粋でまじめに取り組む人ほど、追い詰められていくのだろうと思います。

独歩さんの通われた先生が、「頑張らなくていいんだ」と仰っていましたね。周りの人がなにげなく励ます言葉が、かえってその人を追い詰めてしまう場合も多いと聞きます。本来励ますことと慰め癒やすことというのは、神経や心へのはたらきが違うのかもしれないと思ったりもします。
カウンセラーの先生方というのは、そういうところを臨床的によく研究なさったうえで、患者さんに自然な対話をなされているのでしょうね。

ともかく、こんな繕いの上に成り立つお寺での人間関係などは改善できるものではないですね。何か少しでも反対意見を言えば、「悪縁がついている」とか、「魔にたぼらかされている」とか、「世法に染まっている」とか全く話になりません。しかもその言葉の挑発にうっかり嵌ると、こっちまでイライラが頂点に達して修羅の心となります。私自身、そんな状態がどれほど長く続いたことか。
お寺に行くにしても、人間関係にドップリつからず距離を置くことですね。程よくそういう距離が置けないなら、思い切って行かないことだと思いました。退転だ、堕地獄だ、などと陰口されることなど、一切気にしないことですね。離れてしまえば滅多に耳にも入ってこないですから、心穏かに暮らせます。

独歩さんにおかれても、五月雨さんや私とほぼ同じように、お寺でのトラブルが直接身にふりかかってきたことで、脱却の機会を得ていらっしゃったのですね。
きっとその時は情けなく、そしてもしかすると死ぬほどつらい出来事でもあったことと思います。安易な因果や因縁になぞらえたくはありませんが、振り返ってみれば大きな転換点だったことと拝察いたします。
そしてそのお陰で、私たちはいろんなことを学ばせて頂いてるわけで、五月雨さんではありませんが、独歩さんから役職を強奪したお寺の方々に、感謝したいような‥言い過ぎかもしれませんが。そんな感じさえします。

201五月雨:2002/08/06(火) 11:35
独歩さん

>独歩さんから役職を強奪したお寺の方々に、感謝したいような‥

私も同感です。独歩さんがこの掲示板に居られなかったら、私達はどこで真実を教えてもらう事が出来るでしょう。

といいながら、またも厚かましく独歩さんに質問させて頂きます。よろしくお願い致します。
「大石寺の歴史の過去ログ」を読ませて頂きました。本尊書写の相伝書と戒壇本尊の仏滅年数の違いが出て参りましたが、本尊書写の相伝書「本尊七箇相伝」というのはどういう書なのでしょうか。この書は本物なのでしょうか。そして、今現在配布されているお形木本尊の仏滅年数を何故戒壇本尊のそれと同じにしないのでしょうか。同じにすれば、何ら疑義が生じなかったのではと思うのですが。疑問に思っています。真実をお聞かせ下さい。

202犀角独歩:2002/08/06(火) 19:42

五月雨さん:

> 「本尊七箇相伝」

ここまで到達されましたか。すばらしいですね。
富士宗学要集では第1巻 P31 に『御本尊七箇相承』の名で載っています。
石山で言えば、「大聖人から興師に伝えられ、血脈付法の猊下に伝えられてきた」と言います。富士年表には弘安5年(1282)10月10日となっています。

この書の末に

弘安五壬午十月十日 日蓮在御判
右此の七箇の大事・唯授一人の秘伝なり聊爾に口外す可からず云云、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無日蓮大聖人

とあることから、唯授一人血脈相承の書と石山は言いたいところ、亨師は、あっさり、富要のこの部分に二重線を傍らに引き

年月御名判等の三行に二線を引きたるは後人の偽加なるを以つてなり(1-33)

と否定しています。それにもかかわらず、上記の富士年表の記載があるという矛盾があります。

さらに石山・昭和新訂(3-2719) では「日興記之」とあるも、聖典にはこの部分を削除し、実際は興師本はおろか、上古歴代の写本も、伝えられたものもありません。富要では保田妙本寺山師の写本によったとあります。

現時点さんも引く執行海秀師の『興門教学の研究』第4章第2節本尊七箇相伝と本尊三度相伝に

「本尊七箇大事」に至っては興門流独自の思想が窺われる。
本尊七箇相伝で、一般に云う十界互具を「応仏ノ上ノ沙汰」といい、「出世の応仏は垂迹施権」といい、また「法界即日蓮、日蓮即法界」といい、更に「代々の聖人悉く日蓮と申」などは、明らかに日蓮本仏論を伝えるものである。また惹いては代々の貫首の当体に日蓮聖人を仰ぎ、本尊と見なすのものである。
殊に明星直見の本尊「明星の池に日蓮聖人が影が大曼荼羅の相であったというが如き」伝説は後世のものと見ざるを得ない。(P61)

とあります。私は、この執行師の言をもっともであると思うのです。

なお、二千二百三十余年の件についての説明は問答名人さんのほうが適役であろうと思います。お願いします。

205問答迷人:2002/08/06(火) 22:14

五月雨さん こんばんは

犀角独歩さん こんばんは

ご指名がありましたので、少し、書き込ませていただきます。

>今現在配布されているお形木本尊の仏滅年数を何故戒壇本尊のそれと同じにしないのでしょうか。同じにすれば、何ら疑義が生じなかったのではと思うのですが。疑問に思っています。真実をお聞かせ下さい。

先ず考えなければならないのは、大石寺の本尊書写の化儀が、「二千二百三十余年」と書写する事になっている、ということですね。恐らく、上代の日道上人以来、「三十余年」と書写するしきたりになっていると言うことでしょう。その理由は不明ですが、日道上人の御伝土代に、三十余年と認めた御本尊が大事なんだ、という表現があることから類推すると、三十余年と認められた大事の本尊があって、その大事の本尊に書かれているまま書写する、というしきたりになっていたのだと僕は思っています。

その、富士門流の大事の御本尊こそ、戒壇の板本尊なんだ、という事だと、極めて判りやすいのですが、そうはならないのです。戒壇板本尊は、二十余年と認められているからです。

ご質問のように、書写のしきたりを、「二十余年」に変更すれば、万事、丸く収まるではないか、ということですが、これも、そうは行きません。有供養者福過十号、若悩乱者頭破作七分、との書き込が、私たちの下付されている御本尊には書かれていますが、戒壇板本尊には書かれていないのです。しかも、弘安二年に認められた別の御本尊には、この書き込みがしてある御本尊が存在します。ですから、二十余年だけの違いではないのですから、事はやっかいです。日興上人が、書写に当たってこの書き込みを追加した、などという説明がまことしやかにされていますが、他の御真筆の御本尊に同じ書き込みがされているとなると、日興上人が付加した、などという説明はふっとんでしまいます。どう考えても、元々の御本尊があって、その御本尊には、この書き込みがしてあって、しかも、三十余年と書かれていた、という可能性が極めて高いわけです。もし、戒壇本尊に合わせて、書写のしきたりを変更するとするならば、この書き込みも削除しなければならなくなるでしょう。

とりあえず、概略、お答えいたしました。引き続いて、ご質問、承ります。

206五月雨:2002/08/07(水) 16:23
独歩さん

 ご教示有り難うございます。

>ここまで到達されましたか。すばらしいですね

いえいえ、とんでもございません。そういう本があるんだなという程度で何の理解もありません。でも、内容は見た覚えがあります。たしか、法王本仏論を学会から吹っ掛けられて、それに対する反証に持ち出してきた文書だった気がします。独歩さんのご説明によると、真筆も写本も無いようなあやふやな文書のようですね。それを使っての“真実の証明”だったというのは、何か解せません。
過去ログをもう一度読み返しています。道師「御伝土代」にも、『仏滅後二千二百三十余年』と言われているのですね。ところで、この本も知りません。
ご面倒かと思いますが、この本のことについてお教えください。

大聖人様の仏法は相伝仏法だから、その相伝が無ければ大聖人様の法は分からないとよく言われます。時のご法主上人だけが御書を正しく解釈出来る、ご法主上人で無ければ、文の底に隠された本当の意味も分からない。その時代に合った御書の教えをご法主上人がご指南くださるのだから、そこに信伏随従しての成仏できる信心だと思ってきましたが、これは本当に大聖人様のお教えなのでしょうか。そんなに正しい法主上人なら、無理な三十万登山、この不景気な社会において三年で百五十億の金集めなどしないと思います。
正しい仏法を「大聖人様からの血脈相承」によって正しく受け継がれている割には、やってる事が信用ならんと思うのです。
独歩さんはどう思われますか。

207五月雨:2002/08/07(水) 16:46
問答迷人さん

ご丁寧なご説明を有り難うございます。迷人さんのお答えの中に道師「御伝土代」の引用がありました。失礼しました。
戒壇本尊の実情のなんとややこしい事でしょう。私みたいなアホな人間は単純ですので、全部統一して知らん振りしていれば、何の疑義も持たれなかったと簡単に思うのです。なのに石山は戒壇本尊の写しとしてお形木本尊を平気で配布し、仏滅年数の違いなどどこ吹く風ですね。内事部で聞いたら「たしか二千二百二十余年です」と当たり前のように言ってました。ウチの御本尊と違いますと聞こうと思いましたが、なーんにも考えていないノー天気な言い方に聞く気が失せました。
有供養者福過十号、若悩乱者頭破作七分が戒壇本尊に書かれていないというのは、どう確認出来たのですか。石山が当然のごとくに「書いていません」と平気な顔して言ってるのですか。
 戒壇本尊は生身の大聖人様なんだ、大聖人様の出世の本懐なんだとずーーーーと信じてやってきました。独歩さんと迷人さんの親切丁寧なご回答を頂いても、次の質問さえ浮かびません。「ありゃ、まぁ」これが私の本音です。

208問答迷人:2002/08/07(水) 17:43

僕の友人が、奉安殿で、最前列で御開扉を受けたときに、有供養者福過十号、若悩乱者頭破作七分が認められていない事を確認して、御住職に聞きました。そしたら、御住職が、宗門の上層部の御僧侶に質問して、その回答を貰ったのです。曰く「確かに戒壇本尊には認められていないが、日興上人が、書写の時にはこの文言を書き込むように御指南されたのである」という趣旨の回答でした。不審に思って、御真筆御本尊の賛嘆文を調べてみたら、なんと、すでに、日蓮聖人が、賛文として、多くの御本尊に書き込まれているではありませんか。書かれていない御本尊も勿論有ります。そうなると、日興上人が書き込むよう指示したというのは、口からでまかせだと思うのです。そして、たまたたま、戒壇板本尊には書かれていないだけではないのか、という疑問は消えません。信徒に渡す御本尊に賛文を書き入れるのは、元々の御本尊に賛文が入っていたからに違いない、そう僕は考えざるを得ません。

209犀角独歩:2002/08/07(水) 18:35

五月雨さん:

> 大聖人様の仏法は相伝仏法

この面は一概に否定はできないと思います。
相伝の可否は、しかし、教学史を正確に分析すると実際の相伝か、途中からの発生はおよそわかる気がします。

たとえば御本尊三度相伝などは、七箇相承より、ずっと信憑性は高く見えます。
しかし、これは唯授一人相伝とは言い難いのです。澄師師を継いだ学頭の順師がその内容を知っていた形跡が見られるからです。また、その全同の内容で朗門にも伝わっているからです。

重要な点は、相伝仏法であることが直ちに唯授一人の決め手とはならないと言うことです。聖人の事跡を考えても、その形跡は見られません。また、興師に係る相伝と思われるものも、複数の人に分け広がっています。これはつまり、弟子の器量に合わせた分々、複数の相伝があったと見做すべき証拠となるのではないのかと私は思っています。そういった意味での相伝は、否定する必要もないように思えます。けれどまた、いまとなって、何が聖人からの相伝であったかは、詳細に理解することはできないでしょうね。

> 相伝が無ければ大聖人様の法は分からないとよく言われます。時のご法主上人だけが御書を正しく解釈出来る、ご法主上人で無ければ、文の底に隠された本当の意味も分からない。その時代に合った御書の教えをご法主上人がご指南くださるのだから、そこに信伏随従しての成仏できる信心だと思ってきました

見事な概略、まさに石山のアナウンスはそのとおりですね。
けれど、いわれる相伝というもののほとんどが、なぜ他山に所蔵されている写本によらなければいけないのか、この点がまずおかしな点であろうかと思います。

石山で言う相伝は聖人から興師、興師から目視へと67代、相伝したそうで、金口嫡々のほか、文章があるのかどうか、その実態は歴代以外は知らないわけでしょう。まあ、確認しようがないと思います。あればいいなあと思います、実際。

代表的な相伝書である二箇相承はしかし、ただの一度も石山にあったことはなく、北山に蔵され、北山には石山とは別に後継者が(代師)が立ったわけですから、仮に二箇相承が真筆であったとしても、相承は北山にあったことになるでしょう。それを石山の相伝だというは土台、無理があります。しかも、その真筆であることを最初に語るのは辰門であり、石山にもたらしたのもそこから出た教師。これでは信憑性はありません。

条々事という石山ばかりが真筆と認める興師筆とされる書があるのですが、このなかにも二箇相承のことは、ただの一度も出てきません。また、興師から伝えられた血脉両抄は唯授一人と言いながら、尊門であるというのも、なんだか辻褄がありません。

文献的に確認できるものに限ってしか言えませんが、石山の言う相伝というのは、信憑性は著しく低いわけです。

いずれにしても唯授一人ということがポイントなのでしょうが、聖人は寂間近に本弟子六人を定められているのに、唯授一人なんて別相伝があるわけはないように思えます。

> 正しい法主上人なら、無理な三十万登山、この不景気な社会において三年で百五十億の金集めなどしないと思います。

いちりんさんの言を借りるわけではないですが、なにをもって「正しい」ということなのか、難しいですね。30万人集めて150億円集める、石山僧にとってはこんなよいことはないでしょうね。搾り取られる方からすれば、こんなひどい話はないことになります。

> 正しい仏法を「大聖人様からの血脈相承」によって正しく受け継がれている割には、やってる事が信用ならんと思うのです。

このような実感、正直かな感想には真実があると思います。

> 道師「御伝土代」

同師がまとめた門下最古の伝記といわれるものです。正確には『三師御伝土代』と言われ、蓮祖・興師・目師の簡潔かつ信憑性のある伝記が記されています。土代とは今で言う土台ということで、後に整理するための草稿といった意味合いであるとのことです。

本で言えば、富士宗学要集第5巻の最初、聖典ではP587に掲載されています。
唯授一人相伝はおろか、二箇相承のことも、戒壇之曼荼羅のことも載っていません(当たり前ですが)石山のアナウンスでは「土代だから」となるのでしょうね(笑)

210犀角独歩:2002/08/07(水) 18:46

> 208

このお話は、私は確か以前にもうかがっているのだと思いますが、石山の対応はまったくひどいとしか言いようがありません。在家なんかなんもわからん素人だと言わんばかりの小手先、場当たり発言ですよね。

問答名人さんが、襟度をもって、僧侶の礼節をしっかりと通して、質問されたのに、これです。その襟度礼節に対しの答えといい、その後の経緯といい、問答名人さんは人間ができていると思うのです。さらに興師曼荼羅まで、しっかり確認され、結論を出された問答名人さんに、私は敬意を表します。

211問答迷人:2002/08/07(水) 19:45

独歩さん

>興師曼荼羅まで、しっかり確認され、結論を出された問答名人さんに、私は敬意を表します。

過分のお褒めを頂いて、恐縮の極みです。ただ、僕の文章が曖昧で、誤解を与えてしまったと思いますので、訂正させていただきます。僕が確認したのは、日蓮聖人の真筆曼陀羅の賛嘆文です。日興上人の書写の曼陀羅の賛嘆文までは、調べる資料が手元になく、実施出来ていません。以上、訂正させてください。

212いちりん:2002/08/07(水) 22:52
「百六箇抄」には、こういう記述がありますよね。
---------------------------------------
又御本尊書写の事予が顕し奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地祇もよも用い給わじ、上行無辺行と持国と浄行安立行と毘沙門との間には若悩乱者頭破七分有供養者福過十号と之を書す可きなり。
---------------------------------------
御本尊書写のことは、わたし(日蓮)が書き顕し通りに書きなさいよ。
日蓮御判と書かなければ、諸天善神の加護はないぞよ。
「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」と書きなさい。

……というわけですが、ほんとに、日蓮さん自らがあらわした御本尊に、「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」と書いているのでしょうか。わたしは、まだ真筆本尊で、そのように書かれたものを見たことはないのですけど。

「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」というこの文句は妙楽が言ったものなんでしょうが、しかし、なんといいましょうか、「罰」と「功徳」で縛り上げているような感じもしますですね。

とくに、「若悩乱者頭破七分」というのは、おっかない。
誹謗したら、頭が七つに割れるぞというわけですから。

これが、「組織を離れたり、法主やら池田先生やらの偉大な人を誹謗したりすれば、頭が割れるぞ」なあんて脅しに使われたりもするし。

あるいは、日蓮さんのじきじきのことばでも、「念仏無間、真言亡国」とか「日蓮を悪しく敬わば国ほろぶべし」とか。

わたしは、つくづく思うのは、自分自身を、ふりかえっても感じますが、宗教の背後には、「恐怖」があるということですよね。みんな、じつは「恐怖」をいだいて、信仰しているなあと思います。

で、どうも、そういう信仰は、違うんじゃないかなあ、ということ。

213問答迷人:2002/08/07(水) 23:43
いちりんさん

>ほんとに、日蓮さん自らがあらわした御本尊に、「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」と書いているのでしょうか。わたしは、まだ真筆本尊で、そのように書かれたものを見たことはないのですけど。

一例を挙げます。弘安元年八月の御本尊には、「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」が認められています。

http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/Mandala053.bmp

214いちりん:2002/08/08(木) 00:39
問答迷人さん

なるほど、たしかに書かれていますね。
ただ、「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」の書体の雰囲気が違うので、あとから日蓮さんが書き加えたみたいな感じもするし。
あと、謗法がなんとかという言葉も、書かれていますね。

215犀角独歩:2002/08/08(木) 05:30

問答名人さん:

> 211

ご丁寧に有り難うございます。恐れ入ります。


いちりんさん:

「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」と記された聖人真筆曼荼羅は8幅現存するようですね。引用される経文・釈文は20種類近くもあるようでもあります。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/mandara_shakumon.gif
(季刊教化情報第12号 桐谷征一著『いま大曼荼羅の世界を考える』P20から転載)

216五月雨:2002/08/08(木) 08:44
問答迷人さん

ご友人が実際に見て、戒壇本尊に「有供養者福過十号、若悩乱者頭破作七分」が書かれていない事を確認されたのですね。
迷人さんが、質問をされてそれに対する僧侶の回答は本当にヒドイです。こうして誤魔化し続けてきたのでしょう。「日興上人がこう言われた、血脈付法のご法主上人がこう言われた」と嘘に嘘を重ねて今の宗門があると思います。
現猊下は「正直な信心」と常に言われているのは、ただのブラックジョークだったのか・・・嘆息つかせて頂きます。

>元々の御本尊に賛文が入っていたからに違いない

この元々の御本尊は一体どこにあるのでしょうか。これがあれば問題は一挙解決する気がします。

217五月雨:2002/08/08(木) 09:12
独歩さん

ご丁寧なご教示をいつも有り難うございます。私は「血脈付法のご法主上人」を不思議な力がある方だと捉えていました。大聖人様からのご内証をお持ちだから一般僧侶・信徒には分からない事が分かるのだと。「三十万登山は大聖人様の御命です」と猊下が言われた時、「血脈付法のご法主上人」だからそういう事が分かるんだと納得したものです。
大聖人様の法門が乱れない為に時の「血脈付法のご法主上人」が仏法の判断をするのだと聞いた事があります。確かに誰でも彼でも御書を勝手解釈してああだ、こうだと言い始めると宗内に乱れが生じると思うのです。だから今でもその点には引っ掛かるのです。信徒が御書を勝手に解釈してよいのだろうかと。反面、石山僧侶のテイタラク振りと信用ならん「時の血脈付法のご法主上人」の解釈はホンマに正しいのかと訝しく思うのです。複雑な心境です。
石山のおける相伝の実態、『三師御伝土代』についてよく分かりました。有り難うございました。

218いちりん:2002/08/08(木) 09:30
犀角独歩さん

>「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」と記された聖人真筆曼荼羅は8幅現存するようですね。引用される経文・釈文は20種類近くもあるようでもあります。

桐谷征一さんの目録で、よくわかりました。ありがとうございます。

あれを見ますと、日蓮さんは、いろいろな賛嘆文を書かれているわけですね。
そうして、「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」というのは、たくさんある曼荼羅のなかでも、現存するものは、8幅ほどであると。

これらを見ると、日蓮さんは、『法華経』や『涅槃経』などの文句を書いており、取り立てて「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」をしっかり書けと、わざわざ相伝することもないような気もしました。

どうして、冨士門流は、この文句にこだわろうとしたのでしょうね。

219五月雨:2002/08/08(木) 09:34
いちりんさん

横レス失礼致します。
私も信心を始めて以来、この二つの言葉でよく脅かされていました。「御本尊様にはこう書かれています。“若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号”と。謗れば頭と心臓が七つに割れ、供養する者には功徳があります」と何かの折に聞かされたものです。

>「罰」と「功徳」で縛り上げているような感じもしますですね。

確かに縛り上げられて活動しなきゃと脅迫観念を持ちました。組織を離れた時も頭の片隅にこの言葉がありましたが、実際には周りの人間の期待にも反して罰にも当たらず平穏な日々を送っています。
どうして、大聖人様はこういう事を多く言われたのでしょう。慈悲の仏法には残酷な一面もあるのでしょうか。

>で、どうも、そういう信仰は、違うんじゃないかなあ、ということ

そうですよね、宗教は人の心を救ってほしいと思います。

220いちりん:2002/08/08(木) 10:23

五月雨さん
この文句は、もともとは『法華経』の「陀羅尼品第二十六」に出てきますね。

若し我が呪に順ぜずして 説法者を悩乱せば
頭破れて七分に作ること 阿梨樹の枝の如くならん

鬼子母神が、お釈迦さまの前で、誓うわけです。
『法華経』の教えを説く法師を守護します。そのために、悪鬼にやられてしまわないように、呪文を捧げます。そして、もしも法師を迫害する者があったら、わたしたちが、そやつの頭を七つに割ってしまいましょう。

阿梨樹(アルジャカ)という花があるらしいのですが、それは七つの花弁があるんだとか。見たことはないので、わかりませんが。

この七つと、南無妙法蓮華経の七文字と結びつけたりもするんでしょうね。

あるいは、頭上の七穴とも関係して、首から上に七つの穴があると。口一つ、鼻の穴が二つ、耳が二つ、目が二つで、合計七つ。その穴が病になるのだとか。

あるいは、心破作七分ともいって、物理的に頭が破壊されるというよりも、心が駄目になる。精神錯乱するなどと、言われてきました。

いずれにしても、おそろしいですね。
まあ、もとはといえば、『法華経』に罰と功徳の脅しと勧誘みたいなものが、たくさん書かれています。まあ「譬喩品」あたりを読んでみてください。

この『法華経』のもつ排他的なエネルギー、独善的なエネルギー、我の強さが、じつはおおもとの源泉であろうとわたしは思っています。

『法華経』はすばらしい経典ですけど、すばらしい部分と、厄介な部分がごっちゃになっています。まあ、いろんな人たちが、長い期間によってたかって作り上げた(もとの教えに、あれやこれやとくっつけたりしました)という成立事情にも原因があると思いますけど。

221アネモネ:2002/08/08(木) 12:46
横レス失を礼いたします。

犀角独歩さん

独歩さんがご紹介して下さった、桐谷征一著『いま大曼荼羅の世界を考える』の転載を拝見しますと、「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」と記された聖人真筆曼荼羅が8幅あって、そのうちの7幅にはあわせて「有開罪於無間、讃者積副於安明」という賛文も書かれているようですね。問答迷人さんがご紹介下さった御本尊にもこの賛文が確認できました。
よく似た意味合いのことだと思うのですが、ところが、私たちが下付されている御本尊には、私が見たところでは「有開罪於無間、讃者積副於安明」の賛文はないようですけれども、どうしてなのでしょう。
また、8幅のうちNo.59の御本尊もこの賛文がないわけですが、これも何か理由が考えられるのでしょうか。
また、この8幅ないし7幅において、たとえば下付された相手の状況などで何か共通する点などあるのでしょうか。
また、本尊集の番号がほぼ続いているようですが、この番号は年代順につけられた番号なのでしょうか。

もしも以前にもこれらについて書かれているようでしたから誠に申し訳ありませんが、今、ここで疑問に思いましたので、ご質問させて頂きます。よろしくお願いいたします。

222犀角独歩:2002/08/08(木) 16:01

アネモネさん:

曼荼羅に記される経文(釈門)に、なぜ差異があるのかは、よくわからないですね。

なお、桐谷師の所についている曼荼羅の番号は、その曼荼羅の写真が掲載されている『本尊集』の通し番号であろうかと思います。
いま、手許にその写真集がありませんので、どのような順番になっているのかはたしかめられませんが。

223犀角独歩:2002/08/08(木) 17:51

―222からつづく―

ところで、アネモネさんは「賛文」という言葉を使用されていますが、桐谷師はこれを単に経文・釈文と呼んでいます。何か固有名詞がついているのかどうか私は知りません。

なお、讃文は、同書によれば、以下のような変遷があるとのことです。

(1)「文永八年太才辛未九月十二日蒙御勘遠流佐渡国、同十年太才葵末酉七月八日図之。此法華経大曼荼羅、仏滅後二千二百二十余年、一間浮提之内未曾有之、日蓮始図之。如
来現在猶多怨疾況滅度後、法華経弘通之故有留難事、仏語不虚也」(佐渡始顕、本尊鑑3)

(2)「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間、雖有経文、一閻浮提之内未有之大曼荼羅也。得意之人察之」(文永11年7月25日、本尊集13)

(3)「大覚世尊御入滅後、経歴二千二百二十余年、雖尓月漢日三ケ国之間、未有此大本尊。或知不弘之、或不知之。我慈父以仏智隠留之、為末代残之。後五百歳之時、上行菩
薩出現於世、始弘宣之」(文永11年12月日、本尊集16)

(4)「仏滅後二干二百二十(三十)余年之間、閻浮提之内未有之大曼荼羅也」(同書P22)

また、他のロムの方にも参考に記せば、弘安期における仏滅年代「二千二百二十余年」「二千二百三十余年」の出入についても表が設けられています。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/butumetunendai.gif

桐谷師の同書の言おうとしていることは、日蓮曼荼羅には定型はないということのようです。山中喜八師の整理も上げ、現存127幅を山中師は107種に分類するけれど、これではもはや、定型はないのに等しいと見解を述べています。もっともだと思います。

では、石山は、「戒壇之曼荼羅(之)を書写し奉る」と言いながら、何故、それには記されていない「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」にかくも拘るのでしょうか。
(なお、奉書写之の之が、元来は戒壇之曼荼羅を指すのではなく、その書写した曼荼羅を指すことは、かつて重須資料に基づき記したとおりです)

石山は「内証を写す」などと言いますが、すると、戒壇之曼荼羅にないのに書かれる「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」が内証なのかといえば、そんなことではないだろうと思うわけです。

この点について、問答名人さんとも意見が一致したとおり、これは興師・弘安二年授与の曼荼羅にそのような書き留めがあったのであろうと私も想像します。もちろん、この曼荼羅は、いわゆる戒壇之曼荼羅でも、万年救護曼荼羅でも、禅師授与の曼荼羅でもない、かつて北山にあって盗難に遭い紛失した曼荼羅であろうというのが、先の問答名人さんと私の議論の結論でした。この曼荼羅に、たぶん、この釈文があったのであろうと思います。

もう一つ、これは本尊三度相伝に係り、私が留意している点ですが、文永9年大歳壬申正月元旦に興師に授与された曼荼羅(要法寺所蔵)には

問答第一行戒智徳“筆跡付法”の沙門日興に之を授与す

とあるといいます。この「筆跡付法」とは何を指すのか、いかにも本尊三度相伝の内容、あるいは曼荼羅に記す釈文「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」と記すことを付法することなのかと想像を逞しくしたいところです。

この点は『破愚邪立正論』にも、この点を論い、

一大事の仏法をば付属し相続する者は日興一人ならではと思ひ定め玉いて自ら御筆を染め玉へ忝くも本地寂光自受用報身如来の境智の尊躰大聖人の魂をさらさらと一幅の御本尊に書き顕し日興上人へ下され候、其の書に云く文永九年(壬)申正月元日、問答第一行戒智徳筆跡付法の沙門日興に之を授与すと書き印るし下され候此れ千万の法門も入らざる大聖多くの弟子あれども日興は四徳を備へたる故に我が一期の大事の仏法をば残らず付属する者なりと遊はされ候事唯我与我の御内証を顕し玉ふ御本尊なり

まで讃歎するのですが、しかし、この曼荼羅は文永9年なのです。
実に解を得ることが難しい点であろうかと思います。

224犀角独歩:2002/08/08(木) 18:18

【223の訂正】

誤)この点について、問答名人さんとも意見が一致したとおり、
正)この点について、問答名人さんが記されたとおり、

225アネモネ:2002/08/08(木) 22:54
犀角独歩さん

唐突な質問にも関わらず、ご丁寧なレスを有難うございました。
まずは「賛文」、私の意図したものではなくて、打ち間違いです。すみません。「賛嘆文」と「讃文」そして「賛文」はそれぞれ意味が違ってくるのでしょうか。

>文永9年大歳壬申正月元旦に興師に授与された曼荼羅(要法寺所蔵)

この御本尊にも「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」は書かれているのでしょうか。

質問ばかりで恐縮ですが、日興上人がしたためられた御本尊は全て「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」が書かれているとみて良いのでしょうか。
本当に古い法華講の家で、日興上人の御本尊をお持ちのお宅もあると聞きますが、「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」が書かれているのかどうか知りたいような‥、また厄介な興味を抱いてしまうところです。

余談になりますが、「御本尊集」についていろいろ検索してみましたら、

日蓮宗 現代宗教研究所 Nichiren Buddhism Modern Religious Institute HOME 目次 現宗研所報 第29号 所報第29号:69頁〜 研究ノート ←前|▲|次→| 《研究ノート》 日蓮宗の本尊は、 なぜ解りにくいのか、 どうした
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho29/s29_069.htm

で、以下の文章をみつけました。内容がとても興味深かったです。一部、抜粋しますと、

【「百二十余幅の大曼荼羅は内容・形状共にバラエティに富んでいる。 「一紙のお曼荼羅」 (中尾尭 『ご真蹟にふれる』 日蓮宗新聞社) はお守りとされたかもしれない。 あるいは信徒の集会では、 何枚も継がれた大きな大曼荼羅を前にして教義の説示、 解説がされたであろう。 例えば、 『御本尊集』 (立正安国会) 中、 第十八番目の平賀本土寺蔵の大曼荼羅は両界の大日如来を勧請して、 真言宗に対する何等かの意図を示したのである。 大曼荼羅は単なる礼拝対象ではなく、 信徒に教義を伝える情報機能を併せ持っていたと見てよかろう。 」(三原正資氏著)
 
御本尊のこういう捉えかたも、けっこうイメージがつかみやすいなと感じました。

他にもいろいろな論文がありまして、面白かったです。日蓮聖人がかなり軍記ものの書物の影響を受けているといったものもあり、人間像に迫れるようでした。

日蓮宗 現代宗教研究所 Nichiren Buddhism Modern Religious Institute HOME 目次 現宗研所報 第33号 所報第33号:61頁〜 教化学研究 ←前|▲|次→| 日蓮聖人の『平家物語』受用を通して布教教化のあり方を考える 今
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_061.htm

日蓮本仏論が崩れてから、かえって日蓮の人となりに興味が広がりました。蓮長の時代にも興味が尽きません。まぁ、その興味が信仰といえるものなのかどうかは、また別ですけれども、ドブチェクさんの「日蓮聖人の本尊観」のレスを読んでいて、気持ちがわかるなぁと思いました。

226いちりん:2002/08/09(金) 10:41
しかし、日蓮さんの曼荼羅は、いろいろと論議がありますね。
日蓮宗にあっては、冨士門流ほどのこだわりがないのでしょうが。

浄土真宗などは、南無阿弥陀仏の六字名号が本尊というようになつているかと思います。厳密には、阿弥陀如来が本尊であって、形にあらわれた「有相」のものにはこだわってないようです。

日蓮さんの曼陀羅も、「もうこれなくしては本尊の意味がない」というエッセンス中のエッセンスをとらえるとしたら、南無妙法蓮華経の七文字でいいんでありましょうね。

もっともプライオリティーが高いのは、南無妙法蓮華経の七文字。(さらに凝縮すれば、「妙法」さらには、「妙」の一字になるのでしょうが)

ついで、日蓮という字。そして、花押でしょうか。
ついで、釈迦・多宝の二仏ということでありましょうか。
そして、四天王(まあ結界的な意味で)とか。。

227川蝉:2002/08/09(金) 13:47
横から失礼します。

御本尊写真集である立正安国会刊「御本尊集」の通し番号は図顕の年月日順の番号になっていますね。

208 : 問答迷人 さんのコメントの中に
「僕の友人が、奉安殿で、最前列で御開扉を受けたときに、有供養者福過十号、若悩乱者頭破作七分が認められていない事を確認して、」
と有りましたが、
本化妙宗の高橋智遍師が「創価学会が真実ならー私は日蓮聖人の信仰をやめる(昭和35年刊)」において、大石寺の板本尊の座配を示しています。それによると「頭破・・」が有ります。
また、美濃周人氏の「虚構の大教団」においても、「今は大石寺宝蔵に眠る、昔からある戒壇の大本尊」として板本尊に「頭破・・」が有るとしています。

現在、問答迷人 さんのご友人が拝したという御本尊と別物と云うことになるようですね。

230問答迷人:2002/08/09(金) 17:33

川蝉さん こんにちは

いつも、貴重な書き込みを頂戴し、まことにありがとうございます。今後とも、よろしくお願い申しあげます。

>御本尊写真集である立正安国会刊「御本尊集」の通し番号は図顕の年月日順の番号になっていますね。

その様です。なお、ネット上の「御本尊集」は、この立正安国会の御本尊集をそのままアップしてある様です。通し番号も同じだと思います。日蓮正宗関連HPリンク集に文献・資料の「御本尊写真集」としてリンクさせてあります。

http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/001.html


>本化妙宗の高橋智遍師・・「頭破・・」が有ります。美濃周人氏・・「頭破・・」が有るとしています。

そうですか。友人の質問と、それに対する宗門高僧の回答が、「頭破・・」が無い、という点で一致していたので、戒壇板本尊には「頭破・・」が無いものと、考えておりましたが、有るという文献が有るわけですね。

実際はどうなんでしょう。戒壇板本尊の写真からは、有無は読みとることは先ず不可能でしょう、ぼけていますから。どなたか、大石寺戒壇板本尊の座配、讃文について、資料をお持ちの方、お示しいただけると幸いです。

231犀角独歩:2002/08/09(金) 17:35

> 本化妙宗…高橋智遍師…大石寺の板本尊の座配

これはいったい何を元にして座配を示したものなのでしょうか。
板曼荼羅の写真が公開されたのは後にも先にも明治44年(1911)熊田葦城著『日蓮上人』に1回だけ、今から91年前の小さな写真製版です。これを元に座配を予想されていますが、これらの信憑性は如何ばかりのものなのでしょうか。ここでは、「有供養者…」が記されていると断定されているわけですか。

孫引きですが、こんな記述があります。

一、大石寺板本尊之事、日憲参詣の時委しく拝し奉る。竪五尺横二尺四寸也。去(さ)て御勧請の次第は上段には釈迦多宝本化の四菩薩、次の段には文・普・薬・弥・舎・迦・大梵・釈提・大日月・明星、次の段には天・章・伝・転・阿闍・提、次の段には鬼子・十羅・天八、仏滅後二千二百二十余年○大曼茶羅也・日蓮御判、其の下に横
 右為現当二世造立如件
御判の右の脇に
 本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日云云
弥四郎とは波木井殿の事也。私云板御本尊を彫りしも御影も日法の御作也。」(日憲「当家諸門流継図之事」=立正大学編「日蓮宗宗学全集第18巻149頁」)

日宗全が手許にないので、詳しく当たれませんが、この記録では「有供養者…」については、まったく語られるところがありません。座配についての説明であるから書かれていないと言えば、それまでですが、特記すべき内容ですね、本来であれば。

ただ、川蝉さんが引くところと同様なものであるかどうか失念したのですが、私が過去に見た座配図にも「有供養者…」はあったように記憶しています。これは高橋師のものであったのかも知れません。

> 美濃周人…「今は大石寺宝蔵に眠る、昔からある戒壇の大本尊」

だいたい、この記述は何を根拠しているのかまったく不明です。私は40年も石山に関与していましたが、これを言い出したのは創価学会であり、紙幅正本ありと言ったのは久保川法章師です。しかし、これらはまったく裏の取れない、いわば“ガサネタ”の類のような気がしますが、どうなのでしょうか。

ただ、川澄勲師の文章などを読むと

阿部さんが丑寅勤行をしていることは、御宝蔵には今も厳然と本因の戒旦の本尊が坐すことを前提とした(仏道雑記  http://homepage2.nifty.com/houmonken/sub2.htm#0600)

などということが書いてあるので、「?」と思うわけですが、美濃さん辺りは、いったいどこから得た情報を書いているのか、まったく理解できません。

> 現在、…御本尊と別物

まあ、こう結論づける蛮勇は俄に起きませんね。
第一、レプリカとして作るとすれば、同じように作るでしょうから。

232犀角独歩:2002/08/09(金) 18:05

私がもっているいちばん大きな戒壇之曼荼羅の図です。

たしか虚構山幻想寺から落としたのですが、惜しいかなかここがなくなってしまったのです。ここに座配図もあったと記憶しています。

このサイト、すばらしい出来であったので閉鎖は残念でした。…知らないうちに私のサイトとリンクが組んであってびっくりさせられたものだったのですが(笑)
この虚構山幻想寺、また管理者の方の情報をご存じの方は、ぜひともお教えください。

私は、この戒壇之曼荼羅図を見て、直ちに思ったのは上段左右にある鶴丸です。
鶴丸が身延で使われていた?はずはないので、少なくともここの部分は後世のものであることは間違いないであろうということです。

また、第1段の座配は左右3行ずつ、つまり憲師の「釈迦多宝本化の四菩薩」の六尊、それ以上は記されていない気がします。

ほとんど、ぼやけてわかりませんが、釈文が書かれている余地はないように思えます。あくまで、そう見えるという話ですが。

233犀角独歩:2002/08/09(金) 18:08

―232からつづく―

失礼、ジャンプを入れ忘れました。以下です。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaidanmandara/kaidanmandara.html

234アネモネ:2002/08/09(金) 18:11
川蝉さん

こんにちは。よろしくお願いいたします。

>御本尊写真集である立正安国会刊「御本尊集」の通し番号は図顕の年月日順の番号になっていますね。

ありがとうございます。

>現在、問答迷人 さんのご友人が拝したという御本尊と別物と云うことになるようですね。

私も今年のお正月の初登山のとき、自分の目で確認してみたいと思い、一時間以上並んで前のほうに座って拝したところ、やはり「頭破・・」はなかったようんですね。
どういうことなんでしょう。昨日みつけた多くの論文のなかにも、たしか大石寺の大御本尊に「頭破・・」があるといったものがありましたが、これは勘違いではないのかな?と思って読み流しました。ますます不可解になってきました。

235アネモネ:2002/08/09(金) 18:13
問答迷人さん

「御本写真集」ありがとうございます。
いくつか見てみましたが、どれも「頭破‥」の向きが他のお文字と随分と違うようですね。

236アネモネ:2002/08/09(金) 18:28
富士年表でも本尊授与に本集と番号が記されてあり、また学会の方が運営されているサイト(?)で、もう少し詳しい年表をみつけました。
http://www.ginpa.com/karagura/nenpu8/nen8.html
http://www.ginpa.com/karagura/nenpu9/nen9.html

それを参考に「頭破‥」の入った御本尊を時系列にピックアップしてみますと。

1278年(弘安元年)
8月
*本尊を「日頂上人」に授与 (本集53・清水海長寺蔵) (要8-222) ・賛文「有供養者福過十 悩乱者頭破七分」・日興→日頂舎弟寂仙房日澄に付属 注57-08
*本尊を顕す (本集54・京都本能寺蔵) ・賛文「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」

11月21日
*本尊を俗藤太夫日長に授与 「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」 現存最大(243.9cm ×124.9cm) (本集57・岡宮光長寺蔵) 注57-11

1279年(弘安2年)
2月
*本尊を妙心に授与 (本集59・中山浄光院蔵) 「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」

*本尊を日目に授与 (本集60・桑名寿量寺蔵)(要8-222) [日興→新田卿公日目 (宗全2-112)] 「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」

4月8日
*本尊を「日向法師」に授与 (本集61・茂原藻原寺蔵) 「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」
        
7月
*沙門日法に本尊を授与 (本集65・沼津光長寺蔵)「若悩乱者頭破七分 有供養者福過十号」

10月
*本尊を沙弥日徳に授与 (本集67・戸田妙顕寺蔵) 「若悩乱者頭破七分 有供養者福過十号」

237アネモネ:2002/08/09(金) 18:30
(つづき)
一方、この時期で他に本尊集の番号のあるもので記載のあったもの、つまり「頭破‥」が入っていない御本尊は、

1278年(弘安元年)
3月16日
*本尊を顕す (本集47・中山法宣院蔵) [通称・病即消滅御本尊] [これより以降、十方分身諸仏、善徳仏の列座なし]
*4月21日 本尊を俗日専に授与 [本集48・京都立本寺蔵]
7月
*本尊を顕す (本集49・岩本実相寺蔵) ・当本尊以降、天照、八幡の2神の位置が定まる ・当本尊以降の花押、「ボロン」字に(御書の花押は5、6月頃より変化) 注57-06
5日
*本尊を沙門日門に授与 (本集50・京都頂妙寺蔵)
*本尊を顕す (本集51・京都本圀寺蔵)
10月19日
*本尊を顕わす。(本集56・京本圀寺蔵)
1279年(弘安2年)
4月8日
*本尊を優婆塞日田に授与(本集62・玉沢妙法華寺蔵)
*本尊を比丘日弁に授与(本集63・峰妙興寺蔵)
6月
*本尊を比丘尼日符に授与(本集64・中山法宣寺蔵)
9月
*本尊を優婆塞日仰に授与(本集66・和歌山蓮心寺蔵)
11月
*本尊を優婆塞日安に授与(本集68・沼津妙海寺蔵)
*本尊を沙門日永に授与(本集69・京立本寺蔵)
*本尊を優婆塞日久に授与(本集70・千葉随喜文庫蔵)

分類してみると、何かあるかなと思いましたが、残念ながら私にはわからないです。

238犀角独歩:2002/08/09(金) 19:09

> 優婆塞日安に授与(本集68・沼津妙海寺蔵

この曼荼羅を達師は戒壇之曼荼羅の臨写である(『板本尊偽作論を粉砕する』)と言っています。著者・安永師は、この曼荼羅を模刻したのが板曼荼羅という主張ですが。
つまり、この曼荼羅に釈文がなければ、ほぼないと見てよいような気がします。

ところで本尊集でみると68はaとbがあります。続けてみても、ほとんど同じように見えます。山口師が言う剥離法による正本と影本かなと思い、並べてみました。ほぼ似ているのですが、幅とか細かいところで違っています。これは真筆なのでしょうか。達師が臨写というもわかる気がします。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/myokaiji/myokaijimandara.html

239犀角独歩:2002/08/09(金) 19:17

>238

自己レス、この二つは座配も違い、別の曼荼羅なのですね。
しかし、68bは墨がべったりとした感じで、筆の勢いもなく、どうも真筆とは見えません。
まあ、素人鑑定ですけれども。

240犀角独歩:2002/08/09(金) 19:31

アネモネさん:

ここのところのアネモネさんの書き込み、なかなか情報性があって、面白いですね。
ジャンプ先を追うだけでもたいへんです。

241犀角独歩:2002/08/09(金) 20:28

問答名人さん:

先にご紹介いただいた御本尊集のサイトに、礼に日禅授与の曼荼羅は載っていますか。
何か見つからないようなのですが、お教えください。

242問答迷人:2002/08/09(金) 20:58

犀角独歩さん

>日禅授与の曼荼羅は載っていますか

僕も、それを探しましたが、見当たりませんでした。立正安国会の御本尊集には漏れているようですね。

243犀角独歩:2002/08/09(金) 22:41

242 問答名人さん:

あ、やはり、そうでしたか。
禅師授与曼荼羅、いわくありげですね、やはり。

達師の言を合わせて整理すると、戒壇之曼荼羅は禅師授与の曼荼羅を元に作成され、それを元に妙海寺曼荼羅が臨写された…とこうなります。

ところで、この妙海寺曼荼羅臨写説は達師の『板本尊偽作論』だけで読むと、68aの曼陀羅と言うことになるのですが、実際、全体のイメージからすると93の曼荼羅のほうが、ずっと似ています。「おかしい」と思い、『板本尊偽作論』そのものにあたってみました。

やはり、安永師が言うのは、こちら93の曼荼羅のほうでした。ただし、願主その他の着想を68aの曼荼羅から得たと言うのが安永師の主張でした。

試みに戒壇之曼荼羅を白黒反転し、妙海寺曼荼羅(93)と並べてみました。
確かに、よく似ています。が、細部では異なっているようです。

※以下に画像をアップしました。が、このような曼荼羅の画像の処理、比較などを不敬・謗法と感じる方は無理してみることはありません。また、戒壇之曼荼羅を「生身の日蓮大聖人・究竟の大曼荼羅」と思われている方には刺激が強いかも知れません。御覧にならないないほうがよいでしょう。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/myokaiji/hikaku.gif

このような比較を是非とも禅師授与曼荼羅で試みたいのですが、肝心の写真がありません。残念です。

244犀角独歩:2002/08/09(金) 22:54

―243からつづく―


大きさを比較すると

戒壇之曼荼羅 丈 四尺七寸五分 幅 二尺一寸五分
妙海寺曼荼羅 丈 三尺二寸七分 幅 尺七寸九分

となっています。戒壇之曼荼羅のほうが一回り大きいのですが、余白装飾部があるので、ほぼ同じくらいの大きさのように感じます。

仮に、もしこの二つが正本と臨写であったとしたら、どっちがどっちなのかということになりますが、妙海寺曼荼羅が真筆であれば、片方は木彫です。当然、妙海寺曼荼羅が正本と言うことになるでしょう。けれど、もし妙海寺曼荼羅が真筆ではない場合、戒壇之曼荼羅を臨写したことになるのでしょうか。しかし、この曼荼羅が真筆ではないというのは石山ばかりではないでしょうか。私は愚論を記すことは差し控えます。

245犀角独歩:2002/08/09(金) 22:59

―244からつづく―

ただし、243、244は単なる比較と資料の提示です。
問答名人さんが主張される禅師授与曼荼羅を臨写し木彫の下書きとするなどの可能性を否定するものではありません。

246問答迷人:2002/08/10(土) 00:18

犀角独歩さん

243の比較、興味深く拝見しました。よく似ているなぁ、と思いました。ただ、向かって右側の梵字と、蓮の字の右端との位置関係がかなり違っていますね。仮に十界の諸衆が、あとから書き加えられたと仮定しても、主題と梵字との関係は保たれると考えるのが至当でしょうから、やはり、よく似ているけれども、別の御本尊だと思います。如何でしょうか。

247犀角独歩:2002/08/10(土) 00:32

246 問答名人さん:

ほぼ賛成です。ただ、この大きな花押といい、その他の配列。
薄紙を乗せて、なぞるというのではなく、見ながら写すとこのぐらいの差はありかなと思うわけです。でも、全体的に戒壇之曼荼羅のほうが優美ですね。

禅師授与曼荼羅とも同じような比較をしてみたいですね。

いずれにしても、戒壇之曼荼羅が後世の作であるとすれば、一つのものをそのまま写したと言うより、寄せ集めた可能性もあるわけです。

唯一、私が戒壇之曼荼羅で評価するのは、この木彫は筆順がしっかり彫り込められている点です。あのややこしい花押も筆順がわかるわけです。想像で彫ったのかどうかは別として、この点はすばらしいとともに、それなりの水準を感じるわけです。

248犀角独歩:2002/08/10(土) 00:33

一つ、書き落としました。
やはり、戒壇之曼荼羅のほうにも釈文はないように見えますが、この点は々お思いになりますか。

249犀角独歩:2002/08/10(土) 00:35

やってしまいました。

248の訂正

誤)この点は々お思いになりますか
正)この点はどう、お思いになりますか

250問答迷人:2002/08/10(土) 00:37

追加です。

あと、明らかに相違が伺えるのは、主題の経の字と、日蓮との距離が戒壇本尊は接近しており、93は離れています。

また、経の字の右下端と、大廣目天の大の字との位置関係が違っています。戒壇本尊では、大の字の左下端に経の字の右下端が来ているのに対して、93では、経の字の右下端は、大の字のほぼ中央を貫いています。

251問答迷人:2002/08/10(土) 00:47

犀角独歩さん

>やはり、戒壇之曼荼羅のほうにも釈文はないように見えますが、この点は々お思いになりますか。

この写真で見る限りでは、一段目は、左右三行ずつですね、ここには、「有供養者云々」は認められていないようですね。二行目以下も、列衆だけで、そのような書き込みは見当たりませんね。恐らく、認められていないのではないかと思います。

252アネモネ:2002/08/10(土) 01:23
横レスを失礼いたします。

犀角独歩さん

>240)
 恐れ入ります。

>唯一、私が戒壇之曼荼羅で評価するのは、この木彫は筆順がしっかり彫り込められている点です。

筆順まではわかりませんでしたが、戒壇之曼荼羅からは確かに日蓮聖人の筆跡がはっきり見える気がしますね。黒字に金字が映えるからでしょうか、かなり遠くに座っても聖人のお文字の勢いが目に飛び込んできます。
演出ばかりではなく、そういうところも、心を動かしてきている一因かもしれないなと思ったりもします。

253アネモネ:2002/08/10(土) 01:25
252)訂正です。

誤→黒字に金字
正→黒地に金字

254犀角独歩:2002/08/10(土) 05:19

250 問答名人さん:

細かい点での相違があるのは、要するに臨写であれば、そのようなことは起きても不思議はないと思うのです。たとえば68aと68bの曼荼羅はよく似ていますが、横幅が違っています。しかし、全体的なイメージはよく似ています。これは、まあ両方真筆であるということなのですが、臨写ではこれぐらいの差は起きるだろうと思います。ただ、だから、戒壇之曼荼羅と妙海寺曼荼羅がその関係にあると即断するわけではありません。

252 アネモネさん:

石山の板曼荼羅は、筆順がしっかりわかるように彫られています。これは末寺の曼荼羅でもそうです。殊に板曼荼羅の場合、花押の筆順もしっかりとわかるわけです。これは興師のみが花押の筆順を伝えられたからであるとすら豪語するわけです。その真偽はわかりませんが、しかし、少なくとも、あの複雑な花押の筆順が彫り込まれていることは興味が惹かれます。

ただ、少し曖昧な記憶ですが、妙蓮寺の板曼荼羅も花押が彫られていたと記憶しますので、特に石山に限ると言うことではないのかも知れません。ただ、他門ではこのような彫刻の仕方をするところはなかったと思います。むしろ、「掘り下げ」と石山の彫刻を蔑視し、墨を削り取った点を強調し、非難しています。

別段、石山を擁護するわけではありませんが、あの彫刻の仕方は明らかに筆順を表すために有効であるとは思います。

255犀角独歩:2002/08/10(土) 10:18

画像を反転してみて、思ったのですが、戒壇之曼荼羅は妙海寺曼荼羅より、種子その他も優美で、かつ筆跡も明確。もし妙海寺曼荼羅に疑義があるとすれば、達師の言も捨てるべきではないと思いました。

河辺メモで取り沙汰される禅師授与曼荼羅も、このような比較はできるだろうと思いました。こちらは剥離法で正本と影本の2福がありながら、本尊集に載っていないようなのですが、写真は出回っていないものでしょうか。大きさその他の比較もしてみたいと思うのです。

それにしても、真筆曼陀羅と言われるものは、本当にすべてが真筆なのであろうか?という疑問が改めて沸きました。

いわゆる格式のある寺院が永年所蔵してきたなどといういわくがあるために、疑義があっても、古来からの真筆説がまかり通っているものも、いくつかあるなどということはないのであろうかと思ったりします。ただ写真集ができ、これだけ出回り、さらに山中師などの研究もあるわけで、いわる120余幅は日蓮門下の共通認識と言うことでしょうか。

戒壇之曼荼羅はいずれにしても、木彫なのであって、元より真筆議論に乗せるべくもありません。いったい、その元が聖人の真筆によるのか、あるいは真筆を模した筆を彫ったものであるのか…、素朴な疑問と言うより、なんだか複雑なことを書いていますが、知的好奇心には素直であろうと思うばかりです。

256ワラシナ:2002/08/11(日) 00:46
no180の無徳さんへ「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 13」

0、「フォーラム21」(11号)の「さよなら人間革命」という学会活動実録風
エッセイでは、無徳さんよりちょいと年上の60位の往年の学会男子部員の半生が
つづられた連載になっていて毎回これを読むのが一番の楽しみです。

1、その人はs’35年二十歳入信だったか。s’40年正本堂御供養には半年間の
飲まず食わずで給料の三倍、約10万?出したとか、のところの迫力が強烈に印象に
残った。生活面では中卒左官職人からスタートしてタテ線隊長までやって結婚。
バブル期までには自動車修理工場を経営して6人くらい使って順調だったが、平成に
入ってから破綻して、家屋敷処分して、小さな自動車修理業で再出発したが借金が
残った。

2、その時その主人公の苦境を見かねたかっての担当組織の男子部員だった人がいて
、現在中堅会社の幹部をやっていた。その人の縁故営業力で有力な得意先を紹介して
もらえた。そして、何とか経営が軌道に乗った、という話なのである。
その男子部員は30年前は司法試験かぶれの大学生で、主人公が何かと弟分のよ
うに面倒を見ていたのであった。

3、私はこの挿話に組織活動の偽らざる真実をみるのである。その男子部員は活動的
には当時から見れば落ち零れ評価だったのである。活動家の人物評価基準では「勉強
ばっかで、本当はもっと学会活動が必要なんだ今の彼にとっては、、」位に思われて
いたことであろう。
ところが、面倒を見られていた側の大学生の方では、「先輩学会活動ばかりやって
て、本当はもっと将来を見据えた勉強が必要な時ではないのかな、いくら中卒だか
らといったって、、」位に逆な評価基準で先輩隊長を低評価していた節が伺えたの
である。
なぜなら、30年後苦境の先輩を手助けするために再会したときには、かっての男
子部員は学会活動(正宗信仰そのものまでもかどうかまではわからなかったが)か
ら縁を切っていたからであった。

4、かっての自分が面倒を見ていた後輩の組織の一員に逆に面倒をみられる立場に
なってしまう事。これはよくあるケースで、だからこそ、年長者は後輩の将来の成
長を見据えて気を配る必要がある。だが、ここで私が注目したいのはちょっと違っ
た角度であって、アネモネさんが評したように「かえって組織活動を適当にやって
る人のほうが」仕事と信心のバランスが上手い具合になってる、、という観察が否
定できない、、そのように映って見える現実がある、ということなのである。
活動にのめり込むように我を忘れている信心の先輩の姿勢に何か健全でない、ふに
落ちないものを感じても、その瞬間にはその先輩には遠慮して言い出せない後輩。
ここには5,6年の年長差のある青年同志の心にある「永遠の通い合いと行き違い」
のようなものが見える。その当時はお互いがこれでいいのかな、とチラっと感じた
だけで、この先どちらの生き方が、という勝敗まであらそう積もりはないから、もっ
ぱら自己主張の権利は先輩だけが独占してしまったであろう事は容易に想像できたの
であった。

5、組織活動、講中信心活動にのめり込むのではなく、かといって否定するつもりも
全くない、さめた感じの人々が組織にはいた。当時、活動中心主義だった私にはこの
人々の生き方の価値がなかなか分からなかったが、ふとしたきっかけで徐々にわかり
かけてきた。

6、とりあえず、うそかほんとか確認できませんが信心活動停止した後輩の援助で仕
事が旨くいったというエッセイの紹介をした次第です。(h14/8/10)

257いちりん:2002/08/11(日) 01:09
わたしは、フリーで仕事をしてきて12年くらいになりますけど、まあつくづく感じるのは、

●チャンスというのは、たくさんある。けれども、なかなかそのチャンスを活せない。
 そのとき、こちらに実力がそなわってなかったり、金がなかったり。忙しかったり。
 実力というのは、チャンスを生かす力だなあと思いますね。

●当たり前だという気持でいると、必ずしっぺ返しが来る。
 ありがたいなあという気持でいると、いい仕事が来る。
 けれども、あるがたいという気持でいると、いい仕事がくるから、ありがたいと思わなくちゃというのでは、いい仕事が来ない。それは、取引であって、純粋な心からの気持ではないから。

●まったくあたりまえのことだけど、やはりすべては人間関係だということ。
 こいついいやつだあ、こいつ信頼できるなあ、こいつは安心できるなあ。そのように思われる器があれば、それは仕事はきますよね。

●仕事というのは、楽しくないと努力が要るし、力が発揮できない。仕事を趣味にしてしまえるのが、いちばんいいのだけれども。それには、自分が楽しめる、力が発揮できる仕事を見つけなくちゃいけない。

●なにがあっても、天におまかせ、みたいな気持だとうまくいくみたい。
 一見、どないしょう。これは困った。えらいこっちゃ、というような事態になっても、あとになったらそのことでいい方向に行くということがある。だから、凡夫の浅はかな判断で、いまくいったとか、あかんとか決められない。

258アネモネ:2002/08/11(日) 03:21
ちょっと疑問に思いましたので、レスさせて頂きます。

「頭破‥」が入った御本尊の中で、本尊集53と60は、富士年表には記載されていないようなのです。特に60は先日ご紹介した年表によると、

1279年(弘安2年)2月
*本尊を日目に授与 (本集60・桑名寿量寺蔵)(要8-222) [日興→新田卿公日目 (宗全2-112)] 「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」

とあります。これを本尊集で確認してみますと、「大廣目天王の右側に日興聖人の添書が存在したのを、削損してある。今「王」字の鮎の中に「日興」の二字が残存している」説明がされていました。

大石寺の歴史スレッドの独歩さんの(163)のレスに、この御本尊のことについて書かれてありました。以下抜粋させて頂きます。

「気になるのは弘安二年本尊で

弘安二年太歳己卯二月日、釈子日目に之を授与す、(天王の点の中に日興の二字存在す余の御加筆の文字は後人抹却したるなり) 桑名寿量寺。

2月なので、土代の記述には当たらないのでしょうか。」

この御本尊は、最初、日興上人が授与された御本尊ということなのでしょうか。
桑名寿量寺は、日蓮宗のお寺のようなのですが、日目上人に授与された御本尊がどうして日蓮宗のお寺にあるのでしょう。また、どうしてこの御本尊授与については、富士年表に記載されていないのでしょう。

259アネモネ:2002/08/11(日) 05:01
今はどうなのか知りませんが、かつて自衛隊員に学会員がとても多かったと聞きました。自衛隊と学会はどちらも組織なわけですが、自衛隊組織での上下関係が、一方の学会組織では逆転していることが多かったということを聞いたことがあります。
ワラシナさんの256)のレスを拝見しまして、そんな話を思い出しました。

職場では、仕事の出来る人が尊敬され、法華講や学会では、活動に熱心な人が尊敬されるんですね。仕事の出来る人とは、一概には言えませんが、とりあえず会社に利益を上げる人ということで、これは数字で顕されるものといえます。一方、信心活動の場合はどうかというと、お寺によく来る人、唱題をたくさんする人、折伏をよくする人、そして御供養をたくさんする人といった具合で、どうやらこちらも数字で顕されるもののようです。
数字で顕されるということは、その優劣が目で見てわかりやすく、誰もが認めてしまうところですが、でもここが錯覚というか落とし穴なのでは‥と思ってしまいます。
他のお寺はどうか知りませんが、私のお寺には、いたるところに折れ線グラフや棒グラフの大きな紙が張られていて、まるで営業所のようです。

仕事の場合、これはどうしたって、利益追求からは完全に逃れられませんから、数字がつきまとうのが現実ですね。それから逃げることは出来ないと思います。
だけど、信心の場合は本当に数字なんだろうかって、私はいつも疑問に思ってました。数字で、人のことが判断できるものなのだろうかって。むしろ数字が邪魔をして、人間性を考えることが出来なくなり、数字によって、盲信させられているんじゃないかって思うくらいです。
実際のところ、数字に煩わされるのは、会社だけでウンザリと言いたいところではないでしょうか。あっちの数字もこっちの数字もとそんなに背負えるものではないですから、結局はどっちかに傾いてしまうんですね。好きなほうに傾くものかと思いますが、信心で数字を背負ってしまうと大変なことになるかもしれません。お寺の中の人間関係に競争原理が働きますから、往々にして人間性を阻害させてしまう場合が多いです。また、仕事で数字が背負えなくなるので、生活が破綻する危険もあります。しかし、そのことを誰にも相談することが出来なくて、そうなってくると精神面さえ壊れてしまうかもしれません。何のための信心だったのかということになってしまいます。
私なんかは、信徒は数字を背負ってはならないと思うんですね。私も信心歴は短いものの、かなり危険領域にいたと思います。

結局、仕事の場合もそうかもしれませんが、数字って負うものではなくて、追ってくるものかもしれない、つまり後からついてくるものじゃないかなと思います。

260ワラシナ:2002/08/11(日) 12:02
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 14」

−リベラル中間層の存在ー
0、前回13−5で、「組織活動にさめた態度で臨んでいた人々の価値があることをきっかけに分かりかけてきた」と書いたがそのきっかけを書く。

1、学会を自分から飛び出して妙信講に移ったわけが正本堂問題にあったから、御供養勧募の事情には前から興味があって私は知りたがっていた。ある日学会経由で顕正会に入った人から40年秋頃の体験を聞いてみたが、意外な感想に驚いた。一部マスコミで強調された狂気じみた募金獲得騒動をその人は「体験していない」というのである。何でも中堅担当幹部がの供養金獲得目標を無視して「配下の会員に決して無理をさせない」という自分流の基準で処した為無理をした金額ではなかったから「いくら出したのか覚えていない」というのである。だから、顕正会員として正本堂募金のあくどさをつい強調してしまいがちな自分は拍子抜けしてしまったのであった。
 その後この種の事例はほかにも聞いたことがあった。

2、大げさに言えば、学会では40年代に入ると旧リトアニア領事の杉原氏を小さくしたような英雄が組織の中に育っていたようなのである。こう考えてみて初めてつぶれるつぶれるといわれつづけてきた学会が今もって崩壊しない理由がわかると思う。表題の、自分の頭で判断するリベラル中間層がかなりいるからである、と考えられるのである。言い換えれば、組織体制べったりそうに見えて、普段は目立たない,低評価されている彼らではあったが、隠れたところでは立派な自己主張を貫き、長い目で見た時には組織の存続、世代間情報資産の継承といった課題に於いては、彼らこそが目立たないところで大きな貢献をしていた事になるのである。

3、このような見方は私たちと同時代に隣国共産中国で起きた権力闘争紛争である、「文化大革命」に乗せられてしまった事への反省が背景になっている。権力者が人生体験なき若者を政治権力闘争にあおり彼らから真の青春の楽しさ素晴らしさを奪ってしまった事への反省である。建前だけの急進革命派に長い間圧殺されてきた実権派の価値に気がついたからであった。
私には「正本堂問題」と「文化大革命」が重なって見えるからつい言ってしまうのである。

4、結局、どの集団,教団でもよいがリベラル中間層が育っているかどうかが大事なのだと思う。
(h14/8/11)

261ワラシナ:2002/08/11(日) 13:28
no259 アネモネさん

>私も信心歴は短いものの、かなり危険領域にいたと思います。

とのことですが、これは後から振り返ったとき言えることで、危険領域のさなかにいるときには、危険とは感じられないみたいです。往々にして本当に危険なときは絶望的なくらい孤立していますから一人で苦しむ。
。かっていた顕正会では「機関誌の立替」という有名なご奉公があり、これは「前回同様1割増という機関誌啓蒙のノルマ」のために一人で多部数取らざるを得ない修行なんですが、機関誌集計日の集会の陰惨な情景を思い出すたびに今でも恐怖で脂汗がにじむ思いがします。
ところがその当時はそうやって苦しんでいる事こそが修行と思っていますから、変なゆがんだ形の達成感で充実してたりするんです。
あれは恐ろしかった、などとは今始めて口に出せることで。

262犀角独歩:2002/08/11(日) 13:42

258 アネモネさん:

曼荼羅に興師の筆が入ったものがすべて興師授与の曼荼羅を他に譲ったという意味ではないと思うのです。しかし、この辺の事情は憶測の域を出ません。

富士年表に載らない曼荼羅、よくお気づきになりましたね。
なかなか興味深いところです。

> 桑名寿量寺は、日蓮宗のお寺のようなのですが、日目上人に授与された御本尊がどうして日蓮宗のお寺

このようなことは往々にしてあるのではないでしょうか。
桑名寿量寺の縁起は私は存じませんが、第一、曼荼羅は市価で取引されることもあり、また、寺院があとから流れを変えることもあったでしょうね。

仮に興門から他門に変わったとき、興師の筆を卑下・侮蔑し削り取ることは起きえたのではないでしょうか。石山末寺曼荼羅にあった「法華総講頭池田大作」の名を漆で埋めてしまうようなものです。

263いちりん:2002/08/11(日) 15:13
わたしなりに「危険領域」ということを考えてみましたが、
「選択肢・オプションがない生き方」という状態かなあとも思います。

オウムの出家信徒が言っていたことで印象深かったのは、
「ここを離れたら、どこに行ったらいいのかわからない。ここしか、人生はあり得ない」
ということばでした。

で、これは、オウムのみならず、ほとんどの人にもいえることで「サラリーマンの人生しかありえない」「この会社以外の人生はありえない」という人も多いですし、
そして、宗教になったら、まさにこの「教団以外に、行くところがない。この組織以外には、人生はあり得ない」という人は、とても多いと思います。

組織を離れたら、路頭に迷うとか、地獄に堕ちるとか、罰に当たるとい恐怖もありますし、それまでの人生において、絶対に正しいと信じ込んでいますから、それ以外の選択肢がないんですね。

で、これは「依存」ですね。「執着」ですね。とても「不自由な生き方」です。

どんなときにも、どこにあっても、いろんな選択肢がある。
まあ、なんとでもなる、どうにでもなる、という生き方、それが自由な生き方だと思いますね。
もちろん、組織で生きるのも、選択の一つですね。

要は、「それしかない」という選択の狭さ、そこに落ち込むと、危険領域ですね。
どこにも縛られないし、依存しない生き方を、ブッダは説いているのだと思います。

ダンマパダに、こんなことばもありました。

ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。305

愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがいい。孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。――林の中にいる象のように。30

旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。61

264ワラシナ:2002/08/11(日) 20:21
「私にとっての危険領域」

最近やっと気がついたのが、「無意識的に陥っていた心の中の或る偽善」というやつです。「快不快、苦楽と言う最も素朴なレベルを感じたとおりに正直に表現しなかった誤り」
で、いってみれば、まずい料理をおいしかった、とまげて言うような心の癖、です。

これはたとえ一人になっても心に巣くっているものだから始末が悪いと思う。
本当に正直に感じたまま心と体を動かすのは難しいと思う。

265いちりん:2002/08/11(日) 21:21

>「快不快、苦楽と言う最も素朴なレベルを感じたとおりに正直に表現しなかった誤り」

自分の心に正直というのが、とっても大切だなあと、思いますよね。
おもしろいものは、おもしろい。つまらないのは、つまらない。いやなものは、いや。
それが、大切と思います。

なかなか宗教を学ぶと、理屈で頭がいっぱいになって、あれやこれやと理由をつけて、自分の心に不正直になることがあります。

ある方から、「三歳ごころが大切」と教えられたことがあります。
いろんな宗教団体があるけれども、学べば学ぶほどに、子どもごごろに帰っていくのがよいのだと。

自分の心、表面意識じゃなくて、深い心の底といいましょうか。
そこの部分で納得して、生きていく。

頭で考えるより、そういう身体細胞レベルとでもいいましょうか、身体感覚というか、腑に落ちるというか、そういう次元で、ものごとをとらえていこうとする。それが、大切だなあと、わたしは思っています。つまり、頭の智恵よりも、からだの智恵のほうが、より深くて正確であると。

本仏がどうたら、久遠がどうたらと理屈で探求しても、それを受け止める器そのものの、みずみずしさがなければ、意味がないのかも。
小難しい理屈よりも、朝の露の珠が、光にあたって輝きわたる。そんなところに、美しさを感じられる感性が大切だなあと。。

266犀角独歩:2002/08/12(月) 03:36

> まずい料理をおいしかった、とまげて言うような心の癖

戦前・戦後を通じて、日本人が美徳してきたことを、うまく利用して人を操ってきた宗教団体の構造を見事に言い表した言葉であると思います。

危険領域というのは、また当を得た表現であると思います。

私はこの言葉を聞いて、Karl Jaspers の妄想の定義をまた思い出しました。
「間違った考え」「強い確信」「訂正不能」
自分が間違った考えであるかどうかはなかなかわからないのです。けれど、自分が一度言い出したことを引っ込められない、訂正できない、さも確信ありげに語るなどの特徴が、自分が間違える可能性が計算されていない場合、間違いなく危険領域に入っているのだと思います。「確信を持て」は宗教団体では美徳ですが、精神衛生上では危険領域ということなのでしょう。

妄想という点ばかり、先頃来、私は論っていますが、しかし、「確信」世界の日蓮門下には、自己点検として意識しておくべき点だと思うのです。高橋紳吾師は

精神病理学的に、妄想の言語構造論的分析をすると、簡単に言うなら「妄想とは欲望が変形したものだ」

と話していました。「こうあってほしい」が拡大すると、自分の願望が宗教教義の絶対性の肯定に反映された結果、訂正不能となり、それがまた強い確信にもなっていくのでしょう。

信じているものは絶対であってほしい、祈りは叶ってほしい、だから、考えが訂正できないという相互関係が無限連鎖の抜け出られない呪縛を生んでいくのでしょうね。そうして、ついには、まずい料理をおいしかった=間違った教義を正しかったと自分に言い聞かせる精神の地獄にはまっていくのだと思うのです。

267アネモネ:2002/08/12(月) 23:45
262) 犀角独歩さん

ご説明ありがとうございました。
一瞬、これがもしや弘安2年の日興上人に授与された御本尊だったのでは?と思ってしまいました。もちろん、究極の本尊といったものを、いまだに追い求めているものではないんです。セーガンではありませんが、やっぱり、単純に「知りたい」からなんでしょうね。
何を知りたいかというと、それは突き詰めると人間の心の傾向性なのかもしれません。
大石寺の歴史って、知れば知るほど、とんでもないなぁというところが見えてくるわけですが、だけど実は、皆が持っている人間の心の傾向性、業とか性というものかもしれないなと思ったりもします。つまりは自分の中にもあるものなんだろうと思うと、余計に知っておきたくなるんですね。それこそ自己をみつめる、手懸りになるものかと思ったりもします。

268アネモネ:2002/08/12(月) 23:50
260 261 ワラシナさん

「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 14」−リベラル中間層の存在ー

すごい観察と分析だなと思いました。特に、

>普段は目立たない,低評価されている彼らではあったが、隠れたところでは立派な自己主張を貫き、長い目で見た時には組織の存続、世代間情報資産の継承といった課題に於いては、彼らこそが目立たないところで大きな貢献をしていた事になるのである。

私は、これすごく重要なことだと思います。
歴史的にきちんと追って確認したことではありませんが、キリスト教は宗教改革以降、ワラシナさんがここで指摘するようなリベラル中間層が台頭してきて、今日のようなある程度カルト的ではない組織の実現に至ったのではないかと思います。とはいっても、無教会派を主張する人たちもいるわけですから、組織悪的傾向が根絶されたものでもないのでしょう。

>権力者が人生体験なき若者を政治権力闘争にあおり彼らから真の青春の楽しさ素晴らしさを奪ってしまった事への反省である。

社会も人生をも知らず、ただエネルギー溢れる青年たちに、イデオロギーを仕込んで洗脳するとはいとも簡単なことで、スイッチを押せば、勝手に動いてくれる存在だったことでしょう。
私は、創価学会の躍進と、団塊の世代、そして学生運動が重なるんですね。私は、その頃小学生でしたから、詳しいことを知っているわけではないのですが、たぶん大半の同年代が影響を受けていると思います。どちらかといえば、反面教師のような感じでしょうか。私が高校生の頃、三無主義(無気力・無関心・無感動)とよく言われたものです。「しらけ派」という言葉もありました。
イデオロギーに対して熱くなったり、大同団結したり、連帯感求めるといったことに、なんかしらけてしまうんです。それが本心からなのか、どうなのかよくわからないです。ですから同世代で創価学会に熱心な人の心を、知ってみたいような気持ちにそえなります。
だけど、オウムに嵌ってサリンを撒いた実行犯の大半は、私たちの世代(昭和三十年代生まれ)でした。また、最近の変な殺人事件を起す犯人に、同世代の人が多いのです。これは青春時代に、変にしらけてしまったことの、しわ寄せがきているのだろうかと思ったりもします。何か屈折しているんですね。
世代の問題ではなく、このへんのバランス感覚というのは、とても大事だなと思います。

269ワラシナ:2002/08/13(火) 23:06
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 15」

*-1今回は若干経済から離れた話題だが、深い話題なのでここに含めさせていただいた。
*-2主張命題「私は宗祖仏法の特徴をその実行面から観察すれば、それを「当たり1/4、外れ3/4位の比率の、服用法が難しい特殊な漢方生薬、或いは香辛料一般の持つ効能」に喩えられると考える。」

0、前回「信心即生活」を理想的な形でやってのけている信者は全体の四分の一程度ではないかとの予想を述べた。そこで今其の根拠を述べる。これは身近な教団現実を正直に観察したことから来ているものである。学会、顕正会、正信会、法華講の内、前三者は正式信徒として認められなくなってしまった事、これを言う。議論展開の上でとりあえずこういう乱暴な扱いしたまででを前三者に属する人々を差別したり見下したりする意図は毛頭ないのである。この四者は元全員が正式な正宗信徒であった事実を強調したいだけなのである。
そして、その四分の三が正式門徒としては脱落してしまった(或いはさせられたのか)事の意義を強調したいのであった。
 正しい信仰をしている信者のうち四分の三がおかしくなってしまった実績を数字で表現したのが「当たり1/4、外れ3/4。」の言葉なのである。けっして四分の三の異教徒がおかしくなったのではない。元からおかしかった人々ではないのであった。真面目にやっていた筈の正宗信徒の四分の三がおかしくなってしまった事実に注目したのである。あるいは当人からみればおかしな結果になってしまった事、としても良い。

1、この事実をもっと広く視野を広げて観察すれば「急速にはびこって急速にしぼみ、ある時期最初勢力の殆どがダメになる特徴」が日蓮系教団の歴史に観察出来ると思う。その例をあげれば、
1−1、御在世教団では、龍口法難の折の退転者の比率が「一千中990人(種々御振舞抄)」だったこと。
1−2、御宗祖滅後身延山での五一相対では六分の五がダメになった、という石山的史観があること。
1−3、佐渡御書では、「仏になるものが殆どいないくらい少ない、殆どがダメになる(趣意)」との宗祖のご発言がある事。
1−4、中世天文法難では洛中を席巻したほどの日蓮宗19本山が壊滅的打撃をこうむった事。
1−5、上古大石寺では70年間続いた東坊地領有権紛争の影響で衰亡の危機を迎えた事。
1−6、近代戦前の学会は当局の弾圧で大半が退転したこと。

1−7、更に現代に移って平成の宗門と学会抗争の結果、最大信徒数を抱えた学会が離れた為勢力が激減した事。

1−8、今度は量的に見るのではなく信者個人に注目して観察すれば、上の量的な激減の影響から免れる事は出来ない。個々の信者の人生履歴の上にも、よく観察すれば、「浮き沈みの激しい教団史に翻弄される」その特徴が顕れていると観察されるのである。
量的な見方で本質を代表してしまえば、大半の信者が「人の出入りの激しい教団」の中にあってその影響を受けているから、自分一人だけ平然と呑気な程の信仰人生を遅れた人は例外扱いされてしまうのである。

1−9、ここで二、三の信者信仰履歴を体験事例としてお名前を出しては申し訳ないと思うのであるが、掲示板公開の情報を利用させていただければ、

1-9−1、独歩さんの人生遍歴などはご自分で「人生を棒に振った」旨の宣言をされ、落とし前をつけていらっしゃる事でも明らかなように「人生の最初の四分の三が失敗であり、残りの四分の一程度が成功(或いはもっと失敗率が大きい)」、として観察される、、と思う。

1ー9−2、ついで無徳さんも似たようなもので、「人生の最初の四分の三が失敗であり、残りの四分の一程度が成功」、として観察される

1ー9−3、私ことワラシナなど自分で今から総括すれば13年学会+19年間顕正会の32年間が失敗であり、平成11年法華講移籍の3年間が成功という感じをもっている。もちろん当時は「最高の大当たり!!我が青春に悔いなし」人生だと思っていたし、中盤19年間の顕正会人生は「死ぬ気本気」だったから今でも「当たり人生」の感を持っているが、、、、、。但し、今から思えば欲が出て平成元年頃顕正会を除名されてしまった方が良かった、という後悔が出てきた。

以上、時間的な尺度でいえば、一部の浮き沈みの激しい信者に関して言えば、「人生の最初の四分の三が失敗であり、残りの四分の一程度が成功」と評し得ると思う。これは「42年間権教方便で後八年法華真実」の権実相対教判にチョット似ていて面白い。これによれば偽ものの人生期間の方が長いのが当たり前なのかもしれない。もちろん人生の最初から大当たり人生の人も居ると思うが。
勿論ここで使った「あたり、成功」「外れ、失敗」とは、飽く迄「理想的な信心即生活の実現如何」の観点のみに注目しているものである。
(続く)

270ワラシナ:2002/08/13(火) 23:11
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 15」(続きA)

2−0、「当たり1/4だけに注目して、外れ3/4に目を瞑るのではなく、逆に外れ3/4だけに注目してに当たり1/4に目を瞑るのではない。」この全的見方の自然さをなんとか美味い具合に表現する事は出来ないものかと前から思案してきた結果思いついたのが、タイトルの「宗祖仏法信仰の効き目というかその特質と香辛料や漢方処方の考え方とのアナロジー」だったのである。

2−1、
この考えの一番の利点は宗祖仏法を受付ようとしない(入信しようとしない)信仰拒否態度の自然さが適切に表現される点にある。

それは、「香辛料を全くつけないで食事ができる人の自然さ」として解されると思う。
ここでは香辛料としてラー油を例にとって、香辛料常用態度と信心態度との対応を私なりの観察してみる。

全くラー油を受けつけない人=信心拒否者
少したらして満足な人=信心即生活が美味くやってのけられる人
タン面の表面全体が真っ赤になる程かける人=10時間唱題毎日やる人

上の分類に示されたものの見方でで注意すべきは、すべての態度が任意、自由なものとして認められている事である。三者の誰もが他の態度を排斥する事が出来ないのである。少々垂らして満足な人からみれば、真っ赤になるほどかける人は普通は「馬鹿扱い」だろうが好き好きな世界だから否定は出来ない。

また、入信拒否者に正当性根拠を与えた考えだから、信心否定も自由とする分類ともなっている。

さて、この見方では香辛料常用の世界に入った事=すなわち信仰信者になった事を意味する。そこで「当たり」は分かるけど「外れ」をどう解釈するのかといえば、「香辛料の配分、かけ方に問題があったから」と考える。

2−2、この考えの2番目の利点は、「当たり外れ」を症状として見て、その原因を「個々の信者の体質の違い」と「生薬の配合・処方」のミスマッチと解釈できる点である。従って何故はずれが四分の三も出てきてしまうのか、は、元々「服用法が難しい特殊な漢方生薬」としての宗祖仏法そのもののあり方に四分の三も欠陥部分があるのではなく、服用する信者の側に対する「個々の信者の体質の違い」に対するノウハウに未開拓な部分が(現在から見れば)四分の三程度残っている為ではないかと思うのである。従って今後の取り組み如何では「外れ率」を激減させることが可能とする立場なのである。現状では服用法が完璧でないために外れが出ているのであって、将来的には外れがなくなり当たりばかりになると予想しているのである。

但し勿論、服用法の不適切さとは見ず、特殊な漢方生薬に喩えられた宗祖仏法そのものに四分の三もの欠陥があったからだとする解釈も否定はしない。

(続く)

271ワラシナ:2002/08/13(火) 23:13
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 15」(続きB)

2−3、つい最近までの傾向では機根については一様に聞法下種だから「強いて説き聞かすべし」で乱暴に扱っていたのではないかと思われる。例せば、自分の体験では精神疾患系の信者に対しては各人の素質を考慮せずにはいられない。普通一般の信仰基準を押し付けると望むところの信心増大が得られず、失敗する。飽くまでその人にとっての快適さを保持しながら接する特殊なノウハウが必要なのである。

3−0、
このような「人間構造的な機根ノウハウの欠如」と1で指摘した「急速な繁茂の後に急速に落ち込む」教団史とは何か関係があるのではないかと予想するのである。

ここでいう機根とは天台宗教義にあったようなものよりもっと生々しいもので精神医学、精神病理よりの概念のものを想定していっているのである。これに対する顧慮が教界では欠けているように思う。この原因は無理からぬ事であった。なぜなら御書に登場する人物像の類型を見ればわかる。近現代人には濃厚な神経症的人物像がほとんど出てこないからである。禅定修行では悪しき症状とされる遅疑逡巡する人物像がほとんど出てこないのは当然かもしれないが、丸で頭の中では何も考えていないかのようで、思い立ったらすぐ行動しているような人物ばかり登場しているからである。まるで鎌倉御在世での人間性基準の常識というものが、「人間の思想とは意識になんかには無くではなく行動そのものなのだ」といわんばかりの見事な割切り方をしている人物ばかりである。これが当時の常識であったなら現代的な神経症的人間像、病理学的人間像へ肉迫する事はまだ無理だったのだ、と言えよう。
これを環境的に言えば、当時では思想の自由も表現の自由もそれほど無く選択肢がない状態だった、これが当時の常識だったからなのだと思う。
前に書いた「鎌倉遺文的に感受すること」とそれを「平成現代的に表現すること」との微妙なギャップとはこれである。

3−1、教界では人間の価値を何かの所産、何かからの結果で決め付けることに忙しい。決して人間を何かの能産・原因として扱おうとしていない。従って、人間それ自体の価値が信じられず常に疑う傾向である。だから人間それ自体の可能性探求には興味を示さない。「言われたことだけおとなしくやってりゃそれで良い」という人間観だから。
(h14/8/13)

272ワラシナ:2002/08/13(火) 23:19
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 15」(続きC)
-訂正-(続きB)
「なんかには無くではなく行動そのものなのだ」中の「ではなく」を削除する。

273いちりん:2002/08/13(火) 23:51
ワラシナさん

なんか、よくわからないけど、とてもおもしろいです。
もいちど、じっくり読みます。
ワラシナさんらしい投稿、楽しみにしている人が多いです。

274犀角独歩:2002/08/14(水) 10:03

せっかくのワラシナさんの考証だから、途中で余計な管見を述べることはやめにします。けれど、ちょっと、私の名前が出ていたので、そこの部分だけ補足させていただきます。
> 独歩…「人生の最初の四分の三が失敗であり、残りの四分の一程度が成功(或いはもっと失敗率が大きい)」

私の人生時間をワラシナさんの記述に添って表せば
        35年学会+5年間法華講の40年間が失敗…以後、脱派・社会運動で
> ワラシナ(さん)13年学会+19年間顕正会の32年間が失敗…法華講3年間が成功

というワラシナさんの人生と私の人生では、石山法華講に対する見方が180度違っている点が興味をひかれます。私の40歳以降の人生が成功か、あるいは失敗率が高いのかは現時点では答えを出さないこととしますが(どちらかといえば成功、確実な方向性と認識していますが)、しかし、ワラシナさんは法華講を成功とされるのに対して、私は法華講を創価学会の経験以上に失敗であると考えています。この点だけ補足させてください。

275いちりん:2002/08/14(水) 10:48
日蓮主義というのは、「幻想を抱きやすい」ことが特徴といえましょうか。
たとえば、────。
日蓮さんの「予言」的な要素があります。やれ戦争が起きるとか、同士討ちになるとか。
そして、「使徒意識」といいましょうか「殉教意識」を鼓舞します。まあ地湧の菩薩につらなるのだという意識です。
「国家とか政治権力に対するビジョン」みたいなのがあります。国立戒壇だとか、国家諫暁だとか。
そして「選民意識」みたいなのがありますね。おれたちこそ正しい、おれたちこそ仏意仏勅。それにひきかえ、あいつらは地獄だ、謗法だ、魔だといってしまう神経。

でもって、若いときには、盛り上がるわけです。さらには、「幻想の共同性」みたいなもので、なんかこのままいくと「広宣流布が実現するぞぉ」みたいな浮かれた状態になる人たちもいたり。

ところが、所詮は、「幻想」でありますよね。
「幻想」というのは、自分の内側にあって「なんとかしたいなあと思っている理想」が投影されたものですね。組織とか、教義とかがいわば映し出されるスクリーン。映し出すのは、自分の内部の「欲望、欲求」ですね。それも、「抑圧されたはけ口としての理想」が投影される。

つまり、自分の欲が外部のスクリーンに映し出されているのだから、やはり現実は、つじつまが合わない。自分の理想通りではないということが、徐々に、わかってくる。

そうして、「失望」するわけですね。
しかし、それはスクリーンに失望するので、また違うスクリーンを探し出す。
こんどは、もっとましな組織とかドグマに出会うと、それに対する理想がまた起きる。
でもって、まついつか失望する。必ず失望する。だって、映し出す内部のメカニズムを観察しないからですね。

映し出す内部のメカニズムを観察しなさい。その虚構性を見破りなさい。──というのが、ブッダの道なのでありましょう。

276ワラシナ:2002/08/14(水) 15:10
274 独歩さんへ。 「石山法華講に対する見方の違い」について。

0、私の法華講入講が「当たり」だったと思うのは、前居た顕正会との比較で言えた意味が大きいのです。前居た会社がひどすぎたからそれから比べれば今は天国だ、みたいな感じから言ってるのです。
一般に転職者というか会社を辞める人の心理の中で辞職を決断させる原因の一つに「今の職場で味わっている苦痛と前の職場体験で味わっていたものとの居心地の良さの比較」があると思います。従って今の職場を辞めない人の心理も同じで
前の職場体験(居心地よさ)との比較心理が働いていて、今の方が前よりよほどマシ、と思っているからだと推測するものです。

1、私にとってなぜ、この法華講在籍の二年間が「当たり」だったのかは、あとでその間感じたことなどを色々書こうと思っていますが、
何と言ったらよいか「雰囲気が水に合っていた」「幹部でないただの平講員だからノルマがない」「会合が少なく束縛される時間があまりないから気楽」という自分中心に見た事情が大きいと思っています。

それと一番大きく効いていたのは何と言っても「もうここは顕正会じゃないのだ、もう無理して全面的に共感した振りしてまで浅井会長の指導を飲み込まなくてもいいんだ」という開放感に浸された喜び、だったといえます。
それと、別に顕正会じゃなくても法華講にいても清純な信心は維持できそうだ、と感じたことも大きかった。

2、、ところで、独歩さんの法華講体験の低評価、とことん失望も、わかるような気がします。理想を求めようとすると傷つかざるを得ないような何かがあった、と予想してます。

277犀角独歩:2002/08/14(水) 15:32

ワラシナさん:

> 法華講体験の低評価、とことん失望も、わかるような気がします

こう、ご理解いただけるだけでも充分です。
どうぞ、考証をお続けください。

278ワラシナ:2002/08/14(水) 16:30
275 いちりん さんへ。

>日蓮主義というのは、「幻想を抱きやすい」ことが特徴といえましょうか。

*上の一行は全く日蓮主義の欠点を突いていて痛く感じられます。何故そうなってしまうのか以下に色々考えてみました

0、御書をよめば、本当に知らねばならない範囲が自己の煩悩以外のもの迄広がっているように見えます。これは、特に佛国土建立を言った立正安国論の影響が大きいと思う。これは自己の外側、社会への関心を促したものだから、それにこだわる姿勢の反動で自己の煩悩滅却という出発点への執着が薄れてしまった、と考えられます。

1、宗祖の本来の唱題行にも心のあり方を見詰めるビパッサナー的要素があるのだが、これが忘れられてしまって、宗祖の使った「事の」という単語が「佛国土実現」の意味を含んでいる(ここでは含んでいると仮定して言う)からと言って、題目がいつでも何かの闘争目標実現の為の修行のようにその仏法的意義範囲が狭められてしまっている感を受けます。
 だから、ご指摘の日蓮主義の思想傾向の非仏教性という欠点が出てきているのだと思います。

2、大体、日蓮主義が注目される時と言うのはその思想価値が直に評価されると言うのでは無しに、何か社会を騒がせた、事件を引き起こす、から注目されて来たのです。
決して、一般的な人間自体の心理、真理に関して日蓮主義、日蓮教学が何か新知見を齎す、と言う形で他の人文学がしているような形での社会に対する寄与が見られない、これが自分には哀しく感じられるのです。これがもともと実現不可能ならばこれからの人類的な課題に対して日蓮教学は無縁のものとなってしまうと思う。

3、では、宗祖は人類全体に通底した何かの人間学的真理を何も残されていなかったのか、といえば、私は「これからの人類にとって必要になる大事な思想を残された」と思っています。それは何かと言えば「人類にとって一体家族とは何なのか、それに対する回答が宗祖仏法であった。だから宗祖仏法の本質は「家族教」として括れる」とする考えで、この点では伊藤瑞叡氏の「聖人が人類的規範としたのは菩薩誓願行」という大構想に少しは似ています。(h14/8/14)

279ワラシナ:2002/08/14(水) 16:41
no277,独歩さんへ

>どうぞ、考証をお続けください。
休暇がもう終わりそうなので考証はすこしお休みになります。

280いちりん:2002/08/14(水) 18:35
ワラシナさん
>一般的な人間自体の心理、真理に関して日蓮主義、日蓮教学が何か新知見を齎す、と言う形で他の人文学がしているような形での社会に対する寄与が見られない

親鸞が、いわゆる知識人に大きな影響を与え、道元は、世界に誇りうる哲学の深さを示していると言われたりします。しかし、日蓮はというと、どうも一般的には馬鹿にされているのは事実ですね。

なんか、「現世利益」「国家主義」の親分というイメージが強いですもんね。
たしかに、「難に遭っても負けずに信念を貫いた人」と思われていますが、しかし、思想的な深さ、実存的な深さはないとみられている。教義も哲学性は低くて、形式論理を展開している。優劣、勝劣にこだわっている偏狭な人、自分だけが正しいという傲慢な人。そういうイメージでしょうか。

そしてまた、日蓮系の新興教団の信徒たちの論議を見ると、自分自身のあり方はほっといて、こちらが正しい、おまえは間違っているみたいな情けないやりとりが多い。また、新興教団のトップの人間性が、やはりなんというか、勲章コレクターのようになっていて、あんましみっともよくない。……など、と。

>宗祖は人類全体に通底した何かの人間学的真理を何も残されていなかったのか、といえば、私は「これからの人類にとって必要になる大事な思想を残された」と思っています。

「難に遭っても負けずに信念を貫いた人」だとか「末法の御本仏」みたいな日蓮イメージは、どうもあかんなあと思いますね。

「難に遭っても負けずに信念を貫いた人」って、いまどき、魅力はないし。「末法の御本仏」などというのは、いわゆるドグマ、思いこみでしかないわけだから。

日蓮さんは、「これからの人類にとって必要になる大事な思想」を残されたのでしょうか。それつて、なんなのでしょうかね。

ある意味では、それって日蓮を「わたしたちとおんなじ人間」としてとらえるところから、出てくるように思いますよね。

281犀角独歩:2002/08/14(水) 19:27

ワラシナさんの考証はいったんお休みに入るそうなので、では、私なりの感想を少し。

基本的に日蓮の教えも、なにより今日の石山法華講においても、「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題」など、そもそも元より問題にされていないのだろうと思うわけです。

日蓮信徒であった富木氏、四条氏、池上氏などの武士階級には、そもそもこの問題は無縁でしょうし、農民信徒といえども、改宗以降、日蓮の教えの元で「飯を食う」ことを想定したものではなかったでしょう。

戦後の創価学会、顕正会、また法華講にしても、「信心したら幸せになる」という極めて無責任なかけ声で、信者の活動参加と寄付(供養なんてものではない)を煽って、教団の発展と宗教法人職員(僧侶・本部職員)の経済的安定を目指してきたわけです。ここで信者のことなど、少しも考慮されているはずはありません。あるのは「信心強盛ならば経済的にも、生活は安定する」という“御本尊任せ”の放任主義が罷り通っているだけでしょう。

しかし、例えば創価学会はそれなりの共同体を構成し、“むしり取る”案配をしっかりと掴んでいるから、信者は、一般生活を守りながら、信心と生活を両立させるバランスを掴むに至った。これは、“問題”を解決したと言うより、宗教専従者(本部職員)の食い扶持を大多数で賄うから、一個人の負担が低下しただけの理由によるわけでしょう。

それに対して、石山は、学会との蜜月時代には500万規模の信者の搾取から、一挙に10数万程度に激減した。おまけに池田さんへの怨恨から建物を壊しては建て直すなどの暴挙を繰り返し、年に4回の登山を義務づけるなど、およそ常軌を逸した信仰という名の下の搾取形態を実行するに至っているわけです。これらはしかし、信者の経済問題ではなく、考えられているのは、単に石山と宗教専従者(僧侶)の生活のみです。

いまの石山の打ち出しは、広宣流布であるとか、日蓮主義であるとか、そんな高尚なものではなく、単に坊さんの食い扶持の確保、経済構造の構築に主眼が置かれたものであって、宗教的な理想とはまったく何の縁もゆかりもないものでしょう。

このようなところで、賢明な信者がなすことはただ一つ、適当な距離感を掴み、坊さんの言いなりにならないこと。石山の打ち出しは信仰とは関係なく、自分たち(僧侶)の飯の種にもっともらしい屁理屈をこねているだけという現実を見極め、自分たち(信者)を鴨ネギ扱いしている実態を知り、信仰は個人のものであるという原点に戻ることであろうと思うわけです。要するに生活の負担にならない、もっといえば生活を豊かにする宗教関与の仕方を自分たちで見つければよいわけです。

折伏は本来、僧侶の仕事、在家は個人と過程の幸福を願って、生活上の、精神面を豊にする目的で信仰を利用すればよいわけです。

私が過去40年間、「創価学会のため、池田先生のため」あるいは「日蓮正宗のため、日顕上人のため、寺院のため、ご住職のため」とやってきた失敗は、要するに「自分のために生きていなかった」ことが失敗なのであって、反面40歳以降、それがボランティアその他の参画であっても自分の意志で、自分の人生として考え直したことが成功であったと考えているわけです。つまり、与えられた線路=失敗、自分の人生=成功という縮図であって、けっして「信仰の名の下の隷属化、搾取を許さない」という生き方を確立できたことを成功といっているわけです。その意味で、法華講に入ったことが成功であるというワラシナさんの発言は私にはまったく理解できないわけです。ただし、記されている大方の考証はもっともであると思うところはたくさんあります。

ここで理解できないと言うのは、今の石山には、元来、目的とされた富士戒壇建立の意志もなければ、広宣流布の意志もない、つまり萎えた理想の代わりに食い扶持の確保だけに追われる餓鬼道だけが横行している。そこで、経済効率から、鴨(信者)にネギ(供養と労働力・忠誠心)を背負ってこさせるために役職だなんだと個人の優越感をくすぐる換言すれば修羅界(勝他の念)の斡旋で「信仰心があるという自惚れ」を増長させて人を動かす構造に身を委ねることが信仰であるとは思わないと言う意味です。

率直に言えば、その意味に置いて、ワラシナさんに「法華講3年間が成功」と言われると単に踊らされているだけではないのか?と、思えるわけです。

まあ、歯に衣の着せることは綺語であって仏戒に背くという見地から、敢えて思うままに記させていただきました。

どうも全体の文章は頷けるのですが、「法華講3年が成功」という一点だけは引っかかります。法華講以外の自分の生き方に戻ったことが成功というのであれば、納得はできるわけですが。

282ワラシナ:2002/08/14(水) 23:03
no280 いちりんさんへ

0、
>しかし、日蓮はというと、どうも一般的には馬鹿にされているのは事実ですね。
>思想的な深さ、実存的な深さはないとみられている。教義も哲学性は低くて、
>形式論理を展開している。

1、上のように私も感じていたんですが宗祖本佛論の論理構造を考えていて、信者になって初めて宗祖の頭の空前のよさに気がつきました。これほど頭のよい方ならもっと本気になって信心しても後悔することにはならないのでは、、と思いました。

>「これからの人類にとって必要になる大事な思想」それつて、なんなのでしょうかね。

2、これは私の当てずっぽでして、家族という国家民族の下位に位置するちょっと中途半端な共同体の意義が、釈尊論の教義の上から捉え直されているように感じたんですね、「眷族妙」として。
それと宗祖はご自分のご家族のことを片時も忘れていないですね。そこから「永遠の家族」のような発想があったのじゃないかと予想したのです。家族にこだわったのも、いわば独特の普遍化された家族概念に基づいているんじゃないか、という予測です。

3、これは自分の予測なんですが、現代の暗闇は大抵家族問題にあると思うから、将来の人類もこれで悩むと思う。経済のグローバル化は経済弱者の切り捨てを助長し勝ちです。人々は男も女も経済という中性的なものの確保のために心身をすり減らさざるを得ない。これ自体が性本能の反対方向なので高齢晩婚化とともに身体や嗜好の変化を生み、経済の不安回避を第一目的とする為リスクを避ける生き方をせざるを得ず、これは性本能の犠牲に等しいと思う。これは結婚に結びつくような異性間の恋愛においては、その恋愛自体が持つゲーム的面白さ(偶然性)に身を委ねる傾向が少なくなる事につながる。そうすれば、人々は結婚と恋愛を分離するようになる。
そうなれば、今日の欧米圏に見られる傾向のように血縁的家族にこだわる必要がなくなってくる。また、生殖が性本能に依存しないで可能になったことがこれを助長して、血縁的家族概念に変わる普遍化的(永遠的)家族観が求められるようになる。

またこの傾向は一方では「家族消滅論(偶然的家族論の極限)」を助長する。これは人類全体がその生殖を拒否する「永遠的シングル人類、永遠的チョンガー人類」になることに等しい。
実は「仏教の出家非婚思想」はこの将来人類の生殖観を先取りした考えであったのかもしれないのである。

宗祖にはかような二種の家族観があって人類の将来の為に備えていたと考えています。
その他にもありますが時間がないので又の機会にいたします。

283ワラシナ:2002/08/14(水) 23:54
no281 独歩さんへ、「私にとって法華講3年が成功」の意味。

0、>あるのは「信心強盛ならば経済的にも、生活は安定する」という“御本尊任せ”の放任主義が罷り通っているだけでしょう。

このご指摘が重要で、いずれ将来、「信心すれば、、、こうなる」式の無責任な折伏トークが詐欺行為扱いされるのではないかと懸念しています。
私が「服用法がとても難しい特殊漢方薬」として、宗祖仏法をたとえたのもこのご指摘への対応を考えていたからです。

1、>「法華講3年が成功」という一点だけは引っかかります、、。
何度もいいますが、自分中心に振り返ってみて「今のところまあまあ当たり人生」と思えたから成功としたに過ぎません。
宗祖仏法の理想から見て今の教団現況を裁く基準では、確かにおっしゃる通りお話にならないような欠陥があると言えばあります。
そんなところにぬくぬくと身を置いていて何が成功だ!といわれれば確かに私は堕落してしまったのでしょう。

しかし、私はあなた程板御本尊を拝みぬいていないからまだまだ執着と未練があるのです。本山参詣なんかもやはり大きな楽しみですし、。ご批判は現状の教団体制、機構制度の大改革がない限り直らないから信者にできることはご助言の通りであります。

2、それとかかる環境においても先輩同輩の方々の信心の姿勢の美点に触れる楽しみ、というのがあり、そういう感動がこの二年間にあったこと、これが躊躇なく「成功」という単語を呼び出させたのです。
具体的に言えば、自分も他人のお世話をよくするほうなんですが、もっと凄い人が一杯いてその人のいのちに感動したことがあったから。

284犀角独歩:2002/08/15(木) 12:23

ワラシナさん:

別段、私は批判したつもりはありませんし、また、板曼荼羅を拝みきってもいません。

> 先輩同輩の方々の信心の姿勢の美点に触れる楽しみ…感動…「成功」
> 自分も他人のお世話をよくする…もっと凄い人が一杯…その人のいのちに感動

このような点は別段、批判しませんが、これは何も法華講という狭い井中に係るばかりではなく、外にはさらに多くの善意の人たちがいます。また、法華講が善意の団体であるという感動はけっこうなことですが、残念ながら、こんな認識をしている一般人はいません。石山は単に学会といがみ合って、日蓮に泥を塗っている、憎悪によって動く以上集団だというのが大方の見方でしょう。こんな現況にあって「成功」を享受するとは、ワラシナさんらしからぬという感想を述べたものです。

ただし、これは私に対する「残りの四分の一程度が成功(或いはもっと失敗率が大きい)」という分析において、法華講の井中でご自身を成功と言いながら、一般社会の善意の知識人・実践家と連なって10年足らずの基礎を固めてきた私のほうが「或いはもっと失敗率が大きい」などとする理解の仕方に対する疑問でもあります。

私は脱派後の自分の歩みを一度たりとも「失敗率が大きい」と考えたことはありません。むしろ、法華講に寄生するほうがリスクははるかに高いであろうと、己の法華講経験から思う故、係るワラシナさんの、無徳さん・私との比較は、当を得ていないと思った次第です。しかしながら、これは「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題」全体に係る疑問ではありません。

285ワラシナ:2002/08/15(木) 20:58
独歩さんヘ。
no269の「或いはもっと失敗率が大きい」の真意

0、若干上の文句が誤解を与えたようでお詫びします。これは、「人生後半の脱講後の社会的御業績の部分には全く関与してませんで、前半部分の失敗率が多分4分の3以上大きいものとして御自身は思ってらっしゃるのではないか。その前半部分の中には多分法華講体験迄も御自分では失敗に含められているのだろう。だから、もっと実際には失敗率が大きいだろう。」と言う意味でした。
法華講体験が全く苦々しいものだった事、また脱講以降本当に御自分にとっての真の青春が輝き出した、との感慨を前から伺っておりましたから。

286犀角独歩:2002/08/16(金) 04:12

ワラシナさん:

285に記されること、私にはどうにも判読できません。それはしかし、私の読解能力の不足によるのでしょう。非難されているのではないという一点は理解しました。

私にとって、ワラシナさんは大恩人です。どうそ、私も参考にさせていただいている考証をお続けください。

287桃梨:2002/08/17(土) 05:54
正しいものとはなんでしょうか?
現代に、釈迦、キリスト、孔子、アラー、ガンジーついでに天台、日蓮がいたとして、明快な答を示して人々はそれを信じるものなのでしょうか。
超カリスマ中のカリスマと言う事になりますが。
そんな会議が日本ではなく世界レベルで開かれたら戦争や紛争は起きないのでしょうか。

そうなればいいのですが、現実は違います。
宗教を始めた人は人々を救おうとしていたのであって、生きていたらがっかりするんだろうなぁ。
しかも、宗教について後向きな考え方には。
前向きな考えを教えて下さい。

288五月雨:2002/08/17(土) 12:34
桃梨さん

初めましてこんにちわ。五月雨と申します。

>前向きな考えを教えて下さい。

桃梨さんに言われんとする事は分かりますが、もう少し具体的にレスされた方が良いのではないでしょうか。ここの掲示板では独歩さん始め皆様方が親切丁寧にご教示下さいます。「何を」という事をお聞きになられたほうが答えられる方もお答えがしやすいように思うのですが。余計なお世話でしたらすみません。

289桃梨:2002/08/17(土) 13:15
五月雨さん こんにちわ。
桃梨と申します。
ありがとうございます。
すみません。
いろんな掲示板を読んでいる内に「素朴な疑問」として
思っていることをそのまま書いてしまいました。
ご迷惑をお掛けしました。
以後気をつけます。

290:2002/08/17(土) 13:19
五月雨さん。
具体的なレス、ありがとう。あちきも、五月雨さんと同じことを言いたかった。

291五月雨:2002/08/17(土) 13:29
桃梨さん

全然ご迷惑でも何でもありませんよ。以後気をつける事でもございません。
桃梨さんが素直にこう思うという事を、お書きになればいいと思います。
これからもどうぞよろしくお願い致します。


あ さん

ご賛同有り難うございます。ただ今室内温度31度、クーラーをつけるのがメンドクサイので茹だっています。私にはこの方が頭の回転にいいのでしょうか???

292いちりん:2002/08/17(土) 22:24
>釈迦、キリスト、孔子、アラー、ガンジーついでに天台、日蓮

う〜む。このなかの、一人としてお会いしたことはないですね。
やはり、じかにお会いしてみないと、わからないということも、ありましょうか。

293桃梨:2002/08/18(日) 00:44
いちりんさん

>やはり、じかにお会いしてみないと、わからないということも、ありましょうか。

実は掲示板を夜中ずーと読んでいて訳がわからなくなり書いてしまいました。
上記の人達は人々を慈悲で救おうとした人達と思います。
何かが違う?と思いました。
十界の縁覚、声聞の方々の意見では?と思いました。
この掲示板は宗教なので現代でも人々を救おうとする気持ちの人、
菩薩や仏界(慈悲のある意)を語る人がいたらなぁと言う期待でした。
「素朴な疑問」ですので深くは考えていません。
すみませんでした。

294いちりん:2002/08/18(日) 12:01
桃梨さん
こちらの掲示板は、知識ばかりで論議していて、そこには慈悲の心がないんじゃなかろうか、ということですかね。
で、大切なのは、人を救うということ、慈悲の心である。
そういうことでしょうか。

295いちりん:2002/08/18(日) 12:03
あ、そう書きましたのは、ケンカを売っているのではありません。
こちらは活発な掲示板ですが、新しい方が参加されると、また活気が出ますよね。
素朴な疑問を出してくだって、やりとりが進めばおもしろくなるかなあと思いましたので。

296:2002/08/18(日) 14:44
桃梨さん、こんにちわ。

私の読解力不足なのか、あなたの文章の意味がわかりません。

> 上記の人達は人々を慈悲で救おうとした人達と思います。
> 何かが違う?と思いました。

「何かが違う?」というのは「何と」「何の」何かが違うのですか?
主語を明確にしてくれなければ、意味がわかりません。

> 十界の縁覚、声聞の方々の意見では?と思いました。

この文の主語は何ですか? 上記の人たち、つまり「釈迦、キリスト、孔子、アラー、ガンジーついでに天台、日蓮」のことと捉えてよろしいですか?
「釈迦、キリスト、孔子、アラー、ガンジーついでに天台、日蓮は十界の縁覚、声聞であって、私、桃梨はそれが気に食わん」というご意見なのですか?
それとも他に主語があるのですか? 意味がとれません。

297:2002/08/18(日) 14:49
「主語」って言い方は不正確でした。誤解を与えたかもしれません。
しかし、私の言わんとすることは、汲み取ってもらえるかと思います。
桃梨さんの文章は、省略が多すぎると思います。

298:2002/08/18(日) 15:39
あ、そうそう、私も桃梨さんにケンカを売っているわけじゃないですよ。
意味がとれないから、とれない、と正直に書いてるだけでして。

教義について議論の許される掲示板で、ここほど、おとなしい掲示板はありませんよ。
他へ行ってごらんなさいよ、あーた。そりゃ、モノスゴイんだから。
「これが宗教やってるヤツのホントの姿なのかよ?!」とビックリするような所、いくらでも、ありまっせ。

慈悲の言葉が聞きたければ、お寺の掲示板に行きなさいな。
議論は許されないかわりに、上っ面だけのアリガタイお話なら、いくらでも聞けますよ。

299桃梨:2002/08/18(日) 17:22
あさんへ

>あ、そうそう、私も桃梨さんにケンカを売っているわけじゃないですよ。
>意味がとれないから、とれない、と正直に書いてるだけでして。

文章が下手というご指摘は分かります。大変申し訳ございません。

>「何かが違う?」というのは「何と」「何の」何かが違うのですか?
>主語を明確にしてくれなければ、意味がわかりません。

この掲示板の投稿内容と日蓮が生きていたらどんな投稿をするかなぁと思い
書きました。それに偉人を付け加えました。

> 十界の縁覚、声聞の方々の意見では?と思いました。

主語は「掲示板の投稿記事が」です。

>教義について議論の許される掲示板で、ここほど、おとなしい掲示板はありませんよ。
>他へ行ってごらんなさいよ、あーた。そりゃ、モノスゴイんだから。
>「これが宗教やってるヤツのホントの姿なのかよ?!」とビックリするような所、いくらでも、ありまっせ。

ご指摘の通りですね。
だからはじめてこの掲示板に投稿しようと思いました。

>慈悲の言葉が聞きたければ、お寺の掲示板に行きなさいな。
>議論は許されないかわりに、上っ面だけのアリガタイお話なら、いくらでも聞けますよ。

分かりました。誤解をされる文章を投稿してすみません。
「素朴な疑問」にこの掲示板の方の中から応えてくれる人がいたら有難いと
思っておりました。
明日からは会社が始まりなかなか見る機会がないと思いますが、いろいろと
教えて頂きましてありがとうございました。

300いちりん:2002/08/18(日) 18:05
>釈迦、キリスト、孔子、アラー、ガンジーついでに天台、日蓮

これらの方には、お会いしてないので、なんともいえませんが。
わたしがじかにお会いして、すごいなあと感銘したのはマザー・テレサでありました。

古いニュースの映像で見ますと、ガンジーが出てくると、やはり感銘しますね。

301五月雨:2002/08/18(日) 22:20
横レス失礼いたします。

あ さん

>他へ行ってごらんなさいよ、あーた。そりゃ、モノスゴイんだから。
「これが宗教やってるヤツのホントの姿なのかよ?!」とビックリするような所、いくらでも、ありまっせ。

ホンマにすごいですね。私も他の掲示板にレスして、罵倒されました。日蓮正宗の戒壇本尊を信じている人間は少なくとも、人としての“礼節”を知っているかと思いきや私の認識は非常に甘いものでした。洗脳されきった人間には何をどう言っても通じない事がよく分かりました。ここの掲示板にお集まりの皆様は、とても常識豊かな方ばかりなのは、管理人の問答迷人さんのお人柄に依るものだと思います。

302五月雨:2002/08/18(日) 22:51
「人を救うということ、慈悲の心である」
いちりんさんが、お書きになられていましたが、私は疑問に思うのです。
確かに大聖人様は折伏の大事を仰せになられていますが、私みたいなくだらない人間が、人を救う事なぞ出来るのかと。「折伏は御本尊様がするのよ」とはよく聞いたフレーズですが、御本尊様は言葉をお話しになられません。結局は“人”がするのだと思うのです。学会は折伏をして来ました。結果は皆様ご存知の通りです。
信心した人もいますが、返って反発を抱いた人はその何倍になるのでしょう。
一般の人が「創価学会」の言葉を発する時に笑顔で言いません。
桃梨さんが、この掲示板の人たちは人を救うという点がないと仰っていましたが、
それほど大事な事なのかと思ってます。「慈悲の心」はなにも人を救う事だけではなくて、現実生活の中で困っている人に「May I help you?」という気持ちで、接してあげる事が、本当は大切な事なのではないのかしらと思うのです。他者に対する優しさです。かくいう私はご存知の通りに“弱者”の立場です。だからこそ人のあたたかい振る舞いがとても有り難く、深い感謝の気持ちを持っています。でもその温かさが当たり前にならないようにとは、“自戒”していますが。
 
独歩さん
 
折伏しないと成仏出来ないと、大聖人様は本当に言われているのですか。そして大聖人様のご遺命は「広宣流布」あるのみなのですか。

303いちりん:2002/08/18(日) 23:03
五月雨さん
>「慈悲の心」はなにも人を救う事だけではなくて、現実生活の中で困っている人に「May I help you?」という気持ちで、接してあげる事が、本当は大切な事なのではないのかしらと思うのです。他者に対する優しさです。

それは、同感ですね。
数を達成するためとか、成果とか功名心とか、功徳のために布教する人もいます。それは、布教はたいへんですけどね。

しかし、大切なのは、根底のこころ、だと思いますね。
なんとかわたしにできることを、してあげたいな。なんとか、相手の苦しみを、小さくして喜びを与えられないだろうか。そういう気持が慈悲ですよね。

さらには、慈悲の「悲」とは、サンスクリット語で「カルナー」といいますけど、「ともになげく」「ともに慟哭する」というような意味があるようです。
なんにもできなくても、相手の気持ちになって、ともになげく、ともに泣くもともにはらはらする。それも、慈悲なんだろうなと思います。

大きなことをしようとか、そんなことは思わないで。
ほんの些細なこと、小さなことにこころを込める。そういうのが、大切なんでしょうね。

家族のために、おいしいごはんをつくる。心を込めて、お米をとぐ。心を込めて、お皿を洗う。それも慈悲ですよね。そういう、瞬間瞬間のこころのありよう。。そこだと思いますね。

304五月雨:2002/08/18(日) 23:11
いちりんさん

そうなんですよ、私の言いたかった事はそれなんです。「心根」です。
「心根」が通じるのですよね。
「同苦する」という言葉もありますが、慈悲とは少しニュアンスが違うのでしょうか。

305いちりん:2002/08/18(日) 23:27
五月雨さん

「同苦」もおんなじだと思います。
慈悲の「悲」には、「ともに苦しむ」という意味合いがありますよね。

わたしは、日蓮さんが、すばらしいなあと思うのは、迫害に耐えて信念を曲げなかったというところよりも、この「同苦」の人というところです。

まあ、四条金吾に、手紙を書いたものに、
《返す返す忘れられないことは、わたしが龍の口で頸を切られようとしたとき、貴殿は、わたしの乗っていた馬の口にとりすがって、哭き悲しんでおられた。そのことは、いかなる世になろうとも忘れません。
かりに貴殿が罪深くして地獄に堕ちたとしても、釈迦仏がいかに日蓮を仏にしてくださると言われても、わたしは貴殿とともに同じ地獄に行きましょう。わたしと貴殿が同じ地獄に行くならば、釈迦仏も『法華経』も、地獄におられるでありましょう》(『崇峻天皇御書』)

あなたが地獄に行くのなら、わたしもともに地獄に行くというのです。地獄でともに苦を同じくしようというのです。

ちなみに、仏教では「四無量心」というのがあります。
それは「慈悲喜捨」です。
「慈悲」はもう書いたから、いいですよね。

「喜」は、「ともに喜ぶ」ことです。わーよかったねえと、相手の喜びにわたしも喜べると言うことです。(「慈悲」の「悲」は、相手の悲しみと一緒に悲しめるという意味合いですね)

「捨」というのは、「捨てる」という意味じゃなくて、「心の平静」というような意味です。
相手のためにいいことをした、相手を救った、相手と嘆いた……とわたしたちは、なんかいいことをすると、それがまあベタッとひっつくのですね。すぐに、とらわれてしまう。とらわれると、思い入れが入って、執着になって、いろいろと厄介なのです。自分も相手も。
だから、いいことをしても、相手が喜んでくれても、あ、そうなの、とたんたんとしている。とらわれない。それが「捨」ですね。  ……とまあ、大ざっぱですが。

306五月雨:2002/08/18(日) 23:41
いちりんさん

良いお話を聞かせて下さいまして、心が洗われた気がします。所属寺院では一度もこういうお話は聞いた事がありません。こういうお話こそ
人の道を説き、為になるお話だと思います。
有り難うございました。

307犀角独歩:2002/08/19(月) 07:46

五月雨さん:

> 折伏しないと成仏出来ないと、大聖人様は本当に言われているのですか。

折伏とは何なのでしょうか。仏教の話をする、相手が入会の決意をする、なにがしかの書類にサインをする、印刷漫荼羅を買う。すると、「折伏ができた」と言いますよね。しかし、これは勧誘・増員なのであって、本当に折伏なのでしょうか。「桃梨さんが、この掲示板の人たちは人を救うという点がない」と言います。表面しか観ていない発言であると思うのです。

五月雨さんは、ここの掲示板にこられる以前、日蓮本仏論(下種三宝)・戒壇之漫荼羅が真実であると信じていた、しかし、創価学会、法華講について不審を抱いていおられた。

そこで、こちらにいらして、私どもと話されて、何か疑問が解けたところがあったでしょうか。もし、あったとしたら、これこそ、折伏の結果であると私は思っています。少し図々しい言い方をすれば、私はほんの少しかも知れないけれど、五月雨さんを“折伏”したのかもしれません。

誤認識を改めて、不明を開く、今まで知らなかった世界が見えてきた、そう差し向けた人がいる、さすれば、その人は自分の心の中の誤った考えを折り伏せて、少しでも正しいほうへ眼を向けてくれる、これが折伏であると、私は考えています。そして、その折伏の基底は常に慈悲であり、菩薩道を喚起するものである点が重要なのでしょう。

それは際限のない、無限の上昇でしょう。終わりはないのでしょう。私も多くの方から、このような意味での折伏を受け、月々日々新たに自分の間違いを改め、その度に心洗われます。そして、自分も知っていること、掴んだことの一端を人に語り、終わりなき心の上昇を促しています。それが私の折伏です。人を救おうなどとおこがましい事ではないのです。法の一端を知れば、やがて、その人は菩薩の道(慈悲に基づく行動)を重ねて、仏様の生き方を成就していく、それは各人と仏菩薩との関係に拠るのでしょう。

議論だけでは声聞・縁覚だなどというのは、勧誘・増員を折伏、あるいは慈悲と勘違いした、もっと言えば、そのように心に刷り込まれた(プログラミング、つまりはマインド・コントロールされた)植え付けられた誤った折伏・慈悲観であると私は思います。

ここの掲示板で、元々は一人として旧知の人などいません。しかし、そのまったく知らない人に対して、語らうこと、そして、その中から、何かを掴んでいただくことがあれば、それは折伏であると私は思っています。何の見返りも望まない、何の成果ともならない、この語らいこそ、折伏ではないでしょうか。あるいはまた、摂受でもあるでしょう。

私は五月雨さんを折伏し、五月雨さんはまた、私は折伏しているのではないでしょうか。

折り伏すという表現はとても強い響きがありますね。けれど、一心不乱に信じ込んだことに猪突猛進する直進的な思考を折ること、それまでの思いこみを伏せて新たな観点を提供すること、それが折伏なのではないでしょうか。

日蓮聖人の考えにしても折伏とは、もっぱらこの心の座標の変位を述べるものであって、徒に勧誘・増員を強調するような低俗なものであったとは、私には思えません。

折伏しないと成仏できない、そういう考えは日蓮にはあったかも知れません。
しかし、成仏を云々するのであれば、まずは折伏とはどういうことなのかを考え直してみる必要があると私は思います。

308犀角独歩:2002/08/19(月) 07:46

―307からつづく―

> 大聖人様のご遺命は「広宣流布」あるのみなのですか

いま、日本全土津々浦々、「南無妙法蓮華経」を知らない人はいませんでしょう。しかし、750年前、日蓮聖人の開教以前、それを知る人はいなかった。つまり、南無妙法蓮華経の広宣流布は日蓮その人が畢えたことであると私は思っています。いまはその流通(るつう)の時ではないのでしょうか。

ところが「広宣流布とは(富士)戒壇の建立である」という決め事が富士門にはあります。しかし、広宣流布とは、そんな意味ではないでしょうね。また国民の3分の1が会員になったとか、1000万人になったら憲法改正をして、戒壇を建てるとか、そんなことが広宣流布ではないでしょう。

創価学会は実際に1000万人近い人々によって事戒壇建立を企てた。しかし、結果はどうであったのでしょうか。顕正会に言わせれば、そのやり方が違っていたからだめで、新たな顕正会員1000万人で正しいやり方をすれば広宣流布して、一切の災難は起きなくなるようなことを言っていますが、そんなことが物理的に起きるはずはありません。

聖人は封建の二本の柱、天皇と武家の対象が法華経を持つことを目指された(折伏)、その結果、本門の本尊(教主釈尊像、四大菩薩像)を祀る堂宇を建立することになるという構想はあったかも知れません。そして、その場所を中心にすれば、国は災禍を逃れ、鎮えに安国となるというお考えもあったでしょう。しかし、これは聖人、または聖人の遺志を継ぐ弟子(僧侶)と封建統治者(天皇・武家為政者)における課題であって、在家信徒の義務では元よりないでしょう。

仮に五月雨さんがご質問されるような「広宣流布の遺命」があるとすれば、それは在家に対してのものではありません。偏に聖人の弟子、その弟子(僧侶)に託された命(めい)であるはずです。それは在家に与えられた職分ではないのです。

在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか

とは、真跡がないまでも、富士門も真筆の如く扱う一節でしょう。
在家分は日々にお題目を唱えること、僧侶は妻子眷属を捨て、命を捨てて、天皇・為政者を折伏して戒壇を建てさせること、これが元来の富士門の考えではないでしょうか。為政者に取り入れられて出先機関になれ(寺請制度)は富士門の教えではないことは明らかです。

在家が漫荼羅を書くことがないように、天皇為政者の折伏・戒壇堂の建立は僧侶がやるべき仕事、在家の折伏とて僧侶がやるべき仕事でしょう。そのような僧であればこそ、供養することも肝心となるのでしょう。

その本来の僧侶の職分を在家が肩代わりするところに今日の混乱があるのではないでしょうか。

職分を濫した在家が言う折伏は折伏になっておらず、広宣流布も広宣流布になっていません。また、在家に肩代わりさせて上前だけをはねようとする石山僧の、今の有様は仏教を商う売僧であると言うのです。故に「能仁の後は施を止む」という聖人の教えに従い、私は心でも、財でも供養をなさないのです。

石山で語れば、広宣流布は、ただ目師一人の職分であるというのが郷門より容れた伝説です。つまり、他の僧侶、仮に石山住職であっても、その仁ではないというのです。

目上遺言に曰く 此の申状奏せずして終に臨終す 此の土の受生 所用無しと雖も 今一度人間に生れ此の状を奏す可し 若し此の状奏間の人未来に於て之れ有らば 日目か再来と可し知る

つまり、未来広宣流布は日目がもう一度再誕して行うことというのが中古以降の興門の認識であったはずです。

それを在家の長が勝手に行い、おまけに折伏の対象を変えてしまい、さらには広宣流布するものまで取り違えて、自分に与えられたものでもない「遺命」を振り回す、まさに、ここに一切の混乱があると私は思います。

以上のような構造を少しも考えず、徒に自分たちの仕事を押しつける石山僧、また、分不相応な誤った折伏・広宣流布を振りかざす在家の長率いる団体の煽動を、聖人の教えと取り違えて無責任に信仰し、放言する人々が世を濫しています。

折伏・広宣流布と詐称された勧誘・増員・集金を、聖人の教えなどと取り違えることなく、一人ひとりが、もう一度、その真の意味を考え直してみる必要があると私は思うのです。ここの掲示板は、そのような意義に基づいて問答名人さんが運営されておられる拝察いたしております。

309五月雨:2002/08/19(月) 12:16
独歩さん

私は、独歩さんに“折伏”をして戴いています。
今まで「真実」と思っていた数々の石山の教え、だけれどもそれを実践する人々のおかしさを「矛盾する」と思っていた、この答えがこの掲示板にありました。数ヶ月前の私なら「こんな事言って謗法よ」と言っていたでしょう。
独歩さん始め、皆さんの仰ることが「否定しても否定しきれない」のです。自分でも怖いくらいに「納得」出来るのです。いろいろな文証を出していただき、それを読むと「やっぱり」と思いながら、「今まで信じてきた事は何だったんだー」と心の中で葛藤しています。今は「真実に到る」という過渡期にあるようです。だから少しおかしな事を言ってますが、どうかお許し下さい。

>誤認識を改めて、不明を開く、今まで知らなかった世界が見えてきた、そう差し向けた人がいる、さすれば、その人は自分の心の中の誤った考えを折り伏せて、少しでも正しいほうへ眼を向けてくれる、これが折伏であると、私は考えています。そして、その折伏の基底は常に慈悲であり、菩薩道を喚起するものである点が重要なのでしょう。

私がイメージしていた折伏の捉え方です(生意気な書き方ですみません)
人を騙して、書類にサインさせるのは絶対に折伏ではないと思っていました。学会員の家に行き、または未入信の方に対して「池田太作さんの悪口」を並べ立てるのがどうして“折伏”なのだろうかと常々疑問に抱いていたのです。私にはメールでやり取りする学会員の方、訪問してくる学会員そして、血の繋がった姉も学会員です。ともすると、こちらの考えを聞こうとしない態度に「不完全性定理」もええんじゃないですかぁー、という気持ちが沸き起こる事がよくありますが、独歩さんのお話を聞いて「慈悲を忘れず」「菩薩道を喚起」しながら、気長に話し合いを続けていく気になりました。有り難うございました。

>私は五月雨さんを折伏し、五月雨さんはまた、私は折伏しているのではないでしょうか。

と、とんでもござません。私如きに独歩さんを折伏だなんて、ご謙遜が過ぎます。

310五月雨:2002/08/19(月) 12:17
―309の続きです―

>「広宣流布の遺命」があるとすれば、それは在家に対してのものではありません。偏に聖人の弟子、その弟子(僧侶)に託された命(めい)であるはずです。それは在家に与えられた職分ではないのです。

僧侶は折伏をしないもの、しなくて良いものだと思っていました。ウチの指導教師はお寺に訪ねてくる学会員をお寺に付ける事はあっても「僕は折伏の経験はありません」と堂々と言ってたくらいです。この言葉は恥ずべきものであったわけですね。「ウチのお寺の折伏成果が無いのは、講頭の責任です」とも言ってましたから、「偏に聖人の弟子、その弟子(僧侶)に託された命(めい)」という教育を石山はしなかったのでしょう。
大聖人様のお教えが、長い年月の中でここまで摩り替わってしまったのは、一体どうしてと思うのです。もしも大聖人様が「ご本仏」であったなら
そこに不思議の力が働いて、大聖人様のお教えそのままが今に伝わっていると思うのですが、そうではありません。やはり大聖人様はひとりの「人間」で在らせられたと感じます。もちろんただの「人間」ではなかったとは思いますが。

>未来広宣流布は日目がもう一度再誕して行うことというのが中古以降の興門の認識であったはずです。

 僧侶の誰もがその可能性があるから、敬わなければならないという理由付けになっているのではありませんか。本当かどうか分かりませんが、時の御法主上人には、「せい」の無い話ですね。いくらどう頑張ってみても“日目上人の生まれ変わり”でなければ「広宣流布」は出来ないのですから。

>折伏・広宣流布と詐称された勧誘・増員・集金を、聖人の教えなどと取り違えることなく、一人ひとりが、もう一度、その真の意味を考え直してみる必要があると私は思うのです

今の法華講員も学会員も、大きな大きな意味の取り違えをし、その為に人生を無駄にしているように思います。私も本当の意味を再認識しながら、縁ある人ひとりひとりに、話をしていこうと思っています。
いつもながら、素晴らしいご教示を下さいまして、有り難うございます。

311犀角独歩:2002/08/19(月) 12:50

五月雨さん:

>> 未来広宣流布は日目がもう一度再誕して行うことというのが中古以降の興門の認識
> 僧侶の誰もがその可能性があるから、敬わなければならないという理由付けになっているのではありませんか。本当かどうか分かりませんが

そうですね。目師再来説が僧宝尊信の説明原理に“採り入れられてきた”わけですね。
先に挙げた我師の『申状見聞』の一節が、その根拠ともされてきました。

以下のことは、以前にも書いたのです。
実は見聞には石山にとってまことに都合の悪い文章が続いています。

爰に日要奏す之れを争か可けん疑ふ之れを乎

の一節です。つまり、郷門要師は、この目師の申状をもって奏したので、目師の再来であるというのが、実はこの文章の骨子なのでした。

この部分を隠して、目師再来説を言う石山義は二重に信者を欺いていると私は憤っているのです。さらには目師の事跡から戒壇之漫荼羅も二箇相承も富士戒壇論も窺い観ることはできません。すべては、後世に、複数の別々にある話を寄せ集めて作られた捏造であったわけです。

これに突き動かされる人々を、自分のことを含めて哀れみさえ感じざるを得ないのはこのためです。

なお、石山僧が彼等が言う如き折伏をしないのは、檀家制度を引きずっているからでしょう。信者の年貢を喰う癖が抜けていないからでしょう。

312五月雨:2002/08/19(月) 13:37
独歩さん

そーなんですか。私はまた気抜けしました。自分に都合の悪い箇所は隠すのが
石山の「教学」なのでしょうか。・・・でしょうね。
二重に信者を欺むく石山に「アンタ、ええ加減にしいや」と言わせてもらいましょう。

>なお、石山僧が彼等が言う如き折伏をしないのは、檀家制度を引きずっているからでしょう。信者の年貢を喰う癖が抜けていないからでしょう。

いつになったら目が覚めるのやら。猊下は平成三年から「祖道の回復」と言われていたと思うのに、全然回復していないように思うのは私だけでしょうか。

>郷門要師

この郷門というのは、石山の事なのでしょうか。要師とおっしゃる方は仏像を建立されたと学会が騒いでいたあの人物ですか。

313犀角独歩:2002/08/19(月) 14:21

>> 郷門要師

郷門というのは日郷門流のことです。
郷師は目師の弟子で、目師最後の天奏に尊師と供した一人です。
美濃の垂井で目師が寂したので、遺骨を富士に持ち帰り下之坊に納めたと言います。
その後、目師の蓮蔵坊跡地の継承者は自分であると主張し、道師と争い、目師三回忌に山を離れ、小泉に蓮蔵坊を創す、また、この年(建武2年)に妙本寺を創したとも言います。ここに郷師は石山から分離し、郷門という新たな派が生じました。

興門師弟図
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/siteizu.html

その妙本寺の第11代が要師です。

> 仏像を建立

これは多分、尊師のことでしょう。目師寂後、代奏して京都に土地を賜り建立されたのが上行院でした。この上行院は天文法難に灰燼に帰します。この上行院と住本寺を合併し、辰師によって再建されたの要法寺です。つまり、この流れは造像家です。この要法寺は石山を本山と仰ぎ通行があり、そのために100年以上にわたって要法寺出身の石山重職が続いた時期もありました。また元亀年間には石要共同で開版されたのが御義口伝です。

314犀角独歩:2002/08/19(月) 14:24

―313からつづく―

> 「祖道の回復」

していないですよ、まったく。日蓮本仏論は違う、戒壇之漫荼羅は違う、二箇相承はなかった、唯受一人の血脈はない本弟子6人である等々、問答名人さんとともに考えてきたことは、ですから、その祖道の恢復のためでした。

石山が言う恢復は、せいぜい戻って昭和20年代まででしょう。それよりは全然戻っていません。私が最初に憤慨したのもこの点でした。

315五月雨:2002/08/19(月) 17:39
独歩さん

興門師弟図を、何度か見させていただいた事はあるのですが、その時はあまり具体的にわかりませんでしたが、今日教えていただいた郷師についてのお詳しい解説で、よく分かりました。結構血縁関係があるのですね。それと京都の要法寺と石山の関係も解りました。でも要法寺にはなぜだか、いいイメージが湧きません。よく知らない私が胡散臭いと思うのは、今は関係のない邪宗だからでしょうか。しかしこの“邪宗”という言葉も嫌な響きですね。もう使いません。
ところで「本弟子6人」の中で、血脈を受けられたのは日興上人なのは、「常随給仕」をされていたからと聞いていますが、他の5人の方は何をしておられたのでしょう。大聖人様の眼から見られて決められたお弟子さんが「退転」したというのもよく分かりません。身延山を下りられるキッカケになった仏像の建立は、今までの独歩さんのレスを読ませていただいて、大聖人様は仏像について否定的で無かったと解釈しました。日興上人は大聖人様に、「常随給仕」されていたのですから、そのお教えは100%解っていたと思うのに、どうして仏像の建立を理由にして、身延山を出て行ってしまったのかと思います。大聖人様のお墓もほっといてどうしてという思いです。
 少しの事を疑問に持つともう止まりません。今日は質問攻めにしてしまって申し訳ありません。

「祖道の回復」 →「祖道の恢復」でした。字が違うような気がしていました。最近は宗門関係の書物は何も読まないものですから、すみません。

316五月雨:2002/08/19(月) 21:43
やーこ。さん

すみません。こちらまでお呼びたてしまして。

>私は、組織と信心は別物と捉えるよう考えています。

どういう風に、別物として捉えられているのですか。私は別物には思えませんでした。そこのところのお考えを是非ともお聞かせ下さいませんか。
よろしくお願い致します。また

>天罰が下ります。

というのは、大聖人様が天罰を下されるのでしょうか。そういう人を沢山見てきておられるそうなので、よくお分かりかと思います。お教え下さい。

317犀角独歩:2002/08/19(月) 23:37

315 五月雨さん:

> 「本弟子6人」の中で、血脈を受けられたのは日興上人なのは、「常随給仕」をされていたから

これは勝手な石山の言い分ですね。聖人の真跡を調べると「血脈」という言葉は一度たりとも使われていません。けれど、下記の図を見てみてください。

相承略系譜
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/honkakukeihu.html

この天台宗の相承譜から聖人は出られたわけです。そして、釈尊・天台・伝教・日蓮をして三国四師と宣言されたのでしょう。聖人に意識は血脈ではなく、相承にあったのでしょう。しかし、本弟子六人に相承したかと言えば、その点は必ずしも闡明ではありません。

> 他の5人の方は何をしておられたのでしょう。

私はそれぞれの上人方も富士で悪し様に言うような方々ではなかったと考えています。
聖人より一つ年上であった昭師は人生を尽くした深みがあり、穏健な朗師には人間性を感じます。聖人遷化の時、興師は壮年まっただ中、その行動力は群を抜いていたのでしょう。頂師は常師の影にあり、時師は中国を目指された、向師に取るべきところはあったからこそ、身延に快く興師は向かい容れたのでしょう。詳細に知ることはできませんが、一概に五老方を否定すべきではないと私は考えています。

> 大聖人様の眼から見られて決められたお弟子さんが「退転」した

上述したとおりです。

> 日興上人…仏像の建立を理由にして、身延山を出て行ってしまった

私は興師という方は代替品を認めない方であったのであろうと考えています。
聖人が所持されていた釈尊像はなくなってしまった。だからといって、新しい仏像を造ったとしても、それは聖人が所持されていた仏像ではならない。聖人のぬくもりも思いでも何もない代替品に過ぎないではないか、故になくなったという現実を受け入れて対処する、そのように考えられる方であったのであろうと思います。しかし、円師(波木井師)は、仏像がなくなったから、新しいものを、と考えられる人であった、興師の文書を読むとそのような様が彷彿と読み取れるのです。

> 大聖人様のお墓もほっといてどうしてという思いです。

そうですね。興師は、聖人の三回忌も過ぎないうちに五老方が墓所番を懈怠したことを嘆いているわけです。(原書)それが、身延離山をしたあとは、墓所を顧みることはなかった。私はこの点では興師に自語矛盾があると思います。

この点について、興師在生の時、既に五老門からも非難を受けていたようです。その様子が『五人所破抄』から窺えます。

一、 身延の群徒猥(みだ)りに疑難して云はく、富山の重科は専ら当所の離散に有り。縦(たと)ひ地頭非例を致すとも先師の遺跡を忍ぶべきに、既に御墓に参詣せず、争でか向背の過罪を遁(のが)れんや云云。

墓参もしない聖人に背いているではないかというわけです。それに対して、


 日興が云はく…汝等将(まさ)に砕身の舎利を信ぜんとす

と反論を企てています。「砕身の舎利」とは「全身の舎利」に対する言葉で、前者が遺骨、後者を法門であると言うのです。つまり、興師は聖人の教え(法門)を持って出ているのであるから遺骨を信じる必要はないというわけです。しかし、私はこの考えには納得できません。

また、もう一点、この『五人所破抄』では聖人の遺骨が身延にあることを認めているのに、今は石山に遺骨があることになっています。ここでも、まったく矛盾しているわけです。この点については『大聖人のお墓(ご遺骨)はどこにある?』スレッドでも、やや記してあります。

大聖人のお墓(ご遺骨)はどこにある?
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=364&KEY=1015574506

318五月雨:2002/08/20(火) 12:37
独歩さん

相承略系譜を見ました。大聖人様は最澄さんから続くお弟子さんのひとりだったのですね。釈尊よりエライ仏様のイメージが未だにある私にはちょっとガッカリしました。でもいろいろなお話を聞いているうちに「生身の人間ドラマ」を感じています。「大聖人のお墓(ご遺骨)はどこにある?」スレッドも読みましたが、日興上人他の五老僧の方々も遠い昔に生きていたんだと思えるようになりました。今まではまるで「伝説」の域を出ず、影絵のように捉えていました。
日興上人が五老僧の方々に対して墓の輪番で嘆いた事は知っていますが、五老僧からも「墓参り」に対する批判があったのは知りませんでした。日興上人も時と場合によって、ものの言い方が変わるのでしょうか。「大聖人のお墓(ご遺骨)はどこにある?」スレッドでのお話の中で
日興上人は、大聖人様ご入滅後三年間も久遠寺にいなかったと書かれていましたが、一体どこに居られたのでしょう。そして、墓の輪番に日興上人は入っていなかったのはどうしてでしょうか。輪番に入っていたらご自身で墓をキレイにされていたでしょうに。相当細かい事が気になる性格ですみません。

319五月雨:2002/08/20(火) 13:18
やーこ。さん

いきなり不躾な質問をしてゴメンナサイ。もう少し詳しく書かないと私が難癖をつけているみたいに思えますね。
実は、「組織と信心は別物」というテーマで何人かの人と意見交換しているのですが、どうしても話が噛み合わなくて困っているのです。
私は「組織は信心の表れ」と思っているのですが、「依法不依人」と言葉を返され、組織が無ければ信心出来ないと言うのです。。「私も昔はそう考えていた、だけども本当はこうなのよ」といろいろお話しても、お互いに少しも通じる事がありません。私の頭が固いのでしょう。話の糸口が見つけられません。そう悩んでいるところにやーこ。さんのレスを見ました。
お若いのに、ずい分と周りを観察されていると感心しました。また、お若いからこその感性というのもおありだと思います。そこのところを是非私に聞かせて頂きたく、ご質問させてもらいました。よろしくお願い致します。

320富士桜:2002/08/20(火) 13:20
五月雨さん
>富士桜さんも、いろいろと大変な事がおありの様子ですが、解決の糸口のひとつに「真実」を見つめるというのもあると思います。真実は真実として素直に受け止めていく中に、道は開けていくのではないでしょうか、と自分ではそう思っています。

ありがとうございます。「真実」
そうですね。今、受ける言葉や、感じなければいけない事、つらいことほど素直に聞かなければいけないと思います。見たくないものほど、そこに真実があると感じます。

>お互いに前向きにやっていきましょう。

はい。よろしくお願いします。

321富士桜:2002/08/20(火) 13:21
犀角独歩さん

>いちばん大切なこと、それは「距離感覚を掴むこと」です。宗教と距離、同一信者との距離、寺院との距離、法華講との距離、時には本尊との距離も含めて、それぞれの自分との距離感覚をしっかり掴んでいくこと、これが大切なことです。

これが出来れば。
そう今は感じます。距離を持たなければ。
自分はそういう所は全く欠落しているのかも知れません。元からそのような要素は持っていました。
今はダッチロールを始めてしまった所に居ます。

>熱狂的な信仰というものは、しかし、この距離感覚を麻痺させ、一体感を煽るものなのです。この距離感の麻痺は人間関係、生活全般に及び、人生を狂わせます。その時の処方箋は唯一つ、距離感覚を掴み直すことですよ。

一時的に意識して離れてみます。
両極端な性格に時には自分でもコントロールが難しい時もあります。
「異体同心」
真蹟のないこの言葉を自分は何度も口にしてきました。
その責任に今はどうして良いのか。

現実を見失わないよう、この距離の意味を自分なりに探してみようと思います。

322富士桜:2002/08/20(火) 13:23
アネモネさん
自分には受け止めなければいけない現実をしっかり書いて頂き、ありがとうございました。
同性だろうと、異性だろうと、この話には現実には非難される事は当然の結果だったと思っていました。元彼女への同情は誰もがおっしゃる事です。
アネモネさんは文面が優しいですが、現実にはもっと厳しい言葉を投げかけられます。もし同じ所属寺院でしたらもっと厳しかったかも知れません。

御心配して頂いている講中での元彼女の方は、みなさんアネモネさんと全く同じ心境で決して「業」などと攻め立てられている事はないそうです。一緒に涙していたわってくれた事を聞きました。

「業」と言われるのは自分の方です。

>本当に心の底からの「笑顔」が取り戻せないのは元彼女なのだと思いますね。そんな傷心の彼女がそのままカルト教団に残るということは、最も危険な状態にあるのではないでしょうか。
だけど、もはや今の富士桜さんにはどうすることも出来ないことでしょう。私は恋愛上は富士桜さんに同情の気持ちは持てず、どこまでも元彼女に同情の心を寄せてしまいます。

カルト教団なのかどうかは今の自分に判断は出来ません。
ただ、危険な状態にあるかないかは、自分に対する批判が強いほど一般的な考えの持っている方々が回りにはいる、そう自分は思います。
アネモネさんの文面から、自分に同情は持てない事はよく分ります。
決してその意見を否定できるほど立派な事をしたとは思えません。

ですが、恋愛のみに目を当てるのだとしたら、男女どちらも原因はあると思います。今苦しんでいる元彼女には申し訳ありませんが、今の彼女と例え別れたとしてもやり直すような中途半端な思いではありません。本人も自分の身にあてはまる所があったからこそ、受け入れざる終えない状況まで進んだと思います。一時期の誘惑に乗った考え方ではありません。何年もかかった結果です。彼女が出来たからと言って僕も本当の「笑顔」になれるのは時間はかかると思います。

ですがアネモネさんの御意見には目をそらさないよう大切にしたいと思います。本当にありがとうございました。

323犀角独歩:2002/08/20(火) 13:29

五月雨さん:

> 日興上人は、大聖人様ご入滅後三年間も久遠寺にいなかったと書かれていましたが、一体どこに居られたのでしょう。

折伏をされながら、各地を歩かれていたのでしょうね。
身延山の別当だからずっと身延にいた“はずだ”は石山の希望的な観測でしょう。
もし、いたのであれば、墓所が荒れているの登山して気付くというのはおかしなことです。(この点については石山関係者は、おかしな解釈をつけて、なんとか肯定しようとしていますが、文字通り読むべきです)

身延の沢の御墓の荒はて候て、鹿(かせき)の蹄に親り懸らせ給候事、目も当てられぬ事に候(美作公御坊御返事)

ただ、円師は興師の弟子ですから、六老僧のなかでもっとも密接な関係にあったのは事実であろうと思います。

> 日興上人も時と場合によって、ものの言い方が変わるのでしょうか

もちろん、変遷は認められます。
また、寂仙澄師の帰伏、また継承の三位順師、さらに重須檀所派の教学において、興師の義とされるものは次々に整理されていきますから、逐一、変遷を見ることができます。しかし、それでも日蓮本仏義はもちろん見ることも、戒壇之漫荼羅、二箇相承に類することは見られません。

> 墓の輪番に日興上人は入っていなかったのはどうしてでしょうか。

いや、入っていますでしょう。


墓所守る可き番帳の事(次第不同)
正月      弁阿闍梨
二月      大国阿闍梨
三月      越前公 淡路公
四月      伊予公
五月      蓮華阿闍梨
六月      越後公 下野公
七月      伊賀公 筑前公
八月      和泉公 治部公
九月      白蓮阿闍梨
十月      但馬公 郷公
十一月     佐渡公
十二月     丹波公 寂日房

9月の「白蓮阿闍梨」が興師のことです。

324五月雨:2002/08/20(火) 14:04
独歩さん

日興上人は順番に入っているのに、三年も墓所に行かなかったなら、五老僧に
何も言えないのではないでしょうか。
輪番が十二人もいるのですか!? 六人のお弟子方だけが守ったのでは無いのですか。初耳です。
 石山からまたは学会から、教えてこられた事柄と全然違います。

325犀角独歩:2002/08/20(火) 15:21

五月雨さん:

> 日興上人は順番に入っているのに、三年も墓所に行かなかったなら、五老僧に何も言えないのではないでしょうか。

3年間行かなかったというより、三回忌ですから2年間ということですね。
これは私も数取りを間違えていたかも知れません。ただ、3年というのは何か根拠があってのことでしたが今は失念しています。この点は、いちおう2年と訂正します。

時系列で見ると以下のようになります。

弘安5年10月(1282)聖人遷化
弘安6年正月(1283)定墓所可守番帳事
弘安6年9月(1283)興師 番
弘安6年10月(1283)聖人第一周忌
弘安7年9月(1284)興師 番
弘安7年10月(1284)聖人第三回忌

資料から見る限り、弘安6年9月に興師が墓所番に上がったかどうかは見えません。
一周忌は執り行われているので、その前月に興師が上がっていたと考えても不思議はないように思えます。

> 輪番が十二人もいるのですか!? 

この『定墓所可守番帳事』は興師が執筆し、正本が残る第一級資料です。
当然、石山・学会でも否定していなかったと思います。

326犀角独歩:2002/08/20(火) 15:33

325の年表、一つ抜けました。

弘安7年10月(1284)興師『美作御房御返事』

327五月雨:2002/08/20(火) 17:33
独歩さん

とすれば、日興上人は丸々三年の間に一度も墓所に行かなかった訳ではないのですね。でもここでも疑問に思うのですが、戒壇本尊はどこに安置されて、誰がお守りしてたのですか。守るべき日興上人が折伏に各地を歩かれていたのであれば、どのようにしてお守りしていたのでしょう。あれほど重たい物を持っていく事は無理でしょうし、久遠寺に留守居の者を置いていたとしても、一年のうちに何度も久遠寺に帰らない日興上人は不自然です。
 一切衆生を救う「出世の本懐たる大御本尊」を、血脈付法の日興上人を中心に五老僧も一緒になって、お守りしようという話にならなかったのも不思議です。戒壇本尊は「生身の大聖人様」と石山の言う通りならば、生きているがごとくに六老僧は、お給仕しお守りしなくてはいけないと思うのです。大聖人様が亡くなってしまった後の六老僧にはちょっと冷たさを感じます。
 戒壇本尊が真実なら、戒壇本尊の本当の意味を六老僧は分かっているだろうから、各自が「わが道を行く」とバラバラにならなかったのではと思うのです。どう言ったって六老僧は「大聖人様の直弟子」なのですから。

328:2002/08/20(火) 17:39
「依法不依人」とはどういう意味ですか?

信仰心の無い私などはこの言葉を、「権威がある人だからといって、頭から信じるな。道理に従え」、
せんじつめれば、「自分の頭で考えろ」という意味で読んでいたのですが、私の解釈は間違っているみたいです。
なんだか、この言葉は、疑問を発する人に向かって、「疑ってはいけない」と疑問を発するのを制止する、
一種の脅し文句であるようです。

組織の中に人間的に問題があるメンバーがいて、それを見ている他のメンバーが「この信心続けててダイジョーブかなあ?」とツブやくと、
「依法不依人!!!」、人間的に問題があるメンバーがいくら多くても、「法」は正しいのだから、疑ってはいけない、というわけ。

あるいは、「人」とは「組織を批判する人」のことであって、「そんな人の言葉は聞くな」の意味でもあるらしい。

329五月雨:2002/08/20(火) 17:57
あ さん

私の場合は「法は正しいけれど、凡夫だから人間的におかしいのがいてもイイ」という意味です。自分では「正しい仏法に帰依した人間は、行いも正しく有るべき(自分も含めて)」という考えから抜け出せません。誰と話してもこの点で行き違って話が進まなくて困っています。
 実際の意味を、どなたか教えて下さい。私も知りたいです。

330犀角独歩:2002/08/20(火) 20:39

327 五月雨さん:

仰るとおりで、ですから、そもそも戒壇之本尊は、その当時、あるはずはなかったのでしょう。

331犀角独歩:2002/08/20(火) 20:58

329 あ さん:

あさんが考えているのが正解でしょう。

「人師に於ては用ふべからず。依法不依人の金言を仰ぐが故」という如く、

石山風にいえば、法によって顕師によらざれ。
創価学会風にいえば、法によって池田さんによらざれ。
顕正会風にいえば、法によって浅井さんによらざれ。

でしょう。だから、私は人法一箇は言葉として破綻している、仏法一箇ならば、まだわかるというのです。

> 人間的に問題があるメンバーがいくら多くても、「法」は正しいのだから、疑ってはいけない…

法が正しくて、メンバーは全員ダメはそりゃそうでしょうが、依法不依人は、こんな意味じゃありませんね。自分ところのダメメンバーの肯定論に使うとは驚きです。まあ、言っていることは合っているでしょう、メンバーがみんなダメは合っているわけですから(笑)

冗談はともかく、依法不依人は、依義不依語・依智不依識・依了義経不依不了義経と合わせて四依とされるのです。

もし、あさんにいった人が石山系であれば、よほど不勉強でしょう。『百六箇抄』に

法自(おの)づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し

は誰しも想起するところで、さらに寛師は依義判文抄に

依義判文抄明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る、苟くも糟糠を執し橋を問う、何の益かある。而も亦謂えること有り、文証無くんば悉く是れ邪偽なり、縦い等覚の大士法を説くと雖も経を手に把らずんば之れを用ゆべからざるなり

も想起するでしょう。メンバーがダメでも法が正しいと言うのではなくて、経巻その他の文証によらない人の言は用いないと言うところに主眼があります。それを真跡はないけれど、重要視される『如説修行抄』に

所詮仏法を修行せんには人の言を用ふべからず、只仰いで仏の金言をまぼ(守)るべきなり

というのが、日蓮門下の大元と言うことです。

332やーこ。:2002/08/20(火) 22:54
五月雨様
ハードレンズに間だなれてないので、恐れ進みません。

「別物」について

私は、日蓮大聖人様の生き方、正宗内にて伝えられる大聖人様の身に起こる不思議なこと
、例えば、たつのくちの法難、などを信じています。今の法華講についていくのではありません。
教義などは心より尊敬してますが、その教えを忠実に護っていると自分で言っている法華講が
教えを逸脱して、変の方向に走っているので、「教えは信じるけど今の組織には
ついていかない。」と考えてます。
こんな文章では分かりづらいので、

今のメンバーが信仰に名を借りて生活時間外の家庭訪問をする。
夜の仕事をやっている組織内のメンバーを役職が「夜の仕事をやっているからいけない」
といい、仕事を馬鹿にする。無理やり夜の活動に強制参加させる。
勤行商大ををほっといてまで相手をひきとめて説教する。
組織を利用してわいせつな行為に走る。
御本尊様の前で役員が平気で他人の悪口を言う。
各個人の生活や考えを認めない。個性を考えない。信仰の名を借りて物事を押付ける。
などです。そんな甲虫が果たして教えを護っているとでもいうのでしょうか。
なので、もう別にして考えています。

天罰とは、別に仏様がくだすことだけを意味しているのではありません。
世間一般的な考え方でも、この仏法における考え方でも、両方の意味をとることができます。
プライベートなことにかかわるので多くは語れませんが、
ある役員がある女子部の仕事を馬鹿にしながらやめるようにいった。
その部員は金銭的な事情があるのでやむをえず仕事しているのですが。
その後、それを言った役員は直後に仕事量が急激に増えすぎて、過労でダウンし、
会社を辞め、また組織活動にも参加しなくなりました。
仕事をけなしたことによって自分の仕事に泣くことになったのです。
そのほかいろいろありますが、このhrんせやめときます。

333五月雨:2002/08/21(水) 08:41
独歩さん

戒壇本尊についての私の推測は当たってて、がっかりです。しかしこんな簡単な事を今まで思いつきもしなかった、ただ石山の話を鵜呑みにして疑問を持つこともなかった、そして学会員に対して「あなたは自分の頭で考えていない、マインドコントロールされている姿だ」てな事を言ってきた自分が恥ずかしいです。
「依法不依人」もそうです。独歩さんのご教示を読ませていただくと、自分の解釈と同じなんです。その事を学会員に対してもエラソウに言ってきたのに、反対にその言葉を使って反論された時に「意味が違う」と思わなかったのです。なんでやろと昨夜からずーと考えているのですが、思い当たりません。あっ、今、思い当たりました。周りの人間が当たり前に使っていたからです。組織での人間関係のごたごたがあった時に、悩んでいる当事者に対しての“慰めの言葉”だったのです。「凡夫やからおかしな事をいう人もいてるけど、この法は絶対やで。依法不依人やから」とこういう使い方をしていました。今も使っているでしょう。人間の勝手解釈に依って、大聖人様の教義が段々と捻じ曲げられていくひとつの典型かも知れません。

334五月雨:2002/08/21(水) 09:14
やーこ。さん

レス有難う。やーこ。さんの講中も中々大変な所ですね。読んでてのけぞりました。私の所属するお寺は超・ご老人ばかりなのでありえないトラブルが、やーこ。さんの周りではあるのですね。
「信心と組織は別物である」という、やーこ。さんのお考えはよく分かりました。
でも、大聖人様の教えを実践しているであろう、この人たちの姿はどう捉えていますか。日蓮大聖人様の究極の御本尊に手を合わせ、勤行・唱題 / 信・行・学を実践していると自負する法華講員です。なのに実生活にその教えが表れないのは何故なのかと私は思うのですが、やーこ。さんはどう思われますか?

335いちりん:2002/08/21(水) 09:39
わたしなりに「依法不依人」というのを考えてる入るのは、

なんとか先生が、こう言われた。日蓮大聖人が、このように仰せである。なんとか上人が、こう言われた。
天台の摩迦止観には、こうあある。妙楽は、こう書いている。
龍樹がこうで、世親がああで。お釈迦さまは、こう言っている。イエスはこうで、孔子はああで。。

つまり、そういう偉大な人、聖者、経典というのは、
──いわば「権威」ですよね──
「権威」というのは「いうことをきかせる力」「いうことをききたくなる力」でもありますね。

だから、「自分の考え」を打ち出さずに、偉い人のことば、聖典を引っ張り出して、「聖典にはこうである」というと、人は納得したりしてしまう。

しかしですね。偉大な人とか聖典とかを、わたしは、ほとんど「疑う」というか「アヤしむ」ことにしているんですね。

だって、お釈迦さまがどう言おうが、日蓮さんがどう言おうが、そんなもの「ほんとにの人が悟っていたかどうか、だれもわからない」ということです。会ったこともないのに。正しいとかすごいと、思いこんでいるだけかも知れない。

大切なのは、それが聖者の言葉であるか、経典にあるか、なんてことは、じつはどうでもよいんじゃなかろうか。
きょう出会った、おばあちゃんが語ってくれた言葉。なにげなく、小学生がつぶやいたことば。死刑囚が書いた日記。

……そういうのだって、深く真実をついているものがありますよね。
逆に、聖典とか聖者の言葉でも、おかしいのはいっぱいあります。

だから、あたりまえのことなんだけど、「自分で考えて」「自分で納得して」「自分でぴんときたもの」を大切にしていけばいい。「権威」に依存しないで、「自分のことば」を語るようでありたい。……とまあ、そんなことを感じております。

336犀角独歩:2002/08/21(水) 13:01

> 335

いちりんさんが仰るとおりであろうかと思います。ここがあるべき到達点だと思うのです。

私は虚構インチキは層をなしているといつも考えています。

今回の依法不依人の例で言えば、第1層が自分たちの都合による解釈のねじ曲げ、第2層がでは教祖、経典の絶対化…、そんな層の一々の嘘を丁寧に剥がしながら、では本当は?、に至るべきだろうと思うわけですね。

今の宗教団体は変だ絶対ではない、門下はどうであったか絶対ではなかった、日興はどうだ、日蓮はどうだ、伝教は、天台は、では法華経は…とどんどん積層化した錆というかそんなものを取って見ていく整理をしておく必要があると思います。しかし、全否定は愚かです。いい部分はしっかり取っておくことも必要でしょう。

ま、そんな考えで依法不依人はこんな意味であったと記したのです。しかし、では依法不依人という教えが正しいかどうかは、また別問題なのですね。結局、自分の頭で考えていく作業が必要なのでしょうね。たいへんな労作業ですが、しかし、指標は心を澄まして考えれば案外、簡潔なことかも知れません。初期経典をひいていちりんさんが語られるような心の浄める考えが基準なのであろうと思っています。

> 「権威」に依存しないで、「自分のことば」を語るようでありたい

仏に仮託して人を権威化させないための指標が依法不依人であったろうと私は解釈しています。

自分の言葉で語ることは、善意の人であれば、必ず尊いことなのです。
しかし、なかには「自分が話すことが法律だ!」だなんて言い出す暴君はかならずカリスマ支配にはついて回ります。その時に、依法不依人という指標は活かされるべきであると私は思います。

337五月雨:2002/08/21(水) 23:45
メール交換している学会員が「仏の境涯」とは何かと聞いてきました。
そう聞かれても、漠然としか分からないし言葉にも出来ません。日蓮大聖人様はどう説かれているのか、お教えください。よろしくお願いします。

338犀角独歩:2002/08/22(木) 00:28

> 「仏の境涯」とは何か

そんなことを書いてある真跡はありません。

そもそも、言うところの仏とは日蓮ですか、釈尊ですか、それとも阿弥陀ですか、大日ですか。無意味な議論でしょう。

逆に文証を尋ねられてはいかがですか。

339求道:2002/08/22(木) 00:36
> お釈迦さまがどう言おうが、日蓮さんがどう言おうが、そんなもの「ほんとに
の人が悟っていたかどうか、だれもわからない

創価学会・日蓮正宗の教義に填っていた人がその誤りに気付くと、その本来の教え
を理解せずして釈尊や日蓮聖人までも謗るようですね。

>「自分で考えて」「自分で納得して」「自分でぴんときたもの」を大切にして
いけばいい。

ならば宗教は要らなくなるでしょう。それとも、釈尊や日蓮聖人よりも「いちり
ん教」が正しいと? 愚かな主張がまかり通る掲示板にならないよう願っていま
すよ。

340いちりん:2002/08/22(木) 00:42
まあ、いかにも日蓮さんらしい、いい感じだなあという境涯だと思うのは、次の四条金吾に宛てた御遺文です。それが仏の境涯かどうか知りませんが。
---------------------------------------
一切衆生南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり。(中略)
法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏後生善処とは是なり。

ただ世間の留難来るともとりあへ給うべからず、賢人聖人も此の事はのがれず。

ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経ととなへ給へ。
苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ。恐恐謹言。
---------------------------------------
「苦をば苦とさとり」「楽をば楽とひらき」「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」と、ここがいいですね。

「苦」があれば、それを頑張って「楽」にしようとしない。
「苦」を「苦」だと、そのまま受け入れている。「ああたしかに、苦だね」と。そして、そのまま、受け入れられれば、もう「苦」じゃないですね。

そして「楽」は「楽」ですね。「ひらく」というのは、よくわかりませんが。
もっと「楽」になろうという欲ではないんでしょうね。まあ、「わたしの楽」を、縁する人たちに、ひらいていく。つたわっていく、みたいな意味合いととらえています。

で、「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経と唱えなさい」と。
まあ、うだうだ言わずに、南無妙法蓮華経と唱えれば、自然にわかってくるよ。
「世間の留難来るともとりあへ給うべからず」
つまり、いろいろ問題もある、ややこしいこともある、けしからんこともある。そりゃあ、世の中あるよ。けど、いちいちとりあって、がちゃがちゃ関わっても仕方がない。あなたは、しっかりとお題目を唱えなさい。そしたら、わかってくるよ、と。

それが「自受法楽」ですよね。
ただいるだけで、そのままで、穏やかな柔らかな喜びに包まれている。

341犀角独歩:2002/08/22(木) 00:51

【338の補足】

そもそも境涯という仏教語はありません。強いて記せば境界(きょうがい)です。
つまり、仏(境)界とは仏に決まっています。

342犀角独歩:2002/08/22(木) 00:55

おっと、補足を記しているあいだにいちりんさんの書き込み。行き違いです。
私の書き込みは求道さんとは違い、いちりんさんの批判ではありません(笑)

343犀角独歩:2002/08/22(木) 00:58

まあ、しかし、求道さんの書き込みというのは批判ばかりで主張がなく、上から下を見下ろし、「自分は正しい」(爆)

是非とも「愚かではない主張」とやらを聞かせてもらいたいものです。

344アネモネ:2002/08/22(木) 01:01
いちりんさん

私もご紹介くださった四条金吾に宛てた御遺文、大好きです。
四条金吾の気持ちになって読むと、涙がウルウルです。ウルウルすると、仏の境涯かどうかなんてどうでもよくなってしまいます。どうでもいいけど、こういう気持ちの持ちようっていいなぁと思うんですね。

345アネモネ:2002/08/22(木) 01:17
求道さん

>「自分で考えて」「自分で納得して」「自分でぴんときたもの」を大切にしていけばいい。
ならば宗教は要らなくなるでしょう。

そもそも、「自分で考えて」「自分で納得して」「自分でぴんときたもの」を大切にしていけばいいということを、大いなる力の存在を通してなんとか人々を導こうとしたのが、いわゆる今日的にいわれる高等宗教の教祖の教えではないでしょうか。

>それとも、釈尊や日蓮聖人よりも「いちりん教」が正しいと? 愚かな主張がまかり通る掲示板にならないよう願っていますよ。

正しいとは誰も言っていません。だけど、共鳴するのです。教えられるのです。いちりんさんの言葉を通して、釈尊や日蓮聖人の心を見えてくるんです。時には釈尊や聖人を批判されることもありますが、それでもそこに教祖の心が見えるんです。
だけど、だからといって誰もいちりんさんの言葉が絶対だなどとは思っていないのです。これは私の思いとは違うなというところも持ち合わせながら読んでいるんですよ。だけど、たとえ違っていても、文章からにじみ出ているいちりんさんに人間性に、心がホッと癒されているのです。

だけど、求道さんにはそれが感じられないのだと思います。それがなぜなのかは、私が言うことではないかもしれませんが、もしかすると求道さんの心の中に何かが邪魔しているからではないでしょうか。

346:2002/08/22(木) 02:19
アネモネさん、こんにちわー。

347犀角独歩:2002/08/22(木) 02:58

五月雨さん:

先にちょっと突っかかったような記し方をしてしまいました。お詫びを兼ねて、補足の補足です。

私は仏の境界は凡夫にはわからないということを言いたかったのです。仏は衆生の性欲(しょうよく)不同を知って巧みに説法をするというのが方便品の言うところでした。しかし、逆に衆生が「仏の境界(境涯)はこういうものだ」というのは憶測の域を出ないわけです。結局、不毛の議論となります。このような応答は時間の無駄であるからやめたほうがよいと言いたかったわけです。

348五月雨:2002/08/22(木) 08:35
独歩さん

ご教示有難うございました。

>先にちょっと突っかかったような記し方をしてしまいました。

いえいえ、そんな事は無かったです。単刀直入に言っていただいて、それまであったモヤモヤが無くなりました。メールでそう聞かれて丸四日の間悩んでいましたから。「法華経の基本は池田先生です」と仰る方なものですから、ずいぶん、頭痛で頭が痛い思いをしておりました。
仏の境涯とは何か― 学会では絶対的幸福境涯と聞いた覚えがありましたが、今の私にはそうも思えず、さりとて素晴らしい境涯なんだろうなと薄ボンヤリと想像するだけでした。そうですよね、凡夫に分かろうはずなどありませんよね。そう返事を出します。不毛の議論というご指摘は、確かにそうなのですが、「慈悲を忘れず」「菩薩道を喚起」する事を教わりましたので、気長に「不毛の議論」を続けていくつもりです。(ホントはしんどいです。どんな指摘にもメゲナイ彼女はスゴイというか・・・・)

349五月雨:2002/08/22(木) 08:50
いちりんさん

いちりんさんが引かれた御書は、私でも知っている御書です。

>「苦」があれば、それを頑張って「楽」にしようとしない。「苦」を「苦」だと、そのまま受け入れている。

御文をそのまま読むと、確かにそう書かれていますね。学会でも法華講でもそうは教わってきませんでした。「苦を転じて楽と成す」という事ばかり強調していたように思います。ありのままでいいと、大聖人様が仰っているのを初めて知りました。

>それが「自受法楽」ですよね。
ただいるだけで、そのままで、穏やかな柔らかな喜びに包まれている。

いいですね、この感じ。ホンワカな幸せですね。

350いちりん:2002/08/22(木) 09:13
五月雨さん

>いいですね、この感じ。ホンワカな幸せですね。

そのホンワカというところですが、ブッダの語ることばで、「仏の境涯」っぽいのを参考までに。

これは、「ブッダがこう言うのだから正しいのだ!」というために、引用しているのではなくて、ブッダの醸している「たたずまい」「静けさ」「落ち着き」を知ってもらたいたいからですけど。

・憂いを離れ、あらゆることにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。
・善悪のはからいを捨てて、目覚めている人には、なにも恐れることはない。
・一つの岩のかたまりが、風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛に動じない。
・解脱した人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。
・こころ穏やかに、怨むことなく、恐れることのない人──彼こそ賢者と呼ばれる。
                       (ダンマパダより)

これらのことばをみてみますと、ブッダという方は、おそらく
「心おだやか」「恐れることはない」「目覚めている」「静けさがある」と。

351いちりん:2002/08/22(木) 09:21
五月雨さん

>ありのままでいいと、大聖人様が仰っているのを初めて知りました。

わたしは、日蓮さんの「あり方」を、それこそ「迫害に遭って信念を曲げずに貫いた勇ましく強い人」というところから、みようとはしません。今まで流布しているイメージが、これですよね。

で、そういう日蓮さんじゃなくて、わたしなりと、「いいなあ」と思うところからとらえなやおしています。

そのポイントは、いまのところ二つですけど。

一つは、「ありのままでいい」というところ。
日蓮さんは、あるがま、ありのままでいいという教えを示しているというとらえ方です。

もう一つは、「同苦の人」というところ。
日蓮さんは、相手の間違いを責め立てて屈服させるということよりも、相手の苦しみを実感できた人じゃないかと。相手が苦しいならわたし苦しい。しかし、ともに苦しもうじゃないかと。そういう人であった。

これは、学問的にああだこうだという世界じゃなくて、「生き方」として「あり方」として、日蓮さんから学ぶというところなんですね。自分の生き方に反映しなかったら、意味ないですもんね。

いくら難しいことを論じたって、経文やら文証をたくさん記憶していて、披露してみたって、相手をへこますための戦いの武器のようにしていったら、愚かなことですし。

352五月雨:2002/08/22(木) 09:30
いちりんさん

>ブッダという方は、おそらく
「心おだやか」「恐れることはない」「目覚めている」「静けさがある」と。

仏の境涯は『達観』にも通じるでしょうか。とても凡夫には達成できない境涯のようですね。いちりんさんのお話を参考にさせて頂きます。メールの学会員の彼女にもこの掲示板を教えているので、彼女も読むかも知れません。いつも良いお話を有難うございます。

353五月雨:2002/08/22(木) 09:46
いちりんさん

書き込む間にもうひとつのレスを頂いていたのですね。有難うございます。

>これは、学問的にああだこうだという世界じゃなくて、「生き方」として「あり方」として、日蓮さんから学ぶというところなんですね。自分の生き方に反映しなかったら、意味ないですもんね。

私も長い信仰生活の中で、大聖人様の御書に触れない事はありませんでしたが、それは大聖人様の法門が「学問として正しい」証明での捉え方以外の何ものでも無かったように思います。そこに人間として生きてこられた大聖人様のお姿を見たことはありませんでした。こうしていちりんさんのお話を聞かせていただいて、「人間としての日蓮」大聖人様のお姿を見た気がします。これから御書を拝する時は、「人間としての日蓮」大聖人様のお姿を心に浮かべながら拝していきたいと思います。
ホント、自分の生き方に反映しない信仰は、意味がありませんよね。

354犀角独歩:2002/08/22(木) 09:56

五月雨さん:

> 仏の境涯とは何か― 学会では絶対的幸福境涯

いかにも牧口価値論辺りから導き出されるような結論ですね。
しかし、これはまったく違っています。

真跡を仏界で検索すると以下のとおりです

--------------------------------------------------------
守護国家論,正元元年(1259)38歳
十界互具を説かざれば内心の仏界を知らず。内心の仏界を知らざれば外(ほか)の諸仏も顕はれず。
--------------------------------------------------------
守護国家論,正元元年(1259)38歳
凡夫も亦十界互具を知らざるが故に自身の仏界顕はれず。
--------------------------------------------------------
守護国家論,正元元年(1259)38歳
今法華経に至りて九界(くかい)の仏界を開く
--------------------------------------------------------
守護国家論,正元元年(1259)38歳
四十余年の菩薩・二乗・六凡(ろくぼん)始めて自身の仏界を見る。此の時此の人の前に始めて仏・菩薩・二乗を立つ。
--------------------------------------------------------
法華題目抄,文永3年(1266)1月6日45歳
妙法蓮華経の五字も亦復是くの如し。一切の九界の衆生並びに仏界を納めたり。十界を納むれば亦十界の依報の国土を收む。
--------------------------------------------------------
開目抄上,文永9年(1272)2月51歳
本門十界の因果をとき顕はす。此即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。
--------------------------------------------------------
開目抄上,文永9年(1272)2月51歳
十界に皆己界(こかい)の仏界を顕はす。妙樂云はく「尚仏果を具す、余果も亦然り」等云云。仏此を答へて云はく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」
--------------------------------------------------------
開目抄下,文永9年(1272)2月51歳
梵天とは仏界に生まるゝをいうなり。引業と申すは仏界までかわらず。
--------------------------------------------------------
開目抄下,文永9年(1272)2月51歳
我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。
--------------------------------------------------------
如来滅後五五百歳始観心本尊抄,文永10年(1273)4月25日52歳
法華経第一方便品に云はく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲(ほっ)す」等云云。是は九界所具の仏界なり。
--------------------------------------------------------
如来滅後五五百歳始観心本尊抄,文永10年(1273)4月25日52歳
寿量品に云はく「是くの如く我成仏してより已来(このかた)甚(はなは)だ大(おお)いに久遠なり、寿命、無量阿僧祇劫、常住にして滅せず、諸の善男子、我本(もと)菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶(なお)未だ尽(つ)きず、復(また)上(かみ)の数に倍せり」等云云。此の経文は仏界所具の九界なり。
--------------------------------------------------------
如来滅後五五百歳始観心本尊抄,文永10年(1273)4月25日52歳
。経に云はく「提婆逹多(だいばだった)、乃至天王如来(てんのうにょらい)」等云云。地獄界所具の仏界なり。
--------------------------------------------------------
如来滅後五五百歳始観心本尊抄,文永10年(1273)4月25日52歳
経に云はく「其の縁覚(えんがく)を求むる者・比丘・比丘尼、乃至合掌し敬心(きょうしん)を以て具足の道を聞かんと欲す」等云云。此即ち縁覚界所具の十界なり。経に云
はく「地涌千界、乃至真浄大法(しんじょうだいほう)」等云云。此即ち菩薩界所具の十界なり。経に云はく「或説己身或説他身(わくせっこしんわくせったしん)」等云云。即ち仏界所具の十界なり
--------------------------------------------------------

355犀角独歩:2002/08/22(木) 09:56

―354からつづく―

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如来滅後五五百歳始観心本尊抄,文永10年(1273)4月25日52歳
無顧(むこ)の悪人も猶(なお)妻子を慈愛(じあい)す、菩薩界の一分なり。但(ただ)仏界計り現じ難(がた)し、
--------------------------------------------------------
如来滅後五五百歳始観心本尊抄,文永10年(1273)4月25日52歳
末代の凡夫出生(しゅっしょう)して法華経を信ずるは人界に仏界を具足(ぐそく)する故なり。
--------------------------------------------------------
如来滅後五五百歳始観心本尊抄,文永10年(1273)4月25日52歳
人界所具の仏界は水中の火、火中の水、最も甚(はなは)だ信じ難し。
--------------------------------------------------------
如来滅後五五百歳始観心本尊抄,文永10年(1273)4月25日52歳
心得られざれども現証有れば之を用ゆ。既に人界の八界之を信ず、仏界何ぞ之を用ひざらん。
--------------------------------------------------------
如来滅後五五百歳始観心本尊抄,文永10年(1273)4月25日52歳
尭舜(ぎょうしゅん)等の聖人の如きは万民に於て偏頗(へんぱ)無し、人界の仏界の一分なり。不軽菩薩は所見(しょけん)の人に於て仏身を見る、悉逹太子(しったたいし)は人界より仏身を成ず
--------------------------------------------------------
如来滅後五五百歳始観心本尊抄,文永10年(1273)4月25日52歳
釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり、其の跡を継紹して其の功徳を受得す。
--------------------------------------------------------
撰時抄,建治元年(1275)6月10日54歳
一念三千は九界即仏界、仏界即九界と談ず。されば此の経の一字は如意宝珠(にょいほうじゅ)なり。
--------------------------------------------------------
諸経と法華経と難易事,弘安3年(1280)5月26日59歳
仏、仏界に随って説く所の経を随自意という。
--------------------------------------------------------

などとあります。通じて聖人が言う“仏界”とは十界通じて仏界を見る、すなわち十界互具(一念三千)を基本にされています。詳しくは本尊抄の如きです。それを単に仏界のみを切り出して論じてしまえば、すなわち、法華已然の爾前権教の所談ということでしょう。要するに論の立てる時点で、聖人が基礎とされる天台釈から逸脱しているわけです。

このような過ちは、原典を読まず、解説ばかりを読んで仏教を得意したと考える人によく見られる傾向です。五月雨さんが示された学会員の発題の例で言えば「仏界」解説の人の言葉だけで論が踊っているわけです。

いずれにしても、私は仏界が絶対の幸福境涯であるなどというのは、よほど的はずれな“解説”であると思います。

『諌暁八幡抄』には

涅槃経に云はく「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云。
日蓮が云はく、一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なりと申すべし

とあります。日蓮にとって、仏界とは衆生苦、または艱難辛苦の身業読誦の果てにある飽くなき探求なのであって、禍福などで論じるような凡庸な思慮とは次元を異にしているように思えます。

356五月雨:2002/08/22(木) 10:45
独歩さん

>我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。

彼女はこのご文を引用して聞いてきました。「疑ふ心なくば・・」というのはどういう事なのでしょう。盲信しろと仰っているのでしょうか。私の心に引っ掛かっている一点でもあります。
独歩さんが、いろいろな御書を引いて下さいまして、私にも大聖人様は「仏」とはこうなんだとは説いていないという事が良く判りました。

>要するに論の立てる時点で、聖人が基礎とされる天台釈から逸脱しているわけです。

大聖人様の法門を論じる時の「基礎とされる天台釈」とは簡単に言うとどのようになりますか。学会教学程度の知識しかありませんので、論じる時の注意点など教えていただければ有り難く存じます。

>禍福などで論じるような凡庸な思慮とは次元を異にしているように思えます。

牧口さんが創立した「創価教育学会」が出来た時点で、大聖人様の法門から逸脱したという事ですね。戦後の「創価学会」なんてとんでもない話だと思いますが、
石山は何故こんな逸脱を許したのか理解出来ません。石山はもうその頃からいえ、何百年も前からおかしかったからという事でしょう。頭痛のタネは尽きませんね。

357五月雨:2002/08/22(木) 12:21
求道さん

>その本来の教えを理解せずして釈尊や日蓮聖人までも謗るようですね。

いちりんさんが、釈尊や日蓮大聖人様を謗っていますか?どう読み取ればそうなるのでしょう。ちょっとご説明をして頂けませんか。私は二十数年の信仰生活の中で「間違った教義」に自分の人生とお金を搾取され続けてきました。いちりんさんのお話は、仏教に対して失望しかかった私には「仏の教えの本当の在り方」を教えていただいています。そしてそれは「励まし」になりました。

>ならば宗教は要らなくなるでしょう。それとも、釈尊や日蓮聖人よりも「いちり
ん教」が正しいと?

あなたは何かを信仰されているのですか。大聖人様に「聖人」とお付けしているということは「日蓮系」の信徒の方でしょうか。宗教に何を求めて入っておられるのか知りませんが、宗教は心を癒すために存在すると考える私には、あなたの論理の飛躍も解りません。

>愚かな主張がまかり通る掲示板にならないよう願っていますよ。

大丈夫です。あなただけが愚かな主張をしているだけですから。

358犀角独歩:2002/08/22(木) 17:04

五月雨さん:

> 「基礎とされる天台釈」

これは文字通りなのですが、ここでは諸法実相、十界互具、百界千如、一念三千(妙楽ですが)という意味で言いました。

> 牧口さんが創立した「創価教育学会」が出来た時点で、大聖人様の法門から逸脱

まあ、この団体は教育者の団体ですから、法門逸脱と言ってよいかどうかはわかりませんが、私が呼んだ創価教育学会の資料では「価値論と牧口先生は人法一箇」なんて表現があり、びっくりしました。

純師は創価について、本有常住を説く仏教(純師の立場)では想像されるものは何もないので、この名前は石山信徒としては不適切であると疑問を投げかけていたと思います。

いずれにしても教育者として教育学説を述べることは勝手ですので、この点について私は牧口さんを非難しません。けれど、そお価値論その他と石山教学を同一俎上で論じれば明らかに逸脱であろうかと思います。

359五月雨:2002/08/22(木) 22:50
独歩さん

>ここでは諸法実相、十界互具、百界千如、一念三千(妙楽ですが)という意味で言いました。

わぁ難しいですね。大聖人様の法門を語る時には、ここまで頭において語るというのは私には大変です。でもここまで考えているから大聖人様の本当の法門を語る事が出来るのですね。

>けれど、そお価値論その他と石山教学を同一俎上で論じれば明らかに逸脱であろうかと思います。

牧口さんのお説は、戒壇本尊を拝むところに「価値創造」があるのでは無かったのでしょうか。別物とは聞いた事が無い気がしますが、むかーしに聞いたので自分でそう思い込んでいるのかもしれません。

360犀角独歩:2002/08/23(金) 05:39

五月雨さん:

> 牧口さんのお説は、戒壇本尊を拝むところに「価値創造」がある

この整理は簡潔ですね。

牧口さんの死は、たしかに価値創造に対する迫害とは、内外共に取られていませんね。
『富士年表』でも

1944 (昭和19年)11.18 創価学会初代会長牧口常三郎 法難に殉ず 74(大白蓮華 12)

となっていますね。

人生地理学、牧口価値論(美利善)…生命主義…幸福製造器、公明会から国立富士戒壇論。結論は戒壇建立で、富士義にはなるのだけれど、一連の混入は、たしかに逸脱と言うしかありませんね。「現代的に解釈し直し、仏教を蘇生させた」とか、たしか『人間革命』には書いてありましたが、よく言えば、こんなふうになるのでしょうが、価値論も、生命論も、幸福製造器も、人間革命も、日蓮の教えとはほど遠いものですね。

361犀角独歩:2002/08/23(金) 06:46

―356からつづく―

> 「疑ふ心なくば・・」というのはどういう事なのでしょう

以上の点、返していませんでしたね。
開目抄のこの一節がいう「疑う心なくば」とは何を指しているのかが問題になるわけですね。「御本尊を疑う心なくば」「大聖人を疑う心なくば」「法主上人猊下を疑う心なくば」「先生を疑う心なくば」から、「日蓮正宗を疑う心なくば」「創価学会を疑う心なくば」「顕正会を疑う心なくば」となっていくのでしょう。この点について、五月雨さんは疑問をお持ちなのでしょうね。

「疑う心なくば」とは、「我が己心の仏界を疑う心なくば」ということでしょう。
止観にしても、本尊抄にしても、己心仏界を欠いては成り立たないことになります。私が常に口にする二十四文字の法華経もそうですね。我が己心の仏界のみならず、他人の己心の仏界を疑ってしまっては成り立たないわけです。仏教が成仏を目指す修行であるとすれば、己心仏界を欠いては成り立たない、この点を疑ってはいけないのだ。「私自身も私の弟子、所難に遭って己心の地獄界、餓鬼界ばかりを感じ、少しも己心仏界など思いもよらなかろうと、我が己心の仏界を疑うことがなければ自然に仏界に至ることであろう」という意味合いではないでしょうか。この意味において「疑ふ心なくば」と仰せになるのは道理であろうと私は思うわけです。

ただし、この「疑ふ心なくば」を悪用して、ただ信じることを強要する団体・指導者があれば、大いに疑ってみることが必要なのでしょう。

362五月雨:2002/08/23(金) 08:58
独歩さん

今日も私の目からはウロコが落ちました。一体何枚落ちるのでしょうか。
大聖人様が「盲信の強要」などされる筈が無いと思いながらも、学会で染み込んだ解釈から逃れられませんでした。「疑う心なくば・・」という御文を突きつけられて、組織から離れるという事は「御本尊を疑っているという事なのだ」と暗に言われたのです。組織から離れる事を、御本尊を疑っているという言葉と同義語と
学会員も法華講員も思い込んでいます。そう教育されているからそんな発想になるのでしょうが、その上に「退転者」呼ばわりまでするのは、何なんでしょう。「信心を辞めた人か゛退転者」という認識はあるみたいなのに、組織から離れたら退転と言うのです。「組織を信仰」しているとそうなるのでしょうか。今現実に法華講の組織について信心している方と話をする機会がありました。お寺の出来事その他の話を聞きながら、独歩さんが仰ったように、「組織から距離を置く」ことを勧めました。組織に付いて信心することが「正しい信心」と聞かされていると、中々この考えは理解出来ないかも知れません。離れないと「心の平安」を取り戻せない組織の実情は悲しいものもありますが、これも真実です。それに組織を離れたら「大罰もらうで」と言われた割には、罰にも当たらず平穏無事に暮らしています。
ところで、大聖人様は本当に「罰を当てる」のですか。当てるぞという御書が存在するのですか。

363犀角独歩:2002/08/23(金) 16:59

362 五月雨さん:

聖人の記述に“罰”については、たくさん見られます。
しかし、組織の打ち出しどおりやらないと罰が当たるなんていうものはないでしょうね。また、仮にあったとしても、そんなことが正しいかどうか。

石山は昭和58年に、信徒数1650万人を公称したのです。いまは、せいぜい17万人、けれど、1635万人が大罰をもらったなんてことはないでしょう。脅しの言説で人を操ろうとすることはもっとも卑劣なことでしょう。いわば自信のなさの裏返しなのではないでしょうか。

> 罰にも当たらず平穏無事に暮らしています

本当にみんながみんあ平穏に暮らしています。それに比べて、組織に煽動されている人の心の余裕のない様、罰に怯え、功徳を求める姿は哀れを誘います。

今どきの組織、そのあからさまの商売根性と、逸脱、ご都合の主義の教え、こんなことに翻弄されているほうがよほど罰が当たるでしょう。まあ、罰というものがあれば、ですが(笑)

364五月雨:2002/08/23(金) 17:29
独歩さん

ご教示有難うございます。

>聖人の記述に“罰”については、たくさん見られます。

その罰とは一体どんな事象に対していうのでしょうか。「罰」とか「功徳」とか
信心している人は真剣にいうけれど、そもそもそういうものがあるのでしょうか。独歩さんも同じようなお考えみたいですが、私はただの思い込みにしか感じられません。ご本尊様のお力がどんなものなのかという体験の無い私には
祈りきればその通りになるとか、どんな原因で死んでもその人が組織に付いていない人なら「罰」で死んだと人は言います。
大聖人様は、どんな事を罰といい、功徳はこうだと説いておられるのでしょうか。

365犀角独歩:2002/08/23(金) 18:57

五月雨さん:

聖人が罰というのは法華誹謗の科、功徳とは法華受持に限ることでしょう。

ざっくばらんに申し上げれば、罰も利益も個人的な主観であるという結論を石山教学は支持しているのだと思います。

つまり、罰即功徳などというわけですね。要するに、各人がどのように感じるかだけでしょう。「退転したから病気になった、貧乏になった」なんて誹謗があるわけです。

けれど、聖人の晩年は身延の山中で食に事欠き、さらに痩せ病と下痢に悩まされていました。何度も引いているのですが、真跡はありませんが、『四菩薩造立抄』に

日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり

と言われるわけですね。また、『上野殿母尼御前御返事』に

さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候ひて今年十二月八日にいたるまで、此の山出づる事一歩も候はず。たゞし八年が間やせやまいと申し、とし(齢)と申し、としどし(歳歳)に身ゆわく、心をぼ(耄)れ候ひつるほどに、今年は春よりこのやまいをこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々にをとろへ、夜々にまさり候ひつるが、この十余日はすでに食もほとを(殆)どとゞ(止)まりて候上、ゆき(雪)はかさなり、かん(寒)はせめ候。身のひ(冷)ゆる事石のごとし、胸のつめたき事氷のごとし

とあり、聖人晩年の、病の重さが窺われます。しかし、この記述を見、涙に暮れる人はいても聖人をして、まさか罰だという信徒はいませんね。

前も引いた八風抄にしても、結局、どのような境遇、窮地においても、心を乱さない境地の確立を仏教は目指しているわけですね。

罰も利益も表裏一体のもの、結局、この富士義が、「組織活動をしない罰が当たる」などという人はわかっていないのでしょう。

なお、治罰というのは、いわば神仏の擬人化に基づき、悪人を裁くというという思想が根底にひそんでいますね。天罰云々はなんだかキリスト教のような絶対者信仰を背景にした、被支配者の恐怖操作と支配に基づく思想であるようで、そもそもしかし、仏教は因縁説と矛盾すると思います。

「罰当たり」などという呪文に心を乱されない鍛錬こそ、必要なのでしょう。

366五月雨:2002/08/23(金) 23:36
独歩さん

>聖人が罰というのは法華誹謗の科、功徳とは法華受持に限ることでしょう。

法華経は人が書いた物語でも、何か力を持っているのでしょうか。

>結局、どのような境遇、窮地においても、心を乱さない境地の確立を仏教は目指しているわけですね。

罰とか功徳とかに囚われ過ぎでした。「自受法楽」を目指していきたいと思います。

ところで232,233の独歩さんのレスで、前から気になっていたのですが、戒壇之曼荼羅の図ってもしかして、もしかすると大石寺の本門戒壇の大御本尊ですか
まさか、写真にある訳もないと思いつつ気になっていたのです。

367犀角独歩:2002/08/24(土) 19:12

五月雨さん:

> 232,233…戒壇之曼荼羅の図…もしかすると大石寺の本門戒壇の大御本尊ですか…まさか、写真にある訳もないと思いつつ…

ええ、そうです。
いわゆる本門戒壇の大御本尊は、過去にただの一度だけ写真が掲載されたことがあります。現在、流布してい写真はすべてこの時掲載された写真の転写です。
これを許可したのは亨師であったと記憶しています。

19911(明治44)11.10 熊田葦城著『日蓮上人』刊(富士年表)

しかし、写真を使って図示された内容が考証されたり、ひどい場合は、印刷転写し表装して売り出すところまで出たので、その後、石山では本尊(漫荼羅)の公表をやめることにしたという経緯があるということでした。

368犀角独歩:2002/08/24(土) 19:15

> 法華経は人が書いた物語でも、何か力を持っているのでしょうか

私は経典自体に神秘的な力があるという考えには反対の立場です。
ただ、経典を尊ぶことは否定しません。法華経は読む人にとっては仏そのものとも映じるでしょうし、嫌いな人は見るのはイヤだということになるでしょう。所詮、受ける側の、心の問題でしょう。

369五月雨:2002/08/24(土) 23:30
独歩さん

御本尊を曼荼羅の図と仰っていたので、最初はどういう意味か分かりませんでした。御本尊と曼荼羅は違うのでしょうか。また、生身の大聖人様という戒壇本尊を写真に撮らせるだなんて、一体どういう事なのでしょう。御本尊は絶対に写真に撮ってはいけないと、戸田会長も言っていたように思います。どんな経緯があって日亨上人は許可したのかご存知ですか。私が聞いてきた事と、石山がしてきて事があまりにも違い過ぎます。

>その後、石山では本尊(漫荼羅)の公表をやめることにしたという経緯があるということでした。

その後というと、その前は平気でしてきたのでしょうか。そう言えばウチの住職は「御本尊の写真集を持っています」と平気で言っていましたから、僧侶は御本尊をあまり大切に考えていないみたいですね。

法華経についてはよく分かりました。有難うございました。

370ワラシナ:2002/08/25(日) 00:13
no340いちりんさん
*ちょっと理屈っぽくて申し分けないんですが以下のような事を前から感じてたので書いてみました。

----「苦楽ともに思い合わせて」に見る宗祖の四諦観----

0<要旨>、「ただ女房と酒うちのみて」のご指南で有名な四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)(1143Phttp://www4.justnet.ne.jp/~bekkann/goso1143.htm)には文面には露ではないが、宗祖の四諦観(法華円教無作の四諦)が背景に働いているのではないだろうか、と私は推理したのである。
0−1、
引用始め-------------
「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、この文・あに自受法楽にあらずや、衆生のうちに貴殿もれ給うべきや、所とは一閻浮提なり日本国は閻浮提の内なり、遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや、あに自受法楽にあらずや
法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏・後生善処とは是なり、
ただ世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず、賢人、聖人も此の事はもがれず、ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ、苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ、恐恐謹言

建治二年(1276年)丙子(ひのえね)六月二十七日 日蓮 花押
四条金吾殿御返事」
引用終り-------------

1、何故そういえるのかといえば、「苦楽ともに思い合わせて」の「苦楽」が天台四教説に組み込まれた天台流の四種四諦のなかでは、そのまま一まとめに「蔵教実有の苦諦(諦観録)」に括られてしまうからである。
三界六道人天二十五有は天界の楽しみさえも「苦」とされる、この事情が「思い合わせて」の表現になっているのではないか、だから、「苦楽ともに」が天台教義「苦諦」に該当している、と感じたのである。

2、こうなれば、これは天台流の煩悩論で集諦が解釈されるのが自然なものとなり、「苦諦」を「滅諦=法楽」に持っていく為には、空観一辺に偏する蔵教の「道諦」観では、その集諦観の限界たる見惑、思惑の低級煩悩を滅するだけで、終わってしまい、それは灰身滅智の「滅諦」を導くだけで終りになってしまう。塵沙惑、無明惑の滅までには至らない。

3、こうなれば、宗祖にとっての「道諦」はどうなっているかということになるが、それが「南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へ」になっていると観察されたのである。初期仏教の八正道が、ここでは一心三観の題目行に該当している、と思われるのである。
(h14/8/24)

371犀角独歩:2002/08/25(日) 06:17

> 370

実に参考になる考証でした。なるほど。

それにしてもリンクに飛んでみたら、学会の資料でびっくり。読むと“「名誉会長 前霊鷲山→虚空会→後霊鷲山という流れは、いわば「現実−悟りの世界→現実」という流れです”などと恐ろしくとんちんかんな解釈が出ていて、思わず大笑いしてしまいました。高尚なワラシナさんの考証から、いきなり突き落とされたような気分を味わいました(笑)

372犀角独歩:2002/08/25(日) 06:51

五月雨さん:

> 御本尊と曼荼羅は違うのでしょうか。

これは、ここ富士門流信徒の掲示板の一大テーマです。
聖人からして、ほぼ同義として使っているところもありますが、私は厳格な意味では違うという考えです。

> 生身の大聖人様という戒壇本尊を写真に撮らせるだなんて、一体どういう事なのでしょう。

でも、仮に日蓮が生きていたときにカメラがあったら、写真を撮らせたでしょうね(笑)
亨師は、よい宣伝になる程度の大らかな考えであったのではないでしょうか。

> 御本尊は絶対に写真に撮ってはいけないと、戸田会長も言っていたように思います。どんな経緯があって日亨上人は許可したのかご存知ですか。

この五月雨さんの考えは時系列が逆になっています。
亨師が写真を公表(明治時代)したら、ひどい結果になった、「だから、やめよう」で、戸田さんの指導になった(昭和戦後)という流れです。

『日蓮上人』が発刊されたのは明治44年、本に写真が載ることよりなにより、まだまだ写真製版という技術自体が真新しい最新のものであった時代です。

> 私が聞いてきた事と、石山がしてきて事があまりにも違い過ぎます。

これは聞かれたことは学会指導で、やってきたことは石山の考え。
先に述べたとおり、順番が逆です。

私もどちらかというと聖人の漫荼羅を写真に撮るのは反対ですが、もう今となっては後戻りはできないでしょう。また、写真集が出たことによって、むしろ、真偽の判定はしやすくなったという利便もありました。フェイクの作成に悪用されない限り、研究という意味では功利面のほうが大きかったと思います。

>> その後、石山では本尊(漫荼羅)の公表をやめることにしたという経緯があるということでした。
> その後というと、その前は平気でしてきたのでしょうか。

それ以前は、明治のはじめ、また江戸時代になってしまいますから、写真製版の技術どころか、凸版印刷の技術もなかった時代になります。ですから、もっぱら木版ということになるでしょう。

> そう言えばウチの住職は「御本尊の写真集を持っています」と平気で言っていました

これは多分、五月雨さんの御本尊観が、…気を悪くしないでくださいよ…やや学会の影響が残っているからでしょう。漫荼羅は尊崇の対象ですが、今日日、真面目な学究者であれば誰しも本尊(漫荼羅)写真集はもっています。

> 僧侶は御本尊をあまり大切に考えていないみたいですね。

仰る意味とは違いますが、私もそう感じます。
先の印刷技術の話と関連しますが、そもそも印刷製版で大量生産して配布するような類のものであるのか、私は疑問に思っています。誤解を招く恐れもありますが、印刷で大量生産できるようになったので、末寺住職は漫荼羅を書かなくなった、だから、漫荼羅書写に至るまでの僧俗の深まりも失われたと思っています。要するに手続の師匠は誰でもよいということになってしまったのでしょう。

他で記しましたが、“本尊”という言葉、実は初期天台文献には見られない言葉です。元来、仏教語ではなかったということです。では曼陀羅はあったのかというと、こちらはすでに法華経に見られます。けれど、意味は違います。天上世界の花を意味したものです。曼荼羅が描かれた図示となるのは密教(タントリズム)でしょう。

つまり、本尊、曼荼羅ともに法華経とはかけ離れたものなのです。けれど、聖人はそれを受容された、その流れの中に日蓮門下もあるということです。

では、我々がいう本尊曼荼羅とは、その原意は何かといえば、まさしく仏様そのものでしょう。つまり教主釈尊に対する尊崇を置いてはないということです。つまり、この点でも、大石寺系グループは原意を失ってしまっているのです。果たして、このような在り方が仏教といえるのかというのが、私が投げかけているテーマであるわけです。

373富士桜:2002/08/25(日) 08:17
>> その後、石山では本尊(漫荼羅)の公表をやめることにしたという経緯があるということでした。
> その後というと、その前は平気でしてきたのでしょうか。

> そう言えばウチの住職は「御本尊の写真集を持っています」と平気で言っていました

>これは多分、五月雨さんの御本尊観が、…気を悪くしないでくださいよ…やや学会の影響が残っているからでしょう。

独歩さんと五月雨さんの会話の中で、自分も大御本尊は、広宣流布の暁まで絶対秘すべき本尊といつのまにか体に染み付いていました。ですのでオフ会の時に問答名人さんから頂いたCDの中に「大御本尊の写真が入ってます」って言われた時には「まずいものを貰ってしまった」と思ってたのを思い出しました。(笑)国柱会の「本尊集」か何かに掲載されている事を知った時には(確か一冊50万くらいする本と聞きました)なんで!だれが写真なんか取らせたのだろう!と一人で怒ってました。(笑)日亨上人の許可だったのですね。

ただ、そこまでされたのだったら「これは本物だ」と言う証拠を、詳しくは調べ方は分らないのですが、レントゲン撮影かなんかで学者が入って徹底的になぜされなかったのかな?とも思いました。

二十数年信心されてきている五月雨さんと同様の考え方に、二年ちょっとの自分が同じ本尊観を持っているのが不思議でした。
独歩さんのおっしゃる「学会の流れ」が、今は日蓮正宗には居ない学会の影響が今の自分に知らず知らずに入り込んでいるんですね。

もっとも御虫払い法要の時に「なんであれだけ大切な御本尊が沢山あるのに大御本尊の原判がないんだろう」と一人でパニックに陥っていたくらい無知でした。
大聖人御真筆の本尊が一幅しかなかった事にも驚きました。
「なんで大聖人の教義をそのまま唯受一人の血脈で続けてきた宗派なのに大聖人の真筆がこれしかないんだろう」とも思っていました。

それで、これも聞いたお話なのですが、大聖人がお題目の下に「日蓮」と花押が書かれていますが、最初はずっと左の位置で弘安二年の大御本尊に来るに従ってだんだん真ん中に花押がずれて来ている、って言う事は本当なのでしょうか。

374犀角独歩:2002/08/25(日) 09:20

> 最初はずっと左の位置で弘安二年の大御本尊に来るに従ってだんだん真ん中に花押がずれて来ている、って言う事は本当なのでしょうか。

顕師の本門正宗の小野寺さんを批判したときの説法です、これは。懐かしいですね。もう20年も経ちますかね。

顕師説法の骨子は中尊(南無妙法蓮華経)・日蓮・花押が縦一列に並んで「人法一箇」の深旨を表すというものでした。当時は「すごい!」と感動したものですが、しかし、一体、何を根拠にこんなことを言ったものか、いまでは「?」と思っています。

日蓮と花押の位置は写真集を古いほうから順番に見ていけば、大雑把な言い方をすれば、たしかにそうなっています。けれど、日蓮と花押の位置には少なくとも二種類あります。一つは日蓮と花押が左右に分かれているもの、もう一つは日蓮花押と中央より左側に描かれれているものです。

なお、顕師説法を読むと恰も戒壇之漫荼羅がだけがそうなっているように勘違いしますが、弘安2年前後の特徴であって、その頃の図示はそうなっていますね。また、文永年間から弘安2年に向けて中央に統一されていったような説法ですが、実際はそれ以降でも日蓮花押が左にずれた漫荼羅はあります。

http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/113.html


詳しくは本尊集を順番に見てみるのがいちばんでしょうね。
http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/001.html

375いちりん:2002/08/25(日) 10:55

ワラシナさん

>こうなれば、宗祖にとっての「道諦」はどうなっているかということになるが、それが「南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へ」になっていると観察されたのである。初期仏教の八正道が、ここでは一心三観の題目行に該当している、と思われるのである。

ブッダの文脈から、ちと考えてみました。

苦も楽も、この世間にあっては、つまるところ「苦」である。すべてが「苦」である。

厳密には、この「苦」は、ドゥッカ(不満足)という意味合いですが、どんなに幸福を求め、願いを達成したところで、この世間にあっては、つまるところ満ち足りるということはない。

なぜかならば、それは「欲」があるからだ。この「欲」というものは、「もっともっと欲しい」と限りなく増長していく。つまり「渇愛」(タンハー)であるから。

だから、「欲」に動かされ、むさぼっている自分に気がつかなくてはいけない。「少欲知足」の道を知らなくてはいけない。

……というのが、ブッダの説くところですよね。

日蓮さんにおいては、要するに、南無妙法蓮華経と唱えればいい。南無妙法蓮華経に「おまかせ」してしまえばいい。なにがあっても、南無妙法蓮華経。嬉しいにつけ、かなしいにつけ、苦しいにつけ、なにがあっても南無妙法蓮華経。それで、オッケーである。

ただ、ブッダの文脈からいいますと、なんでも南無妙法蓮華経でいいというのは、じつは「欲望につきうごかされて、欲の達成のために唱える」ということになりやすいですよね。まさに、現世利益、願望達成の呪文としての、お題目ということになっていく。

金が儲かる、大学に受かる、病気が治る、出世する、家が建つ、選挙に当選する、勲章がもらえる……というのが、南無妙法蓮華経の功徳であるという観念が強いですよね。

ブッダの説くところは、いかに願いが叶い、いかに幸福を得ようと努力しても、根底に欲望があるのだから、それは「苦」になるのだ。「いまの生き方では、どんなにやっても不満足に終わる」ということを言いたいのだろうと思いますね。

376いちりん:2002/08/25(日) 10:57

で、日蓮さんの言いたいことは、

南無妙法蓮華経と唱えることで、願いは叶うのである。しかし、そんな願いなどは、大したことはないのだよ。

そんな目標が達成したからと喜び、家が建ったからすばらしいというように、お題目を考えてはいけないよ。

ただ、あるがまままでいい。
なにがあっても、南無妙法蓮華経。
それで、どうなるとかこうなるとか、そんなものはほつておきなさい。
ただ、南無妙法蓮華経と唱えている。南無妙法蓮華経におまかせしていく人生。
それが、ほんとうの幸せなんだよ。

……ということかなあとも、思うわけです。

いつもいいますが、わたしは学問的にああだこうだという論議ではありません。「わたしなりの日蓮観」というところです。生き方として、日蓮さんに学ぶという見方から、考えてみました。

377いちりん:2002/08/25(日) 11:08

わたしは、あらゆる宗教の基本は「おまかせする」ことだと思っています。
「南無」が「おまかせする」ということ。
はからいを捨てて、おまかせする。

まあ、その意味では、南無妙法蓮華経も、南無阿弥陀仏も、南無八幡も、南無三宝も、まあなんでもおんなじといえるかもしれません。

で、なにを信ずるかどうかは、やはり導きというか、縁にしたがって進むしかないと思っています。
正しいから、というのではなくて、縁があったから、その道に進んでゆく。
それぞれの人が、それぞれの縁に随って進んでいる。

でも人間は、なかなか「おまかせ」できない。

だから、あれが正しい、これが間違っている、こちらのほうが優れている、あれは低いなどと、あれやこれや、論議してしまうのでありましょうか。

378犀角独歩:2002/08/25(日) 12:40

おまかせですか。しかし、日蓮は弟子に対して、そんなことを認めなかったでしょうね。

建治3年56歳の時の書『富木殿御書』に

我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ

とありますね。天台の止観なども徹底した禅定と、観念観法。おまかせの余地がないほどです。

富士門はそんな精神を受け継いでいますでしょう。興師の作とは思えないところもありますが、遺誡置文の

未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事

とありますね。まあしかし、ここまで厳しい師匠に随順するということは、ある面、おまかせなのかも知れません。でも、日蓮は自分が救うというより、自力で救われろという思いを唱題の行に篭めていましたでしょうね。

379いちりん:2002/08/25(日) 13:00

わたしが、好きな御遺文のひとつですが、

「設ひいかなるわづらはしき事ありとも、夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし」

まあ、いろいろとわずらわしいことはあるよ。
しかし、そんなものは、夢のようなものだ。じつは、実体があるわけじゃない。
だから、『法華経』におまかせしていけばよい。

まあ、そういう「おまかせしなさい」というような言い方も、日蓮さんは、されておられます。(というふうに、わたしはとらえてしまうのですが)

これは、身延時代のものですから、日蓮さんも、齢をかさねていくごとに力が抜けて、おまかせ的な言い方の比重が高まっていったのかなあとも、思います。

380犀角独歩:2002/08/25(日) 14:24

「法華経の事のみさはぐらせ給う」が「おまかせ」ですか。
私は「夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ」と同じような意味でとらえていました。

381五月雨:2002/08/25(日) 18:58
独歩さん

私の考え方の順序が逆とのご指摘は、お聞かせ頂いて、そうだったんだぁと深く感心
致しました。私は頭の中には時代考証などという言葉は全くありません。学会で言わ
れた事をそのまま信じていました。俗に言う「鵜呑み」ですね。
戸田会長が言った言葉は完全には覚えていませんし、それが書かれていた会長指導集もほかしてしまったので、そのまま引用出来ませんが、たしか「御本尊を写真に撮る
のは不敬だ」と言ってたように思います。それに私達は御本尊を写真に撮ると、罰が
当たるとまことしやかに言ってました。だから、宗門が許可したというのが信じられ
ない思いだったのです。心の中で「この罰当たり」(笑)と思っていました。ちなみに
ウチのつれあいに、「戒壇本尊の写真がインターネットに載ってるよ」というと、か
なり驚いていました。見せてと言わないのは「罰が当たる」と思っているのかも(笑)

私の本尊観は、学会の影響だらけです。御本尊は命よりも大事と教えられ、信じてき
ました。火事の時には、自分の命よりも御本尊を助ける事が大切だと言われて、も
し、そんな事があったらどういう風に仏壇から御本尊を持ち出そうかと真剣に考えていました。実際そういう事があったら自分の事だけで精一杯でしょうが、助けなくてもいいのでしょうか。御本尊は自身の命という考え方から中々脱却出来ていません。だから独歩さんが載せた戒壇本尊の写真に過剰反応したのだと思います。

>末寺住職は漫荼羅を書かなくなった、だから、漫荼羅書写に至るまでの僧俗の深まりも失われたと思っています。

末寺住職が曼荼羅を書くなんて、学会の言いがかりと思っていましたが、それは御本尊を大切に思うからだと思えるようになりました。篤信の者だけが御本尊を受持するのは道理に叶っていると思います。こうすれば、無理をして押し付けて数が大事という折伏に信徒は悩まなくていいと思います。

382犀角独歩:2002/08/25(日) 22:22

五月雨さん:

> 学会の影響だらけ

ここまで認められるということは、ずいぶんとマインド・コントロールが溶けてきた証拠ですよ。喜ばしいことです。

> 御本尊は命よりも大事と教えられ、信じてきました。

私は御本尊は大事だと思います。でも、ここでポイントになるのは「どっちが大事か」という選択を迫る点です。どっちが大事ではなく、どっちも大事ということでしょう。これはどっちを取るかと白黒選択させる手法がカルト理論です。こういう二者択一でものを考える習慣が身に付いた状態を権威主義的パーソナリティと呼ばれています。
なんとナチズムに心酔したドイツ人の心理がこの状態であったといいます。研究をしたのがE・フロムでした。

逆に言えば、白黒選択で、常にグループが用意した答えのほうを選択するように条件付けられている状態にされているのがカルト・メンバーの特徴です。つまり、こんな選択の仕方しか思いつかない状態にされていることをマインド・コントロール下にあるというわけです。

「あなたは御供養してもしなくも好いのよ。どっちにする」「御供養します」
「30万登山、行くも行かないも自由だけれど」「行きます」
と、常に用意された答えを選択するように仕組まれています。でも、石山はこの技術は未熟ですね。学会は完全に技術化されていますね。
新聞と取っていない学会員はいないし、公明党に投票しない学会員もいない…なかにはもちろんいるでしょうが…みんな、自分の意志でやっていると思っています。けれど、知らないうちに組織が決めたとおり、選択しています。

ハッサン氏は以下のように記しています。

マインドコントロールは、露骨な物理的虐待は、ほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な植え込み効果をつくりだす。本人は、直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりに選択をしてしまう。(『マインド・コントロールの恐怖』P109)

ところで私も自分の御漫荼羅はすでに30年も持ってきたものです。火事になったら、自分と一緒に避難させますよ、自分の御本尊ですから(笑)
でも、どっちかという選択はしません。

> 戒壇本尊の写真に過剰反応した

お気持ちはわかります。
でも、ここで考えてみてください。インターネットで流すというのは、いわば複製が簡単に流れるからいけないのですよね。本物そっくりのものが、つまり、そっくりでも写真は写真で本物でないものが流れるからいけない。でも、何度か記しましたが、正本堂建立の時、聖教新聞のカメラマンが詳細の戒壇之漫荼羅を撮影したといいます。石山の了解の元で、学会が、です。
また、石山でも、法華講でも信徒に配っている漫荼羅は印刷です。印刷であるということは写真に撮って印刷原画を造ったということなんですね。

では、彫刻はどうなのでしょう。そっくり同じに削ったもの、本物でしょうか。また戒壇之漫荼羅は直接、板に貼って彫ってしまったといいます。彫られて真筆(真筆であったとしたらですが)は削り取られて鉋屑になって残った彫刻は本物でしょうか。

要するに、ここら辺で矛盾だらけのわけです。

> 末寺住職が曼荼羅を書く

自然なことでしょう。

> それは御本尊を大切に思うから

そう。そして、住職(師)が弟子檀那を大切に思うからですよね。

> 篤信の者だけが御本尊を受持するのは道理に叶っている

これが聖人の本義ですね。
聖人は、自分が記したものを版にして、何枚も同じものが造られたり、板に彫られるとも思っていなかったでしょうし、まして、同じ漫荼羅が板に彫られて、何体もあるようなことが起きることを想定されていなかったでしょう。興師はだからこそ、春師に怒りを露わにしたのでしょう。

383ワラシナ:2002/08/25(日) 22:24
いちりんさん

no375>ただ、ブッダの文脈からいいますと、なんでも南無妙法蓮華経でいいというのは、じつは「欲望につきうごかされて、欲の達成のために唱える」ということになりやすいですよね。

そうなんです。理屈では「**諦」の「諦」という精神動詞になっている事が、基礎になって題目行も成立してるはずなんですが、その意義が忘れられて、それが祈願祈祷主義にどうしてもなりやすいのです。祈念の目標が菩薩の誓願なら理にかなってるかもしれませんが、逸脱する危険があって、終いには有り得そうもなさそうな不合理な物事まで心の中の祈願対象に取り込まれている事に気が付かない事があるのです。
それから省みたとき、仏陀の四諦の方が素朴で、訴えるものがあると思う。天台実相論の三諦円融をいきなり実感するのは特殊な思惟訓練を経なければ不可能だと感じます。

これは今後の課題ですが、特に初期仏教の四諦においては「感じられた真理としての**諦」と「考えられた真理としての**諦」との対応が認められますが、その中で特に「苦諦」は他の三諦の基礎を提供していて特別な地位を持っていると感じます。「苦」というあり方こそが人間生存の真の現実にあたいするものなのだ、というような主張をそこに感じます。その「いつもそのように感じられている真理としての苦諦」の基礎の上に他の三諦が乗っかっているような構成を感ずるのです。
これは天台実相論での四諦との比較を勉強してから考えたいところです。

no377>あらゆる宗教の基本は「おまかせする」ことだと思っています。

上のお考えはよい意味で「受身に徹する受動的決意性」と自分は解しています。「積極的な消極性」という知恵みたいなもの。「自由の本質はその消極的な意義の方面にこそある」といった某哲学者の言葉を思い出します。

384五月雨:2002/08/25(日) 22:25
富士桜さん

>二十数年信心されてきている五月雨さんと同様の考え方に、二年ちょっとの自分が同じ本尊観を持っているのが不思議でした。
独歩さんのおっしゃる「学会の流れ」が、今は日蓮正宗には居ない学会の影響が今の自分に知らず知らずに入り込んでいるんですね。

昔むかしその昔、創価学会は「日蓮正宗創価学会」だったのですよ(笑)今でこそ敵対関係にある両者の蜜月時代を知らない富士桜さんには、とりあえずでも現法華講員の私の考え方に驚きましたか。本尊観だけでなく、教義的に変節してしまったのは学会の方ですので、元々の教義です。その元々の教義が学会流だったのは歪めませんが、それを注意するでもなくそのままにして置いたのは、石山です。今更、学会の信心のここがおかしかったなどと石山は批判しますが、責任放棄しておいてのこの言葉は無責任の極みです。

>もっとも御虫払い法要の時に「なんであれだけ大切な御本尊が沢山あるのに大御本尊の原判がないんだろう」と一人でパニックに陥っていたくらい無知でした。
大聖人御真筆の本尊が一幅しかなかった事にも驚きました。

戒壇本尊の原判などと思ったこともありません。大体、戒壇本尊が半丸太であると知っている信徒はどのくらいいるのでしょうか。
信心歴40年を誇る法華講のおばぁさんにそう言ったら「知らなんだー」と言ってたけどそんな詳しい事は必要ないそうです。何だか変ですよね。信心の根本である戒壇本尊について実態はどうなのかを知りたがらないというのは。やっぱり気持ちの中で御本尊云々すると罰が当たると思っているのでしょう。私も少し前まで同じでした。
それよりも、石山には御真筆本尊が一幅しか存在しないって本当ですか。こっちの方がショックです。二箇相承書はあるのに何ででしょう(笑)

385犀角独歩:2002/08/25(日) 22:55

横レス失礼します。

> 石山には御真筆本尊が一幅しか存在しない

これは違うと思います。たぶん、御虫払で出すのが1体だけということではないでしょうか。私のサイトで紹介している『大石寺本尊真偽問答』では11体となっています。たぶん、これは昭和30年代は他門で、そのように認識されていたのであろうと推測されています。富要の御本尊脇書で「総本山」と記されているものを数えると戒壇之漫荼羅を除いて7体、末寺を含めて11体となっています。上述の記述はこれに従ったものであると思えます。

386五月雨:2002/08/25(日) 22:56
独歩さん

>ずいぶんとマインド・コントロールが溶けてきた証拠ですよ。喜ばしいことです。

まだまだ自分ではつい学会流、石山流で思考してしまい、時々頭の中が混乱する時があります。事実を見据えるのが辛くて逃げたい時があるのは、これもマインド・コントロールの後遺症でしょうか。逃げずに済んでいるのは、どんな事でも答えてくださる独歩さんのお陰です。感謝しております。有難うございます。

>火事になったら、自分と一緒に避難させますよ、自分の御本尊ですから(笑)でも、どっちかという選択はしません。

しつこく聞いてすみませんが、どうしても持ち出せそうに無かったらどうされますか。私がこだわるのは学会の時に、今でもそうかも知れませんが、自分の命に替えて御本尊は守らなくてはいけないという考え方があるからです。もしかしたら、こう考えて命を落とした方もいるのではと思うのです。居なかったら幸いですが。

>要するに、ここら辺で矛盾だらけのわけです。

本当に矛盾だらけなのに、気が付く人は少ないですね。気が付かないように教義で周りを固めているし、「御本尊云々するのは罰当たり」という思考もそこに働き、ますます分からないのでしょう。かくいう私も、やっとこさ最近気付く事が出来ましたので、エラソウな事は言えません。

>興師はだからこそ、春師に怒りを露わにしたのでしょう

どんなエピソードがあったのでしょう。聞いた事がありません。
ぜひ教えて下さい。

387五月雨:2002/08/25(日) 23:12
いちりんさん

>ただ、あるがまままでいい。
なにがあっても、南無妙法蓮華経。
それで、どうなるとかこうなるとか、そんなものはほつておきなさい。
ただ、南無妙法蓮華経と唱えている。南無妙法蓮華経におまかせしていく人生。
それが、ほんとうの幸せなんだよ

いいですね。こうい捉え方。私も教学的に大聖人様は何をどう教えているのか分かりませんが、「あるがままでいい〜南無妙法蓮華経におまかせ」に悠然と人生を楽しんでいる姿を思い浮かべます。次から次へと病気の苦しみがあった時に、信心していてこんなでは恥ずかしいとか、直して欲しいとか見栄っ張りに信心してきた私には「何事もあるがままに悠然と受け入れる人生」は理想です。
いちりんさんのお話は、肩の力がぬけて心がほんわかしてきます。

388犀角独歩:2002/08/26(月) 00:02

五月雨さん:

> どうしても持ち出せそうに無かったらどうされますか

燃えるに任せるしかないのではないでしょう。無常を説くのが仏教でしょう。形あるものは必ず崩れていく。だから、聖人がご自身が書かれた漫荼羅が永遠に残るはずはないと思ったから書き方を弟子に伝えたのでしょう。

興師ですら、身延では聖人御所持の釈迦立像を守れず持ち去られ、弘安2年に授与された聖人聖筆の御漫荼羅を盗まれて紛失してしまうのです。でも、興師は死にませんでした。当然ですね。

本当か嘘か知らないですが、亨師のでお弟子が冷厳な姿勢に触れて「では、戒壇之漫荼羅がなくなってしまったらどうするのですか」と詰したら、「わしが書く」と答えたとか。

>> 春師に怒りを露わにした

『富士一跡門徒存知事』に

御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由、諸方に其の聞え有り。所謂日向・日頂・日春等なり

日蓮聖人が図示された曼荼羅を版木に刻み、(板漫荼羅にしたか、版画を造ったか)、信心の浅い者に授与する。これは漫荼羅を軽んじ、賤しんだことだ。いろいろなところにその噂がある。日向、日頂、日春がこれに当たる、という記述です

形木、いま石山で配布される漫荼羅を「御形木様(おかたぎさま)」と言いますね。
聖人の筆ならばダメで、歴代聖人のものであればよいのでしょうか。そうすると、「代々の聖人悉く日蓮」という本尊三度相伝から外れますね。整合性を考えれば、要するに印刷漫荼羅はダメと言うことでしょう。これが富士義です。

要するに、この興師の教えとされる『富士一跡門徒存知事』に真っ向から違反して、印刷漫荼羅を配布したのが石山でした。どうして、いま創価学会が印刷漫荼羅を頒布したからといって批判できるのでしょうか。もっとも学会は石山とは縁を切った団体、なんで寛師漫荼羅を印刷するのでしょうか。池田さんが自分で書き、それを印刷して配ればよいのです。

創価学会の脱宗は1000万を数えるかも知れません。要するに1000万体の印刷漫荼羅が不敬にされたと言うことです。これは学会だけが悪いのでしょうか。

それにも関わらず、自分が授与した漫荼羅の護るために「死ね」という石山は異常です。なぜならば、それが単なる印刷漫荼羅=仮のものであると知っているからです。

389犀角独歩:2002/08/26(月) 00:07

【388の訂正】

誤)「代々の聖人悉く日蓮」という本尊三度相伝から外れ
正)、「代々の聖人悉く日蓮」という本尊七箇相承から外れ

390:2002/08/26(月) 00:48
話の流れを中断して済みません。
石山でも、末寺の住職が本尊を書いていたのですか? やっぱり、という気はします。
写真製版なんて無い頃は、それ以外に方法は無いですものね。法主が書写した本尊だけでは、数が足りなくて、信徒に行き渡らないんじゃないですか?
代々の法華講の家では、誰が書写した本尊をまつっているのでしょう?
本尊書写の権限は法主のみにある、というのは正しいのでしょうか?

日興上人時代にさかのぼれば、日興上人や日目上人以外の、日興門下の弟子が書写した本尊がボロボロ出てくると予想しているのですが。

日蓮宗の一般信徒向け入門書には、「本尊は住職に書いていただくのが最高だが、大きくて家庭の仏壇には入らないので、仏具屋で購入してほしい」なんて書いてますが。

391五月雨:2002/08/26(月) 11:11
独歩さん

>燃えるに任せるしかないのではないでしょう。無常を説くのが仏教でしょう。形あるものは必ず崩れていく。だから、聖人がご自身が書かれた漫荼羅が永遠に残るはずはないと思ったから書き方を弟子に伝えたのでしょう。

「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり・・」平家物語のこの有名な文章に「諸行無常なんだ」と胸が痛んだものです。
生老病死に愛別離苦、人生に付きもののこの苦しみも楽しみも諸行無常の中に消えていくのでしょうか。

戒壇本尊も紙幅の曼荼羅本尊も、形あるものです。いつかは朽ちていきますね。戒壇本尊は750年前の物と石山は言っていますが、大丈夫かいなと心配になってきました。
大聖人様は書き方を「御本尊書写の心得」みたいに遺されたのですか。そこに仏滅年数は「二千三百余年」と定められたのでしょうか。

>どうして、いま創価学会が印刷漫荼羅を頒布したからといって批判できるのでしょうか。もっとも学会は石山とは縁を切った団体、なんで寛師漫荼羅を印刷するのでしょうか。池田さんが自分で書き、それを印刷して配ればよいのです。

石山の言い分はちょっと検証してみれば、どれほど身勝手を言っているのかよく分かります。ウチの住職も「学会ほど退転者を出し、御本尊をご不敬した者はいません」などと被害者ヅラしながら言ってましたが、「監督責任はどこにあったんですか」と言ってやれば良かったと思います。
寛師漫荼羅をどうして配布するのかと、何度も学会員に聞いたけれど納得のいく説明をする人はいません。謗法の日蓮正宗となじってるのにその出先の曼荼羅本尊を拝めるへ理屈を考えついた学会はエライです。まだそのへ理屈は知りません。宮本さんでもご説明してくだされば、有り難いですね。

>印刷漫荼羅=仮のものであると知っているからです。

学会時代は、御本尊様は自分の命に替えてもお守りするものと、マジで思っていたのに「仮りのもの」というのはどんな意味なのでしょう。では本物は何なんでしょう。

392犀角独歩:2002/08/26(月) 12:24

あ さん:

> 石山でも、末寺の住職が本尊を書いていたのですか?

この点、特に調査をしたわけではないので「絶対に書いていた」などと言い切るものではないのです。これは前提です。仮に調査しても、石山の歴代住職の事跡すら追い切れないのに、各末寺の住職の750年の事跡、追えるものではないでしょうね。また、仮に曼荼羅が出てきても判形その他が為されていないはずですから書写人を特定するのは難しいだろうと予想されます。ただし、どこまで石山の本末とするか議論が分かれるところだと思いますが、西山、北山などいわゆる興門流と言われる寺院では書かれていますね。

曼荼羅書写というと、まず第一に思い出されるのが本尊三度相伝であるわけです。これは間違いなく興門の所伝ですね。その成立に、順師の本門心底抄は大きく関わり、さらに朗門に伝わっていることは執行師が明らかにしたところでした。

すでにこの一点を見ても本尊の書写については唯授一人ではなく、複数の人、それも興門に限らずに伝わっています。

第二点として、これはよく取り沙汰されるところですが有師『化儀抄』に

一、末寺に於て弟子檀那を持つ人は守りをば書くべし、但し判形は有るべからず本寺住持の所作に限るべし云云。
一、漫荼羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし判形をば為すべからず云云、但し本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるゝ事も之有り、希なる義なり云云。

判形の為されない仮本尊の書写授与はあったものと思われます。
ただ、石山などでは、最後の「希なる義」という文を強く引き、恰も文全体に係るように言いますが、文は正直に読むべきでしょう。

また、尊師が本尊書写を法主一人の権能とし、一体も書写されなかったということを論い、それが石山の義でもあるような議論がありますが、しかし、尊師は興師の時代の人、有師はそれ以降の人、つまり、興師の時代に尊師はそのように考えたけれども、石山では特にそのようには守られず、化儀抄の記述となったと時系列によって読むべきであろうかと思います。

ところで、化儀抄で言う「判形」とは何でしょうか。通常の議論ではこれは書写人の花押、つまり、石山住職の花押であるというのが石山の言い分です。しかし、そうなると、「本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるゝ事も之有り」という一節の意味が実際と一致しないことになります。

亨師の註解を見ると、ここの事情は複雑で

一には形木又は縮写のものに法主の判形を為されたるもの、
二には平僧の書写せしものに法主の判形を加へられたるもの
三には後代の法主が宗祖開山等の曼荼羅を其儘模写し給ひて更に模写の判形を為されたるものを形木又は写真版等となしたるもの
四には先師先聖の模写版又は形木に平僧が自らの版形を加へ又は平僧自ら書写して判形(自己)まで加へたるもの等

などと四つの分類を示されています。(これだけの分類が示されると言うことはそれだけの例を確認されていたとも拝せますが)

判形には平僧、法主(石山住職)、日蓮花押の模写の三つがあることがしれます。つまり、「本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるゝ事も之有り」とは日蓮花押まで模写して授与するということなのでしょう。法主・平僧の模写(書写)の人の判形とは別です。しかし、これは稀なことであって実際は「日蓮在御判」と記されるのでしょう。
気がつくことは、石山から出す形木漫荼羅には平僧の判形も、法主の判形もない、言ってみれば、仮漫荼羅にもならない本尊であるという点です。この点で、すでに石山、あるいは学会頒布の漫荼羅は、少なくとも有師の言と一致していないことになります。こういうと、「いや漫荼羅に猊下のお名前と花押がある」と反論する向きもあるでしょう。しかし有師が言うところは書き判であって、花押の印刷を言っているわけではありません。

あさんの疑問からやや広がりすぎましたが、以上のことから、石山末寺住職(平僧)が漫荼羅を書かなかったはずはないと私は思うわけです。

393犀角独歩:2002/08/26(月) 12:24

―392からつづく―

> 法主が書写した本尊だけでは、数が足りなくて、信徒に行き渡らないんじゃないですか?

私は何より、この疑問以前のこととして、さしたる信心をしているわけでもない者に、なぜ漫荼羅を授与しなければいけないのかという疑問が先行します。他宗で売っているお守や、お札を批判するくせに、申し出る人にすべて与えるような性質のものなのかという疑問があるわけです。

かつて、日蓮宗を創価学会が本尊雑乱などと避難しましたが、1000万世帯とも言われる石山の印刷漫荼羅は、いまでは学会が回収し、自分たちの印刷漫荼羅(変造した寛師漫荼羅)と取り替えています。どっちが本尊雑乱なのか溜息が出ます。ここで動いたのは一体3000円からという供養=頒価の上がりだけでしょう。この形が「学会の暴走を大目に見る経済的理由となっていった」とは私は疑っているわけです。ここでは、もはや書写の師(手続の師)、さらに石山住職という師の脈絡は切り離され、漫荼羅書写とは関係のない在俗の別の師(池田)を立てるという化儀違反を成立させる余地を、この時点で与えることになったわけでしょう。

漫荼羅が重要だ、信者世帯にはみな下付という刷り込み教育で煙幕が張られ、本来の漫荼羅化儀その他はうやむやになり、専売特許化された漫荼羅濫造権を石山が握る形を構築したのは、実はごくごく近代のことであったのではないでしょうか。

> 代々の法華講の家では、誰が書写した本尊をまつっているのでしょう?

通常は石山住職の漫荼羅でしょうね。
何代も続くような法華講であれば、成就漫荼羅は下付されていたでしょうから。

> 本尊書写の権限は法主のみにある、というのは正しいのでしょうか?

冒頭に上げた興師に由来するという文書、あるいは有師の言を見ても、こんなことは言えないでしょう。

仮に本尊書写の権限が法主にあるのであれば、なぜ印刷屋が漫荼羅を印刷するのでしょうか。印刷は印刷であって書写ではありませんね。厳格な意味でこれは漫荼羅を造っているのは印刷屋でしょう。

書写の権限が石山では(石山ではですよ、他山のことに口を出すのではなくて)石山住職に限るのであればそれはそれでよいでしょう。しかし、印刷が書写でしょうか。いくら在家だからといって、ばかにしちゃいけませんよね。写真にして製版して印刷したのでしょう。造ったのは印刷屋です。それを戒壇之漫荼羅の前に山積みにして、石山住職がご開眼とやらをすると「あーら、不思議霊験あらたかに生身の日蓮の分身が出来上がり」、揶揄してはいけませんが、要するに言っていることは、こういうことですね。

私は、そんなものではないと思うのです。判形がなす人が平僧であれ、法主であれ、授与する信徒を思い浮かべ、その人と家族、子孫末代の成仏を個別に祈念しながらこそ、尊いのではないでしょうか。そこに手続の師の意味もあり、信心の血脈(あまり好きな言葉ではありませんが)通うのではないでしょうか。

だから、有師にしても、亨師にしても、判形が大事だと言っているのではないでしょうか。画竜点睛、ダルマさんに目を書き込むのと判形が書くのは意味が違うと、私は信心という側面から考えるのです。

信徒の数が多くて対応しきれない、しなくていいのです。篤信の信徒は、漫荼羅のいただける日を10年でも20年でも、孫子の代までも待ちますよ。それが信心ではないでしょうか。

以上は、決してあさんに怒って書いているわけではないのです。石山のあまりに欺瞞に満ちた対応を憤ってのことです。まったくひどいと思うから記すわけです。

> 日蓮宗の一般信徒向け…仏具屋で購入

この点、私が書くのは変ですが、石山では得られない知識でしょうから、記しておきます。私はこの点、複数の日蓮宗住職の方に尋ねてみたのです。

答えはこうでした。仏具屋などで売られている漫荼羅をそのまま懸けるわけではない。信者は必ず自分の所属の寺にもってくる。その時、漫荼羅の裏に住職は裏書きをして上げる」ということでした。いわば、有師が言う判形と同じようなことをもって、いわばそれまで印刷物であった漫荼羅に魂を入れるというわけです。檀那に願われ、僧侶はそれに答えて裏書きをするということです。(もちろん、こんな化儀を知らない人は買ってきてそのまま懸けてありがたがっているかも知れませんが)

これを聞いて、私は興師の漫荼羅脇書を思い起こしました。有師よりさらに上代の化儀がかえって他門に生き続けていたわけです。

突然、やってきた入信者に、ばらばらと印刷漫荼羅を下付する石山末寺よりずっと節度があります。

394犀角独歩:2002/08/26(月) 12:41

五月雨さん:

> 本尊…燃える

ちょっと横道ですが、石山には漫荼羅を焼く専用の焼却炉があるということでした。
新しい漫荼羅を下付、死亡、退転で返却されてきた漫荼羅を燃やすためのものだそうです。

この焼却炉で焼くとき、それを担当する僧侶は、燃えづらい、また引っかけるための留め金がついた軸を外し、…無造作に破って外すと言った記述でした…焼却炉で燃やして処分する、それが恐ろしくて仕方がなかった、そんな回想記事を載せていました。

これは学会へ離脱した僧の述懐記事の紹介ですが、まあ、ここらはあまり嘘はないだろうと思うので、紹介しました。

石山では返却された漫荼羅を躊躇なく燃やしてしまうのに、在家の家に懸かっているものであれば「火事になったら命に代えて守れ」というところに欺瞞性を感じるわけです。

> 大聖人様は書き方を「御本尊書写の心得」みたいに遺されたのですか。

聖人は書き遺してはいないようです。まさにこの部分は付法の部分であろうかと思います。興師にはこの相伝があったろうと思います。

問答第一行戒智徳筆跡付法の沙門日興に之を授与す

と記された興師授与の漫荼羅が現存するからです。もちろん、これが唯授一人相伝の証拠とはならないでしょう。また「筆跡付法」が漫荼羅書写についてとするのも即断かも知れません。まあ、心底抄・本尊三度相伝などが興門の所伝である点とは一致しています。

> そこに仏滅年数は「二千三百余年」と定められたのでしょうか。

これはまさしく本尊七箇相承に

一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ

とあります。すなわち、問答名人さんがご指摘されたのは、この一文と戒壇之漫荼羅が一致していないという点でした。

> 「仮りのもの」というのはどんな意味

この点は、あさんへのレス、392・393をご参考になさってください。

395:2002/08/26(月) 21:44

犀角独歩さん

ていねいな解説、ありがとうございます。

……とかなんとか言って、ぢつわ、あんまり理解できていない。
学会に1年ぐらいしか居なかったし、その間、御書なんか3回ぐらいしか開いたことないもんね。
いっしょけんめい読んでいるんだけど、ムツカシー。

成就御本尊って何だろう?、と調べていたら、「富士大石寺の歴史」の過去スレッドに行き当たった。
法主が1枚1枚手書きした曼荼羅ですか? 御形木御本尊って、今の大量印刷曼荼羅のことでいいんですよね。
日有上人の頃は、末寺の住職が曼荼羅を手書きして、信心強盛な信者には、大石寺に成就御本尊を推挙する、
というシキタリだったんですか。

396犀角独歩:2002/08/26(月) 23:44

395 あ さん:

ええ、そういうことです。

397孤独な迷子:2002/08/27(火) 00:05

五月雨さん
独歩さん
アネモネさん

 早々にレスを頂きながら、返事が大変遅くなって申し訳ありません。新参者の私が皆さんを
「さん」付けで呼ばせて頂くのは多少憚れますが、独歩さんからの提案に甘んじてそのように
させて頂きます。

 五月雨さんのショック、私にも分かります。今まで真実だと信じていた(思い込まされてい
た?)ことが間違っていたら、心の拠り所を失ってしまいそうで・・・。

 独歩さん、貴重な体験を読ませて頂き、有り難うございました。
 森田療法の本は私も読んだことがあります。基本的には、感情に囚われずに、行うべきこと
を行えという理屈だったと思います。しかし、感情の問題というのはなかなか難しく、それか
ら人間の心に関心が向くようになり、そんな時期に知人から折伏されました。
 最初は入信することに抵抗がありましたが・・・。その頃友人とスキーに行こうということ
になっていたのですが、その前日に私が交通事故に遭い、その友人もまた事故に遭い、結局ス
キーは中止、「私と友人が同じ日に事故に遭うなんて偶然じゃないな。これが現証か!」と思
い、こちらからお願いして入信させて頂きました。

 今思えば、「信心に反対すれば、罰が当たる。」とか「現証が出る。」など、散々言われま
したから、その影響を受けていたのは確かでしょう。また、このような言われ方もしました、
「仏法は因果の理法を説いているから科学的なんだ。」と。

 「科学的」という言葉から、仏法は人間に関する諸問題を含め、世の中のことを合理的に説
いているものと勝手に思い込んでしまったのですね。
 「因果の理法」とか「十界互具」、「生命論」などと言う言葉は、当時はとても魅惑的なも
のでした。自分の心の状態を、仏界は難しいにしろ、せめて人間界ぐらいの平穏な状態にでき
ればなどと思ったものです。

 その頃の私は宗教に対して、「とても崇高なもの」というイメージを持っていたのも事実で、
そのことも入信に繋がった一因になっていたと思います。

 > このような1日の時間帯の狂いを直すのに、毎日の寺院参詣はよく働いたと思います。

 これは、信心を基本に据えて寺院参詣をしたのでしょうか、それとも、森田療法に則って、
行動療法的に参詣していたのでしょうか。或いは、その両方の意義が在ったのでしょうか。


 独歩さんの信心への取り組みは並大抵なものではなかったのですね。一つの講中の構築など
余程の熱意と実力がなければ出来得なかったのではないかと思います。そのような方を失うこ
とになった御住職の見識を疑わざるを得ません。
 以前、似たような話を元学会の人に聞いたことがありました。その人は一度ある寺院に所属
したのですが、その組織には派閥のようなものがあり、一方のグループはそこの御住職とかな
り接近した関係にあったそうで、その元学会の人はもう一方のグループにいたそうです。
 塔婆供養を申し込んだにも拘わらず塔婆を上げて貰えなかったり、寺報に悪口雑言を載せら
れたりと、結局、そのグループの人たちの多くは、他のいくつかの寺院に移ったそうです。

 初めて聞いたときには、指導教師たる「御住職」が信者に対して依怙贔屓などしないだろうと
信じられませんでしたが、やはり事実だったようですね。

398孤独な迷子:2002/08/27(火) 00:06
(つづき)

五月雨さんのレスに

 > 大聖人様の教えーご戒壇様ー猊下ー指導教師ー信徒の順に信心体系(?)がありますね、
 > 正しい大聖人様の教えを信じている、だから信徒も正しいと思っているんじゃなかろう
 > かと。

 とありますが、この思考パターンは気づいてみると恐ろしいですね。

 指導教師たる御住職や御僧侶、或いは、役職を持った幹部は間違った言動はしないだろう、正
しい宗教を信仰している人たちだから、この人たちは皆立派な方たちだろう、と入信当時は思っ
ていました。ところが、時間がたつにつれていろいろと見えてくるものがあり、中には、それで
も信心している人なのかと思うようなこともありました。そのことを見聞きして、お寺から離れ
てしまった方も知っています。

 > いま振り返ると「拝み方を間違えると、かえって症状を悪化させることもあるよ」と呟く
> ように言われた良医の一言。

 独歩さん、「拝み方」というのは、どんな「拝み方」がいけないのでしょうか。細かいことに
拘っているような質問で恐縮ですが、お答えいただければ有り難いです。

 私が信心に関わりだして久しい時が経ちましたが、今まで信心のことについて何が分かってい
るのかと自問自答することばかりです。折伏も幾つかさせて頂きました。(独歩さんのいうとこ
ろの折伏とは程遠いですが、いわゆる組織的折伏とでも言えましょうか。)
 その人たちに、「必ず良くなるよ。(とても抽象的な言い方ですね)」とか、「悩みは必ず解
決するよ。」とか、自分の体験からではなく、大部分は言葉の受け売りですね、そのようなこと
を話して入信してもらった(?)ことがありました。
 その方々も今は信心から離れています。うち一人は、精神的な病を持つ人でしたが、入院して
しまい退院の目処はつかないと、ご両親から聞いております。


 アネモネさん

 > 私、なんだかいきなり馴れ馴れしい言葉使いでレスしておりましたようで、大変失礼をい
> たしました。

 私においては、失礼などと言うことは全くありません。かえって喜ばしいことだと思っていま
す。アネモネさんの包容力の大きさの一端を垣間見たような気持ちです。
 今の社会では人間の表面的な接触は色々な部分で多々あるかと思いますが、その心においての
触れ合いというのはなかなか難しいのではないかと思います。その背景があって、今日の社会の
様々な人間が関与する出来事が起こっているように思います。

 体験発表のからくりが明らかになって、「薄々はそうではないかと思いつつも、やっぱりな。」
と言う気持ちと、一方では期待していたことが崩れ去ったような変な気持ちでした。

 大聖人は人間が救われる道を説いてくださったと今でも信じたいと思っています。が、一方で
、そうでないとしたら、人間が救われること(これも抽象的な表現ですね。すみません。)はこ
の世界ではあり得ないのでしょうか?

 最近は、よく分からないと言うのが正直なところです。


 レスがとても遅くなった上に、内容も今の流れから外れてしまっているようで、皆様方には申
し訳ないと思っています。
 皆様方のご承諾をいただければ、今後ともよろしくお願いいたします。

399犀角独歩:2002/08/27(火) 06:46

孤独な迷子さん:

お久しぶりです。

>> 1日の時間帯の狂いを直すのに、毎日の寺院参詣はよく働いた
> 信心を基本に据えて寺院参詣…それとも、森田療法に則って、行動療法的に参詣…或いは、その両方の意義…

参詣の志は極めて宗教的な感情からでした。しかし、結果的には行動療法的な効果があったということになろうかと思います。

> どんな「拝み方」がいけないのでしょうか

この点について医師が。細かく教えてくれたわけではありませんが、概ね以下のような点を指摘したのであろうと思っています。

・自分自身を追い詰めていくような在り方→切迫型
 祈りをかなえなければいけない、叶うはずだ、叶わないのは信心がないからだと言ったような

・呼吸法が乱れるような在り方→過呼吸型
 大きな声で、テンポが速く、切れ間無く唱えるのは呼吸法として危険、また以下のようにハッサン氏は指摘しています。

 メンバーに対して過度の瞑想や唱えごとや『布告』(超スピードで祈りを唱えること)や異言を要求するグループに長いこと入っていた人々については、そのカルトをやめてから少なくとも、一年間は、その人の意志でないことが起きると予想しておく方がいい。私がかかわったなかで、こんな訴えをした人々がおおぜいいる−−ふつうの会話をしている最中に、突然、ある言葉の途中で、ふと気がつくと、カルト時代に長年やっていた心を麻痺させるテクニック、つまりある言葉を無意識に唱えるというテクニックを使っていたというのである。

・極端に至福感に浸るような在り方→脳内物質分泌型
 この点はハッサン氏の指摘によります。

 過度の(長時間の)瞑想や唱えごとの技法を毎日使うように教え込まれた人々は、心理的にも生理的にも、マインド・コントロールの中毒になりやすい。このような精神の蒸留作用は、脳の化学物質の強烈な放出をうながし、それは分裂した意識状態をひきおこすだけではなく、不法な薬物が作りだすのと似た『昂揚』感をひきおこす。これらの技法を数年にわたって用いた元メンバーの何人かは、激しい頭痛、不随筋の痙攣、記憶力・集中力・決断力のような認識能力の減退などを含め、広範囲にわたる有害な副作用が残ると報告されている。

石山の、あるいは石山より創価学会の唱題の在り方はハッサン氏が警告を発する点に合致するところがある…少なくとも私にはあったという意味ですが…これらの点について、注意をし、唱題の仕方を変えた結果、神経症状は快癒していきました。具合が悪いから拝む、拝むから具合が悪くなるという悪循環を脱することができたわけです。

400五月雨:2002/08/27(火) 11:32
孤独な迷子さん

お久し振りです。もう掲示板に来られないのかと心配しておりました。お元気に登場されて良かったです(笑)

迷子さんは、何もかもよくお分かりなんだと思いました。組織に失望はしても、大聖人様の真実の教えは失望するものではないと思います。独歩さんが仰ったように、私はパンドラの箱を開けてしまいました。でも最後に残ったのは「希望」ですよね。その希望を見つけませんか?
 こちらこそ、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

401五月雨:2002/08/27(火) 12:04
独歩さん

独歩さんの解説を聞きながら、私にも、ちと難解なのですが、何度も何度も読ませていただき、石山の曼荼羅本尊に対する姿勢というのが少しだけ分かった気がします。
 ずい分前の話ですが、ウチの家の近くの放置自動車に御本尊が無造作に置かれているのを子供が見つけてきました。私は「命よりも大事な御本尊」と思い込んでいますから、その車の主を公明党議員に頼んで、探し当てました。北陸に引っ越すのに車を捨てていったついでに、御本尊も捨てたみたいでした。連絡は取れませんでしたが、でも、御本尊をそのままにしておくのは忍びなく、お寺に持っていくことにしました。それを連絡したのが夜八時、「明日にしてくれ」と住職はものすごく嫌がりました。私にしたら八時なんてまだ早い時間だし、家に保管するのも嫌だったので無理に押し切って持っていきましたら、その時の住職の御本尊をゾンザイに扱う姿にびっくりしました。法華講に入っても、住職はどうして御本尊を大切にしないのだろうと思っていたのですが、その疑問が解けてきたように思います。

あ さんのレスにある「成就御本尊」はもともとは法主上人が手書きしていたという事ですが、学会の時に信心強盛の人とか、若しくは幹部の子供が結婚する時の花嫁道具のひとつに「成就御本尊」を持たせたのを知っていますが、見ると印刷曼荼羅でした。一回り大きい御本尊で「功徳が大きいかわりに罰も大きい」と言ってましたが、あれは「なに御本尊」なのでしょうか。

402顕正居士:2002/08/27(火) 12:13
「成就御本尊」ではなく「常住御本尊」ですね。五月雨さんのおっしゃるのは
「特別御形木御本尊」です。

403犀角独歩:2002/08/27(火) 12:27

五月雨さん:

> 結婚する時の花嫁道具のひとつに「成就御本尊」

初めて聞く話です。いつごろ、どこで行われたか、もう少し詳しく記していただけませんか。

> 「成就御本尊」…印刷曼荼羅…一回り大きい御本尊

これも私は存じません。
願主も脇書きされていない印刷と言うことですね。これは成就本尊とは、通常は言いませんね。

なお、成就本尊はたぶん常住本尊が転訛していったものではないのかと私は考えています。亨師註解には

有師仮に守護及び“常住の本尊”をも・末寺の住持に之を書写して檀那弟子に授与する事を可なりとし給ふ

常住とは安置すべき場所を特定して図示される曼荼羅、仮漫荼羅とはそうではないもの。いま言われる成就本尊とは法主書写の願いが“成就”したという意味なのかと考えていますが、あるいは違っているかも知れませんが。

404犀角独歩:2002/08/27(火) 12:31

> 常住本尊

投稿したら、顕正居士さんが先に書かれていました。
やはり、そのようですね。

> 特別御形木御本尊

正本堂建立の折、供養をした創価学会員のうち、特定の役職以上の人に下付された漫荼羅のことですね。花嫁道具は、これのことなのか、私にはわかりません。

405五月雨:2002/08/27(火) 13:28
「特別御形木御本尊」ですか、そう聞くとそうだったけと懐かしく思い出しました。組織に出ていないと聞く事の無い言葉ですので、忘れていました。私の健忘症はすごいですねと、自分で関心している場合ではありませんね。顕正居士さん有難うございました。

独歩さん

花嫁道具云々は、当時父親が圏副指導長、母親が支部婦人部長で、本人は女子部の地区リーダーという人が結婚する時に、分世帯になるし、結婚という晴れやかな出発だからと「特別御形木御本尊」の申請をお寺にしていたのです。結婚して一月以上経った時にご下付されました。隣の家に住んでいたので詳しい訳です。その話を聞いた時には御本尊を花嫁道具のひとつのように扱うのかと釈然としないものがありました。
ある程度の幹部は自分の好き勝手をしていましたから、こんな話はいくらでもあるのでは無いでしょうか。

「特別御形木御本尊」は正本堂の供養した学会員だけではなく、私の周りのある程度の役職の人は皆持っていました。信心強盛の証しです。
でも、独歩さんが見たことが無いと仰るのは不思議です。

406犀角独歩:2002/08/27(火) 19:18

五月雨さん:

> 「特別御形木御本尊」…独歩…見たことが無い

いやいや、ちょっと書き方が悪かったですね。私のところはこの漫荼羅です。
そうではなくて、形木成就(常住)本尊は見たことが無いという意味でした。



> 私の周りのある程度の役職の人は皆持っていました。信心強盛の証しです。

そうですか。ところで……、以下はお読みいただきましたか?

富士大石寺問題提議
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/mondaiteiki.htm

ここの255に、この漫荼羅の下付について、少々記してあります。

407五月雨:2002/08/27(火) 22:13
独歩さん

富士大石寺問題提議の過去レスを読ませて頂きました。ご両親様に触れられている箇所は涙が出ました。戒壇本尊を信じきり、全てを賭けてこられたご両親様のお気持ちを思う時に、今の石山のテイタラクぶりに怒りを覚え、学会は裏で信徒の気持ちを踏みにじってきた事を口惜しい(くちおしい)気持ちでいっぱいです。騙すならもう少し良心的に騙さんかいと言葉は悪いですが、そう思います。
「特別御形木本尊」の事は下付願いと実際の数が合わないのですね。それにしても学会はなんて金儲けに長けているのでしょう。ただただ感心します。宗門に騙され、学会に騙され人生を棒に振った人たちの事を考えると、大聖人様も罪作りをなされたと責めてはいけないのでしょうが、そう思います。
ところで「特別御形木本尊」はどんな意味があって、作られたのでしょうね。本尊に区別があるのも理解出来ません。

408アネモネ:2002/08/27(火) 22:37
五月雨さん
犀角独歩さん

ちょっと横レスします。ごめんなさい。

409アネモネ:2002/08/27(火) 22:38
孤独な迷子さん

こんばんは。ほんの数行に満たないレスからは始まって、今回はこんなにたくさんのレスをされたこと、私はすごく嬉しいです。人それぞれいろんな生活のリズムがありますから、どうか孤独な迷子さんの生活のリズムに応じて、たとえ間が空いてしまっても気にせずレスなさって下さいね。

>その心においての触れ合いというのはなかなか難しいのではないかと思います。その背景があって、今日の社会の様々な人間が関与する出来事が起こっているように思います。

本当にそうですね。心が渇いていますね。悩みや苦しみを抱えながら、そのことを自分の心の奥に抱え込んでしまって、表面を繕ってしまっているんですね。なにを考えているかわからない、心の探りあいのような人間関係が多いです。心の病にならないほうがおかしいくらいです。

>大聖人は人間が救われる道を説いてくださったと今でも信じたいと思っています。

私もそれを信じて求めてますよ。どこかのレスで独歩さんが書かれてましたが、「自力で救われる」ということを説いて下さっていると思います。そういう力をみんな持っているのだと思います。そのことを信じなさいと説いているんじゃないでしょうか。

>が、一方で、そうでないとしたら、人間が救われること(これも抽象的な表現ですね。すみません。)はこの世界ではあり得ないのでしょうか? 最近は、よく分からないと言うのが正直なところです。

私はこんなふうに考えてます。人間が救われるということ、あり得ないということはないと、これも信じます。
私が信仰のうえで一番問題にするのはいつも「心」なんですね。心が救われるかどうか。心が豊かになれるかどうか、満たされるかどうか。心のありようとか、もちようなんだと思います。病気が治るかどうか、お金持ちになるかどうか、そんなことではなくて、病気になったときの不安な心や、貧しさにもがいているときの渇いた心、その心の持ちようだと思います。

410アネモネ:2002/08/27(火) 22:39
(つづき)

>その人たちに、「必ず良くなるよ。(とても抽象的な言い方ですね)」とか、「悩みは必ず解決するよ。」とか、自分の体験からではなく、大部分は言葉の受け売りですね、そのようなことを話して入信してもらった(?)ことがありました。

私もそうでしたよ。みんなそういうのを多かれ少なかれ経てきてますよ。孤独な迷子さんだけじゃないです。大事なことは、そうした盲信的なことに対して、客観的に目を向け考えてみることが出来るかどうかですね。今の孤独な迷子さんは、とても大事なときにあると思います。どうかレスを続けて下さい。

>その方々も今は信心から離れています。うち一人は、精神的な病を持つ人でしたが、入院してしまい退院の目処はつかないと、ご両親から聞いております。

その方々が信心から離れてしまったことで、なにか思うところがおありなのでしょうか。
ご自分を責めたりしてませんか?
離れてしまったのですから、もう組織の被害は及ばないことでしょう。結果的に良かったのですよ。
精神的な病は、いろんな原因でそうなっているんですね。私の友人にもいますよ。
孤独な迷子さんは、この信心でそうした病ががきっと治るに違いないと確信して信心を勧められたのかもしれません。それがたとえ受け売りの言葉でも、孤独な迷子さんはその方を救いたかったのではないですか?その気持ちはその方にも、またご両親にも伝わったことと思います。折伏された方々も、そんな孤独な迷子さんの気持ちに心動かされ最終的に入信を決意されたのでしょう。
だけど、組織の中は孤独な迷子さんのような人ばかりではないですね。ご指導も、人を救うというものではありません。そのことを肌で感じて自然に離れていかれたことと想像します。そのときにその方々と孤独な迷子さんが、なにかギクシャクするようなことが仮にあったとしても、それはいつか時間が解決してくれます。
だから、なにも自分を責めることはないと思います。自然の成り行きで折伏をすすめた人たちが組織から離れたのですから、あとは孤独な迷子さんご自身のことを考えていいのです。

また、レスして下さいね。

411犀角独歩:2002/08/28(水) 00:15

五月雨さん:

> 「特別御形木本尊」はどんな意味があって、作られたのでしょうね。本尊に区別があるのも理解出来ません

ごもっともだと思います。普通より、特別に大きい漫荼羅のほうがいい…、なんか変ですね。

学会興隆以前は信徒レベルでも漫荼羅を複数、所持することは非難される筋のことではなかったでしょう。ところが、学会隆盛以降、そうはいかなくしてしまいました。新しい漫荼羅が下付されると古い漫荼羅は返すわけです。

私は特別御形木漫荼羅が下付されたときのことをいまでもはっきり覚えています。生まれたときに既に安置されていた寛師漫荼羅(八界漫荼羅と非難された学会員に初期に下付された漫荼羅です)煤けて字も見えないほど、黒くなっていました。それを丁寧にお巻きして、紫の袱紗に包んで父が玄関を出たとき、子どもだった私は突然悲しくなって大声を上げた泣いたのを覚えています。「新しい大きな御本尊様が来るからいいだろう」と父を見送った母は言いましたが、私は納得できませんでした。…、思えばあの寛師漫荼羅は本尊に戻され焼却処分されてしまったのですね。いま思い返しても口惜しい気持ちになります。子どもながら、苦しいときも悲しいときも手を合わせていた漫荼羅でしたから。

たとえ印刷であろうと、我が家を護ってきてくれたと思うと漫荼羅には限りない思いが籠もるものですよね。

その思いを踏まえて、私は漫荼羅本尊について、ここで勇気を奮い、考えているんです。

412犀角独歩:2002/08/28(水) 00:17

【411の訂正】

誤)思えばあの寛師漫荼羅は本尊に戻され焼却処分されてしまった
正)思えばあの寛師漫荼羅は本山に戻され焼却処分されてしまった

413いちりん:2002/08/28(水) 00:44
独歩さん

>煤けて字も見えないほど、黒くなっていました。それを丁寧にお巻きして、紫の袱紗に包んで父が玄関を出たとき、子どもだった私は突然悲しくなって大声を上げた泣いたのを覚えています。

じつは、きょう独歩さんの信仰体験をサイトから読みまして、ものすごく強烈な印象でした。
そして、このことばを読んだものですから。。。

池田さんが、独歩さんにみかんを投げて、それを独歩さんがキャッチする。
そのときの、ワンシーンが、思い浮かぶのでありました。お母さんも、すっごいですね。

わたしなんかは、もうまったく、のほほんできたんでありまして。
だから、気楽にあっちこっちと。

でも、わたしは、学会とは離れていますけど、池田さんにも、すごく批判的ですけど。わたしの青春は、学会と池田さんには、とてもお世話になりました。そこは、いまでもすごく感謝です。ありがたい学びの場でありました。

414五月雨:2002/08/28(水) 09:52
独歩さん

>その思いを踏まえて、私は漫荼羅本尊について、ここで勇気を奮い、考えているんです。

独歩さんの今まで歩んでこられた人生を少しだけ垣間見させて頂きました。私は流れに身を任せてきたタイプですので、独歩さんのように真剣に信心をしてきませんでした。だから、独歩さんの今のお立場は物凄い葛藤の末に至ってこられたのかと思うと、胸が痛む思いです。信じきってきた事に疑問を投げかけて検証するのは、想像以上に苦しい事ではと思います。おかしいなと思っても深く考える事無く信じていればこれほど楽な事はないでしょう。
信徒として曼荼羅本尊を検証する作業は、自身の信仰を否定するのに通じてしまいそうですが、一番大きな真実はそこにあるのですよね。

>ごもっともだと思います。普通より、特別に大きい漫荼羅のほうがいい…、なんか変ですね

「常住御本尊」「特別御形木本尊」「御形木本尊」と三種類の御本尊がありましたっけ。御本尊に区別をつけて、信徒に持たせるというのは、信徒の選民意識をくすぐりますよね

>学会興隆以前は信徒レベルでも漫荼羅を複数、所持することは非難される筋のことではなかったでしょう

違う意味だと思いますが、家に御本尊が二体あるのはよくないと聞いてました。ひとつの御本尊の元で勤行・唱題しなければ一家和楽にならないとかと言ってたと思います。


ところで、いちりんさんの仰っている、
>独歩さんの信仰体験をサイトから読みまして、ものすごく強烈な印象でした。

私も読ませて頂きたいと独歩さんのサイトに行きましたが、どこにあるのか分かりませんでした。どこか教えて下さい。

415犀角独歩:2002/08/28(水) 10:02

五月雨さん:

私の信仰体験のページはメールでお知らせしますね。

416五月雨:2002/08/28(水) 10:10
いちりんさん

>でも、わたしは、学会とは離れていますけど、池田さんにも、すごく批判的ですけど。わたしの青春は、学会と池田さんには、とてもお世話になりました。そこは、いまでもすごく感謝です。ありがたい学びの場でありました。

学会はどこへ行くのだろうかと思う今日この頃ですが、私も学会時代には、いろんな事があったけど、楽しかった事も多くありました。そして大聖人様の仏法を教えてもらいました。創価仏法ではあったのですが、仏法に初めて触れた場所が学会でしたから、その点は学会に感謝しています。今は謗法しまくりの学会ですが、だからと言って学会時代を全否定したくはありません。いちりんさんと同じように感謝の気持ちはそのまま大事にしたいと思っています。
学会の人の方が人情があると言ったら、法華講ですごく非難をされましたが、何であそこまで否定しなくてはならないのかと私には理解出来ません。過去の学会の役職がおエライ方ほど「学会憎し」の姿が見えるのは何故なんでしょうね。

417いちりん:2002/08/29(木) 12:14
五月雨さん

>過去の学会の役職がおエライ方ほど「学会憎し」の姿が見えるのは何故なんでしょうね。

そうですか。法華講に移った方で、もと学会員の役職がエラかった人ほど、「学会憎し」という感じになっているのですか。

思い入れが強ければ強いほど、それに対して、思い通りにいかないと、怨みが募るということでしょうかね。
執着が強ければ強いほど、裏切られた、間違っていた、こんなハズではないという、失望になって、それが恨みつらみになるのかもしれまませんね。

しかしまあ、そういう思い入れが強い人は、おなじことを繰り返したりしますね。
つまり、いつの日か、法華講は間違っていた、法華講憎しということになもなりやすいですね。

そしてまた、こんどは「魅力的で正しくてよく見える組織」などに出会うと、そちらに移って、しかしまた、失望して憎しとなったりする。

結局のところ、「他に依存する人生」なんでしょうね。
それは、組織であれ、教えであれ、(仏法の教えもですね。日蓮さんの教えでも)、それが正しいとか、すばらしいとか、真実だとかいう思い入れが強ければ強いほど、まあ確実に、思い通りになりませんですね。

ブッダの道というのは、やはり「自灯明」だと、わたしは思います。
自らをよりどころとして、他をよりどころとするな、と。
他に避難所を求めるな、自らこそが避難所であれ、と。

418五月雨:2002/08/29(木) 17:16
いちりんさん

いちりんさんは、法華講のご経験が無いのですね。そりゃ幸い?でした。いちりんさんの分析は確かにそうです。

>思い入れが強ければ強いほど、それに対して、思い通りにいかないと、怨みが募るということでしょうかね。

役職が高いほど、学会への思い入れが強いんでしょう。それが怨みになってしまってあの学会への憎悪になる、分かる気がします。その反対に学会員の元学会幹部に対する憎悪にもなみなみならぬものを感じます。「ノミとか虱」と言われたら「ダニとかクズ」でお返しする、この「憎悪の連鎖」に終わりはないのでしょうか。

>ブッダの道というのは、やはり「自灯明」だと、わたしは思います。
自らをよりどころとして、他をよりどころとするな、と。
他に避難所を求めるな、自らこそが避難所であれ、と。

学会でも法華講でもよりどころ、避難所は御本尊と聞かされてきましたが、「自灯明」というのは大聖人様は説かれなかったのですか。私は聞いたことがありません。

419現時点:2002/08/29(木) 21:36
独歩さん

私にも415の独歩さんの信仰体験のページ教えてください。

いちりんさんが感動するというのは、ただごとではありませんので、

私も是非とも拝読したいと思います。

420宮本:2002/08/30(金) 21:41
五月雨さんへ
>寛師漫荼羅をどうして配布するのかと、・・・・
御指名がありましたんで、知っている範囲で書き込みします。
学会の公式見解ですが
 もう九年程前だったと思います。
  仏法の本義にかなう 学会の「御本尊」授与
   発行日/平成5年10月2日
   発 行/創価学会   
   非売品 
 という資料を元に、幹部同席の上、小単位で会合がありました。
(全国で開催されたんだと思います)
その冊子の中に
 「じょうえん寺の成田住職の真心の申し出によるものである。・・・以下省略」 P3
とあります。
で、具体的な話ですが
 宗門が学会を破門処分にした時の前後に、本山に残った僧侶の方々と、
正信会の方へいかれた僧侶、中立(学会にも総本山にも属さない僧侶)、
学会の方に来られた僧侶方々等に分かれていった状況がありました。
 学会の方に理解を示された僧侶の方々は、二十名か三十名の僧侶の方々だったと
思います。(その後、何人か増加したようですが)
 で、前出の冊子の中に

細谷 「先日、工藤住職も話していました。過去には、末寺では、
歴代法主のさまざまな御形木御本尊が、授与されていた。
法主がすべて開眼していたなどということは考えられない。
いや、末寺で思い思いに下付するほうが、宗門゛古来゛の在り方だった。」
             
谷川 「本山でも、青年僧侶たちの証言では、・・・以下省略。」
「・・実際は、その開眼さえ全くされない御本尊があったということです。・・・」P36
斎藤 「相伝の内容にしましても、日達上人も「堀上人が全部出してしまったので、
特別なものは何もない」と、明らかにされている。・・・。           P42

 以下ありますが、要するに学会の方では、宗門離脱僧侶の指導の元、
今までと同じ方法と手順により、御本尊の取り扱いをしています。
ということのようです。

 こういった点が、配布根拠かと思われます。
(もちろん、広宣流布に必要という大義名分もあるんでしょうが)
ちなみに、独歩さん方に御安置してあった御本尊は、日寛師書写の御本尊様のようですが、
草創期の学会では、日寛師の御本尊様が流布されていたと、辻さんの発言もありました。
                                      P31

で、学会が謹刻した数体の板曼荼羅謹刻の経緯もこの冊子の中に書かれています。
                                  
                                     以上

421宮本:2002/08/31(土) 08:34
つづき
 それで、ここ迄は、あくまで、簡単な冊子の内容紹介と事実経過です。

  冷静に内容を読んで、感じることは、法華講が、正信会が、宗門が、学会が、
 良いとか悪いとかといった事とは、
 また、別の問題かと思います。

422五月雨:2002/08/31(土) 09:00
宮本さん

詳しいご説明を有難うございました。何よりも驚くのは、宮本さんが内容は別にして、きちんとした文章を書かれた事です。けっしてクサシているのではありません。今まで宮本さんの書かれた文章はものすごく行間を読まなければ分からなかったし、私みたいなアホ頭ではその行間を読み切れず、何を仰りたいのか分かりませんでした。今回のご説明はよく分かりました。これからも同じように書いて頂ければ、私でも理解出来ますので、よろしくお願いいたします。
 さて学会が本尊配布の理由ですが、それくらいは私でも知っていました。あれから何年も経つのでもう少しましな理由を考え付いているかもと勝手に思っていました。何故なら、こんな理由で学会員が納得するはずが無いと思っていたからです。ところがあにはからんや、賢いはずの学会員諸氏はこの程度のコジツケで納得したのですね。

>じょうえん寺の成田住職の真心の申し出によるものである

信仰の根本たる御本尊を“真心の申し出”で決めるとは、何じゃそれ、と当時の私が学会員に言った言葉です。今も言いましょう。「何じゃそれ」

>要するに学会の方では、宗門離脱僧侶の指導の元、
今までと同じ方法と手順により、御本尊の取り扱いをしています。ということのようです。

今までと同じ方法ですか。私は学会員になった時に、「この御本尊様は戒壇の大御本尊様のお写しです。血脈付法の御法主上人様が書写されて、開眼されたものです。」と言われたものです。御本尊様をご下付されたのは寺院です。で、今の学会も同じ様に下付しているのですか?それは初耳です。破門されて縁のない団体になっていると思っていました。まさか会館で御本尊下付の儀式は行われていないでしょうね。それでは今までと同じ方法と手順とは言わないですものね。学会のへ理屈に付き合って、理屈をこねていたら頭が痛くなってきました。私の理屈も合っているのかどうか分からなくなってきた。

>独歩さん方に御安置してあった御本尊は、日寛師書写の御本尊様のようですが、草創期の学会では、日寛師の御本尊様が流布されていたと、辻さんの発言もありました。

それで日寛師書写の御本尊様を配布して何が悪いというへ理屈ですか、1981年に下付された私のご本尊は日顕上人書写ですが、この時は法主の頭は悩乱していなかったからいいとは言わないで下さいよ。学会員は日達上人書写の御本尊を下付された人もいるでしょう。信徒は時の御法主上人の書写された御本尊を下付されてきた歴史、いつの頃からは知らないけれど、私が入信した時にはありました。学会は自分達の都合のいい「教義」を考えつくものですね。
宮本さんは何の疑問も持たずに、「だそうです」と鵜呑みにしているのですか、他人まかせでお気楽でよろしいですね。でも信心の根本は間違っていたら自分の人生の幸・不幸に関わると学会で学んだ事ですので、ご忠告申し上げます。「それがどうなのか」をご自分で思考されてはいかがでしょうか。
本尊配布の理由を有難うございました。では次に

>学会が謹刻した数体の板曼荼羅謹刻の経緯もこの冊子の中に書かれています。

どう書かれているのかお教え下さい。よろしくお願い致します。

423五月雨:2002/08/31(土) 09:07
宮本さん

422を書き込んでいる間に421のレスを読みませんでした。

>良いとか悪いとかといった事とは、 また、別の問題かと思います。

信仰の根本の御本尊様について、別の問題だと言える宮本さんにとっての信仰って一体何なのでしょう。たまのレクレーション感覚なのでしょうか。たまのレクレーションのつもりでも、信仰は人生に影響を及ぼしますので、お気を付け下さい。

424宮本:2002/08/31(土) 14:23
五月さんへ
>どう書かれているのかお教え下さい。よろしくお願い致します。
 この小冊子。84ページあります。全文を書きこむことできません。
書名、紹介しましたし、二百万部御以上配られましたから、御手数
ですが、御自分の方で御入手して下さい。また、意見交換の場という
当サイトの主旨からすると多量の引用は、良くないと思います。
 また、正信会僧侶の御意見、宗門の御僧侶の御意見も書かれていませんから
公平性にも欠けるかと思います。
 関係者全員集まった上、会合でも持ってもらうのが、一番いいんでしょうが
今となっては、せんなきことです。
>信仰の根本の御本尊様について、別の...。
 あなたが、何故、こんなこと書くのか理解できませんね。

 全ての情報と知識があって、関係各位全員に聞く等、可能な上で
聞くなら理解できますが。
 御本尊に関して学会が全て悪く、宗門は全て絶対で、一点の曇りもなく
全知全能で正しいなら、判断も簡単なんでいいんですが。
 五月雨さんは、そういう判断なんでしょうね。
私には、理解出来ません。

425五月雨:2002/08/31(土) 15:13
宮本さん

>全ての情報と知識があって、関係各位全員に聞く等、可能な上で
聞くなら理解できますが。御本尊に関して学会が全て悪く、宗門は全て絶対で、一点の曇りもなく全知全能で正しいなら、判断も簡単なんでいいんですが。

私にも理解出来ません。全知全能なら理解出来るってどーゆー事なのですか。あなた方が配布しているご本尊のでどころは日蓮正宗大石寺というのは知ってますか。いやん知らんかったと仰るなら、宮本さんの言われることは理解しましょう。大石寺に属する御本尊は大石寺の取り決めに従って、ご下付されるのです。学会が、正信会がと言ってますが、各自別な団体ですから、それぞれの決まりの元で御本尊の配布があって然るべしというのが、私の意見です。学会は池田せんせーに書写して貰ったのを配布するのが筋道でしょう。ぜひとも書いてもらって下さい。日寛上人も草葉の陰で迷惑されていると思いますから。

本尊に迷うから、人生の不幸はあると学会で聞いてきましたが、嘘を教えられてしまっていたのでしょうか。ずーとそうだと思ってきましたから423のレスを書きました。

仏法の本義にかなう学会の「御本尊」授与からの引用で420のレスは書けても
数体の板曼荼羅謹刻の経緯は84ページの小冊子の全文を書き込まなければならないって、うーん分からへん。宮本さん私は常々言ってますように、この掲示板きってのアホですので、どうかその点を理解頂きまして、私如きにも分かるようにご配慮下さいませ。

>二百万部御以上配られましたから、御手数ですが、御自分の方で御入手して下さい。

会館で売っているのですか、法華講員にも売ってくれますか。

>宗門の御僧侶の御意見

よっく知ってます。私は法華講員ですから。

426宮本:2002/08/31(土) 15:54
五月さんへ
>あなた方が配布しているご本尊のでどころは日蓮正宗大石寺...
これは、現存する達師と顕師の御本尊が、学会にあるのでは
という御指摘でしょうか・?
 それとも、日寛師の御本尊をさすのですか・?
大石寺で、謹製して、今も学会の本尊として
渡されているということでしょうか・?
どういう意味かよくわかりませんが?
>仏法の本義にかなう学会の「御本尊」授与からの引用で420のレスは書けても
何故、そうなのかは、読む機会があれば、部分的引用は不適等と御理解いただける
思います。
 御批判は、結構なんですが、読んだ上で判断されてみては、いかがかと思いますが。

427宮本:2002/08/31(土) 16:18
つづき
>本尊に迷うから、人生の不幸はある...
 たしかに、御本尊流布にこだわるとそうなるかもしれません。
どういう指導を受けたかしりませんが、簡単、安易に御本尊、
を送ってしまうからではないですか。
 何も、個人の御本尊が無ければ、幸福になれないとも思われませんが。
東を向いての勤行でもいいと思いますが。
 本人が、希望しない限りその必要はないと思います。
数にこだわり、無理に御本尊を持たせようとするから変になるのでは。
 自分は、勤行をすすめたりした経験もありますが、御本尊送りをけいけいに
しません。
 御本尊に迷うなら持たなければいいのではないですか。
 御書のどこにも、個人で御本尊がなければ、幸福になれないとは
ありません。
 大聖人御在世当時の大部分の農民信徒は、御安置していないと思いますが。

428五月雨:2002/08/31(土) 16:23
>これは、現存する達師と顕師の御本尊が、学会にあるのでは
という御指摘でしょうか・?
 それとも、日寛師の御本尊をさすのですか・?
大石寺で、謹製して、今も学会の本尊として
渡されているということでしょうか・?
どういう意味かよくわかりませんが?

どれも大石寺がでどころですよね?
宮本さんはただ、その小冊子での話を紹介してくれただけなのに、私が難しい事を言い過ぎました。宮本さんのご意見というものがあるのかしらと思っていたものですから、失礼致しました。

429五月雨:2002/08/31(土) 16:26
宮本さん

書き込む間にまたレスを読みませんでした。話が噛み合わないのはもしかして平成になっての入信ですか。

430宮本:2002/08/31(土) 16:49
五月さんへ
 こちらこそ、失礼致しました。
 私は、学会員ですが、変な学会員だと思います。
聖教新聞は、取っていません。停止しています。
(無意味な批判記事が多い為です。)
だから、ちょっと違うと思います。

 外部の人間に学会の会館に連れて行けと言われる
ような、へんな学会員です。
(普通は、折伏される思ってこういうケースはありませんね)

 目的が、正しければ、他宗の先生の所にも平気で行きます。

>どれも大石寺がでどころですよね...

 私の記憶違いかもしれませんが、本山より離脱した末寺に
日寛師の真筆の御本尊があります。
 その末寺が、学会の支持の末寺になったためだったと思います。
(和歌山県の末寺だったと思います)
 したがて、真筆は、大石寺には無かったと思います。
(間違いの場合は、お許し下さい)

431宮本:2002/08/31(土) 17:12
つづき
>平成になっての入信ですか
 いいえ、昭和50年です。
   話があわないのは、幹部の学会員のように
  私が師弟論を信用していない為です。
 (当然、幹部とあいません)
 それに、幹部を無条件に信用しません。
 役職も全く信用していません。

432五月雨:2002/08/31(土) 21:39
宮本さん

>私の記憶違いかもしれませんが、本山より離脱した末寺に
日寛師の真筆の御本尊があります。
 その末寺が、学会の支持の末寺になったためだったと思います。
(和歌山県の末寺だったと思います)
 したがて、真筆は、大石寺には無かったと思います。

だから、大石寺がでどころでは無いと言う意味でしょうか。すみませんが、上記に書かれた意味をご解説ください。

宮本さんは学会二世なのですか。幹部も役職も信じていないけれども、学会は信じているのでしょうか。

433:2002/09/01(日) 01:18
>427
> たしかに、御本尊流布にこだわるとそうなるかもしれません。
どういう指導を受けたかしりませんが、簡単、安易に御本尊、
を送ってしまうからではないですか。

宮本さん

宮本さんは、簡単、安易に、じょうえん寺のコピー本尊を顕師本尊と取り替えさせた創価学会をどう思っているのでしょうか。
今の創価学会は、簡単、安易に本尊を送っていない、とでも言いたいのですか? 新入会の会員は御本尊をもらえないのでしょうか?
宮本さんは、簡単、安易に御本尊を頂いてはいないのですか? 宮本さんは、よほど苦労して頂いたみたいですね?

簡単、安易に日達師の本尊を日顕師の本尊と取り替えさせた創価学会をどう思いますか?
私は、信心歴が長いにもかかわらず、達師本尊ではなく顕師本尊をまつっているお家を、自分のこの目で見ました。
先輩学会員から「わざわざ達師から顕師の本尊に取り替えた家がある」という話を聞きました。
先日、現役学会員から「自分の所は『立派なご本尊にしましょう』と上の人に言われて、達師本尊を顕師本尊に取り替えさせられた」という話を聞きました。

434:2002/09/01(日) 01:28
>>本尊に迷うから、人生の不幸はある...

> たしかに、御本尊流布にこだわるとそうなるかもしれません。
どういう指導を受けたかしりませんが、簡単、安易に御本尊、
を送ってしまうからではないですか。

「本尊に迷うから人生の不幸はある」と学会では、これまで徹底的に会員に教えてきたのではないですか?
それを「どういう指導を受けたかしりませんが」などと、よくも簡単、安易に否定してくれますね。

435:2002/09/01(日) 01:58
> 私は、学会員ですが、変な学会員だと思います。
>聖教新聞は、取っていません。停止しています。
>(無意味な批判記事が多い為です。)
>だから、ちょっと違うと思います。

> 外部の人間に学会の会館に連れて行けと言われる
>ような、へんな学会員です。

へんな学会員が、まじめな元学会員に対して「どういう指導をうけたかしりませんが」
と平気で言える、この神経が理解できません。

436たまちゃん:2002/09/01(日) 02:47
すみません。失礼します。
御本尊様に天照大神と書かれていました。
これは日本の神ですよね。
何故書かれているのでしょうか?
また、伝教大師があるなら、聖徳太子とか鳩摩羅什とかはどうでしょう?
仮に御本尊に現代板があったらどうなるのでしょうか?

437:2002/09/01(日) 03:52
> 御本尊に迷うなら持たなければいいのではないですか。
> 御書のどこにも、個人で御本尊がなければ、幸福になれないとは
>ありません。

確か、創価学会は会員に顕師本尊から寛師本尊に取替えさせたのではありませんか?
「取り替えろって、うるさいけど、メンドクサイからヤダ」という学会員の不満の声を聞いたことがあります。
取り替えたくない、って言ってる人にまで、取り替えろ、というのは何故ですか?
顕師本尊では都合が悪いのですか?

御書のどこにも、個人で御本尊を持ってなければ幸福にはなれない、とは書いてませんね。
おっしゃる通りです。
日顕師が嫌いなら、その御本尊は捨てちゃって、御本尊無しでいいじゃないですか。
簡単、安易に御本尊を送るのって良くないですよね。新会員は御本尊無しでいいですよ。
わざわざ、じょうえん寺の寛師本尊を大量印刷する創価学会を、宮本さん、どう思います?

私は創価学会のやってることが、さっぱり理解できません。

438宮本:2002/09/01(日) 07:16
あさんへ
 横レスの場合は、出来れば指摘して下さいね。(五月さんあてのつもりでしたんで)
>というのは何故ですか
  私は、そういうことしていません。あさんのいう当事者に直接きくのが
 本筋ではないですか。学会員のやること全てに責任を取る必要が
 個人にあるのでしょうか・?
  学会員が、法華講の方に本山の事で抗議するのは、筋違いとおもいませんか・?
 一般法華講の方々には、何の責任もないのではないかと思いますが。  
>わざわざ...
 必要のないことで、やめるべきだと思います。

  学会の方にこられた御僧侶の方々の同意もあった以上、何も言えません。
 どう考えも、それ程、教学力もありませんし、石山のこと知りませんから。

 >御本尊無しでいいじゃないですか
 
  私もそう思います。

 そして、組織的登山の必要ありませね。(本人の希望なら別でしょうが)
 御書の中のどこにもありません。
 登山しなければ、幸福になれないとは、なかったと思います。

 (今週は、仕事でモニタの前にいませし、あさんの発言を全く
  見ることできません。全部、きちっと答えていないと思います。
  御容赦下さい。)

439五月雨:2002/09/01(日) 08:04
宮本さん

私のHNが気に食わなくて、変えて下さったのでしょうか。自分では気に入っているので変えずに呼びかけて下さいませんか。よろしくお願いします。音にすると全く違いますから。

宮本さんは、別に学会員であっても学会の代表でもなく、この掲示板での発言にも、何の責任も持ちません、という事なんですよね。だから宮本さんのレスを読んで疑問をぶつけても、小冊子に書いてあるから読めとか(入手できないのを承知で)言った当事者に聞けとか、逃げの一手ですね。これって無責任ですよね。
この掲示板では、大袈裟かもしれないけれど、信仰人生を賭けて、皆真剣に考えレスしていると思います。ロムされている方も真剣だと思います。私は自分の信仰に迷った末にたどり着いたこの掲示板から、多くの事を知り、学ばせて頂きました。
その事を今一度考えていただいて、宮本さんのご意見を聞かせて下さい。

440アネモネ:2002/09/01(日) 09:33
横レス失礼いたします

宮本さん

>私の記憶違いかもしれませんが、本山より離脱した末寺に
日寛師の真筆の御本尊があります。
 その末寺が、学会の支持の末寺になったためだったと思います。
(和歌山県の末寺だったと思います)
 したがて、真筆は、大石寺には無かったと思います。
(間違いの場合は、お許し下さい)


ご真筆がその和歌山県のお寺にあるということは、つまりご親筆は大石寺にはない。だから、大石寺がでどころではないという意味だと思いますが、それを文面通り読むならば、いかにも御本尊をモノとして捉えていることを、宮元さん自らが表明してしまったと感じます。
宮本さんのレスの中で、私は、ここが一番の矛盾ではないかなと感じました。

江戸時代は私が言うまでもありませんが、本末制度の秩序が厳しかった時代です。その和歌山県のお寺に日寛上人のご真筆のご本尊があるということは、そのお寺が大石寺の末寺であったことを如実に証明しているものでもありますね。それは、宮本さんがいう「私が師弟論を信用していない為です。」という観念的な理論では説明がつかないもので、もっと厳格な制度的秩序によって説明されることだと思います。

本末制度という絶対的な秩序のもとで、大石寺の末寺であるその和歌山県のお寺に法主である日寛上人が真筆御本尊を下付されたわけですね。ここはご理解されることと思います。そして今日までそのお寺で護り伝えられてきた。ところが、近代化で本末秩序の緩和された今日において、そのお寺は本山から離れ(?)、そしてそれを学会の御本尊とした。しかしそのご本尊がどのような秩序の関係でそのお寺にあるのかという、おおもとをだとれば、でどころは大石寺であるという認識になります。
なにより、日寛上人は、大石寺の法主だったわけですから、その日寛上人が書写あそばされた御本尊は、どこのお寺に伝えられていようとも、でどころは大石寺ですね。
理解されますでしょうか。

かつて宮本さんが書かれていたように、学会が大石寺と袂を分けたことをかえって良かったと思っているのであれば、日寛上人のご本尊ではなくて、いっそ日蓮聖人のご真筆の御本尊をコピーして下付していかれたほうが、ややこしくならなかったですね。ただし、戒壇之大御本尊は絶対という思いが、学会員の心にも強く残っているのであれば、日蓮聖人の他の真筆の御本尊のコピーでは意味がないわけですね。
結局、破門となり表面的に宗門と袂を分けても、教義的にはどこまでいっても日蓮正宗の一派であることから完全に脱却はできないのが、創価学会なのではないでしょうか。

この認識は、五月雨さんとの議論において非常に重要なことではないかと思います。この点の認識の違いを避けては、議論が空回りするだけではないでしょうか。
この点は、ぜひとも突き詰めてほしいと思います。

441犀角独歩:2002/09/01(日) 10:03

宮本さん:

私の名前を書かれていたので、いちおうレスします。あまりに質の悪い内容で、実は書くのも面倒です。

> ちなみに、独歩さん方に御安置してあった御本尊は、日寛師書写の御本尊様のようですが、草創期の学会では、日寛師の御本尊様が流布されていたと、辻さんの発言もありました。

私の漫荼羅は達師の印刷です。

しかし、、言っておきますが、学会の草創期からの印刷漫荼羅配布は各末寺がやっていたなどと嘯く従来の方法ではなく、“徹底した本山一山管理”に基づく配布です。戦前のことは知りませんが、すくなくても戦後は末寺が勝手に印刷した漫荼羅が配られることなんかなかったでしょう。なにが従来の方法ですか。

よくまあ、こんな下らない学会文書を鵜呑みにするものだと、この度は更にまことに呆れ果てました。

こういう嘘を200万部配ろうが何しようが、嘘を100遍繰り返しても本当にはならないのです。

当時、学会が独自の印刷漫荼羅頒布を始めたときの屁理屈は「和合僧団には本尊授与の資格がある」というものでした。何百万部と配られた新聞です。ご自分で調べてご覧なさい。

この記事を読んで私は大笑いしました。これでは要するに漫荼羅頒布前の創価学会は和合僧でなかったという意味も含んでしまうからです。

自分のところで、成田さんが申し出ようと何しようと漫荼羅の印刷して販売したりしないのが「節度」というものです。

宮本さんは聖教新聞も取らず、幹部も信用しない、けっこうなことであると思います。
ついで、たとえ200万部も売られようと、こんな歴史をねじ曲げた虚構のはかない文書も、買って読んで、せっせとアップしたりしないほうが、誤解されることもないでしょう。

442:2002/09/01(日) 11:20

宮本さん

どうも失礼いたしました。

> 私は、そういうことしていません。あさんのいう当事者に直接きくのが
> 本筋ではないですか。学会員のやること全てに責任を取る必要が
> 個人にあるのでしょうか・?

これは私の
>> 確か、創価学会は会員に顕師本尊から寛師本尊に取替えさせたのではありませんか?
>> 「取り替えろって、うるさいけど、メンドクサイからヤダ」という学会員の不満の声を聞いたことがあります。
>> 取り替えたくない、って言ってる人にまで、取り替えろ、というのは何故ですか?
>> 顕師本尊では都合が悪いのですか?

という質問に対する答えですね?
私は、学会員個人が、他の個人である学会員のやったことの、全てに責任を負う必要は無いと思います。たとえば、事業の失敗とか、万引きなどの犯罪とか。
しかし、顕師本尊から寛師本尊に取り替えさせるということは、個人の学会員がやったことではなく、組織的に行われたことです。
このお取替えは、宗教的にどういう意味がありますか? それが知りたいのですが。
広宣流布を目指す創価学会の一員として、このことを、どう考えますか?

「俺がやったことじゃないからシラネーヨ」ですか。

443:2002/09/01(日) 11:35

宮本さん

>> わざわざ、じょうえん寺の寛師本尊を大量印刷する創価学会を、宮本さん、どう思います?

という私の質問に対して、

> 必要のないことで、やめるべきだと思います。

という宮本さんのお答えですが、必要の無いことをやっている創価学会を、その構成メンバーとして、どう思いますか?
必要の無い御本尊を配って、「我々は大聖人の教えを守っている唯一の団体だ」と威張っている創価学会をどう思いますか?

444:2002/09/01(日) 12:38

宮本さん

> 学会員が、法華講の方に本山の事で抗議するのは、筋違いとおもいませんか・?
> 一般法華講の方々には、何の責任もないのではないかと思いますが。

私は、法華講に抗議ウンヌンということは、宮本さんに質問していません。
全然、見当違い、筋違いの答えで、話を混乱させるのは、やめてください。

445:2002/09/01(日) 12:43

五月雨さん

> 宮本さんは、別に学会員であっても学会の代表でもなく、この掲示板での発言にも、何の責任も持ちません、という事なんですよね。だから宮本さんのレスを読んで疑問をぶつけても、小冊子に書いてあるから読めとか(入手できないのを承知で)言った当事者に聞けとか、逃げの一手ですね。これって無責任ですよね。
この掲示板では、大袈裟かもしれないけれど、信仰人生を賭けて、皆真剣に考えレスしていると思います。ロムされている方も真剣だと思います。

同感であります。

446孤独な迷子:2002/09/02(月) 00:04
横からレスしてすみません。

独歩さん

 ご丁寧な解説を有り難うございます。

 独歩さんの指摘された3点のうち、2点は私にも当て嵌まりそうです。

 > ・自分自身を追い詰めていくような在り方→切迫型
    祈りをかなえなければいけない、叶うはずだ、叶わないのは信心がないからだと言ったような

 > ・極端に至福感に浸るような在り方→脳内物質分泌型

 私の場合は、「信心がない」と言うよりも(尤も信心があるとも言えませんが)、信心の仕方に誤りがあるのではないかと考えました。正しい信心ならば、正しい(?)結果が出るだろう。その結果が出ないのは、その過程に何か誤りがあるのではないか、そう考えたのです。それで、以前「体験発表」のことについて質問させていただきました。結果から逆に辿ってゆけば、何かが見えてくるかも知れないと。

 2点目の「極端に至福感に浸るような在り方」。このようなことを追い求めていたかも知れません。



五月雨さん

 心配していて下さったのですね、本当に有り難いことです。

 > 迷子さんは、何もかもよくお分かりなんだと思いました。

 とんでもないです。皆さんに比べたら、私などは未だに入り口のあたりで迷子になっています。(^_^)

 > 独歩さんが仰ったように、私はパンドラの箱を開けてしまいました。でも最後に残ったのは「希望」ですよね。

 本当にパンドラの箱ですね。でもそこに「希望」を見いだせたのは羨ましい限りです。私も皆さんに教えを請いながらその「希望」を探してみたいと思います。
 これからもよろしくお願いします。




アネモネさん

 > ほんの数行に満たないレスからは始まって、今回はこんなにたくさんのレスをされたこと、私はすごく嬉しいです。

 そう言っていただけると、私もとても嬉しいです。一月近く間が空いてしまったので気が重かったのですが、何だか勇気づけられました。有り難うございます。アネモネさんは優しい方なのですね。
 この掲示板に出会って最初は読むことのみでしたが、五月雨さんがここを去ろうとしたことがありましたよね。そのことがきっかけになって、思い余ってレスしてしまいました。でも、こうして皆さんと交流させて頂けるようになり、五月雨さんにも感謝しています。

 > 私が信仰のうえで一番問題にするのはいつも「心」なんですね。心が救われるかどうか。

 私もそう思います。「心」って一番の根本ですよね。その人の心の状態によって同じ出来事に対しても、その人の反応の仕方(振る舞い、言動など)が変わってくるのだと思います。その心の状態をより良いものにするために、大聖人は唱題行を教えられたのかと思えてきました。

 > その方々が信心から離れてしまったことで、なにか思うところがおありなのでしょうか。

 誤った折伏などしなければ良かったと今は思います。特に入院してしまった方に対してはそのように感じます。彼の心の中に新たに不信の種を植え付けてしまったような気がします。人間に対する不信を。


 アネモネさんのレスには心が温められます。有り難うございます。



管理人さんへ

 書き込みが先行してしまい、挨拶が遅れてしまいました。

 このような掲示板を作ってくれたことに感謝しています。
 この掲示板に出会えて、心の安堵を得られた思いです。今後も宜しくお願いします。

447五月雨:2002/09/02(月) 10:27
昨日は宮本さんのレスに、頭が壊れていましたが、あ さん始め一緒に彼に語りかけて下さったお陰で、今日はすっかり回復しています。私の頭は構造が単純なので、直りは早いです(笑)
彼のレスを見ていると、学会員の体質だなと思います。「私は学会を信じていますが、学会が何をしようと関係ありません」 無責任さです。
これと同じような体質がウチのお寺の、脱会して法華講員になった元学会幹部です。圏とか本部、支部の幹部ともなれば、信心を教えていった立場です。折伏した人数は百人を越えると豪語する元学会幹部は、脱会した時に折伏した人たちに、「学会が正しいと信心させた」その責任を果たしたでしょうか。一人も果たした人はいません。「どうせ言っても無駄だし、学会員はキチガイやから」と言ってましたよ。腑に落ちないものを感じながらも、元幹部は見るからに怖そうなので、そうですかーと言った私です。
でも、数年して元本部幹部だった現講頭夫婦には、「支部幹部以上だった人は私が教えてきた事は間違いだったと縁する学会員に陳謝して、正しい教えはこうだと言うべきだ」と言いましたら、苦虫を噛んだようなお顔をされていました。こんな事を言ったから嫌われてしまったと思います。
宮本さんの意味不明のレスを読みながら、こんな事を考えさせられました。

448五月雨:2002/09/02(月) 10:39
孤独な迷子さん

>本当にパンドラの箱ですね。でもそこに「希望」を見いだせたのは羨ましい限りです。

いいえ、実はまだ見つけている途中です。というかパンドラの箱の結末は希望が残るというものでしたよね。だからあるんじゃなかろうかと思っただけです。それに大聖人様のお教えに何も残らなかったら寂し過ぎます。

>このような掲示板を作ってくれたことに感謝しています。
 この掲示板に出会えて、心の安堵を得られた思いです。今後も宜しくお願いします。

私も同感です。匿名の世界のインターネットに真実などあるはずがないと、思っていた事もありますが、今は世の中が変わってしまいました。このパソコンこそ
パンドラの箱なのかも知れません。こちらこそどうぞよろしくお願い致します。

449五月雨:2002/09/02(月) 10:44
たまちゃんさん

五月雨と申します。よろしくお願い致します。せっかくレスして下さったのに、宮本さんとの不毛の議論の谷間になって、なんだか埋もれてしまっているように思いました。たまちゃんさんのご質問は私は教学は専門外?なので、独歩さんにおまかせしたいと勝手に思います。独歩さんよろしくお願いします。

450五月雨:2002/09/02(月) 11:03
独歩さん

たまちゃんさんのご質問に、お答えしてあげて下さい。先に勝手に教学は独歩さんにとおまかせと言いながら、お願いの方が遅くなってすみません。

私が前々から書いていますように、日蓮正宗信徒でありながらも、教義を知らない人がいるという事実があります。そこで、ウチの講きっての教学に詳しいおじいさんに日蓮正宗の教義について聞いてみたくなりました。お電話で依頼をしたのですが、日蓮正宗の教義について聞きますので、後日にお伺いしますと言ったら、すごい勢いでまくし立てられました。「住職は法座(にじょう台)に座ったら猊下である」「宗門の事に信徒は一切口出ししてはいかん」そして
「日蓮正宗の信心の根本は無疑曰信である、信じる事が大事なんだ」と言われたのです。無疑曰信・疑いなきを信というと読むのは知っていますが、これってもの凄く危険だと思うのです。それこそ戒壇本尊がイワシの頭に摩り替わっていても分からないと思います。本当の意味は何なのでしょう。どうぞご教示を、よろしくお願いいたします。

451犀角独歩:2002/09/02(月) 14:58

436 たまちゃん さん:

五月雨さんからのご依頼を受ける形になりました。
果たして私が答えてよいのかどうかわかりませんが、記させていただきます。

疑問として提示されたところ、漫荼羅図示の根本問題から、応用に跨る重要事項であると思います。つまり、けっこう難しい質問ですね。ですから、私が思う範囲で、という限定で記させてください。

> 御本尊様に天照大神と書かれていました。
これは日本の神ですよね。
何故書かれているのでしょうか?

文献的に言えば、本尊三度相伝の

一、釈迦と申すは天照太神西天に釈迦と顕はれ諸仏の本誓妙法蓮華経を説き一切衆生悉く是れ吾が子なりと宣ふ、日本に又大明神と顕はれ正直に方便を捨つる本願の誓に酬て正直の頭に宿る、末法濁世の時は日蓮聖人と顕はれ諸仏の本意を顕はす、左れば釈迦上行天照太神、日蓮聖人只一躰の習にして釈迦幼少の御名は日種と、天照幼少の御名は日神と云ふ最も謂れあることなり、其れ天照太神と云ふときんば法華本迹の躰にて御座すなり、天照太神は面は女躰にて御座せとも実には陰陽和合神にて御座すなり、天と云ふ字は二人と書く是れ則陰陽の二なり、明神の明と云ふ字は又日月と書けり則ち日月は陰陽の躰、本迹の二門なり

また、

七、日蓮と御判を置き給ふ事如何(三世印判日蓮躰具)、師の曰はく首題も釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も梵釈四天日月等も鬼子母神十羅刹女等も天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり、之に付いて受持法華本門の四部の衆を悉聖人の化身と思ふ可きか。

ということになるのでしょう。
しかしながら、この文献の示すところに拠れば、「日蓮聖人只一躰」「悉く日蓮」ならば、なにもいくつも書かなくてもよいのではないのか?という疑問が湧きますが、このように同体異名を同一上に記すことを互為主伴として充てるようですが、この語は他にも当たる意味があります。

なお、多分、このご質問の根底に漫荼羅は虚空会(相伝では霊山会)を図示したものであるから、遠く日本の神が入るのはなぜかという伏線もあるように思えます。
私は、この点は、漫荼羅は聖人己心の図示であるからだと考えています。
この点については、どなたかが示されていました。特に聖人の真跡に見られるところではないので、決定的なことは言えないところと惜しまれます。

> 伝教大師があるなら、聖徳太子とか鳩摩羅什とかはどうでしょう?

他門では、このように真筆漫荼羅に見られない聖衆を記すことはあるようです。
私が聞いた中では「行学院日朝上人」を記すということがありました。
また、いわゆる葬儀用の漫荼羅では、五道冥王、閻魔法王を入れるなどの例もあるようです。

> 仮に御本尊に現代板があったらどうなるのでしょうか?

これは難しい。どうでしょうか。たまちゃんさんは、どのようにお考えになりますか。

452犀角独歩:2002/09/02(月) 16:04

450 五月雨さん:

まああ、聞く耳持たない翁は、放っておくのがよいでしょう。
このお爺さんの悲しい姿は、本人は「えっへん、わしはこんなに信心強盛なのじゃ」と思っているかもしれませんが、以下のハッサン氏の指摘そのままであろうかと思います。

「忠誠心と献身は、あらゆる感情のうちでいちばん高く評価されるものである。メンバーは、部外者に対して以外は、消極的な感情を抱いたり表現したりすることは許されない。メンバー決して、自分自身や自分に必要なことへ感情を向けず、いつもグループのことを考え、不平は絶対に言わないように教わる。彼らは決してリーダーを批判してはいけない。代わりに自分自身を批判すべきである(と教わる)」

このような人に何を言っても無駄なことは、ここ掲示板でも言い出しても、他の意見など耳を傾けず、自分の言うことを繰り返すような閉ざされた人々の例を見ればわかります。結局、私たちに採るべき最良の選択は

「本人が求めてもいない批判的な記事を送ったりしない。そういう情報は、実際は益よりも害のほうが多い」

というハッサン氏の指摘を忠実に守るべきです。忠言耳に逆らう、自分たちがいちばん正しいという操られた他者蔑視は、反対に遭うほど強固になるばかりだからです。

また、無疑曰信、疑いを無くして信じるを曰うことには、思考停止を共用する短絡とは別に、本来の意味は全く違うでしょう。そのお爺さんの言っていることは、まあ言わば、不疑曰信といったところでしょう。つまり、疑わず信じるということです。

無疑と不疑、どこがちがうのでしょうか。これは天地雲泥の差があります。
無疑とは自分の心の中に湧き出る一切の疑いに答えを見いだした結果が信であるということ、不疑は単に疑わないこと、意味も精神もまったく違いますね。

まあ、これぐらいのことは、原島嵩さんだって、『池田先生への手紙』のなかで記していました。この人はいまは法華講なんだそうですから、同じ法華講同士。なんと言っても昔の教学部長、年はお爺ちゃんよりは下とはいえ、役職至上主義者には、かえって私のような創価学会の役職とは無縁であった人間の言葉より、聞く耳を持つかもしれません。

ちなみに、この原島さんの本を私にくれたのは“住職”でした(笑)

453五月雨:2002/09/02(月) 16:48
独歩さん

お爺さんには、余計な話はせずに聞く方にまわりますので、ご安心下さい。私の興味のひとつは昭和三十年代からの信心をしている人の
教義の理解度です。教学を知らない人に聞いても面白くありませんから、この頑固ジジイにしました、あっ口が滑ってしまった。お爺さんです。
『池田先生への手紙』は私の愛読書なんですよ。学会批判の本を全部処分したけれど、この本だけは置いています。原島さんの苦悩が伝わる本でした。今は原島さんだけが被害者という感じはありません。彼も果たすべく責任があると思います。この本で無疑曰信の意味を知りました。意味に間違いがないのでしたら、この本をお爺さんに見てもらいましょう。元創価学会教学部長の言葉は絶対でしょうから。
“住職”さんは、中々粋な事をされますね(笑)

454犀角独歩:2002/09/02(月) 22:19

453 五月雨さん:

そうそう。粋といえば粋も粋(爆)
自分が伊達男を気取るには信者も所化もみんな犠牲。

でも、そんなこと、ちっともわかっていなかったですね。
1億円近い個人預金。最高級車に贅沢な食事と住まいの私生活。
薄墨素絹は名ばかりで、一振り何百万もする衣。
おまけに学会役職の「奥様」に匹敵する寺院住職「奥様」。

言っていたことは「普通が何がいけないんですか。慎ましやかな生活でいいんですよ」(笑)

本気で自分は慎ましやかな生活をしていると思っているようでした。「?」と私は思っていたのですが、「猊下に比べれば」という比較対照の選択がそもそも間違っていたんでしょう。あるいは「池田さんに比べれば」だったのかも知れません。

読経の声も、説教の内容も声も最高。でも、それだけ。読経の声がよくて、説教の内容がよくて声もよいだけ。字もうまかったですね。そんなものしかし、なにになります、権威で感動する人間以外、「なんて身のない虚しい人だ」と呆れられるだけですよね。

なーーにもわかっていないボンボン、世間知らずの井の中の蛙。いまは私は、そんな立ち居振る舞いを思い出すだけで「恥ずかしい!」と本気で思うだけです。裸の王様、漫才を見る思いです。

455たまちゃん:2002/09/02(月) 23:37
五月雨様、独歩様
お気づかい頂きましてありがとうございました。
また真剣に応えて頂きましてありがとうございます。
これからいろいろ考えてみます。

456アネモネ:2002/09/03(火) 00:05
孤独な迷子さん

こんにちは。
私は今までの人生で、本当に優しくなければならないときに、そうなれなかったという苦い経験を重ねてきてます。強い性格も持ち合わせていて、本当にここぞというときにその強さが発揮される場合を除いて、なんでもないときはけっこう持て余すというか、厄介というか、自分で自分に振り回されてるんですよ。

>その心の状態をより良いものにするために、大聖人は唱題行を教えられたのかと思えてきました。

きっと大聖人はそういう願いと祈りをこめて、唱題行を教えられたと、私はいまでも信じてますよ。だけど、今の大石寺の組織では、そういう願いや祈りはこめられていないですね。別のものになっていると思います。大石寺の栄耀栄華でしょうか。そんな願いと祈りではないかと思います。だから、誰も心が救われないのではないでしょうか。

>誤った折伏などしなければ良かったと今は思います。

ここの掲示板に参加している人が、そういう思いを大なり小なり抱えていると思います。私もそうですよ。入信させたものの、家庭の事情で遠くに引っ越してしまい、いつのまにか疎遠になってしまった人がいます。私はこうして組織から離れようとしているのに、彼女にはそういう私の変化も思いも、伝えてないままなんです。いつかきちんと向き合って、話しておかないといけないなぁって気にかけてます。そのためにも、今度こそはいい加減なまやかしの信心を教えることのないよう、この掲示板で勉強していこうって思ってます。
孤独な迷子さんも、今はなにかとてもやるせない気持ちだと思いますが、今出来ることとして、ここで一緒にお勉強していきましょう。

>特に入院してしまった方に対してはそのように感じます。彼の心の中に新たに不信の種を植え付けてしまったような気がします。人間に対する不信を。

孤独な迷子さんにとって、とても大事な方だったのでしょうか。そんな感じを受けます。そしてその方は、孤独な迷子さんから折伏を受ける前から、精神的な病を患っていらしたのではないでしょうか。どんなことがキッカケでそうなってしまわれたのか、身の上話など聞かれたことありますか?それこそ、人に対する不信からなのでしょうか。

457アネモネ:2002/09/03(火) 00:07
(つづき)

私は、孤独な迷子さんは何も彼のことを騙したりしていないと思います。
騙したわけではないけれども、孤独な迷子さんが正しいと信じて伝えてしまったことが、間違いであったかもしれないということですね。そのことに今、孤独な迷子さんはつらいけれども目を反らさず、考えてみようとしていらっしゃるわけです。今度こそ、まやかしを信じてしまわないように、また信じてしまったものがまやかしであったということがきちんと説明できるようにお勉強し、いつか彼の病状が落ち着いて、また孤独な迷子さんの心にも余裕が出来た頃、ここに書いた思いと共に学んだことの全てを彼に話してあげられるといいですね。きっと時間の経過も助けとなって、彼が少しばかり感じた不信は少しずつ信頼に変わっていくかもしれません。そうなることを「希望」として、繰り返しになりますが、掲示板で一緒に学んでいきましょう。

そして、その方がどんな病気にかかってしまったのかということも、ぜひ学んでみてはどうでしょう。ご病気のことを何も知らないままご本人やご家族に接することは、とても危ない場合がありますね。病気はなんでもそうですが、特に精神を患っている場合、言葉ひとつで病状を左右する場合もあると聞きます。その言葉の善し悪しは一般常識で推し量れるものではなくて、ある程度専門的な知識が必要ですから、そんなことも少し学んでみられてはどうかと思いました。

だけど、ザッと今読み返してみると、なんか私、学ぶことばかり勧めてハッパかけてしまってますね。自分はたいして学んでいないというのに、ごめんなさいね。ゆっくりマイペースでいきましょう。

458五月雨:2002/09/03(火) 10:57
独歩さん

いやあ、すごいお坊さんもいるものですね。講習会登山に参加した時に声がよくて、説教も素晴らしい僧侶にはうっとりしたものですが、その“実”というものも考えないといけないなと思いました。極小寺院の若手僧侶といっても四十目前ですが、ウチの指導教師とえろう変わりませんね。僧侶の金銭感覚もよく分かりました。お金が無いといいながら、何であんなに贅沢できるんやろかと思う事が多々ありましたが、あれはあれで慎ましやかな生活だったのでしょう。基準が違うわけですね。
御供養で、贅沢三昧する姿を見せ付けられても、信徒は何も言ってはいけない、複雑な思いを抱いてもいけない、ご供養をさせて頂いた瞬間から何に使おうと、僧侶の勝手だという論理?には何か違うと思っているのですが・・・・

459五月雨:2002/09/03(火) 11:22
大白法9月1日号に「創価学会と離脱僧らの再度の邪難を摧破す」という日蓮正宗青年僧侶邪義破折班の文書が載っています。その中に

「貴殿ら創価学会と離脱僧は、“立宗3月説の根拠となる御書についてはいずれも大聖人の御真蹟が現存せず、反対に立宗4月説を裏付ける大聖人の御書『聖人御難事』『諌暁八幡抄』には厳然と大聖人の「4月28日」との御真筆が残されている。この一事をとってみても、4月28日のみに立宗会を修することが門下の道である”などと、相変わらず身延ばりの御真蹟偏重の戯論を述べている。当方が、御真蹟のない御書でも、例えば『開目抄』のように、御書のその意義内容を根本として尊重しなければならないと教えた意味がまるで理解できていないのである。貴殿らの頭の悪さ頑迷さには呆れ返る。」

とあります。御書のその意義内容を根本として尊重するというのは、偽書であろうがなかろうが、意義さえあれば御真蹟といっしょだという意味でしょうか。私が意義のある御書を書いたら、それは真蹟となるのですかね。元々石山には、御書は真蹟でなければならないという考えはありませんから、こんな結論付けが成り立つのでしょうか。

石山の教学ってちょっと壊れていませんか?

460:2002/09/03(火) 15:08
>貴殿ら……相変わらず身延ばりの御真蹟偏重の戯論を述べている。

大白法に、身延が御真蹟偏重であることを教えてもらった。偏重した方がいいんでねえの?、しないよりは。

461犀角独歩:2002/09/03(火) 16:10

> 相変わらず身延ばりの御真蹟偏重の戯論を述べている

これはこう言い換えることができます。

「相変わらず寛師ばりの偽書・真偽未決偏重の戯論を述べている」

真跡と偽書・真偽未決、どっちが重みがあるのかは自明です。

> …頭の悪さ頑迷さには呆れ返る

石山僧侶に向けられた言葉と思ったら、自分のことを言っているわけですか。天に唾するとはこのことですね。鏡を見て喋っているんじゃないんでしょうかね。もっとも学会僧など、問題外です。この人々が論じることはまったく話になりませんが。

> 石山の教学ってちょっと壊れていませんか

「ちょっと」は余計です。完全に壊れています。

> 御真蹟偏重…偏重した方がいい…しないよりは

仰るとおり。賛成です。

462五月雨:2002/09/03(火) 16:42
あ さん

>大白法に、身延が御真蹟偏重であることを教えてもらった。

ホンマですね。身延の方が大聖人様の直々のお言葉に触れようとしている訳ですね。さすがに物事を見る視点が違ってますね。鋭いです、勉強になりました。

463五月雨:2002/09/03(火) 16:54
独歩さん

>「ちょっと」は余計です。完全に壊れています。

す、すみません。ちょっとかなと思っていたのですが、完全では救いようがありませんね。その救い様の無い彼らが書いた文章です。

「すなわち日蓮正宗の血脈相承には、法体の相承と法門の相承があり、法体相承は『御本尊七箇相承』の「代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」との御聖意からも明らかなごとく、年齢、学解等に関係なく、法体相承を受けられたその御内証には日蓮大聖人の御生命が直ちに宿られるのである。不信心な貴殿らにはその不思議が信じられないところから様々な疑念が生じてしまうのである。「我即法界・法界即日蓮」「事の一念三千」の甚深の義を深く信解すべきである」

「日蓮大聖人の御生命が直ちに宿られるのである。」ちょっと気持ち悪さを覚えるのですが、こんな事を大聖人は本当に説かれているのですか。

464問答迷人:2002/09/03(火) 19:13

横レス失礼します。

『御本尊七箇相承』は、保田妙本寺の相伝書です。ですから、代代の聖人とは、保田の歴代をさしていますね。なのに、どうして、大石寺の歴代に日蓮大聖人の御生命が宿ると言えるのでしょうか。

また、この文書を正しいとすると、保田妙本寺への血脈相承を認めることになり、保田の歴代の内証に、大聖人の御生命が宿る、という意味になります。そして、それは、大石寺歴代は無関係ですよね。

こういう文書の引用を『我田引水』とか、『バクリ』とか言いますね。質が良くないですね。

465五月雨:2002/09/03(火) 21:55
問答迷人さん

『御本尊七箇相承』は、保田妙本寺の相伝書なんですか!?
それはどうして分かるのですか。ずっと石山の相伝書だと思っていました・・・

466問答迷人:2002/09/03(火) 23:06

富士宗学要集第一巻33頁に「編者曰く房州日山写本等に依って此を写す」と有ります。房州とは、保田妙本寺の事です。

467犀角独歩:2002/09/04(水) 07:17

近年、日蓮宗学全書、本尊写真集が完成し、それまでの意味は完全に失しましたが、本来、本尊(漫荼羅)相伝書、口伝書、切紙相承と言ったものは、師弟子の関係を結ばない限り、絶対に聞くことも、見ることも、写すこともできなかったでしょう。

なお、中世以降、これら秘密相承、口伝の類は、希少性から金銭で売買されることもあったようです。しかし、明治以降、亨師が資料を蒐集する頃には学問的な気運の高まりで、これらの点が改善され、万人がそれを披見できるようになったことはよかったのだと思います。

いま話題に上がっている本尊七箇相承などは、特に本尊書写に係る相承書であるわけです。弟子のなかでも、継承者になるような特定の弟子にしか、継承されないものであったでしょう。

つまり、この相承書の写しが、石山にはなく、保田にあるということは、まさに問答名人さんが仰ることを意味するのであると思います。

また、それは漫荼羅書写が唯授一人の相承であるなどということがまったくの虚構であったことを意味することが、私どもにとっては最も重要な点でしょう。

468犀角独歩:2002/09/04(水) 08:22

五月雨さん:

> 「日蓮大聖人の御生命が直ちに宿られるのである。」ちょっと気持ち悪さを覚えるのですが、こんな事を大聖人は本当に説かれているのですか。

そんな馬鹿な(笑)
説かれているわけはないでしょうね。

もっともらしい偉そうな文体で書いてありますが、ぜんぜん内容がない。虚仮威し文章ですね。

だいたい、この文章でいちばん、そもそも間違っているのは「生命」という一言です。
真跡といわず、真偽未決書を含めても「生命」なんか説かれているところはどこにもありません。まったく全然、真面目に研鑽していない証拠でしょう、この文章を書いた人間は。真面目に、時代、文献考証をしたら、恥ずかしくて「生命」なんて言葉は使えなくなります。

澁澤氏の以下の指摘はもっともなのであって、こんな考証もなく、「日蓮大聖人の御生命」などと言って恥ずかしささえ感じない厚顔無恥な程度の悪さが石山のレベルかと思うと情けなさで腹も立ちません。

「文学者の鈴木貞美氏が「大正生命主義」という名で取り上げた当時の主だった思想傾向で、その生命主義的世界観を支える「神秘主義」の流行なのです。大正生命主義とは、鈴木氏によれば「日露戦争後から関東大震災に至る時代の思想・文化状況において、『生命』の語が氾濫し、『生命』がその時代のスーパーコンセプトになっていた現象を名づけたもの」と定義されています。現代もまた、「生命」という言葉が時代のスーパーコンセプトに押し上げられている状況にあるといえます。 生命という語は氾濫していますが、しかし生命が何であるのか未だ明確に定義されているわけではありません。そうした状況の中で宗教界においても伝統・新宗教を問わず、「宇宙生命」や「久遠の生命」と表現される「生命主義的世界観」が、きちんとした検討を通すことなく教義の中心を説明する口当たりのよい現代的概念になっているという現状があります。しかし、それは六十年前の神秘主義・生命主義の流行がただ無批判に反復されているだけかもしれないのです。ニューエイジの諸要素を教義に繰り込んだオウム真理教の事件以後の問題としても、ニューエイジを含む生命主義的世界観をどう捉えるかは大きな宗教的課題になると思います」(宗教と科学について−ニューエイジ批判を通しての一考察−渋沢光紀師)
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/booklet/001/001_07.htm

私の生命論は批判はかなり早い時期からでしたが、仏教的見地から、この点の、特に創価学会の非を突いたLibraさんの論考はお薦めです。つまりは、学会で醸造された生命論は、今なお依然として石山に影響を与え続けていると言うことです。

宇宙生命論は仏教ではない Libraさん
http://page.freett.com/Libra0000/z001.html

469五月雨:2002/09/04(水) 09:36
問答迷人さん

保田妙本寺という名前はよく目にするのですが、最初は石山の末寺では無かったのですか。あまり詳しく知りませんので、どういう経緯のあったお寺か教えて頂ければ幸いです。

470五月雨:2002/09/04(水) 10:09

独歩さん

大聖人様は生命を説き切られたお方だから、スゴイんだと教わってきました。日蓮正宗青年僧侶邪義破折班の壊れた連中も、大聖人様は生命を説かれていると思っている訳でしょう。では誰が教えたか、猊下ですよね。猊下もそう思っているのでしょうね。

>学会で醸造された生命論は、今なお依然として石山に影響を与え続けていると言うことです。

どうしては母体の石山が、信徒の考えに影響されるのですか。どうにも理解出来ません。法灯連綿七百五十年の歴史を誇る日蓮正宗の教学は、どこでどうなってしまったのでしょうか。

472問答迷人:2002/09/04(水) 18:16

五月雨さん

>保田妙本寺・・・・最初は石山の末寺では

日興上人の重須での弟子、新六の一人、日郷上人の開基です。日郷上人は、日目上人のお供をして日尊上人と共に42回目の天奏に参加しました。途中、日目上人が美濃の垂井でお亡くなりになられたため、日尊上人は日目上人の代理で天奏を遂げ、京都に止まりました。日郷上人は、遺骨や重宝を持って富士に戻りました。その時、すでに日道上人が大石寺第四世の座に着いていたため、日目上人の跡目争いが起こりました。結局、日郷上人は、遺骨を下之坊に収めて、重宝を持って安房の吉浜に法華堂を立てて妙本寺としました。その後、70年に渡って保田妙本寺と富士大石寺とは、蓮蔵坊の所有権を巡って係争状態が続きます。

戦後、一時期、大石寺の本山となっていましたが、今回の創価学会問題を契機にして、日蓮正宗を離脱しています。

473犀角独歩:2002/09/04(水) 18:50

五月雨さん:

日蓮聖人は生命なんか説いていませんね。
これは戸田さんの「仏とは生命のことだ」のバクりでしょう。
戸田さんの悟達がダメだと言ったのは石山でしたね。

生命を説いたというのであれば文証・理証・現証でも挙げて説明してもらいたいものですね(笑)

474顕正居士:2002/09/04(水) 19:37
興門八本山(開山)-現所属

大石寺(日興)-日蓮正宗
妙蓮寺(日華)-日蓮正宗(昭和25年合同)
北山本門寺(日興)-日蓮宗
小泉久遠寺(日郷)-日蓮宗
実成寺(日尊)-日蓮宗
要法寺(日尊)-日蓮本宗
西山本門寺(日代)-単立
妙本寺(日郷)-単立(昭和32年以降一時日蓮正宗に合同)

明治以降大石寺の所属

日蓮宗-分立→日蓮宗勝劣派-分立→日蓮宗興門派-改称→本門宗
-大石寺単立→日蓮宗富士派-改称→日蓮正宗(明治45年)

475いちりん:2002/09/05(木) 08:39
富士門流のいろんなグループのいまの勢力について、教えてください。
公称の会員数、お寺の数、指導教師数、機関紙の発行部数とか。

476いちりん:2002/09/05(木) 08:42
創価学会は、会員数一千万ということでしたか。
聖教新聞は、発行部数550万部。こないだ選挙では、公明党は800万票くらい獲得しましたか。
活動家は、200万人くらいなかなあ。

顕正会、法華講とか数も知りたいのですが。

477犀角独歩:2002/09/05(木) 15:11

顕正会は現在、80万人で、11月までに100万人達成と言うことではありませんでしたしょうか。もっとも大半は高校生で、責任者と勤行をして、数珠と経本を買って、サイン一つで入会という数取りでしょうが。

法華講は、この前、聞いたところに拠ると17万人ということでしたが、この根拠はよくわかりませんでした。

478顕正居士:2002/09/05(木) 15:14
平成12年度文化庁統計には
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r3-1.htm

日蓮正宗は教師747名、寺院教会数712、檀信徒数約34万とあります。平成7年の
統計では檀信徒数が約576万であった。だから、創価学会の会員数は約542万人
になる。
正信会は教師約200名、寺院教会約150といわれている。教師や寺院教会は数え
られる。檀信徒数の内容はよくわからない。宗教団体には年会費などが存在し
ない場合が多く、滞納による除籍がおこらない。仮に日蓮正宗の実檀信徒数を
上の統計の半分の約17万名と考えれば、正信会の檀信徒数は教師、寺院数から
の比例で約4万である。顕正会などの実会員数は推定のもとになる数字がない。

479五月雨:2002/09/05(木) 15:31
問答迷人さん

>すでに日道上人が大石寺第四世の座に着いていたため、日目上人の跡目争いが起こりました

日目上人がお亡くなりになってまもなくに、日道上人が第四世の座に着かれていたのだとすると、日郷上人が知らない相承書でもあったのでしょうか。

>戦後、一時期、大石寺の本山となっていましたが、今回の創価学会問題を契機にして、日蓮正宗を離脱しています。

末寺じゃなくて「本山」ですか?

この保田妙本寺には「万年求護の御本尊」があると聞いた事があります。その御本尊はどのような謂れがあるのでしょう。
ずい分前にウチの住職と話している時に「万年求護の御本尊」に触れて『にたあ』と笑ったのが頭から離れません。その時分は、日蓮大聖人様のご本尊は戒壇本尊以外にあるだなんて知らなかったし、保田妙本寺に「万年求護の御本尊」があると最近になって理解できたほどです。

それにしても石山は何故、保田妙本寺の相伝書『御本尊七箇相承』をまるで自分達のもののように引用するのでしょう。その神経が分かりません。

480五月雨:2002/09/05(木) 15:41
独歩さん

>生命を説いたというのであれば文証・理証・現証でも挙げて説明してもらいたいものですね(笑)

法華講の爺っ様に聞いてきます(笑)

481五月雨:2002/09/05(木) 17:25
独歩さん

今、ふと思ったのですが、「事の一念三千」は生命を説かれているのではありませんか?
それに勤行・唱題で六根清浄して、いつもきれいな生命でいる事が大切だと教わったと思います。これは石山でも言われていることだと思うのですが、私の記憶違いでしょうか。

482いちりん:2002/09/05(木) 17:49
大乗仏教のもっとも基本的な考えは
─「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょう・しつう・ぶっしょう)─
ということで、「生きとし生けるものすべてに仏性がある」という意味ですね。仏性とは、ほとけそのもの。

一切衆生ですから、「もろもろの生あるもの」で、人間だけではありませんですね。
で、この一切衆生が、もろもろの生あるもの、生きとし生けるものということで、すなわち生命ですもね。

あらゆる生命は、仏性がある。「悉有」というのですから、まったくイコールともいえますよね。
つまり、一切衆生悉有仏性というのは、すなわち「仏性とは一切衆生である」ということにもなります。

悉有ですから、もうすべてにわたって仏性である。
ありとあらゆるものが仏性である。仏性とは、すべてのものである。

というわけで、あらゆるものが仏である。宇宙が仏である。生命が仏である。
……とまあ、そういう理屈が成り立つのかなあと思うわけです。

しかしまあ、これは自分のなかで「実感」がなかったら、屁みたいな理論ですよね。
光を知っている人と、盲目の人が「光というものがあるのだ」と理屈でいうくらいの違いでしょうか。

でまあ、ともあれ戸田さんは、思いこみなのか実感なのか妄想なのかわかりませんが、「仏とは生命である」とつかんだ。
で、このキーワードをもとに、日蓮仏法をわかりやすく展開していった。
そして、その戸田さんのお話がわかりやすいので、日蓮正宗の坊さんたちも、顕正会も、もちろん創価学会も、得意になって使い出した。

483犀角独歩:2002/09/05(木) 18:22

五月雨さん:

> 「事の一念三千」は生命を説かれているのではありませんか

おお、こうきましたか(笑)
ほぼ、生命論の濫用はいちりんさんが書いてくださったとおりだと思います。

で、この一念三千ですが、これは言葉をよく見てください。生命三千ではないでしょう。“一念”三千です。これがすべてですね。一念に三千を観るということです。生命は三千に諸相があるなんてことを言っているわけではありません。一念が生命でしょうか。違いますよね。一念とは心の問題です。止観の序に

説己心中 所行法門 (己心の中に行ずる所の法門を説く)

というのです。では心が生命でしょうか。心は心です。生命ではありませんね。

要するに止観の原文に当たらず、一念三千を生命で解説したものから止観を読むと、すべて生命の解説に見えてしまうのです。固定観念というのは恐ろしいわけです。

大石寺系グループを私はカルトというわけではありませんが、カルトというのは教義、聖典をどのように読まなければいけないかという、「たった一つの解釈」を押しつけるものです。そして、この解釈を受け入れないと「地獄に堕ちる、悪いことが起きる、謗法だ」と鞭をふるい、反対に信じれば、「幸福になる、功徳がある」と飴を与える呪文をかけて、それ以外の一切の解釈を斥けるように操作するものですね。

「生命」という言葉を、石山系グループではそのように濫用していると、私は糾弾しているのです。

484五月雨:2002/09/05(木) 22:10
独歩さん

十(界)×十(界)×十(如是)×三(世間)=三千 と大草さんの著書「法華講員の基礎知識」小川只道師監修にありますが、この考え方は間違いなのですか。

485犀角独歩:2002/09/05(木) 22:35

434 五月雨さん:

反対にお尋ねしましょうか。五月雨さんの生命は3000にしか分類できないようなものですか。生物、取り分け人間の構造はそんなに簡単ではありませんね。違いますか。

生命体の設計図であるDNA、人間の遺伝指数はたしか3万から3.5万と言われています。細胞数は60兆です。思考パターンは3000などという、そんな小さな数であるはずはありませんね。

つまり、石山のいう「一念三千=生命」はまるで科学的な検証に耐えないことになります。では天台がいう三千は間違っているのか?と言えば、わたしは一概にそうは言えないと思います。

天台が言う三千は禅定、観法に当たり、自身の心の中を三千に分けて観よ、観た後はそれを三千と思うな、三千は一にして、また一にもあらずというのです。そのような禅定における観念観法の指南としてみ、思惟修習の手段とする限りでは間違いとは言えないでしょう。

しかし、「一念三千が生命の実相だ」などと言い出したり、死んだ日蓮の生命は板漫荼羅に宿っているなどと言い出せば、あれま、困ったものだというほかないことになります。さらにその生命が宇宙生命と一体であるとか、一念三千は宇宙生命の真理だ(そこまでは言っていないか言っているか知りませんが)などとなれば、もうほとんど誇大妄想の域に達した病理性を心配せざるを得ないことになります。いかがでしょうか。

486やーこ。:2002/09/05(木) 23:23
孤独な迷子さん、他
唱題は早口ではなく、ゆっくりするものです。
それから、大半の場合はやはり言葉の受け売りでした。
しかし、自分の場合他は自分の体験から元にして話して来ましたが…。
ということを考えると、一概には言えないようです。

五月雨さん
超遅レスすみません。しかも誤字ばかりでした。
最後の質問の回答ですが、頭の中から完全に「組織を切り離す」ということです。
ただそれだけです。危険も伴いますが。
組織のメンバーは例え自分の記憶から消去されそうになってもいつまでもどこまでも
追いかけてくることも多いです。なので難しいかもしれません。
私の場合は住んでいる環境を思いっきり変え、連絡もできなくする。それだけでした。

487:2002/09/06(金) 00:02
やーこ。さん:

頭の中から完全に組織を切り離すために、わざわざ住んでいた環境を変えたとは、大変な苦労があったみたいですね。
やーこ。さんは、その苦労の話を、いちど、誰かに思いっきり聞いてもらう必要があるように思えてきました。
身近に話を聞いてくれる人がいるといいのですが。

488:2002/09/06(金) 04:03
身近に話を聞いてくれる人がいるといいのですが、というのは、
難しい仏教の教義がカラむことなので、なかなか周囲の人には理解してもらえない、という意味です。
学校で知り合った友達程度では、「やーこ。の話、ムズい。何だかわかんなーい」と言われて終わりですからねぇ。

489やーこ。:2002/09/06(金) 05:53
あさんへ。
御心配なく。二人おります。
うち一人は私が入信させた中学の先輩で、もう一人はみなさんがよく知っている人です。問答迷人さんやさい角独歩さんではありません。
内緒です。

490問答迷人:2002/09/06(金) 15:11

五月雨さん 479について。

>日郷上人が知らない相承書でもあったのでしょうか。

もし、そのような文書を日目上人が残しておられたのなら、跡目騒動なんか起こらないですよね。大体、そういう文書は、そんな争いを避けるために残す物ですから、跡目騒動が起こったこと自体、日目上人が、そういう文書を残さなかった事の結果であると僕は考えています。

>末寺じゃなくて「本山」ですか?

そうです。大石寺が総本山、妙蓮寺が本山、妙本寺も、本山として扱われていました。

>この保田妙本寺には「万年求護の御本尊」があると聞いた事があります。その御本尊はどのような謂れがあるのでしょう。

日蓮聖人がご自身が上行菩薩で有ることを述べられた唯一の脇書きが認められています。保田では、この本尊こそ、日蓮聖人の出世の本懐で有るとしていました。

>それにしても石山は何故、保田妙本寺の相伝書『御本尊七箇相承』をまるで自分達のもののように引用するのでしょう。その神経が分かりません。

日蓮正宗は、大石寺こそ、日蓮聖人の唯一の正系門家であるという神話に固執していますから、日蓮聖人の相伝は全て大石寺に本来は伝えられた相伝であるはずだ、という根拠のない固定観念に取り付かれているのだと思います。ですから、日興上人に相伝されたとされる相伝書は、全て大石寺の相伝なんだと思い込んでいるのでしょう。その他にも、なんの根拠も示さずに、要法寺の相伝を大石寺の相伝で有ると言ってみたりしています。思い込みという事は恐ろしいなぁ、と思います。歴代の上人から上人に手渡しされてきたという相伝箱に、日蓮聖人の全ての御真筆の相伝書が収められているとでも信じているのでしょうかね。

491五月雨:2002/09/06(金) 23:36
独歩さん

法華講の爺様が言うには、「一念三千とは、瞬間の心の動きが、三千に分かれる、もっと細かく言うと八万四千に分かれるんだ、そこには十界互具の仏界があって、仏界の湧現こそ即身成仏が出来る、これが仏法の基本だ」と言ってました。
むかーしにそんな風に聞いた覚えがあります。でも法華講に入って聞いた記憶が無いのは・・・日蓮正宗の教義って一体何なんでしょう。あったっけ?私には何でも願いを叶えてくれるご本尊というのが教義だったように思います。文証・理証・現証はご勘弁ください。

492五月雨:2002/09/06(金) 23:47
問答迷人様

>日目上人が、そういう文書を残さなかった事の結果であると僕は考えています。

ニセモノでも本物でもそういう文書は何も無いのですか。それはおかしいですね。血脈が途切れてしまうのではないですかね。

>日蓮聖人がご自身が上行菩薩で有ることを述べられた唯一の脇書きが認められています。

それはすごい脇書ですね。深い意味のあるご本尊のように思われるものが、日蓮聖人の唯一の正系門家であるという石山が所有していないというのはどういうことなんでしょう。

>日興上人に相伝されたとされる相伝書は、全て大石寺の相伝なんだと思い込んでいるのでしょう

そんな思い込みが、文証・理証・現証を重視する石山にあるというのが恐いです。

493五月雨:2002/09/06(金) 23:59
やーこ。さん

やーこ。さんのレスは読んでて、スパイ映画みたいに思っちゃいました(笑)
どんな危険が伴うのでしょう。危険の伴う宗教はやめた方が良いのではと思います。それでも、日蓮正宗に固執するのは戒壇本尊に魅力があるのかな。今日も法華講の爺様と話をしていて思ったんだけど、はじめに戒壇本尊ありきで、教義がどんなにひどくても我関せずの爺様に、なんか違うんじゃないのと思ったのが、やーこ。さんにも当て嵌まりそうな気がします。
私なら、こんなこわい組織とは頭の中だけで切り離さずに、身も切り離しますね。
そんな信心、やってて楽しいですか?心に平安がありますか?

494孤独な迷子:2002/09/07(土) 01:17
アネモネさん

 >強い性格も持ち合わせていて、・・・・・

 それってとても羨ましい資質だと思います。優しさを支えているものは心の強さではないでしょうか。強さに裏打ちされていない優しさは一見優しさのようでも、ただの同情で終わってしまうこともありますよね。
 アネモネさんのその心の強さは、アネモネさんの大切な個性の一つだと思います。

 毎回、励まして頂いたり、アドバイスして頂いたり、その度に心も軽くなります。今気づいたのですが、こうした会話のやりとりで心が軽くなるというのも、ある種の「救い」に通じますね。
 以前、アネモネさんのレスに「何でも思うところを書いてください。」という趣旨のことがありましたが、このことだったのですね。

 宗教とは本来社会や人間を善導してゆくものだと思っていましたが、石山においては何か違っている感じですね。責任のある立場の人たちが、早く慈悲の心に気づいて貰いたいと思います。


 > なんか私、学ぶことばかり勧めてハッパかけてしまってますね。

 人間がのんびりしているもので、少しハッパをかけて貰った方がちょうど良いかも知れません。

495やーこ。:2002/09/07(土) 07:35
五月雨さん。

やってて楽しかったですよ…昔は。10万登山を過ぎる頃までは。
つまり、その時は自分が中高生ぐらいまでのときだったのですけれども、
周囲には、いろいろな境遇やある意味障害を持った方がいて、
それを克服すべく日々の唱題、勤行などで磨き合って行けました。
ある人は、精神に何らかの学習障害があった人ですが、
この人は次第に普通に生活できるようになりました。
今は亡くなっているけど、目の見えなかったおばあちゃん。
やっと、御本尊様が見える、というレベルにたどり着きました。
他にも、信心していてありえない不思議な出来事が次から次に出てくるという点
では結構楽しかったです。
が、今はお寺の参詣などで全然楽しくない。歓喜も無い。
人の悪口とか、信心している人同士がけなしあったりする姿。もう見てらんない。
たぶん、30万登山勧誘がきっかけだと思います。しかし、なぜそうなってまで
信じるかというと、この信心による「不思議」な力を自らも体験して、それを
信じているからです。だって、最後には成仏したいんだもの。
というわけで、これを回答とします。

496五月雨:2002/09/07(土) 09:32

やーこ。さん

>この信心による「不思議」な力を自らも体験して、それを
信じているからです。だって、最後には成仏したいんだもの。

不思議な力ってどのようなものだったのですか(興味津々)ここに書ける範囲内で結構ですので、教えてもらえませんか。
最後に成仏したいというのは、死んでからという事なんですか?

>これを回答とします。

これ以上はもう答えませんという事では無いですよね。お答えお願いします。楽しみにしています。

497問答迷人:2002/09/07(土) 21:49

五月雨さん 

>ニセモノでも本物でもそういう文書は何も無いのですか。それはおかしいですね。血脈が途切れてしまうのではないですかね。

日目上人から、日道上人への譲り状ですか。僕は、それは勉強不足なので見たことがありません。どなたか御存知ならお教えください。

>それはすごい脇書ですね。深い意味のあるご本尊のように思われるものが、日蓮聖人の唯一の正系門家であるという石山が所有していないというのはどういうことなんでしょう。

日目上人が42回目の天奏の時に、京都への旅に持参されて、途中で亡くなられたので、日郷上人が美濃から持ち帰り、大石寺には渡さず、そのまま保田に持参され、保田の重宝になったわけですね。

498孤独な迷子:2002/09/07(土) 23:08
やーこ。さん

 初めまして、よろしくお願い致します。

 > 唱題は早口ではなく、ゆっくりするものです。

 ご指摘有り難うございます。第59世日亨上人の唱題についての御指南に
  「お題目の唱え方は、身に油断怠りなきよう、意に余念雑念なきようにありたい。口より出す声は、早口であったり、粘口であったりしてはならぬ、落着いて確固と、尻強に中音に唱えねばならぬ。・・・」
とありますね。

 > しかし、自分の場合他は自分の体験から元にして話して来ましたが…。

 差し支えなかったら、その体験について教えてください。

 お母様のこと別のスレッドで知りました。お心をお察しいたします。

499やーこ。:2002/09/08(日) 07:12
おはようございます。すごく眠いので頭が良く回りません。
雨が降ったらミニオフ会参加できるのに…。

五月雨様、孤独な迷子様:
59世の御指南どおりです。そういう風にすれば、洗脳効果(?)になることは
間違い無くないです。が、今の宗門、法華講の唱題はどうでしょう???
早口でアクセントポイントが無い、ということに気が付いてくれると思います。
また、腹式呼吸により、かえって体にいいですよ。
それが組織でできないということは問題だと思います。
体験に付いては、本日は仕事がありますので、後日書き込み致します。

ねむいです…。

500アネモネ:2002/09/10(火) 20:55
孤独な迷子さん

ご返信が遅くなってごめんなさいね。

>アネモネさんのその心の強さは、アネモネさんの大切な個性の一つだと思います。

なんかとても良い性格のように書いて下さって、ありがとうございます。だけど、私は少し表現を間違ってました。強い性格とは、「心の強さ」というよりは、「気の強さ」なんですね。それでいながら、実は気が小さいところもあって、そうかと思えば、強気になったりと、こう書いていると、とにかく感情の起伏が激しいという、厄介な性格がおわかりになるかと思います(笑)

>強さに裏打ちされていない優しさは一見優しさのようでも、ただの同情で終わってしまうこともありますよね。

孤独な迷子さんの言われる、本当の強さと優しさというのは、やはり大聖人様のなかに見てしまいますね。この尊敬と恋慕の気持ちはお寺に行かなくなった今も、私の心の中に素朴な信仰として変わらなく存在しているなぁと感じています。

>以前、アネモネさんのレスに「何でも思うところを書いてください。」という趣旨のことがありましたが、このことだったのですね。

私の体験上、掲示板に参加して書き込むことは、悶々とした心の解放に通じる行為だなぁと思えたんですね。
私はこの一年半ほどを振り返ってみて、この掲示板に書き込むことで、随分と意識改革されてきたなと思うんです。私は、頭の回転が遅くて、「喋る」ということはとても苦手なのですが、「書く」という行為のほうが好きで、そうすることで雑然とした考えや思いを整理する働きがあるなぁって実感するんですね。時には批判や反論も頂きますが、でもそうしたやりとりの中から意識の変革が出てくるんだってこと、この掲示板を通して体験したことだったんですね。

お寺の中では、なかなか自分が考えていることというのが言いにくいものです。そこにいろんな思惑やしがらみが渦巻いているからかもしれません。非常に建前を重視した人間関係が出来ているなぁと思います。そこを一歩踏み込んで、心の中をさらけ出した人間関係を築こうと思っても、どうしてもいつしか組織内の派閥争いに巻き込まれてしまうんですね。また洗脳された者同士の人間関係では、向上的な意識の変革には至らないものです。少しでも洗脳から目を覚まし始めたとしても、即座にその芽は否定され摘まれてしまうことでしょう。そのときには、地獄に落ちるという脅しに似た言葉の暴力が伴いますから、気の弱い人は、それだけで精神衛生上とても良くないものであり、そのまま心乱された状態では健全な生活そのものが阻害されてしまいます。
一般的な人間関係だって難しい昨今ですが、そこへもってきて「仏法の為」という固定化された価値観のもとで、単純に意思と行動が既定されてしまうような組織での人間関係は、歪なものにならざるを得ないと思いました。そこにいる人たちが悪いのではなくて、そういう仕組になってしまっているのが問題であり、それが組織信仰なのだということを、この掲示板を通して、ようやく私も気がついたんですね。
その気がついたことを素直に認めることは、何よりも自分の為なんですね。自分を大切にしようと思うならば、組織信仰から離れることが最善なのだとわかりましたし、何もそれが信仰を捨てることではないわけですから、その認識をしっかり持っていれば、組織信仰を離れることはなんでもないことなんですね。まずは自分の心の建て直しが大事ですね。

掲示板での人間関係には何もしがらみがありません。建前よりも本音で語れるわけです。今まで口に出来なかったことを思い切って書いてみると、実は自分と同じことを思っている人がいたんだということに気がつきます。もしかすると遠く離れたところに住んでいる人なのかもしれませんが、それでも自分の考えと共鳴する人がいるということは、非常に心強いものです。またそれを読んで別の方が、また同じことを共鳴し、孤独な迷子さんのようにいつしか書き込みをされるようにもなるかもしれませんね。非常に小さな積み重ねで、しかも言葉の限界も確かにありますが、でもそれ以上に言葉にこめる自分の思いの力の大きさにも気がつきました。
孤独な迷子さんも今、その心の作用に気付かれていること、私は喜びを共鳴します。きっと孤独な迷子さんは、私なんかより信心はずっと先輩なのではないでしょうか。そんな若輩の私の言葉を心に留めて頂いて、本当に嬉しいです。

501アネモネ:2002/09/10(火) 20:56
(つづき)
>宗教とは本来社会や人間を善導してゆくものだと思っていましたが、石山においては何か違っている感じですね。

本当に私もそう思います。善導しているとはとても言えないですね。30万登山が近づくにつれて御説法の内容が貧弱になっていき、何を説くにしても折伏・折伏と我田引水。そんなことで頭数を煽らなくても、実社会の中で苦しみもがき、潜在的に信仰の救いを求めている人はたくさんいるんですね。
自分の教団の世帯数のことよりも、巷で苦しむ人々の数のほうを思い知ってほしいです。年間3万人以上の自殺者が出ていますし、また連日のようにいたましい殺人事件が起きています。ふと報道を聞き流しているうちに、あーまたかと段々感覚が麻痺していくのが恐ろしくもあります。だけど、自殺した人の家族、殺された人の家族、殺した人の家族、そして死んでいくしかなかった本人、また殺人者本人、どれほどの苦しみの中を生きているのかと心を寄せるとき、宗教の力を真に信じる宗教家であるならば、この巷の姿をなんとかしようと慈悲の気持ちを奮い起こして人々に心を砕いてほしいものです。
ここでいう宗教家とは、信徒のことではなくて、聖職者(僧侶)のことですね。厳しいことを言うようですが、そういう心を持ったお振る舞いをしてはじめて、供養を受け生活が賄えられる立場なのではないかと思います。
またそのような慈悲の振る舞いの結果に導かれた数字が30万であるならば、立宗750年も心から共に祝えるものであったと思います。しかし残念ながら、そんな経緯の結果の30万ではなかったですね。信徒の犠牲の上に成り立った、体裁だけの上げ底30万登山です。本当にいまだに席を残す者として恥ずかしいです。

仏教では、出来るだけ怒りの気持ちは持ってはならないそうですが、だけどこの怒りばかりはどうしても私は心に留めて、忘れたくないと思っているんです。それが私の持ち前の、厄介な気の強さなんですね(笑)

502やーこ。:2002/09/11(水) 07:03
五月雨さん、その他の方々

ごめんなさい!
質問の回答が今忙しすぎてかけてないです!
箱根帰ってから書きます。

503五月雨:2002/09/11(水) 08:58
やーこ。さん

質問の回答なんていつでもいいですよ、そんな事考えずに
箱根で楽しく遊んでね。どうぞ、ごゆっくり。

504いちりん:2002/09/11(水) 09:34
>仏教では、出来るだけ怒りの気持ちは持ってはならないそうですが、だけどこの怒りばかりはどうしても私は心に留めて、忘れたくないと思っているんです。

というアネモネさんのことばから、考えてみたのですが。
仏教では、「怒るのはよくない」という教えはありますよね。怒ってしまうと、心が汚れて煩悩が増大して、苦しむのは自分だからということだと思います。

といっても、怒るという心はどうしようもないわけですよね。で、わたしは、いつも思うのは、
 ──「怒りが出るときは、自己観察のチャンス」──
と思っています。

人生の局面を降りかえると、怒りが生じたときは、数限りなくありますよね。些細なことでも怒るし、裏切られたと言っては怒り、約束を破られたといっては怒り、やかましいといっては怒り、ともう膨大な怒りがあります。

で、怒るときは、そのものに対して、怒っているようだけど、じつは、そうでもないことがあります。つまり、怒る対象の理不尽さとかどうしようもなさは、たまたま
  ──怒りの引き金──
に過ぎないんじゃなかろうかと。

で、人生を振り返ると、「ああこんなふうにして怒ることがあったなあ」「怒ったあとは、かならずあんなふうになったなあ」という、ひとつの
  ──怒りのパターン──
というものが、あるんだと思います。

ほんとに、おもしろくて、観察すると「怒りに至る脚本」「怒りのあとの感情の着地具合」というのがありまして、そこに「怒るパターン」があるんですよね。

で、その「いつものパターン」というものに気づくと、「おお、きたきた。またきくたか」というふうに余裕が生まれまして、そして怒りをうまく処することができるかもしれないし、怒りを処することができなくても、怒りによって、自分というものの新しい発見があったりしますよね。

で、いくらお題目を唱えても、活動しても、人間がなかなか成長しないということがあるとしたら、ひとつには、この「自分の感情のパターン」に気がつかないからじゃなかろうかとも、思うわけです。

(この投稿は、アネモネさんに対してどうこういう目的じゃなくて、アネモネさんのことばか触発されて、ふと浮かんだわたしの感想ということです)

505いちりん:2002/09/11(水) 10:37
補足です。

成長しないという意味合いは、「おんなじことを繰り返してしまう」ということもありますね。また、いつもの
 ──「轍」(わだち)──
にはまってしまうということです。

ブッダの探求は、この「轍」(わだち)にはまつてしまうことからの、解放にありました。
この「轍」とは、つまり
  ──輪廻──
ということですね。おんなじパターンで、生きてしまう。そして、死んでも、またおんなじパターンを繰り返す。そのおんなじパターンなのことを、別の観点から言うと、
  ──宿習(しゅくじゅう)とか習気(じっけ)──
などと訳されます。どうしようもない生きるうえでの傾向性みたいなものですよね。

で、仏道修行というのは、この宿習とか習気を、根本的にクリアーしてしまうことが目標なのかもしれません。

そのことは、ただお題目を唱えるとか、やみくもに活動しても、なかなか難しいというのは、身近な人間を観察すれば、容易にわかりますよね。なかなか人間は、変わらない。おんなじことばかりやっている。人によっては、信仰するとますますヒドくなったりする。ますます頑なになって、柔和さがなくなる人がいる。

そこで、ブッダは、やみくもにお題目を唱えろとか、折伏しろなどとは言いませんでした。どういう修行法を提案したかというと、
 ──自己観察、気づきの道──
であります。

このことを、
 ──念(サティ、つまり気づき)とか観(ヴィパッサナー、つまり自己をよく観ること)──
ともいうんじゃないかと思います。

日常生活の中で、自分の感情のパターンに気づきなさいよ、気づいた時点で、それはもう超えていくことができると。それが、わたしがいま探求している、ブッダのセラピーというような世界です。

506アネモネ:2002/09/12(木) 00:27
いちりんさん

>──怒りのパターン──
というものが、あるんだと思います。

まったく、その通りなんです。
「おお、きたきた。またきたか」というところまでは、私にも自覚があるんですね。それを仕事のときなどは、背中にしょってるものがあるので、たいていは我慢してるんですね。ところがそれでも、どこからともなしにGOサインが聞こえてくるときがあるんです。
それこそ別のスレッドでも書きましたが、クレームを言わなければならないと判断してしまった瞬間なんかそうですね。お寺に対するクレームも同じです。
そうなると、もうなんだかわかりませんが、どこからともなしに言葉と理屈が溢れ出てくるんです。私ってこんなだったっけ?と思いながら、いやこれが本当の私なんだ!といった感じでどんどん語気が強くなっていくんですね。

>怒りによって、自分というものの新しい発見があったりしますよね。

確かにそうですよね。
人間関係でいうと、まず怒りで損うもの大きいですね。だけど、それを乗り越えられると、かえって仲良しになれたりする場合もあります。そうなると、今度はそのまま仲良くしていたいから、なるべく怒りの感情は抑えるようになりますね。以前ならば怒っていたようなことでも全然平気で、むしろ相手を尊重し大切にしようという気持ちのほうが勝ります。
ところが、それがもっと親密になってしまうと、今度は逆に遠慮がなくなってこれまたイケイケGOサインが出やすくなったりします。私の経験からすると、この場合がエスカレートしていくと最も危ないなぁと思います。そこで関係が破綻した場合は、なかなか修復できない場合もあるかもしれません。

人間関係って、その距離感って絶対に大事だなぁと思います。夫婦や親子、兄弟、恋人、友人、どの場合もそうかもしれませんね。
そんな人間関係を豊かに構築するためにも、自分の心の状態の観察こそ、とても大事なことなのですね。


>──宿習(しゅくじゅう)とか習気(じっけ)──
などと訳されます。どうしようもない生きるうえでの傾向性みたいなものですよね。

これは、「業」にも近いものでしょうか。業とは「心の傾向性」と言っていた人もいました。そういうのって確かにあるなぁと思います。

> ──自己観察、気づきの道──
であります。

人生において、最も長い付き合いは、自分自身ですものね。自分に最大の関心をもって心を眺めていく修行って、本当は一番人生を面白くまた楽しく、そして幸せに感じさせるものかもしれませんね。怒ってしまう自分に学ぶことと、そして発見、確かに大きいです。

507いちりん:2002/09/12(木) 09:27
「業」(ごう、カルマ)というのは、いわば「おこない」なんでしょうね。
その「おこない」は、身体的な行為、喋ったこと、さらには心で考えたことも、入るようです。

その「おこない」は、次の「おこない」に連鎖しますよね。そしてまた、次の「おこない」にと、無限につながっていく。
死んでも、その人の「おこない」が、次の生命に更新されるときでも、つながるというわけです。

よく「自業自得」といいますけれど、「自分がつくったおこないは、自分で受ける」わけですよね。
「与えたものがかえってくる」ともわたしは解釈してますけど。
ですから「かえってきたものは、自分が与えたものだ」ともいえましょうか。

「いまのわたし、いまの境遇、いまの環境、いまのもろもろの現実」は、「自分自身が与えたもの出有る」「自分が作り上げたもの」であると。

で、薫習とか習気というのは、そういう「おこない」(業)をしてしまう傾向性ですよね。「クセ」みたいなものでしょうか。
これ、人間ですと、かならずありますよね。双子の兄弟でも、それは違うから、環境によってつくられたと言うよりも、持って生まれたものというか。さらには、やはり過去世からのえんえんとつづいたもの、かもしれないですね。

で、この「クセ」がほんとうに「くせ者」で、クセのために、いろいろと苦労してしまう。
ああ、やっぱりおんなじことをやってしまったよ、いつもこんなふうになるよ、というのがありますね。それって、クセが作用していますね。

だから、自分のクセに気づいていくのが、とても大切だなあと思うんです。
「気づく」というのは、まさに、気づくわけですね。
しつけとか訓練というのは、あともどりしますけど、気づきというのは、後戻りしないんですね。
ここがおもしろいですね。

努力して頑張って修行するという流れと違うところがあるんだと思います。
むしろ、「気づく」というのは、頑張りとか努力とは、無縁かも知れませんです。

気づくことがなくて、頑張って努力して、すごい修行をすると、かえって難しくなるようです。とくに宗教は、正しいことをしているという思いこみがきついですから、かえってへんなものがくっついて、肝心の自分自身の気づきがない人間になったりするような。。

508五月雨:2002/09/12(木) 10:05
いちりんさん

>持って生まれたものというか。さらには、やはり過去世からのえんえんとつづいたもの、かもしれないですね。

三世の生命って本当にあるのですか、お釈迦さんはそう説かれているのでしょうか。
えんえんと「クセ」が続くと考えると嫌になってしまいます。

509いちりん:2002/09/12(木) 10:56
五月雨さん

>三世の生命って本当にあるのですか、お釈迦さんはそう説かれているのでしょうか。

わたしは、このいのちが、過去世にもあって、死んでも来世にも続くかどうかというのは、確信が持てないですね。まあ、なんとなく、生命は過去からも続いてきたし、来世も続くとは考えています。で、これは誰人もわからないことなんでしょうね。

で、お釈迦さんが、三世の生命を説いているかどうか、ですが。
これは、もう原始仏教の大前提なんですね。

生命は、一回限りじゃなくて、無限の過去から無限の未来に続いていく。
そして、いいことをすれば、いいところに生まれる。悪いことをしたら、悪いところに生まれると。

しかし、どんなにいいことをして、天界に生まれて神々の仲間になったとしても、所詮は「苦」である。「三界は、みな苦だ」というのが、お釈迦さまの洞察です。

それで、この生命の輪廻から、脱却しなければ、苦から逃れられないと悟ったんでしょうね。「三界」という世間から、出なくちゃいけない。
生命の輪廻からの脱却が、「解脱」であり「涅槃」ということです。
これが「四諦」という教えの基本ですね。

で、お釈迦さんは、「輪廻する根本原因」を洞察しました。
それが「十二因縁」ですね。まあ、かんたんにいうと「執着」があるから、輪廻するということになります。

で、その「執着」を離れれば、輪廻することはない、解脱できるということです。
しからば、その実践法はあるのかというと、それが「八正道」ということになるわけです。

ではその、「八正道」はいかにして実践するかということになるわけですが、そのなかに「正念」というのがあります。これは、「いつもちゃんと、自分自身に気づいている」ということです。

でまあ、この「気づき」が、輪廻を超える大きなポイントであると。わたしは、そのように思っているんですね。

>えんえんと「クセ」が続くと考えると嫌になってしまいます。

そうですね。えんえんと、考えると、なかなかしんどい。
けどまあ、クセ=わたし、ということですから。そういうクセのある自分を、ひとつひとつ解きほぐしていくというのも、これまた楽しいんじゃないかと思うわけです。たぶん。

まあ、自分の思いこみが、ひとつひとつ外れていく。しがらみが、ひとつひとつ取れていく。すると、ひとつひとつ、自由になっていく。ラクになっていく。いっぺんには、ならんのでしょうけど。だから、それが楽しい、面白いということでもあるかも。。

510孤独な迷子:2002/09/13(金) 23:30
アネモネさん

 アネモネさんが普通の人だと思って安心しました。これまでのレスのやりとりで、すごい人なのではないかと勝手に想像を膨らませていました。
 感情の起伏が激しいと言うことですが、私もそのような人間です。でもそれって言葉を換えれば、感情(感性?)が豊かと言うことですよね。そしてそのこと自体を自己観察できるというのは、冷静なもう一人の自己が、或いは、自己の一部である客観的な心の部分が存在していると言うことでしょう。だから自分を内省したり出来るのではないでしょうか。もっと言えば、その客観的な心が主になって、感情の部分を従えられれば人格的な向上も望めるのではないかと思っていますが・・・。
 実際、私の所属組織の中にも気だけは強くて思ったことをダイレクトに言ってしまう人がいました、古い人は聞き流していましたが、新しく組織に入って来た人はとても傷つけられたと言うこともありました。しかし、当の本人は自分の発言を忘れているのか、人の心を傷つけたということには気づいていないようです。こういう人格と「私は正しい信心をしている」という信念が合体すると本当に怖いもの知らずになるようですね。当に「鬼に金棒」という感じです。周りの人たちも何も言えませんでした。

 > 孤独な迷子さんの言われる、本当の強さと優しさというのは、やはり大聖人様のなかに見てしまいますね。

 最近、私は「御本仏日蓮大聖人」というより「人間日蓮聖人」という見方になりつつあります。その方がより近くに聖人を感じられるように思えます。「御本仏」と「人間(凡夫)」との間には、「神」と「人間」ほどのそれではないですが、やはり隔たりというものを感じます。これは私の主観的な感じ方かも知れませんが。
 聖人在世の時代、世相は大変なものだったと聞いていますし、また御書の中にもそのような記述があったと思います。それで「この世の苦しみをどうしたら救えるのか」というのが聖人の胸に去来したのでしょう。それが大きな動機となって、真の仏法を求められ、法華経に至り、寿量品の文底に秘沈された大法に行き着いたと言うことなのでしょう。
 その聖人の中に大きな慈悲を感じられますし、その道程において様々な障害を乗り越えられて来たという中に心の強さを感じています。
 でもこのような人たちは他にもいますね。釈尊もそうかも知れないし、イエスもそうであったのだろうと。また最近では、マザーテレサなどはそういう類の方ではなかったのかと思っています。

 > そこへもってきて「仏法の為」という固定化された価値観のもとで、単純に意思と行動が既定されてしまうような組織での人間関係は、歪なものにならざるを得ないと思いました。

 ここはとても大事な点だと私も思います。抑も人間関係など成り立たないのではないでしょうか。例えば、一見その関係がうまくいっているように見えても、それは組織信心という土俵の上での話です。もし組織に対しての疑問など投げかけたら、とたんにその関係は崩壊してしまうでしょうし、私の場合は、無視されました。この掲示板で勉強させて頂いたことや、それまで自分の中でくすぶっていた疑問などを突き合わせてみれば、この組織は普通ではないかも知れないとまで思っています。

 > きっと孤独な迷子さんは、私なんかより信心はずっと先輩なのではないでしょうか。そんな若輩の私の言葉を心に留めて頂いて、本当に嬉しいです。

 信心歴だけはアネモネさんよりあるかも知れませんが、信心という点ではアネモネさんの方がよく勉強なさっているなと感心させられています。

 この掲示板に来てレスを読ませて頂いて感じたことは、皆さん、独歩さんにしても、いちりんさん(初めまして、よろしくお願いします。)にしても、五月雨さん、アネモネさんにしても、ある部分を超えた上で、自分で道を探してみようと言う志を持っているんだなと言うことです。
 私の場合は、その越えるべき部分で消化不良を起こしてしまい、その処方箋を探している最中でしたので、ここで知ったことは少々ショックなこともありました。

 > 宗教の力を真に信じる宗教家であるならば、この巷の姿をなんとかしようと慈悲の気持ちを奮い起こして人々に心を砕いてほしいものです。

 組織のトップの人たちは本当に宗教の力を信じているのかどうかはなはだ疑問です。信じているのだったら、教えから外れるようなことは出来ないだろう思いますが。

 この30万総登山も個人的には、何かしっくりきませんね。

511アネモネ:2002/09/16(月) 09:41
孤独な迷子さん

>アネモネさんが普通の人だと思って安心しました。

ついつい自分を良く見せようという意識が働いて、レスを書いてしまうとこがあるのかもしれないなぁと思います。私自身も勘違いし始める前に、孤独な迷子さんにご理解頂けて、ホッとしてます(笑)

> もっと言えば、その客観的な心が主になって、感情の部分を従えられれば人格的な向上も望めるのではないかと思っていますが・・・。

本当にそんなふうに向上していきたいとですよね。私の場合、冷静な自己がある前に、失敗を経て、痛い目にあってようやく気がついたという場合が多くて、いちりんさが書いてらした、「業=行いの傾向性」っていうのをほとほと感じてきたんですよ。

>当の本人は自分の発言を忘れているのか、人の心を傷つけたということには気づいていないようです。

それこそこのような傾向性って講の中で多く見受けられますよね。もう、住職や猊下や宗門に対しては、頭を地べたにこすりつけるほどへへーって感じで平伏すほど低姿勢でありながら、かたや信心していない人や信徒同士でさえも蹴落としても平気という態度の違い。私は、自分のお寺だけが特別、修羅の状態なのかと思っていたんですね。よく私のお寺の人はこう口にしてました。「このお寺は本当に宿業が深いし、そこに所属している私たちも同じで、それも因縁なのよね」と、諦めにも似た言葉を吐いていたものです。だけど、それは何もたまたま私のお寺だけの特別な状況ではないということが、この掲示板でわかったんですね。どうも、どこのお寺も同じような問題を多かれ少なかれ抱えているんだ。それを知っただけでも、大変大きな意識変革につながりました。

>こういう人格と「私は正しい信心をしている」という信念が合体すると本当に怖いもの知らずになるようですね。

こうなってしまうと、誰からも忠告されることはないですから、勘違いのままどこまでも暴走していくんですよね。本当に怖いです。私のお寺では、今、そのような状態の人が、講頭になっています。話しに聞くと、かなり講の中はしんどいようです。

>最近、私は「御本仏日蓮大聖人」というより「人間日蓮聖人」という見方になりつつあります。

あー、孤独な迷子さんも、すでにそうなのですか。大聖人様と記しましたが、実は私も、もう「人間日蓮聖人」で捉えてます。聖人の生き生きとした人間性を、同じ人間として追い求めてみると、本仏と拝していたときとは違ういろんな発見がありますね。かえって糧となるものも多い気がします。それが、信仰を求める心の旅になるのかなって思います。

512アネモネ:2002/09/16(月) 09:42
(つづき)
>でもこのような人たちは他にもいますね。釈尊もそうかも知れないし、イエスもそうであったのだろうと。また最近では、マザーテレサなどはそういう類の方ではなかったのかと思っています。

私も全く同感です。その時代その時代、また風土が違うその土地その土地で、慈悲に満ちた人や、愛に生きた人がいるんですよね。名前を後世に残していない人にもいらしたかもしれませんね。もしかしたらそんな人は今もどこかにちゃんといらして、人々に心を尽くしていらっしゃるのかもしれませんよね。

>私の場合は、無視されました。この掲示板で勉強させて頂いたことや、それまで自分の中でくすぶっていた疑問などを突き合わせてみれば、この組織は普通ではないかも知れないとまで思っています。

なにもかも、よーくご覧になってきていらっしゃるんですね。
実は私は、ある所化さんの目に余る素行について忠告をしたことがあったんですね。当然のことをしたつもりでしたが、いろいと行き違いもあって私はそのことでお寺の中で一部の人から無視されるようになりました。幹部の中心的な方々とその取り巻きの方々でした。その方々に私が何かをしたわけではないのです。なのに、非常に露骨な態度で無視されました。なにか気にいらなかったのでしょう。
そうした経緯とは関係なく、掲示板で大石寺のまやかしがわかってきたことで、ちょうど30万登山が始った頃からすっかりこの組織がいやになりお寺に行かなくなったんです。すると、かつて私に露骨な無視を決めていた方がお電話をかけていらっしゃるんですね。そして決まって言うことは、「いつも心配してるのよ。何かあったら相談に乗るからね」とこうです。別にこの方々に心配して頂くようなことも、相談するようなこともないのですが。こういうのなんて言えばいいんでしょう。悪いですが、なんだか節操がないと思ってしまいました。人を傷つけたことは都合よくすっかりお忘れになっておられるんでしょうね。また、言葉のとりようによっては、お寺に行かない私が不幸であるに違いない、不幸であってもらわないと困るといった感じにも受けとれます。
結局は、頭数を揃えるため、そして自分が活動しているという既成事実のための、マニュアル文句をただ口にしているだけの、心のない虚しい言葉に響きました。

>信心歴だけはアネモネさんよりあるかも知れませんが、‥

やはりそうでしたか。今ごろになって、恥ずかしくなってきました(笑)
でも、そんな私にレスを続けてくださって、本当に嬉しいです。ありがとうございます。
そうそう、別のスレッドで拝見しましたが、孤独の迷子さんは埼玉なんですね。実は、私も埼玉なんですよ。いつかオフ会などで、お目にかかれるといいなぁなんて思いました。

>組織のトップの人たちは本当に宗教の力を信じているのかどうかはなはだ疑問です。信じているのだったら、教えから外れるようなことは出来ないだろう思いますが。

本当にそうですね。信じている振りをしているようにさえ思えます。しかも、それを見ている他の信徒も、実はいろんなことをよーく見ていて、従っている振りをしているような‥。もしかすると仮面信心の組織なのかもしれませんね。だけど、こうでなきゃいけないという信心と組織の形というものがあって、やはり固定観念ですね。それが強くて身動きがとれず、その形のために、大事な人間性を捨ててその振りに徹している。その振りの形が信心だということになってしまっている。まどろっこしい説明になってしまいましたが、なにかそんな感じもしたりもします。

513アネモネ:2002/09/16(月) 09:43
(つづき)
>この30万総登山も個人的には、何かしっくりきませんね。

本当に同感です。私はとうとう参加拒否になりました。ですので、五月雨さんの生々しいレポート、とても貴重に読ませてもらいました。
入信して7〜8年ですが、30万登山のことは信徒の大きな目標として掲げられた所へ、その意味をよくわからないまま入信したんですね。徐々に信心が深まっていくものの、年々、その数字に講をあげて信徒が煽られ踊らされていく様子がとてもチグハグに感じてきました。私のことを仲間に入れてくれた講の人々が、徐々に徐々に人間性を失っていく姿を見てきた7〜8年だった気がするんです。
その数字のために、多くの人が入れ替わり幹部になりましたが、生活や仕事を犠牲にし、そして最後は人間性とともに自分を見失っていく。そして同時に心の奥底には、疑心暗鬼とともに怨執みたいなものも芽生えてしまう。その頃には顔つきまで変わっていかれます。これが、幹部のたどる道のように思えました。
結局は、心に余裕がなくなってしまうんですね。私は組織とは別に、そんな心の常態になってしまったことを経験したことがあるのですが、そこから脱却して健全な心を取り戻すには、そのグルグルの渦から物理的に逃げ出すしかないんですね。逃げることは決して卑怯でもなんでもなくて、自分を大切にすることなんだと、そう思うんです。離れて健全な心を取り戻すと、かつて苦しんでいた自分の状態が冷静に見えてくるんですね。

先日、たまたま道で地区長と二度もバッタリお会いしました。一度目は道を隔てていたこともあってご挨拶を避けられてましたが、二度目は至近距離で避けるわけにもいかなかったのでしょう、いきなり「30万行かないの?」これがご挨拶でした。もう、普通のご挨拶も出来なくなってしまわれているんですね。この方、壮年部の方のお葬式の式場でお目にかかったときも、いきなりこのご挨拶だったんですよ。ご自分ではそれが正しいご挨拶になっているんでしょうね。悪い人ではないんです。真面目な方なんですね。なのに組織信心に真っ直ぐに生きているために、とうとう奥さまと子どもさんは出て行かれたそうです。本人は自分の信念で信じているからまぁそれはいいとしても、家を出て行くしかなかったご家族はさぞかし情けなかったことと思います。何のための仏法なんだろうなぁと思いますね。大石寺よりも自分の家族を下に置いてしまう信心って、本当に成仏の道なのかなって思います。こういう状況に陥ってしまっている人、またその潜在的な予備軍の人がどれほどいるだろうかと思うと、お寺を離れたからといって決して無関心でいてはいけないなと思い、こうして掲示板に参加していこうと思っています。

514犀角独歩:2002/09/16(月) 18:45

ここの掲示板でも、ずっと長いこと30万登山が話題になっているわけなんですが、なんでこんなことが大騒ぎになるのか、一般からすれば不思議なことですね。

30万登山に行く=信心があるという図式がここにあるようで、インスタントな信心の証が目先のニンジンになっているわけですね、これは。

法華講員に限らず、学会員もそうですが、「いかに自分が信心があるのか」を証明するために、組織が提示した信心の証明法を疑うこともなく夢中になって実行している構造があるわけですね。

法華講であれば、30万登山、供養、学会であれば、それに投票依頼、新聞啓蒙、書籍販売、民音の勧誘まで含まれ、顕正会も共通するのが、朝晩の勤行、折伏。これらは、みな信心の証明として用意されているわけです。各人が信心ある証明となる実践項目はしかし、組織に縛り付け、労働力と金銭を差し出す形で具体化される、信者は一所懸命、自分が信心があることを、周囲の人間にアピールするために熱心になっていく。そして、誰により自分自身に対して、信心がある証明をしようと躍起になっているわけですね。

しかし、こういうトリックに引っかかること自体、要するに信心なんてないからでしょう。そして、構造的には信心が労働力と金銭拠出にすり替えられていく仕組みがひそんでいます。信心は本来、個人の功利性を約束するものであるのに、あにはからんや個人ではなく組織が労働力と金銭を得る結果となっているわけです。

このように個人の目的が、いつの間にか他の目的にすり替えられる仕組みをマインド・コントロールというわけです。強盛な信仰心が強烈なマインド・コントロールである仕組みがここに隠されているわけです。これは信仰の問題ではない社会心理学的な問題であると私が感じる所以です。

515犀角独歩:2002/09/17(火) 07:40

↑ 信心の証明ばかりではなく、功徳(御利益)があるというおもらい信仰も含まれますかね。

516孤独な迷子:2002/09/20(金) 06:32
アネモネさん

 > ついつい自分を良く見せようという意識が働いて、レスを書いてしまうとこがあるのかもしれないなぁと思います。

 これまでのアネモネさんのレスから、そういう意識は私には感じられませんからどうぞご安心を。
 ただ毎回感心させられていることは、いつも文章がよくまとめられて書かれているなーと、質問を投げかけても具体的な事例をもって答えて貰えるので、とても参考になるということです。

 > 私の場合、冷静な自己がある前に、失敗を経て、痛い目にあってようやく気がついたという場合が多くて、・・・

 行動的な方なのですね。羨ましい。私は行動する前に考える方が先に立ってしまって、その間に機会を逃してしまうということが多いです。

 > 「このお寺は本当に宿業が深いし、そこに所属している私たちも同じで、それも因縁なのよね」と、諦めにも似た言葉を吐いていたものです。

 この考え方というのは、念仏の思想に近いような気もしますが、これに似た言葉は私も嘗て組織の中で聞いたことがあります。この一点を見ても日蓮聖人の教えというものが正しく組織の中に流れていないと思ってしまうのですが。

 > また、言葉のとりようによっては、お寺に行かない私が不幸であるに違いない、不幸であってもらわないと困るといった感じにも受けとれます。

 このような発想をしているとしたら、最早仏教の信仰者とは言えないかも知れませんね。慈悲のかけらもないと思います。宗門ではある時期「祖道の恢復」といっていたことがありましたが、どうも恢復はされなかったようですね。それとも別の意味合いがあったのでしょうか。

 > でも、そんな私にレスを続けてくださって、本当に嬉しいです。

 こちらこそ助けられていると思っています。ここでやりとりしていることは組織の人には聞けない雰囲気がありますし、また、聞いたとしても真面目には答えてくれないでしょう。例えば「体験発表」の裏話みたいなものは表には出てこないでしょうね。
 以前、常々疑問に思っていたことを聞いてみたら、いきなり「あんたは提婆達多だ。」と言われたことがありましたが、その時は何だか分からず、頭の中で「?」が舞っていました。今思うと、組織に対して批判的なことというのは(当時は批判するつもりはなく、疑問を投げかけただけでしたが)、受け容れられないようですね。

 私もいつかオフ会に参加させていただきたいと思っています。皆さんきっとすばらしい人たちなんでしょうね。

 > 何のための仏法なんだろうなぁと思いますね。大石寺よりも自分の家族を下に置いてしまう信心って、本当に成仏の道なのかなって思います。

 「一家和楽の信心」という言葉がありますが、この方はどのように捉えているのでしょうか。
 信心という名の下に、何かしらのすり替えが行われて、そのことで豊かになる人たちがいる。そして、その一方では苦しまされる人たちがいる。でも、その苦しみの中にいる人たちは、それを自分の宿業と捉えたり、また成仏への道と捉えたりしているのでしょうね。

517孤独な迷子:2002/09/20(金) 06:58
独歩さん

 <514>のレス、その通りですね。
  組織信心のただ中にいる人は、もう自分の置かれている状況が見えなくなっているのかも知れませんね。
私はニンジンに釣られなくて良かったのかも知れない。

518アネモネ:2002/09/23(月) 23:06
孤独な迷子さん

>この考え方というのは、念仏の思想に近いような気もしますが、‥日蓮聖人の教えというものが正しく組織の中に流れていないと思ってしまうのですが。

私などは、日蓮聖人のイメージとして、「前向き」「プラス思考」「ポジティブ」「問題解決型」などの言葉が浮かぶのですが、全然そういうものが感じられないですね。

>>また、言葉のとりようによっては、お寺に行かない私が不幸であるに違いない、不幸であってもらわないと困るといった感じにも受けとれます。
>このような発想をしているとしたら、最早仏教の信仰者とは言えないかも知れませんね。慈悲のかけらもないと思います。‥

私はとうとう家庭訪問を受ける側となりましたが、かつてお寺に参詣していた頃、座談会などでは、家庭訪問に行ってきた方が、そのご家庭の様子について報告されることがよくありました。もしもその内容を、家庭訪問を受けた方が聞いたら、どれだけ気を悪くされることかと思うようなことを平然と話されているんですね。たいてい、生活に困っているとか、落ちぶれているとか、病気がちだとか、そういったことを本人不在の講中に向かって話し時には拍手も出るほど盛り上がっている光景を、私はとても異様だと思いました。そして横で住職は、薄笑いを浮かべて話に頷いて喜んでいるのです。

また、講頭がある信徒の家のお引越しを手伝いに行かれまして、そのときに押入れの奥から何やら、いわゆる謗法の像のようなものが出てきたらしいのです。長年住んだ家の押入れの奥深くに何をしまってあったかなど、わからなくなっているのは当然です。出てくることもあるでしょう。黙っていてあげればいいものを、講頭はそれをお寺の座談会の場で、その方の名前まで挙げて得意気に話しているんですね。そして「お寺に来ない人の家ではこういうことになっている。怖いことです」などと言い、住職はそれを受けて補足に嫌味なことを話して締めくくられました。

また、ある学会員から住職宛に届いた私信を、差し出した方個人の住所が記載された封筒とお手紙の全てを、ホワイトボードに貼り出したりということもありました。

信仰の目的で、家庭訪問に行って聞いたことは、これは決して安易に人に口外してはならない問題を孕んでいることが多いと思うんですね。聖職者の立場は秘匿義務として、そのことを厳しく戒められているものだと思います。そしてそれは信徒が家庭訪問する場合だって同じだと思うのです。そこで見てきたこと、知り得たこと、感じたことは、その人の責任において自分の胸に留め、そのうえで訪問先の方との信頼関係を築いて信仰について語り合っていくのが家庭訪問の目的だと思うのです。ところが、大前提にある秘匿義務につていの指導がまるで野放しでやみくもに家庭訪問が行われ、その報告と称して講の中で半ば面白おかしく語られてる実態に対して、住職は注意はおろか一緒になって盛り上がっているというわけです。

こうなると、いわば「見せしめ」という言葉しか私には思い浮かびません。もしも、自分がお寺から離れてしまうと、こういうことを言われてしまうんだという脅迫ですね。こういうこにより、心理的に怖くて、とりあえずお寺の組織から離れられないという方がけっこういると思います。こういうひとつひとつの振る舞いが、信徒をマインドコントロールしていると思うんですね。
私もそうした恐れを抱いていた時期もありましたが、でも私はこれこそ、与同罪になるのではないかと思うようにもなりました。たとえ自分がその話の盛り上がりに対して、冷めた態度を決め同調しなくても、そのような見せしめの場に居合わせていることそのものが、同罪になっていくのではないかと思ったんですね。自分が、中傷されることよりそっちのほうが怖いって思うようになりました。そう思うえるようになったら、何を言われたっていいじゃないって、気が楽になりましたね。

519アネモネ:2002/09/23(月) 23:08
(つづき)

>例えば「体験発表」の裏話みたいなものは表には出てこないでしょうね。

そうでした。孤独な迷子さんの最初のご質問は、「体験発表」によく語られる奇跡についてでしたね。
最近また、私の折伏の親と話をすることがあったのですが、私と同様、お寺にも行かなくなり、登山も参加拒否をして当たり前の日常を送っているようなのですが、だけど、どうしても長年染み付いた、いわば学会当時から身につけてしまった因果を、一日の生活の細々した出来事の大半に結び付けてしまう習慣はなかなか抜け切れないようです。たとえば、唱題してないから、お寺に行ってないから、折伏してないから、勤行さぼってるから、だから命が弱くなってる。だから、こうなる。だから、息子の持病が悪くなった‥とこうくるわけです。それが朝目が覚めて、夜眠りにつくまでのひとつひとつの出来事を全て結びつけているんですね。良いことは、仏法を持っているから、悪いことは信心をさぼっているから。この単純方程式だけのようです。
確かに日蓮聖人の説かれた書の中には、このようなことも書かれていることと思いますが、だけど、これが一日の大半の行動を支配する考え方になってしまっては、結局、目の前にある問題は何も解決されないだろうなと思うんですね。もしかしたら、これが先にも述べたお寺の諦めムードにもつながるものかもしれません。息子さんの持病の悪化は、生活態度や習慣の変化に因るところが大きいでしょうし、治すためには、病院に行くなり、生活改善を試みるなりすることが大事です。だけど、過去世の宿業と因果で納得していては、何も問題は解決されないんですね。さりげなーくそのことを伝えるのですが、刷り込まれてきたものへの確信が強く、その場は納得されても時間の経過とともにまたもとに戻っていますね。気長に対話を重ねていくことが大事ですね。

>今思うと、組織に対して批判的なことというのは(当時は批判するつもりはなく、疑問を投げかけただけでしたが)、受け容れられないようですね。

顕正会が発刊書籍の新聞の一面広告の掲載したとき、入信間もない私は、このことをどう捉えればいいのかわからず法華講連合会にお問合せのお電話を入れたんです。その前に所属寺院にお電話を入れたのですが、長い間、話中でしたので連合会にかけたのでした。そうしましたら、電話応対のマナーを知らないような女性が出られて、「大石寺とは関係ない組織です」と一言。「それではどうして大石寺を名乗っているのですか?」と続けて聞きましたら、「法華講の方なんでしょ。そんなことに興味を持たないほうがいいですよ」で切られてしまいました。まずこの度の五月雨さんの三十万登山の報告にもありましたように、宗門にしろ連合会にしろ、その組織の実態は、電話応対のマナーすら行き届いていないほどの、いわば体裁だけ繕った非常に脆弱な組織だということがわかりました。
そして何よりもその基本的姿勢ともいうべき組織の体質は、「依らしむべし、知らしむべからず」の封建意識で、信徒に対しては何か疑問を持つことすら謗法だと刷り込んでいるんですね。
このことは、今回、金正日が拉致事件を認め謝罪したことについて、北朝鮮の国民に向けては全く報道されていないそうですが、それと似たようなものだと思います。

>いつかオフ会に参加させていただきたいと思っています。皆さんきっとすばらしい人たちなんでしょうね。

私も心臓が飛び出るかと思うほど、ドキドキして参加しました。でも、参加して本当に良かったですよ。いつかお目にかかれる日を楽しみにしてます。

520アネモネ:2002/09/23(月) 23:09
(つづき)

>「一家和楽の信心」という言葉がありますが、この方はどのように捉えているのでしょうか。

きっと、本当は寂しい思いを噛みしめていらっしゃるのだと思うんですね。だけど、その気持ちを認めてしまったら、何もかも今の自分を支えているものが崩れ落ちてしまい、自己の存在否定にもなりかねないわけですね。この方へかける言葉は、私には見当たらないです。きっとそんな寂しい心の奥底にある本心も、誰にも語ることはないでしょうね。

>でも、その苦しみの中にいる人たちは、それを自分の宿業と捉えたり、また成仏への道と捉えたりしているのでしょうね。

人生においては、誰にでも大なり小なり浮き沈みがあり、どん底を経験するものではないかと思います。そして、絶望してしまうことってあります。私もそういうことがありました。
だけど、「あーもう私はだめだ」と思ったその次の瞬間に、どこからともなしに、元気が出てくることがあるんですね。それはもしかしたらただの空元気かもしれません。だけど、逆境の絶望の中にあって希望を生み出すというか、そんな気力が出てきたときがあったんですね。
人生の扉をこじ開けるというか、そういう力がどこからともなしに出てきて、切り拓いていく。振り返ってみると、その逆境のときにどこからともなしに出てくる精神力というのは、信仰によるところが大きいのかもしれないなと思います。
自ら希望を生み出す力ですね。もう、どうにもならないはずの自分が、生きていこうと力強く思う。そんな気力なんてあるはずないのに、なんとか自分で立ち上がろうとする。
これはもしかすると、いつか寿命が尽きて死んでいくときでさえ、その死の先に希望を見ようとすることが出来るかもしれないもので、それこそが信仰心が為せることなのかもしれないなと想像します。

だけど、人生の絶望に希望を生み出す信仰を教えるはずの既存の宗教が、組織の論理で更なる苦しみを与えているとしたら、これは本来背負う必要のない苦しみですね。その苦しみに耐えたところで、肝心の人生の苦しみは解決されず扉は何も開かれていかないのではないかと思います。開かれていかないことを過去世の宿業としたところで、何も希望は見出されませんね。
そんな人たちが集まって、お寺に来ない人の悪口を言い合って盛り上がり自分の状況を納得しているわけです。
私は仏教の教義はよくわかってませんが、だけどそんな講の様子を咎めることなくその場に居合わせることは、きっと与同罪になるのではないかと思うようになったんですね。
本当にいろいろ考えさせられますね。

521みかん:2002/09/26(木) 12:32
すいません、既出の質問かもしれませんが、
大石寺の奉安堂は、現在ではいつ完成の予定になっていますか?
2002年の10月と聞いていたのですが。

522五月雨:2002/09/26(木) 12:53
みかんさん はじめまして。

奉安堂は外側は既に完成しております。あと内装と回廊の工事をしているみたいですが、ほとんど出来上がっているでしょう、憶測ですみません。落慶法要は10月12日から10日間あって一日5000人、合計50000人の落慶法要登山があるそうです。私が聞いた法華講の人の記憶に間違いがなければいいのですが。

523みかん:2002/09/28(土) 21:39
五月雨さんこんにちは。
予定通りに進行しているのですね。
どうもありがとうございました。

524五月雨:2002/09/28(土) 21:52
みかんさん こんばんは

みかんさんはこの法要登山についてどう思われますか、あなたは申し込んでいないの?それとも行くことの出来ない組織に所属しているとか・・・奉安堂が気になるとは学会の人かしら。法華講の人間よりも数倍気にしているのが、何だか面白いですよね。

525みかん:2002/09/28(土) 22:46
私は無所属・無信仰です。

526みかん:2002/09/28(土) 22:54
五月雨さん こんばんは

五月雨さんは大石寺門流の信者・僧侶が、相手の所属をいちいち聞くことについてどう思われますか、あなたはどうして聞いたの?それとも聞いて相手の素性がわからないと不安な組織に所属しているとか・・・相手の所属が気になるとは日蓮正宗の人かしら。創価学会の人間よりも数倍気にしているのが、何だか面白いですよね。

527五月雨:2002/09/29(日) 07:19
みかんさん

ご気分を損じたみたいでごめんなさい。私はとりあえず法華講の者です。だってみかんさんはいきなりこの掲示板に登場されて
一番目のレスだったでしょ(二番目だったかな)。私は答えたものの、法華講の人なら知らない筈はないのにな、と思ったのです。そして学会の人には結構執拗に奉安堂について聞かれるものですから、みかんさんもそうなのだろうかと思った次第です。素性の判らない人に教えた不安はたしかにありましたよ。そう思っては駄目ですか。


>私は無所属・無信仰です。

の方が、奉安堂について興味を持たれているみたいですが、どんな点に興味があるのですか、なーんて聞くと叱られますね。

528みかん:2002/09/29(日) 11:56
五月雨さん、感情的に反応しまして、すいませんでした。
あらためましてよろしくお願いします。
わたしは前からこの掲示板を知っていたので初登場だったという自覚が足りなかったのと、
正宗寺院に用事でいくたびに、「学会の人?」などといやそうに根掘り葉掘り素性を
探られた経験を何度もしておりますので、カチンときた次第です。大変、失礼しました。
(相手の素性を知りたがるのは学会も同じのようですね。)

とある文章を書き終えたものですから、奉安堂についても言及しているので、
もし完成時期が違っていたら、その部分を書き直さないといけないという理
由からの質問です。

ご参考までに当該部分を引用します。
>1955年までは御宝蔵に秘蔵されており、それ以降は創価学会が寄進した奉安殿
>に安置された。1972年からは正本堂に安置されたが、1998年に正本堂解体
>にともない、新たに建築された奉安殿に遷座されている。2002年の10月に、
>現在建築中の奉安堂に遷座される予定である。

登山に関しては、部外者なので、良いとも悪いともとくに感想はありません。
五月雨さんは今回の登山に批判的なご様子ですが、なぜですか?
ノルマ主義、数が多ければいいみたいなところがあるからでしょうか。

529五月雨:2002/09/29(日) 13:13
みかんさん

ご事情よく分かりました、私も言葉に過ぎたところがあったと思います。お詫びいたします、私も改めましてよろしくお願いいたします。

>1998年に正本堂解体にともない、新たに建築された奉安殿に遷座されている。

ここのところは、新たに建築された奉安殿ではなく、多分増改築されただけだったと思います。私は昔の奉安殿でご開扉を受けたことがないので、今と昔の奉安殿が同じかどうかは分かりません。でも奉安殿に戒壇本尊が戻されたと聞いたような記憶があります、ここのところはハッキリご存知の方にお答え頂くのが良いかもしれません。

>五月雨さんは今回の登山に批判的なご様子ですが、なぜですか?
ノルマ主義、数が多ければいいみたいなところがあるからでしょうか。

奉安堂は『立教開宗七百五十年を祝して、毎日一万人が参加して、一ヶ月間、三十日に亘って法要を執り行う』為に作る予定だったのが、設計に手間取って、三十万登山に間に合わないという陳腐なことになってしまいました。結局法華講は、三十万登山に参加して(それも何度も)その上に落慶法要登山への参加もしなくてはなりません、自分達のミスでこうなってしまったのに、反省もなく参加者を募るのは、二重の強要だと思ってます。
法華講は年寄りが多く、どこかしら具合が悪いのに、身体に無理をしながら登山するという人達を見て、複雑な思いを抱きました。
行くと言う本人達はそれで幸せなのだから良いのかもしれませんが、その信徒の気持ちを利用する石山が許せません、そんな気持ちです。

530孤独な迷子:2002/09/30(月) 06:55
五月雨さん、皆さん、お久しぶりです。

みかんさん、はじめまして。

 レスを一つ入れさせていただきます。

 
アネモネさん

 ご無沙汰しています。

 > 私はとうとう家庭訪問を受ける側となりましたが、・・・。

 それは羨ましいような・・・。私など家庭訪問はおろか、電話の一本も掛かって来なくなりました。有り難いような、寂しいような。
 確かに組織から離れた人のことは悪く言っても、良く言うことはまず無いですね。だいたい組織に出られなくなるのはそれなりの理由(原因)があってのことだと思いますが、その原因に対してはほとんど議論されずに、とにかく「出ない」ことへの批判、挙げ句の果てには「そのうちに現証が出る」などとの賜れる始末です。これではいくら信心、信心と言ったところで、その信心は深化しないでしょうね。
 「釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候・・・(趣意)」と言うような御文があったような気がしますが、そういうことは皆さんあまり意識はしないのでしょうか。

 > たとえば、唱題してないから、お寺に行ってないから、折伏してないから、勤行さぼってるから、だから命が弱くなってる。

 この考え方というのは私の中にも根強く生きています。先日車を運転していてヒヤッとしたことがありました。その時何を思ったかと言えば、「最近組織に出ていないからか」とか、要するに「今までの信心の形から外れているから」と言う感情が先に出てきてしまうのですね。そういう思考回路が出来てしまっているという事実を改めて確認してしまいました。これはしばらく続く後遺症のようなものかも知れません。

 > 過去世の宿業と因果で納得していては、・・・

 「それは自分の宿業だ」とか「罪障だ」とか、よく耳にした言葉です。だいたい最後はこの言葉に帰着されてしまうのですね。それで納得する人はそれこそ信心強盛にやっていけるのかなーと思いますが。私は納得できませんでした。

 > 信徒に対しては何か疑問を持つことすら謗法だと刷り込んでいるんですね。

 30万登山の2,3年ぐらい前から「絶対信」という言葉が連発されていたことを思い出します。「無疑曰信」という言葉より強力なニュアンスを含ませていたのでしょうかね。

 > その逆境のときにどこからともなしに出てくる精神力というのは、信仰によるところが大きいのかもしれないなと思います。

 アネモネさんはこの時期には既に信心をなさっていたのですか。とこのような質問をすること自体、これまでの信心に拘っているのですね。

531妙薬:2002/09/30(月) 09:43
今度用無しになる奉安殿は、正本堂解体に伴って増改築したものです。
私は昔の奉安殿と今の奉安殿も入りました。実質2倍近く広いですね。
30万総登山に関しては、それぞれの立場によって様々な見解があると思いますが、
多くの法華講員は、決して「不満」とは考えていませんよ。大御本尊にお目通りす
ることで感激するものです。
私自身には若干の不満がありますが。

532犀角独歩:2002/09/30(月) 11:35

妙薬さん:

ここの掲示板の文章を読み違えているでしょう。

> 多くの法華講員は、決して「不満」とは考えていませんよ。大御本尊にお目通りすることで感激するものです。

不満と考えていない、また戒壇之漫荼羅を言われるままに信じ、言われるままに登山する、その点を問題視しているのですよ。

533みかん:2002/10/01(火) 00:21
五月雨さん。
大石寺は過大な登山負担を信者に強いているということですか。なるほど。

妙薬さん。はじめまして。
>今度用無しになる奉安殿は、正本堂解体に伴って増改築したものです。
これは、正本堂以前に以前使われていた奉安殿を増改築して、
再利用していたということでしょうか。

孤独な迷子さん、
はじめまして。よろしくお願いします。

534アネモネ:2002/10/03(木) 10:36
孤独な迷子さんお久しぶりです。

>私など家庭訪問はおろか、電話の一本も掛かって来なくなりました。有り難いような、寂しいような。

こういってはなんですが、お寺の近くに住んでいる私の家には、活動してますという既成事実のために立ち寄っていらっしゃる方が多いような‥そんなところかと思います。それも、30万登山が一応締め切りとなってからはほとんどないですよ。静かになりました。
孤独な迷子さんは、心無い振る舞いをされた方たちであっても、そのように懐かしくも思っていらっしゃるのですね。そういう優しい心持ちこそ、大事だと思います。

>だいたい組織に出られなくなるのはそれなりの理由(原因)があってのことだと思いますが、その原因に対してはほとんど議論されずに、とにかく「出ない」ことへの批判、

そうなんですよ。問題の根本を解決しようとしない。問題の根本は、因縁ということになっているんですものね。でも、かつて私が気にとめていた問題とは、コミニティとしての法華講組織のあり方だったんですね。でも、それ以前に、そのコミュニティ形成の目的を裏付ける理論そのものが、崩れてしまい、もはやその問題を考えること自体が無意味になってしまいました。信心歴の浅い私も、多少の虚脱感はありましたが、気をとりなおして自分の信仰観を求めていこうと思ってます。

>これはしばらく続く後遺症のようなものかも知れません。

そうですよねぇ。かく言う、私も実はそうです(笑)

>「それは自分の宿業だ」とか「罪障だ」とか、よく耳にした言葉です。だいたい最後はこの言葉に帰着されてしまうのですね。それで納得する人はそれこそ信心強盛にやっていけるのかなーと思いますが。私は納得できませんでした。

罪証だとか宿業だとかは、要するに「過去世」のことを言っているわけですが、誰も見てきたこともないことを、確信をもって方ってそして納得するんですよね。自分のことについてはそんな納得も自由ですが、でも人のことまで、確証のないことを確信をもって言って惑わしてほしくないものです。

>アネモネさんはこの時期には既に信心をなさっていたのですか。

あっ、いえいえ、私が特記したこの時期は、まだ日蓮正宗の信心ではないですね。その前の宗教ですが‥。でも私はこのことについては、いずれの宗教にも、きっとそのようなはたらきがあるのではないかと、それこそ信じてるんですよ。

>とこのような質問をすること自体、これまでの信心に拘っているのですね。

全然、そんなことないです。これまでの信心の全てを否定することはないですよね。
私は、宗教の恐ろしさにはしっかり目を向けるようにしてますが、それでもやっぱり人生において信仰を持つということは、生きる喜びを感じる素晴らしいものであるに違いないと思ってるんです。いちりんさんも書かれてましたが、学びはあるということですよね。孤独な迷子さんも、これまでの信心の中できっと何か掴んでいらっしゃることがあり、それがこの掲示板への書き込みにも繋がっていることと思います。

535TGS:2002/10/29(火) 02:05
 始めまして、TGSと申します。
 幾つか教えて頂きたいことがありまして書きこみさせて頂きます。
 実は私の身近に富士門流信徒だと思う方(Aさん)がおりまして、Aさんの話が理解できず困って、というより悩んでいます。
なにか解決のヒントが頂ければ幸いです。

 第一に、Aさんが富士門流信徒だと思うのは、実家が富士宮でその近くに自分が信仰する宗教の総本山があると聞いたからです。
この推測は間違っていないのか。本人に聞いても曖昧な答えをするだけなのです。「確かそうだったはず」ぐらいで。

 Aさんはかなりの頻度で実家に帰るのですが、その理由が「行事」なんだそうです。自分が参加することもあれば、海外からくる
信者さんたちの世話をするのだそうです。大きくみてボランティアと見なしても、だいたい一月に一度、多いときで3回は「行事」
に参加しています。普通そんなに行事があるものなんでしょうか?
 
 世界各国から来る信者さんたちは何をしに大枚はたいて日本に来るのでしょうか?ガンジスを目指すヒンズー教徒と同じものなのか。
Aさんの話ではみんだここ(本山)に来て何かを成し遂げるために苦労して来ている。それに集中してもらうためにAさんは手助けし
ているのだそうです。
 仏教には『聖地』というイメージが無いのでなんだかAさんの話は違和感を感じました。

 Aさんの信仰する宗教の目的はなんなんでしょうか?
 Aさんの話を聞くと、信徒の皆さんは己を省みない方が結構いるようです。たまたま、悪い人の話しか聞いてないからかもしれませんが、
中には明らかな犯罪者もいたりします。その他「人としてどうだろう?その人たちはなんのために信仰しているんだろう?」という話をよく聞くのです。

 Aさん自身は幼いころからその宗教にふれており、本人も言う通り「当たり前のもの」として信仰しているそうです。

 私が突っ込んだ話をすると
「私は説明できないけど、ちゃんと話せる人がいるからその人に質問したら答えてくれるよ」
「自分で説明できないことをしてるの?なにも考えずにしているの?」
「・・・・・・・・・」
 といった感じです。

 Aさんの宗教は自分の信仰するその宗教以外は全て認めないんだそうです。
 その宗教以外を崇めたり、なにも信じないのは悪縁なんだそうです。
 教会での結婚式にも出席できないんだそうです。
 異なる宗教の葬儀には、例えお世話になった人でも出席できないんでしょうか?

 ちょっと取り留めがなくなりました。すみません。

 もしかしたらAさんの(Aさんの親の)解釈が間違っているのか
 これが教義なのか
 分からないのです。

536やーこ。:2002/10/29(火) 05:09
TGSさんはじめまして。
話から推測しますと、やはりAさんは大石寺のようですね。ただ、少し話が違う点があります。
他宗の結婚式や葬儀には参加していけないことはありません。一緒に御経とかあげたり同調しなければOKです。
行事が多いとの事ですが、イベントとしては二つに大きく分けます。なので多く感じるかと思います。
ひとつは、古来からある宗教独自の法事、お会式法難会等。もうひとつは折伏や布教、信仰を深める為の行事、法華講主催の登山夏期講習会仏法セミナー等。
信仰の目的については全くばらばらで自覚の無い人もいます。

537やーこ。:2002/10/29(火) 05:21
ご指摘の通り、確かに自己中心が多いですね。けれども、信仰するのに自己中心とか犯罪者は駄目ということはないはずです。宗教では全ての人が平等です。ただ、僧侶役員とかの位がありますが。
世界各地の信徒は何が目的か、といいますと、ズバリ、大石寺の戒壇の大御本尊の参詣です。この宗教ではひとつしかないので。
対処としては、ほっとくのが一番です。信仰は自由ですので、やりたいようにすればよろしいかと。
分からないものは無理に解決する必要は無いと思います、混乱するだけですから。

538犀角独歩:2002/10/29(火) 08:10

やーこさん:

戒壇の本尊は少なくとも四つは取り沙汰されていますよ。
ただ、一つではないでしょう。

詳しくは『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』を。

539やーこ。:2002/10/29(火) 16:25
この宗教ではひとつしかないので
この回答に表現上の誤りがありました。独歩さんのご指摘通りです。
宗教上では複数あるものの、組織内では「日本の大石寺の奉安殿にのみ存在」と教えられているので
と訂正させて頂きます。失礼致しました。
尚、海外信徒の方は信仰については国内信徒より純粋で厚いようです。
ただ、この表現は裏を返せば「凄い狂信」ととらえることが出来ます。国内信徒に対しては、海外信徒に負けてる!と組織内で各方面から言われています。

540TGS:2002/10/30(水) 23:17
やーこ。さんありがとうございます。

大御本尊の参詣にはなにか特別な意味があるんでしょうね。私には理解しにくいのですが。
信じていない私としては参詣する時間と金があるならほかに大事なことができるんじゃないかと考えてしまいます。
遠藤周作の「深い河」のラストで、マザーテレサの修道女が言う「それしか・・・この世界で信じられるものがありませんもの。わたしたちは」という言葉が全てなのか。

しかし、同じものを信じる人たちがお互いを正しあえないのはおかしいと思いました。
「教え」自体に「こうしなきゃだめですよ」っていうのはないのかな?

Aさんのお母さんがちょっと変わってるのかな?Aさんの姉は教会で式を挙げたんですけど両親は参加せず。Aさんも披露宴のみの参加。
ほかにも鳥居はくぐれないとか。

541TGS:2002/10/30(水) 23:38
鳥居がくぐれないといのはほかの宗教でも見かけることですし、あまり批判か

HP創価学会独立独歩の「1時間でわかる日蓮仏法入門」なら結構共感しやすいんですけどね。

Aさんは親しい方なので完全に理解を放棄するのはできないので、みなさんの話も参考に少しずつ話し合っていきたいと思います。

542菊水護国:2002/10/31(木) 09:35
鳥居は、神社のものではありません。
清浄と不浄の間に立てる、門です。
ですから、大石寺では、鳥居を管理してた時期があります。
学会以降の誤解がたくさんあります。

543菊水護国:2002/10/31(木) 09:40
それに、本来の大石寺信仰は、キャパシティが広いですから、あまり何がいけないという制約は少ないです。
ただし、現在の法華講信仰は、お堅い所が少なくありません。
その方も、何で娘の婚式に出ないのかな。こんな教義じゃないんだけどね。

544菊水護国:2002/10/31(木) 09:41
訂正。「婚式」は「結婚式」の誤りです。

545犀角独歩:2002/10/31(木) 11:52

そうですね。石山も以前は四手(垂)はしなかったけれど、注連縄はしていたんでしたね。
浅間神社は石山がみていたわけですから、当然、鳥居なんかに否定するはずもないでしょう。

垂迹堂というのも考えようによっては寺院敷地内の祠みたいなものと言っていいかもしれません。

546やーこ。:2002/10/31(木) 13:38
菊水護国さん
私のレスは、化儀抄のやさしい解説からですが、寛容でない部分もありまして、中には、子供が信仰を捨てたときには勘当しなければならない、出来なければ親が師匠に処分される事があったような。

547TGS:2002/10/31(木) 23:16
やっぱり結婚式に出ないのはちょっと変わっているようですね。

Aさんの話では浅間神社が富士山の頂上に鳥居を建てていて、非常に迷惑だと言っていました。
犀角独歩さんの話からするとAさんの発言は何を意味するんでしょう。
大石寺信仰の中でも派閥があって、その中での発言が広まっているしょうか。

勘当とか処分とか穏やかでないですね・・・
確かこの掲示板だったと思いますが「人が伝え、人が理解する教義が完璧なはずがない」という言葉を思い出します。

信仰のもち方が千差万別っていうのが日本人ぽいって言えば日本人ぽい気がする。偏見かな?

548犀角独歩:2002/11/01(金) 00:52

TGSさん:

はじめまして。
私の名前が出ましたので、レスします。

> 浅間神社が富士山の頂上に鳥居を建て

鳥居が建っているのは富士宮の駅前でした。
これは現在、取り壊されてしまいました。
どこぞの圧力によるものだと言います。

富士山の頂上に鳥居があるかどうかは私は知りません。

結婚式に出ないのはもちろんおかしいでしょう。
ところが反対にまだ自前の墓園を持たなかったときには、強烈な布教から警戒され、墓地埋葬を拒絶されたことが会内の深刻な問題になった時期がありました。昭和30年代頃からのことでした。これを不服として、墓埋法を根拠に他宗派と争っていたものでした。こんな歴史は今の人たちは知らないでしょう。このような自身の信仰上の矛盾に気が付いていくことは大切なことであろうかと思います。


なお、一点、私の考えを記しておきます。
私は、本人の考えに直接、意見を述べることは是であると思いますが、公開の掲示板で、匿名であれ、第三者を題材にして、議論をすることは好ましいと思いません。

「○○会の○○という人がこういった。この人はこうあるべきだ、あああるべきだ」という議論には私は参加しません。何故ならば、万が一、その方がこのような公開の場で自分が題材にされ、批判されていると知ることになれば、絶対に良い気はしないと予想が付くからです。フェアではないし、第一、人権侵害に抵触すると考えるからです。

これは、もちろんTGSさんを批判するために申し上げるのではなくて、私の立場を闡明にするばかりに記すことです。ですから、その他のTGSさんご自身が、ご自身のことと、所属される団体について、あるいは個人の責任を踏まえたうえで考えられることであれば、そのような議論には参加させていただこうと思います。これは他の参加者の方々に対しても同様に私は考えます。

以上、僭越ながら、一言、申させていただきました。

549ガンコ:2002/11/01(金) 05:55
ちょっと失礼します。
わたくしの文章は(厳密に見て)独歩さんの考えに抵触するのでしょうか?
わたくしは独歩さんから教えていただくことが多いものですから、つい関係ないところで名前を出したり、文章を(意訳的に)引用してしまっています。
好ましくないのであれば、以後気をつけたいと思います。

550菱村正敏:2002/11/01(金) 06:27
>Aさんの話では浅間神社が富士山の頂上に鳥居を建てていて、非常に迷惑だと言っていました。

 富士山山頂はたぶん浅間神社の所有地です。神社の境内地ということで
考えれば鳥居があるのは自然かもしれませんね。
 
 ご参考までに、江戸時代は大日堂と薬師堂というお堂があったそうです。
それぞれ大日如来と薬師如来が祀られていたとのこと。明治期の廃仏毀釈で
壊されました。富士山頂の外輪は8つあると言われてます。いちばん高い
ところが剣が峰ですね。そのほか「大日岳」と「久須志岳」というのが
あります。それぞれ大日堂と薬師堂の名残です。日蓮さんが生きていたころの
富士山はお堂があったかどうか分かりませんが、密教あるいは神道関係の
行者が修行する場だったと思います。

551菊水護国:2002/11/01(金) 09:42
江戸時代まで、浅間神社は大石寺が管理してました。
神社には出家がおりません。ほとんどが、在家の掛け持ちでした。
職としての宗教儀礼執行者がいないのです。故に職としての執行者(僧侶)が神社の面倒も見てました。
神仏分離令が出るまでは神社には、僧官と神官が並列してました。
神官は神様のお食事を運び、僧官は各種祈念を申し上げました。
神天上の法門とは「邪宗の僧侶(なかんずく真言僧)がその神社に在籍しているから諸天が去る」と言う意味であり「邪宗の僧侶在籍しない神社には、法華守護の神は戻る。もっと進めると、正法の執行者入ることが好ましい」という意味があるように思われます(堀上人の神社論にも類文があります)。

そして、僧官を派遣していた寺が、その神社を管領してました。
寺院に本地堂(本堂)があれば、垂迹堂があるのも当然です。
浅間神社が大石寺の下に入った時、大石寺内の垂迹堂が無くなったと思われ、その後は浅間神社自体が、大石寺の垂迹堂になったのでしょう。
当宗でも他宗でも同じ事が全国末寺にあります。旧寺院の傍に結構神社があるんです。
間違いなく、垂迹としての神社勧請はどんな宗派にも維新期前まであったのです。
神仏分離令はその伝統を壊しました。

552犀角独歩:2002/11/01(金) 11:29

549 ガンコさん:

私のサイト、書いたこと、考えを、他で披露し、また引用し、題材されることを痛痒はありません。

むしろ、その目的をもって、公開の掲示板に書いているわけです。私は私の意志でそのようにしております。ですから、どうぞ、ご遠慮なくなさってください。

もっと、赤の他人と間違われて論われるのは御免ですが(笑)

553いちりん:2002/11/01(金) 11:37
>550
おお、菱村さん、登場。
元気で、生きておられましたか。

554犀角独歩:2002/11/01(金) 11:53

> 550〜551

富士山頂が浅間神社の所有地というのは、そのとおりなのですが、実際はニュアンスが違うように感じます。元々は富士山そのものが御神体なのでしょう、山岳信仰であれば。

そこに神仏が習合し、時代時代で敬われ方が変わり、さらに政との関わりで扱われ方も変化したということで、その流れのなかで大石寺との関わりも生じたと言うことなのでしょうね。

> 浅間神社が大石寺の下…垂迹堂が無くなった…その後は浅間神社…垂迹堂

これは卓見ですね。説得力があります。
そして、神仏分離令で、石山と浅間神社は別の宗教団体と見做されるようになったけれど、石山には垂迹堂は再建されず、さらに、いま見られるような極端な神社忌避に陥ったという推移と言うことになるのでしょうか。

555菊水護国:2002/11/01(金) 17:21
でも今ほどの神社忌避って戦前までは無いんですよね。
これも学会イデオロギーの影響だと思います。
だって、旧信徒って、そんな忌避観持ってませんもん。

556犀角独歩:2002/11/01(金) 17:46

> 555

これはそうでしょうね。
私も、そんなつもりで賛同もし、554も記しました。

557犀角独歩:2002/11/01(金) 17:49

あっと、一つ。
菊水護国さんは、もちろん、そんなつもりで使っているはずはありませんが、「旧信徒」は学会が法華講に使っていた蔑称なんですね。

558菊水護国:2002/11/01(金) 18:59
>「旧信徒」は学会が法華講に使っていた蔑称なんですね。
知ってますよ。
若き日に、この言葉にもっとも、過敏に反応した方が、現在法華講の最高位におります。
もっとも、現在は名誉職だがね。

559マシンX:2002/11/01(金) 19:51
みなさま、はじめまして。いつも楽しく(笑)拝見させていただいております。私は、現在学会に所属しておりますが、かれこれ10年以上も非活動を貫いております。今の学会の信仰方針には納得できない点がたくさん出てきたからであります。ところで今回書き込みをさせていただいたのは、私自身の今後の事も含めて、95年に日蓮正宗から離脱した保田妙本寺のことでお伺いしたいのであります。妙本寺では現在、いつの時代の、どなたが書写された御本尊を下付されているのでしょうか?どなたかご存知ありませんでしょうか。

560知りたがり屋:2002/11/01(金) 22:45
はじめまして、
学会にも真剣に信仰ついて悩んでいる人がいて、実は驚いて書いてしまいました。当寺にまいりましたが、不在でしたので参ってはいません。
文永11年12月に書き表わされた万年救護の本尊とされています。
参道に積まれた石垣に、古い墓石が無頓着に使用されているのを見て、何故か歴史を感ずるとともに、ほっとしたものです。
広い駐車場もゆったりして、人気がなくのんびりしていました。

561TGS:2002/11/02(土) 01:02
独歩さんへ

私は何処にも所属しておりません(このような表現が間違っていたらごめんなさい)。しかし自分なりに宗教に対して「こうあったほうがいいんじゃないかな?その考えは矛盾してるんじゃないかな?」という思いがあります。

Aさんというのは実は私の付き合っている人です。Aさんが自分の宗教を語ったとき、とても違和感を感じました。慣習的で、自分の経験に基づかず、盲目的で一種洗脳的なものだと思えました。

私のその気持ちが偏見からくるものかどうか分からなかったのです。

もしも良識で見て、Aさんの考えや行動に問題があるなら教えて上げたい。
こんな考え方もあるんだと知って欲しい。

残念ながら私の言葉は聞き入れてもらえないようです。
Aさんにとって私は「なにも知らない人」なのです。

そして、皆さんの言葉ならと考えたのです。

悩みました。
こんな個人的なこと誰に相談すればいいのか。

私の発言で不快を感じる方がいらっしゃったならば、真に申し訳ありません。


独歩さんのご意見は真摯に受け止め、以後気を付けたいと思います。
ありがとうございました。

562犀角独歩:2002/11/02(土) 09:12

> 561 TGSさん:

お悩みのところはよくわかります。少しだけ、補足しましょうか。

このような公開の掲示板は、誰でも見ることができます。
特に大石寺系グループに所属している人であれば、閲覧する可能性は高いと思います。
たぶん、この点はTGSさんご自身、理解されているでしょう。もしかしたら、匿名で自分たちのことを記すことによって、パートナーが自分のこととはわからず、「自分と同じような事例」としてとらえ、考えてくれるのではないのかという思惑をお持ちなのかも知れません。(これは私の憶測です)

しかし、以上のような楽観的希望とは裏腹にまったく逆の結果となることも予想されます。私が心配するのはこの点です。もし万が一、パートナーが記述されたことが自分のことであったと知れたとき、どんなふうに感じるか、私はけっして良い感情は抱かないであろうと思います。

実は、こう記すには過去の反省があります。他のスレッドで奥様が大石寺信仰についた方の悩みを語るスレッドが立ったことがありました。その時に、私はそれなりの管見も記したのです。ところが何通か現役のパートナーである信仰をしていないことを悩む信者さんからメールが寄せられました。TGSさんとは逆のお立場の方と言うことになります。その内容については個人的に寄せられたものですから、他に示すことはルール違反なので記しませんが、ともかく内容は批判でした。私はその抗議を通じて、「問題にされる人の感情」というものを考え直してみました。

たしかにもし、私がパートナーであったら、こうした形で自分のことを公開で記し、意見を求めるようなことをされたと知ったとき、たぶん、ひどく傷つくと思います。けっしていい気持ちはしないと思います。相手に対する不信感につながるかもしれません。この自分に当て嵌めて想像してみるところから、私は548の自分の立場を示しました。

また、パートナー間における、これは友人間、親子間、その他の人間関係でも共通ですが、ここにおける不和、あるいは確執は、実は宗教の問題ではないというのが私の経験則です。しかし、その原因を宗教に求め、殊に正邪を言い争うことになだれ込むとき、原因は宗教にばかり求められるようになっていきます。けれど、簡単に言い表すことはできませんが、しかし、この本質は実は宗教問題ではありません。

宗教をしていない人からすると、相手が宗教の話になると別人のようになり、話が合わなくなる。そこで常に使われてしまうのがマインド・コントロールということです。(これはTGSさんのことを記しているのではなくて、一般論です)

極端な場合、その信仰に熱中している相手に対して、感情的に「あなたはマインド・コントロールされている」とまで言い放ってしまう人がいます。しかし、これは逆効果になることはあってもけっして、よい結果は生みません。言われた本人は不快感を感じ、そして、傷つくだけでしょう。極端な場合、その一言が深い傷となって、場合によってPTSDの原因となり得ることも多くあります。(実際、このような事例からマインド・コントロール論批判が展開する人々は存在します)

けれど、勧誘を仕掛ける相手は、常に“強者”と見做されていますから、大概、マインド・コントロールと言い放ったほうは、その信仰者が傷ついたことには気付かないものです。結果、信者ははさらに自らの信仰に答えを求めようとしてさらに深みにはまっていきます。批判言い合いすることがさらに信念を深める原因になるということです。いわば、マインド・コントロールを溶こうとする人が、さらに相手のマインド・コントロールを強める役割を演じているのです。深刻なことに、通常、そのような人は自分の過ちに気付いていません。

以上のように記してしまうと、実際にいま悩んでおられるTGSさんとしては、どうしてよいか困ってしまわれるでしょう。

私が重要であると思うのは、「どうしてよいかわからない」のは何故か、を考えてみることです。どうすることもできない自分の分析です。そこでは「相手の宗教のせいにしない」という前提で、まずこの分析作業を行ってみることです。たぶん、この作業を終える頃、TGSさんは、いまご自分が悩まれていたことが宗教問題ではなかったことに気付かれるはずです。

ここで私が記してきた富士門流に係る記述は、はっきりと申し上げて信仰をしていない人にとってはまったく無意味の、役に立たないことに属するでしょう。ただし、仏法の本質論である慈悲・菩薩道という一面のみが社会とのただ一つの接点となっています。こればかりはTGSさんの問題と解くキーワードとなり得るかも知れません。

563犀角独歩:2002/11/02(土) 09:15

【562の訂正】

誤)奥様
正)パートナー

(ジェンダーが取り沙汰される現在において、不適切な語彙を使用した点を反省します)

564菊水護国:2002/11/02(土) 14:47
万年救護の本尊といわれる本尊も、複数あるんですよね。
大日本国護衛曼荼羅、蒙古調伏曼荼羅、これらも複数あります。
どれが本物かは、決定しにくいんだよね。

565犀角独歩:2002/11/02(土) 15:30

日禅授与の漫荼羅も万年救護本尊の名で呼ばれていましたね。

566マシンX:2002/11/02(土) 15:48
>しりたがり屋さん ありがとうございます。実は私は先月妙本寺の鎌倉日櫻上人にお手紙を書いて「現在の教義について」と「万年救護本尊の御形木の下付について」お伺いしたところ、早速ご本人による直筆のお葉書にてご返事いただきました。教義に関しては、石山と大差なく、大本尊の御形木は現在出していないとのことでした。そして文末には、「毎年10月15日のお虫払いの時に大本尊を拝する事が出来るからいらっしゃい。」と締めくくられていました。私はこのご返事に大変感激しました。しかしながら、私は肝心な事を聞き忘れてしまい(現在のどなたが書写された御本尊を下付されているかについて)後悔しているところです。もし妙本寺で御本尊の下付が行われていれば、近い将来同寺に改宗しようか?等、考えております。日蓮正宗創価学会入信から現在に至るまで、「正義」と思って信仰してきましたが、最近の当局機関紙の必要以上の宗門批判、携帯本尊乱発、強引な会則変更など全く尋常ではないと思います。学会は日顕氏ら現宗門のことを「極楽寺良寛だ」等と騒ぎたてていますが自分たちも同罪、否それ以上であるとわたしは思います。

567マシンX:2002/11/02(土) 16:06
>しりたがり屋さん、菊水護国さん、犀角独歩さん、昨年の大河ドラマ「北条時宗」の最終回で身延山でのシーンで日蓮大聖人(奥田瑛二氏)の後ろに、妙本寺の万年救護本尊(もちろんこの場合レプリカというべきか?)が掲げられていましたネ。最初はきずかなかったのですが、ビデオに撮っておりましたので、後日見て大変驚きました。

568犀角独歩:2002/11/02(土) 16:15

> 567 マシンXさん:

私はテレビは見ないので、ご指摘の番組は存じ上げません。
この場面の年月は何時のことの設定でしょうか。

石山の伝説では弘安2年に興師に授与したことになっておりますので、身延に懸からないことになります。もちろん、これは石山側の伝説です。郷門の伝説となるとどのようなものか、むしろお教えいただければと思います。

なお、櫻師自ら筆を執ってくださったとのこと、ご立派な姿勢であると感心しました。

569マシンX:2002/11/02(土) 16:41
>犀角独歩さん 私は浅学で教学もないない者ですので詳しいことは存じませんが、ドラマのこのシーンは池上に行かれる直前(出発される時)でしたので、時代参考的にはオカシイと思います。ただ万年救護本尊がテレビに映ったことはスゴイことだと思います。

570菊水護国:2002/11/02(土) 23:14
あのドラマには問題がありましたので、時代考証は滅茶苦茶です。
だって、やたらと元気な大聖人が身延を離れるんだもん。
「病気で湯治に向かうため身延を下山する」のでは無く「身延から布教に向かうため離山する」に変わってました。
だから、本当の時代考証は不明です。

571犀角独歩:2002/11/03(日) 08:31

マシンXさん:

菊水護国さんのご指摘も併せると、番組上の時代設定は弘安5年となりますね。
まあ、万年救護本尊が懸かっていた可能性は低いでしょうね(笑)

> 万年救護本尊がテレビに映ったことはスゴイこと

この点で感激されているということですか、なるほど。
保田については、もっと研究されるべきであると思います。

572犀角独歩:2002/11/03(日) 12:29

571の記述、読み直すと誤解を生じかねない表現になっていました。

私が「この点で感激されているということですか、なるほど」と記したのは、肯定。それで、その前提で、富士門信徒においては、もっと「保田については、もっと研究されるべきである」という意味で記しました。

たぶん、日蓮本仏論に関しては石山より先行していたでしょうし、万年救護のみならず、不動愛染感見記など、興味は尽きません。

私も大量の保田に関する資料を入手しましたので、これからゆっくり読もうと思っているところです。

573TGS:2002/11/05(火) 01:11
>独歩さん
インターネットは嫌いらしく見ることはないはずです。

盲目的に思いこんでしまったのは私でした。

考えてみます。

574犀角独歩:2002/11/05(火) 01:56

> 573 TGSさん:

ええ、ぜひ考えてみてください。
「出口」は必ずあります。

575マシンX:2002/11/05(火) 16:00
>菊水護国さん 犀角独歩さん
ですよね〜なんと言ってもフィクションですもんね。ちなみに佐渡以前のお話では、草庵には題目七文字の紙が貼ってあって、その下に小さな釈迦像のような物が置いてありました。(所用によりレスが遅くなりました。申し訳ありません。)

576マシンX:2002/11/05(火) 16:11
犀角独歩さん、菊水護国さん、いちりんさん、そして問答迷人さん他の博学の皆様の書き込みには正直勇気ずけられております。10数年余りたった一人(家族もですが)で今の信心を貫いてきてよかったと思っています。今後も私の不勉強によりわからない点などどうか御教示ください。挨拶が随分と遅れてしまいましたが、今後もどうぞよろしくお願いします。

577マシンX:2002/11/05(火) 16:29
576誤・・・勇気ずけ 正・・・勇気づけ

578マシンX:2002/11/05(火) 16:55
>犀角独歩さん、
>私も大量の保田に関する資料を入手しましたので
是非とも、この掲示板でご紹介ください。私は日興門流のなかで日蓮正宗だけが正義だとは思えなくなりました。(もちろんこの掲示板を読みはじめてから一段と(笑))そう考えますとやはり北山、西山、日郷門流、要山、に興味が、湧いてくる訳であります。特に日郷上人は目師のお骨を持って帰られた重要なお方ですし。

579三学無縁:2002/11/05(火) 18:55
保田の資料については、千葉県史最新刊に妙本寺文書の大半が収録されました。
正信会の坂井法ヨウ師の一連の論文も同書に収録された文書を資料として使ったものですね。
千葉県史はT堂では高いですが、千葉県に問い合わせればT堂よりも2、3千円は安く買えるはずです。

580マシンX:2002/11/05(火) 19:38
>三学無縁さん
 有難うございます。

581ケン:2003/03/04(火) 19:43
いきなりで申し訳ありません。
このサイトのことは、つい最近知りました。
30〜40年以上前に創価学会の活動をしていた者です。
少なくとも最近25年間は、創価学会系の出版物を1点も
読んでいませんが、このサイトをざっと拝見し、若干、
質問をさせていただきます。
「過去の記録」に飛ぶことができなかったので、すでに
話題になっているかもしれませんが、その場合は、
お許しください。

1.創価学会の正当性の「教学的」な理論構成
創価学会が大石寺と離れた場合に、創価学会の宗教的な正当性を
説明可能な理論構成が、ボクには想像することができません。
創価学会の正当性を教学的に説明している書籍(簡単なもの)を
ご紹介ください。

2.池田さんの宗教的立場の「教学的」な理論構成
大石寺と離れた後の池田大作さんの宗教的立場は、
変化しているのでしょうか。変化している場合、「教学的」な
説明はどうなっているのでしょうか。
例えば、池田本仏論的な議論が、組織内で浸透しているのでしょうか。
書籍があれば、ご紹介ください。

なお、創価学会では、外部に公表している出版物の内容とは
ニュアンスの異なる内容を座談会などで説明する傾向が
あったように思います。
池田さんの宗教的立場について、書籍類などの内容とは
異なることが組織内部で、口頭で語られている場合には、
池田さんの宗教的立場を「教学的」にどのように
説明しているのか大変興味があります。
その内容をお教えください。

3.ポスト池田の「教学的」な理論構成
池田さんには、ご子息がいらっしゃったと思います。
宗教的指導者の立場の世襲が、予想されているのでしょうか。
あるいは、宗教的指導者の立場を引き継ぐ方が、
別に予想されているのでしょうか。
ポスト池田に関する「教学的」な理論構成を紹介している
書籍があれば、お教えください。

582みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/03/07(金) 20:59
>>581 ケンさん
1ですが、『教学の基礎』(創価学会教学部編 聖教新聞社 2002年)952円が参考になるかと思います。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4412011771/
また、カトリックと対話した、『カトリックと創価学会』(南山宗教文化研究所編 第三文明社1996年)2136円も参考になると思います。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476032001/

2ですが、三代会長論(牧口、戸田、池田の三代会長を絶対視する)という論理構成になっているようです。『教学の基礎』をご覧下さい。

口コミレベルのことについては、私にはわかりませんので、現役創価学会員が多い掲示板で聞いて頂くのが良いと思いますが。

3については、創価学会側にはそういうことについての書籍や資料はないと思います。

583ケン:2003/03/09(日) 22:31
みかんさん
とりあえず、『日蓮の真実』(小林正博 第三文明社 2003年)と、『教学の基礎』(創価学会教学部編 聖教新聞社 2002年)を入手しました。
有難うございました。

584ケン:2003/03/11(火) 22:22
創価学会にとって(及び他の富士門流にとっても)、偽書あるいは疑書問題(二箇相承、日蓮本仏論など)は、重要な問題であるとボクは思っていました。少なくともボクにとっては、創価学会を信じられるか否かの重要なポイントでした。

みかんさんの解説から想像するに、少なくとも創価学会は、現在でも、この問題に組織的には取り組んでいないようですね。創価学会は、大石寺との差別化が必要なハズですので、いずれは、この問題に踏み込んでくるかもしれないと想像しているのですが、どうでしょうか。この問題を、一般信徒に対して、或る程度は正面から取り上げているグループが、富士門流に存在するのでしょうか。もし、取り上げているグループがあれば、どのように乗り越えようとしているのか、その内容に興味があります。

585福田里敏:2003/03/28(金) 22:55
本門法華堂が、本仏論の否定をし、正しい信心をしていますよ。また、偽書に関しても、関慈謙師が教えて下さいます。
僕は、学会員ですが、先日、法華堂の法座に行きました。とても、御書講義が判りやすく、質問にも、丁寧に答えてく
れました。

586ケン:2003/04/02(水) 21:35
福田里敏さま
情報を有難うございます。「本門法華堂」のことは、名称もまったく知りません。どのような経歴の団体でしょうか。ホームページはないようですが、関連のサイトがあれば教えてください。
なお、ボクは、今は無神論者なので、正しいか否かには関心がありません。日蓮教学を多少かじった者として、偽書・疑書問題をプロ(創価学会などの各教団の幹部や富士門僧侶)がどのように克服していくのかに興味を持っているだけです。

587地獄しか知らぬ者:2003/04/02(水) 21:40
この世は本当に「無情そのものです」。 何をやっても「失敗ばかりの落ちこぼれの連続の地獄野郎」です、。
 自分の人生には絶望的ですが「人間の世界には、まだ少々未練が残存している」者です。
 人間界所具の「仏」というものは「いかなる心理と体現」が可能なる「状態」なのでしょうか、、??
 「悪に屈しない精神なのか、苦悩には埋没しないで前向きになれるのか、?
 弱者への応援精神豊富なのか、、?、、」 どの対境ならば「仏」を体現可能でしょうか、、?? 何とか知りえたいものですが、、。

588みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/04/02(水) 21:45
>>586 ケンさん
http://web.archive.org/web/20020204094633/http://www.hokkedo.org/index.html

法華堂のHPの跡地。法華堂は正信会の分派です。

589福田里敏:2003/04/02(水) 22:34
みかんさん。HPの紹介、ありがとうございます。僕も、近々、HPを開設しようと、考えています。

590ケン:2003/04/04(金) 23:03
みかんさん
いつも有難うございます。
色々な分派ができているようですね。
大石寺系の分派の系統図を掲載しているHP又は書籍はありませんか。
もしなければ、みかんさんに作成をお願いするというのは虫がよすぎますか。

591みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/04/05(土) 21:58
ちょっとわかりません。
また私は、そういったテーマには詳しくないので、他の方の方が適任かと思います。
一応作ってみましたが、間違っていたり足らなかったりすると思います。一応ご参考まで。


日蓮正宗
創価学会
顕正会
正信会

日蓮正宗に併呑されたが独立した古刹
富士山本門寺(西山)
保田妙本寺

日蓮実宗(大阪・蓮華寺)

正信会から別れた派閥
本門法華堂
大阪・蓮華寺(久保川法章)

第二次宗門問題で日蓮正宗を離れた僧侶グループ
憂宗護法同盟
日蓮正宗改革同盟
青年僧侶改革同盟

その他
本門正宗・富士山本門寺(小野寺日了(小野寺直))
妙法蓮華宗・光寺(玉井日禮(玉井禮一郎))
正理研究会、平和神軍(中杉弘)

592ケン:2003/04/06(日) 21:34
みかんさん
いつも有難うございます。半分近くは初めて見る名称です。
ところで、「第二次宗門問題」は、何時ごろ起きたどのような騒動でしょうか。
「憂宗護法同盟」の方々は、自分達の方から出て行ったのでしょうか。

593みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/04/07(月) 01:21
追加。中杉弘氏の本名は、黒須英治氏です。

第二次宗門問題は、日蓮正宗宗門・阿部日顕氏が、池田大作氏および創価学会を破門にした一連の騒動です。(第一次は細井日達氏晩年の、正信覚醒運動のころ)
http://www.uranus.dti.ne.jp/~yuugeki/nitiren-kiso.html#f 参照。

憂宗護法同盟の人たちは、自分から宗門離脱したのだと思います。
よくわからないのは、改革同盟とのちがいです。日蓮正宗改革同盟および
青年僧侶改革同盟は、100%親創価学会のようですが、憂宗護法同盟は
かならずしもそうではないようです。

594妙薬:2003/04/07(月) 12:28
 みかんさんご無沙汰しています。また、折を見てオフ会を開いてください。
 さて、第二次宗門問題(宗創抗争)ですが、平成3年頃でしたね。私は法華講信徒の立場でしたが、創価破門に驚かされた覚えがあります。あれから10年余、早いものです。
 個人的にはその時こそ、弘安2年の大御本尊を信奉する顕正会、正信会は宗門に復帰すべきだったと今も思います。「小異を捨てて大同につく」、言葉は簡単ですが現実には難しいことなのですね。
 ケンさんはじめまして。HPや書籍は知りませんが、その辺の事情に詳しい人はたくさん知ってます。もう少し関連書籍などで勉強されてから、知識豊富な方をたずねられたらよいと思いますが。

595ケン:2003/04/12(土) 20:28
みかんさん
教えていただいた「創宗戦争の基礎知識 北のりゆき」を読みました。説得力のある文章で大変参考になりました。

妙楽さん

勉強不足ですみません。少しは自分でも調べようと思って「憂宗護法同盟」で検索したら、以下の論文「顕正会とは何か」がピックアップされ、その論文の末尾に「日蓮正宗系教団系統図」が掲載されていました。とりあえずご報告まで。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho34/s34_140.htm

596仲村 英彰:2003/04/24(木) 21:37
宜しく、、::。実は実母・実妹が学会のガリガリで「実母は友人葬でまかせてくれ、、」といわれ「葬式はアマではなくプロにまかせるべき、、」と「家庭内宗教戦争」の状態です、、。
 学会の「ダマシのテクニックですっかりだまされてワシの言い分も聞きません、、」、、。 「友人葬」は「宗教的には、どのように判定されるものでしょうか、、??」。 宜しく、、。

599無明者:2003/04/29(火) 18:22
略:: これは120%で「洗脳結果状態」でしょう、、。 「ある方を990%褒め称え、自民党とガッチリの”公明党”の支配者は、、、??」。そうです「大?先生サマに”身も心”も捧げるように”誘導”された方々ほど」「コワイ方々外にはおりません、、」「今や権力の中に入り”国税をクイモノに出来る地位”を確保したようです」。 これからは「キビシイ弾圧が強行」されましょう、、、か、、??。 「家庭内宗教戦争」では「済まない」でしょうか、、?? 恐ろしい「団体」が「すでに99%制圧」したようです、、??

600聞いてくれます?:2003/05/12(月) 00:27
ちょっと聞いてくれますか。(愚痴を)
宗教とは関係ないのですが。
私は都内に神奈川から通勤しているサラリーマンです。
10年前に社会に出て依頼、不況を実感してます。
宗教から見て今の日本をどのようにすれば良くなるのでしょうか。
日蓮さんの時代は難といって、時の権力と戦っていたようですが。
90年の年末、宗門問題が起こり、時同じ頃バブルがはじけてしまって。
就職した頃からいいことはありません。
日本の景気回復と日顕宗の問題は同じくらい先が見えません。
絶対的な幸福とよくいいますが、絶対的ではなく絶対な景気回復と宗門の解決を教えて下さい。
どうすれば・・・。

601孤独な迷子:2003/05/12(月) 06:49
おはようございます。

「妙とは蘇生の義なり」という御文がありますが、かつて死んだ人間でも息を吹き返すのだと聞いたことがありますが、本当にそのようなことがあるのでしょうか。

602問答迷人:2003/05/12(月) 08:14

孤独な迷子さん こんにちは

日蓮聖人が、母親の重病を祈って、命を延べたという事は、有名ですが、僕は、30数年信仰してきましたが、残念ながら、実際にはそのような事例に一度も出合ったことはありませんし、そのような具体的な話を聞いたこともありません。

603福田里敏:2003/05/17(土) 13:16
現在、Yahooオークションに、大聖人の真筆の御書のレプリカの巻物が、数点出品されていますが、出品者に聞いても、出所不明との事ですが、これらは、どこで出されたものか、ご存知の方がいらっしゃいましたら、教えて下さい。お願い致します。

604孤独な迷子:2003/06/09(月) 17:28
問答迷人さん、こんにちは。

超遅レスになってしまいまして申し訳ございません。

>601,602

やはりそのようなことはないのですね。

この話は、所属する寺院のご住職が、5,6年前の御講の席で話されたものです。あまりにも突飛なことだったので記憶に残っていたのですが、私の聞き間違いだったかも知れませんね。

お騒がせしてすみません。

605いちりん:2003/06/14(土) 13:21
日蓮さんも、自分が死んだ後、ここまで信徒が増えるとは思いもよらなかったでしょうか。
そうして、これだけの信徒らしき人たちのありさまをみて、喜ばれたでしょうか。
あーだこーだと自分をめぐって日夜、各地で論議されていることを、どう感じられるでしょうか。

606いちりん:2003/06/14(土) 13:28
たぶん、ですけど。
おもしろいなあと思うのは、いろんな日蓮さんを信奉する教団がありますが、それぞれホンモノの日蓮さんがあらわれたら、きっと困ることになるんじゃないかと思いますね。

だから、もしもあらわれたら、どこかに閉じこめてしまうんじゃないかと。
自分たちの教団にとって、ホンモノの日蓮さんがいたら具合が悪いので。

これはもう、すべての宗教に通ずることかも知れませんですね。
キリスト教の教団にとって、ホンモノのイエスがあらわれたら都合が悪い。
真言宗に、空海があらわれたとら、とても困る。

宗祖でなくても、まあ創価学会にもとも戸田さんがあわれたら、やはり具合が悪いので、どこかに閉じこめて衆目にさらさせないようにすることでしょう。

宗教って、祖師をものすごく敬うわけですけど、それはすでに死んでしまっているので、自分たちに都合のいいふうにとらえた祖師を大切にしているわけでしょうね。
だから、生きたホンモノの祖師があらわれると、ものすごく都合が悪い。とても危険です。

祖師を敬い、拝みながら、その祖師の心を殺してしまうということも、ありえるんでしょうね。
それがけしからんということじゃなくて、宗教ってそういうものかなあとも思うのです。

607地獄境涯 脱出希望者:2003/06/14(土) 17:45
 ムムッ、!! 「祖師を、、拝み、、心を殺してしまう、、」とは??  ある方は「久遠の本門の教主釈尊様の流れを引き継ぐ=本文且つ事(実)の南無妙法蓮華経様」を「第一に御発見された方と思い深く”尊敬”」は致しますが「祖師=日蓮サン」を「拝む必要を感じない、、」人も、居るのでは、、??

608いちりん:2003/06/14(土) 19:53
久遠実成の釈迦というのは、歴史的に実在していた人格ではありませんよね。
いわば「抽象概念」です。まあ、観念の産物。

ということになると、どうもリアリティ、親近感がなくて、拝むというのは難しいんでしょうね。
まあ、真言宗でも、仏は「大日如来」ですが、この久遠実成の釈迦あるいは、さらに抽象概念です。
浄土系の阿弥陀さんにしても、かなりの抽象概念ですね。

で、なかなかそういうものは、拝みにくいというか、実感とした伝わらないので、とくに日本では祖師信仰になっていくんでしょう。
大日如来よりは、弘法大師。阿弥陀さんよりは、親鸞、法然と。久遠実成の釈迦よりは、日蓮さんと。

まあ、わけても、祖師信仰がもっとも強いのは、日蓮系の宗教でしょうね。そして、日蓮本仏論にまでなってしまう。

そして、こんどは、日蓮さんは歴史的な実在だしお手紙なども残っていて、とても親近感がありますですが、やはり死んでしまった人だから、なかなか強烈な出会い的な共振が難しい。

ということで、生きている教祖、リーダーに対する崇拝がいちばんハマりやすいのかなあと思います。
まあ、生きている人間は、生きている人間に感化されやすいし、それが学びの近道ということかもしれません。けど、その人格に対する依存もまた強烈だから、そこは大きな落とし穴があったりするわけですよね。まあ、落とし穴に落ちることも、大切な学びであったなあと、わたし自身は思っていますけど。

609地獄境涯 脱出希望者:2003/06/14(土) 20:42
ナルホド、、、。 さすが、 御深い御洞察、、、。 有り難うございます、、。

610アネモネ:2003/06/14(土) 23:24
>まあ、落とし穴に落ちることも、大切な学びであったなあと

私も全くそのような思いです。いや、まだ学びの最中です…。

611いちりん:2003/06/14(土) 23:31
たぶん、無駄なことは、決してないんだと思いますね。
すべてが学びになるなあと、思いたいというか。
まあ、自らにそういい聞かせて、日々、生きています。(ちと無理しているかなあ)

612真じゃ:2003/06/22(日) 17:19
先日身延の祖廟に参詣しました。
御真骨が本物であれ、馬の骨であれどうでもいいことなのです。
そこに魂があるかか否かなのです。
熱心な信者ですが、友人に無理矢理謗法の身延に連れて行かれました。
久遠寺は別ですが、祖廟は、言葉で言い表せない神秘的な感じがしました。
奉安堂に御開扉を受けたときと同じ気持ちだったのです。

祖廟の左端に小さな五輪塔がありました。日興聖人のお墓です。
もちろん身延の二世ですからあるはずでしょうけど・・・
祖廟の右には身延の歴代墓がありそっちには安置されていません。
身延では日興聖人は歴代に入っていないとのこと
なぜなのでしょう???

613アンタッチャブル:2003/06/23(月) 01:55
>いわば「抽象概念」です。まあ、観念の産物。
いい加減な宗教オタクの発言だな、こりゃ。

614いちりん:2003/06/23(月) 14:22
アンタッチャブル さん
ならば、お聞きしますが、久遠実成の釈迦というのは、「抽象概念」で観念の産物じゃないんですか?
具体的な事実として、存在してるものなのですか?
どなたかこれまでに、久遠実成の釈迦というものに、出会ったことがあるのですか?
インドのお釈迦さんのことじゃありませんよ、久遠の釈迦ですよ。

615アンタッチャブル:2003/06/25(水) 00:57
当たり前でしょ。久遠実成の釈尊とは、実在であるのが法華経の教えであり、日蓮聖人の御指南です。「一心欲見仏不自借身命」は空言ではないですよ。忠告させて頂ければ、いちりんさんの勝手解釈の仏教は人々を惑わしますね。

616いちりん:2003/06/25(水) 08:45
>久遠実成の釈尊とは、実在であるのが法華経の教えであり、日蓮聖人の御指南です。

わたしは、それが正しいとか間違っているというのではありません。
久遠実成の釈尊をたてるのが、天台宗やら日蓮宗やら日蓮正宗の「教義」ですね。

日蓮正宗では、日蓮本仏。
真言宗では、大日如来。
浄土系は、阿弥陀如来。
キリスト教は、ゴッド。
イスラム教は、アッラー。
神道は、あめのみなかぬし。

……というように、ある「観念」を立てるのが信仰だというのです。
それは、繰り返すけど、正しいとか間違っているというのじゃありません。
「信仰」「教義」ですから。

わたしが言っていたのは、そういうものはやはり「観念」であって、だれも出会ったことのないものである。
リアリティがないものである。
だから、「実在」していた日蓮とか空海とか、親鸞とか、イエスとか、マホメットとか、そういう人を通して、信仰に没入しやすいということを言っているだけです。

日蓮系の人は、久遠実成の釈尊などという存在は、ほとんどの人がリアリティがないでしょう。

617アンタッチャブル:2003/06/25(水) 12:33
いちりんさんは、知ったかぶりの通仏教だから、哲学用語で語っても話にならないんだよね。素人と同じなんだけど、自分は詳しいと勘違いしているから始末が悪いなあ。かといって、信仰も定まらないから、何も把握できない。自分が把握できないからって、把握できるものが無い訳じゃないないのよ。

618アンタッチャブル:2003/06/26(木) 08:18
ちなみに、いちりんさんの使っている「観念」であるとか「実在」の用語は、通俗的なもの。これと、仏教などの哲学用語と同等の意味に使うと全く仏教が理解できなくなります。いちりんさん、通俗的な意味でない本来の意味をしっかり調べて御覧なさいよ。

619ガンコ:2003/06/26(木) 11:08
アンタッチャブルさん、はじめまして。わたくしはガンコともうしまする。

>久遠実成の釈尊とは、実在であるのが法華経の教えであり、日蓮聖人の御指南です。「一心欲見仏不自借身命」は空言ではないですよ。

あなたは顕本の方だったと思いますが、わたくしは文底読みの流儀ですから手放しで賛同するわけにはまいらないのですが、まあ、上記のご意見はおおむね宜しかろうと思います。ただ、なんでいちりんさんにそんなにカラムのか理解できないです。いちりんさんのおっしゃることは世間一般の最大公約数的な考え方であろうし、そのことは日蓮大聖人御自身が仰せであります。

「寿量品に我は過去五百塵点劫のそのかみの仏なりと説き給ふ。我等は凡夫なり、過ぎにし方は生まれてより已来すらなをおぼえず。況や一生・二生をや。況や五百塵点劫の事をば争でか信ずべきや。・・・されば過去未来を知らざらん凡夫は此の経は信じがたし。又修行しても何の詮かあるべき。」(法蓮抄)

仏様の御悩みというのはどうやってわたくし達にわからせるか、信じせしむるか、にあるのですから、あなたはちゃんとその点を考慮して説明しなければならないと思います。

620アネモネ:2003/06/26(木) 21:51
>ただ、なんでいちりんさんにそんなにカラムのか理解できないです。

私も同感。

621アンタッチャブル:2003/06/27(金) 20:52
別にあっしは、顕本ではないですんけど?まあ宜しい。答えは簡単です。仏教に詳しいと自ら思い、評論するならば最低限のものは学んで欲しい。それをしないで、「久遠釈尊は、抽象的観念だ、実在じゃない」と言うのは、日蓮聖人からすれば「謗法」ざんしょ。
要は簡単、仏教思想からすれば俗用語と本来用語の意味を並べて、違いを見れば何を学べばよいのか分かるはず。それを放棄して、あたかも自分的なことが素晴らしいかのように気取って宣えば折伏されるでしょ。ど素人なら許されるけど、説明もこちらから出来るけど、いっぱしに宗教者気取りになってしまっているのだから、厳しく批判されても仕方ないでしょ。
貴方達の集まりが、信仰心がないか、信じれば何でも良いと言うカルト系なら、議論するのも無駄だけどね。

622アネモネ:2003/06/27(金) 21:39
>日蓮聖人からすれば「謗法」ざんしょ。

仰りたいことはわかります。

>宗教オタク…知ったかぶりの通仏教…いっぱしに宗教者気取り…

仰りたいことはわかるのですが、でも、これって個人攻撃が過ぎているというか、人格攻撃になってませんか?
相手を侮辱する言葉と一緒に仏教を語られてもねえ…。なんか語るに落ちるような…。
失礼だったら、すみません。
これ、私の個人的な感想です。

623論議歓迎支隊員:2003/06/27(金) 22:36
 :: このHPでは百戦錬磨の猛者が多いようですので「この程度でビビルようなヤワなお方は御不在、」かと存じまするが、、?

624アンタッチャブル:2003/07/01(火) 22:25
日蓮聖人が、議論を臨む時に何故あのようにされたのか、そしてその心中を察することのできない人には分からないかもね。みなさんのことではないけれど、偽善者と狂信者ばかりの宗教ではね〜。

625葛根湯:2003/09/03(水) 13:16
はじめまして。本尊についてなのですが
五字七字の題目は、法華経を本尊としつつ、法華経に帰依するという在り方に
仏の姿をみて、法華経に帰依するという在り方も本尊とするということでしょうか。
突然の質問ですいません。

626ガンコ:2003/09/03(水) 16:49
葛根湯さんの質問は、素朴な疑問というよりはかなり高度な疑問、いや、わたくしから見ると相当にご自身で思索せられて、その結論みたいな部分をお書きになっていらっしゃるように思えるので、その思索の過程をもう少しお書きにならないと、何を質問していらっしゃるものか、ちょっとわかりにくいです。
よろしければもう少し質問の仕方を工夫されてはいかがでしょうか? もっともわたくしがお答えできるかどうかわかりませんが、質問の意味が明瞭であれば、諸先生方がお答えになられることと思います。

627苦悩乱者:2003/09/03(水) 22:37

625 葛根湯さん 

始めまして、苦悩乱者です。よろしくお願い致します。
h.ネームの如くですので、あまり真に受けずに参考程度に聞いておいてください。

>法華経を本尊としつつ
とは「法本尊」を意味して、おっしゃていますね。

>法華経に帰依するという在り方に仏の姿をみて、
とは「人本尊」のこと

>法華経に帰依するという在り方も本尊とするということでしょうか。
は「人法一箇の本尊」という事でしょうか。

そういうことであれば、現在の富士の「本尊観」と同じだと思います。

628愚鈍凡夫:2003/09/03(水) 22:50

>>625: 葛根湯さんへ

始めまして、愚鈍凡夫です。

以下の論文は、早坂鳳城氏が日蓮宗の立場で日寛師の『六巻抄』を破折した論文です。
参考になると思うので、読んでみて下さい。

『六巻抄』の構造と問題点(一) 「三重秘伝抄」を通して
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/01/01_031.htm

『六巻抄』の構造と問題点(二) 「文底秘沈抄」本門の本尊編を通して
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/02/02_060.htm

629苦悩乱者:2003/09/04(木) 17:21

628 愚鈍凡夫さん

貴重な資料を有難うございます。

630右往 左往子:2003/09/04(木) 19:10
、、素朴なる疑問の一つ。 日蓮サンの本義とは?、 日蓮サンの大儀とは? 今更ながらおしかり覚悟で御提起、再考察を御要望をたいが、? 日蓮サンの本筋が果たして、後続の僧侶方に??%位が伝授されたのでしょうか、?
私見ですが”仏陀様”も”日蓮様”も”お堅い事に拘泥されませず””今のIT情報時代こそ破言門理〜核心(成仏)達成への啓蒙”の最適時ですので、ドーゾ”再度御誕生されまして、御指導”を切願したいが。(カルトでは無く)。 それとも「すでに成仏への方途は申し付けた、」、不理解なのは”マツゲが見えないのと同じジャヨ”と言う事でしょうか、? 、。

631a:2003/09/04(木) 19:19
http://jbbs.shitaraba.com/school/14/

632愚鈍凡夫:2003/09/04(木) 20:16
>>629:苦悩乱者さんへ。

読んで頂けましたか。有り難うございます。

633眠りの小五郎:2003/09/06(土) 09:20
それにしても、ここに書き込む人は、よく勝手に「真偽未決だ」とか、
「偽書だ」とか言ってるけど、何を根拠にそんなこと言ってるのやら。
まさか、

「現代に真蹟が残ってないから」

なんて単純且つ間抜けな理由じゃないでしょうね!?

634右往 左往子:2003/09/06(土) 16:27
No.633 小五郎様    >、、、間抜けな、、。
 とは、手厳しい、。 事実〜真実を完全に未来長く伝達するのは”世界的にも至難のわざ”でしょうか。 普通の歴史(通史)でさえも”その時の有力な権力者の意向に添って作為的に伝えられる”様です。
 心の分野の宗教や哲学なども、ヤハリ”時の有力者の影響”は避けられませんでしょう。 その悪影響は”思考停止を容認し〜狂信〜カルトへの移行”もあり得ます。 その予防、防止にも”真跡は意義が在る”かと存じます、。

635葛根湯:2003/09/06(土) 20:12
レス遅れてすいません。この質問は、色々難しいところがあるようですね。
もう少し自分でいろいろ調べてみます。レスを下さったみなさん、ありがとうございました。

636眠りの小五郎:2003/09/07(日) 03:13
所詮、生活の片手間にしか仏法を学んでいない在家の如き連中が、自らの浅識
も省みず、好き勝手に「真偽未決」だの「偽書」だのと、御法門を軽々に云々
する事は、僭越の至りであると知るべきですよ。

それとも、
「自分は御法主上人以上に専一に仏法を学んでいて、大聖人の御法門を、一切
隈なく考証し、その上で、『真偽未決』や『偽書』と言ってるのだ」
なんて、臆面もなく本気で言う御仁が、この中にいるんでしょうかネ。

637問答迷人:2003/09/07(日) 10:40
眠りの小五郎さん

初めまして。

> 「現代に真蹟が残ってないから」

その通りですよ。現代に真跡が残っていない物は、本当に日蓮聖人の真跡であるとは断定出来ないわけですから、当然ですよ。なお、身延曾存の書については、真跡は失われて存在しないけれども、克明な研究記録が存在するので、真跡に準じて扱う、というのが基本的な有るべき態度だと考えています。

> なんて単純且つ間抜けな理由じゃないでしょうね!?

どこが間抜けなのでしょうか、ご説明戴きたいと存じます。

> 所詮、生活の片手間にしか仏法を学んでいない在家の如き連中が、

こういう発言に接すると、日蓮正宗僧侶の、信徒に対する傲慢不遜な姿が丸出しのように感ぜられ、暗澹たる心地です。

> 自らの浅識も省みず、好き勝手に「真偽未決」だの「偽書」だのと、御法門を軽々に云々
> する事は、

僧侶が説明責任を果たしていない現実があるから、こういう掲示板のニーズが有るのですよ。

>僭越の至りであると知るべきですよ。

では、この掲示板の参加者が「なるほど」と理解できるように説明して上げて下さい。

> 「自分は御法主上人以上に専一に仏法を学んでいて、大聖人の御法門を、一切
> 隈なく考証し、その上で、『真偽未決』や『偽書』と言ってるのだ」

論理が逆転していますね。逆立ちの論理です。日蓮聖人の御法門を正しく学びたいと願うからこそ、真跡書に拘るのです。当然のことです。宗門の、欺瞞的な説明に、癖壁としているからに他なりません。

> なんて、臆面もなく本気で言う御仁が、この中にいるんでしょうかネ。

今度は、人身攻撃ですか。程度の低い喧嘩を吹っかける閑がお有りでしたら、信徒が良く理解できるように、
説明されるべきです。

638右往 左往子:2003/09/07(日) 16:55
637:迷人様に共感です。 小五郎様の言は「、、信徒の分際で、何を抜かすか、僧侶こそが一番」という「僧侶最優先主義(これが混迷の因なのに)を未だにガンコに所持、、」とは、時代錯誤と布教者側の負うべき「布教責任の無自覚、無責任さが100%」もある実体が暴露されました様です。これは「貴重な投稿」でしょうか? 現今では「権威、権力で庶民を押さえつけることは”お隣の某国”以外」では御無理でしょうから。 今までの疑義が「少しでも解明され、次なる善後策(改善策)の方向が示唆されない限り」は「旧信徒は愛想を尽かし、新信徒は警戒を持続」でしょうか。

639犀角独歩:2003/09/07(日) 19:28

眠りの小五郎さん:

あまりにひどいのでひと言。

石山には真跡云々以前に蓮師の字を読める人間すら、存在してないでしょう。故に昭和新訂を作るのに川澄氏に頼らざるを得なかった。その時に薫陶を受けた人々は正信会に行き、いまでも真剣に研鑽をされていればこそ、あれだけの御書システムの完成という成果を得ることができたわけです。

反面、石山は御書の目録に載せるところはすべて日蓮宗学者の研究成果に基づいています。そもそも御書全集に載せる録内・録外、一切は通日蓮宗の版に拠ったのでしょう。真跡・写本から解読文字を起こしたものなどあるでしょうか。すべて謗法と呼ぶ日蓮宗の研究成果を踏襲しています。真訓両読の法華経に至っては、自分たちが「謗法」と呼ぶ他派の版(たぶん、平楽寺版でしょう)を買って、あろうことか「大石寺版」として売っています。恥も外聞もありません。

700年前に生体から分離した肉が生きている(肉牙/生骨)などと言って憚らない坊さんの言など信用できるものなどあるわけがありません。

間抜けなのは自分自身であることを自覚されるべきでしょう。

640犀角独歩:2003/09/07(日) 19:34

― 付 ―

もっとも亨師は別格です。日蓮宗宗学全書の編纂にも組みした大学匠です。
ただし、残念なことは亨師の文書として出版されているものに、どうやら、改竄されているものがあると見える点です。

641真摯 求道者:2003/09/07(日) 23:38
 なかなかの「深いウラの解明」を有り難う御座います。 これからも「役職や権威や権力」を活用して「信者どもヨ、下がれオロー、!」という「恫喝的な服従」を「強言される御仁」は続くでしょうか、?

642空き缶:2003/09/08(月) 00:37
横レス失礼します。
大石寺の弱点は真偽未決もしくは偽書をもってしてできている教学であることは承知の事実です。
それにしても許せないのは「波木井実長」を謗法呼ばわりし、日興上人の身延離山と結びつけ、身延を謗法の山と喧伝したことです。
真蹟のない「五人所破事」や「門徒存知事」によって、真蹟の現存する「弟子分本尊目録」を無視している。
「弟子分本尊目録」では日興上人は波木井実長の事を「日興第一の弟子也」といわば在家本六に加えられています。
「背きおわんぬ」とは付け加えられていません。しかも「弟子分本尊目録」は波木井実長の死後に書かれたものです。
いったい何時、謗法を犯したというのでしょうか。大石寺は700年間の無礼を身延にある墓前に行ってわびるべきでしょう。

643犀角独歩:2003/09/08(月) 08:55

> 642

わたしはこのご意見には賛成します。

「弟子分本尊目録」、すなわち、『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録』に、仰るとおり、

「甲斐国南部六郎入道者 日興ノ第一ノ弟子也 仍テ申与フル所件ノ如シ」

とあります。記述年月は永仁6(1298)年、興師、身延を出でたのが仮に『身延離山史』に言う如く正応2(1289)であれば、その9箇年後に「日興ノ第一ノ弟子」と言い、他の義絶者に載せる「背了(そむきおわんぬ)」との記述がないことは、如何にも不自然です。

644愚鈍凡夫:2003/09/08(月) 18:20

波木井六郎実長の長子・源清長は、1288(正応1)年12月5日に、日興師に対して誓状を書いてるようですね。

「もし身延沢を御出で候えばとて、心変わりをも仕り候て疎(おろ)そかにも思い進らせず候。又仰せ入り候御法門を一分も違え進らせ候わで、本尊並びに御聖人の御影のにくまれを清長が身にあつく深く蒙るべく候。」(富士要集第8巻)

源清長は、たとえ日興師が身延離山しても、日興師に恭順することを誓約しています。
このことから言っても、石山の主張は奇妙ですね。

645空き缶:2003/09/09(火) 00:32
はい。昭和40年代に「妙蓮寺」からでてきた、日興上人から波木井実長に当てられた3通の書状も是非御覧ください。
日興上人は波木井実長からのご供養を受け取り、宗祖御影の御前にお供えしていることがわかります。
波木井実長が謗法のものだとしたならば、日興上人は謗法からの布施を受け取ったことになります。
つまり、波木井実長の誹謗は日興上人への誹謗につながるのです。

646眠りの小五郎:2003/09/10(水) 03:08
問答迷人さん、犀角独歩さん、やはり、貴方がただけが反論を試みましたね。

わたしが、なぜ
『「現代に真蹟が残ってない」という理由だけで、「真偽未決」とか「偽書」
とか言うのは、単純で間抜けな考えだ』
と言ったのか、その理由を教えましょう。
「現代に真蹟が残ってない」という、たったそれだけの理由で、真偽を怪しん
だり、偽書と断定したりすることは早計であり、しかも、ややもすれば、自他
の信仰を破壊しかねない、たいへん危険な行為だからですよ。
そもそも、貴方がたは、「なぜ、いくつもの御書が、現在真蹟不在になってし
まったのか?」という観点からは、決して見ようとしないじゃないですか。
直線的に、「真蹟不在」=「真偽未決」or「偽書」としているでしょう。
わたしは、日蓮宗で発行してる御書は見たことがないから、これはあくまでも
推測に過ぎませんが、恐らく、貴方たちが「真偽未決」とか「偽書」とか言っ
てる御書は、大石寺版御書集には載ってても、日蓮宗の御書集には載ってない
んじゃないですか?
つまり、貴方たちの教義解釈の基準が、富士門流側ではなく、日蓮宗側に傾倒
しているから、そういう判断を下してるんじゃないか、と思うんですよ。ある
時、日蓮宗側で発行してる御書集には載ってないのに、大石寺版の御書集には
載っている御書を発見、真蹟所在や古写本の在り処を見ても記載がない、これ
は怪しいぞ、という、そんな理論展開なんじゃないですか?
ここ1〜2年の貴方たちの書込みを見ていて、どうも解釈が富士の流義と違う
と思い、最近特に、論述が日蓮宗サイドに寄ってるなと感じたのも、多分気の
せいではないでしょう。

問答迷人さんは、「日蓮(大)聖人の御法門を正しく学びたいと願うからこそ」
とお話しですが、そもそも、「富士門流信徒の掲示板」と銘打っておきながら、
富士の流義から遠く離れた場所で、どうやって富士門流を語るおつもりですか?
そんなことをしようとしても、出てくる言葉は「富士否定」ばかりでしょう。
富士の流義に立って、本気で富士門流を想うなら、まず「どうして真蹟が失わ
れたのか?」という点から考え始めるはずです。でも、貴方たちは、最低限、
この掲示板においては、そういう姿勢は見せていない。なぜですか?
もはや、富士義を否定することでしか、自説を保てなくなってるからなんじゃ
ないですか?

ご自身の姿を、よくご覧になった方がいいでしょう。
わたしが言いたいのは、それだけです。

647犀角独歩:2003/09/10(水) 07:10

眠りの小五郎さん:

> …反論を試みましたね。

反論を試みたのではありません。
あなたが考えているようなことを、ここに真摯に投稿する人間が考えたこともないと思う浅はかな観察を嗤ったのです。

あなたは真偽未決云々を言うことを間抜けであると言います。
では以下の言はどうでしょうか。

「新古各種の刊本中に“真偽未決”の問題となるものも信行に資するものを之を取る」

これは御書全集『凡例』(P5)に載るたぶん亨師の言でしょう。
平成新編で

「真偽の検討
 <真偽> 本御書の編纂会に真偽検討委員会を設け、過去に疑義ありとされた御書147篇について、55回に亘る審議によって厳正な検討を加え、真書・偽書・真偽未決書に判別し、たとえば行学増進に役立つと思われる書でも偽書は不収録とした」(P8)

と襟度を示しています。
あなたがどのような信仰集団に属するかは存じ上げませんが、真書・偽書・真偽未決書の判別は石山においても当然、行われていることです。ただ、当掲示板ではさらに襟度を保ち、その厳正を極めているに過ぎません。

> わたしが、なぜ『「現代に真蹟が残ってない」という理由だけで、「真偽未決」とか「偽書」とか言うのは、単純で間抜けな考えだ』と言ったのか、その理由を教えましょう。
自分がどれ程過信しているのか存じませんが、もとより、浅慮に留まるあなたに“教え”を請うほど、わたしは落ちぶれておりません。ただ、あなたの浅慮を弾劾するばかりです。

> 「現代に真蹟が残ってない」という、たったそれだけの理由で、真偽を怪しんだり、偽書と断定したりすることは早計

いつ、誰が真跡不在の真偽を怪しんだり、偽書と断定しましたか。
なんとも浅はかな観察です。

> しかも、ややもすれば、自他の信仰を破壊しかねない、たいへん危険な行為だからですよ。

むしろ、逆でしょう。偽書をもって人に勧めるのであれば、その好意こそ、自他の信仰を破壊する大変危険な行為です。
真跡主義に基づかないのであれば、以下の伝蓮師聖訓は引用できます。

「私ならざる法門を僻案せん人は、偏に天魔波旬の其の身に入り替はりて、人をして自身ともに無間大城に墜つべきにて候。つたなしつたなし」

もし万が一、蓮師の言でないことを蓮師の言といって、その人に勧めるのであれば、それはまさに「私」蓮師の法門でないものを連枝の法門といって人に語ってしまうことでしょう。それを怖れればこそ、真摯な信行学者は真・偽・未決を真剣に考えるのでしょう。
また、富士門であるというのであれば、伝興師の言とする

「「偽書を造って御書と号し・修行を致す者は獅子身中の虫と心得べきな事」

との言をどう採りますか。
また、『摧邪立正抄』の

「偽書を構へて恣に聖筆と云はば富山の立義・貴賤上下信仰憑み無し」

との弾訶を如何に心得ますか。

> そもそも、貴方がたは、「なぜ、いくつもの御書が、現在真蹟不在になってしまったのか?」という観点からは、決して見ようとしないじゃないですか。

では、その点をここに主張してください。
真跡不在になった理由とは何でしょうか。

> 直線的に、「真蹟不在」=「真偽未決」or「偽書」としているでしょう。

ですから、誰がそんなことを記しているのですか。
まったく勝手に思い込んでいるに過ぎません。

648犀角独歩:2003/09/10(水) 07:11

―647からつづく―

> わたしは、日蓮宗で発行してる御書は見たことがないから、これはあくまでも推測に過ぎませんが、恐らく、貴方たちが「真偽未決」とか「偽書」とか言ってる御書は、大石寺版御書集には載ってても、日蓮宗の御書集には載ってないんじゃないですか?

見もせず、記すから自ら赤恥を曝す愚行を公開することになります。
他派の遺文集も全集であれば、偽書・真偽未決書も載せています。
まったくの見当外れ、的外れな愚かな発言です。
そもそも富士の御書と言ってもそれは他派がまとめた刊本を元にしているのであって、何も自前で作ったものではありません。単に他の刊本を基に句点・句読点・漢ルビなどを補い、旧字を新字に改める程度の文章編集をなし、独自の読み下しはそれに改めた程度のものに過ぎないでしょう。
旧来の出版でも真・偽・未決書に亘っているのは“周知”の事実です。

> つまり、貴方たちの教義解釈の基準が、富士門流側ではなく、日蓮宗側に傾倒
しているから、そういう判断を下してるんじゃないか、と思うんですよ。

これまた、まったくの見当外れ。当てずっぽうに過ぎません。
では、わたしのしるすことのどこが日蓮宗側に傾倒しているか、具体的に示していただきましょうか。
わたしが記していることは、日蓮宗僧侶にしても耳が痛むことばかりのはずです。
まして、わたしは宗学者嫌いを公言してきたのです。

> ある時、日蓮宗側で発行してる御書集には載ってないのに、大石寺版の御書集には載っている御書を発見、真蹟所在や古写本の在り処を見ても記載がない、これは怪しいぞ、という、そんな理論展開なんじゃないですか?

馬鹿馬鹿しい。まったく違います。
もう少し真面目にロムしてください。また、批判するのであれば、他派刊行の遺文集ぐらいめくっったあとにしていただきたい。

> ここ1〜2年の貴方たちの書込みを見ていて、どうも解釈が富士の流義と違う
と思い、最近特に、論述が日蓮宗サイドに寄ってるなと感じたのも、多分気の
せいではないでしょう。

まったくの気のせいです。

> 富士の流義に立って、本気で富士門流を想う

富士を肯定することばかりを論うことが富士門流を思うことでしょうか。
否定される点を徹底して検証して、その是非を思うことこそ、わたしは本気で門流を思うことであると確信します。
あなたのような脆弱で甘い姿勢では、都合の悪いことは見ないふりをする、批判される内容は相手のせいにするというまことに情けない、みっともない愚行を繰り返すことになります。646の書き込みの如くです。

> なら、まず「どうして真蹟が失われたのか?」という点から考え始めるはずです。

ですから、あなたは、どのように考えているのですか。
その考えを示してみてください。
示しもせず、夜干の遠吠えの如く吠えていても仕様がないでしょう。

> でも、貴方たちは、最低限、この掲示板においては、そういう姿勢は見せていない。なぜですか?

見せていないのではなく、あなたが読み取れないだけでしょう。
もう一度、過去の投稿をすべて読み直した上でかくの如き莠言を吐くべきでしょう。

> もはや、富士義を否定することでしか、自説を保てなくなってるからなんじゃないですか?

何を勘違いしているのかわかりませんが、わたしは自説など、たいそうなものを立てているつもりはありません。あるものをあるがままに述べているに過ぎません。

> ご自身の姿を、よくご覧になった方がいいでしょう。

みるべきは、眠りの小五郎さん、あなたご自身の姿勢でしょう。
眠っていないで起きなさい。起きて学びなさい。
不勉強極まりない手前味噌で自分の信仰にしがみつく哀れな姿、、それがどれ程情けなく物笑い失笑を買っている自分自身の姿をよく御覧になりなさい。

違うというのであれば、斯くも気色ばった愚文を弄する前に、ではまず、「真跡が失われた」理由でも、とくと“ご教示”いただきましょうか。

649空き缶:2003/09/10(水) 11:27
横レス失礼です。
大石寺版の御書の方が、のっていないものが多いですね。
特に真蹟現存のものまで省いてしまっています。「不動愛染感見記」なんかもそうですね。日蓮聖人が「天台真言宗」の僧として書かれた御書は殆どのせていませんね。
大石寺の御書は自分達に都合がよいものだけを集めたような感じがします。二箇相承はあっても「日朗御譲状」の掲載は無いし。
立正安国論も一つしか掲載していません。門下研鑚用のものだけの掲載です。幕府提出用の立正安国論が「天台沙門日蓮」となっているので、よほど都合が悪いみたいです。

650アネモネ:2003/09/10(水) 12:24
眠りの小五郎さん

はじめまして。
私などが申し上げるのは僭越ですが、真偽を怪しむことがいかに重要なことであるかを、あなたはまるで理解されていないと思い、少しばかりレスさせて頂きます。

>「現代に真蹟が残ってない」という、たったそれだけの理由で、真偽を怪しんだり、偽書と断定したりすることは早計であり、

真蹟が残っていない書をそのまま偽書だと片付けているものではないでしょう。
しかし、なぜ真蹟がないのかということの原因はいくつか考えられるわけで、その原因の中に偽書だったからという要因が全くないとは言い切れないわけですね。それはひとつひとつの御書について、現存している写本などから、さまざまな検証が続けられているわけですから、眠りの小五郎さんが考えているほど単純に決め付けているものではないでしょう。
むしろ、これまでがあまりにも真蹟の現存していない御書の取り扱いについて軽く考えてきたことのほうが、むしろ大変大きな問題なわけです。実際に教義体系が違ってくるほどのことですから、深刻です。危険視する気持ちは別の意味でわかります。
わかりますが、そのことを真摯に受け止めて向き合い、そこから教義を問い直しているのがこの掲示板ではないでしょうか。

>しかも、ややもすれば、自他の信仰を破壊しかねない、たいへん危険な行為だからですよ。

その信仰が本当に正しいかどうかの証明を怠るほうが、もっと危険だと思われます。
日蓮の書としての真偽がはっきりしていないものは、はっきりしていないものです。
はっきりしていないのに、日蓮が書いたものであると断定して信仰をさせることのほうが、よほど危険です。
教義が違ってくるのですから、大変なことです。
眠りの小五郎さんは、構築された教義体系が崩れることを恐れているのでしょう。その危険を感じていることはわかりますが、その教義体系が正しく日蓮の教義であるか否かは、御書の真偽に大きく関わることであるということに向き合わなくてして、何を根拠に正しい日蓮の教義であり信仰だと言い切れるのでしょうか。
もしも偽書だったら、正しいと信仰している教義は捏造されたものとなるわけです。
捏造された虚構の日蓮教義を信じ込まされていたとしたら、どうしてくれるのでしょう。
その危険性についてはどうお考えですか。
真偽がはっきりしない以上、やたらと信仰はできません。真偽の真を訴えたいなら、確固たる証明をして頂きたいものです。

>つまり、貴方たちの教義解釈の基準が、富士門流側ではなく、日蓮宗側に傾倒しているから、そういう判断を下してるんじゃないか、と思うんですよ。

眠りの小五郎さんは、富士門流側と日蓮宗側という対立軸という思考でしか、ここの内容を把握できていないのでしょう。
私は、個々の御書の真偽についてどうこう言えるほどの教学も見識もありませんが、少なくともここの掲示板での議論が、富士門流側か日蓮宗側かといった単純論争ではないことくらいは、理解しております。その点は私からも申し上げておきたいと思います。

>富士の流義から遠く離れた場所で、どうやって富士門流を語るおつもりですか?そんなことをしようとしても、出てくる言葉は「富士否定」ばかりでしょう。

いわゆる発起人が、富士門流から教義を学んできた人たちなのですから、掲示板の名称として使われることは自然なことです。その流派で伝えられてきた流儀が果たしてどこまで宗祖の心にかなったものであるかということを問い直してきているのです。
つまり祖道の恢復に志を向けてひとつひとつ研鑚と議論を重ねてきているわけです。
富士の流儀にただ固執するだけの立場とは、祖道に対する取り組み姿勢からしてまったく違うのです。理解されないことかもしれませんが。
名称から難癖つけ、揚げ足ばかりをとられては、かえって富士流儀の浅はかさみたいなものが、あなたの人間性を通して露呈するばかりに見え、それが富士門流の姿だったのかと、ますます残念な思いにかられます。
もはや立場の違いもありますから、私などが申し上げることもないことかもしれませんが…。

651犀角独歩:2003/09/10(水) 13:00

> 649

空き缶さんには、適切な横レスをいただきました。
ご挨拶、遅れました。犀角独歩と申します。
御礼申し上げます。

先に引用した『御書全集』凡例には

 新古各種の遺文集より削除したるもの。
 建長五年収支建立已前の戒体即身成仏義等数篇、現代教養に神益なき十王讃歎抄・八大地獄抄、純天台なる三八教・秀句十勝抄の如き縦い御真書でも聖祖の御聖録文と見做して且く文を除いた。(P5)

とあります。しかし、僧侶向けの昭和新定ではこの点を改めています。
ただし、日朗譲状は、空き缶さんが仰るとおり省かれております。
石山平成新編では、以下のような真・偽・未決に関する宗として姿勢が明示されています。

収録(宗内既刊御書との対比)
〈全集収録・本書不収録の御書〉『御書全集』に収録されているもので、本書に収録しなかった御書は3篇あるが、そのうち「兵衛志殿御返事」(全集1108頁)と「遠藤左衛門尉御書」(全集1336頁)の2篇は真偽検討委員会の調査によって偽書と判定したので収録しなかった。また「寿量量品得意抄」(全集1210頁)は「開目抄」(本書523頁)の一部と同文の重複書であり、伝承にも疑義があるため不収録とした。なお「来臨曇華御書」(全集1300貢)は、「内記左近人道殿御返事」(本書1587頁)の断簡と判明したので、本書では同御返事に編入し、「衣食御書」(全集1302貢)は他の断簡四紙と併含して「上野殿尼御前御返事」(本書751貢)とした

 ◎偽書
  昭和41年大石寺発行の『昭和新訂日蓮大聖人御書』全3巻(以下『新定御書』という)は、その凡例にも記されているように、従来「御書」と称されてきたものすべてを真偽の区別なく収録しており、そのうち本書(石山平成新編)では次の32書を偽書として削除した。

 30「垂迹法門」32「法華経大意」23「神祇門」50「大黒天神相伝肝文」51「大黒送状」58「行者仏天守護抄」65「聖人御系図御書」66「大黒天神供養相承事」130「此経難持十三箇秘訣」179「祈構経言上」180「観心本尊抄文科」182「授職潅頂口伝抄」184「遠藤左衛門尉御書」197「与平内左衛門書」202「放光授職潅頂下」297「無作三身口伝抄」298「無常遷滅抄」389「大黒天神御書」453「兵衛志殿御返事」465「松野後家尼御前御消息」492「彼岸抄」494「撰法華経付属御書」500「法華本門宗要抄」501「上野五郎左衛門尉御書」503「同地獄御書」505「本寺参詣抄」560「波木井殿御書」507「法華和讃」508「読誦法華用心抄」512「蓮華房御書」515「臨終一心三観」516「末法一乗行者息災延命所願成就祈祷経文」

 ◎真偽未決書
  本書では次の17書を真偽未決書として不収録とした。

 4「獅子頬王抄」5「尭舜兎王抄」6「諸願成就抄」11「十王讃歎抄」12「八大地獄抄」13「間答抄」19「回向功徳抄」55「善神擁護抄」75「法華大綱抄」112「寿量品得意抄」153「真言宗私見聞」156「法華宗内証仏法血脈」249「成仏法華肝心日伝身遣抄」440「当体蓮華抄」502「身延山御書」513「時節到来抄」514「万法一如抄」

 ◎重複書
  本書では、203「南条平七郎殿御返事」は「種々御振舞御書」(本書1055頁)末文との重複書、520「阿育王御書」は前半部が「高橋入道御返事」(本書893頁)、後半部は「南条殿女房御返事」(本書1227頁)との重複書として削除し、534「来臨曇華御書」も前述のごとく重複書として不収録とした。

  <不収録の真書>
  『新定御書』に収録されている中、次の9書は真書であるが、信仰に資するところが少なきものとして収録しなかった。

 8「六因四縁事」9「不動・愛染感見記」10「戒之事」174「直垂御書」194「合戦在眼前御書」366「十月分時料御書」376「弘安改元事」396「阿育多王御書」495「春の始御書」

  また、336「立正安国論(広本)」重複書として収録を控えた。なお文義不詳の断簡類は収録しなかった。(P9)

としています。
わたしは真書をこのように左右する姿勢は頷けません。
自宗に都合の好いように編纂を進めることを蓮師への冒涜であると受けとめています。

652Jルーカス:2003/09/10(水) 14:06
御書、御妙判、御遺文と呼ばれるものの真偽について、『勝呂信靜(文学博士 立正大学名誉教授)前東京大学講師 前現代宗教研究所顧問』は浅井要麟教授の真筆偏重的な考察を柔らかく否定し、以下のように述べられております。この中に「日蓮宗の出版している御遺文についての凡例記載もあるので参考にして頂きたい。

「御遺文の真偽の問題を論じた学者は何人かいるが、中でもこの問題について厳格にして広範な文献学的研究を提唱・実行されたのは浅井要麟教授であった。
教授の提起された問題はきわめて多岐にわたっていて、その困難性のゆえになお未解決の問題も少なくないが、教授の影響力はまことに大きく、その学風は今日まで脈々と伝えられているのである。
 御遺文類の中には偽作の疑のあるものが少からず混入しているので、これを資料として用いる場合真偽の嚴重なチェックが必要であるということは、宗学研究者の間では常識になっているが、世間では案外このことは知られていないようである。この理由はいろいろ考えられるが、御遺文研究は近代的な文献学的研究であるにしても、伝統的な「祖書学」(ただしこの呼称は近代のものらしい)に属するものであるから、それは日蓮宗内部の学問として研究成果が外側に向かって十分に知らされなかったことがあると思う。さらに『昭和定本遺文』の編纂法も影響しているように思う。
 周知のように『定本遺文』は第一輯正篇(第一巻・第二巻)に真撰遺文四三四篇を、第二輯続篇(第三巻)に偽撰の疑ある遺文五五篇を収録している。この『定本遺文』は今日まで公刊された遺文集のうちもっとも権威あるものであるから、この真撰(第一輯)と偽撰(第二輯)の分類は決定的なものと思われがちである。ところが偽撰の疑のある御書であっても、古来伝統的に宗義上・信仰上、真撰のごとくみなされて来たものは第一輯の中に収められているが(この旨は巻末の凡例に示されている)、しかしそれがどの御書であるかは指示されていない。一般の研究者は真偽問題についての細かい議論を知らないから、第一輯正篇の中の御書なので間違いないと思って資料に取りあげると、専門家からそれは偽書であると指摘・非難されるようなことが起る。
 しかしひるがえって考えてみると、決定的な意味での偽書というものがあり得るのかどうか。どの点から見てもあるいは誰が見ても偽作であることが疑ない御書があるとすれば、それは偽書といってよい。しかし大多数の場合、偽作の疑が強いが、見ようによっては真作と見られるというものであって、真作の可能性が全くないということではない。一般に真偽を決定する客観的形式的な証拠というものは容易に見出されないから、拝読する人の主観によって真偽の判断が異なるということは十分に起り得る。第二輯続篇(偽書の部)に収められている御書にしても、それは同様であって、ある御書について、百人の学者のうち九十九人までが偽書説を唱えても、一人が真書説を唱えそしてそれに相応の根拠があれば、決定的な意味で偽書とはいえない。それは厳密にいえば偽書でなくて真偽未決であり、真偽が疑われているという意味において「疑書」と称すべきものである(ただし「疑書」という言葉が用語として定着しているかどうかは判らないが。)
 この点を考慮したからであろうか『昭和定本遺文』の凡例は、慎重に偽書という言葉をさけて真偽未決の趣旨の言葉を用いている。念のためその一部をつぎに引用しよう。
    凡 例 (前略)
  一、本書は右の内容を左の五輯に分って収録した。
   第一輯 正篇 著述・消息にして真蹟現存するもの、真蹟現存せざるも真撰確実なるもの、真偽確定せざるも宗義上・信仰上・傳統的に重要視さるゝものを収めた。
   第二輯 続篇 著述・消息にして真偽の問題の存するもの、其他を収めた。(下略)

653Jルーカス:2003/09/10(水) 14:07
(つづき)
 右において「其他」というのは極めてあいまいで、何を意味するのかこれだけではよく判らないが、ともかくこの凡例によるかぎり、『昭和定本遺文』においては偽書は存在せず、存在するのは真偽の問題のあるもの、つまり真偽未決の御書である。真偽未決であれば、平均化して五十パーセントは真作の可能性があるとせねばならない。しかるに学界の傾向として、疑書を偽書と同一視し、それを日蓮聖人の思想にあらずとして全面的に排除しようとするところに問題があるように思われるのである。
 厳密性を重視する学者のなかには、真蹟の現存あるいは曽存が確認される御書のみを用い、他は一切資料として採用しないという研究法を取っている人がいる。有力な学者で現にこのような人がいるのである。たしかにこれは一つの見識である。しかし偽書と称されるものは厳密にいえば上述したように「疑書」であるから、真作の可能性を含むものとせねばならない。それを全面的に排除することは、日蓮聖人の宗教思想を実態よりも狭小に限定することになりかねないと思う。それは偏った日蓮像を作りあげることにもなるであろう。
 これに対し偽書あるいは疑書ということを考慮せず日蓮聖人の名において伝えられるものは、すべて真撰として取り扱うという立場もあり得る。しかしこれによっては日蓮聖人の思想から、そこに混入しているかも知れない他の夾雑的な思想を区別し除去する方法を取り得ないという欠点が生ずる。
 以上に対し聖人の御書を、真撰の確実視される御書を基本的資料、偽作の疑のある御書、真偽未決の御書を補助的資料として区別し、まず基本的資料によって聖人の思想を拝察し、それに矛盾しないかぎりにおいて補助的資料を基本的資料に準ずるものとして採用するという方法があり得ると思う。私にはこの方法がもっとも妥当であるように思われるのである。」

654犀角独歩:2003/09/10(水) 14:50

> 652〜653

なるほど。そうすると、このような学的姿勢からしても現石山の真・偽・未決の編集方針はおかしいということが、Jルーカスさんの仰りたいことなのでしょうね。

以上の議論は真筆・偽書・未決に基づくものであって、真跡についての議論ではありませんね。わたしは以上のような経過的な研究を離れ、最も確実視できる蓮師遺文、つまり、真跡を以て最小値の蓮師思想をまず素描することが大切であると思っています。

これはたしか池田さんが百六箇抄講義で指摘し、肯定していた点ですが、同抄は、多くの加筆があり、それはその書の相伝者複数のものであるということでした(石山で言えば、歴代住職)。

それをすべて「日蓮大聖人の教え」としてとらえるのが信心であるといった講義内容であったと記憶しています。昭和40年代の話ですから、いまの学会教学とは隔世の感があります。まあ、それは置いて、そのような姿勢はたしかに信仰としては馴染むでしょうが、しかし、純粋に蓮祖の原型思想に迫り、そこから信仰を立てようという考えとは馴染まないものがあります。また、この二つは相争って始まらないので、「偽書も真書主義」「真跡主義」と自らの立場を闡明にして発言することで、余計な摩擦は減るでしょう。

わたしはもちろん真跡主義で、蓮師原型教学の素描、その後の変遷の素描を別に分けて考えるほうが世間一般の理解を得やすいと信じます。

655Jルーカス:2003/09/10(水) 15:05
> なるほど。そうすると、このような学的姿勢からしても現石山の真・偽・未決
の編集方針はおかしいということが、Jルーカスさんの仰りたいことなので
しょうね。

そうではありませんよ(笑)。
だって平成新編は「御書全集」ではありませんからね。
廉価で手に入るように、選抜した御書しか載せてませんからね。

対して、平成校訂の方「偽書・真書・未決書」を全て掲載させるようですがね。

656顕正居士:2003/09/10(水) 15:13
勝呂信靜『御遺文の真偽問題』

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_086.htm

コピペ=長文をウェッブからコピーしかつその所在を示さない行為

は掲示板あらしであるのみでなく、著作権の侵害であるから
管理者におかれてはコピペ投稿を発見したら削除されるよう勧めます。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

657犀角独歩:2003/09/10(水) 15:58

顕正居士さんから著作権に関する注意がありました。
わたしが引用したのは、書籍からのものですので、書籍名、出版社、頁数を載せ、その保護に当たることと致します。


『新編 日蓮大聖人御書全集』日蓮正宗大石寺版
 昭和27年4月28日発行
 昭和44年7月3日44版発行
 発行所 宗教法人創価学会 
 P5から転載

『平成新編 日蓮大聖人御書』大石寺
 平成6年7月16日発行
 発行 日蓮正宗総本山大石寺
 P8〜11から転載

658犀角独歩:2003/09/10(水) 16:07

Jルーカスさん:

> 選抜した御書

選抜した御書というより、『例言』に藤本潤師の署名で独自の真偽検討委員会で審議し、「偽書・真偽未決…不収録」と明示してあります。
もっとも、たしかに真書に関しては、不都合なものは省いて選抜してありますね(笑)
それにしても「偽書であるとしても偽書といえない、真書の可能性は捨てられない」としたら、いつも言われることですが、日朗譲状と二箇相承は真っ向から相反することを書いたことになります。すると、蓮師は老人性の痴呆にでも陥っており、いろんな矛盾することを書いてしまったことになってしまうのでしょうか(大笑)

わたしは、蓮師は死の直前、体力は衰え筆を持つ力は失せても、頭ははっきりしていたのではないのかと、真跡その他の信頼できる文献から見る限り思うのですが。

659Jルーカス:2003/09/10(水) 17:23
> コピペ=長文をウェッブからコピーしかつその所在を示さない行為
> は掲示板あらしであるのみでなく、著作権の侵害であるから管理者
> におかれてはコピペ投稿を発見したら削除されるよう勧めます。

このような事はありません。
以下、先ほど、法務省民事局現役参事官に問い合わせたので、その上で、
回答いたします。

既にWEB上の無料サイトに公開されているものを、同じくWEB上の公開
サイト(掲示板等)にコピペしても、そのことで即「著作権の侵害」には
なりません(なお転載が出来ないようにガードされている文書を、ガードを
除去してコピペするのは別の意味で違法でしょうが)。
たとえば小生がこの「現宗研」のサイトから引っ張ってきた物を、小生が
営利的に出版する著作物に何の出典元も明らかにせずに、載せればそれは
「著作権の侵害」になります。
また、販売されている書籍を勝手に、WEB上に載せれば、それにより著作権
の侵害になります(この場合、無料サイトで営業利益を得ていなくとも、そう
なります)。
しかるに今般の小生の場合は、そのどちらにも該当しておりません。
また、さらに裁判で云う「予備的抗弁」をしておきますと「仮に著作権に該当する
と仮定しても、既に論者の氏名を明らかにしてますので、そこで著作権法、及び同
施行規則に基づく『著作者名明示義務』は果たしてますので面責されるハズです
(この場合通達によれば「具体的出典場所」が無くとも「著作者名」を表示して
おけば、十分とされております)。

それよりも、今般の顕正居士さん、貴殿の書き込みには、小生に対する「名誉毀損」
の疑いがあります。もっとも「Jルーカス」自体は単なるHNですので、問題ないです
がもし実名での掲示板でしたら名誉毀損になるでしょう。
まず、私が著作権の侵害をしているか否かは、裁判所が判定するものであり、もし
警告を発するなら「疑い」の2文字をいれるべきです。
しかるに、貴殿は司法権を有する裁判所でもないのに勝手に断定した文書(疑いの
2文字の無い断定文書)を、公開上で表現しました。
これは以降は、注意されることをお勧めします。

省みるに私の投稿は、掲示板のルールにも触れておらず、また法的にも問題は無いと
思われますので、その旨御了解下さい。
(と言うわけですので、独歩さんの投稿にも全く違法性は見られません)

660Jルーカス:2003/09/10(水) 17:25
> 659
×「面責されるハズです」
○「免責されるハズです」

663愚鈍凡夫:2003/09/10(水) 20:06

うわっ!! 知らぬ間にこんなにレスが進んでる。 \(◎o◎)/!
>>646:眠りの小五郎さんへ。

> つまり、貴方たちの教義解釈の基準が、富士門流側ではなく、日蓮宗側に傾倒
> しているから、そういう判断を下してるんじゃないか、と思うんですよ。

そうじゃないでしょう。基準をニュートラルに戻して、そこから蓮祖の法門を考察し直そうとしているのじゃないですか。小生は、そう感じます。

> 富士の流義に立って、本気で富士門流を想うなら、まず「どうして真蹟が失わ
> れたのか?」という点から考え始めるはずです。

犀角独歩さんのレスと重なりますが、この件についての眠りの小五郎さんのお考えはどうなのですか。ぜひお示し下さい。

「西山は重須より完全に独立し、同じ本門寺の寺号を称し、その伝統の正潤を争い、それがためにその後真偽未了の偽書謀書が次々に作られ、或いは西山が大石寺と結び重須を攻撃し、重須は保田の妙本寺の日郷系と結び大石寺や西山を攻撃し、いつ果てるとも知れぬ内訌をくり返し来ったのである。」(松井日俊『富士日興門下教団分裂略史』改訂新版 P46〜47)

富士門にもこのような内紛の歴史があります。
故に、蓮祖のみならず、各山歴代の書も真偽問題の対象にすべきだと思います。遠回りのようですが、ここからしか蓮祖の法門は見えてこないように思うからです。

664連苦 体得人:2003/09/13(土) 20:14
今、全国紙には「某S会」の誇大広告が「我が者ズラして席巻中」ですが、どこからも「疑義や抗議」も出ませんです、。 ヤハリ「言論テロ、、」の影響が及んで居るのでしょうか、、? 宗教法人=無税とは??でしょうか、、?

665空き缶:2003/09/14(日) 16:48
新人の「空き缶」と申します。
日向上人の幕府への申状は「日蓮聖人遺弟」と書かれていると思いますが、何時「天台沙門」と名乗ったのかご存知の方は教えてください。
「弟子分本尊目録」の本六定置のあとに「五人一同に天台沙門と名乗れり」とでてきますが、これは日澄初代学頭からの情報をもとに書かれたと推察しますが、どうなんでしょうか?
日興上人は何を根拠に日向上人・日持上人が天台沙門と名乗られたといわれるのか、ご存知の方、是非ご教示ください。

666愚鈍凡夫:2003/09/14(日) 19:40

>>665:空き缶さんへ

「日澄図する所の要集は実に後代の亀鏡たり、視聴共に貴重せしむ、末学必ず応さに流伝すべし、但し本師補任六人の内・五師は天台沙門と注進し日興独り先聖の遺弟と挙ぐ」(日順阿闍梨血脈)

「一、五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり、仍つて公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云」(富士一跡門徒存知の事)

とあり、日興師以外の五老僧が「天台沙門」と名乗ったことが記されています。
真偽問題を横に置いて、『富士一跡門徒存知の事』にある、「公所に捧ぐる状」がその根拠じゃありませんか。
これを富士門では、我が身の保身のために権力に迎合した、蓮祖の御心に背く恥ずべき行為であると五老僧を弾劾しています。
しかし、このことを逆に五老僧擁護の立場で考えると、『立正安国論』がカギになるのではないかと思います。
というのは、中山法華経寺蔵本には、「天台沙門日蓮勘之」との文があります。このことが五老僧が「天台沙門」を名乗る切っ掛けになったのではないでしょうか。
つまり、蓮祖は幕府を諌曉する時、敢えて「天台沙門」を名乗りました。このことに習ったのではないかという考えです。
蓮祖の御遷化後も幕府の厳しい弾圧は続いたと思われます。したがって、蓮祖亡き後の脆弱な教団を守るため、『立正安国論』執筆当時の蓮祖の法華弘通に習ったのではないでしょうか。これは飽くまでも、五老僧擁護の立場で考えた場合ですけどね。

667空き缶:2003/09/14(日) 20:21
愚鈍凡夫 様
日昭師・日朗師は確かに天台沙門と名乗りました。日頂上人は天台法華宗の沙門と名乗りました。
しかし日向上人は先にあげた通り、「日蓮聖人遺弟」としています。日持上人については幕府への書状は真筆・写本ともに残っていません。
この辺がいまいちピントきません。「門徒存知事」はいまいち信頼を置きかねているんですが・・・
昭・郎二師は立正安国論に習ったことは間違いないと私も思います。この二師の御本尊を見ても書写の形式を取っておらず、まるで日蓮聖人の代わりを勤めているかのようです。
その点、日興上人と日向上人は本尊は書写形式をとられ、幕府への申状も弟子の立場で書かれていると思います。
そこで、何をもって「天台沙門」と名乗ったといわれたのかが知りたいと思いまして。

668愚鈍凡夫:2003/09/14(日) 21:21

小生も『富士一跡門徒存知の事』は『日興跡條條事』同様、信頼を置いていません。ただ、「天台沙門」と記した権力者宛の書状が存在するのではと思ったから引用しました。

> 日昭師・日朗師は確かに天台沙門と名乗りました

とは、日昭・日朗が幕府に出した『愁訴状』(内容は、国家の安泰、蒙古への祈祷。拝見したことがないので詳細は分かりません)のことですか。
この『愁訴状』は日向師・日持師同意の上でのことらしいですね。
これは推察ですが、このことがあって、
「仍つて公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云」(富士一跡門徒存知の事)
との記述になっているのではないかと思います(富士門では『愁訴状』のことが伝えられていたのではないでしょうか)。
やはり、蓮祖の先例にならったと思います。手続き上、幕府としても罪人日蓮の弟子と名乗るよりも、「天台沙門」と名乗った方が受け入れやすかったのではないでしょうか。

669空き缶:2003/09/14(日) 23:53
愚鈍凡夫 様
日蓮宗宗学全書第1巻に日昭師・日朗師・日頂師・日向師の申状がでています。
それぞれべつべつのもので、連名の署名・花押等はないようです。
幕府への申状と『愁訴状』はべつもののようですね。日蓮宗宗学全書第1巻にはでていません。
また、日高師等の中老も「日蓮聖人遺弟」と名乗っていますね。
天台沙門とは日昭師・日朗師の特有の表現みたいです。

670愚鈍凡夫:2003/09/15(月) 16:23

空き缶さん、そうですか。有り難うございます。

日昭師は鎌倉浜法華寺、日朗師は鎌倉比企谷妙本寺・武蔵池上本門寺を拠点として弘教していたわけですから、ある意味、背に腹は代えられないといったところもあったのでしょうか。
幕府の膝元での弘教ですから、弾圧もすごかったんだと想像します。

671犀角独歩:2003/09/15(月) 19:58

愚鈍凡夫さん:

ちょっと、横レスで質問させてください。
「天台沙門」という名乗りについてですが、これは案外、“本則通り”の名乗りであったと考えることはできないのでしょうか。

例えば、蓮師は天台沙門と名乗るのは公では当然のことであると思えるわけです。なぜかと言えば、比叡山に学んでいるからです。わたしは個人的には蓮師に立宗の意志があったのかという点で疑問を抱いています。むしろ、ある時期まで、純天台の復古主義であったと思えるわけです。

また天台宗の相承からは 伝教−円仁−恵亮−良源−源信−覚超−長豪−忠尋−皇覚−範源−俊範−日蓮 という相承譜であるとされます。

なお、蓮師自ら「法華宗」と言われます。この名称は蓮師滅後、日蓮宗の規模が確立されてからは、天台法華宗と区別され、(日蓮)法華宗の如き用例は発生するものの、元来は天台宗を意味するものでした。そうなると、天台沙門の名乗りはごく当たり前のこととなります。

昭師も蓮師と同じく比叡山に学んでいるわけですから、天台沙門に違いありません。
わたしは朗師の修学・遊学その他には詳しくないのですが、得度は建長6(1254)年で、蓮師自身、(天台)法華宗として認識の時代からの弟子です。となれば、公に状を捧げるのに、天台沙門の名乗りは自然なこととなります。

また、蓮師自体、晩年、一草案を身延に得て久遠寺と呼称していたように見えますが、弟子の多くは天台宗寺院に寄宿していたわけで、世間的な地位はいわば天台僧であったに違いありません。興師自身にしても蓮師の晩年(弘安元(1278)年33歳)に至るまで四十九院の供奉僧でありながら、蓮師の弟子となっていた経緯がありました。ですから、この時点で、四十九院その他でもし文書を書くことがあれば「四十九院僧」であることを明記していたと思われます。

それが重須にあって、「日蓮聖人の弟子」と記したかどうか、わたしはこの点でも消極的ですが、しかし、仮にそのような呼称を以て公に文書を進上できたとすれば、それは重須本堂並びに檀所を、河合の庇護で得ていたればこそではないでしょうか。また、その時点ではもちろん、四十九院の供奉僧の社会的な地位は退して長らくの事件が経過していたわけです。

むしろ、昭朗両師が「天台沙門」と名乗っていたとしたら、それはその時点で、比叡山と何らかの関係が存していたからで、これは蓮師の「本弟子」の決定とは別の話であるとわたしには思えます。

つまり、「○○沙門」の名乗りはそれら社会的な地位に拠るのであって、信仰上の師弟子から述べるものではなかったように思えます。

これはまた比叡山に遊学した順師にしても、仮に叡山系で文書の提出などがあれば、たぶん、「天台沙門」と記していたのではないでしょうか。

現在で言えば、大学で先生をやる坊さんが公式の文書で肩書きに「○○大学 ○○○○」と書いて、自寺院の名前を書かないとしても、自宗・自寺院・宗派を蔑ろにしたことにはならないようなものではないかとわたしは考えるのですが、どのようなものでしょうか。

ただし、蓮師の場合は、早くも40歳には伊東流罪に処され世間一般からすれば罪人視されたうえ、特に特定寺院の供奉僧その他の役を得ていたわけではなく、むしろ、社会的地位としては比叡山出身からはたしかに法華宗・天台沙門ではあったものの、その名乗りを跨がざるを得ない対世間的な事情が度重なる処罰待遇の中で生じていったのではないのかと、これはまったくの憶測ですが、想像しています。

併せて、興師の派祖意識の確保、重須教学の振興と確立、その時点では、根拠地も確保されているわけですから、自ずと自宗意識も萌芽していったと想像できます。伝順師文書の中にすでに「日蓮宗」の名称が見られるのはその好例ではないのかと、わたしは考えています。

ご意見をお聞かせいただければ幸甚です。

672空き缶:2003/09/15(月) 20:54
日昭師・日朗師は新弟子を比叡山で受戒をさせていたと聞いたことがあります。
日昭師・日朗師の書く、曼荼羅御本尊は主題の下に自身の名前が入っており、日蓮聖人は天台・伝教と同じく「人師・論師」の段にかかれています。
日興上人の他師との違いは、やはり佐渡流罪に付き添われたからでしょうか?

673愚鈍凡夫:2003/09/15(月) 20:58

犀角独歩さん、今晩は。
むむっ・・・・・。ガンコさんから逆襲があるかと思ったら、犀角独歩さんでしたか(読みが浅かった)。(^◇^;)

「日蓮聖人はもともと天台宗の僧侶でした。青年期、その根本道場である比叡山をはじめ各地で研鑚を積んだ後、これも比叡山横川系の天台宗寺院であった故郷安房の出家寺・清澄寺に戻り、ここで聖人は初めて法華経の優位性を主張し、当時の天台を席巻していた浄土教を厳しく批判します。この時をもって日蓮宗の立教開宗としているわけですが、必ずしもそう断じ切っていいものかどうか。すなわち日蓮聖人はこの時、中国天台宗の祖である天台大師智邈から日本天台宗祖の伝教大師最澄へと連なる系譜において法華経こそが最も重要な経典なのだと、当時の天台宗で主流となっていた密教や浄土教に対し、その法華経回帰を主張されたとみられるからです。
 その後もしばらくの間は自らを「天台沙門」と称され、正統天台の正嫡であるとの姿勢を明確に打ち出されます。そして続々と日蓮聖人のもとに集まってくる弟子たちにもまた天台出身の僧が多く、有名な高弟6人(六老僧)のうち日朗・日頂両師を除く4人までが天台宗から馳せ参じたのでした。ちなみに日蓮聖人の遺文および曼荼羅授与書その他の文献から名前が確認できる弟子66人中20人が天台僧であったとされています。しかも教団形成の重要な時期であった身延入山後の晩年や滅後に至っても、各地の天台宗寺院に寄住していた弟子たちがいたほどで、こうしたことからも日蓮聖人とその門下がいかに天台宗と関わりが深かったかが分かります。」(※註1)

確かにこの意味で言えば、蓮祖が「天台沙門」を名乗ったのは当然と言えると思います。
ただ、ここで面白いのは天台宗出身でないのにもかかわらず、日朗師・日頂師が「天台沙門」を名乗っていることです。確か、日朗師は日昭師と叔父甥の関係にあり、その縁故で蓮祖に帰依したのだったと思います。日順師は、聖滅後に「天台法華宗沙門」と名乗ったとのことですよね。このことから弘教の都合上、蓮祖の先例に習って「天台沙門」を名乗ったのではないかと思ったのです。

※註1 「日蓮宗の歴史・日蓮聖人在世当時の教団形成事情」
http://www.sattva.jp/menu2/hou-history.html

674愚鈍凡夫:2003/09/15(月) 21:12
訂正

誤 日順師は、聖滅後に「天台法華宗沙門」と名乗ったとのことですよね。
正 日頂師は、聖滅後に「天台法華宗沙門」と名乗ったとのことですよね。

です。悪しからず。 m(__)m

675犀角独歩:2003/09/15(月) 22:12

愚鈍凡夫さん:

いやいや、わたしは逆襲でも何でものではないですよ(笑)
いつも愚鈍さんが書かれていることには頷きながら読ませていただいております。

> 「日蓮宗の歴史・日蓮聖人在世当時の教団形成事情」

これは、どんな方がお作りになったものでしょうか。
典型的な形でテキストとしてはよいですね。

この文章のなかで、ちょっと不鮮明であると思うので補足します。

わたしは、宗旨建立といわれるものは潤色であると思うわけです。
いわば、叡山で免許を蒙り、登高座が許され、故郷に錦を飾る感じの初の高座説法であったという感じだったのではないでしょうか。もちろん、法華宗(天台宗)沙門としての説法です。

で、京に対峙する形で樹立する鎌倉幕府で、いまでいう新興宗教として蔓延りだした法然かぶれに、その法華宗の立場、ひいて言えば京の立場から鎌倉勢の流れも含めて念仏を批判した説法となったということであると思います。

なお、申状、あるいは天奏というと、なにか一国諌暁の如き様相であると想像しがちですが、ここいらを冷静に読み解いていくと、これは要するに、今で言う宗教法人としての許認可を求めることに趣旨があるように見えます。その場合、天皇家と武家とは別々に許可を取る二重手間があったとも見えます。

朗師はやはり叡山ではなかったのですね。頂師もそうですか。まあ、しかし、その師匠が天台僧であり、その人から得度すれば、叡山に学ばなくても法華宗・天台沙門であることになるでしょうね。ここいらへの遊学は、それ相当の資金力と人脈が必要であったと想像できます。

やや、関係しますが、興師の園城寺申状の代奏の信憑性は如何ばかりでしょうか。
なにより、「朕若し法華を持たば富士の麓を尋ぬべし」と言ったという伝説。これは嘘でしょう。弘安4年、蓮師は身延にあり、富士には南条家の私邸があるだけでなにもないわけです。そこに天皇が訪ねてどうするだと思うわけです。

ただ、興師は武家の出なので、公家代奏というのはどんなものでしょうか。目師、尊師が上洛を志せたのは、その出が公卿の流れであったからと思えます。

676愚鈍凡夫:2003/09/15(月) 23:23

犀角独歩さん、再び今晩は(阪神タイガース優勝でかなり酔ってます)。
/^^)/\(^^\チャンチャカチャン。

本門正宗のHPにこんな記述があります。

「謹上 民部公御房 白蓮(花押) 御返事
つまり、日目上人の元亨の申状(園城寺申状)は、この時、日盛師が比叡山で書写された奏状を書式手本として日興上人に依って文案され、日目上人に依って奏上されたのであります。この奏上の結果、嘉暦三年の秋、富士に後醍醐天皇の論旨が下されたのであります。後醍醐天皇の叡慮に接した日興上人は日蓮大聖人の御遺命の「大本門寺』勅許の確信を深められ、日蓮大聖人が富士門の門下に授与された各々の「大曼荼羅」に嘉暦四年に「但可為大本門寺重宝也」或は「懸本門寺、可為末代重宝也」「可為本門寺重宝也」の文言を加筆されたのであります」(※注1)

「日目上人は大聖人の御予言の「一国二王」即ち、弘安十年(一二八七)九月、幕府の横車に依って後嵯峨上皇の遺詔に叛した後深草上皇(持明院統)の治世が成立して後嵯峨上皇の遺詔を受けた亀山天皇(大覚寺統)との二統に分れ対立しました。
こうした情勢の中で大覚寺統の後醍醐天皇は討幕を志され元亨三年(一三二三)の秋、廷臣、日野資朝を東国に下し味方をつのったのであります。当然、日蓮大聖人の「王仏冥合」の教えを信奉していた新田小野寺一党は日目上人に進め、日目上人は時至れりと国諌の書を認めて上洛し天奏を果たされました。この[国家諌暁』の奏上文は世に「園城寺申状」と云われ、伝えられております。その認められた内容は次の如くでありました。」(※注2)

※注1
http://www.namaki.com/hedit539.htm

※注2
http://www.namaki.com/hedit537.htm

犀角独歩さんの投稿とは直接関係ないですが、早坂鳳城氏がこんな論文を書いていますので紹介します。

「天皇本尊論について」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho29/s29_138.htm

677空き缶:2003/09/15(月) 23:44
横レス失礼します

「園城寺申状」とは日興上人の初七日に目師等の連名にて書かれた「日興上人御遺蹟事」に出てくるあれでしょうか?

個人的には「武田の兵乱」で紛失したのは「二箇相承書」ではなく「園城寺申状」と「御下文」ではないかと推察していますが。
箱だけは西山本門寺に現存していると聞いたことがあります。

678犀角独歩:2003/09/16(火) 05:42

愚鈍凡夫さん:

まったくユーモアに富んでいますね、愚鈍さんは。笑わせてくれますね。小野寺直さんですか。彼のことについては、ここでもけっこう書きました。四半世紀前のわたしの知り合いです。彼の言うことはみんな作り話ですよ。まあ、作り物は話だけではなく、漫荼羅から何からそうですが(笑)

いずれにしても、引用のものは石山で言うところとまったく史観を異にしていますね。こちらとは別の作り話なのでしょう。わたしは「御下文」というのは元々筺しかなかったのであろうと推測しています。つまり、こちらも作り話であろうと。

「作り話」と記すと、では「作り話である証拠を示せ」と言われそうですが、なくなったと主張されるものが元々なかった証明なんかできませんよね。なかったんですから(笑)

なお、早坂師の「天皇本尊論」、要するに神本仏迹論といいますか、これらは日蓮系の尊皇形態の典型でした。狸祭事件で川に投げ込まれた石山の、例の坊さんもこの同轍の考えであったのでしょうね。

そもそも『日蓮二字の事』に「故に妙法、釈尊、蓮祖、天照大神は一体の異名なり」というところと、清水師がいう天皇本尊論とは同轍なのであって、この早坂師の批判は、ただちに戦前までの石山教義そのものを批判するものとなります。

もっとも伝尊門『百六箇抄』では広宣流布の暁の天皇は興師であるとしています。

以下、ここのところまでの流れと関係ありませんが、日目再来説をいう、顕正会、あるいは石山の広宣流布観が、その基とするところとも違ったことを説明したわたしの小文です。

□日目再誕説

石山では保田と要山の伝承を自山のものの如く扱い、日目再誕説を捏造しました。
これは以下の保田文献に、まず根拠が求められます。我師『申状見聞』に

「目上御遺言に曰く此の申状奏せず終に臨終す此の土の生を受ける所用無しと雖も今一度人間に生れ此の状を奏す可し、若し此の状奏聞の人未来に於て之れ有らば日目が再来と知る可し」

これは実は、保田・要師が実際に行ったことで、この人物こそ、目師の再来人であるという伝説が保田で次に生じるのですが、大石寺では、この遺言だけを採って自山向けにアレンジし直します。この場合、『日興跡条々事』という大石寺文書の「本門寺建立の時は日目を座主と為し、日本乃至一閻浮提の山寺等に於いて半分は日目嫡子分として管領せしむべし」という件と連合されます。

なお、尊門に代表される富士門における広宣流布観は上述の日目再来説より更に強固です。広宣流布の暁には日目のみならず、蓮師、興師、そして、朗師の4人を四菩薩に凝らし、以下のように言われます。

「日興先をかくれば無辺行菩薩か・日朗後をひかうれば安立行菩薩か・日蓮大将なれば上行菩薩か・日目は幡さしなれば浄行菩薩か…上行菩薩は大賢臣と成り・無辺行菩薩は大賢王と成り・浄行菩薩は大導師となり・安立行菩薩大関白或は大国母と成り、日本乃至一閻浮提の内一同四衆悉く南無妙法蓮華経と唱へしめんのみ、四大菩薩同心して六万塔を建立せしめよ、何れの在所為りとも多宝富士山本門寺上行院と号す可きなり時を待つ可きのみ」(百六箇抄)

やや煩雑な記述なので整理すれば

日蓮−上行菩薩−大賢臣(実質的為政者)
日興−無辺行菩薩−大賢王(天皇)
日目−浄行菩薩−大導師(本門寺法主)
日朗−安立行菩薩−大関白/大国母(天皇の補佐、あるいは皇后)

であると言うわけです。そして、広宣流布の時はこの4人は、それぞれ以上のような役柄で再来して、「日本乃至一閻浮提の内一同四衆悉く南無妙法蓮華経と唱」えさせるばかりであるといい、そして、この四菩薩の変化、日蓮・日興・日目・日朗の四人が心を合わせて六万坊を建立すると言います。極めつけは「何れの在所為りとも」ともいい、本門寺の建つべき場所に特定がありません。蓮師が臣であることを前提に、天皇(興師)・関白/皇后(朗師)・本門寺住職(目師)で六万坊、戒壇建立で、その結果、万民に題目を唱えさせるという筋書きになっています。

いやはや、すごい。これを現在で軋轢のない形に書き換えたのが目師再誕説であって、どこぞの会の言う「御遺命守護」など、この相伝に比べれば、実に矮小です。天皇本尊論とはまた違う富士門の尊皇思想と言うところでしょうか。

679犀角独歩:2003/09/16(火) 06:27

小野寺さんのことについては、以下のところで書きました。

「富士山本門寺について教えて下さい」
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/honmonzi.htm

12から書きました。

680犀角独歩:2003/09/16(火) 07:02

○園城寺申状に係る石山文献の記載

『富士年表』
1281|弘安4辛巳|天皇/後醍醐|武家/時宗|聖寿/60|12月 ○日興 園城寺申状を代奏す(初度天奏)(聖613)
1281|弘安5辛午|天皇/後醍醐|武家/時宗|聖寿/61(聖滅1年)|2.29 園城寺下文を賜る(石蔵写)

ところが富要、亨師の言では

「一、園城寺申状及び御下し文。
 大聖人の代官として日目上人始めて天奏を遂げたり、此れを富士の眉目として誇りたるも今や正本写本共に逸して空篋を西山に存するのみ、鳴呼悼ましいかな」

と、なぜか、目師の代奏となっています。
この齟齬を説明するように『日蓮大聖人正伝』では

「日興上人の代奏
 一国を苦悩と悲哀のどん底に陥れた蒙古の再襲にも、幕府は大聖人の諌言を聞き入れることはなかった。この上は朝廷に奏上する外に道はないと考えられて、大聖人は申状を認め、日興上人に代奏を命ぜられた。これが『園城寺申状』である。
『富士門家中見聞』に
「同(弘安)四年には聖人園城寺の申状を書いて日興に給う。日興、師の御代官として奏間の便節を勤めたまえり」(聖613)
とある。
 そして、翌弘安5年(1282年)にも、再び日目上人に命じて天奏をされたという。
 この時、奏聞を受けた後字多天皇は、伝奏を通じて園城寺の碩学に対し、大聖人の諌状の判定を命じ園城寺の碩徳の答旨は、正像末三時弘経の次第を説き明かし、謗法を対治して正法を立つべしとの大聖人の道理に叶った憂国の諫言に対して、絶讃の言葉を惜しまなかったと伝えられている。
 後宇多天皇は大いに喜び、「朕、他日法華を持たぱ必ず富士山麓に求めん」との言葉を添えて、「下し文」を下賜された。
 これが「弘安五年の御下し文」でしある。
 この『申状』と「下し文』二書は、重宝として日興上人の滅後は大石寺の六老によって巡守されていたが、目目上人の滅後、日代系の西山に伝わって紛失したと伝えられている」(P401)

繰り返しになりますが、弘安4、5年には大石寺は富士にはなかったのであって、その一点を採っても、こんな話は信頼できません。
なお、紛失については、亨師は

「大石寺より転じて時の南条宗家に保管せられたるが、此の時綱時長の父子代共に大石寺の道師の敵となりて終る所明ならず、又従つて開山滅後廿四年を経過せる此置文の時は日助の手に御影のみ収納して申状御下文は其儘南条家に在りて引渡を肯ぜざれば、国主に訴へて其権力を借りても僧衆へ回収すべしとの此の置文の意なるが、其儘南条時長一家の没落と共に紛失したりしや又は一度取りかへしての後西山本門寺にて紛失したりしやを知らず、但し此より百二十余年後の妙本寺日要の談には東台他に戸(東光寺か)に在りと云へば若し此談を正とせば日助系の西山徒の責に係るなり、偏に後賢の研究を仰ぐ」

とは言います。

681犀角独歩:2003/09/16(火) 07:04

【680の訂正】

誤)1281|弘安5辛午|…
正)1282|弘安5辛午|…

682ガンコ:2003/09/16(火) 13:32

愚鈍凡夫さん

>ガンコさんから逆襲がある

とんでもありません。
正直に告白すれば、幕府提出用の安国論が「天台沙門日蓮」となっていることすら、空き缶さんの投稿を読むまで知らなかったくらい無知なんですから、とてもお話についていけるものではありません。
それから、早坂先生の論文に出てくる「国体擁護の大曼荼羅」とはなんでしょうか?


独歩さん

「日興先をかくれば無辺行菩薩か・日朗後をひかうれば安立行菩薩か・日蓮大将なれば上行菩薩か・日目は幡さしなれば浄行菩薩か…上行菩薩は大賢臣と成り・無辺行菩薩は大賢王と成り・浄行菩薩は大導師となり・安立行菩薩大関白或は大国母と成り、日本乃至一閻浮提の内一同四衆悉く南無妙法蓮華経と唱へしめんのみ、四大菩薩同心して六万塔を建立せしめよ、何れの在所為りとも多宝富士山本門寺上行院と号す可きなり時を待つ可きのみ」(百六箇抄)

去年の秋にもご教示くださいましたが、どういうわけか、わたくしの手元にある御書には該当する御文を見つけることができません。どういうわけでしょうか?

683犀角独歩:2003/09/16(火) 14:12

愚鈍凡夫さん:

678を読み返して誤解があるといけないので、補足です。
わたしが「笑う」と言ったのは阪神タイガース優勝の件とそれに続く絵文字です。
あと、ほとんど富士門のなかでパロディー化している小野寺さんの件を単に提示されているから、ブラックユーモアが効いている、そんな意味でした。好感を持ってのことです。
もちろん、愚鈍さんご本人のお人柄と見識を笑うという意味ではありません。
そんな穿った見方をされる方でないと百も承知していますが、万全を期して補足しました。

ガンコさん:

> 手元にある御書には該当する御文を見つけることができません。どういうわけでしょうか?

理由は簡単です。編集されて都合の悪いところはカットしてしまってあるからです。わたしの引用は『富士宗学要集』創価学会発行 第1巻 昭和53年5月19日第5刷 P22 からのものです。
亨師の編註に拠ると

「日辰上人・日我上人等古写本に依って之を写し一校を加へ、又後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり」(P25)

と言います。ここでいう疑義というのは写本で見て後人の書き込みとわかり、さらに富士義に合わないものということでしょう。後人の書き込みで義が都合が悪くなければ一本の傍線、都合が悪ければ二重の傍線となっています。わたしが引用した所は、もちろん、二重線となっています。戦後の編集本、神本仏迹を窺わせれば、自分たちと違うと言いたいわけでしょう。

なお、以上のような「添削」は各所に見られます。重書とする寛師文段に著しく、富士一跡門徒存知事では富士戒壇の主張が興師であるのに、それを蓮師のものと書き添えたり、御義口伝では六老僧と註法華経に関する記述は削られています。こんな例は枚挙に暇がありません。
御書の真・偽・未決どころか、編集によって、都合よく書き換えられている事実、この点を見落とすと、また騙されることになります。

684犀角独歩:2003/09/16(火) 14:30

以上の『百六箇抄』の記述は、御書全集(学会版権)、平成新編(石山版権)ではカットされています。
しかし、富要(学会版権)では載り、また、たしか元々は浅井さんは印刷製本を請け負っていたと記憶する『日蓮正宗聖典』では以下のように多少の出入りがありますが、載っています。つまり浅井さん妙信講はこの記述を“聖典”として、かつては取り扱っていたわけです。もしこの記述を現在隠して用いないのであれば、「言うことが変わった」とわたしは言いたいわけです。

(わたしが所蔵している『日蓮正宗聖典』は版が新しいので、旧版(初版)とは、発行人・頁数が違っているかも知れませんが、該当の記載は昭和53年12月28日再版・編集者/代表 堀米日淳・発行者/細井日達・発行所/宗祖日蓮大聖人六百八拾遠忌記念 聖典刊行会 P372です)

685ガンコ:2003/09/16(火) 15:28

>編集されて都合の悪いところはカットしてしまってある
>編集によって、都合よく書き換えられている事実、この点を見落とすと、また騙される

やれやれ、頭が痛いですね。しかし、そんなバカな話があるもんですかね。ちゃんと、御宗門の見解を聞いてみたいところです。

浅井先生は、けっこう、なにげに使っているんですよ。本年の日興上人御報恩勤行会でも、百六箇抄にいわく、かくかくしかじか、あれ? 聞いたことないぞ? うちに帰って調べて見ても該当する御文がないのでした。
また、十年位前のやはり日興上人会でも、御相伝書には「日興先をかくれば無辺行菩薩か」とある・・・なんて言っていまして、この時は御相伝書とは何を指すのかさえ知りませんでしたから、今頃になって思い出したわけです。

おそらく顕正会で御書全集を造れば入れると思いますけど、どうも今の調子じゃ当分はできそうにないですね。

686犀角独歩:2003/09/16(火) 16:19

> そんなバカな話があるもんですかね

683〜684に実例を挙げてのことです。
否定の仕様もないでしょう。
さらに言えば、現宗門では「真書であるが信仰に資するところが少なきものとして収録しなかった」(平成新編 P11)として9書を挙げています。あろうことか、蓮師の真書と拝せるものであっても、現石山で言う“信仰”に資するものは収録すらしないというのです。これは換言すれば、蓮師の言う信仰と現石山の言う信仰に歪みがあるということでしょう。だいたい、宗祖、それも本仏と仰ぐ蓮師の書で「信仰に資する所が少ない」とはよくぞ言ったものです。

> 顕正会で御書全集を造れば

造るわけはないですよね。
墨筆を読める人間すらいないでしょう。第一、それぞれの御書の真・偽・未決を論ぜず、十把一絡げ、自分たちが引用するものはすべて蓮師の御書としたうえ、さらに切り文して継ぎ接ぎして、思う所に任せて編集された教学ですから、全集なんか、会員に読まれたすぐにその実態がばれてしまいますものね。「そんなバカな」ことはしないでしょう(笑)

687犀角独歩:2003/09/16(火) 16:20

また、打ち間違えてしまいました。

【686の訂正】

誤)現石山で言う“信仰”に資するものは収録すらしないというのです。
正)現石山で言う“信仰”に資するところ少ないものは収録すらしないというのです。

688愚鈍凡夫:2003/09/16(火) 18:36

犀角独歩さんへ。

>>683:
承知しておりますので、気遣い無用でございます。

>>678: >>680:
のレス、勉強になりました。有り難うございます。

「「日蓮聖人御影並びに御下文園城寺申状 上野六人老奏の方巡に守護し奉る可し、但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條日興上人の仰せに依って支配し奉る事かくの如し(以下略)」(原文漢文・法主全1巻P213)
 この念書に挙げられた御下文と園城寺申状について少し説明を加えれば、弘安四年、大聖人はご自身最後の一大事として天奏を日興上人に命じ、日目上人を代理人として京都に遣わされました。その時に奏上されたのが園城寺申状です。天皇がその内容について園城寺の碩学に諮られたところ、時宜に適せりとの賞賛があったことから、「園城寺申状」と呼ばれてきました。天皇は天奏に及んだ大聖人の御心を嘉(よ)みせられ、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」と再び訪れた日目上人に託して遣わされたのが下文です。」(興詳伝P126)
というのが、富士門の公式見解なんでしょうね。

>>682:ガンコさんへ

「国体擁護の大曼荼羅」とは、
「この「国体擁護の大曼荼羅」は、大正3年11月、大正天皇の即位記念として、日蓮宗より清水梁山氏の説明書を添え奉献されている。いわゆる奉献本尊である。」(天皇本尊論について)
とあるように、日本国の安泰と興隆を祈願し、日蓮宗より皇室に奉納した大曼荼羅ということではないですか。また、
「日本仏法の使命のもとに、「国体擁護の大曼荼羅」をもって、全世界を統一して行こうとしたねらいが、清水梁山、高橋善中氏らにはあったようである。」(天皇本尊論について)
とあるように、「戒壇之本尊」の皇室版といった意味合いも持っていたのではないでしょうか。皇室関係のニュースなどで聞いたことがないですから、案外、皇室からは無視されているのかも知れませんね。

689空き缶:2003/09/16(火) 19:22
犀角独歩さん 横レス失礼します。
「繰り返しになりますが、弘安4、5年には大石寺は富士にはなかったのであって、その一点を採っても、こんな話は信頼できません。」
とありますが、弘安4,5年に大石寺がなかったことと「御下文と園城寺申状」が信用できないのとどのように関係があるのでしょうか?
これらにまつわる古事の中に「大石寺」という固有名詞がでてくるのですか?
富士山麓=大石寺との見解でしょうか。

690愚鈍凡夫:2003/09/16(火) 21:05

横レス失礼します。
空き缶さん、
犀角独歩さんは、富士五山を代表して大石寺といわれたのではないですか。
弘安4年といえば、蓮祖は身延にいらして、門下の育成に尽くされていたわけです。弟子の方々も各地で活発に弘教していた頃ですね。
故に、後に興門派が富士五山に分裂するとは誰も予想していなかったはずです。
なのに、まるで蓮祖の戒壇構想の地が富士であると予想したかのように、
「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」
との下文を天皇から賜るのはおかしいと仰っているのだと思います。

691素朴 111:2003/09/16(火) 23:02
今一度「素朴」にリターンさせていただきたい。 小生は「過去の後遺症てき弊害からか”事物的な対象”に惹かれまする、。
 当欄では「他者は破権門理いたしまするが、、、」「では貴殿はいかなる修行こそが”成仏”の根源、根因”かと断ずる」という点が全く分かりません、。 
 日蓮サンが強調した「仏の境涯はいかにして獲得、、??」については、未だ???のようですが、、。 そろそろ「それなりのお答えがご期待できるでしょうか、、??」。

692顕正居士:2003/09/16(火) 23:07
日向師が天台沙門と名乗った申状というのは
『五人所破抄』に「天台法華宗の沙門日向日頂謹んで言上す」とあるもので
『御伝土代』には「日頂日向一紙の申状」と云うものです。
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/mokuji.htm

「国体擁護の大曼荼羅」というのは「大日本国衛護曼荼羅」のことではないか
とおもいます。紫宸殿御本尊の類いでしょう。

「富士山麓」は『日蓮一期弘法』の
「国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而已事戒法謂是也」
とおなじことであり、
五一相対、興師付法、富士戒壇などがすでに富士派共通の教義になった後に
大石寺などとの抗争に優位を占めるため北山本門寺で作成されたのでしょう。

693空き缶:2003/09/16(火) 23:12
愚鈍凡夫さん
園城寺申状の中に、富士戒壇論に近いことが書かれていた可能性を、私は模索しています。
真筆・写本ともに現存しませんので確認しようがないんですが、「日興上人御遺蹟事」は正本が大石寺に現存しますので、そこに書かれていることは一応信用していますが。
また、正本は伝わっていませんが日興上人の書といわれる「三時弘経次第」には富士山本門寺説が示されています。
「三時弘経次第」は「日目上人申状案」(正本:保田妙本寺)の文面にでてきますから、正本は現存しなくとも確かに存在した書簡であると考えています。

694空き缶:2003/09/16(火) 23:44
顕正居士さん
『御伝土代』には「日頂日向一紙の申状」と云うものです。

文面をみると、確かに引用されているのは、日頂上人の申状そのものですね。
この日頂上人の申状を日向上人も同意の上、提出されたと日興門流では伝わったのですね。
やはり「弟子分本尊目録」のそれは「日澄上人」からの報告をもとに書き起こされたものと確信しました。

695愚鈍凡夫:2003/09/17(水) 00:11

顕正居士さん御教示有り難うございます。
御指摘の文証、これらのことですね。

「天台法華宗の沙門日向・日頂謹んで言上す。桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を汲み立正安国論に准じて法華一乗を崇められんことを請うの状。右謹んで旧規を検えたるに祖師伝教大師は延暦年中に始めて叡山に登り法華宗を弘通したもう云云。又云く法華の道場に擬して天長地久を祈り今に断絶すること無し詮を取る。」(五人所破抄)

「日向日頂一紙ノ申状ニ云ク、天台ノ沙門日向日頂等謹テ言ス、桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を酌む、祖師伝教大師叡山に登り法華宗を弘通する時、権門の邪見に於て取り砕くが如し、自余の正義に至つては泉の如く涌ク以来日本一州ノ山寺叡山ノ末寺タル条世以テ隠れなし人亦これを知る」(御伝土代)

空き缶さん、これが『園城寺申状』だと思うので、長文ですが引用します。

「日蓮聖人の弟子駿河の国富士山住日目誠惶誠恐庭中に言上す。殊に天恩を蒙り且つは三時弘経の次第に任せ且つは第五百歳の金言に依り永く爾前・迹門を停止し法華本門を尊敬せられんと請ふ子細の状。
副へ進ず、一巻 立正安国論文応元年の勘文並に三時弘経の図等。
右謹んで案内を検へたるに仏法は王法の崇重に依りて威を増し王法は仏法の擁護に依りて基を闢(ひら)く、是を以て大覚世尊未来の時機を鑒(かんが)みて世を三時に分ち法を四依に付して以来、正法千年の内、迦葉・阿難等の聖者先に小を弘め大を畧し竜樹・天親等の論師次に小を破し大を立つ、像法千年の間、異域には即ち陳・隋の両主の明時に智者十師の邪義を破し、本朝には亦桓武天皇の聖代に伝教六宗の僻(びやく)論を改む。今末法に入っては上行出世の境、本門流布の時なり。正・像己に過ぎぬ、何ぞ爾前・迹門を以て強ちに御帰依有るべけんや。料(はか)り知んぬ讎佞(ざんねい)叡聞を隔て邪義正法を妨(さまた)ぐ、如来得道の昔、尚魔障有り、何に況んや未代をや。然るに聖主の御宇の今や時機己に又至れり、弘通の期幾日ぞや、中ん就く天台・伝教は像法の時に当って演説し日蓮聖人は末法の代を迎へて恢弘(かいこう)す、彼れは薬王の後身、此れは上行の再誕なり、経文に載する所解釈に炳焉(へいえん)なる者なり。凡そ一代の教迹の濫觴(らんしょう)は法華の中道を説かんが為めなり、三国伝持の流布盍(なん)ぞ真実の本門を先とせざらんや、若し瓦礫(かりゃく)を貴んで珠玉を棄て燭影を捧(ささ)げて日光を哢(ろう)せば只風俗の迷妄に趁(おう)て世尊の化導を謗ずるに似たるか、華中に優曇有り、木中に栴檀有り、凡慮覃(およ)び難し、併ら冥鑑に任す。偏(ひとえ)に堯・舜の道を嗜み揚墨の門に立たず。今、適(たまた)ま聖代に逢ふ、早く下情を達し将に上聴を驚かさんとす。
 天裁を望み請ふ且は仏意を察せられ且は皇徳を施され、速に爾前・迹門の邪教を退け法華本門の妙理を弘められば海内静謐にして天下泰平ならん。

元亨三年(一三二三)    十二月廿二日」

「日蓮聖人の弟子駿河の国富士山住日目誠惶誠恐庭中に言上す。」
とはありますが、富士戒壇説とは結びつきませんね。

696愚鈍凡夫:2003/09/17(水) 00:22

これが2度目の上奏文だと思います。ソースは何れも昨日紹介した本門正宗のHPです。

「日蓮聖人の弟子日目誠惶誠恐謹んで言す。殊に天恩を蒙り、且は一代説教の前後に任せ、且は三時弘経の次第に准じて正・像所弘の爾前迹門の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められんと請ふの状。
 一巻、立正安国論、祖師 日蓮大聖人文応元年の勘文
 一通、先師日興上人申状 一通、三時弘経の次第
 右謹んで案内を撥へたるに一代の説教は独り釈尊の遺訓なり、取捨宜しく仏意に任すべし、三時の弘経は即ち如来の告勅なり進退全く人力に非ず。抑も一万余宇の寺塔を建立し恒例の講経陵夷を致さず、三千余の社檀を崇め如在の礼奠怠懈せしむることなし、然りと雖も顕教・密教の護持も叶はずして国土の災難日に随って増長し、大法秘法の祈祷も験なく自他の叛逆歳を逐うて強盛なり、神慮測られず仏意思ひ難し、債ら微管を傾け聊か経文を披きたるに仏滅後二千余年の間、正・像・末の三時流通の程、迦葉・竜樹・天台・伝教末の残したまふところの三秘法あり。所謂、法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり、之れを信敬せらるれぱ天下の安全を致し国中の逆徒を鎮めん、此の条、如来の金言分明なり、大師の解釈炳焉たり、中ん就く我が朝は是れ神州なり、神は非礼を受けず、三界は皆仏国なり仏は即ち謗法を誡む、然れば即ち爾前迹門の膀法を退治せば仏も慶ぶ神も慶ぶ、法華本門の正法を立てらるれば人も栄え国も栄えん、望み請ふ殊に天恩を蒙り諸宗の悪法を乗損せられ一乗妙典を崇敬せらるれは金言しかも愆たず、妙法の唱閻浮に絶えず玉体恙無くして宝祚の境、天地と彊まり無けん、誠惶誠恐謹んで言す。
  元弘三年十一月日」

697空き缶:2003/09/17(水) 00:31
愚鈍凡夫さん
ありがとうございます。しかしというか、やはりというかこの書面中にも
副進に「三時弘経の図等。」とありますね。これは恐らく「三時弘経次第」の事だと思うんです。
そうなると、「三時弘経次第」には富士山本門寺の事がかかれていますので、「御下文」の存在もあながち否定できないと思うのです。

「三時弘経次第」
 
一仏法流布の次第
一正法千年流布 小乗 権大乗
一像法千年流布 法華 迹門
一末法万年流布 法華 本門
 
今ま末法に入つて本門を立てゝ国土を治む可き次第。
桓武天皇と伝教大師と共に迹化付属の師檀と為つて爾前を破つて迹門を立てゝ像法を利益し国土を護持する事之を図す。
 
迹門の寺 付属の弟子は 薬王菩薩 伝教大師。
比叡山 始成の釈迦仏 迹化垂迹の師檀 像法。
垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 桓武天皇。
今ま日蓮聖人は共に本化垂迹の師檀と為つて迹門を破して本門を立てゝ末法を利益し国土を治む可き之を図す。
本門の寺 付属の弟子 上行菩薩 日蓮聖人。
冨士山 久成の釈迦仏 本化垂迹の師檀 末法。
垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 当御代。
 
天照太神の勅に曰く、葦原千五百秋の瑞穂の国は是れ子孫の王たる可き地なり、宜しく就て治む可し。
孝経に云はく、先王正直の徳を行ふときんば四方の衆国皆法則に順従するなり。

原文は漢文。nb様のページよりコピーさせていただきました。

698愚鈍凡夫:2003/09/17(水) 00:36

日付けが合いませんが(ひょっとして書写の日付?)、文面がなんとなくそれらしいですね。
本門正宗の話は犀角独歩さんが仰るように胡散臭いですが、使用している文証は本物を使っているみたいなので。
それでは、寝ます。

699空き缶:2003/09/17(水) 00:38
愚鈍凡夫さん
2枚目の方は、まさしく保田妙本寺所蔵の「日目上人申状案」です。しかし一部改ざんされています。
ちょっと見づらいかもしれませんが、真筆写真を「MSNコミュニテイ」の「大本山妙本寺」にアップしていますので、
宜しければ御覧下さい。

700犀角独歩:2003/09/17(水) 01:14

空き缶さん:

> 弘安4,5年に大石寺がなかったことと「御下文と園城寺申状」が信用できないのとどのように関係があるのでしょうか?

既述でわたしは主に石山の文献を紹介しました。つまりは、石山の言い分を挙げたわけです。その意味で、「大石寺」の名称を挙げたわけです。

> これらにまつわる古事の中に「大石寺」という固有名詞がでてくるのですか?

出てきません。出てこないので、関係がないと言っているわけです。

> 富士山麓=大石寺との見解でしょうか。

というのが、石山の見解でしょう。上に挙げるごとくです。

せっかく、ご質問いただきましたので、次いでわたしのほうからも質問させていただきます。

空き缶さんは「富士山麗」とはどこを指すとお考えですか。

御下文と園城寺申状、もし、その全文すら伝わらないとしたら、あるのは伝説ばかりとなります。
そもそも、あの謹厳実直な興師が蓮師述の申状、また下賜された下文が実在していたら、それを書写し遺さないわけがありません。
その意味から、『日興上人御遺跡事』の信憑性自体をわたしは疑っています。

なお、これは空き缶さんとは関係ありませんが、小野寺さんがいうところのストーリーの脈絡からは何も記していません。わたしは事実関係を問題にしているのであって、彼のいうところはまるで問題にしていません。


愚鈍凡夫さん:

有難うございます。仰るとおりです。
富士五山というより、弘安5年の段階では石山はおろか、富士に係る脈絡は何も存在しないということを言いたかったわけです。
それより何より、本弟子六人すらまだ決まっていない段階です。五一相対はおろか、興門派もなければ、富士門もありません。
そもそも蓮師において、富士に対する特定の思い入れすら窺えません。
天皇は、身延に返信するのに、なぜ「富士山麗」と言ったかということです。むしろ、当時すでに久遠寺の名称が用いられていたとしたら、この固有名詞を挙げるほうが自然でしょう。
まさか「身延山は富士山麗のうち」などと言い出す人はいないと思います。

701犀角独歩:2003/09/17(水) 01:38

> 695

愚鈍凡夫さん、これは園城寺申状ではないでしょう。
これはなんでしょうか。
以下の申状をご覧ください。

「日蓮聖人の弟子駿河の国富士山住日興誠惶誠恐庭中に言上す。殊に天恩を蒙り且つは三時弘経の次第に任せ且つは第五百歳の金言に依り永く爾前迹門を停止し法華本門を尊敬せられんと請ふ子細の状。
副へ進ず、一巻、立正安国論文応元年の勘文並に三時弘経の図等。
右謹んで案内を検へたるに仏法は王法の崇重に依りて威を増し王法は仏法の擁護に依りて基を闢く、是を以て大覚世尊未来の時機を鑒みて世を三時に分ち法を四依に付して以来、正法千年の内迦葉阿難等の聖者先に小を弘め大を畢し竜樹天親等の論師次に小を破し大を立つ、像法千年の間異域には則ち陳惰両主の明時に智者十師の邪義を破し、本朝には亦桓武天皇の聖代に伝教六宗の僻論を改む。
今末法に入つては上行出世の境本門流布の時なり、正像巳に過ぎぬ何ぞ爾前迹門を以つて強ちに御帰依有るべけんや、料り知んぬ讎侫叡聞を隔て邪義正法を妨ぐ如来得道の昔尚魔障有り何に況んや末代をや、然るに聖主御字の今や時機巳に又至れり弘通の期幾日ぞや、中ん就く天台伝教は像法の時に当つて演説し日蓮聖人は末代の代を迎へて恢弘す、彼れは薬王の後身此れは上行の最誕なり、経文に載する所解釈に炳焉なる者なり。
凡そ一代教迹の濫觴は法華の中道を説かんが為なり、三国伝持の流布盍ぞ真実の本門を先とせざらんや、若し瓦礫を貴んで珠玉を棄て燭影を捧げて日光を哢せば只風俗の迷妄に趁つて世尊の化導を謗ずるに似たるか、華中に優雲有り木中に栴檀有り凡慮覃び難し併ら冥鑑に任す、偏に��舜の道を嗜み揚墨の門に立たず、今適ま聖代に逢ふ早く下情を達し将に上聴を驚かさんとす、天裁を望み請ふ且は仏意を察せられ且は皇徳を施され、速に爾前迹門の邪教を退け法華本門の妙理を弘められば海内静謐にして天下泰平ならん、日興誠惶誠恐謹んで言す。
喜暦二年八月日」

亨師はこの状に就き「興師申状の三、祖滅四十六年、写本要山等に在り、五人所破抄に引用せるものにして公家上奏の分なり」としています。
「日興」とあるところを、「日目」に差し替えたものを目師が提出されるはずはないと思います。第一、園城寺ではなく、「公家」と亨師は注しています。

第一、園城寺申状、弘安4年蓮師の案ではありませんか。
御下文は、「弘安五年の御下し文」と成句化しています。なのに、なぜ、元亨3年の目師案が園城寺申状なのですか。

> 696

この申状の日付、「元弘三年十一月」とは、目師が美濃の垂井に、天奏を遂げずに寂した日時です。つまり、我師『申状見聞』に「此の申状奏せず終に臨終す」と言われる状と思われます。園城寺申状との脈絡はこちらもないものと思われます。

702犀角独歩:2003/09/17(水) 02:22

> 692 顕正居士さん:

「富士山嶺」に就き、ご教示、有り難うございました。

703空き缶:2003/09/17(水) 03:17
犀角独歩さん
『空き缶さんは「富士山麗」とはどこを指すとお考えですか。』
私も富士山周辺であると思います。
個人的には日興上人の身延離山は先に書き込みましたように、地頭の謗法では無く「御下文」の存在によると考えています。
ようするに日興上人は身延を誰かに任せて早く富士方面に行きたかったのではと思っています。
文献的な根拠が乏しいので、あくまで私観ですが。

704犀角独歩:2003/09/17(水) 07:53

空き缶さん:

お考えはこうですか。
 下文には伝わるとおり「富士山嶺」という記述があった
 この記述は申状の内容に富士を窺わせる記述があったからではないのか
 故に興師は富士を目指した。

たしかに、このような類推は可能ですね。
わたしは弘安4年の代奏自体、作り話であると思っていますが、上述のような推理はロマンがあります。

わたしは、興師が富士を目指したのは、目師の縁戚、また蓮師の檀那でもあった南条家があったからであろうと通り一遍にとらえています。しかし、それでも、南条領地の隣が興師の縁戚である河合であり、両師にとって“富士”が拠点となっていくことは、蓮師も憶念できた可能性は否定できませんね、たしかに。

やや視点は変わりますが、興師と、いわゆる“富士信仰”の関係は、派祖・興師となっていくうえで、重要な意味をもっていると想像しています。

下文、園城寺申状ともに現存しない以上、何とも言えませんが、何が手がかりを得れば、わたしも空き缶さん同様、その存在から種々考えてみたいと思います。

なお『日興聖人事跡事』については、わたしは偽書ではないのかと思っているのです。
その理由はこの状の日付にあります。「正慶二年癸酉二月十三日」となっています。
下文、申状より何より、この状で問題になるのは「御影」のことです。
正慶2(1333)年は言うまでもなく興師の寂年、日付は2月7日でした。となると、この状はその直後に記されたものであることになります。

以前に問答さんがご指摘くださったことですが、重須では盗難事件がありました。

「正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ」

「正中二年」とは1324年です。つまり、『日興聖人事跡事』が記される9年前に既に御影を失っていたはずです。それにも関わらず、この状には「御影」の文字が見られるわけです。これはどうにも納得のいかないところです。

以上から、わたしは弘安五年下文、園城寺申状、さらに日興聖人事跡事はなにか脈絡のある“作り話”ではないのかと思っているわけです。

とはいうものの、空き缶さんの類推に、既述したとおり、惹かれるのも事実です。

705愚鈍凡夫:2003/09/17(水) 12:36

昨夜の続きです。
富士年表から天奏の部分だけを抜き出してみました。

1281弘安 4 辛巳 後宇多 北条時宗 御歳 60歳
12月 ○日興園城寺申状を代奏す〔初度天奏〕(聖613)

1333元弘 3 癸酉 後醍醐 北条守時 正慶 2 光厳 滅後 52年 日道
2.7 二祖日興重須に入滅88(大過去帳・聖598) 2.8 日興葬送(宗全2-270) 2.13 日目等、日興の遺誡により大聖人御影並びに園城寺御下文守護につき違背なきよう誡む(聖586・石蔵) 11.15 三祖日目太夫阿日尊・宰相阿日郷を伴い天奏上洛の途美濃垂井に入滅、荼毘に付す74(聖661・大過去帳) ○日尊・日郷三祖日目の遺骨を奉して上洛天奏(聖662) ○日郷遺骨を奉じて大石寺に帰り下之坊に納む(聖662・下之坊寺誌・別統)

次に、『三時弘経次第』の最後の部分を抜き出してみました。

「編者曰く本山蔵一紙の古写本(筆者不明)に依つて之を写す、猶開山上人御正筆中に此と同義の本迹法門あり、今其の要文を録す。
日興上人正筆「本門弘通事」の中に在り。
迹門比叡山 日枝山 吾山 御社
本門富士山 蓮花山 大日山」

弘安4年(1281)の天奏の際に、上奏文・立正安国論と共に、他の高僧を差し置いて日興師の『三時弘経次第』を添えるというのはどうですかね。う〜ん、蓮祖がそれを許すでしょうか。
可能性は低いようですから、やはり、
「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」
との後宇多天皇の下文は不自然ですね。
それと、
「編者曰く本山蔵一紙の古写本(筆者不明)に依つて之を写す、猶開山上人御正筆中に此と同義の本迹法門あり、今其の要文を録す。日興上人正筆「本門弘通事」の中に在り。」
とありますが、筆者不明の古写本を写したのであって、これが必ずしも日興師の作とは限らないですよね。後世の誰かが日興師の『本門弘通事』を抜き書きした可能性を否定できないのではないでしょうか。日付がないのがその可能性を示唆していると思います。
むしろ、元弘3年(1333)の天奏の際、上奏文に添えるのであれば、『本門弘通事』ではないでしょうか(但し、拝見したことはありません)。

この天奏問題、クリアしなければならないハードルが高いですね。

ちなみに西山本門寺の寺宝に『園城寺申状』がありますが(ほんまかいなぁ。空箱のこと?)
【寺宝】紺紙金泥法華経等国宝 3点/方等三昧経等重美13点/日蓮聖人御舎利/日蓮聖人真筆 万年救護本尊/日興上人御舎利/日興上人真筆・本尊/園城寺申状/大柊(天然記念物)/その他多数あり
http://www.kotobuki-p.co.jp/kensaku/data/30ho28.htm

706空き缶:2003/09/17(水) 13:39
愚鈍凡夫さん
『弘安4年(1281)の天奏の際に、上奏文・立正安国論と共に、他の高僧を差し置いて日興師の『三時弘経次第』を添えるというのはどうですかね。う〜ん、蓮祖がそれを許すでしょうか。』
→大石寺説でいうと「三時弘経次第」は日蓮聖人から日興上人への口伝でしたっけ。この説が正解なら私としては納得できるんですが。

犀角独歩さん
「正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ」
→この文書は、日興上人の御筆でしょうか。ご教示ください。

日興上人の御消息文から、何時頃まで「御影」が本門寺にあったか調べてみようと思いましたが、日興上人の御消息は「年」が記載されていませんので、調べようがありませんね。

707犀角独歩:2003/09/17(水) 15:13

空き缶さん:

非常に鋭い突っ込みをいただきました。
有り難うございます。
該当の文書は精師・家中抄のものです。引文で「日興在判」とあるものの、その正本は存していなかったと記憶しています。
この盗難に類する事件が窺えるのは『日順阿闍梨血脈』です。しかし、こちらもその正本は存していなかったと記憶します。

ただし、興師正本『宗祖御遷化記録』が重須から失したのは事実で、このことから、何らかの盗難事件が発生したことは史実のように思われます。

以上の次第ですから、愚鈍凡夫さんが仰るように、蓮師に就き、真跡主義を貫徹するのみならず、本日に至るまでの文献類も同主義をもって捌くのであれば、正中2年11月13日の興師在判書から『日興聖人事跡事』の批正することはやや蛮勇であったかも知れません。

708空き缶:2003/09/17(水) 17:05
犀角独歩さん
ありがとうございます。家中抄は私も度々引用させていただいていますが、もう一度よく読んでみます。
実は以前「三井寺」にメールにて「園城寺申状」について問い合わせたことがあります。しかしお返事はもらえませんでした。

709犀角独歩:2003/09/17(水) 18:00

空き缶さん:

石山の富士宗学要集から該当の記載を検索してみました。
初出は、どうやら、広蔵辰師のほうが先のようです。

『祖師伝』辰師(富要5-35)
駿州富士山本門寺釈の日代伝 …
 正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後も若し弟子分中に相続人と号して出さしむるの輩は門徒の怨敵大謗法不孝の者為るべき者なり、謗法罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏日蓮聖人の御罸を蒙るべし、盗人の科に於ては御沙汰と為て上裁を仰ぐべし、若し出で来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝為るべし仍て門徒存知の為に置き状件の如し。
 正中二年十一月十三日  日興御判。

『富士門家中見聞抄目録』精師(富要5-201)
日代伝 …
一、正中二年十一月十二日の夜、日蓮聖人の御影堂に於いて日興に給ふ所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、并に日興影像一鋪、聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後若し弟子分の中に相続の人と号して之れを出さしむる輩は門徒の怨敵、大謗法、不孝たるべき者なり、謗法の罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏、日蓮聖人の御罰を蒙るべし、盗人の科に於ては御沙汰として上裁を仰ぐべし、若し出で来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝たるべし、仍って門徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十一月十三日 日興在判

また、石山59亨師も『富士史料類聚』に同文を挙げています。
しかし、ここでわたしは読み落としていたのですが、以下のような記載がありました。

「日代八通の譲状は房山にては要師等要山にては辰師等仰いで之を信ぜりと云へども、方便品読誦の解釈に伴ひ重須を擯出せらるるに就いては、能擯の横暴を極論路する者無きが如し、今又遡つて八通状の内容を検するに疑義百出するも既に正本紛失の上は且らく論弁を避くべし」(富要8-161)

一考を要すると思いました。
ただし、家中抄に「正中二年十月十二日の夜御影堂に於て御筆本尊御遷化記録以下盗取
られ給へり、此の故に御弟子衆紛失の使節を勤め給ふ。」との既述は、『日順阿闍梨血脈』の「嘉暦第一の暮秋には険難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ」ると一致します。代師八通の譲状のなかで、この盗難の記載はやや信憑性は高いように思えます。

わたしは歴全、日宗全が手許にないために富要に引く所で見るばかりです。その他、資料で御覧になり、既知のことがございましたら、ぜひ御披露ください。

710空き缶:2003/09/17(水) 18:41
犀角独歩さん
度々ありがとうございます。
わかりました。日蓮宗宗学全書2巻P136の日興上人から日代上人への置状の一つですね。
通称8通遺状と呼ばれるものの一つですね。歴代法主全書には掲載されていないようです。大石寺お得意の「自分達の都合に会わないものは削除」とも思えますが、
しかし、8通の内1通も正本が残っていないのは誰がどう考えても怪しいですね。

御影に関して妙本寺説では、日目上人が最後の天奏の直前に小泉久遠寺を経由して保田妙本寺に遷座されたといいます。
したがって妙本寺では、北山のそれも含めて宗祖御在世中に日法上人が彫られた御影は妙本寺のものだけといいます。
道郷紛争を契機に、大石寺からは重宝類が激減してしまいましたが、この紛争は後の代まで続き、大石寺六世の日時上人も妙本寺に御影の返還を求めており、この書状の正本は小泉久遠寺に現在もあります。
したがって、妙本寺のいうこともあながちでたらめではないのかなと思っています。

711愚鈍凡夫:2003/09/17(水) 20:00

横レス失礼します。小生も気になって正御影のこと、調べてみました。

1279(弘安2)年10月12日 甲州(山梨県)波木井郡山中において、弟子和泉阿日法彫刻
1289(正応2)年 日興師が駿河国(静岡県)上野郷に移す。
1298(永仁6)年2月15日 大石ヶ原の法華堂の仮奉安所より「大聖人生御影尊像」を始め、「諸聖教」を重須に遷座。
1325(正中2)11月12日夜 蓮祖御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ。(祖師伝)

1279(弘安2)年10月12日 甲州(山梨県)波木井郡山中において、弟子和泉阿日法彫刻
1289(正応2)年 日興師が駿河国(静岡県)上野郷に移す。
1336(延元1/建武3)年 日伝師が大石寺本堂の正御影を小泉久遠寺に持ち去る(その辺の事情を語る文献は皆無)
1388(元中5/嘉慶2)年10月13日 新たに日時師が大仏師越前法橋快恵に命じて彫刻させ、開眼供養(現在の御影)。
1342(興国3/康永1)年 小泉久遠寺から妙本寺に遷座

2つの系列があるようですね。

712問答迷人:2003/09/17(水) 21:35

横レス失礼します。

二つの系列ではなく、繋がっていると僕は思います。

1279(弘安2)年10月12日 甲州(山梨県)波木井郡山中において、弟子和泉阿日法彫刻
1289(正応2)年 日興師が駿河国(静岡県)上野郷に移す。
1298(永仁6)年2月15日 大石ヶ原の法華堂の仮奉安所より「大聖人生御影尊像」を始め、「諸聖教」を重須に遷座。
1325(正中2)11月12日夜 蓮祖御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ。(祖師伝)
1336(延元1/建武3)年 日伝師が大石寺本堂の正御影を小泉久遠寺に持ち去る(その辺の事情を語る文献は皆無)
1388(元中5/嘉慶2)年10月13日 新たに日時師が大仏師越前法橋快恵に命じて彫刻させ、開眼供養(現在の御影)。
1342(興国3/康永1)年 小泉久遠寺から妙本寺に遷座

正中2年の盗賊が、大石寺であれば、辻褄が合いますね。僕は、そのように考えています。

713愚鈍凡夫:2003/09/17(水) 22:22

ウワ〜〜オ!! キャー!ビックリ!! (*゜ロ゜)ノミ☆(;>_<) バシバシ
だから・・・・・。だから・・・・・。ゴックン。 (;^_^A アセアセ…
2つの系列って言ったのに・・・・・。 (-_-;) (T_T)

714空き缶:2003/09/17(水) 23:25
愚鈍凡夫さん
問答迷人さん

そうですか、日目上人の最後の天奏前ではなく日目上人滅後のことだったのですね。
日伝上人は旧称日賢上人のことで、実質的な妙本寺の二代目であり、連蔵坊を日郷上人に寄進した南条時綱の子息ですね。
日時上人の御影返還を求めた書状が、何故「小泉久遠寺」にあるのかやっとわかりました。この当時はまだ小泉久遠寺に御影はあったのですね。
今川氏の下文によれば、日時上人は不当に東御堂と坊地を占拠し、終息傾向にあった紛争を再度激化させたようです。
駿河守護の今川氏の判断は日伝上人側にあったのですが、地頭興津氏が日時上人と癒着していた為、結局連蔵坊は大石寺のものとなってしまいました。
土地は大石寺のものとなってしまっても、宗祖御影だけは護りきったというところでしょうか。

715空き缶:2003/09/17(水) 23:50
続きです。
「1325(正中2)11月12日夜 蓮祖御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ。(祖師伝)」
→これについては、もとの出典が先にあげた8通遺状の一つなので、西山側のいい分を取り入れていたのでしょう。
 重須から大石寺ではいくら交通の便の悪い時代といっても、距離的に目と鼻の先であり「盗難」というよりは、何らかの事情があって「遷座」したと考えるほうが妥当だと思いますが。
 代師等重須高弟達に不穏な動きでもあったのでしょうか。

716愚鈍凡夫:2003/09/18(木) 00:28

ただね、奇妙なことが1つあるんですよ。富士年表によると、

1325正中 2乙丑後醍醐北条高時滅後 44年日目
11.13 石川妙源重須御影堂寄進の置状を日興に奉る(8-161)

とあるんですよ。変だと思いませんか。
泥棒が入った明くる日なんですよ、これが。
蓮祖の正御影は盗まれてないはずなんですよね。重須本門寺では大騒ぎだったはずなのですが、「重須御影堂寄進の置状」を日興師が受け取るというのは変ですよね。
この富士年表も石山の御都合主義と言ってしまえばそれまでですけど。

717顕正居士:2003/09/18(木) 00:42
日寛師は『当家三衣抄』に法衣の色が薄墨であるべき証拠に宗祖の御影を挙げ、

「次ぎに引証とは、第一に生御影、即ち重須に在すなり。第二には造初の御影、
即ち当山に在すなり、蓮師御伝記八に云わく、弘安二年富士の戒壇の板本尊を
造立し奉る時、日法心中に末代の不見不聞の人の為めに聖人の御影を造らんと
欲するの願有り、故に先ず一体三寸の御影を造って便ち袂に入れ聖人の高覧に
備え奉る、而して免許を請うに聖人此の御影を取って御手の上に置き笑を含ま
せられ即ち免許有り、之れに因って等身の御影を造り奉りて、而して聖人の
御剃髪を消し御衣を彩色し給うなり云々。一体三寸とは即ち造初の御影なり、
等身の御影とは即ち是れ生御影の御事なり、此の両御影並びに是れ薄墨の素絹、
五条の袈裟なり。第三に鏡の御影、今鷲の巣に在り、亦是れ薄墨の法衣なり。」
http://nakanihon.net/nb/rokkann6.html

と述べています。鏡の御影とは法華宗本門流の大本山鷲山寺にかつて在り、今は
千葉の浄光院に在る水鏡御影(重要文化財)でしょう。重須の生御影とはむろん
北山本門寺第一の重宝蓮祖生御影でしょう。
http://www.ba.wakwak.com/~honmonji/syoumieison.htm
保田妙本寺には同一縁起の等身の御影、すなわち同じ御影が在るのでしょうか?

718空き缶:2003/09/18(木) 01:55
顕正居士さま
保田の御影は等身で北山のそれに似ていると思います。お顔がちょっと違うような気がします。
あと、左右の手でもたれているお経ですが、北山のは中央部分が欠落しているように見えますが、保田のはつながっています。
お色直しをしたからでしょうか。法衣は薄い灰色です。
写真を取りたいと思うんですが、勤行・住職の話のあとすぐに閉めて鍵をかけてしまうんです。
日興上人の御本尊(板に彫刻してありますが)は常時開けっ放しなんですがね。
保田では御本尊といえば「御影」と「万年救護本尊」との認識が強いんでしょうか、御影堂の前には「御本尊の前ですから・・・・」といった注意書きがあったと思います。

719空き缶:2003/09/18(木) 02:09
続きです
「千葉の浄光院」とは中山法華経寺の境内にある「浄光院」のことでしょうか?
今は「祖師堂」に遷座されているみたいですね。こちらは法衣は日蓮宗らしく豪華ですね。

720愚鈍凡夫:2003/09/18(木) 13:02

「妙法華寺に伝わる古文書『玉沢手鑑草稿』の「日昭譲状」に
一、生御影 絵は大蔵也、居子(椅子)にて御説法、曽谷夫婦聴聞の体也、御経第六巻の初、宗祖御筆也、授与法名法蓮、蓮花比丘尼、文保元年十一月十六日」
とありますから、画像も「生御影」と呼んでいたんですよね。

ほ【舗・鋪】
①みせ。「店―(テンポ)」「茶―」
②しきならべること。「―装」
③地図など、畳みものの本を数える語。
(「広辞苑」第4版より)


「蓮祖御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ。」(祖師伝)

盗難に遭った「御影像一鋪」とは画像であった可能性は有り得ないですか。

721犀角独歩:2003/09/18(木) 14:28

> 720

この推理、面白いですね。
仮にそうなると、いわゆる御影式奉安は不可能ということになりますね。
人法一体を表すという御影像の後ろに漫荼羅を置く奉安形式です。
賛成したいところです。

盗難の際、等身大の木彫像を運び出すとすればかなり大事で、「気がつかないものか」と訝しく思っていました。ですから、紙幅漫荼羅、絵像を持ち去ったというほうがはるかに現実味があります。

いま、富要中「舗」「鋪」の用例を調べてみましたが、たしかに(紙幅)漫荼羅を数える単位とし使われていました。それに対して、仏像は「体」で数える用法となっています。となれば、影像は画である可能性を大きいと思えます。

わたしは愚鈍凡夫さんの推理に頷きました。

722愚鈍凡夫:2003/09/18(木) 19:26

犀角独歩さん、有り難うございます。
盗まれた「御影像一鋪」が絵であったと考えれば、それぞれのピースがうまく嵌ると思います。
あと、生御影像を重須に遷座した後、石山で新たに造立したとか、生御影像が2体あったことが証明できればいいんですが。

723顕正居士:2003/09/18(木) 20:00
空き缶さん。

「浄光院」は中山法華経寺の浄光院です。「水鏡御影」は画像です。
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/furusato/bunzai/kjyub6.htm

等身の御影が日郷師の頃に大石寺にも在ったということでしょうね。
『元祖化導記』の「三十 御身骨を身延山に移し奉ること」に弘安五年の
十月二十九日に日法師が御影像を建立したという「或る記」を引いている。
http://www.ginpa.com/karagura/kedoki2.html#30
正応元年(1288年)の『波木井清長の状』に「本尊並びに御聖人の御影」
とあるから、身延離山の頃に聖人御影が在ったことは間違いないでしょう。

724空き缶:2003/09/18(木) 20:32
顕正居士さん 犀角独歩さん 愚鈍凡夫 さん

そういえば、日郷上人の置文にかかれているのも「鋪」の字で数えられています。
日郷置文は手元に正本の写真もありますが、素人目でみても「鋪」であることがわかります。
保田に渡った御影とは画像の御影なんでしょうか、しかし日法上人は絵はかかれていないと思うんですが。
板曼荼羅は法華宗の山梨の末寺(ここも名称は妙本寺といいます)に今も残っていますので、彫刻の術を持ち合わせていたことは事実と思います。
大親友の日春上人の三十三回忌に彫った、板曼荼羅ですね。主題の下に「日蓮大聖人」と彫られており、大石寺のものとは似ても似つかないものですが。

日時上人の御影等の返還を求めた書状には、そうした表記が無い為何ともいえませんね。
日伝宛て日時書状(抜粋)「人目ないと申、早々如本御影をも還○○候へ」(正本:小泉久遠寺)

725空き缶:2003/09/18(木) 21:06
続きです

祖師伝や家中抄に引用されている「蓮祖御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ。」
ですが、やはり元となっている「日興置状」自体が怪しいとおもうんですが。祖師伝等のそれは「日興置状」と全くの同文ですので、これらの史伝書が参考にしたものの真偽自体が
私としてはいまいちです。日興→日代の置状8通は1通も真筆が残っていませんので。

日朝師や日寛師の説についても若干時が下りすぎているのかなとも思っています。
上代真蹟を元に推察すると、盗難は無く「日興上人御遺蹟事」執筆後に大石寺遷座、時師・伝師の紛争中に小泉久遠寺経由で妙本寺入りと推察いたします。

726顕正居士:2003/09/18(木) 22:59
現宗研の次のページ
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_185.htm
の日代置状の引用では「御影像一鎮」となっています。仏像を「鎮」と数える
ものかはわかりませんが。この中にいう

『聖人御遷化記録』は平成4年に重要文化財に指定されています。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/paper/1997/97102002.htm

「若し出来る時は、日代闍梨之を相続して本門寺の重宝と爲すべし」
(「出来る時」は「出来(しゅったい)する時=出て来る時」でしょう)

出て来たから「西山」本門寺の重宝として今もあるのだろうか?あらかじめ
「富士山本門寺」(日蓮一期弘法)というのに似ている妙な文章とおもいます。

727空き缶:2003/09/19(金) 00:02
顕正居士さん
御遷化記録は西山に確かに現存しています。これも手元に写真がありますが、確かに日興上人の筆です。
日昭師・日朗師・日興師・日持師の四師の花押もついています。(日向師・日頂師は他行)
日興上人から日代師への置状の件は、写本の原文を見たことはありませんが、恐らく読み下しの違いだと思います。

728愚鈍凡夫:2003/09/19(金) 00:05

ずっと「生御影」のことを調べていたんですが、石山の「生御影」に関して、こんな説があるんですね。石山の「生御影」を奪ったのは日伝師ではなく、日郷師であるといった。

日目師遷化後に戻った日郷師が東坊地の所有権で日道師と対立し、結局、南条家の後ろ盾を受けた日道師が優勢になり、形勢不利となった日郷師一派が御影堂安置の尊像・什宝を持ち去った。小泉久遠寺に移動させ、後に保田妙本寺に移動。

有師物語聴聞抄佳跡にこういう記述を見つけました。石山の等身大の御影の作者については分かりません。

「大聖仰に日く背脊甚た痛し云云仍之を相止む、今に以て御影後欽目高し故に生御影と号し奉る、又正御影と申す今重須に之在り云云、今御生仏の寸尺を記せん御長金さし弐尺六寸五分、御ひざ両の御そでまず壱尺八寸五分余、又横ふかさ御うしろより御ひざのまへまで弐尺弐寸余あり、又御耳の長さ三寸、御つむりの丸さ御耳の上まで弐尺八寸、又御つむりのたけ・ぼんのくぼより御鼻筋の通りより御あごまで弐尺、又両御眼の長さ壱寸四分、又御衣の袖八寸宛両方へ出るなり、又御ひざのあつさ五寸弐分已上、古筆之有り、今之を書写し奉るなり次に最初仏長け弐寸弐分なり、此最初亦造初御影とも六坪の御影とも看経所の御影とも号するなた、当山に之有り日奉の作なり」(有師物語聴聞抄佳跡上)

729空き缶:2003/09/19(金) 00:27
愚鈍凡夫さん
日伝師の正本をみると、当初の道郷の紛争は西坊地(道師陣営)と東坊地(郷師陣営)といった大石寺境内内で行われていることになっています。
したがって、郷師の代には小泉久遠寺への遷座の前に西から東もしくは北(本堂)から東坊地への遷座が先にあったと推測します。
よくよく「妙本寺文書」(千葉県史料財団刊行 千葉県の歴史)をみていくと、これまでの自分の憶測とずれがあることに気づく日々です。
「千葉県の歴史」はなかなかいいですよ。写真も多く使われており、妙本寺関係の文書は他の刊行物で右に出るものは無いと思われます。
道師滅後に郷師は伝師に東坊地の譲状を書いていますね。郷師一派の大石寺離山の時期はもう少し史料をよく読んでみます。

730愚鈍凡夫:2003/09/19(金) 00:28

>>728:の続き
ちなみに、日伝説のネタ元はここからでした。

「蓮蔵坊72年の係争」
http://gappo.cool.ne.jp/yowa/60/6011.htm

731空き缶:2003/09/19(金) 00:38
ところで「御下文」の話はどこまでいったんでしたっけ。

732ガンコ:2003/09/19(金) 09:52
みなさん、おはようございます。

このところ、専門的なお話が続いていて、とてもついていけるものではありませんが、幸いにも板が素朴な疑問なので意見を申し上げたいと思います。

問答名人さん、
>正中2年の盗賊が、大石寺であれば、辻褄が合いますね。僕は、そのように考えています。

そんなバカな・・・と思います。時代がもっと下れば、そういうこともあるかなあと思うんですが、日興上人・日目上人の御健在の時に、そんなことが起こりましょうか? たとえ盗難事件が事実であっても、大石寺が犯人だなんて・・・そんなバカな話がありましょうか?
だって、これを基準に日興上人御遺蹟事を読むと、空恐ろしいことが浮かんできてしまうんですもの。
「日興上人御遺蹟事  日蓮聖人御影、並びに御下し文、園城寺申状。  上野六人老僧の方、巡に守護し奉るべし。但し本門寺建立の時は、本堂に納め奉るべし。此の条、日興上人の仰せに依って支配し奉る事此の如し。此の旨に背き異義を成し失いたらん輩は、永く大謗法たるべきなり。誡めの状件の如し。  正慶二年癸酉二月十三日  日善在判 日仙在判 日目在判」
重須の御影を盗んできて、しばらく隠していた。そして、日興上人の御遷化を待って、上記のように“日興上人の仰せ”と偽っておもむろに御影を登場させた。・・・まさか、日目上人さまほどの御方がそんな盗人猛々しいことをあそばすでしょうか? そんなバカな・・・って思います。

むしろ、富士門においては、大本門寺構想というのが共通の目標としてあるわけで、それを基準に考えをめぐらせれば難しいところはないと思います。
先の日興上人御遺蹟事にしても、日興跡条々事にしても、いずれも本門寺建立をうたっているわけです。まさか、北山本門寺のことだと考える人はいないでしょう。弘安二年の大御本尊を北山本門寺に懸け奉るべし、とか、日蓮聖人御影並びに御下し文園城寺申状を北山本門寺本堂に納め奉るべし、などと矮小化して考える人はまずいないと思います。
日興上人は重須に御移りしてからが長いわけですが、それでもなお、条々事・御遺蹟事を見るならば、まさしく大石寺御開山上人としての威厳を如実に示しているもの、と読めるのではないかと思います。
盗難事件の犯人を大石寺とするのは、日興上人と日目上人が反目しているとのお考えなのでしょうか? とても想像できません。

733空き缶:2003/09/19(金) 11:09
ガンコさん
お久しぶりです。「日興上人御遺蹟事」の連名に連なっている「日善」ですが、妻帯していたかどうかご存知ですか。
日目上人の兄の「頼綱」が「日善」と称していたのですが、同一人物でしょうか。

私も盗難事件は代師もしくは代師系の誰かの捏造説であろうと思っています。興師→代師の置状8通は真筆が無いだけではなく、内容や時代背景からいってかなり怪しい書状だと思います。
代師にとって日目上人は目の上のたんこぶであったと思いますし、「日興上人御遺蹟事」の連名の一人に、仙師も加わっています。
ただ、「日興跡条々事」については写真をみる限り素人目ではどう見ても日興上人の他の書簡とは筆跡が違いますね。
かつて某掲示板で、「二箇相承」や「日興跡条々事」が「御伝土台」に出てこないのは不思議なことだと申した方がいました。
そういえばそうだなと、私も思っています。
ちなみに興風談所の「日興上人全集」には真筆現存のものは、ほとんど写真が掲載されています。使えますよ。

734ガンコ:2003/09/19(金) 11:42

>「日興上人御遺蹟事」の連名に連なっている「日善」ですが、妻帯していたかどうかご存知ですか。
>日目上人の兄の「頼綱」が「日善」と称していたのですが、同一人物でしょうか。

ごめんなさい。そういうことは、ぜんぜん知らないんですよ。
ただ、常識的に日興上人と日目上人の関係が正常であれば、盗難事件はありえないと思ったのです。

>ただ、「日興跡条々事」については写真をみる限り素人目ではどう見ても日興上人の他の書簡とは筆跡が違いますね。

そうですか。
すると正信会のほうでは、日興跡条々事を真偽未決としているのでしょうか?
いずれにしても、日興上人全集と日目上人全集、入手したいと思います。お寺にじかに行って買えますか?

735アネモネ:2003/09/19(金) 11:44
ガンコさん

こんにちは。私もこのような専門的な宗史の話になると、とてもついていけないのですが…ただ…少し論点が外れるかもしれませんが…

>興上人・日目上人の御健在の時に、そんなことが起こりましょうか? たとえ盗難事件が事実であっても、大石寺が犯人だなんて・・・そんなバカな話がありましょうか?

そう信じることが信仰の形なのかもしれませんが、しかし見方を変えれば、それが固定観念である場合もあるかと思います。
私は、無きにしも非ずではないかと思います。

>・・・まさか、日目上人さまほどの御方がそんな盗人猛々しいことをあそばすでしょうか? そんなバカな・・・って思います。

日目上人さまがそのような直接の命を下さなくとも、門弟の人などがその信念の為、日目上人さまの為、大石寺の為と、独断で実行する場合もありますしね。
そういうことは、現代の石山系にも見受けられることではないでしょうか。
例えば、職権によって知り得た国家機密を教団組織に漏洩させる学会信徒の行動は、昔から多く聞かれて問題視されていることですね。最近で記憶に新しいのは、NTTドコモの個人情報を漏洩させた事件がありました。教団で培われた信念体系の中にあっては、それが正しい行いと思って行動しているわけです。世間一般の良識的行動を基準に考えられることではありません。
また先日、独歩さんが紹介された顕正会の暴行事件にしてもそういう範疇のことといえるでしょう。恫喝し暴行してでも折伏をすることが正しいと信じているわけですね。ほんの一例ながら、潜在的にそのような行為は多いのかもしれません。
また、そのようなところまでエスカレートしなくても、小さな例は山ほどあります。Pundarikaにも少し書いたことですが、
http://jbbs.shitaraba.com/study/3050/pundarika.html

折伏をするために、相手の人を騙してお寺や組織に連れ出すということは日常茶飯事に行われていることであり、そういうことと盗難事件、国家機密漏洩は、同じ信念体系の延長的行動だと私は考えます。五十歩百歩といえるでしょう。
もうひとつ例をあげれば、30万登山成功のために、一人が何度も登山参詣することで数字を達成したわけですが、そのことにしても、私は仏法に対する背信行為ではないかと思い、盗難事件と同じだと思っています。
しかし、組織や権威を信じてやまない信念体系に陥っている人にとって、どのような手段をとろうとも目的達成こそが果たさなければならない正しい行いとなっているわけです。
ですから、そんなバカなと思うことが無いとは限らない。むしろ、この教団の今日の思考と行動パターンから類推すれば、問答さんの推測は十分考えられることだと思われますが。

>日興上人は重須に御移りしてからが長いわけですが、それでもなお、条々事・御遺蹟事を見るならば、まさしく大石寺御開山上人としての威厳を如実に示しているもの、と読めるのではないかと思います。

日興上人が御移りする内情は、いろいろあったんじゃないでしょうかね。
学会や顕正会が宗門から分裂していった本当の内情も、表向きにアナウンスされていることばかりではないようですから、同じようなことが700年前にもあったんじゃないかと、私なんかは想像します。
それこそ、そういう宿業・因縁を繰り返してきている教団なんじゃないかとさえ感じるくらいですよ。まあ、こういう捉え方こそ、まさに教団で刷り込まれた思考ですが。

736空き缶:2003/09/19(金) 12:14
ガンコ さま
「日目上人」「日興上人全集」は持っていて損はないと思います。
ただし「日興上人全集」はチョッと高いです。どちらもまず古本屋から探されることをお勧めいたします。
「日目上人」は継命新聞社刊行で正信会の寺院で受け付けてくれると思いますが、在庫があるかわからないので直接新聞社に問い合わせたほうが早いかもしれません。
「日興上人全集」は「御書システム」のホームページからメールで問い合わせてみてはいかがでしょうか。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/index.html

定価7000円+送料で7500円だったと思います。
御書システムは実費分だけで購入できます。「注法華経」以外のものは真撰・偽撰・真偽未決全てが収録されており、それぞれの真偽についても数字で示されており、わかりやすいです。
確か1000円だったと思いますよ。ただしデータベースソフトが体験版なので3ヶ月しか使えませんが。データベースソフトは製品を購入すると3万円近くしたと思います。

「興風談所」「継命新聞社」の営業担当みたいになってしまいましたが、資料としての価値は認めざる得ないでしょう。

737犀角独歩:2003/09/19(金) 13:04

ガンコさん:

興目両師の話題ですか。
わたしは基本的に問答さんの推測は外れていないと思っています。
また反面、盗難事件については代師の流れの捏造ばかりでもなさそうだと思います。
その理由は「本尊紛失の使節」は重須文献『日順阿闍梨血脈』にも現れるからです。
重須の本堂と檀所はそれなりの確執があったことは窺えるわけです。その相反するなかで両方から同一事件の記述が見られるとすれば、代師側の一方的な捏造だけとは言えないというのがその根拠です。
本堂は河合方、それに対して、檀所の初代は中山方の出で向師を経た澄師。前者が縁戚上の継承者であるのに対して、後者は学風上の継承者と見えます。
石山から讃岐へ至る仙師との問答は何で起きたのか、わたしは常々不思議に思ってきました。読不の論争。そういえばそれまでのことですが、事はそんなに簡単なのでしょうか。

興目の話に戻りますが、時系列で見る限り、興師は南条方(のちの大石の寺)には1日しか逗留しなかったようで、石山の実質的な初代住職は目師でしょう。また、そこはいまで言う総本山なんて言う大袈裟なものではなくて、縁戚者・目師を歓迎して堂宇を結んだ程度のもの。そこを早々に去って興師は河合方重須に拠点を構えるわけです。

重須における興師の事跡を偲ぶと、そこでは常師の義子、あの天才・澄師との活発なやりとりが彷彿としたり、それを次ぐ順師との有り体も鮮やかに想像されますが、そこには目師の存在は、それほど、浮かんでは見えません。

もし、石山が言うように目師が興師の継承者であれば、重須において、第二席を暖めて、教鞭を振るうのは目師であったはずです。ところがそこに目師の影は見えないわけです。時折、使いに供養を持参されることはあったように見えますが、重須に教鞭を振るう興師の謦咳の係る位置に見えるのは、やはり、澄師でした。

しかし、その澄師は夭逝し、あとを次ぐ順師は眼病を患うことになります。
当時の寺院継承はまったくの地頭の縁戚相続でした。ですから、南条方では目師からその甥の道師。ここで他家の郷師は暇が生じることになります。
重須本堂では河合方で興師からまたその母方の甥・代師に。これでうまくいくはずでしたが、石山で仙師と議論をして、自ら北山を退して、西山へ。このとき、一方で強く教勢を誇るに至る檀所との暇が生じていたのではないのかとわたしは想像するわけです。
興師が寂すると、その9カ月後に目師も寂します。
ここで南条方は動いたように見えます。ここでは目師ではなく、次世代の動きとなっているように見え、この動きは目師の遺志とも違うように感じます。一種の覇権争いと見えます。その時に道師に代表される石山は重須を呑み込もうとしたのではないのか?と想像します。重須本堂は代師退出後、妙師を迎え、石山と親密度を増すことになるようですが、ここで檀所派はどのような消長を示したのか、わたしは杳として掴めません。

この時点で、それまで“疎遠”であった石北の一体感が生じ、条々事に見られる如き脈絡で語られる“極めて短い”蜜月一経過があったのではないのでしょうか。
この蜜月では代師と、そして、郷師は追いやられることで平衡が保たれた。
そのようななかで、いわゆる盗難と言われた事件もあるいは起きていたのかも知れません。

いずれにしても、南条方の覇権争いには辟易とした感慨を懐かざるを得ないわけです。
まあ、資料手放しで、わたしが雑駁に憶測する上古史に過ぎませんが。

738ガンコ:2003/09/19(金) 14:53

空き缶さん、どうもありがとうございました。

739ガンコ:2003/09/19(金) 14:56

アネモネさん、どうもです。

>日目上人さまがそのような直接の命を下さなくとも、門弟の人などがその信念の為、日目上人さまの為、大石寺の為と、独断で実行する場合もありますしね。
>そういうことは、現代の石山系にも見受けられることではないでしょうか。
>また先日、独歩さんが紹介された顕正会の暴行事件にしてもそういう範疇のことといえるでしょう。恫喝し暴行してでも折伏をすることが正しいと信じているわけですね。>ほんの一例ながら、潜在的にそのような行為は多いのかもしれません。

顕正会の問題は頭が痛いのですが、まあ、あまり言い訳がましいことは言えませんし・・・
おそらく顕正新聞を詳細に検討していけば、さまざまの問題を惹起せざるを得ない要素がふんだんに読み取れるのだろうと、考えています。学会に対して、あるいは御宗門に対して、過剰ともいえる攻撃的言動は否定できません。
そこから逆に考えて、はたして日目上人には、日興上人に対して斯様な言動があったのか? もちろん記録にあらわれていれば話は早いのでしょうが、こうしたある種の裏面史のようなものはなかなか表にあらわれては来ませんから、みなさん、いろいろと推論をお述べになっていらっしゃるわけでしょうけど・・・

わたくしの勝手な印象で申しますと、日興上人は御隠尊猊下の御立場でいらしたのだろうと思います。
幕末から明治には日霑上人が長くいらして磐石の観がありましたし、昭和のはじめは堀上人その他、いく人もの御隠尊猊下がいらしました。ここ四半世紀の大石寺には御隠尊がいらっしゃらない。これがある意味で問題を生み出しているのだろうと思えます。じつに今の御宗門は危うく見えます。余計なお世話かも知れませんが・・・
ようするに、日目上人にとっては、日興上人が控えていて下さることがどれほど心強いことであったか、計り知れないものがあります。けっして、日興上人に対して、穏やかならざる気持ちを懐かれるとは思えません。また、御二人が同じ年に御遷化あそばしていることからも、わたくしはその思いを強くするところです。
もちろん、単なる印象を述べているに過ぎませんが・・・

740ガンコ:2003/09/19(金) 15:11

独歩さん・・・

ご説明をうかがっていると、なんとなく日目上人というのは今で言う“窓際族”のような気がしてしまいます。そんなバカな・・・って思うんですけど。
もし冷遇されていたなら、それこそ「背き了んぬ」になっていそうなものです。

日頂師にしても富士に戻ってからあまり活躍したという話を聞きませんが、これも冷遇でしょうか?

741問答迷人:2003/09/19(金) 20:23

ガンコさん

>日目上人というのは今で言う“窓際族

窓際族であったかどうか、僕にはわかりませんが、結果的に大石寺の第四世となった日道師は、日目師の弟子では無く、日興師の新六だったことは、何を意味しているか、考える必要があると思いませんか? 僕は、重須本門寺根源を本山と見立てれば、大石寺、当時の「上野の法華堂」は末寺に過ぎなかったのではないかと考えています。そうすると、日目師は単なる末寺の住職、ということになりますね。

742アネモネ:2003/09/19(金) 23:12
ガンコさん

>顕正会の問題は頭が痛いのですが、まあ、あまり言い訳がましいことは言えませんし・・・おそらく顕正新聞を詳細に検討していけば、さまざまの問題を惹起せざるを得ない要素がふんだんに読み取れるのだろうと、考えています。学会に対して、あるいは御宗門に対して、過剰ともいえる攻撃的言動は否定できません。

これは、顕正会だけの問題ではないですね。
顕正会も法華講も、そして創価学会も、思考と行動パターンは同じでしょう。
ただ、法華講にはいわゆる権威の象徴である板曼荼羅があるという点において、なりふり構わぬ行動にまでは迫られないということにおいて、大きく目立った反社会的行動が表沙汰になることがないということがいえるかもしれません。しかし、考え方は基本的に同じです。もしもその権威そのものが虚構であるとしたならば…ということは絶対有り得ない、いやあってはならないことだという思いは、いずれの組織も同じものでしょう。つまり、そこから身動きがとれないところでの、宗史の考証や検証ですから、どうしても限界がありますね。信じ込まされている人にしか通用しない話に終わってしまうわけです。

>ようするに、日目上人にとっては、日興上人が控えていて下さることがどれほど心強いことであったか、計り知れないものがあります。けっして、日興上人に対して、穏やかならざる気持ちを懐かれるとは思えません。

わからなくもないところですが、でも、どうでしょうね。確かに、教団ではそのように教えられましたが、今となってはそんなご教示も私にとってはまるで信用できないところです。教団にとって、ただ都合よく美談に仕立てて語り継がれてきただけのことではないかと、私などは穿った見方をしてしまうところです。
そもそも、人の心の内面までは、誰にもわかりません。その内心とは別に、振舞わなければならない、それぞれの立場というものはあったといえるでしょう。
ただ、少なくともいえることは、本門寺を建てるということが日蓮聖人の御遺命だったとしても、お寺を建てるには、お寺なり土地なりの寄進が必要なわけです。また、お寺が建立されれば、それが継承されていかなければならないわけで、覇権争いの火種になるのは目に見えていることでしょう。そのようなお寺の権威と、その所有権という、いかにも生臭い人間の奥深い欲望的な側面には目を背けて、ただ宗教的建前の清廉な部分のみだけを見ようとするのでは、どこまでいっても本質や真実は見えないものと思われます。
もちろん、私のこの穿った見方が、全面的に本質であるとは、一概にはいえません。何れにしても証明されてこそのことです。
しかし、私が敢えてガンコさんに申し上げたいと思うことは、信仰上の強い思いだけでもって宗史を見ていたのでは、まあどんなに時間と労力を費やしたところで、結局は手前味噌に終始するだけだろうということです。
耳の痛いことと思われますが、しかし私のように、ひねくれた見方にも堪えうるだけの論考や論証が示されて、はじめて正当性が証明されるものでしょう。
信心のない者にはわからないとよく言いますが、史実的なことはむしろ、信心が邪魔をして本質が見えないことのほうが多いのではないでしょうか。

>また、御二人が同じ年に御遷化あそばしていることからも、わたくしはその思いを強くするところです。

因縁的に日目上人は、日興上人の後を追って亡くなられたとでも考えておられるのでしょうか。だとしたら、それはおかしくありませんか。だって、日目上人は、天奏の途中といういわば志半ばの死であり、本当ならば死にたくなかったはずです。生まれ変わってでも天奏を成し遂げるとまで言われる伝説さえ残っているくらいですから、相当に無念の死だったのではないでしょうか。そんな天奏よりも、日興上人と同じ年に亡くなることのほうが仏法上意味深いことということなのでしょうか。こじつけにしか思えません。
そんな御法門上、最も大事な勤めを目前にして、日興上人がお迎えにでも来られたということなのでしょうか。
同じ年に亡くなられたことを、情緒的に捉えることも、信仰のうちかもしれませんが、史実的考証に堪えうる観測とは言い難いですね。
むしろ、そのような思いが足枷となって、そこから一歩も前へ進めないでいるのではないかと感じるところです。

743顕正居士:2003/09/19(金) 23:57
本末関係

というのは今日にはもう存在しません。寺院はそれぞれが宗教法人で、ただし別の
宗教法人との間に「包括関係」を結ぶことができます。

わたしが理解する範囲では「本末関係」というのはわが国中世の土地法制にあった
概念で、軍事力が優れた者が軍事力が劣った者を「安堵」(安全保障)する意味で
「所有権」とはぜんぜん異なる「重複的支配権」とおもいます。(たてまえの律令
制度のもとでは全国の土地の一切が京都の政府の国有である、しかし実効支配する
軍事力、警察力、司法力ともにない)。上古の富士派寺院(というかその根源、
拠点)は領主によって安堵されており、本末関係の概念を適用するならばそれぞれ
の布教拠点が南條氏その他とこの関係を締結していたのであり、それらの拠点の間
に独自には安全保障の関係は無かったでしょう。関東には比叡山、興福寺のような
巨大な軍事力はありませんでしたから仏教領主間の「本末関係」は発達しなかった
と考えます。

744空き缶:2003/09/20(土) 01:11
私の個人的推測
身延山→日蓮聖人の御霊蹟
大石寺→朝廷が法華をたもった時の本門寺建立の場所
重須→日興門流の人材育成機関

日興上人は本門寺建立構想は正応3年10月13日を持って日目上人に引継ぎ、自身は後継者の育成に本格的に取組み始める。
しかし日興上人御存命中には本門寺は建たなかった、したがって日目上人は最後に命がけの天奏にむかわれた。

「日順阿闍梨血脈」は重須に正本が残っているそうですが、順師の著作そのものがどうなんでしょう。写真もみたことがないし、真偽問題も大大的には取り上げられていませんし。
これが本当に価値ある存在ならば、二箇相承は真撰ということでしょう。

745れん:2003/09/20(土) 03:58
横レス失礼します。目師へ授与の興師の書写本尊は三幅現存しており、正慶元年十一月三日のものには「最前上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之、一中一弟子也」(日興上人御本尊集NO.282)とあります。脇書の「一中一弟子也」という言葉遣いは特例であり、日道師より日行師への本尊脇書には「上奏代日行日道弟子一之中一也」日代師より日任師への本尊脇書には「日代一弟子日任授与之」とあって、それぞれ付弟への本尊授与書(脇書)は興師の前例に倣っているので興師が目師を付弟とされたのは史実と言えると存じます。興師目師の不仲説は後世の想像でしょう。

746犀角独歩:2003/09/20(土) 06:11

空き缶さん:

> 大石寺→朝廷が法華をたもった時の本門寺建立の場所

これは蓮師、興師、どちらの考えと言うことですか。
この根拠は何でしょうか。
石山が建ってる場所は南条家の領地ですね。
なぜ、そんな場所に朝廷が本門寺を建立するわけですか。

> 日興上人は本門寺建立構想は正応3年10月13日を持って日目上人に引継ぎ…

記された既述は、所謂、譲座本尊の日付ですね。
なぜ、この日が本門寺構想を引き継いだ日といえるのでしょうか。
また、この日を以て引き継いだとすると、それ以前に本門寺構想があったことになりますが、確実な興師の文献で、これを示すものは何でしょうか。
さらに、これ以降は後継者育成に取り組み、目師にそれを譲ったということですが、例えば

嘉元元(1303)年11月1日(西山文書)
嘉元2(1304)年5月(西山文書)
嘉暦2(1327)年8月
元徳2(1330)年3月

などと、その後も申状が記されています。
このことから類すると、目師に譲ったと言えないとわたしには見えます。
譲ったとされる根拠は何でしょうか。

> 「日順阿闍梨血脈」

仰るとおりですね。

> これが本当に価値ある存在ならば、二箇相承は真撰ということでしょう。

この脈絡の意味は計りかねますが、二箇相承と日順阿闍梨血脈の両方が真書でかつ、目師相承もありとすれば、興師は複数相承主義者であることになるのだと思います。

747犀角独歩:2003/09/20(土) 06:31

れんさん;

先日は有り難うございました。

> 最前上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之

これはかなり確実な資料であると思えます。
「最前」とは「もっともさきに」という意味で、つまり、いちばん最初に上奏したという意味になろうかと思います。そうなると弘安4年の興師代奏は嘘であることになりますね。

> 「一中一弟子也」という言葉遣いは特例…興師が目師を付弟とされたのは史実

「一中一弟子也」とは何を意味するのでしょうか。
なお、「日興第一弟子」との表現は興師は複数の弟子に使っています。
れんさんに提示するのでは釈迦に説法ですが、ロムの方の参考に資します。
『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』で記述順に挙げると

寂日房、新田卿日目、下野公日秀、少輔公日禅、摂津公日仙、了性房日乗、南部六郎入道、七郎次郎平時光、六郎兵衛入道、新兵衛入道道念、四郎光家、四郎信綱

で、「第一」と言いながら、何人も存します。

> 興師目師の不仲説

上述の流れは、興目不仲説という意味ではなくて、石北不仲説でした。

748犀角独歩:2003/09/20(土) 06:36

> 746の補足

嘉暦2(1327)年8月 日興に代り三位日順上洛天奏

という記述が富士年表に見られます。
これは日宗全 2-336 に記載があるととなっています。

749空き缶:2003/09/20(土) 11:24
「これは蓮師、興師、どちらの考えと言うことですか。
この根拠は何でしょうか。
石山が建ってる場所は南条家の領地ですね。
なぜ、そんな場所に朝廷が本門寺を建立するわけですか。」

「御下文」信者の私としましては朝廷の考え、もしくは「三時弘経次第」が日蓮聖人談・日興上人筆となっていますので、その辺の思想ではないでしょうかと思っています。
大石寺のある場所は日興上人有縁の地であり、日興上人が選んだ「本門寺予定地」だったと推察しています。そして予定地のまま終わってしまったにもかかわらず、後の世に「総本山」を名乗るようになってしまいました。

「記された既述は、所謂、譲座本尊の日付ですね。
なぜ、この日が本門寺構想を引き継いだ日といえるのでしょうか。
また、この日を以て引き継いだとすると、それ以前に本門寺構想があったことになりますが、確実な興師の文献で、これを示すものは何でしょうか。
さらに、これ以降は後継者育成に取り組み、目師にそれを譲ったということですが」

「譲座本尊」の日付、その通りです。この辺は私個人の「日興上人身延離山は本門寺建立のため」「御下文」「三時弘経次第」等にもとづくものであり、憶測の域を出ないものです。

嘉元元(1303)年11月1日(西山文書)
嘉元2(1304)年5月(西山文書)
嘉暦2(1327)年8月
元徳2(1330)年3月
これらは幕府への申状だったと記憶してますが、違ってましたらすみません。

750犀角独歩:2003/09/20(土) 12:08

空き缶さん:

> 「御下文」信者の私

あ、そのようなお立場ですか。なるほど。

> 「三時弘経次第」が日蓮聖人談・日興上人筆

これも理解できました。

> 大石寺のある場所は日興上人有縁の地であり、日興上人が選んだ「本門寺予定地」

わたしは、その場所を重須(北山)であると思ってきました。
突っ込みとかではなく、なぜ大石寺であるとお考えになるのですか。大行はたしかに興師の「第一弟子」と書き残されますが、それ以上に本門寺予定地とお考えになる理由は何かありますか。

> …幕府への申状

そのとおりであろうかと思います。
わたしは天奏と混同してしまいました。
失礼しました。

751犀角独歩:2003/09/20(土) 12:26

> …幕府への申状

ただ一つ、

「嘉暦2(1327)年8月 日興に代り三位日順上洛天奏」

がその例外として記載されています。
お恥ずかしい話なのですが、日宗全を所蔵しておりません。
もしお持ちでしたら、既述した同書2巻336頁をご確認いただき、その信憑性に対するご意見をいただければ幸甚です。

752空き缶:2003/09/20(土) 12:53
独歩さん
日宗全2巻336頁は「日順阿闍梨血脈」の3ページ目です。
ぱっと見た限りでは、そのような文は見当たりませんが。
漢文なので、よくわかりませんが今度目をさらにして良くみてみます。

私は興師は身延を離山されて、有縁の富士周辺を「視察」されて景観や土地の広さなどから適当な場所として、「もし立ててもらえる時はここがいいかな」ぐらいの感覚で現在の大石寺周辺を定めたと考えています。
重須本門寺説は一番可能性が高く、私の個人的見解は馬券でいえば「大穴」みたいなものです。
妙本寺でも日蓮・日興・日目の流れを指示してますからね。根本的にはここが出発点になっているのかな、と自分でも思います。

753犀角独歩:2003/09/20(土) 13:43

> 752

有り難うございます。
富士年表の記述の意味がわかりました。
言うところは、仰せのとおり『日順阿闍梨血脈』ですね。該当は、

「嘉暦第一の暮秋には険難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ、同号二年八月に身命を捨てて禁裏最初の奏聞を致す」(富要2-22)

のことを指しているのでしょう。偶然にも、話題にしている盗難事件との絡みとなっています。

興師は漫荼羅本尊複数に脇書して「本門寺」と記されています。
これは一本門寺内の複数の堂宇に懸ける意味なのか、本門寺を複数建立することを前提にしてのことなのか、今ひとつ、判断が着きかねます。わたしは後者ではないのかと思っています。しかし、そうなると、そのなかで取り分けて、天皇帰依で建つ本門寺はどのように書き分けているのかが、読めません。

上古は複数相承で目師は郷師にもちろん何某かの相伝・相承を示していると思っています。郷師は好感を持つ人物の一人です。美濃の垂井で、尊師と共に目師を荼毘に付し、その遺骨半分を富山に持ち帰りました。不思議なことにその遺骨を納めたのは「大石寺」ではなく、下之坊。この遺骨はいったい何処にあるのでしょうか。

わたしは、石山で蓮師灰骨というものこそ、実は目師のものではないのかと仮説を述べたことがあります。道師『御伝土代』ではなぜか目師の既述は中途半端です。このようなことから、道師の石山は目師軽視、つまり、目道不仲で、むしろ、目師は尊郷を重視していたのではないのかと思えるわけです。

しかし、先にも記しましたが、当時の寺院相続は完全な地頭縁戚に基づくものですから、石山は道師へ、しかし、法義、その他の信頼は尊郷両師に強く、けれど、尊師は興師六人の弟子に漏れることから、郷師の信任のほうが篤かったろうと思えます。

ただし、悲しいかな歴全、日宗全が手許にありませんので、道師に係る文書は『御伝土代』以外、手許にありません。他の確実な文献から道師の目師への信伏随従が窺えるものがあれば、どなたでも、この記述に批正を加えていただければ幸甚です。

754空き缶:2003/09/21(日) 11:21
独歩さん
「ただし、悲しいかな歴全、日宗全が手許にありませんので、道師に係る文書は『御伝土代』以外、手許にありません。他の確実な文献から道師の目師への信伏随従が窺えるものがあれば、どなたでも、この記述に批正を加えていただければ幸甚です。」

日蓮宗宗学全書2巻に『御伝土代』以外の日道上人の遺文が7通でていますので、チョッと良くみてみます。
あと関連文献が「富士諸山文書」(興門資料刊行会)にでているかもしれませんので、こちらもみて見ます。
しかし、漢文がよく読めませんので、「○○の持ち腐れ」状態なんですよ。

先に大石寺と重須の大穴私観を述べましたが、興風談所の「興風」第11号(日興上人研究特集)の「重須本門寺と大石寺」の章を再読してみました。
そこで
大石寺・・・本門寺建設予定地(朝廷が決めた場所ではなく、日興上人が見積もった場所)
重須 ・・・本門寺モデルルーム
のような気がしてきました。
日興上人は現在の大石寺の建っている付近は「下見」程度で通り過ぎていると思います。
身延はやはり墓所としてしかみていないと思いますね。

755犀角独歩:2003/09/21(日) 16:37

空き缶さん:

大穴説はおもしろいですね。
当たったら、頭を下げなければいけません(笑)

> 現在の大石寺の建っている付近

読み流すところですが、なかなか意味深な言い回しですね。
そう、いまの場所に当初の「大石の寺」があったとは限りませんよね、たしかに。

延山に対する見解はそのとおりだと思います。
ただ、元来は釈迦立像、註法華経も置かれていたはずですから、それより、少し意味するところは広かったかも知れませんね。

756れん:2003/09/21(日) 17:52
横レス失礼します。確実と言えるかどうかはともかく、目師と道師との師弟関係が窺えるものは、目師へ授与された興師本尊にあります。「元亨四年十二月二十九日、最前上奏之仁卿阿闍梨日目。(道師添書)日道相傳之日郷宰相阿闍梨授与之」「正慶元年十一月三日、最前上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之一中一弟子也。(道師添書)日道相傳之」何れも日興上人御本尊集に御筆写真掲載。前者は保田妙本寺蔵、後者は大石寺蔵です。右ご参考までm(__)m

757愚鈍凡夫:2003/09/21(日) 19:09

富士年表より
333元弘 3 癸酉 後醍醐 北条守時 正慶 2 光厳 滅後 52年 日道
10月 日目法を日道に付す(聖691)10月 日行下之坊に住す(聖739)11.15 3祖日目太夫阿日尊・宰相阿日郷を伴い天奏上洛の途美濃垂井に入滅、荼毘に付す74(聖661・大過去帳)○日尊・日郷3祖日目の遺骨を奉して上洛天奏(聖662)○日郷遺骨を奉じて大石寺に帰り下之坊に納む(聖662・下之坊寺誌・別統)

富士年表では、1333(元弘3/正慶2)年10月、日目師は日道師に血脈付法し、心おきなく上洛の旅に出たが、志果たせず旅路の途中で入滅された。ということになっていますね。
なのに、日道師と日郷師の間に相続争いが生じたのは何故か。単なる土地問題ではなく、実際は宗門の主権争いではなかったかと思うのですが。
日目師は日道師・日郷師、どちらに法主の座を譲るとも決めていなかったのではないでしょうか。天奏から帰ってから考えれば良いと思っていたのではないでしょうか。
日道師は天奏に行く前に自分に相承があったと言い、日郷師は入滅前に自分に相承があったと言えば、どうなるでしょうか。
あとは、普段の教団内の力関係が物を言うということではないですか。

758空き缶:2003/09/21(日) 19:48
独歩さん
「富士諸山文書」の大石寺文書に大石寺関係の在家分の書状が掲載されています。
内容的には南条家の「譲状」のようなものが多いのですが、南条時光から時忠への直筆譲状に気になる一文があります。
南条左衛門二郎入道を指して「御下文の正文はこの入道のもとに有」と出てきます。
「南条左衛門二郎入道」ってどなたのことでしたっけ?ここに出てくる「御下文」って、例のものでしょうか。

759れん:2003/09/21(日) 19:57
所謂道郷論争ですが、当時の確かな文献には道師と郷師が争ったことを証するものは皆無に等しく、道郷二師の論争を記すのは両師の門下に互いに門流意識が確立した室町中期以降の文献からであることは注意すべき事柄だと存じます。このことから道郷両師の間に目師跡をめぐる論争はなかったと私は考えています。郷師の付弟の日賢師(後日傳に改名)の大石寺東坊地相続図を読むと道郷両門下による東坊地係争のおおもとが南条家の所領相続の分割性にあったことが判明します。上記の文献によるかぎり道郷論争は寧ろ行師と傳師の係争と理解すべきと存じます。

760空き缶:2003/09/21(日) 20:14
れんさん
その通りですね。私も文献を再読してみてそう思いました。
そして、「万年救護本尊」と「正御影」が遷座されたのは日時師と日伝師の代であり、日時師の代に大石寺の現在の御影ができていることから、
日禅授与の本尊の模写も日時師の代と推察できます。やはり阿部管長の鑑定目はなかなかのものと思います。
よって過去に道師模写の有師彫刻との私観を述べましたが、時師模写の有師彫刻でほぼ確信しました。

761れん:2003/09/21(日) 20:20
また、石北の関係ですが、日代師の退出後重須の坊主職に就いた日妙師の申状には日目申状案が副進ぜられており、手元にある日妙師書写本尊の相貌は目師の書写本尊と同じで目師の書写本尊を踏まえて本尊を書写されているので、当時の重須に石山の目師に対する悪感情はなかったと推察します。もし、目師ないし目師門下が、嘉暦年間の重須重宝の盗難に関与していたならば、そしてそれを重須側が知っていたとするならば当時の重須側が石山の目師のものをもちいたりはしないと思うのですが…。

762愚鈍凡夫:2003/09/21(日) 20:32

確か、南条五郎左衛門時綱(時光の五男)から東坊地一帯の寄進を受け、その後、日郷一門が蓮蔵坊を統括していたと思うのですが(最終的には大石寺の所領となります)、その発端が、日道師と日郷師の、所謂、堀日亨師が「宗義の諍」とだけ記した宗義論争にあるのではないかと思うのです(勿論、裏付ける証拠はないです)。
小生がこの問題に関心を持っているのは、生御影のことが気になっているからです。
日郷師が持ち去ったのか、日伝師が持ち去ったのか分かりませんが、重須の生御影が日法師作なのか、この持ち去られた生御影が日法師作なのか、この辺が気になるのです。
勿論、重須から盗まれものが石山に伝わったのかも知れませんが。

763れん:2003/09/21(日) 20:51
空き缶さん、石山の所謂板曼陀羅が偽作ならば空き缶さんの仰る通りかも知れません。ただ筆者不明ながら、万年救護本尊の別幅副書には救護本尊は本門寺建立の時“本御影堂”に懸ける本尊とされており、主師の石山境内図では本堂と御影堂は別棟ですので、保田の所伝によるかぎり救護本尊は御影堂の御影の後ろに懸ける本尊で本堂に懸ける本尊では無いと存じます。では本堂に懸ける本尊は?板曼陀羅が蓮祖直造であってもなくても、真偽にこだわらなければ板曼陀羅でいいと私は思います。私も累代法華の方と同じで戒壇本尊に流れる法を信じているからです。

764れん:2003/09/21(日) 21:12
愚鈍凡夫さん、日時師談の大石記に「日興上人重須に御座の事をば大行勿体無き由申され、大石寺の御坊何れにも御座有らんこそ然るべきに、石川か領に御越しは然るべきも無き由を強いて申されけるに、上人の仰せには、身は病気の者なれば今少し山近く居てたきぎ火にあたり候はん。但し身は石川が領にて候へど已に本門寺の朽木書の御堂をば大石に立て申し、随って身延沢に立て申したりし御仏をも入れ申す。毎月入堂すべし。心本無くば思し召すべからすと苦ろに仰せられしなり」という記述があります。文中の身延沢で立て申した仏は蓮祖御影と推察されます

765れん:2003/09/21(日) 21:29
事実、従開山伝日順法門には「身延山には日蓮聖人九年・其後日興上人六年御座有り、聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造らせ玉ふ事も日興上人の御建立なり」とあり大石記の記述を傍証しています。また尊師実録には弘安七年の時点での身延山の御影堂の存在が記されているので、蓮祖滅後弘安七年までに、安置の蓮祖御影が建立されたと推察します。それが興師身延離山後上代石山に安置された御影で、重須の生御影は石山安置の御影をもとに新たに造立されたものと推察しています。

766空き缶:2003/09/21(日) 21:41
れんさん
私は誰が造ろうと偽物とは思いません。これは私が板曼荼羅に関する所見を最初に述べるときに前置きさせていただきました。
どうか気を悪くされないで下さいね。私としては日主上人の説はチョッと説得材料にかけてしまうんです。
話は変わりますが、
れんさんは興風談所の諸資料に精通されているとみました。
池田令道師がどのような論理展開で、二箇相承を否定されたか「身延相承書と池上相承書について 」のスレッドにて教えてください。

767愚鈍凡夫:2003/09/21(日) 22:19

小生もれんさんのような仮説を立てて見たことがあります。しかし、この仮説はすぐに捨てました。その理由は、
顕正居士さんが引用されていた、
「第一に生御影、即ち重須に在すなり」(当家三衣抄)

それから
「翌日重須本門寺に詣るに其の道廿余町是は興師御隠居の霊地なり当上人日健に謁す宿坊本行坊取次即日、正御影を拝し奉り朗師の落涙の流跡残りて今に見ゆ、其の外御形貌殊勝千万の躰たらく正身の聖人に値ひ奉る心地して感涙心肝に銘ず、暫く看経誦経し稍終て大坊に帰り振舞畢つて暮に大石寺に帰る。」(祖師伝)

「大聖仰に日く背脊甚た痛し云云仍之を相止む、今に以て御影後欽目高し故に生御影と号し奉る、又正御影と申す今重須に之在り云云、」(有師物語聴聞抄佳跡)

これらの文証がネックとなったからです。
個人的に、「万年救護本尊」は日郷師が、石山の「生御影」は日伝師が持ち去ったのだと思いますが、このことは、石山では誰でも知っているはずです。にもかかわらず、これらの文証が存在するのは何故か。納得のいく仮説は立てられませんでした。
故に、重須の「生御影」が日法師作であるとの結論に落ち着いたのです。

768れん:2003/09/21(日) 22:55
空き缶さん
私は決して気を悪くしてはいないのでお気になさらずにm(__)m有師の聞書に「当門流の起請の次第、其の寺の住持より案文を給て其の起請の主の執筆と相対して御影堂の正面にて書て其のまま本堂の正面に備へ奉り」云々とありますので、其の寺の本寺である当時の石山にても本堂と御影堂が別棟であったと推察します。郷門の本乗寺日会師の大石寺久遠寺問答事にも「大石寺本尊堂」とあるのは、参考になると思います。二箇相承について令道師の見解は師の著「富士門流の信仰と化儀」にあります。それについては日を改めて指定の板にレスします。

769空き缶:2003/09/21(日) 23:11
れんさん
「大石寺本尊堂」とは「大石持仏堂」の事でしょうか?

もし別なものであれば、有師の代に造られたものではないでしょうか?
目師の代には本堂=御影を安置する場所、とみえますが。

770れん:2003/09/21(日) 23:17
愚鈍凡夫さん。凡夫さんの疑問ももっともだと私も思います。しかし、引用された寛師の三衣抄の文にせよ、祖師伝の陽師の文にせよ、佳跡の因師の注釈文にせよ、興師より三百年近く後の江戸期に記されたもので、私としてはそのまま鵜呑みには出来ないと思います。それらに比べて興師に近い順師・時師の記述の方が江戸期にしるされた伝説より、まだ信用できると思いますが…、まぁ、もしかしたら石山の御影(保田蔵の)も重須の生御影も日法師の彫刻かもしれません。また、案外重須のが蓮祖在世造立で石山のは蓮祖滅後の造立という推測もアリかもです。

771空き缶:2003/09/21(日) 23:19
こちらの掲示板にきて大正解だったと感じます。
皆様の書き込みが、私の愚脳を整理してくださいます。

私は今、大石寺→像の御影、重須→絵の御影と感じています。

772れん:2003/09/21(日) 23:44
空き缶さん。大石寺本尊堂とは大石持仏堂の事でしょうか?とのご質問ですが、証すべき文献がないので何とも言えません。私見では傳師の東坊地相続図を眺める限り、本尊堂は石山御堂、持仏堂は白蓮坊(大坊)の一角の持仏堂という感じがします。本堂と御影堂が別ならば有師の代に造られたのではないかとのご意見ですが、別棟に造ったとすれば有師では無く新たに蓮祖御影を建立した時師ではないかと思います。目師の代云々は証する文献が無いので私は何とも言えないのが実情です。明日は仕事なので今日はこの辺で失礼いたしますm(__)m

773空き缶:2003/09/22(月) 00:49
れんさん
『私見では傳師の東坊地相続図を眺める限り、本尊堂は石山御堂、持仏堂は白蓮坊(大坊)の一角の持仏堂という感じがします。』
東坊地相続図の写真は「千葉県の歴史」に出てますね。もしかして、れんさんもお持ちなんですか?
ここの「大石寺新御堂」は正御影を安置した場所ですね。
恐らく目師の代からあった御堂から日伝師が正御影を遷座したときに造った堂だと思います。
興風11号によれば、確かに大石持仏堂と白蓮持仏堂は同じものらしいです。(堀師の説ですが)なにやら日代師のいたところとでてますね。
そこに安置されていたのは日興上人の御本尊のようです。日興→日代授与の本尊で、現在は行方不明みたいですね。

774犀角独歩:2003/09/22(月) 11:31

758 空き缶さん:

> 「南条左衛門二郎入道」ってどなたのことでしたっけ?

時光の子・節丸ですね。
わたしが嫌いな(笑)『仏教哲学大辞典』からの転載ですが、
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/nanjokakeizu.jpg

> ここに出てくる「御下文」

これは違うと思います。
「時忠嫡子と為るによつて代々御下文并に手続の文所相添へ譲る」
「暦応元年十二月四日の下し文に云く、南条節丸申す田畠在家等の事」
という文書があります。

775空き缶:2003/09/22(月) 12:22
独歩さん
日蓮宗宗学全書2巻の道師の遺文には、特筆すべき事項はみつかりません。(私が漢文を読みきれていないだけかもしれませんが)

776愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 12:32

日代師の話題で思い出したのですが、
祖師伝に、

「御遺言の置状御遷化記録と名く執筆日興なり、日照日朗日興日向の四人の裏判之れ有り、此の正文は日興御付法の日代の御相続にして今永祿二己未年西山本門寺に之れ有り」

とあり、『御遷化記録』が永禄2年(1559)には、西山本門寺に所蔵さていたことが記されています。ということは、永禄12年(1569)に武田信玄が大石寺・重須本門寺を焼討ちする前に、すでに西山本門寺に所蔵されていたことになります。
これを読んだ時、
「日代さん、ひょっとして『日代置文』って、『御遷化記録』を合法的に手に入れるためのヤラセ?」
なんて考えてしまいました(ア〜ッ、恐ろしい・・・・・かな?)。

777犀角独歩:2003/09/22(月) 12:53

れんさん:

いくつか質問させてください。

(1)郷師、石山退出の理由
わたしは唯授一人相承は上古にはなかったと類推します。
ですから、道郷の法統争いはあまり考えていません。
しかし、東坊地の争い、郷師とは無縁であれば、郷師の石山退出はどのような理由が考えられるのでしょうか。

(2)戒壇本尊
文献考証の雄としてわたしはれんさんのご投稿に着目しています。
さて、文献的な立場からするとき、記される「戒壇本尊」を板漫荼羅、あるいはそこに「流れる法」というのは何を意味するのでしょうか。
本門戒壇と言えば、蓮師法門に違いありませんが、戒壇本尊なるものは文献的にどう考えられるわけですか。

わたしは戒壇本尊とは勝手な造語である。そう思います。
理由は当掲示板で何度か書きました。
「本門戒壇願主弥四郎国重法華講衆等敬白 造立如件」
とは弥四郎国重が造立したという意味にしか読めません。
また、「本門戒壇」の四字は蓮師の字ではなく、さらに文脈からすれば弥四郎の筆と言うことになります。つまり、この本尊を本門戒壇と蓮師は言っていないということです。それはつまり、漫荼羅諸尊が蓮師の筆であるとしても、戒壇本尊とはまったく言えないことを意味します。本門戒壇の願い主弥四郎が彫刻した漫荼羅以上の意味はありません。
文献的に考えて、蓮師法門に「本門戒壇」の成句はあっても、「戒壇本尊」という成句はありません。

「戒壇本尊」の起源を れんさん はどこに求められるのでしょうか。

(3)身延沢で立て申した仏は蓮祖御影
これはいかなる根拠に拠るのでしょうか。
同じ解釈をわたしは石山教学文書で読んだことがあります。
しかし、身延に立てた仏とは蓮師随身の「釈迦一体像」のほか、考えられないのではないではないでしょうか。
御影を「仏像」に凝らすのは教師の文献に初めて見られるとわたしは認識していますが、これは間違っていますか。

(4)持仏堂
持仏堂とは、仏像を安置する堂宇を言いますね。
漫荼羅本尊を持仏堂に懸けるとしてもその前には仏像が置かれていたと考えるのはごく自然なことと思えます。

漫荼羅中、妙法蓮華経を本尊と見做すことは本尊問答抄に既に見られますが、漫荼羅を持仏堂の“仏”と見做すことが興目両師の文献から窺えるものでしょうか。

むしろ、持仏堂という堂宇が建立される段階では釈迦仏像、あるいは一尊四士という仏像が用いられていて、その後の推移で撤廃されたと考えるほうが自然なのではないでしょうか。興師が一尊四士を「我義」とされ、澄師がそれを盗んだとする事例が伝わりますが、これは興門初期に置いては一尊四士の仏像奉安様式があり、それが持仏堂に安置されていたと考えるほうが自然と見えます。実際、現在の日蓮宗寺院では本堂(持仏堂)には釈迦像、御影堂には御影像という伽藍形式は一般です。

ご投稿を拝見する限り、持仏堂には漫荼羅しか安置されていないようなお考えと見えますが、仏なしの持仏堂、あるいは漫荼羅を仏と見做す持仏堂という考えはいったい如何なる文献的な根拠に基づくのでしょうか。

ご教示をいただければ有り難く存じます。

778犀角独歩:2003/09/22(月) 12:55

> 775

空き缶さん、有り難うございました。
わたしも近く図書館に行って捲ってみます。

779空き缶:2003/09/22(月) 13:31
愚鈍凡夫さん

「御遺言の置状御遷化記録と名く執筆日興なり、日照日朗日興日向の四人の裏判之れ有り、此の正文は日興御付法の日代の御相続にして今永祿二己未年西山本門寺に之れ有り」

これは「祖師伝」のどのへんにでてますか。
御遷化記録の裏判は「日照日朗日興日向」の四師ではなく「日昭日朗日興日持」の四師です。
もし、祖師伝の表記自体が「日照日朗日興日向」となっているとすれば、祖師伝はチョッと正確さに欠ける史伝書かもしれません。

780空き缶:2003/09/22(月) 14:13
横レスです
日興上人の御消息文の中で御影を指して仏といわれているものですが

南条殿御返事(正本:妙蓮寺)「ほとけしやう人」(仏聖人)
七月七日の御返事(正本:大石寺)「仏」
ぼんの御返事(正本:大石寺)「ほとけしやう人」(仏聖人)

その他、「法主聖人」「法花聖人」(法華聖人)などと使われます。
日興上人ならば、日蓮聖人御影や曼荼羅本尊をもって「持仏堂」に安置する可能性は考えられなくも無いと思われます。

781犀角独歩:2003/09/22(月) 14:20

空き缶さん:

富士門では「ほとけしやう人」を、すぐに ほとけ=しやう(聖)人 と解してしまうわけです。しかし、そうでしょうか。

わたしは蓮師も対する思いもありますが、お釈迦様に対する恭敬もあります。そのような人間からすれば ほとけ(釈尊) と しやう人 と該当の文書を読みますよ。

なぜならば、蓮師は終生、釈迦一体像を随身された方であるからです。
そして、興師が我義とされるのは一尊四士です。蓮師を上行と見做す思想は興師にあったと思います。そうなれば、仏菩薩への敬慕は釈尊と上行に代表される四菩薩。つまり、仏聖人は仏菩薩を意味するのであり、釈尊・上行を指すものであると拝せるからです。

その意味から持仏堂安置本尊は仏(釈尊)菩薩(四菩薩)で一尊四士ではなかったのかとわたしは類推するわけです。

782犀角独歩:2003/09/22(月) 14:38

持仏堂からは離れますが、仏聖人と聞けば、わたしは釈迦牟尼仏と日蓮聖人と思います。
しかし、たぶん、これは日蓮門下の一般的な感覚ではないでしょうか。
仏=聖人などという考えは興門でも、教師の石山訪問以降の話でしょう。

783空き缶:2003/09/22(月) 14:45
独歩さん
私は先にあげましたように、他の呼び名である「法主聖人」「法華聖人」などからいって、「ほとけしやう人」=御影であると思いますよ。
またダイレクトに「聖人御影」(曽祢殿御返事 正本:保田妙本寺)といわれているものも有ります。
別な曽祢殿御返事(いずれも正本:保田妙本寺)には「佛」と表記されていたり、「日蓮聖人」と表記されたりしています。
前後の文脈からみても、御影をもっていわれていると思われますが。

784空き缶:2003/09/22(月) 15:58
続きです
しかし、現在の大石寺でいわれるような「久遠元初自受用身」のような思想は微塵もなかったと思います。
ましてや、「一尊四士」をもって「謗法」などとする考えも、日興上人には微塵もなかったと思います。
日蓮聖人=上行菩薩の認識であったであろうし、釈尊と日蓮聖人を比較するようなことも考えられません。
ただし、日蓮聖人のことを仏様のように敬っていたとは解釈しています。

785犀角独歩:2003/09/22(月) 17:55

空き缶さん:

日蓮本仏に一度でも泥んだ感覚からすれば、仰ることはぜんぜん不自然に感じないと思います。しかし、わたしは興師が、蓮師、あるいは御影を「ほとけ」と呼ぶなどと言うことは断じてあるはずがないと思います。

ですから、法華聖人といえば法華経と日蓮聖人、法主聖人といえば釈尊法主と日蓮聖人である可能性を最後まで否定しません。
空き缶さんが仰る考えはもちろん正信会などでも一般的に受け入れられていることは百も承知の上で記しています。

また、例えば『辨阿闍梨御返事』に

「御神馬一疋 用途三貫文令進給 御状法主聖人御神殿奉備候了 恐々謹言」

などとあると言います。ここでは馬を神馬・御影堂を御神殿と言いますが、馬の神様ということではないですし、神殿に御影があるからといって日蓮聖人を神様といっているわけでもないと拝せます。

「聖人」という語彙は元来の中華思想の語であって、孔子なども聖人と呼びます。そのような仏教外の聖人と分けて仏教の聖人という意味で「仏聖人」という成句を使った可能性もわたしは視野に入れています。

786犀角独歩:2003/09/22(月) 18:15

つづきです。

仏、法華、聖人という語彙に絡む考証ですが、要するにこれは三宝を言うわけではないでしょうか。釈尊=仏・法華=法・聖人=僧です。最後の聖人は菩薩である上行への恭敬を孕むか否か、わたしは慎重です。御宝前はたしかに「聖人の御影」の前も言うでしょうが、そこには自ずと三宝尊への恭敬も含めた表現となっていると考えることはできないでしょうか。

「日蓮聖人のことを仏様のように敬っていた」という素朴な感情はわからなくもありませんが、仏法の尊敬(そんぎょう)を廃した仏教に興師が陥っていたとわたしは考えられないのです。

787空き缶:2003/09/22(月) 18:31
独歩さん
人それぞれの解釈があっていいと思います。
参考までに
「民部公御房御返事」では「先師宝前」
「ぬくま殿御返事」「六郎入道殿御返事」等では「しやう人の御法前」などの、御影の表記の仕方もあります。

788愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 18:36

>>779:
空き缶さんへ
「駿州富士山重須本門寺釈の日興伝」の真ん中当たりです(但し、nbのHPの富要集05-019からです)。

横レスさせてください。
以前、空き缶さんは、保田妙本寺では『蓮祖生御影』を御本尊と呼んでいると仰ったと思うのですが、「久遠元初自受用身」=「日蓮本仏論」を打ち立てていないとしたら、教義上どういう解釈になっているんですか。日寛説のように、「久遠実成自受用身」=「日蓮本仏論」なのでしょうか。

789空き缶:2003/09/22(月) 19:13
愚鈍凡夫さん
ほんとですね!
私の手持ちの富士宗学要集5巻には20ページに出てました。
確かに「日昭日朗日興日向」となってます。
原稿の段階でミスしたのか、「祖師伝」そのものが間違っているのかわかりませんが、驚きです。

790空き缶:2003/09/22(月) 19:20
愚鈍凡夫さん
保田の教義については、本尊以外はほぼ大石寺と一緒です。
だから御講とかには出席しないんです。
個人的には宗史・教義で納得がいく場所はないんです。
ただ、保田にある御影を正御影だと思っていましたから(今も思ってますが)たま−に行くだけです。
今年は一応、仕事の休みは取れたので、「お虫払い」に行く予定です。
ここの掲示版にきて、宿題を多々いただいたような気がしますので、気になるものは再度この目で確認してきます。

791犀角独歩:2003/09/22(月) 19:46

空き缶さん:

解釈はいろいろあると思います。また、それを信条としたい人がいれば、それはそれでしょう。ただし、元来意味するところと後世の解釈をごちゃまぜにしてはいけないと思うわけですよ。

『穆作抄』に

「造仏破立の事
 当家の意は脱益の釈尊をば造立し奉らず只日蓮聖人の御影を造立し奉る可き事・御本尊に契当せり」

とあります。このような御影像を本尊と見做す考えが興師にあったのか、…解釈ではなく、あくまで、興師の素意… それを探りたいと思っているばかりです。

792れん:2003/09/22(月) 21:45
独歩さん。私は東坊地相続図等の当時の文献からみて郷師の石山退出は無かったと思います。その辺の事は興風十三号に坂井師が「道郷論争と大石寺東坊地の係争」と題して論考されているのでご一読をお薦めします。戒壇本尊の起源ですが、順師の従開山伝日順法門に戒壇本尊妙法五字とあるので、私は狭義にはごく単純に上行所伝の妙法五字が戒壇本尊だと見ています。身延沢に立て申した仏の解釈ですが、蓮祖随身仏の釈迦立像は蓮祖御遷化記録に墓所傍可立置とありますので、御堂には安置しなかったと思います。なので、私は単純に興師が蓮祖滅後身延沢で御

793れん:2003/09/22(月) 22:10
影を建立した史実が興師門弟の記述から確認できるので、「身延沢に立て申した仏」を蓮祖御影と理解したまでのことです。持仏堂安置の本尊の件ですが、栃木信行寺蔵興師書写曼陀羅に「嘉元四年四月八日、白蓮持佛堂安置也」(日興上人御本尊集NO.65)とあり、また、西山蔵興師書写曼陀羅に「元亨二二年八月二十九日、大石持佛堂本尊日代闍梨」(日興上人御本尊集NO.207)とありますので、以上の史料から、これまた単純に持仏堂には曼陀羅本尊が安置されていたと理解していました。明日は朝早くから仕事ですので、今日はこれで失礼します。m(__)m

794空き缶:2003/09/22(月) 22:57
れんさん
「興風十三号」はすでに在庫切れです。坂井師の「道郷論争と大石寺東坊地の係争」について書き込みお願いします。

795空き缶:2003/09/22(月) 23:39
独歩さん
「興師の素意」については、興師の遺文の解釈の仕方によってしまうと思います。
私のような御影信仰者の解釈では、やはり御影を信仰の対象にしていたとしか思えません。
「ほとけしやう人」「法華聖人」「法主聖人」が独歩さんのいわれるとおりだったとしても、「聖人御影」や「しよう人の御宝前」などで表現された御消息は、まさしく御影にご供養の品々をお供えしている模様を伝えているとしか思えません。

796犀角独歩:2003/09/23(火) 08:46

れんさん:

有り難うございました。
もう少し、突っ込んだご回答を期待しましたが、お忙しいようですね。
蓮師在世に興師門下で御影が作られていた。そんな確実な資料があるのですか。
「…までのこと」という表現をお使いになっていましたが、考証家らしからぬ表現ですね。「戒壇本尊」という語彙と思想の発生、持仏堂の奉安様式の変遷、この2点を知ることは学会を含む石山系グループの現行の信仰形態が当初如何なる形のものであったかを知る重要な鍵であると思います。

坂井師の論文のこと、有り難うございました。
知己の人物なので、直接、ご本人に訊いてみることといたします。

空き缶さん:

興師が、仰るような御影信仰者であるという点はまったく同感です。
蓮師に見られない御影信仰を新しく立てた人であるとわたしも理解しています。
ただし、その点を申し上げているのではなくて、蓮師を仏と見做していたかどうか、御影を仏像と見做していたかどうか、そのような考えは興師にはなかったのではないのか、という点を申し上げているのです。

もちろん、蓮師を仏を見做す信仰形態はあるでしょう。それは、しかし、蓮師の考えとは違うということを考え、受け入れざるを得なかった2年間でした。


以下、お二人に申し上げるわけではありません。
自分の信仰形態を揺るがす事実に足を踏み入れる勇気がなければ考証はただの言葉の遊戯になってしまうと思います。

797れん:2003/09/23(火) 10:37
独歩さん。昨日今日と仕事で多忙のため、舌足らずの回答となりすみませんでした。戒壇本尊という語彙は富士門下においては文献上順師が初めて使用した様です。しかしこれは決して板曼陀羅を指しているのでは無く、法躰である上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字そのものを指していると考えられます。佐渡の如寂房日満師の著作の日満抄には久遠寺本尊なる語彙が出て来ますが、これがどの本尊を指すのかわかりません。御影の件ですが、蓮祖在世では無く蓮祖滅後弘安七年までに興師が御影像を造立したことを記した興師門下の記述があると書いたのですが…。そ

798れん:2003/09/23(火) 10:52
の文献は順師の従開山伝日順法門と大師の尊師実録です。独歩さんのお言葉「自分の信仰形態を揺るがす事実に足を踏み入れる勇気がなければ考証はただの言葉の遊戯になってしまうと思います」を肝に銘じておきます。実はもう私自身は日蓮本仏論はとうの昔に捨てております。ただ、真筆現存の九郎太郎殿御返事に「法華経は仏にまさらせたまう法なれば」とありますので、蓮祖には法華経(能生)勝、仏(所生)劣という考え方はあったと愚考しています。もう仕事の休憩が終わるので、とりあえず失礼いたします。m(__)m

799犀角独歩:2003/09/23(火) 11:08

れんさん:

重ねてご教示、痛み入ります。
大変に参考になりました。
また、スタンスも理解させていただきました。
有り難うございました。

800ガンコ:2003/09/23(火) 13:06
みなさん、こんにちは。

独歩さん
>以下、お二人に申し上げるわけではありません。
>自分の信仰形態を揺るがす事実に足を踏み入れる勇気がなければ考証はただの言葉の遊戯になってしまうと思います。

これは、ここ最近の投稿者では、わたくしがいちばん当てはまるんでしょう。なにしろ、悪名高い顕正会の会員を名乗ってるくらいですから。

れんさん
>実はもう私自身は日蓮本仏論はとうの昔に捨てております。

ああ、やっぱりそうでしたか。れんさんの初登場の頃の書き込みを拝見していて、なんとなくそんな気がしていました。わたくしはまだまだ捨てたもんじゃないと思いますけどね。

アネモネさん
おっしゃるとおり、わたくしの言ってることは一事が万事、情緒的であろうとじぶんでも思ってます。これが法義を論ずるに適さないだろうことも自覚しております。ただ、言い訳を申しますと、大聖人の御書を拝読していてつくづく思うのですが、大聖人の仏法は法義的な部分と情緒的な部分のさかいがない、法義と情緒が混然一体となったところにものすごい魅力がある、と思うんです。この点を考慮するならば、むしろ現代的な証明を必要としない・・・うああ、こんなこと書くと、またなに言われちゃうかわかりませんね。ええ、もちろん、みなさんに読んでいただく以上は、少しでもマシな投稿を心掛けたいと思っております。

問答名人さん
重須が本山で、上野は末寺であると? もやは正宗信徒を卒業されたようでありますが、わたくしは現段階で折衷案として、日興上人はどちらを本山であるとか末寺であるとか、そういう御考えはなかった・・・と申し上げておきます。(これじゃあ、正宗信徒失格かしら?)

801犀角独歩:2003/09/23(火) 13:12

800 ガンコさん:

> わたくしがいちばん当てはまる…

まあ、そういう自覚ならば参考にしてください。
ただし、これは誰彼のことを言っているわけではありません。
わたし自身の自戒です。

802愚鈍凡夫:2003/09/23(火) 14:20

れんさんご苦労様です。
小生は、『日順雑集』で「戒壇本尊妙法の五字」の文を見ました。

「一、私に云く戒定慧とは妙法蓮華経なり、難じて云く戒定慧は三なり五字は一なり如何、答ふ三にして而も一、一にして而も三なり、戒壇本尊妙法の五字は面は三にして其の躰一なるか」(日順雑集)

「行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし」(本門心底抄)

それで、『日順雑集』の文証と、『本門心底抄』との整合性を知りたくて、現在の北山はこの『本門心底抄』の文証をどう解釈しているのか、藤波太郎さんに質問したことがあります。

803ガンコ:2003/09/23(火) 15:30

独歩さん

>法主聖人といえば釈尊法主と日蓮聖人である可能性を最後まで否定しません。

いささか話題が古いですが、どなたもおっしゃらないので、生意気を承知で申します。

滝泉寺申状に
「法主聖人時を知り国を知り、法を知り機を知り、君の為民の為、神の為仏の為、災難を退治せらるべきの由勘へ申すと雖も御信用無きの上・・・」
とありまして、文意は明らかに大聖人を指し示すと読めます。

この御書は、大聖人と日興上人の合作と言いますが、この部分は大聖人の御筆によるとのことですので、「法主聖人」は大聖人御みずからの御名乗りであろうと拝せます。

もっとも「法主」とはなにを意味するか、よくわかりませんが・・・

ちなみに、浅井によると、御法主上人との呼称は大聖人御一人のものであるから、御歴代は貫首上人と御呼びすべきである、とのことです。

804犀角独歩:2003/09/23(火) 16:05

ガンコさん:

その一説をわたしが知らないわけがありませんでしょう(笑)
ですから、最後まで法主が釈尊である可能性を捨てないと記したのです。
まあ、蓮師が自称したとすれば、力が入りすぎたと言うことでしょう。
この言葉が何を意味するのか、しかしこれは、当時一般の語彙の使用のされ方に通暁しないとわかりませんでしょうね。

「法主」「貫首」、浅井さんがなんて言ったかは知りませんが、石山ものばかりじゃなく、もっと仏教一般の勉強をしたほうがいいですね。社会がどうだ、政治がどうだという以前の問題です。あまりにも不勉強ですよね。ですから、薄っぺらいテキストしか作れないわけです。それはともかく、法主がいけないのなら、なんで一介の会代表が「先生」なんて言われているんでしょうか。我々の師匠は日蓮聖人を置いてないはずだと言い返したくなります。先生とは師匠と言うことです。師と三徳に一つ、すなわち、仏徳の内ですよ。そんな美徳で自分を呼ばせる神経で「法主」がどうのはナンセンスでしょう。

805犀角独歩:2003/09/23(火) 16:06

【804の訂正】

誤)師と三徳に一つ
正)師とは三徳の一つ

806ガンコ:2003/09/23(火) 17:34

>その一説をわたしが知らないわけがありませんでしょう

これは、失礼しました。

>ですから、薄っぺらいテキストしか作れないわけです。

う〜ん、そうですかねえ。
ただ、ちょっと前に顕正会版の御書全集について、当分できそうにないと申したのは、どうも他のところの研鑽におっつかない、という感じがしたものですから・・・ようするに、造るからには現時点で最高レベルのものを造らないとわらわれちゃうだけでしょうから、そうなるといつまで経っても出来しないだろうという気がしたのでした。

法主上人については、わたくし個人としては「法主聖人」と「法主上人」でちがいますから、いいだろうと思ってます。

「先生」は世間的にも多用されるところですから、まあ、そんなに目くじらをお立てにならなくても・・・(うふふ)

807犀角独歩:2003/09/23(火) 17:43

802 愚鈍凡夫さん:

この対比、なるほどと思いました。

日順雑集では

虚空不動戒−戒壇┐
虚空不動定−本尊┼妙法蓮華経
虚空不動慧−五字┘

なっていて、これはたしかに理壇論。
ところが本門心底抄では

「行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず」

で事壇論。ここに整合性はないと見るほうが至当と思えます。

雑集には「戒壇・本尊・妙法の五字は面は三にして其の躰一」とあり、のちに寛師が一大秘法という雛形が既にあったことを再確認しました。ちょっと驚きです。しかし、ここで「山家大師云く虚空不動戒・虚空不動定・虚空不動慧・三学倶伝名て妙法と曰う」を引証するわけですが、蓮師はこの考えに基づいて「三つの法門」を立てたかどうか、わたしは疑っています。御本尊七箇相承、本尊三度相伝でもこの点は現れていません。伝興師・上行所伝三大秘法口訣では現れます。これはいつ頃の成立なんでしょうか。

余談ですが、国主帰依が戒壇堂というのは後天的な考えで、実際は本門寺建立の意味が先行していたのだと思うのです。それが、やがて、迹門戒壇(比叡山)を簡ぶ本門戒壇思想が生じて換言されていった歴史があるように思えます。興師の「本門寺」とは直接的に戒堂を指す表現ではないですよね。

なお、心底抄に「戒壇の方面は地形に随ふべし」とありますが、本尊三度相伝では「本門寺の戒壇は西面に立つ可き」となっています。

関係ありませんが、正本堂は南面ですから、この相伝に外れていました(笑)
こんな指摘はどこもしないわけで、なんだか、そもそもそれぞれがいい加減だと思うわけです。話がずれていますが。

808犀角独歩:2003/09/23(火) 17:47

ガンコさん:

> 目くじらをお立てにならなくても

誰かにも、以前そんなこと言われましたっけね。

809心者雖念不直相鴨:2003/09/23(火) 17:58
 初歩的な質問かもしれませんが、富士門流の各派(教団?)では、現在のチベット仏教をどのように評価なさっているのでしょうか?
また、空海以降の密教に対する評価はいかがでしょうか?なにか、文献がありましたら教えてください。

810アネモネ:2003/09/23(火) 20:07
横レスごめんなさい。

>800
ガンコさん

どうも私の投稿は、言葉が過ぎるようで後が続かなくなってしまうところがよくありませんね。気をつけようとは思っているのですが、入信以来、常に気になってきたことが私の中で、大きな宗教テーマとして横たわっているものですから、どうかご容赦ください。
ガンコさんに対して、個人的感情でもって批判をしているわけではありません。あくまで書かれているその内容について、問題提起しているということをご理解くださって、お付き合いください。

>情緒的であろうとじぶんでも思ってます。

この点は、誰しも同じでしょう。私も相当に情緒的ですし、その点は随分と独歩さんに手厳しく指摘されてきました(笑)しかしまた、仏教から情緒的なものを全て取り去ることはできないということも、同時に教わりました。
そのとおりですね。人間が幸せになるための内面的な教えなのですから。むしろ教えそのものは、最も情緒的な範疇のことなのではないでしょうか。
ただしかし、宗史や教義の真偽となると趣旨が違ってきます。
歴史的な考証からの教義研鑚には、感情的な思いは妨げになることのほうが多いでしょう。
ところが、信仰的立場にある場合、その信仰的情緒によるアプローチとその伝承のみを絶対的なものとして捉えてしまうわけです。
だからますます一般社会との溝が深まるばかりでしょう。
しかもそれが、真実であるかどうかは証明されなくていいとまで開き直られる。
開き直りはよくないです。それは、真理への追求や探究心を怠っているだけのことではないでしょうか。その点においてはむしろ私の目からみると、日蓮の真の仏教探究の精神から大きく外れているのではないかと感じるところなのです。

>ただ、言い訳を申しますと、大聖人の御書を拝読していてつくづく思うのですが、大聖人の仏法は法義的な部分と情緒的な部分のさかいがない、法義と情緒が混然一体となったところにものすごい魅力がある、と思うんです。

仰りたいことは、よーくわかります。
日蓮さんの情緒的な部分は私も大好きです。しかしガンコさんが捉えているように、本当に日蓮さんは、情緒的な感情だけで、仏教を研鑚していたのでしょうか。
私はそんなふうには感じられないんですね。日蓮の学術的思考方法はいたって合理的手法なのではないかと思いますが、どうでしょう。
むしろ教義を情緒的に自在に表現できるところまで、それだけ緻密に科学的に教義研鑚を積み重ねてきた実績が大きいということではないでしょうか。だからこそ、法論に強かったのではないかと思うのです。
ですから、日蓮の残した書に、「法義的な部分と情緒的な部分のさかいがない」というのは、日蓮さんのことではなく、そう思うガンコさんの見方のことを意味しているのでしょう。

しかし恐らく、非常に科学的な研鑚と論考を駆使しする学術法と、そこで掴んだことを、さらに人々の魂に訴える情緒的豊かな表現の術も両方兼ね備えた、非常に魅力ある方だったのではないかと思われます。
ついそこをゴッチャゴチャに捉えてしまいがちですが、しかし私は日蓮さんの、あの当時における合理的な研究姿勢にこそ、見習うべきことが多くあるはずではないかと思っています。
本物を見抜くためには、そういう姿勢を養うべきで、八正道に相当することかもしれません。
ただしそんな日蓮さんにも限界はあったと思うのです。何よりも、時代的な限界です。それはそのまま日蓮教義の限界にも通じるものではないかと私は判断しました。これを覆すだけの史実が証明されれば話は別ですが。

811アネモネ:2003/09/23(火) 20:07
(つづき)
>この点を考慮するならば、むしろ現代的な証明を必要としない・・・

ならば、日蓮の教義はもはや現代には無用の長物でしょう。捨てたほうがマシです。
またそう信じる人だけが勝手に信じていればいいのです。ただし、人を脅したり蔑んだりして、迷惑をかけたり、惑わしたりすることを一切やめて、自分たちだけがひっそりと信じることです。しかし、そうはいかない教えも伝えられてきている以上、公言する因果に対しての現代的な証明を開き直ったり、無神経であっては困ります。それが布教者の責任というものでしょう。
証明もされずに信じ込まれる弊害とその社会的影響や問題というものが、大きく横たわっているのですから、しっかりと目を向けてほしいものです。
そのことに対する意識の希薄さが、そのまま教義研鑚の姿勢や、社会的意識にもあらわれているのではないでしょうか。
人が苦しんでいることに平然といられるとしたら、仏教徒でありながら、仏の心に反していると私は批判します。
それが因果だからというならば、尚更その証明を求めます。
実際にこの宗教によって苦しめられている人がいるのですから、証明することの必要性に決して無神経にならないでほしいのです。
信仰しながらでも、苦悩すべきことではないでしょうか。

結局、書き進めるうちにまた語気が強くなって申しわけないですが、これは、ガンコさんに対する個人的な批判ではありません。その考え方そのものに対する問題提起です。重ねて言いますが、顕正会だからということでもありません。私にとっては、法華講も顕正会も創価学会も同じなのです。

>少しでもマシな投稿を心掛けたいと思っております。

投稿がどうこうではないのです。考え方の問題だと思います。
人の言葉を気にして繕う必要はないと思います。
批判を受けることで、この信仰に対して問題意識を持たれることを私は望んでいます。
もちろん、私の記述にも問題があれば、どんどん批判なさっていいんです。
私が常に訴えてきていることとは、信仰そのものを否定ではなく、信仰のあり方なのです。

812愚鈍凡夫:2003/09/23(火) 20:46

>>809:心者雖念不直相鴨さんへ
始めまして、愚鈍凡夫です。
富士門系では密教と言うより、真言宗と捉えていますから、破折対象としか見ていないようです。密教を東密・台密としてではなく、顕教・密教の立場で見ていくと得るものがあると思うんですけどね。

日蓮正宗系のチベット密教の論文や著書は知りませんが、
日蓮宗系ではこんな論文があります。

「『チベットの死者の書』にみる人が死んでからの四十九日間」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho29/s29_213.htm

813心者雖念不直相鴨:2003/09/23(火) 21:40
愚鈍凡夫さんへ
ご教示ありがとうございました。カナダの大学にいたとき、仏教徒だというと「お前のセクトでは、ダライラマの信仰についてどう考えているのか?」とよくたずねられました。
ダライラマはだれでも知っているのに、一般のカナダ人は当然池田さんや日顕さんのことは知りませんからこうした質問は当然かと思いましたが、私は恥ずかしいことに何も答えられず、NSCの仲間に聞いても(教理については)みな関心がなかったり知らなかったりでした。
最近この掲示板のことを知ったので、長い間忘れていたこの問題をふと思い出して質問させていただきました。

814空き缶:2003/09/24(水) 01:47
独歩さん
私の日興上人の御消息文の解釈でいけば、日興上人は日蓮聖人を仏様と同等の方と思っていたと思いますよ。
一尊四師を「謗法」とはいっていなかったと思いますが、さりとて必要とも思われていなかったのではないでしょうか。
御影と曼荼羅で十分だと思っていたと思います。
曼荼羅御本尊の書写の仕方が、他の老僧達と違うことから宗祖観にも相違があったとは思いますよ。
日向上人とその門流は、日興上人と本尊書写の形式が同じですが、保田に伝わる「御本尊七箇大事」と身延に伝わる「御本尊七箇大相承」がほぼ同文であることから、日興上人の本尊書写を日向上人は学んでいたのではとも思います。(これは決して上下関係を表すものではありません)

815犀角独歩:2003/09/24(水) 09:06

空き缶さん:

> 私の日興上人の御消息文の解釈でいけば、日興上人は日蓮聖人を仏様と同等の方と思っていた

空き缶さんが個人信条としてどのように解釈してどのように信じようがそれは内心の自由に属することですから、他人がとやかく言うことではないでしょう。しかし、その個人的な解釈を事実であると他人に提示するとなると、それは事情が変わります。

言われるところの消息とは、興師の許に御影供養を届けた弟子檀那への返状を主に言うと思われますが、その場合、御影を顕彰した形で述べるのは当然でしょう。しかし、それが直ちに興師の仏本尊観の全体であると即断するのは短絡ではないでしょうか。

だいたい、御影本尊でよければ、興師は漫荼羅書写は意味のないことになります。
また、漫荼羅を如何なる意志に基づいて書写されたかが問題になるわけです。

以下、執行海秀師の2論文は秀逸です。
熟読をお薦めします。

□興師の本尊観とその後の興門における本尊観の変遷については
『初期の興門教学に於ける本尊意識の展開』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_003.html

□興師の著述の真偽については
『日興の著作と真偽論』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_004.htm


ご自身の信じたい形状から遺文を拝するのではなく、遺文からその著者の本意を探り、そこから信仰をお考えになることもお薦めするものです。l

816犀角独歩:2003/09/24(水) 09:13

810〜811 アネモネさん:

「ガンコさんへの」ということではなくて、ここに記されている日蓮観にわたしは賛成です。

817空き缶:2003/09/24(水) 13:18
独歩さま
私は「原殿書」も含め、真筆不伝書は基本的に判断材料外に置いてきました。
また、順師の著作については真筆現存のものも慎重に扱っています。
少なくとも、日目→日郷からの流れにおいて、「一尊四士」は造られた形跡もなく、宗祖を末法救済の人・あるいは仏様同等の方として信奉してきたことは事実であると思います。
日興上人の真筆現存の書簡からいえば、日興門流は「日蓮聖人」を信仰対象とし、寺院には御影+曼荼羅、門下は曼荼羅のみが信仰姿勢として正しいものと思います。
寺院に「御影」を安置することは、寺院参詣=日蓮聖人のもとへ参詣することの意義と、寺院の管長=日蓮聖人の生まれ変わりでは無いことを、明確にする為であると思います。
大石寺に真筆があるといわれていた、「与波木井実長書」に身延を指して「久遠実成釈迦如来の金剛法座也」、「上行菩薩日蓮上人の御霊屈也」との文言があり、波木井実長に対し釈迦立像に四菩薩を加えて久遠の釈尊とするよう指示されている文言もあります。
しかし、現在この書状の真筆は大石寺には無く(消去ったのか?)真意ははかりかねます。

818ガンコ:2003/09/24(水) 16:17

アネモネさん

>どうも私の投稿は、言葉が過ぎるようで後が続かなくなってしまうところがよくありませんね

わたくしにかぎって申しますと、元来がズボラなものですから、なかなかお返事が書けないだけです。本仏論のほうでも感想をいただきましたがそのままですし、宅間のほうでも宿題があります。うやむやにしているように見られかねないですが、頭の回転がひじょうに遅いので、じつはみなさんがすっかり忘れた頃になって、ようやく文章化にこぎつけている、という有様なのです。

うっかりすると、個人攻撃になりかねないので、どなたもそういう議論はされないのだと思いますが、この際ですから、アネモネさんについて、わたくしがどのように感じているか、率直に書いてみたいと思います。(削除になるかも?)
このところ、日蓮の限界、法華経の限界、等とおっしゃっていますが、素朴な疑問として釈尊の限界についてお聞きしたいところです。というのは、じぶんはてっきり、アネモネさんは日蓮本仏論に辛いのかと思っていたんです。しかし、よく読んでみると、じつは日蓮信仰全般にわたって激辛である、という気がしてきたんです。こうなると、もしかしたら、この先、釈尊すら否定的に捉えることになるんじゃないのかと、・・・これはまったくのあてずっぽうですが・・・ともかく、そんな気がするのです。(ぜんぜんちがっていたら、ごめんなさいです)
もし、わたくしのような印象を多くの人が懐いているとしたならば、もしかしたら無意識のうちにもアネモネさんとの議論は回避したい、ということはあるかもしれません。

>>この点を考慮するならば、むしろ現代的な証明を必要としない・・・
>ならば、日蓮の教義はもはや現代には無用の長物でしょう。捨てたほうがマシです。
>またそう信じる人だけが勝手に信じていればいいのです

そうですね。そういうようなことをおっしゃるだろうと思って、予防線を張っていたんですが、みごとに中央突破されてしまいました。
ちなみに、わたくしがこの掲示板を好きなのは、はなはだ矛盾しているようなことを申しますが、すでに(大勢として)日蓮本仏論を否定していること、さらには日蓮信仰すら否定しかねない、もっと言えばあらゆる信仰ないし宗教そのものに対しても懐疑的である、といったところなのです。

819ガンコ:2003/09/24(水) 16:20
とくにわたくしの所属する教団では、この信心は絶対である、と言います。金剛不壊という言葉もありますし、ちょっとやそっとのことで壊れてしまうようなチャチなものではない、ということなのですが、それは本当なのか? 言葉だけなのではないか? つまり、妄想・幻想のたぐいではないのか? ・・・何のことはない、アネモネさんが追求されていることをわたくし自身も考えているわけです。
ですから、もし、この掲示板でいとも簡単に否定されてしまうほどのチャチなものであるならば、それこそさっさと足を洗うべきだろう、との割り切った考えもあります。

じっさい昨年末には、顕正会問題のひとつとして本尊疑惑がありますが、真相しだいによっては脱退すると宣言しました。
まさに、こういった問題は情緒などというもののはいり込む余地はないわけで、もし疑惑が本当だったら情状酌量の余地はないと考えます。
この際、さらに付け加えるならば、戒壇の大御本尊についても同様のことが言えようかと思います。
顕正会的に申せば、国立戒壇に安置し奉る御本尊ですから、もし、この先、顕正会によって国立戒壇の問題が全日本的にクローズアップされるようになれば、大石寺の板曼荼羅を鑑定すべし、との声がどんどんふくらんでいくことでしょう。そうなったら、わたくしは鑑定すべきだと思っています。

ところが日蓮本仏論というのは、ややおもむきが異なるように思うのです。いわゆる人本尊開顕の書とわれわれが申し上げている開目抄などは、いちいち御文をあげたらキリがないくらい、もう情緒的ったらありゃしない、と思います。これは大聖人に失礼なもの言いかもしれませんけど、わたくしはそう拝しています。

もっとも、アネモネさんのおっしゃるように
>日蓮の残した書に、「法義的な部分と情緒的な部分のさかいがない」というのは、日蓮さんのことではなく、そう思うガンコさんの見方のことを意味しているのでしょう。

ええ確かに、わたくしの偏った読み方なのかもしれないと、つねに反省をしています。どなたかにも「偏っている」と言われましたしね。
この辺のことは、本仏論のスレで引き続き論じていくつもりなんですけど、ぜんぜんスピードが上がらなくって・・・どこか故障しているのかも?

最後にまた、アネモネさん個人について申し上げますが、絵画でいえば細密画というか、ものすごくディテールにこだわってらっしゃる・・・かたやガンコはアバウトというか、単にデタラメなだけかもしれませんが、まあ、同じ対象を描くにしても技法がちがえば単純には比較できないわけで、そんな感じで議論がかみ合わないということはあるかもしれません。ただ、繰り返しになりますが、史実であるとか、本物か偽物かということに情緒は無用であって、その点においてガンコははなはだ甘い、ということはそのとおりであって、今後の改善目標にしたいと考えております。

820犀角独歩:2003/09/24(水) 18:11

空き缶さん:

ジャンプ先を間違えました。失礼しました。

『日興の著作と真偽論』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_004.html

>「与波木井実長書」…現在この書状の真筆は大石寺には無く(消去ったのか?)

この書とその顛末は実に興味深いですね。

821愚鈍凡夫:2003/09/24(水) 20:33

横レス失礼します。

日蓮宗・日蓮正宗、共に時代に応じて教義を変化させてきたと思います。
蓮祖亡きあと、時代の様相がすっかり変わってしまって、それに合わせざるおえなかった。そんな事情もあるでしょう。
また、僧団を在家集団が経済的に支えるような体制が確立して、在家に迎合した論理展開をせざるおえなかった事情もあったのではないかと想像します。
これからも、当然の如く新しい形態が生まれていくでしょう。
もしかしたら、日蓮門下は統一化されるどころか、逆に細分化され、多様化していくかも知れません。
だから、一信仰者として「曼荼羅正意論」、「生御影正意論」、「教主釈尊正意論」があっても何ら差し支えないと思います。
だからといって、研鑚と思索を止めてしまうと、単なる曼荼羅依存症、御影依存症、仏像依存症になってしまいすが・・・・・。

教団の姿勢として、
日蓮の名を冠していても、実質、蓮祖の法門を離れ、新しい展開を模索する教団もあるでしょう。そして、時代と併走しながら、なおかつ蓮祖に回帰しようとする流れもあるでしょう。また、変化を頑なに拒む教団もあるでしょう。
その中から、自分の主義主張に合った教団を選べばよいと思うのですが、相互理解を忘れ、唯我独尊に走らぬように常に自教団をチェックすることを怠ると、危険だと思います。

822空き缶:2003/09/25(木) 00:03
私も愚鈍凡夫さんのご意見に賛同です。
色々な考え方を互いに認め合うことが必要だと思います。
宗派は異なっても日蓮門下として、話し合いと相互理解が必要だと思います。
その意味で、以前「若鷲」では「門下連合」への期待を書き込みました。

ここの皆さんと比べれば、私は「駆け出し」にすぎません。
これからも学ばせていただきます。

823犀角独歩:2003/09/25(木) 01:07

愚鈍凡夫さん:

821のご意見に賛成です。
その賛成を前提に申し上げることですが、それと、蓮師、興師などの素意がどのようなものであったのかという議論は別問題だと思うわけです。それはある面、信仰、主義主張と離れた分析・研究に近いものであると考えます。

わたしは、それまで蓮興両祖の考えと教えられてきたことが、実際とかけ離れていたことに愕然としてきました。

「それぞれの解釈だから」というオブラートにくるんで、事実を隠蔽してきた社会にいた自分にとって、真実を追究する正直さだけは捨てないでいたいと思います。

「○○は○○の生まれ変わり」という、“それぞれ”の勝手な考えも考えとして認めることも必要ですが、それが事実と違っていれば、それを考証することは決して否定されることではないと思うからです。

もちろん、愚鈍凡夫さんのご意見はそのような意味ではないことはわかっているつもりです。

824アネモネ:2003/09/25(木) 02:06
ガンコさん

ご丁寧なレスをありがとうございます。
ガンコさんの忌憚のないご意見、私は嬉しく思います。

>しかし、よく読んでみると、じつは日蓮信仰全般にわたって激辛である、という気がしてきたんです。

それはそうなんです。全般というところが、厳密には少し違うかもしれませんが…。日蓮さんから学ぶところはたくさんあります。第一、私は日蓮宗の檀家に育ったこともあって、個人的に日蓮さんというお坊さんに親しみを持ち、また日蓮さんが好きで入信したわけです。最近でこそ欠点も見るようになり、限界も認めるようになりましたが、やっぱり基本的には敬慕してます。他のお坊さんを通して仏教を学ぼうとなると、どうも腰が重いんです。
依法不依人とはよく戒められたものだと思いますね。人間の心は、人によって感応し動かされてしまうのもまたひとつの真理なのでしょう。お釈迦さまご自身が、魅力的な人であったとしたならば、尚のこと、依法不依人という教えの意図するところにも納得させられる気がします。
つまり人の魅力に惑われるのが人間の弱さでもあるわけです。

もともと、私は教義そのものよりも、日蓮というお坊さんに対する興味のほうが強かったわけで、大石寺から出されている本だけでは物足りず、一般書店で手に入る日蓮本をけっこう読み、。また立正佼成会が製作したという日蓮の映画も観たりもしましたしね。
私なりの思い入れもあって、それこそ私の中で、理想化した日蓮像というものがあったわけです。本仏論とは少し違った意味での日蓮像だったといえるでしょう。
真理への探求、そして民衆救済と釈尊への思い…またその信念、度重なる迫害を乗り越えながらも魂に訴えかける血の通った書を残した筆力と強靭な精神力にも、強く惹かれたものです。
しかし、そのような私の中で築かれた日蓮像と照らして、その後の日蓮系の宗派の中から、日蓮を彷彿させるような人が見受けられないのではないかという思いが強くあるわけですね。仏法を求める志が全然違っていると感じてしまうのです。これは、まさに私の拙い感性で感じるところのことですから、言ってしまえば、私の思い込みかもしれません。しかしそういう大きな失望感はずっとありますね。もっといえば、特に石山系は日蓮の長所よりもむしろ欠点のほうが今日に色濃く受け継がれてしまってきているのではないかとさえ思うくらいなのです。

825アネモネ:2003/09/25(木) 02:07
(つづき)
>こうなると、もしかしたら、この先、釈尊すら否定的に捉えることになるんじゃないのかと、・・・これはまったくのあてずっぽうですが・・・ともかく、そんな気がするのです。(ぜんぜんちがっていたら、ごめんなさいです)

いえいえ、まんざら違っているとは言い切れないです。説明させて頂きますと…。
久遠の釈尊となると、否定というか、キリスト教でいうところの絶対神と同じく、観念上のものではないかと思っています。(もちろんキリスト教の人にしたら、決して観念の存在ではないということになるでしょうけれども)
ただ別のスレッドでも書いたことですが、人間の人智を超えたなんらかの存在(それが「正法」であるとしても)を、擬人化もしくは神格化して捉えることで、そこから教えが生まれ、その教えによって人間が理性的に生きていく更なる智恵を築きあげてきたということはあるのではないかと思います。そういう意味では、全く否定しているというわけでもありません。
ただ自分自身がその遥かなる存在を自分の肌感覚として、強く体感なり実感なりしているかというと、そうではないわけです。たとえば自分なりに自然の摂理などを実感するときにそんなことを重ね合わせるようなことはあります。しかし、それであってもやはり自分の掴みは限りなく観念的なのではないだろうかと思うものなのです。
お釈迦さまに関しても、超人的な、神格化された存在として信仰を捧げるという強い気持ちはなくなりました。しかし、覚者とか人格者としての釈尊の奥深い思想と、そこから発生した仏教哲理(語彙が不適切かもしれませんが)には、大変興味を持っています。
とても体系的とはいえない雑然とした学習ながらも、自分の思想の糧にこれから少しずつでも学んでいきたいと思っています。
とはいえこれも随処で書いてきていることですが、私は元々がキリスト教の信仰の経験があり、思想的にその影響を色濃く受けてきています。ですらか、どうしても教義の置き換えで学んでしまうところがあると思うんですね。ですから、思い切って書きますが、私の中では、仏教もキリスト教も、習合もしくは融合されてしまっているといってもいいかもしれません。それが正しいことだとはいえません。あくまで私の個人的な受け止め方です。ただ、いずれにしても絶対のものとしての信仰は考えていないのは現状ですね。

>もしかしたら無意識のうちにもアネモネさんとの議論は回避したい、ということはあるかもしれません。

富士門ひとすじの信仰でこられた方々にしてみたら、私の書いていることは非常に異質な尺度なのかもしれません。
噛み合わない部分はあるかもしれませんが、しかし、この信心を広めようというのであるならば、私の書いている問題提起くらいはクリアしてもらわなければ話にならないでしょう。
地獄に落ちるよという脅しは、もはや私には通用しませんから、そのような言葉を使わずしてこの信仰の正しさを示す必要があるわけです。これまで当たり前に使われてきた言葉は、何の力も示せないものと思われます。

織田信長の時代、宣教師が日本に渡ってきて布教を始めようとしたわけですが、信長は日蓮宗のお坊さんと宣教師との法論をさせたと聞きます。そのときの勝負、詳細は知らないのですが、とにかく日蓮宗の完敗だったとのこと。
信長は比叡山を焼き討ちしたほどの人ですから、政治的な意図もあったことが伺えますが、しかしまたそれだけ僧侶の堕落が甚だしく、日蓮宗もその例外ではなかったと言われているわけです。誰のための宗教なのかという宗教者としての原点を忘れた姿にメスを入れた信長の政治的判断を、私は評価しているくらいです。
ただ、話が横路にそれますが、宣教師はスパイ的疑惑もあり、そのことを見抜いたのは家康だったといわれています。
宗教家の心の内を見抜くことは、並大抵のことではありません。
「絶対正しい」ということは、どこの宗教もいうのです。だけど、そんなにおいそれと真理にたどりつくものではないと思いますね。正しいと標榜する組織に所属しているから自分も正しいという、安易なものでもないでしょう。
結局は誰しも自分の人生の苦悩を通して、少しずつ悟っていくものではないでしょうか。その道のりの、少しばかりのヒントとなる助けのようなものが、宗教の教えではないかと捉えています。あとは、自分の理性で掴んでいくしかないものでしょう。…というところが、現時点での私なりのある種の掴みです。

826アネモネ:2003/09/25(木) 02:08
(つづき)
>わたくしがこの掲示板を好きなのは、はなはだ矛盾しているようなことを申しますが、すでに(大勢として)日蓮本仏論を否定していること、さらには日蓮信仰すら否定しかねない、もっと言えばあらゆる信仰ないし宗教そのものに対しても懐疑的である、といったところなのです。

私は今回、ガンコさんのこのレスを読んで、正直感動しました。富士門の信仰にある人が、なかなか書けるものではありません。だけど、私は言論の自由と解放を少しでも掴んだガンコさんに、個人的にはエールを送りたい気持ちでいます。
そもそも宗教とは、人間の精神の開放と自由を目標としたものではないかと私は思っているのです。自分の内心で思っていることが自由に言葉にできる。今の社会ではかなり当たり前のことですが、石山系組織の中では、まったく閉ざされています。
私も投稿したばかりの頃は、この掲示板を読むことだって謗法ではないかと思ったものです。罰が当たるんじゃないかと思いつめ、寝覚めの悪かった日もありました。また思い悩んで、眠れなかったりすれば、実際に体調も悪くなります。それこそ罰だろうか?と心配することもあったくらいです。
しかし、それは罰でもなんでもなくて、むしろ謗法ではないかと脅迫観念にとらわれている心が、自分を追い詰めている心身症に他ならなかったわけです。
戒壇本尊や本仏論への絶対的信仰の呪縛から精神が解放されていくに従って、脅迫観念は消え、今では掲示板に参加しても沈鬱な気分にさいなまれることもなく、爽快な気分で日々を送れるようにもなったわけです。
もちろん、一人の人間としての苦しみや悩みは、当然のこと抱えています。しかしそれは、罰というものではなくて、私自身がこの世に生きている証であり、そう思えば、生きていること自体が、かけがえのないことだと感じるときさえあります。

>つまり、妄想・幻想のたぐいではないのか? ・・・何のことはない、アネモネさんが追求されていることをわたくし自身も考えているわけです。

その疑問こそ大事なことですね。日蓮さんもお釈迦さんも、仏として立てる以前に、まず私たちと同じ人間だったということ。これは紛れもない事実なわけですね。これこそこの掲示板を通して気付かされたことです。
やはり日蓮さんは魅力あるお坊さんですが、しかしそれだけに固執せずに、広く一般仏教についての教養も深めてみることは、とても有意義なことだと思います。そうすると、広い仏教の体系的全体像の中での日蓮の位置づけも掴め、そうすると見方も変ってきます。
もちろん、そういうことは石山系では厳しく咎められるわけですが、私は、せめてそうしたことに対しての、意識くらいは解放すべきだと思うのです。罰などを恐れることなく、自由に学び、その結果、やっぱり石山が正しいと思えるならばそれでいいわけです。そういう時間や心の猶予があっていいはずですし、またその猶予を自らの意思で切り開いていくべきではないかと思っています。

>じっさい昨年末には、顕正会問題のひとつとして本尊疑惑がありますが、真相しだいによっては脱退すると宣言しました。

自分が教団で学んできた教義については、徹底的にこの掲示板を使って追求し直してみることは大事ですね。同じ疑問を抱いて取り組んできた人が多く参加しているわけですから、ひとりきりで取り組むよりは、思いの他、最短距離で答えが出ることが多いでしょう。
人と意見や議論を交わすこは、意識の活性化につながり、柔軟な考え方ができるようになりやすいといえるのではないでしょうか。

>そうなったら、わたくしは鑑定すべきだと思っています。

それこそが真の探究心ですね。私なりに言えば、日蓮門下が忘れてはならない教祖の精神かと思います。

>とわれわれが申し上げている開目抄などは、いちいち御文をあげたらキリがないくらい、もう情緒的ったらありゃしない、と思います。これは大聖人に失礼なもの言いかもしれませんけど、わたくしはそう拝しています。

あの過酷な佐渡の地で、あれだけの書を残されたというその筆力には、ただただ圧倒されるばかりです。仮に書いている内容がそのまま現代には通用しないものだとしても、私は、その思いとか精神力、忍耐力などには多いに学ばされるものだと思っています。

827アネモネ:2003/09/25(木) 02:09
(つづき)
>ええ確かに、わたくしの偏った読み方なのかもしれないと、つねに反省をしています。どなたかにも「偏っている」と言われましたしね。

少し補足しますと、法義的に考えるべきか、情緒的に考えるべきか、現代的にいえばそのTPOがゴチャゴチャになっている傾向があるのではないかと思うのです。もちろんガンコさんに限ったことではありません。信念体系にある人々と言えばいいでしょう。
たとえば、他人の不幸に対して、特に不信の人に対しては、まるで三世を見通すかのように、法義による因果を語ることが多いわけです。しかし私はたとえそれが不信の人であっても、同苦を心がけるようになりたいと思うのです。そんなときこそ、情緒的に感応し、心を砕く人でありたいと思うのです。
逆に、教え込まれた宗史に関わることなどについては、なるべく情緒的にならず合理的に考えるべきだと思うわけです。
要するに、そうしたTPOにおける判断の手法が、逆ではないかと思うわけです。
自画自賛の手前味噌や、井の中の蛙にならないためには、その意識の使い分けを判断すべきではないかと思います。

>絵画でいえば細密画というか、ものすごくディテールにこだわってらっしゃる・・・かたやガンコはアバウトというか

私、突っ込みは細かいかもしれませんが、だけど本質は案外と大雑把です。大雑把でも大局的な見方を心がけようと思っています。なんというか、樹を見て森を見ずに陥りたくないなと思うのです。

また、長くなりました。大幅に本題の議論を脱線させてしまったかもしれません。
ともかく、広宣流布だからといって無鉄砲に行け行けに飛び出す前に、まず自分の信仰について、それこそ日蓮がそうだったといわれるように、自問自答を続けるべきなのでしょうね。
そういう意味において、閉塞的な組織にはその期待はとうてい持てませんから、謗法の謗りを覚悟でここに参加されている方々は、とても信仰に対して前向きな取り組みをされている方々だと私は感じております。また私は、はなはだ異質な存在ではありますが、これからも続けてここに交わらせていただきたいなと思っております。

828愚鈍凡夫:2003/09/25(木) 21:52

>>822: 空き缶さん、有り難うございます。

>>823: 犀角独歩さん、有り難うございます。

勿論小生も、互いの信仰姿勢を認め合い、相互理解を深めることと、教義を検証し、少しでも宗祖の素意に近づこうとすることは、別次元の問題だと思います。
そして、共に重要な課題だと思います。

829ドプチェク</b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/09/26(金) 01:10
こんばんわ。
昨年秋以来、久々に書き込みをさせていただきます。

いきなりおかしな事を申しますけど、富士門流の各宗派・教団、それに、日蓮系の他門流・他教団の信徒は、ほとんど同じ相貌の曼荼羅本尊を拝んでいても、当然、所属している宗派・教団が違うわけなのですし、それぞれの曼荼羅は違う人により書写される事になりますよね。
それら各宗派・教団の曼荼羅が、基本的に日蓮聖人真筆どおりの形式を用いて書写されている場合、それぞれの曼荼羅の間に、功徳とか罰とかいったようなものにおける優劣は存在しているのでしょうか?

私は、21年前、創価学会に入った時には(現在は、所属こそしていても、学会に対して相当に批判的な為、一定の距離を置いています)、日顕上人が書写された曼荼羅を拝んでいたのですけど、12年前に起きた宗創戦争により、9年前に創価学会員用の曼荼羅(栃木県の浄圓寺に現存するという、第二十六世日寛上人が書写された曼荼羅のコピー)に代えてもらったのです。
少し前、ある掲示板において、元学会員で現在は法華講に所属している人の書き込みによれば、創価学会員用の曼荼羅は偽物で、拝んでいたら不幸になるというお話なのでした。
私は前々から、その手のお話を迷信だと思っていたのですけど、でも、ここ最近、実際のところはどうなのか?といった疑念が生じて来ました。
それと、出版社名も執筆者名も覚えていないのですが、もうずいぶん前、「創価学会員は、なぜ功徳が失ったか?」というようなタイトルの書籍を書店で目にした事があります。
現在の創価学会がやっている事は、目を覆わんばかりのあまりのひどさですけど、それと曼荼羅とは、果たして無関係なのでしょうか?

これは、もしかすると私の単なる思い込みに過ぎないのかもしれませんが、私自身は、どうも現在拝んでいる創価学会員用の曼荼羅よりも、以前拝んでいた日蓮正宗の曼荼羅の方が、何故か?ピタッと来るとでも言うのでしょうか、同じ拝んでいても、以前の曼荼羅と現在の曼荼羅とでは、自分なりに感じる何か?が異なっているような気がするのです(自分でも、それがいったい何なのかはわかりませんけど)。
そんな私とは正反対に、私の知っている創価学会員の中には、あまりにも一方的な思い込みが強すぎるせいなのか、以前拝んでいた日顕上人書写の曼荼羅よりも、現在の日寛上人の曼荼羅の方が、拝んでいると、実にさわやかな気分になれるとか何とか言っていた者がいましたけど、正直、私には、そんな彼らの気持ちが前々から到底理解できませんでした(そういった人たちは、創価学会によるマインドコントロールの弊害を大いに被っているのではないかと思われます)。
ちなみに、創価学会員用の多くが拝んでいる日寛上人の曼荼羅は、相貌が日蓮正宗の曼荼羅に比べ、菩薩・諸天善神の名称がかなり省かれている、いわゆる略式のそれです。

また、この1年位の間で、信仰というものが次第にわからなくなって来て、今現在、色々と迷っている状態の私なのです。
いきなりおかしな事を申しまして、すいませんでした。

830顕正居士:2003/09/26(金) 02:23
ドプチェクさん。

曼荼羅という物体に仏力や法力があるのではなく、曼荼羅を媒介として仏力や法力
と信力がまじわるところに功徳が生じるのであります。「心は工(たく)みなる画師
の如く、種々の五蘊を造る」。日寛師の御形木が好きでないというのはドプチェク
さんの心理のあらわれですから、如法(合法的)に気に入った御形木をいただけば
それでよいのであります。日蓮聖人の真蹟曼荼羅は多数が現存しておりますから、
守護する寺院の檀徒になるなどの志によって、如法に御形木をいただけることがある
でしょう。日蓮宗学、日蓮宗史、真蹟曼荼羅、各寺院重宝の縁起などを一定学んだ
あとなら、おのずから好きな曼荼羅が決まることもあるでしょう。

日寛師の御形木は創価学会でながく用いてきたものであり、日蓮正宗と分離の後も
如法性(合法性)に問題がない。日蓮正宗を離脱した日寛師真蹟を守護する寺院から
提供されているからです。

831Jルーカス:2003/09/26(金) 07:54
私は他宗になっている創価学会が、どのような本尊を下付しようとも勝手であり、やれ「偽本尊」だのと言うのは好きではありません。

それより、創価学会の問題で気になるのは「賃貸借契約」で借りていた「御形木御本尊」を返して来ないことだと思います。
そもそも、日蓮正宗では「常住御本尊は授与(所有権移転)」であり「御形御本尊は御貸し下げ(所有権留保)」だったハズです。
既に所有権取得している「常住御本尊」をどうしようと勝手でしょうが、未だ所有権が日蓮正宗にあるものを、寺院に返さないのは、創価学会では国法的にはどう捌いているのでしょうか。

832刑法007:2003/09/26(金) 21:33
 紛れもなく「借りた物を返却シナイのは”詐欺罪〜窃盗罪”」でしょう、、か、、?
 今すぐ、法律事務所(除く公明系)に御相談を、、!!

833ガンコ:2003/09/27(土) 16:22

アネモネさん

うああ、またまた、なが〜い文章ですねえ。これは脅威です。

少し話題を変えさせていただきますが、アネモネさんご自身はいわば日蓮正宗を卒業されたといっていいかと思います。(もちろん、正宗側からいえば退転というでしょうが)

さて、問題は、卒業どころか入学すらしていない人について、どのように捉えるべきなのか? であります。
もうひとつには、入学はしたものの卒業できない人はどうするか? です。

おそらく、最初の問題は、今日においては信教の自由の時代であるから、べつにそういう人がいてもおかしくないし、どうこうするべき筋合いではなく、そんなこと論ずるのはナンセンスである、なんておっしゃる人もいるかと思います。しかし、わたくしが考えたいのは、この掲示板の参加者の多くはかつてどこかの教団に所属していて、そこではじめて仏法にめぐりあったわけですが、ようは、そういう人しか通じない話をわたくし達は論じているのだろうか? という疑問があって、けれどもアネモネさんはもっと普遍的な議論をしているとの自負をもっていらっしゃるように感じますし、そうすると、この信仰に縁をしていない人にも話が通じなければいけないと思うのですが、現実問題としてとてもついていける話ではないし、じっさい、この掲示板を見ることすらないわけでして、そうなると、ようは、アネモネさんのような境地に到達するためにはどうしたらいいかといえば、けっきょく、どこかの教団を経なければ到達できないのではないか? という問題を考えているわけです。

もうひとつの問題・・・たとえ入学しても卒業できない人はどうするか・・・ということの意味は、ぞくの言葉で“ハマッテいる人”ということではなく、ようは、落第生のことです。つまり、アネモネさんはみごとに卒業され、いまは新たな道を歩んでいらっしゃるわけですが、それはそれ相応の能力をお持ちだったからではないのか? という気がするわけでして、能力のない人は卒業ではなく落第であり、いずれは除籍となるわけで、けっきょく、なんにも身につかずにタダの人に戻ってしまう可能性が高いと思われるわけで、そうすると、むしろ留年し続けても教団に所属していたほうがアネモネさんのような境地に達するための近道になるのではないか? という考え方も成り立つように思うのです。

つまり、わたくしのような無能力者は教団にしがみついていないとダメであり、また、じつは大多数の人がそうなのではないか? という風に考えているのです。

834ドプチェク</b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/09/27(土) 17:24
顕正居士さん

>>830

そうなんですか。
こんな言い方をするのはどうかと思いますけど、人間同士の間にそれぞれの好みや相性の違いがあるように、曼荼羅に関してもそういうのがあるんでしょうかね(詳しい事はわかりませんが)。
浄圓寺に現存するという日寛上人の曼荼羅の原物は見た事がないのですが、創価学会員に授与されているそれは、書写した人の筆跡のせいで、文字がすごく見難い為、私自身は違和感を覚えてしまいます(それが、書写された人によるものなのか、それとも、日寛上人ご自身によるものなのかは、わかりませんけど)。
ここ最近、私自身の中で、創価学会が用いている日寛上人の曼荼羅に対して疑念が生じて来た理由は、ちょうど時期的に学会が日蓮正宗と決別した12年前から(学会が、現在の曼荼羅を配布し始めたのは、その2年後です)、ある面で、以前よりもますますおかしくなって行ったという現実と、それに、私個人に関しても、物事が思いどおりに運ばない事が多かった為なのでした。
ちょっと神経質になり過ぎていたのかもしれません。
ありがとうございました。


Jルーカスさん

>>831

私は法的な事については知らないのですけど、創価学会がそれまでの日蓮正宗の曼荼羅を、特に日寛上人のそれへと取り替えた後、日顕上人書写のものをどうしているのかとなると、大いに「?」ですね。
以前、どこかの掲示板で目にした事があるのですが、学会は日顕上人書写の曼荼羅を自分たちで勝手に処分しているというお話でした。
数年前、学会は会員に対して日顕上人書写の曼荼羅を日寛上人のそれへと取り替えるよう、大々的な運動をやっていましたけど、あれなんか、まさに愚の骨頂と言うべきですね。
学会員で未だに日顕上人書写の曼荼羅を持っている人は、多分、学会の中では異端者扱い、もしくは変人扱いされてしまうのではないかと思われます。
私の場合、9年前に取り替えてもらったのですが、その当時は、まだ大々的な運動ではなかったものの、申し出に対してあまり深く考えていませんでした。
でも、もし今の私だったら、拒否するでしょうね。
それと、あまりよく知らないのですけど、学会が昨年頃から入会者へ携帯本尊を授与しているという事については、いったい、彼らは何を考えているのか?と思っています。
何でも携帯の方が普通のそれよりも、若干金額が上だというお話にどこかで接した事がありますので、もしかすると金儲けの為にやっているのではないか?と、そんな疑惑を抱いてしまいますね。
まぁ、今の私にとっては、もはや学会がこれから先、どのようになって行こうとも、半ばどうでもいい事なのですが、ただ、いつまでも調子に乗って、あんな馬鹿な真似ばかりをしていたら、そのうちいつか、何かとんでもないしっぺ返しを受けるのではないか?と、漠然とではあるものの、そんな風に思っています。


刑法007さん

>>832

>今すぐ、法律事務所(除く公明系)に御相談を、、!!

そうでしょうねぇ。
創価学会絡みのトラブルでは、間違っても創価学会=公明党系の人間に頼めば、大変な事になるでしょう。
無論、公明党の議員など以ての外。
何しろ、あそこからは、これまで社会的に糾弾されるべき馬鹿な事を仕出かした、犯罪者の類が結構出ていますから。

835顕正居士:2003/09/28(日) 01:15
ドプチェクさん。

江戸時代には世の中がなんでも一定していて、宗派を変える人も原則いない。
曼荼羅は本山の住職が代替わりでもした際に末寺や篤志の檀家に授ける程度で
あり、御形木の曼荼羅があたり前になるのは創価学会以後でしょう。
御形木なら日蓮聖人真蹟の曼荼羅からえらんで来て表装も上等にして審美的にも
満足がゆくようにしたら、という考えは出てまいります。しかし真蹟曼荼羅は
寺院から提供されないと御形木をつくれない。御形木をつくること自体は違法で
ありませんが、原版の撮影のために忍び込んだりしたら犯罪を構成するからです。

北米にはかつて公称50万人くらい「日蓮正宗創価学会」の信者がいたのですが、
宗創戦争に嫌気がさし、多くの人が Independent Nichiren Believer と称する
ようになり、これらの方の中に曼荼羅の提供をおこなうサービスがあります。

How To Acquire a Gohonzon Outside of Sectarian Buddhism
http://campross.crosswinds.net/Gohonzon/HowTo.html

836アネモネ:2003/09/28(日) 22:00
ガンコさん

>うああ、またまた、なが〜い文章ですねえ。これは脅威です。

本当に、皆さまごめんなさい…です。これは、私のビョーキですね。適当な長さに簡潔にまとめる能力に欠けています。しかも、自分で読み返すと、繰り返しの多い非常にくどい文章で、お恥ずかしい限りです。にも関わらず、また長くなってしまいました。
よく読んでくださいなどと厚かましいことは申しませんので、なんとかお付き合い願いたいと思います。

>この掲示板の参加者の多くはかつてどこかの教団に所属していて、そこではじめて仏法にめぐりあったわけですが、ようは、そういう人しか通じない話をわたくし達は論じているのだろうか? という疑問があって、

実は、宅間のスレッドで一番驚いたことがあるので、この際ですから、ここで打ち明けますと、宅間の高校生時代の自室の写真に、いわゆる石山の御本尊がありました。長年の信徒の方は、あの写真を一目見て日顕さんの本尊だとわかるらしいですね。私はそのことに、大変驚愕いたしました。写真一枚で、そこまでの目利きの鋭さを身につけるとは、改めてすごいことだと思ったのですが、これは信徒の中では普通のことらしいです。そういうことも自分の信仰上では、大変なこだわりであり、どうしても問題に出てくることなのでしょう。
ネットの掲示板とは、ある程度同じ土壌や認識の人が集まって意見交換や情報交換をするわけですから、ここでは仏法の入り口をほぼ同じくした人たちが多く集っているというわけですね。その分野におけるマニアックな話ということは、決して避けられない議論でしょう。

>けれどもアネモネさんはもっと普遍的な議論をしているとの自負をもっていらっしゃるように感じますし、

普遍的というか…根本的というか…原点というか…そこを見失いたくないという気持ちですね。そこを見失ったところで、ある意味マニアックな話ばかりに終始してしまうと、ふと何のための宗教なのだろうかと、虚しさを感じてしまうんです。そのような、ごく限られた人にだけ通じる狭い議論に終わってしまうと、じゃあその話は一体、宗教の目指す本来的な目的とどういう脈略や関係があるのだろうかとふと思ってしまうのです。
私は、かつて法華講組織の中でも、「釈尊は何のために教え(仏教)を説いたのですか?」ということをよく質問しました。成仏を目指すというなら、まずそこの部分をしっかり押さえてくべきではないかと思ったのです。ただしかし納得のいく答えを示してくれた人は、ただの一人もありませんでした。しかしいまでも私はこのことを、いつも自分に問い続けながら、掲示板に参加しています。

>そうすると、この信仰に縁をしていない人にも話が通じなければいけないと思うのですが、現実問題としてとてもついていける話ではないし

自分のこれまでの信仰のあり方と向き合うためにも、正しいと伝えられてきたことの検証や考証においても、非常にマニアックな議論は、当然のこと必要になってきます。なぜなら、700年間正しく仏法を伝えてきたという教団の言葉を信徒は信じて入信しているのですから、宗史の検証はその言葉の真偽を左右する上でも重要ですね。できるだけ退部にわたって、はっきりさせておかなければならない問題ともいえるでしょう。それはたとえ一般の人には通じない議論であっても、決して避けられない議論です。私にしても、そのような議論の一端から、現在に至っているわけです。
しかし、そこだけに留まっていては、やはり自己満足の話に終わってしまうのではないでしょうか。ですから、そのような議論のときも、常に原点の志が何であったかというこころに立ち返ることを忘れてはならないと思います。

837アネモネ:2003/09/28(日) 22:00
(つづき)
また常々思うことなのですが、教団での法話や説法、もしくは講演といった集会に集まる人たちというのは、ほとんどどの組織も既に入信した信者ばかりの集会かと思われます。この信心を既に誓った人ばかりを対象に話をしているわけですね。前提のもとの説法なわけです。しかし私は、そこからしてだめだと思うんです。というか、それだからだめなのではないかとさえ思います。
pndarikaでもそのうち議論をしていくところでもありますが、本来的にいえば、教団のリーダーで説法や法話をする立場にある人たちは、日蓮さんがそうであったといわれているように、まず世間の不信の人たちに向けて仏法を語るべき立場にあるのではないでしょうか。そうすればいやでも、一般的な質問や疑問や感想、場合によっては批判を必ず受けることになります。それらを受ければ、自ずと誠実に答えなければならないわけです。
本来、宗教の場とは、そういうやりとりが当たり前に開かれていなければならないと思うのです。仏教の他宗派にしても、概ねそのようなことが開かれているというのに、石山系はいまだに不信者に対して門を閉ざしている傾向にあり、そのために非常に排他的意識や差別的意識が強いわけです。ですから、そこに集う信徒も、知らず知らずにそのような体質にどうしても染まり、宗教の本来的な目的を忘れて、世間にも通じる話に心を砕くことができなかくなってしまっているのではないかと思うのです。
しかしそれでは、信徒はますます自分の教団を客観視できなくなるという傾向になります。教団の社会性の欠如は、そのまま信徒の社会的不適応を招く人格を形成し、そこから妄想性が生じるものともいえます。ご自分の人格や人間性を守るためにも、社会への扉は常に開けておくように自分で心がけるべきかと思います。

>じっさい、この掲示板を見ることすらないわけでして、

実際にはそうでしょうね。ただ、石山系組織の折伏被害を受けている人は熱心にご覧になっているのではないでしょうか。

>そうなると、ようは、アネモネさんのような境地に到達するためにはどうしたらいいかといえば、けっきょく、どこかの教団を経なければ到達できないのではないか? という問題を考えているわけです。

要するに言い換えれば、今の私があるのも、教団のおかげではないかということでしょうか。
私自身の個人的なことでいえば、まあこういう組織信仰も経験せざるを得なかった人生だったのかなあ…という思いで人生を受けとめている部分はないわけではありません。くよくよ後ろ向きに考えては前に進めませんから、そう思うことにはしています。
しかし、教団に入ったことで実際に失ったものもたくさんあるわけです。
教団の指示に従って、熱心に折伏活動をしようとしていた時期もありましたので、そのときには自分の大切な家族や友人に対して、心ない脅し半分の言葉でもって入信を煽ったりもしているのです。その人たちが受けた心の痛みは、もしかしたら今も残っているかもしれません。これは取り返しのつかないことです。そのことを考えると、今ある自分は教団のおかげなんていう思いはとても持てないですし、むしろ自分の軽率な入信と勧誘を悔いるばかりです。ですから、とてもじゃないですが、教団への加入を経ることなど、私は決して人には勧めませんし、正直なところ、今、組織にいる人たちにも軽率な勧誘を思い留まってほしいと思っています。

仏法上、人にこの法を教えなければいけないという思いは、今の私にはありません。
そもそも、「この仏法」というその仏法が何なのか、今の私はまるでわかっていなかったということにも気がついたからです。伝えるべき「この仏法」というものが、はっきりしないというのが現状です。
今日、私たちが教えられてきた日蓮仏法にしても、真偽未決の書も含めて成り立ってきたものだったわけですから、本当にそれが日蓮の仏法であることは確証できないわけですね。そのような曖昧なものを広める責任は私は持てません。また仮に、日蓮仏法がはっきりしたとしても、依経とした法華経が、残念ながら釈尊の直説ではないことがはっきりしているわけです。しかし、日蓮が釈尊の仏法を求めていたことは、はっきりしているわけで、もしも日蓮さんが法華経の成り立ちを知っていたならばどうだったのだろうかということも、常に頭をよぎるわけですね。

838アネモネ:2003/09/28(日) 22:01
(つづき)
それと、ガンコさんはお感じになったことがおありかどうかわかりませんが、実際、仏法や仏教をくても、思いやりと慈愛に満ちた方がいらっしゃいます。ところがそのような人々のことさえ教団では、「不信の人」とか「悪縁の人」と蔑むわけですね。私はそれがどうしてもいやなのです。馴染めないのです。どっちが悪縁なのだろうかと思うばかりです。

去年のオフ会で独歩さんが指摘されていたことなのですが、そもそも法華経では「常住此説法」とあって、この世のどこにあっても、教団に所属しようがしまいが、また信じようが信じまいが、仏様は常にこの法を説いてくださっているとのこと。つまり、どんな時でも、いかなる場所でも、自分の心がけ次第で人生のあらゆる機会において、仏の法を学ぶことが出来るのではないかと、私はそのような心持ちでいようと思うようになりました。もはや法華経が絶対だとは思っていませんが、そのようなことを心がけたいと思っています。

>もうひとつの問題・・・たとえ入学しても卒業できない人はどうするか・・・ということの意味は、ぞくの言葉で“ハマッテいる人”ということではなく、ようは、落第生のことです。

落第か卒業かは、それを見る人の心によって違うでしょうね。もちろん、私は自分で卒業だと思っていますが、ガンコさんは今、ご自分を落第だと思っていらっしゃるのですか?
卒業した私の目から見ると、ガンコさんも少しずつ卒業に向かっていらっしゃるようにも見えますが。

>つまり、アネモネさんはみごとに卒業され、いまは新たな道を歩んでいらっしゃるわけですが、それはそれ相応の能力をお持ちだったからではないのか? という気がするわけでして、

別段、新しい道なんて進んでないですよ。組織にいたときと比べて寺院参詣とか活動とか登山とかがなくなっただけで、その他の生活状況はほとんど何も変っていません。
変化としては、前にも申し上げたように自分を追い込む強迫観念がなくなったことで、気持ちを楽に日々を送っているということが最大の変化といえるでしょうね。それと、活動をやめた分、時間を有効に使えるようになったということもあります。わずか8年でしたが教団信仰に捧げた時間と社会交流を、これから少しずつ取り戻したいと思っています。

ただ、これはぜひ書いておきたいのですが、法華講の30万登山が終わってからは、信徒の方からの勧誘の電話や訪問はピタリとなくなりましたね。静かな生活になりました。また時には町で信徒の方とバツタリお会いすることもありますが、快くご挨拶を交わしてくださり、懐かしんでくださる方もおられます。そんなときにさりげなく信仰上からの心配をかけてくださることもありますが、話に聞いていたような陰湿ないやがらせはないです。恐らく想像ですが、30万登山もひと段落したことで、信徒の方々も折伏成果目標の数字の重圧から精神的に解放され、少しばかり気持ちにゆとりが出ていらっしゃるのではないでしょうか。

>能力のない人は卒業ではなく落第であり、いずれは除籍となるわけで、

除籍や破門を気に病むことはないです。私は全然平気ですよ。
日蓮さんだって清澄寺からは破門されたような立場ではなかったでしょうか。第一、私たちは在家の身であって、出家者ではないのですから、よく考えてみれば破門される筋合いのことではないでしょう。宗教家にとって、世間一般の人も信徒も、遍く民衆は救うべき対象のはずです。その救済対象を、悪縁だ除名だ破門だと切り捨てること自体が、既に宗教家としての志を忘れた失格者といえるのではないでしょうか。
なにごとも先人に学んだ後は、別の道を行くことに躊躇することはないでしょう。何のための仏法なのかという原点を考えれば、自分の歩む道もそれぞれにおいて自ずと決まってきます。それも移りゆく時の流れと受け止めて進んでいく生き方もありだと思っています。

839アネモネ:2003/09/28(日) 22:01
(つづき)
>けっきょく、なんにも身につかずにタダの人に戻ってしまう可能性が高いと思われるわけで、

タダの人。いいじゃないですか。だいたいみんな、たとえ歴史に名を残したって、結局はタダの人に変りはないと思いますよ。タダの人だからこそ、タダの人の苦しみや悲しみを共感し分かち合える「同苦の人」になれるんじゃないでしょうか。
それより教団に連なることでこの仏法を持つとする自分は、そんじょそこいらのタダの人なんかじゃないんだ、特別な人なんだという「思いあがり」のほうが危険な気がします。これって、かなり自意識過剰じゃないでしょうかね。
800万?ともいわれる学会も含めた石山系の信徒の多くが、それぞれそんな自意識過剰な思いでいるとしたら、はっきりいって恐怖です。それだけで妄想性を感じてしまいます。
この点は、宗祖日蓮の影響が色濃いものなんだと思います。日蓮さんの魅力に思えるところは、裏返せば、自意識過剰と妄想性という欠点でもあるでしょう。ご本仏と信じておられる方々には申し訳ないでが、しかしタダの人がそのような錯覚に、しかも集団で陥ったとしたら、やっぱり紛れもなくカルトでしょう。私は大変怖いです。かつての私も、そのような自意識過剰と妄想に陥っていたと振り返ります。

>そうすると、むしろ留年し続けても教団に所属していたほうがアネモネさんのような境地に達するための近道になるのではないか? という考え方も成り立つように思うのです。

自意識過剰から生じる、心身症や妄想は怖くはないですか?
それとガンコさんは本心から「アネモネさんのような境地」というものを望んでいらっしゃるのですか?

>つまり、わたくしのような無能力者は教団にしがみついていないとダメであり、また、じつは大多数の人がそうなのではないか? という風に考えているのです。

要するに、ここでいう能力とは自主性とか主体性といったことと捉えてよろしいでしょうか。
そういうことの前提で先に書いてしまいますが、そりゃあもちろん、教団にお任せで依存しているほうが楽でしょう。確かに。日本人は特に自立心に欠けた依存型の民族性ですから、だいたい誰しもそうだと思います。
だけど、その場合であっても、教団を客観視する厳しい目は、意識して持っておかれることが大事かと思います。それは他ならない、ご自分のためです。
そうでなければ、たとえばオウムのように、所属する教団が反社会的犯罪行動に進んでいったとき、自分の意志に反していても否応なく一緒になって進んでいってしまうことになってしまうわけですね。教団依存の恐しさはそこではないでしょうか。そのようなことに陥らないためにも、教団から指導される内容だけに留まらず、社会性というものの感覚も常に意識するように心がけるべきかと思います。これは、特別なことではなくて、社会人として当然のこととですね。世間や社会のことを疎かにしては、天に唾を吐くようなもので、結局は現実の問題として自分自身にそのまま返ってくるものなのではないでしょうか。それも因果のうちでしょう。
知らず知らずのうちに、似非出家にさせられないよう、実社会の地に足を置いておくことを忘れないでいてほしいと思います。

だけど、そもそもガンコさんは何を目的として教団に所属しているのでしょうか。そこのところは、今はっきりしていらっしゃいますか?
ガンコさんの宗教(仏道)の目的とは何なのかなあと、ふと思いました。

840アネモネ:2003/09/28(日) 22:11
838>訂正

誤)実際、仏法や仏教をくても

正)実際、仏法や仏教を知らなくても

841ガンコ:2003/09/30(火) 07:50

アネモネさん
いつもながらぼう大なご文章、恐れ入ります。いっぽうわたくしは、いつも粗略なお返事しかできなくて申し訳なく思っています。

>これは、私のビョーキですね。

うらやましいビョーキです。むしろ、病気というよりはひとつの才能なんでしょうね。今回は、いえ、今回も、教わることが多かったです。じぶんでは「教団を客観視」しているつもりなんですが、ようは、そのもととなる大聖人の仏法に対する認識の違い・・・いまだにわたくしは大聖人を絶対視していて、その媒介となるものが組織であって、それ以外にはこれといって存在しない、よって組織は必要だと、そう考えているわけですが、アネモネさんはすでに大聖人すら客観視しているわけで、すなわち、
「日蓮さんの魅力に思えるところは、裏返せば、自意識過剰と妄想性という欠点でもあるでしょう。」
こういうことを言えてしまう点で、わたくしのはるかかなたにいらっしゃる・・・もっともいままでのアネモネさんの発言だけでも随所に大聖人批判があって、それはじゅうぶん承知しているつもりなんですが、ようは、わたくしがいまだに大聖人を絶対視していることは、一種の訂正不能なのかもしれません。

まあ、組織なんてものはろくなものではない、と思います。で、かつて、どなたでしたか、ネット上に理想のサンガを構築することを模索している等とおっしゃっていたと記憶していますが、それにしても現状では元教団所属の人が流れてくるというパターンが大半であって、新規参入はほとんど見込めないなあと。
これとて、大聖人ないし、やや広げても仏教を基準にものを考えてしまっていて、アネモネさんから見れば、まだまだ、なんでしょうけど。

>だけど、そもそもガンコさんは何を目的として教団に所属しているのでしょうか。そこのところは、今はっきりしていらっしゃいますか? ガンコさんの宗教(仏道)の目的とは何なのかなあと、ふと思いました。

なるほど、じぶんでも不透明である、と気がつかせられました。組織を完全否定するには至っていませんが、去年までインターネットというものをまったく知らなかったわたくしが、こうしてひんぱんに書き込みをしていることからして、いまはネット上のサンガに傾いているのだろうと自己分析しています。
前にも書きましたが、いまはこの掲示板を毎日3回は開いています。これが楽しみになってしまっているところがあります。すでに目的を見失って、場当たり的に、いま楽しければそれでよし、という感じになってしまっているのかもしれません。
しかし、この掲示板では、みなさんからたくさんのご教示をいただけるので、ムダにはならないと思っています。

842ドプチェク</b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/10/02(木) 01:58
顕正居士さん、こんばんわ。
遅れてしまいましたが・・・

>>835

>曼荼羅は本山の住職が代替わりでもした際に末寺や篤志の檀家に授ける程度で
>あり、御形木の曼荼羅があたり前になるのは創価学会以後でしょう。

そう言えば、日蓮聖人は、基本的に篤信者に対して曼荼羅を書写され授けられていたので、信徒全員がいただいていたわけではありませんでしたよね。
それと関連しているのかもしれませんけど、学会は、とにかく入会する者であれば、誰彼構わず曼荼羅を授与するのに対して、法華講の場合には、そのあたりがすごく厳しく、聖人ご在世当時と同様に、篤信者でなくては授与されないというお話を聞いた事があります。
本来、信仰というものには、それぐらいの厳しさがなければいけないのかもしれませんね(自戒を込めて)。
日蓮系の各宗派・教団が、そのあたりをどのようにしているのかについては知らないものの、国柱会員であった宮沢賢治は、会から授与された曼荼羅を持っていましたが、確かあそこは寄付金の額によって、もらえたりもらえなかったりしたのではないか?といったような事が、何かの書籍に記されていたのを覚えています。
無論、宮沢賢治は、そんな事とは無関係である有名な篤信者でしたけど。

>北米にはかつて公称50万人くらい「日蓮正宗創価学会」の信者がいたのですが、
>宗創戦争に嫌気がさし、多くの人が Independent Nichiren Believer と称する
>ようになり、これらの方の中に曼荼羅の提供をおこなうサービスがあります。

ご紹介のサイト、参考の為に拝見させていただきました(ただし、私は英語が読めないのですが^^;)。
「Independent Nichiren Believer」という名称から推して、いわゆる特定の宗派や教団に所属しないで信仰する単独信者の類なんでしょうかね。
私自身も、将来的にはそういった道を歩んで行きたいと思っています(今現在は、一応、創価学会に所属こそしているものの、しかし、もはや心は完全に離れてしまっていて、事実上、単独信者の状態なのですけど)。
実は、最近、私は少し前にこちらの掲示板でご紹介されていました、「日蓮聖人御本尊集」のサイトに掲載されている聖人真筆の曼荼羅の写真を印刷し、それを仏壇に安置して拝んでいるのです(無論、日寛上人の曼荼羅は、大切に保管しています)。
決して日寛上人の曼荼羅が嫌いというわけではないのですが、私自身は、日蓮聖人真筆の力強く躍動感のある筆跡のそれが好きなんですよね。
人によっては、私のやっている事に対して、けしからん行為だとおっしゃるのかもしれませんけど、しかし、たとえ自前で印刷した表装されていないものではあっても、真剣に拝んでいます。

843犀角独歩:2003/10/02(木) 13:25

31 愚鈍凡夫さん:

有り難うございます。

personality 人格と訳したとすれば、けっこう勇気があると思えての質問でした。有り難うございました。「人格異常者」、これまた不適切語に当たる語のような印象を受けます、原文がそうなっているのであればそれまでのことですが。

このような扱いは通常、「人格障害」という切り口が適当であると思えての質問でした。
以下のページは軽く上手くまとめているなと思います。

精神病理
http://www.naruto-u.ac.jp/~nakatuka/seisinbyouri.html

844顕正居士:2003/10/03(金) 00:04
>入会する者であれば、誰彼構わず曼荼羅を授与する

少しも教理など理解していなくてもまず受戒させ御形木の曼荼羅を授けその後に
創価学会において指導する、のが戸田城聖氏の布教方法であったといいます。
曼荼羅については一定の信行が進んだら次に当住の特別御形木を創価学会が推薦
して授与し、さらにその次に当住の常住御本尊をお願いするというのが日蓮正宗
時代の創価学会での順序であったようです。しかし。

創価学会の本尊流布が累計約800万、累計会員数約1700万のうち1000万名の方が
実質退会したといわれ、これらの人たちの中にはよい思い出をもっておらない方
が相当にいる、という弊害を残しました。

>自前で印刷した表装されていないものではあっても、真剣に拝んでいます。

北米の人達はinternet gohonzonとかdo it yourself gohonzonと呼んでいます。

845ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/10/04(土) 19:09
顕正居士さん

>>844

>創価学会の本尊流布が累計約800万、累計会員数約1700万のうち1000万名の方が
>実質退会したといわれ、これらの人たちの中にはよい思い出をもっておらない方
>が相当にいる、という弊害を残しました。

かつて戸田城聖氏は、創価学会員に対して曼荼羅御本尊の事を「幸福製造機」だと説いていたそうで、また、学会員はよく「この御本尊様に祈れば、何でも願いが叶う」と○○の一つ覚えの如く口にしているものの、しかし、今こうして振り返ってみますと、それらの台詞は、会員を増やし、自分たちの勢力を拡大する為に使っていた単なる方便に過ぎず、こんな言い方をしては何ですけど、詐欺商法の手口に似たものではないのか?と、そんな風に思ってしまいます(そんな事を言っている人間自身が、実は何もわかっていないケースが大多数なのではないかと思われますが)。
今現在では、もうその手はあまり通用しませんが、昔は脱会しようとする人間に対して、盲信・狂信の輩は、自分自身の言っている意味さえもわからないままに、一にも二にも「罰を受ける、不幸になる、地獄へ堕ちる」といった類のお決りの台詞を口にするばかりでしたね。
私の知っている人間で、何人か脱会した人はいますけど、しかし、別に罰を受けたとか不幸になったとかとかいう事はなく、中には却ってスッキリした気分になれたと言っていた人もいたぐらいです。
それらの人たちの多くは、学会に所属していた時、内部で行っている事に嫌気が差したり、脱会する時や脱会した後の学会員の態度に接して、学会に対する良からぬ感情を抱いているのは確かでしょうね。

学会がやっている事と言えば、一応、折伏(布教活動)もしてはいるものの、むしろ、それより聖教新聞の部数拡大や公明党への支援活動(票集め)、そして、新聞の配達とか、会館における様々な任務の遂行とか、それらの類が主であり、会員たちは功徳という名に騙されて、実質的なタダ働きをさせられているのが現実なのですから。
折伏にしろ、とにかくどんな手を使ってでも入会させればそれで良しといった、単に数を増やす事ばかりを念頭に置いている、信仰者としての、そして、人間としての責任感もモラルもないもの。
私には到底理解できない事なのですが、すっかり洗脳・マインドコントロールされてしまっている盲信的・狂信的な会員たちの多くは、奴隷としての自分自身の姿には露ほども気づいておらず、却って機械やロボット同然のそんな情けないばかりの自らに満足していて、ありがたがっているのですし、どうしようもありません。
私もかつては、学会の中で、自分なりに色々な活動に従事していましたけど、しかし、それらの活動を通し、心の底から湧き起って来るような本当の歓びを感じた事など、ただの一度もなく、また、功徳があったという経験も皆無です。
特に、今では長年の間、学会によって被って来た洗脳・マインドコントロールから、ずいぶんと解放された状態である私の目には、学会が現実にやっている事の多くが、もはや明らかな欺瞞・ペテンとしてしか映らず、彼らの姿はカルト教団のそれのように思われてしまうばかりなのです。

少なくとも、学会員たちの多くが功徳だ福運だと信じ込んでいる(信じ込まされている?)事柄の多くなど、私にはほとんど信じられません。
そんな事よりも、今私がわからなくなっていますのは、仏教・法華経・日蓮仏法の信仰により得られる真の歓び・幸福・功徳とは、何なのか?
いったい、何の為の信仰なのか?といった事なのです。
本当にこの1年位の間で、自分でも何が何だかわからなくなってしまい、今現在、出口が見つからない迷路、暗闇の中に入り込んで右往左往している状態でいます。

いきなり、独り勝手な事を述べさせていただきまして、すいませんでした。

846愚鈍凡夫:2003/10/04(土) 20:02

>>843:犀角独歩さん、レス有り難うございます。
『FBI心理分析官』のほうの訳者は資料がないので分かりませんが、『プロファイリング(犯罪心理分析入門)』の訳者である影山任佐氏・日下和代氏・上野厚氏・滝口直彦氏・石井利文氏は、全員精神医学の専門家なので、誤訳の可能性は極めて低いのではないかと思います。

847犀角独歩:2003/10/04(土) 23:36

846 愚鈍凡夫さん:

有り難うございます。

848顕正居士:2003/10/05(日) 11:49
「罰を受ける、…」

比喩品に
「若人不信 毀謗此經 則斷一切 世間佛種 …」
(若シ人信ゼズシテ 此ノ經ヲ毀謗セバ 則チ斷一切世間ノ佛種ヲ斷ゼン…)
以下、誹謗正法の罪報が云われている。

「毀謗此經」those who have scorned such a Sutra like this(*)
これ(この経の説)とおなじいづれの経にても軽蔑する者(があれば)
(*)Kern氏英訳梵文法華経
http://www.sacred-texts.com/bud/lotus/index.htm

方便品の教である「皆成仏道」(皆仏道ヲ成ゼン)を毀謗する者の意味で
あるから、日蓮聖人は
「但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るペきなり」(十四誹謗抄)
http://www4.justnet.ne.jp/~bekkann/goso1380.htm
と誡告しておられる。

要するに、「わが教団に服従しなければ…」などの説をなす者の罪報を
警告しているのです。

849御同感します、。:2003/10/05(日) 21:07
No.842さんには「苦悩の果ての”苦渋の最終選択」”とも言える」ような言説かとぞんじます。 現今の各宗派が「ワシがワシが、、、」と言う「効能書きほどエエカゲンは在りません」ようです、、。 脱退後の「東の太陽に向かっての”内得信仰”」を数年間ほど経過しました。 S会時の後遺症なのか「実体対象の無い、内得信仰」では「ドーモ”力”が全然に入りませんでした、?」。 試行錯誤の結果、少しでもホンモノに近づく為に「真筆本尊集から、コピ〜拡大〜額縁保存、、」などの経過をへて「ヤット、ホンモノの本尊様」を拝むことが出来ました、、。 これらの「コピーの無開眼本尊」は「日蓮的にはニセモノ」でしょうか、、??
 一抹の不安は禁じ得ませんが、、??

850???連:2003/10/11(土) 00:34
とは申しましても「当該寺院がワシャ知りません」とのたまえば???。 開眼の有無=当該僧侶の生活権の問題でしょうか、、? 実際の「信者=当事者には???」でしょうか、、? マーお堅く言えば「要開眼」でしょうか、?

851≫≫当該者:2003/10/12(日) 20:54
 やせても〜枯れても「一応は著作権=日蓮の真筆御本尊」を御管理中の「当該寺院様」には御機嫌御麗しい御ざいます、、。
 「ホンマ物の真筆の貴重な◯◯様ご所持」の各寺院のご住職様方」「コピーの御開眼??」は「可能??」でしょうか??

852◎●☆▼★者:2003/10/13(月) 18:55
 :::;;;、 要するに「本尊集HPからコピーした本尊を拝んで居る者ですが、何とぞ”このコピー本尊を御開眼”を、、」と申しても「各寺院の住職は???」でしょうか、、?? 「信者の成仏の可否と修行などには、???の方方が多いよう」ですので、、?。
 要するに「信者の成仏???」を重視シテ居るか?否か?で左右さようか、、?

853試案;;1の期待者:2003/10/20(月) 18:50
 当該寺院様の「当該檀家になります」という「誓約書のような入檀の意志の」確認などを御提出しつつ、「適なる檀家かを認知されるまで」は「辛抱強く待機」することが在りましょうか、、?

854成仏の期待者:2003/10/24(金) 01:01
 いかに「ホンモノの本尊」の「拡大コピー本尊」を拝し「勤行を修せ」ども現段階では「当該住職様」による「入檀家=受戒、、」なる厳粛な規律??は正当な行為か、、?? 「世間をはばかり、コピー本尊しか拝せない”オチコボレ”に、救いの手を、、!!」。

855ケン:2003/11/02(日) 16:59
三十数年前に日蓮教学を、ほんの少々だけ、かじったことのある者です(もっとも、この掲示板のレベルでは、かじったうちにも入りませんが)。そのかじり始めの最初の頃から、非常に疑問に思っていた事柄を質問させて頂きます。

疑問点は、富士門流独自の問題と言うわけではなく、日蓮系一般の問題なのですが、この掲示板には、大勢の碩学の方々が参加していらっしゃるので、教えて頂くにはここが最適かと思って質問させて頂きます。もし、お答え頂く気になった方がいらっしゃれば宜しくお願いします。

それは、竜の口の法難における「超自然現象」のことです。
小林正博著「日蓮の真実」(第三文明社,2003年2月11日発行)には、以下の通り説明されています。
「9月12日・・・逮捕された日蓮は、深夜になって竜の口の刑場に連れ出され、斬首刑に処せられようとしました。その時、流星が夜空を輝かせ刑を執行する武士たちは恐れおののき大地にひれ伏したといいます。この異様な天変は、今日でも謎で説明がつかない不思議な現象ですが、ともかく日蓮が斬首刑を免れたのは事実です。」(168頁)

この著名な「異様な天変」について以下の点をご教示下さい。
(1)日蓮真蹟遺文のみから考証可能なことはどこまでですか。
(2)日蓮滅後に成立した偽書で「異様な天変」が脚色された形跡はありませんか。
(3)日蓮と同時代の古文書で「異様な天変」を記述したものは発見されていませんか。
(4)未発見であれば、そのこと自体をどのように解釈すればよいのでしょう。
(5)「異様な天変」について独自の解釈をしている門流が、日蓮系に存在しますか。
(6)現在の代表的な学説にはどのような説があるのでしょうか。
(7)日蓮系の宗教学者や歴史学者で、「異様な天変」自体が発生しなかったとする説を唱える学者はいませんか。
(8)日蓮系以外の宗教学者や歴史学者は、「異様な天変」をどのように解釈しているのでしょうか。
(9)上行再誕や本仏・日蓮に対してではなく、人間日蓮に対して「異様な天変」が発生したとする場合は、どのような解釈があり得るのでしょうか。
(10)日蓮が竜の口の刑場に連れ出されてから佐渡流罪にいたるまでの経緯を記した史書あるいは古文書は存在しないのでしょうか。

ざっと上記の通りです。これらのことに触れている論文であれば、多少難しい論文でも読んでみようと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

856犀角独歩:2003/11/02(日) 17:58

ケンさん:

はじめまして。

竜口の光物ですか。挙げられたご質問は多岐に亘り、詳細に答えられるものではありませんが、あるいは知識を蓄積されている方がおられ、開陳くださるかも知れません。それをわたしも期待します。

さて、最近、増補改訂して出版された高木豊師著『日蓮』では竜口法難については、以下のような記述になっていますね。お読みになっていたらご容赦ください。

*** 転載はじめ ***

…「内には頸を切る」ことを考えていたからであろう。
 はたして、依智への途上、龍口(たつのくち)において、内意のとおり、日蓮はまさに頸を切られんとした。このとき、供をしてきた檀越四条頼基は日蓮の馬の口にとりついてなき悲しんだ。それは日蓮に「いかなる世にか忘(わすれ)なん」(『崇峻天皇御書』平遺694頁)といわせるほどの悲しみようであった。また日蓮のみならず、供奉(ぐぶ)していた弟子三位房も「同罪に被行れて頸をはねられるべき」であったという(『頼朝陳状』定遺1351頁)。しかし、幸いにもこの斬首は実現しなかった。「いかにしてやありけん、其の夜はのびて依智」についたのである(『報恩抄』平遺623〜4頁)
 このように、斬首に処そうとする意図があったにもかかわらず、結局は死刑は免ぜられ、流罪に処せられたのは、北条時宗の妻の懐妊によると考えられる。事実、この歳、貞時が誕生している(辻善之助『日本仏教史』中世篇之一)。これに関連して、日蓮が「大がく(学)と申す人は普通の人ににず、日蓮が御かんきの時身を捨てゝかたうど(方人)して候(そうらい)人」(『大学三郎御書』平遺784頁)と、大学三郎の行為について述べていることに注目したい。大学三郎については、伝承を除けば、ほとんど未詳だが、ただわずかに、大学充(だいがくのじょう)という日蓮の檀越の子息であったろうこと、書に秀で、書を好んだ安達泰盛(あだちやすもり)と書を通じての交りをもっていたことがわかる程度である。ところで、大学三郎と親交があった泰盛はほかならぬ時宗の舅(しゅうと)、つまり、時宗の妻の父であり、懐妊した子(のちの貞時)の祖父に当たる人である。この関係と日蓮の大学三郎についての叙述を重ね合わせれば、大学三郎が泰盛に働きかけ、泰盛は婿(むこ)時宗に孫の懐妊中における日蓮の刎頸注視を進言したのではなかろうか。「身を捨ててかたうど」した意味を、右の関係のなかに置いてみることは十分に可能である(増補改訂『日蓮』高木豊著 株式会社太田出版 P90)

*** 転載おわり ***

良識派の学者であれば、光物を史実として論じる蛮勇を持ち合わせることはないと思えます。もっとも、かく言うわたしも極近年まで、これを事実としてとらえていた一人でした。

論文のご紹介でない点、失礼いたしました。

857犀角独歩:2003/11/02(日) 18:13

【856の訂正】

誤)刎頸注視を進言したのではなかろうか
正)刎頸中止を進言したのではなかろうか

858愚鈍凡夫:2003/11/02(日) 18:57
犀角独歩さんの引用された説とは違いますが、竜口法難の「ひかりもの」について、こういう説もあるそうですよ。

「法住山要伝寺 質問箱 №089」より転載

Q:龍口法難における日蓮聖人の「ひかりもの」の奇瑞は、実際にあったことなのでしょうか。もしそれが事実であるならば、その正体は何ですか。
-----------------------------------------------
A:日蓮聖人自身は、「ひかりもの」の奇跡について、『種種御振舞御書』という書の中で詳細に述べておりますが、本書は全編が日蓮聖人の著作とは考えにくく、後世の加筆がある可能性も考慮すべきことが指摘されております。実際、他の日蓮聖人の著述の中では、これほどまでの超常現象にも関わらず、まったく記述がみられません。
 ただし、もし「ひかりもの」が実際に起こったとすれば、どのような事実が推測できるか考えてみることは可能です。従来、落雷説・人魂説・流星説・隕石説などが提唱されておりますが、これについては、紀野一義氏が、新たな解釈を試みられておりますので紹介します(『日蓮-民衆と歩んだ不屈の改革者-』他)。
 氏は、日蓮聖人が龍口法難で体験した「ひかりもの」の正体は、海上より放たれた一本の火矢(ひや)であったと推測しております。龍口刑場のひかりものの奇跡に先立って、日蓮聖人は有名な八幡社頭諌言を行っております。この行為は、実は日蓮の身に危機が迫っていることを鶴岡八幡宮の周辺の警固人(紀野氏は、彼らはおそらく日蓮聖人の鎌倉での教化によって入信した日蓮信者で、その多くは在日の渡来人であったと推測しております)に知らせるためであったのではないかというのです。松葉谷法難の際に日蓮聖人を救ったのもこれらの人々であり、彼らの友誼(ゆうぎ)に日蓮聖人は今一度期待したのです。いざ、頸を斬られんとしたとき、聖人の唱題の大音声を合図とするかのごとく、海上より火矢が一閃ひらめき、これに恐れをなした平頼綱一行は、日蓮暗殺を断念したと解釈するのです。
 しかし、問題は、火矢程度で、鎌倉の武士が驚くかどうかという疑問があります。これについては、あるいは、火矢には火薬が仕組まれていたかもしれません。火薬は、9世紀の中国で発明されたもので、おもに黒色火薬が医術の分野で用いられていたことが知られ、11世紀には北宋が兵器として開発し、有名な蒙古襲来では、元・高麗連合軍が、この技術を応用して「てつはう(鉄砲)」と呼ばれる武器を使用したことが記録に残っているくらいです。公な記録は残っていないものの、日蓮聖人在世中に、蒙古の侵略を逃れてきて移民した南宋や高麗の渡来人たちが、日本に火薬技術(武器としてではなく医薬品として)を伝来した可能性は充分に考えられます。紀野説によれば、日蓮聖人の救援にかけつけた人々の中には、渡来人も含まれていた可能性があるとの指摘ですので、火矢に火薬を仕組ませたとも推測されます。火薬ならば、兵器として爆発するような威力は見込まれなくとも、火矢以上に不可解なひかりもの的奇瑞を顕してもおかしくないと考えます。
 ただし、当時の火薬は、相当な貴重品であったことは推測に難くないところであります。あるいは、火薬が当初は医薬品として用いられていたという事実から、医者であれば、渡来人から入手することもあったかも知れません。日蓮聖人の門弟の中でいえば、四条頼基などが医術に長けていた人物として知られております。四条頼基といえば、龍口法難の名場面に登場することで有名ですが、龍の口へ連行される日蓮聖人の馬の轡にとりついて、聖人と運命を共にする誓いを立てたといわれております。四条頼基が、日蓮暗殺を阻止しようと機転をきかせて、八幡宮の警護兵に火矢の中に火薬を仕組むよう指示することも可能であったかも知れません。
 いずれにせよ、以上の解釈は傍証を寄せ集めて推測したにすぎず、確証はないことをお断りしておきます。

「法住山要伝寺 質問箱」
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/contents4.html

859ケン:2003/11/02(日) 21:09
犀角独歩さん
愚鈍凡夫さん

どちらの説も、ボクには初めてです。
早速有難うございました。

860顕正居士:2003/11/03(月) 08:33
ケンさん。

竜ノ口の法難については「エンケ彗星」という説がありますが、以前にエンケ彗星
を検索していてこんな記事がありました。『種種御振舞御書』と全く同じ、江ノ島から
の光り物に兵士が驚いて処刑が出来なかったという話が古典にある。この話をもと
に創作したのでないかという趣旨。何かの掲示板ですが、今探しても見つからない。
この説をご存知の方がいらっしゃったら、ぜひご教示ください。処刑をまぬかれた人
は平姓だったとおぼえています。

861犀角独歩:2003/11/03(月) 09:36

古い記憶ですが、池田さんは対談本の中で「エンケ彗星」を竜口法難の光物とする説を紹介していました。なんの本であったか、誰の説であったか、記憶がありませんが、創価学会ではこの説を採っていたことがあったと記憶します。

862川蝉:2003/11/03(月) 09:54
860 : 顕正居士 さんへ。

日蓮宗現宗研のページにある所報33号の今成教授の論文中に言及されています。
ここです↓
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/syoho33.htm


なお、大聖人門下掲示板(http://jbbs.shitaraba.com/study/3171/gudo.html)の「竜口法難の意義」と「書籍情報はこちらで」スレッドに種々御振舞御書に関するコメントを投稿していますので、お暇があったらご閲覧下さい。

863顕正居士:2003/11/03(月) 10:21
↑以前にみつけた文章とは違いますが、「土屋氏の年表」というページの1186年(文治2年)
の項に次の記事がありました。

「6月、宗遠、平盛久を京から鎌倉へ護送。頼朝の命により斬首の太刀取となるが、いざ
斬らんとその時、信仰心の厚い盛久の手にした経巻から閃光が放たれ、眼の眩んだ宗遠
の太刀は真っ二つに折れて落ちた。この奇跡を知った頼朝はその処刑を放免したという」
http://kzt007.web.infoseek.co.jp/nenpyou.html

出典の一つは平家物語らしい。こちらは先に刀が折れたと書かれている。

「土屋三郎宗遠に仰て、首を刎らるべしとて、文治二年六月廿八日に、盛久を由井が浜に
引すへて、盛久西に向て念仏十遍計申けるが、いかが思ひけん、みなみに向て、又念仏
二三十遍計申けるを、宗遠太刀をぬき頸をうつ、その太刀中より打をりぬ、又打太刀も、
目ぬきよりをれにけり、不思議の思ひをなすに、富士のすそより光り二すぢ、盛久が身に、
差あてたりとぞ見えける」(平家物語 長門本巻第二十)
http://www.j-texts.com/heike/nagato/hnk20.html

864顕正居士:2003/11/03(月) 10:35
川蝉さん。ご教示ありがとうございました。投稿が前後してしまいました。

この二つの話がともに「エンケ彗星」という一つの可能性については
天文ファンの方ならわかるのでないかなあとおもいました。

865心者雖念不直相鴨:2003/11/03(月) 14:59
ケンさん:

はじめまして、心者雖念不直相鴨です。

(6)現在の代表的な学説にはどのような説があるのでしょうか。
については、竜口法難の「ひかりもの」を大気発光現象のなかの「球電」
http://www.u-gakugei.ac.jp/~physics/kamogawa.html
として考察した記事を以前新聞で読んだ記憶があります。また、球雷や火の玉とした以下のような記事もあります。

( 2 )球雷・・・気象条件によっては空気中に生じた電荷がプラズマとなって球状に成長する例があり,球雷と呼ばれる。(中略)球雷に似た放電として,じゅず玉状放電やリボン状放電も報告されている
( 3 )火の玉・・・湖沼や湿地帯に良く発生するといわれている(中略)その成因に関しては諸説が有るが,高周波放電を用いて実験的に生成できたとの報告がある。火の玉はガラス窓を通過できるといわれており,高周波放電も電力が有れば可能と思われる。通常,この放電は可視でき(後略)
http://www.ise.chuo-u.ac.jp/TISE/kyouyou/5inabat1998040/

「大気プラズマ学というものでは、宇宙から飛来する様々な電波や宇宙線の交差が「大気プラズマ」を発生させるとしていて、それが、人魂や鬼火、 狐火などの現象だといわれていて、UFOのようなものもそれによって発生するとしています」
http://members.at.infoseek.co.jp/vraifils/darkplasma.htm

ほかにもいろいろ興味深い報告があります。
http://member.nifty.ne.jp/tsato/banana/banana05.html

また、以下の記述も平易です。

あなたが言っているのは「球電[きゅうでん]」のことだと思います。球電[きゅうでん]はめずらしいけれど、たくさんの人が見たと言っています。昔の人達が書き残した、球電[きゅうでん]の記録だってあるんですよ。球電[きゅうでん]は雷雨[らいう]のときに起こりますが、稲妻[いなずま]から生まれるとは限[かぎ]りません。雲の中でたまった電気が、地上に稲妻[いなずま]を落とす目標(高い木やビルなど)を見つけると、稲妻[いなずま]が起こり、エネルギーが放電されます(「放電」とは、電気が流れること)。だから、稲妻[いなずま]は空から降[ふ]って来るように見えるけど、実は地上から雲に向かって上がっていくんですよ(光はとても速く移動[いどう]しますからね)。

でも球電[きゅうでん]は、地上に稲妻[いなずま]を落とす目標が見つからないから起きるのかもしれません。なぜなら、稲妻[いなずま]を引き寄[よ]せる背[せ]の高い物のそばでは、球電[きゅうでん]は起こらないからです。球電[きゅうでん]は、雷雨[らいう]の時に空気中でたまる電気と関係があるようです。でも、球電[きゅうでん]がなぜ、どのようにできるのかは、まだ分かっていないんです。
http://www.tbs.co.jp/catchat/friendpark/universe/que30402.html

以上のように、「ひかりもの」や「火の玉」のように、かつて「超常現象」と考えられていたものも、現代物理学の観点からは説明可能な現象であるとされています。
 「中古、中世の記述であるから信頼性にかけるであろう」と、即断するのは科学的な態度ではないと思います。由比ガ浜でも、竜口でも同じような現象がたまたま生じた可能性もあるのかもしれません。

866ケン:2003/11/03(月) 22:21
皆さん 色々有り難うございました。

川蝉さん
折角の機会なので、初歩的な質問で恐縮ですが、以下の点を教えて頂ければ幸甚です。
(1)身延山の明治8年の大火で消失した真筆25書の内、疑義が論じられているのは、『種種御振舞御書』のみなのでしょうか。
(2)『種種御振舞御書』の疑義について系統的に紹介した代表的論書と、それを批判した代表的論書をご紹介いただけますか。
(3)日蓮の弟子の著作で、竜口の『光り物』の初見は、大石寺日道の『御伝土代』ということでしょうか。
(4)『御伝土代』にはどの程度の記述があるのでしょうか。
(5)『御伝土代』後で、竜口の『光り物』を記述した弟子の著作はいつ頃になるのでしょうか。
宜しくお願い致します。

867犀角独歩:2003/11/04(火) 06:09

ケンさん:

横レス失礼いたします。
なるほど、『御伝土代』ですか。この存在を忘れていました。

「江島の方より月の如く光りたる物鞠の様にて辰巳の方より戌亥の方へ光り渡る、十二日夜の明闇人の面も見えざりしが、物の光月夜の様にて人の面皆見え、兵士ども興醒て一丁許り馳せ除きて、或ひは馬より下りて畏こまり、或は馬の上にて蹲まる物もあり」

『種種御振舞御書』では

「江のしまのかたより月のごとくひかり物、まり(鞠)のやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ(味爽)人の面もみへざりしが、物のひかり月よ(夜)のやうにて人人の面もみなみゆ。太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れけうさめ(興醒)て一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくま(蹲踞)れるもあり」

でした。比較してみれば、同じ所伝に従って、記述されたことは明らかと思えます。
今成師は、この記述を「これはどうみても日蓮聖人ご自身の文体ではない」としています。

けれど、『御伝土代』は元弘3(1333)年の書と目され、となれば、竜口法難の文永8(1271)年から62年後、かなり信憑性は高いと思えます。『種々御振舞御書』の記述が蓮師の書でないとしても、たしかに『御伝土代』の記述は看過できないものがありますね。

868ジャンノレン:2003/11/04(火) 10:03
活発な御意見参考になります。独歩さんが光玉の事を学会の書物で見られたというのは恐らく、「仏法と宇宙を語る」であった
と思います。ページ数まではもう手元にありませんので、記憶違いかも知れませんが、御宗門よりその箇所の科学的解釈にクレ
ームが有ったと思います。私なりに此の御妙判は興味があって調べた時期がありましたので記させて頂きます。

種々御振舞御書(建治2年/身延嘗存)はかつて、身延に真跡断簡が伝わっていたそうですが、どの部分に真跡が残り、どの部分
が真跡の欠落しているか詳しいところは今となっては明治八年の身延山の火災で消失したようです。
身延山の聖教目録の日乾師目録がなかったら、この御書の真蹟問題は恐らく偽書扱いだった事と思います。
日乾師目録には、「種々御振舞御書」の最初の句と終わりの句を記し、「已上十九紙 整足セリ 何モ御筆前後ノ紙ニカカレリ 」
とあり、「佐渡御勘気御書」は「廿一紙 整足」と記してあります。「日蓮の行法観」の著者茂田井先生はこの「整足」について
「後から書き込まれた御筆が前後の紙に入れられ、内容が整えられていると云う事である。日蓮聖人自身が整えられた、というよ
りも、むしろ聖人が亡くなった後に弟子達によって整えられたものもあろう。しかし、この整足するときに他人の筆が入ると云っ
て内容を疑問視し偽書扱いする学者もいるが、整足されて他筆が入れば、日乾は″他人の筆でこれこれの書き込みがある″というこ
とを述べており、私はそれを信じるのである(取意)」(日蓮の行法観・14頁)と説明しています。

乾師目録には別筆・他筆の箇所が有る場合は、きちんと、その事を記されているそうです。もしも頸の座や星下りの箇所が他筆で
あったり偽筆の疑いがあったとしたら、日乾師はきちんと、他筆であることを記したであろうと思われます。乾師目録の正確性を
を正とすれば「種々御振舞御書」を真蹟であったとすべきであると云うのが茂田井先生の見解です。また、小川泰堂居士の当御書
の講義書には、三書を一書に編した理由を述べている部分があります。「此の三章、定んで一編の書なるべしとは先師もすでに評
あり、我は延山に於いて三軸の真蹟を竝観して、まのあたり其の三すなわち一書なることを証知せり・・」(遺文録第廿巻)
とあり、合本の事実はあっても、偽筆の可能性は少ないのではないでしょうか。しかし、当御書の信憑性を生起させるのは、やは
り光り物の記述と、依智での星降り現象の記述でしょう。それは御書中の「これほどの悦びをわらえかし、いかにやくそくをばた
がへらるるぞと申せし時、江ノ島のかたより月のごとくひかりたる物、まりのようにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる」

さらに佐渡の依智という場所の本間六郎左右衛門邸にて「いかに月天いかに月天とせめしかば、其しるしにや天より明星の如くな
る大星下りて、前の梅の木の枝にかかりてありしかば、ものゝふども皆ゑんよりとびをり、或は大庭にひれふし或は家のうしろへ
にげぬ。」当御書の有名な頸の座と星降りのシーンです、当御書で宗祖は全体として流罪に至る経由を述べられ、そして六郎左右
衛門に謀反の出来を教えられ、身延に隠棲されるくだりで終わっています。此の御書のハイライトと言うべき箇所は、頸の座の部
分は「種々御振舞御書・19紙一巻」星下りの部分は「佐渡御勘気御書・21紙一巻」にあったことになっています。小川泰堂居
士がこの二書に「阿弥陀堂法印祈雨抄・10紙一巻断」とを併せて現在の「種々御振舞御書」にしたということ、らしいです。

869川蝉:2003/11/04(火) 10:54
866 : ケン さんへ。
今日は。
(1)について。
『種種御振舞御書』だけのようです。
(2)について。
御存知と思いますが、明治か大正時代に重野文学博士が疑義論を発表し、それにたいして田中智学居士が反論論文を書かれてのは有名ですね。私は両書とも見ておりませんが、神田の東陽堂の目録に田中智学居士著の「龍口法難論」が5000円で出ています。

まとまって真偽論を論じている論文は知りません。それぞれ断片的に言及しているのはあります。

佼成出版社・茂田井教亨著「日蓮の行法観」(2000円)
種々御振舞御書の注釈書です。

日蓮宗現代宗教研究所所報第32号にある勝呂信静博士の「御遺文の真偽問題」の第二節・種々御振舞御書に少しく論じられています。↓
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/syoho32.htm

上記二書は親撰論です。

最近のものでは、偽作の立場で論じている鎌倉龍口寺の貫主さんの著「日蓮聖人伝百話」(3000円)があります。
日蓮宗新聞社で取り次いでいます。龍口寺でも販売しています。

(3)について。
『御伝土代』が一番古いようですね。ただし、日蓮宗宗学全書第一巻339頁に身延三世日進上人の『日蓮聖人御弘通次第』があり、「江ノ島の光り物出来して、御馬の頸を超えて」とあります。
編者が「身延山所蔵の進師直筆に依る」と注記していますが、宗祖出家年齢を18歳とし、また開宗を3月28日と記しているので、はたして進師直筆かどうかの問題もあるようです。

(4)については、犀角独歩さんが既に紹介してくださったので省略します。

(5)について。
分かりません。

祖滅約100年永徳元年(1381)に記せられた『日什御奏聞記録』には
「江ノ島の方より五丈ばかりにして満月の如くなる光物飛び来て」とあります。(日蓮宗宗学全書第五巻31頁)
あとは祖滅197年の身延日朝上人の『元祖化導記』や祖滅約200年ころの『日蓮聖人註画讃』がありますね。

870顕正居士:2003/11/04(火) 13:13
ケンさん。

竜ノ口法難というのは奇跡は二の次のことで、竜ノ口法難というものはなかったと
いうのが日蓮宗以外での歴史なのです。『種種御振舞御書』以外に何の資料もない。
貞永式目にてらして日蓮を死罪にできる理由がない。平頼綱が私刑をおこなおうと
したにせよ、時宗の正室堀内殿の懐妊によって赦されたはずである。竜ノ口法難を
いうのは日蓮宗徒の資料だけであると。

開目抄に、日蓮といひし者は去る文永八年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、と
ある。こちらは疑いがない遺文である。しかし間一髪の意味ではなくそういう予定
だったとも読める。それで平頼綱の私刑、堀内殿の懐妊による赦免に落着いて来る
ようなのです。

871犀角独歩:2003/11/04(火) 14:31

868 ジャンノレンさん:

> 光玉の事を学会の書物で見られたというのは恐らく、「仏法と宇宙を語る」

あ、そうですか。情報、有り難うございます。
となると、わたしもここら辺まではけっこう、池田さんの本を読んでいたと言うことになるようです(笑)

872ケン:2003/11/04(火) 20:19
ご回答頂いた皆様へ
初歩的な質問に対して、懇切丁寧な解説を頂き、本当に、本当に、ありがとうございます。おかげで、この問題の所在がよく分かりました。

なお、恥のかきついでに、関連質問をさせて頂いてよろしいでしょうか。
ジャンレノンさんがご指摘の「依智での星降り現象」のことです。
竜口の「光り物」については、彗星説などによる説明のトライも可能でしょうが、「依智での星降り現象」については、科学的な説明がお手上げ状態なのでしょうか。
この現象の説明をトライした方はいるのでしょうか。

873愚鈍凡夫:2003/11/04(火) 20:28
横レス失礼します。
参考までに、竜口法難関係を「種種御振舞御書」以外で検索してみました(資料:学会版御書全集)。尚、便宜上真偽問題は無視しています。

「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄佐土の国にいたりて返年の二月雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくてをそろしからずみん人いかにをぢぬらむ、」(「開目抄・下」 学会版P223)

「去ぬる文永八年九月十二日に平の左衛門並びに数百人に向て云く日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらをたをすになりぬ等云云、」(「報恩抄」 学会版P312)

「去る文永八年九月十二日に都て一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる、外には遠流と聞えしかども内には頚を切ると定めぬ余又兼て此の事を推せし故に弟子に向つて云く我が願既に遂ぬ悦び身に余れり人身は受けがたくして破れやすし、」(「下山御消息」 学会版P356)

「恐らくは天台伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値い給いし事なし、彼は只悪口怨嫉計りなり、是は両度の御勘気遠国に流罪せられ竜口の頚の座頭の疵等其の外悪口せられ弟子等を流罪せられ篭に入れられ檀那の所領を取られ御内を出だされし、」(「如説修行抄」 学会版P504)

「御義口伝に云く変化人とは竜口守護の八幡大菩薩なり、」(「御義口伝・上」 学会版P738)

「然りと雖も諸天善神等は日蓮に力を合せ給う故に竜口までもかちぬ、」(「御講聞書」 学会版P843)

「去文永八年九月十二日の御勘気の時重ねて申して云く予は日本国の棟梁なり我を失うは国を失うなるべしと今は用いまじけれども後のためにとて申しにき、」(「法蓮抄」 学会版P1053)

「娑婆世界の中には日本国日本国の中には相模の国相模の国の中には片瀬片瀬の中には竜口に日蓮が命をとどめをく事は法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか、」(「四条金吾殿御消息(竜口御書)」 学会版P1113)

「三位も文永八年九月十二日の勘気の時は供奉の一人にて有りしかば同罪に行はれて頚をはねらるべきにてありしは身命を惜むものにて候かと申されしかば。」(「頼基陳状」 学会版P1156)

「去ぬる文永八年九月十二日には御かんきをかほりて北国佐渡の島にうつされて候いしなり、世間には一分のとがもなかりし身なれども故最明寺入道殿極楽寺入道殿を地獄に堕ちたりと申す法師なれば謀叛の者にもすぎたりとて相州鎌倉竜口と申す処にて頚を切らんとし候いしが科は大科なれども法華経の行者なれば左右なくうしなひなば・いかんがとやをもはれけん、」(「中興入道消息」 学会版P1333)

去ぬる文永八年九月十二日には御かんきをかほりて北国佐渡の島にうつされて候いしなり、

「予が如く弘長には伊豆の国に流され文永には佐渡嶋に流され或は竜口の頚の座等此の外種種の難数を知らず、」(「最蓮房御返事」 学会版P1342)

「鎌倉竜の口と申す処に九月十二日の丑の時に頚の座に引きすへられて候いき、いかがして候いけん月の如くにをはせし物江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば、使おそれてきらず、とかうせし程に子細どもあまたありて其の夜の頚はのがれぬ、又佐渡の国にてきらんとせし程に日蓮が申せしが如く鎌倉にどしうち始まりぬ、使はしり下りて頚をきらず結句はゆるされぬ、」(「妙法比丘尼御返事(亡夫追悼御書)」 学会版P1413)

「而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頚をはねられんとせし時よりのちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうてさどの国より弟子どもに内内申す法門あり、」(「三沢抄」 学会版P1489)

「抑日蓮種種の大難の中には竜口の頚の座と東条の難にはすぎず、」(「上野殿御返事(刀杖難事)」 学会版P1555)

以上です。

874心者雖念不直相鴨:2003/11/05(水) 02:28
ケンさん:
種々御振舞御書の「依智での星降り現象」についてですが、

「九月十三日の夜なれば月大いにはれてありしに」

との、ことですので大層あかるい月夜だったわけです。

「天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝にかかりてありしかば、もののふども皆ゑん(縁)よりとびをり、或は大庭にひれふし、或は家のうしろへにげぬ。
やがて即ち天かきくもりて大風吹き来たりて、江の島のなるとて空のひびく事、大なるつづみ(鼓)を打つがごとし。」

との、ことですので生じた落雷が下方に放電されずに「球雷」として、梅の木の枝に暫くとどまったとの解釈が可能かと思います。明るい月夜に出現した「明星の如くなる大星」で、しかもそののち「空のひびく事、大なるつづみ(鼓)を打つがごとし」と、雷が鳴っていたことが示されているので、この可能性が高いかと思われます。
 以下に参考例を再掲いたします。

燃料補給機が落雷を受けたが、下方へは放電されず、これはその飛行機が 100kV から 1MV 程度、あるいは何らかの値に帯電したままとなったことを意味する。数秒後、大きな球状の白熱したガスが機体後部と翼の先端からスリップ・ストリームの中へ離れ、おそらくは余剰な電荷 (電子、あるいはホール) 全てを「球雷」として運び去った。
http://member.nifty.ne.jp/tsato/banana/banana05.html

稲妻[いなずま]は空から降[ふ]って来るように見えるけど、実は地上から雲に向かって上がっていくんですよ(光はとても速く移動[いどう]しますからね)。
http://www.tbs.co.jp/catchat/friendpark/universe/que30402.html

875ケン:2003/11/05(水) 23:44
心者雖念不直相鴨さん

教えていただいたサイトは、拝見しました。
有り難うございました。

876ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/11/13(木) 22:48
顕正居士さん 御同感します、。 さん

スイマセン、もう1ヶ月以上も前の書き込みに対してのレスになりますが・・・(--;)


顕正居士さん

>>848

>要するに、「わが教団に服従しなければ…」などの説をなす者の罪報を
>警告しているのです。

12年前の宗創戦争の勃発がきっかけとなり、それまで長年に渡って信じて来た(信じ込まされて来た)日蓮正宗にまつわる数々の神話めいたお話が、実は真っ赤なウソで、単なる迷信や妄言の類に過ぎなかったという事実が次々と白日の元に曝されたのと平行して、創価学会が言っている事がいかに矛盾だらけの幼稚で誤魔化しに満ちたペテンであるのかが、少しずつわかって来ましたので、今では、彼ら狂信者やウソツキたちがどのような戯言や脅し文句を口にしようとも、そんなものなど屁とも思っていません。
かつての自分は、マインドコントロールにより、心の奥底に強い恐怖心を植え付けられていた事が何よりも大きな原因になっていたものの、単に教団側の教えをほとんど一方的に鵜呑みにするばかりといった明らかな盲信者でしかなく、学会や正宗関係以外の様々な書籍には見向きもしなかったのでした。
それ故に、学会の幹部や組織の者たちから信仰に託けた様々な脅し・圧力を受けた時には、いつも内心において、オドオドビクビクしていたのですけど、しかし、今こうして振り返ってみれば、彼らの言っていた事なんて、何一つとして具体的な論拠がない、まるで幼児の戯言レヴェルのものなのであって、独りで悶々と悩んでいたその頃の自分が本当に馬鹿みたいに思えて来ます。
今年の春に亡くなった私の父が、生前、戦争中の事を振り返り、「あの頃はまさか日本が負けるなんて、まったく思ってもみなかった。後で考えたら、あれは、まさしくマインドコントロールだった」と話していたのですが、やはり人間は、そういうものに陥り易いのでしょうかね。


御同感します、。 さん

>>849

>脱退後の「東の太陽に向かっての”内得信仰”」を数年間ほど経過しました。
>S会時の後遺症なのか「実体対象の無い、内得信仰」では「ドーモ”力”が
>全然に入りませんでした、?」。 試行錯誤の結果、少しでもホンモノに近
>づく為に「真筆本尊集から、コピ〜拡大〜額縁保存、、」などの経過をへて
>「ヤット、ホンモノの本尊様」を拝むことが出来ました、、。

実は私の場合、“自家製?のコピー御本尊”を拝むのは今回が初めてではなく、5、6年前にも経験した事があるんですよ。
当時、独り暮しをしていた私は、事情によってしばらく実家で過す事となり、その時、御同感します、。 さんがおっしゃていますのと同じように、どうも自分の目の前に御本尊が存在していなくて、直に拝めない状態での勤行・唱題が、非常にやり難かった為、書籍に掲載されていた日蓮聖人真筆御本尊の写真をコピーし拝んでいたのです。
その時は、保田妙本寺に現存する万年救護の御本尊、鎌倉妙本寺に現存する臨滅度時の御本尊、それに、当時はどこに現存しているのかがわからず、少し前にこちらでご紹介されていました日蓮聖人御本尊集を見て知ったのですけど、熊本の本妙寺に現存する御本尊をコピーし、額に入れて壁に掲げ拝んでいました。
自分にとっての出来るだけ拝み易い相貌の御本尊をという事で、結果的に、いくつもコピーしてしまったのです。
でも、いくらコピーだとは言え、飽くまで信仰の対象として拝むわけなのですから、あまりそういった事をするべきではないのかもしれませんね。
ちなみに、そのうちの万年救護のコピー御本尊は、昨年暮に我が家で飼っていた猫が亡くなった時、旅立って行く猫へのせめてもの想いという事で、亡骸と一緒に埋葬致して、それ以外の二つのコピー御本尊は、今でも大切に保存しています。
もしかすると、人によっては、私が御本尊の写真をコピーし拝んでいる事や、猫の亡骸と一緒にコピー御本尊を埋葬したのをけしからん罰当りだと言って、批判するのかもしれませんが、しかし、私は決して間違った行為をしたと思っていません。

877ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/11/13(木) 22:50
御同感します、。 さん、続きです。

私は1ヶ月余り前から、創価学会経由で授与された日寛上人の御本尊をお巻きし、御本尊集の中で紹介されていました京都妙蓮寺に現存する聖人真筆御本尊をコピーして、仏壇に奉り拝んでいるのですが、すでに述べましたとおり、どうも私の場合、日寛上人の御本尊より、たとえコピーではあっても、聖人真筆の御本尊の方が、拝んでいると、何故か?感覚的にピタッと来るものがあるんですよねぇ。
それから、これは、もしかすると私自身の単なる思い込みに過ぎず、たまたま?だったのかもしれませんけど、5年前、ある出来事がきっかけで、その事に関する願懸けの祈りをコピー御本尊に向って真剣に行ったら、もしかすると自分の祈りが通じたのではないか?と思えるような結果が生じましたので(私の長い信仰歴においては、滅多にない珍しい事だったのですが)。
何か相性のようなものでもあるのかな?と、そんな風にも思ってみるんですがね。

ところで、他の何人かの人たちも御本尊に関して色々とご意見されていますけど、日蓮正宗は、何故、法主の開眼供養の有無をあんなにまで問題にしなければならないのか?と思いますし、ああいうのって現代的な視点考えてみたら、非常に非科学的な迷信の類と言うべきものではないのでしょうか。
日蓮正宗は、創価学会が会員へ授与している日寛上人の御本尊を否定する理由として、その事を持ち出しているようですが、私にはまるで説得力がないものとしか思えず、逆に創価学会側の日顕上人の御本尊を暗に否定していた発言と来れば、法主の素行等を取り上げてのそれであり、どちらの主張も、実際には何の根拠もない、自分たちに都合好く勝手な解釈をしているだけの単なる妄言ではないかと。
そう言えば、以前、どなたかがどこかのスレッドに、日蓮聖人がどこかの宗派・教団のお偉いさんか誰かと、御本尊の著作権を巡ってのお話をするといったジョークを書き込まれていましたよね。
鎌倉時代に日蓮聖人が心血を込められて顕わされた御本尊は、今現在、一部の?宗派・教団により、単なる商売道具として利用されているのが、現実なのではないでしょうか。

878日真名氏飛び出す:2003/11/14(金) 00:26
>877
>鎌倉時代に日蓮聖人が心血を込められて顕わされた御本尊は、今現在、一部の?宗派・教団により、単なる商売道具として利用されているのが、現実なのではないでしょうか。

本尊は、江戸時代から商売道具でしたよ。
ご開帳、というのが典型的ですが、由比正雪の書いた模写本尊は真筆そっくりで、それを売って軍資金を作っていたといいます。
石山にしても、ご供養金をもらえば賞与本尊を出していたし、古い法華講の家には何幅も本尊があります。
末寺よりも本山のほうが信心はなかったという気がします。
身池対論以降は、池上でも京都でも形木本尊は門前市の土産物になってしまったわけです。
身延おそるべし、ですねえ。
石山もそれにならったのかもしれませんし、もっと早くから賞与本尊の乱発をしていたかもしれません。

879犀角独歩:2003/11/14(金) 12:20

以下、批判とかではなく、感想です。

なかなか考えさせられる議論が続いていますね。
(1)御筆漫荼羅 (2)書写漫荼羅 (3)石山学会が頒布する漫荼羅本尊・寺院境内売店で売られる漫荼羅本尊 (4)インターネットからダウンロードした漫荼羅本尊という四つのタイプが掲示されたわけでしょうね、分類してみれば。

それで、ネットダウンロードは個人の信仰心に係るものであるけれど、下付・頒布・販売は商売であるからいかん。こんなことになるのでしょうか。

信仰を除いた一般論でいえば、ダウンロードは個人でできるので、費用はかからないけれど、その他の場合は人件費・材料費・流通費・販売利益などが見込むから無料頒布とはいかないとなります。

個人が信仰するうえで漫荼羅本尊が必要であれば、何らかの形で取得することになるのだろうと思います。いまはネットが発展しましたし、本尊集を載せる(それが著作権、その他を侵害しているかどうかはわかりませんが)サイトもあるので、簡便に自己作成はできるのでしょう。けれど、コンピュータの扱えない人たちが、漫荼羅本尊が欲しければ、信者になるか、あるいは境内売店で購入するしかないであろうと思います。この場合、人の手を介するわけですから、、なにがしかの代価がかかるのは致し方のないことではないのかと思えます。

わたしは当板で繰り返してきたとおり、漫荼羅本尊複製に反対の立場ですから、どっちもどっちとしか思えません。これがわたしの考えです。ただし、他の在り方を批判しようとする意図で示すものではありません。

ところで、ここの論客さん達との議論で、いちばんヘビーパンチと感じたのは三学無縁さんが「日蓮さんは漫荼羅を拝んでいたのか?」という投げかけでした。目から鱗が落ちるとはこのときのことで、以来、本日に至るまで、蓮師が漫荼羅を拝んでいたと確信できる証拠を発見できずにいます。

これまた批判ではありません。ドプチェクさんが

> 目の前に御本尊が存在していなくて、直に拝めない状態での勤行・唱題が、
> 非常にやり難かった

と、こう記されていますね。学会を含む石山系ではたしかにこのような言い回しになるのだろうと思います。

けれど、元来、勤行するために本尊があるのではなくて、そこに本尊があるから勤行をしていたわけですね。このわたしの言い回しにピンとこない人もいるかも知れません。もう少し正確に言えば、勤行は自分のためにするのではなくて、本尊のためにするものであるという意味です。こっちが元意であったでしょう。

自分のためにしてなにが悪いと言われればそれまでですが、そのような言い合いをしたいわけではなくて、わたしが興味があるのは、本来、本尊のためにする勤行が、いつから自分のための勤行になったのか。また本尊のないところで勤行をするようなことがいつ頃か起こりだしたのか、ここに変遷があるという歴史認識の必要性のほうです。

「漫荼羅本尊が商売の道具」というご意見がありますが、では、その創案者・蓮師自身はどうであったか。漫荼羅を図し、授与する場合、必ず供養返礼を受け取っていたことは想像に難くありません。しかし、それが否定されることかと言えば、そういう意味ではありません。紙・筆・墨が高価な時代、ただで書をもらおうと考えるほうが、むしろ非礼であったろうと思えるからです。

もう一点、御筆漫荼羅に限らず、真筆を700年に亘って損傷することなく、伝えることはこれは実にたいへんなことであると思います。この護持は、僧が兵士となって、寺が寺を襲う長らくの時代では命懸けのことであったと思います。わたしはこの点を軽々に評価する気にはなりません。700年の強奪、焼き討ちが日常であった時代、近代では二度の大戦も経ています。その間、命懸けで厳護してきた人々に深い敬意をはらいます。ですから、その真筆を拝するご開帳に相応の(布施・供養という名の)見料を払うぐらいのことは当然のようにも思えます。(まあ、贋作で金を取られれば詐欺であると言いたくなりますが。ここで板漫荼羅の真偽は重要な課題になるとも思いますが)

また、そのように伝えられた真筆と、複製が相貌として同じだから同等である如き論調には馴染めません。これはLibraさんと噛み合わない点でした。たぶん、創価教学信仰者とも噛み合わないでしょう。

以上、ドプチェクさんがダウンロードした漫荼羅画像を本尊として勤行に使われることは批判しようとする意図ではないことをご了解ください。

現代の常識で捌いてしまうのではなく、現在に至る歴史的な視点も加味すれば、さらに奥行きのある風景が広がって見えるのではないのかという感想を述べたのに過ぎません。

880Jルーカス:2003/11/14(金) 13:47
横レスですが、つい最近まで石山信徒は、本尊の無いところでの勤行は行いませんでした。
ですから所謂、遙拝勤行という化儀が在家信徒には無かったと思います。
創価学会以降は、旅先でも遙拝勤行をするのが信仰心ある行為だと云われるようになりました。
これは初座の遙拝からきてるんだと思いますが、顕正会の遙拝勤行もその亜流に過ぎないともいえます。

なお、御形木3年で常住御本尊、1年で御守御本尊は常識だったようです。
その昔、御形木本尊(又は末寺の判形無き本尊)を貰った時点では、仮信徒としか認められませんでした。

今でも口には出しませんが、実はその伝統は残っているようです。

881Jルーカス:2003/11/14(金) 13:53
いわゆる折伏を「本尊流布」と言い出したのも創価学会だと聞きます。
ですから創価学会では本尊が無くては信仰が成り立たないと聞きます。
またその影響で、創価学会脱会者の多い法華講では「御授戒」と「本尊下付」
がほぼ同時なところが、多いようです。
しかし古い伝統を守っている寺院では「内徳信仰」でしばらく様子を見てから
じゃ無くては、本尊下付を認めないようです。

882犀角独歩:2003/11/14(金) 16:52

880 Jルーカスさん:

> つい最近まで石山信徒…本尊の無いところでの勤行は行いませんでした

これはそのとおりですね。
わたしも学会から石山に移ったとき、「旅先などで勤行はどうしたらいいでしょうか」と本山役僧に尋ねたら、怪訝な顔をされた経験があります。それはつまり、漫荼羅本尊のないところで勤行をすることはしないからでした。

> 初座の遙拝

いわゆる天拝ですが、これは石山の際だった特徴ですね。
法味を読経で供養する考えでした。
天の上にある善神の社壇を拝む意味ですね。
学会を含む石山系の信徒はまるで意識していませんが、これは神を拝む習慣ですね。

> 顕正会の遙拝勤行

初座の亜流ですか。なるほど。
わたしは丑寅勤行の遙拝勤行の焼き直しかと思っていました。

学会では漫荼羅本尊のない場合は、東に向かったまま五座・三座をやってしまうので、これはたしかに天拝の延長と見えます。顕正会は石山の方角に向かうのではありませんでしたっけ? となれば、板漫荼羅遙拝の亜流となりませんか。
いずれにしても面白いことを思いついたものであると思います。

> 折伏を「本尊流布」と言い出したのも創価学会

これはそうでした。
戸田さんの考えでは「幸福製造機」ですから、一家に一世帯と、こうなっていましたね。形木の仮本尊を世帯(しょたい)と数えていたのを記憶してます。

883顕正居士:2003/11/14(金) 22:40
>>876 ドプチェクさん。

たとえば、プロテスタントにはたくさんの教派がありますが、これはキリスト教を信仰する
方々が集まって教会を設立し、教会が集まって教派を結成しているのです。どの教派で
なければ天国にいけないということはないのです。そういうことをいう人たちはいますが、
それは「カルト」といわれます。ではカトリックではプロテスタントの教会やギリシア正教の
信者は天国にいけないというかといえば、そんなことはいいません。イスラームでも仏教
でも正しい人は天国にいくといいます。こういうのを「カルト」でない、「宗派」といいます。

誤ってカルトに入っても1世信者はみずから信じたのだから、つらい思いは残りますが、
自分の責任と考えて立ち直ることが容易です。2世信者は信じていないのに三つ子の魂
に余計なことを刷り込まれます。刷り込みはおもに両親がおこなったのですから、ながく
親子の葛藤が続きます。親子が仲良くなければ、経済的な達成を非常にさまたげます。
しかし恨んでもしかたがありません。恨みは別のカルトへの入信の動機になり得、循環
いていくでしょう。「何者か是れ罪、何者か是れ福、我が心自ら空なれば罪福も主なし」。
文明開化の世には聖典を解釈した学者の本はあふれています。「学会や正宗関係以外
の様々な書籍」を読んでいくのが、何といって、もいちばんの妙薬であろうとおもいます。

884犀角独歩:2003/11/15(土) 13:45

最近はどうも自己レスが多くて恐縮です。

879に漫荼羅本尊の授与・下付・販売、あるいはご開帳に代価を支払うことは当然ではないだろうか、と感想を述べました。

けれど、このことと、教義・修業が金銭とつながって良いのかという点では、わたし個人はまったく別に考えています。

シャキャムニ在世の初期教団では金銀宝石による布施その他は厳しく禁じていましたし、一切の営利行為を禁じていたわけです。

けれど、シャキャムニ滅後100年後頃には、金銀で布施を受け取ることを容認する一派が生まれ、結果、その系統が今の大乗仏教になっていったように見えます。いわば、蓮師のその系譜に連なる故に供養を銭(あし)で受け取っていたわけです。以来、700年、この点はむしろ増強され現在に至っています。

教団の発展に、集金は欠かせない活動である反面、純粋な宗教信条から見るとき、では、どうであろうかという点は、よくよく熟考されるべき点であろうかと思います。

日を置いて、自分の書き込みを読み、不足を補わせていただきました。

885ガンコ:2003/11/15(土) 15:04

白米一俵御書を拝して

「命は法華経にたてまつる」が大聖人の御振る舞いあって、また、「されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もをしまず修行して」ということですから、これが仏になる為のあるべき修行のすがたなのだろうと思いますが、白米一俵御書に仰せのことは、とても凡夫には大聖人の御振る舞いをまねすることはできないけれども、まごころの御供養を申し上げるならば、それはそのまま命をたてまつるにひとしい功徳があるとの御意かと存じます。

結局のところ、これが今日、あらゆる教団の集金システムに利用されてしまっているのでしょう。

どこの教団が正統派であるかは別の問題として、現代の資本主義社会の中で、とりわけ税制の優遇を受けていて、はたして大聖人がおよろこびあそばすものかどうか、はなはだ疑わしいものですが、しからば今日において、事供養・理供養の仰せはどのように拝するべきなのか、教団に利用されない為には、大聖人にちょくせつ御供養申し上げるしかないわけですが、それは具体的に何をどうすればいいのか・・・なかなか難しいものがあります。

御法門を学んでいるだけでは、大聖人の御意にはかなわないような気がします。

結局のところ、大聖人の御意にかなう信心とは何かを学んでいる段階ということなのだろう、とあらためて確認した次第です。

886犀角独歩:2003/11/15(土) 16:00

ガンコさんがわたしの話に耳を傾けるかどうかはわかりませんが、蓮師の供養の精神は、「沙餅」に所詮されることでしょう。

「阿育大王…釈迦仏にすなのもちゐを(沙餅)をまいらせたりしゆへに、かゝる大王と生まれさせ給ふ」

というところにその精神を見るのだと思います。

この点は有師『化儀抄』にも現れています。

「一、人の志を仏聖人へ取り次ぎ申さん心中大切なり、一紙半銭も百貫千貫も多少ともに志の顕はし物なり、あらわす所の志は全く替るべからず、然る間同等に多少軽重の志を取り次ぎ申すべし、若し軽重の心中あらば必ず三途に堕在すべし云云」

887犀角独歩:2003/11/15(土) 16:03

なお、成仏の要諦は、菩薩道にあるというのが法華経に説かれる次第です。
組織・集団に金を出すことは成仏とは何の関係もないことだけは間違いのないことでしょう。

888ガンコ:2003/11/15(土) 16:25

>ガンコさんがわたしの話に耳を傾けるかどうかはわかりませんが

もちろん、傾けてますって。もう、傾きすぎて倒れそう。(だいたい884を受けている内容でしょうに)

889三学無縁:2003/11/15(土) 21:49
勤行といえば、石山の勤行にどのような意味があるのでしょうか。
勧請も奉上も開経偈もなく、いきなり方便品で始まり、終わりが観念文だなんて儀軌がありえるものでしょうか。
しかも、石山の法華経は日蓮さんが読んだ春日版法華経でもありませんよね。
読み方にしても現在の読みは「漢音」であって「呉音」ではありません。
これで日蓮さんから変わらぬ化儀だと言えるものでしょうか。

以上は、批判ではなく、疑問に思っていることで、皆様のご意見を伺えればと思います。

890ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/11/17(月) 02:37
日真名氏飛び出すさん 犀角独歩さん


日真名氏飛び出すさん

>>878

>本尊は、江戸時代から商売道具でしたよ。
>ご開帳、というのが典型的ですが、由比正雪の書いた模写本尊は
>真筆そっくりで、それを売って軍資金を作っていたといいます。

江戸時代の頃から御本尊を商売道具に、しかも、軍資金の調達の為にやっていた事があるとは、あまりも動機が不純ですね。
由比正雪は、日蓮系の信者だったんでしょうか?

>石山にしても、ご供養金をもらえば賞与本尊を出していたし、
>古い法華講の家には何幅も本尊があります。

僧侶の生活と寺院の運営の為であったとしても、御本尊を単なる商売道具として利用するのは、明らかに宗祖日蓮聖人の本意に反する行為だと思います。
創価学会は、ずいぶん前に機関紙で法華講員の家に何幅もの御本尊があった実例を取り上げて、日蓮正宗を批判していたように記憶していますが、しかし、そう言う自分たちにしろ、日顕上人の御本尊から日寛上人の御本尊への取替え運動をやったり、新入会者に対して通常の御本尊より若干金額が上である携帯御本尊を授与したりしているのですから、彼らがいかにもっともらしい理屈を口にしようとも、実際には金儲けの手段なのであり、法律に触れなくても、詐欺商法の手口のようなものではないかと。

>身池対論以降は、池上でも京都でも形木本尊は
>門前市の土産物になってしまったわけです。
>身延おそるべし、ですねえ。

原物を目にした事はないものの、これも何年か前、創価学会の機関紙で取り上げられていたのを憶えています。
それにしても、御本尊を土産物として売るなんて、いったいどういう神経をしているのかと思ってしまいます。
それでは、日蓮系の信者以外の人たちや信仰心のない人にとって、御本尊は信仰の対象ではなく、神社で売られているお守りや絵馬のような事実上の飾り物、あるいは、単なるアクセサリー程度の存在にまで御本尊の意義、値打ちを下げてしまっている事になりますよね。
日蓮聖人が、ご存命であれば、大いに憤怒されて嘆かれるのではないでしょうか。
ただ、そのような形で売られてはいても、御本尊を持っていない信仰者にとっては、非常にありがたいものという事になるのではないかと、そんな風にも思ってみるのですけどね。


犀角独歩さん

>>879

>ところで、ここの論客さん達との議論で、いちばんヘビーパンチと
>感じたのは三学無縁さんが「日蓮さんは漫荼羅を拝んでいたのか?」
>という投げかけでした。目から鱗が落ちるとはこのときのことで、
>以来、本日に至るまで、蓮師が漫荼羅を拝んでいたと確信できる証
>拠を発見できずにいます。

それは初耳で、まったく意外だったと言うのか、正直、これまで考えてみた事もありませんでした。
日蓮聖人は、伊豆流罪の時に地頭の伊東八郎左衛門の病悩を祈祷で治癒したお礼としていただいた、釈迦像を生涯に渡って保たれていたというお話ですので、もしかすると、釈迦像を拝まれていた事は考えられるのではないか?と思ってみます。
しかし、曼荼羅を拝まれていたのか?という事に関しては、どうなんでしょうか・・・?
だったら、聖人は、いったい何の為に曼荼羅御本尊を数多く顕わされたのか?と思ってしまうのですけど・・・

>けれど、元来、勤行するために本尊があるのではなくて、そこに本尊が
>あるから勤行をしていたわけですね。このわたしの言い回しにピンとこ
>ない人もいるかも知れません。もう少し正確に言えば、勤行は自分のた
>めにするのではなくて、本尊のためにするものであるという意味です。
>こっちが元意であったでしょう。

>自分のためにしてなにが悪いと言われればそれまでですが、そのような
>言い合いをしたいわけではなくて、わたしが興味があるのは、本来、本
>尊のためにする勤行が、いつから自分のための勤行になったのか。また
>本尊のないところで勤行をするようなことがいつ頃か起こりだしたのか、
>ここに変遷があるという歴史認識の必要性のほうです。

勤行は本尊の為にするものですか・・・
正直、私には、どうもピンと来ません。
その昔、宗創戦争が起る以前のマインドコントロールされていた頃の私であれば、紙幅に顕された“御本尊それ自体”(印刷された複製のものも含めて)に、何かスーパーパワーか魔力のようなものでも具わっているかのような捉え方をしていた為、そういった考えを持っていたのですが、しかし、今では、そのような捉え方をしていないのです(決して、御本尊を粗末に扱うという意味ではなく)。
もしかすると、私の場合、例の松戸行雄氏の著書を読んだ影響もあるのではないか?と思ってみるのですが。

891ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/11/17(月) 02:39
犀角独歩さん 顕正居士さん


犀角独歩さん、続きです。

日蓮聖人ご在世当時、本尊や勤行に関しては、いったい、どのような捉え方をされていたのでしょうか?
また、当時の信徒の基本的な信仰形態、なかんずく、御本尊を授けられていなかった人や、聖人が御本尊を顕される以前のそれは、いかなるものであったのか?と。
もしかすると、本尊を拝む事を中心とした信仰ではなく、お題目を唱える事が主体になっていたのでしょうか?

>「漫荼羅本尊が商売の道具」というご意見がありますが、では、その
>創案者・蓮師自身はどうであったか。漫荼羅を図し、授与する場合、
>必ず供養返礼を受け取っていたことは想像に難くありません。しかし、
>それが否定されることかと言えば、そういう意味ではありません。紙
>・筆・墨が高価な時代、ただで書をもらおうと考えるほうが、むしろ
>非礼であったろうと思えるからです。

そういうのであるのなら構わない、と言うよりも、むしろ、御本尊を書写して下さった(たとえ、それが印刷によるものであったとしても)僧侶に対して、信徒が供養をするのは当然の事だと思います。
それに、僧侶の生活と寺院の運営には、信徒による供養は必要ですから(この事は、宗教団体においても)。
ただ、どこの宗派・教団であろうとも、何かに託けて信徒・会員に必要以上の供養をさせたり、様々なものを購入させたり、あるいは、奉仕という名目でやたらとタダ働きをさせたりする事により、上の人間たちが贅沢三昧な生活をするようなあり方は、明らかに宗教者としての、否、人間としてのモラルに反する間違った行為だと思うのです。


顕正居士さん

>>883

>どの教派でなければ天国にいけないということはないのです。
>そういうことをいう人たちはいますが、それは「カルト」と
>いわれます。ではカトリックではプロテスタントの教会やギ
>リシア正教の信者は天国にいけないというかといえば、そん
>なことはいいません。イスラームでも仏教でも正しい人は天
>国にいくといいます。こういうのを「カルト」でない、「宗
>派」といいます。

ならば、日蓮正宗・創価学会・顕正会は、モロにカルト宗教という事になるわけですね。
以前、フランスの議会で創価学会(SGI)が、カルト宗教として認定されたとかいったような情報に接しましたし、アメリカでも、また、ベルギーかどこかでも同様の事があったとか。
それらの日蓮系カルトのルーツを遡って行くと、どうしても宗祖・日蓮聖人へまで辿り着く事になると思いますし、現代的な視点で以って考えれば、鎌倉時代当時の日蓮教団は、多分、カルト宗教として映ってしまうのではないか?と。
しかし、現代とあの頃とでは時代背景がまったく異なっていますし、あの当時、聖人があそこまで過激で排他的になられたのには、何らかの理由があったのではないか?と思っているのですけど。

それと、お話が外れてしまいますが・・・
法華経信仰者であった宮沢賢治は、若い頃、所属していた国柱会の影響を強く受けたせいなのか、かなり排他的な日蓮思想の持ち主だったようですけど、しかし、晩年においては、むしろ他の宗教と共存して行く方向を目指したり、総合宗教的なものを夢見ていたりしていたと、何かの書籍で読んだ事があります。
それでも、賢治の晩年の作品である「銀河鉄道の夜」の中には、「ほんとうの神様は、たった一人」という台詞が出て来て、また、主人公が所持していた切符に記されていた謎の文字は、「南無妙法蓮華経」を意味していたのだそうですから、やはり、その根底においては、法華経が最も優れた教えだと思っていたのではないか?と。

>文明開化の世には聖典を解釈した学者の本はあふれています。
>「学会や正宗関係以外の様々な書籍」を読んでいくのが、何
>といって、もいちばんの妙薬であろうとおもいます。

最近は、学会と正宗の関係のものに接する事などほとんどない私なのですが、もっと様々な書籍を読んで行かなくてはなりません。
難しくって、なかなかアタマの中に入りませんが、自分なりに少しずつでも読んで行こうと思います。


こちらで、皆さんの色々なご意見に接し、何だか、ますますわからなくなって来ました。
すでに、創価学会に対して相当に批判的な考えで、もはや、辞めているのに等しい状態の私なのですが、しかし、長年あそこに身を置いて来た為、もしかすると自分では無意識のうちに、信仰の捉え方・考え方が創価学会的になっているところがあるのかもしれない?と、そんな風に思ってみます。
長い割には、自分でも何を言いたいのかがわからないような書き込みになってしまいまして、すいませんでした。

892犀角独歩:2003/11/17(月) 12:25

ドプチェクさん:

> 御本尊を単なる商売道具…宗祖日蓮聖人の本意に反する行為

もっともなことです。
ここで重要な点は、一つの集団のなかでもっともらしい理由をつけて「本意に反する行為」がどのように正当化されているのかを見抜く眼力を養うことであると思うわけです。
組織、指導者のやることは絶対で間違いがないとその判断能力を他者に委譲してしまい本質が見えなくなることを第三者心理操作、すなわち破壊的カルトマインド・コントロールにおける“思考停止”というわけでした。

> 創価学会…法華講員の家に何幅もの御本尊があった

家に漫荼羅が複数あることをあたかも謗法の如く扱う学会の論調は理解に苦しみます。
例えば、学会本部内にはいったい何体の漫荼羅本尊が安置されているわけでしょうか。
「一家一世帯の御本尊」は創価学会独自教義に過ぎません。
何の根拠もない言いがかり以上の何ものでもありません。
むしろ、何百年も石山とその末寺檀家であった人々にとって、複数の漫荼羅本尊を所有することは誉れでこそあれ、非難される謂われなどまったくないことでしょう。

> …法律に触れなくても、詐欺商法の手口

わたしも同感です。
たしかに商業法規その他の一般法には抵触しませんが、仏法からみた詐欺詐称行為であるとわたしにも思えます。

> 御本尊を土産物として売る

これは信仰観の相違ではないでしょうか。
たとえば、国によっては国王の写真を撮ることを厳重に禁止している国があります。
しかし日本人からすれば、何がいけないのかピンときません。
そもそも漫荼羅本尊観が相違しているのでしょう。
わたしは複製反対の立場ですから学会を含む石山系グループが複製漫荼羅を濫造することにしても蓮師の素意を冒涜していると思います。
しかし、ここの信者でわたしの憤慨を理解できる人は少ないでしょう。
土産物、ラミネート、携帯、みな同じ不敬と映じます。
なお、余談ですが、わたしが身延の境内売店で見た印刷漫荼羅は文字は蓮師の筆のようでしたが、本尊集などで掲載されていないものでした。たぶん、蓮師の筆跡を真似た臨写を複製縮小、表装したものであると判断できました。

> 御本尊は信仰の対象ではなく、神社で売られている
> お守りや絵馬のような事実上の飾り物、あるいは、
> 単なるアクセサリー程度の存在にまで御本尊の意義、
> 値打ちを下げてしまっている事になりますよね。

恐縮ながら、わたしはこの見解には反対です。
ドプチェクさんからすれば、社務所で売られるお守り、絵馬は飾り物、アクセサリーと映じるのでしょうが、そこに願をかける人々にとっては信仰の対象であるからです。
これらの人々にとってお守り、絵馬は富士門信徒の漫荼羅を仰ぐ信仰心と何ら変わらない恭敬をそれらの品々に懐いていると想像できます。

> 日蓮聖人が、ご存命であれば、大いに憤怒

この点については、わたしは賛同します。
ただ、ドプチェクさんとわたしの違いは複製の是非という点で分かれるのでしょう。

> 御本尊を持っていない信仰者にとっては、
> 非常にありがたいものという事になるのではないか

この文脈はお守り・絵馬に掛かるのでしょう。
このような客観的な視点は実に重要ですね。
ですから、わたしも「(複製漫荼羅)御本尊を持って“いる”信仰者にとっては、非常にありがたいものという事になる」ことは理解できます。

893犀角独歩:2003/11/17(月) 12:26

―892からつづく―

>> 「日蓮さんは漫荼羅を拝んでいたのか?」
> それは初耳で、まったく意外だったと言うのか、
> 正直、これまで考えてみた事もありませんでした。

ほとんどの学会を含む石山系グループの教学圏にある人はそうでしょう。
それだからこそ、わたしも三学無縁さんの慧眼に驚いたわけです。

> 伊豆流罪…伊東八郎左衛門の病悩を祈祷で治癒したお礼…

この伝説が事実であるかどうかはわかっていませんね。
一節に拠れば、蓮師は伊東流罪の折、海の浮木を得て、自ら仏像を刻みそれを随身一体仏としたとも言います。わたしはこの説に心を傾ける一人です。そして、ここで重要なこと、蓮師は漫荼羅図示のみならず、この説が正しければ、仏像をも彫像していたと言うことになります。

> 釈迦像を生涯に渡って保たれていた

これは真跡からも確認できる事実ですね。

> もしかすると、釈迦像を拝まれていた事は考えられるのではないか?

「もしかすると」ではなく、蓮師が拝まれていたのは紛れもなく、随身一体仏です。
それ以外には考えられません。
もし、その他に拝まれていたものがあるとすれば、その仏像御前に置かれた妙法蓮華経八軸二十八品をも拝まれていたでしょう。すなわち「南無妙法蓮華経」ということです。

> 曼荼羅を拝まれていたのか?という事に関しては、
> どうなんでしょうか・・・?

さて、どうでしょうか。
この明証を得たいと切望するばかりです。

> 何の為に曼荼羅御本尊を数多く顕わされたのか?

この点、真跡からわかるのは「御守」本尊として授与が筆頭に挙げられますね。
ついで、妙法五字本尊を漫荼羅形式をもって図して示した。
この二点は疑問の余地はありません。
あと、ちょっと、いま手元に資糧がありませんが、桐谷師などは、弟子に講説するにあたって、説明のために漫荼羅を使った形跡が見られると記していました。
しかし、拝んでいたかどうか、その資糧を今のところ、わたしは確認できないでおります。

学会を含む石山系グループの本尊観の濫觴はもちろん、興師にその遡型を見るわけですが、わたしは最近、この興師の漫荼羅観こそ、実は蓮師から飛躍した独自解釈であったのではないのかと疑いだしています。

先にドプチェクさんが、愛猫の遺骸に上行始顕本尊(万年救護)の複製を覆って埋葬された体験を記されていました。その際、批判される可能性を紙背に記されていましたね。
これはつまり、重須文献の

「一、上の如く一同に此の本尊を忽緒し奉るの間・或は曼陀羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り、或は又沽却する族も有り、此くの如く軽賤する間・多分は以て失せ畢んぬ」

という思想背景に基づく批判に構えられたと言うことですね。愛猫ですが、そのお気持ちは「覆うて葬る」に当たることになります。これを富士では非法としてきたので、批判される可能性をドプチェクさんは感じられたわけでしょう。

わたしは、この文献を通じて、重須の在り方とともに、日蓮門下一般の漫荼羅に対する意識も垣間見られると思うわけです。つまり、「曼陀羅」と呼んでいたこと、死人に覆う葬儀の法具としていたことの二点です。三点めの「沽却」、すなわち売り払うは論外なのでここでは割愛します。

蓮師の曼陀羅には、そもそも自筆で「漫荼羅」と記されているのに、この重須文献では「曼陀羅」と呼ぶことを非難し、「本尊」とすべきとしているわけです。この見解は現在の富士門一般は宗是とするわけですが、しかし、よくよく考えてみると、このこと自体、実は興師独自の見解であったのではないのかと疑えます。しかし、従来、蓮師以降の考えはそうではなかった。蓮師自身も「漫荼羅」と書され、門下も漫荼羅として扱ってきた。あるいは御守りとして扱ってきたということです。それ故、故人の成仏を願って、死出葬送に遺骸とともに埋葬することも行われていた。

894犀角独歩:2003/11/17(月) 12:27

―893からつづく―

これが重須の“独自教学”以前に垣間見られる門下の蓮師の漫荼羅観であったと思える節はあります。つまり、漫荼羅は曼陀羅であって、本尊として扱われていなかったのではないのかということです。

> 勤行は本尊の為にするものですか・・・
> 正直、私には、どうもピンと来ません。

やはり、そうでしょうね。
わたしが学会から石山に移って、いちばんビックリしたのはこの点でした。
また、なにより、学会時代は勤行の際の「御観念」をまるで意味もわからず、“おまじない”のように唱えていたことに気付いたわけです。
いまの学会教本がどうなっているのか知りませんが、石山の経本では観念の次第は、神への法味供養、本尊(漫荼羅)供養、三師(蓮興目)並びに歴代への法要供養、広宣流布祈念、謗法罪障消滅、諸霊回向の次第です。この中で自分のためにしているのは、実は「謗法罪障消滅」一つだけです。
こう記すと「いや、自分の祈念もしている」という人はいるかも知れません。しかし、改めて、経本を見直していただければわかりますが、石山で言う祈念とは「広宣流布大願成就」一点であって、そのために各人の謗法罪障消滅が条件となっているという構造になっており、個人の欲求を祈念する余地は、勤行次第のなかには実は含まれいません。ですから、所願成就は、別途、寺院に願い出ることになります。これはつまり祈祷師、自分本人ではなく、蓮師以来、師弟子の道を継ぐ出家にあらざれば適わないという伏線もあります。

横道に逸れました。ともかく、以上の勤行次第は元来、諸堂バラバラで営まれていたものを中世に一点集中化して手抜きに仕上げた結果でした。

元来は、天拝は露地に土壇を設け野外で行い、三師供養と言えば、それぞれの御影像に行い、ついで漫荼羅本尊に向かい、それぞれ勤め行われていたのでしょう。

このような勤行次第は神仏供養、漫荼羅本尊供養、祖師供養を意味したものであって、各人の願望成就を祈念する「祈祷」とは明らかに分別されたものであったのが祖型でしょう。

勤行が、自分たちの願望成就の手段であるというのは、実は創価学会によって刷り込まれた常識であったことに、信心35年にして初めて気付かされたわけです。
ですから、ドプチェクさんがこの点にピンとこないのも致し方のないことであると思うわけです。

> …松戸行雄氏の著書を読んだ影響

この点はわたしはちょっと意味を取りかねます。

> 日蓮聖人ご在世当時、本尊や勤行に関しては、
> いったい、どのような捉え方をされていたのでしょうか?

本尊は、蓮師所持の釈迦一体仏像を久遠本門釈尊。そして、法華経(妙法蓮華経)。
勤行は、原則的には比叡山の法式に則りながら、蓮師は独自に方便・寿量の両品のみの読経説を立てていたのではないでしょうか。(いやしかし、わたしは浅学ですから、方便寿量読誦を蓮祖義と即断してしまいますが、そのアイディアは蓮師はなにがしから採ったものであるかも知れませんが)

895犀角独歩:2003/11/17(月) 12:27


> 当時の信徒の基本的な信仰形態
> 御本尊を授けられていなかった人
> 聖人が御本尊を顕される以前
> 本尊を拝む事を中心とした信仰ではなく、
> お題目を唱える事が主体になっていたのでしょうか?

この疑義の立て方のなかにも、不躾ながら、ドプチェクさんのなかに胚胎す学会を含む石山系グループによって刷り込まれた“常識”が胚胎していると感じるわけです。もちろん、けっしてドプチェクさんが軽んじ、批判しているわけではありません。同一信仰に属する人々すべてに相通じる問題点です。

学会布教以降、信者といえば本尊(漫荼羅)安置が当然という刷り込みです。
わたしはこれはまったく論外であると思っています。
これまた三学無縁さんと主に語り合ったことですが、漫荼羅は勧請の法具として取り扱われていたのではないのかとわたしは想像しています。
つまり、道場で修業するとき、諸尊勧請を漫荼羅奉掲をもって行うということです。
当時のお弟子の多くは天台宗寺院に寄宿していたわけです。ですから、自らが修業するときには漫荼羅奉掲・勧請をもって道場を荘厳(しょうごん)したのであろうと思うわけです。言い換えれば、漫荼羅奉掲の場所は林中であれ、園中であれ、道場として荘厳されるということです。
しかし、このような用途は、蓮師門下でも特に出家、あるいは入道・尼という僧門に係る弟子のみの用途であったのではないでしょうか。
日蓮信者であれば=本尊安置などというのは現代の常識に過ぎません。
仰るとおり、「但行唱題」こそ、中心であったのではないでしょうか。

ここで石山の“常識”を一つ開陳します。唱題も石山では漫荼羅本尊の前以外で行わないのが宗是です。これしかし、わたしは蓮師の祖意とまったく違っていると思うわけです。

> どこの宗派・教団であろうとも…
> 人間としてのモラルに反する間違った行為だと思うのです。

この点に関してはもちろんのこと、まったく同感です。

896福田里敏:2003/11/17(月) 14:08
犀角独歩さん
>漫荼羅は曼陀羅であって、本尊として扱われていなかったのではないのかということです。
石山系での、刷り込みのせいでしょうか?これは、納得できません。本尊抄は、どの様に捉えられていますか?ご教示下さい。
その他は、学会を抜けて、本門法華堂に移ってから理解できるようになりました。

897犀角独歩:2003/11/17(月) 15:19

福田さん:

はじめまして。
仰せの『本尊鈔』の捉え方とは、どの部分のことでしょうか。
一鈔の元意は本尊とは、観心の本門本尊久遠五百塵点成道の釈尊であると存じます。

しかし、福田さんが仰りたいのは以下の文のことでしょうか。

「其本尊為体 本師娑婆上宝塔居空 塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏 釈尊脇士上行等四菩薩 文殊弥勒等四菩薩眷属居末座」

ここにおける既述が図示漫荼羅の相貌を表しているので、漫荼羅は本尊であるという富士門一般の解釈からの疑問でしょうか。
この点については、一年前『現在の日蓮正宗の教義について』で議論したところです。
一読をいただければ、と思います。
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/kyogi.htm


やや、略して申し上げれば、ここでいう本尊とは釈尊を指してのことであるとわたしは思います。漫荼羅の相貌を指していないというのがわたしが主張したことです。
その理由は至って簡単です。上述の句節の結論は「未有寿量佛 来入末法始此“仏像”可令出現歟」となっているからです。

第一、『本尊鈔』のこの一節が漫荼羅本尊の相貌であるというのであれば、何故、不動・愛染の梵字による記述、ならびに四大天王など、その他、蓮師漫荼羅を特徴づける特異点に何ら既述されるところがないのでしょうか。

以上が昨年、勘案したところでした。
しかし、このころ、わたしは「法華経の題目を以て本尊とすべし」と記される興師古写本しかない『本尊問答鈔』に疑義を懐いていました。けれど、いまは題目本尊という趣旨にやや傾いているところはあります。その意味から『本尊鈔』を再読するに「其本尊為体」の直前の文章、

「此本門肝心於南無妙法蓮華経五字佛文殊薬王等不付属之 何況其已下乎 但召地涌千界説八品付属之」とあることから、『本尊鈔』上述箇所に言う本尊とは既に妙法五字を指しているとも読めると再考しているところはあります。

しかし、この場合でも本尊は妙法五字なので、漫荼羅全体を指して本尊という如きは了承できるところではありません。

なお、寛師が、仏像に対する勝手な解釈をわたしは採りません。
板漫荼羅宣揚、蓮師の既述の元意枉げる勝手解釈と思うからです。

疑義の点と的外れでしたら、今一度、お尋ねください。

898福田里敏:2003/11/17(月) 15:44
犀角独歩さん
ありがとうございます。指摘された箇所です。
>不動・愛染の梵字による記述、ならびに四大天王など、その他、蓮師漫荼羅を特徴づける特異点に何ら既述されるところがないのでしょうか。
確かに、そうですね。一部の本尊以外は、不動・愛染がありますから、確かに、言及されていないのは、おかしいですね。

後、一点、関師の論文等は、読まれたことがありますでしょうか?ありましたら、御感想を、お聞かせいただければ、ありがたいです。本門法華堂に対する、ご意見でもかまいません。何せ、話題にならない団体ですから・・・

899犀角独歩:2003/11/17(月) 16:20

福田里敏さん:

> 関師…本門法華堂

もの知らず、嗤われかねませんが、よく存じ上げません。
いま、ネットで検索したところ、

「法華堂は、日蓮聖人の正意が仏本尊(釈迦本仏・日蓮本仏)ではなく、曼荼羅に表される法本尊であると主張しています」

との説明にしか当たれませんでした。
この説明が当を得ているかどうかわかりませんが、法本尊のみでは“仏・法”とならないと思えますが、この点はどのように関師はお考えなのでしょうか。

仏像嫌いの石山系では、どうも釈尊をも嫌う傾向にありますが、生涯随身された仏像を死後も傍らに置かれることを望むほど、蓮師は釈尊への恭敬の念が強かったと拝します。

その仏を離れて、法のみを正意をなすというのは、わたしには感覚的にわからないところがあります。いわば、御書を正意とするが、日蓮は要らないと言うことと何ら違いを感じないわけです。

もっとも、これはネット数文字の文章から推し量った勝手な感想です。
外れていましたらご容赦ください。

関師、また、本門法華堂につき、少しレクチャーを賜れますでしょうか。
また、何か推薦のものがあれば、拝読させていただきたく存じます。

900犀角独歩:2003/11/17(月) 16:38

重ねて福田里敏さん:

いま、ネットで「関慈謙」師で検索したところ、早坂鳳城師の文章で引っかかってきました。

「正信会から離脱した法華堂がございます。関慈謙師がいる百名前後の集まりです。西宮市の鹿砦社編集発売を依託しています。『日蓮正宗の総合的研究』の中では、日蓮本仏論の批判論文も掲載しています」

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho34/s34_140.htm

わたしの手元に復刻の『板本尊偽作論』があります。
「日蓮正宗と創価学会の実態/安永弁哲【著】元立正大学教授/【発行】正理研究会/【発売】株式会社鹿砦社」となっています。

正理研究会、鹿砦社、この関係から、石山教学への真面目な論考の線はまるで見えてきません。関慈謙師と鹿砦社の関わりは如何ばかりのものでしょうか。

901顕正居士:2003/11/17(月) 17:49
>>891 ドプチェクさん。

キリスト者とは「使徒信経」を告白する者であり、この中に
「Credo in Spiritum Sanctum, Sanctam Ecclesiam Catholicam,
我は信ず、聖霊と聖なる公同の教会を」とある。
http://www.ne.jp/asahi/hosanna/angel/inori/oratio/credo.htm
公同の教会 Ecclesiam Catholicam は見える教会の一つである西方カトリック教会のことで
はなく、唯一の聖なる普遍の unam sanctam catholicam 「見えない教会」を指す。
したがって公同の教会を信じないグループはキリスト者ではなく「異端」であり、今日的には
「カルト」と呼ばれる。フランスの反カルト法は、建前上は「使徒信経」を告白するが、実質が
異なっているグループ(福音派、聖霊派)を大量に監察対象にしました。

同じように、仏教者とは「三帰依文」をとなえる者であり、この中に
「Sangham saranan gacchami 我はサンガに帰依したてまつる」とある。
http://village.infoweb.ne.jp/~zaike/e/e.html#top
サンガは「師僧」(グル)の意味ではなく、また何山とかのことではなく、「公同の仏教会」を
指す。したがってサンガを信じないグループは仏教者ではなく「附仏法の外道」であり、今日
的には「カルト」と呼ばれる。
日蓮は三大秘法の中に「戒壇」をいい、「公同の仏教会」の意識はあった。その一員としての
発言であったから、正式に罰せられることがなかったともいえよう。ただし個人にあてた手紙
は別である。私信の公開は霊山の日蓮にとって迷惑な事柄であるかも知れない。
宮沢賢治は国柱会の「文芸布教」を実行しようとした。奔放な発想と信仰が両立しえたのは
国柱会は国柱会を宣布する団体でなく、「日蓮主義」を宣布する団体だったからでしょう。
「見えない神」は唯一であり、「見えない教会」もまた唯一といい得るからです。

902みかん:2003/11/17(月) 19:07
>>900 独歩さん
鹿砦社はもともと新左翼系の出版社で(エスエル出版会)、
いまは金になることなら何でもするようで、
ジャニーズのおっかけ本とかで有名なのはご存じの通りです。

で、出版コードのない出版元の本を代行して取次に取り次ぐ
こともやっているので、法華堂も単にコードを借りただけだと思いますが。
出版コードや取次の口座がないと、書籍は流通ルートに流せませんからね。
多くの出版社がやっていることです>出版コードの貸し借り。

で、法華堂は、
http://web.archive.org/web/20010723233024/http://www.hokkedo.org/
昔HPがありましたので、ご参考までに。
関氏の本は一冊だけ読んだことがありますが、まぁまじめな方なのだろう
という感想でした。あと、倉光遵道氏には一度、同じ会合で同席したこと
があると思います。倉光氏は覚えていないと思いますが。

903犀角独歩:2003/11/17(月) 19:55

902 みかんさん:

鹿砦社、この出版社、立ち上がりの頃、何かすごく悪い印象があるんですよ。何でしたか、思い出せませんが。

出版コードの件、この業界の遣り取りはよおくわかっているところです。が、しかし、なんでまた、この出版社なのか?という疑問です。
もっとも、先ほど、本棚をひっくり返してみたら、『現今の創価学会問題と『本尊模刻事件』について』という小冊子の発売元が、ここ鹿砦社でした。奥付を見ると「平成3年3月発行/静岡県伊東市富戸908/宝地寺/猪又法智」となっていました。反面、先に記したとおり、『板本尊偽作論』の復刊、なんとも出版姿勢に仰るように、節度も何もありませんね。

> 法華堂…昔のHP

見てみました。
『法華堂綱領』
 http://web.archive.org/web/20010723233024/http://www.hokkedo.org/

参考になりました。
有り難うございます。

904犀角独歩:2003/11/17(月) 20:47

ついで、福田さん:

みかんさんがHPを紹介してくださったので、一瞥させていただきました。福田さんには悪いですが、わたしにはこれが仏法とは見えません。
ただ、こう書いただけでは単なる悪口なるので、少しだけ。

> 宗祖日蓮聖人の創唱された南無妙法蓮華経の信仰

南無妙法蓮華経の信仰はないと思います。あるのは妙法蓮華経への南無する信仰ではないでしょうか。また、これは蓮師の創唱であれば、三国四師ではなくなり、蓮師の自称と食い違うことになります。

> 無仏の時代…末法…「法」を本尊

法本尊なる教学は、そもそも蓮師とは無縁であって、人本尊・法本尊というのが滅後後世の教学であるとわたしは思います。また、『本尊問答鈔』で見る限り、蓮師の本尊観は法本尊ではなく題目本尊です。題目が法であるというのは短絡以外の何ものでもありません。妙法は法でしょうが、妙法蓮華経は経です。ですから、題目本尊とは経本尊でこそあれ、法本尊ではないはずです。
なお『本尊鈔』でみれば、もちろん、久遠釈尊本尊です。
また、末法無仏は他の教学圏でも散見しますが、そもそもこれは、例えば『本尊鈔』の「不生不滅」その根拠となる寿量品の「常住此説法」に違反します。

…宗祖の弘通も、ただ「法」の流布になる。

これまた、法本尊という脈絡からの結論で、蓮師の真意とは思えません。

> 南無妙法蓮華経の信仰においては「法」と「仏」は根本的に相容れない

佛と法が相容れなければ、仏法にはならないでしょう。わたしには言わんとすることがまるで理解できません。

> 本仏思想、及び、本仏思想的要素のあるものは、すべてこれを排除…

こうなると、法華を本門・迹門と立てる天台義を廃することになり、『本尊鈔』の「寿量佛」が成り立たなくなります。蓮師には寿量佛という本迹の捌きから見る本門佛思想家であったはずです。

> 「仏」を捨てて「法」を取る

こうなると、仏教ならぬ、法教とも言うべきものであって、仏法の体裁をなしていません。

905犀角独歩:2003/11/17(月) 20:49

―905からつづく―

> 末法の成道は、衆生が「法」を「信」の一字をもって受持したその中にある

末法の成道とか、いついつの成道とか、そんな区別があるのではなく、蓮師は三時においては修業の法軌の相違を述べるに過ぎないはずです。行学不要・信偏重は、寛師が「観心の本尊」を「信心の本尊」と言い換えたデマゴギーを彷彿とします。
やや横道ですが、信のみを強調する宗教にろくなものはありません。

「法」…諸法実相の理…具体的には十界互具

諸法実相は理に違いありませんが、久遠本仏によって証明しようとする十界互具が教学的見地に立てば「事」です。故に上記解釈には異論があります。また十界互具が理であるならば、ここでは法を理法のみで終え、事法の側面が落ちています。事理両面の説明がなければ、単なる理の法教となるでしょう。

> …仏と衆生は本質的に平等であり、自己以外に仏は存在しない

生仏一如の焼き直しでしょうが、自己以外の仏を認めないとなると、他者の仏界を認めないことになります。これでは諸法実相も、十界互具もあったものではなく、衆生無差別ならぬ、自己以外の他者を認めないと誤認されても致し方のないことになります。

> 世間法の究極こそが仏法

これは「一切世間治生産業皆与実相不相違背」(法華玄義)、あるいは「法華経はしからずやがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」(白米一俵御書)などから言われるところであろうと思えます。しかし、これら釈・書が言おうとするのは世間法の究極が仏法であるというのではなく、「不相違背」あるいは「世間法の全体が仏法」ですから、「究極」とは意味するところが違います。また、法のみで仏が要らないのに、ここで何故、「仏法」というのか理解に苦しみます。

> 「戒壇本尊」…衆生一人一人の成道
> 「法」が断絶しないことが真実の血脈義である。
> 勤行は理行

先二つは自己本尊=法ということから来る結論でしょうが、根拠を示すべきでしょう。勤行は理行とする考えはわかりますが、ここでは肝心の自行が欠落しています。

以上、わたしはまったく納得できない解釈の羅列です。
わたしには、なぜ、このような解釈をする必要があるのか、まったく理解できません。単に石山の板漫荼羅、血脈論のアンチテーゼから、限りなく創価教学に類似してしまった己義偏向としか映じません。

もちろん、それを信じる福田さんの人格を否定するものではありません。あくまで、感想です。また、詳しく調べて記したわけではありませんので、このわたしの感想への、異論反論、ご意見は、もちろん歓迎です。
稔りある議論をいたしたいと思います。

906犀角独歩:2003/11/17(月) 20:54

【905の訂正】

誤)ここでは肝心の自行が欠落
正)ここでは肝心の事行が欠落

907ガンコ:2003/11/17(月) 21:18
うるおぼえで恐縮ですが、日蓮正宗系のサイトだったかで、どこそこの寺は法勝人劣を唱える異流儀とか、書いてあったように記憶しています。もしかしたら、福田さんのところのことを言っているのかもしれません。
ちなみに、わたくしは基本的に法勝人劣を支持します。

908福田里敏:2003/11/17(月) 22:09
ガンコさん
確かに、法華堂であると思いますよ。法勝人劣です。

909福田里敏:2003/11/17(月) 22:39
犀角独歩さん
僕が、書くと、法華堂の宣伝にならないでしょうか?もし、よろしければ、関師の著作等を、お送りいたしますが・・・
>南無妙法蓮華経の信仰はないと思います。あるのは妙法蓮華経への南無する信仰ではないでしょうか。また、これは蓮師の創唱であれば、三国四師ではなくなり、蓮師の自称と食い違うことになります。
要綱は、かなり以前のものです。関師は、妙法蓮華経に南無するとの主旨で、話されておりました。
>法本尊なる教学は、そもそも蓮師とは無縁であって、人本尊・法本尊というのが滅後後世の教学であるとわたしは思います。また、『本尊問答鈔』で見る限り、蓮師の本尊観は法本尊ではなく題目本尊です。題目が法であるというのは短絡以外の何ものでもありません。妙法は法でしょうが、妙法蓮華経は経です。ですから、題目本尊とは経本尊でこそあれ、法本尊ではないはずです。
申し訳ないです。僕には、経と法が、同じに感じられます。次回、関師に、会った時に、聞いてみます。
>末法無仏は他の教学圏でも散見しますが、そもそもこれは、例えば『本尊鈔』の「不生不滅」その根拠となる寿量品の「常住此説法」に違反します。
末法には、絶対的な仏はいるわけではなく、我々、一切衆生が、みんな仏なんだよ!的な事を、常に話されてますので、まるっきり仏がいないとは、おっしゃていません。あえて、本仏思想の批判の為に、末法無仏と話されたのだと、解釈しています。
>佛と法が相容れなければ、仏法にはならないでしょう。
これは、仏信仰=他力の信仰・法信仰=自立の信仰、その点を強調されて、相容れないとの、表現になったものと思います。
>法華を本門・迹門と立てる天台義を廃することになり、『本尊鈔』の「寿量佛」が成り立たなくなります。
この点は、勉強してみます。
>信のみを強調する宗教にろくなものはありません。
蓮師は、妙法蓮華経に南無しなさい。と、説かれていますので、思想に誤りがなければ、信じきるのが、大切ではないでしょうか?ただ、僕も、御書を、全文読んでいる訳ではないので、御書に照らし合わせながら、何が、正しいのか?自問自答していきます。
>単に石山の板漫荼羅、血脈論のアンチテーゼから、限りなく創価教学に類似してしまった己義偏向としか映じません。
松戸氏に、近いものは、あります。

910空き缶:2003/11/17(月) 23:30
横レス失礼します。

「未完成の完成」(日蓮正宗法華堂:自立)には共感できます。私の日蓮本仏論からの脱皮を、後押ししてもらえそうです。

私も現状一般書店で購入可能な5冊を、手元において研鑚中です。

関師は興風談所の初代所長なんですね。

911犀角独歩:2003/11/18(火) 00:05

909 福田里敏さん:

わたしの勝手な感想に真摯にお応えくださいまして、有り難うございます。
空き缶さんも薦められている書籍、探して読んでみることにします。

なお、以下の点、関師のご見解をお聞きいただけることがあったら、是非、ご投稿、報告いただければ参考になります。

> 経と法が、同じ

このような認識に立つ日蓮僧俗は大部を占めるでしょう。
この点、関師がどのような見解の持ち主であるか興味が惹かれます。

> 末法には、絶対的な仏はいるわけではなく我々、一切衆生が、みんな仏

これは法華経の経説とは明らかに矛盾しています。
法華経全編に一貫しているのは「見仏」ということであって、衆生が皆仏であるなどということではありません。法華経に説かれていることと違うことをいいながら妙法蓮華経(法華経)に南無するというのでは矛盾しているとわたしには思えるわけです。

なお、法勝人劣という点ですが、日蓮本仏を離れ、凡夫日蓮と見れば、至極当然の帰結ですね。矛盾するのは日蓮を本仏と見ながら、法勝人劣という如き在り方です。そもそも三身相即と言いながら、かく言うこともおかしなことですが、南無妙法蓮華経仏と日蓮を仰ぐ教学圏の信者が法勝人劣というとき、その自語矛盾に気付けないことを、殊のほか、わたしは奇妙に感じます。特に日蓮を無始古仏と見てしまえば、法も仏も無始でそこに差別を認められないことになるからです。

反して、日蓮本仏を脱却した立場から、関師が、法勝人劣=妙法勝日蓮劣の立場を採るというのであれば、矛盾はないことになりますね。

福田さん、わたしは率直にものを言いますが、悪気はありません。
主張が最後まで躓かないものであるかを見るために、執拗に突っ込みますが、質問をする相手の人格・信仰を否定しようとするものではありません。
立論が納得のがいくものであるかどうか、それを見ているだけです。

あと、わたしは蓮師も、法華経も無謬とは思っていません。ですから、

> 信じきるのが、大切ではないでしょうか

と問われれば、「大切であるとは思わない」と答えるほかありません。
しかし、無謬でない日蓮、後世の創作には違いない法華経ですが、そこに説かれる菩薩・見仏思想は恭敬の対象ではあります。その点で、躓きのない立論を愛敬の対象です。
稔りある議論を期待します。今後ともよろしくお願いいたします。

912福田里敏:2003/11/18(火) 00:30
犀角独歩さん
犀角独歩さんのHPの執行海秀先生の論文は、印刷して、ファイルしています。とても、貴重な資料で、参考にさせていただいております。

>法勝人劣=妙法勝日蓮劣
人間日蓮です。凡夫です。悟りをえ、法華経の行者として、上行菩薩たらんと、末法に於いて妙法蓮華経に帰依していくことが、平和な世の中を建設していけるんだ!と宣揚された人です。僕は、日蓮本仏から離れられてから、伊豆・佐渡流罪等の、苦難な人生に感動を覚えました。本仏という、僕と違う自受用報身如来なら、なんてことはありません。

犀角独歩さんからの、率直な御意見は、真摯に受け取っていますので、何でも言って下さい。勉強させていただきます。
27の若輩者ですが、これからも、よろしく、お願いいたします。

913犀角独歩:2003/11/18(火) 00:44

福田里敏さん:

そうですか。わたしのサイトもご覧いただいているのですか。
それは嬉しいことです。有り難うございます。

> 27の若輩者

わたしは福田さんからすれば父親ほどの年齢です。
しかし、議論に年齢は関係ありません。
あくまで対等、平等です。
わたしも学ばせていただきます。

914空き缶:2003/11/18(火) 01:43
福田さん、はじめまして「空き缶」と申します。

関師の所論は、極めて参考になります。
私は、日蓮本仏論を否定した場合の「三宝論」に迷っていました。
仮にも、富士門徒である以上仏:宗祖、法:題目、僧:興尊とのこだわりがありました。
関師の所論を参考にした、現在の私の愚考は以下の通りです。(注意:所詮富士門徒の異端児の発想と思し召しください)

仏宝:曼荼羅御本尊
法宝:題目
僧宝:日蓮聖人

これじゃー三宝一体じゃないか!と反論されそうですが、大石寺の「三宝一体論」とはチョッと違いますので、宜しくお願いします。

915福田里敏:2003/11/18(火) 11:16
空き缶さん、はじめまして。

三宝について、僕も富士流に迷いました。関師に以前、聞いたところ、三宝は末法には、必要ないとの解釈をされ、それでも、あえてたてるならば、
仏・日蓮聖人
法・妙法
僧・日興上人
とのことでした。曼荼羅に関しては、成仏に絶対的に必要なものじゃない!、との見解でしたので、仏宝には、あたらないと思います。
ちなみに、法華堂の曼荼羅は、万年救護本尊です。今は、装飾の方が亡くなられた為、見つかるまでの間は、以前、石山で下付していた、寛師曼荼羅の下付と、なっています。

あと、関師は、興風談所所長(正信会)を離れたあと、法華堂を創設するまでの間、比叡山で、古書の研鑽もされています。ご参考までに。

今日から、金曜まで出張ですので、書き込みは、それ以降になりますので、悪しからず。ただ、新着の書き込みは、携帯にメールで転送されてきますので、色々と、書き込んでください。

これからも、よろしく、お願いいたします。

916空き缶:2003/11/18(火) 13:21
福田さん

○ちなみに、法華堂の曼荼羅は、万年救護本尊です。

→この「万年救護本尊」は妙本寺所蔵のものと同じでしょうか?


こちらこそ宜しくお願いします。

917福田里敏:2003/11/18(火) 14:00
空き缶さん
妙本寺所蔵のものです。伊豆方面の寺院から分けてもらったそうです。

918:2003/11/18(火) 21:51
日蓮さんの三宝はどのようなものだったでしょうか。
仏宝は「久遠実成の釈尊」
法宝は南無のない「妙法蓮華経」
さて僧宝はといえば、「僧伽としての日蓮門徒」ということでしょうか。
そうすると、この段階で、日蓮宗の三宝も石山の三宝も、日蓮さんの考えと異なっているわけです。
日蓮の信徒というのなら、日蓮さんの考えをそのまま採るべきなのではないでしょうか。

あと、「万年救護本尊」ですが、各地にあるものは、模写もしくは、模写をさらに模写して形木にしたものです。
だから「御本尊集」とは微妙に文字がずれているはずです。
そのくらいなら、「御本尊集」から直接採ったほうがいいのではないかと思うのですが。

919日真名氏飛び出す:2003/11/18(火) 21:53
918は私です。入力がうまくいかなかったようです。
ちなみに190200ゲットしました。

920犀角独歩:2003/11/19(水) 04:53

蓮師の三宝観ですか。

それこそ、『本尊鈔』、あるいは漫荼羅に明記されているのではありませんか。
その指標のための漫荼羅図示であるとわたしは拝しています。

「妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏 釈尊脇士上行等四菩薩 文殊弥勒等四菩薩眷属居末座」です。

すなわち

仏宝:釈迦牟尼仏(多宝仏)
法宝:妙法(蓮華経)
僧宝:上行等四菩薩(文殊弥勒等四菩薩眷属)

でしょう。

921犀角独歩:2003/11/19(水) 05:08

蓮師の三宝観

毎日、漫荼羅を本尊として拝んでいる人が、こんな疑問を懐くことがあるのでしょうか。
また、ここで、記された三宝観を読ませていただき、わたしは正直、びっくりしました。

922福田里敏:2003/11/19(水) 05:29
犀角独歩さん
携帯からの書き込みです。
三宝に関しては、僕自身迷ってます。でも、あえて、たてる必要などないのではないでしょうか?「妙法に帰依する」 それで、充分ではないでしょうか?仏も僧も必要ないのでは?僕は、そうとらえてます。

923犀角独歩:2003/11/19(水) 09:27

福田さん:

蓮師は「三宝を破るが故に、則ち世間の正見を破す」と仰せですが、この点はどうされますか。

924犀角独歩:2003/11/19(水) 09:31

福田さん自身が三宝を立てる必要がないという個人的な主観を懐くことは、もちろん、自由です。
わたしが記すのはあくまで蓮師の祖意はどうあるかという点で記すばかりです。

925犀角独歩:2003/11/19(水) 09:39

報恩抄には三宝の恩を言います。それが必要ないと言えば、蓮師の教えに違背します。
蓮師の教えと違う考えを立てて、本尊を拝むことを己義偏執というのではないでしょうか。

926空き缶:2003/11/19(水) 12:08
横レスです

関師の所論には、「久遠元初自受報身如来」とは「法」であって「人」ではない、とありました。
また「末法とは無佛の時代」ともあったと記憶しています。

もし、日蓮聖人が御本仏であれば「末法」=「日蓮仏の正法時代」ということになりませんか?

法然上人は何故称名念仏を提唱したのか、それは「末法とは無佛の時代」だからだと思います。

そこで、あえて末法の三宝を考えた時に先の書込みのような結果になったのです。

927犀角独歩:2003/11/19(水) 13:07

空き缶さん:

関師の所説はわかりました。が、それが蓮師の考えでしょうか。
この点については、異論があります。

まず、久遠元初自受報身如来が蓮師教学であるとはどのような根拠に基づくのでしょうか。
次にもし関師の所説の如く久遠元初自受報身如来が法であれば、人法一箇の教学系において蓮師は法ということになりますが、蓮師は法ではなく、通日蓮教学では菩薩“僧”であり、日蓮本仏圏では仏・聖人です。また寛師の下種三宝説では 仏:日蓮・法:板漫荼羅・僧:日興 として人(仏)法(板漫荼羅)一体を論じます。この説とも、また、異なります。

以上、二重の論点からしても、関師の所説はその謂われを知りません。
また、関師が自受用身が法であるというのは、どのような根拠に基づいてのことでしょうか。ご教示願えますか。


なお、法然師が無仏である説を採ることと蓮師とどのような関係から論じられるのでしょうか。

また、無仏であると言いながら、蓮師を本仏とし、いまをその正法(時代)とすれば、日蓮本仏・有仏となり、無仏とは言えず、関師、仏僧不要論は矛盾を来すことになりますが、この点はどのようにお考えになりますか。

もとより、空き缶さんご自身のお考えというより、関師所説を援用して記されたことであろうとは拝察しますが、解説いただければ有り難く存じます。

928空き缶:2003/11/19(水) 13:42
犀角独歩さん

まず関師の所論と、私の自論は相違しています。私は関師の考えを参考にはしましたが、三宝のとらえ方一つとっても違いがあることをご確認下さい。

その上で、関師は「末法は成仏ではなく、成菩薩を目指す時代」(趣旨)といいます。これは、釈迦仏法でいうところの「成仏」と比較しての表現ですが。
また、日寛教学を「誤り」だといいます。どこが誤りかといいますと、先に書き込みましたように自受報身如来を「人仏」とした点であるといいます。(もしかしたらこれは、同じ法華堂の倉光師の見解か?)
この根拠については、再度書籍に目を通して見ますね。

929犀角独歩:2003/11/19(水) 14:08

空き缶さん:

早々のご返信、有り難うございます。
空き缶さんは妙本寺御影信仰のお立場ですから、相違しているであろうと思いました。

わたし自身法華堂の主張を勉強もせずに述べるのは不謹慎ですね。
しかし、レクチャーをしていただけると、やや概観が掴めます。
できましたら、よろしくお願いします。

930空き缶:2003/11/19(水) 20:39

ん・・

「自立」を再読しましたが、該当部分がみつからない。

福田さん、私の勘違いでしたか?自受報身如来=法仏(趣旨)ってありませんでしたっけ?

931福田里敏:2003/11/19(水) 22:55
犀角独歩さん

報恩抄は、関師も重要視されている遺文ですので、学んでみます。釈尊を蓮師は、尊敬されています。だからこそ、随身仏として、所持されていたのでしょう。しかし、己義になりますが、成仏するのに、三宝が必要でしょうか?誤った三宝(念仏・真言等)は、いけませんが、蓮師が、絶対なる三宝をたてられたでしょうか?あくまでも、妙法に帰依する事により、安穏な国土をめざし、成仏していける!との、万民が簡単に修業できる、題目行を唱えられたのでは、ないでしょうか?僕は、そう理解していますが…

932福田里敏:2003/11/19(水) 23:01
空き缶さん

自受用報身如来=法仏
という考え方は、なかったと思います。出版されていない、論文等も、見てみます。以前、南無妙法蓮華経仏を、関師に尋ねた事がありますが、そういった考え方は、ないとの事でした。今月、個人的に関師を訪ねようと、考えていますので、聞いてみます。

933空き缶:2003/11/19(水) 23:21
独歩さん

すみません。私のトンチンカンな勘違いのようです。

しかし、どなたかの所論にあったと記憶しています。(うーん、気になる誰だろう)

934犀角独歩:2003/11/20(木) 10:40

空き缶さん:

どなたが仰ったんでしょうか。かえって興味がわきました。

935犀角独歩:2003/11/20(木) 10:40

福田里敏さん:

> 関師も重要視

関師が、どうお考えになるか、ではなく、「自分が」がです。
当板は当人の自覚に基づいて議論をする場です。特定集団・個人の代理発言をする場ではありません。ですから、福田さんのお考えをお聞きしたいと思います。もちろん、「○○はこう言っている。それに対して、自分は考証の末、こう思う」ならば承ります。

> 釈尊を蓮師は、尊敬

尊敬していたのではなく「南無」していたのです。これは日蓮本仏論者にも同様に申し上げたいことですが、蓮師の漫荼羅を拝しながら、何故、その図示と相違したことを口にするのか、わたしはこれを三業不一致と責めるわけです。漫荼羅には、明らかに「南無釈迦牟尼仏」と記されています。「南無妙法蓮華経」と同様、帰命を意味する冠頭語です。尊敬というレベルではありません。また、一体仏の生涯随身は、帰命を表してのことでしょう。

> 成仏するのに、三宝が必要でしょうか?

そもそもこの遮難ははじめの一歩で躓いていませんか。三宝の要不を言うのではなく、蓮師は“報恩”という視点から三宝を仰ぐのでしょう。
「仏家」という言葉があります。たとえば子が親と同居しているとします。その子が「家と食事があれば、親は要らない。家を建てたおじいさんはもう死んでしまったから不要」と言ったら、その不知恩、忘恩は非難されるところとなるでしょう。
仏教集団とは釈迦牟尼仏に始まる一切の教法と集団を言います。蓮師もそれ故、「南無釈迦牟尼仏」と漫荼羅に明示されるのでしょう。僧に就き蓮師は「伝持の人無ければ、猶お木石の衣鉢を帯持せるが如し」と言い、経法流布が僧侶によってなされたことを言われます。それにも関わらず、釈尊を祖とし、それを伝持した尊い人々のお陰をもっていま我々が仏法に縁することができているにもかかわらず、何として「仏・僧は不要」と言えることができるのでしょうか。要不で論じるのではなく、その報恩の念から仰ぐのではありませんか。さらに申し上げれば、「成仏するのに、三宝が必要」かと問われれば、仏僧なくして、祖も伝持もない故に、わたしは「必要」と応えるものです。

> 蓮師が、絶対なる三宝をたてられたでしょうか?

先に記したとおりです。

> 万民が簡単に修業できる、題目行を唱えられた

蓮師の唱題行はそれ以前の釈尊に始まる一切の仏教と対立した形で立てられたものではありません。その行法、教法も台家を踏襲しています。仏家である蓮師が三帰を廃するわけはありません。

『守護国家論』「仁王経に云く_…三宝を滅破せんこと師子の身中の虫の自ら師子を食うが如くならん。外道に非ざる也。多く我が仏法を壊り、大罪過を得、正教衰薄し、民に正行無く、漸く悪を為す」
『顕謗法鈔』「三宝を破るが故に、則ち世間の正見を破す」
『太田入道殿御返事』「大涅槃経に…三宝を供養するが故に地獄に堕せず」
『道場神守護事』「設ひ科有る者も三宝を信ぜば大難を脱れんか」
『富木殿御書』「賢慧菩薩の法性論に云く…三宝清浄の信、菩提功徳の業なり」
『兵衛志殿御返事』「四季にわたりて財を三宝に供養し給ふ。いづれもいづれも功徳にならざるはなし」

936犀角独歩:2003/11/20(木) 15:12

福田さんへの追伸

935において「関師が、どうお考えになるか、ではなく、「自分が」がです」と記しましたが、福田さんは931に「学んでみます」と記されたわけでした。私の杞憂には及ばないことであると読み返して思いました。この点、訂正させていただきます。

937愚鈍凡夫:2003/11/20(木) 19:59

蓮祖に関する謎を箇条書きにしたものを見つけましたので転載します。皆さんは、これらの謎をどう解釈されますか?

「法住山要伝寺 質問箱 №099」より転載

**********************************************
Q:Q&A95・96のように、日蓮聖人には、まだ解明されていない「謎」があるようですが、ほかにはどのようなものがありますか。
----------------------------------------------
A:日蓮聖人にまつわる「謎」について、参考までに以下に列挙します。なお、これらについては、若干の回答が出されているもの、あるいは様々な推測がなされているものもあり、全く判っていないというわけではないことを付言しておきます。

(1)なぜ貫名兄弟のうち日蓮だけが出家を許されたのか。
(2)なぜ日蓮の両親は貴重な労働力である10代の我が子を出家させたのか。
(3)なぜ一介の漁師の子が鎌倉遊学・京畿遊学をするための資金を出してもらえたのか。
(4)なぜ当時の鎌倉には学ぶべき寺院が少なかったにも関わらず、日蓮は4年間も鎌倉に遊学していたのか。
(5)なぜ日蓮は、釈迦の聖日である4月8日ではなく、4月28日に立教開宗したのか。
(6)なぜ日蓮は、道善房の持仏堂の南面などという場所で立教開宗したのか。
(7)なぜ立教開宗の当初から富木常忍ら有力檀越の外護を得られたのか。
(8)なぜ千葉氏に関する記述がみえないのか。
(9)なぜ日蓮と名付けたのか。
(10)なぜ弟子に日号を引き継がせたのか。
(11)なぜ不動・愛染の感見について、その後の日蓮は黙秘しているのか。
(12)なぜ日蓮は一切経閲覧のために、安房国国分寺や相模国国分寺ではなく、わざわざ駿河国岩本実相寺まで向かったのか。
(13)なぜ大学三郎・安達泰盛など幕府内にも太いパイプをもっていたのか。
(14)なぜ漁師の子供で泳ぎも達者なはずの日蓮が、伊豆流罪の際、俎岩から対岸に泳いで渡れなかったのか。
(15)なぜ三位房だけが比叡山に遊学できたのか。
(16)なぜ龍口法難で助かったのか。
(17)なぜあれほど特異な龍口の光り物の奇跡を『種種御振舞御書』の中でしか語らないのか。
(18)なぜ日蓮は、流罪に処せられるにあたって、法然房源空のように還俗させられなかったのか。
(19)なぜ日蓮は、歴代の佐渡流罪者の中で唯一赦免されているのか。
(20)なぜ佐渡流罪を赦免された後、甲州方面に向かったのか。
(21)なぜ三大秘法のうち本門の戒壇について言及しないのか。
(22)なぜ遺文中に「大曼荼羅」「大曼荼羅本尊」という用語を用いていないのか。
(23)なぜ大曼荼羅に不動・愛染が勧請されているのか。
(24)なぜ保田妙本寺の万年救護本尊以外に大曼荼羅の讃文中に「本尊」という記述を用いていないのか。
(25)なぜ日蓮は大曼荼羅に虚空蔵菩薩を勧請していないのか。
(26)なぜ大曼荼羅に金剛界・胎蔵界の大日如来を勧請したものがあるのか。
(27)なぜ大曼荼羅の授与書きにみえる人物の大半に関して、遺文中には記述が一切ないのか。
(28)なぜ主要な檀越に与えられた大曼荼羅がほとんど伝存しないのか。
(29)なぜ大曼荼羅は4月に多く図顕されているのか。
(30)なぜ『一代五時鶏図』(日蓮の自題になる真蹟現存の図録)は「鶏の図」なのか。
(31)なぜ数十人いる多くの弟子の中から六老僧だけを直弟に定めたのか。
(32)なぜ僧侶であった日蓮の遺品に刀があるのか。
(33)なぜ、日蓮在世中に、日蓮について言及している教団側の資料(内部史料)は多く存在するのに対して、日蓮について言及している教団外部の資料が少ないのか。

**************************************************

尚、(32)の刀は尼崎本興寺所蔵の「数珠丸」のことだと思います。

「数珠丸由来」
http://homepage2.nifty.com/honkoujipriv/juzumaru.htm

「法住山要伝寺 質問箱」
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/contents4.html

938アネモネ:2003/11/21(金) 04:43
>937愚鈍凡夫さん

私、法住山要伝寺のことはほとんど知らないのですが、しかしここに転載された謎とするいずれの項目も、大変興味深いですね。
(1)〜(7)と、さらに、とりわけ(8)の千葉氏との関係と、そして(13)の大学三郎・安達泰盛に関わるところなど、個人的にとても関心を持つところです。

確か、安達泰盛は北条得宗化家の縁戚の家柄で、またさらに北条時宗の正室は泰盛の妹ですね。
竜ノ口の法難のとき、時宗の正妻(安達泰盛の妹)の懐妊という理由によって斬首から流罪に赦免されたという、>856で独歩さんが紹介してくださっていた内容に深く関連しているかと思われます。
その部分を抜粋させて頂きますと、

********************************
このように、斬首に処そうとする意図があったにもかかわらず、結局は死刑は免ぜられ、流罪に処せられたのは、北条時宗の妻の懐妊によると考えられる。事実、この歳、貞時が誕生している(辻善之助『日本仏教史』中世篇之一)。これに関連して、日蓮が「大がく(学)と申す人は普通の人ににず、日蓮が御かんきの時身を捨てゝかたうど(方人)して候(そうらい)人」(『大学三郎御書』平遺784頁)と、大学三郎の行為について述べていることに注目したい。大学三郎については、伝承を除けば、ほとんど未詳だが、ただわずかに、大学充(だいがくのじょう)という日蓮の檀越の子息であったろうこと、書に秀で、書を好んだ安達泰盛(あだちやすもり)と書を通じての交りをもっていたことがわかる程度である。ところで、大学三郎と親交があった泰盛はほかならぬ時宗の舅(しゅうと)、つまり、時宗の妻の父であり、懐妊した子(のちの貞時)の祖父に当たる人である。この関係と日蓮の大学三郎についての叙述を重ね合わせれば、大学三郎が泰盛に働きかけ、泰盛は婿(むこ)時宗に孫の懐妊中における日蓮の刎頸注視を進言したのではなかろうか。「身を捨ててかたうど」した意味を、右の関係のなかに置いてみることは十分に可能である(増補改訂『日蓮』高木豊著 株式会社太田出版 P90)
******************************

余談ではありますが、この『日蓮』(高木豊著 株式会社太田出版)は私も読みました。日蓮の実像に迫る、大変参考になる一冊だったかと思います。

平頼綱の正妻は北条時宗の嫡男・貞時の乳母であり、北条時宗の死後、「乳母夫」と「内管領」という権力を手にした頼綱は、得宗家の「外戚」として力を持つ安達泰盛と衝突し、遂に、貞時に讒言して安達一族を葬り去ります。(『霜月騒動』)。
ところが、その平頼綱一族も、後に北条貞時によって滅ぼされるわけです。(『平禅門の乱』)

私は、大雑把な歴史しかわかりませんが。千葉氏、安達氏、そして大学三郎のラインは、日蓮研究の上でも、特に外せない重要なところではないかと、私としても最も知りたい大変興味深いところであります。

939愚鈍凡夫:2003/11/21(金) 12:17
アネモネさん、レス有り難うございます。
さすがですね。 (^_^)v
安逹義景の娘(堀内殿、後の覚山尼)に関する資料を見つけたので投稿します。

『駆込寺 東慶寺史』より抜粋

**************************************************

1 堀内殿

 開山覚山尼は秋田城介(じょうのすけ)安達義景(よしかげ)〔1210〜53.44歳〕の女(むすめ)、母は北条時房〔1175〜1240.66歳〕の女、時房は尼将軍政子〔1156〜1225.70歳〕の弟、いずれも鎌倉の名門である。建長四年(一二五二)七月四日、鎌倉長谷甘縄の安達邸で生まれた。『吾妻鏡』には、この日の条に、

天晴、午刻秋田城介義景妻、女子平産云々、号堀内殿者也。

 とある。日本女性史上の代表的人物となる覚山尼こと堀内殿の誕生を祝うがごとき晴天であった。のちに夫となる時宗は、この前年五月十五日に同じこの安達の邸で生まれたのである。
 堀内殿には兄泰盛〔1231〜85.55歳〕以下八男三女の兄弟姉妹があるが、この翌年父が逝き、兄泰盛が城介となり父代りとなる。『徒然草』にも出てくる障子の切り貼りをして、世を治むる道、倹約を本とすとわが子時頼に教えた松下禅尼は安達義景の妹であるから、堀内殿には叔母であり、後に時宗夫人となっては外祖母になる人であるが、同じ甘縄の邸内に住んでいたから、少女時代に訓育感化をうけたことであろう。
(中略)
 建長五年〔1253〕六月三日、堀内殿が満一歳にもならぬ前に父義景は四十四歳で死んだ。この年十一月に建長寺が落慶した。この寺は時頼の本願で、建長三年十一月起工、開山は宋から渡来の蘭渓道隆〔1213〜78.76歳〕である。
(中略)
 弘長元年(一二六一)の四月二十三日に、時宗十一歳、堀内殿十歳で結婚、安達邸から時宗邸に移った。早婚であり、近親結婚であるが、当時は珍らしくない。堀内殿から見れば時頼は従兄弟であるが、ここで舅と嫁の間柄となる。北条家の若君、後の執権となるべき時宗の妻として、その家柄、その人物最も適格の者として松下禅尼の推挙したものであろう。
(後略)

 3 日蓮の法難と時宗夫人

 これより先、日蓮〔1222〜82.61歳〕は『立正安国論』を著わして時頼にささげたが、彼は黙殺した。文永五年、蒙古の来状を聞いて日蓮は時宗に書状を送り、建長寺の蘭渓、極楽寺の忍性〔1217〜1303.87歳〕にも書状を与えて挑戦したが、誰も返答しない。文永八年〔1271〕六月、幕府は忍性に雨を祈らせた。これを日蓮は猛烈にやじった。ついに九月十二日、竜ノロで首の座に引据えられた。この時、刀が折れたとか、奇蹟があったとかで、日蓮宗では「竜ノ口の御法難」と称するほど有名な事件であるが、事実は時宗夫人の懐妊のゆえに、俄(にわ)かに死罪を赦されて佐渡に流罪となったのである。

「なにとなくとも頸を切らるべかりけるが、守殿(相模守時宗)の御だい所の御懐妊なればしばらく切られず」(「種々御振舞御書」)

 と、日蓮自身がのべているとおり確かなことで、これについては辻善之助博士も『日本仏教史』に詳論され、すでに学界でも定説となっている。ともかく時宗夫人のお蔭で、日蓮はあやうき命を助けられたことになる。

 この年十二月二日に、貞時〔1271〜1311.41歳〕が生まれた。夫人二十歳の時である。

*****************************************************

関連資料(HP内それぞれの青色書籍名をクリックすると関連部分が閲覧できます)

「『北条時宗』 参考文献」
http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/tokimune-sankobunken.htm

940ガンコ:2003/11/21(金) 19:20

素朴な雑感

空き缶さんのおっしゃる
>法然上人は何故称名念仏を提唱したのか、それは「末法とは無佛の時代」だからだと思います。

あれれ? 称名念仏って、阿弥陀仏に南無することではないかと思うのですが、そうすると有仏では? あるいは、阿弥陀は西方十万億土の教主であって、此の娑婆世界には居らないってこと?
しかし、阿弥陀はともかく、すでに独歩さんが指摘されているように、常住此説法・・・あるいは、「本地久成の円仏は此の世界に在せり」ですから、このあたりの整合性をもう少しつけていただきたいと思います。
まあ、おそらく、無仏というのは仏滅後を言うのでしょう。あるいは仏の出現以前を。雪山童子の時代は無仏だったようですし・・・

独歩さんは、
>尊敬していたのではなく「南無」していたのです。
>尊敬というレベルではありません。

とおっしゃいますが、
「夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。」
大聖人が開目抄にて御使用になっていらっしゃることからして、尊敬もあながち捨てたものじゃないのでは?

もっとも、尊敬が(そんけい)なのか、(そんぎょう・そんきょう)なのかでぜんぜんちがうのでしょうけど・・・

941空き缶:2003/11/21(金) 20:48
ガンコ さん

私は念仏については、詳しくわかりません。
これまでの日蓮門下からみた(教えられた)範囲の狭い知識です。
しかし、末法が「無佛の時」だとすると、「称名念仏」による救済思想という発想にも頷けます。
法然上人の説は、それなりに的を射たものなんでわないかと思ったりします。

→「阿弥陀は西方十万億土の教主であって、此の娑婆世界には居らないってこと?」

その通りだと思います。

それに対して日蓮聖人は、「無佛」でも「釈尊が仏になった法がある」、末法は「仏」に南無するのでは無く、「法(経)」に南無する時、すなわち「南無仏」(南無阿弥陀仏)ではなく「南無経」(南無妙法蓮華経)の時なんだ、と主張されたんではないかと思ったりします。
この考えは、法華堂の考えに近いはずです。(そうですね福田さん)

942愚鈍凡夫:2003/11/21(金) 20:50
今日の読売新聞夕刊の1面にこんな記事が掲載されていました。

*********************************************
日蓮の指紋?
 直筆「曼荼羅」に 静岡・沼津の寺
 静岡県沼津市の妙海寺に伝わる日蓮宗開祖、日蓮(1222〜82)真筆の「大曼荼羅本尊」から、日蓮本人とみられる左手の指紋が見つかったことが21日、わかった。揮ごうの際、乾ききらない墨跡に触れたらしい。宗祖の"存在の証し"に笹津海道住職(37)は「聖人の体温が伝わるよう」と話している。
 死去2年前の1280(弘安3)年5月の作。縦1㍍横55㌢で、中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書。周囲に諸仏や菩薩の名を配し、法華経の救いの世界を表している。
 指の跡は修理中に見つかり、日蓮研究の第一人者の中尾堯・立正大名誉教授(日本仏教史)が確認。題目の左下に書かれた四天王の一人「大増長天王」の字の「天」「王」に約十か所あり、指紋もあった。署名と花押をする際、神を押さえた左手が触れたらしい。
 直筆の曼荼羅は「立正安国論」で"予言"した元寇が14年後に実際に起きたため、九州北部の警備につく武士が御守りとして求めることもあったという。
 中尾名誉教授は「略字や欠字が多く速書とみられていたが、指紋を残すほど先を急ぐのは正確を表しており興味深い」と指摘する。

2003(平成15)年11月21日読売新聞夕刊1面より
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943愚鈍凡夫:2003/11/21(金) 20:57
訂正

誤→神を押さえた左手が触れたらしい。

正→紙を押さえた左手が触れたらしい。

です、悪しからず。 m(_ _;)m ゴメン!!

944愚鈍凡夫:2003/11/21(金) 21:05
>>942:
またまた訂正です。

誤→中尾名誉教授は「略字や欠字が多く速書とみられていたが、指紋を残すほど先を急ぐのは正確を表しており興味深い」と指摘する。

正→中尾名誉教授は「略字や欠字が多く速書とみられていたが、指紋を残すほど先を急ぐのは性格を表しており興味深い」と指摘する。

です、m(_ _;)m ゴメン!!

945福田里敏:2003/11/21(金) 21:49
空き缶さん
>日蓮聖人は、「無佛」でも「釈尊が仏になった法がある」、末法は「仏」に南無するのでは無く、「法(経)」に南無する時、すなわち「南無仏」(南無阿弥陀仏)ではなく「南無経」(南無妙法蓮華経)の時なんだ、と主張されたんではないかと思ったりします。

その通りです。法華堂の考え方です。

946犀角独歩:2003/11/22(土) 00:44

「無仏の時代」という考えは、元来、弥勒信仰に係るものでしょうね。
釈尊滅後、無仏の時代に入り、56億7千万年後に弥勒の次の仏として現れるまでの時を言うのでしょう。この無仏の時代にその代わりをなすのが地蔵菩薩で、路傍の地蔵信仰はここからきたのでしたね。

これと法蔵比丘でしたか、四十一願の記述が、どう関わるのか、わたしは詳しくありません。

それにしても、無仏思想と法華経が関係があるとするのは意外です。
何を根拠とするものなのでしょうか。

947犀角独歩:2003/11/22(土) 00:50

940 ガンコさん:

わざと外したコメント、ガンコさんらしい。

わたしは漫荼羅に記される「南無釈迦牟尼仏」について、記したのです。
尊敬・習学の指標を示す真跡について記したのではありません。

948福田里敏:2003/11/22(土) 01:01
犀角独歩さん

>漫荼羅に記される「南無釈迦牟尼仏」について

では、多宝如来や、四菩薩や、他の菩薩にも、南無としるされていますが…

949犀角独歩:2003/11/22(土) 09:46

福田さん:

> 多宝如来や、四菩薩や、他の菩薩にも、南無

ええ、もちろんでしょう。日蓮上行を言う人からすれば馴染まないでしょうが、日蓮は一介の僧として四菩薩に南無していたのでしょう。そして、もしや自分は地涌の流類かも知れないという襟度をもって書かれるのが真跡です。まず四菩薩が現れ、そして、久遠釈尊仏像を通して見仏を示す、所持の法は妙法です。この証明をなすのは多宝如来ですから、帰命の対象でしょう。ここに蓮師の三宝観はしっかりと看取できます。

また、漫荼羅によっては一切の諸尊聖衆に南無を冠するいわゆる「総帰命」と称される漫荼羅図示もあります。これはすなわち、釈尊在世、その許の有縁の衆は過去五百塵点、あるいは三千塵点已来の結縁の基づいて参集した尊い衆生であるという見地によると拝せるのだと思います。

法華経では釈尊は久遠五百塵点に成道し、その寿命はその数に倍して残っている。心清く柔らかく信心堅固の人には、その仏と見(まみ)えることができるというのがその骨子です。無仏どころか、この娑婆世界に常に住し説法教化し続ける仏を説き表すのが法華経です。

南無妙法蓮華経と唱えるとき、その妙法蓮華経を流宣する四菩薩、その四菩薩の師仏・久遠釈尊への南無を意味します。南無妙法蓮華経は単なる南無経(法)ではなく、南無仏・南無僧(四菩薩)、すなわち三帰の意義を含めた唱題であるというのが蓮師の立場であると拝せます。

950空き缶:2003/11/22(土) 13:08

犀角独歩さん

「総帰命」本尊といえば、万年救護本尊や佐渡始顕本尊などもそうですね。

ところで、「仏滅後二千二百卅余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」は一般的な御本尊の讃文ですが、「釈尊滅後、この世界の中で未だあらわされることが無かった大曼荼羅である」と解しまして、何が「未だあらわされなかった」のかということになります。
この点を法華堂では、「南無法」の御本尊こそが、「仏滅後二千二百卅余年之間一閻浮提之内未有」であるといいます。
つまり、歴史上「南無仏」の本尊は曼荼羅形式・仏像形式にて、日蓮聖人以前にも多々造られてきた。しかし「南無法」つまり「仏」ではなく、「法(経)」そのものを本尊としたのが「仏滅後二千二百卅余年之間一閻浮提之内未有」の出来事であるというのです。

私はさすが「興風談所」の初代所長だと、思いました。なかなかの着眼点だと思います。

951愚鈍凡夫:2003/11/22(土) 14:22
横レス失礼します。

「法灯明」の教えは原始仏典にありますし、法華経に於いては、最も強調されている事ですよね。

「汝舍利弗。尚於此經。以信入得。況余聲聞。其余聲聞。信佛語故。隨順此經。非己智分。(汝舎利弗、尚お此の経に於ては信を以て入ることを得たり。況んや余の声聞をや。其の余の声聞も仏語を信ずるが故に此の経に随順す。己が智分に非ず。)」(妙法蓮華經譬喩品第三)

「我爲佛道。於無量土。從始至今。廣説諸經。而於其中。此經第一。若有能持。則持佛身。(我仏道を為て、無量の土に於て、始より今に至るまで広く諸経を説く。而も其の中に於て此の経第一なり。若し能く持つことあるは則ち仏身を持つなり)」(妙法蓮華經見寳塔品第十一)

とあります。「法華経」を信じ持つことが最も重要であるとのことですね。そして、

「諸譱男子。如來所演經典。皆爲度脱衆生。(諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり)」(妙法蓮華經壽量品第十六)

仏の教えを説いた経典は、衆生を成道に導くためのものであるとのことですよね。
仏法は経典から導き出されるものですから、古より「法」を柱とする精神は変わらないのではありませんか。

「若有受持讀誦。正憶念。修習書寫。是法華經者。當知是人。則見釋迦牟尼佛。(若し是の法華経を受持し読誦し正憶念し修習し書写することあらん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり、)」(妙法蓮華經普賢菩薩勸發品第二十八)

ここにも、法華経を中心とした仏道修行の重要性が説かれていますね。一言で言えば、「法華経」を通して「釈迦牟尼仏」を拝謁すると言うことでしょうか。

952ガンコ:2003/11/22(土) 15:16

このところの議論は、わたくしにとってもたいへん興味深い議論ですので、素朴な疑問をいくつか書いておきます。

「弥勒菩薩は兜率の内院に籠らせ給ひて五十六億七千万歳をまち給うべし。」

撰時抄の冒頭にありますこの御文、大聖人は単にたとえとしておあげになられたのか、それとも本当にそう御考えであられたのか? ちゃんと聞いたことはありませんけど、顕正会では「弥勒はたとえに過ぎない」と考えているようです。(ちがっていたらお知らせください、モトミナさん・ワラシナさん等)

同じく撰時抄に、
「彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし。但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内に八万の国あり、其の国々に八万の王あり、王々ごとに臣下並びに万民までも、今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱ふるがごとく、広宣流布せさせ給ふべきなり。」
あるいは、
「この念仏と申すは双観経・観経・阿弥陀経の題名なり。権大乗経の題目の広宣流布するは、実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや。心あらん人は此をすいしぬべし。権経流布せば実経流布すべし。権経の題目流布せば実経の題目又流布すべし。」

前にも書きましたが、もっとも素朴な疑問は、なんで南無阿弥陀仏に対して南無釈迦牟尼仏ではないのか・・・なのです。

「例せば神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生一人もなく娑婆世界に向かって大音声をはなちて、南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし。」

この御文の背景として、「彼は一品二半、此は但題目の五字なり。」があるように思えます。つまり、釈尊在世には南無釈迦牟尼仏、滅後・・・ことに末法においては「但題目の五字」が肝要であって、じじつ大聖人御図顕の御曼荼羅は題目を中心にえがかれているわけです。

953ワラシナ:2003/11/22(土) 21:56
ガンコ様へー「宗祖本佛論的素朴な疑問」ーについて。

0、
>大聖人は単にたとえとしておあげになられたのか、それとも本当にそう御考えであられたのか? 
>ちゃんと聞いたことはありませんけど、顕正会では「弥勒はたとえに過ぎない」と考えているようです。

私もわかりません。大体宗祖の引用文全てにおいて「単にたとえとしておあげになられたのか、それとも本当にそう御考えであられたのか?」はっきりつかめないところが多いと思う。 宗祖の物事の捉え方の特徴をケースごとにその差異としてつかみたいと思っております。今後の遺文研究の姿勢としてそうやりたいと言う抱負としてですが。
(、、、しかし、この「思っております、思っております」の言い回しに触れるたびに浅井会長の口癖だった「思って・お・り・ま・す、思って・お・り・ま・す」を思い起こすものです。)


1、さて、下の二行の問いの関連こそ私も極めつけに重大な問題だと思う。

>もっとも素朴な疑問は、なんで南無阿弥陀仏に対して南無釈迦牟尼仏ではないのか・
>ことに末法においては「但題目の五字」が肝要であって、じじつ大聖人御図顕の御曼荼羅は題目を中心にえがかれているわけです。

1−0、これについては、自分も死ぬまでには、この問題だけは(他の仏教学は解らんでもいいから)心の底から「なぞが解けた!」という瞬間を持ちたいと願って長い間思索し続けてきました。

1−1、で、大変生意気ですけど自分なりの謎解きができまして(どこか見当はずれでしょうけど)「現象佛と内面佛の二重内面」(5)(6)(7)辺りで自分の考えの下書きを出す予定です。

954空き缶:2003/11/23(日) 01:19
独歩さん、福田さん

久遠元初自受由身は『法』であるとする説、みつけました。確かに関師の書いた書籍でしたが、松戸氏の書いた本の概要を述べた部分なので、該当諸説は関師のものではなく、松戸氏のものですね。

955空き缶:2003/11/23(日) 10:45

続き

法華叢書1「発想の転換」−日蓮正宗法華堂 関 慈謙
書評・松戸幸雄著『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』を読んで

上記の中に、『久遠元初自受用報身は法である。これを、「人」とするところに寛師の誤解の始まりがある。』との文言が出てきます。
しかしこれは関師の所論ではなく、松戸氏の所論を関師が要約して示したものであります。
このところを、私が誤解していたようです。

956犀角独歩:2003/11/23(日) 11:51

954,955 空き缶さん:

有り難うございます。

> 久遠元初自受由身は『法』である

しかし、この解釈は二重におかしな考えであるとわたしには思えます。
法であれば「報身」ではなくて「法身」でしょうし、また、三身であれば、人ではなく、仏でしょう。また、自受用身が法であれば、凡夫(人)本仏自体成り立ちようがないことになります。

さらに言えば、そもそも蓮師真跡上にただ一度も「久遠元初」も「自受用身」も表れないのであってこの点をまったく考証の対象にしないのは、学的に不誠実であるとわたしは思います。

957ガンコ:2003/11/23(日) 12:00

ワラシナさん、どうもです。

>長い間思索し続けてきた・・・自分なりの謎解きができた・・・

これはたいへん楽しみです。お待ちしております。

しかし、「現象佛と内面佛の二重内面」ってとっても難しいですね。わたくしのあたまではほとんど理解できないんだもの。

958犀角独歩:2003/11/23(日) 12:46

950 空き缶さん:

漫荼羅中、法は「妙法」の二字ですね。
しかし、『本尊問答鈔』では「末代悪世の凡夫は何物を以て本尊…法華経の題目を以て本尊」でした。では、ここで蓮師がいう法華経題目は“法”なのか、という問題が提示されます。その答えは次下にあるとわたしは読みます。すなわち、

「法華経の第四法師品に云く「薬王在在処処、若説若読、若誦若書、若“経巻”所住之処、皆応起七宝塔極令高広厳飾。不須復安舎利、所以者何、此中已有如来全身」等云云」

です。蓮師が言う「題目」とは法ではなくて“経典”です。わたしはここのところ、何度も繰り返してきましたが、蓮師は題目本尊論者なのでしょう。そして、この題目は法華経“経典”を指しているわけです。では、これを漫荼羅に「南無妙法蓮華経」と記し、奉掲する理由は、と問われれば、同鈔の次下に(一句飛ばします、後述します)

「天台大師の法華三昧に云く「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置せよ、亦必ずしも形像、舎利並びに余の経典を安ずることをもちいざれ。唯だ法華経一部を置け…法華三昧を以て案ずるに法華経を本尊」

ということから、題目は法華経典の指標であり、その題目を図し、奉掲して法華道場の荘厳たらしめたと見えます。

では、しかし、この題目=経典は、論理展開としてここで畢っているかと言えば、そうではなく、そこに“法”をしっかりと看取されます。すなわち、先に飛ばした一句です。

涅槃経の第四如来性品に云く「復次迦葉、諸仏所師所謂法也、是故如来恭敬供養以法常故諸仏亦常」(復次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり)

です。諸仏は法を師とするという記述です。この点から言えば、法が師である、…ここのところの議論で言われる「南無法」…ではないのかと、なります。
けれど、法が師なのだというのは即断であるとわたしは思います。何故ならば、「諸仏の師とする所は所謂 法」という一句は「末代悪世の凡夫…法華経の題目・本尊」と対句をなしているからです。すなわち、諸仏は師とするところはたしかに法であるけれど、末法衆生が本尊とするところは題目経典であるという対比です。

ですから、法は諸仏が師とするところであるけれど、末法衆生が本尊とすべきは題目(法華経典)であるというのが、この鈔の脈絡です。この点を落として、末法無仏・本尊は法としては、蓮師の本尊観と相違するというのがわたしが言いたいことなのです。

959アネモネ:2003/11/23(日) 13:22
横レス失礼いたします。

>951愚鈍凡夫さんのレスを拝見いたしまして、少し私にはわからないところがあるのです。
ここのところの教学的議論の流れは、私にはとても高度でわからないことだらけなのですが、ここは素朴な疑問ということで、レスをお許しください。

>「法灯明」の教えは原始仏典にありますし、法華経に於いては、最も強調されている事ですよね。…とあります。「法華経」を信じ持つことが最も重要であるとのことですね。

ここなのですが、いわゆる「原始仏典」に記される、釈迦牟尼仏が説いた「法灯明」の教えとは、「法華経」を信じ持つということだったのか。つまり、「法灯明=法華経を信じ持つ」といえるのか。もしくは、法灯明=南無妙法蓮華経ということなのかという素朴な疑問です。

>仏の教えを説いた経典は、衆生を成道に導くためのものであるとのことですよね。

素朴な疑問なのですが、法華経は仏の教えを説いているものなのでしょうか。
うまくいえませんが、法華経には確かに「仏の教えを説いた経典は、衆生を成道に導くためのものである」と書いてあるとしても、その「仏の教え」が何であるかという具体的な内容に触れてあるものなのかなあという疑問が私にはあります。
もっといえば、先の疑問にも関連して、「仏の教え=法華経」なのか。「仏の教え=南無妙法蓮華経」なのか。もしくは、「仏の教え=法華経を信じ持つ」ことなのかという素朴な疑問です。

>仏法は経典から導き出されるものですから、古より「法」を柱とする精神は変わらないのではありませんか。

法を柱とする精神はそうだと思うのですが、その「法」とは何かということについて具体的に書かれている経典がまさに法華経といえるものなのか?という疑問があります。

>法華経を中心とした仏道修行の重要性が説かれていますね。一言で言えば、「法華経」を通して「釈迦牟尼仏」を拝謁すると言うことでしょうか。

法華経を通して釈迦牟尼仏を拝謁するということは、恐らく法華経という経典を成立させた人々の信仰観だっただろうなあということは想像できるのですが、しかし、逆にそれが拝謁する釈迦牟尼仏の教導せんとする成道の姿といって間違いなのか?という素朴な疑問が出てきました。

すみません。私、よくわかっていませんので、トンチンカンな疑問かもしれません。
要するに、法華経という経典を信じ持つことが、釈迦が説いた法灯明の教えであるのかどうかという疑問ですね。もっと平たく言えば、法華経という経典=法灯明の法、つまり法華経=法なのかという疑問でもあります。
まあ、日蓮の信念と教えはそうだったのかもしれませんけれども…。

960犀角独歩:2003/11/23(日) 13:59

951 愚鈍凡夫さん:

横レスへの横レスです。

> 法灯明

単に法灯明ではなくて、「自灯明・法灯明」が対になっています。
「自らを灯明となし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を灯明となし、法をよりどころとして、他をよりどころとせず、すすめよ」でした。

在世のシャキャムニが、自分のことを拝ませたか? そんなことはなかったでしょう。
ですから、ここで拠り所とされたのは、愚鈍凡夫さんが言うとおり、ダルマ(法)であった、しかし、その法を拠り所とする前提は自分自身が正しく道(どう)を歩むという前提にあったのでしょう。道とはまさに法なのであろうと思います。

滅後、仏教徒である指標とは三帰五戒であって、ここに三宝帰命が仏教徒である証となっていったわけですね。この段階で自灯明の精神が損なわれたかと言えば、わたしにはそう思える節もあります。殊に教団信仰へ転落すればするほど、自己評価を貶めることによって集団・指導者への依存度を増すという“操作”がそこに看取されます。ここでは自灯明というシャキャムニの遺言は影を潜めてしまっています。これではいけないと思うわけです。

> 法華経

『六法全書』を例に採ります。これは法律をまとめたものですが、法律そのものではありません。法律をまとめた本です。
同じように法華経は正法(羅什師が言う妙法)に基づく本ですが、法そのものではありません。経典です。

愚鈍凡夫さんが引用された三品、譬喩品では「此經」、寳塔品では「此經」壽量品では「經典」となっています。“法”ではなく、経典です。実はこの点が重要なのだとわたしは思います。

> 「法華経」を通して「釈迦牟尼仏」を拝謁する

この視点に賛同します。これが要するに「見仏」ということなのであろうとわたしは思います。

少し横道に逸れますが、わたしが法華梵本直訳を読んでいちばん驚いたのは、全編を通じて記されていないことが二つあった点でした。一つは正法と言いながら、その法が何であるのか記されていない、もう一つは仏が「この上なく完全なさとり(阿耨多羅三藐三菩提)に到達したとしながら、このさとりがどのようなものであるの記されいないという二点です。

これを羅什師は諸法実相九如としますが、これは意訳でした。また、智邈師はここを十如三千で湛然師が一念三千としてこれが法であるといいますが、これが羅什師から智邈師、最澄師を経って蓮師受け継がれる台学の有様でした。この系譜にはわたしは大いに異論はあるのですが、ここでは蓮師の素意を考えますので、この異論はさておきます。

梵本法華経で、強調されるのは経典崇拝という一点でした。法華経典を通じて如来を見(まみ)えるという見仏思想です。そして、経巻崇拝はまた菩薩道のなかに摂取されます(法師品「若有得聞是經典者 乃能善行菩薩之道」

ところが羅什師が九如の意訳をなし、ここに新たな教学運動が起こるとそれは一念三千という法華経そのものにはまったくない教学解釈が添加されていくことになります。法華経の中でどこが一番大事なのかという部分論が展開されていきますね。八品だ、一品二半だという話です。さらにそれが題目だと言ったのが蓮師でした。そして、その理由は『本尊鈔』「不識一念三千者仏起大慈悲五字内裏此珠令懸末代幼稚頸」と言い、その題目が大切なのは仏がこの五字に一念三千の珠を裏(つつ)んだからであると蓮師は言って、ここに題目本尊が成立していくのであろうと思います。これまた、余談ですが、漫荼羅は本尊であるというより、その首題・妙法蓮華経の五字が本尊であるというのは押さえるべき点でした。

ここで疑問に挙げるのは、何故釈迦本尊ではなく、題目本尊なのかという点なのでしょう。『本尊問答鈔』が果たして真跡か、という大きな問題は残りますが、「南無妙法蓮華経」は動かし難い事実です。わたしはしかし、福田さんに投げかけた問題点は漫荼羅には明確に「南無釈迦牟尼仏」と記されている、これまた動かし害対事実である、それなのに、なぜ富士門徒はこの点を等閑にするという点でした。

この点は、日蓮本仏論者は避けたい議論のようで、どうも皆さん、議論を横道に逸らしてしまいますね。残念です。

961空き缶:2003/11/23(日) 14:37

犀角独歩さん

→そもそも蓮師真跡上にただ一度も「久遠元初」も「自受用身」も表れないのであってこの点をまったく考証の対象にしないのは、学的に不誠実であるとわたしは思います。

関師もこの点を指摘していました。


→ですから、法は諸仏が師とするところであるけれど、末法衆生が本尊とすべきは題目(法華経典)であるというのが、この鈔の脈絡です。この点を落として、末法無仏・本尊は法としては、蓮師の本尊観と相違するというのがわたしが言いたいことなのです。

法=題目で、どうなのでしょう?それから関師は「自立」の中で独歩さんと全く同じ個所の「本尊問答抄」を引用されています。

松戸氏の所論には、同感できる部分も多いといった評価ですが、全面的に賛同しているわけではなさそうです。

962犀角独歩:2003/11/23(日) 14:51

アネモネさん:

横レス失礼します。

“法”ということなのですが、どなたが、どの著述で明言していたことなのか失念したのですが、読書で頷いたことがあります。

それは仏法と仏道は同じ意味であるということでした。
つまり、法は道(どう)であるというのでした。

まあ、インドなどでいうダルマ(ダンマ)は実に多義に亘る意味を凝らした語であって、上述の限りではないですし、それは中国から日本への伝播、三国における内観分析や、羅列主義とも映ずる論の展開でますます煩瑣の度合いを増していきました。

こうなってくると、法とは何なんだか、わけがわからなくなってきます。
法華経で言う、正法(サ・ダルマ)、妙法などと言い出すとますますわかりませんね。
960にも記したとおり、それが何であるのか、まるで説かれていないと見えるのが法華経だからです。

けれど、法と道、より正確に言えば、法の実践が道なのではないのかと、わたしは考えて見ることにしました。こうなると、法は道(実践)のなかでしか見えませんから、そもそも別に論じること自体意味をなさないことになりますね。

この視点で、もう一度、法華経を読み直します。すると、法華経の中にまざまざと浮かび上がる“法”があります。何でしょうか。おわかりになると思います。「菩薩道」です。つまり、法華経の中に説かれる正法とは菩薩道であると見ると、この経典が元来、言おうとしていた意味が初めて見えてくるとわたしには思えるわけです。

難信難解だというのは、法をこねくり回し、わけをわからなくしてきた解釈にその原因があったのではないのか、遮蔽物となっていたのは一念三千という解釈にあったのではないのかというのが、最近、夙に思うところです。

963犀角独歩:2003/11/23(日) 15:11

961 空き缶さん:

> 法=題目

そうですね。
でも、蓮師は末法衆生は題目が法であることがわからない前提で題目本尊を立てていると、わたしは指摘したわけです。繰り返しになりますが、「不識一念三千者仏起大慈悲五字内裏此珠令懸末代幼稚頸」です。

一念三千を教学的に勉強してくると、これがどうやら法のことらしいというのは誰しも考えるようになります。でも、本当に一念三千の意味がわかる人がいるのでしょうか。もっと言えば、蓮師の立場は一念三千という法は末法衆生にはわからない、だから題目だということではないでしょうか。

だから、諸仏は法を師とできるけれど、末法衆生には題目であるという相違を、蓮師は言っているとわたしは拝しているわけです。

964ガンコ:2003/11/23(日) 15:40

>わたしはしかし、福田さんに投げかけた問題点は漫荼羅には明確に「南無釈迦牟尼仏」と記されている、これまた動かし害対事実である、それなのに、なぜ富士門徒はこの点を等閑にするという点でした。

>この点は、日蓮本仏論者は避けたい議論のようで、どうも皆さん、議論を横道に逸らしてしまいますね。残念です。

いやいや、独歩さん、そんなことありませんよう。
だいたい、富士門徒の中には、何を血迷ったか、大聖人の御曼荼羅にイエスが認められても問題ない・・・みたいなことを言う人だっているんですから、順番から言えば釈尊が筆頭であって、それは「動かしがたい事実」でしょうし、べつに避けているわけではないと思います。
問題はいわゆる造像にあるわけで、曼荼羅正意の立場から申せば、それだけは避けたい・・・仏像は拝みたくないわけです。
遥拝勤行はべつとして、じっさいに御本尊の御前で勤行するばあい、まさか、南無釈迦牟尼仏だけ見ないようにする・・・というか、もう、そうなると、御本尊自体拝めなくなっちゃうわけですから、それはおかしな話でしょう。まさか、文字通りの題目本尊・・・つまり、南無妙法蓮華経だけ認められた御本尊を拝む・・・って、こうなると大石寺の御本尊を否定することになってしまうし・・・ですから、べつになおざりにはしていないのです。

おそらく、
「法華経の寿量品に云はく『或は己身を説き或は他身を説く』等云々。東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏、上行菩薩等、文殊師利・舎利弗等、大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星、阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国々の主とある人何れか教主釈尊ならざる。」(日眼女抄)

とあるし、また、開目抄には、
「華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をば、その経々の仏・菩薩・天等守護し給ふらん。疑ひあるべからず。」(切り文)

とありますから、極論すればイエスもあり? なんでしょうかね。ご本人に聞いてみないとわかりませんが・・・

965空き缶:2003/11/23(日) 16:18
犀角独歩さん

恐らく、関師の諸説は独歩さんも共感されることと思いますよ。

→でも、蓮師は末法衆生は題目が法であることがわからない前提で題目本尊を立てていると、わたしは指摘したわけです。繰り返しになりますが、「不識一念三千者仏起大慈悲五字内裏此珠令懸末代幼稚頸」です。

はい、この通りだと思います。つまりわからなくても問題ないということなんだと思います。

福田さんにメールで問い合わせましたが、関師や法華堂の出版物は現在「私の中の仏」「自立」「発想の転換」「法華思想の再生に向けて」「信ずるということ」の5冊のみです。
5冊とも30Pから100Pほどの書籍です。したがいまして、この中だけで判断すると矛盾も多くみられますが、書籍になっていない部分も含めれば恐らくそれなりの理論構築は出来ていると思われます。
この辺は、やはり法華堂信仰者の福田さんからの情報に頼るしかないと思います。

966犀角独歩:2003/11/23(日) 16:32

964 ガンコさん:

引用している「日眼女抄」とは板漫荼羅が造立されたとなっている弘安2年に記された『日眼女釈迦仏供養事』の御文ですね。

「三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女…教主釈尊をつくりまいらせ給ひ候へば、後生も疑ひなし…女人の中の第一也」

と釈迦仏像を造ったことを蓮師が褒めちぎる書です。ですから、引用される箇所も、漫荼羅の記述ではなくて、その結論部は「釈尊一体を造立」に掛かっています。つまり、仏像についての記述です。それで、

> 仏像は拝みたくないわけです

たとえ、蓮師の真跡であっても、仏像は拝みたくない、祖師の教義を枉げてもそこまで言いますか。考えさせられるところはあります。

ガンコさんとは関係ありませんが、この書の記述は、像非派は信仰のない日眼女に方便で仏像を認めて書いたものなんて、解説しています。ここまで自分の祖師を愚弄した話もないと呆れるわけです。

参考にお聞かせいただきたいのですが、ガンコさんには「南無釈迦牟尼仏」の帰依があって、漫荼羅を本尊と拝んでいらっしゃるのでしょうか。この点が、わたしの福田さんに投げかけた質問の焦点です。また、なぜ仏像を拝みたくないと自分は考えているのか、いつそのように刷り込まれたか、その経過はどんなあんばいであったのでしょうか。差し支えなければ、お聞かせください。

967犀角独歩:2003/11/23(日) 16:34

空き缶さん:

> 恐らく、関師の諸説は独歩さんも共感される

そうですか。わたしは読みもしないで記しているだけですからいけません。
機会があれば、関師のものは読んでみようと思います。

有り難うございます。

968ガンコ:2003/11/23(日) 17:54

独歩さん

>と釈迦仏像を造ったことを蓮師が褒めちぎる書です。ですから、引用される箇所も、漫荼羅の記述ではなくて、その結論部は「釈尊一体を造立」に掛かっています。つまり、仏像についての記述です。

これですが、わたくしは曼荼羅だと考えたんです。ちょっと前に独歩さんがおっしゃっていた総帰命の根拠がこれではないかと。

で、仏像を嫌う理由ですが、この半年ばかりいろいろ考えてきて、わたくしは“大聖人の御意に叶う仏像本尊は存在しないし、今後も出現しない”というしかないと思っております。
つまり、「一閻浮提第一の本尊」ははたして造立されたのか? もし、造立されなかったのであれば、もはや大聖人がましまさない以上、どうしようもない、ということです。
それこそ、四菩薩に相当する人が出てこないとムリですし、もっといえば、わたくしは四菩薩とて仏像本尊は造れない、と考えました。

「我が弟子之を惟へ、地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり。寂滅道場にも来たらず双林最後にも訪はす、不孝の失之有り。迹門の十四品にも来たらず本門の六品には座を立ち、但八品の間に来還せり。」

地涌千界は久遠の弟子であって、久遠実成の釈尊にまみえる時間はそれこそ長遠であったろうから、その方たちがお出でになって仏像を造れば、印度の釈尊ではなく、法華経の中の釈尊をお造りになられるかもしれません。しかし、それは“仏”のすがたではなく、じつは“法”なのではないか・・・という風に考えるのですが、未だじぶんのなかでじゅうぶんにまとまっていません。まだまだ、時間がかかりそうです。
少なくとも、大聖人は守護国家論で「今は法華経の中の仏を信ず」と仰せであって、御自らはもっぱら御文字でもって御本尊を御認めであられます。よって、それを法華経の中の仏と認識しております。当然、南無釈迦牟尼仏に異論はありません。

なお、日眼女抄の問題は、半年ほど前に考えをまとめようとしていたのですが、途中で挫折しました。(本仏論のスレッドに無残な記録が残っています)

969愚鈍凡夫:2003/11/23(日) 19:22
うわっ! 知らんまにレスが進んでる。 (;^_^A アセアセ…

アネモネさん、説明不足のようでした。
単に「法灯明」と記したのは、釈迦牟尼自体が「法」を重要視したということを言いたかったからです。
「法華経」は、蓮祖に最も関係深い経典なので引用しました。
言いたかったことは、「法華経」を含む経典に説かれる「法」こそが「柱」である。ということです。

「諸譱男子。如來所演經典。皆爲度脱衆生。(諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり)」(妙法蓮華經如來壽量品第十六)

犀角独歩さんのレスと重複しますが(犀角独歩さんレス有り難うございます)、
この一節に、釈迦牟尼仏亡き後の、弟子たちの想いを感じます。というより、ここの部分が「此の経」ではなく、「経典」とあることに、好意を持ったと言ったほうが正確でしょうか。
この「経典」とは、「法華経」のみを指すのではないと思います。
先のにも述べましたが、「仏法」は「経典」から導き出されるものだと思うので、「経典」の中に仏陀を観じ、「経典」の指南を仰いで仏道を求めるというのが仏教のスタンスではないかと思います。

970犀角独歩:2003/11/23(日) 19:26

968 ガンコさん:

『日眼女釈迦仏供養事』の該当部分は間違いなく、仏像についてです。

> 「一閻浮提第一の本尊」ははたして造立されたのか

これは造立ではないでしょうね。「可立」です。

> 法華経の中の仏

ここでもガンコさんは勘違いしているでしょう。
「法華経の中の仏」とは権大乗を簡んで、本門寿量仏を言うわけです。
法華経が文字で書かれているから仏は文字で、法であるなどということではありません。蓮師はこれを本門本尊と言い表した。その相貌は文字であれ、仏像であれ、意味するところは同じです。寿量品の意義を具えた仏格をとらえるかどうかにあるわけでしょう。

> 四菩薩とて仏像本尊は造れない

この根拠は何ですか。
一つ、しっかりと富士の勝手な言い分を一つ、わたしは指摘しておきたいと思います。
仏の相貌は文字でしか表せないというのは勝手な憶測です。
わたしは文字ですら表せるはずはないと思いますよ。
絵像、彫像にはたしかに表現の限界があるでしょう。けれど、文字も同様です。
我々は漢字文化圏の人間だから漢字で書かれた漫荼羅の諸尊・聖衆のだいたいの意味はわかります。しかし、漢字がわからない文化圏の人からすれば、絵よりさらに漢字で書かれた漫荼羅は何がなんだかわからないのです。

あと、一点、蓮師の教学を考えるうえで、絶対に落としてはいけないことがあります。それは「結縁」ということです。例えば、法華経がある。法がある。それがあれば、衆生が成仏するかと言えば、しないわけですね。もっとも必須条項があるわけでしょう。それが結縁です。たとえば、極楽でも法華経の説法は阿弥陀如来はするでしょう。でも、その阿弥陀如来の説法を我々が聞いても成仏しない。何故か。それは阿弥陀如来は娑婆世界の我々とは無縁の仏だからです。我々と有縁の仏は釈迦如来のみです。ですから、釈迦如来との結縁を得て、釈迦如来の法華経を聞き、結縁の次第を覚知しなければ我々は成仏しないというのが蓮師教学の根幹です。「念仏無間」とは、そのような結縁の次第から他仏へ情を寄せる過ちを突いたものであるわけです。法だけでは成仏はありえない。そこには結縁の仏とその導き手の菩薩(僧)が必要である。ここのところの議論は、この「結縁」という重大事が欠落しているとわたしは思うわけです。まあ、この点はガンコさんに記すところではないかも知れません。福田さんに申し上げたいことでした。

971ガンコ:2003/11/23(日) 20:49

>一つ、しっかりと富士の勝手な言い分を一つ、わたしは指摘しておきたいと思います。

あら、うれしい。わたくしって、けっこう富士の立義にかなっているみたい。

972ガンコ:2003/11/23(日) 21:02

>なぜ仏像を拝みたくないと自分は考えているのか、いつそのように刷り込まれたか、その経過はどんなあんばいであったのでしょうか。差し支えなければ、お聞かせください。

話が前後しますが、顕正会においては入信のおり、会長の指導が読み上げられます。(前にどなたか書いていました)
で、その中に、「一念三千を識らざる者には・・・」の御文があって、ようするに、ここで言う仏は日蓮大聖人であり、大聖人が御本尊を我々に与えてくださる、言うような意味に捉えるわけです。
それ以外はすべて謗法であると・・・
まあ、こういうことを教わってしまうと、特に若いうちは一般教養もありませんので、そのとおりに受け取ってしまうでしょう。
わたくしだって、つい数年前までは、まったく疑うことはありませんでした。
これを刷り込みというのであれば、まあ、そうなんだろうと。

973愚鈍凡夫:2003/11/23(日) 21:31
ガンコさん。
以前、ガンコさんと「本尊」について議論したことがありましたよね。
その時、川蝉さんや問答迷人さんから御指南を受けました(この場を借りてもう一度お礼申し上げます。有り難うございました)。

その時、小生は蓮祖の「本尊」に3通り(仏像・絵曼陀羅・文字曼荼羅)の可能性があると言ったと思いますが、その考えは今も変わっていません。
実は、この考えを小生に与えたのは「本尊集」です。同じ人が顕した漫荼羅であるのに、それぞれ相貌が違うのは何故だろう・・・・・、これが最初の一歩でした。
そして辿り着いた結論が、蓮祖はその時々の想いに任せて曼陀羅図顕したのではないだろうか・・・・・、ということです。このことは、蓮祖が本尊の形に拘っていなかったのではなかったかとの考えを小生に与えました。
もし「勧請」という言葉が許されるのなら、「法華経の題目」がその本尊に勧請されているのか? ということが蓮祖にとって重要だったのではないでしょうか。仏像に法華経を添えるのはまさにその意義だと思います。

現状の考えを率直に言えば、「法華取要抄」にある

「問て云く、如来滅後二千余年竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや。答て云く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。」

とは、所詮「題目の五字」に集約されるのではないかというのが現時点での結論です。

974ガンコ:2003/11/24(月) 03:03

愚鈍凡夫さん

ひじょうに難しいところでして、わたくしも考えを改めないといけない点がたくさんある、と思ってますけど・・・

まあ、お説にそって申すならば、大聖人の御曼荼羅はそれぞれ相貌が異なるといえども、あくまで南無妙法蓮華経が中心であるってことでよろしいかと思います。
しかし、取要抄のいわゆる三大秘法のご教示はどうなんでしょうかね。題目の五字に集約されるとおっしゃるけど、これを本門の題目に集約・・・と言い換えると、ちがうのでは?っていう気がします。
ここで、本尊問答抄の「題目を本尊」とする旨のご教示が入ってくるとわけがわからなくなる・・・ようするに本尊というのは“仏”だという考えがやはり有力だからなわけで、これが本尊問答抄を疑う理由かもしれません。
まあ、わたくしはこうした煩瑣なことをひっくるめて曼荼羅正意としてしまうのがわかりやすいと思うのですが、まだまだいろいろ考えなければならないところがあるようです。

話は変わりますが、愚鈍さんって、おふざけの時とまじめの時のギャップが大きい。

975犀角独歩:2003/11/24(月) 03:20

ガンコさん:

本尊は仏、ぜんぜん有力ではありません。大いに勘違いです。

976犀角独歩:2003/11/24(月) 13:21

本来であれば「つぶやき」に書くべき内容ですが、資糧手放しで少しだけ。

○題目本尊は真跡か?
 法勝人劣ではない経勝劣仏は蓮師説か?

『本尊問答鈔』に「本尊とは勝れたるを用ゆべし」といい、ここに“法華経勝釈迦劣”を明記されています。これは法華経は“父母/釈迦は子”という対比でもあります。(法勝人劣ではなく、あくまで法華“経”勝釈迦劣)
同鈔は本当に蓮師の真筆なのか、わたしはいまだに決し難いところはあります。

その直後、禄内『千日尼御前御返事』(第四書)(青鳧書)にも「仏は子也、法華経は父母也」という一節が見られ、ここでも法華は父母/仏は子という考えが記されています。

両書ともたしかに禄内であって、その信憑性は真跡存に匹敵すると考えられるところですが、『本尊問答鈔』が記されたとされる弘安元年以降の、蓮師の本尊に関する記述を追うと、しかし、法華経勝釈迦劣を殊更論う記述に当たることができない不釣り合いを感じるのは事実です。

ただ例外的に真跡『上野殿母尼御前御返事』弘安3年(1280.10・24)「諸仏の御本尊とし給ふ法華経」という記述は一カ所見られます。けれどここでは馬鳴の故事を挙げるこの記述は 法華経は父母/諸仏は子 というに留まります。真跡で見る限り、題目本尊という線はまるで浮かんできません。

なお、『本尊問答鈔』で記される法華経題目本尊とは“蓮師の本尊観ではなく、あくまで天台宗の本尊観”として記されている点に、殊更わたしは着眼しています。

なぜ、着眼するかと言えば、智邈/灌頂/湛然など中国天台宗の文献には、そもそも「本尊」語の使用がまったく見られないからです。それにもかかわらず、その台家道場に置く法華経を「本尊」という記述は史実に違反すると見えるからです。

わたしが何より題目本尊に疑問を懐くのは、三つの法門(本門本尊/本門題目/本門戒壇)において、本尊と題目を分け立てているのに、なぜ題目を本尊というのか、という疑問でもあります。題目が本尊であれば、この三つは分けて論じる必要はないことになるからです。

また写本遺文で見ると実に早い時期から題目本尊が記されている“ことになっています”。例えば、『唱法華題目鈔』では文応元(1260.05・28)の時点で「本尊は法華経八巻、一巻、一品、或は題目をかきて本尊と定むべし」また、『妙法曼荼羅供養事』文永10(1273)「妙法蓮華経の御本尊供養」、『本尊供養御書(報南条平七郎書)』建治2(1276.12)「法華経御本尊供養」、『法華初心成仏鈔』建治3(1277)「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ」などと『観心本尊鈔』の寿量仏・久遠釈尊本尊観を跨ぎながら、題目本尊観が散りばめられていきます。

いわば、題目本尊観は、むしろ写本遺文、殊に真偽未決書に見られる特徴のように思えます。

しかし、以上のように記せば、ガンコさんが挙げた疑問の如く、ではなぜ漫荼羅は題目を中心に図示されているのか、中心が題目であれば題目本尊ではないのかという反論は当然、起こることになるでしょう。

この時点で、わたしは像非家が常に見ないようにする点、すなわち蓮師の一体仏随身の事実を挙げることになります。

『清澄寺大衆中』に「日蓮が御本尊の手にゆい(結)つけていのり」という場合の本尊は間違いなく釈迦仏像を言うものでしょう。

977犀角独歩:2003/11/24(月) 13:22

―976からつづく―

○本尊は仏とは限らない

真跡を具に見ると、蓮師は本尊という語を仏に限って使っているわけではありません。

「此れ等の人々を絵像木像にあらわして本尊と仰ぐ」開目抄
「智証大師の本尊慈氏菩薩」報恩抄

この点は写本遺文においても同様です。

「達磨大師を本尊とする」諸宗問答鈔
「畜類を本尊として男女の愛法を祈り」是名五郎太郎殿御返事
「漢土の道士悦をなして唐土の神百霊を本尊としてありき」四条金吾殿御返事
「儒家には三皇、五帝を用て本尊とする」本尊問答鈔
「達磨を本尊」新池殿御消息

そして、その類型の一つとして法華経本尊という特異な記述も見られることになります。しかし、なぜか日蓮本仏圏では本尊といえば仏、本仏であるという暗黙の決めごとに存しているように見受けます。

これはまた、有師などの日蓮“本尊”論の誤謬とも大いに関連していると、わたしは観察するわけです。
有師が「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」というとき、蓮師を仏と言っているわけではありません。それは次文を見れば明らかです。「未断惑の導師を本尊とする」と明らかです。

ところが、勝れた、それも仏を本尊とするという刷り込まれた固定観念がある場合、元来、日蓮本尊は、ただちに日蓮本仏と解釈されることになります。これしかしながら、まったく短絡です。有師の脈絡は人師本尊から日蓮本尊を言っているものでした。

以上の誤謬は、いわゆる凡夫本仏論にもたしかに踏襲されているとわたしは見ます。
ここで凡夫本仏と言わず、“凡夫本尊”を言うのであれば、元来の富士教説と矛盾を来すことはなかったように見えます。

本尊といえば、仏、それもいちばん勝れた仏・本仏という論法が、人法一箇・日蓮本仏論を生んでいった躓きであったとわたしは観察しているわけです。

978ガンコ:2003/11/24(月) 14:49

相変わらず難しいですなあ。

ところで、清澄寺大衆中の「御本尊」は虚空蔵菩薩のことであるって、どこかで読んだ気がするのですが、う〜ん、いかがでしょうか?

いま、該当部分を大急ぎで読んでみたけど、よくわからない。はっきりしているのは、曼荼羅ではないこと。(当たり前か)

979犀角独歩:2003/11/24(月) 15:18

愚鈍凡夫さん:

横レス失礼します。

> 「法華経の題目」がその本尊に勧請されているのか

というより、法華経題目を証明(しょうみょう)
するために勧請の意を籠めて諸尊聖衆をそこに列挙したとは見られませんか。

980犀角独歩:2003/11/24(月) 15:41

ガンコさん:

清澄寺の本尊は不思議法師が彫った虚空蔵菩薩像ではありませんでしたか。
それが虚空蔵求聞持法を蓮師が修したとき、生身(しょうしん)で現前し、智慧の宝珠を賜った、こうなっていくのでしたね。

像に刻まれた菩薩様は、生身(なまみ)で現れる、ここら辺のコンセプトが仏教説話であると思うわけです。

981ガンコ:2003/11/24(月) 16:53

あっ、いやいや独歩さん。

わたくしの申し上げたかったことは、清澄寺の本尊ではなく、独歩さんがお引きなさった清澄寺大衆中の本文に出てくる「日蓮が御本尊の手にゆいつけて」云々は、釈尊像ではなく虚空蔵菩薩像ではなかったか・・・ということなんです。
確信があるわけではないですが、そのような記述をどこかで見たような見ないような・・・

982れん:2003/11/24(月) 18:20
横レス失礼します。

独歩さん。問題の「本尊問答抄」は日興上人と実相寺日源師の写本が現存します。日興上人の書写のものは重須本門寺蔵で、「法華本門本尊問答抄 日蓮撰」と記されています。御筆写真が「図録日蓮聖人の世界」に掲載されています。興師写本に日蓮撰と明記されているので、本尊問答抄が蓮師の著作であることは動かしがたい史実と私は考えます。

983れん:2003/11/24(月) 19:05
あと、唱法華題目抄ですが、蓮祖真筆の「南条兵衛七郎殿御書」の第二紙・第三紙に日興上人が細字で行間に唱法華題目抄を書写されており(日蓮聖人真蹟集成第四巻所収)、唱法華題目抄も、蓮祖真撰で間違いないでしょう。以上討論のご参考までm(__)m

984愚鈍凡夫:2003/11/24(月) 19:37
うわっ!!また置いて行かれてる・・・・・。ヾ(;´▽`A``アセアセ

>>974:ガンコさんへ。

「問うて云く如来滅後二千余年竜樹天親天台伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(「法華取要抄」 学会版P336)
の一節について、何故「題目の五字」に集約されるとの結論に達したかといえば、

「在世の本門と末法之初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此れは種也。彼は一品二半、此れは但題目の五字也」(「観心本尊抄」 昭定P715)
「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(「法華取要抄」 学会版P336)
「権経流布せば実経流布すべし権経の題目流布せば実経の題目も又流布すべし」(「撰時抄」 学会版P284)
「日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は諸天世間の眼にあらずや」(「諫暁八幡抄」 学会版P582)
「一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広なり、方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり、担一四句偈乃至題目計りを唱えとなうる者を護持するは要なり、広略要の中には題目は要の内なり」(「法華経題目抄」 学会版P942)
「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり、而るに今時の学者時機に迷惑して或は小乗を弘通し或は権大乗を授与し或は一乗を演説すれども題目の五字を以て下種と為す可きの由来を知らざるか」(「曾谷入道殿許御書」 学会版P1027)

これらの文証に題目の重要性が説かれているからです。
これらの文証から推察すると、蓮祖は題目の流布を主眼に置いていたのではないでしょうか。現在では、創価学会の戸田さんの影響か、「一家に一台。幸福製造機」といった感じで、漫荼羅流布が主眼のようにされていますが、これは、蓮祖の考えではないと思います。
勿論、紙を入手しにくい時代であったから、信者全員に漫荼羅授与できなかったという事情もあるでしょうが、やはり先の文証を読み返すと、主眼は漫荼羅授与ではなく、唱題行の流布であったと思えるからです。

985愚鈍凡夫:2003/11/24(月) 19:47
>>979:犀角独歩さんへ。

> というより、法華経題目を証明(しょうみょう)
> するために勧請の意を籠めて諸尊聖衆をそこに列挙したとは見られませんか。

捉え方が逆だということですね。
小生の場合、仏像も蓮祖の本尊構想の中にあると思っていますから、先のようなレスになりました。
御教示有り難うございます。

986犀角独歩:2003/11/24(月) 20:32

981 ガンコさん:

そうですか。
これは迂闊な発言をわたしはしましたね。
もう少し、詳しく記していただけませんか。

987犀角独歩:2003/11/24(月) 20:33

982,983 れんさん:

有り難うございます。
ロムをいただいていたどうか存じませんが、昨年の夏から冬に掛けて、『本尊問答鈔』の真偽問題は大いに涌いた話題のひとつでした。そのなかでわたしは、興師写本自体に疑義を立てました。理由は、れんさんも記された『唱法華題目抄』にしても、なぜ興師に係るところで題目本尊論が展開されるのかという点からの疑問でした。これは日蓮上行論をはじめて載せると思われる『頼朝陳状』がまたそうでした。すなわち、富士義となる題目本尊、あるいは日蓮上行は興師写本から導き出されるのはなぜか、極端な話、興師の偽託の可能性も視野に入れるべきではないのかというのがわたしの主張したことでした。もちろん、その主張にしがみつこうというものではありません。
以下、当時、『本尊問答鈔』について、輝師『本尊略弁』から議論が生じ、それについて、現時点さんが以下のような資料を提示してくれたことが際だっておりましたので、転載させていただきます。

*** 以下転載 ***

『日有上人による石山教学の展開』

52 名前: 現時点 投稿日: 2002/08/04(日) 11:51

「日蓮聖人の本尊観について」において、元初仏・先仏等の重要な議論が展開中ですので、「本尊問答抄」の位置づけに関して、ここに記します。

望月歓厚師「日蓮聖人の本尊について」から

「本尊問答抄は、法本尊のもっとも明瞭な依文である。特に、仏本尊を否定して「教主釈尊を本尊とす、法華経の正意にはあらず」といい、「法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり〜ゆえに、能生をもって本尊とするなり」とて、諸仏所師所謂法なりの義である。本抄は、古来紛々の論議を重ねて対告は清澄の浄顕房義城房等なるによって所論は権実相対の重に止まり、未熟の機である真言教徒に対して、しばらく権仏に対して法本尊を示したるのみと会通するは「本尊略弁」である。しかるに、本抄に先だち建治二年七月同じく清澄の大衆に示して、道善御房の墓前に一遍読み、その後は度々読み合わせよと教示された「報恩抄」の明瞭な仏本尊との相違をいかに解釈すべきか。同一授与者に二年後には全く反対な指示を与えたとは考えられないではないか」と記述されています。

『日蓮聖人の本尊観」

68 名前: 現時点 投稿日: 2002/08/03(土) 07:44

独歩さん

本尊問答抄について 少々

浅井要麟師は「日蓮教学の研究」で、p138に「聖人は自ら建立された本尊の実体を説明して、本尊抄、報恩抄、開目抄等には「寿量品の仏」といい、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」等といって、明らかに人格的仏陀として解説されている。

しかるに本尊問答抄には徹頭徹尾「法華経の題目をもって本尊となすべし」といい、明確に法格的本尊なることを断言されている。

p117で「優陀師は、この背反関係について、対告衆である浄顕坊、その機いまだ生しきがゆえに、ただ権実相対の一辺を示して、真言諸家の本尊を破し、通途の天台法華の法相を述べたまう。要するに浄顕坊に対する誘引の意図に成ったものという会通できある。」

「私はその会通上の理論においてにわかに首肯しがたいものである。
浄顕坊は機根未熟なりといわれるが、これより先建治2年には同じ浄顕坊に対して報恩抄を送られている事実がある。その中に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と、明らかに聖人本懐の本尊観が指示されているのである。それより3年後に同じ浄顕坊に送られた本尊問答抄において、機根未熟のゆえに法本尊観を説かれたとは領解に苦しまざるを得ないのである。」

とあります。ご参考まで。

本尊問答抄について  小林是恭師 大崎学報
「本尊問答抄にはその筆述の年次が記されていない。先師の所説は概略以下のごとくだ。
建治元年7月13日  久遠成院日親の本尊相承抄 本尊論資料2の18
弘安元年       諸註書、諸目録、諸板本
弘安5年       日尊写本奥書=日蓮宗年表  常師筆跡
縮冊遺文の本抄末に岩本実相寺に正応3年(聖人滅後9年)7月15日に転写したという  日源
日興上人の写本が重須本門寺にあるという *** 転載おわり ***

988犀角独歩:2003/11/24(月) 20:34

985 愚鈍凡夫さん:

> 仏像も蓮祖の本尊構想の中にある

このお考えにはわたしも賛成です。

989愚鈍凡夫:2003/11/24(月) 22:38
横レス失礼します。
ガンコさんこんな資料がありますよ。

「小櫃川源流と清澄寺」
http://guncyan.k-server.org/iitoko-kiyosumikouyou.htm

「日蓮聖人「立教開教」と虚空蔵・妙見尊の関係」
http://www.d1.dion.ne.jp/~janis/9-8-1.html

「日蓮聖人「立教開宗」における 妙見尊と虚空蔵菩薩の関係」
http://www.d1.dion.ne.jp/~janis/kenkyu1.html

「鉱山と深い関係 妙見尊、虚空菩薩 祀る寺社」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/paper/1998/98080101.htm

990アネモネ:2003/11/25(火) 02:31
またまた横レス失礼いたします。

>962 犀角独歩さん

レスありがとうございます。

>仏法と仏道は同じ意味であるということでした。つまり、法は道(どう)であるというのでした。…法華経の中に説かれる正法とは菩薩道であると見ると、この経典が元来、言おうとしていた意味が初めて見えてくるとわたしには思えるわけです。

正法の体感や体現ということになると、なにか捉えどころがなく、仮に「悟った」といったところで、どことなく眉唾ものに思えてなりません。
しかし、仏道ということになると違ってきますね。個人の解脱に留まらないという「菩薩道」を志して実践するところに「正法」があるということであるならば、私は信じたいという気持ちにもなります。

実は、この掲示板に参加したとき、独歩さんがしきりに菩薩という言葉をレスされていたことが、とても印象的に感じました。ところがお寺での説教を振り返ると、菩薩ではなく、むしろ凡夫という語彙のほうがよく聞かされていたように思うのです。
また、何が仏道(菩薩道)なのかということにおいても、お寺では、この法を広めること、つまり折伏(勧誘活動)が仏道(菩薩道)だと教えられていたように思いますね。
pundarikaでも書いたことですが、私はそのことがやはり釈然としないんです。

正法は仏道であると言える。そして、法華経の中に説かれる仏道とは菩薩道のことであり、つまり正法とは菩薩道であるともいえる。
しかしお寺の教えにのっとって、菩薩道は正法を広めることといえる…となれば、菩薩道は菩薩道を広めることという、なんだか堂々巡りに思えてしまいます。
菩薩道の実践=菩薩道の広報宣伝と、置き換えられていいものなのか、ここも素朴な疑問ですが、法華経に説かれてることとは、結局そういうことなのでしょうね…。
なんか、ここにある種の限界を感じてしまうところです。
法とは何かがわからないのと同じく、菩薩道とは何かがはっきりしていないようにも思えるところです。

991アネモネ:2003/11/25(火) 02:45
愚鈍凡夫さん

ご返信ありがとうございます。

>言いたかったことは、「法華経」を含む経典に説かれる「法」こそが「柱」である。ということです。

いずれのお経も、また釈尊の教説においても、「法」を拠り所とすることが柱になっているということなのでしょうね。
しかし、その「法」っていうのが、なんだかよくわからないんですよね。せいぜい私に理解できるところは、自然の摂理くらいのもので、そんなことを感じる中に、不思議とも思える「法」らしきものを考えることはありますが、だからといって法を悟ったなどと思えるものではありません。
唱えていれば、それが悟れるというのも、よくわからない。(←これは、私のつぶやきです)
確かに日蓮さんは悟ったのか、戸田さんが悟ったのか、池田さんが悟ったのか、それだってわからないことですね。悟った気になっているだけかもしれません。
ただし、やっぱり悟っていようが悟っていまいが、菩薩道に目覚めた姿には、仏をみる思いがするだろうなあと思います。日蓮さんに菩薩や仏を見る思いがするのは、まさに法華経を通して「菩薩道に目覚めた姿」を感じるからなのだろうと思います。
もはや私とて、日蓮さんの限界も認めているところですが、菩薩道に目覚めた人であっただろうなあと今でもそこは敬慕するところです。

>この一節に、釈迦牟尼仏亡き後の、弟子たちの想いを感じます。というより、ここの部分が「此の経」ではなく、「経典」とあることに、好意を持ったと言ったほうが正確でしょうか。

なるほど。
独歩さんのレスにもありましたが、「見仏」への思いが、法華経全体に通じるコンセプトなのかもしれませんね。それが、菩薩道への発心となるものなのかもしれません。
そのあたりの心情について、法華経を成立させた人々の切なる思いに心を合わせてみると、法華経が示す独特の強い精神性というものも想像できます。
なにより、仏を讃嘆し求める思いの強さにおいては、ものすごいものが感じられますね。

>先のにも述べましたが、「仏法」は「経典」から導き出されるものだと思うので、「経典」の中に仏陀を観じ、「経典」の指南を仰いで仏道を求めるというのが仏教のスタンスではないかと思います。

確かに仰る通りなんでしょうね。
だけど、私には、やっぱり素朴な疑問がまだ少し残るのです。
仏を求めるが故に、経典の指南を仰ぐことは決して間違いではないでしょう。
しかし言葉をかえて、仏法とは経典からしか導き出されないものなのでしょうか。経典が仏法の全てなのかという疑問でもあります。
お釈迦さまは、自分の肖像はもちろんのこと、説いたことさえも文字として残すことを認めていなかったとも聞きます。
もちろん、結果的にはお釈迦さまの意に反して、多くの教えが文字に記されたことで、現代に生きる私たちもその心を探ることが出来ているわけですが、しかし本当に拠り所とすべきは、経典そのものではないんじゃないのかなあって思うんですね。
お釈迦さまが説いていないことまでも、釈迦の名によって記されたものもあるようですし。
その正邪を判断する自分というものが、しっかりしていなければならないだろうと思います。それが、自灯明ということでしょうか。

また、間違っているかもしれませんが、愚鈍凡夫さんも尊敬されているマザー・テレサですが、恐らく経典を全く知らないはずなのに、私としては、彼女の行動こそ菩薩道そのものではなかったかと思えてしまうんですね。きっと愚鈍凡夫さんも同じように感じていらっしゃることと拝察いたします。

議論を飛躍させて申し訳ありません。また本題から横道にそれてしまって恐縮ですが、これも素朴な疑問ということで、お許しください。

992犀角独歩:2003/11/25(火) 12:39

990 アネモネさん:

このスレッドは「素朴な疑問」。当然の決めごととして了解してきたけれど、実は解けていない素朴な疑問にこそ、実は自分の信仰の落とし穴が潜んでいたのではないのかと思う昨今です。

> 菩薩道は正法を広める…菩薩道は菩薩道を広める…堂々巡りに思えてしまいます

堂々巡りですか。そう見えるかも知れませんね。けれど、法華経では五十展転随喜は重要なテーマでした。絶えざる精進の道を歩むことなので、堂々巡りになっては、むしろいけないのでしょう。

> 菩薩道の実践=菩薩道の広報宣伝

広宣流布という言葉はいまで言えば、広告宣伝にいちばん近い言葉かも知れません。もちろん、商業的な意味合いを抜いた場合です。ですから、類似語である広報宣伝…広く報じて宣(よ)く伝える…意味も準じているとわたしも考えます。

ただし、法華経のなかで弘法は大きなテーマですが、それだけではありません。
六度(布施・持戒・忍辱・精進・禪・智)が具体的な道として示されています。
布施とは自分の功徳を我が菩提の資糧とせず、衆生に施すことでした。それは戒を持(たも)ち、堪え忍び、精進し、深い禅定と智慧を修することによって実践されるということでした。この布施行のなかにこそ弘法が含まれるのであるとわたしは思えます。
いまの時代、ボランティア、福祉、社会還元などという考えは一つも新しいものではなく、既に実践されていることです。けれど、いまから2000年昔、このような福祉が既に主張され、実践されていたことにわたしは驚きを禁じ得ないのです。

ここのところ、蓮師三宝義を論じるに、仏(釈尊)・法(妙法)・僧(四菩薩)と、僧は菩薩という伏線で記してきました。これしかし、法華経成立当時、菩薩は上座部その他の寺院に籠もる僧侶を意味したのではなく、在俗の実践者であったのでしょう。法華経創作者もたぶん、在家の実践活動家であったのではないのかと想像できます。法華経は法華経創作をした集団に限って、書かれていますから、法華経を広めるテーマが大きく、そこに菩薩道が摂取される憾みがあります。そして、他の経典を排斥するとすれば、結局、それが法華経の限界そのものを意味することになるのでしょう。この点でアネモネさんの杞憂と同一の思いをわたしも懐きます。

> 法華経に説かれてることとは、結局そういうこと

法華経そのものに内在する法華経そのものへの極端な賛美、まさにもっとも問題にされる点でした。法華経のなかに繰り返し記述される迫害の物語は、創作者集団が「自分たちだけが正しい」とする偏狭さを持っていたために起きた事実を記したものであったかも知れません。そして、2000年を経ていまに至るまで法華経によってもたらされる人格形成はその点から脱却していないようにも見えます。

> ここにある種の限界を感じてしまう

そうですね。わたしも同様に感じます。
しかしもし、法華経を信奉する実践者=菩薩道を目指す人と集団が、その限界を越えようとするとき、それは補完されるのではないのかとわたしは楽観的な予測を立ててはいます。否むしろ、法華経信奉者は、その偏狭な信仰姿勢から、文字通りの大乗精神に漕ぎ出す必要があると思います。

> 法とは何か…菩薩道

菩薩としての生き方、道としての法。それを法華経のみに呪縛したとき、アネモネさんが仰るような堂々巡りに陥ることになるのだと思います。

偏狭な一経主義に法華経創作者が陥った過ちを2000年を経たいま、超克することができれば、アネモネさんの疑問はあるいは解消されるかも知れませんね。

愚鈍凡夫さんへの問いかけで「マザーテレサは菩薩道」と記されていましたが、まったく仰るとおりであろうと思います。法華経のなかに菩薩道は記されています。しかし、法華経がはじめて菩薩道を説いたわけではありません。菩薩道は善意の実践のなかに、その遡型があるのでしょう。菩薩道実践の人がいたからこそ、菩薩道をテーマにした経典が創られたという時系列です。法華経もその一つです。その意味からすれば、法華経を知らずとも菩薩道を歩む尊い人々がいることはなにも不思議なことではないと、わたしには思えるわけです。

過去数千年前に興った救済者思想の継承者であり、菩薩精神もまた、同じ源から生じた勝れた人間精神であったのであろうと思います。それはたぶん、イラン・ミトラ教のミトラを遡型とするミトラ信仰が、ミシュラン、メシヤ、マイトレーヤ(ミロク)と姿形を変えながら新約世界ではイエス・キリストとなり、大乗経典郡では弥勒菩薩を濫觴とする救済者=菩薩思想へと展開していった源を同じくする救済者思想であったというのがわたしの結論です。それを一教一宗派に封じ込めることこそ愚かなことであると思うわけです。

993愚鈍凡夫:2003/11/25(火) 18:49
アネモネさん、レス有り難うございます。

マザー・テレサの言葉にこういうのがあります。

『教皇パウロ6世がくださった1台の車を、ボンベイで、くじの賞品にさせてもらい、集まったお金でハンセン病者のための大きなセンターを建て、それを「平和の街」と名づけました。
 ヨハネ23世賞でいただいたお金で、もう1つのリハビリテーション・センターをつくり、それには「平和からの贈り物」と名づけました。
 ノーベル平和賞でいただいたお金では、貧しい人たちのために、いくつかのホームを建てました。というのも私はこの賞を、貧しい人々の名においてのみ受けたのですから』

これって、経典に説かれるままの布施行ですよね。
またこういう言葉もあります。

『ガンジーは、キリストのことを知った時、興味を抱きました。しかし、キリスト信者たちに会って、がっかりしたそうです。』

理想と現実のギャップは、どの宗教も同じなのですね。
またこうも言っています。

『キリスト信者であるためには、キリストに似た者でなければならないと、私は固く信じています。
 ガンジーがかつてこう言いました。「もしもキリスト信者たちが、その信仰に忠実に生きていたら、インドにはヒンズー教を信じる者たちは一人もいなくなってしまっただろう」と。
 人々は、私たちがキリスト信者らしく生きることを期待しているのです。』

これは、富士門系在家教団に言えることでしょう。そして、これが広宣流布の理想型なのでしょうね。

「人々は、私たちが菩薩らしく生きることを期待しているのです。」 (^∧^) 合掌

994問答迷人:2003/11/25(火) 23:29

愚鈍凡夫さん

>「人々は、私たちが菩薩らしく生きることを期待しているのです。」 (^∧^) 合掌

愚鈍凡夫さんのお考えに全面的に賛同します。

法華経は「教菩薩法」として説かれています。マザーテレサの実践は、法華経を信ずる僕自身が目指すべき姿なんだと感じます。法華経の経典作者が言いたかった事を、マザーテレサは、身を以って実践し、人のあるべき姿を人類に語り掛けているのだと思います。

995アネモネ:2003/11/26(水) 01:40
犀角独歩さん

>このスレッドは「素朴な疑問」。当然の決めごととして了解してきたけれど、実は解けていない素朴な疑問にこそ、実は自分の信仰の落とし穴が潜んでいたのではないのかと…

お寺にしろ組織しろ、その中で自分の居場所を求めるとなれば、質問そのものが憚られるというものでした。そんな疑問が素朴に投稿できる掲示板は、やはり貴重な存在だとつくづく思います。

>絶えざる精進の道を歩むことなので、堂々巡りになっては、むしろいけないのでしょう。

菩薩道の随喜がなんであるのか、そこから学び知ることが大事なことなのではないでしょうか。しかしそれも菩薩道の実践のなかに本当に知ることが出来るものなのでしょう。だけど、その菩薩道が完全に組織勧誘や供養や財務といった行為に置き換えられてしまっているといえるわけですね。これも確かに実践活動ですから、菩薩道だと信じて実践し、その上成果も出れば、随喜となるわけでしようね。

>布施とは自分の功徳を我が菩提の資糧とせず、衆生に施すことでした。

このことは、とても重要なことだと思います。
衆生に施すということ。このことを私は、お寺で一度も聞いたことがありませんでした。
組織に対してご供養や財務をすることは、仏法に対する供養と称した布施行とされてしまっています。
ということであるならば、そのような名目で集金をしている組織は、供養した信徒になり代わって、集めた資金を広く衆生に対して施すことをしなければならないと思うのです。そうでなければ、個々の信徒の供養の厚意を無にしているといえるでしょうね。

私は、信仰に入る人というのは、その大半は人を救いたくて入るのではなく、自分が救われたくて入るものだと思うんですね。創価学会が破竹の勢いで躍進した時代背景を考えてみても、多くの民衆は戦後の貧しさの中、明日をも知れぬ生活不安を抱えていた時代だったわけですから、むしろ社会的にも施しを必要としていた人々といってもよかったといえるでしょう。そのような人々が、社会や他人からの施しを当てにせず、自力で生き抜くための拠り所として、信仰を求めたものだろうと思うのです。そのことは、在家の立場で信仰を求める志として、何も間違いではないですし、何もとがめられることでもないでしょう。
だけど、聖職者の立場となると話は違ってきますね。自分が救われる為に聖職者となることすれば、その志は邪なものといえるものでしょうし、本来的には菩薩精神にのっとり、自分の成仏を捨てても他(民衆)を済度する志で聖職者とならなければならないものだと思うのです。
つまり、組織的に供養や財務を集めている聖職的立場の人たちは、布施行を託している信徒に成り代わって、その集めた資金を広く衆生に施す責任の立場にあるのではないかと思うのです。
施すべき衆生とは、救いを求める「不信の人」ですね。それをしなければ、救いを求めて布施行を託した「信の人」も救われないものでしょう。

>この布施行のなかにこそ弘法が含まれるのであるとわたしは思えます。

済度を目的とする弘法なのでしょうね。
ところが、いずれの組織も済度の名を借りた我田引水といえます。
しかし、まあ、私がレスをすると、どうしても組織批判になってしまいますね。長らく、組織を離れているのでそんなに感情的になることもないのですが、こうして書いているうちに、ついつい苛立ちを覚えます。

996アネモネ:2003/11/26(水) 01:41
(つづき)
>これしかし、法華経成立当時、菩薩は上座部その他の寺院に籠もる僧侶を意味したのではなく、在俗の実践者であったのでしょう。法華経創作者もたぶん、在家の実践活動家であったのではないのかと想像できます。

ここでもまた素朴な疑問ですが、いわゆる法華経成立の時代、法華経創設者のいうところの「菩薩道の実践」とは、一体何だったのでしょう。
何を菩薩道として何を具体的に実践したのかということに、私としては興味をもつところです。
それが、いわゆる今日でいうところの慈善事業やボランティア的なことだったのか。それとも、仏像建立や経典創作、または建造物の建立だったのか。
実践といってもいろいろあると思うんですね。

>そして、他の経典を排斥するとすれば、結局、それが法華経の限界そのものを意味することになるのでしょう。
>華経のなかに繰り返し記述される迫害の物語は、創作者集団が「自分たちだけが正しい」とする偏狭さを持っていたために起きた事実を記したものであったかも知れません。

そのことが事実だとするならば、なぜ、そのようなことになったのか、その背景を知りたいと思いますね。

>法華経を信奉する実践者=菩薩道を目指す人と集団否…法華経信奉者は、その偏狭な信仰姿勢から、文字通りの大乗精神に漕ぎ出す必要があると思います。

菩薩道の実践とは何であるのかということが重要だと思います。その菩薩道が、宗教的観点、つまり宗教的精神性において心から随喜を感じることが出来るとき、広める価値がある教えといえるのではないでしょうか。
法華経が説くという不軽菩薩の精神でいうならば、人を敬う心のこと、つまり人を差別することなく遍く思いやる心を培うことではないかと思うんですね。
法華経が広めるべき心とは、信心ではなく、不軽心ではないかと私は思うのです。
法華経を読みもしない私が、偉そうに言ってはいけませんが…。

>愚鈍凡夫さんへの問いかけで「マザー・テレサは菩薩道」と記されていましたが、まったく仰るとおりであろうと思います。

マザー・テレサの行為というのは、きっと聖職者として、もしくは宗教家として、実は当たり前のことなのかもしれません。
世間に名が出ることのない一介の人の中にも、マザー・テレサのような慈愛の実践者はいらっしゃることと思います。このことは、私などより、愚鈍凡夫さんや独歩さんのほうがはるかに実感として体感されていらっしゃることと思いますし、まさに実践者でもいらっしゃること、私は一目置いております。

>菩薩道は善意の実践のなかに、その遡型があるのでしょう。菩薩道実践の人がいたからこそ、菩薩道をテーマにした経典が創られたという時系列です。

ここは重要なところではないかと思います。

>法華経もその一つです。その意味からすれば、法華経を知らずとも菩薩道を歩む尊い人々がいることはなにも不思議なことではないと、わたしには思えるわけです。

世界中に、古の時代から信仰者はいるわけですが、ほとんどが経典も聖典も読めない文盲の信徒が多かっただろうと思います。
最近知って驚いたことですが、あの宗教裁判にかけられて処刑されたジャンヌ・ダルクも全く字が読めなかったといいます。しかし、ジャンヌ・ダルクは、自分が戦いが終わると、自陣の戦死者はもちろんのこと、戦った相手の亡骸をも抱きしめ涙していたとのこと。
文盲でありながらも、「汝の敵を愛せよ」というイエスの心を理解していたことに、私は驚きました。

997アネモネ:2003/11/26(水) 01:42
(つづき)
私は、法華経をはじめとする経典や聖典を否定するものではありません。だけど、「経典信仰」ということになると、違うのではないかなと思うのです。その意味では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のあり方にも大きく疑問を持ちます。と同時に、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教が持つ聖典信仰のあり方に、法華経信仰の姿が酷似していることも気になるところでもあります。成立した時期や地域が近いことからも、その親和性みたいなものがうかがえるものでもあります。
私も、もともとはクリスチャンですから、聖典信仰のその思想性は非常に理解できるところでありますし、事実、法華講入信のときは、仏像信仰ではない、法華経信仰というスタンスに対してまるで違和感を感じなかったものでもあります。
ただし、御本尊下付から、なにか偶像崇拝(器物崇拝)ではないかという疑義を感じたのも事実でした。
恐らく、今、ここで議論されてきた本題の流れとは、何が本尊であるのかということだったのだろうと思うのですが、私に限っていえば、「本尊」という言葉そのものが馴染めないところなのです。
たぶん、本尊=偶像崇拝(器物崇拝)と感じてしまうのでしょう。
ただし、もっと突き詰めれば、偶像や器物を立てるまでもなく、聖典信仰そのものが究極の偶像崇拝ではないだろうかと、そんな思いももっています。
それは、決して聖典を否定するものではないのですが、聖典そのものを信仰の対象や本尊と崇めるといった宗教観に対して、私は疑義をもっています。
なにより、聖典を読んでいる人よりも、聖典も読めない人に、聖典の心を理解している場合があるという事実を知るからです。

>それはたぶん、イラン・ミトラ教のミトラを遡型とするミトラ信仰が、ミシュラン、メシヤ、マイトレーヤ(ミロク)と姿形を変えながら新約世界ではイエス・キリストとなり、大乗経典郡では弥勒菩薩を濫觴とする救済者=菩薩思想へと展開していった源を同じくする救済者思想であったというのがわたしの結論です。

非常に感覚的なところでの見解ですが、私は最初はキリスト教から宗教を知り、そして成人してから日蓮仏教によって法華経に触れたわけですが、聖書のいわゆる救世主信仰と、法華経の済度思想は、非常に似通ったものだと感じました。本当に感覚的に、そう思いました。

>それを一教一宗派に封じ込めることこそ愚かなことであると思うわけです。

私もそう思います。
法華経成立の背景というものも、概ねわかってきているわけですね。同時に、聖典の限界も見えてくるわけです。決して絶対的なものではないということを認めることも、仏教精神にかなったことではないでしょうか。
だからといって、完全否定するものではありません。絶対的、信仰の立場も否定の立場もとらないで、学ぶべきところを自らの判断で掴むということが求められるところだと思いますね。

998アネモネ:2003/11/26(水) 01:42
愚鈍凡夫さん

>マザー・テレサの言葉にこういうのがあります。
…これって、経典に説かれるままの布施行ですよね。

私は実は、キリスト教徒だったとき、今ほどマザー・テレサに対して強い思いを抱くことがなかったのです。むしろ、キリスト教を離れて仏教徒の立場になってからのほうが、彼女に対する強い憧憬と敬慕の思いを持つようになりました。
しかし、法華講信徒の中には、マザー・テレサは謗法であり地獄に落ちたなどと言い切る人もいたりしましたから、仏教徒の愚鈍凡夫さんから、マザー・テレサの具体的な菩薩道についてこうして教わることは、とても新鮮なことと感じます。

>『ガンジーは、キリストのことを知った時、興味を抱きました。しかし、キリスト信者たちに会って、がっかりしたそうです。』

私もガンジーのことは、心から敬愛し憧れてもいます。こんな表現は不適切かもしれませんが、ガンジーの中に日蓮をみるような思いもあるくらいなのです。
また、ご紹介くださってガンジーの言葉、とても納得するものがありますね。

>ガンジーがかつてこう言いました。「もしもキリスト信者たちが、その信仰に忠実に生きていたら、インドにはヒンズー教を信じる者たちは一人もいなくなってしまっただろう」と。

いろんな意味があるんでしょうね。ここでいうキリスト信者とは、インドを植民地としたイギリス人のことを意味しているのでしょうか。
私は、キリスト教の嫌いなところは、植民地政策における思想戦の道具であったところです。
しかし、近代の列強国に侵略されるたいていの国々は、当然、近代化に遅れた国であり、国内事情としては貧富の差が著しく激しいわけです。皮肉なことに、侵略してくる列強の思想戦の道具であるキリスト教が、その博愛精神に基づいて、貧しい人々を癒し慰め励ましていくわけですね。
マザー・テレサがそのような構造に組み込まれた人とは全く思ってはいませんが、仏教発生の地でありながら、インドの最下層の人々を実践的に救ったのは、インドを侵略した国の異教の宗教家であったということが、いかにも皮肉に思えてしまうところです。
大乗仏教が発生した歴史的背景というものにも、似たようないきさつがあるのではないかと想像してしまうくらいです。

>「人々は、私たちが菩薩らしく生きることを期待しているのです。」

菩薩らしく生きることに、心から随喜できたときはじめて、五十展転の菩薩道(仏法)の弘法精神があるのかもしれませんね。
ところで、またまた、素朴な疑問ですが、仏教徒として菩薩らしくあるって、どういうことの実践だとお考えになられますか?

999アネモネ:2003/11/26(水) 01:44
問答迷人さん

お久しぶりですね。

>法華経は「教菩薩法」として説かれています。

もしも法華経に「教菩薩法」の象徴的な経文があるならば、ぜひ教えてください。

>法華経の経典作者が言いたかった事を、マザーテレサは、身を以って実践し、人のあるべき姿を人類に語り掛けているのだと思います。

素朴な疑問として、お許し頂きたいのですが、本当の本当にそうなのでしょうか。
もちろん、問答さんの個人的な思いの範疇でのレスかもしれないとも拝察いたしますが、そう思う根拠みたいなところの経文があるならば、ぜひ教えて頂きたいと思います。

私としては、むしろこうした法の捉え方のほうが、しっくりくるんですね。だけど、かつて所属していたお寺では全く聞かれることのなかった解釈ですから、いわゆる文証みたいなものがあるといいなあと期待するところなのです。

1000問答迷人:2003/11/26(水) 08:05

>もしも法華経に「教菩薩法」の象徴的な経文があるならば、ぜひ教えてください。
>そう思う根拠みたいなところの経文があるならば、ぜひ教えて頂きたいと思います。

やはり、「二十四文字の法華経」として、蓮祖がご自身の行動の規範とされた不軽品の一節に尽きると思います。

「最初の威音王如来、既已に滅度したまいて、正法滅して、後像法の中に於いて、増上慢の比丘、大勢力有り。爾の時に一りの菩薩の比丘有り、常不軽と名づく。得大勢、何の因縁を以ってか常不軽と名づくる。是の比丘、凡そ見る所有る、若しは比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を皆悉く礼拝讃歎して、是の言を作さく、『我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし』と。而も是の比丘、専らに経典を読誦せずして但礼拝を行ず。乃至遠く四衆を見ても、亦復故に往いて礼拝讃歎して、是の言を作さく、我敢えて汝等を軽しめず。汝等皆、当に作仏すべきが故にと。(妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十 )

1001アネモネ:2003/11/26(水) 10:18
問答迷人さん

早速ありがとうございます。

>増上慢の比丘、大勢力有り。

自省の念も含めて、考えさせられるところです。

1002アネモネ:2003/11/26(水) 10:19
>995の自己レス
>しかし、まあ、私がレスをすると、どうしても組織批判になってしまいますね。長らく、組織を離れているのでそんなに感情的になることもないのですが、こうして書いているうちに、ついつい苛立ちを覚えます。

私の舌足らずな拙文で誤解があってはいけませんが、苛立ちを覚えるのは、宗教教団の組織に対してのことです。
菩薩行の本当の意味するところが何であるのかを、私は組織で指導として教わることがなかったと振り返るんですね。
菩薩行がなんであるかを、考えることさえも、停止させられていたのではないかと思います。
問答さんに示して頂いた不軽菩薩の姿にしても、組織勧誘(折伏活動)に置き換えられて教えられていたと思いますね。今でこそ、そこに大きな疑問を持ちます。今も組織活動を信じている人には、その疑問、菩薩行とは何であるのかということを、立ち止まって考えてみてほしいなあと思うところです。

1003愚鈍凡夫:2003/11/26(水) 14:02
問答迷人さん、ご賛同頂きまして有り難うございます。
アネモネさん、菩薩の在り方ですか・・・・・。一言で言うのは難しい。 (゜ペ)ウーン

ハードディスクを検索したら、こんな資料がありました。
**************************************************

Ⅰ、大乗仏教以前の菩薩
①、釈迦菩薩の登場→菩薩の登場は紀元前2世紀頃の部派仏教時代であろうといわれている。菩薩の始まりは釈迦菩薩である。即ち、仏陀の成道までの修行時代を菩薩ということから始まっている。歴史上で言えば、釈尊の出家した29才から成道した35才までの修行時代の6年間を菩薩といったのである。
②、仏伝・ジャータカの菩薩→信仰に基づく宗教上の仏伝やジャータカの世界の菩薩は歴史事実上の世界の菩薩とは別のものである。例えば、ほぼ紀元前2〜1世紀のものとされるバールハットの彫刻では釈尊のマーヤー夫人への入胎は「世尊入胎」と、また、アショーカ王の建てたルンビニー園の碑文も「世尊誕生」となっているという。ここでは、釈尊は生まれた時から既に仏陀となっていたのである。従って、釈迦菩薩は前世ということになる。しかし、文献上では「世尊入胎」は「菩薩入胎」、「世尊誕生」は「菩薩誕生」となっているという。平川彰著作集第3巻236頁で「当時はまだ菩薩の用語は一般に通用していなかったといわれる。」ごとく菩薩となるべきところが世尊となったのであろうか。また中村元選集[決定版]第21巻104頁にも「原始仏教や伝統的保守的仏教では、前世、またはさとりを開くまでの釈尊を菩薩と呼んでいる」と述べている、この「前世」は「釈迦菩薩は前世」と同じであろう。

************************************************** (※1)

菩薩とは、仏教史の上から見るとこういうことなのでしょう。さらに、
**************************************************

白衣・居家の維摩詰→白衣は世俗の人の着物で、修行僧は色のついた衣を着ていた。『方便品』には「白衣を着けた世俗の人であるけれども修行者の清浄な戒律の行を奉持し、在家の人であるけれども欲界・色界・無色界の三つの迷いの世界に執着していない。妻子ある姿を示しているけれども、常に清らかな行を修している。」と。即ち、維摩詰は妻子のある家にいて自ら生計を営む世俗の人であった。
(中略)
維摩詰は菩薩 →「娑婆という名の世界がある。仏は釈迦牟尼と号す。今現在、五濁の悪世において、小さな教えを願う衆生の為に教えの道をひろめている。そこに、維摩詰という名の菩薩がいる。不可思議解脱の立場から、諸々の菩薩の為に法を説いている。」(『香積仏品』)

************************************************** (※1)

とあります。このことから言えば、出家・在家に関係なく「菩薩」という用語は使えるようですね。仏法を拠り所として、衆生を悟りの道に入らしむる人を菩薩というと言えるでしょうか。

ところで、小生の手元に「女子パウロ会」出版の「マザー・テレサ 愛の言葉」という絵本があります(カトリック信者の友人から贈られたものです)。
この中に、
「人は一切れのパンではなく 愛に、小さなほほえみに 飢えているのです。

だれからも受け入れられず だれからも愛されず 必要とされないという悲しみ
これこそがほんとうの飢えなのです。

愛を与え 愛を受けることを知らない人は 貧しい人のなかでも もっとも貧しい人です。」
との言葉があります。「心の貧しさこそが、本当の飢え」であるとの意味だと思いますが、不軽菩薩の礼拝行とは逆説的な意味で興味深いです。
不軽菩薩は人々の中に「仏性」を観じ、それを礼拝した。マザー・テレサは人々の心の中に飢餓を観じ、それを救済したいとの思いに駆られた。ということでしょうか。
しかし、「救済」という結果から見れば同じことなのかもしれません。
結局、「助けを必要とする人」の手助けをする行為全般が、菩薩行と言えるのではないでしょうか。

※1 『 「維摩経」の研究レポート (1)、「維摩経」の菩薩』
http://www5.ocn.ne.jp/~ono13/page59.html

1004犀角独歩:2003/11/26(水) 16:28

アネモネさん

> 素朴に投稿できる掲示板は、やはり貴重な存在

同感です。その意味でも、この掲示板を用意される管理人・問答名人さんに改めて敬意を表します。

> 菩薩道の随喜

菩薩が随喜するという意味で、わたしは記したわけではありません。
菩薩は随喜させる側であって、その心中が随喜、あるいは感動に満ちているかといえば、必ずしもそうではないと思います。しかしこれは本題とずれますから、いまは記しません。

> 組織に対してご供養や財務…仏法に対する供養・布施行とされてしまっています

そうですね。わたしが3年間言い続けてきたことの一つです。

> 集めた資金を広く衆生に対して施すことをしなければならない

わたしが法華講に入ったばかりの時、本山役僧でもある住職は「供養は元来、個人が仏様に対してするものであって、集団が行うべきものではない」と言っていました。もっともな意見であると思いました。しかし、直ぐに反故になりました。
そもそもシャキャムニはサンガの蓄財そのものを禁止していました。
元来、サンガは法の修行場であったからでしょう。
その後、100年にして、この戒律はその後、大乗教団と発展していくと目される側で破られ、現在に至っています。いまとなって教団の蓄財を咎めたところで意味もなしません。しかし、アネモネさんが仰るように、襟度があるべきであるとわたしも思います。
何のために金銭を集めるのか、単に集団・指導者・構成員のためであれば、ただの商売です。名誉勲章のためであれば名聞名利です。仏に成り代わり衆生済度のために使えば仏使・菩薩の行となるのでしょう。

> 施すべき衆生とは、救いを求める「不信の人」ですね。
> それをしなければ、救いを求めて布施行を託した「信の人」
> も救われないものでしょう。

まったくこの意見には賛同します。
「不信の救済」、布施の意味と併せ、わたしが申し述べてきたをこのように総括いただいたことを嬉しく存じます。
大乗といいながら、集団・指導者・自分たちの本尊を信じなければ救えないのであれば、それは自分たちが小乗と貶称する教義より、さらに劣った乗り物に過ぎません。
不信の救済こそ、真の大乗であるということもまた、わたしが主張してきたことでした。

1005犀角独歩:2003/11/26(水) 16:29

―1004からつづく―

> ところが、いずれの組織も済度の名を借りた我田引水といえます。

よく引用しますが、浅見定雄師が「何を信じているかではなく、何をしているかで集団の真価が問われる」と仰ったのはこの点です。「世界平和はヒットラーも言っていた」と、その非を突いた人もいました。
集団が何をやっているのかを見れば、我田引水の仏法教義利用の商売であるか、衆生済度を目的にしているかは一目瞭然殊です。自己集団の対社会に向けた功績が論じられなければ商売に過ぎないという批判に甘んじるしかないことになります。

> 組織批判

組織批判、大いにけっこうではないでしょうか。
批判を真摯に受け止め、前向きに是正を繰り返すことを健全な運営といいます。
批判を許さない独裁主義は、日本では昭和20年で終わりを告げました。ところがいまでもそんな独裁主義を繰り返している集団があれば、むしろ断固、糾弾されるべきですね。

> 法華経成立の時代、法華経創設者のいうところの「菩薩道の実践」とは、
> 一体何だったのでしょう。

重要な点です。
ボーディサットバとは愚鈍凡夫さんが引用くださったように、ジャータカ(本生譚:シャキャムニの前世物語)における修行者のシャキャムニを指す言葉でした。
その後、大乗経典郡創作の時代にはいると無数の菩薩達が登場するようになります。この濫觴が弥勒菩薩であったようです。このころから、仏の担い手として衆生済度に当たる菩薩は、シャキャムニ一人から無数の求法者として宛われていくことになるのでしょう。
これはたぶん、ミトラ(ミスラ)と菩薩思想の習合の結果であるとわたしには思えます。いずれにしても、菩薩は釈尊一人から拡大解釈されるにいたり、救済者としての性格を色濃く持つようになるのでしょう。

現存する多くの菩薩像は、裕福な服装をした在家、、すなわち、王族・豪商の姿で創られています。わたしはこのことから、そのような社会的に裕福な人々が仏教信仰に基づいて救済活動をする姿に人々は菩薩を見ていった経過を看取します。

その場合、菩薩の与える物は衣食住薬などが主立った救済の糧であったと想像できるわけです。しかしながら、全知全能の神に紛う性格を与えられた永遠の存在として仏に使者として菩薩は、その様相を異にします。彼らが与えるものは仏の教えであったのでしょう。そして、その弘法こそ、菩薩の使命となっていると見えます。

ここからがアネモネさんの疑問に掛かるところですが、単に仏使として法を弘めることを菩薩道と言えるかと問われれば、わたしは断固、「否」と応えます。
では法華経の菩薩はいかばかりかと一瞥するとき、残念ながら法を弘める菩薩の側面ばかりが見えるわけです。わたしは敢えてこの点を欠陥と認めることにします。そして、この欠陥を積極的に補完する方途を法華信奉者はいまこそ真剣に考えるべきであると主張するわけです。

> 法華経…迫害の物語…創作者集団が「自分たちだけが正しい」
> とする偏狭さを持っていたために起きた事実を記したもの
>> そのことが事実だとするならば…その背景を知りたい

法華経に記述される物語はその創作者(集団)のその性格を反映しているというのは学者一般の見解でした。
岩本師が「この経典(『法華経』)を捨て去る災難を数えあげるとすれば、いくら数えても最後に達しないだろう」という。この脅しの言葉はまさにインフェリオリティ・コンプレックスの表現そのものであり、あたかも小児が竹棒を持って強がりをいうのに類すると言っても言い過ぎではない。『法華経』のこの態度は日蓮に見られ、さらにその流れを汲む宗教団体に受けつがれていることは、よく知られていることである」(『佛教入門』中公新書 P167)と記すのはまさにこのことです。同様の記述は渡辺照宏師の著にも見られます。

1006犀角独歩:2003/11/26(水) 16:29

―1005からつづく―

法華経の創作者(集団)とは、一体如何なる人々であったのか。その確実な研究をわたしは知りません。しかし、譬喩品をはじめ、そこに書き連ねられる脅しの言説は、実に見苦しく、そして、差別的です。この差別は、岩本師が言うように被差別側であった怨恨から生じたものである可能性もあるでしょう。しかし、反面、問答名人さんが引用される如き不軽精神の如き、その点を止揚した側面もたしかに看取することはできます。怨恨から不軽への精神的向上の流れをそこに看取できるわけです。この昇華はしかし、高く評価されるべきですね。アネモネさんが「不軽心」といった点にわたしは大いに賛同するものです。その特徴を余すことなく、示すために差別、恫喝の教説をわたしは潔く捨て去ることにしたわけです。


> 「経典信仰」…聖典信仰

この比較は実に重要な意味を持つと思います。
法華経は大乗経典のなかでも特異の聖典信仰の“影響”によって創作された経典であると思えます。梵本のテキストはありませんので、妙法華で「法華経」という語彙を検索したところ、実に97回も出てくるわけです。

また、そのなかで、「吾於過去 無量劫中 求法華経(吾過去無量劫の中に於て法華経を求めし)」(提婆達多品)と経典が過去無量劫から存在していたことを示唆する一節まであります。つまり法華経典は量り知れない過去から存在していたものであるという神話がここに織り込まれているわけです。
このような特異な聖典信仰は他の大乗経典に見られない特徴であるとわたしには思えます。この極端な経典賛美で特徴づけられる理由は、アネモネさんも記されるように、当時の東西文化のなかで勃興していった聖典信仰の影響を法華経創作集団が受けていたからではないのかと、わたしは想像します。

> 本尊=偶像崇拝(器物崇拝)

仏像の出現はたぶんにギリシャ神像彫刻の影響を受けたものでした。
わたしもその意味から、本尊が「生身(しょうしん)の日蓮大聖人」などと言われれば、まさに偶像崇拝という批判を遁れがたいと思えます。しかし、元来の仏像・漫荼羅は、たとえばキリスト者が十字架を用いることに、むしろ近いものであると思える向きもあります。

> 偶像や器物を立てるまでもなく、聖典信仰そのものが究極の偶像崇拝

わたしも、もちろん、同様に感じます。
わたしが「経典は法ではない」というのも同様の意味からです。
題目の五字に一念三千の意義を籠めるのは是であるにせよ、五字そのものが一念三千であるといえば、いわば偶像化に類似をなすと思えます。
しかしながら、ここで、キリスト圏の他教批判の言を費やす必要はありません。
「一切法空」から仏像・漫荼羅を見る視点があれば事足りることでしょう。

> 聖典…信仰の対象・本尊と崇める…宗教観…私は疑義をもっています。

偶像崇拝というキリスト者側の批判からではなくて、大乗仏教の「空」から見ても、この点は再考されなければならない点であろうと存じます。

> 聖書のいわゆる救世主信仰と、法華経の済度思想は、非常に似通ったもの

東西文化比較論では、夙に指摘される点でした。

> 学ぶべきところを自らの判断で掴むということが求められる

この点も大いに賛同します。
日本人といわず、すべての信仰者は、集団信仰を卒業する時機が到来しているのだと、つくづく思う昨今です。

1007愚鈍凡夫:2003/11/26(水) 21:15
>>1003: 注

たぶん、お気づきだとは思いますが、

『方便品』には「白衣を着けた世俗の人であるけれども修行者の清浄な戒律の行を奉持し、在家の人であるけれども欲界・色界・無色界の三つの迷いの世界に執着していない。妻子ある姿を示しているけれども、常に清らかな行を修している。」

との記述がありますが、これは「法華経」ではありません。「維摩経」です。
悪しからず。

「あの〜っ・・・・・。レスが1000を超えてしまいましたが・・・・・。」(独り言) (^_^;)

1008アネモネ:2003/11/27(木) 01:17
愚鈍凡夫さん

レス、大変勉強になります。ありがとうございます。

>仏法を拠り所として、衆生を悟りの道に入らしむる人を菩薩というと言えるでしょうか。

やはり、そういうことなんですね。
私は、図書館である本に菩薩について書かれていたわずか一行の説明に目が釘付けになりました。それは、「自分の成仏を捨てて衆生の済度に生きる」一字一句正確というわけではありませんが、そんなような言葉だったと思います。
私はこのわずか一行に、ジーンとてしまいました。

キリスト教が説く神の愛は、報われることを一切期待しない「無償の愛」だといわれ、イエスの生涯にもなぞらえ、自己犠牲の精神が伴うことを意味しているといわれます。
愛することに報いを期待した時点で、それは本当の愛ではないとなってしまうといえるでしょう。
菩薩が、自分の成仏を捨てても衆生を救わんとする心は、まさにキリスト教が説いた無償の愛と同じ精神性だと私は感じます。

しかし、頭ではわかっていても、その実践となると、ぜんぜん駄目です。
どうしても、報われる愛を求めてしまうものです。
ですから、信仰という場の修行も実践も供養も弘法も、全て自分が報われるためにしてしまうと、それは本当の意味での菩薩道にはならなくなるのではないかと思うころです。

>「人は一切れのパンではなく 愛に、小さなほほえみに 飢えているのです。
だれからも受け入れられず だれからも愛されず 必要とされないという悲しみ
これこそがほんとうの飢えなのです。
愛を与え 愛を受けることを知らない人は 貧しい人のなかでも もっとも貧しい人です。」

涙が出てしまう言葉ですね。

>「不軽菩薩は人々の中に「仏性」を観じ、それを礼拝した。マザー・テレサは人々の心の中に飢餓を観じ、それを救済したいとの思いに駆られた。ということでしょうか。

イエスの山上の垂訓はご存知でしょうか。
その冒頭には、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」という一説が語られています。
きっとマザー・テレサも不軽菩薩と同じように、心の貧しい人の中に神やイエスを見、そして神やイエスに仕える気持ちで貧しい人々に接していらしたものと思われますね。

>結局、「助けを必要とする人」の手助けをする行為全般が、菩薩行と言えるのではないでしょうか。

そうなんでしょうね。他を利するとは、人に尽くすことであり、それが喜びと感じられるとき、それが菩薩行となっているのではないのかなあと思います。

1009アネモネ:2003/11/27(木) 01:18
犀角独歩さん

>そもそもシャキャムニはサンガの蓄財そのものを禁止していました。

キリスト教においても、イエスは自分の弟子になる者に対して、自分の財産を貧しい人々に施してから弟子になるようにと戒めていたようです。

私の想像ですが、蓄財とは、あくまで自分の為の行為だと思われますね。しかし、いわゆる義に生きる道を選ぶとき、それが菩薩道であるならば、他に尽くす(利する)為に、自分を捨てる(自己犠牲)から始めなければならないものなのでしょう。
菩薩の道で、蓄財を禁止することは、基本中の基本なのかもしれませんね。

>元来、サンガは法の修行場であったからでしょう。

またまた、素朴な疑問ですが、法の修行とは、何のために行うことなのでしょう。
ちょっとこれまた舌足らずな変な質問かもしれません。
具体的にいえば、修行とは、自分の為の行なのでしょうか、それとも他者の為の行なのでしょうか。もしくは、他者の為の自分…となる為の行なのでしょうか。

>仏に成り代わり衆生済度のために使えば仏使・菩薩の行となるのでしょう。

本当にそう思います。
くどいようですが、菩薩行が何であるかの次に、衆生済度とは何であるかということも問題となりますね。
法華講でいわれていたことは、正確な言い回しではないかもしれませんが、仏法を持たせることだといわれていましたし、そしてそれが本尊を持つことということでもありました。しかし今にして思えば、それはどうも仏法の解釈に飛躍があるんじゃないかと、素朴に思うわけです。
折伏の名を借りた組織勧誘は、弘法という菩薩行に解釈されていること、これが法の歪曲であるならば、ことは深刻だと思いますね。

>大乗といいながら、集団・指導者・自分たちの本尊を信じなければ救えないのであれば、それは自分たちが小乗と貶称する教義より、さらに劣った乗り物に過ぎません。

やはり、本尊という概念そのものこそ、カルト問題で指摘される「象徴の病」という落とし穴に思えますね。これも、かつて独歩さんに教えて頂いた言葉ですね。
しかし、そもそもお釈迦さまの直説では、本尊というものは、どのように説かれていたのでしょう。恐らく、本尊という語彙は使われていなかったと思われますが、それこそ自灯明、法灯明ということでしょうか。
キリスト教では、やはり天地創造の全知全能の絶対神が、本尊ということになるのでしょう。これも、まったく観念的な世界のいわば象徴の病ではないかと、元クリスチャンの私も、今ではそう思っております。

>不信の救済こそ、真の大乗であるということもまた、わたしが主張してきたことでした。

独歩さんに、まさにご自身の体験を通して教えて頂いたことでした。
不信の救済。私も宗教に関わった者のひとりとして、このことを考え続けていきたいと思います。

不軽菩薩は、法華経不信の人にも礼拝されたのでしょうか。そうだとしたら、この経文からは、そこを読み取ることが肝要なのかもしれませんね。
マザー・テレサは、キリスト教を信じないインドの最下層の人々を救済しようとしたわけですが、そこが、イエスの山上の垂訓にかなった実践的行いといえるのだろうと思います。

>浅見定雄師が「何を信じているかではなく、何をしているかで集団の真価が問われる」と仰ったのはこの点です。

自分の信仰する教団が、実際に何をしているのかということを見ようとし、そのことを考えてみようとするということは、正法とは何か、成仏とは何か、菩薩道とは何か…といったことを考え直してみることに通じるものだと思われますね。

1010アネモネ:2003/11/27(木) 01:23
(つづき)
>そのような社会的に裕福な人々が仏教信仰に基づいて救済活動をする姿に人々は菩薩を見ていった経過を看取します。

キリスト教が広まった本当の背景には、中世の裕福な階層の人々の存在があったようです。なにせ、「貧しき者は幸いなり」という、貧しい者こそ神の国に行けるのだというイエスの言葉により、富裕層の人々は裕福故に神の国に招かれないのではないのかという不安や恐れがあったわけですね。そうした富裕層の人々が、死後に神の国に行きたいと願いによって信仰に励んでいった背景によって、キリスト教は拡大していったといったことを何かの本で読んだことがあります。そしてその富の一部を神の名において慈善事業に使うようになったともいわれていますが、その点、法華経成立の背景もどこか似ているようにも思われますね。
ただしキリスト教のこの場合は、人を救いたいという無償の愛というよりは、自分が救われたいがためにという我欲からの信仰心なわけですが、しかし、最初はそうであっても、やがて真の博愛に目覚めていった人も多くいただろうと思います。

>では法華経の菩薩はいかばかりかと一瞥するとき、残念ながら法を弘める菩薩の側面ばかりが見えるわけです。わたしは敢えてこの点を欠陥と認めることにします。そして、この欠陥を積極的に補完する方途を法華信奉者はいまこそ真剣に考えるべきであると主張するわけです。

なるほど。ということは、法華経では、不軽菩薩の精神は説かれてはいるものの、全編にわたって主題としての強調はみられないということなのでしょうか。

>「…『法華経』のこの態度は日蓮に見られ、さらにその流れを汲む宗教団体に受けつがれていることは、よく知られていることである」(『佛教入門』中公新書 P167)

結局この掲示板で私は、宗門や教団批判をしてきましたが、そのルーツを遡れば、結局は、法華経にたどりついてしまうということになるわけですね。
こうなると、やはり経典に対する絶対信仰を考え直してみなければならないでしょうね。

>譬喩品をはじめ、そこに書き連ねられる脅しの言説は、実に見苦しく、そして、差別的です。この差別は、岩本師が言うように被差別側であった怨恨から生じたものである可能性もあるでしょう。

やはり、法華経信奉者は、どうしてもここを克服しなければならないでしょうね。そのためには、どうしても経典信仰の限界を考えることではないでしょうか。
法華経=正法という錯覚が今日的にもあることが否めないとするならば、そこから紐解いていかなければならないでしょうね。

>怨恨から不軽への精神的向上の流れをそこに看取できるわけです。この昇華はしかし、高く評価されるべきですね。

怨恨と不軽は、相反する心のように思われます。しかしそこは、法華経全編を通して昇華と読み取ることが、創作者の意図するメッセージであるといえるのでしょうか。
ややこしい質問ですみません。

>妙法華で「法華経」という語彙を検索したところ、実に97回も出てくるわけです。

これは、奇怪というか奇妙というか、他のお経はもちろんのこと、一般的な本としても、とても特異なことですね。

1011アネモネ:2003/11/27(木) 01:24
(つづき)
>経典が過去無量劫から存在していたことを示唆する一節まであります。

なんだか、昔観た、「ネバーエンディングストーリー」という映画のことを思い出します。
私の想像ですが、書き手の術中に嵌るとでもいいますか、不軽菩薩の精神がというよりは、むしろこのミラクルストーリーこそ読み手の心を掴んで信者とならしめているのではないでしょうか。
宗教的な精神の観点からいえば、不軽菩薩の精神こそ強調されなければならないはずなのに、実際の力点はミラクルなところに置かれているわけですね。

>当時の東西文化のなかで勃興していった聖典信仰の影響を法華経創作集団が受けていたからではないのかと、わたしは想像します。

聖典信仰といえば、キリスト教のバイブル、ユダヤ教のトーラー、イスラム教のコーラン、いずれも法華経が創作された中東の信仰観に共通しているものですね。

アメリカでは、大統領や州知事が就任するとき、聖書に手を置いて宣誓がなされている様子が報道によって確認できますが、民衆に対する宣誓を神に誓うという儀式の形が色濃く残っているものなのでしょう。
また、イスラム教ではコーランそのものが特に神聖なものであり、信徒でない人はコーランに決して触れることは許されないといったことも聞きます。
神の言葉が記されたそれらの書物は、神聖なものとして、私たちがいうところの「本尊」のように扱われているといえるかもしれません。
キリスト教もイスラム教も、ユダヤ教から派生したものであり、もともとは神との契約から始まっているともいえるわけで、契約の証が聖典につながって大切にされていったのなのかもしれませんね。

>しかし、元来の仏像・漫荼羅は、たとえばキリスト者が十字架を用いることに、むしろ近いものであると思える向きもあります。

象徴と捉えていいのでしょうね。
キリスト教でもいろいろあるわけですが、かつて私が通ったプロテスタントの教会では、十字架は掲げられていなかったんですね。ですので、かえって聖典信仰の傾倒が非常に強かったと思います。

>わたしが「経典は法ではない」というのも同様の意味からです。
題目の五字に一念三千の意義を籠めるのは是であるにせよ、五字そのものが一念三千であるといえば、いわば偶像化に類似をなすと思えます。

もともとここのスレッドで議論されていた「本尊が何であるか」ということの主題も、ここだったのだろうと思います。

>偶像崇拝というキリスト者側の批判からではなくて、大乗仏教の「空」から見ても、この点は再考されなければならない点であろうと存じます。

言葉足らずの表現になるかもしれませんが、結局、たとえ目に見えない神や仏の存在であっても、それを絶対的な信仰対象としたとき、偶像崇拝というものの範疇、つまり象徴の病というものにうなっていくものだろうとなんとなく思うのです。
偶像崇拝は、何かの像を拝むことを意味するわけですが、目に見えない絶対神の存在も、それが観念的なものである以上、それは人間の頭の中で創造された偶像だと思いますね。ですから、久遠の釈尊や、本仏にしても、観念的存在であるならば、それは偶像といえるでしょう。また、それが経典や聖典という言葉や文字であっても、それが法に代わる象徴であるならば、それは紛れもなく偶像崇拝というるものになってしまうと思いますね。
言葉足らずで、私の意図するところは、非常にわかりにくいかもしれませんが。
観念上の像を信じることはもちろんのこと、言葉や文字や絵や像によって正法を象徴的に据えて信じることも、いずれも結局は偶像崇拝だと思いますね。

1012みかん:2003/11/27(木) 05:03
菩薩には
1、ジャータカなどに登場する、釈迦の前生。修業時代。
2、四弘誓願をし、修行する衆生。
3、観音菩薩、弥勒菩薩のような超越的な存在。
の三種類が、おおざっぱに言って分けられると思いますが、
とりあえず、生身の実在の衆生・人間である2について考えます。

菩薩はボディサットバ(菩提を求める衆生)の略であり、
第一義的には「覚りを求める修行者」のことです。
菩薩は「上求菩提・下化衆生」であり「上求菩提」をし、
覚り、開悟、成仏を求める存在です。

また、四弘誓願(菩薩の総願。すべての菩薩に共通する願)に、
衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

とあるように、煩悩の断滅、仏道の成就を目指し、成仏を求めているのです。

また、「下化衆生」「衆生無辺誓願度」と言ったときの、衆生への教化、度脱は、「世俗的な意味の善行」ではありません。
自らが、覚りを求め、開悟・成仏を目指すのと同様に、衆生に開悟・成仏を目指させるように働きかけるのです。それが菩薩行道です。
善意の人、善行の人、善行に一生をかけた人が菩薩であるというわけではありません。
他人を覚らせようとし、自信も覚ろうとする人が菩薩なのです。

ですので、私は、伝統的な仏教解釈に則るならば、異教徒であり、菩提・覚りを求めた訳ではない「マザー・テレサ」は菩薩ではないと言わざるを得ません。

(わたし個人は伝統的な仏教解釈とは別の菩薩観(智慧の一分を開いた人、ダンマの一分を見た人が菩薩である)を持っているので、マザーテレサが菩薩であるという可能性はゼロではないとは思いますが、可能性は高くないだろうと思います。)

1013みかん:2003/11/27(木) 05:16
菩提心についての言及がすっぽ抜けていました。

菩提心を起こしていない人は菩薩ではありません。

菩提心についての解釈はいろいろありますが、
「覚りたいと望むこと」が菩提心では
"ありません"。(往々にそう誤解されていますが)

菩提心はそう簡単に起こせません。
菩提心を起こせれば、ある意味では覚ったも同然、という宗派もあります。

いずれにせよ、わたしが強調したいのは、
世俗的な善行を行う人が、菩薩だというのは、誤解であるということです。

菩薩は、他人を覚らせようとし、自分も覚ろうとする衆生のことです。
世俗的な意味の善行をする人のことではありません。
それがどれほどかけがえのないことであっても、です。
世俗的な善行をする人は、世俗的な善行をする人として
高く評価されればいいのであって、「菩薩」という
間違ったレッテルを貼る必要はないと私は思います。

1014愚鈍凡夫:2003/11/27(木) 06:11
皆さん、お早うございます。

たぶんアネモネさんがいっている「山上の垂訓(山上の説教)」とは以下の文のことだと思います。
「マタイ伝 5」より引用
**************************************************

1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
(後略)

**************************************************

富士門の掲示板で新約聖書を引用するのは不思議な気分ですね。
マザー・テレサは「貧しい人たち」について、次のように述べられています。

「貧しい人々の中で最も貧しい人々は、私たちにとってキリストご自身、人間の苦しみを負ったキリストに他なりません。」(「愛と祈りのことば」 PHP研究所)
「私たちの食物、衣服、何もかも貧しい人々と同じようでなくてはなりません。なぜなら、貧しい人々はキリストご自身なのですから。」(「愛と祈りのことば」 PHP研究所)

「マタイ伝5-3」の意味は、マザー・テレサが「心の貧しい人」といっている意味とは違うように思うのですが、いかがでしょうか。
何故なら、女史は「貧しい人」と「心の貧しい人」とは区別されているように思うのです。女史の言う、「心の貧しい人」というのは、「忘れ去られた孤独の中の住人」のことではないでしょうか。または、「心に深い傷を負った人」のことではないでしょうか。

「山上の垂訓 山上の説教から」
http://www.hiroshima-cdas.or.jp/home/jm4kdv/sanjyou.htm

1017犀角独歩:2003/11/27(木) 09:28

みかんさん:

質問です。

世俗的な善行と衆生の教化はどのように違うのでしょうか。
教化とは具体的に何をすることでしょうか。
開悟・成仏とはどのようなことでしょうか。

この三つ、ご説明願えませんでしょうか。

1018犀角独歩:2003/11/27(木) 09:42

みかんさんは、ひとつ誤解があると思います。

みな「マザーテレサが菩薩である」というレッテルを貼っているわけではありません。

マザーテレサの尊い行動と精神に、菩薩の姿を見るという趣旨で話が進んでいるだけです。そこから、菩薩道とはなんであるのかを再考しようという流れになっているということです。

それは単に、菩薩戒を受け、勤行に四弘誓願を口ずさみばかりの僧、あるいは仏教集団といいながら、商業集団としか映じない宗教法人などより、よほどマザーテレサのほうに菩薩を見るという前提で話が進んでいます。異教徒であるマザーテレサのほうにこそ、なぜ菩薩を見るのかが重要な点です。ご呈示いただいた菩薩については、もちろん認識したうえで議論が進んでいるところをお読みとりください。

1019犀角独歩:2003/11/27(木) 10:12

少しくどいですが、もう一点だけ。

蓮師は『本尊鈔』に

「無顧悪人慈愛妻子 菩薩界一分也」
((悪事を行っても)顧みることの無い悪人も妻子を自愛する 菩薩界の一分なり)

と記しています。この場合の悪人は菩提心があるわけでもなく四弘誓願も立てません。
しかし、蓮師は菩薩界一分と言います。
以上のようですから、マザーテレサに菩薩界を見ることは、蓮師の菩薩観から推しても外れているものとは思えません。

1020みかん:2003/11/27(木) 14:01
> 世俗的な善行と衆生の教化はどのように違うのでしょうか。

全く違います。
衆生の済度、教化とは、衆生の「智慧を開かせる」ための行為です。衆生の智慧を開かせるために
自分の能力と、相手の能力を知った上であらゆる事をします。それが衆生済度・教化のための行為です。


> 教化とは具体的に何をすることでしょうか。

あらゆること、です。文字通りあらゆる事、あらゆる方法を採ります。
生身の人間であるところの仏・菩薩とは、自分が生きる姿をもって、
相手の智慧を開き、智慧の眼を開かせる人間です。
あらゆる方法を用いることが、仏・菩薩の慈悲でしょう。
あらゆる方法とは、文字通り、あらゆる方法です。
行住坐臥、すべてで伝法します。言語にもよるでしょうが、
言語のみによるわけではありません。
また、仏・菩薩が衆生を開悟させられるわけではありません。
開悟するかどうかはあくまでも衆生の機縁の問題です。

> 開悟・成仏とはどのようなことでしょうか。

智慧の眼を開くこと、縁起を知ること、そして煩悩を滅することです。
私がなぜ私であり、世界がなぜこのような世界であるのか、
直感によって、直下に分かることです。
問題のある表現を敢えて使うなら「諸法の実相」を
我、我が身の上にありありと体験することです。
生身の人間が煩悩を完全に滅することは不可能なので、
(煩悩がないと、死にます)生きている限り、完全に
成仏することは不可能でしょうね。

> もちろん認識したうえで

菩提を求める衆生が、菩薩であるという視点が欠けているように見えましたが。
世俗の善行と、仏道の衆生済度、衆生教化が異なるという視点も欠けているよ
うに見えましたが。

> 「無顧悪人慈愛妻子 菩薩界一分也」

譬喩表現だと思いますが。あくまでも菩薩界一分であり、菩薩ではありません。
また、わたしは日蓮信者じゃないので、日蓮がこう言っているから、と
いわれても、ああ日蓮はそういっているのですか、それは仏教一般の
考え方とは違いますね、ということしか言えないですね。

1021犀角独歩:2003/11/27(木) 14:15

みかんさん:

菩薩界の一分と菩薩は違うと言うことですが、何がどのように違うのでしょうか。
また、一分ではなく、十分の菩薩とはどのようなものを言うのでしょうか。
生きた人間の例で引用するとのことでしたが、十分の菩薩とは具体的にはどのような人ですか。

また、智慧を開かせるということですが、では智慧とは何でしょうか。
智慧が開くとどうなりますか。

それにしても、たしかみかさんは「仏教信者ではない」と自称されていましたね。
日蓮信者でないから、日蓮が言っていることはそう言っているという範囲に留まるというのであれば、仏教信者でないみかんさんが引用する菩薩の説明は何の意味を持ちますか。

1022犀角独歩:2003/11/27(木) 14:27

そうそう、みかんさん。一つ書き忘れました。
みかんさんが日蓮信者ではなく、哲学者の立場から仏教一般の用語説明をされているのでしょう。
わたしは社会活動という実践の立場から菩薩の在り方を考えています。
ですから、仏教一般の説明の正確さをここに競っているわけではありません。

1023犀角独歩:2003/11/27(木) 15:07

アネモネさん:

いつもながら長文のレス、有り難うございます。

> イエス…財産を貧しい人々に施してから弟子

仏教では、財産を教団にすべて寄進して弟子になるなどという話を聞いたことがあります。この点をたしかオウム真理教も模倣していました。それに比し、イエスの姿勢は実に立派であると感服するものがあります。

> 菩薩道…他に尽くす(利する)為に、自分を捨てる(自己犠牲)

この点が菩薩道を考えるうえでネックになると思います。
愚鈍凡夫さん、みかんさんが菩薩の変遷について、やや記してくださいましたので、その線に沿ってやや考えたいと思います。

まず結論から言って、わたしは菩薩道は後期になるほど“堕落した”と見ます。
堕落という言葉が悪ければ、歩み方向を間違えたと言い換えてもよいかと思います。
超人化し、加護、祈祷の対象になった菩薩は、もはや菩薩道とは関係のない崇拝対象でした。
では、法華経の菩薩はどうか、ここが焦点になります。
先にも記したとおり、この菩薩達は艱難辛苦をよく忍び、軽んじられながら、その相手を礼拝し続ける人々でした。それは見仏を求め、弘法を誓った人々でもあったわけでした。換言すれば経典(聖典)崇拝者でもあったわけですね。
わたしが注視するのはこの点です。これら菩薩は仏と法のために身を捨てていく人々であったわけです。反面、法を弘める相手から害される覚悟を持って臨んでいます。
このような弘教の精神は法華持経者の模範とされるところです。

しかし、わたしはこの菩薩の在り方に、敢えて疑義を立てます。
本来の菩薩精神は違うと異論を述べようと思います。
その根拠は本生譚(ジャータカ)です。シャキャムニの前世物語として綴られる菩薩も、たしかに仏・法を求める人でした。しかし、そこで展開される菩薩行は法華菩薩とは格段に違っています。

著名なところで、法隆寺に遺る国宝・玉虫厨子に描かれた物語を例を挙げます。
「捨身飼虎」と称される飢えた虎の親子に自分の身を捧げる“菩薩”行を図したものです。ここで着目したいのは菩薩が身を捧げたのは、仏・法ではなく、畜生界の虎であったという点です。もちろん、その志は仏法を求めてことでした。しかし、その菩薩が身を布施したのは畜生に対してです。ジャータカを注意して読むと、その物語はほぼそのような有様で、仏法を求める菩薩は、我が身を十界論でいう六道の衆生に与えることによって行にしています。わたしは、ここに菩薩道の遡源を見たいと思うわけです。

ところが現在の信仰者は、菩薩道と言いながら、その布施を捧げるのは、仏・法、あるいは教団、指導者に対してです。不信の人々にはただ法を弘めてそこで終わってしまいます。

みかんさんが「世俗の慈善事業は菩薩道とは無関係」と記された。しかし、わたしはそのようには思いません。いかなる慈善行為のなかにも菩薩道は生きていると考えます。前世のシャキャムニが六道の衆生に身を捧げたように、アネモネさんの言葉を借りれば自己犠牲と見える行を通じて利他を実践する、その利他を慈善の実践をする心に、わたしは菩提心を見ます。神仏を求め、あるいは求めずとも、悩める人・苦しむ人のために、実際の行動をしようとする心が菩提心の原型になっているという意味です。それが仏教の菩薩道であれば発菩提心と呼ばれ、マザーテレサは「貧しい人にイエスを見る」というも、そのように衆生を自愛する心象こそ、現世人類が生物として到達した秀でた精神状態なのだという点こそ、重視されるべきであると思うわけです。

その観点から、菩薩道の実践は衆生救済、具体的には世俗の慈善事業の場でこそ、実践されるべきでものであるとわたしは思うわけです。
教団・指導者に自分の利益を願って散財をするより、支援を必要とする人々に、その罪過を手向けることのほうが、わたしはよほど菩薩の精神に適うと思うものです。

1024犀角独歩:2003/11/27(木) 15:08

―1023からつづく―

また、このような菩薩道は、なにもわたしがここに記すまでもなく、日本仏教のなかでもかつて営々と培われ実践されたことでした。この点については『創価学会の功績を考える』のスレッドで、『現代宗教研究』第37巻掲載の『日蓮宗のビハーラ活動 ― その理念と意義』を紹介しました。また、このような活動は他教団でも広く認識、実践されているところです。

> 菩薩の道で、蓄財を禁止することは、基本中の基本

この点はお言葉を返すようで恐縮ですが、少し違うと思うのですよ。
シャキャムニの教団では、一切の生産活動が禁止され、蓄財ももちろん禁止されていました。その後、シャキャムニが没し、100年ほど経てバイシャリーで起きた分裂の時点で、金銭で供養を受け取る改変が起こります。菩薩思想は、こちらの流れで、在家実践家、それも裕福な人々が、その蓄財を持っていかに仏教を実践しようかとした動向に関わるのだと思います。

ただし、アネモネさんが菩薩の蓄財を戒めるのはやや意味が違うかも知れませんね。
仏法名目で財貨を募り、それを着服する横領詐欺行為を糾弾してこのことと拝察いたします。

わたしは、この点についても厳しい論及をしてきました。
かつて記した拙書のなかで

「神仏に仕えるはずの集団と人間が莫大な布施・献金を着服する。これを中間搾取といわずして、ほかになんと言えばよいのであろうか。それら集団と指導者は、神仏と信者の中間に立ってすべてを持ち去るのである」(拙書『あなたは違う方向に歩いている』前書)

> 法の修行とは、何のために行うことなのでしょう。

これは先にみかんさんが記したとおりであろうかと存じます。
シャキャムニの行法の目的は滅苦であったろうと思います。

> 修行とは、自分の為の行…それとも他者の為の行

初期仏教教団は己の滅苦を目的とした自利に即したものであったろうと思います。
その後、勃興するいわゆる大乗運動とその菩薩精神は、そこに新たに利他の側面を添加したものであったとわたしは思います。
菩薩道はジャータカに見られるものの、それはシャキャムニと遡源できるものではないと思えます。後世の新たな展開であったのでしょう。けれど、人類の秀でた精神活動である菩薩道が、仮にシャキャムニに由来するものでなくとも採用すべきであるというのが、わたしの考えです。

> 折伏の名を借りた組織勧誘は、弘法という菩薩行に解釈されていること、
> これが法の歪曲であるならば、ことは深刻だと思いますね。

ええ、仰るとおり、わたしも「歪曲」であると考えます。


> 本尊…「象徴の病」

この点から考えるべきであると思います。
また、この視点からの批正に絶えられない本尊論であれば、もはや、今後の社会では通用しないものとなっていくことでしょう。

> お釈迦さまの直説…本尊…使われていなかった…自灯明、法灯明

「本尊」語は先にも何度か記しましたが、そもそも天台教説にすら現れません。
先に福田さんが「無仏の時代は法を本尊」ということを記されていました。この考えは、天台の教説とは本尊語の使用で違い、蓮師の教説でも寿量仏観で違うとは思います。しかし、シャキャムニの遺言からすれば、何も間違っていません。シャキャムニは自身が仏陀(覚者)である自覚はあったでしょうが、自身を崇めさせたり拝ませたりする考えは元よりなかったでしょう。アネモネさんがここに記されるとおり、自らを灯明とし、法(ダルマ)を灯明として、歩むことを遺言されたのであろうと拝察します。

1025犀角独歩:2003/11/27(木) 15:09

―1024からつづく―

> キリスト教…天地創造の全知全能の絶対神が、本尊

言葉で当て嵌めれば、たしかにそうなりますね。

> 観念的な世界のいわば象徴の病ではないか

わたしもそのように考えます。

> 不信の救済。私も宗教に関わった者のひとりとして、このことを考え続けていきたい

有り難いお言葉を頂戴しました。

> 不軽菩薩は、法華経不信の人にも礼拝

むしろ、不信にこその礼拝であったというコンセプトの物語ですね。

> マザー・テレサ…キリスト教を信じないインドの最下層の人々を救済
> …イエスの山上の垂訓にかなった実践的行

なるほど。
愚鈍凡夫さんが引用してくださったので、改めて読み直すことができました。
人類の尊い遺産と言えるすばらしい精神をここに見ることができると思いました。

>> 浅見定雄師
> 自分の信仰する教団が、実際に何をしているのか…を見ようとし、
> そのことを考えてみようとするということは、正法とは何か、
> 成仏とは何か、菩薩道とは何か…といったことを考え直してみる
> ことに通じるものだと思われますね。

社会のなかにある宗教法人として活動するのであれば、当然の視点ですね。

> キリスト教が広まった本当の背景…「貧しき者は幸いなり」
> 貧しい者こそ神の国に行ける…イエスの言葉
> …裕福故に神の国に招かれないのではないのかという不安や恐れがあった

これは実に興味深い話であると思いました。
差詰め、日本で言えば「清貧の思想」と言ったところでしょうか。

> 富の一部を神の名において慈善事業に使うようになった

意図せずの結果であったのかも知れませんが、望ましい方向性でしたね。
わたしは学生時代、森島恒雄師のファンで、魔女狩り、十字軍、科学と宗教の闘争といった中世キリスト教の悪い面ばかりを取り沙汰してきたものでした。
しかし、ここ10年、多くのキリスト者である聖職者との交流を通じて、彼らの社会活動を見聞し、そして共に歩むなかで、その評価を大きく書き換えてきました。
魔女狩りから慈善運動への変遷、それを日本仏教も見習わなければいけないと考えています。

> 法華経成立の背景もどこか似ているようにも思われますね。

これはちょっとわたしには解せないのですが、どのような意味で仰っているのでしょうか。

> キリスト教…無償の愛というよりは…我欲からの信仰心
> …やがて真の博愛に目覚めていった

仏教では「無縁の慈悲」ということを言いますね。
まったく自分と関係がない人に対しての慈悲心ということです。
自利から出発した仏教がやがて利他面に到達したのは、アネモネさんが説明されるキリスト者の向上と似通っているところを感じます。

1026犀角独歩:2003/11/27(木) 15:10

―1025からつづく

> 宗門や教団批判…そのルーツ…法華経にたどりついてしまう

この点を率直に認め、法華信奉者としてどうするのかを考える時期に来ているとわたしは思います。

> 法華経=正法という錯覚…そこから紐解いていかなければならない

そう思います。教理云々ということではなく、法華経=正法、だから南無妙法蓮華経は絶対に正しく、それを立てる我が集団が唯一正しいなどという論法はもはや通用しないと言うことです。

> 怨恨と不軽は、相反…昇華…創作者の意図

うーん、これは違うと思います。
法華経は300年ほどの時間をかけて複数の寄せ集めの編纂のようで、その意味で、矛盾した要素が取り混ざっているということではないでしょうか。
全編の整合性を取るに至らない編集と見えます。

> 聖典信仰…キリスト教のバイブル、ユダヤ教のトーラー、イスラム教のコーラン
> いずれも法華経が創作された中東の信仰観に共通しているものですね。

偶然ではないと思うのです。
このような研究をどなたかここでご紹介いただければ参考になります。

> 神の言葉が記された…書物…神聖…「本尊」のように扱われている

南無妙法蓮華経は、聖典に帰命し、それを本尊視するものである、これが題目本尊であるわけですから、実に類型をなしていると思えます。

> …神や仏…絶対的な信仰対象…偶像崇拝…の範疇…象徴の病

「絶対」を信仰することから脱却、わたしが脱カルトでテーマにしてきたことの一つでした。結局のところ、象徴の病が取り沙汰されるのは、健全な精神を封殺し、人間が生み出したものにかえって人間が呪縛されてしまう不健全さを指摘してのことです。人間は自分たちが生み出した神仏(とその概念)に支配されることなく、健全な精神状態で生きること、その前提からの仏教再考であるべきですね。それはひいては集団・指導者からの卒業をも意味するでしょうし、過去数千年、仏海と表されるほどに肥大した経・論・釈の守文の徒からの卒業も意味するものとなります。

> …久遠の釈尊…本仏…観念的存在…偶像
> …経典や聖典…言葉や文字…法に代わる象徴…
> …観念上の像を信じること…言葉や文字や絵や像…
> …正法を象徴的に据えて信じること…偶像崇拝だと思いますね。

結局のところ、「空」というも、アネモネさんが象徴の病から総括される以上のようなことを言おうとしたもなのだろうと、わたしは考えています。

「象徴の病から見直し、実に意味のあることですね。

1027犀角独歩:2003/11/27(木) 16:50

【1023の訂正】

誤)現世人類が生物
正)人類が生物

誤)その罪過を手向けることのほうが
正)その財貨を手向けることのほうが

1028アネモネ:2003/11/28(金) 01:54
つぶやきスレッドの>718において、みかんさんは、
>仏教の目的は、滅苦です。
苦を滅するために、開悟(=成仏)することが、仏教の手段です。
四聖諦を見れば分かります。
と書かれておられました。
仏教における手段が、菩提心に始まらなければならないとしても、しかし仏教のその目的が「滅苦」であるならば、開悟(=成仏)を意識しない世俗的な善行も、仏教の目的からまったく外れたことではないのではないかと、私などは考えたいところです。
しかしそれでも、菩提心のあるなしを厳格に区別して論じなければならないならば、そこには「不信の人」と「信の人」の差別と同じような意識が生じるものではないかとも思います。
となれば、仏教とは差別を克服できない宗教ということにもなりはしないでしょうか。

仏教を教説的に厳格に捉えることは、もちろん大切なことです。しかし、その仏教の真の目的が何であるかを考えたとき、あらゆる現実の事物を包括的に捉えていくことも重要なことではないかと考えます。そもそも、仏教は世俗の問題を分けて考えることなのでしょうか。滅すべき苦とは、世俗のなかにあるものなのではないでしょうか。
そうでなければ、仏教思想は現実社会に生かされることのない、ただの観念論に過ぎないのではないかと、私は思ってしまいます。

実際、仏教では、世俗的な善行について、どのように説いているのでしょう。一切関知しない論外として、何も説かれてもいないものなのでしょうか。
膨大なスケールで過去世を論じたり、来世を論じたりと、気の遠くなるほどの経典が存在するにも関わらず、世俗のことになると全く論外となるならば、私などが思うに、「滅苦」の目的など、ただの口先だけ。お題目だけのものに過ぎないと思えてしまいます。
それが仏教なのかどうかもわかりませんが。

いずれにしても、仏教の菩薩が、どのような行いをする人なのか、これではますます私にはわからなくなってしまうわけですが、たとえマザー・テレサに菩薩を見たとしても、教義的に仏教の菩薩には値しないということなら、それはそれでいいのでしょう。
ただし実社会で、人々が、どこに救いを求め、どこで救われるのかという問題となったとき、これでは、仏教よりもキリスト教のほうが、はるかに社会に実践的に生かされた教えであるものと、判断せざるを得なくなると思われます。
こうなるともう、仏教はあまりに難解すぎて、救われる人が限られるという欠点を指摘したくもなります。仏の慈悲と神の愛、どちらが広大無辺なのでしょう。
本当はこのような比較論をここでするつもりはないのですが、思わず、ついつい書いてしまいました。

1029アネモネ:2003/11/28(金) 01:56
愚鈍凡夫さん

>女史は「貧しい人」と「心の貧しい人」とは区別されているように思うのです。女史の言う、「心の貧しい人」というのは、「忘れ去られた孤独の中の住人」のことではないでしょうか。または、「心に深い傷を負った人」のことではないでしょうか。

私、大好きな「山上の垂訓」を例に出しましたが、ルカ福音書には次のような一節もあるんですね。


さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は幸いである、
神の国はあなたがたのものである。」


「貧しい人」と「心貧しい人」は、私の中では、いずれも救いを必要とする人々として同じに捉えていたかもしれません。
ただし貧しい人に、ただ衣食を施せば、それが慈善行為だというものではないのでしょうね。本当に飢えているのは、人の愛だということ…愚鈍凡夫さんは、マザー・テレサの言葉を通して、そのことを感じていらっしゃるのかなと拝察いたします。

古今東西どこの国でもそうですが、貧しい人というのは、社会から差別されている階層の人である場合が多いですね。
イエスの時代、そのような人々に関わってはならない、また触れてもならないと考えられていたと聞きます。言葉を交わすこと、食事を共にすること、家を訪問すること、そのようなことを忌み嫌ったといいます。特に、病気の人や身障者に対する社会的冷遇はそれはひどいものだったといわれています。
しかし、イエスはそのような慣習に反して、率先して差別をされている人々と交わり、言葉を交わし、そして手をとり、そして食事を分け与えて、共に過ごしたといわれています。

話は変わりますが、数日前でしたが、七十代の女性と、五十代の男性が、借金を苦にして、心中を図ったことがテレビで報道されていました。海岸の絶壁から投身自殺を図ろうとしていたところを、通りがかりの警察官の説得によって、一時は思い留まらせられたものの、数日後、2人はその警察官宛に遺書を残して首を吊っていたのが発見されたそうです。
遺書によると、警察官の説得に励まされ、生きることを決意した後、役所に生活保護を求めていったと綴られていました。しかし、思うように手続きもとってもらえないばかりか、心無い言葉を向けられて冷遇され、結局、希望も気力も失ってしまったといったような内容だったといいます。
生活を苦に自殺を考えたものの、人の心に励まされて思い留まることが出来たのに、結局最後は、人の心無い言葉によって、死を選んでしまったわけですね。いろんなことを考えさせられてしまいます。
役所の言い分では、遺書に綴られていたような心無い言葉は発していないとの弁明でしたが、心が飢えている人にとっては、突き刺さるものに感じたものだったのでしょう。

差別は貧しさを招き、そらには、愛に飢えた心の孤独をも招くものですから、恐らく、貧しさ(乏しさ)と心の貧しさとは、裏腹である場合が多いかもしれません。
しかし、実は本当に心の貧しい人というのは、乏しい人ばかりではなく、むしろ富める人であるともいえますね。
これはむしろ、現代の日本の社会が抱えている問題ではないかと思います。確か、マザー・テレサも日本について、そのような指摘をしていたのではなかったでしょうか。
この点を、日本の既存の宗教は、真剣に考える必要があると思います。
ところが、こういってはなんですが、既存の宗教組織が往々にして「心貧しき富める人々」に陥っているとも思われるわけです。
なんとも、これでは救われない。それがそのまま、日本の世相として反映されていると思ってしまうところです。

1030ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/11/28(金) 04:13
犀角独歩さん、顕正居士さん、毎度の事ですが、ずいぶんと遅くなってしまいまして、すいません。


犀角独歩さん

>>892

>組織、指導者のやることは絶対で間違いがないとその判断能力を他者に委譲してしまい本質が見えなくなることを第三者心理操作、すなわち破壊的カルトマインド・コントロールにおける“思考停止”というわけでした。

現実においても、ネット上においても、いわゆるバリバリ系と呼ばれている創価学会員や、その他の宗教における盲信的・狂信的な信者たちの姿に接していると、それが実によくわかります。
政治的な話になりますが、先の衆議院選挙において、公明党とあそこと連立を組んでいる自民党への支援・投票をした創価学会員たち(活動者学会員)のほとんどが、自分のアタマで考えながら理性的な判断を下す事なしに、ただ学会執行部からの命令のまま、単なる集票マシーンとしてしか動かなかったという事実にも、それが端的に表れていて、非常に危険なものだと思います。

>家に漫荼羅が複数あることをあたかも謗法の如く扱う学会の論調は理解に苦しみます。
>例えば、学会本部内にはいったい何体の漫荼羅本尊が安置されているわけでしょうか。
>「一家一世帯の御本尊」は創価学会独自教義に過ぎません。
>何の根拠もない言いがかり以上の何ものでもありません。
>むしろ、何百年も石山とその末寺檀家であった人々にとって、複数の漫荼羅本尊を所有することは誉れでこそあれ、非難される謂われなどまったくないことでしょう。

そのように言われてみますなら、確かにそうですね。
まぁ、あそこの場合、何事に関しても自分たちにとっての好都合な事しか言わず、幼児並みの言い訳をしたり、見え透いたウソを平気でついたり、必死で誤魔化しをしたり、機関紙を使っての稚拙な情報操作を用いたりして、無知で盲信的・狂信的な会員たちを騙し、洗脳して煽るのが大好きみたいですから。
それと、これは17年前、学会2世の知人で、本人はほとんど自覚がなかった人間から聞かされた事なので、真偽のほどは不明ですけど、知人の郷里である愛媛県のどこかの地域においては、家族の者たち一人一人がそれぞれに御本尊を持っていたというお話でした。
もし、その知人の話が本当だったのなら、いったい、どういう事なんだろうか?と思ってみるのですが・・・

>> 御本尊を土産物として売る

>これは信仰観の相違ではないでしょうか。
>たとえば、国によっては国王の写真を撮ることを厳重に禁止している国があります。
>しかし日本人からすれば、何がいけないのかピンときません。
>そもそも漫荼羅本尊観が相違しているのでしょう。

日蓮系でも富士門流と他門流との間には、曼荼羅に対する捉え方の違いがあるんでしょうかね(あるいは、同じ富士門流の中でも)。
ところで、創価学会は、以前、御本尊の写真撮影を謗法に当るとか何とか言い、厳禁にしていましたけど、しかし、数年前の聖教新聞に掲載されていた記事によれば、実際には昔から大石寺において、御本尊書写の為の写真撮影が行われていたとか。
ちなみに、学会は、その事で会員に対してただの一言の釈明も謝罪も行っていません(あそこがお得意とする、何でもかんでも他者に責任を擦り付ける事で、自分たちの非をまったく認めようとしないという、いつもの薄汚いやり口ですが)。

>ドプチェクさんからすれば、社務所で売られるお守り、絵馬は飾り物、アクセサリーと映じるのでしょうが、そこに願をかける人々にとっては信仰の対象であるからです。
>これらの人々にとってお守り、絵馬は富士門信徒の漫荼羅を仰ぐ信仰心と何ら変わらない恭敬をそれらの品々に懐いていると想像できます。

そのように言われまして、そうなのかもしれないと思いました。
もしかすると、長年私の中に刷り込まれて来た他宗のお守りや絵馬・お札等を悉く否定するという考えが働いて、それらに対して偏見を抱いてしまう癖がついているのかもしれません。

>>893

>学会を含む石山系グループの本尊観の濫觴はもちろん、興師にその遡型を見るわけですが、わたしは最近、この興師の漫荼羅観こそ、実は蓮師から飛躍した独自解釈であったのではないのかと疑いだしています。

富士門流は、日興上人だけが、宗祖日蓮聖人の教えを正しく受け継いだ正統な後継者であると主張し、また、一般の日蓮関係の書籍においても、日興上人が師の教えに対して厳格だったと記されている事が多く、私は長年、そのように思って来たのですが、しかし、次第に様々な疑問を抱くようになりました。
日興上人とその門流に関する疑問は色々とあるのですけど、その中で、前々からどうも納得が行かないのが、先ず神社への参詣厳禁という事なのです。

1031ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/11/28(金) 04:14
犀角独歩さん、続きです。

少なくとも「三沢抄」における日蓮聖人の記述(信徒の内房の尼が氏神へ参詣したついでに、身延を訪ねて来た為、聖人は面会を断られたというものです)を読む限り、信徒が神社へ参詣する事をあながち否定されていたようには思えず、もし仮に、聖人が神社参詣を容認されていたとすれば、日興上人は何故それを禁じられたのか?と。
また、それと関連する事なのですが、以前、こちらの掲示板でご意見が交されていました、日興上人が身延の地を立ち去る直接的な原因になったという地頭の波木井実長との対立についても。
日興上人は、波木井実長が神社参詣等の「四箇の謗法」(一般の書籍では、何故か?「三箇の謗法」となっていました)を犯した事を容認できなかったのが原因だと言われているものの、しかし、その後も両者の間には何らかの形で交流があったというお話ですよね(以前、何かの書籍に記されていたのですけど、様々な資料を見る限り、波木井実長の人物像は、富士門流が言っているような悪人のイメージなど、到底浮んで来ないという事なのでした)。
それに、波木井実長が犯したとされる謗法行為?の一つの「釈迦像を造立して本尊にした」事に関しても、もし日蓮聖人がそうされていたのなら、何故実長の場合には批判される必要があったのか?と。
それから、日代上人が離脱(追放?)し、西山本門寺へ移られたのは、法華経全品の読誦の是非を巡る対立が原因だったと、学会系の書籍に記されていたのを憶えていますけど、その事も「?」と思ってしまいます。

>>894

>> …松戸行雄氏の著書を読んだ影響

>この点はわたしはちょっと意味を取りかねます。

松戸氏の著書は、真偽不明の御書を用いている事でもあって、批判的な見方も多いようですね。
無論、私も氏の考えに全面的な賛同をしているわけではなく、批判的な見方をすれば、独り善がりと言うのか、やや独りで突っ走りすぎているような感じが致します。
ただ、松戸氏の考えは、それまで長年に渡って接して来た創価学会や日蓮正宗のガチガチの教えと違い、私には、すごくリベラルで斬新なものとして映りましたし、少なくとも、氏の著書に接した事で、私自身のマインドコントロールからの解放に、更なる拍車がかかって行ったのは事実です。
松戸氏の著書を知る直前であった6年半位前、私はすでに一般の日蓮関係の書籍を読むようになっていたのですが、日蓮正宗が主張する大御本尊絶対論、歴代の法主による書写・開眼供養の有無等といったような神話めいたお話、そして日蓮久遠本仏論までをも否定されていた氏のそれに初めて遭遇した時は、本当に強い衝撃を受けました。
しかし、時間が経つにつれて、それまで自分の心に重く圧し掛っていたものが、次第に消えて行き、すごく楽な気分になれましたね。
私の場合、6年前に松戸氏の著書と巡り合っていなかったなら、御本尊の写真をコピーして拝む事に、かなりの抵抗感があり、もしかすると罰を受けるのではないか?という、恐怖感を抱き続けていたのではないかと思うのです(コピー御本尊を拝む事に関する是非は別としても)。
ただ、そういった恐怖感がなくなったという意味では、心が自由になれたものの、それと同時に、何だか自分自身の中で、御本尊に対する畏敬の念や信仰心までもが次第に薄れつつあるのではないか?と、その事が少し心配なのです。

>>895

>日蓮信者であれば=本尊安置などというのは現代の常識に過ぎません。
>仰るとおり、「但行唱題」こそ、中心であったのではないでしょうか。

長年、御本尊を拝むのが基本という考えの中で信仰して来た私と致しましては、なかなか難しい事のように思えます(私と同じような感覚を持っている人たちは、結構いらっしゃるのかもしれませんけど)。

1032ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/11/28(金) 04:16
顕正居士さん

>>901

「見えない教会」「公同の仏教会」と「カルト」ですか・・・
その境界線がよくわからず、何だか難しいですねぇ・・・
創価学会のような仏教団体を名乗りながらも、実際には自分たちにとっての好都合な勝手な教義の解釈をして、おかしな事ばかりをしている教団は、もはやカルトに属するのでしょうか?
あるいは、エホバの証人とかも?

>宮沢賢治は国柱会の「文芸布教」を実行しようとした。奔放な発想と信仰が両立しえたのは
>国柱会は国柱会を宣布する団体でなく、「日蓮主義」を宣布する団体だったからでしょう。
>「見えない神」は唯一であり、「見えない教会」もまた唯一といい得るからです。

宮沢賢治氏の書簡によると、若い頃には田中智学氏に対して個人崇拝?していたような感じですけど、それでも、賢治さん自身の中では、やはり飽くまで仏教徒としての自覚の方が何よりも強かったのでしょうね。
創価学会員の場合、はたして賢治さんのような人間は、いったい、どれぐらいいるのだろうか?と、そんな事を思ってみます。


皆さん、ところで、鹿砦社(エスエル出版会)のお話が出ていましたが、あそこは15年位前、プロレスや格闘技に関する書籍をよく出版していたのを憶えています。
出版物の内容は、通常のプロレス・格闘技関係のものと違い、今思い出すと、その名のとおり、やや昔の左翼っぽい雰囲気のところがあったような気も致しますし、ちょっといかがわしい感じでしたね。
アントニオ猪木や、昔存在していたUWFという団体を取り上げたものが主で、プロレス界における暗部・内幕等のタブーを暴露した書籍が、結構ファンの間では有名だったようです。
それと、多分、10年以上前ではないかと思いますけど、創価学会を批判する書籍を出版した事があるようにも(うろ覚えなのですが)。
創価学会批判のものを出版したかどうかについては、記憶が定かでないものの、9年位前だったと思いますが、確かイタリアのSGIのメンバーであるサッカー選手のバッジョを賞賛するような書籍を出していたのは憶えています。
また、左翼っぽい感じのする出版社でありながら、格闘技関係の書籍で、右翼系の人へのインタヴュー記事を掲載していたようにも。
あそこは、いったい何を考えているのかがよくわからず、もしかすると、金になるのであれば、何でもいいのではないか?と、そんな風にも思ってみるのですけど。

1033愚鈍凡夫:2003/11/28(金) 05:33
皆さん、お早うございます。

マザー・テレサは、戦火の中で悲惨な体験をし、深く傷ついた少女たちの心のケアもしていたわけです。PTSDに苦しむ人の心の奥底まで入り込める人なんですね。そういう意味では、サイコ・セラピストとしても一流の方だったと思います。この、病苦・生活苦だけではなく、深刻なトラウマにまで光を当てた女史の姿に、幾度となく感動を覚えたものです。
女史が育った街は、いろんな宗教が混在していて、女史自体異教徒に対するアレルギーが元々なかったようですね。そして、見知らぬ貧しい人にまで優しかった母親の影響を強く受けたのだと思います(食事の時、見知らぬ人と食卓を共にすることがよくあったそうです。母親は微笑みながら親戚の人と紹介していたらしいですが)。

誕生から6〜7歳までの子供の生活で最も重要な大人は母親です。それは、子供がこの時期に、愛情とは何かを学ぶからです。女史は、子供が社会生活に適応することを学ぶこの時期に、人間としてもっとも尊いことを母親から学んだのだと思います。
「援助を必要とする人」を援助することが当たり前の行為として、自然に身に付くような環境に育ったというのが大きかったのではないでしょうか。

女史がノーベル賞で貰ったメダルを売って、パンを買おうとした話は有名ですが、反面、自分の名を施設や建造物に付けるのを極端に嫌がったそうです。どこかの宗教指導者とは全く正反対なのが、何とも凄いですね。

余談ですが、
数珠を通して仏教・ヒンズー教・キリスト教の関係を考えてみるのも面白いかなと思ったりしています。

1034愚鈍凡夫:2003/11/28(金) 19:09
皆さん今晩は、愚鈍凡夫です。
「あれ! 誰もいない・・・・・。いまのうちにカキコしよっと。」(独り言) (^◇^)v

キリスト教のロザリオは、もともと祈りの回数をカウントする計算器で、本来の役割は仏教の数珠と同じでした。
一方、数珠はもともとヒンズー教(バラモン教)の法具で、ヒンズー教では数珠を「ジャパマーラー(japamala)」と呼ぶそうです。
「ジャパ(japa)」とは、神の名を唱えて姿を思い浮かべることで、「マーラー(mala)」は輪のことです。したがって、「ジャパマーラー」とは「念誦の輪」を意味します。
歴史上、言語の違う民族同士の言葉の聞き違いはよくあることで、ローマ人が「ジャパ」を「ジャパー」と聞き違えてしまったのです。面白いことに、「ジャパ」を「ジャパー」と伸ばして発音すると、サンスクリッド語ではバラを意味する言葉に変わるそうです。下世話な話ですが、「米(rice)」と「虱の複数形(lice)」の違いぐらいありますかね。 (-_-;)
そこで、「ジャパーマーラー」は「バラの輪」と解釈されました(なんのこっちゃ?)。 (^▽^;)
そして、ラテン語で「ロザリウム」、ポルトガル語で「ロザリオ」、英語で「ローザリー」と呼ばれるようになったそうです。とはいうものの、ロザリオの珠はバラを材料にしたものは珍しく、主に木、ガラス玉、クリスタルなどが用いられるそうです。
日本では、ポルトガル宣教師が「ロザリオ」を「計算する(contas)道具」と説明したため、「コンタス」、「コンタツ」と呼ぶようになったと言うことです。
尚、イスラム教でも数珠は使われるそうですよ。

話は変わりますが、「キリスト」の捉え方がキリスト教、ユダヤ教、イスラム教では違います。
キリスト教では「神の子」・「救世主」と位置づけますが、ユダヤ教では「宣教師の一人」に過ぎず、ただの人間としか見ません。
一方、イスラム教では、「予言者の一人」と位置づけます。
アラーは、現世に度々予言者を遣わし、人類に悔い改めることを警告したといいます。しかし、人類は悔い改めることはありませんでした。そこで、アラーはキリストを遣わせたのですが、人類の多くは彼の予言を無視しました。ここで、本来ならアラーは全人類を滅ぼすところなのですが、慈悲深いアラーは最後のチャンスを人類に与えることにしたそうです。その最後の予言者がマホメットであるとするのがイスラム教の立場です。
アラーがマホメットを通して「神の啓示」を行ったのが、「コーラン」であるという位置づけですね。
また、ユダヤ教の偶像否定はモーゼの十戒の「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」が教義的根拠になっているわけですから、嘗ては、キリスト教も偶像否定だったわけです。このことから言えば、この三宗教の歴史上の争いは、まさに近親憎悪の縄張り争いといえるでしょうね。富士門系在家教団同士の確執も同根だと思います。

1035犀角独歩:2003/11/29(土) 00:41

愚鈍凡夫さんのハードディスクは、何ともすごい知識の宝庫ですね。
永年の研鑽に改めて敬意を表します。

1036みかん:2003/11/29(土) 01:44
>>1034
キリスト(救世主の意)ではなくて、イエス(人名)と呼ぶのであれば、その通りですが。
キリストとは救世主(メシア)の意味ですので、イスラームやユダヤ教ではナザレのイエス(人名)をキリストとは呼ばないと思いますが。

1037愚鈍凡夫:2003/11/29(土) 03:39
今、「朝生テレビ」の下らない討論を見ていますが、余りにも下らないから、寝ようと思っているところです。

>>1035:犀角独歩さん、有り難うございます。

犀角独歩さん、顕正居士さん、川蝉さん、問答迷人さんといった方々の頭脳コンピュータと比べれば、単なる雑学みたいなものです。尚、他の方々の資料もデータ・ベース構築に活用させて頂いています。この場を借りてお礼申し上げます。有り難うございます。 m(_ _)m

>>1036:みかんさん、レス有り難うございます。冷徹なみかんさんのレスを楽しみにしていますので、より一層の投稿を期待申し上げます。 (*^_^*)

確かに、みかんさんの仰る通りですね。分かりやすくするために、単に安易な表現を使用したことを反省します。

正確な語句の説明を以下に記しますので、みかんさん、間違いがあれば訂正して下さい。

キリスト(ポルトガル語:Cristo・基督)
もとは、ヘブライ語のマシーアハ(Messiah、ギリシア語形メシアスMessias)のギリシア語訳のChristosからで、「油を注がれた者」の意味である。古代ヘブライ国家で王は即位の礼として頭に油を注がれる。従ってイスラエルの王、転じてイスラエルを救うために神が遣わすべき将来の王との意味になる。キリスト教では人類の罪をあがなうために神が遣わした救世主の意味。

イエス(ラテン語:Jesus)
ヘブライ語のイェホーシュア、またはヨシュアのギリシア語形Iesousからきた言葉であり、「ヤハウェ(ヤーベ)は救いなり」の意味である。北パレスチナのナザレの大工ヨゼフとその妻マリアとの子として生れ、30歳頃、家を出て、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、神の国の来臨の近いことを告げ、ユダヤ民族の悔改を迫った。神は慈愛深い父で、人間は皆同胞として相愛すべきことを説き、一切の偽善を排し、正義と愛との徹底を期した。初めガリラヤ地方に活動、のち首都エルサレムに上り、パリサイ派や祭司階級の宗教を批判、讒訴されてゴルゴタ丘上に十字架上で刑死。弟子たちはイエスが死後3日目に復活したと確信(復活祭を参照)、「油そそがれたる」救主、すなわちメシアまたはキリストと信じ、新運動を開始、ここにキリスト教が興起した。我が国では耶蘇、イエズスとも呼ばれる。

済みません、引用のネタ元が分かりません。 (^^;ゞ

1038アネモネ:2003/11/29(土) 10:32
「キリスト」を、イエスの名前の一部のように思っている人は、意外と多いのかもしれませんね。
愚鈍凡夫さんの語句のご説明と多少重複しますが、なぜイエス・キリストと呼ぶのか、ここにも参考になることが書かれています。
http://www2.odn.ne.jp/row/sub2/knowledg/knowle_04.htm

聖書は、ヘブライ語でかれたものが、最初にギリシャ語に訳されたのだったと思います。「キリスト」はギリシャ語ですから、聖典信仰のルーツはギリシャに遡るのかなあと、想像したりもします。
ペーパー(紙)の語源にもなったエジプトのパピルスとも関連があるのかなあとも思ったりもします。
http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj1999/20208/lesson/papirus.html
http://www.seinan-gu.ac.jp/rad/koba9014.html

ロザリオが数珠の役割をしていたとは知りませんでした。といいますのも、プロテスタントでは、ロザリオも十字架も身につける習慣がなかったのです…。思い返せば、ロザリオを身につけるカソリックが、ちょっぴり羨ましくもあったりしましたね。
最近は、女性のファッションで、クロスのネックレスやペンダントがとっても流行っていますね。
だけど、そのルーツをうかがうと、非常に興味深いですね。

ユダヤ・キリスト・イスラム間の近親憎悪の話が出ていました。
この信仰圏は、十字軍遠征から始まる長い長い戦争とテロを繰り返してきていますね。結局その本質は、領土と資源を巡る利権戦争なのだと私は思います。信仰信念を巡る争いのように見えて、実は、人間の生存権を巡る欲望が引き起こしている戦争なのでしょう。そこでは宗教は、戦争やテロを正当化する大義名分に利用されているものと思われますね。
しかしそこで命を賭けて戦う戦士たちは、純粋に信仰信念に基づいている場合が多いです。まさに、ジハード(聖戦)。
信仰信念を持ついかなる人も、そのことの本質を冷静に見極める必要があるのだろうと思います。
イエスの言葉でいえば、「汝の敵を愛せよ」と説く行動規範が重要ですし、仏教ではもっとさらに深く内面に向けて掘り下げ、心のあり方を説いているものなのではないでしょうか。
しかし、あの地域の信仰のルーツを通した歴史を知ることは、法華経のルーツを知る上でも大変重要なことだと思います。
法華経を最高だと思い、それを広める使命を感じている人は、尚更知っておく必要があると思いますね。

1039犀角独歩:2003/11/29(土) 11:08

愚鈍凡夫さん:

数珠の由来についてですが、流浪の民と言われるジプシー(この言葉は差別語に抵触しましたっけ?、したらばご指摘ください)は、アーリア人の侵入によって所を追われたインドの先住民・ドラビダ人で、彼らもまた数珠様のような宗教具を持っていた、流浪の道すがらカトリック圏との接触の末、ロザリオになったという記述を、何かで読んだことがあります。ところがこの根拠をまるで失念し、おまけに先のHD破損でデータの一切を失ってしまったためにわからずにおります。何かご存じのことがありましたら、ご教示ください。

なお、この説に拠れば、ヒンドゥー(バラモン)教の法具であるジャパマーラーは、先住民の法具を模倣したか、あるいは影響を先住民に与えたか、その両方の可能性があることになります。

ちなみに輪廻転生の基礎となったのは先住民の「悪い行いをすると豚に生まれる」という土俗信仰がバラモンに取り入れられて発展したものであると、たしか長尾雅人師が書いていたと思います。(これまた消失データ)

さらにまたまた横道に逸れますが、旧約聖書に記述される洪水伝説と同様の記述は『マヌの法典』(インド)で見られ、たしかその記述は聖書よりも古層に属していたという研究があったとも記憶します。
この説は田辺繁子師が紹介していたかどうか、これまた消え失せたわたし個人のデータファイルにあったもので、いまは確認できずにおります。

これらの点、ご承知の所がありましたら、併せてご教示ください。

1040犀角独歩:2003/11/29(土) 12:12

> 1030 ドプチェクさん

>> 思考停止
> 非常に危険なものだと思います。

仰るとおりであろうかと存じます。

> 家族の者たち一人一人がそれぞれに御本尊を持っていた

同じように大量生産された印刷漫荼羅を各人が成果目的で所持しているとすれば、信仰心からしても不純なことですね。その線からのドプチェクさんの疑難であったと拝察します。

> 日蓮系でも富士門流と他門流…曼荼羅に対する捉え方の違いがある
> …あるいは、同じ富士門流の中でも

ええ、もちろん、あるでしょうね。
富士門流のなかでも石山と他山では違いますし、同じ石山系でも石山と学会は違い、顕正会も違いますね。でもその違いは、興師その人との漫荼羅観との相違よりは小さいと思えます。いまの学会を含む石山系の漫荼羅本尊観は興師その人とまるで違っています。そしてまた、興師、あるいは重須と、蓮師の漫荼羅観はまた違っているではないかというのがわたしの指摘してきたことです。

> 創価学会…御本尊書写の為の写真撮影が行われていた

いまの寛師ラミネート本尊、携帯本尊を作るのに、当然、写真撮影は行われているのでしょうが、これはいまのことに属しますか。

過去の事例でわたしが思い出すのは、板漫荼羅を正本堂遷座にする際、赤沢朝陽とその下請けによって修繕がされたわけですが、この際、聖教新聞社Hカメラマンが、詳細な写真撮影を行ったと聞いています。離間後、八王子牧口記念講堂に、この写真を元にした完全な板漫荼羅レプリカを安置する予定があったとかなかったとか。その実否は謎ですが、写真撮影は事実であると聞きました。

また、写真撮影とはややずれますが、九州からの団体登山は船舶を利用したもので、その際、船内各客室に置かれたテレビに映し出された漫荼羅本尊に向かって勤行をしていたということでしね。

それにしても複製を作るのに写真製版を使っている大本営を擁して、個人撮影は厳禁、整合性のない話であると思います。まさにナンセンスというしかありませんね。

> 日興上人…神社への参詣厳禁

この点について、日蓮宗で詳しい研究がされていました。
いまは失念していますが、現宗研、あるいは大崎学報のなかで読んで記憶があります。

> 「三沢抄」…信徒が神社へ参詣…否定されていたようには思えず

ええ、仰るとおりです。該当の部分は以下でしたか。

『三沢鈔』「うつぶさ(内房)の御事は御としよらせ(年老)給て御わたりありし。いたわしく(痛)をもひまいらせ候しかども、うぢがみ(氏神)へまいり(参)てあるついでと候しかば、けさん(見参)に入るならば定てつみ(罪)ふかかるべし。其故は神は所従なり、法華経は主君なり。所従のついでに主君へのけさんは世間にもをそれ候。其上尼の御身になり給てはまづ仏をさき(先)とすべし。かたがたの御とが(失)ありしかば、けさんせず候。此又尼ごぜん一人にはかぎらず。其外の人人もしもべ(下部)のゆ(温泉)のついでと申者を、あまたをひかへし(追返)て候」(真蹟在京都妙覚寺。内一九ノ二〇。遺二四ノ三四)

ここで蓮師が言う骨子は二つあります。一つは「神は所従なり、法華経は主君」、もう一つは「ついでと申者を、あまたをひかへし」という点でした。力点はむしろ後者で「ついで」ということに蓮師が腹を立てていた様子が窺えます。仰るとおり、所従の(氏)神参拝を批判したものとは受け取れません。

1041犀角独歩:2003/11/29(土) 12:13

―1040からつづく―

> 波木井実長が神社参詣

これはたしかに三島社の参詣に異義を唱えたと見えるわけですが、これが蓮師の直接の考えであるかどうか一考を要するのは当然のことでしょうね。

> 波木井実長の人物像

身延離山が円師との断絶を意味したかどうかという論点ですが、これは先に空き缶さんも指摘されていましたが、重須に興師が移ったのちも、交流があることが窺われるので、石山・学会のアナウンスは単なる創作物語であるというしかありません。
なによりわたしも指摘したことですが、『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』に「甲斐国南部六郎入道者 日興第一弟子」と明記されているわけです。縁を切ったかつての弟子檀那には「背了(そむきおわんぬ)と書かれているのにも拘わらず、円師にはその記載が見られません。この目録の執筆は永仁6(1298)年、当の円師はその前年に死去しています。つまり、円師は逝去するまで興師の弟子であったことを物語っています。

> 波木井実長…「釈迦像を造立して本尊にした」

そうですね。わたしは、この点の興師の指摘は、蓮師随身の仏像がなくなったからと言って、新しいものを作っても本物に替えることはできないというのが興師の主張であったと思えます。仏像を興師が否定したわけではなかったでしょう。まして、大石寺には興師持仏堂があったことが漫荼羅への書き込みから窺えるわけで、興師が仏像を持していたのは史実であると思えます。その後、道師のころから漫荼羅本尊正意論が喧しく言われるようになった分析するのが執行師でした。興師は、蓮師在世、身延在住、石山持仏堂において仏像を立てていたことは至極当然の事実であったろうと推します。

> 何故実長の場合には批判される必要があったのか?

そうですね。ですから、仏像を立てることで円師が批判される理由は何一つなかったと思いいます。ただし、繰り返しになりますが、興師は昭師が持ち去って失した仏像の代わりを立てることに嫌悪を懐いたのであろうと思うわけです。

> 日代上人が離脱(追放?)…法華経全品の読誦の是非

全品読誦の是非ではなく、これは方便品の読不の仙師との論争となっていました。
しかし、ご指摘のとおり、代師の排斥は法門上の問題が際だってのことではないように思えます。

> 松戸氏の著書

ドプチェクさんにとっては有効な書であったということですね。

> 御本尊に対する畏敬の念や信仰心までもが次第に薄れつつある…心配

この意識の変遷は、かつてのわたしの経験でもあります。
漫荼羅を「本尊」ととらえたのはたしかに興師その人であったと思います。
しかし、わたしはこれは蓮師の素意とは違うと諸文献から、ほぼ結論づけています。
本尊は確実な真跡資料からすれば釈尊を置いてあるわけもありません。『本尊問答鈔』その他写本資糧から類し蛮勇を起こせば題目本尊の線も考えられると思います。しかし、いずれにしても漫荼羅全体を直ちに本尊とするのは御書から見る限り無理があります。
となれば、蓮師の素意を斟酌して信仰に励もうと思えば、石山・学会から植え込まれた本尊観は次第に薄れるのはむしろ自然なことであると、わたしには思えます。
心配されることではなく、蓮師の素意に基づくかぎり、自然なことです。

> 長年、御本尊を拝むのが基本…

これは正確に記せば、「蓮師漫荼羅を本尊と拝む」ということですね。
蓮師の素意からすれば、かなり特異な考えでありながら、石山・学会で至極当然の“常識”ととらえられている点でした。わたしはこの点に警鐘を鳴らしたわけです。

1042犀角独歩:2003/11/29(土) 17:27

【1041の訂正】

前)本尊は確実な真跡資料からすれば釈尊を置いてあるわけもありません
訂)本尊は確実な真跡資料からすれば釈尊をさし置いて、ほかにあるわけもありません

1043愚鈍凡夫:2003/11/29(土) 23:02
>>1039:犀角独歩さん、
ジプシーと数珠の関係ですが、資料がないので分かりません。 m(_ _)m

ところで、ネット・サーフィンしていたら、こんなHPを見つけました。

「民族@インド:ラジャスターン」
http://sekitori.hp.infoseek.co.jp/Hito/hito_India_sabak.html

「ホロコースト ジプシー」
http://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/chronicle/holocaust4.html

「世界史ノート(古代編)」
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/mokuji.html

1044Leo:2003/11/30(日) 00:40
犀角独歩さん、横レス失礼します。
>>1040
>離間後、八王子牧口記念講堂に、この写真を元にした完全な板漫荼羅レプリカを安置する予定があったとかなかったとか。
>その実否は謎ですが、写真撮影は事実であると聞きました。

八王子牧口記念会館は(通常なかなか入れませんが)ある機会があり入館したことがあります。
入り口を入ると広い空間(吹き抜け)がありました。

(入り口を入ると(不自然な?)大きな吹き抜けで、正面の壁にはヒマラヤ山脈の頂上を越える鳥を画いた大壁画があり、
上に上る途中には所々に珍宝が置いてありました(中でもよく覚えているのはハイビジョンTVを用いたバーチャルな
熱帯魚水槽です)最上階は大広間でかなり天井が高いです。他には、顕彰の品々の特別展示室や大きめの書籍部(売店)が
ありました。まあ、そのような建物です。)

1045顕正居士:2003/11/30(日) 02:19
>>1032 ドプチェクさん。

>境界線

は単純です。「我々の教会の宗教サービスのみが効果がある」というのはカルトです。
これはマルチ商法と同じです。たとえば、我々から購入した洗剤だけが「真の効果」がある
という。その洗剤は実際には他社より劣っており、かつ高額です。これを大量に購入させ、
知り合いに販売させる。販売に成功すると、親-子-孫-…の逆順でマージンが納められ
販売者には「実の効果」が生じます。宗教マルチの場合、マージンの額は決められては
いません。販売成績によって昇進し、収入が支出を越える地位である教団専従者に達し、
さらに資産に関与できる幹部の地位を目指します。創価学会の場合、歳費が税金から
支出される「議員」の地位を販売成績者に与え、自ら出費せずに多数の専従者を作った。

マルチ商法はマージンの逆順による納入が本質ですから、「商品」には関与しません。
他社より劣っている、かつ高額な擬似商品の押し売りで、会社や代表者はバッシングを
つねに受けます。宗教マルチでは創価学会や統一教会が実例です。他の新興宗教は
そういう立場になっていないでしょう。カルトには宗教マルチ以外のタイプもありえますが。

1046ガンコ:2003/11/30(日) 03:03

『清澄寺大衆中』における「日蓮が御本尊」とは何か? (独歩さん、愚鈍さん等へのお返事)

たいへん遅くなりました。
インターネットはまだまだ発展途上なのでしょうか、あるいはわたくしの調べ方がわるいのでしょうか、懸案について書かれているサイトはほとんどありませんでした。
唯一、山中講一郎氏がこの問題について触れていらっしゃいます。生意気を申しますが、山中氏の諸研究はやや学会チック?なところがありまして、全面的に賛同するわけにはまいらないのですけど、しかし、内容の濃さといい、広範さといい、傾聴にあたいするものであります。

まず、御書の該当部分をわたくしなりにかみ砕いて要を申せば、東条景信が清澄寺を念仏宗に改宗せしめようとした→大聖人がそうはさせまいと御本尊に祈った→一年以内に祈りが叶った・・・という流れであろうかと思います。

ところが、この出来事がいつのことなのか、いまだに判明していないのだそうです。 で、山中氏の推論は以下のとおりです。

まずここで述べられている「日蓮が御本尊」とは何かという問題がある。仮に「日蓮が御本尊の手に」とある御文を「日蓮が(清澄寺の)御本尊(である虚空蔵菩薩の)手に」と読むならば、他の時期にこの事件を設定することは不可能となり、立教直前の出来事と確定してもよいと思う。
なぜかなれば、立教後において虚空蔵菩薩に祈願することなどあり得ないからである。(晩年、弟子に虚空蔵菩薩の前で『報恩抄』を拝読させているが、それは祈願の為ではなくあくまで報恩の一環としてであった)
しかし、清澄寺の本尊を「御本尊」と呼ばれた例は無く、例外なく「虚空蔵菩薩」と述べている。
また、「御本尊の手にゆいつけて」とあるところから、この「御本尊」が仏像であることがわかるが、大聖人の御所持の仏像といえば、後の文永八年になって相模の依智で初めて紙幅の御本尊を認められるまでの間、所持の本尊として随身しておられたのは、伊豆流罪のおり、地頭の伊東氏から献上された釈迦仏の像以外には無い。
では随身仏を「御本尊」と呼ばれた例はあるのだろうか。
『神国王御書』に文永八年の法難を回想して
「其の外小菴には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこぼちて・仏像・経巻を諸人にふまするのみならず・糞泥にふみ入れ・日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候いしを・とりいだして頭をさんざんに打ちさいなむ」p1525 という御文があり、
ここに松葉ガ谷の草庵に安置していた釈尊を「本尊」と述べられている。この釈尊が大聖人の随身仏であることには異論はないと思う。
この『清澄寺大衆中』に述べられる「御本尊」が大聖人の随身仏だとすれば、東条氏との闘争は伊豆流罪地よりの帰還後弘長3年から帰郷される文永元年までの1年間ということになる。

http://www.ginpa.com/karagura/nenpu2/c32-07.html
http://www.ginpa.com/column/20001119.html

1047ガンコ:2003/11/30(日) 03:10

結局のところ、わたくしがかつて読んだものがなんだったのか、わかりませんでした。あるいはじぶんで御書を拝していて、そのように、つまり御本尊=虚空蔵菩薩と読んでしまったのかもしれません。ですから、いまは虚空蔵説に客観的な根拠を持ち合わせておりません。

たいへん失礼しました。

1048ガンコ:2003/11/30(日) 03:17

素朴な法勝人劣論

上のほうで、わたくしは法勝人劣を支持するむね述べましたが、顕正会員のクセに人法体一を言わないのはけしからん・・・と思われるといけないので、少し言い訳を書いておきます。

まず、人法一箇ならば、なぜ御観念文をべつべつにわけるのだろう? 順番もいわゆる仏・法・僧ではなく、法・仏・僧になっているし・・・

そしたら、なんと日蓮正宗の宗規には「本宗は、大曼荼羅を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝とし、血脈付法の人日興上人を僧宝とする」とあるんだそうです。ああ、やっぱり、法仏僧なんだなあ、と思ったわけです。

当体義抄のわりと有名な部分には、
「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふなり。」
とあって、意味はさっぱりわからないけど、ともかく法のほうが先なんだと仰せになっているように思えます。
で、なんだかますますわからないけど、日寛上人の御指南には次のごとくあるようです。(孫引きだから、どの御指南かわからない)

「此れ須く分別すぺし、若し内体に約さば実に是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり、故に一念三干即自受用身と云い、又十界具足を方に名づけて円仏と云う也。亦復一器の水を一器に写す故に師弟亦体一なり。故に三宝一体也。若し外相に約さば任運勝劣あり。所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す故也。故に法宝を以て中央に安置し、仏及び僧を以て左右に安置する也」

以前、苦悩乱者さんが「法前仏後」っておっしゃってましたが、なるほど、このことだったんだ、と思いました。

1049みかん:2003/11/30(日) 06:47
>>1038
旧約聖書は、ヘブライ語です。
新約聖書は、最初からギリシア語だそうです。
なんで最初からギリシア語で作成されたかは、下の本で読みましたが、忘れました。

新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか
//www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4469212369/
書物としての新約聖書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/432610113X/

1050Leo:2003/11/30(日) 10:09
>>1049 >新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか

その当時の東方地中海世界の共通語がギリシャ語(コイネー)だったからですね。

(現在でもネストレ版ギリシャ語新約聖書が決定版あるいは底本とのことですね)

1051犀角独歩:2003/11/30(日) 10:23

1043 愚鈍凡夫さん:

有り難うございます。
ジプシーではなく、「ロマ」と呼ぶべきようですね。
また、ご紹介のHP、参考になりました。
殊にドイツの事例、改めて胸が痛みました。


1044 Leoさん:

有り難うございます。
八王子・牧口記念講堂の実地見聞、参考になりました。

1052犀角独歩:2003/11/30(日) 11:22

ガンコさん:

1046はなかなかの秀作でした。
参考になりました。また、ガンコさんの研鑽姿勢が窺えました。

1048について、「法勝人劣」で区切ってしまっていますが、それでは寛師の説明を途中でやめてしまっていることになるでしょう。ここでの結論は三宝一体を言うものでした。
ただ外相に約せば法勝人劣だということでしょう。内証を簡んで外相で説明をやめてはいけません。

以下、掲示板の
http://nakanihon.net/nb//log/log14.htm
1349 顕正会破折文からの「血脈否定は三宝破壊」 アッド 2001/08/18 20:20
はガンコさん的には参考になるところがあるのではないでしょうか。
もちろん、わたしは、この投稿には一々に疑難を投じるところばかりで、まったく用いるところはありませんが。ただし、浅井親子への破折は現石山義から言えば筋が通っていると思えます。

上述の投稿で興味深いのは、応師が法宝を「一期弘法」としている点でしょうか。これは板漫荼羅とするより正確であるとわたしには思えます。
上記、引用の応師『弁惑観心抄』の該当部分は以下のとおりです。

「日蓮とは仏宝なり一期弘法とは法宝なり本門弘通の大導師とは僧宝なり」(第4章 下種三宝を論ず 第51節 P204)

寛師教学からすれば、板漫荼羅は,
蓮師と恒一(体一)となるわけですから、その線から言えば仏宝に拝されなければならないでしょう。

仏宝 − 日蓮/板漫荼羅
法宝 − 一期弘法
僧宝 − 日興

ところが御影式奉安では仏宝を示せますが、しかし、客殿式奉安では以上のようにすると不整合が生じるわけでしょうね。

わたしは何度も繰り返しています。経典は法ではなく経典です。題目も法ではなく題目です。漫荼羅も法ではなく漫荼羅です。法は法であって、それ以外ではない。ただし、法は見えないし、言語道斷心行處滅です。ですから、凡下に示すに有形に託してしまうわけです。託さないのが智邈師の在り方であるけれど、蓮師は託したと言えると思います。
しかし有形に託してしまえば、そもそもそれは法そのものではないという限界を示した側は知っているわけです。ところが受け取る側は、その有形を法そのものであると思ってしまうわけです。

そんな延長でガンコさんが言うような法勝人劣論が語られるわけです。
これはしかし、以上の次第ですから、二重に取り違えているとわたしは言うわけです。
さてさて、如何に研鑽されるか楽しみです。

1053アネモネ:2003/11/30(日) 13:24
横レス御免なさい。
自己レス>1038の続きを少し…

キリスト教の「キリスト」とは、メシヤ(救い主)のギリシャ語ですから、キリスト教を日本語に直訳すれば、救世主教といったところになるでしょうか。
救世主思想が菩薩思想のルーツと近親関係にあるならば、菩薩教といってもいいかもしれません…。(もちろん、これは仮説の話ですので、読み流してください)
そして、クリスチャンとは、「キリストを信じる者」という意味ではなくて、「キリストに似た者」という意味だとか。ですから、イエスをキリスト(救世主)と見る信仰者は、イエスに習う救世の行いをしなければ、クリスチャンとはいえないわけですね。

ところで、なぜイエスを救世主と呼ぶのかは、ユダヤ教における預言書に由来し起因しますね。
ユダヤ人の預言書とは、聖書の中の旧約聖書の部分に書かれている書の中にあり、そこには、多くの神の言葉を預かったとする預言者の預言書があるわけです。救世主降誕の預言書は特に後半部分に数多くみられ、有名なところでは、イザヤ書と呼ばれるものがあります。

ところで聖書は、新旧いずれも、そこに集められたひとつひとつの書のタイトルには、その書を書いた著者の名前である場合が多いのです。ここが仏教経典とは大きく違うところといえるかもしれません。ですから、イザヤ書はイザヤという預言者が書いた書となります。
イザヤは、およそ紀元前700年ぐらいに、北イスラエル王国がアッシリヤの攻撃を受けて、ユダヤ人たちが捕らえられていった時代のユダヤ王国にいた予言者といわれています。
ユダヤ(イスラエル)という国は、ダビデ王によって栄えていた時代以外は、何度も何度もいろんな国に占領され、また国内的にも内戦を繰り返し、分裂したり一部消滅したりといった非常に複雑な歴史を持ちます。政治的な見方でいえば、内戦を繰り返して国内情勢が不安定な国は、外国からの侵略は免れない一面の真理ともいえます。
さらに最後は、イスラエルの地さえも追われて、ユダヤ人は流浪の民となってしまったわけですが、占領の時代が長く続いていた頃から、人々の中には救世主を求め待ち望む思いが非常に強かったわけです。
その思想のルーツは侵略の歴史的背景からいっても、独歩さんがよく書かれている、ミトラ信仰に繋がっていく説は、私としても非常に興味深いところです。

バビロン捕虜の時代の後、ペルシャがバビロンを制圧してパレスチナを占領します。紀元前614年のことです。仏教では、どのような時代でしょうか。
菩薩思想のルーツを求めて、ペルシャ帝国の研究も興味深いと思います。
ミトラについて興味深いサイトを検索しましたので参考まで。
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/bun032.htm

このサイトの中にもありますが、ユダヤ教には、カバラという占星術といいますか算術をもとにした秘儀があるわけですが、恐らく数珠といった算盤は必要だったのではないのかなと想像します。実際に数珠のようなものを使っていたのかどうかは、私の手持ちの資料では見当たりませんでしたけれでも…。

1054アネモネ:2003/11/30(日) 13:26
(つづき)
話を預言書に戻しますと、その旧約聖書イザヤ書の中にやがて救い主が到来すると言うメシヤ預言が記されているわけです。参考までにその一節をあげると、
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
とあるわけです。

しかし、ユダヤ教の預言者がいうところの救世主が誰であるかは、いわゆる近親憎悪のはじまる大きな分かれ目といえるかもしれません。
ユダヤの預言者が記す救世主とは、は恐らくイスラエルの民(ユダヤ人)を救う救世主を意味しているわけですから、ユダヤ教の祭司に批判的だったイエスを救世主とするわけなにはいかないのは当然ですね。イエスが救世主であっては都合が悪いわけで、だからこそイエスを法廷に引きずり出して処刑させたわけです。ですから、ユダヤ教の立場に立てば、イエスを救世主とみなさない以上、救世主の降誕の聖書の預言は、今日も尚待たれているということになるわけでしょうね。

余談になりますが、戦争と一言でいうと、武器をもってドンパチするのが戦争だと思いがちですが、実はそればかりではないといえるでしょう。たとえば、拉致やテロも戦争のひとつの手段ですし、スパイ活動も情報戦というひとつの手段ですし、そしてさらには思想戦という高等戦術もあります。
欧米列強は、世界中の資源と領土を制覇しようと、侵略の急先鋒として宣教師を送り込み一般人の思想懐柔をしてきたという見方が出来るわけです。キリスト教布教を巧みに利用した思想戦という側面において私は、イエスのことは今でも好きですが、キリスト教への思いは複雑です。同じように、布教の使命ということが強調される教えに対して、警戒してしまいます。
常に人々の純粋な信仰心や信念、そして善意が、大きな力、いわば権力に利用されるわけですが、戦争に利用された善意は、もはや善行といえるものではないでしょう。善意が悪行に利用されないように警戒することのほうが、善行といえるのではないかと思うものです。そのためには自分がしっかりしなければならないわれですから、布教や弘法がどうあるべきかということを、その考えを人に委ねたりせず、個々の信仰者が自ら常に自問自答してみる必要があると思いますね。この掲示板が、そのための意見交換の場である要素を持ち続けてほしいなと願います。

1055空き缶:2003/11/30(日) 15:25

犀角独歩さん

私は現在、某掲示板にてROCKさんという方と意見を交わしています。
ROCKさんの主張は、犀角独歩さんに非常に近いものがあると感じています。

ご参考までに「大聖人門下掲示板」http://jbbs.shitaraba.com/study/3171/です。

1056犀角独歩:2003/11/30(日) 16:00

空き缶さん:

1055でご紹介の掲示板、拝見しました。
当板でのご投稿も楽しみにしております。

1057ガンコ:2003/11/30(日) 19:06

独歩さん、コメントありがとうございます。

わたくしはもともと人法体一信者でして、法勝人劣にこだわっているわけではないのですが、ようは、この掲示板では常に根拠を求められるものですから、じぶんなりに御書を拝読してみたら、どうも法勝人劣っぽく感じてならないものでしたので、このところはそればっかりやっていたわけです。

そういうわけで、最終的には人法一箇に到達したい、と思ってんですけど、おそらくは、相伝にあらざれば、とか、習いそこないの夢にも知らざる、とか、迹仏等の思慮の及ぶところに非ず、とか、なんでしょうね。凡夫にはわかりっこないと。

でも、柄にもなく、案外に考えるのが好きなんで、わからないなりにももう少し勉強しようと思っているわけです。

1058愚鈍凡夫:2003/11/30(日) 21:33
横レス失礼します。

犀角独歩さん、お役に立てて幸いです。
小生は昔、映画でナチス・ドイツによるロマの人々への虐殺を知りました。
ホロコーストといえば、ユダヤ人ばかりがクローズアップされて、ロマの人々の存在が忘れられがちですが、この2つのホロコーストを忘れてはならないと思います。

>>1048:ガンコさんへ。
ガンコさんが引用されている文証は、日寛師の「三宝抄」です。

「一、問う、三宝に勝劣有り乎。
答ふ、此を分別須に、若し内証に約せば実に是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり、故に一念三千即自受用身と云ふ。又十界具足の方を名づけて円仏と云ふ也。亦復一器之水を一器に於て寫す故に師弟亦体一なり。故に三宝一体也。
若し外相に約せば任運勝劣あり。所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す故也。故に法宝を以て中央に安置し、仏及び僧を以て左右に安置する也。」(三宝抄)

本分が漢文なので、読み下しが違うだけだと思います。ご参考までに。

1059心者雖念不直相鴨:2003/12/01(月) 01:58
無徳さん:

うろおぼえの記憶で済みませんが、以前このどこかの掲示板で、富士宗学要集を探していらっしゃるとの書き込みを読んだような記憶がありますが、現在ヤフーオークションで1-8まで、8冊で9000円(現在価格)で出ています。
期限は12月2日19時です。
http://page5.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e33081403
探していらっしゃるのが別の方でしたらすみません。ご参考までに。

1060五月雨:2003/12/02(火) 10:26

素朴な疑問ですが…

いままで、ここの掲示板では正確な論拠を示しながら、真摯な議論が闘わされたと思っていたのですが、
「菩薩」に関しては違うのでしょうか。
伝統仏教では菩薩をどう言っているのか関係なくはないと思うのです。
日蓮さんも、菩薩を伝統仏教で解釈していたのではないですか?
もしも、日蓮さんがマザーテレサのように善行をする人こそ菩薩道を実践していると考えていたなら、
慈善家であった極楽寺良観を厳しく批判することは無かっただろうと思います。

それから、仏教信者でない人の仏教解釈には、私はずいぶんお世話になってる気がします。
この掲示板ではよく「中村元さん」の著書を引用されていますが、この方も仏教信者ではないそうですね。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_B035.htm
「生きる指針を提示するのも学者の仕事」と語られる中村東大名誉教授の言葉に、深い思いやりを感じます。
仏教学者の研究があればこそ、石山の仏教もどきの教義のウソが暴かれたと言っても過言ではないと思います。

1061犀角独歩:2003/12/02(火) 14:45

愚鈍凡夫さん:

> ホロコースト…ロマの人々の存在

本当ですね。実に勉強になりました。
ロマの人々の祖先がインドに侵入したドラビダ人の末裔であるかどうか。もし、そうであれば、ホロコーストに匹敵する侵略虐殺の末、祖先は放浪を余儀なくされた人々であったのでしょうね。その末裔が、また断種不妊に掛かる強制的な手術を施され、根絶やしにするために迫害され、そして、大量虐殺される。このような悲劇が繰り返されないために、いったい仏教は何ができるのか、考えてみなければならない問題であると思いました。

貴重な資料の提示、重ねて御礼申し上げます。

1062犀角独歩:2003/12/02(火) 15:33

以下のようなページがあります。
宗教人間学の立場から仏と菩薩を考え、ハンセン病とエイズ患者のことを考えています。
岡田真美子の宗教人間学 第8講 【 菩薩と仏 】
http://www.hept.himeji-tech.ac.jp/~okadamk/001syukyo_08.htm

宮沢賢治は蓮師の思想を芸術にまで昇華した実践者でした。

『雨ニモマケズ』

風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
ヨクミキヽシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病氣ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ

この詩を法華経・不軽菩薩の精神に基づくとする解読は正鵠を得ているとわたしは思います。

「東に病気の子供があれば 行って看病してやり
 西に着かれた母あれば 行ってその稲の束を負い
 南に死に人あれば 行って怖がらなくていいと言い
 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い…」

この一節に不軽菩薩を見、感動を新たにしているのでしょう。
慈善活動に菩薩を観じることを不正確な仏教解釈などと思う人には宮沢賢治の尊い心を理解することはできないでしょう。

1063犀角独歩:2003/12/02(火) 15:40

【1062の訂正】

誤)南に死に人あれば 行って怖がらなくていいと言い
正)南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくていいと言い

1064犀角独歩:2003/12/02(火) 16:48

『現代宗教研究』から

『「いのち」とビハーラ活動』石川浩徳師

抜粋「み仏の悲願を受けつぎ、共に菩提に至る菩薩行の具体的実践の一つが、ビハーラ活動である
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho31/s31_001.htm


日蓮宗医療問題研究会活動報告『ビハーラ活動の推進』

抜粋「…世界全体をビハーラにするために社会活動をし、高齢化や、病気や障害などで悩み苦しんでいる人たちのためにビハーラ活動をしていくことが求められている。
 …法華菩薩行の実践としてのビハーラ活動は、立正安国を宗是とするわが宗門人のなすべき社会教化活動であるというにとどまらず、仏教界全体の再興につながる活動であろう」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho35/s35_060.htm


【ビハーラ】サンスクリット語で「休息の場所」の意。ビハーラ活動とは医療や福祉や地域社会との連携をもとに、寺院において、自宅において、あるいは病院や施設において、病気や障害、高齢化に悩む人たちと苦しみを共にし、精神的、身体的な苦痛を取り除き、安心が得られるよう支援する活動のこと。日蓮宗のビハーラ活動は、法華経安楽行品に説かれる安楽の供養をはじめ、六波羅蜜、四無量心、四摂法の実践であり、すべての人々が教えにふれて仏になることを願い導く、法華菩薩行と位置づけている。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/paper/1999/99030106.htm

以上、日蓮宗のサイトから。

1065犀角独歩:2003/12/02(火) 17:52

「いわゆる小乗に属するとされる部派のジャータカ文献などの仏教文学にも、自分を犠牲にして他者を救うという利他行が述べられていて、その意味で大乗の源流といいうるのではあるが、現実の教団の一般的な優勢としては、阿羅漢中心のエリート主義にかたむいていたのである。
 これに対し、大乗仏教では、すべての人々がブッダ(覚者)になりうる素質をそなえていると考えた。ブッダとなりうる素質が自己にそなわっている人々を菩薩(ボーディ・サットバ)という。(ジャータカなどでは、釈尊の前世を「菩薩」と呼ぶ。)そういう人びとは同時に他の人びとを菩薩にして、そうしてさらにさとりを開きしめたいと願うとされる。観音、文殊、普賢などの菩薩はすでにブッダになる能力をそなえていながら、しかも成仏しないで衆生の救済を続けていくと考えられる。
 このころになると、そういう菩薩の他にも、阿弥陀仏、弥勒仏、薬師如来などのブッダが崇拝されるようになった。これらの仏・菩薩は従来の仏典に登場してこなかったのである。われわれ日本人に親しい仏・菩薩の名は、大乗仏教の経典のなかではじめてあらわれたのである。そして、経典自体の崇拝も盛んになった。エリートではない修行僧や一般の信者は、仏塔、仏、菩薩、大乗経典などの超越的な対象にひたすら帰依することによって救済されることを願ったのである」(P40)

中村元編『仏教語散策』(東書選書)から引用。以上の続きの結論は、殊に具体的な活動をせず、宗教、あるいはその団体の中に埋没して是とする人にとって、強い警鐘となっています。

「きわめて難解な空理空論に没頭するものがおおぜい出てきた。もちろん高級な知的行為として、それはそれでよかったのだが、大多数の一派民衆の心は次第に仏教から離れ…インド国内では仏教は急激におとろえ、大乗仏教は中国、日本、チベットなどの外国のみでもてはやされるようになった」

同様に、経論釈にしかあらわれない架空の菩薩を延々と論じることは分権的な正確さを追求するうえで必要なことは言うまでもありませんが、己心に菩薩“界”を観る蓮師の在り方や、さらに実践の糧として菩薩“行”を考える篤志の模索が必要不可欠なのだとわたしは考えます。

1066ガンコ:2003/12/02(火) 19:21

素朴な意見

わたくしごときが五月雨さんに意見を言うのは恐れ多いですが、二つ三つ申し上げます。

このところ、キリスト教の話題が多いです。ことにマザーテレサに対する評価が高いように思えます。我が顕正会でこんな話をしたら、それこそ外道礼賛の謗法者といわれておしまいでしょうけど、この掲示板ではほとんどタブーがないわけですから、まあ、わたくしは知識がありませんから加わらないだけで、問題はないと思います。
すでに独歩さんがお示しのように、「無辜の悪人」すら「菩薩界の一分」と見るのが大聖人の御見解であり、その直後に「但仏界計り現じ難し」と仰せのことからしても、逆に言えば、仏界以外は現じ易いわけで、必ずしも仏弟子でなければ菩薩とは言えない、ってこともないのだろうと思います。
ちなみに、我が顕正会では“戒壇の大御本尊に縁する以外に仏界をあらわす方法はない”と言うわけですが、この掲示板では、一考を要する、ということなのでしょう。あ、いや、一考どころか十考も百考も要するって言われそうですね。もっとも、こんなこと顕正会の中で言ったら、文句なしの大謗法者で、即刻除名ですけど。
また、きわめて俗っぽい言い方ですが、ある種の人格者に「仏」を冠することもありますでしょ。わたくしもかつては「ホトケのガンさん」なんて呼ばれましたもの。(大うそ)
ですから、タブーなしで考えるならば、仏教徒以外に「菩薩」どころか「仏」を見ることすら視野に入れてもおかしくないし、すでに独歩さんのご所論はだいたいそういう傾向にあると思えます。

>もしも、日蓮さんがマザーテレサのように善行をする人こそ菩薩道を実践していると考えていたなら、慈善家であった極楽寺良観を厳しく批判することは無かっただろうと思います。

これはなかなか鋭いです。「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業」ですからね。これは動かないでしょう。しかしまた、この掲示板ではこの点すら疑っているわけです。まったく、おっかないですね、わたくし的には。
そこまで行かないにしても、「智者とは世間の法より外に仏法を行なはず」(減劫御書)とか「まことのみちは世間の事法にて候・・・世間の法が仏法の全体」(白米一俵御書)との仰せは、大聖人御みずから法華経信仰のあり方に深い示唆を与えて下さっていらして、やたら教条的過ぎるとうっかり何かを見失ってしまいかねない、というような思いを懐く、今日この頃です。

1067三吉:2003/12/02(火) 19:30
とりとめなく横から失礼。

①菩薩という人間像は、授記思想から生まれたと平川さんは言われています。
「ジャータカ」「弥勒菩薩」「仏伝文学の中の燃灯仏授記思想」が一般的に菩薩概念と結合して語られ、この掲示板でも「ジャータカ」との関連が当たり前のものとして論じられていますが、「ジャータカ」自体から菩薩概念が生まれたのではなく、元々あったジャータカに後代成立した菩薩概念を紀元前後に結合さし、現代人がジャータカと呼ぶものがジャータカの主流になったと言うことだ思います。ややこしい・・・。
(Aジャータカは、釈尊以前、「現在の人物・事件」に因んで過去を語る形式の単なる教訓話であった。B仏教はこの形式を主に僧侶に対する教訓話として説法の一形式(九部教の一支)として取り入れた。C前2Cバールハットレリーフのジャータカは、初期の生き残りであり、動物が人とが未分化なアニミズム的な素朴な状態を示す。釈尊の前世物語ではなく、釈尊と結びついてないジャータカが主流。D後1C後半マツラーのジャータカは、英雄的なジャータカで発展的な形態を示す。この頃緩やかに釈尊の前世物語に結び付けられる。E五ニカーヤ4阿含に教法が分類されたときジャータカは、あるいはバラバラになり、蔵外に集められ、僧侶に対する説法(生活上の教訓話)から、在家に対する説法と転化した。現代の南伝パーリのジャータカは、おもに在家用である)
弥勒も長阿含の大本経などにまず登場するが、弥勒菩薩というように菩薩として書かれていず、仏として描かれている。つまり弥勒と菩薩は、菩薩概念登場後、結びついた。
仏伝文学を作った最初期の仏弟子たちは、現代人と違い、人間ゴータマの伝記を書こうとしたのではなく、仏陀となるまでの原因、つまり成仏するのにはどれだけの努力が必要かという観点から描いたので、修行の困難さ、時間のかかることをやたらに強調する。「無量百千万劫」「無数劫時」の修行だそうである。しかし彼は、先輩(燃灯仏)を見て、菩提心を起こし、必ず仏になると決意し、しかも仏から将来仏になると保証される。
この将来仏という保証が、仏伝文学の特徴で、菩薩概念は、「仏になることを約束された修行者」としてはじまったといいうるかもしれない。

1068三吉:2003/12/02(火) 19:30
一般的に言われているジャータカと菩薩は、単純に結びつかないということをもう少し・・。
前2Cのバールハット遺跡碑文には、「菩薩」とジャータカレリーフが結びついてないことで知られており、1C後半のマツラー仏塔レリーフのジャータカと「菩薩」は結びつきます。
「菩薩」という語は仏教では古くはなく、部派には遡れるが、初期には遡れない。
前2Cから後1C後半までの間のいつかに部派それぞれに順次に生まれたのではないかと思います。(平川さんは、前2C説に立たれているが実証的ではない)
南伝パーリの「菩薩」は、仏となると確定している者の修行時代の表現として定型句的に使用されているらしい。「私がまだ正覚を得ない菩薩であった時」という定型句が数多く見られ、「成仏以前の釈尊は菩薩と呼ばれるべきだ」という理解があった、ということらしい。
説一切有部が伝持していたと言われている中・雑阿含に「菩薩」の語はないそうです(雑阿含のアショカ王伝の箇所ともう一箇所菩薩は見られるが後世の付加らしい)。ここで大事なのはパーリで「菩薩」と言っている箇所が漢訳中・雑阿含では菩薩が省かれている箇所がみられるということ。パーリに比し、中・雑阿含が特に古形なわけではないので、有部は最初菩薩概念を拒否し、部派時代が進むうちに「発智論」の頃より菩薩概念を受け入れた、と。(しかも一説によると有部には「発智論」を主張したグループと拒否したグループがあると言われている。地域で別れている。詳しい情報は未確認)
しかし、論書「発智論」や「大毘婆沙論」「異部宗輪論」などには菩薩は言及されており、その後有部は、南伝分別説部と菩薩概念を巡って解釈に対立・議論があっていたことをしられている。(32相がないと菩薩といえないと主張する「大毘婆沙論」と、それを批判する南伝派の雄ブッダゴーサ。32相があっても、転輪聖王になれば仏にならないと批判。有部説としてではなく、32相菩薩説は北道派所説として批判)

1069三吉:2003/12/02(火) 19:31
②大乗の菩薩は、誓願の菩薩

大乗の菩薩の特徴は、「仏になることを約束されてない菩薩」である。
個人的には仏となることは約束されてはいないが、でも約束されている存在という意味で菩薩なのであるが、その仏教的根拠は、自性清浄心である。これは部派では大衆部あたりが主張し、法華では、あらゆる人を蔑視しないという不軽菩薩の姿が象徴している。
その後、如来蔵思想や仏性思想になり、この板では評判の悪い天台本覚思想へと完結していくのだが、「伝統的な仏教解釈」は常に変化してきているし、同時代でも立場により菩薩を巡って対立しているし、「新しい仏教解釈」をそれぞれが出し、自分の一番うなづける解釈、ぴんとくる解釈を磨けばよいのではないかと思う。
ある人は、「智慧」がキーワードになるのだろうし、ある人には「善意の実践」なのであろうし・・・。私からすれば、「結果的に仏道に導くハタラキをする者、みな菩薩」だし・・。
ちなみに誓願の菩薩が問題になるのは、大乗の菩薩からであり、発生史的には最初期ではない。最初期は厳密に言っても仏になることを誓うだけで、四弘誓願などは起こさないし、煩悩の断滅も、大乗あるいは部派からであり、初期仏教は小欲知足でokなので、有余無余涅槃を言わない。(釈尊は悟ったと弟子を認めまくる。マハーカッサパは弟子入り後、八日目で悟っている。釈尊自体もたった六年間の修行で悟っている。菩薩という観念は釈尊になかったと思うが、マザーテレサの実践を見て、その宗教的な実践を見て、素晴らしいと感じたものが菩薩という語でテレサを賞賛して何の問題があるのかわからない。仏教語の解釈など元よりバラバラである。)

簡単に言えば(中村元選集。平川彰著作集。杉本卓州「菩薩−ジャータカからの探求」あたりの情報が根拠)、「菩薩」の人間像は、①未熟者②勇猛精進のツータイプに分かれる。
大乗初期には、情けない「退転の菩薩」も説かれるし、パーリジャータカに至っては、犯罪者の菩薩(菩薩が盗賊の首領になり追いはぎして生計をたてた話)すらいる。一方で、自らの財産のみならず、家族や自分の体まで「捨」し、「悟り」を究めんとする極端に勇ましい菩薩まで幅があるのだが(法華の代表的な菩薩はこの路線にいる)、「未熟」と「勇猛精進」という矛盾したものを内包しつつ、その概念は様々に解釈されるのだが、「他者に対する菩薩と言う賞賛」は、賞賛された人よりも賞賛している人にとって仏教的意味あるいは意義を持つのではないだろうか・・・以下略。

1070犀角独歩:2003/12/02(火) 21:23

おお、三吉さん、お久しぶりです。半年、いやいや、9カ月ぶりですか。

要するに、わたしがジャータカの釈尊前世物語を「菩薩」としたのは間違い、というご指摘でしょうか。なるほど。了解しました。本日、やや酩酊状態ですので、明日にも改めて記させていただきます。

実に精査なレス、有り難く拝読しました。

1071犀角独歩:2003/12/02(火) 21:26

読み直したら、間違っていました。

1065、以下、訂正します。

誤)架空の菩薩を延々と論じることは分権的な正確さを
正)架空の菩薩を延々と論じることは文献的な正確さを

1072三吉:2003/12/02(火) 21:57
要約すると、「菩薩」というのは、新しい仏教的な「人間像」である。
部派時代はじまった。(前2Cから紀元後1C後半のある時期)
強引に分ければ①未熟者②勇猛精進の人というツータイプに分かれる。
これは、「部派VS大乗」という分かれ方ではない。部派時代から解釈を
巡り議論があった。

恐らく、②の系譜は、「発智論」「大毘婆沙論」あるいは、マツラー遺跡、
大乗(法華など)へとツナラル系譜ではないかと。
※実証的には西のマツラー遺跡あたりに、勇猛な菩薩がはじめて現れ、
文献的には有部の32相説など神格化と勇猛精進こそが菩薩という説が
ありと。こういう整理法もあるのではと思っています。

1073無徳:2003/12/02(火) 23:52
心者雖念不直相鴨さん今晩は情報ありがとうございました。

しばらく、風邪でダウンしていたのでレスが遅れてすみませんでした。
私が探していますのは日蓮正宗歴代法主全集です。

神保町の東陽堂では15万円近くの価格が付いていましたので、もっと
安く手に入る方法が無いものかと思っています。

1074無徳:2003/12/03(水) 00:16
皆さん今晩は:

五月雨さんによる

>いままで、ここの掲示板では正確な論拠を示しながら、真摯な議論が闘わされたと
>思っていたのですが、
>「菩薩」に関しては違うのでしょうか。
>伝統仏教では菩薩をどう言っているのか関係なくはないと思うのです。
>日蓮さんも、菩薩を伝統仏教で解釈していたのではないですか?
>もしも、日蓮さんがマザーテレサのように善行をする人こそ菩薩道を実践している
>と考えていたなら、
>慈善家であった極楽寺良観を厳しく批判することは無かっただろうと思います

素朴な疑問としての問題提起は私には良く解ります。

そもそも、菩薩という概念は仏教上においての語源的には<悟りを求める人々>
ないしは<悟りを得た人々>を意味するそうですし、特に大乗仏教では菩薩は
悟り(仏)の世界から人間界に降りてきて、人々と共歓同苦しながら衆生救済
に努める存在(岩波の仏教辞典より)とされていますから、この掲示板におい
てのメルクマールとされている、文献主義及び証拠主義からすれば、マザーテ
レサのような方は菩薩的ないしは限りなく菩薩の様な方と形容すべきであって、
菩薩そのものとするのは如何なものでしょう?

1075みかん:2003/12/03(水) 00:44
他宗教の人に、●●さんは菩薩だ、とか菩薩のようだというのは失礼だと思いますよ。
それは、クリスチャンが、釈迦や日蓮や親鸞を、キリスト教の文脈で預言者だとか、聖者だとか福者だとかいうのが失礼なのと同様です。
なぜなら、他宗教の宗教的尊厳や、文脈を無視していて、無神経な行為だからです。
殉職した自衛官の妻が、夫を靖国神社に神として合祀されることに反対する訴訟を起こしたことがありますが、アレを想像して頂ければ、多少はわかるんじゃないですか。それでもわからないのであれば、語る余地はないですね。

それはさておき、キリスト者で菩薩とよばれるにふさわしい人というと、わたしはマイスター・エックハルトを思い浮かべるのですが。
マザーテレサはまったく思い浮かばなかったので、大変、マザーテレサが菩薩だとか菩薩に近い人だという言説には、奇異な印象を受けます。

マザーテレサが菩薩だという方は、仏教の根本的な救いなるものがピンと来てないんじゃないかと思います

これはなんとも言ってますが、仏教は「覚る」「成仏する」以外の、救いのコースを用意していないんですよ。
(浄土門でもそうです。往生して西方極楽浄土で成仏のための修行をするのです。また、親鸞においては、信心決定して大乗正定聚の数に入るというのは、開悟とほぼ同義です。)
だから、菩薩の善行は、他人を覚らせる、度脱指せる、彼岸にわたす、以外の者ではないのです。

ですので、菩薩の善行ってのは、相手を目覚めさせる、きづかせることだけです。
気づかせるためにあらゆる事(方便を含む)をするのです。(あらゆることってのがピンとこないんでしょうが、それはまた次回)
だから、宅間スレへのわたしの回答はたった一つです。宅間が本尊を持っていようといまいと、宅間が、こころから懴悔し、開悟し成仏すれば救われます。成仏しなければ、救われません。それだけです。

>アネモネさん
仏教と社会の関係については、三種類ぐらいの関係がありますが、(反社会・脱社会してのパーソナルな救いを求めること(釈迦の時代)、悲田院などの慈善事業、鎮護国家)
日蓮が選んだのは、3番目の鎮護国家と、1番目のパーソナルな救いの二種類だけです。日蓮は悲田院を立てるような慈善事業には携わりませんでしたし、批判的だったようです。
後の日蓮門下は悲田院を立てる寺もありましたけどね。身延山久遠寺とか。
これについてもまた次回。

1076アネモネ:2003/12/03(水) 01:16
>日蓮は悲田院を立てるような慈善事業には携わりませんでしたし、批判的だったようです。

ええ、そうですね。
ですから、私はこの点についての日蓮を評価しませんし、どんなに敬慕する日蓮といえども、今の私は、むしろ批判的に捉えています。

1077アネモネ:2003/12/03(水) 04:07
犀角独歩さん

>1065>大多数の一派民衆の心は次第に仏教から離れ…インド国内では仏教は急激におとろえた

このことにより…と言い切っていいのかどうかは自信がありませんが、結局インド国内は依然として厳格な身分制度が今日まで残り続け、その最下層の人々を救ってきたのが、キリスト教徒のマザー・テレサだったということに、私はある種の皮肉めいたものを感じずにはいられません。
さらにそのマザー・テレサの行動を菩薩というキーワードで論じようとしても尚、まだ、その難解な教義が厳格に立ちはだかっていくわけですね。そればかりか石山の僧侶の中には、地獄に落ちたとまで言ったという人もいると聞きますから、私は滑稽にさえ思えるところです。
菩薩であるかないかは、早い話が、いわばレッテル貼りみたいなものでもありますから、どっちだっていいのでしょう。しかし、世間的なことを前にしての、この仏教のあり方、要するに教義議論そのものに終始してしまうところが、私には解せないところでもあります。
遅れてしまいましたが、少し前のレスをご返信いたします。

>まず結論から言って、わたしは菩薩道は後期になるほど“堕落した”…超人化し、加護、祈祷の対象になった菩薩は、もはや菩薩道とは関係のない崇拝対象でした。

「信」についての議論を、「仏教にとって信とは何か」というスレッドでしたことがありました。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1043190919/l100

ここで議論にのぼったバクティ運動にも関わってくることのように思えますね。
ちょうどそのときの独歩さんのレスにも、今書かれているようなことを示唆する意味のレスがありました。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1043190919/r15

>では、法華経の菩薩はどうか、ここが焦点になります。…換言すれば経典(聖典)崇拝者でもあったわけですね。…これら菩薩は仏と法のために身を捨てていく人々…このような弘教の精神は法華持経者の模範とされるところです。

今ではまたそれがさらに進化して、「御本尊を持つ=法を持つ」となっているようにおもわれますね。日蓮の書いた御書ですら、法華経を御本尊と置き換えて読むようにと指導する僧侶もいたくらいですから、無理もないことで、経典(聖典)崇拝からも堕落していると思えるくらいです。

>しかし、わたしはこの菩薩の在り方に、敢えて疑義を立てます。本来の菩薩精神は違うと異論を述べようと思います。…著名なところで、法隆寺に遺る国宝・玉虫厨子に描かれた物語を例を挙げます。「捨身飼虎」と称される飢えた虎の親子に自分の身を捧げる“菩薩”行を図したものです。

聖徳太子が、自分の子供たちに話して聞かせて仏教物語だと聞きました。後に、その話の心を忘れなかった太子の長兄の山背大兄王は、聖徳太子亡き後、天皇の没後に皇位継承問題がおこると、古人大兄王を天皇にしようとする蘇我氏によって襲撃されたわけですが、そのとき山背大兄王は周りから挙兵して反撃することを勧められたものの、それをしりぞけて斑鳩寺で一族とともに自害したといわれています。多く民衆が戦乱に巻き込まれてしまうことを回避すべく、まさに「捨身飼虎」の精神を貫いた最期だったという解説を聞いたことがありました。
権力にしがみつかないことで、民衆を救ったという、これも菩薩道のひとつの形だと思いますね。そのような教えを説いた聖徳太子は、大乗仏教が説く菩薩精神に基づいて、四天王寺の境内に施薬院、悲田院、療病院、敬田院といった今日でいう、病院などの福祉施設を配置していますね。
http://users.arcmedia.co.jp/hosp/100/01_1.htm
こんなに古い時代に既に仏教を通しての菩薩道が、社会に実践的に生かされていたことに、もっと目を向けるべきだと思います。宗教が目指す高い精神性をいかに現社会に生かしていくかが大事だと思います。そこに本当の、信仰の自己実現があるようにも思います。

1078アネモネ:2003/12/03(水) 04:08
(つづき)
>ここで着目したいのは菩薩が身を捧げたのは、仏・法ではなく、畜生界の虎であったという点です。…わたしは、ここに菩薩道の遡源を見たいと思うわけです。

このことは、大変重要なことだと思います。つまり法華経一経だけでは知り得ない菩薩道の源流がここにあるわけですね。

>ところが現在の信仰者は、菩薩道と言いながら、その布施を捧げるのは、仏・法、あるいは教団、指導者に対してです。不信の人々にはただ法を弘めてそこで終わってしまいます。

私は、そこに菩薩を見る思いは全くないです。

>いかなる慈善行為のなかにも菩薩道は生きていると考えます。

私もそう思います。例えば電車で席を譲る。困っている人に親切にする。悲しみの中にいる人の心に向き合う…こうしたことだって小さくとも立派な菩薩行だと思います。
法は道に置き換えられると、教えてくださいました。私は、子供の頃からの宗教との関わりを振り返って、その時々で教えられたこととは、実は道徳心や倫理観や良心というものだったのではないかと思うのです。
道徳というと、教科のひとつと捉えてしまいがちですが、しかし、字に従うならば、徳の道ですから、まさに宗教の目指す精神性や人間性だと思いますね。徳を積むのが菩薩行であるならば、まさにそこに道(法)があるものだと思います。
世間の善行の中にこそ、菩薩行があると思いたいところです。まあこれは、私の信条的願望ですが。

>神仏を求め、あるいは求めずとも、悩める人・苦しむ人のために、実際の行動をしようとする心が菩提心の原型になっているという意味です。

本当ならば、神仏を求める人が率先垂範で菩薩道の模範を示してしかるべきだと思うんですね。ところが実際には、神仏を求める人の中よりも、かえって求めてもいない人の中に、悩める人・苦しむ人の為に尽くす菩薩を彷彿させる実践行動が見受けられる場合があるわけですね。ところが一方の徳の道を説くはずの神仏を求めさせる教団は、菩薩行だといっては布施ばかりを要求するわけです。そんな信仰活動で生活と時間をきりつめている信仰者は、自分と観念上の仏と法のことで精一杯で、本当の菩薩行であるところの利他行どころではないのが現実でしょうね。その現実を、マザー・テレサを通して突きつけられるとき、ことのほか反発してしまうのが、これも日蓮系の悲しいザガに思えてなりません。この点は、悲しいかな、極楽寺良観を厳しく批判した教祖日蓮にも起因するものなのではないでしょうか。まあ、しかしこれは、菩薩が何であるかがはっきりしていない段階では、私の個人的観測であって、正当な批判にはなり得ないかもしれません。

>教団・指導者に自分の利益を願って散財をするより、支援を必要とする人々に、その罪過を手向けることのほうが、わたしはよほど菩薩の精神に適うと思うものです。

仰るとおりだと思います。
教団・指導者に自分の利益を願って散財をしたのは、菩薩行をした気になったという自己満足か気休めでしょう。それでも、教団そのものが集めた布施でもって慈善活動をしているというならば話は違ってきますが、慈善活動そのものを否定するような指導からして、そのような見識も意識もまるでないものと判断されますね。

1079アネモネ:2003/12/03(水) 04:08
(つづき)
>また、このような菩薩道は、なにもわたしがここに記すまでもなく、日本仏教のなかでもかつて営々と培われ実践されたことでした。この点については『創価学会の功績を考える』のスレッドで、『現代宗教研究』第37巻掲載の『日蓮宗のビハーラ活動 ― その理念と意義』を紹介しました。また、このような活動は他教団でも広く認識、実践されているところです。

先ほど書きました聖徳太子の功績として紹介したことは、まさにこのことだったのですね。ここはとても重要なところだと思いますので、そのときの独歩さんのレスを、ここに再度紹介しておきます。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1015575530/r733
日本の仏教徒は、このことに目を向けて菩薩道とは何かを通して、仏法を鑑みる必要があると思います。

>ただし、アネモネさんが菩薩の蓄財を戒めるのはやや意味が違うかも知れませんね。
仏法名目で財貨を募り、それを着服する横領詐欺行為を糾弾してこのことと拝察いたします。

民衆救済の為の蓄財というのも、現代では、もしかしたら必要かもしれません。
一般民衆は、常に天災や飢饉や戦争の被害に巻き込まれ脅かされている存在なわけですね。そのような時の救済のための蓄財ならば、それも菩薩行といえるかもしれません。
平安時代の米の備蓄という「義倉」の習慣とは、そのような精神に基づくものであり、また実際に多くの民が「義倉」によって天災や飢饉から命を守られたと聞きます。
ところが鎌倉時代になってからは、そのような仏教精神を置き去りにした御政道により、「義倉」の習慣はすっかり忘れられてしまい、天災や飢饉が起きれば民衆はたちまちのうちに生命の危機にさらされてしまっていたわけですね。
日蓮の「立正安国論」はまさにそのような背景から書いたものだとも聞いたことがあります。そのような意味で、日蓮の諌暁という行動原理もまさに菩薩精神に基づく行いだったと思います。さらな行いとしての形は違いますが、極楽寺良観も菩薩精神に基づく行いをされていたと思いますね。私は、民衆のためには、両方必要だろうと思います。

>「神仏に仕えるはずの集団と人間が莫大な布施・献金を着服する。これを中間搾取といわずして、ほかになんと言えばよいのであろうか。それら集団と指導者は、神仏と信者の中間に立ってすべてを持ち去るのである」(拙書『あなたは違う方向に歩いている』前書)

痛切に鋭い指摘ですね。信者は、迷える人々で、迷える人々だからこそ、それが善行だと言われれば、言われるままに従うわけです。そのような善意の布施や献金や供養や財務のお金を、信者がどれほど大変な苦労を経て得たものであるか。その庶民的感覚からして、指導者はわかっていないだろうと思いますね。

>菩薩道はジャータカに見られるものの、それはシャキャムニと遡源できるものではないと思えます。後世の新たな展開であったのでしょう。けれど、人類の秀でた精神活動である菩薩道が、仮にシャキャムニに由来するものでなくとも採用すべきであるというのが、わたしの考えです。

というと、もしかしてもしかすると、「仏の慈悲」ということも、後世の解釈なのでしょうか。いや、お釈迦さまに慈悲がないということではなくて、菩薩と同じくお釈迦さまに慈悲を見い出したのは後世の人なのだろうか…といった疑問です。

>シャキャムニは自身が仏陀(覚者)である自覚はあったでしょうが、自身を崇めさせたり拝ませたりする考えは元よりなかったでしょう。

仏陀(覚者)である自覚を持ちながら、自分を崇めさせなかったということは、非常に大事なポイントだと思います。言い換えれば、仏陀(覚者)を崇めたところで、仏陀(覚者)にはなれないということですよね。だからこそ、本尊とすべきは自灯明と法灯明ということであり、そのための八正道という実践方法が求められるのだろうと思います。…という理解で間違いではないでしょうか。

1080アネモネ:2003/12/03(水) 04:09
(つづき)
>不軽菩薩は、法華経不信の人にも礼拝
むしろ、不信にこその礼拝であったというコンセプトの物語ですね

そのように読み学ぶことが重要ですね。この精神はとても崇高な教えだと思います。

>> …裕福故に神の国に招かれないのではないのかという不安や恐れがあった
>これは実に興味深い話であると思いました。
差詰め、日本で言えば「清貧の思想」と言ったところでしょうか。

もっと噛み砕けば、「心は錦」…でしょうか。
日蓮さんの生き方の中には、そんな清貧の思想が強く見られますね。時代的限界もあって、今の私としてはもはや日蓮さんを絶対視は出来ませんが、しかし、そういうところは本当に今でも敬愛しますね。もっと言えば、私の知る、石山の僧侶に日蓮の「清貧の思想」や「心の錦」を見ることが出来なかったというところですね。

>中世キリスト教の悪い面ばかりを取り沙汰してきたものでした。

実際には仰るとおりだったと思います。裕福故に神の国に招かれないのではないのかという不安や恐れといった、富裕層の善意も、やがては慈善活動よりも免罪符という形で、聖職者に利用されてきた歴史のほうが大きいですね。結局、古今東西、それが人間の欲望の真の姿なのだろうと思います。だからこそ、そこに陥らない心の錦を持った聖職者が尊く求められるわけですね。今の時代も、潜在的には全く変わらないと思います。

>しかし、ここ10年、多くのキリスト者である聖職者との交流を通じて、彼らの社会活動を見聞し、そして共に歩むなかで、その評価を大きく書き換えてきました。
魔女狩りから慈善運動への変遷、それを日本仏教も見習わなければいけないと考えています。

もともと、日本仏教によって慈善運動の精神は社会的に生かされていたわけですからね。そのことを思い起こす必要があるでしょうね。

>>法華経成立の背景もどこか似ているようにも思われますね。
>これはちょっとわたしには解せないのですが、どのような意味で仰っているのでしょうか。

言葉足らずでしたね。何で読んだのか教わったのか、その根拠を示せませんが、法華経を創作した人々というのは、商人であったと記憶しています。その信仰によって、富を得て、その報恩のために、宝塔を立て経典を奉ったと聞きました。富の還元ということの、具体的な還元先が違ってはいますが、その志がどこか似ているようにも思えました。

>南無妙法蓮華経は、聖典に帰命し、それを本尊視するものである、これが題目本尊であるわけですから、実に類型をなしていると思えます。

別のスレッドで、「神の名」ということについてレスをしましたが、神の名と題目は、何か共通点を見る思いがします。

>象徴の病が取り沙汰されるのは、健全な精神を封殺し、人間が生み出したものにかえって人間が呪縛されてしまう不健全さを指摘してのことです。

本当に仰るとおりです。人間が幸福に生きるための信仰のはずなのに、信仰によって精神が病んでしまっては、意味がないですね。

>人間は自分たちが生み出した神仏(とその概念)に支配されることなく、健全な精神状態で生きること、その前提からの仏教再考であるべきですね。

賛同いたします。

1081犀角独歩:2003/12/03(水) 04:16

無徳さん:

マザーテレサが菩薩であるかどうかなどという議論はそもそもされているわけではありません。空理空論の菩薩論より、マザーテレサの実践に菩薩を感じるといっているわけです。

如何に高尚な理論を弄んでも、実社会に対して何ら功利的な活動を行わない教義を擁する集団と個人は受け容れられることはない。それが日蓮本仏圏の欠点であるという議論をしているのです。

菩薩に関する現日蓮門下一般の考えは1064に記しましたので、ご参考にどうぞ。

1082犀角独歩:2003/12/03(水) 04:30

みかんさん:

> 他宗教の人に、●●さんは菩薩だ、とか菩薩のようだというのは失礼

では、マイスター・エックハルトを菩薩と呼ぶにふさわしいと言えば失礼と言うことになりますね(笑)

> 仏教の根本的な救いなるものがピンと来てない

そうではなく、現実社会との接点で、「菩薩」はどうあるべきかを論じる時点で、経釈論を越えて考えると言うことです。ピンと来ていないなどというのは実際の現場に立たないで解釈を弄ぶ側にこそ言えることではないでしょうか。

みかんさんが提示する仏教で言う菩薩の説明を何ら否定しているわけでも何でもありません。けれど、それが、たとえば日蓮宗のビハーラ運動の現場で法華菩薩行を再定義して実践に供するようにされていかなければ、単に絵に描いた餅になってしまうと言っているわけです。みかんさんが言うように、菩薩が「気づき」のみの意味しかないのであれば、実践の現場では、そんな菩薩解釈は何も役に立たない、それだけのことです。

マザーテレサが世界的に評価された慈善実践家であれば、仏教の菩薩解釈のなかにも積極的に採り入れられればよいと言っているに過ぎません。

ここで、マザーテレサが菩薩かどうかを議論しているわけではありません。
菩薩道を標榜する仏教徒はマザーテレサを見習う実践を行うべきであるといっているだけです。

1083犀角独歩:2003/12/03(水) 04:48

日蓮が慈善事業に携わらなかったという意見について

蓮師は慈善事業にこそ携わらなかったかも知れませんが、その布教は、今で言う慈善意識に端を発していたという見方を高木豊師はしています。

「地震…飢饉…鎌倉に在住した日蓮は被害者・罹災者として、この災害を体験している。このことは、多くの罹災者との連帯感を懐かせていったろう。自らが苦しむことによって、ひとはひとつにつながるのである。のちに日蓮は救済のための受苦という考え方に到達する。それは、他の苦しみを自分がかわって受けようとすることで、仏の慈悲の継承展開である。この考えの出発点は、頻発した災害のなかでの人びとの苦しみを共感共有したことにあったと考えるのである。…災害による多数者の死は日蓮に強烈な印象を与えたにちがいないのである。…個人の喜びも悲しみも、社会・国家の安穏なくしてはあり得ないという思いを罹災者であった日蓮はひしひしと感じたであろう。…仏教者として災害の問題を受けとり、仏教者としての解答を出そうとした」(増補改訂『日蓮』太田出版 P52)

1084犀角独歩:2003/12/03(水) 05:04

改めて三吉さん:

> 1067 (1)で仰ることは、要はジャータカの自己犠牲などを語る釈尊の前世物語が発展して菩薩思想になったのではなく、菩薩思想はジャータカとは別に弥勒思想その他で仏教に摂取され、その後、ジャータカに採り入れられたということなのでしょうね。
有り難うございます。参考になりました。

> 弥勒と菩薩は、菩薩概念登場後、結びついた

なるほど。この点も大いに参考になりました。

> 1069 (2)
> マザーテレサの実践を見て、その宗教的な実践を見て、素晴らしいと感じたものが菩薩という語でテレサを賞賛して何の問題があるのかわからない。仏教語の解釈など元よりバラバラである。)

もっともであると思います。賛同します。

問題があるとすれば、単に仏教語を弄んで実践に供しようとしない空理空論のほうですね。日蓮本仏系では、ここに欠陥があります。この欠陥を議論しようとすると、マザーテレサは菩薩ではないとかあるとか、言葉尻で実践議論から脱線するわけです。ここにこの門流の、深刻な現実乖離が存するとわたしは思うわけです。

1085三吉:2003/12/03(水) 07:58
<他宗教の人に、●●さんは菩薩だ、とか菩薩のようだというのは失礼だと思いますよ。>

ですね。だから不軽菩薩はみんなから「石を投げつれられた」わけです。
別に仏になりたいと思ってない人に向かい、「あなたは将来仏になる人です。なむぅ」とかなんとか言いましたから。迷惑な話です。
(ただ宗教的行為としてテレサを菩薩と祭っているわけではなく、掲示板で菩薩と賞賛しているのは、言葉はともかく意識としては聖者と賞賛しているのと同列である。靖国が親鸞を神として祭ったら念仏者デモすると思う。が、キリスト教徒が個人的発言として親鸞を聖者と言っても念仏者は喜ぶだけであろう。まず起こったりはしないと思う)
その意識にない人に向かって大乗が「仏・菩薩」と賞賛しうる教義的根拠は「自性清浄心」ですね。極端な立場になると「元々悟っているんだ」となる。浄土教系では「10劫安心」といって、法蔵菩薩が大昔に弥陀になったとき、あらゆるひとが同時に救われたという説になる。「元々救われているんだ」と。

<仏教は「覚る」「成仏する」以外の、救いのコースを用意していないんですよ。>

仏教に詳しい方に多い見解なのですが、どうしてこういう実証的ではない誤解が流布するのか不思議です。
これは「出家」はそうなのかもしれませんが、「在家」は違います。
「在家」の基本は「生天」です。釈尊は「出家成仏コース」と「在家生天コース」の2コースを用意した。伝承からは、出家優位主義は釈尊以来なのか、弟子からなのかは不明だが、「在家生天コース」は、次生において悟りを目指すのだよと解釈する立場もありうるが、生天という救いが釈尊以前から用意されており、とりあえず釈尊はそれに乗った。

1086三吉:2003/12/03(水) 07:58
<親鸞・・・開悟とほぼ同義>
蛇足です
ほぼねぇぇぇ、うーむぅ。どれくらいをほぼといわれているのかわからんが汗。
たぶん、真宗にさほど関心のない人に真宗はそもそも理解不能な奇異な仏教観を持っていると感じられるのではないかと思う。で、自分の立場から、「正定聚」は開悟と同義と感じると言われるならば、「なるほどね」という感想しか抱かないのだが、つまり主観ならばね。客観的事実として「ほぼ同義」ならば、疑問がむくむくと起こる。
「即時」に「正定聚」なのであるが、続きがある。「必至滅度」と。必ず滅度に至る。
で、私は「滅度」が「開悟」とほぼ同義だと思うのだが、真宗派のスタンダードでは、「正定聚」は生きているうちで、滅度は死後になる。二種の利益があるんだと言われる。生きているうちに「正定聚」。死んだら、「滅度」と。この二つが一体なんだという解釈は「異端」説と激しく批判されるのたが・・・親鸞は「この世あの世」で二つを分けていない。
滅度は親鸞に拠れば、静かではない動的である。滅度=弥陀になることで、弥陀になるとは、あらゆる姿・形・手段もってみんなを仏道に入れようとするハタラキにほかならない。
「正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。必ず滅度に至るは、すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり。無為法身はすなわちこれ実相なり。実相はすなわちこれ法性なり。法性はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化種種の身を示し現わしたまうなり。(略) 『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えりと(顕浄土真実証文類四)」

※元々経典では、「正定聚」は浄土に生まれた後の益なのだが、親鸞は「即時」と現在にもってきた。後代弟子たちは、「正定聚」は現在。「滅度」は死後と分けた。なんで真宗の「還相」解釈は混乱している。

1087犀角独歩:2003/12/03(水) 12:07

アネモネさん:

わたしによくメールを下さる社会活動家でもある浄土宗のお坊さんの推薦するサイトを見ると以下のように記されていました。

「いま1000円あれば、

 朝ごはんを食べられない子どもの給食が1ヶ月できます。
 10人の子どもの聴力検査ができます。  (ガザ地区)
 子ども1人の虫歯の治療と、歯ブラシ半年分が買えます。
 乳幼児1人のミルク半年分が買えます。  (レバノン)」
  http://plaza17.mbn.or.jp/~CCP/help/help.html

日本人にとって1000円はわずかな金額です。しかし、その1000円でこれだけのことができるのかとわたしは感嘆しました。

ある日蓮宗のお坊さんが話してくれました。「創価学会や日蓮正宗は、日蓮宗の寺に賽銭箱があることを非難する。冗談じゃない。この賽銭箱で集められたお金で、経済的支援が必要な世界の国に学校を建てて寄進しているんだ」。あまり知られていない話だと思います。

わたしは40歳まで学会から石山で教学に係る立場で生きてきました。
その教学は人と国を救うものであると信じていました。
組織への従属は間接的であれ、自分が世界平和に貢献できる最高の方途であると信じていました。しかし、実際は違っていました。掛け声とお題目だけで、内実は何も伴っていなかったのです。先に『創価学会の功績を考える』スレッドで「創価学会の社会的な功績を上げてください」と問いました。案の定、何一つ、具体的な功績は上がることはありませんでした。しかし、これは学会一つの問題点ではありませんね。顕正会しかり、石山もまったく同様です。ここのところでより明確になったように、日蓮本仏論者は社会活動に無関心な行動の伴わないお題目だけの存在であると映じるだけでした。差詰め、教学に夢中になる様が教学オタクならば、活動に没頭する様は勧誘オタクといったところでしょうか。どんなに難解な教学を弄ぼうが、寝食を惜しんで活動しようが、現実的な支援救済には何の役にも立っていないのです。

反面、宗教を真剣に考える人たちは、その宗教に基づいて自分たちが何ができるのかを真剣に考え出し、実践をはじめています。しかし、その力はまだまだ微力です。

一説に拠れば、創価学会は7兆円、大石寺は1兆円の資産を要していると言います。
創価学会実働会員数400万乃至800万人、石山は10万人程度でしょうか。
8兆円と800万人。もし、この人達が、あるべき姿に目覚め、実践活動に邁進すれば、日本のみならず、世界までも変えることができると、わたしは思っています。
集団内のためではなく、民衆と国家、ひいては世界のために活動をはじめれば、日本と世界を変えられる資金と人的資源を、集団と指導者が出し惜しみをしているわけです。

1088犀角独歩:2003/12/03(水) 12:08

―1087からつづく―

しかし、現実を直視する仏教再考は、ある時、集団と信者に目覚めさせるときがやってこさせるかも知れません。いまのところ、集団と指導者がそのように目覚めることは期待できない状況にあると思えます。であれば、各個人が、いままで集団と指導者に向けてきた献金と労働力を実際に飢え・病み・苦しんでいる人たちに手向けていけばよいとわたしは思うわけです。脱集団志向はここで意味を持ちます。わたしの発想の原点は常にここにあります。

わたしはかつて小著のなかで以下のように記しました。

「わたしが人間を考えるとき、その基本には、障害者として過ごした姉があり、喝采のない家の中で、姉を介護する母の後ろ姿がありました。
 人を愛するとか、慈悲の精神などと、心地よい言葉を吐くことはた易いことであると思います。しかし、そんな心地よい言葉だけでは何も変わりません
 大衆の前で説教を行い一身に尊敬を集める人よりも、汗まみれ・汚物まみれになって働く無名の一人が尊い。わたしの眼にはそう映ります」

いまから5年前に記した一節です。
豪奢な袈裟衣を着して朗々と語られる説法も、びしっとした背広ネクタイ姿で大衆の前で得々と語られるスピーチも、わたしの耳には虚しく響きます。そんな虚飾と名誉で自分を偉く見せることに腐心する“裸の王様”が尊敬される時代は終わりにしなければいけない。罹災の危険を顧みず病の人を抱き起こし、災害に身体の危険を顧みず被災者の救済に向かい、銃弾をくぐり、さらに劣化ウラン弾の放射能被爆の危険を顧みず傷ついた人びとを救い出す人びとにわたしは菩薩を見ます。日本国内にあっても超高齢化社会を迎え、支援を必要とする老人は巷に溢れ、健常者用に構築された社会構造のなかで阻害され、支援を必要とするハンディーを背負う方々は多くいます。そのような社会的、あるいは世界的な弱者の下に赴き、血まみれ・汚物まみれになって実践する心情が、菩薩と無縁であるというのであれば、わたしはそんな菩薩は不要であると断言します。しかし、むしろ、宮沢賢治が「東に病気の子供があれば 行って看病してやり  西に着かれた母あれば 行ってその稲の束を負い  南に死に人あれば 行って怖がらなくていいと言い  北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い…」と記した人に、法華・日蓮を意識しながら、「そういう者にわたしはなりたい」と思います。

いただいたご返信には改めてレスさせていただきます。
有り難うございました。

1089犀角独歩:2003/12/03(水) 16:45

【1088の訂正】

誤)罹災の危険を顧みず病の人を抱き起こし
正)罹患の危険を顧みず病の人を抱き起こし

1090心者雖念不直相鴨:2003/12/03(水) 18:06
[1073]無得さん:

>私が探していますのは日蓮正宗歴代法主全集です。

大変な、勘違いですみませんでした。今度は、間違えないようにメモしておきますのでお許しくださいm(__)m。

1091犀角独歩:2003/12/03(水) 18:36

わたしがここで呈示する素朴な疑問は、なぜ日蓮本仏論者は具体的なボランティア、人道支援、社会還元等の慈善活動に無関心なのかという点です。

それは宗祖、蓮師に関連することなのか、それとも、その解釈によるのか、天台、または法華経そのものによるのか、あるいは現代の日蓮本仏を語る集団と指導者に起因することなのかという疑問です。

少し長い引用をさせていただきます。
渡辺照宏師は

「仏教者にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深さとともに、対人間的にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、、ハッタリで人をおどしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗教家の開祖と仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことに変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深を選ばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかに信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるとは少なくともわたしには納得できない」(『日本の仏教』岩波新書 P42)

最後の一文を読めば、親鸞・日蓮信者は眉をひそめるけれど、わたしはこの渡辺師の指摘に耳を傾けたい。親鸞師のことは、ここ富士門ではさておきます。
蓮師の対する厳しい批評はさらに続きます。

「日蓮自身の言葉…その表現において自己意識過剰であると同時に、内容から見ても、ただ自分一人のみが『法華経』によって日本を救うことができると主張しているのである。彼はまた「此国は神国なり」といい、「国土の泰平、天下の安穏」をねがっているのであるが、自分の言うことを聞かないから『これ偏(ひとえ)に日本国の上下万人、一人もなく法華経の強敵(ごうてき)となりて、年久しくなりぬれば、大禍つもり、大鬼神の各々に身に入る上に蒙古国の牒状に正念をぬかれて狂ふなり』。
 日蓮がいくらりきんでも、彼の声は結局のところ幕府の下層官吏の耳までしか届かなかったし、彼自身の国家観は現実味の乏しい観念的なものにすぎなかった。国家が彼の言うとおりに『法華経』の信仰を唯一の正しいものと認めて、他のすべての宗派を禁止すれば、日本国は栄えるし、そもなければ、国は滅びる他ないというのである。言いかえれば、自分の宗派を唯一の国教として認め、他のすべてを弾圧せよというのである。仏教史全体を通じて、他に類例のない独善主義であって、仏教の寛容の精神から見て、まったく非仏教的な態度と言わなければならない。これは日蓮が『日本第一の智者となし給へ』と幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てた(空海と同じである)というのにもかかわらず、仏教の基礎的知識を欠いているためである。日蓮は志を得ず不遇のままに死去したが、このような独善主義は、後世もしばしば他宗派との間に物議をかもした。日蓮の主張する国家主義は明治以降に復活された。明治13年に田中智学の創始した蓮華会(のちの立正安国会、国柱会)がその著しいものであ、この会は政治家や軍人にも影響してファシズムを鼓舞した。日蓮宗系統の信仰疑似宗教団体には単に個人の救済を標榜するものが多いが、日蓮正宗の外郭団体である創価学会はこの宗派をもって日本の唯一の国教と定め、他のすべての宗教の禁圧を目標とするものであるから、日蓮の国家主義の現代版といえる。ただし日蓮自身は生涯不遇であったから、ただ主観的な構想のみにとどまり、活動が具体化されることはなかったのである。日蓮ないし日蓮の流れをくむ人の考え方は、自分の宗派を国家権力と結びつけ、思想や言論の統制を図ろうとするものであるから、この点、注意すべきである」(同 P50)

1092犀角独歩:2003/12/03(水) 18:37

―1091からつづく―

さらにその批判は法華経にも及びます。

「『法華経は大衆的な信仰の書である。「マハーヤーナ仏教のあらゆる特徴を、長所も短所も含めて知るために『法華経』を読むにかぎる」(ヴィンテルニッツ)という批評はいかにも適切である。…サンスクリット本について見ると、文体はきわめて粗野で単純、一見してあまり教養のない人たちの手によって書かれたものであることがわかる。…
 いつの頃か『法華経』の原型にあたる特殊の信仰形態を持ったひとつのグループが存在していた。彼らは『この教えを信仰し、宣伝に協力するものは、すべての苦しみから逃れ、病気も治り、火にも焼けず、水にも溺れない』と言って信者を集めた。その信仰の強さを示すために、自分の体に油をそそいで火をつけるものさえあった。その執拗さに耐えかねた人々がそれを非難すると『法難だ』と叫んで、ますます結束を固くした。そして、自分たちで『法華経』という名の経典を作成した。一般の人々、ことに仏教の正統派の僧侶たちは大いに迷惑して、国王・大臣・僧侶・一般市民に訴えた。しかしこの狂信グループは「命もいらぬ、教だけが大切だ」と叫んでますます活動を続けた。こうしてグループは発展し、『法華経』も新しい章節を書き加えて、現在見るような形が成立した。…
 インドでは『法華経』を中心とする学派は遂になりたたなかった。この経典は『文芸の作品のうちでもっとも手ひどく考へることを拒絶する種類のもの』(和辻哲郎)であるから、インドの仏教哲学者たちは『法華経』をあまり重要視していない」(同 P177)

さらにまた羅什師、智邈師に及びます。

「クマラジーヴァ(羅什)…彼の翻訳は厳密な意味で必ずしも信頼できない。…ところが天台智邈は南岳慧思の教えを受けて<十如是>ということを言い出した。…そしてこの十如是と空・仮・中の三諦とにもとづいて天台の教義を作りあげた。しかし『法華経』がサンスクリット本からの翻訳である以上、智邈の解釈はまったく成りたたない。そのうえ、ここに用いた空・化・中の三諦の説もインド仏教の資料に対する誤解から来ている。したがって、天台の教義なるものはまったくの無知と誤解のうえに築かれたものと言えよう」(同 P188)

と痛烈な分析を開陳しています。
しかし、その教学上の批判とは裏腹に

「日蓮宗の特色はその熱意と実行力にある。日本山妙法寺の人たちはその真剣さの故にガーンディに愛された。原子核兵器の実験反対にもっとも熱意を示しているのも、日蓮宗の人々である。排他性・宗派性から脱皮して人類平和のために努力する人々の姿は尊い」

とも記しています。この“脱皮”の意味は重要であると考えます。

1093犀角独歩:2003/12/03(水) 18:38

―1092からつづく―

わたしはこの書の『むすび』を何度か紹介した記憶があるのですが、いまは探せません。慈善活動を仏教と分ける人に是非とも読んでいただきたく、紹介します。

「仏教は日本人に何を教えたか。積極的な面では、人々を愛し、助けあい、すべての生命を尊重すべきことを教え、人間が自己完成すると同時に、他の人々を幸福にすべきであるという理想を示した。道登がはじめて宇治橋を架けて以来、多くの仏教者は黙々として道を作り、橋をかけ、池を作り、川を修め、樹をうえた。空海は庶民のために学校(綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を作り、教授と生徒の完全給食を実施した。忍性は病院を建て、ライ患者を助け、馬の病舎を作った。鉄眼は毎日1万人の災民に食事を与えた。こうした例はまだ他にも沢山ある。生命の尊厳を教えて肉食の習慣をやめさせたのも仏教であった。早い時期に死刑制度を廃止させたのも仏教である。人と人との結びつきを教え(袖振れ合うも多生の縁)、人生と自然との和合を示してくれたのも仏教であった。要するに今日ヒューマニズムとよばれるところのもの、それをわれわれは主として仏教から学びとったのである。
 しかし、宗派としての仏教、形式的な宗教儀礼、器械的な僧侶の思考動作は、日本人の生命ある宗教活動を枯渇させてしまった。…
 宗派宗門を主体とし、形式儀礼にこだわる中世的仏教は本当の仏教精神を掩いかくしている。現在でも、一方に老いこんで無力になった既成教団があり、他方には無知で暴力的な信仰疑似宗教がわめいている。自由な立場で仏教を求める人たちは何ものも見いだすことができない。…
 好きなものが集まって説教まがいの講演を聞くと言うだけの組織は、本当の仏教活動にとってはむしろ有害でさえある。なぜかというと、利他の実際活動を伴わない聞法だけで仏教運動に参加しているような錯覚をおこすことによって、上求菩提下化衆生の実践をないがしろにする結果を生むからである」(同 P209)

同書が発刊されたのは1958年1月25日、既に半世紀前に鳴らされた警鐘は少しも生かされることなく、現代の問題になっています。殊、日蓮本仏圏ではその様相は顕著である。わたしは以上の指摘を真摯に受け止める故に素朴な疑問として、慈善活動の問題を俎上に挙げた次第です。

1094五月雨:2003/12/04(木) 00:17

人が善い行いをすることは大切だと思いますが、それを殊更に菩薩道と絡めて強調す
ることは必要なことでしょうか。仏教徒だから、菩薩道があるから「善行」をする、
しなくてはならないというような論調は、本末転倒しているように感じるのです。
仏教徒でなくても、菩薩道を知らなくても、人としての「善行」があるべきではない
でしょうか。
人として、人を思いやる気持ちの中でそれは自然と自ずから施せると思うのです。

議論の中で用いられている「常不軽菩薩品第二十」に著された常不軽菩薩の行いが、
何故に人を救うに転化したのかも疑問に思います。そのまま読めば常不軽菩薩は自らの手で衆生を救っていませんよね。

「常不軽菩薩品第二十」には、常不軽菩薩がいままさに死なんとする時、威音王仏が説いた法華経の二十千万億の偈を聞いて六根清浄を得、
広く人のために法華経を説いたと書かれています。
そしてその常不軽菩薩の姿にそれまで謗っていた人々までもが、皆信伏随従したと説かれています。
この「信伏随従」は自発の意思ではないでしょうか。
いままで自発的に謗っていた人が、自発的に随ったという意味で、常不軽菩薩が人々を救ったということではないですね。
なのに、常不軽菩薩は人を救う菩薩の代表格になっています。
そして、その人を救う菩薩の常不軽に自らの姿を重ねながらの考え方は、これは富士門系で言う“地涌の菩薩”を
“常不軽菩薩”に置き換えているだけではなかろうかと私は思うのです。

1095五月雨:2003/12/04(木) 00:17

私たちは学会から石山から、信者は地涌の菩薩の眷属なんだという誇りを植えつけら
れて、その気にさせられ、無理な折伏をし、どれほど多くの一般の人々に多大な迷惑をか
けてきたことでしょう。これは忘れてはいけない罪だと思います。
これを忘れないことこそ、信仰者に問われる信仰責任なのではないでしょうか。

“常不軽の菩薩道”に基づいた善行は、マザーテレサの善行と同じ意味を持つでしょ
うか。
“常不軽の菩薩道”が“地涌の菩薩の眷属”と同じ轍を踏むのではと、私はとても不
安な思いに駆られるのです。

※ここでもし皆様方が、本来の菩薩の意味を無視して、富士門でいう“常不軽の菩薩道”
をもって、新しい宗教を模索されておられるのでしたら、私の大いなる感違いです。
お赦しください。

1096犀角独歩:2003/12/04(木) 00:34

そういえば、忍性師、慈善活動と蓮師のことについては『他宗、他派をホメよう』スレッドで、現時点さん、またドプチェクさんが触れていらっしゃいましたね。昨年の夏のことでした。取り敢えず、ご紹介まで。

http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1030610635/l100

1097空き缶:2003/12/04(木) 02:28

犀角独歩さん

お久しぶりです。独歩さんの知識の広さには敬服いたします。

最近のリハビリテーション論では、「パワレス」「エンパワメント」という言葉がよく使用されるそうです。
施設などへの入所は人間を「パワレス」状態(本来もっている力を減退させてしまう)にする傾向にあり、これからの社会福祉施策は「エンパワメント」(もともと人間に内在されている力を最大限に引き出す援助)を中心にすすめられるべきだといいます。

私は忍性師の慈善活動に対する、日蓮聖人の思想は「エンパワメント」思想であったような気がしてなりません。

1098アネモネ:2003/12/04(木) 03:42
横レスすみません

犀角独歩さん

>日本人にとって1000円はわずかな金額です。しかし、その1000円でこれだけのことができるのかとわたしは感嘆しました。
…ある日蓮宗のお坊さんが…冗談じゃない。この賽銭箱で集められたお金で、経済的支援が必要な世界の国に学校を建てて寄進しているんだ」。あまり知られていない話だと思います。

1000円といえば、賽銭箱のない日蓮正宗では、ご祝儀袋に入れなければならないとされていて、結局、暗黙のご供養最低金額だったなあと思い返されます。袋には住所や名前と金額まで明記するのが通例でしたね。私もそれなりに、参詣のときには必ずご供養を包んだものでしたが、お寺の実態を目の当たりにするにつけ、納め続けたお金が、どのようなことに使われているのかに疑問を持つようになったものです。そして独歩さんの掲示板のレスを通して教団の裏事情など真実の一端を知るようになってからは、つくづく無駄な散財をしたものだと思いました。

ところが慈善活動の実践がどんなに尊いことなのかはわかっていても、いざ自分が実践的にやり始めるとなると、なんだかんだと腰が重いものです。いかに自分のことしか頭にないか、いかに自分ばかりが可愛いか、そんな情けなくも狭い心を自分の中に見ます。
自分のためと思って励む宗教活動には、それこそ万難を排す勢いで時間や資金を投入することができるというのに、いざ自分以外の人の為の実践的な慈善活動となると、なんだかんだと理由をつけては、結局わずかばかりの時間もお金も割けなかったりするものです。
法や組織の為には、何万円も何十万円も、いや何百万円だって、それが自分に返ってくるとなれば、全く惜しげもなくつぎ込むというのに、本当に助けを必要としている人たちのための、わずか1000円の援助や寄付が煩わしかったり面倒だったりと思ってしまうものですね。
私は、そんないやーな狭い心も自分の中に見るものですから、だからこそ慈悲の実践活動に身を投じる人を知ると、少しでもどこかで、何かの形で近づきたいと思ったりもするのです。とても同じような真似は出来ないけれど、でも少しでも何かの形で近づきたいと思うのです。

>むしろ、宮沢賢治が「東に病気の子供があれば 行って看病してやり  西に着かれた母あれば 行ってその稲の束を負い  南に死に人あれば 行って怖がらなくていいと言い  北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い…」と記した人に、法華・日蓮を意識しながら、「そういう者にわたしはなりたい」と思います。

私は、小学校五年生の頃、宮澤賢治の童話をたくさん読みました。「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」…、どの作品も独特な世界に没頭して読みふけっていました。その当時の私は、一番熱心に教会に通っていた頃でもあったわけですが、実はなぜか彼の童話の世界にキリスト教精神のメッセージのようなものを感じて読んでいたんですね。宮澤賢治が国柱会の信者であったということは当時の私は全く知らず、そのことを知ったのは、法華講に入ってからのことです。
私の中では、キリスト教と法華経とは、目指す精神性が完全に融合してしまっているといってもいいかもしれません。それが正しいか間違っているかの教義的検証には、根拠をもって答えられるだけの知識は持ち合わせていませんから、これはまるで根拠のない、完全に私の感覚的なところでの話ですが、私の中では融合しているわけです。日蓮の中にイエスを見たり、イエスの中に日蓮を見る、そんな思いが私の個人的リアリティとして確かにあります。
そのことにおいて私にとっては宮澤賢治も、法華経の不軽菩薩の精神とキリスト教の博愛精神が根底的に融合している人のように思えてならないんですね。
確か宮澤賢治は、どこかでキリスト教と関わっていたのではなかったかという、わずかな記憶がありまして、それを頼りに検索してみましたところ次のようなサイトがありました。
http://www.hico.jp/sakuhinn/4ta/donnguri.htm
驚いたことに宮澤賢治は、日蓮も取り上げられているあの「代表的日本人」を書いた、クラーク博士の弟子である無教会主義派の内村鑑三の、その直弟子たちと深い交流があったようですね。そこでキリスト教の博愛精神を学んでいるのだろうと想像できます。もしかしたら、農業改革のバックボーンの一端もここで培われたのかもしれません。

1099アネモネ:2003/12/04(木) 03:50
(つづき)
渡辺照宏師の『日本の仏教』は、独歩さんに勧められて数ヶ月ほど前に読ませて頂きました。
ここに挙げて頂いた文章は、私もいまでも鮮明なインパクトとして記憶に強く残っています。力のある文章ですね。それだけ、この本を通して社会に訴えたかったことは、ある種の危機感ではないかと強く感じられます。石山系の信仰にいる人は、一読してみるべきだと私も思いました。
それまで絶対に正しいと教えられ信じてきたことが、いかに世間的にまったく通用しない偏狭な解釈であるかが露呈されており、幾度となく繰り返される痛烈な日蓮批判に目を覆いたくもなり、時には本を投げつけたくなるほどの衝動にかられるほどの内容かもしれませんが、しかし、それでもここに書かれた内容に目を向けるべきだと思います。
石山系の組織の人は、組織外の本を読むことを謗法だと認識するわけですが、その教えがいかに教団の都合による情報操作を目的としたものであるかということも実感させられる一冊だと思います。

国によって宗教の違いは、もともとの文化や言語や習慣や風土の違によるところもあるわけですから、ごく自然なことだと思います。宗教や文化が違えば、同じ人を見て、そこに何を見るかの、その表現するところの言葉が違うのも当然のことでしょう。マザー・テレサが苦しむ人の中にイエスを見るのと、そのマザー・テレサの手に抱えられ救われる人々が女史の中に、自分が信じる宗教の神を見るのは、同じことなのかもしれません。そしてさらに、仏教文化圏の人の中には、まるで菩薩のようだと見てしまうこともある。どれが正しいとか間違っているということが問題ではなくて、何に感応して、何に心が動かされるのかということの問題だと思いますね。そこに自分の知り得ている宗教や思想や文化における言語を使って表現することは、ごく自然な人間の心のあらわれだろうと思います。

人に心が動かされたとき、それは強い憧憬となって、理想の人間像をそこに求め、やがて「私もそんなふうになりたい」「少しでも近づきたい」と願うものですね。その人の心が何に感応するかは、その人がそれまで培ってきた思想や人格や人間性に大きく関係するものなのかもしれません。
マザー・テレサやガンジー、また日本山妙法寺の人たちのような行動が、多くの人々の心を動かして広がり、救われた人が、今度は別の誰かを救いたいと思うようになっていくわけですね。そこに本当の布教があると思います。

>さらにその批判は法華経にも及びます。

ここに書かれていることは、私にとっては、とても説得力のある文章として響きました。当時の法華経創作者たちがどのような存在の人であったのかということは、非常に重要な点ですし、ここに記されている姿が、そのまま石山系の信仰の姿にそっくりそのままオーバーラップするところが、また驚愕するところでもあります。
結局、慈善活動に対する考え方を大きく左右するのは、法華経はお釈迦さまが説いた最高の教えであるというところを、動かぬ絶対の真理として信じることの限界を認めるかどうかに関わるものではないでしょうか。
なぜなら、そこから動かないことは、つまり自分の「信」に対する絶対的優位性が不動のものであるということに通じるものであり、その独善的思いが同時に、他者差別、他者蔑視につながっていくものであり、独善と差別は表裏一体なのでしょう。
その独善こそ、法華経の中に強く説かれている思想だとすれば、ここを克服するには、成立過程に遡って、その絶対視をやめて限界を知るということではないかと思います。

なぜ、石山系では慈善活動に消極的で冷ややかであり、ときに批判的に捉えるのか。これこそ素朴な疑問といえるでしょう。
結局、教義的なところからくる独善と差別に端を発し、不信の者と関わることに対する謗法の意識というものが心の根底にあるからではないでしょうか。
お寺の中で、不信の人と関わることは謗法に通じるものとして、それを「悪縁」という言葉で忌み嫌っていたことは多く見受けられていたところでした。こういう意識を指導において繰り返し植え付けられている限り、不信の人に対する慈善行為など指導するはずもなく、それどころか逆に否定しなければ教義的に論理矛盾が起きるわけですね。
ところが、>1025において独歩さんは「無縁の慈悲」ということを示してくださいました。これが法華経が説く精神なのかどうかはわかりませんが、ここは非常に重要なところだと思います。「無縁の慈悲」というのは、どこで説かれていることなのでしょう。

1100愚鈍凡夫:2003/12/04(木) 05:50
横レス失礼します。

人の命の尊さを大切にしたマザー・テレサに菩薩を感じることは、別に不思議なことではないですし、宗教的立場は違うけれど、女史を見習いたいと思うことも、これもまた自然なことだと思います。
そして、自分に何ができるのだろうと思うこと。これが最初の一歩でしょうし、その拠り所に仏教を置くことは、仏教を学ぶ者としてこれもまた自然な成り行きだと思います。
誰も、女史を「菩薩」と定義づけようとしているわけではないし、女史の行動力に「菩薩道」を結び付けようとしているわけではありません。
振り返って、それでは仏教で説かれる「菩薩」とは何なのか。そして、「菩薩道」とは如何なる道なのか、それを考えるきっかけとして、女史の実例を取り上げているということだと思います。
端的に言えば、「苦しんでいる人がいる」「助けを必要とする人がいる」、だから少しでも力になりたいと思う。結局はそういうことなんですよね。それを「菩薩道」の一分と見るか、「慈善活動」であって、仏教とは無関係と見るかということだと思います。
個人的見解として、人が自分の足で歩んでいこうとすることを援助することは、「宗教」にとって忘れてはならないことではないかと思います。
ただ、こういった問題の難しいところは、決して強制があってはならないと言うことだと思います。そういった活動をしている人が、していない人を責めるのは間違っていますし、また、していない人にある種の脅迫観念や悲哀を与えることも間違っているでしょう。

1101三吉:2003/12/04(木) 07:24
私が法華経をそのまま読めば、
みんなから馬鹿にされていた一人の菩薩が、部派仏教の徒に対して「君らは、将来大乗を行じて、作仏する方たちだ。なむぅ」と「礼拝讃歎」行を実践し、その功徳によって、死ぬ間際、法華に出会えた。法華に出会った功徳で、「六根清浄」を得て、寿命が延び、法華を説法するものとなった。法華の説法を聞くことで、部派の出家在家みなともに、信伏随従し、悟りを得た、と。

常不軽菩薩が救ったのでも、信伏随従という自由意志が救ったのでもなく、救った浄因は、法華経じゃあないだろうか。「法華の功徳は六根清浄」だよがテーマだと思うが。
一つの線として、「馬鹿にされてた者」が「法華」を得れば、一転して尊敬されるという展開になっているので、「法華ってすごいんだぜ」というのも大きなテーマだと思います。

ちなみに私の先の文は不軽菩薩を「迷惑の代表」として書いていますので「救済」に触れていません。恐らく「大乗の菩薩道などに無関心な、とある部派仏教勢力のものたち」に対して、「あなたたちは菩薩道を実践して作仏する」などと言うのは、念仏の徒に題目、題目の徒に念仏で救われるというのといっしょくらい迷惑ですね。「虚妄の授記」という批判は真っ当です。
他教の文脈で実践された人を「菩薩」と賛嘆するのが、「失礼」「迷惑」ならば、法華自体が、あるいは仏教の発想に根深く「失礼」「迷惑」があるといえるのではないかと思います。釈尊もかなり失礼で、阿含を見ますと「火を拝んでる敬虔な信者」「沐浴している真面目な人々」に向かって、「生天したいなら、そんな馬鹿げた努力してもしゃーないやん。正しい実践したほうが効果的よん」と仏教の実践を勧めます。迷惑で失礼な話です。

1102三吉:2003/12/04(木) 07:25
渡辺さんは、「仏教の寛容の精神」と言われるが、疑問点がある。仏教に寛容の精神を根付かせた代表は、アショカ王で、彼は宗教対立を憂い、仲良くしろと指導した。大衆部はそれに乗り、南伝分別説部や他派は大衆部に続いて乗った。(律を改変した)最後まで抵抗を重ね、しぶしぶ従ったのが説一切有部。説一切有部は、「教義解釈が分かれれば相手を認めない」ことに最後までこだわった厳格派(律を改変せずに解釈に変更を加えた)。一方大衆部は、「解釈わかれども儀式同席すれば、仲間」という穏健派。アショカの政策に一番に従ったので全土に繁栄する。有部は独善的な厳格派だったので、当時の中心地の旧マガダなど東北部ではよわく、新興の西北部に進出する。
仏教中に、寛容派、厳格派あり、中間ありで、寛容一辺倒ではない。遡れば、舎利弗VS提婆達多の争いは、「寛容派」と「厳格派」の争いだし、「アナンダ」と「マハーカッサパ」「アヌルッダ」も「寛容」と「厳格」だし、「大衆部」と「上座部」もしかり。
その後、有部はカニシカ王の時代に支持をえるので、長く繁栄するのだが、有部の独善性と、法華の独善は似ているのではないかと思う。渡辺さんの殊更、法華を狂信的なグループの手によるものと見る説は少なくとも多くの学者から批判されている。
私はさほど根拠があるわけではないが、「菩薩観」「厳格派」「地域的特性」からも有部が法華になんらかの影響を与えたか、たまたま似ているのかはわからんが、仏教の中で法華が特異だとは思わない。厳格派の系列だから、厳格派の代表、提婆達多も偏見なく描けたのだと思う。(提婆達多は、独立グループとして存立し続けた。門下にとって提婆達多は仏陀)

1103アネモネ:2003/12/04(木) 13:18
愚鈍凡夫さん

>振り返って、それでは仏教で説かれる「菩薩」とは何なのか。そして、「菩薩道」とは如何なる道なのか、それを考えるきっかけとして、女史の実例を取り上げているということだと思います。

そうなんですね。

>個人的見解として、人が自分の足で歩んでいこうとすることを援助することは、「宗教」にとって忘れてはならないことではないかと思います。

同様に思います。仏教かキリスト教か…といったことではなくて、「宗教」という立場にたってみる議論だろうと思います。

>ただ、こういった問題の難しいところは、決して強制があってはならないと言うことだと思います。そういった活動をしている人が、していない人を責めるのは間違っていますし、また、していない人にある種の脅迫観念や悲哀を与えることも間違っているでしょう。

確かにそうだなあと、大事なご指摘だと思いました。
人権思想の基本は、人は幸福に生きる権利があるということだと思います。だから幸福に生きられない、生存権さえ脅かされている人に、援助を差しのべる。そのようなことは相互扶助の精神として、日本の社会に構築されてきたものだっただろうと思います。たぶん、そこには仏教が果たしてきた役割も大きかっただろうと思いますね。
しかし戦後の個人主義思想によって、相互扶助の秩序は崩壊しつつあり、そこに新たな不幸もあるものなのでしょう。日本においては、人知れず心の閉塞感や孤独を抱えている人は潜在的にたくさんいるだろうと思われますね。
そこをできるだけケアしていくとき、まず福祉政策が求められるわけですが、たいてい福祉は後手後手の政策になりがちで、個人の援助活動のほうがきめ細かく先行している場合が多いでしょうね。
だけど、その慈善活動の実践が強調され過ぎては、確かに逆に人を追い詰めるようなことにもなりかねませんね。日蓮の良観批判がそこにあったという一面もあるのかもしれませんが、結局、信仰の強制と同じで、そこに新たな不幸が生まれる場合も考えられます。
ましてや教団信仰であっても、そこに入ってしまった人といういのは、なんらかの苦しみの渦中にいる人が多いわけで、むしろ心のケアを求めている側である場合も多いものでしょう。そのような人に、布教活動であれ慈善活動であれ、何かを強制し追いつめるようなことになってしまってはいけないのかもしれません。
ちなみに、私の知る限りのキリスト教会では、強制ではなく気がついたら信仰活動を通して自然に慈善活動に参加していたみたいなことが多かったです。気負うところはほとんどなかったと思います。
まあ恐らく教えを通して、それこそ無作の心というのでしょうか、気がついたら人を慈しむ心が培われていたとなっていくのが望ましいことかもしれません。
しかし難しいですね。それでもやっぱり、こんなことを書いている今も、どこかで人知れず援助活動に勤しんでいる人がいることを、私は心に留めておきたいと思いますね。

1104アネモネ:2003/12/04(木) 13:18
三吉さん

仏教の流れを体系的に解説してくださっていて、とても勉強になります。

>「法華の功徳は六根清浄」だよがテーマだと思うが。

法華経において、「救済」という言葉は馴染まないものなのだろうということがだいぶわかりました。それでも心が救われるという言葉をよく使うわけですが、結局、心が救われるとは、心が洗われるということかもしれませんね。法華経によって心が洗われれば、六根清浄になる。そんな感じでしょうか。

>仏教中に、寛容派、厳格派あり、中間ありで、寛容一辺倒ではない。遡れば、舎利弗VS提婆達多の争いは、「寛容派」と「厳格派」の争いだし、「アナンダ」と「マハーカッサパ」「アヌルッダ」も「寛容」と「厳格」だし、「大衆部」と「上座部」もしかり。

なるほどなあと思いました。
どれをもってこれこそが仏教だと言い切れるものではなくて、全体でもってバランスがとれているのかなあとも思ったりします。

1105犀角独歩:2003/12/04(木) 14:32

盛ん議論が進んでいますね。
喜ばしいことです。

空き缶さん:

有り難うございます。
ノーマライゼーションなどともに重要な視点ですね。

愚鈍凡夫さん:

アネモネさんが賛同される点、わたしもまったく同様に思います。
それと同時に、ここが宗教に係る掲示板であれば、補足しておきたいことがあります。
愚鈍凡夫さんの言葉をお借りして記せば、

一つの信念体系にあるものは「決して信仰への強制があってはならないと言うことだと思います。そういった宗教をしている人が、していない人を責めるのは間違っていますし、また、していない人にある種の脅迫観念や悲哀を与えることも間違っているでしょう」

むしろ、この点から出発して、独善的な排他主義に陥った歴史を有する学会を含む石山系集団=日蓮本仏圏の注意を促し、未来を考える資糧として、浅見定雄師の「何を信じているかではなく、何をしているかで宗教の真価が問われる」という点から、素朴な疑問として、なぜ、日蓮本仏論者はボランティアに無関心なのかと問うたところでした。

アネモネさん:

上述の「なぜボランティアに無関心か」という点についての分析、まったく同感です。
この原因はまさに独善と偏見、そして、他者蔑視という差別にその原因があるとわたしも思います。詳しくはまたレスさせていただきます。


三吉さんの該博な知識に基づく、批正を有り難く拝読しています。
紹介した書の記述は、渡辺師が創価学会に対する嫌悪感から勢い、日蓮・天台・法華批判にまで筆の勢いが及んだと見られます。その後、柔軟姿勢に変わっていったのも事実でした。


さて、これはかなり思い切った憶測ですが、渡辺師が法華経創作者の姿を素描するのにモデルになったのは、むしろ、戦後、日本社会で席巻した創価学会の姿であったのであろうと。

渡辺師の記述内容はもちろん絶対のものではあるわけはありません。研究が進み、日々書き換えられる点も多々あろうかと存じます。それを十分に加味しながら、けれど、そこに指摘された法華・日蓮信奉者への批判は、それでもわたしは真摯に受け止めていきたいと思っています。

日蓮を理解するために、天台を学ばないとよくわからない。ところが、法華経に書かれているところを理解しようとすると、天台の解釈は邪魔になります。これがわたしの経験則でした。

1106ガンコ:2003/12/04(木) 15:21

素朴な連想

五月雨さんの1094〜1095は、全体として何をおっしゃっているのかわかりませんが、いろいろ思うところがありました。

>人が善い行いをすることは大切だと思いますが、それを殊更に菩薩道と絡めて強調することは必要なことでしょうか。仏教徒だから、菩薩道があるから「善行」をする、しなくてはならないというような論調は、本末転倒しているように感じるのです。仏教徒でなくても、菩薩道を知らなくても、人としての「善行」があるべきではないでしょうか。人として、人を思いやる気持ちの中でそれは自然と自ずから施せると思うのです。

わたくしはこのところ、法勝人劣とか法前仏後とか考えてきたのですが、ようするに仏法ってほとけが出現する以前からあったのだと。それでいくと、上記のお考えはなるほどそのとおりだと思います。いわゆる十界論の、わたくしの認識が正しいかどうか・・・恥を覚悟で書けば、菩薩だとか声聞だとか、その名称は後天的なものだけれど、その中味は先天的なもの・・・つまり、十界論の示すところは制度的なものではなく、本然的なもの・・・十界本有常住っていうのはこのことかなあと。

>そして、その人を救う菩薩の常不軽に自らの姿を重ねながらの考え方は、これは富士門系で言う“地涌の菩薩”を“常不軽菩薩”に置き換えているだけではなかろうか
>私たちは学会から石山から、信者は地涌の菩薩の眷属なんだという誇りを植えつけられて、その気にさせられ、無理な折伏をし、どれほど多くの一般の人々に多大な迷惑をかけてきたことでしょう。

まあ、じぶんなんかも、地涌の流類だなんて、ずいぶんとおだてられたものだなあって、思うことありますものね。

>“常不軽の菩薩道”が“地涌の菩薩の眷属”と同じ轍を踏むのではと、私はとても不安な思いに駆られるのです。

う〜ん、同じ轍を踏む・・・ですか。確か今年の春ごろでしたか、わたくしが法華講に移るようなニュアンスを漏らしたところ、おっしゃいましたね。・・・所属教団をサーフィンしたところで何にも変わりやしない、と。
もしかしたら五月雨さんは、掲示板での議論じたいに、限界のようなものを感じ取っていらっしゃるのではないでしょうか?

1107アネモネ:2003/12/04(木) 15:53
私は、蓮祖の諌暁という行動にみられる精神からいっても、宗教は、人の苦しみを生んでいる社会問題について向き合って、取り組んでいくとき、はじめてそこにその教えや思想が実社会に息づき、生かされるものだろうと思います。そのひとつの形が慈善事業なのだろうと思うわけですね。
独歩さんと、pundarikaで議論してきたところの共通の認識がそこにあったと思います。http://jbbs.shitaraba.com/study/3050/pundarika.html#3
ここでの議論は、一時休止状態にはなっておりますが、法華経は何を訴えたかったのか、そして法華経からは何を学ぶことができるのか、真の菩薩行ということは何かということが次なる議論としてあがってきていたところです。

私の八年間の法華講組織を振り返ってみても、菩薩行が何であるのかを、素朴な疑問からはじまって考え直してみることは、ほぼはじめてのことであり、とても新鮮なことに思えました。つまりそれだけ、法華経が何を説いているのかということが、組織内の指導や説法や法話のなかで、きちんと押さえられていなかったように思うのです。私個人の不勉強ということもあるかもしれませんが、しかし教導する立場の聖職者は、たった一行の経文を通してでも、全体の思想を知らしめることに尽力すべき責務があると思いますし、もっといえば、言葉はなくても、その人の存在そのもので示すことも求められるものだと思いますね。
まさにそれが、独歩さんのレスにある、
>浅見定雄師の「何を信じているかではなく、何をしているかで宗教の真価が問われる」という点
に関わることだろうと思います。しかし残念ながら、そのような啓発を受けるような方は、私の法華講8年の中では、ひとりもお見受けできませんでした。

独歩さんのレス
>1088
>「わたしが人間を考えるとき、その基本には、障害者として過ごした姉があり、喝采のない家の中で、姉を介護する母の後ろ姿がありました。
 人を愛するとか、慈悲の精神などと、心地よい言葉を吐くことはた易いことであると思います。しかし、そんな心地よい言葉だけでは何も変わりません
 大衆の前で説教を行い一身に尊敬を集める人よりも、汗まみれ・汚物まみれになって働く無名の一人が尊い。わたしの眼にはそう映ります」

この文章は、掲示板参加当時に既に読ませて頂いた文章ですが、正直なところ私はショックを受けました。これが正しいと鵜呑みにしてきたことで、なにかもっと大事なことを忘れかけていたんじゃないだろうかと思ったものです。
今の議論は、私にとっては既にこのときから始まっていたといえるかもしれません。
菩薩道とは何なのか。このことを、やっぱり考えてみたいと思うのです。
そこに宗教の目指す方向が見えてくるようにも思いますし、もしもロムされている方の中に、組織信仰の葛藤のなかにいる人がいるならば、尚更、この議論は有意義なのではないかと思いますね。

1108犀角独歩:2003/12/04(木) 17:29

アネモネさん:

たくさんのレス、有り難うございます。
やや宿題のように溜まってしまいましたが(笑)突っ込んだ議論は、また、pundarika でお願いします。すべてにここでわたしが返しますと、さらに場所を取ってしまいますから。

それでも、このスレッドに特に関係のある点についてだけは記させていただきます。

> 日蓮の諌暁…菩薩精神…極楽寺良観も菩薩精神…民衆のためには、両方必要

さすが。二極志向でお考えになりませんね。
そうなのです。「日蓮か良観か」などという択一はまったく必要ありませんね。

> 「仏の慈悲」…後世の解釈なのでしょうか

これは難しいご質問です。資糧手放しで記すと碩学の叱責を買いかねません。
どなたかにお応えいただければ有り難く存じます。
ただし、わたしは仏を慈悲の体現者であるとする見解には賛同します。
であれば、憎悪からの脱却はまた仏教の大きな課題であるという命題も成り立つと思うからです。

> 本尊とすべきは自灯明と法灯明…そのための八正道という実践方法

概ねこの整理には賛同です。
ただし、わたしはそもそも本尊が果たして必要かという点では懐疑的です。
繰り返しでくどくなりますが、本尊と法はそもそも関係がなかったわけですね。
ですから、本尊というまでもなく、法灯明・自灯明であるとわたしは思っています。
八正道は永遠不動の実践論であると、もちろん思います。

> もともと、日本仏教によって慈善運動の精神は社会的に生かされていた

まったくそのとおりなのです。
それがいつの日からか、実践を欠いたお題目だけになってしまった。日蓮本仏圏では顕著であると嘆いているわけです。

けれど、以前も触れましたが、石山信仰をされていた大正皇后はハンセン病救済活動をされていたことは夙に有名なことでした。また、どなたかが投稿くださっていましたが、石山僧のなかでも同様の活動をなさっていた方がいました。
古いわたしの記憶では、40年ほど前、両親の、創価学会員である知人がハンセン病施設を訪ね、熱心に折伏をしていた体験を、直接、聞いたことがありました。
子供心に「感染しないのかと恐れおののきながら聞いていたものでした。(実際に罹患されたご経験をお持ちの方にはたいへんに失礼な記述である点、お詫びします)しかし、その体験を訥々と語るその方の確信を今でも、わたしは思い出すことができます。けれど、不思議なことに、その方の顔も性別も思い出せないのです。ただ、その人のハンセン病の方々を何とか救いたいという一途な気持ちだけが記憶されているのです。それでも話の断片、施設の灰色の壁のこと…、医療その他が行き届かないこと…、など思い出されるところがありながら、その方がどなたであったか、どんな方であったのか、杳として思い出せません。そんなことから、わたしにとって、その方の存在は、見(まみ)えることができた生身(しょうしん)の菩薩様のように記憶されてきました。ここのところの議論で、埋もれたそんな記憶が思い起こされました。
石山信仰が仏教紛いかどうか、しかし、そのよう教義的な考証は別にしても、この信仰圏でたしかにハンセン病救済を実践する尊い“菩薩”様がたしかにお出でになったのです。
それがいつの日から個人の現世利益、集団利益と拡張、指導者翼賛という愚行に堕落してしまったことを嘆くのです。

1109犀角独歩:2003/12/04(木) 17:31

―1108からつづく―

> 電車で席を譲る…小さくとも立派な菩薩行

そうですね。ここのところの議論で、通仏教でいう「本来の菩薩」がなんであるか、そんな指摘があったわけです。
けれど、わたしは菩薩から慈善活動を考えたわけではないのです。
そうではなく、菩薩界、菩薩道、菩薩行という視点からです。
十界論という教義をわたしはさほど重視しません。しかし、そのなかで菩薩界を己心に観じるという点、そして、そこから、一体、自分が何をしようとするかという視点は重要であると思っています。それが菩薩道、あるいは菩薩行へと発展するか否かという点です。

蓮師との対峙で語られる忍性師はその慈善活動の故に忍性菩薩と崇められたわけでした。わたしはそのような観点が本来の民衆の受容であると思うわけです。それが仏教集団的、あるいは教学的な見地から菩薩とは言い難いというのも別段、異論を唱える気はありません。しかし、一般社会・民衆は、教学解釈より、実践のなかに菩薩を見てきたのでしょう。そんなのは間違った仏教理解である、それもそうかもしれません。しかし、正しい仏教理解であれば、何もしなくてもよいのかという問題が残ります。
教義として正しいか間違っているかは実践の現場ではまるで意味はなしません。支援を必要とする人に何をしているのか、ただそれだけが意味を持つのでしょう。各人が解釈する菩薩道、菩薩行として、実践されたかどうか。仏教徒である支援救済の実践者をつかまえて、「あなたのやっている慈善活動は、教学的な解釈からすれば、菩薩とはいえない」という批判がいったい何の意味を持つのでしょうか。わたしなど、実践者などと言える人間ではありませんが、実際のボランティアの現場で、「あなたのやっていることは菩薩とは言えない」と言われれば、「そうです。わたしは菩薩じゃありません。それがどうかしましたか」と応えるだけです。わたしの知る実践者もまた、同様でしょう。そんなレッテルはどうでもよいことです。重要なことは「何をしているか」ということです。

ここで愚鈍凡夫さんがご指摘くださった点について、再度、賛同の意を表しておきます。わたしは、そのようなことをやらない人を差別する気持ちも、強制する気もありません。ただ、本当に資金と人的資源の不足はどうにもならない現実があるのは事実です。強制することも、市内人を批判する気もありません。けれど、一人でも多く目覚め、それが仏教からでも、キリスト教からでも、一般道徳からでも、哲学でもよい、ともかく、実践される尊い方々が増えることを念願せざるにはおられません。ただそれだけなのです。

> 菩薩道とは何なのか。このことを、やっぱり考えてみたいと思う

ええ、わたしも同様に思います。

以上、漏れた部分はまた、pundarikaででも、大いに語り合いたいと思います。
もちろん、こちらでも引き続きよろしくお願いいたします。

1110五月雨:2003/12/05(金) 22:36

>>1066 ホトケのガンさん 素朴なご意見を有難うございますw。

あー、しかし、私の言わんとするところを全て外してご理解をされたみたいですね(苦笑

私はここ、富士門流信徒の掲示板では、石山の巧妙に仕組まれたバッタモン教義を解明した後には、日蓮さんは本当は何をどう説いたのかを探求する掲示板だといまの今まで思っていたんです。
だから、毎日のロムを欠かしたことはありませんでした。

だけど、残念ながら、皆様の議論は富士門内での日蓮の解釈をあーでもない、こーでもないと
ずっとループされていたようです。それも大切なことなんだろうとは思いますけどね。
しかしなー、一体いつになったら、日蓮その人を考えるのだろう……

タブーの無いのはいいことなのか、どうなのか私にはよく分かりまへん。
日蓮を基にすべてを考えようとするならば、その考えは日蓮の教えの中に留まるべきであろうし、日蓮はもう関係ないとするなら、タブーはもうないのでしょう。
キリスト教であろうと浄土真宗であろうと真言宗であろうと、アーレフであろうとなんでも良しでありませう。
まー、そうなると仏教という道から大幅に外れてしまうことになりますよね。
せっかく、仏教の門の前まで来てたのに、勿体ないような気もします。

>これはなかなか鋭いです。「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業」ですからね。
これは・・・・・。

以下のガンコさんの文章ですが、びくーりな解釈に私も戸惑ってます。
私のあの文章がこういう解釈になるのは、私の文章力の拙さか
はたまた、ガンコさんの脳内文章変換能力の物凄さかと思っております。
#法華経を捨てるとどこに書いているのだろう、私は………。

私を教条的過ぎると思われているようですが、ガンコさんの方がそう見える。
私の文言をこう受け止めたというのは、教条的に物事を捉えているからでしょう。
確かに教条的な考え方は、ものごとの全体像を見失うかもね。
そんな考えを持っていると仏教の入り口だけを見て、仏教すべてを分かったつもりに
なってしまうような、そんな気がします。

1111五月雨:2003/12/05(金) 22:40
>>1106 同じくガンコさん、素朴な連想有難うございます。

>五月雨さんの1094〜1095は、全体として何をおっしゃっているのかわかりませんが、いろいろ思うところがありました。

私たちは宗教団体というものに騙されてきたのに、ここ富士門流信徒の掲示板で、
また新しい宗派を作るのだろうかという心配を書きました。

>わたくしはこのところ、法勝人劣とか法前仏後とか考えてきたのですが、ようするに仏法ってほとけが出現する以前からあったのだと。・・・・・

ガンコさんの仰ることは全く頭の片隅にもないのですが、法勝人劣とか法前仏後などという難しい言葉を使わなくても、仏法=仏教として考えた時、仏が出現する前に仏教が無かったなら
仏教の辻褄が合わない気がします。

>まあ、じぶんなんかも、地涌の流類だなんて、ずいぶんとおだてられたものだなあって、思うことありますものね。

そうでしょ、私なんかもお調子者だから、その尻馬に乗ってアホ三昧してきました。

しかし、まー、人は中々懲りないもんですかねw。

1112五月雨:2003/12/05(金) 22:41

>う〜ん、同じ轍を踏む・・・ですか。確か今年の春ごろでしたか、わたくしが法華講に移るようなニュアンスを漏らしたところ、おっしゃいましたね。・・・所属教団をサーフィンしたところで何にも変わりやしない、と。

私はガンコさんが受け取られたニュアンスで書いたのではありません。
誰かの勝手解釈で、それが正当なものになった時の危険性を案じているのです。
菩薩道が困っている人への手助けだと個人的に考えることはいいでしょう。
それを人に説いたとき、聞いた人がこれこそ菩薩道だと信じて実践することに、何かおかしくないですか、と私は言いたいのです。
仏教を信仰しているからという以前に、そんな事はひとりの人間として考えるべきではないのかと私は思うのです。
どうして、人に善行を施すことに理由がいるのだろう。
これは素朴な疑問ではありません。大きな疑問だ。

宗教を求める人々は、自分の生きる道をね、自分で探せない人の集まりなのかもしれないですね。
自灯明、法灯明と口にするだけでなく、私はそこにこそ実践があるべきだと思います。

1113五月雨:2003/12/05(金) 22:42

>もしかしたら五月雨さんは、掲示板での議論じたいに、限界のようなものを感じ取っていらっしゃるのではないでしょうか?

私は前述したとおり、掲示板の議論に期待していたのですよ。だって、私はここの掲示板の議論を読んで、石山のおかしさに気づき、蒙昧の世界から現実の世界に帰ってきたのですもの。
この点に関しては深いご恩を感じています。
だけど、皆どうして日蓮その人を語ろうとしないのでしょうね。
日蓮その人を語る時、日蓮死後の書物をいくら読んでも、日蓮は分からないとある人から教わりました。確かにそうだと深く感心したものです。
そう考えると何だかね、視点がすっごくズレているような気がします。

私は掲示板の議論に限界を感じてはいなかったつもりですが、声のおっきい人が勝ちなのかなーとは思うようにはなりました。
声の大きい人の意見がそれがそのまま正しいとは限らないという、読む人の判断能力はいるかもしれないですね。

1114福田里敏:2003/12/05(金) 23:22
五月雨さん
>日蓮その人を語る時、日蓮死後の書物をいくら読んでも、日蓮は分からないとある人から教わりました。
これは、とても重要な事ですね。真筆の遺る、御書から蓮師を考えていく。蓮師は、何を訴えられ、何を後世に望んでいたのか?
そこから、我々は、何をしなければならないのか?この辺は、これからの皆様の議論に、期待したい部分です。

1115ガンコ:2003/12/06(土) 17:35

ふたたび素朴な意見

五月雨さん、いろいろと失礼いたしました。わたくしの脳内文章変換能力は小学生並みですから、そこのところを含みおきください。
しかし、いまいち解せないところがありますので、教えてください。

>一体いつになったら、日蓮その人を考えるのだろう……

とのことですが、じゅうぶんに考えているのではないでしょうか? 五月雨さんは、大聖人を基準に仏教を考えようとなさっているのか、仏教を基準に大聖人のことを考えようとなさっているのか、それがよくわかりません。申すまでもなく、わたくしは大聖人を基準にすべてを考えようとしております。そこで開目抄の「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし。」を引用させていただいたわけですが、いわばこれが大聖人の終始一貫の御見解であられるのですから、動かないだろうとも申したわけです。
ところが次のような御書もあるわけです。
「智者とは世間の法より外に仏法を行なはず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり。殷の代の濁りて民のわづらいしを、太公望出世して殷の紂が頸を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし、張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども、教主釈尊の御使ひとして民をたすけしなり。外経の人々はしらざりしかども、彼等の人々の智慧は、内心に仏法の智慧をさしはさみたりしなり。」(減劫御書)

大聖人の仰せられる世間の法とは何か、この辺が難しいところですが、世間の治世の法というのはケースバイケースであり、まさに臨機応変の世界であろう思うのです。そうであれば、あるいは御書の拝しかたというのは時代によって変わらざるを得ないのでは・・・とも思うのです。(なんだか、えらい学会寄りの意見)
ましてや仏法已前でも、そのおこないが仏法に適っていれば、大聖人はそれを評価せられているわけですから、今日においてもかなりの部分が適用されるのではないかと思います。そこで、「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業」との整合性をどのようにつけるべきかが問われるわけで、“たとえ日蓮の教えであってもこのようなものは断じて採用しない”と言いきる方もおられて、わたくしなどもひじょうに悩むわけです。
そういうわけで、教条的というのはわたくし自身にあてた意味が強いのですが、いずれにしても御書を拝するにあたっては、じぶんに都合のいい御文ばかりをあつめても仕方がない、ということを感じる今日この頃です。

1116五月雨:2003/12/07(日) 12:28
>>一体いつになったら、日蓮その人を考えるのだろう……
>とのことですが、じゅうぶんに考えているのではないでしょうか?

ほにょ、そうなの、考えていたの。そうは見えなかったなー。
あっ、もしかしたらガンコさんは、日蓮の御書の引用がそうだと思っているのでしょうか。
だけどね、引用は引用以外の意味をなさないと思います。

>大聖人を基準に仏教を考えようとなさっているのか、仏教を基準に大聖人のことを考えようとなさっているのか、それがよくわかりません。

日蓮は仏教を学んで、日蓮の教えというものを形成したはず。自ずから順序は分かりますよね。

>そこで開目抄の「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし。」を引用させていただいたわけですが、いわばこれが大聖人の終始一貫の御見解であられるのですから、動かないだろうとも申したわけです。

日蓮は法華経こそ正法だと思っていたんですよね、なぜこう考えるに至ったのでしょう。
これを考えることが、日蓮その人を語ることだと思うのです。
日蓮がその考えの基にしたもの、そこに考えが至らないと日蓮その人は見えてこないんでしょうね。

#脳内文章変換能力ですが、私は幼稚園児並みでございます。ここまでアホでございますと、
人の言葉を素直に受け取ることが出来ます。ガンコどのもあと一息かな(^^)

1117犀角独歩:2003/12/07(日) 13:00

ガンコさん:

実に適切な真跡の呈示にご精進を拝察いたしました。
この書『減劫御書』というのでしたね。「ああ、そうであった」と思った次第です。
わたしは『智慧亡国御書』と記憶しておりました。
もう少し前から引用されたほうが脈絡がわかると思います。

「法華経に云く_皆与実相不相違背〔皆実相と相違背せず〕等云云。天台之を承けて云く ̄一切世間治生産業皆与実相不相違背〔一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず〕等云云。智者とは世間の法より外に仏法を行はず。世間の治世の法を能々心へて候を智者とは申すなり」[p1130]

諸法実相を智者は世間の法の外に行わない。世間の法とは治世についての心得であるという脈絡となっています。ですから、次文に「殷の代…」から実例を挙げていらっしゃるわけですね。
類似したところで『事理供養御書』があります。

「まことのみちは世間の事法にて候。金光明経には、_若深識世法即是仏法〔若し深く世法を識れば、即ち是れ仏法なり〕ととかれ、涅槃経には_一切世間外道経書皆是仏説非外道説〔一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説にして外道の説に非ず〕と仰せられて候を、妙楽大師は法華経の第六の巻の_一切世間治生産業皆与実相不相違背〔一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず〕の経文に、引き合わせて心をあらわされて候には、彼々の二経は深信の経々なれども、彼の経々はいまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。法華経はしからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。爾前の経々の心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申す。法華経はしからず。心すなはち大地、大地則草木なり。爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。此れをもつてしろしめせ。白米は白米にはあらず。すなわち命なり。」[p1263]

これらの真跡遺文から、蓮師の法華経観が窺われますね。

1118アネモネ:2003/12/07(日) 13:26
私も、いい御書を提示されているなあと思いました。
「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」は、私も現役法華講員の頃からとても好きな御文でしたが、ガンコさんの提示された御書の前文だったのですね。
私もあらためて、拝してみようと思います。

1119アネモネ:2003/12/07(日) 13:29
「爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。」
この御文もいいですね。これは掲示板に参加してから、知った御文ですが、今でも大好きです。

1120犀角独歩:2003/12/07(日) 14:30

アネモネさん:
愚鈍凡夫さん:

救世主思想ということについて、

昨日、神学者であるA先生に「ミトラ」「キリスト」「ギリシャ語聖書」について、お尋ねしました。
立ち話で、記録を取ったわけでないので、やや不正確な点があります。
この点は先にお詫び申し上げておきます。

「ミトラとは」とお尋ねすると「古代神秘主義のひとつです」と、まずこう説明されました。わたしはキリスト(救主)がこの変形であるとする岩本説を受け入れていたのですが、原始キリスト教の時点では、ミトラ信仰は、否定的にとらえられた異教の神秘主義とする記述が確認できるとのことでした。祖型は同一でありながら、原始キリスト教団成立の頃では既にまったく別の存在と認識されていたという意味と取れました。

「キリスト」については、ここで記された如く、やはり、「救い主」、つまり救世主としての意味を筆頭に挙げられていました。続いて、より原語から意味を説けば「救いの神」ということになるとのことでした。また、キリストと、カリスマは同一の祖型から生じた言葉であるとのことでした。これにはやや驚きました。

「新約聖書がギリシャ語で書かれた」と理由については、1050にLeoさんが記述くださったとおり、当時の共通語であったからということでした。アレキサンダー大王の功績のひとつに数えられるとのことでした。

しかしそうなると、新約聖書の成立は4世紀以降のことになるということになります。
偶然といえるかどうか。羅什が生きた時代でした。

ハーバード・神学を卒業した博士であるこの先生は12カ国語に通達した優秀な学者さんです。しかし、単に学問の世界に留まらず、カルト問題解決の先頭に立ってきた方でした。わたしがもっとも尊敬する方の一人です。

上述、あまりにも大雑把なご報告ですが、皆さんに保管していただければ有り難く思います。


この先生との話とは離れますが、ギリシャ語ということを聞くと直ちにわたしが思い出すのは『ミリンダ王の問い』(ミリンダ王問経)です。ギリシャ人の王・ミリンダとインド人の僧との対話で構成されるこの物語(経)は、東西文化交流、シンクレティズムを探る何かの鍵になるのではないのかとわたしは思っています。
既に、この点に興味をお持ちになってお調べになっている方がいらっしゃいます。その成果を開陳いただければ有り難く存じます。

1121犀角独歩:2003/12/07(日) 14:32

【1120の訂正】

誤)皆さんに保管していただければ
正)皆さんに補完していただければ

1122ガンコ:2003/12/07(日) 21:18

五月雨さん、どうもです。

どうやら、わたくしとはスタンスがちがうようですね。
失礼ながら、ずいぶんと学者チックに感じます。

御在世の四条殿・上野殿などは、大聖人の御書を素直に拝したであろう、わたくしも不遜ながら同じ立場で拝させていただきたいと思っております。

>ガンコどのもあと一息かな(^^)

うふふ、これって、ものすごく意味が深そうですね。

1123ガンコ:2003/12/07(日) 21:22

独歩さん、補足していただき、ありがとうございました。

この二書は、大石寺にあるんだそうですね。だからどうというわけじゃないですけど・・・

1124Leo:2003/12/08(月) 01:28
犀角独歩さんの 1120 に関連しまして、ご参考まで。

新約聖書が正典として確定したのは、4世紀中頃とのこと。
http://www.asahi-net.or.jp/%7Ezm4m-ootk/sinyaku.html

さらに、ヒエロニムス(342頃-420) によりラテン語訳(ウルガタ聖書)
が完成したのが405年。

羅什(344-413)の法華経の漢訳が完成したのが406年。

羅什が方便品の十如是部分を意訳したことは指摘されるところですが、
ヒエロニムスのエピソードとして有名なのは(モーゼに関連して)
「光」と訳すべきところを「角」に訳してしまったためにモーゼに「角」
があるとされてしまたということがあります。
(ミケランジェロの彫刻でもモーゼに角があります...)

1125Leo:2003/12/08(月) 02:12
(補足です)
>ヒエロニムスのエピソードとして有名なのは(モーゼに関連して)
>「光」と訳すべきところを「角」に訳してしまったためにモーゼに「角」
>があるとされてしまたということがあります。

ヒエロニムスは旧約聖書(ヘブライ語)と新約聖書(ギリシャ語)をラテン語訳しました。
「モーセの角」のエピソードは旧約聖書部分(「出エジプト記」)です。

1126Leo:2003/12/08(月) 02:25
>羅什が方便品の十如是部分を意訳したことは指摘されるところですが

一方、羅什には「舌」の伝説がありますね。「羅什三蔵は舌焼けず」

1127三吉:2003/12/08(月) 07:45
<しかしそうなると、新約聖書の成立は4世紀以降のことになるということになります。
偶然といえるかどうか。羅什が生きた時代でした。>

現在の形で纏められたのは、そうなるのかもですが、イエス運動が「キリスト
教」化したのは、パウロですので、「救世主思想」としては、イエスの死後に
弟子になったパウロの廻心をもってキリスト教は成立したといいうるかと思い
ます。
つまりパウロは、肉体をもったイエスよりも、瞑想であったキリストに価値を置いた。
キリストに対する信の強調路線が一方で深くキリスト教に刻まれた。
もういっぽうで逆に信仰のみのパウロ主義を批判したマタイ教会は、「愛の実践」をパリサイ人以上に求めます。信仰だけでは救われない。愛の実践は神の意思であり、実践するものだけが救われるのであると説きます。
そしてマタイの愛の実践も観念的であったので、律法を完全に守るということでは
パリサイ人は凄く真面目でいっしょのことを言うてるにもかかわらず、彼らに批判
的でありえたし、パウロ主義の後継者たちの「病癒し」はイエスの伝統を引くもの
でもあるのにイエスの実践と切り離して批判しえたのも観念的であったからです。
外部の私からみますキリスト教とは「パウロ的信」と「マタイ的な愛の実践」の二つを
含むように思います。
ここの議論の流れでいえば、「愛の実践」が「菩薩道」に近似した概念にな
りますが、「実践してないやつはだめ」という意識があれば、「裁き」(キリ
スト教概念−「裁くな」から)になりますので、「実践」はあくまでしたい人
がすればよいというスタンスがええと思います。

1128顕正居士:2003/12/08(月) 07:46
>>1124 Leoさん。

>新約聖書が正典として確定したのは、4世紀中頃とのこと。

新約聖書を仏典と比較すると、編纂に幾百年が経過したのは同じです。違うところは。
伝承を取捨選択して正典をあんだこと。正典の中のイエスの言葉はほぼ正しい伝承であり、
外典として外された中のは違うらしい。また確実なパウロの書簡を含んでいる。仏典には
正典はなく、幾千年の間の有名な著述を集成したのが大蔵経(三蔵)であるに過ぎない。
インド大乗仏教は龍樹や世親が事実上の開祖であるから、彼らの発言にもとづいて考え、
無名氏が釈尊に仮託した経は重視しない。対して中国では経の全部を釈尊が説いたとし、
自説の擁護のために任意に経を引用する習慣がはじまった。その悪弊は日本の日蓮に
おいてきわまっただろうか?ギリシア人が新約聖書を正典として確定したことは、その後
のキリスト教と仏教の歴史を大いに違えたのではないだろうか?

*1-ギリシア人-ギリシア帝国のギリシア語をあやつる人達。
*2-大乗仏教は龍樹や世親が開祖であって、釈尊の仏教とは別の宗教なのであるが、
彼らは戒律を同じくし、僧院に雑居したらしい。キリスト教と比較すれば、オーソドックスが
グノーシスを区別しなかった。
*オーソドックス-グノーシスと区別して形成される東西カトリック教会の信条。
*グノーシス-ギリシア帝国全域にひろまった心身二元の思想で、あらゆる宗教に影響を
与え、特定のグノーシス教というものはない。世界史的には東方はこの思想の影響下に
あり続けた。制御した西方から今世紀には逆にその文明に関心がもたれるようになった。

1129三吉:2003/12/08(月) 08:00
2-大乗仏教は龍樹や世親が開祖であって、釈尊の仏教とは別の宗教なのであるが・・

んとね、だったら正確には南伝は5Cのブッダゴーサや12Cのアヌルッダが
開祖で、釈尊とは別の宗教です。仏像も呪文も釈尊はしませんから

1130顕正居士:2003/12/08(月) 08:27
>>1129 三吉さん。ひさしぶりです。幾年かも。

>南伝は5Cのブッダゴーサや12Cのアヌルッダが開祖

トマス・アクィナスが西方カトリック教会の開祖とはいわないでしょう。その辺で形が決まって
あと変わらないけれど。大乗仏教は「釈尊に仮託した別の宗教」、つまり、「イエスに仮託した
別の宗教」(キリスト教グノーシス派)と同じといいたかったのです。大乗仏教もキリスト教の
グノーシス派も釈尊やイエスを取り込んだので、彼らの歴史上の人格はみずからの宗教には
中心的に重要ではないからです。

1131犀角独歩:2003/12/08(月) 08:44

皆さん、活発な横レス、大いに参考になりました。
有り難うございます。

Leoさん:

ご紹介のサイト、よくまとまっていますね。
“角”の話、書き落としましたが、A師も話しておりました。
羅什のことも含めて、誤訳、意訳も数千年生き残り、独自に展開していく…、考えさせられる一面です。

三吉さん:

> 「パウロ的信」と「マタイ的な愛の実践」の二つを含む

これは「なるほど」と。参考になりました。

> 「実践」はあくまでしたい人がすればよい

仰るとおりですね。実践に強制や、義務があっても意味を持ちませんね。
いちおう、弁明です。わたしがここで宗教の実践を言ってきたのは『創価学会の功罪を考える』のスレッドで、「創価学会は世界平和を貢献している」という会員が口にすることにつき、まるで実体がなくお題目だけではないかという指摘からはじまりました。
いわゆる「宣伝に偽りあり」はカルトの特徴をなすことで、この嘘に騙されると個人、並びに社会的な弊害が起きます。そこで「何を信じているかではなく何をしているかで宗教の真価が問われる」という注意予防の見極め方を呈示したわけでした。それが“菩薩”をどのようにとらえるかという活発な議論に発展したわけでした。また、7兆円/800万人、あるいは1兆円/10万人規模の資産と人的資源を持っている団体が社会還元もせず、自宗内に閉じ籠もるのは不健全かつ社会的な責任からしても嘆かわしいという論調でわたしは主張しました。けれど、信仰自体、各人の基本的人権、信教の自由に基づくわけですから、そこから導き出される実践は誰からも強要される筋合いのものでないことは明らかですね。


顕正居士さん:

聖書の仏典の比較、また、箇条書きに整理いただき、理解の便宜に資させていただきました。

> 大乗仏教は龍樹や世親が開祖であって、釈尊の仏教とは別の宗教

南伝については三吉さんがご指摘くださいました。
さっぱりと、このように考えてしまえばよろしいわけですね。
そして、その認識のうえで、シャキャムニにはじまるところを、すべて包括して仏教と括ろうと。


ここ富士門流信徒の掲示板でありながら、キリスト教にも皆さん、実に詳しい。
愚鈍凡夫さん、アネモネさんが聖書に係る記述をされていたわけですが、Leoさん、三吉さん、顕正居士さんからも、これで勝れた投稿をいただけたことをたいへんにうれしく思います。

重ね重ね、皆さんに御礼申し上げます。

1132三吉:2003/12/09(火) 16:58
顕正居士さん ご無沙汰しております。
デビュー当時、多大なるご指導ありがとうございました。

一見、南伝は、イコール初期仏教に見えるし、信仰上南伝の人はそう主張されるけど、実は、南伝も「釈尊に仮託した別の宗教」で大乗とその点は変わらないというのが私のスタンスでございます。(信仰上、私にとってはそうだというのは南伝・大乗ともによいと思います。)
第一、経典は大乗伝承の阿含のサンスクリットは、1C後半です。現存パーリ仏典が纏められたのは5Cです。伝承ではパーリの注釈をスリランカ現地語でしてたのを、ブッダゴーサがパーリに書き換えたとなってますが、おそらく(つまり根拠なく私の想像では)仏典のパーリ化も同時期です。でヨーロッパでさえ、パーリに比べ、漢訳阿含に古層がみられるときづいているそうです。
第二、「釈尊の史的な人格」をありのままに問題にしなかったのは、たぶん大乗誕生前です。32相などの神格化など。その後、クシャーナ朝の世界的性格は、大乗を発展させ、部派をも変質させました。仏像など。
第三、史的イエスは、パウロには意味を持ちませんでした。霊的なキリストとの出会いがパウロをイエス運動弾圧側から改宗させました。つまり「キリスト」とは、「法身」です。「生身より法身」という法華寿量品と同じことをパウロはし、キリスト教が生れたと言えます。つまり、キリスト教もまたはじまりから「イエスに仮託した別の宗教」であります。(パウロ以前は、イエス運動)
第四、そもそも正典化も聖典でもいいのですが、つまるところは「史的な人格」より大事な「宗教的なエトバス」の実体化ではないでしょうか。

蛇足。「正典の中のイエスの言葉はほぼ正しい伝承」とのことですが、色々な研究があり、例えば「イエス・セミナー」は、『五つの福音書』(1993)で、約500あるイエスの言葉のうち、本当の言葉を13、それに類することをイエスが言ったが77で、後は、イエスが言ったは疑わしい、言うはずがないだそうです。厳しく見るグループでは20%足らずです。

蛇足2  有名な「自灯 法灯」が釈尊の言葉かどうかはともかく、これを語る直前、釈尊は自分が教団のリーダーなどではそもそもないと語った上で「自らを灯火にし」でございます。この言葉が、史的釈尊の表明であるならば、釈尊の人格を仏教の中心にそえようという弟子の尊敬の念は釈尊の期待を裏切るものかもしれません。とはいえ、尊敬の心が悪いわけではありません

あいかわらずの暗愚でございますので、斯様に考えております。
ご無礼は宥恕願います。

1133三吉:2003/12/09(火) 17:31
※その後、正統派はイエス復活を現実的肉体の復活と見、グノーシス派は、
霊的な復活と見るそうだが、徹底的に弾圧されたらしいが、詳細事情はしらない。

正統派が現実的な肉体の復活に拘った意味が私にはわからないのだが、
根底には、グノーシス派の霊的な復活の背後にある汎神論的、あるいは、
悉有仏性的な思考に対して、イエスの特別性(神の子)に拘ったためなのであ
ろうか・・・。わからない。

1134MILD SEVEN:2003/12/10(水) 05:14

<ごくあたりまえの事>

無からは、何も生まれない・・・・・無。

神がいた・・・・・完全だから・・・・・いた・・・・・永遠に・・・・・いる。

永遠の神が、無限の努力をして・・・・・ある時、自らの知恵を・・・光を・・・表現した・・・真理 真実。

神には、永遠の経験がある・・・・・だからこそ、尊い。

信じるほどに・・・わかってくる・・・はっきりと。

神には、親は・・・・・いなかった。

妻、息子・娘・・・・・我らの主と共にあって・・・母・父と・・・創造された。

主は、キリストと共に、完全の上の完全。

神は父として、真理の産みの親。

聖なる存在。
                         24.9.1999

上記は、少し時間をかけ、想像しながら読む事をお勧めします。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・

我らの主はイエス様

イエス様は主の本宅、本宮。

主「神」=「愛」はイエス様と共に、「愛情」を完成された。

私は、信じています。いや、確信しています。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9079/page005.html

1135顕正居士:2003/12/12(金) 01:29
>>1132 三吉さん。パウロはグノーシスとユダヤ人教会の中道をとったともいわれます。

>「正典の中のイエスの言葉」…厳しく見るグループでは20%足らずです。
仏典はスッタニパータやダンマパダの20%でしょう。アーガマ全体では2-3%だろうから
それでもおおきな違いがあるのではないでしょうか。

>正統派が現実的な肉体の復活に拘った意味が私にはわからないのだが、
グノーシスについては以下のサイトが詳しいです。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/contents.html

西方カトリック教会の元祖はアウグスティヌスですが、この人はもとマニ教を信じていた。
霊肉二元の思想と霊肉複合の思想が対立していたのだとおもいます。使徒信経に
「Credo…carnis resurrectionem,vitam aeternam 肉身の蘇りと終わりなきいのちを信じ奉る」
とあります。たしかにパウロによってイエス教でなくキリスト教ができたのですが、キリストの
「法身」を信じたのでなく、霊肉複合のイエズス-キリストであって、仏教にたとえれば「報身」で
ないでしょうか。『コリント前書』はパウロの真正の書簡とされています。その中にこうあります。

「汝らに伝えた第一の事柄とは、余が経験したことであって、聖経にいうとおりにキリストは
我らが罪の為に死し、かつ葬られて、三日後に聖経にいうとおりによみがえり、ケファスと及び
十二人に現れたことである」 *ケファス−ペテロのこと
3 tradidi enim vobis in primis quod et accepi quoniam Christus mortuus est pro peccatis
nostris secundum scripturas/4 et quia sepultus est et quia resurrexit tertia die secundum
scripturas/5 et quia visus est Cephae et post haec undecim/(Vulugata)

パウロのダマスコ途上の回心はキリストの光に打たれたのであるが、コリント書では彼は肉身を
もってよみがえったイエズス-キリストをいっている。パウロの体験が何であったかはわからないが、
彼が信じたのは純霊のキリストではなかったとおもう。

1136三吉:2003/12/13(土) 13:56
顕正居士さん。
仏典と比較したら20%なら多いのはそのとおりです。ただ「ほぼ」という語に反応してみた。

そうですね、パウロは中間的だと思います。主観的にもパウロは「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシア人は知恵を求める。しかし私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と言っています。ただ、「グノーシスとユダヤ人教会」というより、広く異邦人的世界観とユダヤ的世界観かもしれません。具体的にはギリシア的な「魂不滅思想」、エジプト神話的「永遠の生」と、ユダヤ的終末思想の止揚を企図したのやもしれません。
ローマ市民権を持っていて、しかもローマ的知識人でもあり、ユダヤ的伝統方面においてもユダヤ教の宗教者であったパウロは、キリスト教の国際化、つまりグレコローマン化を図ったわけです(割礼なしの異邦人-ユダヤ人意外-もキリスト教徒になれる。保守派は反対するが拡大解釈でパウロは乗り切る)。
コリントでパウロの布教は成功を収めます。パウロがいわば自分の信徒に送ったのがコリント書ですね。コリント前書15.3〜5を引用されておられますが、そう、そのイエス復活を巡って、<写本の裏づけがあり最も早いキリスト教文章と見なされる後50年代のパウロの書簡>の一つコリント書は、「肉身をもってよみがえったイエズス-キリスト」をいっていないのです。「死人の復活もまた同様である。朽ちるもので撒かれ、朽ちないものでよみがえり、卑しいものでまかれ、栄光のあるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものでよみがえり、肉体のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである」(コリント前書15.42〜44)
パウロが語る主キリスト・イエスの復活は、「肉のからだ」ではなく、「霊のからだ」の復活なのです。
残念ながら「使徒行伝」はパウロの活躍に遅れること80年後に、使徒たちを神話化する目的をもって書かれたものです。そこでは、その後のキリスト教正統派が継承した「肉体の復活」が書かれています。「使徒行伝」をもって神話化されたパウロを語るのと、パウロ書をもってパウロを語るのでは自ずと「パウロ像」は変わります。
ただパウロは純霊を信じたわけではないと思います。「霊肉二元の思想と霊肉複合の思想」という分け方でいえば、二元ではなく複合ではないかとも感じるのですが、私にはよくわからないというのが正直なところです。ただコリント書から明白に言えることは、その後のキリスト教正統派の「肉体の復活」ではなく「霊のからだの復活」とパウロは言っているということです。

仏教と比較するなら「法身」より「報身」がより近似していると思います。ただ後50年代のパウロの書簡(写本の裏づけのある最も早いキリスト教文章)と、世紀前後の法華経の祖師に対する把握の共通点を強調してみました。(コリント前書15.12〜58)

1137愚鈍凡夫:2003/12/18(木) 18:20
雑阿含経に命を繋ぐために我が子を殺し、その屍体を両親が食するという、ショッキングな譬えがありますので紹介します。

「世尊告諸比丘。有四食資益衆生。令得住世攝受長養。云何爲四。謂一.麁摶食。二.細觸食。三.意思食。四.識食。云何比丘觀察摶食。譬如有夫婦二人。唯有一子。愛念將養。欲度曠野嶮道難處。糧食乏盡。飢餓困極。計無濟理。作是議言。正有一子。極所愛念。若食其肉。可得度難。莫令在此三人倶死。作是計已。即殺其子。含悲垂涙。強食其肉。得度曠野。云何。比丘。彼人夫婦共食子肉。寧取其味。貪嗜美樂與不。答曰。不也。世尊。復問。比丘。彼強食其肉。爲度曠野嶮道與不。答言。如是。世尊佛告比丘。凡食摶食。當如是觀。如是觀者。摶食斷知。摶食斷知已。於五欲功徳貪愛則斷。五欲功徳貪愛斷者。我不見彼多聞聖弟子於五欲功徳上有一結使而不斷者。有一結繋故。則還生此世。」(雑阿含経)

世尊は諸々の比丘に告げられた。
「四食がある。衆生を助け、衆生を養っている。四食とは何か。麁搏食・細触食・意志食・識食の四つである。
どのように搏食を観察するべきか。
たとえば、夫婦二人があって非常に可愛がっている一人の子供がいた。ところが荒野の難所を渡ることになったが食料が尽き、餓死寸前になり助かる見込みはなかった。彼らはこのように考えた『ここに愛する子供がいる。もし、この子供を食えば三人が死ぬことだけはまぬがれる。』こうして、泣きながら子供を食い、荒野を渡ることが出来た。
比丘、この夫婦は子供の肉が美味しいと思って、たべただろうか」と。
答えて言った「そんなことはありません。世尊」と。
「比丘、荒野を渡るために、強いて食べたのではないか」と。
答えて言った「その通りです。世尊」と。
仏は比丘に告げられた「搏食を食する時は、このように観じなさい。このように観察すれば、搏食を断ずることが出来る。搏食を断ずれば、五欲の中の欲望と愛着を断ずることが出来る。多聞の聖弟子は一結の愛結も断ぜられていないものはない。もし、一結でもあれば、還ってこの世に生ずるのである。

「阿含経の解釈 第一章雑阿含より 四食(子肉経)」
http://www1.ocn.ne.jp/~shodesi/agomenu.htm

いやはや、現代の常識的な倫理観を超越してますね。いくら経典の言葉といえど、
「譬えがちゃうんとちゃうかなぁ。譬えなんやったら、他に譬えようがあるやろうが」
(`ヘ´) プンプン。
というのが正直な感想です。

1138心者雖念不直相鴨:2003/12/19(金) 04:06
愚鈍凡夫さん:

中国で食人の風習があったことは、劉備が猟師の妻の肉を食べる挿話からも有名ですが、これを禁忌とする文化が多いことは、宗教以外の何らかの理由があったような気がします。
われわれは、「食人」をたいへんおぞましく感じるのですが、私たちの若い頃に「アンデスの聖餐」という映画にもなった、ショッキングな事件がありました。当事者の青年たちは、聖書を引いて、その「食人」を正当化しています。

「キリストが人類の救済のために、その肉体と血をお与えになったように、ぼくたちの仲間は、その肉体と血でぼくたちの生命を助けたのです」と。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD11574/story.html

かつて、大変話題になった狂牛病ですが人間が人間を食べた場合も同様な症状が発生します。パプア ニューギニアでは、BSEと同様の症状を呈するクールー病が、1955年に400例を超えていたのが、食人(かって宗教的意味合いから人肉を食する習慣がありました)の風習をやめてから漸減し、1980年以降は年間50例以下となっています。
http://www.sciencemag.org/feature/data/prusiner/medium/se3875740002.gif

食人によるヤコブ病の発生に関しては以下のサイトで詳述されています。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~gtm/eizuhatomoguikara.htm

昨日は、輸血によるCJD(クロイツフェルト・ヤコブ病)の可能性が示唆されました。
http://www.asahi.com/international/update/1218/002.html

エホバの証人というキリスト教の教団があり、教義上の理由から輸血を拒否しています。

「ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」。(創世記 9:3,4)「[あなた]はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない」。(レビ記 17:13,14)「淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう(に)」。(使徒 15:19-21)1

わが国でも、当初はこれを奇異なこととしてみる向きが多かったのですが、上記の事実を見ると、「輸血拒否」の主張に対する、科学的な根拠が強くなってきたように思われます。

1139MILD SEVEN:2003/12/19(金) 05:10

話が変な方向へ行きませんように・・・。
http://www.bigcosmic.com/board/f/board.cgi?id=xvssv&amp;id=xvssv

1140愚鈍凡夫:2003/12/19(金) 05:40
皆さんお早うございます。

>>1138: 心者雖念不直相鴨さん、レス有り難うございます。
MILD SEVENさん御指摘のように、話がオカルト的方向にそれそうですね。 (・・;)
「話振ったんお前やろが」(by 管理人) (`ヘ´) プンプン。

「子肉経」とは関係ありませんが、中国の人肉食について、こんな論文があります(春秋時代まで遡れるそうです)。ただ、出版された昭和2年という時代背景を考えると、多少プロパガンダ的色彩を感じないこともありませんが。青空文庫で公表されていますので、興味のある方はどうぞ。

(「支那人の食人肉風習」 桑原隲藏)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/card4270.html

1141心者雖念不直相鴨:2003/12/19(金) 06:32
皆さんおはようございます

言葉足らずで、MILD SEVENさんや愚鈍凡夫さんにはご心配をおかけしてすみません。
極限時の行動を平時の道徳で裁いてはいけないという意味で書き込みをいたしました。

また、こうした極限時の行為に対して救済を与えるような心理的装置を用意することが宗教には求められていると思います。聖書ではそれがお示ししたような方法で可能であったし、仏教でも「子肉経」のような依経をひくことでそれが可能になるということを知り安堵したしだいです。

1142菱村正敏:2003/12/19(金) 07:40
>われわれは、「食人」をたいへんおぞましく感じるのですが、私たちの若い頃に
>「アンデスの聖餐」という映画にもなった、ショッキングな事件がありました。
>当事者の青年たちは、聖書を引いて、その「食人」を正当化しています。

 当事者たちは単に生きるために遺体を食べた。奇跡的生還後に、自らの遺体を
食べた行為に、悔悟の念をもった。それが生きるためには不可欠だったと分かっ
ていてもです。いろいろなストレスが彼らにダメージを与えた。それに対して聖
職者が、当事者たちの立場を正当化してあげることで、彼らは救われたというこ
とだったと思います。

1143愚鈍凡夫:2003/12/20(土) 00:26
菱村正敏さん、始めまして。愚鈍凡夫です。
仰る通りだと思います。
小生が腹立たしく思ったのは、「子肉経」の「即殺其子」の一節なんですよ。
要するに、「食べる目的で我が子を殺す」ということです。
不慮の事故で死んだ我が子を生きんが為に食するのではありません。はっきりと、食糧にする目的で殺害することを言っているのです。

スレ違いですが、玉光順正師の「死刑制度と仏教 いのちは何故尊いのか?」の中の「歎異抄の第三章、悪人正機、悪人正因」は、次の文証だと思います。

**************************************************
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
(歎異抄 第3章)
**************************************************

1144犀角独歩:2003/12/23(火) 19:23

1140 愚鈍凡夫さん:

やや後れての横レスで恐縮ですが…。

> (「支那人の食人肉風習」 桑原隲藏)

いつも吃驚しますが、本当に資料に通じていらっしゃいますね。
読む耽ってしまいました。

「中国の薬膳研究で門外不出のレシピがある、それは胎児料理だ」、しばらく前にそんな話を聞いていました。女帝が不老長寿の薬膳としたという話でした。一種の奇譚と風聞したのですが、それより、肉屋で人肉が公然と販売される事実のほうがはるかに凄惨な話と受け止めました。

1145福田里敏:2003/12/25(木) 21:29
空き缶さん

PCが壊れていたため、いただいた質問が、消えてしまいました。申し訳ありませんが、もう一度、メールをください。お願いいたします。

1146菱村正敏:2003/12/26(金) 00:32
 中国では本草綱目のなかに「人部」がもうけてあるように、人肉は動物の肉など
と同様に食べる目的をもって考えられていたようですね。

1147愚鈍凡夫:2003/12/27(土) 08:47
>>1144:犀角独歩さん、レス有り難うございます。

同一種同士で共食いするのは、チンパンジーとヒトだけと聞いたことがあるように思います。
動物は、知能の発達と共にモラルを失っていくのでしょうか。 (__;)
逆説的に、宗教を必要とするのは人間だけかもしれませんね。

1148心者雖念不直相鴨:2003/12/27(土) 10:53
愚鈍凡夫さん:

横レス失礼します。
共食いはいろいろな動物の間で、広範に見られる現象です。

まずは原生動物
http://web.kagakukan.sendai-c.ed.jp/gensei/33ph1.htm
イカなどの軟体動物
http://dns.fish.metro.tokyo.jp/tokyowatching/umi/ikanokossetsu.html
カマキリで有名な昆虫は省略します。
脊椎動物では、まず魚類
http://www.ne.jp/asahi/iwana-club/smoc/bass-sub05-1-b.html
また、蛙やサンショウウオなどの両生類
www.setuyaku-kakeibo.com/3_1_danna/dan15.htm
http://albatross.biodic.go.jp/reports/2-3/a199.html
恐竜も共食いをしました。
http://www.h5.dion.ne.jp/~sujaku/news-si/news-si39.html
鳥類
suzume.lolipop.jp/enji/amaki.htm
有袋目
http://www1.kcn.ne.jp/~antler/glider5.html
霊長目では、ほかにボノボ。
http://plaza.rakuten.co.jp/majyo/003010
高等動物だけでは、ないのでどうぞご安心ください。空腹で、そこにえさがあれば誰でも食べるといったごく単純な現象です。

1149犀角独歩:2003/12/27(土) 13:28

> 心者雖念不直相鴨さん:共食い…空腹で、そこにえさがあれば誰でも食べる
> 愚鈍凡夫さん:共食い…逆説的に、宗教を必要とする

お二人まとめたレスを続けて恐縮です。
共食いはたしかに各種に見られるのですね。その意味では心者雖念不直相鴨さんの仰ることはわかります。けれど、人間にとってもっとも凄惨に見える出来事である故、愚鈍凡夫さんのご意見があろうかと存じます。

生物的な特徴を観察分析する心者雖念不直相鴨さんの投稿と宗教的視点の愚鈍凡夫さんの投稿を逆時に読むとき、当板の仏教的見地から展開となるように思えました。

1150心者雖念不直相鴨:2003/12/28(日) 18:29
食人に関して、宗教的な見地から論じた書を紹介します。

まず、食人(カニバリズム)の動機については、以下の3つがあるとされ、人を食うという「野蛮」と「聖餐」という文化があるとされます。

*************** 引用開始 **************
1、食通的食人一人肉がうまいから喰う一。
2、儀礼的・呪術的食人一死老の霊力や性格などを吸収したり、死者と一体化したりするため、死んだ近親や生賛、敵の首長や勇者を殺して喰う)。
3、生き残るための食人一食料不昆などの危機的状況のもとで、通常は禁じられている人肉を喰テ一。の三つに大別できる。
大和岩雄:魔女はなぜ人を喰うか、pp10、大和書房、1999
*************** 引用終了 **************

その典型的な例が「子供を喰う」といわれた聖餐に述べられています。

*************** 引用開始 **************
「子供を喰う」といわれた聖餐
『ヨハネ福音書』一6:14一には、
もし人の子の肉を食べず、その血を飲まないなら、あなたがたは生命を得られないとある。「人の子」はイエス・キリストのことだから、「聖体」の肉を喰い、血を飲むのであって、一般の人の子(赤子)の肉を喰い、血を飲むのではない。(中略)紀元前一世紀頃のアレキサンドリアでは、ユダヤ人は儀礼として子供を殺し、子供の肉を喰い、子供の血をすするといわれていたが、キリスト教はユダヤ教を母胎としている。キリスト教・ユダヤ教などエルサレムの一神教の神ヤハウエの祭(過越の祭)に捧げられる生蟄は、仔羊だが、本来は人間の初子(ういご)の男子であった(「出エジプト記」13:2)。
パレスティナでは初子の男子をモレク(セム族の神)に捧げたが、『旧約聖書』(「列王記。下23:10」にも「むすこを火で焼いて、モレクにささげ物とする」とある。ウォーカーは、「モレクはソロモン時代のユダヤ人によって崇拝されていた。ユダヤ人はモレクとヤハウェを同一視していた。彼らは初子を火にあぶってモレクに捧げたが(レビ記。18:21)ヤハウエもまた初子を生贄として捧げることを要求している」と書いている。
大和岩雄:魔女はなぜ人を喰うか、pp36、大和書房、1999
http://www.daiwashobo.co.jp/books/ISBN4-479-75034-7.html
*************** 引用終了 **************
(続く)

1151心者雖念不直相鴨:2003/12/28(日) 18:30
(1150からの続き)

また、やすいゆたかは本説をさらに発展させて、イエスが実際に聖霊を宿した肉と血を弟子たちに食べさせることにより、弟子たちに聖霊を引き継がせることができると考えたという大胆な仮説を展開しています。

*************** 引用開始 **************
 ところで「ヨハネによる福音書」では聖餐は比喩的だったが、それはイエスの死に際しての本当の聖餐を否定してはいないのである。むしろ比喩の形でイエスに対する聖餐を肯定的に表現することで、聖餐の意義を強調し、聖餐があったことを暗示しているのである。聖餐の事実は「福音書」には書けなかった。それは殺人と共に最もおぞましい犯罪とされていたからである。人の肉を食べたり、血を飲んだりする者は、人間ではなく、鬼か悪魔のごとく思われたので、弟子たちがイエスを食べたことが露見するとキリスト教徒たちは皆殺しにされていた可能性が大きいのだ。
やすいゆたか:キリスト教とカニバリズムーキリスト教成立の謎を精神分析する、三一書房、1999
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/jesus.html
************** 引用終了 **************

聖餐は古代においては宗教的な儀式として洋の東西を問わず広く行われたこと、また「喰う」は生かすために殺すこと。人食いはもともと「神を喰う」ことであったこと、など慮所とも、興味深い記述にあふれています。また、熊を食うアイヌのイオマンテ、吸血鬼ドラキュラ、鬼子母神の食人などもこの文脈において考察されるべきであるとされます。

1152愚鈍凡夫:2003/12/28(日) 20:06
以下の引用は犯罪心理分析に関するサイトからの引用です。あまりお勧めできませんのでサイト名は伏せます。悪しからず。 m(_ _)m

**************************************************
イギリスの犯罪学者コリン・ウィルソンの著書「殺人の哲学」には、15世紀ジェームズ1世時代のイギリスで1500人を殺して食べていたソニー・ビーンズという男が妻と共に洞窟に住んでいたという話が載っている。
ウィルソンによれば、殺人は3段階で変化する。一段階が食物の争奪、二段階が欲望と衝動の開放、三段階が倦怠を持て余して存在証明を求める殺人だ。著者の立場は以下の言葉によく表れている。
社会の底にフラストレーションが沈殿している時、その度合いを社会に告げるのは犯罪者である。まったく新しい身の毛のよだつ犯罪が発生した時、これを単に奇怪な一事件と片づけることはできない。それは新型の病気の発生を医学的に奇異な現象として片づけられないと同様である。犯罪研究者にとって、それは社会全体を予知する貴重な窓となる。

殺人の哲学 コリン・ウィルソン 竹内書店 1970.11

(中略)
 心理学の専門家によれば、「何より先に暴力に訴えることは、脳の大脳辺縁系か前頭葉に微細な損傷」が原因であることをCTスキャンで確認できるという「ジョエル・ノリス(シリアルキラー)p44」。他にも著者は栄養失調、不安定な家庭環境、亜鉛やカリウム不足によるホルモンバランス、鉛・コバルトなどの環境汚染物質、動物の虐待などが暴力的傾向を助長するとしてしている。
 ただ「認識が対象を決定する」という言葉の通り、人間の頭脳は自らの認識によって対象を再構築してしまう。つまり、社会的に悪とされている事象を目の前の現象に当てはめてしまうのだ。母親の売春、虐待、同性愛、アルコール依存症、果ては環境汚染物質や栄養失調に至るまで、原因として挙げられている事柄は、アメリカの社会問題の面と、キリスト教的な悪徳の側面とがある。いわば自らが問題だと思っている現象を、猟奇殺人の原因として勝手に措定しているとはいえないだろうか?
(中略)

猟奇殺人の系譜

猟奇殺人の歴史は古い。15世紀フランスの侯爵でジャンヌ・ダルクの部下だったジル・ド・レー(Gilles de Rais)は、農奴の子供を数百人、ただの娯楽のために殺した。16世紀にはドイツのPeter Stubbeなどが知られている。かれは子供を襲い、切り裂いて食べた。恐るべきことにStubbeは自分の子供の体を切断し脳を生で食らった。(The A-Z Encyclopedia of Serial Killers Harold Schechter)
魔女とされた女性を生きたまま公衆の面前で火あぶりにするといった非常に残酷な事件が西洋には多いのは、聖書の影響が大きいだろう。聖書では"悪"とされるものを神が裁くという話に満ちている。イスラム原理主義の指導者オサマ・ビン・ラーディン氏のように、信仰を守るためには手段を選ばなくてもかまわないという考えが、一神教を旨とする人々には一般的だったためだろう。
ただ、漢の高祖の妻呂后が若い妾に嫉妬し、高祖の死後、その妾を囚人に輪姦させ、手足を切断、目をつぶし目鼻を削ぎ落として生きたまま便所の壺の中に入れたという話がある。日本のような宗教戦争のおきたことがない多神教国でも、キリシタンへの処刑は逆さ吊りにして脳の血管が破裂するまでじわじわと苦しませて殺害したということもあった。
こうした点から考えると宗教は人間の残酷な行為の原因ではなく、正当化の理由や意味付けとして使われており、すべての人間はもともと残酷な性質を持っていると考えたほうがいい。ルソーは「エミール」のなかで、人間の本性は無垢で善良なものであり、その天性を素直にのばすことが教育だといったが、これは人間に対する認識を根本的に誤っているものというべきだろう。
19世紀 スティーブンソン(Robert Louis Stevenson)は「ジキルとハイド」を著したが、人間のこうした矛盾した性質は、地元名士として成功しながら30人以上の少年を殺害し床下に埋めていたゲーシーのみならず、どんな人間にも備わっているものだ。実際に猟奇的な殺害に至る人間は稀だが、両者の違いは残酷な狂気を抑えることができるかどうかという点にしかない。
カナダの人類学者エリオット・レイトン(Elliott Leyton)は、「原始社会では殺人の対象が知らない人間になることは極めて稀だった」としているが、現代になって目立って増えている快楽殺人(Lust Murder)は概して明確な動機がなく、犠牲者は大部分が犯人とはまったく面識がない。
**************************************************

宗教が人間の残虐な一面を正当化する手段ではなく、抑止力として働かないかぎり、その存在自体が「邪悪」となってしまうように思います。

1153犀角独歩:2003/12/30(火) 12:04

1150〜1151 心者雖念不直相鴨さん:

カニバリズムからの(キリスト教ではなく)イエス集団解き。これは実に興味深いものでした。最後の晩餐がイエス食いの予行演習。さもやありなんという感じです。

以前、洗礼者ヨハネが蝗と野蜜を食べて荒野で生きていたという記述を読んだとき、「蝗は昆虫と雖も生物」と思え、仏教徒の殺生感と大きく異なっていると思ったものでした。ところが、それどころか、イエス集団がさらにカニバリズムを前提にしていた…、大胆な推論ながら、否定しきれない面白さを感じました。

古代インドで言えば、仏教の採り入れられた鬼子母神もまた食人風習をモチーフにした物語でしたね。

不殺生、殺人、その延長に、宗教儀礼的な食人風習が連なっているという視点。実に深いものがあります。

1154犀角独歩:2003/12/30(火) 12:20

1152 愚鈍凡夫さん:


猟奇殺人その他、いわゆるサイコパスと呼称される人格障害の視点から分析する試みの話を過去にいたしましたね。わたしも『宅間守と日蓮正宗との相関性をどう感じる』スレッドの313〜315に掛けて一部紹介しました。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1055067234/r313
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1055067234/r314
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1055067234/r315

あと、既にお読みになっておられるかもしれませんが、以下の本は参考になりました。

『サイコパスという怖い人々』
あなたの隣にもいる
仮面をかぶった以上人格者の素顔とは――
KAWADE 夢新書
ISBN4-309-50185-0 C0247 Y667E
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309501850/ref%3Dnosim/inktomi-jp-asin-books-22/249-6062772-1564311

(以前にも紹介したかもしれませんが)

1155無徳:2003/12/31(水) 19:34
先日早稲田の古本屋で『日蓮聖人の法華色読史』(蛍澤藍川著)なる本を買いました。

その中に龍象房の食人に関する記述がありましたので、参考までに紹介します。

長文になりますので2回に分けて投稿させていただきます。

建治三年の春、鎌倉に不思議な事件が出来した。それは人肉をたべる事が流行した
事とである、埋葬したばかりの死人の墓をあばいてその肉を食するは素より、甚し
いのになると、死者を運搬する途中などで、ついて居るものゝ眼をかすめて死者の
腕を切取るなどの乱暴もあった。

其當時「龍象房」といふ僧が京都から下って鎌倉に来て居た。この龍象房は比叡山
の僧で、「天台座主記」に龍象上人とあるので見ると相當の地位を占めて居た僧で
あるらしい。
     
処がこれが何かしら非常な不始末を演して比叡山を出奔した。其事は「天台座主記」
の建治元年の條に

 四月廿七日、山門衆徒群下、集會東光寺差遣公友丼犬紳人於寵象上人住房焼払
 之、於中山住房者犬神人等破取之

とあって、住房を焼却するといふ位だから餘程の悪事に違ひないが、その悪事の性
質に就は何とも記載がない。それが日蓮聖人の記述によると、此龍象房は人間の肉
を食したことが露顯したので京都に居る事が出来なくなって逐轄したといふ事であ
る。

聖人が後に四條金吾の潟に認められた「頼基陳状」の中に

 彼龍象房は洛中にして人の骨肉を朝夕の食物とする由令露顕間、山門の衆徒蜂起
 して世末代に及で悪鬼國中に出現せり、山王の御力を以て對治を加むとて住所を
 焼失し、其身と誅罰選とする処に、自然に逃失し行方を不知処に、たまたま鎌倉
 中に叉人肉を食之間情ある人恐怖せしめて候に云々

とあるので、其露顯の機會もほぼ知られてわる。

尤も其當時人肉を食するといふ事は龍象房ばかりの問題ではなかった榛である。

聖人の遺文によれば、龍象房などがこの方の先達ではあったが、實は真言の邪法か
ら出て、ついには一般に人肉をたべる事を何とも思はなくなったのである。

今日本國亦後 如 是、真言師禅宗持齋等人を食する者國中に充満せり、是偏に真言
の邪法より事起れり、龍象房が人を食ひしは萬が一顯れたるなり、彼に習て人の肉
を或は猪鹿に交へ、或は魚鳥に切り雑へ、或はたゝき加え、或は鮨として売る、食
する者数を知らず。

続く

1156無徳:2003/12/31(水) 19:40
続き

日本國数年の間打續きけかちゆきて衣食なく、畜類をば食つくし、結句人をくらう
者出來して或は死人、或は小児、域は病人等の肉を裂取て、魚鹿等に加へて売しか
ば、人是を買くへり。

とも記されて、連年の大飢饉で全く食料の欠乏を愬へたといふ事も人肉を食べる一
原因になっにのであるが、そういふ思想を輸入した張本は寵象房などであつだのだ。

ただし龍象房の食入事件は、はじめは誰とも分らなかったが、ある時小袋坂のそば
で、非人が死屍の肉を切取って居るのを、當時其問題がやかましかった為にその犯
人を物色してゐた役人の見るところとなって捕えられた、糺明して見ると意外にも
其非人は、人肉切取りの依頼人が龍象房なることを申立てた。

そこで早速龍象房を糺問すると、龍象房は全く知らないといふことであったので、
更に其非人を取調らべると、今度は化粧坂の燈炉堂の法師にたのまれたという事を
白状した。

その後の記録が不幸にしてないからどうなたか分からぬが、此の奇怪な事件は富木
入道のきくところとなってすぐ様身延へ報告された。

冨木入道の書翰は『四信五品抄問目」といふ名を以て後世に傳へられたばかりでな
く、富木入道の草案が、今も尚中山法華経寺に残って居るそうであるが、それは名
の示す如く「四信五品」の法門を聖人に教示を請ふのが主であるが、そのはじめに
異聞として、前記の龍象房と燈炉堂の法師の事が記されてある。
 
 畏言上、近日稲荷社、八幡宮供人肉事出來候、又有下僧於小袋坂切取葬送死
  人肉之時見付之於由井濱政所加糺問之処、依龍象房之長誂今取之由、令白
  状之間、相尋龍象房之処、全以無其儀之由、依令申、猶被推間彼下僧之処、
  ケハヒ坂燈炉法師之誂令申侯間、又被尋之由風聞候、奇異勝事侯、委細之旨、
  四條金吾定被言上候歎、兼又大進阿闇梨御房下人之便宜令進上愚欣侯シハ令
参着候哉、不預御返報侯間不審侯

恐らく此燈炉堂の法師が動機となって.龍象房の食人は露顕したのであらうが、龍
象房は不敵な人物である上、容易ならぬ侫奸の僧であったから、巧みにこれを瞞過
したものと見ゑて、間もなく彼は鎌倉の宗教界に飛躍する事となった。

1157無徳:2003/12/31(水) 19:48
このように、仏門にある身でましてや高僧とも称される僧侶においても、食人の疑
いが掛けられる程に鎌倉時代は、「立正安国論」の冒頭を思い起こさせるに十分な
危機的状況にあったと言うべきでしょうか?

1158MILD SEVEN:2004/01/22(木) 02:07

悲しき全体主義・北朝鮮問題についても検討しましょう。

http://jbbs.shitaraba.com/study/3876/momo7.html

1159MILD SEVEN:2004/02/03(火) 05:28

<自衛隊のイラク派兵問題について>

「敵だけど友達」これは以前、イスラム教徒に言われた事。
もちろん私は、キリスト教徒と名乗った上での事。
実際、どのイスラム教徒とも仲良くやって来ました。
相手が真剣ならなお更、深いところでも・・・暗黙の了解はあるのです。

私は現在、<良識の競い合い>をネットワークで提案しています。
世界のイスラム教徒に。

また、後手の対応でも、主にあって先手を用意しておく事は可能です。
主の導きと共に。

http://jbbs.shitaraba.com/study/3876/momo7.html

1160トリビアの種:2004/02/24(火) 02:40
ある本に、この世で一番最初にサイコロ賭博をやったのは
お釈迦様だと書いてありました。
バクチをやって人を集めて、そこで説教したそうです。
なのでバクチ場で動くお金のことを寺銭と言うとありました。

もう少し詳しく知りたいので、ご存知の方がいらっしゃいましたら
ご教示ください。
ちなみに手持ちの辞書で調べたら下記のように書いてありました。

寺銭 てらせん

博徒が経営する笛博場で笛金に応じてとる手数料のこと。語源については諸説あるが,江戸時代に取締りがゆるやかだった寺社奉行支配下の寺社の境内に,仮設の笛博場をつくり,賽銭勘定場と称し,手数料のもうけを寺へ寄進する形式をとったことに由来するという。のちに一般の笛博場でも寺銭というようになった。関西ではカスリともいう。さいころ丁半笛博の笛場では,勝った客が取得する金額の5%を寺銭とし,2個のさいころがゾロ目といって同じ目になったときだけ,10%の寺銭をとった。笛けをする敷物を盆茣蓙(ぼんござ)といい,その計算が迅速にできないと〈ぼんくら(盆暗)〉といわれた。第2次大戦後はバッタマキという花札3枚ずつでする笛博で,3枚の札の数の合計が10あるいは20になるとブタといい,そのときだけブタハンと称して50%の寺銭をとり,他は寺銭なしの笛場もあった。なお,尾佐竹猛《笛博と掏摸の研究》では,寺銭の〈てら〉はどてら(褞袍)などの〈てら〉と同義で布とか蒲団の意味を包含し,転じて盆茣蓙の意となり,盆すなわち笛博権の使用料,あるいは笛博開帳料となったのではないかと思われるとしている。

1161不安居士:2004/02/26(木) 05:39
(先ほどの投稿はスレ違いでした。ご削除をお願いいたします)
ヤフーBBに加入のみなさん。ご注意ください。

以下の記事を読みました。こうした、匿名の掲示板を通じての書き込みが、たとえば創価学会の関係者により監視されているのでは?との、危惧があります。

……同じく逮捕された竹岡誠治は元創価学会員。産経が報じた通り、共産
党盗聴事件の実行犯でもある。」
http://great.mailux.com/mm_search.php?sh_mm_id=MM3D9411DEDEAA1

「『クレジット情報の流出はなし』と、BBは記者会見で繰り返していま
すが、そんなのはデタラメ。クレジット情報どこから、ホストコンピュー
タの中身を丸ごとぶっこ抜かれているんです。(中略)問題のデータを持っている人間はすでに100人を越えているはずです。2ちゃんねるにデータがバラ撒かれるのも時間の問題だと思います」(中略)
 そして、今、犯人一味に、総会屋と創価学会元幹部がいたことも発覚。
事件は大爆裂寸前なのである!!」
http://by3fd.bay3.hotmail.msn.com/cgi-bin/getmsg?msg=MSG1077722571.7&amp;start=584229&amp;len=11716&amp;msgread=1&amp;imgsafe=n&amp;curmbox=F000000001&amp;a=2d3767d0f4153509547f987155ee9d9d

私の単なる妄想で済めばよいのですが…….

1162Terrible 1:2004/02/28(土) 19:56
1161殿、 小生もヤフー掲示板の政党、選挙スレッドの創価関連に投稿しました。あの大先生がケチョンケチョンに一蹴された言言には、これこそ民主主義の醍醐味だと実感しましてガンガン批判しました、。がしかし、これからは、弾圧が怖くなりました、。 S会にとっては度し難い輩の一員にリストアップされたことになった訳です、。 イヤな時代に逆戻りでしょうか、、?

1163アホー111:2004/02/29(日) 00:13
1162様、、、ご心配はイカガかと存じます、、。  残念至極ながら、、あなた様の住所とPC接続状況は一切合切すべてが創価本部に筒抜けが実証されました、、。 ヤフーの海外=ニュウス欄が昨年末総て削除に成ったのは、、??でしょうか、、? 内部に協力者=創価員が存在すればコソ、、??  ヤフー子会社SST=社長=竹岡氏は副会長級の大大超幹部とは創価内部では周知の様です、、。 つまりは「創価の組織グルミの犯罪、、」の様ですか、、??!!

1164MAX:2004/03/03(水) 03:52
他サイトで見つけたもの

ヤフーBB460万人名簿流出&ソフトバンク40億円脅迫事件あらまし
http://ahiru.zive.net/joyful/img/914.jpg (週刊ポスト)
http://ahiru.zive.net/joyful/img/900.jpg(赤旗)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-03-01/15_01.html(日本共産党HP)
http://ahiru.zive.net/joyful/img/914.jpg(週刊新潮)
http://ahiru.zive.net/joyful/img/916.jpg(週刊朝日)
http://ahiru.zive.net/joyful/img/901.jpg(日刊ゲンダイ1面)
http://ahiru.zive.net/joyful/img/902.jpg(日刊ゲンダイ2面)
http://www.sankei.co.jp/news/morning/25na1001.htm(産経新聞)

今回のヤフーBB460万人流出データによる脅迫事件は、最高裁でジャニーズのセクハラが認められながらもテレビで語られないのと同様、大マスコミでは語られない。。
34年前の共産党委員長宮本宅盗聴事件=竹岡(実行犯)神崎(検事)浜四津(弁護士)
同事件は2審まで行き、学会側敗訴。3審控訴も後棄却→宮本に賠償金を払い和解
竹岡はヤフーBB460万流出&脅迫事件前まで、学会幹部(豊島区分区副区長。事件後辞任)
竹岡は宮本宅盗聴事件以降急激に出世、全国副青年部長まで上り詰める(トップ10)。本部勤務経験後、現在聖教新聞広報部部長
竹岡の娘もその夫も学会人。結婚式には神崎、野中両氏が祝福。
竹岡の息子は学会本部勤務。
循環型社会推進議連(浜四津が会長代行)に竹岡が講師を呼んだ経歴あり。
もう一人の実行犯湯浅は北海道のゾーン長か副ゾーン長(現役。今回の事件後辞任)
学会本部に電話すると、両名が学会人であることを認めたが、すでに本人の意向で役職を辞任していることを強調した。

1165エル:2004/03/21(日) 14:35
お数珠について教えてください。
房の数が左右で違いますが、これはいつ頃からでしょうか。
富士宗学要集や日興上人所持の数珠などを見ますと、左右同房
となっています。つまり左右とも2房です。

また、現在でも創価学会と宗門とでは、持ち方が逆なのでしょうか?
どなたか、よろしくお願いします。

1166愚鈍凡夫:2004/03/21(日) 16:01

エルさん、初めまして。質問の答えになっていないと思いますが、日蓮宗系の数珠の資料と、一般論としての数珠の資料です。
ご参考までに。

「数 珠」
http://www.kosaiji.org/hoyoshiki/jyuzu.htm

「数珠の歴史(1) 呪文や念仏を数える」
http://www.miyagawa.com/syuha/5101.html#2

「お数珠について」
http://www.hokkeshu.com/hyakkajiten/ojyujyu1.htm

日蓮正宗係の数珠の資料です。

「伝開山日興上人御所持半装束数珠」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/PAPER/750/602.htm

「袈裟数珠の事」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu1_14.htm

「当家三衣抄」
http://nakanihon.net/nb/rokkann6.html

1167エル:2004/03/22(月) 19:17
愚鈍凡夫さん お返事ありがとうございます。

日因抄を読むかぎりにおいては、3房が右で2房が左にくるようですね。

ただ、いつから2房が3房になったのかが未定のままでした。(^^;
日因師の時代までは、まだ両方2房のようですね。

1168愚鈍凡夫:2004/03/22(月) 20:07

エルさん、レス有り難うございます。
数珠の意義などの資料はあるようですが、房の数の由来に関する資料は以外にないものですね。
エルさんが房の数の謎を解いたら、是非ご教示ください。

1169エル:2004/03/23(火) 05:07
現在、左右2房は要法寺型のみで、その他の日蓮宗・日蓮正宗は皆、
2+3房ですね。ウーム、謎ですね。(^^;

1170愚鈍凡夫:2004/03/23(火) 08:49

エルさん、少しずつですが、数珠の房の意味がわかってきました。
各房についている珠を「記子(きし)・弟子珠」と呼び、10個(2連の房に5個ずつ)の珠は十波羅蜜あるいは十大弟子を表わしているそうです(2つ房の親玉が淨明珠(釈迦如来)、3つ房の親玉が緒留(多宝如来))。この記子の末端の露の形をした珠を「記子留」と呼ぶそうです。そして、この記子留にも意味があって(諸説あるそうです)、例えば菩提(ぼだい)・涅槃(ねはん)や福・智の意味を表わしているそうです。また、記子と達磨の間に小さい珠が一つ付いています。これを「補処(ふしょ)の菩薩」と呼ぶそうです。補処とは仏の後継者を意味します。
さらに、日蓮宗系の3つの房がある方の10個珠がついている房を「数取り」と呼ぶそうで、108個の珠を1周するごとに珠1つを送っていくのが本来の用途のようです。

詳しくは、下記のHPを参照してください。

「お数珠の持ち方」
http://www2.117.ne.jp/~daishoji/q&amp;a2.html

「お数珠のこと」
http://www.myouhou.com/joshiki/02juzu.html

「念珠の知識」
http://village.infoweb.ne.jp/~fwit3959/nenju6.html

1171犀角独歩:2004/03/23(火) 10:28

愚鈍凡夫さん:

横レス、失礼します。

> 108個の珠を1周する

数取りの時、ぐるぐる一定方向に珠を繰っていくのは念仏の在り方のようで、これを法華系は忌避します。この点を示す文献には以下のようなものがあります。

「母珠を越ゆべからず」(対俗三衣談)
「数珠教を引いて云はく不応越母珠過越諸罪数珠は仏の如せよ、勢至經に云く超越次第者依因果妄語之罪当堕地獄云云」(有師物語聴聞抄佳跡上)
「我か遺弟は必す円形の念珠を用ゆべし、次第を超越する者は因果妄語の罪に依つて当に地獄に堕すべしと云云」(同)
「行者謹んで次第を超越する勿れ、勢至経の如きんば妄語の罪に因って当に地獄に堕つべし、亦復母珠を超ゆること勿れ」(六巻抄当家三衣抄第六)

数珠両端二つある珠を親珠(父珠・母珠)ですね。
この数取りの仕方は、所属していた寺院住職が数珠を取って、実際にやりながら教えてくれました。三つ房側の父珠から数えだし、母珠に至ったら、そこから珠を越えずに引き返して繰っていきます。この際、四菩薩は数えないことも教えられました。

また、三つ房の五つずつの珠は題目百編の数え珠で一往復ごとに一つ上に上げ、五つずつ計十個が上がったら、それを全部下げて、十個珠の房を一つ上げ、千編の数を取るわけです。全部上がれば一万編で、ここまで数を取れるように工夫して、二房が三房に作り直されたのだろうとわたしは想像しています。

まあ唱題一万編用にあつらえたということなのでしょうね。

1172犀角独歩:2004/03/23(火) 10:32

↑おっと、間違えました。数取り側が母珠でした。
 父珠は心一境法性珠があるほうです。
 失礼、訂正します。

1173愚鈍凡夫:2004/03/23(火) 12:46

犀角独歩さん、ご教示有り難うございました。

上記>>1170の「念珠の知識」にも

> なお、念珠を繰るときは緒留を越えて一周するのではなく、緒留まで繰ると再び同じ五十四珠を繰って達磨に戻ります。

とありますから、勘違いですね。有り難うございました。

1174エル:2004/03/23(火) 13:44

愚鈍凡夫 さん、情報ありがとうございます。数珠の玉の解釈は、宗派
によって色々違いがあるようですね。ただ、日興上人御所持の数珠は左
右2房づつですから、後世になって、1房付け足したとみる方が正解で
しょうね。

数取り用ですか。学会?では、左右2房は両手両足、残り1房は頭で、
人間の体を現わすと言っていましたね。では、興師の両2房の数珠の解
釈はどうなるのでしょうか。

正宗系の書籍には、2個の大珠は、釈迦多宝の二仏、又は、境智の二法、
4個の小珠は四菩薩、左右の房をつらぬく30珠は、一念三千の諸法を
現わすと書かれてありますね。でも、実際は計40玉あるわけですから、
一念四千になっています。まぁ、数取り用の玉はカウントしないのかも
しれませんが。(^^;

犀角独歩さん はじめまして。

法華講と学会とで持ち方が左右逆転していたと思うのですが、何か理由
を御存知でしょうか。よろしくお願いします。

1175犀角独歩:2004/03/23(火) 17:12

エルさん、はじめまして

> 法華講と学会とで持ち方が左右逆転

わたしは創価学会に35年、法華講に5年おりました。
ですから、数珠の掛け方に関しては、あとから掛け直したわけです。
法華講というより、それは石山僧俗に亘る在り方です。法華講は僧侶の指導に従っているわけです。

ある学会員が「猊下が戸田先生に対面して、手に掛けていた数珠をそのまま、掛け渡した。向かい合っていたので左右逆になった」と言っていましたが、これはどうでしょうか(笑)

石山の役僧に聞いたら「学会の間違い」と一言。
法具その他は石山が本家ですから、まあ、そうなのかとわたしは思ってきました。

勤行でも、学会は鈴(りん)三打で題目三唱・お経でしたが、石山は元より題目三唱してから鈴七打で「妙法蓮華経方便品第二…」と始まります。また、お経から題目に入るときも鈴には石山特有のリズムがありますが、これを学会は踏襲することはありませんでした。

用語の読みにしても、大石寺(たいせきじ)を「だいせきじ」、日寛(にちかん)を「にっかん」、聖教(しょうぎょう)を「せいきょう」などなど、初期の間違いがそのまま、いまに至っている例はたくさんありますね。もっとも「だいせきじ」は一次紛争以降は訂しましたっけ?

こう言っては何ですが、数珠左右の掛け違い、そんなたいそうな意味はないと思います。

1176エル:2004/03/23(火) 17:37
犀角独歩さん お返事ありがとうございます。

> 法華講というより、それは石山僧俗に亘る在り方です。法華講は僧侶
> の指導に従っているわけです。

 御意。

> ある学会員が「猊下が戸田先生に対面して、手に掛けていた数珠をそ
> のまま、掛け渡した。向かい合っていたので左右逆になった」と言っ
> ていましたが、これはどうでしょうか(笑)

 これが事実なら笑っちゃいますね。

ところで、先ほど、学会員とバッタリ出会ったので聞いてみました。
その方がいうには、昔は確かに3房が左にくるように持っていた。し
かし、途中から右3房に変わった。昭和60年くらいの事だったか。
と言われていました。で、現在は右3房で統一されているようですね。
でも、なんで宗門と逆の持ち方をしていたのか、その点は分からずじ
まいでした。

1177犀角独歩:2004/03/23(火) 18:27

エルさん:

「素朴な疑問」を一つひとつ解いていくのは、案外面白いですよね。
エルさんの問題意識は大事だと思います。
この手の謎解きでは愚鈍凡夫さんの右に出る人はいないとわたしは個人的に思っています。

1178愚鈍凡夫:2004/03/23(火) 20:03

犀角独歩さん、からかわないで下さい。 σ(^◇^;)
お話中のところ失礼します。まだ資料があったものですから。

**************************************************
日蓮宗の念珠は、宗祖日蓮上人以来、華厳宗などの南都六宗で用いられている古い形式のものを使用していたが、室町末期頃より現在の形のものも用いられるようになったといわれる。
以後、広く日蓮宗各派に用いられる基本形となり、顕本法華宗、仏立宗、などの各派、祈祷用の各種のものなど、房の組み方の違いがみられるぐらいである。
「念珠の歴史」より
***************************************************
とのことでした。

「念珠の歴史」
http://www.nenjudo.co.jp/page/nenju-rekisi.htm

数珠の歴史に関しての追加資料です。

「念珠経典」
http://homepage3.nifty.com/koyasan/nenju2.html

「念珠とは」
http://www.juzz.net/nenju_towa.html

そうすると、日蓮宗系の2房の方(父珠・釈迦牟尼仏)の小さな輪は何を意味しているんだろうと考えたりしますね。 (^_^;

「もうええっちゅうねん!!」(by 外野席)

1179エル:2004/03/24(水) 08:54

愚鈍凡夫さん 情報ありがとうございます。

南都六宗のものが、念仏の平念珠や天台のソロバン念珠と違い、形から姿から、
もっとも法華の理をよく現わしていたのかもしれませんね。

ただ、興尊の数珠と現在の数珠は、例の1房の有無だけで、その他に大きな違
いはありませんね。あと、房の色は、日蓮正宗は白ですが、他の日蓮宗は赤と
か紫とか茶とか色々ありますね。

> そうすると、日蓮宗系の 2 房の方(父珠・釈迦牟尼仏)の小さな輪は何を意味
> しているんだろうと考えたりしますね。 (^_^;

父珠が釈迦牟尼仏になるのでしょうか。父珠というのは、心一境法性珠がある
方ですよね。日因抄を読めば、

「右釈迦智は右手に之れを掛くべし、多宝境は左手に之を掛くへし」

とありますね。という事は、2房が右にくるように持つという事でしょうか??

1180犀角独歩:2004/03/24(水) 11:00

エルさん:

> 興尊の数珠

の話題が出ていますが、これは石山で展示されたことが何度かあります。
わたしは七百遠忌の時に見ましたが、七宝造の色も鮮やかな大きなものでしたよ。
見た瞬間、「これじゃ、中指に掛けられない」と思いました。

あと三房はどこかの日蓮系の宗派も使っていた曖昧な記憶があります。
むしろ、わたしが石山の数珠との違いを感じたのは房の色でした。他派は紫とか色付きですが、石山は白でしょう。この白房が最も大きな違いと見えます。

> …父珠…心一境法性珠…日因抄…右手に之れを掛く

同類の記述は、因師の2代あとの芳師(元師)『対俗三衣談』にもあります。
わたしはこれを昭和56年10月14日にはじめて読んだのです。その読後記に

「去る9月21日に総本山参拝(七百遠忌)の砌、富士重宝展を観ず内に興師蔵の数珠有り。形は此れ392頁の図(以下、リンク)に似る。然し末代我等の数珠、其の形異なる。其の由来全く知らず。当今、心一境法性珠ある父珠のを左中指に掛くる事、元師の時とは異なるか」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/juzu.gif

と自ら記してありました。いみじくも今エルさんの疑問を、わたし自身20年以上前に懐いていたことがわかります。しかし本日に至るまで、納得の行く説明を聞いた試しはありません。慣習というのは案外、そんなものなのかも知れません。

中指に掛けることも、宥・寛・養・詳・東・教師いずれもそうであったと芳師は記し、併せて因師もそうであったわけですから、ほぼこの時代にはそのように行われていたのでしょう。けれど、興師の数珠を見る限り、中指に掛けられる大きさの珠ではありませんでした。合掌した両親指に掛けるのが至当と思えました。また郷門我師は人差し指と中指に掛けていたというわけで、同じ興門でも相違があることがわかります。さて、どこから変わったのでしょうか。

1181エル:2004/03/24(水) 11:44

犀角独歩さん お返事ありがとうございます。

> わたしは七百遠忌の時に見ましたが、七宝造の色も鮮やかな大きなものでしたよ。
> 見た瞬間、「これじゃ、中指に掛けられない」と思いました。

日興上人御所持の数珠は、七宝と半装束の2つが現存しているようですね。
そのうち、七宝をご覧になられたということですね。 それだけ巨大だと、
荘厳念珠でしょうか。(^^;

> あと三房はどこかの日蓮系の宗派も使っていた曖昧な記憶があります。

 両2房は不授不施派と要法寺系で、その他日蓮宗は3房のようです。

> むしろ、わたしが石山の数珠との違いを感じたのは房の色でした。他派は紫
> とか色付きですが、石山は白でしょう。この白房が最も大きな違いと見えま
> す。

 たぶん、白房にも薄墨衣と同じように深い意味があるのでしょうね。

> と自ら記してありました。いみじくも今エルさんの疑問を、わたし自身 20
> 年以上前に懐いていたことがわかります。しかし本日に至るまで、納得の行
> く説明を聞いた試しはありません。慣習というのは案外、そんなものなのか
> も知れません。

恐縮でございます。m(__)m

どうやら、伝に混乱が生じているようですね。日因抄には、昔は数珠伝があ
ったが、火事で焼けたみたいなことが書かれてありますね。残念無念。

>けれど、興師の数珠を見る限り、中指に掛けられる大きさの珠ではありませ
>んでした。合掌した両親指に掛けるのが至当と思えました。

ますます尺六の荘厳数珠のようですね。尺六とは一尺六寸の意で、主に儀式
用で使う念珠です。現在でも、真言とか念仏とかでも使っていますね。

半装束の数珠の方は、写真では大きさがよく分かりませんが、みるかぎり通
常の大きさのようですね。しかし、今回同じような疑問を感じた方がおられ
たという事が分かっただけで、大きな収穫でした。(^o^)

1182愚鈍凡夫:2004/03/24(水) 21:03

エルさん、どうも。
蓮祖は天台宗の僧でしたから、修行僧時代は天台宗の数珠を使っていた可能性が高いですよね。それを、「華厳宗などの南都六宗で用いられている古い形式のものを使用していた」というのは、何故でしょうか?
この記述が正しいとすれば、ちょっと不思議な感じもしますね。理由は何でしょうか。
日本天台宗の変遷に対する抗議の気持ちからなのでしょうか・・・・・。(`ヘ´) プンプン。
たとえそうだとしても、南都六宗で用いられる数珠を使用する理由にはなりませんね。
それと日興師の数珠ですが、重須での生活の方が長いわけですから、重須には伝わってないのでしょうか。伝わっているのであれば、石山のものと比較してみたいですね。
また、房の色が白いのは、

「其の色薄墨なる事は名字即を表する也、謂く泥色の中に於て六即を分つ、但だ是れ白色なるは理即也、薄墨なるは名字即也乃至黒色なるは究竟即也。」(「法衣供養談義」 富要3-283)

これは衣の色に対するものですが、意義付はこれと同じでしょうか。

数珠のかけ方の左右の件ですが、
右手が清浄(仏)、左手が不浄(凡夫)という解釈から言えば、釈迦牟尼仏は右手というのが作法としては正しいような気がします(因みに小生は左利きですが σ(^◇^;))。
こんなふうに、数珠一つをとっても色々と疑問点が浮かんでくるものですね。

1183エル:2004/03/25(木) 17:14

愚鈍凡夫さん こんにちは

> 日本天台宗の変遷に対する抗議の気持ちからなのでしょうか

天台宗の数珠は特殊ですからね。ソロバンの玉のような形をしています。

「円形は是れ法性の妙理を表するなり。」の仰せとは程遠いです。

天台大師が、あのような形の数珠を所持していたとは思えないのですが。(^^;

> 右手が清浄(仏)、左手が不浄(凡夫)という解釈から言えば、釈迦牟尼仏は右手
> というのが作法としては正しいような気がします。

ただ不思議なのは、日因抄には、

「右釈迦智は右手に之れを掛くべし、多宝境は左手に之を掛くへし」
「故に右の十珠記子即百千記子位なり、左二十珠即千万億の記子なり」

とあります。これでは2房の方が多宝で、3房の方が釈迦という事になります
よね。つまり、四菩薩側が多宝で、反対側が釈迦という矛盾が生じています。

それとも、釈迦=母珠、多宝=父珠という事なのでしょうか???

1184愚鈍凡夫:2004/03/25(木) 18:51

エルさん、どうも。

「緒留は等覚位なり達磨は妙覚の故に妙覚極果を越えず則之れに過くる上位之れ無き故なり」(袈裟数珠の事)

房が3本ある方の親珠が「緒留(母珠・多宝如来)」で、2本ある方の親珠が「達磨(父珠・釈迦牟尼仏)」ですから、右手側が2本であることは間違いないと思います。

エルさん引用のこの文証とも矛盾しませんが。
「右釈迦智は右手に之れを掛くべし、多宝境は左手に之を掛くへし」

「袈裟数珠の事」を改めて読み直してみて、次の文証があったのには驚きました。

「又、類雑三(五十六)に数珠経を引いて云はく母珠を越ゆべからず驀過越罪千万なり数珠は仏の如くせよ、勢至経に云はく平形を以ゆる者此れは是れ外道の弟子なり我か弟子に非らず、我か弟子必す円形の念珠を用ゆべし、次第を越ゆる者は妄語の罪に依り当に地獄に堕つべし文。
日因云はく此の中の数珠経は金剛瑜伽念珠経の文なり而るに引文甚だ謬りなり、母珠を越ゆべからすの句之れ無し、又千万の二字之れ無し、又勢至経と云ふ経録に之れ無し、口伝に平形念珠経を引くなり。」(袈裟数珠の事)

「数珠教を引いて云く母珠を越ゆべからす驀過越法罪千万云云、此の経は金剛瑜伽の文なり、然るに不応越母珠の句之れ無し、又慎莫の二字を置いて而も千万の二字を加ふる甚だ謬りなり、但し録外御書四(四十五)数珠教を引いて云はく不応越母珠過越諸罪数珠は如せよ仏の、勢至教に云く超越次第者依因果妄語之罪当堕地獄云云、此勢至経の文何れに在りや、又数珠経に云はく不応越母珠等の二句之れ無し(更詳)、今之れを案するに義引なるべし、」(袈裟数珠の事)

では、「母珠を越ゆべからず驀過越罪千万なり数珠は仏の如くせよ」、「平形を以ゆる者此れは是れ外道の弟子なり我か弟子に非らず、我か弟子必す円形の念珠を用ゆべし」とは、いったい何経からの引用なんでしょうか。日因師は義引と仰せですが。

「袈裟数珠の事」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu1_14.htm

「天台宗(数珠と掛け方の図解あり)」
http://www.butudan.co.jp/page03810.html

1185七師外道:2004/03/25(木) 21:12
房の数は2×2が本来のもので、父・母(佛・経)の輪(法輪=教)を子が掛ける姿である。
掛け方も中指に掛けるというのは近世になってからの事と思われる。
蓮祖及び上代においては台家と異ならぬ掛け方であったと考えるべきである。
また「信徒は留房(玉房)、僧侶は払い房」などと云うものもあるが真俗の別もの無い。
興門において数珠の房の白きは幣束の義意を持つが故である。
また珠も塗り珠を用いてはならないが、これも同様の意を持つ。
因みに三門の朱きは鳥居の義を事に表している。

1186七師外道:2004/03/25(木) 21:27
訂正
真俗の別もの無い⇒真俗の別も無い

猶、蓮祖、興門の真義については不明であるものの、御真跡管見記、明星口伝、十の口伝、等から推察が出来よう。
又、丑寅重視も同様である。
現今、他門は云うに及ばす石山においても蓮祖、興尊の神佛義の会通は不可能であろう。

1187エル:2004/03/26(金) 08:46

愚鈍凡夫さん こんにちは

> 房が3本ある方の親珠が「緒留(母珠・多宝如来)」で、2本ある方の親珠が「達
> 磨(父珠・釈迦牟尼仏)」ですから、右手側が2本であることは間違いないと思
> います。エルさん引用のこの文証とも矛盾しませんが。

えーとですね。

●房3本 母珠 多宝 左手
●房2本 父珠 釈尊 右手

という事ですよね。ところが、日因抄には、

「右の十珠記子即百千記子位なり、左二十珠即千万億の記子なり、一珠は無数
位なり既に無数位一つなり、又水精を用ゆるは無数の功徳成する故なり、然
れば右の十の記子は百千数位、左の廿一は千万億無数の記子なり、皆三十種
波羅密を表して卅即一珠と為す者なり。」

とあって、これが矛盾ではと思ってるわけです。つまり、房の21珠の方、も
う少し詳しく述べますと、心一境法性珠のある方を左に掛けよと言われている
わけです。心一境法性珠のある方は2房の方ですから、これでは、房2本が左
手にこなければおかしいですよね???

1188愚鈍凡夫:2004/03/26(金) 12:09

エルさん、こんにちは。

「次に左右の露は行者の一身を表す、卅一珠は但是十波羅密、分別して卅一珠と為す、其の故記憶珠子なるが故に右の十珠記子即百千記子位なり、左二十珠即千万億の記子なり、一珠は無数位なり既に無数位一つなり、又水精を用ゆるは無数の功徳成する故なり、然れば右の十の記子は百千数位、左の廿一は千万億無数の記子なり、皆三十種波羅密を表して卅即一珠と為す者なり。」(袈裟数珠の事)

仰る意味は分かります。
でも、そうなると四菩薩から遠い方が釈迦牟尼仏で、四菩薩に近い方が多宝如来ということになってしまいます。個人的に違和感があります(小生は数珠を手に掛ける場合、無意識に2房の方を右に掛ける習慣がありますから。)
この辺の処、どう思われますか。

「然れば右の十の記子は百千数位、左の廿一は千万億無数の記子なり、皆三十種波羅密を表して卅即一珠と為す者なり。」
これって「右の十の記子」、「左の廿一」と数えておいて、「皆三十一種波羅密を表して」ではなく、「皆三十種波羅密を表して」とし、「卅即一珠」とするのは結構苦しい解釈だとは思いませんか。「三十種波羅密」とするのであれば、何故「右の十の記子」、「左の廿」と数えないのでしょうか。その上で「数取り珠」を加えて「卅即一珠」とするほうがすっきりすると思うのですが。まあ、五字七字に引っかけて5×2=10、7×3=21と言うことでしょうかね。

1189エル:2004/03/26(金) 16:04
愚鈍凡夫さん お返事ありがとうございます。

> この辺の処、どう思われますか。

いやですから、日因上人はなぜ矛盾した事を言われているのか、それが??な
のです。

で、愚鈍凡夫さんは、右手2房のかけ方をしてらっしゃる。私は逆で右手3房
です。まぁ、そのように指導をうけたから掛けているだけなのですが。(^^;

日因抄には、先代は皆作法に迷えりみたいな事が書かれてありますが、日因上
人は日寛上人より後ですから、先代のなかには日寛上人も入っているのですよ
ね。ある意味スゴいですね、この発言は。(^^;

1190愚鈍凡夫:2004/03/26(金) 21:19

エルさん今晩は。
結局、石山では数珠の掛け方は口伝として伝えてきたということでしょうか?
日蓮宗と逆なのは何故でしょうね。それぞれの珠の意義から言えば、日蓮宗の掛け方の方が理に叶っていると思うのですが。 (゜ペ)ウーン
いやはや小生が驚いたのは、真偽未決書とはいえ「戒法門」の文証に真っ向から喧嘩売ってるような記述ですね。ある意味、凄い度胸だと思います。 (・・;)

「日因云はく此の中の数珠経は金剛瑜伽念珠経の文なり而るに引文甚だ謬りなり、母珠を越ゆべからすの句之れ無し、又千万の二字之れ無し、又勢至経と云ふ経録に之れ無し、口伝に平形念珠経を引くなり。」(袈裟数珠の事)

「数珠教を引いて云く母珠を越ゆべからす驀過越法罪千万云云、此の経は金剛瑜伽の文なり、然るに不応越母珠の句之れ無し、又慎莫の二字を置いて而も千万の二字を加ふる甚だ謬りなり、但し録外御書四(四十五)数珠教を引いて云はく不応越母珠過越諸罪数珠は如せよ仏の、勢至教に云く超越次第者依因果妄語之罪当堕地獄云云、此勢至経の文何れに在りや、又数珠経に云はく不応越母珠等の二句之れ無し(更詳)、今之れを案するに義引なるべし、」(袈裟数珠の事)

とくるわけですから。

1191エル:2004/03/27(土) 11:14
愚鈍凡夫さん こんにちは

ようするに、日因上人は、母珠も数に入れて数えて、母珠にいきあたったら、
引き返さずに繰り越せ、そして、数珠を一巡しろ、それが正しいやり方だ。
と言われているのでしょうか。なんかそのように読めるのですが。(^^;

これが事実だと、犀角独歩さんが僧侶から教わったというやり方と、真っ向
から対立しますね。

> 結局、石山では数珠の掛け方は口伝として伝えてきたということでしょうか?

資料はあったが焼けたみたいなことが書かれてありますね。

> 「行者謹んで次第を超越する勿れ、勢至経の如きんば妄語の罪に因って当に
> 地獄に堕つべし、亦復母珠を超ゆること勿れ」(六巻抄当家三衣抄第六)

ところで、ここで述べられている「次第」とは何のことでしょうか?四菩薩
の事?

> 日蓮宗と逆なのは何故でしょうね。それぞれの珠の意義から言えば、日蓮宗の
> 掛け方の方が理に叶っていると思うのですが。 (゜ペ)ウーン

大石寺は日蓮宗と逆の持ち方をしてますね。という事は、日因上人の教えに
反してる?? 戸田城聖氏は右2房だったらしいですね。それで、一時期、
学会は大石寺と逆の持ち方をしていたらしいです。

1192愚鈍凡夫:2004/03/27(土) 12:22

エルさん、こんにちは。

> ようするに、日因上人は、母珠も数に入れて数えて、母珠にいきあたったら、
> 引き返さずに繰り越せ、そして、数珠を一巡しろ、それが正しいやり方だ。
> と言われているのでしょうか。なんかそのように読めるのですが。(^^;

そうではなくて、日因師は数珠経に「不応越母珠」の文は存在しないと言っているのだと思います。"母珠を超えろ"とは言っていないと思います。

>資料はあったが焼けたみたいなことが書かれてありますね。

言いたかったのは、統一されたマニュアルのようなもを代々伝えなかったのだろうかと言うことです。

日寛師がここで「次第」と言われているのは、エルさんが引用されている文証の前文の、

「夫れ数珠とは此れ乃ち下根を引接して修業を牽課するの具なり〜(中略)〜此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云々。」(当家三衣抄)

を指していると思います。
信者は、これらのことを良く理解して弁えなさいとの意味だと思います。

確かに、日因師の御指南を額面通り受け取ると、右手に3本房の方を掛けなさいと言っているように思いますね(珠の数からいって)。

右手に3本房を掛けるとして、「右の十の記子」が気になるんですが、これは「数取り珠」を指しているのでしょうか、それとも、「10大弟子」を指しているのでしょうか。どちらなんでしょうね。

1193犀角独歩:2004/03/27(土) 23:10

横レス失礼。

> 一子を過ごすべし

の「一子」は「一期」、すなわち、一期生のことであろうとわたしは読んできましたが、お二方いかがでしょうか。
間違ってますでしょうか?

1194エル:2004/03/28(日) 06:10

ちょっとググってたら以下の発言を見つけました。いやー、皆さん同じような
疑問を持たれてますね。

http://www.sfken.com/fujinomiya/pslg4083.html

でも、ここでも諸説いろいろあって、ハッキリとしたことは分かりませんでし
た。

1195愚鈍凡夫:2004/03/28(日) 13:02

犀角独歩さんのご質問の狙いが何処にあるのか分かりませんが、「一子」を小生も「一生涯」との意味ととらえています。

エルさんがご紹介下さったHPの4117に

> この中に、念珠の図が載っているのですが、なんと、左と右も房は2本!!!( 富士宗学要
> 集1巻 359ペ−ジ )
> 当時( 江戸時代後半 )の念珠が、今と違っていた証拠です。

とありますが、これは犀角独歩さんが>>1180に紹介下さった数珠のことだと思います。そうすると、日因師が「左二十珠即千万億の記子なり」、「左の廿一は千万億無数の記子なり」と記述しているのは何故でしょうか。
日因師の時代には、3本房が存在した証拠ではないかと思います。

1196愚鈍凡夫:2004/03/28(日) 13:06

訂正
絵の右側に20珠がきているので小生の勘違いでした。

(_ _(--;(_ _(--; ペコペコ

1197エル:2004/03/29(月) 07:02

ざっと、まとめてみました。m(__)m

■数珠の7不思議

1、父珠をどちらに掛けるのが正しいのか。その理由は?
(文献には、父珠を右に掛けるということだけで、なぜ右に掛けるのかとい
う理由・根拠が明らかになっていない。

 虚空会の儀式に従えば、インドは右尊左卑だから右側が尊いこととなる。
御本尊をみても、釈迦は右側に位置している。我々から見ると左側。また、
右遶三匝の意もある。そのためか。)

2、そもそも、どっちを父珠と呼ぶのか。その理由は?
 (富要集の念珠の図は日因抄と反する。)

3、途中から1房増えたのは何故なのか。
(数取り用だからと云われているが、そもそも数珠は数取り用の意味も含め
て作られているのだから、新たに1房増やす理由にはならない。では、両
2房の時はどうしていたのか。)

4、房が増えれば当然珠の数も増える。
(日芳師は、左右の房の30珠は諸法の三千を現わすと云われているが、
現在は40珠で、すでにこの義は崩壊している。)

5、房の形が出家と在家で違うのは何故なのか?
(戸田氏は出家と在家の区別をするために左右逆転したと云われているが、
すでに房の形が出家と在家で違うわけだから、新たに逆持ちをする必要は
ない。それとも戸田氏の頃は房の形は同じだったのか。それとも、これは
作り話なのか。)

6、日興上人の七宝の数珠には房がついていない。荘厳念珠だからか。

7、繰っていて、母珠にたどりついたらどうするのか?
 (日因抄では、教典にそのような内容はないと云っている。)


ところで、日因抄には父珠という言い方は出てきませんね。二つとも母珠とい
う言い方をされてますね。

1198エル:2004/03/30(火) 14:33

また別の質問に参りました。よろしくお願いします。

大石寺では、江戸時代から客殿一カ所において五座の勤行が行なわれるように
なりましたが、それ以前は、以下のそれぞれの堂にて勤行が行なわれていたと
聞きます。

1. 天堂    初座
2. 本堂    二座
3. 御影堂   三座
4. 客殿    四座
5. 墓所    五座

で、質問なんですが、天堂にも御本尊が祀られていたのでしょうか?
それとも、堂の中は何もなく、今日の我々がするように、東天に向かって唱題
していたのでしょうか。 よろしくお願いします。

1199エル:2004/04/01(木) 17:01
大聖人から日興上人へ授与されたと云われる、以下の御本尊について教えてく
ださい。

執筆年月日 「文永九年大歳壬申正月元旦」
授与文   「問答第一行戒智徳筆跡付法の沙門日興に之を授与す」
所蔵    「要法寺」

これは、御真筆なのでしょうか? よろしくお願いします。

1200三学無縁:2004/04/01(木) 17:43
横レス失礼します。

さきほどまで独歩さんとお会いしていろいろと話していました。
その場でもビックリマークが互いに飛び交ったのですが、別れた後、連絡をいただき、さらにビックリということになりました。
ネットで公表可能かどうかの判断は独歩さんにお任せしたいと思いますが、石山はまさにビックリ箱の大蛇、誤変換です、王者でした。
鮮明な弥四郎マンダラの写真がないのが残念ですが、相貌・座配が活字化されたものだけでも大きく異なっていました。
もっともそのうちのひとつは、活字ではなく、古文書に記された相貌図なのですが。
謎が謎を呼ぶ、石山には明瞭なモノは皆無なのかもしれません。

あわてて途中下車し、ネットカフェに飛び込んで少々興奮しながらカキコしています。

1201犀角独歩:2004/04/01(木) 18:34

三学無縁さん:

先ほどはどうも有り難うございました。
いつもながら、蘊蓄には深く頷かせていただくと共に、今更ながらの新発見に時の経つのを忘れました。

それにしても、四半世、紀石山・学会問題に関わって来られた三学無縁さんに、ここまでびっくりしていただけるとお話のし甲斐もあろうという者です。まあしかし、「素朴な疑問」なんてものではないので、投稿するのであれば、該当するスレッドを選ばなければなりません。さてしかし、記してよいかどうか。

取り敢えず、先のお話の分析表はファックスします。
…私信を公開の場で失礼しました。
半分はわたし宛のレスト云うことでご勘弁ください。

それと「弥四郎マンダラ」、漢字で書けば「弥四郎漫荼羅」、たしかに造立者の名にちなんでいてこの記述はなかなか。わたしも使わせていただこうと思います。

1202れん:2004/04/01(木) 21:30
エルさん、初めまして。お尋ねの要法寺蔵の文永九年の曼陀羅は、私もお筆写真を見たことがないので分かりませんが、安国会の御本尊集に収録されてないところを見ると真偽の問題があるものでしょう。この外要法寺には建治二年太才丙子正月元日、附法沙門日興授与之とある曼陀羅が伝承されていますが、これも真偽の問題があるものでしょう。あとは身延山に弘安五年太才壬午八月三十日、付法第一智徳沙門日興授与之とある蓮師曼陀羅がかつてあったそうです。こちらは、身延山で出した年表に出ているので、一応信頼してよいと思います。右参考まで。m(__)m

1203れん:2004/04/01(木) 21:47
エルさん。話が前後しますが、初座の天拝が行われていた天経は、上代では御堂としての立派な建物があるわけではなく、土を踏み固めた土壇が本体だったようです。主師の代に天堂が建立されたようです。初座は蓮師の時代から行われていたようで、身延山三世日進師の口述をまとめた「日進聖人仰之趣」に蓮師の逸話として「一、聖人ハ天ノ御為二番々ツモツテ老僧連二御経ヲ読セ玉フ二、ハヤク来ル者ヲハニクシト、ヲソクヨメト仰セラルル也云々」とのエピソードを伝えております。右ご参考まで。m(__)m

1204愚鈍凡夫:2004/04/01(木) 22:46

蓮祖には、外で三光天子を拝む信仰形態があったことが広く知られています。
清澄山における立教開宗の唱題誓願のときも、暗いうちから拝み始められ、まず月天・明星(虚空蔵)を、そして、昇りゆく日天を拝まれたと推察できます。

この三光天子を拝む信仰形態を記した文を遺文から引用すると、

「夜もひる(昼)も高き山に登て、日月に向て大音声を放て上を呪咀し奉る。其の音声一国に聞ふと申す。」(種種御振舞御書)

「御日記ニ云ク、毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間、大日天子に仕させ給ふ事。〜(中略)〜日月天の四天下をめぐり給フは仏法の力なり。〜(中略)〜法華経の序品には普香天子とつらなりまします。〜(中略)〜日蓮モ又此ノ天を恃たてまつり、日本国にたてあひて数年なり。」(四条金吾釈迦仏供養事)

「日月に向て大音声を放て上を呪咀し奉る。」「日蓮モ又此ノ天を恃たてまつり、日本国にたてあひて数年なり。」とあります。

1205犀角独歩:2004/04/02(金) 00:18

れんさん、愚鈍凡夫さんのご紹介にもあったとおり、蓮師に天拝思想があったように思えます。けれど、通日蓮宗の勤行にその名残は見られませんね。わたしが不思議に思っている点の一つです。

1206地名:2004/04/02(金) 03:56
「天を拝む」というのは、神道の方の関係からでしょうか。

1207地名:2004/04/02(金) 04:17
1200、1201について・感想

「弥四郎曼荼羅」というのは非常におもしろい表現です。

>相貌・座配が活字化されたものだけでも大きく異なっていた。
>もっともそのうちのひとつは、活字ではなく、古文書に記された相貌図なのですが。

三学無縁さんの、ここの部分の記述はかなり深い内容のような気がします。

1208地名:2004/04/02(金) 04:25
「天を拝む」について、

1186の七師外道さんの「現今、他門は云うに及ばす石山においても蓮祖、興尊の神佛義の会通は不可能であろう。」という記述、特に日蓮、日興の神佛義といわれるものとの関係について思いを致しました。

1209エル:2004/04/02(金) 09:06
れんさん はじめまして。

> 安国会の御本尊集に収録されてないところを見ると真偽の問題があるもので
> しょう。この外要法寺には建治二年太才丙子正月元日、附法沙門日興授与之
> とある曼陀羅が伝承されていますが、これも真偽の問題があるものでしょう。

 なるほど、そうですか。しかし、両本尊とも元旦というのが気になりますね。
 私の記憶では、元旦のあとに日食とかの文字があったと思うのですが、定か
 ではありません。(^^;

 ところで、要法寺の建治二年の御本尊は現存しているのでしょうか?

> あとは身延山に弘安五年太才壬午八月三十日、付法第一智徳沙門日興授与之
> とある蓮師曼陀羅がかつてあったそうです。こちらは、身延山で出した年表
> に出ているので、一応信頼してよいと思います。

 わかりました。情報ありがとうございました。(^o^)

1210エル:2004/04/02(金) 09:11
れん こんにちは。

>上代では御堂としての立派な建物があるわけではなく、土を踏み固めた土壇
>が本体だったようです。主師の代に天堂が建立されたようです。

ということは、相撲の土俵のような感じだったのでしょうかね。私は、天堂の
本尊というのがあったと、かつて聞いた記憶があるのですが、建物のなかには
御本尊はなかったということですね?

>初座は蓮師の時代から行われていたようで、

ただ、日鎮上人の書かれた「堂参御経次第」という書物には、当時の勤行の様
子が書かれていて、天拝は初座ではなく二座に行なわれているのです。

-----------------------------------------------------------------
大永三年癸未 五月一日 夜の部
1、本堂   十如是・寿量品・題目百返
2、天御経  十如是・寿量品・題目百返
3、御影堂  十如是・寿量品・題目百返、再度、寿量品・題目三百返


大永三年癸未 五月二日 朝の部
1、御影堂  十如是・寿量品・題目三百返
2、天御経  十如是・寿量品・題目百返(祈念申候)
3、本堂   十如是・寿量品・題目百返(奉祈願候)
4、御影堂  十如是・寿量品・題目百返(祈念申候)
------------------------------------------------------------------

以上の順番となっています。これが疑問なんですよ。
驚くことに、夜も天拝を行っています。(@_@)

我々は、天拝は朝のみと教わりましたが、「初座 天拝 朝のみ」という形式
は、近年になってから生まれたものでしょうか?

日亨上人によりますと、五座三座の分配、十如是・寿量品長行・自我偈の区別
等の細目については、第九世日有上人が定められたと云われていますね。とこ
ろが、うえに述べた日鎮上人は日有上人より後の猊下です。初座天拝という化
儀は、承知徹底されていなかったのでしょうかね。

あと、江戸時代の頃は以下の順番だったと云われていますが、

1. 天堂    初座
2. 本堂    二座
3. 御影堂   三座
4. 客殿    四座
5. 墓所    五座

この中の、本堂にはどの御本尊が祀られていたのでしょうか?客殿は、今日の
ように御座替りの御本尊だと思うのですが。

1211エル:2004/04/02(金) 11:28
歴代法主全書を読んでみたいのですが、現在でも販売されているのでしょうか?

それとも、どこかに電子データとしてアップロードされてますでしょうか。

よろしくお願いします。m(__)m

1212犀角独歩:2004/04/02(金) 11:34

1208 地名さん:

わたしもこのような視点は重要だと思います。
日本は近代において2度の神仏分離を経ていますから、その都度、まるで法門・法式の解釈が変わってしまっていますね。明治の神仏分離令・廃仏毀釈、昭和20年以降尊皇国体の崩壊で佛教教団は脱神道で徹底されてきたわけです。
しかし蓮師の鎌倉時代から明治に至るまで神仏習合をさっ引いて仏教を論じることなどできようはずがありませんよね。

関連しますが、天堂は、れんさんがお示しのように露座土壇での天拝から変遷である可能性はあると思います。が、天堂というと、天主堂、あるいは天照大神の垂迹堂を意味する可能性もあると思うわけです。そうなると、諸天善神への法味供養という側面とは別個に尊皇感情と天照大神崇敬の意味合いがあったと類推したいことになります。ここら辺は戦後完全にスポイルされてしまっていますから、戦後世代にとって感覚的にピンとこないところはありますが、蓮師とその門下教学の祖型を掌握するためには通らなければならない部分でありながら、掌握が難しいところですね。七師外道さんのご指摘に頷けるところです。

1213犀角独歩:2004/04/02(金) 12:27

『富士大石寺明細誌』を見たところ、

「天王堂本堂前東方西向向拝唐破風檜皮葺、四間四面、日天月天を勧請す神躰は板本尊。
 垂迹堂本堂前東方西向宮造一間四方、天照八幡を勧請す神躰は板本尊。」

とありました。亨師によれば同書は「先師も曽て怪奇の書と貶せられた」というものでその証憑性は如何ばかりと判断しかねますが、天王堂の天王は大日天王・大月天王を言う如くで、垂迹は天照大神・八幡大菩薩(神)となります。

しかし、いまの石山感覚からすると「神躰」という語彙にぎょっとさせられます。
ここに「勧請」の2文字があり、板本尊とあるわけですから、特に日月天、天照八幡を特図するような漫荼羅であったのかと想像を逞しくしたくなります。

1214エル:2004/04/02(金) 17:08
愚鈍凡夫さん こんにちは

> 蓮祖には、外で三光天子を拝む信仰形態があったことが広く知られています。

> 「夜もひる(昼)も高き山に登て、日月に向て大音声を放て上を呪咀し奉る。其の音声一国に聞ふと申す。」(種種御振舞御書)

ですよね。私は、なぜ天拝が朝だけなのかが分からないのです。上記の大聖人
の御振舞を拝せば、夜の勤行の時も天拝をしてもいいと思うのですが。 実際、
日鎮上人の時は、夜のお勤め時も天拝を行っています。

やはり、朝のみは近代になってからなのでしょうか。

1215れん:2004/04/02(金) 19:19
エルさん。歴代法主全書ですが、正宗内ではまだ販売していると思います。エルさんが宗外の方でしたら、東京神田神保町の仏教関係の古書を扱っている東陽堂書店で、運がよければ買うことが出来ると思います。m(__)m

1216三学無縁:2004/04/02(金) 19:25
>1198 エルさん

私は次のように考えています。

天堂     日天・月天・明星天などの諸天善神を勧請。板マンダラには当然勧請されていない。
垂迹堂    天照大神・八幡大菩薩(神)を勧請。板マンダラには当然勧請されていない。
御影堂    御影に向かっての供養・おそらくマンダラは無し。
客殿     所謂「紫宸殿本尊」に向かって広宣流布祈願。
墓所     五輪塔に向かっての霊供。

石山の所伝によれば、御影堂で弥四郎マンダラを「御開帳」していた時代があります。
弥四郎マンダラは広宣流布までは秘仏として宝蔵に安置されていたわけです。では、この時、本堂はあったのでしょうか。あったとしたら、どのマンダラを掛けていたのでしょうか。
つまり日精時代以前は御影堂こそが本堂であった。これは「当宗の本尊日蓮聖人に限」るという有師の言から導かれます。
日精後、弥四郎マンダラを宝蔵に戻したでしょうが、そうすると石山にはマンダラを掛けた本堂がなくなってしまいます。
現に石山では正本堂まで本堂はなかったことになっているはずです。本堂と御影堂を別立したのは日精んらという気がします。
客殿の最も大切なお客様は、一般信徒ではなく皇家であります。そこに「御座替り」のマンダラを掛けては義儀ともに外れてしまいます。

歴代全書は市販されてはいません。某古本屋では15万円くらいの値段がついているのではないでしょうか。
ネットでは、nbさんのサイトにごく一部アップされていますが漢字の問題でテキスト化はWinでは困難でしょう。Macでは3水・4水までOKですからまだましですが。
ストレスなしに書いたり読んだりするには「超漢字」に乗り換えるしかありません。

>1202 れんさん

>安国会の御本尊集に収録されてないところを見ると真偽の問題があるものでしょう。

真偽問題のほかに、寺院側で写真撮影は不敬と考え許可しなかった、というケースもあります。
また、不敬とは言わずとも、寺宝として御開帳以外には一般公開しない、という考え方もありました。
安国会の御本尊集に収録されているマンダラだけが真筆、というわけではありませんし、収録されているマンダラでも疑問視されているケースが少なからずあります。

>1206 地名さん

>「天を拝む」というのは、神道の方の関係からでしょうか。

それもあるでしょうが、日蓮・日興のスタンスに淵源を求められるのではないでしょうか。また、要法寺の影響も十分に考えられると思います。


>1213 独歩さん

>ここに「勧請」の2文字があり、板本尊とあるわけですから、特に日月天、天照八幡を特図するような漫荼羅であったのかと想像を逞しくしたくなります。

逆に「日月天、天照八幡を」図示しない、ということは考えられませんか。勧請したうえにマンダラにも勧請されていたら二重勧請ということになります。

朝拝は日天拝で日の出と共に、月天拝は本来夜拝ではなく夕拝で日没と共に、と老僧が昔言われたのを聞いたことがあります。
文献的な根拠があるのかどうかはわかりませんが、丑寅勤行は明星・北斗七星への祈願拝ということのようです。

1217犀角独歩:2004/04/02(金) 19:38

三学無縁さん:

ちょっと言葉の使い方がわからないのです。
漫荼羅に図顕せず、勧請するというのは具体的にどのようになるのでしょうか。

かんじょう くわんじやう 【勧▽請】
(名)スル
(1)神仏の来臨を請うこと。
(2)神仏の分霊を他の場所に移しまつること。宇佐神宮から分霊を迎えて石清水八幡宮をまつったことなどはその例。
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

1218三学無縁:2004/04/02(金) 20:01
>独歩さん。

>漫荼羅に図顕せず、勧請するというのは具体的にどのようになるのでしょうか。

はいはい、つまり本尊の勧請方式で、マンダラの前に祖師像を置く方式がありますよね。
それと同じで、諸天善神を後ろに勧請し、前にマンダラを配する、と考えるわけです。
独歩さんが引用された文からは、そのように考えることが自然であると思われます。
正宗教学的には思いつきませんが、その予断を抜きにして考えると、そういうことになるのではないでしょうか。

1219エル:2004/04/02(金) 20:19
れんさん こんにちは

> 歴代法主全書ですが、正宗内ではまだ販売していると思います。
 
そうですか。ただ、書店経由では購入できないのですよね? 大石寺か富士会
館まで行かないと売ってくれないのですよね?

> エルさんが宗外の方でしたら、東京神田神保町の仏教関係の古書を扱ってい
> る東陽堂書店で、運がよければ買うことが出来ると思います。

 こちらもあたってみます。情報ありがとうございます。(^o^)

1220れん:2004/04/02(金) 20:35
三学無縁さん。返レスありがとうございます。仰ることは重々承知しております。安国会版御本尊集には掲載されていない蓮師の曼陀羅もまだまだありますでしょうし、反対に御本尊集に掲載されていても真偽の問題があるものもあることは承知しております。ただ要法寺蔵の曼陀羅はNO.58が安国会版御本尊集に収録されており、それ以外の要山蔵の蓮師曼陀羅が収録されてないのは、実見された山中師らによって真偽の問題があるものと判断されたと見るのが至当と存じましたので、あのようにレスした次第です。m(__)m

1221三学無縁:2004/04/02(金) 20:54
れんさん。
いえいえ、れんさんは当然ご承知のことと思っていました。れんさんを批判するつもりは毛頭ありませんでしたが、私の舌足らずのためご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません。
心からお詫び申し上げます。
私としては、こちらの掲示板をロムしている方たちのなかにも、あまり事情をご存じない方たちもおられるでしょうから、蛇足のようではありましたがカキコさせていただきました。
本尊集に収録されたものに対する偽作の論評は大昔ですが、当時立正佼成会教学部長だった鴨宮成介氏が複数のマンダラを偽作と主張していたと記憶しています。
日蓮宗のひとたちは他の寺院に対して営業妨害になるような言動はしませんが、本尊集収録のマンダラについてプライベートな場ではいろいろと仰っているようでもあります。
また日蓮宗の有名な寺院にもいくつか真筆と鑑定され尚且つ未収録・未公表のマンダラがあるようです。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

1222れん:2004/04/02(金) 20:55
それから蛇足ながら、石山十四世日主師筆の大石寺図絵を見ますと、本堂を中心に右に天経、左に御影堂が記されており、十四世日主師の代までは石山では本堂と御影堂が別棟であったことが判明します。その後、精師の代に焼失したそれまでの本堂・御影堂を一つにして「本門戒壇本堂」(精師筆棟札、今の御影堂)が新たに建立されています。精師が「本門戒壇本堂」建立当初は弥四郎曼陀羅を安置した様ですが、天和年間に弥四郎曼陀羅は宝蔵に戻され、現在は精師が開眼した蓮師筆曼陀羅の摸刻板曼陀羅を安置しているとのことです。m(__)m

1223三学無縁:2004/04/02(金) 21:09
れんさん。

>主師筆の大石寺図絵を見ますと、本堂を中心に右に天経、左に御影堂が記されており、十四世日主師の代までは石山では本堂と御影堂が別棟であったことが判明します。

じつはこのことがわからないのです。
石山の所伝では、本堂建立は「三堂一時」ということだったと思いますが、建立時期はいつごろまで遡れるのでしょうか。
しかも「三堂一時」は広宣流布の時、ということではなかったでしょうか。
かりに当時本堂があり、そこに弥四郎マンダラが安置されていたとしたら、それは非信徒にも公開されていた、ということになります。
石山では達師の言にあるように、広宣流布の時までは謗法多きゆえ公開しないとされていたはずですが、これについてはどのように考えるべきでしょうか。
石山本堂の初見についてもご存知であればぜひお教え下さい。

1224れん:2004/04/02(金) 21:11
訂正。
誤)精師が「本門戒壇本堂」建立の当初は
正)精師が「本門戒壇本堂」を建立した当初は

三学無縁さん。日蓮宗の有名寺院所蔵で蓮師真蹟と鑑定されながら「御本尊集」等では未公開の曼陀羅が存するとのこと、ご教示ありがとうございます。こちらこそ宜しくお願い申し上げます。m(__)m
エルさん。歴全は宗内では信仰・教学が進み末寺住職に認められた檀徒さんにのみ購入が許されます。ですから宗外では東陽堂が一番確実でしょう。m(__)m

1225れん:2004/04/02(金) 21:41
三学無縁さん。石山における本堂の初見は有師の「御物語聴聞抄」です。御影堂の初見は顕本法華宗開祖日什師門弟日運師の著「門徒古事」です。三堂一時とは石山文献にはなく重須の三堂棟札が初見で、三堂一時広布時建立は石山義というよりもむしろ重須の立義とすべきだと思います。また、石山六世日時師談の大石記には興師の言として「本門寺の朽木書の御堂をば大石に立て申し、随て身延沢に立て申したりし御仏をも入れ申す」と記しており詳細は不明ながら上代の石山の本堂等は「本門寺の朽木書の御堂」として建立されたものなのでしょう。m(__)m

1226地名:2004/04/02(金) 23:15

三学無縁さん

1216について

>日蓮・日興のスタンスに淵源を求められるのではないか。
>要法寺の影響も十分に考えられる。

このことについて、もう少し補足説明していただけますか。

1227エル:2004/04/03(土) 09:24
れんさん

> 歴全は宗内では信仰・教学が進み末寺住職に認められた檀徒さんにのみ
> 購入が許されます。ですから宗外では東陽堂が一番確実でしょう。

 了解しました。どうも色々とありがとうございます。m(__)m

三学無縁さん はじめまして。

> 歴代全書は市販されてはいません。某古本屋では 15 万円くらいの値段がつ
> いているのではないでしょうか。 ネットでは、nb さんのサイトにごく一部
> アップされていますが漢字の問題でテキスト化は Win では困難でしょう。

nb さんのところは、定期的にのぞいているのですが、今後に期待したいと思
います。m(__)m

1228犀角独歩:2004/04/03(土) 10:46

1218 三学無縁:

> 正宗教学的には思いつきませんが…

あ、なるほど。
通日蓮門下共通の義として、ということですね。
了解、わかりました。

1229犀角独歩:2004/04/03(土) 10:46

れんさんの整理、参考になります。
三学無縁さんの疑問、至極もっともです。

> 時師談の大石記…興師の言…「本門寺の朽木書の御堂…身延沢に立て申したりし御仏をも入れ申す」…「本門寺の朽木書の御堂」
> 主師の代までは本堂を中心に右に天経、左に御影堂
> 精師の代…本堂・御影堂を一つにして「本門戒壇本堂」…建立当初は弥四郎曼陀羅を安置

北山の三堂は棟札を信頼する限り、日蓮聖人御影堂、本化垂迹天照太神宮、法華本門寺根源(本堂)ですね。で有師の記述を併せれば八幡社も建っていたともなります。

時師のいう「御堂」は石山では御影堂であるといい、故に「御仏」は御影像であるともいうわけです。これはしかし、史実と一致しない気がします。こうなると身延から背負ってきたのは弥四郎漫荼羅ではなくて、御影像となってしまうからです。御影を身延で造り興師が持って出た確実な資料には当たれないでしょう。

ではここでいう「仏」は何を指すのでしょうか。わたしは単純に釈迦の絵像はあるいは仏像であると考えます。しかし、漫荼羅正意に泥んだ観点からすればけっして受け容れられないところでしょうね。けれど、精師の記述に「日興御さくの釈迦一そん一ふく」とあります。わたしはこれであったのだろうと考えています。

「御堂」は「おどう」と読めば、一般的な堂宇全般を指すことになります。仮に三堂が建っていたとしたら、その全体を御堂と云っても不自然なことはありません。
御影堂には御影、垂迹堂は天照、では本堂には何が祀られていたのか?

弘安2年「日興上人」授与漫荼羅でしょうか。
では北山を模倣したと思われる主師代までの石山本堂には何が祀られていたのか?
弥四郎漫荼羅が既に造立されていたのでしょうか。その可能性は否めません。しかし、興師作釈迦一尊である可能性も否めません。
天経とは垂迹堂でしょうから天照が御神体というわけですね。

石山が叙用したがらない『明細誌』に当時の三堂の詳細が記されています。

「諸堂本堂正南面檜皮葺、間口十四間奥行十三間、仏壇宮殿の中板漫茶羅竪三尺六寸横二尺、日蓮聖人木像御居長二尺八寸五分御膝両袖四尺一寸…
天王堂本堂前東方西向向拝唐破風檜皮葺、四間四面、日天月天を勧請す神躰は板本尊。
垂迹堂本堂前東方西向宮造一間四方、天照八幡を勧請す神躰は板本尊。

「奇怪な書」とも言われ、何かと現石山義には不都合なことが多い量師は「板漫荼羅」「板本尊」と言葉を使い分けているわけです。これを素直に読めば、

本門戒壇本堂、通称御影堂では御影像に精師造立の‘板漫荼羅’
天王堂には日天・月天の‘板本尊’
垂迹堂は天照大神の‘板本尊’

ということなのでしょう。その後、漫荼羅一辺倒になっていく石北では都合の悪い仏像・御神体を撤廃していっさい漫荼羅に取り替えていったというのが資料から窺い知れる変遷とわたしには思えます。

ここでエルさんが呈示された天拝の起源に戻れば、石北両山の天拝は、当初、天照大神を拝んでいたところが、御神体撤廃変遷のなかで文字通りの天拝に取って代わっていったと類推します。その変遷の過渡期が量師の示す垂迹堂と天王堂の並立でここでは特に日月天を板本尊として拝んでいたのでしょう。たぶん、この法式は明治の神仏分離令まで続いていたのではないでしょうか。

まあ、漫荼羅正意、仏像・御神体を過度に嫌う石山信徒には受け容れがたいところでしょうが。

1230れん:2004/04/03(土) 11:49
犀角独歩さん。返レスありがとうございます。蓮師・興師の本尊観は曼陀羅(能生)・一尊四士(所生)が併存していましたから、独歩さんの御推測の通り上代の石北本堂には釈迦一尊(四士もか)が安置されていた可能性は否定出来ないと私も思います。一方、興師が身延在山中に蓮師御影(絵像か木像かは不明)と御影堂を建立したことは、尊師実録と順師の従開山伝日順法門に見られるので、蓮師御影の身延から富士への遷座は一応史実として有り得るのではないかとも愚考しています。m(__)m

1231犀角独歩:2004/04/03(土) 12:04

1230 れんさん:

> 興師が身延在山中に蓮師御影…御影堂を建立…尊師実録と順師の従開山伝日順法門に…

あ、そうでしたっけ。両方とも読んだはずの文献なのに失念していました。
両方ともやや真偽論はあったと記憶しますが、たしかに看過できない点ですね。
ご叱正有り難うございました。

1232愚鈍凡夫:2004/04/03(土) 13:19

横レス失礼します。
**************************************************
日蓮聖人御影奴御下文、園城寺申状
 上野の六大の老僧方、巡て守護し奉る可し、但し、本門寺建立之時は本堂に納め奉る可し。此の條、日興上人の仰せに依つて支配い奉る事此の如し、此の旨に背き異義成し、失タラン輩者、永く大謗法に為す可し。仍誠之状件如し
 正慶二年発酉   二月十三日
 日善(花押) 日仙(花押) 日目(花押)
**************************************************

と、日目師は遺命されていますが、日達師は次のように指南されています。
「その前に、大石寺の本堂並びに丑寅について昨年少々本にして出したことがございますが、それにもある通り、戒壇の大御本尊様は恐らくは昔はこの本堂(御影堂)に安置してありましたように思われるのでございます。
 勿論、この只今の御影堂は三百四十年前の建立でございますが、それ以前、これよりも小さな本堂が、この前の二天門と称する門の裏の丁度真正面にあった様に思われるのでございます。その当時からこの本堂には戒壇の大御本尊様が安置せられた様に考えられます。」(「大日蓮」昭和48年2月号)

これは日目師の遺命とは違うように思えます(「御下文」、「園城寺申状」の現物がないわけですから当然ですが)。ただ、「戒壇之本尊」が日目師の時代には存在しなかったとしたら納得がいきます。

1233エル:2004/04/03(土) 20:11
垂迹堂というのは、色々な解釈があるようですね。化儀抄の解説本によれば、
古代、大石寺の信徒となるには、 入信の際に法払いをしますが、その時に所
持していた仏菩薩像などを大石寺に収めた。その仏菩薩像の保管場所を垂迹堂
と呼んでいた。と書かれてあります。

現在は、謗法払いといえば、燃やしたり金づちでこわしたりしますが、上代に
おいてはすべて大石寺、もしくは近隣のお寺に収めていたそうです。

『他宗の法華宗に成る時、本所持の絵像木造並に神座其の外他宗の守なんどを
 法華堂に納むるなり、其の故は一切の法は法華経より出でたるが故に此経を
 持つ時又本の如く妙法蓮華経の内証に事収まる姿なり、総じて一生涯の間大
 小権実の仏法に於て成す所の所作、皆妙法蓮華経を持つとき、妙法蓮華経の
 功徳と成るなり、この時実の功徳なり云云。』 化儀抄より

ここでいう法華堂が垂迹堂です。つまり、諸仏菩薩は、妙法蓮華経の一法から
出たものだから、また総て、妙法蓮華経の中に戻し、帰入させてしませば、本
来の姿、本来の形に戻る故という事ですね。

ただし、もちろん、ここには一般の信徒は立ち入り禁止で、礼拝はできなかっ
たと思います。

1234犀角独歩:2004/04/03(土) 21:17

エルさん:

「法華堂」は、阿弥陀堂などと言い分ける法華宗…天台法華宗と区別するときは日蓮法華宗…の堂宇を指す名称であると思います。たとえば亨師は「法華堂、法華宗は・足利時代に於ける日蓮宗等への通称なり」と注解しています。

これを垂迹堂とする根拠はいったいなんでしょうか。

1235犀角独歩:2004/04/03(土) 21:33

1234を補足します。

エルさんが引いた化儀抄の文を達師は以下のように略解しています。

「他宗の人が本宗に帰入した時は、今まで礼拝所持しておった、他宗の絵像、木像、並びに位牌及守り、あるいはお札等は皆、‘本宗の寺’に納めてしまいなさい…」(P75)

達師も法華堂を自宗寺院に充てるばかりで垂迹堂とは解していません。

1236犀角独歩:2004/04/03(土) 22:41

もう一つ、エルさん、質問させてください。

> 謗法払いといえば、燃やしたり金づちでこわしたりします

こんなことをする石山僧俗がいるんですか。
創価学会はかつてこのようなことをして、世間の顰蹙を買いました。実際、わたしの35年にわたった会員生活の日常でした。その後、石山には5年しかおりませんでしたが、こんなことをした話は聞いたことがありません。忠実に化儀抄の一文を守り、寺院に納めていました。

エルさんはたしか法華講と記されていたと思うのですが、こんなことを指導する末寺があるとはとうてい信じられないのです。向学のためにどちらの寺院か教えていただきたいところです。差し障りがあれば、ヒントだけでもけっこうです。

1237愚鈍凡夫:2004/04/03(土) 23:58

エルさん、天拝の件ですが、いつ頃から朝のみになったのか調べてみても分かりませんでした。ただ、次のような文証が残っています。

「一、仰せに云はく・当宗には日天を先づ拝し奉る事は日蓮事行の妙法を三世不退に日天の上に事に顕し・利益廃退無き事を敬ふとして・先づ日天・日蓮と意得て其の心を知るも知らぬも日天を拝し奉るなり云云」(「有師談諸聞書(雑々聞書)」)

なお、同じ文証が「日拾聞書」にもあります。

この書が真蹟であるならば、日有師のころには既に日天中心の天拝になっていたのかもしれませんね。

1238犀角独歩:2004/04/04(日) 05:41

横レス失礼します。

愚鈍凡夫さん。『化儀秘訣』に以下のようなことが記されています。

「天の勤め…天の食時…東に向ひ膝を立てゝ是れを読むこと如何、答へて云はく日天は少しも座し給はず、日夜共に四州を行道あり、早朝は東より出で給ふ故に東に向ふなり、又時の行者行き向ひ申す意にて膝を立つるなり」

郷門の勤行化儀なんだと思います。けれど、わたしはなにかこの一節が好きで初座は夜明けを待って立て膝で勤行をしていたものでした。まあ、法華講在籍期間はやめていましたが(笑)

1239エル:2004/04/04(日) 08:49
犀角独歩さん

> これを垂迹堂とする根拠はいったいなんでしょうか。

いえいえ、これは私が云っているのではなくて、解説本にそのように書かれて
あると紹介したまでです。

> 達師も法華堂を自宗寺院に充てるばかりで垂迹堂とは解していません。

 なるほど、そうですか。

> こんなことをする石山僧俗がいるんですか。

うーん、どうなんでしょう。解説本をそのまま引用しますと、

『入信者が多くなった近年では、謗法の物は全部焼き捨てるようになったが、
 古き時代においては、邪宗・謗法の人が本宗に入信してくる場合、それまで
 祀っていた邪宗の本尊等は本宗の寺院に納めるのが通例であった。したがっ
 て当時の寺院には垂迹堂といって、謗法の物を納める堂も用意されていたの
 である。』小川只道著 暁鐘編集室発行

多分、入信者が多くなればそれだけ謗法物も多くなり、ついには、寺内には収
まりきれなくなり、処分せざるを得なくなったと解釈しているのですが。(^^;

1240エル:2004/04/04(日) 09:00
犀角独歩さん 追加レスです。

> これを垂迹堂とする根拠はいったいなんでしょうか。

すみません、法華堂とは本宗寺院の意味です。その中に在る垂迹堂に納めると
いう意味に訂正させていただきます。m(__)m

1241犀角独歩:2004/04/04(日) 11:13

エルさん:

お返事有り難うございます。
只道師・妙観講ですか。納得です。

> 謗法の物は全部焼き捨てる

なんともはや。すさまじいですね。あそこはいまでもそんなことをやっているのですか。
しかし、こうなると、有師が「本の如く妙法蓮華経の内証に事収まる」という点は成就しないことになりますね。いわば、親は尊敬し、その家を出た子は滅ぼすというやり方です。

日蓮宗では「おたきあげ」という儀式を用意して、やはり焼いています。
ただし、この場合は他宗のものに限らず、古い御守、達磨、仏壇、塔婆が主な対象で、供養行事の一環です。また、憎しみを篭めて在家が行うことではありません。
いずれにしても「燃やす」のは有師儀ではなく、むしろ他門儀に近いように思えます。なぜならば石山では「おたきあげ」の類の法事がないからです。

垂迹堂の件、少し文献をひっくり返してみました。
亨師の言として以下のようにありました。

「他宗に所望すれども出さず等とは、他宗他門の輩・信伏の時に・従来安置したりし権迹の仏菩薩の絵像木像を・当宗の垂迹堂に納むるに・中には定朝運慶の彫刻もあるべし・金岡雪舟の名画もあるべし・又は所望の弥陀もあるべし・観音もあるべし・今此を垂迹堂に納め置くよりも・当方に申し受けん、何貫文を進上すべし、何々事を為し進らすべし等と・種々に申し請ふものありとも・決して他に出すべからず、其故は権仏迹仏たる弥陀・薬師・観音・不動等は・其元一乗法華本仏の影現垂迹にして声縁菩三乗済度の為に出られたるものなるに・今一乗法華弘通の時機に遭ひ上りて・幸に本地の大法に帰る事を得たる姿なれば、無沙汰に放擲して・仮出の三乗に戻らしむべからず、垂迹堂に安置して・妙法醍醐の法味に飽かしむべしと
なり」(註解第11条)

たぶん只道師はこれに拠ったのでしょう。ただし「燃やせ」とは言っていません。
ここで亨師が突然、垂迹堂であると言い出すのはかなり突飛な印象があります。しかし、同師は慶応3(1867)年生まれですから、昔の事情、またそんな話を聞かれて書かれたことであると思います。

ただし、只道師がいう扱いとは随分違います。「垂迹堂に安置」というわけです。
保管、あるいは焼却処分ではなく‘安置’である点は看過できません。
エルさんは「ここには一般の信徒は立ち入り禁止で、礼拝はできなかった」と想像されていますが、亨師は「納め置くよりも…種々に申し請ふ」と、つまり、その垂迹堂でそれらを見た人の申し出を記すわけですから、立ち入り禁止というのはどうでしょうか。

中世の垂迹堂では天照大神の御神体の前に、ずらっと絵像、仏像が‘安置’され、そこで初座の読経が執行されていたというのは、有師・亨師の記述からすれば導き出せる想像です。

1242愚鈍凡夫:2004/04/04(日) 12:49

犀角独歩さん、「化儀秘訣」に次のようにありますね。有り難うございました。

**************************************************
問ふ天の勤め最初なること如何、答へて云はく諸経論の説相、天の食時は仏菩薩より前なり、之に依つて爾かなり、されば毘羅三昧経に云はく早朝は諸天衆の食時、日中以前は三世諸仏の食時、以後は畜生の食時、餓鬼の食時か、日中以前に斎食すべしと、是れは方等部の経なり、然りと雖も世間国土人天等の説相は相違無し、仮令成仏の用否は爾前経と法華経と有無不同之れ有り、然る間天の食時は仏より先なれば是れに準へて先づ天の勤め之れ有り、法味を供御に捧ぐる意なり、必ず天は勝れ本尊御影は劣り給ふには非らず。
疑つて云はく東に向ひ膝を立てゝ是れを読むこと如何、答へて云はく日天は少しも座し給はず、日夜共に四州を行道あり、早朝は東より出で給ふ故に東に向ふなり、又時の行者行き向ひ申す意にて膝を立つるなり。
**************************************************

1243愚鈍凡夫:2004/04/04(日) 13:23

**************************************************
日蓮聖人御影奴御下文、園城寺申状
 上野の六大の老僧方、巡て守護し奉る可し、但し、本門寺建立之時は本堂に納め奉る可し。此の條、日興上人の仰せに依つて支配い奉る事此の如し、此の旨に背き異義成し、失タラン輩者、永く大謗法に為す可し。仍誠之状件如し
 正慶二年発酉   二月十三日
 日善(花押) 日仙(花押) 日目(花押)
**************************************************

この遺命によると、「生御影」・「御下文」・「園城寺申状」を本門寺建立の時に本堂に奉納せよとの事ですよね。それでは、この書に本門寺本堂に「掛け奉る」重宝となるべき戒壇の本尊(漫荼羅?)の指定がないのは何故でしょうか。
このとき既に、暗黙の了解があったと言うことでしょうか。 (゜ペ)ウーン
それと、「本堂」に「御影堂」を兼ねさせるというのは、「日興上人の仰せに依つて支配い奉る」ことであって、日興師の御遺命ということなのでしょうね。

1244空き缶:2004/04/04(日) 14:05
愚鈍凡夫さん、こんにちわ。

以前れんさんも引用されましたが、保田妙本寺所蔵の末法万年救護之大本尊の副書には「本門寺建立之時懸本御影堂可為末代重宝也 建治元年太才乙亥六月十七日 甲斐国波木井郷図之」(『千葉県の歴史』に掲載)とありまして、「本御影堂」「建治元年」「図之」が気になるところです。

誰が書いたものかもわかりませんが。蓮祖か?興師か?しかし「日蓮聖人真蹟集成」にも「日興上人全集」にも収録はされていませんね。

1245エル:2004/04/04(日) 14:41
犀角独歩さん

>なんともはや。すさまじいですね。あそこはいまでもそんなことをやっているのですか。

妙観講というのは私はよく知らないのですが、日蓮正宗では無いのですか?
いちおう妙観講は、

「昭和55年8月、第六十七世御法主日顕上人猊下の御認可によって結成され
た、総本山塔中理境坊に所属する法華講中です。」

となっていますね。ただ、一説によると、創価学会が裏で金を出していて、色
んなスパイ活動をさせている謀略部隊だ。という人もいますね。顕正会とかと、
かなりやりあっているみたいですが。(^^;

>たぶん只道師はこれに拠ったのでしょう。ただし「燃やせ」とは言っていません。

いや確かに。

>中世の垂迹堂では天照大神の御神体の前に、ずらっと絵像、仏像が‘安置’
>され、そこで初座の読経が執行されていたというのは、有師・亨師の記述か
>らすれば導き出せる想像です

ハハ、そうですか。なんとも私どもから見たら、卒倒するような光景ですな。(^^;

1246れん:2004/04/04(日) 15:00
愚鈍凡夫さん・空き缶さん、こんにちわ。興師弟子の讃岐阿闍梨(水口)日源師の写本の存する本尊三度相伝には「本門寺ノ戒壇ハ西面ニ立ツ可キ也」とありますので、本門寺戒壇は本門寺本堂とは別棟との推測を持っています。本堂には文永十一年の大本尊を掛け蓮師御影と御下文・薗城寺申状を安置する事が大本尊副書と日興上人御遺跡事から推定されます。順師の摧邪立正抄には戒壇には本門大曼陀羅を安置とあります。しかし蓮師も興師も戒壇安置の曼陀羅を書き残してないので、戒壇安置の曼陀羅は時の貫首の書写曼陀羅で良いのではないかと愚考しております。

1247愚鈍凡夫:2004/04/04(日) 15:09

空き缶さん、こんにちは。こちらは雨です。
もうすぐ満開の桜が散るのではと心配です(酒を呑む口実がなくなるからと誰かが言っているような、いないような・・・・)。

建治元年(1275)といえば、「撰時抄」を執筆された頃ですよね。「御影堂」に御安置申し上げる「正御影」はどなたなんでしょうね・・・・・。
蓮祖が、ご自分の「御影」を造立して、「毎日甲斐甲斐しく給仕して拝め」とは言わないでしょうからね・・・・・。
釈迦牟尼像の場合は「御影堂」とは言わずに「釈迦堂」と言うでしょうし。
それとも、蓮祖には「本堂=御影堂」という図式があったのでしょうか・・・・・。
「だったら、そこに安置する本尊はどれだ? むむ・・・・・っ。眠れなくなりそう」
(-"-;A ...アセアセ

1248愚鈍凡夫:2004/04/04(日) 15:23

あっ、れんさんどうも。
ただね、先にも引用した日達師の言葉が気になるんですよ。

「その前に、大石寺の本堂並びに丑寅について昨年少々本にして出したことがございますが、それにもある通り、戒壇の大御本尊様は恐らくは昔はこの本堂(御影堂)に安置してありましたように思われるのでございます。
 勿論、この只今の御影堂は三百四十年前の建立でございますが、それ以前、これよりも小さな本堂が、この前の二天門と称する門の裏の丁度真正面にあった様に思われるのでございます。その当時からこの本堂には戒壇の大御本尊様が安置せられた様に考えられます。」(「大日蓮」昭和48年2月号)

石山には戒壇堂=本堂=御影堂という図式があるように思うのですが。
戒壇堂と本堂(御影堂)が別棟であるとするならば、本堂に「戒壇之本尊」を安置した理由は何でしょうか。

1249空き缶:2004/04/04(日) 16:04

 れんさん、愚鈍凡夫さんどうもです。

 現代におけますところの通説では、「戒壇」とは「僧侶になるための受戒の儀式を執り行う場所」であると思いますが、富士の流儀ではなにか別の意味がありましたでしょうか?
 もし通説通りでしたら、戒壇=本堂=御影堂との解釈も可能であると思います。日興上人が宗祖滅後、天台沙門を名乗らずに「私度僧」として振舞われたのは、日蓮門下の正しき受戒の場=本門の戒壇(本門寺本堂?)がいまだ建立されないうちは、私度僧として活動すべきとの思いがあったのではと想像します。
 そして日蓮門下の受戒の場には宗祖の尊像(御影)があっても、全く不思議ではないと思うのです。

1250れん:2004/04/04(日) 16:26
愚鈍凡夫さん。返レスどうもです。しかし、達師が上代の石山本堂に弥四郎マンダラを安置していたと述べたその根拠はいったい何でしょうね。上代石山文献でそのようなことを述べた文献は無いのですが…、また本門寺本堂=本門寺戒壇という定義ならびに思想は西暦1400年代に日尊門流で成立し、恐らく左京日教師によって石山門流にもたらされた「百六箇抄」以前には遡れないのではないでしょうか?少なくとも、これまで管見に入った興師や興師門弟の確かな文献からは、本堂=戒壇という定義は管見では見いだすことが出来なかったのが実状です。m(__)m

1251愚鈍凡夫:2004/04/04(日) 17:02

空き缶さん、れんさん、レス有り難うございます。

「日興上人御遺跡之事」は、少なくとも日目師の時代には「弥四郎漫荼羅(戒壇之本尊)」が存在しなかったことの証拠の一つになりうると思っています。

それはそれとして、
この書には「日興上人の仰せに依つて支配い奉る事此の如し」とあって、日興師の遺命であることを記しているわけですよね。
そして、「此の旨に背き異義成し、失タラン輩者、永く大謗法に為す可し」との迫力ある脅し文句も添えられているわけです。
それでは、日興師は重須についてはどう位置づけていたのでしょうか。重須・石山両方に三堂を建立せよとの御遺命なのでしょうか。
それと、日達師は何をネタ本にして、ああいった発言をされたのでしょうかね・・・・・。

1252犀角独歩:2004/04/04(日) 17:48

空き缶さんも久しぶりに登場になって、またなかなか興味深い議論が展開されていますね。

なるほどと今更ながら、思った点がいくつかあります。
愚鈍凡夫さんが仰るように「奉納」であってたしかにこれは安置とは違いますね。
となれば、いわゆる御影式(御影の背に漫荼羅)という奉安形式によることを上代では定まっていなかったことが窺われます。

そこでれんさんが指摘されるよう戒壇堂は西面であるわけですね。
いちおう北山に本門寺根元は本堂で、そのほかに御影堂・垂迹堂が建ったのは、うーん、まあ、史実であろうと思われます。

ところで本堂=戒壇堂という考えはいったいいつ頃に興るのでしょうか。
元来、本堂と戒壇堂は空き缶さんがその用途から指摘されたように役割が違います。
これはまた御影堂もしかりですね。

ところが富士門では戒壇堂と本堂が中世から同一に論じられたうえ、さらに本堂と御影堂が一体化していきます。この解釈の変遷にはかなり時間の流れがあるわけでしょうね。

まあ、、本堂と御影堂の一体化、さらにはその一体化堂宇を戒壇堂としてしまった精師の建立は、原意からすれば飽くまで略式伽藍ほかならないことになります。

また、西面ということで直ちに想起されるのは五重塔なのであって、精師が本門戒壇本堂として御影堂を建立して、その伽藍整備の延長で建立されたこの西面の堂宇は相伝文から解釈すれば、まさにこちらこそ戒壇堂ということになるのでしょうか。そうとは思えないので単に別の思惑なのでしょうね。現石山アナウンスでは仏法西還を表すんだそうですが、わたしは五重塔は宝塔品の涌現宝塔を表す故に法華経の説相に併せて西面なのであろうと考えます。

これはまた近代に属することですが、正本堂は現時における事戒壇であるという意義付けであったわけですが、しかし、南面です。相伝を知ってか知らずか、はたまた無視したのか。これを杜撰というか、いい加減というか、どうも石山住職の考えることは理解に苦しみます。また、正本堂を事檀建立と意義づけていた学会も、何故、設計段階でこの点を指摘しなかったのか疑問が残ります。

それより何より、愚鈍凡夫さんが仰るよう、達師は何を根拠に御影堂に当初、弥四郎漫荼羅が安置されたと言ったのでしょうか?
何の根拠もなく言ったとは思えないんですが。それでも「まさかりみたいな手斧」という古い道具を使っているだけで鎌倉時代の作と決めてしまうほど短絡的なことも言うわけですから、この辺はどんなものでしょうか。

1253犀角独歩:2004/04/04(日) 18:45

1245 エルさん:

> 妙観講…日蓮正宗

ええ、そうです。
でも、石山といっても何も一枚板ではありません。
中途から要山義も加わりますし、昔はそれぞれの坊さんが弟子を取っていたわけですから、その法系の流れがあり違いもあります。
だいたい内事部と宗務院でも考え方針は違います。
妙観は達師の名前で、越洋さんの代でもその名前を使っているわけです。

> 卒倒するような光景

それが近代までの石山の実像なのでしょう。しかし、それでも現代の異常さからすれば、卒倒しそうになっているのはいつも周辺です。

なお、有師、亨師が奉納された絵像・仏像などの管理を言うのは法義上の理由ばかりではないと思います。紙幅の漫荼羅と違って絵や像は美術的、骨董としての価値もあるわけです。ですから、「これは謗法」と言って奉納させて「燃やしました」と言いながら、裏で売却して利を上げることはできるわけです。ですから、このような嫌疑を掛けられないために一切を見えるところに安置し身の潔白を示す必要性はあるでしょう。

その意味において有師、亨師の判断は実に常識的であるとわたしは思います。

1254みかん:2004/04/04(日) 19:01
大石寺において戒壇堂と本堂が混同されている件については、一昨年かいた未発表の文章で考察したところですが。

> 現代におけますところの通説では、「戒壇」とは「僧侶になるための受戒の儀式を執り行う場所」であると思いますが、富士の流儀ではなにか別の意味がありましたでしょうか?

日蓮の本門戒壇構想は、南都の小乗戒壇院、叡山の(迹門)大乗戒壇院に継ぐ戒壇院として構想されたはずです。

ご存じのように、本門寺の戒壇堂たるべき「正本堂」を、「正本堂」と名付け、僧侶の授戒の場ではなく、大人数の一般信徒の戒壇板曼荼羅への参拝の場所として使用していたわけです。

これがどこから来るのかですが、富士門流史に詳しくない私にはよくわかりませんが、

三大秘法禀承事(私は偽書だと思います)の
「三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈等も来下して・給うべき戒壇なり」
という記述が、戒壇堂を、僧侶の授戒の場という本来の意味ではなく、一般信徒の修行の場という解釈に変えてしまった原因であろうと思います。

1255エル:2004/04/04(日) 19:21
犀角独歩さん

>その意味において有師、亨師の判断は実に常識的であるとわたしは思います。

いや、確かに確かに。なかには国宝級の、一級資料に値するようなものも含ま
れているかもしれませんからね。

これ以上は「なんでも鑑定団」の世界になってきますので、控えさせていただ
きます。m(__)m

1256犀角独歩:2004/04/05(月) 04:59

みかんさん:

> 大石寺…戒壇堂と本堂が混同…未発表の文章で考察

是非とも拝読したいところです。
本堂と御影堂の一体化はたとえば、池上本門寺も戦災の焼失後の再建でそうなりました。つまり他山でも例のあることですね。

しかし、御影堂と一体化した本堂が戒壇堂というのは尋常成らざることですよね。
これが石山では精師の時代にまず起きた。それでも弥四郎漫荼羅を宝蔵に引っ込めていったんは収束させる。けれど、「現時における事の戒壇」正本堂といい、今度は御影堂とは切り離した形でまた復活した。けれど、それを取り壊して奉安堂といい、名前と意義付けばかりの内拝で、実質公開の堂宇を建立。

実際のところ、正本堂にしても、奉安堂にしても、石山観光の目玉に過ぎないわけですから、真面目にその意義を考えること自体ナンセンスですね。
しかし、元来、通仏教では意義を異にした本堂、御影堂、戒壇堂が、石山ではどんなふうにアレンジされ、右に左にされてきたかを俯瞰することは、その欺瞞性を割り出すためには必要な作業であると思えます。

みかんさんの考察に期待します。

1257空き缶:2004/04/06(火) 00:55

 皆さん、こん○○わ。

 大石寺には上代と現在、本堂が無いのですね。
 日精師の代と創価学会と一緒にやっていた時には「本堂」(正本堂)と呼べるものがあった。
 しかし、一宗の総本山に本堂が無いというのも変わってますね。
 やはり国主が本門寺を建立する日まで、本堂は置かないという事でしょうか。とすると、本門寺本堂=本門戒壇というのが大石寺側の解釈とも思われますが、いかがなんでしょうか。

1258犀角独歩:2004/04/06(火) 06:10

1257 空き缶さん:

れんさんも指摘されていますが、御影堂棟札には「本門戒壇本堂」と記されているわけです。つまり、御影堂がその時代から現代に至る一貫した本堂なのではないでしょうか。
ただし、それに拘わらず新たに本堂を建て足したので、こっちが正しい本堂、正本堂という不可思議な名前を付したのでしょう。

こうなると、自寺の歴代である精師が本堂としたものを邪な本堂と言ったも同じです。
何故ならば、正しいの反対が邪であるというのが石山一般の用語用法だからです。「正邪」というやつです。ぜんぜん考えずに命名していると思うわけです。

1259エル:2004/04/06(火) 15:52
愚鈍凡夫さん

> エルさん、天拝の件ですが、いつ頃から朝のみになったのか調べてみても分か
> りませんでした。

愚鈍さんが調べても分からなかったということは、文献に関しては残ってない
のかもしれませんね。

> この書が真蹟であるならば、日有師のころには既に日天中心の天拝になっていたのかもしれませんね。

了解しました。いろいろとありがとうございました。(^o^)

1260愚鈍凡夫:2004/04/07(水) 08:10

エルさん、お早うございます。
レスを下さったことに気づきませんでした。

> 愚鈍さんが調べても分からなかったということは、文献に関しては残ってない
> のかもしれませんね。

そんなことはありません。小生の知識は僅かなものです。それに資料を調べる方向性が間違っているのかもしれません。
だから、エルさんが調べていけば、目的とする資料に行き当たるかもしれません。

1261福田里敏:2004/04/09(金) 18:32
堀日亨著「身延離山史」を読んでいるのですが、この中で、立像釈迦佛と久成釈尊木像について触れられているのですが、この二体の違いは、何でしょうか?よろしく、お願い致します。

1262犀角独歩:2004/04/09(金) 19:29

1261 福田里敏さん:

はじめまして。いま、書棚を見たのですが、あったはずの該当書がどこに行ったのかわかりません。該当の文書を抜き書きしていただくとお持ちでない方も考証の便宜に充てられるのではないでしょうか。

あくまで、成句からだけですが、

> 立像釈迦佛

興師『宗祖御遷化記録』にある
「一御所持仏教の事 御遺言に云く。
仏は釈迦の立像、墓所の傍に立て置く可し云云」

という随身の一体仏。

> 久成釈尊木像

とは、蓮師『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』にいう
「未有寿量仏 末法来入始此仏像可令出現歟」という「現折伏時成賢王」が出現して立てる「一閻浮提第一本尊」のことというのが門下教学共通の認識であろうかと存じます。
尤も亨師は石山義からこれを敢えて漫荼羅本尊と会通しているのでしょうか。

しかしながら『三時弘経次第』には
「本門の寺 付属の弟子 上行菩薩 日蓮聖人。 冨士山 久成の釈迦仏 本化垂迹の師檀 末法。 垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 当御代」

とあり寛師説・人法本尊=弥四郎漫荼羅は成り立ちません。

富要中の中世の文献を追うと「久成釈尊」とは要山義の如くであり、意味するところは、本門寺建立の時、建立すべき仏像を言います。これを先だって立ててしまった尊師を批判するというのがその用法です。

以上、『身延離山史』を手放しで記しました。
本文をお持ちの方の解説を待ちます。

1263福田里敏:2004/04/09(金) 20:00
犀角独歩さん。お久し振りです。本門法華堂の福田です。と、いっても、法華堂からは、離れましたが・・・
独歩さんのおっしゃるとおりです。なるほど、久成釈尊木像とは、曼荼羅本尊と、理解していいのですね。てっきり、釈迦像とは違う、釈尊木像でも、あるのかと、思っておりました。

堀上人は、原殿書を提示した上で、「一般に立像佛の執着があまりにも強いので此に対する方便として久成の釈尊を揚げられたのである、始成無常の小乗教の単己一体佛の立像佛を暫く破排して久成教主釈尊が聖人の本懐法華本門の妙法五字七字に即する本佛と仮定せられて此が宗門の目的、人本尊との様に仰せられた、本書には四菩薩脇士の事を云って無いが五人所破事や門徒存知の追加には四菩薩を添加して本化的に改めよとは興師御自身の御説と成っておる、此には五老側の追随もあったのであるけども、立像佛の余炎は中々消えなかった」

1264福田里敏:2004/04/09(金) 20:09
その直後に、堀上人は「立像佛の再建を止むる為に久成佛を持出し其が出来上るまでは御筆の曼荼羅を暫用せよなんどはさぞかし御意苦しい事であったろうが、波木井一族の中に対しては其すら能くこそ云えた全く自分の力でない大聖人の御冥加であると自賛せられておる。」
と述べられております。

1265犀角独歩:2004/04/09(金) 20:16

あ、福田さん?、そうでした。「はじめまして」もないものでした。失礼しました。

> 久成釈尊木像とは、曼荼羅本尊

というのが亨師の説であろうと類推したと言うことです。
富士では「三大秘法の時は久成釈尊を以つて本尊とするなり法の本尊を以て事行の南無妙法蓮華経と名くる」とくるわけですから、そうなるでしょう。
勿論、わたしは反対の立場です。

1266福田里敏:2004/04/09(金) 20:37
犀角独歩さん。今回も、ありがとうございました。
また、何かありましたら、よろしく、お願い致します!

1267犀角独歩:2004/04/09(金) 20:39

> 1266

いえいえ、どういたしまして。
何せ資料手放しですので、お礼には及びません。
もっと適切な解説をなさる方はいらっしゃると思います。

1268みかん:2004/04/20(火) 20:07
素朴な疑問です。どなたかお教え頂ければ幸いです。

1)随身仏はその後どうなりましたか
2)南部(「みなべ」とも読める)と身延(みのぶ)は語源的関係がありますか
3)富士山本宮浅間大社と日興門流寺院にはどのような交流、関係がありますか。

1269顕正居士:2004/04/25(日) 01:39
>>1266

みかんさん。

1 随身仏(立像釈尊)は法華宗陣門流の本禅寺にありますが、今のがほんものか否かは
わかりません。重文などの指定はないようです。
「立像釈尊について」
http://www.hokkeshu.com/hoto/028/028_ryuzo.htm
2 南部と身延は無関係でしょう。ア→オ、エ→ウという変化は生じにくい。みのふ(蓑夫)
→みのぶ(身延)そのほかの説があります。
3 浅間大社
日源、日興の実相寺は末代上人が開基し、富士山信仰と密教が習合し、富士山を「大日蓮華山」
と呼んだ。
「末代上人について」
http://www.izu-higane.jp/kenkyu/uenishi.htm
実相寺の富士山信仰は日蓮宗の富士派(興門流)に精神的には継承されているはずですが、
富士登山などの具体的な行法は聞きませんし、浅間大社との関係についてもわかりません。
また神仏判然令(廃仏毀釈)以前の神仏習合のすがたは今は急速に忘却されているようです。

1270菱村正敏:2004/04/26(月) 07:26
 横レス失礼。

>日源、日興の実相寺は末代上人が開基し、富士山信仰と密教が習合し、富士山を「大日蓮華山」

 富士山を「大日蓮華山」と呼んだという出典先を教えてください。

1271犀角独歩:2004/04/26(月) 08:50

> 1270

富要10巻内に限る検索に過ぎませんが

産湯相承事
日蓮は富士山自然の名号なり、富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云う

五人所破抄
富士とは郡の号、即ち大日蓮華山と称す

百五十箇条
興仰に云く…大日蓮華山相応の故なり

類聚翰集私
日蓮は富士自然の名号なり富士は郡の名なり、実名をば大日蓮華山と云ふ
日蓮・夜は白蓮・日神昼・月神は夜、爰を以て重須の鎮守は八幡大菩薩・月よみの御神なり、師弟共に以て大日蓮華山と自然の名号なり
東方有小国・唯有大乗種姓の日本国の駿河富士郡大日蓮華山より本門の戒壇院立つて、あまふの原に六万坊立て…
駿州富士郡の大日蓮華山・先師自然の名号有る山の麓・天生原に六万坊建立有るべし差図の様を付属の事。

六巻抄文底秘沈抄第二
神道深秘二十六に云わく、駿河國大日蓮華山云云。
凡そ富士大日蓮華山は日本第一の名山

日蓮の二字の事
富士は郡の名、実には、大日蓮花山と名くる
富士は大日蓮花山なり

臨終用心抄
寛延元戌辰暦八月廿七日在山之砌り書写し奉り畢んぬ。
大日蓮華山門流優婆塞 了哲日心

五人所破抄見聞
南贍部洲第一の山に最も本門の事の戒壇可き在る建立大日蓮華山也
富士と者郡の号、即称す大日蓮花山

六人立義草案(日要)
冨山は大日蓮花山と号して日天能住の山也

申状見聞私(日我)
法花本門の戒壇大日蓮華山也

観心本尊抄文段上
戒壇の霊場をば大日蓮華山と名づく

撰時抄愚記上
山は則ち大日蓮華山

取要抄文段
神道深秘 二十六 に云く「駿河の国には大日蓮華山」云云

取要抄文段
神道深秘 二十六 に云く「駿河の国には大日蓮華山」云云
日順詮要抄…駿河国富士山に本門の戒壇立つ可きなり。富士山を天下晴れて大日蓮華山と云うなり

当体義抄文段
大日蓮華山と名づくるなり。この名は神道深秘二十六に出ず。

寿量品談義(日寛)
大日蓮華山と云ふなり。是れ則ち山の
頂き八葉の白蓮花に似たる故なり。三国伝十二(終往)見又陰長記下学集云云

日蓮大聖人守護の神明は日の神、国は大日本国、処は大日蓮華山

続家中抄
広瀬本城創草記に云く(詳師御筆)
南閻浮堤大日本国駿州多宝富士大日蓮華山大石寺末流

観心本尊抄首日相聞書
大日蓮花山なり。故に能居の人亦日蓮と名づくるなり、是の如く重々大事の法門口外すべからず

富士大石寺明細誌
末寺大日蓮華山、下之坊

1272菱村正敏:2004/04/26(月) 17:02
 富士山の呼び名については、興味があります。

 富士山は様々な呼び名がつけられていますが、私の考えるところで
は大日蓮華山という呼び名は日蓮正宗系のみで通じる富士山の呼び名
のような気がしています。

 富士山−史話と伝説− 名著出版 という本には富士山の別名が
「富士山由来記・富士山縁起・秘中抄・秘名抄・遊方所略・駿国雑
志・類聚名物考・藻塩草」などから取り上げられて百数十ほど掲載
されています。ただし、大日蓮華山という呼び名は掲載されていま
せん。

 ただ、確かに叡山文庫にあった神道深秘の写本には「大日蓮山」と
ありましたが、最澄に仮託されたといわれる神道深秘の原本?に
「大日蓮華山」とあるかどうかは不明です。

 もし、地名呼び名などの汎用的な一般書において富士山が
大日蓮華山と呼ばれている旨を述べているものがございましたら
お知らせください。わたしは見つけることが出来ませんでした。

 で、呼び名というのは案外と伝承されていくものと承知しています。
わたしは富士山の呼び名として「大日蓮華山」が人々のあいだでは実
質的には伝わってはいなかったような気がいたしますが、いかがですか?

1273顕正居士:2004/04/26(月) 19:20
>>1272

菱村さん。ひさしぶりでございます。

大日蓮華山あるいは八葉蓮華山というのは本地垂迹の上からいった美称で、日常にこう呼ばれた
わけではないとおもいます。「日蓮」とは元来無関係でありまして、胎蔵界・大日如来の中台・
八葉院に富士八峰をたとえたのです。八峰の名はもと中台八尊でしたが、神仏判然の令によって
今の名称にあらためられました。富士山の興法寺と浅間神社の関係は仏主神従で輪王寺と東照宮
の廃仏以前に似ていたのでないでしょうか。
「富士山の廃仏毀釈」
http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/bunka/furufuji10.htm

室町時代の「富士曼荼羅」の山頂の部分に「大日蓮華山」とあったと覚えていますが、写真が
小さいので確認できませんでした。
「富士曼荼羅」
http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/bunka/man.index.htm
末代が山頂に大日寺を建立したのが本地垂迹の富士山修験のはじめと伝承しているのですから、
「大日如来の八葉蓮華の山」というのは信仰のとおりの名であります。

1274菱村正敏:2004/04/26(月) 21:53
 どうも。顕正さんもご無事な様子、何よりです。

 さて、富士山には表大日裏薬師という言葉があったようで・・・。
これも何度か書いたことがありますが、富士山は大日堂や薬師堂という
のがあったところに、富士信仰という庶民信仰もかぶさっていたと思い
ます。

 富士信仰は時代の流れのなかで大小強弱はあったかもしれませんが
過去より民衆から支持されたものの一つだと認識しています。

 それでもし、「大日蓮華山」という呼び名がいわゆる富士信仰という
庶民信仰のなかで使われていたら、もう少し一般的な地名本にに残って
いたのではないかということを考えています。ところが、実際のところ、
日蓮正宗系のなかでしかこの呼び名を見つけることができませんでした。
果たして「大日蓮華山」がいわゆる広い富士山信仰によっても呼ばれて
いた名前なのかどうか・・・。

 もちろん、大日如来を中心とした富士八峰は芙蓉八朶とも呼ばれて
蓮華云々も了解するところですが、それがダイレクトに呼び名になった
とするのは日蓮正宗系だけのもつスジ書きではないかなと考えています。

1275地名:2004/04/26(月) 22:22

八須日忍師の本には以下のように記されております。ご参考の一助まで。
「大石寺廿六代日寛は六巻抄の文底秘沈抄の本門戒壇篇に「霊山浄土とし何処を指すや」
中略
「三には謂く大日蓮華山と名る故に、神道深秘廿六に云く。…神社考二に云く富士縁起に云く…」
中略
「大日蓮華山とは林羅山が「神道秘伝」(寛師の「神道深秘」は間違いと)に大日如来の蓮華の山と云い、「峰は八葉の蓮華に似たる故に蓮華王山と名く、不動・文殊・薬師・観音・阿弥陀・大日・経ヶ嶽と云い真言の金、胎両部曼荼羅と卜部兼倶の十八神道即ち吉田神道により大日蓮華山は命名されたものである。…神社考も…羅山り著書である。」「…富士縁起(吉田十二部神道)…」と。

1276菱村正敏:2004/04/27(火) 04:30
>「三には謂く大日蓮華山と名る故に、神道深秘廿六に云く。…神社考二に云く富士縁起に云く…」

 ありがとうございます。と言うことは

 林羅山の神道秘伝あるいは神社考、それと富士縁起というもののなかに
「大日蓮華山」というものとして記されているということを日忍という人
が披露しているということでしょうか?

 それから、「日寛の神道深秘は間違い云々」とは何を意味しているのか
良く分かりません。もし、その辺をご存じならお知らせください。

1277地名:2004/04/27(火) 05:50

菱村さん

八須日忍師の編著者兼発行者「創価学会に答う」昭和38年・辻説法会発行所のP189〜190、P144〜148に記されている部分を摘記しました。
P147に「更に面白いのは「大日蓮華山」だ。「神道深秘に云く」と云うが「深道深秘」(私注:深道は神道のタイプミスかと思います)とは誰の著書か、これは「林羅山」が書いたもので元の名を「神道秘伝」と云う、之を日寛が世をゴマカス為めに「秘伝」を「深秘」とすりかえて引用したので「深秘」なんと云う本をいくら探してもない。漸く「神道秘伝」に同文があった。」とあります。
私自身は林羅山の著書には当たっておりませんので、上記のように略して記しました。失礼いたしました。

1278翡翠:2004/04/27(火) 13:39
横からスミマセン。

菱村氏のレスにもありましたが、寛尊が閲覧された「神道深秘抄」は最澄選で
はないですか?

こちらの1117番にありますね。
http://www.zenbunka.or.jp/05_databases/wakan/wakan_tosho3.htm

ただし、この中に大日蓮華山という名称が出てくるかどうかは知りません。

1279菱村正敏:2004/04/27(火) 21:01
神道深秘なる書物(ただし写本です)は叡山文庫で閲覧させて
もらったので、存在していたのは確実です。もう記憶だけですが
たぶん天台宗典籍集?か何かを調べていたときに神道深秘が叡山
文庫に収められていることを知って、当文庫を訪ねたものでした。

 わたしが閲覧した当該写本には先に書いたように「大日蓮山」と
の記述で富士山が紹介されていました。

1280菱村正敏:2004/04/27(火) 21:12
 追加
 
 ちなみに、神道深秘は当文庫の好意にあまえてコピーさせて
いただきました。最近は日蓮系に興味が失せたこともあり、こ
のコピーもメモ用紙にしています。一部分はすでに使用し捨て
てしまっているかもしれませんが、これを機に必要な方がいら
っしゃいましたら、お申し出いただければ差し上げますよ。

1281地名:2004/04/27(火) 21:55
1279 菱村さん

>ただ、確かに叡山文庫にあった神道深秘の写本には「大日蓮山」と
>ありましたが、最澄に仮託されたといわれる神道深秘の原本?に
>「大日蓮華山」とあるかどうかは不明です。

「神道深秘」(写本)には「大日蓮山」とあるのですよね。
林羅山にどのように記されているか調べてみます。少しお時間をください。
下記の早坂師も八須師と同様のように言われていると思われます。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/03/03_086.htm
ご指摘、大変勉強になりました。

1282みかん:2004/04/28(水) 02:12
>>1269 顕正居士さん
大変参考になりました。ありがとうございました。

>> 菱村さん
林羅山の当該文献は、「神道大系論説編20」に載っているかもしれませんが、
最近図書館に行ってませんので確認できません。
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN02590727

>> 地名さん
八須日忍さんという方はどういう方か判りますでしょうか。

1283菱村正敏:2004/04/28(水) 05:31
 林羅山の本朝神社考はみたことがあります。ただ、そのような
文言を調べるためにみたわけではないので・・・。何かのおりに
わたしも見てみましょう。神道秘伝・富士縁起はみてませんが探
してみます。

 ただ、文底秘沈抄のなかの文脈としては
「神社考四−二十に云わく、富士縁起に云わく、孝安天皇九十二年六月
富士山涌出す、乃ち郡名を取って富士山と云う、形蓮華に似て絶頂に八
葉ありと云云。」

 上から想像するに神社考・富士縁起ではその地の郡名から「富士山」と
呼称されたということを述べるにとどまり、両書は大日蓮華山と呼称され
たことを示すものではないような気もします。

1284犀角独歩:2004/04/29(木) 12:38

「大日蓮華山」語は『産湯相承書』が初出ということになるのでしょうか。
では『産湯相承書』の初出は、となると、教師の『類聚翰集私』(1488年成立)と言われるようですが、道師『御伝土代』に酷似する記述が散見できます。
『産湯相承書』の成立をいつに見るのか、取り分け、「大日蓮華山」の記述部分は何時の時代であるのか、実に興味が惹かれます。

1285地名:2004/04/29(木) 17:17
富士山と大日蓮華山について、少しずつですが各種資料より摘記させていただきます。
「富士信仰の成立と村山修験」遠藤秀男氏、地方史研究家、富士宮市
「1.富士信仰のはじまり
古代における富士信仰は、おおよそ『万葉集』にうたわれた讃辞で言いつくされているが、なかでも富士山を女神としてとらえた『常陸風土記』によって、その原初的発想をとらえることができる。…富士山は美しいが心冷たい女神で、祖神尊(みおやのみこと)が一夜の宿を求めた…すげなく断る…そこで尊(みこと)は筑波岳に出向いてそこで…饗応をうけた…反対に富士山には…雪をふりつもらせて…しまったという。…富士山は『駿河国福慈岳』(ふじ)と記されて、人びとの関心をひきながらも近づきえぬ美女として、ひとり東海…に凝立してきた…。
だが、それを万葉人はもっと現実的に、…生活…感覚の中から…とらえようとしていた。その例…
巻三雑歌部
「大和の国の 鎮(しず)めとも 座(いま)す神かも 宝とも 生(な)れる山かも 駿河なる 不尽(ふじ)の高嶺は 見れど飽かぬかも」
山部赤人の長歌
「天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見へず 白雪も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける」
…いずれにしても富士山は神そのものであり、人間の足跡などとうていおよばない神秘神霊の高岳であることで一致していたのであった。
そのため、富士山を表記する文字もさまざまに用いられており、前記の福慈・不尽・布士のほか、不時・不自・富岻・浮士など、奈良時代から平安時代の初期まで、さまざまな字音をあてていたのであるが、そこにもおのずから字義がこめられていて、不時(季節はずれに雪がふる)とか不尽(一年中雪が尽きない)など、『常陸風土記』の延長を思わせる伝承が息づいていることを見逃せない。
 中略
 だが、それだけで富士信仰のすべてを語りつくすわけにはいかない。山体そのものを神とみたてたおおらかな時代が過ぎて、人智が発達してくると、山そのものが持つ荒々しいエネルギーや神秘感に対して畏怖の念を抱くようになり、そこに祈る姿が生まれてくるからだ。祈りはやがて山中に祀堂を建て、それを通じて神と人との融和をこころみようとする積極さに移行していく。その動きがつぎにのべる「浅間神社」の成立と「大日堂」の建立にかかわってくるのであるが、じつは富士山の場合、こうした動きのひきがねになったものは、噴火というまことに物理的、現実的な胎動であった。
 中略

1286地名:2004/04/29(木) 17:21
同書より続く
2.末代上人の富士登頂
(イ)末代以前(富士山記)
 富士山に山岳仏教を最初にもちこんだ人物は、いったい誰であったろうか。それについては古くは、必ず役の行者を嚆矢として取りあげているが、現在の学問ではそれを事実とは信じていない。…夜になると海上を走って…富士山頂で修行して帰ったという『日本霊異記』に拠っている。…
 ところが、平安時代にはいって富士山頂をきわめた者がいたことは、『本朝世紀』の久安5年(1149年)の条に末代上人が山頂に大日寺を建立したという記事があることで知られている。彼こそ富士山を仏化して、山中練行の霊場にもりたてていった。“富士修験”の先駆者であり、自他ともに高い評価を与えねばならぬ人物であるが、それに先だつこと290年ほど前に、すでに山頂まで登攀した者があったことを示す記録が残されている。それはまことに驚くべきことであったが、貞観6年の大爆発の直後にまとめられた文献で、書きしるした者は京都の文人、都良香であったという点において、登山事実は、地元の人間が異常な興味をもって噴火のあとをたどってみた結果の報告であったろうと考えられる。
 良香の死は元慶三年(879年)であり、記録はその4年前まで書き続けられていることから、おおよその年代推定は可能であるものの、報告者の何たるかについては、まったく言及されていない。…中略…なぜなら富士山について二人の国司は、それぞれつぎのように記述しているからである。
駿河国宮、富士郡正三位浅間大神大山火
甲斐国宮、駿河国富士大山忽有暴火
つまり富士山を見る目は、当時ほとんどの者が「駿河なる富士」と決めてかかっていたことを示している。そうした考え方を踏襲して、良香の『富士山記』も、「富士山者在駿河国」と書き出し、「山名富士取(富士)郡名也」と断定しているのである。

1287地名:2004/04/29(木) 19:22
同書より続く
(ロ)末代上人と村山
 末代上人は、またの呼称を“富士上人”ともいわれた。それは彼が富士登山を数百度して、山頂に大日寺を建て、はては鳥羽法皇の帰依をうけて宮中の諸士から大般若経の書写をしてもらい、それを山頂に埋経した実績によるものである。その間の事情は、『本朝世紀』久安五年(1149年)の条に明らかであり、…
「久安五年四月十六日、丁卯、近日於一院、有如法大般若経一部書写事。卿士・大夫・男女・素緇多営之。此事、是則駿河国有一上人、号富士上人、其名称末代、攀之大日登富士山、已及数百度、山頂構仏閣、号寺。」
その大日寺はどの程度の規模であったか、後世まったく記述に接しないが、現在浅間神社の奥宮のある位置を明治以前は“表大日”(おもて)と呼んでいたので、おそらく登山道を登りつめた所にこうした祀堂をもうけて、入峯(にゅうぶ)中の修行拠点または山神定置の場にしたのであったろう。山神は、この頃、浅間大神に代わって、垂迹仏である大日如来が、全山を統治するものとしてかなりの比重をもって祀られていた。だが、そこにいたるまで、末代も本地垂迹の融和についてかなり苦悩していたとみえて、浅間大神=浅間大菩薩=大日如来というつながりの解明に多くの歳月を費やしている。その間の事情を『地蔵菩薩霊現記』によってみると、
「垂迹浅間大菩薩、法体は金剛昆廬舎那の応作、男体に顕れ玉ふべきに、女体に現じ玉へり。然れば即本迹各別なれば、末代に不信の衆生多くして、二仏の中間に迷ひ、済度も又覚束なく思し(おぼし)奉る。所詮我捨身(しゃしん)の行を修め、後代の不審を晴さんと思立て、御岳の半に座して、樹下石上にして、百日断食して、正しく神体を拝み奉とぞ祈りぬ。」
 つまり、浅間大菩薩は男体であるはずなのに、コノハナサクヤ姫(女神)を山神と祀る神社側と大きく相違していたのである。そこで百日の断食をこころみることになり、その満願の日暁、虚空から声が伝わってきて「汝のいる所から東南に百八歩すすみ、谷下を掘れ」と教えられる。その結果彼が得たものは、富士山にそっくりの形をした水晶であった(そこを後世、水晶ヶ岳と呼ぶ)。
 心の迷いは晴れた。神仏は男女を超越した世界に住みたもうものであると覚った時、はじめて彼は庶民の絶対的崇拝をうけることになったのである。その後……
「その身は猶も彼の岳(富士山)に執心して、麓の里村山と白(もう)す所に地をしめ、伽藍を営み、肉身を斯(ここ)に納めて、大棟梁と号して、当山の守護神と現れ玉ふ。」
というごとく、富士宮市元村山に居を占めて活動を続け、ついには即身仏(ミイラ)となってまつられるにいたるのである。彼を祀った建物は「大棟梁権現」と呼ばれ、江戸時代後期の地誌『駿河国新風土記』は、
「大棟梁と号し此山の守護神となるといへる社、今に村山浅間の傍に大棟梁権現の社あり。村山の三坊の山伏辻之坊は浅間社、池西坊は大日堂、大鏡坊は大棟梁権現と分て別当なり。」
と報告している。」

1288地名:2004/04/29(木) 21:49
同書より続く
「このように死後まで尊崇されて富士山の守護神とたたえられた末代は、いったいどのような素性の人だったのであろうか。まず『駿河国新風土記』の著者は、彼は駿河の人であるとし、「此人はじめ伊豆山に住し、今に伊豆日金山にその旧跡あり」と述べている。また『地蔵菩薩霊現記』は、彼が伊豆で“走湯”(はしりゆ)などの噴火炎熱の地獄をみて庶民の救済を思いたった、と書いており、富士登山に命をかける以前の末代の姿をしのぶことができる。…
そのうえ駿河の岩本に実相寺を開基した智印上人と特別な関係になっていた。実相寺は富士川に間近く、東海道の要所にあたって建てられた古刹であり、智印は京の人。それゆえ久安年中に当寺を建てるにあたって、鳥羽法皇の院宣による霊像を安置したというほど、中央とのつながりは緊密であった。その智印との関係は、つぎのとおりである。
「第一最初院主上人(智印、世貴言阿弥陀上人)者、鳥羽仙院之御帰依僧、末代上人之行学師匠也。」(文永五年、日興上人筆「実相寺衆徒愁状」による)
つまり末代はこの智印を師として見聞を広め、修行と布教につとめながら、富士山を征服していったのであり、実相寺が完成した久安年中には、すでに世人に認められる大日寺の建立など、めざましい活躍をしていたことになる。したがって実相寺建立にあたって彼の協力は絶大なものがあったろうと推定されるし、前記の如法経を富士山頂に埋めた行為もこれと無縁ではなかったろうと思われる。ともあれ、末代上人はそれまで神の山であった富士山に山岳仏教を導入して、麓の村山に修験者の居住する僧房を建て、興法寺や大棟梁権現など、後世の“富士修験”の基本的形態を完成したのであった。しかも彼はミイラとして残され、彼の行徳を慕う者達によって、ますます富士山は(師匠の智印が阿弥陀上人と尊崇されたと同じように)浄土信仰の色彩を強め、そこにいたる時は現世安穏と来世の極楽が約束される霊山として、定着していったのである。」

1289地名:2004/04/29(木) 22:15
同書より続く
「三 村山修験と富士行
(イ)富士行と頼尊
 末代上人の流れをくむ者達が、ひき続く鎌倉時代にどのような行動をとっているかというと、具体的には「埋経」と「富士行(ぎょう)の創始」と「仏像寄進」という三点において、いささかなりとも解明していけそうである。…中略
…山頂に建てられた大日寺ゆかりの大日如来が、山中仏化の重要なにないてとして造立寄進されている…。
 現在富士宮市元村山に保存されている大日如来のうちで最古の銘があるものは、先の埋経から40年後の正嘉三年(1259年)に北条時頼が寄進したという伝承が付随しているものである。村山浅間の社伝によれば、この年諸国に飢饉や疫病があいつぎ、群盗が各地にはびこったため、天下泰平を祈願して社殿を修理し、この仏像を造立寄進したという。…それと同時に、これと時を同じくするように日蓮上人が(末代の師匠智印が建立した)実相寺の経蔵にはいって、一切経論の研究にとりくみはじめたのである。その結果「立正安国論」が著述されて、日本の宗教界に大きな変転を現出していくのであるが、こうした揺れうごく時代に、富士信仰は着実に庶民の中に浸透していた。そのあらわれは、正嘉三年の仏像から58年ほど過ぎた文保年中(1317~9年)村山では“富士行”(ぎょう)というものが組織され、その頭主に頼尊という修験がおかれているのである。富士行とは簡単にいえば、富士山中にこもって修行する行為をただ山伏修験だけにまかせず、一般人が参加して自ら“行”をおこない、霊力または法力を得ていくべきだとするものであった。」

1290地名:2004/04/29(木) 22:43
同書より続く
「富士山中奉納物一覧
年号          奉納物  場所   銘文(抜粋)
1.正嘉三年(1259年) 大日木像 南口村山 敬白奉造立倶金頭大日如来壱体、願心聖人覚尊
2.至徳元年(1384年) 古鏡   須走口六合 略
3.文明十年(1478年) 大日木像 南口村山 奉造立金剛界大日尊形再興、大宮司前能登守忠時
4.文明十三年(1481年)不動明王 南口村山  略
5.延徳二年(1490年) 大日鉄像 頂上剣ガ峰 略
6.明応二年(1493年) 十一面観音 頂上東斎の河原 略
7.明応四年(1495年) 大日鉄像  頂上大日堂   略
8.文亀三年(1503年) 大日懸鏡  頂上釈迦割石  略
9.大永八年(1528年) 大日如来  頂上東斎の河原 略
10. 天文三年(1534年) 中宮社棟札 吉田口五号   略
11. 天文四年(1535年) 大日懸鏡  吉田口五合五勺 略
12. 天文十二年(1543年)大日如来  頂上剣ガ峰   略
13. 天文廿二年(1553年)地蔵    吉田口五合五勺 略
14. 永禄三年(1560年) 大日懸鏡  吉田口五合   略
15. 天正十九年(1591年)大日懸鏡  南口八合    略
                   (駿河志料・駿国雑誌・村山史料などより)」

1291地名:2004/05/01(土) 07:37
富士浅間神社 火の山だった富士山:そもそも富士という山名はアイヌ語で火を意味する「フチ」に由来するといわれている。なお、「アサマ」という口葉は、長野県の浅間山に眼らず、火山を意味し、富士の山神に対し「浅間大神(あさまのおおかみ)」と命名している。後世、浅間大神は、木花開耶姫(このはなのさくやひめ)と同一視された。浅間神社の祭神である木花開耶姫は、山々を司る神様である皇孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)の皇后である。/「せんげん」と「あさま」:古い祝詞では、浅間神社と書いて「あさまのじんじや」と読ませている。江戸時代に入って、いつとはなしに「せんげんじんしや」というようになったが、いまでも正式の社号は「あさまのじんじゃ」である。なお、「浅間」と「先現」の文字の誤用から、浅間が用いられるようになったとの説もある。(神社・千葉県柏市) [97-09-02]
「閼伽出甕【第6版】神社・神道」サイトから引用いたしました。

1292地名:2004/05/06(木) 21:24
「地名辞典」によれば、
「富士山は「万葉集」以来一貫して「駿河なる富士」と認識されていた。中略
「富士」の称について、都良香の「富士山記」(本朝文粋)は富士郡の郡名より起こるとする。
これに対し「竹取物語」は不死の薬を頂上で焼いたから、あるいは、そのための勅使が士(つわもの)を数多く引連れて登ったがゆえに士に富む山で富士山とする両説をあげて物語を結んでいる。
なお、般若山や芙蓉峯など異名も数多く、辞書によっては数十種を載せるものさえ見受けられる。」と。

1293犀角独歩:2004/05/10(月) 22:37

地名さん:

貴重な資料のご呈示、ロム者の一人として感謝申し上げます。
過日、知り合いの神道研究家(こちらの常連さんでは知己の方も大勢いらっしゃる方です)から、富士の由来について、ややお話を伺いました。

結局のところ、大日蓮華山の名の由来はわかりませんでしたが、今更、「あ、なるほど」と思ったことがあります。大日・蓮華・山であって、大・日蓮・華・山ではないことです。当たり前すぎることを書いていますが、富士山頂に旭日が昇るとき、富士の裾は蓮華の姿であり、太陽が大日であれば、富士山は蓮台の様相を示した名のであろうと思った次第です。山頂に旭日を懐く富士は確かに壮観です。

あと、「浅間」のことですが、これには「仙元大菩薩」の名を挙げ、浅間は「あさま」を語源とするのみならず、「せんげん」=仙元がその訓の語源になっているという指摘を受けました。

これらのことについて、わたしはまるで不案内ですので、この拙い投稿が、地名さんをはじめ、皆さんのご投稿で、予想を超えた膨らみを持ってくれればと、ささやかな希望を懐いております。

いずれにしても富士周辺のこと、真言立川流、神仏習合、山岳信仰、神道のタームから読み解かないとならないと改めて思う昨今です。

1294エル:2004/05/11(火) 08:36
念珠の時はお世話になりました。m(__)m

nb さんの掲示板で、念珠について少しやり取りがありましたね。

http://bbs4.otd.co.jp/401307/bbs_plain?base=10009&amp;range=1

これによると、日因上人は、数取りする時には母珠も数えるべきだという事を
云われているようですね。

ところで、108珠は隙間がないくらい、キチキチに作られてますよね。
弟子珠のように隙間がない。あれで、どうやって数を取ってたのでしょうか。
それとも、上代の数珠は隙間があったのでしょうか。(^^;

1295風来坊:2004/05/12(水) 11:31
管理人様、皆様
すでに過去話された内容かもしれませんが、ご教示いただきたく存じます。
日目師が亡くなった時、第四世を決める段階で、日道師と日卿師の間で争いがあったと
聞いたのですが、詳しくはどのようなものだったのでしょうか?

また、その事実が残されている書などはあるのでしょうか?

もしそれが本当ならば、その時点で血脈相承なるものがなかったことに
なるように思うのですが、いかがでしょうか?
血脈相承などなかったとしたほうが、二人の争いもわかるような気がするのですが。

ご教示よろしくお願い致します。

1296れん:2004/05/12(水) 13:10
風来坊さん初めまして。道郷論争の事ですが、郷師の付弟の日賢(日伝)師の文書によると、大石寺の東坊地は南条時綱氏から日郷師に寄進されたのに対し、西坊地は南条左衛門三郎氏より日道師の付弟日行師に相続されたことが記されております。そして日行師が東坊地の所有権を主張したことにより、伝師との間に東坊地の係争が起こったというのが史実です。道郷両師には論争は無かったでしょう。また、今日石山にて言われるが如き血脈相承が有った事を証する当時の正文献も皆無であって、今日の大石寺で言われる血脈相承は後世の成立と見てよいでしょう。

1297風来坊:2004/05/12(水) 14:18
れんさん
はじめまして。
御丁重なる御返事ありがとうございます。
道師と郷師の争いはなかったのですか。私の聞き間違いかもしれません。

小耳にはさんだところによると日目師が京都に布教に行かれるにあたって、郷師を同行させて、
道中、日目師が美濃の垂井で亡くなられた。
そして、大石寺に帰ってみたら、すでに道師が住職に納まっていて、
そこから三年ほどの争いが二人の間で起こった。
こんな話を聞いたことがありましたもので、いろいろな書をあさってその
信ぴょう性を探ってみたのですが、結局見つからずに質問させて頂いた
ところでございます。

了解です。史実にはなかったということですね。ありがとうございました。

1298問答迷人:2004/05/12(水) 14:44

風来坊さん
れんさん

>そして、大石寺に帰ってみたら、すでに道師が住職に納まっていて、そこから三年ほどの争いが二人の間で起こった。

これは、大石寺のアナウンスですね。実際は、日郷師が大石寺に戻ったとき、日道師はまだ北山にいて北山で日代師の跡を狙っていたが果たせず、大石寺に戻り日郷師の追い出しを図った、というのが史実ではなかったでしょうか?資料の裏づけ無しに書いていますので、この辺りの事情にお詳しい、れんさん、間違っておりましたら、訂正の程よろしくお願いいたします。

1299菱村正敏:2004/05/12(水) 16:45
 みかんさん

>林羅山の当該文献は、「神道大系論説編20」に載っているかもしれませんが、

 ご指摘のとおりに当該書に掲載されていました。神道秘伝折中俗解という
名称が付されていますが、これは神道秘伝という書物のやさしい解説書とい
うような意味なのかどうかわかりませんでした。で、神道秘伝折中俗解を見
たところ、富士山=大日蓮華山の指摘もそれに類似する記述も見当たらない
ように思います。

大日蓮華山という呼称がいつ発生したのか、それは正宗系以外のさらに
ふるい書物をあたるしかありませんが、正確にいえば神道深秘の写本には
大日蓮山とあります。ということは大日蓮華山という呼称は正宗系以外の
書物には記載されていないのではないかと大胆な予想をしておきます。

 余談ですが、林羅山がべつのところで仏家が「日の神は大日なり。大日の
本なるが国、ゆえになづけて日本国という」ということを指摘していました。

 これと似ているようにすると
 「本仏は大日蓮なり。大日蓮の山なるがゆえに、名付けて大日蓮山という」

 本朝神社考および神社考詳節などにも大日蓮華山に関する呼称は
見つけることができなかった旨も追記しておきます。

1300三学無縁:2004/05/12(水) 17:31
風来坊さん
問答迷人さん

たしかに、道郷二師の問題、石山初期の大きな問題であると思います。
目師の京都行に随伴したのが、郷師と尊師であるという説の初出はいつごろまで遡ることができるのでしょうか。
今、まったくの資料なしなのですが、せいぜい家中抄あたりではなかったでしょうか。
ただ、家中抄よりも早く、房山のだれかの記述では、随伴したのは道師と尊師で、郷師は石山におられた、というものがあったように記憶しています。
尚、道師がいたのは北山ではなく、「下坊」とあったように思います。
「下坊」がどこであるか今特定できませんが、それが事実であるとしたら、道師に石山留守居つまり四世の自覚はなかったことになるのではないでしょうか。
郷門否定は行師時師あたりによる必死のあがきのように思えます。

1301風来坊:2004/05/12(水) 18:04
問答名人さん
三学無縁さん

ご教示誠に有難う存じます。

そうなんです。私もこの話を耳にした時は大きな問題として詳しく論じたいもの
だと考えたのですが、それを証明する書がないのです。

ですので皆様にお力を頂ければと質問させて頂いたものでございます。

どちら様かお詳しいかたいらっしゃいましたらご教示のほどよろしく
お願い致します。

1302風来坊:2004/05/12(水) 18:13
問答名人さま
>日道師はまだ北山にいて北山で日代師の跡を狙っていたが果たせず、大石寺に戻り
 日郷師の追い出しを図った、というのが史実ではなかったでしょうか

なるほど。となると、少なからず何らかの争いのようなものはあったということ
なのでしょうかね。

そうであるとすると、もし唯受一人血脈相承なるものがあったとしても、
日道師は血脈相承を受けたことを、郷師はじめ周りの者達に証明することが
できなかったということになりましょうか。

となると、ここだけを取ってみても、唯受一人血脈なる相承など
なかったと考えることができましょうか。

もちろん、今までの皆様の議論の中で、そんな血脈相承などあとから
つけたものであることは了解しているところなのですが、
もう一つそれを証明といいましょうか、否定をする史実になりえる
のではと思った次第です。

1303風来坊:2004/05/12(水) 18:41
皆様あわせて質問させてください。
二年以上教学の研さんを怠っておりましたので、低レベルな質問ですし、
もう話されたことかもしれませんが、お許しを。

二箇相承は北山から盗まれてと独歩さんや問答名人さんの過去ログで
拝見したのですが、それが記されている書を教えて頂きたく存じます。

よろしくお願い致します。

1304顕正居士:2004/05/12(水) 19:22
日目天奏に日郷が随行したことは『祖師伝』(広蔵日辰・富要5巻)にあります。

二箇相承紛失は『二箇相承紛失由来』(保田日我・富要9巻)にあります。

1305れん:2004/05/12(水) 19:40
問答名人さん。日道師が大石寺に住したという文献は残っておらず、目師滅後は下之坊に定住した様ですので、道師が大石寺住職になったというのは後世成立の見解でしょう。また、日郷師も大石寺住職になったという文献もありませんから、実際は行師(西坊地)・郷師(東坊地)そして実態は不明ながら「上野六人老僧」を中心に合議的に運営されていたと思います。ただ道師は「日目上人一百箇日」追善の曼陀羅を書写していますから、目師滅後の日目門下の中で曼陀羅を書写を出来る立場には居たでしょう(郷師の曼陀羅書写は道師滅後に始められている)。

1306問答迷人:2004/05/12(水) 19:53

風来坊さん

顕正居士さんが、保田の文書を示してくださいましたので、僕からは二箇相承の、北山の文書を提示させていただきます。


本門寺宝物目録(富士宗学要集9巻20頁)

(編者注記)祖滅五百四十七年の集なり北山本門寺にあり、此の抄録の文書は年月日あれども当時用ひたるものとも見へず、又入文に怪しむべきありて全く其の正偽を知らず、単に当時の宝物の概数を知るの料とするのみ。

一、日蓮聖人御直筆漫荼羅大小弐十幅。
一、日興上人御真筆漫荼羅大小五十幅。
一、日蓮大上人御真筆本門寺額。
一、日興上人御真筆日妙聖人へ御遺状二通。
一、日蓮大上人御真筆一部八巻御経。
一、日蓮大上人御真筆紺紙金泥御経一部一巻。
一、日蓮大上人御真筆御聖教。
一、日興上人 同 上 同 上。
一、日蓮大上人同 上 貞観政要一部七軸。
一、天 神  同 上 法師功徳品。
一、日蓮大上人同 上 二箇の相承。
一、日蓮聖入所持御珠数一連。
一、日興上人     御申状三通。
一、同 上      御自筆本尊授与目録一巻。
一、同 上 同 上  日澄聖人御遺状一通。
一、日 代 同 上  五人立義抄一巻。
09021
一、日 源 同 上  安国論二巻。
一、日興聖人同 上  本尊七箇相承一巻。
一、同 上 同 上  教化弘経七箇の口決一巻。
一、同 上 同 上  産湯相承一巻。
一、同 上 同 上 文底秘法相承一紙。
一、同       本門寺御棟札一枚。
  以上。
右の通に御座候処先文に相誌し候天正九年武田勝頼家臣理不尽に奪ひ取り候に付き御注進申上げ候。  天正九年巳三月十七日 富士山本門寺、本妙寺、行泉坊、西之坊、養運坊、大乗坊。  増山権右衛門殿。

1307問答迷人:2004/05/12(水) 20:02

れんさん

有難うございます。

>上野六人老僧」を中心に合議的に運営

なるほど。これは一番有り得る事ですね。蓮祖が六老の選定を以って後継者を定められた如くですね。

>道師は「日目上人一百箇日」追善の曼陀羅を書写

この辺りが、唯授一人説に依って脚色され、道師が大石寺の第三代住職とされたのかも知れませんね。勉強になりました。有難う御座いました。

1308顕正居士:2004/05/12(水) 20:23
二箇相承

が北山本門寺にあり、西山本門寺の意を受けた武田軍に奪われたのは間違いのない史実でしょう。
奪われる以前に大石寺との紛争から今川氏の裁判に証拠書類として提出されたこともあります。
(だから二箇相承が日蓮の筆であるという意味ではありません)

血脈相承

血脈相承は室町時代に普及した諸芸伝授の様式で花道などに今日もあります。歴史上、最も有名
なのは「古今伝授」で、形式的なものではなく、たいへん時間もかかりました。
大石寺でいう血脈相承も同じですが、「唯授一人」の切紙相承が日蓮以来行われており、これの
伝受者だけが大石寺の貫主となる資格があるという考えとおもいます。この儀式は後世にできた
にしても、高齢の日目師が大石寺の相続者を決めないで天奏に立たれたのは不思議です。日目師
には日興師の譲状があるのに。70年におよぶ紛争にいたったことから考えると、すでに南条家(
新田小野寺家)に内紛があって相続者を決められなかったのかも知れません。

*宗教上のことは「合議運営」はあるでしょうが、道郷紛争は財産相続、大石寺(蓮蔵坊)の土地
を争う事件でした。
*切紙相承 両巻血脈などは「唯授一人」ではないので、切紙だと想像します。

1309れん:2004/05/12(水) 20:54
顕正居士さん。血脈相承についてのご見解参考になりました。有難うございました。
石山における切紙相伝の目録は三学無縁さん・犀角独歩さんが示された完則師記の大石寺宝蔵目録に記載があります(内容不明)。郷門の切紙については、目録ともに「千葉県の歴史」所収の保田妙本寺文書・宮崎県史所収の定善寺文書に収録されていますので、風来坊さんにぜひご一読をお薦めいたします。

1310空き缶:2004/05/13(木) 02:39

 「蓮蔵坊」とは「御堂」(御影安置の場所)のことではないでしょうか。

 「蓮」とは日蓮聖人、「蔵」とは聖人おわします処、つまり「蓮蔵坊」にまつわる争いは「御影」(興目両師からの相伝)の争奪戦だと思います。

 「千葉県の歴史」や「富士宗学要集9巻」に、日時師が日伝師に御影の返還を求めた書状が掲載されていたと思います。

 一時的に御影を遷座した「小泉久遠寺」も、「蓮蔵坊」の機能拡大版ですから。

1311犀角独歩:2004/05/13(木) 11:04

1303 風来坊さん:

> 二箇相承は北山から盗まれてと独歩…

この件に関しましては、1304に顕正居士さんが挙げてくださった資料に基づいて、曾て記したことでした。石山信仰下にあったときは、この我師の証明を金科玉条と考え、二箇相承真筆の挙証に数えておりましたが、1308に同じく顕正居士さんが「二箇相承が日蓮の筆であるという意味ではありません」と仰る如く、いまではわたしはこれが蓮師真筆の証とならない考えるに至りました。

なお、蛇足ですが、今川家云々の経緯については『大石寺誑惑顕本書』にもその記述が載っています。ただし、これは北山宣揚文書ですから、二箇相承が重須こそ、富士山本門寺であることを証明する真筆として扱われております。

ここで今更申し上げることはありませんが、興門下では富士山本門寺とは北山・西山の両寺院の名称です。

以上のことから、わたしは北西両山を跨ぐ人、すなわち代師・若しくはその法類が、二箇相承捏造に何らかの関わりを持ち、その当初においては‘大日蓮華山’大石寺とはまったく関係のない文書であったと考えられます。その後、この存在を知った石山において、広宣流布の暁には石山は富士山本門寺と改称する未来の証明書として扱われるに至ったのであろうと考えます。しかし、実際は既にある富士山本門寺を蓮師に仮託して宣揚することを目的にした文書であったと思われます。つまり、富士山本門寺は未来に石山が改名するためのものではなく、既にある富士山本門寺を証明するためのものであったということです。

尤も、こんなことは今更ここに記すことではありませんが、ロムの皆さんのために取り敢えず整理して標しました。

1312犀角独歩:2004/05/13(木) 11:09

れんさん:

> 郷師の曼陀羅書写は道師滅後に始められている

このご指摘に殊の外、わたしは目を引かれました。
道師はたしか郷師に書写漫荼羅を下しておりましたっけ?
となると、郷師は道師を自分の上位、もしくは興(目)を継ぐ師匠として仰いでいたという類推は成り立つことになるのでしょうか。また、れんさんはそのようにお考えですか。

1313れん:2004/05/13(木) 19:39
犀角独歩さん。日道師は元亨四年十二月二十九日に興師が書写し目師に授与された曼陀羅を目師滅後「日道相伝之日郷宰相阿闍梨授与之」と添書して日郷師に授与してます。道師は石山住職となった事を証する文献は皆無ですが、道師が目師百箇日追善の曼陀羅を書写し、また目師へ授与の興師曼陀羅を郷師へ授与している事実からは、道師は目師滅後の目師門下の長老として目師門下を代表する立場にはあったのではないかとは推察します。ただ道師と郷師の文献上の接点は上記の興師曼陀羅の添書のみで道・郷両師に師弟関係があったのかは分かりません。

1314犀角独歩:2004/05/13(木) 19:53

れんさん、今回のご投稿を拝見し、種々考え直すところがありました。
有り難うございました。

1315問答迷人:2004/05/13(木) 22:36

れんさん

>道師は目師滅後の目師門下の長老として目師門下を代表する立場にはあったのではないかとは推察します。

なるほど。道師に対する認識を新たにいたしました。有難うございました。

一つ御質問と言うか、お願いがあります。日本書紀が編纂された目的は、大和朝廷の正統性を主張するためであったと思います。古来、歴史が編纂される動機は、歴史に対する興味というよりは、現体制を正当化する目的でなされる場合が多いように思います。日蓮門下最古の歴史書、御伝土台を道師が書いたことの意味合いについて、僕は、第四世としての、自らの立場を正当化する目論見ではなかったかと考えてきましたが、この点に付いて、何かご見解をお持ちでしたら、ご披露いただけませんでしょうか。

1318れん:2004/05/14(金) 07:24
問答名人さん。私は道師の御伝土台の編纂の動機について、何らの見解を持っておりませんが、道師が御伝土台を編纂された動機の一つは、興目両師滅後の富士門流の内部における混乱(代師仙師の方便品読否論争と代師重須擯出)等が契機なったと思ってました。つまり蓮興目の三師の事蹟を通じて富士門流の法門を示し後世に伝えるのが目的ではなかったかと考えておりました。しかし問答名人さんのお言葉に触れて、道師が御伝土台を編纂した目的の一つには、富士門流内での日目門流の正統性を主張することにあったのではないかとも愚考しております。

1319犀角独歩:2004/05/14(金) 09:10

れんさん、問答名人さん、わたしも質問させてください。
『御伝土代』は元号の記述の間違いが指摘されますが、このようなことは富士周辺の、他の諸師の文献でも起こることでしょうか。
もう一点。この書は未完で、特に目師の記述はまるで途切れています。この理由はどのようにお考えですか。この書は御伝として三師(蓮興目)の系譜を挙げた点で際立っているわけです。もし道師が目師直系を主張するのであれば、むしろ、目師の項で筆を投げ出さず、自分との関わりまで記してもよさそうなものと思えるのです。いや、むしろ、そのことこそ、書かなければならなかったのではないでしょうか。それを書かなかった理由。諸般の事情で完結しなかったというより、たとえば、道師にとって、ある時期に、急速に目師への興味を失ったなどの理由は考えられないのでしょうか。

1320犀角独歩:2004/05/14(金) 09:11

れんさん、問答名人さん、わたしも質問させてください。
『御伝土代』は元号の記述の間違いが指摘されますが、このようなことは富士周辺の、他の諸師の文献でも起こることでしょうか。
もう一点。この書は未完で、特に目師の記述はまるで途切れています。この理由はどのようにお考えですか。この書は御伝として三師(蓮興目)の系譜を挙げた点で際立っているわけです。もし道師が目師直系を主張するのであれば、むしろ、目師の項で筆を投げ出さず、自分との関わりまで記してもよさそうなものと思えるのです。いや、むしろ、そのことこそ、書かなければならなかったのではないでしょうか。それを書かなかった理由。諸般の事情で完結しなかったというより、たとえば、道師にとって、ある時期に、急速に目師への興味を失ったなどの理由は考えられないのでしょうか。

1321風来坊:2004/05/14(金) 10:29
問答名人さん・独歩さん・れんさん
御返信賜りまことにありがとうございました。

独歩さん

>尤も、こんなことは今更ここに記すことではありませんが、
 ロムの皆さんのために取り敢えず整理して標しました。

本当に申し訳ございません。しばらくさぼっていたもので・・・。
もう一度過去ログ必死に読み返していきます。

1322風来坊:2004/05/14(金) 10:30
顕正居士さん
すいません。書き漏れしてしまいました。
御返信賜り有難う御座いました。勉強させて頂きます。

1323れん:2004/05/14(金) 20:16
犀角独歩さん。御伝土代の元号の記述の間違いは、蓮師の誕生の年のことでしょうか。少なくとも、上代の門弟の正本の存する文書では改元後の元号を記述する例はなかったと記憶しています。目師伝未完の件ですが、因師自筆の日目上人日道上人御系(本源寺蔵)には日道上人御自筆三師御伝記に曰くとして「十月十三日大聖人御遷化に値い奉り恋慕を懐き身延に還御す一山の供衆に列して御番役を勤む其の後弘安六年奥州に下向し新井田において法華堂を建立す以下これを略す」とあり、この文は現存本に無いので、現存本を補訂したものの曽存が推定されます。

1324犀角独歩:2004/05/15(土) 10:11

れんさん:

> 御伝土代の元号の記述の間違いは、蓮師の誕生の年のこと

ええ、それもあります。あと、

「日興上人御遺告、元徳四年正月十二日日道之を記す」

の‘元徳四年’です。同3年元弘に改元されていますから、この遺告が記されたとする1332年は「元弘二年」です。また、この書が道師本であると決定を下したのは亨師となろうかと思います。しかし、これは本当に同師のものでしょうか。

先に完則図をご覧になった由、記述されてお出ででしたが、『大石寺宝蔵目録』に『三師伝 日時筆 一巻』とあります。

亨師は『御伝土代』の編註に「『在世一代乃至于時応永十年癸未九月廿二日』の三行あるに依り後師誤りて日時上人作の三師之伝とせし事あり今因に之を記し置く」とします。ここにいう『三師伝』とは遠霑講寺完則師が目録に言う『三師伝』のそれであろうと思うのです。

わたしは『御伝土代』の
「日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏」
「三身即一の有縁の釈尊」
という‘釈尊を無作三身・三身即一の本仏’とする語法及び教学が同師の段階で確立していたのであろうかと?とやや疑っている面があります。また、記述は『産湯相承事』『種々御振舞御書』を彷彿とするところもあるわけで、これらが出揃い、三師に仮託できる時期はいつか?と考えるとき、亨師の説を斥けて完則師の頃に言われたとおり、『三師伝』(御伝土代)は時師の作と考えたほうがよいのではないのかと思える節があります。

ただし、残念ながら筆跡鑑定に関してはその現物すら閲覧したこともないので何とも言えません。しかし、石山、亨師は元より、川澄師、また正信会各師の筆跡鑑定能力は如何ばかりものかとわたしは手放しに信用しない面もあります。

勝手なことを記していますが、同書の元号問題を取り沙汰したのは以上の経緯からでした。

1325空き缶:2004/05/15(土) 12:45

 犀角独歩さん、こんにちは。

 「御伝土代」については、ほんの一部ですが「図録 日蓮聖人の世界」に写真が収録されえちます。
 同じく同書には道師の諫暁八幡抄の自署・花押の写真が掲載されておりますが、これだけではなんとも判断できませんね。
 あえてこの少ない資料をもとに暴論を述べれば、両書は遺筆ということになるのではないでしょうか。

 この辺は資料豊富な、れんさんのご意見を是非お願いしたいです。

1326空き缶:2004/05/15(土) 13:22
興風談所「御書システム」のHP、コラムに日道師の自署・花押の筆写真が出ていました。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html

あとは菅野慈俊師の「御本尊集」(奉蔵於奥法賓)に、道師書写曼荼羅の写真が出ているはずです。

やはり独歩さんの危惧そのものではないでしょうか。

1327地名:2004/05/16(日) 17:40

1293 独歩さん

>神道研究家から富士の由来について話を伺う。
>結局、大日蓮華山の名の由来はわかりませんでしたが、「あ、なるほど」と思った。
>大日・蓮華・山であって、大・日蓮・華・山ではないことです。

仕事が忙しくなかなか書き込みできず失礼しました。
上記の点は私も調べた過程では日蓮の山だという明確な根拠が得られておりません。傍証すらすると仏教では大日如来に関連ありという例証ばかりです。

>当たり前すぎることを書いていますが、富士山頂に旭日が昇るとき、富士の裾は蓮華の姿であり、太陽が大日であれば、富士山は蓮台の様相を示した名であろうと思った次第です。
>山頂に旭日を懐く富士は確かに壮観です。

このようなご理解もあるのですね。勉強になりました。

>「浅間」のことですが、これには「仙元大菩薩」の名を挙げ、
>浅間は「あさま」を語源とするのみならず、
>「せんげん」=仙元がその訓の語源になっているという指摘を受けました。
>これらのことについてこのが、膨らみを持ってくれればと希望を懐いております。

この点も「仙元」という用語の使用例があるようですね。

>いずれにしても富士周辺のこと、真言立川流、神仏習合、山岳信仰、神道のタームから読み解かないとならないと改めて思う昨今です。

そうですね。大日蓮華山という用語例は最澄の神道秘伝のようです。ただこれは私が調べた限りでは「最澄伝授」となっており最澄にまで遡れるのかよくわからないところがあります。
天台神道、真言神道、山岳信仰、神仏習合、法華神道等が入り組んでいるように思われます。

1328地名:2004/05/16(日) 18:47
「神道深秘」 最澄  (私注:立正大学図書館資料・出所不明とあり。また資料の冒頭の脇に「此書伝教大師とは偽也、日蓮上人の作なり、そのころにてにてみるべし」とあり。真偽等定かではありません。)
「神道灌頂儀式次第  大師伝授」
「十一 浄土通穴秘伝事」
「大師尋云、予諸国諸の霊山霊地を廻り見聞するに、常陸国には筑波山、伊豆には箱根山、出雲不老山、略、出羽国には羽黒山、下野には日光山、駿河には大日蓮華山、安房国には清澄山、能登には石動山、越中には立焔山、加賀越前には白山、甲斐には身延山、白根嶽、中略、」
とあります。大日蓮華山とあるばかりで、その由来等は記されておりません。

1329地名:2004/05/16(日) 18:54
所報33号で「日興上人「本門寺根源」初期道場の位置について」石川修道(現代宗教研究所研究員)師の論文から引用いたします。

「『神ハ日神』(天照大神)とは、『日本』の国名と関連し、日本の象徴たる大日蓮華山(富士山)と関連してくる。日蓮聖人が一切経閲覧のため入蔵された岩本実相寺は、富士山岳信仰の本山である。「富士修験の祖」と言われたのが『富士上人松代〔まつよ〕=末代』である。平安時代末に書かれた『本朝世紀』に
 『久安五年(一一四九)(鳥羽法皇)富士山頂に仏閣を造り大日寺と名づけ、数百度登山し、写経を埋経した(取意)』
とある。昭和五年富士山頂の浅間神社奥宮再建の時、経箱があり、「承久」(一二一九)の年号と「末代聖人」の名があった。末代は駿河の人で、岩本実相寺の智印に行学を学んで、天台真言の密教を身につけ、富士山を修行道場とした。日興、日頂、日持、日弁、日位等は、実相寺、四十九院の影響を強く受けた筈である。日蓮聖人も岩本入蔵のとき、富士山岳信仰を学ばれた筈である。岩本実相寺は鳥羽法皇の「勅願寺」である。「神の本地は仏」であり、仏は神の姿で現われるという神仏合体の宗教観が「浅間神社の本地は大◎日◎如来」という大日信仰と富士信仰が合体した。富士山頂は、地蔵岳、阿弥陀岳、観音岳、釈迦岳、弥勒岳、薬師岳、文殊岳、如来岳(大日)の名があり、胎蔵界曼茶羅の『中台八葉院』の仏教世界を大日如来が統一仏として現われているという真言密教を、日蓮聖人は天照大神=『釈尊が本地』と把え、天照大神の本名『大日霎貴〔オオヒルメ〕』が、富士山の相と把えたのであろうと考えられる。大日如来の『大日』でなく、天照大神の本名『大日〔オオヒ〕』霎◎女◎である。それが重須本門寺に伝わる『本化垂迹天照大神宮』であると考えられる。」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_185.htm

1330地名:2004/05/16(日) 19:04

「五人所破抄に学ぶ 下」山梨県青年部編、聖教新聞社、2000年2月P91〜105から引用します。
「大日蓮華山」についての語句解説で
「富士山のこと。略して日蓮山ともいう。伝教大師の作と伝えられる「神道深秘」に記されている。
大日蓮華山という呼び方は文学作品、記録文等の一般的な文献には見られず、修行僧、修験者の間で呼ばれていたと推察される。」とあります。

日蓮山についても調べてみたのですが現在のところ日蓮山という表記について確認できていません。
学会の山梨県青年部編でも「神道深秘」については「伝教大師の作と伝えられる」とある点に注意が惹かれます。

1331地名:2004/05/16(日) 19:43
1330より続く
同書では「富士の語源については古来より様々な見解が述べられているが、「富士火山」(田中収編著、山梨大学・大月短期大学地学研究室、P31)によれば、次表のように大きく分けると日本語とするものとアイヌ語とするものの二つとなる。
氏名    解釈               意味
高田興清  フジナ(吹息穴)の略       火山
森宗芳   フシロ(斑白)の略        頂上に常に雪がある
河野道春  フセのなまり           物を覆せた形
バチュラー アイヌ語のフンチ又はウンチヌプリ 火山又は火の女神の山
志賀重昂  アイヌ語             費の女王
鏡味完二  古代日本語フジ          なだらかな地形

1332地名:2004/05/16(日) 20:02
同書の続き
「次に、富士山の名前についてであるが、古来より様々な名前で呼ばれてきた。ここでは「「富士山」史話と伝説」(P73〜75、遠藤秀男著、寺田書店)を参考にそれぞれの文献に記された呼び名を挙げてみる。
1.富士山頂経ヶ岳より出土した「富士山由来記」十種異名
  養老山・花角山・行向山・来集山・妙光山・仙人山・穀聚山・天地和合山・磐石山・富士山
2.富士吉田市村上の「富士山縁起」十五種異名
  不盡山・理智山・蹲虎山・行向山・四八山・四方山・富士山・来集山・仙人山・穀聚山・般若山・養老山・天童山・七宝山・妙香山
3.「秘中抄」九種異名
  竹取山・羽衣山・東山・未通女子山・四季なか山・国の深山・神楽山・鳥の子山・波の深山
4.「秘名抄」十種異名
  神路山・三重山・見出山・二十山・三上山・新山・塵山・常磐山・鳴沢の高嶺・藤嶽。」

1333菱村正敏:2004/05/16(日) 22:36
 神道深秘の写本、以前に書いたかもしれませんが、叡山文庫所収の
ものには「大日蓮山」とあります。ほかに神道深秘の写本があるかど
うか分かりません。

 わたしのみた写本には元和7年と書写の日付がありました。西暦で
すと1621年。日寛は1665〜1726の人のようですから、この
写本の奥書にある書写日が正しいとすれば、この写本をみた可能性も
あるでしょう。

 なお、延暦22年に最澄が書いたことになっています。ちなみに
翌年に最澄は遣唐使として唐にわたっているようです。

1334地名:2004/05/17(月) 09:53

私が見た「神道深秘」は、立正大学図書館の資料です。出所不明となっています。コピーされたものです。
「神道深秘巻第目録上」の末には、「延暦二十二年十月三日 神道甚深蔵巻第上」とありますので、西暦803年。804〜805年に遣唐使で帰国の前に当たるようです。
「神奥秘一谷極巻下目録」の末には、「神奥一谷巻 弘仁十三年二月十三日」とあります。弘仁十三年は西暦822年で最澄が56才でお亡くなりになっています。
「大日蓮華山」の記述は、巻下の「十一 浄土通穴秘伝事」に「駿河には大日蓮華山」と各地の国名と山名が記載されています。
「法泉坊蔵本」等となっていますので、相当後で作られたものかと推測します。

1335地名:2004/05/17(月) 10:04
「五人所破抄に学ぶ 下」山梨県青年部編、聖教新聞社、2000年2月P91〜105から引用の続きです。
「都良香(みやこのよしか)は「富士山記」で「山を富士山と名づくるは、郡の名を取る」(塙保己一編「群書類従6」P968)と記している。「続日本記」(797年)の中に「富士」の表記があり、これに次ぐ「日本後記」(840年)、「文徳実録」(879年)、「三代実録」(901年)などの官書がすべてこれにならっていることから、このころに「富士」という文字が用いられ、平安時代初期には正式なものになっていたことがわかる(以上、遠藤秀男著「「富士山」史話と伝説」P76、寺田書店)。」

1336地名:2004/05/17(月) 10:11
同書の続きです。
「また富士山には山岳宗教も盛んであった。
伝教の作と伝えられている「神道深秘下」(東北大学付属図書館、狩野文庫)の「十一、浄土通穴秘伝事」の冒頭に「大師尋ねていわん、予諸国を廻り諸の霊山霊地を見聞するに、常陸国には筑波山、伊豆には箱根山、出雲には不老山、出羽国には羽黒山、下野には日光山、駿河には大日蓮華山、安房国には清澄山(以下略)云々」との記載が見られる。」

1337地名:2004/05/17(月) 10:21
同書続き
「富士山は、平安時代から山岳宗教の影響が現れ、久安五年(1149年)に駿河の僧末代が富士山頂に大日寺を建立した(本朝世紀)。
また、その後富士山頂(今日の奥宮)である奥の院に大日堂が建てられた。これが富士山の表口であるのに対して、裏口に相当する吉田口の山頂には薬師堂が建てられた。
そして山頂の八峰を八葉の蓮華になぞらえて、山の名も唐風の芙蓉の字をあて、富士山を「蓮岳」とも「芙蓉峰」とも呼ぶようになった。
中央に大日如来を置き、蓮の花弁の八葉のように山頂に九体の仏が住していると擬したところから大日蓮華山と呼ばれたと推定される。」

1338地名:2004/05/17(月) 10:36
「地名語源辞典」(P214、山中襄太郎著、校倉書房)によれば、大日如来の大日を取って地名の名前とした地名は他にも多数見られ、静岡県西部大井川の右岸近くの山「大日山」には金剛院という寺があり大日如来を祭っており、その他、福井・岐阜県境に「大日岳」(P1709)、福井・石川県境に「大日峠」(P933)、その北に「大日川」などがある。
後の作品で延宝八年(P1680)に描かれた「八葉九尊図」(富士吉田市新倉の正福寺蔵、富士吉田市歴史民族博物館に写真展示)に当時の富士山信仰の様子が表されている。
そこには中央に大日如来を置き、蓮の花弁の八葉のように山頂に九体の仏が住している姿が描かれている。」

1339地名:2004/05/17(月) 10:45
1338も同書からの引用です。
同書続き
「(五人所破抄の)「富士は郡の号即ち大日蓮華山と称す」という表現は「産湯相承事」の「日蓮は富士山自然の名号なり、富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云うなり」(御書P879)によっていると、思われる。」

ここで私がわからないのは、「実名を」「大日蓮華山と云う」ということです。

1340地名:2004/05/17(月) 10:54
同書続き
「富士山が大日蓮華山という名前で呼ばれていたことは「神道深秘」に確認できたが、その由来は、山岳信仰による「大日山」「蓮華山」からきている可能性が高い。
「大日山」「蓮華山」については、日順は「表白」の中で「富士山をば或は大日山とも号し・又蓮華山とも呼ぶ、此れ偏へに大日本国の中央の大日山日蓮聖人大本門寺建立すべき故に先き立って大日山と号するか、将た又妙法蓮華経を此処に初めて一閻浮提に流布す可き故に・蓮華山と名づくるか」(「富士宗学要集」第二巻P11)と記し、日蓮大聖人の仏法が世界広布する瑞相として意義付けている。」

1341地名:2004/05/17(月) 11:03
「表白」日順
「中ん就く霊鷲山・天台山・比叡山は共に法華弘通の地なり、然りと雖ども彼は皆垂迹にして未だ本を願はさず其の故は天竺をば月氏と号す即月の国なる故なり、漢土をば震旦と名く星の国たるによりてなり、随つて天台山は三台星の所居と申すなり、我が朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し・月氏震旦に勝れたり・仍つて日本と名く、富士山をば或は大日山とも号し・又蓮華山とも呼ぶ、此れ偏へに大日本国の中央の大日山に日蓮聖人大本門寺建立すべき故に先き立つて大日山と号するか、将た又妙法蓮華経を此処に初めて一閻浮提に流布す可き故に・蓮華山と名づくるか」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu2_2.htm
nbさんに感謝申し上げます。

1342地名:2004/05/17(月) 11:07
「五人所破抄」日順
「次に日本と云うは惣名なり亦本朝を扶桑国と云う富士は郡の号即ち大日蓮華山と称す、爰に知んぬ先師自然の名号と妙法蓮華の経題と山州共に相応す弘通此の地に在り、遠く異朝の天台山を訪えば台星の所居なり大師彼の深洞を卜して迹門を建立す、 近く我が国の大日山を尋ぬれば日天の能住なり聖人此の高峰を撰んで本門を弘めんと欲す、閻浮第一の富山なればなり五人争でか辺鄙と下さんや。 」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu2_1.htm

1343地名:2004/05/17(月) 11:12
「五人所破抄訳解」雪仙日亨
「次ぎに此国を日本と云ふのは惣名である・扶桑国とも云つてをる、富士と云ふのは郡の名を取つたのであるが、大日蓮花山と古来称してをる、それで先師日蓮の名号と・妙法蓮華の経題と・山の大日蓮華の名と・州の大日本の号と・四つの名称が自然に相応する所から考ふれば、本門の法華経の弘通は富士山より起るべきなのであることがわかる、例を遠く異国支那に求めて天台山の事をたづぬれば、其地理が天文の上からは三台星の分野に応ずることで・天台大師其の天文地理に応じて天台山に道場を定めて迹門の法華経を弘められた、此れを近き我国で云へば大日蓮華の富士山は日天に応ずる地理で・日蓮聖人此の峰を撰びて本門を弘めらるゝ考へであった、誠に日本のみの名山ではない・世界第一の富士山である、其れを五老が辺鄙の富士山と卑しむるのは聞えぬわけぢや。」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu2_18.htm
ご参考までです。

1344地名:2004/05/17(月) 11:24
日蓮の御書(とりあえず真蹟の有無を問わない形で摘出しました)には「大日蓮華山」という呼称は「産湯記」のみ。「富士山」という表記はあり。

産湯相承事
聖人重ねて曰ふ様は、日蓮が弟子檀那等悲母の物語りと思ふべからず、即ち金言なり。其の故は予が修行は兼ねて母の霊夢にありけり。 日蓮は富士山自然の名号なり。富士は郡名なり、実名をば大日蓮華山と云ふなり、我中道を修行する故に是くの如し。  

聖愚問答抄上
第二は山の譬なり衆山を諸経に譬へ須弥山を法華に譬へたり須弥山は上下十六万八千由旬の山なり何れの山か肩を並ぶべき法華経を大日経に劣ると云う人は富士山は須弥山より大なりと云わん人なり、

日女御前御返事
御布施七貫文送り給ひ畢ぬ。 属累品の御心は、仏虚空に立ち給て、四百万億那由佗の世界にむさしの(武蔵野)のすすき(芒)のごとく、富士山の木のごとく、ぞくぞくとひざ(膝)をつめよせて頭を地につけ、身をまげ掌をあはせ、あせ(汗)を流し、 つゆ(露)しげくおはせし上行菩薩等・文殊等・大梵天王・帝釈・日月・四天王・竜王・十羅刹女等に、法華経をゆづらんがために、三度まで頂をなでさせ給ふ。譬へば悲母の一子が頂のかみ(髪)をなづるがごとし。

身延相承書
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師たるべきなり。 国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と云ふは是なり。就中、我が門弟等此の状を守るべきなり。 弘安五年壬午九月 日  日蓮花押 

百六箇抄
四十二、下種の弘通戒壇実勝の本迹、 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり。〈上行院は祖師堂云云弘通所は総じて院号なるべし云云〉

1345地名:2004/05/17(月) 11:33
日興の確実なる遺文「三時弘経次第」では富士山とあります。

「五人所破抄」は日興の最晩年の時期に日順が草案といわれています。日順は10代から20代に比叡山に留学しています。

五人所破抄
次に日本と云うは惣名なり亦本朝を扶桑国と云う富士は郡の号即ち大日蓮華山と称す、爰に知んぬ先師自然の名号と妙法蓮華の経題と山州共に相応す弘通此の地に在り、遠く異朝の天台山を訪えば台星の所居なり大師彼の深洞を卜して迹門を建立す、 近く我が国の大日山を尋ぬれば日天の能住なり聖人此の高峰を撰んで本門を弘めんと欲す、閻浮第一の富山なればなり五人争でか辺鄙と下さんや。
『五人所破抄』についても古来よりその筆者については疑義があり、従って日代の作とする説もあったが、近代になって日順の草案とされるに至った。しかし、最近宮崎英修著の『五人所破抄の作者について』の論文において、本書真書の年号と日順の追記があって、本書を日代作と推定している。(e)もっとも日代筆の直筆が北山に現存するというので、日代作というのが至当のようであるが、わたしは日順の草案を日代が清書したものではないかと思う。(本書は「六人立義草案」とも呼ばれた)
 『興門教学の研究』第2篇 興門教学の形成と展開 第1章 派祖日興の教学 第3節「日興の著作と偽作論」から抜粋(海秀舎)
富士一跡門徒存知の事
一、本門寺を建つ可き在所の事。
 五人一同に云く、彼の天台伝教は存生に之を用いらるるの間直に寺塔を立てたもう、所謂大唐の天台山本朝の比叡山是なり而るに彼の本門寺に於ては先師何の国何の所とも之を定め置かれずと。
 爰に日興云く、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば駿河国富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ、仍つて広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり。
一、王城の事。
 右、王城に於ては殊に勝地を撰ぶ可きなり、就中仏法は王法と本源躰一なり居処随つて相離るべからざるか、仍つて南都七大寺北京比叡山先蹤之同じ後代改まらず、然れば駿河の国富士山は広博の地なり一には扶桑国なり二には四神相応の勝地なり、尤も本門寺と王城と一所なるべき由且は往古の佳例なり且は日蓮大聖人の本願の所なり。

1346地名:2004/05/17(月) 11:38
「日興の著作と真偽論」執行海秀師
「次に『富士一跡門徒存知之事』は大体『五人所破抄』と同調のものであるが日澄が日興の義を付嘱されたというように「追加分」が初めからあったとすれば、『五人所破抄』が重須系で成立したのに対し、『一跡門徒事』は大石寺系ではないかと思う。」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/chue#chue
独歩さんの「仏教再考」から引用させて頂きました。感謝申し上げます。

1347菱村正敏:2004/05/17(月) 12:30
>>私が見た「神道深秘」は、立正大学図書館の資料です。出所不明となっています。コピーされたものです。

奥書はどうなってます?写本日時は掲載されてます?

 それと、最澄は804年に空海とともに唐に渡っていますので
これが書写されたとされる803年は渡唐まえということですね。

1348地名:2004/05/17(月) 12:51
「富士山縁起状」(原文漢文を書き下し文に改め適宜句読点等を入れました。)
「それ富士浅間大菩薩とは、法性無漏の山高く三国に勝れ、垂迹和光の岸広く、権現の神風豊葦原の国にあをき、そもそも神代の往昔機根いまだ熟せざるがゆえにて、…中略…
仁王七代の帝孝霊天皇の御宇に、この御山初めて出現するところなり。…中略…
凡夫の肉身たちまち八葉等覚の峰妙覚毘盧の頂上にのぼりて、大日覚王を拝したてまつる。大俗の凡夫すみやかに即身成仏の事、霊仏霊社の参詣多しと雖も即身即仏の利生たちどころにこうむること、富士参詣にはすぎず。
そもそもこの山の総体は、外院は金の大日、内院は胎の大日、両部不二の一体なり。
八葉九尊は、第一の嶽は、天照大神の本地・地蔵菩薩なり。
第二の嶽は、熊野の権現の本地・阿弥陀如来、
第三の嶽は、伊豆権現本地・観世音、
第四の崗は、白山権現本地・釈迦如来、
第五の崗は、日吉山王本地・弥勒佛、
第六の嶽は、鹿島金山の大明神本地・薬師如来、
第七の嶽は、三島の大明神本地・宝勝尊、
第八の嶽は、箱根の権現本地・文殊御堂、
五所の権現は本地・五大力菩薩中宮観音・弥勒の二尊なり。
日神子はイザナギ・イザナミ二神ましますがゆえに、金胎両部の峰と名づく。
総じてこの御山は、下金輪際より出て、上碧天に等し。
釈尊出世して成道説法利生したまう。
諸天善神三世常住天降り音楽を奏し花を散し香を焼きたまうゆえに、
今焼香の煙立ち音楽の響き絶えざるなり。
内院の底に虎の石うずくまるに似たるあり。
これすなわち深秘尊形なり。
これによりて蹲虎山と号するなり。
この山に七種の名あり。…老養山…花角山…行向山……。来集山。これ三世諸仏十方の諸神来集するする三世常住の浄土なり。天竺霊鷲山・唐土五台山、仏いま現在せず。この御山は生身の仏菩薩・諸天善神いますがゆえに。…妙光山…仙人山……。富士山。これ参詣の人富貴安楽の徳にあずかり、長生居士の身となり、富寿をこうむるがゆえなり。…中略……南無富士浅間大菩薩皆令満足」

1349地名:2004/05/17(月) 13:02

1347 菱村さん
>奥書はどうなってます?写本日時は掲載されてます?
>最澄は804年に空海とともに唐に渡っていますので
>これが書写されたとされる803年は渡唐まえということですね。

はい、奥書や写本日時などは書いてありません。
「堀川通高辻上ル町 植村藤右衛門」とありますが本文の文字と異なります。

日付は上巻が延暦で、下巻が弘仁とあります。
図書館の資料には出所不明とあり、これ以上のことはわかりません。
恐れ入ります。

1350地名:2004/05/17(月) 14:23
「本朝神社考」林羅山
「富士山」
「本朝文粋第十二に載する都良香富士山の記に云ふ、富士山は駿河の国に在り。峯削り成せるが如く、直ぐ聳ちて天に属けり。其の高さ測る可からず。…中略…
古老伝へ云ふ。山を富士と名づくるは、郡の名を取れるなり。山に神有り。浅間大神と名づく。…中略…
縁起に云ふ、考安天皇九十二年六月、富士山涌出す。…中略…郡の名に取りて富士山と日ふ。形蓮華を合するに似たり。絶頂八葉、層層に第八層に到る。…中略…
延暦二十四年の託に日く、我れを浅間の大神と号す。平城天皇大同元年に社を立てて之を祭る。…中略…

余(私注:林羅山のことか)、駿府に在りて幕下に侍る。次で富士浅間の縁起を見る。…中略…或は日く、浅間大明神は本地大日如来、愛鷹の大明神は本地毘沙門。又日く、不動明王と。…中略…皆是れ浮屠氏の誇謾にして世人多く之を信ず。余が取らざる所なり。…中略…

義楚六帖に日く、日本国、倭国と名づく。東海中に在り。秦の時徐福五百の童男、五百の童女を将いて此の国に止る。東北千余里に山あり。富士と名づく。亦蓬莱(ほうらい)と名づく……」

1351地名:2004/05/17(月) 14:58
真言神道
「日本記一流之大事」
「富士山之由来之事」
「凡そこの山には金剛界の大日立ちたまう、内院は胎蔵界、大日如来立ちたまわぬればこれを両部と申すなり、また八葉九尊と申す事は、一には熊野、本地・阿弥陀、二には陬防、本地・普賢、三には天照大神、大日、四には貴船、釈迦、五には箱根、地蔵亦は文殊、六には鹿嶋、観音、七には白山、胎大日亦は薬師、八には日吉、弥勒、九には春日、不動、右これを九尊と申すなり、この山に室と申す所あり、五所権現本地五大力○なり。それより十里上に中宮、御立候は二神なり、本地弥勒・観音の二○おわすなり、日神號と申す所あり、イザナギ・イザナミ○尊生まれたまう時に、陽陰神二の神出下給う、それゆえ両部と申すなり、この山に金輪のあいたより出生するなり、ただし人知らず、考霊天皇の御時これを見出給う、共に見たり、釈尊出世の御山にて説法したまう、その時天下りたまう香焼たまうなり、煙の立ち挙げを名づけて戀の焼きとは申すなり、ただしこの山にあまたの名あり、初は養老山と申すなり、又花角山とも申すなり、行向山とも申すなり、亦集山とも申すなり、亦は高山とも申すなり、仙人山とも申す、亦富士山とも申すなり、この七の名あり、以下略」

1352地名:2004/05/17(月) 15:17
天台神道
「溪嵐拾葉鈔」
「問、富士の岳をもって真言の秘事とする様(方)如何、
答、富士とは郡名なり、この山富(士)郡に在るゆえなり、峯(実事)を云へば真言布字之葉(義)なり、謂意はこの峯は四方円満山高く秀たり、頂上に八葉の形あり、昔は火炎立てけり、故に富士の煙と云いけり、頂上八葉は不動の頂上之蓮花なり、又(十九の相)布字ある故に布字と名づく、……、又(一の伝に)云、我国両部曼荼羅あり、富士はこれ金剛界の曼荼羅なり、故に竪に高く秀たり云々…略」

1353地名:2004/05/17(月) 15:44
「地名辞典」によれば
「神仏分離と富士山」
「明治初年の神仏分離により山内の仏像・仏具は下山させられた。山頂の仏像の多くは大宮に下山している。各登山口の浅間神社でも鐘楼・鐘・仁王門・護摩堂などが取除かれ、村山では大日堂と村山三坊が廃された。
明治七年には富士山中の仏教的な地名の改称がなされ、
山頂八葉などでは
文殊ヶ岳→三島ヶ岳、釈迦の割石→割石、薬師ヶ岳→久須志岳、釈迦ヶ岳→志良山岳(しらやま)(白山岳)、阿弥陀ヶ久保→片瀬戸、観音ヶ岳→伊豆岳、勢至ヶ久保→荒巻、大日堂→浅間宮、東西(東斎)ノ河原→東安河原(ひがしやすのかわら)、西西(西斎)ノ河原→西安河原となった。東口九合目の迎薬師は迎久須志、経ヶ岳は成就ヶ岳と変更された。」

1354地名:2004/05/17(月) 15:51
「地名辞典」で富士門流の「富士五山」の「山号」を見ていたら次のようでした。
       山号
大石寺   多宝富士大日蓮華山
妙蓮寺   富士山
北山本門寺 富士山
西山本門寺 富士山
小泉久遠寺 富士山

1355菱村正敏:2004/05/17(月) 16:00
>はい、奥書や写本日時などは書いてありません。
>「堀川通高辻上ル町 植村藤右衛門」とありますが本文の文字と異なります。

 植村さんは京都の出版所でしょう。ただ、誰がどこで書写したかが
書いていないとすれば、わたしがみた叡山文庫の神道深秘からは少々
間引かないといけない資料かもしれません。

1356地名:2004/05/17(月) 16:06
富士山と大日蓮華山については、林羅山の本について文献を探したのですがみつからず調べきれておりません。いつになるか確約できませんが調べられましたら報告します。
現在までのところでは、大日蓮華山の出所は「神道深秘」(最澄撰と云われる)だけでした。
大日蓮華山の意味について述べられた資料は現在までのところ見つけられませんでした。
地誌名等では富士山といわれるのが一般的です。
仏教の神仏習合(本地垂迹)で富士山の本地が大日如来云々と云われるようです。
日蓮の遺文では産湯記以外での使用例は見当たりません。富士山の使用例はあります。なお、産湯記には真偽論があります。
日興も確実な著述では富士山の使用例です。五人所破抄(草案か)は日順師(日代師記すとも云われる)を晩年の日興が見て裁可したのか私にはよくわかりません。
内容等の不適切な点等は私の未熟のためですのでお許し願えれば幸いです。

1357地名:2004/05/17(月) 16:16
1355 菱村さん

菱村さんの言われるとおりかもしれません。ご覧になられている叡山文庫の方が実際に比叡山で求められたものですから。

なお、上述した山梨県青年部の「神道深秘下」(東北大学図書館、狩野文庫)と私が見た本では内容は同じでした。

1358地名:2004/05/17(月) 16:41

1299 菱村さん

>林羅山の当該文献は「神道大系論説編20」
>当該書に掲載されていました。神道秘伝折中俗解という
>名称が付されていますが、これは神道秘伝という書物のやさしい解説書とい
>うような意味なのかどうかわかりませんでした。で、神道秘伝折中俗解を見
>たところ、富士山=大日蓮華山の指摘もそれに類似する記述も見当たらない
>ように思います。
>大日蓮華山という呼称がいつ発生したのか、それは正宗系以外のさらに
>ふるい書物をあたるしかありませんが、正確にいえば神道深秘の写本には
>大日蓮山とあります。ということは大日蓮華山という呼称は正宗系以外の
>書物には記載されていないのではないかと大胆な予想をしておきます。
>余談ですが、林羅山がべつのところで仏家が「日の神は大日なり。大日の
>本なるが国、ゆえになづけて日本国という」ということを指摘していました。
>これと似ているようにすると 「本仏は大日蓮なり。大日蓮の山なるがゆえに、名付けて大日蓮山という」
>本朝神社考および神社考詳節などにも大日蓮華山に関する呼称は見つけることができなかった旨も追記しておきます。

お調べ頂きまして誠にありがとうございます。御礼申し上げます。林羅山の書物について今後調べてまいります。

1359地名:2004/05/17(月) 17:02

1295 風来坊さん
>日道師と日卿師の間で争いがあったと聞いた

どこまでご参考になるかわかりませんが、「興風」13号、興風談所、平成12年の中で、坂井師が「道郷論争と大石寺東坊地の係争」を記されています。以下に目次のみ記します。
はじめに
一章 道郷論争
 1.諸文献の検討
 2.日道の六箇・十箇謗法について
 3.鎌倉期の大石寺と日目の弟子たち
 4.伯耆阿闍梨日道
   ・西坊地について
   ・日道と日郷の接点
 5.日郷と安房国
二章 大石寺東坊地の係争
 1.係争前夜
   ・南条氏一門の動向
 2.南条氏の退出と日郷の入寂
 3.係争の幕開け
 4.大石寺御影堂と奥州の勢力
   ・日時と奥州・下野との関係
 5.日伝の退出
 6.係争のあと
むすび
東坊地係争関連略年表

ご参考になれれば幸いです。

1360地名:2004/05/17(月) 18:59
「地名辞典」の静岡県の富士宮市の項で「大石寺」については以下のように記されていました。あくまでご参考の一つとしてご理解願います。
「潤井川(うるい)上流右岸にある。日蓮正宗の総本山で、本尊板本尊。山号は多宝富士大日蓮華山。富士門流(興門派)の富士五山の一つ。寺号は富士山南西麓末端部の大石ヶ原(おおいし)に所在したことにちなむといい、建武五年(1338年)五月五日の南条時綱寄進状(安房妙本寺文書)に「大いしてら」とみえ、暦応二年(1339年)二月十五日の南条時綱置文(同文書)にも「おほいしてら」とあって、当時は訓読みしていた。大石寺蔵棟札銘および寺伝によれば、正応三年(1290年)十月、日蓮の弟子日興が上野郷(うえの)の地頭南条時光の外護を受けて創建し、日蓮を勧請開山とし、自らは二世となったという。日興は正慶元年(1332年)十一月十日、当寺の御堂・墓所を弟子日目(三世)に相承させた(「日興置文」歴代法主全書)。
翌二年、日目は大石寺を弟子日郷に相続させるため大久保本妙寺(おおくぼほんみょう)より当寺大学頭蓮蔵坊(れんぞう)に招いたという(古文書記興門雑記)。
同年十一月に日目は日郷ほかを随行させて上洛の途中、美濃国垂井駅(たるい)(現・岐阜県垂井町)で没した(本国寺年譜)。
日郷が当寺に帰住すると、留守を預かっていた当寺下之坊(しもの)の日道らは、南条氏出自ではない日郷よりも日目と同じ南条一族の自分が継承すべきだと異議を唱え、結局日道が当寺を継承したため、日郷は当寺を離れ、延元二年(1337年)小泉法華寺(こいずみ)に移ったという(古文書記興門雑記)。
しかし日郷は当寺蓮蔵坊については弟子日伝(日賢)に譲与し守ってゆくよう遺命したため、日道及び後継者の日行・日時らと係争が続き、蓮蔵坊を応永二十三年(1416年)小泉の久遠寺(くおん)(法華寺を改称)に移したという(天正十六年十月一日「日侃書状」西山本門寺文書)。
貞治四年(1365年)十一月十三日、法西は上野郷内法西知行分を大石寺御堂・西東坊とともに日行に去り渡している(「法西去状」大石寺文書)。この地は鎌倉時代以来南条氏の知行してきたところであった。しかし同年十二月二十九日、駿河守護今川氏家は大石寺の継承について、日伝の申分により取計らうよう、南条氏一族で日行の兄の興津美作入道に依頼し(「今川氏家書状案」安房妙本寺文書)、翌年九月十七日に日行り競望を止め、大石寺御堂坊地は日伝に返付されている(「法西置文写」古文書記興門雑記)。これに対して明徳三年(1392年)七月、日行の跡を継いだ日時は日伝方の押領だと幕府に訴え(「大石寺別当日時申状案」大石寺文書)、翌年一月二十三日には大石寺法華堂の地を日時に交付するよう命じられている(「散位某書下」同文書)。応永十年七月十二日、駿河守護今川泰範は当寺の堂地および西坊地等を日時に安堵しており(「今川泰範書下」同文書)、さらに同十二年四月十三日、興津氏の知行地であった当寺東坊地を日時に譲っている(「興津法陽去状」同文書)。当寺は今川氏が戦国大名への飛躍を遂げた氏親の時代からその保護を受けるようになる。享禄二年(1529年)三月十九日、氏親後室寿桂尼はさきに氏親が当寺に与えた諸役免除の判物紛失を証し、改めて門前の諸役・棟別を免除している(「寿桂尼朱印状」同文書)。以下略」

1361顕正居士:2004/05/17(月) 20:12
1360番で地名さんが引用されている地名辞典の記事ですが

なぜ日目、日道を南条氏と書いているのでしょう。

日目師の母堂は南条時光殿の姉であり、姻戚関係はありますが、南条氏と新田小野寺氏は
全く別の氏族です(南条氏は平氏、小野寺氏は藤原氏)。
そもそも道郷紛争は南条家と小野寺家の代理戦争のようにみえます。

新田小野寺氏系図
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/framepage12.htm
日時は行時の子?
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/onoderakeizu.htm

しかしその後、日影、日有師と大石寺はまた南条家にもどります。

1362菱村正敏:2004/05/18(火) 05:49
 大日蓮華山と大日蓮山。どちらが先に生まれたんでしょうか?神道
深秘の偽作者はどちらかを記したんでしょう。地名さんの持っている
のは神道深秘写本のコピーですか?

 余談ですが山の名前というのはナカナカ面白いもので、大日プラス
蓮華というほぼ同価値の名詞が二つくっついている山というのはあり
そうでナイように思います。もちろん、全国の山名にあたったわけで
はありません。

 有名な山名から浮かぶものとしては、鹿島槍ヶ岳・三俣蓮華岳・会津
駒ヶ岳とか名詞がふたつ並んでいる山々です。それぞれについている鹿
島・三俣・会津は、山の位置を示すものというところが特徴点です。

1363地名:2004/05/18(火) 22:03

1362 菱村さん

>大日蓮華山と大日蓮山。どちらが先に生まれたのか?
>神道深秘の偽作者はどちらかを記したのでしょう。
>地名さんの持っているのは神道深秘写本のコピーですか?

御連絡ありがとうございます。
はい、私がコピーしたものは、立正大学図書館、現在は大崎メディアセンターというのでしょうか。
そこに蔵書されている「神道深秘」という題名の本、といってもコピーしたものを装丁というのでしょうか、それを見ました。
ですから誰でも閲覧可能な蔵書です。
内容については上述しました1334、1349に記したとおりです。

可能でしたら、以下の文章とお持ちの御本の内容が一致するか教えて頂ければ幸いです。
「大日蓮山」と「大日蓮華山」と「華」の有無はわかりましたが、それ以外は同じなのかとふと思いましたためです。

立正大学蔵書の内容
「神道灌頂儀式次第  大師伝授」
「十一 浄土通穴秘伝事」
「大師尋云、予諸国を廻り諸の霊山霊地見聞するに、常陸国には筑波山、伊豆には箱根山、出雲不老山、略、出羽国には羽黒山、下野には日光山、駿河には大日蓮華山、安房国には清澄山、能登には石動山、越中には立焔山、加賀越前には白山、甲斐には身延山、白根嶽、中略、」

創価学会山梨青年部の調べられた内容
伝教の作と伝えられている「神道深秘下」(東北大学付属図書館、狩野文庫)の
「十一、浄土通穴秘伝事」の冒頭に
「大師尋ねていわん、予諸国を廻り諸の霊山霊地を見聞するに、常陸国には筑波山、伊豆には箱根山、出雲には不老山、出羽国には羽黒山、下野には日光山、駿河には大日蓮華山、安房国には清澄山(以下略)云々」との記載が見られる。」

叡山文庫の「神道深秘」について調べようと思ったのですが、仕事のため本日できませんでした。

山梨県青年部の本では、「日蓮山とも云う」とありましたので調べてみたのですが見つかりませんでした。

「新版仏教哲学大辞典」聖教新聞社では
「大日蓮華山」の項は「多宝富士大日蓮華山といい、富士山のこと。山の形が八葉の蓮華に似ているところから呼ばれた。大日蓮華山という呼び方は平安朝時代に始まると推定される。日蓮山ともいう。
重須談所の二代学頭・三位日順の詮要抄を引いて、文底秘沈抄に「天台大師は漢土天台山に於いて之を弘宣す彼の山名を取って天台大師と号す、富士山亦日蓮山と名づく」(六巻抄)と述べている。」とありましたので
「日蓮山」という名があるのかどうか調べてみました。

それから、「多宝富士大日蓮華山」というので、「多宝」とは何か、「富士」は多分富士山のことだろう。「多宝富士大日蓮華山」というと、「富士山富士山」とならないかとも思ったりしました。
「大日蓮華山」だけでなく、あるいは「日蓮山」だけでなく、なぜ「多宝富士大日蓮華山」と記すのかわかりませんでした。
このへんについて、菱村さんに教えて頂ければありがたいです。

1364地名:2004/05/18(火) 22:37

1361 顕正居士さん

>1360番で引用している地名辞典の記事で、なぜ日目、日道を南条氏と書いているのでしょう。日目師の母堂は南条時光殿の姉であり、姻戚関係はあるが、南条氏と新田小野寺氏は全く別の氏族です(南条氏は平氏、小野寺氏は藤原氏)。

ご指摘頂きありがとうございます。鎌倉時代の氏族の呼び名の使用法については私は全く無知ですので教えて頂き感謝しております。地名辞典を書かれた筆者でないと詳細はわかりませんが、私は「家中抄」日精師の以下の文で「南条一族」とするもまあいいのではと思いました次第です。
歴全二−237頁「日目遺跡付属日道道理非一。其故は新六人初日代者日興付処居住重須。日澄は先て而逝去、日道是次第の法将なり。勲功可重。学解亦勝故、是一。日道者目師甥南条時光養子性相近。最堪為付属。況日道は目師直弟、日郷は伊賀阿闍梨日世の弟子而目師孫弟子なり。是故目師常の持言に云、此栗者いかの中よりほり出と庸常御出言ありき。日代遺状の内、付処と云へる以例知之、是二。日道は時光後室妙法養子なり。上野皆南条領内なり。何閣有縁日道、可被付属無縁日郷、是三。亦次付属之状無之云事、亦以無謂。右譲状新田の坊地を日道に譲与と者、下之坊事なり。上新田講所たるへしとは大石寺の講所たるへしと。以下略」
日精師の記述の正誤は、いま問いません。

>そもそも道郷紛争は南条家と小野寺家の代理戦争のようにみえます。

この点についてもう少し詳しく教えて頂けないでしょうか。

1365顕正居士:2004/05/19(水) 01:31
道郷紛争

『蓮蔵坊72年の係争』(高橋粛道・『大日蓮』・昭和60年)にありますように
http://gappo.cool.ne.jp/yowa/60/6011.htm

「大石寺の東の方は時綱が所領なるあいだ残る所なく宰相阿闍梨の御房に寄進仕る所なり、
依て後のために寄進の状件の如し 建武五年五月五日 平の時綱在り判 宰相阿闇梨の御房」

宰相阿闍梨日郷が蓮蔵坊からいったん追放された後、南条時綱が日郷に東之坊を寄進し、この裁判
は南北朝の時代をとおして続きます。南条氏でも小野寺氏でもない日郷師は南条家に東之坊を次に
相続させる条件で南条氏の支持を得ました。したがって「代理戦争」にみえるのであります。

最終的に日時が大石寺の土地を相続するが、日影、日有と大石寺はまた南条氏の所有になったと
大石寺では伝える。参考の系図では日影も小野寺氏とし、わたしにはわからないが、9世日有が
南条氏の出であることは堀上人の確実な説らしい。

1366菱村正敏:2004/05/19(水) 05:46
 叡山文庫からの写本では。

 一 浄土通穴秘侍事

   大師尋云 予諸国ヲ回リ 諸ノ霊山霊地ヲ見聞ルニ 常陸ノ国ニハ
  筑波山 伊豆ニハ箱根山 出羽国ニハ羽黒山 下野ニハ日光山
  駿河ニハ大日蓮山 安房国ニハ清澄山 能都ニハ石動山・・・以下略
 
  まず、こちらの写本では、巻というか章立ての通し番号は123では
 なく、すべて「1」となっています。ですからこの章は16との記載で
 はなく、「1」と記されています。

  それと、浄土通穴秘侍事とありまして、「伝」→「侍」と私には
 見えますが、ひょっとしたらここはこちらの写本にも「伝」と書か
 れているのかもしれません。

  それと、大日蓮山の右となりの余白にわざわざ「冨士山也」との
 注書きが加えられています。筆跡からするとこの注書きを加えた方は
 写本作者と同一であると思います。

  余談ですが、神道深秘には諸神を1か月30日に配当した部分も
 出てきます。冨士権現と記されている右脇に本地上行菩薩化身との
 記載がありますが、これと同様なかたちの注書きになっています。

1367菱村正敏:2004/05/19(水) 05:55
 ついでです。

 大きな図書館に行くと國學院が出している
吾妻鏡地名索引があるかと思います。そこでは
大石駅という記載があります。大石はたしか
「だいしゃく」という発音だったかという記憶
です。

 過去にこれが大石寺付近の地名だったのかどうかを
調べてみたことがあります。メモしたのですが、その
資料は捨てたようですので、もしその辺に興味がおあ
りでしたら、お調べになってみてください。調査済み
だよということでしたら失礼いたしました。

1368地名:2004/05/19(水) 22:34

1366、1367 菱村さん

ありがとうございます。

>「伝」→「侍」と見える。

立正大学のものは、正確には「伝」ではなく「傳」となっています。

>「大日蓮山」の右となりの余白にわざわざ「冨士山也」との注書きが加えられている。

立正大の方にはこの注書きはありませんでした。

>「神道深秘」には諸神を1か月30日に配当した部分も出てきます。「冨士権現」と記されている右脇に「本地上行菩薩化身」との記載あり。

この部分はコピーしませんでしたので今度見てみます。

國學院大學の五反田の図書館ですと林羅山の本も、叡山文庫の御本も見れると思うのですが一般者は閲覧できないみたいですので他の図書館を探してみます。

>「吾妻鏡地名索引」があるかと思います。そこでは「大石駅」という記載があります。「大石」はたしか「だいしゃく」という発音だったかという記憶です。

「吾妻鏡地名索引」ではないですが、「地名辞典」では、「静岡県」の「富士宮市」の項目に「大石駅(おおいしのえき)」があります。その次が上述した「大石寺(たいせきじ)」です。
「大石駅: 鎌倉時代にみえる駅名。潤井川(うるい)上流右岸、現上条(かみじょう)の大石寺(たいせきじ)付近と推定される。「吾妻鏡」の治承四年(1180年)十月十三日条に「止宿大石駅」とみえ、源頼朝の協力要請を受けた甲斐源氏の武田信義・一条忠頼らと頼朝の使者北条時政父子とが大石駅に止宿している。甲斐国から南下して駿河国に入る道筋の富士山麓で、当時大石ヶ原とよばれた地にあった駅と考えられる。」とあります。

1369菱村正敏:2004/05/19(水) 23:14
>立正大学のものは、正確には「伝」ではなく「傳」となっています。

 分かりました。ここは伝ですね。叡山写本もわたしには侍に
見えてしまいましたが、旧漢字の傳でした。納得です。

 吾妻鏡の大石駅の話は、これもうろ覚えですが、静岡県発行の
静岡県史のどれかにはそのような記載がありますが、どうように
山梨県発行の山梨県史には大石駅を別の場所に比定していたような
記憶があります。とうじお互いの県どうしが我田引水的な発想だな
という印象を持ちました。

 それと、地名索引はできたら確認されると、「だいしゃく」と
発音されていたような感じで出ていますので・・・。だいしゃくと
いうのはどこからその根拠があるのか知りませんが、好奇心をもっ
た所でございました。

1370地名:2004/05/19(水) 23:28

1365 顕正居士さん

ありがとうございます。

>『蓮蔵坊72年の係争』(高橋粛道・『大日蓮』・昭和60年)に…

高橋師の内容拝見いたしました。なんといってよいか迷いますが、高橋師の御説にしては少しがっかりというのが感想です。

坂井法曄師の「道郷論争と大石寺東坊地の係争」(「興風」13号・興風談所・平成12年)の「むすび」の一部を対照のため記します。
「…東坊地の相論については、二章において現存文書を公平に分析し、それなりの結論を出したつもりである。すなわち、東坊地の相論は、南条家の退出と日郷の入寂を機に、日行が押領したことにより始まったこと、また係争の結果に影響を及ぼしたのは、従来の説、すなわち南条家の縁・無縁によるものではなく、草創期いらい、大石寺を支えてきた奥州をはじめとする旧来の勢力であったこと、などを述べた。
そして、東坊地の係争は、道郷論争の延長のように言われてきたが、逆に東坊地の係争の終結後に深化した、両門下による対立感情から道郷論争は作り上げられたことなども提示しておいた。
近年における道郷論争に関する考察といえば、決まって日精の「家中抄」説をもとに進められてきたが、本稿では、日精説それ自体を疑問視し、どのような過程においてその説が成り立ったのか、換言すれば、道郷論争は何にして成立したかを考察することに主眼をおいた。すなわち、道郷論争から東坊地の係争を観るのではなく、東坊地の係争から道郷論争の実体を探ろうという、時代の流れに逆行する方法を採ったわけである。それは日精説の再検討だけでは、全く従来の焼き直しになってしまうからであり、本稿における考察方法は、事態の打開を図るための試論の一つであり、それを実行したものである。もとよりそれは、私に「道郷論争は架空のものである」という固定観念にも似たものがあったからこそ、なし得たことであり、そもそもの方法論の可否についてもご批判をいただければと思う。
それから本稿では、係争後に記された大石寺の系譜を再考するために、日道と大石寺との関わりについての批判的考察をしたが、ついに大石寺における日道の活動は見られなかった。また日精等によって付加された、日道の位置づけを排除したが、そのことを強調したことによって、ややもすれば日道に対する批判的な印象を与えたかも知れない。しかし富士門流は、何も大石寺のみによって成り立っていたのではなく、むしろ日興の在世中に、その拠点となっていたのは重須大坊であり、日道はそこにおいて「日興上人御遺告」を筆録し、「三師御伝土代」を完成させるなど、大石寺の日盛や日郷には見られない活躍がある。ゆえに日道が当時の富士門流における重鎮たることを否定したのではない。
その末弟のいだく正嫡意識によって、日道は無理に「大石寺四世」に固定されてしまったからこそ、さまざまな矛盾が生じるのであり、本来は存在しなかった、そのような肩書きを取り外し、当時の富士門流という枠の中で捉えようとするならば、日道の存在価値は、改めて確認されるだろうし、現在の系譜をそのまま当時に持ち込めば、当然ながら矛盾が生じるし、過小評価を与える結果となるだろう。
日道や日代の位置、そして大石寺と重須本門寺など、富士門流をトータル面から捉える考察も、今後の大きな課題となろう。また、これを機に富士門流の諸問題に関する議論の高まることを、切に願うものである。」

1371犀角独歩:2004/05/20(木) 09:10

地名さん:

> 日興の在世中…重須大坊…日道はそこにおいて…「三師御伝土代」を完成

この記述なのですが、これは事実なのでしょうか。
熱原に関するなど、同記録は興師のものと違っており、興師の膝下で記されたとは思えない節があります。また、「完成」と言いますが、同書が未完であることは日蓮門下共通の認識です。

坂井師の歴史を上古から読む、従来説補完のために資料を扱わない姿勢には賛同しますが、以上の点は合点が行きません。

地名さんはどのようにお考えになりますか。

1372地名:2004/05/21(金) 00:09

1371 独歩さん

大切なご指摘を頂きありがとうございます。

「しかし富士門流は、何も大石寺のみによって成り立っていたのではなく、むしろ日興の在世中に、その拠点となっていたのは重須大坊であり、日道はそこにおいて「日興上人御遺告」を筆録し、「三師御伝土代」を完成させるなど、大石寺の日盛や日郷には見られない活躍がある。ゆえに日道が当時の富士門流における重鎮たることを否定したのではない。」
と転記しました点については確認をしてみます。しばらくお時間を頂ければ幸いです。

1373地名:2004/05/21(金) 01:03
独歩さんにご迷惑をおかけしたお詫びに坂井法曄師の「道郷論争と大石寺東坊地の係争」(「興風」13号)の「東坊地係争関連年表」の中から、日道と日郷の部分の一部を参考まで転記いたします。
元弘三年 1333年 十一月 十五日 新田卿阿闍梨日目寂
建武元年 1334年  正月  七日 方便品読不読問答(仙代問答)
 同     同    二月二十六日 日道、日目百箇日の追善のため本尊を書写
 同     同    六月 十六日 日郷、「薬王品得意抄」に奥書す
建武二年 1335年  正月二十四日 日道、日尊へ書を遣わす
 同     同    三月 十一日 日郷、某より安房吉浜法華堂敷地を安堵される
 同     同    五月二十八日 日道、「諫暁八幡抄」に裏書す
 同     同    六月 中旬  日郷、大石寺御仏前において日睿に法門を相伝(類聚記)
 同     同    七月二十八日 日道、「諫暁八幡抄」に裏書す
 同     同    八月二十八日 日道、「諫暁八幡抄」に裏書す   
 同     同   十二月 十五日 日道、御書四通を日行へ授与
建武三年 1336年  二月 十五日 日道、本尊を書写
 同     同    五月 十三日 日道、日興写本「法華本門取要抄」を日行へ授与
 同     同    六月  六日 日道、「諫暁八幡抄」を読誦し終る
 同     同    八月  四日 日道、「法華経題目抄」の奥に加筆
建武四年 1337年  三月 下旬  日道、「聴聞見聞録」を日目の遺言により、大弐阿闍梨日寿に授与
 同     同    五月二十四日 日道、「安国論問答」奥に御書二通を抄写し、六月二十五日にかけて夢想を記す
建武五年 1338年  五月  五日 時綱、大石寺東坊地を日郷に寄進
暦応二年 1339年  二月 十五日 時綱「置文」を作成、「寄進状」の旨を厳守するよう定む
 同     同           この年、南条牛王丸(後の日伝)誕生
暦応三年 1340年  七月 十五日 日郷、延年寺成願より鳥辺山の日目廟所を求む
暦応四年 1341年  二月二十六日 伯耆阿闍梨日道寂
 同     同    三月 十八日 時長、大石寺東大門につき「時綱寄進状・置文」に相違ないことを記す
康永二年 1343年  二月二十三日 日郷、本尊を書写し女夜叉に授与

1374地名:2004/05/21(金) 01:46
続き
康永二年 1343年 四月    日尊、鳥辺山廟所に逆修塔を建つ
康永二年 1343年 四月十六日 日郷、万年救護本尊の讃文を書写す 私注:上とここの年はどちらかが印刷ミスか
康永三年 1344年 八月一日  日郷、本尊を書写し、龍王丸に授与
 同     同   八月十五日 日郷、本尊を書写す
 同     同   八月十八日 日睿、大石寺天経所にて日郷より法門を相承される(日睿縁起)
 同     同  十二月    日睿、蓮蔵坊に参着し、越年する(日睿縁起)
 同     同  十二月十三日 日郷、本尊を書写し、円命に授与
 同     同  十二月    日郷、本尊を書写す
貞和元年 1345年 正月    日興・日目十三回忌 日郷、本尊を書写す
 同     同   二月 七日 日郷・日睿、大石寺における日興十三回忌に参列す(日睿縁起)
 同     同   二月 九日 日郷、奏聞のため上洛。日睿同伴(日睿縁起)
 同     同   六月十三日 日郷、本尊を書写し、高松に授与
 同     同   六月十五日 日郷、本尊を書写す
貞和三年 1347年 七月十八日 日郷、成瀬後家尼より鳥辺山の日目廟所を求む
貞和五年 1349年        日郷、上洛奏聞(日睿縁起)
 同     同   正月     日郷、本尊を書写す
 同     同   六月二十八日 日郷、本尊を書写す
 同     同   九月二十一日 日郷、本尊を書写す
 同     同  十一月 十五日 日郷、京都にて日目十七回忌を修す(日睿縁起)
観応元年 1350年 七月  七日 日郷、本尊を書写す
文和二年 1353年 四月  八日 日郷「置文」を作成、日郷入寂後も大石寺東御堂番を僧衆で勤めるよう記す
 同     同   四月二十五日 宰相阿闍梨日郷寂

参考
「日興が元亨四年(1324年)十二月二十九日に書写した本尊に次のような添書と加筆がある」と本文で坂井師は記しています。
「最前上奏之仁卿阿闍梨日目(日興筆)」
「日道相伝之、日郷宰相阿闍梨授与之(日興筆)」 「興本」NO216
そして、坂井師は「日道と日郷とは、むしろ親交の関係にあったと見ることができるのではないだろうか。」と記しています。

1375地名:2004/05/21(金) 01:59
訂正

「最前上奏之仁卿阿闍梨日目(日興筆)」
「日道相伝之、日郷宰相阿闍梨授与之(日道筆)」 「興本」NO216

下段の( 筆)は(日興筆)ではなく(日道筆)の私の転記ミスです。

坂井師にお断りもなく転記させていただきましたことに対しまして、
謹んでお詫び申し上げますと同時にお許し願います。

1376犀角独歩:2004/05/21(金) 11:56

地名さん:

元より、「迷惑」など片鱗もございません。
ここのところの資料のご呈示を興味深く拝読させていただいているばかりです。

> 坂井師は「日道と日郷とは、むしろ親交の関係にあった…」

れんさんのご指摘も踏まえ、この点、なかなか説得性のある分析とわたしは拝しました。

1377地名:2004/05/23(日) 21:43

「大日蓮華山」については、日蓮説法・日興記の「産湯記」を初出として、「所破抄」等に流れるという経緯でしょうか。同書の成立経由等から少しずつ探ってまいります。

「産湯相承事」日蓮宗宗学全書・興尊全集P35−39
「御名乗事、始是生、実名蓮長奉申、後日蓮名乗有御事非母梅菊女(童女御名也)平畠山殿一類御座云々、法号妙蓮禅尼御物語有之事、我不思議有御夢相、清澄寺通夜申時汝志眞神妙也、一閻浮提第一之寶ヲ與ント思也、(父母夫婦先表口傳)東條片海三国氏大夫云者アリ、是夫定云々七歳春三月廿四日夜也、正今覚侍也、我奉後父母已後、無詮方如遊女時御身父嫁、(聖人托胎口傳)有夜霊夢曰、叡山頂腰ヲカケテ、近江湖水以手洗富士山日輪出奉懐思、打驚後月水留夢物語申侍父大夫我不思議御夢相蒙也、虚空蔵菩薩見吉児御肩立給、(聖人上行菩薩口傳前是生御事)此少人為我上行菩提薩埵也、為日下人生財摩訶薩埵也、亦為一切有情行末三世常恒大導師也、是汝與ノ給見後、御事懐妊之由聞語相タリキ、サテコソ御事聖人ナレ、(聖人御生不殊佛御誕生口傳)又可産生夜夢富士山頂登見十方明事掌内如見三世明白、梵天帝釈四大天王等諸天悉来下、本地自受用報身如来垂迹上行菩薩御身凡夫地謙下、御誕生唯今、無熱池主阿那婆達多龍王八功徳水応持来也、當奉浴産湯告諸天、仍龍神王即時青蓮華一本荷来、其蓮清水出御身浴進侍、其余水灑四天下受其潤人畜草木国土世間悉放金色之光明、四方草木華發菓成、男女並座有無煩悩、淤泥中出不染塵泥譬蓮華自泥出泥如不染、人天龍畜共白蓮各捧手日向今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子唯我一人能為救護唱奉見驚則聖人出生、(苦我茀口決)毎自作是念以何令衆生得入無上道速成就佛身苦我茀キ玉フ、我少未寝様ナリシ時、(諸天頌口決)梵帝等諸天一同音唱言、善哉善哉善日童子末法教主勝釈迦佛三度唱作禮而去給寤見聞シナリト、慥語給聞食、サテハ某日蓮也言也、(日文字口傳)聖人重曰様日蓮弟子檀那等非母物語不可思、即金言也、其故予修行兼母霊夢ニアリケリ、日蓮富士山自然名号、富士郡名也、實名大日蓮華山云也、我中道修行故如此、国云日本、神日神申、佛童名日種太子申、予童名善日、仮名是生實名即日蓮也、久遠下種南無妙法蓮華経守護神我国天下始国出雲也出雲日御崎云所、天照大神始天下給故日御崎申也、我釈尊顕法華経説已来号十羅刹女、(生佛法界一如口傳)十羅刹天照大神釈尊日蓮一体異名、本地垂迹利益広大也、日神與月神合文字訓十、十羅刹女申諸神一体束合深義也、日蓮日則日神昼也、蓮即月神夜也、月水縁蓮水生故也、又是生日下人生書(本門下種口傳)日蓮天上天下一切衆生主君也父母也師匠也、今久遠下種寿量品云今此三界皆是我有(主君義也)其中衆生悉是吾子(父母義也)而今此所多諸患難(国土草木)唯我一人能為救護(師匠義也)云(佛與聖人同体口傳)日蓮今此三界主也、日蓮大恩以希有事憐愍教化利益我等無量億劫誰能報者ナルヘシ、若日蓮現在弟子並未来弟子等中、日文字名乗上字不置者、自然法罰蒙可知、予一期功徳日文字留置御説法儘、日興謹奉記之、聖人言、此相承日蓮嫡々唯授一人秘傳也、神妙神妙言給留畢
  弘安五壬午年十月八日
                                日蓮 在御判

1378菱村正敏:2004/05/24(月) 04:46
>「大日蓮華山」については、日蓮説法・日興記の「産湯記」を初出として、「所破抄」等に流れるという経緯でしょうか。

 産湯記って産湯相承事のことですか?それでしたら、これが書かれた
日付について、それが正しいものかどうかを考えないといけないのでは
ありませんか?

1379愛煙家:2004/05/24(月) 13:18
すみません 話の腰を折るようで申し訳ないのですが、どなたか教えて下さい。
日蓮正宗教義では「進化論」についてどのように定義されているのでしょうか?

例えば、地球の発展の経緯から見て、人間は猿から進化したと考えられますが、この場合「畜生界」の衆生から突然「人間界」の衆生が生まれたことになるのでしょうか?
母親が畜生で子供が人間などという関係を持った親子が存在したことになるのでしょうか。

また既に議論されていたようでしたら、どこを拝見すればよいのか教えて下さい。

1380愛煙家:2004/05/24(月) 13:19
訂正いたします。
× 日蓮正宗教義では「進化論」についてどのように定義されているのでしょうか?
○ 日蓮正宗教義では「進化論」についてどのように判断されているのでしょうか?

1381犀角独歩:2004/05/24(月) 17:29

愛煙家さん、はじめまして。

わたしが答えることかどうか解りませんが、石山義と言わず、仏法教義には「進化論」は介在する余地はないでしょうね。

ここで何度も取り沙汰される「五百塵点劫」、これが現在の時間に換算すればどれほど前のことか解りませんが、宇宙開闢以前まで遡ってしまうのではないでしょうか。十界衆生はおろか、地球も太陽系も、銀河系、現宇宙すら存在しない過去まで遡ってしまいます。

しかし、仏教‘神話’は劫(カルパ)に四周期説を採るものの、霊長類は言うに及ばず、他の生物種も永遠の過去から存続していた前提で成り立っています。

もっとも、わたし達日本人にも馴染みのある閻魔大王は、インド説話の「ヤマ」に由来するようで、このヤマの話とは、いちばん最初に死んだ人が一番最初に冥界に辿り着いたので、その世界の王になったなどという類の話であったと記憶します。まあ、こんな曖昧さはあるものの、少なくとも石山が依経とする補強のコンセプトは永遠に存続してきた衆生類であって、「進化論」との整合性はゼロに等しいと考えるほかありません。

ただし、創価学会の『生命論」やら、『科学と宗教』やらは、科学との整合性を考えて創案されたストーリーですから、適当に法華経と現代科学が矛盾しないような解説を施していたと記憶します。法華経とも、石山教義とも無関係の話ですが。まあ、それを読んですばらしいと思って自著に書き入れた大橋師の如き、人物もいますから、その影響、石山になきにしもあらずと言ったところでしょうか。

1382愛煙家:2004/05/24(月) 21:00
犀角独歩さん
丁寧が解説有難うございます。

とするとこの地球での人間の活動も、どこからか宇宙からやってきた宇宙人が住み着いて、地球に住む人間になったことになるのでしょうかね。
それとも地球が成り立つ塵の時も、灼熱の大地であった時も人間は存在していたことにでもなるのですかね。

結局こんなことでも、随分こねくりまわさねばならない屁理屈が日蓮正宗教義であると解釈いたしました。
有難うございます。
話の腰を折って申し訳ありませんでした。

1383地名:2004/05/24(月) 22:43

1378 菱村さん

ご指摘ありがとうございます。

>産湯記って産湯相承事のことですか?

はい、かってに略して記載して失礼しました。

>書かれた日付について、それが正しいものかどうかを考えないといけないのでは
ありませんか?

そのことも視野に入れて検討しなければならないと存じます。
菱村さんはどのようにお考えになられますか。

記載場所が「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」に変わりましたので、微力ですが菱村さんをはじめ、みなさまがたのお力を借りながら考えてまいりたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。

1384犀角独歩:2004/05/24(月) 23:29

> 1382 愛煙家さん:

お記しのところと同様の感慨をわたしも懐きます。
ただ、これは石山義に留まることなく、仏教、あるいはキリスト教にしても、近代科学の発展と共に突き付けられた諸問題であろうかと存じます。

1385菱村正敏:2004/05/25(火) 07:14
 わたしには産湯相承事がいつのものか分かりません。この書物が他の場所
で最初に引用された時期を踏まえて考えたら良いなと思います。

 大日蓮華山の件で、もう少し私見を述べますと、大日と蓮華を兼ねて
山名をつける、つまり「大日山」「蓮華山」という両方の意味を兼ね備
えているから「大日蓮華山」という名称があっても不思議ではないでは
ないかという意見に対してはもっともと思う反面、じつは「大日蓮華山」と
称すると「大日如来」の「蓮華座」の山というふうに読みとられてしまう
のではないかなぁと考えたことがございます。

 阿弥陀蓮華山や釈迦蓮華山などなど、いろいろと思いをめぐらした
ものでございますが・・・。

1386ゆうじ@禁煙中:2004/05/27(木) 21:10
愛煙家さん、はじめまして。
僕も以前は愛煙家で1日2箱以上のヘビースモーカーでした。
昨年2月に一念発起して禁煙。1年4ヶ月ほどたちましたが、体の調子、よいです。

>日蓮正宗教義では「進化論」についてどのように定義されているのでしょうか?

>例えば、地球の発展の経緯から見て、人間は猿から進化したと考えられますが、この場合「畜生界」の衆生から突然「人間界」の衆生が生まれたことになるのでしょうか?

とのことですが、御書の中には「お酒に水入れて売ったらミミズになるヨー」みたいな話も当たり前に出てくるし、
「人間界」→「畜生界」という“退化”(?)が説かれています。

十界論にしても、人間なら人間の姿のままで地獄〜仏界と変化しますので、
進化論などの科学論とはまったくの別物で整合性などを考慮する必要は全く無いと考えます。

「愛煙家」というハンドルに釣られて、カキコしてしまいました。
ロム専に戻ります。失礼しました。

1387愛煙家:2004/05/28(金) 09:16
ゆうじ@禁煙中さん

>十界論にしても、人間なら人間の姿のままで地獄〜仏界と変化しますので、

いえ、ここで私が疑問としているのは地球の成立時に人間界の衆生はどうやって生命維持をしてきたのか、ということです。
化石などの発掘などでは、過去のある時期まで人間は存在していなかったようですし、とすると人間が元々原人的な容姿をしていたとする「進化論」の猿人から進化してきたのが人間であるという説がかなり有力ではないかと考えます。
その場合、どこかのタイミングで猿人「畜生界」〜人間「人間界」に境界が変わったわけだと考えます。
人間の姿のままで境界が変化するということではなく、元々畜生だった衆生から人間界の衆生が発生した、という事が私の疑問点なのです。
ですから、進化論と仏法の整合性を考慮する必要はあると思うのですが。

1388ゆうじ@禁煙中:2004/05/28(金) 21:32
愛煙家さん、
>地球の成立時に人間界の衆生はどうやって生命維持をしてきたのか、ということです。

「化石などの発掘などでは…」と、愛煙家さんもおっしゃっているように
地球成立時には人間界の衆生は地球にはおらず、生命維持もしていないと思います。
実際にその時のことを知ってる訳ではないですが、たぶん正しいと思います。

>人間の姿のままで境界が変化するということではなく、元々畜生だった衆生から人間界の衆生が発生した、という事が私の疑問点なのです。
>ですから、進化論と仏法の整合性を考慮する必要はあると思うのですが。

とのことですが、進化論の考え方から「畜生界の衆生」→「人間界」に変化した事を何か「劇的な変化」のように捉えるのは無理があるような気がします。

猿人から進化し、火や道具の使用といった知恵で、肉体的には非力な人間が食物連鎖の頂点に上り詰めたことはそれなりにすごいとは思いますが、
それでも哺乳類の中の霊長類の一種だということに変わりは無い。
つまり進化論から「人間とサルは兄弟のようなもの」という結論は導き出せますが、
仏教で説く「畜生界と人界」ほどの異差を指摘することは出来ないと思います。

仏教の考え方で「進化論」を消化することは可能だと思いますが、逆は無理だと思います。

ちなみに僕なりに進化論を考えてみますと、仏教では
「於戯佛法に値ふこと稀にして、喩へを曇華の萼に假り類ひを浮木の穴に比せん」(日興遺誡置文)
などとありますように、仏様に巡り合えることを、大変稀な有難い事と説きます。
そのような考えで地球の誕生から生命の誕生・進化の長い長い歴史を考えると、人類が仏教というものに巡り合えている期間がいかに短いかが良く分かり、逆説的に仏教の正しさを証明しているような気がしますが…。
いずれにせよ信徒の立場からの都合の良い自己満足的な解釈であるという批判は免れないと思いますので、
「そんな風に考えている人もいるのねぇ〜」程度に受け止めていただけたら幸いです。

1389みかん:2004/05/29(土) 01:23
十界論なるものがあらかじめあるみたいに議論されてますけど、
十界説なる仏教の教説が「六道」「六道輪廻説」と、
「四聖」説、三乗、四乗説という全然関係のない、
まったく次元の違うものを無理矢理くっつけた
つぎはぎの理論であるということを理解してないと
まずいんじゃないんですか?

それが証拠に、人間は人界の衆生であるまま、菩薩
になったり、声聞、縁覚、仏になったりするわけです。
これを無理矢理くっつけて、菩薩なりなんなりが生物学的に人間で
あったり畜生(家畜)であったりすることに説明がつかなく
て、付けるために十界互具思想が生まれたのかもしれませんね。

あと、仏教は基本的にインドの古代人の世界観を前提にしてますから、
進化論などという近代的な思想とは無縁だし、親和性は悪いでしょう。
それを無理矢理統合するのは「エセ科学」としての仏教になっちゃうでしょ。
科学によって宗教の正しさが証明されるとか、宗教と科学が無矛盾だってのは
創価学会・日蓮正宗を含む、多くの伝統宗教、新興宗教で言いますが、眉唾でしょ。

「人類が仏教というものに巡り合えている期間がいかに短いかが良く分かり、逆説的に仏教の正しさを証明しているような気がしますが…。」
意味がわからないです。仏教の歴史はたかだか2600年。
あなたがたがお好きな「日蓮仏法」の歴史はたかだか700年。
それが短くていことが、どうして「逆説的に仏教の正しさを証明」
ということになるんですか?

盲亀の浮木の喩えに則って、仏教の歴史が人類の歴史に較べて極端に短いことが、
どうして仏教の正しさを証明することと関係があるんですか?
むしろ仏教なるものが、特定の時代に、特定の地域にしか存在しない、
ローカルで普遍性のない物であることの証明になりかねないんじゃないですか?
一切衆生を救うはずのものでありながら、一切衆生がそれに出会えないわけだから、
仏教が一切衆生を救えない、無力な、無慈悲な物であることの証明になっちゃうん
じゃないんですか?

(わたしはそれがローカルで普遍性がないとは思わないですがね、ただしそうすると
それはすでに仏教と呼ぶ必要すらないんですけどね)

1390ゆうじ@禁煙中:2004/05/29(土) 07:43
みかんさん、お久しぶりです。

>十界説なる仏教の教説が「六道」「六道輪廻説」と、
「四聖」説、三乗、四乗説という全然関係のない、
まったく次元の違うものを無理矢理くっつけた
つぎはぎの理論であるということを理解してないと
まずいんじゃないんですか?

そうなんですか、ぜんぜん知りませんでした。勉強になりました。

>あと、仏教は基本的にインドの古代人の世界観を前提にしてますから…

僕も同じ考えですが、みかんさんがおっしゃると説得力がありますね。

>むしろ仏教なるものが、特定の時代に、特定の地域にしか存在しない、
ローカルで普遍性のない物であることの証明になりかねないんじゃないですか?
一切衆生を救うはずのものでありながら、一切衆生がそれに出会えないわけだから、
仏教が一切衆生を救えない、無力な、無慈悲な物であることの証明になっちゃうん
じゃないんですか?

信者とそうでない人の受け止め方の違いでしょうね。
「一切衆生がそれに出会えないわけだから…」などはまさにその通りで、
逆縁だとか、そういう部分でフォローしていくのでしょうか? 良く分からないでつ。
僕は、仏教が一切衆生を救える慈悲深いものであることを証明できませんし、
僕自身が入手できるわずかばかりの情報を元に「信じるに足る」と判断しているだけですので、
その判断を他人に押し付けようとは考えていません。

別スレで話題になっていましたが、仏法と言えども「鰯の頭も信心」的な部分がある事を
信者一人一人が自覚していれば、富士門流ももう少しマトモになるような気がします。

>(わたしはそれがローカルで普遍性がないとは思わないですがね、ただしそうすると
それはすでに仏教と呼ぶ必要すらないんですけどね)

ここの部分は良く意味が分からないのですが、すごく興味がわきました。
よかったらもう少し教えてください。

1391一刀両断:2004/06/21(月) 23:22
ふと、現在の自分と嘗て自身が顕正会員であった事を思い返す中に、決定的に違うことを感じました。
それは現在の私は運命論者ではなくなってしまったということです。
運命論は、どうも現在の私の中では人間の生きていく為の理由付けになっているような気がしているのですが・・・
みなさんは運命論というものはどのように捉えているのでしょうか。
御参考の意見がありましたら是非お聞かせ下さい。

1392犀角独歩:2004/06/22(火) 10:48

一刀両断さん:

> 顕正会員…運命論者

顕正会というのは運命論であるという点にわたしはちょっとぴんと来ないのです。
この点少しご説明願えませんでしょうか。
蓮師は定業・不定業を言いました。運命論と定業論、厳密には違いますが、現代義に翻訳されるとき、蓮師の定業は運命論で諮られる傾向はあろうかと存じます。

顕正会、また、その影響下における運命論とは、どのようなものなのでしょうか。

1393Jルーカス:2004/06/22(火) 12:01
地球の成立時に人間が存在していなかった事は間違いないでしょうが、私は進化論自体に懐疑的です。
進化論ていうのは、科学的に確定されている訳では無いようですし・・・。
元々進化論ていうのは、ダーウィンの人種差別観から作られたと言う説もありますしね。
ヨーロッパの某博物館の進化論の壁画は「猿〜(中略)黒人〜黄色人〜白人」と言う進化形態を辿っているそうですからね。
そろそろ人種差別の温床になった進化論は考え直す時期が来ているのでは無いんでしょうか。

1394犀角独歩:2004/06/22(火) 12:40

Jルーカスさん:

> 進化論ていうのは、ダーウィンの人種差別観から作られた

というより、進化論が人種差別、優性論に‘利用’されたということでしょう。
進化論自体は統計分析に基づく科学ですから、その見直しは、そのような科学的なアプローチから。その科学を悪用する差別主義者には鉄槌を、と区別すればいいのではないでしょうか。

だいたい、障害が前世の因縁だとか言って憚らない狂った仏教者は、差別主義という醜い実像を闡明にして、そんな因縁譚と一緒に弾劾・葬り去るのと同様の手順です。

1395愚鈍凡夫:2004/06/22(火) 14:22

少しだけ横レス失礼。
一般的に進化論では、「猿人」→「原人」→「旧人」→「新人」という流れが常識的に語られているようですが、最近では、現生人類は、進化論者が「猿人」「原人」「旧人」と呼ぶものの生息していた時代に、すでに生息していたとする学説もあるようです。
また、現生人類が「アウストラロピテクス」「ホモ・エレタトウス」また「ネアンデルタール人」と呼ばれたものと同時代に存在していたことは、確実とされているらしいですよ。
ひょっとして、遺伝子工学の更なる発展が、進化論にとどめを刺す時代が来るのかも知れませんね。

関係ないですが、ダーウィンの進化論では、ほとんどの生物がビタミンCを自力で合成できるのに、ヒトだけが何故合成できないのかといった説明は出来ないそうですね。

「暴かれた進化論の虚構」
http://www.ne.jp/asahi/seven/angels/index.htm

「進化論のお話6」
http://ao_zatsu2.at.infoseek.co.jp/write/sinka_06.htm

1396犀角独歩:2004/06/22(火) 16:24

> 現生人類が「アウストラロピテクス」「ホモ・エレタトウス」また「ネアンデルタール人」と呼ばれたものと同時代に存在していた

ええ、もうずいぶん、昔から言われています。わたしが学生時代(四半世紀前!)に読んだ小説が、そんな内容でした。近年、訳されていたので、ああ、やっぱりと思ったものでした。

・ウィリアム・ゴールディング『後継者たち』中央公論社

> 遺伝子工学の更なる発展が、進化論にとどめを刺す時代が来るのかも

どうして、皆さん、そういう発想になるのでしょうか。
遺伝子工学の発展は、進化論に新たな真実を付加する役割をするということでしょう。

わたしが注目するのはフレッド・ホイルの『宇宙からの生命』です。定常宇宙論の提唱者であり、たしかホワイト・ホールの予言者でもあった師が、チャンドラ・ウィクラマシンゲとまとめたこの書の中で、いまの宇宙の創生年代への疑問を呈しながら、地球誕生から現在に至る‘わずかな’時間で、ここまで生物が進化できるはずがないと統計論的アプローチから疑義を呈し、生命要素は宇宙から飛来したと提唱します。また、その生命要素を養った宇宙は定常であり、永遠の存在であるからこそ、ここまでの進化の可能性を生命要素の中に封じ込めることができたと提唱したものでした。共生説などを踏まえていたか、いま手元にこの本がないので確認できませんが、面白い本でした。

・ホイル/ウィクラマシンゲ『宇宙からの生命』青土社刊

いまネットで検索したら以下のような本もありました
・ホイル/ウィクラマシンゲ『(DNA)生命は宇宙を流れる』徳間書店

1397一刀両断:2004/06/22(火) 16:28
独歩さん
定業、不定業の定義については詳細には存じ上げませんが、顕正会では定業であっても日蓮信仰、ことに顕正会活動を行う事によって宿命を転換できるのであると強く言っています。
この理屈は、大抵の幹部の言葉、体験発表、また決意発表などというものを聞いても多く使用され、定業は人にはそれぞれ既に決定しているものであり、甘んじて受ける以外に逃れる術はないのであるが、それをこの信仰によってのみ変更できるのである、と言う訳です。
しかし人は二通りの生き方を同時進行させて比較することはできません。
ですから、どのような理由でも付加できてしまう事も否めないと思うのです。

先日、顕正会幹部とばったり会う機会があったのですが、その際に私が本仏論否定、戒壇之本尊否定をすると「結局貴方の宿命は何も変わっていなかった」「上っ面の信仰しか持たないから日蓮師より信仰を召し上げられた」とこう言うわけです。
それはそれで相手の見解なのでしょうが、その言葉を聞いて感じたのは、漠然とでしたが、人というものは自分にも他人にも結果を以て語る理由付けを常に欲しているのではないだろうか、ということだったのです。
結果を見て人はその原因を過去に当然追究するでしょうし、それは可としても、何より生きていく拠り所と言いましょうか、自分の人生が前進しているという理由付けを常に求めずにはいられない生き物なのではないだろうかと思ったのです。
未来に人が生きようとした時も、これから求める結果を得られるのか得られないのか、その不安を払拭する為に、何らかの根拠を常に求めている生き物なのではないだろうかと思ったわけです。

非常にもどかしい表現しかできませんが、そもそも宗教の発生はこういったことが根本にあると考えられるのですが、こういった考え方全般に対して、私は一旦は離脱してしまう、脱却してしまう程遠ざけてしまう考え方にもなるべきではないかと、ふと思ったものでしたので、皆さんの御意見があればお聞かせ願いたいと書き込みをしました。

しかし問いかけた当の本人がよく分かっていない状態なので、流して下さって結構です。
失礼しました。

1398犀角独歩:2004/06/22(火) 16:56

1397 一刀両断さん:

ご賢察のところ、わたしはほぼ同意します。
まあ、付加すれば、自分は他と違って特別な人間であるとか、自分が生まれてきた意味は何かと言った実存主義的とも言うべき疑問が動機に含まれてはいないだろうかとわたしは考えています。そして、何より死後に対する恐怖がそれを後ろ押ししていると考えます。
定業に対句は不定業ですが、変えることのできない「定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す」と言い、真偽未決では、このことを「定業亦能転(じょうごうやくのうてん)」と引きます。

この考えを宿命(しゅくめい)転換と言い換えたのは、いったい誰であるのか、わたしはその起源を知りませんが、少なくとも石山周辺では創価学会であって、それを転用したのが顕正会であるという推移があると思います。そのことからの質問でした。

真跡で見る限り「宿命(しゅくみょう)」は宿命通の意味でただ一度、その使用を見るばかりです。
本来の意味の宿命は、いまで「過去世」の一生を言うので、宿命通とは、つまり、前世を知る力を意味したものでした。それがいつの間にか宿命=運命のように誤用するに至りますが、この過ちを犯したのは創価学会であったろうと思えます。尤も、これすら他からの‘パクり’かもしれませんが。

誤解がないように記しますが、一刀両断さんがここに呈示された点は、わたし自身に興味のある点です。一刀両断さんをはじめ、皆さんのご意見を拝聴したいと希望するものです。

1399愚鈍凡夫:2004/06/22(火) 18:15

>>1396:予想通りにきました。
犀角独歩さん、鋭い突っ込み有り難うございます。

> どうして、皆さん、そういう発想になるのでしょうか。
> 遺伝子工学の発展は、進化論に新たな真実を付加する役割をするということでしょう。

小生は、基本的に進化論は不完全な理論だと思っています。
確かに、犀角独歩さんの言うように結果的に進化論に新たな真実を付加する役割を示すことになるかも知れませんが、逆に、定説を覆す新たな理論を生み出すかも知れません(小生は、こちらの方に期待しています)。

進化論の危険性は、人種差別を助長する可能性があるということだと思います。小生の地元のS学会などでは、当たり前のような発想ですが(「常勝関西」のはしくれですから)。
それを巧みに利用した人物がヒトラーではなかったでしょうか。
彼のゲルマン民族至上主義論理には、血液型性格診断のような赤血球にくっついているタンパク質の型の違いに人格や性格を左右する因子が含まれているのか、という馬鹿げた疑問を感じます。
しかし、こんな馬鹿げた論理に、いとも簡単に引っかかる民衆の愚かさを利用した天才がヒトラーであるともいえるでしょう。そういう意味では、池田さんや浅井さんもリトル・ヒトラーかも知れません。
今更言うまでもないですが、S学会が提唱する「実践の教学」と称する「切り文勝手解釈教学」から導き出される「鰯の頭信心」も、このような単純なロジックとトリックに支えられているといえるでしょう。
「運命論」と「定業」というスレの流れとは合いませんがお許し下さい。

「進化論その2」
http://www.d1.dion.ne.jp/~chrch_/misinja/21.htm

「進化論その3」
http://www.d1.dion.ne.jp/~chrch_/misinja/22.htm

1400犀角独歩:2004/06/22(火) 18:35

愚鈍凡夫さん:

1394にも書きましたが混乱していますよ。

> 基本的に進化論は不完全な理論

反対にお尋ねしますが、完全な理論なんかあるんですか。
科学理論は日々書き換えられています。絶対と完全なんかという考えはそこに介在しないでしょう。

> 逆に、定説を覆す新たな理論を生み出す

別段、どのような形になるか、それは研究による真理探究によるものですから、期待するとかしないとかまるで関係のないことであると思えますが。

> 進化論の危険性は、人種差別を助長する可能性がある

論点がずれています。科学は元来、善でも悪でもありません。事実の素描です。それを悪用するか、利用するかという問題とは別の話です。

> 巧みに利用した人物がヒトラーではなかったでしょうか。

そのとおりでしょう。しかし、これは進化論が悪いのではなく、利用したヒットラーが悪いのでしょう。生物が進化するのが事実であるのに人種差別に利用されたから危険であるなどと言うの中世の協会が行った魔女狩りに等しい発言であるとわたしは思います。

> 彼のゲルマン民族至上主義論理

民族至上主義という人種差別思想と、進化論という科学は別のものです。

こんな論法で行けば、法華経は○○会が利用した経典だから、危険であるというものでしょう。悪用されたほうこそ迷惑なので、悪用された段階で、悪用されたものを悪用した当事者と一つに括って批判するなど、混乱以外の何者でもありません。

生物が進化するかどうかと言う事実と、進化論を差別主義者が悪用するかを混同するのはおかしなことです。

さらに突っ込ませていただけば、では、人間は最初から人間だったわけですか。

もう一点。進化論が人種差別者が悪用したのは事実です。しかし、反面、キリスト教圏では進化論否定がカルト集団に悪用されている事実もあることは留意されるべきでしょう。

1401犀角独歩:2004/06/22(火) 19:11

以下、ご参考ください。
進化論否定というと、わたしは直ちにエホバの証人を思い出します。

http://biblia.milkcafe.to/column008.html

1402愚鈍凡夫:2004/06/22(火) 20:07

>>1400:
むむっ。これは祟りか? (;^_^A アセアセ…

> 反対にお尋ねしますが、完全な理論なんかあるんですか。

それでは、不完全な理論に支えられた理論って何ですか? 若しくは、その規範となる不完全な理論から導き出される理論とは何ですか?

> 科学理論は日々書き換えられています。絶対と完全なんかという考えはそこに介在しないでしょう。

これって、「絶対」とか「完全」とかいう言葉は、単なる空手形であるということですか(個人的には同意ですが)?

>> 別段、どのような形になるか、それは研究による真理探究によるものですから、期待するとかしないとかまるで関係のないことであると思えますが

確かにそうです。でも、期待しているというだけの話しであって、そうだと決めつけているわけではありません。

> 論点がずれています。科学は元来、善でも悪でもありません。事実の素描です。それを悪用するか、利用するかという問題とは別の話です。

科学をどう拘えるかは、人間の解釈の成せる芸です。逆に「善」にも「悪」にも解釈できるのが科学ではないでしょうか。

> 民族至上主義という人種差別思想と、進化論という科学は別のものです。

これは、犀角独歩さんが「進化論」という「不完全な理論」(小生の考えです)を科学と認められているということですか。
逆に、人種差別を生む温床に進化論が存在するとは思えませんでしょうか。

>>生物が進化するかどうかと言う事実と、進化論を差別主義者が悪用するかを混同するのはおかしなことです。

生物が進化すると定義した理論を悪用することは、それを肯定した歴史的背景と切り離すことは出来ないと思います。ある面では、科学的立証といっても世論に左右されるのが歴史的事実ではないでしょうか(勿論、それが正しいといっているのではありません)。

>> もう一点。進化論が人種差別者が悪用したのは事実です。しかし、反面、キリスト教圏では進化論否定がカルト集団に悪用されている事実もあることは留意されるべきでしょう。

結局どっちに転んでも、科学は宗教に利用される運命にあるのかも知れません。しかし、「進化論肯定論」、「進化論否定論」、どちらかが正しいとする理論もまた危険ではないでしょうか。
少なくとも、小生はそう思います。

1403一刀両断:2004/06/22(火) 22:29
別論のやりとりと同時進行のようで申し訳ありません。

独歩さん
私の全く曖昧な表現をきちんと代弁して頂いたようで誠に恐縮です。
死と生、やはりここに義を求める姿から宗教の存在自体があるのでしょうね。
宗教の存在意義まで発展しそうで恐いです。

ところで顕正会員時にも思った本当に素朴な疑問ですが、指摘されている「定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す」とはつまり不定業なのではないでしょうか。
私はこの理論を聞いた時に「では定業もまた不定業」と捉えました。
定業が消滅する事が可能であれば、それは不定業の部類に入ってしまうと思いました。
変更不能の定めを変更できるのであるのに「定業」となぜ呼ぶのでしょうか?

>真跡で見る限り「宿命(しゅくみょう)」は宿命通の意味でただ一度、その使用を見るばかりです。

これは過去のログにありましたね。思い出しました。
顕正会でも御指摘の通り、どうも御都合的に信仰者の存在意義を確定させたり、存在に意味を持たせる事の指導が為される度に、こういった運命論的な指導がなされてきました。
こういった心の操作に抵抗感と、そして人の心の弱さを改めて感じたものです。

1404犀角独歩:2004/06/23(水) 06:40

愚鈍凡夫さん:

> 不完全な理論に支えられた理論って何ですか?

不確定性原理とは、そのような限界に基づくところではありませんでしたか。
ノーベル賞を取っていますね。

> 若しくは、その規範となる不完全な理論から導き出される理論とは何ですか?

不完全な論理でしょう。

> これって、「絶対」とか「完全」とかいう言葉は、単なる空手形である

そうです。

> 科学をどう拘えるかは、人間の解釈の成せる芸です。逆に「善」にも「悪」にも解釈できるのが科学ではないでしょうか。

ええ、そうでしょう。そう言っているわけです。
アインシュタインにしても、湯川秀樹にしても、科学とその応用について、その点を論究していますね。

> 犀角独歩さんが「進化論」という「不完全な理論」(小生の考えです)を科学と認められている

不完全、古典的ながら、認めています。
進化を愚鈍凡夫さんは認めないのですか?
先の質問で愚鈍凡夫さんがはっしょった質問、「人間は最初から人間だった」とお考えのわけですか。

> 人種差別を生む温床に進化論が存在するとは思えませんでしょうか。

前にも出た話ですが、「地動説は神の御技を冒涜する」と言ったところで地球は動いています。

> 生物が進化すると定義した理論を悪用することは、それを肯定した歴史的背景と切り離すことは出来ないと思います。ある面では、科学的立証といっても世論に左右されるのが歴史的事実ではないでしょうか(勿論、それが正しいといっているのではありません)。

ここは何を仰っているのか理解できません。
生物が進化する以上、進化すると言うことがなぜいけないのですか。

繰り返しお尋ねしますが、愚鈍凡夫さんは生物は進化しないと考えているわけですか。
もし、そうであれば、いったい現世人類といわれる種はいつから存在していたのですか。また、反対に進化して人間になったと考えるのであれば、そう考える愚鈍凡夫さん自身は危険思想家のわけですか。

> 「進化論肯定論」、「進化論否定論」、どちらかが正しいとする理論もまた危険

理論が危険なのではなく、その理論を悪用する人間の心と行動が危険なのでしょう。

1405犀角独歩:2004/06/23(水) 06:55

一刀両断さん:

> 定業が消滅する事が可能であれば、それは不定業の部類

なるほど。
「定業」は天台文献で検索すると『維摩疏記』『文句記』『涅槃經疏』『涅槃經南』『禪門章』でヒットします。

蓮師の主張の力点は「懺悔(さんげ)」にあるわけで、『可延定業御書』を見ると「法華経第七に云はく「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり」と説き解きます。

つまり、法華経に拠れば、定業も変ずることができるということなのだと見えます。法華已前は二乗永不成仏であるけれど法華では成仏というように、法華功徳として、それまでの定説が覆るという次第なのだと思えます。

1406三吉:2004/06/23(水) 07:28
「定業」は、念仏宗では、「瞑想をすること」だったりします。
具体的には、瞑想に入り仏を観ずることです。
「定」は、瞑想。「業」は行為。
この場合、対になるのは「不定業」ではなく「散業」です。

ここでいう「定業」は、「前世から定まった業報」との意味なのですね。
その他教ゴーサーラなどが唱えた前世から定まっているという説は、
仏教の業報説に影響を与えると宿命論みたいになってしまったのだが、
この宿命論「前世から定まった業報」だと世間では言われているが、
よくよく懺悔すれば、定まった業報の罪すら滅除するのだよ、
だから心を入れ替えようね、という論理ですね。

とても「懺悔」の効果が高いということを強調するために、
ありえないことが、ふつーに起こる、と書かれていると読めば、
疑問は解消されるのでは?

1407愚鈍凡夫:2004/06/23(水) 07:35

皆さん、お早うございます。
>>1404:
うっ・・・・・。 (O.O;)(o。o;)

> 先の質問で愚鈍凡夫さんがはっしょった質問、「人間は最初から人間だった」とお考えのわけですか。

ヒトと人間の違いは何かという定義づけにもよるでしょうが、「原人」と「現生人類」がある時期、共存していた可能性も否定できないと思います。

> 繰り返しお尋ねしますが、愚鈍凡夫さんは生物は進化しないと考えているわけですか。

小生は、生物が進化しないといっているのではありません。進化論と違う考え方が存在することを紹介したまでです。環境に適応して変化していくことが「進化」ならば、その通りでしょう。

> 反対に進化して人間になったと考えるのであれば、そう考える愚鈍凡夫さん自身は危険思想家のわけですか。

チンパンジーと同一の祖先が、森から草原へ旅立つことからヒトへと進化したという考えを否定しているのではありません。それと違う考えも視野に入れるべきではないかと思っているだけです。

小生は、基本的に平和主義者です。別に「進化論」に異議を唱えることが危険思想だとは思いません。
「定説」に疑問を持つことは、逆に発展を促す重要な要素であると思っています。

1408犀角独歩:2004/06/23(水) 09:03

愚鈍凡夫さん:

どうもよくわからないですね。
「生物は進化する」=進化論がなぜ危険思想なんでしょうか。

わたしは進化論を支持しますが、別段、人種差別をしようと思いません。
優生保護法にももちろん、反対です。
進化論を信じる、でも平和主義者もありでしょう。しかし、

> 進化論の危険性は、人種差別を助長する可能性がある
> 「進化論」に異議を唱えることが危険思想だとは思いません。

進化論に異議を唱えるほうだけが非危険思想で、進化論を言うと危険思想の可能性ありというのは一方的な意見ではないでしょうか。まさに

> 進化論肯定論」、「進化論否定論」、どちらかが正しいとする理論もまた危険

なのではないでしょうか。

1409一刀両断:2004/06/23(水) 09:06
独歩さん 三吉さん
有難うございます。
「懺悔」がキーワードでしたか、了解しました。
しかしこのキーワードを会の活動などにあてはめると、意味合いをかなり飛躍させて身勝手で都合のよい論拠にし、会・団体に強い影響力を持たせる効果にも現在にはなっているのを感じます。
また他のワードに関しても同様の操作がなされていることが多いですね。
他のスレッドを拝見していても、一つの言葉を都合の良い解釈として組織にまかりとおしてしまう癖がこの系列の信仰には多いものなのだと改めて感じました。

1410愚鈍凡夫:2004/06/24(木) 13:43

>>1408:
あららっ、レスが帰ってきてたんだ。
犀角独歩さんどうも。

> 「生物は進化する」=進化論がなぜ危険思想なんでしょうか。

別に「進化論」に異議を唱えることが危険思想だとは思いません。とはいっていますが、「進化論」が危険思想だとは言っていません。

> > 進化論の危険性は、人種差別を助長する可能性がある
> > 「進化論」に異議を唱えることが危険思想だとは思いません。
>
> 進化論に異議を唱えるほうだけが非危険思想で、進化論を言うと危険思想の可能性ありというのは一方的な意見ではないでしょうか。

「進化論に異議を唱えることが」といっているのであって、「進化論に異議を唱えるほうが」と言っているのではありません。要するに、進化論に限って言えば人種差別を助長する可能性があるのではないかということです。勿論、他の理論に人種差別の可能性を認めないと言うことではありません。

悪しからず。
「何で、こんな話しになったんだろう・・・・・」(独り言) (¨;)

1411犀角独歩:2004/06/24(木) 21:10

愚鈍凡夫さん、富士門流信徒の掲示板ですから、進化論でいつまでも異を唱え合っても致し方がないのですね。

「進化論」が危険思想だとは言っていません」、でも、「進化論の危険性は、人種差別を助長する可能性がある」となると、危険思想ではないが危険性はあるの差?? 進化論と違う進化説は進化論ではないというロジック?? たいした違いがあるとは思えませんが。やめにしておきましょう、別段、わたしはダーウィンの擁護論者でもありませんので。

まあ、わたしは個人的には鎮護国家教とか、場合によっては法華経とか、前世因縁譚と言った仏教教義のほうがよほど、差別を助長するだろうと思いますね。色の白さで成不を言うのも一種の人種差別に端を発していますよね。カーストはインドでは「バルナ」、ずばり色の違い、肌の色の違いをいい、支配者、白人アーリア人の優性を言ったものでした。さらに身分差別、障害者差別、様々な差別の肯定論に使われてきたのが仏教でした。

このことを考えるほうが、当板には適しているのでしょうね。

1412愚鈍凡夫:2004/06/24(木) 21:53

犀角独歩さんどうも。

元々、思想や哲学に差別意識が備わっているのでしょうか。それとも、捉え方次第で差別意識が生れるのでしょうか。その辺のことを考えされられました。
ある意味、人の境涯(それを判断する基準に疑問を感じますが)をランク付けてして、向上心を煽るのも一つの方法論でしょうが、S学会のように「学会本部にあらずば人にあらじ」といった、地方蔑視に繋がる危険性も孕んでいますね。

ところで、釈迦牟尼はカースト制度を否定も肯定もしないという立場だったんでしょうか。
それぞれの個性を尊重し、互いを認め合うことは、仏教では不可能のでしょうか。
なんか、そんな基本的ことを考えてしまいました。
所詮、根本的な不幸を超えることが出来なければ、宗教の存在意義なんてないんですよね。

1413愚鈍凡夫:2004/06/24(木) 22:02

誤→それぞれの個性を尊重し、互いを認め合うことは、仏教では不可能のでしょうか。

正→それぞれの個性を尊重し、互いを認め合うことは、仏教では不可能なのでしょうか。

です。悪しからず。 m(_ _)m

1414犀角独歩:2004/06/24(木) 22:12

愚鈍凡夫さん、さすがの問題意識だと思います。
まったく以て思うのですが、思想信条というのは誰のものなんでしょうか。
為政者のため、支配者のため、指導者のため、集団のため?

たぶん、この疑問の共通認識で愚鈍凡夫さんとわたしは相通じていると信じています。なんかアホらしい言い合いになった気がしますが、わたしは愚鈍凡夫さんを信じています。言われる神仏は信じていませんが(笑)

1415愚鈍凡夫:2004/06/24(木) 23:36

>>1414:犀角独歩さん、有り難うございます。
>
言われる神仏は信じていませんが(笑)

何処かの教団の教義にあるように、「日顕師を咒い殺せば功徳がある」なんてことは考えていませんから大丈夫だと思います。 (^_^)v

>それぞれの個性を尊重し、互いを認め合うことは、仏教では不可能のでしょうか。

これについて、それぞれの教団に属する方の、「鰯の頭信心」以外のしっかりとした裏付けのある意見を聞いてみたいと思ったりしています。

1416三吉:2004/06/28(月) 23:39
「鰯の頭信心」に関する一考察

「鰯の頭信心」を馬鹿にされるが、存外捨てたものではない(と私は思う)。(笑)

人に理性と感性があるように、人の理解の仕方、納得の仕方には様々なタイプがある。
「頭でわかること」と「心で分かること」と「身体でわかること」は少し次元が違うように私は思う。
このことをパウロは判りやすく言う。「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は智慧を
追求します」と語ります。徴(しるし)=奇跡体験・霊的体験という証拠を見て、はじめて
真実だと納得する傾向持つ人びとや、逆に論理的に明快な理屈の正当性をもってはじめて
頷く方々がいるが、「十字架につけられた救世主」を宣伝するパウロは、徴(奇跡的勝利)を
求める人にとっては、「十字架=敗北」の意味しか持たないし、理性的な判断を追及する人
にとって「十字架=愚か」の意味しか持たない、と。
「十字架=敗北・愚かな者」を神が選んだのは、この世には「強い者・賢い者」は少なく、
「弱い者・愚かな者」が多いからだと。
かくして「パウロ的鰯の頭信心」は、「弱さ・愚かさ」故に、信仰的な「義」を持つわけで
す。

1417三吉:2004/06/28(月) 23:40
さて、仏教ギョーカイ用語で同じ問題を繰り返しますと、
徴を要求する体験的感覚派を「観心」とか「事相」と言い、
理屈を追求する立場を「教相」などと言うそうです。
※徴(しるし)とは奇跡体験であれ瞑想的悟入であれ、身体で何かをわかることだと
仮定します。

天台では特に教観二門を車の両輪に喩え、理論面と実践面どちらも欠けては駄目と言われ
るそうです。
日蓮は、教相はあるが観心がない。つまり「理屈は立派だが実践がない」と同門から批判
されて、釈尊が滅度して2500年後の現代における実践とはなにか、「題目」であるという
意味で「観心本尊抄」を書いたわけです。
普通の仏教者のジョーシキから言えば実践は「瞑想」です。瞑想は整理されて体系化され
てます。そういう一般的な瞑想実践からすれば、題目なんて「鰯の頭信心」で、とてもじゃ
ないが実践とは言えない代物だったはずです。

伝統的な「深い瞑想」も「題目」も「鰯の頭信心」も実践ですし、分類すれば体験です。
この体験は、突き詰めれば、自分の身体で「何か」かがわかる体験です。
少し具体的に言えば、経文が、「私へのメッセージ」であると感得できる体験です。
日蓮さんの「法華経の一字一字が仏である」というのは、これです。
学会員が池田センセーの手紙(新聞の一般向けメッセージを自分のメッセージと読む)のも
立派な観心で、言葉を自分に向けられたもの、つまり主体的体験として理解している意味
で立派な「観心体験」です。

1418三吉:2004/06/28(月) 23:40
明証主義とか科学的とか、そういうのは理屈です。知恵です。
そういう視点から見れば、「鰯の頭信心」は「愚かに」見えます。
2000年前、パウロが指摘したとおりです。
ただ、頭で理解するだけではなく、身体でわかってこそ、頷いてこその仏教ではないでし
ょうか。
つまりは誰しも、自分が納得し(理性的であれ、感性的であれ)、頷けたらいいわけです。
体験主義的傾向の強い人は理屈派を「体験がない」と馬鹿にしますし、
理論派の方は、体験派を「愚か」だと軽蔑する傾向があると思います。
人に感性と理性があるように、一人一人の傾向はともかく、乱暴に分けると
さような傾向があるのかもです。

観心から鰯まで、様々あれど、体験に判るということは、意識のみならず、生き方が変わ
ります。釈尊が苦行主義を捨て、瞑想派になったように。日蓮が瞑想派を超え、題目を
見出したように。あるいはバウロが迫害者から使徒へと転進したように。
釈尊集団は、世間のカースト制に異議を言わなかったけれども、出家集団に入ったら、
在家時の身分差を否定しました。出家後は、世間と違う価値観で生きたのでしょう。
そこには教団規則という強制的な意識「転換」があります。
自然な内奥から沸き起こる「転換」が、鰯系体験主義の醍醐味かもです。



>「個性を尊重し、互いを認め合うことは、仏教では不可能のでしょうか」

言葉の上では某派は「ばらばらで いっしょ」を近年テーマにして、
「違いを認め合える世界」を希求はしています。
ただそれを出すということは、「認め合えてない自分たちの現実」を
深く嘆いておるからでしょう。
嘆き、そして慙愧が、願いを産むものかもしれません。

1419普段はROMしてます:2004/06/29(火) 00:41
>>1412
横からだけど「区別が差別にすり返られやすい」ってことかと。日蓮系だと「桜梅桃李」で、桜、梅、桃、李、それぞれの花の美しさを愛でるってのがあるっしょ。これは、違いをまず認めて、その違いに良さを認めようってことだよね。
キリスト教だと、神の前の平等=キリスト教徒の平等で、違いを認めない平等なわけ。その反面、キリスト教徒以外を平等視しない平等観で、カテゴリー内の平等であって、カテゴリー外は区別する。

要するに、仏教は、それぞれに個別の価値があるから、大切にしようという平等で、キリスト教は、同じカテゴリーなら同じ価値を持っているという平等なわけ。で、キリスト教の場合、カテゴリーの違いという区別が、差別へと転化すると。じゃあ仏教が、そんなに良いかといえば、個別の価値を認める姿勢がないなら、差別になるわけで。

ちなみに現代日本人は、仏教とキリスト教の平等がごっちゃになって、カテゴリーの区別を無視した上で、個別の良さを認めている。区別を差別とし、男女の生物学的違いをも無視するジェンダーフリーなんてのが、大手を振っている始末。

まとまりがないけど「区別が差別にすり返られやすい」ってことで。

1420普段はROMしてます:2004/06/29(火) 00:58
>>1416
仏教では、悟りの方法として、

信:とにかく信じる
行:修行をする
解:仏教の経典を学ぶ(解説はいい加減)

の三つがあるから。でも、いわゆる名僧の説法を聞くと、名僧自身は、最終的には信行解を全てやってたり。ま、どれも大事なわけ。ちなみに他力と自力は不二で、他力だけ、あるいは自力だけを強調しない。これは法華経に「三車火宅の譬え」があるから、日蓮系の人は理解しやすいはず。

それから、わかってると思うけど、瞑想と禅は違うよ。現代日本の言語感覚だと、瞑想はヨガを連想させるので、違和感があるというだけだけだけど。

1421三吉:2004/06/29(火) 01:28
うむぅ(笑)。
「行:修行をする」の中身が瞑想なのよ。

南伝だと、大きくはサマーディーとヴィパッサナーなのね
北伝だと、「止」と「観」
あるいは「禅」と「定」とかね。

サマディーは漢訳されると三昧とも訳されたのね。
んで雨後の竹の子ように実践マニュアル「三昧経典」が作られた。

天台はそれを整理して「四種三昧」だね。
でそういう細かい話を抜きにしたらね、「禅」も瞑想の一種ね。

1422犀角独歩:2004/06/29(火) 06:17

1416〜1421のご投稿、興味深く拝読しました。
もし、続きをお記しいただけるのであれば、14『鰯の頭も信心?』スレッドにお寄せいただければ、あとからのロムの皆さんがいっそう参考にしやすいだろうと思えました。

> 頭で理解するだけではなく、身体でわかってこそ、頷いてこその仏教

そうなんでしょうね。ただ、わたしのような生まれながらの日蓮本仏信徒・石山学会の言うが儘に「信じろ」で来た人間が、ふと立ち止まって、その心身体験を反省して、ここでは「明証主義」とまあ、こう言っているわけです。
つまり、「心身でわかったつもり」の反省としての再考です。

たぶん、ここで投稿されている皆さんは、いっとき熱烈に信仰し、強烈に活動した体験をお持ちの方がほとんどではないのかと思います。そこで置き忘れられていた宿題を、いわば記されている。その前提はあまり表に出ませんから、「信が等閑になっている」とロムされるむきはあるのだろうか?と思ったりします。

まあそんなことをかつて「命懸けの信心」をしていた一人として、補足しておきたいと思います。

1423愚鈍凡夫:2004/06/29(火) 13:28

三吉さんどうも(お久しぶりですか、初めましてか分からないものですから (゚ー゚;Aアセアセ )。

三吉さんのレス、なるほどと思いました。

悲しいのは、ストイックな「鰯の頭信者」が、本人は殉教精神に濫れた純粋な信仰者であると信じ込んでいるにも関らず、端から見れば、立派なカルト宗教信者にしか映らないと言ったギャップが存在することだと思います。周りに迷惑さえかけなければ、それが信仰者としてあるべき姿勢なのかも知れません。

体験主義を否定するものではありませんが(寧ろ、信仰を深めるために、必要な要素だと思います)、ただ、同じ体験をしても、人それぞれ解釈が異なり、その後のそれぞれの信仰に大きく作用する面があるかと思います。
たとえば、苦行を行って爽快感を感じる人もいるでしょうが、反対に不快感を感じる人もいるでしょう。
それぞれの価値観やその時の心身の状態に大きく左右されるというのが、体験主義に於いて気をつけなければいない事だと思います。

統一された価値観を押しつける教団においては、爽快感を感じても、逆に不快感を感じても、中心的指導者の指導が絶対と刷り込まれ、どんどんストイックな方向に突き進んでいく結果になるのではないでしょうか。

宗教体験を理論の上から検証して、方向性を確認する冷静な視点も必要かと思います。

1424愚鈍凡夫:2004/06/29(火) 13:50

普段はROMしてますさん、どうも初めまして。

「区別」と「差別」についてですが、

**************************************************
さ‐べつ【差別】
①差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。「―意識」
②区別すること。けじめ。「大小の―がある」

広辞苑第4版より
**************************************************

蔑視といった悪感情を持って区別するか、論理的に区別するかで、おのずと解釈も変わってくるのでしょうね。S学会で感情的区別を散々見てきましので、ふと、そんなことを考えてしまいました。

1425平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/06/29(火) 14:20
犀角独歩さん
日蓮正宗の上人の過去帳を開いて疑問に思ったのですが、16世の日就上人から
19世の日舜上人の没年月日はおかしいと思いました。16世日就上人は寛永9
年2月21日(1632年4月10日)、17世日精上人は天和3年11月5日
(1683年12月22日)、18世日盈上人は寛永15年3月7日(1638
年4月20日)、19世日舜上人は寛文9年11月12日(1670年1月3日)
になっています。異様なのは17世日精上人が後の18世日盈上人よりも45年
も長生きし、19世日舜上人よりも13年長生きしている所です。日精上人は処
刑されたということを創価の本で読んだことがあります。また日精上人の御本尊
は昭和40年代半ばまでは、改築前の東京池袋の常在寺の本堂に御安置されてい
ました。日精上人に関することを知りたいと思いまして御質問差し上げました。

1426犀角独歩:2004/06/29(火) 14:55

1425 平和創価さん:

この問題はむしろ、わたしなんかより、たとえばれんさんその他の方のほうがお詳しいのではないでしょうか。以下、補完いただければ幸甚です。

わたしは基本的に蓮師が拝んでいたものは随身の釈迦一体仏像、その意味で造像仏像崇拝は日蓮門下では当然のことと思っています。漫荼羅ばかりを本尊とすることを「漫荼羅偏向」と思っているぐらいです。その意味で、精師に関しては、ちょっと違う観点です。つまり、造像に関してはあまり否定的に見ていません。


例として引かれる漫荼羅の取り替えは、なにも常在寺に限ることではなく、ほとんどの由緒寺院で、歴代の誰彼を問わず行われたことでした。わたしの知り限り、東京では取り替えがなかったのは品川妙光寺ぐらいではないでしょうか。要は寺院安置の板漫荼羅に「法華講総講頭・創価学会会長・池田大作」と彫られたものを安置するという学会の外圧、ならびに、新たに自分の漫荼羅を安置するという達師のやり過ぎに由来したものでしょう。それを取って、精師批判を学会がするとすれば、嗤うしかありません。

現石山では、別段、精師を批判する傾向はないのであって、漫荼羅偏向者が悪者と見立てるという一連の流れがあるばかりでしょう。石山にあっては御影を拝したものの、殊に造像をなしたわけではないので、むしろ、経営面で徳川、または公家をパトロンにして、寺運興隆、伸長させたわけですから、評価されるわけでしょう。

また、全国から資料文献を集めたという点でその価値があるのでしょう。それが元々あるような顔をして自山顕彰の勝手教学を作ったのが寛師であったのでしょう。しかし、御影堂を作るのはいいにしても、それを本門戒壇堂として建立したことは如何にも行き過ぎであったでしょうし、そこに弥四郎漫荼羅を据えたのも行き過ぎ。さらに、たぶん、御肉牙というけったいな見せ物を霊宝随一なんて詐称し、客寄せに使ったのもこの人であろうと思います。つまり、資料蒐集、宗史家としては評価できる面はあるものの、その後の謀りの原因を作ったのもこの人であろうとわたしは考えています。

まあ、かなり、学会、顕正会なんかの精師観とは違うかも知れませんが、わたしは以上のように考えています。

1427空き缶:2004/06/29(火) 18:31

犀角独歩さん、私は日精師の「随宜論」は大石寺歴代の著作の中では、最も日興師の本尊思想に近いのではないかと考えます。

曼荼羅至上主義は八品派日隆師の教説です。日有師または細草檀林開所以降、大石寺に持ち込まれた思想ではないでしょうか。

1428犀角独歩:2004/06/29(火) 20:00

空き缶さん、有り難うございます。

「なるほど、なるほど」と納得しました。
さすがのご賢察と拝しました。

1429れん:2004/06/29(火) 20:46
犀角独歩さん、私は精師につきましては、残念ながら富士宗学要集・歴全以上の知識は持ち合わせていなかったので、1426の独歩さんの御投稿に御披露された御賢察は大変勉強になりました。ありがとうございます。
空き缶さん、1427の御投稿に御披露された御賢察、大変勉強になりました。ありがとうございます。最近はパケット代節約のためほとんど閲覧だけにしておりますが、皆さんの御議論・御賢察から沢山学ばせて戴いております。これからも皆様の御賢察から学ばせて戴きます。今後とも宜しくお願い申し上げます。

1430一字三礼:2004/06/29(火) 21:01
犀角独歩さん
空き缶さん

私見ですが。
蓮祖のお考えでは、大曼荼羅と一尊四士(仏像)とは、元来の用途が違うのではないでしょうか。
大曼荼羅に言及している数少ない真筆遺文「新尼御前御返事」などを読むと大曼荼羅本尊を与えられている信者には信仰心の有無等のかなり厳しい条件が付されていたのではないか、と思えます。(亀若・亀姫等に与えられたお守りは別と考えて)
大曼荼羅を集団に与えた事を示す脇書もありません。とすると大曼荼羅本尊はあくまで個人用だったのではないでしょうか。

寺院には一般の信者のみならず、他宗派の人間も出入りするでしょうし、その折、信仰心の無いものには見せられない秘仏は安置できません。
ことによると、寺院での本尊は一尊四士に限り、大曼荼羅本尊は寺院で奉ってはいけないのかもしれないと考えております。

1431平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/06/29(火) 21:24
れんさん
室町時代後期から江戸時代初期辺りには稚児貫首の風習があったそうです。
日院上人も稚児貫首であったとの記載が聖教新聞か創価新報で以前ありまし
て切り抜きをしてノートに貼っていたのですが、今年の2月に処分してしま
いました。私が1425で犀角独歩さんに質問した件ですが、れんさんはど
うお考えですか?17世の日精上人が処刑された経緯や、日精上人が18世
の18世に日盈上人よりも45年も長生きしていると言うことは、日盈上人
が稚児貫首であって、日精上人が事実上の貫首であったためではないかと思
うのですが。また日盈上人の御遷化がお早かった為にこのようなことになっ
たのではないかと思いますが、どうお考えですか?私はお恥ずかしながら『
富士宗学要集』を持っていないために憶測しかできません。博識の方の御返
事をお待ちしております。

1432平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/06/29(火) 21:46
また8世の日影上人の御遷化の年月日の應永26年8月4日(1429年9月
2日)と9世の日有上人の御遷化の年月日の文明14年9月29日(1482
年11月19日)の間の63年の開きと、11世の日底上人の御遷化の年月日、
文明4年4月7日(1472年5月23日)と12世の日鎮上人の御遷化の年
月日、大永7年6月24日(1527年8月1日)と、との間に55年もの開
きがあるのはなぜでしょうか?この間に貫首不在の時期があったためでしょう
か。『富士宗学要集』が無い私としては手探りの状態です。私と同じように持
っていない人もいるかと思いますので、博識の方がおられたらお教え下さい。

1433れん:2004/06/29(火) 21:52
平和さん。先ず精師は処刑などされておりませんよ。当時の有力な大名信徒の敬台院さんと精師が一時期仲たがいして、精師が江戸の石山末寺に移ったということはあったようですが。平和さんが疑問を持たれている件ですが、石山は昌師以来、九代にわたり京都要法寺から貫首を迎えますが、それは精師を含め稚児貫首ではなく、相応に学業をつまれた成人貫首で、たまたま精師が前後の要山出身の貫首さんよりも長寿であっただけのことと思います。私の精師に関する知識はこの程度ですので、あとはもっと御詳しい方にお聞きになってください。

1434平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/06/29(火) 22:13
れんさん
御返事有難う御座います。精師処刑というのは私の中学生の時の誤読であった
ようです。語彙が少なかった少年時代の記憶を頼りにしていまして大変失礼し
ました。

1435平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/06/29(火) 23:00
日蓮正宗の貫首の過去帳を見て気が付いたのですが。日蓮大聖人以外の方の亡くな
られた年齢が書かれていないのです。日興上人は(1246〜1333)87歳、
日目上人(1260〜1333)73歳、日昭(1221〜1323)102歳、
日朗(1245〜1320)75歳、日頂(1252〜1317)65歳、日向(
1253〜1314)61歳、日持(1250〜?)46歳?、日寛上人(166
5〜1726)61歳と分かっているのですが、過去帳に貫首の没年齢が書かれて
いないために研究ができません。貫首の没年齢が分かる資料を御存知の方の御返事
をお待ちしております。このことは『富士宗学要集』に書かれているのでしょうか。

1436普段はROMしてます:2004/06/29(火) 23:14
>>1421
行は、禅だけじゃなくて、荒行などもあるわけで。でも臨在宗じゃなくて、曹洞宗なら、瞑想になるのかな? ま、ヨガの瞑想とは違うって、言いたかっただけなので(自分が上手く説明できないだけだけど)。

>>1424
仏教徒なら、自分のモノサシではなくて、仏のモノサシで判断するように心がけることかと。感情的区別は、自分の感情が入っている以上は、自分のモノサシだし。日蓮系なら、手前勝手な法華経解釈じゃなくて、正しい法華経解釈に基づいた判断をすれば良いかと。現実には難しいけど「損は悟り、得は迷い」と思えれば。って、一遍上人は、ここではマズイか…

1437空き缶:2004/06/29(火) 23:20

横レスします。
創価平和さん、はじめまして。大石寺歴代の没年齢は「日蓮正宗冨士年表」巻頭の「日蓮大聖人血脈付法系譜」に大体書いてあります。
大体と申しますのは、行・時・阿・乗・低の五師は空白になっているのです。先ほどより、問題提起されている面々だけになにかありそうですけどね。
確か「法主詐称」にもこの辺のことが出ていたと記憶しています。

1438愚鈍凡夫:2004/06/29(火) 23:33

平和創価さん、始めまして。

こういうのはどうですか。ご参考までに。

普段はROMしてますさん、

> 仏教徒なら、自分のモノサシではなくて、仏のモノサシで判断するように心がけることかと。

この「仏のモノサシとはなんぞや?」というのが、仏教最大の難問ではないかと思います。

日蓮大聖人血脈付法系譜(総本山大石寺 御歴代上人)
http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/rekishi_rekidai.htm

1439三吉:2004/06/29(火) 23:54
荒行っすか。 滝に打たれたりするやつね。
悟りのための実践(行)ではなくて、
念願を達成するためという位置づけのはずかもですよ。
しかもですね。仏教というより、修験道からでは?汗

1440空き缶:2004/06/30(水) 01:07
犀角独歩さん、いつも私の愚考にお付き合いいただき、本当にありがとうございます。

一字三礼さん、こん○○は。
非常に興味深いご投稿です。
現代的に考えますと各個人の家庭にも、他の宗派に属する方が友人として遊びに来ることはありますね。現代は立派な仏壇も販売されていますからそれなりに曼荼羅本尊を安置することも可能と思われます。
しかし宗祖の時代はどうだったのでしょうか、まず現代のような立派な仏壇や厨子は無かったのではないかと思われ、またほとんどの人が他宗の人であったため、日蓮聖人門下の邸宅に出入りする人も他宗の人が多かったのではないかと想像いたします。
ここのところのご見解をまたお聞かせ下さい。

れんさん、パケット料金大変ですね。
今回のボーナスにてPC導入なんていかがでしょう。ランニングコストを考えれば、ブロードバンドがいいですよ。

愚鈍凡夫さん、さすがです。これはまさしく冨士年表のそれと同じですね。

1441犀角独歩:2004/06/30(水) 01:47

なんだか、パラレルに話題が同時進行ですね(笑)

1430 一字三礼さん:

曼陀羅と仏像の用途の違い。このお考えにわたしも大いに賛成です。
ただ、蓮師の段階で一尊四士はあったでしょうか。文面で見られますが、ご自身もまた、消息文などでも一体像に留まっているように思えるのですが。一尊四士を具象化したのは興師で、またそれをご自分の考えとし、故にその義を盗んだとして、澄師を批判した経緯が重須文書に見られたと記憶します。

仰るような相違は、派祖以降は、

伽藍でいえば、本堂(釈迦堂)と御影堂で分立されるということになるのでしょうね。


1432 平和創価さん:

>『富士宗学要集』が無い

これは nb さんのサイトを活用されればよろしいでしょうね。

nb 資料室
http://nakanihon.net/nb/siryou.html

1442平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/06/30(水) 10:11
>>1438 >>1441
愚鈍凡夫さん 犀角独歩さん
貴重な御資料のご紹介有難う御座います。この研究は信仰に関する直接的なもの
のため、私はかなり神経を使って来ました。先月から体調を崩し今仕事を休んで
通院中なので健康には十分注意して研究していきたいと思っています。

1443犀角独歩:2004/06/30(水) 10:29

平和創価さん:

そうでしたか。どうか、お体を大切になさってください。
信仰体系から脱したわたしが言うにはあまりにも不似合いな言葉ですが、ご回復を心より祈念申し上げます。

1444一字三礼:2004/06/30(水) 15:26
空き缶さん

>日蓮聖人門下の邸宅に出入りする人も他宗の人が多かったのではないかと想像いたします。

とのご指摘、私も同感です。
ただどうなのでしょうか、大曼荼羅を授与された信者は、常には仏間なり、持仏堂なりに安置していたのでしょうか。
真筆曼荼羅の中には深く折り目のついたものがありますし、像師授与の曼荼羅では、折り目が擦り切れて破れてしまっているそうです。
たとえば、常時吊るすような形式で安置されていれば、そのような折り目はつかないのではないか、と想像します。

ひとつには、大曼荼羅と言っても、その種類といいましょうか、性格といいましょうか、違いがあるのではないでしょうか。

「新尼御前御返事」にみられる例。ここでは大曼荼羅の役割は本尊であり、その展開は法華経に基づくと説明されております。

亀若丸・亀姫への授与にみられる例。千葉新介宗胤(亀若丸)の生年は文永2年(1265年)とされていて、授与されたのは建冶2年(1276年)だから11歳の時でしょう。年齢から考えても身命を惜しまないほどの強信者とも思えません。おそらく富木氏か太田氏が主家の若君の元服、もしくは九州での息災を願って蓮祖にお守り用曼荼羅を要請したものではないでしょうか。

「御本尊集」では、その他に一人に対して複数の大曼荼羅が授与されている例も見受けられます。これなどは賞与・功労賞の性格を持つのかもしれません。

余談ですが。
少し前の産経新聞に元・経団連会長の土光敏夫氏の母・土光登美氏の事が書かれておりました。岡山が地元の土光家は代々法華信者であったそうです。その紙面の写真に土光家の板碑が写っていたのですが、そこには題目が書かれていて、そのお文字がどう見ても保田の万年救護の首題にしか見えないのです。
備前法華と言えば、日像門流を思い浮かべるのですが、保田妙本寺と通用があったのでしょうか。

1445一字三礼:2004/06/30(水) 15:28
犀角独歩さん

>なんだか、パラレルに話題が同時進行ですね(笑)

どうも私は大事なお話の間に割り込んでしまったようで、間が悪くて申し訳ありません。

>ご自身もまた、消息文などでも一体像に留まっているように思えるのですが。

難しいところだと思います。観心本尊抄の「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩・・」等の記述によれば、たしかに四大菩薩と切り離して一体仏でも寿量釈尊を表現出来るとも読めます。しかし、その前段「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、・・」等の文章の流れでは、特に脇士に言及しておりますので本門にいたれば脇士としては四菩薩の存在が不可欠とも読めます。

>伽藍でいえば、本堂(釈迦堂)と御影堂で分立されるということになるのでしょうね。
なるほどご指摘の通りですね。

1446空き缶:2004/06/30(水) 15:58

一字三礼さん、こんにちは。

本尊としての大曼陀羅、賞与としての大曼陀羅、確かにおっしゃる通りですね。

現在でも歴代の肉筆曼荼羅は、ほとんどどの宗派でも「賞与」あるいは多額の供養に対する「礼状」的な役割を担っていると思われます。

土光氏のことは、かつて正信会が行った「日蓮聖人展」を見に行ったとき、ビデオ放送されていました。
最初は土光氏が日蓮正宗系の信徒なのか、あるいは正信会系の寺院となにか関係があるのか疑問に思いましたが、どうやら日蓮聖人の教えを信奉していた人で有名な人ということであったようです。

1447Jルーカス:2004/06/30(水) 16:42
御本尊にはもう一つ、呪符としての意味もあると思いますが・・・。

1448一字三礼:2004/06/30(水) 20:59

蓮祖が授与された大曼荼羅には複雑な意味があると考えました。
① 本尊として
② お守りとして
③ 賞与として
勿論、①と②を兼ねていたり、①と③を兼ねていたりと単純には断定できないかもしれませんが、本尊としてのみ大曼荼羅を書かれたのではないでしょう。
その上、表面に年月、授与者名等を記入している事から考えて、大曼荼羅とは私信・手紙に類する、蓮祖と信者間のとても私的なもののような印象を受けます。
そこで、大曼荼羅を寺院に安置して本尊として公開するというような、現在どこの日蓮宗系寺院で見られる形式は、本来、蓮祖の意図するところでは無かったのではないか、と推測いたしました。

1449空き缶:2004/06/30(水) 21:30

一字三礼さん、今晩は。

本弟子日興師は、恐らく弟子の中で一番多く曼荼羅本尊を書写され、蓮祖御筆曼荼羅に添書をされている方と存じます。

その日興師の添書に「本門寺に懸け奉るべし」とあるものが数点ございます。この点につきどのように思われますでしょうか。

仏像造立は本門寺建立後、それまでは曼荼羅をもって本尊とするという、日興門流上代の本尊観はどのように思われますでしょうか。

1450犀角独歩:2004/07/01(木) 02:23

一字三礼さん:

> どうも私は大事なお話の間に割り込んでしまった

まったくそんなことございません。興味深く拝読させていただいております。
漫荼羅の用途、実はこの点を三学無縁さんをはじめ、複数の方々と話してきました。わたしは三学無縁さんと同意見なのですが、第一の用途は「諸尊勧請・道場荘厳」のための札であるという見解です。


Jルーカスさん:

> 御本尊にはもう一つ、呪符としての意味


ここで言う呪符の「呪」はどのような意味ででしょうか。
辞典では

じゅ 【呪】

(1)のろい。まじない。
「―を唱える」
(2)〔仏〕 密教で、陀羅尼(だらに)、真言のこと。
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

とあります。「のろい」というより「陀羅尼、真言」ということでしょうか。蓮師の段階では前者は無しで、後者はあり。後代に前者もありとなったのではないのかと想像しますが、どうでしょうか。

『四条金吾殿御返事』に「日蓮は首題の五字を汝にさづく。法華経受持のものを守護せん事疑ひあるべからず。まりし(摩利支)天も法華経を持ちて一切衆生をたすけ給ふ。「臨兵闘者皆陳列在前」に、わたしは注目しています。

この引用は真跡に見られず、録外でもこの一書に限ります。
それに比し、「還著於本人」は真跡で6カ所に見られるわけで、蓮師が呪詛を漫荼羅によせるわけもないと思えるわけです。
最近学会では顕師を呪うことを勧めているようですが、この‘狂気の沙汰’はまったく蓮師の素意に悖るものであると思います。(もちろん、顕師の肩を持つわけではありません。たぶん、尤も骨肉を抉って本質の部分でものを言っているのはたぶんわたしでしょうから)

1451孤独な迷子:2004/07/01(木) 08:40
久しぶりの投稿ですが、横から失礼します。

独歩さん

>>1443
>信仰体系から脱したわたしが言うにはあまりにも不似合いな言葉ですが、ご回復を心より祈念申し上げます。

独歩さんは今でも勤行等はなさっているのでしょうか。

宜しかったらお聞かせ下さい。

1452犀角独歩:2004/07/01(木) 09:34

孤独な迷子さん:

お久しぶりです。

> 今でも勤行等は

現在、石山が言うような勤行はしていません、そこで定められている三宝観に異義があるわけですから。殊に観念文は叙用に耐えません。

ただ宗派を問わず、法事に参列し、そこで勤行法式が為されれば、合掌しますし、知っているお経であれば、唱和もします。儀礼の範囲であるという心得です。

1453一字三礼:2004/07/01(木) 22:32
空き缶さん、こんばんは。
> その日興師の添書に「本門寺に懸け奉るべし」とあるものが数点ございます。この点につきどのように思われますでしょうか。
日興師の本門寺構想の全体像がつかみ難いのでよくわからないのですが、すくなくとも蓮祖ご自身は、一度授与された大曼荼羅を、本門寺建立の後に回収して本堂なり、戒壇院や御影堂などの諸堂宇なりに奉る事は想定しておられなかったのではないでしょうか。
>仏像造立は本門寺建立後、それまでは曼荼羅をもって本尊とするという、日興門流上代の本尊観はどのように思われますでしょうか。
なぜ本門寺建立後でなくてはいけないのでしょうか。空き缶さんは、その意味、理由なりをどのようにご理解されておられますでしょうか。

1454空き缶:2004/07/01(木) 22:50

 一字三礼さん、今晩は。

 私は日興師が「天台沙門」ではなく「日蓮聖人之弟子」にこだわり、本門寺構想に執念を燃やされたことは、日蓮聖人の教えが公に認められることにこだわったのではないかと思います。

 現代的に言えば、当時の本門寺建立は現代でいう宗教法人の認可が下りるということを意味していると想像しています。つまり宗教として認められていないうちから仏像を造るということは、遠慮していたという程度ではないでしょうか。

1455犀角独歩:2004/07/02(金) 05:57

空き缶さん、ちょっといいでしょうか。

> 当時の本門寺建立は現代でいう宗教法人の認可

この考えにわたしも賛同します。これはまた、天奏にも言えることでしょうね。天奏は国家諫暁だと現在では解釈されていますが、実際は今で言う宗教法人の許認可申請であったとわたしは考えます。


> 仏像を造るということは、遠慮していた

これは興師の考えなのでしょうか。
この点は以前も記したことがあるのですが、わたしは興師という人は代用品を一切、認めない人だったのではないのかと想像しているのです。

昭師が随身仏を持ち去ってしまった。その時、円師は新しい仏像を造ろうとした。これに興師は反対しました。それを興師の造仏否定と石山系では解説するわけですが、わたしはこれは違うと思うのです。要は蓮師が随身された仏像が尊いのであって、その代替品では意味がないと考えられたのではないのかと思うのです。ある面、いつか昭師の元から仏像が還ってくると待っていたのかも知れません。待っているわけですから、その席は空けていた。それがいつしか、仏像のない様式と解されて重須の、例の本門寺建立以降、仏像造立という伝承を生んでいったのではないのかと思うわけです。

ある状態が続くと、その説明が必要になり、それが説明されると、それが前の常識に取って代わられる、そんな変遷のなかで「漫荼羅正意」という後世の姿勢が定着していったのではないのかと思うのです。

1456れん:2004/07/02(金) 09:49
犀角独歩さん、空き缶さん。お二方のお考えに私も賛同しております。造像のについてですが、犀角独歩さんのお考えに賛同ですが、墓所傍(身延)に安置せよと蓮師が遺言された随身の釈尊像と、興師の弟子の三位日順師が心底抄に「行者既出現久成之定慧広宣流布本門戒壇其豈不立哉安置仏像如本尊図」(同様の意見は興師弟子の代師、目師弟子の尊師、他門でも像門の存師にもみえる)とした仏像とは、多少性質が違うのではないかなぁと、少々疑問を感じました。基本的に性質の違いはどうあれ、興師は決して仏像否定論者ではなかったと私も思っています。

1457犀角独歩:2004/07/02(金) 11:10

れんさん、有り難うございます。

仰るとおり重須その他で言う「広宣流布本門戒壇」では漫荼羅図示の如くにしようとするものでしょうから、一体仏像安置ではないでしょうね。

この点、実はずいぶんと昔に問答さんと議論したと記憶しています。
興師は一尊四士の奉安様式を自身の義とされたわけですが、たとえば洛では一塔二尊四士の奉安様式が生じ、それが東漸し用いられるようになった歴史的な推移がありますね。ここでの解釈は仏像配置様式に留まる、と見えます。

ところが、たとえば北山三堂棟札、あるいはそれを伝える化儀抄「本門寺朽木書」と言った文献を見ると、それが興師に由来するかどうかは別として、ここでは仏像配置様式を言っているのではなく寺院境内の伽藍様式を言ってないか?と、わたしは着目しました。

そこから改めてみると、西面・五重塔がその伽藍の中心となり、その脇に四菩薩それぞれの御堂が配され、その前に各天堂、菩薩堂、さらに大師堂、鬼子母神等、諸々に配し、その最前に御影堂を置く、大伽藍様式を夢想したことがありました。

この場合、五重塔の内には妙法蓮華経五字(漫荼羅か?)が懸かり、その両脇に釈迦・多宝仏像が安置されることになると考えました。

この点で一言すれば、いまに伝わる一塔二尊四士配置様式は、わたしは本尊抄の記述からすると違っていると断言してよいと考えています。
いまの寺院でこれを見ると、妙法蓮華経が塔と建ち、その両脇に二仏が配されます。つまり、二仏が塔の外になっているのです。しかし、『本尊抄』では

「寶塔居空塔中妙法蓮華經左右釋迦牟尼佛・多寶佛・釋尊脇士上行等四菩薩」
と言うのであって、宝塔の‘中’と明示されています。一塔二尊という時二仏は妙法蓮華経の五字とともに塔中に収まらなければ、その記述と違うことになります。またこれは法華経宝塔品の説相でも、塔の中から多宝が呼びかけ、半座を分かって塔中に釈迦が並座することが明記されます。つまり、一塔二尊が宝塔品をモチーフとする以上、塔外に二仏を配する「一塔二尊四士」は宝塔品とも本尊抄とも違っているとわたしは考えたわけです。

なにか冗長に記しましたが、れんさんがお示しくださった『心底抄』の文意は仏像配置様式を言うのではなく、伽藍様式を言うものであると、さらにその一塔二尊四士の有りようまで、勝手気儘に記させていただきました。

元より、厳粛に資料を当たって記すところでなく、わたしの詰まらぬ管見であることは断るまでもないところです。れんさんをはじめ、皆さんからご叱正を賜れれば有り難く存じます。

1458犀角独歩:2004/07/02(金) 11:38

1457の補足です。

わたしは「塔中妙法蓮華経」とは法華経八軸二十八品の妙法蓮華経経典であると個人的には思っています。つまり、五重塔は妙法蓮華経経典とその両脇を固める釈迦多宝二仏像で奉安された須弥壇を持つ堂塔であると考えています。

1459普段はROMしてます:2004/07/03(土) 00:31
>>1439
天台宗の比叡山延暦寺には、千日回峰行ってのがある。毎年100日、合計700百日、毎日経を唱え野山を裸足で歩き回り、さらに間に9日、最後に8日の断食断水まである。で、失敗したら(病気などして続けられなくなったら)、小刀で切腹か、喉を突くかする。NHKが取材して番組として放送したこともあったとか。

で、これは念願を達成するためじゃない。実際に達成した僧侶(葉上師だったかな?)は、仏さんに生かされていることがわかったと言っている。日蓮系なら法華経の三車火宅の譬えの他力を、体でわかったということ。

ただ三吉さんは知っていると思うけど、こうした荒行は恍惚感や臨死体験を伴なうけど、イコール悟りじゃない。悟りと勘違いすると、オームの麻原になる。あくまでも悟りへの第一歩。

ま、僕は半歩でさえ歩むこともできていないんで、これ以上は無理だけど。

1460空き缶:2004/07/03(土) 00:44

 れんさん、今晩はいつもありがとうございます。PC導入はかないそうですか?

 犀角独歩さん、いつも鋭いご指摘をありがとうございます。
 時同じくして「大聖人門下掲示板」では、中山本妙寺の一尊四士が宗祖御在世中のものかどうかとの論議がございます。
 関連事項として閲覧されてみてはいかがでしょうか。以下の「門下・門流史関係」のスレッドです。
 ↓
 http://jbbs.shitaraba.com/study/3171/

 私は蓮興二師の仏像観については全くの駆け出しであり、あちらも・こちらも、皆様の論議についていくので精一杯というのが本音です。

 しかし、独歩さんの「本尊図」が「伽藍図」であるとのご見解、二師は同じ塔内にあるとのご見解には、宗祖の本尊観・本門寺観を考察する上で、非常に良いヒントを戴いたと感謝しております。

1461三吉:2004/07/03(土) 15:53
悟りに至る道は瞑想だけだと言ったのは、
当時の仏教の常識からするとという話。

千日回峰行なんて、実践すると、やっぱり見えてくるモノはあるみたいね。
一種の悟りだけども、「恍惚感や臨死体験」というより、
もっと醒めたものだね。

千日回峰行二回された酒井雄哉さんのインタビューね。
http://blog.main.jp/wiki/pukiwiki.php?大阿闍梨(あじゃり)/酒井雄哉さん

「千日目であっても千一日目であってもいつも第一日目という気持で歩けることが、
最高に充実した生き方じゃないか、と思うわけ」
「それで二千日終わって、やっぱり何だったのかってわからない。
終わったというだけのことなんだな。
だからあきらめないで、もう一歩ずつ、進んでいこうということしかない。
終点はない、その先、またその先へ行こうというだけ。」
「今は歩くのが行(ぎょう)だけど、行って「行(おこな)い」のことであって、
生きていくことが行なんだね。」

ここまでくると凄いなぁ、一種の悟りだなと私は思うけどね。
私が生きているということ以外に「行=実践」はない、と私も思う。
だから普段ROMさんの人生も立派な仏道なわけで、
「人生=仏道」を立派に歩かれているわけです。
千日回峰行と同じですよ、だふん。なかなか意識できませんけど。

1462犀角独歩:2004/07/04(日) 12:19

1460 空き缶さん、なかなか面白いテーマですね。

一尊四士と中山ですか。わたしは直ちに『四菩薩造立抄』を想起しました。
この御書の真偽はどうでしょうか。中山としては真筆としたいのではないかと思いますが、そうなると蓮師在世に一尊四士が相成ったことと矛盾してしまいますね。

同書で蓮師はまず四菩薩を造るべきとして、釈尊像はやがて上行等が出現して建立されるから待つべきと言うのですから、もし、この像を造ることが出来る仁があれば蓮師を置いてないと言うのが上行応化の立場となりませんか。それにもかかわらず、中山の某が造ってしまったすれば、上行僭称の叱責を免れ得ないことになります。すなわち「日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」です。こんな風に読んでいかないと歴史考証はつまらないでしょうね(莞爾)

ただ、個人的にはわたしはこの書が心打たれるものです。

「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり」

わたしがもっとも愛する一節です。

1463れん:2004/07/04(日) 21:17
犀角独歩さん。本尊図=伽藍配置とのご管見、スケールが大きいですね。私など本門寺戒壇については、東大寺の戒壇・比叡山の戒壇と同じスケールで、仏像が蓮師の文字マンダラ(宝塔)図の通りに配置されるのだろうなぁ、と勝手に思っていたので、独歩さんのお考えのスケールの大きさには、さすがだと感服しました。
空き缶さん、先日思わぬ出費があり、今すぐのPCの購入は叶いそうにもありません(T_T)。まぁ年内に購入出来ればいいなぁと思っております。
横レス失礼しました。m(__)m

1464空き缶:2004/07/04(日) 23:23

 犀角独歩さん、是非「大聖人門下掲示板」にもご参加下さい。

 れんさんにもPCご購入の際には、是非ご参加いただきたいと思います。
 大聖人門下掲示板は日蓮宗の御僧侶(住職)が運営されており、出家・在家の論師方々が種々の考察を行っています。

 ちなみに管理人さんは、類纂日蓮聖人遺文集の校正を手がけた御僧侶です。

1465犀角独歩:2004/07/05(月) 05:21

空き缶さん、お誘い有り難うございます。

1466犀角独歩:2004/07/05(月) 05:23

れんさん、いやはや恐縮です。
かつて夢見た大本門寺構想でした(笑)
いや、お恥ずかしいかぎりです。

1467普段はROMしてます:2004/07/07(水) 01:32
>>1461
>悟りに至る道は瞑想だけだと言ったのは、
>当時の仏教の常識からするとという話。

了解です。

行が悟りの第一歩と言ったのは、麻原のような勘違いがいるからで、酒井師は、悟ったと言って良いかと(本人は否定するかも)。ちなみに葉上師は、酒井師の友人で、戦後の千日回峰行は、この二人(三人かも)。開闢以来、20人に満たないから、凄いわけで。

で、先月、NHKで永平寺の住職の特集をやってたけど、座禅の時だけ、真っ直ぐになってたって駄目だ。常に禅なんだと。スリッパを脱いだら揃えるのが当たり前。できないのは心が歪んでいるからだ。日々常に禅だ、と。

こんな感じに、名僧は、宗派問わず、同じようなことを言う。禅も念仏も同じだと言う僧侶までいるし。日蓮系だと「法華経が最高の教え」を信じるし、日蓮正宗だと特にその傾向が強いけど、総論否定・各論賛成のような感じでいいから、他宗に習うことは必要じゃないかと思う。明治政府の政策で、僧侶は戒律を破っても良くなったけど、戒律を守り続けている名僧は、深いから。

>私が生きているということ以外に「行=実践」はない、と私も思う。
>だから普段ROMさんの人生も立派な仏道なわけで、
>「人生=仏道」を立派に歩かれているわけです。

先の永平寺の住職は、文豪の小説を上げて「いつ死んでも良いというのは、悟りではない。生きているうちは生きてたら良いというのが、悟りなんだ」と言ってた。でも「仏法に自己を投げ入れて無垢に生きる=仏道」であって、「人生=仏道」じゃないと思う。「仏法に自己を投げ入れて無垢に生きているからこそ、生きているうちは生きていたら良い」と自然と思えるんじゃないかな? やっぱり僕は、半歩も歩んでないなあ…

1468管理者:2004/07/13(火) 06:12

晃司さんより、他スレッドで、以下のレスがありました。当スレッドに取り合えずレスを移転させました。よろしくお願いいたします。

以下、晃司さんのレスです。

本門戒壇大御本尊様への帰一を目指す、団体を超えた信徒のネットワークです。

どうも完全なる納得ができません
何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか
戒壇と本尊とは形在る存在です、題目は形がありません
形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思うのです
再び、何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか

1469問答迷人:2004/07/13(火) 06:28

晃司さん

富士門ネット発足当初は、三大秘法抄(太田金吾抄)が真書であるとの認識で、その三大秘法抄の記述に従い、無批判に日蓮聖人の御遺命が本門戒壇の建立にある、との認識で居りました為、そのような表現になっております。三大秘法抄は偽書ではないか、との疑義が出されている以上、本来ならば「日蓮聖人の教えに帰一」とすべきものだと思います。富士門ネットとしては、訂正を考えて来た経緯は有りますが、未だ手付かずとなって居り、申し訳なく思っています。富士門ネットのあり方の全面改変を然るべき時期に実施したいと思っております。

1470晃司:2004/07/13(火) 07:24
おはようございます
早速のおとりあげ有り難う御座います
前もって言っておかなければなりません、私は教学のない人間です
なので御書や仏教用語、数々の語句が読めない、理解がにぶい人間ですので
その点ご容赦お願いいたします、いろいろご迷惑をかけるかも知れませんが
その都度注意をして下されば勉強になるかと思いますのでよろしくお願いします

さて本題(質問)に移らせていただきますが
御書全集に所在地不明という手紙が真跡かどうかということなんでしょうか?
もし無い物が真跡かどうかを問うとき、ないものはないという点からしまして
形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することがまず問題かと思うのですが
それから富士門ネットのあり方の全面改変を日蓮聖人の教えに帰一という趣旨で改変されるのでしたら
その前座としまして掲示板の1スレッドで宜しいのでその改変後のテーマを建ててくださいませんか
そちらへ参りたいと考えますので
それから問答迷人さん以外の方々も同趣旨なんでしょうか?宜しくお願いいたします

1471犀角独歩:2004/07/13(火) 09:47

非常に興味深いテーマなので、わたしも参加させていただきます。

「富士門流」とは何かという点が、先ず不鮮明であると思ってきました。
その源流は白蓮興師に置かれるのでしょう。わたしはここが基本であると思うわけです。そこで、興師の時代に日蓮本仏が言われ、弥四郎漫荼羅(本門戒壇之大御本尊)があったのかということがいちばん大きな問題になってきます。これまでの経過からすれば、共に興師の時代には戻れないと言わざるを得ません。つまり、日蓮本仏、弥四郎漫荼羅はその祖である興師と相違しているという点が挙げられます。

のちにこの二つが形成され、それが後天的なものであっても一向に構わないという意見もあります。それも一つの考えでしょう。しかしながら、日蓮本仏(人)弥四郎漫荼羅(法)一体の本仏本尊論を言うのは、ただ大石寺一派に限ります。となると、従来言われてきたのは「富士門流」ではなく、そのなかのわずか「大石寺門流」信徒の、ということになるわけです。故に富士門流が日蓮本仏・弥四郎漫荼羅崇敬であると誤認されかねない表現は先ず避けるべきであろうと考えます。

もちろん、なかには以上の点を充分承知のうえで、全富士門流信徒を日蓮本仏・弥四郎漫荼羅に帰伏させることを目論む人もあるのかも知れません。そうあれば、日蓮本仏義が興師、もしくは蓮師ご本人の確実な資料からその証拠を呈示し、かつ、弥四郎漫荼羅が弘安2年10月12日、蓮師自ら板に図示し、法師が彫刻した証拠をここに掲げることが必要となるでしょう。

わたし自身の管見を述べれば、後世の解釈である日蓮本仏、後世の贋作である弥四郎漫荼羅から脱却することは、興師を祖とする富士門流の祖道の恢復の第一歩であると申し上げるほかありません。

> 御書全集に所在地不明という手紙が真跡かどうかということ

まさにこの点は数年前にわたし自身が呈示した疑問点でした。
簡潔に申し上げれば、御書全集の半分は真偽未決、もっと言えば偽書が多く混入していると言うことです。もっと具体的に言えば、日蓮門下では自分に解釈を権威づけるために既に興師の時代から多くの偽書が捏造されてきたということです。

たとえば、弥四郎漫荼羅で言われる法師彫刻説は因師『有師物語聴聞抄佳跡上』以外に紹介される『松野殿御書』しか「御書」としてその事柄を伝えるものはありません。しかし、この書が真筆であれば、法師こそ蓮師の法嗣ということになり、七面山(竜女神)信仰と弥四郎漫荼羅不可分を認めなければならずしかしまた、そもそもここでは弥四郎漫荼羅彫刻を一字たりとも出ない不都合もあります。さすがにこのような書が真筆であるとは、石山ですら言わないわけですが、実際、このような形で御書が偽造され、法師顕彰、法師彫刻が肯定されたわけです。

1472犀角独歩:2004/07/13(火) 09:49

―1471からつづく―

以下、長いのですが参考のために挙げておきます。

「安房国東条小松原の道善坊持仏堂にして念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊の姿を申出し候へば数百人、兵者共敵成し、いる矢は雨の如く、打つ太刀は電光の如し、当座に弟子一人打死し既に日蓮は頭に疵を蒙り法華経の御為に命を捨る事まのあたりなり、殊に伊豆佐渡の大難は申すに及ばす種々の難に値へり、先札に申尽し候間今之を書かず等云云、依之命かなへ候て身延山に隠居せしむ法華経を読み奉る折節我弟子の中に和泉阿闍梨と申す僧一人御座候、朝夕身を離れず給使奉事致さるゝ 事比類なく秘蔵弟子なり、然るに彼の泉阿闍梨行功をはげまし日蓮か形をあらわさんか為に七面の明神に祈念せし故か、又天道道の至りか浮木出来せり、此の木を以 一躰ならず三尊まで造る一尊は大仏なれし身延山に安置せり、故に末世に於て日蓮か形をきざみつる事は泉阿闍梨無んば造仏しがたし、爾も闍浮第一の弟子なり、然るに予は妙法蓮華経の中の字を取て日蓮と名乗り候間彼の泉の阿闍梨には法の字を取て日法となづけて候、然る間日蓮や前き日法やさき日蓮やさきと云ふ意を以て日法となつけて候、定て弟子達うらやましくやをもはんずらん、又はあだみめねみやすらん、兎に角末代に於て法華宗たらん者は日法一人を信仰せば日蓮を信仰するに成るべきなり。諸宗の中には妙法蓮華経第一の良薬なり、一切衆生の中には日法一の人第一の導師なり、上行所伝の寿量肝心是好良薬の妙法を口に唱へ入れ候えば悪人女人如何なる人非人成り共是人於仏道、決定無有疑豈唐捐ならんや、是故に日蓮か弟子檀那は日法に不背、日本国の一切衆生の口に上行所伝の要法を入れんとはげまんこと肝要なり、日蓮もしきりに法華経をひろめまいらせ候ひしを鎌倉殿にくみついらせ大難を蒙らしめ玉ひしかども、仏天の御使か、今日まで命ながらへ候て当山に住せしめて法華経を読ましめ候処に、日蓮が形を木像に造立せしむる日法は、末世の師匠孝行の手本たるべし、日興一人ならず日朗等に至るまで漸々丁聞せしむるなり、末世日蓮二度の出世とは此の木像を申すなり、頼母敷く思ひ候てをがませ玉へ、恐々謹言、日蓮在御判」

1473晃司:2004/07/13(火) 10:34
問答迷人さんが富士門ネットのあり方の全面改変と宣言されましたので
この富士門自体が改変されるのではないでしょうか、画期的な改変が楽しみです

独歩さん、レスありがとうございます
御本尊さんを戒壇と曼陀羅とに分けたと致してもまだ分けたらずと思うのですが
それは形あるものと形ないものという分け方なんです
例えば重要文化財並びに仏像がもし焼失した場合
信者さんは困ります、でも魂があるから新しい物を作り魂を入れれば同じであるという発想はいかがかとも思うのです
同じように考えますと
形あるもの戒壇並びに曼陀羅が焼失したらどうでしょうか
新しいものを作ってしまうのでしょうか

私のHPの演題に胸中の肉団・・・という御書の一節を引用していますが
それが真跡かどうかは別にしまして
我が胸中の肉団に生わしているというこれが重要かと思い引用しています
http://www.geocities.jp/kouji_s36/(これがそうです)

この興味深いであろうとされた質問が活気満ちますよう希望いたしたいと思います

現実に今在るものは在る内は活用させていただけば良いと思います
しかし無くなって嘆く前に無くても嘆かない意識作りも大切であると考えています

1474犀角独歩:2004/07/13(火) 10:57

1473 晃司さん:

ちょっとわからないんですが、HPをほんとにざっと見ただけなのですが、スピリチュアリズムとか、生命主義とかから、水を販売している人なんですか?

1475晃司:2004/07/13(火) 11:18
えっと水の販売はしていません
水はプラシーボ効果を引用するために記載しています
現実にアトピー性皮膚炎が治りました

スピリチュアルはニューエイジ思想の内なる対話という引用です

私は生まれてから今まで学会員一筋です
今は幽霊会員となっております、
学会内でもこの話をしていくので嫌われているようです
今では誰も話しかけてこないな、私が話し出すと長いから

1476空き缶:2004/07/13(火) 15:04

 横レスです。

 日女抄にも真偽の問題があるとする理由は、①真筆あるいはそれに順ずる直弟子写本等も不伝であること。②遺文中に中古天台本覚法門「修禅寺決」と同意の内容がある等でしょうか。
 
 日蓮宗系では、本覚思想自体が日蓮の思想ではないと思っているようです。
 また、昭和定本日蓮聖人遺文にて続編に入っている「十八円満抄」などは、修禅寺決の十八円満法門をそっくりそのまま写した形になっています。
 飯高談林等の日蓮系談林の多くで、天台本覚法門が摂取され、数多くの偽書が誕生したのでしょうが、この「修禅寺決」の日蓮門下における位置は相当なものだったのでしょうか。

1477晃司:2004/07/13(火) 15:29
戒壇が本物かどうか、書き物が真跡かどうか、あるいは故意に偽書云々と疑うよりも

形在るかないを問うことはいかがでしょうか
真実の戒壇であっても本物のお手紙であっても焼失すれば「無い」ということになるはずです
ということでこの問題提起となりました
何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか

1478大宮:2004/07/13(火) 16:11

>何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊

??? 戒壇は戒壇、題目は題目、本尊は本尊じゃないの

1479晃司:2004/07/13(火) 16:17
>>1478
1468番で提案させていただきました
富士門流のホームページの趣旨が
本門戒壇大御本尊様への帰一を目指す、団体を超えた信徒のネットワークです。
この説明に対して下記のように質問しました

どうも完全なる納得ができません
何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか
戒壇と本尊とは形在る存在です、題目は形がありません
形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思うのです
再び、何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか

ここで戒壇は戒壇、題目は題目、本尊は本尊ですが
形在る存在と形無い存在にわけることで質問をさせていただいております

1480大宮:2004/07/13(火) 16:46
題目である大御本尊様って、なに?

1481晃司:2004/07/13(火) 16:54
口で唱える「南無妙法蓮華経」のことです(ないもの)
目で見る場合は曼陀羅のように書いてあるものとなります(あるもの)

1482大宮:2004/07/13(火) 17:06
何で形がない題目が戒壇なわけ? why

1483大宮:2004/07/13(火) 17:09
あ、そうか、そう書いているんじゃなくて
形がない題目が本尊?
なんで、そんなことがいえるわけ?

1484大宮:2004/07/13(火) 17:10
形って、目で見えるか見えないかの区別?

1485大宮:2004/07/13(火) 17:15
>何故本門戒壇なんでしょうか

そりゃ、戒壇の大ご本尊さまにそう書いてあるからだよね

1486大宮:2004/07/13(火) 17:17
なんで、形があるものとないものに分けなきゃあかんの?
いちおう、ここまでで一区切り、答え待ち

1487空き缶:2004/07/13(火) 17:34

晃司さん、貴方の主張はずっと以前より正信会にて主張されている内容です。

菅野憲道師の『正信覚醒運動のめざすもの』では、ほぼ同じ主張がなされています。

創価学会よりも、正信会の方が貴方向きの思想かもしれませんね。

いずれにしましても、最近の創価学会や日蓮正宗宗門では、かつて正信会や日蓮宗が主張していたことを、さも新しげに主張するケースが目立っているようです。
私も日蓮宗や正信会の書籍を手にするたびに、目から鱗が落ちる思いです。

1488大宮:2004/07/13(火) 17:38
つぶやきね、題目って大聖人さまのお言葉を借りれば法華題目=妙法蓮華経の五字
この五字って漢字で書いた五文字ってことでしょう。
声に出して唱えるのが唱題(唱法華題目)
だから唱えた声が本尊じゃなくて、書かれた五文字が本尊なんじゃないの??

1489晃司:2004/07/13(火) 17:46
まとめていいですか
形があるのは戒壇と本尊です、形がないのは題目です
形とは目に見えるではなくて実際に有るという存在です
何故戒壇の御本尊かという質問はですね私が質問をしている質問です
戒壇に書いてあるから戒壇の御本尊であるというそういう質問ではありません

形があるものないものにわけるのは
形云々ではなくて題目である大御本尊様への帰一ではないのですかという質問なんですが

1490晃司:2004/07/13(火) 17:49
>>1487
そうですか、私は正信会という思想は知りません
でも形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着したり所有したりせず
手放し調和を目指すって主張されているのですか?

1491晃司:2004/07/13(火) 17:52
>>1488
ですから形在るものと形無いものとに分けました
声に出す南無妙法蓮華経とは声ですから字自体がないと思うでしょ
でもね、イメージとして唱えています、つまり声(ないもの)で南無妙法蓮華経という
その全体をイメージとして声に出しています

1492大宮:2004/07/13(火) 17:55
あれ、そうなの。そんなこと言ってたボンさん、おった?
己心の妙法(蓮華経)とかいうのは、聞いたことあるけど
声に出さないと本尊ならんていうのは…声仏事をなす!
でも「声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり」
だよね、声は本尊じゃなくて、経でしょ

1493大宮:2004/07/13(火) 17:57
声ってさ、出した瞬間に消えてなくなっちゃう
形あるものが壊れるよりもっともろいじゃん

で、なんで声だと調和するの なに言ってるかわからん?
説明してください

1494大宮:2004/07/13(火) 18:03
>>題目である大御本尊様って、なに?
>口で唱える「南無妙法蓮華経」

こんなこと、どこで大聖人さまが言ってるの?
なんか聾唖者差別みたいでやな展開
自分の思い込みで言われてもなあ

1495空き缶:2004/07/13(火) 18:04

 晃司さん>1487は、日蓮正宗宗門がかつて正信会の教義を皮肉って「本尊=目には見えないもの」と書いたことがあります。

 菅野師の主張がそのまま、晃司さんのお考えとは申しませんが、もし晃司さんが日蓮を信仰される方でしたら、きっと学ぶべきところのある論文であろうと思います。

1496大宮:2004/07/13(火) 18:07
「口で唱える南無妙法蓮華経が大御本尊様」と晃司さんが思うのは、
どうぞご自由にってとこだけど、それと富士門流のホームページの趣旨と
ぜんぜん関係ないもんなぁ
というより大聖人様の教えとも関係ないよね

1497晃司:2004/07/13(火) 18:12
どうも話が私の質問したいこととそれているように思います
私は1469番の問答迷人さんの
富士門ネットのあり方の全面改変を然るべき時期に実施したいと思っております
と仰ってくれていますのでそれを待つことにします

1498大宮:2004/07/13(火) 18:15
「それている」たってねぇ … …
問答迷人さんの富士門流のホームページの趣旨の全面改変て
「口で唱える南無妙法蓮華経が大御本尊様」への帰一!?
うそだあ

1499晃司:2004/07/13(火) 18:56
>>1498
>口で唱える南無妙法蓮華経が大御本尊様への帰一

これは違うと思いますよ
それから聾唖者さんに対する題目ですが
題目とは意識ですからね単なる声で処理は出来ません
イメージとして声に出すと申しているように
声が出ない、目が見えない、耳が聞こえない
でも声となるのですよ

では改変が画期的なものと信じてお待ちしています

1500大宮:2004/07/13(火) 19:35
>1479 題目である大御本尊様への帰一
>1481 口で唱える「南無妙法蓮華経」
ていうから、「口で唱える南無妙法蓮華経が大御本尊様」
と言ったわけさ、そしたら、
>1499 これは違うと思いますよ
違う?? はあ?
>1489 形があるのは戒壇と本尊です、形がないのは題目
だってさ、最初に題目=大御本尊様って言ったよ
これは形がないわけだよね。それに帰一だっていったんでしょが
なのに、形があるのが本尊で、ないのが題目
じゃなに、本尊は形があって、御本尊様(題目)は形がないって?
本尊(形)、御本尊(無形)、何がどう違うのさ はあ??
こんな改変できないでしょうが??

1501晃司:2004/07/13(火) 20:22
>>1500
大宮さん
あの〜
口で唱える「南無妙法蓮華経」は私が言ったもので
これは違うと思いますよと言ったのは問答迷人さんは違う意味の
富士門ネットのあり方の全面改変だと思いますよ
まずは最初に戻ってね

>形があるのが本尊で、ないのが題目
>じゃなに、本尊は形があって、御本尊様(題目)は形がないって?
>本尊(形)、御本尊(無形)、何がどう違うのさ はあ??

えっとですね
初めに日蓮さんは題目を発しました、これが題目です(形のないもの)
次いで
本尊を作りました(曼陀羅等)(形在るもの)
次いで
その居場所を決めました(戒壇)(形在るもの)
です

御本尊さまというのはね三つ揃って御本尊さまというというのが既存の教学なんですよ

1502空き缶:2004/07/13(火) 21:24
晃司さん

>御本尊さまというのはね三つ揃って御本尊さまというというのが既存の教学なんですよ

そんなことはないと思いますよ。以前より「本門之題目」を根本とし、他のものは「形式の中の形式」と創価学会池田名誉会長も発言されています。

それから先ほどは正信会の菅野師の著書を紹介いたしましたが、もっとわかりやすいのが故伊芸益道師が「日興跡条々事への復帰」(大石寺法門研究序説)の「日興門徒の本尊観」という章で「色体巻軸本尊」(形となって目の前にある本尊)を批判しています。

晃司さんは、自身の哲学的感懐より日蓮の本尊観をとらえ、ここで新しい提案をされていることと存じますが、それと「日蓮の真意」・「日興の真意」は別のものであり、文献学的考証を重んじるこの掲示板の性格と矛盾点があると思います。
したがいまして晃司さんの求めている論議と、ここで展開されている論議とは基本的に主旨が異なるものと思われます。

1503晃司:2004/07/14(水) 07:17
>>1502
空き缶さん、おはようございます
既存の教学というのが
人によって何処までが過去と捉え
手放すべきと捉えるか提案させて貰っています

ここの掲示板の主旨はスレッド事に性格があると思います
それから問答迷人さんが更新すると宣言されましたのでその展開を待ってからでもよろしいかと思います
また
最新の富士門流の掲示板であっても
宗教の本論とは幸福です
部活動のように一つのテクニックを養うための場ではないと思います
宗教という名の集まりは幸福という築き上げと情報交換です
この掲示板は議論によって自分の知識だけを養う掲示板なのでしょうか?
もし知識だけを養う掲示板であるなら私は去ります、
それは各論でしかないからです

1504犀角独歩:2004/07/14(水) 09:23

1503 晃司さん:

> 初めに日蓮さんは題目を発しました、これが題目です(形のないもの)

違います。羅什がサダルマプンダリーカスートラを妙法蓮華経と訳した、この経題(経典の題名)を題目というのです。漢字で書かれた五文字を言います。
それを五重玄に解釈したのが天台であり、この(妙法蓮華経)五字を唱えることをはじめたのは天台(宗)です。それを踏襲して唱題を行として確立したのが蓮師です。

> 本尊を作りました(曼陀羅等)(形在るもの)

これも違います。蓮師は観心本尊という己心のなかに久遠実成釈尊を観たのです。これが本尊です。その一形態に漫荼羅本尊があるということです。

> その居場所を決めました(戒壇)(形在るもの)

そんなことは蓮師は言っていません。

> 御本尊さまというのはね三つ揃って御本尊さまというというのが既存の教学

そうではなく、興師門その他を既存の教学といえば、戒壇・本尊・題目は戒定慧の三学に配し、それを倶伝することを仏教というのです。

自分の考えを恰も蓮師のように、また、その後の継承者の教学のように語ることは甚だ不可です。

> 宗教の本論とは幸福

何でこのようなことが言えるのでしょうか。
しかし、では学会が好きな「幸福」とかいうこの言葉を否定しようと言うものではありません。あなたがどう言おうと、それは勝手ですが、仏教が宗教であれば、それは幸福を目指したものではなく、成仏を目指したものであったでしょう。ではその成仏を絶対幸福とか訳のわからない解釈をしたのは学会ですが、それをそのまま、当たり前のことのように書かれれば異議を唱えないわけにはいきません。

空き缶さんの指摘に何を勘違いしたか、本論・各論とか言い出し、幸福がどうということは「三つ揃って御本尊さま」に対する疑義への何の回答にもなっていません。
また、この点については大宮さん(はじめまして)がいう、本尊(有形)・御本尊様(無形)の違いへの疑問も同じくあなたは何も答えていません。

また、ここでは各論がどうだとやっているわけではなく、蓮師、あるいは興師が、実はどのような教学思想の持ち主であったのか、個人の勝手な解釈、後世の改竄を取り除いて、その素意を考えることを真剣にやってきました。その点を本論が幸福などと言って論をすり替えてよい謂われはありません。

1505犀角独歩:2004/07/14(水) 09:24

―1504からつづく―

> 既存の教学というのが人によって何処までが過去と捉え手放すべきと捉えるか提案

教学がなければ、こんな大それたことは無理でしょう。
そもそも既存の教学が何であるのかをわからなければ捉えようもないでしょう。

なお、仏教は、そもそも有形・無形を問題にしていないのは三諦論に明らかです。有無ではなく空仮中です。仏教は有論から、無論を言ったものではありません。
また、題目は形がないものではなく言語音声(ごんごおんじょう)という形を持っているからこそ、人々は認識できるわけです。これは心についても同じであって「心有らん人」などと蓮師は‘有’と記しました。
わたしには、あなたの 本尊・戒壇(有形):題目(無形) という分別が既に間違っているために、議論にならないのが、上述、空き缶さん、大宮さんとの食い違いであると見えます。

建造物として戒壇、紙に書かれた遺文、漫荼羅は火にくべれば燃えて無くなるから、そんな形あるものに拘らず、無いもので考えようというアプローチは、わたしは頷けません。

これでは蓮師が禅宗を批判して言う「禅宗等の人云はく「一代聖教は月を指す指なり。天地日月等も汝等が妄心より出でたり。十方の浄土も執心の影像なり。釈迦十方の仏陀は汝が覚心の所変なり。文字に執する者は株を守る愚人なり。我が達磨大師は文字を立てず」ということと何ら異なるところがないからです。
以上、やや批判的に記しましたが

> 形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思う

という点については、仏教で言う「無常」観そのものであり、この点については異論はありません。しかし、上述の如き、投稿に混乱を来し、また、他の投稿者と整合性、止揚に基づく会話を成り立たせず、自論を押し付けられても議論にはならないでしょう。出来れば真摯な議論が出来ればよいと思う故に記しました。

1506晃司:2004/07/14(水) 10:05
>>1504
独歩さんおはようございます
初めにことわっておりますと書いています1470番
その中でのご注意と言うことで受けとめておきます
ただし解釈の違いであって自分が絶対に正しいと言うことはあり得ませんので
そういう解釈で述べさせていただこうと思います
勝劣を争うことが本論ではなく幸せ観を与えてあげることが本論です
またどうも単語に拘られるようなので少し変えてみます

初めに日蓮さんは南無妙法蓮華経を発しました、これが唱題に出てくるお題目です(形のないもの)
次に一形態に漫荼羅本尊を作りました(曼陀羅等)(形在るもの)
次に世代にその居場所を決まりました(戒壇)(形在るもの)

それでですね
私は議論をしたいのではありませんのでご理解下さいませ
1468番の質問に対してご回答下さいませ

一つ言えることは
独歩さんは文証理証を追求して現証を求めないのですね
私は乃至法界というようにすべての人に(知識や知恵が出来ない)簡単で幸福観が得られる
そういった方法を教えるのが仏教の本論だと思っています
出来ればこのスレッド或いは別スレッドで
真跡、偽書などの追求をする議論のないスレッドにしたいと願っています
問答迷人さんが富士門ネットのあり方の全面改変を然るべき時期に実施したいと仰って下さっておりますので
それを待ちたいと思います

1507晃司:2004/07/14(水) 10:09
>>1505
> 形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思う
という点については、仏教で言う「無常」観そのものであり、この点については異論はありません

ではこの点でのスレッドとして下さい
質問をされると私流を答えることになります
それではくり返しと言うことになりますので
すると
>上述の如き、投稿に混乱を来し、また、他の投稿者と整合性、止揚に基づく会話を成り立たせず、

こういったことにはならないと思います

1508犀角独歩:2004/07/14(水) 10:26

晃司さん、富士門ネットのあり方の全面改変への議論に加わるのであれば、重複になりますが、以下の点をまずは答えられては如何でしょうか。

「空き缶さんの指摘に何を勘違いしたか、本論・各論とか言い出し、幸福がどうということは「三つ揃って御本尊さま」に対する疑義への何の回答にもなっていません。
また、この点については大宮さん(はじめまして)がいう、本尊(有形)・御本尊様(無形)の違いへの疑問も同じくあなたは何も答えていません」

わたしは自分もそうしてきたことですから申し上げますが、自分の考えを修正・訂正することは何も間違ったことでも、恥ずかしいことでもないと思います。また、議論の中で日々精進していくことは、「一つのテクニックを養う」「自分の知識だけを養う」ことではなく、自分が信じ・行動する確かな糧を得るために必要なことであるとわたしは思います。

自分への学への怠慢を向学批判にすり替えても、学は少しも増さず、それ故、信もまた進歩変哲のない独り善がりに陥るばかりです。

1509晃司:2004/07/14(水) 10:27
そうだ、ちょっと横道になりますが
私は学会員ですが(他には何も経験はありません)
オリジナル思想を持っています
すべては良きことのために起こるよきっと教会という教会です

ここではね、難しい知識や教養はなくても
あるよりはない方が良いと教えています
叶えたい願いがあるなら思い続けることです、夢に見るくらいに思ってみよう
叶えたいと思うことは簡単ですがなかなか叶わない、
でも思い続けることが大切なんです

こういうことを伝えています
仏とは
ありのままの自分を認めたことといいます

仏教とは
そういったことを教えることで

成仏とは
それに気付くことです

余談ですいませんでした

1510晃司:2004/07/14(水) 10:40
>>1508
全面改変というのが
私の質問の戒壇による帰一ではなくて題目による帰一ではないのですかという
質問による回答で前面改変となっている思っています
ですからそれを待ちましょう
そしてそこには勝劣を争う議論のないスレッドも登場することを願っています

ですから富士門ネットのあり方の全面改変への議論に加わるのであれば
という議論には加わりません

三つ揃ってという解釈も独歩さんの気が済む答えは発することができないでしょう
だって私はきっと教会流で喋ることになりますから
三つ揃うとは既存の教義を学んだ所では三大秘法からです
ですが私は一大秘法を三大秘法と言ったとご理解下さい

>本尊(有形)・御本尊様(無形)の違いへ

本尊とは形ある存在と捉えています、(曼陀羅等)
形ない存在を御本尊様と捉えています(唱題に出てくる南無妙法蓮華経という単語を題目)

>自分への学への怠慢を向学批判にすり替えても、学は少しも増さず、それ故、信もまた進歩変哲のない独り善がりに陥るばかりです

これこそ伝えたいことです
学(知識や教養)を手放し直感とインスピレーションを養うこと(気付き)

1511管理者:2004/07/14(水) 10:48

晃司さん

どのようなスレッドをご希望なのか、管理者にはよく理解できません。もう一度、スレッドテーマのご提案をお願いいたしたいと存じます。

1512犀角独歩:2004/07/14(水) 11:02

晃司さん:

> 勝劣を争う議論

誰がそんなことをやっているのですか。学会ですか。
ここには勝とうと思っている人が言葉に詰まり逃げ出すことはあっても、真摯に資料文献を呈示しながら真面目に議論している人で勝劣を争っている人など一人もいません。事実を求めているだけです。

> 学(知識や教養)を手放し直感とインスピレーションを養うこと(気付き)

オカルトとか、神秘主義が好きなんですね。
南無妙法蓮華経、「日蓮さん」も一般の人からすれば、充分に知識であり教養であると思いますが。

どのみち、あなたの言うところは蓮師とも、富士門とも無縁のところでしょう。それなのに、富士門ネットについて問うのはどうしてでしょうか。
わたしは真跡とは思いがたいですが、蓮師門下は

「行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」

という篤い志を懐いており、その点をわたしは尊いと思います。
そうしないあなたが富士門の、それも富士門ネットに拘る理由は何一つ無いのではないでしょうか。

> 単語に拘られるようなので少し変えてみます…

ですから、こうではないですよ。
1504に記したとおりです。

> 私は議論をしたいのではありませんのでご理解下さいませ

では何をしたいのですか。

> 1468番の質問に対してご回答下さいませ

既に申し上げたとおり、晃司さんの発題が間違っていると申し上げました。

> 何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか

これは富士門ネットに問うべきことで、わたしへ問うのはお門違いです。
ただし、わたしは本門戒壇本尊への帰一へ従来記してきたとおり反対です。

> 戒壇と本尊とは形在る存在です、題目は形がありません

これは既に記しましたが、まったく了解できません。
できないわけですから、回答は出来ません。

> 形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思うのです

この点については異論がないと答えました。

> 再び、何故本門戒壇なんでしょうか

これは先に述べたとおり、わたしが答えるべきことではなく、わたしの考えとも違います。

> 題目である大御本尊様への帰一ではないのですか

これに回答するためには「題目である大御本尊様」の意味がわからないかぎり答えようがありませんので、大宮さんも同趣旨の質問をされていたので、まずはこの意味を晃司さんが解説されることが先決です。

> 独歩さんは文証理証を追求して現証を求めないのですね

そんなことはありませんよ。
晃司さんさんはご自身でも記されているとおり、創価学会しかご存じないのでしょう。ですから、あなたが仰る現証とはその井の中を出ません。つまり、外の現証を結果的に求めていないことに気付けませんか。

> …すべての人に(知識や知恵が出来ない)簡単で幸福観が得られる
そういった方法を教えるのが仏教の本論だと思っています

わたしは「簡単で幸福観が得られる…仏教…本論」なるものに至りませんので、無責任に放言をしないだけです。しかしそれは、個人的に何ら法悦、至福を味わったことが無いという意味では、もちろん、ありません。

では、それはどんなもので、それがまた、どのような根拠で文理の証があるのでしょうか。是非ともご呈示ください。

> 議論には加わりません

そうであれば、独り善がりの一方的な書き込みは、わたしにとっても皆さんにとっても実に迷惑な雑音に過ぎないことになります。
わたしもあなたの質問に答える必要もないし、あなたの投稿は見もせず、読み飛ばすだけです。

1513晃司:2004/07/14(水) 11:05
>>1511
ところで管理者さんと問答迷人さんは別人さんなのですか?

スレッドはそれぞれ宗派組織思想いろいろあるでしょうから
勝劣を争わずというのが基礎となります

この富士門ねっとの主旨が
本門戒壇大御本尊様への帰一を目指す、団体を超えた信徒のネットワークです。
となっていますがどうも完全なる納得ができません
何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか
戒壇と本尊とは形在る存在です、題目は形がありません
形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思うのです

ここで語句に誤解が生じましたので
南無妙法蓮華経へ帰一ではないのですかに変更しますが
問答名人さんの
富士門ネット発足当初は、三大秘法抄(太田金吾抄)が真書であるとの認識で、その三大秘法抄の記述に従い、無批判に日蓮聖人の御遺命が本門戒壇の建立にある、との認識で居りました為、そのような表現になっております。三大秘法抄は偽書ではないか、との疑義が出されている以上、本来ならば「日蓮聖人の教えに帰一」とすべきものだと思います。富士門ネットとしては、訂正を考えて来た経緯は有りますが、未だ手付かずとなって居り、申し訳なく思っています。富士門ネットのあり方の全面改変を然るべき時期に実施したいと思っております

これをお待ちします、そしてこの新しい分野での新しいスレッドも待つことにします

1514晃司:2004/07/14(水) 11:13
>>1512
すでにオカルトなどという決め付けで勝劣を争っているではありませんか

> 何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか
>これは富士門ネットに問うべきことで、わたしへ問うのはお門違いです。
>ただし、わたしは本門戒壇本尊への帰一へ従来記してきたとおり反対です。

独歩さんへもともと質問はしておりませんが
非常に興味深いテーマなので、わたしも参加させていただきます
とご自分から参加されております
ですから当初の質問にのみご回答下さいませ
また管理人さんより回答がありました、その回答に回答していますので
そちらの結果をお待ち下さい

1515問答迷人:2004/07/14(水) 11:15

晃司さん

>1506 問答迷人さんが富士門ネットのあり方の全面改変を然るべき時期に実施したいと仰って下さっておりますので
それを待ちたいと思います

まだしばらく時間が掛かってしまいそうです。よろしくお願いいたします。

>そしてそこには勝劣を争う議論のないスレッドも登場することを願っています

富士門掲示板には論争禁止スレッドがいくつかあります。ご紹介しておきます。

「つぶやきスレッド」「組織活動の嫌な点についてお聞かせ下さい」「信心して良かったと感じた時は、どんな時ですか」「井戸端スレッド「山門前」」

1517晃司:2004/07/14(水) 11:21
>>1516
>まだしばらく時間が掛かってしまいそうです。よろしくお願いいたします

了解しました、ゆっくりどうぞ

>本来ならば「日蓮聖人の教えに帰一」とすべきものだと思います

新しい富士門ねっとが日蓮聖人の教えに帰一に変わった
という画期的な期待をお待ちしています

1518問答迷人:2004/07/14(水) 11:27

晃司さん

>ところで管理者さんと問答迷人さんは別人さんなのですか?

問答迷人が、現在は富士門掲示板の管理者を勤めさせて戴いて居ります。多重ハンドルネームでは有りません。管理者としての立場での発言は、当然のことながら「管理者」と書き込みます。管理者の立場を離れて、一人の掲示板参加者として発言する場合には、「問答迷人」と書き込んでいます。御理解賜りたく存じます。

1519晃司:2004/07/14(水) 11:41
本門戒壇の大御本尊への帰一という大目標を掲げる富士門信徒同士が、
法華講・正信会・創価学会・顕正会という組織の壁を乗り越え、
精神的結束力を高めて、異体同心の戦いを誓い合う場

富士門という存在が成長ある存在になるためには
法華講・正信会・創価学会・顕正会という組織の壁を乗り越えるのが一番ですね
それには戒壇が問題となっていきます
ですから日蓮聖人の教えに帰一が望ましいと思うのです
また教えとして争うようではもう終わりと思っても過言ではないとも思います

1520問答迷人:2004/07/14(水) 12:08

晃司さん

>また教えとして争うようではもう終わりと思っても過言ではないとも思います

意味が取れません。「日蓮聖人の教えに帰一」と言うのは簡単ですが、中身が本当は問題なのです。「日蓮聖人の教え」が何なのか、それに迷うが故に、日蓮聖人を祖師と仰ぎながら、四分五裂しているのが現実です。この点をどのように晃司さんは考えられて居られますか。

1521晃司:2004/07/14(水) 12:23
>>1520
心機一転問答迷人さん、こんにちは

>また教えとして争うようではもう終わりと思っても過言ではないとも思います

ここで戒壇が大切な教えであると主張があってそこを争うようでは
改変した意味がありません、からです

私はポジティブ思想のきっと教会ですから、簡単に捉えます
只南無妙法蓮華経のみです

もちろん声に出せない人は目で読んでもいいのです
只只、南無妙法蓮華経と唱えることです

1522空き缶:2004/07/14(水) 12:59

晃司さん、おはようございます。

やはり文証無き論議は、説得力に欠けます。日蓮の教えは「経文を先とせり」ですので、おっしゃられることを裏付ける文証がなければ空回りであろうと存じます。

独歩さんご指摘の通り、「教外別伝不立文字」では他宗の理念となってしまいます。なお「日蓮本仏論」や創価学会での「凡夫本仏論」などは禅系の思想が存分に発揮されたところであろうと存じます。
ここでは宗祖日蓮の元意(本懐?)というか、多くの富士門徒が結束するにふさわしい急進軸の一つとして、「本門戒壇之大御本尊への帰一」としていたのではないでしょうか。

しかし、本来「富士門徒」とは「本門戒壇之大御本尊」を特に特別なものと拝しない、京都要法寺・伊豆實成寺・西山本門寺・北山本門寺・保田妙本寺・小泉久遠寺などを中心とした門流も含まれます。
したがいまして、「日蓮正宗圏の結束」ではなく「富士門徒の結束」とされたところに、私のような珍客も仲間入りすることができたのではないでしょうか。

1523晃司:2004/07/14(水) 14:04
>>1522
空き缶さん、こんにちは
文証は必要ですか、必要な人には必要かも知れませんね
例えば風邪
なかなか治りにくいもの、効能書きがなくても薬は飲めるし効く
風邪が治ることが一番大切なことで
効能書きは製薬会社が他者よりも多く売りたいからでしょう

ただ風邪ぐすりかどうかを判断できればよいと思われます
私のきっと教会では効能書きはありません、ですから空き缶さんのご要望は満たせません
これは初めに申しております

ただ今回は問答迷人さんがもう少ししたら新HPにしてくれますので
それからそこをみて参加できる人が参加すれば宜しいかと思います
私がみて参加できないようであれば参加は致しません
待てと言われている以上待ちましょう、それまでは必要最小限の問答と致しましょう

1524空き缶:2004/07/14(水) 15:15
晃司さん

>文証は必要ですか、必要な人には必要かも知れませんね

これでは日蓮の教えとは何ら関係のない、単なる晃司さんの独り善がりではないでしょうか。そのようなことは自分のHPの中だけでやっていれば良いのではないでしょうか?

>待てと言われている以上待ちましょう、それまでは必要最小限の問答と致しましょう

晃司さん、貴方は文証を嫌うゆえか否か、物事を自分流にしか捉えられないのではないでしょか。
私とも、管理人さんとも、その他の多くの方とも話しが全くかみ合っていないと思います。

1525晃司:2004/07/14(水) 15:38
>>1524
いろいろお気を使って貰って恐縮ですが
私は私のホームページでもちゃんとやっています

私は学会員でこの富士門のホームページの主旨が気に入りました
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/6622/
そこで提案させて貰った次第です
ですから新しい内容になったらそちらに従います

それでですね、この辺で終わりにして貰えませんか?
レスあればレスしなくては欠席裁判のような形になりますので後味が嫌なんです
宜しくお願いします

投稿するのであれば人の趣旨を避難するよりも
私が提案した所だけをレスして下さいませ、(1468番でお願いします)

人の非難云々はもう結構ですので宜しくお願いします

1526犀角独歩:2004/07/14(水) 16:05

晃司さん:

非難されるようなことが投稿されれば、それを非難する投稿をするのは自由です。

どうでもいいですが、オカルト、神秘主義をオカルト、神秘主義というとなぜ勝劣を争うことになるんですか。

また、「争う」ことを否定しながら、「異体同心の‘戦い’」とここに争いを奨励する理由は何でしょうか。また、真跡遺文のなかでただの一度も使われない「異体同心」を恰も蓮師の教えのように記す理由は何でしょうか。

それと「きっと教会」とは何でしょうか。教える会という限り、あなたが何かを教えるのでしょうか。

> 文証…効能書き…多く売りたい

などと言って「日蓮」の名を語るとは驚くばかりです。

「天台大師云はく「修多羅と合ふ者は録して之を用ひ、文無く義無きは信受すべからず」等云云。伝教大師云はく「仏説に依憑して口伝を信ずること莫(なか)れ」等云云。円珍智証大師云はく「文に依って伝ふべし」等云云。上にあぐるところの諸師の釈、皆一分一分、経論に依って勝劣を弁ふやうなれども、皆、自宗を堅く信受し、先師の謬義をたゞさゞるゆへに曲会私情(きょくえしじょう)の勝劣なり。荘厳己義の法門なり」

と文証の重要性を言います。その文証を売らんがための効能書きとよくぞここまでの言辞を吐けるものかと驚くばかりです。つまりは文証を重視した蓮師への天台並びに蓮師への冒涜以外の何ものでもありません。まさにあなたの言うことは「荘厳己義の法門」としか映じません。

文章を蔑如するのみならず、現証を重視すれば、その現証とは、当人の独り善がり、あるいは思い込み、個人的感覚を出ないわけでしょう。それを指摘すると、今度は「勝劣を争う」と来る。事実を指摘することと、勝劣を争うことはまるで別の話です。

なお、特に禁止事項に抵触しない限り、議論は自由なので、わたしは待つことはいたさず、従来どおり、投稿をいたします。

1527空き缶:2004/07/14(水) 16:15

晃司さん、非難しているわけではありません。日蓮の教えでは文証は重要な正邪判別の基準であることを申しております。

文証無く、ただ「私はこう思う」では論議にならないと申している次第です。「晃司哲学」が日蓮の真意と主張されるなら、それなりの文証を挙げていただきたいのです。
唯一文証とした「日女抄」は真偽未決、これではチョッとねー・・・

1528晃司:2004/07/14(水) 16:38
>>1526
独歩さん、
待つと言うことは嫌なんですか
でもね、私は独歩さんのお気に入りになれる回答は出来ませんよ
何度も言っているように初めにことわっていますので

>オカルト、神秘主義をオカルト、神秘主義というとなぜ勝劣を争うことになるんですか

当ホームページはオカルト思想ではないのにオカルトと呼ぶのはいかがでしょうか
それは人を見下してみておられます、そこから争いに発展するものです

>また、「争う」ことを否定しながら、「異体同心の‘戦い’」とここに争いを奨励する理由は何でしょうか

異体同心の戦いを奨励していませんが、していましたか?どこですか、訂正しますので教えて下さい

>それと「きっと教会」とは何でしょうか。教える会という限り、あなたが何かを教えるのでしょうか

すべては良きことのために起こるよきっと教会といいます
すべては良きことのために起こっているということを教えています
これは無条件の愛の実践で功徳の起きるメカニズムを学ぶときの教材です

ところで独歩さん
それだけの文証理証でいっぱい幸福感は頂けました?身の財、心の財、蔵の財において
私はこれを思いも寄らぬ偶然らしき一致と呼んでいますが

私は沢山の身心環境においていただきました
功徳の大きさは人によって違いますので具体例は証しませんが満足しています

1529犀角独歩:2004/07/14(水) 16:57
1519

> 当ホームページはオカルト思想ではないのにオカルト

オカルトに見えるものをオカルトと言ってはいけないのですか。
何の証拠にも拠らず、自己満足が奇跡的に起きる、これはオカルトの類ではないでしょうか。

オカルト [occult]
神秘的なこと。超自然的なこと。
「―現象」
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

> 人を見下してみておられます

わたしは見ておりませんが。文証を効能書きといい、挙証義務を全うしようとする方々、真剣に研鑽する人々を現証から見下していると晃司さんは見えます。それ故の抗議投稿です。

> そこから争いに発展するものです

現証から文証を見下す、そのような姿勢が今回の争いを呼んでいます。
ご自身にその要素が見えないから他人のせいと思うのでしょう。

> 異体同心の戦いを奨励していませんが、していましたか?どこですか、訂正しますので教えて下さい

1519に「異体同心の戦いを誓い合う場」と書いておりませんでしたか。

> 無条件の愛の実践

無条件の愛の実践が真実ならば、人の批判を甘んじて受けて言い返したりしなければよろしいのではないでしょうか。
文証主義者を差別しているようには見えても、無条件の愛を実践しているようにはとても見えませんが。

> 功徳の起きるメカニズムを学ぶときの教材

教材? 証拠は不用ではなかったのですか。

> 文証理証でいっぱい幸福感は頂けました?

誰から頂くのですか。
ただし、主観の範囲ですが、わたしは充分に幸福ですが。

幸福比べ、満足自慢をし合いたいのですが。
わたしはそんなナルシズムには興味はありません。

> …教えています

あなたは教祖なのですか。

1530問答迷人:2004/07/14(水) 17:16

晃司さん

>ただ今回は問答迷人さんがもう少ししたら新HPにしてくれますので

僕は、もう少ししたら、等とは申し上げていません。「日蓮聖人の教えに帰一」と言葉だけでスローガンを掲げることはある意味で簡単ですが、それだけでは中身と言うか、具体性が有りません。それで、おぼろげながらでも、「日蓮聖人の教え」の輪郭が誰の目にもはっきりしてきた段階で、富士門ネットの目的を新しい内容に書き換えたいと思っているわけで、今は、残念ながら、当掲示板御参加の方々の中だけで考えても「日蓮聖人の教え」の中身が誰の目にも明らか、という訳では有りませんので、当面は、新しい内容にしたくても出来ない、という事です。誤解の無いようにお願いいたします。

叉、日蓮聖人は現証を大切にされましたが、それはあくまでも文証、理証が揃っていると言う前提です。文証、理証を無視した現証は、「利根と通力に依るべからず」と逆に退けられています。晃司さんの仰ることは、文証も要らない、理証も要らない、現証こそが重要なのだとしか僕には取れませんので、日蓮聖人が制止された「利根と通力」そのものではないのかと思います。僕は、文証、理証の積み重ねの上に、日蓮聖人の教えが如何なるものかを捉えようとしなければ、日蓮聖人からお叱りを頂くと思いますので、あくまでも文証、理証に拘ります。そして、その上での信仰で有るべきだと捉えています。

1531晃司:2004/07/14(水) 17:32
>>1529
>オカルト [occult] 神秘的なこと。超自然的なこと

そう意味でのオカルト発言でしたか
カルト集団での意味合いと誤解していました、失礼しました

>文証を効能書きといい、挙証義務を全うしようとする方

効能書きは風邪薬の例え話です、そういうのを揚げ足取りと思いますが

>1519に「異体同心の戦いを誓い合う場」と書いておりませんでしたか

見ましたが書いていません、四団体の引用は富士門ネットより引用していますが

>無条件の愛の実践が真実ならば、人の批判を甘んじて受けて言い返したりしなければよろしいのではないでしょうか

無条件の愛とはそう意味合いではありません
私の場合ですと勤行唱題にあたります、お願い事をしないで行う行為

>教材? 証拠は不用ではなかったのですか

例え話には使います

>主観の範囲ですが、わたしは充分に幸福ですが。

そうでしょ、どんな宗教でも満足感は得られるのです、それが立証されました

>あなたは教祖なのですか

いいえ、

1532晃司:2004/07/14(水) 17:41
>>1530
そうですかがっかりしました

では私はこれで失礼をします、以後投稿は致しません

みなさん、お付き合い下さってありがとうございました

1533犀角独歩:2004/07/14(水) 18:07

晃司さん、書いているうちに去ってしまったようなので、まあ、まとめと言うか、書いたので取り敢えず投稿します。

>> 1519に「異体同心の戦いを誓い合う場」と書いておりませんでしたか
> 富士門ネットより引用

なるほど。これはわたしの勘違いでした。撤回し、謹んでお詫び申し上げます。

> 無条件の愛…私の場合ですと勤行唱題…お願い事をしないで行う行為

慈悲といわず、愛というわけですか。
「無条件の愛」というのは神が人に対する恩寵のようなイメージが先立ちますね。寧ろ、そちらのほうが一般的ではないでしょうか。誤解を生みと思います。もし「無条件の慈悲」の一念を獲得するために勤行・唱題をしている、お願い事をしないというのであれば、わたしはこの限りにおいては賛同します。

ただし、わたしが晃司さんのHPをオカルトと記した理由は

『我即宇宙の実践』というところで
> 宇宙とは意識を意味し、人は宇宙と意識で繋がっている
> 宇宙にはなんでも具わっていてそのうち必要なものを引き出せば良い
> 間脳を開いて宇宙意識と境智冥合

などという文言が見えるからです。
宇宙が意識であるとは一体全体何のことであるか皆目見当も付きませんが、宇宙に必要なものが具わっているというのは神秘主義で言うアカシック・レコードの転用と思えます。また、宇宙意識という神秘的なものがあるいうこと自体、神秘主義的であると思えます。

このような西洋神秘主義を境智冥合という教学と混合することは、快く思えません。それはたしかに文証も理証もあるわけがないでしょうが、それによって得た幸福感は「かなり危ないものではないのか」というのが正直な印象です。ただ、これは悪口ではなく、ある種の危機感です。これはもはや富士門流信仰という範疇ではありません。

このような方向性は、ある面、創価学会教学の到達点であって、しかし、それに危惧を訴える声は既に昭和50年前後には既に挙がっていました。石田次男さんがその急先鋒でした。
また、誰であったか忘れましたが、創価学会を「笑うファシズム」と酷評した人がいました。彼らの笑い声、まして、彼らの言う絶対幸福という体験は、それをなぜ外部者は気味の悪いものとしてとらえるのか、この点をわたしは考えてみたいと思っています。

以上の危機感が、本日の頻繁な投稿の原動力となりました。
晃司さんには、ここ二日間の皆さんの投稿を単なる批判と取らず、思慮の糧とされることを祈るばかりです。

1534平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/15(木) 13:29
『種種御振舞御書』について疑問に思っていたことを、識者の方々にお尋ねします。
この御書は建治2(1276)年3月55歳御作となっていますので、龍ノ口の法難
の4年半後に書かれた御書であると言うことになります。正筆は現存せず、写本だけ
が残っており、内容が極めて神秘的であり誇大表現があるために偽作であるという説
もありますが、私は御真筆があったものの考えて書いていきます。
文永8年9月12日は現在の太陽暦に直しますと1271年12月24日になります。
私が極めて不思議だと思うのは日蓮大聖人が正に首を斬られようとした時に現れた光物
体と、日蓮大聖人が月天を諫めた後に梅の木の枝に掛かった明星のような大星のことで
す。「いかに・やくそくをば・たがえへらるるぞと申せし時、江の島の方より月のごと
く・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日
の夜のあけぐれ人の面もみへざりしが物のひかり月夜のやうにて人人の面もみなみゆ」
御書914頁。天文シュミレーションで調べたところこの夜の月の出は鎌倉では午後8
時35分月の位相は68%、月齢は20となります。「あけぐれ」には「昧爽」という
ルビがふられています。「昧爽」は「昧旦」のことであり未明の意味です。「さては十
二日の夜・武蔵の守殿のあづかりにて夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしに」
御書912頁とありますので、既に光物体が出たのは9月13日になった後と思われま
す。太陽暦10月25日の御前1時には月齢20の月は南東に掛かっていました。しか
し月齢20では人の顔を見る程の光度はありません。南東には雲が掛かっていたのかも
知れません。ここで興味深いことがあるのですが、太陽暦10月20日から22日まで
はオリオン流星群があり、21日に極大を迎えるということです。オリオン座は南東(
辰巳)の方に掛かり北東(戌亥)の方に流星を放つのです。1時間辺り25個の流星が
あるのです。しかしこの日は25日であり、オリオン座流星群の日とは3日もずれてい
ます。また流星では人の顔を見ることはできませんしまたオリオン座流星群はペルセウス
座流星群のような大流星雨を降らせることはできません。またこの光物体は複数ではなく
単一の物であり、はっきりと縁取られていたものです。人の顔が見えるくらい明るい流星
ならば、6500万年前に恐竜を全滅させた程の大隕石でなければなりません。しかしそ
のような隕石が鎌倉時代に落ちたと言う記録は日本にも外国にもありません。海に落ちた
としても大津波が来るはずです。御書914頁の光物体は流星ではない別の何かであると
私は思います。それも人を恐怖のどん底に落とすような何かであると思います。御書91
5頁の「天より明星の如くなる大星下りて前の木の枝に・かかりてありしかば・もののふ
ども皆縁よりとびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ」も流星ではないと思
います。流星ならば木に激突するなずであり、木の枝に掛かるなどどいうことはありませ
ん。これも隕石ではない人を恐怖のどん底に突き落とすような別の何かだったと思います。
私は私なりの結論を持っていますが、それはここの掲示板に書き込むことは差し控えさせ
て頂きます。識者の方の冷静なご判断と御返事をお待ちしております。

1535平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/15(木) 13:33
>文永8年9月12日は現在の太陽暦に直しますと1271年12月24日になります。
失礼しました。12月24日ではなく10月24日でした。訂正します。

1536平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/15(木) 13:41
「天より明星の如くなる大星下りて前の木の枝に・かかりてありしかば」は「天より
明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば」です。
また「御前1時」は「午前1時」です。御書の引用を誤りまして大変失礼しました。

1537平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/15(木) 16:39
『種種御振舞御書』の文永8年9月13日は現在の太陽暦では1271年10月
25日に当たります。私はこの『種種御振舞御書』を真書と考えていますが、1
00%と真書とは考えてはいません。文永8年9月13日の月の出は太陽暦に直
し更に正確な天文シュミレーションにかけると、午後9時28分になります。日
蓮大聖人が月天を責めた時にはその日の月齢は21、月の位相は62%です。あ
の当時の人達が午後9時以降に起きていたのか不思議です。1271年10月2
5日の夜に月が南東に昇るのは翌日の、文永8年9月14日の午前2時頃です。
9月13日には遅い時間でもまだ東の地平線近くにしか月は昇って来ていません。
日蓮大聖人が月天を諫めた時間が真夜中近くならば合点がいくのですが、なかな
かそうもいきません。また御書915頁には「やがて即ち天かきくもりて大風吹
き来たりて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし。夜明
れば十四日の卯の時に十郎入道と申すもの来たりて云く」とあります。卯の時と
は午前6時と7時に当たります。50歳に近い年齢で睡眠時間5時間以下と言う
のでは大変だと思います。また旧暦9月13日は新暦10月25日に当たり、急
に雷雲が近付くような季節ではありません。むしろ初冬に近いと言えましょう。
この『種種御振舞御書』が後世の偽作かどうかは別のスレで議論するとして、こ
の内容について深く識者の方々に御意見を伺いたいと思っています。

1538みかん:2004/07/16(金) 03:42
>晃司さん

すでに撤退されたので見ていらっしゃらないかもしれませんが、

>えっと水の販売はしていません
>水はプラシーボ効果を引用するために記載しています
>現実にアトピー性皮膚炎が治りました

意味がよくわからないのですが、あなたは
「活性水素水」に特別な効果があるという立場なんですか?
それとも単にプラシーボ効果であって、水道水でもミネラルウォーターでも
井戸水でも、効果があると思って飲めばプラシーボ効果(偽薬効果)
があるという立場なんですか?

1539犀角独歩:2004/07/16(金) 10:03

平和創価さん:

1534〜7のご投稿、たいへんに興味深く拝読しました。

『種種御振舞御書』は、れんさんをはじめ、皆さんが既にご紹介なさっておられるように、後世の成立であり、複数の書を併せたものであるというのがいちおうの信頼できる見解であろうと存じます。ただ、そのなかに実際に蓮師、本弟子六人方などが話し記したこともあるとは想像できます。該当の「光物」については、道師『三師御伝土代』にその記述が見られるわけで、もし、この書が同師のものであれば、かなり上古の伝説ということになります。今回のご投稿は、しかし、書の真贋を問うのではなく、記述の信憑性から、光物が何であったのか、お考えになっておられるのですね。

「九月十三日の夜なれば月大いにはれてあり」

という同書の記述は、天文シミュレーションと一致しないわけなのですね。

光物について、たしか創価学会出版の池田さんの対談集で、エンリケ彗星でしたか、彗星説を挙げていた記憶がありますが、この信憑性は如何ばかりでしょうか。

ご指摘されている隕石説ですが、これについて、わたしの体験を一言。
もう30年も昔のことなのですが、夜空を眺めていると、眩いばかりの光体が地平線にほぼ平行に、波打つように走り抜けていったのです。空の雲も、黄色にも、朱色に明るく照らされました。その大きさは一円玉ほどもあったように見えました。わたしは一瞬、UFOかと思ったのですが、冷静に考え直し、隕石であろうと結論付けました。その隕石は大気圏への入角の関係で地上に落ちず、また宇宙へはじき飛ばされたのではないのかと想像しました。地球引力に寄せられた隕石にそんなことが起きるのかどうかは別として、わたしは実際にこのような自然現象を目の当たりにした経験があります。

あと、この光物は、蓮師を救おうとした人が上げた花火であったとか、種々説はあったようですが、梅の木に掛かった‘星’とともに、これが蓮師の一念心によって起こった超常現象か否か、また、偶然であっても、それを蓮師が宗教的な体験と捉えたのか、あるいは『種種御振舞御書』の記述がまったくの創作物語なのか…、まずは平和創価さんが試みられているような科学的なアプローチ、また、同書への科学的な文献研究などによって、その実否を問うていくほかないと思えます。

あまり、参考になるレスともなっていませんが、実に興味深いアプローチでしたので、惹かれた投稿させていただいた次第です。

1540シェスタ:2004/07/16(金) 10:31
平和創価さんへ

陰暦の13日で月齢が21というのは、ありえません。なぜなら、月齢で日にちを
数えるのを陰暦と呼ぶからです。日付が13なら月齢も13です。
誤差があったとしても1日〜2日程度でしょう。

ソフトはステラナビゲータですか?

1541平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/16(金) 18:54
>>1539 犀角独歩さん
貴重な御意見有難う御座います。日蓮大聖人の事跡と御書を科学的に検証することの
重要性を感じました。
>>1540 シェスタさん
現在旧暦と言われている月齢と日付がほぼ一致するのは天保暦です。日蓮大聖人が御
使用になった暦は貞観4年(862)から貞享2年(1685)まで使用された宣明
暦です。日本で使用された暦は元嘉暦(692〜697)、儀鳳暦(697〜764)、
大衍暦(764〜858)、五記暦(858〜862)、宣明暦(862〜1685)、
貞享暦(1685〜1755)、宝暦暦(1755〜1798)、寛政暦(1798〜
1844)、天保暦(1844〜1873)の9種類です。鎌倉時代の宣明暦は日付と
月齢と日付が全く一致していません。ナギピーソフトの「こよみちゃん」を使って文永
8年9月13日をグレゴリオ暦の1271年10月25日を弾き出しました。また天文
シュミレーションは「ディスタントサンズ2」です。これは非常に正確なソフトで、推
古天皇36年3月2日(628年4月10日)の皆既日食を正確にシュミレーションし
ました。1271年10月の朔は5日でありますから、それを1とすると25日は21
に当たります。月齢は天保暦から1を引きますから20でしたね。失礼しました。でも
あの文永8年9月13日(1271年10月25日)の午後9時28分にかなり右半分
が欠けた位相(光る部分)62%の月が昇って来たのですよ。ここで私は思ったのです
が、日蓮大聖人はどのようにして当時の暦を知っていたのかということです。鎌倉時代
にカレンダーなどがあったのでしょうか。日蓮大聖人は絶対に日付を間違えなかったと
言えるのでしょうか。4年半も前の日付を正確に覚えていたと言えるのでしょうか。ま
た素朴な疑問がわいてきました。鎌倉時代の人はどのように暦を知ったのでしょうか。
現代のように新聞やテレビがある訳ではないのですからね。
まあシャスタさん「窓の杜」というサイトから「こよみちゃん」をダウンロードしてみて
下さい。ナギピーソフトでシェア料金500円で完全な「こよみちゃん」を開くことがで
きますよ。また天文シュミレーションの「ディスタントサンズ2」は驚く程正確ですよ。
まだ販売されているかも知れません。そんなに高くはありませんので、是非トライしてみ
て下さい。

1542平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/16(金) 19:33
>>1540 「シェスタ」さん
「こよみちゃん」はここからダウンロードできます。シェア料金500円だけで延暦
年間の旧暦から明治5年までの旧暦を現代のグレゴリオ暦に直すことができます。
    ↓
http://www.nagi-p.com/

1543シェスタ:2004/07/16(金) 19:48
平和創価さんへ

10月25日というのはグレゴリオ暦です。 1271年はユリウス暦ですか
ら、7日ほどマイナスしなければなりません。こよみちゃんでも、10月18
日と出力されます。

ディスタントサンズ2というソフトはよく知りませんが、ほとんどの天文ソフ
トは、1582年以前はユリウス暦とみなして計算しますから、日付もユリ
ウス暦で入力してやらなければなりません。

【1271年早見表】
 宣明暦       9月13日
 ユリウス暦    10月18日
 グレゴリオ暦   10月25日

ですから、10月25日ではなく10月18日です。結果、依智の星下りの奇
瑞のあった日の、鎌倉の月の出は午後4時となります。もちろん、25日で入
力すると月の出は午後9時半頃で、貴殿と同じ結果になります。

つまり、あなたは9月13日を調べているのではなく、実は、9月20日を
調べているのです。これだと、月齢が21になるのも納得できます。

1544雖念:2004/07/16(金) 20:04
>平和創価さん(1541)

平和創価さんはじめまして、雖念と申します。
種々御振舞御書の「光物」に関しては、当スレッドの855-875で議論されましたので、ご参照いただくとよいかと存じます。
私自身は、874に投稿しましたように、「光物」の正体は球雷と考えるべきではないかと存じますが、太陽暦の10月25日にこうした現象が見られるのかどうかが疑問です。
もっとも、北陸では冬に雷がなりますので、気象条件次第でありえない話でもないと思っています。

1545愚鈍凡夫:2004/07/16(金) 21:30

横レス失礼します。小生が普段使っているソフトで調べてみたのですが、シェスタさんと同じ答えでした。

1271(文永8:辛未)年9月13日(旧暦)
1271年10月18日(ユリウス暦)
1271年10月25日(グレゴリオ暦) 甲戌 先負 五黄 十三夜

小生が使用しているソフトはフリーソフトですが、使い勝手がよく、歴史年表を作る際に重宝しています。

旧暦表示付きカレンダー【Calend Mate】
http://homepage1.nifty.com/OkaLab/Program/CalendMate.html

参考資料

旧暦の仕組み
http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendar.htm

1546愚鈍凡夫:2004/07/16(金) 22:12

>>1539:
で犀角独歩さんが

> 光物について、たしか創価学会出版の池田さんの対談集で、エンリケ彗星でしたか、彗星説を挙げていた記憶がありますが、この信憑性は如何ばかりでしょうか。

と、仰ってるのは下記のことだと思います。

随筆 新・人間革命:黎明の竜の口
http://www.mahoroba.ne.jp/~felix/SGI/Marathon/tatsunokuchi.html

1547平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/16(金) 23:17
>>1543 シェスタさん
貴重な御意見有難う御座います。「ディスタントサンズ2」で調べました所、
1582年10月5日から10月14日は無効な日となっており、やはりシェ
スタさんがおっしゃる通りでした。文永8年9月13日はユリウス暦の10月
18日であり、月の出は16時2分であり、月の位相は89%で満月に近い光
度を持っていました。まだ午後8時でも南東の空に明るく輝いていました。そ
うなると『種種御振舞御書』の「九月十三日の夜なれば月大いに晴れてありし
に夜中に大庭に立ち出でて月に向かひ奉りて」と言う記載は真実であるという
ことになります。まことにまことに感銘致しました。私の不勉強を痛感した次
第であります。そうなるとこの御書が犀角独歩さんがおっしゃっていたように
後世の偽書であるとしても、実際に龍ノ口の法難に立ち会った人の記憶を忠実
に表している部分がかなりある御書であると言うことが言えます。愚鈍凡夫さ
んの御意見も正しかったのでした。
さて雖念さんの光物体が球雷であるとの御意見も可能性はあると思います。こ
れは球電とも呼ばれる現象であり、昔東京の麻布の民家で起きたということを
本で読んだことがあります。10月17日に龍ノ口に現れた南東から北東に光
り渡った光物体と、18日の夜に梅の枝に掛かった大星も球電である可能性が
あります。球電現象は雷雨の前後に起きるものです。大星が梅の枝に掛かった
後に「やがて即ち天かきくもりて大風吹き来たりて江の島のなるとて・空の響
く事・大なるつづみを打つがごとし」と御書にありますが、これは雷雲が近付
いて来たことを表しています。球雷であるという雖念さんの考えは御書の叙述
と科学的な根拠と一致しており、これまたこの御書が実際に起きた事を忠実に
表したものであることを裏付けることであると思います。皆様の真剣な探求心
にはまことに頭が下がる思いです。

1548犀角独歩:2004/07/17(土) 02:17

こうして、皆さんの議論で少しずついろいろなことが見えてくるのは、楽しいものです。
わたしは、このような場で前言を覆すことは何ら恥じることではないと思います。
皆さんのご賢察を拝しながら、真実に近づきたいと思うばかりです。

1549平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/17(土) 16:46
>>1545 愚鈍凡夫さん
貴重な御意見有難う御座いました。さて私は紹介されたサイトのソフトをダウン
ロードしたのですが、さっぱり開くことができませんでした。「ディスタントサ
ンズ2」には月の位相は表示されても月齢が表示されないと言う欠点があります。
まあ月の位相の%に29.53を掛ければ大体の月齢は出てきますが。「旧暦表示付
きカレンダー【Calend Mate】」はどのようにして開いたのかお教え頂ければ幸
いと思います。私は昨夜から悪戦苦闘しながら、とうとう今まで開けない始末で
す。ダウンロードとインストゥールは終わったのですが、開くことが全くできま
せん。「こよみちゃん」でも月齢は表示されません。前に月齢表示のソフトはあ
ったのですが、パソコンが古くなったため一緒に捨ててしまいました。御書の科
学的な考証の目的があったならば捨てなかったものをと悔やんでいます。

1550愚鈍凡夫:2004/07/17(土) 19:19

>>1549:創価平和さん、ご苦労様です。 m(_ _)m

無事にインストールが済んでいれば、「C:\Program Files」のフォルダに「Calend Mate」というフォルダが新たにできていると思います。その中の「CalendMate.exe」のショートカットをデスクトップにでも作成して下さい。なお、ショートカットの作成には、「ショートカット工房」が便利です。

Calend Mate(Windows95/98/Me/パーソナル)
http://www.vector.co.jp/soft/dl/win95/personal/se289934.html

ショートカット工房(Windows95/98/Me/ユーティリティ)
http://www.vector.co.jp/soft/win95/util/se158270.html

もし、VB6のランタイムがインストールされていなければ、下記のアドレスのランタイムライブラリから「Visual Basic 6.0」をダウンロードして下さい(VB6であればどれでも結構です)。
解凍したdllすべてを「C:\Windows\system」フォルダにコピーして下さい。これで準備OKです。

Common Archivers Library
http://www.madobe.net/archiver/index.html

1551愚鈍凡夫:2004/07/17(土) 19:47

訂正
名前を間違えました(ギャグではありません)。 (^▽^;)
創価平和さんではなく、平和創価さんです。ごめんなさい。 m(_ _;)m ゴメン!!

1552雖念:2004/07/17(土) 20:04
光の柱

通信手段が発達した現在では、「火球」が現れれば、目撃情報が寄せられ、天文台が直ちにコメントを出し、こうして新聞に紹介されますが、私たちは視覚的に確認できないと、もうひとつ安心できません。
http://www.sankei.co.jp/news/040716/sha152.htm

また、現在では写真やビデオが発達したため、「奇跡」も「怪奇」も姿を消しつつありますが、以下の光の柱なども、昔の人がみたら「神の降臨」「神のみしるし」としか表現のしようがないと思いませんか?

http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&amp;d=20040717&amp;j=0047&amp;k=200407177299

1553愚鈍凡夫:2004/07/17(土) 21:27

もし、「Calend Mate」が文字化けするようでしたら、VB6のランタイムを下記のものにアップグレードして下さい。

Visual Basic 6.0 Service Pack 6 Runtime Set(Windows95/98/Me/ユーティリティ)
http://www.vector.co.jp/soft/win95/util/se152941.html

1554平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/17(土) 23:43
>>1553 愚鈍凡夫 さん
アドバイス有難う御座います。パソコンの操作を練習して開けるようにしていきます。
>>1552 雖念さん
これは大変なことですね。犀角独歩さんも30年前に隕石が地上に落下する反動で地球
圏外に弾き飛ばされた現象を見たということをおっしゃっていましたが、雖念さんが15
52で紹介された現象は単なる球雷とか隕石ではないと思います。私が21歳の時に大學
の正門で見た丸い光りの塊は三つの正三角形の形をとって夜空にもの凄いスピードで急
上昇していきました。忘れもしない、とある年の9月30日の夜でした。またこれはそ
の前年の9月4日の夕方でしたが、私が田園の農道でトランペットを吹いていたところ、
オレンジ色の光る物体が私から20メートルぐらいの至近距離まで近付いて来たことが
ありました。私は驚いて自転車に乗り猛スピードで逃げたところ、そのオレンジ色の光
物体は白い大星に変わって西の空に急上昇して消えていきました。インドでムノチュア
(引っ掻く物)というオレンジ色の光物体物が現れて死者や怪我人が出たと言うことが
以前民放の番組で報道されましたが、私が見た光物体と同じような物でした。私が見た
光物体は直径が20センチぐらいでガラスの中に火を灯したような物でした。これは球
雷とか球電やプラズマのような物ではなく、無線で操縦されている物体であると思いま
す。私は20歳前後の時に残像を持つ光物体を夜によく見ました。頭は白い光球であり、
尾を残像に長く持つのです。飛行機は残像など絶対に持ちません。UFOかどうかは分
かりませんが、このような現象は絶対に捨て置くことはできない現象であると思います。
雖念さんは島崎藤村の『夜明け前』という長編小説をお読みになったことがありますか?
私は22歳頃にこの小説の「光物体が飛んで人々が大騒ぎした」という下りを読んでぞっ
としたことがあります。正に『種種御振舞御書』の光物体であると思いました。私は流星
を見たことがありますが、あの21歳の時に見た光物体は極めてゆっくり飛んでいました
し、三つの光点が急上昇したのは隕石や球電ではないと思います。また20歳の時に見た
光物体は私の所にゆっくり降りてきて、私が逃げた後に西の空に急上昇して消えました。
やはりあの文永8年9月12日の光物体はあれだと私は思います。このような史実や現代
の光球の出現を荒唐無稽なことであると考えて無視していることは極めて不真面目なこと
であると思います。昔の伝説を全てお伽噺と考えて科学的考察をしようとしない現代科学
者の姿勢は極めて不真面目であると思いますし、自己の地位の保身や経済的な利潤の維持
を優先して真実を解明しようとしない科学者達には私はいらだちさえ感じます。『竹取物
語』に似た記述は外国にも有りますし、縄文時代後期の遮光器型土偶に似た土人形は同時
代のイラン近くの中東からも出土しています。縄文時代後期の縄文土器や土版にもあの遮
光器型土偶の大きい目が描かれているのです。時期が一致していることに空恐ろしささえ
私は感じます。人は多数者の意見に押されて自分の意見を潰すという悪い性質があります。
日蓮大聖人は多数者の意見に対抗して自身の確信を貫き通されました。あの龍ノ口の法難
の光物体は彗星ではないと思います。彗星は夜明け前や日没時に見られ長時間見られる物
です。あの光物体は短時間現れ人の顔さえ見られるくらい明るい物でした。近未来にこの
ことが解明されるであろうと私は思っています。

1555愚鈍凡夫:2004/07/18(日) 02:30

横レス失礼します。下記のような現象があるそうです(この現象の目撃者は以外に多いのではないですか。小生もその一人です)。

**************************************************
夕方西の空に見られる飛行現象について

2000年10月22日に北海道において隕石の落下のように見られる飛行物体が目撃されて以来、同様の目撃情報が当サイトの掲示板に報告されることが多くなりました。
10月22日の現象については飛行機の可能性がもっとも高いと考えていますが、飛行機の所属等については結論が出ていないようです。

いずれにしても、晴れた日の夕方西の空に(明け方の東の空にも見える)火を噴きながら落下していくように見える飛行物体は、99%飛行機であるといって過言ではありません。
特徴は、「30秒〜数分にわたって見える」「先端に黒い部分がある」「先端が短時間光る」「途中で方向を変える」などです。
(中略)
夕方飛行物体を目撃した場合には以上の点に注意し、それでも不明の場合にはご連絡ください。
隕石の落下の場合は、飛行時間が30秒以下の場合がほとんどで、直線的に飛行します。

http://www3.cnet.ne.jp/c-shimo/Dscf0025.jpg
「日本火球ネットワーク」ホームページより
**************************************************

Japan Fireball Network
http://www3.cnet.ne.jp/c-shimo/

1556シェスタ:2004/07/18(日) 11:24
平和創価さんへ

> 日蓮大聖人はどのようにして当時の暦を知っていたのかということです。鎌倉時代
> にカレンダーなどがあったのでしょうか。

鎌倉時代にもカレンダーはありました。もともと手書きの暦が配布されていましたが、
鎌倉時代末期からは、印刷された暦にかわっていきました。国立国会図書館のHPで、
当時の暦を画像で閲覧できます。

http://www.ndl.go.jp/koyomi/rekishi/03_index_01.html
http://www.ndl.go.jp/koyomi/rekishi/pic02_2_lar.html

なぜ、暦が配布されていたかといいますと、農作業に必要だったからです。
お百姓さんが種をまいたり、稲を刈り取るのには、どうしても暦が必要だった
のです。また、陰暦ですから、漁業にも使用されました。

あと、宣明暦は世界でも優秀な暦のひとつで、現代の暦とくらべても、そんなに
遜色はありません。以下はそのパラメータです。833年に2日という誤差です。

宣明暦の1年   365.2446日
現 代の1年   365.2422日

あと、1日の変わり目は、現在は午前0時ですが。鎌倉時代は午前3時でした。
これらに関しては、以下の書籍に、かなり詳しく書かれてあります。

日本・中国・朝鮮 古代の時刻制度
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4639012802/qid=1090109417/250-6693226-9158619
アマゾンでは品切れになってますね。大きな図書館にいけば、読めるかもしれません。

こちらは、天文関係のフリーソフトがダウンロードできます。
http://www.vector.co.jp/vpac/filearea/win95/edu/science/space/index.html

1557シェスタ:2004/07/18(日) 11:44
こちらで、天文関係のフリーソフトがダウンロードできます。
http://www.vector.co.jp/vpack/filearea/win95/edu/science/space/index.html

URLに記述ミスがありました。訂正します。

1558愚鈍凡夫:2004/07/18(日) 14:06

暦の先進国中国では、皇帝は「天子」とも呼ばれ、「天帝」から、この世のすべての支配を委託されたただ一人の人物であるという位置づけで、この皇帝に諸国の王が随順の証として、皇帝が支配する時間を受け入れる。という意味があったようです。つまり皇帝のみ発行を許されている「暦」を頂くという意味ですね。従って、古来より日本にも中国から暦は送られてきたようです(臣下の証だったようですね)。
日本が自前で暦を作れるようになってからは、中国の例に習ったのか、天皇以外に暦の発行は許されませんでした。そういう意味では、暦は権威の象徴であったようですね。

旧暦の仕組み7
http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendar7.htm

1559平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/18(日) 16:35
>>1558 愚鈍凡夫さん
「旧暦表示付きカレンダー【Calend Mate】」を先程開くことができました。この
ソフトはフリーソフトでありながら極めて正確でありかつこよみちゃんよりも古い
時代から計算できる優れたソフトですね。月の位相%に29.5を掛けて私は月齢
を算出していたのですが、文永8年9月13日の夜の月齢が「ディスタントサンズ
2」の%に29.53を掛けた結果とこのソフトの月齢がほぼ一致しました。いや
もう凄いソフトですね。暦に関する知識といい、愚鈍凡夫さんの博学には脱帽しま
す。さすがに犀角独歩さんと鎬を削っているだけのことはあると思いました。また
私の不勉強を痛感した次第です。
>>1557 シェスタさん
天文シュミレーションのご紹介有難う御座います。優れたソフトはシェア料金が掛
かっても使用していきたいと思います。私が使用している「ディスタントサンズ2」
は非常に優れたソフトですのでシェスタさんも一度お試しになってはいかがかと思い
ます。

1560愚鈍凡夫:2004/07/18(日) 17:06

平和創価さん、「Calend Mate」が使えるようになって良かったですね。
パチパチパチ o(^ー^)o☆o(^ー^)oパチパチ

> さすがに犀角独歩さんと鎬を削っているだけのことはあると思いました。

あまりにも犀角独歩さんに失礼ですから、ジョークということで。 (@Д@; アセアセ・・・
あ〜オソロシィ・・・・・・。 (O.O;)(o。o;)

余談ですが、緯度経度ならここで簡単に調べられますよ(○○市○○区のように指定)。

SEARCH(日本緯度経度検索)
http://www.interq.or.jp/mars/tozai/data/search.html

1561平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/18(日) 20:16
愚鈍凡夫さん、シェスタさん、貴重な御意見有難う御座いました。
さて私は今日16時にメールを送信した時に後の部分を削除しました。それは極めて
日蓮大聖人の門下として不謹慎なことであると思いカットしたのですが、このことは
2ちゃんねるでこの3月から外部の人達と議論して来たことなので犀角独歩さんにも
お聞きしたいと思います。私はあの議論の後の2ヶ月後に発病し、病院通いになった
次第です。今は快復していますが万全ではありません。その議論とは言うも恐ろしい
日蓮大聖人の死因です。今日16時にそのことを付け加えたのですが、恐ろしくなり
削除して送信しました。しかし、このことを科学的な分析をしないで置くことは我々
にとってマイナスであると思い、敢えて投稿します。
犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん、シェスタさん、雖念さん。
日蓮大聖人は60歳で亡くなられました。(年齢は全て満年齢です)弟子の日興上人
は87歳、同じ弟子の大聖人より1歳年上の日昭は102歳まで生きていることを考
えますと大聖人は何かの病気で亡くなられたと思います。大聖人は建治3年の暮れか
ら下痢が始まり、翌年の6月には最悪の状態になられました。一度快癒されたのです
が弘安4年の12月にはかなり酷い状態になられております。翌年弘安5年10月1
3日に亡くなられるのですが、日蓮大聖人の死因は一体何なのでしょうか?外部の人
は「大腸癌」という説を日蓮研究者の学説から引き出しています。私はそれに反論し
たのですが、その書き込みが私自身に対する呵責となって体調を崩させたのではない
かと思います。大聖人の激しい下痢と痩せ病は肝臓病と関係があると私は思い、外部
の人にメールを送り続けたのですが、私の身体がおかしくなってしまいました。私は
日蓮大聖人の死因は大聖人が食物が少ない所にお酒を好まれたたの肝硬変ではないか
と思います。佐渡流罪はそれに拍車をかけるものだったと思います。肝硬変になると
激しい下痢が続くことがあるのです。また栄養障害に酒が加わると肝臓を壊します。
私はそのようなことを考えて外部の人達に「日蓮大聖人癌死」説を否定したのですが、
私の書き込みが気になり、私自身が呵責に苛まれるようになりました。
犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん、シェスタさん、雖念さん。アドバイスを頂ければ幸いです。
あとシェスタさん。やはりあなたのソフトの「ステラナビゲータV2」の方がいいと言う
ことが分かりました。

1562雖念:2004/07/18(日) 21:35
平和創価さん:

> 大聖人は建治3年(1277)の暮れから下痢が始まり、翌年(1278)の6月には最悪の状態になられました。一度快癒されたのですが弘安4年(1281)の12月にはかなり酷い状態になられております。
(西暦表示を併用いたしました。)

大腸がんの特徴は、血便や便秘だとあります。下痢とは反対に、お通じがわるくなるのですね。

*******************************  引用開始   ********************
(自覚症状は)血便です。貧血を起こすこともあります。出血している場所によって表れ方も異なり、結腸の場合は便が黒っぽくなります。S状結腸や直腸など出口に近いと、便秘など便通異常を起こします。最後におなかがはっておならも出ないような腹痛に至りますが、この段階では、すでにがんは進行しています。五十代以上で過去にないような血便や便通異常のある場合はぜひ検査を受けてください。
http://www.hokuriku.chunichi.co.jp/00/ken/20040220/ftu_____ken_____000.shtml
*******************************  引用終了   ********************

平和創価さんは、肝臓病原因説を考えていらっしゃいますが、以下の記事は肝臓病原因説とは言えないでしょうか?

*******************************  引用開始   ********************
晩年の日蓮聖人の病の原因
A:1993年10月28日の『宗門新報』に興味深い記事がありましたので、ここにその要旨を紹介します。本紙において、日蓮聖人の身延期の病は、山梨地方病ではないかとの報告がなされました。入梅時の甲府盆地では道草に日本住血吸虫という病原虫がいて、その病原虫は宮入貝という貝を中間宿主にして成長し、水辺などで人体に伝染します。日蓮聖人は5月17日に山梨にきて、約1ケ月も山梨地方を巡られております。丁度、入梅の時期に甲府盆地の湿地帯を進まれたのです。この病気は初めは下痢から始まり、やがて肝臓を痛めます。供奉の日興上人などは鰍沢の生まれで抵抗力があったのか、あるいは日蓮聖人のように常に身延に常住していなかったので、発病が軽かったものと思われます。この山梨地方病は昭和になるまで、その原因がわからず、昭和になってその病原と処置方法がわかり、排水工事などをやって患者数が激減したといわれております。
 http://www.asahi-net.or.jp/~IA8D-TKMR/contents4.html
*******************************  引用終了   ********************

1563愚鈍凡夫:2004/07/18(日) 22:25

雖念さん、水を差すようでごめんなさい。日本住血吸虫症は癌になりやすいそうです。

**************************************************
日本住血吸虫症

日本住血吸虫症は戦前は日本にも流行していましたが、駆除政策がおこなわれ現在、新たな感染者の発生はありません。しかし、以前に日本住血吸虫症に感染し治癒したご老人(陳旧性日本住血吸虫症)の方は多くいます。

陳旧性日本住血吸虫症の方は肝硬変、肝臓ガン、胆道ガンになりやすいことがわかっているのですが、また大腸ガンにもなりやすいといわれています。これは日本住血吸虫症の卵が肝臓や大腸粘膜内にいつまでも残るためのようです。

「大腸.com」より
**************************************************


創価学会2代会長の戸田さんは肝硬変による心不全で亡くなったようですが、蓮祖の死因は何でしょうね。「衰病(おとろえやまい)」「下痢(くだりはら)」「やせやまい」から連想するのは、やはり大腸癌でしょうか。ただ確かなことは、いかなる病であったにせよ、1282(弘安5)年10月13日に入滅されたということですよね。その時、総てをやり遂げたといったような人生に満足した死だったのでしょうか。

「答えて云く一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、」(「報恩抄」 学会版P328)

「問うて云く如来滅後二千余年竜樹天親天台伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(「法華取要抄」 学会版P336)

とありますが、
個人的に、この「三つの秘法」の論理的完成を成さずに死んでいくことは断腸の思いではなかったかと想像します。せめて、あと10年の寿命があったなら、今に伝わる日蓮仏教も違ったものになっていたかもしれないと思います。

参考資料

あの頃のこと第20回
http://the49.hp.infoseek.co.jp/emyo_t/em1406a2.htm

日本住血吸虫症と大腸がん、大腸癌、直腸癌、大腸検査、大腸ポリープ、血便、総合サイト
http://daichou.com/japonica.htm

波木井殿御報「常陸の湯」について
http://homepage1.nifty.com/kakurai/hitatinoyu/oosakigakuhou.htm

1564シェスタ:2004/07/19(月) 07:14
平和創価さんへ

本題とは関係ないですが。

> 「ステラナビゲータV2」の方がいいと言うことが分かりました。

えーと、現在はV6ですね。
http://www.astroarts.co.jp/products/stlnav6/tryout/index-j.shtml

以下のページも、お気に入りに加えておけば、何かの時に役に立つと思います。

暦のページ
http://koyomi.vis.ne.jp/

一般天文・気象情報リンク集
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8y-ktu/link.htm

1565犀角独歩:2004/07/19(月) 12:50

最近の皆さんの投稿は面白いですね。
つい読む耽って、そのあと、言語かも出来ない思いを楽しんでいます。

蓮師の死については、死因は雖念のご呈示も参考にしながら、死因は決し切れませんが、概ね1563に愚鈍凡夫さんが記されたように戒壇義不成就で病死されたのだとわたしも考えています。

わたし自身は蓮師を本仏と考えるわけではありませんから、別段60歳で亡くなろうが、病死であろうが、それをそのまま受け止めるばかりです。
事実と相違する肥大した想像の産物より、蓮師その人の実像のほうが遙かに胸を打ちます。

関連するかどうか。シャキャムニの涅槃を記す現代語訳『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)の記述を思い出しながら、平和創価さんの投稿を拝読していました。

「さて、尊師が鍛冶工チュンダの食物を食べられたとき、激しい病が起り、赤い血が迸り出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じた」(P110)

この食事がシャキャムニに死をもたらしたと言います。
シャキャムニもこうして、こうして激烈な血便の末、死に至りました。どこか蓮師の死と相通じるものを感じます。

それはさておいて、シャキャムニを死に至らしめた食事を供養したチュンダを気遣い、アーナンダ(阿難)に伝言したと言います。ほぼ記せば、シャキャムニの生涯にとって「二つのすぐれた食事」があったと言います。一つは悟りを生じるときに受けたスジャータの乳粥、そして、もう一つはチュンダの死に至らしめた料理であった…。
チュンダへ非難を防ぎ、そして、チュンダを思うこの件をわたしはこよなく愛します。

わたしは60歳で夭折したからどうとか、あるいは志半ばで倒れたからダメだなどという気は毛頭ありません。死は一定(いちじょう)で、生まれたものはやがて、病み、老い死んでいく、そのありのままを受け容れ、心を乱さぬことを教えたのがシャキャムニの教説であると思い、また、だからこそ、その教説を仰ぎます。

蓮師餓死に臨み、身延を出で、池上に向かうに興師に代筆させた『波木井殿御報』(弘安5年9月19日)

 畏(かしこ)み申し候。みち(道)のほど(程)べち(別)事候はで、いけがみ(池上)までつきて候。みちの間、山と申し、かわ(河)と申し、そこばく大事にて候ひけるを、きうだち(公達)にす(守)護せられまいらせ候ひて、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入り候ながら悦び存じ候。さては、やがてかへ(帰)りまいり候はんずる道にて候へども、所らう(労)のみ(身)にて候へば、不ぢゃう(定)なる事も候はんずらん。さりながらも日本国にそこばくもてあつか(扱)うて候み(身)を、九年まで御きえ(帰依)候ひぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(身延沢)にせさせ候べく候。又くりかげ(栗鹿毛)の御馬はあまりをもしろ(面白)くをぼへ候程に、いつまでもうし(失)なふまじく候。ひたち(常陸)のゆ(湯)へひか(引)せ候はんと思ひ候が、もし人にもぞとられ候はん。又そのほか(他)いたはしくをぼへば、ゆ(湯)よりかへり候はんほど、かづさ(上総)のもばら(藻原)殿のもとにあづけを(置)きたてまつるべく候に、しらぬとねり(舎人)をつけて候ひては、をぼつか(覚束)なくをぼへ候。まかりか(帰)へり候はんまで、此のとねり(舎人)をつけ(付)をき候はんとぞんじ候。そのやうを御ぞんぢのために申し候。恐々謹言。
  九月十九日                       
日蓮    
 進上 波木井殿 御侍
  所らう(労)のあひだ、はんぎゃう(判形)をくは(加)へず
候事、恐れ入って候。

この時、蓮師は衰弱の極みに達し、二度と身延に戻ることは出来ないと覚悟されていたと拝察します。その上での、心遣いの文面は、「ご本仏だから、少病少悩、すべてをやり遂げて…」とあとから自分たちの教学から潤色変造された蓮師より、わたしは遙かに有り難く尊い存在と思います。


平和創価さん、わたしは脱会後、極度の神経障害を克服した経験があります。そのきっかけとなった‘気付き’は以下の一説でした。

「(あるメンバーは)やめると気が狂うという観念を(略)埋め込まれていた。驚いたことに、彼はやめたあと本当におかしくなった。両親は彼を病院へ連れていった。医師たちの意見では、彼はたしかにおかしい、実際分裂症だ、というのだった。青年はこの診断を、自分のリーダーが正しかった証拠だと解釈した。
 あるメンバーは)もしグループをやめようものなら自己破壊を起こすのだと条件づけられていた。そして実際やめてみると、まさにそのことが起こりはじめたのだった ―― 救出カウンセリングに出会うまでは」(『マインド・コントロールの恐怖』P306)

1566雖念:2004/07/19(月) 14:18
愚鈍凡夫さん:>1562(その1)


蓮祖の死因に関して定説がないということは、「診断」に必要な情報の量や質が限られているということかと思います。当時の医療レベルは、「医心方」「金匱要略」「傷寒論」程度かと思いますが、証を重視し、症候論的には舌診や脈診を重視したもので、現代医学のそれとは、大きな違いがあるのではないでしょうか?

また、自覚症状があったとしても、それを口にされたかどうか、また記録されたかどうかという問題もあるかと思います。

寄生虫疾患が最初に頭に浮かぶのは、ほんの数十年前までは日本でも感染症や寄生虫疾患が大きな問題であったからです。
私が子供のころ、(ほんの数十年まえです)小学校の児童会で、「川の水を飲まないようにしましょう」と、いう議題について話し合ったことがあります。山間僻地では、上水道の設備がなく、一部の家庭では、井戸水や煮沸した川の水を飲用していた時代でした。
蓮祖の時代も同様に、井戸水は、貴重な飲料水で、洗濯や野菜洗いには川の水を用いていたと考えられますから、甲斐の風土病である日本住血吸虫症に感染していた可能性はあると思います。しかし、この疾患の場合肝障害による腹水が特徴的とされ、(画像あり)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/1781/china/sj.html
また、咳や喘息様の発作、けいれんや視力障害をともなうこともあるとされていますが、
このような症状があれば、記録に残らないとは考えにくいので、凡夫さんのおっしゃるように、やはり住血吸虫症とは少しちがうような気がします。
では、いったいなんでしょうか?調べてみると、慢性の下痢をきたす、疾患だけでもずいぶんありますね。炎症性腸疾患、腸結核、大腸アメーバ、寄生虫、クラミジア、大腸がん、胃がん、膵がん、慢性膵炎、甲状腺の病気、副甲状腺の病気、腎臓の病気、糖尿病など、たくさんあるようです。(凡夫さんに教えていただいた、daichou.comの中にありました)
http://www.daichou.com/geri.htm

「波木井殿御報「常陸の湯」について」から、病気に関する部分を編年体で抜粋してみました。1273年からやせ病が起きたとすると、1282年で入滅されるまで10年の歳月を経ていますが、がんにかかって10年生存できるかどうか?
 また、発病を1277年としても6年の生存ということになりますが、がんで(現在の医療水準で考えた場合)治療らしい治療もせずに、6年間生存できることは普通によくあることなのかどうか? そんなことが、問題になるような気がします。

1567雖念:2004/07/19(月) 14:19
愚鈍凡夫さん(その2)

******************************* 一部抜粋して引用   *****************
1273年(文永10年)ごろからやせ病起こる
1274年(文永11年)身延に入山なさる
1277年(建治3年)発病し下痢を病まれた
1278年(建治4年)正月から不調となり療養の巧もなくて11月・12月ごろは食欲がなく衰弱の一途をたどった。
1279年 ずっと病臥をつづけられていたように見受けられる
1281年(弘安4年) 5月の末、聖人は重態におちいられ、のちに少しく恢復された
1282年(弘安5年)10月15日門下某に口授して常忍への手紙の代筆をさせられ、終わりには聖人みずから筆をとって花押を加えられている
1282年 (弘安5年)9月、身延をたち、道中つつがなく武蔵国千束郷池上に安着された聖人は波木井の南部実長に池上到着の旨を報ぜられたが、疲労が甚だしくしてみずから筆をとることができず、日興に口実代筆させられた。
10月8日、本弟子6人を選定して滅後の法灯とし、10月13日、61才をもって入滅された。
*******************************  引用終了   ********************

1568雖念:2004/07/19(月) 14:29
犀角独歩さん:(> 1565)

まことに、おっしゃるとおり死因云々よりも病に望んでの蓮祖のお姿にこそ、心うたれるものがあります。長年の病苦を乗り越え、越し方を恬然とみて、その中で供養に感謝し、弟子たちを励まし続けたお姿がしのばれます。

「みちの間、山と申し、かわ(河)と申し、そこばく大事にて候ひけるを、きうだち(公達)にす(守)護せられまいらせ候ひて、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入り候ながら悦び存じ候。」

独歩さんが引用されたこの一節と同様に、入滅の前年に記されたこの一節も、心に残っています。
 
「ゆき(雪)はかさなり、かん(寒)はせめ候。身のひゆる事石のごとし、胸のつめたき事氷のごとし。しかるにこのさけ(酒)はたたかにさしわかして、かんかうをはたとくい切りて、一度のみて候へば、火を胸にたくがごとし、ゆに入るににたり」
上野殿母尼御前御返事 【C0・弘安四年一二月八日・南条時光母尼】

1569愚鈍凡夫:2004/07/19(月) 16:36

雖念さん、いつもながらの丁寧なレス、有り難うございます。 m(__)m

ああっ、忘れてました。
>>1565:で犀角独歩さんが紹介されている「現代語訳『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)」のダイジェスト版が下記のHPで読めます(少々長いです)。興味のある方はどうぞ。

ブッダ最後の旅 1『大パリニッバーナ経』等より
http://www2.big.or.jp/~yba/asia/nehan01.html#01

1570愚鈍凡夫:2004/07/19(月) 20:14

あれれっ、ずれてる。 (‥ゞポリポリ

ブッダ最後の旅 1『大パリニッバーナ経』等より
http://www2.big.or.jp/~yba/asia/nehan01.html

1571菱村正敏:2004/07/19(月) 21:59
日蓮は60まで生きたのですから、当時では大往生でしょう。また死因は、
生まれ落ちたからでしょう。

1572犀角独歩:2004/07/20(火) 11:35

― 2、3日の逗留のつもりが、病気悪化して出立できなくなり、10月13日辰の刻(午前8時前後)、旅の空で世を去ったのである。…日蓮はまだ61歳であった。
「南無妙法蓮華経は獅子吼の如し、いかなる病もさわりもあるべからず」
と豪語した彼(日蓮)も、その題目を唱えて、わが身に奇跡は起らなかった。 ―(森山諭著『創価学会の間違いをただす』日本イエスキリスト教団東京協会出版部発行 P27)

実に不快な記述です。御書の引用は好い加減で、真跡を遺さない『経王殿御返事』「南無妙法蓮華経は師子吼(く)の如し。いかなる病さは(障)りをなすべきや」を言うのでしょうし、斯く言うこの教団が仰ぐイエスも、信仰者以外から見れば、若くして磔刑に遭い、死期に臨んで神に恨みを言ったではないかと言い返したくもなりますが、まあ、それは置きます。『立正安国論』に法華経による国家祈祷を提唱し、また、個人に充てては「病息消滅・不老不死」を言い、しかし、その当人が病にあって死せば、このような言われようになるものかも知れません。これが現実です。これは他宗から見た一般的な見方であるとは思います。

わたしは、雖念さん、また愚鈍凡夫さんが、その死因について考えるような率直な思惟に賛同します。何故ならば、事実を知りたいからです。建長5年より三十星霜を経る蓮師、末期(まつご)に何とも人間味溢れる心境と名文を遺した落涙を禁じ得ません。

1573愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:44

日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その1

1222(貞応 1)年
  5月 4日 地震あり。(吾妻鏡26)
  7月23日 未刻地震あり。(吾妻鏡26)
  8月 2日 彗星戌方に見ゆ。軸星大きく半月の如し白色、光芒赤い。1丈7尺余。
    13日 今暁に百日泰山府君御祭を始める。(吾妻鏡26)
 10月 5日 申刻地震あり。(吾妻鏡26)
 11月 1日 子刻大地震。4日酉刻にも地震あり。(吾妻鏡26)

1223(貞応 2)年
  2月 1日 地震あり。(吾妻鏡26)
  5月12日 地震あり。(吾妻鏡26)
 10月26日 地震あり。(吾妻鏡26)

1224(元仁 1)年
  2月 3日 申刻地震あり。(吾妻鏡26)
  4月25日 子刻地震あり。(吾妻鏡26)
  5月 8日 寅刻大地震あり。卯刻に余震。(百錬抄13)
  6月 1日 子刻地震あり。(吾妻鏡26)
  9月17日 卯刻祈祷を行う。(吾妻鏡26)
 11月 9日 亥刻地震あり。(吾妻鏡26)

1225(嘉録 1)年
  1月15日 地震あり。(吾妻鏡脱漏)
  3月11日 地震あり。(吾妻鏡脱漏)
  5月17日 地震あり。(吾妻鏡脱漏)
 10月11日 地震あり。(吾妻鏡脱漏)

1226(嘉録 2)年
  3月29日 辰刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
  4月27日 未刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
  6月26日 申刻地震、28日にかけて地震続く。(吾妻鏡脱漏)
  7月 1日 亥刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
  7月17日 暑熱。未刻小地震あり。30日にも地震2回。(明月記)
  8月 7日 亥刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
  10月 6日 子刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
  12月24日 鳴動の後大地震。建造物破損は少ない。25、28日にも鳴動余震。(明月記)

1227(安貞 1)年
  1月14日 午刻地震、15日2回地震。(吾妻鏡脱漏)
  2月 3日 大風、さらに鳴動し地震。18日夜半地震。(明月記)
  3月 7日 戌刻大地震。門扉築地倒壊多数、地割れ生ず。15日余震。24日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
  4月13日 戌刻、26日亥刻地震。29日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
  5月11日 未刻地震。(吾妻鏡脱漏)
  8月13日 祈祷行われる。(吾妻鏡脱漏)
  9月 3日 丑刻大地震。9日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
 11月 6日 酉刻大地震。15日、16日、24日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
 12月 1日 戊刻地震。13日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
 12月10日 天変により改元。(一代要記85)

1574愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:45

日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その2

1228(安貞 2)年
  4月 7日 地震あり。(吾妻鏡27)
  5月15日 地震あり。(吾妻鏡27)
  9月 8日 地震あり。(吾妻鏡27)
  12月 6日 地震あり。(吾妻鏡27)

1229(寛喜 1)年
  2月 5日 申刻地震。17日戊刻大地震。(吾妻鏡27)
  3月 5日 天災飢饉により改元。(一代要記85)
  3月 8日 寅刻地震。28日酉刻地震。(吾妻鏡27)
  6月14日 未刻地震。26日未刻地震あり。(吾妻鏡27)
  8月12日 酉刻地震あり。(明月記)
  9月20日 地震あり。(吾妻鏡27)
  10月25日 未刻地震あり。(吾妻鏡27)
  11月30日 子刻地震あり。(吾妻鏡27)
  12月19日 亥刻地震。21日、26日祈祷。(吾妻鏡27)

1230(寛喜 2)年
 閏1月13日 地震、19日暁地震。22日にも地震あり、大慈寺の後山崩れる。(明月記)(吾妻鏡27)
  2月20日 丑刻地震あり。(吾妻鏡27)
  7月29日 早旦小地震あり。(明月記)
  11月 8日 大進僧都観基、御所に参内して云う。去月16日夜半陸奥国芝田郡に石が雨のように振る。
       内ひとつは、将軍家に進呈する。大きさ柚子の如く、細長い。(吾妻鏡27)(当代記※)

1231(寛喜 3)年
  4月15日 未刻地震。27日申刻にも地震あり。(吾妻鏡28)
  5月 7日 地震あり。(吾妻鏡28)
  7月15日 日出頃地震あり。室宿の火神動くという。(明月記)
  8月 8日 冬の如く寒し。(本朝年代記22)
  11月 6日 地震あり。(立川寺年代記)

1232(貞永 1)年
  1月 2日 大地震。(立川寺年代記)
  9月18日 地震あり。(吾妻鏡28)
 閏9月 8日 彗星東方に出現。2丈余。(百錬抄13)
  10月 4日 後堀河天皇、彗星の変により四条天皇に譲位。(百錬抄13)

1233(天福 1)年
       この年、地震により改元。(古事類苑)
  2月 8日 小地震。(明月記)
  9月27日 夜半に地震あり。(明月記)

1234(文暦 1)年
  2月 8日 大地震。(歴代皇紀 4)(皇年代略記)
  9月16日 暁月前大地震。(明月記)
  11月 5日 天変地震により文暦に改元。(一代要記86)
  12月28日 霧島山噴火、霊泉「天の井」涸れる。(震災予防調査会報告86)

1575愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:46

日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その3

1235(嘉禎 1)年
  3月 1日 京で地震。星宿龍神動くという。14日にも地震。(明月記)
  3月13日 小地震の後、16日大地震あり。(吾妻鏡30)
  4月13日 地震、28日、29日、30日にも地震あり。(吾妻鏡30)
  5月 1日 地震、3日から5日にかけてと7日にも地震あり。(吾妻鏡30)
  5月 8日 天変地妖のため祈祷・徳政を行う。(吾妻鏡30)
 閏6月22日 地震あり。(吾妻鏡30)
  9月 1日 大地震。文治以後最大という。(帝王編年記24)
  9月19日 改元。地震頻発のためか。(一代要記86)
  9月29日 地震あり。(吾妻鏡30)
  10月20日 地震あり。(明月記)(歴代皇紀 4)

1236(嘉禎 2)年
  2月28日 地震あり。(吾妻鏡31)
  4月 1日 地震あり。(吾妻鏡31)
  6月11日 地震。22日と27日にも地震あり。(吾妻鏡31)

1237(嘉禎 3)年
  2月 1日 大地震。(皇年代私記)
  3月11日 大地震。(歴代皇紀 4)
  4月 7日 酉刻地震あり。(吾妻鏡31)
  6月 1日 卯刻大地震。元暦以後最大という。(百錬抄14)
  8月 4日 辰刻大地震あり。(吾妻鏡31)
  9月11日 地震。23日から24日にかけても地震あり。(吾妻鏡31)

1238(暦仁 1)年
 11月23日 天変により改元。(百錬抄14)
 11月29日 地震あり。(吾妻鏡32)
 12月 9日 地震あり。(吾妻鏡32)
 12月26日 阿蘇山噴火。黒煙昇り、大小の石が降る。(阿蘇郡誌)

1239(延応 1)年
  1月 2日 戌刻、彗星申方に出現。芒気3尺、辰巳を指す。色白赤。前年末から見えたとも云う。(吾妻鏡33)
  1月 4日 彗星の芒気4尺。色赤弱くなる。7日歳星の傍らに出現。
       芒気は艮方を指し5尺。軸星は大きく太白に似る。(吾妻鏡33)
  1月 8日 天変御祈祷護摩を行う。9、10日天候不順で目撃されず。11日戌刻、彗星辟一星を犯す。(吾妻鏡33)
  1月15日 評定始、彗星について論じる。17日鶴岡宮で僧100人に仁王百講を行わせ、将軍も参す。
       祈祷筥根本地護摩(圓親法印)、伊豆山本地護摩(賢長法印)を行う。
  1月18日 彗星奎近に出現。変異祈祷。20日祈祷と護摩を行う。17日より20日にかけて光芒盛ん。(吾妻鏡33)
  1月26日 戌刻彗星王艮第五星を犯す。光芒薄くなる。27日将軍上洛を思召すが、窮民慰撫のために延引。(吾妻鏡33)
  2月 6日 夜になって彗星出現。14日に天文道等終夜彗星観測。彗変内天に入るという。(吾妻鏡33)
  2月 7日 天変が相次ぐため、改元。(一代要記86)
  4月16日 大地震。(吾妻鏡33)
  8月17日 加賀白山噴火し、白山権現焼亡。(百錬抄14)(本朝年代記 2)
 11月12日 大地震。(吾妻鏡33)

1576愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:48

日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その4

1240(仁治 1)年
  1月13日 地震あり。(吾妻鏡33)(平戸記)
  2月22日 地震あり。(吾妻鏡33)(平戸記)
  4月18日 地震あり。(吾妻鏡33)(平戸記)
  8月21日 地震あり。(吾妻鏡33)(平戸記)
     この年、阿蘇山噴火。池水45丈逆上する。(震災予防調査会報告86)

1241(仁治 2)年
  1月14日 戊刻地震あり。(吾妻鏡34)
  2月 7日 巳刻大地震。建暦年中の地震の如き。和田義盛謀反の前兆といわれるようになる。余震続く。(吾妻鏡34)
  3月 6日 辰刻地震あり。15日にも地震あり。(吾妻鏡34)
  4月 3日 鎌倉で地震。大津波で由比浜大鳥居内拝殿が流出。船十余艘が破損。(吾妻鏡34)
  7月 4日 地震。(吾妻鏡34)
 10月13日 亥刻地震。(吾妻鏡34)

1242(仁治 3)年
  2月   地震あり。(皇年代略記)
  6月 8日 寒気冬の如し。(平戸記 9)

1243(寛元 1)年
  5月23日 大地震。(吾妻鏡35)

1244(寛元 2)年
  1月 5日 大地震。(如是院年代記)
  7月 2日 地震あり。(百錬抄15)(歴代皇紀 4)(皇年代略記)
  9月11日 地震あり。(吾妻鏡36)

1245(寛元 3)年
  1月18日 地震。20日にも地震あり。(吾妻鏡36)
  2月 1日 地震あり。(平戸記14)
  3月 1日 申・子両刻に地震。9日にも地震。(吾妻鏡36)(百錬抄15)
  3月 1日 寅刻彗星室壁の間に現れる。長さ2尺。京からも使者が来て同様の事を伝える。
       11日と16日に祈祷。天地災変祭を行う。19日にも祈祷。七座泰山府君祭を行う。(吾妻鏡36)
  5月   この月地震多発。(百錬抄15)(平戸記16)
  6月 8日 地震あり。(平戸記16)
  7月19日 雹が降る。(平戸記17)
  7月26日 丑刻大地震。家屋多く破損。27日記録もあり。(百錬抄15)(平戸記16)(興福寺略年代記)
  8月11日 地震あり。(百錬抄15)
11月   大地震。(立川寺年代記)
12月13日 地震。20日、21日にも地震。(吾妻鏡36)(立川寺年代記)

1246(寛元 4)年
  1月 2日 地震あり。(立川寺年代記)
  1月 5日 地震あり。(葉黄記)
  1月 6日 大地震。(百錬抄15)
  4月 2日 地震3回あり。(百錬抄15)
  4月 7日 霜、霰が降る。(百錬抄15)(葉黄記)
  4月12日 気象異変により、二社に奉幣する。(百錬抄15)(葉黄記)
  5月 7日 地震。24日にも地震あり。(吾妻鏡37)
  7月 2日 地震。5日にも地震あり。(吾妻鏡37)
11月   地震あり。(百錬抄15)(吾妻鏡37)
12月   地震あり。(百錬抄15)(吾妻鏡37)

1577愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:48

日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その5

1247(宝治 1)年
 3月13日 地震あり。(百錬抄16)
 6月 5日 鎌倉と常陸に雪が降る(あるいは翌年か)。(本朝年代記26)
 6月 9日 地震あり。(編年記25)
 6月10日 地震、19日にも地震あり。(百錬抄16)
 10月28日 大地震。(吾妻鏡38)
 11月26日 大地震。(吾妻鏡38)

1250(建長 2)年
  5月   涼気のため、人多く綿を着る。(岡屋関白記 3)
  7月18日 大地震あり。余震数十回。(吾妻鏡40)

1251(建長 3)年
  1月19日 2回地震あり。(百錬抄16)
  6月26日 氷雨が降り、冷気冬の如し。(吾妻鏡41)
  7月18日 鎌倉に雪が降る。26日、翌8月3日にも雪。(本朝年代記)
  9月17日 地震あり。(岡屋関白記 2)
  10月23日 鎌倉で地震あり。(吾妻鏡41)

1252(建長 4)年
  5月 7日 鎌倉で地震あり。(吾妻鏡42)
  7月23日 鎌倉で大地震。(吾妻鏡42)

1253(建長 5)年
  2月25日 午刻地震あり。(吾妻鏡43)
  4月 3日 申刻雷雨、地震あり。(吾妻鏡43)
  6月 3日 大地震あり。10日にも大地震があり、余震2回。(武家年代記下)(吾妻鏡43)
  9月16日 地震あり。17日とも言う。(百錬抄16)

1254(建長 6)年
  2月19日 地震あり。(百錬抄17)
 閏5月11日 地震。19日にも地震あり。(歴代皇紀 4)
  12月12日 地震あり。(歴代皇紀 4)

1255(建長 7)年
  12月12日 地震あり。6年とも言われる。(皇年代略記)

1257(正嘉 1)年
  2月23日 大地震あり。社、舎、堂倒壊。火災により焼死者あり。地割れで涌水あり。(和漢合運指掌図)(本朝年代記 2)
  5月18日 子刻大地震あり。(吾妻鏡47)
  8月23日 戌刻大地震あり。神社仏閣破損多数。山崩れ、家屋倒壊、地割れ涌水あり。
       中下馬橋辺の地面が割れ青い炎が上がる。祈祷を行う。(吾妻鏡47)(本朝地震記)(24日説:如是院年代記)
  9月 4日 地震あり。先月の地震の余震か。(吾妻鏡47)
  11月 8日 鎌倉で大地震。(吾妻鏡47)

1578愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:49

日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その6

1258(正嘉 2)年
  4月22日 地震あり。(吾妻鏡48)
  6月24日 寒気、冬の如し。(吾妻鏡48)(暦仁以来年代記)
  12月16日 地震あり。(吾妻鏡48)

1259(正元 1)年
  3月12日 地震あり。(一代要記88)

1260(文応 1)年
  3月25日 地震あり。(吾妻鏡49)
  8月 5日 地震あり。(吾妻鏡49)

1263(弘長 3)年
  6月16日 冷気秋天の如し。諸人綿衣を纏う。(吾妻鏡51)

1265(文永 2)年
  1月15日 鎌倉で地震。(吾妻鏡52)
  3月 9日 鎌倉で地震。(吾妻鏡52)
  10月15日 阿蘇山噴火する。(阿蘇郡誌)
  12月14日 今暁彗星東方に見ゆ。国継、晴平、晴成彗星勘文を献ず。16日将軍変異を問う。
       18日彗星2尺余。27日夕彗星西方室宿に見ゆ。2尺色白。(吾妻鏡52)

1266(文永 3)年
  1月 1日 西方に彗星見ゆ。(吾妻鏡52)
  2月 1日 泥、雨のように降る。(本朝年代記 1)
  6月24日 鎌倉で地震。(吾妻鏡52)

1268(文永 5)年
  5月 4日 翌日にかけて地震。(吉続記)(本朝年代記 2)(編年記26)

1269(文永 6)年
  7月   阿蘇山御池煙を発す。(阿蘇郡誌)
  11月16日 吉二宮3回振動する。(一代要記89)

1270(文永 7)年
  11月15日 阿蘇山噴火。(阿蘇郡誌)

1272(文永 9)年
  3月10日 阿蘇山噴火。砂礫四方に散り、池水湧出す。(阿蘇郡誌)
  11月 1日 阿蘇山噴火し、火石降下する。(震災予防調査会報告86)

1273(文永10)年
  7月   下旬、阿蘇山噴火。(阿蘇郡誌)
     この年、夏より地震数回。(増鏡10)

1274(文永11)年
    この年、阿蘇山噴火し、寶池が涸れ、田野が荒廃する。(阿蘇郡誌)

1281(弘安 4)年
  7月30日 九州地方北部で暴風雨。日本遠征中のモンゴル軍は、被害を出して退却。
 閏7月   阿蘇山噴火し、寶池鳴動。火石が降る。(阿蘇郡誌)

1579愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:53

クソ長いレスになりましたが、ご参考までに。 m(_ _)m
資料は下記のHPから抜粋しました。

天変地異年表中世
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/tenpen/ihen02.htm

1580平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/21(水) 17:07
>>1579 愚鈍凡夫さん
貴重な御資料の紹介有難う御座います。さて私は『立正安国論』の「日月薄蝕の難」
に注目しまして、先日シェスタさんから紹介された天文ソフトから日食の日時を調べ
ましたところ、立宗宣言の1253年までのたった10年間に関東地方に4回も食8
0%を越える日食があったことが分かりました。特に1249年5月14日、11時
43分の日食は現在の東京の位置でで98%欠けていますから皆既日食であったと言
ってもいいでしょう。また立宗宣言の前年の1252年3月12日、7時1分の日食
も92%欠けていますからこれも皆既日食と言っていいと思います。なお20世紀に
は関東地方で見られる80%を越える日食は1918年6月9日、1943年2月5
日の日食の2回しかありません。奇しくも1963年の今日7月21日の皆既日食は
根室でしか見られず、東京では最大87%まで欠けた午前4時9分にはまだ太陽も月
も昇っては来ていませんでした。太陽は4時41分、月は4時42分に昇り、もう日
食は終わりにさしかかっていました。13世紀には関東地方では80%を越える日食
は10回もありました。また日蓮大聖人が立宗宣言をされる前15年間には1237
年12月19日14時10分、88%食の日食を合わせると5回も日食が起きていま
す。大聖人はこのような現象を末法の事実と受けとめられ、立宗宣言をされたのかと
思います。この15年間の関東地方の日食の回数は極めて多かったようです。愚鈍凡
夫さんが紹介された『天変地異年表中世』とシェスタさんが紹介された「金井式天文
シュミレーション」を対比されて日蓮大聖人の思考の推移を科学的に考察されてはど
うかと思います。私がぶつかったのはその日の安房小湊の気象です。気象庁には19
81年からの東京の天候の記録はあるとのことですが、それ以前まして鎌倉時代のこ
とは古文書で調べるしか方法がないとのことでした。でも例え曇りの日であっても、
80%以上太陽が欠けたならばその異変には人は気付く筈だと思います。相当濃い雲
が掛かっていたとか、雷雨であったとか、そのような時には気付かないこともありま
しょうが、1237年12月19日、1243年3月22日、1245年7月25日、
1249年5月14日、1252年3月12日という日を考えますと、1245年と
1249年以外は雷雨であった可能性は極めて低いと思います。大聖人の末法の法華
経の行者としての確信はこのような自然現象との関係から強められたのではないかと
思います。

1581犀角独歩:2004/07/21(水) 17:16

> 1580

横レス失礼します。
ご指摘の点、実に興味深く拝読しました。
これが事実であれば、仰るとおり、蓮師は「日月薄蝕の難」を実際のことと、危機感を持ってご覧になったことは想像に難くありません。
実に重要なご指摘であろうかと存じます。

1582平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/21(水) 17:48
1252年3月12日(ユリウス暦)は建長4年2月1日に当たります。日蓮大聖人
の御生誕の日は承久4年2月16日、ユリウス暦1222年3月30日、グレゴリオ
暦4月6日です。大聖人はこの建長4年2月1日の丁度30年前に誕生されています。
大聖人はこの日の朝の日食を御覧になったのではないかと思います。自分が産まれた
丁度30年後の2月の1日に日食が起こったことが、立宗宣言の引き金になったのか
と思います。皆さんどう思われますか?あくまで科学的に冷静に日蓮大聖人と私達の
宗教を考えていきたいと思います。

1583平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/21(水) 18:18
>>1581 犀角独歩さん
御返事有難う御座います。シェスタさんから紹介されなければこのようなことは、
全く分からないままであったのですが、建長4年2月1日1252年3月12日
(ユリウス暦)、の日食の最大食の時間は午前7時1分でした。日蓮大聖人はそ
の翌年の建長5年4月28日、1253年5月26日(ユリウス暦)の朝に太陽
に向かって南無妙法連華経と唱えらたそうです。それが事実ならば前年の朝の日
食を想定されて世の中を不幸から救わなければいけないと思われていたのかも知
れません。大聖人が何故朝に太陽に向かって南無妙法連華経と唱えられたかとい
う素朴な疑問も科学的に解明されていく時代が来るのではないかと思います。

1584平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/21(水) 18:30
>>1581 犀角独歩さん
ここから私はダウンロードしました。
       ↓
http://www.vector.co.jp/soft/win95/edu/se049708.html

1585犀角独歩:2004/07/21(水) 18:42

平和創価さん:

1582、3もまた実に目を惹かれたご指摘でした。
一つ質問させてください。

蓮師は、建長6年6月25日に保田妙本寺に遺る不動・愛染感見記を認めています。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/124.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/125.html

***
生身愛染明王拝見
正月一日日蝕之時 {梵字にて記入あり}

{画}

大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承
建長六年六月二十五日
日蓮授新仏

{下段}
生身不動明王拝見
十五日より十七日に至る {梵字にて記入あり}

{画}

大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承
建長六年六月二十五日
日蓮授新仏
***

ここに「正月一日日蝕之時」とあるのですが、文脈からすれば、建長6年(1254)の正月1日だと思うのですが、このときに日食はあったのでしょうか。

1586愚鈍凡夫:2004/07/21(水) 21:16

平和創価さん、レス有り難うございます。
平和創価さんのレスの中の日付を旧暦に直すと下記のようになるかと思うのですが、

ユリウス暦------旧 暦
1237年12月19日→嘉禎3年12月1日
1243年3月22日→寛元元年(仁治4)3月1日
1245年7月25日→寛元3年7月1日
1249年5月14日→建長元年4月1日
1252年3月12日→建長4年2月1日

なかなか暗示的で面白いですね(日食は新月の日に起きるわけですから当然ですが)。
京の貴族なんかは日記を記すのを生業にしていた者たちもいたわけですから(天文学者としての陰陽師もいたわけです)、何らかの形で記録に残っていると思うのですが、鎌倉時代の日食に関する資料が乏しいのはどういうわけでしょうか。不吉であるから、権力によって削除されたのでしょうか。

日本で一番古い日食の記録は247年3月24日(西暦)の日食ですよね(魏志倭人伝)。シュミレーションでは九州地方では完璧な皆既日食だったとか(邪馬台国九州説の傍証)。これが俗に言う、天照大神の天石戸伝説になるわけですよね。
歴史に残らなかったのは何故だと思いますか。

1587平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/21(水) 21:43
>>1585 犀角独歩さん
御返事有難う御座います。天文シュミレーションのいかなる方法をもっても日食は
出ませんでした。そうなると文献は虚偽となりますか。難しい問題になりましたね。

1588犀角独歩:2004/07/21(水) 21:54

1587 平和創価さん:

やはりそうですか。わたしなりにも皆さんがご教示くださったソフトを使って調べてみたのですが、どうもこの日蝕の記事は証憑性がないと思いました。

1589平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/21(水) 21:56
>>1586 愚鈍凡夫さん
これは部分日食でしたよ。皆既に至る前に日没していますよ。247年3月24日
をシュミレーションしましたが。私は「ディスタントサンズ2」と「星空博士」
で見ましたが。ステラナビゲータV6ではできすか?私は「バーナード星」を体験
版で検索したのですが出てきませんでした。まあお互いに切磋琢磨していきましょう。

1590愚鈍凡夫:2004/07/21(水) 23:55

平和創価さん、247年3月24日(3月1日)の日食は中国で観察された記録を輸入したものですよね(「魏志倭人伝」中国での日食観測は夕方ではなく昼間であった)。面白いことに明くる年(248年)9月にも日食があったんですよね。これは記録に残っています。247年は実際には日没時、248年は夜明け頃(中国では日食が終わったあとに夜明けとなったため、中国側には日食の記録がない)。面白い対比ですね。卑弥呼はこの日食が原因で殺害されたのではないかという説があるそうです。

> 九州地方では完璧な皆既日食だったとか

済みません。
「すなわち天石窟に入りまして、磐戸を閉して幽り居しぬ。故、くにの内常闇にして、昼夜の相代も知らず。」
このことと、邪馬台国九州説が頭にあったものですから。

西暦247年3月24日と248年9月5日に皆既日食があったことが今日では産能大学教授安本美典氏らによって天文学的に証明されているそうです(完璧な皆既日食ではないようですが)。

ところで、鎌倉時代の日食の記録が見つかりませんね。 ( ̄〜 ̄;) ウーン

1591空き缶:2004/07/22(木) 01:15

 横レスです。
 話題からそれますが、「不動愛染感見記」は以前、某掲示板にて日蓮宗の御僧侶が疑義を表明されていました。
 その御僧侶曰く、「日蓮」と名乗り始めて間もない頃の著作であるにもかかわらず、晩年近くの筆跡と照合し真筆判定されていることを理由とされていました。

 あわせまして、曼荼羅本尊の場合と同じく、年月日の「年」と「月日」の間に「干支」が入っていない事は、大きな疑問でもあります。

1592犀角独歩:2004/07/22(木) 01:33

空き缶さん、ちょっと、お久しぶりです。
どなたの説か知りませんが、なかなか説得性がありますね。
わたしはこの書で、いちばん疑問に思うのは「日蓮授新仏」の5文字です。
ここで言う「新仏」とは相承を受けた新しい弟子を言うのだと思います。故に日蓮が大日如来より23代目の相承を受けたものと解されてきました。
しかし、「日蓮授新仏」とは単純に漢文の訓読すれば「日蓮は新仏を授けた」とまったく逆の意味にしかなっていないません。つまり、この書は日蓮が誰がしかに新仏を授けた証であっても‘授けられた’証にはなっていません。
こんなはじめの一歩で躓いているように思えます。

1593シェスタ:2004/07/22(木) 08:33
平和創価さんへ

仏法でいうところの三災七難に、通常の日蝕・月蝕が入っているのかどうかは
知りませんが、それよりも、蝕でない日に起こる蝕を、仏法では重要視してい
るのではと推察しています。以下は、その文証です。

●唱法華題目抄
「此の時日月度を失ひ、時節もたがひて、夏はさむく冬はあたたかに、秋は悪風吹き
 赤き日月出で、望朔にあらずして日月蝕し、或は二つ三つ等の日出来せん。大火大風
 彗星等をこり、飢饉疫病等あらんと見えたり。」

●安国論愚記
薄蝕恒無く文。
『従義に云く「体現じて光なきを薄と為し、正虧けて体を損ずるを蝕と為す」と云云。
 晦朔の日蝕、望日の月蝕はこれ恒なり。臨時の食あり、これ恒なきなり。』

とあるように、新月や満月の日に日蝕・月蝕が起こるのは常の事だが、望朔以外の日に、
蝕が起こっている不思議をあげられ、これらは三災七難の「薄蝕恒無く」に該当すると
言われています。

1594愚鈍凡夫:2004/07/22(木) 10:04

鎌倉時代の日蝕の記録(「吾妻鏡」より)

建久9年(1198)1月1日 日蝕(明月記)
建保2年(1214)9月1日 壬成 晴 巳午兩時日蝕正見五分
貞應2年(1223)9月1日 庚子 今曉甚雨及日中翎 天未二尅日蝕正現三分蝕
寛元3年(1245)7月1日 癸巳 天霽 日蝕現ず
建長4年(1252)2月1日 乙卯 天晴 巳の一点日三分正現す

平和創価さん、下記は「吾妻鏡」の記録です。

嘉禎3年(1237)12月1日 戊寅 雨降る 日蝕正現せず。昨日天晴、夜半以後陰雲、丑寅の刻より雨降る。蝕時分に愛染金剛如法佛(五指量)を造立せらる。主計の頭これを奉行す。

寛元元年(1243)3月2日(1日の記録なし) 戊寅 天晴 亥の刻若君の御祈り。御所に於いて七座の泰山府君祭を行わる。定昌・泰貞・晴賢・宣賢等の朝臣、国継・廣資・以平これを奉仕す。秋田城の介・甲斐の前司・能登の守・周防の前司等これを沙汰す。今日京都の使者到着す。改元の詔書を持参す。去る月二十六日仁治四年を改め寛元元年と為す。

寛元3年(1245)7月1日 癸巳 天霽 日蝕現ず

建長元年(1249)4月1日 記録なし

建長4年(1252)2月1日 乙卯 天晴 巳の一点日三分正現す

「吾妻鏡」の記録を信用すれば、蓮祖が日蝕を見た可能性は寛元3年(1245)7月1日と建長4年(1252)2月1日ではないでしょうか。小生は、『天文シュミレーション」系のソフトは持っていませんので、「ステラナビゲーター」の精度は分かりませんが、天文ファンの間では定番ソフトのようです。また、複数のソフトでシュミレーションする方が多いようですね。
それは、実際の月が楕円軌道で、29.3〜29.8ぐらいの誤差があり、1日が厳密には新月でなかったり、15日が必ずしも満月でなかったりするからだと思います。

犀角独歩さん、
建長6年(1254)1月1日、鎌倉は朝から雪で、午前10時頃に晴れてきたようですね。
「一日、乙亥(いつがい)。今日[土宛]邗(相州御沙汰)。土御門宰相中将上御簾。」とあり、例年通りのセレモニーが恙なく行われたみたいですから、日蝕はなかったようですよ。

参考資料

吾妻鏡目次
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html

1595犀角独歩:2004/07/22(木) 10:12

空き缶さん、先の不動・愛染感見記のことなのですが、わたしは、この書の筆跡で言えば、「日蓮」の二文字に注目します。「日」字もそうですが、特に「蓮」の之繞の書き方は後期の蓮師の筆とはまったく違っています。その意味で、この書を晩年の蓮師の筆で筆跡鑑定したというのは少し頷けません。

また、干支が記されていないことからの疑義を挙げられていましたが、建長5年(1253)12月9日『富木殿御返事』から、正元元年(1259)7月17日『武蔵殿御消息』では日付ばかりで年すら記されていません。建長6年の段階で干支が記されないことは鑑定の基準にならない気がしますが、この点はどうでしょうか。

この書の全体的な印象はしかし、消息文、勘文というより、何か証文のような体裁に見えるわけです。先にも記しましたが、「日蓮授新仏」(日蓮は新仏を授ける)という最後の件からしても、そのように思えます。わたしは、これら相承・伝授証文の原本を見たことがありませんので断定的に申し上げるわけではないのですが、高座説法から1年余を経た年月の入る同書は、たとえば、蓮師が弟子に与えた允可文などの類であった可能性はないのでしょうか。もちろん、この書が真筆であればの話ですが。どうでしょうか。

1596犀角独歩:2004/07/22(木) 10:30

愚鈍凡夫さん:

> 建長6年(1254)1月1日…日蝕はなかった

有り難うございます。
こうなると愛染感見記が真筆であれば、記される日蝕は「薄蝕恒無」こととなるのでしょうか(笑)
まあ、この可能性も低いでしょうね。

『富士年表』では

建長 6 甲寅 後深草 北条時頼 御歳 33歳
1.1-1.15 生身の愛染・不動を感見模写

と模写としています。ここで石山が「模写」というのは愛染・不動を絵に描いたことをいうのでしょうね。文面からすれば、「日形」(日蝕)に愛染を感見、「月形」に不動を感見となるわけですか。後者は「十五日より十七日に至る」とありますが、これは特に月蝕である必要はないのでしょうか。シンメトリーが悪い気がします。

この書の真偽、日蝕の有無はさておいて、いずれにしても愛染感見に日蝕が必要な条件であったというバックグラウンドはあったのであろうと想像できます。まあ、この辺当たりまでしか真実には近づけないでしょうか。

1597空き缶:2004/07/22(木) 11:30

犀角独歩さん、こんにちは。

 蓮祖後年の著作と比較して云々は、以下よりの転載です。

******************************************
「日蓮宗的学説攷究」未定稿 大川善男
 【不動・愛染感見記】

 『真蹟集成』によると、この遺文は次の如く、 (図絵・略)
と二紙から成っている。
 しかるに、『定本遺文』(第一巻十六頁)外部欄外には、愛染明王拝見記を「七行」、不動明王拝見記を「八行」と注記している。だが、右の通り(図絵)原本は愛染は十行、不動は十一行に記されている。また『定本遺文』は「日虫虫」を「日蝕」と活字化している。そして『定本遺文』を証本として、「二つの感見記のうち、愛染明王のそれには、日蝕中の太陽のなかに感見した愛染明王の姿の図絵が、不動明王のそれには、満月中に感見した明王の姿の図絵が、それぞれ描かれている。」(高木豊著「二人の日蓮−改稿・『大崎学報』135号1982)と説いている。しかし「虫虫」は「蝕」の異体ではなく、「アキラカ」とか「オオシ」という意味の正しい漢字であって、「日虫虫」とは「日が明るい」という意味であって「昼日中」のことである。従って「日虫虫」を「日蝕」と理解して「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と説いた論考は正しくない。
 いわゆる、この感見記の年記は建長六年であるが、この年(1254)日蝕ではない。建長年中に日蝕があったのは、同元年五月十四日(旧暦六月六日)同七年三月一日(旧暦四月八日)の二回である。ならば日蓮が誕生した貞応元年(1222)から建長六年(1254)の間の日蝕を調べると、貞応二年(1223)九月二十六日、延応元年(1239)十二月十九日、寛元元年(1243)三月二十二日、同三年(1245)七月二十五日、建長元年(1249)五月十四日の五回の日蝕(※国立三鷹天文台調べ)があったが、正月一日に日蝕があったことは無く、「日蓮が正月一日の日蝕時に愛染明王を感見した」というのは単なる虚妄に過ぎない。また、「この感見記は日蓮の現存真蹟中最古のものであるが、後年の筆跡からしても、確かに日蓮の真蹟としてもよいものである」(高木豊著「二人の日蓮−改稿・『大崎学報』135号1982)という説もある。だが、若き頃の筆跡を後年の筆跡と比べて真偽を判定するのは正しい方法だろうか。要は、この御書にはいろいろな疑問があっても、これが重要文化財に指定されているために、現在では何ら疑われることなく日蓮の御書として扱われている。しかし、重要文化財に指定されているといえども、重要文化財に指定されたものの中にも実際には偽書はある。故に、重要文化財に指定されているからといっても完全なものばかりではない。
 例えば、重要文化財に指定されていた「永仁の壺」が、現在陶芸家で先頃亡くなった加藤唐九郎氏の作品であった如くものもある。いわゆる、指定品の中にはそうしたものが実際にあり、それは文化財が完全に科学的検査を経て真物と解って指定されたものばかりではなく、真偽委員の眼力のみで真物と判定・答申された指定品もある。そういう指定品の中に偽物があり、文化財に指定された日蓮聖人の御書は、凡そ一部の権威による眼力で真蹟と判定されたもので、科学的に鑑定されたものは一点も無い。
 従って、いくら重要文化財に指定されていると雖も、該『不動・愛染感見記』も完全に日蓮聖人の真蹟と断定できるものでなく、偽書の疑いが全く無いわけではない。
******************************************

尚、日蝕に関してもほぼ皆様と同様の疑問をもたれていたようです。

―転載開始―
「不動・愛染感見記」について。
開宗後に、大日如来よりの相承云々とあるのは、どうも腑に落ちませんね。
講習時の配付資料を見ると、たしかに「日虫虫」のようです。
「虫虫」は「蝕」の異体ではなく、「アキラカ」とか「オオシ」という意味であるなら、大川義男博士の指摘のように「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と云う従来の説明はおかしいですね。

国立三鷹天文台調べでは、建長六年正月一日は日蝕でなとの事からも「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と云う従来の説明はおかしいと云う事になりますね。

「不動・愛染感見記」はどうもすっきりしないですね。
―転載終り―

1598愚鈍凡夫:2004/07/22(木) 11:51

日蝕の中に「愛染明王」を感見し、満月の中に「不動明王」を感見したということですよね。
絵の中に「カラス」と「ウサギ」がそれぞれ描かれているのが、何となく、わざとらしい感じがするのですが、まぁ・・・・・知識による刷り込みと、神秘体験の合作なんでしょうか・・・・・。
日蓮という人物のイマジネーションの豊かさの成せる技なんでしょうか・・・・・ね。

要伝寺HP_日蓮画廊
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents35.html

1599犀角独歩:2004/07/22(木) 11:54

空き缶さん、資料のご呈示有り難うございました。
記されているところ、納得がいきました。筆者の真摯な姿勢と文章に感銘を受けました。それを引用された空き缶さんにも敬意を表します。
たいへんに参考になりました。深く御礼申し上げます。

日[虫*虫] は、日「あきらか」であれば、煌々とした日輪のなかに愛染を見、また煌々とした満月に不動を見たということですか。
なるほど。納得できました。1596の「日蝕・バックグラウンド」発言は撤回させていただくものです。

1600愚鈍凡夫:2004/07/22(木) 12:18

空き缶さん引用の下記の表記は総てユリウス暦ではないでしょうか(かっこ内は旧暦)。

貞応二年(1223)九月二十六日(9月1日)
延応元年(1239)十二月十九日(11月23日)?
寛元元年(1243)三月二十二日(3月1日)
同三年(1245)七月二十五日(7月1日)
建長元年(1249)五月十四日(4月1日)

「あ〜、ややこし」 (-。-;)

1601犀角独歩:2004/07/22(木) 12:57

愚鈍凡夫さん:

> 吾妻鏡…蝕時分に愛染金剛如法佛(五指量)を造立

というのは、日蝕の時分に愛染に係る仏像を造立したという意味でしょうか。
そうなると、日蝕と愛染は関係があることになりますか?

1602空き缶:2004/07/22(木) 13:21

愚鈍凡夫さんこんにちは。

>ユリウス暦・・・けっこうはまってしまいましたね。

1603愚鈍凡夫:2004/07/22(木) 13:58

犀角独歩さん、
何故、愛染金剛如法佛(五指量:二寸五分)のミニチュア(白檀製守本尊)を造立したのでしょうね(この日は日蝕はなかった)。
これは想像ですが、「金剛薩た=大日如來=金剛愛染菩薩」ですから、火炎の日輪で日蝕の邪気を払うという意味合いではないでしょうか。

1604犀角独歩:2004/07/22(木) 14:31

愚鈍凡夫さん、度々済みません。

> この日は日蝕はなかった

「雨降る 日蝕正現せず」というのは、、晴れていれば日蝕が見られたのに雨が降ったので見られなかったというのが『吾妻鏡』の記述ですよね。
それとは別に愚鈍凡夫さんは、天文シミュレーションソフトなどから、この日は日蝕が見られた日ではないと、こう仰っているのでしょうか。となると、「蝕時」というのは、何を意味するのでしょうか。

> 火炎の日輪で日蝕の邪気を払う

と来ますか。これはまるでわたしは逆に読みました、日蝕という神秘的な時分を選んで造立したと。

ぜんぜん違っているかも知れませんが、要するに日蝕を選んで仏像を造立(法要?)をしようと思ったけれど、雨が降ってそれが見られなかった。けど、法要はした程の意味かと思いました。
それで、その前提に日蝕=愛染というバックグラウンドがあるのではないのか。けれど、『愛染感見記』では日[虫*虫]=日があきらかで、日蝕ではなく煌々と輝く日輪に愛染が映じたというまるで逆のバックグラウンドがあるのであろうかと、愚鈍凡夫さんと空き缶さんのご投稿を交互に拝読しながら思っていたという次第です。

暦のことも併せて、ほんとになんだかややこしくなってきました。

1605愚鈍凡夫:2004/07/22(木) 15:39

「ああ〜、ややこしなってきた」 イヤイヤ"o(><o)(o><)o"イヤイヤ

平和創価さんのシュミレーションでは、嘉禎3年(1237)12月1日に日蝕があったそうですね。
この時代の天文学者もこの日に日蝕が起こると予想したのではありませんか。従って、「蝕時分に」とは、「日蝕が起こると予想された時間」にという意味ではないですか。

12月2日 己卯 昨日蝕御祈り勤行の僧三人、今日御所に召され、各々銀劔一腰を賜う。伊勢の守定員これを奉行す。

12月10日 丁亥 日月蝕及び天変重疉の御祈りの為、御所に於いて属星御祭を行わるべし。将軍家祭庭に出御有るべきに依って、今日晴賢これを奉仕せんが為参籠す。右大将家・右府将軍等の御時の例に任せ、重軽服の人々参入すべからざるの由仰せらると。

と、「吾妻鏡」にありますから、日蝕月蝕は凶相のようですね。

なお、嘉禎3年(1237)12月1日に日蝕があったかどうかの資料は「吾妻鏡」以外に見つかりませんでした。

1606犀角独歩:2004/07/22(木) 15:54

愚鈍凡夫さん、有り難うございました。

> 日蝕月蝕は凶相

なるほど。これはポイントになりますね。
暦から日蝕月食が予想できたとしても、それを凶相(天変)と見、その時に悪いことが起きるので祈祷を、というのがまあ思惑の流れだったのでしょうね。

平和創価さん、

> 平和創価さんのシュミレーションでは、嘉禎3年(1237)12月1日に日蝕

と愚鈍凡夫さんは仰っているのですが、これは何に基づくものでしたか。
慣れない日付が飛び交い、混乱しています。既に記されていると思いますが再掲いただければ有り難く存じます。もし、この日に日蝕を『吾妻鏡』の記述者が予測していたとすれば、この暦を当時は使用していたことになるでしょうか。

1607空き缶:2004/07/22(木) 16:49

犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん、お疲れ様です。皆様の卓越した、広範な知識には敬服致します。

 私は数字はめっぽう苦手なので、早々おいとまさせていただきます。(逃げ!)

1608平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/22(木) 18:47
>>1606 犀角独歩さん
嘉禎3年12月1日(宣明暦、862年〜1684年使用)はユリウス暦では1237年
12月19日に当たります。私はユリウス暦を基にした天文ソフトの「ディスタントサン
ズ2」と現在の「ステラナビゲータV6」の原型である「星空博士」という2つのソフト
を使って嘉禎3年12月1日、1237年12月19日(ユリウス暦)で調べたところ両
方のソフトで日食を再現することがでかました。天津小湊は東経140度10分、北緯3
5度10分辺りに位置しています。この位置に合わせてシュミレーションして日食が再現
され、かつシェスタさんから紹介されたサイトから「金井式いろいろ天文シュミレーショ
ン」をダウンロードして日食を調べたところ、天津小湊で同日の14時11分に89%の
大きい日食を確認することができました。これらのソフトは極めて正確なソフトであり、
推古天皇36年3月2日、628年4月10日の皆既日食(近畿地方が中心)を正確に再
現しています。推古天皇36年3月2日の日食という記述は『日本書紀』に記載されてい
ます。これをユリウス暦になおすと628年4月10日になります。また平凡社の百科事
典の「日食」の所にも同様のことが記載されています。愚鈍凡夫さんが引用された『吾妻
鏡』の日食の記載は真実を記録したものと思います。

1609平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/22(木) 19:03
>犀角独歩さん
『日本書紀』を引用します。「日本古典文学大系68『日本書紀下』」岩波書店。212頁。
日本書紀巻第二十二、推古天皇の章「三十六年の春二月の戊寅の朔甲辰に、天皇、臥病したま
ふ。三月の丁未の朔、戊申(二日)に日、蝕え盡尽きたること有り。壬子に、天皇、痛みたま
ふこと甚しくて、諱むべからず(死を避けることができない)。」これは「日、蝕え盡尽きた
ること有り」という表現から皆既日食であったと思います。またこの時代から既に日食は不吉
なことが起きる前兆と考えられていたことが推察されます。

1610犀角独歩:2004/07/22(木) 19:07

平和創価さん、有り難うございました。
たいへんに参考になりました。

1611信濃町探検団:2004/07/22(木) 21:32
御秘符について、詳しく教えてください
日顕上人のときもやっていたのですか?

1612シェスタ:2004/07/23(金) 08:58
平和創価さんが使用されているソフトは以下です。一応 URL を貼っておきます。

tenmon
http://www.vector.co.jp/soft/dl/win95/edu/se049708.html

ザ 暦 イン 日本書紀 (こちらも紹介しておきます)
http://www.vector.co.jp/soft/win95/personal/se049621.html?g

1613シェスタ:2004/07/23(金) 09:25
日食・月食検索の件ですが、オンラインでもかまわないのなら、先に紹介した
暦のページでもできます

暦のページ
http://koyomi.vis.ne.jp/

左側のフレームにある、日食シュミレート・月食シュミレートで行ないます。
観測位置も入力可能です。ただ、ちょっとコツがいります。

推古天皇36年3月2日(628年4月10日)の皆既日食を例にとります。

まず、西暦に628を入力します。次に前年ボタンを押します。そして、再度、
次年ボタンを押して、元にもどしてください。こうしないと、年度を認識しな
いようです。

次に、候補にあがっている4月10日のボタンを押します。すると、シミュレ
ーションが始まります。

1614犀角独歩:2004/07/23(金) 10:11

信濃町探検団さん、はじめまして。
わたし自身、興味を懐いてきたテーマなので、知る限りでお答えします。他の方の補完をお願いしておきます。

たぶん、御秘符というのは、蓮師以前から秘儀であろうと思いますが、中世では、蓮師の真筆文字を切り取り、それを呑むことが行われたとのことです。これも御秘符の変形であったろうと思えます。また、近年では「戒壇之大御本尊」への年一度の法要・御煤払で拭いた紙を御秘符にすると言われてきました。(煤払法要は湿らせた紙で彫刻漫荼羅の表面を拭き清める法要です)しかし、実際、石山が下ろす御秘符は樹脂に塗られた粉を水で溶き、服用するもので、これは朱色で煤とは思えません。それが何であるかは、もちろん、公開されていません。

なお、昭和50年前後のことであったと思いますが、創価学会では、この御秘符とは別に「御符」というものを本部・会館から下ろされたことがありました。たぶん知る人は少ないでしょう。この御符は学会本部安置「慈折広宣流布大願成就」の‘板本尊’の煤払で使った和紙を小さく切ったものであったと記憶しています。これは石山秘儀を模倣、侵害するものとして当時、秘密裏に中断されたものでした。記録にも、歴史にも残らないので、証拠を挙げろと言われてもいまは不可能ですが、当時、わたしの知り合いの学会本部職員が、小さく切り分ける前の大きな和紙をわたしに示し、「具合が悪いのならば、御符を上げるよ」と言われたことがあり、その存在を知ったものでした。

以上、中世から近代の変形した御秘符の有様です。

興門における、その起こりは以下の朗師が興師に送った消息にその原型を見ることが出来ようかと思います。

『伯耆公御房消息』
「御布施御馬一疋鹿毛御見参に入らしめ候ひ了んぬ。
 兼ねて又此の経文は廿八字、法華経の七の巻薬王品の文にて候。然るに聖人の御乳母の、ひとゝせ(一年)御所労御大事にならせ給ひ候て、やがて死なせ給ひて候ひし時、此の経文をあそばし候て、浄水をもってまいらせさせ給ひて候ひしかば、時をかへずいきかへらせ給ひて候経文なり。なんでうの七郎次郎時光は身はちいさきものなれども、日蓮に御こゝろざしふかきものなり。たとい定業なりとも今度ばかりえんまわう(閻魔王)たすけさせ給へと御せいぐわん候。明日寅卯辰(とらうたつ)の刻にしやうじがは(精進河)の水とりよせさせ給ひ候て、このきやうもんをはい(灰)にやきて、水一合に入れまいらせ候てまいらせさせ給ふべく候。恐々謹言。
  二月廿五日                   日朗花押
 謹上 はわき公御房」(弘安5年(1282)2月25日)

この秘儀は文面から見る限り、蓮師からの相伝と考えられます。
蓮師自体、御母堂・妙蓮尼を祈り寿命を延べたことを記されています。

『可延定業御書』
「日蓮悲母(はは)をいの(祈)りて候ひしかば、現身(げんしん)に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をの(延)べたり」(文永12年(1275)2月7日54歳)


薬王品は「病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」の経文を存する故に特に以上のような秘儀を生んでいったのであろうと考えられます。

しかし、法華全編の読誦を禁止した石山にあって、薬王品を取り沙汰して秘儀とすることは出来ない事情が中世以降の変形を生じさせた理由であろうと思えます。また、「本門戒壇之大御本尊」造立後は、その権威昂揚から、先に記した如き煤払の清拭紙を充てる方法も考案されたのでしょう。しかし、近年に至っては衛生上の都合から、たとえ法要の清拭紙とはいえ、その使用は憚られ、現形式に変更されたのではないのかと想像します。

なお、現在、顕師が御秘符を下しているかどうか、それはしているでしょう。しかし、その在り方はまた変更されているかも知れません。
藤川さんその他の方々に補完しいていただければと思います。

1615犀角独歩:2004/07/23(金) 10:34

1614補足

ここで記した石山「御秘符」は、わたしが中学2年の時、骨折した折、学会を通じて、石山末寺から下付された経験談を元に記しました。いまから、35年も前、達師時代のことですから、いまは変わっているかも知れません。

1616犀角独歩:2004/07/23(金) 11:04

1614訂正

誤)「病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」
正)「此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」

1617愚鈍凡夫:2004/07/23(金) 12:21
丹土
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/hani.htm

1618愚鈍凡夫:2004/07/23(金) 12:23

済みません、投稿ミスです。 (;^_^A アセアセ…
横レス失礼します。

秘符の正体は、案外「鏡面朱砂(きょうめんしゅしゃ)」ではないでしょうか。
これは、水銀の話題の時に出てきた「辰砂(HgS)」と同じものです。漢方薬でも使われているものですから、少量なら問題ないのではないですか。護符の赤い文字の正体は鏡面朱砂のようですよ。なお、真言宗の飲む秘符は、和紙に食用油で溶いた鏡面朱砂で書くようです。

漢方相談専門の方術堂漢薬局です
http://members.jcom.home.ne.jp/houjutu/ht_zukan/shinsya.html

丹土
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/hani.htm

1620犀角独歩:2004/07/23(金) 12:45

打ち間違えました。
管理人さん、ご面倒ですが、1619の削除をお願い申し上げます。

> 1618

面白い。さすが愚鈍凡夫さん。
説得性があるご指摘ですね。
以下のような類推は可ですか?
丹生に関わった空海が水銀採取で利用したものを、さらに秘符として使用し、それが真言宗で定着。のちに天台宗が密教化でこれを採用。
しかし蓮師は秘符とはしていないようです。
となれば、石山の御秘符は蓮師が行った薬王品灰服用ではなく、ずばり空海真言のそれが原型ということになりますか。これはなかなかのご指摘と思えました。

虚空蔵求聞持法で用いられたのも水銀と言うより、こちらのほうなのでしょうか。しかし朱色が意味するところは、こんなところであったとは、改めて感嘆しました。

1621愚鈍凡夫:2004/07/23(金) 13:07

犀角独歩さん、どうもです。

「辰砂」が不老長寿の薬(仙薬)として古い文献に出ていますから、空海は中国でそれを見て、魅了されたのではないでしょうか。
ただ、他宗では公然と中身を公表していることを、我が宗だけは違うといいたげな姑息な商魂はいただけないですね。ばれてることを秘密にするな!! (`(エ)´)ノ彡☆ プンプン!!。

なお、護符を焼いてその灰を飲むという秘符もかなり古くからあったようですよ。

1622犀角独歩:2004/07/23(金) 13:36

愚鈍凡夫さん:

> 護符を焼いて…古くからあった

そうですか。蓮師もそれに拠ったわけですね。
愚鈍凡夫さんへのレスから少しずれてしまいますが、『伯耆公御房消息』、石山御書では「日朗代筆」となっているのですが、「聖人の御乳母」とあり、この聖人は日蓮聖人、つまり、朗師が弟子の立場から尊号で記しているわけですから、この書を代筆とするのには異議を唱えたくなります。この修法は、この書を朗師が興師に以て教えたものと拝するべきだと思えます。
もちろん、その朗師は蓮師から伝えられたのであろうと思います。
では、蓮師は、となると、愚鈍凡夫さんのご指摘からして、台家からそれを倣い、修していたことになるのでしょうか。

> 我が宗だけは違うといいたげな姑息な商魂

まったくですね。同感です。

しかし、愚鈍凡夫さんは博学ですね。興味の幅広さにはいつも舌を巻いています。

また雖念さん、創価平和さん、シェスタさん、空き缶さんをはじめ、最近ではあまり登場なさらないれんさん、顕正居士さん、その他、諸々の方々の博学振りには頭が下がります。この歳になって、日々「目から鱗が落ちる」投稿の数々に、それこそ、脳を活性化させていただいております。
あ、そうそう。みかんさんも、あまり資料呈示はなさらないのですが、隠れた博学者。突っ込みばかりではなく、資料その他のご教示を期待致しております。

…愚鈍凡夫さんへのレスのつもりが脱線しました。耄碌したと思われるでしょうか(笑)

1623愚鈍凡夫:2004/07/23(金) 19:53

犀角独歩さん、からかわないで下さい。 (¨;)

「明日寅卯辰の刻にしやうじがわ(精進河)の水とりよせさせ給い候て、このきやうもん(経文)をはい(灰)にやきて、水一合に入れまいらせ候てまいらせさせ給ふべく候」(伯耆公御房消息)

燃やした護符の灰を飲むと、除霊・病気平癒の効果があるとされていますから、このことに習ったんでしょうね。昔から護符・秘符というのは宗派に関係なく行われていたんでしょうか。
それにしても「藥王品」というのが、いかにも蓮祖らしいですね。

1624愚鈍凡夫:2004/07/23(金) 20:53

「我滅度後。後五百歳中。廣宣流布。於閻浮提。無令斷絶。惡魔魔民。諸天龍夜叉。鳩槃荼等。得其便也。宿王華。汝當以神通之力。守護是經。處以者何。此經則爲。閻浮提人。病之良藥。若人有病。得聞是經。病即消滅。不老不死。(我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。宿王華、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし。所以は何ん、此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病あらんに是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん)」(妙法蓮華經藥王菩薩本事品第二十三)

この文證なんかものすごく効きそうですよね。

1625犀角独歩:2004/07/23(金) 21:43

愚鈍凡夫さん:

『伯耆公御房消息』「此の経文は廿八字、法華経の七の巻薬王品の文」というのが1624ご引用の内、「此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」の28字ということなのでしょうね。

1626愚鈍凡夫:2004/07/23(金) 22:40

犀角独歩さん、
あっ、気づかなかった。 (^^ゞ

ところで、なんですね。創価学会の本部職員がせっせせっせと内職で作った護秘符を(お前ら!手、洗ったんだろうな!!)、有り難く飲んでいる学会員を想像すると・・・・・。切ないモノがありますね。 (..;)

1627犀角独歩:2004/07/23(金) 22:54

愚鈍凡夫さん:

> 創価学会の本部職員がせっせせっせと内職で作った護秘符

「御秘符」と「御符」と言い分けていた当たり、ふっと寒い風が吹きますね。たしか、このあとには塔婆供養の代用で『慧光照無量』と書かれた紙に先祖の名前を書かせた学会版先祖供養とかいろいろ始めたわけです。たしか森田さんか誰かが、石山塔婆板が薄っぺらいとケチをつけていたと思いますが、学会版のほうは紙っぺら。こちらのほうがもっと薄かったわけです。
以下の色紙はその頃のものでした。(これも代筆でしたっけ?)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ekoshomuryo.gif

高尾墓園の合同慰霊祭で、坊さんを呼ばず、池田さんが‘導師’をやってしまったのもこの頃。池田本仏をまことしやかに口コミで広げながら、板漫荼羅の彫刻を始め、着々と典礼準備をしていた一環に御符もあったということなのでしょうね。

その時代をリアルタイムで生きたわたしは、旧奉安殿供養はしなかったものの、そのあと、正本堂に至る石山建造物・多造塔寺堅固に付き合わされた挙げ句、さらに会館乱立まで目が覚めませんでした。しかし、直感的に御符だけはやめておいたものでしたよ(笑)

1628愚鈍凡夫:2004/07/24(土) 00:05

話題がそれますが、
最近、下記のHPの記述を読んで、信仰をしていて統合失調症(精神分裂症)に罹患したら、何に救いを求めればいいんだ。それに、これは「転重軽受」じゃないだろうと憤りを感じました。

**************************************************
【考察】
 祈祷性精神障害は一般に熱烈に信仰する宗派に多発する精神疾患の一つである。熱烈に信仰し、そして急性精神病状態を起こし、医療保護入院になる者、不安障害レベルに留まっている者、多数の患者が存在する。彼らは決してこのために信仰を捨てるという行為は行わない。彼らは病気が信仰を熱烈に行った故であることを理解している。そして殉教的精神で祈祷性精神障害を起こしたことを誇りに思っている。その信仰の一途さは熱烈である。病棟内でその信仰を他患に熱心に勧める、またお祈りも他患から苦情が出るほど熱心に行うことが多い。彼らとの対話と筆者自身の文献検索から彼らの殉教的姿勢を理解しようと努め、以下に文献と考察を記す。

(中略)

 通院の祈祷性精神障害患者の中には様々な宗派の患者が存在する。精神病患者というお人好しの集団の中でも彼らは更にお人好しである。その心の純粋さは“神"に例えられるほどの者も存在する。また高潔な人格の患者が多い。

 しかし逆に、中には、自らを“神"と称し、横暴極まりない患者も存在する。彼らは病識は少なく、服薬のコンプライアンスは不良であり、通院は途絶えがちである。

 少なくとも外来の祈祷性精神障害の患者は高い知能を保っていることが多い。高学歴の者も多い。真面目である故、妥協せず、極めて熱心に信仰し、そして祈祷性精神障害に罹患したと考えられる患者が多い。

 ある患者は次のように述解する。

『「及び余の種々の人間の苦報、現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に由る故なり」ーーこのように今世で正法を信じ実践したために私はこのような病気になったのかもしれません。いえ、そのためになったのだと思います。しかし私は(現世に軽く受くる)ことができているのです。

「善男子、過去に無量の諸罪・種々の悪業を作らんに是の諸々の罪報・或いは軽易せられ」のように(現世の軽報を受けて地獄に堕ちず)今世で過去世の罪を軽く受けることができています。これを私は喜びとしています。

(中略)

「横(よこしま)に死横(しおう)に罹(かか)り呵責(かしゃく)・罵辱(めにく)・鞭杖(べんじょう)・閉繋(へいけい)・飢餓・困苦(こんく)・是くの如き等(とう)の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず」【涅槃経】1)

「この信仰を真面目に実践しても、今世に於いて、横死すること、罵られ辱められたりすること、杖や鞭で打たれること、牢獄に入れられること、飢餓・貧乏の苦しみを受けることなどがある。しかしこれは現世に於いて、過去世また現世の罪を軽く受けているのであり、これにより死後、地獄に堕ちることを免れることができるのである。」 

 死横つまり横死とは交通事故死や建設現場での事故死などを指します。死横つまり横死により過去世の罪障が消滅してゆくのです。

「及び余の種々の人間の苦報、現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に由る故なり」

 この御文のように(護法の功徳力に由り)信仰を始めて過去世の罪障が湧き出てくる人がよく存在します。私もその一人でしょう。罪障が湧き出て信仰を辞めて行く人はよく存在します。彼らはこの御文を受け入れない人たちです。』

 この患者は入院30年を越す。S会が日本全国に爆発的に発展していた頃に統合失調症に罹患した患者である。疎通性は良く、人格崩壊も全く存在しない。S会の新聞を購読しており、それを他患に読ませたりしている。病棟内で最も信頼が厚く、誰からも慕われている。

「宗教と精神医学」より
**************************************************

「及び余の種々の人間の苦報、現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に由る故なり」
この一節が、あまりにも悲しく響きます。

宗教と精神医学
http://homepage2.nifty.com/mmm23232/29705.html

1629犀角独歩:2004/07/24(土) 07:06

> 1628

本当に、実に悲しすぎる話です。

1630シェスタ:2004/07/24(土) 08:40
そういえば去年、国立天文台の谷川清隆氏らが再計算して、「日本書紀」の
皆既日食の記述の正確性をつきとめた記事を思いだしました。 従来の計算で
は92%しか欠けないとされていた日食が、実は、皆既日食だった事が証明さ
れたのです。

日本書紀の皆既日食記述は正確
http://ch.kitaguni.tv/u/600/0000003252.html
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku216.htm

ほかには、立正安国論に「二三四五の日出で」とあるのは、幻日の事ですね。
これは、太陽が物理的に複数出現するわけではなく、光の屈折作用から、
太陽が複数出現したように見えるというものです。

Googleで「幻日」で検索すると、たくさんの写真を見ることが出来ます。
http://www.google.co.jp/search?num=50&amp;hl=ja&amp;lr=lang_ja&amp;ie=sjis&amp;oe=sjis&amp;q=����

1631愚鈍凡夫:2004/07/24(土) 08:43

犀角独歩さん、どうも。

この話を読んだとき、脈絡はないのですが、第2代会長の戸田さんのことを考えてしまいました。
日本軍が敗色濃厚となったとき、戸田さんは投獄されました。
創価学会員は「小説 人間革命」の影響もあって、熱原の三烈士にも劣らぬ殉教精神溢れる行為であると思っています。しかし、果たしてそうでしょうか。今の時代なら100歩譲って、それに近い行為かもしれません。でも、あの時代、戸田さんと同じ年代の日本人男性はどうしていたでしょうか。
 ほとんどの人が戦場という生き地獄を彷徨していました。明日をも知れぬ運命に恐れおののいていました。しかるに戸田さんは、当時としては最も安全な場所にいたのではないでしょうか。
少なくとも、ニューギニアやフィリピンの日本軍兵士たちのように、生きんがために人肉喰までしなければならない環境にはいませんでした。
あの時代を考えたとき、とても殉教的精神と呼べるモノではないでしょう。
同世代の男性たちからすれば、「自分たちが死地を彷徨っていたとき、自分一人、温々と牢獄なんて天国にいやがって。」と思うのが自然な感情じゃないでしょうか。

歴史上の人物は、その置かれる時代背景を考えて評価しなければ判断を誤る典型的な例だと思います。

1632犀角独歩:2004/07/24(土) 10:02

愚鈍凡夫さん、ご紹介のところを読み、悲しいと思ったのは自分史を想起したからです、わたしは所謂昭和52年度路線前後、「池田先生と創価学会のために命を捨てる」と10年間考え続けたあと、極度の神経障害を煩いました。その時の心象風景があまりにも、記述されていた内容と酷似していたからでした。

何度も引用してきた高橋師『宗教病理と犯罪』のなかで
「わが国の戦後史で、政治と宗教の関連は創価学会を抜きには語れません。小田晋先生は、1960年代の同教団信者であった病者が、独特の教条主義“正法と三障四魔の闘争”を契機に犯罪へ至った鑑定例を取り上げています。教義のもつ反対集団への敵意が反社会行動として放散される場合があること、および同宗派の有するヒエラルキー構造が組織と個人の葛藤を招き危機犯罪の副次的原因となりうることを指摘しました」
と紹介する事例とも強く関係性を示していると思えます。

1633藤川一郎 </b><font color=#FF0000>(/RnWNeIY)</font><b>:2004/07/24(土) 11:10
> 1631
戦中の戸田氏の事について、ある代々檀家さんの投稿がありましたので、御本人のご許可の元に転載させていただきます。
戸田氏は代々の檀家の元にも折伏の矢を放ち、板の御本尊や御影様を取り上げて、御形木御本尊に替えさせる行為を断行してました(なんでやねん・笑)。
そんな中の、話です。以下転載。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
(前省略)
我が家にも戸田さんが自らやってきて、常住様や報償御本尊数幅と御影様を取り上げよう
と、色々と脅しをかけてきましたが、私の親父は軍隊上がりでしたね。
「貴様が逮捕にかこつけて牢獄で、ぬるま湯に浸かっていたとき、俺は御守様と御題目だ
けが頼りで、南方戦線で戦っていたんだ。死んだ英霊達のためにも貴様に様な非国民に引
くわけにはいかん」と言い放ち、それに対して、学会男子部は殴って、殺してやる等と脅
してきたそうですが、
「面白い。どうせ南方で一度は死を覚悟した身だ。貴様ら1人でも多く差し違えてやる。
誰から行くか。」と逆に脅したら、最後には戸田氏らは謝罪して帰ったそうです。
このように戸田氏という方は、相手が弱いと見ると攻め込むが、強いと見るとへこんでし
まう、修羅界丸出しの方だったそうです。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
以上、戸田氏の性格の一端が垣間見れましょうか。彼の本性は「弱い○○ほど良く吠える」だったのでしょう。

1634愚鈍凡夫:2004/07/24(土) 13:00

祈祷性精神障害、戸田さんや池田さんは絶対に罹らないでしょうね。

宗教の副作用に苦しむ人は沢山いらっしゃるんですけど、宗教指導者には副作用なんか無縁なんでしょうね。それとも慢性化していて、本人に自覚症状がないのかな。

木の葉をお札に変える錬金術師と、その継承者。「唯受一人血脈相承」とはこのことだろうか・・・・・。

「んなワケねえだろう!!」(by 大きなお寺の住職)

参考資料

第9回社長会
http://gappo.cool.ne.jp/shinjithu-2/syatyoukai/43nen/09/9.HTM

1635愚鈍凡夫:2004/07/24(土) 19:05

>>1633:
藤川一郎さん、体験談の紹介有り難うございました。

一つの教団が巨大化していく陰で、無名の庶民が犠牲になっていくことに憤りを感じます。
創価大学も「親方日の丸」なんだから、一日も早く立派な大学病院を建設して、こういった犠牲者を優先的に治療してもらいたいと思います。

1636平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/25(日) 06:17
祈祷性精神障害について私が思うことを述べさせて頂きます。これは宗教が精神障害
を引き起こすしたというよりも、宗教を求めた人が既に精神障害にかかっていたため
と考えた方が妥当だと私は思います。精神障害「統合失調症」「重度神経症」などの
精神障害に罹患しているために職を失ったり、離婚したり、果ては自殺を試みたり等
の不幸が起き、宗教に救いを求めたというケースが殆どであると私は思います。しか
し宗教に脅迫性があるということは否めません。この脅迫性が御本尊を破って狂乱状
態に陥った女性を生み出したのではないかと私は思います。御本尊を破ると大罰が当
たる。無間地獄に堕ちる。死んだら蠅や蚊に生まれ変わる。不治の病に罹り悶え苦し
んで死ぬ等の脅迫めいたことを宗教の指導者が信者に言った場合、それを本当のこと
と受け止める信者は純真な人です。悲しいことにそういう人が精神障害に罹りやすい
ということです。宗教は人を幸福にするためにあるはずのものが、人によっては精神
障害を引き起こし、狂乱状態に陥らせてしまうことがあるのです。私は高校生の時、
良く日蓮正宗の寺院に行き唱題しましたが、板曼陀羅の前で体を左右に揺さぶりなが
ら狂ったように拝む若い女性を見たことがあります。また寺院に入ってきたとたんに
立ったまま拝み始め、頭を揺さぶりながら拝んでいた30代半ばくらいの女性を見た
ことがあります。これは30歳くらいのインテリ的な男性ですが、拝んでは俯いて、
拝んでは俯いていました。私は宗教が人を精神障害にするとは言いませんが、人によ
っては害になる場合があるということは否めないと思います。こうした場合宗教団体
の指導者は注意すべき信者には慎重な指導をすべきであると考えます。場合に依って
は精神科への通院を勧めるべきだと思います。私が実際に見た人がいますから。また
これは宗教信者かどうかは分かりませんが。私が乗った地下鉄の電車に飛び込み自殺
した39歳の男性がいました。その人は「鬱病」とされましたが、私はそうではない
と思います。早急な精神科受診がその人の命を救ったものと思います。我が国の精神
医療に対する偏見はまだかなり多く、改善せねばならない点があると思います。NH
Kをはじめとするマスコミによる国民啓発を求めるばかりであります。

1637犀角独歩:2004/07/25(日) 07:10

平和創価さん:

1636に投稿されたところ、概ね賛成なのですが

> 祈祷性精神障害…
> …宗教を求めた人が既に精神障害にかかっていた

もちろん、このようなことは当然あるわけですし、また罹患していなかったとしても、資質的にその要素をもった人が発症するとも言えようかと思えます。
ただ、宗教病理学は、その原因となった宗教事情を視野に入れて研究するものであって、では、なぜ宗教が引き金になったのか、あるいは引き金であったのかを研究するものだと考えます。

例にならないかも知れませんが、戦争にかり出されて、敵を射殺した人がいたとして、その人が殺人を犯したのは国家が徴兵したからではなく、その人が殺人を犯しただけとは言えないと思います。もし、その人が戦争にかり出されなければ、その人は殺人は犯すことはなかったでしょう。軍隊という閉鎖的、階層的、かつ強制的な心理装置があったればこそです。罪悪感なく大量殺人を「任務」として遂行させる心理装置として用意された点は考慮されるべきです。

発症資質のある人に宗教の、どのような要素が原因になり得るかを考えることは社会の中における宗教の安全性を考えるうえで重要です。
『きつねつきの科学』(講談社)の著者・高橋師は「狐憑きは、狐憑きを信じる者だけがかかる」と研究の結論から述べていました。
同様に祈祷性精神病は、祈祷に、宗教的証憑を強く置く者だけが罹るわけですから、発症者の資質と併せて、その宗教の在り方を研究することは必要であろうか思えます。

> 我が国の精神医療に対する偏見はまだかなり多く、改善せねばならない点がある

このご意見にまったく賛同します。

1638雖念:2004/07/25(日) 10:09
>1635 平和創価さん:

> 宗教を求めた人が既に精神障害にかかっていたためと考えた方が妥当だと私は思います。

「精神障害を発症すべき、遺伝的資質を有した人が宗教を求めた。」と書き直すと、ほぼ正確かと思います。
 「遺伝子には時限装置が備わっていて、特定の資質はそれにふさわしいときが来るまで発現しない」、といわれていますので、宗教が原因やきっかけになったのか、宗教との接触なしにも精神障害が発現したのかは、厳密には判定は困難で、たとえば一卵性双生児などで(宗教に入った人とそうでない人が出現した場合のような)偶然観察できる機会を利用するしかないと思います。
 しかし、特定の宗派・団体が精神障害を治療する機構を内在させることなしに発展し、あまつさえ強化する方向にあることは事実だと思います。
 これ以外にも、「宗教を求めた人」の家族が、家族内でのバランスの崩壊や、新たなる葛藤の出現で精神障害に至る可能性は高いと思います。
 私の親しかった知人も、S 会での強精な信心を貫いた結果精神障害を発症しています。上述したように、厳密には因果関係は不明です。本来的な遺伝的な素因があった可能性も否定できませんが、私はプロテクションもせずに、危険な状態にいたっても信心を強要し、発症後に救済の手を差し伸べようとしなかった人たちを、断じて許せないと思っています。

1639平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/25(日) 12:01
シェスタさん。やはり最近の天文ソフトは精巧ですね。『日本書紀』の推古天皇36
年3月2日の「三月の丁未の朔(新月の日)戊申(二日)に、日、触え盡きたること
有り。」は誇張ではなく本当のことだったようですね。あとシェスタさんが紹介され
た「ステラナビゲータV6」を体験版で調べましたところ、星の位置に謝りがありま
した。オリオン座のκ星のサイフの位置に誤りがありました。サポート会社に電話を
してそのことを訊いたところ、今は訂正しましたとのことですが、「ディスタントサ
ンズ2」は遙か以前に正確にサイフを指定しております。また微小な星を容易に指定
することができ、星までの距離まで詳細に説明してくれます。月食を表示させること
ができないという欠点はありますが、推古天皇36年3月2日の日食を皆既日食とシ
ュミレーシュンしており、やまり天文ソフトとしては最高のソフトであると思います。
このソフトは米国のソフトであり、現在は絶版になっているようなので残念です。
さて愚鈍凡夫さんが紹介して下さった、月齢暦のフリーソフトはたいへん重宝なので
助かります。推古天皇36年3月2日朔の暦換算について気付いたことを申し上げま
すが、この戊申、朔の日はこのソフトですと3月1日になり1日ずれています。前月
が29日ですとこの日は3月2日になるのですが2月30日まで表示しております。
『日本書紀』の記載を3月2日とした注釈者の判断の誤りか、月齢暦ソフト開発者の
誤りのいずれかと思います。
愚鈍凡夫さんの祈祷性精神障害に対する犀角独歩さん、雖念さんのご意見。藤川一郎
さんの戸田城聖氏の性格の一面、興味深く読ませて頂きました。
さて独歩さんがおっしゃったことと関係がありそうな事実を紹介します。原爆記念日が
近付いて来ていますね。あの広島、長崎に原爆を落とした原爆投下隊員の中には大量殺
戮を自分が犯したことに罪の気持ちに苛まれ発狂した人がいました。また聖職者となり
罪の償いに人生の後半を送った人もいました。しかし平然として生きていった人達もい
ました。人を何人殺しても何とも思わない性格の人間がいる一方、人を一人でも殺した
ら慚愧の念に苛まれて苦悶する人間がいるということです。『死刑執行人の苦悩』大塚
公子著、角川書店を読むと、元刑務官で死刑執行人を務めた人が苦悶して病気になった
例が書かれています。宗教を求める人は後者の部類に属する人が多いと思います。精神
的に図太い人間は宗教を求めることはあまりしません。精神的に繊細で気にし易い人が
宗教を求めるのです。であるからこそ、雖念さんがおっしゃった精神的障害者が発生し
ないように、また発生した場合に対するフォローが宗教団体には必要であると思います。
平これは私が学生部の時に会合で聞いた話ですが、統合失調症(精神分裂病)に罹患し
た祖父を持つ学生部員がいまして、彼がその問題に悩んでいたところ学生部員たちがそ
の家に行って大勢で唱題したところ彼の祖父が亡くなったということでした。この老人
は唱題の声に精神が苛まれて精神障害に陥り、大勢の唱題の声の為にパニック障害のよ
うな発作を起こして心臓発作を起こして亡くなったのではないかと推測されます。
御本尊を破って精神錯乱を起こした女性は、重度の脅迫神経症であったのではないかと
思います。御本尊を破ると大罰が当たるという言葉を聞いて、破ったら大変だと思うが
故に破ってしまったのではないかと思います。宗教の持つ脅迫性と逆の麻酔性は宗教を
持つ私たちにとって今後検討しなければならない重大課題であると私は思います。

1640愚鈍凡夫:2004/07/25(日) 12:44

正義感の強い人、純粋な人、優しすぎる人、真面目すぎる人をどんどん追い込んでいく組織のあり方は糾弾されるべきだと思います。
こういう人たちはあまりにも責任感が強く、自己に厳し過ぎる傾向があり、常に、過度なストレスに曝されているといえます。
精神的にとことん追い込んでしまい、自分で処理できる限界を簡単に突破してしまいます。
教団にとって、こういう人たちほど便利な存在はないでしょう。ほっといても自分の限界ぎりぎりまで頑張る人たちですから。大切にしなければならない人たちを便利使いし過ぎるように思われます。
体力も精神力も尽きているのに、それでも頑張る姿はあまりにも痛々しいです。
我が教団の信仰は万能薬であるかのように喧伝するわりに、10年、20年という長い闘病生活に入った人を平気で見殺しにする。この体質が変わらない限り、犠牲者は減ることはないでしょう。
宗教の存在意義とは何なのか、そこから問い直す必要があるように思います。

参考資料

エホバの証人とこころの病の問題
http://www.jca.apc.org/~resqjw/mi.htm

1641シェスタ:2004/07/25(日) 14:48

> この戊申、朔の日はこのソフトですと3月1日になり1日ずれています。前月
> が29日ですとこの日は3月2日になるのですが2月30日まで表示しております。

これは単純ミスですね。メールで作者に教えてあげたらどうでしょうか。
西暦628年の2月が30日まであるって。この年は閏年ですから29日まで
ですね。

あと、段落ごとに空行を入れた方が、読む方としては読みやすくなり、助かります。

1642平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/25(日) 18:04
>シェスタさん

やはりそのようですね。ここでも推古天皇36年の戊申の日は3月2日ですね。あと古天
文の研究資料と鎌倉時代の歴史書や日蓮大聖人の真書とされる書を比較しながらその史実
を探求して偽書と真書を推測して行ければとは思っています。ここに古天文の資料があり
ます。           ↓     
http://www2c.biglobe.ne.jp/~takesako/ecl/eclipse.htm

>愚鈍凡夫さん

まあいろいろ考えると新宗教にはいい面もある反面恐ろしい面もありますね。とこ
とんまで精神的、肉体的に追いつめられても限界に挑戦している新宗教の人達には
同情を感じることもあります。あの正宗の寺院で拝んでは俯き考え込み、拝んでは
俯き考え込んでいた男子部の幹部のように見られた人もそのような極限値に追い込
まれていたのかもしれませんね。

さて愚鈍凡夫さんから紹介された月例暦のフリーソフトにはシェスタさんもご指摘
されているように、作成者の方にミスがあったようです。斉藤氏の古天文の日食月
食シュミレーションでも推古天皇36年戊申の日は3月2日となっています。探求
すれば探求するほどいろいろと疑問がわいてきて、またそれを解明できた時の喜び
は数学の難問を解いた時のような爽やかさを感じますね。

この掲示板は大変勉強になりますね。私は数学や理科を勉強しながら歴史を解明し
ていきたいと思っています。

1643孤独な迷子:2004/07/25(日) 20:57
愚鈍凡夫さん

はじめまして。(だと思いますが。)

>>1628

>信仰をしていて統合失調症(精神分裂症)に罹患したら、何に救いを求めればいいんだ。

これは切実な問題ですね、現に私がそうかもしれない。統合失調症ではないだろうけど。


独歩さん

いつもレスを頂きながら、返事ができなくてすみません。

>>1631

ある意味で、牧口さんや戸田さんはすごいなーと思っていました。時の権力に迎合せずに信心を貫き通

したのですから。このときに宗門では神札を祭ったりとかしていたんですよね。
 でも投獄されていたから戦場に行かなくて済んだというのは、その通りですね。
今までの見方が変わりました。


平和創価さん、はじめまして。

>>1636

とても参考になりました。

1644愚鈍凡夫:2004/07/25(日) 22:43

平和創価さん、レスどうも。
とにかく暑い。 ε-(´o`;A アチィ

「Calend Mate」の件ですが、これは旧暦の種類による計算方法の違いではありませんか。

飛鳥時代から江戸時代以前の天文記録
http://jbbs.shitaraba.com/study/364/

でも、天文の分野から御書の記述の真偽を追求していくというのも、面白いアプローチですね。
成果を期待しています。ご教示の程、宜しくお願いします。 m(_ _)m

孤独な迷子さん、始めまして(小生も初めてだと思います)。
心の病は、投薬治療と医者との信頼関係以外に治療法がないみたいなので長い時間と多額の費用が掛かります。患者さんにとっては、それだけでも重い負担になります。だから、彼らに無責任な叱咤激励だけは謹んでもらいたいと思います。
そして、宗教指導者は、このことをしっかりと肝に銘じてほしいと思います。

1645愚鈍凡夫:2004/07/26(月) 01:11

すみません。暑さで呆けてました。 (* ̄○ ̄)ア(* ̄о ̄)ホ・・・・・・((((_ _|||))))ドヨーン

飛鳥時代から江戸時代以前の天文記録
http://www.town.bisei.okayama.jp/stardb/his/data/his0014.html

1646孤独な迷子:2004/07/26(月) 01:28
愚鈍凡夫さん

レス有り難うございます。

>心の病は、投薬治療と医者との信頼関係以外に治療法がないみたいなので・・・。

そのようですね。何か信頼関係を結べる支えが必要なのだと思います。私の場合はそれを信心に求めて

しまったことが間違いの始まりだったかも知れません。

1647菱村正敏:2004/07/26(月) 06:13
>> でも投獄されていたから戦場に行かなくて済んだというのは、その通りですね。
>>今までの見方が変わりました。

牧口さんは、当時、爺さんでしたから投獄されていなくても戦場に
行くことはなかったかもしれませんね。

 また、戸田さん、そもそも彼は徴兵検査受けたんでしょうかね?
検査で不合格になった可能性もあります。記憶では彼の日紀を読んでも
徴兵検査のばめんは出てきません。彼の論調なら「おれは甲種合格、
やがては・・・」などと気宇壮大の一文を書いたような気もします。
国家の通過儀礼であり、甲種合格は文句なしと国から太鼓判をもらっ
たようなものでしたから。

 で、かりに戸田さんが甲種合格していても年齢の問題があった
かもしれません。戸田さんは1900年生まれのようです。日本が
中国に戦争しかけたのが1935年ころ。戸田さんも35歳。今なら
若いうちですが、当時でしたらそろそろ隠居まぢか。そして、太平洋
戦争は1941年、戸田さんは40歳をむかえ初老の仲間入りです。
高齢者で徴兵された方もいるとは思いますが、それは戦争経験があって
予備役として登録されていた人たちだけかもしれません。どちらかと
いうと戦争の長期化や激化にともない、徴兵は20歳未満の若い人まで
引き下げられ徴兵される方向に向かっていますが、年寄りはどうだった
んでしょうね。

1648菱村正敏:2004/07/26(月) 06:19
>>>心の病は、投薬治療と医者との信頼関係以外に治療法がないみたいなので・・・。

>>そのようですね。何か信頼関係を結べる支えが必要なのだと思います。私の場合はそれを信心に求めて

 わたしは、10年来の精神病患者ですが・・・。医者は信じられません。
良い医者も医療行為をつづけていくうちに、患者にとって普通の医者から
悪い医者になっていくように思います。いつまでも初心の気持ちを維持でき
ないのは、世間一般の対人関係と同じことです。

 自分をたよりに。このはかない、精神を病んでも生き続けたいと願う
ご自分をたよりに、、、それがいちばんの良薬だと思います。医者との
関係は、悪い患者になって、クスリをもらう一存在だと。それ以上は
望まぬことです。

1649シェスタ:2004/07/26(月) 10:49
平和創価さんへ

暦に関しては、以下のページが一番詳しいと思います。
http://www.asahi-net.or.jp/~dd6t-sg/index.html

当ページの主催者の suchowan さんは、暦に関していえば、恐らく、この人の
右に出る人はいないのではと推察しています。

何か分からない事があれば、掲示板に書き込めば、教えてもらえるかもしれません。

1650愚鈍凡夫:2004/07/27(火) 00:58

孤独な迷子さん、穏やかで、心静かなる日が一日も早く訪れることをお祈りします。

菱村正敏さん、薬の組み合わせとの相性もあって、難しいようですね。
良薬と、名医に巡り会えますようお祈り致します。

確か45歳まで兵役が延長されたと思いますが、徴兵の可能性は薄いですね。ただ、沖縄では40歳代で徴兵されていたようです。

1651平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/27(火) 02:28
>シェスタさん
貴重な資料の御提供有り難う御座います。私の書斎もsuchowanさんみたいですよ。
私は2階に書斎と居間兼寝室、1階に書庫があり4台のパソコンをインターネット
に繋いでいますよ。(笑)蔵書は5000冊はありましたがこの2月にかなり処分
しました。
>愚鈍凡夫さん
私は今2階の書斎で机に向かい超小型のノートパソコンを右に置いてメールを書き
込んでいます。
私は病気や死を極度に恐れる性格で、今夜も体の不調を感じました。犀角独歩さんに
も言ったのですが、私はこの5月に体調を崩し大学病院に通院するはめになりました。
初め歯の痛みから始まったのですがそれが舌の痛みと連動するようになり、5月の下
にかなり酷くなり、6月2日には私自身が駅のホームに通過電車に飛び込むような強
迫観念が起こり、飛び込み自殺寸前の状態になりました。私は別の2ちゃんねるで創
価の批判をした上に大御本尊に対する疑念を持ったためあのような事態になったもの
と思います。また私は創価でありながら公明党の政策に納得することができず、毎日
大酒を飲んでいたのです。こころの葛藤は凄まじく、自分は癌になるのではないかと
いう強迫観念に絶えず襲われ自殺寸前まで行ったのでした。翌週親に連れられて精神
科に行きました。医師は私の病名を「重度強迫神経症」と診断し、2種類の薬を処方
してくれました。私は「統合失調症」ではないということで安心し、快復に向かいま
した。しかし今日また口の病気の不安が起き、一時は絶望に陥りました。今は神経安
静ざいを飲んで落ち着いています。宗教の脅迫性は諸刃の剣だと私は思います。私は
6月2日に鉄道自殺していたかも知れないのですから。

1652平和創価 </b><font color=#FF0000>(NOBri.DM)</font><b>:2004/07/27(火) 11:35
>愚鈍凡夫さん
暦の計算ソフトでは1649でシェスタさんが紹介されたページが一番詳しいですよ。
推古天皇36年3月2日ははっきりとユリウス暦4月10日になりました。suchowanさん
のソフトを愚鈍凡夫さんの月齢暦ソフトの天保暦からの単純計算による過去に実際に使わ
れた暦とのズレを修正しながら研究を進めて行く方がいいようです。御書の記述と天文現
象との間にズレがあった場合には、真書とされていても疑って考察を加えて行くべきだと
思います。犀角独歩さんが示された愛染明王の端書きの建長六年一月一日の日食の記述は
虚偽であることが分かり、また重要文化財故に真書とされて来て必ずしも科学的な考察が
なされていたものではないということが分かってきましたから。
今まで一般には偽書と疑われて来ていた『種種御振舞御書』の記述がが天文シュミレーシ
ョンと一致し、光り物も科学的に稀に起こる球雷、球電現象である可能性が高いことを考
えますと、真書の可能性が高まってきたとも言えましょう。「連祖の、著作・曼陀羅の真
偽について」のスレまたお会いしましょう。

1653藤川一郎:2004/07/27(火) 13:49
> 徴兵は20歳未満の若い人まで
> 引き下げられ徴兵される方向に向かっていますが、年寄りはどうだった
んでしょうね。

横レスです。
終戦間際には、特別法等で55歳まで引き上げられております。
ある軍事学者は「こんな年寄りまで引き出さねばならん戦争は負けて当然」
等と言っていましたが、年寄りは問答無用で最前線に引き出されましたが、未成年の方は特攻以外は「予備役」が多かったようです。

1654菱村正敏:2004/07/27(火) 15:42
特別法って何でしょうか。義勇兵の法律ですか?
年寄りが最前線・・・。終戦間際で最前線なんかに派兵できた
んでしょうかね。終戦間際は機雷や潜水艦で海上封鎖されてい
たので、国内の兵を最前線に送り込むなんてできなかったんじ
ゃないかなぁ。

1655愚鈍凡夫:2004/07/27(火) 17:06

**************************************************
だが,連隊区司令部では,金品と引換えに,原簿の破棄や兵役に耐えられない病歴の記載等の不正が行われた。招集を逃れた者の職業をみると,軍需景気で儲けている人や会社の重役が圧倒的に多く,その他配給業務に携わる幹部,料理屋の主人,群を抜く地名人であった。まさに「地獄の沙汰も金次第」とはこのことである。"名誉ある招集令状"は不名誉な手段によって悪用されたわけである(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻497頁)。また「東京,大阪等の大都市では連隊区司令部の一部職員が,地方人(民間人)より相当の金品贈与のもとに在郷軍人名簿のつづりから(召集対象者の)名簿の抽出破棄,あるいは召集延期者や疾病者としての指定記入等の方法で召集資格者を作った」など,実際に不正が横行していたことを裏付ける記録が残されている(「支那事変大東亜戦争間陸軍動員概史」)⇒替え歌

戦争の激化に伴い,徴兵検査を受けた人のうち現役兵として徴集された人の割合(徴集率)は,1937(昭和12)年に25%,1944(昭和19)年に77%,1945(昭和20)年は90%と,急上昇。そして,現役兵だけでまかなえない兵員需要を補うために,赤紙が乱発されたことはいうまでもなかった。

 1943年の統計を見ると,現役徴集者約41万人に対し,赤紙による召集者は約105万人に及ぶ。

---

さらに,徴兵年令は戦局の悪化とともに引き下げられていった。すなわち,1943(昭和18)年12月24日勅令第939号徴兵適齢臨時特例に基づく,44(昭和19)年に於ける徴兵事務の特例に関する件(陸軍第69号)により,徴兵適齢が1才引き下げられ,満19才となり,翌1944(昭和19)年には兵役法施行規則を改正し(陸軍第49号),満17才以上の者とすると同時に,満17才未満の志願も可とした。いわゆる根こそぎ動員である。

「日本の徴兵制」より
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tyoheisei.html
*************************************************

戸田さんの場合は、これですかね?

「招集を逃れた者の職業をみると,軍需景気で儲けている人や会社の重役が圧倒的に多く,その他配給業務に携わる幹部,料理屋の主人,群を抜く地名人であった。まさに「地獄の沙汰も金次第」とはこのことである。」

戦前は日銭にして1日1万円(当時)の収入があったようですから。

1656菱村正敏:2004/07/27(火) 18:35
 戸田さん。徴兵で不合格になった可能性も否定できないと思います。
わたしの父の兄貴は、べつに金持ちでも何でもありませんでしたが、
長男であり、洋服屋の跡取り?ということで、赤紙は来なかったよう
です。その代わり軍需工場で働いてました。

 べつに、特権階級だけでなくても、それなりに抜け道はあったというか
手心が加えられていたのではないでしょうかね。

1657三学無縁:2004/07/27(火) 19:00
>>1647
> また、戸田さん、そもそも彼は徴兵検査受けたんでしょうかね?
検査で不合格になった可能性もあります。記憶では彼の日紀を読んでも
徴兵検査のばめんは出てきません。彼の論調なら「おれは甲種合格、
やがては・・・」などと気宇壮大の一文を書いたような気もします。
国家の通過儀礼であり、甲種合格は文句なしと国から太鼓判をもらっ
たようなものでしたから。

戸田さんが重症の痔疾患をもっていたことはご存知かと思います。これは酒の飲みすぎによるものかもしれません。
痔主は徴兵検査では不合格とされたようですね。
もっとも戦況が悪くなってからは痔主でも合格、徴兵されることになりました。

1658藤川一郎:2004/07/27(火) 21:03
菱村さん
義勇兵は
15歳から60歳までの男子、17歳から40歳までの女子(女子もあったんだね)です。

私の言ったのは下記です。
「徴兵年齢之特例ニ関スル法律」(昭和19年12月布告、施行は翌年一月一日から)
臣民ノ兵役年齢ニ関シ、今次戦線ノ終結マデ徴兵適齢臨時特例ニ関ハリナク上限ヲ55年トス。

1659菱村正敏:2004/07/27(火) 21:07
 19年12月ですか。それなら前線には出られません。瀬戸内海を
航行することでさえ、注意しないとできない時代です。鈍重な輸送船を
最前線に送ることは死ににいくようなもの。

 つまりは、最前線に高齢者が前線に送られるということはなかったと
思います。もし、具体的にそういう事例がありましたら、教えていただ
きたく存じます。

1660愚鈍凡夫:2004/07/27(火) 22:10

以下のHPは、戦時中の輸送船団の記録です。敗色濃厚の昭和19〜20年頃にも輸送船団は活躍していたようです。

太平洋戦争と海上輸送
http://www.kenshoukai.jp/taiheiyo/taiheiyou02.htm

輸送船団の戦闘
http://www.iwojima.jp/data/convoy.html

戦史 橘丸事件1
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-tachibana1.html

戦史 阿波丸事件1
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-awamaru1.html

1661ワラシナ:2004/07/27(火) 22:53
0、精神疾患の特徴たる意欲障害、感情障害、行動障害を知っているはずの精神医だが、患者がまさにその症状故に「通院している病院に薬を取に行く事ができない」という病者の置かれている矛盾的現実があって、更に患者自身の苦痛がこの不合理制度?によって倍化させられている現実が、精神医に理解されているとは思えないのである。或医師の患者に対する言動を聞いてそう思った。「薬を貰いに行くことできない」患者の苦しみ、近親者の代理受け取りも叶わない患者の置かれている苦しみを訴える患者に「自分の健康の事なんだから何としてもここは自分で通院してきて診察受けて薬を取りに来てほしい」と言うばかりだったからである。
1、精神疾患、統合失調症であることの所以が「自分自身に対する働きかけが一切できない、何にもやる気がしない、風呂も歯磨きもテレビも読書も何もかもしたくない努力放擲、常時脳中妄想充満」症であること、だからその故に「通院もしたくない」とは、病者自身の道理にかなっているまともな言動なのであるし、ここらあたりの機構も医師が弁えている筈なのに、である。デイケア要員を使うとか、医師自身が往診するとか、(糖尿病患者の場合往診をやってる病院はある)医療機関が監督する委任状による第三者による薬の代理受け取りを可能にするとか、工夫がたらなすぎる。
2、被害妄想タイプ、生命執着型の統合失調症の患者さんの話は、治療とはいえまともに聞いていたら、健常者の頭の方がおかしくなる位のものだから医師にも同情はしておりますが。
3、とにかく、患者の話なんか、聞いてるより、いかに手短に薬の処方箋書きを済ませて、次々待っている患者を裁いていくか、と言うのが、医院の待合で感じた精神医療の現状なのであった。

1662ひきこもり:2004/08/03(火) 16:56
>>1661
ワラシナさん。初めまして。私は極度の人間嫌いでありまして、普通の人は殆ど気に
しないことも私は気にする性格なのです。そのような性格を信仰によって変えようと
努力はしてきたのですが、一向に変わりません。日蓮宗系統の宗教は法華経を信奉し
ていますので、私のような性格には向かないのかと思うことがあります。他宗では社
会の煩わしい人間関係を避けて吉田兼好のように隠遁生活入ることもできるようです
が、富士門流の信徒では無理なのでしょうか。私は17世紀のフランスの科学者、宗
教思想家、文学者のパスカルの『パンセ』の次の言葉が好きなのです。「人間のそれ
らの不幸はいずれもたった一つの事から由来すること、その一つの事というのは部屋
のうちに休んでいることができないということを発見した」私は無理をして自分の性
格を変えようとして人間関係が激しい仕事をしていましたが、自滅してしまいました。
生来の内向的で神経質な性格故にこうなってしまったものと思います。世の中の煩わ
しい人間関係を避けて、自分一人で信仰に励み、学問や芸術関係の仕事で生きていく
ことも認められていいのではないかと思うのですが、どう思われますか。私は敢えて
苦手な人間関係の仕事に手を染めたために、大変な精神的苦痛を感じてきたのです。
ワラシナさんが紹介された精神疾患を持つ人達の中には、その人なりの生き方を認め
られれば、統合失調症や神経症を発症せずに済んだ人も多いのではないかと私は思い
ます。宗教が人を精神的窮地に追い込み、統合失調症や神経症を発病させ、終にはそ
の人の寿命を縮めることになってはどうかと思うことが私は度々あります。

1663ひきこもり:2004/08/03(火) 17:26
パスカルの『パンセ』には続いてこのように書かれています。

「しかし私はさらにふかく考えた、そうして我々のあらゆる不幸の原因を見つけたのち、
そんな原因がなぜあるのかその理由をさぐりたいとおもった、そうして大そう現実的な一
つの理由があること、その理由というのは我々の存在のもつ本来的な不幸において成り立
っていること、この我々の存在の仕方は、弱いものでありまた滅びゆくものであり、また
立ち入って考えをめぐらすならそのとき何ものも我々を慰めうるものはないほどにみじめ
なものであることを知った」(『パンセ』上巻 新潮文庫)

人は必ず死ななければならないものであるという厳しい現実を直視できないからこそ、我
々は慰戯を求めるのですが、直視してそれに絶望した人が統合失調症や神経症を発症する
ことが多いのではないかと私は思うのです。宗教は死後の生を約束するものであるが故に、
自分が信仰する宗教の教義や教えから外れたことをすることができず、精神障害を発症す
ることがあるのではないかと思うのです。特に教義に死後の生の在り方の定義がどぎつい
場合に精神障害の発症率が高くなるのではないかとも思います。

1664鎌龍:2004/08/04(水) 12:21
独歩さん。先日はご丁寧なご教示を賜りありがとうございました。一つ教えてください。 随分昔に戻ってしまって申し訳ないのですが、過去ログの「富士大石寺の歴史について」の43で、>この書き間違いによって当代顕師の父上は大変な窮地に追い込まれたのは・・・と言われていますが、これについて詳しくその経緯など教えて頂きたく存じます。よろしくお願い致します。

1665菱村正敏:2004/08/04(水) 15:54
>>敗色濃厚の昭和19〜20年頃にも輸送船団は活躍していたようです。

資料拝見しましたが、これは物資輸送が中心のもので兵員輸送は
ほとんどなされていなかったと推察します。当時の最前線は兵隊さん
の補充よりも、食料や武器弾薬などが重要なものだった思います。
いくらバカな軍部でも、輸送船に載せるモノの優先順位くらいは分か
っていたでしょう。ただ、当時はガソリンはあるのにメンテがなされず
動かすことができない飛行機が並んでいたなどという皮肉な現象が
あったそうなので、内地から武器やその他道具などを修理できる技術系の
者は送り出されたかもしれません。ただ、一般的に何の役にも立ちそうに
もない40代以上の高齢者が最前線に行くのは、、、かえってゴクつぶし
としてのマイナス要因が大きく邪魔者になるだけではなかったかと思いま
す。
 
 せいぜい、40代以上で狩り出されても、アメリカが上陸してくる
地点でタコツボ掘り、もしくは飛来する敵機を監視塔で見張っているか
まぁ、敵兵と対峙するという図式はほとんどなかったのであろうと
考えています。

1666犀角独歩:2004/08/04(水) 17:17

鎌龍さん:

ここ1年間の間にわたしは3回もコンピュータがトラブルとなり、データの大半を喪う手痛い事故に遭っています。そのために、いま、ここに確実な資料を示すことができません。ですから、詳しくは他の方に補完していただくしかありませんが、

> 当代顕師の父上は大変な窮地に追い込まれた

と書いたのは、記憶ばかりで書けば、石山57代正師は、漫荼羅書写では定番になっている讃文「二千二百‘三’十余年」と記すべきところを「成就本尊」下付に当たり、「二千二百‘二’十余年」と書したことによって、猊座を追われかねない大騒動になったことを伝えたものでした。

1667鎌龍:2004/08/05(木) 11:19
独歩さん。いつもありがとうございます。>トラブル・・そうですか。でも、なにかしらの資料に確かに残っているはずであると思ってよろしいのでしょうか?その時正師を窮地に追い込んだ側の石山僧俗は、弥四郎マンダラ戒壇本尊の通りに二十余年と書いたことを、なにを理由に責めたのでしょうか?やはり三師御伝土代などの「三十余年」と反するゆえということなんでしょうか?お願い致します。

1668犀角独歩:2004/08/05(木) 13:37

鎌龍さん:

> …トラブル…なにかしらの資料に確かに残っている

『地涌』あたりでも、取り沙汰していたと記憶します。
あそこの資料の‘扱い方’には問題がありますが、そこで引用される資料自体が全部虚偽と言うことではありませんから、解説部分を避けて資料だけ読んでみればよいと思えます。

> 弥四郎マンダラ戒壇本尊の通りに二十余年と書いたことを、なにを理由に責めた…三師御伝土代などの「三十余年」と反するゆえ

弥四郎漫荼羅が「二千二百二十余年」となっていることは、それこそ『富士宗学要集』が発刊されるまでは一部の人をのぞいては誰も知らなかったことでしょうね。それがまず前提です。

前もある学会員がここにやって来て、豪語していましたが、「奉書写之」とあることから、石山漫荼羅は、弥四郎漫荼羅を正確に書写したと思い込んでいる人が大半でしょう。また、それを基本にして略して書かれていると思っている人もあるでしょう。
けれど、実際は随所で違うわけです。この点は問答名人さんともずいぶんと議論した点でした。

いずれにしても、石山歴代住職が書写してきた漫荼羅は、しかし「二千二百三十余年」となっているわけです。その理由を相伝であるというのですが、これが後天的なことであることをれんさん、空き缶さんが明証を挙げて論述してくださいました。愚鈍凡夫さんも加わってお出ででした。

石山で「本尊書写」の資料文献といえば『本尊三度相伝』がまず挙げられるでしょう。そこに「仏滅後二千二百三十余年の間一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅なり」とあるわけです。また『三師御伝土代』にもそうありますし、伝・順師文献でもそうです。

わたしは『三師御伝土代』の記述が本当であれば、弘安2年10月に漫荼羅上に「日興上人」「二千二百三十余年」と書かれた漫荼羅を興師は授与されていたと思います。そして、その漫荼羅がいちおうの書写の素本になっていたのではないかと思うわけです。けれど、この段階では、まだいまのような形式にはなっていなかったでしょう。それは例えば「日蓮在御判」とあとになったところが「日蓮聖人」などとなっている例が見られるからです。これらの点もれんさん・空き缶さんが挙げてくださっていました。

要するに、本尊書写化儀は「之(本門戒壇之大御本尊)を書写し奉る」といういまのアナウンスとは裏腹に他の漫荼羅を手本にし、さらに随時、変更されて今のような形式になったという矛盾があるわけです。

正師の過ち、それを騒いだ人は弥四郎漫荼羅が「二千二百‘二’十余年」であることを知っていたと言うより、それまでの書写の化儀「二千二百‘三’十年」と違って「二千二百‘二’十余年」となっていたことを問題にしたのではないのかとわたしは想像しています。

1669鎌龍:2004/08/05(木) 14:59
独歩さん。いつもありがとうございます。>弥四郎漫荼羅が「二千二百二十余年」となっていることは、それこそ『富士宗学要集』が発刊されるまでは一部の人をのぞいては誰も知らなかった・・・>石山漫荼羅は、弥四郎漫荼羅を正確に書写したと思い込んでいる人・・・え!そうだったのですか。なるほど。今となっては富士宗学要集が逆に彼らを苦しめる要因になってしまったと言えるかもしれませんね。>その理由を相伝であるというのですが、これが後天的なことであることをれんさん、空き缶さんが明証を挙げて論述・・そうでいらっしゃいましたか。重複してしまったようで申し訳ありません。れんさん空き缶さんの論述はどちらでなさったのか教えて頂きたく存じます。>正師の過ち、それを騒いだ人は弥四郎漫荼羅が「二千二百‘二’十余年」であることを知っていたと言うより、それまでの書写の化儀「二千二百‘三’十年」と違って「二千二百‘二’十余年」となっていたことを問題にしたのではないのか・・・なるほど。しかし、宗学要集がでる前でも、石山にとっての重要書に「三十余」、弥四郎マンダラには「二十余」、これを問題にした人が今までいなかったのでしょうか。それとも、知っていながら公言できずにいたのか・・。それとも、通称血脈相承において、この話はなされなかったのか・・・。いかがなものでしょうか。

1670三学無縁:2004/08/05(木) 21:08
横レス失礼します。

>1667
>その時正師を窮地に追い込んだ側の石山僧俗

この問題は、ことの発端から当時の法華講のかたたちが追及したと記憶しています。
開師は、途中、のらりくらりと言い逃れをし、次にはどちらでもよいと居直りました。
しかし、全国の講頭たちにも誤写の事実とその後の経緯が知られるに及び、ついに誤写したことを認めたわけです。
その間、開師を擁護する声は阿部派僧侶の中からも上がりませんでした。

また宗学要集は、100部ていどしか作られなかったので、宗内の僧侶でも持っているひとは少なかったでしょう。
おそらく作られたものの半数以上は法華講関係と日蓮宗のひとたちが求めたと思われます。
予約名簿などから判断して正宗僧侶で購入したのは20人から30人だったようです。
ひとつには、堀日亨師は宗内で煙たがれれていたこと。
ふたつめは、宗史に関心のある僧侶がほとんどいなかったこと。
みっつめは、宗学要集を買うだけの余裕のある僧侶があまりいなかったこと。
よっつめは、宗学を理解している僧侶が少なかったこと。
ごく一部の僧侶を除いて、他宗派との法論は、ほとんど在家の法華講がやっており、たいていの僧侶には教学じたい、あまりなかったと思われます。

>通称血脈相承において、この話はなされなかったのか

開師は知らなかったのでしょう。
なによりも、正師の相承は大阪蓮華寺の総代が預かり、それを柱師に伝えたものです。
また、亨師は柱師からの相承をそれほど重要視していませんでしたし、自分は中継であると公言していたくらいです。
開師が誤写したのは、本尊相伝がなされていなかったから、と考えるのが妥当でしょう。
おそらく、蓮師真筆漫荼羅をお手本にして書いたのではないでしょうか。

1671犀角独歩[TRACKBACK]:2004/08/06(金) 08:33

鎌龍さん:

> れんさん空き缶さんの論述はどちらで

『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』の392以降です。
http://jbbs.livedoor.com/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/r392-


三学無縁さん:

補完、有り難うございました。どうも、わたしのこの記憶は曖昧なところが多かったようです。

1672愚鈍凡夫:2004/08/06(金) 12:48

横レス失礼します。
日正師と日柱師との血脈相承問題の参考資料です。

「日柱上人の辞職と選挙による管長選出 宗旨が如実に物語る本宗血脈の有り様」
http://nakanihon.net/nb/keimyou/hujihonnryuunomiti14.htm

「日開上人誹謗粉砕 日柱上人への相承」
http://members.at.infoseek.co.jp/netplane/nitikai.html


参考資料

「総本山大石寺歴代上人一覧 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/膩���㋚臼紊х�喝嚙罩岩撮筝�篋坂��荀�

1673愚鈍凡夫:2004/08/06(金) 12:52
「あれれ、文字化けしてる」 (;^_^A アセアセ…

「総本山大石寺歴代上人一覧 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/膩���㋚臼紊х�喝嚙罩岩撮筝�篋坂��荀�

1674愚鈍凡夫:2004/08/07(土) 14:20

管理人さん、お手数掛けますが、二重投稿になっていますので>>1673のレスを削除して下さい。

宜しくお願いします。 m(_ _)m

1675犀角独歩:2004/08/08(日) 01:23

あれ、開師を正師と書いていますね、わたし。失礼しました。

しかし、仮に相承があった。だからって、正しいことにならないし、それが700年、唯授一人であったとはならないでしょうにね。

もっとも、エレベータの相承、これまた、どうでもいい話ですが。

1676平和創価:2004/08/08(日) 08:22
愚鈍凡夫さん。ご無沙汰しています。ご紹介頂いたCalend Mate、と経度緯度算出ソフトはずいぶん重宝ですね。大変助かりました。

さて今朝愚鈍凡夫さんが紹介された「日柱上人の辞職と選挙による管長選出 宗旨が如実に物語る本宗血脈の有り様」を読んでいて、おや?と思ったことがありました。
日連正宗の過去帳には日正上人の忌日は大正12年8月18日となっています。私は日正上人が亡くなったあと、あの関東大震災が起きたのだなと思っていましたが、
今朝見た文章には大正13年8月18日になっていました。歴代上人の過去帳をお持ちでしょうから比較されてみて下さい。どちらかに間違いがある筈です。

あの推古天皇36年ユリウス暦628年4月10日は、やはり3月2日とするのが大勢のようです。1日が朔であるためCalend Mateの作成者は3月1日としたものと
思いますが、大勢の学者の説を採用した方がいいと思いました。日食の記録を『続日本紀』の記録を調べて気付いたのですが、「延暦八年(己巳)春正月(癸卯朔)甲
辰、日触ゆること有り。」との記載がありましたが、この日はユリウス暦789年1月31日に相当し、甲辰の日は朔の翌日の1月2日になります。しかし旧輯国史大
系所引の一本では「延暦八年春正月甲辰(朔)日有触之」とする説もあります。そうなると1月1日がCalend Mateの1月1日通りになります。1月1日に日食が起き
るという不吉な記載を避けたためかとも思われます。古代の暦の算出は学者の意見に相違があるために、かなり難しいようです。

愚鈍凡夫さんの勉強ぶりをいつも見させて頂いております。新しい研究成果を期待しております。

1677愚鈍凡夫:2004/08/08(日) 13:49

平和創価さん、こんにちは。
大石寺56世日正師の生没年について調べてみました。

在位期間:1908(明治41)年10月29日-1923(大正12)1923年8月12日
生 没:1861(文久1)年12月18日−1923(大正12)年8月18日

ウィキペディア 「総本山大石寺歴代上人一覧」より

「然るに其の当時より柱師の偉大なる御人格を嫉み諂う阿部師を擁立せんとする一派が正師の御病気の重せらるゝを見て早くも後継法主の擁立を画策し狂運動を成せし事実ははある書に明白なり正師の御病気益々重らせられ愈興津へ転地療養の後は柱師の御枕頭へ御近ずけ申さず彼の一派等は益々跋扈し或時は偽書を作り或時は暴力を以し或時は強言を以て大学頭職の辞職を強要す。」 (1930年4月3日付 宗門信徒の日開上人宛『上申書』)

「かくて八月十七日の夕刻に於て明朝遺言をするから皆んな呼んでおけとの仰せがあったので、周囲の者は慌てて、四方へ電報を打つやら電話を掛けるやらしたのである。其の夜半に於て弟子共への御遺言があり、それぞれ近親への御遺言もあり、而して夜はホノボノと明けゆく時、四方より主立った人が駆けつけて来たのであるが、五時頃になると、皆を此れに呼ベ、と仰せられて、一同は上人の枕辺に集まったのである。一同着坐し終るや上人はずっと見廻わされて、やがて侍僧に紙と筆とを持って来る様にと仰せられた。侍僧は静かに立って用意をした。そこで上人は徐ろに「大僧正の権は大学頭日柱に相承する」と御遺言を遊ばされ、侍僧の認めた料紙を手にとって御覧になり、更に署名と花押とを認める様に命じ給い、御手を差し伸べて指の先にて花押の御指図があった。此れが終るや再び一同を見廻してそれから目を閉じられたのである。」(1956年 日蓮正宗布教会刊・細井精道総監著「悪書板本尊偽作論を粉砕す」)

8月18日に病気療養先の静岡県興津(おきつ)で死去したのは事実のようです。

この頃はまた、戸田さんが最初の妻(つた)の実家(新潟)から米を運んできて儲けていた頃ですね。しかし、関東大震災直後に生まれた長女安代を半年後に、その明くる年に妻を肺結核で失っています。
戸田さんにとって、天国と地獄を同時に味わった時期だったようです。

1678平和創価:2004/08/08(日) 14:45
愚鈍凡夫さん

ご返事有り難うございます。57世日正上人の没年月日が過去帳通りであることが分かりました。
また12世日鎮上人は13歳、13世日院上人が9歳の稚児貫首であることも分かりました。

今迷宮入りになってるのは、5、6、7世の日行、日時、日阿上人と、10世、11世の日乗、日底上人の生年月日ですね。
この記録は慶応元年2月28日(1865年3月25日)の夜の大石寺の大火のために焼失した資料の中にあったのかも知れ
ませんね。このことを解明するのはもう不可能ですね。諦めました。

1679愚鈍凡夫:2004/08/08(日) 15:06

平和創価さんの探求心は凄いですね。拝読していて勉強になります。

> この記録は慶応元年2月28日(1865年3月25日)の夜の大石寺の大火のために焼失した資料の中にあったのかも知れませんね。

そうかも知れませんね。
また違う見方をすれば、その他の歴代の生没年の記録が残っているのですから、特殊な事情があって(理由は分かりません)残せなかった(最初から資料はなかった)とも考えられるのではないかと思います。

ところで、789年の日蝕は関東では午前11時半頃のことだったようですね。

789(延暦 8)年1月1日 日蝕あり。(続日本紀40)

天変地異年表古代
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/tenpen/ihen01.htm

関係ないですが、下記のHP面白かったですよ。

ハナキネの日蝕-日本史の起点-PART4
http://simasiba.hp.infoseek.co.jp/kasetu-hana04.htm

1680愚鈍凡夫:2004/08/08(日) 15:23

訂正
日正師は大石寺56世ではなく、大石寺57世でした。 m(_ _;)m ゴメン!!

日蓮大聖人血脈付法系譜(総本山大石寺 御歴代上人)
http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/rekishi_rekidai.htm

1681鎌龍:2004/08/10(火) 11:11
独歩さん、愚鈍凡夫さん、ご教示ありがとうございます。ゆっくり拝見させて頂きます。

1682鎌龍:2004/08/10(火) 11:18
三学無縁さん、ご教示ありがとうございます。私は石山内部のことはよく知らないのですが、堀師が煙ったがられていた理由はどこにあったのでしょうか?

1683問答迷人:2004/08/11(水) 23:35

創価学会の曼荼羅は、どこで印刷しているのでしょうか?どなたか、ご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてください。よろしくお願いいたします。

1684ワラシナ:2004/08/15(日) 15:38
>>1662 【ひきこもりさんへ御返信(1)】
ひきこもりさん。御返信遅れましたが初めまして。

>私は極度の人間嫌いでありまして、普通の人は殆ど気にしないことも私は気にする性格なのです。>

それは、他人と視線が掠っただけでも傷ついてしまうような、、、。またそれは身近な人との二言三言の会話にすら、異常な緊張を余儀なくされてしまう、、とかいう類のそれでしょうか。またそれは、終わってやれやれほっとするようなものではなく、心の中では次の精神的労働ー終了したばかり会話の再生ーのスイッチが自動的に入ってしまい、次々と湧き上がってくる思いというのが「さっきは本当はあー言えばよかった、こー言えばよかったのだ」とでもいうような後悔と自責感ばかりだったとしたら。、、もしこれだったら毎日が疲れて大変でしょう。

>そのような性格を信仰によって変えようと努力はしてきたのですが、一向に変わりません。日蓮宗系統の宗教は法華経を信奉していますので、私のような性格には向かないのかと思うことがあります。>

御本人がそう感じた部分は否定できません。

>他宗では社会の煩わしい人間関係を避けて吉田兼好のように隠遁生活入ることもできるようですが、富士門流の信徒では無理なのでしょうか。>

御書みると登場人物で隠遁生活に入っている人が多い。地涌菩薩の描写をみても「常に静かなる処を楽い」「常に頭陀の事を行じて 静かなる処を志楽し 」(妙法蓮華経 従地涌出品第十五)とあり、「静かなる処」がお好きなようです。だから、他人はどうあれ自分専用の蛸壺空間を個人的に造る事は許されると思う。


>『パンセ』の次の言葉、、、部屋のうちに休んでいることができない」「私は無理をして自分の性格を変えようとして人間関係が激しい仕事をしていましたが、自滅してしまいました。」>

だめな部分(=他人に太刀打ちできない負け必定)といけてる部分があって、いけてる部分を育てて武器にして生きていくのが理にかなっているのは分かりきった事、幸せな世渡りにはこれが得策と思われるのに、なぜ、好きでもない不得意な、か弱い部分を心の主軸に設定して、「試練を課す」「苦行」的不合理な生き方に燃え立ってしまったのか。当時はこの戦略こそ十全な生き方だと思ってしまっていたのだった(自分の場合)。
ここら辺の心理機構は自分でも答えが見つかっていません。多分心の中で正直さの基準にぶれ?が起きていたから思っています。

(御返信1 終わり)

1685ワラシナ:2004/08/15(日) 15:44
(御返信2)

>生来の内向的で神経質な性格故にこうなってしまったものと思います。世の中の煩わしい人間関係を避けて、自分一人で信仰に励み、学問や芸術関係の仕事で生きていくことも認められていいのではないかと思うのですが、どう思われますか。>

賛成です。次のはある精神科医が或る統合失調症患者に言った言葉だそうです。

「(病気で貴重な青春をだめにし、社会的脱落者になってしまったその患者に対して)君のような人も世の中には居ていいんだよ。」

「(性急な治癒結果を要求するその患者に対して)君イ、この病気は言ってみれば(或る)性格みたいなものだんだ。性格が治るかね。」

>私は敢えて苦手な人間関係の仕事に手を染めた為に、大変な精神的苦痛を感じてきたのです。>

他人からひどい扱われ方をされ大変な痛手を負ってしまわれたような事、そして振り返ってみれば遅れを取り戻せない程の遠回りしてしまった、青春の貴重な時間を代償として失ってしまったような事、その二つの辛さが滲み出たような一文と思いました。

>ワラシナさんが紹介された精神疾患を持つ人達の中には、その人なりの生き方を認められれば、統合失調症や神経症を発症せずに済んだ人も多いのではないかと私は思います。>

素質という土台の上に、嫌いなものを無理してやり続ける負担が切っ掛けとなって発病にいたる、と一般論としていえるとは思っていますが、、、。

ただ統合失調症には思春期発病の「破瓜(はか)型」というのがあって、器質に病因を求めざるを得ない。このタイプを見ているとこの病気になるために生まれてきたと思えてしまうようなその人なりの自然さがある。幼児期に虐待を受けたわけでもなく結構大事に育てられていて、しかも嫌いなことを強制されていたわけでもなく本人も好きで何かに熱中していながら、しかも宗教入信以前に立派に発病するケースがあるからです。

この病の神秘的なのはこのタイプだといわれている。これから大人としての人生経験が始まる手前で突発的に発病するから。

突発的にある日頭の中の大事な成分が蒸発して真っ白けになったように「何も手がつかなくなる」、自分で自分の形がつかめなくなったような茫然自失状態に陥ったまま
になる。意思と努力では決して元には戻らなくなる。そもそも意思と努力が失われての発病だから。これに対して唯一、復元可能なのが向精神薬であるという事は、この病の病因が、物質的作用に依存している、事を示している、と考えます。

ここから、「その人なりの生き方を認める」方針の真実味は、発病に至る過程にブレーキをかける有効な予防策的考えというよりも発病後の治癒過程に対してこそ真実味が発揮されるように感ずる。
突発的に悪くなるまえより、病気になってから以降の、この病気を背負い込みながら暮らしていく治療生活の方が長く続いていくわけですから。

統合失調症と不安神経症を抱えた身近にいた或る患者の例を見ていると、統合失調症=原因、不安神経症=結果という形に見えました。

しかし、「その人なりの生き方を認める」方針の持つ予防策的真実味が確かにあると思う。それは、歪んだ信仰の障害の影響が(病因もしくは)契機になる実例があるからです。

比較的経度の統合失調症の或る人の例では、幼児期の頭部強打が原因と思われている、との事、しかも発病の切っ掛けがS会から受けた折伏だったというのですから「その人なりの生き方を認められれば、統合失調症や神経症を発症せずに済んだ人も多いのではないかと私は思います。」の発言には注目させられました。

この方の場合には幸い不安神経症も軽度、薬の量も種類も少なく日々の暮らしの中に楽しみを見つけるだけの気持ちのゆとりがあり、楽しそうに暮らしています。

(御返信2 終わり)

1686ワラシナ:2004/08/15(日) 15:53
(御返信3)

>宗教が人を精神的窮地に追い込み、>

その宗教の布教態度に、推進する布教者に「強迫観念的的折伏恐怖症(しないと謗法地獄)」を植えつける傾向があった場合、上述のように「宗教が人を精神的窮地に追い込み」になる、と思う。

上の二人の実例から、私なりに考えるのは、統合失調症を構成している「様々な分裂(気持ちと行いとの分裂、自分の痛みしか感じられず他人の痛みは共有されない分裂)、、、」のそれぞれにふさわしい「不安感一つ一つ」が対応しているように思えます。だから病気の進行につれ不安の種類も質も増大していく。

不安神経症は統合失調症の派生現象とみえます。患者自身は自己の精神の健全性の喪失を心の中で発生した不安神経症の不安感から感じ取っているのではないかと思います。

>統合失調症や神経症を発病させ、終にはその人の寿命を縮めることになってはどうかと思うことが私は度々あります。>

この部分は同感。

>人は必ず死ななければならないものであるという厳しい現実を直視できないからこそ、我々は慰戯を求めるのですが、直視してそれに絶望した人が統合失調症や神経症を発症することが多いのではないかと私は思うのです。>

「直視したり絶望したり」は健全な証拠ともいえます。統合失調症にも色々なタイプがあるのでわかりませんが、統合失調症の人は「心の中の時計の針が過去の中だけで回っている様な感じ」です。或る時点で発病したその一瞬に現在が凍結してしまったような感じで、過去のその一点だけが生き生きしていた最後の時間だった、と感じられているようで、その直前の健康だった頃を思い出しては懐かしんだり、その直後襲われた得体の知れない恐怖の一瞬に震えたりしているそうです。

「直視したり絶望したり」は現在的、正面向きですが、統合失調症患者さんのそれは、過去的に妄想的(未来的)に「直視したり絶望したり」してるようで、周囲の現実に対しては「正面向き」でなく「斜め向き」のようです。
ですが、自分の疾患の有様だけは、正確に捉えようと「正面向き」の情熱をもっているように見えました。

>宗教は死後の生を約束するものであるが故に、自分が信仰する宗教の教義や教えから外れたことをすることができず、精神障害を発症することがあるのではないかと思うのです。>

過度に信仰に取り組んで生きてきた人ほど神経がボロボロになっているのではないか予想しています。

>特に教義に死後の生の在り方の定義がどぎつい場合に精神障害の発症率が高くなるのではないかとも思います。>

この点は暇を見つけて調べてみたいです。

ではまた。(引きこもりさんへ御返信1,2、3 終わり)

* 一週間も前に書き上げたのに送信の度に「掲示板属性がありません」が出てくるばかりで送信できない原因が分からなかった為遅れたのです。原因は本文が長すぎたからだった。

1687犀角独歩:2004/08/15(日) 19:06

1682 鎌龍さん、横レス失礼します。

日蓮宗宗務院編『創価学会批判』の2、正宗・創価学会批判、(2)身延離山の論についてに

「堀老師はあれだけ古文書に精通して居られるから恐らく眞相は知つて居られることと思ふが何分にも石山に育つた方であり、それに今年(昭和30年)は満88歳の高齢であられるから終に石山伝統の中に終られることと思はれる。然しそれでも石山では老師と他門との交渉を喜ばず、昨年静養を乞ふのを口実として畑毛の雪山荘から大石寺境内に隠居所を作って老師を移し外部との交際を出来ぬやうにしてしまつたのは眞に残念である」(P29)

とありました。ご参考までに

1688愚鈍凡夫:2004/08/16(月) 00:23

忙しい盆がやっと終わりました。

話は変わりますが、統合失調症(精神分裂症)について、こんな資料がありました。

**************************************************
精神分裂病の3つの型
 精神分裂病の症状は、陽性症状と陰性症状という2つの症状群がある。
 陽性症状というのは、幻覚(精神分裂病では幻聴が多く、幻視は少ない)、妄想、思考奪取、思考伝播、させられ体験、興奮、暴力行為、自殺行動など、誰が見ても異常とすぐ分かる症状である。
 これまでの研究では、陽性症状は脳の辺縁系が障害され、ドーパミンが過剰に分泌され、幻覚、妄想などを現わすと考えられるようになってきている。
 これに対して、陰性症状というのは、無為自閉(何もしないで、自分の殻の中に閉じこもっている)、感情鈍麻(感情が麻痺してぼんやりと時を過ごす)が主な症状である。このような状態になると、患者はおとなしく、何もしないが他人に迷惑を掛けるようなことがないので、一見軽症のように見える。ところが、毎日、生ける屍のようにぶらぶらと時を過ごすこの状態がなかなか治せないし、良い薬も開発されていないのである。
 陰性症状は、前頭葉の大脳皮質が障害され、何らかの形でセロトニンが関与していると想像されている。

①破瓜型(破瓜病)
 破瓜というのは、思春期という意味である。思春期に発病し、緩やかに進行する。この型は陰性症状である感情鈍麻とやる気のなさ(能動性減退)が主症状で、緊張病症状群や幻覚・妄想はあまり見られない。
②緊張型(緊張病)
 緊張病状群を主症状とするタイプである。発病は20歳前後で、急性または亜急性に、興奮または昏迷(能動性が消失し、行動が全く起こらなくなった症状)を以て始まる。無言症、拒絶症、カタレプシー(身体を折り曲げると、いつまでも蝋人形のような恰好でいる)、言葉のサラダ(サラダを掻き回したように、単語をただ並べるだけで、何をいっているのかさっぱり分からない)、常同言語(同じ言葉を繰り返す)、音誦症(お経を読むように、言葉に調子を付けて繰り返す)など、変な症状が次々と起こる。この型の予後は良好なことが多く、自然に治癒する例もある。希に、激しい興奮状態になり、数日のうちに死亡することがある。
③妄想型(妄想分裂病)
 この型は幻覚(幻聴が多い)、妄想(関係妄想や被害妄想が多い)を主症状とし、人格障害が比較的に軽い型である。発病年齢は25歳頃が多く、慢性に経過する。

「心の病・その精神病理」より
**************************************************

参考資料

DSM-IVによる人格障害の理解
http://hikumano.umin.ac.jp/dsm4.html

1689犀角独歩:2004/08/16(月) 13:11

所謂「精神分裂病」と人格障害というのは別のものだと言いますね。
知己の精神科医がそんな話をしていました。
で、精神障害は薬物投与、その他の治療で症状を抑えたり、治したりすることは出来るけれど、人格障害は治らない。宗教病理は後者に属する場合、深刻であると話していました。これにまた、行為障害を別意分類するのでしょうか。

以下、前にもアップしたことがあったと思いますが、

クラスターB 人格障害の診断基準
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/jinkakushogai_sindan.jpg

Hareによる精神病室「サイコパス」チェックリスト
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/psychopath_checklist.jpg

行為障害
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/koishogai_sindan.jpg

1690ひきこもり:2004/08/18(水) 18:57
ワラシナさん
ご丁寧な御返事有難うございました。

私も信仰と自分の精神的健康をよく考えて参ります。

1691仙台坂:2004/08/18(水) 22:00
このサイトお勧め☆サファイアのミント・ゾーン
http://www.sapphire-ark.com/top.html

1692通りすがりの学会員:2004/09/05(日) 21:01
1631について
愚鈍凡夫様

論点のすり替えでしょう。(論点相違の虚偽)
>同世代の男性たちからすれば、「自分たちが死地を彷徨っていたとき、自分一人、温々と牢獄なんて天国にいやがって。」と思うのが自然な感情じゃないでしょうか。

そもそも、戸田先生が投獄されたのは何故でしょうか。
大石寺が軍部当局に妥協し謗法の神札を受けるよう勧められたのを、学会は受け取りを拒否した。そして謗法厳誡の精神を貫き折伏弘教に徹したがゆえに、牧口先生とともに「治安維持法違反」「不敬罪」の名目で逮捕され投獄されたのではないか。
問題は、謗法を容認するか否か(国家権力の暴力に対抗しても)ということ。
国家権力を恐れず、折伏弘教を貫き通したかどうか、ではないか。

それを、>温々と牢獄なんて天国〜
暖房もない三畳一間の独房が天国かどうかはさておき(少なくとも謗法容認の大石寺お歴歴の生活より温々ではなかろう)、謗法諾否の論点と関係のない生活環境の問題にあっさりスリ替えて平然としてらっしゃる。そういう貴殿に戸田先生を中傷する資格がどこにある。信仰以前に、人間として恥を知れ。

そういう精神構造だから、>脈絡はないのですが、
とおっしゃる脈絡無き論理体系、謗法容認の教学体系を組み立てておられるのか。

この問題は蓮祖時代と何ら変わらない構図ではないか。国家権力の脅しに屈せず、謗法を呵責し折伏弘教に徹したがゆえに、大聖人とその門下は数々の流罪、投獄等の大難を受けられた。当時も「我等はやはらかに法華経を弘むべし」と言って大聖人の元を去った人たちがいた。果たして、貴殿は、大石寺は、正宗門は「三障四魔紛然として競い起こる」ことが有ったと言えるのか。

また、同時に投獄された牧口初代会長は、
その>温々と牢獄なんて天国
とおっしゃるところで、看守をも折伏されまさに「日蓮が一門となりとをし」て、栄養失調のため獄死された。このことには、触れないのですね。ある出来事の一部を切り取って、論点をすり替え牽強付会し、都合の悪い部分を無視する常套手段。

このスレッドは、衒学の酒を酌み交わし、背信の傷を舐め合う卑怯者・裏切者の楽園か。

1693愚鈍凡夫:2004/09/05(日) 22:07

>>1692:あらら、これは小生へのレスだよね。

昭和18年6月、
東京・中野の学会員が、子供を亡くして悲しみのどん底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる、という事件が起き、これを契機に学会弾圧が始まった。
ということですよね。学会弾圧の始まりは、神札不敬じゃない。理不尽な「罰論」の結果でしょう。
その証拠に昭和18年5月、
 「牧口は、天照皇太神官の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた。」(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)
このときは逮捕されずに釈放されていますよ(牧口氏が逮捕されるのは7月6日)。
それからこれは、戸田さんが作った詩です。

「男だ 日本人だ 日蓮正宗の信者だ 栄光ある生活改善同盟の戦士だ 大君のかがやく御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む」(昭和17年5月17日・創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』・『フォーラム21』020315より)

石原莞爾が聞いたら小躍りしそうな詩です。反戦平和の欠片もありませんよ。
そして、牧口さんの獄中記にこうあります。

「当方無事。春になっても安心です。三度共に暖かいごはんに汁沢山。青年時代からあこがれて居た本が読めるので、却って幸ひである。国法にはどんなにでも服従すると言ふのだから、心配はいらない。」(牧口会長「獄中書簡」昭和19年3月16日/『牧口常三郎全集』第10巻288頁)

「三度共に暖かいごはんに汁沢山」とは、家族に心配掛けたくないとの配慮だと思いますが、「国法にはどんなにでも服従すると言ふのだから、心配はいらない。」というのはどうでしょうかね。

「小説人間革命」に惑わされるのもいい加減にしなさい。小説は所詮事実ではないのですよ。
いいですか、通りすがりの学会員さん。

「天照大神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝奉つてゐるのである。万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の御稜威(ごりょうい)は現人神であらせられる今上陛下に凝集されてゐるのである。されば、吾々は、神聖にして犯すべからずとある『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。」(大善生活実証録)

これが牧口さんの神道論ですよ。それから、

「天照大神のお札をお祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考へ奉る結果であって、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、ほんとうに敬神崇祖することが出来ると確信するのである。また、これが最も本質的な正しい国民の道だと信ずる次第である」(大善生活実証録)

これが神札問題に対する牧口さんの答えです。現人神がいるから神札は必要ないと言っているのです。

小生も大阪で創価学会相手に10年以上も闘ってますから、あなたのような人は沢山見てきました。批判者に対する創価学会の組織的な迫害は、卑怯なんて生やさしいものじゃないですよ。

1694犀角独歩:2004/09/06(月) 00:18

ここは『素朴な疑問』スレッドです。
わたしは当スレッドの意義を、組織・指導者から信じ込まされていたことは、本当だったのか。自分は何故、そのように信じてきたのか。また、言われてきたことは本当なのか、事実なのかを冷静に考えてみることととらえています。その線に則って、考えたいと思います。
わたしも創価学会在籍時代は創価学会のアナウンスを鵜呑みにして、1692に言われる如く信じてきました。しかし、

> 戸田先生…神札…受け取りを拒否

これは事実なのでしょうか。
創価教育学会が神札受取拒否を決定・発表した資料はあるのでしょうか。
わたしは、この証拠に当たることができないので、これを事実と言うことに躊躇があります。

> 牧口先生とともに「治安維持法違反」「不敬罪」の名目で逮捕

この決定を示す資料は何でしょうか。
これまた、その資料があるかどうか。なければ、直ちに事実と言うことに躊躇いを禁じ得ません。

要は、このような主張をするのであれば、その証拠を示すことによって正当性を証明できます。
是非とも資料を挙げればよろしい。

> 国家権力…謗法

この点ですが、現在、公明党は政権与党となり国家権力の一端を担っています。
この公明党が一翼を担う国家権力には、なんら(創価学会教学で言う)謗法要素はないのでしょうか。仮に国家権力に謗法要素がある場合、なぜ創価学会はその非を責めないのでしょうか。
たとえば、大臣は個人的に靖国参拝をしないまでも、その長である総理が参拝する(学会が言う)謗法行為をなぜ阻止しないのでしょうか。阻止しない公明党も、それを是認する創価学会も「我等はやはらかに法華経を弘むべし」としか映じませんが、この点は如何でしょうか。

> 学の酒を酌み交わし、背信の傷を舐め合う卑怯者・裏切者の楽園

馬鹿馬鹿しい。仮に創価学会が日蓮の教えから逸脱したものと判断できれば、それを捨てることは、むしろ当然のことであり、また、卑怯でもありません。信じるに当たらないことに背くことはむしろ正義です。さらに言うことが嘘八百であったと思えば、それを捨てることは裏切り行為でも何でもありません。これまた、個人の善意に基づく選択です。まして、ここは創価学会の集いではないので、こんな下らない批判を受ける筋合いはありません。言葉に注意して、投稿するべきでしょう。

1695itou:2004/09/16(木) 21:59

すみません、どなたか教えてください。

今、宗門で問題になっている、花野充道師も書いている、「道心」という同人誌、購読するにはどうすればよいのでしようか。

1696犀角独歩:2004/09/16(木) 22:38

> 1695

もう既に回収され、花野さんは謝罪して幕引き、通常ルートでは手に入らないようです。

1697:2004/09/16(木) 23:23
皆様 通りすがりのものです

「道心」誌の件ですが、例の29号は入手不可ですが、
創刊号から17号くらいまでは、神田の神保町の仏教書専門店
東洋堂さんの店頭在庫の存在を先週末確認してまいりました。

ご参考までに
失礼いたしました

1698itou:2004/09/17(金) 06:24

犀角独歩 さん

残念です。定期申し込みしたいのですが、方法をご存知でしょうか。

某さん

有難うございます。早速確認してみます。

1699犀角独歩:2004/09/17(金) 08:46

itouさん

> 定期申し込み…方法

残念ながら知りません。
いずれにても廃刊に追い込まれるんじゃないでしょうか。
今回の件から継続できるとは思えません。
続いても換骨奪胎して、顕師好みに、ではないでしょうか。

1700itou:2004/09/17(金) 13:00

廃刊ですか。それは残念です。ご丁寧なご回答、有難うございました。

それにしても、何か、花野師は、確信犯みたいですね、宗務院が黙っていない事を承知の上でゲイカ批判を書き、恫喝されたら、さっと引く。今の宗門では、こういうやり方しか出来ないのでしょうね。

とは言っても、宗務院も舐められたものだと思います。宗門現役住職による、公然たるゲイカ批判が文字になって一旦は発信された訳ですから。それだけ、ゲイカの力が落ちてきていると言うことだと思いました。

1701犀角独歩:2004/09/17(金) 13:21

itouトさん、なるほど。確信犯ですか。そうですね。いったん、出して回収したところで、内容はネットその他で漏洩するわけですから。

舐められた顕師もさることながら、やめない花野さんも呆れ果てた醜態であるとわたしは思います。

なお、『道心』廃刊か否かはわたしの予測ですが。

1702平和創価:2004/10/04(月) 18:07
愚鈍凡夫さん。
蓮祖が物心が付いてから御入滅までに起きた日食のうち、鎌倉で見て80%以上の食分が
あったものは7回ありました。和暦は旧暦、%は最大食分、時間は最大食分時です。

1237年嘉禎3年12月1日 88% 14時10分 記録あり 雨のため見えず
1243年寛元1年3月1日  80% 11時23分 記録なし
1245年寛元3年7月1日  86% 17時32分 記録あり
1249年建長1年4月1日  99% 11時42分 記録なし
1252年建長4年2月1日  91% 7時1分   記録あり
1275年建治1年6月1日  94% 12時3分  資料なし
1277年建治3年10月1日 96% 15時9分  資料なし

これはすべて鎌倉を基準にしています。蓮祖がおられた場所と多少のずれはあるとしても
それほど大きな差はないと思います。
私も愚鈍凡夫さんが仰るように、1275年建治1年の日食は『撰時抄』執筆の切っ掛け
であったかと思います。また1252年建長4年の日食は立宗宣言の切っ掛けではなかっ
たかとも思っています。

なおB.C.3000年から現代に至るまでの全日食の帯がパソコンで出せるようになれ
ば、世界史の勉強もより興味深いものになると思いました。

1703通りすがり:2004/10/04(月) 18:23
横レスですが、別に花野御尊師の文章は御当代批判というほどのものではありませんでしたよ。
単なる一般的な意見であり、それこそ創刊から現在まで何度もあった程度のものです。
それを、御当代批判文章だと宗内の某講頭が大騒ぎして、宗門もそれを鎮撫する意味で、形だけ問題にしたようです。
それが証拠に、道心は今のところ廃刊予定は無いそうです。
元々不定期刊でしたから、多少は時間を置いて発刊されるでしょう。
元々道心は、観妙院日慈上人の肝いりで出来た物でして、花野御尊師が創刊したものではありませんから、日達上人御遺弟(御当代の御弟子より多数)の方々がシンパですからね。

1704愚鈍凡夫:2004/10/04(月) 19:44
平和創価さん、これは小生が調べたものです。暇なときに確認してみてください(くれぐれも勉強に支障を来さない範囲で)。

蓮祖と日蝕

ユリウス暦---------------グレゴリオ暦----旧暦--------聖寿

1223(貞応2)年09月26日----10月03日--------09月01日----02
1227(嘉禄3)年07月15日----07月22日--------06月01日----06
1233(天福1)年10月05日----10月12日--------09月01日----12
1237(嘉禎3)年12月19日----12月26日--------12月01日----16
1243(寛元1)年03月22日----03月29日--------03月01日----22
1245(寛元3)年07月25日----08月01日--------07月01日----24
1249(建長1)年05月14日----05月21日--------04月01日----28
1252(建長4)年03月11日----03月18日--------01月30日----31
1260(正元2)年04月12日----04月19日--------03月01日----39
1265(文永2)年01月19日----01月26日--------01月01日----44
1268(文永5)年11月06日----11月13日--------10月01日----47
1271(文永8)年09月06日----09月13日--------08月01日----50
1272(文永9)年08月25日----09月01日--------08月01日----51
1275(建治1)年06月25日----07月02日--------06月01日----54
1277(建治3)年10月28日----11月04日--------10月01日----56
1282(弘安5)年08月05日----08月12日--------07月01日----61

1705平和創価:2004/10/05(火) 17:09
>>1704
愚鈍凡夫さん。資料提供有難うございます。
私は興味があることに取り組むと、とことんのめり込んでいく性分で、疑問に思う
ことはいつまでも忘れないでいます。一昨日の夜は徹夜、今日は四時間睡眠という
ような勢いです。
さて私が「勤行について」の131で一字三礼さんにカキコした件については、どう
思われますか?何故御本尊の南無妙法蓮華経の七文字は髭のように跳ねているのでし
ょうか?私は御本尊の構成の基となった菩薩等の複数の腕と関係がありそうな気がす
るのですけれども。

1706犀角独歩:2004/10/05(火) 20:31

『素朴な疑問』スレッドに移動というご提案なので、そうしました。

> 蓮祖…南無妙法蓮華経の七文字……京都妙顕寺の日像…題目は跳ね文字

これは跳ね文字とは言わず、門下一般では光明点と謂われるところですね。墨の黒ですが、光り輝いている様を文字において図示したということです。ただ、像師は帝都弘教に先駆け、海中でその修行に励んだとき、波上に題目を感得したところを図示したので、あのようになっているというのが朗門の伝承ではありませんでしたか。たしか「波題目」とか言いましたか。

1707平和創価:2004/10/05(火) 21:01
犀角独歩さん。ご返事有り難うございます。
他のスレッドで私が申し上げましたが、北山本門寺の日興上人の御本尊の題目は
「波題目」ではなく、普通の文字でした。そうなると興師は蓮師の教えを繋いで
いないというような見解まで出てきますね。

独歩さんから紹介された蓮祖の御本尊と伝えられた御本尊を拝見させて頂きました。
ほとんどの御本尊は題目の字が流れています。何故に蓮祖はそのような形態を曼陀
羅にしたか問題に残りますね。蓮祖の曼陀羅と興師の曼陀羅の波題目の有無は蓮祖
と興師が直結ではないということの確証になるでしょうか。

ますます難しい(私にとって)問題になってきました。この問題は心に引っかかって
いて創価学会員の私としては、誰にも質問できないことでした。

1708犀角独歩:2004/10/05(火) 21:40

像師の場合は波題目でいいと思うのですが、日蓮大聖人門下一般では「髭題目」と言いますね。すね。
興師が漫荼羅書寫に関する特別の秘儀を伝受されたのかという点ですが、この点はれんさん、空き缶さんをはじめ、皆さんが非常に優れたご投稿してくださっています。
ですから、わたしが述べるのは僭越ですが、結論的に言って、そのようなことはないように思えます。

1709平和創価:2004/10/05(火) 23:12
では勇士が競って来てください!
私の教学に勝てる人はいるか!

ということですね。

1710犀角独歩:2004/10/06(水) 00:32

平和創価さん、はて?? という感じです。
勝ち負けにこだわるのは学会だけでしょう。
どうでもいいことです。

1711大勇者:2004/10/06(水) 21:58
平和創価さんのご紹介の菩薩のサイト拝見しました。
なるほど。という感想でした。
題目のビジョン化、イメージ化に意味があるかどうか判りませんが、
私はどちらかと言うと、
http://nichirenscoffeehouse.net/stupa.html
ストゥーパーのイメージです。
跳ねてるのは、「輪」を表してるのかなと思い描いていました(笑

飛曼荼羅(仏眼寺でしたか?)
の画像見てみたいのですが、どなたか知っていますでしょうか?

1712平和創価:2004/10/08(金) 04:30
大勇者さん。
今紹介された一番上の宝塔を中心にして、周囲に菩薩等が配置されているのを見ると、
宝塔が南無妙法蓮華経の題目の七文字で、宝塔の庇が題目の跳ねのように見えますね。
周囲の菩薩等は題目の周りに書かれてある、大日天王をはじめとする十界の生命にも
見えますね。

研究を深めていけば、驚くべき新事実が発見されるかもしれませんね。
私は御本尊の題目の跳ねは、菩薩の衆生を救おうとする慈悲の腕と手を表しているの
ではないかと思いました。いずれにしても題目の跳ねには深い意味があると私は思っ
ています。

1713犀角独歩:2004/10/08(金) 10:08

自分の固定観念から何でも当て嵌めてみると、思わぬ落とし穴に落ちます。
「生命」という語のように

1714さかなこ:2004/10/08(金) 10:20
>私は御本尊の題目の跳ねは、菩薩の衆生を救おうとする慈悲の腕と手を表しているの
ではないかと思いました。いずれにしても題目の跳ねには深い意味があると私は思っ
ています。

ええ??そうなんですか??私はあれはただのクセ字だと思ってたんですが…。
日蓮さんの字っていかにもクセのある男性の字って感じだから。
って平和創価さん初めましてですね。とりあえず学会員の子持ち主婦です。
脱会しないだけの名前だけ学会員ですが…。

1715犀角独歩:2004/10/08(金) 10:49

さかなこさん、蓮師の筆法は単なるくせ字ではないでしょうね。
七文字のうち、「法」の一字はそうなっていません。ですから、実に意図的に記されたものであると思えます。

「点を長く引き給ふ事如何、師の曰はく一閻浮提の内に妙法を流布せんとの慈悲深き流通精進の心なり、水の流れ絶へざるは日蓮の慈悲広大の義なり」などという相伝が生じるのも故無きもあらずと思えます。

1716さかなこ:2004/10/08(金) 11:00
独歩さん>>

へー。そうなんですか。意図的なんですか。個人的にあれはクセ字かデザイン的に
そうしたか…と思ってましたw。
日蓮さんはあの曼荼羅にはやっぱり特別な思い入れがあったのでしょうか…。
面白いですねc⌒っ*゚ー゚)っφ メモメモ...

1717犀角独歩:2004/10/08(金) 11:24

さかなこさん、そのようですね。

お茶のみ話程度にお読みいただきたいのですが、蓮師の花押は大日如来を表す種字、悉雲文字(梵字)を象ったものであるという説があり、となると、左右に愛染明王がやはり梵字で書かれていますから、法華漫荼羅のうえに、ご自身を大日如来に見立て・不動愛染を脇士にするもう一つの本尊図が隠されていることになるという説もあるわけですね。(…飽くまで資料手放しです。細かい突っ込みはロムの方も含めてご容赦ください)

1718大勇者:2004/10/08(金) 11:31
犀角独歩さん ありがとうございます。
>>1713 肝に銘じておきます。
ところでもうひとつ教えていただきたいのですが、
愛染と不動だけ何故あのような筆になるのでしょうか?あれは梵字なのですか?
基本的な部分ご教示ください。

1719大勇者:2004/10/08(金) 11:38
犀角独歩さん 
あ〜すいません。
>>1717を読む前に書き込んでしまいました。

1720犀角独歩:2004/10/08(金) 11:48

大勇者さん、そうでしたか。
まあ、以下、打ちましたので。

> 愛染と不動だけ何故あのような筆になるのでしょうか?

これは蓮師に係る大問題ですね。正確に答えられる人は古今、誰一人としていなかったでしょうね。もちろん、わたしもわかりません。
ただ、『御本尊七箇相承』には「梵字は不動愛染に限る事何の意有りて遊ばざるるや、師の曰はく西天より梵字を三蔵等将来して和漢の二字と成す目前なるものなり、我が仏法も亦復是の如し遠沾の翻訳仮字を梵漢に通ず可き先兆なり」とありますね。

まあ、簡単に言えば、梵字は印度から三蔵法師が中国に持ち込み、漢訳され、さらに和字として読まれた。今度は蓮師の仏法も漢訳され、さらに梵字に翻訳される先兆なのだと…。しかし、これは何故不動愛染のみ梵字であるのかの答えにはなっていませんね。

> あれは梵字なのですか?

これもまた、大問題ですね。梵字(悉雲文字)真四角とか真円に納まる形で記されることが一般的です。しかし、蓮師は縦に長く記していますね。まあ、梵字であると言われれば、そう見えますし、先に挙げたとおり、花押もそう見えます。でも、そんな蓮師の真跡遺文が残るわけでもなく、上古諸師の確実な資料があるわけでもありません。わたしは半信半疑で、やや梵字かな?寄りというところです。

1721犀角独歩:2004/10/08(金) 12:25

昨晩、ある方と話していたら、「自衛隊には創価学会員が多い」とマスコミ、また防衛庁関係者が語っているというのです。わたしは創価学会には35年間いましたが、周りに自衛隊員は一人もいませんでした。ですから、「そんなことはないでしょう」と応えたんです。でも、言い張られるわけでです。また「学会員である自衛隊員が国家機密を創価学会、公明党に漏洩することが問題になっていた」とも言うわけでです。

この辺の実否は如何なものでしょうか。どなたかレクチャーいただけませんでしょうか。

1722大勇者:2004/10/08(金) 14:08
犀角独歩さん ありがとうございます。
私は「弓」(愛染)と「刀」(不動)を勝手に連想(妄想)していました。

平和創価さん
「光明点」「髭題目」の件に関連つけしても
>>1717の大日如来の説は興味が沸きますね。(大日如来は手は2本みたいですが、)マハーヴァイロチャナが「光り輝く」と考えると「瞬間の光」のような事を表現しているのかも。
参考までに
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/008.html
以下エキサイト翻訳での変換です。
日蓮が彼のhonzonに置くロータスの聖典の話に外部の図の最も著しい例は、Mahavairocanaです....上記の曼荼羅?ヘ含んでいます、含んでいる、2、他の、siddham、とは別に、それら、Arcala(Fudo)およびRagaraja(Aizen)アイコンの上部の部分で引かれた、ロータス経典のタイトルの側で。これらの2つの書記素を識別することは全く困難です。というのは、それらは標準の形式で引かれないからです。私は、曼荼羅の左側のsiddhamが不正確に書かれて、右側に記入されたsiddhamがtaizokaiのMahavairocanaの種子文字のうちの1つかもしれない間に、kongokai(amh)のMahavairocanaを表わすために使用される種子文字(shuji)であると思います。

1723愚鈍凡夫:2004/10/08(金) 14:26

>>1721: 犀角独歩さん

「自衛隊にオウム信者が!!」といった話の亜流じゃありませんか。
最近では、「自衛隊に顕正会員が!!」っていうのをネットで見ましたよ。
数からいって、自衛隊に創価学会員がいたっておかしくないですが。
そのうち、「自衛隊で創価・顕正の代理戦争!!」なんて記事が「週刊新潮」あたりに載ったりして。

「自衛隊」幹部に浸透する信徒100万「顕正会」
http://www.asyura2.com/0406/senkyo5/msg/149.html

こういうのも、ありましたっけ。

極秘入手!! 池田大作氏と創価学会・公明党に関する公安 秘 調査報告書の戦慄
http://www.asyura2.com/0406/senkyo5/msg/148.html

1724犀角独歩:2004/10/08(金) 16:36

愚鈍凡夫さん、有り難うございます。
そうですよね、「オウム信者…話の亜流」「自衛隊に顕正会員」というのは仄聞しますが、学会員の自衛隊というのはどうもピンとこないわけです。

その人が語ったところによると、戸田時代から自衛隊である学会員が国家機密を漏洩してきたというのですよ。それが国会でも問題になったとまで言うのですが、どうもわたしには記憶がありません。まるで創価学会を庇い立てする気はありませんが、万が一、学会が自衛隊機密を自衛隊員を諜報として入手し、その前提で池田さんが特に中国や、民間外交をやっているとすれば、これは由々しき大問題ですね。まあ、しかし、こんなことが実際にあるかどうか。

そんな情報があれば、細大に拘わらず、他の方々も情報をお寄せいただければと思います。

1725一会員:2004/10/10(日) 14:30
はじめまして、このHPは最近知り、ほんの時々ですが見させていただいています。
私は学会員で、自衛隊のOBでもあります。
自衛隊の中に学会員はいますが、その割合は世間の学会世帯の割合より少ない程度ではないでしょうか。
自衛隊員といえど一人間です。自衛隊員以外の人と同じように喜怒哀楽・四苦八苦もあり、幸せや不幸に対する感覚・思いも同じです。
たまたま仕事が自衛官であるというだけです。
それから国家機密に関してですが、自衛官がその任務の部署で知る機密(最高の秘密)や秘、取扱い注意等は、例えば暗号とか、武器や武装艦艇の性能とかであり、これは極端に言うなら、ものによってですが、別の部署の自衛官にさえ開示することはしません。
それを守らなければ当然懲戒処分になります。懲戒覚悟で秘密を口外するほどのものって一体どんなものがあるのでしょうか?
通信機器の性能?潜水艦の潜水や能力や速度?人事?暗号?ミサイルの射程?防衛予算の使用明細?個人情報?
そんなものを公明党や学会にもっていったって、ただのゴミ情報でしょう(笑)
第一、今公明党は与党です。内閣の一員に大臣がいるし、副大臣もいるし、政務官もいる。防衛庁の秘密事項を知ることが立場にいるのです。
閣僚さえ知ることが出来ないもので、しかも自衛官なら簡単に手に入るという、創価学会がのどから手が出るほど欲しがる防衛上の国家機密って一体何?
具体的にそういうことを考えますと、件の話は、単なる井戸端会議の暇つぶし談でしかないということでしょう。
ちなみに、防衛大学生には学会員も顕正会員もいます。もし、そんな危険があるのなら、そういう人は入学させないでしょう。
そうそう、私が自衛隊の学校にいたとき、教官が学会員でしたよ。ハハハハ・・。
横から失礼いたしました。

1726犀角独歩:2004/10/10(日) 17:13

一会員さん、はじめまして。

至極尤もなご意見ですね。
たまたま、とある人と話しているときに、こんな話になったのです。わたしが創価学会の弁明をするのはロムの方すれば、奇異なことかもしれませんが、わたしは「そんなことはないでしょう」とその話を否定しました。
島田師『創価学会』(新潮新書)でも日本人の7人に1人は学会員(?)と記されていて、わたしは驚いたのですが、本当にそんな会員数かどうかは別として、この統計数を信じれば、自衛隊員の7人に1人が学会員であれば、平均数、それ以下であれば、自衛隊員になる学会員、会員数に比して少ないと考えるのが統計処理的な姿勢であろうと思った次第です。

貴重なご投稿を有り難うございました。

1727愚鈍凡夫:2004/10/11(月) 21:29

保田妙本寺の「万年救護本尊」についてですが、
総帰命の形を取りながら、四天王が省略されているのは何故なのか。といった謎もありますが、讃文について、聖滅後の他筆の可能性も含めて、漫荼羅図顕の時期と、讃文記入の時期が違うと考えられないでしょうか。もちろん、讃文が蓮祖真筆の場合は1275(文永12)年12月〜1279(弘安2)年12月の間と言うことになるのでしょうが。

「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年雖尓月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以仏智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」

この漫荼羅だけが「大曼荼羅」ではなく、「大本尊」とあるのは何故なのでしょう。これはこの漫荼羅の相貌に関係するのでしょうか。
以前にもこの話題で盛り上がっていた気もするのですが・・・・・。

1728愚鈍凡夫:2004/10/11(月) 21:37

誤→もちろん、讃文が蓮祖真筆の場合は1275(文永12)年12月〜1279(弘安2)年12月の間と言うことになるのでしょうが。

正→もちろん、讃文が蓮祖真筆の場合は1274(文永11)年12月〜1279(弘安2)年12月の間と言うことになるのでしょうが。

です。 m(_ _;)m ゴメン!!

1729中村:2004/10/12(火) 02:00
創価学会は神社にお参り行っては行けないと言っていますが日蓮大聖人様も神社にお参りに行ってはいけないと言っていたのですか?御書で神道について批判をしていますか? 教えてください!

1730犀角独歩:2004/10/12(火) 10:04

1727 愚鈍凡夫さん:

大本尊讃文他筆説ですか、大胆ですね。
でも、わたしも全面的には否定できません。

文永11年、この時期、讃文の挿入はほとんど確定しておりません。先に挙がった第11号はたぶん他筆、大本尊の半年前の7月25日第13号には「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間 雖有経文一閻浮提之内未曾有 大曼陀羅也得意之人察之」の讃文が見られます。この曼陀羅も実に特異ですね。おかしな例ですが、『立正安国論』の先魁に『守護国家論』があるように、第16号大本尊の先魁にある如くです。

第13号と第16号の讃文は「大覚世尊…二千二百二十余年…雖…」と言った言い回しが似通っています。

わたしは大本尊の讃文が図示の段階で添加されたものであったとしても「大本尊」が直ちに図示を指すのかということで、疑義を呈したことがあります。
つまり、「大覚世尊…大本尊…我慈父…隠留之…上行菩薩出現…始弘宣之」という文脈は、「大本尊」語は大覚世尊を指していると読むことはできます。また、これを余に始めて始弘するのが上行菩薩であるというのは『本尊抄』の寿量仏像を地涌千界が出現させるという考えとも一致します。ただ、第13号讃文と対比すれば、やはり、「大曼陀羅」と「大本尊」は用語の違いと見ることもできます。悩ましいですね。

いずれにしても、この時期で遺る第13号、第16号は他と抜きん出ていることは間違いなく、いっそ、この2舗は他筆ではないのかというあまりにも大胆な暴論を立てたい衝動に駆られそうになります。しかし、このようなことを言い出したら、空き缶さんのご叱責を被ることになるでしょう(笑)

1731愚鈍凡夫:2004/10/12(火) 11:38

犀角独歩さん、どうも。
「万年救護本尊」のあの讃文は、漫荼羅全体のバランスからいっても、隙間を埋めるように記されていることからいっても、漫荼羅図顕の後に書き加えられたことは間違いないと思います。
また、あの「漫荼羅」の副書に「本門寺建立之時、懸本御影堂 可為末代重宝也 建治元年太才乙亥六月十七日 甲斐国波木井郷図之」とあり、本門寺本堂ではなく本門寺御影堂に懸けよとことわっているのは何故でしょうか。このことは、生御影の背後に漫荼羅を安置する奉安型式を連想させます。

この副書について疑問に思うのは、年記が「建治元(1275)年太才乙亥六月十七日」であることです。漫荼羅図顕が文永11(1274)年12月とのことですから、半年後に副書が書かれたことになります。この半年の間にどんな心境の変化が起こったのでしょうか(皆既日食を見た所為か?)。
それと、この御影堂に安置する「生御影」は誰なのでしょう?
蓮祖は、本門寺建立の時に蓮祖生御影を造立し、本門寺御影堂に「万年救護本尊」とともに奉安せよと遺命されたと言うことなのでしょうか。

もし、この讃文が蓮祖の手によって書かれたとしたら、その時点で、蓮祖は漫荼羅正意であったことの証拠になるのではないでしょうか。

「小生の仮説が根底から崩壊しそう」 ( ̄Д ̄;;。

1732犀角独歩:2004/10/12(火) 12:10

愚鈍凡夫さん、「蓮祖は漫荼羅正意」ならぬ、「大本尊正意」となりましょうか?

いま手元に資料がないのですが、この副書も蓮師の筆(ということになっていた)でしょうか。蓮師がご自分の御影像の造立を促したというわけですか?

漫荼羅正意、御影信仰、さらに本門寺、事檀思想が定着したあとの、後人の加筆と見なすのが学的判断となるでしょうか。

仮説は崩壊しませんでしょうね。

1733犀角独歩:2004/10/12(火) 12:19

そうそう、それから御影堂のことなんですが、たとえば三堂といった場合、本堂・御影堂・垂迹堂となるわけですね。門下一般では本堂は釈迦堂で一体仏安置ですね。けれど、石山では、どうなるのでしょうか。やはり、漫荼羅でしょうか。堂宇は、れんさんも引用してくださったとおり、それぞれの尊体を奉安するものですね。興師が建立した(とされる)三堂の本門寺根元が本堂かどうかはわたしは決し得ないところはありますが、それは置くとして、当時の御影堂に漫荼羅の奉懸はされていたのでしょうか。木像であれば、まあ、その可能性はなきにしもあらずですが、盗難事件に触れて、愚鈍凡夫さんが秀でた指摘をされた如く「御影一舗」でした。つまり、これは絵で、たぶん、掛軸ですよね。そうなると、御影掛軸の後ろに漫荼羅の掛軸を懸けたら見えなくなってしまいます。そうなれば、左右に並べ懸けることになるのでしょうか。しかし、これは考えづらいですね。これに準じて考えれば、仮にその後、木像に発展したところで、当初は御影像の後ろには漫荼羅奉懸はしなかったと見るのが自然のように観じます。つまり、御影堂はあくまで御影のみ、本堂は興門では漫荼羅、他門では釈迦像のみという奉安ではなかったでしょうか。

その類推からすれば、たしかに副書の文面は如何にも歴史性から逸脱していると思えます。

1734愚鈍凡夫:2004/10/12(火) 12:47

「建治元年太才乙亥六月十七日 甲斐国波木井郷図之」とあるのですから、意図するところは、蓮祖が何時何処で書いたかを示したものだと思いますが、小生も、この副書は偽作でなければ辻褄が合わないと思います。

「空き缶さんの呪いの藁人形が怖い・・・・・」(by 独り言) (O.O;)(o。o;)

興味深いのは、この「漫荼羅」に特別な意味を持たせたのは日道師か、日郷師か、それともそれぞれに連なる誰かか・・・・・。ということになるでしょうか。

1735平和創価:2004/10/12(火) 18:07
>>1729
中村さん。初めまして。
蓮祖の御書に一節をご紹介します。「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人
は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」『立正安国論』御書17頁。「此
の国は謗法の国土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多
くの人を導く」『新池御書』御書1440〜1441頁。天照大神は法華の守護神であり、謗法の国に
は住まないのです。天照大神や諸天善神はこの国にはおらず、神社には神はいないのです。しかし日本
が広宣流布したならば、天照大神や諸天善神がお帰りになってきて神社に神が戻られるのです。

創価学会が神社にお参りに行ってはいけないと言うのはそういう理由からなのです。天照大神に罪があ
るわけではないのです。広宣流布して天照大神や諸天善神がお帰りなされる時を待ちましょう。

1736平和創価:2004/10/12(火) 18:12
失礼。訂正します。

>蓮祖の御書に一節を→蓮祖の御書の一節を

です。

1737犀角独歩:2004/10/12(火) 22:35

平和創価さん:

『新池御書』は偽書ではないでしょうか。

それと、天照大神、八幡大菩薩という神が駄目ならば、何故、漫荼羅にはその二神の名称が書かれてあるのでしょうか。

また、興師が北山に三堂を建立し、垂迹堂(天照大神)、そして八幡社を建立したことは石山文献にも載るところではないでしょうか。

さて、これらの点は如何でしょうか。

1738愚鈍凡夫:2004/10/12(火) 22:55

横レス失礼します。
№16の保田妙本寺蔵漫荼羅をなんとなく眺めていて思ったのですが、この漫荼羅は元々№15の馬渕妙経寺蔵の漫荼羅と同じスタイルだったのではないでしょうか(紙の大きさは違いますが)。その曼陀羅に、蓮祖ではない誰かが讃文を書き込んだ。
何となく、そういうことじゃないだろうか。ふと、そう思いました。

1739問答迷人:2004/10/12(火) 23:18

愚鈍凡夫さん

確か、万年救護本尊は、目師が最後の天奏のとき、携行し、郷師が垂井より持ち帰ったのではなかったですか。もし、そうだったら、賛文を書き込む立場の人は、興師しか考えられませんが、内容的に興師と思われる部分は、本門寺の御影堂云々、に限定されるのではないでしょうか。大覚世尊云々の部分まで興師が書き込んだとは思いにくいです。他に例があれば別ですが。少なくとも、目師が天奏に携行したのが事実であれば、この万年救護の賛文はその時、既に認められていたと思うのです。そして、この本尊は特別扱いされていたと。

1740愚鈍凡夫:2004/10/12(火) 23:36

問答迷人さん

> 確か、万年救護本尊は、目師が最後の天奏のとき、携行し、郷師が垂井より持ち帰ったのではなかったですか。

この時、あの讃文が漫荼羅に書き込まれていたと、事実関係を確認できるのでしょうか。
もし確認できるのであれば、ご教示下さいませんか。小生の推論が間違っているとすれば、思わぬ袋小路に迷い込むことになりますので。
よろしくお願いします。

1741問答迷人:2004/10/12(火) 23:52

愚鈍凡夫さん

>この時、あの讃文が漫荼羅に書き込まれていたと、事実関係を確認できるのでしょうか。

確認するすべは無いのではないかと思います。有るのは状況証拠のみ。この本尊を珍重する所以は、賛文の特異性に有ると思います。そして、それ故、万年救護本尊と称されるのだと思います。目師が携行されたのであれば、その段階でこの本尊には特筆すべき特徴が有ったと考えざるを得ません。それは、この賛文以外に何か特筆すべき点が有るかと考えても、特別見当たらない。だつたら、ゆはり、賛文が認められており。それ故珍重されたのではないかという事です。あくまでも状況証拠ですが。

1742愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 00:27

問答迷人さん、どうも有り難うございます。

保田妙本寺の漫荼羅を眺めていると、何となく作為的なものを感じるのです。
文永11年の現存する蓮祖漫荼羅は、四天王が省略されている漫荼羅が多いですよね。
その中で、この漫荼羅だけにあの讃文が記されているのは何故なんだろう。そういう疑問が頭から離れないのです(困ったもんだ)。

1743平和創価:2004/10/13(水) 07:08
犀角独歩さん

『新池御書』には「守護の善神は法味にうへて社をす天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて
多くの人を導く……仏陀仏をやめて寂光土へ帰り給へば堂塔・寺社は徒に魔縁の栖と成りぬ」
書かれてあります。曼陀羅の天照大神と八幡大菩薩は蓮祖の生命の中の神であり、それを蓮祖
は御本尊として顕されたものと思われます。形を持った社を拝んでも効果はないことを『新池
御書』では示されたのであって、蓮祖の生命の中には守護神は厳然として存在していたと思い
ます。謗法の国の社には守護神は住まず、法華経の行者の生命には守護神は住んでいるという
ように解釈されます。ですから曼陀羅に天照大神と八幡大菩薩の名称が書かれてあってもおか
しくはないと思います。

>興師が北山に三堂を建立し、垂迹堂(天照大神)、そして八幡社を建立したことは石山文献に
>も載るところではないでしょうか。

この点は興師が蓮祖の生命中の天照大神と八幡大菩薩を奉ったと捉えれば、矛盾はないと思い
ます。
『新池御書』は真筆は所在しておりませんが、真筆が所在する『立正安国論』にも「善神は国
を捨てて相去り……魔来たり鬼来たり」と書かれてあります。これは『新池御書』の先の部分
ともほぼ符合しています。『新池御書』が偽書となりますと、『立正安国論』も偽書ともなり
かねなくなります。いずれにせよ『立正安国論』には「善神国を捨てて相去り」と書かれてあ
りますから、御本尊の蓮祖の生命中の神であると拝されます。
興師が建立された堂は蓮祖の生命中の神を奉ったものと考えられますので、『新池御書』
は偽書とは思われません。弘安三年前後の他の御書と著しく異なる表記がありましたら、
偽書の可能性もありますが、そうした点にお気づきになりましたら、またそれを御指摘
下さい。
貴重な御意見有難う御座いました。

1744平和創価:2004/10/13(水) 07:14
犀角独歩さん
訂正です。
>守護の善神は法味にうへて社をす天に上り給へば
         ↓
>守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば

です。重大な御書の一字「て」を見落としました。大変失礼致しました。

1745犀角独歩:2004/10/13(水) 07:52

平和創価さん:

『新池御書』が真跡である証拠があるのですか。真跡はどこに遺っているのでしょうか。
あなたは何を証拠に『新池御書』真跡説を採るのでしょうか。「そう思う」などという子供だましの思いこみはここでは通用しません。
真偽未決所を確実な真書であると証明することは、そんな容易いことではありません。
もう少し真面目に書き込みをするべきでしょう。ふざけるのはおやめなさい。

> 『新池御書』が偽書となりますと、『立正安国論』も偽書

何を言っているのですか。『立正安国論』は真跡が遺っています。
創価学会版『御書全集』にも「正筆所在/中山法華経寺」(目録P2)と記されているでしょう。
『新池御書』とはその価値は格段に違います。
あなたの論法で行けば、「わたしは学会員である」という学会員がおり、その口真似をして非会員が「わたしは学会員である」と言えば、その人は学会員と言うことになってしまいます。真跡内容に準じて、偽書を造れば、内容が類似するのは当然のことなので、あなたの言う如き鑑別識は何の証拠にもなりません。

『新池御書』は偽書である可能性がありますから、蓮師の言葉として使用すれば、虚偽となる可能性を孕みます。資料の呈示には気を付けましょう。

蓮師の命日に嘘はいけません。

> 興師が蓮祖の生命中の天照大神と八幡大菩薩を奉った

生命ではなく、蓮師の教義であり、お心です。
安直に生命という短絡語で判断すれば、思考は停止し、また浅薄なものとなります。
もし、これを生命というのであれば、その証拠を確実な資料から挙げる必要もあります。
蓮師は許より、興師の資料からも「生命」なる概念はまったく見られません。
嘘を書いてはいけません。

さて、それはそれとして、興師が蓮師の教えの中に天照八幡を奉ったというのであれば、それは是ですね。であれば、その後の信徒が興師と同じように奉って何の問題があるのでしょうか。

1746犀角独歩:2004/10/13(水) 08:15

問答さん、愚鈍凡夫さんとの議論からは寄り道ですが、「万年救護本尊」、弘安3年5月9日禅師授与漫荼羅も北山では同様の名前で呼ばれています。『大石寺誑惑顕本書』にも見られますね。この話題は以前も話し合いましたが、「万年救護」思想が先行し、ではそれに適う漫荼羅・本尊はいずれか?という時系列が存するのでしょうね。

1747犀角独歩:2004/10/13(水) 08:28

平和創価さん、あなたの文章の中でもう1点、気になるところがあります。

> 形を持った社を拝んでも効果はない

では、たとえばあなた方が拝んでいる寛師漫荼羅を写真製版して、ラミネートを掛けた印刷物は、あれは漫荼羅の「形を持った」ものではないのでしょうか。形を持ったものを拝んでも効果がないといいながら、形を持ったものを拝むあなたの在り方は自己矛盾を来していますが、この点は如何でしょうか。また、蓮師はいずこに漫荼羅に、あなたが先に呈示した如き方便自我偈を上げる勤行をしろと書き遺しているのでしょうか。この点は『勤行について』スレッドに回答をお寄せください。

1748愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 08:35

確か、西山にも「万年救護」と呼ばれる漫荼羅がありましたね。
それにしても、「万年救護」とは誰が命名して、いつ頃から使われるようになった言葉なんでしょうか。

しかし、保田妙本寺の「万年救護」は副書によると本門寺御影堂に懸けるはずなのに、日目師は何故天奏の際に持参したのでしょう。もし、天皇に献上することにでもなったら、副書の遺命に逆らうことになります。やはり、ここにも虚偽がありそうですね。

1749問答迷人:2004/10/13(水) 08:47

愚鈍凡夫さん

>天皇に献上することにでもなったら

天皇に見せる為で有ったと思います。献上の意思はなかったかと。

資料、思い出せません。独歩さん、何処に書かれていたのでしたか?

1750愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 09:00

でも、天皇にお目通りが叶い、天皇が蓮祖漫荼羅に興味を示された場合、事の成行次第では天皇に蓮祖漫荼羅を献上することになるやも知れません。当然、その時の用意はされていたと思いますが、「万年救護」を天皇が所望した時はどうするつもりだったのでしょうか。
まさか、「これはサンプルです」とは言えないと思いますが。

1751問答迷人:2004/10/13(水) 09:20

万年救護の出所については、意味合いについては、蓮師報恩抄の

「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし。」

でしょうね。万年救護の成句が出てくる一番早い文献は五人所破抄でしょうか。

「伝教大師は三千侶の衆徒を安(お)く、義真以後は其れ無きが如し。今日蓮聖人は万年救護の為に六人の上首を定む、然りと雖も法門既に二途に分かれ門徒亦一准ならず。宿習の至り正師に遇ふと雖も伝持の人自他弁じ難し。「能く是の法を聴く者此の人亦復難し」と。「此の言若し堕ちなば将来悲むべし」と。経文と解釈と宛も符契の如し。迹化の悲歎猶此くの如し。本門の墜堕寧ろ愁(うれ)へざらんや。案立若し先師に違はゞ一身の短慮尤も恐れ有り、言ふ所亦仏意に叶はゞ五人の謬義甚だ憂ふべし。取捨正見に任す、思惟して宜しく解すべし云云。(富士宗学要集二巻七頁)

>所望した時はどうするつもりだったのでしょうか

うーん。判りませんね。多分、「献上するのではなく、説明の為持参した」と言って渡さなかったのでは無いかと思います。

1752愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 09:53

「万年救護の御本尊に云く上行菩薩出現●弘宣す之れを云云、又仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提未曽有の大漫茶羅也」(五人所破抄一覧)

漫荼羅を指す言葉として「万年救護」が使われているのはこの書ですね。これは、石山35世日穏師(在位:1765(明和2)年10月8日-1770(明和7)年4月8日)の書だったはずですから、随分後のことですね。

1753犀角独歩:2004/10/13(水) 10:24

問答さんに問いかけていただきながら、ちょっと目を離したすきにレスが進んでいました(笑)

目師が天奏に所持した宝物をたしか列挙した資料があったと記憶するのですがどこでしたか。探してみます。ただ、この辺の話の信憑性は如何ばかりか。何せ、紫宸殿に掛ける本尊というのが、れんさんがご指摘くださったとおり削損して紫宸殿本尊だという代物で、これもたしか目師は持って行った話になっていたような。いずれにしても、閲覧に供するためであったと記憶します。

「万年救護」語の要山血脉両抄、北山所破抄、さて、どちらが初出なんでしょうか。血脉両抄の成立年代が決め手ですね、これは。

・法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)
「万年救護の為に之を記し留むる者」
・具騰本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄)
「万年救護写瓶の弟子日興之を授与す云云」
「釈迦諸仏の出世の本懐、真実真実唯為(ゆいい)一大事の秘密なり。然る間万年救護の為に之を記し留む。」
・五人所破抄
「今日蓮聖人は万年救護の為に六人の上首を定む」

「万年救護」語は、北山では六老全員に掛かりますが、要山では興師に限りますね。

では、「万年救護本尊」となると、愚鈍凡夫さんのご指摘の『五人所破抄一覽』も載りますが、隠師は35代です。17代精師が『家中抄』『日蓮聖人年譜』に既にその用語が見られます。元来、目師直授伝説を、興師授与、次に目師と変えたのは精師でしょうか。それともあとからの改竄でしたっけ?

この点は、れんさんがお詳しかった。れんさん、もしロムされていらっしゃいましたら、ご教示ください。あと、もう1点、冨要『五人所破抄一覽』の「今日蓮聖人者又為に万年救護の(三十五字省略)能聴是法者斯人亦復難と文」のこの35字は何が埋まるのでしょうか。ご多忙のところとは存じますが、ご教示いただければ有り難く存じます。

1754愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 10:57

実は、小生が保田妙本寺の「万年救護本尊」の讃文に疑いを持ったのは、先に問答迷人さんが挙げて下さった「新尼御前御返事」が切っ掛けなんです。
「万年救護本尊」は1274(文永11)年12月図顕、「新尼御前御返事」は1275(文永12)年2月執筆です。
「新尼御前御返事」の存在を知っていて、漫荼羅正意の富士門実力者の誰かが、たまたま手元にあった「蓮祖漫荼羅」の日付けが「新尼御前御返事」の執筆時期に近いことに気づいた。
そこで、「蓮祖の本心は漫荼羅正意に有り」と主張するため、漫荼羅に讃文を書き込んだ。そうすることで、この二つが蓮祖の漫荼羅正意を補完しあうのではないかと考えたのではないか。
まあっ、こんな妄想が始まりなんですが。 (^^ゞ

1757平和創価:2004/10/13(水) 15:04

犀角独歩さん

「生命」という言葉を安直に遣っておりました。より真剣な姿勢でこれから対処して参り
ます。興師が奉った天照大神と八幡大菩薩を我々が拝しても差し支えないですがという御
意見ですが、それは『新池御書』を偽書としての上ですね。独歩さん。それでは逆に『新
池御書』が偽書であるという決定的な証拠はどこにありますか?真書であるという証拠は
ありません。しかし偽書であると仰られるのならばその証拠を提示して頂きたいと思いま
す。真書である『立正安国論』からは神社を拝してはいけないという蓮祖のお気持ちはく
みとれません。この問題は平行線を辿ってしまうように思われます。

次ぎに私が言った「形のあるものを拝んではいけない」というのは、『新池御書』を基と
して謗法にまみれて悪鬼が入った仏像や社を拝んではいけないという意味でした。言葉が
足りず失礼しました。曼陀羅も確かに「形のある」ものですから。

>蓮師はいずこに漫荼羅に、あなたが先に呈示した如き方便自我偈を上げる勤行をしろと書
>き遺しているのでしょうか。この点は『勤行について』スレッドに回答をお寄せください。

この問題は私の今まで勉強してきた創価学会の教学では全く触れられていない問題ですので、
暫く解答まで時間を下さい。この問題を解明するにはかなりの資料が必要ですので日数がかり
ます。『富士宗学要集』さえ持っていない私ですので、現在の力では及ばないかも知れません
がその時は「分かりません」と正直に回答致します。

1758平和創価:2004/10/13(水) 15:21

犀角独歩さん

『新池御書』が偽書である可能性か高いという独歩さんの御意見をお聞きしましたが、
それは興師が三堂を建立し、天照大神と八幡大菩薩等を奉ったという史実と御書の内容
が食い違うという点からですね。『新池御書』の写本の所在や写本が書かれた年代は御
書には書かれていませんし、それをどこから調べたらいいのか皆目見当がつきませんの
で、まだ入り口に来た状態です。

『新池御書』が偽書である可能性はそれ以外の部分からも言えるのでしょうか。他の部分
からも他の同時代の御書と大きく食い違う点や表記の違いがあれば重複しますが御指摘下
さい。

1759平和創価:2004/10/13(水) 15:27
1758
訂正:『新池御書』の写本の所在や写本が書かれた年代は御書には書かれていません
              ↓
  :『新池御書』の写本の所在や写本が書かれた年代は創価学会の御書全集には書か
   れていません 

です。失礼しました。正に教学は剣豪の修行ですね。

1760犀角独歩:2004/10/13(水) 15:39

平和創価さん:

> 『新池御書』が偽書…決定的な証拠

ないでしょう。しかし、だからと言って真筆とはなりません。
蓮師の確実な実像を素描するためには、真跡のないものはそれを断ったうえで使用するのが良心であると言っているのです。
あなたはわたしに反論しているだけのつもりかも知れませんが、斯かる姿勢は仏教学を含む科学全般を否定する姿勢であることをよく了解されるべきでしょう。

また、あなたは『新池御書』が万が一、偽書であった場合、それを真筆であると人々に語った責任、いや増して、蓮師へ対し奉り、責任をどのように取るのですか。責任感があれば、万が一でも虚偽の可能性のあることをあたかも真実の如く語ること慎むの良識に属します。我が身の、身の丈をよくよく知りなさい。また、平行線を辿るのは、あなた自身の創価学会内でしか通用しない固定観念のなせる業でそれ以上でもなければそれ以下でもありません。執着が真実を見る目を濁らせているのです。

『富士宗学要集』はnbがコツコツと苦心励行されて、ネットにアップされておられます。このような地道な作業と、さらにれんさんをはじめ、皆さんのような真摯な研鑽のうえにここの議論は成り立っています。読んでもいない不勉強な分際で莠言を吐くものではありません。もっと謙虚になりなさい。

nb資料室
http://nakanihon.net/nb/siryou.html

現宗研 文献資料
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm

追補

> 新池御書』の写本の所在や写本が書かれた年代は御書には書かれていません

つまり、要するにそう言うことです。書かれていないのではなく、書けないのです。ないからです。真跡があった確かな証拠すらないということですよ。
あなたは禄内・録外という意味はわかりますか。

> 剣豪の修行

嗤わせていけません。あなたの振り回しているのは木刀でも竹刀でもなく、当たってもくすぐったいだけのオモチャの刀です。自分の身の丈をしっかりと知りなさい。

1761犀角独歩:2004/10/13(水) 15:41

【1780の訂正】

誤)nbがコツコツと苦心励行
正)nbさんがコツコツと苦心励行

1762愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 16:59

犀角独歩さんは、「新池御書」が偽書であるといっているのではなくて、真蹟が存在しない遺文に関して、その扱いは、より慎重でなければならない。と仰っているのではありませんか。

蓮祖漫荼羅に日天・月天・明星天は勧請されていますが、蓮祖の星信仰は天拝という形で終生続けられていたと思います(北辰妙見も天拝の対象であったと思われます)。
また、天照大神・八幡大菩薩も漫荼羅に勧請されていますが、龍口へ護送される時に、鶴岡八幡宮社前で八幡大菩薩を叱責した伝説は有名です。
いずれにせよ、法華守護の善神として蓮祖は信仰されていたのではないでしょうか。
この点を見逃してはいけないと思います。

1763犀角独歩:2004/10/13(水) 17:38

愚鈍凡夫さん、蓮師は天照大神がおわすのかと疑義を投げかけたりしますね。あ、そうそう。ご質問の中村さん、はじめまして。ご挨拶もせず、失礼いたしております。

ま、平和創価さんは子供なのか、青年なのか、男性か・女性かも知りませんが、ともかく、若者は真摯に学ぶことですよ。このわたしなど、頭の悪い洟垂れに過ぎない、それでも、これから最期に向かって歩んでいこうと思っています。「臨終ただいまにあり」と言いたいところですが、いま死ぬと解らず終いのことが多くてちょっと残念です。哲学の原意が「知に対する愛」、わたしは江戸っ子で愛知県人ではありませんが、この県名は西周が哲学と訳したより正確な訳語になっているのですね。哲学と科学、そして人間味が人生を豊にします。若いときに特定宗教の閉ざされたせせこましく、狭量な世界観を絶対だ、素晴らしいと思うと、ものすごく損をします。ここの方々はそれを身に染みて知っておられますよ。若いときに、こんな掲示板に出会えていたら、わたしの人生はどんなにか豊かなものであったか。50年を過ぎたいまでは、平和創価さんは今後、学べる時間で、たぶん、ここの誰よりも優位に立っているでしょう。ただし、いまは冨要も読んでいない、この世界の幼稚園児です。まあ、そのうち、立派になって、老いぼれたわたしにたくさん、ものを教えてください。さて、何年後でしょうか。猶予はどれだけあれば、追いつきますか。
待っている…、というより、楽しみにしています。
生意気な若い人が大好きです。まあ、かつてはわたしもそんな青少年でした(笑)

1764釜龍:2004/10/13(水) 17:48
皆様こんにちわ
今日は休みだったのでずっと過去ログを拝見しておりました。そこで、『続 大石寺問題提議』で、聖人御難事抄の「仏滅後二千二百“三”十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり]
の部分と、弥四郎曼荼羅の「二千二百二十余年」が異なるという議論がなされているのを拝見致しておりました。
そこで、日蓮宗の昭和定本日蓮聖人遺文(私の見ているのはコピーのコピーですが)
の聖人御難事抄を見てみましたら、「仏滅後二千二百“二”十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり」となっているのです。
これは、どういったことなのでしょうか?
日蓮宗版と大石寺版が異なっているということでしょうか?真蹟を見ることはできませんので、皆様のご意見をお聞かせ頂きたく久しぶりにレスしてみました。お願い致します。
もうすでに議論されている議題でしたらすいません。

1765犀角独歩:2004/10/13(水) 18:47

釜龍さん、これは確かに昭定はそうなっておりますね。過去の議論は、石山・学会版を基本にしておりました。昭新でもそうなっております。甘い考証であったということですね。反省します。

これは一つ、『日蓮聖人真蹟集成』をお持ちのれんさんのご回答を賜れれば有り難いところです。『日蓮大聖人真跡対照録』』(立正安国会編)をお持ちの方は是非ともご教示ください。

中山法華経寺に真跡が所蔵となっておりますね。真跡と対照したという『平成新修日蓮聖人遺文集』でも「二千二百二十余年」となっておりました。

1766犀角独歩:2004/10/13(水) 18:49

釜龍さん、それから、1760に紹介した現宗研文献資料のは昭定だと思います。
ダウンロードもできます。コピーのコピーより正確だと思います(笑)

1767愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 19:04

今、1279(弘安2)年の「漫荼羅」13舗で確認したのですが、

「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
が6舗

「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
が7舗でした。

僭越ながら、以前と同じツッコミですが、 (^▽^;)

「この違いは一体何なんだ!!」

1768犀角独歩:2004/10/13(水) 19:19

愚鈍凡夫さん、弥四郎漫荼羅の原本は弘安3年5月のレアもののようです。あしからず(笑)

1769愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 19:37

レアものと聞くと、ワクワクしながら電卓を連想するのは、老後のことしか考えないオッサンの悲しい性でしょうか。 (;´д`)トホホ

1770鎌龍:2004/10/13(水) 20:23
独歩さん
この違いはどちらかが故意に違えて載せたということになりますね。とすると真筆所持の日蓮宗が変えることはないとすると学会版石山版のほうがそうしたことになりますが、この理由とはなんであるのでしょうか。御伝土代等の「三十余年」と合わせたかったということなんでしょうか。とすると、変えたことによって弥四郎曼荼羅の偽とする一つの要因を自ら作ってしまったということでしょうね。墓穴掘りということですか・・・

1771れん:2004/10/13(水) 20:31
釜(鎌?)龍さん。真蹟集成にて該当箇所を見ましたところ「仏滅後二千二百三十余年」と記されてますが、真蹟には三に縦線が引かれ横に二と記されています。この訂正?が蓮師自筆のものか否か、蓮師真蹟遺文には蓮師自ら訂正や文を後加する例がいくつもありますので、「平成新修」の編者の方はこれを蓮師自らの訂正とみて“二”とされたのでしょう。

1772れん:2004/10/13(水) 20:35
訂正。誤、“二?
正、“二”

1773れん:2004/10/13(水) 20:39
すみません。1772は間違いですので、管理人様におかれてはお手数ですが削除のほどお願いします。
改めて訂正。
誤、“二?
正、‘二’

1774鎌龍:2004/10/13(水) 20:47
れんさん な、なんと!そ、そうでしたか。勝手なイメージだけで学会版石山版を批判したことになり心より謝罪しなければなりません。申し訳ございませんでした。そしてれんさんありがとうございました。

1775鎌龍:2004/10/13(水) 21:02
れんさん と致します、蓮師が訂正した理由はなんだと思いますか?逆ならなんとなく理解できるのですが。む、難しい。

1776れん:2004/10/13(水) 21:26
鎌龍さん、聖人御難事真蹟の該当箇所の訂正?部分については、他筆つまり後人による加筆の可能性も否定出来ないと思います。たしか、かつてこの件で安国会に問い合わせたところ「他筆」であるとの回答を戴いた記憶があります。この訂正?が蓮師自らのものであるとして、なぜ‘三’十余年を‘二’十余年に訂正?したのか。二十余年と三十余年の相違について、蓮師が自らの見解を述べられたものが無いこともあり、私自身、蓮師の意図をはかりかねているというのが実情です。

1777鎌龍:2004/10/13(水) 23:39
れんさん   懇切丁寧にご教示くださいましてありがとうございます。そうですかあ・・・れんさんでもお分かりではないとなるとなかなか難しいですね。本当になぜなんでしょうか。もし他筆の場合もなぜなんでしょうかね。なにか意味がなければしないでしょうし。

1778れん:2004/10/15(金) 21:59
鎌龍さん、ご返事遅くなりました。二十余年と三十余年の相違の理由について、他の蓮師門下の曼陀羅についての口伝書が収録されている「本尊論資料」を見てみましたが、残念ながら相違の理由を述べたものはありませんでした。蓮師図顕曼陀羅の讃文における二十余年と三十余年の違い、聖人御難事の(蓮師筆にせよ他筆であるにせよ)三十余年を二十余年と訂正?している理由は何なのか、これは「永遠の謎」となりそうです。

1779鎌龍:2004/10/16(土) 12:46
れんさん ご返信ありがとうございました。どうやらそのようですね。蓮師は本当に難しいです。私などでは理解できません。またいろいろ教えてくだらい。ありがとうございました。

1780顕正居士:2004/10/18(月) 18:36
「神天上(じんてんじょう)」

「神天上」の教義は日蓮宗のどの派にもありますし、これは日蓮自身に由来するものと考えます。『新池御書』
を特に後世の成立とみなす理由はありません。この思想は「神祇不拝」ではありません。日蓮は天照大神、
八幡大菩薩、千眼(浅間)大菩薩への信仰を抱いていました。ただし日蓮の基本の教義は聖道門を捨閉閣抛
(しゃへいかくほう)せよという法然を「一凶」とし、聖道門の中でも法華経(天台宗)を第二、第三と下す華厳や
東密を「誹謗正法」と批判します。鎌倉、室町の時代には仏教の勢力が強くなり、「本地垂迹」の配当が完成
して、神社の多数が仏教の各宗のどれかと習合しています。したがって「神天上」は「謗法の社」、大石寺日有
のいう「他宗の神社」への不参を述べたものと、後世は解釈されます。

「神仏判然令」によって神仏習合の旧習がほとんど一時に破却され、今日の我々は神仏の関係に疎くなって
います。「神天上」の教義からいえば、「判然」以後の神社は「謗法」(仏教内部の事柄)と無関係であり、不参
の対象ではありません。法華宗の寺院が勧請した社は天上に去るといえども「正直の頭」には宿る意義です。

神仏判然令、近代真宗教学、キリスト教ファンダメンタリズム(戸田城聖)などの集積の影響により創価学会の
神仏の関係に関する教義は特に異様であり、大石寺と訣別した大きな理由でしょう。しかし創価学会出身以外
の僧侶もこれを情緒的には変だと思っても、何が変なのかを的確にとらえられない、神仏関係史に疎くなって
いるとおもいます。

1781問答迷人:2004/10/19(火) 18:13

顕正居士さん

>鎌倉、室町の時代には仏教の勢力が強くなり、「本地垂迹」の配当が完成して、神社の多数が仏教の各宗のどれかと習合しています。したがって「神天上」は「謗法の社」、大石寺日有のいう「他宗の神社」への不参を述べたものと、後世は解釈されます。

なるほど。そういう経緯が有って、「神社への不拝」ですか。それなら、今日的には、何ら、神社参詣は問題とならないわけです。有難うございました。この件、はっきりしました。

1782勉強中:2004/10/19(火) 23:49
顕正居士さん初めまして、横レスにて失礼します。

『新池御書』を真撰とできない理由は、文中に宗祖滅後に建立された寺院のことが書かれているからではないのでしょうか。

「建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の頽れたるが如く、威儀の放埓なることは猿に似たり。」

この文中の「円覚寺」は宗祖滅後の弘安五年十二月の建立ではないでしょうか。

御教示くださいませ。

1783顕正居士:2004/10/20(水) 08:10
>>1782 勉強中さん。初めまして。

円覚寺のことは知りませんでした。弘安5年に創建というのが落成の意味なら、弘安3年に円覚寺の名前が
すでにあったかも知れませんが、後世に作られた文書の疑いが生じる箇所です。

もうひとつ変な箇所があるのに気が付きました。「春日大明神の託宣」が引用されています。「三社託宣」と
してまとめられる以前に個々の託宣が知られていても不思議ではありません。しかし引用されている文章、
「春日大明神の御託宣に云く、飯に銅の炎をば食すとも、心穢れたる人の物をうけじ〜」は春日大明神では
なく、八幡大菩薩の託宣です。さまざまな偽書が作られたのは鎌倉、室町の戦火の時代です。中国文明圏
では漢の時代から活版印刷があり、併行して木版印刷が行われました。しかし江戸の泰平をむかえるまで
日本では出版の活動はほとんど停止しました。それで偽書の作者はでたらめな引用をすることがあります。

*三社託宣
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/shinto/sanjatakusen.html

『新池御書』を特に後世の成立とみなす理由はない、と述べたのですが、二箇所も疑問点があるのですね。
内容上は問題がない、つまり真蹟に見られる思想の延長だとおもいますが、あえていえば、「謗社不参」と
いう具体的なおきてがわかりやすく導けるのが、宗派意識(宗派財政)が出来てからの創作かも知れない。
真蹟遺文の延長上にあるけれども、いささか「情熱的」に過ぎ、いささか「形式的」な真偽未決書、『如説
修行抄』など「折伏系」の偽書が「本覚系」の偽書以外にあり、日蓮の思想をゆがめていなくても、矮小に
している可能性はあるとおもっていましたが、『新池御書』にはぜんぜん疑問がありませんでした。ご指摘
に感謝いたします。

1784犀角独歩:2004/10/21(木) 02:12

突然思い出しましたが、勉強中さん(はじめまして)、また、顕正居士さんがご指摘になった点、古い『大崎学報』で読んだ記憶があります。ただ、ずいぶん前のことなので、あるいは他の研究誌であったかも知れません。それにしても、そのような賢察に、ご自身のご研鑽で到達されることに改めて、敬意を評するものです。

1785勉強中:2004/10/21(木) 11:18
顕正居士さん御教示ありがとうございます。

犀角独歩さん私の投稿記事は、興風談所の御書システムを参考にしましたまでで、決してオリジナルではございません。
引用を明記せず誤解をまねくような事になってしまいましたことをお詫びいたします。

1786犀角独歩:2004/10/23(土) 08:24

勉強中さん、いえいえ「お詫び」など、とんでもありません。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

1787勉強中:2004/10/23(土) 15:01
犀角独歩さん、お忙しい中でのご返信、誠に恐縮です。

本日の論考は、宗門僧侶との質疑応答も含め、大変にわかりやすく勉強になりました。

余談ですが、都守師の論考も興味深い内容でしたね。

1788犀角独歩:2004/10/23(土) 15:35

勉強中さん、お出でいらっしゃいましたか?
また、過分なお言葉を賜りまして、有り難うございます。
お声を掛けてくだされば、用意していた画像の一切はお見せしましたのに。

わたしも都守師の論考は実に参考になりました。

1789勉強中:2004/10/23(土) 19:46
犀角独歩さん、度々恐縮です。
まだこちらにお邪魔して日が浅い上、独歩さんは講師諸師との談笑中でございましたので、私は池上にてお弁当を戴き、若干の見学をさせていただき帰路に着きました。
またお会いする機会がございましたら、是非ご挨拶させていただきたく存じます。

都守師の論考には、興風談所の坂井師なども注目されていましたね。
宗門からは高橋粛道師をはじめ、富士学林在籍中の御僧侶など6・7名がおみえでしたね。

それにしましても犀角度歩さんの堂々たるお姿はすばらしかったです。
一緒にいらっしゃいました、日興跡条々事に関する論考をされました方は、こちらの掲示板にもお出での方でしょうか。高橋師より直に意見が飛びましたね。
「大石寺教学の研究」で知られる東師も登壇され、ネット界の論師の方々がそろってこのような場に出てこられた事に驚きと喜びを禁じえません。

そういえばネット界の有名人である、波木井氏などもおみえだったんでしょうか。

独歩さん、月曜日もがんばってください。こちらは一般参加は不可のようですから、私は以後こちらの掲示板にて展開されます御所論を拝させていただきます。

1790犀角独歩:2004/10/24(日) 04:19

勉強中さん、ぜひ今度、わたしを見かけられましたらお気軽にお声をお掛けください。

それにしても、石山の富士学林の坊さん、可愛かったですね。わたしの子どもぐらいの年齢の子たちが一所懸命に質問?したのには、思わず笑みがこぼれました。

質問者は『日蓮上人』掲載の写真は由井一乗氏の『日蓮大聖人』に載った御影堂写真を転載したものである、写真は熊田葦城氏が勝手になぞったものであると言っておりましたね。しかし、こうなると、御影堂にあった板漫荼羅は日禅授与漫荼羅である、あるいは、熊田氏はかなり正確に禅師漫荼羅のとおりに線を描いたことになるわけです。また、御影堂安置の板漫荼羅を宝蔵格護を偽ったことにもなるのにと思いながら、その発言を聞いていました。

また、もう一人の質問者は石山歴代貫主が北山に行って禅師漫荼羅を模写できると考えるのかと問うていました。そんなことを考えているのではなく、事実として、熊田氏が、(もしくは由井氏が)発表した写真が禅師漫荼羅と相貌なのかという事実関係を問題にしているのみという説明にあっさりと納得していましたね。しかし、ここで問題にされるべきは、その禅師漫荼羅に「本門戒壇」という腰書きが、では、なぜ付いているのか、また、同漫荼羅は弘安3年5月9日と日付が明示されているのにも拘わらず、腰書きには「弘安2年10月12日」になっている矛盾をどう考えるのかという点です。こんな調子でいくと「由井氏や、熊田氏が、禅師漫荼羅の板本尊を勝手に「本門戒壇の大御本尊」と発表したのだ」と言い出しかねないと思った次第です。

もう一人、わたしが『河邊メモ』が一つの模刻説であると言ったのに対して、長々と河邊師本人の弁明文を興奮した声で読み上げだしたのには、これはいただけませんでした。まあ、20歳そこそこの年端もいかない青年、一般の常識がわからないのも致し方がないと言えば、それまでですが、人を導く教師(僧侶)になろうというもの振る舞いとしては、首を傾げざるを得ない態度でした。

高橋さんの本は既に一般では買えず、立正大学の図書館、あるいは国会図書館でしか見られないと言うご本人の言でした。「そこに書いてあるから読め」というのは、わたしにはどうにも納得がいきませんでした。「質問者は所属と名前を」と言われて、発言を許されているのに、名前を言わず話し出そうとするのは如何な者かと、まず思いました。それはともかく、この本では、『日興跡条々事』の写真が載っているのでしょうか。一次資料も発表されない、「こう書いてある。ああ書いてある」などというものは研究に入りませんから、あれだけ、自信を持って語っている以上、一次資料の写真は載っている本を発表されたのだと、大した進歩であると仄聞していました。ポーカーのブラフじゃあるまいし、「こう書いてある」などという与太話に真面目に付き合う研究者はいません。その意味から、高橋さんの本には、『日興跡条々事』原本写真が載っているのだと、大した進歩であるとご本人の言を聞きながら思った次第です。(まさか、載っていないなんてことはありませんでしょう)

その意味でも、都守師の発表は素晴らしかったと思います。あのように原本(一次資料)の写真を載せて論攷してこそ、研究といえます。

わたしのあとのの発表者も、「一次資料(『日興跡条々事』)の写真を石山は発表しましょう」という当然のご意見でした。

わたしも同じです。「実際、違う」だなんだと文章や言葉でとやかく言う必要はありません。「百聞は一見にしかず」です。わたしの言うところが違うというのであれば「図形」で、「ここが違う」とはっきり明示してくれれば、それで納得できます。ほかのごたくは聞いても仕方ありません。まず、図形ありき、一次資料の発表ありき、これ以外にありません。石山は所謂「本門戒壇の大御本尊」という彫刻の写真と、日禅授与漫荼羅、伝・日増授与漫荼羅など、自分たちが蓮師真筆であると言い張る一切の漫荼羅の写真を公開し、自らの「正義」を訴えればそれでよろしいわけです。

いずれにしても、日蓮宗宗務院に石山の坊さんがやって来たという事実は、微笑ましいものでした。

1791問答迷人:2004/10/24(日) 06:32

犀角独歩さん

お疲れ様でした。遂に世に問うた訳ですね。是非、開陳オフ会、計画して欲しいと思います。万障繰り合わせて参加させていただきます。

1792犀角独歩:2004/10/24(日) 08:07

問答名人さん、有難うございます。
お陰様をもちまして、第一歩です。

昨日はOHPでたっぷりと画像を用意していったのですが、会場で使えないという一幕もありました。これは実に残念でした。明日は60分で講演します。ここではOHP使用できます。まあ、こちらが公式のお披露目となります。ただ、一般参加はできない会合ですので、開陳オフ会、わたしも希望です。

もっとも最短でしたら、今週は29日、もしくは30日日曜日は空いております。
問答さんには早くご覧いただきたいとわたしは願っております。
ご都合の程、如何でしょうか。
『オフ会開催案内』スレッドに移動して、打ち合わさせていただけますでしょうか。

1793犀角独歩:2004/10/24(日) 08:08

↑間違えました。日曜日は31日ですね。失礼しました。

1794みかん:2004/10/24(日) 12:02
 東京・池上の日蓮宗宗務院で、日蓮宗教学研究発表大会があり、日興門流関係の発表もあるというので聴いてまいりました。残念ながら、私は都合で22日は聴くことができず、23日も途中からしか聴けませんでした。池上は小春日和で、とてもよい気候でした。

 わたくしが会場に入ったときに発表されていたのが、『大石寺教学の研究』の東さんでした。「初期興門における本尊思想について」というタイトルで、その時代の本尊観が「造像を厳誡」だったのか、「造像を認めてい」たのかを論じられていました。

 次の方が、犀角独歩さんでした。「大石寺漫荼羅の真偽について――所謂「本門戒壇の大御本尊」の図形から見た鑑別」と題して、板漫荼羅に紙幅の原本が有ったか否かを論じられました。本門寺根源(北山)所蔵の日禅授与の漫荼羅と全体のレイアウトは異なるが、各文字ごとに重ねると一致することを指摘され、「1 日禅授与漫荼羅の各文字を模写・原図とした 2 各文字ごとに丸木板状にレイアウトし直し『パッチワーク』した」と結論付けています。これに対して、3名の日蓮正宗の若手ご僧侶から、批判的な質問・ご発言がありました。OHPが使えなかったので、たくさんの図像が見られなかったのが残念でした。さらに詳しい内容は現在準備されているご著書で読めるものと期待しています。

 その次の方は「『日興跡条々事』について――各刊本対照と真偽問題」との発表でした。日蓮正宗が刊行する諸本に収録されている「日興跡条々事」に大きな異同があること、大石寺では同文献の原本が残っていると主張しているが、公式に発表された写真版が現存せず、疑問が残り、ぜひ公表してほしいと発表されました。それに対して、日蓮正宗・愛知県・妙道寺事務所ご住職の高橋粛道先生から、それについては高橋先生の著書の『日蓮正宗史の研究』で論じているから、それを踏まえて手紙などいただきたい、という趣旨のご発言がありました。

 最後の発表者が都守先生で、「『善無畏三蔵鈔』再考」と題され、録外御書である同遺文には真蹟、古写本が存しなかったので近年あまり用いられてこなかった。ところが最近、京都妙覚寺の寺宝調査で同遺文の断片と思われる真蹟断簡が発見されたという、興味深い事実を報告されました。それを踏まえ「善無畏三蔵鈔」について再検討を加えられました。それに対し、寺尾先生(だったと思う)と、興風談所の先生が質問されていらっしゃいました。

 4つの発表しか聞けませんでしたが、どの発表も大変興味深く拝聴しました。また、さまざまな立場の違いがありますが、それを超えて、日蓮研究、日興門流研究が深まり、さらにはその基礎となる資料の収集、公表がさらに進むことを念願いたします。

 日蓮正宗ご僧侶方が複数で日蓮宗宗務院に乗り込んできたというのは、いろいろ興味深いことですね。

 勉強中さん、お会いできなくて残念でした。また機会があれば是非。

1795犀角独歩:2004/10/24(日) 15:54

みかんさん、有難うございます。
問答さんがご提案くださった開陳オフ、できましたら是非ともお出でください。
勉強中さんもお会いできればと勝手に念願しております。

1796勉強中:2004/10/25(月) 01:31
犀角独歩さん、みかんさん、こちらこそ是非よろしくお願いいたします。

30日・31日はあいにく仕事が入っていまして、帰りも遅くなりそうです。
22日から明日の25日までの4連休のつけが今度の週末です。
しかし大変に勉強になった2日間でした。興風談所の坂井師は、その論考や各種講演に対する質問など、日蓮門下一般でもかなり評価は高いと思われます。興風談所では若手になるのでしょうが、将来的にかなり有力な研究者であると思われます。

次のお休みは11月3日ですが、この日は当初中山法華経寺の霊宝お風入れに行く予定でしたが、交通費の捻出に苦心しているところです。今回はちょっと厳しいかもしれません。
坂井師は犀角独歩さんの御講演を、どのような気持ちで聴講されていたのか、個人的には非常に興味があります。
高橋師も宗旨の根幹の真偽に関する論考に、何の意見もないのかと不思議でなりません。若い僧侶たちは必死であったと思います。しかし私は、熊田氏の「日蓮上人」では「御影堂」を「冨士大石寺の本堂」と紹介していますので、当時「弥四郎曼荼羅」が「御影堂」にあっても何の不思議もないと思うのですが、いかがなものでしょうか。

余談ですが、先日の「『日興跡条々事』について――各刊本対照と真偽問題」の論考と、保田妙本寺執事さんが1996年8月に『「日興跡条々事」の誤写を正す』と題して「冨士門史学研究会会報」第1回に発表されました論考とが、途中までかなり近い内容であったような気が致します。

冨士宗学研究会様には書籍発注の以来のメールを入れさせていただきましたが、直接お話を拝聴できないのは残念です。いつの日かお会いできる事を念願いたします。

1797伊野 健太:2004/10/25(月) 14:22
 富士宗学研究会とは、どこが主体になっている団体の事ですか?
そこでは、書籍を出版されてるのでしょうか。

1798小僧:2004/10/25(月) 21:43
本日、犀角独歩先生の御講演を拝聴させていただきました。
私にとってはほとんど未知のお話でほとんど理解できませんでしたが、元現宗研所長の
石川先生や黒木先生のご質問を伺い、終了後に師僧にかいつまんで電話したところ、
「詳しく話せ、大変なことである」と言われ、ノートもとっていませんでしたので、
「すぐに講演の記録ができると思うからすぐにおくります」と答えました。
私は正宗のひとをだれも知りませんので犀角独歩先生のお話を漫然と聞いていただけだったので、
師僧の強い言葉に「えっ、なんで」とおもったのですが、その後数十分電話で話して、
犀角独歩先生のご発表の重大なることがようやく少し理解できました。
OHPでの映像について説明したところ師僧は是非自分も見てみたいと申しておりました。
本日、お配りいただいたレジュメをさっそく師僧にファックスしましたところ、生まれて
はじめて師僧から「ありがとう」といわれました。
犀角独歩先生にお礼申し上げます。
これから過去ログを読ませてもらい、師僧にもファックスするつもりでおります。
ありがとうございました。

1799みかん:2004/10/26(火) 04:46
>小僧さん。
はじめまして。
小僧さまがおいくつでいらっしゃるのか存じ上げませんが、20代から40代ぐらいでしょうか? ちょうど「若い世代の日蓮宗のお上人には、創価学会や大石寺問題というのは縁遠いのでしょうね」、と土曜に独歩さんとお話したところでした。
師僧さま(小僧さまのお父上でいらっしゃいますか?)の世代ですと、創価学会が日蓮宗を「謗法だ」、身延山を「謗法の山だ」と攻撃して、「大石寺の本門戒壇の大御本尊が日蓮大聖人の出世の本懐だ」と強調していた時代を実体験されているので、大石寺の板漫荼羅には関心がおありなのではないかと、推察いたします。
小僧さまも、これを機会に、すこし大石寺に調べていただけば、いろいろ興味深い発見があるのではないかと思います。

>独歩さん。
月曜の講演も成功したようでおめでとうございます。
こういう形の反響があるのが何よりですね。

1800みかん:2004/10/26(火) 05:44
23日の「日蓮宗教学研究発表大会」における、独歩さんと質問者の質疑応答をテープ起こししましたので、ご参考までに掲載します。

A「富士学林のAでございます。日禅授与本尊ですけれども、どの資料にあたられて検討なされたのか、お答えいただければと思います」
独歩「何でございますか」
A「日禅授与本尊」
独歩「日禅授与本尊の出所に関しましては、北山本門寺の本尊を使用しておりますけれども」
A「『御本尊集』に掲載されていないということですので、山中随喜氏(ママ)、あと片岡随喜居士の編集であります『御本尊集』にはでていないのですけれども、北山本門寺にいかれて写真をとられたということでしょうか」
独歩「その件に関しましては、写真の出所に関しては御当人から控えるように、発表を控えるようにということがございますんで。写真がございますんで、もしご不明な点があれば、この後言っていただければ、ご覧いただけます」
A「わかりました。大石寺にも日禅授与本尊があるということはご存知ですか」
独歩「もちろん、存じております」
A「あと、熊田氏の『日蓮上人』にしか大御本尊の写真が出ていないということなんですけれども、熊田氏の写真というのがですね、あの由井一乗居士という方の『日蓮大聖人』という本があるんですけれども、その御影堂全景の写真のなかからの、拡大してあの本に掲載されていまして。しかも修正が加えられているということはご存知でしょうか」
独歩「はい存じております」
A「ではあの、修正される前の写真と、修正した後の写真との比較検討はなされているでしょうか」
独歩「そのような点は承知しておりますけれども、本日は15分という短い時間ですので、そこまでは割愛させていただきました」
A「まあ、熊田氏の写真についてはですね熊田氏のセンスで、主題と花押と、あと不動、愛染、四大天王等について修正が加えられているということはご存知でしょうか」
独歩「存じております」
A「わかりました。ありがとうございました」
独歩「ちょっと補足すれば出すね。その件に関しましては、ぜひとも大石寺の方から、本門戒壇の大御本尊と言われる彫刻本尊の詳細な写真を発表していただきまして、もう一度図形として考察を行いたい。このように考えております」


B「Bと申します。大石寺に僧籍を置くものです。先ほどの質問とちょっとリンクするんですけれども。いまこちらで、日禅授与の御本尊、大漫荼羅との比較検討が行われましたけれども、これをお聞きいたしますと、大石寺の歴代の人が結局のところ、その、日禅授与本尊を、偽作したというようなことになりますのでしょうか」
独歩「偽作というのはどういった意味でおっしゃっているのでしょうか。あのう、あくまでもですね、本日の発表につきましては、図形上の比較でございまして、つまり、申し上げれば、いわゆる大石寺の言うところのいわゆる本門戒壇の大御本尊と、北山所蔵の日禅授与漫荼羅が、相貌、図形的な意味でございますね、よく似通っているということを申し上げたに過ぎません」
B「ありがとうございました。ひとつ申し上げておきたいんですけれども、日禅授与の御本尊を、大石寺の貫主が臨写できるような環境、ま伝承という意味に起きまして、そういう環境になかったと私は認識しておりますが如何でしょうか」
独歩「あの、そこらへんの歴史な推移または状況というものは、わかりません。わかりませんが、ハッキリいえることは、図形で比較したときに重なっている。ただその一点でございます」
B「はい。ありがとうございます。」


C「X大学大学院修了のCと申します。今般の真偽を検討される際の真偽のテーマというのは原本があるかないかに絞られていると思うんですけれども、それと大石寺の『日蓮聖人の究極の本尊と主張』するというその主張の真偽との、どう重なり合うのか、あるいは重なり合わないのかということについてご見解をうかがえればと思います」
独歩「とくにそれは、リードみたいな言葉でございまして、関連はございません」
C「はい、わかりました。どうもありがとうございました」

1801みかん:2004/10/26(火) 05:46
D「大石寺に僧籍を置くDと申します。レジュメですねえ。一点間違って掲載されている設問がありまして。裏側の河邊メモなんですけれども、この最後に『これも一つの大石寺本尊模刻説に数えることができます』とありますが、実際当人の河邊氏から、『日蓮正宗の宗内各位へ』ということで、えーっとですね、ちょっと読ませていただきます。『この度の河邊メモの件につき申し上げます。私はこれまで種々メモを残しておりますが、その方法は、見聞した事柄につき、後に回顧して書いたものが多く、その際、私の性格として、自分の主観に強くこだわり、その趣旨で書き記す傾向があります。従いまして、今回の件における面談の折の記憶を喚起致しますと、当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります。但しこの話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、『本門戒壇の大御本尊』が偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいましたことは明らかに私の記録ミスであります』」
独歩「あのう、よく存じております。」
D「はい。ご本人が‥‥」
独歩「ですから、その意味から申し上げてですね。ここでもう少し言葉を書き換えてもよろしいんですが、日禅授与漫荼羅の一つの説として私は捉えたということでございます。はい」
D「『模刻説に数えることができます』というまあ、不明瞭な、きちんとした、事実と異なることを書くというのは、まあこういう場で発表されるのにふさわしくないと思いますので、きちんと」
独歩「いま、おっしゃられたのは、大石寺の見解としてそのようなご意見を」
D「いや見解じゃなくてご当人がこのように」
独歩「いや、河邊さんがそのようにおっしゃっているのかもしれませんが、それのとったそのメモを創価学会その他で、それをそのような説として捉えたということがございますので」
D「そう書いてください」
独歩「その、訂正ができないものですから、レジュメには書けなかった。そのいうことがございます」

1802頭角無類:2004/10/26(火) 06:20
犀角独歩さん
はじめまして、頭角無類と申します。

 発表のレジメを拝見させてもらいました。大変興味深い内容でした。素朴な疑問なのですが、大石寺の本門戒壇本尊が、日禅授与の本尊から部分部分を双鉤填墨のような手法を用いて文字を写しとって作られたものだと仰りたいようですが、その場合、文字が完全に一致するはずです。
 なのになぜ、「ほぼ一致」とか、「全体はよく一致」ということになるのでしょうか?
 写しとって作られたとするならば完全一致でなければおかしいことになると思いますが、その点の見解をお聞かせ願えれば幸いです。

1803犀角独歩:2004/10/26(火) 09:57

勉強中さん:

31日のこと、了解しました。

> 坂井師

正信会の僧侶からすれば、彫刻本尊の真偽などさしたる興味でもないということでしょう。また、本山復帰を意識すれば、お宝は手を付けない・コメントはしないが得策という思いがあるのかと…。これは坂井師に限らずこの会の一様の思いであると観察しています。まあ、ここが正信会の限界であるとも思っています。

> 高橋師も宗旨の根幹の真偽に関する論考に、何の意見もないのかと不思議

残念ですね。条々事の発表者とも、そう話しました。彼は高橋師の活字になり、本になっていないものを丹念に集めてファイルにしていたと言っていました。石山のなかにあって真面目な研究者だと尊敬もしていたと、ところが当日のあの態度を見て、がっかりしたと言っていました。わたしも同様です。いずれにしても、一次資料の写真も出さない論攷は説得力はゼロ、もっと言えば、そんな研究はないに等しい、随分と無駄な文章を書いていると思います。まあ、条々事の正本・案文・下書きが興師のものであるというのであれば、その写真を発表することが師の使命であり、また、そうしなければその論攷はただの石山の御神輿担ぎに終わるわけですから、気の毒にも思います。

> 私は、熊田氏の「日蓮上人」では「御影堂」を「冨士大石寺の本堂」と紹介していますので、当時「弥四郎曼荼羅」が「御影堂」にあっても何の不思議もないと思うのですが、いかがなものでしょうか。

そうでしょうか。達師はたしかに御影堂には当初、件の彫刻本尊が安置されていたといい、その後は宝蔵に遷ったと発言していたと記憶します。石山のアナウンスでは、彫刻本尊は広宣流布の暁まで宝蔵に秘蔵厳護、故に顕師も正本堂の須弥壇は倉の造りになっていた、奉安堂も様式としては倉であるといった類の発言をしてたと記憶しています。

精師以降、広宣流布まで宝蔵に秘蔵厳護されていたはずのものが御影堂本堂に置かれているとしたら、以上の石山見解と齟齬を来すという点を1790にわたしは記したのです。


伊野 健太さん:

> 富士宗学研究会とは、どこが主体になっている団体の事ですか?

仰る主体というのは宗派その他のことでしょうか。
であれば、特にありません。雅仙堂さんという在野の研究者が数十年の資料蒐集編纂をまとめ、研究を目的にする団体とわたしは理解しています。

> 書籍を出版されてるのでしょうか。

詳しくは以下のアドレスに問い合わせてみてください。

rmc-info@world.odn.ne.jp


小僧さん:

呼びかけづらいHNですが、そのままコピペさせていただきました。恐縮でございます。
また、わたしへは「先生」などの尊称は無用です。当板はお互い「さん」付けが決まりになっております。そのようにお気軽にお願い申し上げます。

ご投稿、有り難うございました。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。


みかんさん:

ママ起こし、有り難うございました。


頭角無類さん:

> …双鉤填墨のような手法を用いて文字を写しとって作られた

たしかにレジュメを読み直してみますと、そのような誤解が生じる言い回しになっているのかと反省いたしました。レジュメがお手元にあるようなのでご確認いただければと存じますが、わたしは

「(1)日禅授与漫荼羅の各文字を模写・原図とした
 (2)各文字ごとに丸木板上にレイアウトし直し「パッチワーク」した」

と「模写原図」に拠ったのではないのかと申し上げたわけです。

1804犀角独歩:2004/10/26(火) 11:50

もう少し記します。

以下、昨日の講演ではやや触れた点です。

・禅師授与漫荼羅は、北山、石山に2幅ある
・蓮師が同一日・同一授与者に2幅図示したとは考えづらい
・片方は表層剥離、あるいは模写であると考えられる
・1幅は、籠抜に拠ったのか・あるいは模写に拠ったものだろう

ということが前提です。
表層剥離、もしくは籠抜でもう1幅が制作されたとすれば、この2幅に大きな相違はないことになります。この前提で日教研では管見を述べました。彫刻本尊はその禅師授与漫荼羅を模写し、パッチワークしたものであるということです。模写と言ったのはご指摘のとおり、籠字を厳格に使ったとすれば、その相違が説明できないからです。パッチワークと言ったのは配置にズレがあるからです。

ただし、もし禅師授与漫荼羅が2幅の一方が模写である場合、相貌の詳細では相違が生じ、またレイアウトにも相違が生じることは必至となります。わたしが比較・検討に供したのは北山蔵です。ですから、もし、石山蔵に拠れば、あるいは文字の細部、レイアウトに至るまで一致するのかも知れません。

この検証を宜しく行うために、石山が彫刻本尊と禅師漫荼羅の詳細な写真を発表することが望まれます。また、この鑑別は石山こそ、科学・専門家の力を借りて行って然るべきことです。

かつて800万信徒を動かし、30年前の貨幣価値で400億円以上の集金を基になった彫刻本尊、その後、1650万信徒を豪語したわけです。30年、どれだけの延べ人数にしてどれだけの人々が彫刻本尊の基を訪れ、拝観料はどれだけのものになったのでしょうか。また、顕正会はいまでも国立戒壇安置を主張し続けているわけです。その後、正本堂は解体され、さらに喜捨も募って奉安堂を建立。彫刻本尊を本物であると信じる信徒会員が傾けて、全身全霊の思い、金銭、時間、労力を考えるとき、この彫刻本尊の実態を白日の下に晒す責任はむしろ石山にあります。しかし、それをやらないと言うのであれば、こちらがやるしかありません。誤解があるといけませんので、敢えて申し上げますが、わたしが信仰する人々には何の怨みも辛みもありません。そうではなく、その人々と同じ思いで、人生の大半をこの彫刻本尊に注ぎ込んだ一人として、事実を明らかにする責任をわたしは感じているということです。

批判することが悪ではなく、真実を覆い隠すことが悪なのです。
いまここに彫刻本尊とは如何なるものであるのかを徹底的に検証する新たな彫刻本尊真偽論を展開する時期に来ています。石山は60万登山の檄を飛ばし、100万達成を豪語する顕正会はいまだ国立戒壇建立と安置を主張しているからです。

これら活動は「本門戒壇の大御本尊」が本物であるかどうかでその価値は180度逆のものなってしまうでしょう。その行動はまた新規会員信徒の獲得を意味する以上、国家・国民に対する、否、全世界に信徒が居るとすれば、それらすべての人に対して責任を負っています。重要なことは、本物であると信じることではなく、本物であることを証明することです。本物であるかどうかをしっかりと証明する義務を「信じさせる側」は負っている点を見逃してはなりません。

わたしは彫刻本尊の徹底検証を行いそれが実に石山のいうとおりであれば、それは喜ばしいことです。しかし、違っているとすれば、それは真実を明らかにしなければなりません。事実に対して正直であれ、真実を受け容れる勇気を持つこと、それ学問の選択であっても是の如く生きることが八正道であるとわたしは考えるからです。

1805犀角独歩:2004/10/26(火) 11:53

【1804の訂正】

誤)それ学問の選択であっても是の如く生きることが八正道であるとわたしは考えるからです。
正)それが苦悶の選択であっても是の如く生きることが八正道であるとわたしは考えるからです。

1806きゃからばあ:2004/10/26(火) 13:52
3年ぐらい前に書き込みしていた、無徳民です。
当時、紛らわしいHNで「無徳さん」に御迷惑をお掛けいたしましたので、今回、HNを改めました。

犀角独歩さんの

>批判することが悪ではなく、真実を覆い隠すことが悪なのです。

は、同感いたします。

どうか頑張って下さい。
私ももう一度、自分なりに調べてみようと思います。

1807犀角独歩:2004/10/26(火) 15:44

きゃからばあさん、お久しぶりです。

ご健闘をお祈り申し上げます。
何かございましたら、お気軽にお声をお掛けください。

1808れん:2004/10/26(火) 17:44
犀角独歩さん、日蓮宗教学研究発表大会での発表、お疲れさまでした。私は仕事がありましたので、残念ながら拝聴の機会を逸したのですが、勉強中さん・みかんさん・小僧さんのご投稿を拝読しまして、犀角独歩さんの御研究の一端を拝読することを得たのは幸いでした。件の弥四郎曼陀羅の写真は熊田葦城氏の「日蓮上人」(明治44年刊)所収の写真が有名ですが、大正4年刊・荒木英一(清勇)師著「大日本国所立 聖教の正義」(手持ちのものは興門資料刊行会から昨年再版されたもの)の口絵にも「本門戒壇ノ大御本尊」の写真が収録されています。この写真も写りが悪く不鮮明ですが、熊田葦城氏の「日蓮上人」収録のもの全く同じ板曼陀羅ですので、彫刻弥四郎曼陀羅が、禅師授与蓮師御筆曼陀羅からのパッチワークであるとの独歩さんのご指摘は正鵠を得たものと思います。何れにせよ、私は仕事で開陳オフ会にも参加できない身ですので、犀角独歩さんの近刊書籍を拝読できる日を楽しみにしております。

1809頭角無類:2004/10/26(火) 17:55
なるほど、仰せの趣旨はよくわかりました。懇切なる説明ありがとうございます。

>> …双鉤填墨のような手法を用いて文字を写しとって作られた
>たしかにレジュメを読み直してみますと、そのような誤解が生じ
>る言い回しになっているのかと反省いたしました。

と言われていますが、レジメを読む限り、
「透けるほどの薄紙を曼荼羅に宛い、文字の輪郭をこれまた細い筆をもって写しとっていく」また、
「大きな薄紙が用意できれば」云々
と紙の大小にまで話が及んでいますので、双鉤填墨的手法を用いて首題を写しとったという前提でのお話しであると承ったのですが、私の理解が「誤解」であると指摘される意味がわかりません。またこの度のレスでは、

>もし禅師授与漫荼羅が2幅の一方が模写である場合、相貌の詳細
>では相違が生じ、またレイアウトにも相違が生じることは必至と
>なります。

と言われていますが、この場合の「模写」とは、「臨写」を指すものでしょうか?それとも「臨写」とまでも言えない「お手本とした」という程度のものでしょうか?

そうなると、発表のレジメに論じられている「双鉤填墨的手法」を用いたという前提での画像の重ね合わせはあまり意味のないもののようにも感じられるのですが。

またレジメをよく見返してみますと、御説の一番強い根拠としておられる「首題」においても異なりがあるように見受けられるのですが・・・

重須蔵の「日禅授与本尊」その鮮明な写真をご紹介頂けると多少納得がいくかもしれません。公開はしては頂けないのでしょうか

何かとお忙しいこととは思いますが、よろしくお願いします。

1810犀角独歩:2004/10/26(火) 19:31

れんさん、しばし、お久しぶりです。
熊田葦城『日蓮上人』でも実は写真は2枚あるとのことでした。
種々、有り難うございます。


頭角無類さん:

> 私の理解が「誤解」

いえ、頭角無類さんのご理解が誤解であると申し上げたのではありません。
ここの部分で、わたしが記したかったのは、禅師授与漫荼羅>2転の漫荼羅>模写原本>彫刻本尊という手順であること、この課程のどの段階かでで籠抜の技法が使われ、文字が写されたが、それを確実に使用していないこと、殊に諸尊勧請、讃文等はこれまた別の文字のパッチワークに拠っている思えること、さらに不動愛染は殊更に書き換えられていること等、さらに種々検討するべき点があることを、籠抜ばかりを記し、それ以下を省略してレジュメの文にしたので、単に一切を仰る如き双鉤填墨的手法で制作したと取られかねない文になっており、誤解が生じることになったと意味のことを記したのです。

> …「模写」…「臨写」…「お手本とした」

もしゃ 1 0 【模写/▼摸写】
(名)スル
芸術作品などをそっくりそのまま写し取ること。また、写し取ったもの。コピー

りんしゃ 0 【臨写】
(名)スル
手本を見て書くこと。臨書

てほん 2 【手本】
(1)初心者が絵や字を習うときにまねて似せるべき絵や字。
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

という言葉の使い分けでよろしいのでしょうか。

> 「双鉤填墨的手法」を用いたという前提での画像の重ね合わせはあまり意味のない

「各漫荼羅・本尊の文字の輪郭を取り、大石寺彫刻本尊に重ねて比較検討する方法を採りました」という方法を採ったとわたしはレジュメに記しました。
しかし、これは直ちに「「双鉤填墨的手法」を用いたという前提」ではありません。
図形を比較するうえで相似形を探す方法として、輪郭線を使用したという意味です。
レジュメ本紙はカラー印刷ですが、お手元にあるものは白黒のコピー、またはファックスなどの2転のものではなく本紙でしょうか。そうであれば、ご確認できようかと存じますが。

> またレジメをよく見返してみますと、御説の一番強い根拠としておられる「首題」においても異なりがあるように見受けられるのですが・・・

主題において、もっとも大きく異なるのは經の字旁です。
北山蔵禅師漫荼羅では經の旁は[一/リ/エ]となっております。
これは極めて特異な筆法であると言えようかと思えます。
この点を彫刻本尊では[一/ツ/エ]となっている点で異なっていることを申し上げました。ただし、この一画の欠損は華の字の縦棒が經の字旁に長く伸びている箇所とほぼ重なっております。図形的には、この位置と重なっていることを申し上げました。しかし、これはこのように文章で書くとなかなかご理解いただくことは難しいところと存じます。
しかし、レジュメに載せた写真でもおわかりいただけるかと思いますが、実際の文字の大きさバランスその他、相似形をなしています。


> 重須蔵の「日禅授与本尊」その鮮明な写真をご紹介…公開

もちろん、講演その他の段階ではこの写真を呈示しております。
また、拙書には当然、その写真を載せています。ご高覧を賜れればと存じます。

1811愚鈍凡夫:2004/10/26(火) 20:06

1280(弘安3)年日禅授与漫荼羅には、「本門寺に懸け万年の重宝たるべし、」と記されているようですが、この文を書き込んだのが日興師で、保田妙本寺の「万年救護本尊」の副書が蓮祖の正筆であったとすれば、何故、日興師は「本門寺」の何処に懸けるのかを示さなかったのでしょうか。「万年救護本尊」は、「本門寺」の「御影堂(誰の御影かは別として)」と場所の指定があります。日興師の性格からすれば、蓮祖に習って「どこそこに懸け奉るべし」との指定があってもおかしくはないと思うのですが。
このことは、「万年救護本尊」の副書の存在を日興師が知らなかった、もっと妄想を膨らませれば、副書は日興師の時代には存在しなかったということではないでしょうか。
少なくとも、傍証ぐらいにはなりそうに思います。

以前にもあった疑問ように思うのですが、
北山では日禅授与漫荼羅を「戒壇之本尊」と称するそうですが、「使い回しかい」とのツッコミがありそうですね。 (^◇^;)
ところで、「本門戒壇」の「本尊」とは、本門寺の戒壇堂に安置する本尊という意味でしょうね。
ならば、本門寺の本堂に安置する本尊は?
まるで、疑問の堂々巡りですね。困ったもんだ。 ( ̄ヘ ̄)ウーン

1812犀角独歩:2004/10/27(水) 00:40

愚鈍凡夫さん、さすがの問題意識。

> 日禅授与漫荼羅には、「本門寺に懸け万年の重宝たるべし、」と記されている

ええ、北山蔵はそうなっていました。
ところが石山蔵では、この文が反対に削り取られているわけですね。

> 日禅授与漫荼羅を「戒壇之本尊」

そうなんですよ、『大石寺誑惑顕本書』に「万年救護」「戒壇之本尊」とありますね。
亨師は伯耆漫荼羅と伝承と記していました。

> 「本門戒壇」の「本尊」とは、本門寺の戒壇堂に安置する本尊という意味

そう、ここですよね。つまり、本堂用の本尊と戒壇院用の本尊が別に必要になることになります。そのほかに御影堂となりますね、ここには御影。本堂は他門では当然、釈迦像でした。

で、石山の話ですが、精師は御影堂と本堂と、おまけに戒壇まで三つ併せて堂宇を建立。これと関連するのかどうか知りませんが、建った門が三門。
そこで正本堂が建ったとなると、御影堂は単なる御影堂に戻ったことになり、正本堂は本堂+戒壇の意義付け。それでまた、この正本堂を壊して奉安堂にして本堂の意義がなくなったわけで、そうなると御影堂はまたもや、本堂の意義を吹き返したのか…、二転三転、ややこしい堂宇の意義付けの変遷が近代の石山事情の一側面であったりしますね。

1813勉強中:2004/10/27(水) 01:11
犀角独歩さん、ご返信ありがとうございます。

愚鈍凡夫さんお久しぶりです。

浅学の為間違いがありましたらご教授願いたいのですが、万年救護本尊の副書ですが「千葉県の歴史」の巻末に書かれているものは誤記であって、佐藤教授の論文から「本御影堂」ではなく「御本尊堂」が正しかったと記憶していますが違いましたでしょうか。

れんさん、空き缶さんもご覧であれば、ご教示願いたく存じます。

1814れん:2004/10/27(水) 04:16
犀角独歩さん、「日蓮上人…実は写真二枚…。ご教示有難うございます。
勉強中さん、万年救護…副書…「本御影堂」ではなく「御本尊堂」が正しかったと記憶…。そうなんですか。私は保田妙本寺文書に関しては、現在「千葉県の歴史」以上の物は持ち合わせてないので、実際に妙本寺等に行かれて実物を拝観された勉強中さんのご教示は大変参考になります。副書「御本尊堂」ですと、副書の意図は保田の万年救護は本門寺建立の時本堂に懸ける本尊とすることにあると言うことでしょうか。ただ若干悩ましいのは「日興上人御遺跡事」(正本御筆写真、継命新聞社刊日目上人49ページ収録)では‘日蓮聖人御影’をも「本門寺建立之時者可奉納本堂」としている点ですね。この点、空き缶さんのご教示の如く保田の万年救護と蓮師御影はセットになっているようにも見えます。
愚鈍凡夫さん、戒壇堂、重須の順師心底抄・代師葦名阿闍梨御返事では曼陀羅図の如く仏像安置、しかし順師後年の著の摧邪立正抄では本門戒壇…安置本門大曼陀羅、この辺の会通はどうなるのでしょう?興門でも上代ではこの辺が未整理であるかの如く見受けられますね。

1815愚鈍凡夫:2004/10/27(水) 07:46

犀角独歩さん、
お忙しい中でのレス、有り難うございます。
その時その時で、都合のいいように解釈していくから整合性がなくなってしまうんですよね。

勉強中さん、どうも。
小生と違って真摯な態度で教学と取り組む姿勢、凄いと思います。

> 佐藤教授の論文から「本御影堂」ではなく「御本尊堂」が正しかったと記憶していますが違いましたでしょうか。

この見解が正しいとすれば、副書が蓮祖の正筆であることに疑いを持ってしまいます(結果的に御影堂の場合でも同じですが)。理由は、蓮祖が一つの漫荼羅にだけ、特別な意義を持たせるとは思えないからです。
紙幅であることを考えると、果たして千年もつでしょうか?
そして、聖滅後、紙幅の漫荼羅にもしものことがあったらどうするのでしょうか。
やはり、本門の戒壇を備えた本門寺本堂の本尊は、仏像ではないでしょうか。
蓮祖は、仏像に添える脇士によって本尊の差別化を図り、本門の教主釈尊を現そうとしていたのではないかと思います。法華経の虚空会をモチーフにした、蓮祖独自の虚空会がイメージとしてあったのではないかと想像します。

れんさん、どうも。お忙しそうですね。
小生は最近、初期興門派が仏像正意であったことに注目しています。これは蓮祖が生前、漫荼羅を示しながら、弟子たちに本門の本尊の立体像を語っていたからではないでしょうか。
予算を含めた諸般の事情から、それがいつしか漫荼羅正意へと変遷していったということではないかと思っています。

1816愚鈍凡夫:2004/10/27(水) 07:53

説明不足ですので、補足です。

> 本門の戒壇を備えた本門寺本堂の本尊は、仏像ではないでしょうか。

とは、「本門寺本堂」に「本門の戒壇」が備わっているという意味ではなくて、比叡山や高野山のように、寺院群で構成されているのが小生の「本門寺」のイメージです。

1817頭角無類:2004/10/27(水) 11:56

犀角独歩さん

いちいちの御返事恐れ入ります。

>北山蔵禅師漫荼羅では經の旁は[一/リ/エ]となっております。
>これは極めて特異な筆法であると言えようかと思えます。
>この点を彫刻本尊では[一/ツ/エ]となっている点で異なってい
>ることを申し上げました。

私の所持するレジメはコピーなので、ハッキリ分からなかったのですが、なるほど言われてみるとそうですね。とても興味深いです。
でもこれで一つなぞがとけたような気がしました。

 『日興上人詳伝』を読み返してみたのですが、

「(日禅師授与本尊について)北山本門寺にも法道院にも存在する。予が拙いためかいずれがご真筆でありやは判断しかねる。幸いに両本尊を同座申し上げたら判明するであろうか。(中略)『御本尊衆目録』には北山本門寺蔵御聖筆十一幅の中にようやく鉄砲曼荼羅という一幅だけしかのっておらず(中略)これと法道院の御分との学的判断は安国会主にも問い合わせもしようし、とにかく将来の楽しみに留保しておく」

という意味深な下りがあって、北山蔵と大石寺蔵の「日禅師授与本尊」には何らかの相違点があるのだろうと、漠然と思ってはいました。どのような違いがあるのかこれが大きな謎だったのです。

 山中喜八氏の『御本尊図集解説』に、

「およそ首題の『經』字の御書体は、著しき年代的特徴を有し、四種類に分かつことができる。(中略)今後若し、聖筆の真偽を判じ、或は臨模・作為を弁別する場合は、第一に此の点を考察すべきであろう」

 と記されております。これは山中氏が「經」の字によって偽書判定を行った御本尊が存在したことを物語っています。富士学林A氏も質問していたようですが、山中氏は北山蔵の「日禅授与本尊」について、[一/リ/エ]となっている「經」字の旁、その点を根拠として不収録とされたのか、と思い、一つ謎が解けたわけです。

 個人的には『御本尊集』収録の御本尊について、真偽にやや疑問があるものも存在しますが、いまのことろ、山中氏の研究を否定した人は居ないようです。

>> …「模写」…「臨写」…「お手本とした」

 私も言葉が少し足りなかったのですが、山中氏が御本尊偽作の系統について、「臨模・作為」と表現されるように、偽作本尊には、
①模写(双鉤填墨)、
②臨写(横に置いて字をまねて写しとる)、
③作為(手本のまま写しとるのではなく多少相貌を変更したりして創作する)
大きくこの三つの系統があると言われています。私もこの三つを言いたかったわけです。
その上で、

A仮に北山蔵のものが「臨写」・「作為」の類であったとして、制作者が「經」の字を書き損じたのか。(模写でこのような間違いがおきることは考えにくい。)

B山中氏の研究に合致しない、超例外的に[一/リ/エ]の經のつくりの御本尊が存在するのか。

 これらの点がさらなる疑問となってくるわけです。

 大石寺蔵の「日禅師授与本尊」の「經」のつくりがどうなっているか、北山蔵とどのように違うのか是非拝見したいものです。今の段階では大石寺蔵の真偽についても判断はできかねますが、その点も併せて、何か御研究されていることがあればお教え頂ければ幸いです。
 また、これらの研究については、昭和60年2月号の『日蓮宗新聞』に新たに「真筆本尊」として紹介された『聖運寺曼荼羅』について、偽作であるとの判断を加えた寺尾英智氏の研究(『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』)にも詳しいので参考までにご紹介します。

1818犀角独歩:2004/10/27(水) 14:10

頭角無類さん、毎日、有り難くご投稿を拝受させていただいております。

> 北山蔵と大石寺蔵の「日禅師授与本尊」には何らかの相違点がある

ええ。わたしもこの点にはもちろんのこと、注目しております。
亨師のご研究を見れば、両漫荼羅の相違については、その加筆のみの相違が読み取れるばかりです。

この点は現宗研の講演では話しました。

「弘安3年太歳庚辰5月9日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院」(冨要9-178)

「弘安3年太歳庚辰5月9日、比丘日禅に之を授与す、(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯耆漫荼羅と称す)」(富要8-215)

先に愚鈍凡夫さんの応答でも触れた点です。
興師の言を信じる限り、興師加筆は石山蔵です。となれば御筆はこちらかと思いたいところですが、重要な「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべき」が削損され、北山にはしかし、その加筆があるといいます。さて、どちらが御筆か、もしくはと思惑は巡りますが、興師の仰る如く、これは将来に託された研究課題の一つと思います。


> 山中喜八氏の『御本尊図集解説』…『經』…聖筆の真偽を判じ

ええ、この点はわたしも、半年前にアップしてこの点を指摘しました。
これは頭角無類さんがご指摘くださった論点とまた違うのですが、わたしはこの「經」字の筆法を以て、少なくとも彫刻本尊原本は弘安2年10月の特徴を示していない点を主張したものでした。
以下、転載です。

―― 「板本尊『経』の止筆は偽作の証拠」という1項には頷けるところがあった。

 安永は「経」の一時に着目する理由を以下のように説明する。「立正安国会の山中喜八氏が大崎学報で述べているように、経の字の変遷は『聖筆ノ真偽ヲ判ジ、或ハ臨ぼ(リンボ=見て写すこと)作為(サクイ)ヲ弁別(ベンベツ)スル場合ハ、第一ニ考察スベキデアロウ』と述べているように、経の書体の年代的相違は決定的なものである」

 そのように紹介したうえで、弘安2年における日蓮の「經」の筆法は、旁の「工」の三画は止めずに細く伸ばしている点を挙げる。(これを日蓮門一般では「光明点」という)そして、安永は「光明点は先が、尖っている」が板漫荼羅ではそうなっておらず「規格に反して太く止められている」と指摘するのである。

 これは実に重要な鑑別識である。写真で見る限り、確かに經の最終画は止筆になっているように見える。仮に止筆ではないにしても、同時期の光明点のように細く長く伸ばして書かれていないことは動かない。

 この点を弘安2年11月御筆漫荼羅(No.69)で比較してみよう。上図、左が板漫荼羅の「經」、右が真筆の「經」である。たしかに同一書体とは見えない。筆法の差は歴然であり、板漫荼羅の字体は弘安2年という時代性を反映していない。このことから安永が言う如く、とても弘安2年の筆とは見えない。

 また、『「ツ」の字形の経は弘安二年のものではない』という1項も設けている。「板本尊の旁(つくり)は片仮名の「ツ」の字の如くに、筆が切られている」という。この安永の指摘もまた頷ける。真筆では一筆に流麗に書かれるが、板漫荼羅は「ツ」様に彫られている。

 こうして改めて板漫荼羅の相貌の全体を見直すと、御筆漫荼羅と比較して、全体的な構成に大らかさがない。日蓮御筆の特徴とも言える紙幅に縦横無尽に筆をふるった闊達さがない。全体的な構成も著しく相違し、中央題目と花押が大きく場所を取り、弘安2年当時の特徴を示していないのである。 ――

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

1819犀角独歩:2004/10/27(水) 14:10

―1818からつづく―


> 『御本尊集』…山中氏の研究を否定した人は居ない

三学無縁さんに拠りますと、立正佼成会の教学の責任を持つ幹部がこの点を指摘したことがあるということでした。その方の名前をわたしは失念しました。

> 山中氏…「臨模・作為」

この分類に基づくご指摘でしたか。失礼しました。
彫刻本尊原本を鑑みる限り、実に事情は複雑だと慨嘆を禁じ得ないところがあります。
雑駁に申し上げれば、「南無」は臨写の如くです。「妙法蓮華経」は模写の如く、しかし、法の旁[土/ム」の土の横棒二本目は、禅師授与では止筆、彫刻本尊は下に跳ねています。經の旁については記した如く差異を存します。四大天王、日蓮花押に至ってはそれぞれの画の置かれる場所はほぼよく一致しながら、しかし臨写の如くです。不動愛染は静謐の特徴を写さないのにも拘わらず、各部位の形貌は禅師授与と重なります。
実際は写真をご覧いただきながら、説明申し上げるのが最もおわかりいただけるところで、ネットにでもアップすれば容易いことになります。しかし、何せ著作権もなにもあったものではないネット社会で、永年苦労した図形を載せれば、直ちに悪意・転載の憂き目に遭うことは必至です。そのために出版を終えるまでは発表はOHPとし、投稿は文章に留めております。事情をご察しいただければ有り難く存じます。

> 今の段階では大石寺蔵の真偽

わたしの今回の管見は彫刻本尊の石山伝承の真偽を問うことに終始しました。
あえて禅師授与漫荼羅については寡聞とし、先に送ることとしております。
また、仰せの研究は石山が彫刻本尊と共に禅師授与漫荼羅の写真を公開し、文字の鑑定と共に材質の科学的分析も含めて世に発表する責務を負う点であるとわたしは考えております。


> 寺尾英智氏…紹介

有り難く拝受申し上げました。

1820犀角独歩:2004/10/27(水) 14:13

【1818の訂正】

誤)興師の言を信じる限り、興師加筆は石山蔵です。
正)亨師の言を信じる限り、興師加筆は石山蔵です。

1821きゃからばあ:2004/10/28(木) 12:03

過去ログにありましたらゴメンナサイ。
『富要第8巻』と山口範道さんの『日蓮正宗史の基礎的研究』を比べてみました。


『富要第8巻』(番号は私が付けました)

大聖人御筆漫茶羅の分。

1.建治元年太才乙亥十一月日 総本山。
2.建治二年太才丙子八月十三日 同上。
3.弘安二年太才己卯八月十八日、沙門佑盛日合に之を授与す、 同上。
4.(楠板彫刻戒壇大御本尊)
  右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日、 同上。
5.弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上入御加筆)本門寺重宝たるべきなり、 同上。
6.弘安三年太才庚辰二月日、(開山の加筆あり明らかならず) 常陸永井藤蔵。
7.(紫宸殿御本尊と伝称す)弘安三年太才庚辰三月日 総本山。
8.弘安三年太才庚辰卯月日 下総富久成寺。
9.弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上入御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京法道院。

10.弘安三年庚辰五月廿六日、沙門民部日向に之を授与す、 総本山。
11.弘安四年太才辛巳四月廿五日、(開山上入加筆)摂津公日仙は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、 東京常泉寺。
12.弘安四年太才辛巳□□□□□、日教に授与する者なり、 加賀妙喜寺。


ところが、『日蓮正宗史の基礎的研究』掲載されているものと比べると、

3番はなぜか見当たりません。
6番は「大石寺所蔵」に変更(この御本尊は昭和45年4月1日に総本山へ納められています。)
9番はなんと北山所蔵になっています。これは法道院より昭和45年3月19日に総本山へ納められたはずなのですが、大石寺所蔵には見当たらなくなっています。
そしてさらに驚くことに「弘安三年太歳庚辰卯月日 比丘日禅授与之」という御本尊が大石寺に所蔵されているようになっています。

つまり「比丘日禅授与の弘安3年5月9日の御本尊」は、法道院より納められてにもかかわらず、現在では大石寺の所蔵に無く、新たに「比丘日禅授与の弘安3年4月日の御本尊」が所蔵されているとしているのです。
もちろん他にも後から納められた御本尊が掲載されているようですが、法道院より納められた「5月の御本尊」は無く、「4月の御本尊」が現われたのには、不可解です。

1822頭角無類:2004/10/28(木) 16:36
犀角独歩さん

いつも丁寧なレスありがとうございます。

>「經」字の筆法を以て、少なくとも彫刻本尊原本は弘安2年10月
>の特徴を示していない点を主張したものでした。

 なるほど『經』字の検討でも大石寺の本門戒壇本尊についての真偽を検討されていたということですか。

>あえて禅師授与漫荼羅については寡聞とし、先に送ることとして
>おります。

 非常に残念です。様々な研究をする上で原本資料の検討というのは最も大切なことではないかと思います。
 北山の「日禅授与本尊」についての真偽等についても是非、犀角独歩さんのご見識をもって検討して頂ければと思います。

ちなみに、

>亨師の言を信じる限り、興師加筆は石山蔵です。となれば御筆は
>こちらかと思いたいところですが、重要な「本門寺に懸け奉り万
>年の重宝たるべき」が削損され、北山にはしかし、その加筆があ
>るといいます。

について一言しますと、私の考えでは、富士宗学要集8-178の、永井家蔵(現大石寺蔵)の本尊について、亨師は

「開山の加筆あり明ならず」

とされています。現在大石寺蔵の『日禅授与本尊』、旧永井家蔵本尊、この二幅は同時期に売りに出されていた本尊で、法道院と、金銭的に個人での取得が可能であった永井藤蔵氏がそれぞれ購入したと言われています。また、両本尊とも元々北山本門寺にあった本尊とほぼ断定されています。この「開山の加筆あり明ならず」は、実はこれも「削損」です。
 恐らくですが、北山が本尊を売りに出すときに、寺の重宝を売りに出すという売僧行為を非難されるのを嫌い、出もとを隠すため、本門寺等々の文字を「削損」したのではないでしょうか。ですから「開山の加筆あり明ならず」は、これも「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべき」、または授与者に関係する事柄が記されていたのだと思います。

1823犀角独歩:2004/10/29(金) 09:29

1821 きゃからばあさん:

この相違は確かに興味深いですね。
弘安3年5月9日禅師授与漫荼羅の動向は如何にも奇怪です。
そもそも北山が売ったはずが、今でも北山にあること自体、不可解です。
けれど、山口師は石山に無しというわけですね。

余談ながら『学林秀輯葉巻之廿二/遠霑講寺沙門完則鳩集』では

1.戒壇板本尊 長4尺7寸5分 横2尺2寸5分 厚2寸2分
2.紫宸殿本尊 3枚綴り
3.建治元乙亥11月御本尊 3枚綴り
4.病息消滅本尊 建治2丙子8月13日/号死活本尊
5.重須本門寺本尊 弘安3辰11月/日増授与
6.妙一授与本尊
7.紺帋本尊文永甲子2月15日
8.日月四菩薩御本尊
(『日蓮聖人の本懐』P188)

となっていました。(見習ってわたしも通し番号を振りました)


1822 頭角無類さん:

こちらこそ、御礼申し上げます。

> 原本資料の検討というのは最も大切

まったくもって仰るとおりであろうと存じます。
ただ、禅師授与漫荼羅については、石山蔵の写真を手にしてからと考えております。

> 出もとを隠すため、本門寺等々の文字を「削損」

なるほど。これは一つ考えさせられるところでした。

一つご賢察を窺いたいのですが、禅師授与漫荼羅が北山を離れた時期、また、法道院に渡った時期はおよそいつ頃とお考えになりますでしょうか。

1824きゃからばあ:2004/10/29(金) 10:26

『法道院百年史』(平成十年十二月十二日発行)を見てみました。

以下、本文。

宗祖御真筆御本尊の奉蔵

 明治四十一年六月一日、宗祖日蓮大聖人御真筆「弘安三年太歳庚辰五月九日」御図顕、「授与之比丘日禅」の御本尊が法道会に奉蔵された。
 この種のことの常として、以前の所有者やその経緯は残されていないが、ともかく法道会では信徒に呼びかけ、その費用のための喜捨金を募った。その結果、この日法道会で奉納式が行われたのである。
 御本尊の裏書には「法道会什宝御真筆寄付人名」とあり、「法道会妙道講」「法道会妙典講」「法道会浄信講」のほか、他寺関係五講中(京橋本門講中、浅草本因妙元講中、中延講中、青山講中、砂村法華本門講中)名がある。
 また、百二十二人の御供養者名が書かれている。なかには、まだ子供である人、すでに亡くなっている人(戒名も書かれている)などもある。縁ある人の積功累徳のためにも、多くの人が真心の御供養したことがわかる。
 最下段には、「発起人」として「内野金次郎、平沢億太郎、後藤亮之助、佐野光三郎、山田和助、上野七蔵、金子銕(鉄)次郎」の名があり、最後に「明治四十三年六月一日奉納式行」「総本山五十六世 法道会会長大石日鷹(花押)」とある。
 ここに記されている講中、個人がどのくらいの喜捨金を集めて、御真筆御本尊を奉蔵したかは不明である。
 この裏書に名前は記されていないが、奉納に遅れて七月四日喜捨金を寄せた土浦の永井家に、その領収証が三通残されている。この領収証では各々喜捨金額は五円となっている。
 御真筆御本尊は、以後、法道会における諸法要に奉掲された。
 昭和四十五年三月十九日、この御本尊は観妙院上人の手により総本山に奉納された。
 また、同年四月一日には、明治三十七年一月、日鷹上人の紹介により永井藤蔵氏が奉蔵していた「弘安三年太歳庚辰二月 日」御図顕の御本尊も総本山に納められた。
 現在、両御真筆御本尊は、総本山の毎年の御虫払大法会に披露されている。

以上、本文より。

ただ、私が古い法道院の幹部に聞いた話では、「当時、質屋にあったのを信徒が見つけ、皆でお金を集めて購入した。」と聞いています。

1825犀角独歩:2004/10/29(金) 20:27

きゃからばあさん、明治44年、すなわち熊田葦城『日蓮上人』発刊に相前後している辺り、実に興味が惹かれました。

1826きゃからばあ:2004/10/30(土) 10:41

板漫荼羅の相貌について、柳沢宏道さんの『石山本尊の研究』によると、「熊田葦城さんの『日蓮上人』の写真をA0版まで拡大して」とありましたが、私自身、A0版は無理ですが、精密なスキャナーで読み込み、パソコン内で拡大してみたところ、まったく判断できませんでした。
よって、正確な相貌は判断できませんので分かりませんが、以前、日顕さんが「久成坊の御本尊は大御本尊の写し」と言われたので、久成坊の御本尊を拝見してみました。

久成坊御本尊の相貌(ただし主題・日蓮在御判・四天王・不動・愛染は除く。)

すべて内側より。
(1段目)
(右側)
南無多宝如来
南無上行菩薩
南無無辺行菩薩
(左側)
南無釈迦牟尼佛
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

(2段目)
(右側)
南無文殊師利菩薩
南無弥勒菩薩
南無舎利弗尊者
大梵天王
第六天魔王
大日天王
(左側)
南無普賢菩薩
南無薬王菩薩
南無大迦葉尊者
釈提桓因大王
大月天王
大明星天王

(3段目)
(右側)
鬼子母神
南無龍樹菩薩
南無天親菩薩
南無妙楽大師
(左側)
十羅刹女
南無天台大師
南無章安大師
南無伝教大師

(4段目)
(右側)
天照太神
(左側)
八幡大菩薩

(一番下)
(右側)
佛滅度後二千二百二十余之間
一閻浮提之内未曾有代漫荼羅
(左側)
七十七歳 日精花押


なぜか『石山本尊の研究』の相貌とは違いました。
阿修羅王・転輪聖王・提婆達多などが無く、また薬王・弥勒が逆、天台・妙楽も逆、天親・章安が加えられ、かなりの相違があった。
もちろん日蓮さんの漫荼羅には多くの相違があるので構わないのだが、なぜ、日顕さんはこれを大御本尊の写しと言ったのだろうか?
さらに注目するところは「第十七世」ではなく「七十七歳」としているところ、
また「一閻浮提之内未曾有代漫荼羅」の次に「也」が無い。
日蓮さんの漫荼羅はこの「也」にも大きな特徴があるのだが。
不思議なことばかりです。

1827れん:2004/10/30(土) 18:23
きゃからばあさん、初めまして。弥四郎彫刻曼陀羅の相貌は、柳沢宏道師の「石山本尊の研究」や荒木清勇師の「聖教の正義」収録の写真を見るかぎり、柳沢師の解読した座配図は至当と思われます。久成房の曼陀羅、精師のものでしたか。諸尊の座配の位置に多少の相違はあるものの、精師の曼陀羅は概ね興師や有師のものと同じですね。但し、図顕讃文が三十ではなく二十であるのは以外でした。また也がないのは御筆誤でしょうか。石山歴代にしては珍しいですね。日精花押七十七歳…、石山歴代書写曼陀羅の内手元に御筆写真がある開山興師から九世有師までの曼陀羅を見ますと、〇世と言う添え書きがありません。署名の横に年令を記すのは興師目師に見られますので、精師の書写様式は概ね上代石山歴代の書写化儀に則っていることがわかりました。参考になりました。有難うございました。なお、お示しの顕師の御発言は精師の曼陀羅を指すのでしたら、多分記憶違いではないでしょうか。

1828犀角独歩:2004/10/31(日) 08:49

れんさん、横レス失礼します。

> 柳沢師…座配図は至当

わたしは先の現宗研の講演でこの点に論及しました。
禅師授与漫荼羅の座配は、この柳沢図と全同でした。また、昇師書写授与の(板に改めて物議を醸した)学会本部常住本尊座配(これまた柳沢図で見る限り)は、釈提桓因が帝釈になっていること、「若脳乱」云々の讃文があること、「二千二百三十余年」となっていることを除けば、やはり全同です。

柳沢図を信じる限り、昇師は彫刻本尊を座配を写したうえで、石山の漫荼羅書写の流儀に従って、以上の書き換え・書き足しを行い学会常住本尊と書写したと考えられます。(もちろん、この座配は学会常住本尊に限ることでないことはことわるまでもありません。顕師書写ではご丁寧に「釈提桓因」としているものもありました)

禅師授与漫荼羅の中央題目・四大天王・日蓮花押を臨模したうえで、不動愛染を作為、さらにその諸尊座配は同漫荼羅に拠って作為したという制作過程が看て取れるようです。
そして、その彫刻漫荼羅をまた‘近代’石山住職は参考にしているという脈絡かと想像できます。

1829れん:2004/10/31(日) 18:27
犀角独歩さん、レス有難うございます。
禅師授与曼陀羅は柳沢図と全同…、独歩さんのご指摘の如く、彫刻曼陀羅の原本が禅師授与曼陀羅であることは彫刻曼陀羅自身の相貌が示していますから、予想はしていましたが、やはり…といったところですね。
禅師授与曼陀羅…臨模…不動愛染を作為…、彫刻曼陀羅の製作過程は独歩さんの仰る通りと存じます。
石山歴代住職の書写曼陀羅を見ますと、上代(目師〜有師)では書写曼陀羅の原本は興師書写曼陀羅ですね。主師文献(譲座本尊示書、条々事示書、ただし一次資料‐御筆写真が公開されてないのであくまで参考資料ですが)によるかぎり早ければ主師・遅くとも精師の代までには禅師授与曼陀羅を原本として彫刻曼陀羅成立、近代に至り、彫刻曼陀羅の存在が広く宣伝されるに伴い、石山住職は彫刻曼陀羅を曼陀羅書写の参考にするに到ったのだろうと、独歩さんのご教示をもとに推考いたします。

1830通りすがり:2004/10/31(日) 22:55
http://www.kosho.ne.jp/~kotenkai/tokusen/gazo/gp2801.html
本物の宗祖日蓮大聖人御本尊が出品されるのは驚き

1831れん:2004/10/31(日) 23:44
通りすがりさん、早速拝見しました。日因代云々の581はケイタイからは閲覧不可、本圀寺云々の582 は蓮師筆に似ていますが、安国会の御本尊集に収録された弘安の蓮師真筆曼陀羅には無い諸尊の座配であり、真偽については、なお検討を必要とするでしょう。583は明らかに他筆で蓮師の書ではありません。以上ご参考までに。

1832れん:2004/10/31(日) 23:59
失礼しました。580が閲覧不可。581 が弘安で真偽要検討、581が文永で、多分写本と思います。583が明らかに他筆でした。

1833通りすがり:2004/11/01(月) 00:23
580番の二幅は堺の妙○寺にある、真筆御本尊ですね、御本尊集に収録されて
いる御本尊様をオークションに出品する所を見ると、ただ驚愕するばかりです。
多分、相当な高値が付くと思いますね。一般の方じゃ手が届かない金額が予想
されます。

1834勉強中:2004/11/01(月) 02:13

本当ですね。妙国寺さんでは何かあったのでしょうか。
こんな什宝を手放すとは考えられませんね。

ひょっとしたら復刻版じゃないでしょうか。最近日蓮宗で下付されている臨滅度時の御本尊の復刻版もかなりリアルに復元されていると思いますし。
法華宗の「日春授与の御本尊」復刻版もかなりリアルですね。やはり印刷技術の進化によるものでしょうか。そういえば柳沢師のところの日目授与曼荼羅の復刻版もそうですね。

業者の入札価格が真偽の判断材料になるかもしれませんね。

1835通りすがり:2004/11/01(月) 09:23
 妙国寺の真筆本尊が、出品されるのは宗寶に指定されていますので、真偽は
兎も角、日蓮宗宗務院がこの事実を認知しているかが問われます。
 それとも剥離本尊なのでしょうか?他の宗祖の御本尊と言われる物は、一幅
の形木本尊を除いて研究の余地がありますね。
 堺妙国寺は日蓮宗の四十七ある本山の一つに列を置き、由緒寺院になってます。
勉強中さんの言われる業者の入札価格が真偽の判断材料になるでしょう。

1836通りすがり:2004/11/01(月) 19:07
 どうも妙国寺さんも、事実を調査中という事で、宗務院も水面下で動き
事態の深刻さを感じているみたいです。

1837頭角無類:2004/11/02(火) 18:27
きゃからばあさん、
法道院100年史の引用ありがとうございました。

犀角独歩さん、
私もひょんなところで、北山の日禅師授与の本尊の写真を見る機会がありました。
 確かに、経の旁が「一/リ/エ」になってますね。その他にも首題の筆運びですが、大聖人の筆運びとしては決定的に違うところが一点ありますね。
 違いはお分かりと思いますので詳しくは書きませんが。大石寺の日禅師授与本尊の真偽はさておき、北山のものは、個人的には御真筆とは言い難いと思います。
http://toukakumurui.hp.infoseek.co.jp/zenshi_kita.htm
 諸賢のご意見はいかがでしょうか?

1838れん:2004/11/02(火) 19:40
頭角無類さん、初めまして。私は諸賢の内には入る者ではありませんが、少々私見を述べますと、北山蔵の日禅授与曼陀羅の写真については、私はケイタイですので、富士門ネットの不鮮明な写真でしか判断できませんが、私には、経の旁は「―/│リ/エ」の様に見えます。北山蔵が真筆か否かは、北山蔵並びに石山蔵双方の鮮明な写真が公開されなければ私には判断出来かねます。かの安永師は「板本尊偽作論」おいて沼津妙海寺蔵の弘安三年五月八日の蓮師図顕曼陀羅を石山彫刻曼陀羅を原本と推定し、犀角独歩さん、また石山当代顕師は弘安三年五月九日の禅師授与曼陀羅を彫刻曼陀羅の原本と推定されたように、石山彫刻曼陀羅は弘安二年の蓮師曼陀羅の特徴は備えておらず、むしろ弘安三年の、しかも五月中に蓮師が図顕された曼陀羅の特徴を備えていることは彫刻曼陀羅自身が示しており、彫刻曼陀羅の原本は弘安三年五月の蓮師図顕曼陀羅と見るのが至当と存じます。犀角独歩さんの御研究を踏まえて考察しますと、彫刻曼陀羅は現存蓮師図顕曼陀羅の中では禅師授与曼陀羅にもっとも近似していますから、現存の彫刻曼陀羅の原本は禅師授与曼陀羅である可能性が一番高いということですね。でも一つ気になるのは、やはり現存彫刻曼陀羅と完則図との相違ですね。

1839犀角独歩:2004/11/03(水) 00:48

頭角無類さん:

これは見紛うことなき、北山禅師授与漫荼羅ですね。どこから流出したのでしょうか。
わたしが所有する写真とは違うものです。

> 北山のものは、個人的には御真筆とは言い難い

この写真が流出した以上、この点に触れざるを得ないでしょうね。
わたしは拙書では以下のように語彙の使い分けています。

「日蓮聖人の御筆大漫荼羅のみを「大漫荼羅」と呼称し、真偽未決分は、単に「漫荼羅」、それを基にした書写、もしくは彫刻その他は「本尊」と呼び、これを区別しました」


れんさん:

> 完則図との相違

ええ、これはもちろんです。あと、何点か考慮すべき図もあります。さらにその図と比較してみるべきものがあります。

1840犀角独歩:2004/11/03(水) 01:11

そうそう、れんさん、「―/│リ/エ」とご覧になったのはさすがですね。
旁3画〜6画の1画の「│」は実は「華」の縦棒が經の旁を貫いたものです。
重要な点は、これが彫刻本尊の「ツ」の1画の位置とほぼ一致すると言うことです。また、日教研で質問した石山僧の言葉を借りれば、彫刻本尊の写真は熊田氏がなぞっているそうで、となれば、「│リ」を「ツ」となぞった可能性はないとは言えません。まあ、これは類推の範囲ですが、彫刻本尊の写真の薄く残る元の線と目せる白線は、実に多くを語っています。

1841犀角独歩:2004/11/03(水) 01:16

【1840の訂正】

誤)旁3画〜6画の1画
正)旁2画〜4画の1画

1842頭角無類:2004/11/03(水) 05:56
れんさん

はじめまして、貴重なご意見ありがとうございます。

>北山蔵が真筆か否かは、北山蔵並びに石山蔵双方の鮮明な写真が公開
>されなければ私には判断出来かねます。

どちらかが、本物であるという前提に立てばその通りだと思いますが、場合によっては両方とも偽物であるという可能性もあり、北山蔵は少なくとも偽作だと思います。

>彫刻曼陀羅は現存蓮師図顕曼陀羅の中では禅師授与曼陀羅にもっとも
>近似しています。現存の彫刻曼陀羅の原本は禅師授与曼陀羅である可
>能性が一番高いということですね。

 北山蔵は、一見御真筆かと思わせるほどのものはあるのかもしれませんが、細かく見ていくとどうしても真筆とはいえない部分があります。これははっきり言って制作者の「うっかりミス」です。

 さらに言えば、『日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成』で詳細を調べてみようと思いますが、北山蔵の「決定的におかしな点」は、「日蓮門下全般の諸師にも、このような筆法で曼荼羅書写した方が未だかつて居なかったのではないか」というほど決定的です。私でも分かるのですから、誰でも分かると思います。

 ですから、もし大石寺蔵と北山蔵が同じであった場合、どちらも「彫刻曼陀羅の原本」とはなり得ないのではないか。という気がしています。なぜなら、犀角独歩さんの『仏教再考』に掲載されている彫刻曼荼羅は、写真で見る限り、この「おかしな点」がないように感じられるからです。
 「本門戒壇本尊」が本物ではなかった場合、制作者は「おかしな点」に気づいていたことになります。果たして原本になりえたでしょうか。

1843頭角無類:2004/11/03(水) 06:08
犀角独歩さん、

いつもご丁寧なレスをありがとうございます。

>日教研で質問した石山僧の言葉を借りれば、彫刻本尊の写真は熊田氏がな
>ぞっているそうで

 私もこの点はそうだと思います。私の記憶では、熊田氏の『日蓮上人』は版によって線がハッキリしているものとそうでないものがあったような気がします。また、本来あるはず線が、ブッツリ切れていたり、と原本にどれだけ忠実に再現されているのか・・。その点の検証も是非お願いします。
 一日も早い上梓を心よりお待ちしております。

1844愚鈍凡夫:2004/11/03(水) 08:42

>>1837:

頭角無類さん紹介の北山蔵「日禅授与漫荼羅」、石山の「戒壇之本尊」と似ていますね。ただ、「華」と「經」、花押の違いが面白いですね。

「日禅授与漫荼羅」自体が他筆である可能性は問題にならないのか(正筆であると証明されているのかという意味)、という素朴な疑問が湧いてきますね。
一機一縁である以上、一舗ごとに心理状態も異なり、漫荼羅のイメージも異っていたのかも知れません。したがって筆の運びや字体にも違った工夫が見られるのかも知れませんね。
いずれにせよ、2舗の「日禅授与漫荼羅」も、「戒壇之本尊」とともに科学的検証をお願いしたいと思います。

1845犀角独歩:2004/11/03(水) 11:04

頭角無類さん:

れんさんへの問いかけも含んで記させてください。

> もし大石寺蔵と北山蔵が同じであった場合…「彫刻曼陀羅の原本」とはなり得ない…彫刻曼荼羅は、写真で見る限り、この「おかしな点」がない

これはどの点を仰っておられるのかわかりませんが、わたしは違う見解を懐いています。北山禅師授与漫荼羅と彫刻本尊を比較すると、籠抜きで写したのかと思うほどピタリと重なる部分(妙旁「ノ」と法のさんずい、蓮華の2字)があるかと思うと模写(籠抜きと別)というほど正確に写そうとしながら微妙な相違を示す部分(無の字など)また、明らかに作為と見られる部分(經旁)を孕み、単に臨模・作為のどれかと決めがたい側面を持っています。

また、サイトでも記したとおり、愛染の筆法は他筆以外の何物でもなく、この一点をとれば、彫刻本尊の「下書き」は間違いなく他筆です。また、原本は禅師授与漫荼羅ばかりではなく、『河邊メモ』にあるように諸尊勧請などは時師、もしくは有師の筆を採用しているのかも知れません。また、花押などは制作当時の責任者(たとえば石山住職)が自ら積極的に臨写しこれを据えた可能性もあろうかと思います。わたしが今回、鑑別に挑んだのは中央題目・日蓮花押・四大天玉・愛染不動です。このなかで、中央題目、四大天玉は臨模、不動愛染は線の一部を使いながら作為というのが結論です。

諸尊勧請の一々と讃文はたぶん禅師授与と全同であろうと想像しながら、しかし、腰書きにいたっては「造立・敬白」の文がある以上、彫他筆であることは当然のことです。すなわち、「本門戒壇」の4字は他筆であり、相貌欄外に記されたものであれば、漫荼羅相貌本体に「本門戒壇」の4字が記されたその意義を添加されたこととはまた別の真偽論がここにあります。

> 「本門戒壇本尊」が本物ではなかった場合、制作者は「おかしな点」に気づいていたことになります。果たして原本になりえたでしょうか。

この発想は山中喜八師が『本尊集』を発刊したのちの論理であって、わたしは気付かないであろうと考えます。一例を挙げれば、れんさんがご指摘くださったとおり、石山六壺本尊は興師に仮託した偽物であるのに、石山信徒のほぼ全員があれを本物と信じています。中世の石山歴代、もしくは学僧と言っても、一生涯で拝謁できる御筆漫荼羅はほんの数体であったでしょう。また所属寺院で蓮師真筆と言われた本尊を偽物と疑う自由発想は持ち得ないのが信仰者の火坑です。わたしは彫刻本尊全体を見るに付け、この制作者は、蓮師御筆大漫荼羅種々の特徴のなんたるかを知らずに作為に走ったと溜息を禁じ得ません。それは換言すれば、この制作者とその時代背景はいま我々が知り得る大漫荼羅筆法の知識よりかなり劣っていることを物語っています。だからこそ、禅師授与漫荼羅を原本として採用したのでしょう。

>> 彫刻本尊の写真は熊田氏がなぞっている
> 私もこの点はそうだと思います

ただし、石山僧が「熊田氏のセンスで、主題と花押と、あと不動、愛染、四大天王等について修正が加えられている」という点には大いに異論があります。わたしが彫刻本尊に北山禅師授与漫荼羅の輪郭を重ねた限り、大部はほぼ重なったわけです。そうなると、熊田氏はほぼ禅師授与の如くに「氏のセンスで…修正が加え」たことになります。しかし、このようなことは不可能です。なぞった線が禅師授与漫荼羅の輪郭と一致すると言うことは、元の写真が禅師授与と相似の関係にあり、それをまた熊田氏はかなり正確になぞったことを意味します。

その意味において、彫刻本尊の写真は熊田氏のなぞった線で元のものとは違うという考えは説明として成り立ちません。

殊に愛染の筆法について、他筆である点、これは本にも写真を明示してはっきりと記しますが、あの異常な筆法を示す愛染の書き方を達師は正本堂建立時点で書写本尊に採用しています。わたしは当初、この愛染こそ、熊田氏の作為と疑ったのですが、達師書写本尊の筆法を見たとき、振り返って彫刻本尊の有り様がそうであったが故に達師はそのように記したのだと考えざるを得ない結論となりました。

全体の相違はまさに愚鈍凡夫さんが仰る意見にはわたしは賛成です。
「筆の運びや字体にも違った工夫が見られる」とまさに感じた次第です。

1846亮太:2004/11/03(水) 12:10
大石寺執事・小川只道師に取材。小川師は、「そもそも、本門戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊は、ほぼ同時期の大聖人様の御筆ですから、全体に御文字の感じが似ているのは当然です。
ですが、幾度(いくど)も拝してみれば、お題目の全体の線も違いますし、ことに「経」の字の違いはハッキリわかります。
また、ことに違うのは、「日蓮」の御署名と御花押の部分ですね。大御本尊と比べて日禅師授与の御本尊は、御花押がかなり左側寄りに認(したた)められています。また、大御本尊は御著名の「日」文字と御花押が離れて認められていますが、日禅師授与の御本尊は「日」文字の上に御花押の上部が重なっていますし、御花押全体の形態もかなり追っています。これらの違いは、
御虫払いの時に気をつけて拝していだだけれぱ、一目で判るはずです。
大石寺執事の発言は、真筆本尊を間近で見ているので上記の投稿諸氏の内容を小川師に聞いて反論をしてもらいたいものだ

1847犀角独歩:2004/11/03(水) 15:09

> 上記の投稿諸氏の内容を小川師に聞いて反論をしてもらいたい

ええ、是非、図形入りで反論してもらいたいですね。
わたしは図形で問うているのですから、「こうなっている、ああなっている」と文章ではなく、図形を呈示して反論するのが筋です。大石寺からのそのほうなレスポンスは大いに期待します。

なお、弘安2年10月と弘安3年5月では、その相貌は著しく違うのであって、それが同じ蓮師漫荼羅だから似ているのは当たり前だなどという反論はやめるべきです。
この点は以下のサイトで、既にわたしは発表しています。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

真筆本尊はネットでアップされています。
弘安2年10月と弘安3年5月がどれほど、違うか、各人確認されれば一目瞭然です。

弘安2年10月第67
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/067.html

弘安3年5月
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/093.html

1848れん:2004/11/03(水) 18:33
頭角無類さん、私としては日禅授与曼陀羅を偽作とは思いません。北山蔵・石山蔵の双方ともに、あるいは写本の可能性はありますが、いわゆる偽作ということではないと思います。
犀角独歩さん、禅師授与本尊の…経の旁3画〜6画の1画の「Ι」は実は「華」縦棒が経の旁を貫いたものです…富士門ネットの写真を見ましたら確かにそうですね。ご教示有難うございます。しかし、彫刻本尊の「あの異常な筆法を示す愛染の書き方」は何なんでしょうか河辺メモで言う時師・有師書写曼陀羅にもあのような愛染の筆法がないので訝しく思います。但し、鎮師〜宥師の書写曼陀羅については未見ですので、この間の貫首の書写曼陀羅に彫刻本尊の愛染に近似するものがあるかも知れませんね。私も(彫刻本尊と日禅授与曼陀羅との)「全体の相違はまさに愚鈍凡夫さんが仰る意見に『筆の運びや字体にも違った工夫が見られる』」ものと思いますが、やはり全体の結構から見れば、彫刻本尊が示す特徴から、主に禅師授与曼陀羅を参考にして彫刻本尊が偽作されたことは動かないと存じます。以上のことから私も犀角独歩さん・愚鈍凡夫さんのご意見に賛同するものです。

1849顕正居士:2004/11/03(水) 18:34
以前からいだいている疑問

なのですが、富士派で板曼荼羅が寺院本堂の本尊として標準になるのはいつの頃からなのでしょうか?

大石寺の寺宝「戒壇本尊」の「真偽論」というのは、板曼荼羅なのであるからそれ自体の聖筆、偽筆という
論ではなく、原本の紙幅がかつて存在したか否か、現本があったとし、「戒壇本尊」と称するに至った縁起
の教義的背景が妥当であるか否か、ということであろうとおもいます。

伝説では題経寺の板曼荼羅は日蓮聖人がみずから刻んだ、戒壇本尊は日法師が刻んだといっております。
日法彫刻説は墨の部分を刻んだから原本はもう存在しない意味でしょうが、原本は戒壇本尊と同じ大きさで
あったことになります。日法彫刻説は曖昧でかつ富士派の教義にも合わないところがあるから、日蓮聖人が
自刻したという人もいれば、原本がいずれかに存在したはずと信ずる人もいるようです。日禅授与の曼荼羅
が原本であったなら、それなりの由緒が確認されたことになります。脇書に「弘安2年」とある意図は何なのか
が問題になりますが、脇書は後世に誰かが付加した可能性があります。

その場合、脇書を加えた人は板曼荼羅が宗祖の在世から存在した証拠にしたかったのではないでしょうか?

1850犀角独歩:2004/11/03(水) 19:16

れんさん、ご賛同有難うございます。
わたしも禅師授与漫荼羅の真偽については、もう少し熟考しようと考えております。
愛染の異常な相貌、それにしても何故、これまで誰も問題にしてこなかった甚だ不可思議です。仰るとおり、歴代書写本尊を当たり、あのように書き出した以降が、彫刻本尊造立時期を探る鍵になると思います。


顕正居士さん、本尊・戒壇・題目が、やがて、本門戒壇漫荼羅本尊という独自の発展を遂げた…、ということは石山に泥んでいると、ややもすれば見落としてしまう一点ですね。
そうなのです。既に記したことですが、弥四郎国重は本門戒壇願主であったのが、いつの間にか本門本尊願主の扱いになってしまっています。これはつまり、戒壇本尊というまったく新しい蓮師とは何の縁もゆかりもない新義の発生があったればこそ、可能なことであったわけです。

言葉尻を言うわけではありませんが、戒壇本尊があれば戒壇題目がなければならず、そうなれば、戒壇戒壇もあることになります。そもそもこの3つは別立てに教義を構成したのが蓮師であったのに、漫荼羅が本尊と定まり、事檀論が取り沙汰される歴史的流れのなかで、あたかも戒壇専用の本尊、それも漫荼羅本尊が捏造されるに至る流れは、実に複雑怪奇と思えるのです。図形的に納得が行くところまで来たら、またこの点を考えなければならない、全く以て厄介な存在であるとつくづく思います。

1851亮太:2004/11/03(水) 20:24
柴又帝釈天(経栄山題経寺)の板曼陀羅は、帝釈天の姿が浮き彫りになっていて、
曼陀羅本尊の部分は、裏面にでも刻んであるのでしょうか ?
余談ですが、日蓮正宗の僧侶であった、北原徳善師は戒壇本尊の疑義を大村日統
能化(宗務院教学部長)と論戦し、宗門を去り逸早く宗祖根源たる妙法蓮華経の
五字の帰依を説いています。

1852犀角独歩:2004/11/03(水) 23:08

亮太さん、はじめまして。


> 北原徳善師…大村日統…論戦

この話は初耳です。もう少し詳しくお聞かせいただけないでしょうか。

1853亮太:2004/11/04(木) 00:57
犀角さん 初めまして
北原徳善師は現在82歳になると思います、戦前は法華宗本門流の僧侶でしたが、
戦後復員してから、淳師を師範として改宗されてからは、大杉山有明寺復興時
に住職、その後に伊豆長岡町の慈光寺初代住職になり、宗創問題に本山の姿勢
を糾されて、それが基になり大村師と論戦されたが、最初から戒壇本尊を否定
していた訳ではなかったそうです。
離宗後も師僧たる淳師・達師の恩を大事にされ本尊問題に悩まれたそうです。
奥さんもそれ以上に悩み、唱題を重ねるうちに様々な研鑚もされたと・・・・
戒壇本尊の疑いを持つようになったのは、河辺メモが流出する以前から故山口
師から、日禅授与の本尊の首題と花押が一致する不自然さを聞いていたそうです。
本来、人類の幸福と寺門興隆の繁栄を旨とする北原師には、宗門という封建体質
極まりない組織よりも、宗祖のご妙判を声として信仰をされています。
私は、北原師の説く宗祖根源の妙法蓮華経の五字の帰依こそが根本だと信じてい
ます、余談ですが大村能化に「一念三千法門」からの一説を問い糾したそうです
「妙法蓮華経と唱ふると時心性の如来顕はる。耳にふれし類は無量阿僧祇却の罪を滅
す。一念も随喜する時即身成仏す。縱ひ信ぜずとも種と成り熟と成り、必ず之によっ
て成仏す」この一文に板本尊とは説かれてもいないし、他のご妙判も同一に妙法蓮華
経の大事は説かれているが、この辺りはどう説明するか、僧侶として論理的に分かる
よう迫ったが、何一つまともに話にならなかったみたいです。

1854亮太:2004/11/04(木) 01:10
追加です。
現在は隠居され、宗祖弘安五年の真筆天目上人に授与された本隆寺の本尊を製版印刷
された御本尊を修行の本尊として安置されています。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/120.html

1855犀角独歩:2004/11/04(木) 01:22

亮太さん、レス、有り難うございます。
お記しくださったお話は、わたしは感涙を押さえがたいお話です。
亮太さん、また、北原徳善師がご存命であれば、一度、是非お会いしお話を伺いたいと切望します。
深く御礼申し上げます。

1856亮太:2004/11/04(木) 12:54
 私も一度だけ、隠居されし北原師と会い種々のお話をお聞きしました。
信仰における謙虚さは、他の僧侶と比較にならない程、実直という言葉
が当て嵌まる方です。特に有明寺在任中は朝勤に力を入れていたらしく
部落の方が、唱題の際に叩く太鼓で目を覚ますなんてあったそうです。
報恩を大事にされる師は、草木にも佛性があり、父母の恩、師の恩、出会
われた人達の恩、先祖の恩を独自の観念文に取り入れていました。
私も機会があったら、お手紙を出して伺いたいと念願しています。

1857れん:2004/11/05(金) 08:35
亮太さん、初めまして。
北原徳善師…故山口師から日禅授与の本尊と題目・花押が一致する不自然さを聞いていた…。以前故山口師に手紙を出しまして、その御返事には彫刻本尊は真筆と書いておられましたが…。
犀角独歩さん、「大石寺教学の研究」の著者直人氏のHP「興門所伝考」に鮮明な北山蔵日禅授与曼陀羅が掲載されてましたので、じっくり見てみました(笑)。禅師授与は、首題の妙字は妙海寺蔵、蓮字は日華師授与に似てますね。全体的にみて、禅師授与そのものは弘安三年五月の蓮師図顕曼陀羅の諸特徴を備えており、少なくとも偽作・贋作の類ではないことは確認しました。感想としては愚鈍凡夫さんと同じように感じました。直人氏は禅師授与を彫刻本尊の原本とする説を否定してますが、私としては直人氏の彫刻本尊を興師造立とする説の方が信憑性に欠けるように思います。彫刻本尊の鑑別の難しさは、全体的には禅師授与をパッチワークしながらも、あの異常な愛染の筆法・佛滅度後を佛滅後とするなど彫刻本尊作成者による作為・改作が認められるところでしょう。何れにしましても、独歩さんの近刊書籍の一日も早い上梓を楽しみにしております。

1858オスカー:2004/11/05(金) 09:53
れんさん、初めまして
山口範道師からも、私も同じ事を手紙でいただきました。
山口師は戒壇本尊を否定はしていませんが、どうも不自然さが感じると
一部の僧侶には語っていたみたいです。堀上人も富士日興上人詳伝の中
で、板本尊については研究の余地があると示しているように、石山の日
禅授与の本尊の公開が望ましいものです。

1859犀角独歩:2004/11/05(金) 13:57

れんさんのあまり記されない(笑)に「!」と目を惹かれました。

> 禅師授与…弘安三年五月の蓮師図顕曼陀羅の諸特徴を備

ええ、仰るとおりですね。
けれど、ある方は「妙海寺漫荼羅を原本にした臨模じゃなかろうか」と仰っていました。ご意見としてはものすごく面白いですね。

それにしても、ようやくと、北山禅師授与がネットで流通が始まりましたか。
れんさんはご覧になり、どのような印象を懐かれましたでしょうか。

わたしのほうは、本日、先だっての講演内容を載せた出来上がります。
カラー版、50頁足らずです。来週月曜にはプレリリース版、こちらは120頁ほどで白黒版です。本番リリースは、そっちにかまけている間にまた少し遅延しています。
本を出すというのは本当にたいへんです。

“いまの”彫刻本尊は禅師授与漫荼羅の臨模作為が原本…、まあ、これは「図形から見た」という着想ですから、文章で違うと言われると困ります(笑)

わたしは勝手発想で記せば、中世は完則師図に見られる如く「在御判」の入ったもの。憲師実見の段階でも別物。それより以前は、第82でそれに充てた、腰書きが付いたのは台座に据えられたであろう精師段階、御影堂から宝蔵に遷されたとき。けれど、この段階ではまだ‘いまの’ではなかったろうと。寛師がいう「本門戒壇本尊」も案外別物ではないのかと思っています。それは寛師の諸尊勧請からそう思うわけです。なにせ「奉書写之」ですから。なんてあれこれ、考えています。

以下、さらに雑談。案外、禅師授与漫荼羅の宣伝効果を狙った『誑惑顕本書』に上手く操られ、さらに幕末の火事で燃えてしまった代わりを造るのに使われたのが禅師授与漫荼羅なんてストーリーだとすれば、いまのは150年ばかりのもの…。それも正本堂で修繕の折ですり替わり、いまのはもっとも新しいなんていう方もいらっしゃりますが。まあ、これは諸説の紹介で、書籍にまとめた内容とは、ぜんぜん別の自由発想ですが。

いずれにしても、興師に由来すれば弘安2年漫荼羅は「二千二百三十余年」である点は動かないと、これは文献的に思います。また、その時点で「本門戒壇漫荼羅本尊」などという発想自体、抑もなかったろうと思います。その発想が生じるのはいったいいつ頃であるのか、いずれにしても戒壇院は天皇受戒の場ですから、そうなれば、紫宸殿本尊の如き発送が生じるのも当然と思えます。天皇用の漫荼羅本尊が戒壇院マンダラでなければ、整合性は採れないことになります。けれど、本尊が仏像であれば、、その造立はもちろん天皇ご本人となるのでしょうね。

1860ワラシナ:2004/11/05(金) 19:09
亮太さんへ はじめまして。戒壇本尊真偽問題に関心を持っている者です。
ぶしつけなお願いですが。北原徳善師にお話を伺う前に亮太さんご自身と先ずお会いしてお話を伺いたいと思っております。
どこかで会っていただけないでしょうか。

1861れん:2004/11/05(金) 19:31
オスカーさん、初めまして。
山口師…どうも不自然さを感じる…。さすがは富士門の古文書を長年研究されてきた方ですね。山口師のこのご意見は傾聴に値します。私も石山の日禅授与曼陀羅の公開を望みます。
犀角独歩さん、ご本の出版準備でお忙しい中、返レス誠に有難うございます。
中世は完則図の如く…さらに幕末の火事で燃えてしまったかわりを造るのにつかわれたのが禅師授与曼陀羅…寛師がいう「本門戒壇本尊」も案外別物…。
私も虚心坦懐に資料を眺めてみて、流れからみてそれが事実だろうと思いました。改めて独歩さんのご考察に賛同いたします。
興師に由来すれば弘安二年曼陀羅…けれど(戒壇院)本尊が仏像ならば、その造立は天皇ご本人となるのでしょうね。
私も今ではその様に考えています。
北山蔵日禅授与曼陀羅を見た印象としては、本能寺曼陀羅と妙海寺曼陀羅を足して二で割った感じと言いましょうか。ある方は妙海寺曼陀羅を原本にした臨模じゃなかろうかと仰ったそうですがそれも無理はないと思いました。何れにしても現在の彫刻曼陀羅の底本は富士門伝承の曼陀羅の中では、独歩さんが図形から考察されたように禅師授与曼陀羅であることは間違いと存じます。

1862亮太:2004/11/05(金) 19:34
 いいですけど、只今引越しの準備で忙しいので、来月に入ってからなら
時間が取れると思いますので、その時にでも御返事願います。
 その際に待ち合わせ場所、時間を決めましょう。

1863愚鈍凡夫:2004/11/05(金) 19:57

う〜ん、しつこいようですが(ほんま、しつこい)。 (;^_^A アセアセ…
ところで、大石寺奉安堂の「戒壇之本尊」は何代目なんでしょうかね?
あの台座の上の蒲鉾状の半丸太は、直に彫刻してあって、板漫荼羅を貼り付けるようなまねはしていないのでしょうか・・・・・・。

不思議に思うのは、何故、板ではなく、半丸太なんでしょうか。みんな正面からしか見ないわけですから、わざわざ半丸太に彫刻しなくても良さそうなものですが・・・・・。言わなければ、ほとんどの人は半丸太か板か分からないわけですからね。

1864ワラシナ:2004/11/06(土) 09:03
亮太様へ、早速のご返信ありがとうございます。その時になりましたら連絡用のメールアドレスをここに記します。

1865通りすがり:2004/11/06(土) 14:34
 戒壇本尊を直接に拝見出来なければ、もう一つ別の手段がありますが、
 可能性は無いに等しいですけど・・・・
 大阪北野の蓮華寺に御会式に奉掲される、写しの本尊を拝するしか方法
 はありませんね、諸菩薩が若干のズレがあるみたいですが、首題、花押
 四天王、梵字は板本尊とそのままみたいなので、一度参詣して直に拝す
 るしか手段がありませんからね。
 信徒以外でも参詣出来る筈なので

1866通りすがり:2004/11/06(土) 14:35
可能性とは、写真撮影が出来るかの可能性です。

1867通りすがり:2004/11/06(土) 14:53
 大石寺の末寺で、比丘日禅師授与の形木本尊を所持されている寺院も
 あります。その寺の総代の邸宅に今も現存していますが、プライベート
 の事もありますので、名前は「妙光寺百年史・第二編 資料164ページ」
 に所持されている方の名前が書かれていますので、連絡をしてみて拝見
 させて貰えればいいんじゃないですか。
 石山の今の体質じゃ、後二十年ぐらいかかりますよ。

1868単己:2004/11/06(土) 16:08
愚鈍凡夫さん、半丸太の意味は相貌が彫られている面が反ったり、ひび割れしないようにと「大聖人様の甚々のご配慮」と雑談の中で聞いたことがありますが。違っていたらごめんなさい。

1869れん:2004/11/06(土) 18:18
通りすがりさん、大阪北野の蓮華寺の御会式に奉掲される移しの本尊…たしかに大石寺奉安堂の彫刻本尊が一般に公開されてない現在においては、たとえ‘写し’であっても、実地調査して実見すれば、あの不鮮明な写真よりかは多くの情報が得られると思います。その‘写し’の鮮明な写真の公開も今後の課題でしょうね。
愚鈍凡夫さん、犀角独歩さんのご考察を踏まえて考えますと、石山にては精師の家中抄において彫刻本尊の存在が明記されますが、憲師文献・完則図・現在の彫刻本尊はそれぞれ相貌が違いますから、精師以後に限っても、相貌から判断すれば、今の彫刻本尊は少なくとも三代目?位ではないでしょうか。独歩さんの仰る通り、道師文献から弘安二年に「二千二百三十余年」と讃文のある「日興上人」と蓮師が授与書きされた御筆曼陀羅の曽存が推測されますが(これが事実とすれば、恐らく熱原法難勃発後弘安二年九月下旬に図顕されたと思われます。三十余年とあるのは弘安二年中では九月図顕の御本尊集第六六番が下限だからです)、その曽存御筆曼陀羅は興師宛てで、熱原の農民信者の無事を祈念するものであるとしても、いわゆる本門の戒壇(本門寺の戒壇・事戒壇思想)とは無関係のものだったと思います。

1870れん:2004/11/06(土) 18:20
訂正
誤→移し。正→写し。

1871犀角独歩:2004/11/06(土) 20:31

寝る間もない程、忙しいのですが、れんさんのご投稿はあまりに刺激的です(笑)
つい、わたしの心中、投稿の虫が疼きます。

> 弘安二年…三十余年…「日興上人」と蓮師が授与書き

れんさん、わたしはこの大漫荼羅は、興師への「上人」号を与えるためのものであったと想像しています。その際に秀・弁2師にも上人号を下されたという「おまけ」がつくのではないでしょうか。以前、わたしは漫荼羅授与、允可、免許の意味があったと憶測を記したことがありましたが、興師授与「上人」号下賜の意義を具えた弘安2年漫荼羅、その当時として、際立った「三十余年」で、その讃文を受け取ったことを名誉・埃と考えられた興師とその一門であれば、あのような北山文書が次々と生まれていったのではないでしょうか。

1872犀角独歩:2004/11/06(土) 20:35


>1871

急いでいたので、ひどい打ち間違いです(自嘲)
どうして肝心の所でやってしまうのでしょう。

誤)名誉・埃
正)名誉と誇り

1873れん:2004/11/06(土) 21:56
犀角独歩さん、寝る間もない程忙しい最中に、私の投稿で失礼いたしました
>この大曼陀羅(ケイタイではマンダラのダの字が蓮師の使用されている字に変換できないのでこの表記でご容赦ください)は興師への「上人号」を与えるためのものと想像…
私も同じように考えます。曼陀羅授与書に「日興上人」と記して上人号を与えた一つの傍証が弘安二年十月十七日付けの興師宛ての蓮師書状「聖人等御返事」(興師写本北山蔵、御筆写真・興風第11号263ページ収録)と考えた方が自然ですね。
>興師授与「上人号」下賜を具えた弘安二年曼陀羅、その当時として際立った「三十余年」で、その讃文を受け取ったことを名誉と誇りと考えられた興師とその一門…
私も、二箇相承や本門寺額をはじめとする北山文書が次々と生まれた背景は、まさに犀角独歩さんのご考察の通りと思います。なお熱原法難時の蓮師書状には「伯耆殿日秀日弁等下」「下伯耆房」と蓮師が記してますがこの「下」字について興師は「六人御弟子中ニモ下字給たるハ日興外仁無之」と非常に誇らしげに記しているのが印象的です。熱原法難時における蓮師よりの興師宛て曼陀羅による上人号授与と興師宛て書状における「下」字の使用に、興師は生涯名誉と誇りを持たれておられたことと思います。

1874愚鈍凡夫:2004/11/07(日) 00:53

横レス失礼します。
上人号下賜というのは、日蓮一門の中でのことですよね。台家に行ったら「何それ」って言われそうですが。 ( ̄Д ̄;;
蓮祖としては法華宗の一派としての自覚はあったかも知れませんね。そういう意味ではイエスと似ているのかも知れません。結果的にキリスト教を興したのは弟子たちですから。蓮祖の弟子たちは、一宗を興された上での下賜と受け取っていたのでしょうね。宗祖日蓮から賜った「上人号」であると信じていたから誇らしく感じたのかも知れません。

1875愚鈍凡夫:2004/11/07(日) 01:13

>>1868:単己さん、初めまして。
レスを頂いたのに読み飛ばしていました。 m(_ _;)m ゴメン!!

> 半丸太の意味は相貌が彫られている面が反ったり、ひび割れしないようにと「大聖人様の甚々のご配慮」と雑談の中で聞いたことがありますが。

反りやひび割れを心配するのであれば、半丸太よりも角材を選ぶと思います。何十年も掛けて自然乾燥させた角材は、癖が全部出切ってしまいますからそれ以上変形する事はありません(故意に多量の水分を含ませない限り)。メンテによりますが、その角材を削って板にすれば、少なくとも千年は保つでしょう。200㎏を優に超えると思われる半丸太よりも、板のほうが扱いやすいし、重機やトラックのない時代ですからね・・・・・。もし蓮祖が認めたとしたら、日興師は一人でどのような手段を労して身延の山奥から大石ヶ原まで運んだのかといった問題をクリアしなければなりません。

1876単己:2004/11/07(日) 05:25
>単己さん、初めまして。

こちらこそ、初めまして。

>反りやひび割れを心配するのであれば、半丸太よりも角材を選ぶと思います。

そうですか。無知でした。保存という意味からでは無いのですね。多少安定性がいいくらいで何のメリットがあるのか分からないですね。
半丸太か板状かについて確か細井管長が半丸太と言っただけで、他の僧などにはこういう発言はなかったように記憶してます。
実際のところ半丸太状というのはどうなんでしょうね。

1877通りすがり:2004/11/07(日) 17:10
犀角さんの、所持されているある程度鮮明な写真とは、頭角無類さんがアップ
された写真なのですか?首題・花押・四天王・梵字はクッキリ分かりますけど
書写年月日や勧請されている諸菩薩はボケていて今一つ実感がわかないですが
全くの別物になるのでしょうか。

1878犀角独歩:2004/11/07(日) 17:45

通りすがりさん、わたしが所持している写真はカラーです。
同じ漫荼羅を撮影したことはわかりますが、別の写真のような…。
頭角無類さんがアップされた画像はアミ版が掛かっていますから、印刷物に掲載されたものをスキャンしたものではないでしょうか。わたしが所持するものは、現物を撮影したものを、そのまま出力したものです。
取材上の守秘義務があります。これ以上は勘弁してください。

1879愚鈍凡夫:2004/11/07(日) 19:43

単己さん、どうも。
半丸太の素性が分かれば、現在の「戒壇之本尊」誕生の経緯がはっきりすのでしょうが・・・・。
確か、奉安殿から正本堂に遷座するときに「戒壇之本尊」を担いだ人の話が出ていましたね。その人の証言でも「戒壇之本尊」は、半丸太だったとのことでした。
これは以前、犀角独歩さんが投げかけた疑問であったと思いますが、「戒壇之本尊」に関する文献の記述に「厚二寸二分(約6.6㎝)」とあるのはどういう意味でしょうね。
この記述は「戒壇之本尊」が板であるからこその表現であると思われます。
ならば、いつ頃板から半丸太にすり替わったのか? その理由は何か? そして、プロデューサーは誰か?
この半丸太の漫荼羅は、数ある板漫荼羅との差別化を図るために半丸太に加工されたのかも知れないと思ったりしています。

1880通りすがり:2004/11/07(日) 20:47
犀角独歩さん
有難うございました。

1881単己:2004/11/08(月) 11:31
愚鈍凡夫さんゴミレスに丁寧にありがとうございます。

>その人の証言でも「戒壇之本尊」は、半丸太
>文献の記述に「厚二寸二分(約6.6㎝)」とある

仰るとおり、これらから当初板だったものが半丸太にすり替わったと類推するのが自然ですね。

以下は独り言ですが......

大石寺歴代住職の漫荼羅に対する信仰心は一体どうなっているのか、といつも思わせられます。
今の阿部管長にしても「戒壇本尊」が偽作という事実を知っているようですし。
大石寺の漫荼羅信仰をしたことのある人なら学会、法華講、顕正会など組織は違っても蓮師の漫荼羅を偽作するなんて大謗法・狂気の沙汰としか言えないのでは。
それでも彼らは信仰者として、釈尊・蓮師に羞じない仏弟子として自らの成仏を確信できたのでしょうか。それとも、寺院運営のプロとして漫荼羅などただの道具として扱っていたのでしょうか。
そんなことを思うにつけ、「戒壇本尊」を新規に作成し何度もすり替えていった人達の真情はどうだったのかと興味が湧きます。

もっとも、大石寺より「伝統」もあり「由緒正しい」延暦寺などは、それこそ政争の具として戦国大名を圧倒する武装勢力だったわけで、皇族の腰掛けに用意されていた天台座主の信仰心(法華信仰のために殉教する覚悟とか)など問題にならないわけですが。

1882通りすがり:2004/11/08(月) 23:47
頭角無類さんの、アップした日禅授与の本尊の写真が見られないみたいです。
石山の僧侶の間でも、ここのページが話題になっているのは実に光栄な事だ
と思います。日蓮正宗教学部や提議のある僧侶の意見を聞いて見たいもんです。

1883勉強中:2004/11/09(火) 00:32

通りすがりさん、はじめまして。

「大石寺教学の研究」の著者であるHN直人さんのHPでも写真が出ています。

http://www.sincere.ne.jp/~naohito/kaidan_zenshi.html

直人さんは、本門戒壇の大御本尊が日禅授与曼荼羅を原図としていることには異論があるようです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3171/1080352245/37

また大石寺の御僧侶方がご覧との事ですが、是非大石寺蔵の日禅授与曼荼羅の鮮明なお写真と、本門戒壇の大御本尊の鮮明なお写真の公開をお願いしたく存じます。

1884犀角独歩:2004/11/09(火) 14:06

>1882

リンク先を拝見しました。
要するに、いちばん、肝心の2点、アプローチの仕方がわたしと違うわけです。

(1)並べられる写真のサイズをまず、「南」〜「經」で同一にして比較すること

こうしませんと文字の比率の差がよくわかりません。同一サイズにすると、けっして「南」字は小さくありません。
「華」も輪郭を重ねると、ほぼ相似形をしています。字画・光明点の伸びる角度まで一致しています。
「經」旁‘リ’‘ツ’の相違は、もちろん現宗研の講演で考証しています。
「ツ」1画目「ノ」の位置に「華」の縦棒が一致しています。この点で彫刻本尊では作為があるというのがわたしの考えです。その他の部分でも、字画運筆がぴたりと重なります。

(2)パッチワークであることを意識すること

彫刻本尊の制作過程を木下日順師は「よせもの」と称しました。稲田海素師の「4部構成」説もいうべき考えを踏襲したものです。ですから、文字一字々々は似通っていながら、その‘置かれる位置’にズレがあります。その理由は

 a:原図から持ってきた字を板面でパッチワークして、再構成している
 b:北山蔵と石山ではレイアウトの相違がある

などの点によるとわたしは考えています。

以上、サイズとパッチワーク、この点を外して、原本と模刻は縦横・配置まで、ピタリと同じはずだという固定観念は事実を見落とす先入観であることを意識しなければならないというのが考証段階におけるわたしの発見と反省でした。
たぶん彫刻本尊は複数原本の臨模、さらに制作者の作為という複雑な要素が絡んでいることを考慮しなければ事実は見えてきません。

ところで頭角無類さんアップの写真、もう消えてしまったんですね。

1885犀角独歩:2004/11/09(火) 19:14

れんさん、
勉強中さん

お二方が同じHPを紹介されており、それがどうやらわたしへの反論か疑義?のご紹介ようなので、弁明という、立証のために、一つだけ画像をアップします。

この手の画像は出版して著作権が確立してから、ネットへ公開したいのですが、ご参考に未発表ですが、比較画像を紹介します。

種々ご教導をいただているお二人ですから、礼節に従った次第です。

これはご紹介のページにアップされた画像を同一サイズとして、平行線を引いて、大きさを比較したものです。ここまで一致するのに、原図ではない、「南」字の大きさが違うという「説」を立てる理由がわかりません。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/ookisa_hikaku.jpg

1886通りすがり:2004/11/09(火) 19:36
ん、見られませんね、何か技術的に問題でもあるのかな
準備中になっています。

1887犀角独歩:2004/11/09(火) 19:37

自己レスです。
1885のジャンプ、何故か飛びません。
けれど、コピペすると飛びます。
ご面倒ですが、そのようになさって、ご高覧ください。

1888れん:2004/11/09(火) 20:14
犀角独歩さん、アップされた画像を拝見いたしました。ケイタイからですと、残念ながら首題の経字までしか見られませんが、禅師授与曼陀羅と彫刻本尊・同じ大きさにしますと、首題だけ見てもよく一致してますね。現在の彫刻本尊は首題・日蓮花押・四大天玉・不動愛染だけみましても、おもに禅師授与曼陀羅をパッチワークしたものである(勿論ところどころに製作者による作為が見られる)ことは間違い無いと私も思います。直人さんの誤解?は、独歩さんのご指摘の点とともに、現在の彫刻本尊を興師直造と考えていることでしょう。日憲文献・完則図・明治期に公開された写真とで、彫刻本尊の相貌が異なっていて、彫刻本尊は一枚岩ならぬ一枚‘板’ではなくて、複数の‘存在’が認められることを看過していることですね。
それから、御教導戴いているのは私の方です。犀角独歩さんをはじめ皆さんのご教示のおかげで、大分頭のなかの整理がついてきました。独歩さんをはじめ皆さんの御学恩に深く感謝申し上げます。

1889れん:2004/11/09(火) 21:06
訂正
誤、アップされた画像
正、アップされた比較画像

1890犀角独歩:2004/11/09(火) 21:13

れんさん、過分なお言葉恐縮です。こちらのほうこそ、感謝申し上ておりげます。

周囲のレスなのですが、なにかわたしが模写=原図であるといっているような周囲のレスがありますね(笑)
わたしはそんなことを言っていません。臨模・作為混合であると言っています。
中央題目についてもそれは同様で、ただ、各文字が相似している、殊に各文字同士の大きさ・字画長等の比率が合っている点に注目しているわけです。これらの点が一致すれば、模写であれ、臨写であれ、作為であれ、(参考にした)原図には違いないという認識です。

なお「南」字の‘冂’画はたしかに彫刻本尊のほうが細く見えます。また‘┐’の部分、より終点に向かい内側に入っている点で相違しているように見えます。しかしこれは原本ならざる決定打にはなりませんでしょう。他の部位があまりにも類似、相似形にあるからです。故に「華」「經」についても、これは同様に考えております。

あと「經」光明点が彫刻本尊にはないということですが、これはたぶん写真の関係ではないかと類推します。もしなければ、それだけでも、この「南」字は他筆と断定できることになりますね。そんな筆法は他に例がないからです。ですから、写真では確認できなくても、わたしはこの線はあるはずだと考えています。

仮にこの原図が臨模作為であっても聖筆を真似る気があれば、そんな初歩的な書き間違いをするわけもないからです。ですから、これを「ない」と断言する勇気には、多少ならずとも驚かされました。

1891勉強中:2004/11/10(水) 00:14

犀角独歩さん、出版前のご多忙な中を申し訳ありません。
私のレスが結果的にお手を煩わす結果となってしまいました。
私はれんさんはじめ、こちらの諸先輩方と違い、何の真新しい投稿もできていません。
ただ虫干などでみたまま、聞いたままを報告したまでで、誠に皆様の学恩に授かっているに過ぎません。

そして直人さんは、なんといってもお若い。未来があり将来有望な方であることは間違いないと思う次第です。

ともかく私の出すぎた投稿で、お二人の学匠の貴重なお時間をさいてしまったことに陳謝いたします。

1892通りすがり:2004/11/10(水) 00:15
 戒壇本尊の正鵠な写真が中川日史と言われる方の書物に掲載されていると言う
 話を宗内僧侶から聞いた覚えがあるんですけど、書名は分かりませんが
 あと、正本堂の取り壊しの後に一時的に安置された奉安殿や現在の奉安堂でも
 カメラ付携帯電話で堂々と撮影している法華講員が多数いるそうです。
 四月の虫干法会の際に奉掲される宗祖御本尊の内のなかで御本尊集に未収録の
 本尊は偽筆?の可能性はあると本山僧侶の方が語ってくれたのは驚きました。
 山中氏は、そのあたりを憂慮せられあえて収録されなかったのでは無いでしょ
 うか。

1893きゃからばあ:2004/11/10(水) 11:13

面白いものを見つけた。

『弘安二年 大曼荼羅と日興師』昭和五年十月三十日発行・松本佐蔵(道本)著

「尚又此御本尊の裏に閻浮提云云と御下附の由來が書記せられてあるとの噂を耳にしたことがあるが併し之は裏と云ふのであるから只だ噂として到底其實否を確めることは出來ない 本來我々が拝すのは内拝であって広宣流布の暁でなくば公然拝すべき筋のものでないと石山では昔よりの云ひ傳へであるから容易に拝すことを許されない事になって居るが道本が子供の頃はこの筆法で信仰を認めなければ金を積んでも拝ませなかったが最近では金で拝ませるかどうか」

「明治四五年の頃この大本尊に対し甚だ恐れ多いことがあった 夫は時の政府が全国の神社仏閣の本尊を取調べ神仏混交を許さずとあって各々其本尊を取調べ疑点ありとするものは皆引上げられたことがあった この噂を聞き石山でも大に驚きこれに限り疑ひありなどと批難さるゝ気支ひはないが併しどんな口實を以てか假令一時たりとも引上げらるゝ様な事があっては恐れ多い迚時の法主(石山五十一世日英師が其時機に當る)は東京芝區の強信者山田善兵衛氏(道本の親戚)を招かれ諮議の上法主は正本尊大の紙幅に模写しこれを本尊に仕立てゝ正板本尊は山田氏等数人が供奉し夜中を選み出京して本郷の加秔邸に旨を傳へ同邸の倉庫へ窃かに預け置き暫時世間の状況を見定め最早安全なりと認められて同邸より取戻し元の如く石山寳庫に安置せられたのである又假りの代品本尊は東京に持來り数十年後深川區の法道院と云へる教會に於て日應師山田氏等立會の上焼却し終った(法道院は大正十二年の大震火災に全焼せり)又山田氏は今尚芝區本郷町にて山田善之助迚立派に相続して居る此事は道本も子供の頃に之れを聞き記臆して居る 此経緯を誤り伝へて石山の本尊は偽物なりなどと飛んでもない噂さを世間でしたそうだが事實は右の通である」

はたして、本物が取り上げられるのを恐れたか?
または、偽者とバレるのが怖かったのか?
いずれにせよ、一時的に板漫荼羅が大石寺より東京の信徒の倉庫に保管されたとある。
もしかして、今の奉安堂の板漫荼羅も、仮本尊だったり?
やはり、うさんくさい。

1894管理者:2004/11/13(土) 23:18

頭角無類さん

犀角独歩さん

>1884  ところで頭角無類さんアップの写真、もう消えてしまったんですね。

管理者の独断で、頭角無類さんアップの写真、リンク集に収納させていただきました。もし、不都合が有れば消します。仰ってください。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm

1895平和創価:2004/12/11(土) 16:28
私は今、までいつも思っていたのですが、蓮祖の御両親は一体何歳で亡くなったのでしょうか。
父の妙日尊霊は正嘉2年2月14日、母の妙蓮は文永4年8月15日です。

日蓮正宗過去帳に没年齢が書かれていないので、不思議ものと思われます。

1896通りすがり:2004/12/13(月) 02:51
> 1895
実の親の事?育ての親?
妙日・妙蓮尊霊がどちらかは不明ですがね。
育ての親という説もありますしね。
実親は、高貴な…(笑)。

1897れん:2004/12/13(月) 07:13
たしか、石山代々法華の方々の間では、妙蓮・妙日尊霊は育ての親で、実の親は高貴な…という伝承だそうですね。ただこの説にかんしては石山五十九世堀日亨師は「但し確実なる資料が無い」(杉谷師筆録の日亨上人講述)と疑義を呈していますし、文献のうえでは蓮師門下最古の蓮師伝記である大石寺四世日道師の「御伝土代」では「日蓮聖人は本地是地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は則安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり」とあります。また後世の文献ながら富士の相伝書の産湯相承でも三国大夫・梅菊夫婦が実親とされてますからいかがなものでしょうか?

1898真実 探求者:2005/01/25(火) 20:07:11
失礼、。 素朴な疑問、、?  は誰しも抱くものでしょうか、。 そのヒトツに「、、どうして日興師」が「、身延山」を下山するに至ったのでしょうか?  日蓮聖人が「身延は聖地なり、、?」と断じた?ようですが、。 日興師は、?ではないでしょうか、。 本当は「、ご供養の激減、?」による「、弟子などの育成、?」の点で「、イワユル、、ゼニの問題、?」と存じますが、? 世の中「キレイ事」では通じ無いことが多数あるようです。ダマシ?は、後日、999%
見破られるようです、。 早々。

1899祝8郎:2005/01/26(水) 01:51:36
>1898
身延離山は日興師の前に昭師朗師持師頂師が不参というかたちで行なっています。
当時の身延は波木井の領地であって、かりに久遠寺があったとしてもそれは波木井の所有にかかるものと考えられます。
日蓮聖人や日興師に対して「身延の沢」「草庵」「久遠寺」などを波木井が寄進したという事実もありません。
日蓮聖人在世当時から波木井による「御供養」などほとんど無きに等しかったと考えられます。
やはり波木井の不信心が大きな要因だと思われます。

1900真実 探求者:2005/01/29(土) 22:13:31
、、ご免下さい。 当時は、人は、どこかの寺院に必ず所属する義務??があったようです? まー、それが幕末まで続いた「徳川政策、、」であった、、。 その中での「、、日蓮さん無き後の、布教の対策?」に日興さんも苦慮されたでしょう、、。 「昭、朗、持、頂師方」が身延の日蓮さんの墓参もしなかった、ようですが、、これは、、「、、日蓮さんへの不信の確定犯、??、」とも、? 言えないでしょうか、、??  あまりにも、厳しい折伏に「、、五他僧が、内心は日蓮さんに反感を抱いていた、??、」という、事も考証可能でしょうか、?  ならば、日蓮さんは「弟子方、、」に高い確率で当時から「、、裏切られて居た、、??」ようでしょうか、、?  でも真実は、、「、、弟子方か、、?  日蓮さん、、か、、?、、」かは、後世の我々の範疇でしょうか、、?? 早々、。
早々、。

1901顕正居士:2005/02/05(土) 20:59:20
身延山の位置は今日でも山梨県の辺境です。鉄道(身延線)があるから行けはするが。日蓮が示寂した後
六老が交替で祖廟を守ると決めたが昭朗持頂の四老は多忙で来られない。甲斐出身で甲駿に教線を張る
日興が常駐することになってしまった。しかし日向だけは来た。そして波木井日円は日向と仲が良くなった。
当時の寺院は大名小名が土地、資金、軍事力を出資することで新設された。領民の文化向上による領地の
安定を目指してだろう。次代以降の住職はその大名小名の男子の一人が出家して継ぐ。日興は日円と関係
の改善を計ったが、すでに日円の志は日向に傾いている。身延山は門弟を繁茂させるには不便な位置でも
ある。駿河への転地の計画を構想したでしょう。構想は実って南條氏の寄進により大石寺の基いができた。
しかし二年後には更に将来性がある石川氏の出資により重須に移って、本門寺根源と称することになった。
日向は学問が優秀であったのかも知れない。非常に永い目で見れば身延山は繁栄すると予想したのかも
知れない。対していえば日興のほうは経営の感覚が優れていた。重須への転地は南條氏の了解と支援の
もとに行われた。ここで日興の門徒は大石寺(南條氏)と本門寺(石川氏)に分張した。大石寺を継承した
日目は南條氏ではなく縁戚の小野寺氏であり、その寂後には日道(小野寺氏)と日郷(南條氏が支援)との
寄進地継承抗争が勃発した。結局、日郷は大石寺を離山し、又、日興の後を継いだ日代は当代の石川氏
と合わず重須を離山して西山に(真実の)本門寺根源を開いた。富士派は骨肉の抗争によってむしろ発展
した。他門徒もそうであろう。競争原理の効果といおうか、六老に序列を付けないと宣言した日蓮の先見の
智慧か。土地を獲得し小作収入を増やし、本山参詣による商業を推進し、かつは軍事力を養成して戦国に
覇を唱えるという宗教勢力発達の方規は比叡山を見習ったが、その山科本願寺は京都日蓮宗の民兵に
よって滅ぼされ、その京都日蓮宗二十一箇寺は比叡山山兵に焼かれ、比叡山は織田信長の軍隊によって
破却された。徳川家康がオランダ大統領に送った書簡にはわが国と貴国とはともに宗教戦争を終焉させた
共和国であるから万里の波濤を越えて軍事同盟を結ぼうと提案された。経済力も軍事力もなくても学問が
できる環境があれば勢力を伸張できる江戸時代になってはじめて身延山久遠寺が誕生したといえましょう。

1902犀角独歩:2005/02/07(月) 20:17:08

デルトロさん、はじめまして。
書き込みをされたスレッドは『スレッドテーマ提案用』なので、その後に続けて投稿するわけに行きませんから、仮にこちらに書き込みことにしました。

わたしは52に投稿される如き、率直な感想には賛同します。

「広宣流布」とは、(法を)広く宣(の)べ流布することでしょうね。原義的には、まあ、信仰者は怒るかもしれませんが、広宣流布にいちばん近い現代語は、広告宣伝・流通(広く告げ・宣(の)べ伝える・流通する)であろうと思っています。もちろん、これは商業用語になっていますが、法であるか、商品であるのかの差異はあるにせよ、類似形態であると考えてきました。

ただ、その広宣流布は、衆生の三割(舎衛三億の喩え)であるとは、万民一同であるとか、その流布の割合は区々に言われ、その結果社会をまた、意味するところに語彙は拡大解釈されるにいたり現在に及んでいるのでしょうね。

日蓮門下としては『如説修行鈔』の

「法華折伏、破権門理の金言なれば、ついに権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗となりて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれ(壞)をくだかず、代はぎのう(義農)の世となりて、今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人、法共に不老不死の理を顕さん時を各各御らん (覧)ぜよ。現世安穏の証文疑ひあるべからざる者なり」

を、その具体的イメージとして懐いてきたのでしょうね。
まあ、しかし、わたしにはリアリティがありません。

1903犀角独歩:2005/02/07(月) 20:19:01

> 1902

失礼、52とは、『スレッド提案用』の52のことです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014121584/52

1904愚鈍:2005/02/07(月) 21:15:46

広宣流布は、悲しいかな「virtual reality」ではありませんか。
天災も人災もない世の中なんて信じられませんし、あり得ないことでしょう。
地震・台風・津波を止める術なんてないですよ。
去年の中越地方がいい例だと思います。台風による水害、その後が大地震、そして記録的豪雪です。まるで、踏んだり蹴ったりを絵に描いたようなものです。
どうせ、カルト教団では罰がどうしたこうしたと言ってるんでしょうけど。 ムカ…(;-_-メ)>

1905愚鈍凡夫:2005/02/07(月) 21:22:33

>>1904:は小生のレスです。 m(_ _)m
世の中が創価学会・法華講・顕正会の会員で溢れていても、理想郷とはほど遠い社会になっているのじゃないですか。どうせ新たな敵を見つけて攻撃してるでしょうから。

1906デルトロ:2005/02/07(月) 21:49:50
独歩さん はじめまして
私のような拙い質問にお応えいただいて恐縮です。
一見されてよくおわかりかと思いますが、
私は教学は苦手でして、普段御書を開くこともあまりありません。

ただここの掲示板に縁ができて、少し学んでみたいという欲求が
湧いてきました。
これは私の感想なのですか、一般の信徒のかたで、日々教学について
研鑽されているかたは少ないと思います(これはあくまでも主観であり、
証拠を示すことはできませんが 笑)
ただそのような信徒にも、積極的に御書を学んでいきたいと
感じさせられるような掲示板だと思っています。
その一点においても、かなり有意義だと感じさせられました。

疑問のひとつとして、流派はいろいろあれ、大聖人の仏法は信じるに
足りるものなのでしょうか?
おそらくこれは聞いてはいけないことなのかもしれませんが、

分裂した流派は否定するが、大聖人様は肯定できる。のか。
あるいは分裂するような流派を元々作った人間に問題があるのか、
(継承した人間がどうだったかという問題はおいておいて)
もっといえば日々リアルな生活を送っている人間に
大聖人様の仏法は必要であるのか。

このへんてどうなんでしょうか。
これも上記と同じく個人的感想なので証拠はないのですが
大聖人様の仏法の入り口には「現世利益」という
いいかたはよくないかもしれませんが俗さがあるような気がします。

現世利益がなくなってしまうと、たぶんほとんどの人が
この信仰を捨ててしまう気がします。
(他の宗教でもほとんどが現世利益を売りにして、それなりの利益は
あるのかもしれませんが、ならどの宗教でもいいということになってしまい、
長年正宗の信仰に関わってきた人間はジレンマに陥る)

なんかうまくまとまってないですが、
(御書の件とも自己相違してしまうかもしれませんし)
正直、正しくて現世利益があるのならばもっと勉強していきたい
けど、根本が崩れているならやりたくないと、いうのが
本音かもしれません。

どう思われますか?
甘えているのかもしれませんが、アドバイスがいただけると
助かります。
幼稚な文章ですみません

1907デルトロ:2005/02/07(月) 22:00:38
続けてすみません。
愚鈍凡夫さん こんにちは
新たな敵をみつけて攻撃っていうのはまったく
その通りですね。
まったく敵がいなくなった状態というのも
どんな状態なのか想像つきません(それが広宣流布というならば)
全体主義のような社会なのか、あるいは差別格差が大きくなっている
社会なのか。
どちらにしろ歪みは出てくるような気がしてきます。
歪みのない社会を作ることが新しい歪みを作るというのは、
なんとなく理にかなっているような気がするのですがどうでしょう?

はじめから絵に描いた餅だったんですかねえ
やっぱりちょっとショックかもしれません

1908犀角独歩:2005/02/07(月) 22:08:23

デルトロさん、どうも。

なんか、自分でも不思議なのですが、デルトロさんの疑問と言うか、感性は、わたしは実にすとんと腑に落ちるのです。まあ、わたしが御書・富要オタク(ほかは弱くて、れんさんにお叱りを受けたり、顕正居士さんに補っていただいたり、暴走は愚鈍凡夫さんがかっこよくフォローしてくれたりですが)で、まあ、蓮師文献は好きです。御書はあまり開かない…、けれど、何かを言い張るわけではないので、別段、それはいいでしょう。

> 大聖人の仏法は信じるに足りるものなのでしょうか?

この点は、わたしも実に興味があります。
正直、申し上げ、大乗経典の一切は後世の創作物語、漢訳仏典は致命的な違訳・意訳の山、天台も「うーーん」と唸るところも多く、御書に至っては半分は真偽未決、中世、相伝は信じるに足らず……。しかし、信者さんのなかに功徳の体験を熱く語る、このパラドクスは如何に?というところでしょう。

現世利益(功徳)は…、「うーん」ですね。
これはわたしが高校生のとき、キリスト教の友人と72時間の長期激論をしたときのことです。
わたしが「利益も出ないような信仰は力がない!」と、まあ、創価学会で教えられたことを「確信」を持って語ったわけです。
友人いわく、「キリスト教では、利益を考えてやる信仰を貧しい信仰であるという。功徳があろうがなかろう、ひたすらに神を信じること、それが見返り、損得を考えない純粋な信仰だろう」とやり返されました。実は、そのときから、30有余年、この点について、腕組みをしたまま、今でも考え込んでいます。

難しいご質問を投げかけられますね。

1909デルトロ:2005/02/07(月) 22:43:03
独歩さん すみません。
くだらない質問で。
利益を考えてやる信仰は貧しい信仰といった
キリスト教の人の意見もわからなくはないんですが、
でもそれだと限りなく自己満足の信仰な気もするんですよ。
もっというと、
「得もないのに、なんで信仰やってんの?
自分が高尚なことしてるって思い込みたいだけでしょ?」
と、キツイいいかたですが、あります。
キリスト教の人はあまりにも高すぎる理想と、
等身大の自分にギャップが出て苦しむ人が多いようですね。
そんな自分を封じ込めるような気がします。

でもこれはこちらの視点であり、キリスト教からしてみれば
排他的で罰論ばかり、脅かしの宗教だって感じるんでしょうね。
スイマセン。話それましたが。

広宣流布がリアリティなくなってしまうと、
大聖人の仏法にリアリティがなくなってしまうんでよ。
けど罰や功徳にはリアリティがある(かもしれない)
罰や功徳の判断はあくまでも主観でしかない。
けど信仰している人間はほぼ全員といったら言い過ぎかも
しれませんが、現世利益を求めている。
あれが欲しいこれが欲しい。ああしたいこうしたいと。

では罰ってなんだ功徳ってなんだ
大聖人って正しいのか正しくなにのかって
どんどんジレンマに陥るんです
これを解決できるものが仏法だと信じていたわけで、
かなり混乱しています。

1910犀角独歩:2005/02/07(月) 23:01:04

デルトロさん、くだらない質問とはぜんぜん、思わないですよ。
根源的、かつ直截な疑問点であると思います。
こちら側からのキリスト教の見方、また、向こうから見方。かなり適切にとらえられていると思います。

> では罰ってなんだ功徳ってなんだ

ここら辺について、クラックを埋めるのが「即」ということなんでしょうね。たとえば「罰即功徳」とかね。類型的に言えば、「変毒為薬」なんていうのもあるでしょうね。


デルトロさんの今のような状態、立ち止まって考えあぐね、堂々巡りに陥っているとき、その突破口となり、罰であれ、毒であれ、悪であれ、それを一切合財、いい方向に転換し、前向き、上昇に切り替えることができるとするのが、力ある仏教なんていうとらえ方なのでしょうね。「不可能を可能にする」「妙とは蘇生」なんていうのも、その類じゃないでしょうか。

現実問題、祈って、人生を切り開いてきた人は上述を、もっともだと思うでしょうね。
反面、端で見ている人から、「あいつ、拝んでいるだけ」「拝むことが目的になっている」「宗教をやっている自分に酔っている」なんていう辛辣なご意見を飛び交うかもしれません。

わたしは、最近、こういう功利性を、説明原理として、御書、経典を引くのが仏教の在り方で、阿弥陀さんのお陰にするのが浄土念仏、神様への感謝となればキリスト教で、そうやって感謝させながら、人々を労するのが宗教団体・指導者…、でも、そういう潜在能力は、実は人間本来の、個人的な能力ではないのかと考え直すようになってきています。オフ会スレッドで書いた如くです。

…答えになっていないかもしれませんが。

1911愚鈍凡夫:2005/02/08(火) 00:27:22


>>1907:デルトロさん、初めまして。

「絵にも描けない美しさ」なんちゃって。

「だから、なに・・・・・。」 (-.-;)y-゚゚゚

まず、幾多の宗教が同じテーブルに座って、神や仏、そして信仰について話し合う機会を作ることから世界平和は始まると思います。
イラクでも同じイスラム教のスンニ派とシーア派が対立しています。イラクほど深刻ではないにしても、日蓮宗(富士門も含めた意味で)の統率力のなさを、他人事とは思えません。元を正せば日蓮その人が、謎だらけの人物であるからかも知れません。
歴史書にその存在を探し求めても見つからない人物、それが日蓮、その人でもあります。
先日、聖徳太子と親鸞聖人について犀角独歩さんとお話させて頂きましたが、何を隠そう、「日蓮聖人は架空の人物である」なんて論文が出てくると面白いかもと個人的に思ったりしています。

「祟りがありませんように・・・・・」 ちーん Ωヽ(-"-;)南無南無。。。。

ただ小生は、ピュアな心を保ち続けることができるのなら、今でも創価学会員であり続けたかも知れません。しかし、残念ながらその願望は打ち砕かれ、現在に至っております。
(-""-;)

1912犀角独歩:2005/02/08(火) 00:50:30

愚鈍凡夫さん、横レス失礼。
ピュアな心を持ち続けたからこそ脱会したというのも、あるんじゃないでしょうかね。

1913デルトロ:2005/02/08(火) 01:50:08
こんばんわ。
難しいですねえ。ピュアな気持ちを持ち続けられて
盲信ではなくかつ利益も欲しいとは、
本来からして欲張りな考えなのかもしれませんねえ。

私も二元論でとりあげてるのかもしれませんね。
しかし宗教に葛藤がつきものというのは
常みたいですね。
それをどう捉えていくのかの判定基準というのが
主観なのか客観なのかもわからなくなっているんで、
単純に正邪が欲しくなってしまう。
その心理もあるのかもしれません。

私は宗門と学会が決別してしまった時に、
そのタイミングで組織とは違う個人的なことも
重なって、御本尊様をカッターでズタズタに裂くということを
してしまいました。それも二度もです。
狂ったから御本尊に手をかけたのか、御本尊に手をかけたから
狂ったのか、精神病院の入退院を繰り返していました。
閉鎖病棟の保護室という場所に監禁され、手足もすべて
しばりあげられ、まさに地獄でした。
どこかのスレで、似たような体験のURLを開きましたが、
「これ自分だ」って。逆にいえば、自分だけじゃなかったんだ。
とも思いました。

今は薬もよくなっているんでしょうが、当時の副作用は
とても強く。退院してきてもほとんど廃人に近い状態でした。

1914デルトロ:2005/02/08(火) 01:50:54
もちろん信仰につけるはずもなく、日々自殺だけを考え、
廃人ライフを送ってきました。というより、こんなこと
しでかしといて生きていこうなんて虫がよすぎるなあと感じていました。

それからしばらくして宗門の信仰につきました。
(もちろんこんなことがあったなんて誰にも話せない)
自分の謗法の強さを自覚していたので、常に懺悔の日々です。
今では奇跡的に回復し、普通の日常生活も送れるようになったのですが、
今でもたまにふと思うんです。

あの時自分が御本尊様に手をかけていなかったならば、どんな人生だったんだろうと。
仮定は意味のないことかもしれませんが、
やっぱり考えてしまいます。違う人生があったのか、それとも自分は最初から
こうなるようになっていたのかと。
しっかり信心をして功徳をいただいた気もするし、そうじゃない気もする。
今こうして生活ができていること自体大きな功徳ではあるとは思うのですが
本当にそうなのかと思う自分も同時にいるわけです。
(ものすごく恐ろしいことをいっている気もします)

自分は罪業が深い。これだけは間違いない。
何かひどい目にあっても、それは自分のしでかしたことが原因だからと
考えやすくなってしまう傾向もある。
これが呪縛による神経症のようなものなのか。
あるいは違うのか。
呪縛からとき離れるべきか、背負っていくべきか。

1915デルトロ:2005/02/08(火) 01:51:30
私はこの信仰をずっと続けていこうと思っています。
しかしもしそれが、根源である日蓮大聖人から否定されるべきものなので
あれば、流派うんぬんなどまったくの瑣末なことであり、大げさにいえば
自分の人生の否定にもなってしまいます。

しかし否定されることが怖いわけではなく(もちろん恐怖ではありますが)
今後、どのように曼荼羅と向き合っていったらいいのかとの葛藤です。
信仰を捨てるのか否か。あるいは保つのか否か

日蓮大聖人が間違っているのであればこの呪縛からとき離れたい
(もちろん思っているより簡単なことではないでしょうが)
しかしこの仏法が正しいのであればこのままずっと罪障消滅を祈っていきたい。

これは正か邪かの二元論ではなく選択だと思っています。
独歩さんはどうお考えになるでしょうか?
独歩さんの答えはいつもリアリティがあってとても好きです。
失礼になりますが、ここで独歩さんの話を聞いても、おそらくすべてを委ねるようなことはないでしょう。
(かといって真剣に耳を傾ける姿勢は変えないつもりです)
またこれから先、どっちを選択しても葛藤からは逃れられないのも
わかっているつもりです。

ただ、もしみなさんの通ってきた葛藤と私の葛藤に何か通じるものが
あれば、アドバイスをいただきたく思います。

1916犀角独歩:2005/02/08(火) 13:38:21

デルトロさん:

辛い日々を送られたのですね。
わたしは25年前に倒れました。
それからは自分を苛む日々でした。
そんな当時の心象風景が、いまあなたの投稿と重なります。
辛い日を送りました。こんな掲示板は勿論ありませんでした。
カルトという言葉すらありませんでした。
生まれながらの日蓮正宗・創価学会であったわたしは、答えを、そこ以外に求めませんでした。
答えはすべて仏法のなかにあるとも思い込んでいたからです。

> 何かひどい目にあっても、それは自分のしでかしたことが原因

このような考え方を「自罰性」と言いますね。
『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版)でハッサン師は

「自己処罰に積極的に参加する人は、やがて自分がその罰に値するのだと信じるようになる」(P116)
「無意識のレベルで、このグループに加わることで自分の『罪』を罰していた」(P292)
「(あるメンバーは)やめると気が狂うという観念を(略)埋め込まれていた。驚いたことに、彼はやめたあと本当におかしくなった。両親は彼を病院へ連れていった。医師たちの意見では、彼はたしかにおかしい、実際分裂症だ、というのだった。青年はこの診断を、自分のリーダーが正しかった証拠だと解釈した」(P306)
「(あるメンバーは)もしグループをやめようものなら自己破壊を起こすのだと条件づけられていた。そして実際やめてみると、まさにそのことが起こりはじめたのだった−−救出カウンセリングに出会うまでは」(P307)

わたしは、この本の、上述の記述に出会うことによって、それまでの自罰的生活が脱却することが出来ました。その後、わたしは優秀な学者、カウンセラーに出会うことが出来、今に至っております。

わたしが創価学会にいたとき「御本尊を破ると、同じように自分もバラバラになって死ぬ」などと脅かされたものでした。たぶん、こんな呪文は顕正会をはじめ、石山教義への強い信念体系下では今でも語られていることでしょう。しかし、実際のところ、昭和20年代より創価学会の中堅幹部を務めた親の元で育ったわたしは、ゴミ捨て場に捨てられたり、壁に貼り付けられたり、破却されたこと、燃やされたことなど、たくさんの事実を見聞しています。その実行者も多く知っていますが、特に、それに見合う「罰」が当たるものでもありませんでした。

上古を探れば、蓮師の御筆漫荼羅ですら、信者が亡くなるとともに埋葬された事実は散見でき、また、漉き返しにしたことも窺えます。

1917犀角独歩:2005/02/08(火) 13:38:45

―1917からつづく―

漫荼羅のこと、この世で、それをもっとも廃棄している者があれば、それは印刷業者でしょう。
現在、石山、学会ともに、漫荼羅本尊は、印刷製版で作製されていますね。
「試し刷り」という行程があります。印刷機にインクが馴染み、綺麗な印刷が出きるまで、時には何百枚もの紙を無駄にして輪転機を回し続けます。本刷りではない多量の漫荼羅は、当然、その後、廃棄処分されるでしょう。また、石山には返却されてくる大量の印刷漫荼羅を処分する専用の焼却炉があることを、学会に移った僧侶が暴露したことがありました。焼却効率を上げるためか、軸の部分は破り取ることが怖かったなどと体験を載せていた記憶があります。
つまり、本尊の破却は、実はその発行元でこそ、もっとも行われているということです。
しかし、印刷会社が火事になったとか、石山で焼却作業をした僧侶が焼け死んだなどという話は聞いたことがありません。

何より、漫荼羅とは、蓮師がいうところの、本当の本尊なのでしょうか。
「観心本尊」という言葉があります。実はわたしは、この言葉に蓮師の(漫荼羅観ではなく)、本尊観が籠もっていると思います。漫荼羅とは、その本尊を観(み)る具である、といまのわたしは考えています。護札、勧請札の意味合いもあったのかもしれません。

チベットの砂マンダラをご存じですか。緻密に丁寧に制作しても、しばし時間で風が一切を消し去ります。蓮師御自身、常に楮紙を用いて漫荼羅を墨で図示した以上、その耐久度が尽き、やがて朽ち果てる日が来ることは当然、意識していたと思います。反面、霊的、かつ密教的な要素を強く持つ蓮師は、その漫荼羅、呪力、霊力が具わっているという確信もあったでしょう。

しかし、その漫荼羅「本尊」が功徳を与えるのも、またただ紙墨と見るのも、人間です。わたしが蓮師漫荼羅を通じて、垣間見るのは、日蓮聖人御自身の、そが己中に観た本尊の相貌(すがた)です。

漫荼羅が真実か、本尊が真実か…と問う前提として、それよりもっと根元的なことがあるでしょう。

そもそも、自分が教えられた日蓮聖人の教えは、本当に日蓮聖人の教えなのかということです。
少なくとも、いまの各集団がいう日蓮(仏法)像は、日蓮その人とは、かなり大きくかけ離れているように映じます。

まあ、あまりせっぱ詰まらず、ゆったりと鷹揚に構え、上述の点を咀嚼してみてください。
いずれにしても、元来、仏法の教えとは、人を治罰したり、裁いたりするものではないでしょう。
聖書神話の世界ではあるまいし、子羊のように言うことを聞く人ばかりの永遠の救いを与え、聞かなければ裁き・地獄に堕とす存在ではありません。そんな罰論の混入は、バラモン教への先祖帰り、西の影響を受けた改変仏教の有様であると、わたしは思えます。もっとも蓮師もそのような強迫観念に生きた人であったでしょう。しかし、そのような部分まで、全部が全部、引き受ける必要はありませんでしょう。

二元論、奇しくもそうお書きになっておられますが、まったくそのとおりで、善いところは採り、不要なところ用いない、信が真っ白で、不信が真っ黒とすれば、その間に無段階の無数の灰色が広がっています。そのグラデーションの一切合切もまた真実であると言うことでしょう。そのどちらかに偏ることを戒め、中道を説いたのがシャキャムニの教えと解釈される後継者の英知にわたしは頷くものです。

1918吉祥仙人:2005/02/08(火) 18:41:36
 デルトロさん失礼しました。
 
 以後こちらに書き込みます。

1919デルトロ:2005/02/08(火) 18:54:33
独歩さん。真摯に答えてくださってありがとうございました。
何度も読み返しました。おそらく、自分の中でもすぐに解決していく
問題ではないのでしょう。
いまだじくじくと傷口が膿み、血が流れているのは感じます。
ただ、独歩さんのお言葉が、瘡蓋を作っていくひとつの縁になるかも
しれないとは思いました。
すぐにすべての葛藤から開放されるとは思っていませんが、
ただもう一度、色んなことを見つめなおすいい機会だとは思っています。

ところで、もう少しお話してもいいですか?
他のスレッドにある文章を引用するのがいいことなのか
よくわからないんですが。独歩さんの

<非常に極端な言い方になるかもしれませんが、「本門戒壇の大御本尊」によって功徳があったのではなく、その功徳によって「本門戒壇の大御本尊」たらしめていたのは、実は信者(学会で言えば、その会員)であったという事実を、ここに、わたしは確認しました。

強い信仰心があれば、聖地・器物、もっと言えば石山僧(殊に「御法主上人猊下」)がなくても、たしかに功徳の体験があり、さらに「生命力が涌く」実感もあるわけでしょう。

という意見は面白い見方だなあと思いました。
これって野球チームやJリーグのファンみたいなもんなのかなと。
たとえば日蓮リーグというのがあり、各流派の人間たちがこぞって自分たちの流派をスタンドから応援しているわけです。
お互いに野球を愛している気持ちは変わらねど、自分のチームこそが最高と信じきっているわけだから
互いに攻撃的なわけです。互いのスタンドは常にまっぷたつに割れていて、相手チームのファンが自軍のスタンドに
まぎれてきてしまったらそれこそ大騒ぎで吊るし上げられます。
ファン同士の争いは自分の応援するチームを最高だと常に信じて疑わないわけだから、
当然そこに正も邪もない。けれどみんな野球を楽しんでいる。と同時に憎んでもいる。
一度スタンドに入ってしまった以上は、たとえ本当はどこのチームも応援したくなくなっても、
応援し続けないと士気が下がるし、みんなに迷惑がかかるので続けなければいけない。
もし翻って相手チームの応援団に入ってしまったら元の応援団チームからは罵倒し続けられる。
たとえ連敗続きでも、貧乏球団でも金持ち球団でも、みんな愛され続けてなくなることはない。
応援をしていると、どんどん気持ちがよくなってきて、自分のチームの利点だけみつけ、
相手チームの欠点を罵倒する。とにかく自分の応援しているチームは最高のチームだと、
みんなが各自信じて疑わない。いつか自分のチームを世の中の人全員が応援してくれる日がくると、
信じて疑わない。球団は、彼らがどんな問題を起こしたとしても、
単なるファンの集いなので、当然責任を問われることなどない。
他にもキリストリーグ、天台リーグ、その他無数のリーグがあり、
リーグ内は常に争っている。

この比喩が当たっているのかはわからないし、私の思い込みみたいな部分もあるのかもしれないけど、
なんか宗教って広い視野でも狭い視野でも、単なるゲームなのかなって気もします。

1920吉祥仙人:2005/02/08(火) 19:00:24
 曼荼羅について

 私は曼荼羅(御本尊)は自身の十界の対境だと指導されてきました。自身の生命の鏡だと。

 確かにこの世にあるもので最も尊い物の一つと思いますし、それを粗末にすることは自身の
生命を粗末にすることに通じるとは思います。しかし「胸中の肉弾におわしますなり。」
(教学不足で出典が書けません。)とあるとおり、その扱いを教条的にとらえることはないと
思います。

1921犀角独歩:2005/02/08(火) 19:33:49

吉祥仙人さん、端的に申し上げましょうか。
印刷漫荼羅を作ることほど、わたしは漫荼羅に対する冒涜も、不敬もないだろうと思っています。だからこそ、興師は禁止したのでしょう。

我が家が昭和28年の入信です。物心ついたときに、仏壇のなかに線香の煙で煤けた寛師形木本尊がありました。わたしが勤行を覚えたのも、題目を唱えたのも、その本尊です。昭和52年、正本堂が建立し、特別御形木本尊が授与されることになりました。
母は「今度は、もっと大きな立派な御本尊様が来るから」、そう言って、仏壇からその煤けた寛師本尊は外されました。父は、それを丁寧に袱紗を包み、背広のポケットにしまいました。
「本部に行って来る」、そう言って、外に出ると、タクシーに乗り込みました。
その瞬間、わたしは、元の寛師本尊に二度と会えなくなることを咄嗟に悟ったのです。
「…、待って」、そう小さく叫んで、父の乗ったタクシーをわあわあ泣きながら追っかけました。母はわたしを引き留めました。「あの御本尊様はどうなるの。ねえ、どうなるの?」、そう聞き質すと、母は困った顔をしました。
「お山に帰るんだよ。それで大切に保管されるんだよ」
「ほんと、ほんとなの」
わたしは何度も聞いたのを覚えています。
「大切に保管してもらえるのならばいい…」と、そう自分を納得させたのです。
でも、事実は違っていました。石山に大量に返却されたそれまでの本尊は焼却炉ですべて燃やされたわけでしょう。
わたしは、このようなところにも石山信仰の実態というものがあることから、目を背けられません。

1922吉祥仙人:2005/02/08(火) 19:40:54
 デルトロさんへ

 >1919・・・野球チームやJリーグ・・・

 いい意味で、絶句してしまいました。すばらしい発想ですね。少し考えてみます。

1923犀角独歩:2005/02/08(火) 19:47:23

1919 デルトロさん、野球の観戦ですか。なるほど。うまい譬えですね。

チャルディーニ師の『影響力の武器』(誠信書房)に載る「連合(投影された栄光)」という話を思い出しました。

「投影された栄光によくしたいという気持ちは誰にでも多かれ少なかれありますが、自分が観戦できなかったゲームのチケットの切れ端一枚を五十ドルで買うために雪の上で行列をつくった人々には、何か特別なことがあるように思われます。それはおそらく、家に帰ってから友人などに、自分がその偉大な勝利の場面に居合わせたことを『証明する』ためなのです。彼らは一体、どのような人なのでしょうか。私の推測が的外れでなければ、彼らは単なるスポーツ熱愛者ではなく、背後にパーソナリティの脆弱さが隠されている人たちです。つまり、否定的な自己概念をもっている人々なのです。こころの深層に、自分は価値が低い人間だという気持ちがあるため、自分自身の業績を高めて名声を得るのではなく、他者の業績との結びつきを形成し、それを強めることによって名声を得ようとしているのです。私たちの文化の至るところにはびこるこの種の人間は、実に多種多様です。有名人を友だちのように言う人たちは、その古典的な例です。ロック・ミュージシャンを追い回すグルーピーもそうです。彼女たちは、有名なミュージシャンとしばらく『一緒に』いたと友人に言いたいがために、自分の性的魅力を売り物にしているのです。どのような形であれ、そのような人々の行動には似たような主題があります。それは、物事の達成は自分が外部から得られるという、かなり悲劇的なものの見方です」(P238)

なお、ここで言う「連合」とは

「連合というのは一般的な原理であって、望ましくない結びつきにも、望ましい結びつきにも適用されます。悪い出来事でも良い出来事でも、それと単に結びつけられることが、人々が私たちに対しどのような感情を抱くかに影響を与えるのです」(P226)
「 奇妙な行動の多くは、人々が連合の原理を十分に理解していて、望ましい現象−−自分がその現象の原因ではない場合でも−−と自分を結びつけ、逆に、望ましくない事象から自分を遠ざけようとする事実によって 説明できます」(P233)
「著名な作家アイザック・アシモフは、私たちがコンテストを見るときの反応を次のように描写しています。『他のすべての条件が等しければ、人は自分と同じ性別、同じ文化、同じ地方の人を応援する……その人が証明したいと思っているのは、‘自分が’他の人より優っているということなのである。応援する相手が誰であれ、その相手は‘自分の’代理になる。そして、その人が勝つということは、‘自分が’勝つことと同じなのである』 」(P236)
「私たちは望ましい連合をひけらかし、望ましくない連合を覆い隠すことによって、周囲の人たちが私たちを高く評価し、もっとすきになるようにさせているのです」(P238)

1924犀角独歩:2005/02/08(火) 20:02:28

1921をちょっと補足。

しかし、それでも、いまわたしはそんな漫荼羅幻想から脱却したわけです。
いまは、もうそんな呪縛にとらわれることはありません。
その課程で、漫荼羅の再考は、わたしにとって、極めて大きな意味を持ったわけです。

1925デルトロ:2005/02/08(火) 20:22:19
吉祥仙人さん、すいません
やっぱり場違いな人間だと実感しました。
失礼します。

独歩さん。
宗教はやっぱり商売であり、営利がすべてにおいて優先されるのかな
とも思いました。現実にお金がかかるのは否定しませんが、
お金が主導になってしまい、人を気持ちを癒すどころか、
人を傷つけることにもどんどん鈍感になっているんだと思います。
怒りよりも、強い悲しみを感じます。
すべてにおいて効率が優先されるのであれば、宗教とは
呼べないと思いますが、争って現世利益を追い求める信者たちにも、
同じような醜い姿があるのかもしれません。
私なりの解釈でいえば、信仰には信と慈悲が常にあることが理想だと
思っています。しかし同時にまったく逆のものも備えており、
ここが矛盾と映るとどうしても苦しまなくてはなりません。
当時の独歩さんの子供心が、
傷つき、苦しみ、怒り、悲しみ、憤り、の複雑な感情が入り混じったのは
とてもよく理解できる気がします。罰論によって、
はけ口をみつけられないのは、あまりにも残酷だと思います。

私は教学的なことはわかりませんが、
ここの掲示板は、そんな人たちのセラピーになる場所だと
思っています。信仰を続けていけば、矛盾を感じ、傷つき、苦しむ。
しかしそのはけ口はまったく用意されず、罰の恐怖を
叩きこまれる。これこそに矛盾を感じます。
その蓋をはじめて開放したのがここなのだと思っています。

ありがとうございました。

1926犀角独歩:2005/02/08(火) 20:47:03

デルトロさん、まだロムしていますか。

わたしの結論は、こうです。
ここでわたしが行って来たことは、カリスマ信仰、器物信仰、集団信仰から脱却です。
仏教は、実は極めて自立・自律です。
わたしが極度の神経障害から立ち上がるカリキュラムで、もっともしんどかったのは、自分の頭で考え、自分で決断をすることでした。
なぜならば、それまで、答えはすべて経典・御書を解釈する集団・指導者が用意してくれていたからです。ではあとはなにをやっていたか。それを「信じ・実践すること」だけです。

脱会という機縁で、その思考と決定権を自分の手に取り戻したものの、では、どうしたらよいのか…。その時、初めてわたしは気付いたわけです。自分は何も考えてこなかった。ただ、考えられてきた形を、信じることだけをしてきただけだったと。そこからの立ち直りの道程は、自立・自律、依存から脱却であったわけです。しかし、その道程で、気付いたことは、なんと、この宗教からの立ち直りと、神経障害からの立ち直り、カリキュラムの酷似です。
しかも驚いたことに、原始経典から垣間見られる釈尊の教説は、このような到達点とも、よく一致しているということでした。

その意味で仏法は捨てたものではないと、わたしは思っています。
なお、わたしは天台の教説を全面的に認める立場ではありませんが、

> 蓋をはじめて開放した…

という一説を拝読し、『摩訶止観』の「蓋を捨てよ」という一節を思い出しました。

なおまた、デルトロさんは、少しも場違いな人ではなく、また、吉祥仙人さんも、殊に揶揄したわけでもないと思います。むしろ、デルトロさんの新鮮、かつ独自の観点に感嘆の意を表したのではないでしょうか。わたしも、少なくともそのように感じましたよ。

それにもう一つ。当掲示板で、もっとも場違いな人間であると思われているのは、このわたしです。わたしを批判する投稿をお読みになれば、直ちにそれは了解されるでしょう。わたしは富士門の掲示板で、富士門の屋台骨を次々と切り倒しているからです。

しかし、でも、わたしは知っていることがあります。それは何か。仮に富士門の一切合切を叩きつぶしても、信者である人々の清廉な精神は決して死なないということを、です。

もう少し、ゆっくりとここで逗留されることをお奨めしますよ。

1927デルトロ:2005/02/08(火) 21:01:12
独歩さんありがとうございます。
今はきっと私は、精神的に弱っている状態なのでしょう。
自分でもとても過敏になっているのがわかります。
混乱しているんでしょうね。

独歩さんのような暖かい言葉が、他の場所で聞くことが
できなかったのが、なによりも残念に思います。
気持ちが落ち着いたら、また、色々と伺わせていただこうかと
存じます。その時は、あらためてよろしくお願いいたします。

1928犀角独歩:2005/02/08(火) 21:07:17

デルトロさん:

何も無理をすることはありませんよ。
自分のペース、自分が安全であると思う距離感を掴むことは何よりのことですから。

いつでも、お待ちいたしております。
なお、ここにわたしが投稿をしていないときは、フリーメールでけっこうですから、お気軽にメールをお寄せください。

saikakudoppo@rio.odn.ne.jp

1929管理者:2005/02/08(火) 21:18:02

デルトロさん
犀角独歩さん
吉祥仙人さん

大変共感を懐きながら、皆様の議論を拝見しています。今後とも宜しくお願いいたします。

>それにもう一つ。当掲示板で、もっとも場違いな人間であると思われているのは、このわたしです。わたしを批判する投稿をお読みになれば、直ちにそれは了解されるでしょう。わたしは富士門の掲示板で、富士門の屋台骨を次々と切り倒しているからです。

これは、富士門掲示板の管理者でありながら、富士門の屋台骨が次々と切り倒されてゆくのを快く思ってきた僕も、最も場違いな人間ですね。そもそも、四分五裂した富士門の統合を目指して、この掲示板は立ち上げられたわけです。ところがどっこい、議論を突き詰めてゆくと、この富士門各派の多くがいかにも食わせ物の似非日蓮で有ったかが白日の物となってしまいました。その最大の功労者は勿論犀角独歩さん、これはこの掲示板に参加された皆さんの異口同音の思いだと思います。批判する人も賛同する人も犀角独歩さんを差し置いては何も語れない。

僕も、戒壇本尊に対する器物崇拝は止めました。今は、さらに進んで曼荼羅を直ちに本尊とはしない立場にいます。南無妙法蓮華経とは、釈尊の法華経を信仰することであり、一つの仏性信仰の形なんだと思っています。

富士門の各教団に在って、傷ついた方がいらつしゃったなら、この掲示板はその方のためにあります。そして、この掲示板は、その方の自分の掲示板なんだ思ってください。何の遠慮も要りません。思う存分御参加の皆さんと議論してみてください。管理者は、唯ひたすら、その方に取って、この掲示板に参加した事がプラスになる事を願うものです。

1930愚鈍凡夫:2005/02/08(火) 21:27:44

横レス失礼します。
小生は、信仰とは心が透明になっていくことではないかと思います。ドンドン浄化されて澄んでいく事ではないかと思います。
心が、全てのもののあるがままを映し出す鏡となり、如何なる時も冷静さを失わない安定感を獲得することではないでしょうか。逆な言い方をすれば、そんな信仰を模索していると言った方が小生の心情としてはピッタリですね。
信仰観は人それぞれですから、現世利益至上主義といった考え方も否定しませんが、小生には馴染めません。
本当は、体験を語るのが一番いいことなのでしょうが、体験を語ると小生が誰なのかが分かってしまうものですから(済みません。それほど特殊な体験を持っています)。

1931真実 探求者:2005/02/08(火) 21:44:49
1930 愚鈍 凡夫さん、、<信仰とは心が、、、ドンドン浄化、、、澄んで、、>
  小生のコラソン(心臓)にグサリ、、、です。 諸氏の卓見には トテモ、、、勉強になりました、、。

1932真実 探求者:2005/02/08(火) 22:21:17
失礼します、、。 1930 の御主張こそ===日蓮さんが追い求めていました=== 即身の成就的なる仏の境涯===イワユル成仏、、、ではないでしょうか、、????

1933愚鈍凡夫:2005/02/08(火) 22:46:11

真実探求者さん、レス有り難うございます。
蓮祖が追い求めた成仏が如何なる姿を指すのか分からないのですが、敢えて推察すれば、釈迦牟尼仏のような人格を獲得するのが大乗仏教で言うところの成仏でしょうか。
「スッタニパータ」や「ダンマパダ」を読んでみると、ゴータマ・ブッダは特別なことを言っているようには思えないのです。
小生には、物事の本質を見極めなさいと御教示下さっているように思えるのです。

以前にも紹介しましたが、ここのHPで「スッタニパータ」、「ダンマパダ」が読めます。
まだ、読んでいない方はどうぞ。

「仏陀の部」
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/index.htm

1934真実 探求者:2005/02/09(水) 00:02:35
ドーモです、、。 真摯に勉強をさせて戴きたく存じ申し上げます、、。 成仏とは、、、? 私の求める???でございます。 今後もあらゆるHPを渡り歩きましても、はたまた自分の実足を駆使しても探求する所存で御座います、。 何卒宜しくご指導のほどを、、!! 早々。

1935デルトロ:2005/02/09(水) 00:45:35
独歩さん。
少し気持ちを落ち着けて、メールしたく思います。
今は崩壊の段階なので、少なくとも全部壊しきってから
連絡します。親切にありがとうございます

1936犀角独歩:2005/02/09(水) 19:05:38

管理者さん、1日、空けましたら、他で議論が進んでいますが、1929につき、御礼申し上げます。
有り難うございました。

1937犀角独歩:2005/02/09(水) 19:15:46

【1921の訂正】

誤)昭和52年、正本堂が建立
正)昭和42年、御供養があり、昭和47年に正本堂が建立

1938吉祥仙人:2005/02/09(水) 20:27:33
 デルトロさんへ

 1922の私の発言は、皮肉でも、誹謗でもありません。
 ただ、その様に受け取られたのなら謝罪いたします。

1939デルトロ:2005/02/09(水) 21:09:48
吉祥仙人さん。
そんな、謝らないでください。
私はリハビリのつもりで書いてるつもりですから。
今まで自分の目に映っていた風景を、違う視点で見てみたく
なっただけですから。
今まで目に映っていて信じていたはずの海が、
突然本当はこれ川だったんだよっていわれてびっくりしてるんです。
じゃ、海って何だろうって、
ようやく考えようとしているだけですから

1940デルトロ:2005/02/09(水) 21:51:43
独歩さんいらっしゃいますか?
またくだらない質問していいですか?

日蓮正宗の教義が破綻しているというのは、
宗門、学会、正信会、(あえて顕正会はいれません)
上層部のどの位置ぐらいまでが把握しているとお考えですか?
どこまでが確信犯だとお考えでしょう?
そしてまた、戸田城聖は?
厳密な回答を求めているわけではないので、なんとなくこの辺ぐらい
までかなあたりで結構ですので教えてください。

日蓮リーグの話を気に入ってくださったなら恐縮です。
ただ、なぜ日顕上人は教義の破綻をわかっているのに、
最大のスポンサーである学会を手放してしまったんでしょう?
俗ないいかたですが、それならば多少の冷遇はあっても
損して得とれと考えるのは私のような俗の考えかたでしょうか。
私も宗門は贅沢しすぎたの感はありますが、一時の怒りの感情で
金の卵を産む鵞鳥の腹を割くようには思えないのです。
52年路線があっても実質上、学会はびくともしませんでした。
破門したら宗門に流れてくるなどと楽観した見方はしていないでしょう。
ましてや決別すれば、過去の例から見て、どれだけ誹謗中傷されるかも、
予想がついたはずです。
圧倒的財力を捨てて、圧倒的に誹謗を受け、経済的にも疲弊する茨の道を
選んだ。ここがどうも腑に落ちないのです。
そうまでして学会を許せなかった原因はなんだとお考えでしょう?

1941吉祥仙人:2005/02/09(水) 22:18:58
 でしゃばってすいませんが

 人間の一番強い感情、憎悪だと思います。

1942愚鈍凡夫:2005/02/09(水) 22:36:14

横レス失礼します。
創価学会の場合、牧口さんの「価値論」、戸田さんの「生命論」、この出発点から石山教学とは水と油だったのではないでしょうか。
しかし、創価学会のおかげて石山が経済的に潤ったのは事実ですから、戦中の神札問題同様、妥協できる点は極力妥協してきたというのが石山のスタンスではなかったでしょうか。
ただ、石山と創価学会は、池田さんが「創価学会」と「日蓮正宗」の上に、双方を統括する組織を作ろうと企てた頃から、実質的に距離を置くようになっていたと思います。
石山教学については、他山の相伝書・口伝書に展開される不可解な理論を自宗の教学に取り込んで、辻褄合わせをした時から教義破綻をしていたのだと思います。
それでも、江戸時代に日寛という矛盾に満ちた不可思議な理論を展開する人物によって、「日蓮本仏論」を前面に押し出し、辻褄合わせが完成を見たのではないですか。

1943吉祥仙人:2005/02/09(水) 23:14:01
 デルトロさんへ

 でしゃばって、答えのヒントにもならないことを書き込んですいませんでした。
 
 犀角独歩さんがまだいらっしゃらないようなので、愚鈍凡夫さんの書き込みを
ふまえて少々。
 なぜ憎悪もしくは怒りの感情を持ったか。創価学会では阿部管長個人の性格に
収れんさせることが通説となっています。私もその部分が多いと思います。
 しかし、(また島田教授の影響ですが)愚鈍凡夫さんの指摘する前半の点も
根源的にあるかなと思います。「創価学会と日蓮正宗の上に・・・」については
異論があるのですが。
 教義の破綻については、まだ勉強不足で納得していませんが、また反論も
出来ませんが、愚鈍凡夫さんの言う「辻褄合わせ」は、理論の発展として容認
出来るのではないかと思います。法華経を釈尊の直説ではないとして、文献上
学者に認められる(字がでない・・)アゴン経のみが正しいとする某師の説など
愚の骨頂と思います。

1944犀角独歩:2005/02/09(水) 23:28:08

1940 デルトロさん、ちょっと、考えてからお返事を差し上げます。
(いまから、ようやくと夕飯なものですから)すみません。

1945無徳:2005/02/10(木) 00:01:23
犀角独歩さん、先日は有意義なオフ会に参加させていただき誠にありがとうご
ざいました。
sunyaさんやワラシナさん等々懐かしい方々と再会が出来たことを心から感謝
申し上げます。特にsunyaさんとは大変同感でき、また、示唆に富む語らいが
出来とても楽しく過ごさせていただきました。

愚鈍凡夫さん、

>江戸時代に日寛という矛盾に満ちた不可思議な理論を展開する人物によって
>「日蓮本仏論」を前面に押し出し、辻褄合わせが完成を見たのではないですか。

とのことですが、<矛盾に満ちた不可思議な理論>この辺を少し解り易く解説
していただければ幸いです。決して急ぎませんですからお時間の許される範囲
でお答え願えればと存じます。

1946犀角独歩:2005/02/10(木) 00:36:05

無徳さん、せっかく、島田師の講演を聴いていただいたのに、そのことはあまり参考にならず、酒宴で歓談のほうが良かったのですか(笑)
では、企画者としては、失敗と判断しなければなりませんね。酒のうえの雑談は、別にいつでも出来ますからね(笑)

1947犀角独歩:2005/02/10(木) 01:17:21

1940 デルトロさん:

> 日蓮正宗の教義が破綻
> 宗門、学会、正信会、(あえて顕正会はいれません)
> 上層部のどの位置ぐらいまでが把握しているとお考えですか?

石山では、少なくとも能化以上はわかっているでしょう。先にも記しましたが、彫刻本尊の偽作ネタを安永師にレクチャーしたのは、かの有名な故老であると言いますから。

学会は、本部首脳クラス以上、もちろん、池田さんは掌握しているでしょう。

正信会は、どうでしょうか。あそこはそれぞれの信念大系(石山教義を出ませんが)の寄せ集まりですから。一部、まじめに古文書を研究している人々には敬意を表しますが、何度も記してきたことですが、彫刻(所謂「本門戒壇の大御本尊」と言われるもの)と、お肉(所謂「御肉牙」と言われるもの)に、ちゃんとした見解を述べなければオカルト教団の範疇を出ることはないというのがわたしの意見です。まじめな研究者という看板を立てるのであれば、まず、彫刻とお肉を信者に信じさせた過去の懺悔し、自己批判してから始めろと言いたいわけです。まさk石山に返り咲こうなどというケチな損得勘定がないのであれば、自分自身の根本を質せというのが言いたいことです。もっとも数年前、有職にあった正信会僧侶に会ったとき「二箇相承、あれは偽物です」と言っていました。ですから、そのような見解はしっかりと文書化して発表してしかるべきです。ついでに彫刻本尊、御肉牙についても公式見解を発表すべきでしょう。
まあ、そんなことを信じている上層部がいるわけはないでしょう。信じている信者に話を合わせているだけ?、ならば、あまりにも信者を馬鹿にした話であるとわたしは思います。


> どこまでが確信犯だとお考えでしょう?

確信犯は阿部さん、途中で知って愕然とし、方向転換を余儀なくされたのが池田さんではないのかというのが、現時点におけるわたしの見解です。正信会については、知りません。繰り返しますが、古文書研究では敬意を表しますが、彫刻本尊・御肉牙・唯授一人などということに対して、いまだちゃんとした見解を示さないとは何事だと、わたしは信仰面から、信者指導の在り方に正信会僧には疑問を抱いています。

> 戸田城聖は?

ここの掲示板では、最低「さん」付けが原則です。
ですから、わたしは戸田さんとします。
この人は、牧歌的というか、案外、そのまんま、信じていたのかもしれません。
ただ、その知識は、石山、日蓮門下(特に戦前の国柱会の影響)の範囲で、それ以上の仏教的な知識に目を向けていなかったのは残念です。(100年間に崩壊した)明治開闢頃の仏教常識のなかから石山優位を考えただけというのはいかにも惜しかったと思うばかりです。

1948犀角独歩:2005/02/10(木) 01:17:44

―1947からつづく― 

> 日蓮リーグの話を気に入ってくださったなら恐縮です。

たいへんに優れた比喩でした。

> なぜ日顕上人…最大のスポンサーである学会を手放してしまった

もっと、自分のところに着くと誤算したのではないでしょうか。
学会の半分ぐらいは自分たちに着くと「とらぬ狸の皮算用」をしたのだとわたしは思っています。

> 経済的にも疲弊する茨の道

これは石山が捏造した美談でしょう。
本当か嘘か知りませんが、富士宮筋の金融通に言わせれば、石山は1兆円持っているそうですよ。

奉仕供養という登山の際に阿部さんに直接する献金は、個人の収入になっているのではないでしょうか。奉安堂の建立でもずいぶんと儲かったという話も伝わります。これは未確認事項です。しかし、学会破門後、六万塔、客殿、奉安殿等々、後からあとから、多造塔寺の限りを尽くしましたが、必ず、ゼネコンその他のバックマージンは阿部さん個人の懐に転がり込んだのではないでしょうか。これが昔だったら、創価学会というクッションが入ったので思うままにならなかった。いまは、直参だからやりたい放題ではないのか?と、わたしは見ています。
阿部さんは、登座してどれほど、金を掴んだ、まあ、人が聞けば腰を抜かすような額ではないでしょうか。それによって、石山歴代の阿部家世襲制を不動のものにしたという分析もあるぐらいです。この前の石山の坊さんの会合で、(石山内でしか通用しない言い方ながら)高僧が、信彰さんをヨイショした話を聞いて、わたしは吐き気を催しました。いずれにしても(後世の創作であるにせよ)『大集経』の「多造塔寺堅固」の次に来るのは、「白法穏没」と相場は決まっています。

まして、阿部さんは、教学部長時代に既に彫刻本尊が禅師授与漫荼羅を原本にした構成の偽物であることは知っていたのでしょう。知ったうえで、登座し、池田さんを法華講総講頭に返り咲かせ、さらに破門し、創価学会も破門した。そのなかの彫刻が偽者であると知りながら、正本堂を壊したうえで、奉安堂を「再建」したのでしょう。「神をも恐れぬ」ならぬ「仏をも恐れぬ所業である」と、わたしは弾劾するものです。

> 学会を許せなかった原因

先に引用したハッサン師は

「破壊的カルトは、どんな種類の反対も我慢できないのである。人々は賛成するか(または入会候補者とみなされるか)、さもなければ敵である」(P188)
「自分が組織の中で上昇して(略)私はますます憑かれた人間になっていった。権力がほとんど中毒になっていて、選択するときには、道徳的に正しいことより、自分の権力を守り増大させることを基準としはじめていた」(P299)

という指摘は、阿部さんにも当て嵌まると思えます。そして、何より

「今日の破壊的カルトの指導者には、自分自身かつてカルトにいたため、意図的に金をもうけたり人々を利用したりというつもりからではなく、ただ妄想とマインドコントロールから行動している人物も多い。私がカウンセリングをして救出をした人々が入っていたいくつかのグループのリーダーは、『金銭のためにやっている』のではなく、私の見るところ自分の影響力に中毒になっている人間たちだった。多くの破壊的聖書カルトのリーダーは、目立った浪費家でもなく、神と聖書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、聖書と神意に関する彼らの解釈が、人々を操作しコントロールするのに使われているのである」(P183)

というカルト全般に亘る批判を換言すれば、

「今日の破壊的カルトの指導者には、自分自身かつてカルトにいたため、意図的に金をもうけたり人々を利用したりというつもりからではなく、ただ妄想とマインドコントロールから行動している人物も多い。私がカウンセリングをして救出をした人々が入っていたいくつかのグループのリーダーは、『金銭のためにやっている』のではなく、私の見るところ自分の影響力に中毒になっている人間たちだった。多くの破壊的御書カルトのリーダーは、目立った浪費家でもなく、神と聖書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、御書と仏意に関する彼らの解釈が、人々を操作しコントロールするのに使われているのである」

と読み直すとき、まったくその批判に当てられると、わたしは考えています。

各教団の美談は、鵜呑みにすると、酷い目に遭います。真実を見つめる勇気は、時には苦悶を伴いますが、しかし、真実に至る道程であれば、痛くして痛からずです。

1949犀角独歩:2005/02/10(木) 01:22:02

最後の言い換えが尽くされていませんでした。
繰り返します。

「今日の破壊的カルトの指導者には、自分自身かつてカルトにいたため、意図的に金をもうけたり人々を利用したりというつもりからではなく、ただ妄想とマインドコントロールから行動している人物も多い。私がカウンセリングをして救出をした人々が入っていたいくつかのグループのリーダーは、『金銭のためにやっている』のではなく、私の見るところ自分の影響力に中毒になっている人間たちだった。多くの破壊的御書カルトのリーダーは、目立った浪費家でもなく、仏と御書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、御書と仏意に関する彼らの解釈が、人々を操作しコントロールするのに使われているのである」

1950デルトロ:2005/02/10(木) 01:58:38
独歩さんありがとうございます。
そうですね。戸田さんと、訂正させていただきます。

ところでハッサン氏の本なんですが、手に入りそうです。
ぜひ研究してみたいと思います。
もうひとつだけいいですか?
今私は、リアリティのある言葉を欲しがっているのかもしれません。

重複している質問なのかもしれませんがあえて問います。
これは個人的な問題かもしれません。
ノーコメントでも結構です。

独歩さんは、
曼荼羅を、書写することは可能ですか?
書写してみたい衝動にかられたことはありませんか?
しないのならば、なぜなのでしょうか?
必要ないといえばそれまでですが、
よかったらその理由も教えてください。

1951犀角独歩:2005/02/10(木) 06:51:33

デルトロさん:

> 曼荼羅を、書写することは可能

わたし個人が、ですか。
細かい書き方でわからないところがありますね。
また、御筆漫荼羅はネットで拝見できますし、特にその必要性は感じません。
もう少し具体的に申し上げれば、字像漫荼羅が本尊であると考えておりませんので、その意味で必要性は感じません。
ただし、石山が言うように「法主の権能」であるとは、まるで思いません。

わたしは石山の彫刻「本尊」の鑑別をしたわけですが、その課程で、蓮師の運筆をなぞりました。ですから、人に説明する場合は、黒板や、ホワイトボードに書いてみせることはあります。それはしかし、運筆を示す文字であって、「本尊」と言えるものではありません。
また、元来、仏法には「本尊」と呼称すべきものはないので、それ故、わたしは「本尊」観から捌く蓮師の教説を鵜呑みにするものではありません。

以下、たびたび紹介したところですが、精神科医・高橋紳吾師は本尊、神仏、ペットなどを「補助自我」として説明しています。わたしはこの分析に敬意を表しています。

―― 教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。
とはいえ仏教が輪廻思想から自由でないのは、当時のバラモン(婆羅門)や沙門(シュラマナ)たちが共有していた文化的な枠組みのなかで釈迦が生きていたからだが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できることで、したがって釈迦は秘技伝授の超能力者でも霊能者でも、ましてや「最終解脱者」でもなく、もちろん「神」のような絶対者でもなかった。しかしカリスマを求める周囲の心情はいつの時代も変りがない。死後の釈迦は次第に神格化され、俗化される。たとえば釈迦の骨がフェティッシュな崇拝の対象となったり、、釈迦の言説とされる教典それ自体が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は再び回帰したのである。そこにあるのは象徴(シンボル)の病である。
もっとも八正道の実践だけでは出家修行者のみ可能な小乗仏教であって、これでは一般大衆には宗教的な喚起の世界は与えられない。そのために救済のビジョンが必要で、大乗仏教における阿弥陀信仰のように、方便として帰依の対象が求められる。これは補助自我とみなすことができよう。それは超越的な形態をとっていても、もう一人の「自分」なのであるから、その「超越者」を「信じている」自分を調べる義務は、その個人にある。

【補助自我】自我のかたわらにあって、自我の充足を助けるもの。「ペット」や「わが子」のレベルから「思想」や「神」などの抽象的なものまである。――(『超能力と霊能者』岩波書店 P215)


以下、参考までに

『Nichiren Shonin Gohonzon Shu O'Mandalas by St. Nichiren』
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

他でも紹介しましたが
『いま大曼荼羅の世界を考える』
http://www.genshu.gr.jp/Local/Tokyo_W/kikanshi/No12/kj12_2.htm


わたしのサイトは
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/

所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

1952デルトロ:2005/02/10(木) 07:24:12
独歩さん、
いつも真摯なお答え、本当にありがとうございます。
皆さんも含め、心よりお礼を申し上げます。

教義上に暗いのを理由に、
愚問ばかりぶつけて本当に申し訳ありませんでした。
さぞ、御面倒をおかけしたと思います。
管理人さんも、暖かく見守っていただき、
感謝しています。

私の個人的な感想を述べさせていただきますと、
大聖人様の仏法は、凡夫にとって、
いかに「難信難解」であるかと、あらためて思い知らされました。
教義上、破折をされれば、塵にもならない私の存在ですが、
やはり、違った意味の確信が出てきました。

独歩さん、散々相手をさせられて馬鹿を見たなんて決して思わないでください。
独歩さんのリアリティのある言葉、少年時代のお話、
また、私が自身の経験を語るにおいて、私は何度も涙を流しました。
こんなことは、初めてでした。
お叱りを受けるのは重々承知ですが、独歩さんとは、根っこの部分で
深いつながりを感じるのです。
苦しんだ人間にしか理解できない、いや苦しんだ人間だからこその、
深い慈愛を感じます。

格好つけたくないんです。知ったかぶりもしたくないし、
人に頭を下げられない人間も、つまらないプライドで意地を張る人間も、
頭ですべてを測ろうとする人間も、親切な顔して他人の足をひっかけて喜ぶ人間も、
みんな嫌いなんです。
もし私がこの日蓮正宗の信仰で利益があったのならば、
他人を受け入れる勇気を
持たせていただいたことだと思っています。

1953デルトロ:2005/02/10(木) 07:32:26
否定のための否定、肯定のための肯定。
合理化のための合理化。
これはきっと、すべて愚かなことなのでしょう。
すべてが理屈で片付けられるのであれば、
仏法など、まったく無意味な存在になってしまいます。

独歩さん、あなたのようなかたとお話ができただけでも、
本当にありがたいことだと思っています。充分すぎるほど有意義な時間を
いただきました。
本当にあなたは慈悲の深いおかたです。
私も今すぐにすべての結論を出すわけにはいかないでしょう。
しかし、もう一度、今まで以上に、かつ目し、真摯に向き合い、
考えぬいていこうと思っています。
愚かなことだと笑われてしまうかもしれませんが、
やはり「疑」からではなく、「信」から入っていこうと思います。
悩み、考え、苦しみぬいて、自分の人生にけじめをつけていくことが、
私の信仰の道であると覚悟を決めています。
本当にすべての人に心から感謝します。みなさんには、最後までご迷惑かけて
言葉もありません。
ありがとうございました。

独歩さん、多忙のかただとは思いますが、お体だけは大切にしてください
本当にあなたには感謝以外の言葉がみつかりません。
本当に、本当にありがとうございました。

1964デルトロ:2005/02/11(金) 08:17:43
こんにちは独歩さん。デルトロです。
気持ちの整理がついてきました。なんか元気です。食欲やっと出てきました。
先日は本当に申し訳なかったです。
きっと謝っても許してはもらえないでしょうね。
私が結果的に放り出したことがよかったのか悪かったのかは別にして、
独歩さんの気分を害したのは事実だと思います。
それは本当に深くお詫びしたいです。
ただ私にとって独歩さんの存在が最高の治療になったことも事実なんです。
なんかね、私は独歩さんに卒業証書もらった気分でいるんですよ。
短期留学で。
もっというとね、独歩さんていうお医者さんから、
「もうおまえは退院していいから出てけ」
って、愛情もって追い出された気すらしてるんです。あの病院から。
別に掲示板が病んでいるってわけじゃないですよ。そんなつもりはないですから。誤解のないよう
管理人さん、怒んないでくださいね。

1965デルトロ:2005/02/11(金) 08:18:15
私がここで一番読み違えたなあと思うのは、書いたことかもしれないけど、信仰に疲れ傷ついた人のための
セラピーであることが重要だと思っていたわけです。というよりも前提かな。
けどやっぱ「日蓮ごっこ」であったり「御書ごっこ」の範疇からまったく脱却してなかったんですよねえ。
揶揄してるわけじゃないんです。ただ本当はみんな傷ついてここに流れてきたクセに、未だカッコイイ自分
しか目に入ってないんですよ。「教義に詳しいカッコイイ俺」みたいな全国の教義番長が集まってて
みんなで喧嘩してるわけですよ。だからちょっと目があえば喧嘩になるし、私はそこに嘘を感じたわけです。
「うそつけよ。本当はつらいことがあったんだから不良になったんだろ。いいじゃねえか
不良が泣いたって。傷があんだろ。おまえにも」っていっても不良たちは認めないんですよ。
「俺は喧嘩が強いんだ」の一点張り。譲らない。だからそんな連中がいかに小さいかってことを
示すためにも、独歩さんていう大番長がいたんだと思います。何人かかってきても全員投げ倒す。
圧倒的存在感、みんなの憧れ。

1966デルトロ:2005/02/11(金) 08:19:08
でもね、その認識はちょっと甘いかなって、思ったんですよ。
独歩さんて大番長なんてそんな小さな存在じゃなくて実はみんなの父親だったんですよ。
わかりますか?でも、それならば、番長と父親の違いは何だと思います?
ヒント出しすぎたかなあ。
それはね、リアリティなんですよ。誠実さって言葉に置き換えてもいいかなあ。嘘がないんですよ。
傷を隠さないで戦ってるんですよ。みんなね、傷を隠して戦いたがるんですよ。
だからみんな防御に回ってしまう。文章力、分析力、読解力、知識量、その他どの点でも秀でているのは
間違いないんですけど、その根源にあるのは、苦悩と傷、そしてそれを隠さない勇気。
それにおいて独歩に勝る人間はちょっと見あたらない気がします。
くだらない揚げ足取りまでももきっちり潰していく。独歩さんの歩いた跡って本当に
キレイに掃除されてるから、見ていても爽快感があるんですよ。
だからこそ最初独歩さんに近づくのは怖いなとも思っていたわけで、証拠出せ、文証見せろって言葉が
頻繁に飛び変わっている合戦の中で、丸腰どころか、行水から上がってきたばかりの丸裸の幼児の私が
場違いを覚悟でビビリながら初投稿しました。私も精神的に相当切羽詰ってたのでしょうね。
苦しんでいました。誰か私を解放してくれって。
考えようによっては自殺願望で、殺されたいって気持ちもあったかもしれません。

1967デルトロ:2005/02/11(金) 08:19:45
私がした質問や他の文章に他意はないです。その時思ったことを配列も考えずにバラバラに
つらねただけ、ただ今にして思えば、完全に勘違いしてたなって思います。
あらためて訂正します。前面訂正です。
ただその時考えていたことが反映されていたのは間違いないでしょうね。
身も蓋もない質問ばっかりでしたけど、それをいっちゃあおしまいよ、なんて質問に、
独歩さんがちゃんと誠実に答えをくれ、そして的確だったのは本当に目からウロコが落ちました。
と、同時に、自分の中に新たな矛盾も生まれてくるのも事実でした。
マインドコントロールからの開放が新しいマインドコントロールを産む。
そんなひっかかりも同時に感じました。ま、これこそが呪縛の消えていない証拠といって
しまえばそうかもしれないけど、それならもっと反発心が源泉になっていてもいいのになって。
それとはまた違った違和感があったわけです。不思議だなと。この疑問はなんだろうと。
合理化しようと思えば大抵のことの合理化は可能な気がするんです。
いいわけを作ろうと思えばいくらでも作れるってことですかねえ。
その時それを自分に求めたのも事実ですね。なんかうまい理屈づけはできないかな。
それができれば問題解決した気になれるのにって。

1968デルトロ:2005/02/11(金) 08:26:20
独歩さんは本当にすべてにおいて誠実に答えてくれました。それは間違いのない事実です。
その感謝の気持ちに偽りはないです。けれども、
学会を切ってスポンサーがいなくても、宗門は一兆円あるからいいんだ。
疲弊は作られた美談である。っていうのはやっぱり失礼ながらもそうかあ?って感じましたねえ。
正直いって。独歩さん流だと、じゃあその通帳を提示してみろってことになっちゃうし、
ま、別にそんなもんみたくないんですけどね。52年問題で学会はびくともしなかったのに、
破門したらそれこそスポンサーいなくなって大変じゃないですかって質問にも
宗門の読み違えだって、ちょっとこれはさすがに怪しくないですか?この解釈。
ちょっと無理かなあって。強引すぎませんか?52年で失敗してんのに、いくら認識が
甘いとはいえ、ワザワザ損することばっかりやるかなあって。

1969デルトロ:2005/02/11(金) 08:26:54
私の感覚だと一兆円じゃ満足できないんじゃないかなって、だって学会なんかはその何倍も
持ってるわけでしょう?私なら足を舐めてでも学会と離れませんよ。
腑に落ちないなあって思ってたのにますます腑に落ちなくなってきたわけです。
あれれれれって。なんか独歩さんらしくない切れ味の悪さを感じたわけです。
正直ちょっと残念だったわけです。いつものようにスパッと一刀両断が見たかったんで。
で、私は思ったわけですよ。いつも明快な回答をくれるはずの独歩さんがどうして?
教義が破綻しているのが学会宗門共通認識の確信犯なのであれば、ようは最初から
全部がウソならば、誹謗されてお金ももらえない道をワザワザ選ぶなんて、偏った見方しても
苦しいですよ。独歩さんがそんな考え方するのはちょっと意外でした。
その時ちょっと誰かの人生と重なるなあって、ぼんやり思ったんです。

1970デルトロ:2005/02/11(金) 08:27:42
正直私の中で混乱が生じまして、ヨシと、ここまできたら自分にとっての最大のタブーで
あった質問をしてみよう!と思って曼荼羅書写の質問をしたんですよ。
私は曼荼羅をズタズタに二度裂いて二度発狂したという強迫観念があるわけで、
それはでも独歩さんが思い込みだってやさしく慰めてくれたのは本当に嬉しかったんです。
ひとつ開放できたのかもしれないって。
だから不遜に扱うどころか書写なんかしたらどれだけ恐ろしい目に、って恐怖も常に
付きまとっているんです。と、同時に独歩さんの答えによっては自分の治療が終了するとも
思ったわけです。長い呪縛から開放される瞬間だと思って、私はずっと待ち続けたんです。
なんかわかんないですけど仏壇の前に座りたくなりまして、独歩さんを待ったんです。
ウソかと思われるかもですけど、何日かかってもいいから仏壇の前で独歩さんを待とうって。
真剣なんですよ。
必死でお題目を唱えました。ほぼ一晩中です。なんかどんどん涙が溢れてきて、
何かわかんないけど、
なんか違う。なんか違うんじゃないかって。
独歩さんの言葉に、正直すがりたかったんでしょうね。

1971デルトロ:2005/02/11(金) 08:28:27
告白すると、独歩さんの答えいかんでは、本気で書写をしようと、私は考えていました。
それが呪縛からの開放。そしてマインドコントロールからの開放。その完成こそがこれなんだと。
学会の本尊を拝んでおかしくなった人、リアルに見たことあるんです。強信の人でした。
本当なら、証拠として具体的に名まえ挙げてあげたいぐらいなんですけど。
当時は仲よかったんです。いつも私怒られてましたね。自分は回復したって自信があったから、
お見舞いに行ったんです。閉鎖病棟に見舞いにくる人って圧倒的すくないんですよ。
彼を見てびっくりしたんですよ。あまりにひどくて。私もこんなだったの?
その時自分の姿も重なって、こんな言葉あるのかわかんないんですけど、もらい狂いしそうに
なったんです。恐怖でした。その人はまだ病院に入っていますが、でも独歩さんの答えいかんでは、
救ってあげられるんじゃないかって、本気で思っていました。自分が最も恐ろしいとされる行為
を遂行できるならば、完治は無理でも、回復を早くすることは可能なんじゃないかって。

1972デルトロ:2005/02/11(金) 08:29:24
ずっと必死で唱題し、けど唱題していくうちに、
段々自分の意識が変化していくのがわかっていったんです。
ああなんて恐ろしいことをしようとしていたのだろうと。自分は仏法を頭で測っていたと、
つじつまあわせばかりを考えていた。なんと愚かな考えを。
呪縛じゃないんだ。この信心をずっと保っていこう。これこそが開放なんだって。
たくさんの人が見る場所に、なんて恐ろしいことを書いてしまったんだろうと、
心からの懺悔の唱題がはじまったんです。泣いてました。泣きながらの唱題なんて
何年ぶりなんだか。
そんな時、独歩さんからの返信をいただいたんです。そして独歩さんのその文章を読んで、
確信が湧いたというわけです。すぐに返事をかきました。
きっとぐちゃぐちゃの文だったと思うので自分でも恥ずかしくて再読できません。

1973デルトロ:2005/02/11(金) 08:30:11
独歩さんからいただいた書写に関する文章は、
失礼ですが今まで以上に切れ味が悪く。
言い訳をみつけているような気がしました。
ごめんなさい、正直、前半までしか読んでいないです。
でも必死で熟読したのは本当です。
逃げている!
必死で逃げる理由を探している!
それが私の印象です。
でもね、だからこそ独歩さんが以前よりずっとずっと好きに
なったんです。この人は私の仏様だったんだって。私を救ってくれた人だって、
涙が止まらなかったんですよ。その時頭に浮かんだ言葉が
「難信難解」だったんです。おかしいなあと思ったんですよ。
こんなに有名な言葉が、ここの掲示板のどこにも見あたらないなんて。
今ね、私は泣きながらキーボード打っています。涙が止まらないんですよ。

1974デルトロ:2005/02/11(金) 08:30:53
独歩さん、どうか、私に、罵倒でもなんでもいいです。
言葉をください。
お願いします。
私はあなたによって救われた人間なんです。
これは、思い込みなんでしょうか?
それとも、大聖人様の仏法の偉大さなんでしょうか?

1975愚鈍凡夫:2005/02/11(金) 08:53:38

真実探求者さん、犀角独歩さん、過分なお言葉、有り難うございます。 (*^_^*)
これからも精進して参ります。
昨日は、最後の投稿を終えた後、キーボードを打つ気力が萎えてしまって、ロムってました。

昔、「六巻抄」を読んだ時、その訳の分からない処が凄いと、思い込んでいました。
日寛師の教学は、小生のような浅学の者には理解できないほど凄いんだと思い込んでいました。しかし、その教学がこじつけと言葉遊びに満ちていることに気付き初めた時、日寛教学が正宗教学の最高峰と位置づけた石山・創価学会に愛想が尽きました。
今回、「六巻抄」に対する想いを文章にする機会を与えて下さった皆さんに感謝します。
m(_ _)m

1976愚鈍凡夫:2005/02/11(金) 10:26:04

小生は、日顕師が創価学会を切ったのは、下世話な言い方ですが、食べていく自信があったからだと思いますよ。
大石寺から学会色を払拭した事で、世間に、学会との実質的な決別を宣言したのだと思います。細かいことを言えば、それこそ印刷漫荼羅の返品の山を、後ろめたい気持ちで燃やさなくても済むわけですからね。もっとも、原稿さえあれば漫荼羅は山ほど作れますから、こちらが思うほど後ろめたさはないのかも知れませんが。
それに、創価学会からコンクリート打ちっ放しの、見るからに安っぽい寺院擬きをプレゼントされて、恩着せがましい皮肉を言われなくても済みます。地方の学会施設と比べたら、結構笑えますよ。
あとは、「際だった怪力の持ち主である日興上人様が、奥深い身延の山中から"戒壇之大御本尊"様をお一人で担ぎ、令法久住のために大石ヶ原までお運び下さった」と言い張るしかないでしょう。

1977デルトロ:2005/02/11(金) 11:37:38
こんちは〜なんかすっかり元気になりました〜
私の思い込みをもうひとつだけ書き込みますね〜

私はあの時、リアリティのある言葉が欲しかったんですよ。
しっかりそう書いてありますよね〜
今、再び自分を分析してみると、あの時私が一番欲しかった言葉は
「是非やるべきだ!今までのすべての呪縛から逃れるために
曼荼羅を書写するべきだ!それを持ってすべての呪縛から解放されるんだ」
という強い信念の言葉だったんですよ。
それが私の恐怖の根源なんですから。
字がわかんないとか、そういうことではないんですよ。
同時に、独歩さんの解放でもあるんじゃないかと思ったわけです。
だから、書写したい衝動にかられたことはありますか?
とも質問したんです。
でもその答えがなかったのも、残念な気持ちになったひとつなんです。
もしも、完全にノーコメントであれば、私は書写もしたしさらに
破っていますよ。自分ですべてを確かめるためにね。
もう一度発狂するのか、その過程をすべてみつめながら地獄に落ちよう
と、決心したんです。こんな恐ろしい選択って、どれだけ
恐怖をともなうかわかりますか?
けど独歩さんの答えはそうではなかった。
言い訳にしか聞こえないわけです。
少なくとも私には。
私のいいたいことは結局それなんです。

1978デルトロ:2005/02/11(金) 11:44:48
私はねえ、一度カッターでズタズタにして発狂してるんですよ。
それでもウソかなと思って、表装の済んだ御本尊をもう一度
ズタズタにしたんです。狂って当然でしょう。
そして一生を台無しにしかけているんですよ。
二元論なんですよ。正か邪か。やるのかやらないのか

1979デルトロ:2005/02/11(金) 11:51:08
こんなこと書いててまともにキーボードが打てていると
思いますか?私はねえ、今自分に悪鬼が入ってきてるのが
よくわかるんですよ。怖くて怖くて、震えてるんですよ。
当たり前ですよねえ、夕べしっかり罪障消滅を祈っていたのに、
涙を流して祈っていたのに、こんな恐ろしいことを考えているんですから。
愚鈍凡夫だかなんだかしらないけど、消えていただけませんかねえ。

1980デルトロ:2005/02/11(金) 12:15:20
ごめんなさいね愚鈍凡夫さん。返事は一切いらないですよ。
今は迷惑なだけだから。
私ねえ、こんな短い文章すら何度も打ち直しているんですよ。
きっと恐怖の意味を、芯から知っているんでしょうね。

でもねえ、こんな恐ろしいことから救ってくれたのが、
独歩さんなんですよ。
独歩さんはこじつけの言い訳しかしなかった。
だから、私は懺悔の唱題を必死で祈ることができた。
だから、助けられたし恩人だといっているわけです。
私の堕地獄を救ってくれた。仏様なんですよ。
わかりますか?愚鈍凡夫さん。返事はいらないですよ〜。
後でいくらでも聞きますから。
私を救ってくれた、独歩さんに感謝がしたいんです。
それについてどう思われるのか、どうお考えなのか、
デルトロには聞く義務があるでしょうと、
ようはそういうことなんです。カンタンでしょ?

教義に不明点があるだのなんだの、いいんですよ。
ようは信じられない。それにこじつけして納得してるだけでしょ?
信じられない理由を探してるんでしょ?
それこそ不信という名のマインドコントロールじゃないですか。
謗法の人間は地獄にいけば、いいんですよ。
少なくとも私はどんな所だか知っていますよ。
地獄というのがどれほど苦しく、どれだけ恐ろしい所かね。
ま、教義はサッパリですが…

1981犀角独歩:2005/02/11(金) 19:32:46

デルトロさん:

わたしの曼陀羅に関する書写の答えが歯切れが悪ければ悪い、納得がいかなければ納得がいかない、それでいいのですよ。

わたしは漫荼羅を図示したことがないかと言えば、それはありますよ。何度も何度も図示しました。鑑別をするというのはそういうことです。ただし、わたしは漫荼羅を本尊と今は考えていないわけですから、それは本尊なりえない。それ以前に、天台の段階ですら、本尊という概念はないわけですから、それは必要としない、こう書いたわけです。ですから、図として漫荼羅は幾度も書いたことはありますが、それは本尊とはなり得ない。たぶん、この言い回しは、ここでわたしと議論してきた方であれば、直ちに納得していただけるでしょう。これは、たとえば、写真でまとめた『御本尊集』は結局のところ、写真であって本尊ではないのと一緒です。正確に言えば御本尊‘写真’集です。まったく、この言葉のとおりです。白か黒か、そんな考えはわたしにはないわけです。ないことは書けないわけです。

あと、漫荼羅本尊を破って、地獄に堕ちるとか、「狂う」とか、そんなことはありません。
ただ、そのように心理プログラムを自己暗示にしろ、他からにせよ、操作されていれば、そのようになるでしょう。それを説明するために、ハッサン師の言葉を引いたわけです。

それから、あなたは、わたしに救われたのではないですよ。
あなたを救ったのは、あなた自身です。もし、そこにわたしが介在しているとすれば、それはあなたの己心の独歩という象徴(シンボル)です。それはしかし、わたし自身ではない、
あなた自身のあなた自身を救おうとする自己再生能力です。その影にわたしは映したのにすぎません。狂うも治るも己自身でしょう。

なお、印刷本尊をカッターでずたずたに切った、業者が試し刷りの本尊を大量に廃棄する、石山、(たぶん学会も?)回収した印刷本尊を焼却処分する、廃棄するという意味ではまるで一緒です。もう一つ加えれば、わたしが何度も図示し、また、プリントアウトした漫荼羅写真に、時には線を引き、時に細分化し、最終的には廃棄するのも同じでしょう。

ただ、あなたはカッターでずたずたにして狂うという心理操作に従ったけれど、業者にしても、わたしにしても、もとより、それを本尊と思っていないわけですから、そのような心理プログラムが作動することはなかった、ただ、その差です。

ですから、他で「信仰」といスレッドが立とうとしていますが、少なくとも複写された漫荼羅写真・図、また、自分で図したものをどうするかということは、まるで、わたしにとっては信仰とは関係ないわけです。それをあなたは信仰の範疇で考えているようですが、結果論的には信仰ではなく、心理効果の域を出ていないと、わたしには思えました。

しかし、あなたが、疑いでななく、「信」からやり直すというのであれば、それは個人の選択です。わたしがとやかく言うことではありません。お礼も言われ、一区切りもしました。それ以上、屋上奥を重ねるように言葉を重ねることは、「押しつけになる」と判断し、敢えてロムしなかったわけです。さらに言えば、わたしのような人間にお礼など述べる必要はありません。先に記したとおり、あなたは、あなたのなかのシンボライズされた独歩というイメージ、もっと言えば、そのイメージを生み出したあなた自身の再生能力によって救われたからです。

それが証拠に、あなたは、わたしに自分の納得のいくこと場を書いてほしいという欲求を、その後、露わにしたでしょう。つまり、それはそのような意味なのですよ。もっと、自分を信じてあげなさい。そして、いたわってあげることです。

わたしはかつて極度の神経症を患ったとき、日記に「行きながら地獄に堕ちた。こんな苦しいのであれば、死んで無に帰するほうがよほどましだ」と血涙を流す思いで、何度も記しました。
だからこそ、こんな出鱈目な中世以降の石山義は断じて弾劾しなければならないと思ったのです。

しかし、確かに、わたしと同じ道を歩んでいるところがあります。
だからこそ、言いますが、あなたはいつしかこの信仰を必要としなくなる日が来るでしょう。なぜならば、わたしの同じレールの上を進んでいるからです。

1982犀角独歩:2005/02/11(金) 19:42:53

急いで(急がなくてもしょっちゅうですが)打ち間違えました。

誤)納得のいくこと場
正)納得のいく言葉

誤)行きながら地獄に堕ちた
正)生きながら地獄に堕ちた

1983愚鈍凡夫:2005/02/11(金) 20:09:24

漫荼羅と言えば、宮沢賢治が病院のベッドで、有名な「雨ニモマケズ」の詩の隣のページに佐渡始顕漫荼羅を模して書いていたんじゃなかったでしょうか。ふと、宮沢賢治を検索していて、こんなHPを見つけました(蓮祖漫荼羅とは直接関係ありませんが)。
**************************************************
マンダラ(Mandara)は、サンスクリット語で円の意味がある。漢字では曼陀羅と表記される。仏教では、これを「輪円具足」「道場」「壇」などと訳し、当初は円形の修行のための檀のことであったが、次第に悟りの世界を象徴するものとの解釈がなされるようになり、その結果「本質」といった訳も付されるようになっていった。マンダラについて、ユング心理学ではこのように説明される。

「マンダラは・・・方向喪失・パニック・混乱した心の状態・の後すぐによく現れる。つまり、マンダラは混乱を秩序へと移すという目的を持っているのである。ただしこの意図は患者には意識されていない。いずれにせよそれは秩序・平衡・全体性を表現している。したがって患者はよくこの種の絵を描くと気持ちがよくなって気が静まると強調する。マンダラによって表現されるのはたいていヌミノースなイメージや考え、あるいはーその代わりをなすー哲学的理念である。」(CGユング「個性化とマンダラ」林道義訳みすず書房)
真言密教の「両界曼荼羅」を誰しも一度や二度見たことは人もいるだろう。チベット密教では、法会がある時、精緻な美しさを誇る「砂曼陀羅」というものを、僧侶たちが、手分けをして数ヶ月の時間をかけて、色とりどりの砂粒をもって描き、信者の前に披露をする。マンダラは、完全性と調和の象徴であり、悟りの心を表しているのである。

ユングは、ある時、自分の所に来た患者(クライアント)たちが、不思議に共通したマンダラ的な絵を描くことに着目して、これが人間の心の無意識領域に誰しもが持っているイメージであるかもしれないとして、マンダラの研究に着手したのであった。
いくつもの患者たちの絵を研究し、ユングは患者(クライアント)たちの絵の特徴を次のようにまとめた。
 1 円ないし球、または卵の形。
 2 円の形は花(バラ、水蓮・・・)
 3 中心は大洋・星・十字形によって表現され、たいていは四本、八本ないし十二本の光線を放っている。
 4 円、球、十字形はしばしば回転しているもの(卍)として描かれる。
 5 円は中心を取り巻く蛇によって、円状に(ウロボロス)または渦巻き状に(オルフェウスの卵)描かれる。
 6 四角と円の組み合わせ。すなわち四角の中の円、またはその反対。
 7 四角または円形の城・町・中庭(聖域)。
 8 眼(瞳孔や虹彩)
 9 四角の(および4の倍数の)形姿のほかに、きわめて稀ではあるが、三角や五画形姿が現れる。それは以下にように「歪んだ」全体像と考えられる。」(ユング前掲書)

どうだろう。単に「マンダラ」と「銀河」の形状の近似だけではなく、ユングが上げた患者(クライアント)たちの絵の特徴を、何気なく読むと賢治の「銀河鉄道の夜」と符合する言葉が次々と見つかる。例えば、「四」という言葉が、マンダラにとってはキーワードのようだが、賢治が推敲した回数は、四回である。また十字形であるが、銀河鉄道の旅は、北十字と言われる白鳥座から南十字の方向への旅である。卍という意味も、実に良く銀河の形状を表しているように思える。このように考えると「銀河鉄道の夜」という作品が、マンダラ的な世界を見事に形成していることが分かる。
**************************************************

ジョン・レノンの「アクロス・ザ・ユニバース」と宮沢賢治
http://www.st.rim.or.jp/~success/jhon$kenji_ye.html

1984犀角独歩:2005/02/11(金) 20:29:19

愚鈍凡夫さん、そのとおりです。

で、ここ何日かで諄くわたしが紹介した以下のサイトでも、そのことが触れられています。

『いま大曼荼羅の世界を考える』
 http://www.genshu.gr.jp/Local/Tokyo_W/kikanshi/No12/kj12_2.htm

1985犀角独歩:2005/02/11(金) 21:18:15

なんだか、昨日から8度より熱が下がらないのですよ。
でも、今日は、どうしても、本日開催された『エホバの証人と児童虐待の問題』、ウイリアム・ボーエン師の話を聞きたくて、のこのこ出掛けていきました。「2時間ぐらいかな」と思っていたら午前・午後2部構成で、午前10時開講で、終了した午後4時でした。で、なおさら、熱が出て、どうも書いている文章に接そうと、品がありません。さらに主語がありません。お詫びします。

で、1984に愚鈍凡夫さんに、「そのとおり」と言ったのは宮沢賢治と漫荼羅の関係のことで(賢治は漫荼羅を、たぶん、本尊として書いたのでしょう)、ジョン・レノンとのことではありません。

熱があるところに寒空出掛け、昼休みを挟んだとはいえ6時間の講演、這うように帰って来て、止めればいいのに、掲示板を空けたら、駄文長文を投稿してしまい、さらに、完全にダウンです。と言うわけで、本日は失礼します。

1986犀角独歩:2005/02/11(金) 21:22:22

また、打ち間違い、失礼。
接そうは、「節操」、「空けたら」は「開けたら」です。

(この前のオフ会で、掲示板で、皆まで間違い・訂正が多くなったのは、独歩あなたが悪いのだという批判が飛び出しました。そこまで悪人することはないだろうと思ったのでした。人の打ち間違いまでせきにんはとれませぬ。余談ですが)

1987デルトロ:2005/02/11(金) 21:36:05
ありがとうございます。独歩さん。
やっとお声が聞けてよかった。実は独歩さんに質問したいことが
どんどん溢れ出てきてくるんですよ。
恐ろしいほど明確にね。
クリアになってきているんです。
笑いだしたいくらいですよ

ごめんなさい。

でももうそれはいいんです。
充分です。私はあなたにお礼がいいたかっただけなんです。
不信というマインドコントロールの恐ろしさを、
充分理解させていただいたのですから(皮肉とか揶揄だなんて
思わないでくださいね)

きっと私は無慈悲な人間なんでしょうね。
もっとも残酷な人間かもしれません。

独歩さん、あなたのような慈悲深い方は初めてです。
見解の相違はあろうとも、私はあなたに仏種を見せていただきました。
なんかね、独歩さんとはもう何年ものおつきあいをさせて
いただいている気分になるんです。独歩さんと私がどのような縁に
あるのかはわかりませんが、宿縁を感じました。
「難信難解」
わたしは何もわかりませんが、このお言葉にはちょっとだけ
触れさせていただけたような気がします。

私は、何を選択しようとも、今よりも深く苦しむだろうな
と思っていました。そしてそれは仕方がないと。
罪業であろうとなかろうと。呪縛であろうがなかろうが。
やはり宿命からは逃れられない。

けれども、今は、とても澄み切ったような
平穏な気持ちでいられるのです。
それはあなたという縁がなければ、決して感じられなかったのだとも
思っています。
ようやく、退院できそうです。
あなたのような優秀なドクターに、救われる人たちが、ひとりでも
多くいるよう心から願っています。

1988愚鈍凡夫:2005/02/11(金) 21:49:51

犀角独歩さん、大切なお体、ご自愛下さい。
風邪は栄養と休息が一番の薬のようですね。小生は大分良くなりました。
では、お休みなさ〜い。いい夢を。
お(ノ ̄0 ̄)ノや(o ̄・ ̄)oす(。_ _)。みzzz..

1989犀角独歩:2005/02/11(金) 21:51:18

デルトロさん、まだ寝ていませんでしたので、レスします。

> 質問…溢れ出て

いいですよ。どんどん、質問してください。
わたしも時間に限りがありますが、わかる限り、できる限り答えます。
もちろん、わからないことは答えられません。当たり前ですが。

不信ですか。わたしは唯一つ信じていることがありますよ。いま、こうして考えている自分は少なくとも存在しているということです。デカルトの後追いじゃありませんが。しかし、近代はここからはじまったんでしょうね。

1990犀角独歩:2005/02/11(金) 21:57:25

愚鈍凡夫さん、お見舞い有り難うございます。
栄養のことは考えていませんでした。なるほど。
ま、ともかく、寝ます。お休みなさい。
愚鈍凡夫さんもお大事に。

1991彰往考来:2005/02/12(土) 08:03:59

> 1983 愚鈍凡夫さん、

> 宮沢賢治が・・・「雨ニモマケズ」の詩の隣のページに佐渡始顕漫荼羅を模して書いていたんじゃなかったでしょうか

件の漫荼羅は佐渡始顕漫荼羅ではないと思います。

「雨ニモマケズ手帳」の第59頁に

「 ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフ
モノニ
ワタシハ
ナリタイ」

とあり、次の第60頁に曼荼羅の書写があります。もちろん原文は縦書きです。

「  南無無邊行菩薩
南無上行菩薩
南無多寶如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼佛
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩」

これを見る限り、国柱会本尊のいわゆる“佐渡始顕漫荼羅”とも身延曾存の“佐渡始顕漫荼羅”とも異なります。立正安国会の『御本尊集』の第2番のような佐渡期初期とも異なります。しいてあげるなら第17番(松戸 本土寺蔵)が近いですが、愛染・不動の有無の差があります。

なお、宮沢賢治自身が所持していた漫荼羅は国柱会本尊の写しです。文永8年7月8日の日付けがありますが、弘安式であり明らかに偽筆です。かつてあった弘安期の漫荼羅を基に写した(作成した)ものと思われます。

by 彰往考来

<参考資料>
小倉豊文『「雨ニモマケズ手帳」新考』昭和53年、東京創元社

1992犀角独歩:2005/02/12(土) 10:56:49

先に紹介した桐谷師は、宮沢賢治の5種のマンダラを紹介して、以下のように結論づけていますね。

*** 以下転載 ***

マンダラ1(手帳4頁)

 南無浄行菩薩
 南無浄行菩薩
南 無 妙 法 蓮 華 経
 南無無辺行菩薩
 南無安立行菩薩

マンダラ2(手帳60頁)

  南無無邉行菩薩
  南無浄行菩薩
 南無多寶如来
南 無 妙 法 蓮 華 経
 南無釈迦牟尼佛
  南無浄行菩薩
  南無上行菩薩

マンダラ3(149・150頁)
 南無浄行菩薩
 南無浄行菩薩
南 無 妙 法 蓮 華 経
 南無無辺行菩薩
 南無安立行菩薩
 南無安立行菩薩

マンダラ4(153・154頁)
  大毘沙門天王
 南無浄行菩薩
 南無浄行菩薩
南 無 妙 法 蓮 華 経
 南無無辺行菩薩
 南無安立行菩薩
  大持國天王

マンダラ5(155・156頁)
 南無妙法蓮華経
 南無上行菩薩
 南無浄行菩薩
 南無無辺行菩薩
南 無 安 立 行 菩 薩
    安立行

…一点一点の相貌が異なる宗祖のおまんだらのバリエーションなのです。具体的には、宗祖のおまんだらの中には例の見られない、宮沢がその精神を受けとって書いた、彼自身のマンダラなのです。実際、宮沢は終生国柱会の会員でしたから、そのとき病床の彼の枕元には田中智学師が臨写したという宗祖のおまんだらが掛かっていましたが、けっしてそれを写したというものではありません。
 彼のマンダラは、いわば宗祖のおまんだらの形式でいえば、その中心部分を抜粋したごく簡略形ですが、五点のマンダラの内容や配列において、一点も同じものがないのです。そのとき私は感じました。宮沢は、手帳に自ら描くマンダラを通して、何か彼の重大な意志を伝えようといると。ここには、宮沢が伝統的なマンダラに対する理解にとどまらず、すでに彼の境地が宗祖のおまんだらに通じ、さらに独自のマンダラ世界を開くに至ったことを証明するに充分なものがあると、感じました。

http://www.genshu.gr.jp/Local/Tokyo_W/kikanshi/No12/kj12_2.htm

*** 転載おわり ***


わたしは個人的に、賢治図示マンダラの特徴は「安立行菩薩」にあり、と思います。
国柱会、そして、未曾有の戦時下にあった肉も食わない平和主義者と映じる賢治が祈った平和楽土への思いが「安立」に籠もっているように感じます。もちろん、これはわたしの勝手な感想ですが。

1993デルトロ:2005/02/12(土) 14:12:41
みなさんこんにちは 本当にここの掲示板は紳士的で素晴らしいですね。
私も信仰とは何か、という壮大なるテーマを自分の中に抱え込み、
ネットで検索し、流民のように渡り歩いていました。
しかしどこも論争罵倒が主流で、げんなりとした気分になるだけで、
ますます気が滅入るだけでした。
縁あってこの掲示板に参加させていただき、独歩さんをはじめ皆さんから
の意見をじっくりと拝聴する中で、ようやく自分の中で結論をみつけることが
できました。これは本当にありがたいことで、みなさんには、
いくら感謝しても足りないぐらいだと思います。

「日蓮ごっこ」「御書ごっこ」などと揶揄したような表現を
使ってしまいましたが、あらためてお詫びしたいと思います。
見解の相違、捉え方の違いはあれど、みなさんが真摯な気持ちで法を求めている。
その気持ちを私は信じておりますし、その尊さには頭が下がる思いです。

1994デルトロ:2005/02/12(土) 14:13:23
この掲示板に辿りつくまでにはずいぶんと回り道をしてきました。
今私が感じることは、以前の自分の投稿をすべて読み返してみて、
本当につまらないことで苦しんでいたんだなあと、たった何日か前のこと
なのに、とても懐かしむような気持ちにされます。
この掲示板にたどり着いたのは、他の掲示板などの日蓮正宗への
非難であったり教義の否定からによるものからのリンクでした。
でもね、当時のことを考えると、笑ってしまうんですよ。
だってね、当時他の掲示板で論争していたことは、ほとんどが独歩さんたちの
意見を咀嚼もしないまま持ち出して、いかにも自説だと大きな顔を
している人たちばっかりなんですよ。
「どうだ?俺の意見に反論できるのか」とでもいいたげにね。
本当に恥ずかしいことをしていると、本人たちには自覚があるんでしょうかねえ。
ここの文章を安易に持ち出して、他人を見下すためだけに利用している。
ここに私は根源的な本末転倒を感じます。
と、同時に、

1995デルトロ:2005/02/12(土) 14:14:03
「これは楽しいだろうなあ、仏法を利用して、自分がいかにエライかということ
だけを強調してる。大言壮語を吐けるんだから。気持ちイイし、クセにもなるだろうなあ」
とも思って笑ってしまいました。
そして日本最大の宗教団体のトップに君臨する人間にも大きく重なりましたね。
吐き気すらしました。まったくなんてリアリティのない言葉だなと。
そんな人間もここに出入りしているということは、皆さんの頭にもどこかとめて
おいたほうがいいかもしれません。ここのHNをそのまま使っている人もいるようなので、
もしこの文を読んでぎくりとした人間がいれば、
自分のしていることがどういうことなのか、
本当によく考えたほうがいいと思いますよ。
人間としてどれだけ恥ずかしいことをしているのか、
そしてどれだけ恐ろしいことをしているのか、
自覚されたほうがいいですよ。

1996デルトロ:2005/02/12(土) 14:14:39
私はリアリティを信じます。言葉を換えれば誠実さです。
(おかしいなあ、皆さんに宛てた文章なのにどうも独歩さんへのラブレターに
なってしまう)
誠実とはなんでしょうか。私は慈悲ではないかと思っています。
そして真実をみつめる勇気だとも思っています。なにものにも囚われない真実。
それは一体何でしょうか?
私はこの掲示板を通して、それを教えていただいたと、思っています。

マインドコントロールとは一体なんでしょうか?
突き詰めていけば、自己暗示だと思っています。
「疑」に囚われる。それは凡夫として当然のことでしょう。
みなさん共通のスタートはここだと思います。
「本当だろうか?それを信じていいものなのだろうか?」
信じるものは救われる。
この言葉は私の実感としてはまったくのウソです。
でたらめといってもいいでしょう。
それこそまったくの無根拠です。
盲信して裏切られた時の恐怖は、計り知れないものがあります。
そしてその恐怖が「疑」を生んでいるのも間違いない事実なのです。
そしてその裏返しにあるのが「盲信」です。
「信じるしかない、信じるしかないんだ」
間違っていないと信じたい。その恐怖に囚われるのです。

1997デルトロ:2005/02/12(土) 14:15:27
しかしもう一度よく考えてください。
「疑」を補足するために、その疑を安心させるために、
新しい「疑」を持ち出してはいませんか?
観念的なものを否定するのが科学的検証だとは思っていませんか?
論議して、結論を出そうとしているのはみんなで「疑」を共有して、自分を
納得させようとしていることではありませんか?
みんなで「疑」のための「疑」を持ちあい、自分の「疑」を強化させ、
正当化させようとはしていませんか。
どこかの見聞を持ち出して、自分の不安を取り除こうとはしていませんか?

では「信」とは一体なんでしょう?「盲信」との違いは?

私は「確信」であると思っています。しかし盲信と一体何が違うのだ?

生命です。
自身に仏界が湧現するのです。

それが「信」を生み、「確信」へと変わっていくのです。

1998デルトロ:2005/02/12(土) 14:16:02
曼荼羅信仰など無用?それも結構でしょう。
しかしあえて問います。
あなたは真剣に、それこそ必死に血涙を流すがごとく
御本尊様に読経唱題したことが、ありますか?
そこから湧現してくる「生命の歓喜」を実感したことがありますか?

血脈?なんて非科学的な。御本尊などすべて同じだよ。
本当にそうでしょうか?
ではなぜ、生命の歓喜のある御本尊と、悪鬼に囚われるがごとく
生命を萎ませ、精神を蝕む本尊があるのでしょう?
これは私の実感です。リアルに目で見た実感なのです。

「疑」を持つな。これにはリアリティがありません。
我々は凡夫です。仏ではないのです。「疑」を持つなというのは
不可能でしょう。しかし「疑」に囚われ新しい「疑」を生むことは、
そして点であったはずの「疑」を線にしていこうというのは。
まったくの本末転等愚かな行為といえるでしょう。

1999デルトロ:2005/02/12(土) 14:16:36
もう一度、あえて問います。
あなたの「疑」は、本当は何を欲していますか?
よくよく考えてください。
どこへ向かおうとしている「疑」なのでしょう?
否定ではないんですか?
否定強化のための「疑」ではないんでしょうか?
真実の教えとは「疑」から入っていくような、
知識や理論で説明できる。そんなくだらないものなのでしょうか?

2000デルトロ:2005/02/12(土) 14:17:09
「生命の歓喜」?そんなのよく知ってるよ。学会じゃ、しょっちゅうだよ。
本当にそうでしょうか?それこそ集団心理の
マインドコントロールではないんでしょうか?
選挙で勝ったから、有名人がたくさんいるから、体験発表を聞いて、
歓喜したような気分に踊らされているだけなんじゃないでしょうか?
学会は勤行を短くした。私はこれをいいことだと思っています。
悪鬼に触れる時間が短くなったからです。
もしもあなたが学会員で、私が日蓮正宗の御本尊様にしたように、
本気で学会本尊に読経唱題したら、どういうことになるのかは、
私はよく知っているつもりです。あえて書きません。
ぜひお試しを。
よかったら、結果報告をみなさんに披露してあげてください。
ま、結果報告ができるような状態でいられるのであればの話ですがね。
ただし本気でやってくださいよ。死にものぐるいな気持ちで
真剣に唱題してください。おざなりな気持ちが混じるような
唱題では、大事な学会本尊の不敬にあたりますからねえ。

2001デルトロ:2005/02/12(土) 14:17:41
最後に独歩さん、あなたへのメッセージです。

やはりこれだけは書いておかなければいけませんね。
私はリアリティのある言葉を自分にも他人にも求めていました。
そして率直な感想も書かせていただきました。
それはあなたのリアリティを信じていたからであり、
リアリティのキャッチボールをしたかったからなのです。
「疑」は疑うことばかりではありません。
素直に疑問をもつことも、とても重要なのです。私の感性を褒めてくれる
方が何人かいらっしゃったようですが、逆にいえば、正法を保つがゆえの
疑問なのです。その難しさでもあり「難信難解」なのだと思っています。

2002デルトロ:2005/02/12(土) 14:18:13
ルール違反なのかもしれませんが、ここまでおつきあいさせて
いただいた以上、最後まで率直な意見を書きます。
私が独歩さんの答えに対して、
日蓮正宗に関する独歩さんの答えを、素直な感想と称して逆説的に正宗を
擁護しようとしているように思われたのならば、それはまったくの誤解です。
それによって日蓮正宗が正しいなどとはいうつもりもないし、
ましてや逆にたくさんの人の反感を買うだけでしょう。
しかし、あれは代表的なものを挙げただけです。
独歩さん、あなたほど頭のいい方ですから、自分の理論が至るところで
破綻しているのを、本当はご存知なのでしょう。私はよく知っています。
挙げればキリがないほどです。そしてその綻びを繕うために、違う布を
持ってきて、いまやツギハギ状態になってしまったその姿を。
私にはそれが見えてしまいました。補足のための補足です。

2003デルトロ:2005/02/12(土) 14:18:45
しかしそれを私が、いちいち指摘し、反論による反論などの展開が行われるのは
私が望んでいることではないのです。それは独歩さんも同じだと思います。
まさにこれほど無意味なことはない。
ただ、あなたほど頭のいいかたが、できるだけフラットに考えよう、
謙虚にみつめていこうとしているその姿は、筆舌に尽くしがたいほど困難であり、
苦しみを伴うとは思っています。そこに私のあなたへの心からの尊敬があるのです。
驕慢な人間になるのはとても楽で簡単なことです。俺に教えを乞え、といって
みんなを伏させることは、独歩さんほどの方ならいとも簡単でしょう。
しかし独歩さんはそんな低次元なものには目もくれず、
真実の教えを追究していこうとする、その真摯な姿に、私は感動したのです。
そして、だからこそ、独歩さんの意見を無断で盗用し、
驕慢に耽っている人間が許せないのです。

2004デルトロ:2005/02/12(土) 14:22:33
独歩さん、あなたは謙虚であり聡明であり、そしてなによりも慈悲深い。
もう一度、原点に立ち返って自分の信仰を見つめなおしてみませんか?
あなたのしていることは、仏界という最も歓喜溢れる境涯から、
離れることをしているのですよ。
私はあなたを信じています。
あなたには素晴らしい仏の生命が宿っているのです。
たとえどんなに時間がかかっても、正法に戻ってくると信じています。
私はこれから毎日、あなたのことだけを祈らせていただきたいと思っています。
独歩さん、私とあなたがお会いすることはないかもしれません。
しかし深い宿縁を感じます。そして、あなたと出会えたことを誇りに思い、
そして、私の信仰の新たな糧としていきます。

本当に、本当にありがとうございました。

2005愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 14:56:55

>>1991:彰往考来さん、レス有り難うございました。
>>1992:犀角独歩さん、レス有り難うございました。

宮沢賢治が病床で、中尊を挟んで左右に釈迦多宝の二仏、四菩薩を配して書いた心境は如何ばかりだったんでしょうか。無の存在を指向するよな詩を謳いながら、その隣のページに漫荼羅を書いたのは、その実、神仏に縋りたいという気持ちだったんでしょうか。
彼が、もし救われたいと願って書いたものであったとしたら、それは、「死」への恐怖から救われたかったのでしょうか。それとも、「死」そのものから救われたかったのでしょうか。
ふと、そんなことを考えてしまいました。

尚、国柱会=佐渡始顕漫荼羅という固定観念に縛られていました。済みませんでした。
m(_ _)m

2006犀角独歩:2005/02/12(土) 15:49:20

残念ですね、デルトロさん。
あなたの目からご覧になると

> 仏界という最も歓喜溢れる境涯から、
> 離れることをしている

とか認識できませんか。
それぐらいにしかわたしのことが理解できませんか。

また、あなたから見ると、わたしは「疑」の状態にあると思えますか。
信疑、信じることと疑うこと、つまり、これは二極論ですよ。
信都議の間に「答え保留」という広大な領域があります。ここで行われていることは、信疑という二極論から離れた事実証拠の積み重ねによる仮定と真実の追究です。しかし、真義に極論にとらわれると、ここが損なわれしまうのです。それが信疑二極論の欠陥です。

これはけっして、あなたは卑下して申し上げるわけでもなく、いまだ漫荼羅本尊義にとらわれている人を見下して申し上げることでもありません。この単純且つ簡単な大石寺周辺教義で説明されることが絶対でも最上でもなく、その上に無限の境界が広がっているのです。
いみじくもあなたが仰ったように、自ら「蓋」を作ることにより、その上に広がる無限の世界を見ずに終わっていることは、あまりにも勿体ないと、わたしは記してきたのです。
その蓋は、日蓮絶対論、漫荼羅・彫刻本尊絶対論、そこから波及する戒壇を作れば国土が安泰になるなどというお伽噺ではなく、事実として、人類の大脳進化の、さらに永遠の未来に向けた可能性の世界です。

まずは信疑二極論を捨てること、その中間に広がる「答え保留」領域の与えるイデアに捨て去らないこと、些少のものを絶対であるとして限界をもうけてしまわないことによって、心の領域は過去の自己認識の数倍、否、数百倍にも拡充すると言うことに耳を傾けてみてください。
しかし、そこはパンドラの箱です。怖い人は引き返すのも善いでしょう。

最後に、わたしの迷妄を救い・覚醒を促してくれた尊敬する西田公昭師が記した、わたしが座右の銘とする言葉を、あなたに贈り、あなたとの議論を終わりとします。

―― 何か集団のメンバーになっていても、もし何か矛盾する事実に突き当たったら、徹底的に疑ってみることが大切である。もし、個人が疑うことに対して、何か罪的な否定的意識を教えこまれているとしたら、それは科学的思考を一切否定していることと知るべきだ ――

―― たとえどんなに強い確信であっても、それは個人的な経験や推論によって何となく感じているリアリティ感覚によって支えられているにすぎない。そのことをさして、個人的リアリティという ――

(『マインド・コントロールとは何か』紀伊国屋書店)


この突きつけられた科学の目を、無視することでしか成り立たない議論の一切をわたしは拒否してきたということです。

2007犀角独歩:2005/02/12(土) 15:50:30

打ち間違え、これだけは訂正しておきます。

誤)信都議の間に
正)信と疑の間に

2008犀角独歩:2005/02/12(土) 16:22:55

2005 愚鈍凡夫さん:

> …宮沢賢治…「死」そのものから救われたかった…

わたしは、賢治を、そのころの詩を読むと、その逆ではなかったのかと思えるんですね。
臨死体験によって、彼は彼自身のマンダラを感得したのではないのかということです。
つまり、病床で、臨死体験が信仰と相俟って、仏陀の世界、日蓮の世界、法華経の世界を観、それを書き留めたのではなかったのかと思えます。

彼は死を恐れていたとは思えなかったし、そこから救われたいとも思っていなかったように、わたしには映じます。彼はある面、死によって、彼が掴みたかった法華経世界を知ることが出来たのではないでしょうか。言葉遊びではありませんが、彼は死によって救われたように、わたしは思える面があります。いや、これは感覚的な感想ですが。

2009デルトロ:2005/02/12(土) 17:08:09
ありがとうございます独歩さん。
あなたは本当に冷静でとてもクールなかたですね。
ただ、私の想像していた独歩さんの返信と実際の返信が、
笑ってしまうぐらい似通っているんですよ。
なんか微笑ましく感じられました。
なんかやっぱり独歩さんらしいなあって。

結局私は解放を選んだんです。
いやそれはちょっと違うなあ。
独歩さんが解放へと導いてくれたってほうが
正確ですね。

私の一番の苦悩だったのは
何を選択しても呪縛からは逃れられない。この不安だったんです。
(もちろん二元論じゃないですよ、グレイゾーンも含めての話です)
呪縛から逃れることが新しい呪縛を生む。呪縛の連鎖だってね。
恐怖を背負ってました。独歩さんも、潜在的には
きっとそうなんじゃないかなあ。
そしてそれはやっぱり真実なわけです。
本尊変えても苦悩しても、議論やっても気分転換にカラオケやっても、
常に自分の心の中の苦悩と葛藤は消滅するわけじゃないですもんね。
でもそんなの当たり前の話でしょ。
だって宿業なんですから。自分の肉体を切り離すことができないのと
一緒で、宿業からは逃れられないんですよ。

2010デルトロ:2005/02/12(土) 17:08:44
へえ、そうなんだあ。
じゃ、どうすればその悪い連鎖を立ちきれるの?
苦しみから逃れられるの?

さあねえ、どうすればいいんだろうねえ?
悩み続けるしかないよねえ。だって逃れられないんだからねえ。

そうだねえ、そうするしかないよねえ。

これが正解なんじゃないですか?一般論は。

けれども今、私は、自分でも信じられないくらいの
開放感を感じているんですよ。これが実感です。
叫びだしたいくらい健康になっちゃいました。
最高です。って言葉がぴったりかなあ。
ようしレッツゴー!みたいな気分です

2011デルトロ:2005/02/12(土) 17:10:10
私のレスは本当にこれが最後になってしまいます。
ヒトコトだけ申し上げましょう。
独歩さん、あなたが私を救ったという表現が違うとお思いなら、
ヒントをもらったという言葉に置き換えましょう。
私もたくさんヒントは残したつもりです。
違うと仰るなら違うやりかたを探してください。

私はこれからあなたのことを、真剣に御本尊様に祈っていきます。報恩感謝です。
私があなたを祈るということは、仏法上あなたがこれからどんなことに
なってゆくのかは、充分御理解されているでしょう。

さあさあ、私みたいな幼稚園児と遊んでないで、もっと議論に花を咲かせてください!
実のある有意義な討論を、バンバンと展開してください!
レッツトーク!!

2012愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 17:25:28

犀角独歩さん、どうも。
小生は、「臨死体験」と聞くと、自分が経験していない所為でもありますが、脳の酸欠による連続した「バースト現象」の為せる技だと考えてしまうんですよ(想像力のない奴)。
当然A10神経も、この連鎖的バースト現象の影響を受ますから、ドーパミンの大量放出によって、宗教で言うところの「悟達」といわれる状態に達するんじゃないかと思ってしまうんですね。
でも、たとえ大脳生理学的にそうであったとしても、凛として人生の最期を迎え入れられるというのは、素晴らしいことだと思います。
宮沢賢治の場合も、諦めではなく、成すべき事は終えたという意味で、死を受け入れたと信じたい一面もあります。

2013大勇者:2005/02/12(土) 17:41:18
愚鈍凡夫さん どうもです。
臨死体験についてこのサイトが面白かったので紹介します(ちょとオカルトっぽいけど)
http://www.fitweb.or.jp/~entity/shinrei/rinshitaiken.html

2014愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 18:02:51

大勇者さん、どうもです。

むむっ、ちょっと怖いかも・・・・。 ( ̄Д ̄;;
ではこちらはどうですか。 (^O^)

「脳とトラウマ・神経伝達物質」
http://trauma.or.tv/1nou/index.html

2015犀角独歩:2005/02/12(土) 18:24:34

2012 愚鈍凡夫さん:

賢治にとって、臨死体験は、既に死の範疇だったという気がします。
ドーパミンの大量放出その他の分析はその通りだと思いますし、そのような機能も、死も、人間という種が、そのように進化したことを示すのでしょうね。

しかし、この問題は雖念さんの弁舌の冴える話題であると思いますが、脳内代謝、このキーワードは、やはり悟りとかその他の仏道修行に由来する思念・情動、心身変化と大きく拘わっているのでしょうね。もっと研究されてしかるべきです。

わたしの恩人であるとある日蓮宗僧侶の方に、「石山の人間は唱題の仕方を知らない」と、こう切り出されたことがありました。どういうことかというと、躁状態を作り出すような形しか知らない、彼岸へ行きっぱなしにするやり方だというのです。つまり、唱題中の、非日常から、日常へ。修行という特異状態から日常へ、復路が用意されていないやり方だと。
これは、たぶん、脳内代謝とも関連すると思います。覚醒はあっても鎮静の方法が欠如しているという分析です。

わたしは、この分析は当たっていると思います。
わたしは小学校6年から朝夕勤行1時間唱題、1年1度御書読了を欠かすことのない青春を過ごしたんですね。いわゆる信仰体験とか、神秘体験なんか、そんなことから山のようにあったわけです。ところが26歳の時に、鋭敏に研ぎ澄まされた絶頂にガラスがパリンと割れるように壊れました。石山義と学会義の狭間で苦悶が続いたことも、その原因でしたが、詰まるところ、往路(覚醒)の修行は知っていても、復路(沈静)の修行を知らなかったわけです。覚醒剤中毒者が何日も寝ないで躁状態が続くけれど、ある日ぼろぼろになってしまうような感じです。

あるカルト脱会支援者と話していたとき、「カルトメンバーは活動し続けているときは、すごく元気に見える。けれど、心身疲労感が麻痺しているだけで、ある時、壊れてしまう。壊れたとき、はじめて、どれだけ疲労していたかがわかる」というようなことを話してくれたことがあったんですね。まったく、その通りだと思ったわけです。

仏法というのは、元来、熱狂的な状態になることを目的にするよりも、禅定、瞑想という要素が強いわけです。ところが石山系は逆です。どうすれば元気が出るか、120パーセント力が出るかに気が向いています。瞑想ばかりでもなく、熱狂ばかりでもなく、その往復で、日常に返す構造がない教義・修行が結局のところ、人を壊してしまうでしょうね。

わたしは法華講に入る頃は、勤行は方便も長行、唱題後、安国論、申状捧読までするような勤行をしていました。長いときは1日3時間も4時間も仏壇の前に座っていました。神経障害を完治したいという思いは強くありました。それなりに得るものは勿論ありましたが、引き替えに浮き世の楽しみはすべて放擲していました。
わたしの母は、学会時代、1日4時間の唱題を欠かしたことがありませんでした。けれど、その間、極度の神経障害が治ることがありませんでした。わたしは、こんなときに、ハッサン師の

「過度の(長時間の)瞑想や唱えごとの技法を毎日使うように教え込まれた人々は、心理的にも生理的にも、マインド・コントロールの中毒になりやすい。このような精神の蒸留作用は、脳の化学物質の強烈な放出をうながし、それは分裂した意識状態をひきおこすだけではなく、不法な薬物が作りだすのと似た『昂揚』感をひきおこす。これらの技法を数年にわたって用いた元メンバーの何人かは、激しい頭痛、不随筋の痙攣、記憶力・集中力・決断力のような認識能力の減退などを含め、広範囲にわたる有害な副作用が残ると報告されている」

「 唱えごと(布告) メンバーに対して過度の瞑想や唱えごとや『布告』(超スピードで祈りを唱えること)や異言を要求するグループに長いこと入っていた人々については、そのカルトをやめてから少なくとも、一年間は、その人の意志でないことが起きると予想しておく方がいい。私がかかわったなかで、こんな訴えをした人々がおおぜいいる−−ふつうの会話をしている最中に、突然、ある言葉の途中で、ふと気がつくと、カルト時代に長年やっていた心を麻痺させるテクニック、つまりある言葉を無意識に唱えるというテクニックを使っていたというのである」

という一節を読んだ愕然としたわけです。自分も、母も神経障害を直したいが故に夢中になって拝んでいたわけですが、それが逆効果であったことがわかったからです。しかし、それは、わたし(たち)のやり方が悪かったわけで、その失敗を、上述の体験を語ってもいないのに指摘された、先に記した僧侶の一言に、それ故、直ちに納得したわけです。この点は、適宜な唱題法でもちろん、解消される面もありますが、もう一面、ご指摘のような脳内代謝問題として考えることは、必要であると思うわけです。

2016愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 19:41:21

生きていく中で、心の静寂が如何に大切か。
そのことを考えた時、日本の優れた文化には、静寂を味わうという行為が含まれていたと思います。もともと、遺伝子として受け継いでいるのかも知れませんが、静寂の時を時間の無駄遣いと感じてしまう現代感覚の方が勝るのかも知れません。
心の休養を、弱さと感じてしまう感性に問題があるのでしょうね。
宗教は、ある意味では心の保険的役割を担っていると思うのですが、人を馬車馬のように駆り立てる新宗教の成立と共に、その機能を失ってしまったのでしょうか。

2017犀角独歩:2005/02/12(土) 20:19:32

ここのところの議論で気付いたんですが、精神状態を説明するのに「躁鬱」ということが言われるわけですね。
それで熱狂的な状態、まあ、これはたしかに躁状態と言えようかと思うのです。
では禅定が鬱状態かといえば、これは全く違いますね。中間に位置すると言うより、質が違います。

2016の愚鈍凡夫さんのお考えには賛同します。
仏法世界のニュートラル状態というのは禅定で、武士道なんかでは平常心というところでしょうか。こういった心を安定するタイミングから、動的状況に、時には熱狂も、熱烈もあるわけですね。しかし、明王、蓮師漫荼羅にもある「不動」というのは、いわば熱狂、活動の、根元的な構えですね、身体はどんなに動的であっても、心は不動である…。

なんかこういうことを考えると、「カルト」と言われるような有様は、元来、原始仏教集団にはなかった。そのような熱狂的、恣意的操作の躁状態に、集団に陥らせるような在り方は、たしかに異常なことなのだろうと。

2018デルトロ:2005/02/12(土) 22:10:29
みなさんこんにちは〜
おそらく私の顔など見るのもイヤでしょうね。
ようく解ってますよ〜知っています。
隠したってお見通しですよお。

私はねえ、不思議なんですよ。
デルトロのやつ、さんざ勝手なことほざきやがって逃げやがった。
汚い奴だ。ぐらいの感想欲しかったのに寂しいなあ。ぐっすん。
それともシカトしてやれってことですかねえ。ぐっすん。
宗教かぶれの、マインドコントローラーがッ!
ぐらいの罵倒が欲しかったなあ。ぐっすん。

いやいや、皆さんがそんな品性の低い人間ではないなんて、
ようく理解しているつもりですよ。

わたしはずるい人間なんでしょうね。
それは何故か。ツギハギだらけなんて勝手にいっておいて
そのツギハギを指摘してないじゃないか!証拠出せ!
文証見せろ!文献出せ!この立派な意見の、どこがツギハギなんだ!
ってね。いわれても仕方ないですよね〜。
ようくわかってます。

2019デルトロ:2005/02/12(土) 22:11:22
私はねえ、残念なんですよ独歩さん。みんなで実りのある議論して
くれてんのかなあと思ったら、どんどんツギハギが増えているんですから。
私が独歩さんの最後の投稿を失礼ながら笑ってしまったのは、
私がツギハギを指摘したのにまたツギハギで返してきたから
なんですよ。
「そんなわけない」
あなたはきっとそう仰るでしょう。

全部否定してみせましょうか?
どこにそのツギハギがあって、どこが綻んでいるのか。
そのツギハギの縫い目をね。気になりませんか?
「興味ない」いやいやそれはウソでしょう。

よかったらお教えしますよ。
私って意地悪ですか?それとも個人的なメールのほうが、
いいのかな?

愚鈍凡夫さん、そんなにあせって無理に長文投稿しなくてもだいじょぶですよ。
私の投稿が、気にいらないなら見なきゃいいだけですよ。
なんでそんなに人目につかないように必死なんですか?
私の文章なんて、ぜえんぶ削除しちゃえばいいんですよ。
お気に召さないのであれば。
でもそんなことしませんよねえ。負けを認めることになりますもんね。
あれおかしいな。勝ちとか負けとか、二元論だぞ?
そんな捉え方、ナンセンスだって、怒られちゃいますね。独歩さん?

2020犀角独歩:2005/02/12(土) 22:29:38

デルトロさん、そんなに御自身を卑下することはないですよ。
実に興味深い存在です。どうぞ、罵倒でも何でもお続けください。
ゆっくりと観察させていただきます。
あなたは、いま、そうしたいんでしょう。
この掲示板の規則に抵触しない限り、それはご自由です。どうぞ。
ただ、わたしはあなたのその姿にかつての自分を観ています。
ああ、わたしもこうだったな。そうしているときの慟哭、辛さはかつて経験したことでした。
だから、あなたが焚き付けても、あまり、腹も立ちません。

あなたがいまやっていること、それが自罰行為ですよ。
その連鎖を止めない限り、あなたの喜怒哀楽のじぇとコースターは止まることはありません。
でも、誰も停められませんよ。停めるのは、あなた自身です。

あなたはどう思っているかわかりませんが、管理人さんも、愚鈍凡夫さんも、そして、わたしもあなたを観ています。しかし、それは決して怒りの感情ではないですよ。それが、他の掲示板と、ここの違いです。

まあ、ともかく、規則に抵触すれば、それなりの管理を余儀なくされます。
もう一度、深呼吸をして、ご覧なさい。

2021愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 22:36:45

デルトロさん、お話しさせて頂くのは初めてですよね。あなたのレスに小生への問いかけがあるので、お話しさせて頂きます。

> 愚鈍凡夫さん、そんなにあせって無理に長文投稿しなくてもだいじょぶですよ。

小生の読解力のなさが原因かも知れませんが、あなたの仰る意味が分かりません。
小生は、別に無理などしていませんよ。思ったことを思った通りに投稿しているだけです。
ただ、投稿した以上、自分の文章に責任を負わなければならないと思っていますけどね。
それと、「あせって」という意味が分かりません。説明して頂けないでしょうか。

あなたの表現が気になるんですが、自分だけが苦しんでいると思わない方がいいですよ。
人それぞれ、口にできない苦労があるものです。犀角独歩さんだって、お話しされているのは、苦労のほんの一端だと思いますよ。
小生だって、今生きているのが不思議なぐらいです。これは、生きなければならない何かがあるんだと思っています。要するに、死を迎えるにはまだ早いと言うことです。

2022デルトロ:2005/02/12(土) 22:47:36
おやおや、面白いことを仰いますねえ独歩さん。
罵倒だなんて、とんでもない。あなたは私の恩人なんですよ。

>あなたがいまやっていること、それが自罰行為ですよ。
その連鎖を止めない限り、あなたの喜怒哀楽のじぇとコースターは止まることはありません。
でも、誰も停められませんよ。停めるのは、あなた自身です。

ごめんなさいね。
止めてくれなんて、お願いしているんじゃないですよ。
深呼吸?
いやいや、それが必要なのはあなたでしょう。
いいじゃないですか。怖いなら怖いって告白したって。

あなたはねえ、完全なる邪なんですよ。
だから怖いんです。だからもがくし苦しむんですよ。
そしてたくさんの人を迷わせた。
恐ろしい罪業を積んでいるんです。ね?そうでしょ?
まずそれを認めてくださいよ。
じゃないと教えてあげられないなあ。

ところでまず上の書き込みなんですが、
これを具体的に証明してください。

もちろん、あなたの言葉でね。
文献とかいらないですよ〜
長文読むのキライなんです。ごめんなさいね

2023デルトロ:2005/02/12(土) 22:51:02
ごめんなさいね愚鈍凡夫さん。
あなたはねえ、おっとやめとこう。
罵倒はルールに抵触しますもんねえ。

ちょっとしばらく黙ってていただけませんかねえ。
私と独歩さんとの問題なんですから

2024犀角独歩:2005/02/12(土) 23:02:52

わたしは、何も怖くありませんよ。

2025犀角独歩:2005/02/12(土) 23:04:16

で、何を証明しろと。

2026デルトロ:2005/02/12(土) 23:10:29
怖くない?
そうですか私の勘違いだったようですねえ。
謝りますよ。ごめんなさい。
質問がわかりにくかったようですねえ。

>あなたがいまやっていること、それが自罰行為ですよ。
その連鎖を止めない限り、あなたの喜怒哀楽のじぇとコースターは止まることはありません。
でも、誰も停められませんよ。停めるのは、あなた自身です。

つまり私がこの状態になっているって、どうしていえるんですか
ってことですよ。あなたの思い込みかもしれないじゃないですか。
嬉しいなあ、独歩さんに質問されるなんて、
初めてですねえ。

2027犀角独歩:2005/02/12(土) 23:14:24

そうですか。では、わたしの思いこみですか?

2028デルトロ:2005/02/12(土) 23:24:34

いえいえ、わかりませんよ。
私はあなたではないのですからね。
別に禅問答みたいなことがしたいわけじゃないんです。

独歩さん、あなたにとって私は最高の研究材料なのでしょうね。
マインドコントロールに蝕まれたはずの人間がどうなっていくのか。

本音でお話してください。
私をどう思われますか?

2029犀角独歩:2005/02/12(土) 23:31:40

「研究材料」? はて、わたしはそのようなことを書きましたか?
観察する、そう記したまでです。

あなたを、どう思うか?、いまの段階ではわかりません。

2030デルトロ:2005/02/12(土) 23:53:40
独歩さん、禅問答がしたいわけじゃないんです。
ごめんなさい。揚げ足を取ったりとか、そういうことではないんですよ。
もしそう取られたなら謝ります。
あなたに対して失礼な物言いは重々承知です。
怒っていないと仰るかもしれませんが、似た感情はきっと
あるでしょう。
互いの心を閉ざしたまま会話をしても仕方がないと
私は考えているんです。そして今はシャットアウトさせてしまった。
もちろん私の責任です。当然です。
私が修羅の命を持っているからです。そしてその命が
あなたに感応してあなたは怒ってしまった。
そうではありませんか?
それが恐ろしい修羅の命なんです。

2031大勇者:2005/02/13(日) 00:03:24
>2014 愚鈍凡夫さん。
紹介有難う御座います。

ストレス怖いですね。でもそのサイトネームがもっと怖かったりして(笑
私はプレッシャーやストレスを感じると煙草の本数が異常に増えます。

ストレスによって初代糖尿病になって子供に遺伝すると聞いた事あります・・・
ストレスは遺伝子をも壊すのでしょうね。人生できれば中道で生きたいものです。

2032デルトロ:2005/02/13(日) 00:08:57
どうやらお話する気がすっかり
なくなってしまったようですねえ
独歩さん。ちょっと前置きが長すぎたようですねえ。
また修羅の命がムクムクと湧いてきましたよ。

2033犀角独歩:2005/02/13(日) 00:09:35

デルトロさん、わたしは、本当に少しも怒っていないんですよ。
修羅の命というけれど、別段、修羅とも思わないわけです。

「そうか、そういうふうに書いてくるんだ」と観察している。ただ、それだけなんです。

2034デルトロ:2005/02/13(日) 00:11:06
ツギハギの話はもうよろしいんですか?
独歩さん。

2035犀角独歩:2005/02/13(日) 00:15:47

「ツギハギ」というのは、あなたの感じるところで、わたしのなかではぜんぜん、つぎはぎではないわけです。ただ、それぞれの脈絡が見極められなければ、端から見れば、ツギハギと見えるわけだと理解はしました。

また、話をする気がなくなるとかなんとか、以前に、これで最後の投稿と、区切ったのはあなたのほうです。それを忘れましたか。

まあ、その後に、まだ書きたかった。そんな気持ちになることもあるでしょう。
それはそれで別段、あるがままです。

しかし、なんですか、あなたは、わたしに囃し立てて、怒らせたいわけですか。
わたしの修羅の本性の扉を開けたいわけですか。
知って記しているのかどうか知りませんが、わたしのかつてのあだ名は、まさに「阿修羅」ですよ。あなた、それを知っての焚き付けですか。

2036空即是進化:2005/02/13(日) 00:30:42
デルトロさん
 もらった薬を飲んで早く寝なさい。
 議論は明日でもできます。

2037犀角独歩:2005/02/13(日) 00:35:08

もう、終わりですか、デルトロさん。
では、わたしは、もう寝ます。

デルトロさん、あなた、わたし一人につかっかってきていますが、わたしは、いまや、阿部さんやら、「戒壇本尊」「日蓮本仏信奉者」のみならず、正信会も含めてつっかっかっているんですよ。あなたの修羅など、わたしから見れば、可愛いもんですよ。

何十万、いな何百万の信仰対象を暴いたわたしがどこに立っているのか、あなたは、わたしが書いたものを読んだ訳ではないのでしょうかね。いまの心境からすれば、いちいち、怒った、修羅になった、腹が立ったなどと言っていられません。まあ、あなたを見ていると、かつての自分を見ているようで、他愛なくも、可愛いと思うということです。

ある意味、歴史を捻った実感を掴んだわたしは、しかし、それでも、あなたのような個人を忘れてはいけないと言う思いはあります。話しかけたければ話しかけてください。徹底的につきあいます。ただし、他の方々を巻き込みのは、お互いやめましょう。あなたの言うとおり、二人の範疇で納めましょう。ただ、それでも、場を借りているわたしは、管理人さんには、申し訳なく思います。ですから、どうか、当板のルールだけは最低限守ってください

では、おやすみなさい。

2038デルトロ:2005/02/13(日) 00:51:37
まさかですよ独歩さん。私も阿修羅の塊みたいなですから。
ほら怒ってるじゃないですか。
しかし私がストレスでやられたみたいなこと書いてありますけど、
あんまりイイ気分ではないですね、
もちろん自分の責任なんですけどね。

独歩さん、話が核心に中々迫っていかないんで
ちゃんとお話しますね。
明日でもいいですか?一晩おきましょう。
ゆっくり考えてみませんか。
それでももし、あなたのお考えが変わらないのならば、
私はお話する義務がありますから、お話しましょう

2039デルトロ:2005/02/13(日) 05:19:30
自分なりの分析です。
フラッシュバックです。前の時の感情が
ひょっこりと顔を出して、
歪んだ形で一気に噴出したんでしょう。
その時ポストに教会のパンフ類がたくさん入っていたけど、
あえてそれに因果はみつけません

2041吉祥仙人:2005/02/13(日) 09:24:21
 デルトロさんへ  外野から失礼します。

 私の経験から言っても
 2036での空即是進化さんの判断は適切と思います。

 アエテ言えば、
 デルトロさんの状態は
 おそらくこの掲示板に参加されている
 多くの方が
 すでに過去に経験されている
 状態だと思います。

 自分を危険視することなく
 「だれにでもあることだ」
 くらいに
 冷静にお考えいください。

2042吉祥仙人:2005/02/13(日) 09:32:27
 失礼

 冷静にお考え下さい

2043愚鈍凡夫:2005/02/13(日) 18:49:54

>>2031:大勇者さん、どうも。

特に幼子に対する精神的・身体的ストレスは、取り返しのつかないことになりますから、恐ろしいですね。
今の時代でもそうですが、脳の知識がなかった昔は、どれだけの多くの悲劇が世間の陰で繰り広げられていたかと思うと、やりきれない気分になります。

2044犀角独歩:2005/02/14(月) 00:24:50

そういえば、デルトロさん、本日はお目見えではありませんでしたね。
元気にしていますか。
わたしは、ここ何日か熱が下がらず、そろそろ、ダウンです。
もう、寝てしまいますが、勘弁してください。

2045デルトロ:2005/02/14(月) 05:43:12
こんにちは
ようやくまともになってきました。
以前のを読んでみると完全に増上慢のかたまりですね。いかに謗法与同が恐ろしいものか、
よくわかりました。狂っていますね、完全。
みなさんの激しい憎悪を突き刺さるほど激しく体中で感じます。私流の言葉でいえばもらい狂いしそうになったというのが本音です。
あの後再び、必死何とかその合理性を必死で考えたのがフラッシュバックでした。
馬鹿ですよね、自分で「難信難解」と感じておきながら、また必死で自分の合理化ばかり探していたんですから。

あの自分も今の自分も、ちょっと前の自分も全部すべて同じ自分です。否定はまったくできません。
その時の自分の生命状態を表しているのは事実なので自分の中に色んな生命状態が共存しているのがよくわかりました。
どんな罵倒も憎悪も受けなければいけないとは思います。やはり自分の言葉なのであるから。

ツギハギはお前の主観といわれてみればまったくそのとおりなのかもしれません。
しかしツギハギはいたるところにあるのです。その正体は2000前後あたりに私の投稿にあります。
もしこの私の問いかけに、心の底から「おれは違う。おれの「疑」はそんなところから始まっていない」というならば、
それも正解なのかもしれません。しかし違和感を大切にしてください。マインドコントロールからの解放でのプロセスならば、
もっと反発心があってもいいはずだとどこかにかきました。そうではなく、違和感から生じた疑問なのです。
自分をなんとか納得させたい。その理由を必死で探す。そこにすべての「真」を見ることが、正しいことには思えないのです。
人間には誰にでも仏の生命があるといいます。そしてその正体がマインドコントールによるものだというならば、
その人にとってはそれがきっと正解なのでしょう。

私の今までのこの経緯を、すべて合理的にいくらでも説明できるというのは、おそらくきっとそうなのでしょう。
ハッサン氏の本は読みました。ここの掲示板でもいくつか引用されています。ほとんどが納得できる内容でした。
しかし「人間には仏の生命がある」という箇所がなかったのが残念です。仏の生命とはやっぱりフィクションなんでしょうか?

もし本当にそれがフィクションなのであれば、御本尊様に仏が宿っていないのであれば、やはり写経をしても破っても、
何も問題のないことになってしまいます。もしもそれがマインドコントロールによるものならば、自身を解放するために、
それを積極的にやるべきではないでしょうか?私には恐ろしくてそんなことはできません。
しかしもしこれがマインドコントロールによるものだと主張されるかたは、ぜひともやってみるべきでしょう。
完全に、自分はそのマインドコントロールからは醒めたという自信がある人はそうしてください。
しかし、私のように、全身に恐ろしいほどの震えが起き、恐怖に駆られるのであれば、やはりやるべきではなく、
そして、すぐに心からの懺悔の唱題をしてください。きっと何かを感じるはずです。
そして、私のように、再び謗法与同して、悪鬼を呼ぶこむようなこと愚は絶対に犯さないでください。

2046大勇者:2005/02/14(月) 09:28:51
素朴な疑問です。
人間には誰にでも生命があるといいます。
仏界があるといいます。「法」があるといいます。
私が疑問なのは「生命」でも「仏界」でもありません。

「ある」です。

「有」とは何か?「生存」とは?「存在」「実在」etc・・・
J.ゴンダも十二縁起を訳するに「有、在」を非常に難しい概念だと書いています。

いったい「ある」とはどういうことなのでしょう?
我々は「幻術の中の人が幻を見る」なのか・・・

2047真実 探求者:2005/02/14(月) 21:03:18
、、御免ください、、。 貴重に値します、、御疑問、、かと、、存じます、、。

2048通りすがり:2005/02/14(月) 21:07:47
ピュアな質問です。こちらの皆様は、いわゆる題目の力。仏の生命といったものを難しい事を抜きにして、
どこまで信じていらっしゃいますか?
私は、あればいいなあ、位の気持ちです。
また、それにかわるものが存在すると思いますか?見つける事は出来ると思いますか?
私は存在するとは思いますが、私の力では永遠に見つける事は出来ないと思ってます。
難しい事は苦手なので信じているかいないかレベルで皆様のお気持ちをお聞かせ下さい。

2049問答迷人:2005/02/14(月) 23:36:40

通りすがりさん

>いわゆる題目の力。仏の生命といったものを難しい事を抜きにして、どこまで信じていらっしゃいますか?

僕は、仏の生命は良く判りません。しかし、曼荼羅、題目の五字なら、凄まじい力があると信じていますね。実際に苦境に陥ったとき、必死で曼荼羅・妙法五字にお願いして、苦境を脱した事が何度もあります。

2050大勇者:2005/02/15(火) 00:44:33
通りすがりさん

私は「生命」に対しては半信半疑です・・・自身の実感としては。
他を見て、「分断、分裂の痛み」といいますか、失って初めて感ずるものなのでしようか?

「題目に力」があるとは信じられません。体験が無いからかも知れません・・・
ここでいう「力」とは「エネルギー」や「梵、チャクラ」などはですが・・・
ですが、名(題目)の認識や理解することによって「力」を発見する事は有得るのではないかと信じています。

2051パンナコッタ:2005/02/15(火) 13:23:00
みなさん、パンナコッタでございます。以後よろしくお願いします。

 >いわゆる題目の力 >生命 ・・が、ある

こうゆうのは確かな答えが出ない問いですね。曖昧模糊としてああじゃない、こうじゃない
と、何千年も議論し尽くしたことでしょう。賢人や聖人なんて呼ばれる人だって確かな答え
は出ていないし、出せないでしょう。

これは最初から答えのでない問いだから、出ないのは当たり前です。数学の公理かな。
解けたら定理でしょ。

だから、通りすがりさんのように真面目に苦悩している人には「アンタ、一寸違うけど」と
思われるかもしれませんが、私みたいなガサツな人間から見ると底なし沼にダイブしている
ように見えちゃうんですよ。やらなくていいことまで無理に責任背負い込んじゃって自分を
すり減らしている。 そんなのやめましょうよ。無意味、無駄。

あっ、かなり脱線しちゃいましたね。通りすがりさんに因縁つけている訳じゃないですから
ね。私の愚痴だと思って聞き流してください。すいません。

ちゃんと答えるとすると、
 題目の力→信じていれば、力は発揮されると思うことが出来る。
      信じていれば、力が発揮されないと思うことが出来る。
      
      信じていなければ、別にどうだっていいこと。
                     
こんなところでしょうか。

2052パンナコッタ:2005/02/15(火) 22:30:30
>2051 ああ、エラそうに。済みませんでした。以後こういうカキコは自重しますんで
勘弁してください。唯、自分は実証不可能な物に答えを求めて苦悩しているように見えた
ものですから。

宗教の法則
 【法則2】 宗教の中心は空洞である。

    神や仏がたとえ存在しないとしても、宗教という装置は成立する。
    重要なのは、神や仏が存在すると、人々に信じさせることである。

結局、富士系の信仰はこれにドンビシャとあてはまると自分で思っているからです。

2053犀角独歩:2005/02/15(火) 22:59:26

パンナコッタさん、何も自重する必要はないでしょう。

わたしが、よく引用する高橋紳吾師にお会いしたとき、師の著『きつねつきの科学』に関連して質問したことがあります。

「どんな人が、狐憑きになるんでしょうか」
「狐憑きを信じている人がなりますね」
「信じていない人はどうでしょうか」
「信じていない人はなりません」

簡単明瞭、かつ信仰者にとって、衝撃的な答えであると、わたしは思ったものです。

2054パンナコッタ:2005/02/16(水) 00:31:06
>2053 アハハ、ありがとうございます。一寸余計なことでツッコミ過ぎたかと思いましたんで。

では、別の疑問を提示しますんで、よろしくおねがいします。
北山本門寺の「根源」って何なんでしょう。唯、単に図々しいだけの名称なのかな。村山浅間神社という
所の額に古代文字と称される変な字体で富士根本館と書いてあるのですが、単に似てるだけなんでしょうか。
一寸前に「宮下文書」なる怪しい文献がありましたが、偽書の過程が石山教学と似ている気がしたので。
それを最大限に生かしたのが富士山本門寺であり、爆笑した思い出があったんですが。

2055犀角独歩:2005/02/16(水) 00:43:20

本門寺根源、わたしはあまり気になりませんでしたね。

それより、北山の偽造文書をパクって、自分のところが未来、本門寺になるという石山のほうが顰蹙ものだと思いますね。

2056通りすがり:2005/02/16(水) 01:51:44
問答様、大勇者様率直なご回答有難うございました。
パンナコッタ様、犀角独歩様、そういった解説ではなく、出来ればそれぞれご自身がどこまで信じていらっしゃるのか?を教えてくださればよろしかったので、よろしくお願いします。
私の場合はどうかと突っ込まれますと既に書かせて頂きましたが、「あればいいなあ」位の気持ちです。
ついでに白状すると逆に、イケナい事をしたい時は「なければいいのになあ」と思ったりします。

2057犀角独歩:2005/02/16(水) 02:04:00

通りすがりさん(「さん」付けでお願いします)

えーと、唱題の、ということですね。
わたしも唱題による、体験はあります。しかし、禅、瞑想、その他でもさらに強烈な経験はあります。まあ、唱題以外も試してみないと、唱題がいちばん(○○はいちばんとは他との比較ですから)というのは、なかなかその比較は難しいでしょうね。ということで、唱題がいちばんというのは、わたしのなかで、そうは言い切れないという思いがあります。(わたしは大の羅什嫌いですから、妙法蓮華経という訳は、実は嫌いです。しかし、生まれて、半世紀、このお題目に馴染んでいるので、呪文?と言っては変ですが、この唱題がもちろん、嫌いではないと言ういっけん矛盾したところはあります)

こんな比較を学問的な立場から研究されたのは影山教俊師でしたね。
いろいろやってみて、みんないい、みんな効果があったと言ったのはいちりんさんでした。

「唱題がいちばん」というのであれば、お念仏、参禅も、その他いろいろやってみて、それから出せる結論であろうかと存じます。

2058パンナコッタ:2005/02/16(水) 12:44:05
「宮下文書」なんていうヘンテコな古史古伝なんて持ち出したのは中央政府に対する嫉妬、
ルサンチマンが富士の一帯にあり、せっせと偽書作りに励んでいたグループは直接ではないにしろ
石山系に関わりがあったのではないかなと思ったんです。

2059祝8郎:2005/02/16(水) 16:48:06
横レス失礼します。
「宮下文書」読んでみて、おもしろいことはおもしろいですよね。
かつてオウムが真剣に「研究」していたこともありますね。
いわゆる「古史古伝」については、以下の本が参考になると思います。
藤原明『日本の偽書』文春新書、平十六年五月刊行
同書では「宮下文書」については直接論及されていませんが、「古史古伝」
全般の出現メカニズムについて考察されています。
「上記」「竹内文書」「東日流外三郡誌」「秀真伝」「先代旧事本紀」
「先代旧事本紀大成経」などについて書かれています。
「宮下文書」と石山とはほとんど関連はないと思います。
むしろ関連がありそうなのは田中智学のほうではないでしょうか。
「師子王全集」や日記にはなにか見つかるかもしれませんね。

2060大勇者:2005/02/16(水) 20:16:42
ところで今日は生誕日ということでよろしいでしょうか?

2061犀角独歩:2005/02/16(水) 23:43:11

> 2060

金正日の、というのは北朝鮮の正式見解で、

蓮師の、というときは、先のれんさん、名無し@富士門流のご紹介のとおり、時師記すところの門下唯一の伝承。
もっとも、2月15日釈尊入滅の日とされるわけですから、ここに仮託した伝承と見るほうが至当な気が、わたしはします。

2062パンナコッタ:2005/02/16(水) 23:54:54
どっかの寺で祖師像(でしたっけ?)から発見された発見された、文書ありましたよね。
あれは、どうなんでしょうか?

2063パンナコッタ:2005/02/16(水) 23:57:01
>2062 かぶっちゃった。すんません。

2064大勇者:2005/02/17(木) 12:02:20
>2月15日釈尊入滅の日
!そうか  それで後出し(伝承)なんですね。(反省

犀角独歩さん。パンナコッタさん。勉強なりました。有難う御座います。

2065通りすがり:2005/02/18(金) 11:58:32
犀角独歩さん。レス有難うございます。別に比較はいいですよ。題目の力、仏界の命、を信じているのか否か。どの程度信じていらっしゃるのか?だけで。
私は何度も書かせて頂きましたが、あればいいなあ。悪い事したい時はなければいいのになあ。という感じです。

2066犀角独歩:2005/02/19(土) 05:07:11

通りすがりさん:

> 題目の力、仏界の命

題目の力、あるんじゃないでしょうか。
(もっとも、これを現代的に分析して、健康・精神に有効な有酸素運動と言ったのは富士宮のN師でしたが)

「仏界の命」という語法は、わたしにはわかりません。
命は、使命、もしくは寿命するところでしょう。
仏界は心に具すか否か、大問題ですね。
疑うなと仰ったのは蓮師です。さて、信じてみるかどうか。

2067彰往考来:2005/02/19(土) 09:34:30
>2062

池上本門寺の祖師像から発見された造立銘には生誕日はなく入滅日のみです。もし造立銘に生誕日があったなら、現存する史料としては最古のもので蓮祖在世当時の情報と考えてよいでしょうから当スレッドのような議論は発生しないでしょう。

「現存する最も古い木彫祖師像は著名な池上本門寺像である。大正十四年に稲田海素らが胎内納入品と造立銘を発見し、ただちに旧国宝となった。その納入品であるが、あろうことか日蓮の舎利容器(骨蔵器)だったのである。青銅製経筒形の容器には日蓮の入滅日と大別当日朗・大施主池上宗仲・清原氏女の名が刻まれていた。造立銘によると、七回忌を前にした正応元年(一二八八)六月八日、六老僧の日持と侍従公日浄を大願主に、日行・日妙が結縁して、供養を遂げたことが分かる。」
<三山進編『図説 日本の仏教 第四巻 鎌倉仏教』昭和63年、新潮社、224頁>

2068れん:2005/02/19(土) 19:44:46
蓮師の誕生日の文献上の初見は蓮師に仮託されて制作された「法華本門宗要抄」で「貞応元年壬午二月十六日午ノ刻二生ル」とあります。この書には「我弟子中若申請本門寺之戒壇之勅欲建戒壇須築富士山」とあり富士戒壇論も見えます。興師の弟子代師は延文五年(一三六0)六月三十日付の「法華宗要集事」で本書を偽書と断定してます。代師の記述により一三六0年には本書が成立していたことが分かります。本書の出自については、代師は「自下野国出之」と述べており、三宝寺本「録外御書」の本書写本奥書に「抑此御書者真間花蔵坊小浜長源寺日源於下野国富士門流石田法華堂以御自筆正本書写之。日源示日中如斯」とあり、この石田法華堂は現在不明ですが、京都要法寺日辰師「祖師伝」に「同国(下野国)有里名石田。師(日尊師)於石田立寺」とあり、日尊師建立の寺です。このことから考えると法華本門宗要抄は延文五年(一三六0)までに下野国の日尊門流によって作成されたものと判断され、本書に記された蓮師の生誕日も、当時の尊門の伝承を反映したものと見るべきでしょうね。

2069犀角独歩:2005/02/19(土) 23:44:21

れんさん、ご教示有り難うございます。
そうでしたね。既にご提示くださっておりました。
どうも『御伝土代』が門下最古の伝記という固定観念が抜けません。
2月16日誕生説が1360年までに成立しているも驚きながら、さらに富士事壇説が、それも要山系で、この時点で成立していることにも、驚きます。

2070パンナコッタ:2005/02/21(月) 23:22:01
>2067 彰往考来さん、ありがとうございます。

自分のいっていたのは、小湊誕生寺の「お腹文」といわれているやつでした。
願文の日付は、貞治2年(1363)8月29日。蓮祖の生誕は貞応元年小湊でとあります。
れんさんの指摘をふまえると、滅後80年には貞応元年説がかなり広まっていたと見られますが。

2071十級:2005/02/27(日) 15:03:09
はじめまして、初めて書き込みさせていただきます。
質問の前に少しだけ自己紹介をさせてください。僕は学会員で、学会のカテゴリーで言えば活動家の男子部ということになります。僕が学会または日蓮正宗で習ってきたことに初めて疑問をもったのは、幾年か前のことでした。それは、霊山浄土という語句を検索していた時に、この語句が娑婆即寂光の意義をもって使われている御書には、真蹟が存在しないことに気づいた時でした。
さて、非常に初歩的な疑問なのですが、御書を読んでいると、諸天の加護、また神の守りという言葉にあたります。大聖人の檀那等は、祈りが叶うというのは、自力で成し遂げるという意味で捉えていたのでしょうか。それとも諸天の加護によって成し遂げる、もしくは諸天に叶えてもらう、という捉え方をしていたのでしょうか。どなたか、ご教示いただければ幸いです。

2072犀角独歩:2005/02/28(月) 09:23:10

十級さん、はじめまして。

> 娑婆即寂光

というより、蓮師の霊山浄土観は、晩年の変遷ながら、娑婆即寂光という成句化される思想を蓮師は持っていたのでしょうか。釈尊の娑婆の一仏、法華は此土有遠深厚という認識ではないでしょうか。寿量品から言えば、「常住此説法」が至極であろうと窺えます。

> 檀那等…自力で成し遂げる…諸天に叶えてもらう

両方ではないでしょうか。二者択一をすることではないと思います。

2073退転学会員:2005/03/01(火) 01:49:21
現証ってあると思いますか?大聖人はなんと言ってますか?罰や功徳ってあると思いますか?皆様の考えをお聞かせ下さい。
私は無いと思いたいです。日蓮仏法いや、仏法や、宗教そのものの善悪の報いすら存在しないでほしいと思う事すらあります。何故なら私は悪人だからです。でも、心の底でそれらを信じているから悪人になりきれないのです。勘違いしないで頂きたいのは、犯罪者になりたいわけではないのです。罰さえなければ思いのままに人生を生きたいです。倫理的にどうかはともかく。

2074顕正居士:2005/03/01(火) 03:35:38
>罰や功徳ってあると思いますか?

あると思っている人にはあるが、無いと思っている人にはありません。

「我心自空罪福無主 我が心おのづから空なれば罪福も主無し」(観普賢経)

2075パンナコッタ:2005/03/01(火) 23:29:27
罰ってのは、ウンコだ!
         by 戸田二代会長

2076愚鈍凡夫:2005/03/01(火) 23:36:41

功徳ってのは妄想だ!!

 by 隣の酔っぱらいのオッサン

「おまいら、書き込む板間違っとらへんか」(by 管理人)

2077パンナコッタ:2005/03/01(火) 23:49:20
〉2075
「罰ってのは当たるもんじゃない、出るものだ。ウンコに当たるっていうか? そうは言わないだろう。
自分自身から出て来るものだ。」と、佐渡御書の講義の後の質問会で発言していましたよ。(^o^)

あまりにも功徳=ご利益が身に染み付いちゃって、ちょっとでも良くないことが起きると『罰』と考えて
しまっていますね。そのことで悩んでいる退転学会員さん、そんなことで苦悩してはいけません。

2078愚鈍凡夫:2005/03/02(水) 00:17:47

「罰がなんやちゅうねん。わしら善良な貧乏人に罰を食らわす神さんや仏さんなんか、いらんちゅうねん。わしら、食べていけたらそれでええねん。それだけを神さんや仏さんに祈ってるねん。生きてることが嬉しい、それが信心とちゃうのん」(by 近所の酔っぱらいのオッサン)

聖教新聞にもない、優れた生活指導でした。 (^◇^;)

2079パンナコッタ:2005/03/02(水) 15:13:06
管理人さん、ごめんなさい <(_ _)>

戸田さんの発言は、昭和31年2月21日 大阪中之島中央公会堂での実際の発言です。
輪廻転生思想のもとでの発言なので正しいかどうかは別として、『罰』に畏怖している人
に対して元気づける名調子だと思ったのですが。

ちょっと前に、独歩さんが狐ツキの話を載せていましたね。 信じていない人は狐ツキにならない、と。
普賢経に載っていましたか。 顕正居士さん、勉強になりました。

この信仰が元気・勇気付けをするものから変化して、退転学会員さんの中では癌細胞化してしまってますね。
これは早く、切除なりの治療が必要と思われますよ。

2080犀角独歩:2005/03/03(木) 01:48:45

2079 パンナコッタさん

> 戸田さんの発言は、昭和31年2月21日

これは何に載っているものでしょうか。
わたしの手元に『戸田城聖先生 講演集 下』(発行:創価学会/昭和36年10月12日初版)がありますが、該当の講演は載っていません。

前後を示せば昭和31年2月19日大阪・堺支部決起大会/大阪市中之島中央公会堂、同28日本部幹部会/豊島公会堂となっています。

2081犀角独歩:2005/03/03(木) 02:00:28

まあ、余談ですが、先に示した戸田指導の内、

2月19日には「私は創価学会の会長でありますけれども、よく私のことを『仏さまだ』『生き仏さま』『神さま』『教主さまだ』とか言うが、いつ私がそんな片輪(ママ)になったという」(P186)

同28日には「今の猊下は10年間、猊下になられてから一度も丑寅勤行をおこたられたことのない、すっかり仏さまになっておられる方であります」(P191)
「何が不思議だ不思議だといっても、御肉牙ほど不思議なものはない。日蓮正宗は、日蓮正宗、日蓮正宗といばる理由が、いっぺんでわかります。今から700年前に抜いた歯の肉が盛り上がってきて、お歯を包んでいるということは、どういうことです。こんな不思議なことは、世界じゅうのどこにもない」(P192)

などという文章が載っています。

2082単己:2005/03/03(木) 06:08:54
パンナコッタさん、犀角独歩さん。
戸田さんの講演会を録音したレコードがあります。そのレコードを何枚か、20年位前にテープにダビングさせてもらったものですが、その時に書き込んだ見出しに「昭和31年2月21日(火曜日)大阪中之島中央公会堂「一般講義」とあります。
この時の発言だと思われますが、今テープを再生できる機器がありません。思い出したこの機会に、テープデッキを友人にでも借りてMP3ファイルにでもして保存しようと思います。

2083犀角独歩:2005/03/03(木) 08:26:38

単己さん:

そうすると、わたしのもっている指導集は抜粋であったということですね。もしくは、御書講義を別収録したと言うことだったのですね。

有り難うございました。

2084パンナコッタ:2005/03/03(木) 13:45:44
単己さん、ありがとうございます。まったくそのとおりです。

レコード集「創価学会々長 戸田城聖先生の教え」のNO、18 からの引用です。
背面の説明文によると、昭和31年2月7日(火)午後6時半から、1時間15分の前半と
昭和31年2月21日(火)午後6時半から、1時間の後半の講演となっています。
日付は 昭和36年6月 刊行とあります。

MP3ファイルに、いいですね。ウチもプレーヤーがないので音の悪いテープでしか、たまに聞けないので。
内容的には、「曼陀羅の主題が末広がりなのは?」とか「本因妙抄とは?」とか「万年救護と一閻浮提の違い」
等、興味深い質問が多々あり、それに答えています。(正しいかどうかは別として)

ウチには22枚ほどレコードがありますので聞きたい人がいれば、考えてもいいですよ。

2085管理者:2005/03/03(木) 14:19:23

単己さん

>思い出したこの機会に、テープデッキを友人にでも借りてMP3ファイルにでもして保存しようと思います。

パンナコッタさん

>ウチには22枚ほどレコードがありますので聞きたい人がいれば、考えてもいいですよ。

是非お願いしたいと思います。聞きたい人は沢山いると思います。また、非常に貴重な歴史的レコードであることは間違い有りません。労作業ですが、宜しくお願い致します。

もし、著作権の問題がクリヤー出来るなら、当掲示板にリンクを張って、誰でも聞けるように出来ると良いですね。或いは、リンク集は容量が大分余裕が有りますので、そこに資料としてアップする事も出来ると思います。

2086犀角独歩:2005/03/03(木) 20:11:30

2085 管理者さん、これは時期尚早です。
著作権問題をクリアしていません。

2087管理者:2005/03/03(木) 21:10:44

>著作権問題をクリアしていません。

アッそうですね。死亡から50年だから、2008年4月2日以降なら良い訳ですよね。あと3年少しはダメな訳ですね・・・残念。了解しました。当面、諦めます。お騒がせしました(汗)

2088犀角独歩:2005/03/03(木) 22:14:25

2087 管理者さん、けれど、別段、個人的な授受、また、原典を明示した引用はまったく著作権に抵触しません。個人的であれば、なにも問題はないかと存じます。

2089管理者:2005/03/03(木) 22:47:30

犀角独歩さん

版権についてお聞きします。

著作権は著者が死亡してから50年の期間、その権利を保護するとなっています。同様、レコードの版権は同じく50年間となっていますが、これは最初に発売されたときから起算するのでしょうか。又、創価学会版の御書全集であれば、幾つも版を重ねていますが、版権50年の起算はどの時点になるのでしょうか。

2090パンナコッタ:2005/03/03(木) 22:53:01

確かにネット上で公開するとなると、著作権絡みの問題がありますね。レコードの製作は
ビクター音産で版権が残っているかもしれませんし、単純に信者が布教目的の為に使った
としても問題が出るかもしれませんね。

しかし、あくまで個人としてなら、聞きたい人に聞かせるのは問題はないのですから。
管理者さんが、かなりノリ気だったので巧い方法があれば協力は惜しみません。しかし、個人の
貸し借りをやった場合、数が多くなったりすると、とても対応は出来なくなるので何か良い提案
はないでしょうか?

2091単己:2005/03/03(木) 22:53:04
>2083 犀角独歩さん。さっそくテープデッキを借りて確認してみました。
佐渡御書の『又云く「及び余の種種の人間の苦報現世に受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云』というところで戸田さんが、「よく罰が当たると言う事をよく言いいますがね、あれは止めてもらいたいですね。罰なんか当たるもんじゃないですから。ウンコは出るもんで…」と話が続きます。
会場が沸いて調子付いたのか何度も連発しています。(笑)この時も、コップ酒ちびちびヤリながら話していたんですかね。

著作権のことですが、例えば『レコード集「創価学会々長 戸田城聖先生の教え」』からと原典明示であればネットに置いてもいいのでしょうか?それとも原典明示の上、個人的授受ということでしょうか?

>2084 パンナコッタさん。

>レコード集「創価学会々長 戸田城聖先生の教え」のNO、18 からの引用です。
そうそう、確かにそういう題だったなと思い出しました。それで、もしかしてと思ったらやっぱり出てました。Yahoo!オークション 。22枚なんですね。これで全部なんでしょうか。自分が以前ダビングしたレコードは18枚分みたいです。それでも、いい加減に放って置いたのでちゃんと再生出来るか不安です。


>2085 管理者さん

パンナコッタさんの話が出て、テープをMP3にしておけばあとあと保存できるし、必要な人が資料として役立てることもできるかなと思いました。あと、3年はダメなんですね。テープは劣化していくので出来るだけ早めにデジタルデータに変換しておきます。

2092パンナコッタ:2005/03/03(木) 23:27:19

単己さん、「ウチにあるのが22枚」というだけで数枚抜け落ちているのもあるようです。
他に池田会長就任時のソノシートとか、正本堂落慶記念の音声記録ソノシートなんてのもあります。

実際に戸田さんの講義を聴いた母の話を聞くと、「御書は全然見てないの。それで頭をふーらふーらと、
動かして原文拝読を聞いているの」とのことなので、御書講義などは何杯かひっかけてやっていたのでしょう。
だから正宗寺院の落成法要のあいさつなどは聞いていても、ちっとも面白くありません。(^。^)
やはり御書講義をすっ飛ばしてやる質問会に、戸田さんの真骨頂があると聞いていて思われます。

2093犀角独歩:2005/03/04(金) 11:37:41

2089 管理者さん:

> 版権

わたしは、最初の発刊からと認識していました。
学会の御書全集なんかの場合、しかし、微妙ですね。

平成初頭の例の分断劇の折、石山は御書全集が学会版権である理由で使用を取りやめた経緯がありましたね。けれど、この版権も当然、初版から起算になろうかと思います。ただし、途中で、改訂・増補などの変更があったときは、今度はそちらはそこからの起算となるのではないでしょうか。

2094犀角独歩:2005/03/04(金) 11:47:45

2091 単己さん

> 罰なんか当たるもんじゃないですから。ウンコは出るもんで…

ご確認、有り難うございます。
まあ、豪放磊落というかなんというか、思わず笑うほかない話だと。

> 著作権…原典明示であればネットに置いてもいいのでしょうか?

文章の抜粋などであれば、仰るような形で、かつ原文の儘であれば、侵害に当たらないと思います。
ただし、音楽、録音となると、ちょっと、判断は分かれると思います。

けれど、現時点でも、たとえば、池田さんとか、阿部さんのスピーチは部分的にネットにアップされているわけで、これを著作権侵害の側面から裁判沙汰にした例は、あまり聞いたことがありません。
安全な方法は、テープ起こしした文を出典明示でアップということになるのではないでしょうか。

少し前ですが、戸田さん、浅井さん、松本被告の録音を聞き比べる会に参加しましたが、これはなかなか面白いものでした。

たしかに文にしてしまうと、話口調が伝わらないわけで、仰るようなアップは、個人的にはたしかに聞いてみたい・設置してほしいという思いはありますが。いろいろハードルは高いようにも思います。

2095犀角独歩:2005/03/04(金) 14:35:03

2093の自己レスです。

ちょっと、ぼっとして、おかしなことを書きました。

版権という言葉が皆さんのご投稿で著作権などを含む広い意味で使われていたので、流れに沿って書いてしまいましたが、出版権、著作権については、ちゃんと分類して考えたほうがよいのでしょうね。

2096祝8郎:2005/03/05(土) 01:46:41
著作権については、著作者つまり作者の死後、50年を保護期間として、遺族など著作権継承者に著作権があるとされます。著作権は財産権ですので、保護期間中に著作権継承者が死亡しても、他の遺族がいる場合にはそちらに著作権は継承されることになります。
ただし数年前に改正された著作権法では、保護期間が75年に延長されたと思います。これは改正施行後の著作物に適用されることになったと思います。
版権つまり出版権ですが、これは著作者と出版社の間で契約書を交わし法的拘束力が発生しますが、契約書を交わさず口頭によるものや、印税および部数ていどのとりきめを口頭でするていどの場合も少なくありません。
書面による契約書が無い場合、一般的に版権は著作物の最終発行年月日から五年から十年の間に増刷がなされないと自然消滅したものと考えられます。
著作者もしくは著作権継承者が他の出版社から再版したいと考えたときには、著作者はいちおう出版社に対してその旨伝えたほうが後々面倒なことにならないでしょう。

2097おしえてクン:2005/03/07(月) 06:21:21
「天台本覚思想について」のスレで、どなたが書いていていた、御義口伝の
以下の文、どう言う意味なんでしょう、できたら現代語訳で、どなたか
説明してもらえませんか?

「六老僧の所望に依って老期たりと雖も、日蓮が本意の一端護義せしめ畢んぬ。
是併ら私に最要文を集めて読誦せしむる所なり。然る間法華諸要の文書き付け
畢んぬ。此の意は或は文を陰して義を取り、或は義を隠して文を取り
或は文義共に顕はし、或は文義共に隠して講談するなり。
委しくは註法華経を拝見すべし。然りと雖も文義甚深の間
愚昧に及ぶべからざるなり。広宣流布の要法、豈此の註法華経に過ぎんや。」

2098顕正居士:2005/03/07(月) 09:42:40
「此意 或陰文取義 或陰義取文 或文義共顕 或文義共陰 講談也」

の意味ですか。文は法華経、義は法華文句と法華文句記でしょう。或いは両方引用し、或いは片方
引用し、或いは両方引用せず講談したという意味です。

2099新発意:2005/03/07(月) 11:39:45
横レス失礼します。
おしえてクンさんの疑問が解決してからお願いします。

法華経の訓を読んでいての疑問に思った事について質問させていただきます。

自我偈の最初の偈文の「自我得仏来」の訓読が「我仏を得てより来」となっております。”自”の文字が訓読では消えるのはなぜでしょうか。「自ら我仏を得てより来」とか「我自ずから仏を得てより来」とはならないのでしょうか。
いくつかの法華経の訓読を見てみましたが、全て”自”が省かれておりました。本覚門、始覚門の読み方にこだわっての事ではありません。正しい訓読をおしえてください。

2100犀角独歩:2005/03/07(月) 11:56:54

> 2097

顕正居士さんのご教示とは、やや違う側面から。

> 六老僧の所望…

この文章はまったく嘘です。
同書の末文には「弘安元年戌寅正月一日」とありますが、「六老僧」の決定は弘安5年9月のことであって、弘安元年段階で決まっていませんでした。また、その時点では「六老僧」と言わず、「本弟子六人」と記される、この二重の科から、この文は証憑に堪えません。

> 委しくは註法華経を拝見すべし。然りと雖も文義甚深の間愚昧に及ぶべからざるなり。広宣流布の要法、豈此の註法華経に過ぎんや

御義口伝は『就註法華経口伝』、すなわち「『註法華経』に就(つ)いての口伝」であって、不勉強な者にはその意味を理解することはできないといい、重要な点は、広宣流布の要法は『註法華経』であるという点です。御義口伝<註法華経という関係であるということです。
石山系の御書全集などで御義口伝ばかりを載せて、註法華経を省くというのは、まったくその原意に悖る行為と言うことになるでしょう。

2101犀角独歩:2005/03/07(月) 12:02:29

> 2099

この質問は基本的な漢文の基礎を欠いたことに拠ります。

> 「我仏を得てより来」

とは、「我、仏を得て自(よ)り来」ということで、自は文頭に来る場合の多くは、「ヨり」と読みます。それを「自ら」と現代語から即断するところに誤りがあります。

2102顕正居士:2005/03/07(月) 13:14:19
『注法華経』とは?

『注法華経』とは日蓮が所持の法華経の余白に法華文句などの経文を書き込んだものです。現存し
写真版が発行されています。書き込み部分をテキストに編集したのが下記です。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/ibun_tyu.htm

例の六老の跋文は御義口伝が注法華経を下敷きにした講義であったように述べています。しかし
御義口伝における法華文句の引用は注法華経のと全く違います。そして16世紀半ばの天台の学匠
尊舜の『法華文句略大綱私見聞』の引用とほぼ同じです。したがって『法華文句略大綱私見聞』を
下敷きに日蓮法華的アレンジを施したのが御義口伝であり、成立は16世紀終わりと推定できます。

六老の跋文を書いた人は注法華経を見ておらず、御義口伝がその講義だと思い込んだのでしょう。
したがって跋文は御義口伝が成立した後に付加されたものと断定できます。

2103パンナコッタ:2005/03/07(月) 13:23:17
横レス失礼します。
弘安元年戌寅正月一日 という日付があると思いでしょうか? 弘安の改元は
2月29日。 都合の悪いことに『弘安改元ノ事』〈真筆あり〉なんてのが
残っていたりしていて、日付が書いてあり「疫病の故か」と、蓮祖は申しております。

2104パンナコッタ:2005/03/07(月) 13:31:40

御義が出たのでついでに質問。
執行海秀師が指摘していた、徐氏の科註法華経からの引用とはどの辺のことでしょうか?

2105犀角独歩:2005/03/07(月) 13:38:08

2102 顕正居士さん:

正確な補完を下さり、まことに有り難うございました。


2103 パンナコッタさん:

弘安改元事 「弘安元年[太歳戌寅]、建治四年二月二十九日改元。疫病の故か」

ああ、たしかに。なるほど。

2106顕正居士:2005/03/07(月) 14:22:10
>徐氏の科註

「宝塔品下廿箇大事」の第十です。「科註四云〜」とあります。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049035&amp;VOL_NUM=00001&amp;KOMA=49&amp;ITYPE=0

2107パンナコッタ:2005/03/07(月) 14:57:52

〉2106 顕正居士さん、ありがとうございました。

2108パンナコッタ:2005/03/07(月) 15:11:13

〉2106 学会版の御書では、『補註の四に云く・・』となっていたので、
気が付かなかった。 顕正居士さん、本当にありがとうございました。

2109おしえてクン:2005/03/08(火) 21:49:42
顕正居士さん、 犀角独歩さん遅ればせながらありがとうございます。
それで、御書ですが、御書のなかには、なんとか御返事とか、蓮祖の
手紙が、御書になっていますが、手紙って、その人あてだけであって
手紙の文中が、全ての万民に通用するって皆さん思いますか?

2110犀角独歩:2005/03/09(水) 09:49:41

2109 おしえてクンさん:

この問題意識は、わたしは馴染めます。かつて、同様のことを考えていましたし、いまもってそのスタンスは変わりません。

わたしの場合、この疑問は蓮師の御筆漫荼羅に向いていました。授与者を特定して、1舗ずつ図示した個人宛の漫荼羅が他の人の信仰対象足り得るのかという疑問です。たぶん、この疑問は興師も懐いたのであろうと想像しています。その根拠は興師自身が、蓮師滅後、御筆漫荼羅に意義を書き足しているからです。

消息文が「全ての万民に通用」するか・否かという二者択一で考えることではないように思います。つまり、通用するところもあれば、通用しないこともあるというのが、わたしなりの結論です。

2111おしえてクン:2005/03/09(水) 22:14:57
犀角独歩 さん今晩は、通用するところもあれば、しないところもある
そうですよね、その人の置かれた状況で、書かれてるんですから
話は変わりますが、創価学会、宗門と完全分離するのに、三沢抄を
持ち出してくるんじゃないかと思います、あれには、新しい法が現れる
って書いてあるんですよね、本尊はやはり、最初に書かれた、佐渡始顕本尊
が、日蓮上人の本位じゃないかと思うのですが、日興上人が正当なら、なんで
佐渡始顕本尊を持っていかなかったか疑問です。

2112顕正居士:2005/03/10(木) 01:16:26
日蓮の文章の大半は特定の檀越に宛てた書簡ですから、遺文から日蓮の思想を読み取る場合、
五大部などの「著述」といえるものを基本とし、一二の書簡のみに見える表現については慎重に
考慮する必要があります。「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし」(上野殿御返事)の
類いです。法華経は滅後末法のための経典であるというのが日蓮の思想ですから、ここは特殊
な文脈であらわれた表現でしょう。法華経に拠るならば女人は西方往生を頼むべきだろうか、と
いう質問に切れたのであろうと以前に此処に書きました。末法に入ったならば西方往生について
は法華経にどう書いてあろうが、ということです。

*「若如來滅後後五百歳中。若有女人。聞是經典如説修行。於此命終。即往安樂世界阿彌陀佛
大菩薩眾圍繞住處。生蓮華中寶座之上」(薬王菩薩本事品)。法華経は女人往生の経典とされる。

2113犀角独歩:2005/03/10(木) 14:38:07

2111 おしえてクンさん:

> 三沢抄…新しい法が現れる

とは、以下の文を指すのでしょうか。

―― 法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候し已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ。此国の国主我代をもたもつ(持)べくば、真言師等にも召合せ給はんずらむ。爾時まことの大事をば申べし。弟子等にもなひなひ(内内)申ならば、ひらう(披露)してかれら(彼等)しり(知)なんず。さらばよもあわ(合)じとをもひて各各にも申ざりしなり。而に去る文永八年九月十二日の夜、たつ(龍)の口にて頸をはね(刎)られんとせし時よりのち(後)ふびんなり、我につきたりし者どもに、まこと(真)の事をいわ(言)ざりけるとをも(思)て、さど(佐渡)の国より弟子どもに内内申す法門あり。此は仏より後迦葉、阿難、龍樹、天親、天台、妙楽、伝教、義真等の大論師、大人師は、知てしかも御心の中に秘せさせ給し。口より外には出し給はず。其故は仏制して云く「我滅後末法に入らずば此の大法いうべからず」とありしゆへなり。――

> 佐渡始顕本尊が、日蓮上人の本位

そのようにお考えですか。
わたしはこの点は意見を異にします。蓮師図示の中で、「本位」、もしくは「最高」のいって、漫荼羅に序列があるとは考えておりません。

2114顕正居士:2005/03/10(木) 18:26:11
妙法曼荼羅についてはわたしも独歩さんと同様に考えます。曼荼羅の様相がみな違うということは
要するに決まった形はない意味です。「再治」、「未再治」という分類をして弘安年間の曼荼羅の方
が完成しているとした学者もおられます。しかし高祖一代弘教の「正宗分」とみなされる『本尊抄』を
述作した後に妙法曼荼羅を図顕されたのですから、文永年間のは未完成というのは変でしょう。

けれども宗派ごとに「宗定本尊」は決める必要があるから、「始顕」とか「臨滅度時」とか納得し易い
のを選ぶわけです。印刷術が発達し、当代の上人があらわしたのより日蓮聖人真蹟の写真版の方
が有難いという人も増えるでしょうし。佐渡始顕を採用したのは智学居士ですがこちらは身延山に
あったのとは違うとおもいます。写しではなく実物を佐渡で入手したが、智応居士が偽筆と断定した。
身延山にあったのも昔は佐渡にあったのではないでしょうか。

特別な曼荼羅という発想は富士派以外には余りないでしょう。多くの宗派では曼荼羅でも一尊四士
でもよいのですし。富士派は分張の由来から諸山の抗争が活発であり、かつ曼荼羅主義であり、又
事戒壇の思想があるのではやくから宗定曼荼羅の必要が生じたのでしょう。曼荼羅と一尊四士とは
現実には檀徒の仏間の御本尊、寺院本堂の御本尊という次元の異なりがありますから曼荼羅主義
だと寺院は板曼荼羅に傾きます。板である以上、日蓮聖人の真蹟曼荼羅そのものではありません。
しかし一尊四士でよいなら板曼荼羅でもよいでしょう。題経寺の板曼荼羅の流行りはじめは寛永から
で堅樹日寛師が活躍したのと近い頃です。でも曼荼羅主義の板曼荼羅は考えると少し変な気もする
ので、有名になると「高祖自刻」の伝説がいわれる、もっと有名になるといささか事が面倒になります。
板曼荼羅に真も偽もないはずなのだが、「高祖自刻」というのが疑といえば疑、たわいない伝説だし、
多くの宗派にあることで済まず、分派抗争は鬱陶しい、「旧信徒」には大変迷惑なことでありましょう。

2115犀角独歩:2005/03/10(木) 23:20:37

> 2114

当掲示板に投稿をはじめて、わたしに「同様」の考えというお言葉を頂戴したのは、たぶん、はじめてのことです。
喜びとして、日記につけさせていただきます。

2116ファリオン:2005/04/03(日) 05:07:25
前から疑問に思っていたので、質問致します。

創価学会で「財務」と言えば、世間で言う「寄付」に該当するものです。
なぜか、創価学会関係のサイト・掲示板では、当たり前の様に「財務=寄付」として、定着しています。

通常なら「財政上の事務」と言う意味ですが、何故、創価学会では寄付(或いは喜捨・布施)に対して、隠語同様に使っているのでしょうか。
ご存知の通り、隠語は特定集団内のみに通用する言葉であり、大抵は部外者から内容を秘匿するために用います。
いつ頃から使い出したのか、また、その経緯などをお教え頂ければと存じます。

2117犀角独歩:2005/04/03(日) 11:46:52

> 2116

財務ですか。この起源はかなり初期まで遡れるのではないでしょうか。
戸田さんの時代のことです。(戦前にあったかどうかは知りません)
当時、一定の収入があり、生活が安定している人に限り、「財務部員」となることを許すというものでした。財務部員になると「鶴丸バッジ」が授与されました。(いま顕正会会員が付けているのは、そのバッジを模倣したものでしょう)
たしか、バッジにはランクがあり、金、銀、銅の3種ではなかったでしょうか。このランクはしかし、財務の納入額の差であったか、本部幹部その他の役職を含む上下差であったかは記憶が定かではありません。どなたか補完してくだされば、有り難く存じます。

昭和28年入会の町工場を営む父は、いつもは油まみれの作業着で働いているのに、学会、本山に向かうとき、ダークスーツをびしっと着込み、胸に鈍く光鶴丸バッジを付けて出掛けていったものでした。

正直な思い出を記すと、このバッジは学会員のステータスのようなもので、いわば憧れの対象でした。「いつか、あのバッジを付けられるようになりたい」、幼心にそんなことを思っていたのを覚えています。ところが、自分が長じるころには廃止になり、それなのに、「せっかく建てた」正本堂に反対するビラを寺の門前なんかで配る「連中」が、自分たちの専売特許のように、胸に付けていたことを、腹立たしく思ったものでした。

さらに余計なことを記せば、わたしが中学校のころ、「高等部長」になると「部長バッジ」というものがあり、これまた、憧れの対象。朝晩の勤行を欠かさず、1日1時間の唱題をし、会合も皆勤で、教学試験にも合格して、「いざ、部長に」という高校2年。高等部長は中心グループ長と名称が変更になり、バッジも廃止。「残念!」という思い出があります。

…、こうして書いてみると、わたし(と家族)は、典型的な創価学会員であったことを、改めて自己認識します(自嘲)

しかし、そうですね。「財務」は隠語というか、公然とした特殊用語。なるほどというご指摘ですね。

しかしながら、財務は「財政に関する事務」なのに寄付そのものを指す理由は、拠出する各人は、その事務に直説携わるのと同じという精神からではなかったのかと想像されます。

いずれにしても、当初の財務と、正本堂以降のそれとは天地雲泥の差があります。
少なくとも、戸田さんは財務を出せば、功徳・御利益があるとは言わなかったからです。

2118ファリオン:2005/04/03(日) 18:33:31
犀角独歩さん

有難う御座います。よく解りました。
元々は本来の使い方であったのが、そこに携わる人たちの代名詞になった訳ですね。
そして、ステータスでもあるのだから、言葉としても特別な意味を帯びる。納得です。

>正本堂以降のそれとは天地雲泥の差
本当はこんな見方は間違いかもしれませんが、池田氏が、宗教法人を隠れ蓑に金を漁っていると、勘繰りたくなります。

それにしても、独歩さんの体験談を読んで、当時の学会に違和感を感じました。
どこか「信仰」からずれていて、何かの会社のように思えます。
現在でも、何かを競わせて学会員を煽っているような指導があるそうで、上層部が変わらない限り、世間で言うカルト的な部分はなくならないのでしょうね、

2119犀角独歩:2005/04/03(日) 18:51:51

2118 ファリオンさん:

> 体験談を読んで、当時の学会に違和感

それはそうでしょう、書いている本人がご感想そのものの感を懐くわけですから(笑)

こんな分析をする学者がいるかどうか知りませんが、戦後復興の歩調に載って発展した創価学会はまた、その高度成長社会の‘時代の子’であり、それは近代史の「現世利益」を書き換えたものであったのでしょう。

「創価学会組織で成功する人間は、どんな会社営業でもこなせるようになるよ」とは、学会時代に先輩から言われた言葉です。要は、「拡張営業」のノウハウの多くはダブっており、そのモチベーションをつけるやり方は、自己啓発セミナーなどとダブっていると言うことでしょうね。

では、それが宗教といえるか? という問いかけが成り立つわけですが、それが戦後日本型宗教の典型であり、その宗教団体が政府与党にまで食い込んだと言うことは、結局のところ、多数決の論理から言えば、戦後日本人が最も支持した宗教形態であったということになりますか。しかし、こんな政治評論家が言うような得票=民意という考えは「糞食らえ」というのが、わたしの気分です。

2120パンナコッタ:2005/04/03(日) 19:13:21

〉横レス失礼します。
学会の場合、会館付を『任務』と言い、おそらく「作務」からの引用と思われます。
つまり教団に奉仕することも、布施する事も「つとめ」として捉えさせようとの
考えからだと思われます。

2121ファリオン:2005/04/03(日) 21:05:41
>>2119
犀角独歩さん

>書いている本人が──
失礼しました。言わずもがな、ですね。

>「拡張営業」のノウハウ
そうですね。だから、似たような団体がぞろぞろ出て来る訳ですね。
とどのつまりが、宗教の皮を被った集金団体……

以前、ちょっとだけ「アムウェイ」の集会に顔を出したことが有りますが、新興宗教そのものでした。
まるっきり違う世界だったので、引きまくっていました。他人を勧誘しなくて良かったと、今更ながら思っています。

求心力の有る人がいると、僅かな切っ掛けで盲信してしまうのは、日本人の特性なのでは、と思っています。
だからこそ、芳しくない噂が有ってもその集団に入ってしまうのでしょうね。
自分の中にも、そういった部分が有ると思うと、ぞっとします。

>>2120
パンナコッタさん

「任務」は友人の学会員から聞いたことが有ります。
その時は聞き流していましたが、今考えると、得体の知れない違和感を感じます。

2122犀角独歩:2005/04/03(日) 22:02:18

パンナコッタさん、ちょっと、おひさしぶり。
先だっては、有り難うございました。

「任務」。そうですね、、これまた、言われてみれば、不思議な言葉ですね。
そうやって次々と考えていくと、あそこの役割名というのも、一般社会からすれば、違和感がありますね。今はどんな呼び名か知りませんが、牙城会、錦城会(字、忘れました。合ってますか)、会館を守る会、白蓮グループとか、信一会、水滸会…。ご学友グループ…、これは違いますか(笑)

わたしが特に嫌いな‘特殊用語’は「新聞啓蒙」です。

2123吉祥仙人:2005/04/04(月) 05:13:25
 犀角独歩さんへ

 私の理解では、「財務部員」以外から総本山整備のために募られたのが
「特別財務」。
 そして今や、普通の家庭が参加する。年1回の「財務」

 ということではないでしょうか。

 「財務」という言葉が今も使われているのは、犀角独歩さんの時代の人達が、
「福運を積んで、『いつかはクラウン』にも乗って、『いつかは財務部員』」という
「伝統」かもしれません。

 「新聞啓蒙」も役所が「啓蒙」から「啓発」に改めたのに習って「新聞啓発活動」に
改めるべきではあるでしょう。

2124犀角独歩:2005/04/04(月) 09:19:02

> 2123

これは吉祥仙人さんの個人的な勘違いでしょう。

「総本山整備」ということですから、これは離間以前の話ですね。
学会席、35年のわたしのほうが正確に記述できます。

「財務」という言葉は、あくまで学会運営に当てる資金調達を指す言葉です。
これに対して、石山・坊さんに拠出するものは「供養」と言い分けていました。

では、財務と特別財務の差ですが、前者は毎年決まって行う恒例のもの、後者は特別に新しい会館を建てるとかなんとかという名目で前者とは別にさらに徴収するものを言ったわけです。

なお、「供養」語は「正宗寺院・僧侶(まあ、彼らの口上では「御本尊様」に限って使う)」語であるのに、それを学会(殊に池田さん)が受けられると言ったのが『仏教史観を語る』という講演で、これが大問題になって、第一次紛争の火種になっていったわけです。

仏教史観を語る
http://nonakashin.hp.infoseek.co.jp/shikan.htm

石山の反論と学会の答え
http://nonakashin.hp.infoseek.co.jp/kuyou.htm

今では、離間したわけですから、当然、学会内部の認識としては、財務=供養ということが、公然と正当化されているのでしょう。

しかし、戸田さん以降、財務と供養を厳格に分けるところに信仰を見た人々にとって、これは隔世の感があることを「歴史」として知っていただきたいと思います。

2125犀角独歩:2005/04/04(月) 09:59:22
> 「新聞啓蒙」も役所が「啓蒙」から「啓発」

たしかに、最近の役所は「啓発」と言い換えています。しかし、だから、学会が、同じように言い換えればよいと言うことではないでしょう。

「啓蒙」は啓蒙思想、主義を転用したものでしょう。

けいもう-しそう―さう 【啓蒙思想】

18世紀フランスを中心としてヨーロッパ全域に広がった革新的思想。キリスト教会などの伝統的権威から解放された理性の使用を公衆に促し、人類の普遍的進歩を図った。フランスではデカルト的体系への批判を伴った。フランスのボルテール・百科全書派、イギリスのロック・ヒュームが代表。啓蒙主義。(三省堂提供「大辞林 第二版」)

しかし、新聞の販売というのは、宗教法人に許される33の収益事業の一つです。
となれば、一般の新聞社が使用する「拡販」というのがいちばん適当な言葉ではないでしょうか。

2126ファリオン:2005/04/04(月) 18:38:01
皆さん、いろいろとご教示下さり、有難う御座います。
これで、単なる勘繰りを一つ改めることが出来ました。

聖教新聞──学会側と世間とで、位置付けが曖昧になっているから、話がこじれるのではないでしょうか。
機関紙であるなら、趣旨や主張を外部に伝えるのも役割の一つだと思うのですが、実際は学会員に対する内容のみです。
一方、世間では機関紙とは思っていないようで、他の新聞と同じ扱いですから、理解するどころか反発を起こしています。
何とも、不幸なことだと思います。

2127:2005/04/05(火) 05:16:59
はじめまして。
気になったんですが、チョンガーさん、独歩さん、犀角独歩さんは
もしかして同一人物ですか?

2128問答迷人:2005/04/05(火) 06:25:24

理さん

>チョンガーさん、独歩さん、犀角独歩さんはもしかして同一人物ですか?

チョンガーさんは札幌の人、犀角独歩さんは東京の人、全くの別人です。犀角独歩さんは、当初『独歩』のハンドルで書かれてました。


参考までにチョンガーさんのサイトはここです。

http://shunpo.ld.infoseek.co.jp/chuui.htm

2129宝浄:2005/04/05(火) 13:50:23
ここは多重HNを禁止しているわけじゃないから「だれがだれ」みたいな犯人探しあてっこはやめようよ。
よけいですが(犀角)独歩さんのHPは以下。執行海秀論文なんかが消えてしまったのは残念。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/

2130犀角独歩:2005/04/05(火) 17:36:19

わたしはチョンガーさんではありません。同氏のHPが「独立独歩」であることをわたしは知らず、いまのペンネームで参加してしまい、本日に至っております。いまさらながらですが、チョンガーさんには、陳謝申し上げるものです。

なお、わたしも宝浄さん…どこかで聞いたことのある名前です…のご意見に賛成です。また、執行海秀師資料に関しては、近く再アップする予定です。また、HPアドレスも変更になっています。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/

2131犀角独歩:2005/04/07(木) 04:22:57

自己レスになってしまいますが、池田さん講演『仏教史観を語る』、誰が原稿を書いたのか知りませんが、よい出来でした。ここら辺に現役さんからの、何のレスもないのは寂しいですね(笑)

2132えばら:2005/04/07(木) 20:11:03
独歩さんと西川さんは同一人物ですか。

2133犀角独歩:2005/04/07(木) 23:51:14

> 2132

再三なので、申し上げます。
わたしはこの手の質問には今後、応じません。今回を最後とします。

西川さんは女性、わたしは男。西川さんと電話その他で話されたこちらの常連さんは多くいます。その常連さんで、わたしと実際にお会いしている人もいらっしゃります。
つまり、別人です。

西川さんはネット書店の店長で、わたしはそこの書き手という関係です。
こんなことまで、書かなくてもよいのですが…、ついでに書けば、わたしの携帯はボーダーフォンで掲示板の閲覧・投稿が困難です。
そんなことから、掲示板の内容を送信してもらい、そのレスを返信して、代理で投稿していただくことはあります。
しかし、これはわたしの文章です。以上です。

2134犀角独歩:2005/04/08(金) 10:22:26

藤川さん、おはようございます。

ちょっと、レクチャーしていただきたいのです。
本日、明け方から、小笠原慈聞著『法華経の玄理一念三千の法門』を読みました。このなかで「本尊機関説」(P97)なる造語が出てきて興味深かったのです。しかし、これは置いて、この機関説と言えば、想起されるのは「天皇機関説」となりますが、この辺と石山の近代教学というのは、どんな具合に理解されることになるのでしょうか。ご賢察をお伺いしたいのですが、よろしくお願いいたします。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/18322301.html

2135藤川一郎:2005/04/08(金) 12:02:20
本尊機関説?もとい天皇機関説ですか?
この小笠原師の「本尊機関説」の内容に興味が湧きますが、それはさておき・・・
立憲君主制の元での、天皇機関説というのはかなり正論に近かったようです。
昭和天皇は天皇機関説を最も支持されたようです。
しかしながら、昭和天皇が天皇機関説支持を表明されなかったのは、「機関」である御身が不用意に発言してはならないからという、ジレンマの中にいたためのようです。つまり天皇機関説支持を表明することが天皇機関説に反するという御考えからだそうです。

さて、この天皇機関説を美濃部達吉氏が発表したのは、1912年(大正元年)の『憲法講話』に遡るのですが、その当時は、天皇主権説の上杉慎吉氏との間に論争が生じただけであり、未だ社会的な批判にはなっておりません。
これが社会的に問題になるのは、1935年(昭和10年)まで待たねばなりません。
昭和10年といえば226事件の前年ですが、既に満州事変の勃発した後であります。
つまり国策として天皇機関説が非難されたのであり、真摯な学者の論争にはなっておりません。
さて、大正元年に発表された天皇機関説と吉野作造氏の民本主義等が相まって、当宗における、日柱上人追落し事件(大正14年)に影響があったことはあると思われますが正確には分かりません。しかしながらもともと、民主主義や機関説等という考え自体が絶対のものではありませんし、それをもって理論的武装をするのは、下克上的発想とも考えられます。
そんな中、反日柱上人の御僧侶に対し、唯受一人の日柱上人に味方したのが、東京の在家信徒たちですが、この方たちすら、御法主利用の心が全くなかったかは疑問です。
当時の文書を読んでも、御法主の衣を利用して自分らの正義を主張した観が無いとは言い切れません。
現今の創価学会が、御法主を権威主義と非難しますが、その権威を隠れ蓑に利用していたのは外ならぬ創価学会だったのです。権威を持ち上げるだけ持ち上げておいて、それを利用価値が無くなったから捨て去っただけです。はしごの上に人を乗せて於いて、はしごを外したようなものです。

2136藤川一郎:2005/04/08(金) 12:03:31
さて、戻りまして天皇機関説について私論を申し上げますと、やはり余り正論とは言えないようです。そもそも天皇陛下の地位を法で定めることに無理があるのです。
そもそも天皇という地位は法で定められたものではありません。大日本国憲法前の大宝律令ですら、実は全く明示されておりません。
天皇という地位が有史以来初めて名文されるのは「禁中並びに公家諸法度」なのであります。しかも家臣である徳川家が主君である天子(天皇)を法で縛るという、明らかなる下克上法なのです。天皇という御地位を歴史的連続性から法で定めることは元来無理なのです。戦前の憲法を「天皇主権の欽定憲法」等と評しますが、その中で天皇の地位を定めている時点で、既に天皇を縛るものであるのです。戦後の象徴天皇制ですら、その上に乗っかっているものに過ぎません。昭和天皇が天皇機関説を支持されたのは、その帝王学の教育の賜に過ぎません。幼き日より「立憲君主」の御教育を受けられていたから、憲法を越える天皇など夢のまた夢だったようです。

最後に隆慶一郎の小説「影武者徳川家康」に面白い下りがありました。
道々の者(天皇以外主を持たない階層)出身の主人公大御所家康の影武者、世羅田二郎三郎元信に、現将軍として秀忠が「禁中並びに公家諸法度」の裁可を願ってくる場面です。
その時の主人公の言葉がまさに日本の天皇観を語っているので面白いで、最後に記しておきます。
「そのほう、気は確かか?そのほうは知らんのだ!古来より天子を縛る法が定められたことは無いのだぞ!法とて全て天子より出ずるのだ。法と天子は同格だ。このような下克上の法度が認められる分けなかろう!」
結局歴史は、この法を定めてしまうわけですから、「禁中並びに公家諸法度」「大日本帝国国憲法」「日本国憲法」は全て、不連続の連続の範疇にあると捉えても間違いは無いでしょう。
ちなみに、この中に出てくる「道々の者」等の末裔が今の被差別部落の方たちなのですが、その方々が根本理念を忘れて「天皇制打破」を言うのは間違っているという考えが、水平社の中でも持ち上がっており、「灘本・師岡論争」として話題になっております。

2137犀角独歩:2005/04/08(金) 14:32:14

藤川さん、長文のご教示有り難うございました。
参考になりました。

> 法と天子は同格だ

うーむ。これはまさに「人法一箇」。「戒壇の大御本尊と御法主上人猊下は不二の尊体」と、脈絡を同じにしているように見えます。

> 下克上法

やや脱線しますが、天皇も民衆も法の下に平等というのは、憲法の読み違えでしょうね。

2138問答迷人:2005/04/08(金) 14:43:30

確か現憲法では、基本的人権は天皇には認められていないのでは有りませんでしたか?

2139犀角独歩:2005/04/08(金) 15:33:40

問答さん、仰るとおりであろうかと存じます。
これは「創価学会が」ということかどうかわかりませんが、民主主義の下では、天皇も民衆も平等であるとわたしは学会で習った記憶があります。

2140えばら:2005/04/08(金) 17:53:36
独歩さん、すみませんでした。

2141問答迷人:2005/04/10(日) 20:51:26

「南無妙法蓮華経」と蓮師が説かれるとき、その意味は?

一 漢訳大乗経典の「妙法蓮華経」の一部八巻の経巻に帰命すること。
二 漢訳大乗経典の「妙法蓮華経」の経題たる「妙法蓮華経の五字」に帰命すること。
三 大乗仏教の「サダルマプンダリーカスートラ」と名付けられた教えに帰命すること。
四 漢訳大乗経典の「妙法蓮華経」の文底に秘沈された、蓮師の出世の本懐たる三大秘法惣在の本門戒壇の大御本尊(大石寺戒壇板本尊)に帰命すること。
五 蓮師が上行菩薩として虚空会に於いて釈尊より付属された要法たる「妙法蓮華経の五字」に帰命すること。
六 大宇宙の本源の法が妙法蓮華経であり、その大宇宙の本源の法に帰命すること。

まだまだ、色々と説明が考えられそうです。蓮師の本意は如何?

2142犀角独歩:2005/04/10(日) 21:29:31

一念三千の宝珠を裏むことも挙げられますね。
以前であれば、「因果倶時」と言ったでしょうが、これはどうでしょうか。

わたしは「六」はないと考えます。諸法の実相、すなわち、一心、一念の実相であるという認識であったと思います。

2143問答迷人:2005/04/10(日) 21:56:31

犀角独歩さん

四の可能性は、幾らかは否定しきれない、ということでしょうか。

>一念三千の宝珠を裏むことも挙げられますね。

妙法蓮華経の意味としては、そういうことになるかと思います。ただ、今、僕が疑問としているのは、南無妙法蓮華経というとき、それは、どこまでも「妙法蓮華経」に「南無」する、という意味以外は無いと思いますので、蓮師が無妙法蓮華経と言われる場合の「妙法蓮華経」とは一体何を指して「妙法蓮華経」とされたのであろうか、という疑問なのです。

そうすると、一は経文の書かれている通りの経巻信仰ですから、これが蓮師の大枠の捉え方なのでは無いかと思うわけです。二は、蓮師が遺文の各所に説かれるところですから、一を煎じ詰めたら二になるのだと思います。三は妙法蓮華経が羅什の漢訳本という事情を勘案すれば、当然の帰結で、蓮師もこのお考えで有ったろうと思います。五は真偽未決の三大秘法抄に説かれるところですが、本尊抄の文脈からすれば、蓮師の考えにそんなに外れることは無いのではないかと思います。六は創価学会が好んで用いる表現ですか、蓮師の本意に叶うかどうか、いささか疑問です。これではまるでバラモンの梵我一如の延長のように思います。

結局、突き詰めると、五、辺りが蓮師の本意なのでしょうか。

2144犀角独歩:2005/04/11(月) 08:42:12

2142は舌足らずでした。もちろん、四の考えは、彫刻本尊が後世の造立である以上、蓮師の考えであるはずはありません。

> 五、辺りが蓮師の本意

以前、問答さんと議論したところですが、五百塵点成道の釈尊は法華経を師として成仏したわけですね。法華梵本で読むと経典は永遠の過去からあったとなっているわけですが、天台以降は「妙法蓮華経」の五字となっていき、それが蓮師において徹底されるといった趣です。いずれにしても、法華経が師であり・仏は弟子の関係でした

わたしは釈尊上行を一体と見る解釈はまったく承伏しかねます。
しかし、本尊抄を読む限り、上行菩薩は釈尊己心の菩薩であり、三身所顕無始古仏という考えであったように見受けます。

ここで考えられるのは、釈尊を仏にした五字への信仰かどうかという点ですね。
わたしは蓮師の上行応誕論というのは、興師門下で醸造したものであったろうと考えます。何故ならば、自身上行菩薩の確信となれば、釈尊己心となりますから、すなわち、釈尊であるという宣言に他ならないことになるからです。ただし、このような信仰的な方向は、たとえば「釈尊己心の上行菩薩となろう」という目標設定としては可能かも知れません。

通常、一念三千は「生命の諸相」のように言われますが、教学的な構築はそうはなっていません。要は釈尊が五百塵点成道と菩薩道、娑婆世界説法を明らかにしたことで素材が出揃うという組み立ててであるわけです。つまり、一念三千は久遠釈尊なしでは成り立たない教義である点が、殊に現行の学会を含む石山門下では等閑にされています。
要は一念三千法門の成就は三妙合論される久遠釈尊という仏界を得ざれば成立しないわけで、信奉する側の教学的な姿勢は、その久遠釈尊の体内となる信仰にほかならないとわたしは観察します。

ここでポイントになるのは、自分自身が、五百塵点成道釈尊の弟子か否かという証明の取り方でしょう。艱難辛苦を堪え、法華経を滅後末法に弘通するということ自体が、此土有縁深厚の地涌菩薩の流類である証明という半ば脅迫観念的な心身行動規範が蓮師にはあったと見受けます。

わたしは、この蓮師の行動規範として謎に思うのは、冒頭に記した仏の師は法華経という点です。しかし、その後、その師仏有縁の衆生は恒に仏を師として成道するというの常軌となります。しかし、蓮師は、師を仏にした法を直ちに仰ぐという方法論を採ったわけです。ただし、このように記すと、恰も、蓮師が師仏成道の次第を自分と滅後の衆生に当てはめたのかという疑問は生じるわけですが、しかし、これはやや違うように思えます。

何故ならば、上述したとおり、一念三千は釈尊自体の久遠成道の次第をもって完結する以上、その師仏を飛び越えての法華信仰は一念三千足り得ないからです。

では、法華信仰とは、師仏信仰と。その師仏を仏にした経典信仰の二人三脚かという疑問を呈することは出来ようかと思います。わたしは、この考えはある程度は当たっていると思います。つまり、法華以前の経典を爾前権経と斥け、独り法華を採って、しかも釈尊を信仰するという構造です。

このような教学的な姿勢が本尊抄までに、本門本尊(久遠釈尊)と本門題目(妙法蓮華経)という形で結実したのではないのかと類推します。

その後、本門戒壇の勘案が足され「三つの法門」という形式を整えようとしながら、ついに戒壇義を十分に練ることなく、円寂したのであろうと思えます。その意味において、本門戒壇は言葉はあっても、その意義を蓮師自身十分には尽くさなかったと結論せざるを得ません。これを「ご本仏であるから一切の施化を畢えられはずであるから、説いていないわけがない」などというドグマに、わたしは付き合う気はありません。

以上のことから、蓮師の妙法蓮華経信仰は、自身地涌菩薩という「目標」に教学的根拠を久遠釈尊、決要付属要法(妙法蓮華経)の流布に邁進することで証明するという構造をもったものではなかったのかと思え、その意味から問答さんが2141に掲げられた一から六のなかでは、わたしも、類型的には五であろうと考えるものです。

2145問答迷人:2005/04/11(月) 11:48:54

犀角独歩さん

>法華信仰とは、師仏信仰と。その師仏を仏にした経典信仰の二人三脚
>蓮師の妙法蓮華経信仰は、自身地涌菩薩という「目標」に教学的根拠を久遠釈尊、決要付属要法(妙法蓮華経)の流布に邁進することで証明する

なるほど。判りやすいですね。また、逆に経典信仰を突き詰めると、少なくとも久遠釈尊との関係を避ける事が出来ない。そういう意味で確かに二重構造になつていますね。

ところで、久遠釈尊を師と仰ぐ事と、久遠釈尊を本尊とする事とは、蓮師にとって同義だったと考えられますか、この点、独歩さんのお考えを承りたく存じます。

2146犀角独歩:2005/04/11(月) 12:07:33

> 久遠釈尊を師…久遠釈尊を本尊…蓮師にとって同義

これはどうでしょうか。非常に難しいご質問ですね。

蓮師が感得した久遠釈尊は、法華を拠り所として、己心に観た本尊であったわけですね。観心本尊であり、その本尊を末法本尊とするところが本門本尊であり、付属の要法は本門題目ですね。では、師はとなると、この本尊を教える仁ということになるので、教理的に分ければ、法華経典の説法主と経でなければならないことになります。
厳格に分類すれば、久遠本仏と現在の師は分けるべきと思えます。もちろん久遠に立ち還った段階で異仏にあらずですが。しかしまた、釈尊の末法に生まれた蓮師は、在世に会わず、となれば、師と出来たものは法華経典=梵音声という考えがあったようにも思えます。

問答さんは、どのようにお考えになられますか。

2147問答迷人:2005/04/11(月) 13:59:18

難しいですね。言える事は、『漢訳大乗経典の「妙法蓮華経」の一部八巻の経巻に帰命する』という経巻信仰の帰結として、蓮祖は久遠釈尊を感得されたであろうこと。それが、「観心本尊」であり「本門の本尊」なのだと思います。そして、その経巻信仰の具体的実践が唱題であったこと。それは、付属の要法を直ちに唱える、という形であり、それが「本門の題目」なんだと思います。

順序から言うと、『本門の題目』(唱題の実践)→『本門の本尊』(本尊の感得) という流れなんだと思います。

そうすると、師はやはり『「妙法蓮華経」の一部八巻の経巻』を師とされたということになりましょうか。

2148犀角独歩:2005/04/11(月) 14:47:41

本尊と本師が両方出てくる文があります。本尊抄の

「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏…」

という余りに有名な一節です。ここでは本尊、本師、妙法蓮華経、釈迦牟尼仏が使い分けています。しかし、以前も記しましたが、わたしはこの読み下し、どうも違っていると思うわけです。まあ、それはいまは置きます。
この文章の構成は、大きく本尊を説明するのに、本師、妙法蓮華経、釈迦牟尼仏が使われている関係にあります。本師はイコール釈迦牟尼仏でしょう。さらに妙法蓮華経とその十界聖衆を挙げていきます。そして、妙法蓮華経は一念三千の珠を裏むともいうわけですね。

> 『「妙法蓮華経」の一部八巻の経巻』を師

ここはですね。妙法蓮華経の説法主=教主、が師と考えがちですが、ともかく、釈迦の在世ではなく、末法という時代設定は無仏の時代を意味します。となれば、やはり、おっしゃるように法華経典=師となるのでしょうか。このように考えると、無始に遡れる無限循環は論理的に整合性を持つことになるにはなりますが。

やや、話を進めますが、わたしは梵本直訳を読んで直ちに感じたのは、このテキストでは、法華経によって成仏という形を提供するわけですが、結局のところ、その成仏の要因は菩薩行に尽きているという点です。つまり、法華経とは、どのように菩薩行をするのかというテキストであるということです。ですから、蓮師のように常不軽菩薩、また、地涌菩薩という菩薩の有様を鑑み、その行動規範を心身に当てはめていく上で、妙法蓮華経があるという形は、いわば健全であると思えます。

しかし、密教的な要素というか、妙法蓮華経が宇宙の妙法だとか、リズムだとか、そんなことを言い出すと、いわば、一種のマントラ、もっと悪い言い方をすれば「おまじない」の様相を呈していきます。心身でやっていることなど、どうでもよく、悪いことをやろうが、何しようが「南無妙法蓮華経」と呪文を唱えると、これでオーケー、こんなイージーゴーイングに行き着いた末、ばっさりと忘れ落とされてきたのが菩薩行です。また、菩薩行は、単に教団拡張という折伏の異名と解釈し直されたとき、菩薩はただの勧誘員に成り下がり、菩薩行は潰えてしまったという流れがあると思えるのです。

本尊は何か、師は何か、という問題も重要ですが、その本尊、師を仰ぎ、いったい、何をするのかというほうが、よほど重要な課題であることが忘れ去られています。挙げ句の果てに禅民衆が題目を唱えて戒壇を建立すれば災害が収まり、みんな平和だなどという与太話で人を先導するというのは、まったく蓮師の元意に悖ると断言できます。その意味からも、本門戒壇は考証し直されなければならないとわたしには思えます。

2149犀角独歩:2005/04/11(月) 14:49:45

【2148の訂正】

誤)ここはですね。
正)ここですね。

誤)禅民衆
正)全民衆

2150問答迷人:2005/04/11(月) 16:18:03

>蓮師のように常不軽菩薩、また、地涌菩薩という菩薩の有様を鑑み、その行動規範を心身に当てはめていく上で、妙法蓮華経があるという形は、いわば健全であると思えます。

僕もそのように思います。蓮師の「法華経を身で読む」という実践、それは、具体的には不軽菩薩の跡を継ぐ振る舞いであり、地涌菩薩たらんとする振る舞いに他ならないと思います。それを「妙法蓮華経に帰命」=「南無妙法蓮華経」と端的に表現されたのだと思います。

2151問答迷人:2005/04/11(月) 18:09:25

つづきです。

>2148 本師、妙法蓮華経、釈迦牟尼仏が使われている関係にあります。本師はイコール釈迦牟尼仏でしょう。

つまり、蓮師にとって本師とは釈迦牟尼仏であり、蓮師の生きた時代は釈迦牟尼仏の滅後なるが故に、釈迦牟尼仏の梵音声たる『「妙法蓮華経」の一部八巻の経巻』を本師とされたと言う事ですね。そうすると、「本門の本尊」と「本師」は蓮師において、同義ではなかったことになりますね。

2152問答迷人:2005/04/11(月) 18:15:35

つづきです。

>2148その本尊、師を仰ぎ、いったい、何をするのか

菩薩行を法華経は勧めています。それでは蓮師の考え行った菩薩行とは具体的にはどういう内容だったのでしょうか。慈善事業、利他行、六波羅蜜・・・

2153犀角独歩:2005/04/11(月) 20:11:29

> 2152

やはり、この問題に至りますね。結局のところ、法華経の菩薩行のコンセプトは滅後弘教という一点に重点があります。仰るような慈善的な側面は見られないように思えます。

極端に神格された経典崇拝。その経典を奉持し、弘教のために身を擲ち、艱難辛苦、法難に遭うところに過去の滅罪があるといいます。しかも、その難を受けることは宿命(しゅくみょう=過去世の一生)であり、自分の罪による、その罪を受難で消し去るとき、仏となって長遠の寿命を得ることが出来る。これが法華経という物語で語られる偽らざる菩薩観ですね。

問答さんは、このような菩薩観と、法隆寺の玉虫厨子に描かれる捨身飼虎図と言った本生故事(ジャータカ)に見られる菩薩観と、どちらを優位とご覧になりますか。

2154犀角独歩:2005/04/11(月) 20:20:45

2153の補足

元)宿命(しゅくみょう=過去世の一生)であり
補)宿命(しゅくみょう=過去世の一生)の結果であり

2155愚鈍凡夫:2005/04/11(月) 20:44:55

横レス失礼します。
法華経って、今風にいえばマニュアル的要素が強いですよね。言葉を換えれば「成仏マニュアル」ってところでしょうか。そう意味で、法華経信奉っていうのは、「参考書を抱えた受験生」みたいな感じもしますね。マニュアル人間大量生産という意味では、今の時代と大して変わらない価値観かと思います。
歴史上の釈迦牟尼が聞いたら、そんなマニュアル書いた覚えはないし、そんなものは仏教じゃないと言うかも知れませんね。

「ふふふっ、大乗仏教は既にあんたの手を離れているんだよ。あんたはおとなしく、名義だけ貸していればいいのさ」(by 巨大カルト教団の名誉会長) (-.-)y-〜〜

「誰かのホンネが聞こえたような気がしました。空耳かなぁ〜ッ」(by 独り言)

2156一字三礼:2005/04/11(月) 22:08:50
横レス失礼します。

法華経は、あらゆる菩薩行を想定してそれを肯定しているように思います。

方便品に「十方世界の中には尚ほ二乗なし、何に況んや三あらんや。」を説き出す前振りとして、序品で、東方八千の仏国土を照らした時、そこに展開されている様々な声聞行や菩薩行は、一仏乗を表しているのではないでしょうか。
また、方便品とは、何も新しい教説を付加せずに、今迄あった四諦・十二因縁・三十七道品等のあらゆる修行と教説をそのまま実は一仏乗であった、と言ってしまう思い切った教えです。方便品の精神からは、およそ全ての仏教の菩薩行は、法華経の菩薩行と言えるでしょう。
現代で言う慈善事業的な意識が希薄であるのは、もとより仏教が、病や貧困等の苦しみを精神面から克服する事を目的としたものなので、むしろ当たり前のように思います。

2157問答迷人:2005/04/11(月) 22:11:47

>本生故事(ジャータカ)に見られる菩薩観と、どちらを優位

勿論、ジャータカの菩薩観が先行し、法華経の菩薩は、それらを集大成しようとした試みであろうと思います。

法華経にも、利他行、慈善無きにしも非ずです。観世音菩薩と妙音菩薩は、先行する菩薩観を法華の菩薩として統合しようとしたのだと思います。そういう意味では、法華の菩薩は本来は融通無碍、自由闊達な有様であったと思います。ところが、蓮師はこれら観世音菩薩や妙音菩薩に触れられた真蹟遺文はほとんど見当たらないのでは、と思います。偽書の疑いが高い真偽未決の御義口伝や、御講聞書において見られるに過ぎないと思います。

2158問答迷人:2005/04/11(月) 22:17:56

舌足らずでしたので、もう少し補足しますと、観世音菩薩は三十三身、妙音菩薩は三十四身を現じて衆生を済度むする、と説かれています。医者となって仏の教えを実践するもの、商人となって仏の教えを広めるもの・・・・等々、そこにはあらゆる慈善事業も包括していると思います。

2159犀角独歩:2005/04/11(月) 22:53:56

一字三礼さん
問答迷人さん

なるほど。法華経の菩薩観を弘教に限るというのは、やや狭隘な見方であるというご指摘と拝しました。わたしも考えを改めようと思います。

2160犀角独歩:2005/04/12(火) 08:06:39

問答さんのご指摘を承けて、種々勘案し直しました。

わたしは、法華経の創作者が仰るように、それまでの仏菩薩を統合し、そのあとを継承しようとしたとすれば、それは実に素晴らしいことであったと思うのです。
実際に、そのような認識に基づく、法華信奉者は、その後、数多輩出されたのかも知れません。

ただ、一点、押さえておきたいことは、それまでの菩薩運動と、法華創作者グループの性質の違いと云うことです。一字三礼さんが「精神面から克服する事を目的」と仰る点、わたしは同意します。同意といいましても、それが理に叶った菩薩の在り方ということではなくて、法華菩薩というのはそのような性質ではないのかという意味合いでです。

博物館などで、時折、展示される古代の菩薩像などを見ると、すぐさま気が付けるのは、その姿が在俗であるということです。それもかなり裕福な人々です。髪を綺麗に結い、豪華な布で作られた衣服をまとい、装飾品も身に付けています。貨幣・流通経済の発達によって生じた裕福な階層、それはたぶん一般庶民階級の、取り分けに商業を営む成功者達であったのでしょう。もちろん、支配階級も含まれると思います。これらの裕福な人々が自分たちの財産の一部を積極的に使い、慈善活動に従事していった。これが、たぶん、菩薩の原形であろうと言われています。そのなかには、薬・医療によって人々を救済する人もあったのでしょう。

一方、法華経を創作したグループは、アフガニスタン周辺の人々で、かなり小規模な集団であったのではないのかと言われています。また、それまでの仏教教団がシャキャムニの舎利の分骨を聖遺物としてきたのに対して、そのようなものにあやかれない信仰教団であったのではないのかと想像できます。たぶん、彼らは、その頃、西欧社会で急激に発達していく聖典信仰の影響を受けていたのではないのかとも想像されます。それまでの、聖遺物は、いま記したとおり、舎利であったり、それを祀る仏塔であったりしたわけですが、法華経創作グループはそのようなものにあやかれない代わりに経典を創作し、それこそが釈尊そのものであるという経典崇拝、経典を祀る経典塔崇拝を確実なものとしていきました。従来の仏教の様式とは違うために、ひどい迫害も受けたでしょう。さらに自分たちの正当性を誇張するために全身に香油を塗った挙げ句、火を付けたもの、肘を焼いて見せたもの等、その行動はかなり過激且つ狂信的な側面をもっていたのかも知れません。しかし、彼らはどのような迫害に遭ってもやり返すことも言い返すこともせず、ただひたすらに堪えて、それが宿命(過去世)で犯した自分の罪の消滅の方法であると信じ、この法華経典を流布していくことが真の菩薩行であるという、従来の財施的な側面から、法施的な側面の強調へ転換していったのではないでしょうか。この転換はしかし、この教団が小規模であり、それまでの菩薩活動を推進するような裕福な階層に属するわけではなく、救済に充てる潤沢な資金もない規模であったのではないのかとも想像できます。その言い訳と断じてしまえば、言い過ぎかも知れませんが、ともかく、彼らは、法華経典の流布こそ、真の菩薩道であるという新たな菩薩観を展開していったように思えます。

以上の素描は、要は、梵本直訳から看て取れる時代背景と、創作者集団の姿です。
わたしは、この素描が大きくは外れていないと思うのは、法華経はその創作地ではついに根付くことなく消えていったという史実からです。結局のところ、経典崇拝を熱心に薦められることより、実際の慈善援助(従来の菩薩活動)のほうが、人々にとって功利的であったからでしょう。

2161犀角独歩:2005/04/12(火) 08:06:59

―2160からつづく―

しかし、この法華経典が中国に渡り、漢訳されると事情は一変していきました。それは、中国において、孔子が生きた時代はほぼシャキャムニと一致するわけですが、賢人・聖人・その言説崇拝という土壌がありました。わたしは、これが法華の有様によくマッチしたのではないのかと思います。この影響はそのまま、日本に伝わり、定着していったのでしょう。また、法華漢訳以後、密教が成立し、現世利益を祈祷で成就するとい有、およそそれまでの仏道とは正確を異にする方法論と習合していきます。

ここでは八正道その他の仏道の有様は等閑とされて、神秘的な霊力に、絶対的な神仏にあやかることによって祈願を成就するというおよそ仏道からかけ離れた方法論が民衆の心をとらえていくことになりました。法華集団も、その影響の例外ではなかったのであろうと思えます。

このような、経緯のなかで、とらえられ、実践されてきた、法華の菩薩は、しかし、従来の菩薩活動を摂取・積極的に行ったのか、それとも弘法優先・祈願優先といった方向になっていったのか、わたしは残念ながら、後者の様ではなかったと思うのです。

ただし、以上、記したことは雑駁な素描に過ぎず、問答名人さん、また一字三礼さんをはじめ、皆さんには、また違った観察もお持ちのことと存じます。ご賢察を披瀝願い、さらに議論を深めたいと存じます。

2162ラキ:2005/04/12(火) 15:39:59
勤行について疑問があります。
日蓮大聖人の信徒団体により、勤行の仕方が違うのは何故なのでしょうか?

私が知ってる範囲では
1)大石寺や法華講は五座三座の勤行だと思いました。
2)創価学会では現在1座だけ?になり、また、ご観念文の部分が大分変更されているみたいです。
3)顕彰会では朝晩1座だけです。

学会の言い分では、時代に合わす為に(時間が多忙?)勤行を1座だけにしたと聞きました。
正式には五座三座が正しいのでしょうか?
(現在も大石寺、法華講では五座三座をしてるのでしょうか?)
ご観念文も時代と共に多少変化してると聞きました。
誰か、ご存知の方が居ましたら、日蓮大聖人の生きていた時代の勤行のあり方か、
勤行とご観念文の正式な仕方の御書の箇所か、文献など教えて頂けると助かります。

あと、お数珠の持ち方なのですが、右手に房が3個あるほうを持ちますけど、
左手に房2個あるほうを持つとき、半回転ひねりますが、右ひねりか左ひねりか、
どちらが正式な持ち方かわかりません。
お手までなければ、教えてください。
単純な疑問かも知れませんが、私には大切な疑問。悩みなので、ぜひお助け願いたく存じます。
お願いばかりで、申しわけありません。

2163愚鈍凡夫:2005/04/12(火) 15:51:43

法華経の際だった特徴は、経典信仰を繰り返し説いていることでしょうか。法華経自らが、法華経こそが経典の最高峰であると位置づけ、法華経を信じ広めることが仏道修行であると、高飛車なまでに決めつけていることでしょうか。
蓮祖は、法華経の中の寿量品に説かれる「五百塵点劫成道の教主釈尊」を抽出して「御本尊」と定められましたが、主眼は飽くまでも法華信仰に置かれていたように思います。

小生は、法華経に「此経」と出てくる度に、「此の経の何処」を指すんだろうと思ったものです。
法華経自らが法華経最第一と自賛する理由の根拠を法華経の文に求めたものですが、見つかりませんでした。

ところで、法華経の序品に次のような文があります。
「為諸菩薩説大乘經。名無量義。教菩薩法。佛所護念。佛説此經已。結跏趺坐。入於無量義處三昧。身心不動。(諸の菩薩の為に大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもう。仏此の経を説き已って、結跏趺坐し無量義処三昧に入って身心動したまわず。)」(妙法蓮華經序品第一)

恐らく、この文との整合性を持たせるために中国で「無量義経」が創作されたものと思いますが、実際に「佛説此經已」とは何経を指すのでしょうね。

2164犀角独歩:2005/04/12(火) 17:27:24

ラキさん、はじめまして。
先頃、戸田さんの『日蓮正宗方便品寿量品精解』という本を読み直していたら、当時の勤行観念が載っていました。当時は石山はもちろん、学会も、妙信講(顕正会の前身)も、みんなこの勤行観念であったのでしょう。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/18203465.html

蓮師の時代、勤行は方便品も長行(じょうごう)をやっていたというのは、以前もここで議論した話でした。

そもそも、数珠の形がいつの頃か、変わってしまいました。
何もかも変わったと言うことです。
何が「正しいか」というご質問ですが、「大聖人と同じ」というのであれば、みんな間違っているということになりますね。

「自分がいちばん正しい」と言われれば、「あ、そう。ご勝手に」という類の話です。

2165犀角独歩:2005/04/12(火) 17:37:20

> 2163 愚鈍凡夫さん:

善いところ、吐いていますね。これはたしかに『無量義経』を指すと、採るほか無いですね。

自分のブログの紹介で恐縮ですが、戸田さんの『獄中記』を読みましたが、「仏とは生命のことだぁ」と「悟った」時に『無量義経』を読んでいたという記述にはついにぶつかれませんでした。残念。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/18083354.html

2166問答迷人:2005/04/12(火) 18:44:01

慈善事業を行った仏者としてわが国で特に有名なのは行基菩薩でしょうね。

http://www.city.sakai.osaka.jp/arekore/person/person3.html

蓮師は行基菩薩については、『譬へば日本国の行基菩薩と鑒真和尚との法華経の義を知り給ひて弘通なかりしがごとし。』(神国王御書)と述べています。

2167愚鈍凡夫:2005/04/12(火) 18:51:58

犀角独歩さん、どうもです。
例の「人間革命第4巻・生命の庭」ですね。
小生が初めて、無量義経を読んだとき、徳行品の次の文に出会して、「おお〜ッ。これや、これや。こんだけで仏の正体が生命と分かる戸田先生はもの凄い人なんや」
と、「人間革命第4巻」の影響もあって、勝手に感動していました。 (┯_┯) ウルルルルル

「其身非有亦非無。非因非縁非自他。非方非圓非短長。非出非沒非生滅。非造非起非爲作。非坐非臥非行住。非動非轉非閑靜。非進非退非安危。非是非非非得失。非彼非此非去來。非青非黄非赤白。非紅非紫種種色(其の身は有に非ず亦無に非ず、因に非ず縁に非ず自他に非ず、方に非ず円に非ず短長に非ず、出に非ず没に非ず生滅に非ず、造に非ず起に非ず為作に非ず、坐に非ず臥に非ず行住に非ず、動に非ず転に非ず閑静に非ず、進に非ず退に非ず安危に非ず、是に非ず非に非ず得失に非ず、彼に非ず此に非ず去来に非ず、青に非ず黄に非ず赤白に非ず、紅に非ず紫種々の色に非ず。)」(無量義經徳行品第一)

ところが、無量義経説法品第二で次のような文と出会しました。
「仏言。善男子。是一法門。名為無量義。菩薩欲得修学。無量義者。応当観察。一切諸法。自本来今。性相空寂。無大無小。無生無滅。非住非動。不進不退。猶如虚空。無有二法。(仏の言わく、善男子、是の一の法門をば名けて無量義と為す。菩薩、無量義を修学することを得んと欲せば、応当に一切諸法は自ら本・来・今、性相空寂にして無大・無小・無生・無滅・非住・非動・不進・不退、猶お虚空の如く二法あることなしと観察すべし。)」(無量義經説法品第二)

「う〜ん? さっきのナゾナゾの答えって、これとちゃうんか。何でこれが「仏」やねん。何でこれが「生命」やねん」
と、思ったのですが、当時は「人間革命」の話をするときは、学会員ならば誰しもが遠い目をして(ほとんどイッてました)、「犯すべからず」の雰囲気だったので、そっと胸の奥に仕舞い込んでしまいました。 アセアセ( ̄_ ̄ i)タラー

2168パンナコッタ:2005/04/12(火) 19:34:36
お数珠の三つ房の形の違う一房は、カウンターですよ。
学会も以前は、右二房、左三房でしたよ。

2169顕正居士:2005/04/12(火) 20:43:44
佛説「此經」已

梵文は見ていませんが、WebにあるKern訳法華経を見るとa textです。
お釈迦さまの在世の説法に仮構するタテマエにちょっと反しますね。

Now at that time it was that the Lord surrounded以下。
http://www.sacred-texts.com/bud/lotus/lot01.htm

無量義経について今昔物語に面白い話があります。
「此ノ経、何ゾ必ズ法花経ノ序タルベキ」と疑う人がいたが、夢に神さまがあらわれ
「汝ヂ、若シ此ノ経ヲ信ゼズハ、当ニ其ノ頭・頸ヲ斬ルベシ」と脅迫されたという。

恵表比丘将来伝説は法華文句にあり、注法華経にも引用されています。

http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/konjaku/doc/kj07/kj07tx15.htm

2170パンナコッタ:2005/04/12(火) 22:07:04

ケルン訳だとカシミール系のネパール本ですよね。正法華経や妙法蓮華経は中央アジア本系
で差異がかなりあるのですが、ここの所はどうでしょうか?

2172犀角独歩:2005/04/13(水) 00:01:56

パンナコッタさん、この数珠の形は後天的なものなんですよ。
近代まで、通日蓮宗とその形は一緒だったんですが、いつの頃からか、二つ、三つになったわけです。

2173愚鈍凡夫:2005/04/13(水) 00:18:00

顕正居士さん、ご教示ありがとうございます。法華文句の下記の文のことですね。

「今謂此經是宋元嘉三年慧表比丘。於南海郡朝廷寺。遇曇摩耶舎受此本。還武當山。永明三年始傳於世。經既已来豈可送還天竺。光宅云。無量義以萬善同歸能成佛道。」(妙法蓮華經文句卷第二下)

鳩摩羅什が長安で法華経を漢訳したのが401年頃で、曇摩伽陀耶が無量義経を漢訳したとされるのが481年頃でしたか。今風に言えば、無量義経は仏教と道教のコラボレーションとかって奴ですかね。 (^_^;)

序品の同じ箇所を法華經と正法華經とで並べてみました。

「爲諸菩薩説大乘經。名無量義。教菩薩法。佛所護念。佛説此經已。結跏趺坐。入於無量義處三昧。身心不動。」(妙法蓮華經序品第一)

「講演菩薩方等大頌一切諸佛嚴淨之業。説斯經已昇于自然師子之床加趺而坐。三昧正受定意。名曰立無最頌。尋應所宜不見身貎不得心意。」(正法華經卷第一・光瑞品第一)

2174パンナコッタ:2005/04/13(水) 00:54:42
日興上人の数珠は左右二房でしたね。
在家の念珠は108珠で、日蓮系では変わりないと思いますが。

2175ラキ:2005/04/13(水) 01:56:56
皆様。はじめまして。
こんなに早く、たくさんの方から回答が頂けて、とても感激です。
なんとお礼申し上げてよいのか、回答をしていただいた皆様。
ありがとうございました。
参考資料のリンクまでしていただき、感激です。

ご観念文は、一昔?前までは一緒だったのにいつの頃からか、独自?変ってしまたのですね。
お数珠の房の数が変ってしまったのも、驚きです。
玉の数が108個は、煩悩の数を?あらわしてるのかと思い込んでしまってますが、間違っていたらごめんなさい(><)
難しい事は判りませんが、時代と共に少しずつ変ってる部分があるのですね。
日蓮聖人の時代の勤行。御観念文て、どんな形式だったのか興味が出てしまいました。(^^;
見てみたい。体験してみたいと思っても、文献とか作法を書いた書籍とか、
正確にどこかに残っているのでしょうか?・・・
皆様とても物知りで(勉強家と言った方が適切かも知れません。失礼な言い方になってしまったら、
無知な者の発言と、少しだけ、暖かく見守ってください。)私の無知。勉強不測の発言が・・・
わぁ〜頭が知恵熱出て混乱してます。(^^;
文書に纏まりがないですが、ここのHPを見てこれから、色々勉強していきたいと思います。

2176ラキ:2005/04/13(水) 02:09:50
追伸。
皆様に質問ばかりしてしまい、申しわけございません。m(__)m
ここのスレッドの最初から見て、勉強しなおします。
それでも判らない疑問があったら、また、質問させていただきます。
自分で調べる前に質問て、甘えすぎでした。
自分の浅はかさに自己嫌悪(><)

2177愚鈍凡夫:2005/04/13(水) 04:56:55

ラキさん、始めまして。
蓮祖は、勤行について門下の檀那に次のように御指南されています。

「方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし、」(「曾谷入道殿御返事」P1026)

また、未決書ではありますが、「月水御書」には次のように記されています。

「されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、又別に書き出してもあそばし候べく候、余の二十六品は身に影の随ひ玉に財の備わるが如し、寿量品方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり、薬王品提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども提婆品は方便品の枝葉薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候、されば常には此の方便品寿量品の二品をあそばし候て余の品をば時時御いとまのひまにあそばすべく候。」(「月水御書」学会版P1201)

ご参考までに。

2178愚鈍凡夫:2005/04/13(水) 05:17:48

訂正
> 「方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし、」(「曾谷入道殿御返事」P1026)

は、偽書でした。m(_ _;)m ゴメン!!
それに、「曾谷入道殿御返事」は学会版ではP1025です。

2179犀角独歩:2005/04/13(水) 09:28:32

2174で、また、パンナコッタさんがわかりきったことを書いてしまいました。
失礼しました。

2180ラキ:2005/04/13(水) 10:22:49
おはようございます。^^
少し気になり覗きに来たら、レスが付いていて感激です。
(気になると考え込んでしまい、もやもや〜て残ってしまうので、今日は朝からスッキリした気分で
過す事が出来ます。^^)

愚鈍凡夫さん。
御書指南されてる箇所まで調べて載せていただき、ありがとうございます。
一つ驚いたのですが、御書にも「偽書」が存在したなんて!
御書全集として出版されている書籍には、全部検証して間違いがないように、
編纂されている物と、勝手に思い込んでいました。
偽書。また信憑性が薄い物には、掲載されてないか、注意書きで指摘されていると、
これも、勝手に思い込んでました。(^^;
私の周りには、色々な日蓮聖人の信徒団体の方がいまして、偽書があることも一言も聞いたことがありませんでした。
(現学会に対しては、信用度は0です。学会員の方がいましたら、申し訳ございません。理由としては、言う事とする事の矛盾が納得できません。
とても身近な知り合いの方は、そのような矛盾した行為がないので、個人的には信用しておりますが、近所に住む学会の方は、矛盾だらけ。選挙。新聞勧誘等の時は一生懸命なのですが、
こちらの、疑問。質問に対しては、明確な答えが返ってこないばかりか、後日回答いたしますと言い、音信が途絶えて黙殺!これが宗教をしている方の態度、行動なのかとあきれてしまっております。
自覚ある行動。誠意ある行動が、その人の言ってる事の信憑性をますと、私は思っております。
あぁ〜また話が脱線してしまいました。(^^;)

御書購入を考えておりますが、お勧めというか、一番忠実に編纂されている御書などありましたら、
教えていただけないでしょうか?

2181愚鈍凡夫:2005/04/13(水) 11:00:59

ラキさん、どうもです。
とりあえず、ダウンロード版の御書を読んでから、書籍を購入を考えられたらどうでしょうか。下記のHPから無償でダウンロードできますので、それぞれ閲覧されることをお奨めします。それと、御書購入の際には犀角独歩さんに御相談されれば後悔はないと思います。

御書システム
http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/

文献資料
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm

日蓮大聖人御書全集目次
http://nakanihon.net/nb/gosyo/20.html

満月城 岡山
http://jmw.jp/kuga/

仏教経典と論書
http://www.kosaiji.org/download/hokke/index.htm

下記は、真蹟遺文の一覧表です。

日蓮聖人真蹟遺文
http://www.sattva.jp/data/g-list2.html

2182犀角独歩:2005/04/13(水) 11:09:51

うん? 愚鈍凡夫さん。

やや、難はありますが、サイトならば、わたしは以下を使っています。

日蓮宗 現代宗教研究所 文献資料 真跡遺文
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm

2183パンナコッタ:2005/04/13(水) 13:54:13

あれっ、変なこと書いちゃいました?

108念珠の小玉四つは四天王とか四菩薩、大玉二つは日月・釈迦・多寶
なんて言っていますが、これも後世のものでしょう。
珠の大きさによって尺(一般男性向け)、尺二、八寸(女性向け)など通称されて
います。
文殊儀軌経には最勝1008,上品108,中品54,下品27とあります。
ちなみに水晶玉で、数珠を揉む方はよく糸がぶち切れますね。(^o^)

2184顕正居士:2005/04/13(水) 15:28:55
梵本の種類
http://www.kosaiji.org/hokke/myohokke.htm
三訳の相違
http://www.kosaiji.org/hokke/translation.htm

「添品妙法蓮華經序」がいうように、什訳は(より古形の)亀茲語訳からの重訳であり、だから構成に
差異があるのでしょう。什訳はネパール本と文章はほぼ対応します。護訳は見た目は什訳とかなり
違いますが、翻訳の相違でしょう。

2185パンナコッタ:2005/04/13(水) 15:44:17
 
なるほど。顕正居士さん、ありがとうございます。

2186一字三礼:2005/04/13(水) 18:45:47

> 2161

法華経の成立は、紀元前50年から紀元後150年の間とされています。
この法華経一部二十七品の内容全体には一貫性はなく、各品によっても成立年代が違います(例えば、九分経であったり、十二部経であったり)一時期に一箇所で全体が成立したものとはとても考えられません。
例えば、序品から法師品までの一乗の教えを主張する集団と、観音品で超人的菩薩の神力による加護を奉ずる集団とは別系統の信仰集団でしょう。
法華経成立は、これら信仰系統を別にする集団によって奉じられてきた幾つもの教えが、霊山会という舞台を軸としてまとめられたと考えます。
これらの理由から、私は法華経の創作者達という表現に違和感を感じます。

内容についても法華経前半部で主張される一乗思想は、辺境の小規模集団の発想というよりは、都市部のグローバルな考え方ではないでしょうか。

法華経成立当時の仏教界の様相は、上座部と大衆部で激しい論争を繰り返しており、この2者に対して新興の大乗が新たな視点から論争に名乗りを挙げた時期でしょう。
この最中に”実は総ての教説は一乗のためだった”と宣言したのです。その意図は、根本分裂以来、分派と分裂を繰り返す仏教界に対して、大局から見た統一を試みたものと考えられます。

ところが実際に仏教諸派にその主張を納得させる作業は、困難を極めたであろう事は想像に難くありません。
例えば、十二因縁説のように一因に一果を固定的に当てはめる教説と、般若空観を主張する大乗中観派は相容れません。互いに矛盾した教説を抱えていてもそれを是としているのが二乗作仏の特徴でしょう。
仏教の教説は、歴史的には段階的に整足され(例えば、最初期には六正道だったものが八正道に、九因縁が十二因縁に等々)また、バラモン数理派等との論争を経て完成されてきた教説であるのに、法華経はそれを総てOK牧場!と言い切ってしまった。

法華経の説く布教に伴なう忍耐とは、他宗派のみならず、頭の固い同じ仏教圏からも受け入れられないであろう事を想定して強調されたのではないでしょうか。


大乗の菩薩について

アジャンターやエローラ等で見られる豪華な服飾品を付けた菩薩像は、大乗教団への出資者・パトロンではないでしょうか。インドで武士階級に続いて実力をつけたのはシルクロードで商隊貿易によって利を得た大商人達でした。その商人達の財力によって石窟寺院等が建立され、その出資者たる商人に敬意を表するために菩薩像として刻まれたのでしょう。
例えば、観音品の

「金・銀・瑠璃・シャコ・瑪瑙・珊瑚・琥珀・真珠等の宝を求めんがために大海に入らんに、仮使、黒風その船舫を吹きて羅刹鬼の国に漂わしめんに、その中に若し乃至一人ありて、観世音菩薩の名を称えば、この諸の人等は皆、羅刹の難を解脱することを得ん。」

「若し、三千大千国土に、中に満つる怨賊あらんに、一の商主有りて、諸の商人を将いて重宝をもたらして険しき路を経過せば、その中に一人、この唱言を作さん『諸の善男子よ、恐怖するを得ること勿れ。汝等よ、応当に一心に観世音菩薩の名号を称うべし。この菩薩は能く無畏を以って衆生に施したもう。汝等よ、若し名を称うれば、この怨賊より当に解脱することを得べし』と。」

この観音信仰は、商隊貿易を行うパトロン達の安全の願いに答えるかたちで成立したのではないでしょうか。


慈善事業について

仏教では、生・老・病・死等の人に必ず訪れることがらを一括して”苦”と認識します。それを四諦の順に観察して解脱することを目指します。

医師や薬、施設等によって病を癒しても、また別の病が襲ってくるであろうし、治療方法の無い病気もあるでしょう。そうこうしている内に今度は老いが迫ってきます。リハビリや食事、健康管理を徹底したところで人は必ず死ぬ。その為に仏教では一切の執着を捨てて(諦めて)四苦八苦から解脱する方法を提示するのでしょう。

仏教の教えは言わば「根治療法」です。それに対して慈善事業というのは「対処療法」と言えるのでしょうか。

一切の苦しみからの解脱を主張する仏教で、慈善活動・慈善援助が菩薩の本来の活動であるとは考えられません。仏教においては、慈善活動は副次的に行うものとなるでしょう。

慈善活動を最前面に立てるとすれば、それは仏教が本来の面目を完全に失った時ではないでしょうか。

2187顕正居士:2005/04/13(水) 20:58:10
そもそも大乗教団というものがインドには存在しなかったとわたしは考えます。
最近『インドの僧院生活』という本が出版されました(内容は未読です)が、
http://www.shunjusha.co.jp/book/11/11202.html

別に「ショッキングな学説」ではありません。7世紀に入竺した義浄は『南海寄帰内法伝』に
こう述べています。

其四部之中。大乘小乘區分不定。北天南海之郡。純是小乘。神州赤縣之郷。
意存大教。自餘諸處大小雜行。考其致也。則律撿不殊。齊制五篇通修四諦。
若禮菩薩讀大乘經。名之為大。不行斯事號之為小。

其れ四部の中に、大乘と小乘と區分定まらず。北天南海の郡は純(もは)ら是れ小乘、
神州赤縣の郷は、意(こころ)大教に存す。自餘の諸處には大小雜り行はる。其の致れるを
考ふるに。則ち律撿殊ならず、齊しく五篇を制し通じて四諦を修す。若し菩薩を禮し
大乘經を讀まば、名づけて之を大と為し、斯の事行はれずんば之を號して小と為すのみ。

*四部 大衆部、上座部、説一切有部、正量部をいう
*神州赤縣 中国のこと
http://www.cbeta.org/result/normal/T54/2125_001.htm

勝呂信静師も『日蓮思想の根本問題』(教育新潮社、1965年)にこの文章を引いて
漢訳仏教に伝統的な誤解を指摘していました。

2188一字三礼:2005/04/13(水) 21:33:13

顕正居士さん

”特定の経典を奉ずる特定の僧団”なるものはインドでは存在しなかったということでしょうか。
また、龍樹にしても世親にしても、まあ偽書も多数ありますが、著作の注釈書が多岐に亘っているのはその為でしょうか。

しかし、そうなると大乗経典の初期の伝承経路や経典成立時の編纂過程がまったく推測出来なくなってしまいます。

伝教大師以前の日本仏教の黎明期の東大寺での六宗兼学のかたちの方が、インド仏教精神に近いのかもしれませんね。

2189犀角独歩:2005/04/13(水) 23:39:38

2186 一字三礼さん:

ご丁重なレス、有り難うございます。

まず、全体の感想を率直に申し上げると、法華経成立を論じているのに、漢訳に引っ張られていると思った次第です。法華経の成立、これはあくまで梵本、インド地域での話ですよね。

> 序品から法師品までの一乗の教え

法華一乗思想は、たしか坂本師も指摘していたと思いますが、羅什の意訳であり、原本にはこのように誇張されたものがないというのが法華研究一般で言われることではないでしょうか。

> …超人的菩薩の神力

これが先とは別の成立であるというのは別段、異論はありません。
「西アジアにおける母神ナナイア」が原形であるといわれますね。

> 法華経成立…信仰系統を別にする集団…幾つもの教え…霊山会という舞台を軸としてまとめられたと考えます…法華経の創作者達…表現に違和感

ここで仰ることはわたしにはよくわかりません。「複数の信仰系統で」というのは、そうであると思いますが、そこで行われたのも「創作」ではないのでしょうか。
また、法華経は他の経典と特に異なっているのは、経典文中に「法華経典」を意味する語意が含まれていることですね。仮に複数の創作者によってされたとしても、経典名を文中に織り込むという一貫性がどこで生じたのか重要な問題であろうと思います。また「霊山会という舞台を軸としてまとめられ」ていくことも、元の原形をもってしたとすれば、これまた創作のうちではないでしょうか。
27章と言われる法華経は、実際は30章以上あったことも知られていますね。
複数の集団でそれぞれ創作されたとして、それを「創作者達」というのが、何が問題なのでしょうか。

> 一乗思想…辺境の小規模集団…都市部のグローバルな考え方

わたしはどこかに「辺境の」と記しましたでしょうか?
仮に都市部にあっても、その集団が小さければ小規模集団ということになりませんか?

> 法華経成立当時の仏教界の様相…上座部と大衆部で激しい論争

たとえば具体的に、どのようなことでしょうか。

> 新興の大乗が新たな視点から論争に名乗りを挙げた時期

いつ頃、どこででしょうか。

> ”実は総ての教説は一乗のためだった”

これは漢訳的な発想ではないでしょうか。
こんな宣言をインド文献の、どのようなものに見いだせるのでしょうか。什の漢訳「無二亦無三」的なドグマは、梵本には見られません。

> 統一を試みた

「統一妙法」という漢訳的な発想に引っ張られていませんか
どのような史実があるのでしょうか。

> 法華経の説く布教に伴なう忍耐とは、他宗派

宗派という発想は、空海以降に属するのではないでしょうか。
インドで、こんな意識があったのでしょうか。

2190犀角独歩:2005/04/13(水) 23:40:24

―2189からつづく―

> 出資者たる商人に敬意を表するために菩薩像

これもまったく聞いたことのないことです。
では、仮にその菩薩像として刻まれたのがただのパトロンであるとしたら、では、実際の菩薩とはどのような人々を指すのでしょうか。
なお「出資者」ということですが、これはまさに布施(布き施す)という六波羅密の一つではないでしょうか。

> …観音信仰

先にも記しましたが、観音はナナイヤが仏教に習合し、菩薩という性質を与えられたものであると思います。独自に生み出されたものではないのではないでしょうか。

> 医師や薬…四苦八苦から解脱する方法を提示

それは初期シャキャムニ教団ではそうであったでしょうが、ここで論じているのは菩薩思想以降の仏教ですね。
薬王菩薩、薬王如来、薬師如来と言った仏菩薩は、法を薬に喩えた名前であるというわけでしょうか。実際のところ、薬草その他は当時の教団が民衆をとらえる大きな装置であったのではないでしょうか。殊に向精神作用のある薬物と仏教の関係は取り沙汰されています。

> 仏教の教えは言わば「根治療法」

インドにおける仏教教団がまったく医薬を使わなかったとすれば、そのように言えるでしょうが、実際は使われていたでしょう。

> 慈善事業というのは「対処療法」

この考えはわたしは違うと思います。
たとえば、阿育大王は単に仏教の流布に貢献したのではなく、それに伴い多くの慈善事業をしたからこそ、仏教と共にその名声をいまに伝えるのではないでしょうか。この事情は、「日蓮」という特例、また、座禅三昧で民衆に交わらず大乗と言って憚らない特例を除けば、先に問答さんが引用された行基の如く、不離一体の関係にあったというのが史実であるとわたしは観察します。

> 一切の苦しみからの解脱を主張する仏教

解脱を主張するのは、何も仏教に限りません。この言葉はシャキャムニ在世当時のシュリマーナ一般に使用されていた言葉でした。

> 慈善活動・慈善援助が菩薩の本来の活動であるとは考えられません。仏教においては、慈善活動は副次的に行うものとなるでしょう。

このような一字三礼のお考えは否定しませんが、ここで問題にされているのは、菩薩といわれた人々が、では、慈善活動(布施)をしなかったのかどうかという点です。
繰り返しますが、六波羅密の第一は布施であり、布施とは坊さんがお金をもらうことではなく、菩薩が衆生に布き施すことが原義です。この原義から、菩薩の重要な活動であったことが知られると申し上げているわけです。
それは副次的ではなく、菩薩がなすべき行の一つに数えられてきたということです。

> 慈善活動を最前面に立てる

誤解があるようですが、どこに最前面に立てるべきと言うのは、今日的な課題です。
わたしが記したことは、経典流布に主体が置かれてm慈善活動(布施)が等閑にしては、本来の菩薩精神から後退したことになるという意味です。

> 仏教が本来の面目を完全に失った時

わたしはまったくそうは思いません。法華経を信じれば病気も治る、貧苦からも救われる的な信仰勧誘より、いま病に苦しんでいる人に薬を与え、手を差し伸べ、飢えて死にかけている者に食を与え、凍え死ぬ者に衣与えることが先決です。病気で死にかけている人、飢え死にかけて人、凍え死にかけている人の、それらの一切の苦しみから、どうやって解脱ができるのでしょうか。解脱とは死んで苦しみを感じなくなることですか?
布施が第一に来る所以はそこにあるのではないでしょうか。禅定に臨むに足りる最低限の状態を約束せずして、解脱は有り得ません。

どうも、2186に記されることは、わたしはすんなりと納得できません。

2191顕正居士:2005/04/14(木) 02:27:38
一字三礼さん。

>”特定の経典を奉ずる特定の僧団”なるものはインドでは存在しなかったということでしょうか。

インドの仏教は釈尊滅後約100年に上座部と大衆部に根本分裂し、以後枝末分裂.を繰り返し、
約20部になった。部派はそれぞれに経、律、論の三蔵を伝え、「南伝大蔵経」はその一つです。
教団とか僧団をいうなら、三蔵の中の律が問題です。律は僧団生活の規定ですから一寺院に
幾種類も行われないはずですから。しかし義浄は主要な四部の律にも大差はないと述べます。
ですからインド仏教の部派は別個の教団とか僧団というものとは別の存在であったと考えます。

大乗経典を所依とする学派は中国で発生しましたが、これも教団とか僧団とかとは違います。
律は一緒ですから(南山律)。おっしゃるように日本でも南都の六宗はどれを専門に研究するか
という、単科大学みたいなものでしょう。対して比叡山は総合大学のようなものですが、最澄が
タテマエでは律を捨てたので、サンガの「互換性」がなくなりました。

>経典成立時の編纂過程がまったく推測出来なくなってしまいます。

これまでの大乗仏教成立史には経典の内容から想像をたくましくするだけで実証が伴わないの
があったとおもいます。教団というのは日本仏教やプロテスタントみたいに無数の宗派に分れて
いるとは限りません。カトリックみたいのもあります。
大乗経の「編纂過程」は全く闇につつまれています。しかし先に分派教団があって、自分に都合
のよい「偽書」を作ったのではないとはいえるでしょう。大乗経は史実とは無関係なことは一見
してわかりますから。

2192ラキ:2005/04/14(木) 03:34:36
皆様。おはようございます。
早起き〜とは言わないでくださいませ。
少し疲れて、早寝をしましたら、不思議な夢を見て目が覚め、PCの電源をいれたしだいです。
どうしてもHPを見たい気持ちの表れなのでしょうか?不思議な夢でした。

話がずれましたか、また、たくさんのリンク紹介とか、アドバイスを頂、
なんと、お礼申し上げていいのか、本当にありがとうございます。
愚鈍凡夫さんのアドバイスを参考にリンク先をお気に入り保存しましたので、
時間を作り、少しずつ読んで行きたいと思います。
たまたま、本屋さんを覗いたら、学会の御書だけおいてありました。
御書購入の際には犀角独歩さんに御相談させていただきます。
その折は、アドバイスをお願い致します。

お数珠の事で気になっていたので、知り合いに連絡を取り聞いたのですが、
お数珠は人の体を現しており、房が三つの方が手と頭で三つ。房が二つの方が足を意味してるとのことでした。
学会員の方の言葉なので、信憑性は?・・・とこちらで、ご質問させていただき、学会の捏造?か、本当の事か皆様のお声を聴きたく思い質問させていただきます。
もう一つ疑問点があるのですが、お数珠の持ち方で、右3房。左2房と教えて頂いたのですが、
お数珠を手に掛けるとき「反ひねりするのは何故?」と聞いても判らないといわれました。
意味もなく半ひねりをして、持つことはないのでは?と思ってるしだいです。
あ!もう一つあるのですが、お数珠を揉む動作なのですが、魔を切る動作と聞いたのですが(やはり学会の方です)
それって、本当の事なのでしょうか?・・・
私個人的には、たくさんの学会員が廻りにいまして(新聞・選挙の時だけの訪問とか連絡には、うんざりの状態です)私の疑問に答えてくれる方もいましたが、
大抵は、後日回答しますといい、音信がなくなるのがいつものパターンです。
だから、人間不信(学会員不信)に一時陥りましたが、ここで皆様のご親切なお答えを聞き、
学会1番。他2番的な発想ではなく、求める物には比較検討をして判断をできる環境。
われ1番との醜い発想ではなく、純粋に勉強したい人の為に優しいご指導。
アドバイス。ここのHPにいると、私の個人的思いですが、これが人を思いやる仏法の姿ではないかと、
思ってるしだいです。
他の宗教。宗派は別ですので。(^^;
つたない私ですが、これからもご指導。アドバイスを末永くお願い致します。m(__)m

2193愚鈍凡夫:2005/04/14(木) 05:16:30

ラキさん、おはようございます。
小生はここの掲示板の「いろもの」ですから、あまり役には立ちませんが、ここの掲示板には豊富な知識を持った方々が沢山いらっしゃいますから、過去ログを読んで分からないことがあったら、質問されればいいと思いますよ。

数珠は元々ヒンドゥー教の法具で、ジャパマーラー(japamala)と呼ばれていたそうです。ジャパとは神を心に描き、その名を呼ぶことで、マーラーとは、輪を意味します。従って、「ジャパマーラー」とは「念誦の輪」という意味になります。
ところが、ローマ人がこの不思議な輪の名の「ジャパ」を「ジャパー」と聞き間違えてしまったそうです。ジャパーとはサンスクリット語で「バラ」を意味する言葉で、ローマ人は「バラの輪」と解釈してしまいました。それから、ラテン語でロザリウム、ポルトガル語でロザリオ、英語でローザリーと呼ばれるようになったそうです。
日本キリスト教ではロザリオのことを「コンタス」または「コンタツ」と呼ぶこともあるそうですが、これは、日本に来たポルトガル宣教師が、ロザリオを「計算する(contas)道具」と説明したことに由来するそうです(数珠同様、本来祈りの数を数えるカウンターの役割をします)。
以上のことから、「ジャパマーラー」も「数珠」も「ロザリオ」も起源は同じと言うことになります。

参考資料

数珠(念珠)講座
http://www.miyagawa.com/syuha/5101.html

お数珠の持ち方
http://www2.117.ne.jp/~daishoji/q&amp;a2.html

念珠とは
http://www.juzz.net/nenju_towa.html

2194愚鈍凡夫:2005/04/14(木) 06:29:30

法華経教団(教派?)は、阿羅漢と辟支仏といったいわば二乗対菩薩の対立を乗り越え、三乗即一乗を提示することで、新たな仏教運動を促そうとしたのではないかと思いますが、当時の仏教界(大乗教)には受け入れられなかったようですね。経中に迫害について多くを語っていることからして、異端的扱いを受けていたのでしょうが、このことは、仏教各派の対立が激しかったことを意味するのだと思います。
法華経も菩薩の行法を説くわけですが、見方によっては釈迦牟尼仏に「信」を戻そうとした、いわゆる先祖返りの大乗教とも言えるのではないでしょうか。この辺に法華経の特徴があるように思います。ただ、法華経を編纂したグループは、実在の釈迦牟尼仏を知るわけもなく、偶像化された超人的な釈迦牟尼仏を信奉しているようですが。

鳩摩羅什訳の「法華経」で面白いと思うのは、天台大師の流れを汲む天台系仏教の理論が、鳩摩羅什が編み出した「十如是」によって基礎が固められていることからして、天台系仏教の教祖は鳩摩羅什であると言えそうに思うのですが、鳩摩羅什にしてみれば、してやったりってところでしょうか。
ところで、鳩摩羅什について不思議に思うことがあるのですが、

「為諸菩薩説大乘經。名無量義。教菩薩法。佛所護念。(諸の菩薩の為に大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもう。)」(妙法蓮華経序品第一)

「是時日月燈明佛。從三昧起。因妙光菩薩。説大乘經。名妙法蓮華。教菩薩法。佛所護念。(是の時に日月燈明仏、三昧より起って、妙光菩薩に因せて大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもう。)」(妙法蓮華経序品第一)

普通に考えれば、上の文は「無量義経」、下の文は「妙法蓮華経」を指しているように思えるのですが、現実には、「無量義経」と鳩摩羅什とは何の関係もありません。もし、鳩摩羅什が「大乗経の無量義」の意味を問われたとき、なんと答えるつもりだったのでしょうか。

2195犀角独歩:2005/04/14(木) 08:35:52

愚鈍凡夫さん開三顕一を「二乗対菩薩の対立を乗り越え、三乗即一乗」というのは、なかなか優れた解説ですね。まあ、しかし、仏教なんだから、中心は仏、当たり前の話ですが。それなのに、敢えてそんなことはさもたいそうに主張したか…、そこら辺に当時の宗教事情が垣間見える気がします。

法華経はお釈迦さんの在世を描いたという前提ですね。声聞はお釈迦さんの声を聞ける弟子、縁覚はその起源が明確ではないですが、文字面から類推すれば釈尊教団とは関係なくそれなりの覚りを得た人々。前者は広くは四衆なのか、それとも直弟子に限るのか、よくわかりません。それに対して、菩薩ということなんでしょうが、これは実は変ですね。
何故ならば、元々菩薩はお釈迦さんの成道以前修行の姿を指す言葉であったからです。その性格からすれば縁覚と違わないように見えます。では二乗と菩薩の相違は何かと言えば、目指すところの相違ですね。先にわたしは「解脱」という言葉を広い意味で使いましたが、これはあまり正確ではない。解脱は菩薩が目指す者ではなく二乗の目標でした。仏の目標は有余涅槃から無余涅槃で、では、解脱と涅槃、どこが違うのかと言い出すと長い議論になることでしょう。前者は化身滅智で完全に消滅してしまうことを目的にしますが、後者の仏は涅槃してもなお、衆生済度を目的とし続ける差があるのでしょう。
では、菩薩はとなると、この特徴を端的に現す表現は「自未度先度他」ということですね。仏の目標である涅槃に衆生を先に達成させ続けるために、自分はその前段階で衆生と関わり続けるということですね。これは涅槃してしまう仏とも解脱してしまう二乗ともまるで違います。その意味で法華経で説くとされてきた3対1は、むしろ、声聞・縁覚(解脱組)、仏(涅槃組)対菩薩の関係と見えますが、これじゃ、まあ、仏教にならないので、すべては仏様と言うところで束ねましたという話の展開のように思えます。

先に「教菩薩法」という言葉が出てきましたが、このような菩薩の在り方を教える法が妙法蓮華経だぞということのわけです。そんな意味ではわたしは「無二亦無三」という什のドグマは全然違うだろうと思うわけです。法華経典崇拝と菩薩道が二大特徴で、その菩薩の勧めのために、五百塵点成道の釈尊自身の菩薩道を言い、その結果、こんなに長い寿命を得られた、菩薩道をする長寿を得られるということを説くのが法華経ですね。

そんな観点からすると、九如から一心三観、三千不可思議境、一念三千という一連の教学解釈は、法華原典のコンセプトとはまるで別物と思えます。この歴史的推移の裏舞台では三身説が喧しいわけでしょうね。要は、そんなことを言うために、法華経を活用しただけであろうと思えるわけです。しかし、天台と言えば、法華というのは、日本天台宗的な解釈であって、それを鵜呑みにしがちです。しかし、わたしはちゃんと読んでいませんが、天台は法華研究はむしろ一部分的なもので華厳でしたか、そっちの法がむしろ専門的で、著述その他も多いということをどこかで読んだ記憶があります。まあ、そうは言っても四教、五時ということは言ったんでしょうが。

それに関連しますが、法華・涅槃という取りまとめ、当時の中国では涅槃経がもっとも人気があったわけで、それと法華経をくっつけた効果は作戦としてうまかったと思えます。しかし、この二つの経典、説くところがまったく違うわけですから、いまの日蓮論争にまでそのツケが付いて廻っていると思えます。これは本尊抄と総勘文抄が整合性が採れないのと同じくらい違うわけですね。

ついでに、だらだらと書けば、愚鈍凡夫さんのご投稿を読んで「ああ、そうだったっけ」と思ったのは無量義経のほうがあとから訳されたという点でした。法華と涅槃を括ったのも、変なことになるなりはじめのわけですが、無量義経を開経、結経を仏説観普賢菩薩行法経とするというのも、実に作為的なことであると思います。釈尊の一生という流れから言って、結経といえば、わたしは涅槃経を置いてないであろうと思うわけです。それを法華経と言うとき無量義経、法華経、普賢経をひとまとめにして法華、さらにその法華と涅槃を五時で一つに置くという構造は、まあ、手の込んだ作為であると思います。

2196犀角独歩:2005/04/14(木) 10:08:50

> 2193

愚鈍凡夫さんが数珠のことを書かれていたのでブログに紹介させていただきついで、ちょっと、書いてみました。
こちらの話題には馴染まないので、ブログにしました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/18893608.html

2197犀角独歩:2005/04/14(木) 10:17:24

> 2195

自己レスです。解脱と涅槃の使い分け、これまた、あまり適切でないかも知れませんね。
うーん。

2198愚鈍凡夫:2005/04/14(木) 11:29:07

犀角独歩さん、ご教示ありがとうございました。

法華玄義に次のようにありますが、
「今佛靈山八年説法。」(妙法蓮華經玄義卷第七上)
この8年は、無量義経の下記の文を根拠とするのでしょうが、

「以佛眼觀一切諸法不可宣説。所以者何。以諸衆生性欲不同。性欲不同種種説法。種種説法以方便力。四十餘年未曾顯實。是故衆生得道差別。不得疾成無上菩提。(仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん、諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず。)」(無量義經説法品第二)

後から成立した無量義経が法華経を説いた時期を決め、その無量義経が法華経よりも先に説かれたとするのも何か変ですね。

ふと、法華経と涅槃経について思ったのですが、

「於佛滅度後。恐怖惡世中。我等當廣説。有諸無知人。惡口罵詈等。及加刀杖者。我等皆當忍。(仏の滅度の後、恐怖悪世の中に於て我等当に広く説くべし。諸の無智の人、悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん。我等皆当に忍ぶべし。)」(妙法蓮華經勸持品第十三)

「善男子。護持正法者。不受五戒不修威儀。應持刀劍弓箭鉾槊。守護持戒清淨比丘。(善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀を修せずして、応に刀剣・弓箭・鉾槊を持ち、持戒清浄の比丘を守護すべし)」(大般涅槃經卷第三金剛身品第二)

この全く正反対のギャップが面白いですね。かたや不屈の忍耐を説き、かたや自衛のための威嚇を正当化しています。

2199犀角独歩:2005/04/14(木) 11:46:50

愚鈍凡夫さん、どうもです。

「ご教示」なんてたいそうなものじゃありません。
資料手放しのつぶやきみたいなものです。恐縮です。

しかし、そうですね。法華経が晩年8年の説法であるという根拠は、『無量義経』、「ああ、そうか、そうだった」と今さらです。抜けた気分でいても、昔、学んだ石山・学会からの影響、抜けないものだとやや自嘲。

法華・涅槃の二律背反。両立しないのに両立させようとすると、「壊れます」よね。まあ、蓮師を悪く言うわけではありませんが「念仏者の首を刎ねろ」と言いながら不軽のあとを承継…、そんな馬鹿なと思うわけですが、「ご本仏様に間違いがあるはずがない。そんなことを言ったら罰が当たる。矛盾していると思うのは自分に信心がないからだ」なんてやっていると、本当に「壊れます」。

悲しい日蓮門下の現実です。

2200顕正居士:2005/04/14(木) 17:28:43
法華経と涅槃経の対立

から「折伏」は全くちがう二つの意味をもちます。一つは不軽折伏。一つは威力折伏です。
威力折伏というのは仏教の道徳を説いても導けない、要するに犯罪者を国王、官憲など
の在家信者が逮捕処罰することをいうようです。そしてそれも菩薩行だよという。このこと
はもっともですが、涅槃経の威力折伏はちょっとちがう。宗教が入ってきます。けれども
有徳王のエピソードは覚徳比丘が殺害されようとしたのを護ったのであり、王なのだから
正当な権力の行使であり、義務の履行といえましょう。問題は仙予国王のエピソードです。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/PAPER/751/632.htm

婆羅門、すなわちインド教の司祭は殺害するほど功徳になる。慈悲の心を以って殺すの
なら、罪どころか功徳である。大乗の涅槃経にははっきりと「ポア」の思想があるわけです。
日顕上人の講義はごまかしをせず整然としております。とにかく少なくとも涅槃経にはそれ
があることを先ず認めないとはじまらないですから。秋元御書とかを考える上で。

2201一字三礼:2005/04/14(木) 17:55:38

犀角独歩さん

私の拙い投稿に重要なご指摘ありがとうございます。

> 法華一乗思想は、たしか坂本師も指摘していたと思いますが、羅什の意訳であり、原本にはこのように誇張されたものがないというのが法華研究一般で言われることではないでしょうか。

ここで原本と仰られているのはどのようなテキストの事でしょうか。

> 「霊山会という舞台を軸としてまとめられ」ていくことも、元の原形をもってしたとすれば、これまた創作のうちではないでしょうか。

仰る意味は理解できます。しかし、この段階であれば「編集・編纂」の範囲ではないかと思えるのです。

少し離れるかもしれませんが、「マハーバーラタ」(聖仙ヴィヤーサ作)という叙事詩があります。この物語も経典同様、口誦・口伝をもとに完成されたものです。
「マハーバーラタ」の成立は紀元後400年頃と推定されておりますが、その原型はそれを遡る事は確実とされています。主筋はバラタ族を取り巻く大戦争ですが、この実際にあった大戦争が起こったのは仏教の興隆はるか以前の事です。また、この主筋の約4倍にあたる量の様々な説話が挿入されているのですが、その原型はヴェーダ聖典からであったり、遠くギリシアの英雄伝説からの転用等です。ヴェーダを基にした説話でも、時代が下るにつれて序々に書き換えられ、原典で有力であったインドラやマハープラジャパティに替わりヴィシュヌやルドラ(シバァ)が台頭してきます。このような伝承形式の物語に創作者を想定することは出来ないでしょう。

仏典も口誦を伝承の方法としてきました。伝承が古形を残していると考えられる経典形式は、古い順に

① 詩(偈)のみで構成されているもの(口誦された内容になんら加えられていない形)

② 詩(偈)と散文(長行)で構成されているもの(口誦を説明する為の文章が加わったもの)

③ 散文(長行)のみで構成されているもの(口誦は失われ、通常の文章だけで構成されたもの)

①の形式は根本経典でよく見られるものです。法華経は主に②の形式で、その偈文は長行と内容を同じくすると重偈(通常の偈文と長行より古形とされる)です。

「マハーバーラタ」の場合と同様に、法華経も口誦・口伝の間に幾つもの話が加えられ、幾つもの話が失われたのではないでしょうか。

このようにして出来上がったであろう法華経に、創作者を想定すること違和感を持ちました。  


> 27章と言われる法華経は、実際は30章以上あったことも知られていますね。

法華経の成立が確実になるのは、龍樹菩薩の引用からだったと思いますが、その著作の中では27章の構成であったと記憶しておりました。そのため便宜的に27という数字をあげました。
恥ずかしながら、不勉強のため30章説は知りませんでした。実際にと思われる2乃至3章のタイトルなりともご存知でしたら教えてください。

2202一字三礼:2005/04/14(木) 17:56:25
つづきです。

> 法華経を創作したグループは、アフガニスタン周辺の人々で、かなり小規模な集団であったのではないのかと言われています。また、それまでの仏教教団がシャキャムニの舎利の分骨を聖遺物としてきたのに対して、そのようなものにあやかれない信仰教団であったのではないのかと想像できます。

顕正居士さんも仰るように、経典成立史については教典からの推測の域をでません。ですから、犀角独歩さんのご主張に特に異議を挟むつもりはありません。
しかし、、アショーカ王の時(在位BC268〜BC232とされる)に既に仏舎利は国家事業で八万四千(実数ではないでしょう)に分骨され、仏塔に収められたのは史実でしょう。
その後、或いはそれ以前に、特定の仏教教団が仏舎利の分骨を聖遺物とし、それにあやかれない集団もあったとお考えなのでしょうか。
根拠云々のことではなく、ご想像、またはお考えをご披露ください。

>> 上座部と大衆部で激しい論争を繰り返しており、この2者に対して新興の大乗が新たな視点から論争に名乗りを挙げた時期でしょう。

ここの部分は、引用が長くなって読むのも書くのも大変ですので、「人類の知的遺産『ナーガールジュナ』」(講談社)の「3 論争の相手」の章をお読みください。

> 漢訳的な発想ではないでしょうか。

これも繰り返しになりますが、「梵本」とはどのテキストをさすのでしょうか。

> 宗派という発想は、空海以降に属するのではないでしょうか。インドで、こんな意識があったのでしょうか。

インドバラモン諸派を指すために便宜的に「宗派」を使ったのです。

> 仮にその菩薩像として刻まれたのがただのパトロンであるとしたら、では、実際の菩薩とはどのような人々を指すのでしょうか。

それについては、資料としては何も残っていないので、実際の菩薩については誰にもわからないのではないでしょうか。

2203一字三礼:2005/04/14(木) 17:57:47

顕正居士さん

ご教示ありがとうございます。

> 最澄がタテマエでは律を捨てたので、サンガの「互換性」がなくなりました。

これによって日本は仏教各派に柔軟性が無くなり、宗派宗教へ突き進むようになるのですね。

> これまでの大乗仏教成立史には経典の内容から想像をたくましくするだけで実証が伴わない

まったく仰るとおりで、如何ようにも推測はできますが、証明は不可能です。

> 大乗経は史実とは無関係なことは一見してわかりますから。

お考えに賛同します。大乗経典の会座や眷属の人数から時間経過まで、読めば誰でも史実とは思わないでしょう。義浄にしろ、法顕や玄奘にしろインドで乾闥婆や緊那羅の子孫には会えなかったでしょうし。


1つ質問させてください。

「妙法華経の一偈一句を聞きて、乃至、一念も随喜する者には、われは、皆、記を与え授く」

これは法師品の一節ですが、他の経典でも同様に「一偈一句」だけでもその教えを得られる、というフレーズがありますが、これはどういう風に理解すればよいのでしょうか。私は、陀羅尼を指すのかとも想像しております。
出来ましたら、ご教示お願いします。

2204顕正居士:2005/04/14(木) 20:36:11
一句一偈(法師品)
a single stanza, a single verse (by Kern)
但だ法を聞くこと極めて少きを云ひ、經の功深きことを舉ぐ(文句)

文字通りでしょう。実際に法華経には
「今此三界。皆是我有。其中衆生。悉是吾子。而今此処。多諸患難。唯我一人。能為救護」
など素晴らしい一句一偈がたくさんあります。

なお

唯有一乘法 無二亦無三
There is, indeed, but one vehicle; there is no second, nor a third (by Kern)

2205犀角独歩:2005/04/14(木) 20:55:30

一字三礼さん、レス、有り難うございます。
調べて、あとでアップします。

顕正居士さん、資料、有り難うございます。
什訳法華経は仰るとおり、名文体ですね
また、この件はたしか以前も話題に上ったことがありました。

わたしは、この一乗ということについて思うのは、何も法華経に限らず、仏教は皆一乗の法に決まっているのではないでしょうか、仏教ですから。

それをまるで、法華経ばかりが一乗の専売特許のように記される理由が、わたしには理解できません。

無二亦無三が適訳であるのであればそれはそれでよいのですが、しかし、ならば、声聞経とか、縁覚経といった類が何かあるということでしょうか。ただし、法華経は教菩薩法であり、ある面、菩薩経的な側面をもっているように思えます。
法華経「一乗妙法」とはいったい、何を批判したものということになるのでしょうか。

2206愚鈍凡夫:2005/04/14(木) 22:01:12

顕正居士さん紹介の日顕師の立正安国論講義の涅槃経の部分を漢訳文に当たってみましたので紹介します。

「佛言。唯除一人。餘一切施皆可讚歎。純陀問言。云何名爲唯除一人。佛言。如此經中所説破戒。純陀復言。我今未解。唯願説之。佛言。純陀言。破戒者謂一闡提。其餘在所一切布施皆可讚歎獲大果報。純陀復問。一闡提者其義云何。佛言。純陀。若有比丘及比丘尼優婆塞優婆夷。發麁惡言誹謗正法。造是重業永不改悔心無慚愧。如是等人名爲趣向一闡提道。若犯四重作五逆罪自知定犯。如是重事而心初無怖畏慚愧不肯發露。於佛正法永無護惜建立之心。毀呰輕賤言多過咎。如是等人亦名趣向一闡提道。若復説言無佛法僧。如是等人亦名趣向一闡提道。唯除如此一闡提輩。施其餘者一切讚歎。」(大般涅槃經一切大衆所問品第五)

仏の言はく、唯一人を除きて余の一切に施さば皆讃歎すべし。純陀問ふて言はく、云何なるをか名づけて唯除一人と為す。仏の言はく、此の経の中に説く所の如きは破戒なり。純陀復た言はく、我今未だ解せず、唯願はくは之を説きたまへ。仏純陀に語りて言はく、破戒とは謂はく一闡提なり。其の余の在所一切に布施するは皆讃歎すべし、大果報を獲ん。純陀復問ひたてまつる。一闡提とは其の義如何。仏の言はく、純陀、若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有りて麁悪の言を発し、正法を誹謗せん。是の重業を造りて永く改悔せず、心に懺悔無からん。是くの如き等の人を名づけて一闡提の道に趣向すと為す。若し四重を犯し五逆罪を作り、自ら定めて是くの如き重事を犯すと知れども、而も心に初めより怖畏・懺悔無く、肯へて発露せず。彼の正法に於て永く護惜建立の心無く、毀呰軽賤して言に禍咎(かぐ)多からん。是くの如き等の人を亦一闡提の道に趣向すと名づく。唯此くの如き一闡提の輩を除きて其の余に施さば一切讃歎すべし

「我念往昔於此閻浮提作大國王。名曰仙預。愛念敬重大乘經典。其心純善無有麁惡嫉妬慳吝。」(大般涅槃經卷第十二聖行品第七之二)

我往昔を念ふに、閻浮提に於て大国の王と作れり。名を仙予と曰ひき。大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪嫉悋(そあくしつりん)有ること無し。

「善男子。以是因縁從是已來不墮地獄。」(大般涅槃經卷第十二聖行品第七之二)

善男子、是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず

「善男子。佛及菩薩知殺有三。謂下中上。下者蟻子乃至一切畜生。唯除菩薩示現生者。善男子。菩薩摩訶薩以願因縁示受畜生是名下殺。以下殺因縁墮於地獄畜生餓鬼具受下苦。何以故。是諸畜生有微善根。是故殺者具受罪報是名下殺。中殺者從凡夫人至阿那含是名爲中。以是業因墮於地獄畜生餓鬼。具受中苦是名中殺。上殺者。父母乃至阿羅漢辟支佛畢定菩薩。是名爲上。以是業因縁故墮於阿鼻大地獄中。具受上苦。是名上殺。善男子。若有能殺一闡提者。則不墮此三種殺中。善男子。彼諸婆羅門等一切皆是一闡提也。」(大般涅槃經卷第十六梵行品第八之二)

善男子、仏及び菩薩は殺に三つ有りと知りぬ。謂はく下中上なり。下とは蟻子乃至一切の畜生なり。唯菩薩の示現生の者を除く。下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微かの善根有り、是の故に殺す者は具に罪報を受く。中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで是を名づけて中と為す。是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く。上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。阿鼻大地獄の中に堕す。善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。善男子、彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり

以上です。

2207愚鈍凡夫:2005/04/14(木) 22:22:33

「大般涅槃經一切大衆所問品第五」からの引用は、一部削除されていますから、次のように訂正します。

「佛言。唯除一人。餘一切施皆可讚歎。純陀問言。云何名爲唯除一人。佛言。如此經中所説破戒。純陀復言。我今未解。唯願説之。佛言。純陀言。破戒者謂一闡提。其餘在所一切布施皆可讚歎獲大果報。純陀復問。一闡提者其義云何。佛言。純陀。若有比丘及比丘尼優婆塞優婆夷。發麁惡言誹謗正法。造是重業永不改悔心無慚愧。如是等人名爲趣向一闡提道。若犯四重作五逆罪自知定犯。如是重事而心初無怖畏慚愧不肯發露。於佛正法永無護惜建立之心。毀呰輕賤言多過咎。如是等人亦名趣向一闡提道。」(大般涅槃經一切大衆所問品第五)

仏の言はく、唯一人を除きて余の一切に施さば皆讃歎すべし。純陀問ふて言はく、云何なるをか名づけて唯除一人と為す。仏の言はく、此の経の中に説く所の如きは破戒なり。純陀復た言はく、我今未だ解せず、唯願はくは之を説きたまへ。仏純陀に語りて言はく、破戒とは謂はく一闡提なり。其の余の在所一切に布施するは皆讃歎すべし、大果報を獲ん。純陀復問ひたてまつる。一闡提とは其の義如何。仏の言はく、純陀、若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有りて麁悪の言を発し、正法を誹謗せん。是の重業を造りて永く改悔せず、心に懺悔無からん。是くの如き等の人を名づけて一闡提の道に趣向すと為す。若し四重を犯し五逆罪を作り、自ら定めて是くの如き重事を犯すと知れども、而も心に初めより怖畏・懺悔無く、肯へて発露せず。彼の正法に於て永く護惜建立の心無く、毀呰軽賤して言に禍咎(かぐ)多からん。是くの如き等の人を亦一闡提の道に趣向すと名づく。

「唯除如此一闡提輩。施其餘者一切讚歎。」(大般涅槃經一切大衆所問品第五)

唯此くの如き一闡提の輩を除きて其の余に施さば一切讃歎すべし

2208問答迷人:2005/04/14(木) 22:32:17

議論が自然の成り行きとして大乗興起にまで及んでいます。この流れに逆らうつもりは毛頭ありませんが、ここでもう一度、当初の『蓮師の考えとしての「南無妙法蓮華経」の意味』という出発点から質問させてください。

蓮師は新尼御前御返事(文永十二(1275.02・16))において次のように述べています。

『今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品嘱累に事極まりて候ひしが、金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給ひしかども叶はず。是れ等は智慧いみじく、才学ある人人とはひびけども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり。此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひ、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難竝びをこり、一閻浮提の人人各各甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること、雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべしと仏記しおかせ給ひぬ。』

ここで特筆するべきなのは、ここ遺文に述べられているのが妙法蓮華経八巻二十八品への『経巻信仰』ではなく、妙法蓮華経という五字で表された題目への「題目信仰』(経題信仰)であるということです。法華経の経文に現れているのは、あくまでも『経巻信仰』であるのにも拘わらず、蓮師はこれを『題目(経題)信仰』と改変したわけです。僕はこのように捉えていますが、皆さんのご意見を賜りたいと存じます。

2209顕正居士:2005/04/14(木) 23:11:11
*2204 ×一句一偈 ○一偈一句

犀角独歩さん。

>何も法華経に限らず、仏教は皆一乗の法に決まっているのではないでしょうか、仏教ですから。

普通の大乗は三乗です。菩薩しか仏にはなれない。声聞は声聞、つまり仏弟子をやめて菩薩に
転向しないと仏にはなれない。いうなら仏は上場した起業家であり、同じになるにはサラリーマン
をやめて君も起業しなくちゃのようなことでしょう。

>声聞経、縁覚経

声聞乗の経は阿含経です。縁覚乗は無師独悟だから経はありません。

>法華経は教菩薩法であり、ある面、菩薩経的な側面をもっているように思えます。

そうです。それで三車、四車の議論があったのです。三車は一乗=菩薩乗、四車は相対的な
菩薩ではなく絶対的な菩薩とでもいうことです。三乗だけでなく人天を含めた五乗、さらには
九界すべてを菩薩と考えるわけです。三乗の中の菩薩に転向する必要はない。サラリーマンも
フリーターもニートも株式投資に成功すれば資産家になれるようなことでしょう。

2210犀角独歩:2005/04/14(木) 23:56:11

一字三礼さん:

> 原本と仰られているのはどのようなテキストの事でしょうか。

梵本は読めません。わたしが取り敢えず手元に置いて参考にしているのは岩本裕訳『正しい教えの白蓮』です。ここで原本とされたものはとてもコピペできる分量ではありません。岩波文庫『法華経』上 P411〜438をご覧ください。実際は松山俊太郎師の訳待ちです。
横道ですが、以下のサイトはなかなかでした。
http://www.furugosho.com/nomadologie/matsuyama1.htm

> この段階であれば「編集・編纂」の範囲ではないか

なるほど。わたしもこれが信仰対象とされる経典でなければ、その語彙を選びました。

> 仏典も口誦を伝承の方法
> このようにして出来上がったであろう法華経に、創作者を想定

わたしは、こうは考えないわけです。
伝承という素材を、実際に(一字三礼さんの言葉を使えば)編纂し、恣意的に並べ意味を持たせ、そこで出来上がっていったものを創作と言っているわけです。編纂作業はそれだけでもクリエーティブなものです。

> 違和感を持ちました。

ええ、仰る意味はわかりました。

> 不勉強のため30章説

これをいま探したのですが、日蓮宗の、たしか立正あたりの先生であったと思います。以前、読んだ本で紹介されていたのです。ちょっと、調べてみます。ご猶予をください。

> 特定の仏教教団が仏舎利の分骨を聖遺物とし、それにあやかれない集団もあったとお考え

ええ、そう考えています。すなわち、法師品の「皆応起七宝塔 極令高広厳飾 不須復安舎利 所以者何 此中已有 如来全身」という一節からです。もし、舎利を奉持した集団であれば、こうは書けないと思うからです。
たとえば親の遺骨が放って、写真だけを飾れというようなものです。遺骨が目の前にあったらとてもできません。

> 「人類の知的遺産『ナーガールジュナ』」

有り難うございます。読んでみます。

>> 仮にその菩薩像…刻まれ…パトロン
> …資料…何も残っていない…実際の菩薩…誰にもわからない

そうでしょうか。菩薩像は資料ではないのですか。

2211犀角独歩:2005/04/15(金) 00:05:00

2209 顕正居士さん、大変に平易でわかりやすいご教示深く感謝申し上げます。有り難うございました。

2212犀角独歩:2005/04/15(金) 00:15:56

2208 問答名人さん

> …『経巻信仰』…蓮師はこれを『題目(経題)信仰』と改変

五重玄を意識されたことはもちろんのこととして、特化したと、わたしも思います。

しかし、引用される遺文は、今日の教学、また本尊観とギャップがありますね。

> 今此の御本尊は…

これが「五字の大曼荼羅」ということになるのでしょうか。
まあ、そう解釈されてきたわけですが、わたしは慎重です。

> 身に帯し心に存せば

身に対するのであれば護本尊ですね。心に存するとは、具体的にはどのようなことでしょうか。

2213顕正居士:2005/04/15(金) 00:29:02
>遺文に述べられているのが妙法蓮華経八巻二十八品への『経巻信仰』ではなく、妙法蓮華経という
>五字で表された題目への「題目信仰』(経題信仰)であるということです。法華経の経文に現れているの
>は、あくまでも『経巻信仰』であるのにも拘わらず、蓮師はこれを『題目(経題)信仰』と改変したわけです。

『経巻信仰』というとわたしには八軸の経巻をおまつりして読経唱題したり護摩を焚いたりのイメージが
します。法華経の教義(十界皆成)への信仰の意味ならば、日蓮聖人はこの信仰を基本として、その上
に『経題信仰』を称名念仏のように建てた。しかし仏菩薩の名を呼ぶなら、その仏や菩薩が実在すれば
何か応えてくれるかも知れないが、『経巻』が応えてくれるわけはない。そういう信仰は世界中に日蓮宗
しかない。しかし『経題信仰』の直接の経証の陀羅尼品の「但だ能く法華の名(みな)を受持する者を
擁護するすら、福量る可からず」の十羅刹の擁護を期待できる。また天台大師は五重玄という経題の
解釈中心の法華経概論を著した。両者が結合し妙法五字は単なる経題でなく大真言であり、チベットの
六字明呪のように一回唱えると大蔵経を一回読んだと同じまでの意義を帯びる。けれどもまだそういう
気分がするだけである。次に神力品の結要付属の経証により八万法蔵の象徴であることが保証される。
最後に妙法五字は寿量品に秘沈された十界皆成の原理、一念三千の教理を裏む「事一念三千」である。
それは具体的には胸中の八葉心蓮華に住する三十七尊の曼荼羅であるとなり、即身成仏のイメージが
完成するのだろうとわたしは考えます。

2214一字三礼:2005/04/15(金) 09:06:37

顕正居士さん

一偈一句についてのご教示ありがとうございます。

なるほど、文字通りでよかったのですね。

私は、特定の一偈一句を陀羅尼のように常に口ずさむことを勧めているのか、と考えておりました。

2216問答迷人:2005/04/15(金) 09:08:51

顕正居士さん

ご教示、ありがとうございます。「妙法五字が一念三千の宝珠を裏む、というところが肝要で、そこに蓮師は『唱題成仏』という教義を立てた」と僕は理解しました。


犀角独歩さん

>心に存するとは、具体的にはどのようなことでしょうか。

「大曼荼羅を信ずる」という意味であるかと思います。

2217一字三礼:2005/04/15(金) 09:16:56

犀角独歩さん

全面的に賛同とはいきませんが、創作者達と仰る意味は理解できました。

また、ご紹介いただいたサイト面白そうです。じっくり読んでみたいと思います。

2218愚鈍凡夫:2005/04/15(金) 09:24:09

蓮祖は五五百歳にご自分が生まれ出た。と確信されたとき、法華経の予言を実現するのは自分以外にないと自覚されたのではないかと思います。
五百塵点劫成道の教主釈尊の悟りの要法こそが「妙法蓮華経」であるとの結論に達したときに、この要法の流布こそが教主釈尊の遺命であると、法華経から読みとったのだと思います。
乱暴な言い方をすれば、「法華経は自分のために説かれた」といった確信を持たれていたのではないかと思います。
この要法に「南無」することが、成仏の直道であるというのが蓮祖の確信の根幹であったと思いますが、内心、ご自分が上行菩薩の再誕ではないかと思っていたかも知れませんね。

個人的には、蓮祖の「成仏」のイメージがどんなものであったか興味があります。

2219愚鈍凡夫:2005/04/15(金) 10:21:42

>>2206:を見直してみると、「大般涅槃經卷第十六梵行品第八之二」の文も所々省略されていますので、下記のように改めます。

「善男子。佛及菩薩知殺有三。謂下中上。下者蟻子乃至一切畜生。唯除菩薩示現生者。」(大般涅槃經卷第十六梵行品第八之二)

善男子、仏及び菩薩は殺に三つ有りと知りぬ。謂はく下中上なり。下とは蟻子乃至一切の畜生なり。唯菩薩の示現生の者を除く。

「以下殺因縁墮於地獄畜生餓鬼具受下苦。何以故。是諸畜生有微善根。是故殺者具受罪報是名下殺。中殺者從凡夫人至阿那含是名爲中。以是業因墮於地獄畜生餓鬼。具受中苦是名中殺。上殺者。父母乃至阿羅漢辟支佛畢定菩薩。是名爲上。以是業因縁故墮於阿鼻大地獄中。具受上苦。是名上殺。善男子。若有能殺一闡提者。則不墮此三種殺中。善男子。彼諸婆羅門等一切皆是一闡提也。」(大般涅槃經卷第十六梵行品第八之二)

下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微かの善根有り、是の故に殺す者は具に罪報を受くを名づけて下殺となす。中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで是を名づけて中と為す。是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受くを名づけて中殺となす。上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。是れを名づけて上と為す。是の業因縁を以ての故に阿鼻大地獄の中に堕し、具に上苦を受く。是れを名づけて上殺となす。善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。善男子、彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり

悪しからず。 m(_ _)m

2220愚鈍凡夫:2005/04/15(金) 12:07:27

菩薩は、その気になれば成仏できるのに、敢えてその一歩手前で踏みとどまり、常に民衆とともにあり、民衆を化導しているというイメージがあるのですが、菩薩道というと菩薩が修行してきた道、言うならば、まず菩薩になるための修行を指すのだろうか。それとも、菩薩が成仏するために、これから行わなければならない修行を指すのだろうか。ふと、そんな疑問を持ちました。

2221ラキ:2005/04/15(金) 18:56:22
皆様。こんばんは。
過去ログ見ていて(現在72まで)虎さんに出てくるお寺が〜!
トレビアの泉みたくへ〜〜と、思いながら順番に読み進めていっています。

少し、早急に知りたい疑問があるので、質問させていただきます。
(ここの過去ログ。又、他のスレッドに載っていたら、申し訳ございません。)
「ほうぼう」についてですが、家の中にお札や神棚とかお守りは「ほうぼう」の品物とは理解できますが、
書籍類とかて、宗教的要素のあるものは「ほうぼう」と言われました。
書籍類は文学作品と思っています。
音楽に関しても、クラシック音楽の一部には「神をたたえる歌」とかもありますが、
それも「ほうぼう」て言われました。
音楽は芸術作品ではないのでしょうか?
内容が「神をたたえる歌」だからいけないのかも知れませんが?・・・
そこまで細かく厳格なら、何故アクセサリー類の十字架とかはキリスト教のシンボルですが、
アクセラリーなので「ほうぼう」にはならないと言うのは、おかしいと思っています。
日本にはたくさんの行事がありますが、その中にも「ほうぼう」ではないのかと思うものもあります。
節分。ひな祭り。端午の節句。七五三。クリスマス。
学会の人はイベント?行事?だから「ほうぼう」にはならないと言いますが、
言ってる事と、やってる事が矛盾していると、感じております。
時代の流れもあるかもしれませんが、厳密には「ほうぼう」の線引きは、どのように考えたら良いのでしょうか?
信徒団体によって、線引きが違うのでどの人の言ってる事が正しいのか悩んでおります。

2222小心者:2005/04/15(金) 19:09:13
 ラキ さん、 ゴモットモなご意見、、と存じます、。 未だかって、、自由に「、言える、」、機会の少なさも有りますが、、欧米の方に比べて、「、自己主張に関する、教育の関与が??」、、のようです、、。 IT時代に突入しました現今は、幼稚園児〜〜129歳までのかたがたの御考え方を「、御自由に、御発言が可能な、本当に、恵まれました、?、贅沢な、?」、、時代になりました、、。 この時代とIT機能を存分に、御活用したおものです、、、ガ、、?? ゴメン下さい、、。

2223犀角独歩:2005/04/15(金) 19:29:15

2217 一字三礼さん:

> 全面的に賛同

そうですね。わたしの言っていることも試作的ですから当然のことと存じます。

紹介のサイトとからスライドしますが、松山俊太郎師は、高齢ながら、元気一杯で、いまも月一、サダルマ・プンダリーカ・スートラの和訳講義が続けられています。

福神研究所ブログ(いまは停まっているようですが)
http://blog.livedoor.jp/fukujinken/

2224パンナコッタ:2005/04/15(金) 22:17:15
ラキさん、こんばんは。 答えではないのですが、考え方の参考として
『まだ身延にいくらか未練をもっているときには、つまらないものを、これだけは
記念に残したいなんていいがちです。これでは「無二の信心」とはいえません。
 ダルマのついた茶わんだとか、鳥居の印のついたおぼん、修学旅行で写した神社
の前の記念写真、イナリの絵がついている駅弁のいなりずしなど、もちろん信仰
に関係はありません。本人が使うのがいやならやいてもよいし、そのまま使っても
さしつかえない、こんなことに迷わされるような弱い信心ではだめです。』
     小平芳平著 創価学会(昭和37年5月12日初版)より引用

まあ、今でもこんな感じだと思いますが。あとの細かいことは、指導する人物の主観
でしょう。
 ちなみにこの本、「まじめな認識が必要」という題で藤原弘達氏のコメントが
載っていました。

2225ラキ:2005/04/16(土) 06:11:09
皆様。おはようございます。

小心者さん。
ここのような、自由に発言できる場所は、大切です。
自由と言っても、池田氏みたい暴言を吐いたりする訳ではなく、自分の疑問を発言できるのが、
すばらしいと感じております。

パンナコッタさん。
ダルマやお守りは持っていないので、と言うよりも、ご利益?がないから必要ないのが本心かもしれません。
ただ、書籍類は、興味があり勉強?知識を満たす為の手段ではないかと思っているのですが、
信仰の対象でもないですし、何でも「ほうぼう」と言って、処分しないと、
正しい仏法をしていても、「福運やご利益はないよ」と、言われます。
どこの信徒団体も「うちが1番正しい」といい、他所は間違ってるからと言います。
そのわりには、どこも功徳があった体験談を聞きます。
正しくないのに功徳があるのか?それとも、信心の姿勢?で功徳があるのか?
誰の言葉が正しい事を言っていて信じていいのか?それとも誰もが幹部の指導の影響で、
本当の正しい信心のあり方を見失っているのか、私には疑問、謎だらけです。
ただ、ここにきている皆様の話は、本音で語り、都合の悪い事はごまかしたり、
何でも、自分の団体が正しく、他は嘘、偽りと否定するのではなく、
信心に対して向上心があるから、自由に色々な発言が出来るのかと思っています。
私は、ここの掲示板で皆様に出会えて良かったと思っております。
こんな無知な私に、色々親切に教えていただき、感謝しても仕切れないほどです。
まだまだ、探求したい事がたくさんあるので、支離滅裂な発言。質問などしましたら、
優しく指摘してください。。。。(出来れば、優しく見守ってください(^^;)

追伸。
ログ200番まで読み進みました。
毎日ログを少しづつですが、読むのが楽しくて仕方がありません。(●⌒∇⌒●)

2226パンナコッタ:2005/04/16(土) 12:31:18

ラキさん、
 >ご利益?がないから必要ないのが本心かもしれません。
信じていなければ、学会の寛師曼陀羅、麻雀牌のような携帯本尊(縮小版)も
同じですよ。
 今までは謗法ということで情報隠蔽をしてきましたが、ネットの普及により
その綻びが、より大きくなっています。 書籍類を謗法と言っているのは信者
への隠蔽工作でしかありません。教学の引用文として摩訶止観を使ったりして
いますが、「優れた禅の指南書」との指摘を大方の信者は知らず、読もうとも
しないから判断出来ません。禅の指南書なんて立派な謗法ですよねぇ。(^。^)

2227ラキ:2005/04/17(日) 13:36:30
皆様こんにちは。

パンナコッタさん。
信心=信じる心が大切だとは思っているのですが、
天邪鬼な私は、信・行・学の学に行きがちだと思っております。
疑問な事は知りたい。
知りたくても、信・行があり、学が付いてくるから、信じてれば、疑問の答えが出ると言われています。
学会。顕正会。エホバの証人。と、3団体の方が身近におりまして、各団体の方とお話はするのですが、
エホバの証人の方は、こちらの質問。疑問には必ず応えてくれます。
書籍類(聖書)や用語辞典など、書籍印刷物などをちゃんと提示して、一生懸命説明してくれる姿は、
とても誠実だと思っております。
学会員は一言で、不誠実だと思います。(学会の方がいたらごめんなさい)
質問しても、難しい事をいい、ごまかそうとする姿勢。
また、こちらが知ってる範囲での回答に対して突っ込むと、判らないから幹部に聞いて回答か調べて回答します。
といいつつも、音信がなくなる事ばかり。
都合の悪い事には、時が過ぎるのを待つ。誠実さの微塵も感じられないと思っています。
一人二人なら、その人の人格?とも思えますが、10人居たら9人は確実に未回答で終わります。

顕正会の方は、回答を調べてもしていただけるのですが、信心が大事と最後はこの二文字で締めくくられます。
人を思いやる心ではとても誠実だと思っています。
ただ、学会。顕正会。両団体は、過去にたくさんの陰謀や傷害事件等、宗教者としてのあるまじき姿があったにもかかわらず、
その事を隠蔽。若い世代には一切教えようとはしない姿勢は、納得できません。
過ちを認めて、このようなことを二度としないように、教えていく事も大切ではないかと感じております。
ここの掲示板の過去ログや、他のスレッドを見ていて、聞いたこともないような話がたくさん出てきます。
正しい信仰を貫く団体だからこそ、世間から後ろ指を刺されないような、
清廉潔白の団体でなければならないのではと思っています。

組織。団体は入れ物と思い、私自身の「信心」の心が一番大切なのかもしれませんが、
迷いがあり、どうして行くのが私自身の幸せに繋がるのかと考えております。

皆様のご意見・ご指導お願い致します。
(毎回、甘えてばかりで申しわけございません。)

「国立の戒壇」の話が出ていたので、読んでいたのですが、学会員の友達に聞いたら、
なに?それ、知らないとの回答。
「国立の戒壇」とは、顕正会独自の解釈で言ってる事なのか、それとも日蓮聖人が御書などで言われている事なのか、
優しく解説を頂けたらと思っております。

2228犀角独歩:2005/04/17(日) 14:04:51

> 国立戒壇

北山本門寺根源で捏造された謀書『日蓮一期弘法付嘱書』に「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」という一節があります。

この一文を大石寺のことであると言って騒がれるようになったのが「国立戒壇」です。

この‘造語’を造ったのは田中智学ですが、顕正会は大石寺52代「日霑」であると主張しているようです。

創価学会は顕正会に先んじて、もちろん、国立戒壇を主張していました。
創価学会『折伏教典』(昭和26年11月15日発行/昭和27年7月20日再版)に「本門の戒壇に義の戒壇と事の戒壇とある。義の戒壇とは御本尊の在します場所を指す。事の戒壇とは国立の戒壇である」(P296)と明確に記されています。

参)http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/18396234.html

昭和45年言論出版妨害事件を起こした創価学会は、「日蓮正宗の国教化」「国立戒壇」の二つの路線を改め、現在に至っています。新しい会員は、こんな史実は教えられないので知らないだけです。

2229ラキ:2005/04/17(日) 19:24:36
皆様。こんばんは。

犀角独歩さん。
今の心境は「驚き!」この一言に尽きます。
国立戒壇論の基礎の御書自体が「謀書」だったとは・・・
ここまで来ると、他宗・他団体の書籍等、一切読ませたくなくみんな謗法だからと、
隠蔽したくなるのか?〜と、思ってしまいます。
オフ会スレットにも、驚きがあり、横レス、感想みたいなのを書かせていただきました。
顕正会の主張している「国立戒壇」自体が、日蓮聖人の意思ではないという事になると思っても、
間違い、問題ではないでしょうか?
質問ばかりで何時も申しわけございません。
ついでにもう一つ甘えさせてください。(^^;

「田中智学」という方は、何者なのでしょうか?
あと一つお願いがあります。
2228のレスを一部印刷使用してもよろしいでしょうか?
国立戒壇からリンク上部分までです。(HN・ここのHPの事は伏せます)
今度、顕正会・学会員の知人などに、聞いてみたいと思っています。
物覚えが悪いので、書留とかないと忘れてしまうので。(^^;

2230パンナコッタ:2005/04/17(日) 21:14:04

>「田中智学」という方は、何者なのでしょうか?
国柱会の田中巴之助ですね。まめちしきとして、
『六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。』の
記紀の一節から”八紘一宇”のスローガンを作り出し、戦局拡大を後押しした
人物。
富士門系では明治15年の横浜問答が有名ですね。

2231犀角独歩:2005/04/17(日) 22:01:09

ラキさん、こんばんは。

> 2228のレスを一部印刷使用

どうぞ、別段かまいません。

> …HN・ここのHPの事は伏せます

この必要はありません。むしろ、提示していただいてけっこうです。

ついでに、以下のページもご参考ください。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

> 田中智学

パンナコッタさんがお応えになっていますね。
この人もまた、敗戦後、歴史のなかから葬られた一人といえるかも知れません。戦前であれば、「日蓮」と言って、この名前を知らない人はいなかったでしょうから。

2232犀角独歩:2005/04/17(日) 22:31:57

2231の補足

> 顕正会の主張…「国立戒壇」…日蓮聖人の意思ではない

これは2段階、語るべきことがあります。
まず第一は、戒壇建立ということでいえば『三大秘法稟承事(さんだいひほうぼんじょうのこと)』という御書に「勅宣並びに
御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戎壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり」という一節があります。この書は真筆は現存していません。立正大学・伊藤瑞叡師は真筆説、正信会の山上耕道師は偽作説。わたしは後者の意見に賛成です。つまり、この書が偽書であると決定すれば間違いなく、蓮師は、戒壇建立を語っていないことになります。

なお、国立戒壇は先に記したとおり、田中智学師も言っています。しかし、富士方と違うのは一点。なかに入れる本尊が、学会・顕正会を含む石山系は、所謂「弘安2年10月12日本門戒壇の大御本尊」(いまの創価学会では三大法の大御本尊という)であると主張してきた点です。しかし、この本尊が戒壇本尊でもなければ、10月12日図示でもなく、まして、彫刻である以上、蓮師の作でもなく、いまの彫刻は、禅師授与漫荼羅を原本とし、臨模・作為して制作されたものであるとわたしは結論しています。

以上のような二重構造である点が留意されてしかるべきです。

2233犀角独歩:2005/04/17(日) 22:52:24

なお、戒壇については、わたしとはまったく意見を異にするものの、以下の真摯な研究もあります。

櫻川忠氏著『本門戒壇論』
http://sanity.at.infoseek.co.jp/

2234ラキ:2005/04/18(月) 02:33:39
皆様。深夜にこんばんはです。
パンナコッタさん。
>国柱会の田中巴之助
「国柱会」は初めて聞く名前です。(勉強不測で何時もお手間をおかけしてます。)

>犀角独歩さん。
2228掲示板の書き込みの使用許可ありがとうございます。
この疑問は、明確な証拠。回答が得られない場合、回答が出来る人にお会いしてても、
聞いてみたいです。
納得のできる証拠提示。回答がいただけない場合、そんないかがわしい団体に所属してる人とはお付き合いできない。
絶縁も覚悟の上で望みたいと思います。
仏道修行者としての誠意ある態度にそぐわないと、私は思っているので。

犀角独歩さんのリンク拝見させていただきました。
私のような、無知・無学の者にもわかりやすい、解説は貴重であり、また、知識の探求に役立ち、
感謝の言葉だけしか今は言えません。
本当に、わかりやすい回答、このような私にも自分で努力して調べろと、
キツイお叱りを受けてもいたし方がないのに、これこそ、仏法の実践者の慈悲の心!
私が抱いてる理想の姿です。
これからも、ちんぷんかんぷんな質問や、変な質問があるかもしれませんが、
ご指導の程宜しくお願い致します。

皆様に筆問があります。
初心者でもわかりやすい書籍又は、読んで参考になるような、お勧め書籍がありましたら、
教えて頂けるとありがたいです。
ネットで閲覧も可能なのですが、時間的制約がありまして、書籍なら、移動時間とか待ち時間など利用して、
時間の有効利用ができていいかと思ったしだいです。
現時点で購入できない書籍。高額書籍等ならあきらめて、
ネットから、印刷してでも読むようにしたいと思っております。

2235吉祥仙人:2005/04/18(月) 04:51:57
 素朴な疑問

 真筆が存在しなければ、すべて偽書なのでしょうか?

 日蓮大聖人の御真筆と鑑定されれば、疑いようの無いホンモノでしょうが
御真筆が無ければすべて偽書というのは、アリバイがないから有罪というのと
同じような気がします。
 創価学会が伝える(?)ところでは、大聖人御入滅後、五老僧が「ひらがなの
お手紙、消息文等は師匠の恥じ」と燃やしたりスキかえたりしたので、散逸して
しまったとのことです。

 釈尊が直筆で著した経典というものが、存在するでしょうか?
 キリストが書いた福音書というものが、存在するでしょうか?

 仏典・聖書。すべて偽書になるのでしょうか。

2236犀角独歩[TRACKBACK]:2005/04/18(月) 07:00:31

> 2235

そんな単純な話をしているのではありません。

たとえば、無作三身といった語彙は真跡ではまったく使用されていません。無作で1回のみです。「本覚」もそうです。久遠元初、自受用身といった語彙もそうです。真跡遺文ではまったく使用されていない語彙、また思想が頻繁にに使用されるような御書は、真跡であるとは考えがたいということです。この問題は既に過去に議論しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014117251/r58

真跡・疑書・偽書の問題は信仰上の感情論とは無縁です。厳正な科学です。浅井要鱗師、山上耕道師の研究、また、正信会の苦心の作・御書システムでも少しは学んでみることです。

なお、聖書の問題、はこれまたよく研究されているところですか。それを当たればよいでしょう。
仏典の問題は初期仏典と言われるものでも、シャキャムニ滅100年後からの編纂、それまでのアーガマ(伝承)をまとめたものです。シャキャムニの言葉は混じっているかも知れません。名前を失念しましたが、とある学者が調べた結果、確実なものと考えられるのはわずか16句であったとのことです。法華経に至ってはシャキャムニ滅400年後に創作(一字三礼さんの言を借りれば編纂)されたものですから、これを直説ということはできるはずはありません。つまり、釈迦無尼仏の名前に仮託した物語と言うことでしょう。

2237パンナコッタ:2005/04/18(月) 12:54:41
>「国柱会」は初めて聞く名前です。
 
明治17年に創設された右翼主義の団体。設立当初は立正安国会。横浜問答の時は
蓮華会という名でしたね。 信者に石原莞爾、宮沢賢治(会ってはいないらしい)
が有名。 今でも江戸川区にあって、ググればHPもあるようですね。
ここから、本化妙宗連盟、立正教団なんかが分裂しています。

2238藤川一郎:2005/04/18(月) 14:53:30
>>2237
横レスですが、真の右翼の方に迷惑をかけるので訂正させてください。
国柱会は「天皇主義」ではありますが「右翼主義」では無いと思います。
どちらかと言えば覇権主義に近い思想です。
すなわち三国並びに全世界の覇権王として陛下を建てる思想です。
その流れを汲む石原将軍すらも右翼主義ではなく、覇権主義であったと思われます。
世界最終戦争論などを読むとそのように思わざるを得ません。
その証拠に石原将軍は奉天会議の席上、中心に題目旗を掲げ、愛親覚羅家の紋章と日本国旗を左右に掲げるという相対化を行っております。
これは右翼主義ではなく、天皇の御名を利用した日蓮主義であります。

2239パンナコッタ:2005/04/18(月) 18:49:52
>>2238
 ああ、大変失礼しました。 
確かに覇権主義という言い方の方がしっくりきますね。 
満州国の建国自体を右翼主義というのは変ですし。

2240ラキ:2005/04/19(火) 17:41:44
皆様。こんにちは。

パンナコッタさん
書店にて調べ物をしていましたら「国柱会」の事が載っていました。
とても偏った思想の怖い信徒団体と感じました。

ついでに、お数珠の事が載ってる本がありまして目を通していたのですが、
日蓮宗系で紹介されていましたが、左3房。右2房となっておりました。
また、お数珠を半ひねりする事も載っていたのですが、意味は書いておりませんでした。
石山系では、右3房。左2房。なのですが、時代の変化でいつの頃からか、
変ってしまったのか?と、些細な疑問がありますが、信仰に関係ない作法の質問て、
信心が大事と言われて、誰も教えてくれない。と言うより、知らないのが実情でごまかしてるのではと、
疑いを持っています。

些細な事ですが、ふと思い出した事があります。
仕事で行った先で(一緒に行った方は学会員)食べ物を出されたのですが、
そこの方が、稲荷信仰の信者だったので、先輩は手を付けずに私に食べてと言いました。
理由は、謗法をしてる人からの、施し?になるからとのことでした。
何でも謗法と言い、拒絶していたら、現代社会では生きていけないようなきがします。
極端な考えですが、衣食を考えると、作ってる方の宗教で謗法の人が作ってる物はとなります。
衣食は別問題と言うなら、購入したお金がお布施とかになるわけですから、
間接的にですが、謗法の手助けになるのではと、極端な考えがふと浮かんでしまいました。

明日親友の命日なので、お墓参りに行きたいと思っておりますが、
その折に、お経を唱えたいと思っているのですが、「謗法」と言う言葉が頭をよぎり、
日蓮聖人の仏法に背く行為になるのか、ならないのか、アドバイスを頂けたら幸いです。

2241犀角独歩:2005/04/19(火) 18:02:10
2240ラキさん:

> 些細な疑問…信仰に関係ない作法…知らないのが実情でごまかし

そのとおりでしょうね。

> 仕事…一緒に行った方は学会員)食べ物を出された…謗法…施し

所謂、謗施(ぼうせ)ということですが、これは坊さんの話です。
信者はそもそも布施を受ける資格が無いというのが富士方の考えです。
まあ、それは信者でも供養を受けられると言ったのが池田さんでした。
違う信仰をしている人から施しを受けてはいけないのであれば、池田さんが山のように受け取った勲章その他はどうなんでしょうかね。

> 何でも謗法…拒絶…現代社会では生きていけない

まったくそのとおりでしょうね。誰の計算だか忘れましたが、たとえば服1枚、加工食品1つにいったいどれだけの人が関係して自分の手元に届くかというものがありました。たしか60万人という答えであったと記憶します。

> 明日親友の命日…お墓参りに行きたい

大変に素晴らしい心がけですね。敬服します。

> お経を唱えたい…日蓮聖人の仏法に背く行為

蓮師は終生念仏を捨てなかった師・道善房を弔うために向師に『報恩抄』を携えさせ、墓参に生かせたのは夙に有名な話です。
わたし的な言い方をすれば、世間一般の儀礼に悖ることをするのは、謗法以前に人道に反することだと思います。

先の学会員の話も含めて言えば、それらは謗法ではなく、集団・指導者に誣いるためのマインド・コントロール以外の何ものでもないでしょう。

自分の思う最前の形で故人の冥福を祈ればそれでよろしいのではないでしょうか。

2242犀角独歩:2005/04/19(火) 18:04:51

【2241の訂正】

誤)墓参に生かせた
正)墓参に行かせた

誤)自分の思う最前の形
正)自分の思う最善の形

2243パンナコッタ:2005/04/19(火) 20:21:40
ラキさん。
学会の数珠が反対になったのは、昭和52年前後だったような気がします。御観念文が
変わったときだったような(うろ覚え、誰か指摘してください)。
正本堂建立時(昭和47年)は右二珠、左三珠でした。

2244犀角独歩:2005/04/19(火) 22:24:41

パンナコッタさん:

数珠の捻り、右左その根拠はよくわからないのですが、何より、両手中指に掛けるようになったのはいつ頃からでしょうかね。

以前、石山で興師所持の数珠というものを見たのですが(レプリカだと警備の法華講青年部員が言っていました)これはかなり大きなものでした。まず指の間に懸けられるような代物ではありませんでした。懸けられる所があるとすれば、親指と人差し指、もしくは手首。首のわけはないだろうと。

2245ラキ:2005/04/19(火) 22:39:12
皆様。2度目のこんばんはです。^^

犀角独歩さん。
心のもやもやが取れました。
ありがとうございます。
明日のお墓参りで、法華経を唱えてこようと思います。
(方便品。寿量品ですが(^^;))

追伸。
岩波文庫の法華経を購入しました。
御書はネットの方で見て、考え中ですが、真書、偽書の区別がされてるものが
いいかなと思っております。
御書の文を引用されて、話をされたとき、真書、偽書では意味が違ってくるのではと思いますので。

パンナコッタさん。
昭和52年頃までは、右2、左3だったのですね。
些細な事ではありますが、持ち方の変化はふに落ちない気がします。
お数珠の持ち方も、伝統にのっとり受け継がれてきたものと思うのですが、
それを変えるのは余ほどの事ではないかなって感じております。

ご観念文に付いて前に質問させていただきましたが、
学会の大分前の教本。正宗時代の石山版。決別した時の学会版。顕正会版と手に入れられました。
一番新しい学会版は、会館で購入して手に入れようと思っています。
こんだけ手に入れたのに学会の最新版が手元にないのは、
ご観念文の所に「池田氏」の名前が載ってるので、それを指摘されると思って、
提供をしてもらえませんでした。
見比べてみましたが、石山版のが一番いいなと、感じております。
顕正会版は、切ったり貼ったりしてるのが判りました。
学会版は、言葉も出ないぐらい、唖然!
省略しすぎ。現代風にすれば良い物ではないと実感しております。

2246パンナコッタ:2005/04/19(火) 23:40:13
数珠を中指に・・・。 うーん、いつからなんでしょうか。
髪にさせば五つの罪が消えたり、頸にかければ四つの罪が消え、手や肘に持てば
罪が消えるなんて話しもありますから、大昔から決まっていたわけでもないし。
捻りも含めてやはり使い勝手で、数珠も進化していったんじゃないでしょうか。

修験道系では平玉のデカいのを親指にかけていますね。

2247パンナコッタ:2005/04/19(火) 23:49:07
通常各宗派は大体親指に数珠を掛けますが、日蓮宗の祈願と真言宗が中指ですね。

現在の御祈念文の池田さんのところと言うのは、
 広宣流布大願成就と、創価学会万代の興隆を御祈念申し上げます。
 創価学会初代、二代、三代の会長を広布の指導者と仰ぎ、その死身弘法の御徳
 に報恩感謝申し上げます。

で 「池田」という名前は載っていませんね。
52年頃の学会版御観念文には「牧口」「戸田」の名前は載っていました。

潔癖性が度を超すと病的な強迫神経症となり、周りの物全てが汚らしいと思うよう
になりますが、ラキさんの先輩の方もそれに近い症状のようですね。
原因は、ゆがんだ教義を信じている事から来ているのは言うまでもありませんね。

2248犀角独歩:2005/04/20(水) 08:06:11

創価学会の観念文のことですが、ここにはまだ生きている池田さんの名前が載っているわけですか。

また「日蓮大聖人を末法のご本仏と仰ぎ、その教えを」というのであればまだしも、会長指導のみが名目に載るわけですか。なかなか興味深いですね。

2249犀角独歩:2005/04/20(水) 08:52:24

2245 ラキさん

御書に関して言えば、まず確実な真跡を通読することをお薦めします。
最適な書は

平成新修日蓮聖人遺文集 / 日蓮/[著] 米田淳雄/編
http://books.yahoo.co.jp/bin/detail?id=19471150

です。

御書編纂出版について、図でわかりやすく説明しているのは『図録 日蓮聖人の世界』です。真面目に研究している様が伝わります。(こんな調子で彫刻本尊の真偽もやってくれると有り難いと、いつも思っています)
http://www.fujimon.or.jp/tenran/zuroku.htm

2250ラキ:2005/04/20(水) 22:36:18
皆さん。こんばんは。

>創価学会初代、二代、三代の会長を広布の指導者と仰ぎ、その死身弘法の御徳
 に報恩感謝申し上げます。

ご観念文ですが、3代会長まで載っているのは、「みょうもんみょうり」のなす、
傲慢な態度?姿勢ではないかと、感じております。
広布の指導者と書かれているのですから、
亡き4代会長。現在の5代会長は一切無視は、おかしいと感じてます。
あと、ご観念文の省略の凄さは、目に余るものがあります。
現代風に省略すればいいものではなく、先師に対して礼儀を持って接するのに、
ご観念文の省略は、納得が出来ないと思うのは私の意見です。
長いと言っても、数文字。数秒の時間しか違わないのですから。

犀角独歩さん。
御書のお勧めリンクありがとうございます。
「平成新修日蓮聖人遺文集 」値段を見て少し戸惑いが(^^;
図書館で閲覧できればいいのですが、検索してもヒットしなかったので、
悩んでしまいました。
真書。偽書をネットで確認しながら、ネット御書を拝読して行き、
もっと研鑽が必要なら、自然と購入するきかいが来るのではと思っています。
「自分に本当に必要な物は、ご本尊様が与えてくれる境涯になる。」と、言われてますので。
↑学会の指導でよく言われてます。

御書について質問していたら、回答を頂きました。
>顕正会での御書の拝読の仕方を浅井先生がご指導してくれたのでお知らせしますね
『御書は拝読して心肝に染め 実際に身でもって体験すること』です
体験するすることにより御書の意味がわかります

体験と言われても、佐渡流罪は・・・無理そうですね(^^;
微妙に明確な答えではないのが、納得できません。
何を言いたいのかなって?・・・
できれば、解説していただきたく思います。
また、甘えてしまい申しわけございません。

追伸。
お墓参り、無事行って参りました。
霊園の方に聞いたら「日蓮宗の檀家」さんだという事なので、心置きなく、
勤行・小題ができました。
今度行くときは、塔婆をじさんしたいかなと、思っております。

2251愚鈍凡夫:2005/04/21(木) 03:59:15

「むむっ、早く目が覚めてしまった・・・・。そろそろ年寄り予備軍だろうか・・・・・。」 (;^_^A アセアセ…

ラキさんの探求心は素晴らしいですね。
御書の件ですが、経済的に少し余裕ができてから購入されてはどうでしょうか。焦ることはないと思います。
小生の場合は、ネットでダウンロードした創価学会版、日蓮正宗版、日蓮宗版を1御書1ファイルに切り離して、それぞれのフォルダに入れています。理由は、以前使っていたパソコンが相当遅かったものですから・・・(^^ゞ。
日蓮遺文集といった親フォルダにそれぞれのフォルダを登録して、検索ソフトで一気に検索を掛けるといった方法を使っています。この方法を使ってから、御書研鑽が捗るようになりました。

なお、追善法要について、蓮祖は寿量品の「自我偈」を重要視しています。

「例時には阿弥陀経を読み奉り候しが去年の春の末へ夏の始めより阿弥陀経を止めて一向に法華経の内自我偈読誦し候又同くば一部を読み奉らむとはげみ候これ又偏に現当の御祈祷の為なり、」(「下山御消息」学会版P343)

「御姓名並びに御年を我とかかせ給いてわざとつかわせ大日月天に申しあぐべし、いよどの(伊予殿)もあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり、」(「可延定業書」学会版P986)

「彼の諷誦に云く「慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」等云云」(「法蓮抄」学会版P1047)

「此の御房は正月の内につかわして御はかにて自我偈一巻よませんとをもひてまいらせ候、御とのの御かたみもなしなんとなげきて候へばとのをとどめをかれける事よろこび入つて候、」(「春の祝御書」学会版P1510)

「御菩提の御ために法華経一部自我偈数度題目百千返唱へ奉り候い畢ぬ。」(「上野殿母御前御返事」学会版P1568)

ご参考までに。

2252犀角独歩:2005/04/21(木) 05:30:21

ラキさん、おはようございます。
たしかに『平成新修日蓮聖人に文集』は高価ですね。
仮に他の御書全集なんかでしたら、ともかく、年次順に並んでいるのものを選び、冒頭の目録を見て真跡の所在を確認しながら読めばよいと思います。

>> 顕正会での御書の拝読の仕方

これは「井の中の蛙」でしょう。御書の拝し方は顕正会を見習うのではなく、蓮師にその姿勢を見るのが日蓮門下、興師に習うのが日興門下というものでしょう。皆、通じているのは「死身弘法」「其罪畢已」。朝晩、勤行をして折伏をして活動をするなんて簡単なものではありませんね。ちなみに蓮師の読経・勤行その他の修行に充てていた時間は1日8時間ぐらいであったろうといわれています。その他、所を追われ、傷を被り、弟子を殺され、流罪に遭う。仰るとおり佐渡流罪にも遭っています。高校生、集めて伏せ拝させて悦に入っている顕正会・浅井さんなどとは次元を異にしています。「大聖人の仰せのまま」にと蓮師・御書の権威を、自分を飾る姿を浅ましと思います。

墓参いいことをなさりましたね。まあ、塔婆の持ち込みは、わたしはあまり賛同しません。ラキさんが、特定の寺院の檀家であればそれも致し方ありませんが、やはり、墓地を所有管理する寺院にお願いするというのがTPOであるとわたしは思います。もっとも、わたしが墓参に行くときは塔婆は建てませんが。

2253ラキ:2005/04/21(木) 15:06:43
皆様。おはようございます。

愚鈍凡夫さん。
私もネット御書で、愚鈍凡夫さんみたく、ホルダーわけして研鑽しやすいように、
実践したいと思います。
>追善法要について
御書を通してのご指導ありがとうございます。
信・行・学の弱い私には、心強いご指導です。

犀角独歩さん。
年代順の御書でしたら「学会版の編年体」と言う、御書があるそうなので、
それなら、購入できる金額の範囲なので、検討したいと思います。
ただ、学会に貢献する形が問題なので、それが気分的にやかなって(^^;

お墓の件ですが、霊園の管理の方に聞いたのですが、檀家さん用と、
宗派が関係ない場所と二種類存在してると教えていただきました。
私自信は、特定の寺院の檀家ではないので、塔婆供養はやめときます。
気持ち第一ですよね。

意見と言うか、手助けをお願いします。(><)
顕正会の事はまだ、勉強中なので正しく質問・疑問をぶつけても、
ごまかされる心配があります(><)
犀角独歩さんがおっしゃってる御書の研鑽のあり方が、私も本来の姿だと思います。
キリスト教BBSで質問(法論?)をしていると、伝えたら、下記のような返事を頂きました。
ネット伝道で無差別に書き込みをして、私の知り合いのBBSにも書き込みがあり、
色々なHPで書き込みをしてる人だったので、かなり一部では有名な方だったので、
ググッてみたら、良く出入りしてるHPを見つけ、そこにて質問を全員に投げたのですが、
明確な回答は誰もしてくれません。

顕正会も学会も二枚舌!時のおおじて、言動が変るのは変だと思っています。
どんな質問。疑問に対して「仏法の実践・信心」で収めるのは、納得が出来ません。
蓮師の正しい言葉。修行のあり方をちゃんと示してくれれば、納得も出来るのでしょうが、
あいまいな、回答でごまかすのは、いやなのです。
ご観念文でも、石山版の古いのを使用すれば、正宗信徒を名乗っているのですから、
正当性、主張も納得できると思っているにもかかわらず、独自のご観念文のあり方には、
疑問しか残りません。
また、話が脱線しましたが(^^; 皆様のお知恵。アドバイスを頂けたらと思っております。


>法論をするのはやめましょう 相手がわからない(見えない)状態はダメです
失礼&慈悲の想いがではなく楽しむだけでは法を下げる行為になります
また顕正会での正しき信心を身につけていないのに人のことを悪く言うのもどうかと思います
頭ではなく 自身が仏法を実践してほしいです 相手のことはその次です

☆甘えてばかりのラキでした。

2254三学無縁:2005/04/21(木) 22:18:46
>ラキさん
はじめまして、三学無縁と申します。
学会版の編年体御書は現在絶版になっているようですが、書店の店頭などには残っているかもしれません。
古本屋などでは千円から二千円ていどで売られています。
まあ、学会版の御書はほとんど利益のない出版のようですから、「学会に貢献」とまではいかないでしょう。
あとは、正宗の寺院で「平成新編日蓮大聖人御書」を購入して真筆とそれに準ずるものを読むというのもひとつの方法です。
ただし、正宗版も学会版と同様に誤字誤植誤読がありますから注意が必要です。

2255犀角独歩:2005/04/22(金) 10:13:44

ラキさん:

> 「学会版の編年体」と言う、御書

三学無縁さんのご指摘のとおりです。

> 塔婆…気持ち第一ですよね。

そう思います。

> どんな質問。疑問に対して「仏法の実践・信心」で収める

これは操作側と被操作側では意味が異なりますね。
操作(集団・指導者)は、周囲が熱狂することで、自己矛盾も過ちも気付けない状態になっています。この人間にとって、応えも質問もありません。あるのは「自分は正しい」
それに対して、被操作側は、そもそも自分の頭で考えることを放棄させられていることに気付いていません。集団・指導者の打ち出しが絶対に正しい、それは自分の体験から言える、と、こうなっています。
彼らにとって、質疑応答はただ一つ、信じることが正しく・疑うことは悪である、です。ハッサン師は、
「思想コントロールの内容は、メンバーに徹底的な教え込みをして、そのグループの教えと新しい言語体系に身につけさせ、また自分の心を『集中した』状態に保つため思考停止の技術を使えるようにすることである。良いメンバーであるためには、その人は自己自身の思考過程まで操作することを学ばなければならない」(『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版 P118)
「教義は、あらゆる問題と状況についてのあらゆる疑問に答えるものだと主張する。個々のメンバーは、自分で考える必要はない。教義が彼にかわって考えてくれるのだから」(同)
と言います。しかし、一見信者達は、思考停止どころか一所懸命に考えているように見えます。ところが実際は、彼らは集団指導者の教えのように一所懸命に考えているだけで、自分で考えることが停止しているのです。「自分にとって何をするのが最善のことか、自分よりも自分以外の人のほうがよく知っていると信じるようになると、その人は本当に危険である」(同 P348)と注意を促します。決定的な指摘は
「マインド・コントロールの正否は、その人の中に新しい人格を作りあげることにかかっているので、カルトの教義は、きまって、あなたは自分自身を信じてはならないと要求する。教義が、思想と感 情と行動のすべてを決める『マスター・プログラム』となる。それは完全で絶対的な真理そのもの なので、教義のどんな欠陥も、信者自身が不完全だからそう見えるのだとされる。信者は、たとい 本当には理解できなくても、決められたとおりの信条に従わなければならないと教えられる。同時に、真理をもっとはっきり『理解』できるようになるには、もっと働き、もっと信仰を深めなければならないといわれる」(同 P148)

ということです。つまり、彼らは信仰上の信念を語っているように見えながら、実は単に集団・指導者の言うことを自分の個人的体験を根拠として信じ、自分で考えることを放棄させられているわけです。ここでの議論は、やはり、意味はありません。あるのは、その人がどうしてそのように考えるようになったのかという構造を理解させることです。ここでは佛教、キリスト教と言った区別は関係ありません。

2258犀角独歩:2005/04/22(金) 10:18:48
―2255からつづく―

>> 法論をするのはやめ…法を下げる行為

法を下げるなんてことは、まるでないわけです。わたしはこの信仰をやっていると主張する人は別段、法の何も代表していません。
野球で、巨人軍ファンが犯罪を犯したら、巨人軍を下げることにならないのと一緒です。こうして、恰も、一人の人間が法そのものと直接かかわっているような錯覚を与えて、行われていることはただの真理と行動の操作以上の意味はありません。静岡県立大学の西田先生は
『マインド・コントロールとは何か』(紀伊国屋書店)のなかで
「何か集団のメンバーになっていても、もし何か矛盾する事実に突き当たったら、徹底的に疑ってみることが大切である。もし、個人が疑うことに対して、何か罪的な否定的意識を教えこまれているとしたら、それは科学的思考を一切否定していることと知るべきだ」(P227)
と批判精神こそ、健全な心であることを指摘しています。

> 顕正会での正しき信心

顕正会の正しい信心が、本当の意味での正しい信心ではなければ、こんな考えはナンセンス…、というより害悪でしょう。プラス×マイナスはマイナスにしかなりません。そもそも顕正会に正しい信心はないわけです。

> 頭ではなく 自身が仏法を実践…相手のことはその次

この考えはそもそも菩薩を説明する「自未度先度他」という根本精神にも採ります。また、頭で考えることを学といい、一念といい、一心といいます。一切はここからはじまり、ここに帰結します。考えることを放棄させ、会の方針どおりに動くことだけを主張することを精神の隷属、奴隷化ということです。また、言われる仏法の実践が、本来の意味での仏法の実践ではなく、単に会に都合のよいように会員を動かすことに付けられた便利な名称であるという仕組みを理解する必要があります。

以上、ラキさんに申し上げたというのではなく、わたしならば、以上のように応えるというプロトタイプを示してみました。

2259ラキ:2005/04/22(金) 11:54:47
皆様。おはようございます。

三学無縁さん。はじめまして^^
古書店で御書探してみます。

>ただし、正宗版も学会版と同様に誤字誤植誤読がありますから注意が必要です。
これは初耳と言うより、驚きです!編纂に時間を掛けて、正しく作られた物と聞いておりましたが、
これでは、大聖人さまも嘆いておられるのかと、悲しい気持ちです。

犀角独歩さん。
判りやすい、ご指導ありがとうございます。m(__)m
ここの掲示板では、気軽に疑問・質問が出来て、皆様が回答をしてくれて、
疑問・質問の追及?知りたい気持ちが満たされるのに、
組織に入ってる人に質問をしると、実践第一!考えるのは後みたいな感じには、
変と思っていましたし、逆に質問するのが疑い?信仰心のなさみたいに思えてくる、
感覚も覚えたりもしました。
犀角独歩さんのおかげで、私自身の信念。知りたい気持ち。
疑問などは、全部ぶつけていこうと思います。

追伸。
> 顕正会での正しき信心
「顕正会での正しき信心てなに?」と求めたら、日蓮大聖人の仏法を正しく実践していく事と、
回答が来ました。
そして「私が思う大聖人様の正しき信心とは何ですか?」との問いに対して、
私は「信・行・学」御書を拝読して学び、実践して、行動をする事だと、思うといいました。
難しい事は判らないのですが、御書は私達の「教科書」みたいな、学ぶための大切な書物だと思っています。
御書の勉強もしないで「日蓮大聖人のお心がわかるのか?との思いです」
信心を実践していけば「大聖人のお心が判る」との言葉には、納得できなく、
御書に書かれてることは、大切な事だと私は思っています。
私なりの考えですが、ご意見・ご指導のほど宜しくお願いします。
当分、顕正会の人達とお話しするきかいが多くなるので、気持ち的に私の考えはと、
不安になることもしばしばなので、少し自信がないのが本音です。

2260犀角独歩:2005/04/23(土) 01:39:38

ラキさん:

> 疑問などは、全部ぶつけていこう

どうぞ。100%、変化球、剛速球、なんでもOKです。
わたしは最後の最後まで、議論から逃げません。お付き合いしますよ。
ただし、その結論が、信仰者ご本人にとって、まことに受け入れがたいものになった場合、ご自身の頭で考えるところまでは責任は持てません。しかし、ラキさんは、そんな操作下ではないと思います。

> 信心を実践していけば「大聖人のお心が判る」

そんなこと、わかるわけがありません。
蚊に刺された人間が、瀕死の重傷者の症状とは隔絶する如くです。
1+1が2だとわかっても、相対性理論がわからない差異です。
ひとこと言えば、信心をしてしまったればこそ、わからなくなったことがたくさんあるという認識を信者は自覚すべきなのです。

> 不安になる

そんな必要はありません。あくびをしていてもできる範囲のことですから。

2261ラキ:2005/04/23(土) 10:16:15
皆様。おはようございます。

犀角独歩さん。
いつも判りやすい回答・ご指導ありがとうございます。m(__)m

2260のレスで自信がもてました。
学会の人には、学会批判に近いような微妙な質問でも、ごまかし逃げる癖があり、
話にならないほど、ダメな組織と確信しております。
会合優先の信心ておかしいとも、聞いたことがありました。
会合する暇があるならば、部員さんの家を周って対話をして行くのが、
実践(行)をしていく行いの一部ではないかといいましたが、
会合も大切な信心と言われて、普段の部員さん訪問は時間がなくて・・・
それて、自分に対してのいい訳であり、魔に負けてる証拠では?と、あきれてしまいました。

顕正会の方は、今、書籍等を読んで勉強しております。
正しい信心を主張してるわりには、物理的襲撃事件等、仏法実践者の姿とは思えない行動が、
言葉の真実味をなくす行為だと感じました。
ただ、途中までしか書籍を読んでませんが、多分、都合の悪い歴史は一切書かれていないでしょうし、
また、知らない人が大半ではと思います。

昨日、御書探しを古本屋さん巡りで探していたのですが、探すと見つからないな〜
て数時間歩き周り、ふと、お寺で購入した御書なら、顕正会の人も、間違った編纂とかいいわけが出来なくて、
いいかな?と思い、足を伸ばしたら、御書は本山でしか購入できないと言われました。
求める人に提供できないのて、変と思いつつ、教本だけ購入してまいりました。
ご観念文や勤行の作法は一切変化がなく、日蓮大聖人の仏法を正しく実践してると、
豪語する信徒団体は、基本の勤行自体独自な物に変化させてるのは・・・
納得が出来ないので、再度追求したいと思います。

2262犀角独歩:2005/04/23(土) 10:24:33

ラキさん、ご健闘をお祈り申し上げます。

2263パンナコッタ:2005/04/23(土) 13:47:50
顕正会の正しい信心についてはよく解らないので、参考として以前載った記事を見てみると、

『興味深いのは、地震学の権威、石橋克彦さん(神戸大教授)の見解を引用し、科学的な装いをこらして
巨大地震の到来を主張しているが、国立戒壇が実現され「日本は金剛不壊の仏国」となれば、なぜ地震が
やってこなくなるか、大陸プレートの動きがどうして止まるのか、まるで説明がされていないことだ。
それは北朝鮮の侵略についてもそうで、なぜ日本の国教が「顕正会」となれば、金正日の心が清らかになり、
核やミサイルの開発をやめるのか。説明はまるでない。』
『功徳を信じない相手に対しては、地震、北朝鮮など日本滅亡のシナリオを具体的に話し、不安感を煽る。』
『籠の中の小鳥ゆえに、新聞やテレビのニュース番組は見ようとしない。そればかりか、浅井は日蓮の基本
文献である「御書」の学習さえ勧めようとしないから、日蓮を本仏と崇めたてながら、
日蓮さえ理解出来ていない。籠の中で聞くのは、浅井流の独自解釈が入った日蓮の教えだけである。』
  カルトの正体   顕正会ー仏教ラディカリズムの嵐 米本和広 より抜粋・引用

2264パンナコッタ:2005/04/23(土) 13:48:29
 続き
『信心すれば功徳が得られ、信心が薄ければ罰が当たる。折伏すればするほど福運が付くし、宿命転換ができる。
そればかりか一刻でも早く顕正会会員を一千万人にしなければ、日本は滅んでしまう。
 ここに見られるのは、カルト特有の見事なまでの白か黒かの二元論である。功徳か罰かと問われれば、
功徳を取るのは当然だ。』
『人生を変えることが出来るかもしれない宿命転換とか福運とか言われると、ついつい引き込まれてしまう。
いちど入信すれば、目標を同じくする仲間たちがいる。一つの目標に向かって集団で動く。そんな経験は
なかったから、新鮮に映り、仲間との連帯意識のもと、勧誘活動に励んでいく。
 自分の存在や人間関係にリアリティが感じられない悲しい時代なのだ。顕正会はそんな時代の徒花といってよい。』
   カルトの正体   顕正会ー仏教ラディカリズムの嵐 米本和広 より抜粋・引用

2265犀角独歩:2005/04/24(日) 01:21:14

パンナコッタさん、米本氏の顕正会理解が正確はどうかは別として、蒙古と北朝鮮、決定的に違っていることがありますね。蓮師の考えでは、日本の国主が(法華経を持たないという意味で)悪王なので、「隣国の聖人に仰せつけ」て、日本を治罰するというのが蓮師の他国侵逼難観ですね。

もし、北朝鮮が攻めてくるとすれば、この「仏法の方程式」(笑)から言うと、金正日は聖人ということになります。

パッチワークな言説はこうして矛盾を来していくものなのですね。

2266ラキ:2005/04/24(日) 22:11:31
皆さん。こんばんは。
勤行に付いての明確な回答は得られませんでした。
何故、5座3座が1座長行のみになったのか、知らないみたいです。
正宗の教本を見せて、ご観念文の部分も聞きましたが、なぜ変化したのかも不明です。
大聖人の仏法を正しく受け継いでると自負するなら、5座3座の勤行。ご観念文の変更は、
疑問の出しかありません。
(妙信講時代は、石山版の経文を使用していたのは事実なのですし)

御書についてですが、浅井氏の御書講義で勉強してるので、特に研鑽は必要ないとの事でした。
御書拝読しても、文上の意味しかわからない、それどころか、文上の理解さえも出来ない。(読めない)
との意見でした。
学者が書いた物とかは、信心がない研究なので、大聖人のお心はわからないと。
私が感じるのは、正しい解釈は重要ですが、読む人の心の捉え方で、意味はわからなくても、
なんとなく判れば、いいのではないかと思うしだいです。
いつか、御書の意味がわかる時が来ると思っているからです。
色々な階層の信徒にお手紙を出されていますが、自分に当てはまるお手紙だけの拝読は、
偏ってしまうから、全体を通し拝読して何かつかめるものがあればそれでいいのではと、感じます。

一つ驚いた事があります。
ビデオセミナーで、浅井氏がお題目をいきなり唱えたのですが、多分最初にお題目の三唱をするのは、
毎回だと思われます。
そこで、参加してる人がいきなり、画面に向かいお題目三唱をしたのが、
「何故?画面に向かって、浅井氏が映ってるだけなのに、合唱してお題目を唱えるのか?と思いました。」
そのことに付いて質問をしたら、何か意味があったけど忘れてしまった。
意味があるにせよ、ご本尊が目の前にあり、そちらに向き直って、お題目を唱えるのが筋ではないかといったのですが、
いきなりお題目を唱えるので、向き直るのは難しいからと・・・
最初にお題目三唱をするのがわかっているのなら、ご本尊に最初は向かって、
お題目三唱が済んでから向きを変えればいいのでは?聞きましたが、
浅井氏に合唱して唱えてるわけではなく、内徳信仰の時とおなじで、ご本尊を思いご本尊に祈ってるのて、
目の前に「ご本尊があるのに!」無視してる印象、感じはぬぐいされませんでした。

浅井氏のビデオセミナーでの講義?見たいなのは、何を言いたいのか、理解不能!
今月中に目標下種の達成を目指しているて事しか理解できず、御書の引用とかも
サッパリ、???て感じです。
御書講義の本を読みましたが、最初の御書解説で、わからん!なにか違う気がする。
と思い、読むのを断念。
ここまで、私に途中挫折させた書籍はほとんどないのに、読む価値?もない思いで、
同じ御書講義なら「学会版」の御書講義のほうが読みやすさ。解説の丁寧さでは、
上だと感じました。

追伸。
「折伏経典」学会版。昭和26年11月18日 初版発行の昭和43年9月16日
改訂29版を借りる事が出来ました。
編集者。創価学会教学部
発行者 森田一哉

2267藤川一郎:2005/04/25(月) 11:36:31
>>2266
「御書についてですが、浅井氏の御書講義で勉強してるので、特に研鑽は必要ないとの事でした。」
それは変ですね!浅井氏への師敵対ですね。浅井氏自体が2度も御書発刊の発表をしております。

「御書全集は広宣流布の為に絶対必要」(顕正新聞 昭和60年2月25日号)
「御書全集編纂始まる」(顕正新聞 昭和60年4月25日号)
「御書全集、数年以内完結」(顕正新聞 昭和60年5月15日・25日合併号)

また平成7年にも浅井氏は
「顕正会版の御書全集を発刊する。広宣流布には絶対に必要。」
と述べられてますね。しかもこの時の発表では「御書全てに浅井氏の講義を付ける」
「上中下巻からなる全3巻とし、2年で1巻を発刊する」

これもどうなってるのですかね?

2268ラキ:2005/04/25(月) 11:53:01
皆様。おはようございます。

藤川一郎さん。はじめまして。
昭和60年に御書全集の発刊を表明してるのですね。
表明から20年経った現在でも、発刊はされていないとは・・・
「有言実行」であるべきなのに、嘘?〜〜〜建前だけ?〜〜〜〜
20年も編纂には掛からないのに、10年前にも表明してるんですね。
これは確認して、真相を究明したいと思います。
貴重な情報提供ありがとうございました。m(__)m

2269藤川一郎:2005/04/25(月) 13:03:47
実は、御書全集などはできの良さを気にしなければ、いくらでも速く出来るんですよね。
今まで既に出ている全集等を底本にすればよいのですから!
しかしながら浅井氏は全てに講義を付けるなど出来もしないことを発表するために、自身の首を絞めている訳です。
もっとも最初から、御書発刊など本気でないのかも知れませんが!

2270犀角独歩:2005/04/25(月) 22:14:11

横レス、失礼します。
藤川さん、顕正会・浅井さんの御書出版に関する発言、よく整理されていて、参考になりました。有り難うございました。

2271ラキ:2005/04/26(火) 22:44:22
皆さん。こんばんは。

ふと、些細な疑問が浮かんだのですが、
広宣流布(仏法?)に使った金銭は、戻ってくると聞きますが、何を根拠に言ってるのか、
疑問に思いました。
御書などにそのような記載文があるのでしょうか?・・・

追伸。
今日図書館で「平成新修日蓮聖人遺文集 」と「 図録日蓮聖人の世界 」を
読んできました。
ついでに「田中氏」の本も見かけたので少し読んできましたが、大聖人の仏法を、
受け止める側で、思想・考えが違ってくるのかな〜との思いでした。
大聖人のお心。真実はどこにあるのだろ〜私に理解できる時が来るのかな?
と、考えてしまいました。
真実を知りたい思いでいっぱいです。
やはり、真書を読んで考えるのが一番なのでしょうか?

2272犀角独歩:2005/04/27(水) 11:18:21

2271 ラキさん

> 広宣流布(仏法?)に使った金銭は、戻ってくる

もし、そんなことを言い、供養を募る者があれば、よほど、仏教の流れを知らない素人か、詐欺師でしょう。

何故ならば、供養は、元来、喜捨と言われ、何ら見返りを期待することなく、「喜んで捨てる」ものであるとされてきたからです。

2273ラキ:2005/04/27(水) 20:51:21
皆様。こんばんは。

犀角独歩さん。
>供養は、元来、喜捨と言われ、何ら見返りを期待することなく、
「喜んで捨てる」ものであるとされてきたからです。

初めて知りました。
ご供養は気持ちで、額ではないとは言われていましたが、ご供養した物は、
福運となり自分に戻ってくると聞いておりました。(学会では、増えて戻ってくると)

顕正会でも、広宣流布の活動に使ったお金や、年に1度の募金などのお金は、
使った分だけ戻ってくると言っております。
結局両団体は、広宣流布を名目に、折伏をすれば福運が付く!
書籍配布のお金も自前で行いますが、福運!福運が増えるとの甘い言葉で、
信者獲得、書籍販売で設けるために嘘を言ってる事になるのですね。

体験発表や新聞の発表など、ただの偶然だった事なのでしょうか?
今まで、信じて自分が困ったとき、助けてもらえると信じてご供養していたのって、
意味がないのですね!(><)
真実を知って、少し落ち込んでしまいました。
もっと研鑽したいと思います。

2274愚鈍凡夫:2005/04/27(水) 22:52:27

横レス失礼します。

「オイオイ。二日酔いは直ったんかぁ。変なこと書き込んだら出入り禁止になるでぇ!!」(by 外野席)
★☆★凸(--メ)(--メ(--メ)凸★☆★キングギドラ怒りぃ〜!

会員に良い事があれば御利益と言って、更なるご奉公を奨励し、悪いことがあったらあっで「魔が競ってるねん。成長するチャンスやで」なんて、変な激励をし、これまた更なるご奉公を強要されます。結局は、「会のため、○○先生のため」に奉公することが広宣流布であり、日蓮大聖人に連なる者の使命であると、「悲しい自己満足」を奨励されるのです。
教団にとっては、タダで汗を流してくれる会員が多ければ多いほど潤うわけですから、会員がどう転ぼうと、教団の利益になればそれで良しということでしょう。

2275ラキ:2005/05/03(火) 22:14:42
「ごりんじゅうのさい、日蓮むかん(へ?)そうろう」
御書検索で調べましたがヒットしなくて、「日蓮」で検索しても、類似するような
御金言がありませんでした。
歴代上人の御文などで、このような言葉が記載されたものとかあるのでしょうか?
類似してる御金言又は、御文を知ってる方がいましたら、教えて頂けないでしょうか?
お願い致します。m(__)m

2276ラキ:2005/05/03(火) 22:19:29
もう一つ忘れてました。
「けいていしょ」なる御書か歴代上人の著書?は、存在してるのでしょうか?

2277問答迷人:2005/05/03(火) 22:42:15

>けいていしょ

兄弟抄のことではありませんか

2278愚鈍凡夫:2005/05/03(火) 23:39:22

>>2275:ラキさん、どうもです。

> 「ごりんじゅうのさい、日蓮むかん(へ?)そうろう」

次の文の事ではないでしょうか。

「相かまへて相かまへて、自他の生死はしらねども、御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし。」(「上野殿御返事」学会版P1558)

2279ラキ:2005/05/04(水) 00:47:32
問答迷人さん。愚鈍凡夫さん。
回答ありがとうございます。m(__)m

質問に回答を頂きましたが、知りたかった理由は、
身元が判明する可能性があるので、今回はご容赦の程お願い致します。m(__)m

調べたのですが、解釈をどう受け止めていいか、迷ってます。
勤行の話をしていて、1座は蓮師の言われた作法ではなく、
また、歴代上人も勤行に付いての御文で述べられていますが、
その事を、相手に話したら、経文の文から。
「一心欲見沸 不自惜身命」ではないかと言われました。
言った本人は現代訳の意味は知らないで使用したので、調べたのですが、
「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず」 
この意味から私が思うのは、信心(信じる心)が大切で、身命を惜しまない「行」(折伏)が
大切だと、言いたかったのかとも考えております。
だから、この意味では、五座三座の勤行が1座で良いのか理解できません。
蓮師のお心に叶う意味で述べたのかも知れませんが、何かアドバイスでも頂けたら、幸いです。
今は、学びたい・学べる喜びで嬉しいです。^^
信・行がないとダメ!て言われましたが、私は、前にも述べましたが、
やはり、学びたい気持ちの方が大きいです。
それでは、御書拝読してまいります。

2280愚鈍凡夫:2005/05/04(水) 01:21:31

ラキさん、どうもです。
蓮祖遺文における「不自惜身命」の使用例は、写本にのみあります。
「教機時国鈔」、「松野殿御返事(建治二年十二月)」、「義浄房御書」
勤行に結びつけて言う場合、「義浄房御書」を依文としていると思われます。次の文がそれです。

「寿量品の自我偈に云く「一心欲見仏不自惜身命」云云。日蓮が己心の仏界を此文に依て顕す也。其故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事此経文なり。秘すべし、秘すべし。」(義浄房御書)

しかし、この書は偽書の疑い濃厚なので、蓮祖の御心とは言えません。また、内容から言って勤行とは関係ないですけどね。

五座三座というのは、本来場所を変えて行われてきた勤行の名残です。したがって、必要以上に拘る必要はないと思います。だから観念文も含めて、勤行に関してはラキさんが納得できる形のものを採用されてはどうですか。
以前、犀角独歩さんが仰ってましたが、蓮祖は方便品・寿量品ともに長行であったと思われます。ご参考までに。

2281ラキ:2005/05/04(水) 02:32:52
愚鈍凡夫様。
毎回、丁重な回答ありがとうございます。m(__)m
御書拝読してふと、現代訳とか御書講義の一番信頼がおける書籍とかあったら、
いいな〜と思ってしまいました。(^^;

今、法華経(岩波書店)方便品を見てみましたが・・・・
方便品の長行て本当に長い〜長行と思い、ビックリしました。(^^;
私は五座三座の習慣がありましたので、1座だと何か違和感があり、
ここの掲示板を拝見させて頂く様になり、蓮師がどのように勤行をしていたのかと思い、
前にも質問をさせていただいたしだいです。
私は、三座が一番大好きです。(五座だと足がしびれるので(^^;)
ご観念文は、初座、ニ座、三座、五座が好きです。
四座の某・・・の御観念文も好きです。
広宣流布は?とお叱りを受けるかも知れませんが、
正宗系団体の「広宣流布」の名目で、言葉が汚いですが「金集め」の名目な気がして、
好きにはなれないです。

勤行の作法に付いては吹っ切れました。
色々ご指導してくれた皆様。ありがとうございました。m(__)m

追伸。
方便品・寿量品の長行を一度実践してみたい思いです。
(カナ振らないと読めないのに、無謀な決意?(^^;)

2282ラキ:2005/05/04(水) 02:48:13
度々変な疑問浮かんでしまい(i ゜__ ゜)タラー…  
御書全集が最初に発刊された(作られた)のは「戸田」氏の時と聴いた記憶があります。
そうすると、それまでの御書全集と纏められた物がなくて、
御書研鑽をどうして行っていたのか?と思ってしまいました。

(つぶやき)
今現在は、御書全集と纏められた書籍があり、
石山。学会は独自の御書があります。
顕正会の浅井くんは、どこの御書使ってるのかな?・・・
まさか!学会版御書て落ちは無いですよね?(;^□^)あはは…

2283パンナコッタ:2005/05/04(水) 11:21:48
学会版御書の元は、平楽寺書店版ですけど。

2284ラキ:2005/05/04(水) 23:54:25
パンナコッタ様。
ご回答ありがとうございます。m(__)m

ググッて見ましたが「平楽寺書店」は歴史がある書店だと、驚きがありました。


皆様へ。
電子空間の放浪をしていて、ふと思った疑問です。
(外国語を使用すると、どこかの教団に謗法〜!と言われそうで。笑)

諸天の中に、日本古来の神が含まれていますが「天照大神」「八幡菩薩」
何故「神道」の神が含まれたのだろうと、感じております。

(ここから、つぶやきです。)
昔は「神道」=「宗教」みたいな、概念がなかったのか?
「神道=心道=真道」と、文字ではなく、音読説で考えたのですが、
「しんどう=心の道」「しんどう=真っ直ぐな道」的な、考えがあったのかな?とも、感じております。
これでは、答えになってない・・・
自分で書いていて、私てやはりおバカすぎです。(><)

2285パンナコッタ:2005/05/05(木) 00:57:20
ラキさん。ここでは”さん”付けですよ。 !(^^)!
平楽寺書店の建物、なかなかいいでしょ。
神道に関しては「本地垂迹」「神本仏迹」を含め愚鈍凡夫さんが「信仰は役に立つか」のスレで
指摘していますので、そちらを参考にしてください。

2286愚鈍凡夫:2005/05/05(木) 03:29:47

> 自分で書いていて、私てやはりおバカすぎです。(><)

いや〜っ、それを言わないでください。小生のHNなんかは、そのものですから。 σ(^◇^;)
何せ、私生活でもボケまくっているもんで・・・・・。 (^_^;)
まぁ、そんなことで、このHN、気に入ってますけどね。 (;^_^A アセアセ…

「小生ってMだろうか・・・・・。結構、自虐的。」(by 独り言) (○ ̄ 〜  ̄○;)ウーン・・・

2287パンナコッタ:2005/05/05(木) 12:16:06

愚鈍凡夫さん。
>「小生ってMだろうか・・・・・」って、
宗教において、絶対のモノに対する服従は、みんな”マゾ”ですよ。(^o^)

2288犀角独歩:2005/05/05(木) 14:19:56

>2287

これは箴言ですね。

2289犀角独歩:2005/05/05(木) 16:46:14

突然、思い出しましたが、パンナコッタさんが記した箴言を裏付けるのがE・フロムの『自由からの逃走』でした。この中でサディズム、マゾヒズムを説明要素として、たしか採り入れていたと記憶します。30年前に読んだ本なので、記憶が曖昧ですが。

2290パンナコッタ:2005/05/05(木) 17:26:03
ああ、下品でしたね。失礼しました。<(_ _)>

しかし、宗教は精神的快楽を与えるシステムの一つであり、信者にはそれによる受け身の部分
がある事は事実ですし、それをM的と表現してもそんなに外れてはいないと思いますが。

2291犀角独歩:2005/05/05(木) 18:05:16

いや、わたしは「下品」などと言っておりませんよ。
また、フロム自身、マゾヒズム語を使って説明していましたから。

2292パンナコッタ:2005/05/05(木) 20:47:40

いやぁ、2287の文は下品だと書いた本人が思っているので。(^^ゞ

渇仰した信仰でひれ伏す信者の姿とは、「精神的マゾヒズムの極致」だと思いますが。

2293ラキ:2005/05/05(木) 22:28:33
皆様。こんばんは。

パンナコッタ様。
スレッド情報ありがとうございます。m(__)m
早速、閲覧したいと思います。

>ラキさん。ここでは”さん”付けですよ。
お心使いありがとうございます。^^
調べ物をしていて、ネット御書を拝読していて、ふと思ったのです。
「様。氏。さん」て?・・・
いつも、皆様の知識の深さに尊敬をしております。
ここの板では、教えてもらう立場なので、
私の思いでは「様」が一番ふさわしい、気持ちなので、ここの板では、このままにさせてください。
他の板では「さん」とお呼びさせていただきます。


愚鈍凡夫様。
>いや〜っ、それを言わないでください。小生のHNなんかは、そのものですから。 σ(^◇^;)
私自身、変な事に興味が行くみたいで、それで、オバかと言うことで(^^;

本日、お寺に参詣に行って来たのですが、また、変な事(疑問)が浮かんでしまい、
困ったちゃんでしかたがないです。(^^;

(恒例のつぶやき?汗)
仏具の「蝋燭立て。おしきみ容れ」の、取っての部分が、象の鼻の形をしてるのは何故?
そして、御香を焚いてる丸い形の御香の「蓋の部分の上の彫刻」これって、
「獅子?シーザー?」みたいな、動物が乗ってるのって、何でかなって?・・・
あと、ご本尊の安置されている「台座?戒壇?」の下の部分にも、「獅子」みたいな
彫刻が彫られているのて?と変なことばかりに、目が行ってしまいました。
インド仏教の影響?名残?・・・
天道説の「地」を支えてる、意味かな?とも・・・
もっと、オバかな発想は、ご本尊に「南無天台大師。南無妙楽大師」が居るのは、
何故だろうと?・・・・
私て(i ゜__ ゜)タラー…

2294パンナコッタ:2005/05/05(木) 23:33:18
ラキさん。お気持ちは大変解るのですが、ここの板のルールと言う事であくまでも
さん付けでお願いします。 管理人さんに怒られちゃいますよ。

象の鼻とかってそうゆうのは見ないと誰も解んないですよ。ただ普通は植物の蔦とかの
意匠だと思うんですがねぇ。

シーザーってカエサル? 沖縄のシーサーの事ですよね。この辺は獅子像とか狛犬でクグって
みてください。また狛犬は三遊亭円丈さんが大家なのでその方面にも検索をかけるといいでしょう。
ちなみに円丈さんが寄進した狛犬の尻尾は、かぜ(扇子)なんですよ。

天台大師は大抵勧進されていますが、妙楽大師は割と珍しいですね。妙楽大師の勧進については、
蓮祖の、著作・曼陀羅の真偽について で法則性が指摘されていましたのでそれを参考に。

2295ラキ:2005/05/06(金) 02:43:38
拝読終わりました。(目がちらついてます。(^^;)

パンナコッタさん。
>ここの板のルールと言う事であくまでもさん付けでお願いします。
了解いたしました。

仏具の疑問もなんとなくわかりました。
「象の鼻のような取っ手」ガネーシャの鼻を意味してるのではと?
そして、彫刻は諸天なのではないかと、私は思いました。

妙楽大師の回答ありがとうございます。m(__)m
後日、拝見させていただきます。

追伸。
管理人さんへ。
掲示板のルール違反をしていまい、大変申し訳ございませんでした。m(__)m

2296管理者:2005/05/06(金) 06:42:53

ラキさん

>掲示板のルール違反をしていまい、大変申し訳ございませんでした。m(__)m

ご協力を感謝いたします。どうぞ今後とも宜しくお願い申し上げます。

2297パンナコッタ:2005/05/06(金) 12:34:26
ガネーシャってインドの土着神でしょ。日本では聖天や歓喜天になっていますし、
古代のナウマンゾウとかは別にして日本に象がいたのは徳川吉宗が見せ物にした
ぐらいですし、ヒンズー寺院にでも行かない限り直接は関係ないかと思いますが。
ただ、その仏器の制作者がヒントにした可能性はあるかもしれません。

2298ラキ:2005/05/06(金) 14:21:33
みなさん。こんにちは。

管理人さん。
ありがとうございます。こちらこそ、今後ともよろしくお願い致します。


パンナコッタさん。
>ガネーシャってインドの土着神でしょ。日本では聖天や歓喜天になっていますし

「ガネーシャ=歓喜天」だから、仏具に使用しても問題がない。
諸天の仲間だからと思ったのです。
諸天なら、彫刻に使用しても問題がない、そのように感じております。
仏具が信仰の対象ではないので、謗法にはならないと、浅井系団体の方は言っていましたが、
何でも謗法と厳格に言ってるのに、変なとこでは柔軟なのが、ハァ〜〜
とため息が出ます。

追伸。
暖かい季節になってきたので、「蓮師ゆかりの地」散歩でもしたいと、思ってるのですが、
お勧めがあれば、参考にしたいので教えていただけないでしょうか?
鎌倉をメインに考えております。
蓮師ゆかりの地ツアーとかあったら、素敵かな〜とも、思う今日この頃。
ここのHPで主催とかなら、色々な話が聞けて、観光ツアーのガイドさんの説明より、
有意義なお話が聞けて楽しい思い出が、できるのではとも思っています。

2299パンナコッタ:2005/05/08(日) 00:41:03
ネットやムック本などに鎌倉の散策ガイドがあるので、それを参考にゆかりのルートを
たててみるのも面白いと思いますよ。
又蓮祖とは直接関係ないですけど、平家物語に出てくる主馬盛久頸坐なんてのありますが
龍口の法難を考えてみるのにいい所だと思いますよ。

2300犀角独歩:2005/05/08(日) 00:50:37

蓮師、ゆかりの地で鎌倉。まあ、そうでしょうね。
蓮師入滅の地に住む、わたしからすれば、こっちのほうがいろいろありますよ、と呼び込みの一つもしたくなりますが、まあ、似合わないのでやめておきます。

2301ラキ:2005/05/08(日) 02:47:17
パンナコッタさん。
日帰りなので、欲張ってたくさん周りたいと思って、以前に調べた事があるのですが、
1日で回りきれるかと思い、お聞きさせていただきました。
再度計画を練って、周りたいと思います。
草案から龍ノ口までの歩みとか・・・

犀角独歩さん。
池上も行きたいと思っております。
学会に居た頃は謗法の地は、行くべきではないと言われていました。
正宗では参詣は問題ないと、述べられているので、堂々と参詣したいと思ってます。
是非、呼び込みしてくださいませ。^^
呼び込みついでに、ツアーでも開催してガイドでもしていただければ、と甘い考えを心で思っていたりします。(^^;
あ!必見!蓮師ゆかりの地ガイドブックなんてあったらいいな〜と、独り言(^^;

追伸。
私は関東に生息しておりますので、千葉〜富士までなら回ることが可能なので、
色々たずねてみたい思いです。

2302愚鈍凡夫:2005/05/08(日) 06:31:08

むむっ、関東に生息とな・・・。ひょっとして新手のカラスかも。 ( ̄Д ̄;;
石原さんに言ってやろう。

2303犀角独歩:2005/05/08(日) 08:56:48

ラキさん

> ツアーでも開催してガイド

わたしにツアーコンダクターをやれと(笑)

とはいうものの、このようなことは過去に何度かやりました。
いちばん、最初は問答さんとでしたか。西山、東光寺、北山、天母山、興師の寓居、本門寺建立の予定地と言われる場所、真の浅間神社のご神体といった場所を地元の、日蓮宗僧侶の方に案内してもらったものでした。

2度目は、身延から西山、油野を抜けて、石山、北山へと、現役顕正会員を含む、数名で周りました。わたしも含めて、石山に久方に入ると、俄に興奮があり、感嘆の声を挙げながら客殿前に至ると、法華講婦人部とおぼしき人から不審尋問を受ける一幕もありました。個人的には、わたしは身延の宗廟・草庵跡、あの地は好きです。

3度目は鎌倉へ。しかし、これはひどい渋滞で、道路の混雑、空腹ばかりが思い出に残るところとなりました。

あと、関西でも問答さんを筆頭に、古刹寺院を尋ねるツアオフをやりました。

しかし、こうして、思い返してみると、そんな参加者の方々は、みな「卒業」していかれました。それはそれでよかったことでしょう。

なお、東京オフ会の開催は、池上本門寺に隣接する区の施設を使っています。そんなことから、境内を皆で散策することはよくあります。少し足を延ばせば、蓮師が多摩川を渡ったという矢口渡(やぐちのわたし)、足を洗ったという伝説が残る洗足池など、いくつか史跡は、この周辺にはあります。

そんなツアオフがご希望でしたら、しばらく開催していないので、企画してもいいですよ。その際は、ラキさんが開催者側として労を惜しまないでください(笑)

2304パンナコッタ:2005/05/08(日) 10:40:09
先のオフ会の前にちょっと時間があったので、独歩さん、三学さん、彰往さんと、本門寺の
境内を見て歩きましたが、やはり”フィールドワーク”をするのであればこのような少人数
の方がよいでしょうね。

寺庭婦人の紫蘭さんのHPに駆け足道中の記事(宗報に載ったらしい)があったと思いますので
それも参考にしてみては、いかがでしょうか。

2305犀角独歩:2005/05/08(日) 11:06:47

パンナコッタさん、どうも。

この前はずいぶんと駆け足の散策でした(笑)
本堂は一尊四士でしたね。わたしは座像であったのが印象に残っています。

2306パンナコッタ:2005/05/08(日) 20:21:06
ひたちさん、はじめまして。
>学会の青年部は正宗の板本尊が偽作であるという前提のもとに各地で論を展開していますが、

えっ、これって部単位ぐらいで既に示し合わせているものですか?
第三文明四月号には、「御本尊不敬の日顕に相承なし」という記事がでていて、だいぶ先の事と
思っていたものですから。

2308ラキ:2005/05/08(日) 21:13:11
愚鈍凡夫さん。
新手のカラスて・・・TT
せめて新種にしてください〜(^^;
カラスとは「正宗系団体の代表」の方々と同じになってしまいますぅ〜

犀角独歩さん。

>わたしにツアーコンダクターをやれと
色んなお話が聞けると思っただけで、わくわくしてしまうので、お願いしたいです。
楽しそうな、ツアーが今まであったんですね。
参加したかったです(><)

>そんなツアオフがご希望でしたら、しばらく開催していないので、企画してもいいですよ。
その際は、ラキさんが開催者側として労を惜しまないでください(笑)
かよわい私に人力車を引けと?・・・(笑)
私がお手伝いできる事て?・・・迷子防止の旗持つぐらいですか?(^^:

パンナコッタさん。
>寺庭婦人の紫蘭さんのHPに駆け足道中の記事
参考にさせていただきます。
書店で鎌倉の観光ガイドを見てきたのですが、「ゆかりの地」リストを先に作らないと、
どこを周っていいのか、悩んでしまいました。(^^:

追伸。
ここは、気持ちが和みます。
御書を読み、教学を学びたいと法華講関係者の方とお話したのですが、
御書を読むのはかまわないけど「正しい解釈」が出来るのは「日顕さん」
だけだと言われました。
自分なりの解釈では、間違った解釈をしてしまうからだそうです。
それよりも、信・行に励みましょう・・・て、なにか、疑問に思ってしまいます。
目から知識を入れるのではなく、耳で聞き、信心でて、折伏行を行うには、基礎教学は必要だと思ってますし、
矛盾点を指摘される恐れのある、教学は後回しで”信心”が根本を強調するのは、(o¬ω¬)----☆ぁ ゃι ぃ
て思っちゃいます。
真面目な?石山系団体の方が見たら、激怒しそうな、聖書や他団体の書籍をいっぱい持ってる私て・・・
地獄行きの直通専用エレベータに乗ってるのかな?(笑)

2309れん:2005/05/08(日) 21:21:58
学会青年部…板本尊偽作…論を展開…

私のネット上の知り合いのさる学会員さんから、法華講員と学会員の対論している板を教えてもらいまして、その板を見ましたが、確かに、その板に投稿している学会員は石山の彫刻本尊・二箇相承・各種相伝書を後世の偽作として論を展開してましたね。ただその内容そのものは、こちらの板で過去数年間にわたり論じられてきたことの焼直しのレベルだと言えます。

2310犀角独歩:2005/05/08(日) 21:29:01

ラキさん、それでは企画しましょうか。

身延までの遠出は、ちょっと、地元を離れられない事情がありまして、わたしは今のところ参加できませんが、東京周辺、鎌倉ぐらいならば、同行できます。

当掲示板責任者の皆さん、また、三学無縁さんと相談してみます。

2311犀角独歩:2005/05/08(日) 21:31:10

れんさん、情報、有り難うございます。

2312パンナコッタ:2005/05/08(日) 22:30:52
れんさん、
どこの板かは大体見当が付きましたのでおっしゃる指摘を理解しました。ありがとうございます。

若手二十代の学会員は、殆ど御開扉を受けた事がない世代になり抵抗がないのでしょうが、その上の
世代はしがらみがあると思いますので公式的には、まだまだといった所ですか。
学生・青年部向けの第三文明の記事にはしっかり
『要するに「宗旨の根幹」として、最も大切にすべき大御本尊を、鑑定家気取りで「偽物」と断じて
いるのである。これ以上の謗法はない。』 
  第三文明四月号 青年が学ぶ正義と真実 御本尊不敬の日顕に相承なし より引用

うーん、過渡期と考えればいいのかな。

2313ラキ:2005/05/09(月) 01:47:45
犀角独歩さん。
企画検討ありがとうございます。
私個人の意見ですが、東京周辺でかまいません。
石山以外行った事がないので(^^;
もう、嬉しくてドキドキしています。(気が早いですね・汗)

「本尊と曼荼羅」スレッド299のリンク拝見させていただきました。
指摘事実を見つめて、画面を見ながらうなずくばかりです。
犀角独歩さんの指摘を私も感じる疑問。矛盾と石山系団体に話しても「信心」の一言で、
言いくるめて、明確には誰も答えてくれないだろうと感じております。

2314犀角独歩:2005/05/09(月) 10:09:51

ラキさんが感じている疑問、そして、周囲の対応。
かつてわたし(達)が歩んできた道と同じです。
半歩、先を行くわたしはラキさんの心境と慟哭がよくわかります。

まあ、ツアオフに行けば、鬱積した気分も晴れるでしょう。

2315藤川一郎:2005/05/09(月) 10:36:25
>>2314
かつて、鎌倉へのオフ会にて鶴岡八幡宮前で「八幡大菩薩は真の神か?」と自動車の中で大音声(?)
で叫び顰蹙を買った参加者がいたそうですが(爆)!
そのような一口ギャグ位は許される会にしてください(ははは)!

2316藤川一郎:2005/05/09(月) 10:38:32
(つづき)
もっとも同じ人物は、身延にて千年杉に「700年ぶりだな」と言って顰蹙を買ったこともあったそうですが?

2317れん:2005/05/09(月) 11:07:30
パンナコッタさん、はじめまして。
現在の若手二十代の学会員は宗門から学会が破門されてからの活動者で、文献で存在は知っていても実際に彫刻本尊など見たことがない人々ですし(私は昨年脱会しましたが、私自身彫刻本尊は幼児期の昭和50年代前半に開扉を一回受けただけです)ここ数年、こちらの板での犀角独歩さん・問答名人さん・愚鈍凡夫さん顕正居士さん他皆さんの秀逸なご議論により、真実が白日のもとに曝されてきていますから、こちらの板を見た人に、その真実が認知され始めている証左といえると思います。
それでも、学会が公式にはまだ彫刻本尊について真作の立場に立っているのは、対宗門対策上の戦略であり、また、古い時代からの一般会員の信仰を動揺させないためでもあると思います。その意味で、パンナコッタさんの仰るとうり過渡期であることは確かだと思います。

2318パンナコッタ:2005/05/09(月) 11:46:14
れんさんには、以前指摘していただいたので、初めてではないですよね。(^-^)

この板で考証した事を若手の学会員が採用し、スタンドプレー的に各地で起きている、
といった感じですかねぇ。
しかし、それで法主絶対論を破折するとなると、まだ危なっかしい気がしますね。
だって学会の歴史を否定する結果に成らざるを得ないですから、保守的な執行部は
いい顔は絶対にしないでしょうし、責任を取るような体質ではない所ですから、
下手したら締め付け的な事もあるような気がします。
ただ、歴史の流れは必然で、嘘がばれていくのは仕方のない流れでなんですけれどね。

2319ラキ:2005/05/09(月) 13:27:44
犀角独歩さん。
ツアーオフ会は、蓮師ゆかりの地を訪れる事ができる喜びで、
教団の事は忘れて、たくさん楽しみたいと思っております。^^

藤川一郎さん。
>「八幡大菩薩は真の神か?」
私も同じ事考えてました。(^^;

残るは、龍ノ口の言葉だけ?・・・
これも誰かされていたりして?・・・(^^;

2320犀角独歩:2005/05/09(月) 14:05:44

藤川さん、久方に笑いすぎて、おなかが痛くなりました。
いやあ、この御仁、どなたでしたっけねぇ(笑)

ラキさん、「楽しむ」、これは大切なことですね。

2321ラキ:2005/05/09(月) 18:53:28
ラキ!湯水の如く沸き上がる疑問!第?回目。

現在は、写真製版のご本尊がありますが、昔の下種されていたご本尊は、
どのようなものだったのでしょうか?
写真印刷技術が出来る以前の物でお願い致します。
一幅ずつ手書き?それとも、木版画だったのかふと、気になったしまいました。

追伸。
犀角独歩さんへ。
>ラキさん、「楽しむ」、これは大切なことですね。
はい(o^∇^o)ノ!これからも色々楽しみたいです。

2322問答迷人:2005/05/09(月) 19:06:16

ラキさん

>今でも、お形木御本尊とか、特別お形木御本尊とか言うのは、木版の名残ですね。形木で印刷したわけです。

そののち、信徒として定着してくると、時の上人が一幅ずつ手書きで御本尊を下付されたわけです。これを成就御本尊、或いは常住御本尊とも言うのでしょうか、一ランクアップの曼荼羅ですね。

2323ラキ:2005/05/09(月) 20:43:35
問答迷人さん。
回答ありがとうございます。m(__)m

石山系では、ご本尊を写真に撮るのは禁止しているのですから、
まだ、木版がでご本尊を印刷して下種してる方が、自然な姿かな?と思いました。
時の上人が「ノミと木槌」片手に彫刻してる姿は・・・
そして、夜な夜な僧侶が墨を塗り印刷してる姿を想像すると、不思議な気分です。

2324問答迷人:2005/05/09(月) 20:59:21

>石山系では、ご本尊を写真に撮るのは禁止

本門戒壇の大御本尊様が、研究対象にされることを極度に嫌がっているのだと思います。昔は、そんなではなかったそうです。

板曼荼羅は仏具屋が彫刻したのだと思います。『時の上人彫刻』なんて事は無いのでは。戒壇板本尊は日法上人が日蓮大聖人の御命令で彫刻したなんて話が実しやかに語られてますが、そのような古文書の記録は無く、日精上人が何を根拠にそんな事を言い出したのか、定かではありません。

2325パンナコッタ:2005/05/09(月) 21:49:23
曼荼羅ではないのですが、愛染感見記の上の部分が欠けている真筆と全体像のある
刷り形木版がありますね。見比べてみるのもいいかもしれませんよ。

2326ラキ:2005/05/09(月) 22:26:31
御本尊が研究対象にされる=科学の発展に伴い、年代特定とか「真偽」の解明を避ける?為の思惑?なのかと、感じてしまいます。
「信仰の対象が汚される」このような事も思ってもおります。
「真偽」ついては、スレットも立っていますので、見守って行きたいと思います。

>板曼荼羅は仏具屋が彫刻したのだと思います。『時の上人彫刻』なんて事は無いのでは。
現在、お寺にある「板曼荼羅」は、仏具屋の彫刻だとして、
仮にも、信仰の対象であるご本尊を、時の上人が筆を取って書きあらわしても、
彫刻の段階で、上人又は僧侶関係者以外の人が彫刻するのは、
途中から「俗世間」の人の手が関与された時点で、「大切な信仰の対象」ではなく、
彫刻になってしまわないかと、書きながら思ってしまいました。
近代なら、大型の紙の製造は可能です。
時の上人が筆を取って、書き表した「ご本尊」をお寺に安置してる方が、
「日蓮が魂を墨にながしこめ」(間違ってたらごめんなさい)
の御金言が、代々受け継がれてる感じがして、大切な「ご本尊様」と思いが強くなると感じております。
(現役の方に怒られそうですが、感じたままの本心なので、ご勘弁ください)

2327ラキ:2005/05/09(月) 22:39:11
パンナコッタさん。
>愛染感見記の上の部分が欠けている真筆と全体像のある
刷り形木版がありますね。

どこに行けば、拝見できるのでしょうか?
蓮師真筆の「ご本尊様」や「お手紙」も直に見た事がないので(^^;
書いていて、蓮師直筆のものを見たい〜〜と、気持ちがいっぱいこみ上げてきてます。

2328問答迷人:2005/05/09(月) 22:48:13

御本尊集がネットアップされています。このリンクは№1の曼荼羅。ここを開いて、下のほうにスクロールすると、御本尊集の全体の目次があります。そこから、御本尊集所収の曼荼羅が見れます。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

2329パンナコッタ:2005/05/09(月) 22:48:28
ラキさん、仏像なんかは大抵彫り師の仕事ですし、鋳物師も作ってますよ。 
とうぜん形木の彫り師も居てその仕事を請け負っていたんでしょう。(直接関係ないですが
浮世絵の彫り師や刷り師の仕事をチェックしてみるといいでしょう)
ですから”開眼供養”が行われますし、重要な意味付けになります。しかし、学会は
この意味合いを否定して、現在の寛師曼陀羅授与では行っておりません。

2330パンナコッタ:2005/05/09(月) 22:54:54
問答迷人さんの指摘されたHPのNO、124です。また刷り形木は不動・愛染感見記
で検索をかければ画像が出てきますのでそれをチェックしてください。

2331パンナコッタ:2005/05/09(月) 23:00:24
>2330 検索をかければ、ほかの画像が出てきますので  です。
 すみません。

2332大勇者:2005/05/09(月) 23:23:26
>2327
学会の公式見解と言って良いかどうか判りませんが、「不動・愛染感見記」は
偽書と論じているようなので、一応参考まで。

2333パンナコッタ:2005/05/10(火) 00:24:26
大勇者さん、
それってここで一寸前に話題になった北林さんの論文ではないでしょうか。
大抵の学会員は不動・愛染感見記の存在自体知らないと思います。富士宗学にも
活字化された文しか載っておらず、図像の掲載はないのでどんな物かも解りませんし
ねぇ。
(ちなみに以前、ある学会の男子部長さんに教えたら、青い顔になってしまいました。
図像のインパクトが強烈だったのでしょうね)

2334パンナコッタ:2005/05/10(火) 00:29:54
大勇者さん、
それって、以前ここで話題になった北林さんの論文じゃないですか?
大抵の学会員は、不動・愛染感見記の存在自体知らないと思いますよ。

2335パンナコッタ:2005/05/10(火) 00:32:46
あれっ、かぶってしまった。すんません<(_ _)>

2336大勇者:2005/05/10(火) 00:45:55
>>2333
パンナコッタ さん

私は北林氏の支持者ではありませんが、不動・愛染感見記の偽書説には説得力を感じています。
素人の私が見てもやはり「身」「見」と字が違うと思います。

図像の掲載どうぞ
http://www.houonsha.co.jp/nichisai/zuhan/hikaku.html

話題のNO18も疑義としていますね。
この辺の根拠はよく解りませんが。

2337ラキ:2005/05/10(火) 03:33:20
みなさん〜こんばんは。

問答迷人さん。
リンクありがとうございます。

大勇者さん。
参照リンクありがとうございます。

パンナコッタさん。
NO,124て、驚きの一言です。

追伸。(感想のつぶやき)
ご本尊集を見ていて、色々なのがあるのが驚きでした。
そして、図画があったのでまた驚き。
「不動・愛染感見記」で検索をして、たくさん話題になっていたのに、
今まで知らなかったのが何故?なのかと・・・
石山系団体では、必要最低限の事しか情報を教えてないと、あらためて実感しました。
自団体以外の書籍を読ませたくない、理由の一つなのかな?とも感じ、ネットの普及で
情報を隠す事が出来なくなり、いかに各団体が正当性を主張するのに躍起になり、
主張すればするほど、私はどこも不信感だらけで、信用度0になってしまってます。
掲示板とかもヒットして覗いて見たのですが「信仰者」としての自覚が無いのか、
発言の虚しい事。。。罵りあいは、どちらの主張が正しい以前の問題だと、再度実感してしまいました。
大発見!・・・では無いですが、「犀角独歩さんとの対話」と言う、HPの記事を見て、
少し得をしたな〜との思いです。^^

2338犀角独歩:2005/05/10(火) 06:49:49

> 2236

筆跡の比較をするのであれば、同時期の真跡を基準にしなければ難の意味もありません。
たとえば『御本尊集』でみても、蓮師の漫荼羅は、文永、建治、弘安とどんどん変化していきます。その間、僅か10年です。

第1
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html
第123
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

この筆法の差を見れば、字体はもちろん違います。しかし、これは編年変化でしょう。

また、感見記、立正安国論、撰時抄では、その筆法を変えています。感見記は、やや行書、立正安国論は楷書、撰時抄は崩し字(連綿体)、これで字体が違うのは当たり前です、筆法が違うのですから。さらに感見記は弟子に与えた授与書、立正安国論は国主と見なした相手に出した上奏書、撰時抄はたぶん講義の原稿という性格の差があります。

以上のような点をまったく考慮せず、単純に並べて、違うというのでは鑑定・鑑別になっていません。よって、北林氏サイトの対照は意味を為していません。

2339ひたち:2005/05/10(火) 06:51:26
不動・愛染感見記に関して、以下のような考えを述べられている方がおります。いわゆる、「重如日蓮」という人が同時期に存在していたというのです。

http://www.mypress.jp/v2_writers/eikou/story/?story_id=989120

ちなみに、私も不動・愛染感見記に関しては北林氏の考察は的を射ているように思います。明らかに諸抄と筆法が違いますね。

2340犀角独歩:2005/05/10(火) 06:56:30

【2238の訂正】

第1
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html
第123
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/123.html

2341犀角独歩:2005/05/10(火) 06:58:59

ひたちさん、2人の日蓮に関する考察は、故高木豊師です。
遺稿『日蓮』に載っています。

なお、わたしは感見記の筆法は諸抄と比較して、運筆その他の点では、相似しているように思います。

2342ひたち:2005/05/10(火) 07:17:45
犀角独歩さん、ありがとうございます。

先のサイトでは、どの文献を紹介したのか記されておらず、わかりませんでした。高木豊師の考察でありましたか。

筆法の件、確かにもっと詳細に分析がなされるべきと考えます。

2343犀角独歩:2005/05/10(火) 08:31:10

ひたちさん。もし、「二人の日蓮」説を採って、感見記の偽作を言う人があり、それもこの論が展開された経緯を知ったうえであったとしたら、これほど、ひどい詐術、詭弁はありません。

なぜならば、「二人の日蓮」説は‘感見記を真跡として扱うこと’によって成り立った論だからです。

これはそもそも、日蓮主義の研究者ならば、その名前を知らない人はいない戸頃重基師が、1970年の日蓮仏教研究会(日教研)での発表に、翌'071年に高木豊師が反論をし、それをのちに改稿したという一連の流れで議論されたことでした。『日蓮』(太田出版)に載る『<二人の日蓮>改稿』は胸をすくような名論攷であって、日蓮論攷はかくあるべきとも思う手本的遺稿です。
高木師はもちろんのこと、戸頃師も、当然、感見記を真跡として、この論攷を行っています。
殊に高木師は、感見記の文字ばかりではなく、その絵までも蓮師が記したのではないかという考えに準拠しています。そのような師の論攷「二人の日蓮」説を以て、感見記を偽作というのは、詐欺、ペテンの類といっても言いすぎではありません。

戸頃師は金沢文庫蔵「理性院血脈」の日蓮と感見記の日蓮は別人説を立てました。それは血脈の日蓮が25代であるのに対して、感見記では23代となっているということからです。それに対して、高木師は蓮師が密教相承を複数受けたとすれば、この2代の差は説明が付くとして、戸頃説に反論しました。しかし、その後、もう一人の日蓮、「日蓮房重如」(重如日蓮というのは間違い)の確実な資料を見いだし、二人の日蓮の存在を明らかにしました。しかし、これは感見記を偽作と何らつながることではなく、法華日蓮の存在は、むしろ、感見記によって確定し、その他の資料から日蓮房重如というもう一人の日蓮を立てているのです。

以上のような、経緯があるにも関わらず、「もう一人の日蓮」を感見記偽作と関連づけるなどということは呆れ果てた所行といわざるを得ません。

さらに言えば、このような詭弁を恥もなく吐くほうも吐くほうですが、恣意的に組み立てられ、組織のご都合で宛われた話を鵜呑みにする会員の浅はかな在り方には、呆れを通り越して、哀れすら感じるものです。

2344犀角独歩:2005/05/10(火) 08:37:50

> …「犀角独歩さんとの対話」

かつて、こちらでも、よく投稿されていたLibraさんとの議論、メールのやり取りをご自身のHPに載せたものでした。この当時と、いまでは、わたしの考えには格段の違いがあります。これをお読みいただくのは、恥ずかしい限りです。

もっともこの掲示板の過去ログをお読みになれば、わたしがここにはじめて記すようになった頃はまだ、彫刻本尊真筆説に拠っていたことは了解されることです。文章には責任があります。しかし、それ以上に、真実に基づき、過去の自分を批判できる勇気を持つことは大切なことであると、わたしは思っています。

2345乾闥婆:2005/05/10(火) 10:43:37
「この『感見記』は日蓮の現存真蹟中最古のものであるが、後年の筆跡からしても、確かに日蓮の真蹟としてよいものである。ただ、ここに描かれている明王図は、かなりかなり細かなものであり、果して、それが日蓮の手になるかどうか確かめる基準は、筆跡と違って求められない。しかし『感見記』(中略)が、文字通り日蓮自筆の感見記だとするならば、他者、例えば絵仏師や図像巧者にした感見した相貌を告げてそれを描かせたというよりは、自ら図絵したと考える方がよいのではなかろうか。そうとすれば、これを図絵できた日蓮の図像研究が、専門の図像研究に及ばないにしても、若き日にあったことを想わせるのである。」(高木豊著『増補改定 日蓮 その行動と思想』太田出版 P230-231)

2346乾闥婆:2005/05/10(火) 10:50:55
>2345

誤)絵仏師や図像巧者にした感見した相貌を告げてそれを
正)絵仏師や図像巧者に感見した相貌を告げてそれを

2347パンナコッタ:2005/05/10(火) 11:56:33
あらら、昨晩はパソのトラブルで早々にうち切った後に、こんな論争になっているとは・・。
三学無縁さんは「図は絵師、字は蓮祖」と言っておられましたが自分もこの意見です。

二人の日蓮説については要伝寺の高森大乗師の研究によると、
『神奈川県立金沢文庫に、日蓮なる人物が記した『理性院血脈』という相伝書が伝わるのですが、
この日蓮という人物をめぐって、日蓮宗の祖師日蓮とは別人であるとする学説が戦後に発表されました。
これは、『理性院血脈』の作者が、鎌倉中期から後期にかけて活躍した真言僧の重如(1226〜1299)
であるとする説です。安房の日蓮より4歳年下の重如は、大和の生まれで、字(あざな)を日蓮と呼び、6歳の時、
山城随願寺に入り、金剛王院の胎蓮という人物に灌頂を受け、諸寺に遊学して野沢二流を修めたと伝えられます。
書に優れ、東大寺の凝然(1240〜1321。鎌倉中期の華厳僧で、東大寺の円照に師事。『八宗綱要』の著者)に
声明を教授し、東山に石塔を建立して無縁仏を供養したといいます。正安元(1299)年5月18日、白毫寺で歿
しております(『本朝高僧伝』『東大寺円照上人行状』など)。
 これらの記録から、重如は、東国の法華の日蓮とほぼ同時代の人物で、同じく日蓮と号していたことがわかります。つまり、
金沢文庫に伝わる『理性院血脈』において理性院の血脈相承を受けていたのは、法華の日蓮ではなく、真言の日蓮であった可能性が
非常に高いのです。後に真言の日蓮の相承書『理性院血脈』が、近代に至って法華の日蓮のものと誤伝されてしまったわけです
(高木豊「〈二人の日蓮〉改稿−金沢文庫蔵『理性院血脈』を日蓮伝の資料から除くべき歟のこと−」『大崎学報』135号など)。』

2348パンナコッタ:2005/05/10(火) 11:57:24
続き
『なお、法華の日蓮の真蹟が伝えられる『不動愛染感見記』には、日蓮が大日如来より23代目の嫡々相承を
受けたことが明記されていますが、『理性院血脈』には、大日・金剛薩★・龍猛・龍智・金剛智・不空・
恵果・弘法・真雅・源仁・聖宝・観賢・淳祐・元杲・仁悔・成尊・義範・勝覚・賢覚・賢信・乗印・勝因・
覚舜・真空・日蓮と、日蓮は第25代目に相当するので、『不動愛染感見記』と『理性院血脈』との関係は
薄いと考えられ、その点からも『理性院血脈』は、法華の日蓮の書でないことが推測できます。法華の日蓮の
真言相承の系譜は、明らかに真言の日蓮(重如)のそれとは異なるのです(どの時点で分岐をしているかは未詳)。
また逆に、25代目の血脈相承を受けた真言の日蓮が、23代嫡々相承などという間違いを書くはずがないので、
『不動愛染感見記』は、真言の日蓮の書ではないことはいうまでもありません。★印は「土」扁に「垂」』
 要伝寺HP Q&A Q:鎌倉時代に「日蓮」と名乗った人物が二人いると聞きますが、詳しく教えてください。より引用

蓮祖が真言密教をやっていたのは事実ですが、この真言僧とは直接関係ないと思います。

2349パンナコッタ:2005/05/10(火) 12:29:08
ラキさん、びっくりされました? 自分も初めて見たときはびっくりしました。(^o^)
でもこれがあるのは富士系の保田妙本寺さん、なんですよ。またびっくし。(^◇^)

真偽の論争はともかく、こういったものがあり宗旨ににそぐわないから隠蔽に近い扱いを
するという事実がある事だけは押さえておくべき事ですね。当然御書にもこうした扱いが
あるのも事実です。

2350れん:2005/05/10(火) 13:33:07
横レス失礼します。
保田妙本寺の「不動・愛染感見記」ですが、私は個人的には蓮師の書とみています。このころの蓮師の筆墨は大変少ないのが事実ですが、無記名ながら千葉法華経寺に蓮師の写本として伝承され日蓮聖人真蹟集成第六巻にも収録されている建長三年の年記を有する「五輪九字秘釈」と筆勢を見比べますと、おおよそ同じ筆癖で五輪九字秘釈が蓮師の書写本であることが確実ならば、不動・愛染感見記も蓮師真書として扱ってよいと思います。私自身大日蓮展で感見記の正本を拝見しましたが、疑点は生じませんでした。
感見記中の廿三代の血脈については、山中喜八選集下巻に収録された山中師の論文によると、台密の海雲血脈には大和荘俊範法印が大日如来より二十二代とあるのを紹介し、日大師の「直兼日大問答記」における蓮師は俊範から台密の法門を相承したとの記述が史実ならば蓮師は大日如来から二十三代であり、不動・愛染感見記はそれを証するものとしております。
山中師の推定が正しければ、不動・愛染感見記の血脈は蓮師が自らの台密の血脈を記したものと考えられます。理性院血脈の日蓮については、故高木豊師の論考の通り、重如日蓮と見るのが至当と思われます。以上ご参考まで。

2351ラキ:2005/05/10(火) 13:43:00
みなさん。こんにちは。

昨夜は少し驚きや、今までの体験で、もっと視野を広げて見て行かなければと実感しました。
床に入りながら、色んな考えが浮かび、石山系だけの視点で見ていたのでは、事実・真実は到底見つける事は、出来ないと思いました。
ここの掲示板に出会えて、心から感謝の気持ちでいっぱいです。
「開眼」で少し思い出した事があります。
些細な事ですが、正宗の「信仰のしおり」(宗旨建立七百五十年記念、平成十四年十月十二日)数珠の解説が出ていて、抜粋になりますが、
『「数珠は御本尊様を表す」とされています。数珠、左右の大珠が「親珠」といって、「父母」に当たります。
このうち、父珠が「知断の徳」で、煩悩を断じることを表します。母珠は「万物を生成」し、多くの善根を生むことを表します。
この父母の珠は「陰陽」に通じ、陰陽は「境知の二法」に通じますから、「妙法」の二字を意味します。』P23からの抜粋です。
何故?陰陽が出てくるのかな?と迷った文書です。
同書p25の数珠のかけ方で「正宗寺院での開眼された数珠を用います。」
「数珠の開眼」て今まで聞いた事もない事が出ていて何故?いまさらと感じてしまいました。
破門前の学会では、そんな事は一切言っていなかったですし、石山や末寺で数珠購入しても一言も聞いたことも、文書で貼り出して注意してあった事も
ないと、記憶しております。
私の意見としては、他団体との法具(仏具)の差別化を思っての記載なのかと?
そして、「開眼」が出来るのは、ただ僧侶(寺院)だけでしか出来ない、との思惑もあるのかなって?
言葉は汚くなりますが、「数珠の開眼」=「開眼の為にご供養」を促す思惑も感じずにはおれません。
開眼が必要なら、今まで使用していた「数珠」は、ただの「物」でしかないと、言ってるようにも感じます。
このような事を他の団体所属の方に言ったら、「石山の金集めの口実」と言われるのが、目に見えてると感じております。

2352顕正居士:2005/05/10(火) 15:23:59
廿五代と廿三代については3年前の無徳民さんの御投稿があります(14番)。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/shingon.htm

海雲血脈というのは中国の血脈譜です。それによると慈覚大師が十一代であり、以後の天台密教の
相承を調べると俊範法印が廿二代であると。

おそらく『感見記』の血脈は比叡山のでしょう。理性院(醍醐寺)のは東寺密教の相承で、別個の
系図です。比叡山や醍醐寺の血脈を受けるというのは今日でいえば名門のインド学科、仏教学科の
博士課程を修了するくらいだろう。日蓮聖人が12年の修学の期間に両方の相承を受けたかは疑問で
ある。重如も真言ではなく華厳の人である。血脈譜に字(あざな)を記すのも変である。理性院の
ほうはだから分からない。

2353きゃからばあ:2005/05/10(火) 15:37:11

元・無徳民の「きゃからばあ」です。
顕正居士さんに私の投稿を、復活していただき、大変うれしく思います。
あまり書き込みはしていませんが、少しでもこの掲示板にお役に立てれば幸いです。
完全に横レスですが、とにかくうれしくて、書き込んでしまいました。

2354藤川一郎:2005/05/10(火) 16:05:41
>>2351
しかしながら、数珠の開眼は破門前の妙信講の機関誌(冨士)でも、書いてありましたし、昔からありましたよ。
確かに、創価学会からの脱会者の方で、数珠の開眼を聞いてなかった方はおりますが、聞いてた方もおります。
創価学会でどのようにお教えしていたかは知りませんが、法華講では当然のようです。

2355藤川一郎:2005/05/10(火) 16:09:20
(続き)
その昔の顕正会の組長訓には「勤行は五座三座を行う」「数珠は寺院で開眼された者を使用する」等と書いてあります。
五座三座は昭和55年前後にはなし崩しになっておったようですから、この文も破門前と考えて良いと思います。

2356犀角独歩:2005/05/10(火) 17:22:16

2347、8 パンナコッタさん

この引用の要伝寺のダイジェスト、これはひどいですね。
まるで論攷の骨子を取り違えています。

高木師は、円仁の血脈の例を挙げ、「同一人における代数の食い違いから別人とする戸頃師の論は、同一人が複数の相承を受けていたという点からすれば、必ずしも全面的に肯定できることではないといえるのである。すくなくとも、代数の食い違いだけでは、別人説はなりたたないというのが、筆者の戸頃説への批判の第一点であった」(P238)と言います。

また日蓮房重如の年齢については「安房の日蓮と同じく1222年(貞応1)の生れで、安房の日蓮よりも17年も長寿であった」(P234)といいます。

なお、戸頃師は『本朝高僧伝』で依用しますが「筆者(高木)は、この戸頃説批判ののちに、鎌倉時代の資料のなかに重如日蓮の実在を知り得たのであった。それはまた、『本朝高僧伝』の他の僧伝において依拠されたものであったのである。ほかならぬ、凝然の『東大寺円照上人行状』中巻の重如日蓮略伝がそれであった…日蓮房重如、本 舜観房瞻秀ト号ス、大和ノ国人也」(P240)と紹介します。

それ以降、「重如日蓮」とは記さず、「重如」、もしくは「重如房日蓮」と記して一貫します。
また、『理性院血脈』と感見記の代数の食い違いからとするのではなく「…真空、日蓮…」という血脈の次第で「鎌倉における(法華)日蓮と真空との接触もまた、考えられない」(P250)という戸頃説とは別説で、別人説を立てています。

2357犀角独歩:2005/05/10(火) 17:29:10

> 日蓮聖人が12年の修学…両方の相承を受けたかは疑問…重如も真言ではなく華厳の人…血脈譜に字(あざな)を記すのも変…理性院のほうはだから分からない

とは、重要な指摘で、この部分に関しては、戸頃・高木両師の見解より、顕正居士さんの上述の考えのほうが合理的であると思います。

2358れん:2005/05/10(火) 17:40:12
顕正居士さん、御批正ありがとうございますm(__)m
ご指摘の無徳民さん=きゃからばあさんのご投稿読ませて戴きました。わたしが言わんとしたところが、無徳民さんの引用された山中喜八選集の該当の本文でした。外出中の横レスでしたので典拠の本文を引用できず、また、重如日蓮を真言宗の僧と勘違いしてました。理性院血脈の日蓮につきましては、顕正居士さんの仰るごとく、分からないというか、まだ検討の余地があると思います。この件につきまして、これからも顕正居士さんはじめ諸賢の皆様の御議論を拝聴させて戴きます。

2359犀角独歩:2005/05/10(火) 19:02:58

乾闥婆さん、はじめまして。「自己紹介」スレ、拝見しました。

2345の書き出しの補足、有り難うございました。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。

2360パンナコッタ:2005/05/10(火) 19:56:50
犀角独歩さん、
きちんと「別相承による代違いの指摘」がしてあるのですね。なるほど。
独歩さんの指摘をふまえると、この高森師の文は、かなり端折って一寸ぼやけた結論である、
ということになりますね。

2361犀角独歩:2005/05/10(火) 20:43:31

2360 パンナコッタさん、そう思います。

2362犀角独歩:2005/05/10(火) 23:39:13

大勇者さん、ひたちさん、何か、反論なり、ご意見はないのでしょうか。
沈黙してしまっては議論が続きません。

2363ラキ:2005/05/11(水) 00:47:18
藤川一郎さん。
>数珠の開眼は破門前の妙信講の機関誌(冨士)でも、書いてありましたし、昔からありましたよ。
>顕正会の組長訓には「勤行は五座三座を行う」「数珠は寺院で開眼された者を使用する」等と書いてあります。

学会在籍当時、数珠の開眼の話も、書籍類でも見た事がありませんでした。
顕正会のは大変貴重な情報ありがとうございました。
この事実を話しても、受け止めてもらえないのが悲しい思いです。

(恒例の?つぶやき)
顕正会の「諫暁書」の表紙の事で話をした来ました。
犀角独歩さんが以前書き込みをされた指摘を私風に言葉を変えて、
「『立正安国論』の真筆写真が掲載されているのは何故?邪宗、謗法の所蔵品ではないのですか?」
そして「不許可転載なのでは?まさか、邪宗に許可はもらわないですよね?そうすると法律違反になりませんかと?」
蓮師が書かれた物で、昔は著作権など存在しないからいいみたいな、歯切れの悪い回答でした。
そして、4月25日号の顕正新聞の浅井氏の講義で、おかしい部分が拝見できたので、
植物園。気象庁電話で直接質問。
ネットでの歴史の史実の検索して、私が記憶していたのと照らし合わせて、
間違いではない「証拠」(科学的実証。文証)があると指摘しても、目の前の新聞の事実!
間違い箇所を指摘しても、それは部分的な事で、浅井氏が言いたいのは、全体を見ないと判らない。
御書引用で「切り貼り」解説しかしてないのに、全体とは矛盾ではと思い、
全体解釈だともっと違う意味になりますが?と言ったとたん、虚しさがよぎり、
三証を示しても、信あるのみは、蓮師仏法の基礎を否定してるのではと、また感じました。
「喜びで折伏よ」と「幸せですか!」の足裏占いの、教団と同じ思想ではと、悲しい気持ち。
興師、目師は信・行だけではなかったと、記憶しています。
「学」学ぶ事も、折伏行で必要なのですから、大事だと言っていたような?
今は学会の「本尊真偽」の動向を見守るしかないです。
ここの部分は、学会に期待するしかないとは、情けないですが。。。
信仰の根本が崩れれば、顕正会は崩壊するのではとの期待だけです。
顕正会も3代目が世襲制になりそうな感じで、全部淘汰されて、
”事実”を認めて、新たに蓮師の仏法を実践して行って欲しいです。
今日、石山御書が届きました。^^
真筆の所在が載っていて、学会版より少しは進歩したのかな?と・・・

2364ひたち:2005/05/11(水) 00:50:33
犀角独歩さん

二人の日蓮説について、詳細に教えていただきありがとうございます。読ませていただいた限りでは、二人の日蓮がいたことはおそらく本当だろうけれど、「不動・愛染感見記」が蓮師のものでないということにはならないと拝察しました。れんさんの御指摘もその通りと感じます。結局真蹟かどうかは同時期の筆法を比べるしかなさそうです。経年の変遷がたどれるとよいのですが、。一点だけ気になるとすれば、「不動・愛染感見記」に記される日付ですね。建長六年といえば、立教開示された翌年です。年譜によれば、名越に小庵を結ばれた時期かと思います。已に胸に妙法の流布を秘められ、鎌倉を目指された時に、どこの不動・愛染を感見したのだろうという疑問が湧くのです。これが、修学中のものならば、そのような事もあったかもしれないとすることもできますが、やはり引っかかるのです。

2365犀角独歩:2005/05/11(水) 01:09:27

2364 ひたちさん、早速のご返信、誠意を感じます。

ご指摘の点、つまり、建長6年に、なぜ不動愛染か、これは結局、蓮師終生の大問題で、法華経の会座を記した大漫荼羅、だったら、何故、不動愛染が?? という点で、結局、学会教学は難の説明理論も持ち合わせていない空洞があるわけです。

それを自分たちの教学と合わないものは偽作のレッテルを貼って除外視するような短絡思考は、そんなものは通用しない‘子供だまし’だということです。

感見記はもちろん、漫荼羅に至るまで、何故、不動愛染かが、わからなければ、結局、蓮師の実像には迫れないということです。ここで、みなが真剣に考えているときに、「偽書」の一言で片付けて、恰もその子供だましが事実のように豪語して憚らないようなものは捨て置けば、それでよいにしろ、それを納得できるなどと、たとえば、ひたちさんに書かれれば、それは看過できません。では、徹底議論しようということになります。ところが、北林さんの言うことは納得できる、それ以上のことは何もいえないとすれば、ご都合主義に丸め込まれただけであろうという批判が飛んでくるのは、もはや、火を見るより明らかな結果です。それにも関わらず、それを臆面もなく、セット区政があると紹介する神経がわたしには納得できない。徹底議論だということになるわけです。その時の、相手側の対応はただ一つ、では、徹底して証拠を挙げて議論に応じる。ところがそうはならない。言いたいことだけ言って、あとは聞かぬ・見ざる・言わざる、わたしは、こういう対応には、断固、「ふざけるな」と言うわけです。
しかし、こうして、ご返信くださったひたちさんを、わたしはちゃんと評価します。

大勇者さん、読んでいますか。

2366犀角独歩:2005/05/11(水) 01:10:54

【2365の訂正】

誤)セット区政
正)説得性

2367大勇者:2005/05/11(水) 21:44:52
私が何故、北林氏に説得性を感じるかですね。
私の愚考を少し挙げて見たいと思います。
先ず、「不動愛染感見記」が真筆として扱われる最古の遺文という事と思いますので編年変化を考慮した比較が難しいのは仰る通りと思います。
また、花押もこの時期には未だ無いので比較出来ません。(しかし花押の風習は既に日本にはあったと思いますが)
運筆が相似しているというのは書道の経験がない私には解らないところです。

撰時抄には「生身」という二文字が出てきますので25年の差があると言えども比較する資料としては排斥しなければならないとは思いませんし、むしろ良い着眼ではないかと思った次第です。
「不動愛染感見記」の「生身」の文字に注目しますと「身」の跳ね方が右回りか左回りかは大きな違いと考えます。もしこれが二字合によるのであれば「創作」と呼ぶ筆法ではないかと思いますが、しかし「生身」と記す遺文の中にこのような「創作」は(私は)知りません。

次に文献類ですが、「祖師伝」以降には遡れないのではないでしょうか?
興師以外の弟子に授与したものと推測しますが、何故、興門流に伝わるのでしょう。
また、木版画の流布後に軸装裁断されているのにも違和感を覚えるのですが。

2368にし:2005/05/12(木) 04:14:45
だから、No1の本尊とNo122の本尊とどこが似ているわけ。
この違いは、どっちかが偽者だというわけ。
あ、そうか本尊の写真を見るのは怖いのか。

2369犀角独歩:2005/05/12(木) 07:21:03

にしさん、はじめまして。まあ、ここは、そんなにいがみ合って議論しているわけではありませんから、ゆったりと。そういうわたしも言葉にはしばしば棘のあるほうで反省することも多いので、人のことはいえませんが。

さて、大勇者さん、まず、25年の経年差の書を比べるというのは、これは無茶というものでしょう。ご自分の書いたもので25年前のものが残っていたら、比較されてみるとよいと思います。

取り敢えず、今回の議論の要点をまとめ、ブログにアップしました。ご参考に供していただければと存じます。

『日蓮』掲載 「もう一人の日蓮」 再読
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/21544439.html

2370犀角独歩:2005/05/12(木) 14:12:13

> 文献類ですが、「祖師伝」以降には遡れない

これは感見記を指してのことですか。真跡であれば、建長6年まで遡れます。

> …何故、興門流に伝わるのでしょう。

この点は、まだ研究途上のようですが、感見記の真偽とは直接関係のないことであると思います。

> 木版画の流布後に軸装裁断

これは事実と違うのではないでしょうか。木版画が見つかったことにより、真跡で摩耗、表装で損なわれた部分がどのようになっていたかがわかったというのが、先の大日蓮展での解説であったと記憶します。

2371パンナコッタ:2005/05/12(木) 17:22:15
大勇者さん、
違和感を覚えるくらいですから、木版画の流布後に軸装裁断されたという確固たる証拠となりうる
資料のがあるのでしょうか?
この辺の経緯は、よく解ってないものと思っていますので。

2372大勇者:2005/05/12(木) 23:30:46
>2371
確かによく判ってないという事なのでしょう。
軸装裁断の後に、又は裁断されずに木版画されたのであれば、
彫師が想像で彫った事になりますが...これは考え難いと思います。
円を描くのはそれだけでも難しいのに...

時は元禄、浮世絵文化が花開こうとする時です。
木版画の用途は庶民的であったのではないでしょうか。
これはあまり論拠のない想像に過ぎません。

2373大勇者:2005/05/12(木) 23:43:13
>2369 犀角独歩さん

ブログ拝見させて頂きました。
独歩さんは花押の信用度についてどのように御考えなのですか?
何故、花押のある作品を引き合いに出して論ずるのでしょう。

2374犀角独歩:2005/05/13(金) 01:21:38

大勇者さん、2373の質問の意味は理解できません。何を尋ねていらっしゃいますか。

ついでに記せば、北林さんのような比較からして、第1大漫荼羅と、第123は同一者のものと判断できるのでしょうか。実は、にしさんが言うように片方は偽物ですか。となれば、どちらが偽物ですか。

2375大勇者:2005/05/13(金) 01:26:31
小文の連投失礼します。
>2370
>これは感見記を指してのことですか

感見記に関する記述の残る文献が「祖師伝」以前には残されていないとの意味でした。

>感見記の真偽とは直接関係のないことであると思います。

「新仏」と書かれるのが誰を指すのかは重大な問題であろうと思います。

2376犀角独歩:2005/05/13(金) 01:32:58

> 「新仏」

とは、新発意の弟子を意味する言葉だというのが言われるところですが、さて、どうでしょうか。

密教的な発想で、大日如来から23代というわけですから、日蓮が23番目の新仏という意味かも知れません。それが「おかしな」ことと考えることはできますが、しかし、それは日蓮を本仏だというのと、そのおかしさは、さほど、かわるものではありません。

たぶん、投稿が錯綜したと思います。2374に対して、考えをお聞かせください。

2377大勇者:2005/05/13(金) 01:45:25
>2374
犀角独歩 さん
鎌倉初期の花押は署名(サイン)の色合いが強く、真贋の鑑定の第一に優先されるものと思っていました。
運筆その他が違っても花押の連続性が認められれば、真筆との根拠になりうるのではないでしょうか?

今でこそ私達は多数の花押を比較出来ますが、情報のない当時に花押を真似て偽作を作るのは至難の技でしょう。

2378犀角独歩:2005/05/13(金) 02:03:31

大勇者さん、2374について、回答ください。

> 情報のない当時に花押を真似て偽作を作るのは至難の技

そうでしょうか。贋作の漫荼羅には、皆、花押が入っていますよ。
情報がない時代であればこそ、いい加減な花押を記しても誰もそれが偽物であると判断できないという点は、意識がいきませんでしたか。

2379彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/13(金) 07:37:29

横レス失礼します。

木版画『不動愛染感見記』(貞享4(1687)年静岡県管引本成寺蔵、掛幅二幅)は平成13(2001)年11月27日に立正大学で開催された「第54回 日蓮宗教学研究発表大会」で高森大乗師より「日蓮聖人遺文『不動愛染感見記』小考」と題した発表で写真が紹介されました。高森師の発表内容はインターネットで公開されていますが図版はありません。
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents11.html
高森師は木版画について「保田妙本寺に蔵されている『不動愛染感見記』の真蹟のうち愛染明王の日輪図が上端を欠くのに対して、当版画は、日輪を表す全体の円形が整っているという点である。当版画が臨写された当時には、まだ愛染明王の本紙が、軸装のため裁断される以前の完全な姿を遺していたのか、あるいは、木版の画稿を描いた絵師が、想像によって復元したのかは定かではない。」という見解です。
「第54回 日蓮宗教学研究発表大会」で配布されたレジュメ記載写真をみますと愛染明王のほうに一部解読困難な字がありますが以下の記述がみられます。

久遠
妙本
両寺
嫡々
相乗
日月
●像(●:“刑”あるいは“形”などの遍に旁が“久”) ・・・形?
奉写
貞享四■天(■:“夘”に旁が“丁”)  ・・・貞享四丁卯天
房州妙本寺
三七世
 日遶 (達?)
判興(典?)之願主
松田宗林

よって木版画『不動愛染感見記』は貞享4(1687)年のものであることがわかります。高森師は日遶 (?)とあるのは、伊藤阿閣日達(保田妙本寺22世、小泉久遠寺23世)としています。時代的には合致しますので間違いないでしょう。

なお、本成寺は『日蓮宗寺院大鑑』(昭和56年、池上本門寺、450頁)によると、旧本寺は柳瀬実成寺で寛永3(1663)年の創立です。興門派に属していたということです。日興上人の御本尊を所蔵しているとありますが、『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)には入集していません。
本成寺の創立年(1663年)と木版画『不動愛染感見記』の作成年(1687)年に矛盾はないので、木版画『不動愛染感見記』は本成寺の創立初期に寺宝として入手されたものではないでしょうか。


彰往考来

2380彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/13(金) 08:27:48

>2379

1点書き忘れました。木版画の写真を見る限り、原図裁断以前の姿を現していると私は感じていますが実際はどうでしょうか

2381大勇者:2005/05/13(金) 19:18:08
犀角独歩さん
>2374について御答しますが、あくまでも、自分が考える所感とその理由であることをおことわりしておきます。
「NO1」「NO123」共に真筆と思います。
NO123については真筆でない根拠が見つけれませんでした。
NO1を真筆と感じる理由はやはり花押です。他のバン字型の花押と基本形が同じと思います。
筆速や筆圧が他と違うが基本形が同じ事で逆にオリジナルの信憑性が高いのではないかと・・・
使用している筆も由来の通り毛筆ではないと思いますがどうでしょうか。

独歩さんは本当にNO1を怪しいとお考えなのですか?
北林説を論破する為だけに持ち出しただけではないですか?
本当のところを教えて頂けたらと思います。

2382犀角独歩:2005/05/13(金) 19:38:50

> 2381

大勇者さん、冗談はやめてください。

わたしがいつ第1大漫荼羅を偽書だと書きましたか。
第1大漫荼羅と第123大漫荼羅はかくも筆法も筆跡も異なる。しかし共に蓮師の筆である。それにも関わらず、北林説では、感見記と、鑑別に供するような点とは言えない相違を以て、感見記を偽書と断定している。また、大勇者さん、あなたはそれを支持している。ならば、聞くが、第1大漫荼羅と第123大漫荼羅は斯くも違っているから、片方が偽書であるとでもいえるのか、そんな点で鑑定されているのではないだろう、と言っているのです。

この相貌、筆法が違う漫荼羅が両方とも、真書であるというのであれば、どんな理由から感見記偽書説をあなたは支持するというのでしょうか、ということですよ。

2383大勇者:2005/05/13(金) 20:27:57
>2382 犀角独歩さん

>わたしからすれば、第1大漫荼羅(文永8年(1271))と最晩年図示第123大漫荼羅(弘安5年(1282))を並べてみると、これが同一人物の筆であるとする鑑定識こそ困難であると思える。


上記の文を思い違いしたようです。お詫び致します。

2384大勇者:2005/05/13(金) 20:47:11
私は北林説に説得力を感じると記しましたが、「偽書との断定」をそのまま支持するものではありません。
然しながら、「真筆との断定」にも疑問があるのではないだろうかと思いまして何点かの「何故そう考えるか」
の理由を恥ずかしながら投稿して来たつもりです。
それは感見記が「真筆の根拠」を知りたいが為です。
「真筆の根拠」を御教示下さる方が居られればお願いします。

其の上で>2336について、パンナコッタさんとラキさんにお詫びをしたいと思います。

2385大勇者:2005/05/13(金) 21:00:25
>2382
>この相貌、筆法が違う漫荼羅が両方とも、真書であるというのであれば、どんな理由から感見記偽書説をあなたは支持するというのでしょうか、ということですよ

「身」の書順の違いが年数を越えても大きい違いと思うからです。
また、似た書き方の「身」が他に見えないからです。
花押のなく、比較する書の少ない「感見記」を、ならば何故真筆とするのか?と言う事です。

2386ラキ:2005/05/13(金) 21:02:34
みなさん〜こんばんは。

数珠の半ひねりは「功徳をこぼさない為」だったと、判明してスッきりしたのですが、
興師、目師が蓮師をどのように呼んでいたのでしょうか?
時代劇とかのイメージだと「おっしょうさま」「師匠」とかのイメージなんですけど。
みなさんと次元の違う、素朴な疑問の宝庫ラキでした(^^;

追伸。
大勇者さんへ。
浅学の身なので、お気になさらないでください。
本人気が付いてませんし(^^;

2387犀角独歩[TRACKBACK]:2005/05/13(金) 21:35:24

> 2385

あなたは、第1大漫荼羅と第123大漫荼羅の写真をちゃんと見て書いているのですか。

第1大漫荼羅の不動愛染と第123大漫荼羅のそれと、大勇者さんは、同じ形であると思うわけですか。他の字体にしてもそうでしょう。

わたしが言いたいのは、これだけの筆法の相違があっても両者が真跡であると見切る鑑識眼が真跡鑑定には必要なのであって、単に身の字のはねや形が違うなどということが、感見記の偽書の断定には繋がらないと言うことです。しかも、この漫荼羅の時間差は11年です。25年の半分よりさらに短い。わずか11年で蓮師の筆法は斯くも変化しています。

> 感見記が「真筆の根拠」

当スレで挙げれば、すでにれんさんが説明を付されていますが。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/r2350

また、そんなことを人に求めず、自分でその根拠を探してみては如何でしょうか。

> 花押

大勇者さんの目には第1大漫荼羅とと第123大漫荼羅の花押は同じように映じるわけですか。また、花押は一つの決め手ではあっても、それが全部ではないでしょう。

わたしはあなたの姿勢として疑問に思うのは、なぜ一人、北林さんの説ばかりを持って、感見記を論じるのかと言うことです。しかし、その他の資料に関しては自分に教示しろとはなんですか。自分で努力しようとはしないわけですか。

2388パンナコッタ:2005/05/13(金) 23:03:15
大勇者さん、
>2336は、あくまで主観ですよね。詫びる必要はないと思いますよ。ただ、ご自身にとって
批判的な北林論の方がなじみやすかったために板での一連のやりとりと採り違いがあったものと
思われます。なにせ、不明な点が多い物ですし、これは仕方がないと思います。

2389パンナコッタ:2005/05/13(金) 23:04:06
古い蓮祖の物と言う事で、金沢文庫にある授決円多羅義集唐決のマイクロフィルムって
公開されているのでしょうか?

2390ラキ:2005/05/14(土) 00:11:02
「授決円多羅義集唐決」で検索して画像が載っていたのは、下記のページだけでした。
目的の物か謎ですが?

http://www.fujimon.or.jp/tenran/izanai/izanai_4.htm

国会図書館に問い合わせしてみれば、閲覧できるかわかると思います。
地元県立図書館ではHITしませんでした。

2391パンナコッタ:2005/05/14(土) 00:30:18
ラキさん、ありがとうございます。
自分の言っているのは、蓮祖筆といわれる古文書のマイクロフィルム版が見られるものか、
という事です。金沢文庫に行けばコピーが入手可能らしいのですが、持っている人や団体が
公開しているのかどうかを知りたかったわけです。

2392れん:2005/05/14(土) 17:25:18
パンナコッタさん、授決圓多羅義集唐決のマイクロ版は金沢文庫で入手する以外ないと思いますが、ご存じながら鮮明な写真版ならば全文が日蓮聖人真蹟集成第五巻に収録されております。同書の解説には
『本書は智証大師に仮託して著された中古天台の教学書である。本書と「五輪九字秘釈」の建長三年筆写、建長六年の「不動愛染感見記」とを比較すると筆蹟が極めて似ており日蓮聖人初期の写本であることは疑いない。奥書によって、十七歳の日蓮すなわち是聖房蓮長が嘉禎四年(一二三八)十一月十四日安房の清澄寺において師の道善房の住房で書写したことが知られる』とあります。
蓮師は弘法大師空海や慈覚大師・智証大師の密教第一の【教判】については法華最勝の立場から批判しましたが、密教の仏典そのものについては‘仏説’として受容していたと見るのが至当と思いますので、台密出身の蓮師に密教の影響があるのは当然といえば当然だと思います。但し、蓮師がどのように密教を受容し、自らの信仰体系・教学体系の中に位置付けていったのかについての考察は、私には手に余る問題ですので、ひとえに犀角独歩さん・顕正居士さんを始めとする諸賢の皆様の御賢察を仰ぎたいと思います。

2393れん:2005/05/14(土) 17:52:14
訂正
誤 密教の仏典
正 密教の経典

2394パンナコッタ:2005/05/14(土) 21:02:05

れんさん、
真蹟集成の第五巻でしたか。解説引用を含めて、ありがとうございます。

”日蓮”の名は、入っていないそうですが、蓮祖の最古級の物である事は間違いないようで、
初期の筆跡云々をするのであれば、必携しなければいけませんね。

2395れん:2005/05/14(土) 21:50:25
パンナコッタさん、授決集の奥書には「嘉禎四年太才戊戌/十一月十四日/阿房國東北御庄清澄山道善房/東面執筆是聖房生年十七才」とあり、当然ながら蓮師の改名前の房号である「是聖房」の名で署名されていますので、蓮師の十七才の時の親写本であることは間違いないでしょうね。真蹟集成第六巻に収録される「五輪九字秘釈」(新義真言の祖覚鑁師の著作)は房号による署名はございませんが、中扉に「九字秘釈」の書名が記され、その下に蓮師の筆で「主●●」と蓮師の密号と思われる梵字が記されており、その書名の横に異筆で「常忍」署名があります(常忍の署名は間違いなく富木常忍氏の筆跡で、本書を蓮師から下賜された後、富木常忍氏が署名されたものと考えます)。奥書には「建長三年十一月廿四日戊時了/五帖之坊門富小路西面坊門ヨリ南/富小路ヨリハ西」とあります。蓮師初期の筆跡を考証するさいには、親写年次が奥書によって明確である「授決集」「五輪九字秘釈」は必携であると存じます。以上重ねてご参考までに。

2396パンナコッタ:2005/05/14(土) 23:22:12
れんさん、重ね重ねの指摘ありがとうございます。
筆跡鑑定に関しては、自分はちと無理なので知識のある碩学の方々にお任せする事として、
実在する物を認識、確認するだけでも大きな収穫になりますので的確な指摘、本当にありがとうございます。

滝泉寺申状の異筆部分が富木常忍であると判ったのも、こうした研究の積み重ねの結果ですから生半可な知識
の上で真贋論争を口にするのはやはり危険なことになりますね。

2397犀角独歩:2005/05/15(日) 16:02:22

2392 れんさん:

たいへんに参考になりました。引き続き、ご教示をいただきたくお願い申し上げるものです。

2398れん:2005/05/15(日) 22:44:25
2397 犀角独歩さん:私が独歩さんに教示するなどとんでもないです。釈迦に説法になってしまいますから(汗)。私の稚劣な投稿に御批正を戴ければ幸甚です。他スレですが、本尊とまんだら板での議論を興味深く拝聴しております。私も実は蓮師は弘安元年に係る本尊問答抄あたりで思想が変化し、本門三法門(三大秘法)中心から題目中心に蓮師の考えが変化したものと考えています。
以下はこれまたスレ違いのつぶやきですが、蓮師は独歩さんはじめ諸賢の皆様のご指摘の通り本門戒壇について遂に真蹟に留められませんでしたが、初期興門では三大秘法の内、本門教主釈尊と題目について三位順師が本門心底抄に「能化の教主は三身即一の如来なり、所説の法門寧ろ三学即一の妙戒に非ずや(中略)当に知るべし万行万善・円満の妙法の経題は本門の大戒」なりと記しています。心底抄にはまた本門寺の戒壇についても述べられていますが、時代が下るものの、それとは別に目師門の石山九世有師の弟子である顕応房師は三大秘法につき「仏と土と教法なり」と記し、同じく目師門の保田日要師は「所居の国土を常寂光土とも本門戒旦とも名るなり」(千葉県の歴史中世3、586ページ)と記していて、東国の目師門には順師が心底抄に示した事相の本門寺の戒壇とは別に、土→所居の国土=常寂光土→本門戒壇という考え方があったことが伺えて興味深く思っております。ここらへんはいつか中道さんが記した己心戒壇に一脈通ずるものがあると思います。まぁ、これが石山・保田共通の祖師である蓮興目まで遡れるものかどうか?分からないのが残念といったところです。

2399れん:2005/05/15(日) 22:59:04
訂正
誤 本門戒壇について遂に
正 本門戒壇の内容について遂に

誤 本門の大戒」なり

本門の大戒なり」

2400れん:2005/05/15(日) 23:02:42
本当にすみません。重ねて訂正します。
誤 本門の大戒」なり
正 本門の大戒なり」

2402犀角独歩:2005/05/16(月) 00:06:57

れんさん、とんでもございません。
当方こそ、いつも有り難く思っております。

それにしても、ご呈示の「戒壇」義というのは、晩期、蓮師はまるで投げてしまったような感があるのに、伝・順師資料などでは、妙に具体的だという印象を抱きます。

わたしは個人的には、鎌倉幕府を、どうとらえるのかという点では考えるべきものがかなりあると思っています。戒壇を云々するのであれば、鎌倉ではなく、やはり、京だろう。その京と密接な距離で話が肥大するのが戒壇義だろうという思いがあります。

それが駿河、北山辺りで話が盛り上がるのは、順師が比叡山遊学という経歴を経て、京風を得て、初めて盛り上がった話なのだろうと類推しています。

先に顕正居士さんが、相承を大学院の免状のようなものに比されましたが、そうなると灌頂は入学式のようなもので、さらに拡大して陳べれば、天奏は天皇折伏というより、いまで宗教法人の認可。戒壇建立は、どこが中心大学かという話のように見えてきます。

信仰的に考えれば、以上、不謹慎と思われる方はいらっしゃるかもしれませんが、このような現代的に翻訳をしないと見えない部分は多々あろうかと思います。

れんさんに同意を求め、持論を強固にしようなどというインチキはもちろん考えませんが、他で吉祥仙人さんが挙げた道理・証文・現証について思うところがあります。蓮師は下克上という道理に反した現象を憤り、経論とういう証文をもって、考えた現証は法華日蓮を用いなければ国が滅ぶという現証だった。ところが、これはついに外れてしまう。そんな晩年で戒壇より、霊山浄土に傾いたのは、至極、自然なことと思えます。しかし、そんな宗祖のメランコリックをよそに、自集団の永続化を考えれば「宗教法人」として確たる手形がほしく、その極は戒壇建立という具体化で、そんななかで意気が盛り上がっていったのだろうかと想像したりします。となれば、題目本尊で、三つの法門が潰えても、戒壇建立は大きな目標となり、相矛盾しながらも、三大秘法という教理整理化は進み、ついには偽書を捏造してまで、確定するに至ったのだろうかと、想像を逞しくしています。

余計な独り言を記し、恐縮です。

2403ラキ:2005/05/16(月) 01:22:03
みなさん〜こんばんは。

書籍の中で「謗法の14種の罪」について書かれていたのに、ふと、疑問があります。

「じゃくよく」欲望のために仏法を利用したり、欲望にとらわれて仏法を求めようともしないこと。
「幸せになりたい」「福運・功徳を積みたい」て欲望じゃないのかと?

「不解」仏法の深い教義がわからないのに、求めて理解しようとしないこと。
「信が大事」「信行が大事」「学、研鑽は二の次」信を重点に置くことを教えてるのに、
「求めて理解しようとする」前に信行が先と言ってるのは「不解」に当たらないのでしょうか?

このような質問を他ですると「計我・橋慢」と言われそうなので(^^;
ご指導の程、よろしくお願い致します。m(__)m

2404吉祥仙人:2005/05/16(月) 05:14:28
 「以信得入」(字が違ったらゴメンナサイ)の義ともかかわってきそうですね

 以上素朴な疑問のツブヤキでした。

2405彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/16(月) 13:05:04

>2403 ラキさん、はじめまして、

“解”という字の解字は、牛と刀と音を表し、同時にばらばらにするという意です。そこから“ときあかす”、“説明する”、“悟る”、“物の筋道や道理がわかる”という意味になります。
物事や疑問点を少しずつ解きほぐして解るようにするのが、“解”なのです。

以下、あえて私の愚論を述べます。
あなたの先輩が「信行が先」とおっしゃったのは、例えて言うなら、食べ物の栄養素のようなものではないでしょうか。生物が生きていくためには、澱粉、脂肪、たんぱく質、ミネラル、ビタミン、カルシウムなど非常に多くの栄養素が必要です。しかし、それを理解してから食べるのでしょうか? 答えはノーです。まず食べる、理解したければ、食べていきながら解いていけばよいのです。その具体的な“解く”という行動が必要なのではありませんか?それは誰かに聞いてもよいのですが、聞いた相手が必ずしも答えられるとは限りません。でもその人の行動が間違っているわけではないのです。自分自身が積極的に学び、解いていく行動。それが強く出てくれば、おのずと欲望を超えていくことができるのではないでしょうか。

人はみな欲望を持っています。それを抑えるのではなくベースとして、自分自身の前向きな力として利用していくことにより“物の筋道や道理がわかる”とことができると思っています。だから「幸せになりたい」「福運・功徳を積みたい」と思うことはよいことです。そしてどうすればそれが実現できるかを解いていけばよいわけです。

学ぶことが大切です。学ぶのは3つあります。人から学ぶ、書から学ぶ、天から学ぶ、の3つです。私たちが学ぶには書から学ぶのが一番早くて確実です。自分自身の疑問点を解きほぐすためにも、もっと書物に接することをお勧めします。どんな本でもよい(週刊誌、マンガ本はのぞきます)ですから、100冊/年を目安にすべきです。エロ本でもよいのですよ。エロ本100冊読めば大したものです。おのずと欲望を超えていくことができるでしょう。

なお直接関係ありませんが、松本佐一郎という人の『富士門徒の沿革と教義』という本に著者が大石寺第66世の達師からいただいた“解”と揮毫された色紙が載っています。松本氏は法華講の人で日蓮大聖人の御本尊を研究した人です。研究とはまさに“解”なのです。これは私の座右の文字です。

2406ラキ:2005/05/16(月) 14:41:48
彰往考来さん。はじめまして。

とても判りやすい解説ありがとうございました。m(__)m
>学ぶことが大切です。学ぶのは3つあります。人から学ぶ、書から学ぶ、天から学ぶ、の3つです。
学ぶ事でも3種類の方法があると、指摘していただき、3つの行いて色々な面で関係してるのかな?と
改めて感じました。
週刊誌、マンガ本以外の書籍は、最近あまり読んでなくて、年間50冊程度に落ちてます。

追伸。
何度も読み返して、石山系団体の食してるので、残るは、解き明かす行動をしていけば
良いだけだと感じました。
信・行は弱いですが、行・学(学ぶ行動)だけは、あるつもりです。
ここの掲示板のみなさん程ではないですが(^^;

2407パンナコッタ:2005/05/16(月) 15:42:28
れんさんの指摘や顕正居士さん、独歩さんの考えを踏まえると、比叡山に一乗止観院を創建し帰朝後に
名を根本中堂と改めて大乗戒壇建立に心血を注いだ最澄の行動の焼き直しを、蓮祖門下達がやろうと
していたのではないかとしか思えないのですが。つまり日蓮バージョンの比叡山をやりたかったのではないかと。

2408れん:2005/05/16(月) 16:57:57
2407 パンナコッタさん:
私もぶっちゃけた話、蓮祖門下、特に興師がやろうとしたのは、パンナコッタさんが仰る通り、最澄の行動の焼直し、日蓮バージョンの比叡山ということになろうかと思います。興師が申状で主張した天台・伝教(最澄)弘通→法華迹門、日蓮弘通→法華本門という考え、興師真蹟の現存する「本門弘通事」の末尾に見られる「迹門 比叡山 本ハ日枝山 吾山 御社、本門 富士山 蓮華山 大日山。」との対比の作業は、まさにそれを如実に物語るものだと考えます。興師が日蓮バージョンの比叡山建立の地を富士山と主張・決定したのは、真言宗や神道に由来する異名ながら、富士山には蓮華山・大日山という別名があり、それが蓮師の名乗りに通ずるものがあったからでしょうか。独歩さんのご指摘を踏まえれば、興師の上述の如き思想を背景として、且つ初期興門教学の重鎮の一人であり重須談所の学頭職を務めた順師が比叡山遊学をして京都とのパイプがあったので、特に重須で本門寺戒壇論が盛り上がった、それが後世重須の方で二箇相承が作られる下敷きになっていったのだろうと思います。

2409一字三礼:2005/05/16(月) 20:08:18
> 2407パンナコッタさん
> 2408れんさん

ご意見に賛同します。

興門と朗門に共通する「本門寺」の呼称、純天台に価値を置いた蓮祖の初期の思想、法華経本門を宗旨とした戒壇の建立。
これらの概念から導き出されるのは、お二人の仰るように比叡山戒壇の精神で、法華本門に基づく戒壇を望まれたのでしょうね。

付け加えれば、僧籍を自前で獲得したいという蓮祖一門の功利的側面もあったかもしれません。


また、伝教大師の根本中堂の本尊の薬師如来にたいして、蓮祖は一尊四士を戒壇院の本尊にと考えていたのではないかと想像しております。
蓮祖が観心本尊抄以来、一尊四士を主張されていたにもかかわらず、蓮祖がなくなるまで久遠寺にさえ安置されませんでした。門下一党に仏像五体を注文・製作する財力がなかったなどとはとても考えられません。
一尊四士の建立は戒壇の勅許が得られてからと考えておられたのではないでしょうか。

2410犀角独歩:2005/05/16(月) 23:06:32

パンナコッタさん
れんさん

わたしはどちらかというと理壇的にとらえてきたのですが、今回の検索結果はそれを支持してくれませんでした。よって、お二方の呼応に賛同します。

一字三礼さん

わたしも本尊抄の異からしても、一尊四士を戒壇堂仏像奉安と、蓮師は標榜されていただろうとわたしも想像します。

2411ラキ:2005/05/18(水) 23:32:56
「一念信解」を調べたのですが、解説を読んでも良く理解できないので、
ご教授お願いできませんでしょうか?

「一念に信じれば解脱(理解)できる」では、無いですよね?

2412犀角独歩:2005/05/19(木) 07:36:12

「一念信解」の四文字を簡単に説明するのは難しいですね。
純天台的に言えば、一念というより一心でしょうし、信解というのは羅什の漢訳已来の大問題でしょう。言うまでもなく、信解は『妙法蓮華経信解品第四』に由来する言葉ですが、岩本裕師は、「意向」と訳しています。そして、その意向が下劣であるとし、求めない珍宝(記別)を与えたという具合です。

念とは今/心ということですが、天台は一心三観等と言うごとく、心を採ったのに、妙楽はこれを一念とします。さらに三千不可思議境とこれを併せてか、ついに一念三千と造語したわけでした。

信解でいう信とは、では、どのような信なのか。誠信(バクティ)か。この点は、以前、大いに議論されたことでした。では、解はと言えば、信解品一品の流れからすれば、これは解脱というより、了解、理解に近いと思えます。ただし、解脱は理解では断じてありません。仏の意向を信じ解する程度の意味であったのでしょうが、しかし、漢訳教学では、この二文字は重大な意味を持つに至ります。

法華経のテーマは未来成仏、つまり、記別にありますから、信解、つまり、信即解といった教学とは元来無縁であるはずですが、しかし、実際は承知されるとおりです。素朴な疑問という範疇に収まりきりません。

『仏教にとって信とは何か』
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1043190919/l100

2413顕正居士:2005/05/19(木) 10:26:04
四信五品は法華経の分別功徳品にあります。

http://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/6/17.htm

「其れ衆生あって、仏の寿命の長遠是の如くなるを聞いて、乃至能く一念の信解を生ぜば」、
般若波羅蜜を除く他の五波羅蜜をたいへん長い期間に修行した功徳より遥かにまさると説かれます。
なお、お経の中にいう「功徳」とは仏法の理解が増進することで、この世の利益のことではありません。
その次に「若し仏の寿命長遠なるを聞いて、其の言趣を解するあらん」と略解言趣がいわれるから、
一念信解とは言趣の理解をいまだ伴わない段階であろう。それなのに「信解」というのは?

ここの梵文を直訳すると、
「衆生あって如来の寿量を宣説する法門を称讃し一念の間なりとも信解を生じ信受を為せば」
であります。「信解」の原語は「アディムクティ」です。この言葉は翻訳上、少しややこしさがあります。
ハインリヒ・ケルン氏は法華経の「信解品」を"Disposition"の章と英訳しています。Dispositionは「気質、
素質、傾向」の意味です。ただしアディムクティには他に「信頼」の意味もあります。したがって、

仏の寿命には限りが無いという説を聞いて喜び、かつ理解したい気持ちが起り、とりあえず信じる、
そのような人は、と解釈できます。如来寿量品の次にこの品が説かれるから、そのような「素質」の人
とは、仏が常にいますと聞いて、だから仏法を理解するのはいつでもよいと思わない人である。また
仏の寿命には限りが無く、仏は常にいますことを信じ、「仏はもう滅度された、わたしは**上人とか
**先生のいうことを絶対として行こう」とは思わない人であるでしょう。

2414ラキ:2005/05/19(木) 15:14:41
犀角独歩さん。
>素朴な疑問という範疇に収まりきりません。
一歩前進したと受け止めます。^^
参照リンクを拝読して考えて、「一念信解」の意味を、相手に聞いてみたいと思います。

顕正居士さん。
>仏は常にいますことを信じ、「仏はもう滅度された、わたしは**上人とか
**先生のいうことを絶対として行こう」とは思わない人であるでしょう。

今の私には判りやすいです。

「一念信解」と難しく言葉で示して、文字(言葉)のままの意味で、上人。先生。の言葉は絶対と
結びつける、行為だったと感じました。

(つぶやき)
「一念信解」は教団にとって、信者の疑問を封じ込める、魔法の言葉だと、私は感じました。

犀角独歩さん。顕正居士さん。
ご指導ありがとうございました。m(__)m

2415れん:2005/05/19(木) 20:54:28
一字三礼さん、犀角独歩さん。
パンナコッタさんと私の呼応にご賛同戴き感謝致します。
室町期の東国目師門伝承の所居国土(常寂光土)戒壇義は、その淵源は「今本時の裟婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり、仏過去にも滅せず未来にも生せず所化以て同体なり、此れ即ち己心の三千具足三種の世間なり」(観心本尊抄、興師写本はもともと石山にあったが要山に授与された)でしょうか。目師門では、この己心戒壇義(理壇?)とも言うべき思想を根底とした上で、事相戒壇が主張されたと思われますが、重須では二箇相承に見られる如く、殊に事相戒壇義即ち本門寺戒壇のみ主張された如く見え対照的に見えます。
それはともかく、戒壇院本尊について見ますと、蓮師の観心本尊抄の記述では、一字三礼さん・犀角独歩さんの仰る如く一尊四士が戒壇院本尊と見えるのに対し、興師の弟子・孫弟子である代師・順師になると、戒壇院本尊は曼陀羅本尊に則った仏像安置を主張するに至っています。この変遷は何に依るものなのか常々不思議に思っております。

2416れん:2005/05/19(木) 21:49:00
四信五品抄を読みますと、「現在の四信の初めの一念信解と滅後五品の第一の初随喜と此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋・十方三世の諸仏の出る門なり」とあります。この文を読みますと、蓮師は十方三世の諸仏の本地仏と定義される久成如来の一番最初の因行を「一念信解・初随喜の二処」とされたように見えて興味深く思っております。その具体相を示すと「一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」となるのでしょうか。一念信解については独歩さんの仰る通りその語の源義の説明を簡略に説明するのは困難ですが、富士門の信条的に言えば所謂「一信二行三学」に摂せられるものと言えるものでしょうか。初随喜については蓮師は顕仏未来記に「彼の不軽菩薩は初随喜の人」と言われているように不軽菩薩の行儀を示しているように見えますね。唱題について興門の思想を見ますと後世成立ながら本因妙抄には「受持本因の所作に由って口唱本果の究竟を得」とあり、また本因妙抄成立から遠からずして順師に仮託して作成された形名種脱判摂名字ノ事にも「依受持本因之所作成口唱本果之究竟是即當門流之本因本果之次第也」と受持(一念信解?)因・口唱(初随喜=不軽?)果との思想を見ることができます。四信五品抄については、石山に弘安元年の目師写本(従来興師写本とされてきたが、御筆写真に見える筆跡は保田の目師写本一代聖教大意に似通っており目師筆とすべきものである)がありますから、この四信五品抄の記述を土台に、このような富士門の唱題思想か成立したものでしょうか?

2417ラキ:2005/05/20(金) 12:38:27
「仏教にとって信とは何か」をまた、途中ですが、拝読させていただいてます。


「日目上人の先師の地望を遂げんがために後日の天奏に達せしむ」
「熱原の法華講集のように唯願説之 我等富信受仏語の想い」
「唯願説之 我等富信受仏語」の意味が理解できないので、ご指導をお願いします。
あと「仏弟子」とは、日蓮仏法を正しく実践している?から「仏弟子」という物なのでしょうか?
相手の言いたい意味が、どうしても理解できないので、悩んでしまってます。
今までの経緯からだと「信心」「信」を強調したいのかとも、受け取れるのですが、
引用されてる言葉が、どうしても、すっきりしなくて、困っております。

2418ラキ:2005/05/22(日) 01:26:44
「仏教にとって信とは何か」を拝読して、みかんさんの書き込みがとても心に響きました。
何度も何度も、読み返しても、言葉では表せない感動を覚えてしまいました。

「一念信解」の事を顕正会の知人に尋ねましたが、「一念の信あるのみ」
「解」の意味はやはりなく、予想していた回答で、少し落胆しております。

2419犀角独歩:2005/05/22(日) 08:03:29

信解というのは、実に悩ましい言葉です。
顕正居士さんがお示しのように、その言語は「アディムクティ」とのことですね。これを信解と訳すのには疑問があります。

信解は、信と解なのか。もしくは解を信ずるなのか。また、解は、解するなのか・解脱なのか、どうもはっきりしません。しかし、一品の意からすれば、未来成仏を約束された(記別)わけですから、その趣旨を信じ、理解したということでしょうか。これが信(因)解(果)倶時のごとく解釈されていくのでしょうか。

わたしは個人的には、信というのは経験的蓄積の結果であると思いますから、まず、最初に信を強要するようなものは、なんでも疑ってかかる習慣を持つべきだと考えます。信を強要されることになれた多くの人は、実践の教学という割に何も知りません。ただ、打ち出された内容、教えられた解釈を鵜呑みにして信じているだけで失笑を禁じ得ません。やることと言えば、組織の宣伝マンになってひんしゅくを買うようなことばかりです。自分の組織・指導者が絶対であると信じ込む、こんなかたちで変造された信は、しかし、元来、信仰のうえで言われる信ではなく、組織・指導者のご都合のために悪用され、信という仏教を盗み取り、人を騙す道具にしているのに過ぎません。これらの人々は信じているのではなく、騙されているという認識こそ必要です。仏教の信と営利宗教の現場で言われる信は言葉は同じでも異質であるという認識に立った議論が望まれます。

「信」は人の言と書きますね。これを仏の言を信じることに置き換えられてきたことに面白さを感じます。「儲」という字は‘信者’とは、藤原氏が『池田大作の素顔』で紹介したことでした。なるほどと思ったものでした。まあ、そちら側に立った人の言ですが紹介内容は可でも、人のものは‘信’には値しませんが。

2420犀角独歩:2005/05/22(日) 08:09:22

ラキさん、「唯願説之 我等富信受仏語」て、毎日、唱えているんじゃないんですか(笑)
三請不止の所です

http://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/6/16.htm

2421ラキ:2005/05/22(日) 13:47:23
犀角独歩さん。
2419のレス賛同いたします。
あえて、私に学ばせる為に「秘蔵」していたと思ってしまいます。^^

>ラキさん、「唯願説之 我等富信受仏語」て、毎日、唱えているんじゃないんですか(笑)
三請不止の所です

言葉も出ないぐらい、恥ずかしいです。(^^;
研鑽がたりないと、自己反省。
こんな私でも受け止めてくれる、ここが大好きだと、改めて感謝致します。

2422ラキ:2005/05/24(火) 11:05:47
前にもお聞きした事がありのですが、蓮師の辻説法をしたかしないか、でお聞きしたい事があります。
正宗発行の「日蓮大聖人正伝」では、辻説法はあったとの説が強いらしいのですが、
この本の事を調べていたら、「日蓮大聖人自伝」と言う本が出されていて、著者自信が、発刊後、正宗からの注文が大量にあり、その後、
正宗で「日蓮大聖人正伝」なる本の発行がなされ、著者自信が「在家の一居士に本格的な日蓮伝を出されては宗門のコケンにかかわると奮起したのであろうか?
 それにしては、買う気にもならない程度の「正伝」だったと記憶している。模倣は所詮ホンモノを超えることはできない実例の一つである。 」とコメントを述べられていました。
どちらの書籍も無いので、内容がわからないので「辻説法はあったか?無かったか?」
を今一度、知りたいのです。
文献などの詳細な提示がないので、石山独自の考え方しか述べられていないのが、真偽の判断の使用がないと、思っているのです。


某掲示板からの転記ですが、みなさんのお声をお聞かせ願えれば幸いです。

「辻説法はありました。」
『本日、再度「日蓮大聖人正伝」に目を通しましたが、
・門弟の一人も居ない鎌倉における弘通として当然行なった。
・「法門申さるべき様の事」に「二十余所を追われた」とあるが、法難の数と比べても「二十余所」は多い。これは、辻説法をしていたところ、排斥されたことをさすもの。
 などとして、辻説法はあったとされています。』

2423顕正居士:2005/05/24(火) 18:23:57
日蓮聖人辻説法の霊跡というのはたくさんあります。もうぜんぜんそういう伝説になっていたのですが、
遺文の中には辻説法をされたとはありません。今は伝説であろうという意見も多いのでは。日蓮聖人
の事跡については遺文以外の資料が存在しません。では辻説法はなかったかというとわかりません。
日像師は京都で辻説法をしたと伝えるし、サビエル師が京都で辻説法したのは確実らしい。室町時代
の京都では辻説法は効果があった、禁止されていなかったということです。「法門申さるべき様の事」
はなるほどとはおもえます。なお日了法皇や日礼管長のおっしゃることはあまり……。

2424パンナコッタ:2005/05/24(火) 19:39:30
あれっ、ラキさん。フィールドワークのオフ会で、辻説法跡には行かないんですか?

2425ラキ:2005/05/24(火) 19:46:00
顕正居士さん。
ありがとうございます。
辻説法の真偽は不明(謎)という事になりますね。
六老僧やその弟子などのに「辻説法」についての文献も存在しない。
伝説だけで、確たる文証が存在しない。
どちらも、断定する証拠がない。これだけ判れば十分です。
最後が気になりますが、キリが無いので止めときます。(^^;

2426犀角独歩:2005/05/24(火) 21:31:36

蓮師の辻説法ですか。どうでしょうか。
時の権力者への勘文(立正安国論)の提出する人が、街頭に立って辻説法、ちぐはぐな感じがします。

2427ラキ:2005/05/24(火) 22:53:04
パンナコッタさん。
一時間弱しかなかったので、御入滅場所だけは見たくて、蓮師関係の物だけ急ぎ足で見ていたので、
印象に残ってるのが、オフ会スレッドの書き込みだけなのです(^^;

犀角独歩さん。
>時の権力者への勘文(立正安国論)の提出する人が、街頭に立って辻説法、ちぐはぐな感じがします。

公開法論とか望まれていたのですから、街頭説法は限りなく無いと今は感じました。
根拠も無い伝説の域をでないものに「猊下監修の書籍に書かれてるから、辻説法はあった」
これだけの根拠では、納得できなかったので、気持ちがスッキリしました。

ドサクサついでに、一番最初の信者又は、弟子は誰なのでしょうか?
「図録 日蓮聖人の世界」出てたらごめんなさい。
読み始めたばかりなので。(^^;

2428犀角独歩:2005/05/24(火) 23:08:51

> 一番最初の信者又は、弟子

信者というのは、どこから指すのかわかりませんが、蓮師が出家、遊学をし、さらにその後も、いわゆるパトロンとも言うべき人たちがいたわけで、名越尼、光日房、聖密房と言った人々が最初の信者かどうか。もっとも最初の弟子は日昭師ということでしょうか。

2429ラキ:2005/05/24(火) 23:28:03
言葉足らずで申しわけございませんでした。
帰依した方と言う意味です。
「現代で言う入信」した一番最初の人が誰なのかと、思ってしまったのです。
辻説法説で「弟子・信者」を得た、ヒントになるかと思ったので。

2430犀角独歩:2005/05/24(火) 23:43:40

ラキさん、いちばん最初の信者というのは、なかなか概念規定が難しいでしょうね。ただ、伝説で言えば、蓮師がいちばん、最初に教化したのは両親と言うことになっているのではないでしょうか。

> 御入滅場所

これまた、所伝に属することになると思いますが、蓮師入滅の地ということであれば、本門寺ではなく、本行寺ということになるでしょうね。

http://www.hongyozi.or.jp/

2431パンナコッタ:2005/05/25(水) 00:39:42
タニマチ的には、やはり富木常忍ではないでしょうか。

2432ラキ:2005/05/25(水) 01:25:47
犀角独歩さん。
両親が最初だと血縁者ですね。
次が親族になるのでしょうか?・・・
蓮師のお供又はお世話をしていた最初の人物は?と、思いつきの質問ばかりで申しわけございません。
自炊していた?とは、思えないので、信者以外でお世話をする人が居たのか?
(使用人みたい人)
パトロンがいたから、使用人がいた。
その後、信徒でお世話やお供をしていた人が誰なのか?
最初の弟子「日昭師」が、お世話&お供を最初になされた人物なのか?
変った疑問ばかり浮かんでしまい、私って(^^;・・・

>蓮師入滅の地ということであれば、本門寺ではなく、本行寺ということになるでしょうね。
お寺の名前まで、覚えてきませんでした。(^^;
お墓が左右にある階段を下って、足を洗った井戸の隣の建物です。
建物の中央に、棒見たいな、布にくるまれた物が立っていたお寺です。
蓮師のゆかりの地で、石山以外で初めて行ったので、胸ワクワクで頭が真っ白状態で、
そして、曼荼羅の雰囲気が違うので、言葉にしにくいのですが、はじめて見る未知の世界。
書籍では見た事が合っても、実物を目にした衝撃が大きかったとしか言えません。
感動と驚きが適切な表現だと思います。

パンナコッタさん。

>タニマチ的には、やはり富木常忍ではないでしょうか。
タニマチて、俗世間的て意味で宜しいのでしょうか?(^^;

2433犀角独歩:2005/05/25(水) 10:51:45

> 棒見たいな、布にくるまれた物

お寄り掛かりの柱というものですね。
いま、本行寺の縁起を読んだら「立正安国論を御講義される時に寄り掛かられた「お寄り掛かりの柱」」となっていました。

たしか、これは以前は、臨終の時に寄りかかっていた柱ということで、それを「偽物だ」と攻撃したのが、竜年光さんだなんてことを、子どものころ、聞いた記憶があります。

2434パンナコッタ:2005/05/25(水) 12:04:43
ええ、そのタニマチ、パトロンという意味です。

2435彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/25(水) 12:21:12

>2432ラキさん

「タニマチ」は“谷町”と書き、大阪市中央区の谷町のことです。相撲の言葉で「食事も寝るところもお世話してくれるところ」という意味になっていますが、“谷町”の地名が由来となっています。ではなぜ「タニマチ」がそのような意味になったのかを調べてみると二説あります。

①明治末年に大阪谷町筋の相撲好きの外科医(歯科医との説もありますが外科医のほうが相撲取りには有り難いですね)が力士から治療代をとらなかったことから。
http://www2.ocn.ne.jp/~kodomo-c/root.htm

②江戸時代の大坂(当時は大阪ではなく大坂と書きました)商人が天王寺近くの高台に豪邸を建て、上り調子の相撲取りを後援することで財力を世間に示した。そうした豪商たちの住む本宅が谷町にあったので、いつしか力士の後援者たちを「タニマチ」と呼ぶようになった。
http://www.jidai-show.net/i/kotoba/ta_005.html

「パトロン」と良く似た意味ですね。

2436彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/25(水) 12:23:12

>2435

すみません。誤記訂正です。

誤:有り難い
正:ありがたい

2437彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/25(水) 12:26:20

>2434 バンナコッタさん

 すでに>2432にお答えされていたのですね。見落としました。
失礼いたしました。

2438パンナコッタ:2005/05/25(水) 12:43:10
彰往考来さん、
いえいえ、大坂相撲だったのですね。てっきり江戸だと思ってました。ご指摘、
ありがとうございました。

2439ラキ:2005/05/25(水) 15:38:50
犀角独歩さん。
>お寄り掛かりの柱というものですね。
初めて知りました(^^;
臨終=横になってる(床に入ってる)のイメージが強く、柱に寄りかかり、ご臨終されたとは、
驚きです。
>本行寺の縁起を読んだら「立正安国論を御講義される時に寄り掛かられた「お寄り掛かりの柱」」となっていました。
鎌倉時代に心ときめく、ロマンがあります。
次回伺うときは、背景を思いながら、参詣したいと思います。
(変な事を思い浮かんでしまいました。怒られそうだから沈黙(^^;)

パンナコッタさん。
ありがとうございます。
私も手持ちの辞書で相撲言葉とだけ載っていたので、江戸の相撲と何か関係があるのかと、昨日まで思っていたのです。(^^;

彰往考来さん。
細かく調べていただきありがとうございます。
2説の言葉の由来があったのですね。
とても勉強になりました。^^

2440犀角独歩:2005/05/25(水) 16:11:29

ラキさん。お寄り掛かりの柱、まあ、ロマンというか、いろいろなことを言われてきたのだというところでしょうか。
臨終の時に寄り掛かっていた…、そんな伝説があるかどうか、ちょっと、検索しましたが、見つかりませんでした。取り敢えず、今の統一見解としては、病床の枕元に臨滅度漫荼羅を懸けさせたとなっていますので、寄り掛かっていてはまずいだろうということになります。はて、わたしの記憶違いでしょうか。

うちの父が語っていたことで、正確かどうか、わかりませんが、臨終において、まあ、床に伏して寝るのは幸福なこと。これが座して臨終すると徳が高いことになる。即身仏なんか、ミイラになるのがそうです。臨終で最高位は立ったままで、これが弁慶の立ち往生という物語となるわけですね。

こんなことに絡めて、父は寄り掛かりの柱の伝承を話してくれながら、「けれど、そんなものが、700年も残っているはずがない。それを糾弾したのが竜さんなんだ」と話してくれたのです。しかし、いま、調べてみると、寄り掛かったのは立正安国論講義の時、こうなっていました。
さて、わたしの記憶違い、父の勘違い、はたまた、伝説の書き換えの何れでしょうか。

ロマンというより、ミステリーに近いかも知れません。

2441ラキ:2005/05/25(水) 19:49:03
>臨終において、まあ、床に伏して寝るのは幸福なこと。これが座して臨終すると徳が高いことになる。即身仏なんか、ミイラになるのがそうです。臨終で最高位は立ったままで、これが弁慶の立ち往生という物語となるわけですね。

ミイラで思いつくのが、「空海師」しか思いあたりません(^^;
臨終の最高位が立ったままなのは、驚きです。
「畳の上で死ねたら」て言葉をよく耳にしますので、畳の上で床で臨終が一番なのかと思っておりました。(^^;

>「けれど、そんなものが、700年も残っているはずがない。それを糾弾したのが竜さんなんだ」
科学的年代測定は行われていないのですか?


>寄り掛かったのは立正安国論講義の時
寄り掛かり柱の前で立正安国論講義がなされていたと思うと、当時どんな風に講義されていたのか、
思い描いてしまいます。
伝説の中ですが、辻説法より、リアルな感じがします。
ミステリーで、某TV番組の題名を思い浮かんでしまいました。(^^;

2442犀角独歩:2005/05/25(水) 20:32:38

伝説というのは、たいがい、論理的には穴だらけで、「おいおい」というのは多いですね。もちろん、科学的な調査がされる例はまれでしょう。

臨滅度漫荼羅にしても、蓮師が臨終が近づいたので、身延に取りに行かせたって話なんですが、仮に馬で往復したとして、どれくらいかかるのか。現実味がない話だと思うわけです。何より、それまでの旅程で、では、漫荼羅を持っていなかったことを意味することになると思えるわけです。

なお、即身仏(ミイラ)がいまはないのは、明治の頃から、禁止されたこと、秘仏としてあまり公開されていないことなどによるのではないでしょうか。正直言って、わたしはこの手のミイラは苦手です。有難さというより、不気味さが先にたちます。わずか空気が少し通るだけの管を通して、地下に埋められて、座禅組んだままで、水ばかりを取って、そのまま、死んでいく。秘儀・秘薬、向精神的効果で使用された水銀の副次的効果として防腐効果が、その保存を可能にしていたのだろうと思えます。

また、ミイラを即身(成)仏というのは、無仏の時代を越え、未来、弥勒下生を待つというコンセプトとも矛盾してはいないのかとも思えます。

スレ違いですが、国によって禁じられた仏教における自殺の一形態といえるのかもしれません。

2443ラキ:2005/05/25(水) 20:51:06
昔話見たい伝説なら楽しくていいのですが、宗教が絡むと、都合のいい伝説になるのが大半ではと感じました。

>臨滅度漫荼羅にしても、蓮師が臨終が近づいたので、身延に取りに行かせたって話なんですが、仮に馬で往復したとして、どれくらいかかるのか。現実味がない話だと思うわけです。何より、それまでの旅程で、では、漫荼羅を持っていなかったことを意味することになると思えるわけです。
最低でも1日走り続けて往復できるか出来ないか?でしょうか?
それを考えると、現実味がないと感じます。
漫荼羅は肌身離さずもって旅をしていたと思ってました。

ミイラの話を聞いて、鳥肌が立ちました。
独歩さんが書かれてるように、気味が悪いです。
(言われて、気が付きました(^^;)

ミイラについて私が記憶してるのは、未来に復活するために、肉体を残しておく。
このような、話しかぞんじておりません。(^^;

毎回、独歩さんのご教授には、新しい発見があり、とても楽しくぞんじます。

2444パンナコッタ:2005/05/25(水) 22:46:29
この手のミイラは、土中に籠もる最終段階では水の供給も絶たれます。実は最終段階での水分は
禁物で(土中の湿度も重要)即身仏になり損ねて腐り朽ちて失敗したものも結構あるようです。
通常、人が死ぬと胃酸などが内蔵を腐食させていくのですが、即身仏になる前段階から食を止める
のも胃液の分泌を最小限に留めさせミイラ化させるのに必要な事であったわけです。

2445ラキ:2005/05/26(木) 01:35:40
エジプト見たく死んでからミイラ化をはかるのではなく、生きたままのミイラ化て、
気持ち悪いです。
独歩さんも書かれてましたが、自殺と一緒だと私も思います。
想像して、鳥肌が立ちました。(^^;

2446犀角独歩:2005/05/26(木) 01:42:56

パンナコッタさん、その腐敗防止に、どうやら水銀が使用されていたようですよ。

ラキさん、そうなんです。これを入定というわけですが、自殺であると国は判断し、これを禁止したと言うことでしょう。

2447パンナコッタ:2005/05/26(木) 10:32:59
土中入定後直ちにミイラになるのではなく、実は後で弟子達が色々と手を加えていくみたいですね。
いずれにしても現代の感覚からすれば、おぞましく思える物に代わりはないでしょう。

2448乾闥婆:2005/05/26(木) 10:41:16
>犀角独歩さん。

ブログにて「今成師の摂折論を聴講」の記事を読ませていただきました。以前『日蓮的あまりに日蓮的な』(太田出版)での今成氏の「摂折論をめぐって」を読んだとき強い衝撃を受けました。いままで折伏とは「折伏すること」であり、その強い語法に学会の問題を感じていましたので、「折伏される」との解釈は個人として驚天動地であり、それが事実であるならば、大きく折伏観を変更できるのではないかと期待したのでした。しかし何分にも『日蓮的あまりに日蓮的な』収録の論文は小編で、私のような学術界外部の一読者としては、もう少し紙幅をとった論文を読んでみたいと願っておりました。

確かに「転重軽受法門」を読みますと、蓮祖が強く時の権力に折伏された、「悪国」においては正法を守ろうとする者は「折伏される」との文意を読み取れるのですが、そのような受動性が、「開目抄」の文章などを読んでいると、感じられないのです。能動性が先にたつといいますか、涅槃経からの引用を踏まえて論を展開され、「破法の人を折伏する」ことに重点は置かれているように読めます。また国家の状況について「転重軽受法門」は「悪国・善国」という二分法ですが、「開目抄」では「悪国・破法の両国」といった二分法です。「悪国」においての受難としての「折伏」と、「破法」の国における「折伏」との、このよじれをどう読んだらいいのか迷います。

2449ラキ:2005/05/26(木) 12:16:34
犀角独歩さん。パンナコッタさん。
>これを入定というわけですが、自殺であると国は判断し、これを禁止したと言うことでしょう。

>土中入定後直ちにミイラになるのではなく、実は後で弟子達が色々と手を加えていくみたいですね。
いずれにしても現代の感覚からすれば、おぞましく思える物に代わりはないでしょう。

私の感覚でしが、「入定」といってもやはり自殺でしかないですね。
現代感覚では半生き埋めでやはり気持ちが悪いです。

2450顕正居士:2005/05/26(木) 12:17:40
摂受と折伏について

摂受とは善をあつめ、まもること。折伏とは悪をふせぎ、おさえること。七仏通誡の偈にいう「諸悪莫作」は
折伏、「衆善奉行」は摂受です。仏教とは要するにもろもろの悪いことをせず、もろもろの善いことをせよと
いう教えです。これが摂折の二門であり、自分の生活についていうのです。

さて勝曼経には「まさに折伏すべき者はこれを折伏し、まさに摂受すべき者はこれを摂受す」という言葉が
あります。これは国王の社会秩序を維持する義務をいいます。仏教をもって導けない、要するに犯罪者は
逮捕し処罰しなければならない。聖徳太子の勝曼経義琉にこのことを道力摂受、勢力折伏というそうです。

また涅槃経にも国王の義務としての折伏がいわれます。仏教を護るために国王は戒を捨て、武器を持って
もよい。有徳王の説話と仙予国王の説話です。このことは最近にここに書きました。有徳王のほうは肯定
できますが、仙予国王のほうは「ポア」の思想です。残念ながら日蓮はこの涅槃経の思想を受容しています。
そしてこのことを取り挙げた日蓮宗内の学者はわたしの知る範囲では戸頃重基師だけです。

さらに法華経にいう折伏があります。「本已に善有るは釈迦小を以てまさに之を護り、本未だ善有らざるは
不軽以て大に之を強毒す」(法華文句)。本未有善には三乗、四教を説かず、直ちに一乗を説く意味です。

摂受と折伏は七仏通誡偈の意味が基本です。その上に勝曼経、涅槃経、法華経にそれぞれ異なる折伏の
思想があります。中に、涅槃経には絶対に否定しなければならない「ポア」思想があります。摂受と折伏を
考えるには、まずこれらの区別をしなければなりません。

なお、問答迷人さん。「摂受と折伏について」、別にスレッドを立ててはいかがでしょうか?

2451犀角独歩:2005/05/26(木) 12:31:29

乾闥婆さん

ブログのご高覧、有難うございます。
本日、これから外出しなければならず、夜も所用があります。明日にでも、改めて、レスをさせていただこうと思います。

今成師の論説も、顕正居士さんがご指摘された筋を踏まえていました。わたしも別スレを立てることに賛成です。

2452藤川一郎:2005/05/27(金) 11:45:47
弘法大師のミイラが、保存されていると聞いたことがあります。
これは事実でしょうか?
彼も所謂、入定なのでしょうか?

2453パンナコッタ:2005/05/27(金) 12:03:12
高野山の奥の院の事ですね。秘仏という事で一切公開はされてはいません。

2454ラキ:2005/06/05(日) 21:08:30
久しぶりの、とても素朴な疑問です。
御書の「兄弟抄」の読みについてなのですが、
「きょうだいしょう」か「けいていしょう」どちらが本来の読み方なのでしょうか?
どちらも正しく、ただ時代の変化で読みが変っただけなのでしょうか?
初歩以下の疑問ですが、ご教授のほどお願い致します。

2455犀角独歩:2005/06/05(日) 21:23:31

> 2454

いま、手元に資料がないので、記憶だけなので、諸賢に批正をいただきたいと思いますが、たしか辰師本に、兄弟抄は、古来、けいていしょうと読んだ旨、記されていたとあったのではなかったでしょうか。

そういえば学会を含む石山系では、これを「きょうだいしょう」と読んでいるんでしたっけ?

もっとも『聖教新聞』の聖教、正しい読みで言えば、「しょうぎょう」、もしくは「しょうきょう」でしょう。この手のことは枚挙に暇がないでしょう。

2456ラキ:2005/06/05(日) 23:52:30
石山。学会では「きょうだいしょう」顕正会では「けいていしょう」と呼んでいます。
蓮師時代の読みなら、古文になると思うので「けいてい」でいいのかな?とも思ったのですが、
石山では御書講義があるわけですから、読み方は口伝で伝わっているから、
時代の変化で「きょうだい」と読むようになったのか、気になってしまいまして。
機関紙とかなら、気にならないのですが(^^;
御書なので、石山系教団で読み方が違うのは?と疑問にも思ったのです。

2457ラキ:2005/06/06(月) 21:42:48
取りあえず、謎が解明できました。
石山系では「きょうだいしょう」日蓮宗では「きょうだい(てい)しょう」と判明いたしました。

>たしか辰師本に、兄弟抄は、古来、けいていしょうと読んだ旨、記されていたとあったのではなかったでしょうか
これはまだ、確認が取れていません。(^^;
気になる、素朴な疑問でも色々調べているととても楽しいです。^^

(つぶやき)
「一念信解」を今だ考えていましたら、「四信五品」にぶつかり、結局は「信」が大切だとなってしまいました。
四信五品抄に「五品の初・二・三品(ほん)には、仏正(まさ)しく戒定(かいじょう)の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧(え)又堪(た)へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為(な)す」(新編1112頁)

2458パンナコッタ:2005/06/07(火) 13:21:25
兄弟抄って、冒頭部分の真蹟が無いんですよね。 これは後世に付けられたタイトルではないでしょうか。写本等を見てみると、
『日祐目録』(写本の部)『日朝本目録』『平賀本目録』『刊本録内』『境妙庵目録』『縮刷遺文』『定本』『新定』
『対照録』『真蹟集成』では「兄弟抄」。
『日諦目録』『日明目録』は「与二子書」(兄弟書)、『高祖遺文録』は「与兵衛志書」(兄弟鈔) となっています。

2459パンナコッタ:2005/06/07(火) 14:05:19
四信五品抄の”慧”の字って、真蹟では『惠』だったんですね。

2460ラキ:2005/06/07(火) 14:58:21
パンナコッタさん。
色々調べていただきありがとうございます。m(__)m

>兄弟抄って、冒頭部分の真蹟が無いんですよね。
タイトルは謎に包まれているのですね。
漢字表記では「兄弟抄」が、一般的と見られます。

>『日諦目録』『日明目録』は「与二子書」(兄弟書)、『高祖遺文録』は「与兵衛志書」(兄弟鈔) となっています。
この三書だけが、タイトルが少し違って、補足で「兄弟抄」になっているのは、驚きです。
全書にて「きょうだいしょう」か「きょうだい(てい)しょう」か「けいていしょう」か
どのように読まれてるのか気にはなりますが、考え出すとキリがありませんね(^^;


>四信五品抄の”慧”の字って、真蹟では『惠』だったんですね。
これも驚きです。
やはり「真蹟集成」は、いつかは必要だと感じました。

2461パンナコッタ:2005/06/07(火) 16:33:10
ラキさん、
 実は、興風談所の御書システムを導入して、そこからの引用なんです。(^^)

2462パンナコッタ:2005/06/07(火) 18:59:09
とりあえず蓮祖がタイトルを付けたもので現存しているのは、
『立正安国論』『薬王品得意抄』『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』『法華取要抄』『撰時抄』
 といったところでしょうか。

2463ラキ:2005/06/07(火) 20:30:17
(ノ゚ω゚)ノ え〜?!
現在ある手紙で蓮師が付けたのってこんなに少ないのですか。
お手紙を与えられた方の名前が付いてるのは判るのですが、それ以外は、
後から付けられた(考えられた)タイトルだったんですね。
今まで気にしてなかったのに、気になってこのように知らない事実があるとは、
私にとっては、大発見!目から鱗です。(^^;
周りの信心してる人に話をしても、雑学的な事を知っていても、「へ〜」とか、
「学者にでもなるの?」「信心に直接関係ない」と言われそうで、語れないのが残念です。
些細な事かもしれませんが、私には感激と感動を感じる出来事なのです。^^

浅学な私はROM専門ですが、素朴な疑問の宝庫なので(^^;
これからも、色々とご教授お願い致します。

2464藤川一郎:2005/06/08(水) 12:14:28
>> 現在ある手紙で蓮師が付けたのってこんなに少ないのですか。
>> お手紙を与えられた方の名前が付いてるのは判るのですが、それ以外は、
>> 後から付けられた(考えられた)タイトルだったんですね。

ラキさんへ
浅井さんが、御書のタイトルを変更する理由にこれを挙げておりますよ。
曰く「大聖人様の御書の中でも題名があるものは少ない。その他は身延系が付けたんだ。だから題名が真意を顕していない。ですから私が変える。」
だそうです。

変更名
種々御振舞御書→下種本仏成道御書
聖人御難事  →出世の本懐成道御書
(すいません。もしかしたら不正確です)。

2465ラキ:2005/06/08(水) 19:34:20
藤川一郎さんへ

>曰く「大聖人様の御書の中でも題名があるものは少ない。その他は身延系が付けたんだ。だから題名が真意を顕していない。ですから私が変える。」
凄い〜発言で驚きです。
身延系が付けたとは言え、石山系でも正式に採用されているのに、破門になったら、
国立戒壇以前の正宗教義を根本にと言ってるのに、逸脱した事をしてると思ってしまいます。

2466パンナコッタ:2005/06/08(水) 22:15:57
蓮祖が表題を付けたものでほかに、
『三八教』『一代五時図・(略本)』『一代五時鶏図(西山本・本満時本・本国寺本)』
 なんてのが現存していました。

2467犀角独歩:2005/06/09(木) 11:48:44

この一大五時図をもって、大師講を中心に教化したのが蓮師の在世という見解を小松先生は講義していましたね。

2468藤川一郎:2005/06/09(木) 11:54:47
>>2464
訂正
出世の本懐成道御書→出世の本懐成就御書

2469パンナコッタ:2005/06/09(木) 14:10:30
土木殿御消息(文永6年6月7日)を踏まえると、大師講は佐渡以前に月例化していたとみて
いいと思いますが、どうでしょうか。

2470犀角独歩:2005/06/09(木) 14:17:31

わたしはこの点は不案内なのですが、小松先生の講義では、そんな話をされていましたね。
現在、御講が定例行事であるように、蓮師は大師講であったと、それが晩年まで続いたというお話でした。
で、その途中で、漫荼羅の図示が始まるわけですが、この段階でその法要形式が変化したかどうか。
これは謎ですね。

2471パンナコッタ:2005/06/09(木) 14:27:23
実際に蓮祖の講義を受けていなければ判らない、と いったところでしょうか。

2472犀角独歩:2005/06/09(木) 15:18:32

パンナコッタさん

大師講がどんなものであるのか、かえって天台宗の当時の資料でも当たったほうが原型はわかるかも知れませんね。

2473FAMAS:2005/06/14(火) 11:24:48
ふと疑問に思ったことなのですが、現在複数の正宗系信仰団体や法華講などがありますが、色々な「入信」という形態を取っていると思うのですが、
本来、日蓮聖人或いは日興師、日目師等の元来の「入信」という形態はどのような状態を以てそう呼んだのでしょうか。
何か特別な儀式でもあったのでしょうか?
それとも別な決まりなどあったのか?
とふと思ってしまいました。
どなたかご存知でしょうか?
またもし重複するスレッド等ございましたら、教えていただけませんでしょうか?

2474犀角独歩:2005/06/14(火) 12:03:29

蓮師がどのような入信儀礼を踏んだのかは目下のところ、まだ解明されていないでしょうね。
その現れが、不動・愛染感見記、また、晩年の漫荼羅授与ではないかというのが、当掲示板で議論されてきたことです。

ただし、入信・入団は『宗祖御遷化記録』で定められた「本弟子六人」が日蓮正統な師弟関係であり信仰・集団の基礎です。ですから、弟子から弟子、その弟子と檀那・信徒という関係上にあるものが日蓮が認める正式な僧俗であるということを目論んだのが、上記、遺言であったのだと思います。

いずれにしても、その六人の末流になく、単に日蓮直結を自称することは、現代の信教の自由からなんら否定はされないでしょうが、日蓮の意図からは外れたものであるのは事実です。

こう書けば、創価学会、顕正会、さらに立正効成会の批判と取られるかも知れませんが、わたし自身、この脈絡にある本末寺院の師弟関係を絶っていまがあります。

2475大盛:2005/06/14(火) 19:45:37
独歩さん、自然譲与、三国四師は、どうでしょうか。
日蓮聖人自身、相承から脱した存在ではないでしょうか。

2476犀角独歩[TRACKBACK]:2005/06/14(火) 21:39:55

大盛さん、なかなか鋭い指摘ですね。

この点については、以前、わたしは比叡山延暦寺沙門圓信記『破日蓮義』を紹介し、考えたことがありました。

紹介投稿の折、雑駁な延書をし、顕正居士さんに添削していただいた懐かしい記憶があります。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1060641548/r82-83

返り点等も付いた書で、読みやすいので、ご参考に供していただければと思います。尤も既にお読みかも知れませんね。

このなかで法華宗たる日本天台宗は伝教大師がわざわざ中国に渡り相承を受けてきたが故にその相承を言える。それに比し、日蓮の言う相承は何だという次第です。先にも紹介した箇所ですが、以下のような調子で始まります。

日蓮党類所談法華経法門。三国伝来之様慥可申也。若無三国相承者不可立宗名。汝号法華宗事。甚不可然。(原文・旧仮名遣)

恰も石山が他の不相を蔑視する如き論調で、叡山僧圓信は「日蓮」を弾劾します。
摂折その他に関しても触れていますので、この部分も紹介してもいいですね。

いまは夜の食事前で、漢文のタイピンが億劫なので、追ってまた投稿させていただく所存です。

2477FAMAS:2005/06/14(火) 22:47:40
犀角独歩さん 早速のご返事ありがとうございます。
本尊授与、勤行儀式が入信という儀式ではない以上、日蓮師が認められる宗派入信というものは、やはり権限者による独断なのでしょうか?
自らの弟子は良しとして、更にその弟子、その孫弟子などに対する師事形態に対する指導はどこかにあるのでしょうか?

また、日蓮聖人在世に弟子による帰伏者は、日蓮師からどのような許可を得て、またどのような活動が許されたのでしょうか?
重ね重ね薄智者の疑問です。

2478FAMAS:2005/06/14(火) 22:49:15
すみません。
犀角独歩さんの言葉からは2477のような捉え方は間違えだと認識しました。
失礼しました。
ですが、依然として疑問は残ります。

2479犀角独歩:2005/06/15(水) 05:13:00

FAMASさん

資料が確認できない以上、決定的なことはわからないということですね。

2480FAMAS:2005/06/15(水) 07:08:33
犀角独歩さん
確定的なものがない事を、時代と共に”「入信」とはこうあるべき儀式”という時々の概念で捉えてきたということですね。
つまり、現代の入信方法がそのまま当時に当てはまるかどうかという事とは別だと。
この疑問はもう少し自分の中で整理してみます。
ありがとうございました。

2481犀角独歩:2005/06/15(水) 07:57:26

FAMASさん

おはようございます。そうですね。結局のところ、何もわかっていないと言うことがわかったというのは、たとえば、遺文講義ではもっとも信頼度がおける小松師、法華経解釈ではもっとも信頼のおける松山師、その両者が奇しくも同じく語った結論でした。

入信儀礼ということにしても、日本は永らく寺請制度という統治下にありましたから、転教の自由すらなかったわけです。そんなときに入信儀礼などあったものではなかったでしょう。せいぜいあるとすれば、徒弟制度、家制度が出、出家した学僧クラスのみではなかったでしょうか。次々と宗派が起きた鎌倉時代とは比すべくもない時代でした。

研究され、どうか、その成果を開陳してなさってください。期待しております。

2482ラキ:2005/06/20(月) 22:30:25
前に諸天の事を気になっていましたが、諸天の中でも「天照大神」「八幡大菩薩」て、
天皇の先祖に当たるわけですから、天皇は「王」国主には当たらなく、法華経守護の立場にならないのかと
疑問を感じました。
(曼荼羅本尊に、表されているからです。)
現代では「王」に当たる存在として、政府がありますが、政府は国民の代表で「王」と言う、
単独の国王には当たらないので、日本国には「王」(国主)不在?とも取れないかと思います。
すでにどこかのスレッドで議論されていたら、申しわけございません。m(__)m
無い知恵絞って、考えて出た疑問なので。
この疑問が浮かんだのは「国立戒壇」の事を考えていて、時代を考えると、
現代では到底、「時・国」に当てはめても、成り立たない、主張ではないかと感じたからです。

お叱りを受けるかもしれませんが、私の考えを述べさせて頂きました。

2483パンナコッタ:2005/06/21(火) 00:19:28

八幡大菩薩は十六代応神天皇ですよ。(神国王御書参照)
現代の日本は憲法上、主権在民ですから”王”には、当てはまりませんね。

2484犀角独歩:2005/06/21(火) 01:11:50

2482のラキさんの疑問は、蓮師が国立戒壇を述べたという前提でしょうか?
述べていないでしょう。

また、「現代に」というお話ですが、蓮師の強説を現代にそのまま、当て嵌めたら大変ですよ。
まず、日本中の浄土宗、浄土真宗の坊さんを鎌倉にかき集めて、由比ヶ浜で死刑にしなければなりません。それも斬首刑です。次に法華経を信じない人間もそれに準じます。

「大聖人の仰せのままに」、御書を部分的にしか読まないから言える、御書全編を読んだことのない子供騙し戯言以上の何ものでもないでしょう。「摂受と折伏について」スレで議論しているとおりです。


まあ、石山教学という狭隘な井戸の中で考えれば、そんな議論もありなのかも知れませんが、所詮、土台にしているものが根本的に違っているわけですから、そんなことに時間を費やすより、事実を見ることのほうが先決でしょう。

間違っているものを手にとって、「あなたは間違っている」というほど、虚しい徒労はないわけです。どんぐりの背比べ、目くそ鼻くそを笑うの類の話でしょう。

2485ラキ:2005/06/21(火) 02:43:35
パンナコッタさん。
ありがとうございます。
>八幡大菩薩は十六代応神天皇ですよ。(神国王御書参照)
現代の日本は憲法上、主権在民ですから”王”には、当てはまりませんね。

現代では「王」が存在しない。
この確認が出来ただけでも、助かります。

独歩さん。

>2482のラキさんの疑問は、蓮師が国立戒壇を述べたという前提でしょうか?
蓮師が述べてはいないと思いますが、近いニアンスで述べられた事もないと今は思っています。
石山系の中での狭い範囲での議論で、蓮師の御書でどのように歪曲解釈で「国立戒壇」を打ち立てれるのか?
また、その歪曲解釈をどのように説明したら良いのか、少し考えておりました。
「王」不在なので、現代では通用しない議論と確信の為の質問でした。

>また、「現代に」というお話ですが、蓮師の強説を現代にそのまま、当て嵌めたら大変ですよ。
まず、日本中の浄土宗、浄土真宗の坊さんを鎌倉にかき集めて、由比ヶ浜で死刑にしなければなりません。それも斬首刑です。次に法華経を信じない人間もそれに準じます。

ここまで考えが及んでいませんでした。(^^;

>「大聖人の仰せのままに」、御書を部分的にしか読まないから言える、御書全編を読んだことのない子供騙し戯言以上の何ものでもないでしょう。「摂受と折伏について」スレで議論しているとおりです。
痛感しております。
何かにつけて「一念信解」解が伴っていないので「一念信」しかないと感じております。
御書も切り分でしか解説してなくて、結局は「一念信解」の結論は、子供騙しでしかないと痛感しています。

>「摂受と折伏について」スレ
今一番気になる話題です。
折伏と証して、法論が成り立たないから折伏にはならず。
摂受かとも言えるかといえば、少し疑問。
五十展転が一番あれはる言葉かと思えますが、やはり勧誘でしかないとの実情は拭い去れないと思います。

>まあ、石山教学という狭隘な井戸の中で考えれば、そんな議論もありなのかも知れませんが、所詮、土台にしているものが根本的に違っているわけですから、そんなことに時間を費やすより、事実を見ることのほうが先決でしょう。
ただ今、広い範囲で猛勉強中です。
日興上人から4派に別れ、日目上人から2派に分かれた、事実を最近知りました。
都合の悪いのは公表しないで、自分から求めて調べない限り、謎のままで一生騙されているとこでした。
学び知り、知ればもっと学び知りたくなり、楽しいです。

2486犀角独歩:2005/06/21(火) 02:59:42

ラキさん、顕正居士さんが、ご紹介くださった国会図書館ライブラリーには、以下のような箴言が扉にありますよ。

「真理がわれらを自由にする」
http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/shinri.html


まあ、聖書の言葉らしいですが、特定の信念体系にとらわれているというのは不自由ということです。

宗派教学の碩学がああ言った、こう言ったと恐ろしく知識が豊富でも、実はその信念体系から一歩も出ないとらわれの身となっている人は多いでしょう。

学ぶということは、とらわれからの脱却でなければ、おのが奴隷の主人を変えただけというすげ替えだけの話になります。

所属、指導者、信仰対象が変わっただけで、隷属している、依存しているという自らの不自由には少しも気付けないという結果にならないよう、考え、行動できるかに目標を定めないと堂々巡りになります。

2487ラキ:2005/06/21(火) 03:44:00
>「真理がわれらを自由にする」

とても良い言葉だと思います。

>所属、指導者、信仰対象が変わっただけで、隷属している、依存しているという自らの不自由には少しも気付けないという結果にならないよう、考え、行動できるかに目標を定めないと堂々巡りになります。
信仰心は皆無に無いです。(^^;(問題発言?汗)
石山系指導者は、尊敬とかしてないです。
偉大な先生。猊下とかなんとも思っておりませんし。(^^;
ご心配してくださいありがとうございます。m(__)m

2488藤川一郎:2005/06/21(火) 16:41:32
ラキ様
お久しぶりです。
現代でも日本の王は、天皇とも言えます。
確かに王を執政者と限定すれば(狭義の王)主権在民の現在では、天皇は王とはなりません。
しかしながら、日本の伝統では一部の天皇を除いて、執政者=天皇ではありません。
天皇は今も昔も象徴的な権威者です。
執政者が時に「摂関家」「上皇」「将軍」「薩長」「元老院」「軍部」「国民」と変わっても、王が天皇家である事実は消えておりません。
現代でも海外の大使は「信任状」を内閣ではなく天皇家に提出します。国際法上は「元首」です。
また日本の閣僚は「大臣」と呼ばれております。誰の臣下なのでしょうか?国民の臣下でしょうか(笑)!
そうです。紛れもなく天皇陛下の家臣であります。

2489藤川一郎:2005/06/21(火) 16:48:57
ついでに、現代の皇室典範では、王は「天皇から三親等以下の男子」を指し、天皇はその上位に位置するのですがね(爆)。
すると天皇陛下は「王の中の王」なのですから、ある意味怖い解釈をするかたもいそうですがね!
なお、現代海外からエンペラーと呼ばれるのは日本国天皇只一人でして、本当の「ラストエンペラー(笑)」なのかな!

2490ラキ:2005/06/22(水) 03:00:01
藤川一郎さん。
詳しいご説明ありがとうございます。

>現代でも海外の大使は「信任状」を内閣ではなく天皇家に提出します。国際法上は「元首」です。

しならかったです(汗)

>現代海外からエンペラーと呼ばれるのは日本国天皇只一人でして、本当の「ラストエンペラー(笑)」なのかな!
映画の影響か中国の「ラストエンペラー」が印象にあり、これも初めて聞きました。(汗)
日本史が苦手で(^^;
こんどじっくりお話を聞かせてくださいませ。

海外にも王室がありますが「エンペラー」との表現ではなく、なんと表現してるのでしょうか?

2491藤川一郎:2005/06/22(水) 11:41:09
ラキ様
海外の王室と日本の天皇は意味が違います。王と皇の違いですね。
ちなみに、呼び方を並べてみます。
①天皇、皇帝(Emperor)女帝(Empress)
②国王(King)女王(Queen)
③大統領(President)
④首相(Premier)
ちなみに隠語として、池田大作氏を「P」と呼ぶのはこの「President(大統領)」からきています。

なお外交儀礼上は、①から④の順番で上位となります。
ですから日本の天皇が最上位概念となります。
実は本来の意味では「皇は王を束ねる」のです。

ちなみに現代ですが、あくまでも外交儀礼上の事ですが、国際的な場において同席する際に
①イギリスの女王は日本国天皇に上座を譲る。
②天皇・皇后訪米の際アメリカ大統領が空港へ白ネクタイ(ホワイト・タイ)で出迎える。
(この歓迎方法は米国大統領にとって最敬礼のものとされており、現在その対象となっているのは日本国天皇、ローマ教皇、英国国王のみ)

2492藤川一郎:2005/06/22(水) 11:42:25
>>2488,2491
本掲示板のルールに従いまして、ラキ様をラキさんと訂正します。

2493ラキ:2005/06/22(水) 12:49:26
藤川一郎さん。
重ね重ねありがとうございます。m(__)m
凄く判りやすくてためになりました。^^

隠語の「P」は少し笑ってしまいました。
1番2番の隠語は誰が使用するのかなって、考えてもしまいました。
2番は想像できますが(^^;

2494藤川一郎:2005/06/22(水) 19:16:17
そもそも中華思想では「皇」は、支那(ここでは支那は蔑称では無い)の最高位にしか許されない。天皇が「皇」の字を冠しているのは彼らから言えば、大慢心である。
本来なら、即座に討伐される。現に朝鮮半島に、朝鮮王、百済王、高麗王などはいても「皇帝」はいなかった。それどころか「各歴代の中国皇帝」に貢ぎ物を捧げ、「王の地位」を保証してもらう形式を踏まざるを得なかった。
近代に至って、大日本帝国が「日清戦争」に勝利し、下関条約で「朝鮮の独立」を認めさせ、地位を確保して、初めて「大韓帝国皇帝」が誕生した。
日本は中国との間に海があったため、海を越えてまでの討伐が出来にくかったからこそ、天皇位が堂々と許されていた。
朝鮮は陸続きで何時でも討伐されてしまう危険な国であった。同じく女真族の国(金国後の満州)でも皇帝は許されなかった。それを支那を侵略し、皇帝の地位に就いたのが、清国である。
さて、その支那の最高位で初めて「皇帝」を名乗ったのが、秦の「始皇帝」である。そして最後が「宣統帝」すなわち愛親覚羅溥儀なのです。ですから、中国の「ファーストエンペラー」が「始皇帝」、「ラストエンペラー」が「宣統帝」なのです。
ですから、映画「ラストエンペラー」で呼ぶ「ラストエンペラー」とは、中国における「ラストエンペラー」なのです。

2495銭函:2005/06/23(木) 00:18:30
はじめまして。銭函と申します。私は東北福島出身です。高校の授業で会津の歴史を学びました。歴史認識の違いと言うかうらみは今でも韓国中国だけではなく日本にもあると思います。忘れただけだと思います。

2496藤川一郎:2005/06/23(木) 12:28:36
銭函さん、はじめまして!
会津とありましたので、ここに一文書かせて頂きます。
会津には藩祖保科家より伝わる家訓があり、口語訳するとその第1条に
「大君(将軍家)を第一に思い、忠誠をもって勤めること。他の藩の行いをまねて行動するのではなく、将軍家の為に行動せよ。もしこれが出来ず、他の考えを持つものは、我が子孫ではない。」
とあるため、最後まで官軍に抗したという誤解があります。
しかしながら、会津戊辰戦争の時期には既に徳川宗家(将軍家)は大政を奉還をしており、しかも官軍への抵抗を禁止していた。だから、家訓に従い最後まで抗したと言うのは完全な勘違いでしょう。
確かにこの家訓に従い、当時の会津藩主である会津中将松平容保公が西郷頼母ら家老連中の反対を押し切り「京都守護職」に就いたのは確かでしょう。しかしながら、その松平容保公は孝明天皇より御宸翰を賜っており、その中の和歌にて「もののふとともに歩む」とあり、そのもののふこそ「松平容保」その人のことを読んだことは有名です。
すなわちそのお人柄に触れ、この帝のために全てを捨てんとしたのでしょう。すなわち彼らの認識では自分らこそ「誠の官軍」であると思っていたことは確かでしょう。
そして、もうひとつ忘れてはならないのが、当時の公卿の日誌に、「薩長が佐幕(保守)派の孝明天皇を暗殺し奉り、中山大納言を抱き込み、幼帝を擁して政権を奪取した」とあるのです。
生真面目な容保公が、こんな薩長に従えるわけがありません。会津の人にとっては、正義の戦争だったのです。それでなくては、家老西郷家の女性たちの「20数人壮絶自決」等という悲劇はありえません。
もちろん「孝明天皇暗殺」は現代でも、確実な資料はありません。しかし、明治40年代に伊藤博文を暗殺した安重根までもが、その裁判課程にて「伊藤博文が孝明天皇を暗殺した」等と述べている位、タイミングが良すぎる死に方だったことは事実であります。

2497パンナコッタ:2005/06/23(木) 14:42:15
銭函さん、斗南史のことでしょうか?
藤川一郎さん、容保公は尾張徳川の分家、高須松平家の出で江戸で生まれていますね。
12歳で会津松平家に養子にいき、17歳で藩主になるまでみっちり会津の精神教育を
受けたのでしょうね。ですから義理堅く京都守護職なんぞを引き受け(春嶽に説得された?)
る羽目になったのでしょうかねぇ。
 西郷頼母の家の婦女子が自決した時の「敵か味方か」の問いは哀れを誘いますが、同時に
山川捨松のような人物もいるのはせめてもの救い(救いになるのかな)だと思います。
 孝明帝崩御には確かに暗殺説がありますね。頑なな攘夷論者で公武合体支持者である以上、
討幕派に転じた五百円札あたりには目の上のタンコブであったことは事実でしょう。
一応、「孝明天皇記」「中山忠能日記」では天然痘らしい記述になっていますね。

2498銭函:2005/06/24(金) 00:24:38
藤川一郎さん パンナコッタさん
はじめまして!!
いつも楽しくこの掲示板をレスさせて戴いております。
レスを戴き『へぇ』×30回以上、トリビアの泉みたいです。
(もちろんいい意味でです。)
ありがとうございました。

すみません。
私は斗南史を存じません。
授業中に先生が熱心に語っていたのを思い出しました。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

2499パンナコッタ:2005/06/24(金) 12:27:32
銭函さん、どうも。
”歴史認識の違い”と”会津”ということで、落城後の家臣の悲惨な斗南への強制移住
の事と勝手に思ってしまったので、御容赦。(m_m)

幕末の直接関係ない話を投稿してしまいましたが、この時期、大塩平八郎が乱を起こす前に
曼陀羅を書写していたらしいのですが御存知の方ご教授、願いします。

2500顕正居士:2005/06/24(金) 17:02:28
一揆の前に祖父が大石寺の上人から頂いた板曼荼羅を源立寺に返却したという話ではありませんか?

2501パンナコッタ:2005/06/24(金) 19:23:39
2499は、お願いの”お”が抜けていますね。m(__)m

顕正居士さん、ありがとうございます。
大塩平八郎のネタ元は戸田さんのレコードで、たしか「そっくりである」と言っていたと思います。
他に由井正雪も書いていたと言っていたような(ホントかな?)記憶があります。
まあ、戸田さんの場合鶴丸に関しての発言で、家紋の始めを足利義政の時代と言っていたくらいですから
信憑性に疑問があるので上記の大塩平八郎の質問をしてみたのですが、どうやら一杯食わされていた話ですね。

2502彰往考来(しょうおうこうらい):2005/06/24(金) 20:17:26

>2499バンナコッタさん
>大塩平八郎が乱を起こす前に曼陀羅を書写していたらしい

これは初耳です。2500で顕正居士さんが
>一揆の前に祖父が大石寺の上人から頂いた板曼荼羅を源立寺に返却したという話

と指摘されていることでしょう。なお、本件は、『大塩の乱関係資料を読む会会報 第32号』
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kai32.htm

に掲載されている井形 正寿氏の「大塩家と日蓮宗」という論文に詳しいです。以下、その論文を引用します。(一部誤記訂正しました)
 大塩事件を調べていると、いろいろなところで予想もしないことに出くわすことが多い。 大塩平八郎の菩提寺は成正寺であることは、境内の大塩家九基の墓とともに世間周知の事実である。ところが、もう一三年も前になるが、意外なことを聞いた。それは、大塩平八郎の祖父・大塩政之丞が、日蓮宗富士門流大石寺末、源立寺の檀那であったと、同寺の門徒から告げられた。
 その門徒との出会いは、昭和六二年一月、池田市立歴史民俗資料館で開催されていた「大塩の乱と能勢騒動」展を見学し、帰り際に、館長に挨拶していたところ、突然、学芸員がいまここにいられる来館者の質問に答えられないので、ぜひ会って欲しいと引き合わされた。
 その後、門徒の手引きで源立寺の住職と数回お会いし、同寺が大塩政之丞由縁の寺であることがわかってきた。寺は開創以来四百年の歴史があるといわれ、明治一〇年まで摂津国西成郡薬師堂村(現東淀川区柴島一、二丁目界隈、一部は新淀川の河川敷となる)にあったが、同年一一月に、阪急池田駅から歩いて三分の池田市槻木一丁目に移転した。
 源立寺が大阪から池田に移転した理由として、大塩家ゆかりの寺であったため、幕府の宗教的弾圧を受け、廃寺同様の荒廃で明治を迎えた。これに追打ちをかけるように新政府の宗教政策によって、住職不在の寺の廃止が通達されて来たので、講中の人びとによって新しい住職を見つけるなど大変な努力がなされた結果、池田周辺に檀信徒が散在していた関係からか、明治一〇年に心気一転、現在地に移転したと寺史に書かれている。

2503彰往考来(しょうおうこうらい):2005/06/24(金) 20:18:45

2502の続き

寺と大塩家のつながりを示すものとして、大塩政之丞が、総本山大石寺三六世日堅上人から授与された板曼荼羅が源立寺に遺されており、「大塩家先祖代々 大坂天満与力当門之信者」の文書と大塩政丞の先妻、本種院妙因日量の「過去帳」が寺に伝わっている。板曼荼羅には「安永七戊戌年十月十二日」「授与之、摂州大坂住人大塩政之丞成勝」と刻まれ、寺では日堅上人の真筆と伝えている。
 日蓮宗の各宗門では、日蓮が体験会得した法華経の世界を一副の紙幅または板に図顕したものを曼荼羅といい、これに向かって「南無妙法蓮華経」と唱え、法華経を読んで祈ることが修行の基本としている。だから、信仰の対象とする本尊は仏像ではなく、中央に独特のひげ題目の筆法で「南無妙法蓮華経」と大書された、文字『曼荼羅』を本尊として尊崇している。
 板曼荼羅の授与は通例では寺院向けに行われることが多いのに、本山の法主から大塩政之丞に異例の授与がなされたのは、政之丞が篤信の檀那であったと寺では説明している。大塩政之丞の本名(諱)の成余はよく知られているが、板曼荼羅には成勝となっている。成勝の名前が出てくる文書がほかにもある。それは政之丞の後妻西田清(加納または於世ともいう)の妹津佐が、寛政八年摂津国西成郡南大道村郷士沢田義文に嫁入に際し、大塩政之丞が出した沢田家宛ての婚礼祝儀の書状には端裏に成勝の名が記されている。相蘇一弘が「沢田家文書について」(『大塩研究』三号、六頁)のなかで大塩政之丞成勝の書状が紹介されている。 政之丞に授与された板曼荼羅は、現在は源立寺の末寺、府下豊能郡能勢町倉垣の広基寺に本尊として本堂に安置されている。源立寺が池田に移転した翌年の明治一一年一〇月に広基寺は、はじめ源立寺の説教所として開設され、数年のうちに広基寺と公称するようになったと伝えている。
 この板曼荼羅が、なぜ源立寺に伝わったかということについては、寺伝では「大塩乱後、寺に返却された」と簡単に記されている。しかし、大塩平八郎が決起する以前に返却されていたのではないかと思われる興味ある話がある。それは、さきにも書いた西成郡南大道村の沢田家(当主佐平太)に大塩平八郎が挙兵二日前に別離のため訪れた時、床の間に掲げてあった三聖人(老子・孔子・顔回)の図の上に、惜別の辞を認めたものが遺されていた。これについては、相蘇一弘氏論考「沢田家文書について」のなかで紹介されている。 沢田家と源立寺の距離は四キロほどだから、大塩平八郎が沢田家を訪れた日に、この板曼荼羅も平八郎が寄り道してでも源立寺に返却したのではなかろうか。私はそのような身辺整理をしたと思う。
 なぜなら、大塩決起の日、天保八年二月一九日には「救民」の旗とともに「南無妙法蓮華経」の旗が、船場の街にへんぽんと翻っていたということからしても、私は大塩平八郎の手から板曼荼羅は源立寺に返却されていたと、そう信じたい。 (未完)

2504パンナコッタ:2005/06/24(金) 22:19:30
彰往考来さん、詳しい説明ありがとうございます。
やはりマユツバな話しだったのですね。

2505三学無縁:2005/06/28(火) 02:29:57
由比曼荼羅は現存していますし、軍資金稼ぎの方法であったことも歴史学では周知の事実ですね。
大塩平八郎については源立寺の寺報に記事があったと記憶します。

2506犀角独歩:2005/06/30(木) 13:52:55

れんさん、もしご覧になってお出ででしたら、ご教示願いたいのですが、「折伏」という語の‘折’ですが、これは蓮師の筆では、「折」でしょうか、それとも「析」でしょうか。
天台文献を散見しておりますと、後者になっているのです。

ご多忙のところとは存じますが、ご教示を賜れれば有り難く存じます。

2507れん:2005/06/30(木) 19:27:33
犀角独歩さん、真蹟集成収録の蓮師の現存著書で折伏の語を使用しているのは、ぱっと見た限りでは文永九年の土木殿御返事「摂受折伏二義依佛説」と同十年の観心本尊抄「現折伏時」ぐらいだと思いますが、何れも「析」ではなく「折」字でした。もっと細かく捜せば他にもあるかもしれませんが、土木書と本尊抄のそれは上記の通りでしたことをご報告いたします。

2508犀角独歩:2005/06/30(木) 20:35:15

れんさん、突然の質問に拘わらず、速やかにご教示を賜り、まことに有り難うございました。

調べてみますと、禅宗辞典、龍谷大学の辞典、また、『破日蓮義』(天台宗では「析伏」となっておりました。はたして、原文の天台・妙楽などではどうなっているのか、わかりませんが、折伏、析伏は単なる違いとは思えません。たぶん、これだけでもちょっとした論攷がまとまるのではないかと思った次第です。

蓮師は「折伏」の筆記があることが確認できました。
深く御礼申し上げます。

2509彰往考来(しょうおうこうらい):2005/07/07(木) 18:34:23

>2505 三学無縁さん
>由比曼荼羅は現存していますし、軍資金稼ぎの方法であったことも歴史学では周知の事実

由比曼荼羅について書かれている文献がありましたらご紹介ください。
目を通してみたいと存じます。

彰往考来

2510きゃからばあ:2005/07/08(金) 10:02:27

突然ですが、
不動明王が「生死即涅槃」、愛染明王が「煩悩即菩提」の依経を教えてください。

2511パンナコッタ:2005/07/08(金) 13:52:32
愛染は「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経 愛染王品第五」あたりではないでしょうか。

 http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/aizennZ.htm

2512ラキ:2005/07/09(土) 00:16:00
石山系での正しい勤行の仕方で気になった事があります。
海外信徒が「南妙法蓮華経」と片言ながら読んでいてふと思ったのですが、
法華経の元はインドになるので、サンスクリット語で読受が本来正しい?読みかたなのではと思ったのです。
中国→日本と訳されて来たのを、海外に輸出した時点で、日本語の訓読のままって違和感があるのですが、
釈迦の法華経ではなく、蓮師の法華経との概念があるから、日本語読みなのでしょうか?

2513犀角独歩:2005/07/09(土) 08:05:24

パンナコッタさんの博識には驚かされます。
愛染はここに経証がありましたか。
愛染がキューピットと起源が同じと、はじめて知ったときは「へぇ」と思ったものでした。


ラキさん、取り敢えず、譲座本尊の写真、わたしのサイトにアップしてみました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/jozahonzon.JPG

以下に載る彫刻本尊のものと比較してみてください。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

2514顕正居士:2005/07/09(土) 12:42:35
>>2512

天台法華、日蓮法華の諸派が依経とするのは羅什三蔵訳の妙法蓮華経です。詳しくいえば開結2経を含めた
法華三部経10巻です。もっと詳しくいえば天台智邈と荊渓湛然の解釈を経た什訳妙法蓮華経です。日蓮法華
ではさらに宗祖遺文が加わります(経・釈・書という)。ですから題目とは什訳法華経の経題のことです。

日蓮正宗の場合をいうと、宗規第5条第2項に次のようにあります。

「本宗は、次に掲げる経釈章疏を所依とする。

正依 妙法蓮華経八巻 無量義経一巻 観普賢経一巻 宗祖遺文 日興上人、日有上人、日寛上人遺文
傍依 摩詞止観十巻 弘決 法華玄義十巻 釈籤 法華文句十巻 疏記」

天台、日蓮の両法華宗は羅什三蔵の学問と翻訳の上に成り立ち、独自の発揮を示した北伝仏教の一派です。

しかしながら、天台日蓮両宗とも「法華経自体」を尊重する精神より元来は起ったのはでないか、天台や日蓮の
伝統に新生命を付与するには、源を尋ねて梵本法華経とそれのインド的解釈を輸入しなければならぬのでは
ないかとは、今日法華を学ぶ者ならおもうことでしょう。

http://www.kosaiji.org/hokke/

霊友会の跡継ぎとして生まれた久保継成氏などもその方向に努力をされた方です。

2515ラキ:2005/07/09(土) 14:08:22
独歩さん。
愛染のナルト模様、比べると違いがよく分かりました。
丸いアンパンとつぶれたアンパンみたいな感じですね。(表現が不適切かもしれませんが・汗)

顕正居士さん。
判りやすい回答ありがとうございます。m(__)m

>ですから題目とは什訳法華経の経題のことです。
題目自体も”什訳”と限定されている物だったのですね。

今は蓮師の教学史を学んでいます。
石山系教団が一貫性がある教学のような表現をしていますが、教学史を学んでいて、
色々な教学が混じり、今の石山教学が出来上がったのだと、知りました。
いつか、原点の法華経とかも学びたい思いです。

2516彰往考来(しょうおうこうらい):2005/07/09(土) 20:29:47

>2510 きゃからばあさん

http://www.voto.org/022401.files/miansio059.htm
に、
教觀大綱見聞:「密教謂愛染明王表煩惱即菩提,不動明王表生死即涅槃。顯教謂龍女表煩惱即菩提,提婆表生死即涅槃。」
とあります。密教の教えのようですね。

また、塩田義遜師は、『棲神』(祖山学院同窓会文学部、昭和12年)の22号「大曼荼羅儀相の研究」75頁に「四天王は法華に出づるが、不動愛染は正しく眞言に出づる所で、祈祷抄に十五壇の秘法を述べその第三に不動明王法、第九に如法愛染王法、第十ニに愛染王法、第十三に不動法等とあるに依て明かである」(一部現代漢字に改めました)と記しています。

ご参考まで。

2517犀角独歩:2005/07/10(日) 01:32:59

> 天台や日蓮の伝統に新生命を付与…梵本法華経…インド的解釈を輸入…今日法華を学ぶ者ならおもう

まったくもって、このご意見はごもっともであると思います。
羅什の翻訳は明文ながら、作為があり、天台の釈は観念観法、つまり止観(参禅)のための説明で、それを法華経内容そのものと思い込めば、まるで本文内容から乖離します。

梵本ということで言えば、わたしが原本訳として信頼してきた岩本訳は、実は意を尽くしておらず、また誤訳も多いというのです。

わたしが、先だっての松山俊太郎師の講義を聴いて吃驚したのは、(こんなことは皆さん、既にご承知なのでしょうか?)法華経を意味するとされてきた SADHARMA PUNDARIKA SUTRA の SADHARMA は、実はもう一つの語彙があり、それは AGRADHARMA であるというのです。そして、偈(詩頌)と長行(散文)では、使い分けられている、また、前者は混淆梵語、後者は標準梵語で書き分けられているといいます。つまり、当初、混淆梵語で記された原形が偈の形で先行し、それを補う文を付加するときは標準的な梵語で書き足した二重構造になっているというわけです。また、これは既に言われていることですが、白蓮と紅蓮が登場するが、それが単に蓮華で統一されてしまっている。また、それを直訳しても、羅什訳と対照を編集姿勢とした岩波文庫では、そのような違いがまるで訳に現れていないと松山師は指摘していました。(当日の、個人的なメモに拠ります。間違っている点があればご叱正ください。また、過ちがあれば、その責はひとえにわたしの書き取りミスにあり、松山師にあるのではありません)

こんな少しの点を見ても、1500年もの間、漢訳法華しか知らなかったわたしたちは、かなり多くの見落としと勘違いが存するわけで、実はその点は天台も、日蓮も気付いていなかったという致命的な点が、今頃になってはっきりとしてきたわけです。

漢訳法華経と天台、伝教、日蓮を絶対し、さらに所属教団教義を絶対する人には、このような記述自体冒涜と映じるかも知れませんが、少なくとも梵本的な視点は、天台から日蓮に至る系譜ではまったく欠落しているわけです。故に顕正居士さんがご指摘になる点を、わたしはもっともなご意見であると思った次第です。

2518A:2005/07/10(日) 22:06:45
どこに記述されていたかはあまりに多すぎて拾い出せないけれど

日蓮聖人は水銀による幻覚だったとか、

御入滅時の地震は往時の記録にないから信用できぬとか述べられているが、
歴史の記録に残るほどの恐怖を覚える揺れだったのだろうか。

真蹟遺文、真蹟遺文と強調されるので
この事実を証明する真蹟遺文を紹介していただきたい。

2523 A:2005/07/12(火) 05:13:06
2518にさらに加えて
独歩説の日蓮聖人は老いさらばえて目的を達せず不満足の生涯であった。
(発言の印象からで正確な引用ではありません)
というのも如何なものでしょうか?

2524犀角独歩:2005/07/12(火) 07:57:03

2518は、直接、わたしに向けられたことではないので、捨て置くとして、2523に、特にわたしのどの投稿と示すわけでもなく、名を挙げています。

> 独歩説の日蓮聖人は老いさらばえて目的を達せず不満足の生涯

とは、別段、わたしの説などというものではありません。たとえば、『創価学会のまちがいをただす』のなかで、森山諭師も類似したことは、記していましたし、また、他で批判でも言われることでしょう。
「独歩説」「如何なもの」などと言うのであれば、その考えが、どのような確実な資料から見て、「如何なもの」なのかを示すことが議論です。そのような根拠を示さず、単にネガティブな日蓮像記述‘狩り’をするような姿勢は、日蓮崇拝という特定の信念体系からの思想統制と弾圧であり、言論の自由を侵害しています。このような投稿姿勢をわたしは批判します。

2525きゃからばあ:2005/07/12(火) 10:16:01

>2511 パンナコッタさん、
>2516 彰往考来さん、

毎回、素晴らしい御教示をありがとうございます。
また、私の「お気に入り」が増えました。

2526 A:2005/07/14(木) 02:10:22
遅くなりました。

> 2518は、直接、わたしに向けられたことではないので、捨て置くとして、2523に、特にわたしのどの投稿と示すわけでもなく、名を挙げています。

はじめにお断りしてあるように記憶にはありますがどの投稿かは検索しきれないのです。書かれたご本人が一番ご存知なはずですし。
2518も独歩さん宛てへのお願いでした。書き落としておりました。すみません。

> 単にネガティブな日蓮像記述‘狩り’をするような姿勢は、日蓮崇拝という特定の信念体系からの思想統制と弾圧であり、言論の自由を侵害しています。

なんと大げさなと思わず笑ってしまいました。一介の信徒が信奉する宗祖像を貶められて、ならばその主張の根拠とされた真蹟・遺文を紹介していただきたいと書き込んだだけですよ。 ちょっと過剰反応なのではないですか。 他意はありません。

紹介していただける真蹟・遺文が「有る」か「無い」かそれだけでいいのです。


水銀による幻覚------こんな事は聞いたことがありませんので。明解な資料をおねがいいたします。

ご入滅時の地震------(御歳六十有一。大地震動す)歴史の記録に残る大地震とは思えません。大地震とされる資料の紹介を。

老いさらばえて-------聖人御難事「よからんは不思議、悪からんは一定とおもえ」「日蓮末法に出すは仏は大妄語人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百二十余年か間、一閻浮提の内に仏の御言を助たる人、但日蓮一人なり」
このご境涯を失意とは。

納得できる資料であれば考えを変えます。そうでなければゆえ無き侮辱とうけとめます。

2527犀角独歩:2005/07/14(木) 10:47:23

A さん:

まず基本的なことを申し上げます。
もし、あなたが真剣に議論をする気があれば、わたしも真剣に応じます。しかし、当初より、自分の信じるということと違っているという反感から、そのようなことを書くわたしに対して、人格そのものを否定する如き不遜な態度で臨むのであれば、わたしは応答しません。わたしは礼節を重んじます。また、このように応答の投稿を書くのにも時間と手間を要します。このような相手の対応に恩義を感じることのできる常識を有さない人間との議論は時間の無駄であるばかりでなく、抑も不快です。故に質疑応答を望むのであれば、最低限の礼節を重んじてください。ここは他の掲示板とは違い、その点を重視しています。それはまた、管理人さんのお人柄と法律的素養にも支えられています。
この点を遵守いただけるのであれば、わたしは時間と手間の浪費を厭わず、あなたのために誠意を持ってお応えいたしましょう。

2526の質問態度は前2回に対して、謝罪の言葉もあり、前向きであると判断できました。拠って、わたしは応答することといたしました。

> どの投稿…検索しきれない

まず、この点について記します。
当掲示板は過去に一切が消去されるという事故に遭遇しました。
そのためにそれまでのアドレスは無効となり、データの一切も消え去ったかと見えました。しかし、バックアップを常にとっておられた管理人さんのご尽力で大部を復旧でき、今日に至っています。

このページのトップからジャンプするページは、その前のログで、管理人さんの苦心惨憺の尽力なくしては伝わらなかった過去の投稿です。
このデータはすべてダウンロードできます。ですから、あとはPCの検索機能を使えば、ある程度、目的のデータを探し出すことが出来ます。

富士門流信徒の掲示板 過去ログ(2000.12.28-2002.11.24)
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/fujimonkeijiban.htm

では、新しい掲示板データは、ということになりますが、この点では、各自、それぞれ、それなりの知恵を絞って対処しています。わたしは定期的に全データをダウンロードし、マクロ機能を使って、検索をします。1回のダウンロードには数時間を要することもあります。しかし、自分が発言した責任上、その労力を惜しまないようにしています。しかし、それでも詳細に亘ってはフォローできないところもあります。今後とも増大するデータに対処するため、方法を考えているところです。

以上のような努力を前に、単に検索できないとし、さらに不確実な記憶が単に安直に批判するような態度にわたしに応じる義務は、わたしは原則的にないと考えます。しかし、発言をした自己責任はありますので、真摯な態度での質問であれば、お応えすることは吝かではないということです。

2528犀角独歩:2005/07/14(木) 10:48:22

―2527からつづく―

>> 単にネガティブな日蓮像記述‘狩り’
> 大げさなと思わず笑ってしまいました…過剰反応

お笑いですか。わたしはここで議論をし、特定集団の批判、また、相手に敵意をもたれたのと相前後し、多いときで100通以上のウイルスメールを送付されたり、(通常でも、30〜50通送信されてきます)、さらにキャンサー、また、ハッカープログラムが送信され、過去3台のPCが破壊されました。これはわたし一人のことではなく、ここに参加の他の方も経験したことです。以上のような経緯がありますから、当然、過敏になっています。また、対カルト活動は10年に及びますので、身辺も常に危険が伴っているのも事実です。ただし、具体的に記せば、リスクはさらに増大しますので、この点は伏せます。ある意味、ここ10年間は命懸けでした。実際に暴力に遭遇し、身命の危機を実感したことは1度、2度ではありません。それを大袈裟と取られるのは勝手ですが、このような問題を本気で取り組むことは生半可なことではないという人間が、ここにいたことぐらいは記憶に留めて置いてください。

> …真蹟・遺文が「有る」か「無い」

まず、この点について、先に申し上げますが、この質問は、そもそも、趣旨とズレがありませんか。というのは、たとえば、日蓮自身死亡際の地震のことを本人書き残せるはずはありません。その意味では、真跡遺文の有無を問うのはまったく無意味でしょう。
以上のようなご自身の齟齬をよく理解されたうえで、お読みください。

> 水銀による幻覚

この点を日蓮は、もちろん、なにも書き記していないと思います。
この議論は、断定的に記したことではなく、宗教と薬物(殊に向精神作用のある植物、鉱物)との因果関係を類推的に話し合ったことです。それを「断定」とするのは、あなたの曖昧な記憶によるところであり、議論の流れにその責任があるわけではありません。

その類推に関連しますが、、真跡遺文に見られる地名、氏名などに「丹」を含むものがあることは、水銀との関係を類推させます。しかし、これは真言密教、また、仏像造立の際の鍍金との関連も当然、考慮されます。

個人的なことですが、水銀と密教の関係をこのことをmわたしが始めて知ったのは、10年近くも前のことでした。当時、『虚構山幻想寺』という際立ったサイトがありました。残年ながら閉鎖されてしまいましたが、豊富な図形と、深い見識に基づき、タブーを越えて、類推記述する管理者はただものではありませんでした。
このサイトのなかの『虚空蔵菩薩出現』というページに以下の記述を見たのが最初でした。

「日蓮はマニュアル本の虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法経で指定された秘薬を食しながら陀羅尼を唱えたのだろうか? 当時の真言の秘薬には水銀が使われることがあったらしい(シヴァ教の一派に水銀派というのがある)が、もし日蓮がそのとき水銀系の秘薬を飲んだのなら、必ず脳へ悪影響を及ぼしているはずだ。それがさらに幻視をよんだ…」

2529犀角独歩:2005/07/14(木) 10:49:03

―2528からつづく―

この記述から、やや資料渉猟を始め、まとまった資料を蓄積していたのですが、先に記したとおり、過去3回のPC破壊で、大部の資料は失ってしまいました。そのために細部にわたって記すことが出来ないのは残年です。故に概略のみを記しますが、

・水銀は仏像造立の最後の仕上げ、鍍金をするとき、金箔を溶かし込む重要な材料であること。この際、水銀は松明など炙り蒸発させ、金箔のみを残すが、この水銀蒸気を吸い込むと中毒症状を起こすこと
・空海が行い、日蓮も行った虚空蔵求聞持法では、秘薬として水銀が使われていたということ
・この秘薬(水銀)使用では太陽幻想という一過的(もしくは中毒後遺症として継続的な)精神障害を来すようであること

などが、概ねわかりました。また、関連する太陽体験については、『虚構山幻想寺』でも取り上げられていました。また、空海に関する資料を当たれば、同様の資料は容易に当たることが出来るでしょう。ここに共通するキーワードは水銀(丹)であったということです。

この点について、議論されたスレッドは以下のとおりです。
各スレッドを開き「全部」でクリックして表示し、頭から「水銀」で検索すれば、各発言に当たれるでしょう。

鰯の頭も信心?
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1083757197/l100
悟りを科学する
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1090358560/l100

以上の点はしかし、わたしより、雖念さん、また、愚鈍凡夫さんのほうがよほど、よく調べていらっしゃいます。また、繰り返しますが、この虚空蔵求聞持法に関する議論は、断定するものではなく、その可能性を語り合ったものです。いまの段階では、現在進行形の議論の一つです。確実な反証が有れば、わたしはいつでも前言を悔い、書き直す用意があります。

> ご入滅時の地震…大地震とされる資料

わたしがこの地震を、どこかで大地震とし、さらにそれが確実にあったと記していますでしょうか。愚鈍凡夫さんが『吾妻鏡』その他の資料から、当時、このような地震があったのだろうかと疑義を呈していらっしゃったと記憶していますし、それを拝読し、特定は困難だろうと思った記憶はありますが、これをわたしが大地震と断定した記憶はありません。何か勘違いなさっていらっしゃいませんか。

2530犀角独歩:2005/07/14(木) 10:49:59

―2529からつづく―

> …ゆえ無き侮辱とうけとめます。

個人的にはどうでもいいのですが、先にわたしに対して、「思わず笑った」「過敏反応」と記したあなたが、このような記述は大袈裟と自嘲されませんか。

わたしは日蓮を敬愛はするものの、既にその無謬性にはとっくに見切りをつけ、日蓮崇拝は卒業しています。そのわたしがどのように表現しようと、それは個人の自由に属します。そのような観点に立つわたしからすれば、このような記述こそ、過敏反応と映じるものです。わたしは、あなたがどのような信念体系下にあるかわかりませんので、適宜な応答となるやわかりませんが、発言の責任はあります。また、実際に蓮師晩年は満足したものではなかったと推察しているのは事実です。ですから、これに応じることといたします。

まず、あなたが引用される資料は、適切な引用であるとは、わたしには思えません。

> 「よからんは不思議、悪からんは一定とおもえ」

という記述を載せる『聖人御難事』は、たとえば、『平成新修日蓮聖人遺文集』には載らない資料で、確実な真跡かどうか、やや疑問はあります。しかし、完全に斥けるわけではありません。多くの場合、真跡と数えられるからです。仮にここで、この書を真跡として記します。
引用される文は、しかし、逢難の農民信徒に充てた言葉ではありませんか。これを日蓮自身に充てるというのは、短絡とわたしには感じます。しかし、それでも、その点をそのままに受け取って、やや記します。

日蓮自身が晩年に関するわたしの管見をあなたは「独歩説」と断定し、

> 日蓮聖人は老いさらばえて目的を達せず不満足の生涯

と記述していますが、その裏面を読めば「日蓮聖人は老いさらばえて目的を達し、満足の生涯」というのが、あなたの見解と言うことでしょう。しかしながら、「悪からんは一定」というのが、所願成就、すべての目的を達した満足した証文となるとは、わたしには思えません。

また、「日蓮末法に出すは仏は大妄語人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百二十余年か間、一閻浮提の内に仏の御言を助たる人、但日蓮一人なり」という自讃が、目的を達成した満足した生涯の証文であるというのは、どのような意味なのか、わたしには斟酌しかねます。実際にこのように、いくら日蓮が自讃しようと、国主は日蓮を重んじることも、法華経に帰依することも、法華経での調伏祈祷を日蓮に仰せつけることもなく、また、それらが無くとも、結局、日本は亡びることはありませんでした。

2531犀角独歩:2005/07/14(木) 10:50:30

―2530からつづく―

さて、日蓮の身延入山文永11年5月、この時の記述は

「けかち申すばかりなし。米一合もうらず。がししぬべし。此の御房たちもみなかへして但一人候べし。このよしを御房たちにもかたらせ給へ。
十二日さかわ、十三日たけのした、十四日くるまがへし、十五日ををみや、十六日なんぶ、十七日このところ。いまださだまらずといえども、たいしはこの山中心中に叶て候へば、しばらくは候はんずらむ。結句は一人になて日本国に流浪すべきみにて候」

この惨憺たる記述は涙無くして読めません。ようやくと赦免され、鎌倉に戻り、いくばくもなく、身延に向かった日蓮は米一合すら得られず、飢餓に苛まれ、流浪すべき身と記します。痛ましい限りとわたしには映じます。

さらに、 弘安元年には

「やせやまいと申し、身もくるしく候へば、事々申さず…秋すぎ冬にいたるまで、日々にをとろへ、夜々にまさり候ひつるが、この十余日はすでに食もほとをどとゞまりて候上、ゆきはかさなり、かんはせめ候。身のひゆる事石のごとし、胸のつめたき事氷のごとし。しかるにこのさけはたゝかにさしわかして、かつかうを、はたとくい切りて、一度のみて候へば、火を胸にたくがごとし、ゆに入るににたり。あせにあかあらい、しづくに足をすゝぐ。此の御志ざしはいかんがせんとうれしくをもひ候ところに、両眼よりひとつのなんだをうかべて候」

と病苦を訴え、僅かな酒を含んで涙を流す日蓮の姿は大満足の晩年の有様とは思えません。また、遂に筆をもつことも判形をなすことも出来ない程、衰弱した日蓮は

「さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候み」

と身上を表現しています。やがて命を終えます。

たしかにその他遺文のなかでは高唱に自身、聖人であることを表現するところもありますが、『立正安国論』奏進し、国主を法華経帰依させ、法華経による祈祷で二難調伏、安国を期そうとしたのが日蓮その人であり、法華妙文に祈れば「病即消滅不老不死」も叶うとした日蓮は、国主の法華帰依も得られることもなく、身延入山後に痩病に苛まれ、弟子日昭が100歳を超える長寿、日興も88歳の齢を経たにのも拘わらず、本人は61歳で生涯を閉じています。このような有様を見るにつけ、日蓮の生涯が本人大満足のものであったとは、到底、思えないということです。

まして、「極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず」といい、此土法華弘法を誓った日蓮は、擬刎頭・佐渡流罪を経て、「霊山浄土」を言うに及び、「不自惜身命」「我不愛身命但無上道」の経文を宣じ、「奉命他国寧喪身命終不匿王所説言教」と高らかに殉教を歌い上げた一切を捨て、身延隠棲することが、どうして、大満足の一生と言うことができるのでしょうか。むしろ、日蓮は満足なく生涯を閉じたからこそ、遺弟は、申状を武家、天皇に捧げ、その無念を晴らそうとしていったのではないでしょうか。

ただ、わたしは日蓮が失意、無念のうちに生涯を閉じたことを侮辱する意図はなく、滅後以降、殊に中世以降、醸造される日蓮無謬神話とは裏腹に、身延入山以降の日蓮を実像に見るにつけ、感傷的な思いに駆られざるを得ないと言うことです。

2532 A:2005/07/15(金) 07:54:52
早速に長文の御返事をありがとうございます。
独歩さんの文章のわかりやすさと観察の鋭さ、また熱意には感服いたしております。
わたしなどのとうてい及ぶところではありませんし、また議論などとよべるものもできません。

以下は議論ではありません。わたしの感想です。

> このような問題を本気で取り組むことは生半可なことではないという人間が、ここにいたことぐらいは記憶に留めて置いてください。

もとより覚悟を決めて始められたのでしょうから、ヘボな書き込みにも極度に反応されるのが大人気ないような気がしたものですから、失礼を承知で書き込みました。風当たりの強いのも喜びの一つなのではないのですか。

> 日蓮自身死亡際の地震のことを本人書き残せるはずはありません。その意味では、真跡遺文の有無を問うのはまったく無意味でしょう。以上のようなご自身の齟齬をよく理解されたうえで、お読みください。

真跡遺文としないで真蹟・遺文と・で区切ったのは聖人の真蹟とお弟子がたの残された文書のつもりでした。たぶんご指摘あると想定してのことでありました。


> この点を日蓮は、もちろん、なにも書き記していないと思います。

これで結構です。   利根と通力を排除されたのは聖人です。水銀の薀蓄は読ませていただきました。しかし、

当時の真言の秘薬には水銀が使われることがあったらしい(シヴァ教の一派に水銀派というのがある)が、もし日蓮がそのとき水銀系の秘薬を飲んだのなら、必ず脳へ悪影響を及ぼしているはずだ。それがさらに幻視をよんだ…」

だろうか、あったらしい、もし、なら、はずだ、  こんな文章のどこに信憑性があるのでしょう。


> これをわたしが大地震と断定した記憶はありません。何か勘違いなさっていらっしゃいませんか。

地震が虚偽とのご主張がわたしの勘違いなら、これも解決いたしました。  過去の事例を真似たとの発言や、黙過は同意と感じておりましたので、ありがとうございました。勘違いをおわびいたします。


> 実際に蓮師晩年は満足したものではなかったと推察しているのは事実です。

観点や主張によって事象はさまざまに違って見えるものです。また表層部分を見ての評価だけでは真実を見誤るのではとも思います。

ご消息文を拝してうかがえる聖人の正直さ、慈愛、、細かい心遣い、勇気、忍耐力、その他もろもろのご性質は人としての鑑だと確信しております。日興上人もまた然りです。

聖人御難事
寒さ、ひもじさ、処刑の恐怖の中にいる囚われた熱原の農民へのご指南はまことに厳しいものでした。

彼のあつわら(熱原)の愚痴の者ども、いゐはげましてをと(落)す事なかれ。彼等にはただ一えん(円)にをもい切れ。よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ。ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ。さむしといわば八かん地獄ををしへよ。をそろししといわばたか(鷹)にあへるきじ(雉)、ねこ(猫)にあへるねずみ(鼠)を他人とをもう事なかれ。

弟子に教えられたことを自らの場合は別だとされるような不誠実な聖人ではないと考えます。
環境や病身のつらさを正直に吐露され、信徒のご供養の酒とかつかうのありがたさにひとつのなんだをうかべて候と仰せの涙は身の不遇を嘆かれる涙でなく篤い志に喜悦、法悦をおぼえられてのことでしょう。南無妙法蓮華経は万年、未来にわたり流布していくとの大確信に揺るぎなく、法華経身読の上「三度国を諌めて用いられなければ山林に交われ」と身延に入山され後事を弟子にゆだねられた所願成就満足の御境涯であったと私は拝します。


この認識は個人差があってもいい事だと考えるようになりました。互いにこき下ろしあうのは失礼なことになるのでしょう。


長寿のゆえに優れているというのなら長寿日本一だった方に軍配は上がるでしょう。
独歩さんには不似合な比較、問いかけのような気がします。

詳細なお答えの割りに短いですがこれでご勘弁を。ありがとうごだいました。


ところで独歩さんは信仰をおもちですか。唱題はされるのですか。本尊は何か定められたものがあるのですか
御披瀝いただければと思います。

私はこれから勤行です。

2533顕正居士:2005/07/15(金) 08:45:39
○求聞持法と神薬

虚空藏菩薩能滿諸願最勝心陀羅尼求聞持法出金剛頂經成就一切義品
http://www.siddham.org/yuan1/sutra/sutra_1145.html

初蝕後退未圓已來。其酥即有三種相現。一者氣。二者煙。三者火。此下中上三品相中。隨得一種法即成就。
得此相已便成神藥。若食此藥即獲聞持。一經耳目文義倶解。記之於心永無遺忘。諸餘福利無量無邊。

初蝕後退して未だ圓ならざるより已來(このかた)。其の酥に即ち三種の相現ずる有り。一には氣。二には煙。
三には火なり。此の下中上三品の相の中に、一種の法を隨つて得ば法即ち成就す。此の相を得已(おは)らば
便ち神藥を成ず。若し此の藥を食さば即ち聞持を獲(う)。一經の耳目文義倶に解し。之を心に記して永く遺忘
無し。諸餘の福利無量無邊なり。

○虚空蔵菩薩と貴重金属

日蓮聖人「立教開宗」における妙見尊と虚空蔵菩薩の関係(現代宗教研究32号)
http://www.d1.dion.ne.jp/~janis/

2534犀角独歩:2005/07/15(金) 11:15:31

Aさん

> 風当たりの強いのも喜び

そうは感じません。わたしは、極めて合理的にしかものを考えませんので、駆け引きその他は面倒と思うほうです。しかし、Aさんがお考えになっておられること、また、書き込まれたところ、「ああ、わたしもかつてそう考えていた」という回顧に属します。

そんなことから、考え続け、観察し続ければ、わたしの考えは理解されるだろうという思いがあります。その意味で議論でやり合う相手を憎むことはありません。実際、いちばん議論したのは、問答名人さんですし、オフ会、その他にご参加くださる皆さんも、皆大いにやり合った方々です。皆さんを、思惟を助けてくれた恩人であると考えております。いつしか、同意に至るもあり、至らざるもあり、それもそれです。ただし、絶対、無謬というファンダメンタリズム、カリスマ、呪物、集団信仰から脱却されれば、よいという思いはあります。

> 利根と通力を排除されたのは聖人

このように思われますか。そうでしょうか。
かつて、わたしは神秘的な考えに支配されていました。いまはそのような点は廃したのです。たしかに写本遺文『唱法華題目鈔』に「法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」と載りますが、この書は、真筆でしょうか。真跡遺文で見る利根は「利根・中根・鈍根」の一つで、仏説と蓮師はとらえていますから、これを斥けるのには、疑問があります。では、通力ですが、この語彙は真跡遺文には一度も載りません。
『唱法華題目鈔』全編が、とは言いませんが、該当の文章は、どうも証憑に耐えない気はいたします。ただし、書かれる意には賛成です。

わたしは日蓮を再考するに当たり、非科学的なことはいっさい排除します。そんな観点からすれば、所謂、利根と通力を、日蓮は排除したように見えるけれど、いまの科学から見ればその範疇であると思えます。たぶんに呪術的、神秘的だと見えます。

そもそも、生身の虚空蔵菩薩に会ったというのです。いま、こんなことを言えば、「精神科に行ったほうがいいよ」と言われるでしょう。その原因を考えたのが、いわば「水銀」談義であったということです。信仰という枠内では、もちろん、ありません。薬物による幻視とみるほうが説得性があるということです。そうでなければ、12日に及んだ荒行で、脳内代謝に異常を来した幻視とするか、どちらかと見ていくのが、科学的でしょう。信仰は科学とは関係ないという反論は成り立ちますが、しかし、一般からすれば、科学的事実の元では、信仰における個人の体験=個人的リアリティこそ関係ないのです。


>> …真言の秘薬には水銀が使われることがあったらしい
> あったらしい…こんな文章のどこに信憑性があるのでしょう。

それは一読の感想に過ぎませんでしょう。ご自分で調べてみればよろしいと思います。
そうすると、この記述の信憑性は、ぐんと上がります。要は印象ではなく、事実はどうかということです。調べた結果、わたしはこの記述の信憑性をわたしは指示したということです。

> …表層部分を見ての評価だけでは真実を見誤る

これはまた、逆も真です。Aさんがお書きになる晩年の日蓮像は40年間、わたしを支配していた日蓮像です。そこから、何故、わたしが変遷したか、その点を追ってみてください。そうすれば、いつか、わたしが記した意味はおわかりいただけるでしょう。

2535犀角独歩:2005/07/15(金) 11:15:59

―2534からつづく―

> 熱原の農民へ…

Aさんは、富士門流の方ですか。
お記しになられるようなことは、わたしも思っていたことです。

> 「三度国を諌めて用いられなければ山林に交われ」

わたしは、この考えは、法華経の精神に悖ると思います。
これでは「我不愛身命但惜無上道」という勧持品に、「不自惜身命」という寿量品に、「其罪畢已」という不軽品に違反します。
こう記せば、Aさんは、お怒りになるかも知れませんが、わたしは、この日蓮の隠棲は法華経からの退転ととらえます。但し、この点は意見の同意は見ないでしょうから、無駄な言い合いは止めといたしましょう。

> 長寿のゆえに優れている

わたしは、このような観点で、ものを記したわけではありません。
「病即消滅不老不死」を祈願をする本人には、それが利かなかった厳正な事実を記したまでです。ただし、鎌倉当時、60歳が早死にか・寿命かは即断できないところでしょう。しかし、この点を森山諭師は鋭く切り込みます。

「日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る」とは、文永12年、『可延定業御書』の一節です。果たして、この時点で、日蓮は、自分が60そこそこで死ぬと考えていたのか、一考を要すると言うことです。

> …信仰をおもちですか

宗教への信仰ですか。それはないですね。シャキャムニの教えは信じることと言うより、日々の心の持ち方・行いの在り方を示したものであろうと考えています。シャキャムニは尊敬しますが、信仰するというのとは違います。

> 唱題はされるのですか

するときもあります。よいものではないでしょうか。
けれど、これまた、考えてきたことですが、いまのような唱題のやり方を、しかし、日蓮はしていなかっただろうと考えています。

> 本尊

本尊という考えを、仏教であると思っていません。
このことも何度も記してきました。天台文献を渉猟すれば、すぐに気付けますが、「本尊」という成句は、ただの一度も使用されていません。これは密教用語、また、語彙は中国思想語から転用されたものであろうと考えていますから。

羅什の漢訳文は証憑に難があり、それに基づく天台釈も耐えません。まして、法華経が釈尊の直説であるはずはありませんが、その内容は惹かれるところはあります。そんな次第ですから、日蓮は信仰の対象となりませんし、漫荼羅を本尊と恃むこともしません。

> 私はこれから勤行です。

わたしにとっての勤行…、勤め行うことは、朝7時・昼12時・夜7時に母の食事を作り、日々介護し、また日夜、寄せられる山のような相談メールと電話に、誠意を持って応じることです。儀式化した経典を「本尊」の前で音吐朗々と称えることは、わたしの勤行ではありません。ただし、そのようなことをなさる方々を批判しようとは思いません。けれど、勤行・唱題をしているところに逃げ込んだり、それだけに止める姿は愚かであるとは思います。ただし、これは Aさんを批判しての記述ではありません。

2536犀角独歩:2005/07/15(金) 11:17:29

2533 顕正居士さん

いつもながら、適正な資料のご呈示、まことに有り難うございます。

2537牛角:2005/07/15(金) 22:52:16
・・・となりますと。創価学会に騙されて人生を台無しになった方が、信仰を捨てて、富士門流の教義のみならず、日蓮及び日蓮教学を批判していると言うことになりますね。
そして、そう言う方の集まりの掲示板と言うことですね。他ではあり得ないことです。大いに悲しむべきことであります。

2538犀角独歩:2005/07/15(金) 22:58:24

> 2537

僧でしょうか。嘘っぱちを信じて騙され続けるより、騙されている仕組みをちゃんと説明することは意義のあることだと思いますが。
もし、哀しむのであれば、学会でも富士門でも、その正当性を理を尽くして説明し、通用するかどうか、試してみれば如何でしょうか。
それが通用しなければ唯の思いこみやら、おまじないを信仰と勘違いしているのに過ぎないと言うことです。

2539犀角独歩:2005/07/15(金) 22:59:21

僧は「そう」です(笑)

2540 A:2005/07/15(金) 23:57:14
顕正居士さん資料ありがとうございました。

すでに論じられていたのでしょうが初見でした。「一經の耳目文義倶に解し。之を心に記して永く遺忘無し、諸餘の福利無量無邊なり。」こんな妙薬があれば試みられていたかもしれませんね。「清澄寺には日蓮聖人が虚空蔵祈願したとき吐血した「凡皿の笹」がある」の記述もありましたが、妙な解説だなと思い,どんな代物かと検索しましたらまったく意味が違うようですね。それはともかく、後に真言を破折されておられるのでこの修行方法は認めておられないのではと自己流に解釈しております。

2541 A:2005/07/16(土) 07:49:28

独歩さんへ

書いてこられるであろうと思っていたところには必ず返してこられます。

最初に書いておくべきでしたが、わたしの日蓮聖人像は日興上人に求めます。

日興上人ご消息
ほんれう(盆料)の白米二升・根芋-----法花聖人の御宝前に申上まいらせ候了

故尼御前の御ために白米一斗-----------ほとけ(佛)しやう(聖)人の御けんさん(見参)に申しあげまいらせ候ぬ

五月の御節句、御酒,ちまき-----------法主聖人の御宝前に備え奉り進らせ候了

なによりもかまくら(鎌倉)中の大怪(たいかい)おとろきおぼえ候。御状、聖人の御宝前によ(読)み上げまいらせ候

日興上人は日蓮聖人を法花聖人、佛聖人、法主聖人 聖人と表現なされております。また、御遷化後もご在世と変わらぬ姿勢でおられます。

盲目的と指摘されるかもしれませんが、ぼんくらのわたしは日蓮聖人の大情熱、大慈悲、日興上人の至誠に心身を委ねます。

独歩さんの思索がなおなお研ぎ澄まされますように期待します。 回帰されるところが難解なのではと思いつつ。


>絶対、無謬というファンダメンタリズム、カリスマ、呪物、集団信仰から脱却されれば、よいという思いはあります。

仰せのとおりだと考えます。すでに「絶対」にはまっておりますが。


> この日蓮の隠棲は法華経からの退転ととらえます但し、この点は意見の同意は見ないでしょうから、無駄な言い合いは止めといたしましょう。

中途ですがまたROMに戻ります。  対応ありがとうございました。

2542犀角独歩:2005/07/16(土) 10:40:47

Aさん、ロムに戻られるのは残念です。

わたしのここ数年の在り方は、実に簡単な方法です。しかし、容易なことではありませんでした。要は、教えられてきた一切をリセットして、一から考え直すと言うことです。

かつて、わたしは、もちろんのことを日興を「興上」「興尊」を呼び、下種三宝中、僧宝随一と仰いでいました。しかし、いまはその思いはありません。その理由はいくつもありますが、石山から与えられた日興像は理想化されたもので事実確認からは離れていたこと、日興は日蓮とは違う信仰に立脚していること、教学はむしろ、日澄が凌ぐのではという思いがあること、日興書写の漫荼羅は納得がいかないこと、祖師信仰、特に御影崇拝は仏像ならいざ知らず、人像崇拝であり、仏教に悖ることなどがその理由です。殊に日興書写・真跡無という遺文に関しては、その扱いには極めて慎重にありたいと思っています。

> 日興上人は日蓮聖人を法花聖人、佛聖人、法主聖人 聖人

これは石山のみならず、正信会辺りで言うことですね。引用されるところは石山系の書物には必ず載るところで、また、正信会系の文書でも載ります。つまり、与えられた情報です。これを再考し、異議を唱えてきたわけです。

このなかで「佛聖人」について、わたしは、佛=釈尊=仏宝、聖人=日蓮=僧宝であり、紙背に‘法=法華経、もしくは妙法蓮華經=法宝’という三宝尊を述べたものと見なければ、おかしいと考えております。

単に聖人と指すのは御影でしょうが、単にここに留まり、釈迦像を祀らず、祖師像のみを祀れば、この信仰様式に、疑義を懐かざるを得ません。何故ならば、日蓮その人の教学と違うからです。重須が祖師・人像崇拝の拠点であったことが知られます。それはやがて、「天台勝釈迦劣」という仙波教学を焼き直し「日蓮勝天台・釈迦劣」という日蓮本仏の素地を与えるものとなったのだろうとも考えます。

> 御遷化後もご在世と変わらぬ姿勢

これは別段、他の本弟子方も一緒であったでしょう。
ただし、日興門下は、他と特筆する点はあろうかと存じます。

仏教徒として仰ぐべきは、釈尊であって、日蓮・日興への信仰では‘人教’に過ぎないという点が、近日のわたしの至った結論でした。

2543 A:2005/07/16(土) 14:10:42

すみません。御返事を見て出戻ってまいりました。資料をOCRしてみました

日蓮聖人と法華経
日蓮聖人と法華経との関係は聖人の教義を領解し奉る上に最も大切なことで、根本的の問題
であり又教義そのものでもある。古来門下の教学に於て幾つかの異義が行われておるが、結局
此の関係に於て見解が異っておるからである。或るものは終始法華経を中心として、聖人の御
一代の弘教を判断してゆこうとするし、或るものは聖人を中心として法華経を判断してゆこう
とする。此の二つの立場が基礎となつて、大きく二つの潮流をなして、此の上に幾つもの異義
が成立しておる。

そこで聖人の教義を正しく領解し奉るには先ず此の立場が批判されねばならない。法華経は
仏教の教典中最勝第一であるとし、此れを鉄則として、聖人の教義を此の眼で見て、御一代の
弘教を会通し法華経の要約と敷衍とにあると考えることは、聖人の教学に於て正しい立場とは
いえない。聖人の教義はあくまで聖人の御書に依て判断せられねばならない。

もつとも此の点については上述の無条件に法華経を中心として判断するものと.聖人の御書から
その帰趨は法華経を中心として聖人の弘教をその要約と敷衍とにあるとするものとがあるが、
そういう立場をとる人は知らず知らずの間に前者の跡を踏襲しておるものである。
此れは教学の上から見れぱ明らかである。
最初聖人の門下に於て教学を学ぶものが先ず仏教学として天台を学び、その上に聖人の教義を学
んだのである。それがために天台の教義に制約せられて、真に聖人の御精神を領解し奉ることが
できなかったのである。
後に於ては、かくして成立した教義を踏襲して如何に之を証明づけるかということに努力が払わ
れたのであった。
聖人の御書に接することができるようになってからもその流義のきはんに束縛せられたものには
寧ろ御書はその流義の証明に役立たせるにほかならなかつた。
此れについては二祖日興上人が「聖人の御抄を心肝に染め、極理を師伝して若し間あらば台家を
学ぶぺきこと」と、御遺誡置文に仰せられたが、学者は先ずその態度をはっきり決定して、法門
を学ぶべきと教えられたもので、当時門下に於て天台を学び、その教学を中心として、聖人の
教学に臨むという風があったのに対する御誡めである。聖人の教義は徹頭徹尾聖人の御書によって
決定されねばならない。
ここに於て論者の中には、釈尊と聖人とに於て仏教といえば釈尊が主である。聖人の御書の
意と釈尊の法華経の意といずれをとるかといえば法華経をとるというものがあるが、此れは法
華経に上行を称歎せられ、於諸法之義名字及言辞楽説無窮尽如風於空中一切無障碍と仰せられ
た御文からいって釈尊の証明を尊重しないものである。此の経文の意からいって聖人の御教示
は末法に於ける仏教に於て絶対に権威のあるものである。それ故に聖人の教義は御書に於て決
定せられて少しも差支えないのであって、そうすることが最も正しいのである。 以下略

ご意見を

--------------------------------------------------------------------

顕正居士さん、皿ではなく血でしたね。他の同条件の山なら(発生する、している)ということでしょうか。
それとも清澄のみの特殊現象なのでしょうか。  まぁどうでもいいことですが。

2544犀角独歩:2005/07/16(土) 14:21:22

ラキさんのご質問は投稿されたスレと異なりますので、こちらに移動します。

> 1)石山系教団で初歩教学で「三転読授」

これは三転読授ではなく、三転読誦といいます。また、石山教団の初歩ではなく、天台法華玄義の所説です。

「依義讀文凡有三轉。一云。是相如…二云。如是相…三云。相如是…明空假中」

十如是を単に3回繰り返して読むだけでは三回読誦です。什意訳の「如是相…」を上記の如く「是相如」「相如是」と三種に転じて読むから三転読誦です。
わたしは十如是は什の意訳なので、これを三転して、空化中に配するというのは、観念観法としては勝手ながら、牽強付会と感じます。単なる什漢訳仏典を弄んだ結果としか、わたしには映じません。異義を感じる方は依用されるのは勝手です。(わたしは、この点で教学議論をする気はありません)

> 2)学生の小僧

小僧さんあたりがやっていることなど、間違いが多いのが当たり前でこんなものを相手取ること自体、わたしにはナンセンスに感じます。たかが石山末寺の小僧さんのやることです。年端も修行も足りない子どもの所作に目くじらを立ててもしようがないでしょう。所詮、文字通り「小僧」のやっていることでしょう。

> 1)勤行の意味そして読授の意味を理解していないのではと感じる事。

理解していないでしょう、当然のことだと思いますが。

> 2)合掌の姿勢と数珠の取り扱いの意味も理解されたないと感じる事。

実際のところ、石山700年の歴史で定説がないわけですから、理解しているはずはないと思いますが。

2546犀角独歩:2005/07/16(土) 15:28:54

「小僧」と言うことでもう少し書けば、中学1年から6年間も一箇所に隔離して特殊洗脳を施している子どもを「尊師」「僧宝」だと言って異常に持ち上げて、勘違いさせることが、今の石山の深刻な問題を生じさせた原因だと思いますね。

古い檀家さんだったら、小僧など、こづき回して、しかり付けて教育したと言います。
どうも石山寄宿制の子どもたちは、なんだか、異常に俗世間に興味を懐いたりしていると観察していました。この習性が成人以降も継続していて、なにか自分が特別な人間だと勘違いしたうえ、若僧の分際で在家を顎で使うような無礼が罷り通る異常さが、石山法華講の病弊の一つであるとわたしは観察しています。

分別の付かない子どもは、必要以上の期待や、尊重をしないことです。勘違いさせるだけです。こんな勘違いは、石山僧のみならず、正信会のようにやめたあとでも引きずっている人間は、よく散見します。

「なに、威張っているんだ、こいつ。何様のつもりだ?」と思うことは、しばしばあります。

これは悪口になりますか。経験から語る、率直な感想ですが。

2547顕正居士:2005/07/16(土) 15:36:02
>>2543

Aさん。この文章は「宗祖本仏論」がある富士派を批評する際に参考になる、有益なよくまとまった文章ですね。
だだし誰の何という著書にあるのかを書き忘れておられます。

「凡血の笹」というのは日蓮聖人が求聞持法を成就し、虚空蔵菩薩の堂を出られた際、凡夫の血を吐かれた
(聖者となられた)笹であるらしい。伝説が真実であれば、やはり神薬を服用されたのでありましょう。

2548犀角独歩:2005/07/16(土) 15:50:34

Aさん

> 日蓮聖人と法華経

これはなにからの引用でしょうか。文献名と頁を明示いただけませんか。

2549顕正居士:2005/07/16(土) 16:33:38
大石寺65世日淳師の文章であろうかとおもいます。

2550ラキ:2005/07/16(土) 19:05:13
独歩さんへ。
「三転読授」誤字でした。(^^;
「三転読誦」が石山教学ではなく天台法華玄義の所説とはじめて知りました。
「三転読誦」を正式に確認を取りましたが、十如是を3回繰り返して読むで一貫しているので、
「三回読誦」でと思うことにしました。(^^;

>学生の小僧さん
>勤行の意味そして読授の意味を理解していないのではと感じる事。

>実際のところ、石山700年の歴史で定説がないわけですから、理解しているはずはないと思いますが。
700年の歴史があっても、定説が確立されてないのでは、私が感じるのには、
歴史があっても教義的には、新興宗教と大差ないのではと感じてしまいました。
お叱りを受けるかもしれませんが、初歩の化儀自体が確り統一されて教え込まれてないから、このように感じております。

2551犀角独歩:2005/07/16(土) 19:20:18

2549 顕正居士さん

代わりにお応えいただきまして、有り難うございます。

2552 A:2005/07/16(土) 23:17:50

今、帰って来ましたので遅くなりました。
またも大事なことを書き落としておりました。
大石寺65世日淳上人でしたか。終わりに昭和22年十月(宗報)とありましたので
宗門文書でしょう。ページはわかりません。

2553犀角独歩:2005/07/17(日) 00:50:09

Aさん、今後とも継続的なご投稿を希望します。
HNを何かお決めになりませんか。

2554 A:2005/07/17(日) 06:33:00

独歩さん、 ありがとうごだいます。

任意にさせてください。

ご意見にか弱い反駁もありますが、脳力、時間、根気が足りません。

2555 A:2005/07/18(月) 00:38:55
末法は争いのみに明けくれ、互いに自説だけが勝れていると主張して争う、白法穏没、闘諍堅固の時代と 大集経にとかれていると聞く、世相はまさにこのとおりである。
上野殿御返事に曰く。
又念仏は無間地獄に堕つると申す事をば、経文に分明なるをばしらずして、皆人日蓮が口より出でたりとおもへり。文はまつげ(睫毛)のごとしと申すはこれなり。虚空の遠きと、まつげの近きと人みる事なきなり。此の尼御前は日蓮が法門だにもひが事に候はば、よも臨終には正念には住し候はじ。/ 又日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人々はあしく候げに候。南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心、人の中の神(たましい)のごとし。此れにものをならぶれば、きさき(后)のならべて二王をおとことし、乃至きさき(后)の大臣已下になひなひ(内々)とつ(嫁)ぐがごとし。わざわひ(禍)のみなもとなり。【正法・像法には此の法門をひろめず、余経を失はじがためなり。今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。】かう申し出だして候もわたくし(私)の計らひにはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計らひなり。此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば、ゆゆしきひが事なり。日出でぬればとぼしび(灯)せん(詮)なし。雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児に乳より外のものをやしなうべきか。良薬に又薬を加へぬる事なし。

では、みなさま、またいつか。

2556犀角独歩:2005/07/18(月) 05:34:03

> 自説だけが勝れていると主張して争う

日蓮自身もその一人でしたね。

2557ラキ:2005/07/28(木) 23:55:49
卒塔婆供養が、江戸時代に始まったと顕正会員に聴きました。
浅井さんの指導らしいのですが、ネットで調べてもそのような記載が見られませんでした。
連師在世時代でもあった物なのに、卒塔婆供養は江戸時代から始まったものなので、必要ないとは連師の御金言でも
見受けられません。
逆に卒塔婆供養の大切さを言われてると思うのですが、ご指南お願いいたします。

参考にした御書。
■ 行敏訴状御会通 ( gyoubinnsojougoetuu.htm )
「大唐の武宗は四千六百余処を滅失して、僧尼還俗する者計ふるに二十六万五百人なり。去る永保年中には山僧園城寺を焼き払ふ」云云。 「御願は十五所、堂院は九十所、塔婆は四基、鐘楼は六宇、経蔵は二十所、神社は十三所、僧坊は八百余宇、舎宅は三千余等」云云。 去る治承四年十二月二十二日、太政入道浄海、東大・興福の両寺を焼失して僧尼等を殺す。

■ 出家功徳御書 ( syukkekudokugosyo.htm )
凡父母の家を出でて僧となる事は、必ず父母を助くる道にて候なり。 出家功徳経に云く「高さ三十三天に百千の塔婆を立つるよりも、一日出家の功徳は勝れたり」と。 されば其の身は無智無行にもあれ、かみ(髪)をそり、袈裟をかくる形には天魔も恐をなすと見えたり。

■ 草木成仏 ( soumokujoubutuguketu.htm )
妙法とは有情の成仏なり。蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情非情の成仏の事なり。 其の故は我等衆生死する時、塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり。 止観の一に云く「一色一香中道に非ざること無し」。妙楽云く「然かも亦共に色香中道を許す、無情仏性惑耳驚心す」。

■ 上野殿御返事 ( uenodonogohennji11.htm )
いまをもひいでたる事あり。子を思ふ故にや、をや(親)つぎ(槻)の木の弓をもて、学文せざりし子にをしへたり。然る間、此の子うたてかりしは父、にくかりしはつぎの木の弓。 されども終には修学増進して自身得脱をきわめ、又人を利益する身となり、立ち還て見れば、つぎの木をもて我をうちし故なり。此の子そとば(率塔婆)に此の木をつくり、父の供養のためにたててむけりと見へたり。 日蓮も又かくの如くあるべきか。日蓮仏果をえむに、争かせうばう(少輔房)が恩をすつべきや。

2558犀角独歩[TRACKBACK]:2005/07/29(金) 01:06:01

言われている「塔婆」というのは板塔婆のことでしょうか。卒塔婆というのはストゥーパーの音を充てたもので、意味は塔ということでしょう。墓石も広義では塔でしょうし、真偽未決から言えば、本尊(漫荼羅)がそもそも塔でしょう。塔婆批判というのは、石山義から言えば漫荼羅批判につながるんじゃないでしょうか。板塔婆は不用で、漫荼羅本尊は要るというのは、一体、どこで線を引いているんでしょうか。何もわからない連中相手に自分達の団体で用意できないものを、不用といっているのに過ぎないでしょう。まあ、顕正会で塔婆をかけるシステムはないでしょうから。会の浅薄さ、底意が透けて見えています。

だいたい、浅井さんの先代は、妙信講という石山末寺講中の講頭をやっていたわけですから、その頃、塔婆を立てていなかったとすれば、いまの浅井さんの言は矛盾はないわけです。しかしもし、先代が塔婆を立てていたとすれば、要するに、塔婆不要論は、= 先代の行動を批判することになるという構造を、まず、理解すべきです。(このような史実からの批判は、創価学会にも言えます)

いちおう、顕正会は日寛尊崇を採っているわけですが、その日寛が遺志を継いで立てた石山の五重塔。立派な卒塔婆(ストゥーパー=塔)じゃないでしょうか。

さて、引用された遺文は『行敏訴状御会通』を除けば、みな、写本の類ですね。なお、石山で塔婆の意義を言うのに常套される御書は『中興入道御消息』の以下の文です。

「去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に丈六のそとばをたてて其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕してをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたりて大海の苦をはなれ東風きたれば西山の鳥鹿其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生れん、況やかのそとばに随喜をなし手をふれ眼に見まいらせ候人類をや、過去の父母も彼のそとばの功徳によりて天の日月の如く浄土をてらし孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事水すめば月うつりつづみをうてばひびきのあるがごとしとをぼしめし候へ等云云、此れより後後の御そとばにも法華経の題目を顕し給へ」

いわば、これは石山における常識でしょう。(いちおう、予備知識として記しておきます。もちろん、真跡主義からすれば、問題にされることのない御書です)

真跡遺文では「塔婆」の記述は少ないですね。引用以外では、

善無畏鈔「大地微塵の塔婆を立て、大小乗の戒行を尽くし、十方世界の衆生を一子の如くに為すとも、法華経謗法の罪はきゆべからず」

ぐらいでしょうか。

上代、造立されたという板碑は、塔婆と見なせるのでしょうか。
この点は、れんさんがお詳しいと思います。補完いただければ有り難く存じます。
れんさんのご投稿は、「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」などで何カ所か論じてくださっていました。

また、塔婆については愚鈍凡夫さんの以下のご投稿は参考になると思います。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1041207951/r297

まあ、しかし、塔婆不用を顕正会が言ったなんていう枝葉末節の批判は、あまり意味がないような気がします。根本からおかしいわけですから。また、石山義をもってきたり、日蓮門下一般の常識を持って批判しても、そちらにそちらで問題があるわけですから、どんなものでしょうか。

ラキさんも、もっと本質からご覧になることをお薦めします。まあ、そう言ってしまえば素朴な疑問もあったものではなくなりますか。

2559ラキ:2005/07/29(金) 02:54:21
独歩さん。
ご指南ありがとうございます。

枝葉末端の信者でも、身近な人なので、語って行きたいのです。
ほとんど耳を傾けませんが、文証を提示して説明するささやかな行為ですが、
少しでもきっかけになってもらいたい思いがあります。

私自身は現在、高木豊氏の日蓮。大田出版の書籍を読んでいます。
わかりやすく読みやすくて、とてもためになります。
日蓮宗教学史は苦戦しながら、少しずつ読み進めていってますよ(^^;

追伸。
愚鈍凡夫さんのレスとリング先は、ググッて拝見しました。

2560犀角独歩:2005/07/29(金) 07:48:20

過日、親戚の納骨に参列しました。浄土真宗大谷派だったのですが、ここは塔婆を建てていませんでした。浄土系の、戒名を使わず、お守りを用いない、占いもしない…、こんな特徴を並べると、実は石山系に、さらに、戒名不用、塔婆不用となると創価学会、顕正会は同じことを言い出したと、通仏教を知っている人から見えます。

浄土真宗は以前からそうであったわけですから、以前は塔婆、戒名を用い、それを使用なくなったと言うことは、儀礼が浄土真宗に近づいた、もしくは模倣したと観察されることになります。しかし、当の信者は大きく首を振って否定することでしょう。この温度差に、信仰というものの本質が含まれていると思う昨今です。

2561パンナコッタ:2005/07/29(金) 12:29:48
独歩さん、
善無畏鈔の該当部分は欠損部分ではないでしょうか? 
該当部分が遡れるのは日興写本ではないでしょうか。

真宗では葬儀の際の”お清め塩”もありませんね。死は穢れではないという思想からで結構な
事だと思いますが、真宗以外の一般会葬者の中では文句を言う人がいるみたいですね。

ラキさん、卒塔婆の豆知識として、
 http://www.os-net.jp/butsuji2.htm

ネタとしての伝説の卒塔婆石
 http://hanatatibana-na-gi.hp.infoseek.co.jp/east_west/miyajima/miyajima7.html

2562ラキ:2005/07/29(金) 14:29:49
パンナコッタさん。
伝説の卒塔婆石実物見てみたい思いです〜ロマンだ〜^^

2563藤川一郎:2005/07/30(土) 07:02:08
顕正会の塔婆不要も戒名扶養も政策的な理由だよ思います。敵対勢力(宗門)が「塔婆が必要」だと言ってるから、こちらは不要にしようという極めていい加減なものでしょう。

まあ、最近では戒名不要と申してますが、甚兵衛さんの「直達院護法甚道居士」は使用できなくなったのか、使用してよいのかすら公式発表はありません。

2564藤川一郎:2005/07/30(土) 07:04:16
>>2563
訂正します。
戒名扶養→戒名不要です。
「戒名を扶養してどうするんじゃい?」

2565犀角独歩:2005/07/30(土) 07:15:47

2561 パンナコッタさん

> 善無畏鈔の該当部分は欠損部分…遡れるのは日興写本

そうですか。これは、うっかりしていました。
ご指摘有り難うございます。

> ”お清め塩”

これは石山もやりません。学会ではやるんでしたっけ?
「清め」というわけですから、「穢れ」に対するわけで、この起源はもちろん仏教ではなく神道と言うことでしょうか。

2566ラキ:2005/07/30(土) 10:50:32
藤川一郎さんへ。
塔婆不要も戒名不要、仏教を否定してる行為だと感じますね。
「戒名を供養の方がよかったかも?^^)

独歩さん。
破門前の学会では、お清め塩は使用してました。
破門後も私が知ってる範囲では、お清め塩は使用したことがあります。

2567ラキ:2005/07/30(土) 10:59:55
御形ギ本尊のサイズて、歴代により大きさが異なるのでしょうか?
摂受本尊は大、中があるのはわかるのですが、信者配布の印刷タイプが少し気になりまして、
お分かりの方がいましたら、お教え願います。
よろしくお願いいたします。

2568パンナコッタ:2005/07/30(土) 12:04:37
ラキさん、
寛師八界、昇師、達師、顕師 と 大きさが区々だったような記憶ですね。

身延にある仏具屋さんでは、各種あるみたいですね。
 http://www.minobusan.net/

2569ラキ:2005/07/30(土) 14:14:07
パンナコッタさんへ。
ありがとうございます。
会館安置の本尊のサイズが気になりまして。
大幅と中幅の本尊の数には、そんなにないはずだから、御形ぎ本尊が会館の各部屋に
安置されていて、サイズが大きいのが気になったのです。
そして、紙の色が異様に白すぎるのも違和感を感じ気になったしだいです。
表面がガラスで覆われていても、あの白さは、高級ケント紙ぐらいの見事な白さだと印象が残り、
30年以上前の本尊にしては、綺麗過ぎて不自然だと思ってしまったのです。

2570初心者:2005/07/31(日) 02:19:44
いつも拝見して勉強させてもらってます。
お尋ねしたいことがあるのですが
東京周辺に大石寺以外の末寺ってありますか?
ご存知の方がいらっしゃったら教えて下さい。

2571初心者:2005/07/31(日) 02:43:02
2570です。
大石寺以外の興門の末寺です。

2572犀角独歩:2005/07/31(日) 12:21:55

ラキさん、2569は顕正会について、ですね。
そのように判断し、「顕正会の実態を検証する」に移動し、やや応答させていただきます。

http://jbbs.livedoor.jp/study/364/#5

2573顕正居士:2005/07/31(日) 21:50:42
>>2570

日興門流は今の静岡、山梨、千葉、京都などの府県に勢力を有していました。東京への進出は大石寺派が
ある程度成功したくらいではないでしょうか。又、終戦後、妙蓮寺、妙本寺、要法寺、西山本門寺が単称日蓮宗
から離脱しましたが、旧来のいわゆる末寺の多くが単称日蓮宗に止まっています。

もし、別の寺院の檀徒になりたいという御趣旨でしたら、今少しどのあたりを良いとおもうのか、決まってからの
ほうがよいのでは。個人的には、応援する寺院の住職は最低、立正大学の仏教学か宗学の卒業生、か同等
の学力を有する方から選ぶのがよいとおもいます。

2574彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/01(月) 21:11:43

>2570,2571 初心者さん

はて? 東京近郊の興門派寺院(大石寺末を除く)の情報がなぜ必要なのでしょうか?
それはともかく、北山本門寺末では下記寺院があります。

神奈川県
海老名市 本興山常在寺
厚木市  宝松山本禅寺
横浜市瀬谷区 白東山宗川寺
茅ヶ崎市 辧財山蓮妙寺

東京都
中野区 泉光山蓮華寺
新宿区 萬年山法輪寺

埼玉県
行田市 須加山本法寺

なお、新宿区の法輪寺には寺宝として鉄砲曼荼羅があるということです。剥離表装でしょうか?

2575犀角独歩:2005/08/02(火) 20:52:26

鉄砲漫荼羅の「弾の痕」がどうなっているのか…。わたしはこの点に興味がありました。何故ならば、『御本尊集』でみる同漫荼羅の該当部分は四角い紙で覆われて見えなくなっているからです。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/033.html

ところが、たしか中尾師であったと思いますが、この弾痕部分は四角く切り取られて、この部分を家康?がお守りとしていたということでした。この話はどこで読んだか・聞いたか、失念しましたが、そんな話でした。漫荼羅そのものより、弾痕のほうが霊験あらたか、護符になるというのは、なんだかおかしな話だと思った次第です。

しかし、この漫荼羅も剥離表層ありですか。北山は、この技法で漫荼羅を水増ししてきたわけでしょうか。

2576犀角独歩:2005/08/03(水) 15:15:41
彰往考来さんから、わたしが「剥離表層」と記すのは変ではないのかというメールを頂戴しました。(ご本人におことわりのメールを出し、ここに記載します)

同じような疑問を懐かれている方もいらっしゃると思いますので、いちおう、記しておきます。


はくり 1 【▼剥離】
(名)スル
剥(は)がれてとれること。また、剥がしてとること。
「網膜が―する」

ひょうそう へうさう 【表装】
(名)スル
書画の保存と鑑賞のために布・紙などで縁どりや裏打ちなどをして掛軸・額に仕立てること。また、布または紙をはって、屏風(びようぶ)・襖(ふすま)などに仕立てること。表具。

ひょうそう へう― 0 【表層】
表面の層。うわべ。
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

という意味で、本紙を2枚に分かつことは、むしろ「相剥(あいへぎ)」というほうが良いのだろうと思います。この2枚に分かつ際に表層を剥ぐという意味でわたしは「剥離表層」と記してきました。つまり、表装という保存干渉のための加工とは別のことであると考えてきたからです。

ただし、彰往考来さんがご指摘くださるとおり、門下一般では、「剥離表装」が慣用となっていると思います。しかし、表層を剥離することと、表装することは別の作業であると思いますので、勝手ながら、わたしは「剥離表層」「相剥」「表装」と使い分けたいと思っています。
まあ、混乱するようでしたら、取り決めとして、「剥離表装」としますが。

2577彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/04(木) 07:33:26

2574で法輪寺の鉄砲曼荼羅は、剥離表装ではないかと記しましたが、私は実物はおろか写真さえ見ていませんので、私見を述べたのにすぎないことをお断りしておきます。
参考までに、『本門寺並本末寺院縁起』(昭和57年、大本山本門寺、338頁)によれば東京都新宿区の法輪寺の寺宝は下記の3点です。(丸数字は原文にはありません。)

①天四海皆帰妙法領加由来危難除鉄砲曼荼羅
②楽産福子子安曼荼羅
③厄病除御大事曼荼羅

この記述によれば、法輪寺の寺宝は北山本門寺蔵の御本尊と重複していることがわかります。以下、北山本門寺蔵御本尊について若干述べます。
北山本門寺には伝・蓮祖御本尊が合計11幅所蔵されているようですが、これら11幅のうち『富士宗学要集 第八巻〔史料類聚Ⅰ〕』などの文献にでてくる北山本門寺蔵の蓮祖御本尊は以下のとおりです。〔〕内は記載のある資料名の記号です。そのうち、『御本尊集目録』に入集しているのは第33番本尊の鉄砲曼荼羅だけです。

(1)建治2年2月(鉄砲漫荼羅)     〔A,B,C,D〕
(2)建治2年卯月            〔A,C〕
(3)建治2年8月13日(亀弥護りなり) 〔A,C〕
(4)弘安3年3月(石川新兵衛授与)    〔A,C〕
(5)弘安3年5月9日(禅師授与)    〔A,B,C〕
(6)弘安3年11月 (子安漫荼羅)   〔A,B,C〕
(7)弘安4年10月(俗平太郎□□□)  〔A,C〕
(8)文永5年5月27日(京極光綱授与) 〔B〕
 <資料> A:堀日亨編『富士宗学要集 第八巻〔史料類聚Ⅰ〕』
      B:『本門寺並本末寺院縁起』
      C:山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』
      D:山中喜八編『御本尊集目録』
こうしてみると、①と(1)、②と(6)が重複している可能性が極めて高いことがわかります。③は『本門寺並本末寺院縁起』の116頁に「本門寺出開帳縁起 其の二 日蓮聖人 文永五年五月廿七日京極左エ門垂沢光綱授与之 御大事御本尊、是ノ語本尊ハ略本尊テアリ衆病悉除御本尊トモ云ヒ」とあることから(8)と重複すると判断いたします。
上記(1)〜(8)のうち、重複所蔵などがあるものを列記します。
(1)は法輪寺と、(3)は大阪市某家(第39番本尊)及び日向定善寺と、(5)は富士大石寺と、(6)は法輪寺と、(7)は千葉随喜文庫(第113番本尊)と、(8)は法輪寺と重複所蔵されていることがわかります。
(2)は重複しているかどうか確実ではありませんが、『奉蔵於奥法寶』によれば同日付の御本尊を古川市の藤本勘蔵氏が所蔵しています。あの富士大石寺第56世日応師が裏書している御本尊ですから、北山本門寺蔵と重複の可能性大です。
(4)は重複御本尊の所蔵は文献上確認できませんでしたが、堀日亨師はこの御本尊について「正しくは真偽未決のもので、立正安国会の写真目録にも省いており、ことに「石河新兵衛」以下の文は、正しく興尊の筆に似ないものである。」(『富士日興上人詳伝』(昭和38年第1刷、創価学会、764頁)と指摘されていて、北山本門寺蔵の(4)がご真筆ではない(もしくは剥離表装の影本である)ことを指摘していますので、ご真筆(剥離表装の正本を含む)が他にあった可能性を示唆しています。
以上のことから上記(1)〜(8)すべてが重複していて模写もしくは臨写あるいは剥離表装本がある可能性が高いという何ともはやという結果となりました。

2578犀角独歩:2005/08/04(木) 11:08:25

> 2577

事実であれば、これはなかなかの話ですね。もちろん、彰往考来さんのご指摘です。信憑性は高く感じます。
なぜ、禅師漫荼羅が北石両山にあるのかも含めて、日蓮漫荼羅をめぐるタブーの記載と感じました。

2579彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/05(金) 12:48:59

>2576 犀角独歩さん

工業用途では、『表層剥離』という言葉の使い方があります。世間でよく使う類似の用語としては『網膜剥離』があり、これと文法的には同じです。

『表層剥離』とは文字どおり“表層”が“剥離”することです。“表層”の反対語は“下層”です。解りやすい例えで説明しますと、テフロンコーティングしたフライパンがあるとします。これの“表層”はテフロン層であり“下層”は鉄などからなるパン層です。このテフロン層が何らかの理由で剥がれることを『表層剥離』というわけです。『表層剥離』の場合、通常は剥がれた表層はどこかに散逸する場合が多く、剥離原因などは残されたパン層側に残った表層と下層であるパン層およびその界面を分析して追及することになります。

さて、『表層剥離』と『剥離表層』。異なる概念なので問題はないはずなのですが、どうでしょうか。混乱しませんか? 実は私は混乱しているのです。

>この2枚に分かつ際に表層を剥ぐという意味でわたしは「剥離表層」と記してきました。つまり、表装という保存干渉のための加工とは別のことであると考えてきたからです。
紙を2枚に分かつことは、むしろ「相剥」というほうが良いのだろうと思います。

個人的には『剥離表層』の持つ意味は理解できるのですが、「相剥」であれ、剥離された表層と下層をそれぞれ“表装”するのですから“表層を剥離すること”と、“剥離した表層を表装すること”は別の作業ではなく一連の作業ではないでしょうか。用語として『剥離表装』があるのですから無用の混乱を避ける上で、あえて『剥離表層』とすべきかどうか再考していただけませんか。もちろんその結果犀角独歩氏が今後とも『剥離表層』をお使いになるのであれば、そのご判断を尊重します。言葉は生き物です。辞書にあるとかないではなく使われていれば、生きているということになりますので。

2580犀角独歩:2005/08/05(金) 13:41:07

彰往考来さん、

御丁寧に有り難うございます。

ちょっと質問させていただきたいのですが、「剥離表装」という言葉を、彰往考来さんは、どこでお知りになりましたか。『日蓮正宗史の研究』ですか。それとも他の文献でしょうか。松本佐一郎さんも使っていましたっけ?

もし、上記であれば、そもそも、この山口さんの用法が間違っているとわたしは思います。

漢語的な話になりますが、剥離表装を訓読すれば、「表装を剥離する」となりませんか。つまり、表装(飾り・裏紙・軸等)を剥離して本紙だけにすることです。

わたしは漢文読みが仕事ですから、なんでも訓読する習慣があります。

剥離表装は、表装を剥離、表側の装飾を剥いで離すという以上の意味は持ちようがありません。つまり、本紙を2枚に分かつ意味は持ちませんし、さらにそれを別々に2つ掛け軸に仕上げるまでの意味を持つというのは、想像力の賜物ではないでしょうか。

それならば、2層となっている紙の層の表側を剥がし離して2枚にする(剥離表層)というほうが、言葉としてはずっと正確です。

第一表装を剥離するというのは、内装屋さんも使う言葉です。この場合、表装(壁紙)を剥離して、壁材そのものを露出することです。

では、どういうべきか。やはり、相剥でしょうか。しかし、この段階は本紙を2枚に分かつわけですから、表装は意味しません。

> 表層を剥離すること”と、“剥離した表層を表装すること”は別の作業ではなく一連の作業ではないでしょうか

いや、以上の次第ですから、これは全然別の作業です。
細かいことを言えば、剥離表層=相剥ですが、これは表装とは別の作業でしょう。
また、もう少し厳密に言えば、相剥というのは、表層の際に本紙を削ぎ、表装に馴染ませることの意味のほうが強いように思えます。しかし、この辺は実際に作業をしたことも立ち会ったこともありません。

> 『表層剥離』と『剥離表層』

これが混乱するようでしたら、この使用はやめることにします。
ただし、剥離表装という言葉もまた、一般には通用しないような気がします。
「表装」「剥離」と2つの成句を並べれば、一般社会では住宅内装の話でしょうね。

「和紙は漉いたものなので、その厚みから層を成している。そのために2枚以上に分離できる。書画が図された和紙の表面を剥いで2枚にしてしまい真筆を2つにしてしまうことができる」と、曖昧な成句を使わず、説明したほうがわかりやすい気がします。

「剥離表装」、山口さんが使いだした言葉なら、ついでに廃止するのも一考かと思います。

せっかくのご指摘を受けましたので、「剥離表層」という語の使用はやめ、今後は「相剥」で一貫することといたします。

2581彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/08(月) 07:50:30

>2580 犀角独歩さん

「剥離表装」とは“和紙に書かれたものを薄く剥いで二枚にし、各々表装したもの”という定義でしょうが、これは骨董業界用語では「相剥(あいは)ぎ本」や「剥離本」とも呼ばれ、「メクリ」、「ヒコーキ」といった隠語があるようです。「剥離表装」は山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林、14頁)に出てくるのですが、犀角独歩さんのご指摘のとおり同書以外で「剥離表装」という言葉が管見に入ったことはありません。私も前々からこの点を疑問に思っていて色々調べたのですが調査した範囲内では「剥離表装」という記載は見つからないのです。正式な名前は失念しましたが『骨董用語辞典』の類などにも載っていなかったと記憶しています。もちろん、『日蓮正宗史の基礎的研究』が発行された1993年以後で同書の影響を受けたと思われる文献、資料の類を除きます。その意味で私の書いたものに出てくる「剥離表装」は同書の表現を採用しているといえます。ただ『日蓮正宗史の基礎的研究』を除く文献、資料に「剥離表装」が見あたらないことから山口師の造語であると言いえるかどうか。その可能性を否定するものではありませんが私は「剥離表装」という言葉は一部の表装屋で使われているのではと思っています。同じ業界でも会社、職場が異なれば違った表現というのは存在するからです。それに「剥離表装」という表現がいかにも職人言葉のようで、言い得て妙だからです。もちろんそれが文法的にみて正しい表現であるとは限りません。山口師がたまたま知っていた表具屋の表現をそのまま使用したにすぎないというあたりなのかもしれません。山口師の造語であるかどうかは推論にすぎず議論しても結論はでないでしょうし、どちらであれ話の本筋に影響はないと考えます。
山口師の造語であろうがなかろうが『日蓮正宗史の基礎的研究』を除く文献、資料に見あたらない以上、私も今後、『日蓮正宗史の基礎的研究』の記載内容の引用時などを除き、「剥離表装」という表現を使用せず「相剥」もしくは「相剥本」を使用するようにします。そのほうが一般的だと考えるからです。下記に紹介します大宮知信氏の著書にもでてきます。なお、『日蓮正宗史の基礎的研究』には「剥離表装」が記載されているわけですから、他の人が「剥離表装」という表現を使用されることについて、私はとやかく申し上げる立場にはありません。
「相剥」は、いわばまがい物を作っている裏社会で通用している技術でしょう。そのため、この技術について記載している資料は極めて乏しいのが原状です。泥棒がその手口を公開した資料が少ないのと同じでしょう。せっかくですから、この機会にその乏しい中で「相剥」について解説した資料を少々長いですが下記に引用します。原本中の振り仮名は当該漢字の後( )内に記しました。

2582彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/08(月) 07:51:05

2581の続きです。

大宮知信氏は『お騒がせ贋作事件簿』で「相剥ぎ」、「ヒコーキ」を解説しています。
「相剥(あいは)ぎ本も数多く出回っている。相剥ぎとは紙を薄く剥いで二枚にしたもので、剥離本(はくりぼん)ともいう。鉄斎が使用していた紙は、中国製の玉版箋(ぎょくばんせん)で厚みがあってよく水を吸う紙質だったため、老練な表具師だったら二枚に剥がすのはわりあい簡単にできるのだ。業界用語で〝ヒコーキ〟と呼ばれる代物である。剥がされた1枚が上に飛んで、どこかへ売られていくことからこういう隠語が生まれたらしい。この高等技術は和紙に描かれた絵にも適用できる。絵が紙の下層にまで写り込むので、もう一枚の〝真作〟を作ることが可能なのだ。
「相剥ぎ本で多いのは室町時代の書や墨絵ですね。書や墨絵は剥がしやすいんです。真作のあとに作られる相剥ぎはどうしてもかすれや弱い部分が出てくるから色を差したりする。本物はなかなか手に入らないからこういう相剥ぎ本が十分通用している」(村越英明館長)
ヒコーキは厳密にいえば贋作ではない。一つの作品から複数の「作品」を作るわけだから、真作のコピーともいえる。印刷したものやコピー機による複写よりもはるかに人間的のような気もするが、美術業界ではこれもまがい物として扱われる。京都以外の地で作られるものは「田舎様」と呼ばれ、あまり出来がよくないそうだ。こうした相剥ぎ本は鉄斎だけでなく、横山大観、河合玉堂、速見御舟(はやみぎょしゅう)などあらゆる大家の作品に見られる。」(大宮知信『お騒がせ贋作事件簿』2002年、草思社、64頁、引用者注:村越英明氏は宝塚市の清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ)境内にある鉄斎美術館館長)

三杉隆俊氏は『真贋ものがたり』で「メクリ」を紹介しています。葉書の表裏を同時に貼るのは、「相剥」の有効な手段ではあると思います。
「「メクリ」との出会い
もう四十年も前のこと、私は古本市になにか面白いものはないだろうかとでかけた。ちょうと折畳み式の画帖のような物があり、開けると明治から大正期にかけての有名人の葉書が貼られている。だが気をつけて見ると、一面は葉書の正面、すなわち宛名と住所が記されており、もう一面には裏面の本文が貼られている、しかしどう考えても両方とも墨書の本物であり、達筆である。
そのコーナーの古本屋の主人は知人であったので、「これはいったいどうしてあるのですか」と聞くと、「うん、メクリだよ」との返事。私はまだ知識の浅い頃とて、「メクリってなんですか」と聞いてみた。すると主人は「その頃は和紙で丁寧に葉書を漉くいていたが、上手な表具師に依頼すると、うまくこのように表と裏に一枚の葉書を分けることができる。それをメクリというのだよ」と教えてくれた。さらに紙の墨書や、紙に描かれた特に墨絵で色彩の少ない物は、この葉書と同様に二つに分けることができる。要するに「本物」が二つできてしまう、だから表装する時は信頼のおける表装屋に出さなくては、とも言われた。ただ気をつけて見ると黒白の境界や印の色などが少しにぶくなっている。でもともかく「本物」が二つできたということには変りがない。」(三杉隆俊『真贋ものがたり』1996年、岩波新書、54頁)

2583彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/08(月) 07:51:44

2583の続きです。

中島誠之助氏は、「相剥」について『ニセモノ師たち』の中で述べていましたが、「相剥」などの名前は記していません。以下、その箇所を引用します。
「名僧が禅語などを一行にしたためた「墨蹟一行(ぼくせきいちぎょう)」は、茶掛け(茶席の掛物)として人気のあるものです。
この墨蹟の掛軸を修復するために表具屋に出したとしましょう。もし仮に、よこしまな表具屋だったとしたら、その職人は一枚の本紙の表面を薄くはぎとって、作品を二枚にしてしまうことだって、素材が和紙ゆえに実際にはできるのです。そうすると両方ともホンモノになってしまうわけです。
もちろん、それはやはりキズモノということなのですが、ただ和紙に描かれた同じものがキズモノかどうかという判断は、なかなかむずかしい。とはいえ希少価値を尊び、生まれた姿を大切にするという骨董本来の目的から見れば、当然のことですが、価値が半減すると思います。自分の所有している掛軸と寸分違(たが)わぬものがよその家にあるという、ちょっと気持ちの悪い話になるわけですが、その原因はこのような表具師の優れた技術にあるわけです。」(中島誠之助『ニセモノ師たち』2001年、講談社、176頁)

三名の方の記述を紹介しましたが、「相剥本」について大宮知信氏は“美術業界ではまがい物として扱われる”とし、三杉隆俊氏は“「本物」が二つできてしまう”とし、中島誠之助氏は、“ホンモノだがキズモノということ” としています。三者三様です。さて、御本尊の「相剥本」はどうでしょうか。私見ですが私は大宮知信氏の意見に近いです。漫荼羅は信仰の対象ですから、宗祖が残した信仰の対象を人為的に二つにしてそれぞれを御真筆として信仰の対象とするには抵抗があります。漫荼羅の「相剥本」は“まがい物”というよりは“お写し”に近いものでしょう。もし漫荼羅を骨董としてみるなら中島氏の意見でしょうが信仰の対象である漫荼羅は書画骨董とは違います。

以上、 by 彰往考来(しょうおうこうらい)

2584犀角独歩:2005/08/08(月) 09:23:38

彰往考来さん

2581〜2583のご投稿、拝読しました。
いつものことですが、いやましてしかし、今回の御文はたいへんに参考にもなり、何より興味深く拝読しました。

読後、思ったのですが、危ない表具業者にうっかり出すと、相剥本を作られてしまうという危険があるわけですね。用心するにも、そんな美術品は所持していないのですが、裏文化には裏文化の達人というものがいるのだと、変なことで感心しました。

朝からたいへんに勉強になりました。
有り難うございました。

2585独学徒:2005/08/08(月) 23:21:12
掲示板参加・閲覧の皆様、ご無沙汰しています。
「孤高之求道人」改め「独学徒」です。このほうがより現状を正しく表現したHNだと思い、変更させていただきます。

話が戻ってしまいますが、本年4月の北山の御風入れでは、鉄砲曼荼羅の御形木木版が展示されていました。
そのことを思い出し、ひょっとしたら議論に上がっている鉄砲曼荼羅は、御形木ではないかと単純に思いました。

また今回は、普段御風入れでは展示しない、御大事御本尊も展示されていました。
紙本の中央に題目が書かれており、その周りを各諸尊が泳ぐように円を描いて勧請されているといった感じでした。
とても宗祖の書かれた曼荼羅とは思えませんでした。

以上簡単ですが、報告させていただきます。

2586犀角独歩:2005/08/09(火) 18:41:00

独学徒さん、お久しぶりです。

鉄砲漫荼羅の版木ですか。それはたいそうなものですね。
中世には、この版木そのものが信仰対象になっていたのではないのか、それがのちに板漫荼羅信仰へと変化したのではないのかという課程は成り立ちそうです。この点は、籠抜漫荼羅でも同様と思えます。

虫払は4月ですか。翌5月には鉄砲漫荼羅は修繕と調査のために北山から持ち出されましたね。

北山は、何かと話題には事欠かない寺院ですね。

2587独学徒:2005/08/10(水) 01:31:57
犀角独歩さん、返レス有難うございます。

北山の御風入れに参加して、所謂「日禅授与曼荼羅」が小さいと感じました。

古記録によれば、大石寺彫刻本尊は丈144センチであったと記憶しています。
私の思い違いかもしれませんが、今回北山で拝観した「日禅授与曼荼羅」は、紙本部分が1メートルそこそこであったように思います。
これは「日禅授与曼荼羅」のすぐ隣に、身長160センチくらいの男性が警備で立っていたので、その方と比較して大体このくらいだろうと思いました。
寸法を北山に問い合わせましたが、測っていないので判らないとのことでした。

一方、大石寺の「日禅授与曼荼羅」は、興風談所大黒師の日興門流上代事典によれば、相貌のみならず大きさまでほぼ同じと書かれていたと思います。

もし北山と大石寺のものが寸法が違った場合は、所謂「メクリ」ではなく別な手法によって作成されたものとなりますでしょうか。

このような点も、オフ会にてご意見を伺えればと存じます。

2588彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/10(水) 07:37:49

>2585 独学徒さん

>ひょっとしたら議論に上がっている鉄砲曼荼羅は、御形木ではないか
そうですね。法輪寺の鉄砲曼荼羅は実物を拝見していないので、何ともいえませんが、御形木の可能性はあるでしょう。ただ法輪寺所蔵の三幅の伝・蓮祖御本尊がすべて御形木であるといえるかどうかは実物を見ていない以上、判断できません。

蓮祖の御形木御本尊がご真筆と誤って伝えられたと考えられる例はあります。
『日蓮教學研究所紀要 第14号』昭和62年、立正大学日蓮教学研究所)の<史料紹介>(14)には中山法華経寺に所蔵される日蓮聖人真筆の目録が5点紹介されています。その中で仏心院日著による慶長3(1598)年の『正中山御霊宝目録』(堺市妙国寺蔵)には「一 従上方持下日頂授与之三枚次之大曼荼羅 一幅 当山江令寄進之」(『日蓮教學研究所紀要 第14号』、<史料紹介>20頁)と、中山法華経寺に日頂授与の蓮祖漫荼羅が寄進されたと記しています。文政8(1825)年の日亮による『正中山本妙法華経寺御霊宝目録鑑』(中山法華経寺蔵)には、「一 日頂授与漫荼羅 一幅  以上合十三幅也」(『日蓮教學研究所紀要 第14号』、<史料紹介>38頁)とあって、ご真筆として扱っているようです。ところが、正徳2(1712)年頃の『正中山法華経寺御霊宝目録』(堀之内妙法寺蔵)には、「一 日頂授与之漫荼羅 一幅  日養云此一幅者御形木也」(藤井教雄編『御本尊鑑 遠沾院日亨上人』昭和45年、身延山久遠寺、196頁)とあって、この漫荼羅は御形木であると指摘しています。いうまでもなく日頂授与の蓮祖漫荼羅は村松海長寺蔵の第53番本尊です。従って中山法華経寺曾存(明治32年5月7日の盗難で失われたもの)の日頂授与之漫荼羅は御形木御本尊であったと判断されます。

>御大事御本尊も展示・・・紙本の中央に題目が書かれており、その周りを各諸尊が泳ぐように円を描いて勧請されているといった感じ・・・とても宗祖の書かれた曼荼羅とは思えませんでした

首題の周りを各諸尊が泳ぐように円を描いて勧請されているという御本尊は珍しいですね。私は御大事御本尊は拝見していないのですが、首題の周りを各諸尊が泳ぐように円を描いて勧請されているという御本尊の例は日向師の御本尊にあり、写真は身延山短期大学出版部編『身延山久遠寺蔵版『本尊論資料』新訂版』(昭和53年新訂複製版)に入集しています。この御本尊は同書によれば、「藻原門流祖民部阿闍梨日向上人真筆本尊・・・建治二年八月廿六日 授興之日辨日秀日禅・・・同頼圓蓮海等者也」とあり静岡感應寺寶蔵ということです。しかしこの御本尊は偽筆でしょう。蓮祖在世中に御門下が御本尊を図顕するとは考えられません。御大事御本尊も日付けが文永5年なので、偽筆の疑い濃厚と思います。詳細は略しますが、蓮祖の御本尊図顕は文永8年からと考えるからです。

2589彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/11(木) 10:25:59

独学徒さん

『日蓮正宗 大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、90頁)には富士大石寺蔵の禅師授与漫荼羅の記載があり、それによると丈111センチ、幅58.3センチということです。
従いまして貴殿が2587でご指摘の“今回北山で拝観した「日禅授与曼荼羅」は、紙本部分が1メートルそこそこであったように思います”というのは妥当な線だと思います。
なお表装の際に周囲を少し切られますので、仮に相剥であったとしても2幅の御本尊の寸法が正確に一致するとは限りません。
参考までに同書(85頁)によれば戒壇本尊の寸法は、丈141センチ=4尺6寸5分 幅66センチ=2尺2寸 厚さ6.6センチ=2寸2分 とあります。

2590犀角独歩:2005/08/11(木) 10:35:50

独学徒さん
彰往考来さん

> …富士大石寺蔵の禅師授与漫荼羅…丈111センチ
> ……戒壇本尊の寸法は、丈141センチ

わたしは石山彫刻本尊は禅師授与漫荼羅を臨模・作為したという考えで落着しています。
今回のご投稿を一見された方は大きさに差があると感じられることでしょう。

しかし、この各丈から比較はできません。何故ならば、彫刻本尊には日蓮花押の下に、所謂、腰書「右造立如件…敬白 弘安二年十月十二日」と刻まれた部分があるからです。
ですから、四大天玉から日蓮花押までの丈が同じであっても、その腰書分、彫刻本尊が丈が長くなければ、寧ろ、同じといえないことになります。

2591彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/11(木) 16:24:24

>2588

誤記訂正です。

誤:建治二年八月廿六日 授興之日辨日秀日禅・・・同頼圓蓮海等者也
正:建治二年八月廿六日 授興之日辨日秀日禅頼圓蓮海等者也

2592彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/11(木) 17:04:40

>2590 犀角独歩さん

2589はちょっと誤解を受ける書き方になっていたようで申し訳ありません。ここで言いたかったことは、北山と石山の禅師授与漫荼羅の寸法は同じである可能性が高いということです。

2587で独学徒さんが、
>もし北山と大石寺のものが寸法が違った場合は、所謂「メクリ」ではなく別な手法によって作成されたものとなりますでしょうか。
と疑問を呈しておられましたので、
>今回北山で拝観した「日禅授与曼荼羅」は、紙本部分が1メートルそこそこであった
とのことから、石山の禅師授与漫荼羅の寸法が111センチであるのでむしろ一致しますよ、というのが主眼です。
また2587に
>古記録によれば、大石寺彫刻本尊は丈144センチであったと記憶しています
とありましたので、参考までに『日蓮正宗 大石寺』の戒壇本尊の寸法記載内容を記しておいたものです。同書では141センチとしていて独学徒さんが言われている144センチと差があります。独学徒さんが言われている144センチというのは「有師物語聴聞抄佳跡 上」(『富士宗学要集 第1巻』251頁)もしくは完則図もしくは日量師「富士大石寺明細誌」(『富士宗学要集 第5巻』334頁)に記載がある“4尺7寸5分”のメートル法への換算である143.9センチのことです。

禅師授与漫荼羅が戒壇本尊の基となったという貴説ではご指摘の腰書部がありますので寸法が同じになることがないのは了解しています。もう一つ。貴説では戒壇本尊は部分的なパッチワークというお考えですから、この点でも禅師授与漫荼羅と戒壇本尊で同じ寸法にはなりませんね。

13日のオフ会には所用があり残念ながら参加できません(要法寺の称徳曼荼羅のコピー見たかったなあ)ので、石山の禅師授与漫荼羅の寸法を掲示板に投稿しておいたものです。オフ会ご出席の皆様によろしくお伝えください。

2593犀角独歩:2005/08/12(金) 00:02:05

彰往考来さん

> …パッチワーク…禅師授与漫荼羅と戒壇本尊で同じ寸法にはなりませんね。

ええ、まったくそのとおりです。
わたしは、木材に合わせて、パッチワークではないのかと思っています。
それにしても、今回の独学徒さんのご指摘で、「南」にも、やはり、光明点あり。
彰往考来さんといい、独学徒さんといい、また、れんさんといい、彫刻本尊に関する皆さんのご賢察には、ただ、敬服します。

> オフ会…参加できません

それは残念です。
独学徒さんとのツーショット、議論を生でお聞きしたかったですね。
しかし、先はあります。次回のご参加をお待ちいたします。

2594独学徒:2005/08/12(金) 11:42:59

彰往考来さん
犀角独歩さん

日禅授与曼荼羅の石北両山の寸法のこと、彫刻本尊との関係について、ようやく私なりにすっきりしました。

石山と北山の日禅授与曼荼羅は、どちらもほぼ同じ寸法と考えられ、かねてより諸兄より指摘されている通りどちらかが「メクリ」である可能性が強く、石山彫刻本尊は花押下部に腰書があることや、文字ごとのパッチワークであることを勘案しますと、実寸法による比較は妥当ではない。

本年4月に北山にて、日禅授与曼荼羅を実見した折に感じた疑問は、ここでの議論によって犀角独歩さんの御所論を追認する結果となりました。

2595海野:2005/08/17(水) 17:48:46
素朴な疑問です。
興門八本山のうち、昭和十六年の「三派合同」で「日蓮宗」に合同した本門宗の七山
のうち、三山は、いまでも日蓮宗内にとどまっています。

これらの本山とその末寺では、いまでも「宗祖本仏論」や「勝劣派」など富士門流の教
義が維持されているのでしょうか。それとも、「釈尊本仏論」「一致派」に改宗させら
れてしまったのでしょうか。

2596顕正居士:2005/08/18(木) 08:35:30
富士派は大本山同士が常に抗争して来ましたが、教義や慣習には共通のものがあります。
しかし堅樹日寛以降の大石寺の教義は極めて独自であって、明治の末には大石寺は単立し、
やがて日蓮正宗と名乗ります。日蓮宗は祖山を中心とした法人であって、さまざまな門派を
包括しています。それぞれの伝統はそのままに、今は立正大学を主体とする近代教学の建設
段階に移行しているといえます。

2597犀角独歩:2005/08/18(木) 21:13:35

海野さん、はじめまして、でしょうか。

ご質問の趣旨は顕正居士さんが、お答えになったところが流れであると存じます。

僭越ながら、管見を吐露すれば、たとえば、北山本門寺は先代の延山寄り教学から、重須教学への復興を目指しています。そこでは、もちろん、日蓮本仏論が取り沙汰されるわけです。石山が自宗のもののようにいう二箇相承、富士一跡門徒事、五人所破抄をはじめ、日興に係る教学は、独り北山にその所有があります。功罪両面に亘り、自山の責任として考える器量を本間師は標榜しているでしょうし、また、上杉師にしてもしっかりと日蓮本仏を主張しています。

先の合同は、「日蓮宗教学の中に日蓮本仏論もある」ということが闡明になったという成果であったととらえることもできます。それ故、島田裕巳師は「創価学会と日蓮宗、外から見れば、教学自体はそんなに違っては見えない」という感想を漏らすのは、このような事情によると思います。

2598教えてください:2005/08/21(日) 00:28:10
パソコンを購入したので、初めて書き込みというものをしてみます。ぜひ教えてほしいことがあります。本門正宗の小野寺さんが主催している宗旨は、その著作本などを読むと、一見歴史的に正しいように思われますが、あの大本尊といわれるものや、生御影などは偽物なのでしょうか。次にかの玉井礼一郎さんは今、どうしているのでしょうか。いわゆる富士派といわれるところから派生した数々の小団体は、今どうしているのか教えてほしいのです。そのことを知るには、どんな書物を読めばいいのでしょうか。たいへん学術的なコーナーにつまらない質問をすることをお許し下さい。

2599犀角独歩:2005/08/21(日) 06:59:45

> 2598

玉井さんのことは、ここではあまり話題にあったことがないと記憶しますが、小野手寺さんのことについては、以下のスレで語り合いました。

富士山本門寺について教えて下さい
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014699089/l100

まずは、上記をお読みなってみては如何でしょうか。

2600犀角独歩:2005/08/21(日) 07:29:25

【2599の訂正】

誤)小野手寺さん
正)小野寺さん

本年、8月9日、たいそうな表明があったそうですが、わたしは風聞です。
詳しい方がいらっしゃればアップしてください。

2601栴檀:2005/08/22(月) 00:26:12
犀角独歩さん、こんばんは。
ひとつだけ気になったので書き込みます。

>上杉師にしてもしっかりと日蓮本仏を主張しています。
ここですけれど、ここはこの前直にお話いたしましたっけ?
私は上杉師が言っているのは「日蓮教」だという解釈をしたのですが。
分かり易く言うと、現在明らかになっている歴史上のブッダの思想と
大聖人の教えの間には飛躍(もしかすると断絶?)があるということです。
「久遠の釈尊」を本尊とするということは少なくともブッダの教えではない。
それは大聖人の教えである=「日蓮教」という事で、日蓮本仏論とは違うのではないでしょうか?

2602犀角独歩:2005/08/22(月) 01:34:13

栴檀さん、どうも。

上杉師の日蓮本仏の話というのは、先の小樽問答の討議の時に丸山さんが、上杉師に「あなたは日蓮本仏論だから」と“やった”ところからの話です。
あのときは栴檀さんはいらしておりませんでしたっけ?
終了後、わたしは上杉師に「日蓮本仏論ということなのですか?」とお尋ねしたわけです。すると師は「まあ、日蓮本仏ということ」と、例の調子で仰っていました。
しかし、これは小野師が仰るような分類における日蓮教とは、ちょっと違っています。

北山は、要山から動いた教師を取り敢えず採るわけですから、ここに日蓮本仏論がないわけはないと思います。『五人所破抄見聞』が妙蓮寺日眼ではなかったにせよ、本来、日蓮本仏の濫觴は石山、というより、要山、保田、もしくは西北本門寺と見たほうが歴史的に正しいのではないでしょうか。その点を上杉師が押さえていないわけはないと思いますが。
その歴史的事実から、片山師の北山から本間師は、重須教学の北山という祖道の恢復を考えていらっしゃるでしょうし、そのお一人である上杉師が、その考えを懐いていることは何ら不思議ではないと思いますが。

2603彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/22(月) 07:43:40

村松友視著『永仁の壺』(2004年、新潮社)を読みました。
内容については、下記HPの書評などにまかせるとして、

http://www.book-navi.com/book/syoseki/einin.html

ちょっと気が付いたことがあります。いまさらながらですが、“永仁”は鎌倉時代の年号で永仁6(1298)年には日興上人が「弟子分帳」を著わされています。問題は“永仁”の読み方です。この本に“えいにん”と振り仮名がふってありました。わたしは今まで“えいじん”と思っていましたので間違えていたのかと思いました。ところがインターネットで年号を調べてみると、両方の表記があるのです。

“えいにん”とあるもの
http://www.pastelnet.or.jp/users/eikoh/era/kamakura.htm
http://www.shouzando.com/nengou.htm
http://kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/nengou50.html
http://mail.ring.gr.jp/skk/200503/msg00003.html
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/table/table3.htm
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/osaru/nengou.htm

“えいじん”とあるもの
http://www.hello.ne.jp/hp/nengou2.html
http://www.gakkai.net/nengou.html
http://www.je1osx.com/page694.html

しかしながら、広辞苑(第五版)では、“えいじん”では出てこず、“えいにん”の項に、「鎌倉後期、伏見・後伏見天皇朝の年号、(1293.8.5〜1299.4.25)」とあります。またパソコンのワープロソフトであるワードや一太郎では、“えいにん”であれば“永仁”と変換できますが、“えいじん”では出てきません。手元の堀日亨師の『身延離山史』(昭和12年、大日蓮社、75頁)には“えいにん”とルビがふってあります。どうも“えいじん”は分が悪いようです。

とりあえず今後私は“えいにん”を使おうと思っている(あえて“えいじん”を使う理由がない)のですが、どなたか真相をご存じの方がおられましたら、ご教示願います。

2604犀角独歩:2005/08/22(月) 10:03:00

重ねて栴檀さん

来週の月曜日はいらっしゃらないのでしたっけ?
上杉師にお会いしますので、日蓮教と日蓮本仏の件、お尋ねしておきます。
なかなか内容の濃い、集まりになりそうです。

先の投稿では、上杉師が日蓮教ではないとも読める書き方になってしまいましたが、そんなことはありませんね。日蓮教で、そして、日蓮本仏論者なのだという意味です。ただし、学会を含む石山系のそれとはもちろん、違うものです。

2605パンナコッタ:2005/08/22(月) 12:48:03
彰往考来さん、
 http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi9.html
ここでは菅原在嗣が天災により「晋書」から出典し勧申したとなってますね。
当時、引用文の明確な”読み”があったんでしょうか?
はっきりとよく分からないのですが、すくなくとも今の読みに確定されたのは
明治の「御諡号年号読例」だと思うのですが。

2606栴檀:2005/08/22(月) 13:42:35
犀角独歩さん、こんにちは。

来週は行きますよ!
是非お会いしましょう。

2607彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/22(月) 20:15:08

>2605パンナコッタさん

近代デジタルライブラリーで「御諡号年号読例」を見ました。
http://kindai.ndl.go.jp/img/

確かにここでは“えいにん”とありますね。

2608海野勇:2005/08/22(月) 21:24:42
>>2596 顕正居士さん
>>2597 犀角独歩さん
ご教示ありがとうございました。

以前、日蓮宗文書布教部編『日蓮宗信徒手帳』という本を購入し、
我が宗はてっきり釈尊本仏論の一致派とばかり思っておりました。
同書では日蓮本仏論や勝劣派は、「創価学会の誤った教え」とし
してのみ紹介されています。

最近、わが家がお世話になっているお寺が日像門流には、勝劣派の
法華宗○○派がいくつもあること、日蓮宗内には日興門流さえある
と知り、教義のほうはいったいどうなっているのかと思い、質問さ
せていただきました。

一致派への改宗の強要がおこなわれていないのであれば、もしか
すると、我が家のお寺の教義も勝劣派なのかもしれません。

ご回答ありがとうございました。

2609海野勇:2005/08/22(月) 21:26:24
訂正:わが家がお世話になっているお寺が属する日像門流には
                   。。。

2610犀角独歩:2005/08/23(火) 00:41:35

海野勇さん

像門ですか。朗師直、帝都弘教の仁、菩薩号、日蓮大菩薩下賜の仁ですね。
上代、朗門と興門は近しい関係でしたでしょうね。
朗門・池上本門寺。通常、本門寺とは勝本門劣迹門ではじめて成り立つ寺号ですね。
執行師のご研究でも明確になったとおり、この2門は派祖御存命中からその後しばらくは、教学も相伝も会通があったのでしょうね。

2611今昔:2005/08/26(金) 13:26:36
すみません。日寛上人のご誕生日について、教えてください。

8月7日と8月8日と、2通りの説があるのですが、どちらが
正しいのでしょうか。よろしくお願いいたします。(゚゚)(。。)

2612顕正居士:2005/08/26(金) 22:27:05
大石寺48世日量の日寛伝および富士年表によると8月8日です。

2613今昔:2005/08/27(土) 05:00:29
顕正居士さん こんにちは。

どういうわけか、ウィキペディアでは八月七日になっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%AF%9B

四十八世日量上人が著された日寛上人伝では、
「寛文五(乙巳覆燈火)八月八日卯の上の刻の誕生なり。」
となってますね。

ウィキペディアの情報源は何でしょうか。単なる記述ミスなのか。
どうも、情報ありがとうございました。

2614栴檀:2005/08/28(日) 17:48:59
日寛上人はお蕎麦がお好きだったのですよね。
僕は日蓮宗ですが、蕎麦が好きなので・・・(あ、脱線しました)

2615犀角独歩:2005/09/03(土) 11:53:52

未確認事項なので、素朴な疑問に記します。
かつて石山には正本堂があったのですが、これは解体されました。最近、親鸞会では正本堂という明賞の建物が建ったと聞いたのですが、これは本当でしょうか。また、石山のそれは「しょうほんどう」と読みましたが、親鸞会のほうは「せいほんどう」だと聞きました。

ここら辺の真偽をご存知の方、お教えください。

2616パンナコッタ:2005/09/03(土) 12:38:21
独歩さん、
どうやら”せいほんどう”のようですね。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%9C%AC%E5%A0%82%28%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E4%BC%9A%29
 http://www.shinrankai.or.jp/purpose/photo.htm

2617犀角独歩:2005/09/03(土) 13:04:07

パンナコッタさん、有り難うございます。

2618藤川一郎:2005/09/03(土) 13:51:07
ちなみに親鸞会発行の顕正新聞は「けんせいしんぶん」か「けんしょうしんぶん」か?
なんちゃってね。恐らく「けんしょうしんぶん」でしょうが・・・。

2619パンナコッタ:2005/09/03(土) 19:56:16
藤川一郎さん、
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E6%AD%A3%E6%96%B0%E8%81%9E

名前がダブっていますね。 ちなみに親鸞会の主張する”相対の幸福と絶対の幸福”とは
どこかで聞いたことのあるような主張ですね。

2620銭函:2005/09/15(木) 00:55:05
いつも楽しく拝見させて戴いております。
久しぶりに投稿させて戴きます。
いきなり思った事を書いてすみません。
早速ですが小学生と女教師のドラマでふと考えさせらてた事をご教示戴けないものかと思い、書き込みさせて戴きます。
それは
「何故人は人を殺してはいけないのか。」です。
ドラマではほとんどの大人は応えられない主旨の事を女教師が言っていました。
法律で決まっているから、家族が悲しむから、動物はいいのか、等(人間も動物ですが。)あくまでTVで「はて?」と疑問に
・・・といいますか仏法的にはどうなんでしょうか。

2621古池:2005/09/19(月) 07:29:32

独歩さん

再度教えて下さい
プログで記されている「日蓮が立正安国論を執筆したという岩本実相寺を見学。出発に先立ち上杉清文師から故高木豊師の、日蓮は岩本実相寺で一切経を閲覧しておらず、また、ここで立正安国論も執筆していなかったという説」について
できましたら、もう少し解説していただければありがたいです。また実相寺は現在でも一見する価値があるでしょうか。
あわせまして、本照寺の神四郎のお墓についても一見する価値があるでしょうか。可能な範囲で教えていただければと存じます。

2622彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/19(月) 12:47:47

>2621 古池さん

横レス失礼します。

高木氏は、『日蓮とその門弟』(昭和40年初版、弘文堂)の193頁
「熱原法難の構造」でその点について論考されています。要旨を抜粋しますと

(1)「御伝土代」や「日興上人御伝草案」も岩本入蔵について記していない
(2)日蓮の遺文に岩本入蔵にふれたものはない。ただ一切経・諸経を勘えたとい
   う記事のみである
(3)「法華本門宗要抄」(日蓮没後七、八十年後の成立といわれる)にはじめて
   「容駿河国岩本経蔵」との記述がみられる

というものです。さらに氏は、正嘉〜正元(1257〜1260)のころ日蓮は岩本に入蔵
し、このとき日興が入門したとの従来の説について師弟関係成立時期が動くことに
なることを指摘しています。

上記資料では鶴岡八幡宮の件は出てきませんので、氏は他の資料でも論述されてい
るのでしょうが、実に昭和40年の指摘であることは驚きです。
蓮祖の岩本実相寺入蔵は偽書である「法華本門宗要抄」あたりの記述から作成された
後世の物語にすぎないというところでしょうか。

彰往考来

2623彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/19(月) 13:17:02

>2622 自己レスです。

2622で鶴岡八幡宮の件とありますが、説明不足でしたので補足します。

本件で犀角独歩さんからお聞きしたところでは高木氏の説の中で、当時鶴岡八幡宮に一切経があったので岩本までいく必要がなかった、というのがあるということでした。2622で紹介した高木氏の著作には鶴岡八幡宮の件はありませんので、他の資料にでも記載されているのでしょう。

彰往考来

2624古池:2005/09/19(月) 14:38:04

彰往考来さん

すばらしい情報大変ありがとうございました。

>正嘉〜正元(1257〜1260)のころ日蓮は岩本に入蔵し、このとき日興が入門したとの従来の説について師弟関係成立時期が動くことになることを指摘しています。

鶴岡八幡宮で閲覧したのですか。
そうしますと、日興の入門時期が見直されてくるのですね。

2625彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/19(月) 15:50:31

>2624鶴岡八幡宮で閲覧した

私は断定できないと考えます。残念ながら、私自身高木氏の説も鶴岡八幡宮の件は文献・資料で確認できていませんし、当時鶴岡八幡宮に一切経があったとして、はたして蓮祖が閲覧できたでしょうか?時の幕府に対抗する行為に幕府お膝元の鶴岡八幡宮が手助けするでしょうか?蓮祖は鶴岡八幡宮で閲覧できず、岩本に向われたかもしれませんし、記録がないので不明なのです。“鶴岡八幡宮に一切経があったので岩本まで行く必要がなくここで閲覧した”というのはひとつの説にすぎないと思います。

彰往考来

2626彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/19(月) 16:12:11

>2621本照寺の神四郎のお墓についても一見する価値があるでしょうか

横レス失礼。犀角独歩さんが、実際に見ておられますので追って投稿されるでしょうが、本照寺の由緒関連資料を投稿しておきます。

堀日亨師の『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会)の108頁に本照寺の由緒が紹介されています。「石廟とは、二尺あまりの五輪にて、その下に一尺の角石あり、またその下に大なる角石あれども、新古別々にして、特に神四郎の碑と認むべき微証なし」とあります。師は本照寺の由緒を“誤謬伝説”として紹介していまして、他にも種々論考されています。「史眼なき盲輩には、これすら信ぜらるることありしか」(同書、109頁)と手厳しいです。
本照寺関連のものは後世のものでしょう。

2627犀角独歩:2005/09/19(月) 19:08:43

小池さん

岩本実相寺の件は、故高木師の御論考をお読みになることをお勧めします。

当時の日蓮の事績をどこまで追えるのかは限界がありますが、「一切経閲覧」を書き残し、富士に赴いていれば、岩本の可能性は残り、鎌倉に寓居したままであれば、八幡宮の可能性は捨てられないということでし執筆時点、日蓮がどこに居り・どこに一切経が蔵されていたかという事実関係をつき合わせたほうが、その論及は正解に近いとわたしには思えますが、どうでしょうか。

また、仰るとおり、日興の入室は当然のことながら、岩本実相寺閲覧とは関連付けられないでしょう。日興は四十九院の供奉僧ですから、むしろ、同寺で出会った考えるほうが自然であるとわたしは考えています。ただし、この件に確証はありません。

鶴岡八幡宮での閲覧に関しては、

> 当時鶴岡八幡宮に一切経があったとして、はたして蓮祖が閲覧できたでしょうか?時の幕府に対抗する行為

という彰往考来のお考えには、わたしは納得しません。なぜならば、『立正安国論』を記述した時点で、幕府に対抗する形になどなっていないからです。単なる閲覧でしょう。執筆以前の段階、閲覧の時点で「対抗」する形など採っていないわけですし、第一、執筆、上奏を、わたしは個人的に「対抗」とは捉えません。日蓮が主張したのは京都の前例に基づいて念仏停止を求めたもので、この時点では対抗などという意図はなかったと考えるからです。むしろ幕府とともに立正安国を目指すというのが日蓮の意図であったのではないでしょうか。

本照寺は、わたし参詣されてみるべきだと思いますよ。
日亨は批判的な意見を述べていますが、その地が熱原(厚保原、加島)であることは動きませんし、種々発見があって興味深い地であるからです。先にも書きましたが大石寺御影堂裏手にある熱原三烈士碑の胡散臭さを棚上げにして日亨はよく言ったものだというのがわたしの意見です。日亨はそれでも熱原法難・戒壇本尊、出世の本懐を関連付けるような短絡はしなかった節操は示したのは、まだしもの救いといったところでしょうか。

わたしは別段、田中智学を顕彰する気はありませんが、少なくとも戦前の人々は、この地で神四郎の徳を仰ぎ、その法難に涙したのは事実です。その地を見ることは意義があります。

熱原(加島)という場所を訪ね、身延からの距離感覚で実感してみるのは、なかなか味わいがあります。もちろん、大石寺は論外です。なぜならば、弘安2年の時点で大石寺など、まだ存在していないからです。

2628犀角独歩:2005/09/20(火) 15:15:52

本日は朝刊を開くなり眠気が吹っ飛びました。

この六カ国協議の北朝鮮を、彰往考来さんは、どう読みましたか。
富士門と直接関係があるかどうか、まあ、他国侵略の筆頭にあげられている北朝鮮の話題ということで関連づけるとして、核問題に鋭いご投稿をされてきた彰往考来さんのご賢察を窺いたいと思いました。軽水炉の要求、さてこれはどう展開するのでしょうか。

あと、これは質問ではありませんが、2018年に、月面有人探査が再開という記事にも目が覚めました。そういえば、宇宙エレベーターは、どうなっているのでしょうか。ご存じの方はいらっしゃいますか。

2629彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/20(火) 17:35:28

>2628 犀角独歩さん

この板とは直接関係ないのですが、私は核問題というより拉致問題に興味を持っているという立場です。私事ですが、私は北朝鮮による拉致被害者である蓮池薫さんたちと同じ学年ですし大学の卒業研究は淀号ハイジャック犯の出身母校で実施しました。そこではあのグループの人たちも学生運動に取り組んでいたのを覚えています。そしてその妻たちが新たな拉致を企ててしまったといった歴史の流れの中で他人事とは思えないわけです。

拉致問題から言わせていただければ、今回の合意で解決への道のりが遠くなってしまったように思います。辺(ぴょん)さんがテレビのインタビューに答えていましたが、今回の合意のため、もし日本国政府と北朝鮮の協議がうまくいかなかった場合、経済制裁にふみきることは六カ国合意の枠組みを日本が壊すことになるため極めて発動し難くなってしまったわけです。拉致問題が解決して、国交正常化になればよいのですが、期待はしていません。
私は核の平和利用などないという立場ですから、北に将来といえど軽水炉など不要と考えます。エネルギー問題は核とは別です。あたかも強盗にも包丁を持つ権利があると主張しているようなものです。北のような危険な国家にもたせるものではありません。まして韓国が電力の供与を申し入れしているのに軽水炉が必要などとは別の目的がありありです。

今回の協議で北は新たなカードをたくさん入手しました。なにか報道を聞いていますと北の核放棄の見返りにエネルギー支援などを実施するように聞こえますが、そうではありません。すでに北は次回の協議での軽水炉の扱いについて不満をいっています。エネルギー支援、軽水炉、拉致問題の一方的解決(現状で終わり)、日朝国交正常化、など矢つぎ早にカードを切ってきて、そのあげくに核を放棄するつもりなのでしょう。ひょっとしたらその時、もらう物だけもらって、居直るかもしれません。それで日本国民として納得できますか?
蓮池透さんの『奪還』(2003年、新潮社)に記載されていますが、拉致問題で社会党とならんで極めて不誠実な対応をしたのが公明党です。浜四津氏など反省しているなら、もっと誠実な対応をすべきでしょうが何を今更という思いです。

2630犀角独歩:2005/10/18(火) 17:50:26

既にブログにも記しましたが、今回の福神主催の小松邦彰師の遺文講義で『御衣布給候御返事』の

「御衣布給候了。この御ぬのは一切の御ぬのにて候。又、十二いろはたふやかに候…」(一紙完 / 京都本法寺蔵 / 定 P2873 / 平成新修日蓮聖人遺文集 P188)

という一節があありました。

この12色の衣布というのはいったい、何を指すのでしょうか。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50123759.html

どうも、わたしが合点がいきません。
ちなみに山上ゝ泉師著・日蓮聖人遺文全集講義第29巻『日蓮聖人遺文の文章法研究』の第6編 日蓮聖人遺文の特殊的研究、第1章 御遺文に現れたる日蓮聖人の衣食住、第1節 日蓮聖人の御召料(大林閣印刷 昭和7年5月1日発行 P297)を見てみました。

ここで列挙されるところを挙げれば、

白小袖、厚綿の白小袖、小袖、厚綿の小袖、綿、紙衣、白かたびら、かたびら、明衣、細美帷、太布帷子、単衣、単衣の布、薄墨染の衣、薄墨染の袈裟、御衣、御衣の布、衣

とあり、ここには12色の衣の記載はありませんでした。『御衣布給候御返事』は定本の増補版から始めて載った(小松師)ということであったので、昭和7年の段階ではまだ知られていなかったのでしょうか。

それにしても、日蓮と12色の御衣布というのは、まるで接点がないように思え、不思議に感じます。なにか、ご存じの方がいらっしゃったら、ご教示ください。

上記から敢えて脱線します。この章は衣のあと、食・住と続きます。
ちょっと、ご紹介します。

まず、酒についてです。

千日、聖人、清酒、甘酒、古酒、酒

わたしは浅学で、「千日」が酒を示すことを迂闊にも落としていました。銘酒を言うとのことでした。

また、聖人は、わたし自身は石山から習った「すみざけ」という読みで覚えていたのですが、山上師は、「ひじり」とルビを振ります。また、賢人を挙げていないので、真跡で追ってみたところ、たしかに賢人を濁り酒に充てる用例がなかったのは意外でした。

それにしても、真跡を遺さないながら

「賢人、聖人も此事はのがれず。ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経ととなへ給へ」
とは、三国志の曹操の禁酒令に由来する酒を意味する隠語の賢人(濁酒)・聖人(清酒)にかけた文なのであろうと思います。この御書は、このあとに「これあに自受法楽にあらずや」と続きます。真跡遺文で「自受法楽」の用法は見られず、従って、真筆かどうかは疑わしいのですが、明文である点ばかりは、動かないと思えました。

自分自身、まことに勉強不足であると思ったのは「こめ」についてです。

八木、[鹿/章]牙(しょうが)、能米、白米、焼米、生米、白米のこめ俵

この内、八木は写本に見られ、真跡にはなく、[鹿/章]牙はいずれにも見出せませんでした。([鹿/章]は[(鏖-金)/章]、鏖の金の部分が章となる漢字です)

また、最後の「白米のこめ俵」は「四條殿御返事、其他」となっていますが、探し方が悪いのか、どうも該当の文に当たれませんでした。

ただ、ここの説明は興味深いので、紹介します。

「『白米のこめ俵』は二重言葉ではない。本来『こめ』は小実(こみ)で、専ら米に限って用ゐるようになつたのは後世のことである。上古の語ではない。古代では穀類の実の総称なのであつたので、こゝに聖人は正しく『白米(しらよね)の小実(こみ)』と仰せられたのである」(P302)

山上師の、この本は実に良書で、勉強になるのですが、惜しむらくは御書に関して、真・偽・疑の区別がなく、勢い、その用法を鎌倉その時代に収斂した結果となっていることです。継承者がどなたなのか、あるいはいないのか、いないのであれば、継承者を望みたい研究書です。

2631パンナコッタ:2005/10/18(火) 23:00:46
独歩さん、
ブログにある薩云分陀利は蓮祖が略していたということでしょうか?
薩云芬陀利法華経などとも書かれますね。 六訳三存の失われているものなので、
断定は出来ないが‘曇’のほうがより近いのではないか、ということでしょうか。

2632犀角独歩:2005/10/19(水) 00:56:37

パンナコッタさん、

ブログのご高覧、有り難うございます。

> 薩云分陀利

これは『寺泊御書』の「正法華・添品法華・法華三昧・薩云分陀利(さつうんふんだり)等の如し」という一節の講義です。

当時の「薩云分陀利」が何を指すのか、実はわからないとのことですが、音からして、これは明らかに Saddharmapundarika の音写です。‘薩’が sat であり、‘分陀利’が pundarika であることはわかるわけですが、その真ん中の‘云’が問題なわけです。これは、どう考えても、dharma に違いありません。たとえば、『御義口伝』では「薩達磨芬陀梨伽蘇多覧」でした。dharma は‘達磨’です。つまり、D音であるわけです。ところが、これを‘云’(うん)というのは変ではないのかというのが、松山師の疑問です。しかし、‘云’が曇を略した文字であれば、D音であるから dharma に近いということです。

日蓮は、以前も独学徒さんに示しましたが、略字をよく使いました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/nitiren_sinseki_shyohsho.jpg
(アドレスバーにコピペ)

このような一環で、‘曇’=[日/雨/云]の一番、下の部分を略字として使ったのにもかかわらず、これを理解せず、‘曇’(どん)とすべきところを‘云’(うん)とルビまで振ってしまったのではないのかということです。

つまり、ここは「薩曇分陀利」としなければならなかったのではないのかというのが松山師の主張です。わたしは、これが正しいと思うのは、たとえば、以下のサイトでは、そのものズバリの漢訳仏典名があるからです。

薩曇分陀利經
http://www.cbeta.org/result/T09/T09n0265.htm

2633パンナコッタ:2005/10/19(水) 11:33:58
独歩さん、
なるほど”音”と、漢訳名であることからですね。ありがとうございます。

ところでここの該当部分は文意からすれば蓮祖の時代は、法華三昧も含め弟子共も読める環境にあった
かの如くなのですが、本当にあったんでしょうかねぇ?
もしこの時代にすでに三欠であれば、佐渡を前に蓮祖は大きなハッタリをかましたことになりますよねぇ。

2634犀角独歩:2005/10/19(水) 14:33:57

パンナコッタさん

> …蓮祖の時代…法華三昧も含め弟子共も読める環境
> …佐渡を前に蓮祖は大きなハッタリをかました

これはまた、パンチの効いた発言ですね。
たしかに、完訳現存は、妙法華、正法華、添品法華は、ともかくとして、仏説法華三昧經、薩曇分陀利經の2經を見たのかという点では疑問があります。

先に申し上げますが、薩曇分陀利經については、法華経の成立に懸け、記述されていました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C

薩曇を「薩云」という慣例がなければ、この点は、御書編纂時の瑕疵と云うことなのでしょう。最初、日蓮宗の段階で間違えば、それをただ転用して、自教団の御書にする石山も、学会も、そのまま、間違える。孫引きの怖さというか、ある面、情けない話だと思った次第です。

ただ、薩曇分陀利經の名は薩芬陀利經ともあります。しかし、‘云’を‘曇’に略字に充てたことは明らかだと思えます。

参)((1)法華三昧経六巻 魏 彊梁接訳 (2)薩芬陀利経六巻 西晋 法護三蔵訳 (3)正法華経十巻 同上撰述 (4)方等法華経五巻 東晋 支道根訳 (5)妙法蓮華経七巻 姚秦 鳩摩羅什訳 (6)添品妙法蓮華経七巻 闍那崛多 達磨笈多共訳)

さて、以上の前提で、仰るように、日蓮の時代に、他三訳、特に法華三昧經、薩曇分陀利經があったかどうか、また、みられたかどうか、たしかに大いに疑問はありますが、一部なりとも現存していたのではないのかという思いは多少残ります。これを日蓮の弟子が、となると、しかし、どうでしょうか。

それでも、阿闍梨号を比叡山から授けられているとすれば、また、天台・真言融合の時代に入っていますから、天台宗、真言宗に係る寺院の、弟子の居住する寺院にあったことを指すのか…、この考証はまるでしていません。

パンナコッタさんのご呈示から外れますが、該当の前文、

「又天竺の法華経には印・真言有れども訳者之を略して、羅什は妙法経と名づけ、印・真言を加へて善無畏は大日経と名づくるか」

という段には、わたしは少なからず、吃驚しました。
日蓮派に本真言宗の批判をこの頃より始めるわけですが、少なくとも、この一節は印・真言、善無畏、大日経を、むしろ肯定的に捉えているかの如くです。

2635犀角独歩:2005/10/19(水) 14:51:02

【2634の訂正】

誤)日蓮派に本真言宗の批判
正)日蓮は日本真言宗の批判

2636パンナコッタ:2005/10/19(水) 16:43:18
独歩さん、
薩云分陀利経は、竺法護が正法華経を訳す21年前に書かれたと云われていますね。
蓮祖時代にあるとすれば比叡山でしょうが、信長の焼き討ちで焼失なのかな。
ならば、書写山あたりに別の写本ぐらい有ってもおかしくはないですよね。現存していれば
当然研究対象になっているでしょうが、ない以上歯がゆい所ですね。

十二いろ について、参考として、
『上代では衣服のことを「きぬ」「ころも」「そ」と言ったが、平安時代には「きぬ」が一般的な
言い方となり、「ころも」は僧衣をさすようになり、衣服の意としては歌語に用いられるに過ぎなかった。
「そ」は「御衣」という複合の形で用いられ、古くは清音の「みそ」、のち「みぞ」「おんぞ」と濁音化する』
◆たぶやか→(形動ナリ)十分にあるさま。あまるほどたっぷり。
           旺文社 古語辞典より引用

形容詞として受け取れなくもないですが、何なのでしょうね。

2637犀角独歩:2005/10/19(水) 17:08:59

パンナコッタさん

> 薩云分陀利経

お、パンナコッタさん「云」を指示するということですか。

衣に関しては、日蓮の「御召料」としては、衣、袈裟、帷子、小袖というところでしょうか。衣は薄墨色であったろうと思います。

布色は官位その他を表すでしょうから、やたらの色は使えないはずです。意味は案外、深いと思えます。

「たぶやか」はたっぷり十分ですか。流人は、やはり、不似合いな表現ですね。けれど、付き人を許され、12色の十分な衣(きぬ)の佐渡の生活、違う景色が見えなくもありません。何か確たる資料が欲しいものです。

2638パンナコッタ:2005/10/19(水) 19:42:10
コピペしただけなので、他意はありません。薩曇分陀利経ですね。失礼しました。 <(_ _)>

平安期の襲では、色の組み合わせで春夏秋冬様々な呼び方がされたようです。
夏 萌葱+灰色で葵  朽葉+紅で百合
秋 縹+灰色で月草       などなど・・・ 
比喩表現であったとすれば、意外と十二色とは限らないのではないでしょうか。

ただ、割合贅沢な供養品であることは間違いないと思います。

2639犀角独歩:2005/10/19(水) 20:04:00

パンナコッタさん、どうも。

ネットで、12色で検索していたら、以下のようなページがありました。

天皇にも関わることなので、藤川さんが詳しいかも知れません。
関係あったら、みっけものというところでしょうか。

http://www.kariginu.jp/kikata/5-1.htm

2640パンナコッタ:2005/10/20(木) 12:32:54
直接ではないのですが十二いろの参考として『徒然草』 第二百十六段を、

『最明寺入道、鶴岡の社参の次に、足利左馬入道の許へ、先づ使いを遣わして、立ち入られたりけるに、
あるじまうけせられたりける様、一獻にうちあはび、二獻にえび、三獻にかいもちひにてやみぬ。その座には
亭主夫婦、隆辨僧正、あるじ方の人にて坐せられけり。さて「年毎に賜はる足利の染物、心もとなく候」と
申されければ、「用意しさぶらふ」とて、色々のそめ物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、
後につかはされけり。
 その時見たる人の、近くまで侍りしが語り侍りしなり』

鎌倉でそこそこの立場の人たちの間には、色つきの布は流通していたみたいですね。

2641犀角独歩:2005/10/20(木) 15:59:35

2640 名前:パンナコッタさん

これはなかなか、興味深い。
有り難うございます。お気付きの点がありましたら、是非、また、ご紹介ください。

2642パンナコッタ:2005/10/21(金) 19:17:56
独歩さん、
注法華経には、薩曇分陀利経 で引用されていました。
 http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/tyu_syu.htm

法華三昧経はないようですね。

2643犀角独歩:2005/10/21(金) 21:03:24

パンナコッタさん、さすが。
ともかく、「薩曇分陀利」ということですね。

2645独学徒:2005/11/03(木) 22:38:22

お薦めスレッドにて、池田令道師の「富士門流の信仰と化儀」を紹介させていただきましたが、池田師は同著の中で「二箇相承の考察」http://home.att.ne.jp/blue/houmon/ikeda/kegi02.htm#《「二箇相承」の考察》と題して、二箇相承に関する師の持論を展開されています。

池田師は要約すると、西山本門寺の日興筆「宗祖御遷化記録」の「弟子六人事 不次第」と、「二箇相承」は矛盾するとして二箇相承を批判しています。
そして師は、「宗祖御遷化記録」の内容から「六人同格」であることを主張されています。

「二箇相承」の真偽にについては「偽撰」ということで同意しますが、「六人同格」については、今ひとつ疑問が残ります。

「宗祖御遷化記録」には、紙と紙の継ぎ目に本弟子四人の署名・花押(日向・日頂は他行)がありますが、それは以下のようになっています。

日昭・花押  日朗・花押  日興・花押  他行  他行  日持・花押 

(興風談所「日興上人全集」112頁 ※但し御筆写真の同479頁では、『弁闍梨・花押  大闍梨・花押  白蓮闍梨・花押  他行・佐土公  他行・伊与公 蓮華闍梨・花押』となっています。)

もし「六人同格」であるならば、「日興・花押」と「日持・花押」の間に、「他行」を二人分入れずに以下のようにするのが自然だと思われます。

日昭・花押  日朗・花押  日興・花押  日持・花押  他行  他行  

しかし「他行」でその場にいなかった、日向・日頂の分を間に入れ、日持が一番下に署名・花押をなしたのは、年齢や入門順もさることながら、そこには厳格な格付けがあったような感じを受けます。

そのような意味で私は、「六人同格」は今一つすっきりしないと感じます。

2647ラスカル:2005/12/15(木) 08:49:34
犀角独歩さん、308を読むと、聖人手本の鎌倉時代と平和憲法後の折伏化導の仕方は変わるのでしょうか。変わらなければならないのでしょうか。教義と漫陀羅授与を修学した僧を見本として、在家は自他共に唱題をし力あれば一句であっても語り他者を折伏すると同時に自分を折伏して自分の心の師となって仏国土をつくりあげる。漫陀羅‐法華経行者‐皆成仏道のあり方をどのように見ますか。

2648犀角独歩:2005/12/15(木) 09:30:01

ラスカルさん

308とは、このスレの2002/08/19のわたしの投稿のことでしょうか。
旧いところからお読みいただき恐縮です。

当然、時代によって、全く異なると思います。もっと言えば、異ならざるを得ないでしょう。

なお、わたしは「折伏」という点については、今成師説を採り、種々述べてきました。ご参考にしていただければと思います。

> 漫陀羅

漫荼羅については、他スレで述べてきたとおりです。

> 法華経行者

涅槃経を離れ、純一法華に拠ること、また、法華のなかで差別に抵触する部分は排除すること、神話を排除すること、そして、残る法華精神には拠るのは可という立場です。

ただし、「行者」という点は重要で、これは加持祈祷を為す密教的な意味合いを持つものでしょう。この点は在家のあずかり知らない点です。

> 皆成仏道

四弘誓願に通じる点で、皆、ブッダの教えに基づき、ブッダを仰ぐ日蓮に続くという点では異論はありません。

ただ、仏教でも、仏法でもなく、仏道というとき、ここに道教の影響が見え隠れもし、日蓮というより道元的な着想とも感じます。細かい点ですが。

わたしがここで投稿をし続けるのも、いわば、皆成仏道を考えてのことです。

2649ラスカル:2005/12/15(木) 12:47:52
ざぁーと急ぎ目を通してるだけで全項読んでるわけではありません。■純一法華とは注法華経をみれば少しは解析できるのでしょうか。それとも、曼陀羅正意に垣間見えるでしょうか。■密教の関わりには否定的(受持者守護のみ)で布教でわかりやすく弘めるため唱題成仏に特化していくのが日蓮仏法の真意だと考えたいからです。諫暁と広宣流布からなのか雨乞いの祈祷や戒壇堂(東大寺、延暦寺に対して本門寺を建てる)の事で加持祈祷の事を考えているのでしょうか。■日厳尼御前御返事・叶ひ叶はぬは御信心により候うべし全く日蓮のとがにあらず(加持祈祷や仏像主義、真言や華厳に陥らない)、妙法曼陀羅供養事・成仏得道の導師なり(教法本尊)など末法・無戒の世で法華第一を宣揚する基軸(私は妙の字よりも蓮の字の説得力を先に考えたいと思っています。)があったと思います。こういう思いは素人さんのサイトで『本尊(曼陀羅)は文字でなくてはならなかった』の言で仏像では教義を自分で考えなくなるのではと思いました。師弟相承があれば大丈夫と言う事でも無いのでは。と断じます。何か「断じます」では偉そうでしょうか。

2650ラスカル:2005/12/23(金) 17:15:32
私みたいのが書くと混乱に落としかねないのですが見てるだけでストレス溜まりますから素朴な疑問に書きます。■やっぱり私には漫陀羅正意しかないわけです(問題提起)■聖徳太子◆薬師寺◆伝教大師(聖徳太子の理想を引き継ぐと誓ったとか)◆台密(あらゆる生命が仏に成る)其他◆日蓮聖人(振舞表現or成句表現)■漫陀羅は法華経や天台密教を鑑みて表現された(晩年に空海の書を所望したとか)■戒壇堂は僧己心の授戒の場で漫陀羅を授与する所ではないから後回しなのでしょうか。信心の継承があれば建物は問題では無いのか。広宣(漫陀羅という修行方法を造り出して広め宣揚する事か)流布完成の時を待つべきなのか。■山折哲雄氏、渡邊寶陽氏が対談・宗教再考・第2回・日蓮の思想と社会性・上 で、由比ヶ浜で斬首されるべきは日蓮を殺そうとした者ではないか云々。に対して、三証で明らかになる事を示しなさい。という意味で言われた言葉である事を認識しなければならない云々をどのように読みますか。(弱冠文意が違うかも)

2651長安:2006/01/02(月) 13:51:01
ちょっと教えてください。

奉安堂には樒が飾られていないそうですが、戒壇の大御本尊には、
毎日のお水も献上されてないのでしょうか。あと、お供え物とかはどうですか?
元旦には鏡餅などがご供養されますが、そういった品々も供えられないのでしょうか?
よろしくお願いします。

2652藤川一郎:2006/01/04(水) 13:39:14
>>2651
結論のみにて、失礼します。
全て、貴見のとおりです。
奉安堂は、御内拝(御開扉)の時のみ、お開けするものです。
当然、毎日のお水などはあり得ません。

なお、客殿遙拝所にある経机の樒等が、戒壇の御本尊への御給仕となります。
以上。

2653長安:2006/01/05(木) 12:17:47
藤川一郎様
さっそくのお返事ありがとうございます。
たいへんよくわかりました。

2654問答迷人:2006/02/22(水) 16:59:03

昨年12月に日蓮正宗第68世日如上人御座替り式が執り行われましたが、66世日達上人が67世日顕上人に渡さなかったとのことで問題になっていた相承箱は、今、どうなっているのでしょうか。どなたかご存知の方がおられましたらお教えください。

2655れん:2006/02/24(金) 19:24:50
>2654 問答名人さん私は部外者ですから、勿論石山の“相承箱”について、全く存じあげませんから参考にはなりませんが、巷間に囁かれる如く、その中身が両巻血脈やそれに付随する相伝書ならば、堀日亨師が本因妙抄講義において「石山ニ於テモ、古イ時代ノ先師方々ハ此ノ両抄を余リ大切ニナサラナカッタラシイ」(杉谷師筆録)と述べられているように石山固有のものではなかったようなので、相承箱なるものは、後の時代に石山の“相伝”の象徴的な道具としての意味で作られたものではないでしょうか?ですから、万一相承箱が前法主から後継法主への直接授受が成立しなくとも、それが石山の言う“相承”の断絶を意味する訳ではなく、従って相承箱のありかをあれこれ気にすることはないと個人的に思います。個人的には石山の比較的古い相伝文献と思われる本尊点画伝(典拠・日蓮宗宗学章ショ目録)、四帖見聞(典拠・日有師談聞書拾遺)、妙法蓮華経色心実相境智根源口決(典拠・妙観文庫目録・完則宝蔵目録)本尊秘伝(以前この掲示板で話題になってましたね)、日目直授相承(典拠・興風叢書〔4〕63ページ)、鏡像円融御本尊口決(典拠・興風叢書〔4〕150ページ)、そして顕師の言う十二箇条(典拠・家中抄道師伝)あたりが伝承されていれば良しとすればよろしいかと思います(もっとも、これらの文献は現時点において全容は全く公開されておらず、ゆえに内容・伝来等何一つ学術的な検討・鑑定は経ていないもので、学問的には全くの無価値であり、よって単にこれらの伝承をもって正当性を主張しても、その正当性を学術的に立証することは不可能ですが)。

2656彰往考来(しょうおうこうらい):2006/02/27(月) 14:09:07

>2654 問答迷人さん

私も部外者ですし2655でれんさんがおっしゃるように相承箱など後世のものと考えますので、どこにあろうとあまり興味はないのですが、2006年(平成18年)1月18日付け『創価新報』6面の記事を抜粋して紹介しておきます。(敬称略は原文のママ)
****************************************
検証 12・12 日顕〝偽装相承〟
(前略)
日顕の相承疑惑。その核心の一つが、〝日顕の手元には相承箱がない〟ということだった。
この点に対し日顕は、憂宗護法同盟が著書『法主詐称』で糾弾した直後、「『御相承箱』は、総本山内のしかるべき場所に常時厳護申し上げてある」(平成15年7月22日付院達)、「相承箱は日達上人からお受け申し上げ頂いて、そしてしかも、それから一歩も御宝蔵から、外に出ておりません」(同年8月21日、目通り)と発言している。それが本当であるというなら、今回の〝相承〟に際して、「○○が相承箱を御宝蔵から客殿へ運んだ」という記録をなぜ残せなかったのか。日顕にとっては疑惑を払拭する絶好のチャンスだったのではないか。
さらに、相承箱については、青年僧侶改革同盟の松岡雄茂氏からも昨年、「『御相承箱』の外見を何らかの形で宗門僧侶に示せばよい」「相承箱の写真を撮り、公開するだけでもよい。なぜ阿部には、それができないのか」と糾問された。
これに対し日顕は、「(回答を)明確に拒否する」と完全に逃げてしまった。しかも、この〝遁走〟の回答を出した日が、昨年12月13日。つまり、日顕が早瀬に相承をしたという日の翌日なのだ。相承の場に箱があったのなら、松岡氏の質問に対し逃げる必要などまったくない。堂々と応じて写真でも公開すれば済んだはず。それができなかったのだから、「これにより、日顕が相承箱を所持していないことは、ほぼ確定したと言ってよい」(1月2日付、松岡氏の日顕への公開質問状)と言われるのも当たり前だ。
それにしても、日淳法主から日達法主への相承に関わり、その記録の大切さ、儀式に箱が必要なことを誰よりも感じているはずの早瀬が、いざ自分が当事者になった時には、箱もなければ、満足な記録も残せないというのだから情けない話だ。
(後略)
****************************************
要は、何処にあるかわからないというのが当時者以外の現状でしょう。同日付の『創価新報』6面では日淳法主から日達法主への相承記録を記載した『大日蓮』昭和34年12月号を紹介しています。ここには、「(昭和三十四年十一月)十六日(中略)午前一時五十分 御相承箱を守護しハイヤーにて本山向け出発 先頭車(細井日達新猊下相承箱八木師奉持、落合師)」とあります。日蓮正宗側もせめてこの程度の内容を開示すれば事足りるのではないでしょうか。もっとも仮に記録があったとしても“相承箱”などいくらでも作れる、日達上人から相承したかどうかわからないというような創価学会からの批判は予想されますから、それであれば無視を決め込んだこうがよいという考えなのかもしれません。しかしそれでは今世間を騒がせている堀江メールの真贋論争と同じような低次元の議論と思います。これで信じろというほうが無理です。

2657問答迷人:2006/02/28(火) 09:36:48

れんさん

懇切なご回答、誠に有難う御座います。

相承箱の中身については、66世の達師が語った言葉を伝え聞いています。当時の法華講の三浦教学部長に対して、非公式ですが、次のように語ったそうです。「相承箱と言っても、特別な物が入っているわけではない。堀上人(日亨師)が全て表に出してしまったので、みんなが知っている事ばかりだ。」

まぁ、この達師の言葉によれば、富士宗学要集に収められている程度の内容かと想像しています。れんさんがご指摘の諸文献は未公開のものですから、相承箱には収められていないのではなかろうか、と想像したりしています。

相承箱の受け渡しと相承の受け渡しとは、同じではない、とのご指摘、尤もであると思います。ただ、相承の儀式に、相承箱の受け渡しが行われない、という事は不都合であり、相承そのものに対する疑難の元になっていることは事実なので、日蓮正宗僧俗に取っては、重大関心事で有ると思います。

2658問答迷人:2006/02/28(火) 09:41:51

彰往考来さん

あっ、創価新報ですか。見落としていました。ご提示有難う御座いました。

>要は、何処にあるかわからないというのが当時者以外の現状

了解です。どうやら、ご提示の経過からすると、早瀬新法主の手元に無いことだけは確かなようですね。

2659れん:2006/02/28(火) 20:07:53
問答名人さん、ご教示ありがとうございます。
非公式ながらも、相承箱の中身は堀日亨師が全部出してしまったとの達師の御発言は重みがありますね。
達師の言を踏まえて推察しますと、やはり相承箱の中身は、基本的には富士宗学要集相伝部におさめられた文献なのでしょう、これに付け加えるとすれば、日文字口伝(保田日我師等の写本が宮崎県史や千葉県の歴史に納められています)や日順図と称する形名種脱判摂名字之相承(杉谷師筆録の堀日亨師の本因妙抄講義に具文が公開されてます)が入るでしょうね。ただ、以上の文献の内、本尊三度相伝と同内容の文献は日朗師門流にも伝承され、三時弘経次第・本門弘通事・富士一跡門徒存知事は別としても、両巻血脈以下の諸文献に至っては尊門等にて成立したものが、室町後期から戦国期にかけて他の富士門諸山に伝播・受容されたと見るべきものですので、石山固有のものとは言えないですから、むしろ古来からの石山義の核心は、石山において現在も未公開の先に記した諸文献の方にあるかと思います。
>ただ、相承の儀式に、相承箱の受け渡しが行われないということは不都合であり、相承そのものに対する疑難の元になっていることは事実なので、日蓮正宗僧俗に取っては、重大関心事…
私は部外者ですから、客観的に見てしまいますが、確かに、日蓮正宗僧俗の皆さんにとっては重大な関心事ですよね。お気持ちは理解できます。ただ江戸期の日穏師の記述からは、当時の相承の儀式において相承箱の受け渡しの儀式が行われたとは明確に読み取れないので、部外者の私としては、いつのころから石山において相承箱が相承の儀式に用いられるようになったのかそちらの方が気になったりしてしまいます。

2660犀角独歩:2006/03/01(水) 00:55:23

『弁惑観心抄』を読むと、法体相承の主張があります。要するに、彫刻本尊(戒壇之大御本尊)の相承です。

一閻浮提総与だから、みんなものというのは、学会の論調で、日応はたしかに、この相承を挙げて、この本尊の所有権を相承することを第一義に数えています。

まあ、学会が触れたくないところでしょう。

2661れん:2006/03/01(水) 20:03:40
近代以降の所謂法躰相承といえば、応師が弁惑観心抄に述べるが如く石山法主による彫刻本尊の所有権の継承にあるでしょうね。しかし、石山歴代の著述(一般に正本写真が一部分でも公開されているもの)による限り、精師が家中抄において戒壇院安置の板漫荼羅の存在を言いだし、寛師が一閻浮提総体(総与?だとしても寛師の言うそれはあくまでも末寺僧俗と一般大衆との順逆二縁の結縁・末寺の僧俗の師弟相対・本山法主と末寺の住職との師弟相対の“信心”という前提にたっての総与であって、現在の“異流儀”化した学会の主張の如く“総与”だからみんなのものなどという低俗・低劣なものではないでしょう)・三大秘法総在云々の解釈を付し、応師に至ってその所有権の授受が法躰相承の正体とされるにいたっているように読めます。しかし、少なくとも現在の彫刻そのものは、独歩さんが明らかにされた如く、後世に石山の“誰か”が弘安三年五月九日付けの日禅授与漫荼羅を原本として作成されたもので、これをもって、法躰相承の正体とするのは近代以降の石山ならいざ知らず、上代の文献には見られないので、石山七百年の歴史のなかでも、比較的近代成立の新義ではないかと愚考します。
室町期の石山では九代日有師が「此ノ大石寺ハ高祖ヨリ以来干今仏法ノ付属不切次第シテ候」(聞書拾遺)「釋尊出世ノ本懐タル末法修行ノ寺ニ於テハ未三國立候處ニ此ノ富士大石寺ハ上行所傳ノ題目弘通寺の元ニテ候」(御物語聴聞抄)と述べているので、おそらく特定の漫荼羅の所有権の授受ではなく、そのものずばり上行所傳の題目すなわち「上行菩薩所傳妙法蓮華経五字」(法華取要抄)とそれについての法門口伝の継承の方が、むしろ歴史が古いのではないかと愚考しました。

2662犀角独歩:2006/03/01(水) 20:52:51

れんさん、有り難うございます。

概ね、ご賢察に賛同します。
わたしも彫刻本尊を法体相承という、日応に、実は現世代の彫刻再造の因果関係を読み取れるとしたら、まあ、笑止千万と言うほかありません。

ところで、この御大事箱なんですが、石山では、これはいつ頃から存在していたんでしょうか。

東寺展か何かで、真言のこの手の箱を見た記憶があります。
まあ、そんな物真似の物真似といったところでしょうか。

創価学会論法はいまいちわからないのは、阿部さんにこの箱の相承がなかったから、不相承、では、六巻抄に相承が尽くされているという議論との整合性はどうなるのかという疑問が生じます。まさか、御大事箱に六巻生姜詰まっているわけでしょうか(笑)

だいたい、この箱、そんなに大事だったら、日蓮から日興、日興から日目と創価学会も主張する血脈相承の段階でどう継承されたかを言わなければ何の意味もありません。途中から出来たまがい物の授受をもって、不相承云々をすること自体、わたしはナンセンスだと思うわけです。本因百六箇といった要山の物をもってきたり、日精記述する切紙相承なんかを挙げて、それがそのうち、とりまとめられて、箱に収めて、その箱の授受が相承なんだという論法は、どれほどの意味があるのかという疑問があります。

わたしの記憶では、御大事箱というのは、たしかに近代では授受に意義を持たせたわけですが、本来は、血脈不断の窮余の策として、もし、相承が出来ない場合のために、その内容を納めた副次的な役割のものであったという説明をどこかで読んだ記憶があります。阿部さんの講義であったかもしれません。しかし、こんな言われ方は以前からされていたように思います。また、御大事箱が紛失したとすれば、その中身の内容は、仲居が知悉しており、次代に継ぐというまさに仲介役も、不断の策として講じられているというのが、石山の論法であったと思います。ですから、御大事箱にスポットを絞って、不相承云々をする論調は、まあ、論究が甘いと思えるわけです。

なお、六巻抄に相承がすべて尽くされているなんて言うのは、問題外の論法で、これでは、石山の統括権、彫刻の譲り、さらに漫荼羅書写等の大事が欠落しています。相承については、日寛も触れていますが、別段、六巻抄はそれを指し示すものではなく、結論的に、彫刻本尊が人即法本尊であり、それを所持するのは石山の自分であるというのが論旨です。つまり、その意味に置いて、日応の論法と何ら変わらないわけです。

わたしからすれば、むしろ、れんさんがかつて取り上げられた四帖の内容のほうが、よほど、興味深いですね。

2663犀角独歩:2006/03/02(木) 09:44:58

【2662の訂正】

誤)六巻生姜
正)六巻抄が

2664藤川一郎:2006/03/02(木) 11:02:52
「御大事箱」と言う場合と「御相承箱」と言う場合がありますが、「御大事箱」と言う場合、どちらかと言えば重須談所にかって存在して武田軍に奪取された物を指す場合が多いようです。
いわゆる「武田勝頼の臣重須を襲い二箇相承等を奪う」の時に当然二書だけ奪われたとされるものでは無く、箱ごと奪われたとされております。

石山で言う御相承箱は、もっと後代に口伝相承に付随して作られたもので、石山伝承を信じる側ですら最初からあったとはされておりません。
ですから石山教学中でも箱その物にそれほどの重要を持つ根拠は過去から現代まで無かったと思います。

なお、ここからは余談ですが創価学会が「相承箱を出せば良い」等と言っておりますが、たとえ出しても「後から作成した物」と報道するのは目に見えており、黙殺した方が利口だと思います。
大体、信徒が云々するならまだしも、他宗が相承箱云々などと口出す権利が創価学会にあるのかは疑問ですが?
さらに「相承箱が大宣寺にある」云々についても、当の大宣寺さんが無いと公式発表しているんですから、それを否定するにはよほどの根拠が必要だと思います。しかしほとんどが伝聞風聞でして、ましてや某人がかって書いた手記などを根拠にするに至っては、全く無意味だと思います。

すなわち、相承箱が本山にない根拠など元から希薄ですよね。

2665犀角独歩:2006/03/02(木) 12:43:28

> 2664

概ねこのご意見には賛成します。
抑も「金口嫡々相承」というのは、口で語って伝えるという意味でしょうね。箱を渡す渡さないは副次的な話ですね。

創価学会が相承云々をするのは、阿部さん攻撃の格好の材料だからでしょうが、それ以上に「エレベーターのなかで」とか、「大、次はおまえだ」とかいう、戸田さんから池田さんへの相承?に対して、それこそ、池田さん本人が言い出した話(阿部さんと同じ)であること、かつ、次期会長が、石田次男さんを戸田さんが指名したはずだとか、そんな批判を突っ込まれる前に‘言った者勝ち’みたいな論法である本質から考えると、何故そんなにムキになるのかが、よくわかります。

いずれにしても、細井さんから剥奪された法華講総講頭の地位を再度与えたのは阿部さん、また、七百遠忌慶讃委員長に指名したのも阿部さん。それを受けたのは、当の池田さんであったわけです。もし、池田さんが阿部さんからの指名を拒否し、その段階で「不相承、偽法主」と糾弾していれば、誰も石山に従う学会員はいなかったでしょう。長としての責任はここにあります。

そんな先見の明、見破る眼力が池田さんになかったからこそ、いまの問題になったわけです。C作戦がどうの以前の問題です。

池田さんの‘相承’疑惑から、巧みに目を逸らす格好の材料としての阿部さん不相承騒ぎ、C作戦云々以前の阿部さんを見抜けなかった池田さんの問題、このような視点から視線を逸らすような解説は、端から見ていれば、「どっちもどっち」というほかないことになります。

2666犀角独歩:2006/03/03(金) 08:39:49

わたしは、石山について、有利な意見を言う気など毛頭ありませんが、御大事箱(相承箱)に関する記述の学会側の論法はレトリックがあると思います。

日淳氏から日達氏への相承した記録には「相承箱」があるのに、今回はなかったといった類の話は、説得力がありません。

「十一月十五日午後六時十二分日淳上人の命により、御相承箱を守護して左記の六名大講堂横より出発…十一時十二分、大田区池上町…猊下御留錫宅に当着」(『大日蓮』S34.12)

学会よりの論調では、ここに「相承箱」とあるのに、今回の相承では、その記述がなかった。だから相承箱はないというわけですが、しかし、淳達両氏の相承と、今回の顕如両氏では状況が違うわけです。何が違うかと言えば、上記記述に見られるとおり、淳達の時は大田区池上の留錫先でのことで、今回は石山でのことであった違いです。

前者の例は実に特例で、石山ではなく、留錫先での相承、そのために相承箱が命を受けて運び出されるという当別場自体であったから、その点が記録されたのでしょう。

通常(今回の場合とは言いませんが)相承が石山で行われれば、相承箱はそこにあるわけですから、何もその箱をわざわざ複数の人間に見せたり、触らせたりせず(むしろ、しないほうがよいわけで)箱が必要であれば、その箱のある場所で相承は行われるのではないでしょうか。この場合、一々に「相承箱」を云々する必要は生じないことになります。

過去に、創価学会に離脱僧が出、現在でも石山、また末寺での出来事が逐一、詳細に漏れている事態は、要するに石山内部に創価学会へ情報漏洩をするスパイが存在していることを示唆しています。それが誰であるのかはある程度、見当はついているでしょうが、このような人間が内部で跋扈する状況であれば、相承箱の形貌、存在を報道することは実に危険なことということになります。盗難、もしくは、なかを開けてみられる可能性を孕むからです。

日淳氏から相承を受けた日達氏は、では、その箱をどこに置いていたのか。病院で容態が急変した際、彼は石山に戻ろうとした。日淳氏の場合は、留錫先、相承箱を自分の元に運ばせたのに対して、日達氏は、その相承箱のある場所に戻ろうとしたのだと思います。ある場所とはどこか、私邸でしょうか。戻ろうとしたのは石山でした。となれば、この箱は留まっていたことになります。しかし、その後、とかく噂されるところに拠れば、それは大宣寺にあるとか、□□寺にあるとか言われてきたわけです。

ここで真面目な報道、類推をしようとするのであれば、元来、石山にある相承箱が、どうして、その外にあるのかを説明する義務が生じます。
日達師亡き後、誰かが秘密裡に運び出した…、とすれば、このことは事件性を孕むことです。

学会側の論調では「日顕には相承はなかった」「よって、日顕は相承箱を持っていなかった」「よって、今回は相承箱に触れられない」という三段論法?になっています。しかし、この論法は、その箱が、日達師逝去後、外に運び出されたという前提によっていることになります。この点が証明できなければ、相承箱は日達師の時代からいまに至るまで石山に存在していたことになるのではないでしょうか。

日達師も、日顕氏も、また、いまの日如氏も、みな石山、内事部、その内、大奥での執務でしょうから、箱もまた、そこにあり続けるとするのは、素直な見方でしょう。しかし、そこに箱がないというのであれば、不相承云々以前に、箱が消えたミステリーの謎解きをする義務が「相承箱」疑惑を述べる側にあると、わたしは思います。

是非とも説得力のある説明を聞いてみたいものです。

2667犀角独歩:2006/03/03(金) 08:44:10

【2666の訂正】

誤)淳達の時
正)淳達両氏の時

誤)当別場自体であった
正)特別の事態であった

2668れん:2006/03/04(土) 20:07:32
犀角独歩さん
>創価学会論法…いまいちわからないのは、阿部さんにこの箱の相承がなかったから不相承…では六巻抄に相承が尽くされているという議論との整合性…疑問
私も、ご指摘の学会の論法はいまいち理解できないですね。素人なりに六巻抄を読みましても、富士系他山成立の相伝書を援用して法義を展開して、自山正当を述べていますが、私が先に挙げた未公開の石山歴代の著述は引用されておらず、石山相伝の核心は述べていないなという印象を受けます。三十九世日純師の消息によりますと内容は不明ながら石山の付属には「所謂生の御付属の次第は常途の如く蓮興目の次第是れなり。さて次に死の御付属とは(中略)蓮目興の次第是れなり」(興風紀要第2号168ページ)と二つあるそうですが、いずれにせよ、六巻抄に石山の“相承”が尽くされているとは思えませんね。
>四帖の内容の方が、よほど興味深い…
私もそう思います。四帖は有師聞書によれば時師の著述とされますが、石山でも時師の著述は、“訴状”や近年の研究で時師筆と判明した“三師伝”あとは消息文しか公開されてませんから、私も目師の弟子であった民部日盛師とも師弟関係があったと思われる時師の四帖の内容の方が興味がありますね。
藤川さん
>石山で言う御相承箱はもっと後代に口伝相承に付随して作られたもの…
御説参考になりました、有難うございました。

2669犀角独歩:2006/03/12(日) 13:26:45

藤川さん

もし、ロムされていらっしゃったら、明治3年の「大教宣布の詔」についてレクチャーしていただけませんでしょうか。
よろしくお願い申し上げます。

2670鳳凰:2006/03/13(月) 14:46:13
皆様はじめまして。いつも独歩様、問答名人様の過去スレで、
勉強させて頂いております「鳳凰」と申します。

さて、今回の「ご相承箱」云々の件は、もともと学会側の主張ではなく、
正宗改革派の僧侶メンバーによる問題提起であったと認識しておりました。

勿論、陰には学会が付いている云々との憶測はいくらでもできますが、
情報の発信元全てを学会と断定し、学会の解釈はおかしいとの顛末を多見します。
改革派僧侶の発表をそのまま検証もせずに、用いる学会側にも問題はありますが、
本来の発信元の主張は日蓮正宗自信である事も考えねばならないかと存じます。
中断させてしまってすみませんでした。

2675犀角独歩:2006/03/13(月) 23:04:13

2670 鳳凰さん、はじめまして。

> 正宗改革派の僧侶メンバー

この人々は何宗の僧侶ですか。どこの所属でしょうか。
その実質的な所属が創価学会であれば、創価学会といわれることになりませんでしょうか。

ここでいう実質的な所属というのは、どこから金をもらって食っているのかという意味でもあります。

所属宗派もなく、寺院もなく、頭だけ剃って坊さんだと言われても、コスプレじゃないんだからというほかありませんよね。

まあ、実際のところ、問題提議などという穏便さは感じません。
宗創の顰蹙を買う蹴飛ばし合いと同じようなものでしょう。

今日日、法華経は後世の創作、日蓮の時代は釈迦滅後2000年を経ていない、仰いでいる「本門戒壇の大御本尊」は後世の模造品、自称僧侶が、改革がどうだと言っている場合じゃないだろうというのは、正直な感想です。

2676 鳳凰:2006/03/14(火) 02:10:21
独歩様、丁寧なレスを頂き、大変恐縮でございます。
ある意味、憧れの独歩様からレスを頂戴できた事、大変嬉しく存じます。
独歩様からのご質問にはインラインで回答させていただきます。

>この人々は何宗の僧侶ですか。どこの所属でしょうか。


日蓮正宗改革同盟並に青年僧侶改革同盟の連盟による、
「改革時報」が大元かと存じます。

「改革時報」によれば、「渡辺慈済」氏を筆頭に証言を致しております。

>その実質的な所属が創価学会であれば、創価学会といわれることになりませんでしょうか
一部の僧侶は確かに、学会から供養を受け取って生計を立てておるようですが、
幾分かの僧侶は、自著による印税等で生活をしている旨を伺っております。
伝聞ではありますが、此等の話が事実であれば、あながち学会の責任のみに、
結論付けるのは早計な感がございます。

むしろ問題視したいのは、以前、学会も昭和50年代に、現在の改革僧侶と
同様の発言をした正信会に対して、その主張を排斥したにも関わらず、
現在になって、全面的に正宗攻撃に使用している事にいささかの嫌悪感を感じる次第です。

>コスプレじゃないんだからというほかありませんよね。
現代の正宗寺院の僧侶はコスプレと表現されても仕方がない気がします。
芸者やホステスの肩を抱き、泥酔の体を晒した久野住職、森茂住職、及川住職、
有川住職、船橋住職、保高住職、高野住職、滞道住職等の姿を見るに付け、
「職業」としての僧侶ではなく、「行態」としての僧侶の存在が大事であると
認識しております。「僧とは我等が行者也」(非真筆)と仰せの如く、
三類の敵人をあらわす行者で無ければ、信徒は追従することはできません。
宗祖の嘆きを思うばかりでございます。

>法華経は後世の創作、
大乗非仏説でございますね。私はこれには少々の意見を持っております。
後日、不勉強ではございますが、諸見を述べたいと存じます。
ただ、一言申すのであれば、奪って論ずれば、小乗すら非仏説とも言えますし、
与えて論ずれば、ゴータマは大乗、なかんずく法華経をとかずんば、
出生の本懐である、皆成仏道の法門を表せなかった聖人と位置づけられる事でしょう。
本日は多忙な為、私の見解を述べることはできませんが、間違いや誤解があれば、
ご指摘頂けたら幸甚でございます。

>日蓮の時代は釈迦滅後2000年を経ていない、
中村像法説ですね。私は大衆の機根を重視しておりますので、
万民が末法の初めと意識していたあの時代に、大聖人が現れる必要性があったと
思っております。

>仰いでいる「本門戒壇の大御本尊」は後世の模造品
実は私は創価学会員です。明らかに戒壇本尊は偽者でしょうね。
独歩さまの研究成果は大変勉強になり、私も同調する点が多々ございます。
問答名人様と独歩様のご研鑽により、沢山の人が納得された事でしょう。
慎みながら感謝申し上げます。ただこれにもいささかの私論がございます。
後日まとめてUPしたいかと存じます。ただし、独歩さまの研究成果にケチをつける
内容ではございません。むしろ、どう捉えるべきかに重点を置いた私論でございます。

いずれにせよ、お世辞ではなく、憧れの独歩さまより、丁寧なレスを頂戴した事、
大変嬉しく存じます。深く感謝申し上げます。
私は多忙な為、時折しかレスはできませんが、時間があれば勉強させて頂いております。
これからも宜しくお願いいたします。

2677犀角独歩:2006/03/14(火) 10:27:36

2676 鳳凰さん

ここは、「さん」付けというのが、管理人さんの意志です。
どうぞ、お気軽にどうぞ。
なかなか、骨のある問いかけをいただきまして、嬉しく存じます。

> 一部の僧侶は確かに、学会から供養を受け取って生計
> 幾分かの僧侶は、自著による印税等で生活をしている

何をもって僧侶とするのかは、難しい問題ですね。
ただし、一般的に僧侶というのは、国が認めた宗教法人の、取り分け、仏教教団において、出家、教師資格を有したものをいうのでしょうね。
まあ、よく町中に坊さんの格好をして、お経みたいなことをぶつぶつ言いながら、手に掲げた鉢に金を入れてもらっている連中がいます。あれを僧侶といえるどうか。わたしは個人的には、あんなものを僧侶とは思いません。
では、件の改革同盟といった人々は、一度は、宗教法人日蓮正宗大石寺大石寺で出家得度し、教師となったが(なるまでいなかった人もいるそうですが)、その後、破門になったわけですね。この段階で、僧籍は剥奪されたわけです。さて、この人々を僧侶と呼べるかどうか、という問題です。わたしは個人的には僧侶であると思っていません。これは社会一般の感覚として、僧侶とは認知されないという意味です。

> あながち学会の責任のみに、
> 結論付けるのは早計な感がございます。

そうですね。ただし、情報というのは、それを使用したものも、その責任を負います。
最近で言えば、永田さんという議員がいい例です。
創価学会は公式に、改革同盟の自称僧侶の情報を使用した、それも学会大本営がではなく、一部会員がということになるでしょうか。
ですから、これを直ちに学会というのは、ご指摘のとおり、やや不適切な表現かも知れません。

> 学会も昭和50年代…同様の発言をした正信会…主張を排斥…現在…全面的に正宗攻撃…いささかの嫌悪感

なるほど、ごもっともなお考えであると存じます。

2678犀角独歩:2006/03/14(火) 10:28:02

―2677からつづく―

> コスプレじゃないんだからというほかありませんよね。
> 現代の正宗寺院の僧侶はコスプレ

いえ、わたしは石山の坊さんを言っているわけではありません。上述したとおり、社会通念上、僧侶と見なされないのに、僧侶を自称し、そのような格好をした人々を言っています。

例をインドに採れば、バラモン教の記述には、品格のある当掲示板で記すのははばかれますが、「奴隷の処女を毎日犯せ」といった記述が読んだ記憶があります。涅槃経では、刀杖をもって、不信謗法の人々攻撃することを是とします。日蓮もまた、念仏者の首を刎ねろといったわけです。では、これらの行為をしたものが僧侶かというと、その教えに添った僧侶でしょう。仏教では飲酒は禁戒ですが、当宗では宗祖以来の伝統であり、他宗で言えば般若湯という例もあります。では、これらが僧侶と呼ぶか。また明治以降「肉食妻帯沙汰の限りに非ず」と放逐され、実際に肉を食らい、妻を帯し女犯とする。これを僧侶と呼べるかどうか。部派、初期仏教教団、なにより、一歩、日本を出れば、このような所行の人々を僧侶と認める国は少ないでしょう。しかし、日本では僧侶です。
ただ、それを僧侶として認めるか・否かは個人の判断にあるのでしょう。
わたしは、多くの僧侶の知人がおります。肉食妻帯飲酒喫煙なんでもござれの方々も多い。しかし、反面、そのような破戒?にありながら、世のため、人のために活動し、日々、勤勉な学問をする人も多くいます。後者の姿をもって、わたしは僧侶として尊敬する人もあります。一概には論じられません。

> …住職…

ここに実名を挙げていますが、これがあなたの目的ですか。
あなたが創価学会員であれば、まず学会員として、会の責任を背負うことになります。
他人のことより、自分の所属する団体のほこりを払うほうが先決ではないでしょうか。
当掲示板では、このような行為は馴染みません。他でおやりになったほうがよろしい。
そもそも、当掲示板は、もとより、石山僧侶など問題にしていません。

> 三類の敵人をあらわす行者で無ければ、信徒は追従…宗祖の嘆きを思う

なるほど。では、創価学会はどうでしょうか。いまでは「日顕宗は邪宗、他は他宗」などという口コミが広まっているようですが、このような軟化路線を宗祖は嘆きませんか。

>法華経は後世の創作、
> 大乗非仏説

いえ、違います。教典成立史です。

> 小乗すら非仏説とも言えます

そのとおりですね。
経典の制作は釈迦滅後約100年を経てからのことですから、まさにそのとおりでしょう。
ですから、わたしは大乗非仏説と言っているわけではありません。小乗というのは大乗を自称する側からの一方的な貶称ですね。教典も、仏像も、もっと言えば漫荼羅も、非仏説といえば、そういえるでしょう。

> 法華経をとかずんば、出生の本懐である、皆成仏道の法門を表せなかった聖人

まあ、このような宗教的ドグマは個人的に信仰するのは勝手です。

>日蓮の時代は釈迦滅後2000年を経ていない、
> 中村像法説

中村元師に限ることではありませんでしょうね。これは考古学的な成果ですから。
また、いまは繁く資料を挙げる暇はありませんが、南岳、また、天台、さらに伝教にしても、自分が生きた時代を末法と認識していたというのは、もはや、常識です。

> 万民が末法の初め…大聖人が現れる必要性

このような考え方も信仰に属することですから、個人の範囲では勝手なことでしょう。
わたしのこれらの信仰を否定する意図はありません。ただし、それを人に勧める段階では、それなりの責任を背負う、そして、当掲示板は事実究明を主旨としますから、特定団体の宣伝や、個人信条の押し売りは馴染みません。自己に主張があれば、証拠をもって論じることが気味づけられていると言うことです。
しかし、石山、学会の教義は釈迦50年の説法の最後に説いたのは法華経というご認識に基づいていることは動かし難い事実です。

> …「本門戒壇の大御本尊」は後世の模造品
> …いささかの私論がございます

是非、お聞かせください。
また、私説に関して、立証からのご批正は大歓迎です。


> これからも宜しくお願いいたします。

こちらこそ、よろしくお願いいたします。

2679彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/14(火) 12:50:28

>2676鳳凰さん、横レス失礼。

>日蓮正宗改革同盟並に青年僧侶改革同盟の連盟による、「改革時報」が大元
>幾分かの僧侶は、自著による印税等で生活をしている

日蓮正宗改革同盟?そんな組織ありましたっけ?憂宗護法同盟のことですか?ちなみに憂宗護法同盟などの著書は憂宗護法同盟著『法主詐称』(エバラオフィス)、憂宗護法同盟著『続・法主詐称』(鳳書院)や渡辺慈済著『日蓮正宗“落日の真因”』(第三文明社)などですが、宗門批判を創価学会系と思われる出版社から出されていて、主な購買層は創価学会員でしょう。まして『法主詐称』などの内容は聖教新聞社発行の『創価新報』の記事と重複する部分が多く、同一人物が書いているか、少なくとも『創価新報』のスタッフと憂宗護法同盟が相互補完関係にあると判断されるわけです。それであれば、とても「自著による印税等で生活している」わけではありませんね。言葉は悪いですが日蓮正宗と創価学会の紛争ネタで飯を食っているのと変わらないでしょう。彼らが戒壇本尊の真偽問題などで研究書でも出せば見直すのですけどね。憂宗護法同盟は今でも戒壇本尊がホンモノと信じているのでしょうかねえ。信じるのは勝手ですが今のままでは先細りが見えています。

2680鳳凰:2006/03/14(火) 13:45:44
>ここは、「さん」付けというのが、管理人さんの意志です。
了解致しました。それでは独歩さん、レスありがとうございます。
大変勉強になります。

>よく町中に坊さんの格好をして、お経みたいなことをぶつぶつ言いながら、
>手に掲げた鉢に金を入れてもらっている連中がいます。
不法入国の外国人を托鉢僧に見せ、布施の金額をシノギとしている暴力団も、
多々いるようです。

>その後、破門になったわけですね。この段階で、
>僧籍は剥奪されたわけです。
改革同盟のメンバーには、未だ僧籍剥奪をされてない方もいるようです。
恐らくは改革メンバーとして名乗りを上げれば、活動に支障がでると
考えていらっしゃる方と、名乗りを上げるタイミングを見計らっている方、
改革に興味はあるものの躊躇していると言った方々もいるようです。

確かに独歩さんの言われる通り、「僧の定義」って難しいですよね。
社会通念上から見れば、大聖人も職業僧とは言えなかったのではないでしょうか。

2681藤川一郎:2006/03/14(火) 14:01:55
宗務広報No.1037   H18.3.13 宗務院
創価学会、秋谷栄之助、青木亨らに賠償命令
樽澤道広師への名誉毀損報道を厳しく断罪

 創価学会は、平成16年2月13日付聖教新聞に、会長・秋谷栄之助、理事長・青木亨、副理事長・原田稔、副会長・奥山義朗、青年部長・杉山保、男子部長・弓谷照彦の6名による紙上座談会を掲載しました。
 この座談会は、樽澤道広師が本妙坊檀家の葬儀に際し多額の御供養を強要したとして、同師を「強欲のクソ坊主」「卑しい“商売根性”丸出しのやつ」「法を食らう餓鬼」などと、口汚く罵倒する内容でした。
 しかし、樽澤師が檀家に対して多額の御供養を強要したことなどなく、また実際にも、当時そのような多額の御供養が本妙坊になされた事実もありません。そもそも、同座談会が前提とする葬儀が執行された平成7年当時、樽澤師は本妙坊住職ですらなかったのですから、聖教新聞の報道はまったくお粗末なでっちあげで、まさに悪質な名誉毀損行為であります。
 そこで、樽澤師が原告となり、創価学会並びにこの座談会に登場した6名を相手に、損害賠償等を求めて東京地裁へ提訴しておりました。
 本日の判決で、東京地裁民事第18部・原敏雄裁判長は、これらの聖教新聞報道が事実ではないとしたうえで「被告秋谷らが本件各発言をし、被告創価学会が本件記事を新聞紙上に掲載し同新聞を頒布した行為は、原告に対する名誉毀損として不法行為を構成する」として、創価学会、秋谷栄之助、青木亨ら被告全員に、連帯して80万円の損害賠償金を支払うよう命じる判決を下しました。
 この判決により、聖教新聞による虚偽報道の事実が浮き彫りとなりました。
今後も、同様の悪質な不法行為に対しては、厳正に対処してまいります。
以上

上記のような裁判があったようです。創価学会にとって80万円位は痛くも痒くも無いでしょうが、実名を出しての記載はできるだけ慎重にすべきでしょうね。
これは聖教新聞の例ですが、公共的な掲示板も同様だと思いますね。

2682鳳凰:2006/03/14(火) 14:05:41
>それを使用したものも、その責任を負います。
仰る通りだと思います。また、その内容の真偽も考慮して使用すべきかと存じます。

>石山の坊さんを言っているわけではありません。
>ここに実名を挙げていますが、これがあなたの目的ですか。
言葉が足りずに失礼致しました。正宗法華講に信を取っていらっしゃる方達にも、
大変失礼な文章になってしまいました。深くお詫び申し上げます。
昨晩の文章は、改革同盟の資料を見ながら書いておりまして、
深く考えもせず、短絡的に取り上げられている写真記事の名前を記載してしまいました。

>自分の所属する団体のほこりを払うほうが先決ではないでしょうか。
仰る通りでございます。学会にも職員職にありながら、
酷い私生活を営んでいる輩もおります。また、教学的な矛盾も多々ございます。
少しでも自分が関与している世界では、誰人も自由にのびのびと素晴らしい、
信仰生活や成長を遂げられるよう、ますます尽力・努力して参ります。

>このような軟化路線を宗祖は嘆きませんか。
これは私論です。学会云々の話では無い事を前置きして話をします。
私は当時の時代状況や、民衆の宗教に対する依存度、政治部分での関与等が、
現代とは明らかに異なっていたかと存じます。

これらを考慮した場合、宗祖の布教戦略は必須であったと思うのです。
ただ、現在の時代状況を考慮した時、ただ教条的に他宗を批判するだけでは、
布教も困難になり、むしろ排他的な精神のみが撮りだたされ、
昔の学会宜しく、傲慢な偏狭宗教に陥ってしまうのではないでしょうか。
私個人では、ある意味こういった運動はもっと早くやるべきだっと思っています。

2683鳳凰:2006/03/14(火) 14:13:54
>南岳、また、天台、さらに伝教にしても、自分が生きた時代を末法と認識していた
独歩さん、お手数でなければ、上記の件、ご教示頂く事は可能でしょうか。

>石山、学会の教義は釈迦50年の説法の最後に説いたのは法華経というご認識
仰る通りでございますね。

>彰往考来さん、
レスありがとうございます。

>日蓮正宗改革同盟?そんな組織ありましたっけ?
ごめんなさい。私、勘違いで間違えてしまったかもしれません。
自宅に戻って確認致します。

>『創価新報』の記事と重複する部分が多く、
新報は私の知人が書いてますので、明らかに別人が書いております。
ただ、仰る通り、資料の相互互助はありますね。

>戒壇本尊がホンモノと信じているのでしょうかねえ。
真剣に研究しているメンバーの中には、学会であれ、同盟僧侶であれ、
疑義を唱えてる方々が多々います。私は明らかに後世の偽作であると思います。

>公共的な掲示板も同様だと思いますね。
そうですね。短絡的すぎました。失礼致しました。

2684管理者:2006/03/14(火) 14:22:36

鳳凰さん 

お伺いいたします。

当掲示板の書き込みルールでは、個人情報については、「一、紙名、年月日を明記した上で、個人情報が含まれる新聞記事を転載すること。」は禁止事項には該当しませんが、2676レスでは、「改革時報」と有るのみで、号数が特定されていません。又、個人名の記載がありますが、これは記事からの転載なのでしょうか、それとも写真から個人名を特定されたのでしょうか。

2685藤川一郎:2006/03/14(火) 14:38:25
彰往考来さん

横レスですが組織の是非はともかく「日蓮正宗改革同盟」と言う組織は存在します。もちろん日蓮正宗宗門とは無関係ですが。
機関誌は「改革時報」でして、我が家にも数回入っていた事があります。
創価新報と似ている記事が多かったように記憶しております。

2686鳳凰:2006/03/14(火) 14:52:46
管理者様、

>又、個人名の記載がありますが、これは記事からの転載なのでしょうか、
>それとも写真から個人名を特定されたのでしょうか。

お答え致します。改革時報に掲載されている写真からの転載でございました。
帰宅後、号数や発行年月日等をご報告致します。

>富士川一郎さん、
組織の存在有無の件、ありがとうございます。

2687彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/14(火) 16:19:20

>2685 「日蓮正宗改革同盟」と言う組織は存在・・・機関誌は「改革時報」 
藤川一郎さん

了解しました。私も少し整理してみます。似たような名前でこんがらがっています。

2688ご参考に:2006/03/14(火) 18:46:36
ttp://www.nichiren.com/jp/index.html

日蓮正宗青年僧侶改革同盟HPURL

2689パンナコッタ:2006/03/14(火) 19:17:41
憂宗護法同盟と青年僧侶改革同盟ですね。
青年僧侶改革同盟の人たちが離山の時、TVのワイドショーで取りあげられたことがありましたね。

2690鳳凰:2006/03/14(火) 22:53:16
「改革時報」第20号になります。
発行元は「日蓮正宗改革同盟」、「青年僧侶改革同盟」となっております。

問題となった写真の記事は、2面、3面に記載されています。
記事の見出しは「御前様に続け!と弟子も暴走」とされております。
写真が撮られた場所、人物等については何ら記載がありません。

取り急ぎのご報告まで。

2691犀角独歩:2006/03/15(水) 10:32:18

2683 鳳凰さん

>>南岳、…天台…伝教…自分が生きた時代を末法と認識

以上については、既に過去に議論があった点です。

『現代人が納得できる日蓮教学』の169以降
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/169-

2692鳳凰:2006/03/15(水) 14:10:16
独歩さん、

ご提示ありがとうございます。早速勉強させて頂きます。
実は以前にも目を通してはいたのですが、浅学故に理解が至りませんでした。
大変失礼致しました。

また、ご多忙にも関わらず、迷妄の学徒に道を示し下さる器量に、
慎みながら感謝申し上げます。

2693鳳凰:2006/03/15(水) 14:18:15
信仰者が、学問的見地から知識を得るほどに「壁」と言うものができます。
所謂、仏説非仏説論、教義創作論、本尊偽作論、等々・・・・。

信仰者の立場で、自分達の不知なる「事実」に出会ったしまった時、
皆様はどのようにそれを捉え、消化されてるのでしょうか?
素朴な疑問として、問題提起させていただきます。

2694犀角独歩:2006/03/15(水) 17:14:11

2693 鳳凰さん

当掲示板における過去の議論の一切は、仰るような疑問と解消、そして、各人の選択に基づいているのでしょう。

わたし個人は事実にあらざるものは、用いずということ選択をいたしました。
気分としては、何度か紹介した以下の高橋紳吾師の考えに賛同し、自分自身の仏教観を再編成しました。

「教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。
とはいえ仏教が輪廻思想から自由でないのは、当時のバラモン(婆羅門)や沙門(シュラマナ)たちが共有していた文化的な枠組みのなかで釈迦が生きていたからだが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できることで、したがって釈迦は秘技伝授の超能力者でも霊能者でも、ましてや「最終解脱者」でもなく、もちろん「神」のような絶対者でもなかった。しかしカリスマを求める周囲の心情はいつの時代も変りがない。死後の釈迦は次第に神格化され、俗化される。たとえば釈迦の骨がフェティッシュな崇拝の対象となったり、、釈迦の言説とされる教典それ自体が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は再び回帰したのである。そこにあるのは象徴(シンボル)の病である。
もっとも八正道の実践だけでは出家修行者のみ可能な小乗仏教であって、これでは一般大衆には宗教的な喚起の世界は与えられない。そのために救済のビジョンが必要で、大乗仏教における阿弥陀信仰のように、方便として帰依の対象が求められる。これは補助自我とみなすことができよう。それは超越的な形態をとっていても、もう一人の「自分」なのであるから、その「超越者」を「信じている」自分を調べる義務は、その個人にある。
補助自我−自我のかたわらにあって、自我の充足を助けるもの。「ペット」や「わが子」のレベルから「思想」や「神」などの抽象的なものまである」(『超能力と霊能者』現代の宗教8 岩波書店 1997年2月5日 第1刷 P215)

2695彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/15(水) 17:41:49

>2693 鳳凰さん

そんなの答えは簡単です。

見ざる、言わざる、聞かざる、です。(ワハハ!冗談!)

とはいえ現実は非常に難しいですね。
それを乗り越えるのは強烈な信仰体験か、島田先生がおっしゃるような所属組織をコミュニティーとして捉える(平たく言えば、人間関係とか友達づきあいといったもの)といったところでしょうか。
私の場合は、ひょんなことから、戒壇本尊に疑義を持ち、富士門流史をずっと自分の研究テーマにしてきましたから、ある意味で矛盾追求は生きがいのようなものです。従って所属組織のトップが言っていることとは見解が異なっていても、特に自分から組織を出て行くつもりはありません。自分のほうが正しいのだからとやかく言われる筋合いはありません。コミュニティーとして捉えれば問題はないわけです。政党と同じで必ずしも自分の考えと100%同じというわけにはいきません。異なるところがあってもやっていけます。私の所属組織のトップは戒壇本尊はホンモノと言っていますが、これって本心から言っていないと思うから、はてさていつになったら本当のことを吐くのかしらんと第三者的に眺めているわけです。ま、学生時代からひねくれていたんでしょうね。授業中に教師が何箇所間違いを教えるか数えていましたから。でも間違いをタマに言う教師がいたとして、それを生徒が皆の前でぎゃんぎゃん言ったら教師は立場がありません。そんなもんでしょう。信じるものは救われないのです。ライブドア株を信じた(こんな虚業を信じるのも欲ボケしていませんかと言いたいのですが)人が裏切られたのと同じなのです。

2696犀角独歩:2006/03/15(水) 19:39:29

彰往考来さんへ、横レストいうことで

> 強烈な信仰体験…所属組織をコミュニティー

面白いですね、この考え方は。いや、批判ではなくて。彰往考来さんという人となりを感じます。
日蓮は、虚空蔵救聞持法という強烈な信仰体験、…それも真言的な… を経て、真言的であったこととは関係なく、その後、処罰によって身命に及ぶという法華経的な信仰体験も経、やがて天台宗、天台沙門という所属組織のコミュニティーから乖離することになっていったわけですね。
わたしのなかでは、このような日蓮の人生系譜というのは、どこかで常に意識しています。

> 所属組織のトップは戒壇本尊はホンモノ

この組織にわたしもかつていたわけですが、この「ご供養」のために、どれだけ、我慢を強いられたか、また、周囲には田畑家屋を売り払った人までいました。集まった金は半世紀近く前で350億円でしたか。いまの貨幣価値にするとどれくらいになるのでしょうか。正本堂供養実名名簿は800万人というわけですが、その800万分の1に自分もいました。なにせ5000年はもつと言われた“民主主義によって再定義された”「国立戒壇」でした。
ところが、中に入れる当の本尊がこれが偽物であったわけです。
先に鳳凰さんは「出生の本懐」ということを記していましたが、日蓮の出世の本懐は「本門戒壇の大御本尊の建立」というのが、創価学会も、石山を受けてのお定まりでした。ところが、これが後世の模造品でした。そうなると、この本懐、一体、どうなってしまうのか、実はこんな余波があります。
学会はいつから知っていたのか、憶測の域を出ませんが、いずれにしても、その入れ物の正本堂の供養をタネ銭にして、半世紀で、巨万の富を形成したわけです。5000年持つはずだった正本堂はわずか25年で瓦礫になりましたが、2000円それがしの拝観料×5000人で、創価学会との蜜月時代は日に何度もご開帳し、その1割だかを創価学会にバックしていた(これは本当なのでしょうか?)、そんな経済効果を待つまでもなく、正本堂供養金の大半は建築に、ではなく、タネ銭となったんでしょうか。

「あとになって2倍にも3倍にもなって返ってくる」などという、今日日、悪徳商法でも言わないようなキャッチフレーズが大まじめに信じられたわけです。実際に何十倍にもなって返ってきたのは、金を握った組織そのものであり、今の創価学会の発展はそこに濫觴があったわけですね。

所属組織という点から言えば、「こんな詐欺まがいの組織にいられるか」(というのは、かつての個人的な感情でした。断定ではなく、わたしの個人的感想ですが)から、わたしはこのコミュニティーを蹴ったわけです。同類扱いされるのは御免であると思ったからです。
しかし、それは組織としてのことで、たしかに個人レベルでは、感情的な悪口は言われたものの、そこにいまでもコミュニティーは感じます。


さて、もう一方の信仰体験というやつは、社会心理学でいえば、個人的リアリティということになり、いつもわたしが挙げるヤスパースの妄想の定義、(1)間違った考え(2)強い確信(3)訂正不能、信じてきたことが間違った考えであっても、根っこではそれに確信を懐き、端から見れば訂正が出来ない、これでは妄想といわれても致し方のないことになります。宗教病理の範疇です。また、感応は指導者と被指導側、本尊と信者にとっては、宗教信条では美徳かも知れませんが、宗教病理では感応症とダブります。極度の信仰体験もトランスといった異常心理が扱う問題とどこで線が引けるのかという問は、どうでしょうか。

現在、世界に目を向けると、宗教名目で、騒ぎを起こしているところには一神教の問題があります。ところが、日蓮本仏といわず、本門本尊とは一神教ならぬ一仏教であるわけです。
もう一点。かつて、キリスト者が問題にしたのは偶像崇拝でした。楠で出来た「本門戒壇の大御本尊」は生身の日蓮というわけですが、偶像崇拝といわれても致し方がないわけですね。いわば、一神教と偶像崇拝がセットになった上で、極端なファンダメンタリズムに、アナクロニズム、100年前に崩壊した仏教神話が、いまだに大まじめに教学試験の問に出るような集団で言う信仰体験とは一体なんぞや。これが世間一般の問いかけでしょう。
「謗法だ」と喚けば、「それじゃ、中世の魔女狩りだよ」と顰蹙の一つも買うところでしょう。

一般人は、仏教知識があるわけではないでしょうから、上記のような状態で「熱狂的で、変な連中」で等閑視するわけですが、内部では、やってみなければわからない体験主義という格差。
しかし、1回経験して、徹底した挙証主義で再考したうえで、わたしは鳳凰さんのように、問うたわけです、「さて、どうしようか、21世紀の日蓮は」と。

2697犀角独歩:2006/03/16(木) 00:02:36

【2696の訂正】

誤)虚空蔵救聞持法
正)虚空蔵求聞持法

ちなみに、わたしは信仰で得た歓喜、進歩を貶す意図はありません。
創価学会にしても、顕正会にしても、仰いだ本尊は模造品であったけれど、ごまんと功徳の体験談はあります。組織と共に仰ぎ、その人生に価値を感じる人々もあるのでしょう。

しかし、「自分たちは、こんな体験をしたから、○○は絶対だ」と、こう結論づけたいところですが、さにあらず、漫荼羅は真っ赤な模造品、しかし、功徳の実証はあった、さて、なぜだろう、ここに、新たな問題があります。
他スレで「若し正境に非んば、縦い偽妄無くも亦種を成ぜず等云々、故に須く本尊を簡んで以て信行に励むべし」と日寛が力んだところで、模造品の本尊でも、この実証の数々です。これはなかなか興味深いテーマであるといえます。

なぜ、模造品でも、そうだったのか、当スレ「素朴な疑問」に相応しい疑問といえます。

2698鳳凰:2006/03/16(木) 02:04:15
独歩さん、彰往考来さん、
レスをありがとうございます。両雄様のご回答は、確かに自分も感じ取った点でもあり、
大いに共感できる次第であります。

私の場合は、幸いなことに信仰で得ている功徳(成長)が著しい為、
教義と実果を別に捉えるようにしております。
つまり、自身を成長させる法則の因果と捉えており、教義の矛盾や、
後世に明らかになる事実は、実果をあらわす為の方便と捉えております。
自分を成長させる起爆剤として、方便である教義を用い、
実践による実果を自身で堪能すると言った生き方を選択しました。
方便(現代語で言う所の方便)に矛盾や誤謬が生じるのは仕方ないと思ってます。
良い意味での「楽観主義」なのでしょうね。笑 

とは言え、明らかなる間違いは、会員の為にも少しずつでも正しくするべきであり、
個人も、教団ももっと正しく成長するべきだと思っております。
宗教的ドグマや利己主義に固まることなく、間違いや誤解は正し、
より良く大衆に納得できうべく、教義の編纂を行うべきだと存じます。

その意味では、このようなHPに出会い、正しき道、正しき真実をお伝えしてくださる、
研究者、学徒の先輩達に深く感謝を申し上げる次第です。
これからも宜しくお願いいたします。

2699鳳凰:2006/03/16(木) 02:30:53
>日蓮の出世の本懐は「本門戒壇の大御本尊の建立」
ありえない話だと思っております。これに関しては私は持論を持っておりますが、
やはり憶測的な域から脱却する事はできないため、論及しませんが、
物を顕す事が出生の本懐とは当然思えません。

>その1割だかを創価学会にバックしていた(これは本当なのでしょうか?)
おそらくこれは誤謬ではないでしょうか。正本堂に関する供養会計報告も、
拝観料等についても、弁護士並に監査人監督を受けておりますし、
実際に正本堂の供養会計報告は「正本堂の詩」にも明確に収支の発表がなされております。

>模造品の本尊でも、この実証の数々です
面白いテーマですね。ただ、これは学術的や教義的に解明することは難しく、
おそらく信仰的考察でしか説明できないのではないでしょうか。

私的には、個人のオピニオンとしてしかお話できません。
印刷であれ、お筆であれ、印刷であれ、コピーであれ、仏(ゴータマではない)が、
己心に見出した法則を、本尊として顕してくださった。
我々が無心に本尊に向かい、題目をあげることにより、日蓮が得た仏果を同じように
感得できるのではないかと考えております。

雪山童子が法を後世の人に託す為に、木に彫った説話がありますが、
そこで重要視されるべきは、彫られた木や紙といった材質云云ではなく、
そこに書かれた内容こそが、後世に伝えられるべき「宝」であると思っております。

あくまでも個人的な見解ですが、主題、日蓮、仏界の代表たる釈尊、多宝が
書かれている本尊であれば、九界の衆生である我々が題目を唱えるとき、
日蓮と境智冥合して、日蓮が悟りし法が我々の胸中に涌現するのではないかと考えております。

まぁ、この考え自体カルトと言われてしまうかもしれませんが、
現在の正直な感想でもあります。学会の教学とは明らかに異なりますけど。

2700鳳凰:2006/03/16(木) 02:46:07
>…それも真言的な
一つ質問させて頂いてもよろしいでしょうか。

近年、日蓮は「法華真言未分化」であったと言う言葉を耳にします。
実は知人とこのテーマについて、多少なりとも調べた経緯がありました。
私は反対意見をもっております。

そこで、皆様にお聞きしたいのですが、『昭和定本 日蓮聖人遺文』に掲載されている、
「不動・愛染感見記」をどう思われますか?
または、「法華真言未分化」をどう考えていらっしゃいますでしょうか?

過去レスで若干触れられている箇所を拝見しましたが、私は大いに疑問をもっています。
後日、順を追ってその理由をレスさせて頂きますが、
よろしければ、皆様のお考えをご教示いただけたらと存じます。

2701鳳凰:2006/03/16(木) 02:51:17
訂正させて頂きます。

×)後世に明らかになる事実は、実果をあらわす為の方便と捉えております。

○)教義は、私にとって、実果を顕す為の方便であると捉えておりますから、
後世に明らかになる真実や、誤謬である点が多々存在していたとしても、
それほど差し支えがあるわけではございません。むしろ、後世になって、
より本当の実態が明らかになるべきではないかと考えております。

ああ・・文才がない自分が悲しく感じます。

2702犀角独歩:2006/03/16(木) 09:12:21

鳳凰さん

まあ、学会員で、少し教学を囓っている人であれば、誰でも言い出す同じ質問ですね。
要するに、創価学会員という範疇での、真言未分、感見記疑義というのは、北林さんの影響でしょう。会内の、伝言ゲームを自分の意見であると思い込んでいる類ではないでしょうか。

先ず、感見記についての、北林さんの見解より、諸師の鑑別を、わたしは信頼します。

日蓮の真言未分は、初期遺文類にあるところであり、何より「本尊」という言葉自体、真言の用語です。天台、妙楽はもちろんのこと、天台の初期文献に、この語の使用も、教義もありません。

そもそも、日蓮本覚論などという場合の「本覚」は、田村芳朗師も指摘しているとおり、空海にその起原を見ます。天台教学の本覚化は空海の影響であるということです。その学風を学んだ日蓮に真言の影響がないわけはありません。
日蓮漫荼羅で大日如来の勧請があるものもあります。日蓮における多宝如来観は、大日如来と密接な関係にあることは後期の遺文でも明らかです。

そして決定打。日蓮漫荼羅の左右に梵字で記される不動・愛染は大日如来の脇士であり、法華経には全く登場しないところです。その根拠は当然ながら、真言宗でしょう。

なお、質問以前の「方便」ということですが、これは upaya を語源とし、その原意は「近づく」という意味です。「巧みなる手だて」などという意味であるといわれるのが一般です。「ウソも方便」などというのは、俗訛した誤用以外の何ものでもありません。

2703犀角独歩:2006/03/16(木) 09:32:47


そうそう。一つ書き忘れました。
「漫荼羅」という用語もまた、真言を起原とするものでした。

日蓮は初期、比叡山が慈覚以来、真言に泥むことを批判するわけですが、最終的に漫荼羅・本尊という真言宗のアイテムに落着していきます。
なお、漫荼羅本尊に何故、不動・愛染が記されるのか、それこそ、不動・愛染感見記で記される日蓮の神秘体験によるのだという指摘はあったはずです。この場合、法華霊鷲山法華説法と四菩薩附属をモチーフにしたはずの漫荼羅に、なぜ、真言宗の不動愛染が載る説明証拠として感見記を挙げることになります。

なお、日蓮が当初、出家し学んだ清澄寺は真言宗(天台宗と摂取)した寺院で、近代まで真言宗寺院でした。よく言われる日蓮が生身の虚空蔵菩薩に会い、智慧の宝珠を頂戴したという物語は、この真言宗における空海も行じた虚空蔵求聞持法をしていたときの体験であり、この系譜は天台宗ではなく、当然、真言宗のものです。

ところで、お書きになっている「成長」というのは、何でしょうか。これは仏教のどんな教義に基づくのでしょうか。寡聞して知りません。どのように読むのですか。「じょうちょう」ですか。

2704パンナコッタ:2006/03/16(木) 12:31:09
横レス、失礼します。鳳凰さん、お初です。

 >明らかなる間違いは、会員の為にも少しずつでも正しくするべき
例えば、後代の明らかな偽書である御義口伝の取り扱いについて学会は、戸田・池田会長以来の
伝統的な御義口伝講義その物が否定される結果となる為、偽書と認定する事はあり得ないでしょう。
”先代の築いた物は、たとえ犠牲を払っても守る”という束縛された観念から抜け出せない限り、
鳳凰さんの意図する成長というのは、逆にあり得ないのではないでしょうか。

蛇足ですが、別スレで顕正居士さんが指摘している「文句略大綱私見聞」は、
御義口伝のタネ本の一つです。

2705鳳凰:2006/03/16(木) 18:27:52
>伝言ゲームを自分の意見であると思い込んでいる類ではないでしょうか。
まず、会内で北林氏の自論を理解できるレベルの人間が果たしているか・・・?
それ自体が問題です。尚、この一文は私の教学力に対する憶測でしょうか?

誠に残念ながら、本日から出張が入ってしまうため、詳細は記載できません。
自宅に戻ってから、資料を紐解きお話させて頂ければと存じます。

ちなみに、結論だけを申すのであれば、北林氏の論に終始するつもりはありません。
ま、結論的には偽書であろうか?と言う「結果」においては同じですが、
彼とは異なったスタンスで考えてる点もございます。

勿論、偽書ではないであろうかと言う理由の証明として、北林氏による、
筆跡の問題、日蝕(実際には虫扁に虫)之時、日蓮宗の事情と言う、
偽書と断定する根拠は大いに依拠しようと思っております。

ただ、中山に伝わる『五輪九字明秘密義釈』等を考慮すれば、
大聖人が真言の影響を多々受けていたとのは事実でしょう。

しかしながら、そうだからと言って、簡単に「不動・愛染感見記」を真筆と断定する
方向に傾むけないのです。

その理由の一つとして、「奉請虚空蔵菩薩法」〜「作想法」では菩薩を招き、
菩薩を想像する行ですが、当然、「虚空蔵求聞持法の行」は多くの修行者が実施していたでしょうし、
この行において生身の菩薩を見たという、宗教的体験は修行者全員の共通財産
であったのではないかと想像してます。

昨今、これは、日蓮の己心の宗教体験を書いた書であるとの意見を聞きますが、
それよりも、「自大日如来至于日蓮廿三代嫡々相承 建長六年六月廿五日 日蓮授新仏」と
あるように、台密(東密)の相承を受けた事を証明するための書と思うのです。
ここで注視すべきは23代であります。真空からの相承であれば、
25代になるはずなのに、どうして23代なのでしょうか。

戸頃重基氏や、高木豊氏の説では、理性院血脈の日蓮は、
大和の「日蓮房重如」であり、大聖人とは別人であると言う見解を申しております。
ここで書かれている所の「日蓮」も「重如」と言う事はないのでしょうかね。

つづきは、出張より帰ってきてからとさせて頂きます。

>パンナコッタさん、
現実的ではありませんでしたね。仰る意味、良くわかります。
かような教学を述べる私は、学会の異端児と思われているかもしれません。
恩義口伝の偽作論、私もそう思っております。

2706犀角独歩:2006/03/16(木) 20:45:38

鳳凰さん

> …私の教学力に対する憶測でしょうか?

「別の考えがある」との表明はありましたが、特に教学的なことを記されていないわけですから、憶測の仕様もありません。

わたしの記し方も言葉足らずであったかも知れませんが、感見記を偽書として真言未分を述べるような短絡思考は創価学会の世界でのみ通用する共通認識で、世間一般で、教学とか、論考と考えて北林本を読む人はいない、故に会内伝言ゲームの類としたわけです。

北林本に関しては、彰往考来さんが充分な反証をされていますし、すでに話題にもなったことで、この退屈な内容をまた繰り返すのには、わたしはお付き合いいたしません。ここでは既に議論され畢ったことですし、ストレートな言い方をすれば問題外。こんなことに時間を費やす気はないからです。

> 『五輪九字明秘密義釈』大聖人が真言の影響…事実

それもそうでしょうが、わたしが2702、3で記したのは、そもそも「漫荼羅」「本尊」「不動」「愛染」は真言宗の教義であり、それを活用する日蓮が、真言と未分のわけがないということですよ。

> …簡単に「不動・愛染感見記」を真筆と断定する方向に傾むけない

では、ご自身のお考えというものを証拠をもってお示しください。
話はそれからです。

日蓮は真言の影響も受けていることは確実です。
しかし、それと、感見記の真偽問題は別の問題です。
これを取り混ぜて、感見記は偽書、故に日蓮に真言未分はないという連想ゲームは短絡以外の何ものでもありません。

> …生身の菩薩を見たという、宗教的体験は修行者全員の共通財産
であったのではないかと想像してます。

これはいったい、何を仰っているのかわたしには理解できません。
日蓮の体験であり、その真言の修法における見仏体験(実際には菩薩ですが)が共通財産というのはいったい、どのような意味でしょうか。

> 理性院血脈…日蓮…重如

この点についても、当掲示板では充分に議論が為されています。
過去ログをご参考ください。

> ここで書かれている所の「日蓮」も「重如」と言う事はないのでしょうかね。

「ここ」というのは、何を指しているのでしょうか。
まさか感見記のことではないですか。
仮に重如筆ということであれば、重如の真筆ですから、これを偽書と言うことは成り立ちません。また、これが重如の筆であるという場合、どのような手順で、重如のものと断定するのでしょうか。感見記と比較した重如の確実な筆跡がない限りできないわけですが、これは何を参考にしたということでしょうか。

いずれにしても、当掲示板は挙証義務の遵守することをモットーとして、成り立っています。別の考えがあれば、その証拠を示したうえでお考え示されるのであれば、議論にもなります。石山の「うちには真筆の○○がある」といって、現物を見せず、強論する悪例もあります。そのようにならないためには、是非とも挙証のうえで議論にご参加ください。

では、出張からお帰りののちの、挙証論証を楽しみにしております。

2707彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/17(金) 07:35:38

>2705鳳凰さん

不動・愛染感見記および北林本については「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」のスレッド421〜454を参照ください。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/421-454?KEYWORD

すでに2706で犀角独歩さんが述べられていますが、北林本に関する過去の議論をむし返すつもりは私にはありません。

2708鳳凰:2006/03/20(月) 15:52:34
レスありがとうございます。
かなり厳しいご指摘も素直に拝して参りたいと存じます。
昨日、出先から帰ってきたものの、今度は国外出張になりそうです。
レスが遅くなること、どうぞご容赦下さい。

先に私の結論を申し上げておきます。

>真言見分化
私も日蓮は真言や他宗の影響は当然受けているかと思います。
理由は既に独歩様が仰っていらっしゃるとおりです。

>不動・愛染感見記
これはやはり偽書の可能性が高いと思っております。
そもそも、彰往考来さんのレスでは、「建長四年二月の日蝕」を例に引かれて、
北林氏著作本の内容は完備ではないとされています。

しかしながら、感見記に記された日蝕については、
「正月一日日蝕之時」と記されている訳であり、二月一日ではないわけです。

大聖人の日付に対する厳格・正確さは、既にご存知の通りであり、
「正月一日」の日蝕の存在証明をしない限り、記述内容が正しい物であるとの
結論は早々できないかと存じます。

また、筆跡についても尚然りであります。
詳細は下記のURLにリンクされております。
http://www.houonsha.co.jp/nichisai/zuhan/mi/index.html

2709鳳凰:2006/03/20(月) 16:08:15
また、真言未分化について、補足させてください。
私の上の表現では、「未分化」に同意しているかのように感じてしまいますね。
実際は同意と否定の中間位の立場なんです。勉強が進んだ後、立脚点を明確にします。

尚、真言に影響を受けているから曼荼羅に不動・愛染の梵字がある云々ですが、
これは発想が逆である可能性も否定できません。

つまり、日蓮の本尊に不動・愛染の梵字があるからこそ、
感見記に、不動、愛染の生身を見たと偽書を作成した可能性も否定できません。

尚、北林の論になりますが、何故、日蓮は本尊に不動・愛染を記したのでしょうか。

「上野殿母御前御返事」(真筆:身延にあり)
「此の法華経の始に無量義経と申す経おはします、譬えば大王の行幸の御時
、将軍前陣して狼籍をしづむるが如し、其の無量義経に云く、
『四十余年には未だ真実を顕さず』等云云、此れは将軍が大王に敵する者を
大弓を以て射はらひ・又太刀を以て切りすつるが如し、
華厳経を読む華厳宗・阿含経の律僧等・観経の念仏者等・大日経の真言師等の者共が
法華経にしたがはぬを・せめなびかす利剣の勅宣なり、譬えば貞任を義家が責め
清盛を頼朝の打ち失せしが如し、無量義経の四十余年の文は不動明王の剣
・愛染明王の弓箭なり」

つまり、不動明王の剣と愛染明王の弓矢は、法華最勝を下す者や、
権実雑乱をする者を退治する為の物であると仰せです。

少々、長期になるかもしれませんが、出張より戻り次第返レス致します。

2710鳳凰:2006/03/20(月) 17:43:07
また、首の座について申しますと、御書を「9月12日」で検索しますと、
22の該当項目が出て参ります。

以前の議論では故事によせて、後代に伝説化が図られたとの趣旨の論調がありましたが、
しかしながら、御書を拝する限り、一概には申せないかと思う次第です。

【真言諸宗違目】(真筆)
「九月十二日の夜中には虎口を脱れたるか「必ず心の固きに仮りて神の守り即ち強し」等」
●神の守りとの記述は、「諸天」を指すのは明らかです。

【報恩抄】(真筆)
「九月十二日の夜は相模の国たつの口にて切らるべかりしが、
いかにしてやありけん其の夜はのびて依智」
●「いかにしてやありけん」通常では考えられない何かが起こったと想像できます。

【一谷入道御書】(真筆)
「九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが忽に頚を刎らるべきにてありけるが
子細ありけるかの故にしばらくのびて」
●「子細がある」との言は、何かの特別の意を含んでいると言えるでしょう。

真筆を拝した時、「諸天の守護」、「不思議な事に」、「子細あり」とする
日蓮の文言には、何かしらの特別な事情の存在が伺える気がします。

ただ単純に『盛久』から、首切りの話を創作したのだとの論調は、
一概に決め付けられないと思います。

さて、行ってきます。

2711犀角独歩:2006/03/20(月) 18:26:24

鳳凰さん

> 日蝕

これは日[虫*虫]ですね。
明るくも暗くもない中間の時間という意味であるとする説がありました。
この記述を日蝕とするのは、ひとつの類推であり、確定されたことではありません。

つまり日蝕から割り出す方法は、この記述が日蝕であるという仮定に基づくものですから、日蝕の日付を割り出して、特定する方法は決め手とはならないとわたしは考えます。

> 筆跡…下記のURLにリンク

たぶん、北林さんに疑義を懐く人で、このリンクを見ていない人はいないでしょう。ここで疑問に思うのは、なぜ、「身」の字に限って行っているのでしょうか。

以下、わたしが作製した対照です。日蓮の最も初期と後期とされる安第1と安123漫荼羅の「經」の字を並べました。この相違は歴然としていますが、このように違うと、どちらかが、偽筆ということになりますか。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kyo_hikaku.jpg
(コピーしてアドレスバーに貼ってご覧ください)

元の漫荼羅は以下のとおりです。この両者を並べみても、日蓮漫荼羅を知らない一派の人であれば、同一人物による図示であるとわかる人はそういないでしょう。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/123.html

まさかご覧になっていないわけはないでしょうが、不動・愛染感見記は以下のとおりです。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/124.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/125.html


また、ご存じのことと思いますが、古い書法で同一文字が出てきたとき、いくつ異体字を書けるかでその人の素養をはかるということもあります。ですから、異体字を比較して、文字が違うといえば笑い話になります。

> 日蓮の本尊に不動・愛染の梵字があるからこそ、
> 感見記に、不動、愛染の生身を見たと偽書を作成した可能性も否定できません。

まあ、これは感見記が偽書である場合、このような動機は考えられます。
しかし、それと「発想が逆である可能性」とは脈絡がつながりません。
「日蓮の本尊に不動・愛染の梵字があるからこそ」日蓮の真言の影響あり、未分であるというわけです。

なお、首の座については、もはや問題外で、日蓮自身が子細あって実施されなかったというわけで、光り物等という話は論外です。


日蓮が否定したのは、法華経と大日経、釈迦と大日如来の比較で、法華経を大日経より下し、釈迦如来を大日如来を下すことであって、真言教義を斥けたということではありません。故に鳳凰さんが引用するように、法華の開会の立場から不動・愛染を摂取されたということでしょう。

鳳凰さんに逆にお尋ねしますが、法華経にも、天台文献に見られない、曼荼羅・本尊・不動・愛染、大日を日蓮が用いられるのは、一体、何の影響でしょうか。

真言義以外の何が考えられるのでしょうか
この質問ひとつで、日蓮は真言教義を用いていたことは歴然としています。

過去の過ちを改められずに、自分の所属集団が過去にいってしまったことに縛られて、為にする曲論をしても進歩はありません。
創価学会は過去に戸田さんが「お肉牙は不思議だ。汗をかいて、脈をして、成長している」といってしまったのは事実でしょうが、それを語らないことで、なかったような方法を取ったり、過去50年にわたり、真剣に研究されてきた内容を自分たちの都合と会わないからといって、会内でしか納得されないようなことを言い出して、庇えば、かえって世間の物笑いになります。

もういい加減、創価学会をそのような狭い了見から解放したらどうでしょうか。

2712パンナコッタ:2006/03/21(火) 11:41:47
鳳凰さん、
弘安三年十月二十四日の上野殿母尼御前御返事は、身延に真筆などありませんよ。
・長存寺第二十六紙(異本の可能性あり)・小泉久遠寺第二十八紙・北山本門寺第二十九紙 最末部分の断簡のみで、
引用部分は欠損部分。

また、報恩抄も真蹟断簡分蔵で、・山梨県妙了寺二行・東京都本門寺二紙二十七行・高知県要法寺貼合二行
・東京都本通寺二行、対欠・京都府本禅寺六行。この他断簡、山梨県円実寺一行。身延本は曾存御書となっており、
これも引用部分は欠損部分となっています。

2713鳳凰:2006/03/27(月) 12:40:15
帰国致しました。遅レスで大変失礼致します。
ばたばたしおり、私が論議に入る事はご迷惑をかけてしまう気がしてます。
本当にすみません。

>なぜ、「身」の字に限って行っているのでしょうか。
●URLをご覧下さい。「身」「拝」「見」の3文字の比較がなされてます。
ちなみに鑑定時は全ての文字を真蹟より調査したようです。
その上で一般人にも分かりやすい物を記載されたとの事です。

【第13章】
http://www.houonsha.co.jp/nichisai/zuhan/index.html

>この記述が日蝕であるという仮定に基づくものですから
独歩さんが、「彰往考来さんが充分に反証した」とのご意見があった為、
日蝕の件を申し述べた次第です。確かに「日蝕」ではなく、「中間の時間」との
説が正しければ、日蝕についての北林氏論は不要になりますね。

>弘安三年十月二十四日の上野殿母尼御前御返事は、身延に真筆などありませんよ。
Webで確認しました。すみません。手元の資料が間違っていたようです。
ご指摘ありがとうございます。

尚、私は北林説が全て正しいとは思っておりません。戒壇本尊は偽物であると思ってます。
しかしながら「光物説」を否定し、幕府要人による仮託であるとする、
北林説は納得がいきました。

http://www.houonsha.co.jp/nichisai/020.html

しかしながら、学会では北林氏の私説は到底受け入れられないでしょうね。

2714犀角独歩:2006/03/27(月) 16:01:24

鳳凰さん

> 「身」「拝」「見」

これは、北林本について言ったのではなく、先のご投稿では「身」に限った転を申し上げたのです。
これで見ても、たとえば、「見」の字はよく類似していますね。
また、初期の日蓮書名の特徴である‘日’字を‘白’のように書く癖、また、‘大’最終画から連綿と記す癖など、日蓮の癖字を感見記は有しています。しかしながら、字体比較するのであれば、感見記が建長6年である以上、同時期の字、もしくは近くの字をもって行うのが常道ではないでしょうか。そのような方法がなされていない点を申し上げるために、わたしは安第1(文永8年)と安第123(弘安5年)の漫荼羅を並べ出し、この隔年の量漫荼羅の字体が一致しないことを挙げたわけです。

> …「中間の時間」…日蝕…北林氏論は不要

そのようになります。

> 幕府要人による仮託

これは、すでに高木豊師の秀でた分析があります。
そもそも、ジャンプしてあげられた部分には『御義口伝』が当たり前のように引用されています。感見記については、字体から偽書を談じるのは、まあ、よいとして、その他は、なんら真偽考証がなされないアンバランスさが、この書の証憑性をさらに低くしています。

> 学会では北林氏の私説は到底受け入れられない

別に学会ばかりではなく、日蓮門下一般でも、受け入れられないでしょう。

2715犀角独歩:2006/03/27(月) 20:43:06

【2714の訂正】

誤)転を申し上げた
正)点を申し上げた

誤)日蓮書名の特徴
正)日蓮署名の特徴

誤)量漫荼羅
正)両漫荼羅

2716鳳凰:2006/03/28(火) 11:43:33
>日蓮の癖字を感見記は有しています。
確かに癖字を有してますね。勉強になります。

種々ご教示ありがとうございました。

2717パンナコッタ:2006/03/28(火) 12:00:08
感見記の筆跡については、以前、独学徒さんが金沢文庫の円多羅義集と九字秘釈の比較・研究を
されていましたね。
これに関しては特に問題は無いと、思いますが。

2718独学徒:2006/04/29(土) 23:05:11

ご無沙汰しています。

既にご存知の方も多いと思いますが、日蓮宗総本山身延山久遠寺の藤井日光管長が辞任されました。
次期管長は5月11日までに選任されるそうです。

今月の大石寺での代替法要では、かの有名な秘仏「お肉牙」が披露されたそうですが、身延でも管長交代の時は、何か珍しいものでも出てくるのでしょうか?
一寸素朴な疑問を持ちました。

何かご存知の方がいらっしゃいましたら、御教示下さいませ。

2719みかん:2006/05/03(水) 18:16:06
みなさん、さわやかな晴天の下、意義ある5・3おめでとうございます(苦笑)

さて、まあ、どうでもいいといえば、どうでもいいことなんですが、
聖教新聞に於ける、法主の敬称についてです。
今日、久々に聖教新聞を入手して、読んだところ、
早瀬日如(義寛)現法主の呼称が「早瀬」となっていました。

皆さんご存知の通り、阿部日顕氏、日開氏などの呼称は
「日顕」「日開」と呼び捨て、
過去の経緯から嫌ってはいるが、日顕氏との対比上一応の経緯を払わな
いといけない細井日達氏の呼称は「日達法主」、
日寛など創価学会が敬意を示している法主は「日寛上人」と
上人をつけるというルールのようです。

ですので、「早瀬」と姓で呼ぶのは極めて例外的で、はじめての
ケースなのではないかと思うのですが、これについて
みなさんは、どのように分析されますでしょうか。
小生は、早瀬氏に対する評価を定めず、将来、肯定も否定も
できるようにとのスタンスから来た新呼称かと思いました。
あいかわらず、日蓮正宗のことは「日顕宗」と呼んでいるようで、
「日如宗」とはなっていないようです。これも、将来、
すべての「悪行」の責任を、日顕氏のみに負わせるためかと思いました。

2720犀角独歩:2006/06/03(土) 12:18:15

パンナコッタさん、他 諸賢

『如説修行鈔』は、正信会の御書検索システムでは、どんな分類になっているのでしょうか。要するに、真偽度の判断です。

ご教示いただければ有り難く存じます。

2721独学徒:2006/06/03(土) 13:58:11

犀角独歩さん、こんにちは。

『如説修行鈔』は、正信会の御書検索システムでは、一応「5」=興門上代諸師(ここでは日尊師)の写本あり。というあつかいになっています。

「一応」としましたのは、同抄解題で興風談所は、この日尊写本の筆跡は日尊師の通常の筆跡とは異なっているとの見解を示しているためです。

2722パンナコッタ:2006/06/03(土) 15:51:35
独歩さん、独学徒さん、どうも。 該当部分をコピペしてみますと、

【伝『日尊本』、茨城県富久成寺蔵。『日朝本目録』『平賀本目録』『刊本録内』等所収。
『日尊本』を「伝」としたのは、本写本は途中から(『定本』773頁「問云、如説修行の行者と申さんは」以降)
字体が変わっており、一筆でないことが挙げられる。全般的にいえば前半にくらべて後半は字が角張り
しかもやや右上がりである。ことに「修」「御」などに違いが顕著である。また、伊豆実成寺蔵、日尊筆
「日印への日興本尊等授与書」に見られる署名と本書奥の署名は著しく異なっている。
故に今は一応「伝日尊」としておく】(御書システム解題より引用) となっています。

しかし、富士年表に見るこの時期の日尊による各寺院建立は、ホントかいな? と思える
御開山上人伝説的なものを感じますね。
こうした流れの中に、修行抄が位置づけられたのかもしれません。

2723犀角独歩:2006/06/04(日) 12:02:35

独学徒さん、パンナコッタさん

有り難うございました。

‘5’というのは「上代諸師写本現存までが、一往信頼度の高い基準となるべき御書」ということで、しかし、従来、この書写は日尊とされていたが、一筆ではなく、どうやら、そうではないようだというのが、正信会の見解と言うことなのですね。

2724れん:2006/06/10(土) 17:42:27
独学徒さん・パンナコッタさん・犀角独歩さん。             
冨久成寺の修行抄は日尊本ではなく、伝日尊本で、まあ偽書とみて間違いないもの
ですね。と言うことはこの書を典拠として、日蓮の摂折論を云々することはナンセンス
に属することですね。御教示参考になりました。                           
しかし、ここまで文献を精査している正信会が、彫刻を後世の偽作と論証
しないのは、何故なんだろうかと、部外者の私も素朴に疑問に思います。

2725犀角独歩:2006/06/10(土) 18:01:04

れんさん、有り難うございます。

不思議ですよね、本当に。
「真偽をはっきりしてください」というと、「ご希望に添えません」ということでした。

わたしが正信会の於いて、いちばん、問題なのは、このような体質と、もう一つ加えれば、何ら確たる教義を持ち合わせていないことでしょう。

まさか学術的な地位、将来の石山の地位を得ることが目的なのかと言いたくなる体たらくです。

2726犀角独歩:2006/06/11(日) 12:21:58

お薦めスレッド445
独学徒さん

こちらに移動しました。

> 拭き掃除を行った彫刻が偽物

これはまったくそのとおりですね。
わたしは一度、正本堂でこの様を見ましたが、日顕氏がこの彫刻の前に立ち、湿らせた紙を一拭きしては次々と取り替えいきました。一度拭いてはぽいと捨て落とす繰り返しといった具合でした。けっこう、力を込めてやっているという印象で、拭くとしばらくその部分が塗れているのはわかりました。
鑑識眼があり、登座以前から偽物であるといっていた日顕氏が拭き、それが御秘符となっていくというのは、いま考え直すと、独学徒さんの憤慨は尤もだと思います。

> 『御秘符』…どのくらいの金額が必要

これはどうなのでしょうか。
末寺を通じて、本山に上げる「供養」ということなのでしょうが、特に決まりはなかったように思います。皆さん、それなりに出すのだろうと思います。

れんさんの「プラシーボ効果」というご指摘を読んで思い出したのですが、飲むのに当たって「最低1時間唱題してから」という‘ご指導’の伝言があったような記憶があります。

2727独学徒:2006/06/11(日) 13:32:39

犀角独歩さん、

>飲むのに当たって「最低1時間唱題してから」という‘ご指導’の伝言があったような記憶があります。

なるほど、このような使用上の注意まであったのですね。

れんさんご指摘の「プラシーボ効果」とその処方のあり方については全否定するつもりはありませんが、「拭き掃除に使った紙切れ」ではなく、もう少し別な口上はなかったのかと思います。
しかし、反面、そこまであの彫刻が信仰されていたという事実を物語っていますね。

2728藤川一郎:2006/06/13(火) 16:19:03
実は御秘符が「戒壇の御本尊をお拭きした布」だと言うのは違うそうです。
ある檀家さんの話では、御秘符を作成するための本尊が相伝され、その前で祈念の上、下されるそうです。
その元は秘伝であるから、明かせないが、少なくとも前記のような物ではない。
元々、大石寺で正式に「御秘布は戒壇本尊を拭いた布が元」とは言っていないようです。
公式な書籍でも「御法主上人に相伝されたもの」とはありますが、前記のような説明は一切ありません。
但し、その虚報が元に創価学会の板本尊を拭いた布で「御符」なるものが作られた事実はあるようですが。

2729藤川一郎:2006/06/13(火) 16:30:34
>>2726
>>飲むのに当たって「最低1時間唱題してから」という‘ご指導’の伝言があったような記憶があります。

日蓮正宗教師必携には
『手を清め、願主の仏壇に護秘符をお供えし、十分なる唱題の後、盃に清水を汲み、御秘符を浸し、薬指にて御秘符の紅を静かに溶かし、その水を病人に飲ませる。病人が重体で飲むことが困難な場合は、清潔な脱脂綿等に浸して、病人の唇を潤すように与える。また、病人は心中に題目を唱え、御本尊の御加護を祈念することが肝要であり、またそのように助言することが大切である。残った御秘符の用紙並びに包み紙は粗末にならないように火中にする。』
とありますので、大体そのような指導はあったと思います。

2730藤川一郎:2006/06/13(火) 16:32:40
2828
訂正します。
布→紙
ですね。

2731大縫薫:2006/06/13(火) 17:35:47
古来よりの秘符は楮紙(現代では薄い)に紅で中央に首題が染筆され左右に
不動・愛染が首題と梵字の間に病即消滅・不老不死となっています。
石山は板御本尊を拭いた紙を細かく切り護符と伝承し、その他の興門諸山は
略字本尊の形態になります。

2732犀角独歩:2006/06/13(火) 18:17:45

藤川さん
大縫さん

正確な所伝をご教示いただき有り難うございました。
わたしがもらった秘符はしかし、そのような体裁になっていた記憶はありません。

また、先にれんさんも日朗代筆真筆であることを示してくださった伯耆書と何故齟齬があるのか、その疑問は解消しません。

2733とんび:2006/07/05(水) 20:57:36
みなさん、こんにちは。
「法華経について」から、こちらに移動しました。
 病院で会った、法華講員の方の話です。

 彼は、
 阿 のく 多 羅 三 みゃく 三 菩 提      の脇に
地獄 餓鬼 畜生 修羅 天 人 声聞 縁覚 菩薩 仏 と書いてくれました。

 私の、うすら覚えでは、「あのくたらさんみゃくさんぼだい」は、十界を顕している
とか、十界が含まれている・十界を意味している...というような話をしていました。

 彼の凄いなと感じた一つに、「薬王菩薩本地品」を読んで、感動のあまり、実際に自身
の肘を焼いたというのです。実際にやけどの後を見せてもらいました。
 
 また、法華講員とはいうものの、独自教学で学んだような感じでした。
 とにかく、法華経を繰り返し何度も読んだとのことです。法華経を2冊持っていて
るらしく、もう一つの法華経は、ボロホロになっている...と話されていました。

 私は、経文には、全くうといのですが、彼は、法華経以外の経文のことやバラモン経典
のことまで、話してくれました。
 いろいろと法華経について教えてくれました。忘れたことが多いですが。

 彼の話を信じているとか、いうことではなく、こういう人もいるのだなあ...という
ことで紹介したいと思いました。
 まだ、つづきがあるので、後ほど紹介します。

2734今川元真:2006/07/07(金) 12:09:07
西明寺入道時頼殿が、 日蓮聖人を「三国比類無き妙法、後代ありがたき尊僧なり」と語ったのは、事実なのでしょうか?

2735れん:2006/07/07(金) 17:53:58
>2734
真偽は判りませんが、たとえば保田妙本寺さんにある“城佐兵衛奉書”の写本に「頃年数多真法の威力、御感尤も深し、三国比類無き妙宗・後代有り難き尊僧、何れの宗か之に比せん、日本国中に於て宗弘妨げ有るべからざるものなり、仍て執達件の如し。文永十一年五月三日 城佐兵衛奉 日蓮大上人」
という古文書があります。今川さんが仰っているのは、この文書の内容ですね。この文書は、最明寺入道時頼の時代ではなく、その子北条時宗の時代に設定されてます。
蓮師は御真蹟断簡によると大学三郎を通じて城佐兵衛=安達泰盛と親交があったらしいことがわかりますが、この古文書の真偽については私には判りません。

2736今川元真:2006/07/07(金) 19:42:24
遊撃インターネットと言う日蓮系サイトに(最明寺入道)時頼に感嘆されたと書かれてありました。不確かな情報なのにわざわざありがとうございました。

2737犀角独歩:2006/07/09(日) 06:43:22

『大日蓮』が株式会社になったそうです。

「宗教法人の出版事業のほうが税率が低いのに、何でこんなことをするのだろうか」とは、法律に詳しいこちらの常連さんの言でした。わたしも、即座にそう思いました。

三学無縁さんに訊くと、以下のような、類推見解を述べておられました。
参考になったので紹介させていただきます。

・『大日蓮』は元々、法道院で早瀬(道応)氏がやっていたもの。
・それを阿部氏が、石山宗務院内事部に移してしまった。
・この移動は、法道院と早瀬氏の知的財産権を奪った形である。
・今回、早瀬氏が登座し、亡き父の無念を晴らすため、株式会社にして、宗教法人大石寺と法的に分離したのではないか。

その狙いは、他にもありそうですが、なかなか興味深い分析であると思った次第です。ついで、法道院と阿部氏の確執について、話題は本尊問題に。

・以前は、大きな末寺では、版木で“本尊”を刷って出していたものだが、近代では、法道院が、これを法道院が一手に引き受けていた。ところが、『大日蓮』と共に、この印刷を、石山に移し、例のA印刷でするようになった。
・法道院は、『大日蓮』、“本尊”製造という、二大出版業務を早瀬(道応)氏の時代に取り上げられた…。

法道院と印刷出版は、早瀬道応(日慈)氏という立役者があってのことだったわけですが、ここで、三学さんは、もう一人を名指しします。浅井甚兵衛氏です。彼は、当時、有力な檀那であると共に、何より、印刷会社を経営していました。『日蓮正宗聖典』なども、彼の手による発刊でした。

現在、顕正会は、会館を各地に作り、そのたびごとに、どこからともなく、“本尊”を出してきては、入仏式を行っています。しかし、過去の発表では、“本尊”は8体しかないのであって、となれば、顕正会が“本尊”を濫造していることは、揺るがない事実であろうと観察できます。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1041207951/342

過去2回の、『諫暁書』?(こんなものの、どこが諫暁と言えるのか失笑の限りですが、それはともかく)の印刷・出版は、そして、一連の“本尊”濫造は、甚兵衛氏の時代に得たノウハウに基づくのかもしれません。

この妙信講の出版印刷権は、その後、創価学会に凌駕されていくことになります。照衛さんの池田氏への怨念は、実は、こんなところにもあるのでしょうか。

2738犀角独歩:2006/07/09(日) 08:22:55
【2737の訂正】

誤)近代では、法道院が、これを法道院が一手に引き受けていた。
正)近代では、法道院が、これを一手に引き受けていた。

2744管理者:2006/07/10(月) 07:12:47

当掲示板は言論の自由を謳ってはいません。ルールに基づかない投稿は当然のことながら削除されます。宜しくお願いいたします。

すぅさん、貴方の投稿は当掲示板のルールに抵触しますので、削除し、今後のご参加をお断わりいたします。

2745犀角独歩:2006/07/10(月) 07:17:34

2737の投稿は、特定団体への“攻撃”に当たるでしょうか。
素朴な疑問を選んで、載せたのは、そのような意見があるがどうであろうか、違うのであれば、どんな理由かわからないという疑問があったからです。
つまり、事実の提示があれば、事足ります。
この点の、管理者さんのお考えを拝聴したいと思います。

2746管理者:2006/07/10(月) 07:41:33

犀角独歩さん

該当する、当掲示板のルールの全文は以下の通りです。

2.富士門流の発展に寄与する論議をお願いいたします。
 ①富士門教義についての矛盾点の追求を、ダブー視しないでください。
 ②各々の所属組織のあり方についての議論をお互いに避けないでください。
 ③但し、特定の組織をターゲットにした、しかも、一方的な攻撃宣伝は慎んでください。

むしろ、今回のような疑問を提示することを、ルールは推奨していると考えています。

「攻撃」というのは、疑問の提起が行過ぎて、「一方的に捲くし立てる」という事になることを禁じているのみです。今回の疑問提起は、ルールに抵触しないばかりか、ルールが推奨している内容である考えています。

2747犀角独歩:2006/07/10(月) 07:55:09

管理者さん、ご回答、有り難うございます。

いつも、わたしがらみの問題の処置にばかり、労を執っていただき、恐縮しております。
今後ともご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

2748管理者:2006/07/10(月) 08:11:17

犀角独歩さん

>わたしがらみの問題の処置にばかり、労を執って

管理者の仕事です。そんなに気になさらないで下さい。

2749とんび:2006/07/17(月) 07:02:36
病院で、会った、法華講員の方の話のつづき...です。

彼は、十一界について、語ってくれました。十界については、広く知られたことであります
が、十界同様、ここでいう十一界についても、心(命)に具わる十一界としても解釈しても構わない
ものなのだろうと思います。

 とりあえず、ご紹介します。

 地獄界
 苦を以て地と成す。餓鬼を以て天と成す。

 餓鬼界
 飽きることを知らずを以て地と成す。愚かさを知らずを以て天と成す。

 畜生界
 愚かさ(血)を知らずを以て地と成す。怒り(修羅)を以て天と成す。

 阿修羅
 怒りの心を以て地と成す。人王(平らか)を以て天と成す。

 人界
 平らかを修行するを以て地と成す。神を以て天と成す。
 
 天界
 楽しみ・慈しみを以て地と成す。神霊を以て天と成す。

 声聞界
 音厚を以て地と成す。声を聞き、声を発するを以て地と成す。
 宇宙を以て地と成す。
 常楽我浄を未だ得ず、ただし妙法蓮華経を聞き、声で話すを以て天と成す。
 縁起を以て天と成す。


 縁覚界
 縁起を以て地と成す。
 この世の起こりは、互いに原因と結果が互いに起こると知るを以て地と成す。
 慈悲を以て天(菩薩)と成す。

 菩薩界
 人を救うを以て地と成す。ゆえに仏(南無仏陀)を以て天と成す。

 仏界
 菩薩を以て地と成す。
 抜苦与楽を以て天と成す。
 神(自然の時間)と諸仏を以て天と成す。

 諸仏
 諸仏・仏を以て天地と成す。
 常に、南無妙法蓮華経を修行する・修るを以て天と成す。
 未来を以て天と成す。

 彼の話してくれたことと、実際に書いてくれたことが微妙に違うので、正確とは、いえませんが、
通常の十界論に留まることなく、十一界論を論ずることが、まず、凄いなあ...と感じました。

 日蓮聖人が、松野殿御返事で十四誹謗を説かれていますが、心の状態を、いろいろと細かに分類すると
30界にも50界にもなってしまうのかもしれません。

 彼の十一界論を元にすると、十一界互具で、一念三千六百三十、になるのでしょうか。

 とにかく、十界論とは、誠にうまく簡略にまとめたものだと思います。

 まだ、彼の話をのちほど、別スレッドにて紹介したいと思います。

2750れん:2006/07/19(水) 19:54:44
とんびさん。
とんびさんがお会いになった法華講の方のお話の内容のご投稿、興味深く拝見しました。
ご紹介の法華講の方のご見解を読みまして、ふと初期興門の伝・三位日順文献“従開山伝日順法門”に
「私に云く、無作三身と云ふ事・土岐には煩悩苦の三道にて授らるなり、迷即三道の流転・悟即果中の勝用と云ふ釈にて意を得べきなり、只法躰自爾にして三諦融妙にして已と現する所をやがて其まま相応するを以て無作の三身とは申すなり、地躰無作と云ふ重には三身と云うべきも無きを爾前迹門の有作の三身に対して無作三身と云ふ文なり、又此三身とは十界の三身と口伝するなり、仏界は法身中諦なり、六道と菩薩界は仮諦なり、二乗は応身空諦なり、迹門の三身は法身は中・報身は空・応身は仮なり」とありましたのを思い出しました。
初期の富士にては、所謂る十界を“三身”に配当していたのが興味深いですね。
無作三身なる成句は、蓮師・興師の正文書には使われませんでしたが、比叡山に遊学した順師により初めて使用され、以後の富士の門弟はこの成句を使うようになり、その使用が一般化したのでしょうか?
まぁ、呟きに近い、素朴な疑問でした。

2751とんび:2006/07/29(土) 23:57:44
れんさん、コメントありがとうございます。
無作の三身については、何度も聞いている語句で、私自身解釈も読んだことがあると思いますが、
あらためて岩波仏教辞典を開いて、読んでも、簡単に理解できるものではありませんね。

 彼は、ただひたすらにお題目を唱えて、得た知識(覚り・解釈)、また、ただ繰り返し、法華経を
読んで得た、智慧・知識なので、それなりに説得力がありました。
 中学時代には、御書や経典を既に読んでいたようで、おそらく、法華講員の家に生まれたのです
から、幼少・小学生時代から御書や経典には親しんでいたと思われます。

 彼の、十一界論は、各界が天地で表現されているので、教学的には、二十二界論ともいえるのかな
..と思います。
 彼曰く「仏界の上に、実は諸仏(諸仏界)があるんだ」という、指摘には、正直、「おみごと」と思
いました。柔道でいう「技あり一本」という感覚でした。

 また、彼は、菩薩の中では、弥勒菩薩が最高の菩薩である..なんても言っていました。いろいろな
菩薩に、一番とか二番とか、格付けするのもどうかと思いますが、理由は、法華経寿量品で、弥勒菩薩が
願主となっているから..というようなことを言っていました。
 彼の、頭の中には、弥勒菩薩=上行菩薩 という概念があったかもしれません。

 余談ですが、彼は、大変頭が良く、将棋世界という全国紙の詰め将棋の当選者に名を連ねるなど、
めっぽう将棋が強く、また、簡単に、難しい詰め将棋を作ったりしていました。

 十一界の各界の説明は、若干訂正を加えた方が良いと思いますが、それは後ほど。
 また、ひとつ、彼の話を紹介したいと思います。

2752とんび:2006/07/30(日) 00:05:44
 別、スレッドに書き込む予定のものは、後回しにしました。

 こんなことが、どれだけの意味があるのか、どうでも良いことかもしれませんが。

 お題目について、本来、南無妙法蓮華経 というのが普通で当然なのですが、
 彼は、「本当は、南無妙法蓮華法経なんだ」とも言っていました。蓮華と経との間に
「法」が入るのだと...。

 南無 妙法 蓮華法 経 と、いうことでしょうか。
 
 わたしは、教学的知識がないので、知識のある方には、なにか意味がある・ない
と、思う方がいるのかな..と。

 とりあえず、ご紹介しました。

2753とんび:2006/08/12(土) 02:43:30
おめめ汚しというか、とりあえず紹介しますす。
まあ、どあでも良いことと思いますが。
彼は、先の「南無妙法蓮華法経」他に、仏の十号ではないでずか、いろいろな
呼び方がある、と補足してくれました。

南無妙法蓮華王経
南無妙法如蓮華経
南無妙法大蓮華経
南無妙法即蓮華経
南無妙法仏蓮華経
南無三妙法蓮華経

こんなことを、とらえる人がいるということで紹介しました。

結局のところ、南無妙法蓮華経で、充分だと思います。

2754とんび:2006/08/12(土) 03:28:33
十界論について。
以前、仏界の上に、諸仏をいれて、十一界を顕して、おみごとと称しました。
その際、実は、12界以上のことにも触れていました。
以前、12界以上は、唯仏与仏乃能究尽の世界とおっしゃっていましたが、
以前彼の家にお邪魔して、まだ電話で話をして聴いてみました。

ところが、あっさり12界以上にも触れてくれました。

12界 南無妙法蓮華経(界)
13界 生死の世界(言葉にするのが非常に難しい世界)
14界 唯識の7識 末那識
15界 唯識の8識 阿頼耶識
16界 唯識の9識 阿摩羅識

17界以上はあるかね、と聴いたら、多分無いだろうということでした。
16界というのは、彼曰く、法華経寿量品16とつながりがあるとかないとか。

17界ことは、それこと唯仏与仏の世界では無いかと、問いたけど、まあそれは、
それこそ、いわゆる絶対無、無の世界では、なかろうか、などと話をしました。

 12界の南無妙法蓮華経界、て終わりにするとと、なるほど..などどかんじるのですが、
13界が、とても微妙なのですね。
 生と死、相反する世界が互いに、表裏一体をなし、くるくる常に変化する世界だと。
 たとえば、光と闇とか、仏と地獄とか。とてもうまく言葉には、できません。

 彼曰く、12月を過ぎると1月になるように、はじめの状態、赤ちゃんの世界にもどる
ようなもの、みたいのことを言っていました。死の苦しみ、生の苦しみ。

 12界の南無妙法蓮華経の世界は、どちらかというと、大歓喜(悟りの世界のようなもの)だったと思います。
 しかし、一転13界は、どちらかというとも苦の世界ともとらえられるようでした。
 この13界の表現が非常に難しい。

 14界以降は、みなさんご存じの唯識の世界ですね。なんだか、とって付け足したようにも
感じられます。

 12界までだと、なるほど..なんて感じますが16界となると、どうでもいいいやなんていう
気分にもなってしまいます。

 私は、提案で、10界から16界までは、総じて仏界と称しても構わないのではないかと提案
しました。彼は、それでもいいかもね。なんて言っていました。

 ただ、この16界論は、以前昔、彼がお題目を唱えていたときに、智慧を得た(悟りを得た)時の
ことてで、いまは、悟りなどえ得ていないので、昔の記憶をたどり、かろうじて表現してくれたものです。

 とにかく、常識にとらわれない、彼の話には、敬意を表しています。
彼の家に行くと、母に熱心に、日蓮正宗に勧誘されるのが頭のいたいところです。

 まあ、十界でも12界でも16界でも、なんでも分類上のことで、どうでも良いこと
ではないかと思います。
 
 てもさすがに、仏界の上に諸仏界を表したのは、おみごとと思います。

 とりあえず、ご紹介まで。

2755とんび:2006/08/14(月) 03:19:04
訂正です。
現在、早朝から夜まで仕事に追われ、ネットで発言する余裕がありません。
ましてや、カナ入力という、遅いタッチで、発言に時間がかかっています。
2754の発言を、チェックしたところ、多数の誤字が見つかりました。

「す」を「すす」とか、たとえば、「た」を「だ」とか、「そ」を「と」か、多く
間違えています。一つ一つ訂正する余裕がないので、文脈の流れの中で、読んで戴ければ
幸いです。また、深夜ということで、上手に言葉をまとめることが出来ませんでした。

2756きゃからばあ:2006/08/24(木) 09:59:33

昭和40年代の達師の特別御形木御本尊ですが、
柳澤宏道氏の『石山本尊の研究』または『日蓮正宗本尊の考察』を見ると、「昭和41年1月1日」の日付ですが、私の実家の本尊は「昭和41年1月7日」の日付です。
以前、週刊誌に「聖教新聞社の地下で作られた…」なんて話題になりましたが、なぜ「昭和41年1月1日」の物と、わずか6日後の「昭和41年1月7日」の物があるのでしょうか?
やはりどちらか(たぶん7日)の物は地下で作られた物なのでしょうか?
もし両方とも達師の書写ならば、なぜ1週間の間に2回も書写したのでしょうか?
ご存知の方、ぜひ教えて下さい。

2757独学徒:2006/08/24(木) 10:21:21

きゃからばあさん、こんにちは。
詳しい事情はわかりかねますが、以下の掲示板に「昭和41年1月7日」の写真が出ていました。

http://6001.teacup.com/qwertyui/bbs

2758れん:2006/08/24(木) 11:17:09
達師の御形木御本尊についてですが、我が家にあるのも昭41年1月7日のもので、こちらが特別御形木です。1月1日のものは、私が見たものは同じ相貌ながら当時の一般信徒へのものらしく、大きさも1月7日のものより小型でしたし、表装も地味なものでした。
信濃町云々の疑惑のあるのは無論1月7日の特別御形木でしょう。家に安置しているのは、疑惑品か正規のものか、少し気にはなりますね。

2759犀角独歩:2006/08/24(木) 17:22:56

きゃからばあさん
独学徒さん
れんさん

話題の2種の本尊については、れんさんが仰るとおりです。
わたしの親が正本堂供養のあと、下付された漫荼羅本尊は1月7日で、わたしが中学の時、分世帯として受けた漫荼羅本尊は一般下付の1月1日です。
大きさは前者が大きく、後者は小さく、もっとも大きな相違は、愛染の筆法です。「特別御形木本尊」は、彫刻本尊のそれと酷似して書かれていますが、一般向けはそうなっていません。

謂われるところの疑惑とは『福田』第2号に載った記事のことでしょうか。
というより、『夕刊フジ』平成2年4月8日号に掲載された記事等のことでしょうか。この紙面に街頭の1月7日特別御形木の写真も載りましたね。

2760犀角独歩:2006/08/24(木) 17:27:39

【2759の訂正】

誤)街頭の
正)該当の

2761犀角独歩:2006/08/24(木) 18:02:40

れんさん

特別御形木の全画像の表示は控えますが、以下の図の如くの差です。
右が特別御形木、左が一般下付用です。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nittatu0101_0107mandarahikaku.html

2762れん:2006/08/24(木) 18:05:24
犀角独歩さん
当家に安置している達師の特別御形木は、父が正本堂供養のあと、下付されたものと聞いております。この我が家の形木の下付が寺院からか学会組織経由(疑惑付き?)からか、もう三十年以上前のコトで父の記憶も定かでないので何とも言えません。
もっとも、この地下云々の疑惑につきましては、私の生まれる前のことでして、リアルタイムで接したわけではないので分かりませんし、福田やフジの記事を読んでないので、詳しいことは存じ上げません。この辺のこと、真相はどうなんでしょうか?

2763犀角独歩:2006/08/24(木) 18:25:03

れんさん

わたしは、この時代をまさにリアルタイムで生きました。
南条白山は、かつて文通議論をしたこともあります。
所蔵の創刊号と第2号は、その当人から、直接、購入したものです。
また、わたしの手紙の文面を断りもなしに、週刊誌に載せられ、抗議をしたり、さらに故福島さんとの関係を記したので、その内容を当人に確認したところ、事実と相違したので、その旨を抗議したこともありました。

特別御形木疑惑、取り敢えず、日顕さんはその事実を否定したことがあったと記憶します。しかし、実際のところ、数が合わないわけです。

また、当時、寺院からではなく、学会本部から直接、下付された特別形木の表装を外して、調査した御仁が正信会かいずれかの所属であり、裏打ち紙に、新聞紙が使われるという杜撰な現物写真が週刊誌に載ったこともあります。

記事では、石山の形木本尊の裏打ちに新聞紙など絶対に使わないので、これこそ、偽物の証拠であるという論調で、わたしも「なるほど」と思ったのですが、三学無縁さんによれば、「石山本尊、そんなにちゃんと造ってあるの?」と疑義を示されて、「うーん」と唸った経緯もあります。

追って、夕刊フジ、『福田』などもアップしようとも思っています。

2764独学徒:2006/08/24(木) 18:35:56

犀角独歩さん、こんにちは。

れんさんやきゃからばあさんご指摘の、地下室云云の話は私は詳しく知りません。
興味がある内容なので、差し支えなければ、もう少しお教え願えませんでしょうか。
学会本部の地下といえば、地涌会館だと思いますが、そこで製版印刷作業が行われていた可能性があるということでしょうか?

私の地元の学会中心会館には、達師曼荼羅が二幅ありますが、そのうちの一つは主題(特に「経」の字)が彫刻そっくりです。
願主は「池田大作」となっています。
これもまさか、所謂「正本堂賞与本尊」を製版印刷したものだったりするのでしょうか。

2765れん:2006/08/24(木) 23:49:52
犀角独歩さん
なるほど、確かに、一般下付の元旦のものと特別形木の七草粥の日のものの両漫荼羅は、勧請諸尊と座配は全く同じながら、愛染の筆法がちがいますね。特別形木のは現彫刻本尊のそれですね。
話はややずれますが、私が所属していた地区の会員宅の達師形木本尊は、私が脱会する以前の記憶をたどりますと、一般下付の1月1日のは軒並みあの寛師のラミネート形木に取り替えられてましたね。1月7日の特別形木の方は、三年前も地区幹部宅にあったのを記憶してますので、案外現在も取り替えられずに残っていると思います。
福田・夕刊フジのアップ期待しております。

2766彰往考来:2006/08/25(金) 07:33:18

>2765 れんさん

>一般下付の1月1日のは軒並みあの寛師のラミネート形木に取り替えられてました
これは場所により異なるのではありませんか。ちなみに私の地域ではそんなことはありませんよ。軒並みあの寛師の御形木に取り替えられたのは顕師の御形木で、今では顕師の御形木は創価学会員宅ではまずみられないでしょう。
ちなみに私は今でも一般下付1月1日の達師の御形木です。寛師の御形木に取り替えるのですかと学会幹部に聞いたことがあるのですが、イヤ、別にいいよということでした。ですから今でもかなり残っているはずです。顕師の御形木の場合も本人さえ納得していれば取り替えないということでしたが、ご案内のように創価学会は顕師を相当攻撃していまして、創価学会員でありながら顕師の御本尊を拝むのは自己矛盾しているというか、顕師の御本尊を拝みたくないという意見が相当強かったので、むしろ積極的に取り替えましたね。なお私の両親宅は1月7日の達師の特別御形木だったのですが、現在は寛師の特別御形木です。

2767れん:2006/08/25(金) 11:04:07
彰往考来さん
2766
>これは場所により異なるのではありませんか…

それは前提として十分承知しております。ですから、前置きに“私が所属していた地区の会員宅”と書き置いたわけです。
顕師のに関しては、私の所属していた地域の会員が所持していた顕師の形木や特別形木も、私の知っているかぎりのものは、(所持者の希望によるものや、会の指導によるものでしょうが)寛師の形木に取り替えられてましたし、地域の会館の本尊も、顕師直筆から、やはり寛師の形木にかわりましたね。脱会者の私としては、むしろ寛師のに取り替えられた後の、回収されたであろうこれら顕師直筆を含む本尊を、創価学会がどう扱ったのかに興味がありますね。
また、達師の特別形木に関しては、皆様が言われているところの“疑惑”が取り沙汰されている所ですので、ここらへんの真相も知りたいと個人的に思っております。

2768きゃからばあ:2006/08/25(金) 11:21:43

>2757

独学徒さん

写真のリンク、ありがとうございます。
あまりにも鮮明に掲載されていると、ちょっとびっくりします。


れんさん、独歩さん、

すると「1月1日」の物は、特別御形木ではく、「1月7日」の物だけが特別御形木として扱われているのでしょうか?
そして「1月7日」の物の中に、『MADE IN 地下室』と『MADE IN 法道院』があると考えていいのでしょうか?

それと当時の週刊誌に、「地下室で作られた物かどうかは僧侶が見ればわかる」と、そんなような文章があったような気がします。
やはり 『MADE IN 地下室』と『MADE IN 法道院』には見ればわかるような違いがあったのでしょうか?
いくらなんでも表装をはがしてまで確認はしたくないですから…。
ちなみに実家では「その特別御形木を下付されたのは会館で御供養も出した」と言っていました。(やはり『MADE IN 地下室』なのかもしれない…。)

2769犀角独歩:2006/08/25(金) 16:53:03

彰往考来さん、話題に上がっている日寛の特別御形木というのは、なんでしょうか。これも、1枚のペラ紙に表装の布模様までプリントして、脇書を消した印刷に軸ばかりを付けたようなものでしょうか。なんで、これを特別というのでしょうか。どんな資格者に頒布されたものでしょうか。

石山も、学会も、顕正会も、写真製版したものを御形木というのは、いい加減やめたらいいと思いますね。形木というのは版木をいうわけでしょうから、「御写真製版本尊」、さらに学会のものは布模様もプリントですから、表装とも言えないただ印刷でしょう。
ついでに著名な文章を敢えて、付しておきますか。

「御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由、諸方に其の聞え有り… 日興の弟子分に於ては…一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり」

御筆ではなく、歴代のものならいいというわけでしょうか。
「奉書写之」の四文字まで形木ならぬ印刷とは、嘆かわしい限りです。


れんさん、創価学会が回収した本尊をどのように扱っているか、これはたいへん興味深いですよね。『富士の清流』かなんかでは、石山で専用の焼却炉があって燃やしていることを批判しているわけですから、創価学会は、どのように扱っているのか、ちゃんと明示すべきですよね。


きゃからばあさん、概ねそのとおりです。ただし、MADE IN の件は、いまとなっては、藪の中。僧侶が見れば、わかるというのは、石山教師ならば誰でもということではないでしょうね。こちらでご投稿の大縫さんや、そのお知り合いの表具師Oさんならばわかるだろうというのが個人的な思いです。

ところで「地下室」というのは、いったい、どこからの情報でしょうか。わたしがこの話をリアルタイムで受け取った頃は、製造場所を特定した話は、少なくとも訊きませんでした。

2770大縫 薫:2006/08/25(金) 22:01:22
 今晩は、独歩さんの仰る通り御写真製版本尊と名称を改めるべきです。
形木本尊は全体に文字が薄く版木自体を所有する寺院も火災等の災害を受け
今では古刹寺院の一部しかなく、刷り損ミスで20枚刷っても1枚ぐらいしか
まともに刷れているのが無いと聞いた事があります。
 日蓮宗の宗定本尊も写真製版そのもので、形木とは言っていません。
往古の形木本尊は真筆本尊に比べても、技術が未熟な為に文字の位置がだいぶ
ズレていて真筆本尊の写しとは程遠い物です。
 御写真製版本尊のほうが、書写された方の筆法や文字のかすれが忠実な為に、
その時分の心境の変化がわかると思います。

2771犀角独歩:2006/08/26(土) 07:27:57

わたしが記すと、どうも舌鋒に鋭利となりますが、以下、学会を含む石山圏信念体系で生きてこられた皆さん、わたしと同様の過程にある方、事実に真正面から目を向けて考えてみませんか。

当掲示板の議論で、日蓮本仏論は後世の解釈教義であること、石山の唯授一人相承はあり得ないこと、さらに彫刻本尊は後世の模造品であること、この3点が概ね確認されてきました。

いま話題は、形木か・印刷かという流れになっていますが、もう一歩踏み込みます。「奉書写之」の‘之’は所謂「本門戒壇の大御本尊」であると、日顕さんは述べていたわけで、大方、石山圏の考えはこうなっています。この点は学会でも顕正会でも同様でしょう。とするとき、我々が石山・会信徒として貸下され、本尊として拝んできた印刷漫荼羅は、後世の模造品を写したものであるわけです。その本体を模造品として、斥ける場合、どうして、その写しを本尊として拝むことが出来るのかという疑問にぶつかりませんか。

問答さんをはじめ、皆さん、信仰の根源に立ち入った問題提議となりますが、お考えをお聞かせいただければ幸甚です。

2772問答迷人:2006/08/26(土) 07:59:17

犀角独歩さん

日顕師の、『「奉書写之」の‘之’は所謂「本門戒壇の大御本尊」である』というのは、苦し紛れの言い訳であろうと思っています。戒壇本尊を書写したのなら、「二千二百二十余年」と写さなければ、誤書写です。ところが顕師は三十余年、と認めています。

書写は、相伝にしたがって行われてきた、と言うのが真相であると考えています。もっと判りやすく言えば、歴代の書写に倣って、或いは言い伝えに則って、行われているのだと考えています。

これは、何も日蓮正宗に限らず、日蓮宗各派も同様ではないのでしょうか。

詰まるところ、蓮師の曼荼羅に倣って、そして、伝承によって行われているのだと考えています。

大石寺の場合は、途中、戒壇本尊が作られてから、戒壇本尊を書写する、ということにされてきたけれども、実際には、戒壇本尊を写さずに、従来通り、模倣・伝承によって行われているのだ考えています。

つまり、否定されるべきは、『戒壇本尊』と、『戒壇本尊を書写するという説明』なのだと考えています。大石寺から貸下された曼荼羅を拝む事は、このような理由から、何ら問題なく、蓮師の教えに随ったものだと、僕は考えています。

2773犀角独歩:2006/08/26(土) 08:08:33

問答さん、早速のレス、有り難うございます。

たしかに「内証を写す」云々といった苦し紛れの言い訳はありますが、少なくとも書写した本人にそのような意図があった場合はどうでしょうか。
わたしからすれば、こんな苦し紛れの言い訳をするという邪心に基づいて書写された漫荼羅が、正直を基とする日蓮信仰の本尊となり得るとは考えがたいのですが、この点は如何でしょうか。

また、「日蓮宗各派も同様」という点は、まことにそのとおりであろうと拝察するわけですが、そうなると、漫荼羅を本尊とするとき、何も石山のものに限らず、他日蓮門下僧侶の書写ものであっても、なんら差し障りがないというお考えでしょうか。

2774問答迷人:2006/08/26(土) 08:22:18

顕師に聞いてみなければ判りませんが、少なくとも、顕師は戒壇本尊を写すという意図を持って書写してはいない、と僕は考えています。戒壇本尊が偽物で有る事は、顕師の言によって明らかになったことでもあり、三十余年、と認めたところにも、戒壇本尊を書写するのではない、という意図があったと考えています。

他門下僧侶の書写した曼荼羅も、顕師同様、蓮師曼荼羅の模倣、或いは伝承に基づくものであれば、何ら問題ないと考えています。

2775犀角独歩:2006/08/26(土) 09:56:31

他門下書写漫荼羅に関するご見解は、わたしも同意見です。
重ねて、お尋ねします。

日顕氏が彫刻本尊を写した意図はなかった点は、もとより、これが後世の模造品であると知っていたわけでしょうから、内心・本音ではそうであったでしょう。しかし、建前としては之を「本門戒壇の大御本尊」としていたのであって、この点は、日寛以来の、石山の、本尊書写の有様ではないでしょうか。

もし、彫刻本尊を写したのではないとすれば、では、この「書写」というとき、その原本はいったいなんでしょうか。石山門下にあって、これを彫刻本尊としなければ、日寛以来の教義は、齟齬を来します。

またたとえば、いま、話題になっている「特別御形木本尊」は、讃文、また、釈提桓因を帝釈とするという多少の出入りはあるものの、明らかに彫刻を模しています。既に先に指摘しましたが、「特別御形木」の愛染は、彫刻本尊を模していますし、また、独学徒さんが指摘されたとおり、「經」の、特に糸偏は、その形を模していることは、日達さんに限りません。(この点は追って、また、図形鑑別で示そうと考えています)

決して、言葉尻を取るわけではありませんが、問答さんの論法と、石山における既成事実を併せ考えますと、彫刻本尊を写したのではない日顕氏本尊は門下の書写慣習を妥当に引き継いだものであるけれど、日寛以来日達氏に至る書写本尊は彫刻本尊を写したものであるとなりませんか。

2776問答迷人:2006/08/26(土) 10:22:10

>この「書写」というとき、その原本はいったいなんでしょうか。

実は、これは、法華経に説かれるところの、五種の修行の書写ではないでしょうか。その意味では、蓮師が曼荼羅を認めるのも、書写なんだと。
そうすると、原本は、「上行所伝の妙法蓮華経の五字」という事になりますね。

>日寛以来日達氏に至る書写本尊は彫刻本尊を写したものであるとなりませんか。

戒壇本尊が偽物、との認識が無かった訳ですから、書写は戒壇本尊を模倣した形になったのだと思います。ですから、それは、戒壇本尊の写しという事になりますね。

2777犀角独歩:2006/08/26(土) 10:55:37

いま、ここで、わたしが示す疑義は、既に柳澤師が『石山本尊の研究』で述べています。

日顕氏が本音は、ともかく、以下のように発言し、それを「日蓮正宗創価学会」として両宗教法人が認める出版物に掲載された以上、これは石山・学会とも、公式見解と見なせることになります。

「抑も当山より授与するところの御本尊は、末法の一切衆生に御総与遊ばされたる此の大御本尊の御内証を、代々法主唯授一人の相承を以て、之を写し奉りて授与せしむる」(御戒壇説法 写真集日蓮正宗創価学会32頁)

と、同書P116に紹介されています。
つまり、石山本尊は彫刻本尊を書写したという‘建前’を、実際の相貌との差異を「内証」と言いくるめて、信者を欺したものであるわけです。

石山歴代は、自ら本尊を書いているわけですから、それが彫刻本尊と相違していることは知ったうえでしょう。これが正直な本尊書写でしょうか。正直な信心をいう宗派において、不正直、換言すれば、嘘偽りを知ったうえで書き、印刷し、大量頒布され本尊とされたものに信仰的な価値があるのだろうか、というのが、わたしの問いかけです。

かつて敬台院は日精に腹を立てて、その本尊を拝むことを拒否したという逸話が残っています。いま、学会は、日顕氏の不相承を盾に、この本尊を拒否しています。このような感情論を信仰世界に持ち込んでよいかどうかは一考の余地がありますが、しかし、実際は彫刻本尊を写したものでもないものを「書写」と謀って信者会員に貸与された本尊の、信仰的価値はどうなのか、わたしは「ない」と思いました。
ただ、わたしの恩人の祖父、楠山日かん師は、問答を設けて

【問】その板本尊も、創価学会特定の印刷本尊も功徳利益があるというのですが、実際利益はありますか。

【答】利益―功徳はあるでしょうよ。元来、利益というものは自分の観念の上にとらえられるものですから、何宗でも利益はあります。「僕は利益をいただいた。罰が当たった」と素直に受け取る人が幸せなのです。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/n_kusuyama001.html

とも言い、一致派らしい、寛容を示されていました。
しかし、彫刻本尊以外は、たとえ御筆漫荼羅でもダメであるといってきた石山・学会においては、この論法は立たないでしょう。

なお、書写については、日寛も本尊抄文段に五種法師の「書写」を証とします。法師品に書写行とは法華経典を一字一字誤りなく正確に写すことを言うわけですね。経典に釈提桓因とあれば釈提桓因、それを勝手に内証を写すなどといって帝釈と書き換えてしまったり、二千二百二十を二千二百三十と書き換えてしまえば、これは誤写、改竄の責めは免れません。斯かる姿勢で書かれた漫荼羅は、正直な信心の、本尊とたり得るのかという疑義です。

たぶん、ここで、議論に参加され、日蓮本仏論が後世、中古天台本覚論・恵心流口伝法門の焼き直しで捏造されていったものであると知り、真蹟遺文に久遠元初、自受用報身という教義がないことに気付いた人々が、まず、捨てざるを得なかったのは、石山勤行の観念文だったのではないでしょうか。なぜ、捨てざるを得なかったのか、それが日蓮その人の教義ではないと気付いたからです。

同じことは本尊にも言えないでしょうか。彫刻本尊を書写したという本拝んできたわけですが、原本が後世の模造品であるとき、いったい、それをその書写(彼の言い分では内証?)したものが本尊たり得るかどうか、わたしは、このハードルを越えざるを得ないと思えます。

2778れん:2006/08/26(土) 11:23:38
顕師云々で思い出しましたが、かつて地域の会館にあった顕師直筆は「南無大迦葉尊者」「釈提桓因大玉」とあり、蓮祖直筆では、この勧請は弘安三年三月以降の御筆漫荼羅に見える特徴ですから、この顕師直筆は端的にいえば所謂彫刻本尊を書写したものではないということだと理解しました。上記の顕師直筆の相貌から、彫刻本尊の“内証”を写したというのはかなり厳しい言い訳に聞こえますね。

2779とおりすがり:2006/08/26(土) 11:29:17
参考までに石山における書写の原本は日興曼荼羅であるとかつて法道院法華講の人が言ってました
これなら写しの写しってことでとりあえずいいのがれOKかな
真偽は知りませんけどね

2780問答迷人:2006/08/26(土) 11:33:06

犀角独歩さん

>不正直、換言すれば、嘘偽りを知ったうえで書き、印刷し、大量頒布され本尊とされたものに信仰的な価値があるのだろうか

仰る意味、良く判ります。厳しく考えれば、その通りであると思います。そしてしかも、このハードルを越える事は不可能であろうと考えています。

実は、このような側面が有りますので、僕も何とかせねば、と考えてきました。明日、友人と身延山久遠寺参詣を計画しています。恐らく、日蓮宗の門を叩く事になるだろうと思っています。

2781れん:2006/08/26(土) 11:51:05
とおりすがりさん
初期石山(〜有師)の歴代貫主書写の漫荼羅は、目師のを除いて、日興師“書写”の漫荼羅であることは確認しております。
興師その人の十界広式のは公開されている写真によるかぎり宗祖・弘安元年八月のもの、それに提婆達多を加えたもの、弘安二年二月目師授与・弘安三年三月以降の宗祖漫荼羅を原本にしたものであることが伺えます。興師の場合、弘安年間の宗祖御筆を採用しているものの、時期により原本を変えている模様で、特定の原本を想定できないということだと思います。

2782とおりすがり:2006/08/26(土) 12:11:51
>>2781れんさん
なるほどありがとうごいます
その人が言ってたのは、信徒に下付のものは現在でも日興曼荼羅が原本ということでした
その話を聞いて、ここでも信徒差別かと当時思った次第
まあでも板曼荼羅の不正直と書写原本の件はちょっと別かと思ったので口を挟みました
ではまたロムに戻ります

2783犀角独歩:2006/08/26(土) 14:34:57

問答さん、そうですか、明日、身延へ登山でいらっしゃいますか。
もし、お時間があれば、お会いしたかったです。
残念ながら、石山漫荼羅本尊は、超えるべきハードルという点で、同一、方向である点が確認できました。

れんさん、ありがとうございます。やはり、弘安3年と言うところが面白いですね。結局、熱原と関連づける創作物語は弘安2年であるけれど、原本とするのは弘安3年というのは、興味深いですね。ご指摘の「南無大迦葉尊者」「釈提桓因大玉」は、日禅授与漫荼羅でもそうであることも指摘できますね。

2784問答迷人:2006/08/26(土) 16:17:30

犀角独歩さん

>もし、お時間があれば、お会いしたかったです。
すみません。日帰りの強行スケジュールです。今回は、時間の余裕がまるで有りません。

>石山漫荼羅本尊は、超えるべきハードル

そうですね、やはり、受持する曼荼羅に、曇りが有るのは、好ましい事では有りません。

たとえば、石山信徒が僕の仏壇を見たら、「あっ、なんだ、問答は石山信徒なんだ」と受け取るでしょう。そして、僕が戒壇本尊の写しを拝んでいると思うでしょうね。

出来たら普遍性のある形で、蓮師の教えに則った信仰をするのが望ましいと思います。

明日は初めて身延登山なので、くまなく拝観して来ます。その結果、次は、恐らく地元の日蓮宗寺院に参詣する事になるのだろうと思います。

2785一真法界:2006/08/26(土) 18:28:55
初めまして。皆さんよろしくお願い致します。
本当に素朴な疑問なのですが、ここに書き込みされておられる方々は、
どのような、ご本尊を拝んでおられるのでしょうか?
私は学会員なので、日寛筆の例のご本尊です。

2786れん:2006/08/26(土) 18:35:03
とおりすがりさん
2782
>信徒に下付のものは現在でも日興曼荼羅が原本…
なるほど、ここに、彫刻本尊の内証書写云々が、石山でも後世になっての新義であることがわかりますね。日興上人御本尊集で改めて確認しましたが、正応三年の目師授与のものは宗祖・弘安元年八月の漫荼羅が原本。正応四年と五年のものは目師授与の漫荼羅が原本。永仁四年の僧日乗授与は宗祖・弘安三年三月以降の十界広式を原本としており、正安・乾元年間は概ね弘安元年八月の宗祖漫荼羅を原本とし(但し六師の座配位置が若干異なる)、嘉元にはいると、これに提婆が加わり、嘉元二年八月十五日の書写漫荼羅にいたり迦葉・帝釈が「南無迦葉尊者」「釈提桓因大玉」と表記されるものがあらわれ、徳治以降はこれが大体定型化するというのが、興師書写の大雑把な流れですね。なお興師が弘安三年三月以降の宗祖の十界広式の特徴を書写した漫荼羅を書写したのは、写真が公開されているものでは永仁四年四月八日・嘉元二年九月八日・同年十一月三十日の三幅だけというのが、気になるところではあります。
犀角独歩さん
かつて、私が見た顕師直筆漫荼羅の勧請が迦葉・帝釈天の表記を含め日禅授与漫荼羅と同じでしたので、いま思いますと、ここに顕師の本音があったのかという感じが無きにしもあらずと言う感じですね。
私個人としては、聖僧の化儀を全うされている方の書写漫荼羅が望ましくおもいますが、僧侶の妻帯が一般化した今日では、無理な話でしょうね。というわけで、独歩さん引用の富士一跡門徒存知事の一節の精神には反しますが、現代では蓮師図顕の御筆漫荼羅写真製版を受持するという信仰形態も止むをえないとは愚考しております。

2788管理者:2006/08/26(土) 20:01:23

小心者007さん

2787の書き込みは、当掲示板の禁止事項「非礼」の侮辱表現に該当します。よって削除します。

【禁止事項】

2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。もし、そのような表現や発言が見うけられた場合は、管理者がその都度、御注意申し上げると共に、その該当する表現、発言を含むレス全体を削除致します。なお、管理者の制止を無視して、侮辱表現、侮辱発言を続けられた場合は、以後の投稿をお断りする事になりますので、予め、御承知置き下さい。

2789彰往考来:2006/08/28(月) 08:28:13

>2769日寛の特別御形木というのは、なんでしょうか

遅くなりました。親の家へ行ってしげしげと拝見してきました。

創価学会版寛師の特別御形木御本尊は和紙に印刷して表装してあります。ラミネート印刷ではありません。

ちなみに創価学会版寛師御本尊は5種類のサイズがあると思います。正確なところは解りませんが。全て原版は同じです。
5種類をサイズ順にあげると
①携帯御本尊(御守り御本尊)
②御形木御本尊
③特別御形木御本尊
④会館用(小)
⑤会館用(大)

このうち、④はちょっとあやふやなので折りをみて確認したいと思います。③より一回り大きいもので、個人会館や、文化会館の別室などに安置してあるのです。学会の大幹部のご自宅もこれだったような気がしますが、定かではありません。なにせみんな同じ相貌ですからあまり気がつきません。

③の配布基準ですが、決められたものがあるはずですが存知あげていません。創価学会版寛師の御本尊へのお取替えを実施した際には、従来の型式と同じもの(特別御形木ならこの型式)に交換されたと記憶しています。

2790れん:2006/08/28(月) 09:15:26
独学徒さんがご紹介くださったホームページに、石山日達師の昭和三十八年五月十五日書写の形木(写真製版というのが正しいですが、まあ従来の呼称で)の画像が掲載されてますね。こちらの漫荼羅を見て驚いたのは、柳澤師の「石山本尊の研究」に掲載された昇師筆漫荼羅と相貌が全同だったことですね。昭和三十八年の形木における迦葉の表記は「大迦葉尊者」ですが、昭和四十一年の二つの形木は「迦葉尊者」とあり、違いを見せています。また、昭和三十八年の形木は正像時(とされていた)の先師勧請は龍樹・天台・妙楽・伝教で南無が冠されますが、昭和四十一年の形木では天台・伝教だけで、しかも南無が省略されている違いがありますね。
昭和三十八年と昭和四十一年の形木で、諸尊の存没や表記の違いを見せるのは、やや気になる疑問ですね。

2791犀角独歩:2006/08/29(火) 14:38:19

投稿するところを間違えましたが、すぐにレスが着きましたので、そのままとしました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/2215

2792れん:2006/08/29(火) 17:52:12
犀角独歩さん
>複製が複製であることをしっかり明示する矜持が望まれますね…
まさに仰る点、それが、御筆複製の漫荼羅を受持する際の前提となるでしょうね。蓮師は「寿量品の肝心たる妙法蓮花経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしむ」(観心本尊抄・平成新修308ページ)といわれてますが、現実に蓮師は題目を中心とした文字漫荼羅という形で授与されたのですから、漫荼羅には“閻浮の衆生に授与せしむ”る寿量品の肝心の妙法蓮花経の五字としての意味合いがあったであろうことは一応の類推は可能と思います。
現在では聖僧は皆無といってもよいでしょうから、仰る点を明示したうえで、しかるべき寺院の住職の開眼による、本人が望む蓮師御筆漫荼羅の複製を受持するのが、現時点では妥当と愚考します。

2793犀角独歩:2006/08/30(水) 09:47:05

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/2221

上記から移動します。

独学徒さん
彰往考来さん
れんさん
ラキさん

> プラスチック製の携帯ミニ日寛曼荼羅…次回、オフ会等…持参

是非、見てみたいですね。

> 伝特別御形木の絹本日寛曼荼羅…10,000円

けっこうな値段を付けていますね。

> 某興門寺院より授与いただいた書写曼荼羅

これは、その寺院住職が書写されたものということでしょうか。

> 表装は自分で表具店に持ち込み行ってもらいました。

> …「常住御本尊」には二種類…法主上人猊下の直筆曼荼羅…板曼荼羅

つまり、「願主之」と略された仮本尊ではなく、願主・常住場所を記し、手書きされたものですね。これを原本として、末寺を通じて、石山、「法主」に許可をもらい板に刻むということでしょうね。最近は、余り行われないようですが、かつて学会系と目される石山批判で紹介されたように仏具店などで工賃を払って造ってもらい、それを開眼法要して本尊とするものでしょう。

この開眼ということですが、いまの石山では、いったん、俗人が手に触れたものは本尊ではなくなっているので、開眼供養をするというのがしきたりになっていますね。引っ越しや、仏壇換えの際も、故に坊さんを呼んで法要します。
学会はこの手のことはまったくやりませんね。仮本尊だからといえば、それまでですが、そもそもそんなやり方を学会幹部は知らない、知らないから、やんなくていいという得意の短絡思考でしょうね。

しかし、石山文献、たとえば、化儀抄注解なんか見ればわかりますが、この開眼に当たるのは、曼荼羅に、伝法「法主」が花押を書き入れることで、書き入れていないものが仮本尊ということになるわけでしょう。では、その仮は、末寺住職が書いたものでも、形木でもよいわですね。この花押が書き込んでもらうために、その仮本尊を持参して、石山に参詣したという歴史が看取できます。

この点は、現日蓮宗でも同様で、身延の売店で買った段階では、ただの美術品、それに所属寺院住職の裏書きをしてもらってはじめて、本尊となるとするわけですね。

2794犀角独歩:2006/08/30(水) 09:47:35

― 2793からつづく ―

> 聖僧無き現代

れんさんも、この点を仰りましたね。石山で聖僧というのは、女犯のないことをいうのでしょうね。しかし、これは遺誡置文出来た頃 …日興からどれほど、時間を隔てて、日興に仮託されて成立したのか決せませんが … その頃、既に聖僧と呼べるものがいなかったことは「先師の如く予が化儀も聖僧たるべし。但し時の貫首或は習学の仁に於ては、設ひ一旦の�h犯有りと雖も、衆徒に差し置くべき事」という段階で、この点は度外視され、「(文明八年土佐国吉奈)連陽坊聞書に云く、仰に云く・さて末法今時は悪心のみにして善心無く・師弟共に三毒強盛の凡夫の師弟相対して・又余念無く妙法蓮華経を受持する処を・即身成仏とも・名字下種とも云はるゝなり」というわけですから、となれば、日目以降、曼荼羅書写が聖僧でなければならないという名目は瓦解しています。

> 本尊を曼荼羅の中から選定…宗定本尊

わたしは、曼荼羅を本尊とするのであれば、伝師から、書写してもらうものがよいと思います。
御筆曼荼羅は、原則的に授与者が入っている、その授与者宛のものでしょう。それを自分用にすることは、仮のもの以上の意味を持たないからです。あと、本尊というのであれば、これは釈尊像が原則でしょうね。その派生として、四脇士を付すのが日興流。まあ、石山の影響を受けてしまうと、この日蓮の祖意は、素直に受け取れないフィルターがかかってしまうでしょうね。

敢えて、横道に逸れれば、しかして、本尊とは、本尊抄で見る限り、形に表したものそれ自体が仮のものなのでしょう。では、仮のものではない本尊とは何か、すなわちそれは、観心本尊 …心で観る本尊… であるというのが一抄の大意ではないでしょうか。

以下の、説明を、わたしは納得します。

「こゝにいふ「その本尊」とは、在世に於ける、仏所嘱の本門の題目そのものを指したものでもなく、また地涌の菩薩でもない。況や付嘱の儀相全体の場面を意味するのでもない。それは題目を八品に説いてこれを付嘱するところの本門の仏、即ち妙法蓮華経の教主釈尊たる本門の仏を指したものに他ならないのである。故に「その本尊の体たらく」とは、その形相の上からいへば、かゝる本門の教主釈尊が、その観心たる事一念三千の題目を説き給ひし時、釈尊会座の一同が釈尊に帰命し、その法を信受したる姿を現わしたのであり、これを内面的に見れば、一切が本仏果海の慈光に浴して、浄仏国土の姿を具現したものであるといふことが出来よう。換言すれば、それは信仰の世界に於ける理想境、即ち仏の境界を顕わしたものである。そしてかゝる儀相を図顕したのが、曼荼羅であるといへよう。そこで曼荼羅は、本尊の実体そのものを顕わさんとするものではないが、曼荼羅によりて顕わされるところの本尊の実体は、本化の四菩薩を脇士とする久遠の釈尊に他ならない」(『創価学会批判』P140)

つまり、己が心で観る本仏釈尊が本尊であるというのが、日蓮の祖意であることになります。

なお、わたしは本尊問答抄の真偽については、極めて慎重です。

2796犀角独歩:2006/08/30(水) 19:28:59

観心本尊という見地は、いったん、置くこととして、印刷、プリント、彫刻などが、信者各人に於いて、本尊として認知される条件というのはいったい何だろうか、と改めて考えてみたいと思います。

学会、顕正会を含む石山圏では、(1)「本門戒壇」の大御本尊の写しである (2)唯授一人血脈相承(したと信じる)者が書写したものである (3)自分が正当と考える団体から受け取ったものである といった条件がプリントを本尊と認知させる条件となっているのでしょうか。

たぶん、ここのサイトに書き込む方々は、最低限でも『御本尊集』は、所蔵しているだろうと思います。仮に所蔵されていなくても、図書館で閲覧したり、ネットで閲覧できます。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

しかし、これら‘画像’を本尊として拝む人はいないでしょう。
冷静に考えればわかりますが、石山から下付された本尊は写しの印刷であるのに対して、御筆本尊は日蓮その人の直筆です。石山歴代の書写物と比し、その価値は天地雲泥の相違があります。ところが、石山圏では、たとえ真筆であっても礼拝対象とはならず、上記、3項の条件を満たしたプリントのほうを本尊として拝むわけです。いったい、信者会員として、刷り込まれた本尊認知という心理操作は、どのような実体なのか、少し冷静に考えてみませんか。

2797独学徒:2006/08/31(木) 00:00:18

犀角独歩さん、

>けっこうな値段を付けていますね。

全くです。
それでも当時は「(3)自分が正当と考える団体から受け取ったものである」との信念から、なんの抵抗も無く支払いました。
これは短期間の系統的な刷り込み・心理操作ではなく、プリント曼荼羅を人に勧めるという行為の連続の中で、自らの手によって本尊認知を上手く進められてしまったのではないかと思い起こされます。
プリント曼荼羅を人に勧めると褒められる。そんな事の連続が、知らず知らずの内にプリントを本尊として認知するに至ったのではないかと思います。
しかし、犀角独歩さんはじめ、古くから石山信仰圏で信仰されてきたご経験をお持ちの方は、違った思いなのでしょうね。(1)(2)の事由によるところが強いのでしょうか。

>これは、その寺院住職が書写されたものということでしょうか。

はい。
私の個人名の入った授与書・為書が入っているため、非公開としていますが、確かに肉筆の曼荼羅です。

>御筆曼荼羅は、原則的に授与者が入っている、その授与者宛のものでしょう。

犀角独歩さん、私が「宗定本尊」と申しましたのは、所謂「臨滅度時漫荼羅」といわれるもののことで、こちらは特定授与者は無かったと思いますがいかがでしょうか。

2798犀角独歩:2006/08/31(木) 08:35:48

2797 独学徒さん

レス、有り難うございます。

> 古くから石山信仰圏で信仰…(1)(2)の事由による

少なくとも、わたしはそうでした。ですから、現在、このような漫荼羅を本尊を拝む人を批判して記しているのではなく、自身の過去の反省を皆さんとも考えたいという提案です。

> 私の個人名の入った授与書・為書…肉筆の曼荼羅

これは尊い、個人として、またお家に継承される宝物ですね。

> 「宗定本尊」…特定授与者は無かった

仰るとおりですね。わたしが先に記したことは、御筆全般にわたって申し上げたことです。誤解を招きやすい表現でした。お詫び申し上げます。

2799藤川一郎:2006/08/31(木) 12:06:11
>>2796
実は上記文章を読みまして、一見正しいと思ったのですが、何か違和感を感じました。
まず、元々在家信徒で、(1)〜(3)までを厳格(明確)に捉えていた方はほとんどいなかったように思います。

まず(1)ですが「歴代法主書写の本尊」はもちろん「宗祖真筆本尊全て」が「戒壇の御本尊の写し」と拝するのが石山の法義ですので、そこには「宗祖真筆本尊を除外視する」又は、「宗祖真筆本尊を歴代本尊よりも低く視る」義は余りありません。
それが証拠に他門から石山信徒になる時に「たまたま先祖伝来の宗祖真筆本尊があったら授戒の後に、そのまま感得させる」事もあります(大体が痛んでいますので、表具師を紹介することも多いのですが)。
今でもその原則に違いはありませんが、さすがに宗祖真筆を所持している人は稀少ですから、余り目立たないのでは無いでしょうか?
事実、宗祖真筆本尊の御形木御本尊や板にお直しした本尊や御影様を、自仏堂に祀っている石山信徒もおります(まあそこそこのお金持ちで無ければ、経済的に無理でしょうが・笑)。

(2)〜(3)に関しては、実質的にはそこまで厳格に考えず、自らの「“伝戒之師(戒師)”がこれを本尊として拝せよ」と言われたものを本尊と拝する訳ですから、そこには唯授一人の法主云々が余り関係なく「伝戒之師と弟子の師弟関係」から存するのが本尊なのです。

現今の御形木御本尊は単純に、その昔「末寺住職が書写した判形無き御本尊」の延長にあって、所謂、仮本尊に当たるのでしょうが、その後戒師とともに本山法主上人にお目通りの上、改めて、仮本尊に判形・裏書きを頂くか、常住御本尊を別に頂く訳です。
その場合でも法主上人が重要と言うよりも、法主上人に取り次いだ戒師の存在に重きを置くのでしょう。
ですから、法主上人から下される時点では、板本尊なら原紙、紙幅なら表具の無い状態を、戒師の指示に従って、石山御用達の仏師を手配するか、表具師を手配するかして貰うわけです。そして住職が改めて入仏法要を行われる訳です。

2800犀角独歩:2006/08/31(木) 19:25:39

2799 藤川一郎さん

まあ、ここで記されておられることは、「藤川さんは」ということでしょうね。藤川さんの戒伝師がどう考えかではなく、石山が公式にどう発言し、振舞ってきたかですし、わたしの問題定義は、単なるプリントに過ぎないものを、どの時点で、信者会員が‘本尊’と認知するか、です。この点は、どうでしょうか。

> 「歴代法主書写の本尊」はもちろん「宗祖真筆本尊全て」が「戒壇の御本尊の写し」と拝するのが石山の法義

そう拝するのは、勝手ですが、弘安2年以前に漫荼羅図示はあるわけですが、それが写しのはずはないというのが、ごく当たり前の常識的な判断でしょうね(笑)

> …宗祖真筆本尊…除外視する…宗祖真筆本尊を歴代本尊よりも低く視る

そんなことはありませんよ。実際のところ、石山門外にある御筆本尊を拝まないということは、信仰対象から除外視しているわけですし、それはつまり、低く観ていると思われても致し方ないことです。

> 他門から石山信徒になる時に「たまたま先祖伝来の宗祖真筆本尊があったら授戒の後に、そのまま感得させる」事もあり

また、藤川さんらしからぬ、まさかわたしが石山40年の信者、宗務院内事部で仕事をしていたことをお忘れのうえでの発言ですか(笑)

創価学会に入会した(学会用語でいう)「旧信徒」は先祖伝来の本尊を返却させられて、日寛の印刷本尊に取り替えられたことはを、わたしは見てきました。いまさら、誰がどこで、と突っ込まれても、具体例、具体名を挙げることはできませんが、これは古い学会員であれば、周知の事実でしょう。しかし、問題は「学会の」ではないですよ。その古い本尊を受け取り、日寛印刷本尊を出したのは、各末寺だからです。これは本山に奉納されたものもあり、各末寺で止まり宝物とされたものもある、故に、石山本末の虫払法要が補っているわけでしょう。まあ、藤川さんの寺院は良識派ではありますが、石山全般のスタンダード・スケールではないと、わたしの40年の経験から思います。「学会が勝手にやった」という言い訳は成り立ちますが、それを観て見ぬふりをして看過したのは、当の石山だったわけでしょう。

> 唯授一人の法主云々が余り関係なく「伝戒之師と弟子の師弟関係」から存するのが本尊

これまた、本音と建て前に柔軟な藤川さんならではのご発言だと思いますね。
たとえば、わたしは、正信会運動で名高い妙真寺での受戒ですが、寺の名前と、当時の「御法主上人猊下」の名前は覚えていても、この寺院住職が誰であったのか、覚えていません。親も覚えていませんでした。
分離以前、寺院で受戒後、「本尊」を受け取った学会員や、顕正会に聞いて、「あなたに受戒してくれたお坊さんの名前は?」と聞いて答えられる人は、むしろ、例外に属するでしょう。さらに言えば、学会員相手の受戒なぞ、寺院住職がわざわざやることは少なく、成り立ての教師や、場合によっては、補任式も経ていない在勤者がこれに当たることも多々あったことでしょう。

> …仮本尊に判形・裏書きを頂くか、常住御本尊を別に頂く訳です。

これまた、藤川さんの周辺ではという話でしょうね。
仮本尊に判形、裏書きを受けた本尊は、過去50年、わたしは一度も見たことがありません。また、寺院で責任役員をやっていましたが、ただの一度もその中継ぎをした記憶もありません。

> 板本尊なら原紙、紙幅なら表具の無い状態を、戒師の指示に従って、石山御用達の仏師を手配するか、表具師を手配するかして貰うわけです。そして住職が改めて入仏法要を行われる

こんなことを言ってしまっていいんですか。では、創価学会の本尊模刻で「御法主上人の許可を取らなかったから謗法」とした批判と、齟齬を来たすことになりませんか(笑)

辻さんが「不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げました。今後、御本尊に関しては、こうしたことも含めて、お取り扱い、手続きなどは、宗風を重んじ、一段と厳格に臨んでまいりたいと思います」(僧俗和合へ基本を確認)と発言したのは、本山、「猊下」の許可を取らなかった非を責められて、それを謝罪し、今後繰り返さないと反省したことですね。
藤川さんの言うようなやりかたでよければ、学会に火はなかったことになりますすし、何のための公式謝罪であったのかとなりますよ(笑)

2801独学徒:2006/08/31(木) 20:59:20

犀角独歩さん、

>仰るとおりですね。わたしが先に記したことは、御筆全般にわたって申し上げたことです。誤解を招きやすい表現でした。お詫び申し上げます。

お詫びなどとはとんでもございません。
そもそも犀角独歩さんが、臨滅度時漫荼羅をご存じ無い分けがないはずで、私の読解力のと想像力の無さによる所作であったと思います。

>これは尊い、個人として、またお家に継承される宝物ですね。

有難うございます。
大切にしていきたいと思います。

>少なくとも、わたしはそうでした。ですから、現在、このような漫荼羅を本尊を拝む人を批判して記しているのではなく、自身の過去の反省を皆さんとも考えたいという提案です。

私は平成2年の9月に、正宗末寺より顕師曼荼羅を下付戴き信仰の世界に入りました。
その後直ぐに宗創紛争となりましたので、私の経験したことは、まるっきり(3)であったと思います。
おそらく新会員に、(1)や(2)の話をすることが、宗創分離後の学会にとっては最終的には不利なのではないでしょうか。
今では古くからの会員を離さないために、(1)や(2)を完全否定しないだけで、今の学会にとっては(3)のみで通用すれば、これに越したことは無いのでしょうね。

しかし顕正会や正信会はどうなんでしょうね。

2802天然水:2006/08/31(木) 22:07:41
 初めてカキコします。独歩様の言われる釈尊像は立像ですかそれとも
坐像の事を指すのでしょうか?
 御教示願います。

2803藤川一郎:2006/09/01(金) 02:56:38
> 「歴代法主書写の本尊」はもちろん「宗祖真筆本尊全て」が「戒壇の御本尊の写し」と拝するのが石山の法義、そう拝するのは、勝手ですが、弘安2年以前に漫荼羅図示はあるわけですが、それが写しのはずはないというのが、ごく当たり前の常識的な判断でしょうね(笑)

ですから、“物体的に云々”“物質的に云々”図示された戒壇の御本尊の写しとは書いておりませんよ。物体的に考えたら、独歩さんの言うとおりでしょう。
ですから私はあえて「石山法義の上で」と限定した文字を入れたんですよ。私が「石山法義では」とせっかく限定した文の意味が無くなってしまいます。私の苦労が水の泡(冗談です)。

改めて言いますが、私は石山の法義では「宗祖が立宗の砌(弘安はるかに以前)に既に戒壇の御本尊様の心が存し、それを自在に御形(色)に現されたのが、宗祖の各御真筆御本尊であるから、宗祖の御真筆御本尊は須らく、弘安以前であろうと以後であろうと問わずに戒壇の御本尊の心を御形に表したものと拝する」と教わりましたが、それは独歩さんも聞いたことはおありでしょう。
かの浅井さんですら、そのように教えておりましたから(確か)・・・。
もっとも学会ではどのように教えておったかは不明ですが。

ならば、宗祖御真筆御本尊も歴代御本尊も無理に差をつけるような根拠は無いと思います。
私は当寺院はもちろん、それ以外の檀家さん(塔中が多いのですが)の家にも何度も言ってますが、学会にごり押しで奪われた方は別にして(酷い例では歴代の板本尊を割られた方もいるようで、当時警察沙汰になってますが)、宗祖の御真筆本尊を形木にしたものや、有師がたくさん板に直されたといわれるかの高名(言ってるようなものですが)な真筆御本尊を板にして安置している檀家さんも見ましたが、それは珍しいんでしょうか?
また、塔中の根檀家さんの家にはそのような話は腐るほど聞いてますが(口が悪いですかね。腐るほどは)、これも例外なんですかね。
とにかく、最近でも名家でこのような例は聞きましたから、変更はされていない筈です。

> 板本尊なら原紙、紙幅なら表具の無い状態を、戒師の指示に従って、石山御用達の仏師を手配するか、表具師を手配するかして貰うわけです。そして住職が改めて入仏法要を行われる・・・・、創価学会の本尊模刻で「御法主上人の許可を取らなかったから謗法」とした批判と、齟齬を来たすことになりませんか(笑)

なりませんよ(笑)。ふと気づいたんですが、独歩さん人の文章細かく読んでないでしょう(笑)。
私の文章“板本尊なら原紙”“紙幅なら表具の無い状態”の短い語句中に既に「法主上人の許可を受けた」事が書かれているんですが・・・。
知っていると思いますが常住御本尊の申請をするときに「数枚綴りの書類」を提出するんですが、そこに「板にするか、紙幅にするか」とあり、板に○をつけると「原紙」(薄紙製)がおりてきますが、紙幅に○をつけますと、表具が無い状態しっかりとした紙でおりてきます。実はしっかりとした紙でおりてきた本尊は石山御用のA仏具店がそもそも、受注すらしてくれません。
つまり板であろうと紙幅であろうと、それぞれ下りてくる本尊の紙質が違うんですよね。
それこそ宗務院に勤めておられた方なら百も承知でしょう?(イヤミではありません)

なお、順序が狂いましたが戒師の件について言えば、確かに創価学会員の方は授戒=入信の儀式程度にしか考えておられなかったようで、覚えていない方が多いようです。
しかしながら、元々法華講で入信した方(私の周りはそちらが多いんですが)は、ほとんど授戒師を覚えておいでですよ。その後、住職が数代変わっていても、その全てをフルネームで簡単に諳んじる方までおいでです(一番すごかった方は5代の住職をアジャリまで覚えておいででした)。

なお、創価学会について言えば、そもそも創価学会は
「日蓮正宗」(Wikipedia)によれば
「日蓮正宗の信徒団体(講中)は末寺住職(指導教師)と信徒の代表が宗務院に「組織結成許可願」を提出し、宗務院で審議の得て日蓮正宗の管長である法主が組織結成許可書に署名押印するが、創価学会は組織許可書の交付も受けていなければ指導教師も初めから存在しておらず、宗内ではゲスト的に扱われていた。」
とあるように、正式な信徒と言うよりは日蓮宗と立正佼成会などの「檀参関係の強いもの」位だったのかも知れません。創価学会への通知が「解散命令」では無く「解散勧告」にとどまったのも強権発動できる関係では無かったということなんでしょう。

まあ、しかし「ゲスト」は言いすぎでしょうが(これ誰が書いたんだろう)!

2804犀角独歩:2006/09/01(金) 07:50:22

2803 藤川一郎さん

まあ、繰り返しになりますが、わたしは、どの段階で信者会員は「本尊」と認知するかという問題提議をしているわけですよ。
この点は重要なので、石山のご都合や、仏具・表具の話はこの辺にしたいんですね。

> …「石山法義の上で」

そんなことは百も承知で、だから、「板に彫られる以前に戒壇本尊はあった」、だから「弘安2年以前の御筆本尊も、皆、戒壇の本尊から出た」という(敢えて書けば倒錯した)本尊観は、かなり変ですよと言っているわけです。
たしかに、石山法義ではあるけれど、日蓮義ではないわけです。

と限定した文字を入れたんですよ。私が「石山法義では」とせっかく限定した文の意味が無くなってしまいます。私の苦労が水の泡(冗談です)。

> 私は石山の法義では「宗祖が立宗の砌(弘安はるかに以前)に既に戒壇の御本尊様の心が存し、それを自在に御形(色)に現されたのが、宗祖の各御真筆御本尊であるから、宗祖の御真筆御本尊は須らく、弘安以前であろうと以後であろうと問わずに戒壇の御本尊の心を御形に表したものと拝する」と教わりました

これは石山義ではないでしょう。石山義は、

「一、明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時・古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し・明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり日蓮が影・今の大曼荼羅なり云云」

です。

> 宗祖御真筆御本尊も歴代御本尊も無理に差をつけるような根拠は無い

ありますよ。原本(御筆)と複写(奉書写之)の相違です。
コピーはオリジナルに劣ります。

> …珍しい…根檀家…名家…変更

まあ、藤川さんの話は「お金持ち」と「名家」を中心にした話ではないですか。
かつて日蓮正宗は、信徒数を1650万人と発表しましたよ。そのなかで、どれだけが、おっしゃるような扱いをすると珍しくなくなるのかという問題でしょうね。仮本尊しかもらっていない「連中」、「根檀家」「名家」以外は、問題外という議論ではないはずですよ。

> 本尊の紙質が違うんです

このような例を言っているわけではありません。
示されるような例は、近代に属することなのであって、家の「常住様」の痛みがひどくなったから、板に改めてよろしいでしょうか、という願いがあることは、もちろん、ご存知のところではないですか。こちらの話をしているわけです。
学会の常住本尊は紙幅で下ろされたが、痛みがひどいので板に改めたいと口頭で日達さんに伝えた。その場で「いいでしょう」と返答をしたが、あとから正式に書類で申請してくると思ったら、勝手に板にしてしまった。「それを私(日達)は知らなかった」、しかし、学会は「いや、許可は取った」という言い合いが、本尊模刻問題でしょう。仰るような書類申請とは、まるで別の話ですよ。
古い檀家さんなんかは、「今度、板に改めて荘厳したから法要してください」なんて例があったのに、なんで、創価学会にだけ、そううるさいことを言うんだという会話すら、模刻問題を語る段階ではあったでしょう。それを申請書類云々は、同列に語れる話ではないでしょうね。

> そもそも創価学会…正式な信徒と言うよりは日蓮宗と立正佼成会などの「檀参関係の強いもの」位だった

それは、あとづけの、いまとなっては話でしょう。
かつての法華講総講頭は誰ですか。七百遠忌の慶讃委員長は誰でしたか。池田さんでしょう。そうなると、石山は、そんな「檀参関係程度」、口悪く言えば「ゲスト」に、総講頭を命じ、本末を挙げての慶讃委員長を命じたのですか。日達さんは池田さんを「現代の維摩居士」とまで言ったわけでしょう。

創価学会問題というのは、ひっくり返せば、命じた責任は石山にあり、そんな二人三脚なのであって、つまりは、=石山問題だということでしょう。

仏具・表具の話はこの辺にして、信者会員が、どの段階で、プリントを「本尊」と認知するかという議論に戻していただけませんか。

2805れん:2006/09/01(金) 10:16:02
犀角独歩さん
どの時点で信徒会員がプリントを本尊と認知するかについてですが、私も独学徒さんに同意見です。私は二世でしたから、物心ついた時点で、組織からの刷り込み通り、すでに幼心にも最初からプリント漫荼羅を本尊と認識してました。ここらへん、自らの意志で入信した人とは、どの段階で認識するかの差はあると思います。聖僧云々は有師は「サテ当宗も酒肉五辛女犯等ノ誡事ヲ裏ニ可レ用レ之也」(下野阿聞書)「出家ノ本意ナルカ故ニ何ニモ持戒清浄ナラン事ハ可レ然」(化儀抄)とあり、末法無戒を標榜しながらも、石山もこの当時の僧は出家者としての節度をある程度守っていたことが伺えますね。
まあ石山は置くとして、出家者に敢えて優劣を立てるなら在家同然の生活の方よりも聖僧の方のほうが勝れているようにも思えますので、肉筆の漫荼羅を持つならば聖僧書写の漫荼羅が一番望ましく思いますが、現在は…と言うわけで、暫定的な意味であのように記しました。しかしながら、独歩さんや独学徒さんのように、有縁の御僧侶からの肉筆の漫荼羅の授与とそれを受持されることを否定するものではないので、誤解がありましたらお詫び申し上げます。

2806れん:2006/09/01(金) 10:48:38
蓮師の本尊観そのものにつきましては、独歩さんの御提示の通り、五百塵点成道の釈尊ということであろうことは観心本尊抄・報恩抄に見えます。
ただ、宝軽法重事に「人軽と申は仏を人と申。法重と申は法花経なり…」乗明聖人御返事に「経は師なり、仏は弟子なり」九郎太郎殿御返事に「法華経は仏にまさらせ給う法なれば…」とあり、真蹟遺文にも、法華経師・佛弟子あるいは法華経勝・佛劣と読めるものもあり、これを是とした場合、現代における学問から言えば、洋の東西を問わず多く見られる“聖典信仰”の影響を蓮師も受けたということでしょうが、蓮師の義、あるいは信仰体系において法華経と本尊としての釈尊の関係は、本門三法門との兼ね合いでどうなるのか、興味があります。

2807藤川一郎:2006/09/01(金) 12:58:02
>>仏具・表具の話はこの辺にして、信者会員が、どの段階で、プリントを「本尊」と認知するかという議論に戻していただけませんか。

はーい。いつの間にかずれてましたかね。
本尊は、開眼の段階で本尊と認知するんでは無いでしょうか?
1行で終わっちゃった(笑)。

すいませんが、後は「つぶやき」で論争抜きで語っておきます。

2808ラキ:2006/09/01(金) 21:33:54
>本尊は、開眼の段階で本尊と認知するんでは無いでしょうか?
(1)手元に受け取った時点で本尊と認識。
(2)仏壇に安置して本尊と認識。
私は、2回経験があるので、(1)と(2)両方と思っています。

2809一字三礼:2006/09/02(土) 09:13:00

れんさん

基本的なところがわからないので、質問させてください。

蓮祖は、六老僧及びその他の弟子達に、大曼荼羅の書き方を伝えたのでしょうか、またはそれらの相伝があった事実を裏付ける確かな資料はありますか。

蓮祖の在世に大曼荼羅を書写した弟子はいるのでしょうか。

れんさんにいただいた日興筆曼荼羅の写真を見比べますと、時代によってかなり配座や筆法が異なり、試行錯誤の後がみられます。これを見るかぎり、蓮祖から大曼荼羅の書写についての相伝など無かったのではないかと思えるのですがいかがでしょうか。

2810れん:2006/09/02(土) 11:50:11
一字三礼さん
蓮祖より六老僧やその他の弟子に漫荼羅書写の相伝が有ったか否かですが、六老僧の内、日昭師・日朗師は題目の下に自署・花押をする形態・日興師・日向師は題目の下に日蓮(聖人)在御判の形態で、六人の中でも統一されてないことを考えれば、漫荼羅について統一的な書写の相伝があったとは思えません。興師の漫荼羅書写は、特に蓮祖・弘安年間図顕の漫荼羅を原本にされているのが見てとれます。時代によって筆法がことなるのは、嘉元以降の後期の場合は後世の偽作を警戒してのことと思われますが、初期はそれなりには試行錯誤がみられるので、やはり、統一的な相伝はなかったと思われます。興師の場合、御遺文書写の延長線上にあるといえるかもしれません。
文献的には、六老僧や日常師の各門流で共通のものについては、蓮祖住山中の身延にまで遡れる可能性はあると思います。以上ご参考まで。

2811一字三礼:2006/09/02(土) 18:52:55

れんさん

ご教示ありがとうございます。

> 六人の中でも統一されてないことを考えれば、漫荼羅について統一的な書写の相伝があったとは思えません。

ご見解に賛同します。

残された資料からは、蓮祖は六老僧にさえ大曼荼羅の書き方を伝えていなかったし、そしてたぶん例外的なもの(四条氏等の事例)を除いては、蓮祖在世に弟子達も大曼荼羅の書写はしなかった、もしくはさせてもらえなかった。

これらのことから考えられるのは、蓮祖は終生、弟子達が大曼荼羅を書かくことを認めなかったのではないでしょうか。
もう一歩すすめれば、大曼荼羅写筆の教育をしなかった、書写の相伝がなかったと言うことは、自らの死後においても弟子達が大曼荼羅を書写するということを認めていなかったとも考えられませんか。

所詮、大曼荼羅本尊は’蓮祖に始まり、蓮祖に終わる’一代限りのものとも思えます。だから、例え日興が書写したものであっても、日朗の書写であっても、日有のでも、日寛のでも、日顕さんのでも、各門流末寺の僧侶方のであっても、その全てが蓮祖の意に沿ったものとは言えない、と考えるのは少し乱暴でしょうか。

> 時代によって筆法がことなるのは、嘉元以降の後期の場合は後世の偽作を警戒してのことと思われます

日興曼荼羅にも、生きているうちに偽作があったのでしょうか。初めて知りました、ありがとうございます。

2812れん:2006/09/02(土) 19:55:16
時代がやや下りますが、日尊上人仰云には「本尊書写の事 尊仰せに云く、大聖人御遷化の刻み、六人老僧面々に之を書写し給へり、然して異義無し」とあり、該当する各師の大漫荼羅は現存しませんが、日尊師が言う“大聖人御遷化の刻み六老僧が書写”した大漫荼羅が曽存した可能性はあるでしょうね。上記の日尊師の口述・日大師の筆受を信用すれば、蓮師は自らの死去に臨み、本弟子六人には大漫荼羅書写を許可した可能性が有ります。ただし現存する六老僧の御筆大漫荼羅の相貌が首題の下が日蓮判か自署・花押かの相違が顕れていますので、蓮師が六老僧選定後、大漫荼羅の書き方を六老僧に教育したとしても、細部に渡るもの指導教授ではなく、勧請の諸尊の大雑把な配置ぐらいの教授といった程度のものだったかもしれません。その結果が、首題の下が、興師の日蓮在判系と昭・朗二師の自署花押系の大漫荼羅の形態の相違に顕れたと考えられなくもありませんね。
ですから、一字三礼さんの仰る通り大漫荼羅の“図顕”は蓮師一代限りですが、大漫荼羅書写は、蓮師が自らの死去に臨み、本弟子六人には許可された可能性があることは日尊上人仰云の記事により推定されることは提示しておきます。

2813独学徒:2006/09/02(土) 20:04:19

れんさん、
一字三礼さん、

横レスにて大変失礼します。
常忍坊の「観心本尊抄私見聞」(弘安六年卯月五日)には、「此ノ観心本尊抄ノ外ニ、本尊ノ口傳日朗日興等ニ相傳有リ」とあることから、細かな内容にいたる相伝は無くとも、少なくとも大雑把な内容で本尊書写の仕方は伝えられていると思います。
聖人自らも、御一代の内には相貌の異なる種々の大漫荼羅を図顕されていますので、本来漫荼羅書写とは、最低限の決まりごとくらいがある程度で、あとは好きなように書いてくれ、といところなのではないでしょうか。
日朗・日興の漫荼羅の共通点を搾り出したら、「本尊ノ口傳」の内容がつかめるかもしれませんね。
また大石寺所蔵の日源筆「本尊相伝」と、日朗門流の「本尊五大口伝」(日企谷妙本寺第三世日山本が現存)とで、同文箇所があるといわれていますので、現在のようにどの書き方が正統かなどという議論はなく、大まかな内容で各門下に本尊相伝はあったものと考えます。

2814独学徒:2006/09/02(土) 20:09:07

失礼しました、誤字だらけでした。

誤:あとは好きなように書いてくれ、といところなのではないでしょうか。
正:あとは好きなように書いてくれ、というところなのではないでしょうか。

誤:日企谷妙本寺
正:比企谷妙本寺

またレスがれんさんと前後してしまったようです。

>細部に渡るもの指導教授ではなく、勧請の諸尊の大雑把な配置ぐらいの教授といった程度のものだったかもしれません。

私もこのように考えます。

2815れん:2006/09/02(土) 20:24:13
>日興曼荼羅にも、生きているうちに偽作があったのでしょうか…
今のところ、日興師が生きているうちに偽作された漫荼羅というのは確認されていないですね。ただ、常識的に考えて、(書画の類は漫荼羅を含め)後世の偽作は考えられるわけで、その対処策として、不動点の位置や花押の形などを時代により変えて、時代による基準というものを示したものであろうと拝察しております。という訳で、私のあの文章は“生きているうちに偽作があった”という意味でなく、興師が“後世の偽作”を想定されたという考察ということでご理解戴ければ幸甚です。
なお日興上人御本尊集には「相貌の特徴は(中略)初期においては比較的線が細く流麗であり、中期にいたり首題が大きく字体も太く丸みを帯び、後期に至るとごつごつした感じになる。普通年次を重ねるごとに、形や書体はまとまっていく場合は多いが、日興上人は逆のように思われる。恐らく形を意識しない独特の筆法が確立されていったのであろう」と考察されていることを紹介しておきます。

2816れん:2006/09/02(土) 20:52:01
独学徒さん
レスが前後してしまい、失礼致しました。
私も、独学徒さんのご意見に同感です。
なお御引用の常忍坊の“私見聞”の文の次下には「日朗への相伝は名越谷にあり。日興への相伝は富士に有り」とあります。日興の富士移転は正応ですから、本書の弘安六年成立には疑義を提出せざるを得ませんが、比較的常門上代の成立と見てよいと思いますので、参考資料にはなりますね。
朗師も興師も弘安式の相貌ですから、「弘安に入ってからの私が図顕した漫荼羅を手本にしろ」位は蓮師に言われたかもしれませんね。
本尊論資料によりますと石山蔵の本尊三度相伝とほぼ同内容の本尊相伝書が朗師門流にもあり、私も、私見聞にいう朗興二師への相伝の内容はこれではないかと推測はしております。

2817一字三礼:2006/09/02(土) 23:40:45

れんさん
独学徒さん

お2人のご見解としては、おおまかな相伝であればあったのではないか、ということですね。

けして反論と言うわけではありませんし、またそのような材料は持ち合わせないのですが、どうもすっきりしません。

弘安2年9月25日の「波木井殿御報」ですでに花押すら書けないくらいに衰弱されていました。10月8日に六老僧の選定があったのですよね、その後、大曼荼羅について教授するだけの体力が蓮祖にあったのだろうか、と考えてしまいます。

もう一点、れんさんが挙げてくださった日尊師の口述ですが、蓮祖臨滅度時に六老僧のそれぞれが大曼荼羅を書写したとすれば、それは認可状とも言える大事なものでしょう。その大事な書写曼荼羅が六老全ての門流で無くなるものでしょうか。
また、そのことが日尊師の口述にしか残っていないのも不自然に感じられます。

常忍坊の「観心本尊抄私見聞」も時代の下ったもののようですし、日朗・日興には’本尊の口伝’があったということですね。これによれば他の四老方には、口伝はなかったかのようにも読めますね。

本尊の相伝書の中にしっかりと資料的な価値を認められるものがないことが混乱の原因でしょうか。

2818富井:2006/09/03(日) 15:21:23
元学会員です。
昔から疑問に思う事がありました。それは霊の存在についてです。
学会時代には霊は存在しないと教えられ、不思議な体験を先輩に言うと、それは題目があがってないから
生命力が低下しているからだと言われました。
しかし実際には地区で亡くなった人が挨拶に来たなど複数の人が幽霊を目撃することもありました。
心霊現象については全否定しているかと思えば動物霊に衝くということは認めているのか、
昔はお山にくると発作のようにワンワンわめいたりぴょんぴょんとたっちゅうを駆け回る人もいたと聞きましたし、
50年代の事ですが、地元の会館で除霊めいたことをしていた話も知っています。
もう学会から離れて10年以上になりますので、今更聞く人もいないのですが
いったいあれはどういうことだったんだろうと、いまだに気になっています。
学会が当時ついていた日蓮正宗での霊の扱いはどういうものだったのか
日蓮はどう考えていたのか、どなたかお教えいただければ幸いです。

2819独学徒:2006/09/03(日) 15:46:29

れんさん、
一字三礼さん、

>常忍坊の「観心本尊抄私見聞」も時代の下ったもののようですし、

「観心本尊抄私見聞」は日付のあとに「之ヲ始メ」とあることから、弘安6年4月5日より作成を始めたということかもしれませんね。
最終的な完成の時期が「弘安6年4月5日」でないとすれば、日興の身延離山時期との矛盾は緩和されると思います。

2820れん:2006/09/03(日) 18:05:24
一字三礼さん
>2817 六老僧やその他の弟子は、恐らく、佐渡ないし身延で蓮師が大漫荼羅を図顕する有様を、間近で実地に拝見されていたというのが、史実と存じます。ですから漫荼羅の書き方そのものは、蓮師に給仕したお弟子さんならば知っていたことだと存じます。ただし、蓮師在世中は蓮師が図顕にあたり、お弟子さんが漫荼羅を図顕することはなかったのですが…(四条氏の代筆の例は曽存ゆえ不確定要素を含むので今は置きます)。蓮師は弘安五年十月八日に本弟子六人を制定しますが、恐らく、その際、漫荼羅の書写をこの六人には許したと思われます。ただ日尊師の言う蓮師遷化の時の六老僧書写の漫荼羅の存在が全く確認できないので、本来は蓮師が自らの遷化に臨み本弟子に漫荼羅書写の允可を与えたということだったのかもしれません。ただ改めて、統一的な漫荼羅書写の相伝なるものがなかったことは、昭師・朗師が首題の下に自署花押をなした形態であるのに対し、興師・向師が御遺文書写に準じて首題の下日蓮(聖人)在御判と書した形態をとったことから推定されますね。
独学徒さん
>2819
「之ヲ始メ」とあるのでしたら、常忍師が弘安六年に本書の著述をはじめ、晩年にいたるまで推敲されたものの可能性がありますので、仰る通り、興師の身延離山の年期と本書の記述の矛盾はある程度解消されるので、蓮師門下上代の参考資料として貴重なものになりますね。本尊論資料を見ても、朗門と興門には同内容の本尊相伝があり、朗門の相伝に「日昭も同座聴聞」とあって、この各門の同内容のものは、その源流は蓮師在世に溯れる可能性があるということになりますね。

2821独学徒:2006/09/03(日) 19:09:32

れんさん、

私の勘違いかもしれませんが、本弟子選定の時、向・頂二師は既に蓮師の御傍にはいなかったのではないでしょうか。
もし蓮師からの漫荼羅書写の教示が、入滅近くに本弟子に限って行われたとすると、実質、蓮師より直接漫荼羅書写の教示を受けたのは、昭・朗・興・持の四師ではないかとも考えられます。
向師の直筆と伝わる漫荼羅には、興師初期の書写漫荼羅の如く、主題直下に①「日蓮聖人(在御判)」とあるものと、主題直下に②「日向(花押)」とあるものがあります。
①は「御門下御本尊集」や「門下歴代大曼荼羅本尊集成」に所載済みで、②については身延山宝物館で展示されています。
向師のこれら全く異なる二種の漫荼羅書写は、蓮師滅後の他の本弟子からのまた聞きによる相伝の証左かも知れませんね。

2822れん:2006/09/03(日) 19:53:20
独学徒さん
確かに、日興筆「宗祖御遷化記録」の継ぎ目裏判には向・頂二師は“他行”と記されていますので、少なくとも、御遷化記録によると本書が執筆された弘安五年十月十六日には両師は“他行”していたことはわかりますし、同書によれば両師は蓮師の葬送にも参列していないので、本弟子選定後、漫荼羅についての“相伝”が行われたとすれば、両師はその場には居合わせなかった可能性はあると思います。となれば、向頂両師の場合は聴聞した本弟子を通じてその内容を知ったのかもしれません。
ただ漫荼羅の書き方は蓮祖に給仕したお弟子さんなら知っているわけで、あらたまった相伝はなかったと愚考します。あったとしたら漫荼羅に関する教義についての簡潔な教授だったろうと思います。
なお、向師に二種の形態の漫荼羅が存在する理由は、独学徒さんのご指摘のとおりの理由によるものと存じます。

2823独学徒:2006/09/04(月) 00:19:43

れんさん、

>ただ漫荼羅の書き方は蓮祖に給仕したお弟子さんなら知っているわけで、あらたまった相伝はなかったと愚考します。

そうでした。
これが最も納得のいくことですね。

2824犀角独歩:2006/09/04(月) 09:44:26

しばらくネットを閲覧していなかったのですが、なかなか興味深い議論が進んでいたのですね。

わたしは、基本的に首題の真下に日蓮在御判と書き、書写本人の名前を書かないのが、まあ、正しい本尊であるという見解は‘書写’に限って言えることなんだろうと考えます。書写は、あくまで書写ですから、本人が認めたことを示す、花押(判)までそのまま移してしまっては混乱が生じます。となれば、在御判、もしくは御判と記すことは、いわば書写の矜持であると思うからです。

相伝の可否が話題になっていますが、これは、やはり、正式なところはなかっただろうと思うのは、皆さんのご意見と同意見です。

そもそも、相伝があったとすれば、その人は、日蓮その人となるわけですから、書かれる漫荼羅は書写であるというのは、実はおかしなことではないのか、と最近は考えています。

たとえば、ある集団に、初代責任者がいて、なにがしかの認証書類を出し、自分の判を押したとすれば、これは正式なものとなります。では、2代責任者が、同様の書類を書くことを想定した場合、二つのケースが考えられます。(複写機というものがない想定です)それを手で書き写す場合、そして、同一内容の認証を出す場合です。前者の場合、初代と同じ判を押してしまえば、文書偽造となりますから、判の部分は「印」と書くでしょう。しかし、2代目と職にある立場から新たな認証を出すとすれば、文面は同一であったとしても、自分の名前を書き、自分の判を押すでしょう。わたしは漫荼羅を、本尊というより、師弟子の允可としての要素を持ったものであるという仮説を持っていますから、このような視点から漫荼羅を眺めています。ですから、首題の下に図示写本人の名を書かれたものは、その意味を異にするのではないのかという仮説も立てています。

いずれにしても、今日蓮である血脈相伝者は、その内証からすれば、日蓮そのものであるわけですから、それが何故、書写と記さなければならないのか、書写ではなく内証を同じくする立場から、自らの名を記しても齟齬は来しません。しかし、ここで、書写と記すとちぐはぐになるというような思惑も存します。まあ、ほとんど、独り言のような投稿になりました。失礼しました。

2825一字三礼:2006/09/04(月) 19:13:12

犀角独歩さん

ご無沙汰しております。

独学徒さん、れんさんのご寛容なのを好いことに、また見当はずれな推測を書いておりました。

れんさんの挙げてくださった、蓮祖臨滅度の六老僧が曼荼羅を書写したという日尊師の口述も「宗祖御遷化記録」と矛盾するというのであれば全面的に採用することはできません。

事実としては、蓮祖は自身の著作の書写は弟子にもさせていたし、代筆もさせておりましたが、大曼荼羅だけは弟子達に書写も代筆(四条氏の例を除く)もさせなかった。

私も独学徒さん、れんさんと同意で「ただ漫荼羅の書き方は蓮祖に給仕したお弟子さんなら知っているわけで、あらたまった相伝はなかった」という事なのではないかと思います。

結局は、後代の弟子達の「大曼荼羅の書写」という行為自体、蓮祖の与り知らぬものであり、もっと言ってしまえば「大曼荼羅の書写」は蓮祖の意に副うものとは言えないのではないか、と想像しております。

2826独学徒:2006/09/04(月) 20:19:04

一字三礼さん、

私は蓮師滅後、本弟子以外の弟子達も含め、多数の弟子達が漫荼羅書写(ここでは弟子達の書く漫荼羅を一様に書写と呼びます。)を行っている事実からみても、漫荼羅書写は蓮師の意にかなったものと思います。
そうでなければ蓮師は本弟子をはじめ漫荼羅にかんして、自らの意を伝えられた弟子は皆無であったということになります。

私はあくまでも、細かな教授は無かったにせよ、大雑把な内容での教授はあったと思います。

2827一字三礼:2006/09/04(月) 22:09:57

独学徒さん

本弟子以外の弟子達も含め、多数の弟子達が漫荼羅書写を行っている事が、なぜ蓮師の意にかなったことになるのでしょうか。

それこそ事実としては、蓮師はご生存中、弟子達に漫荼羅の書写をさせていないのでしょう。なぜそれが死後になると許すことになるのでしょうか。

> 私はあくまでも、細かな教授は無かったにせよ、大雑把な内容での教授はあったと思います。

細かくであれ、大雑把であれ、蓮師が弟子に漫荼羅の書き方を教授したとする確実な資料はありますでしょうか。

2828独学徒:2006/09/04(月) 23:16:07

一字三礼さん、

>本弟子以外の弟子達も含め、多数の弟子達が漫荼羅書写を行っている事が、なぜ蓮師の意にかなったことになるのでしょうか。

禁じていたら行わないと思います。
むしろ蓮師在世の間は、蓮師が漫荼羅を図顕されるので、弟子達が書写する必要は無いわけです。
蓮祖滅後は蓮祖に代わって自らが漫荼羅を書写し、有縁のものへ授与して行く、特に不思議は感じません。

>細かくであれ、大雑把であれ、蓮師が弟子に漫荼羅の書き方を教授したとする確実な資料はありますでしょうか。

常忍坊の私見聞を先に引用しましたが、これはそれに相当する資料だと存じます。

また蓮師晩年の弟子といわれる日像は、「漫荼羅相伝」(日蓮宗宗学全書第1巻221〜)を著しており、上代弟子達によるこのような記録が残っている以上、私は蓮師から弟子達への漫荼羅書写に関する教授が皆無であったとは思いません。

また何よりも、蓮師より各弟子達に授与された漫荼羅そのものが、漫荼羅書写の教授につながっているとも思います。

そして漫荼羅書写が蓮祖の意に副うものでなかったのなら、蓮師門下は一人残らず蓮師違背の門下となりますし、それを糾すものもいなかったということになります。

そうしたことから私は、漫荼羅書写自体は蓮師の意にかなった行為であると考えます。

2829犀角独歩:2006/09/05(火) 04:58:36

一字三礼さん

お久しぶりです。
この手のことを考えるとき、わたしは、一字三礼さんのように、門下で言われきたことを、いったん、棚上げにして、一般常識、もしくは当時の常識から推し量ってみるのも一考であると考えます。

わたしが漫荼羅図示に関して、もっとも奇異であると思うのは、「書写」という点です。たとえば、仏像であれば、仏師の弟子が、師から皆伝して彫った仏像を、模刻とは言わないでしょうし、仏画を模写とも言いません。
ところが、日蓮の漫荼羅に関しては、その弟子達は「写」であるというわけですね。つまり、弟子達が書く漫荼羅が正本であることを認めなかったということです。写すと言うことはどこまで行っても模写ということだからです。これは実に面白い点ですね。

こんな例が、他に見られるのか、少し探ってみようと思います。

2830一字三礼:2006/09/05(火) 08:07:49

独学徒さん

> 禁じていたら行わないと思います。

そうは言えないでしょう。後代の弟子達が全て師匠の意に副って行動するということはないでしょう。

> むしろ蓮師在世の間は、蓮師が漫荼羅を図顕されるので、弟子達が書写する必要は無いわけです。

これも仰ることがよくわかりません。
六老僧にもそれぞれ直弟子はいたでしょうし、孫弟子もいたでしょう。出家・在家を合わせれば蓮師の弟子はかなりの数に上るではないでしょうか。
その弟子の中で、漫荼羅を与えるに相応しい者を吟味して蓮師は一人で漫荼羅を書き、授与していたわけですね。
弟子達に漫荼羅書写を許すのであれば、蓮師ご生存中にも弟子に書写されるでしょう。なぜ蓮師は一人で書かなければならなかったのでしょうか。

常識的に考えてみれば、先生が弟子に、書体や描き方を教えるときは、まず弟子に書かせるのではないでしょうか。しかし、蓮師が漫荼羅の書き方を相伝したとする書はありながら、蓮師が生存中に弟子に書かせた漫荼羅がない、これは大きな矛盾ではないですか。

れんさんがご指摘のように、年代表記に矛盾がある以上、常忍坊の私見聞は第一次資料とはできません。日像師の「漫荼羅相伝」の内容は存じませんが、日像師は蓮師入滅の時の年齢は幾つでしたか、まだ十代前半の子供でしょう。蓮師は子供にまで漫荼羅の書き方を相伝していたのですか。

蓮師の在世中の漫荼羅と、蓮師滅後の書写漫荼羅のあり方とは分けて考えてみたほうがよいのではないでしょうか。

2831一字三礼:2006/09/05(火) 08:08:21

犀角独歩さん

> わたしが漫荼羅図示に関して、もっとも奇異であると思うのは、「書写」という点です。

これは大変重要なご指摘であると思います。

仏師の例えでわかり易くご説明くださいましたが、後代の弟子達の漫荼羅は全てが「書写」でしかないということは、オリジナルは日蓮御筆漫荼羅のみということですよね。

これは日蓮信仰の大きな特徴のひとつと言えるのではないでしょうか。

2832真実知求者:2006/09/05(火) 19:37:50
2830様、、>書体や描き方、、、、。
  書道の御習いでしょうか、、??
 命を刻み込む「、、本尊、、」、、ですぞ、、。  当時の日蓮様の御行動の全ては、後世の我々がそれなりに学ぶ事も、、??
 でしょうか、、?  横からドーモです、、。




死bb氏

2833独学徒:2006/09/05(火) 20:44:06

一字三礼さん、

>そうは言えないでしょう。後代の弟子達が全て師匠の意に副って行動するということはないでしょう。

しかし一字三礼さんの仰せの通りだとすれば、「後代の弟子達が全て師匠の意に副って行動するということはない」どころか、ほとんどの高弟達は蓮師の意に反した行動をとったことになります。
普通に考えて、そのようなことは無いだろうと思うわけです。
ましてや蓮師ほどの方が、自身滅後の弟子達の漫荼羅書写を認めていなかったとすれば、それこそ漫荼羅書写を禁ずる遺誡なり遺言なりがあってしかるべきだと思います。
しかし漫荼羅書写を禁じた遺誡等は、蓮師も、また直弟子達のなかにも無かったと存じます。

>六老僧にもそれぞれ直弟子はいたでしょうし、孫弟子もいたでしょう。・・・蓮師は一人で書かなければならなかったのでしょうか。

日興の蓮師曼荼羅への添書の例を考えますと、孫弟子等は直弟子を介して漫荼羅授与がなされていたことも考えられます。
蓮師及び門下への「紙」の供給の問題もあったとは思いますが、蓮師が存命の間は弟子達の書く漫荼羅よりも、蓮師の書く漫荼羅を欲するのは当然の価値判断だと思います。
蓮師漫荼羅>門下書写漫荼羅という価値判断は、今も現世も同じではないでしょうか。

>れんさんがご指摘のように、年代表記に矛盾がある以上、常忍坊の私見聞は第一次資料とはできません。

この点につきましては、そのあとの投稿にて日付のあとに「之ヲ始メ」とあることから、常忍坊は「観心本尊抄私見聞」を「弘安6年4月5日」に完成させたのではなく、「弘安6年4月5日」より書き始めたのではないかとしましたが、それでも日付に問題があり上代文献として価値がないとご判断なされるなら、私には他にご紹介できる文書は存じ上げません。

>日像師は蓮師入滅の時の年齢は幾つでしたか、まだ十代前半の子供でしょう。蓮師は子供にまで漫荼羅の書き方を相伝していたのですか。

そうではなく、昭・朗いずれかよりのまた聞きによるものと判断されます。
しかしその文面にには、漫荼羅の座拝なども示されていることから、蓮祖と面識のある上代諸師の段階で、漫荼羅相伝が文献化していた事実として参考になるかと思いました。

私は一字三礼さんの
>「大曼荼羅の書写」は蓮祖の意に副うものとは言えないのではない
とのご投稿とは、考えを異にするものですが、先の私の投稿での「蓮師の意にかなったもの」というのも、不確定な要素からの発信であったと反省する次第です。

2834独学徒:2006/09/05(火) 20:48:36

先の投稿で、一字三礼さんのご投稿の引用が一字抜けていました。

誤:>「大曼荼羅の書写」は蓮祖の意に副うものとは言えないのではない
正:>「大曼荼羅の書写」は蓮祖の意に副うものとは言えないのではないか

文意が変わってしまうほどの脱字でした。
謹んで訂正させていただきます。

2835犀角独歩:2006/09/06(水) 09:35:40

れんさん、独学徒さんは、素直に資料をお読みになるほうで、一字三礼さんはまず疑ってかかる、そんな差があるとお見受けします。

わたしは、どちらかというと、一字三礼さんに近いほうなので、いままでも、そんな議論の仕方をしてきたような気がします。ただ、今回は、議論に乗り遅れたこともあり、お三人の遣り取りを、客観的に見られるところがあったので、違う視点から眺める勉強になりました。

本尊相伝というのは、どうも、「後付」の感が否めない。わたしは、そんな思いはあります。

ただ、その際、2点、気になるのは、執行師が指摘された朗・興二門における相伝文が同一であることです。これは中世以降考えられてきた以上、上古においては、この関係が密であったことを物語っているのだと思います。もしくは、どちらかが盗用したということでしょうか。

もう1点。それにしても、既に柳澤宏道師も指摘されていますが、実際のところ、この相伝と残存する書写漫荼羅は一致しない点は、実に興味深く思えます。

一字三礼が賛同くださった、何故、漫荼羅は「書写」なのかという特異点は、この相伝内容と実際の書写漫荼羅の相貌の相違から見るとき、結局のところ、具体的な相伝はなく、後付で相伝が成立していったことを物語るように、わたしは、感じます。

あまり正規な資料とは言えないかも知れませんが、日蓮門下一般、殊に僧侶方の間で読まれていると思える『御本尊の書き方』(有賀要延著・国書刊行会)では

「曼荼羅本尊の謹書は本宗寺院住職としての大事である」としながら、「しからば、その書写の手順は、と問われてみると、それには定められた規則がないことに気付かされる」(序文)と記されています。

朗興二門に先述の相伝があるにも関わらず、この言い様には、驚かされますが、しかし、偽らざる実態とも思えます。また、興門にしても、当掲示板でも既に話題になったとおり、興目両師の曼荼羅で、前者は「写」とし、後者はしからずという相違が存することは、上古已来、蓮興目相伝をいいながら、曼荼羅書写に関する相伝がなかったことを物語っていることになります。さらに相伝文と日興本尊が一致しないとなれば、もはや、いわれるところの相伝の類は、後世の成立、もしくは、本弟子法嗣とは別の成立と見倣さざるを得ないことと思えます。

さて、興門と本尊相伝と密接な関係にあったことが窺える朗門、また、相伝資料を存する常門においては、どのようなあんばいであったのか、もう少し、お三人の議論にお聞かせいただこうと思います。

2836犀角独歩:2006/09/06(水) 14:16:09

失礼しました。敬称を落としました。訂正し、お詫び申し上げます。

誤)一字三礼が
正)一字三礼さんが

2837れん:2006/09/06(水) 20:09:34
私は、あまり資料を素直に読まない方だと個人的に思っていたのですが、やはり独歩さんや一字さんに比べるとまだまだ甘い様です。故執行海秀師のご指摘の通り、朗門と興門には共通の曼荼羅についての教義の口伝書があります。以前どなたか投稿されてましたが、朗門の本尊五大口伝・合掌口伝の内容は興門の本尊三度相伝中初度本尊口伝に対応し、朗門の本尊相伝の内容は興門の三度相伝中三度本尊相伝に対応し、朗門の本尊ノ聞書の内容は興門の三度相伝中二度本尊聞書に対応しています。なお、昭門の御本尊相傳抄十九條にも本尊五大口傳=初度本尊口傳の一文が引用されています。なお朗門の方の奥書には「日朗御相承之趣」云々とあります。
ただ、一応記しますと朗門の相傳中、本門本尊相傳事と言う文献は内容は全く三位日順撰とされる本門心底抄の抜粋であることは注意されるところです。
この朗興両門の共通の文献が、共通の場で原書が成立したものか、それとも何れかが盗用したものか、決定打が無いので決しきれてないのですが、常門の伝承をも勘合すれば、朗門の文献と重複する興門の文献については、両門共通の場で原書が成立した可能性も一応視野に入りますね。
その他、興門の文献では御本尊七箇之相承は内容が両巻血脈と関連しますから、あきらかに後付け、後世成立のものですね。

2838一字三礼:2006/09/06(水) 20:10:27

独学徒さん

門外漢の私の投稿にお付き合いいただき、ありがとうございます。

> 普通に考えて、そのようなことは無いだろうと思うわけです。

私の表現が稚拙で、誤解を与えてしまったかもしれません。

仮に朗・興の二師に、あるいは六老全員に漫荼羅の相伝があったとしても、その他の弟子達全てに相伝したわけではなかったのではないかと想像しております。蓮師の漫荼羅の扱いについての慎重さは「新尼御前御返事」から推測できるものです。

現実としては、独学徒さんも仰るように、蓮師滅後に漫荼羅を書写したのは「本弟子以外の弟子達も含め、多数の弟子達」であったので、六老僧以外の弟子達はやはり相伝なくして書写をしたのではないでしょうか。相伝無くした漫荼羅書写をした、と言うことを蓮師の意に副わないことではないか、という意味で書きました。

> しかし漫荼羅書写を禁じた遺誡等は、蓮師も、また直弟子達のなかにも無かったと存じます。

確かに仰るように、漫荼羅書写を禁じた文書はないのですよね。それでも蓮師在世には、弟子達は誰も漫荼羅書写はしなかったのも事実でしょう。そのへんの事情なり、理由なりがよくわからないところです。

> 蓮師が存命の間は弟子達の書く漫荼羅よりも、蓮師の書く漫荼羅を欲するのは当然の価値判断だと思います。

仰ることはわかります。
では、日昭門流では、昭師存命の間は、その門弟達は漫荼羅書写をしなかったでしょうか。日朗門流、日向門流等でも師匠存命の間は弟子達は漫荼羅書写はしなかったのでしょうか。

常忍坊の私見聞を私が読んでもいないのに第一次資料ではない、との断定は言い過ぎでした。
こちらの掲示板で学んでいる内に、独歩さんもご指摘のように、およそ「相伝書」というものは流派の正当性を主張するために後代に作られた物ばかりなので、その信憑性をまず疑ってかかるようにしているので、あのような失礼な言い方をしてしまいました。


犀角独歩さん

> 日蓮の漫荼羅に関しては、その弟子達は「写」であるというわけですね。

この投稿を拝して思ったのですが、「書写の仕方を相伝」するというのは、なんか変な表現ではないですか。

漫荼羅を図顕した本人が教えるのであれば、漫荼羅の図顕の仕方ですよね。

なのに何故「書写」の仕方を相伝するなどと言う事になるのでしょう。今までなんの疑問も持っていなかったのですが、「書写の相伝」というのはずいぶん変なことなのではないか、と思いました。

2839独学徒:2006/09/07(木) 00:15:10

一字三礼さん、

こちらこそ、れんさんと一字三礼さんのご議論に割って入っておきながら、度々失礼を重ねており誠に恐縮です。

>六老僧以外の弟子達はやはり相伝なくして書写をしたのではないでしょうか。相伝無くした漫荼羅書写をした、と言うことを蓮師の意に副わないことではないか、という意味で書きました。

そうでしたか、御意心得ました。
しかしどうなんでしょうか、本弟子以外には漫荼羅に関する教示は皆無だったのでしょうか、私はこの点はいまだ研鑽の手が入っていないのが現状です。

>では、日昭門流では、昭師存命の間は、その門弟達は漫荼羅書写をしなかったでしょうか。日朗門流、日向門流等でも師匠存命の間は弟子達は漫荼羅書写はしなかったのでしょうか。

興門においては、少なくとも目師が興師存命中に漫荼羅(守)を書写していますね。
しかし本弟子達が、蓮師滅後どの程度指示を受けていたのかも定かではありません。
本弟子以外の弟子達も一門流を築き、常忍坊の例のように入道までもが一門を築いています。
常忍坊に至っては、親子関係はあるにせよ、本弟子の一人である頂師を追い出しています。
波木井入道も諸説によれば興師を追い出しているわけです。
また目師より興師在世に漫荼羅(守)の授与を受けた門流では、歴代は漫荼羅書写の際に「富士山日目上人之遺弟」と記すが如く、興師よりも目師を強調しているわけです。
その意味からも、本弟子とその弟子達との漫荼羅における価値相対と、蓮師とその弟子の例とは安易に比較できないとも思えます。
つまり本弟子達は中老以下の弟子達や在家信徒より、ある意味広範な支持は受けていなかったのではないでしょうか。

2840顕正居士:2006/09/07(木) 00:34:59
書寫は古文書をかきうつす意味にも使いますが、
書も寫もかく意味で、かきあらあわす意味がもとです。

書 write
寫 write,compose,draw
書寫 write by hand

日蓮宗の僧侶が図顕する曼荼羅は何か原本をかきうつしているわけではありません。

2841とんび:2006/09/07(木) 04:20:43
何度も、某法華講員の方の話を投稿してすみません。

一度だけ、仏界の52位の話を聞いたことがあります。
うすら覚えでは、「知らなくても良いこと」「自らは理解することすらできないもの」
「また、言葉では説明出来ない世界」のようなことを話していました。菩薩界の52位が
わかっていれば充分...と話していました。

 私は、その後詳しく訪ねたり聞いたりしていませんが、まあ菩薩界に52位があるなら
仏界にも52位があっても、おかしくないだろう..ということで、一票。

 彼は、正宗信者なので、当然日顕上人や日妙?上人、戒壇の本尊を信仰しています。
 必ずしも、彼の話を信じているわけではなく、意見を異にする場合は、俺はこう思うの
だけれど、どうだろうか...などど、話たりしています。

 ただ、彼は、仏教辞典みたいに、ほとんどのことは答えてくれます。仏界の52位なんて
ことは、どこの仏教辞典にも載っていないと思います。一度詳しく聞いてみたいとは思って
いたりしますが...。

 私は、教学云々はあまり好きではないので、追求したくはないのですが、あくまで紹介と
いうことでご理解下さい。

2842犀角独歩:2006/09/07(木) 07:15:54

2833 一字三礼さん

ええ、わたしも書き写す相伝というのは、どうも、しっくりきません。
ですから、漫荼羅図示に関する相伝がなかったからこそ、書写という形でしか継承の仕方がなかったのではないのかと憶測します。もっとも、富士方以外では、敢えて「写」を記さないものもありますね。


顕正居士さん

> 日蓮宗の僧侶が図顕する曼荼羅は何か原本をかきうつしているわけではありません

先に引用した『御本尊の書き方』では、写す原本を傍らに置くことは、明記されていますが。
ただ、たしかに模写の類とは違うのだろうと思えます。

2843一字三礼:2006/09/07(木) 18:11:50

顕正居士さん

> 書も寫もかく意味で、かきあらあわす意味がもとです。

「書」と「寫」の意味の解説ありがとうございます。

たしかに、言語の意味としてはそうかもしれませんが、仏教圏で書写といえば、まず五種法師にある経典を書き写す「書写」行を意味するのではないでしょうか。

日蓮真蹟遺文で使われている「書写」の意味は全て経典を書き写す行為を指しております。

「漫荼羅書写」と門弟達が表現した理由ですが、弟子達にとって大漫荼羅は、経典と同等か、あるいはそれに順ずるものとの認識があったからかもしれません。

2844顕正居士:2006/09/07(木) 20:03:04
一字三礼さん。

「写」は手で書くことで、複製する意味はありません。したがって「複写」と「複」を付けます。
「写本」はもとは「手稿」manuscriptの意味です。
五種の「書写」もかく意味で、語自体に複写の意義があるのではないと考えます。
現に日蓮宗の曼荼羅は日蓮の作をコピーしたものではなく、図顕した人の独自の作品です。
日蓮などの作を臨写することはありますが、それは曼荼羅ではなく、資料のためです。

2845犀角独歩:2006/09/08(金) 07:02:16

一字三礼さん

日蓮は当初、曼荼羅を文永8年の段階では「之書」(安第1)としていますが、わずか3年後の同11年になると「之図」(安第13)と改めますね。

すなわち、日蓮にとって、漫荼羅は書くものではなく、図すものという認識で定着したことになります。

いま、話題は書か・写かとなっていますが、むしろ、書か・図かというのが日蓮における漫荼羅論であり、にもかかわらず、弟子は、それは書写ととらえて点が、重要なのだと考えます。

なお、実際に書写した人が、どのような思いなのか、という点が議論の対象だと思います。単に自分の作品として書いたのであれば、写したことを意味する花押の部分を「御判」「在御判」とはしないで自分の名と花押を書き、初期の日蓮の如く「之書」とするでしょうし、さらに、いえば、日蓮独特の筆法(光明点/髭題目)を真似しないでしょう。真似ることは既に写であると思えます。

2846とんび:2006/09/11(月) 20:06:16
ひとつひとつ、コメントを返す、時間的余裕はありませんので、こちらに発言
させていただきます。
まず、れんさん、レスありがとうございます。
昨年末、たしかれんさん、だったと思いますが、摂受・折伏の件に付き、過去ログを読まれる
ことを勧められました。そして、たしか200ぐらいまでは、読みましたが、その後は、読む
時間とかをとることは出来ませんでした。摂受・折伏については、自分なりの考えを持ってい
ます。

 また、戒壇本尊は、後生の弟子の創作と感じてはいますが、いつも「もしかしたら本物かも
しれない」という心を持つようにはしています。

 私は、当初より、この掲示板の住人には、ふさわしくないと感じていました。

無学無明さん、コメントありがとうございます。とくにお返しする言葉はありません。
ただ、一点気になるのは、「サッカーはあくまで遊戯の一例であって、心肺・走力の優劣
で勝負が決まるようです」。サッカーを遊戯と単に書いていいものなのか...いろいろ
な見方があるように思います。子供のサッカー、学校の体育時間のサッカー、高校生の
サッカー、プロのJリーグなど、いろいろあります。最近では、イタリアのセリエAでの
不正問題が話題になりました。子供の遊びのサッカーも、養育上好ましいものかどうかは、
いろいろな見方がありますでしょう。プロのサッカーともなれば、生活などがかかるため
必死になっているプレイヤーもいるでしょう。精神面の強さがないと、プロサッカーなど
の選手になるのは大変だと思います。でも逆にイタリアのセリエAなどのこともあるでしょう。
また、チーム経営者と選手とは、分けて考えた方が良いとも思います。

 高校野球は、プロ野球より、純粋に感じる方も多いでしょうが、最近は、○○県の代表
校と称しても、実際は、選手の出身県は、他県の選手が多くを占める...ということも
発生しています。いろいろな見方かありますよね。

 ボクシングやプロレスは、スポーツよりもショーに近いかと思いますが、やっている選手
は、人それぞれの思いでしていると思います。

 言葉の表現とは、まことに難しいもので、無学無明さんが、「遊戯」という言葉をどのような
意図で使用しているのか、また、逆に私が「遊戯」という言葉を、どのように解釈するかで、話が
全くかみあわなくなって、議論しても、無駄な議論になってしまうと思います。

 無学無明さんの発言の意図がよくわかりません..というのが正直なところです。

 れんさん、レスありがとうございました。
 正直なところ、成仏の相についても、わからない方が良い...というのが本音です。
 「ウソも方便」「知らぬが仏」とかの、ことあざ、もあるように、死後の遺体の相に
によって、成仏・不成仏が、決まるという経文でさえ、方便かもしれないと思います。
 「本当は、全く逆」かもしれないぐらいの、思いを常に持っていたいと思います。

 飛行機が墜落して、乗客200人の遺体の全部が、分散して飛び散り、黒こげになった
りしたとしても、その乗客200人、全員が、地獄に堕ちるなんていうことは、ないと基
本的に無いと思います。

 法華経のシャク門には、化城や大白牛車が登場しますが、私には、なにが化城で何が大
白牛車か、などということは全くわかりません。また、それでいいと思っています。

 れんさん、重ね重ねコメントありがとうございました。
 私自身、仕事が本当に忙しいので、こちらでの発言やロムする時間の余裕はなかなかとる
ことができません。

 あと、いくつか、思っていることを述べて、ここの掲示板を去る意向でおります。

 文章がうまく表現できていない部分もあるかとおもいますが、みなさまご容赦下さい。

2847無学無明:2006/09/11(月) 20:48:45
とんびさん。
 謹啓  サッカーを軽視した訳ではありませんが、、少し短絡的な文言は陳謝いたします。
 世の中、勉強が嫌いな子供たちが多い(自分も)中、スポーツ、囲碁、将棋など学校以外の事柄にも興味・関心を持ちそれぞれの才覚を発揮可能な時代は「、一時的に負けて失敗しても再挑戦が可能な時」、かと、思います。
 この点を無視?したような私の発言でした、、深くお詫び申しあげます、、。 今後とも貴重な問題の御提起をご期待を申し上げます、、敬具

2848とんび:2006/09/12(火) 01:11:10
訂正します。

 飛行機が墜落して、乗客200人の遺体の全部が、分散して飛び散り、黒こげになった
りしたとしても、その乗客200人、全員が、地獄に堕ちるなんていうことは、ないと基
本的に無いと思います。

 ではなく、飛行機が墜落して、乗客200人の遺体の全部が、分散して飛び散り、黒こげになった
りしたとしても、その乗客200人、全員が、地獄に堕ちるなんていうことは、ないと基本的に思い
ます。

 そもそも、死後に地獄界がある、成仏があることでさえ、方便の可能性があります。
 この、娑婆世界が、実は、「本当の死後の世界である」と、解釈するとしたら、ここに集られる賢人
・識者の方には、あるていどのことは、おわかりになると思います。

 無学無明さん、コメントありがとうございました。

2849無学無明:2006/09/13(水) 16:46:12
 とんびさん。
  >> この、娑婆世界が、実は「本当の死後の世界である」、、。
 とても、深い、示唆に富む、、今後の展開可能なる御提言と、存知まする。
 ひょっとして、鎌倉時代の方方は「娑婆世界こそ = 前世の名残、、?」、と体感・体得していたかも、?
  インドでは、はびこる差別や身分などを公然と前世からの継続の現生、と受けいれられていました、。 
 これには、種々・難題が付きますが、やはり、避けてはならない「最重要な課題、?」、、かもしれません、。
 諸賢さまのご指導をご期待、、申しあげます、。

2850きゃからばあ:2006/09/28(木) 09:10:03

昭和35・6年頃、学会では「確信御本尊」と呼ばれるものがあり、御受戒なしで御本尊を配りました。
それは当時、末寺から各拠点になっていた幹部の自宅(まだ会館は少なかったので)などに運ばれ、その拠点宅から個人に割り当てられ配られました。
それも週一回とかではなく、ほぼ毎日のようにそれが繰り返されました。
中には大量の御本尊が割り当てられ、配るのに困った人は、なんと駅の改札で配ったこともありました。
さてこの「確信御本尊」ですが、これはどのような経過から始まったのでしょうか?
またこの学会の行動を、もちろん御本尊を下付していた大石寺は、この行動を了解していたのでしょうか?
ご存知の方、ぜひ詳細を教えてください。

2851しゅんかん:2006/10/08(日) 19:16:20
犀角独歩さんへ
私は45歳、学会二世です。私は全く活動をしておりません。皆さんの様に詳しくはありません。
申し訳ありませんが小中学生に話すように説明してもらえますか。
家には、昭和四一年一月七日の特別御形木御本尊があります。父は十九年前に亡くなり、母は数年前から軽い認知症です。
皆さんのやり取りを読まして頂いてぶったまげました。(専門的なことは解りませんが)母も私も家に有るご本尊さんは、
本門戒壇の大御本尊の通りに当時の法主が書写したものだと思っていました。
認知症の母は今も有難いご本尊様と言っております。(特別御形木を指して)信じている母がふびんです。
何故、形木本尊は戒壇の御本尊と言われている物と同じ文字、書式ではないのですか?。日蓮正宗では戒壇の御本尊と同じ文字、
書式の曼荼羅を下付した事が有るのですか、印刷物だとも思っていませんでした。
保田妙本寺の万年救護御本尊は日蓮上人が御書きになられたものですか。保田妙本寺においては信徒にどの様な御本尊を
下付されるか知っておられますか?。
又、日蓮本宗の京都要法寺ではどうなんでしょう?両宗はその宗派の信じている処の本尊と全く同じ物を現法主が書写した曼荼羅を
(コピーではなく)下付するのでしょうか。
まったく素人な質問で申し訳ありません、宜しくお願いいたします。

2852犀角独歩:2006/10/08(日) 21:55:27

2851 しゅんかんさん

はじめまして。
まず、御尊父のご冥福をお祈り申し上げますと共にご母堂様の少病少悩、また、介護、孝養に敬意を表します。
ご質問の件ですが、本日は、諸事・仕事が残っております。改めて、明日、投稿させていただきます所存です。ご寛恕ください。

2853月光浴:2006/10/08(日) 22:17:46
保田妙本寺・・・妙本寺所蔵日興上人印影御本尊(万年救護の本尊は下付は厳禁)
        以前はあった。
京都要法寺・・・檀家の要請に応じて現貫首書写の板・紙幅本尊(以前は要法寺所蔵
        の符法曼陀羅を授与していたが、現在は行っていない

2854犀角独歩:2006/10/09(月) 09:42:07

しゅんかんさん

保田、要法寺の件に関しましては、月光浴さん(はじめまして)がお答えになっておられるので、わたしは触れないこととします。また、この件は、今のところ、わたし個人はしっかりと調べておりません。諸賢にお任せいたすことといたします。

> 1.日蓮正宗では戒壇の本尊(と言っている)と同じ物を書写した曼荼羅を信徒に下付したことがないのですか?

過去にはしたことがあったようです。現物を見たわけではありませんが、大阪に一寺、東京で二寺、これを所蔵しているところがあると聞いております。また、大石寺に提出した宝蔵報告書のコピーを何点か有しています。

「戒旦大御本尊御写」
「宗門第一之重宝御戒壇正写…」

上記、資料で、両者同一の授与者になっているのにもかかわらず、一つめが日布、二つめが日胤が写したものとなっている点です。(この点の考証は、他に譲ります)

なお、大石寺のアナウンスでは日有が身代わりとして模刻したといいます(大石日応氏『弁惑観心抄』細井精道(のちの日達)氏『悪書板本尊偽作論を粉砕す』)が、この実態は、不詳です。

> 2.日蓮正宗はなぜ戒壇の本尊(と言っている)と同じ物を書写し信徒に下付しないのですか?

藤川さん流の説明をすれば、一般信者には、印刷の仮本尊で済ますというのが、大石寺の考えであるから、となるでしょうか。

明治44年に発刊された熊田葦城氏著『日蓮上人』には「由井一乗居士特に寄贈せらる」(P375)と但し書きを付して、この写真が掲載されました。この段階では、洛陽の紙価を高めましたが、その後、立正安国会より『御本尊集』が発刊されるや、日蓮真蹟漫荼羅本尊の筆法の特徴は巷間によく知られるところとなりました。これら御筆本尊(真蹟)と比較すれば、所謂「本門戒壇の大御本尊」が偽筆であることは、火を見るごとく明らかなること、白日に晒される結果となったわけです。こうなれば、それまで写真を撮らせたり、正写もし、悠長に構えていたところを翻さなければならなくなったという顛末がそこにあるのだと、わたしは考えます。

ついで「写真を撮ることが謗法だ」という愚かな口コミ操作で、現在に至るまで信者会員を欺いています。余談ながら、写真を撮るのが謗法であれば、大石寺、創価学会が信者・会員に頒布している印刷本尊は作成の段階で写真製版されているわけですから、そもそも、その本尊こそ謗法と言うことになります。まことに天に唾を吐く類の愚論というほかありません。なお、漫荼羅本尊の写真については、大石寺では古い『富士宗学要集』に載り、創価学会でも『大白蓮華』にも掲載されていたわけですから、撮影が謗法であるという張本人が、その謗法を犯しているという矛盾を来しているわけです。

なお、大石寺では、本尊書写に関しては『本尊三度相伝』『御本尊七箇相承』を挙げますが、いずれの書によっても、「戒壇本尊」を書写したのでは、相伝、相承と相違してしまいます。また、伝日道書とされる『御伝土代』にも漫荼羅本尊の讃文仏滅年代は「二千二百三十余年」とあるにもかかわらず、「戒壇本尊」では「二千二百二十余年」となっています。(『富士宗学要集』)

つまりは、「戒壇本尊」と称されるものを写したのでは、大石寺がいう相伝・相承書写に違反するという矛盾を来すことになるわけです。そして、さらに言えば、実際に死信者・会員に頒布されている本尊は、この相伝・相承ともまた相違しています。つまり、二重三重に信者会員は欺かれてきたわけです。

> 3.保田妙本寺の万年救護本尊は日蓮上人が御書きになった曼荼羅ですか?

「曼荼羅」というより、この一幅ばかりは「大本尊」というべきでしょうが、古来、真偽説はなく、真蹟であると、わたしも考えます。
『御本尊集目録』によれば

「宰相阿闍梨日郷上人の『安房国北郡吉浜村内中谷奉龍置本尊聖教事』(文和二年卯月八日)中に左の如き一條を存する(『宗学全書興門集』280頁)
 一、日蓮聖人御自筆本尊一舗 文永十一年甲戌十二月日」(P24)

とあります。文和二年といえば、西暦にして1352年、日蓮滅72年を経るばかりの時期ですから、この書に証憑性があれば、看過できないところといえます。

2855犀角独歩:2006/10/09(月) 10:00:04

【2854の訂正】

誤)死信者・会員
正)信者・会員

2856しゅんかん:2006/10/09(月) 10:34:34
月光浴さん、早速のご返事ありがとうございます。
つまり、妙本寺では万年救護本尊以外だがコピー物じゃない
曼荼羅を下付するのですか?

2857しゅんかん:2006/10/09(月) 11:36:49
犀角独歩さん、詳細なご回答ありがとうございます。
さて、独歩さんどこかで法主(上人、貫首)の書写でもコピー物じゃ
ありがたみがない、等の文面を拝読した様に思います。同感です、
日蓮系の既成宗派で(新興系以外)法主の本尊書写直筆を下付する派は
存在するのでしょうか?。
そして又、御教え頂きたい点がございます、ご享受お願い致します。
1.多くの書物等にも記載されておりますが、日興上人は日蓮の教えを
妥協をゆるさず、かたくななまでに守った。
2.日興上人の時代においては、曼荼羅本尊のみではなく、仏像崇拝もしていた。
3.日蓮は曼荼羅に仏滅後二千二百二十余年のみしか記していない?。
4.興門派等は日蓮本仏論を唱えていますが、当の日蓮は釈尊よりも私を崇拝
しなさいと日興に言った?。
5.又、この事はあまり論じているのを見かけた事がないのですが、
(私の見識不足でしたらすいません)興門派等は勝劣派に属していますが、
法華経二十八品の後半十四品に法華経の真髄があると唱えているのですよね。
ですが、独歩さんもご存知と思いますが、私の家にある大石寺版の
勤行要典の出だしは方便品第二からです、これは迹門ですよね。
どうしてですかねエ?方便本第二は短いからって事でまっ言っかって事ですかねエ?
以上、本当にド素人申し訳ありません。
管理者さんへ、素朴な疑問を開設して下さり、有難うございます。
感謝しております。

2858犀角独歩:2006/10/09(月) 13:17:58

しゅんかんさんのご質問はなかなか核心を突いたもので、かつ現役信者会員としては、先輩、もしくは大石寺僧侶には聞けない点だと思えます。つまり、聞いても、杓子定規の嘘を信じろと共用されるばかりの部分だと思いました。

> 日蓮系の既成宗派で(新興系以外)法主の本尊書写直筆を下付する

というか、法主ならずとも、本尊書写はされるでしょう。
事実、わたしは大明寺住職・楠山泰道師が謹写された二舗の漫荼羅本尊をいただいていますし、実際、奉安しています。


> 1.多くの書物等にも記載されておりますが、日興上人は日蓮の教えを妥協をゆるさず、かたくななまでに守った。

まあ、そんなふうに喧伝する古文書に堪能で、しかし、「戒壇本尊」の真偽を論ぜず、日蓮本仏、日興正嫡を論じる人々が、他門下も、傾聴しているという様はあります。
また、故高木豊氏も、日興をたいへんに高く評価していたと聞きます。
わたしはしかし、慎重です。日興の教学は、天才・日澄を得て、発展したものであって、日蓮の教学からは、飛躍が見られると思えるからです。

> 2.日興上人の時代においては、曼荼羅本尊のみではなく、仏像崇拝もしていた。

それは当然ではないでしょうか。『原殿書』などに、その様が見られます。
また、日興は、大石寺系が言いようを借りれば、身延の正当な後継者であったというわけです。その身延の墓所には、日蓮が終生、持仏とした釈迦仏像が置かれてあったわけです。これを盗み取られたと憤慨しているわけです。その御仁がどうして、仏像批判者であるわけがあるでしょうか。

> 3.日蓮は曼荼羅に仏滅後二千二百二十余年のみしか記していない?。

いえ、そんなことはありません。「二千二百三十余年」は、もちろんあります。

> 4.興門派等は日蓮本仏論を唱えていますが、当の日蓮は釈尊よりも私を崇拝
しなさいと日興に言った?。

そんな証拠は、寡聞にして、存じ上げません。

5.…興門派等は勝劣派に属していますが、
法華経二十八品の後半十四品に法華経の真髄があると唱えている…方便品第二…迹門

これはもっともな疑問だと思います。
この点の整合性を採るために、日寛は「所破借文」のためであるというわけです。しかし、これは説明になっていません。

方便品の諸法実相、十如是の文なくして、一念三千論は成立の仕様がありませんから。

2859月光浴:2006/10/09(月) 17:59:17
しゅんかんさんの言われた日興上人の曼陀羅は、写真製版で継目やシミまで詳細
に印刷されています。白黒ですが表具も布表具で正宗さんみたいに、紙表具では
ありません。下付も妙本寺信徒6ヵ月以上で五千円の冥加料が必要と聞いています。
信徒でも法華講組織があるわけではなく、日曜日の御影様開帳に参詣をし、境内
の墓地にお墓があれば、下付を申し出が可能みたいです。
万年救護の御本尊は埼玉の仏具店の主人が開帳後に寮(庫裏)で販売していました。

2860しゅんかん:2006/10/10(火) 00:39:58
月光浴さん有難うございます。見聞の深さに驚きました。
興門派と言われている重須本門寺について少しお教え頂きたいと思います。
皆さんご承知の通り、現在は日蓮宗に属しておりますので身延系と教義の差はあれ、
やはり日蓮宗では重須本門寺に寛容ようでありますね。
その事は日蓮宗 現代宗教研究所 早城鳳城氏のご講義内でも見受けられます。
(身延系からみて矛盾点は有ってもあえて突付かないのだなと感じられました)
さてそこで。
1.日蓮正宗は重須本門寺では仏像崇拝を行っていると発していますが
本当でしょうか?
2.重須本門寺の信徒における下付本尊とはどの様なものですか?
3.身延系においては御祈祷(家内、交通、安産、水子等)と言うものを行う
様ですね、日蓮正宗では行はな様に思います。重須では?
4.重須本門寺の末寺は関西圏に存在しますか?
5.身延系においての僧侶の法衣は赤、紫と煌びやかですが日蓮正宗のそれ
(薄い灰色)とは相違します、重須はどっち?
6.又、私は幼少の時からこの法衣の事を聞いておりました。赤や紫と言った
派手な物は正宗では身に付けない、先月、京都要法寺(私の住まいは大阪なので)
に行って参りましたが、正宗と全く同じ事を僧侶がおっしゃっておられました。
本堂内も同じ様に質素でした。そうそう、仏花と言うのですか?やはりシキビでした。
そうでした!ついでに法華宗大本山、本能寺にも参り本堂も拝観させてもらいましたが、
正宗、要法寺とはやはり違いました(本能寺は勝劣派でしたっけ?)
今日、家の近くの身延系、京都妙顕寺派の寺院に参りましたがキラキラと煌びやかでした。
少し話が広がりましたが、重須においての法衣?仏花はシキビ?法華の太鼓?(団扇太鼓?)
を叩く?そして、日蓮はどの様な法衣?仏花?太鼓は叩いた?
以上宜しくお願いします。




どなたでも結構です、宜しくお願い致します。

2861月光浴:2006/10/10(火) 01:20:04
北山本門寺も要山と同様に檀家以外には本尊下付は行っていないようです。
檀家は布施をお供えして、貫首さんが一体ずつ書写をしていますので製版本尊なる
類は今は無いと思います。
私は先代日幹上人より、形木本尊を授与して貰い脇書を認めて戴きました。
日興門流は正宗さんを除けば、薄墨色の法衣・同色の袈裟を着衣します。
御祈祷は現貫首さんの言を借りれば、真言の亜流との意識で行われてはいませんが
塔中の養仙坊さんは御祈祷をしていますね。
仏像は御影の事を指すのでしょうかね! 冨士門では古刹寺院にはどこにでもある
と思いますよ!!

2862ぷー:2006/10/10(火) 20:27:22
現在の北山・本間貫首は薄墨の衣をかたくなに守っていらっしゃるようです、
旧本門宗で出家され所謂日蓮宗には特に愛着も感じられない点が目立ちますね。
教学でも先代片山貫首の頃より一段と日興門流の匂いが強く感じられます。
但し、国柱会の影響も大きい方ですけどね。

2863南註亭:2006/10/11(水) 14:57:57
本間上人の
「大本門寺の策源地づくり」世尊寺・発行、平成6年5月、B5判、62頁、非売品。
「日興上人の風光」ニチレン出版、平成8年5月、四六判、313頁、2500円。
この2冊は分かりやすいですし、内容的にもしっかりした著作ですね。
「お薦めスレッド」の方がよかったかもしれませんが、話題の流れでこちらで紹介させていただきます。

2864しゅんかん:2006/10/11(水) 22:22:43
月光浴さん、ぷーさんありがとうございます。
1.月光浴さん、すいません私の言葉足らずでした。
仏像崇拝とは日蓮上人像ではなく身延系の釈尊像や大黒さん鬼子母神、
他のことです。
2・ぷーさん、重須本門寺と国柱会とは何らかの関係が有るのですか?
日蓮上人はどの様な法衣を着、仏花を供え、団扇太鼓を叩いたか?
どなたかご存知の方お願いします。

2865月光浴:2006/10/12(木) 01:18:04
富士門でも要山や重須の末寺でも鬼子母神・釈尊を祀る所もあります。
身延・池上・中山等は仏寶は久遠の釈尊ですので、当然釈尊・一塔両尊四士
を拝むのは当たり前です。

2866藤川一郎:2006/10/13(金) 09:48:34
>>2864
日蓮宗に伝わるところの、小松原剣難時の「血染めの袈裟」は「白五条」です。

2867藤川一郎:2006/10/13(金) 09:52:24
ついでに仏花について・・・
近世以前、宗祖に限らず仏花と言えば「しきみ(しきび)」でした。
しきみとは「木へんに密」と書きますが、昔の文書には「木へんに佛」と書いた記載もあります。
「木へんに神」と書いて「さかき」と読ませるのと対象ですね。

仏教でも生花をささげるようになったのはかなり歴史が下ってからです。

2868しゅんかん:2006/10/13(金) 10:40:30
月光浴さん、藤川一郎さん有難うございます。
大変勉強になりました。

2869藤川一郎:2006/10/13(金) 12:15:01
しゅんかんさん
一応蛇足ながら申し上げますが「血染めの袈裟」は中山法華経寺に伝わる寺宝ではありますが、本物であるかは保証の限りではありません。
しかしながら日興門流とは違う、中山門流に伝わる血染めの袈裟が「白五条」であると言うのは面白い事実だとは思いますが・・・。

2870犀角独歩:2006/10/16(月) 08:16:29

亀レスですが。

仏花というのは、日本は古来から樒だったんでしょうか。
花を飾る歴史は当然、インドに遡源できるのでしょうが、ここでは、やはり、色花であったのでしょう。では、中国ではどうだったのか、どうも、ここら辺のことを、わたしはよく知りません。

以前、天台宗開宗1200年記念『最澄と天台の国宝』展を観たとき、密壇が置かれ会ったのですが、ここでは樒でした。ある人に尋ねると、「樒は祈祷」という答えが返ってきました。富士における神道、密教との習合がいまだに樒を飾る興門の在り方と何らかの関係があるのだろうかと考えています。

なお、棺桶に樒を入れることは、他日蓮門下でも行われていたということでした。樒には防腐効果、また、その実の持つ毒性から除虫効果もあるとのことでした。

2871藤川一郎:2006/10/16(月) 16:44:19
樒について言うなら、祈祷と言うよりも“神道”との関係が浮かんで来ると思います。日本の仏教は「神仏習合」と言いますが、最初から日本においては神道の中に仏教を取り入れたと言う要素があったと思います。

さて、榊と樒に関して申すなら、“天の香具山”には「五百木の賢木に玉・鏡を付けて」と書いてあります。
現在「榊」と呼ばれる神前榊は、神社にによって全く種類が違います。
通常は、ツバキ科・モクレン科等の常緑樹を使用します。
また、関東と関西では全く榊の種類が違います。榊はそもそも「賢木」「境木」と言われまして、神前と境を表す形が有りました。
実は、日本国の仏前荘厳もその形が残っております。

樒(シキビ・シキミ)は「モクレン科・シキミ」に分類される植物ですが、実は、樒を榊として使用している神社も有ります。
「下鴨神社」「上賀茂神社」そして「伊勢神宮」が樒を「榊」として使用しているのです。
太古の昔から「樒」は、特別な草木として珍重されていたのです。
伊勢神宮の御神体は「天照太神」です。
御本尊様にも勧請されている「諸天善神」の一体でありますが、日本国の最高神です。最高神の大前に捧げられる草木は最高の草木で無ければならないと言う面を顕し、特に「華榊」と呼ばます。
伊勢神宮の「華榊」とは「樒」の別名なのです。

2872藤川一郎:2006/10/16(月) 17:12:31
ついでに申せば、池上本門寺の売店には「色花」と「樒」が両方販売されております。
本門寺のお坊さんに、檀家のフリして「樒と色花どちらが正式なんですか?」と聞いたら「正式には樒ですよ」と明確に返答があった事があります。
しかし、色花をあげたい人などの「需要と供給の関係」でどちらも販売しているそうです。

2873犀角独歩:2006/10/16(月) 19:55:25

樒について、『日蓮宗事典』で引くと

「仏前に供える常緑樹の一つ。葉及び樹皮は抹香、線香の材料として使われている。また、葉は法要の散華の花葩としても使われるが、これは青蓮華の花に似ているからであるという。また、通夜・葬儀の際の一本花としても使われている。「木*佛」という国字も用いる。」

となっていますね。石山で樒の文献根拠とするのは、法華経方便品の「栴檀及沈水 木樒竝余材」でしたか。しかし、日蓮遺文では、その使用は見当たりません。

藤川さんが仰るように神道系の可能性はあるでしょうね。神上げに榊を使うことが先行し、仏にも常緑の葉を供えるようになったのかもしれません。ただ、その字が「密」をもって充てることは、既に密教の影響ありと思います。
また、[木*佛](しきみ)が国字であること、また、Japanese Anise Tree という英名が示すとおり、日本固有種ですから、仏教伝来後、仏前に使用されるに至ったのでしょう。

ちょっと検索してみたら、シキミは「悪しき実」から、その呼ばれがあるというのですが、字の成り立ちからみると“しき密”…“し木*密”といった連想も出来そうですが、これはもちろん、当て推量です。

http://www.geocities.co.jp/Outdoors/6286/shikimi.html

雖念さんがロムされていらっしゃれば、お尋ねしたいのですが、樒に含まれるアニサチン(anisatin)は、その使用によって幻覚を起こす用例などはあったのでしょうか。痙攣性の神経毒を有するとなると、元来は、呪術的な拝礼から神儀に用いられていたものが、神仏習合を通じて、仏教に使われるようになったのかもしれませんね。

http://www2.odn.ne.jp/~had26900/constituents/anisatin.htm

2874犀角独歩:2006/10/17(火) 07:35:40

自己レスです。

> 木樒…その字が「密」をもって充てることは、既に密教の影響あり

この文章は拙(まず)いですね。これでは羅什の漢訳の時点で、恰も密教の影響でこの字を使った如き印象を与えています。

樒は、「宮城県〜石川県以西の山地に生える常緑小高木」ということです。
http://www2.odn.ne.jp/~had26900/medplant/sonota/shikimi.htm

日本の、それも限られた地域に群生していたもののようです。しかし、「樒」という字は、羅什の漢訳で使用されているわけです。けれど、中国にはこの木はなかったわけです。つまり、「木樒」とは、いま日本で言うシキミを指していたものでなかったことが知られます。

シキミが密教で用いられていく段階で、樒という字が密を旁に持つことから、これに充てられていったのではないのかと、わたしは考えるという意味で記したのです。ただし、これは憶測ですから、諸賢の叱正をお願いするものです。

石山発行の『続・日蓮正宗の行事』に

「しきみ
 『栴檀及び沈水、木樒並びに余の材』
 をもって御宝前を荘厳することが説かれています」(P21)

この文章は、少なくとも二つの嘘があります。一つは、先に挙げたとおり、羅什が「木樒」と訳した植物は、今で言うシキミではないこと。岩本訳では、該当部分は「天目樹の塔や種々の材木」(岩波文庫『法華経』上 P115)とあります。

そして、もう一つは法華経方便品には樒で御宝前(つまり、漫荼羅本尊の前)を荘厳するなどとはまったく書かれていないと言うことです。

「諸佛滅度已 供養舍利者 起萬億種塔 金銀及頗梨 車磲與馬腦 玫瑰琉璃珠 清淨廣嚴飾 莊校於諸塔 或有起石廟 栴檀及沈水 木樒并餘材 塼瓦泥土等 若於曠野中 積土成佛廟」

佛舎利を供養せんと、佛塔仏廟を木樒を含む材木、宝をもって建立するというのが、該当の経文の意味です。それにもかかわらず、これを採って、仏花は樒であったというまったくでたらめの文章を捏造しています。

石山のいい加減さには、今更ながら呆れるほかありません。

2875犀角独歩:2006/10/17(火) 08:18:05

重ねて自己レスです。

2874の投稿中「木樒并餘材」は、正確には「木[木*蜜]并餘材」でした。
いま少し調べたのですが、日蓮宗現代宗教研究所の資料集に載る妙法華経では「木樒」となっていますが、たとえば岩波文庫『法華経』では「木[木*蜜]」となっています。サイトで検索した引用の法華経も「木[木*蜜]」です。
http://www.buddhist-canon.com/SUTRA/DCX/DFaHua/T090008c.htm

正法華では、木[木*蜜]に当たるところは「木蜜」となっています。
さらに木密を検索してみると意外な文章に当たりました。

「『本草綱目』での、石蜜・木蜜・土蜜と家蜜という分類」
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00727/contents/00002.htm

石山が樒だと言い張ってきた「木樒」は、元来、「木[木*蜜]」で、さらにこれは木蜜(蜜を持つ樹木、もしくは蜜のような芳香を放つ樹木か?)という意味の可能性も見えてきました。

皆さんの批正をお願いいたします。

2876犀角独歩:2006/10/18(水) 08:16:23

岩波文庫『法華経』に、日深師の「木[木*蜜]」の注釈が付いていたのを、見落としていました。

「木[木*蜜] ― 形白檀に似て微かに香気あり、像を造るのに適しているといわれる」(上 P341)

[木*蜜] = http://www.buddhist-canon.com/SUTRA/DCX/DFaHua/fontimg/015754.gif

2878犀角独歩:2006/10/18(水) 08:22:34

以上の点が、次第にわかりましたので、2874の以下の投稿文を訂正します。

誤)「樒」という字は、羅什の漢訳で使用されているわけです
正)「[木*蜜]」という字は、羅什の漢訳で使用されているわけです

2879奈々:2006/10/20(金) 18:59:43
失礼致します
皆さんが使う、線香を教えて下さい。香を焚くと場の雰囲気が荘厳に感じられます
煙の少ないタイプも多く、匂いもナチュラルな線香が主流となっていますので、是非
ご教示願います。

2880通りすがり:2006/10/20(金) 23:12:01
 ん、線香は伽羅大観が一番いい

2881しゅんかん:2006/10/21(土) 00:21:52
藤川一郎さん犀角独歩さんありがとうございました。
沢山のスレッド文を所々、虫食いに読ましてもらいました。
(全てを読む事も出来ますねんで、ただ読んでもよう意味が分かりまへんから、
睡眠導入剤のような物になるんであえて読まんようにしてまんねん)
私なりに感じた事を記させて下さい、そして又、皆様のご教示お願いします。
1.犀角独歩さんお願いします。ここで色々と論じているのは詰まるところ、
日蓮上人の御書(曼荼羅も)等を各門流(大石寺版等)が(真筆がないものは真筆が
無いのをいいことに)自分の門流の都合のいいように記しているが。
そうじゃないだろ、日蓮上人はこう言ってるんだろ。そちらの門流はそう言うが
日蓮上人はそんな事をしていないだろ、と言うことを文献等から推察し論じられて
いるんですかね?。
2.何をもって本尊とするか?ですが、曼荼羅のみか、釈迦像かなんですが。
詳しくない私は一尊四士なども曼荼羅に図示されているんだからわざわざ仏像
として置く必要は無い。重複するじゃないか(富士門流はこのように言っているの
ですか?)だから曼荼羅のみでいいんだ、と誰かが言ってたらそうだろうなぁと私は
思います。日蓮上人は生涯、釈迦像を持っていたそうですが、正宗はそれを
ほしかった。でも、その釈迦像を他の上人に(日朗上人が頂かれれたと思うの
ですが?)持っていかれたので他の門流との差別化をはかる為に
仏像崇拝を禁じたんでしょううね(もうすでに論じられていることかもしれません)
それと、日蓮上人は曼荼羅は御自身で書かれたんでしょうが、仏像も御自身で
製作されたんでしょうか?もし仏像は作られていないのであれば、仏像崇拝を
否定している門流の論理として日蓮上人が作っていないんだからたいして
有り難くはない。だから曼荼羅のみでいいんだ、(これも、仏像は欲しかった、
欲しかったが先を越されてしまった。じゃどうしよう、曼荼羅しかない、困ったなぁ
そうだ!曼荼羅だけでいいと言う方便を考えよう)としたんじゃないでしょうか?
これはあくまでも私個人の推察です、皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
犀角独歩さん創価学会のお方に私の疑問(学会の三宝を)をネット上で問うた
のですがお答えがありませんでした。
ですが、私は行っておりませんが家は正宗です。数ある日蓮宗の中の日興門流。
これも何かの縁なんだと私は思うのです。(独歩さんのお考えと異なりますが)
母は認知症ですが今すぐにとは出来ませんが(症状が軽いので)私は本門寺さん
にお世話になろうと思っております。

2882犀角独歩:2006/10/21(土) 07:06:53

しゅんかんさん

1の質問はお察しのとおりです。

わたしに投げかけた質問とは違いますが、日蓮所持の仏像は「先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔し之を刻み・弘安帰寂の日・随身せり」と言われたもので、この文から察すれば、日蓮その人が自ら刻んだものということなります。その後、船守献上伝説が追って言われるようになり、取って代わっていったのでしょう。

2883犀角独歩:2006/10/21(土) 07:19:31

もう一点。仏像と漫荼羅は、その趣旨が違うわけです。

同一だというのは、あとの解釈でしょう。
まあ、その区別が付かない人は、混同し、ごちゃごちゃに考え、同じものだと有り難がり、どっちか一つで言いと思うのであれば、そう思うのも、その人の思いに任せるところでしょう。ただし、そのような短絡は、日蓮の意図とは違うだろうと言うことです。

2884孤独な迷子:2006/10/29(日) 18:35:28
ときどきロムさせていただいています。

得度すると本山ではかなり厳しい修行を経て僧侶になるのでしょうか。

ふと疑問に感じたので質問させていただきました。

2885しゅんかん:2006/10/30(月) 11:01:55
独歩さん又、ご教示お願い致します。
紙幅の曼荼羅と板曼荼羅では紙幅のものが良しとの見解ですか?
そうだとしたら、それはやはり日蓮聖人は紙幅のみを図顕されたからですか。
私の関西地方には、日像上人のお寺が多いのですがほとんどが板曼荼羅でした。
(行ったのは末寺です)又、身延直末のお寺でもそうでした。独歩さんはこれを
どの様にとらえておられますか?
そして、境内に社ですか?(三十番神とか南無内々神など)があるのですが
これはどう言うことなのでしょうか、神仏習合で良しと言う事でしょうか。

2886しゅんかん:2006/10/30(月) 11:34:46
2885の続き
御書なのですが、わたしの頭脳では理解出来ないのです。
各宗派で出版されていると思うのですが、現代文に訳した物があれば
お教え頂ければ幸いです。(訳した物はやはり手前勝手で原文でないと
だめですかねエ)
もう一つ、仏教用語等なのですが、一念三千、五百塵・・、摩可止観
二筒相承、三大秘宝抄等の解説書と言いますか、辞典などは有りますか
ご存知であれば書籍名等お教え頂ければ幸いです。
以上、宜しくお願いいたします。
いつも不躾で申し訳ありません。

2887犀角独歩:2006/10/30(月) 17:18:57


しゅんかんさん

> …曼荼羅…紙幅…良し…見解…?
> …日蓮聖人は紙幅のみを図顕されたから

そうですね。
わたしが筆書きに憧憬を懐くのは、自分のために書写してくれたオリジナル性という点です。心が籠もっているからです。ただ、その前段階で、既存の漫荼羅に、それが印刷であったとしても、裏書きをする所謂‘開眼’は、授与者と受持者の心の通いがありますから、否定する理由はありません。ちなみに石山義では、漫荼羅表に、時の‘法主’が判形(花押)を書き入れることで、仮から‘本’へとするというのが日亨師の説でした。

> 日像上人のお寺…板曼荼羅…身延直末のお寺でもそう

奉安荘厳の仕方があるから、それぞれでしょう。しかし、それら寺院が板に日蓮が直接書いたなどとは言っていないでしょう。石山の「本門戒壇の大御本尊」は、そう吹聴しているから、ならば証拠を示せといっているわけです。富士では、日興が「形木」を禁じ、信心強盛な者には書写して授与し、それ以外を謗法であるといっているわけですから、この点は外せないだろうというのが、わたしが記してきたことです。

朗・像門家において、板に改めた造立縁起がしっかりしていれば、それを仰ぐ信者は納得しているということではないですか。

> 三十番神とか南無内々神…神仏習合で良し

この点については、わたしは詳しくありませんが、仰るようなことであったろうと思います。

日蓮の漫荼羅では日本国神である天照大神、元朝鮮の神であった八幡神(日本では大菩薩)、日本の伝教大師。中国の諸大師。インド由来・密教の不動・愛染、大六天魔王(ヒンドゥー教のシバ神)など、雑多に習合しています。日蓮以降、随方毘尼という見地から、各地域の国情に合わせた習合があったとして、それを違和感を懐くか否かは、各人の感覚に属するのだろうと思います。

> 御書…現代文に訳した物

さあ、この手のお薦めは、わたしは知りません。

> 仏教用語…辞典

これは数多、刊行されています。
わたしの個人的なお薦めは『織田佛教大辞典』です。

2888乾闥婆:2006/10/31(火) 01:20:37
>現代文に訳した物

よいかどうかはわかりませんが中央公論社の『日本の名著 8 日蓮』は紀野一義氏の現代語訳です。
ある程度まとまった分量のものでは、これぐらいかと思います。

2889しゅんかん:2006/10/31(火) 09:27:04
独歩さん、乾闥婆さん早々のご返事ありがとうございます。
早速調べさせていただきます。

2890しゅんかん:2006/10/31(火) 10:01:32
月光浴さん2861の記載にある、北山本門寺も・・・
檀家は布施をお供えして、貫首さんが一体ずつ書写をしていますので製版本尊なる
類は今は無いと思います。
私は先代日幹上人より、形木本尊を授与して貰い脇書を認めて戴きました。
についてもう少しお聞かせ下さい。
月光浴さんの授与された形木本尊と製版本尊はどの様な違いがあるのですか。
私の家に有る、正宗の形木は手書きではなく印刷だと思うのですが。
そして月光浴さんのご本尊さまのサイズはどれくらいですか?
私の所は、幅約40Cm、縦約60Cmです。
先日、先代日幹上人さまのお書きなられた御本尊さまを二幅拝見と
日幹上人の一代前の上人さまのものを一幅拝見させてもらいましたが、
三幅共、桐の箱に入っていて脇書きもあり幅約60Cm、縦約2M
もある床の間に掛ける掛け軸のようなものでした。(三幅共に同一家です)
月光浴さんのもこの様な御本尊さまなのですか?
以上、宜しくお願いいたします。

2891しゅんかん:2006/10/31(火) 10:09:13
2890の追記、重須系の末寺で拝見させてもらいました。
檀家さんがお寺にお返しになられたそうで、
ご本尊さまをご住職さまのご好意により拝見させて頂く
ことができました。

2892再挑戦者:2006/11/01(水) 19:57:13
失礼します。
 緊急避難を余儀無くされているわれ等は、一番の願いは何でしょうか。
 曲折はございましょうが「、限りなく日蓮様に近い真筆に近い曼荼羅様を請願者の名前と発行者の裏書が存在するような曼荼羅こそ願望します。
 発行者の直筆なら有り難いが、シンドイでしょうから写真製本後の要所の裏書と下付者名の記録さえあれば、そこそこでしょうか。 ただ日蓮様の誠のお心を伝承されておるか(ホウボウ厳戒、、)、否かかが、重要です。
 今、迷える愚求者からの一語提言ですが、。 よろしく。

2893月光浴:2006/11/02(木) 20:18:57
しゅんかんさん、お返事遅くなりました。
藁半紙に近い紙に印刷されていて、表具をいれても幅20cm、縦40cm
ぐらいです。正宗さんの形木本尊と同じですね。

2894しゅんかん:2006/11/03(金) 11:05:29
2890の訂正
(誤)私の家に有る正宗の形木本尊は、幅約40Cm、縦約60Cmです。
(正)表具をいれて幅約20Cm、縦約40Cmです。

2895しゅんかん:2006/11/03(金) 11:43:47
再挑戦者さん月光浴さんありがとうございます。
私が先日、重須系の末寺で見た幅約60Cm、縦約2Mもある本尊
は、当然仏壇に奉安できないのですから掛軸の如く安置し
日々のお勤めをするのですかね?ご存知の方宜しくお願いします。
又、この御本尊さまを納めていた桐箱の表書に〇〇家常什とあったと
思いますが、(常什の前の〇〇家と記しましたがさだかではありません)
常什とは(じょうじゅ)か(じょうじゅう)ですか?
ウェキペディアだったと思いますが、正宗の下付本尊に①形木、②特別形木、
(私の家は特別形木です)③常住とあったのを覚えています。
昨日、数少ない歴史の有る正宗寺院へ(私の住む関西では)独歩さん
達が御指摘をされている事を確認しに行ったのですが。
そこには、常住とありました。常住と常什は同じ意味の事ですか?
合わせて宜しくお願いします。

2896しゅんかん:2006/11/03(金) 14:56:40
独歩さん何時も指名して申し訳ありません。
つぶやきすれっど2で2288ひきこもりさんの『本尊問答抄』に
「法華経の題目を以て本尊とすべし」とあります。において、
独歩さんは真蹟と言う文字を使っておられますが、
本尊問答抄のこの一文は日蓮宗派全てにおける一致したいものでは
ないのですか?何処かの派の私がよく使う手前勝手な都合のいい
偽文なのかもしれないのですか。
宜しくお願いします。

2897しゅんかん:2006/11/03(金) 15:18:25
独歩さん、つぶやきすれっど2で
2287自分宛の曼荼羅と記しておられますが。
他の掲示板でも見かけたのですが、〇〇授与之と
開眼式を行って脇書をしてもらったとありました、月光浴さん
もおっしゃってます。
独歩さんも私と同じ学会二世と言う事なのでお尋ねしますが。
私の家の曼荼羅には授与之とだけあり、〇〇授与之の〇〇が
空いております。これは開眼式をしていないからですか?
破門前の学会時、そして正宗は開眼式をしておれば誰それに
授与したと名前が入るんでしょうか?。
独歩さんとこの曼荼羅は入ってましたか。

2898再挑戦者:2006/11/03(金) 21:20:36
 横から失礼します。
 いろいろ迷走・考察中ですが、、。 各門は「我こそは、、」、、と手ぐすね引いて舌をなめておるようです、、。
 石山系は「、、反省がいまいち、、」、、「、、正信会は日達サンを未卒業のマザコン体質、?、、」、、そこで、重須の北山様が「、、日達サンのM&Aの勧誘にもメゲズ、寺を維持したのは、今での判断は高く評価される、、」、かと思います、。 流れに抗した態度でした。
 それなりに「評価」したいです、、。 エラソウに、、すみませんです、、。

2899犀角独歩:2006/11/03(金) 21:59:14

しゅんかんさん

> 私の家の曼荼羅には授与之とだけあり、〇〇授与之の〇〇が
空いております。これは開眼式をしていないからですか?

大量生産の印刷、仮本尊だからです。
ただし、それが学会頒布ではなく、石山末寺からのものであれば、開眼式は、いわゆる「本門戒壇の大御本尊」の前に積んで行ったことになっているはずです。
この慣習が、いつからできたのか知りませんが、日顕さんの時代からはやっていました。最も、このやり方は、日亨師の解説とは違っています。

> 破門前の学会時、そして正宗は開眼式をしておれば誰それに
授与したと名前が入るんでしょうか?。

わたしは、寡聞にして、こんなやりかたがあることは知りません。
先にも記したとおり、石山では漫荼羅か威厳に当たる方法を、日亨師は、以下のように記しています。

「此の判形こそ真仮の分るゝ所」

ただし、これは開眼と言うより、真と仮の差異であり、前者は石山住職の花押が認められたもの、仮はそれがないもの。ところが、印刷漫荼羅の花押まで印刷とは、矜持も何もあったものではないという感を懐きます。

> 独歩…曼荼羅

わたしが所持している石山の‘本尊’は日達さんの印刷仮本尊です。
「授与之」とあるばかりです。

2900犀角独歩:2006/11/03(金) 22:33:46

【2899の訂正】

誤)最も、このやり方は
正)尤も、このやり方は

誤)石山では漫荼羅か威厳に当たる方法を
正)石山では漫荼羅開眼に当たる方法を

2901犀角独歩:2006/11/04(土) 09:31:22

誤解があるといけないので補足しますが、もちろん、わたしは石山の印刷本尊を奉安していませんし、いまは拝んでもいません。

彫刻本尊(いわゆる「本門戒壇の大御本尊」)の原本となった日禅授与漫荼羅が日蓮筆であるという点では疑義を感じます。その疑義のある原本を元にした彫刻は、さらに不動そのた見るからに日蓮の筆法とは異なる他筆です。つまり、まったくの模造品です。その模造品を書き写したと言いながら、さらにまったく書かれている内容が違うのが石山大量頒布の印刷本尊です。さらに、石山には本尊相伝というものがありながら、まったく違った内容で書かれ、さらには、真仮を決めるはずの書写者の花押まで印刷されてしまったのが、石山法華講、創価学会、顕正会の‘本尊’です。果たして、日蓮が漫荼羅を拝めと言ったかどうかという問題以前に、石山の本尊は拝む蛮勇は、今となっては起きません。

2902犀角独歩:2006/11/04(土) 14:28:11

2896 しゅんかんさん

一つ見落としていました。

> 『本尊問答抄』…「法華経の題目を以て本尊とすべし」

同抄は日蓮の真蹟(直筆、つまり真筆)を遺していません。
しかし、日興写本があることから、古来より真筆写本として扱われてきたというのが、まあ、通論と言うことになります。

要は、直弟子日興に完全に信頼を置いた‘解釈’ということでしょう。
しかし、わたしはこの点を疑っています。簡潔に言えば、日興が偽書を作ったとしても何の不思議もないからです。
日興の写本遺文には、他と内容がかけ離れているものがいくつかあり、この点は、以前、問答さんと議論したことがありました。

> …日蓮宗派全てにおける一致

これはどうでしょうか。大半は、同抄を真筆写本として扱うでしょうが、厳格に、採用しない方もあります。もっとも端的な例は米田淳雄師が発願編者である『平成新修日蓮聖人に文集』(日蓮宗連紹不軽庵)です。同抄は載っていません。

ちなみに、この書は、顧問に身延山短期大学学長/立正大学名誉教授:宮崎英修師・立正大学教授/日蓮教学研究所所長:浅井円道師・立正大学教授/日蓮宗教学研究所所員:高木豊師・立正大学教授/日蓮宗教学研究所所員:小松邦彰師、協力として立正大学講師/日蓮宗教学研究所所員:寺尾英智師・日蓮宗教学研究所所員:都守基一師(肩書きは平成6年10月13日初版第一刷発行当時)という錚々たる顔ぶれになっています。

なお、もし、この書が真筆写本であったと想定した管見は以下に記しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/614-

法華経の題目を本尊という発想は、わたしは実に奇異に感じますが、無仏の時代、題目をもって下種という教学的な態度から師、法を本尊と拝すれば、このような言い回しは、あるいは可能なのかもしれません。けれど、地涌菩薩のごとく、五百塵点成道の釈尊に直接下種をされ、妙法蓮華経の五字を所伝されたならば、その本尊は、久遠本仏・釈尊をおいてあるはずはありません。宝をもらったら、その宝らこそ大事で、くれた人はどうでもいいといった忘恩を日蓮が冒すはずがないからです。これではまるで禅・真言の所説に異なりません。くれた方を仰ぎ、宝を伝持する。本門の本尊と題目の五字は別です。

久種覚知の仁においては仏本尊を立てることは当然の流れです。日蓮は本門本尊とことわっているわけです。本門とはまさにこの久遠本仏成道と地涌結縁、法付属を説く段です。迹門立てで題目(妙法蓮華経裏一念三千珠)をいうならいざしらず、本門段で法を表に立てるのは論理として整合性がありません。

妙法蓮華経によって覚った諸仏と、地涌所伝の妙法蓮華経による我々は、その立場が違います。また、地涌菩薩に遇わない凡夫ともまた違うとも言えるでしょう。本仏との下種を覚知できず、今番地涌菩薩に遭えない者にとって、題目を本尊と仰ぐという脈絡は題目本尊という教学的な余地を残しているのかもしれないというのが上記の管見です。

2903しゅんかん:2006/11/04(土) 20:04:52
独歩さん、ご丁重な教示ありがとうございます。
内容が難しくってこの板ばかりを見ておりましたが、
他の板も拝見させて頂きますと、独歩さんが多くのお方に
一つ々丁寧にご返事をされておられる事に驚きました。
私ごとき者にも・・・本当に恐縮しております。
>『本尊問答抄』…「法華経の題目を以て本尊とすべし」
について難しい回答ですが(仏教用語等が)、勉強をします。
(しかし、自分から投げかけたとはいえ、何を言うてはんのんか
ちんぷんかんぷんやなぁ)
法華経の題目を以て本尊とすべし」とは
母(〇〇ちゃんとご本尊さんに勤行したんか?)
の本尊のみを日蓮聖人は定義していないかもしれないと
言うことですか。(題目の本尊等とかおっしゃてますね)
本尊とは必ずしも物体(実物)のみを指していないと。

2904犀角独歩:2006/11/05(日) 09:13:16

しゅんかんさん

> …法華経の題目を以て本尊…のみを日蓮聖人は定義していない
> 本尊とは必ずしも物体(実物)のみを指していない…

「物体」という表現が適切かどうかはわかりませんが、「…のみを指していない」という点はそのとおりですね。

『本尊抄』の記述は、(1)自分の心のなかで観た本仏、(2)実際に造立される仏像、そして、(3)文字としての妙法蓮華経、という3本立ての論攷です。この三つの、どれが一番かという比較ではなく、それぞれの重要性を論じているという視点が重要です。

また、御漫荼羅の全体を本尊と仰ぐのは門下一般の在り方ですが、「法華経の題目」という『本尊問答抄』の趣旨からすれば、本尊は「妙法蓮華経」の五もじということになります。そして、これは音声と思い(イメージ)ではなく、まさに漢字で書かれた五文字だというのが、日蓮の達観であるわけです…、と、書くと、また、難しいと言われそうですが。

2905天蓋真鏡:2006/11/05(日) 10:27:14
横レス失礼します。 三法門は「本尊≒仏陀像・戒壇≒漫荼羅・題目≒法華経」で、本尊とは勝れ足るを用いる、天台密教から法華一乗へ布き治す、法華経の信心学問修行を提唱して祈る事と今頃まとまりました。漫荼羅は、シャクソンと法華経を繋ぐ役割があるのでは?

2906天蓋真鏡:2006/11/05(日) 10:37:08
脱字すみません。戒壇とは天台密教から法華一乗へ布き治す、題目とは法華経の信心学問修行を提唱して祈る事。

2907しゅんかん:2006/11/05(日) 22:26:38
独歩さん、ありがとうございます。
皆さんのやり取りを拝見させてもらい、自分なりに
解釈していたものは{曼荼羅本体、釈迦仏像(この二つは物体、固体です)
もう一つは南妙法蓮華経と唱えている人、その人の内なる物に、唱えたと同時に
内在されているものである本尊}の三つです。
その人の内なる物に内在されている物を指しているのかな?と思ったのは
当然、皆さんのやり取りと、南妙法蓮華経と三弁唱えれば、と教科書で習った
、この一文です。
独歩さん、そこそこ近かったでしょうか?

2908犀角独歩:2006/11/06(月) 05:44:18

題目の三唱というのは、種々の解釈があるように思います。仏・法・僧の三宝に一唱ずつ、あるいは空・仮・中の三諦、法報応の三身とも。ただ、これらは日蓮の文証は、といえば根拠未詳です。

たぶん、日蓮の教えというのは、釈迦仏への信仰であり、妙法蓮華経への帰依なのだろうと思います。それを具体化するとき、個人では漫荼羅の授与/受持、広く大衆に示すのには仏像造立、唱える妙法蓮華経は、仰るとおり、内心の、十法界、殊に仏を観じ成仏を信じ、目指すことなのでしょう。

2909とんび:2006/11/09(木) 00:01:55
皆様、こんばんは。
仕事に忙殺されていました。もう少しだけ発言させていただきます。
また、いろいろなスレッドのレスを読む精神的余裕はありません。(良くここでは過去の議論・発言を
読むよう指摘されていますので)ご理解下されば、幸いです。

 法華経シャク門、方便品の「唯仏・与仏、乃能究ジン、諸法実相」の文について...
通説では、釈迦如来と多宝如来を指し、正宗では、唯我与我、ということで、日蓮聖人と日興上人を
指しているものだと思っています。

 疑問に思うのは、どちらも聖人に当てはめていることです。この娑婆世界に当てはめて考えると、
仏界の代表(仏)・地獄界の代表(仏)ということで、譬えていうと、マザーテレサのような聖者と、暴力
団山口系の組長(修羅界というべきか)というように、光の世界を知る人と闇の世界を知る人とが、実は
「乃能究ジン、諸法実相」に当てはめた方が、道理にかなっているように感じたりします。

 私は、教学的に「乃能究ジン、諸法実相」を理解しているわけでは、ないので、譬えが適切ではない
かもしれませんが、疑問として発言しました。

2910しゅんかん:2006/11/11(土) 18:22:29
月光浴さん又、お願いします。
2859 において万年救護の御本尊は埼玉の仏具店の主人が開帳後に寮
(庫裏)で販売していました。
に付いてもう少し詳しくお聞かせいただけますか。
店舗名など判ればお願いします。(少しの情報でも結構です)
連絡を取って見たいのです宜しくお願いします。

2911とんび:2006/11/12(日) 00:07:02
追伸です。
十界を、己心の十界に当てはめるか、国土世間などの三世間などに当てはめるか、
いろいろあると思いますが。。。
 仏界の中の地獄界より、地獄界の中の仏界...と比べると、後者の方がなんか
良いような気もしたり。

 世の中の貯金と借金に当てはめて考えると、貯金をしている人は、なるべく有意義に
お金を使用した方が、良いと思うし、借金をしている人は、貸してくれている人を困ら
せないように、借金を返すようにした方が、世の中がうまい行くように思ったり。

 昔、福運だの功徳だのとか、いろいろと教えられましたが、今幸福を感じている人は、
貯金を使っている状態で、逆に、今苦しんでいる人は、借金を返している状態...とも
言えるのかな...とも、思ったり。

 サークルなどのように、類は類を呼ぶ、で、同じ物などを好む人が、集まる..という
ことがある反面、男と女、磁石のS極とN極とが引き合うように、全く逆の性質をもった
ものが、結びつく...ということもあるのかな、と思ったり。

 ちよっと関係ないですが、日蓮聖人の御書の一節で、有名な言葉なので、あえていうこ
ともないですが、「日蓮が仏果を遂げられたのは、良観や東条かげのぶ等のおかげ」趣意
というのが、あったかと思います。余談でした。

2912天蓋真鏡:2006/11/12(日) 18:19:47
【漫荼羅・天台密教から法華一乗へ布き治し守る法華経表現の一つ】 個人の幸福・自身のコントロールには漫荼羅、社会の繁栄・公共のセキュリティには戒壇堂が形として表現される。皆成仏道なので一人ひとりが法を伝授護持する者。僧は昔からの教えを過不足無く衛る者。 極端でしょうか。

2913再挑戦者:2006/11/14(火) 21:08:31
 失礼します。
 諸賢様の深い御洞察には頭がさがります。
 オチコボレを自認の愚考です。 「観心本尊」についてです。
 先日「不得貧勝利」(囲碁十誡、12世紀頃、囲碁の知・入門、集英社・畠秀史)の意味を知りました。  「ムサボリは勝利を得ず」=「勝とう勝とうは負けの元」=「相手の石を獲ろう盗ろうは、取られの元、」、、を意味するようです。
 そこで「観心本尊」、はどのように判断するのでしょうか。 先の例文から見ますと「、、心して本尊を観る、、」、でしょうか、、。 どんな「、本尊、」、なのでしょうか、。
 、、「日蓮が魂を墨に、、信じさせ給え、、」、「、、南無、、に過ぎたるは無し、、」、、と御座いました。
 、、やはり、基本、、原点になるのは「本尊」=日蓮様直筆の「本尊集」、のような「本尊」でしょうか、。
 今「心して本尊を観られるような歴史に耐えうるような”曼荼羅さま”を拝観は可能、」、でしょうか、、。 現実は「混沌」としていますようです。                                               早急なる「善後策」を超宗派的な「合同調査委員会、、」などで御検討を願望したいが、、、。 
 今重要なのは「一本になるような方向性さえ”確認、”、できれば、某S・K会さま達は、マッサオ」でしょうか、、。 迷言ですがお許し下さい。

2914月光浴:2006/11/19(日) 00:14:51
しゅんかんさん、ご返事が遅くなりすいません。
さいたま市の正〇寺の前の仏具店です。

2915みかん:2006/11/19(日) 07:03:56
正信会の正因寺のそばの鶴林堂佛具店?(身もふたもなくてすいません)

さて、
>2860 しゅんかんさん

1.日蓮正宗は重須本門寺では仏像崇拝を行っていると発していますが
本当でしょうか?

日蓮正御影信仰はありますが、仏像はないとおもいます。本堂の曼陀羅の前には正御影が飾られています。重須北山本門寺根源において御開帳とは、本尊の御開帳ではなく、正御影の開帳です。

4.重須本門寺の末寺は関西圏に存在しますか?

あります。たとえば和歌山の大新公園の向かいの寺院は北山本門寺根源の末寺です。(北山本門寺本末寺の縁起集を持っていますが、行方不明。出てきたらまた調べます)

5.身延系においての僧侶の法衣は赤、紫と煌びやかですが日蓮正宗のそれ
(薄い灰色)とは相違します、重須はどっち?

北山に限らず、日興門流寺院はわたしの知る限り薄墨です(北山、西山、要法寺、小泉久遠寺を見た)。色の法衣や黒色の法衣は見たことがありません。

6.正宗、要法寺とはやはり違いました(本能寺は勝劣派でしたっけ?)

本能寺は勝劣派ですね(法華宗本門流。田村芳朗先生がいらっしゃった宗派)。法衣は忘れましたが、紋は鶴丸だったはずです。本堂の本尊は仏像。(一尊四士か、一塔両尊四士かわすれました)

2916しゅんかん:2006/11/19(日) 19:12:06
月光浴さん、みかんさん、有難うございます。
知識の深さに驚かされるばかりです。
本当に有難うございます。

2917しゅんかん:2006/11/26(日) 19:50:43
問答迷人さん初めまして。しゅんかんと申します。
(初めてではないかも?、管理人さんでもありましたか?)
元、学会員でしたか?(間違っていたらすいません)
数点私の疑問にお答えいただけましたら幸いです。

独歩さんに以前お尋ねしました所、興師は仏像崇拝をしていたとの
お言葉を頂きました。そこで疑問に思ったことがありました。

〇他の掲示板で見かけたのですが、精師(十七世)が謗法を働き
 寛永十五年(一六三八年)下谷常在寺の再建並に造仏をしたと記してあり、
 後年、俊師(二十二世)啓師(二十三世)が撤去したと思われる。
 と言う文面をみかけました。
 当掲示板でもこのような内容の物を論じられた事がありますか?

〇興師の時代には仏像崇拝をしていた。精師は謗法を働いた(事実なら)
 のであれば何時の時代ぐらいまで仏像崇拝が続いていたのでしょう?
 精師の造仏は事実と思思わますか?

〇当掲示板には非常に知識豊富な元学会、元正宗と思われるお方が
 多くおられるようですね。
 多くのお方が真面目に活動をされていて折伏もされた事だと思います。
 疑問を抱き退会等をされた方などは折伏をし入信していただいた方に
 どの様な感情を持っているのでしょうかねエ
(私は貴方に勧めたが考えが変わったので貴方もやめればとか、
 イヤ個人の自由だからとか、黙っていると入信させたあいつに
 非難されないだろうか等、色々悩むんじゃないかなア)
どうでもいいでしょうけどふと頭に浮かび、尋ねてみたくなりました。
宜しくお願い致します。

2918アキラ:2006/11/27(月) 00:06:55
どんな本なのですか?詳細がわかる人、教えて下さい。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4846003167/sr=11-1/qid=1164431819/ref=sr_11_1/503-5965839-3713530

2919問答迷人:2006/11/27(月) 08:35:34

しゅんかん さん

いつも御参加ありがとうございます。

ご質問、痛いところを突いておられると言うか、なかなか簡単にはお答えできないような内容です。よく考えてお答えしたいと思います。一日ほど時間を頂戴したいと存じます。

2920問答迷人:2006/11/27(月) 17:02:04

しゅんかん さん

>興師は仏像崇拝をしていた

この点は、僕は慎重です。原殿書には、仏像崇拝に類似する表現は有りますが、結果的には仏像造立を制止し曼荼羅を勧めています。日興上人が実際に仏像崇拝をしていたとは、僕は考えていません。

>精師・・・造仏

これは史実として固まっているのではなかったでしょうか。

>何時の時代ぐらいまで仏像崇拝が続いていたのでしょう

日興門流としての日蓮正宗においては、仏像崇拝は行われてこなかったと僕は考えています。行われていたという証拠をご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教授賜りたいと存じます。

>折伏をし入信していただいた方にどの様な感情を持っているのでしょうか

非常に心苦しく辛いですね。その人からお尋ねがあれば、当然のことながら、僕が知りえた事実を全て話します。ただ、今、嬉々として活動している人に対して、止めよ、と言うのは、信教の自由の観点から憚られます。それに、創価学会員は、大きな流れから見たら、日興門流に属する信徒、という事になると考えていますから、無下に信仰を捨てさせることが、果たして蓮祖のお心に随う事なのかどうか、疑問が残ります。現に、僕の知っている創価学会婦人部の人は、

「学会活動は、もう十二分にやってきた、足らなかったのは、自分の家庭を疎かにしてきた事だ。子ども達が可愛そうだった。これからは、お題目根本に、家庭を立て直して行きます。」

こう言っています。この人に果たして「創価学会の教えてきた事は間違っている、大石寺戒壇板本尊は偽物だから捨てなければならない、日寛上人の教学は日蓮聖人の教えを破壊している・・・」等と焚付けるべきなのでしょうか。静かにお題目を根本に、家庭を立て直してゆこうとしているのだから、そっとしておいて上げるべきではなかろうかと思います。僕は一度はその方に、戒壇板本尊が偽物である事を語りましたが、今は、却って、お会いするたびに、その方の家庭が安泰となってゆくように励ましています。一生懸命にお題目を唱えよましょう、と。

こんなところで、お答えになっているでしょうか。

2921問答迷人:2006/11/27(月) 17:04:37

訂正です

× 一生懸命にお題目を唱えよましょう、と。
○ 一生懸命にお題目を唱えましょう、と。

2922犀角独歩:2006/11/27(月) 19:17:07

わたしは、日興には仏像本尊の意識は当然、あったと考えます。
もしなかったのであれば、一尊四士を我が義として、日澄がその義を盗んだなどと述べる理由はまったくないことにならです。

わたしのHPにアップしてありますが、執行師の解説に頷きます。

…「原殿御消息」には、大曼荼羅と仏像との関係を論じて、

「日蓮聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御徴力以ての形の如く造立奉り思召立候を、御用途も候はず、大国阿闍梨奪い取り奉り候仏の代りに其程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給て固く其の旨を御存知候を、日興が申様は責て故聖人安置の仏にて候はゞさも候なん、それも其の仏は上行等の脇士もなく、始成の仏にて候き、その上其れは大国阿闍梨の取り奉り候ぬ、なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給へ候べき、御力契給せず御子孫の御中に作らせ給仁出来し給ふまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。」

といっている。いまこの文に依れば、宗祖の奉安せられたる一体仏の釈尊が、祖滅後朗師によって安置せられるに至ったので、波木井の原氏がその一体仏の釈尊と同ようなものを造立せんと試みたものゝようである。茲に於て興師は、一体仏の造立は始成仏に濫するが故に不可であることを述べ、更に本化の四士を添へたる仏像の造立は経済上の問題を伴うものであるから、一仏像造立の出来るまでは、宗祖の認められたる紙墨の大曼荼羅をもってこれに代へても何等異りはないと訓へられたものである。即ちこの文に現れたる日興上人の思想は、後世に伝へられているが如き、仏像否定でもなく、また大曼荼羅正本尊思想でもない。寧ろ仏像造立を肯定し、大曼荼羅所顕の一尊四士をもって本尊奠定の様式と解されてゐたとみるべきであらう。然るにこの文をもって、日興上人の造仏論者を誘引せんがための巧説であるといい、或はまた、造仏論者に対して且らく一尊四士の造立を許されたのみにして、これは真意にあらずといふが如きは、却って上人の真意を誣ふるものではなかろうか。少くともこの消息による限り、この時代に於ける上人の本尊意識は本門の妙法蓮華経の教主久遠実成の釈尊であったのである。

 なお興師の仏本尊思想を窺うべき文献として「三時弘経次第」と「引導秘訣」とがある。即ち「三時弘経次第」には明かに師弟の次第を述べ、久成の釈迦仏をもって本仏とし、この本仏を富士山の戒壇本尊とみなしているのである。更に「引導秘訣」には曼荼羅を説明して

「曼荼羅ノ事、是即冥途挙(テガタ)状也(乃至……)是釈迦法王ノ印判と云ふ意也、曼荼羅授与之時、深此旨思フベシ。」 といい、また「題目を書事は釈迦の智慧を顕す也。」ともいって、題目を仏智と解し、この大曼荼羅を拝するには「心強仏身念可シ」であると相伝しているのである。然るに第二類の文献たる「富士一跡門徒存知事」には

2923犀角独歩:2006/11/27(月) 19:17:31

―2922からつづく―

「日興云聖人御立法門ニ於テハ、全ク絵像仏菩薩以テ本尊為サズ唯御書意任せて妙法蓮華経五字ヲ以テ本尊ト為可シ即自筆本尊是也」

といって、大曼荼羅と仏像との間に軽重を論じ、大曼荼羅正本尊を強調して仏像造立の不用を論じている。次いで更にその下には

「此御筆ノ御本尊ハ是一閻浮提未だ流布せず正像末未だ弘通ざる本尊也(乃至)六人一同守護し奉る可し、是偏広宣流布有時ノ、本化国王御尋有らん期まで深く敬重し奉るべし。」

といって、大曼荼羅そのものを願業の本尊とするものの如くである。これは前の「原殿御消息」に於て、仏像本尊の出現を所期とするものと全く相反するものである。従って本書に現れたる本尊意識は、本尊の実体を妙法五字にとるところの謂ゆる法本尊である。ところで「五人所破抄」には、「門徒存知事」のこれらの文に相当するところを

「日興云諸仏之荘厳同じと雖も印契に依テ異を弁ずべし、如来之本迹は測り難し、眷属を以て之を知るべし、所以ニ小乗三蔵之教主は迦葉阿難脇士ト為し、伽耶始成之迹仏は普賢文珠左右に在ス(乃至)図する所ノ本尊は亦正像二千之間一閻浮提之内未曾有大曼荼羅也、当ニ今は迹化教主既ニ益無し、況多多婆和ノ拙仏哉、(乃至)執スルハ尚強チニ帰依致サント欲スレバ、須ク四菩薩を加ウベシ、敢えて一仏を用ルコト勿レ」

とあるが、この文に於ける本尊意識は果して、「門徒存知事」に現れたる本尊意識と同一なりや否やについては研究の余地があろうと思はれる。即ちこの「五人所破抄」の文は大曼荼羅と仏格との軽重を論じたものでなく、脇士に依って仏格を定めようとするものである。故に大曼荼羅対仏像の問題ではなく、大曼荼羅所顕の仏格本尊と、一体仏並に迹仏との優劣を論じたものであるとみるべきはなかろうか。然してこの文の末文たる「執者尚強欲帰依」云云の十八字は、大石寺6世日時の写本になく、また西山代師の直筆と伝う代師本にはこの文を抹消してあるとのことである。そこで、この十八字は果たして原本に存していたものか、それとも後人の加筆によるものかの疑いもある。

 然し仮令この文があったとしても、「執者尚強」の文は一尊四士の仏像を指すのではなく、それは一体仏を指す意と解すべきであろう。かように考察し来れば「五人所破抄」に現れたる本尊意識は寧ろ前の「原殿御消息」の思想に近いものであるということができる」…

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_003.html

2924問答迷人:2006/11/27(月) 19:29:13

犀角独歩さん

>わたしは、日興には仏像本尊の意識は当然、あったと考えます。

この点は、執行師の仰る事を否定するものでは有りません。僕が問題視しているのは、実際に日興上人が仏像を安置して崇拝していた事を示す故事やら、文献やらが有るのだろうか、という事です。僕の浅識の為に知らないだけかもしれませんが・・・

2925犀角独歩:2006/11/27(月) 19:32:49

もう一点。やや横レスをさせていただけば、問答さんのお記しになるところは、同意するところもありますが、しかし、それは創価学会員の、会に属することによっての被害者としての側面です。

勧誘をし、選挙依頼もし、時には物品まで買わせた、人を活動に駆り立てた、虚偽を真実のように語ったという“加害者”としての側面が考慮されていないように、思えます。やってきたことに対する責任を、どこかで取ること、そのためには、事実を受け入れる勇気とタイミングを持つことは、不可欠であるとわたしは思います。

日蓮正宗創価学会に関わったすべての人は、嘘の本尊、嘘の教義をもって、日本を席巻し、創価公明が日本を跋扈してやまない安国ならぬ、暗黒社会を作ってしまったのは事実でしょう。一人ひとりに責任があります。

2926犀角独歩:2006/11/27(月) 19:42:57

2924 問答迷人さん

この点は、既に何度も、論じてきたことですが、身延の宗廟に日蓮手製の一体仏が安置されていたことは、動かない事実です。日興が仏像を斥ける理由はありません。

消し去られてしまった事象を、証明することは困難ですが、むしろ、富士においては、本来あった日興と仏像の関係を消し去ったのに過ぎないのではないでしょうか。

わたしは、日興は、日蓮手製の一体仏を崇敬する故に第二転(なくなってしまったから、複製を作る」ことに反対したということは、むしろ、大いに仏像を崇敬したことを意味したのだろうと考えます。

また、日蓮がいずれのところは定めなかったけれど、未来、本門戒壇が建立された暁に立つ本仏釈尊像に思いを馳せ、一尊四士の義を示したのは、仏像を斥けたということではなく、むしろ、仏像を重視する故のことであったと考えます。

また、本尊抄に見られる如く、日蓮は僧は摂受をもって法の弘持に責務を置き、妙法蓮華経の五字を授与するところにその責務を置き、しかし、正法を信仰する王は、そこで初めて本門釈尊像を造立する役務を負っていると読めます。

仏像造立は賢王の仕事。故に日興は仏像を立てなかったという脈絡です。これは日興が漫荼羅正意から仏像を斥けたという意味にはなりません。
仏像を造立する賢王在家の四菩薩が出現していないために仏像が造立される時を日興が生きなかったという時系列を示すばかりではないですか。

2927問答迷人:2006/11/27(月) 20:08:23

犀角独歩さん

>加害者としての側面が考慮されていない

仰る通りです。僕のスタンスでは、確かに、加害者としての側面が全く考慮されていませんね。

それは、信仰者として、「日蓮聖人が命に代えて我々に教えたかったことは何か」という問題意識が先行しているからです。それを知ったところから日蓮信者として、如何にあるべきか、という社会に向けたベクトルが出てくるのだと思っています。

信仰者としての責任として、先ず、何としても蓮祖の伝えたかった事を正確に会得すべきだと考えています。

批判は敢えてお受けいたします。

2928問答迷人:2006/11/27(月) 20:13:24

犀角独歩さん

>消し去られてしまった事象を、証明することは困難ですが、むしろ、富士においては、本来あった日興と仏像の関係を消し去ったのに過ぎないのではないでしょうか。

消し去ったのは、いつ頃、誰が、何の目的で消し去ったとお考えでしょうか。

これから仕事で出かけますので、続きのレスは明日になります。

2929犀角独歩:2006/11/28(火) 08:36:03

問答名人さん

2928について、わたしは、「批判」をしているわけではありません。
「日蓮正宗創価学会」員、「法華講」員であったという対外的視点は、考慮させざるを得ないという意味です。仏教を行じるというのであれば、そのもっとも基本にあるのは懺悔(さんげ)から始まると、わたしは考えるからです。無反省、過去の責任を負わないことでは仏道は成じ得ないとわたしは思います。「無慚無愧」では仏道になりません。けれど、このような掲示板を置かれる問答さんは、十分にそのような視点に立っておられる。ただ、そのような自画像が見えない人には気づきを待つという寛容のお立場からのご発言と拝します。

2929について。「いつ頃、誰が」という点については、あるいは、日興本人が重須に移って中盤以降から、もしくは存知事、所破抄などが記された頃、その著述者たちが。「何の目的で」という点は、むしろ、ご質問としては不適宜で、仏像を寄進するような十分な寄進が得られない状況下で、漫荼羅が徐々に本尊と見なされていき、さらに御影像信仰の勃興で、仏像の等閑視される経過があったためではないのかと想像します。

しかし、日興の消息などには、「仏聖人」といった表現は見られます。
石山や、正信会は、これを漫荼羅本尊であるというわけです。しかし、本当にそうでしょうか。日興の段階で、日蓮本仏論などまったく見られないわけです。また仏本尊に対して、法華経の題目(法)が本尊だというのです。とすれば、仏が漫荼羅を表すはずはありません。

では、何を指して、日興はそう書いたのか。すでに御影信仰が起きていたとすれば、ここでいう「聖人」は日蓮御影でしょう。では「ほとけ(仏)」はどうでしょうか。漫荼羅でしょうか。漫荼羅であれば、法ではないですか。つまり、仏とは、釈尊像を指す以外に考えられません。
つまり、日興が消息に、供養の品々を仏聖人に供えたというのであれば、そこには釈迦仏像と日蓮聖人御影像があったことを意味すると考えるのは、日蓮本仏、漫荼羅正意に汚染されていない目から見れば、当然すぎることではないでしょうか。故に、わたしは、日興が重須に移ったのちも、その宝前には仏像が置かれ、そして、御影像も置かれてあったと類推します。

むしろ、わたしが反詰したいのは、それほど、日興が漫荼羅を崇敬し、仏像を斥けたというのであれば、日興はいったい、どの漫荼羅を拝んでいたというのでしょうか。そのことこそ、まさに明確になってはいないのではないでしょうか。

日興が漫荼羅正意である、石山日目が漫荼羅正意であるというのであれば、その正意とされた根本の漫荼羅本尊とは何かを証すること、肝要になります。
「それは本門戒壇の大御本尊である」などという戯言は、既に問題外であることは言うまでもありません。

もし、日興が漫荼羅正意、日目が漫荼羅正意であるというのであれば、それぞれの根本崇敬の漫荼羅とは、日蓮のどの漫荼羅でしょうか。なお、後者、日目に関してですが、所謂、「御座替本尊」ではないかという類推は直ちに浮かぶことでしょう。しかし、わたしはこの可能性は、否定します。なぜならば、この漫荼羅は現在も客殿に懸かるのです。本堂に懸かる漫荼羅こそ根本であることはいうまでもないからです。

問答さん、如何でしょうか。

2930問答迷人:2006/11/28(火) 11:46:08

犀角独歩さん

三師御伝土代の文を先ず引用します。

一、脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事(富士宗学要集第五巻十二頁)。
小乗釈迦は舎利弗目連を脇士となす権大乗迹門の釈迦は普賢文殊を脇士となす、法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす云云、一躰の小釈迦をば三蔵を修する釈迦とも申し又頭陀釈迦とも申すなり、御書に云く劣応勝応報身法身異なれども始成の辺は同しきなり、一体の仏を崇る事旁々もつて謂はれなき事なり誤まりが中の誤まりなり。
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。

2931問答迷人:2006/11/28(火) 12:18:19

これは、大石寺第四世の日道師の著作とされています。この点に疑義があるとの説も有りますが、今は通説を採用しておきます。

ここで、道師は「何を以って末法の本尊とすべきか」という視点で論じていると思います。結論的に、一体仏を退け、蓮祖図顕の曼荼羅を以って本尊とすべき事を論じています。

さらに「何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、」と述べています。これは微妙な表現です。要するに、一尊四士こそが、法華本門の本尊であり、その本尊が図顕されている曼荼羅を本尊とすべきだ、と述べていると思われます。実際に一尊四士の仏像が寄進されておれば、もちろん、それを拝む事を否定しているとは読めません。

2930の引用文を以って、曼荼羅正意が日道上人の段階で定着していたとは、僕は判断できないと思います。基本的に、日興上人の考えとそして変わっていないと思います。

そこで、問題です。日道上人は、曼荼羅を「三身即一の有縁の釈尊」と捉えていた点です。この視点で考えれば、日興上人の「ほとけ聖人」との表現されている仏とは、曼荼羅として顕された一尊四士像を意味しておられたと考えるのが妥当ではなかろうかと思います。

無論、実際に一尊四士像が寄進されていた、という歴史的事実を示す証拠があれば別ですが。

以上、非常に回りくどい言い方になりましたが、まとめますと、

一、日興上人とほとんど変わらない本尊観を日道上人が持っていたと思われること。
一、日道上人は曼荼羅に顕された一尊四士像を「ほとけ」と拝していたこと。
一、このことから、日興上人の「ほとけ」という表現も、曼荼羅として顕された一尊四士像を「ほとけ」と表現した可能性が高い。

以上です。

なお、どの曼荼羅を「根本の曼荼羅」としたか、という点ですが、日道上人はそのような考えはなかったと思います。あくまでも、本尊は本門教主釈尊であり、一尊四士で有ったと思います。曼荼羅正意という内容は、少なくともこの御伝土代には書かれていないと思います。

2933犀角独歩:2006/11/28(火) 17:23:43

問答名人さん

「以上です」といわれても、これでは議論は落着しません。
もう少しお付き合いいただけませんか。
まず、話が噛み合っていないと思います。

要は、わたしが漫荼羅正意と記したことに対して、漫荼羅も仏像も、一尊四士であるという意味なのでしょうか。しかし、議論は、その点を論じあっているのではなく、日興が仏像を奉安していたかどうかです。

どうも、仰ることがどうもよくわかりません。2920に

> 仏像造立を制止し曼荼羅を勧めています。日興上人が実際に仏像崇拝をしていたとは、僕は考えていません

漫荼羅正意ではなく、一尊四士が本意であるというのは、どのような意味なのでしょうか。

わたしは日興が仏像を立てていたであろう証拠として、一尊四士義と「仏聖人」という消息の一節を引いたわけです。また、これはしかし、“日興”についてです。なぜ、突然、日道の話になるのでしょうか。

わたしは日興は仏像として一尊四士義を有していたという立場です。
けれど、漫荼羅図示が一尊四士であるというのは、いったい、いかなる意味でしょうか。漫荼羅には四菩薩が記されているから一尊四士であるとは、論理の飛躍ではないですか。

「隋身所持の俗難は只是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か。執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ」

のちの加筆と思われますが、日興の説としてされる、以上の一尊四士に見られる二カ所の成句、「隋身所持」「一仏」、これは両方とも、仏像を指してのことでしょう。

日蓮が終生所持したのは一体仏像である。それ故、一体仏で是とするものがあれば、それは甚だ非である。すべからく四菩薩像を加えるべきだ、というのが、その文意です。寿量仏釈尊の仏像は四菩薩の像を加えなければ、それを表現できないという、あくまで仏像奉安に関する話です。これが何故、漫荼羅に四菩薩が記されているから仏=一尊四士という話になってしまうのでしょうか。漫荼羅は一尊四士ではなく、敢えてそのような奉安に充てれば一塔二尊四士(中央首題、釈迦・多宝、四菩薩)ではありませんか。

引用される伝・日道の言とされるところは、実は生前、日蓮が一体仏を随身奉安した在り方を非難した形になっています。あろうことか日蓮を謗法であると断じています。師敵対、ここに極まるというほかありません。ここに至っては、石山を謗法の所行と断言しても憚りは要しません。

2934犀角独歩:2006/11/28(火) 17:24:17

―2933からつづく―

さて、このような不埒な土代記述の有様を踏まえたうえで、以下の点について勘えます。

> 一、日興上人とほとんど変わらない本尊観を日道上人が持っていたと思われること。

『御伝土代』は、近代以前は日時作とされていたわけですが、わたしもこの説に傾きます。しかし、いまは土代の作者考証ではないので、「土代作者」とします。

土代作者の文面の「三身即一」「本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏」などという点で、時代は日興よりさらにあととは思えますが、一尊四士という一面を採れば、このように言えないことはないと思います。

一、日道上人は曼荼羅に顕された一尊四士像を「ほとけ」と拝していたこと。

なぜ、このようなことが言えるのでしょうか。
この点を、もう少し、説明していただけません。

一、このことから、日興上人の「ほとけ」という表現も、曼荼羅として顕された一尊四士像を「ほとけ」と表現した可能性が高い

繰り返しになりますが、漫荼羅の図示は、一塔二尊四士です。さらにいえば、十界衆生、不動愛染、四大天玉まで勧請されています。つまり、十界勧請漫荼羅です。しかし、日興がいう仏像奉安一尊四士です。これはつまり仏菩薩に留まります。この両者は、まったく違います。なぜ、題目首題、多宝如来、さらに他の十界衆生まで示す漫荼羅が一尊四士と言えるのでしょうか。

まして、日興は『本尊問答抄』を筆写(?)して、本尊を法華経の題目であるというのです。法華経の題目は妙法蓮華経なのであって、四菩薩を脇士とする寿量釈尊、さらに諸仏の師であるところであるというのが、その規模ではありませんでしたか。

以上からすれば、漫荼羅を一尊四士と見なすことは決してできないと思いますが、如何でしょうか。

ただし、日興が一尊四士を「ほとけ」としたのは、当然のことだと思います。しかし、それが「漫荼羅に記された首題と四菩薩」とは、いずれの文献も指示をしないのではないでしょうか。

2935問答迷人:2006/11/28(火) 20:20:04

>2933 漫荼羅には四菩薩が記されているから一尊四士であるとは、論理の飛躍ではないですか。

確かに論理の飛躍があるとは思います。ただ、これは御伝土代の文意によれば、という事です。
御伝土代では、どのような奉安式の仏を末法の本尊とすべきか、という論点の中で、「法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす」と述べて、脇士の無い一体仏を否定しています。そして、その次に「未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く」と述べて、「曼荼羅」=「四菩薩を脇士とした本門教主釈尊」を本尊とすべき事を述べています。さらに、「何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや」と御伝土代は結論付けています。つまり、「三身即一の有縁の釈尊」とは「本門教主釈尊」、「一体修三の無常の仏陀」とは、「脇士の無い一体仏」という対比です。
道師はこの文脈からみれば、大曼荼羅を法本尊としてではなく、仏として、本門教主釈尊として拝していたことが明らかであると思います。なお、御伝土代の文意から一尊四士と書きましたが、正確には、もちろん一塔両尊四士ですね。

2936問答迷人:2006/11/28(火) 20:29:44

>2934 日道上人は曼荼羅に顕された一尊四士像を「ほとけ」と拝していたこと。

これは今述べたとおりです。土代の文脈がそのように指し示しています。

>漫荼羅を一尊四士と見なすことは決してできないと思いますが、如何でしょうか。

これも今述べたとおりです。一尊四士に拘っているわけではなく、曼荼羅を仏と拝していたという意味です。一塔両尊四士と拝していたのだと判断できます。

2937問答迷人:2006/11/28(火) 20:38:37

>なぜ、突然、日道の話になるのでしょうか。

日道上人は日興上人に直接指導を受けた弟子です。日興上人のあり方が、弟子たる日道上人の著作に色濃く影響していると考えるからです。弟子が、何を以って「仏」と捉えていたかを探れば、師匠の「ほとけ」と表現された内容をうかがい知る事が出来ると思うからです。必ずしも一致していると断定しているわけでは有りませんが、有力な傍証足りうると思うからです。

2938犀角独歩:2006/11/29(水) 08:48:59

問答名人さん

記されることは、あくまで、御伝土代が日道の作であり、かつ、日道が日興に忠実であったという前提に基づく仮定に過ぎないでしょうね。ご自身お認めのとおり、論理の飛躍があります。

日道は、日興の弟子というのは、新六を言うのでしょうが、これを直ちに受け取ってよいものでしょうか。また、『御伝土代』に記される年代は、1333年とされますが、作者が日道であるということと併せて、この点、一考を要するはずです。この書が日時作であるとすれば、成り立たないところとなります。

> 弟子が、何を以って「仏」と捉えていたかを探れば、師匠の「ほとけ」と表現された内容をうかがい知る事が出来ると思うからです

こんな論法は成り立たないでしょう。もし、斯様な理想が実現されているのであれば、いまに至る師弟子の関係で、日蓮の考えが現在の弟子にそのまま伝わることになります。本弟子六人にしても、みな弟子ですから、日蓮と同意となることになりますし、となれば、弟子間で異撤が生じることはないことになります。けれど、実際は五・一相対などと称する事象が起きています。

以上の点からしても、『御伝土代』が日興の仏本観を反映したというのは、あくまでも仮定に過ぎないでしょう。

「一、脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事。
小乗釈迦は舎利弗目連を脇士となす権大乗迹門の釈迦は普賢文殊を脇士となす、法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす云云、一躰の小釈迦をば三蔵を修する釈迦とも申し又頭陀釈迦とも申すなり、御書に云く劣応勝応報身法身異なれども始成の辺は同しきなり、一体の仏を崇る事旁々もつて謂はれなき事なり誤まりが中の誤まりなり。
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。
本尊問答抄に云く。」

『御伝土代』の上記の文をもって、関連づけを試みておられますが、読み方に違っていると言わざるを得ません。この文章は、漫荼羅が一尊四士であるなどとは、記していません。法華本門釈迦は四菩薩を脇士とすることを言うのは、あくまで仏像の様式について述べています。そもそも、この段は一尊(釈迦)四士(四菩薩)のみを言うのではなく、その前文に、小乗釈迦、権大乗釈迦の仏像奉安も上げ、小・大・本、それぞれの釈迦仏像は脇士像を付すを是とし、それに対して、脇士なき釈迦を「三蔵を修する釈迦とも申し又頭陀釈迦」を非とし、対比している文章です。一尊四士のみを証しているわけではありません。まして、脇士の有無を論じるわけですから、並座の多宝を表す一塔二尊四士とは意を異にしています。

また、一尊四士を一塔二尊四士と言い換えられましたが、この両義は意味を異にします。一尊四士は、日興の義であることが知られ、また、たぶん偽書であろう『四菩薩造立抄』にも見られるところです。富士方、中山方にその濫觴を見ることが出来ることになります。しかし、一塔二尊四士は、京で起きた仏像奉安、また、「三宝さま」と称される二尊奉安は身延でのことであって、これらを日興義とすることは出来ません。つまり、一尊四士をイコール一塔二尊四士であるという認識は『御伝土代』からも、その他、日興義とされるところからも、いっさい、看て取ることはできません

2939犀角独歩:2006/11/29(水) 08:49:36

―2938からつづく―

『御伝土代』の該当部分の、先に挙げた前文に

「本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり。
法を云へば妙法蓮華経の涌出寿量以下の十四品、本極微妙、諸仏内証、八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経なり」

とあります。一読すれば、明らかなようにまず教師として仏を挙げ、次に法を挙げています。つまり、土代作者は、仏を挙げ・法を挙げるという論の運びをしています。この点は「脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事」でも、同様でしょう。まず、仏につき仏像の奉安を述べ、次いで法について漫荼羅を論じるという別に立てています。

この仏と法が同じであると言うのが、問答さんの主張なのでしょう。しかし、仮に漫荼羅の前に一尊四士の仏像を置いていても、このような文章になるでしょう。

また、この段の末に、土代作者は「本尊問答抄に云く」と、その論拠を示します。この書には、

「釈尊と天台とは法華経を本尊と定給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とする」

ここでは明らかに釈迦と法華経の相違を論じています。
『本尊問答抄』をもって捌く、この段において、仏=法は成り立たないことになります。

なお、さらに付言すれば、問答さんは一尊四士=一塔二尊四士であるとのことですが、同抄では「不空三蔵の法華経の観智の儀軌は釈迦多宝を以て法華経の本尊…。不空三蔵法華儀軌は宝塔品の文によれり。此は法華経の教主を本尊とす。法華経の正意にはあらず。上に拳る所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊、法華経の行者の正意」といい、二尊四士の御本尊が妙法蓮華経であるという論法になっています。

なおまた、同抄は、法華経の題目を本尊というのは、釈迦(仏像)に対するのですが、しかしながら、それが漫荼羅であるとの論究ではありません。あくまで、「法華経の題目」です。ここには四士も、釈迦多宝も簡ばれます。この点で、日道の考えとは実は違っています。日道は、仏としては一尊四士の釈迦仏像、法としては未曾有の大漫荼羅とするわけですから、『本尊問答抄』からは、ここでも飛躍があるわけです。

以上の点から、日道が漫荼羅を一尊四士とも、一塔二尊四士とも見なしていないと考えられますが、如何でしょうか。

2940犀角独歩:2006/11/29(水) 10:25:12

【2939の訂正】

誤)この点で、日道の考えとは実は違っています。日道は、仏としては一尊四士の釈迦仏像、法としては未曾有の大漫荼羅とするわけですから、『本尊問答抄』からは、ここでも飛躍があるわけです

正)この点で、土代作者の考えとは実は違っています。土代作者は、仏としては一尊四士の釈迦仏像、法としては未曾有の大漫荼羅とするわけですから、『本尊問答抄』からは、ここでも飛躍があるわけです

2941問答迷人:2006/11/29(水) 11:26:00

>土代作者は、仏を挙げ・法を挙げるという論の運びをしています。この点は「脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事」でも、同様でしょう。

そういう論運びに見えるのは、「一、天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事。」に限ると思われます。他の論点では、そのような論運びはどこにも見当たりませんが・・・
しかも、当該部分も「仏を挙げ・法を挙げるという論の運び」ではなく、「本地は・・・上行菩薩」「本門教主は久遠実成無作三身」「法を云へば・・・一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経」「弘通を申せば後五百歳中末法一万年導師」という、蓮祖の「本地、教主、法、弘通」の各視点から、天台沙門の表現は間違いだ、と述べているわけです。「仏を上げ・法を挙げる」という順序は確かにその中に含まれていますが、論の運びがそうなっている訳ではないと思います。

「脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事。」の論運びは、まず、脇士について「法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす」「一体の仏を崇る事旁々もつて謂はれなき事なり誤まりが中の誤まりなり」と述べて、それが「未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く」ことであり、「三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀」に執着してはならないと結論付けています。いずれも本尊=仏についての論述であり、そこには、「法」との観点は見られないと思います。曼荼羅=法という捉え方は述べられておらず、日道上人がそのような見解に立っているとは思えません。

まず、この点、如何でしょうか。

これから出かけます。続きは夜に書き込みます。

2942犀角独歩:2006/11/29(水) 11:39:57

>2941

では、議論がややこしくなるので、仏・法という論の進め方になっていない、土代作者が、法=漫荼羅と述べていないという点は、譲ることにします。

その他の回答をお待ちします。

2943犀角独歩:2006/11/29(水) 11:48:46

一点だけ、補足します。

> 曼荼羅=法という捉え方は述べられておらず、日道上人がそのような見解に立っているとは思えません

この点は、わたしの文章が拙く伝われなかったようですが、土代作者は、『本尊問答抄』と明確に挙げていますので、そこで展開される法華経題目本尊観は、法を本尊とするものである以上、その脈絡から、土代作者は、南無妙法蓮華経(法)漫荼羅本尊観を摂取しているという意味です。

2944問答迷人:2006/11/29(水) 17:59:22

>一尊四士をイコール一塔二尊四士であるという認識

これは、僕の書き方が拙くて、独歩さんに誤解を与えてしまっています。そうではなくて、曼荼羅を仏と捉えていたか、法と捉えていたか、問題にしているのは、この一点です。僕は、文脈から、曼荼羅を仏と捉えていたと考えています。ただそれだけです。

この点について、後ほどもう少し詳しく書き込みます。

2945犀角独歩:2006/11/29(水) 18:20:34

> 2944

あ、なるほど。了解しました。
その線で、よろしくお願い申し上げます。

2946問答迷人:2006/11/29(水) 19:13:34

>その脈絡から、土代作者は、南無妙法蓮華経(法)漫荼羅本尊観を摂取しているという意味

これは違うと思います。確かに、本尊問答抄は法華経の題目を本尊すべし、と述べていますが、法華経の題目=曼荼羅では有りません。曼荼羅は、題目の他、諸尊が配置されて始めて曼荼羅であり、諸尊の配置が無く、ただ題目を認めただけでは、それはあくまでも題目に過ぎません。

この御伝土代の文脈では、題目を取り上げているわけではなく、あくまでも、曼荼羅本尊を取り上げています。題目は仏か法かと言えば、法ですね。それでは、曼荼羅は仏なのか、法なのか、という事が今の議論であるわけです。

そして、この御伝土代の文脈は、日道上人は、曼荼羅を仏と捉えていた事を示していると僕は思います。

如何でしょうか。

2947素人:2006/11/30(木) 05:37:02
我等の勤行の姿勢は正座合掌ですが、御影様は両膝を開いて座しておられます。
「端座して、実相を思え」とも聞いたこともあるし、時代劇を見ると将軍の前に進み、対する時でもあぐらであるようにも見えるし、往古の勤行の姿勢はどうだったのだろうかとふと素朴な疑問です。
どなた様かお教えください。過去ログにあったらすみません。

2948モトミナ:2006/11/30(木) 07:18:47
作家の秦恒平氏が、「日本経済新聞」に書いてあるので参考までに。

「天子も公家も武士も女も僧も神様も仏様も、古来、正座などしてこなかった。(ー中略ー)正
座というと茶の湯と、反射的に思う人が多かろう、が、利休の画像や彫像の遺例はみな正座など
していない。利休が正座をして茶をたてた例がかりに有ったにしても、禁中で天皇に捧げたとき
ぐらいで、おそらく秀吉の前でも浅いあぐらか軽い立て膝であったろう。(ー中略ー)元禄時代
ごろから、やっと日本人の生活に正座が定着したのは、衣服や家屋の変化、ことに厚畳の普及が
ものを言ったのだろう。徳川という近世支配が、いわゆる土下座に正座の名を与え‥‥云々」

ということらしいです。

2949犀角独歩:2006/11/30(木) 09:15:21

問答名人さん

一遍首題は漫荼羅ではないでしょうか。
墓石の首題、塔婆の首題、過去帳の首題もまた、略本尊であるというのは、通途の習いではありませんか。日蓮の筆法をもって、記されるところの妙法蓮華経の五字はすでに漫荼羅の意義を有するのではないでしょうか。もちろん、これは通論です。

土代作者が、では、漫荼羅をどう考えていたのかというのが、いまの議論です。
(本来の議論は、日興はどう考えていたかで、その前提として、土代ですが)

「一、脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事」という文末は「本尊問答抄に云く」で終わっています。このような文の書き方は、あとは、本尊問答抄の如くであるという意味ですね。この点はよろしいでしょうか。つまり、作者は、曼陀羅・本尊を考えるのに、問答抄を証としているということですね。

では、当の問答抄において、(1)妙法五字を漫荼羅と見なしたか、(2)漫荼羅を本尊と見なしたか、(3)本尊を法と見なしたかという3点を考えれば、問答さんの問いには事足りることになりますか。

(1)妙法五字を漫荼羅と見なしたか
同抄に「法華経の題目を以て本尊とすべし」とあります。
この一文を読むかぎりでは、題目=本尊であるということです。では、題目本尊は漫荼羅かということになります。

問答さんは「法華経の題目=曼荼羅では有りません」としますが、概ね、この考えにはわたし賛同しますが、開合という観点からすれば、日蓮の筆法で記された首題は、合して漫荼羅の意義を籠もるということはあると思います。

(2)漫荼羅を本尊と見なしたか
ただし、作者が強調するのは「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ」という点です。これは、このように讃文された特定の漫荼羅を指すのか、もしくは漫荼羅図示のなかで「二千二百二十余年」を簡んでということなのか、この文章からではわかりません。しかし、問答抄の結論は「此御本尊は世尊説おかせ給後、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず」ですから、作者はこの点を少なくとも考慮しているとは思えます。

わたしは、この問答抄の結論部分で言う「本尊」が漫荼羅を指すという考えには、やや消極的です。しかし、この作者は、法華経題目、二千二百三十余年を記した漫荼羅を本尊と選定していませんか。問答抄の真意と言うことではなく、土代作者の意図はここにあると思えます。

以上の2点は、いまの議論の前提ですが、この点では、特に問答さんとわたしに大きな考えの相違はないと思います。その前提で進めますが、もし違っておりましたら、また、ご指摘いただければと存じます。

(3)本尊を法と見なしたか
もう少し、具体的に言えば、漫荼羅を本尊とみなし、その本尊(の首題部分、もしくは四士も含め)が仏か・法かというのが、いまの問答さんとわたしの議論であると受け止めています。

土代作者、日興も、漫荼羅(本尊)は仏を表していると考えていたというのが、問答さんのお考え、いや、法と見なしていたのだろうというのが、わたしの管見です。ただし、これは漫荼羅を本尊と見なすという前提に立った日興以降の門下の見解を採ったうえでの議論です。(わたしは漫荼羅を、ただちに本尊と見なす考えには消極的です)

では、考証を試みます。

『法華取要抄』に「如来滅後二千余年龍樹・天親・天台・伝教所残秘法何物乎。答曰 本門本尊与戒壇与題目五字也」と、本門本尊を秘“法”といいます。

『報恩抄』に「天台伝教の弘通し給ざる正法ありや。答云、有。求云、何物乎。答云、三あり。末法のために仏留置給。迦葉・阿難等、馬鳴・龍樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求云、其形貌如何。答云、一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし。此事いまだひろまらず。」と、ここに正“法”といいます。

三つの法門、三大秘法ともに、法と言うわけです。
(日興、土代作者の考える)本門本尊=漫荼羅は法ではないでしょうか。

2950藤川一郎:2006/11/30(木) 09:19:10
当時は正確には「あぐら」ではありません。
「あぐら」は足を組むのですが、殿中の作法では、両足を合わせる形です。
はっきり言って真似すると、辛い体勢です。慣れれば楽になるのでしょうが・・・。
昔の殿中は、御前でも総畳はありません。板に畳で出来たような丸い座布団のような物が備えてあり、そこにそれぞれ端座しました。
官位の低い方はそれすらありませんでした(冷たそうですが)。
また殿上人との謁見と、公家どおしの場でも足の合わせ方が異なるのですが、
文書では表現しにくいのですが(爆)。左右の下げ足の違いがあるようです。

2951問答迷人:2006/11/30(木) 13:56:14

犀角独歩さん

>日蓮の筆法をもって、記されるところの妙法蓮華経の五字はすでに漫荼羅の意義を有する

曼荼羅の意義ではなくて、本尊の意義ではないですか。そう考えれば本尊問答抄とも符合しますね。

> 曼陀羅・本尊を考えるのに、問答抄を証としているということですね。

これは仰る通りであろうかと存じます。

> では、当の問答抄において、(1)妙法五字を漫荼羅と見なしたか、(2)漫荼羅を本尊と見なしたか、(3)本尊を法と見なしたかという3点を考えれば、問答さんの問いには事足りることになりますか。

はい。了解です。

> わたしは、この問答抄の結論部分で言う「本尊」が漫荼羅を指すという考えには、やや消極的です。

僕はこれが、直ちに紙幅曼荼羅を指すとは思いませんが、仏像群曼荼羅を含めて、曼荼羅を指していると思います。
仏像群曼荼羅とは、紙幅曼荼羅の図の如く、将来建設されるであろう伽藍に安置される仏像群です。それは、一尊四士なのか、一塔両尊四士なのか、更に十界の諸像を加えるか、色々な形式が考えられると思います。それらの、紙幅曼荼羅を元として建造された仏像群は、立体曼荼羅であり、これらを視野に入れて、問答抄は「本尊」を述べていると思います。

> 三つの法門、三大秘法ともに、法と言うわけです。
> (日興、土代作者の考える)本門本尊=漫荼羅は法ではないでしょうか。

三つの法門という縛りでは、本門の教主釈尊も「法」として捉えられているわけですね。しかしながら、これは三つの法門という縛りでは、という限定が付いていると思います。「本門の教主釈尊」が仏か法か、と問えば誰でも「仏」と答えるでしょう。この縛りの意味をもう少し考えてみる必要が有ると思います。この点、どのようにお考えでしょうか。教主釈尊を法だとすれば、仏と法との区別はなくなってしまっているのではないでしょうか。

2952犀角独歩:2006/11/30(木) 16:37:10

問答さん

ようやくと確信に近づいてきました。

>> 日蓮の筆法…妙法蓮華経の五字…漫荼羅の意義を有する
> 曼荼羅の意義ではなくて、本尊の意義ではないですか。そう考えれば本尊問答抄とも符合しますね

そうとも言えますが、両方ではないでしょうか。
この点は、しかし、取り敢えず、置きます。

> 仏像群曼荼羅を含めて、曼荼羅を指している

重須、京方の文献からすれば、確かにそうなります。
先にも他スレで記しましたが、仏像では日蓮の漫荼羅は表せません。讃文の「二千二百三十余年」、咒とも思える経釈の書き込み、日蓮の御影は作れても、肝心の花押は仏像では表せません。しかし、問答抄の記述にあるとおり、仏滅年号は必須であり、また、「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず」という点からして、漫荼羅における書き判は極めて重要な意味を持ちます。しかし、これを仏像で表すことは出来ません。わたしは漫荼羅と仏像では、そもそも意義が違うと考えます。

> 三つの法門という縛り

この縛りを設けたのは、ほかでもない日蓮その人です。

> 「本門の教主釈尊」が仏か法か、と問えば誰でも「仏」と答えるでしょう。

ええ、ここです、核心は。

> 教主釈尊を法だとすれば、仏と法との区別はなくなってしまっている

そう思われるでしょうね。しかし、先に挙げたとおり、日蓮は本門の本尊=教主釈尊を秘法、正法、法門であると言っています。つまり、この点は動かせないわけです。問答さんのお言葉を借りれば、“縛り”ということです。

では、観心本尊とは如何なることでしょうか。己が心に観じる寿量本仏です。十法界における仏・法界です。つまり、己が心に観る十界各衆生とは法ではないですか。すなわち、心法です。一念三千法門です。

では、五百塵点成道の釈尊の御前におわす菩薩が、現前に拝謁する仏は、己心の仏界でしょうか。違います。これは本師、仏です。

妙法蓮華経の五字は一念三千(法)の珠を裏むというのが、日蓮の教説でした。

では、仏像に表す本師釈迦牟尼仏は、己心の釈尊でしょうか。
わたしは違うと思います。五百塵点劫に下種をしてくださった本仏、つまり、我が心法とは別ではないですか。この仏が上行に所伝した妙法蓮華経を認めたのが漫荼羅であれば、これは仏ではなく、法ではないでしょうか。しかし、仏像と示す過去五百塵点已来の下種の本主は、慥かに仏です。

つまり、漫荼羅と仏像と、共に本尊ということは出来ても、その意義は、かくのごとく違っていると、わたしは考えます。この程度の相違を、日興がわからないはずはなかったと、わたしは考えます。

2953問答迷人:2006/11/30(木) 17:01:35

なるほど。そう捉えれば、矛盾無く整理できますね。少し考えさせてください。

それと、一つ、観心本尊が紙幅曼荼羅ならば、なぜ観心本尊抄に「曼荼羅」という言葉が一つも出てこないのか、不思議です。また、書き表す、という内容が書かれていないのも不思議です。仏像群の建立を期して、紙幅曼荼羅と、仏像群曼荼羅とを両方の基本原理を示したからでしょうか、不思議です。

2954問答迷人:2006/11/30(木) 20:53:55

犀角独歩さん

>つまり、漫荼羅と仏像と、共に本尊ということは出来ても、その意義は、かくのごとく違っていると

なるほど。ほぼ了解しました。

ここで疑問が湧きます。曼荼羅が本尊であると言う場合は、観心の本尊だとすると、仏像が本尊であると言う場合は、観心に対比するとすれば、教相ということになります。それでは将来建立されるべき仏像群曼荼羅は教相の本尊なのでしょうか。しかしながら、観心と教相と言えば、観心の方が、一重立ち入った、深い意義があるのではなかったでしょうか。観心の本尊を元にして、教相の本尊を建立するというのは、果たして、どういう意味があるのか、怪訝な気がしますが・・・。

或いは、教相と観心という対比ではなく、もっと違った捉え方をすべきなのでしょうか。

これについては、独歩さんは、どうお考えでしょうか。

2955犀角独歩:2006/12/01(金) 10:11:31

問答さん

敢えて、ご質問からずれて、前提を記したいと思います。
ここのところ、問答さんとの議論では、実はいくつかの隠れた根があると思うのです。

思いつくままに、挙げてみますが、一つには、れんさん、また、顕正居士さんなどが触れられた「漫荼羅設計図論」とも言うべき、富士の見解です。この考えは富士に留まらず、たとえば身延では日向が絵漫荼羅を描かせたとか、また、その後の一塔二尊四士像と言ったものも、ある意味、同様の脈絡にあるのかもしれません。富士方について言えば、日興の弟子分にこのような動向があることは、日興にその考えがあった。また、門下一般にその動向があったということは、日蓮もそのように考えていたという前提に、議論が進んでいると思うわけです。

しかし、わたしは違うと考えています。
というと、創価学会の如く、日蓮の正意は仏像にも、御影にもなく、ひたらす漫荼羅(彼らの言い方を示せば、御本尊)なのだと、誤解を招きそうですが、そうでもなく、漫荼羅と仏像の両立に本意があったと考えます。では、その漫荼羅と仏像がイコールの関係であるというのが、いわば「漫荼羅設計図論」ということなのでしょう。わたしは、これは違うと考えます。

以上の点は粗々記してきましたが、日蓮が漫荼羅と示すのは、上行所伝妙法蓮華経の授与を目的としている。では、漫荼羅図とはいえば、その妙法蓮華経が多宝証明の許に釈迦仏から上行の所伝された様を示しているのだというのが、わたしの見解です。日蓮の判の認められた妙法蓮華経を授与されることが彼の因果の功徳を譲与することなのだという、実に具体的な秘儀が、漫荼羅授与ということではないのかということです。漫荼羅は、紙と墨を使ってのものですが、この授与は一念三千という心法の授与ではないですか。妙法蓮華経の五字は紙に記された墨字ですが、それは容器です。中身は一念三千宝珠。これは仏が上行に伝えた心法です。そして、その授与の時を言えば、法華説教八品のことですね。(しかし、首題は五百塵点已来のことという、さらに一重立ち入った点はありますが、議論を簡潔にするためにこの点は置きます)

一方、一尊四士と刻まれる像は、木絵(草木)に仏菩薩の相貌を示すものです。
日蓮は、像だけでは三十一相しか表せないというのです。(木絵二像開眼之事)
ために梵音声を具すために、その像の御前に法華経典を置き、これを充足するを開眼といったわけですね。これは仏身です。では、四菩薩を脇士にする釈尊、その時とはいつですか。漫荼羅に図示されるの同様の今番法華の会座でしょうか。
わたしは、違うと思います。釈尊の成道、上行等が初発心の弟子となった久遠五百塵点成道のその時ではないですか。故に、そこでは一塔二尊四士の如く、多宝の証明など無用です。釈迦と四菩薩の直接の関係です。つまり、一尊四士は久遠のこと、一塔二尊四士は今番法華会座のことで、その意味は違うということでもあります。

2956犀角独歩:2006/12/01(金) 10:12:00

―2955からつづく―

漫荼羅は上行を介して妙法蓮華経という仏種を下すことでしょう。ここでは上行(日蓮)を能化とし、衆生を所化とします。しかし、一尊四士は久遠已来の師弟の関係、久遠下種を高々と謳い上げるところです。能化は釈尊であり、所化は上行等です。根元的、その意味が違っています。わたしが仏像に拘る理由はここにあります。漫荼羅は、久遠師弟、久遠下種を表に示していないからです。しかし、それは漫荼羅が不完全だからではなく、漫荼羅の前提に一尊四士の関係があるということです。ですから、漫荼羅と仏像、この両者は揃わなければ、日蓮の本意は完結しないということです。まず、これが一つです。

次に『御義口伝』の影響を色濃く受ける中世以降の富士方は、日蓮日興のあずかり知らないところを恰も、日蓮日興の教学であると思いこんでしまっているところが多々あります。「漫荼羅は仏である」という問答さんのご意見をお聞きし、わたしが直ちに想起したのは『秘密荘厳論』でした。

「自受用身者一念三千也。伝教云一念三千即自受用身自受用身者出尊形仏矣。出尊形仏者無作三身云事也云云」

『御義口伝』で引用される件です。この考えによれば、仏=漫荼羅という考えは容易く導かれます。しかし、わたしは日蓮にこの考えはなかった。また、日興の段階でも採用されていなかったと考えるわけです。それを端的に示すのが、実は『本尊問答抄』ではないでしょうか。これも一つです。

次に、石山方では日寛の五重相対の「種脱相対」にまるで誑かされてしまっています。このために、本門と観心の相対を見落としています。日蓮門下一般では、『開目抄』のそれを「教観相対」としますが、『本尊抄』では「迹門一分宣之不云本門与観心」というわけですね。

漫荼羅と仏像。この点を考えるうえで、問答さんもご指摘なさっていますが、実は、教観の相対、正確に言えば、本門と観心の本尊を、『本尊抄』において、巧みに説き分けているのにもかかわらず、富士方の門下教学に誑かされて、この点を見落としていることに、わたしは気づきました。これが、もう一つです。

たぶん、ここまで記せば、問答さんは、ご了解いただけるでしょう。
取り敢えず、ここまでとします。

2957犀角独歩:2006/12/01(金) 11:00:54

【2955の訂正】

誤)仏が上行に伝えた心法です。そして、その授与の時を言えば、法華説教八品のことですね。
正)仏が上行に伝えた心法です。そして、その所伝の時を言えば、法華説教八品のことですね。授与といえば、今時、末法です。

2958素人:2006/12/01(金) 11:37:29
モトミナさん、藤川一郎さん、ありがとうございます。
つぶやきスレッドですが議論の応酬がつづいていますのでチョット遠慮しておきます。
宗祖が祈られるお姿はどうなのだろうなというつぶやきです。
また、あわせて女性はどんな姿勢だったのだろう?と。

2959素人:2006/12/01(金) 11:41:10
重ねてすみません。ここは素朴な疑問でした。
つぶやきではありませんでした。おわびします。

2960問答迷人:2006/12/01(金) 12:05:04

>迹門一分宣之不云本門与観心

「竜樹・天親等は如何。答へて曰く、此等の聖人は知って之を言はざる仁なり。或は迹門の一分之を宣べて本門と観心とを云はず、或は機有って時無きか、或は機と時と共に之無きか。」

一尊四士は本門の本尊、曼荼羅は観心の本尊。このいずれも、竜樹・天親は述べなかった、という意味ですね。

そして、蓮祖の語句の使い方としては、「本門の本尊」=「仏像群」と「観心の本尊」=「紙幅曼荼羅」とは別だと。こういう理解で宜しいでしょうか。

ところで、この立て分けは、観心本尊抄では、蓮祖はどう記されているのでしょうか。

2961犀角独歩:2006/12/02(土) 07:23:37

問答さん

> 竜樹・天親等…知って之を言はざる…迹門の一分之を宣べて本門と観心とを云はず

つまり、この部分は『開目抄』の「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。龍樹天親知て、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみこれをいだけり」と対応するわけでしょう。

> 「本門の本尊」=「仏像群」と「観心の本尊」=「紙幅曼荼羅」

ここなんですが、直ちにこのように「立て分ける」ということではないと思うのです。
本門の本尊は一尊四士。観心の本尊は、本尊抄の段階では一念三千における仏法界。『本尊問答抄』では題目本尊へと経年して補完されていくということだと思います。

人本尊・法本尊と言われますが、十界論から捌くのに仏を人というのは不適切である、という提案は以前にしました。仏本尊・法本尊ではないか、というのが過去述べたことです。しかし、日蓮の真蹟から見ると、本門本尊・観心本尊であり、より具体的には仏像(一尊四士)本尊、題目本尊です。そして、後者は授与の形式として判形を為した漫荼羅となる次第です。

わたしは『本尊問答抄』を偽撰ではないのかと主張してきたのですが、しかし、観心本尊という側面から見れば題目本尊は、一連の脈絡と看取できました。

> 観心本尊抄では、蓮祖はどう記されている

同抄を改めて読むと「観心」という用語は、題名を含めて五カ所しかありません。

如来滅後五五百歳始観心本尊抄
観心之心如何。答曰 観心者観我己心見十法界。是云観心也。
迹門一分宣之不云本門与観心。

「観心者観我己心見十法界」は、「釈迦多宝十方諸仏我仏界…我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏…当知身土一念三千…本尊為体」という一連の記述は観心本尊。

「正像未有寿量仏。来入末法始此仏像可令出現…本門寿量品本尊並四大菩薩」「本門本尊」

「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士 一閻浮提第一本尊」は本門本尊と観心本尊の両意。

わたしは教観相対という語彙は、やや正鵠を得ていないと思えます。日蓮は教相をもちろん、語りますが、開観両抄を通じて、その使用はただ1回のみです。教相から観心に臨むと言うより、突然、極意に至る如く、観心を語ります。それも、本門から観心というより、観心から立ち帰るように本門を語る如くです。ですから、言いづらいのですが、本門・観心相対、本観相対とすべきだろうという思いがあります。それはそれとして、『本尊抄』の記述は、本門、観心、どちらを述べているのか誤読しやすく、さらに両意に亘る箇所もあります。
粗々ですが、以上のような次第であろうと思えます。

2962問答迷人:2006/12/02(土) 08:49:45

>本門本尊・観心本尊であり、より具体的には仏像(一尊四士)本尊、題目本尊です。そして、後者は授与の形式として判形を為した漫荼羅となる次第です。

なるほど。すっきりしました。そういうことなんですね。もう一度本尊抄を読み直してみたいと思います。ありがとうございました。

ところで、この粗方の結論が出たところで、日興上人が仏像を安置して拝んでいたかどうか、この結論から見直すと、この点はどうなるでしょうか。

2963犀角独歩:2006/12/02(土) 10:50:31

> 日興上人が仏像を安置して拝んでいたかどうか

ええ、今回の議論はここから始まりました。
この点を考えるに当たり、わたしは言葉の用法を注意しなければならないと思います。日興の記述から事実を考えるとすると、日興の言葉の用法から考えるということです。これを現在、わたしどもが使用してきた石山や、正信会の解釈、誤用といった植え込まれた富士門ならでは先入観を払拭し、虚心坦懐に当時の文をそのままに読むということです。この際、日興の語法の経年変化も考慮されなければならないわけです。

ところが実際のところ、日興の著述というのは、ほとんど伝わらないのであって、伝説と仮託ばかりが目立つわけです。しかしながら、日蓮の薫陶を受けた日興が、日蓮の語法と極端に齟齬を来すことは少ないだろうと考えられます。ただし日蓮から時を経た教学信仰体系そのものの変遷として、語法の変容は当然予想されます。

問答さんとのかつての議論で申し上げましたが、日蓮が漫荼羅を直ちに本尊と呼称することを常としていたのか、わたしはいまもって慎重です。しかし、日興は『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』という如く、漫荼羅を本尊と呼んでいます。また、御影信仰の勃興もまた、たぶん、日蓮在世には遡れないことではないのか思えます(この点は一考を要しますが)が、日興はこれを受容しています。以上のような経年変容は考慮されなければなりません。

今回の議論は、以上の前提から推定されなければならないわけです。
ここのところの議論考証は、日蓮における“仏”の語法を考えたものでした。通読すればわかるとおり、日蓮が漫荼羅を仏と呼んだ用法はありません。となれば、日興もその準じたというのは、無理のない判断と思えます。

さらに経年変化を考慮する必要はあります。日興の確実な著述とされるのは「『三時弘経次第』と『安国論問答』の二書」、その思想を伝えると見なしてよいのは「『富士一跡門徒存知之事』は大体『五人所破抄』と同調のものであるが日澄が日興の義を付嘱されたというように「追加分」が初めからあったとすれば、『五人所破抄』が重須系で成立したのに対し、『一跡門徒事』は大石寺系ではないかと思う。しかしこの両書は比較的日興の思想を伝えるものと思われる」というのが執行師の研究でした。これを考証してみる必要はあります。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_004.html

また、消息文は『日興上人』(継命新聞)に詳しく載りますが、正信会・興風談所における教学解釈は、日興正嫡、日蓮本仏という臭みがあるうえ、彫刻本尊の真偽も語れないお粗末なものです。古文書の識字能力は、教学力とは比例しない皮肉な見本となっているわけで、ここに載る解釈は依用に耐えません。

前置きが長くなりましたが、日興の「仏」という用法は、当の仏(如来)を指すものと仏像を指す範囲であって、漫荼羅=本尊=仏といった用法は、散見できません。用法が散見できない以上、ここにその実例を載せられないということになります。

日興が、漫荼羅を本尊と呼んだことは事実ですが、漫荼羅を仏と呼んだ証拠を、わたしは寡聞にして知りません。しかし、日興が御影信仰の人であったことは知られます。つまり、日興において崇敬される尊像画は、漫荼羅、仏像、御影の三種であったと考えられます。

では、その三種を、他にどのように呼び換えもしたか。漫荼羅は本尊、仏像は仏、もしくは本尊、御影は聖人といったところでしょうか。この語法から見るとき、消息文に見られる「仏聖人」とは、仏像と御影像であると考えられるというのが、わたしの見解です。

ただ、たぶん、ここで信頼できる資料として挙げられる『富士一跡門徒存知之事』、『五人所破抄』のおいて、仏像を造立を非難する記事が載るのに、日興が仏像を拝んでいたとは考えられないというのが、富士門下に刷り込まれた解釈だと思えます。しかし、ここでいわれる仏像批判というのは「一体仏」という限定を示しています。(この点は『御伝土代』も同様です)
しかしながら、門徒事追加八箇条には「日興が義を盗み取って四脇士を作り副ふ」といい、所破抄には「須く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ」というわけです。

日興の義と言いながら、実際のところ、日興が釈迦仏像に四菩薩を副えていなければ、このような言説は意味をなさないことになります。以上の点から考えても、日興は一尊四士像を奉安していていたのだろうと考えられます。

2964問答迷人:2006/12/02(土) 13:29:51

犀角独歩 さん

明確ですね。了解しました。曼荼羅を懸けて、その前に一尊四士、そして一番前に御影でしょうか。なにか、日蓮宗の寺院でそのような配置を見た記憶が有ります。

しゅんかん さん

以上の如くですので、先の回答は撤回して、「仏像を崇拝していた」に訂正します。そうすると、まだお答えしなければならないご質問がありますが、少し時間をください。

2965問答迷人:2006/12/02(土) 22:56:50

>2917 独歩さんに以前お尋ねしました所、興師は仏像崇拝をしていたとの
お言葉を頂きました。そこで疑問に思ったことがありました。

>他の掲示板で見かけたのですが、精師(十七世)が謗法を働き、寛永十五年(一六三八年)下谷常在寺の再建並に造仏をしたと記してあり、 後年、俊師(二十二世)啓師(二十三世)が撤去したと思われる。と言う文面をみかけました。 当掲示板でもこのような内容の物を論じられた事がありますか?

当掲示板では、精師の造仏について、特に詳しく議論した事は無かったように思います。

>興師の時代には仏像崇拝をしていた。精師は謗法を働いた(事実なら)のであれば何時の時代ぐらいまで仏像崇拝が続いていたのでしょう?精師の造仏は事実と思思わますか?

精師は京都要法寺の方です。要法寺で、造仏は当然のこととして行われてましたから、精師が造仏しても何ら不思議は無いと思います。

造仏がいつまで行われてきたかは定かではありませんが、第四世の道師の段階では、既に造仏は行われなくなっていたのではないか、と思います。

2966犀角独歩:2006/12/03(日) 07:18:40

問答さん

今回も有意義な議論が出来ましたことを嬉しく存じます。

通途、漫荼羅を懸けっぱなしにしていたのか、それを拝んでいたのかという点で、わたしはやや疑問を懐いております。板に彫られるのは、日有の頃からでしょうか。それ以前、当初は板張りされていたという話もありますので、やはり、奉安しっぱなしということなのかもしれません。けれど、掛け軸に仕立てるということは、懸けたり外したりという便宜であり、その形を残すことにある意味、その扱いの原形があるのかと慮ったりもします。

仏像、御影像は、絵像の可能性も高く、そうなると、堂を分けて、それぞれに奉安、もしくは横並びに懸けていたとも考えられますね。

2967犀角独歩:2006/12/03(日) 09:24:46

やや小結しましたが、問答さんの「漫荼羅は仏」という着想は、しかし、頷く人は多いと思います。その理由は、『本尊抄』と『報恩抄』の対応でしょう。

本尊抄「其本尊為体 本師娑婆上宝塔居空 塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩」

報恩抄「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となる」

この文を比較すると妙法蓮華経=本門の教主釈尊であるように思えるからです。
しかし、果たして、そうでしょうか。

この対応関係を分析すれば、以下のようになります。
(図表が崩れて見える方は、http://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html

┌──────────┬──────────────┐
│其本尊為体     │本門の教主釈尊を本尊とすべし│
│本師娑婆上宝塔居空 │×             │
│塔中        │宝塔の内          │
│妙法蓮華経     │×             │
│左右釈迦牟尼仏多宝仏│釈迦多宝          │
│×         │外の諸仏          │
│釈尊脇士上行等四菩薩│上行等の四菩薩脇士となる  │
└──────────┴──────────────┘

この対象からすると、まず「為体」は“ていたらく”を意味するのではなく、“本尊が体(教主)と為る”であることがわかります。
そして、教主釈尊に対応するのは妙法蓮華経ではなく、体であることがわかります。体とは仏=本体の意味でしょう。

では、妙法蓮華経に対応するのは、と、『報恩抄』の文を見ると、それがありません。これは「宝塔の内の釈迦多宝」が「宝塔の内の“妙法蓮華経左右”釈迦多宝」ということを意味するのでしょう。つまり、妙法蓮華経の五字が、略されていると解せます。

2968犀角独歩:2006/12/03(日) 09:45:30

―2967からつづく―

以上のように探っていくと、『本尊抄』『報恩抄』の文意における本尊は、単に本門本尊のみをあらわしているのではないことがわかります。

天台を迹面本裏、日蓮を本面迹裏と説明されます。天台は迹門を面(おもて)とし、本門を裏とした。日蓮は本門を表にし、迹門を裏にしたという意味です。

しかし、わたしは日蓮の法門、殊に本尊論は“本面観裏”、つまり、本門を面とし、観心を裏にするものなのだと考えます。

補完した『報恩抄』の該当の文で説明します。

「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の妙法蓮華経左右釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となる」

┌本門:教主釈尊を本尊(色形の仏像:一尊四士)
└観心:宝塔の内の妙法蓮華経左右釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士(心法を図す漫荼羅)

つまり、本門本尊は、観心本尊に裏打ちされる二重構造になっているということです。この観心を欠落して語られてきたのが、旧来の本尊論だったのではないでしょうか。

2969犀角独歩:2006/12/03(日) 11:01:15

2967の図をやや補完しました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/2967
(図が乱れるときはhttp://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html


   ┌───────────┬──────────────┐
   │本尊抄        │報恩抄           │
┌──┼───────────┼──────────────┼─┬───┐
│本門│其本尊為体      │本門の教主釈尊を本尊とすべし│色│仏像 │
├──┼───────────┼──────────────┼─┼───┤
│観心│本師娑婆上宝塔居空塔中│宝塔の内          │心│漫荼羅│
│  │妙法蓮華経      │×             │ │   │
│  │左右釈迦牟尼仏多宝仏 │釈迦多宝          │ │   │
│  │×          │外の諸仏          │ │   │
│  │釈尊脇士上行等四菩薩 │上行等の四菩薩脇士となる  │ │   │
└──┴───────────┴──────────────┴─┴───┘

2970犀角独歩:2006/12/03(日) 19:26:35

独学徒さんの掲示板におけるご紹介を受けて、さらに補完すれば、以下の如くです。再々にわたる訂正で恐縮です。
(同掲示板に御礼を記し、いただいたレスにも重ねて御礼を記そうと思いましたが、投稿数に限りがあるので、こちらで、御礼申し上げます)

   ┌───────────┬──────────────┐
   │本尊抄        │報恩抄           │
┌──┼───────────┼──────────────┼─┬─┬───┐
│本門│其本尊為体      │本門の教主釈尊を本尊とすべし│色│仏│仏像 │
├──┼───────────┼──────────────┼─┼─┼───┤
│観心│本師娑婆上宝塔居空塔中│宝塔の内          │心│法│漫荼羅│
│  │妙法蓮華経      │×             │ │ │   │
│  │左右釈迦牟尼仏多宝仏 │釈迦多宝          │ │ │   │
│  │×          │外の諸仏          │ │ │   │
│  │釈尊脇士上行等四菩薩 │上行等の四菩薩脇士となる  │ │ │   │
└──┴───────────┴──────────────┴─┴─┴───┘
(図が乱れるときはhttp://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html

『報恩抄』で「妙法蓮華経」が何故略されるのか、という点について、やや違う視点から記します。これはあくまで、試論ですが、『本尊抄』における「塔中」は‘たっちゅう’と読ませ、‘塔の中’の意と解されてきたのでしょう。『報恩抄』で対応するのは「宝塔の内」ですから、中=内ということになります。

しかし、この点は一考を要します。中とは‘あたる’という語法を有するからです。
つまり「塔中妙法蓮華経」とは、‘塔は妙法蓮華経に中(あた)る’という意味である可能性を有しています。しかも、この『本尊抄』の‘中’が、『報恩抄』の‘内’と対応すれば、中(なか)の意味を併せ被せて意味していると、わたしは考えます。

ややしく聞こえるかもしれませんので、簡潔に申し上げれば、『報恩抄』における‘宝塔’とは、直ちに‘妙法蓮華経’を意味するということです。ですから、ここに敢えて五字を記すまでもなかったということです。

なお、以上の議論は、『本尊と曼荼羅』スレッドの2005年5月頃の議論を参考にしてください。ここを基礎としています。問答名人さん、顕正居士さん、愚鈍凡夫さん、真部さん、ひたちさん等、また、他であったと思いますが、パンナコッタさん等の秀でた投稿が見られます。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/

なお、この際、顕正居士さんからご教示いただいた行学日朝の見解を、今回の投稿の際で、わたしが忘却していると思われそうなのですが、もちろん、この点は十分に認知したうえで、敢えて、本門・観心立てで論攷しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/350
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40049288&amp;VOL_NUM=00000&amp;KOMA=60&amp;ITYPE=0

2971顕正居士:2006/12/04(月) 13:37:28
本門の釈尊について

ひさしぶりです。ところで本門の(教主)釈尊の語には二義あります。

1 本門を説かれた釈尊 2 本門で説かれた寿命無量の仏自体

日朝や日寛の説は本門の釈尊に2種あるとするものです。
一個だという人がおりますが、その場合は 1 本門を説かれた釈尊 は始成正覚の釈尊と
変わっていない、多宝仏と並坐で本門の教主をあらわすのみだから、
本門の釈尊を 2 本門で説かれた寿命無量の仏自体 の意味だけに使うからです。

それで日蓮自身の究極的信仰対象は2種の本門釈尊のいずれかといえば、報恩抄の表現は
教主といって誤解を招くから、本尊問答抄で法華経の教主を本尊とはしないと明確に訂正した。

釈尊の本師は誰かという比叡山の質問に答えた唐決は名号毘盧遮那如来、国土毘盧遮那国とし、
つまり釈尊以前に人格的の仏は無いとしますが、円珍は無量寿命決定王如来だとしました。
この無量寿命決定王如来は阿弥陀仏の本地ですから、唐決では釈迦・阿弥陀が別仏になるのを
嫌ったのではないでしょうか。

日朝の説は円珍の説と日蓮晩年の修正に基づいたもので、合理的であるかと考えます。

2972犀角独歩:2006/12/04(月) 18:36:43

顕正居士さん

お久しぶりです。嬉しく存じます。
先にご紹介いただいた法華曼荼羅八葉九尊図、久遠寺の漫荼羅相伝資料から見つけました。国立図書館のものは、詳細に見えませんでしたが、こちらのほうは、よく読みとれます。ご投稿の内容とも関連しますので、アップしました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/hokkemandarahatiyokusonzu.html

2973顕正居士:2006/12/04(月) 19:12:37
続きです。
しかし本尊問答抄の修正は別の問題を生じました。仏本尊、法本尊の問題です。
法華宗(天台宗)は所生の仏を本尊としない、能生の法を本尊とすると言った。
第一、史実に反します。どう考えても天台宗の本尊は弥陀、薬師、釈迦など仏です。
それで浄顕房の学問に合わせた特殊な解答だという説があります。
幾分そういう面もあろうかと思います。多分、浄顕房は毘盧遮那如来があらゆる仏の
能生の仏だと考えていたのでしょう。これは先の唐決のように標準的な考えです。
しかし同じ毘盧遮那如来でも、密教が入っていない中国天台と円密一致の日本天台では
違ってきます。毘盧遮那如来はもと華厳経の仏で宇宙そのものを擬人化した仏です。
中国天台で正覚を成じるとはこの毘盧遮那如来を証得することで、したがって
始成即久成、長寿はただこれ証体の用、毘盧遮那一本異ならずです。
密教ではこの仏の具体的人格性を強調します。金剛界智法身の方ですが。
円密兼学の日本天台では密教のそういう思想も入って来ますが、しかしむしろ方向が
反対の思想が発達しました。己心への収束、如来蔵思想の発展、本覚思想です。
毘盧遮那如来は法である仏ですが、如来蔵も法である仏です。けれども密教の普及で
毘盧遮那如来は法である仏ということが(学問が十分でない人には)少し忘れられます。
日蓮は著しく人格化した毘盧遮那如来ではなく、如来蔵を本尊とすることを言わんとし、
幾らか極端な表現をした可能性があります。

2977犀角独歩:2006/12/05(火) 09:02:45

どうも、文章が巧くないので、訂正し、再投稿とさせていただきました。

***

顕正居士さんのご投稿を頂いておりますので、こちらは拝読させていただくことといたします。
わたしも、まだ書きかけの部分がありますので、この点は引き続き記させていただくことといたします。

今回の投稿を始めるに当たり、三学無縁さんに、その粗筋を話したところ、「では、観心ずりで、本覚的な結論なのか」という問いをいただきました。

「本覚」という視点は、実に幅広く、一概に論じ切れませんが、以下の点のみ。わたしは、日蓮のいう観心とは、現在言われていることとは、違っていると考えます。

無作三身、凡夫即極といった本覚的結論は、結局のところ、仏・心の両面に亘り、それを修行者凡夫の一念に帰結していく傾向を有していると、わたしは観察します。しかし、日蓮は、この点において、仏と心と自分自身、すなわち、衆生との距離をしっかりと保って自身の法門を御立てていると思えます。

先に投稿を参考にしていただきたいのですが、結局のところ、日蓮が言う本門本尊は観心本尊を裏打ちされたものであり、この関係は仏と心です。この二つを、では、本来、自分自身に内在するものであるととらえてしまえば、上行所伝も、本仏崇敬も意味をなさないことになります。しかし、日蓮は衆生の立場にあって、久遠下種の本主、受け継ぐ妙法蓮華経の五字を己心からずらしたところでとらえたわけです。これが日蓮が言う本門本尊であると、わたしは考えます。つまり、言われてきたような‘観心ずり’とは異なっています。故に釈迦如来への信仰は厳として護られるわけです。妙法蓮華経という五字(法ではなく五字という文字)の題目を本尊という時、しかし、それは自ら本来覚ったものであるとはいわず‘所伝’というところに重点があります。そして、そこに裹まれる一念三千を観心の側面として打ち出しているのであって、本門本尊が表であれば、観心題目はまさに文字通り、内裏の心に観る本尊にほかなりません。

つまり、本門本尊と観心本尊という表裏をもって見るとき、観心を端的に述べて、教相を論じ儒外・内外・大小・顕密・本迹・教観に亘り整理した開目抄、その前提で、教相というより、直接的に観心を語り、本門と併せ両面から本尊を論じた本尊抄、本門本尊を表に論じた行者値難事、法華取要抄、観心を裏に裹んだ報恩抄、そして、実は本尊問答抄は、観心面から本尊を論じたと見れば、一連の著述は整合性のある脈絡でつながります。

顕正居士さんのお言葉を借りれば、本門本尊とは、本門を説かれた釈尊、観心されて見る無始古仏は、本門で説かれた観心される寿命無量の仏自体ということになりましょうか。

ともかくも、いましばらく、わたしは、一連の教学解釈を敢えて無視し、真蹟遺文を手だてに、日蓮の教説をさらに考えることといたします。
今回の論攷するに、独学徒さんのご紹介は参考になりました。重ねて御礼申し上げます。

2978しゅんかん:2006/12/05(火) 22:17:03
問答迷人さんすいません。
ここのところ仕事が多忙に付き、私の問いかけに
大変ご丁寧なお返事を頂きながらお礼を申し上げる事が
遅れてしまい申し訳ありませんでした。
本当にありがとうございました。
もう少し仕事がたて込んでいます、日を改めて再度、
書き込まして頂きます。

「しかし独歩さんと大変なお話に進展いているようですね」

2979独学徒:2006/12/05(火) 22:19:45

犀角独歩さん、

>今回の論攷するに、独学徒さんのご紹介は参考になりました。重ねて御礼申し上げます。

HPを紹介しただけで、誠に恐縮に存じます。

私は少し前に、犀角独歩さんに一対一で種々質問させていただき、多大なる御教授を賜りました。
加えて、今回の問答さんとの対話にも、日々眼から鱗の落ちる思いで拝しているわけです。
御礼を申し上げなければならないのは、私の方です。本当にありがとう御座います。

「冨士教学研究会の掲示板」にて、「報恩抄」の文について、れんさんがご投稿くださったとき、私は不遜にも蓮師があわてて書いて間違えたのではないか、などと申していました。
今回の犀角独歩さんのご投稿を拝し、報恩抄の一見矛盾する記述もすっきりと理解できました。そして、あらためて自身の教学の無さを痛感し、蓮師に懺悔したい気持ちになりました。

問答さんとの御討論、今後も注目致しております。

2980犀角独歩:2006/12/06(水) 11:23:45

独学徒さん、恐れ入ります。

2981問答迷人:2006/12/06(水) 13:28:14

犀角独歩さん

色々考えましたが、今ひとつ、ぴんときません。一つ質問させてください。

上行所伝の妙法蓮華経の五字が、観心の本尊なら、本門の題目と観心の本尊とが、同じく南無妙法蓮華経ということになります。

そうすると、本門の本尊とは、本門教主釈尊なのか、本門で説かれた釈尊なのか、どちらでしょうか。

もし、本門の本尊が本門で説かれた釈尊なら、それは観心の本尊ですよね、そうすると、それは本門の題目と一緒と言う事になります。これは変ですね。

又、本門の本尊が本門の教主たる釈尊ならば、本門の本尊は仏像ですね。その場合、曼荼羅はどうなるのか・・・

考えれば考えるほど判らなくなります。この辺り、もう少し判りやすく、三つの法門の上からご説明願えないでしょうか。よろしくお願いいたします。

2982犀角独歩:2006/12/07(木) 09:24:20

問答名人さん

どのように言語化して好いのか、やや限界を感じ始めました。けれど、やりとりのなかでできるだけ、埋めてまいりたいと思います。
少しずつ、細分化しながら進めます。

> 上行所伝の妙法蓮華経の五字が、観心の本尊

こう書けば、違いはしませんし、わたしもそのような文面になっていました。
もう少し詳細に論じられると思うのです。
所伝というのは‘伝えるところ’というのは他者から‘伝’であることを意味します。つまり、上行が釈尊からです。一方、観心本尊とは己心の一念三千観法に、仏界を教相との整合性から、さらにそれを超えて観いだしていくことですね。この二つには、以上のような相違がありませんか。

> 本門の題目と観心の本尊とが、同じく南無妙法蓮華経

ええ、言葉としてはそうです。

『報恩抄』で本門題目に該当するだろう件は「一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし」です。では、伝えられ授受される題目と唱える題目は同じでしょうか。伝え授かる題目は釈尊上行からの授かりもの、しかし、唱える題目は、己の口唱です。

> 本門の本尊とは、本門教主釈尊なのか、本門で説かれた釈尊なのか

本門教主釈尊ではないでしょうか。

> 本門の本尊が本門で説かれた釈尊なら、それは観心の本尊ですよね

いや、違うでしょう。法華経の文面では観心は表に現れていません。そのことを『開目抄』に「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」というのでしょう。教観相対を暗示しています。本門の本尊は、教相面から明らかな、文字通り本門の本尊、寿量仏ではないでしょうか。

> 本門の題目と一緒と言う事になります。これは変ですね。

わたしは、当初、本門題目というのは授与された題目の五字を言うのだと思っていました。これは間違いではないと思うのですが、先にも挙げた『報恩抄』では、唱える題目だというのです。たぶん、この点は、妙法蓮華経が能化からの授与の題目であれば、南無妙法蓮華経は所化が唱える題目なのだろうと思えます。
問答さんが疑問に思われるとおり、日蓮が題目と言うとき、所伝の題目、本門の題目、さらに本尊としての題目と三義に亘っています。わたしは、これを択一してどれか一つを選び出すという発想は、はじめの一歩で躓いているのだと思えます。答えは皆、真なのだろうということです。

勝劣的な発想であると、択一を繰り返し、ついに最勝の一つを択びとるのが日蓮の教学であると捉えがちですが、実際は、小さな集合を、より大きな集合で包括し、ついにすべて包括する集合に至るというのが日蓮の論法であると、わたしは観ます。

また、それぞれの用語において、どの言葉を表立てて論じるかで視点の変化があるので、その都度、縦横無尽に受け取る側も視点を変えてみないと景色は歪んでしまいます。

本尊というとき、これを本門立てで考えれば、儒外、内外、大小、顕密、本迹と追って、ついに寿量仏に至るという階梯を踏みますが、観心立てでは、内観し心のなかに仏を観、その仏の因果と功徳が直ちに妙法蓮華経五字に裹まれることを達観し、そこから三身所顕無始古仏という五百塵点成道の寿量本門仏より一重、立ち入っていきます。この点では、仏・菩薩・衆生・法・三世間という隔壁も時間の経過すら超越してしまうわけです。すべてが妙法蓮華経という題目五字に包摂し、しかし、個々が個たるまでで円満に具している様です。この観心は、本門からの景色とは違います。

本門本尊、観心本尊、同じ本尊であるという見方になりがちですが、視点が違っている以上、異なって映じます。また、表しているところも違っています。前者は教相面から本門寿量品に至る階梯で諦かにされるところ、しかし、観心本尊は文字通り、心を観るなかに見いだされる仏法界が三千不可思議境と広が因果が妙法蓮華経の五字に納まるという視点の相違です。前者は仏格からその心法への信仰へと進むのでしょうが、後者は心法から仏格が見いだされます。ところが、前者では仏格は寿量仏という五百塵点から今番という時間軸がありますが、後者の場合、その時間軸を超克するばかりか仏格までも五百塵点を超克し、寿量仏という法華会座も超克していきます。『本尊抄』に「今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土。仏既過去不滅未来不生。所化以同体。此即己心三千具足三種世間也」というのは、このことではないでしょうか。

2983犀角独歩:2006/12/07(木) 09:24:50

―2982からつづく―

同様に本門題目という妙法蓮華経と、題目本尊で妙法蓮華経とは文字は同じでも相違があります。本門立てでは、今番、末法に菩薩に妙法蓮華経を託したという時間軸で活躍する仏です。しかし、題目本尊とは、釈尊五百塵点成道已前の妙法蓮華経への信仰です。本門題目は、寿量仏 ― 四菩薩 ― 末法衆生へと所伝される妙法蓮華経でしょうが、題目本尊は、妙法蓮華経 ― 寿量仏 … というそれ已前の題目ではないですか。しかし、この点を日蓮は、寿量品の文底に観るわけですから、法華経典で文面に載らない観心の辺域の題目です。それを一念三千というか、無始古仏の己心というか、あるいは仏界所具仏界というか、妙法蓮華経というか、そこに文言表現の限界はありますが、題目本尊というのは、そのような規模で言われることではないですか。本門の題目と、本門寿量経典の文面の底・観心の妙法蓮華経は、やはり、違うと言わざるを得ません。

> 本門の本尊が本門の教主たる釈尊ならば、本門の本尊は仏像ですね。その場合、曼荼羅はどうなるのか

ええ、ここです。本門本尊を考えるとき、漫荼羅というのは立地がありません。
ですから、わたしの、漫荼羅を本当に拝んでいたのだろうか?という問いも起きたわけです。

大きな漫荼羅というのは道場奉懸の用途であろうとは思いますが、通常は、漫荼羅は身に帯する、懐中に持つことが基本だったのではないでしょうか。
何故かと言えば、上行所伝の妙法蓮華経とは下ろされた仏種そのものですから、心身に受け持たなければ、熟益の段に入り用がないからです。心田と言いながら、種を棚に祀っていては、田から芽の出ようはずがありません。

しかし、『本尊問答抄』の末には「此御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給候へ」とあり、この文面からすれば、題目を記された漫荼羅は本尊として奉懸されていた如くです。

漫荼羅を、日蓮が如何に扱った、否、扱わせたかという点は、杳として明らかではありませんが、しかし、題目本尊といい、漫荼羅奉懸とさせたとしても、実のところ、それは厳格な意味での観心本尊ではないというパラドクスが、最終段階で持ち上がります。何故か。それはその成句の文字が表すとおり、観心本尊とは、心で観る本尊であるからです。しかし、題目本尊とは、その観心される心そのものである一念三千を裹む題目であり、実に裹まれているのは本門本尊の因行果徳の二法であるといいます。これはつまり、末法衆生救済の仏種にほかならないのだと思います。

観心は、教相を超えたところにあると思われがちですが、この二つの関係は表裏であり、視点の相違にほかならないのでしょう。しかし、本門より、観心はさらに広い範囲を包括している点を見落とすと、それを同一と見誤ることになるのだと考えます。

残念ながら、わずかな真蹟遺文から見える日蓮の真意には限界があります。それは、恰も手に入れた宝の山の地図が、大きく破れ失われているようなものです。
故にその後、700年、数多の偽書が捏造され、まことしやかに相伝・相承、口伝えされたのでしょう。しかし、わたしは、日蓮以後の言説に、ヒントを求めようとは思いません。なぜならば、そこには日蓮の答えがないからです。嘘と思いつき、虚を真を偽ったことが真と扱われ澱んでいった複合汚染もあるからです。真蹟遺文を明確できるわれわれは、700年来の人々の優位に立っています。過去の蓄積に溺れるより、遺された断片に真があります。

また、その地図が完全なものであっても、その文底に沈められたところは見えません。いずれにしても、日蓮の心は、遺文という文字がすべてではないのでしょう。言語道断という限界を、しかし、日蓮は法華経の文字に感じ、そして、文底観心の極意を踏み行ったのだと思います。これを言語化することは、もはや、不可能かもしれませんが、そのさわりの議論はできようかと存じます。

2984問答迷人:2006/12/07(木) 22:24:31

犀角独歩さん

詳細な書き込み誠にありがとうございます。この一点が疑問として残りますので、再度御質問させていただきます・

>題目本尊とは、その観心される心そのものである一念三千を裹む題目であり、実に裹まれているのは本門本尊の因行果徳の二法であるといいます。これはつまり、末法衆生救済の仏種にほかならないのだと思います。

題目本尊をそのまま顕したのが曼荼羅ではないのでしょうか。そうならば、蓮祖の真意は曼荼羅正意となるのでは有りませんか。

2985犀角独歩:2006/12/07(木) 23:37:20

問答さん

ちょっと、敢えて脱線します。
先般の合宿の前、楠山師と話していたのです。そのとき、わたしが「一致派と勝劣派、どちらが正しいでしょうか」、こう尋ねたのです。すると「どっちか一方が正しい、その発想が、勝劣派なんだなぁ」と。
ことんと、目から鱗が落ちる思いがしました。

ここなんですよね、わたしたちの勝劣育ちの習性というか、思考回路は。
蓮祖の正意は漫荼羅か・仏像か、正意はどちらか一方ではないのかという勝劣選択です。

楠山師は、こうも言いました。「法然上人のせんちゃくしゅう、せんちゃくって、どんな字を書く? 選択だよ」
われわれは勝劣という足がかりでやっていることは、まさにこの選択ではないかという指摘です。

前置きが長くなりました。

> 題目本尊をそのまま顕したのが曼荼羅ではないのでしょうか

いえ、そうではないと思うのです。題目をの所伝の有様を書き表したのが漫荼羅だと思います。一方、観心される一念三千観法で至る仏は観心本尊、寿量本門という設定で特化されるのが本門本尊ではないですか。

> 蓮祖の真意は曼荼羅正意となるのでは有りませんか。

択一することではないと思います。
観心本尊も、本門本尊も、題目本尊も、すべて日蓮聖人の正意ではないでしょうか。

2986問答迷人:2006/12/08(金) 10:13:18

>観心本尊も、本門本尊も、題目本尊も、すべて日蓮聖人の正意

ますます分からなくなってきました。少し整理させてください。

先ず、本門の題目。これは、「上行所伝の妙法蓮華経の五字を唱える事」これはそういう理解でよろしいでしょうか。

2987問答迷人:2006/12/08(金) 10:17:00

或いは、表現を変えれば、「上行所伝の妙法蓮華経の五字を信じて南無妙法蓮華経と唱える事」これが「本門の題目」

2988犀角独歩:2006/12/08(金) 10:36:21

問答名人さん

2986、2987、ご質問の趣旨がわからないので、どうお応えしてよいかわかりませんが、まず、そのようなことであろうと存じます。

2989問答迷人:2006/12/08(金) 11:15:45

ありがとうございます。

そうしますと、ここで言う「行所伝の妙法蓮華経の五字」、これが「題目本尊」と言う事になりますか、如何でしょう。

2990問答迷人:2006/12/08(金) 11:17:27

あっ、一字欠字です。

× 行所伝の妙法蓮華経の五字

○ 上行所伝の妙法蓮華経の五字

2991問答迷人:2006/12/08(金) 13:17:39

お忙しそうなので、もう一つ先まで書き込んで見ます。

「上行所伝の妙法蓮華経の五字」=「題目本尊」としますと、「本門本尊」と「題目本尊」とは、同じく本尊ですが、その関係はどのように捉えれば良いでしょうか。

2992犀角独歩:2006/12/08(金) 16:07:44

問答さん、本日、他用がございまして、落ち着いて書き込めません。
明日、改めて書き込ませていただきます。
恐れ入ります。

2993問答迷人:2006/12/08(金) 16:47:51

犀角独歩さん

ご多忙の所、恐れ入ります。

それでは、質問をもう少し進めておきたいと思います。

蓮師の三つの法門は、あくまでも、一人一人の成仏の為、そして立正安国の実現の為のものであると思います。そして、この三つの法門に蓮師の教えのエッセンスが凝縮されているのだと思います。
この考え方が正しいかどうかは分かりませんが、「本門の本尊、題目、戒壇」と述べられる内、本尊について、三種を説かれていると言うのは、不可解なのです。もし、そうであっても、それらは、一つに統合されていると思うのです。逆に言えば、観心本尊、本門本尊、題目本尊、これらの三つの本尊は「本門の本尊」として、或いは、「三つの法門」の構成要素として、統合されているのではなかろうか、そのように思えるのです。

これは、蓮師の法門が、最終的に「三つの法門」に統合されているはずだ、という仮説に立っての推論ですが、「三つの法門」が釈尊が末法の為に残された法門だ、という蓮師の教えから、そうでなければならないと思うわけです。

この点、如何でしょうか。

2994みかん:2006/12/08(金) 18:40:07
こないだから考えているんですが、なんで「本尊、題目、戒壇」なんすかね?

「本門の佛」とか、「本門の法(ダールマの法ね)」とか、「本門の経」とかでもよさそうなモンですが。

まあ、本門とそれ以外で、佛やら経やらダールマやらがかわっちゃったら可笑しいんですが。とくにダールマ。でも佛は変わるっていう人もいますよね。

だいたい、「本門の戒」じゃなくて、「本門の戒壇」ってのがよくわからない。まあ、この点は最澄の影響でしょうけれども。

2995犀角独歩:2006/12/08(金) 20:48:01

問答さん、本日は、地方に来ているのですが、モバイルが不調です。
わたしは、三法門というのは、本門立て、さらに観心立てがあるのだと考えています。
勝れた本尊はひとつ、だから、本門、観心、題目は、統一されて一つになる、というのが、お考えであろうと思いますが、わたしはこの点で考えが違います。
ともかく、明日ということで、申し訳ありません。

2996犀角独歩:2006/12/09(土) 19:10:40

問答さん

昨日は失礼いたしました。
ただいま、戻りました。

問答さんとわたしの見解の差は、ただ一点ですね。
要は本尊が「一つに統合される」か・否かです。

その前に本門の題目と題目本尊が同じか・否かという点ですが、『報恩抄』の文による限り、本門の題目は唱える(南無)妙法蓮華経、しかして、題目本尊は唱えられる妙法蓮華経五字の本尊という関係にあるように思えます。わたしが、題目本尊を観心として捌いたのは、本門という時系列の‘縛り’を題目本尊は超えているからです。そこに裹まれる一念三千は観心に摂すると判断したからです。

さて、本尊が統合されるか・どうかですが、この点についてですが、わたしは、それぞれの相違があり、かつそれらが鼎立することになんの不思議も感じないのです。

観心本尊というのは、観法上における本尊であり、この本尊を達観できたのは、結局のところ、日蓮聖人お一人であったのだと、わたしは思います。
この段階で、ご本人が上行の自覚であったかどうか、わたしはどうも疑わしいとは思っているのですが、それはそれとして、「三身所顕無始古仏」というところに行き着くわけですね。しかし、この仏は凡夫にしては「雖近不見」でしょう。

教義の理解を深めたところで、そのような形に行き着くも、それを実感として得心することは、ほぼ不可能な境地だと思います。しかし、師はここから始められたわけです。観心本尊とは、このようなものでしょう。

では、本門本尊はといえば、以上の観心本尊を得心した菩薩、つまり地涌千界、もっと特化すれば四菩薩が立てるというわけです。ところが、その後、題目本尊であるともいうわけです。

鎌倉時代とは身分制度の時代でした。漫荼羅は限られた人にしか授与されませんでした。この二つの点は看過できません。いまのような民主平等を謳い、漫荼羅濫造総下付をなした恥じることがない乱世とは違います。
現代のわれわれは三大秘法と聞けば、「一閻浮総与」よろしく、等しく民衆すべてがあやかれるものであるという前提で考えてしまっています。しかし、日蓮はそう考えていたでしょうか。

『本尊抄』と『本尊問答抄』を本尊というキーワードでみるとき、対告衆が違っていることに気づけませんか。本門本尊とは菩薩が立て、国家によって論じられています。しかし、題目本尊は「末代の凡夫」をもって論じられています。菩薩、凡夫、この差は看過できません。
三秘正法というのは、わたしは国王と国師(僧)、それも両者が四菩薩である国家の理想において語られるところです。これはまさに秘法に属しませんか。しかし、題目本尊論は違います。末代凡夫を相手取っています。

観心本尊は凡慮のまったく及ばざるところ、本門本尊は凡夫の及ばざるところ、題目本尊は凡夫をもって論じるところ、同じ本尊でありながら、この相違があります。では、この三つは、詰まるところ、まったく別のことを論じているのかといえば、実はそうではありません。そこにあるのは受ける側の相違です。

わたしは、この鼎立は、衆生の機根一様ならざれば、斯くあって然るべきであると思えます。つまり、統合の仕様がないことであれば、その三様ともに是という管見です。

2997犀角独歩:2006/12/09(土) 19:12:44

【2996の訂正】

誤)三秘正法というのは、わたしは国王と国師(僧)、それも両者が四菩薩である国家の理想において語られるところです。
正)三秘正法というのは、国王と国師(僧)、それも両者が四菩薩である国家の理想において語られるところです。

2998再挑戦者:2006/12/09(土) 21:40:14
 横から失礼します。 あまりにも高いレベルでの御提言ですので、、??です、。
 少し疑問ですが、某パトロンさまが「、本仏はいつ頃ですか、?」、という質問を記憶しています。
 これには、さすがの日蓮様も御狼狽なされたようでしょうか、?
 晩年期の「聖人傾向の心は、、???」、、疑問です、。 なぜ「生涯、一求道者としての道を捨て、本仏への思考に執着された」、のでしょうか、?
 また、パトロン様に発した「勧心本尊抄」さえも「ナぜ、秘すべし、秘すべし、、」ともうされたのでしょうか、、??  疑問だらけで済みませんです。

2999問答迷人:2006/12/09(土) 23:16:58

犀角独歩さん

>観心本尊は凡慮のまったく及ばざるところ、

これは違うと思います。確かに天台の説いた止観の法門は極めて高度な内容であり、凡人の到底及ば無い所であり、機根が合わないと思います。それが為に、蓮祖は、凡夫でも「妙法蓮華経の五字を受持すれば、自然に釈尊の因行果徳の二法を譲り受ける事が出来る」と説いたのが、観心本尊を説いた本義であったはずです。どこまでも凡夫の為の観心を説かれていると思います。それを、「凡慮のまったく及ばざるところ」とすれば、蓮祖の本意を見失う危険があると思います。
又、蓮祖の修行は立宗以降、一貫して題目を自らも唱え、他にも勧められた。どこまでも名字凡夫の修行に徹しておられます。題目本尊=観心本尊でなければ、蓮祖の名字凡夫の振る舞いに合致しないと思いますが如何でしょうか。

3001問答迷人:2006/12/09(土) 23:43:23

もう一点です。

>本門の題目は唱える(南無)妙法蓮華経、しかして、題目本尊は唱えられる妙法蓮華経五字の本尊

その関係であれば、「本門の題目は唱える(南無)妙法蓮華経」「本門の本尊は唱えられる妙法蓮華経五字」となれば、すっきりします。妙法蓮華経の五字に釈尊の因行果徳の二法が具わるのなら、「題目本尊」=「本門の本尊」としても少しもおかしくないのでは有りませんか。

3002問答迷人:2006/12/10(日) 06:27:32

2999の補足です。

四信五品抄で蓮祖は次のように説いています。

「問ふ、汝何ぞ一念三千の観門を勧進せずして唯題目許りを唱へしむるや。 ー中略ー 問ふ、其の義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱へて解義の功徳を具するや不や。答ふ、小児乳を含むに其の味を知らずとも自然に身を益す。耆婆が妙薬誰か弁へて之を服せん。水心無けれども火を消し火物を焼く、豈覚あらんや。ー後略ー」

ここには、『蓮祖が自らも実践し、人々にも勧めたのは、題目を唱える事であり、それが、蓮祖の観心法門なのだ』と書かれていると拝します。

3003天蓋真鏡:2006/12/10(日) 06:54:13
みかんさん、はじめまして。挙証主義のサイトですが、私の所見を書いてみます。■インド・佛(仏の十号などに現される理想)法(ブッダガヤ其他遍歴して悟った真実)経(大乗教団が編纂した土台)⇒日本・本尊(尊ぶべきを形に表す)戒壇(乱世に規定)題目(理想を目指すための方法)■本門は真実開顕、法華一乗の到達点なので佛法経で無くて本尊戒壇題目で書いてあるのでは、と書き込みます。

3004犀角独歩:2006/12/10(日) 07:25:34

問答さん

問答抄に「不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」とあります。不識とは識(し)らざるということですね。これが、わたしが「観心本尊は凡慮のまったく及ばざるところ」といった根拠です。

> 蓮祖の本意を見失う危険があると思います。

そうは思わないですね。
引用されておられる「我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」とは、本尊が観心できなくても、五字の受持によって「功徳」を譲られるという趣旨ですから、その意味がわかることとは別の話です。

> 蓮祖の修行は立宗以降、一貫して題目を自らも唱え、他にも勧められた。どこまでも名字凡夫の修行に徹しておられます。題目本尊=観心本尊でなければ、蓮祖の名字凡夫の振る舞いに合致しないと思いますが如何でしょうか。

ですから、そのためにご本人の到達した観心本尊という境地から、題目唱題行を立て、所伝の妙法蓮華経を譲与するという漫荼羅の図示を考案し、四菩薩出現に本門本尊の造立をお考えになるに三秘正法をお考えになった。そして、晩年にいたり、題目本尊というお考えにも至った。
しかし、それをすべて一つのもの=で結ぶことはできない。なぜならば、その意義がそれぞれ違うからです。

> 妙法蓮華経の五字に釈尊の因行果徳の二法が具わるのなら、「題目本尊」=「本門の本尊」としても少しもおかしくないのでは有りませんか

これは、わたしは短絡だと思います。仏と授ける法(妙法蓮華経)という関係が考慮されていません。このように考えてしまうと、法のみとなってしまい仏が不要になります。これでは、仏法とは言えません。日蓮の教えは‘恩’、殊に仏恩を重視しますから、このような考えになっているとは思えません。

3005犀角独歩:2006/12/10(日) 07:54:14

―3004からつづく―

本日はまた、これから出かけなければならず、詳しく記せません。
観心本尊は本門本尊であるということは、その用語の使い方からして、成り立ちません。観心は本門ではないからです。観心とは「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」という点にあります。
本門と文底、その文底の一念三千について論じていくのが観心本尊でしょう。これは本門寿量仏より一重立ち入った段です。

また、補足で引用された『四信五品鈔』の「不知其義人唯唱南無妙法蓮華経具解義功徳不」には、明確に「不知其義」とあります。『本尊抄』には「不識」、両意とも、一念三千を理解できないという意味ではないでしょうか。
問答さんの論法では、仏と仏が授けたものが混同され、さらに本門と観心が混同されていませんか。

3006犀角独歩:2006/12/10(日) 07:57:17

あと、一点だけ。

理解できないことは、通常、実践できないこととなります。
しかし、それを埋めるために五字の授受、実践を考案した。
それが唱題であるという点は、そのとおりです。
けれど、その実践は理解できないうえで可能にしたことに意義があります。
つまり、観心本尊は凡慮が及ばないという前提ではないでしょうか。

3007問答迷人:2006/12/10(日) 08:23:27

犀角独歩さん

>本尊が観心できなくても、五字の受持によって「功徳」を譲られるという趣旨ですから、その意味がわかることとは別の話です。

色々と思うところが有りますが、この一点に絞ります。

「ー観心本尊抄は、蓮祖が題号に書かれている通り、末法に入って、観心本尊を始める事を述べられた書であると思います。そして、本尊抄の趣旨は、妙法蓮華経の五字の受持で一貫されています。末法に始められる観心が「妙法蓮華経の五字の受持」である事は明らかであると思います。もし、そうでなければ、一体、どのような観心が末法に始められるのでしょうか。不可解です。少なくとも、本尊抄を読む限りでは、そのようにしか読めませんが。

また、功徳を得られる、と言うのは、観心が成就した結果であり、観心が成就しないのに、功徳だけが得られると言うのは、不可解です。


>本尊が観心できなくても

「観心本尊」の読み方について、本尊を観心する、という趣旨で独歩さんは書かれていますが、観心の為の本尊では無いかと僕は思っています。寛師の「受持即観心」説が正しいのでは無いかと思います。「本尊を観心する」という意味で書かれている箇所が、本尊抄の中にあるのでしょうか、明鏡の喩えが本尊抄に書かれていますが、その趣旨はやはり、観心の為の本尊としか読めませんが。

3008天蓋真鏡:2006/12/10(日) 12:08:00
横レス失礼します。●問答迷人さんの言いたい事って、三つの法門[本尊・戒壇・題目]は、題目本尊(弘教は其処の所は其処に任す)漫荼羅顕事法華堂、 本門本尊(日蓮の慈悲広大ならば未来万年続く)一尊四士像密事戒壇堂等に関係ありますか?●犀角独歩さん、日興上人が石川一族を頼り建てた?天照太神宮って何なのでしょう。

3009問答迷人:2006/12/10(日) 15:57:40

天蓋真鏡さん

>漫荼羅顕事法華堂、 一尊四士像密事戒壇堂等に関係ありますか

それがどのようなことなのか存じ上げません。関係あるか、関係ないか、解からないので、お答えする事も出来ません。それは、どのような事柄なのでしょうか、よろしかったら教えてください。

3010天蓋真鏡:2006/12/10(日) 18:04:55
私の個人的纏め方見渡し方ですけど、三つの法門(本尊・戒壇・題目)が法華一乗・立正安国の起点で、【顕事】題目本尊(≒漫荼羅)は、鎌倉時代の僧・日蓮を仰ぐ一人ひとりのため漫荼羅を信用信頼できる信心学問修行の人物に下賜されたはずなのでしょう。そして、漫荼羅≒法華堂いわゆる成仏得道の道場である。【密事】本門本尊(≒一尊四士像)は、東大寺、延暦寺を継ぐ密教化してない皆成仏道を求める僧を育てる戒壇堂等の中心でもある。■過去・法華経+現在・漫荼羅+未来・戒壇堂■御義口伝では無い御書遺文等全文を確かめられない事は残念無念です。

3011犀角独歩:2006/12/10(日) 19:29:54

問答さん

> 観心本尊抄…観心本尊を始める事を述べられた書

そうですか。では、なぜ、本門本尊なのでしょうか。

> 妙法蓮華経の五字の受持で一貫されています

そんなことはありません。四菩薩の出現、本門本尊仏像立てること、四菩薩僧摂受正法弘持・四菩薩賢王折伏誡責という多岐に亘ります。

> 末法に始められる観心が「妙法蓮華経の五字の受持」である事は明らかであると思います

何によって明らかなのでしょうか。
『本尊抄』で十界に亘り論じられる日蓮の観心は反故だというわけですか。

> 一体、どのような観心が末法に始められるのでしょうか。不可解です。少なくとも、本尊抄を読む限りでは、そのようにしか読めませんが。

そうでしょうか。先にも述べましたが、『本尊抄』では「観心之心如何」と問いを立て、その観心の実際を十界に亘って論じています。この様はまさに観心そのものです。そもそも「始」を、問答さんは「はじめる」と断定されていますが、「はじめ」と読むこともできます。つまり、末法の始めにおける観心という意味です。題号について、その読みの解釈は蘭菊に賑わいで、断定はできません。ここには述べません。

> 功徳を得られる、と言うのは、観心が成就した結果であり、観心が成就しないのに、功徳だけが得られると言うのは、不可解です。

では、不可能を可能であるというのが『問答抄』ではないでしょうか。
仰るところは道理がありますが、しかし、日蓮は「釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足。我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」といい、「不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」といいます。つまり、本来、仏因仏果を得ていないもの、さらに観心出来ないもの=不識が対象となっています。

問答さんの解釈は、先に挙げた「不識」、『四信五品鈔』の「不知其義」という一節を無視することでしか成り立っていません。この点は如何でしょうか。


> …観心の為の本尊では無いかと僕は思っています

これは先の問いと同じになります。ならば、なぜ本門本尊なのでしょうか。

> 寛師の「受持即観心」説

日寛の説は正しくは「凡そ当家の意は唯信心口唱を以て、即ち観心と名づけ、而して受持とは正しく信心口唱に当る。故に受持即観心というなり」だと思いますが、いまは、日蓮の素意を論じているところなので、江戸時代の解釈はこれを議論の対象としないことにします。

> 「本尊を観心する」という意味で書かれている箇所が、本尊抄の中にあるのでしょうか

先にも挙げた「観心之心如何」という問いから「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也…本尊」至る一連の脈絡は、本尊を観心する以外にどのような意味と採れるのですか。

では、逆にお尋ねしますが、『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心しているというのでしょうか。

問答さんは「受持即観心」に重きを置いていらっしゃいますが、この五字熟語は、純天台文献にはその例を見ず、また、このたび、独学徒さんがご紹介くださった伝教大師全集でもありません。さらに日蓮の真蹟遺文にもなく、写本にもありません。なおのこと、観心を受持、さらには信心に当てはめるような日寛の連想ゲームは日蓮の素意とは無関係でしょう。いまここでは、日蓮の真蹟に基づいて考証を試みているのですから、中世以降の教学解釈を採って、日蓮を捌くことは慎みたいと思います。

以上、いくつか問いを立てました。お応えいただき、次に進めたいと存じます。

3012犀角独歩:2006/12/10(日) 20:20:30

天蓋真鏡さん

> 犀角独歩さん、日興上人が石川一族を頼り建てた?天照太神宮

この辺りの正確な歴史は、わたしよりも、れんさんほか、諸賢方がお詳しいと思います。わたしは余り詳しく調べておりません。
ただ、社檀の建立は、いわば当たり前のことで、天照八幡を祀る堂宇を建立したということだと思います。どなたか補完願えれば有り難く存じます。

3013大縫 薫:2006/12/10(日) 20:35:31
今晩は
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_185.htm
昔、貫名上人から教わり現地調査に行きました。この論文を読んだ正宗僧侶からは
内容に衝撃を受けたと!!

3014問答迷人:2006/12/10(日) 21:32:43

犀角独歩さん

>なぜ、本門本尊なのでしょうか。

観心本尊が本門で説かれた本尊だから、本門本尊とされているのだと思います。本尊抄には「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属したまはず」とあり、「妙法蓮華経の五字」が本門の肝心であることが示されています。


>そんなことはありません。四菩薩の出現、本門本尊仏像立てること、四菩薩僧摂受正法弘持・四菩薩賢王折伏誡責という多岐に亘ります。

確かに内容的には多岐にわたりますが、本尊抄の最重要部分と思われる箇所において「問うて曰く、上(かみ)の大難未(いま)だ其の会通(えつう)を聞かず如何。答へて曰く、ー中略ー 私に会通(えつう)を加へば本文を黷(けが)すが如し、爾(しか)りと雖も文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」として、妙法蓮華経の五字の受持を勧め、結文においても、「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ。」として、重ねて妙法蓮華経の五字を受持事を勧められて本尊抄を締めくくられています。


> 『本尊抄』で十界に亘り論じられる日蓮の観心は反故だというわけですか。

反故ではなく、この「妙法蓮華経の五字の受持」を述べるための前提として、十界に亘り論じられていると思います。


>『本尊抄』では「観心之心如何」と問いを立て、その観心の実際を十界に亘って論じています。この様はまさに観心そのものです。

ここに示される観心には、前提があります。「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。」と明鏡に依って観心を成就する事が示されています。この前提からすれば、観心の前提として明鏡が先ず示されなければなりません。この観心の前提としての明鏡として、観心本尊をとかれたのだと思います。


> 問答さんの解釈は、先に挙げた「不識」、『四信五品鈔』の「不知其義」という一節を無視することでしか成り立っていません。

そうでは有りません。鏡を見たことが無い人は、自分がどんな顔をしているのか知らないわけです。その知らない人に鏡を見せてあげれば、その人は、その鏡に依って今まで知らなかった自分の顔をはじめて知る事が出来るわけです。これが、蓮祖が明鏡の喩えとして述べられた内容であり、僕は、この蓮祖の説明に基づいて述べています。


> 江戸時代の解釈はこれを議論の対象としないことにします。

これは、了解です。寛師説を引き合いにすることは慎みます。


> では、逆にお尋ねしますが、『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心しているというのでしょうか。

これは、「上行所伝の妙法蓮華経の五字」を以って観心しておられたと思います。

3015再挑戦者:2006/12/10(日) 23:38:49
、、ゴメンします、、。  余りにもハイ・レベルのやりとりのようで、オチコボレのアホ小生にはチンプンカンプンでげぜーーまする、、。
  ただ、両者・諸賢かたの真摯な求道のお姿だけは何とかボンヤリと判明いたしました次第です、、。 心底、、敬意を感じます、!!!

3016問答迷人:2006/12/11(月) 06:17:04

補足です

> では、逆にお尋ねしますが、『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心しているというのでしょうか。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。

ここで、蓮祖は「我等」、つまり、「日蓮及びその門下」の観心をお示しであり、蓮祖は「妙法蓮華経の五字」をもって観心しておられると拝します。

3017犀角独歩:2006/12/11(月) 09:21:42

3014 問答名人さん

> >なぜ、本門本尊なのでしょうか。
> 観心本尊が本門で説かれた本尊だから、本門本尊とされているのだと思います。

これは違いますでしょう。何度も上げていますが、観心は法華経本門に説かれていません。故に「文の底」というのです。本門までは天台は証しましたが、観心は説いていない。故に『開目抄』に「龍樹天親知て、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみこれをいだけり」というのでしょう。
> 本尊抄には「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属したまはず」とあり、「妙法蓮華経の五字」が本門の肝心であることが示されています。

そうですね、本門です。ですから、なぜ本門が、観心になってしまっているのでしょうか。これでは迹門は本門であるというようなものでしょう。説明になっていません。

> 確かに内容的には多岐にわたりますが…妙法蓮華経の五字を受持事を勧められて本尊抄を締めくくられています。

この答えで、よくわかることがあります。これは長らく問答さんの思惟傾向として、わたしが見てきた点です。何かといえば、この『問答抄』において、まったく衆生を済度する仏格、その使者としての菩薩に対する信仰が考慮されていないことです。これはあたかも真言宗の法偏重のように映じます。妙法五字は「自然譲与」と言いながら、実際にその所持者である久遠釈尊、そして、使者として菩薩を明らかにしているのが『本尊抄』です。ところがこの仏菩薩が思惟からまったく欠落しています。故に妙法受持しか説かれていないように映じてしまうのではないでしょうか。しかし、これでは、仏法になりません。あるのは法だけです。
『本尊抄』で重要な点は妙法五字の受持であることは動きませんが、しかし、その受持の要法を所伝された菩薩と、久遠下種の本主が釈尊であることを明確に論じることです。ここに仏(久遠釈尊)法(妙法蓮華経)僧(四菩薩)の三宝は整って論じられています。しかし、問答さんの論調は、法のみに目が奪われ、仏菩薩を欠いています。ここから考えられる本尊は、やはり、法偏重となり、日蓮が本門の本尊は釈尊(脇士四菩薩)であるというも、妙法蓮華経五字のみとらわれて、仏菩薩を見落としているようにお見受けします。久種の覚知、その授受の道筋を忘却することは忘恩なのであって、これでは日蓮が言う仏法にはなりません。


> 「妙法蓮華経の五字の受持」を述べるための前提として、十界に亘り論じられていると思います。

ですから、それが観心です。

> …観心…前提…「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。」と明鏡に依って観心を成就…観心の前提…明鏡として、観心本尊

これはまったく牽強付会です。なぜならば、お書きになった文章のなかに、日蓮が何を明鏡と読呼んだのかが明らかであるからです。すなわち「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡」という一文です。法華経と止観を明鏡といっています。ところが、それを観心本尊であるとすり替えてしまっています。

3018犀角独歩:2006/12/11(月) 09:22:11

―3017からつづく―

> …鏡

この点は上記に記したとおりです。問答さんは、日蓮が鏡というものを取り違えています。

>> 『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心している
> 「上行所伝の妙法蓮華経の五字」を以って観心しておられたと思います。
つまり、これは妙法蓮華経という本尊をもって観心したということでしょうか。

> 釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。
> …蓮祖は「我等」、つまり、「日蓮及びその門下」の観心をお示しであり、蓮祖は「妙法蓮華経の五字」をもって観心しておられると拝します

これもまた、上述と同じく日蓮が明鏡を法華経・止観といっているにもかかわらず、妙法五字本尊とすり替えたのと同じ論法です。論として成立しません。

『本尊抄』は、その冒頭に「摩訶止観第五云」と明確にその論拠を示し、十界観心の様を示しています。止観は法華経によっていますから、日蓮が、明鏡を法華経・止観というのは至当です。また、ここで観心されていくのは妙法蓮華経の五字ではなく、己心十界であり、一念三千です。これは妙法五字が此珠(一念三千)を裹むという前段の話です。

この一念三千を観心した末、日蓮は「私加会通如黷本文。雖爾文心者釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足。我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」といいます。つまり、問答さんは、まず、本尊ありきで観心であると論を構えておられますが、『本尊抄』の記述はまったく逆になっています。

日蓮は法華経を依経とした止観によって己心を観心し、その一念三千を観法したうえで、‘会通’を加えて五字に具足するとしていくわけです。この会通は観心かといえば、わたしは違うと思います。会通とは「多くの説を集めて説く」ことですから、むしろ、教相に属するでしょう。

故に妙法蓮華経を法華本門に立ち還して、今度は本門本尊を考え、寿量本仏を論じ、その仏像を四菩薩が出現させることを論じていくという側面を同抄は有しています。また、ここでいう本門は「五百塵点已前」というも、その初成道から今番法華会座に至る限って論じられるのが、本門であり、その本尊です。これは観心本尊とは、その意味を異にします。しかし、本門より観心に入り、そこで観る仏は五百塵点成道ではなく「無始古仏」であるという教相、ならぬ経相の紙背、つまり、文底に入っていくのが観心です。しかし、本門三秘正法とは、この観心に裏打ちされて成立していると言うことです。

いずれにしても『本尊抄』の段階で、日蓮は観心本尊を「三身所顕無始古仏…本尊」と言います。つまり、妙法蓮華経五字を本尊であると書いていません。

3019犀角独歩:2006/12/11(月) 11:00:02

【3017の訂正】

誤)この『問答抄』において、まったく衆生を済度する仏格、その使者としての菩薩に対する信仰が考慮されていないことです。
正)この『本尊抄』において、まったく衆生を済度する仏格、その使者としての菩薩に対する信仰が考慮されていないことです。

3020問答迷人:2006/12/11(月) 12:17:16

犀角独歩さん

> なぜ本門が、観心になってしまっているのでしょうか

要は「上行所伝の妙法蓮華経の五字」が観心本尊であるかどうかです。この点に付いては、関係箇所と一緒にご説明します。


>『本尊抄』で重要な点は妙法五字の受持であることは動きません

この点は、認識が合致しているわけです。


>しかし、問答さんの論調は、法のみに目が奪われ、仏菩薩を欠いています。

先日来の議論で、僕は蓮祖の「上行所伝の妙法蓮華経の五字」と言う表現を用いてきました。今、本尊抄の文を引用した関係で「上行所伝」という言葉を省略しましたが、意味するところは「上行所伝の妙法蓮華経の五字」です。
この蓮祖の表現には、この五字を説いた釈尊、並びに四菩薩等の諸尊を前提とた表現であり、法のみでは有りません。仏菩薩を欠くというのは当たらないです。


>「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡」という一文です。法華経と止観を明鏡といっています。ところが、それを観心本尊であるとすり替えてしまっています。

この批判も当たらないと思います。蓮祖は「法華経と止観」は言っていません。「法華経と止観等」と言っています。この「等」が何を意味するのかが極めて重要であると思っています。これこそ、本尊抄で説かれた「観心本尊たる上行所伝の妙法蓮華経の五字」ではないでしょうか。これは、最初の御質問に対するお答えでもあります。なぜなら、何度も繰り返しますが、蓮師及びその門下は、妙法五字の受持することに依って観心を成就することが出来るからです。これが「観心本尊」という言葉の意味だと思います。


> つまり、これは妙法蓮華経という本尊をもって観心したということでしょうか。

少しニュアンスが違います。文字通り、「上行所伝の妙法蓮華経の五字」という本尊に依って観心しておられたと思います。


>いずれにしても『本尊抄』の段階で、日蓮は観心本尊を「三身所顕無始古仏…本尊」と言います。つまり、妙法蓮華経五字を本尊であると書いていません。

本尊抄の段階で、という事は、蓮祖の説は、後の「本尊問答抄」の段階では「法華経の題目を以て本尊とすべし」と明示されるわけです。

私見ですが、この「上行所伝の妙法蓮華経の五字」とは「法」ではなく、仏格としての「無始古仏」なのだと思っています。根拠は、「妙法蓮華経」という題号が指し示す実体は、単なる法ではなく、久遠仏であると読めるからです。

3021天蓋真鏡:2006/12/11(月) 12:49:17
犀角独歩さん、大縫薫さん、ありがとうございます。学問と見れば、分派も其れぞれの趣があり謎は尽きません。其れでも、私は鎌倉時代の僧・日蓮の出世の本懐は「一念三千因果倶時≒唱題」など思い考えます。21世紀には如来神通力を自然治癒力に端初を開き法華一乗と立正安国の理想を描く。喜怒哀楽に悩むヒトの人生に希望になるかは未知数な事で、先々長くなるかもしれませんが、過不足があれば注意を促してもらうと幸いです。

3022犀角独歩:2006/12/11(月) 13:27:04

問答さん

>…蓮祖の表現には、この五字を説いた釈尊、並びに四菩薩等の諸尊を前提とた表現であり、法のみでは有りません。仏菩薩を欠くというのは当たらないです。

この点はしかし、『本尊問答抄』をもってきてしまえば、瓦解しませんか。この点は、のちに記します。

>…「等」…「観心本尊たる上行所伝の妙法蓮華経の五字」ではないでしょうか。

違うと思います。この点は、先に記したとおりです。
また、‘等’とは止観のみならず、玄義・文句、さらに決・籤・記といった妙楽釈、また、その他釈と見るのが至当です。
なぜならば、『本尊抄』は冒頭に「摩訶止観第五」を挙げ、次いで「玄義」「文句」「妙楽釈」と挙げているからです。

そもそも‘等’が妙法蓮華経=本尊であるといい、『本尊問答抄』をもってもすれば「法華経並天台大師所述摩訶止観等明鏡」とは「法華経(=観心本尊)並天台大師所述摩訶止観観心本尊明鏡」ということになっていまいますが、如何でしょうか。証するもの(観心)と証拠(観心本尊)が同じになっています。こんな文章は成り立ちません。

それでももし、「等」が本尊であると仰るのであれば、この点を挙証する必要があります。

> 蓮師及びその門下は、妙法五字の受持することに依って観心を成就する
ことが出来る

これもまた、「受持即観心」という中世の解釈に依っています。
この点が違うことを「会通」という点を挙げて論じましたが、この点を省略して、過去の主張を繰り返しているに過ぎません。証なき反復です。

観心を成就出来るのではなく、観心はできない(不識)けれど、「自然譲与彼因果功徳」、仏因仏果の功徳を譲られることと、己心に十法界を観ることは意味が違います。

> …「観心本尊」という言葉の意味

では、本門本尊との異同は如何ですか。
本門・観心の捌きを、わたしは文底を挙げて論じましたが、この点は、証されていません。

> 「上行所伝の妙法蓮華経の五字」という本尊に依って観心しておられたと思います。

これも先に『本尊抄』の文の運びはそうはなっていないと記しました。この点を無視して、主張を繰り返しているのに過ぎません。これまた、証なき反復に当たります。

> 本尊抄の段階で、という事は、蓮祖の説は、後の「本尊問答抄」の段階では「法華経の題目を以て本尊とすべし」と明示されるわけです。

いまは『本尊抄』について、記しているのではないでしょうか。また、『本尊問答抄』について、記すのであれば、題目は上行所伝どころか、仏が本尊とするところであるというのです。『本尊問答抄』では上行所伝はまったく論じられていません。また、諸仏の師・本仏である法華経が上行によって所伝されてしまえば、これは下克上です。つまり、上行所伝を言う『本尊抄』と『本尊問答抄』は、その整合性を見ません。よって、『本尊抄』との整合性を証せず、『本尊抄』を考える資とすることは問題があります。また、日蓮の論調は、経年によって変化しているわけですから、過去の文献を挙げて証するのであればいざ知らず、未来の文章を挙げて証することは論攷としては甚だ不可でしょう。

> 「上行所伝の妙法蓮華経の五字」とは「法」ではなく、仏格としての「無始古仏」なのだと思っています。根拠は、「妙法蓮華経」という題号が指し示す実体は、単なる法ではなく、久遠仏であると読めるからです。

各人で、どう読もうとそれは勝手ですが、ここでは議論ですから、何故、そう読めるか記さなければ、単なる信念の押し売りに過ぎません。
わたしは、この考えは教相と観心の混同に原因があると思います。
本門-文底-観心という脈絡について、何度か、わたしは述べていますが、この点に触れず、単に過去の主張を繰り返しているのに過ぎません。

ここのところ、問答さんのご投稿は、わたしの証についても無視するか、反詰するにも証も挙げず、単に「…と思う」と考えのみを挙げるばかりです。これでは議論とは言えません。問答さんらしからぬ、ところと思えます。

3023天蓋真鏡:2006/12/11(月) 16:41:02
横レス失礼します。 問答迷人さんは、妙法漫荼羅には様々な要素・見方が備わるので中心に置いても良いのでは無いかと漫荼羅正意を結論しているのでは無いかなと考えます。犀角独歩さんは、御書遺文の語句を中心に学問を組み立てられて幅の融通が変わるので私は一度御書遺文の法門を整理整頓して語句の羅列形式で纏めて対照表にして頂くと解り易いと思います。表と言っても此の富士門流掲示板の議論に照らし合わせて、尚且、式次第のように見易い語句の羅列で冊子を発刊(範囲は真蹟だけで)してもらうと助かるのですが如何でしょう。

3024再挑戦者:2006/12/11(月) 20:42:55
  、、、横からゴメンします、、。  済みません。
  高いレベルでのヤリトリなのは理解します、、。 ここで、御一服なされてくださいませ、、。
 独歩さまも言われたように700数十年も過ぎ去った、中、での、、疑義などが満載のようでしょうか、? 
  ここで提言です、「、日蓮没後七百数十年を経過しましての、種々の疑問点・肯定店などを改めて議論いたす為の出発点=スタート・ラインのご提示されました、、ようでしょうか、。
 今後、諸賢様が、、立場を定めないで(自由に)、日蓮に関する、さまざまなご賢察こそが、我ら読者の自身の頭で思考する支えになるような気が致します、、。

3025問答迷人:2006/12/11(月) 20:45:05

犀角独歩さん

>「等」が本尊であると仰るのであれば、この点を挙証する必要があります。
>観心を成就出来るのではなく、観心はできない(不識)けれど、「自然譲与彼因果功徳」、仏因仏果の功徳を譲られることと、己心に十法界を観ることは意味が違います。

観心とは自分の心を観察して、そこに地獄から仏までの十法界を見ること。特にこの中で困難とされるのが仏界を観ること。この点を、本尊抄では「教主釈尊ー中略ー 是くの如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや」との疑問を立て、無量義経、法華経、天台大師の釈を引きその解釈として「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」「妙覚の釈尊は我等が血肉なり、因果の功徳は骨髄に非ずや。」と述べられています。ここで「妙覚の釈尊は我等が血肉」とは「凡夫の己心に妙覚の釈尊が住し給う」。或いは「我が身が妙覚の釈尊になる」。こういった意味合いでしょうから、観心の最難事たる、己心に仏界を観ることが、妙法五字を受持ことに依って成就することを述べられていることになります。
 

> 本門本尊との異同は如何ですか。

これは、思案中です。よく考えてお答えしたいと思います。なお、『本尊問答抄』は、例示であり、論証しているわけではありません。参考程度です。


>ここのところ、問答さんのご投稿は、わたしの証についても無視するか、反詰するにも証も挙げず、単に「…と思う」と考えのみを挙げるばかりです。これでは議論とは言えません。問答さんらしからぬ、ところと思えます。

独歩さんご指摘の点、読み返して見ますと、確かにそのような部分があります。議論が成立するように留意してまいります。今後もお気づきの点がありましたら、ご面倒でしょうが、ご指摘戴ければ幸いです。

3026犀角独歩:2006/12/12(火) 08:30:51

問答さん

もはや、水掛け論のような体を為していますが、問答さんの論法は、功徳を具することと観心を混同することによって、その結論を敢えて枉げていると思います。

では、どのように枉げているのか。それはご自身の漫荼羅を本尊とする日蓮没後以降信仰から読むということに、その原因があるとお見受けします。つまり、固定観念から遺文を読むために、ご自身の望む形に遺文が見えてしまっているということです。

これは恰も、創価学会は「仏とは生命のこと」「仏教は生命を説いている」と教え込まれ、固定観念化した眼から見ると、仏典も、遺文も、生命を説いたものと読めてしまうことと同様のことと観察されます。

しかし、考証とは、確実な資料を素直に読むことによって、事実を見ていく作業ではないですか。

本尊によって観心をした。これは日蓮が漫荼羅を確立した以降のことであれば、その信徒ができることです。しかし、『本尊抄』が書かれたころの日蓮は、漫荼羅の試行錯誤を始めたばかりの時期に当たります。拝んでいたのは伊東流罪已来の持仏の釈迦一体像。心血を墨に替え書き込みをしていた注法華経は所持していたでしょうか。梵音声として、寓居に安置した仏像の前に置かれていたことでしょう。また、日蓮の門下との関わりは毎月の大師講を中心とし、さらにしばしば止観を読誦していたことが記されています。

これが『本尊抄』記述の、真蹟から窺える背景です。
この状況で、日蓮が本尊と呼ぶものがあったら、それはまさに生死を共にした釈迦一体像をおいては考えられません。この一体像に向かい唱題をされ、日々、所持された経釈に眼を晒されていた姿が彷彿とします。しかし、この結論は、漫荼羅正意という信念体系から受け容れがたいことでしょう。そのために、自分の欲する‘結論’から遺文を読んでしまうのが富士の所論でした。批判というわけではありませんが、問答さんの言説からも、そのような側面を、わたしは感じます。

止観は禅の指南書であり、その記述の従って行ずるところに一念三千の観法があります。ここで己心仏界を見ることは至難なことですが、この書を通じれば、そのことを確信できます。これは、わたしが、ということより、天台を師と仰ぐ人々であれば、誰しも感じることでしょう。このことは日蓮にしても同様でしょう。日蓮は天台沙門であったし、比叡山に法華六大部を学んだ学僧でもあったのでしょう。となれば、日蓮は、天台妙楽の釈を頼りに法華経に信行学を立てたのでしょう。

その天台宗と決別を意識され本朝沙門の自覚に至った日蓮はしかし、天台と決別したわけでもなく、止観と決別したわけでもありません。講ずるところは、終生、法華経であり、止観その他の天台妙楽の釈であったでしょう。

その日蓮が観心本尊というとき、本尊(妙法蓮華経)で観心したという論調は、事実に沿ったものとは思えません。それは、一念三千の観法を、止観をもって試みたことがある人であれば誰しもわかります。止観なくして、己心仏界など思いもよらないからです。妙法蓮華経の五字を眺めたところで、そんな結論は出ません。南無妙法蓮華経と口ずさみにしても同様です。

止観という明鏡があってはじめて可能なことです。この点は‘人間’日蓮も同様でしょう。先人と同じように己心仏界を止観という明鏡をもって知ったのです。日蓮は特別な人だから妙法蓮華経を本尊であるとわかり、己心仏界をわかることができるというのは、事実の前には、荒唐無稽の理想化された日蓮像ではないでしょうか。

では、天台が三千に思い至れたのは妙法蓮華経の五字かといえば、これも違います。方便品の諸法実相十如是によるでしょう。つまり、法華経典に依ります。

以上のような事実から考えて、『本尊抄』の段階で、日蓮が妙法蓮華経を本尊として、己心仏界に至ったなどということは時系列を反映しているとは思えません。止観の明鏡によって己心仏界を観じ、そこから末法当機の本尊を考えるに至ったという道筋であると考えます。

3027問答迷人:2006/12/12(火) 09:41:43

犀角独歩さん

>その日蓮が観心本尊というとき、本尊(妙法蓮華経)で観心したという論調は、事実に沿ったものとは思えません

本尊抄執筆は52歳、立宗は32歳。この段階で既に20年間、妙法五字を唱え続けておられるわけです。この事実は動きません。それでは一体、何の為に唱えておられたのでしょうか。単に化他の為だけで唱えられたのでしょうか。独歩さんのお考え通りとしたら、この20年間の蓮師の修行・言動は極めて不可解です。

>もはや、水掛け論のような体を為しています

そのようですね。とりあえず、このあたりで中断する事とします。

3028天蓋真鏡:2006/12/12(火) 11:15:40
漫荼羅の本意を考える時「法華経の題目を本尊として唱題する事は動かない」が「シャカを三徳を具備する(本)仏と見ると、観心(無始古仏)&題目 (注法華経)&本門(一尊四士)を志向せざるをえない」と言う事でしょうか。 シャカ本仏論≒漫荼羅本意論≒皆成仏道論は成り立ちますか。

3029犀角独歩:2006/12/12(火) 11:36:55

問答さん

唱える・唱えないの話ではないでしょう。
ここでもまた、日蓮を事績を唱題のみとして、他を差し置いていませんか。
『十章鈔』には以下のとおりあります。

「止観に十章あり。大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり。前六重依修多羅と申て、大意より方便までの六重は先四巻に限る。これは妙解迹門の心をのべたり。今依妙解以立正行と申は第七の正観十境十乗の観法、本門の心なり。一念三千此よりはじまる。
一念三千と申事は迹門にすらなを許されず。何況爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義は本門に限べし。
されば円の行まちまちなり。沙をかずえ、大海をみる、なを円の行なり。何況爾前の経をよみ、弥陀等の諸仏の名号を唱をや。但これらは時々の行なるべし。
真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存べき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必体にいたる徳あり」
ここで一念三千は止観にあり、南無妙法蓮華経を唱えることによって体にいたる徳ありといいます。日蓮は、単に題目だけを唱え得ていたわけではありません。また、信者も本尊に向かって、観法していたわけではありません。この事情は、文永10年の段階でも、さして変わってはいないでしょう。

3030問答迷人:2006/12/12(火) 14:30:14

犀角独歩さん

>「心に存べき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。」

日蓮は自分で自分の事をはたして「智者」と言うのだろうか、と思いました。「名字凡夫僧」を標榜された蓮師と「智者」との自称とは馴染まない様に感じます。他の真蹟で類似表現をご存知でしたら、ご教授戴ければ幸いです。

3031犀角独歩:2006/12/13(水) 08:06:07

問答さん、おはようございます。
日蓮における智者の用法は、主に天台智邈を指すようですね。「一閻浮提第一の大智者たる舎利弗」とも言います。対語としては愚者、順位としては、聖人・賢人・福人・智者、さらに智人といったところでしょうか。

さて、自身を指していったかどうか『清澄寺大衆中』に若い頃を述懐されて「日本第一の智者となし給へと申せし事」といい、満願したわけですから智者の自覚ではあったと思います。晩年はさらに聖人の自覚に至ったわけですね。『十章鈔』の用法から見ると智者は在家を簡ぶようで、‘出家’というのが大前提のように思えます。

守護国家論「智者の由を称するは自身を重んじ悪法を扶けんが為なり」「天台智者大師」「権教には学者多く、実教には智者少なし」
顕謗法抄「天台智者大師」「一念三千の法門は天台智者の法門」
南条兵衛七郎殿御書「天台智者大師」
薬王品得意抄「天台智者大師の釈」
法華題目抄「「天台智者大師」「法華経を智者大師」
法門申さるべき様の事「仏天智者の御眼」
十章抄「「心に存ずべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解」「当世に開会を心え(得)たる智者も少なくこそをはせすらめ」「愚者は智者の念仏を申し給ふをみ」
寺泊御書「天台智者大師」
善無畏抄「智者にて御坐せし」「智者大師」
八宗違目抄「「智者 天台なり」
開目抄上「我が天台智者」「陳隋の智者大師」「華厳・真言等の権宗の智者とをぼしき、澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往権宗の人々」
開目抄下「華厳経乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子、皆一念三千なり。天台智者大師、一人此の法門を得給えり」「法然智者ならば」「智者に我が義やぶられずば用ひじとなり」「諸経は智者猶仏にならず。此の経は愚人も仏因を種ゆべし」
祈祷抄「智者は麟角よりも希ならん」
木絵二像開眼の事「智者あって法華経を読誦して骨の魂となせば、死人の身は人身、心は法身」「華厳・方等・般若の円をさとれる智者は、死人の骨を生身得忍と成す」「法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ」
如来滅後五五百歳始観心本尊抄「智者の弘法三十年」「真旦の智者大師」「天台智者大師」「比叡山竜象の如くなる智者ども」
法華行者値難事「天台智者大師」
聖密房御書「天台智者大師」
可延定業御書「日輪のごとくなる智者」
曽谷入道殿許御書「法蔵・澄観は華厳宗を置いて智者に帰す」「陳・隋の比、智者大師」
依法不依人御書「天台智者大師」
不如治大悪御書「今の智者万善を勧めしむるよりは一大悪を治するには如かず」
法蓮抄「「智者」
一谷入道女房御書「師のごとくひろ(弘)めなら(習)う人々を智者とはをも(思)へり」
撰時抄「天台智者大師」「智者大師」「天台を讃して云はく『思禅師・智者等の如き』」「天台真言の智者」「日本国のそこばくの智者ども」「智者」
三三蔵祈雨事「日本国の智者」「漢土・日本の智者」
大学三郎殿御書「智者大師」「智者と尊む」
高橋入道殿御返事「国中の智者げなる持戒げなる僧尼」
太田入道殿御返事「智者大師」
減劫御書「智者」
清澄寺大衆中「日本第一の智者となし給へと申せし事」
王舎城事「聖人・賢人・福人・智者」
兄弟抄「第六天の魔王が智者の身に入って善人をたぼらかす」「智者大師」
報恩抄「大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか」「漢土に一人の智人あり。始は智邈、後には智者大師とがう(号)す」「天台已前の百千万の智者」「慧観・慧厳・僧柔・慧次なんど申せし大智者」「智者大師」「智者なんども常の智人はしりがたし」「百余人の智者」「阿弥陀堂加賀法印、東寺第一の智者」「持戒の聖人も、富楼那のごとくなる智者も」「愚者と智者」
種々御振舞御書「天台智者大師」
一代五時鷄図「伝教大師…智者」「智者」
上野殿御返事「智者」
下山御消息「世間に智者」「智者賢王」「一閻浮提第一の大智者たる舎利弗」
富木殿御書「智者」
衆生身心御書「智者」「像法の中の陳・隋の代に智邈と申す小僧あり。後には智者大師とがう(号)す」「漢土日本に智者多しというとも」
千日尼御前御返事「天台智者大師」
大学殿事「智者疾を現じ」「智者」
日眼女釈迦仏供養事「天台智者大師」
滝泉寺申状「一閻浮提第一の智者」
諸経と法華経と難易事「天台智者大師」
大田殿女房御返事「天台智者大師」
上野殿御返事「智者も愚者も」
智妙房御返事「わわく(誑惑)のやつばらの智者げ」
越州嫡男並妻尼事「智者」

3032犀角独歩:2006/12/13(水) 09:13:16

> 「名字凡夫僧」を標榜された蓮師と「智者」との自称とは馴染まない

とのことですが、わたしは名字凡夫が智者ではないという論法は、よくわかりません。先に挙げましたが『報恩抄』に「大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか」とあります。智者でないと報恩は叶わないというわけで、自ら報恩を勧める日蓮が智者でなければ空文となります。日本第一の智者としての自覚が唱題の勧めとなった考えたほうが自然ではないでしょうか。

ついでにもう一点。富士門下において、止観がなぜ軽視されるのか、それは、日蓮没後に捏造されていった相伝文などに原因があると思います。

「天台の漢字の止観を見て、眼目を迷はし心意を驚動し、或は仮字を漢字と成し、或は「止観明静・前代未聞」の見に耽(ふけ)りて本迹一致の思ひを成し、我が内証の寿量品を知らずして止観に同じ、但自見の僻目を本として予が立義を破失し三悪道に堕つべし」

けれど、日興作である証拠のない『遺誡置文』の

「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事」

という如く、当初はもっと緩やかであったと想像されます。
遺文の重視は、日興に見られるところでしょうが、やがて、遺文は止観を凌駕していった爪痕が、上に引用した『本因妙抄』等に散見されます。
しかしながら、止観の重視は、むしろ、日蓮の特徴なのであって、真蹟遺文でざっと数えただけでも100近い使用が見られます。

また日寛の但行唱題といった解釈を日蓮の教えだと思うと、日蓮が止観などの学問を自らもしたにも進めていた実像がかき消されます。しかし、「止観云」とたびたび引用する日蓮が止観を廃していたなどとはとうてい思えません。むしろ事態は逆です。廃されていたものがあるとすれば、それは参禅ではなかったでしょうか。資料名を失念しましたが、日蓮出現前夜の比叡山では、参禅は廃れていたといいます。このような背景は、むしろ、称名念仏が流行る素地となったのかもしれません。次いで称名流行という背景は、唱題を受容する役割となったとも云えるかもしれません。

いずれにしても日蓮遺文は、弟子僧と入道といった学識のある‘智者’との熱心な経釈学習という日常の所作があり、そこから手紙の遣り取りであると見ないと、「日蓮の風景」は見えてきません。

3033問答迷人:2006/12/13(水) 10:22:52

犀角独歩さん

お手数お掛けしました。ありがとうございます。

>いずれにしても日蓮遺文は、弟子僧と入道といった学識のある‘智者’との熱心な経釈学習という日常の所作があり、そこから手紙の遣り取りであると見ないと、「日蓮の風景」は見えてきません。

この点は、全く賛同します。何ら異存ありません。

>止観がなぜ軽視されるのか、

この点に付いては、治病大小権実違目に蓮祖が次の様に述べられている教義に起因すると思います。「一念三千の観法に二あり。一には理、二には事なり。天台・伝教等の御時には理なり。今は事なり。観念すでに勝る故に、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千なり。天地はるかに殊なり」

3034犀角独歩:2006/12/13(水) 20:15:44

問答さん

この一念三千の理事と止観をどのような関係でお考えになっていらっしゃいますか。

3035問答迷人:2006/12/13(水) 21:46:30

本尊抄に「像法の中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現して、迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して、百界千如、一念三千其の義を尽くせり。但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、未だ広く之を行ぜず。」とあります。この文に依って

止観→理の一念三千

南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊→事の一念三千

という関係であると拝しています。

3036犀角独歩:2006/12/13(水) 23:18:36

問答さん

やはり。富士方で教学をすると、そのように考えることになりますね。
本迹は止観ではなく、法華文句に載るところです。
また、引用された『治病大小権実違目』の論理構造は以下のようではないでしょうか。

迹門:理:(方便)百界千如、一念三千其の義を尽くせり
本門:事:南無妙法蓮華経の五字並びに(寿量)本門の本尊

ここで、特に止観を簡ぶ理由は見当たらないと思いますが、如何でしょうか。

3037犀角独歩:2006/12/14(木) 08:46:55

【3036の訂正】

誤)富士方で教学をすると
正)富士方の教学ですると


『四信五品鈔』に「妙法蓮華経五字非経文 非其義 唯一部意耳。初心行者不知其心 而行之自然当意也」とあります。『治病大小権実違目』とあわせて考えると以下の関係になると思います。


┌──┬──┬──┬─┬─┬──────────┬──┬────┬───┐
│像法│天台│迹門│理│義│百界千如、一念三千 │禅 │    │方便品│
├──┼──┼──┼─┼─┼──────────┼──┼────┼───┤
│末法│日蓮│本門│事│意│南無妙法蓮華経の五字│唱題│本門本尊│寿量品│
└──┴──┴──┴─┴─┴──────────┴──┴────┴───┘
(図が乱れるときはhttp://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html

3038問答迷人:2006/12/14(木) 10:13:01

「百界千如、一念三千・禅」これは天台によつて「止観」に説かれます。
「南無妙法蓮華経の五字・唱題」これは日蓮によつて「観心本尊抄」に説かれます。

やはり、僕の頭では、どう読んでも、「止観」を簡んでいるとしか思えませんが・・・

3039犀角独歩:2006/12/14(木) 10:27:18

問答さん

『本尊抄』は『摩訶止観』によって書かれています。
その結果、日蓮は唱題行を採りました。けれど、天台は禅でした。
問答さんが仰っているのは、行の部分でしょう。

また、止観と本尊抄を比較することはできないでしょう。
最高位は法華経、ついで止観、そして、日蓮の著述。この順位は崩せません。
ただし、末法適時の行としては、禅ではなく、唱題であるということではないですか。

学として考えたとき、天台当時も、日蓮当時も、出家は止観を学んでいます。
そのことはいまもって、同様でしょう。学ばない僧侶がいれば、それは怠慢なだけでしょう。

こんな基本のことで、同意が得られないことを実に不思議に思います。
行と学、出家と在家、それらがごちゃ混ぜになっていませんか。

3040問答迷人:2006/12/14(木) 11:03:49

犀角独歩さん

>問答さんが仰っているのは、行の部分でしょう。

そうです。「摩訶止観」は「禅」の指南書だと認識しています。この認識が正しければ「行」についての指南書という認識で良いと思いますが・・・。

本尊抄は、「唱題」という「行」についての指南書であると認識していますから、止観と本尊抄を比較することは可能だと考えています。

3041犀角独歩:2006/12/14(木) 17:54:16

問答さん

では、『本尊抄』において、なぜ、『摩訶止観』が引用されているのでしょうか。

3042問答迷人:2006/12/14(木) 18:22:13

犀角独歩さん

>『本尊抄』において、なぜ、『摩訶止観』が引用されているのでしょうか。

本門の事の一念三千を説くために、先ず、迹門の理の一念三千を示されたのだと思います。

3043再挑戦者:2006/12/14(木) 20:52:06
 済みません、、。 何ゆえに「マカシカン」が重要視されるのでしょか、?
 やはり、、流れを無視・不可でしたでしょうか、、? 本佛さまならば「、、ショウムナイことはお見通しでしたでしょう、、」??
 しかるに「日蓮」、、といえど、「、、凡人、、??」、、かも知れません、???、、!!!

3044犀角独歩:2006/12/15(金) 00:10:25

問答さん

何度か申し上げたところと思いますが、最近の問答さんの論調は、挙証が曖昧です。引用されるところも、ご自身の考え … というより、富士方の学び … 文を取り違えていると、わたしには思えます。

話が、横に滑ってきていますが、ともかく、いまの議論は、日蓮は止観を軽視したということになってきています。この点はしかし、事実と違うとわたしは申し上げました。一つ、端的な証拠を挙げます。日蓮の晩年、弘安2年卯月、身延の山中での書です。

「我が身は釈迦仏にあらず、天台大師にてはなけれども、まかるまかる昼夜に法華経をよみ、朝暮に摩訶止観を談ずれば、霊山浄土にも相似たり、天台山にも異ならず」(松野殿女房御返事)

以上のように記されています。これでも、日蓮は止観を軽視していたことになりますか。止観を簡んでいますか。

> 「摩訶止観」は「禅」の指南書だと認識しています。この認識が正しければ「行」についての指南書という認識

章安は当然、そのつもりでまとめたのでしょう。しかし、この行の部分を日蓮は唱題と改案したということでしょう。天台法華宗の人々は止観を学んで禅を行じ、日蓮法華宗は止観を学んで唱題を行じた差です。

> 止観と本尊抄を比較できる

この点の根拠は、たぶん引用された『富木入道殿御返事』(治病大小権実違目)の「一念三千観法に二あり。一理、二事なり。天台・伝教等の御時には理也。今は事也。観念すでに勝る故、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門一念三千也。天地はるかに殊也こと也」に根拠を求めているのではないかと、想像します。

ここで、問答さんは理・一念三千は天台・止観、事一念三千は日蓮・本尊抄だというわけです。しかし、一念三千観法とはまさに止観なのであって、その相違は、前項に述べたとおり、行法にあります。止観は簡ばれるのではなく、唱題のための釈証となっているのでしょう。日蓮が終生、止観を講じ続けたことは、先に挙げた『松野殿女房御返事』からわかることです。また、先に問答さんが引用された「不見法華経並天台大師所述摩訶止観等明鏡 不知自具十界百界千如一念三千也」の一節からわかるとおり、日蓮は止観を明鏡として重視しています。(‘等’が本尊であるという挙証は畢えておられませんね)

問答さんは、止観か・本尊抄かという二者択一を考えているようですが、これは択一するものではなく止観によって本尊抄があるという関係です。まったく止観は簡ばれていません。

> 本尊抄は、「唱題」という「行」についての指南書

これも事実と相違していませんか。
本尊抄とは、観心本尊と本門本尊を勘えた書であって、唱題の指南書ではありません。その証拠に、この書の中に「唱」「唱題」に類する説明はただの一カ所も出ていません。それとも、これまた、証なきところを言わざるを得ません。

3046問答迷人:2006/12/15(金) 07:07:05

犀角独歩さん

>止観を学んで禅を行じ、日蓮法華宗は止観を学んで唱題

止観には座禅の作法が事細かく述べられていると理解していますが、唱題の作法についても述べられているのでしょうか。そうでなければ、「日蓮法華宗は止観を学んで唱題」というのは、無理が有りませんか。唱題はあくまでも、蓮祖の教えによると思いますが。


>観心本尊と本門本尊を勘えた書であって、唱題の指南書ではありません。

それではお聞きいたします。蓮祖は観心本尊をなんの為に勘えたのでしょうか。また、「妙法五字の受持」「事行の南無妙法蓮華経」とはどのような内容であるとお考えでしょうか。これらはいずれも唱題の為か、或いは唱題を意味していませんか。

3047犀角独歩:2006/12/15(金) 07:39:40

問答さん

> 「日蓮法華宗は止観を学んで唱題」というのは、無理が有りませんか

これは、意味とを取り違えていらっしゃるのでしょう。
日蓮が朝暮に講義する止観等の天台学を学びながら、行としては、唱題にいそしんだと言うことです。

日蓮が「止観を簡んだ」証拠を挙げてください。

> 唱題の為か、或いは唱題を意味していませんか。

では、反対にお聞きしますが、本尊抄のどの文が、唱題を意味しているのでしょうか。拡大解釈、類推的決めつけではなく、明確に該当する文を挙げてください。

むしろ、経・釈・書を挙げて、挙証をすべきは、問答さんのほうではないでしょうか。

3048問答迷人:2006/12/15(金) 08:37:15

犀角独歩さん

>挙証をすべき

平行線だと思いました。もう、何も申し上げる事はありません。

3049犀角独歩:2006/12/16(土) 08:13:56

問答さん

平行線というより、御説に関して、挙証未説と承っておきます。

わたしはいくつか図形化を試みましたが、このような整理をしていて気づくことは、日蓮の教説は実に簡潔で整合性が採れていることです。論理的も美を尽くしています。だからこそ、図形化が容易だという側面があります。

その日蓮の論理的整理を掴んでかかれば、理として詰まらず、挙として挙げざるはなしという実感を懐いています。

3050犀角独歩:2006/12/16(土) 08:48:10

【3049の訂正】

誤)その日蓮の論理的整理を掴んでかかれば、理として詰まらず、挙として挙げざるはなしという実感を懐いています。

正)その日蓮の論理的整理を掴んでかかれば、理として詰まらず、証として挙げざるはなしという実感を懐いています。(もちろん、日蓮の論法という範疇での話ですが)

3051しゅんかん:2006/12/18(月) 21:01:27
問答迷人さんお久しぶりです。
独歩さんとの論議に一段落着かれた様なので書き込ませて頂きます。
2920にて誠にご丁寧なおことば有難うございました。
大変な時間等を費やし折伏と言うものを行っておいて、自分は考えが
変わったから知りませんなんて事は無いだろうなあと、
その様な行為は何か無責任な感じを抱いてしまいますのでお聞きさせて
頂きました。
私は、人間と言うものは何らかの意味付けをしなければ何も出来ない動物
だと考えています。
例えば、店に行って商品を買う時(選択する)何がしかの意味付けをします。
歯を磨くのも、デートをするのも、仏壇の前に座るのも、ダイエットをするのも、
正月を迎えるのも、この様に板に書き込んでいるのもです。
意味付けをしなければ人は動きが取れなくなります。
でなければ自動販売機の前で固まってしまいます(早よ買えっちゅうねん、と
喧嘩になります)これはいけません。
折伏の対象者は事物の判断の出来る人だと思います。
つまり大人ですね。大人(二十歳以上を指していません)とも成りますと
そこそこ人生を経験しておられます。
自分はかくかくしかじかの物だとか、このような時はこうする
ものだとか、私は男だから(女だから)等です(しかしこれらは非常に不安定な
ものです、なぜなら人間は現実を直視出来ない生き物だと考えているからです)
折伏=今までの貴方の考え方(生きて行く術)を変えなさい。
といった所が内在されていると思われます。
先にも少し触れましたが、人間は生きて行くのが非常に不安定です
(これでいいのか?嫌われないないだろうか?躓かないだろうか等々)
不安定なところに新たに折伏されると言う未知の不安定要素が入り込んで
来て七転八倒の末受け入れたら自分に勧めた相手は何の報告も無く、
そそくさと居なくなってしまうのはあんまりだなあと思ってお聞き
したしだいであります。



(ちょっと大きく出ましたねヘヘヘ)

3052天蓋真鏡:2006/12/22(金) 22:45:52
日蓮の弟子の一人・日興は身延の貫首で導師を仰せつかったのでしょうか?漫荼羅の事、堂宇建立の事、ブレが多いのでは無いかと感じます。 《日蓮聖人の花押は前半不動、後半法華(ポロン)だそうです。》  教学大系に纏められていなかった事が、墓輪番制等を崩壊させた一因でしょうか。結果論で見れば「信じさせ給え」の漫荼羅が、成仏得道の基軸であっても可笑しく無いと想います。本尊(仏像)+戒壇(漫荼羅)+題目(法華経典)の三位一体で法華一乗に臨む。

3053犀角独歩:2006/12/23(土) 08:04:09

> 花押は前半不動、後半法華(ポロン)

違うと思います。

3054パンナコッタ:2006/12/23(土) 18:48:16
梵字に関しては、こちらのサイトがたぶん一番とっつきやすいと思います。
 http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/bonzisyo/bindex.html

3055犀角独歩:2006/12/23(土) 23:38:08

パンナコッタさん、このサイト、わたしも愛読しています。

3056パンナコッタ:2006/12/24(日) 12:25:23
通常、蓮祖漫茶羅の向かって右が不動・右が愛染(例外もあり)、花押初期がバン
後期がボロン。 天蓋真鏡さん、ぜひ引用したサイトで形状を確認してください。


独歩さん、
梵字・花押に関してブログとの兼ね合いのところもありますが、元亀三年の妙本寺文書
日我授御判之筆法にでてくる「或時ニハキリク阿ミ陀字ヲ為 正ト」あたりをみると、
この時点で蓮祖から伝えられた直の相伝(この手の意味合いについて)は、ほとんど
無くなっているように思えますね。 御義の成立時期にも当たりますし、
むしろ直の相伝など日興のヘナヘナ不動の形状や、独歩さんが今試みられている
空間的な捉え方が弟子達には理解されていないような感じですね。
後代に無理矢理、陰陽道を当てはめるような事をしていますし、
極論ですが、初めから蓮祖の相伝など無かったんじゃないかと思えますね。

3057パンナコッタ:2006/12/24(日) 12:28:26
失礼、
 右が不動、左が愛染 です。(両愛染もあるけど)

3058天蓋真鏡:2006/12/24(日) 18:19:05
①書き出し母字バン字 ②終筆鍵手 ③バン字からポロン字 ④終筆蕨の穂先のような渦巻 ⑤一気筆運び蕨手 【シャクソンから法華経を本尊とする】

3059天蓋真鏡:2006/12/24(日) 19:07:58
パンナコッタさん、梵字サイトのバンとボロンに相当するかと見えます。

3060犀角独歩:2006/12/24(日) 20:50:39

パンナコッタさん、有り難うございます。
日我の相伝文は考慮していませんでした。
キリークですか、なるほど。これは面白い。

ただ、パンナコッタさんがご紹介くださったサイトの用語を使えばキリーク「右横に点々」が、では、花押のどの部分に当たることになるのかという点が読めないのです。
この点はボロンでも同様で一番右の「<」型の点が、では、花押のどこに当たるのだろうかで、頷けないわけです。

弘安元年から変わる花押のデザインは、しかし、その後、5年間、一定であるというより、前期はア字の如く、中期はボロンの如く、晩期には闊達になりすぎて原形を読み取るのが困難という変遷があります。ロールシャッハ・テストではありませんが、いったん、見えてしまった形が、頭にインプットして見ると、どうしても、そのように見えてしまうという視覚錯覚の側面も考慮しなければならなりませんよね。

わたしは当初、タラーク(虚空蔵菩薩)だと思ったのですが、すると、キリークと同様「右横に点々」の説明が付かないので躊躇いが出ました。

一往、ア(不軽菩薩)ではないかと‘仮設’したわけですが、もちろん、断定ではありません。山川師の‘ロールシャッハー’をいったん離れ、自由に、考えてみるという試みです。

山川、田中の亡霊に、21世紀になってまで、振り回されるのはゴメンという気持ちと、興風などというのは、「本弟子六人」と、当の日興が筆記した日蓮の意に反するという思いもあります。これらの権威を、ちょっと、いったん、横に置いて、自由に考えたいという気分があります。

殊に、談所への敬意は、はっきりと彫刻本尊の偽造を論証し、日興正嫡という偏向を停め、日蓮本仏も否定したあとでの話です。あと、坊さんでないのであれば、坊主頭と法号もやめたほうがいいですよね。坊さんならば、四弘誓願をしっかりと唱え、「愚痴の在家にお導きを」と申し上げたい。

まあ、こんなことを記すので、「坊さん」から憎しみを買うわけですが、折伏批判、田中智学批判をやると、途端に目の色が変わる人というのは、富士門下のみならず、田中の信念体系下でも同様で、大同小異、まるで変わらないという印象を懐いたここ半年でした。

もちろん、これはパンナコッタさんに申し上げているわけではありません。失礼しました。
ご教示につき、御礼申し上げます。

3061犀角独歩:2006/12/24(日) 21:26:05

大事な点を書き落としました。

> 初めから蓮祖の相伝など無かったんじゃないか

このご意見、大いに賛同します。
特に石山が歴代と呼んでいる蓮・興目道行時(阿が抜け)影有の本尊を、一つ不動梵字だけ取ってみても、まるで一貫性がありません。
この点は『日蓮と梵字』(6)で書きました。

それにしても、富要に堂々と本尊相伝を載せながら、頒布する印刷本尊は、その相伝と不一致、また、彫刻本尊とも違うわけです。本尊頒布につき、石山も、学会も、顕正会も、正信会も、もっと真面目に考え、責任を取らなければいけませんよね。

3062しゅんかん:2006/12/26(火) 20:01:53
独歩さん叉、お願いできますか。
① 数珠の持ち方ですが、多くの情報物を見てみましたが。
 梵天三つ(左)二つ(右)となっております。
 正宗系に於いては、逆ですね。
 私の記憶が正しければ、約35年以前では正宗系も梵天三つが(左)
 だったと思います。ある日、母から(今日から今までと反対の持ち方に
 しなさい)と言われた記憶があります。
 私の記憶が正しとすれば、この経緯をご存知ですか。
 先月、要山系のお寺へお会式に参加いたしましたが(左)三つと
 見受けられました。
② 独歩さんは本尊の奉安様式において一尊四士(二尊四士)とおっしゃっ
 ておられますよね(曼荼羅のみは良しとしないと)
 私が幾つか足を運んだ仏具店では(一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神と
 大黒天)と言います。四士像は無いですと言う答えが返ってきます。
 どの仏具店でも(一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神・・)で祀るのです
 と言われます。(口調としてはこうするものです言った感じです)
 ネット上で真門流のお檀家の仏壇が載っていましたが、四士像を奉安
 していました。独歩さんも四士像を奉安されているのですか?
 叉、(一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神・・)は関西圏に多く見られる
 物でしょうか?宜しくお願い致します。

3063犀角独歩:2006/12/27(水) 09:39:29

しゅんかんさん

> ① 数珠の持ち方… 梵天三つ(左)二つ(右)

そうですね。ただ、日蓮宗では、読経などでは二つ輪にして左親指にかけます。

> 正宗系に於いては、逆ですね。

これは「学会が」ということでしょうね。

> 約35年以前…ある日、母から(今日から今までと反対の持ち方に
 しなさい)と言われた記憶

この点は、わたしも共有しています。
第一次紛争(所謂・52年度路線)で、学会が宗門から修正を求められた点の一つです。当時、わたしの地域では、それまで学会が逆にかけていた理由を「牧口先生が、御授戒の際に、日亨上人がかけていた数珠を、両手を差し出されてかけてもらった。向かい合っていたので、左右が逆になった…」などと言っていました。公式見解ではなく、口コミでした。

なお、石山系では、左右の大きな珠を親珠(父珠・母珠)といい、四つの小さな珠を四菩薩といいます。また、母珠に付される小さな珠を「心一境法性珠」といい、これは二房側に付いています。

ただし、数珠の形が左右、二房・三房になったのは、近代のことです。
以下、富要に載る図です。(ジャンプしないときは、アドレスバーにコピペしてください。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/_geo_contents_/juzu.gif

> ② 独歩…本尊の奉安様式において一尊四士(二尊四士)

この点は、一般の家庭での話ではなく、四菩薩が出現して立てる仏像奉安のことです。

> (曼荼羅のみは良しとしないと)

是としないというか、日蓮が漫荼羅を拝んでいた形跡がないということです。
真蹟遺文から見る限り、授与した漫荼羅を奉安し、仏像を拝むようなことはさせていた形跡も感じられないということです。
パンナコッタさんもご指摘なさっていましたが、日蓮は一体像を拝んでいたことは明白です。

> 仏具店でも(一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神・・)で祀る

地域差があることだと思います。関東では、むしろ、漫荼羅で、プラス祖師像というのが一般的だと思います。

> 独歩…四士像を奉安

わたしは楠山泰道師がお手書きなさった曼荼羅二幅を頂戴し、かつ、中村行明師がインドから招来された仏像も頂戴しています。ですから、一方は曼荼羅の前に釈迦座像、もう一方は曼荼羅の前に二体の仏像といった形です。
ただし、これは信仰上の信念に基づいて、ということではなく、頂戴した以上、不敬に扱うことはできず、そのようにお飾りしているということです。

> (一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神・・)は関西圏

このお話は、関東のわたしには、むしろ、新鮮な響きがあります。
わたしの交友では、自宅に一塔両尊四士を奉安されているのは、中村行明師お一人です。

3064犀角独歩:2006/12/27(水) 10:23:18

三学無縁さん
モーニングさん
藤川一郎さん

昨日は、どうも。
「櫻井よしこを読まずに批判している」という決めつけには驚きました(大笑)

わたしが櫻井氏の感覚を問題にするのは、防衛大学校教授の村井友秀氏を肯定的に捉えた軸から中国問題を論じているからです。
何故か、この教授をもって他国侵逼難をプロパガンダしているもう一人いるからです。言わずとしれた顕正会の浅井さんですよ。
同じ石山系で社会的影響力がある人物が村井氏を軸にして中国を語り、日本の軍備増強を語ることに問題を感じるということですよ。

http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2006/05/post_437.html

かつてオウムは中沢氏の論調を大いに利用した。統一協会は島薗氏でした。
今回は村井氏から櫻井氏、それが一方で布教に悪用され、一方では軍需利権に塩を送る形になっています。

愛国心から自国防衛を考えるのは、結構なことですが、政治家連中のいう軍備増強は、結局のところ、軍需産業にまつわる利権が本音にあるのであって、その利得を肯定するために愛国家ぶっている構造がそこにあるわけでしょう。自ら武器を手にとって国を守る話ではなく、武器を持たせて自分を守らせる論法を、わたしは虚しいと言っているのですよ。

それが法華講であれば、では、石山信徒は国を守るために兵士になるのか、自衛省を奨励する公明党を支持する創価学会は、会を挙げて、会員が兵士になることを奨励するのか、それはしないが軍備増強賛成。では、誰に守らせるというわけなのかという疑問が残ります。

軍事増強を煽る論調は、結局のところ、軍需利権者の蜜を吸わせる方便になっている構造がある以上、櫻井氏の論を、わたしは手放しで賞賛するわけにはいかないということです。

3065天蓋真鏡:2006/12/27(水) 13:43:30
横レス失礼します。小学生の昔ですが●胸に合掌し「法」の字を唱える●廻向の題目、ぐらいでしょうか。愚痴に染まれば呪術になりかねないような気がする昨今。創価学会のみならず、鎌倉時代の僧・日蓮を信奉する人々は[信心、学問、修行]を重んじ『一念三千因果倶時唱題』を祈る事を思い考えて人生を歩まなければならないと想起します。其れから、仏像ではビジュアル的に『正念場』が統一出来辛いので漫荼羅正意なのですが【仏像・漫荼羅・経】が「本門」形成に不可欠なら揃えなければと感じます。

3066天蓋真鏡:2006/12/27(水) 14:00:27
連続?書き込み失礼します。軍国主義的システムに日本が成っても、アメリカと(専守)ミサイル防衛構想が実現するかしないかの話で、ロシアの原潜解体や中国等大気汚染をどう解決するか先決な案件が深刻な事態を突きつける現在、看板を「省」にするかしないかはどっちでも良い話。自衛隊の海外派遣が増えるか増えない話でしょう。自分が北朝鮮指導者なら日本の原子力発電所に(核)ミサイルで潰すだけで日本に兵を送るなんて遣りません。

3067しゅんかん:2006/12/27(水) 14:54:42
独歩さん、早速のお返事ありがとうございます。

>これは「学会が」ということでしょうね。

数日前ですが、正宗の僧侶も左二つだったと拝見したように記憶しているのですが。

>このお話は、関東のわたしには、むしろ、新鮮な響きがあります。
 
(一塔両尊)のことですかそれとも(曼荼羅に鬼子母神、大黒天)のことでしょうか、それとも両方でしょうか。
(一塔両尊)とは仏具店に於いては三宝尊のことです。塔中に首題(南無妙法蓮華経)一段下に釈迦、多宝が並座しています
雛壇のような型をしており私が幾つか見かけたものは一体物ですが、ご存知ではありませんでしょうか。
抜け落ちていましたが、奉安様式は(一塔両尊「三宝尊」)にも曼荼羅を掛けるようにも勧められます。
(曼荼羅に鬼子母神、大黒天)様式には(鬼子母神、大黒天)が掛け軸物か像物かを選択するようです。
(曼荼羅、一塔両尊「三宝尊」)も(曼荼羅に鬼子母神、大黒天)にも共通して最前列(下段)祖師像を奉安します。
数店におきましては祖師像のさらに前に八の巻(法華経の事のようです)を置きます。
(正確に八つ有ったかは判りません)私が八の巻の事を驚きますと、お寺などでは置いているでしょと言われました。
確かに身延系で見かけますよね。店員は八品派の檀家を捉えて言っているのでは無いようです。
沢山の選択様式があるようです、一塔両尊には曼荼羅の有無。祖師像の有無。八の巻の有無などです。
独歩さんのお住まいの関東方面では少し違いますでしょうか。

3068しゅんかん:2006/12/27(水) 15:01:15
3067の訂正
誤(一塔両尊)とは仏具店に於いては三宝尊のことです。
正、私が言う(一塔両尊)とは仏具店に於いては三宝尊のことを指されている様です。

3070犀角独歩:2006/12/27(水) 20:22:10

しゅんかんさん

わたしは学会を去ること16年、石山を去ること11年で、昔の記憶が曖昧になっていました。
しゅんかんさんが仰るところが合っていました。石山は、日蓮宗とは逆だったんですね。
写真は、聖教新聞社発行『日蓮正宗』の丑虎勤行のショット。日達氏です。わかりづらいかもしれませんが、二房が左になっています。
手前の鶴丸バッジ(創価学会・財務部員の証)を付けた青年は左が三房ですね。
話題からは逸れますが、この写真、大客殿なのでしょうが、導師の前まで在権信者が入り、小僧さんも後ろになっています。学会登山の盛況ぶりが窺えます。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/juzugyaku.html

いま藤川さんに尋ねたら、この件では顕正会も学会と同様で、批判されていたということでした。わたしはほとんど見ることがないサイトですが、以下を紹介されました。

珠と母珠を逆に指導
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hanamizuki/1558/page019.html#gyaku

日蓮宗一般では以下のとおりです。

お数珠の持ち方と基礎知識
http://www2.117.ne.jp/~daishoji/q&amp;a2.html


>> このお話は、関東のわたしには、むしろ、新鮮な響きがあります。
> (一塔両尊)のことですかそれとも(曼荼羅に鬼子母神、大黒天)のことでしょうか、それとも両方でしょうか。

両方です。
もっとも、わたしは、仏具店というのはあまり行きませんし、まして、仏像、漫荼羅の類を買ったことはありませんから、知らないだけかもしれません。

> (一塔両尊)とは仏具店に於いては三宝尊

これは、仏壇屋さんの慣習は間違っていますよね。三宝は仏・宝・僧ですから、僧は日蓮大菩薩とした祖師像ではないでしょうか。一塔両尊とは別のはずです。

> 「三宝尊」)にも曼荼羅を掛けるようにも勧められます。

それはそうでしょうね。門下一般、漫荼羅は法本尊ですから、三宝というのであれば、必須となります。
日蓮宗では、購入した漫荼羅掛け軸を寺院に持っていき、裏書きをし開眼とするのだそうです。その段階ではじめて本尊となります。

> 祖師像のさらに前に八の巻(法華経の事のようです)を置きます。

これは一般的です。石山は日有化儀抄で定められてありますが、いまの宝前の経箱は空箱という杜撰さです。

> 関東方面では少し違いますでしょうか

違わないと思いますが、漫荼羅に祖師像というのが、まあ、一般信徒の家での奉安ではないでしょうか。

3071しゅんかん:2006/12/27(水) 21:08:59
独歩さん、重ね重ね誠に懇切丁寧な御文有難うございます。
勉強になりました。

3072犀角独歩:2006/12/28(木) 09:06:35

【3070の訂正】

誤)珠と母珠を逆に指導
正)父珠と母珠を逆に指導

3073しゅんかん:2006/12/28(木) 17:14:40
ご存知のお方宜しくお願い致します。

富士宗学要集 史料類聚別巻 富士宗学要集 10冊 11巻欠
著者名:雪山書房 刊行年:昭14
下記書店のHPで見かけました。
有限会社 東陽堂書店 東京都千代田区神田神保町1-1
http://touyoudou.jimbou.net/

上記の富士宗学要集は堀 日亨師によるものではないのでしょうか?

※情報のお願いを致します。
富士宗学要集(堀日亨師、編纂)ですが1.2.3.6巻が入手出来ません。
聖教新聞社(現在の取り扱い者)に問い合わせましたが、絶版で上記四巻も在庫なしとのことです。
どなたか入手方法をご存知の方お知らせ頂けますでしょうか。(古書でもけっこうです)
宜しくお願い致します。

3074しゅんかん:2006/12/28(木) 17:49:59
追記
日興門流上代事典、(興風談所 発行 非売品 限定500部)
上記、書物も合わせて宜しくお願い致します。

3075ラキ:2006/12/28(木) 22:18:46
「富士宗学要集」現在古書で入手可能なのは、下記の分が出ております。
http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihon_result

3076しゅんかん:2006/12/29(金) 17:27:14
ラキさん早速の情報ありがとうございます。
6巻を申し込ませて頂きました。

3077んっ?:2006/12/30(土) 06:53:00
犀角独歩さん、挙げられたページの次のページに
「今曰く数珠を指に掛ける事、父玉のほうを以って右手の人差し指に掛け
母玉の方を以って左手の中指に掛く・・・、日芳愚意して曰く左右共に
中指なるべきか・・・」とあります。
むしろ逆になったのは宗門側ではないでしょうか?

3078犀角独歩:2006/12/30(土) 07:57:32

んっ?さん

はじめまして、で、よろしいでしょうか。

> むしろ逆になったのは宗門側

話が錯綜してしまい、ややこしいことになってしまいました。仰るとおりです。

引用なさったところは保田妙本寺日我の義の部分ですが、父珠・右(今の二房、心一境法性珠のある方)、母珠・左(今の三房の方)という点は同じわけです。

引用は石山33代日元の文章です。
つまり、石山の数珠の掛け方は「御歴代上人」に反していることになります。

3079再挑戦者:2006/12/30(土) 21:03:34
、、、横から失礼いたします、、。  
 些細と言える一見ではございまするが、、。 小生には、、グッサッ、、感じました。
  「清く、綿々、、よどみ無き血脈(?)、誠に麗しゅう事事」ばかりが言い伝えられていたようでしょうか、、(?)  昨今の諸賢方の御努力に依りまして、次々と「過去の団体様による日蓮・聖人化傾向への短絡的逃避的なエエカゲン、さが、主流を占め、一時しのぎの、ダマシの手口、が勝ち組になった」、、という化けの皮(?)、、が少しずつ判明しつつ有るようでしょうか、。 
真の「ホトケ」を本当に体感・体現などが可能か、、??、、それに、、繋がるよう(?)ですので、今後ともご期待して居ります。早々、。

3080大晦日:2006/12/31(日) 12:56:40
右左の手どちらが優位なのでしょうか。
亡者に懸ける時は数え珠は切って懸けるのだと聞いたことがあります。

3081しゅんかん:2007/01/02(火) 13:08:26
皆さん明けましておめでとうございます。

菊水護国さんはじめまして、しゅんかんと申します、菊水護国さんの古い書き込みで
下記の件に付いてお教え頂けますか。

『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

39 菊水護国
> 宗教法人日蓮正宗と宗教法人創価学会の間には「包括法人関係がありません」・・・・
 だからこそ「準信徒扱い」として、会員は原則御形木様しか下付せず、学会本部にすら紙幅の常住御本尊しか無・・・・

では、法華講員として正宗の檀信徒となると先ずどの様な御本尊さまを御下付され、
宗門への貢献度が大きいと認められた場合にはいかような御本尊さまと換わっていくのでしょうか。

宜しくお願い致します。

3082ろばくん:2007/01/07(日) 11:56:07
私はこの富士門全般のコーナーを毎日読んでいます。信仰対象としての日蓮正宗末寺の参詣も途切れました。何を信仰対象にすればよいか迷っています。自分の心の中にお題目を保てばよいのかと思います。難しいことは分からないのですが、信仰とは何かがよく見えなくなりました。これまで日蓮宗や神社参詣は絶対いけないと教えられてきました。これもわかりません。ちなみに私は正信会でしたが、信者獲得のために僧侶がお金に目がくらんでいることも残念です。大石寺そのものが腐っているからですね。毎日このコーナーを読んで真の意味で覚醒してきたことに感謝しております。どこに書いたらよいかわからず、ここにしました。間違っていたら申し訳ありません。

3083問答迷人:2007/01/07(日) 12:26:13

ろばくん さん

始めまして。

>何を信仰対象にすればよいか迷っています。

色々と不明な部分があるにせよ、蓮祖が弟子檀那の為に夥しい数の紙幅曼荼羅を認められた事、そして、蓮祖が自ら、弟子檀那の為に残された信仰対象が紙幅曼荼羅以外に無い事、これらを勘案すれば、少なくとも紙幅曼荼羅を信仰対象ではないと否定された遺文は有りませんので、日蓮門下の信仰対象から紙幅曼荼羅を外す必要はないと思います。

僕は、67世日顕師書写の形木曼荼羅を仏壇に掛け、仏様と拝して御給仕申し上げています。勤行・唱題も、日蓮正宗の勤行要典で行っています。

大石寺戒壇板本尊が後世の贋作で有る事は、犀角独歩さんの研究により、もはや動かないと思います。今なお日蓮正宗が、蓮祖の出世の本懐だとして、御開扉し続けている様は呆れるばかりです。

形木曼荼羅は、戒壇板本尊の写しだからご利益がある、というアナウンスは、出鱈目ですが、蓮祖曼荼羅の形式を踏んだものであれば、蓮祖の本意からそう離れるものではないと僕は思いますので、他に、紙幅曼荼羅を持ち合わせていませんし、どなたに書写しもらえば、一番蓮祖の本意に叶うのかも、判然としませんので、現状を続けています。

まぁ、これから先の方法としては、適切な蓮祖曼荼羅を選んでネットからダウンロード・印刷し、表具屋さんに表装してもらうのが良いのかな、等と思っていますが・・・

3084しゅんかん:2007/01/07(日) 13:09:35
問答名人さん、おめでとうございます、今年もよろしくお願い致します。
>ネットからダウンロード・印刷し、表具屋さんに表装してもらうのが良いのかな、等と思っていますが・・・

〇このお考えに私も賛同いたします。私はすでに表具屋さんより曼荼羅に適した紙を購入し
印刷をしております。後は表装に出すのみですが。
蓮祖曼荼羅のダウンロードは立〇〇〇〇より行いました(日蓮〇〇〇〇〇集よりの・・・・
私の思うサイズに拡大印刷するとドットが荒くNGでした)
他にも可能なHPご存知でしょうか、良ければお教えいただけますか?

3085犀角独歩:2007/01/07(日) 14:50:58

しゅんかんさん

御本尊集のサイトとしては、海外に以下のところがあり、ここでは大きなサイズでも収蔵されています。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

ただし、日蓮の大漫荼羅は白黒ではありません。
信者会員に配布されているような墨跡のわからないようなものはありません。
また、たぶん、紙の色は正式には黄色で、軸は朱とするべきではないかと思います。経巻がそうであるからです。

以下は、わたしが所有している御真筆の写真です。実際は色が少し違います。大きくアップしたいところですが、とある方から、わたしを信頼して下さり贈呈されたものなので、この程度で勘弁してください。
写真でも筆跡はある程度、確認できるほどです。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/rinmetudo.html

3086しゅんかん:2007/01/07(日) 18:28:00
独歩さん、明けましておめでとうございます、本年も宜しくお願い致します。
>海外に以下のところがあり、・・・

〇私が明記させて頂きました、(日蓮〇〇〇〇〇集よりの・・・・)はまさにこのHPなのです。
ただ拡大印刷するとドットが荒くNGでした。とは正宗下付の様なサイズにしたかったのです、
NGと言うのは私がこの様な事に関する技術、知識不足に起因するものかもしれません。

>紙の色は正式には黄色で・・・

〇表具屋さんに曼荼羅に適した紙は?と問うと、黄色い紙で妙法紙と言いますとの事でした。
大変薄く透けていますが、私が御経本で見かける物よりも濃い黄色でした。
S会二世の者には黄色い曼荼羅には違和感がありまいた。(私の認識不足?)
{私は此処数ヶ月の内でこの黄色い曼荼羅には出会っていました、京、本圀寺と此処最近
出入りさせて頂いている日蓮宗の(関西唯一の末寺)お寺です}
蓮祖の御真筆曼荼羅をダウンロード印刷には或る程度の妥協(譲歩)が必要なのかと思っています。
それは、①この黄色い紙②蝋燭による煤煙、③経年劣化(②以外によるその他の劣化)
以上のことより正宗や、S会よりの下付曼荼羅のみを見て来た物にとっては、
もう少し綺麗に出来ない物かと抱いてしまうのですが致し方ないのでしょう。

3087しゅんかん:2007/01/07(日) 18:50:06
独歩さん、他の御方に問合せた物と特定をしていないの物でお返事の無い物が
ございます、宜しければお答えいただければ幸いです。

①日興門流上代事典、(興風談所 発行 非売品 限定500部)は入手はほぼ不可能でしょうか。
②当スレッド3081の件ですよろしくお願い致します。(菊水護国はご自身で海外転勤と何処かの
スレッドで見かけた様な記憶があるのです?)
③万年救護本尊(保田妙本寺の)の万年救護とは曼荼羅の何処かに記されているのですか、
記されているのでしたら叉、それは誰が記したと言われているのでしょうか。
ただの通称名でしょうか。
以上、宜しくお願い致します。

3088れん:2007/01/07(日) 22:40:08
横レス失礼致します。
しゅんかんさん、初めまして。
日興門流上代事典は、私が耳にした範囲では、もう在庫が無い由で、東京神田の東陽堂書店で出るのを気長に待つ以外無いと思います。
日蓮正宗の御本尊につきましては、法華講所属の方にお聞きしたほうが良いと思います。
保田妙本寺奉蔵の万年救護大本尊につきましては、“万年救護”は通称で、山中喜八師の御本尊集目録に拠る限り、万年救護云々の添書はないようです。保田妙本寺日侃師門下と思われる薩摩日長師の書状に「万年救護之御本尊」また、日侃師の相伝目録に「末法万年御本尊 流布之日本堂ニ可奉懸之」とあり、日侃師の代には“万年救護”の通称が妙本寺奉蔵の蓮祖御筆文永十一年十二月の御本尊に使用されていたようです。なお“千葉県の歴史 資料編中世3”によりますと、同御本尊には「本門寺建立之時懸本御影堂可為末代重宝也」云々の別幅の副書がある由であり、“万年救護”の通称はこの別幅の副書に由来するのかもしれません。
興門一般では、どうも蓮祖御筆漫荼羅への興師の添書で特に「末代重宝」「万年重宝」云々と記されたものを“万年救護”と通称しているようですね。
取り敢えず右、ご参考まで。

3089犀角独歩:2007/01/08(月) 10:06:49

しゅんかんさん

> 表具屋…黄色い紙で妙法紙…御経本で見かける物よりも濃い黄色

誤解はないと思いますが、わたしが「経本」と記したのは、経紙と漫荼羅紙が、同じ紙という意味ではもちろんありません。「黄紙朱軸」が常套句であるという意味です。いわば、仏教界の常識だと言うことです。別段、白だろうが紺だろう各人の嗜好の問題だと思います。
軸も同様で朱軸より、たとえばわたしの個人的な嗜好で言えば水晶のほうが好きです。
表層の織紋も同様だろうと思います。
日蓮聖人の漫荼羅を表具するのに鶴丸というのは、通日蓮からすれば、むしろ、違和感があるところですが、興門にとってはかくありたいとなるかもしれません。

ただ、せっかく、日蓮漫荼羅をダウンロードし、お金をかけて表層するのであれば「木に竹を接ぐ」ようなというか、着物にシルクハットをかぶるような、見る人が見れば、嗤われてしまうようなものにしないようにしたほうがいいという意味で申し上げたのに過ぎません。

> ①日興門流上代事典

これはれんさんがお答えになっていますので、省略しますが、一点、申し添えれば、日蓮仏教系教団の図書館であれば収蔵されています。

③万年救護本尊

これまた、れんさんがお応えになったので省きます。
この「万年救護」という語彙については、2年半前に投稿しました。
以下記したとおりの変遷があります。
万年救護本尊、戒壇本尊神話というものは、いつのころからか醸造され、その漫荼羅がどれか、「うちのものこそ、そうだ」、「あっちが万年救護本尊というのなら、こちらは戒壇本尊だ」「うちなんか、もっとすごい、万年救護戒壇本尊だ」という、言い合いが実は富士門下で過去に起きた結果を、いま真面目にとらえすぎている側面があると、わたしは考えます。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/552

3090しゅんかん:2007/01/08(月) 12:58:01
独歩さん、ありがとうございます。

>誤解はないと思いますが、
〇おっしゃられます通り読解しております。(紙類に濃淡、薄厚は当然でしょうねエ)
>仏教界の常識だと言うことです。
〇そうなんですか!黄紙を使用するは常識だんたんですか、勉強になりました。
>別段、白だろうが紺だろう・・・
〇そうでしたね、このHP内でも紺紙金泥・・・(でしたかね?)記してましたよね、
思いかえすに、とある日蓮宗寺院の宝物館でも紺紙金泥・・・を拝見していました。
(お恥ずかしいかぎりです直ぐに忘れてしまいます)
>お金をかけて表層・・・嗤われてしまうような・・・
〇ありがたいお言葉、御指導、心にとめておきます。

3091しゅんかん:2007/01/08(月) 13:20:41
れんさん、初めましてお返事有難うございます。
勉強になりました。叉、情報ありがとうございます。チェックする様に致します。
これからも宜しくお願い致します。

3092れん:2007/01/09(火) 13:25:51
“万年救護”の語彙についての犀角独歩さんの御投稿、読ませて戴きました。
なるほど、保田、石山、北山の間で、本尊をめぐって言い争いみたいなことがあったのですね。時系列から見れば、先ず保田妙本寺が同寺蔵の文永十一年の蓮師御筆大本尊に“万年救護御本尊と命名して口火をきり、ついで石山が彫刻本尊を作成して“戒壇本尊”を言いだし、最終的に北山が禅師授与漫荼羅を万年救護戒壇本尊と命名して、三つ巴で正当性を争った、西山でも万年重宝と興師添書のある興師祖父授与の蓮師御筆漫荼羅を万年救護と称してますから、富士四山四つ巴ですね。文献的には江戸時代直前中世末期あたりから、本尊をめぐってのこの手の争いがあったろうことは保田日侃師の弟子薩摩日長師の書状から伺えますね。

3093犀角独歩:2007/01/09(火) 18:06:43

れんさん、補完有り難うございます。
日侃書状に、その模様が窺えますか。となれば、わたしの類推も、大きくははずれていなかったわけですね。

3094れん:2007/01/09(火) 21:25:46
犀角独歩さん
房山日侃師の門弟と思われる薩摩阿闍梨日長師の書状(無年号、三月八日付け)に「代門・道門等与問答之為申候、日目付法之御文言、並ニ万年救護之御本尊授与之御文言等、為未来写御こし可有候」とありますので、房山侃師の代に本尊や相伝をめぐり、房山と石山・西山との間に問答があった様ですね。公開されている文書の中では、天正年間頃と推定される日長師書状が“万年救護御本尊”の名称の初見だと思います。

3095犀角独歩:2007/01/09(火) 22:54:42

れんさん、重ねがさね有り難うございます。
参考になりました。

3096再挑戦者:2007/01/10(水) 17:59:05
、、、横からゴメン致します。
 さすがはIT(情報化時代)の現代のようでせしょうか。
 小生は、個々の曼荼羅・本尊はいかようにも細工可能な現今ですので、一宗・一派のメシの種になる犠牲になるよりも、一応はご理解できますです、、。    

 ただ、、、やはり、死んだ時の”葬儀”が難儀で御座います、???     

 ワシは、役所の福祉係員と地元民生委員が持参した「白い袋に無造作に入れられて〜斎場〜無縁墓地埋葬への一本道の途上にある身分です、、。 
 今後、、いかなる死期を迎えるのが理想的なのか、?、素朴に、?、、愚考・愚疑問に執着するアホの一人で御座います、、。

3097不可解者 2:2007/01/10(水) 20:08:21
 >> 、、、死期、、。
  自分が死んだら、その後のことを「自分が果たして、意識が存在」するのでしょうか、、。 
 自分では意識が不可能 =、、死、ですから、、。   その後の件は、誰が?どの方? がご判断するのでしょうか、、。
 マーー、−−、、だから、こそ、、宗教の、、???、、が存在、、でしょうか、、???

3098一字三礼:2007/01/15(月) 22:51:05
素朴とは言えないかもしれませんが。

「法華経方便品の譬喩の成立に影響を与えた書ではないか」との見解を持たれている方から、「南伝大蔵経 第二十七巻 小部経典5」というのをお借りしてきました。
この本は、パーリ五部のうちの小部(クッダカ・ニカーヤ)と総称される15経のうちの『譬喩』もしくは『宿世物語』と言われる経です。

南伝小部の中には、『法句』や『経集』といった経典の中でも最古層に属するものと、比較的遅れて成立した『天宮事』、『釈義』などのような経とが混在しているのですが、私のお借りした『譬喩』は、かなり遅れて成立したもののように思えます。
もしかしたら、『法華経』より後に成立したのではないか、との疑いからなかなか集中できないでいるのですが、私には解らない語が出てきたので、この掲示板の碩学の方にご教示いただきたく思います。

「長者の譬喩(畢隣陀婆蹉)」の157詩

「煙管を勝者と最勝最上衆なる僧伽に施せしかば、我が業に適はしき三つの利益を享けたり。」

この詩に出てくる「煙管」は「喫煙の道具」という意味なのでしょうか。

喫煙の文化はアメリカ大陸から世界に広まったというのが私の理解でしたが、インドにも固有の喫煙とそのための道具の文化が古代からあったのでしょうか。

3099顕正居士:2007/01/16(火) 11:53:35
>>3098
「煙管」の他の意味はボイラーなどの用語しかないようです。
南伝大蔵経が今日の形に編纂されたのはそう太古ではないのですが、
大航海時代以後の事物が出て来るのは変ですね。
巴利、英訳のどこに相当するか、わかりますでしょうか?

巴利南伝大蔵経(フォントはトップページにあります)
http://www.metta.lk/tipitaka/
英訳南伝大蔵経(小部は全文はない)
http://www.accesstoinsight.org/

3100パンナコッタ:2007/01/16(火) 14:08:24
経典に"煙管"って、何か変ですね。
『語源については異説もあるが、カンボジア語で管を意味する『クセル』が、
 訛ったものとされる(渡邊實「日本食生活史」- 吉川弘文館)』
割合新しい言葉のようですし、南伝大蔵経65巻の訳出は昭和10〜16年ですので、
語彙の意訳っぽい気がしないでもないですね。

また、インド発でイスラム圏に広まった水パイプを指しているようにも思えますね。
(時代的に錯誤しているかもしれません。すんません)

3101一字三礼:2007/01/16(火) 16:37:12
顕正居士さん

私のお借りした南伝大蔵経は、「巴利聖典出版協会」Mary E.Lilley女史刊本(1927)を底本として邦訳されたものです。
各詩の行頭にローマ数字が付されているのですが、それは底本と対応しているようです。

先に挙げました経文を正確に。
譬喩経(阿波陀那)二 
第四十 畢隣陀品
三八八 畢隣陀婆蹉
の、一五七詩目にあたる箇所のものでした。
「煙管を勝者と最勝最上衆なる僧伽に施せしかば、我が業に適はしき三つの利益を享けたり。」

そこから考えますと、顕正居士さんの挙げてくださった「巴利南伝大蔵経」では、
Khuddhaka Nikaya、Thera Apadanaの40Pilindivaccha Vagga
2531. Dhumatette jine datv&agrave; sa&iuml;ghe ga&otilde;avaruttame, Ti&otilde;&agrave;nisa&uuml;se anubhomi kamm&agrave;nucchavike mama.
に該当するのではないかと思うのですが、翻訳をお願いできますでしょうか。

ちなみに、前の156詩は、
「三昧に於て動ぜず、三昧に於て自在にして、衆分裂することなく、言常に信頼されき」
です。この詩は
2530. Sam&agrave;dhisu na kamp&agrave;mi vasi homi sam&agrave;dhisu, Abhejjapariso homi &agrave;deyyavacano sad&agrave;, J&agrave;yati bhogasampatti bh&agrave;ve sa&uuml;sarato mama.
にあたるのではないかと推理(?)しました。英訳南伝大蔵経からは探せませんでした。

3102一字三礼:2007/01/16(火) 18:07:46
パンナコッタさん
ご無沙汰しております。

> 経典に"煙管"って、何か変ですね。

私もご指摘のような違和感を感じたのですよ。
仏と僧達が、みんなで煙管で煙を燻らせている、というのも絵的にありえないような気がしますし。

> 語彙の意訳っぽい気がしないでもないですね。

そうですね。お調べいただいた昭和10年〜16年の学者達が、「煙管」という語で、何を連想させようとしたのか。時代の隔たりのせいでしょうか、さっぱり検討がつきません。

3103顕正居士:2007/01/16(火) 20:21:56
>>3101
一字三礼さん。

その箇所と思います。Dhumatetteを「煙管を」と訳しています。
dhuma=dhūmaなら「香 incense」の意味です。
「香を燃やし」という意味ではないかと。
何で煙管と訳したのかはわかりません。
あるいは現代パーリ語で煙管を意味するのかも知れませんが。
(パーリ語は上座仏教圏の僧侶の共通会話語になっています)

3104一字三礼:2007/01/16(火) 23:35:50
顕正居士さん

ご教示ありがとうございます。

Dhumatetteが「香を燃やし」という意味であれば、意味がすんなり通りますね。

仰るように、「煙管」と訳した意図は謎ですが、もしかして「香炉」のようなものを意識していたのではないか、とも考えました。

それにしても、完成されたアビダルマの六因・四縁の用語が頻繁に使われているので、このアパダーナは内容的にかなり新しい成立のように思えてなりません。

3105犀角独歩:2007/01/20(土) 08:23:23

彰往考来さん、独学徒さん、れんさん、他諸賢

相伝書などの書写で知られる「日源」が、水口であるとするのは、どのような根拠によるのでしょうか。ご教示いただければ幸甚です。

3106独学徒:2007/01/20(土) 09:35:07

犀角独歩さん、先日はブログにて種々ご紹介賜りましてありがとう御座います。

「日源」については、もとは「水口説」と「岩本説」とがあったようですが、堀日亨師が筆跡から「岩本説」を否定し、現在に至っているようです。
堀日亨師の文献に出ているかどうかはわかりませんが、創価学会最初の建立寺院といわれる相模原の正継寺住職で、元富士学林教授であった大橋慈譲師が、大白蓮華95号「富士宗学要集の解説③」にて述べています。
これから一寸出かけてしまいますが、帰宅後該当の文献が見つかりましたら談議所の方にアップします。

3107れん:2007/01/20(土) 12:18:10
水口日源師は、興師御筆漫荼羅の脇書きなどによりますと、寂日坊日華師の弟子で、讃岐公・讃岐阿闍梨を名乗った方で、正和年間には興師より熱原法難にかかる興師宛ての蓮師遺文の興師写本を授与され、師の確かな真筆としては、先に挙げた興師写本遺文への師の書き入れと立正安国論の写本二巻が北山本門寺に現存します。岩本実相寺の日源師の確かな真筆は同寺所蔵の本尊問答抄の正応年間の写本があるくらいでしょうか。
堀日亨師は“本尊三度相伝”の筆者を水口日源師の筆とされたのは、どのような理由によるか、分かりませんが、独学徒さんがアップされる資料で分かるかもしれませんね。但し、先行する“伝説”としては、完則宝蔵目録には実相寺日源の筆との伝承がありますから、堀師の鑑定のみをもって水口日源師の写本と断定するのは、やや早計かもしれません。
本尊論資料では、朗門や常門にも同内容の文献が見え、順師撰とされる本門心底抄にも三度相伝と同内容の文章が引用されますから、本尊三度相伝に記される個々の法義やその原書は、室町中期の成立と見られる両巻血脈の法義の影響が見える本尊七箇相承よりも、そこそこ上代(富士で言えば早ければ興師の直弟の世代か孫弟子の世代)にその成立を遡れる可能性はあると存じます。

3108れん:2007/01/20(土) 13:23:10
蛇足ながら、讃岐阿日源師を“水口”日源と称するのは、同師が貞和五年(1349)五十四歳の時書写した立正安国論の奥書に「貞和五年已□卯月十三日、富士上方上野郷水口に於いて日源五十四歳にて之を書写す」とあることによると思います。

3109犀角独歩:2007/01/20(土) 13:33:32

独学徒さん

有り難うございます。資料のアップを楽しみにしております。


れんさん

ご無沙汰しております。レス、有り難うございます。

わたしが、疑義を懐いたのは、日亨氏が、文字鑑定を経た結果として、各相伝書などを水口日源としたのかという点です。

たとえば、単に、文献に「日源」とあった。日源ならば、れんさんがお示しくださったような日興に係る富士門下の僧侶がいる、これに違いないといった形で当て嵌めてしまったのではないかという危惧です。

『本尊論資料』をお読みのようなので、この点に沿って記します。

「日源」の名は本尊相伝ではお馴染みのところですね。常門では、日實の文献を載せますが、ここで語られる伝法の次第は 日源―日實―日得―日怡 ですね。
たとえば『日蓮上行等之事』では「日源自(よ)り之を聴聞す」(原文漢文 P515)などとあります。

執行師『日蓮宗教学史』(平楽寺/昭和29年9月15日2刷) 第2篇 室町時代 第1章 中山門流の教学 第2節 中山系教学の展開 1正行日源(P67) 2本成日實(P68)に載ります。

「妙覚寺の正行日源」と名声を博した人物であるわけですが、「著述には、講演法華義抄23巻、四宗要聞私聞書、御書音義等」(P67)というわけです。
こんな日源の著述や、署名を為した写本が、ある時期、石山が手に入れ、所蔵された。その後、日源とあるので、水口に違いない、水口日源といえば、日興に係る人物である、となれば、この相伝は日興が日蓮が受けたものだ… といった連想ゲームの結果、これらが、日興相伝と思い込まれていった可能性はないのかという疑問です。

この点を証するためには、れんさんがお示しくださったような水口日源直筆の文献があれば、それと相伝類の文字を対校してみればよいわけです。実際のところ、日亨氏は、この手順を踏んで断定したことなのだろうかというのが、わたしの疑問です。

重ねて、独学徒さん、れんさんほか、諸賢のご教示を期待します。

3110犀角独歩:2007/01/20(土) 14:08:05

読み直して、誤解が招きやすい拙い文章だったので、ひとこと。

「れんさんがお示しくださった…形で当て嵌めてしまった」という一連の記述は、もちろん、れんさんが当て嵌めたということではなく、日亨氏が、ということです。

3111れん:2007/01/20(土) 14:51:33
犀角独歩さん、こちらこそ大変御無沙汰致しております。
仰るところの疑惑、私もその可能性があると思います。いつの時代か他門徒の“日源”師の写本を石山が入手し、事情が分からなくなった後代の石山門下が連想ゲーム的に日源→実相寺日源師或いは水口日源師に当てはめた可能性は確かにありますね。水口日源師・実相寺日源師の書蹟は現存しますから、堀師がしかるべく筆跡鑑定したのか否か、した上ならば、水口日源説は一応首肯できますが、現時点では、疑惑は拭えませんね。
富士においても、伝日順師撰の心底抄に引用、房山に室町中期の写本があるのでそれなりに古い文献ですが、石山蔵の日源筆については、犀角独歩さんの仰るように疑う必要があると考えます。

3112犀角独歩:2007/01/20(土) 16:27:12

れんさん

仰る「室町」、やはり、この時代辺りがネックですね。正行日源はまさに室町時代の人でした。結局のところ、相伝の類というのは、ここら辺で文献化されているのかなと思います。

各本弟子門下の相伝類を俯瞰して、首を傾げたことが一つあります。
ブログで書いていることとも関連する判形相伝のことです。
常門を含む五老門下では、たいがい、その象りがボロン字であることを言っているわけです。ところが、興門にはこれがないのですね。「在御判」だと言います。日尊実録なんかも併せて、善意に解釈すれば、祖師の花押を模写しない矜持のように取ることもできます。しかし、実のところはどうなんでしょうか。知っていて書かないことと・知らないことでは天地雲泥の相違があります。

(日興が、ではなく、日興に仮託して)興門の本尊相伝を文書化した人々は、実のところ、判形ボロン字の相伝を持っていなかったように見受けます。

全門下の本尊相伝を集大成するのは、身延の行学日朝なのだと思います。
正行日源と本成日實の授受があったわけですね。
これら一度文書化されたものというのは、どんな動きをしたのでしょうか。

石山では日寛が六巻抄などとまとめるわけです。
ここら辺の論調を読んでいると、この相伝は日興のものである、日興のものであるということは日蓮直授、日蓮日興のものであれば、すべて当山のものといった、いわば「他人のものは自分のもの、自分のものは自分のもの」といった強弁が罷り通って、日寛の虚構は成り立っていますね。それ以前、日精の蒐集が、その前提となっているわけですね。

富要に日亨氏が参考資料を記した結果、石山には日興以来伝わっている相伝文書など、何もなく、すべて他山の写本ばかりだったことが明るみに出る結果となりました。そんななかで、「日源」写本ばかりは、自山のものであるといった論調です。

ここで二つ問題があります。まず一つは、石山の歴代でもない水口日源が「唯授一人」に係るはずの相伝を何で写しているのかという疑問です。
もう一つは、先より記しているとおり、写本に記される日源とは、本当に水口日源なのかという疑問です。

諄い文章になりましたが、れんさんも、疑っている点であると確認でき、少し安堵しました。

3113独学徒:2007/01/20(土) 17:14:42

れんさん、お久しぶりです。

>独学徒さんがアップされる資料で分かるかもしれませんね。

いえいえ私がアップしようと思ったのは、大橋住職が「富木公胤」のペンネームで書いていた、昔の大白蓮華の記事ですから、画像でもなく、文書でもなく、ただ大橋住職は堀日亨師の水口説を紹介しているといっただけのものです。

それをみれば、犀角独歩さん、れんさん、のもたれている疑義は全くその通りで、ほとんど根拠らしいものは見当たらず、「堀上人が言ったからきっとそうだ」的なものだけで、「本尊三度相伝」の日源が、水口日源といわれているだけだとわかると思います。

その意味では、深い考察の参考資料には到底なりえません。
一応今日中にアップしたいと思います。

3114れん:2007/01/20(土) 18:07:41
独学徒さん、ご無沙汰しております。
敢えて、富士門伝承の蓮師花押の梵字のボロンに関する文献を挙げるならば房山所伝の御本尊梵字口決(“千葉県の歴史”所収の妙本寺蔵のものは後欠で、宮崎県史の所収の“定善寺文書”の中に全文の翻刻文掲載)にボロン字の意義について述べられている位ですね。この御本尊梵字口決も常門の“本尊灌頂秘決”と内容が重なる部分があるのは、以前何方かご指摘の通りでした。
富士の場合、漫荼羅は書写様式で、首題の下は“日蓮聖人”か“日蓮在御判”(この両者の折衷で“日蓮聖人〈在〉御判”の例もありますが)と記して蓮師の御筆花押まで臨写する如きことはないので、どうも富士では、蓮師の花押に使われた梵字の意義についての伝承はされなかったか如き様子ですね。

3115独学徒:2007/01/20(土) 18:15:01

れんさん、

>どうも富士では、蓮師の花押に使われた梵字の意義についての伝承はされなかったか如き様子ですね。

実に的を射た御高察です。
花押だけでなく、以前の犀角独歩さんのブログでも紹介された通り、興師の不動・愛染は、かなり元の梵字とかけ離れているようですし、梵字自体の相伝が無かった可能性もありますね。

まさか何の相伝も無かったから「書写」にした、なんて事は無いですよね。

3116れん:2007/01/20(土) 19:39:09
独学徒さん、
過分のお言葉痛み入ります。興師の梵字は、犀角独歩さんのご指摘の通り、だ
いぶ元の梵字と違いますが、これは現時点では、相伝云々以前に、興師の個性
と言うか、センスに由来するものかもしれない思います。
興師も天台僧でしたから、梵字については蓮師に習わずとも、基本的な学問は
四十九院あたりで一般教養的に習学されていたと思います。
又、興師は蓮師在世の弘安四年三月五日に観心本尊抄を書写していますから、
興師も何らかの蓮師からの教示は受けていると思いますが、公開された資料か
らは、それを窺う資料は現存し無いと考えられるのが現状といった所だと思い
ます。

3117犀角独歩:2007/01/20(土) 22:09:14

独学徒さん

どちらで御礼を述べてよいのかわかりませんが、言い出した場所でということで、こちらに。

有り難うございました。参考になりました。
あとは、石山所蔵の日源の影本、また、正行日源の影本を対校すれば、ことの次第は解明することになります。例の興風ではやっていないのでしょうか。


れんさん

日興の不動の書法は、ブログでも記しましたが、初期の日蓮の如きで、またもし、梵字の知識があったとしたら、敢えて、日蓮と違う字を記した可能性がありますね。これが単なる書き癖であるとしたら、随分と軽薄だというのが正直な印象です。

日朗、また、日像などの本尊を見ても感じることですが、派祖の段階では、あまり、日蓮の書風に拘らず、むしろ、我流の筆跡を重んじている感がありますね。日蓮が考案気になって定型化していく書法より、書いてある諸尊に重があるように思えます。

3118犀角独歩:2007/01/20(土) 22:19:09

やってしまいました。3117の訂正です。

誤)日蓮が考案気になって定型化していく書法
正)日蓮が弘安期になって定型化していく書法

3119教えてください:2007/01/20(土) 23:23:56
玉井礼一郎さんは、今どうしているのでしょうか。また、顕正会に昔いた海老原さんという男子部だったかの幹部の方、私、以前電話でお話したことがあったのです。どうしているものなのか。そして、高橋公純さんのことも、知っている方がいれば教えてください。

3120れん:2007/01/21(日) 13:00:00
犀角独歩さん
3117
>日興の不動の筆法…初期の日蓮の如き…
興師の不動の筆法は独歩さんが御自らのブログで御紹介の通りですね。私は梵字についての知識が無いので、ここらへんのことは何とも言えないのですが、興師の御筆漫荼羅は年令を重ねる程に全体の筆法が草書化していくように感じますが、該当の梵字の“草書”で興師の如き崩し方は有り得るのか否か、知りたいところです。
>日朗…日像などの本尊…派祖の段階ではあまり、日蓮の書風に拘らず、むしろ我流の筆跡を重んじている感…日蓮が弘安期になって定型化していく書法より、書いてある諸尊に重がある…
仰る通りですね、興師に限らず、昭師や朗師・向師の御筆漫荼羅を見ますと、筆法そのものは、蓮師の弘安期の筆法(不動・愛染の●型の起筆など)などは、必ずしも継承したとは言えず、各々自分の書風で思い思いに書いていると私も感じているところです。ただ、勧請の諸尊は各師それぞれの定型的な形がありますから、仰る通り、「書いてある諸尊に重が」あったのではと、私も感じております。

3121犀角独歩:2007/01/21(日) 17:11:47

れんさん、有り難うございます。

どうも、一人で考えておりますと、いったい、自分の考えが正しいのかどうか、呻吟している時間が無駄になります。長らくご教示をいただいているれんさんにも、同様のお考えを存するとお聞きすると安堵するものがあります。

3122れん:2007/01/22(月) 18:51:06
「師範松寿院贈上人よりの聞書」(当方未見資料)に掲載されているという大石寺蔵「首題点画秘抄」とは、日蓮宗宗学章疏目録の興師著述の部にある「本尊点画伝」と同じものでしょうか?ご存知の方がおられましたらご教示戴ければ幸甚です。

3123しゅんかん:2007/01/24(水) 22:51:05
独歩さん、随分以前の独歩さんの論ですが、宜しくお願い致します。

富士大石寺の歴史についてに於いて。

>28・・・折伏大行進賑やかな頃、元よりの法華講衆を旧信徒と言って折伏対象とし、先祖伝来護持してきた歴代の
成就曼陀羅本尊、また御影を功徳のないものとして・・・
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/rekisi.htm

〇成就曼陀羅本尊とは常住(常什)本尊の事でしょうか?
〇御影とは身延派等の信徒のお方が仏壇内に奉安される祖師像の事でしょうか?

●成就=常住だとすれば創〇〇会→池田教と行動を一にしていた時代なら常住さまのご下付は数量及び
体力等、鑑みましても不可能と思われます。
創〇〇会と組する以前の常住さまの下付は、入信時=形木。その後数年間、信心が確かと認められれば
常住さまの下付が認められたとの事でした。
が、現時点に於いては、成就=(常住)の下付は池田教と組していない現在では可能ではないかと思いますがいかがでしょうか?
(当然以前の様に数年と云う時間では無理でしょうが)

●御影=祖師像であるとすれば現在、石山は信徒に於ける祖師像の奉安は認めていませんよね。
石山は創〇〇会の教えに習って撤廃したのでしょうか?
石山は御影=(祖師像)の撤廃に付いていかような見解であったかご存知でしょうか?

3124犀角独歩:2007/01/25(木) 07:58:26

3123 しゅんかんさん

> 成就曼陀羅本尊とは常住(常什)本尊の事でしょうか?

そうですね。打ち間違えています。
慣例で一部、やっと手書きの本尊が授与される=成就といった言い慣らしがあったので、そう打ってしまったのだと思います、5年前のことなので記憶は定かではありませんが。

> 御影とは身延派等の信徒のお方が仏壇内に奉安される祖師像

たしかに日蓮の祖師像です。ただ、身延に限ることではなく、石山の信徒でも行います。しないのは創価学会、顕正会だけでしょう。
石山の実質的な本堂は昔から御影堂であり、当然、ここには祖師像が祀られています。また、末寺でも、ある程度、格が認められた寺院は祖師像を置き、さらに日興像と並べ下種三宝(仏宝=日蓮、法宝=漫荼羅本尊、僧宝=日興)とします。御影堂奉安を一体三宝、後者は石山では客殿の奉安で別体三宝といいます。
しゅんかんさんはどちらのお住まいか存じ上げませんが、東京で言えば、新宿の大願寺などは祖像が奉安されています。

> …常住…数量及び体力等、鑑みましても不可能と思われます。

そうですね。しかし、これは信徒になれば、100%漫荼羅本尊が下付されるという近代の‘商い’に関連することでしょう。上古は、不惜身命の一部の僧俗にしか漫荼羅は下付されなかったわけです。これが日蓮日興の規範です。信者に漫荼羅を絶対に下付しなければならないということは、まったくもってありません。

> 創〇〇会…入信時=形木…その後数年間、信心が確かと認められれば常住さまの下付が認められた

なにも伏せ字にすることはありませんよ。創価学会ですね。
たしかに仰るような手順です。これが、法華講になれば、さらに板本尊に改め、また、御影も置くといった具合に進捗することになります。
石山は何故か、どんなに創価学会が発展寄進を繰り返しても、板本尊を下げなかった。それで勝手にやったのが本尊模刻という一連の騒ぎでした。しかし、近代は、板に改めるのに、一々、石山に連絡をしていたと思われず、要は「入仏式」を坊さんを呼ばず、池田さんが自分でやった点を「越権行為」だと立腹したのがはじまりだったろうと思います。

> 現時点に於いては、成就=(常住)の下付は池田教と組していない現在では可能ではないかと思いますがいかがでしょうか?
(当然以前の様に数年と云う時間では無理でしょうが)

池田教という団体はないわけで、単に、宗門に言わせれば破門、学会に言わせれば独立した創価学会があるのみです。この掲示板では、斯様な別称は馴染みません。

仰るのは石山末寺の信徒に関することでしょうが、仰るような手はずで、実際に行われているでしょう。

> 御影=祖師像であるとすれば現在、石山は信徒に於ける祖師像の奉安は認めていませんよね。

これは日顕さんの段階、もっと言えば、創価学会が力を持つようになった頃からそうですね。
しかし、祖師像を奉安する信者はいくらでもいるでしょう。
当掲示板の常連さんにもいらっしゃいます。
だいたい、それを制する根拠などあり得ません。祖像信仰は日興已来のことです。

> 石山は創〇〇会の教えに習って撤廃したのでしょうか?

教えを習うということはないでしょう。
ただし、創価学会は小樽法論の昔から、なぜか御影像が嫌いでした。
池田さんが第2次紛争の時に、説法がわからないと奥さんと話し合った件が、石山に伝わり、日顕さんとその取り巻きは激怒したということがありました。これは御影像での説法についてでした。これが関連するかどうか知りませんが、なんら日蓮に関わる遺物を有さない創価学会、新興宗教ならではの、古物アレルギーみたいな鋳物ではないでしょうか。

> 石山は御影=(祖師像)の撤廃に付いていかような見解であったかご存知でしょうか?

いま、具体的な文献は挙げられませんが、日顕さんは、今後は漫荼羅本尊のみの安置を主流とするような発言をしたことを覚えています。これは、しかし、化儀の簡略化に重点があったのではないでしょうか。
祖像撤廃などという意図は皆無だと思います。

3125犀角独歩:2007/01/25(木) 08:03:23

【3124の訂正】

誤)御影像での説法についてでした
正)御影堂での説法についてでした

3126しゅんかん:2007/01/25(木) 19:02:55
独歩さん早速のご教示有難うございます。

〇信徒の仏壇にも祖師像を祀る・・・とは、私としまして初耳なので少し驚きました。

>御影堂奉安を一体三宝・・・
〇一体三宝とはどの様な奉安様式なのでしょうか?
曼荼羅の真前に祖師像が祀られている様式ですか?(御影堂内を拝見した事が無いもので)
としますと曼荼羅、祖師像で二宝。他にも何か祀られているのでしょうか?
申し訳ありません。物分かりがわるいものですから、もう一度お願いします。

>日顕さんは、今後は漫荼羅本尊のみの安置を主流とするような発言をしたことを覚えています。
〇やはり何らかの動きがあったのですね。去年のお彼岸時にお寺に行った折、法華講の心得?なる
小冊子で仏壇内の祀り方、の項には祖師像は明記されていなかったのです。(30数年ぶりの訪問です)

>仰るような手はずで、実際に行われているでしょう。
〇いえ、それが私が知る限りどうも、常住さまの紙幅(板本尊も)は10年、20年の信徒でも下付をしていない様なのです。
開基20数年と言う寺で一人もいないと直接耳にしたのです。叉、(日要、一四三六〜一五一四)日要が開創した寺院と伝えられている
大阪府堺市の本伝寺の住職さんに(去年のお会式の時期)も尋ねたのですが檀家で数人との事でした、
そして紙幅?の様なニュアンスだったと記憶しております(真面目に信仰するだけではNGなのですかね
もっと別の何らかの行動を要するのでしょうか?)宗門の怠慢だと思えてなりません。
私の住まいは大阪です。本伝寺にも御影さまは祀ってなかったのです。関西には少ないかもしれませんね。
大阪市東住吉区、法住寺で本尊に向って左(蓮祖)右(興師)を昨年見かけました、
法住寺に行った経緯は、本傳寺の住職さんから頂いた祖道と言う大阪のみで発行されている小冊子内に
この別体三宝を認めたためです、私は何度も申し上げますが、信仰はしていませんが学会二世で
母より仏像(曼荼羅以外の像物)を置くのは邪教だと聞いていた為、驚いて確認に出向いたのです。
この様式を別体三宝と云うのですね。
何時も何時も本当に有難うございます。

3127犀角独歩:2007/01/25(木) 21:43:53

しゅんかんさん

> 一体三宝…曼荼羅の真前に祖師像

そうです。詳しくは『日蓮正宗要義』に載っていたと記憶しますが、いま、手元にありません。

> 曼荼羅、祖師像で二宝。他にも何か祀られているのでしょうか?

祀られていなくても三宝の意義を具えるので一体というのでしょうね。
しかし、何が僧宝に当たるのか、不明瞭なのはたしかですね。

> …私が知る限りどうも、常住さまの紙幅(板本尊も)は10年、20年の信徒でも下付をしていない

これは、そんなことはないと思いますよ。わたしが石山から出て10年です。
その頃、常住本尊の話はあったような記憶があります。
それと、何より誤解があると思うのは、本尊授与というのは、『下付願』が原則ですよ。お願いしなければ、書かないでしょう。
常住本尊となれば、一宗の代表者に自分専用の本尊を書いてもらうわけです。それ相応の奉供養を伴うことでしょう。

> 宗門の怠慢だと思えてなりません。

別段、石山を庇い立てする理由は、わたしにはありませんが、色紙にサインするようなお気軽なことではないですよね、本尊書写は。
日蓮の現存する大漫荼羅は200舗足らず、日興の本尊でも300舗ほどではなかったでしょうか。実際はもう少し書いているかも知れませんが、日蓮は10余年でこの数です。多くても月2舗程度でしょう。日興は40余年です。ペースで言えば、日蓮より少ないことになります。それでも現存する本尊は、群を抜いています。これが個人における限界ではないですか。でも、これでも超人的なペースだと思います。
詳しいことは知りませんが、日蓮宗で言えば漫荼羅相承は300日の荒行で受けるところでしたか。一生涯で1舗とか、数十舗程度ではないでしょうか。

石山ほど、手書きで本尊をするところは他に類例がないと思います。
要は、お考えの中に、漫荼羅は信者全員に下付すべきものという固定観念が働いているのではないでしょうか。漫荼羅がないほうが、絶対的な多数なんですよ。あれば、その漫荼羅を護持せんがために一寺がなるような話です。そして、漫荼羅があるから、人々が参詣に集まるという構図です。これが各家庭に等しくあれば、寺院は存在しなかったでしょう。寺院が墓地を持つようになるのは近代のことです。

> 母より仏像(曼荼羅以外の像物)を置くのは邪教

石山で言えば、日道以降、そんなことが言われるようになったわけですね。
学会は、ここ半世紀に出来た日蓮とは何の脈絡もない団体です。ご母堂様の信仰の在り方は学会経由石山式です。

仏像を置くのが邪教なら、日蓮その人が邪教であったことになりますね、日蓮は終生、仏像を拝んでいましたから。

『忘持経事』に「案内(あない)を触(ふ)れて室に入り、教主釈尊の御宝前(ごほうぜん)に母の骨を安置し、五体を地に投げ合掌して両眼を開き尊容(そんよう)を拝し、歓喜身(かんぎみ)に余(あま)り心の苦しみ忽(たちま)ち息(や)む」とあります。

弘安5年『八日講御書』には「抑八日は各各御父釈迦仏の生させ給候し日…法華経と釈迦仏とを御信心ありて、各々あつまらせ給て八日をくやう申させ給のみならず、山中の日蓮に華かう(香)ををくらせ候やらん。たうとし、たうとし」

反対に、日蓮が、自分が描いた漫荼羅を拝んだという証拠は何一つありません。

ご不明な点があれば、いつでもお気軽にどうぞ。わかる範囲でお応えは出来ようかと存じます。

3128しゅんかん:2007/01/25(木) 23:13:41
独歩さん、早速のお返事有難うございます。

>『下付願』が原則です・・・
〇そうなんですか、納得いたしました。 宗門の怠慢だと思えてなりません、は撤回いたします。
石山関係の方々、大変申し訳ありませんでした。

>一寺がなるような・・・人々が参詣に・・・各家庭に等しくあれば・・・
〇この様な発想はとても私には浮かびません、全くおっしゃる通りだと思います、流石ですネ。

>要は、お考えの中に、漫荼羅は・・・
〇以前もお話しましたが、認知症の母はS41年1月7日ご下付の特別御形木を戒壇の本尊を写したものと信じ、
そして貫首さまの直筆と信じています(この掲示板に出会うまで私も母の様に思っていました)
母は今もこの御本尊を有難い、有難いと申しております。この母の姿が私はいたたまれないのです。
直筆で下付を受ける者(授持者ですか)名を入れて頂く曼荼羅に執着しているのだと自分を分析しております。

>いつでもお気軽にどうぞ・・・
〇お気遣い頂き有難うございます。毎回ド素人な質問ばかりで書き込みに気が引ける
部分もあるのです(嘘ではないですヨ(^^))このお言葉で少し気が楽になりました。

3130犀角独歩:2007/01/26(金) 09:06:00

しゅんかんさん

ご母堂様への思いに胸が熱くなりました。

わたしの恩人の一人である楠山泰道師の御尊祖父・楠山日かん(=王編に官)師は、昭和35年に『大石寺本尊真疑問答』という書を記しています。原本はガリ版刷りの小冊子です。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/n_kusuyama001.html

このなかで

【問】その板本尊も、創価学会特定の印刷本尊も功徳利益があるというのですが、実際利益はありますか。

【答】利益―功徳はあるでしょうよ。元来、利益というものは自分の観念の上にとらえられるものですから、何宗でも利益はあります。「僕は利益をいただいた。罰が当たった」と素直に受け取る人が幸せなのです。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/n_kusuyama001_ifn.html#kudoku

という問答があります。結局のところ、信仰というのは、斯様な側面を有していると思います。

ただ、わたしはいつも語るのですが、「タネがわかってしまった手品では感動できない」ということです。

疑うことなく信じ、拝み、体験を得た。この実感が信仰を支えます。
その後、自分が信じたものが紛い物であるとわかった。でも、自分はこの御本尊を拝めば、昔と同じように功徳の体験を得、感動の実感を得られるのだ…、こう考える人は多いと思います。しかし、それは最後の悪あがきの類であるとわたしは思います。

そんな過去の自分の体験に囚われていれば、前に進むことも、広大な眺望を見ることも、次のステージの感動の実感を得ることもできなくなります。
日蓮が図した大漫荼羅は、石山・学会が言うような代物ではありませんでした。説いたところも違っています。
わたしたちは、石山・学会での経験・学びの踏み台に乗れば、その上を見ることが出来ます。

しかし、御母堂様は認知症とのこと、思索の猶予はわずかかもしれません。
その場合、かつての経験のなかで、いったんの安堵を得ることも一つの方策なのだと思います。その傍らで、次のステップに進んだ人が … つまり、しゅんかんさんが … 暖かく見守りながら、ご自身は前に進み、その功徳を御母堂様に回り向かわせればよろしいのではないでしょうか。

修行というのは、自分のためではなく、そこで得た功徳を、今度は修行を出来ない衆生に布き施すところに菩薩の精神があるのだと思います。
生育で親に受けた恩に報いる方途でもあろうかと存じます。

僭越ながら、一言申し上げました。

3131藤川一郎:2007/01/26(金) 11:14:22
余談を1つ。

常住御本尊について言えば、顕正会が複製して有名な「日布上人」は数千幅と言う脅威な数の直筆本尊を書かれております。
その中の一幅と言われるものが某寺院の御虫払に出てきますが、たくさん書かれていても、かなり丁寧に書かれております。
その他でもたくさんおられます。
最近では、立宗750年の時には、もの凄い数(累計1万以上)の申請が出たようです。
ある方の例を出せば、前年(平成13年)に申請した御本尊が、平成14年の4月に下りてきて、それを板にするのに半年と言う長いスパーンとなってました(これはA仏具店の混雑もありますが)。
「日顕上人が腰を痛められたのは1日に信じられない量の御本尊を書かれたためでは?」と言う真偽不明の逸話がある位の数だったそうです。

3132犀角独歩:2007/01/26(金) 19:49:32

自己レスです。

> 御母堂様は認知症とのこと、思索の猶予はわずかかもしれません


そのようなつもりではなく、厳正な考証は、婚儀が必要ですから、馴染まない程度の意味で記したのです。しかし、文章が拙く、これは、心ない発言と誤解を招きかねませんね。。

薬も発達し、特に認知症の有効薬のドキュメント過日、テレビで観ました。
症状が進まないこと、良くなることを、お祈り申し上げます。
失礼いたしました。

3133独学徒:2007/01/27(土) 00:53:27

犀角独歩さん、横レスにて失礼致します。

>一体三宝…曼荼羅の真前に祖師像

石山における『一体三宝』は、大曼荼羅本尊一体のみの勧請をいうのではないでしょうか?
たしか曼荼羅の真前に祖師像を安置する方式は、『住持三宝』であったと思います。
石山でいうところの『別体三宝』は、他宗でいうところの『現世三宝』のことで歴史上存在した三宝のことですね。ここでいうところの「法宝」は仏の音声であり、「僧宝」は最初の継承者ということになります。
『住持三宝』の場合、法宝は経典となり僧宝は貫首・住職ということになります。
石山ではこうした通仏教の三宝義が混ざった解釈になっていますので、創価学会との間で「僧宝」に法主を含むのかどうかなどという議論が起こるのでしょう。
『現世三宝』(別体三宝)の義からいえば「僧宝」に法主は含まず、『住持三宝』の義からいえば「僧宝」とはまさしく法主を指すということだと思います。

3134犀角独歩:2007/01/27(土) 08:03:02

独学徒さん

> 『住持三宝』の義からいえば「僧宝」とはまさしく法主を指す

執行師は『初期の興門教学に於ける本尊意識の展開』で

――弁阿闍梨の筆録したる「日有御談」には
「上行菩薩の後身日蓮大師は九界の頂上たる本果の仏界と顕れ、無辺行菩薩の再誕日興は本困妙の九界と顕れ畢りぬ」
といって、暗に宗祖脱仏、派祖本仏の思想を洩らしている。なお日要述日我記の「顕仏未来記聞書」によれば、日要上人当時、大石寺には「大聖冥益・当住顕益」の思想があったものゝようである。 ――

と記しております。
富士門下に住持三宝を当て嵌めれば、独学徒さんが仰る筋だと思います。

なお、石山義における一体三宝=御影式、別体三宝=客殿式という記述は、たしか『日蓮正宗要義』のなかに載っていたと記憶します。いま、この本を人に貸しており、手元にありません。もし、お持ちでしたら確認してみてください。或いは、わたしの記憶違いかも知れません。その節は、また、ご教示いただければ幸甚です。

なお、当掲示板で言えば、文殊さんが『現代人が納得できる日蓮教学』579に「生御影と曼荼羅本尊一体三宝奉安」と、わたしの同様の論法で記されていました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/579

石山には三宝を三義に立てる考えはなかったと思うのです。
富要で検索すると横浜問答で、蓮華会側の発言では見られます。

「釈尊を仏宝とし題目を法宝とし宗祖等を僧宝…三宝一躰にして差別なく互に冥じ相彰はして一心の本躰を理躰法躰と名け・一心の本性を覚性仏宝と名け・理智和合を僧宝と名く・故に一躰といふ、此の中一躰三宝は理にして相にあらず事にあらわれ相を現ぜば則ち別相の三宝…一躰三宝の徳相をとどめたるが住持の三宝」

日亨氏にも「未来の学問者の為め殊に当寺の住持三宝の為に」という使用は見られますが、これはたぶん、「当寺の住持(住職)と三宝」の意味だと思えますので、三宝三義とは違うでしょう。

恐縮ですが、ご確認いただければと存じます。

3135独学徒:2007/01/27(土) 13:00:29

犀角独歩さん、確認しました。
犀角独歩さんの仰せの通りでした。

日蓮正宗要義307頁、日蓮正宗要義改訂版317頁に、御影堂の勧請形式が「一体三宝」に含まれるとの記述がありました。

御影堂の勧請形式を「住持三宝」としたのは、柳澤宏道師の「石山本尊の研究」の記述でした。

しかし通仏教の方程式からいえば、柳澤宏道師の著作の記述が正しく、新旧日蓮正宗要義の記述はどうかと思います。
宗門公式見解の書がこのような記述では、創価学会との「僧宝」問答は起こることは不思議ではないです。

通仏教上では、『現世三宝(別体三宝)』と『住持三宝』の関係は以下の通りといわれます。

現世三宝(別体三宝)=歴史上存在した三宝

仏法=釈尊
法宝=釈尊の説法(音声)
僧宝=最初の付法者(摩訶迦葉?)

これが住持三宝では

仏法=仏像
法宝=経典
僧宝=貫首・住職

となります。以上、インターネット資料参照「三つの宝)(http://www.plinst.jp/musouan/aoyama13.html

仮にこの方程式で石山の日蓮本仏・曼荼羅法宝を『住持三宝』に配当すれば、

仏法=日蓮御影
法宝=板曼荼羅
僧宝=法主・住職

が適当ではないかと思います。

しかし石山自体が御影堂の勧請は『一体三宝』と公言している以上しょうがないですね。

3136しゅんかん:2007/01/27(土) 16:01:13
独歩さん、有難うございます。

>>3130すごいですね!ここ数日、曼荼羅にはもうあんまり捉われないでもよいのでは?
と思ったりもしていた所なんです。
母は症状に波が有り、46歳になる私の細君にもう直ぐ赤ちゃんが出来るんやなあ、と言ったり。
亡くなってもう20年もなる亭主(父)は今何処に居てるんだと云ったり、食事を取っていても
食していないは常ですが経本を見なくても方便品、寿量品を正確に読誦します。
昨年のお盆にわけあって母のご本尊さまを私の家に持ってまいりましたが、「このご本尊さんは私のんや
からな」と云っています。ですから、母には私が此処で学んだ事を伝えませんし生存中には曼荼羅を
掛け返えたりはしないつもりです。なにより私も勉強中で考えも一向にまとまりませんし。
>修行というのは・・・
〇このお言葉胸にしっかりと刻んでおきます。有難うございます。

>>3132心ない発言と誤解を招きかねませんね。
〇いいえ、前後段の温かいお言葉でそのような意でない事は読み取れております。
〇余談!!テレビを御覧になられるのですか?!!何時睡眠を・・・

3137しゅんかん:2007/01/27(土) 16:06:39
藤川一郎さん、ご教示ありがとうございます。
これからも宜しくお願い致します。

3138しゅんかん:2007/01/27(土) 17:59:12
独学徒さん、はじめましてご教示ありがとうございます。
HP拝見させて頂いております。博学で敬服いたしております。

ご教示お願いいたしたく、此処に記しておりましたがご迷惑かもと思いまして
つぶやきすれっど2
2368へレスし、つぶやきと致しました。
未熟者ですがこれからも宜しくお願い致します。

3139犀角独歩:2007/01/28(日) 10:18:06

独学徒さん

今回、しゅんかんさんからご質問を受け、独学徒さんから疑義を呈していただき気が付いたのですが、石山で言う一体三宝というのは、たしかに一体ではなく二体になっていますね。二体であれば柳澤師の言うように別体ということになりますね。

日蓮の段階で考えます。一体仏で、その前にはたぶん法華経典を置かれていたと思います。『木絵二像開眼事』の意義から考えるとき、法華経典は宝宝ではなく、梵音声でした。
もちろん、日蓮自身は漫荼羅を拝んでいたとは到底思えません。

では、日興の段階ではどうか。日興は漫荼羅を本尊と見なしたのではなく本尊と見なしたわけです。漫荼羅を法と見なしたか、どうでしょうか、この点は。
仮に法と見なしたとします。そうなれば漫荼羅は法宝です。では仏宝と僧宝となりますが、つまり、これは一尊四士に契当するわけでしょう。日興に三宝奉安の意図があれば、漫荼羅を懸け、その前に一尊四士の仏像ということになります。

しかし、実際は、漫荼羅を本尊と奉懸し、さらに御影像を懸けていたように思えます。
かつて、愚鈍凡夫さんがご指摘なさったことでしたが、御影は塑造彫刻の類ではなくではなく画であったのではないかということでした。これは「正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人の御影堂に於いて、日興に給はる所の御筆本尊以下廿‘舗’、御影像一舗並に日興が影像一‘鋪’御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ」という記事に置いて、本尊と御影を‘舗’と数取りしています。もし、これが造立像であれば、躰と数えられるはずだというのがその根拠です。鋭い指摘であると思ったものでした。

日興は仏像を奉安していたかどうか、わたしは少なくとも初期はしていたと思っていますが、もし、していなかったすると、重須には漫荼羅本尊と御影絵像が奉懸されていたことになります。
この場合、石山がいう御影式(一体三宝)といった漫荼羅の前に御影像を置くことはできません。できるとすれば、二枚の掛け軸を左右に並べ懸けることでしょう。

もし、日興に三宝奉安の意図があり、かつ日蓮本仏という教学も、漫荼羅が人法体一という教学もなかったとき(実際なかったでしょう)、いったい、この奉安は何でしょうか。まことに美を尽くさざるものと言うほかありません。

先に『木絵二像開眼事』における日蓮の開眼義は挙げましたが、これはつまり、仏像に三十二相八十種好を完備させる要件としての立論でした。
けれど、仏像の開眼とは実際に目に瞳を書き込むことでした。脇士のない仏像もあります。このような事例を考えるとき、そもそも、宝前と称される奉安において三宝が意識されていたのでしょうか。わたしはされていなかったと思うのです。

四菩薩副造がない、さらに漫荼羅も奉献しないという実際の有様から考えるとき、弟子達は、宝前にどのように三宝を見いだし得たのでしょうか。いや、もっといえば、宝前に三宝を見いだす必要などあるのでしょうか。宝前にあるのは仏のでよく、その御前で説かれた法を誦し唱え、その当事者が僧宝であって、整うところではないかと思うわけです。

宝前は三宝、わたしはこの点に、改めて疑問を懐いた次第です。

ただ、漫荼羅を見れば、そこに図された妙法蓮華經は法、釈迦は仏、四菩薩は僧と見なせ、となれば、三宝は具えていることになります。しかし、だから一体三宝本尊であるとえるかどうか、この点に消極的な気分です。

3140犀角独歩:2007/01/28(日) 15:42:01

しゅんかんさん

行儀が悪いのですが、飯を食うときだけはテレビを観ます。
朝は遅くとも、4時5時には起きますが、夜は11時から3時の時間帯はしっかり寝るようにしています。この時間の睡眠は、体に善いという実感があります。

3141独学徒:2007/01/28(日) 22:21:34

犀角度歩さん、

>正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人の御影堂に於いて、日興に給はる所の御筆本尊以下廿‘舗’、御影像一舗並に日興が影像一‘鋪’御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ

これは要法寺中興の日辰の祖師伝の記述だと思いますが、少々次代が下っているものと感じます。
むしろ日順雑集に「御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造らせ玉ふ事も日興上人の御建立なり。」『御影を造らせ』とあることを考えれば、日興が拝したものは日蓮木像であろうと考えます。

この日興の振舞は、日蓮本仏圏にとっては『住持三宝』として十分説明がつくものと思います。
つまり、

仏法=日蓮御影
法宝=大曼荼羅
僧宝=日興

です。
『住持三宝』ですから、「日興」の部分が貫首・住職となって現在まで続くという考えです。
なので、私はてっきり石山の御影堂形式は『住持三宝』を顕していると思い込んでいました。
しかし石山は『一体三宝』というわけです。これはやはり「人法一箇」の思想の影響ではないでしょうか。

北山や要法寺は広布達成時は仏像造立で、釈尊久遠本仏義に立っていますので、こちらはむしろ曼荼羅一体安置をもって『住持三宝』とすべきなのかと考えます。
釈尊久遠本仏義に立つ、要法寺や北山が、日蓮御影と曼荼羅を持って本堂に安置し、『住持三宝』の形をとっている方が矛盾しているように感じます。
郷門や石山あるいは西山は、日蓮本仏義ですので、その思想自体に問題はありますが、一応、教義と三宝奉安形式は一致していると思います。

3142れん:2007/01/29(月) 07:52:49
横レス失礼します。
犀角独歩さんが引用された日代宛て日興置状の重須盗難の資料は、日辰師祖師伝が初出ではなく、もう少し時代が遡ると思います。石山六世日時談「大石記」に日代宛て日興置状の存在に触れてますので、南北朝末期には置状は成立していたとみるべきで、日順血脈には大体同時期の盗難事件の記述がありますから、当時の盗難品に関する記述として参考資料として扱えると思います。
日順雑集から、池上の御影とそれ程変わらない時期に日興が日蓮御影木像を造ったと思われ、また日興置状から、日蓮の絵像もあったということになるのでしょうね。

3143犀角独歩:2007/01/29(月) 09:38:38

そうすると、日興の往時、すで日蓮木像があったということになるわけですか。なるほど。この点、ちょっと、最後に記します。

独学徒さん

> 日興の振舞…日蓮本仏圏…『住持三宝』…仏法=日蓮御影/法宝=大曼荼羅/僧宝=日興

これは石山では下種三宝です。住持三宝ではないでしょう。
「住持」というのは、いまの言葉で言えば、住職ですね。
ですから、執行師が指摘されたように、当住に重があるわけですね。
日蓮の段階では釈迦冥益・日蓮顕益、日興の段階では大聖冥益・日興顕益、歴代「法主」の段階では日興冥益・当住顕益とスライドしていき、さらに隠尊冥益・当住顕益とまで、位置づけられる論理です。要するに「法主」の今日蓮論であり、石山能化が言った「御法主上人猊下は戒壇の大御本尊と不二の尊体」などという表現は、本仏でその彫刻と人法一箇であるはずの日蓮のオハコが石山住職に置き換えられてしまっています。つまり、これでは、日蓮は本仏の脱仏で、下種仏が当住であると暗に言っているようなものです。まさに当住顕益です。

元来、三祖に絞る石山教学は、保田の日要の扱いなどと、この点でやや相違していたとわたしは考えています。ですから、住持三宝という考えが、石山に根付かなかったのでしょう。しかし、日顕さんの段階ではそうではなくなった。以上のような次第ですから、当住三宝と下種三宝は、ややニュアンスに相違があります。

なお、わたしが宝前の三宝と言ったのは、日興在世当時、宝前は漫荼羅本尊(法宝)と日蓮像(五老方義:僧宝/石山義:仏宝)で、三つが揃わないという意味です。
石山の現行の客殿式は、先に独学徒さんが挙げた次第ですから、下種三宝を並べた形です。この点、教義の是非は別として、理路が会っているというのは、ご指摘のとおりであろうと思います。

しかし、日興は漫荼羅本尊と日蓮像を置いただけであれば、二宝にしかならないという指摘をしたわけです。日興は宝前のなかに漫荼羅本尊、日蓮像に並んで座っているわけではなかったでしょうから。

さて、では、仏像を置いたかどうか、置けば、揃うが、置かなかったというのが大方の富士義ですね。

石山のような客殿奉安は、他では、あまり、見られません。となると、仏壇に、そもそも三宝を具えさせようなどという考えは、従来の教団にも、当初の日蓮・日興の段階でもなかったのではないかという指摘をしたのが先で言ったことです。

3144犀角独歩:2007/01/29(月) 09:39:06

―3143からつづく―

れんさん

> 日興が日蓮御影木像を造った…日蓮の絵像もあった

この二つはどんなふうに扱われたのでしょうね。
ありのままに日興の言かどうかわかりませんが

「日興が云はく、先づ影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為なり、是に付け非に付け有りのまゝに移すべきなり。之に依って日興門徒の在家出家の輩、聖人を見奉る仁等一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体に異ならずと雖も大概麁相に之を図せり、仍って裏に書き付けを成す云云。但し彼の面々に図する像一つも相似せざるの中に、去ぬる正和二年日順図絵の本あり、相似の分なけれども自余の像よりもすこし面影有り。而る間後輩に彼此の是非を弁ぜんが為に裏に不似の書き付け之を置く」

・善いところも悪いところもそのまま描け
・評議して年月を書け

これは尊像というより、もはや記録ですね。

たくさん書かれたり・造られたりしたけれど、どれも似ていない、そんななかで正和2年に日順が描いたものは、少しは面影がある。でも、のちに誤解があるといけないから、裏に「似ていない」と書き付けたというわけですね。

この文章が信頼できるものであるとすれば、本当に日興は御影像を造っていたんだろうかという疑問が彷彿とします。だいたい、ここまで厳しいことを日興が言っていたとして、(これは言っていたでしょうが)では、日興が造らせた日蓮木像があったとして、どんなに似ていたのか?、似ていたのであれば、その像を写生すればいいではないかという疑問が生じるわけです。

自分の造った木像だけは僧宝の意義を有する尊像だけど、あとはみなスケッチ、日付をちゃんと入れとけ、似てないと書いた?

本当にそんな遣り取りだったんでしょうか。

むしろ、日蓮の面影を写すものは何もなく、だけど、あとからあとから、まるで似てない絵像が、日蓮だといってたくさん造られる、これは困ったことだという日興の心中と見たほうが自然と感じます。すると、そもそも日興造立の日蓮像なんて、ほんとうにあったんだろうか。あったとすれば、「儂のだけが似ているぞ」と言っているようなものですね。これも似てないけれど、だけど、これは僧宝日蓮像でいいんだと、そんな強言を日興がしたかどうか。
どうも、すっきりしません。

3145犀角独歩:2007/01/29(月) 10:05:58

でも、以上のようなわたしの疑問からすると、日興所蔵の日蓮画像を拝んでいたという論法も成り立ちませんね。うーん。
お二人のご賢察を期待します。

3146れん:2007/01/29(月) 11:34:02
犀角独歩さん
石山文書に「日興御さく釈迦」とありますから、日興は日蓮と同じように釈尊木像を安置していたろうと思います。信用できる日興文献では、日興自身は釈迦本佛観で、日蓮勝釈迦劣という意味での日蓮本佛観は有さなかったと思います。
しかし日順雑集に写本を有する垂迹堂棟札に三堂の一つとして「日蓮聖人御影堂」とあり、独立した堂宇としての「御影堂」には日蓮の木像の御影が安置されていたのではないかというのが、私の現時点の見解です。
日順雑集には日興が身延在山中の事績として、日蓮の住坊を御影堂にして、御影像を安置したとあり、雑集の当該文のニュアンスから、日興が身延の御影堂に安置したのは独学徒さんのご指摘の如く絵でなくて木造の御影のようですので、独立した堂宇としての「御影堂安置は日蓮木像御影」の傍証となるかもしれません。
それに対し、絵像の方は、大師講に天台大師の絵の御影が懸けられていたように、日蓮の追善の十三日の講・法要などにおいて懸けられる用途もあったのではと思います。
あと、殊の外、日興が日蓮御影を尊重した理由は、もちろん日蓮本仏義の解釈からではなく、むしろ、台当違目の上からの処置だったのではと愚考します。

3147きゃからばあ:2007/01/29(月) 11:49:36

ちょっと脱線します。

3127犀角独歩さん

>常住本尊となれば、一宗の代表者に自分専用の本尊を書いてもらうわけです。それ相応の奉供養を伴うことでしょう。

常住本尊の下付についてですが、『教師必携』には「10年以上の者」とあった記憶があります。
また法道院では「1年に1人以上の折伏で10年続いた者」と定めていました。
ところが本山近くの檀家には「3年御形木」と言われ、入信して3年は御形木でその後常住本尊が下付されます。あくまでも願い出があればです。
参考までに常住本尊(信徒用)の御供養ですが、
冥加料(奉御供養)10万円以上
板の場合、彫刻代等50万円
紙幅の場合、表装代等8万または10万5千円(大きさの違い)

3148きゃからばあ:2007/01/29(月) 12:05:53

さらに脱線します。

よく内拝は強信な人だけに許されると言われています。
しかし内拝できるほとんどの方々は御形木本尊です。
さて本門戒壇の大御本尊の内拝と常住本尊の下付とではどちらが強盛な信者なのでしょう。
言い方が変でした。
常住本尊を下付してもらえない信者を強信者として内拝させて、なおかつその方々から御供養を受け取るのはやっぱり変でしょ。
内拝できる人はすべて常住本尊を下付させるか、または常住本尊の下付者以外は内拝させない。
これなら理屈が通るのだけどなぁ。
じゃないとやっぱり大御本尊は偽物、と思いたくなっちゃうよ。

3149独学徒:2007/01/29(月) 21:48:40

犀角独歩さん、

>これは石山では下種三宝です。住持三宝ではないでしょう。
ええ、これはあくまでも通仏教上の住持三宝義をもとに、日蓮本仏論圏の思想を、私なりに当てはめてみたものです。

>「住持」というのは、いまの言葉で言えば、住職ですね。

私は先に紹介しました、青山先生の「三つの宝」で示されている『「住持」とは「法に住し、法を護持する」という意味です。』という解釈を通仏教上の概念として依用しました。
ここでは、「住持」とは「法に住し、法を護持する」との意ですので、必ずしも「住職」の意としては使用していません。この意味からすれば、日蓮本仏論圏にとっては、まさに日興の振舞は日興在世における『住持三宝』の姿と主張することも可能です。
もちろん当の石山では、これを『住持三宝』の姿としていません。私はむしろそのことが不思議に思えました。

>日興は宝前のなかに漫荼羅本尊、日蓮像に並んで座っているわけではなかったでしょうから。

漫荼羅本尊、日蓮像に日興が並んでいた場合は、『現世三宝』(別体三宝)になるというのが私の見解でして、その意味では、日興在世の日興の振舞は現在の御影堂式であり、『住持三宝』の形式であると思いました。
しかし繰り返しになりますが、当の石山は御影堂式を『住持三宝』といわずに、『一体三宝』といっています。

>石山のような客殿奉安は、他では、あまり、見られません。

私は石山の客殿は、ビデオと写真でしか見たことがありませんが、確かに石山の客殿は変わっていると思います。
他の富士門本山クラスも客殿は、曼荼羅を中心に日蓮(向って左)・日興(向って右)という勧請はありますが、私の直見した限りでは皆「絵像」です。
しかし石山は「木像」ですね。
私は「絵像」に関しては、その描かれ方からして、仏像もしくは曼荼羅の脇に置かれたものと思います。
「木像」と違って、水鏡にしても波木井の御影にしても、古い「絵像」は真正面を向いていません。これはつまり真正面に奉掲するものとして書かれたものではないからだと思います。
その意味では、石山以外の富士門本山で、曼荼羅の両脇に「絵像」を配置するやり方は、向きとしては間違っていないと思います。
しかし石山の客殿は「木像」ですので、皆真正面を向いています。これは本来、何かの脇に配置するものというよりも、真ん中に位置するものと思います。
もちろん、犀角独歩さんご指摘の通り、日興在世には石山の客殿形式はもとより、富士門他山で見える勧請形式もなったと思います。

れんさん、

「大石記」のご教示ありがとう御座います。
たしかに「数通の御譲リ状」などの記述がみえますね。
興風談所の「日興上人全集」にて「日興置状」の頁を見ると、註に「本状における重須本門寺の重宝盗難事件は、日代師関係の八通遺状の史料的価値を考慮に入れれば事実とは認めがたい。」とありますので、かなり後世のものかと思っていました。
しかし「大石記」にその存在を示唆する記述がある以上、れんさんご指摘の通り、「祖師伝」よりもずっと次代を遡れる事になりますね。

>石山文書に「日興御さく釈迦」
これは「家中抄」でしょうか。ここまで次代が下ると、どうなんでしょう。
私としましては、一寸依用に耐えない感があります。

私は日順・日代の思想に、仏像造立を広布の時としていることが観取されるということは、日興も日興在世には仏像の造立は無かったのではないかと考えます。

本門本尊である本仏・釈迦仏像は、広布の時、国主によって造立されるものとの思想であったのであれば、広布に至らないうちは、三宝は揃わず、二宝をもって時を待ったのではないかと考えます。

3150れん:2007/01/29(月) 22:42:16
独学徒さん
雪山書房版の富士宗学要集の口絵に筆者不明の切紙目録があり、その中にありましたので一応引用しましたが、成立時代が分かりませんから、これはややフライングでしたね。
石山に日蓮の真蹟のある宝軽法重事に「寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔いまだ候はず」と逆説的に本門寺構想の一端が示されています。この日蓮の書いた文章の「寿量品の釈迦仏の形像」を「かきつく」ったものを安置する堂塔が日興がのちにいう本門寺の原型ということになるのでしょうね。
日興が釈迦像を所持していたか否か、資料が無い分わかりませんが、四十九院の供僧だった青年時代の日興が自作かどうか分かりませんが、持仏として釈迦像を所持していてもおかしくないと思います。まあ、現存しないのでなんとも言えないのですが。

3151犀角独歩:2007/01/29(月) 23:07:34

れんさん、有り難うございます。

木像がないと辻褄が合わないでしょうね。
お二方のご指摘は目が覚める思いがしました。
善いですね、こういった思いこみを揺らがせるご批正というのは。脳が若返る気がします。と言っても黴びかけていますが(笑)
釈迦仏像(仏宝)・漫荼羅本尊(宝宝)・日蓮木像(僧宝)と揃うわけですね。

日興木像のことが、先の盗難記に出てきますが、こうなると、独学徒さんがおっしゃるような住持三宝の線が出てきます。この場合、どんな奉安であったのでしょうか。大漫荼羅を挟んで日蓮日興という、いまの石山客殿のような具合でしょうか。


独学徒さん

「住持」を辞典で引いてみてください。
青山さんが仰っていることはどうか知りませんが、わたしが記したことは一般的な語彙の意味です。
住持という言葉があり、次に住持三宝という語彙が生じ、ついで青山さんの解釈という時系列です。

「法に住し、法を護持する」とは、まさに住職(当住)の責務だと思います。
たとえば、住職以外に、日興の時でいえば、日順でも誰でもいいですが、「我こそは法に住し、法を護持する故に住持である」と主張したところで、何言っているんだという話になりませんか。住持は、住職以外では意味をなしません。

それでも、「住持」が富要上で、この語句の使用が見られないと言うことは、この信仰圏では意識されていなかったと言うことでしょう。それを、その信仰圏で用いられない語彙で解釈しても意味はないと思いますが。

日精の記述はともかくとして、一尊四士を自身の義とした日興が一尊四士の仏像を奉安せず、それをした人間を「盗んだ」と非難すると言うことはあるのでしょうか。これはないとわたしは思います。故に日興は一尊四士像を祀っていたと思います。それをかき消したのは、その後継者ではないでしょうか。

いずれにしても日蓮・日興の段階で奉安を三宝を基本に考えるというのは、実状に沿わないと思いますが如何ですか。

だいたい、日蓮は一体仏のみでしたでしょう。四士をも副えず、御影もなし、漫荼羅も奉懸せず、日蓮の奉安は三宝具足であるはずはないと思いますが、この点はどうでしょうか。

3152犀角独歩:2007/01/29(月) 23:32:27

きゃからばあさん

お久しぶりです。
ぜんぜん、関係ありませんが、ブログで梵字のことを書いているとき「キャカラバア」を文献随所で見て、いまさら、すごいHNだと思いました。

しかし、石山の教師必携から引用とは恐れ入りました。
なんともマニアックな資料をお持ちですね。

実際の‘費用’はもう少し高いですよね。

形木、常住、内拝の関係、「なるほど」と納得しました。
これは確かにおかしいですね。

わたしが法華講で、登山したとき、一般信徒でも内拝はできても、「猊下」へのお目通りは限られた人だけ。これも逆じゃないでしょうかね。
今の調子じゃあ、「猊下」のほうが「御戒壇様」より上位の扱いとなってしまいますね。

3153独学徒:2007/01/30(火) 00:16:48

犀角独歩さん、

『住持』の語句の意味としては犀角独歩さんのご教示の通りと思います。
私がこれまでの投稿で用いたのは、一般論としての「住持」の解釈ではなく、青山先生らの解釈を通仏教の解釈と考えて依用し、それに日蓮本仏義を当てはめてみたものです。
これは石山義とかではなく、私の個人的な解釈としてです。あえて富士門の言を借りれば、柳沢宏道師の著作に御影堂の奉安形式をもって、『住持三宝』としていたということです。
私は青山先生の説明は、通仏教上の説明ととらえてもいいと思うのです。
以下は、法隆寺系の話ですが、『住持三宝』のとらえ方は、青山先生とほぼ一緒です。

http://www.pref.nara.jp/koho/kenseidayori2/tayori/t2005/tayori1712/1300tobira1712.html

青山先生も、法隆寺関係者も、『住持三宝』の「僧宝」を、貫首あるいは住職とはいっていません。
これを私は石山よりに「貫首・住職」としたわけです。
つまり、犀角独歩さんは、一般論としての「住持」の解釈を用い、私は青山先生らの解釈を通仏教の概念として依用しました。
この点ですれ違いがあったものと思います。

いずれにしましても、石山は御影堂の奉安形式を『住持三宝』と言っていない訳で、私の投稿したことは意味の無い内容でした。

>一尊四士を自身の義とした日興が一尊四士の仏像を奉安せず、それをした人間を「盗んだ」と非難すると言うことはあるのでしょうか。

私は、むしろ日興自身が造立する前に、他門徒のよって造立されてしまったからこそ、「盗む」などという感情的な表現があるのだと考えます。
日興が先に造立していれば、他門の所業は、むしろ日興の例に習ったと解するところだと思います。そうであれば、「盗んだ」などといわずに、他門に先駆したとして、もっと誇らしげな表現があっていいと思います。
そしてもし、日興在世に仏像造立なされていれば、日興直弟子でもある、日順・日代の思想の中に、広布時造立といった思想は起こらないと思います。
そもそも仏教で「仏像」を造らないこと自体が異質ですが、日興には本門本尊たる一尊四士は、広布の時、国主によって造立すべきといった拘りがあったように感じます。

開祖・宗祖を「僧宝」と位置づけるならば、三宝思想は、どの宗派も開祖・宗祖の滅後に起こる思想であると思います。
したがって、日蓮門下にとっての三宝は、日蓮滅後より起こるものと考えます。
その意味では、富士門では早くて日興の代ということだと思います。
そして日興の代には広布には至らず、故に本門本尊たる「仏宝」の一尊四士の造立には至らず、自身の拘りからニ宝をもって時を待ったのではないかと考えた次第です。

3154犀角独歩:2007/01/30(火) 09:04:54

独学徒さん

お気づきかどうかわかりませんが、独学徒さんとわたしでは住持のとらえ方が違っています。何が違うかというと、独学徒さんはこの用語を僧宝に用いられているとお考えになっているようですが、執行師が仰る「当住顕益」といった思想では、仏宝としての扱いであるということです。わたしはこの筋から記しています。より厳密に言えば、顕益、つまり、衆生済度の主役が仏から僧、それも当住(一宗の統率者、もしくは大本山格の住職)が主役になるという論法です。ここで言われる当住は、もはや僧宝ではなく、仏宝に匹敵しています。つまり、これは日蓮本仏論、さらに派祖(日興)本仏論を換骨奪胎して、当住こそ、顕益(仏宝)の主体者なのだというものです。この時点で、もはや、通仏教における住持三宝論は通用しないのです。
柳澤師の記述も、単に奉安という形式で論じられていますが、本質は以上のようなところではないでしょうか。

ですから、もし、当住三宝を石山に当て嵌めれば、別体三宝ではなく一体三宝となりませんか。この一体とは当住の一身です。これを具体的な教学相伝系譜で言えば、「唯授一人」です。

さて、次に日興一尊四士義と実際の造立ですが、仰るところは理路が整っています。説得性もあります。わたしのなかでは日興の仏像造立という考えは捨てていませんが、可能性として、このお考えには賛同します。

「日興には本門本尊たる一尊四士は、広布の時、国主によって造立すべきといった拘りがあった」とは、『本尊抄』からするとき、まさに至当なお考えであろうと存じます。また、日興は『本尊問答抄』の書写?者として知られるわけですから、題目本尊論者(法本尊ではなく、題目という文字を本尊とする)であったと考えることもできますから、持仏も有さなかったのかも知れません。
この点は、もうしばらく考えてみたいと思います。

> 日蓮門下にとっての三宝は、日蓮滅後より起こる

たしかにこの側面はあります。ただ、在世にも三宝観はあったでしょう。
僧宝は日蓮である、日興であるというのは総別では別の論です。
在家の立場からすれば、僧侶は国の宝であり、みな僧宝です。

たとえば、日蓮は『立正安国論』に「三宝在世百王未窮此世早衰其法何廃」などといいますから、通説としての三宝観は基本として有していたわけです。

先の話題の一尊四士とは、久遠五百塵点成道の釈尊と初発心の弟子上行等の四菩薩、所伝の妙法蓮華經から仏像造立を考えたものですね。日蓮がその門下に訓えた三宝観はここにあります。仏宝は久遠成道本師釈迦如来、法宝は所伝の妙法蓮華經、僧宝は上行等の四菩薩です。では、この法華久遠三宝観が滅後に発したかと言えば、そうではなく、既に『本尊抄』の段階で確定していたでしょう。

日蓮滅後に起こる三宝観は、では、この上行が日蓮である、ならば、日蓮こそ僧宝であるという前段を基礎にしたところでの変遷でしょうね。

ここから、宝前を、画・像で三宝を象る動向に進んでいったのだとは思います。軈て、傍流では、いずこからの影響で住持三宝を編まれ、さらに石山門下の下種三宝として定着していく流れとなっていったのでしょう。

一つ、重要な点は、日蓮・日興における三宝観は先に挙げた如く、久遠釈尊・妙法蓮華經・四菩薩であったのに、そこに御影信仰は興ったために、一尊四士の担い手を自負した日興自身がそれを撤廃する役割を果たしたと言うことでしょうか。しかし、これは富士方の動向で、むしろ洛陽では、一塔両尊四士等、新たな発展も遂げていったわけでした。

独学徒さんに沿って記せば、広宣流布の暁まで、一尊四士像を棚上げにしてしまったために、ついにこの仏像奉安は定着することもなく、忘れられ、漫荼羅一辺倒から、戒壇本尊という奇妙な考えが創案され、ついに彫刻板に仕立て上がられることによって、日興の一尊四士義は、完全に消え去りました。歴史の皮肉といったところでしょうか。

3155独学徒:2007/01/30(火) 22:46:20

犀角独歩さん、私の勘違いから発した議論にお付き合い下さり恐縮です。

以下、「三宝」の部分に絞って、もう一度私の考えを整理させていただきます。
私は『住持三宝』の「住持」は、仏・法・僧の三つ全てにかけて用いているつもりです。
つまり『住持三宝』とは、「住持仏宝」「住持法宝」「住持僧宝」です。
また私が依用したのは執行師の考えではなく、青山師の三種三宝の定義です。(以下、「青山定義」とします。)
そして「住持」の一般的解釈も用いませんでした。
私が「青山定義」を通仏教上の三宝観とした点は、早計であったと思います。

ちなみに「青山定義」の三種三宝とは、『一体三宝』『現世三宝』『住持三宝』です。
「青山定義」では、『一体三宝』は究極の真理そのものといいます。
また『現世三宝』とは、歴史上存在した仏・法・僧をいい、『住持三宝』は『現世三宝』の仏・法の二宝を常住の形象化した形で表現し、僧宝については、現在存在している二宝を常に持つ人物とします。
「青山定義」では、具体的に『現世三宝』と『住持三宝』を次のように説明します。

    現世三宝     住持三宝
仏宝  釈尊       仏像・・・・・・・・・・・>人間から木像へ
法宝  釈尊の説法    経典・・・・・・・・・・・>音声から文字へ
僧宝  在世の弟子    現在存在している和合衆・・>直弟子から当住へ

この「青山定義」に、富士門の日蓮本仏思想を当てはめてみたのです。
それを以下のように考えました。

     現世三宝    住持三宝
仏宝   日蓮      日蓮御影
法宝   日蓮の題目   大曼荼羅
僧宝   日興      貫首・住職

以上のことから、石山の御影堂式は『住持三宝』をあらわしているのではないかと思ったわけです。
また石山の『別体三宝』は、「青山定義」の『現世三宝』と意義を同じくすると考えました。
しかし、犀角独歩さんご指摘の通り、石山では御影堂式を『一体三宝』としているわけで、その時点で、私の意見は石山の見解とは相違していることがわかりました。
そして御影堂式を『住持三宝』とするのは、柳澤宏道師の「石山本尊の研究」の記述であることも確認しました。
私は御影堂式を『住持三宝』と呼ぶ分には、日蓮本仏論圏としては一応、教義と本尊勧請は一致していると思いました。
しかし、繰り返しになりますが、石山はこれを『一体三宝』といっているわけで、この時点で私の議論は終わったと思っています。

つまり石山の三宝観は、「青山定義」では説明できないものということです。

三宝以下のところは、実に仰せの通りと思います。
一尊四士が仏・法・僧の三宝を具備していると考えますと、「青山定義」でいえば、日興の義である一尊四士は『一体三宝』ということなのだと思います。
そうしますと、先に私は日興は広布に至らないうちは、二宝をもって時を待ったと記しましたが、この考えは成り立ちませんね。
むしろ広布に至らないうちは、師・日蓮を偲んで、三宝尊成就の時をまったということでしょうか。

3156犀角独歩:2007/01/31(水) 09:51:33

独学徒さん

青山説のレクチャー有り難うございます。

わたしは、三宝というのは、本来、信仰者の心の問題であると思っています。ブッダとダルマとサンガの三つを、宝として大切に思う心ということです。

原始仏教教団では、文字で記すことはされなかったわけですね。ダルマは口伝えと身の実践で伝承されたわけです。この段階で既に三宝はいわれていたと思います。いま生きておわしますブッダを宝として尊敬帰依し、お説きになるところをダルマを宝として帰依実践した。サンガは元来四衆ですから僧侶ばかりではなく、在家男女信者もこれに含まれました。共にブッダ・ダルマの元に衆の集まりをサンガという宝と考えたということです。

お釈迦様がお亡くなりになり、その後、100年は仏像と経典は造られなかったと言います。舎利崇拝は興り、仏塔信仰も徐々に興っていったでしょう。この段階でもブッダ・ダルマはサンガの人々の心の中にあった。

軈て、仏像と経典が造られるようになります。この辺りのことは一字三礼さんがお詳しいところでしょう。
像自体を仏と見なすようになるのはこの頃でしょうか。経典に特別な霊力を有すると言った聖典信仰も文字の発達を相互関係をしながら発展していくのでしょう。所謂「大乗」と称される運動は在家信者が主役であったと思います。菩薩は在家の姿であったでしょう。しかし、軈てそれも僧侶となっていきます。いつしか、三宝は仏・法・僧を指すようになります。

あまりわたしは詳しくありませんが、イスラム系などでは、聖典を聖堂に飾り崇拝の対象とするようなことが興りますね。このような影響かどうかわかりませんが、ダルマというより経典そのものの信仰が興っていきます。法華経創作はこのようなコンセプトに基づくとわたしは考えています。こうなってきますと、ダルマが経典とみなされていくことになります。仏像もそのようになって本来のブッダに取って代わっていったのでしょう。

仏教教団の場合、しかし、祀られるのは、やはり仏像だったのではないでしょうか。三宝を祀る習慣は本来なかったのでは、と記したのは、そのような意味です。仏像の開眼も、目に瞳を書き込む法要を意味しました。仏宝のみの奉安です。

しかし、日蓮は『木絵二像開眼事』で釈迦仏像の前に法華経典を置くことを開眼とします。ここに仏宝・法宝の奉安となっていきます。
『本尊抄』では四菩薩像を暗に示します。これを具体的に受けるのが日興であるわけですね。

日興が漫荼羅を本尊と顕彰するようになり、一尊(仏宝)四士(僧宝)像もあまり流行らなかった。そして、御影信仰を起きた。日蓮上行論が盛んになった。こうして、御影は僧宝像と見なされるに至ります。一経読誦を斥ける日興門下では法華経典の崇重は弱まっていったのでしょうか。漫荼羅も本尊として確定していった。法宝と見なされるようになっていった。そうこうするうちに宝前を三宝と整える風潮が高まっていったという歴史の経緯があるのではないでしょうか。

わたしは三宝というのは崇敬の対象を言うのだと思います。
それは像に刻まれたものであるとか、文字に表されたものであるとかではなく、かつてこの世に生きたブッダ、そこで説かれた教え、そして、それを必至に守り実践した人々そのものです。日蓮門下で言えば、祖師信仰となったのでしょうね。それが三宝尊信だと思います。その三宝尊信から、それを像に刻むのも善いでしょうし、文字として書き、描いたものを大切にするのも、それは善いでしょうね。

前置きが長くなりましたが、住持三宝というのは、日蓮宗では像として実際によくありますね。わたしは行学朝師像はよくみかけます。漫荼羅の前に置かれたり、並べられたりするわけですね。こんな延長に日興像というのもあるのでしょうね。

記憶が曖昧なのですが、どこかで左右に日興・日目像というのを見たことがあったような、それとも、石山客殿の奉安をそのように聞いたような。

この三宝という問題はしかし、僧宝は日蓮だ、日興だ、いや、僧侶みんなだ、いや、四衆だとやっていくうちに、どんどん、本来の僧宝四菩薩が薄まるという相乗効果があり、実際に歴史でもそうなっているのだと改めて思いました。

3157犀角独歩:2007/02/01(木) 15:01:46

れんさん、独学徒さん、彰往考来さん他 諸賢

『聖人御難事抄』、熱原法難、「戒壇本尊」がセットになって語られるようになるのは、いったい、いつ頃からでしょうか。富要で見る限り、こんな関連を述べる文献は見られませんね。

日亨氏『熱原法難史』(大正11年)で否定されるわけですから、それ以前にあったことになりますが、これを言ったのは誰でしょうか。

日柱氏の染筆、並びに常在寺蔵<248>日興本尊が口絵に載る、熊田葦城著『日興上人』を読んでみたのですが、上記の関係についてはまったく触れていませんでした。この書の発刊は大正14年ですね。

誰が言い出し、また、昭和以降、誰が再燃させたのでしょうか。

3158再挑戦者:2007/02/01(木) 20:25:50
 ゴメンします、。
 今も、ドーモ 不可解 なのは 、 日興さんが定めた「日代さん」です、。 されど、、、されど、、石山、、西山、、 保田、、などは、、ナニユエ に この決定に逆らった のでしょうか、、??
 日興さんの神通力消滅、、と言ってしまえば、、オシマイでしょうが、、?
 誠に 不可解 の起点 のような気持ちがしますです、。 諸悪 の 根源 の起点 がこの一点に 、、??? かも、、?

3159れん:2007/02/01(木) 20:38:25
犀角独歩さん
聖人御難事・熱原法難と彫刻の製作縁起をセットで繋げた記述をしたのは、石山三十一代の日因師が初見だと思います。因師の“宗旨建立三四月会合抄”上巻に、聖人御難事の文を挙げて釈する中に「蓮祖は建長五年より弘安二年己卯十月十二日に至て本門戒旦の御本尊を顕す故に出世の御本懐を遂げさせ給ふ、是故に二十七年と云ふなり。其間の大難、弘長・文永次下に之を述す。又法師品を引いて況滅度後の文を釈し御身に当てさせたまふ是なり。又弟子旦那を殺され追出等の無量の小難は御一期に亘るなり。熱原の二十四人等是なり」
今のところ、この因師の記述以前に、聖人御難事・熱原と彫刻とのセットで記述した石山歴代の記述は管見に入っておりません。
以前、顕正居士さんでしたか、寛師が彫刻を蓮師出世の本懐と記述した依文が聖人御難事であると記されておりましたが、寛師の記述は因師ほど露骨ではないようです。
昭和のこの神話復活を誰がしたかは、守備範囲外ですので、どなたかご教示頂ければ幸甚です。

3160独学徒:2007/02/01(木) 22:58:19

犀角独歩さん、何時もご教示ありがとう御座います。

『聖人御難事抄』、熱原法難、「戒壇本尊」の件ですが、恐らくれんさんの仰るとおりだと思いますが、一応私も調べてみたいと思います。
ただ、しばらく仕事の方がたてこんでいまして、日曜日まで毎日遠方まで日帰り出張となっています。
申し訳御座いませんが、少々お時間を下さい。

3161犀角独歩:2007/02/02(金) 07:15:14

れんさん、独学徒さん

有り難うございました。
参考になりました。
引き続き、よろしくお願い申し上げます。

3162犀角独歩:2007/02/02(金) 09:44:54

もう一点、お願いできますか。

今回、熊田葦城著『日興上人』を読んだのですが、このなかで熱原信徒の処刑は弘安3年4月8日であるとしていました。
この根拠は<81>日興本尊にその根拠を求めていました。
この本の発刊は大正14年、巻頭に日柱氏の揮毫が載り、常在寺蔵日興本尊も載せていますが、この二つは当然、石山の許可に依るのでしょう。日柱氏が全文を読んでいるかどうかわかりませんが、熊田氏が調査研究で達した日付と見るより、当時、石山ではその考えがあり採用したと見るほうが至当であると思えます。

富要で検索する限りでは、4月8日説には当たれませんでした。
4月8日説というのは歴代文書に載るものでしょうか。

3163きゃからばあ:2007/02/02(金) 10:12:44

私は書籍を実家に置いているので明言できませんが、
堀上人は『冨士日興上人詳伝』において4月8日としていた記憶がありますが…。

3164犀角独歩:2007/02/02(金) 10:45:17

きゃからばあさん

有り難うございます。
わたしもこの本を手元から離しています。
そうですか、日亨氏は、その立場ですか。

4月8日、説得性がありますね。
この筋で御伝草案を考えると、この処刑以降に日興上人と遊ばす本尊ということになりますね。

3165問答迷人:2007/02/02(金) 11:03:12

富士日興上人詳伝(昭和三十八年十月二十四日 第一刷発行 発行所 創価学会) 第三節 熱原の法難(九十一頁)

「これが記念曼荼羅書写の日は、かならず当時の命日とみるべきであれば、−中略ー神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する。」

3168犀角独歩:2007/02/02(金) 13:26:56
問答さん

有り難うございます。
日亨氏は、4月8日が当然であると主張ですか。
こうなると、いまの石山の主張はまるで書き変わりますね。
まあ、日亨氏の間違いと言えば、現説は守れるとことになりますが、そうも言えないでしょう。

忘れ去られるのを待って変えてしまうというのが、『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』以降使われた石山お得意の常套手段でした。

弥四郎国重が波木井実長の実子であったと言ったこと
彫刻の材木は七面大権現に祈って手に入れたと言ったこと、
浮いていた池は七面大権現を祀る場所であったと言ったこと
弥四郎国重は神四郎であったと言ったこと
二千二百二十余年と書いてあると言ったこと
命日を4月8日と日亨氏が言ったこと
ついでに言えば、妙海寺大曼荼羅を臨写であるといったこと

みんなないことにして現説が成り立っています。
信徒会員はそれで騙せますが、そうはいきません。

ところで熱原の信徒はどうして処刑にされたのでしょうか。
蟇目の矢で射られても題目を唱えたというのは、事実でしょうが、もし、信仰を捨てないことで処刑になったとしたら、日禅、日秀、日弁、さらに日興、日蓮はなぜ処罰されなかったのでしょうか。

次の質問になりますが、熱原信徒が処刑になった理由は、皆さんは何であるとお考えですか。

3169犀角独歩:2007/02/02(金) 13:34:00

もう一つありました。

「本門戒壇の大御本尊」日蓮日興共同建立であると言ったこと

3170犀角独歩:2007/02/02(金) 13:47:55

○日亨氏、熱原法難に関すること

「熱原の法難は直に大聖人の御一身には関係ないが、御自身では一期の大難として法難終息として其普賢色身の表徴として本門戒壇の本尊を顕して末法万年に残された」

富要に以上のようにあります。「法難終息…本門戒壇の本尊を顕」すとあります。これを問答が挙げてくださった熱原法難史の記述に併せ考えると、本尊の図示は弘安三年四月八日以降になってしまいますが、本尊脇書で、日亨氏は「弘安二年十月十二日」と明記しています。この三つの記述はまったく整合性がありません。この点、石山ではどんな辻褄合わせをしているのでしょうか。

富要で、分与帖を引き、以下のように記しています。

「富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。
 富士下方同郷の住人弥五郎、弟。
 富士下方熱原郷の住人弥六郎」

しかし、熊田氏は『日興上人』では違っています。

「富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。
 富士下方同郷の住人弥五郎、弟。
 富士下方熱原郷の住人弥次郎」

手元に宗全がなく、確認できませんが、熊田氏と同じく、‘弥次郎’となっていた記憶があります。どなかた、この点をご教示願えませんでしょうか。

以上、追加の質問です。
皆さんのご賢察をご披露いただきたくお願い申し上げます。

3171犀角独歩:2007/02/02(金) 13:52:50

どうしてこう打ち間違いが多いのでしょうか。

誤)問答
正)問答さん

訂正をお詫び申し上げます。

3172れん:2007/02/02(金) 15:41:41
犀角独歩さん
熱原の信徒三人の処刑日は、今となっては特定できないと思います。堀日亨師は神四郎追善の日興書写曼荼羅の書写年月日により、四月八日に比定してますが、四月八日に関しては、日興は仏生日に漫荼羅を書写する例が蓮師命日に続いて多いことを考えると、必ずしも、神四郎追善の漫荼羅書写日のみをもって、三人の処刑日と断定するには根拠が薄く感じます。日興写本の現存する弘安三年四五月頃の日蓮遺文に(いま、出先なので原文に当たれませんが)「先もそらごとなり…」云々と、熱原についてのべた下りがあり、おそらく、本消息の書かれた弘安三年春には熱原法難は終息していたと思われますから、三人が処刑されたのは、法難が勃発した弘安二年九月から日蓮遺文から法難の終息がうかがわれる翌年春の間と、大雑把ですが推定するしかないと愚考します。
さて熱原信徒の張本三人が特に斬首という厳しい処断を受けた理由は、日蓮の宗教活動は、幕府から見れば、元冠にて非常事態体制下にあった幕府の挙国一致の宗教政策に従わずに反対・反抗する“悪党”勢力であり、特に駿河は得宗領でしたから、厳しい姿勢と処断をもって、得宗権力が反幕府の“悪党”としての日蓮門下信徒の弾圧を行ったというのが実際ではないでしょうか。幕府(内実は得宗権力)は熱原の農民信徒に対する厳しい処罰を通じて、日蓮やその門下僧俗等の反得宗権力・反幕府的な宗教活動を牽制しようとしたというのが、当たらずとも遠からずの“理由”でありましょう。
熱原の三人の中の弥六郎と弥次郎の表記の相違は、現存する日興正本「本尊分与帳」は痛みが激しく判読不可ですが、江戸期の北山歴代である日優の写本では、「弥六郎」ではなく「弥次郎」となっており、かつての日興正本では「弥次郎」であった可能性があり、弥六郎は石山の所伝で次を六と誤読した結果の誤伝の可能性の方が高いと思います。

3173きゃからばあ:2007/02/02(金) 15:45:21

大石寺にある三烈士の墓は、
中央 熱原住人 神四郎
右側 田中住人 四郎
左側 広野住人 弥太郎
となっています。(弘化3年、日英上人の代に改築)
また後ろの板碑にも日柱上人の文で同様の名前になっています。

3174犀角独歩:2007/02/02(金) 16:49:47

れんさん

有り難うございます。
わたしも処刑は弘安2年(1279)に行われたのではないかと思います。
その理由は日興が<81>本尊を書いた徳治3年(1308)は29年目に当たるからです。つまり、数え年ですからいまの数取りより1年早くなければなりません。すると、弘安3年からだと数が合いません。30年を期したとすればかくのごとくです。この年の敢えて仏生日を選んだということでしょうか。

先ほど、神四郎の墓がある本照寺に問い合わせたところ、こちらでは、いちおう弘安2年10月15日としているとのことでした。墓の発見者は「田中智学先生」だということでした。

ネットで少し検索したところ、本多日生氏に係る『統一主義』に「不借身命:熱原神四郎国重(1)知足道人」という項目を見ました。さて、弥四郎国重が神四郎という説と脈絡のあると思いました。

この熱原信徒の処刑が宗教弾圧であるという点をまったく否定する気はないのですが、わたしが解せないのは、では、日秀・日弁には、なぜ厳しい咎めがなかったのかという点です。となると、その罪状…あくまで名目上ですが…『滝泉寺申状』にいう冤罪をもってされたということになるのだろうかと思った次第です。

きゃからばあさん

有り難うございました。この情報も是非とも欲しいところでした。
こちらでは「弥太郎」ですか。弥六郎の‘六’と‘太’は似ていないことはありませんね。‘次’となるとどうなんでしょうか。しかし、「四郎」はぜんぜん違っていますね。歴史上の記述ですから、特に論おうとは思いませんが、仮に日宗全興尊部と富要で、違いがあるとなると、これは問題だと思います。両方とも同じ日亨氏に依るわけですから。

しかし、ここで熊田氏の『日興上人』に係る日柱氏の名が出るとなると、この時点では諸説紛々、まあ、特に統一見解を出さず保留といった状態にあったのでしょうか。いまのように決めつけてしまうより、歴史の扱いとしては、こちらのほうが自然な感じはしますね。

3175れん:2007/02/02(金) 18:38:07
犀角独歩さん
ご指摘の通り熱原法難の事件が冤罪というのが、日秀・日弁、日蓮・日興に塁が及ぶことがなかった一番の原因ですね。
弘安三年五月三日付けの窪尼御返事(御真蹟断片四紙 保田妙本寺蔵)に「さてはあつわらの事こんどをもつてをぼしめせ。さきもそら事なり…これはそらみげうそと申ス事はみぬさきよりすいして候…」とあって、この時期熱原の事件が冤罪であったことがはっきりしたらしく、法難そのものも終息したことがニュアンスとして伝わります。日興の本尊分与帳には熱原の張本三人の名乗りが「神四郎、弥五郎、弥次郎」であったことが本尊分与帳の日優写本でわかりますが、本尊分与帳と石山の三烈士の墓碑の名前が神四郎以外全く一致しないのは、やはり、石山の熱原の三人の墓碑(作り替えられる以前のものも含め)は相当後代に、正史が失われた時代に作成されたものとしか言えないですね。

3176犀角独歩:2007/02/02(金) 20:55:26

れんさん

なるほど。御説、一々に納得できました。
「そらみげうそ」は虚御教書でよかったのでしたっけ?

3177れん:2007/02/02(金) 21:46:00
引用した窪尼御返事の文中の「そらみげうそ」はご指摘の通り「虚御教書」です。
先に、きゃからばあさんが御提示下さった石山の熱原三烈士の墓標の名乗りの典拠は日精の日蓮聖人年譜や家中抄でしょうか。それ以前には開山日興の本尊分与帳以外、石山歴代の著述には熱原三烈士の名乗りに関する記述は皆無ですね。今でこそ熱原法難と彫刻の製作神話は結び付いていますが、彫刻の脇書にある「弥四郎国重」の初期の設定は波木井実長氏の嫡男であったわけで、その初期に作られた製作神話は熱原法難とは無関係であったわけですが、おそらく日因の時代に、聖人御難事の「出世本懐」「あつわら」に絡めて現行の彫刻神話の原型というべきものが形成されていったのだと愚考しております。

3178犀角独歩:2007/02/03(土) 09:34:42

れんさん

有り難うございます。

映画制作を少しかじったことがある人であれば、知っていることだと思いますが、モンタージュという技法があります。まったく関係のない場面をつないで物語を構成するものです。

感動して涙を流している人の映像がある。この次にヒットラーの映像をつなげ、連続して映写すると、ヒットラーを見て感涙しているように見えることになります。熱原法難と彫刻本尊は、こんなモンタージュされた物語であったわけですね。

かつて問答さん方と議論したことであったと思いますが、御伝草案の熱原法難の御本尊、条々事の弘安二年本尊、そしていまの彫刻、これらもモンタージュして創作された物語でした。

このようなモンタージュされたトリックを、れんさんは解きほぐしてくれました。感謝します。

3179彰往考来:2007/02/04(日) 12:26:51

熱原法難の処刑日について(その1)

各種文献資料を精査したところ管見に入った限りでは、熱原法難の処刑日については下記8種類があります。

①建治2年4月8日説
②弘安2年10月12日説
③弘安2年10月15日説
④弘安2年冬説
⑤弘安2年末説
⑥弘安3年4月8日説
⑦弘安3年3月説
⑧弘安3年説

このうち、④と⑤は実質的に同じ説と判断され、⑧は⑥もしくは⑦に包含されるものと考えます。これら諸説のうち、主要な説は③の弘安2年10月15日説と、⑥の弘安3年4月8日説の二説です。
ここでは、これらの諸説を唱える主要文献を紹介します。

【1】建治2年4月8日説
・荒木英一(清勇)『世界第一本尊論』平成14年覆刻版(初版大正12年:藤波印刷部)、興門資料刊行会、31頁
・堀慈琳(日亨)『熱原法難史』大正12年、雪山書房、187頁
上記2点の資料で建治2年4月8日説が紹介されていますが、富士市厚原にある本照寺の過去帳記載によるもので、上記2点の資料が建治2年4月8日説をとっているわけではありません。
『世界第一本尊論』31頁には「問ふ本照寺の過去帳に藭四郎氏の殉死を建治二年と云ひし所以知らざるや。答えて曰く是れわ(引用者注:“わ”は原文のママ)北山本門寺に於て徳治三年の興師の御本尊を。藭四郎氏の三十三回忌の爲に御認めありしと誤傳せし故。同年より遡れば建治二年が三十三年に相當するを以て建治二年の殉死とせしものと。北山よりの回答書にあり。これを見て安政年代に過去帳に建治二年の恂死と書入れしものなるべし」とあります。また『熱原法難史』187頁には、「本照寺の過去帖には建治二丙子年四月八日とある、過去帖の事であれば日附の誤謬(あやまり)はあるべきでない、次に月も大した間違ひはなからう、年代は何かすると轉寫(うつしかえ)の際(とき)に間違なき(引用者注:〝間違いなき〟と思いますが原文のママ)を保せぬで、先づ其四月八日だけは取るべきであらうと思ふ」とあります。両書は同じ大正12年の発行ですが、荒木英一氏の解説が的を得ていると考えます。なお後で出てきますが、堀慈琳『熱原法難史』では弘安3年4月8日説をとります。また美濃周人氏の『日蓮正宗・創価学会50の謎』1994年、三一書房によれば「現在の富士市厚原にある本照寺の住職は次のように証言している。 (中略) ●本照寺では、最後に神四郎たちの存在が確認されているその十月十五日をもって、毎年神四郎を供養している」(92頁)とありますので現在の本照寺は弘安2年10月15日説をとるものと考えられます。但し、『日蓮正宗・創価学会50の謎』の93頁に「本照寺の住職も、同じようなことを証言している。いわく、「十五日に農民たちは鎌倉に着きましたが、その後、当然、取り調べ、投獄、裁判などがあったはずですから、着いたその日に処刑されるということはなかったでしょう。一説によれば、神四郎たちが処刑されたのは、翌年の三月だということです」と。」とあり弘安2年10月15日説は少々疑問があり弘安三年三月説が有る旨の紹介をしています。(つづく)

by 彰往考来

3180しゅんかん:2007/02/04(日) 17:49:40
申し訳ございません、少し割り込ませて下さい。
彰往考来さん、はじめましてしゅんかんと申します。

本照寺の名称が出ましたので少し調べたのですが。
本照寺とは、日蓮宗静岡県中部宗務所教化センターHP
http://www.myouhou.com/home.html
内の寺院案内に本照寺が案内されてますが、こちらの寺院でしょうか。

3181しゅんかん:2007/02/04(日) 19:25:50
日蓮宗静岡県中部宗務所教化センターHP内の寺院案を拝見いたしますと。
興統法縁の寺院がやはり結構ありますね(お膝元なので)
独歩さんにお教え頂いたのですが、古くからの法華講のお方の仏壇には御影さま
(祖師像)を奉安されておられる方もおられるとお聞きしました。
そこで新たに疑問に思った事なのですが、上記HPの寺院案内で、
「当寺院は興統法縁で祖師像は読経像である」と記載されております。
確かに私が唯一拝見しました石山の末寺での御影さまも読経像でした。
身延派(一致派)等は説法像が大多数のようですね、
この件どなたかご存知のお方宜しくお願い致します。

下記の件もどなたかお願い致します。
法華講で仏壇に奉安されます御影様も読経像のものをされているのでしょうか?

3182独学徒:2007/02/04(日) 19:30:14

犀角独歩さん、少し時間ができましたので調べてみました。
江戸期の日蓮宗の史料です。
皆さんとは視点が違い、議論がずれてしまうかも知れませんが、境持院日通筆「日蓮門下系図」(興風談所)に富木常忍の御妻・妙常日妙が駿河国熱原弥四郎国重の娘であるとの記述があります。
また波木井実長の子・南部六郎次郎の系図上に熱原神四郎の名が見えます。
上記2点の画像を、後ほど談議所にアップさせていただきます。

引き続き、関連史料をあたってみます。

3183彰往考来:2007/02/05(月) 06:49:44

>3180しゅんかんさん

そうです。静岡県富士市厚原489の本照寺さんです。

3184彰往考来:2007/02/05(月) 06:51:31

熱原法難の処刑日について(その2)

スレッド3179の続きです。

【2】弘安2年10月12日説
この説は、弘安2年10月12日に顕されたとされる本門戒壇の板漫荼羅絶対視からくる原理主義的なものでしょう。御書である「聖人等御返事」の内容からもこの説は否定されるべきで、当の石山(日蓮正宗大石寺)でもこの説をとっていません。後で出てきますが現在の石山は弘安2年10月15日説をとっていると判断されます。
弘安2年10月12日説は下記資料に記載されています。
・手塚寛道『富士の教義(下)』昭和50年第5版(初版:昭和43年)、青金社、123頁
・安立行(玉井禮一郎)編著『日蓮大聖人自傳』昭和57年、墨水舎、413頁
・菅原関道『興風〔第5号〕』所収「開山日興上人についての私論(1)」昭和61年、興風談所、21頁
『富士の教義(下)』には、「滝泉寺申状には次のように書かれています。 (中略) 鎌倉在住の多くの御門下も百方手をつくされましたが、これらは一切認められず、黙殺され弘安二年十月十二日(西紀〜1279年)神四郎、弥五郎、弥六郎の三人の首を切り、残りの十七人は追放したのであります。以上で熱原の法難は終わったのであります」(123頁)と書かれていて、いやはや実に単純・明快な論調で信じるものは救われるということでしょう。こんな単純な弘安2年10月12日説を今でも信じている人がいるのか疑問です。
『日蓮大聖人自傳』では、堀日亨師は弘安3年4月8日説であるが「富士門流の中では定説となっていない」(412頁)と指摘しています。そして日蓮正宗宗門は十月十五日説であるとし、日蓮正宗妙信講(現在の顕正会)の弘安2年10月12日説を紹介しています。安立行(玉井禮一郎)氏のいう妙信講(当時)の主張内容は「一方同じ日蓮正宗妙信講では、三人の斬首がおこなわれたのは十月十二日であるが、その〝私刑〟の事実が外部に知れたのが十月十五日であるとし、十月十七日にその報に接せられた大聖人が、日付を遡上って十月十二日とされて図顕されたのであるとしている(同講本部幹事村岡長治氏談)。」というものですが、安立行(玉井禮一郎)氏は同書415頁に「果たせるかな、十月十二日、神四郎ら三人は斬首され、それにもめげず残りの法華講衆は退転せず、強信を貫いた。十月十七日にその報に接せられた大聖人は十月十二日を永遠に記念すべく、すでに造立されていた「戒壇本尊」にその日付をあらためて〝画龍点晴〟されたのではなかろうか」と妙信講(当時)の主張内容と同じ自説を展開しています。しかしながら玉井禮一郎氏はその後の著書である『創価学会の悲劇』(平成4年第5刷(初版:昭和63年)、たまいらぼ)に、「私もかつて大石寺の板本尊をまがりなりにも信じていた時期があった。 (中略) そしてそのような信解のもとに、昭和五十五年四月、安立行というペンネームで『日蓮大聖人自伝』(たまいらぼ発行)という約五百ページの膨大な日蓮伝を世に問うたことがある(引用者注:『日蓮大聖人自傳』の発行日は昭和57年(1982)5月31日。また発行所は「たまいらぼ」ではなく「墨水舎」。墨水舎=たまいらぼ であるかどうかは不明ですが、発行所住所は両社とも同じです)が、いまそれを読みかえしてみると、大石寺の板本尊論の不整合性、不蓋然性に対する私の疑問のかずかずがあらためてもっともなこととしてうなずける。そこで拙著からその部分に若干の訂正を施してつぎに掲げる」(30頁)として引き続き修正版を再録していますが、そこでは弘安2年10月12日説は消え、堀日亨師の弘安3年4月8日説を紹介しつつ「大石寺流の中でも定説となっていない」(51頁)と指摘しています。そして日蓮正宗宗門の十月十五日説には、「十月十五日説が正しいとすると、板本尊の十月十二日との三日間のズレが説明できない」(52頁)とするに止めています。『創価学会の悲劇』を読む限り玉井禮一郎氏は堀日亨師の弘安3年4月8日説のようですが明確にそう書かれているわけではありません。(つづく)

by 彰往考来

3185彰往考来:2007/02/05(月) 06:57:31

熱原法難の処刑日について(その3)

スレッド3184の続きです。

菅原関道師は『興風〔第5号〕』(昭和61年、興風談所)所収の「開山日興上人についての私論(1)」21頁に、
「従来、十五日説(山川智応著『日蓮聖人伝十講』等)を主張する依據となるものは、『伯耆殿御返事』の「但シ熱原ノ百姓等安堵セ令(メハ)日秀等別ニ問注有ル可ラ不ル歟」(引用者注:原漢文。(メハ)は菅原論文にはなく『昭和定本 日蓮聖人遺文 第二巻』1676頁により補記しました。堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』での読み下し文は「但し熱原の百姓等安堵せしめば日秀等別に問注有る可からざるか」(1456頁)とあります)の文であり、この書状が十二日付になっていることから十二日には三烈士が生存していると断定したようだが、それは誤断である。宗祖が身延で十二日に認められた書状をもって、同日の鎌倉の様子をその中に見い出すことは無理である。つまり、宗祖は、鎌倉の八日、九日の状況を知らせにきた使者(多分、十一日か十二日に身延に着いたであろう)に対して十二日に書状を認めているのである。そして竜泉寺申状とこの書状を携えた者が鎌倉へ向って、十四日・十五日に到着した。その時すでに処刑が済んでいる。それで十五日酉の刻に日興上人からの書状になり、身延の宗祖のもとに十七日酉の刻に到達したと考えられる。さすれば、十二日に生存の根據は何処にも見い出せず、十五日処刑説もかなり薄弱となる。もとより現実に、十二日処刑の当該史料もなく史実的に十二日に断定するわけにはいかないが、十二日〜十五日と巾をもたせて考えることが妥当であることは十分指摘しうる。ならば、大石寺としては、古伝による十二日処刑、それが戒壇本尊由来および意義を顕わすという『三師伝』の伝承が存するのであるから、それに立脚すべきではないだろうか。(現在宗門では富士年表によれば十五日説)」とあります。
しかしながら菅原論文の論旨は、〝最初に弘安二年十月十二日の戒壇本尊ありき〟であって、とても文献史学的な観点からみた時に耐えられる内容ではありません。ご自身で「十五日処刑説もかなり薄弱」、「十二日処刑の当該史料もなく史実的に十二日に断定するわけにはいかない」とおっしゃりながら、「十二日〜十五日と巾をもたせて考えることが妥当であることは十分指摘しうる」という論理の飛躍にはついていけません。論拠とするのが「古伝による十二日処刑」では説得力はゼロに等しいでしょう。“古伝”とおっしゃるのであれば、どの史料なのか、どういう内容なのか明確にすべきでそれをせずして「妥当である」もへったくれもないでしょう。「家中抄」には「同(引用者注:弘安)三年に法華宗の檀那三人をば頚を切ってぞ捨たりける」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』昭和53年、創価学会、152頁)と、明確に「弘安三年」とあるのと、いわゆる“古伝”との内容差はどう説明されるのでしょうか? なぜその“古伝”内容を日精師は「家中抄」に記載していないのでしょうか?それは、日精師が「古伝による十二日処刑」という内容をご存知なかったからでしょう。(つづく)

by 彰往考来

3186彰往考来:2007/02/05(月) 06:58:46

熱原法難の処刑日について(その4)

スレッド3185の続きです。

菅原関道師の論文(「開山日興上人についての私論(1)」)でいう『三師伝』の伝承とは何でしょうか? 『三師伝』とは「三師御伝土代」のことでしょう。「三師御伝土代」に「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』8頁)とあるのが「戒壇本尊由来および意義を顕わす」という伝承なのでしょう。しかしながら、どうしてこれが「十二日処刑」につながるのでしょうか? 興風談所の池田令道師は、『興風〔第16号〕』(平成16年、興風談所)所収の「大石寺蔵『御伝土代』の作者について」の444頁に、「はたして堀日亨師が述べるように、本当に日道は熱原法難のことを詳しく知らずに人数を誤記したのであろうか。私はそうは思わない。『弟子分本尊目録』の述作が永仁六年で日道十六歳。記念本尊の徳治三年は堀日亨師も言われるように日道二六歳である。とりわけ日興に薫陶を受けていた日道がこれらの記述を知らないで生涯を過ごしたとは思いづらいことである。おそらく『御伝土代』の作者は『弟子分本尊目録』や本尊脇書の記述を知らず、伝聞をもとに作文したものと思われる。それが日時であれば得心がいこう」と記述されているように、「三師御伝土代」は日時師が「伝聞をもとに作文した可能性」があり、文献史料として信頼するのは問題があると考えます。もっとも菅原関道師は『三師伝』の〝伝承〟としています。〝伝承〟ということは、最初から信憑性に欠けることを認めているわけです。

堀日亨師の『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会)に、「飛曼荼羅(中略)は、三枚続き、全面興師の壮年時代の筆法、年代が文永五年十月十三日とあるの相応するが、書式はまったく弘安年度のでありて、日蓮の名は興師御筆で花押だけが蓮祖のであり、荒町より青葉城内に飛んで火難を避けたというよりも、大いに不可思議な御本尊であるが、ここには早くより座側にありては代筆をも勤められたことの証左にならぬでもない」(16頁) とありますが、これはおかしな内容です。堀日亨師は「三師御伝土代」に「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」とある内容の傍証に、「飛び漫荼羅」を持ってきたのでしょう。日精師の「家中抄」にも、「同(引用者注:弘安)三年に一百六箇血脈抄を以って日興に授与し給ふ、剰ひ此ノ書の相伝整束して日興に伝ふ、亦本尊の大事口伝あり是レを本尊七箇口決と申すなり、是の故に師に代りて本尊を書写し給ふ事亦多し 日興書写の本尊に大聖人御判を加へ給へるあり奥州仙台仏眼寺霊宝其証なり」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』154頁)とありますが、弘安3年に蓮祖から興師へ本尊の口決相伝があり、御本尊の代筆を興師がしていたという証左には “文永5年”の「飛び漫荼羅」はなり得ませんし、師に代りて本尊を書写し給ふ事亦多しという事を証明する弘安期の御本尊は存在しません。そもそも「飛び漫荼羅」は偽筆です(拙稿:「飛(と)び漫荼羅(まんだら)」に関する一考察 
http://fujikyougaku.fc2web.com/ronbun/tobimandara.htm
を参照ください)
から、そのようなものを証拠にかかげても墓穴を掘るだけです。

by 彰往考来

3187犀角独歩:2007/02/05(月) 09:59:26

独学徒さん

たいへんに興味深い資料のご呈示有り難うございます。

江戸期ですか。
つまり、この図は、それまでの資料を整理して、江戸期の人が、作図したものということでしょうか。
ご教示いただければ有り難く存じます。


彰往考来さん

久方のまとまったご投稿ですね。
これまた、興味深く拝読しました。

やや、所見。
『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』では「一日に本懐に達すと仰せ給い、徐ろにご用意の上十二日の日を選んで御本尊を顕発遊ばされたと拝するならば最も自然の事ではないか」(P27)と言っていました。また、ブログでも取り上げましたが、日興と共同建立だというのが細井氏の言うところでした。12日に日興宛に手紙を書いているわけですから、論として破綻していますね。

模造品であるとわかったいまでは、よくまあ、いろいろな屁理屈を考えこねてきたものだ、ご苦労なことだったというほかありません。

わたしは個人的に、『弘安二年十月十二日』と彫刻に刻んだ理由は、一つは熱原法難物語とのモンタージュ、それともう一つあると考えています。
そのヒントは日蓮の生誕日伝説です。『三師御伝土代』の「貞応元年二月十六日誕生」という一節以外、上古でそれを伝えるものがないために、門下一般で定着した説でした。この日にちを見れば、直ちにわかるわけですが、要は釈尊入滅の翌日です。実際に日蓮がこの日に生まれたかどうか、生まれたかも知れませんが、あるいは誕生日をこの日にしたという可能性もありますね。いまは、法律が厳しくなった行われなくなりましたが、むかしは出生届で日にちを変えて出すと言うことはよく行われていました。近代でもそうですから700年前となれば、もっとおおらかだったのではないかと思います。「お釈迦様の入滅が2月15日だから、その翌日としておこう。釈迦滅後、法華経を流布する意義を籠めて…」といった調子ではなかったかということです。

同じように、日蓮の遷化が10月13日なので、その前の日としようという底意があったのではないかという仮説です。誕生日と同じ調子であれば、10月14日でよいわけですが、では、何故前の日としたか。明星直見相伝があります。
「明星が池を見たもうに日蓮が影即ち今の大曼荼羅なり」
日蓮が池の水面をのぞき込むと、自分の顔が写るはずが、大曼荼羅が写っていたという相伝です。日蓮が本当に語ったかどうか、まあ、語らなかったでしょう。もし、こんなことを知っていたとすれば、本尊集で見られるような、曼荼羅作風が10年間で劇的に変化していくようなことはなかったでしょうから。ここに明瞭に試行錯誤のあとが看取されます。
その真偽はともかく、この相伝からすれば、まず曼荼羅あり、次に日蓮という時系列が物語の根底にあります。(いわば本尊勝日蓮劣、そんなことは言いませんが、実際の扱いはそうなっています。信者では顕著で、日蓮像はそっちのけで漫荼羅ばかりを置いています)

そこからすると、日蓮遷化の日に曼荼羅造立日を置くという発想となります。年次として熱原法難とのモンタージュ、日付としての遷化1日前という2つのアイディアが「弘安二年十月十二日」伝説を生んだのではないか、やや想像を逞しくすれば、そんなところではないかと考えています。

「飛曼荼羅」のご高察は、当オフ会で発表していただいたものでした。
既に1年半前のことになりました。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/21187099.html

最近、この曼荼羅の写真をしみじみ眺めたのですが、この「日蓮花押」
誰が模したものにしても、ひどいですよね、これは。
これを堀日亨氏は、日蓮の花押だと言ったわけですか。もはや、ほとんど、この人の曼荼羅の鑑識眼はゼロに等しいと思えます。
彰往考来さんが最後に、謙遜されながら、書かれた一節に、わたしは大いに賛同します。また、このことは、日蓮作と偽った「本門戒壇の大御本尊」、日興作と偽った「大石寺持仏堂安置本尊」にも言えます。

「…ちょっと調べれば偽筆とわかるのが「飛び漫荼羅」である。このようなものを "真筆だ"、"重宝だ" といって騒いでいたプロの宗教家たちはいったい何者なのであろうか。恥ずかしくないのだろうか。金儲けのためには何をやってもよいのであろうか。 故意か過失かは別にして詐欺行為に等しいことを自覚してもらいたい。すでに鬼籍(きせき)に入った人を含め、猛省(もうせい)していただきたいものである」

3188独学徒:2007/02/05(月) 11:36:03

犀角独歩さん、

はじめに昨日の投稿に誤記がありました。

誤:富木常忍の御妻・妙常日妙が駿河国熱原弥四郎国重の娘である
正:富木常忍の後妻・妙常日妙が駿河国熱原弥四郎国重の娘である

です。失礼しました。


>つまり、この図は、それまでの資料を整理して、江戸期の人が、作図したものということでしょうか。

「日蓮門下系図」では、日通が披見した身延や中山法華経寺の宗祖真蹟遺文や真蹟曼荼羅に関する記述があるので、日通は系図作成の為にそれらの諸山を遊学していたものと思われます。
「日蓮門下系図」では、富木常忍の後妻を駿河国熱原弥四郎国重の娘としていますので、あるいは中山門流にそのような伝承があるのかもしれません。

「日蓮門下系図」は玉沢妙法華寺第33世の境持院日通によって書かれたもので、日通は1702年に出生し1776年に没しているとありますので、18世紀中ごろに作成されたものであろうと思います。
「日蓮門下系図」は日通の師僧である能持院日週が作成した、「過去帳」の裏に書かれているもので、興風談所の解題を要約しますと、当時の日昭・玉沢門流の思想的影響の下に作成されているとのことです。
能持院日週は1677年出生で1714年に没しています。そのことから日週と日通の接点は、日通が12歳までの間の期間ということになります。内容的に見ても、師日週の残した「過去帳」の裏に、ある程度修行を積んだ日通が書き込んだものと思われ、日週・日通の共同・同時進行的に作成されたものとは思えません。
よって、「日蓮門下系図」自体は18世紀中ごろの作成ではないかと思われます。
その意味では、れんさんご指摘の大石寺歴代としては、31世日因師の活躍された時代とほぼ同時期ということになろうかと思います。

3189独学徒:2007/02/05(月) 11:52:25

犀角独歩さん、

「日蓮門下系図」でもう一箇所、熱原弥四郎国重に関する記述を見つけました。
こちらは系図の註より、「東鑑」(吾妻鑑)を参照したことがわかります。
後ほど談議所の方に画像をアップします。

3190犀角独歩:2007/02/05(月) 22:03:21

独学徒さん

有り難うございます。
少し考えてみます。

3191彰往考来:2007/02/06(火) 06:50:14
犀角独歩さん

>明星直見相伝があります。
「明星が池を見たもうに日蓮が影即ち今の大曼荼羅なり」

明星直見相伝を詳しく知らないのですが「明星が池を見たもう」とあるこの日が弘安2年10月12日であるなら、すでに日宗研で発表していますが、弘安2年10日は金星(明星)が伏の時期で夜空に現れていません。従って史実的に論理破綻しているといえませんか?

3192彰往考来:2007/02/06(火) 06:52:18
>3191誤記訂正

誤:弘安2年10日は金星(明星)が
正:弘安2年10月12日は金星(明星)が

彰往考来   拝

3193顕正居士:2007/02/06(火) 08:03:01
>>3191
これは清澄寺の明星池です。
日寛師は建長5年4月28日としているそうです(取要抄文段)。

3194犀角独歩:2007/02/06(火) 08:34:16

彰往考来さん

『御本尊七箇相承』に

一、明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時・古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し・明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり日蓮が影・今の大曼荼羅なり云云、
此の事を横川の俊範法印に御物語りありしを法印讃歎して言く善哉々々・釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、日興は浪の上にゆられて見へ給ひつる処の本尊の御形なりしをば能く能く似せ奉るなり、仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ

日寛『六巻抄・三重秘伝鈔』に

御義口伝に云わく、自受用身即一念三千。
伝教の云わく、一念三千即自受用身云云。
御相伝に云わく、明星が池を見たもうに日蓮が影即ち今の大曼荼羅なり云云。
本尊抄に云わく、一念三千即自受用身云云。
報恩抄に云わく、自受用身即一念三千云云。

同『同・当流行事鈔』に

我等唱え奉る所の本門の題目其の体何物ぞや。謂わく、本門の大本尊是れなり。本門の大本尊其の体何物ぞや。謂わく、蓮祖大聖人是れなり。故に御相伝(御本尊七箇之相承)に云わく、中央の首題、左右の十界皆悉く日蓮なり、故に日蓮判と主付給えり。又云わく、明星が池を見るに不思議なり日蓮が影今の大曼荼羅なり。又云わく、唱えられ給う処の七字は仏界なり、唱え奉る我等衆生は九界なり、是れ則ち真実の十界互具なり云云。

同『蓮祖義立の八相』に

清澄山に池あり明星水と名づく、祖師行法の時定んで此の水をむすべば、毎夜明星天子池の辺に下りて、吾祖師を守りたまふ

同『観心本尊抄文段上』に

…明星直見の伝受…

同『観心本尊抄文段下』に

…「明星直見の口伝」に云云

同『開目抄下愚記』に

明星直見の口伝に云く「即ち明星池を望みたまえば、日蓮が影は即ち今の大曼荼羅なり」と云云

同『取要抄文段』に

御年三十二歳、建長五年癸丑の春の比、再び故郷に帰り、末法の本尊を祈りたまうに、四月二十八日の暁天に、古僧示して云く「汝が身を以て本尊と為すべし」と。即ち明星池を見たまえば、不思議なり、蓮祖の影即ち今の大漫荼羅なり。この時、正しく我が身は法華経の題目なりと知り、朝日に向って始めて南無妙法蓮華経と唱え、而る後、無量の巨難を忍び、三大秘法を弘む。文永八年九月十二日子丑の刻、竜口御難の時、名字凡身の当体即久遠元初の自受用身と顕れたまえり。具には開目抄愚記の如し。故に蓮祖大聖人は末法下種の本仏、主師親の三徳なり。故に本尊と仰ぐべきなり。



七箇相承の段階で、言うところの本尊は、もちろん、いまの彫刻本尊とはまったく関係はなく、のちのモンタージュですね。
また、建長5年4月28日という特定もありませんが、日寛は、こう記します。
清澄寺に明星池というものがあったのかどうか、いま、ちょっとネットで検索したところ、星の井戸(明星井)というのはあるそうです。
http://astro.ysc.go.jp/izumo/n_kanto.html#070

日蓮が虚空蔵菩薩に祈願して、「明星の如くなる大宝珠」(清澄寺大衆中)とも言うわけですが、清澄寺には明星にまつわる何かがあるのでしょうか。
彰往考来さんが得意とされる分野のように思えます。

3195きゃからばあ:2007/02/06(火) 09:38:29

犀角独歩さん

大過去帳ですが、江戸時代から使われていると聞いています。
その大過去帳には5老祖も書かれているのに三烈士がないのは本当に変です。
それにしてもペットにも卒塔婆を勧める宗門が、三烈士に卒塔婆がないのはつまらない。
また今年の2月14日は大聖人の父(妙日尊霊)の750回忌もやらない。
さて4月2日の戸田城聖氏(大宣院)の50回忌はどうするのかなあ?
結局、宗門にとって俗は下という考えは変わらないのでしょうか?

3196パンナコッタ:2007/02/06(火) 14:50:58
しかし熱原の事件は、みなさんの考証を見ていると無理矢理"三烈士"を作り出した伝説のような
気がしないでもないですね。(烈士の語彙は池上兄弟を二烈士に譬喩した兄弟抄に対するのかな?)
御伝の「大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるはなし」→おかしいですね。八月に弥四郎男が頚を切られているのに。
これは彰往考来さんご指摘のように後世の産物でしょうし、追伸末尾の「在世一代乃至于時応永十年癸予九月廿二日の
三行あるに依り後師誤りて日時上人作の三師之伝とせし事あり今因に之を記し置く」が、言わずものがなでしょう。

この時期の日興写本"伯耆殿御返事"を見てみますと、『但現証の殺害刃傷のみ』は、御神事の時の四郎男、
八月に頚を切られた弥四郎男の事でしょう。 また、この弥四郎に関連づけて本門戒壇の板本尊伝説が形成された
パッチワークの一助になっている(日付の相違を含め後代に混乱・改竄はされたでしょう)ような気もしますね。

さてここからは単なる主観なのですが、この弥四郎男、本当に個人の弥四郎さんなのでしょうか?
滝泉寺申状(今では滝泉寺大衆日秀日弁等陳状案と言うそうですけど)の該当文は、
 『政所代去四月御神事之最中
  法華経信心之行人令刃傷四郎男去八月令切弥四郎男之
  頚【日秀等擬刎頭事此中書入】』
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html  (原文17年2月のC参照)
"弥"という字は妙楽の「教弥」でおなじみの、弥【いよいよ】という副詞の意味もとれますので、
"去ぬる八月弥(いよいよ)四郎男の頚を切らしむ" だったのかもしれません。(?_?)エ?
まあ、これは単なる思いつきに過ぎないのですし、その様に読めないこともない程度のことですが、
独学徒さん指摘の常忍筆の、この部分の文章のつながりは悪くはないでしょう。(被害者は一人でより強調された文意になりますな)

いずれにせよ苅田狼藉事件以後ばかりがクローズアップされますが、人が斬り殺されたことに言及できるのは八月に頚を切られた
この"男"であり(弟子分本尊目録の記述や徳治三年の脇書があった上で)、この人物の扱いが自分にはチト不憫に思えたので、
この様な愚考をした次第です。

3197しゅんかん:2007/02/06(火) 18:11:50
>8183彰往考来さん有難うございました。

3198れん:2007/02/06(火) 18:55:28
独学徒さん御提示の資料で他門にも、江戸時代においては一連の弥四郎国重伝説が定着していたことが分かりますね。
このネタ元が石山ならば、石山の江戸初期以来の彫刻成立神話の口コミ宣伝?が功を奏したということになりますし、弥四郎国重が他門に先行していた伝説ならば、むしろ、それをパクッたのは石山ということになると思います。
郷師門流の小泉久遠寺の伝承では、同寺蔵の板本尊にならって石山で彫刻が作成されたとされております。私見では両寺の板本尊は安土桃山時代から江戸時代初期の両寺の復興に伴い、最初に小泉久遠寺で板本尊が作成され、その後、小泉の板本尊から着想を得て、石山の彫刻が作成された可能性が高いと考えていますので、石山彫刻の「弥四郎国重」も他門に先行して存在した弥四郎国重伝説からパクッて来た可能性も有るでしょうね。
少なくとも、江戸時代においては、他門でも弥四郎国重を肯定的に捉えていますから、他門に先行して存在していた弥四郎国重の伝承を採用して「本門戒壇之願主」に仕立てたというのが、史実に近いものと愚考します。
しかし、きゃからばあさんが仰るように、熱原法難における張本の神四郎・弥五郎・弥次郎の三人の存在がクローズアップされすぎて、熱原における最初の犠牲者というべき四郎男や弥四郎男の伝が、竜泉寺申状以外失われてしまったのは残念ですね。

3199彰往考来:2007/02/06(火) 20:43:40
>3193 顕正居士さん
>3194 犀角独歩さん

よく解りました。ありがとうございました。

>日蓮が虚空蔵菩薩に祈願して、「明星の如くなる大宝珠」

本件、思うところがあるのですが、分析などに時間がかかりまして後回しになっています。
まあ、将来への楽しみということで。この解析をしないと死ぬに死に切れませんので長生きできそうです。

3200れん:2007/02/06(火) 21:53:49
横レス失礼します。
池田令道師著「富士門流の信仰と化儀」によると清澄寺では鎌倉期の当時盛んに修行僧による“虚空蔵求聞持法”が行われていたと紹介されています。
その求聞持法の際の所作の中には「明星天子供の時は別して本尊を安置せず、窓アケテ直ちに生身の明星に之れを供し奉る」という儀式があるようです。
あとは彰往さんの後々の分析とその結果の御発表を待ちますが、富士の明星口伝はともかく、開宗以前の出家前後の蓮師の清澄寺における修法には興味深く思います。彰往さんの御研究と後々の御発表に期待申し上げるものです。

3201独学徒:2007/02/06(火) 22:08:49

彰往考来さんの解析、私も楽しみにしています。

以下、私は詳しくないのでつぶやきですが、田中成明著『虚空蔵求聞持法』には、「求聞持法の修法には月と星の位置が重要であり、方位、地形が大事なのです。」とあります。
どの本で読んだか記憶が定かでないのですが、『虚空蔵求聞持法』は開始と終わりも、月・星の関係が重要であると読んだ記憶があります。
また開始から終わりまで100日間を要しますので、年の初めの良月星日に開始したと考えれば、終了は4月のいつかになると思いますので、4・28というのは、あるいは日蓮が『虚空蔵求聞持法』を終えた日となんらかの関係があるかもしれませんね。

3202独学徒:2007/02/06(火) 22:23:56

れんさん、ググッて見ますと、空海の「三教指帰」の「谷、響を惜しまず。明星来影す。」がヒットしますね。
空海は口中に明星が飛び込む神秘体験をもって『虚空蔵求聞持法』を終了したようですね。

http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/gumonnjihou.htm

3203犀角独歩:2007/02/06(火) 22:30:18

みなさん、今日、五老門下の本尊相伝に類似したものはないかと読みはじめました。いまのところ、ヒットしません。

明星の意味、わたしは頭がまるで文系なので、現段階でリタイヤです。
彰往考来さんのご賢察に期待しています。
「長生き」などと先のことを仰らず、早々の経過報告も期待します。

3204れん:2007/02/06(火) 23:03:50
独学徒さん、弘法大師における“虚空蔵菩薩求聞持法”につき、ご教示頂き有難うございます。
先に引用した池田令道師の著書によりますと、鎌倉末期の天台僧光宗が著した「渓嵐拾葉集」には、当時、行者が憶持不忘の心地を獲得するために虚空蔵菩薩求聞持法を行ずるならいがあったそうです。
清澄寺には不思議法師が造立したという虚空蔵菩薩像がありますし、当然、若き日の日蓮も修法したでしょう。
中ん就く空海のそれと対比する時、「清澄寺大衆中」に見える神秘体験が蓮師における求聞持法の“成就”を意味したといえるのかも知れませんね。
それがいつ行われたかを解析できるのは、やはり彰往さんですね。

3205犀角独歩:2007/02/06(火) 23:30:14

きゃからばあさん

2月14日で妙尊の七百五十回忌でしたか。
これって、どこもやらなかったんではないでしょうか。
14日が妙日、15日はお釈迦様、で、16日は日蓮誕生、目白押しなんですね。


パンナコッタさん

なるほどと思いました。

それにしても、石山正統の後継者であるはずのが、日道が熱原三烈士を二人と間違え、それでも、「本門戒壇の大御本尊」は日蓮と日興が共同して作ったという石山の言い分は、ほとんど、笑い話ですね。

わたしの前哨で頚を切られて顧みられない弥四郎男を気の毒に思っていました。

3206きゃからばあ:2007/02/07(水) 11:05:11

独学徒さんこんにちは。
独学徒さんのサイトは素晴らしいですね。

>4・28というのは、あるいは日蓮が『虚空蔵求聞持法』を終えた日となんらかの関係があるかもしれませんね。

私は4月28日は方便品の『我始坐道場 観樹亦経行 於三七日中 思惟如是事』「われ始めて道場に坐して 樹を観じまた経行して 三七(21)日の中において かくの如き事を思惟せり」をみて、釈迦の生誕(4月8日)から21日目の4月28日が満願日と想像しています。

3207犀角独歩:2007/02/07(水) 20:44:02

3205への自己レス

> 2月14日…どこもやらなかった

これは過去形で記していますね。来週のことでした。
やるかやらないかは結果待ち、さて、どうなるでしょうか。

3208独学徒:2007/02/07(水) 20:54:14

きゃからばあさん、今晩は。
>釈迦の生誕(4月8日)から21日目の4月28日が満願日
なるほど、こちらも説得力ありますね。


犀角独歩さん、
>> 2月14日…どこもやらなかった
一瞬、バレンタインディのことかと思ってしまいました。

3209犀角独歩:2007/02/10(土) 06:33:31

723 藪の中さん

こちらに移動しました。

> 日蓮さんの遺骨は何処にあるのでしょうか?

身延山久遠寺の、宗廟と御真骨堂の2カ所ではないでしょうか。
宗廟から御真骨堂に移されたときの最後の証言者が、前法主であったという話でしたか。そんな話を聞いた記憶があります。
また、その際、御真骨は拝観できたということでした。
あと、日蓮の荼毘は東京大田区池上でなされたわけですが、この際、分骨があったようで、ここに遺り、御影堂にも籠められていたという記事があったのでしたか。この件は、随分と皆さんの議論したことでした。どなた補完していただければと存じます。

> 身延の特別参拝で見られるものでしょうか?草庵跡近くのお墓にあるのでしょうか?

あります。見られないと思います。

可能性の一番高いことを、教えてください。

> もし法華経が御釈迦さんの説かれたものでは無いと知っていたら、どうなっていたのでしょうか。

この点は難しいところですね。
容易に答えは出ませんが、真剣に考えなければならない点だと思います。

3210犀角独歩:2007/02/10(土) 06:40:38

【3209の訂正】

誤)御影堂にも籠められていた
正)御影像にも籠められていた

3211顕正居士:2007/02/10(土) 08:17:57
日蓮の遺骨を祀るのは
甲斐久遠寺、鎌倉本覚寺、京都妙伝寺、京都宝塔寺、池上本門寺の5箇寺ですか。
本覚寺のは日朝が身延から分骨したもの。本門寺のは日蓮坐像(重文)の胎内です。
妙伝寺や宝塔寺のは縁起が幾らか不分明です。

3212犀角独歩:2007/02/10(土) 09:14:28

顕正居士さん

補完、有り難うございました。

3213パンナコッタ:2007/02/10(土) 12:36:36
御廟所の参考に。
 http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-n-sisou.htm#nichiren
関西身延 妙伝寺の一般的な寺伝。
 http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/folder/1463035.html

3214再挑戦者:2007/02/10(土) 18:28:51
 素朴な疑問です、、。
 昨今、、甲府市周辺で、墓石、、灯篭への倒壊の被害が連続のようです。 ナゼ、、ナニユエ、、にこのようなケッタイな事件が起こるのでしょう、、、ネ、、?   一般の庶民はアセ水たらして必死にガンバッテいますが、(正社員にイジメられながらも)、シコシコとガマンの労働に甘んじています、。
 しかし、、何もアセミズも流さず、人の死ぬのを、、ただ葬儀を待機、?、、して、いるような葬式仏教世界が存在、のようです、、? 片方で楽な、、甘い社会を満喫するオカシナ時代でしょうか、?? この一件は時代の裏側からの厳しい、?、シッペ返しの一端のような感じをいたします、、。 愚考でした、、。

3215藪の中:2007/02/10(土) 19:13:04
有難うございました。犀角独歩さんと交流できるとは、感動です!

お墓参りは、いつも身延の草庵跡横のお墓に行ってます。
御遺骨が、有るとの説明で、よかったと思いました。
お釈迦さんのことですが、日蓮さんは、実直な人と思われ、もし説かれていなかったら、
私は日蓮宗は無かったように思います。そうでなければ、嫌いです。って、自分の
感情をいっても仕方ないけど・・・

3216天蓋真鏡:2007/02/10(土) 20:24:11
横レス失礼します。 ●分骨ですか。私は粉にして土に帰すなり川海に帰すなりで、拘りませんが拘りませんが、、 ●信仰では無くて学問に進んで世の為人の為に仏教界に法華の世界を説いた。と想います。三身説を用い本仏はシャクソンかもしれません。何故なら、法華一乗で成仏、立正安国の仏国土を一人ひとり現出させる教えを、鎌倉時代の僧・日蓮は説いた。と思い考えます。

3217パンナコッタ:2007/02/10(土) 20:35:40
再挑戦者さん、甲府周辺での墓石倒しの犯人は逮捕されていますよ。
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070210i306.htm

別に意味など無いでしょう。
むしろ倒された墓石が、自分の家のものだったらと考えてみてください。

3218しゅんかん:2007/02/10(土) 22:53:35
蓮祖の御真骨

真如寺(通称、能勢妙見山・大阪、兵庫、山頂に在り両県にまたがっている)
妙顕寺(京都市)蓮永寺(静岡市)妙本寺(鎌倉市)妙顕寺(栃木県)
孝勝寺(仙台市)

御歯二顆
妙照寺(新潟県)
         {以上、日蓮宗の本山めぐりより}

3219藪の中:2007/02/10(土) 23:38:13
早速有難うございました。犀角独歩と、交流でき、感動です。
 いつもお墓参りは身延の草庵跡横のお墓です。そこにご遺骨が
有るとわかり、ほっとしました。

お釈迦様の件ですが、日蓮さんは実直な方と思い、もし偽経とわかっていたら
日蓮宗は無かったと、思いたいです。ってなんの確証も無いですが・・・

3220再挑戦者:2007/02/11(日) 19:27:15
3213の方
 意味なし、、とは、、??
 貴殿も感度がかなり低下のようですナ、?
 庶民があらゆる宗教から見放されている現実の一端緒、、として、、?? 感じても、??
 無理かもしれんが、 一般信者への配慮が、、???、、のようでしょうか、、??

3221再挑戦者:2007/02/11(日) 19:48:23
 続、、。
 イワユル 登山会なるニセ・イベントを企画・運営された方方は、、??誰、??誰、、?? でしょうか、??
 この一件だけは、、決して、、看過、、は、、不可能、、でしょう、、。
 ナぜなら、、この一点に、、、全てのダマシの凝縮が存在する、からです、。
 「イチエンブダイの、、ミゾウの、、戒壇さま、??、、」、、なるエエカゲンな御伽噺にマンマと引きかかり、騙された我らの悔しさを、、今こそ、、再確認をしたいものです、!!
 このまま、、ダマサレ続けるのは、??ゴメンこうむりたい、、が、、。

3222パンナコッタ:2007/02/12(月) 12:39:52
>>3220
 >貴殿も感度がかなり低下
錯乱状態の男が引き起こした器物損壊事件を、主観で凶相の意味づけにするのは勝手ですが、
 "人間が引き起こした人間界の出来事は、人間の手で対処する"という
一般社会の成り立ちを、まずあなたは理解した方がよいでしょう。



管理人さんへ
もしこの先、この件についてスレが荒れるようなことがあれば、直接蓮祖とは関係ない事ですし
また書き込み諸賢の迷惑になりますので、>>3217 を考慮していただき削除のご判断をしてください。

3223藪の中:2007/02/12(月) 17:24:49
 犀角独歩さんから、お答えいただき 感動しています。
身延山の草庵跡横の御廟のにいつもお参りに行きますので、お骨のあるとの回答
ありがたいです。

法華経の偽経の件は、日蓮さんは、実直な方、法華経は選ばなかったと私は
思いたいです。 勝手な解釈。

3224犀角独歩:2007/02/12(月) 17:39:59

藪の中さん

恐縮です。

身延の御廟をわたしもとてもいい場所であると思っています。

法華経が偽經という点ですが、これは最大の難問です。
少し前、松山俊太郎師の「法華経講義」に参加していたのですが、法華経を人類史の金字塔であるとまで仰っていました。
また、種々の新しい神仏信仰の習合から、釈尊信仰への復帰なのだと講義されていました。

法華経は西暦前後数百年の間に創作された物語である。
その法華経を創作し、決して怒らず、艱難辛苦に耐え、軈て滅んでしまったこの集団が遺したもの。わたしは法華経の精神性は、決して嫌いではありません。
ただ、これは釈尊の直説であるという蛮勇はもちろん、持ち合わせていません。

これらの点は、法華経のことと併せて、以下でスレで議論してきたことでした。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/l50

3225再挑戦者:2007/02/12(月) 19:29:04
3222様、、かなりのきついご要望です、。 御削除はおまかせします。
 ただ 小生が申し上げたかったのは、、親しい人の死を悼み、悲しみにくれる遺族を慰める寺院関係のシガラミがいかがでしょうか、?? と言う感じがございました。
 昨今、音楽葬、海への散骨葬、親族だけの家族葬、過疎地では僧侶不在の無住寺も増えています、。
 現今はマスマス宗教色が薄れていますようです、、。 庶民の本音は「、、たかが、葬式、、されど、、葬式、、には金、、カネ、、おかね、、を掛けたくない、、??」、、と言う現実が存在のようでしょうか、?
 だからこそ「、火葬だけの”直葬式”」、が急増のようでしょうか、?
 もうすでに、お寺さんは高すぎる存在のようでしょうか、? 愚考でした、、。

3226顕正居士:2007/02/12(月) 19:34:56
大乗経はインド以来、報身仏(ビルシャナ仏)の説法であるとしますから、
肉身の釈尊(化身、応身)がそれらを説いたと考えたのではありません。
肉身の釈尊が説かれたのは三蔵の経、戒だけとするのです。

3227パンナコッタ:2007/02/12(月) 21:11:06
再挑戦者さん、
削除云々というのは、もし自分とのやりとりで荒れてしまった場合は、
その原因となる>>3217を、管理人さんの判断で削除して下さいと云うことで、
意見を削除しろという意味ではありません。

3228再挑戦者:2007/02/15(木) 20:00:22
 、、ご了解いたしました、、。 ご心労は深く陳謝致します、、。

3229きゃからばあ:2007/02/16(金) 10:14:45

3173の訂正

>また後ろの板碑にも日柱上人の文で同様の名前になっています。

三烈士の後ろの板碑(英魂之碑)ですが、『諸記録』によると日応上人となっていました。
そしてさらに「刎頭之日実弘安三年四月八日也」とありました。

3230犀角独歩:2007/02/16(金) 10:29:59

3229 きゃからばあさん

有り難うございます。
わたし個人にとっても有意義なご投稿でした。

3231彰往考来:2007/02/17(土) 08:19:04

弥四郎国重伝説

>3187 この図は、それまでの資料を整理して、江戸期の人が、作図したものということでしょうか
>3188 あるいは中山門流にそのような伝承があるのかもしれません
>3198 独学徒さん御提示の資料で他門にも、江戸時代においては一連の弥四郎国重伝説が定着していた

堀日亨師は、『熱原法難史』(大正12年、雪山書房、170頁)に、「辨師の俗姓は自門では不明であるが他門では熱原甚四郎國重の長男で富木殿の妙常日妙は其姉で下野公日忍は其弟、日頂日澄乙御前は其甥姪、天目も亦甥である様に云うてある」と記しています。
いつもながら日亨師の文章は解かり難いのですが、「日弁(辨)師の俗姓は大石寺門流では不明であるが、他門では熱原甚四郎國重の長男で富木殿の(後妻である)妙常日妙は日弁の姉で下野公日忍は日弁の弟、日頂日澄乙御前は日弁の甥と姪、天目も亦甥であるといっている」という意味です。ここでいう他門とは中山門流ではなく身延門流を指すと私は判断します。その根拠は享保15(1730)年に成立した身延山36世の六牙院日潮師の『本化別頭佛祖統記』の「巻二十四〔列傳〕優婆塞」の記載(『本化別頭佛祖統記』昭和48年、本山本満寺、522頁)です。
堀日亨師は、『熱原法難史』238頁の「古史傳集録」にこの『本化別頭佛祖統記』の「巻二十四〔列傳〕優婆塞」の個所を引用しています。そこには、
「日住禪門ハ日辨日忍兩師ノ父熱原氏甚四郎國重ナリ、駿州富士郡ニ農耕ヲ業ト爲ス、家世豪富頗ル才識アリ邑ノ小吏ト爲ル、又一女アリ天目ヲ産ム(以下略)」(引用者注:「熱原氏甚四郎國重」は“氏”が挿入されていますが原文ママ)とあります。「日住禪門」とは「熱原甚四郎國重」の法名ですが、堀日亨師は、『熱原法難史』175頁に、「本照寺の明暦元年(引用者注:1655年)の舊記には「熱原甚四郎國重法名法喜日住禪門當村ノ郷士ナリ時ノ名ハ熱原彌太郎宗祖ノ教化ヲ受ケテ歸伏ノ後藭四郎ト名ク」とあるのを取れるかとも思はる、併し三百年後の記録なれば信を措かれず法喜日住禪門の法號も疑わしいのである」と「熱原甚四郎國重」の法名が「日住禪門」というのは疑わしいとされていますが、日潮師の『本化別頭佛祖統記』が本照寺の明暦元(1655)年の古記などを参照したことは『本化別頭佛祖統記』成立年(1730年)から考えて十分有り得ることです。
独学徒さんがご紹介の興風叢書〔8〕の「能持院日周筆 境持院日通筆 過去帳・日蓮門下系図」(平成16年、興風談所)
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/8/8/

の「日辨」の項にも『本化別頭佛祖統記』と同じような内容が記載されています。本過去帳の成立年は未詳ですが、当該部分は「日通筆」(3頁)とのことで、日通師は(1702−1776年)ですから、本過去帳の当該部分の成立は『本化別頭佛祖統記』の成立した享保15(1730)年より古いと考えます。
よって他門流にある弥四郎国重伝説は、『本化別頭佛祖統記』によるもので、その出所は本照寺の明暦元(1655)年の古記などであり、中山門流にそのような伝承があったとは考え難いということです。

by 彰往考来

3232彰往考来:2007/02/17(土) 08:27:01

>3231 誤記訂正

誤:本過去帳の当該部分の成立は『本化別頭佛祖統記』の成立した享保15(1730)年より古いと考えます。
正:本過去帳の当該部分の成立は『本化別頭佛祖統記』の成立した享保15(1730)年より新しいと考えます。

彰往考来

3233犀角独歩:2007/02/17(土) 09:25:26

彰往考来さん

「‘甚’四郎國重」でよろしいのですね。

もう一つ質問をさせてください。

●郎の頭に付く、神、弥、また、甚は、名前の内ですか、それともそれ以外でしょうか。

3234彰往考来:2007/02/17(土) 09:54:44

>3233

3231投稿で使用した資料のうち『本化別頭佛祖統記』は「‘甚’四郎國重」となっています。
再度よくみたところ、『熱原法難史』175頁では、「本照寺の明暦元年(引用者注:1655年)の舊記には「熱原‘藭’四郎國重(以下略)」となっておりました。謹んで訂正いたします。

>●郎の頭に付く、神、弥、また、甚は、名前の内ですか

名前の内と考えています。但し、“神”は最初は“四郎”であったが処刑後に、“神四郎”となった可能性があると考えています。
それは、「龍泉寺申状」(『日蓮大聖人御書全集』昭和46年第67刷(初版:昭和27年)、創価学会、853頁)に「四郎男」が出てくるからです。
なお、『日蓮大聖人御書全集』に「弥四郎坊男」(853頁)とありますが、これは「弥四郎男」(やしろうお)の誤記で、ご真筆により訂正した旨の謹訂が、『日蓮大聖人御書講義 第13巻』(平成13年、政教新聞社、380頁)に書かれています。
参考までに『日蓮大聖人御書講義 第13巻』に「「男」というのは、当時、農民等の名に慣用的につけれれたもの」(352頁)
とあります。

彰往考来

3235彰往考来:2007/02/17(土) 09:57:23

>3234

またやってしまいました。誤記訂正です。

誤:政教新聞社
正:聖教新聞社

ゴメンナサイ。

3236彰往考来:2007/02/17(土) 09:59:40

>3235 もう一箇所誤記訂正です。

誤:農民等の名に慣用的につけれれたもの
正:農民等の名に慣用的につけられたもの

謹んで訂正いたします。

3237彰往考来:2007/02/17(土) 10:04:13

>3234の追記

『熱原法難史』170頁は、「‘甚’四郎國重」となっています。

3238彰往考来:2007/02/17(土) 11:55:33

熱原法難の処刑日について(その5)

スレッド3186の続きです。

【3】弘安2年10月15日説
現在の日蓮正宗は弘安2年10月15日説をとると判断されます。それは日蓮正宗発行の下記書籍(一部創価学会他発行も含む)が弘安2年10月15日と記載しているからです。
・『日蓮正宗要義』202頁
・『慧燈〔創刊号〕』所収研究発表 熱原法難史146頁
・『熱原法難の歴史』103頁
・『富士年表』44頁
・『日蓮大聖人正伝』370, 476頁
・『日興上人日目上人正伝』84,92,491頁
・『法教学報〔第5号〕』所収「日興上人御入門時期拝考」183頁
もちろん探せばもっとあるでしょう。興味深いのは日蓮正宗関連の書籍で正式に弘安2年10月15日説が記載されるのが昭和53年の『日蓮正宗要義』からであることです。もっともこれは管見に入った資料での判断ですから、先行資料が存在する可能性はあります。ただ昭和45年発行の『日蓮正宗大石寺』(鳳書院、252頁)には「十月、頼綱は、神四郎等二十人を自邸に引き出し取り調べもせず、法華経の題目を捨て弥陀の念仏を称え(引用者注:“唱え”と思いますが原文のママ)よと迫ったが、神四郎等はあくまで法華経の信心を捨てず、題目を唱えぬいた。そこで頼綱は神四郎、弥五郎、弥六郎等(引用者注:“等”は不要ですが原文のママ)の三名を首謀者として、非道にも斬首っしてしまった」とあって記載内容から弘安2年10月15日説をとると考えられますが、具体的な処刑日は書いてありません。昭和50(1975)年発行の東京大学法華経研究会編『創価学会の理念と実践』(第三文明社)には、「1979年(弘安二年)九月二十一日、富士郡熱原の、大聖人門下の僧の持ち田で信徒が協力して稲刈りの最中、役人が大挙して襲い、農民二十人を捕え、その罪名を窃盗罪として幕府に訴えて、直ちに鎌倉へ連行したのである。その取り調べには平頼綱が私邸であたり、事件そのものには全くふれずに、拷問までして改宗を強要した。それはまさに私刑だった。二十人は拷問にもひるまず、信仰を貫き通したため、指導者格の神四郎ら三人が斬罪に処せられ、残りの十七人は追放された。日蓮大聖人は、このめざめたる民衆が権力に屈せず、生命を賭して法を守った法難を眼前にみて、大御本尊を受持しきるだけの信心、機根が調ったと確信し、全世界の民衆が根本として信仰すべき(一閻浮提総与という)本尊を建立されたのである」(210頁)とあり、処刑日を特定して書かれていなのです。もっとも「日蓮大聖人は、〜」以後の文章を読むと、“一閻浮提総与の大御本尊”の図顕日は弘安二年十月十二日ですから、生命を賭して法を守った法難を眼前にみてから建立されたのなら、熱原の法難の処刑日は弘安二年十月十二日より前となってしまうのですが、重箱の隅をつっつくようなことを言うのはよしましょう。「サンタさんなんてホントはいないんだよ、プレゼントは親が枕元に置いているのさ」と、サンタさんを信じている子供に言うようなものですから。ここで問題とすべきなのは、東京大学法華経研究会編『創価学会の理念と実践』が、昭和37(1962)年に発刊された東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』および、昭和42(1967)年に改訂版が発刊された東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』の再改定版にあたるということです。そして『創価学会の理念と実践』の元本である『日蓮正宗創価学会』ではなんと、弘安3年4月8日説をとっているのです。(つづく)

by 彰往考来

3239彰往考来:2007/02/17(土) 11:56:11

熱原法難の処刑日について(その6)

スレッド3238の続きです。

東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』(昭和37年、山喜房仏書林、82頁)には「神四郎等の二十人は、その後獄中に投ぜられること半年、そのあいだ唯一心に題目を唱えて信仰ますます強盛であったが、弘安三年四月八日、神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟は刑場に引き出され、発起人という廉(かど)によって哀れ斬罪に処せられ、残る十七人は付和雷同の従犯者として追放に処せられた」とあります。また昭和42(1967)年発行の東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』(昭和42年改訂5版、山喜房仏書林、85頁)にも全く同じ文章が載せられています。昭和38年には堀日亨師の『富士日興上人詳伝』(創価学会)が発刊されていて91頁に、「神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する」とありますから、昭和38年ごろ日蓮正宗内は弘安3年4月8日説が主流であったと判断されます。これが昭和45年発行の『日蓮正宗大石寺』や昭和50(1975)年発行の東京大学法華経研究会編『創価学会の理念と実践』では明確な処刑日記載が消え、昭和53年の『日蓮正宗要義』202頁で明確に弘安2年10月15日説が現れるといった流れとなります。日蓮正宗内で弘安3年4月8日説から弘安2年10月15日説にコペルニクス的転回になっているわけです。弘安3年4月8日説は堀日亨師の説ですから、それを覆す論拠がなければなりません。その論拠は、私は日達師のご説法であったと考えます。
 河合一編『熱原法難の歴史』(1993年第14刷(初版1978(昭和53)年10月15日)、聖教新聞社、103頁)には『大日蓮』昭和38年11月号掲載の第六十六世日達上人のご指南を掲載し、ここでは明確に弘安2年10月15日説をとっています。残念ながら『大日蓮』昭和38年11月号は眼福を得ていませんが、河合一編『熱原法難の歴史』の<注六>に「昭和38年10月6日 法華講関西地区連合会第一回総会「御法主上人猊下御言葉」」(184頁)とありますので、『大日蓮』昭和38年11月号掲載の第六十六世日達上人のご指南は昭和38年10月6日の御言葉であることが解かります。これはひょっとしたら昭和38年10月24日に発刊された堀日亨師の『富士日興上人詳伝』での弘安3年4月8日説への日達師の反論であったのかもしれません。発刊日は前後していますが、第六十六世日達上人が10月13日付けで序を『富士日興上人詳伝』で書かれていることから正式発刊前に第六十六世日達上人に届けられたと考えられます。少なくとも『富士日興上人詳伝』の記載内容は、創価学会発行の『大白蓮華』創刊号から第四十四号(昭和24年7月10日−昭和30年1月1日付発行)までに掲載された内容をまとめたものですから、昭和38年10月6日以前に堀日亨師の『富士日興上人詳伝』は公開されていたわけです。
『熱原法難の歴史』からの孫引きとなりますが『大日蓮』昭和38年11月号掲載の日達上人のご指南内容を少々長いですが以下に引用します。(つづく)

by 彰往考来

3240彰往考来:2007/02/17(土) 11:57:00

熱原法難の処刑日について(その7)

スレッド3239の続きです。

「では、三人が処刑されたのは、いつだったのでしょうか。第六十六世日達上人は、次のようにご指南くださっています。
「上野賢人殿御返事を拝しますと、この御書は一名『竜門御書』と申しまして、大聖人様の御真筆が本山に保存されております。これは弘安二年十一月六日の御書であります。この御書には、『此れはあつわらの事の、ありがたさに申す御返事なり』と、お添え書きがありまして、この御書を拝しますと、『をなじくはかりにも法華経のゆへに命を捨てよ』とあります。病気や飢饉や戦争のために捨てる命ならば、かりにも、法華経のために命を捨てよ、と南条時光殿にお書き送りになった御書でございます。これは熱原の人びとが、法華経のために命を捨てたことを示されておるのでございます。この御書は、十一月六日付でありますから、この時はもう既に熱原の神四郎、弥五郎、弥六郎の三人は、平ノ左衛門尉のために殺されてしまった後であるとゆうことがわかります。そこで、聖人等御返事、一名変毒為薬書と申しますが、これを拝しますと『今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す。彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云、偏に只事に非ず』とお書きになっております。これこそ、熱原の人びとの処刑された時日と判明できるのでございます。(中略)大聖人は、神四郎が死に直面して、しかも自若として南無妙法蓮華経と唱え奉っておったことは、只事ではない、平ノ左衛門尉の身に十羅刹入りかわりて、法華経の行者を試み給うたと、仰せになっておるのでございます。故に、この十五日に神四郎は処刑せられたことは明らかであります」<注六>(「大日蓮」昭和38年11月号)」(『熱原法難の歴史』103頁)

さて、『竜門御書』には「此れはあつわらの事の、ありがたさに申す御返事なり」とあります。日達上人は、「熱原の人びとが、法華経のために命を捨てたことを示されておる」とされていますが、これは変です。御門下が弾圧で殺されて“ありがたさ”というでしょうか? ちょっとオーバーな表現ですが当時は日蓮教団と国家権力とがいわば戦闘状態とでもいえる状況でいつ誰が殺されても不思議がなかったのですよ。日達上人さ〜ん・・・平和ボケされていませんでしたかぁ?と私は朝晩、日達上人の御形木御本尊に問いかけています。“ありがたさ”とは南條時光が危険を顧みずに熱原法難で逃亡中の神主等を匿っていたことに対する御礼の言葉であると私は解釈します。「逃亡している弟子を匿ってくれて有難う」とは直接書けないので間接的に「此れはあつわらの事の、ありがたさに申す御返事なり」と書かれたのでしょう。南條時光が逃亡中の神主等を匿ったことは御書に出てきます。弘安三年七月二日の「上野殿御返事」に「かうぬし(藭主)等が事、いまゝでかゝへをかせ給て候事ありがたくをぼへ候」(『定本 日蓮聖人遺文 第二巻』昭和63年改訂増補版(初版昭和28年)、身延久遠寺、1766頁)とあります。ここでも“ありがたく”と出てきます。(つづく)

by 彰往考来

3241独学徒:2007/02/17(土) 12:12:56

彰往考来さん、以下の堀日亨師の記述は、「能持院日周筆 境持院日通筆 過去帳・日蓮門下系図」(以下「日蓮門下系図」)と相反します。

>、「辨師の俗姓は自門では不明であるが他門では熱原甚四郎國重の長男で富木殿の妙常日妙は其姉で下野公日忍は其弟、日頂日澄乙御前は其甥姪、天目も亦甥である様に云うてある」

「日蓮門下系図」では、

弥四郎国重の娘⇒日妙・日妙の子⇒日頂
        (日妙は富木常忍の後妻、日頂は日妙と前夫との子)

神四郎の長男⇒日辨

◎弥四郎国重は南條家の血筋
◎神四郎は南部家の血筋
両者は別人。

となっているわけです。

これは堀日亨師の記載が滅茶苦茶であるか、もしくは「日蓮門下系図」またその作者が参考にしたものとは無関係であるか、そのようなことが考えられると思います。

3242乾闥婆:2007/02/18(日) 02:34:57
みなさま。

素朴な疑問なのですが、では「聖人御難事」の「余は二十七年なり」とは
蓮祖は何のことを言われているのでしょうか。

3243犀角独歩:2007/02/18(日) 09:06:29

3234 彰往考来さん

ご教示有り難うございます。
熱原法難は神事との関わりがありますね。
処刑後、神を冠されたというのは、説得性を感じるところです。

中世、神四郎と弥四郎国重が、どのように考えられていたかは、さらに皆さんのご賢察を窺いたいと思いますが、さらにもう一点、決し得ていないのは、「国重」というのは、これは名前なんでしょうか。
わたしは国重と聞くと刀工のほうを先に思い出すのですが、なにか職業、地位に掛かる呼称の可能性はないのでしょうか。

彰往考来さんのご投稿の続きをお待ちする傍ら、この点もお考えを披瀝いただければ有り難く存じます。

3244彰往考来:2007/02/18(日) 10:26:20

>3242 乾闥婆さん
>「聖人御難事」の「余は二十七年なり」とは

本件につきましては、かつて「他宗、他派をほめよう」のスレッド64(2005.12.15)に投稿しましたので参照ください。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610635/64

彰往考来

3245彰往考来:2007/02/18(日) 10:29:29

>3243 犀角独歩さん
>「国重」というのは、これは名前なんでしょうか

そうなんです。一連の熱原法難の資料をひもとく中で本件が謎なのです。
少し別のアプローチが必要ですがよいアイデアがない状態です。

彰往考来

3246乾闥婆:2007/02/19(月) 00:58:45
>3244

彰往考来さん。

ありがとうございます。

しかし「聖人御難事」は他の年数表記と違って、釈尊、天台大師、伝教大師のそれぞれの出世の本懐を遂げた年数に比較して表記されています。普通に読めば、それぞれの先師の出世の本懐に比すべきような事柄がその頃の蓮祖にあったと受け止められるのではないでしょうか。もちろんそれは「本門戒壇之御本尊」御図顕ではないのでしょうけれど。

3247顕正居士:2007/02/19(月) 04:56:14
聖人御難事
http://sgi.daa.jp/cgi/P1189.html

この書は続きを読めばわかりますが、本懐を遂げた年数を比較しているのではなく、
その間の難の大きさを比較しています。

なお日蓮の本懐とは
諸人御返事(平賀本土寺) http://www.city.matsudo.chiba.jp/data/7d580f0a0022267/syonin.jpg
に述べるように、権力者にその主張が採用されること以外にあり得ません。

3248臨時:2007/02/19(月) 12:04:37
顕正居士さん一寸御教授願いたいのですが、「余は二十七年なり」における
「なり」はどのような意味になるのでしょうか?国語辞書によれば「なり」は
「成り」か「生り」または「為り」を意味するように思われなす。この文面か
らは「業」「鳴り」さらには「也」「哉」等を指す言葉とは思えません。

したがって、「余は二十七年なり」の「なり」は「成り」か「生り」または
「為り」のどれかにあたるのではないかと思われますがいかがなものでしょう。

難に会われた年数を意味することは私には思えないのですが御教授よろしく
お願いします。

3249天蓋真鏡:2007/02/19(月) 13:11:25
横レス失礼します。 ありがとうございます。真筆で主上(天皇)の語を確認取れました。国主は権力者を意味していると言う事になりましょうか。文章の後先を考えればすっきりするでしょう。

3250顕正居士:2007/02/19(月) 16:07:55
「なり」は「である、is、是」の意味。
AはBなり A is B  A 是 B。
断定の助動詞といいます。

伝聞の助動詞の「なり」もありますが、それは終止形に着く。
動詞は「なる」で「なり」ではない。体言に着くのは断定の助動詞です。

3251臨時:2007/02/19(月) 21:35:24
顕正居士さん早速の御教授ありがとうございました。

そうですね、この「聖人御難事」で使われている「なり」は断定の助動詞で
あることはよくわかりました。

ただ私にはどうしても「仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年
に出世の本懐を遂げ給う」に架かっているように思えてならないのです。
特に「出世の本懐を遂げ給う」というところに連動しているように思えるので
す。

顕正居士さんがおっしゃっる「体言」とは「用言」つまりは動詞・形容詞・
形容動詞として使用される場合もあると考えてよろしいのではないしょうか?
とすれば、「なり」を「終止形」の活用形と考えれば、「である」とする単な
る断定形でなく、「断定」「疑問」「共感」「驚き」「同定」等々日本語の文
末によくある、様々な表現者の主観があらわされている場合にあたると考えて
もよろしいいのではないでしょうか?

つまり、宗祖は「仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹天親天台伝
教は余に肩を並べがたし」として竜樹天親天台伝教の出世の本懐よりも釈尊の
出世の本懐に焦点を当てて、この「聖人御難事」を著わされたのではないでし
ょうか、したがって私には「余は二十七年なり」は宗祖の出世の本懐を意味す
ると読むほうが正解のように思われてしかたがありません。

失礼な点がありましたら文法的なことに疎い人間が書いたものとして御寛恕く
ださい。

3252乾闥婆:2007/02/19(月) 22:52:34
>3247

顕正居士さん。

>この書は続きを読めばわかりますが、本懐を遂げた年数を比較しているのではなく、
その間の難の大きさを比較しています。

文章の流れは釈尊・天台大師・伝教大師が出世の本懐を遂げるまでの年数のあいだに受けた難の大きさと比較していますので、蓮祖もまたその出世の本懐を遂げるまでの年数とその難、ということになるのではないでしょうか。

>なお日蓮の本懐とは諸人御返事(平賀本土寺)に述べるように、権力者にその主張が採用されること以外にあり得ません。

しかし権力者に自身の主張を受け入れさせるのは、蓮祖にとって、法華経を流布して日本を仏国土と為すことの手段に過ぎないのではないでしょうか。

3253犀角独歩:2007/02/20(火) 06:20:43

横レス失礼します。

> 権力者に自身の主張を受け入れさせる…蓮祖…法華経を流布…日本を仏国土

これは『立正安国論』の趣旨そのものですね。

3254パンナコッタ:2007/02/20(火) 12:41:10
横レス失礼します。

該当部分の原文を見てみますと
『佛ハ四十余年天台大師ハ
 三十余年傳教大師ハ
 二十余年ニ出世の本懐を
 遂給其中乃大難申計
 なし先々ニ申かコとし
 余ハ二十七年なリ其間の
 大難ハ各々かツしろしめせリ』

この文を見る限り、"二十七年"は大難に掛かっているように見受けられますね。
また後代の筆写時(活字化の時か?)に、「遂げ給う。其の中」とした読み下しに
混乱の一因があるように思えますね。

3255しゅんかん:2007/02/20(火) 12:43:50
独歩さん
古い内容ですが、創価学会の携帯式本尊についての板で、独歩さんと菊水護国さんのやりとりで叉、
お尋ねしたい点がございました御教示の程宜しくお願致します。

>No31
一般の仏具店で御影を買ったら、体内になにが入っているかちゃんと確認したほうがいいですよ。

〇石山はいかよう物が入っていないといけないと云っているのでしょう?
仏具店で購入できる様な2寸・3寸、叉それ以上の物でも木彫りの中に何かを
入れている物なのでしょうか?

>No135
緋衣の御影?
だって、菊水護国さんだって、薄墨の置くんでしょう。

〇石山に於いては御影様も薄墨が好ましいのでしょうか?

以上、宜しくお願致します。

3256天蓋真鏡:2007/02/20(火) 13:10:54
横レスすいません。●パンナコッタさん、「なるほどね」点線面が繋がってきた気がします。●私が21世紀の宿題にと思い描くのは【法華一乗(本尊・戒壇・題目)∈法華経・覚者仏像・漫荼羅本意】《真実一念三千、正法》●文字変換できなくてごめんなさい。

3257顕正居士:2007/02/20(火) 15:14:33
>>3252
仏国土を待望する如きは仏者に共通でありますから、「本懐」とか「目的」とかは
具体的なものでしょう。最澄の場合ですと、六宗に加えて天台宗が公許されましたが、
依然、南都僧綱の支配下にはあったので、これから独立することが悲願でした。
実現するのは最澄の滅後ですが、ほぼ期待できる情勢を作れたので、本懐を遂げた
と述べているかと思います。日蓮の場合はやはり諸人御返事の「公場対決」であった
でしょう。

3258犀角独歩:2007/02/20(火) 16:14:32

3255 しゅんかんさん

少しお久しぶりですね。

> 御影…石山はいかよう物が入っていないといけないと云っている

そのような具体的なアナウンスがあるかどうかわかりませんが、腹篭本尊を入れるのでしょう。

> No135

これはどこでしょうか、原文に当たれないんですが。

> 石山に於いては御影様も薄墨が好ましいのでしょうか?

というより、その以外は考えられない宗派ですね。

3259れん:2007/02/20(火) 19:56:10
横レス失礼します。
顕正居士さん
>3257
…日蓮の場合はやはり諸人御返事の公場対決であった…
としますと、熱原法難と連動して日蓮門下と他宗との「公場対決」の気運が高まっていたことを、暗に示すのが聖人御難事の文章ということでしょうか?
また「滝泉寺申状」はその前哨戦としての役割もあったということでしょうか。諸人御返事に見られるように前年の弘安元年から日蓮と他宗との公場対決の気運の高まりが見られ、幕府というか得宗家の日蓮門下の出訴の扱い如何では、公場対決の実現も考えられますから、日蓮は聖人御難事の文章を見るに弘安二年中に公場対決が実現すると睨み、あのような文章になったということでしょうか?

3260顕正居士:2007/02/21(水) 04:04:21
>>3259
難とは本懐を遂げるまでの間に起こるものであるから、三師について本懐というので、
自らは「今に二十七年」、本懐を遂げる過程にあるということでしょう。
この書は難の話ばかりで、最初の文以外に「本懐」のことはまったく出て来ません。
したがって「諸人御返事」との関連は特にないと思います。
この書は弘安2年10月、諸人御返事は先年の3月で、「公場対決」を期待できる状況
はこの書の時にはもう存在していなかったと想像します。

3261天蓋真鏡:2007/02/21(水) 04:16:40
横レスすいません。 ●顕正居士さん、鋭い。●まことの一念三千、真の十界互具。

3262しゅんかん:2007/02/21(水) 11:10:15
独歩さん
早速の御教示有難うございます。

>腹篭本尊・・・
〇あっ!この文言どこかで見た事が在りますが今、思いだせません。池上は御真骨で非常に稀の様ですね。腹篭本尊は石山特有と云う理由ではなく、身延もでしょうか?

>薄墨は当然・・・
〇私の関西での仏具店等は彩色、白木、金泥ぐらいしか見かけませんから、ですが当然ですね。別注されるんでしょうか、それとも東海・関東方面では販売されてるんでしょうか?

>見当たりません・・・
〇同じく創価学会の携帯・・・でした、すいません説明不足でした。

>少し久しぶり・・・
〇此処の所の皆さんのやり取りはとても私など知識も無く入って行けませんでした。少し考えたんですが、余りにも奥が深いので的を絞って勉強させていただこうと思っております。今、考えてますのは石山は何時、誰が何故、他門派と組みしない孤立する様な教義を唱えるに至ったのか。この辺りに絞ってと考えています。解らない事だらけです、今後とも独歩さんはじめ皆様方、宜しくお願いします。※PCでの時間がなく、今回初めて携帯での書き込みで読みずらいかもしれませんお許し下さい。

3263乾闥婆:2007/02/21(水) 12:38:12
>3257
>3260

顕正居士さん。

>日蓮の場合はやはり諸人御返事の「公場対決」であったでしょう。
>自らは「今に二十七年」、本懐を遂げる過程にあるということでしょう。

ありがとうございます。大分腑に落ちてきました。「五五百歳の仏記」、広宣流布こそ蓮祖の目指されるところであるでしょうから、公場対決は「日蓮一生の間の祈請並びに所願」であったのですね。本懐を遂げることへの並々ならぬ意志を「聖人御難事」から感じました。

3264パンナコッタ:2007/02/21(水) 15:14:55
横レス失礼します。

諸人御返事の約半月後の壇越某御返事の段階で、三度目の難を危惧する記述のため
公場対決の話は、この時期に無くなり却って弾圧が強まったように見受けられますね。

3265しゅんかん:2007/02/24(土) 16:41:01
石山の松竹梅(寺門?)についてご教示お願致します。

重ね亀甲や五三の桐が寺門のようですね。(重ね亀甲は形木本尊の表装にも使用されてます)
先日、御曼荼羅を表装に出そうと思いまして表具屋さんからの裂地のサンプルを
拝見させて頂きました。
その中で表装の部位で一文字(曼荼羅部の上下に使用する裂地)と云う裂地で
鶴丸を指定したのですが、お願しました所には鶴丸のみは無く
(鶴丸・重ね亀甲・松竹梅)と三つの柄が編み込まれていました。
重ね亀甲は存じておりましたのでNGと伝えました。
松竹梅は認識しておりませんでしたが、先ほど冨要を手に取りますと
ケースに松竹梅が見て取れます。(ケースには鶴丸・重ね亀甲・松竹梅と在ります)
この松竹梅も石山のみに関係がある物なのでしょうか?
宜しくお願致します。

3266大縫 薫:2007/02/24(土) 17:38:36
しゅんかん今日は!!
鶴丸紋の表装でしたらhttp://www.okayama-kakejiku.jp/newpage1.html
錦司堂さんが有名です。
http://www.kyoushindo.com/ 経新堂稲崎表具店
http://www9.ocn.ne.jp/~hyogu/index.htm 小沢表具店
稲崎表具店と小沢表具店は、正宗専門の表具店です。
文京区本郷の篠田表具店さんも御本尊表具の専門です。
その他、要山御用達の堤黙光堂さん 075-231-1878
これらの店舗に問い合わせをしてみたら如何でしょうか

3267しゅんかん:2007/02/24(土) 22:16:10
大縫 薫さん
早速のご教示有難うございます。

錦司堂さんは私も存知あげておりました。(有名なんですか?)
稲崎表具店・小沢表具店・堤黙光堂の三店ですが早速参考にさせていただきます。

3268犀角独歩:2007/03/02(金) 11:28:36

こちらとは関係ないのですが、とあるサイトを眺めましたら、シャキャムニが仏教の祖師であるような論調になっていたので驚きました。
バラモン教という文化圏にいたシャキャムニは、文字通りシャカ族の聖者であるけれど、その時代において、新しい祖師になったという認識はなかったのではないかと思います。修行者として、その当時、言われている覚者という自覚があったのみだろうと思います。

この点は、たぶん、日蓮も同様で、天台沙門といえば、天台法華宗という枠組みでしょうし、本朝沙門といえば、三国四師といった釈迦牟尼世尊以来の系譜に自身を置いたものでしょうから、新しい宗教を立ち上げたという認識は、なかったように思います。

3269ラキ:2007/03/11(日) 09:14:25
釈尊(仏)がいた時代から正法・像法・末法と時代分けしていましが、連師を末法のご本仏とした場合、仏の出現であり、正法時代とならないのでしょうか?
仏が出現しても末法は、末法となるのでしょうか?・・・
連祖が生まれた時代は、像法時代ですが、(連祖本人は末法との認識あり?)石山系の連祖本仏論で言うと、連祖滅後700年ちょいですが、現在は末法ではなく正法時代とならないのでしょうか?

3270天蓋真鏡:2007/03/11(日) 13:48:17
此の掲示板で論議してきたものを拝見すると、鎌倉時代の僧・日蓮は真言化した天台を法華一乗に仕立て治し末法の世が続くから法華経行者として修行して行きなさいと弟子を育てた人に思います。其れから、貴辺に任せるとか、己が信心が大事で成仏できなくても日蓮の所為にするべからずみたいな事を書いてある文言を見た事があります。人其れぞれ何時成仏するか解らないのなら何月何日頃から末法でなんて決め付けられないでしょう。其れと、実力が無いなら自分が謗法になるかもしれない参詣は止めておいた方が良いのでは無いでしょうか。

3271顕正居士:2007/03/11(日) 16:37:09
>>3269
富士派などの宗祖本仏論というのは日蓮という新仏が出現したという主張ではありません。
釈尊初発心の時の名字即菩薩の姿そのままが日蓮だというのです。日蓮の本果の姿が
五百塵点第一番成道の時の釈尊になります。つまり教相の末法は観心では久遠であって、
日蓮は釈尊の過去の姿になるのです。
「末法が釈尊の未来に非ず却て釈尊の過去也」(堅樹日寛「末法は釈尊の過去なる事」)

3272ラキ:2007/03/12(月) 00:22:08
顕正居士さん
解説ありがとうございます。

石山教学ではなくて他宗または一般の人から見た場合、連師が仏としたら、仏が誕生したから正法となるのか?
それとも、仏が誕生しても末法のままなのでしょうか?
どのように解釈したら良いのか、御教示して頂きたく存じます。

3273顕正居士:2007/03/12(月) 04:00:10
もし新仏が出現したらそれは末法なのか正法なのかということですか。
これは××仏の正法、末法という意味です。正法はその××仏の教えが
正確に伝えられている期間、末法はもう大いに変形してしまっているが
かろうじて存続している期間です。その後はもう形も留めません。
そして仏の出世は優曇華の花が咲くよりも稀で、たとえばこの娑婆世界の
次の仏、弥勒仏の下生までは56億7千万年もあります。
つまりたいがいの期間には仏教というものは存在しないというのが
仏教の世界観です。弥勒仏が現われる時代の人の寿命は大変長いので
その正法も非常に長く続きます。

3274ラキ:2007/03/12(月) 10:46:30
顕正居士さん
詳しい御教示ありがとうございます。
もやもやした、疑問が晴れてスッキリしたした。
本当にありがとうございました。m(_ _)m

3275しゅんかん:2007/03/15(木) 10:49:18
独歩さん、宜しくお願致します。
独歩さんのHPに於いて故、執行海秀先生の著を紹介されておられますね、
私も手に入れたく調べて見ましたが手掛かりがつかめませんご教示頂けますか?

①『興門教学の研究』海秀舎=一冊の書なのでしょうか。
②現在販売しているのでしょうか?

3276犀角独歩:2007/03/15(木) 18:41:18

しゅんかんさん

仰るとおりです。
神田の古本屋などでは、途方もない値段が付いています。
立正大学などの、日蓮系の図書館を当たられたほうがよろしいかと存じます。

3277しゅんかん:2007/03/15(木) 23:27:09
独歩さん

ありがとうございます。
絶版の様なのですね、ネット上での古書店でも目に止まりませんでしたが図書館
を当たってみます叉、古書店も気長にチェックしてみます。

3278ラキ:2007/03/17(土) 19:41:19
平成17年の夏期講習会で日顕上人の講義で、「戦争中御本尊の写真を持って戦争に行った」と言う話を聞いた記憶がありますが、何故、書写御本尊ではなく写真御本尊だったのでしょうか?
お守り本尊ではなく、大御本尊の写真をお守り代わりにしていたかった思いなのでしょうか?・・・
その辺の諸事情を知ってる方がおりましたら教えていただけないでしょうか。

3279犀角独歩:2007/03/18(日) 09:52:01

ラキさん

この本尊写真、O師が売ったと噂される彫刻本尊写真護、しかし、細井さんが『悪書板本尊偽作論を粉砕す』で
「某信徒が葦城氏と相談して写真を出したならば世間に知らしめて非常に効果があると考えて大石寺に願ってやったことである。
 しかるに効果どころか甚だ面白くない結果となったので、その掲載を禁止したのである。その悪い結果とは此の写真を複写して本尊に売買する者があらわれ、或は偽作するものがあるとかいう事であった。恐らく安永君の門徒の者の行為ではないか?」(P11)
と、日蓮宗が行ったこととしています。ところが、ラキさんの投稿のとおりであるとすれば、それを所持していたのは、日顕さんだというわけですね。となれば、それは石山宗内で撮影されたものとなりますね。

興味深い話です。

3280ラキ:2007/03/18(日) 18:56:10
日顕さんが、戦争に行かれた時なので、個人で写真を撮る事は無理だと思いますので、宗門の偉い方の許可か?戦争に行く人に僧侶か寺属の方にだけ特別に内緒で渡していたのかもしてませんね。
日蓮宗どうのこうのの話は無かったと記憶してますので、石山独自の写真を使用していたと思われます。

3281犀角独歩:2007/03/18(日) 22:30:44

ラキさん、その発言の正確なところを知りたいですね。

3282ラキ:2007/03/19(月) 23:00:41
正確な発言記事を記載したいのですが、夏期講習の大白法がないので、確認できません。
日顕さんの発言の夏期講習は、5回目か6回目だったと記憶してます。
夏期講習には珍しく、時間を10分ぐらい延長したときです。

3284ラキ:2007/04/19(木) 01:32:27
昭和30年代に「日蓮正宗の基本を守り結局離脱に追い込まれた僧俗。」(自称?)
見たいな、事件が大石寺であったのでしょうか?
ネットで調べても判らなかったので、ご存知の方がおりましたら教えてください。

3285顕正居士:2007/04/19(木) 09:20:40
大阪蓮華寺(久保川師の蓮華寺とは別)のことではないでしょうか。

下のページの「戦後60年と日蓮正宗の歩み⑰」
http://www.fujimon.or.jp/keimyo.html

3286ラキ:2007/04/19(木) 20:14:18
顕正居士さん。
情報ありがとうございます。
他にも疑問に思っていた情報が載っていて、掘り出し物を見つけた嬉しさで、感激しております。
本当に、情報をありがとうございました。m(_ _)m

3287偶ロム偶ログ(別HN御免):2007/04/22(日) 13:42:13
昭和30年代に「日蓮正宗の基本を守り結局離脱に追い込まれた僧俗。」(自称?)

僧ということであれば、旧蓮華寺と高知県の大乗寺、自称ではありません。
俗ならば東京蒲田の某会、この会については犀角独歩さんがお詳しいかと。
また、戸田会長推戴に反対して学会を離脱したグループもありました。

3288犀角独歩:2007/04/22(日) 23:03:33

> 3287

ご指名ながら、ちょっと、いまは思い当たりません。
ただ、昭和30年代のことといえば、顕徳会のことか、その他諸々。何について、ラキさんが問うているのかと。

3289ラキ:2007/04/23(月) 10:03:54
某巨大掲示板で見たのですが、昭和30年代に学会の圧力で「日蓮正宗の基本を守り結局離脱に追い込まれた僧俗。」が居た。
との、記載を見たのです。
石山でも戦後の復興をしなければならない時期なのに、多少の揉め事はあったにせよ”正宗の基本を守り”宗門から離脱した僧俗等が居たのかと思い、質問させて頂きました。
うちの住職に聞いても「知らない」と、無関心だったので、(教えたくなかったのか?)宗門として、汚点となるような隠したい事が有ったのかと、気になっております。

3290藤川一郎:2007/04/25(水) 09:25:59
「日蓮正宗の基本を守り結局離脱に追い込まれた僧俗。」
この投稿をした方の意図と日蓮正宗の基本を守ったか否かは別問題ですが、浅井氏が金科玉条のように使用する「時の貫首と雖も・・・」を主張して、自身らの正義を主張し、離脱していったのは
「大阪蓮華寺問題」と「高知大乗寺問題」の事では無いでしょうか?

3291しゅんかん:2007/04/28(土) 21:03:07
皆さ叉、ご教示お願致します。

石山に於いては法華経の一部読誦として他派、他門流を批判していますね。

福岡ふるさとの歴史再発見と云うHPに於いて、
正中二年銘梵字板碑の解説で
(法華経を一部読誦するのに現代の僧侶が唱えて9時間かかると言われており・・・)

と在ります、石山と正中二年銘梵字板碑の解説、一部読誦とは異なるのでしょうか?

ご教示お願致します。

3292しゅんかん:2007/04/28(土) 21:05:16
3291補記

福岡ふるさとの歴史再発見HP
http://www.educ.pref.fukuoka.lg.jp/bunka/cgi-bin/detail/detail.cgi?number=85

3293ヨブ:2007/05/05(土) 05:09:10
みなさま、はじめまして。
大聖人の仏法に莫大な関心があるものです。
ですが、宗教団体には入っていないため、
どこからどんな風に勉強を始めていけばよいのか分からず
困っています・・。

ところで、私は創価学会版の御書を持っているのですが、
日蓮正宗は平成に入ってから、平成新編御書を発刊したと知りました。
この御書はどのようにしたら手に入れられるのでしょうか?
日蓮正宗の信者じゃなくても、
正宗寺院に行けば売ってもらえるのでしょうか?

突然の投稿ですが、もしよろしければ教えていただけるとうれしいです。
よろしくお願いします。

3294犀角独歩:2007/05/05(土) 09:40:57

ヨブさん、はじめまして。

大石寺の出版物は、以下で購入できるのではないでしょうか。

株式会社 大日蓮出版
〒418-0116 静岡県富士宮市上条546−1
TEL 0544-59-0530
FAX 0544-58-0909

余計なことかも知れませんが、日蓮を真面目に研鑽しようとするのに、なぜ、大石寺の御書のようないい加減なものを欲するのでしょうか。批判資料にこそなれ、日蓮遺文の研鑽には不向きでしょう。

学術資料としてみるのであれば、定本は座右に置かなければならないでしょうし、確実な真蹟遺文ということであれば、『平成新修日蓮聖人遺文集』となりませんか。

定本に関しては現宗研のサイトで、データ版がダウンロードできます。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm

3295犀角独歩:2007/05/05(土) 09:58:45

れんさんほか、諸賢

(1)『三八教』の花押について

日蓮花押についてですが、『日蓮聖人真蹟集成』第2巻に載る『三八教』は、如何様な取り扱いとなるのでしょうか。

同書解説(日教研)では、正嘉元年とし、しかし、文永6年説(対象緑)も紹介しています。

正嘉元年の花押を日教研がいちおうでも認めているのはやや驚きですが、いっぽう、文永6年としても、鍵手がはっきりとしていること、バン字とみえる部分はあるものの、その後半がないことなどで日蓮の花押の体裁をなしているように思えません。如何お考えでしょうか。


(2)「本門本尊与四菩薩戒壇南無妙法蓮花経五字残之」の読みについて

もう一点。同書第1巻『法華取要抄』解説に『法華経行者逢難事』の以上の訓読を「本門ノ本尊ト四菩薩ト戒壇ノ南無妙法蓮花経ノ五字与(ト)之ヲ残シタマフ」(このP284)と田村芳朗師はしています。取要抄、報恩抄等との兼ね合いからすれば「本門ノ本尊ト四菩薩ト戒壇“ト”南無妙法蓮花経ノ五字」とするほうが相応だと思うのです。田村師の見解はともかくとして、この点はどのようにお考えになりますか。

ご賢察をお聞かせいただければ幸甚です。

3296犀角独歩:2007/05/05(土) 10:05:44

(3) 諫暁八幡抄の花押

もう一点。これは独学徒さんに主にお尋ねしたいのですが、編集・大石寺学頭/由井日乗『日蓮大聖人御真筆』(昭和14、5年頃刊)に載る『諫暁八幡抄』47紙の文末、花押はどのようになっているのでしょうか。ご承知のところあれば、ご教示ください。

3297顕正居士:2007/05/05(土) 10:17:42
>>3291
ご質問の趣旨が分からないですね。福岡の記事は大石寺とも日蓮宗とも関係ないようですが。

法華経一部読誦すると9時間というのはそんなものでしょう。1品20分弱×(28品+開結)。

ところでお経を読誦するのは何の意味があるのかと考えると、仏様にお経を聞かせるのは
無意味です。釈迦に説教です。だからこれは自分が暗記するためなのです。
方便品読不の論争とか、富士派に限りませんが、読誦は何のためにするのか、肝心なことが
消し飛んでしまった低レベルの議論が上代の日蓮宗には多かったようではあります。

3298犀角独歩:2007/05/05(土) 10:22:53

(4)祖翰難字集

あと一点。彰往考来さんが『富木常忍に授与された御本尊について』(http://fujikyougaku.fc2web.com/ronbun/toki.html)で取り上げられている京都頂妙寺/真如院日等の事績に係ることですが、『祖翰難字集』は、影本その他出版されているものなのでしょうか。これまた、ご承知の点がございましたら、ご教示ください。

3299独学徒:2007/05/05(土) 12:24:43

犀角独歩さん、

>3296
以前、昭和6年発行の由井一乗「日蓮大聖人御真筆写真集」は拝したことがあるのですが、その当時『諫暁八幡抄』に関しては、特に気に止める事はしませんでした。
コピーを持ち帰った部分は、日朗代筆の『伯耆公御房御消息』(御書全集未入集)と巻末の発行者その他の記された部分だけでした。
確かに、犀角独歩さんが注目するように、発行者由井一乗となっていますが、編纂者は堀日亨となっています。
『諫暁八幡抄』巻末の「日道花押」は、御書全集でも隠蔽工作がなされていますので、最初に禁忌を犯したのが、堀日亨師である可能性は十分にありますね。
しかし今は手持ちの資料では、可能性以上の事は判らず、ご期待に沿えず申し訳なく存じます。

話は変わりますが、由井一乗「日蓮大聖人御真筆写真集」所載の日朗代筆『伯耆公御房御消息』が御書全集に収録されなかったのは面白いですね。
弘安五年という日蓮最晩年の時、日朗が日蓮の側にいて、日興は駿河の国という日蓮から離れたところにおり、日朗が日蓮の代理者として日興に消息文を送られているわけです。
消息の巻末には「日朗花押」と認められており、しかも内容は今で言う所謂「御秘符」に関するものですね。
御書全集の編纂姿勢には、いまさらながら特定意図が反映されていることを痛感しますね。

3300パンナコッタ:2007/05/05(土) 12:38:04
三八教は、御書システムの系年備考では、
「真蹟本状奥に「三月十六日」の日付があり、且つバン字形とおぼしき花押があるが、これは他筆である。
寺尾英智はこれを京都妙顕寺五世朗源の筆跡と推定している(「京都妙顕寺所蔵の日蓮真蹟」『仏教思想仏教史論集』418頁)。
『日明目録』『高祖遺文録』『縮刷遺文』『定本』『新定』は正嘉元年三月十六日とする。『対照録』は日付は他筆であるので採用せず、
系年は「文永六年、或謂文永八年」とする。文中爾前経の円と『法華経』の円との相違が示されており、これは文永六年に系けられる
番号81「十章抄」、同じく文永六年に系けられる「双紙要文」(『対照録』下巻164頁)と共通しており、『対照録』の文永六年を可とする」
 となっていました。

3301犀角独歩:2007/05/05(土) 13:02:09

○独学徒さん、有り難うございます。

『日蓮聖人真蹟集成』第1巻の兜木正亨師の解説は以下です。

「2A、日蓮大聖人御真筆写真帖 1帖
 編集者 堀日亨 発行元 大石寺大学寮 昭和6年650遠忌記念刊
 (内容)大橋書・重須女房御返事・龍門御書・上野殿御返事・上野母尼御返事・筵三枚御書
 2B、日蓮大聖人御真筆 2巻
 編纂 大石寺学頭由井日乗 昭和14、5年頃刊
 (内容)宝軽法重事・衆生身心御書・減劫御書(以上巻1)・諫暁八幡抄(巻2)」(1-277)

由井一乗は「由井日乗」の間違いでした。
どうやら、独学徒さんが御覧になった写真帖から10年足らずして、別刊された巻2に諫暁八幡抄が所載されたようです。

> 「日蓮大聖人御真筆写真集」所載の日朗代筆『伯耆公御房御消息』が御書全集に収録されなかった…編纂姿勢…特定意図が反映

兜木師の記述には、この書が触れられていませんが、所載されているわけですね。学会分離以降、刊行された石山版では載せていますね。

仰るとおり、この日蓮の許の日朗、その代筆が離れた日興に送られたという位置関係は興味深いですね。

わたしは、日興は、日朗、さらに日昭を兄弟子として尊敬し、敬愛していたと信じたいと思います。


○パンナコッタさん、有り難うございます。

文自体は真蹟ながら、花押は他筆。文永6年説は花押からではなく、内容から、ということですね。納得できました。

3302独学徒:2007/05/05(土) 13:42:35

犀角独歩さん、

由井日乗でしたか、とんだ勘違いをしていました。
大変に失礼致しました。

3303犀角独歩:2007/05/05(土) 13:43:21

独学徒さん、いやいや、これはわたしの間違いでした。
失礼いたしました。

3304れん:2007/05/05(土) 21:01:32
犀角独歩さん
まず三八教は本文は蓮師真蹟ですが、末尾の日付・署名花押はパンナコッタさんご指摘の資料にあるように、後世の加筆にかかるものです。ほぼ同じ筆跡の日付・署名花押が妙顕寺蔵の蓮師真蹟の“八宗違目抄”の末尾にもありますので、三八教・八宗違目抄のそれは、パンナコッタさん御提示の資料にあるとおり後の妙顕寺歴代による加筆ですね。
法華行者値難事の本門三法門の部分の読みに関しては、独歩さんの方が無難ですね。日尊門流(日蓮本宗)中興の広蔵日辰は「四菩薩の戒壇」と読みを付していますが…、これはどうでしょうか?私は「本門ノ本尊ト四菩薩、戒壇ト南無妙法蓮華経ノ五字」と本門三法門の上から読み下しますがこれは私見です。 以上、雑文ながらご参考まで。

3305犀角独歩:2007/05/05(土) 22:48:59

れんさん、有り難うございました。
まずは、ご賢察を拝聴し、考えも整理がつきました。

また、事後報告で恐縮ですが、ブログにコメントを頂きました件につき、愚案を記しました。引き続き、コメント等、頂戴できれば幸甚です。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50957981.html

3306犀角独歩:2007/05/06(日) 17:22:49

こちらでは、画像がアップできませんので、『三八教』の後加の日付と日蓮花押を、わたしのブログにアップしました。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50963427.html

3307独学徒:2007/05/06(日) 19:07:25

犀角独歩さん、

ブログのご紹介恐縮です。
れんさんご指摘の『三八教』と同筆の後加文である、『八宗違目抄』巻末部分を談議所の方にアップしてみました。

http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html

3308しゅんかん:2007/05/06(日) 22:03:27
顕正居士さん

ご教示有難うございます。
稚拙な文、申し訳ありませんでした。

一部=一部分なのか?とも思ってる附しが在りました。
一部=法華経二十八品とは理解していなかったのでした。

3309再挑戦者:2007/05/19(土) 18:56:38
 、、横レスゴメンします。
 先日、日蓮宗・重鎮の某寺院に参詣した。
 ボランテアの案内人が居ました。 でも、 庶民を無視するような、殿様応接にウンザリしました。
  門板には「、、久遠実成の教主釈尊を本尊とする、!!!」、、です。
 諸賢様、、何か、、変では、、ないでしょうか、、??
 日蓮宗には、日蓮真筆のご本尊が120数体記録されておるが、ナぜ、、「、、本尊、、として成立、」、、がなされていないのでしょうか、???
  日蓮さまが「魂を墨に託して書きて、候、、ぞ、、」、、と言う、お言葉を、余りにも軽視、、無視、のようでしょうか、??
 日蓮さんの「魂、」を理解不能な「オチコボレ、のような方方には、、」、、所詮は、「、???、、」、、でしょうか、、??

3310犀角独歩:2007/05/20(日) 07:37:33

> 久遠実成の教主釈尊を本尊

とは、教相の本尊でしょう。漫荼羅とは別です。

3311アンジ:2007/05/20(日) 11:52:52
ちょっと失礼します
再挑戦者さん
人に読んでもらい、意見を求める文章ならきちんと書くことをお勧めします
内容云々ではなく、読みづらいです

3312れん:2007/05/20(日) 17:08:15
再挑戦者さん
犀角独歩さんが述べておられるように、本門(教相・色法)本尊は寿量品に説かれた久遠実成の釈尊であることは、蓮師が報恩抄で明記されるところであり、また富士門流の祖師である興師も「南無妙法蓮華経の教主釈尊・久遠実成の如来」(原殿書)とお題目の教主を久遠実成の釈尊と示されており、この点特に異とするところはありません。初期富士門・特に目師門弟の著述に引用される蓮師記述とされる“三法妙の図”を読みますと仏法妙(本門、仏法妙を能開とし、衆生法妙・心法妙を所開とする)に対応するのは“寿量品の釈迦仏”(宝軽法重事)であり、心法妙(観心、心法妙を能開とし、衆生法妙・仏法妙を所開とする)に対応する蓮師の遺物は御筆漫荼羅であると愚考しますので、敢えて記すなら久遠実成の釈尊の色法(仏像)が本門本尊(教相)であり、心法(題目)が観心本尊に相当するのではないでしょうか?初期富士門では広宣流布・国主帰依を待って本門本尊(久遠実成の釈尊の仏像)を造立し、それまでは観心本尊(敢えて飛躍的に言えば御筆漫荼羅?)のみを安置するという意見だったと思いますが、いつまでたっても広宣流布の兆しがないこと、かつ御影信仰の興隆と室町期の中古天台の教学・慶林日隆師の教学の摂取により、末法の教主を日蓮とみなすに至り、御影本尊観から日蓮本仏観に進んだのが富士の本尊観の変遷と思います。

3313マハー:2007/05/21(月) 20:21:25
先日、日寛の題目抄文段を読んで、日寛が釈尊実子三人説を採用していたのには驚きました。
報恩抄を読むと日蓮が釈迦の実子三人説に否定的なのが覗えます。
では日寛は実子三人説をどこから引っ張ったのか?

最澄の血脈系譜からか、はたまた慈恩大師の玄讃からか・・・
日寛の「中古天台の影響」をふと感じた一文でした。

3314再挑戦者:2007/05/26(土) 18:20:25
3311,アンジさま、失礼しました、今後はその方向に向けて自助努力したい所存です。
 3312、れん様、3310、独歩さま、ご指導のほど痛く感涙します。
 >、、,、広布の兆し、、云々、、<      
  これには、グサリと、説得力999%を超えるかと、存じます、。
 只、当時、鎌倉時代の識字率、紙の生産量、郵便率、など、から勘案しますと、「、日蓮さまの意図する事柄の何%、が信者諸賢にに正確に伝達されたか、?」、と言う、更なる疑問を感じます次第です。

3315再挑戦者:2007/05/29(火) 20:44:19
、、ゴメン下さい。
 諸賢方のご意見・御主張、などは、「、、現職・僧侶サイドからのご意見、?、」、、が多くを占有?していますよようですか、?
 然るに、小生は「、、ロクニ背景も考慮もせずに?、信者サイドからの思い??、」を、? 発言させて戴きました、。 此処において、多種の食い違いと、読みズラさ、?、、が、存在したようでしょうか、?失礼しました、。 疑問は継続中ですが、、 早々、。

3316再挑戦者:2007/05/30(水) 22:01:46
 、、ドーモ、、です。
 昨今、「ササニシキ偽造で七名逮捕(読売新聞)」、のニュースがありました。  たかが「米、、!!」、、「、されどコメ、、??」、、でしょうか、?
 只、我らは、笑っては、? 済まされないでしょう、? 是と、同じ「根っこを源流とする、、ニセ・ササニシキ、、問題
、?」、、に関連するようでしょうか、、?
 寄ってたかって、、「、、日蓮さまの魂を、ニセモノへと誘導したパターンと相似形が、、?、」、懸念、、されますでしょうか、?

3317れん:2007/06/05(火) 06:25:03
再挑戦者さん
少なくとも、私の投稿内容に関しては、私のこれまでの見聞したことや文献調査等に基づき、自分の見解を書いておりまして、他の方(たとえば高僧など)の影響など受けてのものではありません。そこのところ、ご理解戴ければ幸甚です。

3318マターリ:2007/06/05(火) 21:27:22
日蓮聖人の文章について解釈に悩んでいます。教えていただきたく、宜しく
お願い致します。

秋元御書↓

是くの如き重戒なれども法華経の敵に成れば此を害するは第一の功徳と説き
給う也。

治部房御返事↓

例せば父母を殺す人は何なる大善根をなせども天・是を受け給う事なし、
又、法華経のかたきとなる人をば、父母なれども殺しぬれば大罪還って
大善根となり候。

この文章の、「害す・殺す」というのを、そのまま受け取ると、とんでもない
ことになりますが、どう考えたら宜しいでしょうか?

3319問答迷人:2007/06/05(火) 21:59:44

マターリさん

ご参加有難うございます。

秋元御書、治部房御返事、いずれも真蹟遺文が有りません。これら、真蹟の無い御書をどう考えるか、難しいところです。

もし、これらが、蓮祖の文章そのままだとすれば、バリバリのポァ思想ですね。涅槃経の中に、仏教の教えでないものが紛れ込んでいると聞いていますが、これはその代表格だと思います。オーム真理教の麻原教祖の教えと同じですね。涅槃経に書かれているからといって、蓮祖がそれをそのまま踏襲したとは、僕は考えにくいのですが、仏教に有らざる考え方であり、排斥されるべきものと考えています。

3320マターリ:2007/06/05(火) 23:23:49
>問答迷人さん、教えていただき、ありがとうございます。

真蹟遺文が無いとすると、その先の解釈が難しくなりますね。

ところで撰時抄は、真蹟遺文なのでしょうか?↓

建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔を
ばやきはらいて彼等が首を由比の浜にて切らずば日本国必ず滅ぶべしと申し
候了んぬ。

3321犀角独歩:2007/06/06(水) 00:34:12

マタリーさん、はじめまして。

まあ、こう書いては語弊があるかも知れませんが、日蓮とはそんな人と、わたしは考えています。日蓮を自由平等、民主主義、平和の使者、非暴力の代名詞みたいに評価するのは、およそ、現実からかけ離れています。

折伏を殺の義という天台釈を採った日蓮ですから、法華不信者を殺すことを是とするのが日蓮の為政観だということですね。

ただし、日蓮が言う、折伏・摂受とは、今で言えば、刑罰と更生のようなものであると、わたしは考えています。涅槃経は、中国でまとまっていた経典ですが、いまで法律と仏教を併せ持った性質を有しています。つまり、為政者にとっては法律法典で、為政者は国を統治するために刑罰を以てせざるを得ずそれを意味したのが折伏っです。出家にとっては仏典です。出家は如何なる悪人も仏の前に救うことを前提にしますから摂受となります。今で言えば、死刑囚の最期に聖職者の教誨があるごとくです。救えるのであれば更生もあるでしょう。そして、この二つが一致することを祭政一致、王仏冥合となるわけでしょう。

このような関係を日蓮は『本尊抄』に「当知此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法」と言ったのでしょう。

要するに、日蓮がいった折伏=殺とは、為政者の権限範囲とした刑罰、いまでいう死刑執行の権限を示したことであると、真蹟遺文を精査すれば読めます。

ただし、現在の死刑執行に値する罪状は、複数に及ぶ殺人罪等ですが、日蓮が言う殺人に匹敵する罪状は「法華誹謗」という仏法違背であるという点で、「ポア」と重なる点があるのでしょう。しかも、その系譜は、日蓮から天台、涅槃経に遡れ、チベット仏教とも同等の意義を有していると言うことでしょう。

この事実を厳正にとらえ、「取捨得宜不可一向等」という釈に依ろうというのが、わたしが記してきたことでした。

3322れん:2007/06/06(水) 00:55:22
マターリさん、初めまして。
秋元書については、弘安三年あるいは四年に係る真蹟遺文“慈覚大師事”に「法門の事は、秋元太郎兵衛尉殿の御返事に少々注して候。御覧有るべく候」とあり、その存在を確認できますから、後世の作品とは言い切れない部分があります。また撰時抄はほぼ全文真蹟が現存する遺文です。
日蓮聖人といえども、前近代の中世・鎌倉時代に生まれ生きた御方であり、鎌倉時代当時の日本の仏教学の常識のうえからネハン経のポア思想を受容していた一面も有していたことは認めざるを得ないでしょう。
ただ私が敢えて鎌倉時代とことわったように、蓮祖のそれは一切衆生の得道を思っての発言であって、遺文を委細に読めば解る通り、蓮祖は犯罪行為としての殺人思想を肯定していた訳ではもちろんありません。蓮祖のそれは、あくまで、その執行者は本化国主に限定されるものでしたでしょう。ご自身はあくまで聖僧として不軽菩薩の立行に徹していたのが事実です。
先に記したように、鎌倉時代という時代背景から蓮祖の中にはネハン経の負の部分を受容した事実があるが、現代の視点と常識から、勿論この部分の思想は理由の如何に関わらず全否定・捨て去るのは当然で、この点、門下は蓮師の露払いをするのは当然のことですね。

3323パンナコッタ:2007/06/06(水) 14:19:08
撰時抄なら、ご参考に。
 http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kakukaHP_system_kanrika/amenity/bunka/myohokkeji/myouhokkejibunka.htm

3324マターリ:2007/06/06(水) 18:21:09
>犀角独歩さん、れんさん、教えていただき、ありがとうございます。

偉大な仏教者なので、深い意味があるかとも思いましたが、ポア思想と重な
る部分がある、ということで、心がかえってすっきりとしました。

日蓮聖人も人間ですから間違いもあると思います。また、末法思想が流行し
た鎌倉時代にあっては、殺人ということが当たり前だったように思います。

秋元御書では、仙予国王が五百人の法師を殺し、阿育大王が十万八千の外道
を殺したと書いてあります。そして二人を褒め称えています。

しかし、二人と併記して覚得比丘が無量の謗法の者を殺したと書いてあり、
持戒第一の智者と誉め称えています。比丘とは出家した男子ですから、僧
が謗法の者を殺しても構わないという考え方ではないかと思えますが、
どのように考えたら宜しいのでしょうか?

れんさんが、おっしゃるような「その執行者は本化国主に限定」ではなく、
僧も執行して良いように受け取れます。秋元御書が真蹟だとすれば、
ですが。

>パンナコッタさん、絵曼荼羅には、びっくり仰天しました。

3325犀角独歩:2007/06/06(水) 19:37:50

マターリさん

厳正な判断をしようとするのであれば、それまでの信仰や、関係してきたグループと知り合いに、いやまして、日蓮その人に遠慮も出ようと言うのも人情ですが、それがかえって事実を正視することを歪めます。

わたしは、あなたのご判断は、資料からすれば当然の帰結だと思います。

半世紀前、世界最終戦争、聖戦だという日蓮門下の戦争翼賛論は、以上の脈絡から出た事実を、厳正に受け止め反省しなければならないでしょう。

いまだ折伏正意だという人々は、あなたが正視した文献を度外視して、日蓮を言論折伏の人に仕立て上げて是としようとしています。いまだに、そんな論理が尊ばれています。折伏 … 折り伏せるんだそうです。こんな言葉を使って、何とも感じない知性の鈍化、わたしは、このような態度を欺瞞であると思うのです。

「日蓮聖人が、そう仰っている」と嘯きます。ならば、法華誹謗の者の頚でも刎ねて歩ければいいのです。折伏正意をいいながら、後世の捏造に過ぎない彫刻を批判するわけもなく、摂受よろしく遊戯雑談をする自語相違の有様は、もはや、なに折伏なのかと、刎ねられないこの頚を傾げるばかりです。

なお、断罪執行者は『本尊抄』から離れれば、本化国主に限ることではないのは、涅槃経の規模からすれば、そのとおりであろうと、わたしも思います。

3326マターリ:2007/06/06(水) 22:03:14
>犀角独歩さん、レスありがとうございます。

王仏冥合とは法華経を国教化し、謗法の者にたいしては折伏し、死刑を前提
にして、改宗を迫ると考えて宜しいのでしょうか?折伏には殺の義があるん
ですね。私は、折伏というものを、軽く考え過ぎていました。

しかし、こうした国教化は、全体主義と同じような恐ろしい体制だと思いま
す。

太平洋戦争の発端は、2.26事件にあると考えていましたが、この事件に、
田中智学の国柱会が思想的に影響を与えたようですね。

また、太平洋戦争前のスローガン「八紘一宇」は、日蓮を中心にして「日本
國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」ということですから、
恐ろしいことです。

日蓮仏法を突き詰めていくと、こうした思想になっていくのは必然なので
しょうか?

また、満州事変の立役者は石原莞爾だったと思いますが、彼も国柱会の一員
なので、世界最終戦争の思想的背景には、日蓮仏法があると思います。

石原莞爾が満州に手を出さなければ、満州事変は起こらなかったと思います。
満州事変が起こらなければ、後の上海事変・日中戦争そして太平洋戦争も、
起こらなかった可能性もあり、彼の責任は重大だと思います。

3327青蓮:2007/06/07(木) 00:39:32
マターリさんはじめまして。私は王法=政治や権威権力ではないと思っています。何故かならば日蓮聖人は時の権力者に対してわずかな島の小主とも言われており、政治や権力だけを聖人が王法と捉らえていたならばそんな大切な王法をわずかな島の小主とは言われないでしょう。わずかな島の権威権力を仏法と肩を並べさせて何の意味があるでしょうか?その答えは法を下げるだけです。故に政治という狭い枠だけではなく社会のあらゆる生活(教育、経済その他の学問や職業を含めた広い意味を持つ)を指して王法と言われているのだと私は感じています。王仏冥合を政教一致のような方向に捉らえてしまうのは院政期ごろに見られる時の権力者の考え方と同じで、聖人の言う王法はもっと広い意味での考え方であると私は思います。

3328犀角独歩:2007/06/07(木) 07:46:20

マターリさん

ご投稿の歴史観は、ほぼそのとおりであろうと思います。
そのことを忘れて、折伏、本化、国主、国立戒壇などを軽々に口にせず、歴史的な反省を踏まえたうえで、未来を目指すのであれば、再構築かが必要なのだと考えます。

日蓮の思想を煎じ詰めていくと、必然的に戦前のようになるのかという問いですか。さて、この点はどうでしょうか。

戦後の創価学会の歩みは、いわば、国柱会の軍隊セッションを、折伏大闘争という民衆運動へ転化し、そこでは、原水爆反対、平和憲法擁護を中心に据えてきました。ところが、ここに来て、民衆主体から、自民党の連合から大資本主体へ傾き、いきおい、平和憲法擁護も揺らぎ、自衛隊の軍事強化から軍隊化へ、軍需産業による利権という方向性で、民衆と平和から乖離していっています。
ここでもし、日蓮を据えた「平和」を言うのであれば、つまるところ、戦前の悪夢に逆行するでしょう。この創価学会の変貌の原因を、日蓮の考えによると見るかは、意見の分かれるところでしょうか。


青蓮さん

3327のご投稿は、日蓮の王法二文論が考慮されていませんね。
日蓮にとって、王は正法護持と不信に二分立されているのであって、前者の場合、『本尊抄』に「此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王」という四菩薩としてとらえ、いっぽう後者の場合、ご引用の根拠となる所謂釈尊御領観による『法門可被申様之事』の「日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず、但嶋の長なるべし」という一節と現るのでしょう。

正法護持の四菩薩応現・賢王は、御領主釈尊からの使いであるのに対して、不信の「嶋の長」とは違います。
この両者を、国王として束ねて同じカテゴライズをしないのが日蓮の発想です。国王に判断肢があるのではなく、法華護持の信不信に基準があるからです。
正法護持において執政する王仏冥合国家を考えた日蓮における国王観は、現代語で言えば、間違いなく「政治権力」でしょう。


では、ここで、マターリさんと青蓮さんが取り上げられた国王という一点に就き、戦前日本の日蓮門下における国王観を、いまいちど見直してみるとき、この天皇は正法護持の法華を以て立正安国を目指したわけではありませんでした。しかし、これをもって本化国主として、極論においては天皇本尊論まで鼓舞されたわけです。つまり、不信の但嶋の長を採って、正法護持の賢王のように扱ったという点が指摘できます。わたしは、この戦前の有様は、『本尊抄』の道筋から言えば、甚だ不可であると考えます。

では、さらに天皇が法華護持を正法流宣の仁となったモデルを考えてみます。ここでは、れんさんが「執行者は本化国主に限定」という道筋から考えられます。日蓮は武力行使、この本化国王の武力行使を肯定していたかどうか。それは、上述書にも、「日本一州上下万人一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓並天照大神等隣国の聖人に仰つけられて謗法をためさんとせらるゝか」などと、記すわけですから、武力による「正法」弘宣を、日蓮はまったく受容していることがわかります。

以上、日蓮のおける国王の規模でしょう。

3329犀角独歩:2007/06/07(木) 07:47:59

【3328の訂正】

誤)日蓮の王法二文論
正)日蓮の王法二分論

3330青蓮:2007/06/07(木) 09:50:21
独歩さん

独歩さんの御見識毎回の如く勉強になります。個人的には鎌倉時代と現代社会という時代的な変遷を考慮してから現代にそぐわない鎌倉時代においては常識であったであろうと思われる日蓮原理主義的なものは現代ではどのように考えるべきかと展開していくのがむしろ宗祖の心に叶うものであろうと考えているのですがまだまだ無知である故に勉強不足な点のある事をお許し下さい。

3331マターリ:2007/06/07(木) 18:30:55
>青蓮さん、初めまして、宜しくお願い致します。

>犀角独歩さん、教えていただき、ありがとうございます。日蓮聖人の
王仏冥合論と、それに対する国柱会と創価学会の歩みが、よくわかり
ました。ありがとうございました。今後とも宜しくお願い致します。

3332犀角独歩:2007/06/07(木) 18:37:37

青蓮さん

返レス、有り難うございます。
わたしたちが、真摯に日蓮の実像を考えようとするとき、日蓮を信仰する各集団、各個人の思惑が、その正視を妨げます。それぞれの信仰者が懐く日蓮のイメージは、願望によってデフォルメされ、時に歪んでいます。

わたしの3327のご投稿を拝見して、目についたのは「法を下げる」という一言です。この奇妙な(と敢えて言いましょう)表現は、創価学会とその周辺の得意な用法の一つですね。

たとえば、以下、livedoor で検索してみました。

http://search.livedoor.com/search/?k=search&amp;ie=utf8&amp;flag=1&amp;q=%E6%B3%95%E3%82%92%E4%B8%8B%E3%81%92%E3%82%8B


一瞥してわかりとおり、ヒットするのは創価学会関連です。つまり、他の日門下、仏教一般で、こんな用法はないということです。

つまり、この考え方は日蓮に遡源できません。日蓮に遡源できない用法で、日蓮の素意を探ることを、わたしはナンセンスであると考えます。もっといえば、日蓮の思惟から程遠いと言うことでもあります。

自分が記したこと、考え方、遣り方は何の影響か、そのゲタを外してから、「さて、日蓮は」と正視しない限り、日蓮だと思うのは、後の信仰者が思惑で揺らめかせた陽炎を、実像であると延々と勘違いする砂漠を彷徨することになります。

もちろん、日蓮を信仰から眺めることは各人の勝手ですが、しかし、それぞれの思惑を押しつけられる筋合いはありません。真の日蓮に会いたいと思えば、まずは、自分が過去に見聞し、以上のような思惑に満ちて語られ染みついてしまった固定観念を打ち砕くところから始める必要があります。

わたしは常に自問するのは「何で、このように考えてきたのだろうか」ということです。その影響を去って自力で考える。そこで見える日蓮、また、日興は、自分の信仰対象としての日蓮と乖離してしまうことはしばしばです。しかし、わたしは正視をやめません。信仰者の執着に遠慮会釈もいたしません。
なぜならば、わたしが知りたいの実像の日蓮だからです。

3333マターリ:2007/06/07(木) 18:55:33
>犀角独歩さん、私は創価学会・非活動家とはいえ、毎日、曼荼羅御本尊
様に手を合わせています。物心つくかつかないうちから、ずっと御給仕
と唱題をしていますので、日蓮聖人に対する信仰が、しみついています。

日蓮聖人の負の部分を知ってしまった現在、どのように御本尊様に向かっ
たら良いのか、悩むようになりました。なかなか題目があがらず、信仰が
薄らいできたように思います。

学会にはもちろん、親にさえも話せない内容ですので、ご指導のほど、宜し
くお願い致します。折伏=殺と、親が聞いたら、即座に信仰をやめそうな気
がして怖いです。

どのような気持ち・姿勢で、御本尊様に唱題すれば宜しいのでしょうか?

3334犀角独歩:2007/06/07(木) 21:35:26

マターリさん、こんばんは。

まず、ご指導などとおこがましいことはできません。これは前提として、ご理解ください。

こちらの過去ログをどれほど、お読みになりましたか。
わたしが、ずっと記してきたことは、この「本尊」についてもあります。
そもそも、「本尊」語は、天台の用法にはまったく見られません。
顕正居士さんとの議論では、真言密教の用語とのことでした。つまり、その影響が法華天台に及び定着し、日蓮も依用したということでしょう。

日蓮が本尊というのは、寿量仏、つまり、教相から考えれば、法華経から考えられる久遠五百塵点成道の釈迦牟尼仏、観心から考えれば「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏」。そして、『本尊問答抄』が真筆であれば「法華経の題目」でしょう。漫荼羅を本尊というのは、もはや例外に属します。

そのことから、わたしは、漫荼羅を本尊であるとは考えていません。
ただし、日興は漫荼羅を本尊といっています。この日興の考えに、わたしは、消極的です。わたしの日興嫌いは、こんな側面にもあります。

もっともいえば、本尊を策定する日蓮の発想には、仏法・仏教という見地からは、やや賛成しかねます。漫荼羅は、密教の影響としての漫荼羅であり、日蓮は、これを弟子檀那の允可証として活用したというのが、わたしの見解です。

以上の次第ですから、仏道修行において、ことさら、本尊と唱題を絶対視する必要性をわたしは感じていません。ただし、それを活用することを否定するということでもありません。もっと言えば、仏道修行において、信を絶対必須条件などと考えることもありません。以上がわたしの見解です。

この次第から、では、マターリさんの質問を摺り合わせてみてください。
何が違っていると思われますか?

3335マターリ:2007/06/07(木) 22:07:26
>犀角独歩さん、申し訳ありません、過去ログはまだ、ほとんど読んでおり
ません。初めてこの掲示板を拝見したのが、今週の月曜日ですので。

本尊に関する過去ログを、よく拝見してから、再びお伺いしたいと思います。
ありがとうございました。

3336マハー:2007/06/09(土) 16:08:35
>>3333
マターリさん
>日蓮聖人の負の部分を知ってしまった現在、どのように御本尊様に向かっ
>たら良いのか、悩むようになりました。

門外の私が日蓮を庇うつもりではありませんが・・・
秋元御書の
「是くの如き重戒なれども法華経の敵に成れば此を害するは第一の功徳と説き
給う也。」を、<ポア思想>と位置付けるのは拡大解釈かも知れませんよ。
(オウム事件から広く知られるようになった「ポア」は多義に及ぶので、一応私のこの投稿においては、「殺人奨励」程度の意味で使用します。)

「第一の功徳と説き給う也、況や供養を可展哉」と続きますね。
秋元殿は上級武家でしょう。何かしらの殺害と隣り合わせの立場です。
日蓮のこの引用は涅槃経からとのことらしいが、当然ですが、涅槃経に「法華経を誹謗する人」と出てくるわけではありません。
曇無讖訳の、大般涅槃経第十二では

我於爾時心重大乗。
聞婆羅門誹謗方等。
聞已即時絶其命根。

法華経ではなく大乗経典と出てくるわけです。
私は、日蓮が「害することが第一の功徳」ではなく「大乗の中で法華経が第一」との日蓮お得意の意に読みます。確かに、法華経が第一なのだから功徳も第一となるのでしょうが、ここでいう功徳とは、「地獄に落ちない功徳」です。(ややこしい書き方ですみません)
これは次に「以是因緣従是已来不墮地獄」とありますからね。
また地獄に落ちないのは、「害する方」ですね。「殺される側」ではありません。この辺が「ポア=殺人奨励」とはやや違うところだと思います。

私は、例え多くの戒律を護ったとしても法華経を誹謗すれば堕地獄であり、また、多くの戒を破ったとしても、「況や供養を可展哉」と、この手紙の文意と読みました。

横言失礼致しました

3337マハー:2007/06/09(土) 16:18:57
訂正
以是因・従是已来不墮地獄
  ↓
以是因縁従是已来不墮地獄

3338犀角独歩:2007/06/09(土) 18:24:26

マハーさん

ここのところの議論は『秋元御書』から事及んでいますが、日蓮の“殺”もしくは“折伏”については、まず『開目抄』から見るべきでしょう。つまり、

若有更為当断其首 如是等文 並是折伏破法之人

また、

止観云 夫仏両説 一摂・二折 如安楽行不称長短是摂義。大経執持刀杖乃至斬首是折義

ここでいう大経とは涅槃経ですね。両引用とも首を刎ねることを言っていますよ。また、これらの引用は功徳との対比で述べられるわけではなく、台学の五時判において法華・涅槃と束ねた見地を前提にしています。そのために、涅槃経の文は涅槃経を指すところ、法華経を指すことに転換されるレトリックを有します。この点を、わたしは過去に指摘し、法華・涅槃を束ねることに反対し、涅槃経を簡ぶことを述べました。

曽存ながら『光日房御書』には

念仏を、無間の業と申、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頚をはねらるべしと申上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕給たりと申ほどの大禍ある身なり

とまで記しているわけです。マターリさんの解読に別段間違いはありません。

ただし、わたしがマターリさんに記したことは、この解読についてではなく、本尊への勤行ということにつき、「本尊」義についてです。天台文献には、「本尊」語の用法がないこと、また、日蓮の教説から、漫荼羅を本尊とすることは例外に属すること、もっといえば、そもそも印刷複写漫荼羅が本尊といえるのか、さらにいえば、いま、行われている勤行が日蓮の言う勤行といえるのかという問題もあります。これら一切合切を、この段階で、マターリさんは再考され、そして、一体、何が残るのかを考えてみたらどうかというのが、わたしが記したことです。

3339マターリ:2007/06/09(土) 20:24:00
>マハーさん、ありがとうございます。秋元御書と撰時抄については、
2チャンネル創価・公明版で昨年、見て知っていました。しかし、日蓮聖人
の弟子、数百人が殺害されたことを考えると、謗法の者を殺害せよ、と殺人
奨励したとしても、ある程度、お気持ちを理解することができました。
(行敏訴状御会通を見ました)

しかし、何気なく治部房御返事を読んでいて、この文章を見つけ驚いてしま
いました。親が謗法をした場合、殺害しても構わないなど、日蓮聖人の言葉
とは、思えませんでした。時代が違うことを考慮しても、信じられない内容
です。(真蹟かどうかわかりませんが)

本尊スレッドにも、同じような内容が書いてありました。

治部房御返事↓

例せば父母を殺す人は何なる大善根をなせども天・是を受け給う事なし、
又、法華経のかたきとなる人をば、父母なれども殺しぬれば大罪還って
大善根となり候。

>犀角独歩さん、本尊スレッドと鰯の頭スレッドを、ざっと拝見しました。
犀角独歩さんの御名前は、原始仏教典・スッタニパータからとられたのです
ね。・・・犀の角のように独り歩め、ですね。私もスッタニパータを読みま
した。

犀角独歩さんの御高説を伺って、概要を箇条書きしました↓

1.大石寺の大御本尊は偽作
2.日蓮聖人は、本尊を釈迦立像としていた。将来的には、釈迦坐像を。
3.日蓮聖人は、御本仏ではない
4.曼荼羅御本尊は、弟子への允可状のようなもの
5.信仰の奇跡は、プラシーボ効果による錯覚

2と3は、御書から拝し、その通りだと思います。
2・・・釈迦像建立を弟子に勧めている御書がありました
3・・・ご自身を、上行菩薩の再誕と、言われていると思います。

1・4・5について・・・私は、曼荼羅御本尊を拝んでいる身ですので、申し
訳ありませんが、信仰上、肯定することはできません。しかし、理論で否定
するには、証拠が無く、不可能な状態です。

色々考えましたが、私は、以下のような気持ちで唱題したいと思います。↓

南無妙法蓮華経という名は、諸仏諸尊の総称であり、有縁無縁の諸精霊を
供養する言葉であるという思いを持ち、唱える。

曼陀羅とは、諸仏の悟りの世界を表現したもの。南無妙法蓮華経と唱えなが
ら、諸仏の悟りの世界に没入して行く。

自信はありませんが、どんなものでしょうか?

3340犀角独歩:2007/06/09(土) 21:13:09

マターリさん

石山の彫刻が偽造であることは、拙書をお読みいただくこととして、いちおう、もっとも簡単な説明は以下で公開しています。
こんなものが本物であるはずがありません。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

また、ブログもご参照ください。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/

第一、日蓮は彫刻師ではありません。日蓮の真筆というのは、紙に墨で記したものを言います。彫刻に彫ったものを真筆かどうかと議論すること自体まったくのナンセンスです。もし、彫刻が真筆であるというのであれば、紙幣を板に彫刻して買い物をすればよいことになります。

> 南無妙法蓮華経という名は、諸仏諸尊の総称であり、有縁無縁の諸精霊を
> 供養する言葉であるという思いを持ち、唱える。

> 曼陀羅とは、諸仏の悟りの世界を表現したもの。南無妙法蓮華経と唱えなが
> ら、諸仏の悟りの世界に没入して行く。

> 自信はありませんが、どんなものでしょうか?

まったく違うと思います。

さらに異轍を述べれば、唱題の方法について、マターリさんは、どのように行っていますか。

日蓮の唱題は、「めうほうれんくゑきやう」ですが、大野晋師の日本語の研究では「はひふへほ」は鎌倉時代「ぱぴぷぺぽ」であったといいます。また、蝶を「てふ」と記しますが、これもそのまま、「てふ(Te-Hu)」と読んでいたというのが、『平家物語』の研究などから言われたことであると記憶します。
となると、「Me-u・Po-u・Ku-We・Ki-Ya-u」ほどの発声になります。また、一唱一呼吸であったという説(松本師)などとも言われますが、マターリさんは、どのように唱えていますか。あなたの唱え方は、日蓮の原形と同じでしょうか。

自分のやってきたとこにしがみつくことより、日蓮の素意に迫ることをお考えになることです。

3341犀角独歩:2007/06/09(土) 21:14:56

【3340の訂正】

誤)「Me-u・Po-u・Ku-We・Ki-Ya-u」
正)、「Me-u・Po-u・Ren・Ku-We・Ki-Ya-u」

3342マターリ:2007/06/09(土) 21:53:52
>犀角独歩さん、失礼致しました。既成概念を捨てて、HPとブログを拝見
させていただきます。

日蓮聖人の唱題の仕方については、全く知りませんでした。

3343天蓋真鏡:2007/06/10(日) 02:02:48
横レス失礼します。自分は、経典の説明、反法華への警告、日蓮を害する者への威嚇に想います。武士の時代、煽りを行ったと指摘されても仕方無いかなと考えます。 灰を薬代わりに飲ませた話がちょっとびっくりしました。

3344犀角独歩:2007/06/10(日) 08:05:59

マターリさん

わたしたちは、21世紀という時代を生きています。
科学的証明という現実を突きつけられています。

日蓮の時代は末法ではありませんでした。末法を説いた『大集経』は後世の創作でした。なにより、法華経は西暦前100年から後150年に創られたものであり、釈迦の直説ではありませんでした。漢訳された法華経、すなわち『妙法蓮華経』は恣意的訳が多く、原意から乖離している部分がありました。その漢訳を元に構成された天台(実際は章安の述)の釈でした。その天台の釈をさらに説明した妙楽には飛躍があります。これら釈は妙法蓮華経という漢字5文字に基づく構成です。梵語原典とは距離があります。さらにそれを踏襲した伝教は、その釈に積極的に「本尊」語を適用していきます。日本仏教の特徴、本地垂迹説、神仏習合があり、その様相は原意からさらにかけ離れていきました。日蓮は本覚の影響も、本地垂迹の影響を受容し、さらに本尊義、漫荼羅(密教)の影響も受けて、独自の法華観を展開します。日蓮の没後、日興は漫荼羅を本尊と定着させ、日蓮の仏像崇拝を撤廃、さらに日有に前後し、日隆の影響を受けました。日蓮本尊論の展開がありました。中世に恵心流口伝法門、また、日教が招来した京都の影響を受けました日蓮本尊は日蓮本仏へと変容しました。財力にものを言わせ、文献収拾した日精はm本門戒壇堂(御影堂)を建立し、この頃より、「本門戒壇の大御本尊」が看板になります。この文献収拾(つまり相伝、口伝の寄せ集め)を大成したのが日寛であり、さらに日蓮本仏と捏造された「戒壇本尊」を一体のものとする珍解釈を以てこれを鼓舞しました。

以上、雑駁な記述ですが、このような延長に、我々が信じ込んだ教学と本尊があります。ひと言で言えば、一切合切、後世の創作であったということでしょう。
しかしながら、これはわたし個人がなす批判と言うより、現代科学が実証した偽らざる実像であるということです。しかし、反面、われわれは数十年に亘る信仰経験を有しています。所謂「体験」というものです。この創作という事実と、体験には歪みがあります。

真実であるが故に体験があったと思っていたのにもかかわらず、創作虚偽であるにもかかわらず、体験が生じていたという歪みです。

この体験を生んでくれたシンボルとしての日蓮、南無妙法蓮華経、もっと言えば本尊、勤行、唱題にたいする畏怖と崇敬の念もあるでしょう。

この事実と虚偽、体験との狭間で、21世紀の日蓮を考えようというのが、当掲示板の趣旨でした。

単に反対者を侮蔑、悪口雑言したところで、科学が証明した事実は何ら変わることはありません。その事実を真摯に見つめ、では、どうするのかというアポリアは、超えられるかどうか。しかし、まず、大切なことは100年前に崩壊した「我々日本仏教」の実態を、正視することから始めることである。何故ならば、創価学会を含む大石寺圏の教学は冒頭に記した創作に基づく虚構であったからです。

出発はここにあります。

3345マターリ:2007/06/10(日) 12:37:11
>犀角独歩さん、仏教の変遷について、詳しく教えていただき、ありがとう
ございます。納得いたしました。

>この事実と虚偽、体験との狭間で、21世紀の日蓮を考えようというのが、
当掲示板の趣旨でした。

そうでしたか。掲示板の趣旨がよくわかりました。ぜひ、末席に加えていた
だければ、と思います。

>しかし、まず、大切なことは100年前に崩壊した「我々日本仏教」の実態
を、正視することから始めることである。何故ならば、創価学会を含む大石
寺圏の教学は冒頭に記した創作に基づく虚構であったからです。

創作だったんですか。プラシーボ効果について反論を述べさせていただきま
した。しかし私自身、いくら祈っても叶わないことの方が多く、悩んでいま
した。「祈って叶わざるなし」なので、信心が弱いせいだと思っていました。

HPを拝見しました。以前に拝見したことがあります。曼荼羅の写真集も、
昨年、見ました。第一本尊の、のんびりとした感じが好きでした。

ブログも拝見しました。彌彦神社に行かれていますが、日蓮門下として、
神社に行って良いものなのでしょうか?

3346そううそ:2007/06/10(日) 12:47:11
>>3323
パンナコッタさん、ALL
ご参考までに。
本境寺:絹本著色十界勧請大曼荼羅図
http://www.city.obama.fukui.jp/section/sec_sekaiisan/Japanese/data/263.htm

蓮祖及び門下の曼荼羅について
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1114674169/
こちらでリンクを張ったほうがよかったかな?

3347犀角独歩:2007/06/10(日) 14:13:33

マターリさん

> 日蓮門下として、神社に行って良いものなのでしょうか

たとえば八幡神社の多くは日蓮宗寺院と隣接して造立されています。

創価学会もかつては、大石寺の信徒団体でしたね。
富士宮にある浅間神社は、その大石寺が統括していました。
日興が造立した重須談所には、本地垂迹堂やら、八幡社がありました。
石山にも垂迹堂がありました。都合が悪いために資料性に難癖をつけられている日量の『大石寺明細誌』には以下の記述があります。

「天王堂本堂前東方西向向拝唐破風檜皮葺、四間四面、日天月天を勧
請す神躰は板本尊。
 垂迹堂本堂前東方西向宮造一間四方、天照八幡を勧請す神躰は板本
尊」

ここに「神体」とあります。寺院境内に造立された神社ですね、両方とも。
たぶん、これら堂宇は明治の廃仏毀釈、神仏分離令まで存続していたのでしょう。もし、神を拝んではいけないのであれば、漫荼羅にある神はどうなるのでしょうか。

日有は『化儀抄』に

「一、他宗の神社に参詣し一礼をもなし散供をも参らする時は、謗法の人の勧請に同ずるが故に謗法の人なり、就中正直の頭を栖と思し召さん垂迹の謗法の人の勧請の所には垂迹有るべからず、還つて諸神の本意に背くべきなり云云、但し見物遊山なんどには神社へ参せん事禁ずべからず、誠に信を取らば謗法の人に与同する失あり云云」

ここに「神社へ参せん事禁ずべからず」と明確に記されてあります。化儀抄は南条日住の正本を存します。一方、神社不参の根拠とされるのは『日興遺誡置文』の一節でしょう。

「一、檀那の社参物詣でを禁ずべし、何に況んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣づべけんや。返す返すも口惜しき次第なり。是全く己義に非ず、経文御抄等に任す云云」

この金科玉条の如く扱われる文献は、しかし、その正本が日興のものである証拠は何一つありません。また、先の『化儀抄』には「日興上人の時、八幡の社壇を重須に建立あり」とあります。

わたしの個人的見解から言えば、「天照大神」「八幡大菩薩(神)」と大書された漫荼羅を拝みながら、神社不参もないものだということです。

そもそも神社不参より、もっと悪いことがあります。日蓮の真筆だと謀った彫刻を本物である偽って信者を集め、その写しであるといって、まるで内容が違う漫荼羅を本尊といって印刷大量複写して信者に拝ませる。わたしは、こんなものは戦前に郡部が配布した神札よりもっと日蓮の意に背くものであると思いますが。神社不参を云々する以前に斯様な漫荼羅本尊の成否を問うことが先決であると、わたしは思いますが、如何でしょうか。

3348犀角独歩:2007/06/10(日) 14:15:00

【3347の訂正】

誤)郡部が配布した神札
正)軍部が配布した神札

3349犀角独歩:2007/06/10(日) 14:19:42

一つ、書き忘れました。

> 「祈って叶わざるなし」

こんなことは、単なる世迷い言でしょう。
もし、こんなことができるのであれば、「病気にならない」「年を取らない」「死なない」という願いを、わたしなら立てます。
しかし、四師を自称した日蓮も病になり、年取り、軈て、死にました。

仏教とは、できもしない願望を「叶う」と偽って、信者を集めるものではなく、現実を直視させ、よりよく生き、よりよく死んでいくことを教えるものであるはずです。

「祈って叶わざるなし」などということを宣伝文句に使った段階で、なんとも胡散臭い団体であると、常識があれば、誰しも思うでしょう。

3350犀角独歩:2007/06/11(月) 09:12:21

やや基礎的なことを記せば、「祈って叶わざるなし」とは、正確には以下のとおりです。出典は日寛『観心本尊抄文段上』。

「この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」

では、ここでいう‘本尊’とは

「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」

すなわち、「祈りとして叶わざるなく」とは、日寛の言に拠れば弘安二年の本門戒壇の御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるという要件を満たすことによって成就するというのが、その意味です。

では、その本尊が後世の捏造贋作であれば、この言はどうなるか、根本から瓦解するわけです。

3351天蓋真鏡:2007/06/11(月) 18:16:51
でも、信心も鰯の頭からって申します云々。学問なら尚更。 自然現象や新陳代謝を 神通力て゛どれぐらい起こせるのか。

3352マハー:2007/06/12(火) 09:47:26
>>3338
独歩さん こんにちは
御返事遅くなってすみません。

>日蓮の“殺”もしくは“折伏”については、まず『開目抄』から見るべきでしょう。

『開目抄』は重要な御書のようですね。
しかし、それは止観、弘決からそのまま引用であって、日蓮自身が言っているのではないでしょう。そうなれば、日蓮だけに限定した問題ではないと思います。

>これらの引用は功徳との対比で述べられるわけではなく

止観では、雖与奪殊途俱令利益と功徳の対比を述べています。

>ここでいう大経とは涅槃経ですね

止観で指す大教とは、涅槃経のことで間違いないと思いますが、「執持刀杖乃至斬首」は
大般涅槃経の3巻後半から4巻の部分で、所謂、「有徳王の説話」の部分です。
最終的に殺されるのは、有徳王の方です。またこの止観の引用部分は巻10の終わりのところですが、「是折義」というのは、折=正法護持、 伏についてはその後に見られる衆生調伏でしょう。
よって、折伏=正法護持衆生調伏 の意であって、この引用から、折伏=殺 というのは飛躍しすぎだと思います。

>法華経を指すことに転換されるレトリック

う〜ん。なるほど。
この件よく気付きませんでした…。熟考したいと思います。

私がマターリさんに言いたかったことは、こう言った日蓮の論調は「救済志向」が底にあって論を展開してるのではないですか?という事です。破戒を容認してるのではなくて、破戒した者でも法華経によれば救うことが出来るとしているのでしょう。

>「本尊」義についてです。天台文献には、「本尊」語の用法がないこと、

仰る通りだと思います。
日本での本地崇拝が、その専一思想が進む中で根本崇拝にに変わっていったのではないだろうかと思います。

3353マハー:2007/06/12(火) 09:49:47
訂正

雖与奪殊途・令利益
   ↓
雖与奪殊途倶令利益

3354パンナコッタ:2007/06/12(火) 13:34:14
横レス失礼します。
 >折伏=殺 というのは飛躍しすぎ   
これは、摩訶止観 第十 下の
「夫佛法兩説一攝二折。如安樂行不稱長短是攝義。大經執持刀杖乃至斬首是折義。
 雖與奪殊途倶令利益。若諸見流轉須斷令盡。若助練神明迴心入正皆可攝受」

大経の刀杖を執持し、乃至首を斬るは是れ折の義なり と、物騒な事が明示されていますね。 
この論旨をどう取るかによって解釈の差異は出てきますけど、以上ご参考に。

3355マハー:2007/06/12(火) 15:47:19
>>3354

パンナコッタさん

>大経の刀杖を執持し、乃至首を斬るは是れ折の義なり

違うと思います。

大経の、「執持刀杖から斬首まで」、是れ折の義なり

3356犀角独歩:2007/06/12(火) 18:03:50

マハーさん

何点か同意点がありましたね。
しかしながら、以下の点の相違について、わたしも記します。

「大経に刀杖を執持し、乃至首を斬れというはこれ折の義」というのは、門下一般の訓読(全集)です。ちなみに全集に載る現代語訳は「涅槃経金剛身品に『刀や杖をいつも携えて、あるいは首を斬れ』と説くのが折伏の意義である」となっています。パンナコッタさんに何ら間違いがあるとは、わたしは思いません。

なお、この引用は『金剛身品第五』の「執持刀杖」文、乃至『四相品第七』の「斬首」までではないでしょうか。

> …「是折義」というのは、折=正法護持、伏についてはその後に見られる衆生調伏でしょう。
> よって、折伏=正法護持衆生調伏 の意であって、この引用から、折伏=殺 というのは飛躍しすぎだと思います

さて、では、「飛躍」はどちらでしょうか。

まず第一に、止観の原文はパンナコッタさんが引用くださったとおりです。
ここに「雖与奪殊途俱令利益」とあります。これは与=摂:奪=折で、この与奪とは命を奪わず与える摂受と、命を奪う折ということを「与奪ことなりといえども、倶(とも)に利益せしむ」というわけですから、正法護持に守護があるのではなく斬首と同じく命を奪うこと、つまり「殺」にその意義があります。そしてですから、利益・功徳の対比ではなく、摂・折の対比のうえで共に利益ありという対比です。

また「衆生調伏」について、あとのほうに出るというのは、間違いではないでしょうか。これは『序品第一』の段階で出ています。以下のとおりです。

「爲欲利益安樂衆生 成就大乘第一空行 顯發如來方便密教 爲不斷絶種種説法 爲諸衆生調伏因縁故」

伏という字は同じでも、これを折伏の伏とする理由がわかりません。
衆生を利益‘安楽’せんとするという道筋ですから、寧ろ安楽、摂受に親和性があるのではないですか。

以上の次第ですから、マハーさんの折伏の解釈は意に沿っていません。
意はあくまで斬首=殺=折ということでしょう。

第二に、止観の原文はパンナコッタさんが引用してくださったとおりで、ここでは、安楽行品の「長短を称せざれ」を摂:大経の「刀杖を執持・首を斬る」を折の対比であり、後者の折は正法護持には違いありませんが、その折を斬首とした止観の文です。これが‘殺’以外の何でしょうか。止観で述べるところは以上のとおりで、飛躍でも何でもありません。

第三に、日蓮は、止観の意をそのままに採ったわけですから、折=斬首=殺と記しているとして、何ら原意から外れるところはありません。

なお、これはマハーさんのご投稿とは関係ありませんが、以上の止観の部分は、パンナコッタさんが引用くださったとおり「入正皆可攝受」すべしであり、いまの日蓮門下が摂受も折伏だと乱暴な意見を強言することと裏腹に、「皆まさに摂受に入らしむべし」とは、なんとも味わいのあるところです。

> 日蓮の論調は「救済志向」が底にあって論を展開してる

日蓮が救済思考を有していた点について何ら異論はありません。
ありませんが、斬首断命という手段をも、その手段の内であるという点で「ポア」と一脈を通じると論じたわけです。

3357マターリ:2007/06/12(火) 20:02:43
「立正安国論」によりますと、

主人は、「邪宗の坊主を殺害しても、罪にはならない」とか、「正法を護る
ために、武器を持つべきだ」という経文を、これでもか、これでもかという
ほど、引用します。

客はそれに対し、

謗法を誡むるに似て既に禁言を破す。

(涅槃経の説示は謗法を禁めるようではありますが大集経の仏の禁を破るも
のではないでしょうか)

此の事信じ難し、如何が意得ん。

(ですから謗法者の命を奪うというようなことはとても信じがたいことであ
ります。いったいこれをどのように心得たらよろしいのでしょうか。)

と質問します。

それに対し、主人は、

全く仏子を禁むるに非ず。唯偏に謗法を悪む也。

(この経文の意味するものは、仏弟子を禁めるというのではなく、謗法の罪
を責め、除こうというのであります。)

夫れ釈迦之以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能仁以後の経説は則ち其の施
を止む。

(そもそも謗法を禁断する方法として、昔の釈尊の事蹟を語るときは、仙予
王や有徳王として謗法者の命を断ったことを説きましたけれども、今の釈尊
が教えるのは、謗法者に対して布施をしてはならないということでありま
す。)

以上のことから、折伏とは、謗法の者を斬首するのではなく、布施を止めよ、
という意味だと解釈していますが、いかがでしょうか?

3358犀角独歩:2007/06/13(水) 00:56:53

マハーさん

この件は、既に問答さんとわたしが議論した件です。
日蓮は、あなたが引用した『立正安国論』をあとから書き直しています。
以下のとおりです。

「夫釈迦之以前仏教者雖斬其罪能忍之以後経説者則止其施。此又一途也。月氏国之戒日大王聖人也。罰其上首誡五天之余党。尸那国之宣宗皇帝賢王也。誅道士一十二人止九州仏敵。彼外道也 道士也 其罪是軽。是内道也 仏弟子也其罪最重。速行重科。然則四海万邦 一切四衆 不施其悪 皆帰此善 何難並起 何災競来矣。」(能忍之以後の経説は則ち其の施を止む。此れ又一途也。月氏国之戒日大王は聖人也。其の上首を罰し五天之余黨を誡む。尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。其の罪之軽し。之は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ。)

外道・道士より、さらに重科に行え、です。つまり、斬首です。
御書は学会版を使っていますか。信頼できる遺文集を使われることです。

3359犀角独歩:2007/06/13(水) 00:58:13

おっと、間違えました失礼。

【3358の訂正】

誤)マハーさん
正)マターリさん

3360犀角独歩:2007/06/13(水) 01:05:10

あと、もう一点、マターリさん。

こちらの掲示板では、先に語りかけられたこと、応答した内容に何らレスをなさず、次に議論を進めるような無礼な態度は、歓迎されません。
わたしは、あなたに対して、3347から3350に亘り、応答しております。
これに答えることもなく、次の投稿をする態度は礼を欠いています。
改めることを勧告します。

3361天蓋真鏡:2007/06/13(水) 02:08:38
横レス失礼します。立正安国論は教科書で、そっくり其儘行われるとは限らないのでは無いでしょうか。改宗しなければ改心しなければ斬首と言う選択肢があると言うのを示したのではないかと考えたいです。選択肢です。日蓮の人物像を見て考えないと、大雑把なパターン分けで見るのは危険では無いでしょうか。自分は武士の世に習いそんな選択肢を極端ですが、出したのだと考えます。

3362マターリ:2007/06/13(水) 08:50:10
>犀角独歩さん、

こちらの掲示板では、先に語りかけられたこと、応答した内容に何らレスを
なさず、次に議論を進めるような無礼な態度は、歓迎されません。
わたしは、あなたに対して、3347から3350に亘り、応答しております。
これに答えることもなく、次の投稿をする態度は礼を欠いています。
改めることを勧告します。

そうでしたか。こちらの掲示板での慣習を存知ませず、失礼致しました。
私個人の信仰の、最深部にかかわることですので、スルーさせていただき
ましたが、失礼に当たるようですので、今日のうちにレスさせていただき
ます。

3363犀角独歩:2007/06/13(水) 17:43:52

天蓋真鏡さん

> 立正安国論は教科書で、そっくり其儘行われるとは限らない

では、その証拠は、どのようなことでしょうか。

> 選択肢です

日蓮に選択肢などありません。あるのは法華信仰のみです。

> 日蓮の人物像を見て考えない

日蓮の人物像を見るためには、その確実な資料に拠るほかありません。
わたしは、実際にその資料を挙げています。
いっぽう、あなたは自分の思惑で述べているのに過ぎません。希望的観測や、あなたが望む日蓮は、実際の日蓮とは違うということです。
違わないというのであれば、実際の資料を提示されれば済むことです。

> 大雑把なパターン分けで見るのは危険

これは、あなたの投稿に当て嵌まりませんか。

3364マハー:2007/06/13(水) 21:35:46
>>3356
独歩さん

>パンナコッタさんに何ら間違いがあるとは、わたしは思いません。

そうですね。確かに書き下し文としては間違いではないでしょう。
「大経ニ刀杖ヲ執持シ、乃至首ヲ斬レ トイウハ是レ折ノ義」ですからね、
これは明治の小川孝栄氏の訳もこうなっています。

それでは、整理する為に当該部分の創価学会の英訳を記載しましょう。
But when the Nirvana Sutra says that one should carry swords and staves or that one should cut off their heads, it is referring to the shakubuku method.

ここでは、乃至を、OR と訳しています。
「OR」は、「あるいは、または、」ですね。文節省略の意は消えますね。
折伏の義をその宗教団体がどのように教示していくかの是非は後廻しにしても、
止観の「大経執持刀仗乃至斬首是折義」の乃至を「あるいは」「OR」に読むのはおかしいでしょうと、私は言っているのです。
「あるいは首を斬れ」であれば、「乃至斬首」の文字を涅槃経に見つけなければなりませんが、これはないわけです。

>なお、この引用は『金剛身品第五』の「執持刀杖」文、乃至『四相品第七』の
>「斬首」までではないでしょうか。

日蓮は北本の方の引用が主ではないかと思っていましたがどうでしょうか?
であれば、「金剛身品第二」でしょう。ですが、北本、南本 当該部分はほとんど変わりないと思いました。
それよりも、独歩さんは、私が示した、「乃至」は、「範囲を示す省略」の文意であるとの意見に賛同してくださっていると思っていいのでしょうか?

>また「衆生調伏」について、あとのほうに出るというのは、間違いではないでしょうか

これは間違いではありません。
於一念処起一切念処調伏衆生。(何故か旧字が出ないので変換しています。→処)

そして、これは、前段の 本有解脱摂一切法 と摂との対比で述べられていますので、私はあながち飛躍しているとは思っておりません。
それから、止観に10巻の(下)はありませんので、後世に託されたのかもしれませんし、序品に戻るのかもしれませんが、これは私にはわかりません。

>後者の折は正法護持には違いありませんが、その折を斬首とした止観の文です。

斬首とした止観の文ではなくて、斬首まで、とした止観の文と思います。
そして後文で、衆生の法性の本有を摂と伏とで説明していくのだと思います。
(もっとも残念ながら、この「諸見十乗止観修」に限らず、この難解すぎて止観を説明することは私には出来ませんが…。)

>斬首断命という手段をも、その手段の内であるという点で「ポア」と一脈を通じると論
>じたわけです。

そうですか。
私が「ポア」と結ぶのは誤解を招くと言ったのは、「ポア」は中間に対する言葉とされているからです。

>涅槃・法華経のレトリックについて

涅槃経=折、法華経=摂、が、いつのまにか、法華経=折、涅槃経=摂 に展開されるレトリックがあるように思えますが、日蓮は、法華経=摂を、更に「折」と「摂」を分けているのではないかと・・・

3365マターリ:2007/06/13(水) 22:52:58
>犀角独歩さん、レスありがとうございます。

>日興が造立した重須談所には、本地垂迹堂やら、八幡社がありました。

そうでしたか。氏神様だけは、参拝しても良いということでしょうか?

また、日量の『大石寺明細誌』、日有の『化儀抄』の文献を提示していただ
きまして、ありがとうございます。

ところで日蓮聖人は、富木殿御返事で次のように言っています。↓

天の加護を蒙らざるは、一には諸天善神此の国を去る故か。

ということは、諸天善神は、日本の神社を去ってしまっている、ということ
ではないでしょうか?

この曼荼羅を身にたもちぬれば、王を武士のまほるがごとく、子をおやの
愛するがごとく、魚の水をたのむがごとく、草木の雨をねがうがごとく、
鳥の木をたのむがごとく、一切の仏神等のあつまりまほり、昼夜にかげのご
とくまほらせ給う法にて候。

(妙心尼御前御返事)

神仏は、曼荼羅にこそ、集まって来るということでは、ないでしょうか?

>すなわち、「祈りとして叶わざるなく」とは、日寛の言に拠れば弘安二年
の本門戒壇の御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるという要件を満たす
ことによって成就するというのが、その意味です。

ところで、日蓮聖人の、曼荼羅についての言葉は↓

日蓮が魂を墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え・・・・・
あひかまえて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給え、何事か成就せざる
べき、「充満其願・如清涼地・現世安穏・後生善処」疑いなからん。

(経王殿御返事)

これからすると、この御書において、全ての祈りが叶う御本尊とは、弘安二
年の本門戒壇の御本尊ではなく、経王殿に与えられた御本尊ということにな
るかと思います。

大石寺の彫刻御本尊ですが、「日蓮聖人の御真筆」という考え方より、家にあ
る御本尊の「本家の御本尊」と考えていました。私にとっては、御真筆でなく
ても別に問題ではありません。

何しろ何百年か前の、巨大な木彫りの御本尊様、ということですので、それ
だけで畏敬の念を生ずると思います。

インターネットの真筆画像を拝見しましたが、第1御本尊から第123御本尊
まで、たくさんの真筆がありますね。

しかしインターネットの画像では解像度が低く、プリントしても、細かい
文字が出ないと思います。

私個人としては、日寛上人の御本尊様を拝んでいきたいと思っています。

3366マターリ:2007/06/13(水) 23:17:30
>犀角独歩さん、たびたびすみません。m(__)m ここのところ体調が悪く
明日は病院へ行くことになっています。入院ではありませんが、2〜3日
自宅療養ということになり、PCが打てなくなると思います。

レスが多少、遅くなるかと思いますが、必ずご返事致しますので、お待ち
願いたく、宜しくお願い致します。

3367天蓋真鏡:2007/06/14(木) 00:11:09
犀角独歩さん、レスありがとうございます。 立正安国論は諫暁であり経典の説明であり具体的な計画予定表ではありません。像法の時代であっても末法の様相を呈している事を日蓮の宗教学の背景か゛わかるかもしれません。 自分は法華一乗が日蓮のテーマだと事ある毎に書きました。掲示板でないですけど。私の言う選択肢とは学問のルート人生の縁の事です。 挙証主義は大事ですが 日蓮が云うように 言葉文字では意を尽くさない場合があるでしょう。此の掲示板に書いたか忘れましたが、武士の世に習い勢いで誤解を省みず若気の至りで物騒な物言いを書いてしまった事があるのて゛は無いかと想います。 私のはパター ン分けでは無くてメ モの整理整頓。

3368犀角独歩:2007/06/14(木) 07:37:06

3364 マハーさん

> 乃至を「あるいは」「OR」に読むのはおかしい
> 乃至」は、「範囲を示す省略」

これは、もちろん、そう思います。

> 於一念処起一切念処調伏衆生…前段の 本有解脱摂一切法

北本では、この文がありますか。南本にはありませんね。
できましたら、該当部分を提示願えませんでしょうか。

> 斬首まで、とした止観の文

そうですね。そのつもりで書きました。

> 「ポア」は中間に対する言葉

これは意味が採れないのですが、もう少しご説明願えますか。

> 涅槃経=折、法華経=摂、が、いつのまにか、法華経=折、涅槃経=摂 に展開されるレトリックがあるように思えます

そう思います。いまの日蓮門下全般の二分立は、このレトリックです。間違いであるとわたしは考えます。

> 日蓮は、法華経=摂を、更に「折」と「摂」を分けているのではないか

わたしは、そうは思いませんが、
マハーさんは、そう仰る根拠は何でしょうか。

3369犀角独歩:2007/06/14(木) 18:35:31

3367 名前:天蓋真鏡さん

> 日蓮が云うように 言葉文字では意を尽くさない

さて、日蓮がどこで斯様なことを記していますか。
むしろ逆で「不立文字 教外別伝」を批判していませんか。

日蓮の法華信仰は、換言すれば法華文字信仰であり、その極地が妙法蓮華経五文字への信仰です。

3370マハー:2007/06/14(木) 22:22:21
すみません。NGワードで投稿が出来ません。
テスト投稿
T46n1911 p0140c01(03)

3371マハー:2007/06/14(木) 22:24:28
>>3368
独歩さん

>北本では、この文がありますか。南本にはありませんね。
>できましたら、該当部分を提示願えませんでしょうか。

お互いのやりとりに、かなりの食い違いがあったようです。
経文資料の貼り付けは、漢字の変換が大変なので、URLと電子記号でどうですか?
ROMの人が大変かもしれませんが…
記号を提示しますので、面倒でしょうが、この記号をグーグル検索かけて下さい。

大経執持刀杖乃至斬首是折義   T46n1911_p0137c27(00)

於一念処起一切念処調伏衆生   T46n1911_p0140c01(03)

…前段の 本有解脱摂一切法   T46n1911_p0140b14(01

3372マハー:2007/06/14(木) 22:26:06
現在、涅槃経と呼ばれる訳はかなりの種類になると思われますが、スタンダードなものでは、

根本説一切有部毘奈耶雑事
ttp://www.cbeta.org/result/T24/T24n1451.htm

長阿含経の2~4巻の遊行経
ttp://www.cbeta.org/result/T01/T01n0001.htm

般泥洹経
ttp://www.cbeta.org/result/T01/T01n0006.htm

大般涅槃経 法顕訳
ttp://www.cbeta.org/result/T01/T01n0007.htm

大般涅槃経 慧厳 (南本)
ttp://www.cbeta.org/result/normal/T12/0375_009.htm

大般涅槃経 曇無識 (北本)
ttp://www.cbeta.org/result/normal/T12/0374_002.htm

智ギの示す「大経」とは南本、北本、ひっくるめて、「大経」と呼んだのかも知れませんね。
(因みに関係ないですが、真如苑は南本を依経としています。)

いちおう、北本で行くと、独歩さんの仰る通り、「執持刀杖」は、T12n0374_p0384a02(03)
〜斬首は、T12n0374_p0387b28(01) だと、私も思うのですが…

弘決の「乃至下文仙預国王等文」なんですが、北本では、仙預の名はでませんね。
T12n0374_p0459a23(01)

どちらにしても、仙預国王までが「斬首」の引文だとすれば、相当長いです。

3373マハー:2007/06/14(木) 22:26:47
>> 「ポア」は中間に対する言葉
>これは意味が採れないのですが、もう少しご説明願えますか。

チベット密教でも「ポア」は使われます。 ナーロー六法 などでも出てきます。
中有状態においての、転移 転生を指しているようなので、日本の葬式仏教はすべて「ポア思想」ですよ(笑

>> 日蓮は、法華経=摂を、更に「折」と「摂」を分けているのではないか
>わたしは、そうは思いませんが、
>マハーさんは、そう仰る根拠は何でしょうか

これは、正直、ちょっと整理がつきません。
日蓮の言う「弘持」というのが引っ掛かります。
独歩さんが前レスで引用した観心本尊抄
「当に知るべし、此の四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」
確か正宗の…摂受の折伏とか、折伏の折伏とか言う時の依文ですよね。
摂受を、「弘」と「持」に分けるのかと思っていましたがどうでしょう?
これは、日蓮というより、日寛の宗学ですか?

3374天蓋真鏡:2007/06/15(金) 00:15:46
太田入道殿御返事「書は言を尽くさず言は心を尽くさず事事見参の時を期せん」 此の御書遺文は真筆では無いのでしょうか。言葉文字は心の意思表示を明らかにする形。教義理屈と方法手段を対峙させすり替えるが如き物言いは求道者らしく無いです。 鎌倉時代の僧・日蓮は、妙法蓮華経で何を信じろと言ったのでしょうか。最下層救済の教え、天台の教え、成仏得道の教え何でしょう?

3375犀角独歩:2007/06/15(金) 05:52:59

3374 天蓋真鏡さん

> 教義理屈と方法手段を対峙させすり替えるが如き物言いは求道者らしく無いです

これは、わたしのことをいっているのですか。無礼でしょう。
貴殿の文章は、法華経の文字と手紙を同一に語っています。
法華の文字を語るところを、一片の手紙に対する言を挙げて、「すり替える」などと相手を愚弄する、さてすり替えているのは、いずれでしょうか。

わたしは「法華文字信仰…その極地が妙法蓮華経五文字への信仰」だと言ったのです。では、実際を挙げましょう。

守護国家論「念法華の文字とは此の経は諸経の文字に似ず、一字を誦すと雖も八万宝蔵の文字を含み一切諸仏の功徳を納むるなり」

祈祷抄「法華経と説きをかせ給へば、此の経の文字は即釈迦如来の御魂なり。一々の文字は仏の御魂」

木絵二像開眼の事「法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち(形)とあらは(顕)しぬれば、顕・形(ぎょう)の二色となれるなり。滅せる梵音声、か(還)へて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益する」「仏の御意(みこころ)あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思(おぼ)し食(め)す事なかれ。すなはち仏の御意なり」

法蓮抄「『今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子』等云云。教主釈尊は此の功徳を法華経の文字となして一切衆生の口になめさせ給ふ」「今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼(にくげん)なれば文字と見るなり」「天台の云はく『稽首(けいしゅ)妙法蓮華経、一帙(ちつ)八軸四七品、六万九千三八四、一々文々是真仏、真仏説法利衆生』等と書かれて候。之を以て之を案ずるに、法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す。此の文字の数は五百十字なり。一々の文字変じて日輪となり、日輪変じて釈迦如来となり、大光明を放って大地をつきとをし、三悪道無間大城を照らし、乃至東西南北、上方に向かっては非想非非想へものぼり、いかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給ひて、彼の聖霊に語り給ふらん。我をば誰とか思(おぼ)し食(め)す。我は是汝が子息法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり。此の文字は汝が眼とならん、耳とならん、足とならん、手とならん。たとへば餓鬼は恒河(ごうが)を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る」

御衣並単衣御書「法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。此の仏は再生敗種(さいしょうはいしゅ)を心符とし、顕本遠寿(おんじゅ)を其の寿(いのち)とし、常住仏性を咽喉(のんど)とし、一乗妙行を眼目(げんもく)とせる仏なり。「応化は真仏に非ず」と申して、三十二相八十種好の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給ひ候へ。仏の在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり。仏の滅後に法華経を信ずる人は「無一不成仏」とは如来の金言なり」

以上の如くです。それに対して、文字を離れて、ほかに教えがある如き言う「不立文字 教外別伝」を、日蓮は厳しく誡めています。
貴殿の物言いは、法華文字仏か・不立文字か、いずれとなりましょうか。

3376犀角独歩:2007/06/15(金) 06:07:14

3373 マハーさん

詳細のご教示、有り難うございます。
恥ずかしながら、南北の比較を怠っていました。
読み直してみます。

わたしはもっぱら『電子天台宗典』を活用していますが、こちらでは「涅槃南」が採用されています。

http://www.biwa.ne.jp/~namu007/gaiy/gaiy.htm

> 摂受の折伏とか、折伏の折伏

この愚論ですか。何が何でも折伏だと強言するのに使われるところですね。
こんな物言いが成り立つのであれば折伏の摂受、摂受の摂受という言葉も成り立つことになります。この批正は以下のスレで行いました。

摂受と折伏について
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1117079987/

近日の議論では、今成師が「摂受か・折伏か」ということで折伏を簡び摂受を言ったことに議論が再燃しました。反論側の論法は折伏だというわけです。この議論で言えば、わたしは今成に理があると思います。

ただし、摂受か・折伏かという二者択一ではなく、日蓮が言うところは「摂受も・折伏も」です。そして、その際にどちらを先にするのか、先があればあともあるわけですから、摂折二門、ともに採るというのが日蓮であるというのは、わたしの言い分です。

3377天蓋真鏡:2007/06/15(金) 09:00:53
自分は本尊論と四箇格言を持って論議を求めていたのでは無くて、日蓮の実像と言って犀角独歩さんが十全完璧な挙証では無いかもしれないのに十の内一つでも違えば実像と違ってしまうかもしれないのに断言する勢いで議論を持っていくのは危険だと思ったまでの事。求道者と大袈裟に書いてしまったのは言い過ぎでした。犀角独歩さんの人生とキャリアとノウハウを否定したい訳では無いので御容赦願います。

3378犀角独歩:2007/06/15(金) 15:34:36

天蓋真鏡さん

わたしはあなたが指摘する危険について、十分に認知しています。
しかし、あなたは重大な見落としがあります。それは何かといえば、証拠を挙げての議論と、証拠を挙げない議論とでは、後者のほうがよほど、危険だということです。つまり、あなたは、わたしよりも危険な議論をしていながら、それよりは安全を確保している議論を危険というのは、説得力がないということです。

わたしとて、証拠を挙げず、恣に論じて善いというのであれば、富瑠那の物真似よろしく、恥知らずに莠言を吐くなど、容易いことです。

それをしないのは、証拠も挙げない放言は危険だからにほかなりません。

あなたは、他の過ちに厳しくするより、まずはご自身の危険を如何に回避することをお考えになることが先決なのではないでしょうか。

3379天蓋真鏡:2007/06/16(土) 00:23:16
拝聴に値するお言葉ですが、挙証の無い放言に 振り回されたり悪用する等暴走するのを放言した人間の所為にだけ?するのは如何でしょう。 危険回避の方法は此の掲示板では真筆で無いか違うかと言う事でしょう。

3380犀角独歩:2007/06/16(土) 08:53:08

3379 天蓋真鏡さん

あなた、なにか誤解していませんか。

> 挙証の無い放言に 振り回されたり悪用する等暴走するのを放言した人間の所為にだけ?

だれがいったい、そんなことをしたのですか。
要は、あなた自身の投稿の証憑性を上げるも下げるも、ご自身の問題でしょう。
他人のことを言う前に自分のことをまずしっかりなさったら如何でしょうか。
無意味な言いがかりはおやめください。時間の無駄ですし、議論の妨げになります。

3381犀角独歩:2007/06/16(土) 09:09:05

> 危険回避の方法は此の掲示板では真筆で無いか違うかと言う事

もちろん、この面はあります。
しかし、それだけではありません。実際に日蓮が引用した経釈に戻り、その引文の正当性も考えています。また、現代科学から結論される事実も参考にし、日蓮その教えと本尊も考えています。

いっぽう、では、天蓋真鏡さん、あなたはどうでしょうか。いったい、どんな危険回避の方法を採っていますか。

そして、挙証義務を遵守することに言いがかりをつけているだけです。
挙証に対して、応えるのは挙証です。挙証できないなかに真実もあることは事実であり、何ら否定するところではありませんが、それを証明するためには、単に自分の考えを挙証もせず挙げたところで、何の意味も有しません。
そんなことに一々対応するのは正に時間の無駄で、得るものがありません。

3382マターリ:2007/06/16(土) 14:01:20
>犀角独歩さん、PCを打てるまでに回復しましたので、また参加させてい
ただきます。

摂受と折伏スレッドを拝見しました。立正安国論では、「首をはねる」のでは
なく、「布施を止める」と書いてあります。

しかし、犀角独歩さんは、立正安国論は書き直されていると書かれています。
この、「布施を止める」という個所は、後で付け足されたのでしょうか?

3383犀角独歩:2007/06/16(土) 18:12:40

立正安国論には、概ね2本あります。

#0024-0K0 立正安国論 文応元年(1260) [p0209]
#0279-0K0 立正安国論(広本) 建治・弘安の交(1275-78) [p1455]

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm

あなたが見ているのはこの文応本でしょう。その15年後に書き換えられています。

ここに「夫れ釈迦之以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能忍之以後の経説は則ち其の施を止む。【此れ又一途也。月氏国之戒日大王は聖人也。其の上首を罰し五天之余黨を誡む。尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。其の罪之軽し。之は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ。】」

書き足されたのは「施を止む」ではなく【】部分です。この点は、3358に書いたとおりです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3358

しかしながら、偽物の彫刻でも、改竄された日寛の原本を用いた印刷でも本尊でよいあなたにとって、こんな原意の追及は意味はないでしょう。

3384マターリ:2007/06/16(土) 18:23:41
>犀角独歩さん、ありがとうございました。書き換えられている、とすると
やはり折伏=殺、という犀角独歩さんの考えが正しいと思います。

>しかしながら、偽物の彫刻でも、改竄された日寛の原本を用いた印刷でも
本尊でよいあなたにとって、こんな原意の追及は意味はないでしょう。

それとこれとは話が違います。失礼ながら、犀角独歩さんは毎日、どの御本
尊様を拝んでおられるのでしょうか?

3385犀角独歩:2007/06/16(土) 18:48:57

> それとこれとは話が違います。

どのように違いますか。
偽物でよいのであれば、文意の遡源など元より無意味でしょう。
そもそも偽物でよいというものの言など、証憑の対象にも、議論の対象にもなりません。

> 犀角独歩…どの御本尊様を拝んでおられる

先より記したとおり、「本尊」語は伝教以降に導入される観念であって、わたし自身は崇拝の対象と考えておりません。わたしが敬礼するのは、もちろんお釈迦様です。そして、多くの示唆を与えてくれた日蓮にも敬意は表します。

教学的な整理として、日蓮の真意を探れば、教相としては法華経寿量品五百塵点成道釈迦牟尼仏、観心からは所顕三身無始古仏でしょう。また、真偽追及の余地はあるものの、妙法蓮華経五字題目ということでしょう。

その五字を書した漫荼羅を本尊とするのが、日興の意図であれ、それを複製したものは、この限りではないというのも日興の意図でしょう。

ただし、漫荼羅であれ、尊像であれ、日蓮像であれ、その形に刻まれたものを通して、ブッダとダルマとサンガを仰ぐことに異論があるわけではありません。実際にそのような礼拝はいたします。しかし、それは創価学会等のように、近代、それぞれのグループが勝手気ままに会員向けに決めた「勤行」??という奇妙な遣り方を「拝む」というのであれば、そんなことは、やるわけもありません。

漫荼羅の彫刻は彫刻であり、漫荼羅を写真製版し印刷したものは印刷です。
こんなものが本尊であるというのは、鰯の頭と同様ですが、各人がそれを有り難がるのは勝手です。しかし、このような議論の場で、そのような代物が本尊たり得るというのであれば、きちんとした挙証を以て議論をするべきことです。

それが偽物でもよいなどということは、もとより、議論のレベルに達していない個人の範疇であると申し上げているのです。そして、そのようなものでよいのであれば、日蓮が書いた‘とされるもの’で十分なわけで、真偽論攷も、これまた無意味ということでしょう。

もっとも重要であるはずの本尊が偽物でよいあなたにとって、遺文の真偽など、論ずるに足りない問題ではないでしょうか。なぜならば、漫荼羅そのものが書き物なのであって、もっとも真偽をやかましく言われるものであるからです。

3386マターリ:2007/06/16(土) 19:44:42
>犀角独歩さん、

>こんなものが本尊であるというのは、鰯の頭と同様ですが、各人がそれを
有り難がるのは勝手です。しかし、このような議論の場で、そのような代物
が本尊たり得るというのであれば、きちんとした挙証を以て議論をするべき
ことです。
それが偽物でもよいなどということは、もとより、議論のレベルに達してい
ない個人の範疇であると申し上げているのです。

おっしゃる通りです。これは、私個人の信仰にかかわることですので、スルー
させていただこうと思いました。しかし犀角独歩さんが、レスを返すのが礼
儀とおっしゃいましたので、仕方なくレスをさせていただきました。

しかし、こちらの掲示板は科学的に、日蓮聖人の実像に迫る、ということで
すので、私の鰯の頭的・個人的信仰はさておき、真実に迫りたいと願ってい
ます。

今まで私が積み重ねてきた既成概念や信仰体験を排除して、客観的かつ科学
的に日蓮聖人を研究したいと思っています。

犀角独歩さんの日蓮研究に対しては、尊敬の念を抱いています。

創価学会員の場合、創価学会の組織を辞めて、池田氏のマインドコントロー
ルから逃れても、日蓮聖人のマインドコントロールから抜けられません。
それで法華講に移ったりするのだと思います。

私自身の独学で、いくら日蓮研究をしても、MCを脱しきれないので、こちら
で勉強させていただければと思っています。

3387マターリ:2007/06/16(土) 20:33:40
>犀角独歩さん、

>わたしが敬礼するのは、もちろんお釈迦様です。そして、多くの示唆を
与えてくれた日蓮にも敬意は表します。

>ただし、漫荼羅であれ、尊像であれ、日蓮像であれ、その形に刻まれた
ものを通して、ブッダとダルマとサンガを仰ぐことに異論があるわけでは
ありません。実際にそのような礼拝はいたします。

私も犀角独歩さんと同じ考えです。釈尊を、先ず敬いたいと思います。
唱題というより、礼拝ということなんですね。

ところで、仏像は大乗仏教になって、菩薩像の次に作られたと聞きました。
原始仏教・小乗経的に考えると、偶像崇拝は禁止されてしまうと思います。

漫荼羅・尊像・日蓮像も、偶像崇拝ということになってしまいますが、
その点、どのように考えたら良いのか悩んでいます。大乗仏教敵に考えれば
良いということでしょうか?

3388再挑戦者:2007/06/16(土) 21:10:08
3365のマターリ、、殿、、。
  >、、真筆、1〜〜123号、、不鮮明、、日寛本尊、、云々、、、>>
 
 横からゴメンします、、。  貴殿の発言には、、アアダラ、、、コウダラ、、が多すぎ、、誠に、、読みずらい限りでゴワス、、!!
 何故なら、「、貴殿は、日蓮の真筆本尊を確認しながら、、未だに、不透明な、?、、大石系列の日寛某の不透明な”ニセ日蓮ブランド?”、に固執されていますようでしょうか、?、」、という
 最大なる疑問が否定できません、。 ひょっとすると、某S会からの闇からの撹乱的な、、攻撃かも、?? ご用心、、御用心、!!

3389マターリ:2007/06/17(日) 00:22:20
>再挑戦者さん、レスありがとうございます。失礼ながら根拠なく、人を
疑わないでいただきたいと思います。憶測だけで判断なさらないで下さい。

私は純粋に、日蓮聖人について勉強したいと思っただけです。創価学会では
御書ですら、なかなか勉強する機会がありませんので。

ちゃんとした日本語で書いてくださいね。あなたの文章も読みにくいです。
句読点や!や?を、ダブって書くのは、特にいただけません。

3390天蓋真鏡:2007/06/17(日) 05:32:09
挙証義務に難癖をつけたいわけでも挙証する人の足ひっぱりたいわけでもありません。科学的に判断して悪を止められるなら良い事。横レス失礼しました。議論を続けてください。

3391犀角独歩:2007/06/17(日) 09:54:18

マターリさん

今回のご投稿で、MCについて、触れられたので、そのことに関連して、重要な点を一つ。あなたが「スルー」と記したことは、‘思考停止’ということです。

つまり、自分の信念体系について、不利になる点について、思考が停止し、考えなくする心理作用です。この形で、不合理且つ非科学的な信仰は保護されます。この技法をもっとも端的に悪用するのがカルトでしょう。

日蓮において教義と本尊は不可分な関係にあります。
ですから、教義を考えていけば、実際に図顕された本尊に到達するわけです。ですから、その一方のみを「客観的かつ科学的」に考えることはナンセンスというほかありません。

ただしかし、このような分離と思考停止は、あなたお一人の問題ではなく、創価学会を含む石山圏で日寛などの印刷を拝む人々に共通する問題であり、かつこの点は全日蓮門下、さら間口を広げれば、日本仏教徒、否、全世界の仏教徒、もっといえば、全宗教の信仰者全体に通じる問題であるとも言えます。

故に、この問題を避けて通ることは、単に思考停止を漫然と是認し、事の本質を見ないようにするばかりか、悪弊を招来に残すことになります。もっといえば、カルトを始めとする悪行を是認することにもなります。だからこそ、わたしは、この点に関して、決して論攷の手綱を緩めないわけです。

しかしながら、教学論攷から、ついに極意である本尊へ至るは道程です。まずは、教義から科学的合理的に考える方途を身につけ、ついには、本尊をも考える道すがらに入るという順位を否定する理由はありません。
「スルー」した本尊と信仰については、いつしか必ず考えることを前提として、では、こちらでの議論にお付き合いすることといたしましょう。


> 仏像は大乗仏教になって、菩薩像の次に作られた

これは近代の研究で、そのとおりいわれています。

> 原始仏教・小乗経的に考えると、偶像崇拝は禁止

「小乗」「偶像」という言葉が適切かどうか、ここでは取り敢えず置くこととして、初期釈迦教団では仰るとおりだったでしょう。

> 漫荼羅・尊像・日蓮像も、偶像崇拝

いや、もっとあります。
心のなかに描く神仏のイメージ、そのものが物理的な形こそ採らないまでも、「偶像」という言葉を使えば偶像そのものではないですか。

キリスト教を例に採れば、偶像崇拝といって、形に彫塑した像を拝むことを批判しますが、いもしない神を心に描き崇拝することは、無神論の立場に立脚すれば、まさに「心でイメージされた神という虚像」を拝む偶像崇拝そのものです。

3392犀角独歩:2007/06/17(日) 09:54:51

―3391からつづく―

仏教の場合、実際にいた釈尊を敬慕しました。
当時のインドでは、文字記録は、暗誦記憶に比して劣るものと考えられた故、文字化が遅れたのでしょう。実際に存在した釈尊に会ったことがなければ、その顔を正確に写すことはできないでしょうし、仮に似通って写しても実際とは異なります。このような考えから像に刻まれなかったということでしょう。

ただ、実際にいた釈尊を像に刻むことと、人間の心のなかで創作された崇拝対象を像に刻むことでは、その意味は異なります。

「偶像崇拝」というのは、いもしない神をイメージして崇拝する偶像崇拝側からの論理であって、これをもって仏教の尊像を考えると仏教信仰者の意思とは歪みがあると、わたしは考えます。

石山では、あの彫刻が生身日蓮、それも無始無の絶対仏そのものであるという信仰ですから、これはまさに「偶像崇拝」といわれても致し方がないでしょう。しかし、多くの仏教徒は、描き彫塑された尊像を、ただちにそのものと考えるというより、その像を通じて、神仏本体を信仰するという形態ではないですか。

つまり像の限界を認知したうえで、扱っているということです。
わたしは、仏像を飾っていますし、漫荼羅も奉懸しています。
しかし、その仏像を釈迦牟尼世尊そのものであるとは思っていません。その像を通じて、かつて2500年前のインドの大地を生きた仏陀に思いを馳せるに過ぎません。また、その像をインドから招来し、わたしのことを思い下さった僧侶への感謝もその像を通じて、毎日、再認識しています。この点は奉懸した漫荼羅(手書き肉筆)も同様であり、日蓮が考えた法華経観をその漫荼羅のなかに見ながら、何より、下さった方への感謝を仰ぎます。

ただ、それらがなければ駄目かといわれれば、別段、そうも思いません。
なにより、大切なことはブッダ・ダルマ・サンガを敬い、そして、精進することであると思うからです。では、仏像は仏か?ということになりますが、仏像は、文字通り仏の像(ぞう・かたち)に過ぎません。本体の仏であるはずはありません。

> …大乗仏教的に考えれば良いということでしょうか?

わたし個人は、大小の分別で優劣をつける気になれません。
自分たち以外の教えを認めないような在り方は、自分たち以外は乗れないのであって、名は大乗に借りながら実際は小乗ではないですか。
信仰とまではいわず、ブッダ・ダルマ・サンガに尊敬の念を払うだけならば、別段誰にもできます。小乗と貶称される人々の在り方です。むしろ大乗でしょう。

大小の意味はもちろん、そんなところにはありませんが、現行の仏教学で大乗・小乗という言葉を使うこと自体、旧い分類です。いまや、部派・大衆という言い方自体意味をなさないとも、わたしは考えます。

マターリさんは、本尊を印刷した紙に、方便十如までと寿量自我偈を唱えることを勤行という拝みであるとする信念体系を受け取った人とお見受けします。それ以外の在り方は駄目で、それのみに固執する様は、わたしのような見地からすれば、極めて小乗(小さな劣った乗り物)という観に駆られます。

印刷物を本尊と思うことやら、神社不拝への固執は、間違いなく上述したような排他的なグループのご都合指導によって培われたものであり、まさに「スルー」された思考停止によって永続されるのでしょう。それぞれの言葉の定義もまったく同様です。大乗、小乗などという刷り込まれた教義も同様でしょう。こんなすり込みでのみ考え・行動すること自体、「小乗」ではないですか。また、キリスト側の論理である「偶像崇拝」という思考パターンも跨いで考えてみてはどうでしょうか。

3393犀角独歩:2007/06/17(日) 10:09:30

天蓋真鏡さん

では、引き続きご高覧ください。

3394再挑戦者:2007/06/17(日) 17:50:24
 3389のマターリ君、 ヨクゾ申した、、。
 
 ここは「素朴な疑問」という窓口デスゾ、。
 過去ログもまともに読解不足のような貴殿のような方からの叱責には? アホコケでゴワス。  
 
  再度、貴殿に言おう、、「、ここの過去ログを読みなさい、、そして、 ナニユエに、未だに、真筆からほど遠い、ニセ本尊、日寛本尊?をなんの疑問も、懐疑も抱かず拝んでおる貴殿の態度こそが、、素朴なる疑問、と写るが、?」、、、が、イカガなものか、??

3395犀角独歩:2007/06/17(日) 20:29:00

再挑戦者さん

わたしが、口を出すことではないですが、こちらの掲示板は「さん」付が決まりですよ。

3396再挑戦者:2007/06/18(月) 18:39:36
独歩さん、、 ご指摘は痛み要ります、、。  少々、調子にすぎまして、スンませんでした、、。
 昨今は、世の中が「狂信〜〜発狂〜〜」、とも思える信じがたい事件の続発中のようでしょうか、? 

 あの現存・釈尊生誕のネパールでさえ、貧富の格差の問題があるようです。 人類差別のカーストがはびこるインド各地には、貴金属加工の有害薬品を素手で扱う少年ら、インド各地の売春宿に売られた少女らの悲惨さを(毎日新聞6月分)知りました、。
 お釈迦様でさえ、思考を超えた現実の世界には「、素朴な疑問、?、、」、、を、実感中のアホ、の一人です、。コンナ愚考を 陳謝 します。

3397犀角独歩:2007/06/18(月) 21:03:18

再挑戦者さん

わたしはあなたの問題意識は、何となくわかります。ただ難読なので、レスの仕様がないということもしばしばあります。
そんなわけで、マターリさんも、悪意の方ではないので、歩みいただければ、また稔りある議論もできようかと存じます。

3398しゅんかん:2007/06/22(金) 22:28:32
私は何度か記しておりますが信仰は致しておりませ。
この様な私が以下の事を記す事、お許し下さい。
私が私としてこの世をそれなりに渡り歩く術として用いている物と少し重なる文を最近
拝読致しました、私自身が昭和57年に購入し読まずじまいだった、「日蓮、久保田正文著」
です。
ここで、知的な惑と云うもので見惑のことをご説明されておられます、
(皆さん既にご存知で恥ずかしいのですが続けますね)
見惑には五のものがあるそうですね。身見、辺見、見取見、戒取見、邪見の五つであると。

身見=自分の一身を中心としてものを見る見方、自身が経験し得ない事はそのまま、
無いものであると考えるような見方である。

辺見=自分が見た一方のことを述べようとすること、物事を一方からだけ見る見方。

見取見=人はひとたび肯定し、それが正しいと認めたことは、先入主となって、
そうでないことがわかっても、最初の見方にとらわれてこれを改めることが出来ない。

戒取見=戒とは否定の義であるから、ひとたび否定した事はそれの誤りが証明されても、
これに固執して考え方を改めることができない。

邪見=自分の利害損得を中心にし、あるいは基準としてものを見る見方。

久保田先生は、人はこのような物の見方の惑い、および感情上の惑い(思惑)、
こういうものの集合体である。
そこでこれらのものを離れて別な境地を求めていくのが、これが仏教における修行である。
と締めくくっておられます。

皆さん既に知った事で今更って処でしょう。

3338に於いて、独歩さんの記されている事、全くごもっともと拝読致しました。
創作虚偽で在ったとわかっても、先に記しました見惑により受け入れる事が非常に
困難なのでしょうね、そして叉、私の其れによる表現をしますと自我が不安定に成るのですね。
自我の安定を求め、此方の掲示板へこられ自らの信仰の確認をされる、だが安定は易々とは
得られないのでしょうね、全く石山系は罪なものですね。
(生意気な文申し訳ありませんでした)

3399しゅんかん:2007/06/23(土) 02:03:29
3062に於いて数珠の持ち方に対する疑問を呈し、独歩さんよりご教示戴きました。
ここ数ヶ月の事ですが石山寺院ねてご住職さまにもお聞きしてみましたので報告までに記させて頂きます。

私「身延や八品、つまり大石寺系以外は左梵天三つですがなぜ正宗は右三つなのですか?」
住職「元々梵天は左右二つだったのです、数珠の一方に四つ珠が在ります、是を四菩薩と云いそして父珠
の横に心一境ノ法性ノ珠があります是を左に持ちます、すると梵天二つつが左に来るようになるのです」
私「はて?・・・あの私の記憶が正しければ30数年前に数珠の持ち方、左右が変わりましたね」
・・・住職は四菩薩の方を左に持つと繰り返されたと記憶しています。
私は四菩薩側が三つなのか二つなのか記憶が定かでなかった為
私「再度、勉強致します」
と云い引き上げる。

約2月後、独歩さんよりご教示戴きました富要第一巻を持参し、P392をお見せして
私「日芳、後の33世日元上人が記されてます、父珠(四菩薩)の方を右手にと、しますと
右梵天二つに成りますが」
住職「フム・・・どれ・・・何処に書かれてますか?」
私「この行です」
住職「そうですね・・・日我とは当宗門の方ではないですね」
私「多分、保田の日我師の事を指されていると思いますが」
住職「是ですと右二つですね、」
私「ええ、身延系と同じになります」
住職「日達上人の時に左右が変わったのです」
私「やはり私の記憶はあってましたね」
住職「時の法主は血脈付法、私達はそのお言葉をただただ信じるのです、上行菩薩は曼荼羅の
南妙法蓮華経の右ですか左ですか?」
私「向って右ですか?」
住職「私達から見ると左ですが、向こうから見ますと右ですね、右そん左ひ、左そん右ひと云う言葉が在ります」
この後の会話は余り意味も無く記憶にございません。

3400しゅんかん:2007/06/23(土) 03:05:45
3399の続き
是より以前、ご住職へ
私「大石寺の近くにおられます古い檀家には御影様を奉安されているとお聞きます、私も奉安したいのですが」
住職「駄目です、現在許されていません」
私「本山や末寺、そして古い檀家ではよくて何故私は駄目なのですか?私の家の仏壇内の奉安様式は
創価系と同じでいやなのですが」
住職「信心の浅い方は御影様があるとご本尊様に向うのではなく御影様に向ってしまいます、あくまでも
御曼荼羅に向って勤行、題目を唱えるのです」
私「私の家の御本尊様を御下付いただきました母は信仰歴50年をはるかに超えておりますが」
住職「総本山よりの指導で現在許されておりません」

叉、数珠の時と同じ日に富要第一巻、32(P65)を示して
私「仏壇内に化儀抄の如く法華経二十八品を奉安したいのですが」
住職「当寺院に於いても奉安しておりますが、しかし手に入らないでしょう?」
私「いえ、販売してますよ」
住職「何処でですか?」
私「そりゃ、仏具店でです」
住職「正宗のですか?」
私「正宗専門の仏具店は余り見受けませんので販売しているかどうか?一般の仏具店ですが」
住職「身延系でしょ」
私「一般のこの辺り(関西)の仏具店は多くの宗派(一宗一派では無く)を扱っており身延系仏具店とは
いえないでしょ」
住職は笑い(苦笑?)それ以上の言葉は無かった、この件に関しては執拗以上の反対は見受けられなかった。

数珠・御影様・法華経二十八品に関しての御住職さまのお言葉で首肯に至る物はなかった
数珠は左梵天三つとし、御影様は既に読経像を製作して戴き奉安している、二十八品だが
独歩さんと菊水護国とのやりとりで、身延系などで使われている赤色の二十八品と云った内容を
記されていたと記憶しております、確かに赤色ばかりです興統法縁ではどの様な色が望ましいのでしょうか
わからず未だ奉安出来ておりません。

3401しゅんかん:2007/06/23(土) 03:10:21
3398
誤=私は何度か記しておりますが信仰は致しておりませ。
正=私は何度か記しておりますが信仰は致しておりません。

3402再挑戦者:2007/06/23(土) 20:16:00
3397, 独歩さん。 
 いろいろと御心労をお掛けいたし深く陳謝いたします、。
 小生は、無明のバカですが、教主釈尊がのべた「、、速成就、仏心、、」、なる”目玉商品”を是非、購入したいと欲したものです。
 ところが、その”商品”が疑惑まみれの欠陥商品の疑義濃厚の現実を否定を不可能な様相に感じた、、まで、、です、、。
 独歩さんも「、、後世の作り話、、贋作、、?、、疑義多し、」、、と言う過去のログを重く受け止めていました。
 小生も疑義を払拭し切れませんです。 「吾従成仏以来、、」(法華経第二)、「、我実成仏以来、、」、「、庶民は不能思惟、知其限数、、」などの(第16)件から思うに、「、全ては、ワシにまかせヨ、、!!!」、、という自信に溢れております、、。
 でも、現実は、、??? インドのカースト制度に対しては、完全に”負け組”でしょうか、?
 人類最大の差別に挑んだようですが、、「、、諸行無常、、因果応報、、」、なる宝刀も、イマイチ、末法には力が不足が否めませんでしょうか、?  この隙間から、数々の、悪徳商人、悪徳宗教者らのヤリタイ放題の庶民イジメが続行中のようでしょうか、?
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/sankeisho/070621/sks070621000.htm

3403中道一実:2007/06/29(金) 14:15:46
しゅんかん様
>>独歩さんと菊水護国とのやりとりで

いくら菊水さんが、最近登場されない方だとしても、呼び捨ては感心しませんね。
意図的でしょうか?単なる誤りでしょうか?

さて八巻経についてですが、正宗系の仏壇屋でも取り扱っているところはありますよ。
ただし、法華経は大事なものなので、住職の紹介でなければ売らないことになっております。
1本、住職から電話を入れておいて貰えば簡単に買えますし、種類も豊富ですよ。

3404中道一実:2007/06/29(金) 14:17:33
>>3403
[しゅんかん様]は[しゅんかんさん]の誤りです。
訂正します。

3405しゅんかん:2007/06/30(土) 11:06:41
中道一実さん
はじめまして、宜しくお願い致します。

ご指摘、誠に有難うございます、
全くもって私の確認不足による脱字でした。

菊水護国さん
誠に申し訳ありませんでした。

法華経〈八巻〉は地域によりご住職さんで見解が異なるのでしょうか?
正宗仏具店で購入出来るとの事ですが、宜しければどちらの何店、不都合でしたら都道府県だけでもお教え頂けますと幸いです。

3406疲労困憊:2007/06/30(土) 20:21:37
所沢市の天晴仏具店か正信会四国の寺院で頒布していると聞いた事があります。
八の巻で経机無しでしたら、四千七百円前後で京都の池澤法衣仏具店にありますよ

3407しゅんかん:2007/06/30(土) 22:38:56
疲労困憊さん
はじめまして宜しくお願いします。

情報有難うございます、
念の為、二仏具店は正宗系なのでしょうか。

3408一字三礼:2007/06/30(土) 23:22:50
しゅんかんさん、はじめまして。

素朴な疑問でもあり、巨大なお世話でもありますが。

あなたは信仰はしていらっしゃらないのでしょう。
それなのに、日蓮正宗のご住職に八巻経の奉安について訊ねたり、日蓮正宗系の仏具屋に拘られるのはなぜですか。
そもそも、信仰をしていなければ、仏壇に何を奉っても関係ないのではないですか。

3409しゅんかん:2007/07/01(日) 08:23:28
一字三礼さん
はじめまして宜しくお願いします。

PCが不具合をきたしております、復旧後に記さて戴きます。
取りあえず携帯にて。

3410マターリ:2007/07/02(月) 20:12:06
>皆様、ご無沙汰しておりました。血管の手術をした後、体調を崩しており
ました。

>犀角独歩さん、ご指導ありがとうございます。広範な内容ですので、じっ
くり拝読させていただきます。概要は理解できました。大変、勉強になりま
した。

勉強すればするほど、色々と疑問が出てきました。日蓮聖人が安楽行品を
無視した理由・多くの殉教者や負傷者を出してしまった理由などです。
今後とも宜しくお願い致します。

>再挑戦者さん、今後とも宜しくお願い致します。

3411疲労困憊:2007/07/02(月) 20:18:27
しゅんかんさん、手続きの師匠たる住職に相談して、内事部に願い出を出さ
なければいけません!!正宗法華講員の場合は

3412犀角独歩:2007/07/02(月) 21:40:16

マターリさん

お見舞い申し上げます。

3413しゅんかん:2007/07/02(月) 22:10:13
一字三礼さん
お待たせ致しました、取敢えずネットが出来るまで復旧致しました(プロバイダのお嬢さんに全て助けて戴きました
彼女達は賢いなあ、感謝)

先ず、自己紹介にレス致しましたので、素朴な疑問[2851]以降も合わせてご覧戴ければ幸甚です。

私が皆様方よりご教示戴いてますのは、認知症を患っている母の姿を見るにつけ不憫でならないからです。
認知症の母は過去の出来事は記憶しておりますが、近年(最近)の事は全く記憶にございません。
[3398]で記しました
見取見=人はひとたび肯定し、それが正しいと認めたことは、先入主となって、
そうでないことがわかっても、最初の見方にとらわれてこれを改めることが出来ない。

戒取見=戒とは否定の義であるから、ひとたび否定した事はそれの誤りが証明されても、
これに固執して考え方を改めることができない。
健康なお方においても以上の様ですね、まして認知症の母です、記すまでもないでしょう。
私は、皆様がやり取りされてます蓮祖の教えをどの様に拝読するか、意は?につきましてはからっきし駄目です。
ですが、石山の欺瞞は其れらの事を学ばなくとも、信仰と云うものを経験していない私には容易く判別出来ます。
御本尊さまや過去帳、御仏壇を我が家で預かりましたのは私の自発的な案によるものです。
(姉兄が放置していたからです)
数ある日蓮宗の中で、日興門流・正宗を父母は縁会って信仰をもった訳です。
以前、独歩さんに蓮祖の教えを正当に継承している門流は?とお尋ねした事が在ったと思いますが
あっさりと「無いです」とご教示戴いたと記憶しております。

3414しゅんかん:2007/07/02(月) 23:29:35
[3413]の続き

私のような浅学非才者には判断しかねます、縁会った訳ですから興統法縁でと致したしだいです。
自身の信仰を変えるのも計り知れない苦痛を伴うものでしょうが、私の其れも言い表せない物が在りますよ(笑)
実を云いますと、どうして善いのか判らないのが本心です。
私は信仰をしていないと云いましても多くのお方とはやはり違い、つい近年まで神社仏閣を訪れる事が出来ませんでした。
私の地方の小学校に於ける林間学校は(金剛峯寺・高野山)修学旅行は(神宮[伊勢神宮])です。
母からは「拝むな」と、心の中で「南無妙法蓮華経」と唱えなさいと云われものです。
此れも、皆様のレスを拝見し最近カルトに拠る物だろうと理解いたしました、脅迫観念ですね。
現在も母からよく以下の言を聞かされます。
「私の為に猊下さまが書いて下さった御本尊さま」
「誰もが戴けるものではない有難い御本尊さま」
私の家で預かると云った時「私のんや、何であんた処に・・・」と嫌がったものです。

>日蓮正宗のご住職に八巻経の奉安について訊ねたり、日蓮正宗系の仏具屋に拘られるのはなぜですか。
>そもそも、信仰をしていなければ、仏壇に何を奉っても関係ないのではないですか。
〇以上の事で回答に成っておりましょうか?

〇日蓮正宗だけではございません、重須も要山に於いてもお訊ねしております。
〇「信仰をしていなければ、仏壇に何を奉っても関係ないのでは」とは思いません。
様式と云う物がございましょうから、その場には其れに合った物が肝要ではないでしょうか。
礼儀と云うものでしょうか、十戒曼荼羅と阿弥陀如来像を一に奉安するは、私は信仰をしていないのだから
何を奉っても関係ないでは、其れを本尊と崇め信仰されている方を愚弄するものでしょう。
ですがこの「何を奉っても関係ない」は信仰対象を有していない方より発せられるかも知れません。
ですが、私は一字三礼さんを申し訳ありませんがどの様なスタンスを取られておられるのか存じ上げておりません。
もし、日蓮宗系で蓮祖の教えを実行されておられるお方でしたら
>信仰をしていなければ、仏壇に何を奉っても関係ないのではないですか。
とは矛盾いたしませんでしょうか。

3415しゅんかん:2007/07/02(月) 23:36:43
疲労困憊さん
[3411]懇切丁寧な文、ありがとうございます。

3416一字三礼:2007/07/03(火) 00:02:47
しゅんかんさん

レスありがとうございます。
興味本位で聞いてしまったことに、お時間を使わせてもうしわけありません。

ただ、拘るわけではありませんが。
普通に考えてみてください。やはり、信仰のない人にとっては、仏壇自体も不必要だと思いますよ。無信仰であれば、大曼荼羅だってただの紙切れですし、日蓮大聖人御影像であっても阿弥陀仏の像もただのお人形でしょう。

しゅんかんさんは、お気づきではないのかもしれませんが、家の中に仏壇を置き、本尊を安置し、奉安形式を整える、という行為は信仰の意識から起こることではないでしょうか。

ただ、試行錯誤をされているということは理解できました。納得のいく‘かたち’が見つかるとよいですね

3417しゅんかん:2007/07/03(火) 00:38:05
一字三礼さん

う〜ん少し認識にずれがあるのかも知れません。

>大曼荼羅だってただの紙切れですし、日蓮大聖人御影像であっても阿弥陀仏の像もただのお人形でしょう。
〇信仰の無い人、無信仰者にそれらを破って捨て、焼却してみろと云って易々としてのける方多数とは
思わ無いのですが。

>しゅんかんさんは、お気づきではないのかもしれませんが、家の中に仏壇を置き、本尊を安置し、奉安形式
を整える、という行為は信仰の意識から起こることではないでしょうか。
〇先にも記しましたように、私は一字三礼さんを申し訳ありませんがどの様なスタンスを取られておられるの
か存じ上げておりませんので、お答えするのに窮しますが。
私の意識面に於いては信仰をしていないつもりです。
朝夕お題目を三唱するだけですが、これを捉えて「信仰の意識から起こること」と信仰をされておられるお方は
述べられるかもしれませんね。
ですが、私は細君の実家で本願寺派の仏壇にも手を合わせます、ただ「南無妙法蓮華経」ですけど
神社仏閣を訪れなかった事とリンクしますが幼少の頃より植え付けられています観念ですから容易く
捨て去れないのでしょうね。

>試行錯誤をされているということは理解できました。納得のいく‘かたち’が見つかるとよいですね
〇有難うございます、今後も宜しくお願い致します。

3418しゅんかん:2007/07/03(火) 18:09:15
[3414]
誤=十戒曼陀羅
正=十界曼陀羅

3419マターリ:2007/07/03(火) 18:52:04
>犀角独歩さん、お見舞いのお言葉、ありがとうございます。

3420犀角独歩:2007/07/04(水) 07:21:21

ここのところの遣り取りをざっと読ませていただきましたが、八巻は仏具店で買うのは各人の勝手、石山末寺の坊さんの許可など不要なところ。

それよりなりなにより、その坊さんは歯にくっついた御肉が生きているとか、あとから造った彫刻が本物であるという嘘八百の片棒を担いできたことを反省し、信者に謝罪することが先決です。こんな嘘八百の片棒を担ぐ者に、指導を仰いだり、許可を取るなど笑止千万というほかないということではないでしょうか。

3421一字三礼:2007/07/04(水) 21:31:13
法華経を買うなら、読めないように張り付いている八巻経より、折本の経本のほうがいつでも読誦できてよいでしょう。
読むために文字が書いてある経を飾っておいても意味がありません。

また、経本に開眼などはありえません。
日蓮遺文に明らかなように、法華経によって、開眼供養というものはなされるのです。ですから、法華経を開眼供養する経などは存在しません。

法華経にも開眼供養が必要とする人達がいるとすれば、その人達は純粋に商売として、顧客の囲い込みを目的として主張しているのでしょう。

3422犀角独歩:2007/07/04(水) 21:48:11

3421の一字三礼さんのご意見はもっともであると指示します。

3423犀角独歩:2007/07/04(水) 22:08:35

一字三礼さんのご投稿の根拠は『木絵二像開眼之事』の以下の一節でしょう。

「仏に有三十二相皆色法也。最下千輻輪より終無見頂相至までの三十一相は可見有対色なれば書つべし作つべし。梵音声の一相は不可見無対色なれば不可書不可作。仏滅後は木画の二像あり。是三十一相にして梵音声かけたり。故非仏。又心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥也。何涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや。又大瓔珞経には木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり。
木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足する也。…三十一相の仏の前に法華経を置たてまつれば必純円の仏」

3424一字三礼:2007/07/04(水) 22:26:31
犀角独歩さん

私の挙証不足を補足くださり、ありがとうございます。

最近は知りませんが、以前、池袋の常在寺で売っいた経本は、‘開眼供養済み’のものだと坊さんが言っておりました。
何を言っているのやら…。

3425犀角独歩:2007/07/07(土) 08:54:31

一字三礼さん

日蓮が開眼の要諦と考えた法華経典を、開眼するという本末転倒が起きているわけですね。

ついで、日蓮が漫荼羅を図示したのは、まさに授与する相手の仏目開眼の意図があったように思えます。『本尊抄』と隣接した『開目抄』の紙背の意図と考えます。

ところが、その漫荼羅を複写し大量生産してしまったために、単なる印刷物を、どうにか本尊とこじつける必要性に迫られることになったのでしょう。そこで創案されたのが漫荼羅本尊開眼という本末転倒であったのでしょうね。

3426そううそ:2007/07/07(土) 11:06:29
こんにちは
ご無沙汰しています。

創価学会の信仰に功徳はあるか? 考え方が変わる事は退転か?裏切りか?地獄行きか?(その1)
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/d013cff682972c2c57cc05510c0c84f4

犀角独歩さん
上記の記事で引用をしたので許可頂けませんか?
ではでは

3427犀角独歩:2007/07/07(土) 11:48:04

そううそさん

事後承諾ですか(笑)
わたしは承諾しました。
ただし、該当の投稿は、こちら富士門流信徒の掲示板でのものですから、管理人さんにもご許可を求めるほうが筋が通ろうかと存じます。

3428一字三礼:2007/07/07(土) 18:15:43
犀角独歩さん

>日蓮が漫荼羅を図示したのは、まさに授与する相手の仏目開眼の意図があったように思えます。『本尊抄』と隣接した『開目抄』の紙背の意図と考えます。

‘大曼荼羅授与に仏目開眼の意図’確かにその考えもあったのでしょう。

真筆遺文から考えると、日蓮に上行菩薩の自覚を読み取ることは難しいですね。
それに対して不軽菩薩の自覚は、「転重軽受法門」、「神国王御書」、「撰時抄」、「高橋入道殿御返事」、「報恩抄」等々にはっきりと書かれております。

不軽菩薩の自覚を持ち、上行所伝の題目を大曼荼羅に図示して、信心堅固な弟子にのみ授与した。
このことは、やはり日蓮から弟子への‘授記’‘記別’も同時に意図していたのではないかと考えます。
不軽菩薩は、菩薩からの授記を信じない増上慢の四衆から、迫害を受けました。
日蓮は、題目を広めたことによって、念仏衆や為政者から迫害を受けました。ということは、題目を広めること自体に、‘授記’意味も含めていたのではないかと思います。

3429犀角独歩:2007/07/07(土) 20:46:02

一字三礼さん

> 真筆遺文から考えると、日蓮に上行菩薩の自覚を読み取ることは難しい

そうですね。わたしも、この点については慎重です。

> 不軽菩薩の自覚

このようにお考えですか。もう少しお聞かせ願えませんか。
わたしは日蓮が不軽菩薩を上げるのは、仏滅後の修行者という位置付けからだと考えていました。

3430一字三礼:2007/07/07(土) 22:01:39
犀角独歩さん

>わたしは日蓮が不軽菩薩を上げるのは、仏滅後の修行者という位置付けからだと考えていました。

どうでしょう、仏滅後の修行者というよりは、日蓮は、受難の法華行者という点で不軽菩薩と自身を重ね合わせたのではないでしょうか。

そしてそのことが日蓮にとって唯一の救いとなったのではないでしょうか。

正しく法華経を行じながらも、常に自身に降りかかる一向に救いこない受難。その受難に対して、大いなる意義と意味をもたせ、解決に導いてくれたのは、不軽菩薩の受難理由である‘其罪畢已’だった。
‘其罪畢已’に自らの疑念の解決をみたときに執筆したのが「開目抄」ではないでしょうか。

日蓮が不軽菩薩と自身を重ね合わせている真筆遺文をいくつか引いてみます。

「過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ、身にあたりてよみまいらせて候けるとみへはんべれ。現在には正像二千年はさてをきぬ。末法に入ては此日本国には当時は日蓮一人みへ候か。」(転重軽受法門 文永八年)

「今日蓮は日本国十七万一千三十七所の諸僧等のあだするのみならず、国主用い給はざれば、万民あだをなす事父母の敵にも超へ、宿世のかたきにもすぐれたり。結句は二度の遠流、一度の頭に及ぶ。彼の大荘厳仏の末法の四比丘竝びに六百八十万億那由他の諸人が善事比丘一人をあだみしにも超へ、師子音王仏の末の勝意比丘の無量の弟子等が喜根比丘をせめしにも勝れり。覚徳比丘がせめられし、不軽菩薩が杖木をかほりしも、限りあれば此れにはよもすぎじとぞをぼへ候。」(神国王御書 文永十二)

「其後弥菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波の起るがごとし。昔の不軽菩薩の杖木のせめも我身につみしられたり。覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も、此には及ばじとをぼゆ。」(報恩抄 建治二年)

「此の法門は当世日本国に一人もしり(知)て候人なし。ただ日蓮一人計りにて候へば、此れを知て申さずは日蓮無間地獄に堕ちてうかぶご(期)なかるべし。譬へばむほんの物をしりながら国主へ申さぬとが(失)あり。申せばかたき雨のごとし風のごとし。むほんのもののごとし。海賊山賊のもののごとし。かたがたしのびがたき事也。例せば威音王仏の末の不軽菩薩の如し。歓喜仏のすえの覚徳比丘のごとし。天台のごとし。伝教のごとし。」(種種物御消息 弘安元年)

「其の上、日蓮は法華経誹謗の国に生まれて威音王仏の末法の不軽菩薩のごとし。はた又歓喜増益仏の末の覚徳比丘の如し。」(上野殿御返事 弘安二年)

「法華経は三世諸仏説法の儀式也。過去の不軽品は今の勧持品。今の勧持品は過去の不軽品也。今の勧持品は未来の不軽品たるべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし。」(寺泊御書)

いっぱい貼り付けたり、検索したりしているうちに、気がついたのですが。

覚徳比丘はほとんどの場合(経典から直接の引用と一ヶ所を除いて)、同じ受難の行者として不軽菩薩と並べて挙げられるのですね。
折伏を現ずるのが有徳王で、その有徳王の折伏によって救われる受難の行者が覚徳比丘でしたね。
真筆遺文からみる日蓮の主張は、受難の行者として覚徳比丘=不軽菩薩=日蓮というものです。
ここから考えても、‘不軽菩薩と日蓮は折伏’という主張は間違いですね。

3431そううそ:2007/07/07(土) 22:49:55
>管理人さん
お世話になっています。

当掲示板への書き込みルール
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1134265404/l50

こちらでは本BBSから引用する場合のルールが書かれていませんが、
コメントした本人さんの許可が得られれば、管理人さんの許可は
不要かと思うのですが、どうでしょうか?
今後も犀角独歩さんのコメントを引用しつつ学びたいことがあると思います。

許可が必要であれば独歩さんのコメントの引用許可を下さい。
よろしくお願いします。

>犀角独歩さん
こんばんは

許可有り難うございます。

ところで、メールは届いていなかったのでしょうか?
それと、もしかして私から 2007/06/27 21:54 のメールも届いていませんか?

ではでは

3432管理者:2007/07/07(土) 23:52:43

当掲示板は公開された掲示板ですが、この掲示板の内容を引用することは、当然、著作権法の制約を受けます。そして、当掲示板の書き込みの著作権は、運営主体たる「冨士門ネット」に属します。

この意味では、書き込まれたご本人の転載許可はもとより、当掲示板の運営主体たる冨士門ネットの転載許可が著作権法上必要となると考えています。

この前提に立って、管理者の責任において、そううそさんの今回の転載を、事後承諾いたします。

3433そううそ:2007/07/08(日) 01:40:56
>管理人さん

>当掲示板の運営主体たる冨士門ネットの転載許可が著作権法上必要となる

了解しました。

>転載を、事後承諾いたします。

有り難うございます。

3434犀角独歩:2007/07/08(日) 10:07:48

そううそさん

メールは届いていません。

3435犀角独歩:2007/07/08(日) 10:16:53

一字三礼さん、ありがとうございます。

先の書き様で「日蓮…不軽菩薩…仏滅後の修行者」という表現は如何にも拙いですね。意を尽くしていませんでした。仰る筋、賛同します。
ついでながら、もう少しお付き合いいただきたいのです。

いうまでもないことですが、不軽菩薩は成仏以前の釈尊前世物語です。一方、有徳王がこれまた釈尊の前世であるということでした。

つまり、釈尊は不軽菩薩であり、有徳王であるというのが、法華・涅槃のストーリーということになりますね。

わたしが過去の修行者といったのは、日蓮の前世が不軽菩薩、覚徳比丘であるとするのではなく、仏滅後の代に出現する比丘という位置付けで自身を当て嵌めたという意味です。この説明では、どうでしょうか。

摂折の解析、まったくそのとおりであろうと存じます。

3436マターリ:2007/07/08(日) 23:27:46
日蓮聖人は、法華経の安楽行品を軽視し、勧持品を重視したと思います。

しかし安楽行品をよく見ると、厳しい戒めの言葉が書いてあります。「しな
さい。してはなりません。答えなさい。いけません。」などと。

一方、勧持品を見ると「広く此の経を説くでしょう。我等をさげずみ刀杖を
加えることでしょう。」というように、「でしょう」という言葉が多いのがわ
かります。ですから、この経には、未来予測および決意が書いてあるような
気がします。

戒めと未来予測&決意と、どちらを大事にすべきかですが、拙い私の考えでは、
戒めの方が大切なのでは、と感じます。

勧持品に書いてあるような難を防ぐためにこそ、安楽行品で厳しく戒めてい
ると思えるのです。もし前代未聞の大難が襲い来たった場合、法華経教団全
滅ということにもなりかねません。そうすれば、西暦50年ころから編纂され
たという法華経の、執筆者たちの願いも、ついえてしまいます。法華経を書
いた意味がなくなってしまいます。

法華経の執筆者たちは、未来永劫に法華経が伝えられることを祈りつつ、
安楽行品を書いたと思われます。途中で、法華経の信徒が途絶えては困る
わけです。

また、原始仏教典を読んでから法華経を見た場合、安楽行品は原始仏教典の
意に則していますが、勧持品はかなりの差が感じられます。
排他性・殉教精神・使徒的仲間意識のような激烈さが書いてあるようです。

日蓮聖人の激しい他宗排撃が、あったればこそ、日蓮宗が後世まで生き続け
たと思います。しかし逆に、それゆえ厳しい弾圧を受け、多くの信徒が殉教
し負傷してしまいました。行敏訴状御会通を見ると、弟子等を殺害に及ぶこ
と数百人と書いてある通り、すさまじい惨状です。

日蓮聖人が他宗排撃をしなければ、数百人の信徒が寿命をまっとうできたわ
けです。生命尊重の、現代に生きる私としては複雑な思いです。

安楽行品は、天台からすると迹門であり、安楽行品の菩薩は初心の菩薩です。
勧持品は本門であり、この菩薩は地湧の菩薩ということです。日蓮聖人ご自
身は、すでに初心ではないということで、安楽行品を軽視したと思います。

とはいえ、日蓮聖人が安楽行品を軽視および無視したのが、大難を受ける根
本原因だったと思われますが、いかがでしょうか?日蓮聖人は安楽行品を重
視すべきだったのではないか?という思いが消えません。

天台の、本門・迹門という立て分けを顧慮せず、二つの経典を素直に見た場
合、勧持品の未来予測&決意より、安楽行品の戒めを重視すべきではないか
と思っていますが、いかがでしょうか?

安楽行品↓
http://comet.endless.ne.jp/users/fnwo/h-14-1.htm

勧持品↓
http://comet.endless.ne.jp/users/fnwo/h-13.htm

3437一字三礼:2007/07/08(日) 23:53:16
犀角独歩さん

>わたしが過去の修行者といったのは、日蓮の前世が不軽菩薩、覚徳比丘であるとするのではなく、仏滅後の代に出現する比丘という位置付けで自身を当て嵌めたという意味です。

賛同いたします、仰るとおりであろうと思います。

>つまり、釈尊は不軽菩薩であり、有徳王であるというのが、法華・涅槃のストーリーということになりますね。

涅槃経は、法華経の影響の下で成り立っている経典ですが、法華経は涅槃経を想定してはいませんよね。だから、法華経の立場から涅槃経との会通をはかるのは本来は無理なことです。
ただ、日蓮の理解では会通が出来ていたのでしょう。


ところで、ご見解をお聞かせいただきたいのですが。

一般的な日蓮宗の解釈では、「立正安国論」は、時の為政者である時頼を法華信者にすることによって、一気に日本全土への広宣流布を図った、というものでしょう。

しかし、常識的に考えれば、日本で為政者の一人が信奉する宗教を換えたからといって、日本国民が全て改宗したという前例はありませんでした。
事実、時頼が臨済禅を信奉していても、巷で流行っていたのは念仏です。

ということは、以前に独歩さんもご主張されていたとおり、「立正安国論」の執筆動機は、為政者の権力によって‘邪宗を禁止’させるためであった。つまり、為政者に対する‘折伏の勧め’です。

‘邪宗の禁止’とは、承元元年(1206年)2月の後鳥羽上皇が怒りにまかせて命じた、念仏の禁止という措置を念頭においていたものでしょう。
この措置を再び厳格に実行すべし、というのが「立正安国論」の主張だと思います。

3438一字三礼:2007/07/08(日) 23:53:56
つづきです。

ここで思い出されるのが「観心本尊抄」の一節です。

「当に知るべし、此の四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す。」

日蓮は、当時を折伏による布教の時代と捉えていました。

それは、為政者が、その権力と法律とを駆使して、日蓮法華以外の信仰を禁止にすることによって、広宣流布が達成される、というものと考えられます。

自らを覚徳比丘に重ね合わせる日蓮にとって、常に求めたのは日蓮にとっての‘有徳王’だったということでしょう。

有徳王の方が覚徳比丘よりも功徳が勝っているのは、金剛身品のとおりです。

総合しますと、日蓮は、「立正安国論」を採用して、実行した為政者(王)こそが‘上行菩薩’と考えていたのではないでしょうか。

そう考えますと、日蓮が、自身を上行菩薩と想定していたとは考えられません。

しかし、この考え方が、‘三度の高名’後、文永十一年四月八日を境に、為政者に対する諦め、折伏を諦めた時から、日蓮は上行菩薩を意識するようになるのではないでしょうか。

3439顕正居士:2007/07/09(月) 11:13:22
>>3438
本尊抄のその語句は顕密体制や皇道思想とあいまってそういう解釈が室町時代に形成される。
そして明治維新後にまた国柱会によって復活する。しかし日蓮が言及している賢王は明らかに
クビライ・ハンのことである。誡責愚王は元寇以外の何物でもない。
そうした閻浮提闘諍の時代には出家といえども武器を帯びて自衛することも許される。実際に
日蓮は刀(数珠丸)を帯していた。そういう出家のあり方もまた折伏と称される。
このことは北嶺南都においては常識になっていた。ただし学生、がくしょう、ほんものの出家は
十戒だけは守り、堂衆、どうしゅう、学生の従者が武装して護衛するのを建前とする。
(実際にはこの建前も守られなかった。学生も妻帯し、時には天台座主自ら戦陣に立った)
鎌倉幕府はこの武装寺社勢力を関東において認める気はなかった。初歩的な政教分離の
思想へ進歩していたといえる。しかし関西では公然と行われている思想なのだから、日蓮の
処置には十分慎重であった、比叡山や興福寺との対立は避けなければならなかった。

3440犀角独歩:2007/07/09(月) 19:43:19

一字三礼さん

重ねてご返答、まことに有り難うございます。
3437〜3438に記されておられるところ、ほぼ同意いたします。

わたしの日蓮=上行論の最大の疑問は、真蹟から鑑みられないことも、もちろんですが、この菩薩の特質に拠ります。

釈尊五百塵点成道初発心弟子にして、已来大地の虚空に住したこの菩薩は、不軽菩薩の如く、畢える罪があるわけもなく、その偉容は「是諸菩薩 身皆金色 三十二相 無量光明」といいます。「或被軽易或形状醜陋 衣服不足 飲食麁疎求財不利生貧賎家邪見家或遭王難」などという有様とは次元を異にしています。以上の次第ですから、日蓮が自身を上行再誕と考えていたとは、とても考えづらいと思うわけです。

『立正安国論』の提出は、仰るような次第であると、わたしも思います。
承元元年2月の後鳥羽上皇の念仏の停止をモデルにして、いまでいう新興宗教、それも京都を睥睨した鎌倉の暫定武家政権に対して、物を申したというのが、当初の有様であったのではないでしょうか。
この時点で、日蓮が王難を覚悟していたか?と問われれば、わたしは、寧ろ、国師の待遇で迎え入れられるような夢想もあったのではないかと思う節はあります。しかし、結果は歴史の如くでした。その中で仏滅後の成仏のモデルを不軽菩薩、覚徳比丘に求めていったのではないかと考えています。
当初は、法華復興を基調にした考えであり、寿量仏/四菩薩本尊といったモデルも出来上がったいなかったのではないかと思えます。その意味で、初期『立正安国論』執筆段階で四菩薩出現を想定したとは考えづらいように思えますが、どうでしょうか。

しかし、その後の迫害に遭い、寿量仏/四菩薩信仰が徐々に闡明になっていったという経緯ではないでしょうか。『本尊抄』にいう四菩薩賢王は顕正居士さんが仰るとおり、クビライ・ハンを指していたと、わたしは思えます。ただでは、行摂受成僧は具体的に誰を指すのかという問いは残ります。

金色三十二相を具す無量光明を放つ菩薩の出現を日蓮は待っていたのか、実はわたしは待っていたと思います。待っていたからこそ、その四菩薩を像に刻むことを『本尊抄』に述べ、漫荼羅にも記したのだろうと思えます。

このような視点から日蓮の漫荼羅を眺め直すと、虚空に浮かぶ宝塔中の釈迦多宝、脇士四菩薩を娑婆土から仰視し、妙法蓮華経の五文字を受け取る日蓮という相関図とも見えます。それが合っているかどうかは別として、そのような観点からの日蓮解釈は十分に可能であると、わたしは考えます。

なお、「日蓮は、当時を折伏による布教の時代と捉えていました」とのことですが、この点では、わたしは少し違う見解を有しています。

『開目抄』に「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多時は折伏を前とす。(常不軽品のごとし。)…末法に摂受折伏あるべし。所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国当世は悪国か破法の国かとしるべし。」

では、日蓮は日本国を如何なる国かと言ったか、
『開目抄』に「‘悪国’悪時これなり。具には立正安国論にかんがへたるがごとし」、『富木殿御返事』に「諸天善神去此‘悪国’故」、『曽谷入道殿許御書』に「其外閻浮守護天神地祇或去他方 或住 此土不守護於‘悪国’」と、日蓮は、日本国を悪国であると書いています。

ここで先に挙げた『開目抄』の文を整理してみます。

┌無智悪人の国土…=悪国は摂受
└邪智謗法の者多時=破法は折伏

となれば、日蓮は末法日本国では「摂受を前」といっていることになりませんか。だからこそ、その摂受をしない自身への批判を『開目抄』に弁明しているのではないでしょうか。ただし、それは日蓮が折伏の人ということではなく、安楽行品摂受からの逸脱を、あくまで摂受=僧の立場から論証しているのであって、僧が折伏という意味ではないわけです。

ちなみに「邪智謗法の者多時は折伏を前とす。(常不軽品のごとし。)」の文において、仮に()内の一文があったところで、折伏(暴力によって)折り伏せられることに遭った不軽菩薩ということですから、不軽菩薩が摂受である点は動きません。摂受は、常に折伏との対置して両輪の如く両者あって成り立つからです。

無知悪人:不軽菩薩=折伏:摂受
無智悪人:覚徳比丘=折伏:摂受
無智悪人:日蓮聖人=折伏:摂受

という論旨で一貫しています。
以上のようにわたしは考えますが、この点についてもご賢察を承れれば有り難く存じます。。

3441一字三礼:2007/07/09(月) 23:35:53

犀角独歩さん

レスありがとうございます。
どう頑張っても‘賢察’とはいきませんが、少し記させていただきます。

仰るところの上行菩薩の特質からのご考察、賛同します。

上行菩薩は、その六万恒河沙の眷族と共に「寿量釈尊の証明」と「神力品の別付属」を役割とする菩薩です。
その特徴を日蓮が「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩也。」(観心本尊抄)と言うように、寿量釈尊と同じ世界に住するという特殊性のため、一品二半の中で観心として把握されるべき菩薩格ではないかと思います。

それに対して覚徳比丘と不軽菩薩は、始覚釈尊の前生として、その性質・働きが非常に具体的に表現されており、上行菩薩の特徴と比較すればかなり単純な印象さえ受けます。

現実に苦難を乗り越えて生きた日蓮にとって上行菩薩は、自身と重ねるというより、内面的に把握される存在ではなかったか、と考えます。

>この時点で、日蓮が王難を覚悟していたか?と問われれば、わたしは、寧ろ、国師の待遇で迎え入れられるような夢想もあったのではないかと思う節はあります。

私もそうではなかったかと思います。

>初期『立正安国論』執筆段階で四菩薩出現を想定したとは考えづらいように思えますが、どうでしょうか。

たしかに仰るとおりですね、ここのところで私は時系列を考慮に入れておりませんでした。

顕正居士さんもご指摘されておりました、賢王=クビライ・ハンという構図は、日蓮が日本の為政者に絶望した後の発想なのではないでしょうか。
つまり、もともと日蓮は、「立正安国論」が時頼に採用されると考えていたのでしょう。そうなれば時頼が‘賢王’に見立てられたのではないでしょうか(ご指摘のように、この時点では賢王=四菩薩の思想はなかったでしょう)。
ところが、三度諫めてもこれを用いない幕府・執権を諦めたとき、他国に賢王の存在を求めたのではないかと思います。

>金色三十二相を具す無量光明を放つ菩薩の出現を日蓮は待っていたのか、実はわたしは待っていたと思います。

私も同様に思います。
前で記しましたように、上行菩薩は、寿量釈尊と同世界に住む存在なので、分別を超えた観心で把握されるべき、抽象的な存在です。

おかしな言い方になりますが、その神聖にして抽象的な菩薩が、現実に現れると日蓮は考えていた。
矛盾する概念を渾然一体として把握するのも日蓮の魅力ではないかと思います。

>なお、「日蓮は、当時を折伏による布教の時代と捉えていました」とのことですが、この点では、わたしは少し違う見解を有しています。

挙げてくださった遺文では、たしかに日本=悪国=摂受というのも成り立ちますし、日蓮は「摂受を前」といっているように思えますが、これはどうでしょう。
少し長くなりますが、引用します。

「余に三度のかうみやう(高名)あり。一には去し文応元年[太歳庚申]七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向て云く 禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。此の事を御用ひなきならば、此の一門より事おこりて他国にせめられさせ給ふべし。二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向て云く 日蓮は日本国の棟梁也。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とて此の国の人々他国に打ち殺さるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頚をゆひのはまにて切らずは、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ。第三には去年[文永十一年]四月八日左衛門尉に語て云く 王地に生まれたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古国を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば、」(撰時抄)

三度ともに、為政者に対する‘折伏の勧め’とは読めませんでしょうか。
私には、日蓮は、為政者が折伏によって(権力・武力・法等)、邪宗はを取り締まるのを待望していたのではないかと思います。

3442顕正居士:2007/07/10(火) 00:44:58
>>3440
犀角独歩さん。日蓮は聖僧としての上行菩薩の近未来出現を期待していたと私も考えます。
日蓮の王仏思想は北嶺南都のジハド思想そのままで、これが完全に片付くのは織田信長を
待たねばならない。同様の思想に依然停滞していたカトリック勢力も追放し、豊臣秀吉により
世界最初の政教分離国家日本ができます。
日蓮の王仏思想はそのように時代遅れのものでしたが、一閻浮提闘諍の世界を直感したのは
素晴らしかった。当時、ユーラシアの真ん中にクビライ・ハンの世界帝国が成立していました。
豊田有恒さんの小説のように、もし四汗国の分裂抗争がなければ、13世紀に地球は統一され、
数百年早く文明が進歩した可能性は否定できません。実際にはナポレオン帝国と同様に
各地の民族主義を昂揚させ、別の形で文明の進化を促した。
クビライ・ハンの世界帝国は商業帝国であり、グローバライゼーションのために商業と相性のよい
インド大乗仏教を国教とした。帝師パスパはほぼ日蓮と同時代の人。摂受を行う聖僧と折伏を行う
賢王は実在したのですね。
なお悪国とか破法とかに深い理屈はなく、北嶺南都の常識がまず動かないものとしてあった。
章安荊渓の釈を引く大乗涅槃経折伏(ジハド)思想です。法華思想とは整合しませんから、
日蓮の言説は検討すると論理的にあいまいですが、乗急戒緩の思想がもう常識だったでしょう。

3443顕正居士:2007/07/10(火) 03:02:53
日蓮は預言者であり、一見理屈っぽいが、実は直感の人でした。
彼の理屈は破綻しているが、神秘的な感性を有しており、
大元帝国の位置と国際情勢を自己心中に投射したのです。
この点では北条氏は全然だめでした。元の国書は今日的には政権の承認を求めたものです。
中国の正統政権とは日本政府は常に公式とは限らないが修好していました。
日宋関係は非公式のほうです。日本政府が事情に疎いと考え、行った示威行為が文永の役です。
次の段階では宋はすでに滅亡しています。日本政府に修好を拒否する理由がありません。
しかるに外交官を斬殺した行為をむろん、日蓮は批難しています。
弘安の役は実際に威力をもって国交を要求する計画でした。これが失敗したのですが、
元が中国の単一政権であることはもう事実なので、商人は貿易を盛んにおこなうようになり、
幕府も禁止しませんでした。それで3次侵攻計画もありましたが、まあよいかとなりました。
幕府は愚行によって崩壊の運命が定まる。国際情勢の直感では幕府は話になりませんでした。

3444犀角独歩:2007/07/10(火) 06:08:06

顕正居士さん

ご教示くださった当時の世界情勢と日本の位置、そして、その背景から見える日蓮像は、たいへん参考になりました。神話化された日蓮物語を、貿易はもちろんのこと、実際的な人の営みの延長にある国の、世界の情勢から見直すこと。何と生き生きとした現実感かと思えました。有り難うございます。

一字三礼さん

> 三度ともに、為政者に対する‘折伏の勧め’

そのとおりだと思います。

わたしは従来の摂折論は、いくつかの思い違いに基づいていると考えます。まだ、思惟の段階で整理しておりませんが、いくつか挙げてみます。

まず、摂受・折伏のいずれかという選択論。これは違いませんか。
摂折は水火の相違と日蓮は言いながら、しかし『本尊抄』の王/僧の対比の如く、車の両輪の如く、セットされた考えです。その典型が、有徳王/覚徳比丘の物語ですね。日蓮が『開目抄』に言っているのは、どちらが‘先’かということであって、いずれか片方、それで折伏だといった選択論ではありませんよね。先を言うのは、後があることを前提にした立論です。摂受・折伏、どちらが先かということであって、結局は摂折両立であるわけです。

日蓮は仰るとおり、為政者に対して、『涅槃経』、また、『止観』から導かれる武力統制、すなわち折伏を勧めています。では、僧である日蓮はいえば、あるべき安楽行品における摂受をまず前提にして、「見壊法者」を引用し、身に宛てます。これは一貫した日蓮の在り方でした。「若能駈遺呵責挙処」、また、不軽菩薩の撃於毒鼓、申つをら(強)りは、折伏か。この点は過去に論じましたので繰り返しませんが、それが強説であれ、説法であれば、それは「弘持正法」なのであって、摂受の域です。つまり、日蓮は当時の安楽/摂受といった僧侶の襟度から、涅槃「見壊法者」を鑑み、強言説法といった摂受の限界に挑んだのではないでしょうか。つまり、『開目抄』で展開される摂折論において、日蓮が自身に宛てて論じているのは摂受の範囲内ではないかということです。

この日蓮の摂受を前として、為政者に対して折伏を勧めた。つまり、ここで、日蓮の言説が先行するわけですから、摂受が先になっている。そして、その後に為政者の折伏が続くという道程を日蓮は想定していたと思えるのですが、どうでしょうか。

3445犀角独歩:2007/07/10(火) 07:19:00

御礼を申し忘れました。

一字三礼さんのご賢察、日蓮非上行論、摂受論は示唆に富み、大いに刺激されました。感謝申し上げます。有り難うございます。

いずれにしても、日蓮門下の折伏論とは、『如説修行鈔』(文永10年5月)を真筆と扱うかどうかで大きく意見が分かれています。

わたし個人は、身延曽存、後5月の『顕仏未来記』、また『富木殿御返事』などと比して、文体が著しく異なり、メンタリティにも格段の相違があると感じます。

一字三礼さんは、この書にどのようなご見解を有していらっしゃいますか。

3446マターリ:2007/07/10(火) 10:21:06
行敏訴状御会通を見ると、弟子等を殺害に及ぶこと数百人と書いてあります
。しかし、日蓮聖人の伝記を見る限りでは、小松原の法難の際に、鏡忍坊、
工藤吉隆が戦死、あとは熱原の法難で神四郎・弥五郎・弥六郎の三人が殺害
されたことくらいしかわかりません。

数百人という膨大な数の殉教者は、どの法難で出たのでしょうか?

3447顕正居士:2007/07/10(火) 15:02:09
なぜ中世では聖戦思想が当たり前だったのか?

大乗涅槃経の折伏思想は頻繁に支配民族が交代する中央アジア、インド北部で起こったのでしょう。
インド仏教末期の折伏思想はむろんイスラームに対するものです。
しかし中世の日本や欧州では平時に聖戦思想が当たり前だった。異民族に対するものですらない。
これはなぜか?
中世の寺社は封建領主で、小作料が主な収入です。それで土地の支配権はどうやって維持するか。
中央政府が小さい封建社会では領主は軍事、警察、司法を自分で行う、自分の土地は自分で守る。
そうしますと外交関係が特にこじれている他宗他派の寺社とは常時聖戦状態になります。
延暦寺と三井寺のように。実力がない中央政府や地方政府が干渉してきますとこれとも聖戦です。
聖戦によって僧侶の日常経済生活が成り立っているのですから、一方ではいくらでも戒律の話は
並べられるが、なんら現実生活とは関係しません。人は成り立っている経済生活の基本を疑わない。
せいぜい、末法だからねでおわりです。まあ、そういう事情であったと想像します。

3448マターリ:2007/07/10(火) 16:15:24
私の質問には、答えていただけないようですね。

3449顕正居士:2007/07/10(火) 16:23:28
>>3448
その数百人というのは凶徒の人数のことです。

3450犀角独歩:2007/07/10(火) 19:05:52

顕正居士さん

実に参考になります。経典を神秘的な呪文のように考えがちなところを、そこに描かれたストーリーから、モチーフになった事実を探ることは、新たな視点を生みますね。かつて、わたしは、地涌菩薩の物語を読んだとき、これこそ、この経典を創った人々自身をモデルにしたものであると思ったものでした。

教理経説としてではなく、創作者が自分たちを肯定する為に紡いだ物語であると考えるとき、「折伏」の意味も、より具体的に見えるわけですね。

有り難うございます。

3451顕正居士:2007/07/10(火) 19:51:27
下は有名な武装寺院根来寺についてルイス・フロイスが記した書簡です。
はじめに「この国に45の宗派があり、各々一大共和国の如きもの」とまず述べています。
いわば宗教戦争先進国であった日本事情の一端が伺えます。

宣教師ルイス・フロイスが耶蘇会総長に書き送った手紙
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2215/motto/ruis.htm

3452一字三礼:2007/07/10(火) 22:11:09

犀角独歩さん

もう何年も前から、ご教示いただき続けているのは私の方です。こちらこそ御礼申し上げます。

>まず、摂受・折伏のいずれかという選択論。これは違いませんか。

仰るとおりであろうと思います。

涅槃経の有徳王と覚徳比丘にしても、同時代に生存しているわけですよね。同じ時に、有徳王は折伏を現じ、覚徳比丘は摂受を行していた、という設定が摂折選択論ではないということを表していますね。

>日蓮は当時の安楽/摂受といった僧侶の襟度から、涅槃「見壊法者」を鑑み、強言説法といった摂受の限界に挑んだのではないでしょうか。
>日蓮の言説が先行するわけですから、摂受が先になっている。そして、その後に為政者の折伏が続くという道程を日蓮は想定していたと思えるのです

まさしくその通りと存じます、お説に賛同します。

「如説修行抄」についてですが。
私はこの書の来歴について、以前、れんさんにお聞きした事がありました。

興風談所の研究で、茨城県富久成寺蔵・伝日尊筆「如説修行抄」古写本は、前半部と後半部では、筆跡が異なり、奥書の署名は、静岡県伊豆実成寺蔵の日尊自筆書状の筆跡とは異なるというご教示をいただいた、と記憶しております(もしも記憶違いがありましたら、れんさん、訂正をお願いしますです)。

文献学的に考えて、日尊は、日蓮の孫弟子ですから、確かな日尊古写本が存在したとしても、もとより、身延曾存遺文・日興等六老僧古写本と比べて、信頼度は格段に落ちます。

ところが、「如説修行抄」は、とてもその孫弟子の写本とも認めることができる代物ではありません。
今成師の説を加えずとも、「如説修行抄」は、日蓮遺文を考察する上で、考慮にいれるべき書ではないと考えます。

3453マターリ:2007/07/10(火) 22:30:41
>顕正居士さん、教えていただき、ありがとうございました。昔の文章は
なかなか理解しずらいですね。古語は苦手でしたから・・・。

ルイス・フロイスというと、織田信長が連想されますね。

NHKの特集で見ましたが、織田信長が暗殺された本能寺は、日蓮宗の寺院で
した。当時の本能寺は、種子島法華宗ルートの鉄砲の集積地であり、地下に
は蓄積された硝煙蔵まであったそうです。

本能寺が炎上したとき、普通の火事ではなかった、との記録があり、硝煙蔵
が燃えた可能性が高いと思われます。

信長の死体が発見されなかったのも、その辺の事情が影響しているのでは、
ないでしょうか?

また、本能寺には、鉄砲などを複数の実力者に斡旋していたらしき記録が残
されているようです。

>一字三礼さん、
>有徳王は折伏を現じ、覚徳比丘は摂受を行していた

秋元御書を読むと、「覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し・・・」とありますの
で、覚徳比丘も、折伏をしたのではないでしょうか?

3454一字三礼:2007/07/10(火) 23:22:42

顕正居士さんのご投稿を読みながら考えたのですが。

悪僧・僧衆(僧の集団もこう呼ぶ)とは、大きな荘園を有する、興福寺・延暦寺・東大寺等の大寺院に所属する、身分の低い・学の無い堂衆が、武装して寺院の財産を守り、他に略奪に出かける武装集団だと認識しております。

しかし、日蓮の場合は、延暦寺の出世コースを自ら放棄し、寺も持たず、当然、荘園も持たなかったので、武器を持ち人に対する理由は見当たりません。

日蓮が、どこかで剣技を身につけていたとは考えられませんし、数の知れた弟子の僧達も、弁慶とはいかなかったでしょう。

日蓮の知力から考えて、鎧・兜も着さず、ろくに使えもしない太刀一振りを持ち、少数の弟子とクーデターを企むとはとても思えません。

日蓮が武装していたとするならば、その理由はなんでしょうか。

日蓮所持と伝わる刀は、日蓮宗では、身延が貰い損なった尼崎本興寺の「数珠丸恒次」であるとし、富士派では「三条小鍛冶宗近」(当然、初代ではないでしょうが)としますが、しかし、これは伝承の域ではないでしょうか。

3455一字三礼:2007/07/10(火) 23:54:15

マターリさん、はじめまして。

こちらの掲示板では、日蓮の著作を挙げるとき、まず真筆遺文であることが基本になります。
そこからケース・バイ・ケースで、来歴のはっきりしている身延曾存や古写本も含めて論じていくこともあります。

このように慎重にせずに、来歴の不確かな写本遺文も含めて論じてしまった場合、もしその写本遺文が偽書であったら、議論している土台がすでに崩れていることになってしまい、議論すること自体が無駄になってしまいます。

このような理由から、ご指摘の「秋元殿御書」(筒御器鈔)は考慮にいれておりませんでした。

3456マターリ:2007/07/11(水) 00:53:42
>一字三礼さん、初めまして。こちらこそ宜しくお願い致します。

レスありがとうございます。「秋元殿御書」が真蹟でないとのことで、了解
しました。以前にも注意されながら、忘れていました。

>日蓮が、どこかで剣技を身につけていたとは考えられませんし、数の知れ
た弟子の僧達も、弁慶とはいかなかったでしょう。

初期の在俗信徒のほとんどが武士でした。富木五郎・太田金吾・曾谷左衛門
尉・工藤吉隆・池上宗仲・宗長親子・四条金吾・波木井六郎など。

武士の仕事は「殺人」です。彼らが、襲撃される危険性の高い日蓮聖人に、
武芸の基礎を教えた可能性は、多少でもあるのではないか、と思われます。

太刀は、かなりの重さがありますが、日蓮聖人は大柄だったとのことですの
で、振り回すことはできたと思います。

>日蓮の知力から考えて、鎧・兜も着さず、ろくに使えもしない太刀一振り
を持ち、少数の弟子とクーデターを企むとはとても思えません。

聖僧ですから、鎧・兜を着していては、さまにならないと思います。鎧は、
切られるときは安全ですが、刀の切っ先で突き刺されると、つなぎ目から
入ってしまうので危険です。

また、鎧・兜などを着用していると、戦意があるとみなされ、かえって
標的にされてしまうのではないでしょうか?大刀を持ち、防御の構えを見せ
ていた方が、敵の戦意を多少とも和らげるかも知れません。

敵が大刀で切りつけてきたとき、小刀では質量からして、大刀に押し返され
防ぎきれないと思います。

>日蓮が武装していたとするならば、その理由はなんでしょうか。

あくまでも自衛のため、だけだったのではないでしょうか?武器は、反日蓮
の徒の襲撃から、身を守るのもおぼつかない程度のものだったと、推察され
ます。

3457顕正居士:2007/07/11(水) 01:42:48
>>3454
一字三礼さん。
日蓮は僧兵によって守られた寺院に起居していたわけではないからこそ護身の武器を帯していた
と想像します。剣技というほどのものは訓練していなかったでしょうが、安全に武器をあつかう程度
はこの時代は多数の人が幼年時代に学習したでしょう。兵農分離も刀狩もずっと先のことです。
しかし鎌倉幕府は僧侶の武装を禁じていましたから、このことが後の流刑の一原因になっています。
三條小鍛冶宗近は北条弥源太から贈られたもので礼状が残っています。但し三條小鍛冶宗近と
いう名はありません。数珠丸のほうも旧国宝、現重文であり、この天下五剣の持ち主に日蓮以外
の名が挙がらないのですから、相当に信用できる伝承ではないかと考えます。
いわゆる僧兵はほんものの僧侶(官僧、学僧)の従者ですが、延暦寺の学僧といえども、良源が
定めた最小限十戒護持を放棄していたようです。中に証真のような反時代的学僧はいたでしょうが。
日蓮は関西の常識を関東に持ち込んで臆さなかったのではないでしょうか。日蓮の反感は戒律の
復興を志す僧と南宋からの亡命僧に向かっていましたから。後者は国際情勢に関して偽情報を
幕閣に伝えていると考えたのかも知れません。ともかく鎌倉幕府の武装寺院を認めない方針は
十分成功し、関西のような物凄いものは出来ませんでした。
ところで梵語学の開拓者である南条文雄は少年時代は本願寺僧兵だったそうです。神仏判然令
に対して急遽僧兵を復活、奥羽列藩側に参戦予定の教練に召集されたのだそうです。

3458一字三礼:2007/07/11(水) 22:45:08

身に命の危険が迫った時、はたして日蓮は、太刀を履いていたか、また、その太刀を護身のために使ったのでしょうか。

文永元年八月二十七日の松葉ヶ谷法難と呼ばれる、念仏者から襲撃された事件があります。

「念仏者竝びに檀那等、又さるべき人々も同意したるとぞ聞こへし。夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ。」(下山御消息 建治三年)

鎌倉の市内は、険しい山に囲まれた土地柄、襲撃されて助かった例はほとんどありません。

日蓮が、なぜ逃げることができたのかを考えた場合、予め逃走路を用意していたか、山道を熟知した者の助けがあったか、そのどちらかしか考えつきません。

少なくとも、日蓮が太刀を振るって応戦していたら、たとえ敵が数十人であったとしても、衆寡敵せず、瞬く間に討ち取られていたのではないでしょうか。

もう一つは、同じく文永元年十一月十一日の小松原法難があります。

「今年も十一月十一日、安房国東條の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられて候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要にあうものはわずかに三四人也。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなずまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自信もきられ、うたれ、結句にて候し程に、いかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり。」(南条兵衛七郎殿御書 文永元)

伝承では、相手の太刀を数珠で受けたとされており、その数珠が正中山法華経寺に残っています。この時、急を聞いて駆け付けた工藤吉隆は従者と共に切り死にしたとされております。

数珠で太刀を防いだことが事実ではなくても、太刀を抜いて応戦していれば、やはり容易く討ち取られる状況ではないでしょうか。
この時も日蓮は、ただその場から逃れた、としか考えられません。

もうひとつ、五郎入道正宗以前の太刀は、実践向きではありませんでした。

元寇の時に、日本軍の太刀が蒙古軍の鎧を貫けずに、折れることが頻繁に起こったそうです。(実戦で、鎧を着けた相手に対して、刀は切るよりも突く武器であった)

いわゆる、古刀の「猪首切先、腰反りが高く、柄元に踏ん張りがある」太刀姿は、鑑賞する分には非常に美しいのですが、実践向きではなかった。

正宗は、実戦向きに「猪首切先」を止めて、切先を長くして刺さりやすいと形状にし、反りを少なくし、柄元から三つ頭までの刃幅をほとんど同じにして、厚重ねの太刀を打ちました。

正宗以前の刀は、護身用は護身用でも、悪霊や病から身を守るためのものでした。

籐四郎吉光や、正宗の師匠と言われる新籐五国光らは、短刀の名手であり、彼らの打つ刀には、魔除けを刻んだものもあります。

顕正居士さん

>日蓮の反感は戒律の復興を志す僧と南宋からの亡命僧に向かっていましたから。

日蓮は、「末法無戒」と称しながらも、自身は「南山律」を守っていた。ということは、以前、顕正居士さんがご指摘されていたことでしたね。

それなのに、何故、戒律の復興を志す僧を嫌ったのでしょうか。

南条文雄といえば、昭和2年まで生きていた方ですね。
そんな近代に僧兵の経験がある人がいるとは驚きました。

3459顕正居士:2007/07/12(木) 20:03:24
今日、仏教僧は多少種類の違いはあるが具足戒(250戒)を持っており、これを持っていれば
一大仏教サンガの成員とみなされます。例外は日本仏教の僧侶とチベット仏教ニンマ派の
僧侶だけです。ニンマ派というのはチベット固有の宗教ボン教と習合した宗派です。
この点、日本仏教はやはり日本固有の宗教神道と習合した宗派であるといえましょう。
神道は母系制社会の宗教の性格を色濃く残しており、外来の父系制社会の宗教と根本的に
相容れない面があります。しかし日本人は和魂洋才、神本仏迹という原理で外来文化を
変形して受容して来ました。日本仏教が戒律を放棄したのもその変形受容の一つと考えます。
日本仏教の思想としては理戒、事戒ということがあります。具足戒は事戒であり、釈尊の時代
の共同生活の決まりであり、仏教僧はこれを原則今日まで維持して来たわけです。
日本にはインドのような教団生活が最初からありませんでした。僧侶は外国文化を学習輸入
する役人としてはじまった。共同生活の場合、酒を飲んで暴れる人がいるとたいへん迷惑です
から、飲んでも静かな人も酒を飲まない決まりを受け入れます。でも共同生活を離れたら、
別でしょう。それで理戒という考えができます。暴れたり、記憶喪失したりがいけないんで、
酒を飲む、飲まないは個々の場合によるとするのです。最終的にはいつも正しい生活を行え
という一個の精神的戒律しかなくなります。これを一大円戒といいます。
日蓮は確かな遺文では無戒という語は一回も使っておらず、一大円戒の立場でありました。
無戒ですと三大秘法になりません。しかしそれは言葉だけで無戒も円戒も変わらぬといえば、
大衆的には変わらなくなります。結局、個々の宗派、寺院が社会生活の決まりは作るのだし、
それが個々ばらばらで一大サンガというものが存在しない、日本仏教が宗派間戦争の弊害に
陥った理由です。ともかく日蓮は事戒の復興は時代の潮流に反したものであると考えました。

3460犀角独歩:2007/07/15(日) 08:46:57

一字三礼さん

御礼が遅くなりました。『如説修行鈔』に関するご回答、有り難うございました。

3461みれい:2007/07/18(水) 19:49:43
こんにちは。
どなたかご教示ください。

神国王御書、妙法尼御前御返事、顕立正意抄、千日尼御前御返事、について、
真蹟かどうか、
また、こちらで「臨終の相」について議論されているスレッドがありましたら教えていただきたいです。

今でもこのような話で他宗批判の連絡をしてくる方がいらっしゃるとのことで、私のほうに問い合わせがありました。
内容に関してはここでは信じている方もいないと思いますが、ある意味デリケートな時期にデリケートな内容なので、
日蓮正宗系団体、および日蓮宗、あるいは日蓮系信者の現在の御遺文の取り扱いなどを調べております。

3462再挑戦者:2007/07/18(水) 19:55:28
失礼します。
 昨今の今、ソゾロ素朴な疑問です、。 

 仏教・修行の中では、修行の姿勢を決め込むことが肝心で、その姿勢・==修行行動さえ、有れば、念仏宗、=禅宗、、含むその他の宗教?、、と言う、言説が通論になりかけていますようです、、。
 これは本当に許容して、、??、、よろしいのでしょうか、?? 人間釈尊、、人間日蓮が世相の不幸・惨めな惨状からの脱皮を思い、人間らしく生き、人間らしく死ぬ為への、、考察・思索・思い、、などは、現今の、金儲け主義一本道の悪漢どもとの戦いに、いかに対処したらエエンでしょうね、、!!! 人生は不可解、、宗教も依然として混沌・不可解、、でしょうか、、!!、、??

3463再挑戦者:2007/07/18(水) 20:48:36
 失礼。 補足させて戴きたく存じます、。
 「四固の格言、」、、「、念仏をナニユエ,、いけない教え、人間にとり不当なよこしまな教えと断じた、日蓮さんは、???」、、釈尊でさえ、法華経以前の教えは「ビル建設の足場丸太だ、、!!」、とのべています、、??
 現実は、、釈尊〜日蓮も、、教えの浅い〜深い〜重い〜軽い、、などを、事細かく、文書で残していますでしょうか、??
 どの文書が偽書で、、どれが真蹟かの疑問はございますが、、 「、どの教えでも良い、??」、、などという発言は、日蓮信奉の内輪では、、いかがなものでしょうか、?? 疑問は999%、、以上にも実感しますが、、???

3464犀角独歩:2007/07/18(水) 23:40:00

みれいさん

以下のサイトに真蹟遺文のデータがあります。
ご自身で確認されてください。

死後に、固いだ・柔らかいだ、思いだ・軽いだといった日蓮の遺文は、たしか真蹟ではなかったかと記憶します。

ただし、このような発想は、日蓮以前から継承で、要は、インドを侵略し、褐色有色人種を支配したアーリア人が白人であったから白がよく、死後、天に昇れば神(天)に行くというバラモンの五道二火説だかの伏線があるから、天に昇る=軽い・地獄は地下=重いと下がるという連想から生まれたお話でしょう。

この点について、葬儀社の勤務された経験を記された『納棺夫日記』に青木新門師の記述を、かつて紹介したことがあります。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1033276317/786

3465犀角独歩:2007/07/18(水) 23:40:57

失礼、真蹟遺文データジャンプを落としました。
以下のとおりです。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/ibun_shi.htm

3466パンナコッタ:2007/07/19(木) 12:26:39
神国王御書    建治三 8月頃  真蹟あり(ただし本文末尾欠)
妙法尼御前御返事 弘安元 7/14  臨終正念の該当記述部分の断簡あり
         弘安元 7/03  刊本録外 真蹟なし
         弘安四     刊本録外 真蹟なし
顕立正意抄    文永11 12/15  録内 日春写本
千日尼御前御返事 建治三     刊本録内 臨終色白等の記述 真蹟なし
         弘安元7/28   真蹟完存
         弘安三7/02   真蹟完存

デリケートな事項については、元監察医上野正彦氏の著述が非常に有意義ですので
是非ご参考に。

3467みれい:2007/07/19(木) 21:00:35
>犀角独歩 さん

真蹟遺文データ紹介ありがとうございます。
表記の案内を読んでも調べ方がいまひとつわからないのですが、
覚え次第、私が今持っているものと併せて、使わせていただこうと思います。

臨終の相がまさかアーリア人の時代まで遡るとは思いませんでした。
けれども徹底してみるとインドの起源まで発想を遡るというのは納得いきます。

>『納棺夫日記』

併せて参考にさせていただきます。
私が子どもの頃に流れたご本尊にまつわる残酷童話のような罰の話が、
大人の学会員の間でまかり通っていたのを思い出します。

>パンナコッタさん

各項目のご案内ありがとうございます。
真蹟であっても、それらの御遺文がどういった場面でどのようなつもりで語られているか、
ということが肝心になってきそうですね。

>「元監察医上野正彦氏の著述」

上野氏の本は数冊読んだことがあります。
最近はブログで、特殊清掃の方の記事を知り、
一般にはなかなか知りえない場面においての肉体の変化と、
周囲に残された側の人間模様と、
読んだ方のコメント欄なども垣間見ています。

3468端くれ:2007/07/19(木) 21:21:57
初めて聞き込みします。よろしくお願いします。
初心者ですが、素朴な疑問ということでここに書かせていただきます。
十界曼荼羅についてお尋ねします。
知る限りですが、正宗・創価学会の曼荼羅のみに、余計?な文字が
見られるようです。
(為現当二世、若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号 授与之等など)
他にもあるようですが、それは何故でしょう。単に他宗との差別化のためか、
それとも他に意味があるのでしょうか?
どうぞ教えてください。

3469マターリ:2007/07/19(木) 21:44:14

端くれさんの質問の直後で申し訳ありませんが、ご教授のほどお願い致し
ます。

このところずっと、安楽行品と勧持品の差について考えています。

安楽行品では、釈 尊 の 言 葉 として身安楽行、口安楽行、意安楽
行、請願安楽行が説かれています。釈尊自身の戒めですから、最重要視し
なくてはいけないと思います。

勧持品では、菩薩たちが誓言をしています。菩薩たち自身が、未来におい
て色々な 難 を 受 け る か も?知れないが、不自惜身命で布教
をします、と述べています。ですから、勧持品には、、菩薩の未来予測と
誓いが述べられていると思います。安楽行品のように、釈尊自身の戒めは
書いてありません。

安楽行品に書かれている戒めを守っていけば、勧持品に書かれているよう
な難を、ほとんど避けられる。しかし、戒律を守っていても難に遭った場
合は、・・・そのときは、不自惜身命で耐え忍ぶ、ということではないの
でしょうか?

法華経の作者たちは、自作の経典が永久に残ることを期待していたはずで
す。法華経を信奉する教団が、壊滅して、法華経が忘れ去られないよう、
戒めを書いたのだと思うのです。

権力者に近付いたり、他宗教を排撃したりしないように、つまり常識的な
行動をとり難を避けるよう、説得しているものと思います。

ですから、素直に両方の経典を見た場合、安楽行品の方を、より重要視し
なくてはいけないと思うのです。しかし、日蓮聖人は安楽行品を無視され
ました。

これには、何か深い理由があると思われるのですが、不勉強のため、よく
わかりません。その辺を教えていただければ、と思います。

通説によりますと、勧持品に書かれている、未来に起こると思われる数々
の難は、法華経の作者たちが、伝統的仏教者から迫害を受けた歴史的事実
の記録ではないか、ということでした。つまり、予言の名を借りてはいる
ものの、実際に起こった悲しい出来事の記録ということです。

釈尊の名のもとに、全く新しい経典を創作するのですから、伝統的仏教者
から、迫害を受けるのは、ある程度、想像できます。

これについても、まだ確信がもてませんので、ご教授のほどお願い致します。

安楽行品↓
http://comet.endless.ne.jp/users/fnwo/h-14-1.htm

勧持品↓
http://comet.endless.ne.jp/users/fnwo/h-13.htm

3470パンナコッタ:2007/07/19(木) 23:00:54
端くれさん、

これは富士系文書の"御本尊七箇相承"の
 七 日蓮と御判を置き給ふ事如何 〜 上行無辺行と持国と浄行、
 安立行と毘沙門との間には・若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し、
 経中の明文等心に任す可きか

に、よるものですね。 差別化の意味合いは、あったように感じられますね。

3471顕正居士:2007/07/19(木) 23:21:17
>>3469
マターリさんのおっしゃるのは13章菩薩の決意に対して14章弘教の心得が述べられているのでは
ということですか。当然、そうだとおもいますが。
日蓮などにはなぜそう素直に読めなかったのかということですか。当時の関西の多数の仏教者の
ようにすでに戒律を放棄している以上、それは無理でしょう。何事も事実が先行し、理屈はあとで
ついて来るものなのですから。

3472マターリ:2007/07/19(木) 23:51:54
>顕正居士さん、レスありがとうございます。日蓮聖人に限らず、関西の
仏教者は戒律を放棄していたんですね。日蓮聖人が特別な例でなかったと
わかり、納得いたしました。

その辺が、現代人の常識では理解しがたいところなんですね。

3473犀角独歩:2007/07/20(金) 00:23:46

日蓮は戒律の放棄などしていなかったでしょう。
顕正居士さんも先に書かれていましたが、戒律を放棄したのであれば、後に三大秘法といわれたうちの一つ本門戒壇など不要と言うことになります。日蓮が会談を想定した以上、戒律は放棄されていません。
放棄されたのは、いわゆる小乗戒であって、伝教が比叡山戒壇を期した大乗戒が放棄されるはずもありません。

これも既に議論されたことですが、「末法無戒」とは、真蹟遺文には見られません。この無戒とは小乗戒についてであって、大乗戒のことであるはずはありません。ところが、そのうち、誤解が生じ、大乗戒までないことになってしまったわけです。

おかしなことに、無戒を言いながら、本門戒壇、三大秘法を言い、戒名をいっているわけです。

さて、マターリさんの疑問ですが、日蓮が安楽行を重視しなかったのは、それが他土の菩薩に係るからではないでしょうか。安楽とはスカバティ、つまり極楽の旧訳です。安楽行とは極楽の修行の在り方といえば、極論となるかもしれませんが、此土の修行ではないという思いがあったのではないでしょうか。

では、勧持品に現れる菩薩はといえば、同じく、娑婆弘教を託された菩薩ではないのですが、日蓮は不軽菩薩との脈絡で、これをとらえていったのでしょう。

ちなみに、不軽菩薩は折伏などといわれますが、『文句』に「不輕之説是口業。故往禮拜是身業。此三與慈悲倶。即誓願安樂行也」といいます。安楽行品を日蓮は摂受に配当し、かつ、台釈では、不軽の行は三因仏性、四安楽行に配当されます。つまり、摂受行でした。

日蓮は、この文句の文を知らないはずはありませんから、安楽行摂受を我が身当たらずという問いを起こしながら、不軽菩薩を引くあたり、この文句の不軽=安楽行=摂受という伏線を意識してのことであろうと、わたしは考えます。ところが不軽は折伏という固定観念に囚われてしまうと、この日蓮の心憎い賢察が見えなくなってしまうわけです。

3474犀角独歩:2007/07/20(金) 00:24:44

【3473の訂正】

誤)日蓮が会談を想定
正)日蓮が戒壇を想定

3475れん:2007/07/20(金) 10:54:29
端くれさん、初めまして。富士系の漫荼羅にある「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」の天台宗文献の言葉の書き入れですが、その範は日蓮その人に遡ります。現存真蹟では弘安元年八月から弘安二年十月までの御筆漫荼羅数幅に「讃者積福於安明・謗者開罪於無間」とともに書き入れがあります。日蓮が漫荼羅に書き入れた経釈文を見ますと、法華経の持者に対する讃謗の果報としての罪福を説いた文が多いようですので、日蓮の書き入れもその意でしょう。日興の漫荼羅書写の定本は、殆どは彰往考来さんの御考察に示されるとうり日蓮の弘安元年八月の御筆漫荼羅ですので、富士門祖の日興も、書写の漫荼羅には上記の釈文の書き入れをしております。富士系では時代の変遷も例外も当然ながらありますが、祖形は門祖の漫荼羅様式にならっているようですので、あの書き入れは門祖以来のシキタリみたいなものでしょうね。
取り急ぎ、ご参考まで。

3476マターリ:2007/07/20(金) 19:02:47
>犀角独歩さん、レスありがとうございます。安楽行が極楽の修行であり、
現実世界での修行でない、ということで、納得いたしました。

「娑婆即寂光土」という思想を強調された、日蓮聖人ならではの考え方、と
感じました。

日蓮聖人=折伏という既成概念がありますが、実は摂受をされたわけですね。

3477譚溺:2007/07/20(金) 20:37:45
>>マターリさん
安楽行品には権力者以外に施陀羅に近づくな、とあり、
また、他にも職業差別が書かれています。
これらは実在のゴータマの行動とも思想とも相反しているし、
手放しで賞賛すべきものではないでしょう。

日蓮は施陀羅が子と称し、
国主にも積極的に働きかけています。
これは安楽行品を無視しているのではなく、
むしろ対決姿勢をとっているのだと思います。

3478マターリ:2007/07/20(金) 21:26:25
>譚溺さん、レスありがとうございます。私の記憶違いかも知れませんが、
譚溺さんには、以前に「スッタニパータ」の事を教えていただいたような気
がします。

私は安楽行品の全文を読んでいませんが、差別思想が書かれているような
ので、釈尊の思想に違背しますね。

安楽行品は、釈尊の教えに沿ったものだと思っていましたが、考え違いを
していたようです。

法華経は、西暦前後頃から三百年にかけて、インド北西部のガンダーラ地
方で編纂されたようですね。

当時のガンダーラ地方は、さまざまな人種・政治・文化・宗教が入り乱れ
ていたので、犀角独歩さんがおっしゃるように、他土の菩薩が書かれてい
たりと、多くの民族の宗教・思想が統合されているんですね。

3479一字三礼:2007/07/20(金) 23:00:58

マターリさん

>私は安楽行品の全文を読んでいませんが、差別思想が書かれているようなので、釈尊の思想に違背しますね。

根本仏典で釈尊は、自らの出自(ゴートラ)身分を誇り、パーリア(賎民)の定義を説きます。

仏典・論書等のテキストをどう扱うか、ということは実は大きな課題です。

1、テキストを、それが作成された時代の社会・文化を考慮に入れ、作者と同じ視点に立って評価をする。

2、テキストを現代の価値基準で判断し、否定される個所は削除し、肯定される部分のみ採用する。

3、テキストを個人的な価値基準にのみ照らして、評価する。

上記のうちで、どれが正しくテキスト(仏典・論書)の価値判断をしたことになると思われますか。
私は、1〜3のどれも間違いであるとは言えないのではないかと考えますがいかがでしょうか。

日蓮が、なぜ安楽行品を重視しなかったか、については「開目抄」がその回答になると思います。
この書の執筆動機のひとつは、法華行者でありながらなぜ難に遭うのか、にあります。

「疑て云く、念仏者と禅宗等を無間と申すは諍う心あり。修羅道にや堕つべかるらむ。又法華経の安楽行品に云く_不楽説人。及経典過。亦不軽慢。諸余法師 等云云。汝、此の経文に相違するゆえに天にすてられたるか。」(開目抄)

この疑問を解決したのが、毒鼓の縁の功を織り交ぜた‘受難による罪障消滅’の考え方です。
正しく法華経を行じながらも難にあった不軽菩薩の‘其罪畢已’を我が身に当てはめたのでしょう。

安楽行品は迹門、不軽品は本門ですから、日蓮が本門の法門によって、迹門の疑難を乗り越えたのでしょう。

3480端くれ:2007/07/20(金) 23:13:33
>パンナコッタさん、れんさん、
丁寧に教えてくださいまして、ありがとう御座います。

資料写真を見比べての、素朴な疑問だったのですが、辿っていくと
初心者には難しい話になってます。時間がかかりそうですので、
先に、御礼だけ申し上げます。         
御本尊七箇相承を辿ってみましたら、少々微妙に感じましが、
しかし、日蓮聖人の現存真蹟にも、同様の書き入れがあるということは、
初めて知りました。
これは、日蓮聖人の現存真蹟にもまったく同じ曼荼羅様式がある
ということですか?
それとも、祖形、曼荼羅様式は違うが、同様の釈文は書いてある
ということでしょうか?


3481パンナコッタ:2007/07/21(土) 01:02:18
端くれさん、
れんさんご教示の品は、
 http://www.lbis.jp/gohonzon/053.htm
この辺りの事ですね。

3482マターリ:2007/07/21(土) 09:30:15
>一字三礼さん、丁寧に教えていただき、ありがとうございます。

>私は、1〜3のどれも間違いであるとは言えないのではないかと考えま
すがいかがでしょうか。

私も、どれも間違いとは言えないと思います。

そのうえで、順番を付けるとすると、まず当時の時代感覚を考慮にいれた1
を重視し、次に現代人の視点から2を考えます。1と2の視点からみて、違和
感の無いものが、人類普遍の真理と言えるのではないでしょうか。

3は、個人個人、考えが違いますので、補足的なものと考えます。

>安楽行品は迹門、不軽品は本門ですから、日蓮が本門の法門によって、
迹門の疑難を乗り越えたのでしょう。

そうでしたか。開目抄と不軽品を見てみたいと思います。

3483れん:2007/07/21(土) 17:51:17
端くれさん
昨日の書き込みはやや雑に書きましたので、やや訂正の意を含めて書きます。

先ず、「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」に関しては、パンナコッタさんが貼ってくださった弘安元年八月の御筆漫荼羅のように、蓮師自身が書き入れされている例があります。ただし、蓮師の場合はこの語句が記入される場所は後世の富士門の漫荼羅のように一定化しておらず、オーダーメイドですから場所はまちまちです。ですが、これに関しては蓮師から始まったのことと言えましょう。次に“授与之”に関しては、石山の形木の漫荼羅にありますが、それ以下に授与者の名がないのは石山において形木の漫荼羅は仮本尊の位置付けであり、法主直筆の常住本尊ではその下に授与者の氏名がはいるでしょう。仮信徒に授与の形木に氏名が無いのはまあ、正式に信徒と認められた者に授与される法主直筆の常住本尊との差別化の意図があるのでしょう。
蓮師の漫荼羅にも、たとえば蓮師御筆の石山日目授与の漫荼羅には「釈子日目授与之」また四条金吾授与の漫荼羅には「俗日頼授与之」とあるように個人授与の漫荼羅には授与書きがあり、「授与之」の語句については特に異とするところではないと存じます。
しかしながら“為現当二世”の語句については、蓮師の御筆にはその例はなく、石山に於いて最高の本尊と位置付けられている彫刻にのみ見られるもので、彫刻が作成されたと思われる室町末期から江戸初期以前の石山住職の漫荼羅にも「為現当二世」の語句は無く、私の管見では石山四十八世日量の漫荼羅が初見で、“現当二世”の句に限っては、彫刻に倣って江戸時代から石山法主が書写の漫荼羅に付け足したものと言えましょう。
以上のことから、「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」「授与之」は蓮師まで遡れるが、「為現当二世」の語句に関しては、彫刻の腰書きに引きずられて、江戸時代以降の石山住職が付け足したものということです。
またまた凡長な文になってしまいましたが、ご参考になれば幸いです。

3484大縫 薫:2007/07/21(土) 23:32:43
 為現当二世は、江戸後期が初見なのは間違いありません。
明日、独学徒さんの掲示板の方に写真を投稿しますので確認してみて下さい

3485犀角独歩:2007/07/22(日) 09:01:12

真蹟遺文で、毒鼓が出てくるのは、たった2カ所です。

『曽谷入道殿許御書』に「彼不軽菩薩出現於末世令撃毒鼓之時也」
『秀句十勝鈔』に「信者為天鼓 於謗者為毒鼓」

天鼓毒鼓は信・不信(謗)に分立して述べる文句・玄義の釈に従うところです。台釈では、毒鼓は天鼓とのセットされますが、日蓮門下で、摂折二門で折伏いっぺんとうのように、ここでも毒鼓を採って天鼓を忘れています。

「不軽…令撃毒鼓」という件を勘えます。この毒鼓の譬えの載る涅槃経(南)に遡ってみます。

「譬如有人以雜毒藥用塗大鼓於衆人中撃令發聲 雖無心欲聞聞之皆死 唯除一人不横死者 是大乘典大涅槃經亦復如是 在在處處諸行衆中有聞聲者 所有貪欲瞋恚愚癡悉皆滅盡 其中雖有無心思念 是大涅槃因縁力故能滅煩惱而結自滅。犯四重禁及五無間聞是經已亦作無上菩提因縁漸斷煩惱。除不横死一闡提輩」

この段は、涅槃経信者と一闡提(不信)の対比で信経の利益を述べていく段にあります。簡略して文意を記せば、毒を鼓に塗って撃つと、その声(おと)を聞いた人は、みな死ぬという件から始まります。ここだけを切り文して読むと、たしかに毒鼓の声を聞いた者は死んでしまうと即断したくなります。ところがここにただ一人横死しない者がある、それは一闡提であるとあります。つまり、死ぬのは信者のほうであるということです。一見すると、この件は奇妙なのですが、ちゃんと読めばその意味はわかります。つまり、ここでいう「死」とは「貪欲瞋恚愚癡悉皆滅盡…能滅煩惱…自滅…犯四重禁及五無間聞是經已亦作無上菩提因縁漸斷煩惱」に係り、つまり、煩悩などの三毒を滅尽を死と言っています。しかし、一闡提は、この煩悩を死(ころ)せないというのが、この文意です。

これは涅槃経の所説ですから、煩悩を死す経は涅槃経なのですが、「法華涅槃」を括る天台‘マジック’では、これが法華経を説くことというアクロバット技が展開します。

具体的には不軽菩薩と関連づけられていくわけです。
わたしは法華涅槃を括る台釈には反対の立場で、ですから、それを受容する日蓮の在り方にも賛同しかねます。それはそれとして、しかし、では、台釈を日蓮はどのように受容したかを考えることは、現行の日蓮門下教学の誤解を考えるうえでは通過点となりますので、考えなければなりません。

『文句』に「本已有善釋迦以小而將護之 本未有善不輕以大而強毒之云云 … 雙明信毀果報 …神通力是‘身’業淨 樂説辯力是‘口’業淨 善寂力是‘意’業淨云云」

この「不輕以大而強毒」は、不軽折伏の根拠とされる釈文の一つですが、これはまったくレトリックです。なぜならば、ここで言われる不軽菩薩の有様は上に挙げるとおり、身口意の三業に配当されています。この点をもっと端的に述べるのは、同じく『文句』に「不輕之説是口業 故往禮拜是身業 此三與慈悲倶 即誓願安樂行也」と明記されています。

つまり、不軽菩薩の有様と、安楽行品に示される四安楽行(身・口・意・誓願)であるというのは台釈です。つまり、不軽の行は安楽・摂受の行です。

安楽行品はたしかに迹門であり、不軽品は本門です。ですが、釈尊の前世、不軽の菩薩行と安楽行品に出でる他土菩薩の行は倶に四安楽行の範疇で異なりません。

以上の脈絡を六大部を精読・精査された日蓮が知らぬはずはありません。
となれば、日蓮は、不軽の行を採って我が身に宛て、安楽行品に自身が違背しないことを証したと見なすほうが至当であるとわたしは思えます。

つまり、『開目抄』において、日蓮が安楽行品に自身が当たらないという批判に不軽の行を以て論じる脈絡は以上の如くであり、その結論するところは安楽行品にも当然、違背しないという日蓮の自意識が息づいていると、わたしには思えます。

3486犀角独歩:2007/07/22(日) 09:02:16

3483 れんさん

このご賢察は、たいへんに参考になりました。
有り難うございました。

3487犀角独歩:2007/07/22(日) 14:10:29

摂受折伏につき、台釈・日蓮教学を見ると、いくつかの留意すべき点があると、わたしは考えます。この意味は、もちろん、従来言われてきたことについての疑義です。

・法華折伏?

日蓮の真蹟には一度として引用されない『文句』の「法華折伏破権門理」は法華経が折伏の教説であること証拠として常に引用されます。これはまた、たぶん、偽書に違いない『如説修行鈔』で末法折伏を主付ける証拠として上げられるところからも、そうなのでしょう。

しかしながら、真蹟遺文から見る限り、日蓮は、法華経を折伏とは言っていないわけです。たとえば『開目抄』では

止観云 夫仏両説。一摂・二折。如安楽行不称長短是摂義。大経執持刀杖乃至斬首是折義。

と法華折伏とは裏腹に法華経安楽行品を挙げて摂受、大経(涅槃経)を挙げて折伏というのであって、「法華折伏破権門理」とは逆の釈を採っています。

ついでながら、記せば、

無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多時は折伏を前とす。常不軽品のごとし。

の「不軽品のごとし」が原文にあったかどうかは、決着がつかず、折伏論者はあったといいます。わたしは日蓮のように文脈を大切にする人であると考えています。もし、ここに日蓮が「〜のごとし」と入れるとすれば、先の止観を受けた形で書くはずですから、「大経のごとし」とするほうが相応しいだろうと考えます。

さて、摂受と折伏、どちらが先かという問いとして

悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国当世は悪国か破法の国かとしるべし

と問いかけます。この問いは、「若有更為当断其首。如是等文 並是折伏破法之人。」、つまり破法=折伏を受けた文でしょう。となれば、日本が破法の国であれば折伏ということになります。

┌悪国=摂受
└破法の国=折伏

ここで、(この点は既に記しましたが)日蓮の他の真蹟を見ます。

『開目抄』に「‘悪国’悪時これなり。具には立正安国論にかんがへたるがごとし」
『富木殿御返事』に「諸天善神去此‘悪国’故」
『曽谷入道殿許御書』に「其外閻浮守護天神地祇或去他方 或住 此土不守護於‘悪国’」

以上、日蓮は、日本国を悪国であると書いています。
ならば、日本は摂受が先ということにならないでしょうか。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3440

ただし、日蓮は摂受か・折伏かという二者択一を説いたのではなく、どちらが先かを言ったのでした。

3488犀角独歩:2007/07/22(日) 14:11:11

―3487からつづく―

・不軽折伏?

従来、不軽菩薩は折伏という前提で記されていますが、台釈から涅槃経に帰って読む限り、この根拠は揺らぎます。この点については、3485に記しましたが、四安楽の説から不軽を釈する台学において、不軽は摂受と考えざるを得ません。


・摂受は、折伏の摂受?

もっとも嘆息を禁じ得ないのは『本尊抄』の「此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法」という四菩薩僧の摂受を「折伏の摂受、つまり折伏」と枉げて論じる暴挙です。日蓮は『開目抄』に「夫摂受折伏と申法門は水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう。」とまでいうわけです。

『本尊抄』における摂受を折伏と言うことは、水を火という、白を黒と言いくるめる暴論というほかありません。

また、この文では「弘持正法」を摂受であるといいます。すなわち、言説を以て法を弘めることを摂受であるというのです。これを日蓮がしばしば引用する「見壊法者」の一節を宛てれば、まさに言説=而強毒之は摂受、僧侶の配置されているわけです。

ただし、日蓮は摂受一辺倒に論じているのではなく、一字三礼さんがご指摘されたとおり、為政者は折伏を表に立てています。また、顕正居士さんが誰よりも早くかなり以前から指摘されているとおり、蒙古王を四菩薩の折伏と見なしているわけです。

日蓮が言う折伏は、在家王のなすところであり、武力を以て、時には斬首を厭わないものでした。蒙古王が法華経の弘持を日本に求めたことがないのは言うまでもなく、一方、摂受の僧は法を弘持した役割の相違があります。

概ね日蓮折伏をいう人もしかし、日蓮非武力はいうわけです。
では、刀杖を持つわけでもなく、武力を行使するわけでもなく、斬首するわけでもないのに、不軽、日蓮が折伏だというとき、この論者たちは、つまり、相手を毒するほど、強く説くことが折伏なのだいうわけです。つまり「言説が折伏である」ということです。ところが、日蓮が真蹟遺文中に挙げる折伏に言説は含まれていないことは、その資料を俯瞰すればすぐにわかります。

「言説が折伏」であるというのであれば、まず、この証拠を挙げることが始めればよいことになります。わたしは、この根拠を見ません。故に、僧侶摂受・為政者折伏というのが日蓮の摂折論であると結論しています。

ちなみに、これを今日的に当て嵌めれば、僧侶は摂受を以て経・釈・書と題目漫荼羅を弘持し、為政者は折伏を以て、軍備増強、死刑断行ということになるのでしょう。ここで日蓮が勧める軍備は自衛などではなく、攻撃能力を持って軍隊ということになるのでしょう。

日蓮門下一般がいう戦争反対、平和憲法擁護とはかなり歪みがある点を注視する必要もあります。

3489端くれ:2007/07/22(日) 14:26:23
>パンナコッタさん、わざわざありがとう御座います。
      
>れんさん、大変によく分かりました。
詳しく教えてくれまして、ありがとう御座います。

お二人には心より感謝申し上げます。
これからも程度の低いことを、お尋ねするかもしれませんが、
その時は宜しくお願いします。

3490犀角独歩:2007/07/22(日) 19:12:35

れんさん

彰往考来さんのご賢察で、日興が原本とする日蓮漫荼羅が弘安元年の頃であるという点は、素晴らしいご賢察であると思います。

この点について、何ら否定などする意図はないのですが、(1) この弘安元年は、弘安2年の可能性はないのでしょうか。あれば、『御伝土代』の記述と一致することになります。

もう一点、この点は先にもお尋ねしたことがあったかも知れませんが、(2) 筆法から見るとき、日興の「本尊」はまったく弘安元年と類似しません。特に不動・愛染の相貌は、寧ろ文永年間に似、建治・弘安から隔たりがあります。このような相貌と年代の不一致は如何なる理由によるとお考えでしょうか。

3491れん:2007/07/22(日) 22:09:19
犀角独歩さん
(1)につきましては、ご質問の可能性については、かつて当掲示板や独学徒さんの所の掲示板で推論を述べたことがありますが、原本と断定できる日蓮御筆が曽存を含めて確認出来ないので、推定で終わってしまうのが難点ですね。“可能性”そのものは一応あるだろうというところです。
(2)につきましては、日興は諸尊の名号は弘安元年八月の日蓮漫荼羅を祖型に用いるも、その筆法は年代が下るほど日興独自ということは、少なくとも日蓮から日興に、筆法については何等の指示や指導はなかったということを物語っているのではと思います。この点は他の日蓮の弟子も同様で、筆法は弟子の諸師が思い思いに書いている印象ですから、筆法における“相貌と年代の不一致”の理由は、日蓮から弟子に筆法について何等の指定的な指示がなかったため、弟子が思い思いに所持している日蓮のある年代の御筆から筆法をチョイスしたり自分の書き癖で独自の筆法を確立していったことに起因するのではと考えております。

3492犀角独歩:2007/07/23(月) 08:19:03

れんさん

筆法については、日蓮は何ら伝えることがなかったというご見識は、遺る派祖の「本尊」から考えても、仰せのとおりかと存じます。
先に「為現当二世」の書き込みにつき、また、「日蓮在御判」「奉書写之」などの定型文も、後代の定着であり、結局のところ、日蓮から「本尊」書写で秘伝された、まして、日興唯授一人の本尊書写筆法などなかったということは明らかになりました。

ご教示有り難うございました。

3493れん:2007/07/25(水) 19:18:56
初期石山歴代の漫荼羅を見ますと、日道以降日有までの漫荼羅に勧請の諸尊座配等は全く派祖日興の漫荼羅に拠っており、弘安二年中に日蓮が図示した十余幅の御筆漫荼羅と何の脈絡も無いのは、石山上代に「弘安二年」の揮毫に係る日蓮御筆漫荼羅が存在していなかったことの証左だと考えます。
「日蓮在御判」も派祖日興の漫荼羅を見ますと「日蓮聖人」「日蓮聖人御判」「日蓮在御判」「日蓮御判」表記が様々であり、室町初期の石山住持の日時・日影は「日蓮聖人在御判」と自筆漫荼羅に書いています。「書写之」も初期石山歴代で確認出来るのは派祖日興と日道のみであり、目・行・時・影・有の書いた漫荼羅に「書写之」はありません。
よって、資料から細かく検討しますと「日蓮在御判」「奉書写之」も、これが石山において定型として定着するのは、犀角独歩さんがかねがねご指摘の通り、明らかに後世に属することであり、これらのことからも、石山が主張する意味での日蓮から日興への“書写”に関する唯授一人の相承なるものは無かったと見るのが当然だと存じます。(石山には伝日興撰文献として、係年が弘安五年とされる首題点画秘抄なるものがあるそうですが、江戸中期の日因写本とのことですし、本文未見でもあるため考察の埒外に置きました)。

3494犀角独歩:2007/07/26(木) 11:03:40

れんさん、ありがとうございます。

これは、たしか独学徒さんとの議論で、話題にしたことであると記憶しますが、石山における「本尊」書写において、もっともわたしが注目したことは、日興と日目の本尊の書き方の違いでした。つまり、ここに本尊相伝はないと見なさざるを得ません。一方、今回のご教示のとおり、日道には脈絡があり、北山(西山)でいえば、日代に脈絡があり、さらに日郷にあります。

日興が日目を一中一といい、この文言が、日興 ― 日目 ― 日道と系列していくことと、「本尊」の、殊に書(写)とは軌を一にしていない点は注視に値します。

やや横道になりますが、日蓮は漫荼羅を図(示)というのに、日興は書写ということは、図示されたものを書き写したという自認に基づくのであろうと思います。

一方、日目が、図とも書(写)とも記さないのであれば、そこには、それなりの自意識が働いていたと見なすべきであると、わたしは考えます。

3495れん:2007/07/26(木) 19:55:07
犀角独歩さん、ご教示有難うございます。
日興の漫荼羅で、日目と同じく「日蓮聖人」の表記で「書写之」をも記さなかったものが一幅だけあります。それは正応三年十月八日付けの僧日仙授与のものですが、日目が漫荼羅の書式において、日興が確立していった漫荼羅書写様式に拠らず、日興の初期の極めて一時期の書式を採用したことは、それなりの自意識が日目にあったとともに、現在言われるような特別の漫荼羅“書写”の相伝が無かったことの証拠と言えますね。
日郷の漫荼羅は管見では二幅写真で拝見してますが、日目と同じく「日蓮聖人」「書写之」無しの書式で、日目の弟子で日目の漫荼羅の書式を継承したのが日道ではなく日郷であることは興味深い事実ですね。
日目自身の教学はその教学的な自筆の(とされる)著述が石蔵で公開されていないものが数種あるので、その全貌は今もって明らかではありませんが、おそらく、尊師実録や日郷の弟子日叡著述の「類集記」や「後信抄」の内容と大差は無いのではと考えております。
何れにせよ、日目は日興から「一中一弟子也」と特記されるも、漫荼羅の書式が日興の確立した書式を用いないこと、日興直弟の自筆漫荼羅を見ても、日興の書式だったり、日目が用いた書式だったりと、本山住持は結構思い思いにやっている印象ですので、石山に限らず、この時代には漫荼羅“書写”の特別な相伝などというものは未だ成立をみてなかったのではと考えます。

3496犀角独歩:2007/07/26(木) 20:22:36

れんさん、こちらこそ、ご教示ありがたく存じます。

日郷のこと、補完いただき、この点も感謝申し上げます。
日仙授与とは『日興上人御本尊集』P44所載のものですか。
このわずか5日後に書いた、通称「譲座本尊」には「写之」とあるのに、これすら、日目は踏襲しなかったわけですね。
おっしゃるとおり、「思い思い」、特別な相伝はなかったのだと改めて思いました。

3497再挑戦者:2007/07/27(金) 23:00:30
 3491のれんさん。
 貴方の言い分は、核心を突いているようです、?  
  日興さんは日蓮さんに、常在しつつ、御給仕たて祀った方 == 日興さんでさえも、 日蓮さんの本心を御理解不可能であった、??ようでしょうか、?? 
 ソバにいながら、結構、「、日蓮さんにイチャモン=要求事項も存在か?」、有ったようでが、一番大事===肝心なる{本尊===本尊===本尊===本尊」、に関しまして、他者には、一体、、、全体、、、」「相続の欠陥==欠如??==手抜き、エエカゲンサ、、??」、とも、取れる後世への疑義防止への配慮不足!!! これへの配慮の欠如、、???、、これは、「後世への信者の成仏への核心」、に対する大いなる「反逆行為、?」とも思えますす、。 金儲けだけの「悪漢どもと== のようですか」、??? 
 ここにいたっては、金儲けの悪漢どもと別離こそが、最善かも、、?? されど、、どの、、、いかなる、、対象・本尊が無害???か、、??? トホホ、。

3498偶ロム偶ログ:2007/07/30(月) 03:44:13
>3497 再挑戦者さん

>日興さんでさえも、 日蓮さんの本心を御理解不可能であった

たぶん蓮祖は天才であったのです。「理解不可能」というよりも直弟であっても
「理解不十分」であったということでしょう。

>後世への疑義防止への配慮不足
>配慮の欠如

これはどうでしょうか。直弟にあっては問題はなかったと思います。
いわゆる「本尊論」は孫弟子・曾孫弟子くらいから起こったのではないでしょうか。
つまり、他師・他派・他山との対抗上、正統性を誇示して他との差別化を図るために
各師・各派・各山が独自の「本尊論」を展開しはじめた、というふうに思います。

>いかなる、、対象・本尊が無害???か

どのような信仰をしているかによって、合致する本尊とそうでない本尊が現出します。
信仰を持たないひとにとっては、どのような本尊であれ無害なものです。
つまり、日蓮正宗の信仰者は日蓮宗の信仰を持っていないのですから、日蓮宗の本尊は
無害なものといえます。
有害なのは、「教団の教え」「教団の解釈」でしょう。

日蓮系の信仰者にとって大切なことは、どのように蓮祖に向かい、どのように法華経に
向かうか、ということなのではないでしょうか。

3499再挑戦者:2007/08/02(木) 21:21:23
 3498 偶、、さん。
 御提言には深く、感じます点が数点ございます。 ドーモでした。  
 疑問な点は「、日常に繰り返される物事には、意識が希薄になることも在りましょう、。」、例せば、日蓮さんが「紙不足の時代の中、真筆本尊の作成の時を、日興さんは少なくても百ニ十数回ほど御検分・検証なさっていた」ようでしょうか、?
  その環境の中、何ゆえに「真筆本尊様の偉大さ?・崇高さ?・尊厳さ、?」などを感知?され無かったのでしょうか、??(単なるお手紙程度の分析力か、、??)
 タダ、真筆とは言え、中世の文物的(博物館内の、、)な、見方しか出来ない方方には情けなく、思いますが、。  今後とも、貴方の言の「、日蓮さんにどのように向かい、法華経(教主釈尊)にどのようにむかうか、、」、? と言う御提言には、ご賛同を禁じ得ません、、。 謝謝、、。

3500大縫 薫:2007/08/03(金) 20:08:27
れんさん、ご指摘の江戸後期書写の為現当二世の写真を独学徒さんのHPの
談議所の方に写真をアップしました。四十六世日調上人筆です。

3501れん:2007/08/03(金) 20:41:59
大縫さん、先程独学徒さんの掲示板に投稿されました画像を拝見させて頂きました。この度はご所持の貴重な石山本尊資料より、石山本尊の「為現当二世」に関する資料の画像をUPして戴き有難うございます。先日の石山本尊における「為現当二世」の書き入れは江戸後期からというご指摘とともに、学恩を深く感謝申し上げます。
私の場合は限られた資料からの推定でしたが、大縫さんのご指摘により、それが事実と分かりましたことは一つの収穫でした。「為現当二世」が江戸後期からということは、やはり大弐日寛以降、特に石山本尊論の中核に位置付けられた彫刻の「(右)為現当二世」の腰書きを意識してのことだったのでしょうね。
取り急ぎですが、右お礼申し上げます。

3502大縫 薫:2007/08/03(金) 21:26:16
こちらこそ、感謝申し上げます。為現当二世の初見はおそらく調師前後の歴代
が初見だと思われます、何故にそれ以前の歴代は為現当二世を本尊に書写され
なかったのでしょう?日寛上人以降百年は為現当二世は歴代に書写した形跡が
写真では確認は取れませんでした。

3503大縫 薫:2007/08/03(金) 21:50:24
あと、最近になって隠居日顕上人書写の本尊の讃文に仏滅後二千三百三十余年
之間と書写していた筈なのに、最近になって日蓮門下共通の仏滅度後二千三百
三十余年之間と書写が変化しているのに気がつきました。度とは、かぎる又は
定めると云う末法に特に時を定めた(如来神力品第二十一)ことによりますが、
歴代の大半が仏滅後と書写をしていて、度を讃文に入れた歴代は数える程度し
か存在しません。大石寺歴代書写は他の富士門流七山と比べても、書写に統一
性を欠く事を証明していると言わざるを得ません。
こちらも、写真を独学徒さんのHPの方に公開していますので、併せてご覧下
さい。

3504れん:2007/08/03(金) 22:00:31
大縫さん、重ねての御教示有難うございます。
何故、調師前後以前には「為現当二世」を写さなかったのか…真意の程はわかりませんが、恐らく調師前後の歴代で初めて「為現当二世」を書き入れた書写の本尊が案外石山本末のご信者さんに好評で、それなりの“需要”があったが故に石山本尊における「為現当二世」の書き入れが次第に定着していったのではないかと想像します。
彫刻を根本本尊とする教学を確立した寛師以降の、かつ調師前後以前の石山の歴代の本尊に「為現当二世」が写されてないというのは、恐らくですが「為現当二世」は特に彫刻に係るものと認識されていて、その間の歴代には自己が書写する本尊に「為現当二世」と書き入れるという発想が無かったことを示しているのではと愚考しております。

3505れん:2007/08/03(金) 22:35:09
大縫さん
>3503

顕師が何故、「仏滅後…」から「仏滅度後…」に変えた理由は、それこそ顕師のみぞ知るところでしょうね。石山上代の本尊讃文では公開されている写真を見る限り興師は「仏滅後」(初期のみ)「仏滅度後」「如来滅後」の三種、目師は「仏滅度後」「如来滅後」の二種、道師以後有師までの歴代は「仏滅度後」ですね。彫刻が「仏滅後」ですから、その成立以降「仏滅後」が定着したのでしょうか?あまり、他山の本尊の変遷についてはあまり知りませんが、石山に限らず様式の時代時代における変遷はあるものと思っていますので、それ程異とすることは無いと存じます。

3506犀角独歩:2007/08/04(土) 03:01:57

大縫さん、れんさん、実に有意義な論攷と画像のアップ有り難うございました。たいへんに参考になりました。

富要で「現当二世」を検索すると、以下のような結果でした。

・有師物語聴聞抄佳跡上「右為現当二世造立如件」
・化儀秘決(私記)「夕朝は一門内に於いて現当二世、令法久住の内経」「王臣一同現当二世の所願を成就あるべし」「只題目を唱へ申し当施主現当二世の諸願皆令満足、殊には心中の所願成就などと申し上ぐべきか」「現当二世所願成就、其の外云云、南無妙法蓮華経と唱ふるなり」「当大迄嫡々口唱の南無妙法蓮華経、滅罪生善、現当二世所願成就…」「…還来帰家し冥覧を加へ、受持の者を擁護し現当二世の所願を成就なさしめ給へ」「現当二世安穏なるべしと思ふは一念の信心にあらざるか」「殊には現当二世所願成就、年中所願皆令満足なんどと申すべし」

・袈裟数珠の事「…数珠を用ひて現当二世を咒願するなり」
・有師談諸聞書「現当二世の所願を我れ彼れに与へんと念願し・共に成就せんと朝暮に祈祷すべき」
・百五十箇条「信心を致し現当二世の所願決定円満せしむべきなり」
・撰時抄愚記下(日寛)「…大禍は現当二世にのがれたくこそ候はんずらめ」
・妙法曼荼羅供養抄見聞筆記(日寛)「…末法の我等が現当二世を成就する秘法の中の大秘法なり」
・寿量品談義(日寛)「所詮此の寿量品は釈尊の御本意、一切衆生現当二世を成就する大甚深微妙法」・祖師伝(日辰)「末法利益の為に寿量長遠の妙法蓮華経の五字を弘通し一切衆生の現当二世を済度すべきの由之れを付属し玉ふ」
・富士門家中見聞(家中見聞下)日精「…末法利益の為に寿量長遠の妙法蓮華経の五字を弘通し、一切衆生の現当二世を済度すべきの由之れを付属す」・富士大石寺明細誌「現当二世の為め造立件の如し」
・日寛上人伝(日量)「是の記見聞の信者をして現当二世の祈願を忝地満足せしめたまへ」

大縫さんのご投稿を拝読したとき、石山歴代が「本尊」に「為現当二世」と書いたのと、彫刻本尊の成立が、あるいは時期が重なるのかと思ったのですが、聴聞抄佳跡上の日因は31代で、46代日調よりかなり前ですね。ただ、日量は48代ですから、時代は近いと思えました。

検索の結果、「現当二世」という成句の活用は、石山より、保田、京都のほうが先行しているのでないかと思えました。

3507犀角独歩:2007/08/04(土) 08:38:18

少し信じられない気分ですが、中国天台初期文献には「現当二世」の使用はありませんでした。『伝教大師全集』では、『六天講式』の「大黒天講式」に1カ所のみでした。

「祈現當二世悉地 其旨趣如何者 爲父母孝養 奉仕師長 興隆佛法 濟度衆生也」

真蹟遺文では、『下山御消息』に1カ所のみ。

「教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五巻を以て日蓮が頭を打、十巻共に引散て散々に[足+(日/蛺)]たりし大禍は、現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」(定1343)

写本、疑偽書では『真言見聞』『当体義抄』、富士方では馴染みのない『末法一乗行者息災延命所願成就祈祷経文』に、その使用がありました。

先の検索も同様ですが、祈祷文に使用される語彙であり、これが「本尊」に書き込まれれば、祈祷本尊の意味合いは強いことになりますが、彫刻本尊からの転載が、日調以降、一般化するとも見ることもでき、はたまた他門影響の与/受など、ご賢察を窺えればと存じます。

3508マターリ:2007/08/04(土) 14:55:09
こちらのスレッドに書いて良いものかわかりませんが、鎌倉時代について、
3冊ほどの本を読んでみましたので、感想を述べさせていただきます。

日蓮聖人を歴史上の人物として客観的に考えるには、まず鎌倉時代につい
て調べなくてはならないと思いました。

まず、鎌倉時代の武士についてですが、3通りに分けられるようです。

1.荒々しい武士
2.貴族化した武士
3.信仰を求める武士

1.荒々しい武士については、国立博物館蔵、男衾三郎(おぶすまさぶろう)
絵詩によく表れています。男衾三郎は鎌倉時代末期の、武蔵国の武士です。

彼は、美しい妻を迎えた武士は命が短いと考え、八ヶ国の中で最も不美人
を嫁に迎えたいと探します。そして迎えた妻は、髪は縮れ毛で、鼻が大き
く、口はへの字に曲がっています。原文によると、「顔には鼻より外、又
見ゆるものなし」と書かれています。

男子3人、女子2人の子供が生まれましたが、女子は二人とも母に似て不美
人で、「偏に鬼にぞ似たる」という有様でした。つまり、母も女子も鬼に似
ているような、恐ろしい顔をしていたということです。

これは現代人にも通じると思います。男は、美しい妻を迎えたいと願います
が、美人薄命という言葉もあり、不美人の方が、たくましい生命力をもって
いるとも考えられます。また、美人の妻がいることで、他の男性から、ねた
まれる恐れもあります。

男衾三郎の兄は、美人の妻を迎えましたが、旅行中、三郎と共に山賊に襲わ
れ、三郎は助かりましたが、兄は亡くなりました。

私もこれから結婚をする身ですが、不美人と結婚しなくてはならないと
180度、考えが変わりました。

また男衾三郎は「馬庭の末に生首たやすな」と称し、門前を通る乞食や修行
者を捕まえ、犬追い物の犬に代わる的とせよ、と命じました。武士の屋敷
の門前は、武士のテリトリーであり、通る人々は、まさに「獲物」だった
ようです。

現代からは、全く想像できないような別世界が、広がっていると思いまし
た。日蓮聖人も、この時代に生きていたわけです。小松原の法難のさい、
武器を身につけた弟子を引き連れていたのも当然と思います。

また、日蓮聖人の場合、初期の信徒に武士が多くいました。師匠と弟子は
お互いに影響しあうものです。日蓮聖人が武士の気風に影響され、教義的
な面でも、武士風の激しいものに変わっていった可能性もあると思います。

次に鎌倉幕府の宗教観についてです。国民の尊敬を得るには、戦に勝って
腕力を見せつけるだけではだめです。世界で流行している最新の物を日本
にもってきて、最初に人々に見せる必要があります。

当時の宋は、世界最先端の国でした。そして、宋の宗教は禅宗でした。
禅の中核にはもちろん教義がありますが、それに付随した文化がありまし
た。水墨画・お茶・生け花・文学などです。

鎌倉幕府は、禅宗とともに、付随した世界最先端の文化を輸入したのだと
思います。幕府は、宋から多くの中国人の僧を迎えて、優遇しました。
日本の禅宗、曹洞宗を開いた道元が、鎌倉を訪ねて北条時頼に会いました。
しかし時頼は、渡来僧を重んじ、道元に冷たかったようです。

鎌倉幕府から見れば、法華経は聖徳太子のころから重要視されてきた経典
ではありますが、既に古い教えと考えたのではないでしょうか。

幕府は、中国の最新文化とともに、最新仏教である禅宗を、重んじたと思わ
れます。日蓮聖人の仏教に対する深い洞察力・行動力・勇気・予知能力には
大いに感銘したと思います。

しかし、仏教を求める考え方の次元が、日蓮聖人と幕府では全く違っていた
ため、立正安国論ほかの名著をもってしても、その差を埋めることはできな
かったのだと思います。

3509みれい:2007/08/06(月) 01:49:45
マターリさん

時代の背景と言うのは私こそ、日本宗教の歴史を学生時代にまったくといっていいほど学んでこなかったので、
興味を持ちました。
よろしければ、その読まれたご本のタイトルなど教えていただければ幸いです。

また、ウィキペディアでざっと、鎌倉各宗祖を年代順にまとめてみました。
http://mirei2007.blog88.fc2.com/blog-entry-45.html
(まちがいあればご指摘いただければ幸いです)
鎌倉時代といっても、各宗祖の生まれた年代にかなりばらつきがあることが(今更ながら)わかってきました。
当時将軍に近かった禅宗は臨済禅(栄西)、また今は亡き日本達磨宗(能忍)のようですね。
曹洞宗は目立つのを嫌い、地味に暮らしていた模様。
ちなみに臨済宗では法華経は扱わず、曹洞宗では法華経を扱います。
こうして並べてみると、日蓮の出生はかなり後半であり、ゆえに他宗派に批判のしやすい土壌であったこともみえました。
また当時の仏教と政治権力の親密さも垣間見える気がします。

3510犀角独歩:2007/08/06(月) 08:18:10

史学的視点は、事実認識には大いに役立ちます。

さらに、それぞれの主立った活動場所としていたところなどの考慮も必要でしょうね。日蓮の真蹟遺文で、みれいさんが挙げた諸師たちを検索すると、以下のような結果となります。

法然…100回
栄西… 0回
親鸞… 0回
能忍… 0回
懐奘… 0回
道元… 0回

つまり、日蓮は法然以外は意識していないか、その存在も知らなかったかように思えます。また、「鎌倉時代」ということですが、これは武家が勝手に開いた幕府であり、このとき、京都は閉鎖していたというわけではないですね。教科書で習った歴史は、この点で信用できず、また、視点を鎌倉地域に絞ってしまう憾みがあります。

また、いまでこそ、鎌倉新仏教(新興宗教)の祖師と謳われるものの、生存当時、一天下にその名前が知れ渡っていたのかといえば、上述の日蓮の引用から見ても、どうやらそうでもないのでしょう。これは日蓮も同様で、ほとんど、流罪生活を送っていたわけですから、初登高座から逝去までの30年間で日蓮を知っていた人は、どれほどいたか、かなり少なかったのではないでしょうか。むしろ、その没後、徐々にその名が知れていったのだと思います。この点は日蓮に限らず、親鸞しかり、その他も同様ではないでしょうか。
また、武家に招来された禅僧は、パトロンたち(武士)の間では、有名であっても、では、庶民はといえば、禅を組み生活の余裕があるはずもなく、その名すら、聞くこともなかったのではないでしょうか。

なお「日蓮が折伏をした」という表現には異論があります。また、日蓮は京都という日本の本拠地で、その最高学府(比叡山)で学び、しかし、その権力構造に入らず(「入れず」が至当か?)、それでも、武家の暫定政権の地、鎌倉にやって来て、伝教の往古を仰ぐ、いわば天台原理主義のような活動を行った法華宗(天台宗)“天台僧”からの出発でした。また、日蓮の根本といわれる「本尊」もその現存は130舗ほど、実際にどれほど図示されたかはわかりませんが、それでも数百を超えることはなかったでしょう。となると、日蓮を知り、「なむめうほうれんぐゑきゃう」と口伝えに唱えた人々にとって、その本尊はないに等しい存在であったと類推されます。

情報通信で、もっとも早いのは、陸では馬、海では船、人の移動は徒歩、さらに身分制度の時代で、その身分ごとの生活内容は、他からはほとんどブラックボックスのような関係、また、武士といっても数人に1人しか識字能力がなく、渡来僧が、では、日本語に堪能であったかと言えば、そうは思えない等々、わたしたちが単純に考え「歴史」としてまとめられた‘物語’と事実は、大きく異なっているのだろうと思えます。

そんな実像を見る、第一歩として、みれいさんのまとめは足がかりになるでしょう。

> 当時の仏教と政治権力の親密

政教一致は中国からの一環で、神仏習合は聖徳太子?の時代から。
いまの仏教と政治の関係が、ここ2000年からみて劇的変貌ということでしょう。

3511マターリ:2007/08/07(火) 20:36:02
>みれいさん、借りてきた3冊の本ですが、1冊は「梅原猛、日本仏教をゆ
く」です。聖徳太子から明治の僧まで説明してありました。他の2冊は、
図書館に返してしまいましたので、タイトルは覚えていません。「鎌倉時
代と武士」だったような気がします。

犀角独歩さんがおっしゃるように、日蓮聖人在世とうじ、鎌倉と佐渡の
わずかの人たちが、日蓮聖人を知っていただけだと思います。六老僧を
はじめとした、弟子が教えを広めて、相当な年数(百年単位)をかけて
日本全国に知れわたるようになったのではないでしょうか?

武士の識字能力ですが、鎌倉時代は、ハイレベルの武士しか文字を読めな
かったようです。例えば四条金吾の四条は中流以下ですので、本人は日蓮
聖人の手紙が読めなかった可能性が高いと思われます。

なお、京都の人から見た鎌倉は、単なる田舎に過ぎなかったようです。
源頼朝が兵を起こしたときも、山奥で山賊が乱を起こしたくらいにしか
みていなかったとのことです。

また、京都の人たちは、東国の武士を、東夷(あずまえびす)と呼び、恐ろ
しがっていました。

蒙古襲来の危機が迫ってきても、京都の公家たちは、どこ吹く風で、
源氏物語のような、王朝絵巻の世界にひたっていたようです。

3512富士川一郎:2007/08/07(火) 21:40:41
横レスです。
四条金吾さんは、純粋な武士ではありません。元来は公家の四条家です。
一条、二条、三条、四条などは全て公家です。
四条さんは薬師であり、京八流の流れを汲む武術の達人でもありました。
四条家は、宮将軍と共に鎌倉にやってきた一族のようです。
ですから、江間家の「正式な家臣」では無く「かかりびと」であったと言うのが史実のようです。

それが日蓮門下では宗祖の御妙判には単なる武士としか無いから、いつの間にか武士だと誤認されたようです。

ですから、当時の最大の有識者です。
そもそも字が読めなければ漢方の書籍が解読できませんので、薬師に文盲などは考えにくいですがね。

また、当時の京方では、武士は侮蔑の対象で、狂犬を恐れるように武士を恐れていたに過ぎません。
鎌倉幕府の実質的な支配者である北條家には相模守しか与えず、官位は与えなかった事がそれを物語ってます。

3513犀角独歩:2007/08/07(火) 22:33:20

面白いですね。日本史で「鎌倉時代」とされる歴史の表舞台の役者が、京という視点からすると、これだけ違っています。

日蓮が鎌倉へやって来たのは、どのような心境だったのでしょうか。

「誰をか法華経の行者とせん。寺塔を焼て流罪せらるゝ僧侶はかず(数)をしらず。公家・武家に諛ひて、にくまるゝ高僧これ多し。此等を法華経の行者というべきか。仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり」

公家・武家にもへつらわなかった日蓮として、評価できそうですね。
さらに天皇を嶋の長として、釈迦の下に置いた日蓮の気風は豪快と言うほかありません。

3514富士川一郎:2007/08/07(火) 23:20:09
厳密に言うと鎌倉時代と言う表現方法が間違っているのです。
当時の法制史では「御成敗式目」をもって、法度としましたが、式目の適用範囲は武家のみで、公家は公家法、荘園の中では本所法が効力をもっていました。
江戸時代に武士は全体の7%に過ぎなかったと言いますが、鎌倉時代も似たり寄ったりでしょう。
つまり、武士の社会などと言っても、全体の1割にも満たないわけです。
その1割にも満たない階級を中心に歴史を紐解いても真を得ていないのは当然でしょう。

3515パンナコッタ:2007/08/08(水) 22:54:31
四条金吾は手紙が読めないどころか、蓮祖に文章を送っていますね。
 四条金吾釈迦仏供養事 「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云」
    該当部分真蹟欠

 四条金吾殿御返事   「はるかに申し承り候はざりつればいぶせく候いつるに
   かたがたの物と申し御つかいと申しよろこび入つて候 又まほりまいらせ候、
   所領の間の御事は、上よりの御文ならびに御消息引き合せて見候い畢んぬ」
      該当真筆断簡現存

武士と言っても古来より土着の豪族の子孫もいれば、摂関時代あたりからの
中央から地方に下った貴族の末裔もいるわけですし、一概には語れないですね。
頼朝の旗挙げは治承四年(1180)ですが、皇嗣争いが発端で京都御所周辺で武力衝突した
保元の乱(1156)、清盛の留守を狙ったクーデターの平治の乱(1159)での
中心人物・義朝の伊豆へ流された三男ですし、後白河法皇の"寿永の宣旨"などでも判りますし
(権謀家の処世術ではありますが)単なる田舎の山賊ではないでしょう。

元寇時の亀山上皇は、伊勢神宮に勅使を送り敵国降伏をを祈願していますね。
又後に出家して、離宮を禅寺にしたのが南禅寺の起源みたいですね。

3516マターリ:2007/08/08(水) 23:50:41
>富士川一郎さん、犀角独歩さん、パンナコッタさん、レスありがとうご
ざいます。四条金吾は、文章が書けたんですね。

四条金吾については、深い意味で書いたわけでは、ありません。四条とい
う名前が中レベル以下の家柄を指す、と書いてありましたので、想像をた
くましくしてみた次第です。

>富士川一郎さん、
>つまり、武士の社会などと言っても、全体の1割にも満たないわけです。
その1割にも満たない階級を中心に歴史を紐解いても真を得ていないのは
当然でしょう。

私は図書館で、鎌倉時代に関する本を探してみました。しかし、天皇と公家
、鎌倉幕府と武士、そして僧侶に関する本ばかりでした。一般庶民に関する
本が無いので、調べようが無い状態です。

日蓮聖人の初期の在俗の信徒に、武士が多いので、そこから日蓮聖人との師
弟関係を考えてみました。

鎌倉幕府は文化的な面で、京都の文化に対して、大変なコンプレックスを
抱いていました。

そのため、中国の宋から禅宗と、それに付随する文化を輸入し、京都文化
に対抗しようとしたようです。

>パンナコッタさん、
>武士と言っても古来より土着の豪族の子孫もいれば、摂関時代あたりか
らの中央から地方に下った貴族の末裔もいるわけですし、一概には語れな
いですね。

おっしゃる通りです。1.荒々しい武士 2.貴族化した武士 3.信仰を求め
る武士と3種類に分けられるようです。

男衾三郎(おぶすまさぶろう)について書きましたが、彼は荒々しい武士で
す。しかし、兄は貴族的な武士でした。近くに住んでいる兄弟でも、天と
地ほどの差があったようです。

信仰を求める武士についてですが、やはり源平合戦の、むごたらしさに
無常を感じ、念仏で往生することを願う武士が続出したようです。

鎌倉の武士の多くは、禅宗でしたが、亡くなる前は念仏を唱えていたと
いいますので、念仏の影響力はすざまじいものだったと思います。

3519きゃからば:2007/10/11(木) 14:35:44
本当に素朴な質問です。
『弘法大師の法華経』大倉隆浄氏著を今頃になって読みました。
そしてその口絵に梵字の法華経がありました。
説明には「平成7年8月、東京に建立された平和観音像に刻まれた法華経真言題目の拓。」とありました。
そこでちょっと実物を拝見したいと思い、連絡先に電話しましたが現在使われていないようでした。
どうかこの東京の平和観音像についてどなたか教えてください。
いったいどこにあるのでしょうか?

3520きゃからばあ:2007/10/11(木) 14:37:41
つまらないところで間違いました。

×名前:きゃからば
○名前:きゃからばあ

3521とんび:2007/10/21(日) 20:44:34
みなさん、こんばんは。とりあえずここに書きます。

十一界論の推奨

昨年でしたか、熱心な法華講から聞いた話の再度の紹介です。
彼は、はじめ11界論を話し、その後16界論をのべるのですが、さすがに16界論になると
ついていけません。

 10界論では、観心の本尊抄だったかな、仏界ばかりはげんじがたし...で、私自身のこころを
よく感じると、地獄界から菩薩界までは、感じ取ることができるのですが、さすがに仏界...と
なると、わかりません。正宗では、お題目をとなえれば「仏界」がゆげんする...
御本尊に縁をすれば、「仏界」がゆげんするとなるのでしょう。

 11界論では、法華経観、涅槃経観を取り入れて、仏界よりも「諸仏界」が上なのだ...と
いうことになれば、ペットや草木国土を含め、「私自身」よりも「他の人が上」なんだ...と
いうことになります。
 というと、不軽菩薩の「24文字」に繋がりまた、「南無妙法蓮華経」にもつながります。

 ここでは、幸福の科学の信者さんは、ロムしていないだろうと、思い発言しますが、やはり
12界論で「南無妙法蓮華教界」を最上位にしてしまうと、大川隆法さんなんていう人が、出て
きてしまいます。
 
 「諸仏界」なら、だれでも「ああ他人や自然を尊敬・敬う気持ちぐらい持っているよなあ..」
とだれしもが、思うと観じます。

 顕正居士さんなど、犀角独歩さんなり、博学な人に、後生に伝えてもらいたいような気が
致します。
 
 さすがに、11界論は、いまでも、お見事..と思っています。

3522とんび:2007/10/23(火) 06:57:13
訂正です。

御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えれば、仏界がゆげんする..あらわれる..
ということでしょうか。

 しかし、顕正会時代に、一度でもあらわれたかどうか、はなはな疑問でわかりません。

3523しゅんかん:2007/11/19(月) 21:21:23
日蓮宗電子聖典と云う物が在るそうですが購入方法・購入資格等、
ご存知の方おられますでしょうか?

3524犀角独歩:2007/11/19(月) 21:51:57

> 日蓮宗電子聖典

わたしが応えるのは何ですが、わたしは、現宗研から受け取りました。
受け取りに際し、住所・氏名他の告知をした記憶があります。
日蓮宗僧侶に、配布したもので、それ以外では、受け取りの証を残して受け取るもののようです。
現宗研、もしくは、宗務院、または、日蓮宗僧侶の方に問い合わせてみてはいかがでしょうか。

3525しゅんかん:2007/11/19(月) 23:43:33
独歩さん
早速のご教示ありがとうございます。
知人のご僧侶の方に問い合わせてみます。

3526きゃからばあ:2007/11/22(木) 14:24:37

素朴な質問をさせてください。

「題目」「唱題」「題目を唱える」
これらの英語を教えてください。できればスペルも。
日蓮系の外国の方々に通じる英語を希望します。
よろしくお願いします。
ちなみに「御本尊」「勤行」はそのまんまと聞いていますが、他に英語があったらこちらもお願いします。

3527犀角独歩:2007/11/22(木) 19:26:40

わたしが創価学会や、SGIのサイトを紹介するのは変ですが、きゃからばあさんの疑問に以下のサイトはある程度役立つかも知れません。
ただし、こちらの英訳はこちらの英訳ですから、他との比較はもちろん必要だと思いますが。

http://www.sgi-usa.org/

3528きゃからばあ:2007/11/23(金) 09:04:09

独歩さんへ

毎度、ありがとうございます。

「唱題」は「chanting」となっていました。
海外では唱題は歌う感覚なんですね。

3529犀角独歩:2007/11/23(金) 17:41:17

きゃからばあさん

英語に関しては、人に語る知識がありませんので、応答は控えさせていただきます(笑)

3530偶ロム偶ログ:2007/11/23(金) 19:31:23
貞永さん時代のNSAの合言葉は「もあ ちゃんていん(ぐ)」でしたよ。
日本国内でも、米軍基地のある地域の組織では普通に使っていました。
唱題は、おそらくゴスペルのような感覚で受け止められていたのではないでしょうか。
マントラもchantingだったと思います。

3531eigo:2007/11/23(金) 22:21:15
「chant」には、繰り返して同じ言葉を唱えると言う意味があります。例えば街頭デモで「○○反対」と繰り返し唱えたり、スポーツ競技で応援する選手の名を連呼するのも「chant」です。

3532ABC:2007/11/24(土) 06:38:06
ご本尊の安置はinstallでした。
当時installはパソコンにあたらしいソフトをインストールするときしか使わなかったので、
??と思いましたね。

3533きゃからばあ:2007/11/24(土) 10:53:07

偶ロム偶ログさん・eigoさん・ABCさん、貴重な御教示ありがとうございます。
きっと英訳御書を和訳すると、原文とは違ったものになるのかもしれませんね。

3534いちりん:2007/11/25(日) 05:58:14
むかし、とっくに出た質問かもしれませんけど。

日蓮さんは、たくさんの消息文を残していますよね。
日本仏教の祖師たちのなかでは、おそらくこれほど手紙を書き送った人はいないんじゃないでしょうかね。
そして、これほど後世に手紙が残っている方も珍しい。パウロや蓮如と比べても、はるかにその数は多い。

で、ひとつ疑問なんです。

日蓮さんのこれら手紙というのは、弟子檀那の手紙、あるいは贈り物に対する返事が多いですよね。

ところが、弟子の手紙というのは、おそらく一つも伝えられていない。現存しているものも、書き写されたものも残っていないんじゃないでしょうか。
数編くらいは、あるのかなあ……。

どうして、弟子の手紙が残っていないのでしょうか?

・当時の日蓮さんには、紙がなかったので、弟子の手紙の裏に返事を書いたからだとか?
・紙を漉きなおして、手紙にしたからだとか?
・たくさん手紙があったが、後世の弟子たちが、これは大切じゃないとして、捨ててしまったからだとか?

あるいは──。
後世の人が、日蓮さんの手紙に仮託して、いつくか勝手に偽書をつくったから、弟子の手紙がのこっていると具合が悪い、とか。

3535パンナコッタ:2007/11/25(日) 14:22:36
いちりんさん、
弟子の書簡は、かなり流用された可能性が高いようですね。
仮託した偽書の存在は、むしろ蓮祖直筆の方が被害を受けているかもしれません。

蓮祖宛の書簡ではないのですが、ご参考に紙背文書の紹介。
 http://www.city.ichikawa.chiba.jp/net/kyouiku/rekisi/rekihaku/ronbun/yuasa/yuasa97.htm

3536犀角独歩:2007/11/25(日) 16:04:34

れんさん パンナコッタさんほか 諸賢

『日蓮宗教学史』に「日代の本尊論に就いては、日代が上行日尹、並に保田の日郷へ与へた書状に依つて窺はれる。大曼荼羅を以て仏像造立の解説図と見做し、戒壇の本尊には仏像本尊を主張してゐる。また修行論に於ては一部唯本の立場から、本迹二門の読誦を行体の用とし認める。且つ日満記に依れば、日興の遷化に当つて、その増道損生の為め、自ら書写したる一部の石経を埋納したといふのである。これを要するに日代の教学は一致派教学に近いものがあり、上野系の教学と異なりがある。こゝに日道一派からは本迹一致の迷乱と評せられた所以も存するのである」(P42)という記述があります。

ここでいう書状とは具体的に何を指すのでしょうか。また、その原文はどのような内容でしょうか。ご教示いただければ有り難く存じます。

3537れん:2007/11/25(日) 18:32:52
犀角独歩さん
お尋ねの資料については日代消息「葦名阿闍梨御房御返事」だと思います。日興門流上代事典によりますと日蓮宗宗学全書第二巻所収本並びに石山蔵古写本(東大影写本)では宛名を“宰相阿闍梨”としますが、西山蔵の日代真筆には“葦名阿闍梨御房”と明記されているとのことで、“宰相阿闍梨”は伝写の誤りで“葦名阿闍梨”が正しいと思います。ですから、“教学史”が本消息を日郷師宛てと解するのは誤認に属すると考えます。
さて、本書には「佛像造立事本門寺建立時也、未無勅裁、国主御帰依之時三ケ大事一度可令成就給之由御本意也、御本尊図為其也」とありますから、“教学史”の言うところは上記の文と思います。
現在、西山の一部?では房山蔵の文永十一年十二月の日蓮自筆“大本尊”を戒壇本尊としておりますが、当の西山開山の日代師は三位日順師の心底抄における見解とほぼ同様の本門寺造立時の“仏像造立”であって、私としては、何時から西山が漫荼羅を戒壇本尊と位置付けるようになったのかが“素朴な疑問”です。

3538れん:2007/11/25(日) 18:57:41
追記です。
“葦名阿闍梨御房御返事”は、日尊門流の京都上行院の日印からの質問に対する返状で、内容としては、先に引用した文の通り、広宣流布時の本門寺における日蓮が図した大漫荼羅による仏像造立と、日興筆の御遷化記録にある日蓮の“御遺告”を引用して「一体仏、大聖御本意ならハ墓所傍被棄置哉、又造立無過者何大聖時、此仏四菩薩・十大弟子不被副造哉、御円寂之時件漫荼羅被出尋奉懸事顕然也、勿論也、惣して如此事等、御書始末を能々可有御了見候歟」と記して、未広布時においては大漫荼羅正意とすることを示しています。
以上ご参考まで。

3539犀角独歩:2007/11/25(日) 19:02:42

れんさん、早々のご教示有り難うございました。
教学史の批正、大変に参考になりました。

> 何時から西山が漫荼羅を戒壇本尊と位置付けるようになったのかが“素朴な疑問”

まさにこの点での疑義でした。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

3540ふうてん:2007/11/28(水) 13:51:23
すみません。またよろしくお願いします。

石山の御守り御本尊について教えてください。
この本尊は礼拝の対象ではないと聞きました。

で、僧侶とか法華講の人たちは、出張先や旅行先では、どうやって勤行してい
るのですか? 遙拝勤行ですか?

それとも、御守り御本尊に向かって勤行唱題しているのでしょうか?
それとも、別に携帯本尊というのがあるのでしょうか?

よろしくお願いします。

3541偶ロム偶ログ:2007/11/30(金) 16:04:12
>3510 ふうてんさん

通常、旅先での勤行は、大石寺の方角に向かって行なうものです。
戦前の法華講は、身に付けたまま勤行をしていました。
それから、「遙拝勤行」とはいいません。
石山であろうと、自宅であろうと、旅先であろうと、ただ、勤行です。

江戸期からの信徒で、小さな厨子に板本尊と御影が設えられたものを持って
いる方もおられますが、これはかなり長期間の旅のためのものかと思います。

また、守本尊は身に付けたまま、携帯できる大きさの御影に向かっての勤行
もあったといわれています。

3542犀角独歩:2007/11/30(金) 21:22:06

ふうてんさん
偶ロム偶ログさん

わたしは法華講のころ、「旅先では、大石寺の方向に向かって勤行すればよいのでしょうか?」と指導教師に質問したことがあります。
すると「なんで、御本尊様のないところで勤行するんだ?」と、とても不思議そうに返答されました。

ついで、「歩いているときも、車を運転しているときも、を題目を挙げています」というと、「なんで、御本尊様のないところで題目を唱えるんだ?」と、とても、不思議そうに言われました。

まあ、いまとなっては、石山の常識など、まるで関係ありませんが、以上が、石山大本営の、法華講時代に見聞した常識でした。

「御守様」は文字通り、御守りですね。

それにしても、勤行というのは、本来、それぞれの尊体の前でするものですね。それがないところでなしていったいどうするのでしょうか?

目の前に人がいないのに、丁寧に頭を下げて、挨拶の言葉を出すようなものだというのが、石山の感覚ではないでしょうか。

石山には、「戒壇の大御本尊の方向に向かって?」といったイスラム教のメッカに向かうお祈りみたいなものはありません。これをはじめたのは、創価学会ではないでしょうか。

3543ふうてん:2007/12/01(土) 12:11:02
偶ロム偶ログさん

> 通常、旅先での勤行は、大石寺の方角に向かって行なうものです。
> 戦前の法華講は、身に付けたまま勤行をしていました。

情報ありがとうございます。では方位磁石がいりますね。
今のGPS携帯は大石寺の方角は示してくれるのかな。
貧乏人なのでGPSは持っていません。(^_^;)
外国からだとさらにむつかしくなりますね。だから太陽が昇る東に向かって勤行でもいい。
と指導されているのでしょうか。でもロサンゼルスだと東より西に向いた方が日本は近い。

> それから、「遙拝勤行」とはいいません。

内得信仰と遙拝勤行の解説がバラバラで統一されてないので困っています。

> 携帯できる大きさの御影に向かっての勤行もあったといわれています。

なるほど、携帯本尊というのは御影のことですか。


犀角独歩さん

> すると「なんで、御本尊様のないところで勤行するんだ?」と、とても不思議そうに返答されました。

マジですか。僧侶は旅先では勤行してないんですか?

> これをはじめたのは、創価学会ではないでしょうか。

思うに、戸田会長が独房でも勤行していたというのが学会のバックボーンにありますから、
そこから、遙拝という行為は崇高な行為だと認識しているのでしょうね。
また、熱原の法華講衆も御本尊のないところで唱題したんですよね。
ちょっと僧侶の言い分はおかしいですね。自分が収監されたらどうするんでしょうか。

3544問答迷人:2007/12/01(土) 12:38:41

ふうてんさん

>また、熱原の法華講衆も御本尊のないところで唱題したんですよね。

日蓮聖人は、佐渡流罪以前は、曼荼羅を顕していません。その時の信徒・僧侶はどうしていたのでしょう。
曼荼羅を知らない訳ですから、曼荼羅を思い浮かべることも出来ません。
それでも只南無妙法蓮華経と唱える事は出来ますが・・・

3545パンナコッタ:2007/12/01(土) 12:42:55
過去に戸田さんの質問会で、こんなのがありました。

 "御本尊様に向かわず仕事をしながら題目を唱えても、功徳は受けられるでしょうか?"
         ↓
 戸「読誦の功徳と言って御本尊様に向かっては読、無い場合は誦〜云々」
   (昭和三十二年十一月十五日 品川公会堂での最後の一般講義にて)

 "関西の人が東に向かって題目を唱えるのは、大石寺が途中にあるから という事ですが?"
         ↓
 戸「ああ、それでもいいですね」
   (いつの発言だったかは、失念。諸天善神についてだったかな)

内容自体はともかく、こうした指導があったのは事実ですね。

3546しゅんかん:2007/12/01(土) 16:48:25
石山の勤行経典、初座は東に向かってですね。
私は子供の頃、住居が石山より西に位置しているから東なんだと思っていました、ですから西に向かって勤められる方もおられるんだと。
昨日再度、経典を見ましたが初座、東(総本山以西の場合)とは記していません。
朝五座、夕三座も合わせて以前より疑問に思っていました。
要山の勤行経典(教・・・・すいません、出先でして思い出せません)には五座、三座は記されていませんし東に向かっての下りもございませんね。

3547んっ?:2007/12/01(土) 17:29:50
>戸「読誦の功徳と言って御本尊様に向かっては読、無い場合は誦〜云々」

首題を能生たる末法の法華経と見れば正しいのかも?

>住居が石山より西に位置しているから東なんだと思っていました

初座は「東天に向かいて」で大日天王を代表として法味を差し上げる事。
此れに関しては笑い話があります。
A:朝の勤行をしようっと。
B:もう、昼だぞ?早く起きないから上に行ってしまってる。
私:Bさんは元旦勤行会のとき初座は下向くの?
B:・・・・。

3548しゅんかん:2007/12/01(土) 21:30:29
要山の勤行要典は「信行正軌」でした。

ふうてんさんの疑問と重なる部分があり、失礼とは思いましたが割り込ませていただきました。

3549犀角独歩:2007/12/03(月) 06:55:35

3543 ふうてんさん

> ちょっと僧侶の言い分はおかしいですね

ええ、わたしが3542で記した石山僧の言うことはたしかにおかしいと思います。
問答さんが仰るとおりです。漫荼羅正意を煎じ詰めるとこうした考えになるということでしょうね。

わたし自身は漫荼羅を勤行唱題の法具と考えていませんから、唱題はどこでも行える方法だと考えます。

ただし、観念文から読経の性質を考えれば、それぞれの尊体の御前に詣でることから、勤行は始まっているということは忘れてはならないと思います。
たとえば、いまの時代に日蓮が生きていたとし、東にある隣の建物に住んでいたとします。では、東に向かって「おはようございます」と挨拶をしても、その声は日蓮に届きません。やはり、御前に行き、挨拶をするでしょう。没後、日蓮は御影として崇敬され、その徳を賞嘆供養、つまり勤行をするわけです。御影堂に詣でず、日蓮に挨拶してどうするのだ、ということになりますね。

3550天蓋真鏡:2008/01/10(木) 01:46:27
漫荼羅が設計図なら、 宝塔・三国四師・四天王or宝塔・御影堂・四神殿

3551しゅんかん:2008/01/27(日) 03:03:53
本重寺の板本尊(南アルプス市の市指定文化財)
と言うのをネット上で知りましたが
この本尊は鏡文字に彫られていますが版木なんでしょうか?
版木としますと、御形木御本尊の作成に用いたと思われますが、
HP内の説明に「正中二年(1325)に秋山与一光定に日興が与えたものといわれている。」
と記されております。
http://www.city.minami-alps.yamanashi.jp/site/page/info/bunkazai/shi/chokoku/honju/

秋山与一光定とは檀越でしょうから、御形木御本尊作成に使用される版木を興師が授与
する、又、秋山与一光定が授持するの腑に落ち無いのですが。
この件ご存知の方ご教示、宜しくお願い致します。
又、本重寺とはどちらの派の寺院でしょうか?

3552犀角独歩:2008/01/27(日) 07:46:20

>3551


南アルプス市というのは、ずいぶんと思い切った市文化財指定をするものですね。

少しばかり、画像を修正し、見やすくしてみました。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo02/honjujihanboku.html

まあ、弘安5年の筆といえば、そうかもしれませんが、不動愛染と四大天玉が離れてしまっていますし、その原本はどんなものでしょうかね。
ただ、仰るとおり、これは判木で、これがいつごろのものであるのか、特定できれば、形木本尊の研究の参考にはなるかもしれません。

それにしても、「弘安五年(1282)に日蓮が日興に与えたものと同じ様式」というのは、どんな根拠によるのでしょうか。

3553れん:2008/01/27(日) 09:53:39
これは面白い版木ですね。説明の中の弘安五年云々は、身延曽存の弘安五年八月の伝日蓮筆漫荼羅でしょうか、似ていると言えば似てますね。
ただ、日興は印刷漫荼羅を否定していると伝承されているので(富士一跡門徒存知事)、どうかなぁ?という感じです。

ただし、犀角独歩さんが仰る通り、この版木は形木本尊の研究の材料の一つにはなると思います。

3554パンナコッタ:2008/01/27(日) 12:19:56
どうも、お世話になります。

本重寺は、椿城跡という事らしいんですが
 http://shitteta.jugem.jp/?cid=1
伝承の類らしく確実とは言えませんね。
ただ、小笠原盛長という人は、波木井実長とは遠からずの親族だったみたいですね。
 http://homepage2.nifty.com/nihon-castle/TOUKAIDOU/kaigenji.htm

3555大縫 薫:2008/01/27(日) 12:25:03
この本重寺は現在は日蓮宗ですが、無住です。
この版木は現在は区所蔵というかたちで近隣の檀家衆によって保管されているそうです。
嘗て、石山細井日達上人が現地を訪れ直接この版木を見分したと聞いた事が有ります。

3556しゅんかん:2008/01/28(月) 00:41:40
独歩さん、れんさん、パンナコッタさん、大縫 薫さん
ご教示有難うございました。

秋山与一光定とは、日華師か讃岐本門寺と関係の在るお方かな?と私の浅い知識ですが
考えております。
と、しますと秋山与一光定に興師が本尊(曼荼羅)を授与したとは辻褄は合いそうですね。

ただ、興師が授与した板本尊(版木)なのか?
と、真偽が定かでない代物を地方公共団体が不特定多数の人が拝見できるネット上
で記すのには学術的鑑定が必要では、と、思ったしだいです。
※学術的鑑定をされているのかな?

確かに、御形木御本尊の研究にはなりそうですね。

今回、本重寺の板本尊は先日、日本でも営業を開始したの検索サイト(百度)に於いて
「板本尊」で検索ヒットしたものでした。

ちなみに同じく「板本尊」をGoogleでは36番目にヒット、Yahooは200番目でも
ヒットしませんでした。
今後は百度でも検索してみる価値はありそうですね。

3557問答迷人:2008/02/14(木) 22:30:26

御本尊集に収められた大石寺所蔵の日蓮聖人の真筆曼陀羅は何幅有るのでしょうか、ご存知の方、お教え下さい。

3558犀角独歩:2008/02/14(木) 22:42:07

>3557


以下、3舗です。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/082.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/111.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/116.html

3559独学徒:2008/02/14(木) 22:45:57
問答名人さん、ご無沙汰していました。

>御本尊集に収められた大石寺所蔵の日蓮聖人の真筆曼陀羅は何幅有るのでしょうか、ご存知の方、お教え下さい。

富士学林図書館長であった、故山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」によれば、82、111、116の3幅のようです。

3560問答迷人:2008/02/15(金) 06:44:43

犀角独歩さん
独学徒さん

ご教示有難うございます。

驚きです。

大石寺は日蓮上人の唯一正当の宗派と聞かされてきたのに、たった3幅しかないというのは、極めて不可解な事ですね。なぜ、こんな僅かしかないのか、理由が知りたいと思います。どなたか推測で結構ですのでお教え下さい。

3561れん:2008/02/15(金) 07:42:17
問答名人さん

石山に日蓮御筆大漫荼羅が少ないのは、日道が日興や日目から日蓮御筆大漫荼羅を相伝されなかったことが大きいと思います。実際、日道が日目から“相伝”されたのを確認できるは日興から日目に授与された日興書写大漫荼羅のみですね。
日目が日興から授与された日蓮御筆大本尊(文永十一年十二月付け)、また他門に流出しましたが日目が日蓮から授与された大漫荼羅(弘安二年二月付け)などは、日目から日郷に相伝されたのですから、日興・日目に係る日蓮御筆大漫荼羅は日道に一舗も相伝されなかったというのが史実のようです。

今、石山にある確実な日蓮御筆大漫荼羅三舗(弘安三年三月付けのも授与書が削られた跡がある)は、それぞれ日興・日目以外の個人授与のものですから、日道以降の日道門下の首長の歴代が、門下僧俗等に伝承されていた日蓮御筆大漫荼羅を石山に寄進させものと見て間違い無いと愚考します。

3562問答迷人:2008/02/15(金) 07:54:40

れんさん

ご教示誠に有難うございます。

>今、石山にある確実な日蓮御筆大漫荼羅三舗(弘安三年三月付けのも授与書が削られた跡がある)は、それぞれ日興・日目以外の個人授与のもの

やはりそうでしたか。唯授一人血脈相承は、曼陀羅相伝の史実・事実の上から、史実・事実に反するといわざるを得ませんね。

3563れん:2008/02/15(金) 08:50:56
問答名人さん

仰る通り、大石の寺の唯授一人血脈相承なるものは、日蓮御筆大漫荼羅相承の上から見ても、史実・事実に反すると愚考します。

日有の雑雑聞書に「大石寺は四帖の聖教とて先師の作これあり(中略)去れば此の大事は門徒の首長計り伝へて本尊を書くべし余は書くべからず」とありますから日有以前に日道門下において、日有の先師…おそらく日行・日時の時代に石山の唯授一人血脈相承の原型の思想が形成されたのは間違いないと思います。

日道門下がかくの如き思想を胚胎するにいたったのは諸賢の以前からのご指摘の如く、仙波における中古天台の血脈義の摂取と、このような思想を主張し展開することによって、日目の跡を継承した日郷門跡に対して優位に立とうとしたと言うことだと考えます。

3564れん:2008/02/15(金) 19:52:51
伝教大師最澄は、比叡山の大乗戒壇について「一乗戒建願記」を残していますが、あれだけ筆達者であった日蓮が戒壇に関して、最澄の一乗戒建願記のような記述を残さなかったのは何故でしょうか?日蓮自ら「本門戒壇」の名目を挙げながら、最澄の一乗戒建願記的な記述を残さなかったことが、さまざまな異見を生んでいる温床だと思うのですが…。

3565顕正居士:2008/02/15(金) 22:11:12
将来建立の戒壇(事壇)は天台宗山門流の中の日蓮党が一定の勢力を形成した後に
三井の戒壇の先例に擬し比叡山戒壇から別立する思想が生じたのでありましょう。
日蓮自身は天台宗山門流を自分の新思想に説得したかったのであり、親鸞に別宗派
を創始する意思が無かったと同様でしょう。また三秘中戒壇の一秘は後世に託したと
評されるように日蓮には本門戒の具体的構想はまだ皆無でした。日蓮に事壇の思想
が無く理壇主義であったというわけではないが、本門戒の構想自体がなく、山門戒壇
から独立するしないというような勢力はまして彼の一代には全然形成されませんでした。

3566犀角独歩:2008/02/16(土) 07:24:36

日蓮の本門戒壇観に関しては、彰往考来山から提示された『大崎学報』154号所載の都守基一師「『法華取要抄』の草案について」が参考になりました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html

3567独学徒:2008/02/16(土) 08:20:43
犀角独歩さん、おはようございます。

都守基一師といえば、つい先日バレンタインデーの日に、法華宗本門流の研究発表大会にて、立正安国論諸本に関する研究発表をされました。
これがまたすばらしい内容でした。今後、法華宗本門流の機関紙「無上道」に掲載されると思います。
宗祖真蹟断簡で、中尾先生が判読困難とされた箇所を判別され、結果、その判読困難とされていた箇所は、「日秀日弁」および「浄行」と判読されたようです。
「日秀日弁」の連名が見え、丁付けに「五」、その他の内容から、『伯耆殿並諸人中御書』(全十九紙)の一部ではないかと推測されています。
以前、冨士教学研究会にて、久成寺蔵「御血脈次第」を紹介し、そこに「浄行」の名が見えましたが、今回の真蹟断簡の判読によって、宗祖が弟子を「浄行の一分」と見ていた事実があったことに驚きました。
いずれ関連項目を、冨士教学研究会のブログか談義所にて紹介したいと思います。

今日は天気も良いので、これより家族で誕生寺に出向いてきます。

3568れん:2008/02/16(土) 18:50:17
顕正居士さん
ご教示有難うございます。寺門と言えば、日興門流上代に見える薗城寺申状につき石山日有は「江州薗城寺の天下えの申状は叡山に迹門の理の戒旦を立つ上は薗城寺にも又迹門の事の戒旦を立つべしと申状なり。然間是こそ末代本門の事の戒旦の立つべき証拠なれとて大石寺の重宝と仰せられ給ふなり云々」と述べており、顕正居士さんの仰るように、日蓮党ことに日興門流では、文献上は室町期まで時代は下りますが、三井寺すなわち薗城寺が朝廷に提出した戒壇建立勅許申請の申状の先例を、日蓮党・日興門流の未来本門の事壇建立の証拠としていたことが読み取れ興味深いものがあります。


犀角独歩さん
御提示の都守師の論文のコピーは私も所持し、存じておりました。都守師の論文に示されてあるように日蓮は本門戒壇を密事としますが、日蓮が本当に本門戒壇、ことに事壇建立を真剣に考えていたならば、最澄が一乗戒建願記に自身が建立を目指す戒壇院の儀相とその意義を明確に述べた如く、日蓮も自ら記した本門戒壇の特に事壇の儀相・意義を明確に記して残して置くべきだったのではないかと思いました。日蓮党の中で日本全国に広く教線を伸ばした日興とその門下には事壇論が見えますが、悩ましいのは、日興門下の事壇の儀相は、重須系の日代・日順、ならびに日目系でも尊門は仏像安置としますが、日目系でも日郷の後継の日伝には仏像ではなく法華経一部安置とする異見があり、一枚岩とは言えぬ部分が存することです。ですから、日蓮もいかに密事とはいえ、戒壇について最澄の一乗戒建願記に準ずる著述を残すべきだったのではないかと思った次第です。


独学徒さん
新出の日蓮御筆断簡ですか。伯耆殿並諸人御返事の一部である可能性が高いとのこと、日蓮の場合、一種の筆癖でしょうか、上行と書くべきところ浄行と記している真蹟がありますので、その御筆写真を見ないと何とも判断ができませんが、これまた興味深く思いました。

3569明了曰解:2008/02/18(月) 20:42:31
応答のの途中に申し訳ありません。
素朴な疑問を提示させていただきます。

戒壇の御本尊は、
紙幅の真筆御本尊を模写するのでなく、
なぜ直接に刻印したのでしょう。
戒壇の御本尊を未来永劫に残したいとゆう動機はわかります。
技術として彫刻を選んだことも自然と理解できます。
しかし、真筆の御本尊に刃を入れることがどうしてできたのか。
(日蓮大聖人が自ら刻印されるなら解りますが)
御本尊に対する当時者の心理と考え方がどこにあったのか。
わたしの理解のいたらないところです。

御意見をお聞かせください。

(今の宗門なら、仏師が彫刻し、御内証を相伝された猊下によって開眼されて、
日蓮大聖人が彫って魂を垂れたと同じ正真の戒壇様ですと言いそうですが、
開眼本尊が戒壇の御本尊では、
真偽など、どうでもよい論理になってしまいます。)

3570犀角独歩:2008/02/18(月) 21:17:29
>3569

はじめまして。なかなか興味深い問題提議ですね。
この点を考えるのに、では、一体、いつ頃から、漫荼羅を彫刻することが起こったのかを考えてみる必要があるでしょう。

3571驢馬くん:2008/02/18(月) 21:57:46
犀角独歩さんのブログや独学徒さんのブログに記されていた蒋野寅道師という方はどのような方なのでしょうか。教えていただけませんでしょうか。

3572犀角独歩:2008/02/18(月) 22:02:10

> 3571

さて、このリクエストは、どうしましょうか。
この界隈では、著名な方で、こんなご質問がくるとは思いませんでした。

3573独学徒:2008/02/18(月) 22:47:15

明了曰解さん、はじめまして。

>しかし、真筆の御本尊に刃を入れることがどうしてできたのか。

ご期待に添えない回答となりますが、本門戒壇之大御本尊は、底本は大石寺・北山本門寺の宝蔵にあります。
真筆の御本尊に刃を入れてなどいません。

犀角独歩さんのブログを拝読されることをお勧め致します。

創価学会は嘘をついて、私たちを騙してきたのです。
せっかくのチャンスですので、この機会に真実を見聞されることをお勧め致します。

>>3572
犀角独歩さん、個人情報に関することは、ネット上では控えた方がよいと思います。

驢馬くんさん、はじめまして。
オフ会などにご参加されれば、ネット上では出せない話も聞けますよ。
機会があったらご参加なさって下さい。

3574驢馬くん:2008/02/18(月) 23:21:03
投稿さえもなかなか勇気のいることで、毎日、このブログなどを拝見して学んでおります。やはり個人情報になりますね。書籍などにもあたってみます。ご投稿の皆様のように、詳しくないものですから、一度お尋ねいたした次第です。

3575犀角独歩:2008/02/19(火) 03:17:49

驢馬くんさん

独学さんのご指摘のとおりであると存じます。

3576パンナコッタ:2008/02/19(火) 13:51:34
明了曰解さん、
事実は独学徒さんのおっしゃるとおりですね。
仮に言われているような事があったとしても、漫茶羅の文字の重なりは板彫りでは
どんな細工をしたとしても表現し切れない事に作成者は、ぶち当たるでしょう。
それ故にレイアウトをずらした配置の板漫茶羅は、蓮祖真筆を当てて彫り込むという
事は、製作に当たっても無かった公算が強いでしょう。
むろん文字の重なりに意味を持たせた蓮祖の意志とは、存在意義も含め無関係なのですが。
拳骨和尚さんのブログ2月5日付けに、No.123 御本尊集成の物がupされており
 http://plaza.rakuten.co.jp/mandara1000/diary/?PageId=1
金泥や版物とは違う、蓮祖の筆がどういうものであるかが判ると思います。

驢馬くんさん、
昨年夏のオフ会で自分がお会いしたときの印象は、大変聡明な方と感じましたよ。

3577鳥辺野:2008/02/19(火) 19:13:38
明了曰解さん、

はじめまして、宜しくお願い致します。私も犀角独歩さんのブログを推薦いたします。特に
こちら、http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html
及びhttp://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_003.html
によって、私の本佛感は180度変わりました。

また、日蓮大聖人真筆御本尊集はこちらです。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

そして、独学徒さんのブログです。私も時々参加させていただいております。
http://blog22.fc2.com/fujikyougaku/index.php?style2=pop-k17&amp;index

3578明了曰解:2008/02/20(水) 21:05:03
ご意見ありがとうございます。

>3570 犀角独歩さん
 板本尊自体は戒壇の御本尊は別にして、大聖人滅後には製作されていたようですね。
 身延に日向の小さな板本尊があると、日亨上人は話していました。

>3573 独学徒さん
 日禅授与本尊が2つあるとは、知りませんでした。
 本尊をめぐる人の思惑と身勝手さとゆうものが浮彫りにされているようで、
 興味深いですね。
 
>3576 パンナコッタさん
>3577 鳥辺野さん
勉強させていただきます。
 
 大聖人直筆、日興書写、模写、模刻、形木、写真版と様々な本尊。
 ん〜ん、分身散体とはいえ、本尊とは何なのでしょう。
 難しい問題を含んでいますので、結論が出せるとは思いませんが、
 核心に一歩でも近づきたいと思っています。

 日亨上人が、
『わしの紫宸殿の御本尊は立派じゃ。写真からとったんじゃから、すっかりそのままです。
 写真からとって、それを引伸ばしてやったんですから御正筆とすこしも変わらない。』。
 なんて自慢していましたが、そうゆうもんなんでしょうか。

3579独学徒:2008/02/20(水) 21:27:55

明了曰解さん、

「分身散体」は当然ながら御伽噺の世界の話ですが、それにしてもコピー曼荼羅とは全く無縁の事だと存じます。
それを信徒会員を騙すための言葉として使ってきたのが創価学会ですね。

所謂「本門戒壇之大御本尊」は、日禅授与の御本尊の「分身」かも知れませんが、創価学会員が拝んでいるものは、「本門戒壇之大御本尊」の分身でもなければ、相貌も全く別物の、日寛のセンスで書かれた日寛の曼荼羅の製版印刷物ですね。
したがって、創価学会配布の印刷物を拝んで得られる功徳は、顕正会配布の印刷物でも、正信会配布の印刷物でも、日蓮宗配布の印刷物でも、同様の功徳が得られることでしょう。
どうせ同じ功徳ならば、日寛の独自センスで書かれたものの印刷物よりも、宗祖日蓮大聖人図顕の大曼荼羅の印刷物の方がよろしいかと存じます。
『本尊とは勝れたるを用ゐるべし』(本尊問答抄・日興写本現存)、よく創価学会を含む大石寺信仰圏で使われる御書ですね。
日蓮大聖人御図顕の大曼荼羅の印刷物と、日寛曼荼羅の印刷物、勝劣は誰の目にも明らかですね。
ご友人には、創価学会配布の印刷物よりも、宗祖日蓮大聖人御図顕の大曼荼羅を印刷して、表装してプレゼントしてはいかがでしょうか。

本尊をめぐる身勝手さは、その時々の情勢で、ころころ主張を変える、創価学会の本尊義であろうと存じます。

3580偶ロム偶ログ:2008/02/21(木) 00:09:09
明了曰解さん

「分身散体」(ぶんしんさんたい)の語は比較的新しいものと思います。
戦後は昭和三十年代の半ばくらいから多用されていますが、このころの「分身散
体」語は、白土三平の忍者漫画の影響もあるかもしれません。
大石寺では古来「分身散影」(ふんじんさんよう)と言われてきました。

日向氏の所謂「日蓮幽霊板本尊」については後世のものとの説もあります。

堀上人の紫宸殿本尊については、退座後に写真製版されたもののようです。
つまり「時の猊下」の「開眼」はされていません。
隠尊だからそれでもOKと考えてのことでしょう。

>>本尊をめぐる身勝手さは、その時々の情勢で、ころころ主張を変える、創価学会の本尊義であろうと存じます。

おっしゃるとおりだと思います。
また、日蓮正宗についても、
「 本尊をめぐる身勝手さは、その時々の情勢で、ころころ板を変える、日蓮
正宗の本尊義」
は看過することはできません。

3581明了曰解:2008/02/21(木) 19:54:16
>3579 独学徒さん
 友人に宗祖日蓮大聖人図顕の大曼荼羅の印刷物をプレゼントをとのおすすめ、
 今のわたしには、日蓮大聖人の真筆を写真に撮ったり、印刷をして配るなど、
目を瞑って運転をすることのように思われますのでいたしません。
 また違った意味からも私自身はそのような事はいたしません。
 
 日禅授与本尊の件は、本来は、盗難や焼失に備えて、
あるいは、秘蔵のための影武者的な存在として作られたかもしれない事が、
当時は責任逃れのためなのか、心配のためなのか、よい知恵と思ったのか、
時代を経ると真偽や正統の喧騒と不確実の元になってしまう危うさ。
行為が思惑とは違った捉えかたに変遷してしまう主観性。
その意味で興味深いと思っております。

>3580 偶ロム偶ログさん
 「分身散影」。勉強になりました。
 “影”との表現は御本尊七箇相承の文からきているのでしょうね。
  
身延にある日向の板本尊がそれかどうかは別にして、
富士一跡門徒存知の事にみられるように、
日向・日頂・日春等が形木として彫ったようなことはあったようですね。
また、他宗でも図顕の板本尊は以前からあったとなにかで読んだ記憶があります。


ご意見の内容すべてについて返事をしたいのですが、
論点が広がり、私自身わけが分からなくなる恐れもありますので、
なにとぞ、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
(別な機会で触れることもできると思います。)

地球史上未曾有の日蓮大聖人図顕の真筆の御本尊、いずれは消失も免れ難いですが、
総て、人間の宝として1箇所に護持されてほしいと願っております。
また、伝説、憶説、風説、推説が真実といわれていても、事実は1つしかないでしょう。
虚心坦懐・衆賢茅茹の心を持って事実に迫っていきたいと願ってもおります。

物理学などでは1つの事象にたいして、真実に迫るにはまず仮説から入ります。
よく、仏法は演繹法的で科学は帰納法的だと創価などではよく耳にする言葉ですが、
科学もじつは演繹的なアプローチなのです。帰納的なのは実証方法がといえます。
Aという仮説を立てるときは、必ず反Aという仮説も同時に、
ひとつひとつ実証的に確認しながら仮説に迫っていきます。
そのため一人の人生では証明しきれないことも普通です。
化城のごとく新たな登攀の峰を望むこともあるからです。
私達が学校で習う物理学は仮説を真実のように習っていることも多いのです。

日蓮大聖人の本尊とは?
ただの文字、文書としか見えない。
紙であり、墨であり、
木であり、樹脂であり、金箔であり、
化学繊維であり、インクである。
盲目ではもちろん、光がなければ見ることすらできない。
その事実から真実は見えてくるのでしょうか。
長くなるのでやめますが、いまひとつの仮説がわたしを支配しています。
知識を集め、勉強し、考えてみたいと思います。

3582独学徒:2008/02/21(木) 20:33:35

明了曰解さん、創価学会の信徒さんには、一寸飛躍しすぎた意見でしたね。
失礼しました。

しかし創価学会の日寛曼荼羅の印刷物は、正直、3000円は高すぎですね。
おまけに好き勝手に改竄しているので、写真製版と違って、創価学会製変造日寛曼荼羅であることは動きませんね。
お金まで取られて、このような印刷物をわたされ、おまけに選挙、新聞、財務に会合と、ろくな目にあいません。
このような団体の被害者を出さないためにも、これ以上創価学会に入る人を出さないことが大切ですね。
創価学会に入会しなくとも、日蓮の教えは実践できますし、創価学会の信仰で得られる「功徳」は、創価学会に入らなくとも得られるものばかりですからね。
ご精進をお祈り申し上げます。

3583パンナコッタ:2008/02/21(木) 22:39:02
明了曰解さん、
 >盲目ではもちろん、光がなければ見ることすらできない
蓮祖は、弘安三年太才庚辰卯月十三日"盲目 乗蓮"に、漫茶羅を授与していますよ。
(No.091)これが仮説でも何でもない、厳然とした事実です。
まずはきっちりと、事実を認識なさるのがよいのではないでしょうか。

また、宗教社会学的な面から見ると、
【法則1-1】
  宗教とは、本来自明ではない超自然的なものに関する事柄を自明なものに変換し、
  人々をそのようにふるまわせる社会的装置である。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)
これも、厳然とした事実です。

3584明了曰解:2008/02/23(土) 15:51:48
>3583 パンナコッタさん
 御書に「此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、
 例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、」
 とあります。
 日蓮大聖人の本尊とは?を思推するうえで、人が当り前に捉える事柄を挙げただけです。
 なにか思いこみがあるようなので誤解をとくと、
 私は、御本尊はそのまま日蓮大聖人であり、生命根源の法であると思っています。
 また創価には自在会という目にハンディをもつ人達のコミュニティーがあり、
 私には私の使命があるんだ、と地涌の菩薩の自覚に燃え、
 信心根本に友の励ましや社会への貢献に汗する、
 困難に挑戦する勇者たちが、功徳に輝いていることも知っております。

 御書に「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの侭と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云。」
 とあります。
 一般的な論理と理解はしますが。
 私は仏法は超自然的なものでなく、まったく自然そのものと捉えています。
 どこかの話でなく、この現実にこそある、そこを離れてありえないと思っています。
 自然なものでも自明でないものはいっぱいあるものです。
 ”自明なものに変換”する作業を今私やりたいと思っています。
 目で見ることができない物資が核分裂や核融合するとき膨大なエネルギーを発散します。
 ウランやプルトニウム以外でも、環境条件がととのえば何でも膨大なエネルギーを発散します。
 超新星爆発で何が起こっているでしょう。ブラックホール、ホワイトホール、ワーム・・・。
 時間も空間もゆがみ、物質も光も秘められ、とても想像できないような世界。
 でもこれも自然なのです。

3585明了曰解:2008/02/23(土) 18:01:25
疑問の最初に戻ると、
A、真筆に直接刃を入れて彫ったのが今の戒壇の御本尊。
  A−A 他に彫らせ、日蓮大聖人が開眼。
  AーB 他が彫り、時の貫首が開眼。

  推測:1、彫った人は墨染の漫荼羅を仏と思ってなかった。
     2、大聖人(時の貫首)も開眼しないかぎり、ただの紙と文字と位置づけていた。
  儀問:不信の人(?)が刃を入れたのか。
     御書を読む限り、2、は信じがたい。
     1、2、の推測を裏づける御書や相伝があるのか。

B、真筆を写しとり(もしくは模写)それを彫ったのが今の戒壇の御本尊。
  B−A 他に彫らせ、日蓮大聖人が開眼。
  BーB 他が彫り、時の貫首が開眼。 

  推測:1、真筆の御本尊を時を待ち秘蔵するため。
     2、彫った人は写しとった漫荼羅を仏と思わなかった。
     3、大聖人(時の貫首)は写し取った漫荼羅は開眼しないかぎり、ただの紙と文字と位置づけていた。
  儀問:1、であるとすると、日興授与の弘安2年の真筆はどこにあるのか。
     3、の推測を裏づける御書や相伝があるのか。

となりますが、A・Bを全否定する命題もありますが。後日にします。
ご意見を賜りたいと思います。
ちなみに、私はB-αに近い考えです。

3586独学徒:2008/02/23(土) 21:10:32

明了曰解さん、

本門戒壇之大御本尊は、平成16年の10月に、真っ赤な偽物であることが、誰の目にも明らかなように図形鑑別を持って証明されているのです。
貴方の質問は、この掲示板には馴染まず、未だに本門戒壇之大御本尊を、本物と勘違いしている人たちの集まる場所にてされたほうが、よろしいかと存じます。

難しい教学や理論理屈などは必要ないのです。
目で見て明らかな図形鑑別にて、偽物であることが証明されている現在にあって、貴方の質問内容は全く意味を成しません。

3587独学徒:2008/02/23(土) 21:20:40

まあ、パンナコッタさんへのレスではありましたが、恐らくパンナコッタさんも御義口伝は御書とは認識されておらず、偽書と考えていらっしゃるのではないでしょうか。

所詮、創価学会も日蓮正宗も、顕正会も正信会も同列で、偽書・真偽未決書ばかり引用します。
ここでは私が参加し始めた時にはすでに、真蹟現存以外は文証として扱わないルールで議論がすすんでいるのです。

引用前に、まず自身が引用しようとしている御書が、真蹟現存かどうかぐらいは確認して投稿すべきだと思います。
真蹟現存御書をもとに、勝手な解釈を加えずに論証できたならば、きっと一目おかれると思いますよ。

3588明了曰解:2008/02/23(土) 21:25:19
>3582 独学徒さん
>しかし創価学会の日寛曼荼羅の印刷物は、正直、3000円は高すぎですね。
>おまけに好き勝手に改竄しているので、写真製版と違って、
>創価学会製変造日寛曼荼羅であることは動きませんね。

わたしは、破門された以上けじめとして、
お預かりしていた日顕の特別御形木様を寺にお返しました。
今は創価から授与していただいた日寛上人の御形木様を御安置しています。
私には日蓮大聖人の御本尊の優劣をことさら言う神経が釈然としません。
日蓮大聖人は総ての人を仏にしたいと願って御本尊を遺し、
広宣流布の誓願を私達に託したのに、
それを、お前の御本尊は直筆じゃない、時の猊下書写でない、
古臭い印刷物じゃないかと笑う心が卑しく思えます。
優れた御本尊なら題目1篇で成仏でき、
劣った御本尊では題目5000万遍・折伏1万人でないと成仏できないとでも言うなら、
私は題目5000万遍・折伏1万人のほうを選びます。
自分のためは当然として、人の幸せを願ってできるだけ多く唱題したいし。
より多くのひとにこの仏法を語り、御遺命である広宣流布に近づけるなら、
それのほうがいいと思うものです。

>お金まで取られて、このような印刷物をわたされ、おまけに選挙、新聞、財務に会合と、
>ろくな目にあいません。

選挙も、新聞も、財務も、会合も、折伏も、守る会も自らの発意からやっています。
修行なのだから多少汗を流すくらいは厭いません。
見栄や背伸びして嫌々やることはありません、できる範囲でやればいいのです。
私の師匠は、私にそう指導してくださいました。

>このような団体の被害者を出さないためにも、
>これ以上創価学会に入る人を出さないことが大切ですね。

申し訳ありません、500m四方の地域ですが今年に入って3人の方が入会いたしました。

>創価学会に入会しなくとも、日蓮の教えは実践できますし、
>創価学会の信仰で得られる「功徳」は、
>創価学会に入らなくとも得られるものばかりですからね。

そのとうりです、創価学会員でなくとも、
御本尊を抱きしめるようにして、広宣流布に生きる勇気と慈悲の人なら同志です。
日蓮大聖人の子であり、地涌の菩薩です。
御書に「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして
南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、
剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」
とあるとおりです。

3589明了曰解:2008/02/23(土) 22:00:34
>358 独学徒さん
あまりに思いやりのないお言葉ですね。
素朴な疑問スレッドに書いてる意味がありません。
それに、今の戒壇の御本尊が本物と私は断定していません。
本物と偽者の主張の両面を伴いながら疑問を晴らしたいと思っているのです。
それよりも、本尊とは何かに軸足をおいてさぐっているのです。

3590明了曰解:2008/02/23(土) 22:03:55
訂正 3589の
>358 独学徒さん は >3586 独学徒さん に訂正します。

3591明了曰解:2008/02/23(土) 22:06:58
>3587 独学徒さん

>真蹟現存以外は文証として扱わないルールで議論がすすんでいるのです。

了解いたしました。

それと、私は、一目おかれなくてもいいです。

3592パンナコッタ:2008/02/23(土) 22:17:46
こんどは御義かよ、やれやれ・・・

明了曰解さん、
「此の経の文字は〜」は、日興を初めとする上代弟子の写本もない録外文であり
真偽は未決です。此処の掲示板は挙証を明示せばならず学会の御書そのままに
日蓮遺文としては受け取れない所です。
また、自分が提示した御本尊集No.091をチェックすれば、稲田師の推察から"盲目"の意味が
お分かりになるはずです。

個人的な思いこみの部分に関しては、不問です。

「久遠とははたらかさず〜」は、御義口伝ですので此処の掲示板では問題外です。
蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽についての過去スレを良くお読みになると良いでしょう。

「総じて日蓮が弟子檀那等〜」の生死一大事血脈抄も、上代写本のない録外であり
文永九年の法義には疑義がありますし、中古天台の"天台法華宗牛頭法門要纂"の引用等から
日蓮の名を騙った偽書でありましょう。

板漫茶羅に関しては、蓮祖は一切関係ないでしょう。
また疑問の点に関しては、形木の版を考えてみればいいでしょう。
信者が見れば尊びはしますが、御本尊として奉るような事は誰もしないでしょう。

3593独学徒:2008/02/23(土) 22:31:18

明了曰解さん、

>私には日蓮大聖人の御本尊の優劣をことさら言う神経が釈然としません。

ところが、これは他でもない創価学会がやってきたことなのですよ。
貴方の家には、「折伏経典」はありますか?
本尊の優劣を主張し、他宗・他門を卑下してきたのは、創価学会であり池田先生です。本当に酷い団体であり、酷い先生ですね。
それが今になって、自分たちにとって都合が悪くなると、本尊の優劣を論じることを問題視する。
まったく創価学会のいい加減さはここにあります。つまり過去に自分たちがしていたこと、言っていた事を、今は都合が悪くなったから、同じ事をする人を悪しく扱う。
今さら何をいうかといいたいですね。
明了曰解さんは、御書を学習する以前に、創価学会が過去にどのような主張をし、どのように他宗・他門を非難していていたのかを学習ることが先だと思います。
私でも昭和30年代から昭和50年代までの大白蓮華を150冊以上は所蔵しています。52年路線のころの資料も山ほどあります。
創価学会が、その時々の情勢で、いとも簡単に主張をころころ変えてきたことが、創価学会の出版物だけで良くわかります。
貴方も人に創価学会をすすめる以上は、せめて創価学会の出版物ぐらいは、過去にさかのぼって学習することですね。

>本物と偽者の主張の両面を伴いながら疑問を晴らしたいと思っているのです。

偽物であることが証明されている以上、疑問が晴れることはありません。

>できる範囲でやればいいのです。

お笑いですね。私は少なくとも貴方よりは学会の役職を経験していると思いますよ。
その経験からいって、「出来る範囲」なんて大嘘です。
青年部の人材グループや、金○会などが、どのような活動を強いられているかご存じ無いのでしょう。

>御書に「総じて日蓮が弟子檀那等・・・・

すでに指摘の通り、真筆不伝の真偽未決書です。
引用の前に真蹟現存かどうかを確認の上、ご投稿戴けますと幸甚です。

3594問答迷人:2008/02/23(土) 23:11:19

明了曰解さん

>それよりも、本尊とは何かに軸足をおいてさぐっているのです。

僕は、日顕師書写の特別御形木本尊を安置しています。日蓮正宗に本人は席を置いているつもりでいましたが、寺院参詣をしないからか、行方不明にされてしまっています。それゆえ、もはや何等の連絡も来ません。

まぁ、法華講の講頭をしながら、日顕師に、クロウ裁判は勝ち目が無いから取り下げたほうが良い、等と直訴した為に、講頭を罷免されました。

本尊とは何か、難しいですが、日蓮曼陀羅は、神力品付属の妙法蓮華経の五字を受持させるための道具建て、だと考えています。本尊は、恐らくは、妙法蓮華経の五字であり、それが、観心本尊抄に述べられる、無始の古仏なんだと思っています。

ご高察を拝聴したいと存じます。

3595明了曰解:2008/02/25(月) 18:46:21
>3593 独学徒さん
私自身のことを例に言っているのに、大嘘とは笑えました。
46年間私はそうしてきました。
会員を慈しみ、守り、励ますのが幹部です。
なにか勘違いしていて、傲慢で身勝手な幹部づらするやつは
師子身中の虫とも言え、創価に居られなくなるよう戦ってまいります。

人材グループは確かに師弟の厳しいものが要求されたでしょうね。
私は覚悟も無いから、入らなくて良かったと思っています。
まあ、社会て戦うのも厳しいものがありましたけどね。

3596明了曰解:2008/02/25(月) 18:48:15
>3594 問答迷人さん
日蓮大聖人の漫荼羅は、
たしかに五字が首題で、南無が境地の冥合を表わし、
日蓮初めに唱うるところの七字となっています。
しかし、それでいいのかというとそうではなくて、
十界を互具と開き、仏界即九界そして九界即仏界としています。
(仏界即九界を5字相対の漫荼羅、九界即仏界を南無相対の漫荼羅とみてもおもしろい)
仏像信仰のように五字でいい、としないのが日蓮大聖人の心でしょう。
仏というも凡夫というも日蓮、人間をはなれてどこにも無い、
生命の実相と成仏の要諦を表わされたのが御本尊ではないでしょうか。

根源の法が南無妙法蓮華経なのですから、
そこから生じた総ては南無妙法蓮華経を父母とした胎内の赤子のようなもので
生じた総てが南無妙法蓮華経の種子を秘しているともいえ、
生じた総てから離れて南無妙法蓮華経は無いと思います。

それと、これはあくまでも仮説ですが、
日蓮大聖人が表わされたように書かれ、彫られ、写された曼荼羅には、
人と法が、自然に例外なく備わるのではないか。
思考するうちにふとその思いが過りました。
凡愚な私にはただの文字にしか見えませんし、仏にしか解からないことなので、
これが真実かどうか判りません。
思索のご参考に。

3597問答迷人:2008/02/25(月) 19:01:38

明了曰解さん

>根源の法が南無妙法蓮華経なのですから

南無妙法蓮華経が法で、しかも、「根源の法」である、という文証は有りますか。明文が有ればお教え下さい。

3598明了曰解:2008/02/25(月) 19:06:27
訂正
私の書込みの「漫荼羅」を「曼陀羅」に訂正いたします。
お恥ずかしい限りです。

3599独学徒:2008/02/25(月) 19:14:13

明了曰解さん、

>私自身のことを例に言っているのに、大嘘とは笑えました。

これはおかしいでしょう、貴方は以下のように云っている訳です。

>>私の師匠は、私にそう指導してくださいました。

つまりあなた自身の事ではなく、貴方の師匠つまり創価学会の永遠の師である、池田先生の指導がそうだということを、貴方は仰った訳でしょう。
しかし、貴方より事実を知っているものから指摘をされると、「私自身のことを例に」とすりかえるのはいかがなものでしょうか。

>なにか勘違いしていて、傲慢で身勝手な幹部づらするやつは

いくら貴方が戦っても、このような幹部は陸続とあらわれますよ。なぜならば、永遠の師たる池田先生がそうだからです。
もし本気で学会浄化を願うなら、諌めるべきは途中の幹部ではなく、最高指導者の池田先生でなければなりません。
しかし、みな怖くてそこには手をつけられないのですね。学会員は。所詮そこが学会員の限界です。

「途中の幹部は悪いが、池田先生は間違いない。」改革派気取りのものたちも、所詮はこのような腰抜けばかりですね。
創価学会の幹部の悪態も、組織悪も、すべての責任は、最高指導者の池田先生の責任です。
責任逃れのように、「名誉会長」の呼称を利養するのは、潔さのかけらもないというものです。
所詮幹部も被害者でしょう。諌めるべき相手を間違えてはいけません。
戦うなら、池田先生を相手に戦ってこそ、真の学会浄化の運動でしょう。

3600独学徒:2008/02/25(月) 19:16:49

また誤字がありました。

誤:利養するのは
正:利用するのは

大変失礼しました。

3601明了曰解:2008/02/25(月) 20:25:57
3597 問答迷人さん
>南無妙法蓮華経が法で

とすると伝えたい事と違ってきてしまいます。
ん〜難しいのですが、もう少しお時間をください。

3602犀角独歩:2008/02/25(月) 22:35:18

>3588>私の師匠は、私にそう指導してくださいました

ここでいう師匠というのは池田さんのことですか。
個人的にこんな話はどこで聞いたのでしょうか。
まさか出版物や、衛星放送で聞いたことを、個人的に受けたと偽った話ではないでしょうね。

>3596

こんな創価学会の影響を、もろ受けたことを自分で考えたことのように描いたうえで、問答さんに「参考に」などと言うのは失笑を禁じ得ません。なんら挙証義務も果たしていませんね。

>3598>「漫荼羅」を「曼陀羅」…お恥ずかしい

日蓮は漫荼羅と書いていますが、すると日蓮の記述は恥ずかしいということでしょうか。

3603独学徒:2008/02/25(月) 22:42:03

明了曰解さんの仰ることは、ナルシストの学会員に特有の考えです。
今の創価学会の現状を、何とか肯定したい気持ちはわかります。
しかし、ここで求められるのは、ナルシストの個人解釈ではなく、明確で確実な日蓮大聖人の御書の裏づけです。
真蹟現存の御書を、勝手な解釈を加えずに、証文として用いることが大切だと思います。
それを抜きに、勝手気ままな言辞を続けることは、これまでの諸先輩方の議論を棒に振るようなものです。
創価学会の信仰を続けられることはもちろん自由ですが、ここではひとつ客観的な思考にたたれて、これまでの諸先輩方の議論を無駄にしないよう、同じ土俵で議論に参加されることを希望します。

3604明了曰解:2008/02/26(火) 19:35:27
問答迷人さん
E=mc&sup2;    E:エネルギー
      m:質量
      c:光速
       2:乗数
物体の持つエネルギーを現した物理式です。
厳密に言うとある条件下での式で、物体が運動していたりすれば係数が付加されますが、
質量がエネルギーと等価であることを示したものに変わりはありません。
E=mc&sup2;は法則です。 しかしエネルギーと質量と光と乗数は法則ではありません。
これで理解していただけると助かるのですが。

“根源”は生命としても良いのですが、
(生命は色と心、不二をもって体となす実在と機能と作用が伴うもので、
宇宙がそのまま生命だと思っています。)
無始無終、久遠元初、の意味あいに似合う言葉として使いました。
それでも私が思推する内容をうまく表現できません。

3605犀角独歩:2008/02/26(火) 20:29:40

明了曰解さん
もういい加減にしませんか。

管理者さん
投稿規約に明らかに違反していると思います。

3606管理者:2008/02/26(火) 20:59:30

明了曰解さん

貴方の書込みは、以下の当掲示板の書込みルールに違反しています。

【書き込みの基本原則】
1.意見交換、相互理解の場との主旨から、話合いを重んじてください。 

相手の応答を無視して、投稿を続けないで下さい。独学徒さん、犀角独歩さんの応答を無視して、投稿を続ける事は、ルール違反となります。

さらに、問答迷人は、明文は有りますか、と質問していますが、お答えがまるで噛み合っていません。これでは、話し合いを重んじる事にはなっていないです。

同様の投稿を続けられると、ルール違反で、削除、投稿禁止まで行ってしまいますので、ご注意申し上げます。

3607しゅんかん:2008/02/27(水) 00:38:11
相変わらず頓珍漢(腰砕けされるかも)な問い合わせかも知れませんが、どなたか宜しくお願い致します。

石山や団体が取り上げる蓮祖の御書に付いて真偽云々を記されてますが、その真偽又は真偽未決はどなたが
判断されているのですか?
(公正な判定を下すには宗門外の第三者機関が望ましいと思っておりますが、その様な機関に拠るものでしょうか)
身延や隆門、真門、什門の各派に於いても独自の御書で日々研鑽を積まれている事と思います。
この各派で使用される書にも真偽が掛けられているのでしょうか?

私は現在、執行海秀先生著の日蓮宗教学史(平楽寺書店)を読ませて戴いておりますが、本書中にも
「・・・偽書」「・・・ではなく後世の作」と記されているものがよく見られます。

遺文の書も随分と多く出版されているようですね。
現在、私でも購入可能なものに
1(浅井要麟 編、昭和新修日蓮聖人遺文全集、平楽寺書店)
2(新修略註 日蓮聖人遺文集、清水龍山外編)
3(日蓮聖人遺文集、法華会編)
4(類纂 日蓮聖人遺文集平成版、獅子王学会、桜井智堅監修)
5(昭和定本 日蓮聖人遺文、日蓮教学研究会)
等が在ります。
又、現宗研に於いても真蹟遺文を載せられていますね、これら(5書籍と現宗研アップ)
には偽の御書は含まれていないのですか?

以上、宜しくお願い致します。

3608犀角独歩:2008/02/27(水) 02:12:52

しゅんかんさん

少しくお久しぶりですね。

> 真偽又は真偽未決はどなたが判断されているのですか

これが「誰が」という特定の個人はいないでしょうね。それぞれの研究者が、その研究成果からということではないでしょうか。ただ、近代のことで言えば、『平成新修日蓮聖人遺文集』は、一つのスケールになっているのは事実でしょう。
この書は真蹟遺文以外は載りません。

お手元にない方のために記します。
この遺文集の末には編纂に関わった方々の名が載ります。

発願編集 日蓮教学研究所客員所員 
     連紹寺不軽庵隠棲    米田淳雄
顧問   身延山短期大学学長
     立正大学名誉教授    宮崎英修
顧問   立正大学教授
     日蓮教学研究所所長   浅井円道
顧問   立正大学教授
     日蓮教学研究所所員   高木豊
顧問   立正大学教授
     日蓮教学研究所副所長  小松邦彰
協力   立正大学講師
     日蓮教学研究所所員   寺尾英智
協力   日蓮教学研究所研究員  都守基一

それぞれの役職名は発見当時のもので奥付に拠れば「平成6年10月13日」となっております。錚々たるメンバーです。この中のお一人、小松邦彰師が、この書を使用し、福神勉強会で遺文講義が継続中です。
この書の編纂は徹底した真蹟主義で、真蹟現存のもののみを収録しています。編纂者の役職を一瞥すればわかりとおり、「日蓮教学研究所」のスタンスと言うことになるでしょう。

一方、しゅんかんさんも挙げておりますが現代宗教研究所では、そのHPの資料編で真蹟と写本で2分しています。写本とは真偽云々を基準にしたのではなく、真蹟有無を基準にしています。

当掲示板では、以上の点を踏まえて、真蹟主義を採ってきたわけです。
写本の中にも「日蓮真筆の可能性はあるのでは」というのは当然の疑問ですが、しかし、厳正な議論をするためには、真蹟を前提としてきたということです。

しゅんかんさんは、過去の議論をご存じないかも知れませんが、当掲示板で真蹟主義を採ってきた理由の一つに以下のような、わたしの分析があります。

【本覚】 真蹟:未決=0:96
【無作】 真蹟:未決=1:75
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014117251/58

「本覚」という成句は、殊に本仏論では不可欠な言葉ですが、真蹟にはまったくその使用がなく、写本にばかりあります。この点は「無作」も同様です。さらに無作三身、三身即一身、自受用報身といった重要語句についても、同様の使用の相違があります。

まあ、それはともかくとして、以上のように真蹟と写本では確たる使用語彙の相違がある以上、疑いもなく写本を真筆として扱うことは出来ないということです。
冒頭に挙げた遺文集をまず、精読すれば、真偽に関するスケールがある程度、身につきます。真偽未決といわれるものは、真蹟遺文では使用されていない語彙、つまりは、その語彙が持つ思想性に係る臭みがあり、到底、日蓮の教説は感じられないということです。

語彙は、常に思想性を帯びるわけですが、日蓮の教説における思想性を考えるに当たり、日蓮が使用していない語彙を有する書を基準にする蛮勇は起きません。
ですから、まずは真蹟集(現宗研のデータベースの使用を奨めます)から、語彙を検索し、その有無をまず探ってみる作業は意味をもちます。

こうして作業を進めるといまの大石寺圏の教学、要は、大石寺、顕正会、創価学会の教学は、日蓮の真蹟に由来せず、写本遺文における真蹟遺文に載らない語彙によって構成されていることが判明します。こちらでの議論は、つまり、このような前提によって交わされているいるものです。

日蓮本仏論といった、本覚、久遠元初自受用報身如来、無作三身などの真蹟遺文にはない語彙によって成り立つ教学的な態度がここで一蹴されるのは以上の分析成果に基づいているわけです。

(こうした分析は、興風談所の御書システムでは、もっと厳正に採用されています。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/
ただ、奇妙なのは、こうした厳正な遺文分類をしながら、日蓮本仏論を述べ、さらに所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽すら言わない保身に不思議を感じます。)

3609犀角独歩:2008/02/27(水) 02:16:18

【3068の訂正】

誤)役職名は発見当時
正)役職名は発刊当時

「まあ、それはともかくとして」は取る。

3610しゅんかん:2008/02/27(水) 21:51:27
独歩さん
早速のご教示ありがとうございます。

>特定の個人はいないでしょうね。それぞれの研究者が、その研究成果からということではないでしょうか。
◆団体やグループ、と云った形態が多いようですね。
私の明記させていただきました5書にも偽や真偽未決が掲載されているやもしれないと・・・
あっ!この件についてのコメントは結構です。

ご教示戴きました『平成新修日蓮聖人遺文集』ですが、この著にも疑義を唱える方はおられるのではないのでしょうか?
特に石山系から「この著は身延系の人員で固められ証憑たりえない」と云う声はございませんか?
又、蓮祖の真蹟現存と云う事ですが、其の現存品は全て重文か国宝に値すると思われますが国の認定が在るのでしょうか?
立正安国論・如来滅後五五百歳始観心本尊抄(国宝)
撰時抄(重文)等と指定を受けてますね。
浅学者ですから、どうしてもこの様に公的機関の認定を受けていると安心感が得れるのです。

私は各門派合同による真蹟遺文集が編集され、日蓮門下の普遍的な共通認識たりえる
著を発刊される事を願うばかりです。(既に在るのかな?)

3611独学徒:2008/02/27(水) 22:41:42

しゅんかんさん、横レスにて失礼します。

>私は各門派合同による真蹟遺文集が編集され、日蓮門下の普遍的な共通認識たりえる
著を発刊される事を願うばかりです。(既に在るのかな?)

一応、昭和底本が、そのあつかいの遺文集ですね。
現宗研のHPにアップされているテキストも、昭和底本をもとにしています。
昭和底本は大石寺を含む、各派日蓮系教団の代表が、編纂に携わっています。
大石寺では、富士宗学要集で有名な堀日亨師や、富士年表で有名な柿沼師が関わっています。

日蓮宗教学研究発表大会などでも、引用に使われるのは、昭和底本が主流です。
1巻・2巻が正偏で、3巻が続編です。正偏は編纂当時、真蹟あつかいされていた書で、続編は疑義濃厚であった書で、御義口伝や二箇相承は続編に入っています。
しかし、正偏入集の書でも、疑わしいものは多くあり、日蓮宗教学研究発表大会などでは、昭和底本の中で真蹟現存と身延曾存のものだけをピックアップして、証文としているようで、それが大崎ルールのようになっています。

3612独学徒:2008/02/27(水) 22:43:45

また誤字です。

誤:昭和底本
正:昭和定本

失礼しました。

3613パンナコッタ:2008/02/28(木) 12:35:55
しゅんかんさん、国指定の重文であれば、
撰時抄、注法華経、不動愛染感見記、強仁状御返事、兄弟抄、諸人御返事、
神国王御書、大学三郎御書、貞観政要、法華証明抄、盂蘭盆御書、等があり
 http://www.bunka.go.jp/bsys/index.asp
断簡も自筆遺文として指定を受けていますし、
他に県や市町村の指定を受けている物もあります。

また日興筆の、日蓮遷化記録も国の重文指定を受けていますよ。

3614犀角独歩:2008/02/28(木) 19:28:58

しゅんかんさん

> 石山系から「この著は身延系の人員で固められ証憑たりえない」と云う声はございませんか

なにか、最近、こちらの流行語のようになってしまいましたが、もし、こんな声が挙がろうと「問題外」です。

3615しゅんかん:2008/03/01(土) 00:11:42
独学徒さん
ご教示有難うございます。

>昭和底本は大石寺を含む、各派日蓮系教団の代表が、編纂に携わっています。
◆そうですか、発刊されていたのですか。
各門派の長年の歴史、思惑があって真蹟遺文として纏めるのは容易い事ではないと云う事ですね。

3616しゅんかん:2008/03/01(土) 00:20:44
パンナコッタさん
ご教示有難うございます。

私は、平成新修日蓮聖人遺文集が手元にございませんが、この書に収められている遺文は全て
国宝か重文扱い等(都道府県の重文)なのでしょうか?

3617しゅんかん:2008/03/01(土) 00:35:12
独歩さん
お返事有難うございます。

>なにか、最近、こちらの流行語のようになってしまいましたが、もし、こんな声が挙がろうと「問題外」です。
◆お返事は少し時間を下さい。

3618彰往考来:2008/03/01(土) 10:17:39

明了曰解さん、亀レスにて失礼します。彰往考来といいます。

>3598 私の書込みの「漫荼羅」を「曼陀羅」に訂正いたします。お恥ずかしい限りです

これは変だと思います。なぜ「漫荼羅」ではいけないのですか?

また、貴殿のスレッド3596には、「日蓮大聖人が表わされたように書かれ、彫られ、写された曼荼羅には」

とあり、「曼荼羅」とあります。これはどうなのですか?

松本佐一郎氏は『富士門徒の沿革と教義』(昭和54年復刻第一刷(初版:昭和44年)、大成出版社、199頁)に、
「曼荼羅は曼陀羅とも書き、Man dala の訳語。壇、道場、又は輪円具足、功徳聚の意で、諸仏菩薩を安置し、その功徳を聚集して一大法門を成じ、仏世界を造るの謂である」とあります。
また、この個所の注(1)には、「外の書き方もあるが日蓮宗では用ひる人が無いから略す」(200頁)とあります。

要は、Man dala の音訳であり、「漫荼羅」と「曼陀羅」と「曼荼羅」は同義ではありませんか?

なお、松本佐一郎氏が「外の書き方もあるが日蓮宗では用ひる人が無いから略す」としているのは正しくありません。
『山中喜八選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』(平成4年、雄山閣出版)の凡例には、
「聖祖は、大漫荼羅・大曼荼羅、あるいは大曼陀羅・大漫陀羅」など種々の表記を用いられているが、論文の表題及び本文については、御本尊の御讃文に最も多く用いられ、しかも晩年に至って定型化した「大漫荼羅」に統一した」
とあるように、日蓮聖人が「漫荼羅」を多用されているのです。そのため私も、史料・文献からの引用を除き、「マンダラ」と書く時は「漫荼羅」で用語統一しています。

よって、貴殿が「漫荼羅」と書くことをお恥ずかしい限りとされている理由が全くわかりません。そのような書き込みをされた以上、責任を持ってご説明ください。

彰往考来

3619パンナコッタ:2008/03/01(土) 19:40:22
しゅんかんさん、
開目抄、清澄寺大衆中、顕謗法抄、等の身延曾存分も収録されていますので、
すべてが指定を受けているというわけではありません。

また底本記載の一行断簡も新修には未掲載があり、確認未確認はされているようですが
指定その物を受けていない物も多々あるようです。(管理者の申請によるところが大きいでしょう)
一行断簡の参考
 http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm
文化財保護法抜粋 
 http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/top-page/bunkazaihou.html

3621しゅんかん:2008/03/01(土) 21:31:28
パンナコッタさん
重ね々有難うございます、大変勉強になりました。

3622マターリ:2008/03/06(木) 18:05:48
比叡山・延暦寺からみた、日蓮聖人に対する評価について、お聞きしたい
と思います。

山田恵諦氏の書いた「一隅を照らす」という本を読みました。これによると
伝教大師は、比叡山を修行の場と定め、若い僧に12年間の修行をさせよう
と考えました。12年間のうち、前半の6年間は、師匠につきお経や経論を
学び知識を習得します。そして後半の6年間は、書物を捨てよ、お経を去れ
と教えられます。つまり、後半は、ほったらかしにして、実際にどうすれ
ばよいか自分で発明しろ、ということだそうです。

この12年間が終わると、卒業試験のようなものがあります。第一に、学問
も実行もともに良くできる者を「国宝」として比叡山に残し、後輩の指導に
あたらせる。第二に、学業はできるけれど実行が不十分な者は「国師」。
一方、実行はできるけれど、学業が不十分な者は、「国用」と呼ぶ。
この国師と国用は、地方に派遣して、地方の指導者と協力して、一般の
人々を導いたり、地方の文化・産業の発展に力を尽くすようにしたそうで
す。

ところで日蓮聖人は、比叡山での修学が10年間ということで、その間に
何年か、京都遊学があるようです。すると、比叡山の規定の12年間に満た
ないことになります。ひょっとして、卒業試験を受けられず、国宝・国師・
国用のどれにも、なれなかった可能性があると思われますが、いかがで
しょうか?

比叡山を下りた後の活躍を考えると、比叡山時代はどうでも良いとも考え
られます。しかし、比叡山での日蓮聖人の、立ち位置というものを確認し
ておきたいと思いますので、宜しくお願い致します。

3623顕正居士:2008/03/07(金) 00:52:40
籠山12年は学生(がくしょう、正規の出家者、官僧、年分得度者)のことです。
比叡山は最澄が南山律を捨てたことにより破戒の山となった。良源は学生
ですら五戒を護ればよいとしたほど(これは緩くしたのでなく厳しくした)。
年分得度の制度などは鎌倉時代にはもう行なわれていなかったでしょう。
高い身分の出身者をこの時代でも学生と呼びはしますが、妻帯していること
が普通です。日蓮の師俊範も実子静明に相続しました。日蓮の比叡山に
おける身分はわかりませんが、学生ではなかったでしょう。

3624マターリ:2008/03/07(金) 17:32:38
>顕正居士さん、レスありがとうございます。

日蓮は、学生ではなかったようで、身分はわからないとのことですが、
学生以外に考えられる身分としては、例えばどんなものがあるのでしょう
か?

いちおう学生について調べてみると・・・寺院において学問を学んだり、
研究をする僧侶。学生僧。修学僧。学僧。

これから推測すると、日蓮は学生だったと、言えなくもないと思えますが、
どんなものでしょうか?

3625顕正居士:2008/03/07(金) 20:56:21
親鸞の比叡山における身分が昭和に論争されたことがありました。
親鸞は公家の出身ですが摂家などではありませんから学生ではなく堂衆であった
ろうという意見が始まりでした。恵心尼の書簡に「だうそう」とあるからです。
堂衆というのは起源は学生の下僕で武装しており僧兵とも重なります。
しかし親鸞は教行信証という漢文の大著をものしていますから無学なはずの堂衆
であったというのも変。結局、常行三昧堂に勤務する中間的身分の「堂僧」という
ものであったのでないかと決着しました。日蓮の身分もなんらか中間的なもので
あったと思います。日蓮の比叡山の師俊範は慧心流を実子静明に相続しましたが
静明には子が無かったので正親町天皇の皇子心賀を養子に迎えて相続しました。
学生は元来の年分得度者に相当するので相当な身分の方であったようです。

3626マターリ:2008/03/08(土) 09:31:40
>顕正居士さん、詳しく教えていただきまして、ありがとうございます。
身分には、学生・堂衆・堂僧があり、日蓮は、その中間的な身分だった
んですね。

学生は、相当な身分の方ということですので、日蓮は該当しないようで
す。

3627顕正居士:2008/03/08(土) 12:51:59
なお年分度者というのは律令時代に行なわれていた制度で定員は年に10名で
国家試験に合格した者です。官僧といい官費が支給される役人です。これ以外
はすべて私度僧です。天台宗は年2名(顕・密各専攻)の枠が与えられました。

3628犀角独歩:2008/03/09(日) 07:31:34

外出しており、やや、間を置いたレス失礼いたします。
また、顕正居士さんのいつもながら秀逸なご教示、横から拝読し勉強になりました。御礼申し上げます。

> 比叡山・延暦寺からみた、日蓮聖人に対する評価

これは時代によって、ずいぶんと変化があるのだろう思えます。
わたしが資料を渉猟してうなったのは『破日蓮義』でした。これは、中世の日蓮党に関する延暦寺の考えを示す一つの資料といえるのではないでしょうか。また、ここでは日蓮側はまったく敗退しています。一部ですが、わたしのHPにアップしています。

『破日蓮義』
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/hanitirengi.html

しかし、近代の天台宗と日蓮宗は、こうした対決的な歪みはなく強調しあっているように見えます。その好例が清澄寺の、天台宗から日蓮宗へ寄贈であったり、また、先に出版された『始唱黎明』(横川定光院護持顕正会)といった写真集をみても、その友好ぶりは観察できます。

3629独学徒:2008/03/09(日) 10:48:35

犀角独歩さん、天台宗側の日蓮評価ですが、昨年の1月に富士教学研究会のブログで紹介しました、『心慶筆「宗要集雑帖私見聞」』も祖滅後そう下らない時代(1317年)の天台宗側の日蓮評価を垣間見ることが出来ると思います。

http://fujikyougaku.blog22.fc2.com/blog-entry-38.html

また『破日蓮義』に対する日蓮宗側の反論は、日蓮聖人註画讃で有名な円明院日澄の『日出台隠記』の一部が、法妙教会のHPにアップされています。

http://www.homyou.hello-work.jp/siryou1.html

しかし「横川定光院護持顕正会」とは、どこぞの団体のせいで、最後の三文字が妙に気になりますね。

3630犀角独歩:2008/03/09(日) 11:33:18

独学徒さん

有り難うございます。

まず、訂正。「定光院護持顕正会」は「定光院護持顕彰会」の間違いでした。わたしらしいミスでした(笑)

『破日蓮義』の全文をもっていたのですが、いまそれが見当たりません。
ご紹介のページや、わたしの抜き書きは、問答中、安楽行品に係るところとなっていますが、圓信の突っ込みは、冒頭から強烈であったと記憶しています。

うる覚えですが…、要は日蓮党が「法華宗」と名乗るとは何事か。
法華宗とは伝教大師が、大陸で灌頂を受け、授かってきたからこそ、名乗れることである。また、日蓮党が引用する法華六大部ことごとく、法華宗(天台宗)が中国法華宗から授かってきたものだ。その相伝者でもない日蓮党が、何をもってこれを引用し、文章とすることができるのか、といった調子です。この点は摂折論においても同様で、これは天台義であって、その正統な継承でもない日蓮党などお呼びでないといった論調です。

原文がいま手許にないので、圓信は「相承」としたか「相伝」としたか確認できませんが、ともかく、「経巻相承批判」といったところです。法華宗でもないものが、勝手に法華宗の名と、章釈を使うなということです。…これは手厳しいところです。また、至極ごもっともなご意見と、わたしは受け取りました。

石山も、経巻相承批判を口にしますが、天台宗からすれば、天に唾する類ということになるのでしょうね。

3631犀角独歩:2008/03/09(日) 11:36:30

【3630の訂正】

誤)文章とすることができるのか
正)文証とすることができるのか

3632独学徒:2008/03/09(日) 20:44:19

犀角独歩さん、

>「定光院護持顕正会」は「定光院護持顕彰会」の間違い・・・

なぜかホッとしました。(笑)

>圓信は「相承」としたか「相伝」

原文は相承となっています。
『破日蓮義』、『日出台隠記』ともに長編なので、全文アップは確かに労作業ですね。
談義所2の方に、少しずつでも、両著をアップしたいと思うのですが、ハードディスクもかなりきつくなってきまして、そろそろパソコン内も整理しなければと思っています。
私は、かなり以前に、大日本仏教全書に掲載の両著をコピーしたのですが、今となっては、何巻に出ていたか思い出せません。

3633犀角独歩:2008/03/09(日) 21:50:59

独学徒さん、有り難うございます。

そうでしたか。「相承」でしたか。わたしは、圓信、けっこう好きです。
もちろん、祖師日蓮も好きですが、そのあとの日蓮党へのつっこみ、なかなかのものですよね(笑)
ぜひともアップしてください。『破日蓮義』は簡単な漢文ですから、原文のままでいいと思いますよ。

3634天蓋真鏡:2008/03/11(火) 18:37:26
私は私達は日本人は 空海と台密の相違 日蓮と日蓮宗の相違 三国四師の相違 を見極めずに 21世紀まで来てしまったのですね

3635マターリ:2008/03/15(土) 18:34:58
>犀角独歩さん、独学徒さん、いろいろ教えていただき、ありがとうござ
います。遅レスで申し訳ありません。『破日蓮義』を拝読しました。
日蓮党は、天台大師の摩訶止観を中心に反論しているようですが、やや
説得力に欠けているように思います。

日蓮が原始仏教や小乗経に巡り会ってさえいたら、と、ため息が出ます。

『心慶筆「宗要集雑帖私見聞」』を拝見しましたが、日蓮も言葉につまっ
たとのことで、とてもリアリティーがありました。

『日出台隠記』での円明日澄上人からの反論も、天台大師の摩訶止観が中
心のようで、あまり心に響きませんでした。

日蓮が、四安楽行を無視または軽視したのは、天台大師の影響と思います
が、これを重視さえしていれば、その後700年間における無数の殉難者を
出さずにすむことができたのではないでしょうか?

西暦1世紀に法華経を執筆したのは、インド・ガンダーラ地方の僧か在家
だと聞いています。彼らの心情を察するに、とにかく苦労して書いた法華
経を未来に残して欲しいと思ったでしょう。そのためには、法華経教団が
難に会って壊滅したのでは、元も子もありません。

法華経の経典だけ残っても、伝える人がいなくなっては何にもなりません。
必死の思いで、安楽行品を書いたものと思っています。

3636顕正居士:2008/03/16(日) 05:00:34
智邈も湛然も安楽行品を末法の方軌としています(中国の末法は日本より500年早い)。
これは法華経の結構上からそうでしかあり得ないですし。不軽品は特異な物語ですが
これも精神的に四安楽行に包括されると解釈しています。この板でも論じられました。
一切経金口の建前から涅槃経の聖戦思想(武力折伏)も認めていますが、安楽行と
異なる方軌があってそれが折伏だとかいうのではない。智邈は経説を最終的には自己
の一念の現象に帰着させますから、涅槃経の折伏を自心の有への執着を打破する喩え
とし法華経の非暴力思想と矛盾しないように解釈したようであります。

3637顕正居士:2008/03/16(日) 05:19:04
今日でも日本仏教諸宗派とチベット仏教ニンマ派以外は具足戒を堅持しています。
だから中国で聖戦思想が肯定されることはあり得ない。対して日本仏教では最澄
が具足戒を放棄しすぐに比叡山は殺人まで肯定する無戒状態になった。その現状
を追認するために末法灯明記が制作され智邈や湛然の断片を文脈を無視して引用
するようにもなった。その現状追認の伝統に日蓮は染まっており、宗教戦争を排除
しようとした鎌倉政権と衝突することになった。三大秘法の一である戒壇に何らの
詳説を残せなかった理由です(三秘抄は比叡山からの独立問題が起こってからの
制作と想定)。

3638犀角独歩:2008/03/16(日) 08:39:21

マターリさん

顕正居士さんの含蓄に富むご投稿がありましたので、わたしが記すことはないのですが、お声掛けをいただいたので、少しだけ。

『法華経』を創作した人々は、わたしは在家で菩薩を志向した人々であったと思います。また僧侶が住まう僧院のような基地に依らない人々ではなかったかと考えています。

顕正居士さんが仰るとおり、法華六大部を通読する限り、智邈は自分の生きている時代を末法であると認識し、僧侶の立場から、安楽行・不軽行を摂受として、我が身に宛てていました。涅槃を綜合し、為政者が法華涅槃を法制として、一闡提の武力統制=涅槃/折伏=法華を肯定した二極論もあります。やや、この点で付言すれば、智邈の思惟では、一経は、摂折両論を具すというコンセプトを有しています。

顕正居士さんのお言葉を借用すればこの「聖戦」思想は、しかし、最澄の具足戒放棄は、ひいては殺人思想の肯定の現場となり、武装が当然のこととなってしまった。

日蓮は聖戦肯定の立場でしたが、王と僧の役割の相違を『本尊抄』に「当知此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法」と述べたのでしょう。ところが日蓮以後の日蓮党は、軈て不軽・折伏論をいった後代解釈が僧侶の聖戦思想を鼓舞するようになった。こうした経緯を受けて、法華宗(天台宗)からの警鐘が『破日蓮義』のような形で為されていったのではないでしょうか。この時代の日蓮党は既に不軽・安楽・摂受といった本来の教学を読み違えていた人々であり、その系譜は本日に至るまで、日蓮党に胚胎し続け、いずこの時代も、信・不信の二極論から後者を攻撃することを正義であるといった倒錯が繰り返されています。愚かなことです。

3639顕正居士:2008/03/16(日) 20:55:28
戒律を戒と律に分ければ戒は道徳、律は法律です。具足戒を放棄するということは
菩薩戒という道徳はあるがサンガの法律はないということです。在家信者ならば
世俗の法律があります。僧院には及びませんから、こちらは何事も武闘で決着する。
要するに暴力団と同じ世界ですね。鎌倉政権は関東の寺院には武装を禁止していた。
日蓮は武闘当たり前の関西の常識を持ち込んだ。また北条政権は信仰自由の方向
に社会を進歩させようとした。日蓮は比叡山などの神聖権力は新興の称名念仏、
祖師禅の禁止などを朝廷や幕府に強要できる権利があると考えていた。
だがやがて幕府は崩壊し関東も関西同様に戦国の世に移行します。比叡山、興福寺
雑賀寺、本願寺などは有力戦国大名並の武力を備えるに至った。日蓮宗は諸派に
分かれていたために信者は多かったが武力が分散しており法華の乱では比叡山兵
に完全に打倒された。この永遠の宗教戦争の世界は最後で最大の合戦、信長対顕如
10年戦争の後、宗教権力が遂に世俗権力に降伏し、日本では欧州より早く信仰自由の
社会が実現しました。

3640マターリ:2008/03/16(日) 21:11:26
>顕正居士さん、犀角独歩さん、教えていただき、ありがとうございます。

智邈が、法華経の四安楽行・非暴力思想を重視していたのに、最澄の影響
で、比叡山が無戒の山となり、それに影響された日蓮が「聖戦」を肯定す
る思想になってしまったのですね。

また、日蓮は、王と僧の役割を立て分けていたのに、弟子たちが僧の「聖
戦」を主張するようになったのですね。

時代を経ると、思想が正しく伝わらなくなってしまうようです。

法華経の特質を調べたことがあります。排他主義・使徒的仲間意識・殉教
主義・自らを褒め称える、等と批判的な事が書いてありました。

しかし、四安楽行・非暴力思想など、とても優れた記述があると思いまし
た。法華経をじっくり読んでみたいと思います。

3641犀角独歩:2008/03/16(日) 22:13:02

> 宗教権力が遂に世俗権力に降伏し、日本では欧州より早く信仰自由の社会が実現

このご賢察は素晴らしいですね。

ところで、いまの時代でも僧侶のほうが在家よりも優れているなどと考えている数百年単位の時代錯誤者が横行しています。日蓮党は、天文法難、信長の比叡山焼き討ちまで時間を巻き戻し、さらに明治以降の太政官布も思い起こし、在家と同等の立場しか与えられていないことを再確認する必要がありますね。

もっとも顕正会、創価学会といった在家主導の新たな特権階級は、所詮、僧侶に取って代わる特権階級以外の何ものでもない、一般民衆にはお呼びでない存在であることもついでに確認しておきましょうか。

出家にあれ、在家にてもあれ、それら特権階級から離れ、法華経を紡い在家集団の思いに戻り、法華経を読むのが、マターリさん、よいかもしれませんね。

3642天蓋真鏡:2008/03/25(火) 17:06:35
犀角独歩さん、関係者各位様、 聖戦を肯定する思想と断じるのは後の歴史の流れからでしょうか? 撰時抄の御書遺文や 大白牛車で押しかけてでもと言うのは大袈裟に書いて善行善徳を促していると私は考えます。 つまり、言葉文章で表してもすぐさま戦乱の結果に持っては行かないと考え合わせてあるのではと断じます。絶対ではありません。 東条某だとかのお陰云々書いた文章もあったと思います。 私の鎌倉時代の僧・日蓮の印象は貴族主義と個人主義の中間の思想を行じたフリーターです。社会の繁栄も大事だけど個人の幸福も大事みたいな。

3643犀角独歩:2008/03/27(木) 02:24:28

日蓮の聖戦を肯定するとする理由は、まずは天台義における折伏の肯定が挙げられるでしょう。『開目抄』等の如しです。
日蓮自身の考えとしては、たとえば、以下のような真蹟を挙げることが出来ます。

「日本一州上下万人一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓並天照大神等隣国の聖人に仰つけられて謗法をためさんとせらるゝか。」(『法門可被申様之事』)

「聖人の出るしるしには、一閻浮提第一の合戦をこるべしと説れて候に、すでに合戦も起て候に、すでに聖人や一閻浮提の内に出させ給て候らん。」(『四條金吾殿御返事』)

その他、念仏者刎頭といったことを口にしているわけですから、とても非暴力主義者とは言えないでしょう。

3644天蓋真鏡:2008/03/27(木) 15:25:31
ガンジー?等の非暴力主義者とは言えなくても 聖戦だけ?を肯定する戦争主義者と言うわけでも無いと考えます。其れなら、聖戦肯定主義者は日蓮だけでは無いのでは無いでしょうか。

3645犀角独歩:2008/03/27(木) 15:29:51

日蓮についての質問ですから日蓮について答えたまでです。
聖戦の肯定は、もちろん、日蓮に限らず、『涅槃経』を肯定する宗派に共通するでしょう。もっといえば、大乗教と自称する多くの教えは大なり小なり、そうした特質を有します。その脈絡がオウム真理教のポアともつながっているのでしょう。

なお、わたしは日蓮を戦争主義者とは記していません。

3646天蓋真鏡:2008/03/27(木) 17:25:52
聖戦(云々の)主義者では無いと言う事でしょうか。文章と特定の語句を繋げて書くと、行き過ぎた印象を与えると感じます。

3647犀角独歩:2008/03/27(木) 17:37:38

当掲示板は挙証をもって論じる義務を有します。

故に、わたしは3643に、日蓮の武力による護法の肯定した文証を挙げました。行き過ぎた印象もなにも、武力行使も、法華異教者の死刑も肯定したのが、日蓮という人であったわけです。違うというのであれば、それを証する文を挙げればよいだけのことです。

自分のなかでイメージされた日蓮の押しつけや、挙証に対して、挙証で応ぜず、同じことを繰り返すことは、投稿規約に違反する点、注意を促しておきます。

3648天蓋真鏡:2008/03/28(金) 16:19:21
確かに挙証には挙証でしか異論反論できないかもしれません。 ですが、日蓮の手紙一つも漏れず残っている訳では無いので挙証主義には限界があると考えます。日蓮の実像を見るには 人間の感情変化と変化した理由も加味して考え合わせないと作りかけの彫刻になってしまうのではないかなと感じます。

3649犀角独歩:2008/03/29(土) 08:03:16

> 日蓮の実像を見るには 人間の感情変化と変化した理由も加味して考え合わせないと作りかけの彫刻になってしまうのではないかなと感じます。

この部分は、何を言っているのかよくわかりません。

たとえば、ミロのビーナスについて語る時、その顔や胴体、足については、語ることができます。では、失われたとされる腕について、どうなっていたかは、語ることができません。現存していないからです。もちろん、想像で語ることができますが、それは他の部分を事実として語れるのに対して、殊腕に関しては事実としては語れません。語れるとすれば、腕はないということだけでしょう。

日蓮を語る上において、失われてしまったものについて、想像で語ることができても、それが事実であるとは言えません。ですから、語るとすれば、まず確実な資料から考え合わせて語らなければ実像から離れることになります。

合戦の翼賛、刎頭を肯定した文章が残っているのに、日蓮を平和主義者のように語ることは、残っている資料として一致しません。では、なぜ一致しないことが語られるのかという説明をなく、それを繰り返すような、投稿は、こちらの規約に違反しているということです。

ここは挙証をもって論ずる場ですから、説明や、証拠も挙げられない個人の思惑を、しつこく繰り返し書きたいのであれば、自分でサイトでも解説して、そちらでやればよろしいことになります。

個人の思いで勝手に作られた日蓮の彫刻など、こちらでは不用であるということです。

3650天蓋真鏡:2008/03/29(土) 20:08:01
犀角独歩さんの書き込みは一々最もですが、切った刀で自分も切られかねない物言いでしょう。 自分は日蓮を平和主義者とは言ってません。真筆かどうか調べてませんが、文字言葉は心を尽くさないと言う御書遺文もありました。

3651犀角独歩:2008/03/30(日) 10:55:13

天蓋真鏡さん

名を挙げて問いかけられたので、応じたわけですが、わたしは、あなたがなす不毛な言いがかりに時間に付き合うことを無駄と感じます。

> 切った刀で自分も切られかねない物言いでしょう。自分は日蓮を平和主義者とは言ってません。

わたしが先に記した「平和主義」とは、別段、あなたが言ったことを指したものではありません。
記したとおり、「合戦の翼賛、刎頭を肯定した文章が残っている」から、経和主義とは言えない記したのです。よって、あなたの言いがかりはまた外れです。

> 文字言葉は心を尽くさないと言う御書遺文

どの文を指すのか判然としませんが、仮にそうであっても、その文字に尽くせない日蓮の思いは、あなたが想像することと同一である可能性は少ないでしょう。何故ならば、あなたは確実に残る日蓮の文字情報を否定したところから、想像しているからです。事実とは、事実の積み重ねの上にあります。日蓮の言葉に尽くせない思いは、真蹟遺文と一致しないという仮説が、既にすべての自分が恣に想像する日蓮像の囚われる原因となっているでしょう。

繰り返しますが、ここは挙証をもって議論する場です。挙証に基づかないあなたの想像、そして、わたしへの言いがかりに付き合う気はありません。挙証なく、自己主張を繰り返すあなたの投稿には今後、応じません。それでも、まだわたしの投稿に難癖をつけるようであれば、投稿規約に基づき、管理人さんに削除依頼をすることを辞さない所存です。以上です。

3652犀角独歩:2008/03/30(日) 10:58:43

【3651の訂正】

誤)経和主義
正)平和主義

3653パンナコッタ:2008/03/30(日) 14:42:30
横レス、失礼します。

 > 文字言葉は心を尽くさないと言う御書遺文 は、おそらく十一通の
与建長寺道隆書
 "只経論の文に之れを任す処なり。具には紙面に載せ難し。併しながら対決の時を期す。
 書は言を尽くさず。言は心を尽くさず"
与多宝寺書
 "敢へて日蓮が私曲に非ず。委しく御報に預かるべく候。
 言は心を尽くさず、書は言を尽くさず。併しながら省略せしめ候"
あたりでしょうか。
であるならば、真贋以前に文意を良く読みとってカキコされる方がよろしいでしょう。

この佐渡前の蓮祖は、
『仏法を学ぶの法は身命を捨て国恩を報ぜんが為なり。全く自身の為に非ず』
 (宿屋入道再御状・本國寺蔵) と、個人の幸福なぞ歯牙にもかけない心意気だったのが
事実でありましょう。現世利益を云々する後世の教団の教えとは、一線を画します。

3654天蓋真鏡:2008/03/30(日) 18:07:04
犀角独歩さん、パンナコッタさん、 他の文章を持って来たからと言って此れまでの書いてある内容を全否定したとまとめるのは挙げ足取りな解釈では無いですか? 日蓮は色々な職業みたいな事を遣っていて何者か解らないと書いていた頃とは偉い違いです。 御書遺文の文章の後先を考えるのは当然ですが 色々な語句言葉知識情報を考え合わせないと事実とはズレた虚像を造ってしまうかもしれません。其れて゛良いのでしょうか

3655管理者:2008/03/30(日) 18:48:25

天蓋真鏡さん

>御書遺文の文章の後先を考えるのは当然ですが 色々な語句言葉知識情報を考え合わせないと事実とはズレた虚像を造ってしまうかもしれません。

先日来の、天蓋真鏡さんの書込みを拝見していて、何を仰りたいのか、判然としません。もう少しはっきりとお話になられたほうが良いと思います。

具体的に申し上げれば、

一、御書遺文の文章の後先を考えるのは当然

これは、富士門圏においては、当然とはされていません。殊に大石寺教学では、相伝書重視が甚だしく、御書を相伝書から見て、読み替えて解釈するのが通例です。ところが、この大石寺が使う相伝書たるや、明らかに後世の記述であったり、他門の相伝書を我田引水したりで、蓮祖の実像から離れる事が甚だしいので、当掲示板では、ひとまずは、真跡遺文に限定して蓮祖の実像に迫ろうとしてきた経緯があります。

二、色々な語句言葉知識情報を考え合わせないと

これは具体的には、どんな内容をお考えでしょうか。管理者は、これだけでは、余りに抽象的過ぎて、意味が取れませんが・・・。御教示お願いいたします。

3656パンナコッタ:2008/03/30(日) 22:56:53
何を反論されているのか、さっぱりと解りませんが??? >3653で記した事は、
 > 文字言葉は心を尽くさないと言う御書遺文 ⇒ 十一通からの引用で在れば、
意味が違うでしょう という事。違う遺文なのであれば、初めから提示すればよいだけの話。

再御状の引用は、>3642の >社会の繁栄も大事だけど個人の幸福も大事みたいな という事に対し、
それを否定する文永五年九月の日蓮の真蹟があると、提示しただけ。

3657顕正居士:2008/04/02(水) 18:24:59
日蓮は鎌倉新仏教の祖師というよりは「興福寺奏状」を製作し専修念仏弾圧のはじめを作った
貞慶などと同じく鎌倉旧仏教の側の論客というべきでしょう。彼の理想は王仏一致の古代国家
の再興であり、彼の政治思想はいわば「王権仏授説」というべきものでした。仏教信仰が個人
の内面へと向かうのが新仏教の傾向とすればそのアンチテーゼであり、欧州の「反宗教改革」
に比べられるでしょう。したがって「政教分離」とおよびいわば「覇権天授説」に立つ武家の
政権とは相性が悪く原理派は不受不施宗として常に地下に存在し続け、第二王政復古(維新)
の後に国柱会などの王仏一致思想として蘇り、終戦後さらに創価学会として大衆化したのだと
いえるでしょう。

鎌倉旧仏教 http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/1/0090630.html
解脱房貞慶 http://www-h.yamagata-u.ac.jp/~kmatsuo/joukei.html

3658天蓋真鏡:2008/04/03(木) 04:45:13
順番前後します。 顕正居士さん、皆成仏道やら成仏得道やらは言葉尻だけ出て来るので認められないと言う事ですか?国王と聖人と戒壇(堂)が鎌倉時代の僧・日蓮の主旨でしょうか。

3659天蓋真鏡:2008/04/03(木) 05:20:08
犀角独歩さん、パンナコッタさん、管理者さん、関係者各位の皆さん。自分は真筆真蹟を把握してないので書き込みで此れだから是うとは断言できません。議論として残せない成立しないなら削除してもらって良いです。先ほど来の聖戦を肯定する者かしない者かを判断するには実際に会って話さないと解らないと言う事が自分の意見です。 自分は鎌倉時代の僧・日蓮は仇なす敵でも無闇に奪う主義者では無いと思います。犀角独歩さん、日蓮も殺されかかり弟子は命を落としました。其の時代は武士の時代は自分の宗派の為に相手の命を奪う事は肯定されていたのではと感じます。権力者依りで政治的手続きがあるならまっさらな仏教徒ですか?

3661はなざわ:2008/04/07(月) 10:47:11
はじめて書き込みさせていただきます。
学会に在籍しています2世です。この頃回りの会員さんを見てて??でした。
というのは、元気がない(婦人部はのぞいてですが)、自分の課題も打ち破れない
し、でサイトめぐりをはじめました。はじめは、石田氏の一念三千でした。教学力
ないので、ちんぷんかんぷんです。ただ勤行時の姿勢について、オオッッでした。
私はこんな事考えたことなかったと思いました。次日寛上人本尊コピーと手を入れて
いること、これはここの書き込みすべてではありませんが、拝見して、べつに関係
ないと感じました。それよりも、大聖人の御書に真蹟と偽書がある、学会で習っている
教学と、大聖人の教えは違うようだ、例えば、仏法は勝負とは、ずっと勝ち負けの
ことと思っていました。石田氏の文で、善悪のことと知りました。しかしこれさえも
真実か自分でわかりません。王法は賞罰なら、善悪考えるのが、妥当かな?ぐらいの
判断しかありません。学会は自分で考えなくても、指導の通りにやればと言っています
が、大聖人は、私達に何を言いたかったのか、自分で勉強したいと思っています。
学会版御書の最初から、読みはじめて、いま立正安国論です。よく中味がわからないし
、このやり方でいいのか、悩んでいます。よろしければ、皆様に学習の仕方ご教授いた
だけないでしょうか。独歩さんをはじめとした皆様のレベルの高さに本当に驚いています
。日連本仏論も違うなんて、頭こんがらがってきました。私の母も、戒壇のご本尊様は、
日興上人が、身延から、かついできたのと言います。皆なんでも、いはれるとおり
信じているようです。私自身は、偽でも本物でも、どっちでも、大聖人の教えが違って
くるわけでなし、どっちでもいいが、偽を本物と言っちゃいかんでしょう程度の、考え
しか浮かんできません。とりとめもない話で相すみません。

3662天蓋真鏡:2008/04/07(月) 17:41:12
はなざわさん、はじめまして。自分は創価学会の幽霊会員です。学会員もいろいろな方々がいます。名誉会長が亡くなった後、日本の創価学会はどの様な事になってしまうのかと心配しています。 自分が思うに漫荼羅は本仏釈尊の内証「南無妙法蓮華経」を掲げて自分も其の様に清廉潔白に生きたいと精神統一する唱題をあげる為の道具では無いでしょうか。 本仏釈尊&法華経行者日蓮を先師先達として、法と言えば一念三千の妙・華と言えば因果倶時の蓮を思想、江戸時代の僧日寛の描いた教学&牧口常三郎先生の学問を主義に創価学会インターナショナルとして一本化しないと21世紀以後を走れないのでは無いかと考えます。

3663犀角独歩:2008/04/07(月) 21:31:24

はなざわさん

お声掛けをいただきましたから、お応えしますが、仰るような「関係ない」は、創価学会そのものの声でしょうね。要は、自分にとって、それが正しいと‘思えれば’よく、それによって、組織も自分も、安心できればよい。そして、会員は何だかよいことがあったような気がし、組織は、安泰でそこで働く人々の生活が守られればよい。ストレートに言えば、創価学会と、その会員は、その程度のものだということなのでしょう。

わたしが、あきれかえって見切りをつけたのは、こんなバカバカしいことに付き合っている気が失せたからです。

難しいと思われるのであれば、簡単なことで満足できるのか、しかし、一度開けたパンドラの筺のフタは決して閉じません。
さて、はなざわさんは、それを閉じられるかどうか、ということです。

現代の科学水準は、『法華経』は後世の創作、妙法蓮華経は羅什の勝手な意訳、天台学は漢訳仏典で基づいた思いつき、日蓮はそれに基づいてさらに想像を逞しくしただけ、創価学会はもちろん、大石寺が本物であるという戒壇本尊は、後世の偽造品、日蓮本仏なんか、日蓮も、日興も言っていません。本人達が聞いたら吃驚するでしょう。
「でも、わたし達は正しいんです」なんて、恥ずかしくて言えるかどうか、それが常識と言うことです。

あなたならば、どうしますか。

3664はなざわ:2008/04/07(月) 23:37:11
天蓋真鏡さん

レス有難うございます。学会は規模縮小で、生き延びていくんではないでしょうか
?日寛教学も否定される方もございますし、何が正しいのか、今の私にはわかりません
。宗教団体というより、コミュニテイーとして生きていくんでしょうかね。
何かついていけないもの感じますが、さりとて退会するわけでなし、独歩さん
御指摘の『その程度』なんだと思います。第一次宗門問題から経験した身としては
何があっても驚きません。自分のスタンスはまさに御指摘の通りと思います。
第一次のとき、学会間違っていると思っても退会しませんでしたし、さりとて
師匠が地獄にいくら、自分もというような、池田先生崇拝者でもありません。
宗門を、口をきはめて罵るようなところは、嫌悪感さえ覚えます。

3665はなざわ:2008/04/07(月) 23:59:16
犀角独歩さんへ
お声かけていただき、有難うございます。過去ログのなかで、石田氏の論について
お書きになっているのを拝見して以来、読ませていただいております。私難しい
こと分かりませんが、母上についてお書きになっていたのに、心うたれました。
学会の日寛上人本尊コピーも、宅は日達上人で関係ないとずっと思っていました。
コピーというのも、手がいっているのも、最近しりました。あきれたと思いましたが
学会は会則改正で、自由に決めるとしていること、学会も折伏する上で本尊が必要
ですし、悩んでここのサイトを見て回るうちに、こだわる必要なしと感じました。
理論的根拠があるわけではありません、そのように私が感じたまでのことです。
気持ちは随分楽になりました。学会的考え方かどうかはわかりません。熱心な会員
ではありませんが、永年在籍していますので、知らず知らず学会そのものになっている
のかもしれません。
蓋をあけてしまつたですか、うーんまた閉じて、知らん振りもいいかも知れませんね。
何か大変そうですもん。けれど、日蓮大聖人が、何を悟り何を思い、後世の私達に
何を残したのか、その教えの一端でも垣間見れたらと思うとわくわくします。
今日は本当に有難うございました。
『命限りあり、終に願うべきは仏国土なり』私が、中学の時、亡き父に、究極の目的は
これかと聞いた時、父はそうだと言いました。これを書いていて、ふと思い出しました。

3666犀角独歩:2008/04/08(火) 23:08:50

はなざわさん、既に遣り取りは終わりということでしょうが、御尊父が引用した御書の意に、あなたのような考えで至れるとは、わたしは到底思えません。あなたより、むしろ、わたしのほうが、あなたの御尊父の精神の正統な後継者かも知れませんね。

「いまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ。以の外の僻見也。私ならざる法門を僻案せん人は、偏に天魔波旬の其身に入替て、人をして自身ともに無間大城に墜べきにて候つたなしつたなし。此法門は年来貴辺に申含たる様に人々にも披露あるべき者也。総じて日蓮が弟子と云て法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ。さだにも候はば、釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守候べし。其さへ尚人々の御心中は量りがたし」

もっとも、この文の真蹟は伝わりませんが。

わたしが、法華講時代に声聞幹部から聞いた迷言。

「私は何もわかりませんが、この仏法が正しいことだけはわかる」

わたしは断じて言います。「わかるはずはない」

ただ、あなたは、宗教とか、真実とか、日蓮の素意とか、そんなことより、選び取ったものが一つあるのでしょう。それは「居場所」です。そのぬくぬくとして、少しは居づらかったり、違和感もありながら、自分が居続けられる「ゆりかご」の外に、あなたは出ることに臆病なのでしょう。

まあ、無理に、はい出すことは進めませんが、外には広漠たる光景があることだけは記しておくことにします。

わたしは、歯に衣を着せるのは嫌いですから、ストレートに記しますが、惰眠には、軈て目覚めがあるということです。

なお、石田さんは、実にささやかな、入口で考えることをやめてしまった。彼の思惟は実に狭隘なものでした。もっとも、こちらは、挙証をもって、語る、掲示板です。この一事は、つぶやきとして判読いただければと存じます。

3667はなざわ:2008/04/10(木) 11:12:57
犀角独歩さん

私は、2世で、他の2世の方達と同じく、両親は毎日活動でした。とりわけ父は熱心
でした。病気で入院する前に「財産は残せないけどご本尊を残す」といはれました。
第一次宗門問題で、怒りくるわれる貌下のお姿は、私に衝撃でした。草創期を走って
きた父の為にだと思いますが、脱会をくい止めるため、幹部の訪問を再三に受け、
話し合いをしました。その時思ったことは、この人たちは、自分たちで何一つかえる
つもりはないと言うことでした。言っても時間の無駄労力の無駄と感じました。
それでも学会に残りました。脱会しようかどうかの瀬戸際で、私達家族が思いとどま
ったの、私がその時父の夢をみたからです。死んだ人は話さないとかも聞きますが
その時、この騒動を話しました。そして、私達家族は脱会しないことを決めました。
ただし、べつに父は学会が正しいと言ったわけではありません。
私は学会の真実が知りたいわけではありません。日蓮大聖人が何を考え何を悟り、
後世の我々に何を託したかを知りたいんです。学会は、池田先生の話中心で、大聖人
の話はあまり出てきません。只今未活への道進行中です。独歩さんは、命がけで学会
活動したって書かれてあったのを見たことがありますが、だからこそ間違ってるのが
わかってて、なぜやってるんだとおもはれるんではないでしょうか?私命がけの活動やったこと
ありません。私が、学会でのいこごちは良くも悪くもありませんよ。ただ私には、皆さん
何もいはれません。宗門問題でいいたいこと言った事、座談会での日寛本尊コピーや
公明批判したせいなのか、皆さんから一歩ひかれている気がします。
大聖人にお世話になったと思います。色々なこと題目でクリアできたと思います。
現世利益信仰ではないとも見ましたが・・ 先日母にわからないわからない、どうすれば
いいかわからないと申しましたら、わからなくなったら自分が経験してつかんだものが、
一番といっておりました。私が、自分で掴んだものなら、題目で、課題をクリアして
きたことです。ここのサイトも端よってしか見ていませんので、これから色々拝見したい
と思います。整合性がとれていない、ご本人にも考えにブレや迷いもありそうな、
突っ込みどころ満載の大聖人のようですが、それでもいいです。題目で幾多の課題を
乗り越えてきた経験をもとに、大聖人の考え、私に託したことを勉強していきます。
やがて学会にくるXデー、噴出すスキャンダル、会員にも戸惑い悩み苦しむ方々が、でて
くると思います。せめて自分のまわりの方々には、大聖人のお心お伝えできればと
思います。それには、自分が理解しておかねばと考えています。学会に残っているからと
言って安閑としているわけではありません。

3668天蓋真鏡:2008/04/22(火) 14:50:53
はなざわさん、返事して頂いてありがとうございます。名誉会長依存等は池田大作氏が亡くなってからでしょうか。 遺文御書か゛一枚残らずある訳では無いので何ですが、三国四師の4人の思想の変遷を見てみないと学問として成り立たないかもしれません。

3669マターリ:2008/04/22(火) 21:36:27
>はなざわさん、天蓋真鏡さんへ。

いちおう学会員である私が、言うべき言葉でもないのですが、・・・。

学会員は、からまる糸のように、マインドコントロールを受け続けている
と思います。法華経・羅什・天台・日蓮大聖人、牧口氏・戸田氏・池田氏
と、時代を隔てた大勢の人物と経典から、強い心理的影響を受けています。

非常に複雑で、強力かつ高度なマインドコントロールだと思います。

池田氏は講演などで、人間らしい事、ふざけた事を言っていますので、
人物を見抜きやすいと思います。しかし日蓮大聖人は、源義経と同じ時代に
生きた歴史上の人物です。大昔の人は伝説となり、つい神格化したり、また
仏と見てしまいがちです。人は亡くなってから、神になったり仏になったり
するのでしょう。

平成20年の現在、この日本に住む人の中で、仏と呼ぶことのできる人がいる
でしょうか?・・そんな人はいません。・・そういうことだと思います。

犀角独歩さんの3663のご発言↓は、現代仏教学に基づいた深い意味がありま
す。これを理解できるよう、少しづつ勉強しましょう。

>現代の科学水準は、『法華経』は後世の創作、妙法蓮華経は羅什の勝手な
意訳、天台学は漢訳仏典で基づいた思いつき、日蓮はそれに基づいてさらに
想像を逞しくしただけ、創価学会はもちろん、大石寺が本物であるという戒
壇本尊は、後世の偽造品、日蓮本仏なんか、日蓮も、日興も言っていません
。本人達が聞いたら吃驚するでしょう。

3670パンナコッタ:2008/04/22(火) 23:24:48
横レス、失礼します。
マターリさんの、>非常に複雑で、強力かつ高度なマインドコントロール との
指摘の一端として。
別スレで顕正居士さんが常楽我浄御書を引用されていましたが、この"常楽我浄"という言葉
通常は四顕波羅蜜の意で使われ「常楽我浄 一家和楽の信心」等とスローガン化されています。
しかしながら蓮祖真筆中では、ほとんどが邪師・外道の甘言とした四悪趣の意で使われています。
(唯一、断簡の常楽我浄御書は、前後文の肯否定の意が十全には読みとれず)

少なくとも日蓮門下を名乗るのなら、あまり肯定的には使用すべきでない語彙でしょうね。
もっとも、ある意味、教団の指導そのものは邪師・外道の甘言の類になっているようですけど。

3671顕正居士:2008/04/23(水) 08:29:53
涅槃四徳を否定的に使用した箇所は真蹟遺文にありませんよ。写本遺文ににもないと
おもいますが。断簡 三〇〇はその後に他と同様の文意があったはずです。
前後をちゃんと読まないと間違うかも知れない箇所が幾つかありますが。たとえば。

「今馬鳴・龍樹等はかしこしといふとも迦葉・阿難等にはすぐべからず是一。迦葉は仏に
あひ(値)まいらせて解をえたる人なり。此人々は仏にあひたてまつらず是二。外道は
常楽我浄と立てしを、仏世に出させ給ひて苦・空・無常・無我と説かせ給ひき。此もの
どもは常楽我浄といへり是三」

「今馬鳴・龍樹〜」から読んでいけば小乗の人たちが三か条の誹謗をしたとわかります。
常楽我浄御書の文の主語はむろん下にある馬鳴です。「(馬鳴菩薩)出でさせ給ひて」。

真蹟遺文
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm

3672顕正居士:2008/04/23(水) 08:49:11
涅槃四徳についてわかりやすい説明があったので参考に。

無我
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91

「したがって大乗仏教では、釈尊は成道してまず世間の邪見である「我」を否定し「無我」を
説いて、それが理解されるようになると段階的に説法し「如来我」を説いたと位置付けている。
これを「常楽我浄」(涅槃の四徳・四波羅密)というようになった(なお、これらのことから
仏教は「否定の否定」の教えであるともいわれる)」

この説明のように遺文の数箇所は「否定の否定」をしています。大乗仏教のモットオは
苦空無常無我ではなく常楽我浄なのです。

「世間にまた常楽我浄あり。出世にまた常楽我浄あり。世間の法には字ありて義なし。
出世間には字あり義あり」(涅槃経)

3673パンナコッタ:2008/04/23(水) 13:54:38
顕正居士さん、ご指摘ありがとうございます。

>3670の文書は、自分で読み返してもちょっと変ですね。これは大変失礼しました。
 四顕波羅蜜→四徳波羅蜜 四悪趣→四顛倒 ですね。
また、四徳の否定の意ではなく四顛倒の意味合いで使用されているという事で
法門可や十章抄での引用の事です。
常楽我浄御書の十全の意は全文がない以上、果たしてこの後どんな文書展開があったのかが
解らず、肯否定的な意味合いの用い方としては保留しておくといった意です。馬鳴の指摘については、ありがとうございます。
報恩抄の該当部分は、現存していない部分なので未考慮です。

3674天蓋真鏡:2008/04/23(水) 17:41:40
マターリさん、お言葉ですが「敵」を異常に拡大解釈するのは如何なものでしょう。 21世紀にもなって催眠術でもそうなのですが、罠に掛かり易い所と掛かり辛い所とあるのでは無いのでしょうか。 「マインドコントロール」が貴方が言われているぐらい行われているとは考えません。 聖教新聞の「池田先生崇拝」と学会の「押し蔵饅頭的統治」が所々暴走して「支配統治の理想」が崩れてきたのでは無いかなと自分は思います。 教学の事は「発想の転換」で時代ごとの解釈がどの様に成り立つのか分析理解できないと説得力が違うでしょう。

3675ろばくん:2008/04/27(日) 18:32:42
またまた、単純な質問ですみません。ここでよいかもわかりません。ジョージ左京さんという方はどのような方だったのでしょうか。また、私事ですが、確か日蓮上人のどの文だったか、「あつわらの愚痴のものども…」という文を目にしたとき、私は日蓮上人はあつわらの人々をそのように考えていたのかなと思い、そのころから少しずつ距離を置くようになりました。愚痴の者とは、あまり良い意味ではないと思うのです。

3676偶ロム偶ログ:2008/04/29(火) 02:10:00
>>3675
>ろばくんさん

ジョージ左京氏は戦後の創価学会草創期、中野支部で数多くの人たちを折伏しました。
第1次宗創問題のときに学会を離れて檀徒会に移り、国会請願にも名を連ねました。
その後、檀徒会=正信会の実状について諫言するも受け入れられず、檀徒会からも離れました。
檀徒会から離れてから、宗門史や宗門の教学について研究・批判を行ない、数百ページに及ぶ手書きの原稿を書かれたのです。
氏はその原稿をコピーしていろいろな人に配布しましたが、最初にそれを援用したのが玉井礼一郎氏でした。
次にその原稿の内容をほぼ全面的に利用したのが美濃周人氏です。
私などはほとんど盗作か剽窃ではないかと思ってしまいます。
ジョージ左京氏は、その後、日蓮批判、仏教批判へと進んでいくことになりました。
残念ですが、氏は十数年ほど前にお亡くなりになっています。

3677偶ロム偶ログ:2008/04/29(火) 03:46:56
参考までに、ジョージ左京氏の著作は以下のとおりです。

本名でのもの
[以下、手=手書きコピー、朱=直筆朱入、@=年月日不詳、頁表記は原本による]
 *『御本尊集目録に関する研究(手)』(昭56・7・27)全20頁
 *『大石寺 日道上人について(手)』(昭57・11・1)全72頁
 *『二箇相承について(手)』(昭58・3・11)全64頁
 *『日興跡条々事について(手)』(昭58・5・10)全68頁
 「日蓮の病気」について(手・朱・@)47〜50頁
 「身延から池上へ」について(手・朱・@)51〜52頁
 「波木井殿御報(池上到着御報)」について(手・朱・@)53〜55頁
 「六老撰定」について(手・朱・@)56〜57頁
 「日蓮の入滅および葬儀」について(手・朱・@)58〜64頁
 「日蓮の危篤と臨終」について(手・朱・@)65〜66頁
 「池上相承書の怪」について(手・朱・@)67〜68頁
 「墓所輪番制度」について(手・朱・@)69〜71頁
 「五老僧の身延離山」について(手・朱・@)72〜78頁
 「五老僧の身延離山の文証」について(手・朱・@)79〜83頁
 「日蓮の一周忌の大法要」について(手・朱・@)84〜85頁
 「日興の久遠寺別当就任」について(手・朱・@)86〜96頁
 「六老撰定の文証群」について(手・朱・@)97〜 102頁
 「日蓮の隨身仏(立像仏)」について(手・朱・@) 103〜 105頁
 「日蓮の隨身仏と注法華経」について(手・朱・@) 106〜 110頁
 「日興の身延離山」について その一(手・朱・@) 111〜 114頁
 「日興の身延離山」について その二(手・朱・@) 115〜 119頁
 「日円から日興への絶縁状」について(手・朱・@) 120〜 124頁
 「原殿書(原殿御返事)は偽書である」について(手・朱・@) 125〜 139頁
 「六老僧のスポンサー」について(手・朱・@) 140〜 146頁
 「日興の身延離山」について その三(手・朱・@) 147〜 151頁
 「日蓮の御影像」について(手・朱・@) 178〜 185頁
 「大石寺の御影(正御影)」について(手・朱・@) 186〜 193頁
 「重須の寺の『御影堂』」について(手・朱・@) 194〜 197頁
 「本六」について(手・朱・@) 198〜 200頁
 「本六、新六」について(手・朱・@) 201〜 205頁
 「大石の寺」について(手・朱・@) 206〜 212頁
 「日興没後の新六」について(手・朱・@) 213〜 215頁
 「道郷問題(蓮蔵坊争奪戦)」について(手・朱・@) 216〜 224頁
 「日興跡条々の事」について その一(手・朱・@) 273〜 281頁
 「日興跡条々の事」について その二(手・朱・@) 282〜 294頁
 「日興跡条々の事」について その三(手・朱・@) 294〜 313頁
 「日興跡条々の事」に関するE.T.C. その一(手・朱・@) 314〜 318頁
 「日目の天奏」について その一(手・朱・@) 319〜 325頁
 「日目の天奏」について その二(手・朱・@) 326〜 343頁
 「日目の天奏」について その三(手・朱・@) 341〜 347頁
 「日目の天奏」について その四(手・朱・@) 348〜 351頁
 「日目の天奏」について その五(手・朱・@) 352〜 356頁
 「日目の天奏」について その六(手・朱・@) 357〜 363頁
 「御座替御本尊」について その一(手・朱・@) 365〜 370頁
 「御座替御本尊」について その二(手・朱・@) 371〜 378頁
 「御座替御本尊」について その三(手・朱・@) 379〜 394頁
 「紫宸殿本尊」について その一(手・朱・@) 395〜 402頁
 「紫宸殿本尊」について その二(手・朱・@) 403〜 405頁
 「紫宸殿本尊」について その三(手・朱・@) 406〜 421頁
 「大石寺十七代の日精」について その一(手・朱・@) 422〜 435頁
 「大石寺十七代の日精」について その二(手・朱・@) 436〜 442頁
 「二箇相承」について その一(手・朱・@) 443〜 457頁
 「二箇相承」について その二(手・朱・@) 458〜 470頁

3678偶ロム偶ログ:2008/04/29(火) 03:47:42
つづきです。


ジョージ・左京名義のもの
 *『富士 大石寺の正体(ワープロ版)』(昭 ・ ・ )全 118頁
    蓮蔵坊争奪戦 まえがき ─────────────────  1頁
    日目と日郷 ───────────────────────  5頁
    蓮蔵坊争奪戦 その一 日郷と日道の争い ───────── 10頁
    蓮蔵坊争奪戦 その二 日郷と日行の争い ───────── 24頁
    蓮蔵坊争奪戦 その三 日伝と日行の争い ───────── 29頁
    蓮蔵坊争奪戦 その四 日伝と日時の争い ───────── 35頁
    記 その一 ─────────────────────── 41頁
    記 その二 ─────────────────────── 45頁
    あとがき ──────────────────────── 47頁
    日蓮正宗大石寺の重宝は、すべて贋物である ──────── 49頁
    「富士年表」の怪 ──────────────────── 53頁
    大石寺の「板本尊」は贋物である ───────────── 57頁
    大石寺の「最初仏」は贋物である ───────────── 78頁
    大石寺の「日蓮の御肉牙」は贋物である ────────── 92頁
    大石寺の「日蓮の遺骨」は贋物である ─────────── 105頁
    「日蓮の遺骨」に関する大石寺の作文集 ────────── 115頁

素記生名義のもの
 *『ダイジェスト 日蓮 PARTⅠ(ワープロ版)』小桜塾(昭61・1・15)全66頁
 *『ダイジェスト 日蓮(手書きコピー版)』素記生(昭61・2・ )全 102頁

3679スッタニパータ:2008/04/29(火) 11:24:15
また出したようですね。

http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%93%AE-%E6%9D%BE%E5%B2%A1-%E5%B9%B9%E5%A4%AB/dp/4860952510/ref=sr_1_2?ie=UTF8&amp;s=books&amp;qid=1209435648&amp;sr=1-2

3680ろばくん:2008/04/29(火) 18:23:58
偶ロム偶ログ様、本当にありがとうございました。美濃さん、玉井さん、そのままの文ではないかと私も思います。

3681彰往考来:2008/05/04(日) 12:07:45

ろばくんさん

>3675 あつわらの愚癡の者ども
「聖人御難事」(真蹟:中山法華経寺蔵)にあります。御書での箇所は、堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』(昭和46年67刷(初版:昭和27年)、創価学会:以下「御書全集」と略します)では1190頁、立正大學日蓮教學研究所編『昭和定本 日蓮聖人遺文 第二巻』(昭和63年改訂増補版(初版:昭和28年)、總本山身延久遠寺:以下「定本遺文」と略します)では1674頁です。

以下はあくまで私個人の見解です。色々ご意見がおありと思いますがそれはそれとして、ひとつの考え方として読んでください。

まず御書では「愚癡」とあり「愚痴」ではありませんが、これは同じ意味のようです。一般的に「愚痴」とは、『広辞苑(第5版)』にあるように、「言っても仕方のないことを言って嘆くこと。また、その言葉」という意味で、「くどくどと愚痴を言う」とか「愚痴を言ってもはじまらない」といった用途に使われ、あまりよい使い方はしません。そのため「愚癡の者ども」とあると威圧的に感じ、何を偉そうに!というのが表面的な解釈でしょう。
しかしながら本来「愚痴・愚癡」は仏教語なのです。石田瑞麿著『仏教語大事典』(1997年、小学館、217頁)には、「【愚痴・愚癡】《梵mohaまたはmudhaの訳。痴とも訳する》愚かで思い悩み、ものの理非のわからないこと。また、そのさま。三毒煩悩のひとつ。 (以下略)」とあります。つまり「愚痴・愚癡」とは思い悩んだ状態を指すことが解かります。よって「愚癡の者ども」とは、信仰歴が浅く思い悩んだ人たちというような意味と解釈されます。熱原法難の際に、信仰歴の浅い農民信徒から日蓮聖人の説く内容に疑問の声があったろうことは容易に想像できます。したがって、「聖人御難事」では、「彼のあつわら(熱原)の愚癡の者ども・いゐはげまして・をどす事なかれ」(「御書全集」1190頁、「定本遺文」1674頁)とあって、励ましてあげなさい、決して脅かしてはなりませんと指導のポイントを書かれているわけです。続けて、「よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ」など非常に厳しい内容が続きます。この「聖人御難事」は農民信徒を指導する立場の弟子、つまり日興師や日辨師、に対して与えられた御書と判断できますから、直接農民信徒に対して与えられた御書ではないという点も考慮する必要があります。

「聖人御難事」に「あつわらの愚癡の者ども」とあるのは、「開目抄」(「御書全集」234頁、「定本遺文」604頁:真蹟身延曽存)に「我弟子ニ朝夕教ヘしかども疑ヒををこして皆捨てけん」とあるように日蓮聖人としては常日頃から説いてきたのに何故解からないのかというご心境だったかもしれません。日蓮聖人は非常に厳しい人であったろうと考えられます。真蹟のない録内御書ですが「佐渡御書」(「御書全集」961頁、「定本遺文」618頁:録内御書)に、「日蓮御房は師匠にてはおはせども余にこは(剛)し」とあるのが参考となるでしょう。ろばくんさんが剛(こわ)い日蓮御房と距離を置かれるのは貴方自身のご判断で他人がとやかく言うことではありませんが、もし解釈が違うなら再考されてはいかがでしょうか?

ひと言でいうなら「愚癡」とは「疑い」であるという解釈も成り立ちそうです。なるほど、「癡」は「疒だれ」に「疑」とあります。「疑いを起こす病気」なのです。

最後に、管見に入った限り御書では「愚癡の者」という表現は「聖人御難事」以外では「撰時抄」にあります。また御書ではありませんが「富士一跡門徒存知事」にもあります。これらの箇所の前後を読む限り「ものの理非のわからない人たち」の意味で使用されていると考えます。「愚癡の者」という表現のある箇所は以下のとおりです。

「撰時抄」(「御書全集」265頁、「定本遺文」1018頁:真蹟玉沢妙法華寺他4箇所蔵)
「富士一跡門徒存知事」(「御書全集」1604頁)

By 彰往考来

3682豆腐:2008/05/04(日) 18:39:37
こんにちは、分からないことがあるので教えて下さい。

一谷入道御書に、
「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持たざらん者をば御用いあるべからず」とあります。
これはどういう意味なのでしょうか。

ここでいう判とは印章ではなく花押のことだというのは分かるのですが、弟子が大聖人の花押を持つとはどういう意味なのでしょうか。
つまり、お手紙を弟子が持参しても、それに花押が認められてなかったら、それは私の書いたものではないので用いてはいけない。
という意味なのでしょうか?それとも弟子が大聖人の代わりにサインしていたという事?
よく分かりません。よろしくお願いします。

3683ろばくん:2008/05/04(日) 20:39:07
彰往考来さん、いろいろと詳しく教えていただき、ありがとうございました。

3684犀角独歩:2008/05/04(日) 22:14:11

豆腐さん、はじめまして。いちおう、当掲示板で過去に論じられたテーマで、その発言者であるので、記させていただきます。

> 日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず

正統な日蓮の継承者であれば、この意味を正しく解説できるでしょうね。
聞いて応えられない人を師匠と仰がなければよいことになります。

たしか、れんさんとの議論であったと思いますが、わたしはこの該当文は、漫荼羅に授与者を定めて認める「花押」であるという管見を示しました。漫荼羅は弟子である允可であり、そのために判を認めてあるということです。しかし、こう言ってしまうと、ほとんどお坊さんが、該当しなくなりますから、また、わたしは恨みを買うことになりましょうか(笑)

ちょっと、脱線させていただきます。わたしが記した彫刻本尊批判は日蓮門下を一生体と考えたとき、そのなかで、増殖し続ける癌細胞のような彫刻本尊信仰には有効な抗癌剤となります。しかし、この濫用は、日蓮宗本体を壊滅させる毒を孕んでいます。そんな意味で、わたしは日蓮宗に受け入れられることはないと自己分析しています。しかし、それでも事実究明の手綱を緩めるつもりはありません。

3685犀角独歩:2008/05/06(火) 20:52:50

3684への自己レス

抗癌剤は、しかし、正確に使用すれば、的確に効果を上げ、癌に働きます。そして、生体を助けます。
その意味で、この使用をためらうことに、わたしは不思議を感じます。
それは、むしろ、「日蓮宗が」というより、興風談所、とりわけ、山上さんに申し上げたいことです。

3686豆腐:2008/05/07(水) 10:19:31
犀角独歩さん こんにちは

ググッてみたのですが、この御金言に関しては解説がどこもバラバラで統一されてないんですよね。
私の頭が悪いせいか、どれも禅問答のような答えでよく分かりません。苦笑

ストレートに、大聖人の花押や在御判という文字が入ってない御本尊を持っている僧侶は
ニセものだから近づいてはいけないということでしょうか?

3687犀角独歩:2008/05/07(水) 21:32:13

豆腐さん

もし、相伝、相承というものが現にあり、かつ、いまに継続しているのであれば、この日蓮弟子を決定する決め事を記した文章を、その相続者は説明できるだろうというのが、先にわたしが書いたことです。


引用された遺文と、その該当とは、日蓮の時代の話でしょう。
「在御判」というのは、これは書写のお定まりですから、これは問題外でしょう。

日蓮が一谷入道に、こう書き送らなければならなかった背景を考えれば、既に、この時代に、自分は日蓮の弟子と自称する者がいたということでしょう。

本物の僧、偽物の僧というのは、なにを基準にするのかということで、ずいぶんと変わるでしょうね。しかし、本物の僧であると、では、どうなんだという問題も次にはあるでしょうね。

3688天蓋真鏡:2008/05/08(木) 01:40:56
法華経は諸経の王と言うよりは寄せ集めの軍隊でしょうか

3689マターリ:2008/06/28(土) 09:18:18
図書館で、日蓮に関する本を読んでいたら、「日蓮は、革命的な宗教家
だったが、呪詛をした点が惜しまれる。」と書いてある本がありました。

御書を見たところ、呪詛にあたる文が見つからなかったのですが、実際
は、どうだったのでしょうか?

ご教示のほど、お願い致します。

3690顕正居士:2008/06/28(土) 13:46:02
日蓮誹謗書として有名な『日蓮深密伝』の「祈祷奥義章」に祈祷によって起こした病は
祈祷者によってしか治せない。これぞ布教の奥義という話があります。
そんなところから出たのではないでしょうか。

『日蓮深密伝』は近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ にあります。
事実無根の誹謗書ですが荒唐無稽で面白い本ではあります。

3691パンナコッタ:2008/06/28(土) 14:09:11
マターリさん、
本の内容が解らないないので適切ではないかもしれませんが、
 「阿弥陀仏をば或は火に入れ、或は河にながす。夜もひる(昼)も高き山に登りて、
 日月に向かひて大音声を放ちて上を呪咀し奉る。其の音声一国に聞こふと申す」
という種種御振舞(曾存・真偽論アリ)のイメージから来ている物ではないでしょうか。

また、蓮祖自身も、
 『仏の御使ひとして南無妙法蓮華経を流布せんとするを、或は罵詈し、或は悪口し、或は流罪し、或は打擲し、
 弟子眷属等を種々の難にあわする人々、いかでか安穏にては候べき。これをば愚痴の者は呪咀すとをもいぬべし』
 【撰時抄・真筆現存】と、皮肉めいた(屈折した?)自己認識をしていたのかもしれませんね。
(呪詛→呪咀)は以前、彰往考来さんがご指摘なさっていたのでそちらを参照してください。

ちなみに最近までやっていた学会の打ち出し
 "6.15ストップ・ザ・アリーナ" なんかは現代の呪咀その物でしょうね。

3692マターリ:2008/06/28(土) 16:11:56
>顕正居士さん、パンナコッタさん、ご教示いただき、ありがとうござ
います。

>顕正居士さん、『日蓮深密伝』は明治時代の作なんですね。クリック
してみましたが、私のPCのOSが古いためか、表示できませんでした。

>パンナコッタさん、やはり、蓮祖は呪詛をしていたようですね。私が
読んだ本の題名は忘れましたが、蓮祖の一生についての解説本でした。

最後に3人ほどの解説者が短い感想文を書いているのですが、そのうちの
一人が、呪詛について書いていました。もう5年ほど前に読んだのですが、
その事が、頭の隅にこびりついていました。

ご指摘の "6.15ストップ・ザ・アリーナ" についてです。学会系の掲
示板に、それについて、法華講の人のカキコがあり、驚きました。埼玉で、
学会が「日蓮正宗の会合が失敗に終わるように」と唱題会を行っているが、
人の失敗を祈るのは、宗教とは言えないのではないか、というカキコで
した。

私は、埼玉から遠く離れているので、事情がよくつかめません。しかし、
宗教は、自分や人の幸せを祈るものであり、失敗を祈るのは、おかしいと
思っています。

その事に関して、他にも色んな掲示板をのぞいてみましたが、バリ学会員
が確信をもって、そうした唱題会を肯定しているのに、強い違和感を感じ
ました。相手が邪教なら、呪詛をするのは良いことだ、という考えのよう
です。

前に読んだ本と考え合わせ、蓮祖が呪詛をし、また、呪詛を肯定している
という証拠を、学会がつかんでいるのでは、と想像しました。

パンナコッタさんのお話を伺い、蓮祖は呪詛をしたようですが、現代は、
いまわしい呪術の時代ではないので、呪詛をすっぱり捨て去るべきだと思
っています。

3693パンナコッタ:2008/06/28(土) 22:07:48
マターリさん、どうも。
蓮祖が呪咀をしていたと云うより、
 "日蓮の言説・行動が呪咀をしているように周りから見られていた。
 蓮祖自身も、その様に周りから見られている自覚があった"
というニュアンスの方が、良いかと思います。
(第三者的には、他宗批判その物が呪咀そのものに映ったかもしれません)

学会の呪咀に関しては昭和三十二年十一月の質問会の席で、戸田さんがきっぱりと
「呪詛、相手を呪うような祈り、これは絶対にやってはイカン!!」と
断言していました。
 時代が違う、等と屁理屈を述べて学会員は正当化しようとするでしょうが、
師匠の師匠が禁止した事項を、組織の活動として打ち出す行為には、
会員に名目を与え邁進させる事のみを重視する、今の教団の体質なんでしょう。
更にバリの末端会員は疑わずにこれを遂行するため、知らずに歪んだ人格をも
形成されてしまうという、悪しき典型例のように思えますね。

正宗を擁護する気はむろん一切ありませんけど、この先学会は呪った分だけ
還著於本人に、なるでしょうね。

3694マターリ:2008/06/29(日) 07:52:22
>パンナコッタさん、早とちりをしてしまい、すみません。

日蓮が、あまりにも過激だったため、周りからは呪詛しているように
見られ、本人にも、そう見られている自覚があった、ということですね。
結論として、日蓮は、呪詛はしていなかった、とわかりました。

日蓮正宗は、法華講の人のカキコを見る限り、呪詛をしていないよう
です。しかし、その点で、創価学会の方が負けていると思います。
(日蓮正宗を擁護するわけではありませんが・・・。)

3695天蓋真鏡:2008/07/06(日) 17:55:52
一子相伝で無いなら、 学業の核心は漫荼羅内証若しくは唱題なのか

3696マターリ:2008/08/23(土) 20:49:53
ご教示のほど、宜しくお願いします。

御書の八幡宮造営事(弘安4年5月)に、日本の人口は、四十五億八万九千
六百五十九人と書いてあります。この事が3ページほどの短い御書に4回も
出てきます。

現在の人口の45倍という、とてつもない人口数です。人口調査などなかっ
た時代ですので、間違えるのも無理はありません。しかし、2倍とか1/2
までなら誤差として仕方ないですが、45倍というのは多すぎます。

59人と、1桁まで書いてあるということは、何らかの文献を参考にしたよ
うな気もします。

どうして、このような数字の間違いをしてしまったのか、文献を参考にし
たとしたら何なのか、ご教示いただければと思います。

3697問答迷人:2008/08/23(土) 21:08:50

マターリさん

当時、使われた「億」の単位は、現代に使われている「十千万」の意味と違って「十万」の事だ、と記憶しています。出典は不明ですが・・・・

3698問答迷人:2008/08/23(土) 21:13:35

大辞泉によれば

おく【億】1 数の単位。1万の1万倍。10の8乗。古くは万の10倍とも。

と書いてありました。この「古くは万の10倍」と言う事だと思います。

3699マターリ:2008/08/23(土) 21:57:40
>問答迷人さん、ご教示いただき、ありがとうございます。

鎌倉時代は、そもそも数字の単位が違っていたのですね。億が10万とす
ると、御書の四十五億八万九千六百五十九人は、約450万人ということ
のようです。

↓の資料によると、鎌倉時代の人口は約700〜800万人ということですの
で、誤差の範囲に入るとわかりました。

鎌倉時代からの日本の人口の推移↓
http://www.fujisue.net/archives/2005/06/post_603.html

3700犀角独歩:2008/08/24(日) 12:07:57

マターリさんと問答名人さんのやりとりを興味深く拝読しました。
少し気付いたことがあり、画像で説明したかったので、拙ブログに投稿しました。
ご批正いただければ有り難く存じます。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51397116.html

3703犀角独歩:2008/09/14(日) 10:35:09

彰往考来さん
れんさん

独学徒さんのHPの、彰往考来さんの『北山本門寺蔵「生御影」について』を拝読させていただきました。
http://xbbs.knacks.biz/dangisyo

いくつか疑問があるのですが、独学徒さんのHPではいずこにそれを載せてよいかわからなかったので、兄弟掲示板ともいえるこちらに投稿させていただきました。

彰往考来さんの結論は、いまの北山日蓮像は文政火災のあとの再造であるということでよろしいのでしょうか。

わたしは、彰往考来さんの結論とは別に、この日蓮像は、そもそも以下の記述で、再造品であると考えてきました。

正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人御影堂に於て日興に給はる所の
御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録
以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後も若し弟子分中に相続
人と号して出さしむるの輩は門徒の怨敵大謗法不孝の者為るべき者
なり、謗法罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏日蓮聖人の御罸を蒙
るべし、盗人の科に於ては御沙汰と為て上裁を仰ぐべし、若し出で
来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝為るべし仍て門
徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十一月十三日  日興御判。


しかし、たしか、れんさんが、この盗難事件はなかったとこちらに投稿をされた記憶があるのですが、この点は、如何なのでしょうか。

仮に、この盗難がなかったとした場合、日蓮御筆大漫荼羅にも躊躇なく書き込みをする日興のこと、もし、その生前にこの像があったのであれば、必ずや、日興の書き付けがあってしかるべきであると思えます。
いまのところ、そうした話は聞いたことがありません。よって、この像の真偽は押して図るべきであると思います。

無信仰なわたしからすれば、この日蓮像を裸に剥いて、書き付けを探すか、腹籠は何が入っているのかを、調査するのが、まず第一にするべきで、そこで、日興生前にあった像であると確定したのち、文献考証をしたほうが無駄がないと考えます。

彰往考来さんがお読みなったら、正中盗難事件に触れなかった理由を、れんさんがお読みになったら、盗難事件の実否につき、それぞれご教示をいただければ、有り難く存じます。

3704れん:2008/09/14(日) 19:28:53
犀角独歩さん

重須の日興在世の本尊盗難事件については、三位日順の“日順阿闍梨血脈”に記述があるので、‘あった’と考えますが、独歩さんの挙げられた置状を含めた日代宛て八通遺状は、石山の条々事と五十歩百歩の価値と思われますので、盗難に遭ったものが、この状の記述通りと断定出来ないかとは思います。
ただし、御影が日興在世の盗難で紛失したとすれば、仰るように日目・日仙・日善三師連名の日興上人御遺跡事に見える「日蓮聖人御影」(が木像ならば)は既にして再造されたものの可能性がありますね。

3705犀角独歩:2008/09/14(日) 19:38:10

れんさん

いつもながらご教示有り難うございます。
もう一点だけお願いできますでしょうか。

> 「日蓮聖人御影」(が木像ならば)

「木像ならば」という点ですが、先に挙げた文献では「御影像一鋪」となっています。この点は既に、どなたかがご指摘くださっていますが、“鋪”は「助数詞。地図など、畳みものの本を数えるのに用いる。」ということですから、絵像ということになります。となると、絵像は盗られたが、木造は残った、それとも、木造と思われていたものは実は絵像だった、どちらとお考えですか。

3706れん:2008/09/14(日) 20:08:19
犀角独歩さん

ご指摘の様に、置状の“鋪”は他の門下文献でも曼荼羅や絵像の数の勘定に使用されているので、置状の日蓮聖人御影一鋪の記述は木像ではなく絵像であったと愚考します。
御遺跡事に見える御影が木像か絵像かは分かりませんが、木像と仮定しますと、日興在世の盗難で、木像も盗難にあったならば、御遺跡事に見える御影は、日興在世の再造でしょうし、絵像のみの盗難ならば、木像は盗難されておらず、したがって御遺跡事に見える御影は、日興が願主として造立した初代御影木像の可能性があると思います。

3707犀角独歩:2008/09/14(日) 21:51:19

れんさん

重ねて有り難うございます。

> 御遺跡事に見える御影は、日興が願主として造立した初代御影木像の可能性がある

つまり、彰往考来さんの記述と併せると『御遺跡事』記述の段階では、日興願主のものであったが、その後、火事で燃え、再造されたのがいまのものであるという類推が成り立つわけですね。

いずれにしても、造立由緒が、像に書かれていないはずはなく、赤外線でも何でも駆使し、書き込みを精査し、腹籠の遺物を調べればわかることのよう思えます。また、そんなことがいままで唯の一度も行われなかったとは考えがたく、そうなると、この像は、やはり、日興から時を隔てた後世の作と結論せざるを得ませんね。

これが日興在世の作であるという証拠を北山は示す義務を負っていると考えます。

3708彰往考来:2008/09/15(月) 12:58:43

>3703-3707

すでにれんさんが詳細にわたってご説明されていますので重複しますが、

>彰往考来さんの結論は、いまの北山日蓮像は文政火災のあとの再造であるということでよろしいのでしょうか
そうです。そのとおりです。但し、初代生御影が日興師在世のものであるかどうかは不明です。私は初代も後世のものである可能性が高いと考えますが確証がありません。

>正中盗難事件に触れなかった理由
私は日代宛て八通遺状は偽文書と考えますので、その内容については懐疑的です。そうである以上は正中盗難事件を前提としたロジックは組み立てません。
なお、すでにご指摘のとおり、「御影像一鋪」とありますので絵像と判断され、木像ではありませんから、今回の議論と直接は関係ないと考えます。

なお、この「北山本門寺蔵「生御影」について」は別件で忙しく筆が止まっているのですが連載中です。

ご意見等は
富士教学研究会:談議所の「北山本門寺蔵「生御影」について」
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/4/44/
に投稿ください。

彰往考来

3709犀角独歩:2008/09/15(月) 13:51:10

彰往考来さん

> 私は初代も後世のものである可能性が高い…正中盗難事件に触れなかった理由…日代宛て八通遺状は偽文書と考えます…懐疑的…正中盗難事件を前提としたロジックは組み立てません。

盗難事件を扱わない理由が偽文書であるというのはわかりますが、そうなると、後世のもの=偽物である可能性がある木像を確証もなく、検証する理由は何でしょうか。論理として一貫性を感じませんが、如何でしょうか。

3710彰往考来:2008/09/16(火) 07:41:28

犀角独歩さん

>盗難事件を扱わない理由
ご質問の意味がいまいちよくわかりません。
盗難事件を扱わない限り北山の生御影を議論する資格はないというご主張でしょうか?

今、現前と木像が存在する。そしてそれは、鎌倉時代のものと称している。でもみる限り江戸期のものである。では検証してみようというロジックであり、盗難事件は関係ないと思います。

>後世のもの=偽物である可能性がある木像を確証もなく
これについて「北山本門寺蔵「生御影」について」の後半で、北山の生御影が江戸期のものである検証を予定していますので、現時点で論評は差し控えます。いつになるやら分かりませんが、引き続きご愛読願います。

彰往考来

3711犀角独歩:2008/09/18(木) 02:58:07

彰往考来さん

> 盗難事件を扱わない限り北山の生御影を議論する資格はないというご主張でしょうか?

資格? いえ、ぜんぜん違いますが。3703に記したとおり、日興門下の文書の中に正中盗難の件がありますので、こうした文書の証憑性は如何なものかと問うたのが始まりです。

まあ、今回は、質問をすると必ず飛んでくる悪口雑言がなかっただけ、安堵しています。落ち着いて、質問はできたものの、しかしながら、「意味がわからず」、また「差し控える」と仰る以上、質疑応答にはなりませんので、切り上げることといたします。

3712彰往考来:2008/09/18(木) 07:46:56

犀角独歩さん

>3711

当方もこれにて今回の質疑は終了します。

彰往考来

3713犀角独歩:2008/09/27(土) 19:32:42

ちょっと、読み直して、変だと思うので書きます。

質疑とは「疑い質す」ということで、わたしがしたこと。
それに対して「応答」がなかったので、やめたということですから、「今回の応答は終了」というのが、正しい日本語でしょうね。
まあ、どうでもいいですが。

3714犀角独歩:2009/01/13(火) 06:39:40

問答名人さんほか諸賢

◇熱原三烈士について

日宗全興門集を覧ていたのですが、『白蓮弟子分與申御筆御本尊目録事』には、以下のようにあります。

富士下方熱原郷住人神四郎兄
富士下方同郷ノ住人弥五郎弟
富士下方(郷住人)弥次郎

ところが、いま、熱原三烈士というのは、神四郎、弥五郎、弥六郎ですね。3人目の名前が違うわけです。富要で覧みると、この3人の名で書かれているのは日亨氏の『富士史料類聚』のみのようです。これは日亨氏の誤記がそのまま、用いられた可能性はないのでしょうか。

あと、昨日、mixi で、ちょっと書いて、こちらの参加の皆さんからもレスを頂戴したのですが、石山の熱原三烈士墓碑にやや疑問を持っています。

当スレ3173にきゃからばあさんがご投稿くださっていることですが、この墓碑に刻まれている名前は

中央 熱原住人 神四郎
右側 田中住人 四郎
左側 広野住人 弥太郎

とのことでした。ここでいう田中、広野というのは、地名ですね。熱原とは違います。名前も四郎、弥太郎ですから、違います。すると、この中で熱原法難に関連するのは、「熱原住人 神四郎」ということになります。

この墓碑の建立は弘化3年(1846)ということでした。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3173

『富士年表』で覧ると、この年、猫沢(富士郡芝川町だと思います)で法難が起こったと記されています。


地名の 田中 広野 猫沢
名前の 四郎 弥太郎

この墓碑が熱原三烈士以外の可能性はないのでしょうか。
墓碑の後ろにある日柱の碑文は、もとより、熱原三烈士以外を記したものを取り違えたのではないかという疑問です。
もちろん、断定ではなく、あくまで可能性として考えてみたいと言うことです。

皆さんのご賢察並びに、ご意見をお聞かせ願えれば有り難く存じます。

3715問答迷人:2009/01/13(火) 16:32:55

犀角独歩さん

この件、ずっと昔にも、当掲示板で考えた事がありました。

http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/boukoku.htm

この時の一応の結論は、大石寺は、三烈士の名前を知らず、日精の家中抄の記述に基づいて、誤って、碑を建てたのではないか、という事で終わっています。

根拠は、日興上人の弟子分帳に「在家人弟子分。富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。富士下方同郷の住人弥五郎、弟。富士下方熱原郷の住人弥六郎。」とあるというのが、その時の議論でした。
家中抄の該当箇所を引用してみます。

『亦大聖人よりは籠舎の人々に御書を下さる聖人御難抄と号するなり今重須に在り、其使も日興なり、籠舎の人々は熱原の郷の住人神四郎、田中の四郎、広野の弥太郎なり、残りは所を追ひ払ひ或は所帯を没収し財宝を奪ひ取り給ふ、同三年に法華宗の檀那三人をば頚を切つてぞ捨たりける、されば彼の三人の追善に大曼荼羅を書写し給ふ』(富士宗学要集第五巻152頁)

3716問答迷人:2009/01/13(火) 16:36:04

御免なさい、レス数を書くのを忘れました。

http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/boukoku.htm

192〜201レス付近です。

3717問答迷人:2009/01/13(火) 17:19:14

もう少し補足しますと、日興上人の弟子分帳は、富士宗学要集では在家弟子分の記載は省略されていますので、神四郎等の三人の箇所は載せられていませんが、独歩さんが仰るように、第九巻の資料類聚の257ページ、熱原法難の箇所に記載されています。これが、3715レスでご紹介した箇所です。

又、この件は、両山問答で北山から指摘されて、大石寺は詰まってしまいました。

「明治十一年十二月 権少教正玉野日志

御直筆に云く、一富士下方熱原郷の住人神四郎(兄富)士下方同郷の住人弥五郎(弟富)士下方熱原郷の住人弥次郎此の三人は越後房下野房の弟子廿人の内なり、弘安元年挙信し始むる処舎兄弥藤次入道の訴に依り鎌倉へ召し上げられ終に頚を切られ畢ぬ平左衛門入道の沙汰なり、子息飯沼判官ひきめを以って散々に射て念仏を申すべきの旨再三之を責むと●も廿人更に以て申さざるの間張本三人を召し禁めて断罪せしむる所なり、枝葉十七人は禁獄せしむと●も終に放ち畢んぬと、又弘安二年十月十二日賜はる御抄を開山直写の本に云く、大進房弥藤次等の狼藉に至っては本源行智の勧に依て殺害刃傷する所なりと、知るべし事実人名人数並に皆御直筆に違す所伝何等を以て証とするや、請ふ明示せよ。」

3719問答迷人:2009/01/13(火) 17:47:42

もう一つ追加です。第九巻の資料類聚の257ページでは、三人目は「弥六郎」となっていますが、玉野日志は、弥次郎と書いています。日宗全興門集も、玉野日志も弥次郎なら、日亨氏の誤記の可能性が高いですね。まぁ、弟子分帳に直接当らないと判らない事でしょうが。

3720犀角独歩:2009/01/13(火) 21:25:12

問答名人さん

明晰なご教示、有り難うございました。
既に議論があったことでしたか。わたしはまるで記憶しておりませんでした。また、何故過去の議論に加わってもいなかったのですね。

三学無縁さんにお借りした日宗全興門集は手許にありますが、日志の書く如く「彌次郎」となっています。実際の正筆はどうなのでしょうか。

深く御礼申し上げます。

3721マターリ:2009/01/13(火) 21:49:31
法難について、日蓮聖人がどのような感慨をもっておられたか、調べて
いたことがあります。弟子の死というものを、どのように捉えていたか
を調べることで、建て前ではない、聖人の本音に迫りたかったからです。

日蓮聖人は、とても弁が立つ方ですが、御書を読んでも弟子の死につい
て、不思議なことに、あまり語っていないと思います。

小松原の法難では、鏡忍坊と工藤吉隆が戦死しました。熱原法難では、
三烈士が斬首されています。しかし、彼等について、日蓮聖人の言葉は
わずかだと思います。

悲しいときは、大地に身を投げ出して哭泣する聖人が、大切な弟子の死
に際して何故、言葉が少ないか、お教えください。

3722犀角独歩:2009/01/14(水) 00:22:00

マターリさん

3721 の視点、面白いですね。興味深く拝読しました。

3723問答迷人:2009/01/14(水) 08:46:59

犀角独歩さん

>三学無縁さんにお借りした日宗全興門集は手許にありますが、日志の書く如く「彌次郎」となっています。実際の正筆はどうなのでしょうか。

れんさんがこの件について、当スレッドの3172レスで、次のように述べられていますので、ご承知の事でしょうが、ご参加の皆様にご覧戴きたく、以下に転機させていただきます。

3172 名前:れん 投稿日: 2007/02/02(金) 15:41:41
犀角独歩さん
熱原の信徒三人の処刑日は、今となっては特定できないと思います。堀日亨師は神四郎追善の日興書写曼荼羅の書写年月日により、四月八日に比定してますが、四月八日に関しては、日興は仏生日に漫荼羅を書写する例が蓮師命日に続いて多いことを考えると、必ずしも、神四郎追善の漫荼羅書写日のみをもって、三人の処刑日と断定するには根拠が薄く感じます。日興写本の現存する弘安三年四五月頃の日蓮遺文に(いま、出先なので原文に当たれませんが)「先もそらごとなり…」云々と、熱原についてのべた下りがあり、おそらく、本消息の書かれた弘安三年春には熱原法難は終息していたと思われますから、三人が処刑されたのは、法難が勃発した弘安二年九月から日蓮遺文から法難の終息がうかがわれる翌年春の間と、大雑把ですが推定するしかないと愚考します。
さて熱原信徒の張本三人が特に斬首という厳しい処断を受けた理由は、日蓮の宗教活動は、幕府から見れば、元冠にて非常事態体制下にあった幕府の挙国一致の宗教政策に従わずに反対・反抗する“悪党”勢力であり、特に駿河は得宗領でしたから、厳しい姿勢と処断をもって、得宗権力が反幕府の“悪党”としての日蓮門下信徒の弾圧を行ったというのが実際ではないでしょうか。幕府(内実は得宗権力)は熱原の農民信徒に対する厳しい処罰を通じて、日蓮やその門下僧俗等の反得宗権力・反幕府的な宗教活動を牽制しようとしたというのが、当たらずとも遠からずの“理由”でありましょう。
熱原の三人の中の弥六郎と弥次郎の表記の相違は、現存する日興正本「本尊分与帳」は痛みが激しく判読不可ですが、江戸期の北山歴代である日優の写本では、「弥六郎」ではなく「弥次郎」となっており、かつての日興正本では「弥次郎」であった可能性があり、弥六郎は石山の所伝で次を六と誤読した結果の誤伝の可能性の方が高いと思います。

正本には当れないとすると、北山の写本に拠るしかないのでしょうね。

3724犀角独歩:2009/01/14(水) 17:54:07

問答名人さん

重ねてご教示有り難うございます。

また、れんさんには、先にご教示を頂いておりながら、失念をするというご無礼、平にご容赦ください。お詫び申し上げます。

ともかくも今回の疑問は、既に議論済みとのこと、落着した気分となれました。
御礼申し上げます。

3725彰往考来:2009/01/14(水) 20:42:02

横レス失礼。

過去の議論を蒸し返すようですが、

>おそらく、本消息の書かれた弘安三年春には熱原法難は終息していたと思われます

というのは違うでしょうね。

彰往考来

3726れん:2009/01/14(水) 21:14:53
彰往考来さん

先日は、御著述をお送り頂き、誠に有難うございました。先ずは、このことを深くお礼申し上げます。


熱原の法難の余波は、弘安三年七月の南条氏宛の宗祖御遺文に見える新富士の神主のことからも、続いたことは勿論、分かるのですが、問答さんが引用された私の文章の意とするところは、熱原法難にかかる“一連の訴訟の終わりの時期”というニュアンスで書きました。


もし、差し支えなければ、熱原法難の終息の時期に関する、彰往考来さんの御高見を御披瀝頂ければ幸甚です。

3727犀角独歩:2009/01/14(水) 21:22:31

相変わらず、高飛車な書き方ですね(笑)

3728れん:2009/01/14(水) 21:24:18
犀角独歩さん

いえいえ、私の方こそ、独歩さんの鋭い視点から、学ぶこと頻りです。こちらの方が独歩さんより、多くの学恩を頂いているのですから、寧ろ私への気遣いはご無用に願います。

3729犀角独歩:2009/01/14(水) 21:27:01

れんさん、別段、あなたに対して、気遣いをしているわけではありません。
こちらでは、証拠を挙げて論じるというのが常道です。

単に違うと書くだけであれば、荒らしのような印象を受けるという意味です。
「違う」と書くより、かくかくしかじかという理由で違うと書くのが、こちらのよい習慣であったのに残念だという意味でもあります。

3730れん:2009/01/14(水) 21:42:12
犀角独歩さん

仰る通りですね。

私の先の浅慮の投稿で、逆にご不快の念をお与え致しましたこと、深くお詫び申し上げます。

        れん拝

3731犀角独歩:2009/01/14(水) 21:44:23

れんさん

いえ、違いますよ。わたしは彰往考来さんの投稿について、記しました。

3732彰往考来:2009/01/15(木) 08:03:14

管理人さんへ、

スレッド3727の
「相変わらず、高飛車な書き方ですね(笑)」
というのは、

【禁止事項】
2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。もし、そのような表現や発言が見うけられた場合は、管理者がその都度、御注意申し上げると共に、その該当する表現、発言を含むレス全体を削除致します。

に該当しませんか?
注意喚起も、削除もありませんので該当しないというお考えでしょうが、それであればいたしかたありません。私は「該当する、少なくとも“非礼・無礼”な侮辱発現だ」と思っていますので見解が異なりますから、私がこの掲示板に参加することは混乱を招くだけと考えます。お世話になりました。さようなら。

れんさんへ、

貴殿からのご質問については別途回答します。上記考えから当掲示板に投稿するつもりはありません。

彰往考来

3733管理者:2009/01/15(木) 08:24:54

彰往考来 さま

>見解が異なりますから、私がこの掲示板に参加することは混乱を招くだけと考えます。

管理者の判断は、灰色です。もう少し成り行きを拝見させて戴きたいと考えていました。従来も、誰が見ても、真っ黒な場合は別として、少し経過を見させていただいてから、注意喚起をさせていただいております。

ご理解賜れますれば幸いに存じます。

3734彰往考来:2009/01/15(木) 23:13:04

管理人さま

本件は私に対する侮辱発言と考えています。
だれがどう思うと、私がそう感じたのですから侮辱発言以外のなにものでもありません。
よって、私は警告もしくは削除を求めているわけでそれ以上のなにものでもありません。
管理者として灰色というのは私は納得できないのですが、それはあくまで私自身の考えです。

管理人さん、あなたがどう思うかなのですよ。灰色ではないでしょう。白黒をつけなさい。逃げてはいけませんよ。
彰往考来が正しいのか、犀角独歩さんが正しいのか二者択一なのです。

私はあなたの決定に従います。犀角独歩さんが正しいならそれも可。

もっともそれなら私はこの掲示板から去るのみです。こんなことで議論している時間は私に残されていないのです。

私は昨年、肺線がんの申告を受けました。国立がんセンター東病院に入院しました。
残念ながらリンパ節にも転移しており手術できない状態でした。
抗がん剤と放射線治療を受け、なんとか職場復帰もしました。
でも私のステージでは5年生存率は20%です。どういうことかおわかりでしょう。

残された命をどう使うか、これは私の問題です。しかし、侮蔑発言を許すことはできないのです。

管理人さん、

もう少し、考えていただけませんか? この掲示板おかしくありませんか?
このような侮蔑発言に対して灰色だという姿勢を! まともではありませんよ。
その姿勢でどれだけのまともな人たちがこの掲示板を去っていったことがおわかりですか?

彰往考来

彰往考来

3735:2009/01/16(金) 03:44:49
 この掲示板は独歩さんには大甘である。

彼は自分が侮蔑されたと感じると即刻抗議と削除要請をするが、

自分が発する他を睥睨する傲慢さにはまったく無頓着であり、気がついてもいない。

削除要請は正当である。 (過去に数度投稿のご縁があった者の意見です)

大病見舞い申し上げます。為すことはひとつ。

3736犀角独歩:2009/01/16(金) 06:31:54

彰往考来さん

まずはお見舞い申し上げます。
心安らかに療養なさってください。

さて、今件に関する決済は管理者さんの一存ですから、わたしはどのような判断であろうとそれを受け入れるつもりです。これが大前提です。

あなたとのやりとりには、必ず加勢が出てきて、わたしを侮辱するということがずっと繰り返されてきました。それもいちおう甘受しましょう。

あなたは、わたしの発言が、禁止事項2に当たる、そうお感じなったと言うことでした。しかし、わたしが「高飛車だ」と言ったのは、むしろ、あなたの態度が問答名人さん、れんさんに対して、禁止事項といわないまでも失礼ではないかと思ったからです。

今回の質疑応答は、3714に質疑を発し、それに対して問答さんは、懇切丁寧に3715から3719、さらに3723と再三に亘り、長いコピぺを労をも惜しまずになさってくださり、そしてれんさんの過去のご投稿もご提示くださったわけです。
こうした学恩に対して、敬意を表すると共に大いに御礼を申し上げたそうした経緯があります。それをただ一言「違うでしょうね」と打ち消す様は、実に傲慢に映じた。よってわたしは「高飛車だ」と記したのです。

こちらの掲示板は、挙証をもって論じることを佳きルールとしてきました。それをただ一言を持って否定するような在り方にはわたしは納得できない。また、あなたは個人的にれんさんには応えるが、こちらでは投稿しないと言いました。こうした様は、単に知識の在る様を示すだけ示して、こちらへの挙証議論はしないということでしょう。そうした態度自体、こちらの掲示板の佳き有様を貶す態度であると映じます。

いずれにしても、今件はわたしの質問に端を発し、それに懇切丁寧に応じてくれた問答さんへの慈悲を前提に、それに対するあなたの発言、そして、それに対するわたしの発言という構造で判断されるべきことであると考えます。単にわたしの発言だけを切り出して、抗議するというあなたの在り方自体は、自分の発言がどのように映ったかという前提が欠落しているのではないかと、指摘することに留めます。あとは管理者さんのご判断に委ねることといたします。

3738管理者:2009/01/16(金) 08:01:21

彰往考来さん

>彰往考来が正しいのか、犀角独歩さんが正しいのか二者択一なのです。

「高飛車」というのは、「相手に対して高圧的な態度をとること」と言う意味ですが、それが、直ちに侮蔑発言になるかというと、これは灰色であると管理者は判断いたしました。当掲示板に言うところの侮蔑発言というのは、「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」と規定されていますが、直ちにそのどれかに該当するとは、管理者は判断できません。彰往考来さんの書き込みは、何の説明もなしに、「それは間違っているよ」と言われた訳ですから、客観的に見て、「高圧的」と見られても止むを得ない面が有ると思います。「高飛車な書き方ですね」との書込みに対して、「侮蔑発言」と直ちに判断する事は出来かねます。


愚さん

ご意見、今後の糧として拝聴させていただきます。


管理者の判断は、やはり「灰色」と言う外有りません。ご理解賜りたく存じます。

3739彰往考来:2009/01/16(金) 08:14:54

管理人さん、

ご趣旨は理解します。
ただ、灰色ということは半分は認めているということではありませんか。

>客観的に見て、「高圧的」と見られても止むを得ない面が有る
これはそのとおりですね。

>、「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」と規定されていますが、直ちにそのどれかに該当するとは、管理者は判断できません

少なくともスレッド3727の
「相変わらず、高飛車な書き方ですね(笑)」
というので、最後に“(笑)”が書いてある以上、非礼であり無礼であると考えます。
私にとっては灰色ではなく黒なのです。

本件で、議論応報はしたくありませんので灰色が最終決着ということであればそれに従います。

私はこの掲示板には今後投稿しないと申し上げましたが、れんさんのお考えに対して違うと言った以上、少なくともれんさんに対してはお答えする必要があると考えます。従って別途回答すると申し上げたわけです。

さて、この続きはどうしましょうか? 
喧嘩両成敗ではありませんが、3725と3727の双方を掲示板に対する非礼と認め、3731と3732を含め削除される、もしくは双方に管理人さんから警告を発するのであれば、本掲示板に、れんさんのお考えに対して私論を投稿します。

彰往考来

3740管理者:2009/01/16(金) 08:47:59

彰往考来さん

了解しました。別途、3725レスと3727レスに関して、管理者からのお願いスレッドにて、掲示板書き込みについてのお願いを申し上げます。

3741そううそ:2009/01/25(日) 21:35:14
こんばんは。
そううそです。

「四箇格言の功罪について」のタイトルで議論を進めて頂けないでしょうか?

現代人が納得できる日蓮教学 - 富士門流信徒の掲示板
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/

某所で学会員と思われる人と議論した時に当然のように他宗批判を行い、
その根拠として他力本願を取り上げていました。本来の他力本願の意味も
よく分かっていないようでした。他力本願自体はこちらのBBSの主旨から
外れますのでせめて、日蓮の四箇格言がどんなものか書かれていると良いと考えます。
折伏思想と絡んでいると思いますが、根拠となる経文や仏教的な思想なのか?
現代に通用するかどうか?

創価学会などの正宗信徒が四箇格言を持ち出し他宗を批判、あるいは
非難し、誹謗中傷する。地獄に堕ちるなどの脅迫を行うのは問題だと思います。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/485
>この問題は日蓮系では既成宗派も例外でない。
>なぜなら「四箇格言問題」が解決していないからです。

御願いばかりで申し訳ありませんが、富士門BBSの皆さんが色々と議論すると
見えてくる物があると考えます。

ではでは

3742あやめ:2009/02/23(月) 09:18:30
大石寺の宗規について教えて下さい。

正宗には本尊没収とかの罰則規定はあるのでしょうか。
つまり国法を犯した者。殺人とか巨額の詐欺事件とかを犯した者は
本尊没収に処するみたいな。あくまでも世法での話しです。
よろしくお願いします。

3743問答迷人:2009/02/26(木) 13:28:05

あやめさん

>つまり国法を犯した者。殺人とか巨額の詐欺事件とかを犯した者は本尊没収に処するみたいな。あくまでも世法での話しです。

創価学会では、刑事犯をよく除名にしますね。日蓮正宗では、そんな話は聞いた事は有りませんね。勿論、宗制宗規にもそういう項目は無かったと思います。

3744問答迷人:2009/02/26(木) 13:30:47

追伸です。

但し、創価学会でも、本尊を没収したという話は聞いた事は有りません。返してくれ、という要請ぐらいはするかもしれませんが。

3745宮本:2009/02/26(木) 18:38:43
横レスで失礼します
あやめさん
問答迷人さんへ
 補足的に説明しますと
 創価学会では、除名と決まった時点で、原則として
 統監(会員の管理手続のシステム)
の関係があって、本尊の返納を本人に求めます。(御本尊返納手続)
 理由のひとつは、当該会員が、監獄に収監されると思われる場合、長期の
 間、本尊が、ほったらかしになる可能性があるからです。

3746あやめ:2009/02/27(金) 16:35:22
問答迷人さん、宮本さん、レスありがとうございます。
そうですか、宗規にはないのですね。

>本尊が、ほったらかしになる可能性があるからです。

なるほど、たしかにその通りですね。

3747独善:2009/02/28(土) 23:29:03
まったく、その通り。完全にアウェーな掲示板です、普通の人は、ウンザリしています。

3748北斗☆:2009/04/28(火) 03:18:54
皆様、初めまして。

超初心者ですが、よろしくお願いします。

早速質問なんですが「日興」が「白蓮阿闍梨 日興」と名乗り出したのはいつ頃なんでしょう?
それから「本尊七箇相承」は、いつの時代の「遺文」なんでしょう?

是非教えて下さい。

よろしくお願いします。

3749顕正居士:2009/04/28(火) 20:54:12
>>3748
白蓮阿闍梨 祖滅後です。
本尊七箇相承 室町時代。口伝は「遺文」ではありません。

3750北斗☆:2009/04/29(水) 00:56:05
>3749:顕正居士さん


「白蓮阿闍梨」と名乗り出したのは日蓮死後ですか!

初めて知りました。

>口伝は「遺文」ではありません。
それは、失礼しました。

お答えありがとうございました。

3751北斗:2009/05/22(金) 21:22:56
皆様はじめまして。

初心者ですが、宜しくお願いします。

まさに「素朴な疑問」なんですが、あの大石寺は過去に「邪宗身延派」の本山に「参拝」しに行っていたとの資料をウェブ上で見つけました。

この情報って、信用出来ますか?

ネタ元は「地湧」なんですよ…
信用していいのか、悪いのか…

3752顕正居士:2009/05/26(火) 15:00:40
「日蓮正宗」という宗派が出来たのは明治の末年です。
ルター派、カルヴァン派に見られる「分派(sect)」ですが、日本ではめずらしい。
しかしその後にこの宗派が著しくカルト化したのは創価学会との抗争の結果です。
大石寺の坊さんもいまのところは立正大学で学んだ方たちがまだ主流ですが…。

3753宮本:2009/06/02(火) 01:32:06
 北斗さんへ
 大石寺が、身延派と交流していたのは、本当のようですね。
 ただし、教団の大きさといゆう点でみると、当初、身延派は、
 メジャーの大リーガーですけど
 大石寺は、マイナーリーグの球団のような違いじゃないのかな。
 で、邪宗身延派といゆう表現でなくて、日連宗の身延派といゆう
 表現にしてね。

3754通りすがり:2009/06/02(火) 13:08:39
身延派という表現はありませんね。
日連宗ではなくて、日蓮宗。
日蓮宗は日蓮宗であって、身延派という呼び方は、カルト化した大石寺系の
教団が言い出したものではないでしょうか。

3755れん:2009/06/02(火) 16:22:52
現在の日蓮宗は、一致派と旧本門宗・旧顕本法華宗の合同宗派ですね。
たしかに身延山を祖山とする点で身延派といえるかもしれませんが、日蓮正宗の様な単一門流の宗派ではないので、石山や創価の認識と、日蓮宗の実際は違うものと言えるでしょう。

3756彰往考来:2009/06/03(水) 07:52:02

創価学会では邪宗日蓮宗(最近は他宗という表現が多い)とか身延派という表現が多々みられますが、管見に入った限りでは石山・創価系を除く日蓮宗関連の書籍・文献で身延派という表現は見当たりません。
つまり現実には身延派という宗派は存在しないのです。3754でのご指摘どおりでしょう。

3757宮本:2009/06/03(水) 07:58:51
おっと、私の間違いですね。ごめんなさい。

3758犀角独歩:2009/06/03(水) 08:09:33

わたしは過去、数回、新潟県に講演・講師に行きました。敢えて、名前は伏せますが、会場となったとある寺院では入口の看板に「日蓮宗身延派○○寺」と書いてありました。

日蓮宗では、創価学会や顕正会への反論で「身延派なんかない」といったりしますが、実際は、上述したような例はあります。

ここの寺院住職がどんな意図で「身延派」と寺門に刻んだのかは確認しませんでしたが、取り敢えず、一例として、紹介しておきます。

3759プーさん:2009/06/04(木) 23:24:01
で、貴方はそういう宗派の誤った独善主義を掲揚したいのですか?

3760宮本:2009/06/05(金) 21:58:42
れんさん、彰往考来さん、犀角独歩さん今晩は。
>彰往考来さんへ
 僭越とは、思いますが、お体の調子は、どうですか。

今、他のサイトにある彰往考来さんの論文、
拝見していたところです。ちょいと私の頭では、なかなか理解できていない
ので、もう少し時間をかけ、何度が拝見させてもらいます。

>犀角独歩さんへ
 久しぶりです。へー新潟県に講演とは、いいですね。
私の友人の作家さんも、方々に講演に行っていますが、
言った先での、おもしろい話やら、なんだかんだと
話しています。もちろん、私の方は、碩学でもなく、
一書を世に出したわけでもありませんが。

3761彰往考来:2009/06/06(土) 11:04:05

>3760 宮本さん

ご心配をおかけしました。今、調子はよく、薬ももう飲まなくなり経過観察の最中です。
医師からはアルコールも解禁となっています。ただちょっと疲れやすいので無理をせずにというところです。

彰往考来

3762犀角独歩:2009/06/06(土) 21:19:49

宮本さん

新潟への講演、たぶん、2度と行くことはないと思います。

もし、行くことがあれば、衆生無辺誓願度を文字通り、日蓮宗は実行している証拠ということでしょう(笑)

3763通りすがり:2009/06/06(土) 22:09:04
あれ?犀角さん日蓮宗と何かあったのですか???

3764北斗:2009/06/08(月) 12:58:32
3753:宮本さん

やはり大石寺は身延門流と交流があったのですね。

過去に交流がありながら、大石寺は「邪宗身延派」とか言うんだから、私からすると「呆れて」しまいます。

>で、邪宗身延派といゆう表現でなくて、日連宗の身延派といゆう 表現にしてね。


この「邪宗身延派」と言う表現は、上記のような意図から使ったものです。

他意はありません。


3756:彰往考来さん、3755:れんさん、3754:通りすがりさん

身延派と言わないのは、しっかりとは私は「認識」していませんでした。(但し、門流は知っていました)てっきり「通称」として日蓮宗内で使われているもんだと思ってました。

ご指摘ありがとうございます。

3765顕正居士:2009/06/08(月) 17:36:39
日興門流は八本山の中の五山が富士にあるので場所をとって富士門流ということはあります。
「富士派」は大石寺が日蓮宗興門流から脱退し単立した際に日蓮宗富士派と称した(だから
富士派=大石寺派で富士派=富士門流とはいえない)。対して日蓮宗身延派という呼称は
歴史上にありませんが、日向門流を場所をとって身延門流ということはできます。その場合には
あくまで日向系だけを指します。
日蓮に始まる宗派の歴史上の名称である「日蓮宗」と法人名を区別する場合には「単称日蓮宗」
といいます。江戸時代にすでに身延山は大勢力でしたが、近代に単称日蓮宗が日蓮教学の
主流を制したのは金沢の充洽園学派出身の優陀那日輝とその門弟たち(日薩・日鑑・日修)の
活躍によります。宗学を近代化したこの学風を「大崎教学」と称します。立正大学の主流の教学
です。ただし浄土真宗両派と比較すると教学の近代化といっても相当な見劣りがあります。

3766ケン:2009/06/09(火) 18:22:08
顕正居士さん

>3765
>宗学を近代化したこの学風を「大崎教学」と称します。
>・・・ただし浄土真宗両派と比較すると教学の近代化と
>いっても相当な見劣りがあります。

とのことですが、「教学の近代化」とは、具体的には
どのようなことを意味するのでしょうか。
仏教(宗教〕一般について、あるいは、日蓮教学に
おける「大崎教学」での近代化の内容や、浄土真宗両派に
おける近代化の内容について、基礎的なことをご教示いた
だければ幸いです。

ボクは、30年ほど前の日蓮正宗創価学会時代に
創価学会教学(教学?)をほんの少々かじった
ことがある程度の初心者で、それ以降は、
特に勉強はしていませんので専門的なことは
理解できません。恐縮ですが、とりあず、
基本的なことのみで結構ですので、宜しく
お願いいたします。

3767顕正居士:2009/06/10(水) 18:16:34
教学の近代化とは形式的には正典の編纂、客観的な宗学の研究を行なう機関の設立、
内外の研究者の論文を掲載する学報の発行でしょう。それぞれ昭和定本、宗学全書、立正大学、
大崎学報として実現しています。
これらの形式の実現には前提として科学的思考が必要です。16世紀には西洋の天文と地理の
知識が伝来しましたが、江戸時代の仏僧は須弥山説を墨守し続けました。知識を求める人達は
儒学、洋学、国学を学び仏学は顧みないようになりました。
しかし儒洋国三学の科学的思考の影響下についに富永仲基と服部天遊が現れて科学的仏教学
の端緒が開かれました。富永の『出定後語』に依って迷信的仏教を批判した著に平田篤胤の
『出定笑語』があります。優陀那日輝は仏書を読む前に平田氏のこの書を読めと奨めています。
日輝は仏縛、祖縛、自縛の三縛を離れよと説きました。正しい知識に至るためには釈尊や日蓮の
説、また自己の信念にも捉われない必要があります。彼の宗学上の大功績は立正安国論を
全面的に否定したことです。徳川泰平の世に安国論は無用であるが、鎌倉時代にも無用だったと。
安国論は関西の宗教戦争の論理を関東に輸入しようとした書です。北条氏の信仰自由の政策に
よって関東は比較的に平和であったが、関西は信長と秀吉の比叡山、本願寺、雑賀寺等の討伐
まで宗教勢力が戦国大名並の武力を備えていました。
日輝は19世紀前半の鎖国下の仏僧として実に科学的思考ができていたと思います。(続きます)。

3768ケン:2009/06/10(水) 20:37:23
顕正居士さん

具体的で分かりやすい解説を頂き、ありがとうございます。
優陀那日輝の名前は記憶がありますが、立正安国論を否定した方だったとは、吃驚しました。
続編を楽しみにしております。

3769犀角独歩:2009/06/11(木) 18:03:06

TT さん

はじめまして。本尊を買うということでしたら、例えば日蓮宗新聞の売店では、日蓮宗教師の紹介があれば、宗定漫荼羅のレプリカは買えるんだそうです。
日蓮の筆っぽい掛け軸型ならば、仏壇屋で買えます。

お示しの安82、要は大石寺が言うところの紫宸殿(師資伝)本尊は、レプリカはないとは思います。

いつであったか、顕正居士さんが、該当のサイトから画像をダウンロードして、本尊とする風潮が海外にあるというお話をしてくださいました。
善い紙を選んで、表具をしてもらう方法もあろうかと存じます。

実際、わたしが懸けている本尊は大縫さんが、質のいい印刷をされた者を表具師に依頼して仕立てたものをくださったものです。安92本能寺所蔵、弘安3年5月8日本尊の実寸より小振りのものです。

日蓮宗では、坊さんに依頼して、開眼、裏書きをしてもらって、正式な本尊とするのだそうです。わたしは、その必要を感じないので、そのまま懸けました。
そうした法儀を望むのであれば、どなたか願いを聞いてくれる坊さんをお探しになればよろしいかと存じます。

3770犀角独歩:2009/06/11(木) 18:04:23

TTさん、こちらは、管理者さん用のスレなので、以下に移動しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3769

3771顕正居士:2009/06/11(木) 23:39:28
(続き)新政府の神仏判然令と三條の教憲はさすがに仏僧達に危機感をもたらしました。
仏教は基本的に現世の事柄に関わらないので人々が信仰する神々を守護神として内部に
取り込むことによって利益や祟りの信仰を成り立たせていたからです。それが強制的に
分離されかつ神々のほうが仏菩薩の上に立つことが明示されました。
仏教が迷信でないことを示すしか生存の道がないと考えた僧侶達は西洋の仏教学を学び
あるいは戒律を復興し宗派の改革をはかりました。単称日蓮宗もいちおう近代化しました。
しかし明治以後、今日まで名高い仏教学者というと真宗両派の人が圧倒的に多く、
曹洞宗がこれに次ぎ、日蓮宗各派の人というと宗学者以外には実に乏しいのです。
これはむろん勢力の違いはあります。宗派の実勢は僧侶数でかなり正確にわかります。
現在、単称日蓮宗の僧侶は約8千名で日蓮正宗の10倍、日蓮諸派合計の8割を占めます。
しかし真宗大谷派はその倍、真宗本願寺派は4倍、真宗九派合計すると実に8倍もおります。
分派無しの曹洞宗は約倍です。日蓮宗や日蓮諸派は三大宗派の中では相当に弱小です。
とはいっても勢力の問題だけではなく、日蓮教学自体が真宗教学のようにインド仏教からの
発達として合理化ををはかれるような状況にないのもたしかに見えます。

3772ケン:2009/06/12(金) 08:13:00
顕正居士さん

ありがとうございました。

関連質問として、もう2点だけご教示下さい。

1点目は、
>日蓮教学自体が真宗教学のようにインド仏教からの
>発達として合理化をはかれるような状況にないのもたしかに見えます。
とのことですが、ここで「状況」というのは、何か教義・教学の性格的な
面で本来的に差異があり、日蓮教学は、合理化ないし進化・発展を困難に
するような教義的要因をもともと含んでいるということなのでしょうか。
それとも、宗派がおかれている何らかの社会的/経済的環境面とか、
宗派内部の組織的な体系面とかに何か問題があるということなのでしょうか。

2点目は、仏教系研究者・専門家の多くが、現在目指している研究の方向とか、
注目しているトピックスのようなものがありますか。
あるいは、ここ四半世紀ないし半世紀ほどの間に、研究者・専門家に
注目された著名な研究成果はどのようなものでしょうか。

宜しくお願いいたします。

3773顕正居士:2009/06/12(金) 15:51:36
親鸞には『教行信証』、道元には『正法眼蔵』という大著があり、すでに宗祖において十分教義が
安定しています。対して日蓮には本尊抄など多少理論的な著があるものの、遺文の大半は別の
五時のごり押しと久遠実成があるから本門が迹門に勝れるという理屈に尽きています。
別の五時をごり押せば法華観経同時で終ってしまう。本門に久遠実成があるからといって本門の
実相なるものが別にあるのか?日蓮宗が成立するための根拠が日蓮の遺文には明らかでない。
室町時代の大勢は天台宗の新教義を学び日蓮的にアレンジした口伝を作り、本門独自の実相を
述べ、他宗批判を一時の方便として後退させる方向に行った。この完成態が『御義口伝』であり、
日蓮諸派の実際の主要聖典になった。日蓮教義もいちおう安定をみたのですが、近代の文献学
はこの著が宗祖に遡れないものであることを示しました。しかし宗祖の段階では教義が未完成で
あったことを素直に認めるべきでしょう。日蓮宗の場合は宗学の議論に精力を費やし、仏教史上の
地位の考察にまで及ぶ余力がなかった。
日本仏教の研究の新動向としては鎌倉新仏教なるものの過大評価の修正、旧仏教の再評価、
また親鸞、道元、日蓮ともに本覚思想の発達過程で現れた思想家として内容上大差がないものと
認める方向があります(SGIの英訳日蓮遺文の翻訳者ジャクリーン・ストーン氏など)。
インド仏教の研究の新動向としては大乗仏教が部派仏教から発達したものとする説が有力に
なって来ています。

3774ケン:2009/06/12(金) 19:14:27
顕正居士さん

ありがとうございました。

私の基礎学力がもともと不足しているため、
ご解説を完全に理解するには至りませんが、
問題の所在は非常によく分かりました。
また、最近の動向についてもありがとうございました。

3775TT:2009/06/12(金) 21:56:28
ご指導ありがとうございます。
本能寺の本尊は、写真集から印刷されたんですか?

3776TT:2009/06/12(金) 22:03:10
犀角独歩 様

重複してしまい申し訳ありません。
私も、日蓮仏法を信じてやっていますが、大石寺教学では
もう話にならないことがわかりました。
本能寺所蔵の本尊のレプリカは、入手する方法はありますか?
また、失礼ながらご指導賜りますよう、御願いを申し上げます。

3777TT:2009/06/12(金) 22:15:43
犀角独歩 様

私も、同じく開眼や相伝などは、信じておりません。
坊主を堕落させる教義であり、聖祖の意でないことが明確に把握できます。
どうか、私はまだまだこれから勉強しなければいけないと思っていますので
どうか、これからもご指導、ご鞭撻、賜りますよう御願い致します。

3778犀角独歩:2009/06/13(土) 06:02:39
TTさん

こちらは、管理人さんのご意向で「さん」付け統一です。
わたしもそのようにいたしますので、お気軽にどうぞ。

さて、お尋ねの件ですが、所蔵の複製は大縫さんから頂戴したもので、特に販売されていたものではありません。

日蓮仏法については、問答名人さんが運営されるこちらの掲示板で、価値ある議論が多くなされてきました。

また、碩学の顕正居士さんのご参加もあります。
わたしも及ばずながら、お応えできることは何なりとお応えさせていただく所存です。

3779TT:2009/06/13(土) 10:38:26
管理人さん
大縫さん
顕正居士さん
犀角独歩

これから、お世話になります。
TTでございます。
教学について、ご指導いただければ幸いでございます。
何卒、伏してお願いを申し上げます。

3780TT:2009/06/13(土) 10:40:27
犀角独歩さん

手前に犀角独歩さんに、さんが抜けてしまいました。
大変に申し訳ありません。

3781TT:2009/06/15(月) 07:03:52
勤行というのは、どのようにすればいいのですか?
わかる方いらっしゃいましたらご指導宜しくお願いします。

3782そううそ:2009/06/17(水) 02:18:14
こんばんは
TTさん
はじまして、ハンドル名、「そううそ」といいます。

 そのうちどなたかがきちんとコメントしてくれると思いますが
あくまでも私個人の考え方を少しだけ書きます。

経文とは何なのでしょうか?
それを読む意味って何でしょうか?

経文を読んで書かれている内容を参考にして自分で考え、
困っている人や悩んでいる人を目の前にして救いの言葉や行動を
「与える」事が経文を読む目的だと私は考えています。
様々な経典には過去、人が納得出来たり人が救われたという
事実に近い記録や妄想、あるいは思想が書かれていると思います。

いろいろあると思いますが、一つ言えば病気の人がいれば
薬で済ませるか手術して直すかの手順書みたいなものでしょうか?

この病気にはこの薬。
この臓器の手術方法はこの様に。
とある不安や悩み事を抱えている人には「だいじょうぶだよ?」「こんな経験をした人がいるよ?」

対処、対策、言葉はなんでも良いですが、助け方を知らないよりは知っていた方が良いと思います。
ですから経文を読む目的は 「知ること」「記憶すること」 ではないでしょうか?
経文を日々読むという事で宗教的な意味としては次世代にも
経文の内容(良き宗教思想)を教える為、というのもあるのでしょう。
ですから現代人が他人を救おうと思って意味も内容も知らないで
漢文と日本語読み(?)の中間的な法華経読誦はほぼ無意味だと思います。

勤行で「人を救うという日々、決意をするのだ!!!」という人もいるでしょうが、
強く言う人であればあるほど、私はそこに不健全を感じます。

以上、私の勝手な考えを書きました。
原始仏教や日蓮遺文、宗教的な意義はどなたかがコメントをして下さると思います。

3783ケン:2009/11/07(土) 22:41:11
「宗要集雑帳私見聞」(称名寺(横浜)金沢文庫保管)なる書物は、
有名なものなのでしょうか。
また、この掲示板で話題になったことがあるのでしょうか。

本日、神奈川県立歴史博物館の「鎌倉の日蓮聖人」展を見てきました。
展示品の中に、「宗要集雑帳私見聞」という書物があり、解説によると、
「日蓮が川崎の竹円房という僧侶と最明寺殿(北条時頼)の御前で論議を
おこない、言葉に詰まって負けとされたという記事を含む史料。・・・」
とあります。
簡単に教えていただければ幸甚です。

3784独学徒:2009/11/08(日) 01:19:03
ケンさん、はじめまして。
「宗要集雑帳私見聞」につきましては、2年ほど前に冨士教学研究会のブログで取り上げました。
再表示を試みましたが、上手くいきませんでした。
「宗要集雑帳私見聞」は14世紀初頭の識語がありますので、日蓮滅後30年〜40年の間に書されたもののようです。
文中には「報恩集(報恩抄の事)」など日蓮の著作も出てきます。
川崎の竹円房との出来事が事実であったかどうかは検証が出来ていませんが、鎌倉末期の天台文書にそのような記述があることは事実だとおもいます。
たしか金沢文庫研究かなにかに翻刻されていたと思います。

3785ケン:2009/11/08(日) 10:52:20
独学徒さん
ありがとうございました。

ところで、極めて初歩的な関連質問で恐縮ですが、
日蓮が、直接、北条時頼又は北条時宗、ないし幕府要人と面談した史実は、
どの程度確認できているのでしょうか。
どなたかお教え下さい。

3786独学徒:2009/11/08(日) 20:39:44
「如前迄両度諫国主最明寺殿。任不借身命之経文不簡念仏・真言・禅・律・天台・花厳・三論・法相等之諸宗、散々破之、散々責之。」(前の如く両度に迄びて国主最明寺殿を諌む。不惜身命の経文に任せて念仏・真言・禅・律・天台・華厳・三論・法相等の諸宗を簡ばず、散々に之れを破し、散々に之れを責む。)

以上は、時期的には「宗要集雑帳私見聞」の披見を経てから書されたとも推測できる、偽書「法華本門宗要抄」の一文ですが、立正安国論奏上の他にも最明寺殿との接見があたっとも思える記述だと思います。

御真蹟では「故最明寺入道見参御書」(定本456頁・御書全集未入集)に、「為天魔所為之由、故最明寺入道殿見参之時申之。又立正安国論挙之。」(天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時之を申す。又立正安国論之を挙ぐ)とあり、立正安国論奏上の前に最明寺殿との接見があった事が記されています。

東鑑等は検索していませんので、ご存知の方はご教示をお願い致します。

3787ケン:2009/11/09(月) 13:04:12
独学徒さん

ご面倒をおかけしました。
ありがとうございました。

3788彰往考来:2009/11/10(火) 07:57:56

独学徒さん

>3786 東鑑等

東鑑には日蓮関連の事項について記載はなかったと記憶しています。

3789ケン:2009/11/14(土) 17:26:15
彰往考来さん

ありがとうございました。
ここ数日、バタバタしていてお礼が遅れてしまい、大変失礼しました。

東鑑及び真蹟遺文から判断する限り、時頼とは少なくとも1回は会ったことが
確認できるだけであり、時宗と会ったことは確認でないことが分かりました。

ボクの中の日蓮像が、またまた、若干小さくなりました。
いずれにしても、ありがとうございました。

3790北斗:2009/11/24(火) 04:46:32
実に素朴な疑問です。

石山や学会信者さんの「結婚式」って、どんな感じなんですかね?

まさか「教会」だの「神社」じゃあしないだろうし(笑)

疑問に思ってしまいました(笑)

3791顕正居士:2009/11/24(火) 23:32:54
今の日蓮正宗では寺院で仏式で行います。
仏式婚礼は田中智学居士がはじめたものです。
実は神前婚礼も大正天皇のご成婚がはじめとされます。
創価学会員は会館挙式ですが、キリスト教式でやる人も
最近はいると聞きます。

3792幻明影偲:2009/11/25(水) 00:02:44
顕正居士さん

創価学会員の結婚式は夫婦共々、会員であれば会館挙式を行う事例もあるようですが、片方が非会員の場合(特に女性が非会員の場合)海外でキリスト教の儀式に則り挙式を行う事も多々あるようです。
やはり時代の変化を感ずる昨今でございます。
また学会の会則にも形式的な事をなかったと記憶しております。

3793北斗:2009/11/25(水) 12:36:26
顕正居士さん

>今の日蓮正宗では寺院で仏式で行います。


やはり、そうですか…。

まぁ、門徒同士なら問題にならないでしょうが、違うとなると「揉める原因」となりそうですね。




>創価学会員は会館挙式ですが、キリスト教式でやる人も
最近はいると聞きます。




これまた、「ホーボー」じゃないっすかね?

確か、神父に言われるはず…

「神の前で云々…」と。

ま、学会だから仕方ないっすね(笑)

3794幻論乙坊:2009/11/25(水) 22:12:51
家人の結婚式でしたが、かれこれ30年前後となります。
私以外の親兄弟は創価学会員で在ると同時に石山信徒で在った訳です。

式は総合結婚式場で執り行いました。
そこに僧侶がお見えになると云った形式でした。

式次第は当然(自分の事でもないし年月が経過している)の如く覚えておりません。

とあるHPで以下のものが御座いました。

来賓・新郎新婦・式衆着席
②開式宣言
③初楽・道場偈・三宝礼
④勧請
⑤開経偈
⑥読経(自我偈)
⑦奉告文(ぶこくぶん)
⑧念珠授与
⑨祖訓
⑩宣誓
⑪中楽
⑫盃礼
⑬授証(婚姻の儀式を挙行したことを証す)
⑭証明
⑮四誓・奉送
⑯納楽
http://www.town1.jp/index.html

私が記憶しているのは
上記⑥読経(自我偈)
では無く、助行のち正行を全員で唱えた事。
⑫盃礼だろうが
三々九度ぐらいです。

⑧念珠授与
等は無かった様に思うのですが?
いや、助行・正行・三々九度だけであったように記憶している。
が、まさかそんな事も無いでしょうね。
しかし結構短時間であった様に記憶しています。

「結婚式は、御本尊の御前で僧侶の導師のもとに読経・唱題し、家内安全と子孫繁栄、
一家和楽をご祈願します。
その後、三々九度の盃を交わし、末永い夫婦の契りを結びます。」

法華興員の心得より

愚考ですが
三々九度は神道の流れなんでしょうか「三献の儀」?
そしてあの盃に注ぐのは御神酒と云うのか?
まあ処変われば何とやらで呼称も違うのでしょうね。

3795富士川一郎:2009/11/26(木) 16:51:36
三々九度は、本来は神道でも仏法でも無く、日本古来の杯ごとから来ております。
親族固めの杯、任侠世界の杯など色々ありますが、要約すると、1つの杯を共同で呑みまわすことにより、契りを結ぶことです。
三々九度の起源は、応神天皇の逸話にあります。
応神天皇が山城の国で出会った美女に、その名を尋ね彼女は“矢河枝比売”と答えたため、(日本古来では女性が名前を告げるのは求婚に応じる意があります)天皇が翌日その家へ行ってみると、彼女の父は娘に天皇に仕えるように諭し、彼女はご馳走を用意し天皇に御盃を捧げ、天皇は歌を歌われたという話だそうです。
現今の正式な三々九度は以下のようになります。
一の杯・・・新郎〜新婦〜新郎
二の杯・・・新婦〜新郎〜新婦
三の杯・・・新郎〜新婦〜新郎
これらの順番に、三度の杯ごとが、三回行われるので「三々九度」となります。
実はこの順序は、イザナギとイザナミ逸話から来ております。
記紀の国生み神話にて、イザナミ(妻)から先にイザナギ(夫)に声をかけて、失敗し、夫から先に声をかけるようにやり直したと記載されております。
これが元で、日本では古来この順序は重要となっております。

もっとも今では神式ですらここまで厳格に守らず、略式を行うことが多いそうです。
日蓮正宗は今でもここまでやるので(杯ごとごとに御宝前に進むので時間がかかるんだが)、あまり若者には受けず(多少イラッとするそうです)、略式にする動きもあるそうですが、ほとんどの寺院は今でもこのように行っております。

さて、本来はここに親族固めの杯が行われるんですが、最近の核家族傾向により、これは省略されることが多いようです。

3796幻明影偲:2009/11/27(金) 13:13:17
曼陀羅を何故板に刻む風習が出てきたのか最近考えています。        石山だけでなく、身延や各山にもあるわけで位牌などもそのような経緯があったから板に刻むようになったのか、考えている所存です。

3797阿仏棒:2009/11/28(土) 10:11:53
そもそも日本で結婚式を現在のようにとりおこなうのは近代になって
キリスト教の結婚式の影響を受けてからで、
それ以前は親類縁者があつまって飲み食いして御仕舞というような有様だという話を
以前どこかで読みましたぞ
つまり坊主も神主も出番なし。

個人的にはキリスト教会、だってカッコいいし、賛美歌を皆で歌ってそりゃあいいものです。

3798阿佛棒:2009/11/28(土) 10:33:49
お酒大好き日蓮
というのを子供の頃、どこかで聞いており、坊さんはお酒飲んじゃだめじゃなかったっけ?と
いうのが長年の疑問というか、私の中では日蓮酒豪伝説になっているのですが
本当の所どうなんでしょうか?

3799顕正居士:2009/11/28(土) 18:44:11
不飲酒戒は五戒の一つで、仏教はイスラームと同じに禁酒を重視しています。
しかし日蓮当時の比叡山は一大軍事勢力とすでになっており、不殺生戒を
放棄している以上、戒律は全く空文に帰していました。

3800ケン:2009/11/28(土) 21:07:40
曼荼羅(本尊)の形式についての初歩的質問があります。

かなり昔に、大石寺(常在寺)から下付して頂いた曼荼羅では、中央下部に「日蓮」とその花押が記され、実際の作者の記名は、中央からずれた位置にあります。
しかし、日朗、日像などの曼荼羅では、中央下部に、実際の作者名(日朗や日像)とその花押が記されているものが残っているようです。

そこで、質問ですが、中央下部に「日蓮」と「花押」を記す形式は、日興門流だけの特徴でしょうか。
日興自身の作になる現存曼荼羅も、全て同じ形式でしょうか。
日興門流では、その形式が代々引き継がれて現在に至っているのでしょうか。

一方、朗門などでは、日朗や日像の形式が代々引き継がれて現在に至っているのでしょうか。

日興門流の中には、現在は、日蓮宗に所属している寺院があると思いますが、それらの寺院が、現在、信徒に下付する曼荼羅(本尊)の形式は、どちらの形式でしょうか。

宜しくお願いします。

3801独学徒:2009/11/29(日) 11:39:24
ケンさん、

主題直下に「日蓮在御判」と記すのは、身延系でもままみられますが、歴代々と継承されている門派としては、富士門流の他に什門があげられると思います。

富士門流においては、現在の所属の宗派によらず主題直下は「日蓮在御判」と記すのが通例です。

但し新規の信徒に本尊を書写する例は稀です。
現在の日蓮宗内の富士門流では、末寺経由で北山本門寺に申請し興師曼荼羅の御形木(製版印刷・妙師授与)の授与を受けるようです。
単立の安房妙本寺は直接本山に相談して興師曼荼羅の御形木(こちらも写真製版・郷師授与)の下付を受けるようです。

3802犀角独歩:2009/11/29(日) 13:37:28

横レス、失礼します。
今回の独学徒さんのご投稿を拝見し、何故、創価学会が興門由緒寺院に接近するのかが分かったような気分になりました。
彼らは、頒布する本尊を日興書写に切り替えたく、その原本を提供する寺院を、巧妙な手段を使って籠絡する作戦に出ているわけですね。
学会僧、創価大の学者の出入りは、そんな危険信号なんでしょうね。

3803幻明影偲:2009/11/29(日) 14:16:01
曼荼羅についてはこだわりを持つ理由もなく、また根拠もありません。
それは一宗派の問題だからです、
ですので、疑問に感じられましたら、日蓮の曼荼羅に尽きると思います。

私は現在は仏壇の中に、ありませんが安82、92、93番の曼荼羅(板)

を所有しています。

しかし仏壇にあっても然程、影響はないと存じます。

3804ケン:2009/11/29(日) 14:33:21
独学徒さん

ご丁寧にご教示いただき、ありがとうございました。

ところで、身延系寺院で、仮に、本尊の書写が新たに必要になった場合、日朗や日像の曼荼羅の形式のとおりに、主題直下には、書写される方が記名されるのでしょうか。
身延系のことを此処で質問するのも変ですが、ご存知の方がおられれば、宜しくお願いします。

3805独学徒:2009/11/29(日) 18:08:54

ケンさん、

まず身延系と不適切な表現を用いまして失礼致しました。
朗門系でも貫首によっては主題直下に「日蓮在御判」と記す場合もあり、また直接自著花押を記す貫首もいますので一様ではないと思います。
富士門流のように、そこに強いこだわりがあるわけではないと思います。


犀角独歩さん、

創価学会が興門由緒寺院に出入りしていることは初めて知りました。
しかし安房妙本寺には数年来学会僧のUFO氏が虫干に多くの信徒をバスで連れてきており、自身も内陣に着座する高待遇を受けています。
この点は正直安房妙本寺が何を考えているのか良くわかりません。
旧来の兄弟本寺である小泉久遠寺の貫首や、古文書研究では密接な関係にある興風談所も外陣の檀家総代と同じ並びに着座していますが、学会僧が内陣にいるのはいったいどういうことなのかと将来を危惧します。

3806ケン:2009/11/29(日) 19:09:46
独学徒さん
よく分かりました。ありがとうございました。

3807幻論乙坊:2009/11/29(日) 19:20:47
先日まで開催されていた「日蓮と法華の名宝」に於いて首題直下で目に止まった出品物が御座いました。

123(出品番号)日蘅等一遍首題本尊 桃山時代 天正18年(1590)

日蘅師は本圀寺 第16代貫首です。
本、一遍首題本尊は来住法悦に授与され、氏は岡山の豪商で日蘅師と知己であったそうです。
全21の一遍首題が上下二段に書かれた様式となっており、どれも首題直下に寺院名と名が記されています。(花押も記されていたと思うのですが?)

上段中央に日蘅師があります。
上段左より「本禅寺・本隆寺・本法寺・立本寺・頂妙寺・本圀寺・本満寺・要法寺・妙蓮寺・妙顕寺」

下段左より「日元・練意・日典・佛光寺・(方+ム?)法寺・本住寺・蓮昌寺・孝?・?・妙伝寺・教蔵院」
中央の本圀寺より右の二つ隣に要法寺、日賙と認めました。
日賙師の在位期間を石山で見ると日主師となりますか。
日主の後の日昌師より石山に続けて九代登座されますが、要山では首題直下に蓮祖以外の名を入れるのに然程喧しく無かったのかもしれませんね。
造仏もこの頃には在ったようですし、又他門流との交流も頻繁に行なわれていたのかな?
と、愚考するしだいです。

京、日蓮法華に於ける最大門流寺院の妙顕寺が上段右端に追いやられているのと、下段の妙伝寺にも目を見張りました。

3808独学徒:2009/11/29(日) 19:54:44

幻論乙坊さん、

ご無沙汰しております。
私の管見では要山歴代で曼荼羅書写を行っている貫首は、みな主題直下は「日蓮在御判」となっています。
賙師についても例外ではなく、かつて大縫さんが談義所でご投稿下さった通り、主題直下は「日蓮在御判」でした。
件の一遍主題本尊は、本国寺貫首の働きかけによって行われた「寄せ書き」的な主題集であり、この一点をもって要山の曼荼羅書写を云々は出来かねるものと判断いたします。
本国寺はこの時期、一致派内でも身延山よりも影響力を持っていたといわれますね。
件の一遍主題本尊のように、豪商や権力者を味方につける手腕に長けた貫首・僧侶が多くいたのではないでしょうか。

3809ケン:2009/11/29(日) 20:09:30
幻論乙坊さん
ボクも京都国立博物館の展覧会は、11月初旬に用事の途中でのぞきました。
展示目録(解説本)を買ってこなかったのですが、ご紹介の出品物には、
かすかに記憶があり、要法寺があるかなと探したことを思い出しました。
いずれにしても、ありがとうございました。

3810ケン:2009/11/29(日) 20:39:14
独学徒さん
3809は、独学徒さんの3808のご投稿があるのを知らずに投稿しました。
3809の通りですので、幻論乙坊さんからご紹介のあった出品物の概要は覚えています。
ですから、独学徒さんが3808でご説明いただいたとおりの「寄せ書き」的な主題集であるとのご説明も理解できます。
以上、念のため、お礼と共に申し上げます。

3811犀角独歩:2009/11/29(日) 23:25:35

亀レスで恐縮ですが、3800でケンさんが疑問を呈された門下一般信徒に下付される「本尊」について。

以前、独学徒さんが、写真をアップされた「伝日蓮図示」漫荼羅の印刷を下付するのが一般ですね。

この印刷物は、身延山久遠寺の売店や、仏壇店などで購入できます。
特に寺と関わりない方は、仏壇を買ったときについてくるこの印刷物を本尊として仏壇に飾るのでしょう。

少し寺と関わりがあれば、住職に裏書きを頼みます。いわゆる「開眼」です。
また、住職の紹介があれば、日蓮宗新聞の売店で「臨滅度本尊」のレプリカの掛け軸が購入できます。日蓮宗の見解では、この印刷物は美術工芸品。しかし、教師が開眼すれば「本尊」ということになります。

百日荒行五度万行で漫荼羅の書写相伝があるということでした。
この相伝に基づけば、門下一般に通用する書写漫荼羅です。
しかし、別段、相伝が無くても、書く人は書きます。
ちなみに、わたしは手書き漫荼羅本尊を2舗、仏像は3体。それぞれ、開眼を経て、頂戴しています。

大石寺・創価学会・顕正会などでは、漫荼羅は個人1体が鉄則ですが、これは彼らの勝手な取り決めであって一個人に複数の漫荼羅を授与している例は、上古より珍しいことではありません。

雑駁ながら、五老門下では、以上のような本尊授与の様となっているようです。

3812犀角独歩:2009/11/29(日) 23:30:47

3805 独学徒さん

ご返信、ありがとうございます。

わたしは、こうした様に大いに危惧を抱いています。
重宝虫払に集まってくる人々の「謗法同座戒め」にもっと矜持を質すべきであると考えます。

集まる人間を容易に受け入れないよう寺院僧俗の注意を促したいと存じます。
お気をつけください。

3813幻論乙坊:2009/11/30(月) 00:08:46
独学徒さん
今晩は。

>この一点をもって要山の曼荼羅書写を云々は出来かねるものと判断いたします。

〇全くおっしゃる通りと認識致しておりまして、要山に於ける曼荼羅(諸尊勧請を有する)書写で
首題直下に歴代貫首の名が記されたものが散見出来るか、どうか把握は致しておりません。

先の展覧会に於いて、他門派と連名で一遍首題を揮毫し、その直下に名が記されていたものを拝見した。
一知半解の徒である私は驚いた。と、云った趣旨のものでした。

こちら関西はご存知の如く像門が多く、道路脇の題目塔で一遍首題の直下に蓮祖以外の名を見掛ける事は
容易い事です。(東日本でも同じかな)

首題直下に蓮祖以外の名に違和感を覚えるのは石山系の家系に生まれた処に起因するもの
か?と、思惟いたしております。

像門(朗門)では何ら違和感のないものなのではないか?
本尊勧請様式で十界互具を採る興門派ですが、一塔両尊、一遍首題も採る門派の方との
本尊に入れ込む感情は違ったものなのかな?
と思うものです。






と愚考致すしだいです。


何かを語る時、論証・証憑を示すに越した事はない訳ですが

3814幻論乙坊:2009/11/30(月) 00:24:54
校正し忘れました。

>と愚考致すしだいです。
〇を削除し忘れました。

>何かを語る時、論証・証憑を示すに越した事はない訳ですが
〇何かを語る時、論証・証憑を示すに越した事はない訳ですが、像門(朗門)では何ら違和感のないものなのではないか?・・・・

とするものでした。

3815犀角独歩:2009/11/30(月) 08:06:11

先に記した五度万行、身延荒行堂で受けた漫荼羅相伝の資格を持って書すという点ですが、わたしの mixi のフォトに、神奈川県「円徳寺(日良師)」漫荼羅を載せています。三体の中央大幅が、それです。

http://mixi.jp/view_album.pl?id=7504585&amp;owner_id=14027330&amp;mode=photo

筆法、諸尊、詳しいことは覚えていませんが、所謂本則とは何点か違ったところがありました。

個人的には、こうした相伝を受けた人が書く漫荼羅は、相伝書などでみる筆法に忠実なのだろうと予測していたのですが、むしろ、逆で、相伝を受けているからこそ、相伝の基本は基本として、相伝師という自覚立場から、独自境地を漫荼羅世界に展開するものだと感心したものでした。

3816ケン:2009/11/30(月) 21:22:09
3811 3815 犀角独歩さん
詳しくご教示を頂き、ありがとうございました。
外出していてお礼が遅れ、大変失礼しました。

3817幻明影偲:2009/12/13(日) 23:31:56
素朴な疑問なのですが、石山では金口、今師、直授、釈主、九師、各相承は天台教学史にあるものですが、石山ではこのような教学を年代で言えばいつ頃から本格的に取り入れていったのか、非常に疑問です。
恐らく日寛以降かと愚考致す所存ですが、日寛時代にも石山に伝わらない板曼陀羅や細草壇林に当初からあったとされる板曼陀羅を見ましたが、あの当時から板曼陀羅が形成されていたのであれば恵心流を取り入れていく考えが私にはどうもわかりません。

3818再挑戦者:2009/12/15(火) 18:54:13
 幻明さん、、。
  アアダラ、、、コウダら、、は不要でしょう  カ?
  、、。

 アノ、、 オカシナ、、?・ 曼陀羅が 国宝、、?? とは ???
 「ご本尊集 >  midashi、、」の中でも、、最低なる 品格でしょう、、!!?・

  他の 真筆のほうが、、 一千倍もの 「、、品格が 感じます、、」、、が、、??

 保田様には 強奪・疑義もある ? にも  ぞっこんなのでしょうか、、?? 
  視点を変えれば 、、Sの 会 ヤ、、オーム教の 有害なる 「カルト」、、と 同じでしょうか ??

 (「週刊現代」、「G2]、「主教被害者情報」、「国民新聞」、「FORUM 21」、「有害カルト情報」、、)

3819幻明影偲:2009/12/15(火) 23:40:20
再挑戦者さん

○○○(笑)さんなら、即答されるのではないでしょうか。

>アアダラ、、、コウダら、、は不要でしょう  カ?

 保田様には 強奪・疑義もある ? にも  ぞっこんなのでしょうか、、?? 


※もう少し解かりやすく、ご説明願えますか?
これでは、チンピラ暴力団の脅迫文のように思えてなりません。
因みに私の私見ですので再挑戦者さんへの言葉でないことを一言お断り申し上げます。

3820犀角独歩:2009/12/16(水) 02:16:05

○開拓の拓は衣偏

livedoorBlog で「日蓮墨筆を読む」という連載をいきおいではじめて、はや65回になりました。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51667293.html

さて、先ほどアップしたのは『観心本尊抄副状』。
ここに「見無二志可被“開拓”之歟」とあります。
この開拓の拓につき、もう数十年も前に受けた講義で、「通常は拓は手偏だが、日蓮大聖人は敢えて衣偏に書かれた」と聞いた覚えがあります。

池田さん(が書いたとされる)講義録であったような、他であったような、記憶が曖昧なのです。

「胸襟を開く」という意を籠めたということでした。
いま実際、真蹟を見ると、たしかに衣偏のように見えます。

この講義は、いったい、なにを根拠にしたのか、どうも思い出せません。

この話の元、どなたか、ご教示願えませんでしょうか。

3821斧不一:2009/12/22(火) 13:10:37
 初めまして、斧と申します。創価学会員です。本当は小野なんですが、私の掲示板で斧を名乗っているものですから、そのままクッキーを使用させてもらいます。

 あまりにも基本的なことでお恥ずかしい限りなんですが、末法思想に絡めた「本未有善」「本已有善」というのは誰が言い出した言葉なんでしょうか?

 中国の文献で、末法思想を記す最古のものは、558年(永定2)成立した慧思の「南岳思禅師立誓願文」
 http://www.tabiken.com/history/doc/R/R172R100.HTM

 また、末法思想と同時に誕生したのか、後付けなのかも気になるところです。

 どなたか、ご教示いただけると幸いです。

3823問答迷人:2009/12/22(火) 14:18:18

斧不一さん 初めまして

>「本未有善」「本已有善」というのは誰が言い出した言葉なんでしょうか?

日蓮聖人は天台大師が言い出したと見ておられたようですね。曾谷入道殿許御書に次のように述べられています。

「答て云く 私に会通すべからず。霊山の聴衆たる天台大師竝びに妙楽大師等処々に多くの釈有り。先づ一両の文を出ださん。文句の十に云く ̄問曰 釈迦出世蜘・不説。今此何意。造次而説何也。答曰 本已有善 釈迦以小而将護之 本未有善 不軽以大而強毒之〔問て曰く 釈迦は出世して蜘・して説かず。今は此れ何の意ぞ。造次にして而も説くは何ぞや。答て曰く 本已に善有るには釈迦小を以て之を将護し、本未だ善有らざるには不軽大を以て之を強毒す〕等云云。釈の心は寂滅・鹿野・大宝・白鷺等の前四味之小大権実の諸経・四教八教之所被の機縁、彼等之過去を尋ね見れば、久遠大通之時に於て純円之種を下せしも、諸衆一乗経を謗ぜしかば三五の塵点を経歴す。然りと雖も下せし所の種、純熟之故に、時至りて繋珠を顕す。但四十余年之間、過去に已に結縁之者も猶お謗の義有るべき故に、且く権小の諸経を演説して根機を練らしむ。」

3824斧不一:2009/12/22(火) 21:53:50
>>3823

 問答名人さん、どうもありがとうございます。

 ということは、鎌倉時代の仏教界にとっては共通認識と見てよさそうですね。

 助かりました。心より感謝申し上げます。

3825阿佛棒:2009/12/25(金) 12:06:16
>>3821
当て推量ですが、元は儒教由来かも

孟子かなあ?

このテーマ日蓮系ではやる人あまりいないけど
駒澤あたりでは結構やられているので調べてみると面白いかも知れません
せんだんりーんせんだんりん♪

3826くらはし:2010/01/31(日) 01:09:30
皆様、はじめまして。

場違い、かつ、スレ違いの質問かとは思いますが、一つお聞きしたいと思います。

自分は、いわゆる初期仏教、バーリ語経典では、無執着の達成をもって悟りとすると聞きました。

無執着の達成とは、なにものなも執着しない、また、「なにものにも執着しない」ということにすらも執着しないということだそうなのですが、このようなことが悟りとされていることを、日蓮をはじめ鎌倉時代の宗祖とされる人たちは知らなかったのではないか?

それはもちろん、中国には南伝経典は伝わっていないのだから、天台大師も知らなかったのではないか?

と言われたのですが、どうなのでしょうか?

ご存知でしたら、どなたか教えていただけないでしょうか?

3827マインド:2010/05/31(月) 11:37:53
御本尊について教えて下さい。
大聖人の御本尊は、写真でみるかぎり左右の辺が切れているのが多いのですが、
これは写真撮影でそのようになったのでしょうか。それとも原本の本尊からして、
表装の時に、切れて表装したのでしょうか。梵字とかは切れているのが多いですね。
よろしくお願いします。

3828みんと:2010/07/14(水) 17:06:30
◇自分の住む地域を確認してください
・ 最新の災害情報 - 避難勧告の情報など。Yahoo!災害情報
・ 警報・注意報 - Yahoo!天気情報

◇河川の様子を動画で
・ 災害情報 河川のリアルタイム画像 - 国土交通省

http://rescue.yahoo.co.jp/

3829管理者:2010/07/14(水) 17:18:29

この梅雨末期の大雨・長雨で各地に被害が出ています。皆様の安心・安全をお祈念いたします。


みんと さん

この時節、有益な情報をご提供戴きまして、誠に有難うございます。

3830知りたい:2010/11/08(月) 21:54:50
玉井禮一郎さんは、以前、妙法蓮華宗だったかを主宰していましたが、その活動は今はどうなりましたか。また給いさんは今は何をしているのでしょうか。教えてください。

3831質問者:2011/11/30(水) 01:46:21
昭和55年6月21日日顕上人書写の御形木御本尊ですが
何故、竜樹菩薩と妙楽大師が抜けてるんでしょうか
(普通は天台大師と伝教大師の横にそれぞれ書かれているのに)

誰に聞いても教えてくれません
詳しい方レスお願いします

ちなみにこの御本尊は当時の学会員に下付されたものです

あと、この御形木本尊持ってる方いますか?

3832法喜:2011/12/06(火) 15:08:35
日顕上人書写の特別御形木御本尊(少しだけ大きい)には
竜樹菩薩と妙楽大師が戻っています
また一部の迹化の菩薩の「菩薩」の文字が凡字になっています
日蓮大聖人の最も後期の御本尊の形態であるように思われます

3833幻論乙坊:2012/08/07(火) 13:08:04
弟子を「資」と表しますが、何故この字を
用いるのか?
ご存知の方がいらっしゃれば、ご教示のほど
宜しくお願いします。


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