- 1 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/05/31(土) 11:42
このスレッドを立てる所以は以下の通りです。
2 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/05/25(日) 17:58 日蓮聖人の教えと言えば、先ず、誰もが思い浮かべるのが、南無妙法蓮華経のお題目の声でしょう。最初のスレッドは、『お題目を唱える』という事をテーマにしては如何でしょうか。
5 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/05/31(土) 05:19 そうですね。既に富士門教義の虚構性については、過去2年間の議論で闡明になったことは多くありました。ですから、これらの点を今さら繰り返す必要はないと考えます。こちらでわたしがテーマにしたいとすれば、さらに本質的な部分です。そして、日蓮信仰者としての“蓋”を外した議論です。日蓮信仰者としての蓋…、これは要するに、信仰者として禁忌規定を廃して語ろうと言うことです。たとえば、日蓮本仏論者であれば、日蓮を人間として語ることがタブーになっていました。戒壇本尊論者であれば、板漫荼羅偽作を語ることがタブーでした。この点については、富士門流信徒の掲示板で乗り越えてきました。しかし、依然として議論に蓋がありました。日蓮信仰者は「南無妙法蓮華経」という題目を唱えるわけです。日蓮漫荼羅の中央に大書もされています。この場合、言語としての妙法蓮華経を否定してしまうと、もはや信・行が成り立たなくなります。こんなことが、いまわたしが言う“蓋”です。羅什の訳による「妙法」、果たしてこれが正統なものであるのかという点は議論されるべきです。それも、自己信仰肯定という低俗な前提(蓋)を捨ててです。もしこの議論の結果、「妙法」語は不適切という結論が出た場合はどうでしょうか。日蓮信仰者の根幹を覆す選択を迫られることになります。しかし、敢えてそのような勇気ある議論をしようと言うことです。サダルマ・ブンダリーカ・スートラという法華経原典、これをシャキャムニが説いたわけはありません。この事実を、日蓮信仰者と雖も、少しずつ受け入れつつあります。しかしここでは、過去の信仰・教学との整合性をどう採るかという、実に狡猾な議論が横行します。たとえば蓮師が言う法華経は久遠の妙法であって、歴史上既述された経典ではないなどという類の話です。仮に蓮師がいう妙法華経がそうであったとしても、では、シャキャムニは久遠の妙法などということを説いたのかといえば、そんなもの、説くはずはなかったでしょう。しかし、ここを言ってしまうと、日蓮信仰の教学体系は瓦解してしまいます。日蓮は久遠即末法の釈尊とは別の仏だから、何を言っても好い。そう言った人もいます。これまた、自己信仰の言い訳に満ちた採るに足りない肯定論に過ぎません。日蓮教学で引き合いに出される天台・妙楽教説、この無謬性を前提にした議論もナンセンスです。その無謬性を基礎にした日蓮宗各派の僧学は、石山教学同様、さらにナンセンスです。まず、これら蓋の撤廃を考えてみてはどうでしょうか。問答名人さん、「ここを否定されては信仰が成り立たなくなる」という“蓋”には、どのようなものがあるとお考えですか。
4 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/05/31(土) 10:49 結局、「妙法蓮華経の五字」として、特に日蓮門下において崇められてきた「妙法蓮華経」という言葉の由来を尋ねることから議論を始める事が先ず必要だと言うことになりますね。「妙法蓮華経という言葉の由来」というスレッドを立てましょうか?
5 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/05/31(土) 11:05 ええ、よろしいかと。言葉の由来から、限界まで。さらに適不適まで、考えてみるのも面白いですね。坊さんや信者のご都合は、この際、関係ありません。遠慮会釈なくいきたいと思います。
- 31 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/10(火) 13:30
どうでしょうか? それを意識してはいませんが、知らず知らずにそういう考え方をしているかも知れませんね。名は体を表す、という意味では。
29をご覧になって、そのように感じられるのでしょうか。
- 32 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/06/11(水) 03:31
問答さん、どうか、気を悪くなさらないでお読みください。 わたしは書き込みを拝読し、法=如来ということから久遠釈尊=法華題号ということ、関連して、題号に一切が含まれているという“教学”が意図するご質問をなさってこられたと感じた次第です。
しかしながら、少なくとも梵本法華には。法=如来という考えは窺えず、まして、法華題号にすべて含むなどという意図も窺えないと結論しております。
- 33 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/11(水) 09:45
法華経が、後に本尊として、信仰の対象とされる様になったところから、法華経=本尊=如来という固定観念が出来上がってしまった。その地平から法華経を捉え直すと、法華経の題目に全てが含まれるのでなければ、具合が悪い。経巻信仰の最終的な行き先は、「法=如来、題号が全て」ということにならざるを得ないと思います。
良く判りました。一旦、経巻信仰を離れて考えてみたいと思います。よろしくお願いいたします。
- 34 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/06/15(日) 09:14
ご返信遅くなりました。 ご了解の件、いつもながら痛み入ります。
- 35 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/08(火) 16:36
ネット上の知己であるLibraさんが御文をお寄せくださいましたので、紹介させていただきます。
※ 以下、転載 ※
名前:Libra@ぴょん吉 E-mail:librus2002@mail.goo.ne.jp
お久しぶりです。
ある人から、独歩さんがネットに復帰されているという話を聞いたので、ち ょっとのぞかせてもらいました。
今は、全く別の勉強をしている最中なので、こういう話題にはもう頭がつい ていかなくなってしまっているのですが、足跡だけは残していこうかと思います(またすぐにネットどころじゃなくなりますが)。
さて、私も、経題についてはいろいろと考えてきましたが、私の場合には、 初期仏教からある「法宝(教法)崇拝」の延長線上でどうしても考えてしまう というところがあったようです。 (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 36 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/08(火) 17:19
ご紹介だけして、レスもしないのは失礼だと思いますので、少しだけ。 問答さん、事後承諾で恐縮ですが、よろしかったでしょうか。 なお、この転載は当然のこととしてご本人の了解を取ったうえです。ネチケットは守っています。もちろん私信を頂戴した場合でもこの点は厳守しております。どうぞ、メールをお寄せくださる方はご安心ください。
> いわゆる自己批判の作業の際…伝統宗学等に縛られているのではないかという批判的視点)を積極的に意識する必要がやはり相当にあるんだろうと強く思います。
ええ。わたしは、たしかにそのように考えています。 極端なことを言えば、天台師をはじめとして、なおさらのこと、宗学というものは端から信用していません。それが蓮師の真跡の言であろうと徹底して自分の頭で考えます。誤りであると思えば、躊躇いもなくそのようにも言います。
やや広げて記します。事実証拠の積み重ねとしての学問をわたしは意味のある作業であると思います。ただし、信仰を考えるうえでは、信仰者の心理に下りてみなければ、わからないことはあるでしょう。また、事実証拠が不足してみれば、想像を逞しくして、あれこれ仮定を立ててみるのも楽しい作業です。
さらに宗教問題を考えるのであれば、教義・信仰から離れて、カルト・マインド・コントロール論、あるいはさらに進んで宗教病理学的側面から考証することも今日的には重要な意味を持つでしょう。また、宗教の過誤を abuse という視点から考えることが重要であると、昨今、痛切に感じています。
以上、スレッドのテーマからやや逸れるように見えるかもしれませんが、起筆動機を示すと言うことでご理解をいただければ有り難く存じます。 (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 37 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/08(火) 21:42
問答さん、Libraさんが重ねて御文を寄せてくださいましたので、転載させていただきます。
※ 以下、転載 ※
独歩さん、転載ありがとうございました。
せっかくですので、自己レスというか、少しだけ補足をさせて頂き たいと思います。
> 既成の考え(伝統宗学等)と結論等が一致するからといって、その > ことだけをもってして、直ちにその考えは怪しいということにはな > らないんだろうとは思いますが(それは一種の逆差別?)
この部分で私が言いたかったのは、要するに、《批判というものは常に特定されたものでなければならない》ということでした。つまり、「なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の 論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない」(カール・ポパー)ということです。以下に、かなり単純化して、説明してみます
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
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