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pundarika

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1 : 「死」「死後」「魂」について(14) / 2 : 管理者(8) / 3 : 信仰者の信仰責任(96) / 4 : スレッドテーマ検討(14) / 5 : 種脱相対について(5) / 6 : 自己紹介(7) / 7 : カウンター(14) / 8 : 妙法蓮華経という言葉の由来(37) / 9 : 日蓮の予言と預言(36) / 10 : 掲示板への参加ルール(2)
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1 「死」「死後」「魂」について (Res:14)All First100 Last100 INDEX SubjectList ReLoad 1
1 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/09/26(金) 22:48

新しいスレッドの提案がありましたので、立ち上げます。提案趣旨は以下の通りです。

11 名前: モトミナ 投稿日: 2003/09/25(木) 08:43

最近知人とのやりとりの中で、「死」「死後」「魂」に対してどう捉えるべきか討論しました。それまでの仏法義を踏まえた考え方、全く無視した考え方、科学的検知・・・さまざまあるとは思うのですが、こういったテーマの議論をしてみたい、と思ったのですが、いかがでしょうか?

12 名前: アネモネ 投稿日: 2003/09/25(木) 11:47

モトミナさん
お久ぶりです。
実は、私が法華講に入る一番のキッカケは、人の生死の問題との直面だったんですね。ですからとても重要な興味深いテーマだと思います。宗教にとって決して切り離すことのできない永遠の問題ですね。ぜひ参加を希望いたします。

13 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/09/25(木) 16:11

モトミナさん
アネモネさん
ご無沙汰しています。

最近、睡眠時無呼吸症候群というのが、バス事故をきっかけに知られるようになりました。連れ合いに言わせると「あなたも夜寝ている時、呼吸が20秒ぐらい止まるのが繰り返しているよ」と。そういえば、夜中に急に目がさめて、胸が苦しく、無性に不安感を覚えることが時々あります。恐らく、そのとき、無呼吸になっているのだろうと思います。この時の、「このまま死んでしまうかもしれない」、という感情は、寂寥とした寂しさと、言い知れぬ恐怖心を帯びています。両親はずっと以前に亡くしています。親に先立たれて、もう親と話をすることが叶わなくなった現実は折込済みです。しかし、自分が死ぬのは、まだ未経験ゾーンです。死という得体の知れない、未経験ゾーンに直面したとき、「死がすべての終わりであり、死後の世界もなく、なにも残らない」というのは、やはり受け入れがたいものがあります。「死後の世界があってほしい」という願望が、宗教の起源であるように思います。釈尊は死の問題に対して「無記」、述べなかったといいます。本当に釈尊は死について何も述べなかったのか、知りたいところです。死、および死後の世界についての議論、是非参加させてください。

14 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/09/26(金) 11:29

モトミナさん:
アネモネさん:
問答名人さん:

死の問題はわたし自身、宗教にのめり込んだ要因の一つです。是非参加させてください。

8 名前: アネモネ 投稿日: 2003/10/01(水) 19:58
問答迷人さん

ありがとうございます。

9 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/10/03(金) 07:12

皆さんが思うところから雑談的にスレッドが始まっており、興味深い、というより、楽しく拝読させていただいておりますここで扱おうとしている問題を皆さんの書き込みから推すると以下のような点に、願望というか、可能性を考えておられるということになるのでしょうか。

(1)死後の継続はあるのか (2)あるとすれば、ウパニッシャド哲学でいうようなアートマン(我)という永遠の実態があるからではないのか (3)継続を前提にした場合、過去の記憶はどこに刻まれているのか (4)命、心とはなんであるのか

(1)は、むずかしい、というか、いわば無記に属する問題となるのでしょうが、伝わり、想像される限り、シャキャムニはサンサーラ(輪廻)説を何等批判していなかったようであり、かつ、上述の如く、何も説かなかったようです。わたしはこの問題についてはまったくわからない、と答えるしかないのですが、皆さんの投稿を拝見しながら、頭から“可能性”を否定するのではなく、参加させていただこうと思います。

(2)アートマン、魂、あるいは生命などは、いわば近親概念なのであろうと思います、それぞれを信じる人にとって、それを十把一絡げに論じられるのは嫌がるでしょうが。
近代までは唯心論/唯物論という二極分化で議論されたところでしょう。
ただし、仏教における縁起説はこのような肉体と別のなにかを想定したものではなく、この点がモトミナさんが挙げられた「命に刻む」と関わってくると思われます。

(3)前項に関連することになりますが、この「過去の記憶がどこに所蔵されるのか」というテーマは輪廻を前提にする西洋神秘主義などでもいわれるところですね。
近代、コンピュータが発達しましたから、過去の記憶を情報、あるいはデータの如くに見做すように傾いた点をまず指摘できます。しかし、元来、記憶を何らかの装置(肉体、脳を含む)に蓄積されるという考えは仏教圏にはなかったでしょう。
その端的な例が先に挙げた縁起説です。因縁/果報という、いわば因果論は、過去の行いが未来の結果を生じさせるというものですね。では、この過去の行いはどこかに記録(蓄積)されているのでしょうか。また、その蓄積する場所について、論じられてきたのでしょうか。そうではなくて、「法(ダルマ)」ということで処理されてきたのが仏教圏の考えですね。これは過去の記憶についても、同様に考えてきたのが仏教であったのではないかと思います。ここで問題視されてきたのが「心」であったのではないかと想像します。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

10 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/10/03(金) 07:13

―9からつづく―

しかし、ここでも縁起・記憶は、それを記録する(脳に代表される)ハードウエアに蓄積されると考えられているわけではないと思います。因縁/果報という因果論、いわば法(ダルマ)概念の範疇にあるのではないでしょうか。この点は記憶でも例外ではないと思えます。記憶されていることは、この法(ダルマ)概念に乗せて考えるのが仏教であり、ここでは特に記録としての装置は考えられない、それは法則がどこかに記録されているわけでもないのに発動される如くです。

あと「心」ということですが、この意味するところは洋の東西を問わず、間違いなく臓器としての「心臓」でしょう。その心臓の働きに喜怒哀楽といった感情機能が備わるというのが大脳生理学発達以前の“常識”であったのでしょう。

では思念・思考はどこが司っていると考えられていたか、この点について、わたしはあまり資料を持ち合わせていませんが、「頭で考えている」ことを経験的に古代人も知っていたかも知れません。たとえば、インカでは頭蓋骨を切り取り、脳の外科手術を行ったことが知られています。しかし、反面、エジプトのミイラ作りでは脳はまったく重視されず、鼻腔からかき出されて処理されていたといいます。ただいずれにしても、脳が記憶装置としての役割を持っていたと気付かれたのは、まったく近代のことに属するのではないでしょうか。

以上はしかし、仏教概念を資料から見たもので、実際はモトミナさんが記されるように何らかの記憶される“場”があるのかもしれません。…死後があるという前提で言えばということですが。
モトミナさんは「空」に寄せて考えられていますが、このような考え方は、どちらかというと西洋神秘主義的な考え方に近いように思えます。そもそも空は有無ではないので、そこに何かが入ると考えることはできないと思えます。ただし、虚空蔵と成句するように、空ではなく、虚空を記憶の装置に充てる考えはあったように思えます。

参)以下、信憑性、実否とはまったく別の提示です。念のため。
  http://www1.neweb.ne.jp/wa/rabi/spir/sinchi.html#sin2

11 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/10/03(金) 07:17

そうそう、記し忘れました。

前世の記憶に関しては、再生(いまでいう生まれ変わり)の可能性も含めて、以下の本を夢中になって読んだことがありました。

□前世を記憶する子どもたち
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4531080610/ref%3Dpd%5Fsim%5Fdp%5F1/250-1696925-4946664


ネットを当たったら、以下のような本もありました。こちらは読んでいません。

□子どもはみな前世を語る
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4569620841/glance/250-1696925-4946664

12 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/10/03(金) 14:46

『前世を記憶する子どもたち』(日本教文社)
イアン・スティーヴンソン著
笠原敏雄訳
ISBN4-531-08061-0 C0011 P2900E

−目次−
第1章 序論
第2章 生まれ変わり信仰
第3章 生まれ変わりを裏付ける証拠の種々相
第4章 前世を記憶する子どもたちの12の典型例
第5章 生まれ変わり型事例の典型例の特徴
第6章 研究の方法
第7章 事例の分析と解釈
第8章 様々な文化圏に見られる変異
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

13 名前: モトミナ 投稿日: 2003/10/08(水) 12:00
例えば独歩さんが提示されている”前世を記憶する子供たち”が存在する場合、継続的な生命という概念から考えると、更により過去の生命を知っている可能性も考えられるわけですね。
とすると、何らかの記憶装置(命・魂)にインプットされている過去はとてつもなく膨大な量になる、とは考えられないでしょうか?
仏法的考え方をすれば、遙か昔より現在までの間どれだけの存在形態を変化させてきたのかと考えると、記憶装置(命・魂)にはとてつもない過去の記憶を有していることになりますよね?
蓄積し続ける記憶装置、そんな事が果たしてできるのだろうか、と思いました。
文献に関してはまだ拝見させて頂いていないので、タイトルのみに対して考えを示させていただきました。

14 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/10/08(水) 14:13

モトミナさんがお考えになっているような点は、実は西洋神秘主義、あるいは神智学の重要なテーマでしたね。いわゆる「アカシックレコード」と言われるものです。

まだ宇宙ロケットが飛ばなかったころ、宇宙の星間は「エーテル」と言われるもので満たされており、これが膨大な記憶を司っていたなどという考えもありました。しかし、科学が星間の真空を証明したとき、アカシックレコードその他の考えは高次元説、異次元説などに傾いていったのではないかと想像しています。

仏教圏では、これらの記憶は「識」に寄せて考えられてきたのではないでしょうか。しかし、この場合、データが記憶装置で蓄積されるという考えには基づかなかったでしょう。「データは記憶装置で蓄積されるもの」がモトミナさんの中で固定観念化しているようにわたしには見えます。このような考えはコンピュータ発達以前はそもそもなかったのではないでしょうか。

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2 管理者 (Res:8)All First100 Last100 INDEX SubjectList ReLoad 2
1 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/04(水) 09:35

今日、日蓮聖人を開祖とする日蓮宗各派、及びそれらに由来する新宗教各派が多数存在しています。それらの代表格とも言うべき創価学会が支持母体となっている公明党は、政権与党の一角を為し、現在の日本の政治に大きな影響力を発揮しています。また、近年、カルト宗教として物議を醸してる顕正会も、創価学会と同じく、既成日蓮宗の一派である日蓮正宗から派生した団体です。

この掲示板は、これらの諸団体が開祖と標榜している日蓮聖人の教えについて、真跡遺文および史実に基づいて、その教えの真実を論究する事を目的として掲示板を立ち上げます。

なお、この掲示板は、閲覧、リンクは自由ですが、投稿はメンバー制とさせていただきます。論究に参加を希望される方は、メールにて管理者にご連絡下さい。参加メンバーの同意が得られ次第、メンバー登録させていただきます。(この掲示板は、メンバー登録されてないと書き込めない様、設定されています。)

2 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/06/04(水) 09:37

ご無沙汰いたしております。
新掲示板の解説、おめでとうございます。
富士門流信徒の掲示板における過去2年間の有意義な議論、有り難うございました。
お招きに従いまして、少しくお邪魔させていただきます。

3 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/04(水) 14:52

2の実投稿日時は以下の通り。1を修正しましたら、2の日時が変わってしまいました。謹んでお詫びいたします。

2 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/05/30(金) 06:29

4 名前: アネモネ 投稿日: 2003/07/08(火) 19:02
問答迷人さん、犀角独歩さん

ご無沙汰しております。
富士門信徒の掲示板では、大変お世話になりました。
また、こちらでいろいろと学ばせて頂きたいと思いまして、参加を決心をいたしました。
どうぞよろしくお願いいたします。

5 名前: アネモネ 投稿日: 2003/08/26(火) 09:32
昨日、苦悩乱者さんから新しいスレッドが立てられておりますが、掲示板ルールの
三、スレッドを建てるには、メンバー登録された後、「スレッドテーマ検討」スレッドで、参加メンバーと話し合って下さい。結論が出ましたら、管理者が新しいスレッドを建てます。
という点についての手続きがとられていないと思われます。
細かいことを言うようで管理人さんには大変お手数をおかけいたしますが、議論が始まる前に、この点の手続きを踏まえていただけないでしょうか。

苦悩乱者さん

はじめまして。
議論が始まる前に、一点だけ参考までにお聞かせ頂けないかと、この場をお借りしてレスさせて頂きます。
苦悩乱者さんは、最近、富士門信徒の掲示板に参加されるようになられ、独歩さんと直接議論されたいということで、こちらの掲示板にも参加されたとのことですが、富士門信徒の掲示板の過去ログについては、どの程度お読みになられているのでしょうか。

6 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/08/27(水) 08:19

アネモネさん

>手続きがとられていないと思われます。

ルールに従って、しかるべき処置を取りました。よろしくお願いいたします。


苦悩乱者さん

新しいスレッドを建てる時の掲示板ルールにより、一時スレッドを休止してあります。よろしくお願いいたします。

7 名前: アネモネ 投稿日: 2003/08/27(水) 10:51
問答迷人さん

お手数をおかけいたしました。
ありがとうございます。

8 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/09/26(金) 22:56

「種脱相対について」スレッドの削除について

このスレッドを書きこみ停止にしてから、1ヶ月が経過しましたが、再開の可能性が無いと判断致しましたので、当スレッドは削除させていただきたいと存じます。あと1週間、このままにして置きますので、ご意見を賜りたいと存じます。よろしくお願い致します。

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3 信仰者の信仰責任 (Res:96)All First100 Last100 INDEX SubjectList ReLoad 3
1 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/07/09(水) 06:33

アネモネさんから、スレッドテーマの提案がありましたので、立ち上げます。提案文等は以下の通りです。


8 名前: アネモネ 投稿日: 2003/07/08(火) 19:40

早速ですが、私からスレッドテーマを提案させて頂きたいと思います。
「信仰者の信仰責任」
このテーマでの議論を希望いたします。いかがでしょうか。


9 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/07/08(火) 20:00

アネモネさん 

掲示板への御参加、誠に有り難うございます。

蓮師は、一人の信仰者として、どのように己の言動に対して責任を取ったのか、或いは取らなかったのか。そこから派生して、蓮師に連なる信仰者は、それぞれの言動に対して、今までどのように責任を取ってきたのか、或いは取らなかったのか。こうした議論を大いに歓迎します。今までほとんど問われることの無かった視点で有ろうと思うからです。そのような新スレッドに賛成です。


10 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/08(火) 20:32

わたしも大変に興味のあるテーマです。
少し前に聞いた講演で早稲田大学・法学部の棚村師が以下のような問題提議をされました。

「どうして宗教と名前がつくと、法的な責任が問われにくくなるのだろうか、しかも、さまざまな被害を出している集団が、なぜ、宗教という名前でもって、免責をされて、許されているのだろうかと疑問をもちました。やはり、内心の信仰といっても宗教的な活動は、他人の権利・自由、社会と非常に深く関わります」

http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/open/ol001_tanamura.html

ぜひ、議論に参加させていただきたいと思います。

90 名前: アネモネ 投稿日: 2003/09/09(火) 21:23
(つづき)
>洗礼に相当する仏教の儀式は灌頂であると思います。

なるほど。そういうことになるのですか。

>自己の信念を他人へ売り込む努力ほど、…入信したアネモネさんが、やがて、ご自身までも勧誘をし、構成員になっていった理由はここにあったのでしょう。

信念も築かれていないうちから、信念を形として示す必要に迫られるわけですね。自分の罪障消滅ということももちろんですが、恐らく、突き詰めると、自分の存在意義を組織に求めようとしてしまっていたのではないかと振り返ります。いわば、自分の居場所です。
いろんなことが見えてきても、そこから抜け出す決心のつかない大半の人は、自分の居場所を失う不安が拭いきれないからではないでしょうか。
また、拠り所を失ってしまうことに対する恐れもあるでしょう。その拠り所とは、まさに自分自身の存在意義、要するに居場所ということと大きく関わるものではないかと思われます。

>蓮師の真跡を当たると、…蓮師は「入信については何も言っていない」が正解ということになります。

これは驚きです。「入信」という言葉よりはもしかすると、「帰依」とか「帰命」が適切なのでしょうか。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

91 名前: アネモネ 投稿日: 2003/09/09(火) 21:23
(つづき)
>絶大な影響力の行使が窺い見えますね。排他、差別、憎悪操作とそのエネルギーによる人心煽動、すべてが破壊的カルトといわれる集団で行われるところです。

8年間という短い期間に、一気に慌しく駆け抜けたような気もします。
ただ、私自身の入信がある程度の年齢を越えていたこともありましたから、早々にいかがわしさに気がつき、狭められた視野を広げなおすことにさして時間はかからなかったのかもしれません。
実際のところ、しらけてしまったという表現がぴったりでしょう。
しかし、もしも入信が多感な青年期であったり、もしくは生まれついたときからの信徒であったならば、刷り込まれた思考を変えていくことは、とても容易なことではなかったと思います。ですから、議論を詰めどこかで矛盾を感じながらも、組織や信仰から距離を置く決心のつかない人の気持ちはよくわかるつもりです。
また同時に、意思決定に関わる自我も芽生えていない乳幼児のときから、親の意思で入信をさせてしまうとか、もしくは情緒的に不安定な青年を終末思想で動揺させて勧誘をする布教のやり方について、私は非常に問題視しています。おそらくこれからは、こうしたことも人権侵害に抵触していく問題として考えていかなければならないことではないかと思われます。
ただ数を増やすことばかりに腐心するカルト的教団には、警戒とチェックを怠ってはならない重大な社会問題であると考えております。

>カルト環境では「やめる正当な理由はない」やめた人は「裏切り者」「地獄に堕ちる者」とさんざんに貶されるばかりです。

組織から距離を置いて一年半ですが、昨年は、三十万登山の真っ最中ということもあって、人集めに躍起になっている信徒の方々からの勧誘の電話に悩まされていました。私自身も距離を置くという意思をくじかれたくない思いから、ついつい語気が強まり、それに感応する信徒の方は怒りをあらわに、「地獄に落ちますよ」と確信的に言われたものです。その言葉に動揺し不安にならなかったといえば、嘘になります。冷静さを取り戻して、不安を解消させる意味においても、富士門の掲示板での議論の参加は、非常に貴重な経験でした。

私自身は、たいして教学を身につけてきたわけではありませんが、それでも地獄に落ちるなんてことが確かなことではないということに目を向け、納得する為には、少なくとも刷り込まれただけの教学に対して、ひとつひとつ学び直していくことが有用なことだったといえます。刷り込まれた教学が、足枷になっていたわけですから、それを外さなければ、どうしても思考の身動きがとれないわけですね。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

92 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/09/09(火) 22:00

アネモネさん:

久しぶりのご投稿、有り難うございます。
思い出していたのですが、昨年の昨日9月8日。池上で富士門流信徒の掲示板のオフ会が開催されました。その時、初めてアネモネさんにお会いしました。
あれから、1年。いま、こうして有意義な議論ができることを嬉しく思います。

追って、レスを記させていただく所存です。

93 名前: アネモネ 投稿日: 2003/09/09(火) 23:21
犀角独歩さん

>思い出していたのですが、昨年の昨日9月8日。池上で富士門流信徒の掲示板のオフ会が開催されました。

早いものですね。
富士門信徒の掲示板は、3年足らずながら、とても大きな歴史を感じます。

>あれから、1年。いま、こうして有意義な議論ができることを嬉しく思います。

こちらこそです。
富士門信徒の掲示板には、新たな投稿者も増え、次の展開らしきものもみられて非常に興味深いですね。私などは、とても教学的に着いていけない内容が繰り広げられているので、すっかりロム専になってしまっておりますが、しかし、個々の参加者の投稿からは投稿姿勢、つまり信仰に対する取り組み姿勢というものが、垣間見えてくるような気がします。取り組み姿勢は、そのまま人間性を反映するものとも思われ、私はその点をいつも注目しております。
また投稿こそ頻繁にしなくとも、根気強くロムを続けながら、意識を新たにしていかれた方もとても多いことと思われますね。
有意義な掲示板であることを、改めて感じます。

私の場合、富士門の掲示板にたどりついたのは、まったくの偶然ですが、思い切って掲示板に参加して本当に良かったと思っています。
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94 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/09/26(金) 19:27

しばらく時間が空いてしまったことをお詫びいたします。
ようやくと「(2)僧侶の法話が、信徒の折伏推進が中心となっていて、法華経も仏教もほとんど説かれていないということ」に入るところまでやって来ましたね。ご提案から実に3カ月余、100日が経過しました。このスピードですと、(3)が終わるのは来年の初夏になってしまいます(笑)
まあ、それも宜しいかと思います。

それにしても、お互いに応答を繰り返しているうちに、返すがえすで下ぶくれのように長文になってきてしまいました。先に頂戴したご投稿の一々にお応えしますと、また、著しく長いものになってしまいますので、今回は要点を掻い摘ませていただきます。ですから、次いで(2)の導入をお願いいたします。

> 自分のことなのですから、結論を導く主導権は自分にあってしかる

この主導権を如何に奪うかが勧誘側の技術になっているわけです。

> …カルト的組織への勧誘…善意の関係や友好的な関係を利用する

社会心理学で言う「ローボール・テクニック」ですね。

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95 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/09/26(金) 19:28

―94からつづく―

> 社会的に未熟な青少年…賢明な判断が必ずしもできるものではない…心理的弱者をターゲットにしている

これもまったくそのとおりでしょう。
このためにもっとも有効な方法は「予防」でしょう。

> 多くの信徒たちの犠牲を煽りながら、本来布教活動をするべき僧侶が安閑安穏とした生活をしているという点を、次の項目でじっくりと議論してみたいと思います。

そうですね。しかし、これは僧侶に限らず、在家団体における特権階級にも同様に言えることです。僧侶云々というより、宗教の美名の元で人心を操り収奪を繰り返す者が悪意を暴くことにも焦点を当てるべきでしょう。

> 大石寺系から狂信的ともとれる在家教団が分裂していく背景にも、次の項目に関わる要因の一端がある

つまり、この点です。
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96 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/09/26(金) 19:29

―96からつづく―

> …受戒・「形」…勤行唱題・「形」…折伏(勧誘)・「形」が仏道修行と思い込まされる

この点も富士門流信徒の掲示板で引きましたが、重要なので、ハッサン師の言葉を再掲します。

「はじめはわざと役割演技をやっていても、ついには演技そのものが現実となる。彼は全体主義的なイデオロギーを身につけ、それが自分のものになってしまうと、それが以前の彼の信念体系にとって変わる」(『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版 P105)

この「役割演技」という点が重要です。「信者であれば、信心があれば、こうするはずだ」というプロトタイプを提供され、そのようにやっていくうちに恰も自分が信心があるような錯覚に陥っていきます。

「信心強盛」、同信念体系内ではそのような表現されますが、なんて言うことはありません。「強盛」ならぬ、「強情」であるだけに過ぎません。

> 「形」を少しでも怠って崩してしまうと、懈怠謗法になるという強迫観念

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4 スレッドテーマ検討 (Res:14)All First100 Last100 INDEX SubjectList ReLoad 4
1 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/05/25(日) 17:50

このスレッドで、次に作成するべきスレッドのテーマを検討していただきます。メンバーの合意が出来た段階で、管理者が新しいスレッドを作成致します。

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5 種脱相対について (Res:5)All First100 Last100 INDEX SubjectList ReLoad 5
1 名前: 苦悩乱者 投稿日: 2003/08/25(月) 18:21
開目抄(学会版、および御書システム=興風談所発行)には、

「真言・華厳等の経々には種熟脱の三義名字すら猶なし。何に況や其の義をや。華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は、経は権経にして過去をかくせり。種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり、道鏡が王位に居せんとせしがごとし。
 宗々互ひに権を諍ふ。予此れをあらそわず。但経に任すべし。法華経の種に依りて、天親菩薩は種子無上を立てたり。天台の一念三千これなり。華厳経乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子、皆一念三千なり。天台智者大師一人此の法門を得給え」
(御書システムよりコピー)
という御文があり、富士の種脱相対の法門の依文となっているようです。

他の写本開目抄は、どのようになっているのでしょうか。

2 名前: 苦悩乱者 投稿日: 2003/08/25(月) 19:50

犀角独歩さん

メールでは、大変失礼致しました。
ウィルス恐怖症から立ち直りましたので
よろしくお願い致します。

開目抄下(学御p.215終から3行目〜)にあります。

3 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/08/26(火) 08:53

苦悩乱者さん:

こちらを確認せず、いま、富士門流信徒の掲示板に投稿したところです。
行き違いがあった点をお詫びします。

4 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/08/27(水) 07:54

苦悩乱者 さん

御参加有り難うございます。

当掲示板は、富士門掲示板とは異なるルールで運営されています。


「掲示板への参加ルール」

掲示板への参加ルールを設定しましたので、お知らせ致します。

一、メンバー登録は、既参加メンバーの承認の下、実施します。メンバー登録を申請していただいても、既メンバーが難色を示した場合は、申し訳有りませんが、管理者としては、メンバー登録する事が出来ませんので、ご理解賜りたく存じます。

二、メンバー登録の申請は、管理者まで、登録を希望される旨、メールを戴きたく存じます。管理者のメールアドレスは pundarika03@yahoo.co.jp です。
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6 自己紹介 (Res:7)All First100 Last100 INDEX SubjectList ReLoad 6
1 名前: 問答迷人★ 投稿日: 2003/07/19(土) 08:04

pundarikaは、会員制を取っていますが、どなたが会員なのか、判らないシステムになっています。差し支えの無い範囲で簡単な自己紹介をして頂ければ幸いです。ハンドルネームの公表のみ、の書き込みも可です。

2 名前: 問答迷人★ 投稿日: 2003/07/19(土) 08:09

当掲示板を主宰させていただいております問答迷人です。日蓮正宗に縁して、35年になります。現在は、日蓮正宗等の宗教組織から離れた立場で、日蓮聖人の教えを信仰しています。よろしくお願いいたします。

3 名前: モトミナ 投稿日: 2003/07/20(日) 14:59
今後こちらでもお世話になることになりました。
モトミナと申します。
私は顕正会で日蓮正宗信仰を知り17年になります。
現在、一切の活動を停止してフリーの立場から仏教史から本来の仏教の目的を探っていきたいと思います。
そして自分の人生に少なくとも関与してしまった最も近い存在である日蓮正宗系信仰の実態をもきちんと知りたいと思っております。
何卒未熟ではありますが、今後参加させて頂いた際にはよろしくお願いいたします。

4 名前: アネモネ 投稿日: 2003/07/26(土) 19:25
アネモネと申します。
法華講に入信をして8年間信心をしてきましたが、過去2年半、富士門信徒の掲示板の議論に参加する中で、次第に日蓮正宗の組織から距離を置くようになり一切の活動を止めました。
現在は、宗教そのものは完全否定しないまでも、信仰そのものからも距離を置いておりますが、今後は、仏教について学び直していきながら、広く宗教と信仰について考えてみたいと思っております。
何卒、よろしくお願いいたします。

5 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/29(火) 12:22

犀角独歩です。
『仏教再考』を運営しております。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/

生まれながらの日蓮正宗創価学会・信徒会員でしたが、第2次紛争を期に創価学会を脱会、その後、石山、宗務院内事部『大日蓮』編集室、教学部の仕事に携わりながら、末寺役員を務め、5年後、石山との関わりの一切を断ち、現在に至っております。

仏教と“言われるもの”の再考は、ある面、永年の自身の信念体系を覆すことですから、自己批判であると言えます。しかしながら、その余燼はロムの方々に参考となる点を提供できるものであると思っています。

唯受一人血脈相承、板漫荼羅、日蓮本仏論、富士戒壇論と言ったことが現在も論議されていますが、これらは、すべて馬脚を現した採りに足りない神話であることは、過去2年間、富士門流信徒の掲示板の論考で示し畢えたと考えています。こんな狭隘な偏向から脱却し、さらに通日蓮教学、その元となった日蓮の教学、天台学、日本仏教、法華経、大乗仏教、果てはシャキャムニまで含めて、絶対視、無謬視が如何にして起き、また、それがどのような影響を信者に与えるか、その弊害から脱し、健全な精神を取り戻すための道筋をここで考えてみたいと思っています。

以上の論点ですから、各信仰者が信念体系中、信仰の対象とするものをいとも容易く俎上に乗せることもします。中には信仰者が目を覆い、耳を塞ぎ、怒りを露わにしたくなることも容易く記述します。このときにロムの方は、わたしの記述に対して、何故、自分が目を覆うのか、耳を塞ぐのか、そして、なぜ自分が怒っているのか、その内面の心の状態を観察してみてください。その感情は本来の自分の感情であるのか、信仰という信念体系を受け入れることによって起きている感情なのか、という点についての自己観察です。

その意味において、わたしの記述は煩瑣な捏造された虚構の教学体系を扱うのではなくて、その体系を踏み台にして、各人の、自分自身の心を扱うものである点を常に念頭に置きながらロムいただければ、その微意を諒していただけるものと思います。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

6 名前: 孤独な迷子 投稿日: 2003/07/30(水) 23:45
はじめまして、孤独な迷子と申します。

皆さんにはお聞きすることばかりになってしまうと思いますが、よろしくお願いします。

7 名前: 苦悩乱者 投稿日: 2003/08/25(月) 18:33

始めまして、本名は大熊です。名字だけで失礼いたします。

昨今の企業のリストラのあおりを貰い、会社を早期退職しまして、長年の目標であった富士の法門の勉強を始めました。勉強するに従って、富士の法門の「おかしさ」に気がつき、愕然としている次第です。「信」のみをあまりにも強調しすぎた害が現れていると見ています。

どうぞよろしくお願い致します。

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7 カウンター (Res:14)All First100 Last100 SubjectList ReLoad 7
1 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/05/31(土) 13:32

pundarikaのアクセス数を順次書き込みます。

93ゲットしました。

8 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/07(土) 08:40

800ゲットしました。

9 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/08(日) 14:57

902ゲットしました。

10 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/09(月) 20:17

1031ゲットしました。

11 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/18(水) 07:32

1475ゲットしました。

12 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/25(水) 22:48

1558ゲットしました。

13 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/30(月) 20:16

1715ゲットしました。

14 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/07/14(月) 05:38

2284ゲットしました。

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8 妙法蓮華経という言葉の由来 (Res:37)All First100 Last100 SubjectList ReLoad 8
1 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/05/31(土) 11:42

このスレッドを立てる所以は以下の通りです。

2 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/05/25(日) 17:58
日蓮聖人の教えと言えば、先ず、誰もが思い浮かべるのが、南無妙法蓮華経のお題目の声でしょう。最初のスレッドは、『お題目を唱える』という事をテーマにしては如何でしょうか。

5 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/05/31(土) 05:19
そうですね。既に富士門教義の虚構性については、過去2年間の議論で闡明になったことは多くありました。ですから、これらの点を今さら繰り返す必要はないと考えます。こちらでわたしがテーマにしたいとすれば、さらに本質的な部分です。そして、日蓮信仰者としての“蓋”を外した議論です。日蓮信仰者としての蓋…、これは要するに、信仰者として禁忌規定を廃して語ろうと言うことです。たとえば、日蓮本仏論者であれば、日蓮を人間として語ることがタブーになっていました。戒壇本尊論者であれば、板漫荼羅偽作を語ることがタブーでした。この点については、富士門流信徒の掲示板で乗り越えてきました。しかし、依然として議論に蓋がありました。日蓮信仰者は「南無妙法蓮華経」という題目を唱えるわけです。日蓮漫荼羅の中央に大書もされています。この場合、言語としての妙法蓮華経を否定してしまうと、もはや信・行が成り立たなくなります。こんなことが、いまわたしが言う“蓋”です。羅什の訳による「妙法」、果たしてこれが正統なものであるのかという点は議論されるべきです。それも、自己信仰肯定という低俗な前提(蓋)を捨ててです。もしこの議論の結果、「妙法」語は不適切という結論が出た場合はどうでしょうか。日蓮信仰者の根幹を覆す選択を迫られることになります。しかし、敢えてそのような勇気ある議論をしようと言うことです。サダルマ・ブンダリーカ・スートラという法華経原典、これをシャキャムニが説いたわけはありません。この事実を、日蓮信仰者と雖も、少しずつ受け入れつつあります。しかしここでは、過去の信仰・教学との整合性をどう採るかという、実に狡猾な議論が横行します。たとえば蓮師が言う法華経は久遠の妙法であって、歴史上既述された経典ではないなどという類の話です。仮に蓮師がいう妙法華経がそうであったとしても、では、シャキャムニは久遠の妙法などということを説いたのかといえば、そんなもの、説くはずはなかったでしょう。しかし、ここを言ってしまうと、日蓮信仰の教学体系は瓦解してしまいます。日蓮は久遠即末法の釈尊とは別の仏だから、何を言っても好い。そう言った人もいます。これまた、自己信仰の言い訳に満ちた採るに足りない肯定論に過ぎません。日蓮教学で引き合いに出される天台・妙楽教説、この無謬性を前提にした議論もナンセンスです。その無謬性を基礎にした日蓮宗各派の僧学は、石山教学同様、さらにナンセンスです。まず、これら蓋の撤廃を考えてみてはどうでしょうか。問答名人さん、「ここを否定されては信仰が成り立たなくなる」という“蓋”には、どのようなものがあるとお考えですか。

4 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/05/31(土) 10:49
結局、「妙法蓮華経の五字」として、特に日蓮門下において崇められてきた「妙法蓮華経」という言葉の由来を尋ねることから議論を始める事が先ず必要だと言うことになりますね。「妙法蓮華経という言葉の由来」というスレッドを立てましょうか?

5 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/05/31(土) 11:05
ええ、よろしいかと。言葉の由来から、限界まで。さらに適不適まで、考えてみるのも面白いですね。坊さんや信者のご都合は、この際、関係ありません。遠慮会釈なくいきたいと思います。

31 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/10(火) 13:30

どうでしょうか? それを意識してはいませんが、知らず知らずにそういう考え方をしているかも知れませんね。名は体を表す、という意味では。

29をご覧になって、そのように感じられるのでしょうか。

32 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/06/11(水) 03:31

問答さん、どうか、気を悪くなさらないでお読みください。
わたしは書き込みを拝読し、法=如来ということから久遠釈尊=法華題号ということ、関連して、題号に一切が含まれているという“教学”が意図するご質問をなさってこられたと感じた次第です。

しかしながら、少なくとも梵本法華には。法=如来という考えは窺えず、まして、法華題号にすべて含むなどという意図も窺えないと結論しております。

33 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/11(水) 09:45

法華経が、後に本尊として、信仰の対象とされる様になったところから、法華経=本尊=如来という固定観念が出来上がってしまった。その地平から法華経を捉え直すと、法華経の題目に全てが含まれるのでなければ、具合が悪い。経巻信仰の最終的な行き先は、「法=如来、題号が全て」ということにならざるを得ないと思います。

良く判りました。一旦、経巻信仰を離れて考えてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

34 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/06/15(日) 09:14

ご返信遅くなりました。
ご了解の件、いつもながら痛み入ります。

35 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/08(火) 16:36

ネット上の知己であるLibraさんが御文をお寄せくださいましたので、紹介させていただきます。


※ 以下、転載 ※

名前:Libra@ぴょん吉  E-mail:librus2002@mail.goo.ne.jp

 お久しぶりです。

 ある人から、独歩さんがネットに復帰されているという話を聞いたので、ち ょっとのぞかせてもらいました。

 今は、全く別の勉強をしている最中なので、こういう話題にはもう頭がつい ていかなくなってしまっているのですが、足跡だけは残していこうかと思います(またすぐにネットどころじゃなくなりますが)。

 さて、私も、経題についてはいろいろと考えてきましたが、私の場合には、 初期仏教からある「法宝(教法)崇拝」の延長線上でどうしても考えてしまう というところがあったようです。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

36 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/08(火) 17:19

ご紹介だけして、レスもしないのは失礼だと思いますので、少しだけ。
問答さん、事後承諾で恐縮ですが、よろしかったでしょうか。
なお、この転載は当然のこととしてご本人の了解を取ったうえです。ネチケットは守っています。もちろん私信を頂戴した場合でもこの点は厳守しております。どうぞ、メールをお寄せくださる方はご安心ください。

> いわゆる自己批判の作業の際…伝統宗学等に縛られているのではないかという批判的視点)を積極的に意識する必要がやはり相当にあるんだろうと強く思います。

ええ。わたしは、たしかにそのように考えています。
極端なことを言えば、天台師をはじめとして、なおさらのこと、宗学というものは端から信用していません。それが蓮師の真跡の言であろうと徹底して自分の頭で考えます。誤りであると思えば、躊躇いもなくそのようにも言います。

やや広げて記します。事実証拠の積み重ねとしての学問をわたしは意味のある作業であると思います。ただし、信仰を考えるうえでは、信仰者の心理に下りてみなければ、わからないことはあるでしょう。また、事実証拠が不足してみれば、想像を逞しくして、あれこれ仮定を立ててみるのも楽しい作業です。

さらに宗教問題を考えるのであれば、教義・信仰から離れて、カルト・マインド・コントロール論、あるいはさらに進んで宗教病理学的側面から考証することも今日的には重要な意味を持つでしょう。また、宗教の過誤を abuse という視点から考えることが重要であると、昨今、痛切に感じています。

以上、スレッドのテーマからやや逸れるように見えるかもしれませんが、起筆動機を示すと言うことでご理解をいただければ有り難く存じます。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

37 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/08(火) 21:42

問答さん、Libraさんが重ねて御文を寄せてくださいましたので、転載させていただきます。

※ 以下、転載 ※

 独歩さん、転載ありがとうございました。

 せっかくですので、自己レスというか、少しだけ補足をさせて頂き たいと思います。

> 既成の考え(伝統宗学等)と結論等が一致するからといって、その
> ことだけをもってして、直ちにその考えは怪しいということにはな
> らないんだろうとは思いますが(それは一種の逆差別?)

 この部分で私が言いたかったのは、要するに、《批判というものは常に特定されたものでなければならない》ということでした。つまり、「なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の 論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない」(カール・ポパー)ということです。以下に、かなり単純化して、説明してみます

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

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9 日蓮の予言と預言 (Res:36)All First100 Last100 SubjectList ReLoad 9
1 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/18(水) 07:31

日蓮聖人は予言者として捉えられている側面があります。また、法華経の預言を受けて出現された方だという認識が為されてきました。予言と預言を巡って、議論を深めたいと思います。

29 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/04(金) 08:24

> 立正安国論…薬師経…般若経…開会の上から依用…法華経の真文に当たる

開会すると、他の経典が法華経の真文に当たることになると考えるべきなのでしょうか。というよりは法華経の真文によって、それらの大乗経典が法華経の釈尊に統合されて活かされると見るのが教学的な見地となりませんか。

> …立正安国論は預言書になる

預言書という見地から言えば、立正安国論ではなくて、三災七難などを記した経典のほうが預言書となりませんか。

もちろん、そのなかで取り分けて二難がまだ起きていないのでこれから起きるとしたのが立正安国論の立場でした。これを3で示した語意の意味をもう一度、再掲します。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
よげん 【予言】

(名)スル
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

30 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/05(土) 10:45

問答さんにお応えを待つ間に、また、少し閑談を

○蓮師における諸寺焼払/念仏者斬首の思想

「日蓮御房は師匠にてはおはせども余(あま)りにこ(強)はし。我等はやは(和)らかに法華経を弘むべしと云はんは、蛍(ほたる)火が日月をわら(笑)ひ、蟻塚(ありづか)が華山(かざん)を下(くだ)し、井江(せいこう)が河海をあなづり、烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべし、わらふなるべ」

とは、真跡はありませんが、富士門流信徒も愛読する『佐渡御書』の一節です。
「強い」、この語を『辞典』で引くと

こわ・い こはい 【▽強い】

(形)[文]ク こは・し
〔「怖(こわ)い」と同源〕
(1)(物が)かたくて処理しにくい。弾力がない。
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31 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/05(土) 10:46

―30からつづく―

さて、当初の諸宗批判は教義上の法難の域を超えるものは見当たりませんが、佐渡流罪赦免後、建治年間に入ると諸寺焼払/念仏者斬首の主張が文面に見られるようになります。

『撰時抄』建治元年(1275)6月10日54歳
建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばや(焼)きはらいて、彼等が頚をゆひ(由比)のはま(浜)にて切らずば、日本国必ずほろぶべし

『高橋入道殿御返事』建治元年(1275)7月12日54歳
人もなし。たすからんとをも(思)わしたまうならば、日本国の念仏者と禅と律僧等の頚を切ってゆい(由比)のはま(浜)にかくべし

『光日房御書』建治2年(1276)3月55歳
真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばや(焼)きはら(払)ひ、念仏者どもが頚(くび)をは(刎)ねらるべしと申す上、故最明寺(さいみょうじ)・極楽寺の両入道殿を阿鼻(あび)地獄に堕(お)ち給ひたりと申すほどの大禍(だいか)ある身なり

以上の記述を見ると、四箇の格言と諸寺焼払/念仏者斬首はまさにセットなのであって、四箇の格言を蓮師の法門というのであれば、同様に諸寺焼払/念仏者斬首もまた日蓮の法門の内と見えます。もっと言えば、この切迫した主張は、他国侵逼難・自界叛逆難の打開策として主張される点は看過できません。法華経帰依と諸寺焼払/念仏者斬首をしないと「日本国必ずほろぶべし」というわけです。
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32 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/07/06(日) 14:24

お答えが遅くなって済みません。

>それらの大乗経典が法華経の釈尊に統合されて活かされる

厳密に言えば、仰る通りです。開会された経文を、直ちに法華経の真文と捉えるのは無理がありますね。

> 預言書という見地から言えば、立正安国論ではなくて、三災七難などを記した経典のほうが預言書となりませんか。

当然、三災七難などを記した経典は預言書ですね。

> 釈尊は神・死霊・超越神ではありませんが、人智を越えた特別な存在、すなわち仏と解されるわけですから、超越的な存在の言葉と取ることはできますね。その媒介として記されたのが立正安国論であれば、預言書ということはできようと思います。少なくとも体裁はそうなっています。

そのように僕も思います。

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34 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/08(火) 11:29

32までで、概ね双方の考えが確認し合えました。

問答さんは『立正安国論』は「三災七難などを記した経典を基準として、二難を類推、予見したのだと思います」とその“預言”を記されました。やや、先に記された見解も踏まえて補完すれば、法華真文、開会によってそれら経典が活かされたということも云えるでしょうか。

わたしは、上記の問答さんのお考えとほぼ同等に考えてはおります。ただ、これだけの要素で『立正安国論』著述まで行き着けるものであろうかという点で、やや疑問が残ります。それ故、それ以前の段階で大陸からの何らかの情報を掴んでいたのではないのかという仮定で補いたいという欲求に駆られます。

良観との雨乞いでも自分はまるで祈祷をしないで、良観にばかり祈祷を迫り、その効験の是非を問うような先方を採った蓮師は、ある面、実に計算された行動を取る人であったとわたしは考えています。ですから、単に鎮護国家経に答えを求めるというだけで執権者に問うという姿は蛮勇に近いものを感じるのです。

しかし、この点は資料が不足しています。いったん置くことにいたします。

35 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/08(火) 11:30

【34の訂正】

誤)先方を採った
正)戦法を採った

36 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/08(火) 18:08

以下、30に記したことの、もう一本の枝として、31への展開とは別バージョンで記します。ただし、こちらは閑談を意図するのではなく、予言/預言のテーマに隣接してのことです。

蓮師を辞典で引くと以下のように記述されていました。

にちれん 【日蓮】

(1222-1282) 鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。字(あざな)は蓮長。諡号(しごう)は立正大師。安房(あわ)小湊の人。12歳で仏門に入り、諸宗を各地で学ぶ。「法華経」によってのみ末世の国家の平安もありうることを悟り、1253年に日蓮宗を開き、辻説法で他宗を激しく攻撃し、論破した。60年「立正安国論」を幕府に献じ国難を予言していれられず、伊豆に配流。赦免後も幕府・諸宗批判をやめなかったため竜口(たつのくち)で斬られかけたが、佐渡に流された。許されて、甲斐身延山に隠棲。武蔵国千束郡(東京都大田区池上)で、六老僧を定めて没した。著「開目鈔」「観心本尊鈔」など。―三省堂提供「大辞林 第二版」より―

義務教育の教科書でも同じような記載になっていたと記憶しています。
こうなると、蓮師の諸寺焼払/念仏者斬首に至る法然・念仏批判は、日蓮宗開祖がライバル宗派である念仏宗を攻撃したものである。こんな類推をさせるところになるでしょうか。しかし、わたしはこの憶測は外れているのではないかと思うのです。

30において、真跡遺文を拾ったときに、蓮師が批判を向けているのは念仏・禅・律、真言というのちに四箇の格言で知られることになるところでした。この中で取り分け、念仏・禅を括った批判を見ることができます。

当時の日本社会において、念仏と禅は、いったいどのように理解されていたのか、この点をまず考えてみる必要があろうかと思います。わたしはこの二つの宗旨は、伝統教団に対峙するいまでいう新興宗教としてとらえられていたのではないのか思うわけです。
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10 掲示板への参加ルール (Res:2)All First100 Last100 SubjectList ReLoad 10
1 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/10(火) 11:19

掲示板への参加ルールを設定しましたので、お知らせ致します。

一、メンバー登録は、既参加メンバーの承認の下、実施します。メンバー登録を申請していただいても、既メンバーが難色を示した場合は、申し訳有りませんが、管理者としては、メンバー登録する事が出来ませんので、ご理解賜りたく存じます。

二、メンバー登録の申請は、管理者まで、登録を希望される旨、メールを戴きたく存じます。管理者のメールアドレスは pundarika03@yahoo.co.jp です。

三、スレッドを建てるには、メンバー登録された後、「スレッドテーマ検討」スレッドで、参加メンバーと話し合って下さい。結論が出ましたら、管理者が新しいスレッドを建てます。

四、すでに議論が進んでいるスレッドに参加を希望される場合は、管理者まで申し出て下さい。該当スレッドの参加メンバーに打診し、了解が得られましたら、参加していただけます。もし、了解が得られなかった場合は、そのスレッドへの参加はご遠慮願います。

五、このルールは必要に応じて随時、追加、削除、訂正を行います。ルールの変更に当たっては、掲示板参加メンバーの過半数の賛成を得て行う事とします。

六、これらの掲示板のルールをお守り戴けない場合は、管理者が参加をお断りする事になりますので、あらかじめご了承戴きたく存じます。

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