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仏教にとって信とは何か

1管理者:2003/01/22(水) 08:15

スレッドテーマのご提案がありましたので、活発な議論を期待して、スレッドを立ち上げます。

53犀角独歩:2003/01/26(日) 18:04

【52の訂正】

誤)冊子になったプログラムを最高
正)冊子になった台本を最高

54阿呆陀羅經@半可通:2003/01/26(日) 18:14
以前から、こちらを興味深く拝見いたしております。佛教に興味を持ち、こつこつ
と学んでおる初学の者です。突然の書き込みをお許しください。

佛教における「信」の定義をある程度明確にしておかれたほうが、議論が進めやすい
のではないかと思いますがいかがでしょうか? 佛教における「信」には以下の三つ
の語が用いられるようです。「バクティ」のような狂熱的信仰形態と佛教の教えとは
どうにも結びつかないように思えます。
(参考資料は「岩波佛教辞典第二版」などを使用しました。)

1.シュラッダー(梵)
  サッダー(巴)      対象(佛や教義)に対する客観的・知的理解に
              基づく信頼・信用。(=信心) 心が澄むこと
              (『倶舎論』)など。
2.プラサーダ(梵)
  パサーダ(巴)      心が浄められること、しずまること、悦ぶこと。
              (=澄浄・浄信・歓喜)
3.アディムクティ(梵)        
  アディムッティ(巴)   知的な理解を前提とした信頼・確信。
              (=信解・勝解)    

参考までに「バクティ」の定義を。
 人格神などへの情緒的、献身的、熱情的信仰。(=信愛・誠信)

55犀角独歩:2003/01/26(日) 18:26

阿呆陀羅經@半可通さん:

はじめまして。「信」の整理、有り難うございます。
このようなご指摘、大歓迎です。
そうですよね、問答名人さん。

56問答迷人:2003/01/26(日) 18:54

阿呆陀羅經@半可通さん

初めまして。ご指摘、ありがとうございます。

独歩さん

>法華経という経典の形にまとまったものの信仰の奨励は、訳者の名声を上げる以上の意味はありません。

これは、全くその通りであると思います。

>一瞬でも信じるのは法華経でしょうか。そう語る如来を、あるいはその寿命を、ということではないでしょうか。

信じる対象は、確かに法華経という経巻いう意味ではありませんね。仰る通り、如来を、或いは、その如来の寿命を、と言うことだと存じます。

この「信」のスレッドのテーマは、「仏教にとって信とは何か」という事です。その観点から、考えますと、大乗仏典である法華経には、少なくとも、「如来を、或いは、その如来の寿命を」信ずる事を勧めていることとは確かだと思います。しかも、「余の寿命の長さを聴いて 一瞬間でも信ずるものは その福徳は無限である」という勧め方は、かなり程度の高い信仰の勧めでは無かろうかと思うわけです。如何でしょうか。阿呆陀羅經@半可通さんが示して下さった分類からすると、第三の「アディムクティ(梵)」に該当するように僕には思えるのですが。

57犀角独歩:2003/01/26(日) 19:30

> 56 問答名人さん:

仰るとおりですね。
それにしても、漢字では「信」と一言ですまされてしまう心理作用を本当によく古代インドではとことん考えていたものだと改めて感心します。

何かで言語の細分化はその文化水準の高等さを表すなどといった記述を読んだことがあるのですが、信について、ここまで細分化されているわけですね。もっとされているでしょうね。

こうなると、もうサンスクリット語原典を対照しながら、該当の「信」が何であるのかを一つひとつ検証してみないと危なくてしようがないことになります。こんな研究をまとめた本はないのでしょうか。私もこんな真摯な研究であれば、耳を傾けてみたいと思います。

シュラッダー、プラサーダ、アディムクティ、どれも納得のいく姿勢であると思うのです。そんな清々しい「信」を前提にブッダを敬い、その法(修行法)を実践する姿に尊さを感じます。

私は以前からプラニダーナ(Pranidhana)という語が好きでした。先にも記しましたが、これは「願」などと訳されるのですが、岩本師に拠れば「「熱烈な希望」とか「誓い」を意味する。『法華経』などに見られる場合、この語はその意味で用いられている」といいます。ところが

「『ヨーガ=スートラ』はおよそ西暦三百年頃に編述されたと考えられているが、この経典の始めにプラニダーナという語がバクティと同じ意味に用いられている。これは明らかに自力的なプラニダーナが他力的なバクティに解釈し直されたことを意味しており、当時の西北インドにおける宗教思想を示すものと言わねばならぬ」(布施と救済 P79)と語の意味の変遷を述べています。たぶん、satさんがご指摘くださった「イーシュヴァラ・プラニダーナ」は、この変化後の用法なのであろうと思えます。

こうなると今度は、同じ用語でも思想背景を考慮しないとまた意味を取り違えることが起きることになります。何とも厄介なことです。

それにしても、バクティとは現代的に言えば、実にカルティックだと思えます。
何もわからなくてもいい、ともかく信じることだというのは脅迫であり、虐待(Abuse)であると私は思うのです。

ある精神科医が「カルト問題を、人権侵害・虐待概念(Abuse)の下部構造として理解すべきである」と提言していました。バクティ支配は宗教病理に抵触する異常事態であるという再認識が必要だと私は思っています。まあ、ここのスレッドではカルト問題にスライドする途端に違う話題になってしまいますので、これはこの辺しますが(笑)

58犀角独歩:2003/01/26(日) 20:09

ちょっと横道なのですが、「幾千万億劫を生き続けてきた不死の如来」という点が梵本から読み取れたとき、ようやくプラブータ=ラトナ(多宝)如来のイメージがつかめたのです。

巷の法華経の解説本なんかですと、この多宝如来をミイラみたいに扱うわけです(笑)
実際梵本から見てそんなイメージがあるかどうかわかりませんが、塔に祀られるのは通常、仏舎利ですね。しかし、骨が塔の中から喋るというのはどうも話としてうまくない、そんなことから、ミイラと解釈するのかと思ってきました。いずれにしても、仏といえども涅槃して骨かミイラになるしかないという規定概念であれば、こう記すしかないわけです。

しかし、如来は死なないわけですね。それこそ何億劫(おっこう)も生き続けている不死なのだという前提から読むと、プラブータ=ラトナ如来は、その七宝塔を住居に遙か過去から行き続けていて、だからこそ、そこに出現できたということになりますね。

しかもこの『塔の出現(見宝塔品)』では次章の『如来の寿命の長さ(寿量品)』で明らかにされる入滅が巧妙な手段であることをまだ説いていませんので、プラブータ=ラトナ如来を「入滅した指導者、この偉大な聖仙は、宝玉づくりの塔に乗って、教えを聴くために、ここに来た」などと記されます。

『お富さん』(古いですね)の歌詞じゃあるまいし「死んだはずだよ…生きていたとは知らぬ仏の」と言った記述ですよね。入滅した(死)はずなのに、教えに聞きに来るなら生きているはずです(笑)

「信」というテーマからはずれますが、こんな点も見ながら読むと、サダルマ・プンダリーカ・スートラは面白いと思います。

59問答迷人:2003/01/26(日) 20:11

独歩さん

ここて、48で述べました、一念信解に関して、日蓮聖人の信仰理論を考えてみたいと思います。四信五品抄を引用してみます。

「又一念信解の四字の中の信の一字は四信の初めに居し、解の一字は後に奪はるヽ故なり。若し爾らば無解有信は四信の初位に当たる。経に第二信を説いて云はく「略解言趣(りゃくげごんしゅ)」云云。記の九に云はく「唯初信を除く、解無きが故に」と。

「問ふ、末法に入って初心の行者必ず円の三学を具するや不(いな)や。答へて曰く、此の義大事たり。故に経文を勘へ出だして貴辺に送付す。所謂五品の初・二・三品には、仏正しく戒定(かいじょう)の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提(いっせんだい)謗法(ほうぼう)の因、信は慧の因、名字即の位なり。」

「問うて云はく、末代初心の行者に何物をか制止するや。答へて曰く、檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解初随喜(しんげしょずいき)の気分(けぶん)と為(な)すなり。是則ち此の経の本意なり。」

つまり、日蓮聖人は教えの根幹に無解有信、以信代慧を据えて、「一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを・・・是則ち此の経の本意なり。」と説かれたわけですが、この無解有信、以信代慧の「信」は、日蓮聖人の御本意としては、シュラッダー、プラサーダ、アディムクティの三種の信の内、どれに該当すると考えれば良いのでしょうか。或いは、バクティでしょうか。如何お考えになられますか。

60犀角独歩:2003/01/26(日) 20:34

> 59 問答名人さん:

残念ながら、日蓮の信は、日蓮個人においてはアディムクティのように見えますが、勧めるほうはバクティとしか映じません。

61犀角独歩:2003/01/26(日) 20:46

私が日蓮の思惟のなかでもっとも納得がいかないのは、法然の『選択本願念仏集』を『立正安国論』に捨閉閣抛と批判を加えながら、自分自身の結論は難解な止観をさておいて、題目を採るとか、解なくとも信があればよいなどというのであれば、結局のところ、法然の姿勢と、少しも変わらないではないかという点です。題目は誰の目にも易行としか映じません。そして、反比例するような熱烈な信心を主張するわけです。

62犀角独歩:2003/01/26(日) 20:49

しかし、そうはいうものの一つの曙光は、いつも挙げる『富木殿御書』の

我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ

の一節であるわけです。

63阿呆陀羅經@半可通:2003/01/26(日) 20:57
犀角独歩さん・問答迷人さん、突然の闖入にもかかわらず、丁重なレスを頂戴し恐れ
入ります。

私見を少々。
「アディムクティ」という語が、流伝の過程で中国語に「信解」と翻訳され、その後様々
な解釈を経るうちに、いつしか「信」と「解」に分解されてさらに解釈が加えられ、原義
とかけ離れた意味になったのではないかと愚考します。

64問答迷人:2003/01/26(日) 21:01

独歩さん

>勧めるほうはバクティとしか映じません

そうすると、日蓮系教団のカルト性は、日蓮聖人に由来するという事になりますね。なるほど、何か、一つの謎解きが出来たような気がしてきました。

65sat:2003/01/26(日) 21:02
adhimukti(アディムクティ)は、「その上に心を傾け解放する」と言う動詞からきた名詞で、何等かの対象に向って、それを分別的に把えて明確に決定する心的作用のことを意味し、①信解、②信愛、③勝解などと意訳されていたようです。
同じようなものではabisampratyayaがあり、「そのものに対して同意する、確認する、忍可する」と言う心的作用を意味し、①信解、②忍可、③現前忍許などと意訳されていたようです。

66問答迷人:2003/01/26(日) 21:21

おそらく

日蓮聖人の思惟は、富木殿ご返事に示された如き、厳しい思索を自らに科したものであったと思います。そしてまた、門下に対しても、同様の厳しさを求めておられるのだと思います。ただ、当時の、仏教に暗く文字すら読めなかった大多数の在家信徒に対しては、逆にハードルを低く下げて、仮に無解だからといって、また智慧がいたらないからと言って、仏の教えから疎外されているのではないという事を教えられたのではないでしょうか。ところが、残念なことに、その教えがカルト教団の手に掛かると、ハードルを低く設定された配慮が逆手に取られ、「知らしむるべからず、寄らしむるべし」という教団に信徒を隷属させる原理に利用される結果になってしまったのではないのでしょうか。

67sat:2003/01/26(日) 21:32

意訳の追加修正
adhimukti:信、解、信解、信受、明信、信心、深信、勝解
abisampratyaya:信解、深信解、忍可、現前忍許、正信順、極正符順

出典は、荻原雲来編『梵和大辞典』講談社です

68Leo:2003/01/26(日) 22:40
犀角独歩さん、問答迷人さん

>日蓮聖人の思惟は、富木殿ご返事に示された如き、厳しい思索を
>自らに科したものであったと思います。そしてまた、門下に対しても、
>同様の厳しさを求めておられるのだと思います。

ある団体下では、思索を行おうとすると「二乗」というレッテルを
貼られるのですが、日蓮聖人の思惟にそのような可能性があるという
ことは非常に興味深いと思います。

>ところが、残念なことに、その教えがカルト教団の手に掛かると、
>ハードルを低く設定された配慮が逆手に取られ、「知らしむるべ
>からず、寄らしむるべし」という教団に信徒を隷属させる原理に
>利用される結果になってしまったのではないのでしょうか。

確かに「以信代慧」が強調されると思います。
また「仏の教え」に対する信が「組織」への信にスリカエられる傾向
もあるのではないかと思います。

仏教にはさまざまな仏教外の要素の混入があったわけですが、
「バクティ」の混入もあったというのは興味深い視点だと思います。

69Leo:2003/01/26(日) 22:46
(補足です)
>ある団体下では、思索を行おうとすると「二乗」というレッテルを
>貼られるのですが、日蓮聖人の思惟にそのような可能性があるという
>ことは非常に興味深いと思います。

ある団体下では、思索を行おうとすると「二乗」というレッテルを
貼られるのですが(要するに信のみが強調されます)、それに対して日蓮聖人の思惟に
そのような(厳しい思索を自らにも門下にも科したという)可能性がある
ということは非常に興味深いと思います。

70犀角独歩:2003/01/26(日) 23:47

阿呆陀羅經@半可通さん:

> 「信」と「解」に分解されてさらに解釈が加えられ、原義とかけ離れた意味になったのではないかと

なるほどと思いました。

問答名人さん:

> 64

什訳妙法華・天台釈に拠った日蓮の限界であったのでしょうね。
残念に思います。

> 66

そうなのだと思います。

ここで問題となるのはバクティとカルト・マインド・コントロール、どこが違うのかという点ですね。

バクティは神仏への絶対信ですから、個人がそれに没頭することは誰人も否定できません。けれど、カルト・マインド・コントロールは、バクティによって人々をあおり、その熱烈な振興を行動へ還元させるとき、器物を利用したカリスマが、団体と自分の利益になるように巧みに摩り替えるところに相違が認められるのでしょうね。
しかし、バクティ汚染以前の仏教であれば、例えば三十七道品の七菩提分の択法のように法を選び取る自浄作用を有しています。こんな煽動に引っかからないことがすでに修行に入っていたわけですね。バクティ、カルト・マインド・コントロールに引っかかること自体、すでに修行の怠慢という視点も可能であろうと思うわけです。

satさん:

> 65,67

有難うございます。
ここら辺のご指摘はお得意のところと頼りにしております。

Leoさん:

いわゆる「二乗根性」という言い方は石山系グループでは学会も含めて、本当にあるところですね。このご指摘は重要です。

なお、62に示したような日蓮の門下に対する姿勢を待つまでもなく二乗蔑視という在り方は、実に間抜けな批判ですよね。何故ならば方便品は二乗記別を説く品、これを学会教学のように二乗批判をしてしまえば、要するに法華経の教説と矛盾するわけですから。

私も学会に在籍していました。学生部のころから教学にはもちろん熱心でした。そんな私に学生部の先輩が「二乗は成仏しないんだ」とケチをつけたのです。ですから、私は「方便品を批判するわけですか」と言ったんです。が、この嫌味すら通じませんでした(笑)

法華講に移っても同じようなことを坊さんまで言ったので大笑いしたことがあります。

71阿呆陀羅經@半可通:2003/01/26(日) 23:48
追記です。

『妙法蓮華経』譬喩品第三
T09n0262_p0015b17(00)║ 力所不及  汝舍利弗  尚於此經
T09n0262_p0015b18(00)║ 以信得入  況餘聲聞  其餘聲聞
『大智度論』卷第一
T25n1509_p0063a02(07)║佛法大海信為能入。智為能度。如是義者即是信。
T25n1509_p0063a03(03)║若人心中有信清淨。是人能入佛法。

などに説かれる「信」もアディムクティと理解できるようです。鳩摩羅什の漢訳も
それを踏まえて読めば何らかの発見があるかも知れません。バクティ的理解を殊
更に要求しているとも思えなくなりますね。

72犀角独歩:2003/01/27(月) 00:26

阿呆陀羅經@半可通さん:

> 71

の投稿の意味がちょっとわかりません

アディムクテとは「知的な理解を前提とした信頼・確信」というのが54のご指摘でしたね。「非己智分(己が智分に非ず)」とは自分の知的理解ではないとする記述ですから、この点でアディムクティの意味は喪失しているように思えますが。

私は羅什がバクティに書き換えたと即断はしませんが、什訳は先に検討してきたとおり、原文からあまりに逸脱し、恣意的に妄信を奨励しているように見えます。

次の『大智度論』も什訳。手許に訓読もないのですが文中の「信為能入 智為能度」は「信を為(もっ)て能く入り 智を為て能く度す」と読むのでしょうか。となれば、アディムクテを記すように見えながら、「有信清淨」はプラサーダの如くに見えます。
この原文、梵本直訳を私は知らないので確かなことは書けません。

もう少し、投稿の意味を補足願えませんか。

73Leo:2003/01/27(月) 00:43
犀角独歩さん

>いわゆる「二乗根性」という言い方は石山系グループでは学会も含めて、
>本当にあるところですね。このご指摘は重要です。

>なお、62に示したような日蓮の門下に対する姿勢を待つまでもなく二乗蔑視
>という在り方は、実に間抜けな批判ですよね。何故ならば方便品は二乗記別を
>説く品、これを学会教学のように二乗批判をしてしまえば、要するに法華経の
>教説と矛盾するわけですから。

「二乗蔑視」は(五時八教説を用いるとして)方等・般若時の爾前経に
退転してしまうので大きな矛盾です。
また、「二乗蔑視」は広く知識人、所謂インテリ蔑視であり中国の文化大革命の
「下放」的構造が潜んでいるようにも思います。

(もともと「二乗」は所謂小乗教の修行者(出家)のはずですが...)

>私も学会に在籍していました。学生部のころから教学にはもちろん熱心でした。
>そんな私に学生部の先輩が「二乗は成仏しないんだ」とケチをつけたのです。

そのようなことが以前からずっとあるのですね。

>ですから、私は「方便品を批判するわけですか」と言ったんです。が、この嫌味
>すら通じませんでした(笑)

>法華講に移っても同じようなことを坊さんまで言ったので大笑いしたことがあります。

「二乗蔑視」が最近だけでない、学会だけでないというのは少し驚きました。

74犀角独歩:2003/01/27(月) 02:02

Leoさん:

> インテリ蔑視
> 文化大革命の「下放」的構造

この2視点、興味あります。
もう少し詳しく記述いただけませんか。

75問答迷人:2003/01/27(月) 18:45

独歩さん

原始仏典、法華経の梵本、羅什の漢訳法華経、日蓮聖人の信仰観、今日の日蓮系カルト教団の信仰観と、順次お伺いしてきましたが、それらを踏まえて、「仏教にとって信とは何か」という問題を判りやすく総括していただくと有り難いと存じます。何点か、ご質問致します。宜しくお願いいたします。

一、原始仏典に見る限り、釈尊の教えは、今日的な、信仰、宗教という尺度では捉えきれないように思いますが、何処がどのように違うのでしょうか

二、また、インドにおける大乗仏教は、信仰、宗教と捉えることが適切でしょうか。適切で無いとすると、どう捉えれば良いのでしょうか

三、羅什の漢訳は、仏教をどのように変質させたのでしょうか

四、日蓮聖人の信仰観に問題点があったとすればどのようなことでしょうか

五、日蓮系カルト教団に共通した問題点はどのような事でしょうか

76無徳:2003/01/27(月) 20:33
日蓮本仏論の試論を述べるに先立って、我々が日蓮仏法に対し如何なる
「信」を立てるべきかを考えてみたいと思います。

日蓮御坊は『南無御書』(1299p)において
「・・・三世の仏は皆凡夫にてをはせし時命を法華経にまいらせて仏に
なり給う、此の故に一切の仏の始には南無と申す南無と申すは月氏の
語此の土にては帰命と申すなり、帰命と申すは天台の釈に云く「命を
以て自ら帰す」等云云、命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う、
日蓮今度命を法華経にまいらせて。」

と仰せになっています。
南無は帰命という意ですから南無妙法蓮華経とは妙法蓮華経に帰命する
と訳せます。帰命とは妙法蓮華経に帰命するためには妙法蓮華経に対す
る絶対的とも云える「信」がなくては適いません。

更に日蓮御坊は『白米一俵御書』(1596p)において
「南無と申すはいかなる事ぞと申すに南無と申すは天竺のことばにて候、
漢土日本には帰命と申す帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり」

とも仰せでもあります。

したがって、日蓮仏法においては「妙法蓮華経」と「仏」は同義であり
「信」を立てるべき対境(対象)でもあります。

ただ、ここで留意すべきは、あくまで「信」を立て帰命するのは自己自身
であり一個の人間であります。いわゆる制度化された組織や教義に縛られ
主体性を亡失した「信」であってはならないと思います。

意外にこのあたりまえのことが理解されていないように感じます。我々が
宗教を信ずるという事は、必ずと言ってよいほど何某かの宗教団体に属さ
なければ信仰が成立しないかのように思われていますし、現に個人として
己のみの信仰が成立している人に出会うことは困難です。

しかし、ネット社会とも言われる現代社会においては、己としての宗教が
成立しうる条件が生まれているのではないかと思われます。その条件とは
私が考えているネットを通じた現代的サンガの形成という事でもあります。

いずれにしましても、これまでのように宗教組織に縛られ共同幻想化した
教義や修行形態から脱却し、根本からの変革を通じて一人一人の人間の中
に全てを取り戻すべきであると考えます。それこそが現代における日蓮仏
法に「信」を立てる事の意味であろうと確信します。

果たして、現代において日蓮仏法のメルクマールでもある南無妙法蓮華経
に「信」を立て「帰命」するとは如何なることでありましょう。

私は既存の制度化し権威化した教団や組織と決別し、真に我々個々人の手
に日蓮仏法を奪還することであろうと考えますが如何なものでしょう。

77困ったという字:2003/01/27(月) 20:38
信という文字は「人」の「言葉」をあらわしていますね。
漢訳仏典にある「信」の文字、そこにある「人」とはなにものを指しているのでしょうか。
仏・如来・菩薩・僧侶・僧伽・釈迦・・・
本朝では信という文字を「しん」とも読みますが「神」も「しん」ですね。
ともに語尾は「m」ではなく「n」と発音します。
また本朝では「まこと」とも訓じます。
「まこと」には「誠」とか「真」という文字もあります。

仏教における信ということですが、最低限、
1原始仏教
2大乗仏教
3中国仏教
4日本仏教
これらのうちのどれかに限定して論議してはいかがでしょうか。

できれば、日蓮・直弟の用例に限定してみなさんのお考えをうかがえれば幸いです。

78困ったという字:2003/01/27(月) 20:50
無徳さんありがとうございます。
やはり日蓮とその直弟にとりあえず議論を限定してもらえるとたすかります。

といいつつ自己レスです。
宗教における「信」を考えるばあい、八木誠一・秋月龍みん・滝沢克巳氏の一連の論述は論議の前提として非常に有益ではないかと思われますが。

79阿呆陀羅經@半可通:2003/01/27(月) 23:15
>>72 独歩さん
雑駁な書き込みで場を混乱させてしまい、失礼いたしました。

実は独歩さんが書き込まれた、
>梵本直訳で見る限り「以信得入」と教条解釈される部分は声聞・縁覚は自分勝
>手な考えではなく仏を信じて歩む。修行しない連中には語ってはならない」と
>いい、「余の巧妙な手段は常にこの余に確立されている仏の化導方法」という
>のが結論となっているように見えますが、如何でしょうか。
という記述を拝見した後で、『法華経』の当該箇所を読んでいたら、その「信」の字
をアディムクティと読めば梵漢両本の内容の会通が可能なのではないかと考え付き
ました。岩波本の梵文和訳「シャーリプトラよ、汝は堅固な意向の持ち主であり」と
いう件りの「堅固な意向」とは、「強い意向」という意味にも訳されるアディムクティ
を指すのではないかと考え至ったのです。羅什による漢訳の読みも、訓付け次第で
意味が容易に変化してしまうと考えられますが、資料不足のためここで足止めを食
らっているところです。『大智度論』に関しては梵本が現存せず、原典に当れない
ので撤回させていただきます。ただ、以前に読んだ増谷文雄氏の著書に、引用した
部分の解説に絡めて「信解」の説明があったことが思い出されたのと、同じ羅什訳で
文面が似ているという意味で併記した次第です。いずれにせよ、思い付きを軽率に
書き込んでしまったことを反省しております。
で、

80犀角独歩:2003/01/27(月) 23:31

阿呆陀羅經@半可通さん:

いやいや、混乱なんてことはありません。
自由な意見交換の場ですから、むしろ、いろいろなご意見、考えを聞かせていただけるのは大歓迎です。

だいたい、富士門流信徒の掲示板で什訳・妙法華、天台釈、果ては日蓮教学までに自由な意見を述べようと言う大胆なスレッドですから(笑)

生産性のある議論は私は大好きです。
今後とも種々お考えをお聞かせください。

81犀角独歩:2003/01/27(月) 23:36

困ったという字さん:

議論を絞るの、もうちょっと先延ばしにしたいのです。
ここでは元来の仏教の「信」の意味はどうか、それと比して、梵本・法華経ではどう変わった、さらに什訳妙法華ではどう変わったを見たいわけです。

特にバクティ思想の影響をしっかりととらえたいという意図があります。

この前提に立たないで日蓮と、その弟子とやってしまうと現代の富士門と日蓮・直弟子の対象しか出来ず、議論が浅薄なものになってしまいますので。
どうでしょうか。

82犀角独歩:2003/01/27(月) 23:46

無徳さん:

日蓮本仏論は別のスレッドで、とまずお願いします。

ここは「信」のスレッドなので、その線に沿って、一つ質問させてください。

「信」と「帰命」は同じに論ずるべきものなのでしょうか。
この点は、もう少しお書きいただけますか。

83犀角独歩:2003/01/27(月) 23:49

問答名人さん:

75にご質問いただきしたことこそ、このスレッドのテーマと関わるものですね。
ちょっと簡単に整理してみてもいいのですが、出来ればご一緒に考えさせていただきたいと思います。如何でしょうか。

84無徳:2003/01/28(火) 00:00
“困ったという字”さん始めまして、呼びにくいのでHNを変えていた
だければ有難いのですが(笑)

そうですね、滝沢克己の『仏教とキリスト教』は示唆に富む内容の本で
すよね、また八木誠一と阿部正男さらには秋月龍萊に本多正昭の共著で
-----滝沢克己との対話を求めて-----との副題を持つ『仏教とキリスト教』
なる本も出ていますね、その中でそれぞれの論者による滝沢克己が前提
とした「インマヌエル」をめぐっての論議と、阿部正男の「宗教におけ
る不可逆性の問題」は、私がこれから試みる日蓮本仏論の展開に際して
参考にはなりましたが、彼らのスコラ神学的としか言いようがない回り
くどい論理展開には閉口しました。

“困ったという字”さんが言われた<信という文字は「人」の「言葉」
をあらわしていますね>とのことですが、
かつて吉本隆明が『<信>の構造』の序において、
「<信>はどんな種類の<信>でも、いつも内側からみれば巨大なものへ
の<信>であり、しかも外側からはいつも卑小なものへの<信>なのだ、
例外は考えられない。・・・・<中略>・・・・つまりわたしたちはほん
とは<信>をめぐっているつもりで、ついには意識の起源をめぐっている
ことになっているし、また意識の歴史性をめぐっていることにもなってい
る」としています。

<信>という語は「人」の「言葉」というより、「人」と「言葉」の繋がり
を意味するのであり、つまり意識の別名であると言えるのかも知れません。
したがって、人間の意識を離れての<信>は有り得ない訳ですが、しかし、
限りなく意識を無化していくことによってのみ信ずる対象が現前してくる
いというのが、アンビバレントではありますが宗教の本質といえるのかも
知れません。

85犀角独歩:2003/01/28(火) 00:05

自己レスです。

昨晩はぼんやりとして、72で『大智度論』の梵本があるような書き方をしましたが、これはインド原典というものがなかったのでしたか、たしか。おまけに田村芳朗師などは龍樹の著述であることにすら疑義を立てていましたか。『天台本覚論』でそんな記述を読んだような。いま本が手許にないので、まるで曖昧な記憶で書いていますが。

これをいきなり羅什の創作と言うわけではありませんが、ここら辺のこと、なんだかうる覚えです。どなたか、概説いただけませんでしょうか。

86無徳:2003/01/28(火) 00:07
独歩さん今晩は:

<「信」と「帰命」は同じに論ずるべきものなのでしょうか>との事ですが、
当然イコールでは有り得ませんが<信>無くして帰命は成立し得ないのではな
いかと思われますが如何なものでしょう?

87Leo:2003/01/28(火) 00:29
犀角独歩さん、こんばんは。
>>74
>> インテリ蔑視
>> 文化大革命の「下放」的構造
>この2視点、興味あります。
>もう少し詳しく記述いただけませんか。

確認したところ、「下放」は毛沢東から見て利用価値のなくなった紅衛兵たちを
農村や辺境へ追放したもので、単なる知識人(インテリゲンチャ)排斥運動では
ありませんでした。
http://www2.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge108.htm
http://www2.big.or.jp/~yabuki/doc/wen8910.htm

学会での「二乗蔑視」は「(漠然と)知識人排斥(のような雰囲気がある)」と
捉えておりました。これは私の考えすぎで単に「教学志向蔑視」なのかもしれません。

88Leo:2003/01/28(火) 00:43
(愚考ですが...)
羅什と何代かの弟子の時代、大聖人と何代かの弟子の時代のように
「正師」の在世には「信」の強調は有効な方便(巧みな手段)でありますが、
「正師」の不在の時代・集団には「信」の強調はあまり有効ではない
(むしろ害となる場合さえある)ということはないでしょうか。

89Leo:2003/01/28(火) 00:45
>大聖人
習慣でこのように記してしまいました。日蓮聖人です。

90みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/28(火) 00:49
『悪魔との対話(サンユッタ・ニカーヤII)』(中村元訳 岩波文庫)
「第VI篇 梵天に関する集成 第一章、第一節 懇請」の13偈。(P87)
「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。〔おのが〕信仰を捨てよ。」
訳注(P336-337)によれば、原語は「pamuccantu saddham」



『ブッダの言葉(スッタニパータ)』(中村元訳 岩波文庫)P241
1146 (師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・
ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは
死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

1147 (ピンギヤはいった)、「わたくしは聖者のことばを聞いて、ますます心が澄む
(=信ずる)ようになりました。さとった人は、煩悩の覆いを開き、心の荒みなく、明
察のあられる方です。

1148 神々に関してもよく熟知して、あれこれ一切のことがらを知っておられます。
師は、疑いをいだきまた言を立てる人々の質問を解決されます。

1149 どこにも譬うべきものなく、奪い去られず、動揺することのない境地に、わた
くしは確かにおもむくことでしょう。このことについて、わたくしには疑惑がありま
せん。わたくしの心がこのように確信して了解していることを、お認めください。」

訳注(P430-431)によれば「muttasaddho, pamuncassu saddham」

91Leo:2003/01/28(火) 00:56
自己レスです。
>>87
>学会での「二乗蔑視」は「(漠然と)知識人排斥(のような雰囲気がある)」と
>捉えておりました。これは私の考えすぎで単に「教学志向蔑視」なのかもしれません。

「二乗不作仏」については教学掘り下げている暇があったら、活動せい(一人でも折伏してこい)
という指導に利用されているのは確かですね。

92Leo:2003/01/28(火) 01:05
すみません脱線しました。よろしくお願いします。

93阿呆陀羅經@半可通:2003/01/28(火) 02:09
犀角独歩さん。丁重なレス、どうもありがとうございます。以下もう少し拙論にお
付き合い願います。

私は独歩さんほど、羅什の訳経姿勢に問題があるとは思っておりません。彼の他の
訳経、たとえば『金剛般若経』や『阿弥陀経』、あるいは『般若心経』の旧訳であ
る『摩訶般若波羅蜜大明呪経』や『中論』を読んでも特にファナティックな印象を
持ちませんでした。『妙法蓮華経』にしても「信」の記述に関してシュラッダー、プ
ラサーダ、アディムクティなどの語義を念頭において読み込めば、カルト的な盲信
に陥る危険性はかなり薄れるのではないかと考えております。

ご指摘の通り『大智度論』の梵本は現存せず−チベット本もないようです−、龍樹
撰述というのも疑わしいという説が有力です。手許に梶山雄一、赤松明彦両氏によ
る抄訳がありますが、その解題には、以下のような干潟龍祥氏によるテクスト分類
が紹介されています。
A 明らかにナーガールジュナ(龍樹)のものでない部分
 (1) 明らかに羅什のもの
  (a)中国人読者のためのサンスクリット語あるいはインドの習慣の説明
  (b)(a)には入らないが、ナーガールジュナの言葉ではなく、羅什の言葉
    としてのみ理解できるもの
 (2) 明らかではないにしても、おそらくナーガールジュナのものではなく
    羅什のものと考えられるもの
B 他の人、まして外国人である羅什のものでなく、ナーガールジュナの言葉
  と見なせる部分
C A,B以外で伝統に従って、ナーガールジュナのものと見た方がよい部分

どうやら『大智度論』は、龍樹の著述をもとに加上増広されたものを羅什が編訳し
たものといえそうです。

94阿呆陀羅經@半可通:2003/01/28(火) 07:01
>>90
みかんさん、はじめまして。上に引用しておられる『スッタニパータ』の1146偈は
訳者によって解釈が大きく異なっていますね。手許にある和訳では以下の通りです。
 
 「汝もまた信仰を捨て去れ。」 (中村元訳)
 「そなたもまた信仰をおこすがよい。」 (宮坂宥勝訳)
 「あなたもまた、まさしくこのように、信仰を解き放ちなさい。」 (正田大観訳)

文法的にもかなり難解な箇所とのことですが、ひょっとしたら故意にこのように多
様な解釈が生じるような仕掛けにされているのかも知れませんね。「サッダー」の訳
語が「信仰」にされているのには疑問を禁じ得ませんが・・・。また、この偈に登場
する、ヴァッカリ比丘には興味深いエピソードがあります。死の床で今生の名残り
に、今一度世尊を拝したいと望んだ彼を見舞ったブッダは、

 「ヴァッカリよ。この臭穢の身体を見たとて何になるでしょう。ヴァッカリよ。法
 (dhamma)を見る人は、わたくしを見るのです。わたくしを見る人は法を見るので
 す。法をみるならば、わたくしを見るのです。わたくしを見るならば、法を見るの
 です。」                      パーリ『相応部』22・87

と説きます。ブッダは自身が信仰の対象となることを拒み、ニルヴァーナへと導く
教法に対する「信=サッダー」を説いたと考えられます。とすれば上の1146偈の説く
趣意は多重になっているのではないかとも思われます。つまりブッダ本人に対する
信仰−バクティ的な信仰の可能性を胚胎します−を捨て去り、説かれた教法に対す
る「信=サッダー」を起して、解脱涅槃の境地に向えという趣旨なのではないかと考
えられるのです。

加えて、「心が澄む=パサーダ」や「確信して了解している=アディムッティ」といっ
た佛教の「信」を考える上で重要な語が揃っているのもこの偈の味わい深いところだ
と思います。

>独歩さん
仕事で一週間ほど出張いたします−とはいっても東京ですが−。またお話できるこ
とを楽しみにしております。

95問答迷人:2003/01/28(火) 11:25

困ったという字さん

>やはり日蓮とその直弟にとりあえず議論を限定してもらえるとたすかります。

独歩さんから「この前提に立たないで日蓮と、その弟子とやってしまうと現代の富士門と日蓮・直弟子の対象しか出来ず、議論が浅薄なものになってしまいますので。」とのレスがありましたが、僕も順序としては、そうした方が良いと思います。勿論、僕も日蓮門下の端くれですから、日蓮聖人の信仰観に最も関心がありますが、やはり、順序は踏みたいと思いますが如何でしょうか。
どうでしょうか。

96反創価学会連盟(A・S・C):2003/01/28(火) 11:59
難しい議題ですね。私も最近仏教にとっての『信』とは何か?と色々
思惟しておりますけど、なかなか見えてこない。

そもそも『信』という言葉自体非常に現在では広義的に
使われている為に意味が曖昧にされている印象を受けます。
「信」という単語では、創価学会などが行なっている指導者への
忠誠心による服従・言葉を無視し体験主義での「信」を強調することも
「信」に入ると思います。国語辞典では

しん 【信】
(名)
(1)あざむかないこと。いつわらないこと。忠実なこと。まこと。儒教では五常の一つとされる。
(2)疑わないこと。信頼すること。信用。「―を失う」
(3)宗教に帰依すること。また、信仰する心。信心。「―をおこして、戒を持(たも)ちて/今昔 19」
(接尾)助数詞。序数詞に付いて、特定の発信人から来た通信の着順を表すのに用いる。「アメリカからの第一―」

ということでして、私にとってみれば見えてこないの一言に尽きます。
おそらく私の推測ですが、
西洋宗教などが入ってきて『信』という単語が曖昧にされてきたのではないかと
思います。というのは、これは(『バウッダ―佛教』、中村元・三枝充悳、)にもありますが、
宗教という意味も、佛教においては宗教である・厳密な意味では宗教ではないとの議論も
あります。それと同じく『信』という単語も西洋(キリスト教など)宗教の影響ではないでしょうか?
と思います。

といっても帰命というのもありますから、私は解らないのが現状ですが、
佛教というのは独歩さんが仰る通りに合理主義者であったと思います。
というのは空の否定精神や先程から議論されているように
執着を捨てるといった事を教えとしているからです。

そこに帰命という言葉がある。否定し続けて行って否定できないものが
「信」とすべきなのか?、それとも「信」という言葉自体は一般的に使われている
意味と異なるのか?我々は創価学会のような無批判的信仰を批判するが、
その「信」には批判的精神がないのか?

今の創価学会に対して「信」をほぼ失った以上、
今の私に出来る事は法華経を読み、題目を唱える事ですが、
今も「信」について色々と考えてはその点においては悩んでいる事です。
皆様から怒られるかもしれませんが、その様な愚考を繰り返している
状況です。

97sat:2003/01/28(火) 12:09

たしかに皆様が、お示し下さっているブッダの言葉(とされる)を見る限り「信」は大変すがすがしいものですね。それを踏まえて考えると、一方で問題となるのは、大衆にどのように受容されてきたかということではないでしょうか。
支配階層からの庇護による利子運営集団・地主集団として形成された仏教集団による深遠高尚な哲学や論理学は、大衆にとって実に難解であったろうと思います。ましてや、その合理主義は、日常生活に密着したバラモン教で行なう祭祀や呪術的な宗教儀礼を排斥し、結果として階級差別も認めなかったわけですから、そのまま容易に生活内に受容されたとは思えません。

中村元氏の『インド古代史』などを読みますと、インドにおける仏教衰退は、イスラムの流入による破壊と商業資本の没落といった外的要因とは別に、「大衆」がその煩瑣な教理を避け、ヒンズー教と同じく、ブッダを、①超人化・神格化することを望み、②考えることを拒み、③ひたすら崇め、④賛嘆することで、その信仰を発揚させ、生活に馴染む「民間信仰・生活信仰」と為していったという内的要因も指摘していたかと思います。

信仰が修行にとってかわったと独歩さんが指摘した世界・・主体性を亡失した「信」と無徳さんが指摘した世界・・その「大衆」が望んだ世界にブッダの覚知した世界があったのかどうか・・

教団としての凝集性を高めていくことが何よりも必要とされ、権威付けを図ると同時に、一方で在家に対するアピール性として、往事の価値観をも無節操に取り入れる動きに至ったというのは、仏教の初期過程において、既に「大衆化」という市場化原理が導入されていたということではないでしょうか。

宗教集団側から見ますと、往事の価値観を否定する「哲学的思惟」が「宗教性」を帯び、そして「宗教教団」が組成されていく過程の中で、①「強固な俗人信徒の教団組織を形成することが次第に優先課題」となり、②排斥していたはずの呪術的な要素を承認し、密教化或いは民族宗教としての呪術信仰との融合を図り、大衆に迎合していったことや、③不順な動機による出家者の増加で堕落していったのは今も昔も変らないような気がします。しかも、大衆がそれを望んできたのだと・・

仏塔礼拝が盛んになって、仏塔維持のために寄進される土地や金銭などの管理によって、経済的にも富裕な信徒集団が形成されてきたことなどを考えますと、大衆もまた保守的でドラスティックな変化は好まず、その時々の価値観をベースに踏襲していくことを望んだということではないでしょうか。純粋教理のみでは広まらず、「自燈明、法燈明」、「自帰依・法帰依・不他帰依」とか、或いは「依法不依人」といったものが、いつのまにか「自帰依仏・自帰依法・自帰依僧」とか「三宝帰依」に変化していったのを見ると、「信」は受容のプロセスにおいて、教団の繁栄維持や権威付けにとって都合が良く、また大衆にとっても、まことに都合のよい概念でもあったような気がします。


中国においても、仏教が鎮護国家思想などを形成していく背景には、道家思想との親和性や黄老思想や玄学との結びつきとかもあったでしょうし、或いは儒教がやはり同じように知識人系上層の儒と、祈祷や喪葬を担当するシャマン系下層の儒に分かれたことなど、民間信仰との関連からも「信」を考えていく必要があるのではないかと、ふと感じました。

98顕正居士:2003/01/28(火) 16:37
パーリ聖典

は次のサイトで読むことができます。まずフォントをインストールする必要があります。
http://www.tipitaka.org/

ここには更にたくさんあるのですが
http://jbe.gold.ac.uk/palicanon.html
フォントが日本語環境では稼動しません。

スッタニパータ1152原文、ブラフマサンユッタ6.1.13独訳、対応漢訳
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/saddha.html

「おのおの今日まで懐ける信仰を捨てよ」という単純な意味であります。

99顕正居士:2003/01/28(火) 20:13
梵天相応6-1-13

は順序を逆に訳したら判り易いでしょう。

梵天王よ、我が所得の微妙の法を
説かざりしは人民の悩乱を憂慮せしゆえ
されどいま甘露の門は開かれたり、
聞く耳あらん者、おののの信仰を捨てよ。

100問答迷人:2003/01/28(火) 21:37

独歩さん 

>出来ればご一緒に考えさせていただきたいと思います。如何でしょうか。

宜しくお願いいたします。まず最初に


【原始仏典に見る釈尊の信仰観について】

97で、satさんが、『往事の価値観を否定する「哲学的思惟」が「宗教性」を帯び、そして「宗教教団」が組成されていく過程』という表現を使っていらっしゃいますが、やはり、原始仏典における釈尊の教えは、『往事の価値観を否定する「哲学的思惟」』が中心であったのではないかと思います。そこにおいて、今日に見られるような「信仰」というあり方は、むしろ、否定されるべきものであったと思われます。如何でしょうか。

101犀角独歩:2003/01/28(火) 22:02

86 無徳さん:

> <信>無くして帰命は成立し得ないのではな
いかと思われますが如何なものでしょう?

たぶん、それが無徳さん、ひいては日蓮本仏論を成立させる「信」なのでしょうね。
私は「帰命なき信」はあり得ると思うわけです。
これがまた、当スレッドで考えられることの一環にあるように思えます。

87 Leoさん:

有り難うございます。

> 学会…単に「教学志向蔑視」

これは池田さんは当初、インテリ蔑視が露わだったように記憶しています。それが徐々に肩書きが増えるに従って、仰るような方向性に代わっていったのであろうと思います。

90 みかんさん:

これは実に興味深いですね。
ちょっと、考えてみたいと思います。

93 阿呆陀羅經@半可通さん:

> 羅什の訳経姿勢に問題があるとは思っておりません

そうですか。見解の相違ですね(笑)
私は十如で三千で三千大千世界をイメージさせるような“数遊び”のネタを提供しただけで充分に積み作りであると思っています。

『大智度論』ご説明有り難うございます。
要は羅什は訳経僧というより、現代の新興宗教のリーダーのような存在であったのであろうと私は思っています。

> またお話できることを楽しみにしております

私もよき話し相手を得られ、嬉しく思っております。
お戻りになりましたら、また続きを語り合えますことを楽しみにしております。

96 反創価学会連盟(A・S・C)さん:

> 皆様から怒られるかもしれませんが、その様な愚考を繰り返している
状況です

いや、とんでもない。みな、考えに考え、苦悶して歩んできたのだと思います。
私も、そうです。96に整理された点、私は賛同するとともに、いまご自身でお考えになっているお姿を、私は本当に尊いと思います。

97 satさん:

この分析、私は賛同します。

98 顕正居士さん:

久方のご投稿をたいへんに嬉しく存じます。
また、ご紹介に感謝申し上げます。

100 問答迷人さん:

> 釈尊の教え…今日に見られる・「信仰」というあり方は、むしろ、否定…

ええ、私もそのように考えます。

…実にたくさんの方々が有意義な投稿をお寄せくださっていて、なんだかうれしいですね、問答名人さん。

102無徳:2003/01/28(火) 22:14
独歩さん:

いやいや、<帰命>無き<信>は有りうる事でしょう。
私は<信>無き<帰命>は有り得ないのではないかと申し上げたのです。

103犀角独歩:2003/01/28(火) 23:18

102 無徳さん:

だから、それが無徳さんが考える「信」だと申し上げたのです(笑)
それだけではないのだというのが、いま、ここで展開されている議論です。
おわかりになりますか。もしかしたら、おわかりにならないかも知れませんね(笑)

いま、ここのところ、記されている方々は帰命なき信を実感されている方々であると思いますよ。

もちろん、そんなのは「信」ではないというのは一つの考えです。
反面、帰命=信は信ではないというのも、これまた、一つの考えです。

その時に、お釈迦様の「信」はどっちであったのであろうと考えあっているわけです。

104無徳:2003/01/29(水) 00:40
独歩さん:

私はひとつの<信>を語っているつもりはありません。

ただ、当然私が考える<信>を語るしか能力はありません。たまたま私は日蓮
御坊の弟子たることを望んでいる為に日蓮仏法に事寄せて語らざるを得ないと
は言えます。

日蓮御坊の<信>は法華経への帰命を意味していることは疑い得ないと思いま
す。したがって日蓮御坊の弟子を任ずるなら南無妙法蓮華経への帰命となるで
ありましょうし、その為には日蓮御坊と南無妙法蓮華経に<信>を立てなくて
は日蓮仏法における帰命は成立しないであろうと申し上げたまでです。

しかし、あくまで宗派や教団といった組織や、それ等によって護教的に立てら
れた教義に固執することなく、自己のよって立つべき<信>を自らが確立しつ
つ、現在というネット社会における信仰の在り方が如何に可能かを探求したい
と考えています。

その為にもこの<富士門流の掲示板>という言語空間は新時代の宗教や<信>
のあるべき姿を指し示しているのかもしれませんし、そのこと期待をしつつ自
らも参加させていただき拙い文を書かせていただいてもいる訳であります。

ですから、自分の<信>に対する考え方を他の方に押し売りする心算も全く
ありませんし。皆さんの<信>に対する考え方をお聞きし、自らの<信>を
確立すべき糧にさせていただきたいと念願もしております。

105無徳:2003/01/29(水) 01:08
それから、日蓮本仏論にかかる試論はかなり面倒な展開になりそうなので、
この掲示板で論議することは控えさせていただき、私のホームページの掲示
板に書き込みたいと思います。

ただ、現在私独自のWebサーバーを立ち上げていますが、今日NTTの
BフレッツによるIPv6のサービスに申し込んだところIPv6を使用
できる事になりましたので、近々独自のIPアドレスを使ってホームペー
ジをリニューアルして立ち上げたいと思います。

その時には皆様にも是非参加していただきます様お願い申し上げます。

106Leo:2003/01/29(水) 03:15
>「おのおの今日まで懐ける信仰を捨てよ」

これは特定教団絶対性および日蓮本仏論を再考するに至った私には(も)非常に
感慨深い言葉です。

>やはり、原始仏典における釈尊の教えは、『往事の価値観を否定する「哲学的思惟」』が
>中心であったのではないかと思います。

初期仏教の経典を参照し、「信」ないし「信仰」の(積極的)要請はなく、
逆に信仰の超克が要請されるということを了解しました。

107無徳:2003/01/29(水) 07:23

Leoさん始めまして横レス失礼します。

>「おのおの今日まで懐ける信仰を捨てよ」

は信仰の否定でしょうか?私には新たな信仰の勧めではないかと思えますが

>やはり、原始仏典における釈尊の教えは、『往事の価値観を否定する「哲学
>的思惟」』が中心であったのではないかと思います。

としたsatさんのお考えは傾聴に値するご意見と思います。しかし、「往時の
価値観」とはバラモン的価値観と考えてよろしいのでしょうか?御釈迦さんが
菩提樹下で悟ったとされるものは、果たして哲学的思惟の結果でありましょう
か?私には哲学的思惟を捨てられた結果なのではないかと思えますが間違って
いるでしょうか。

人間が思惟する為にはまず言葉への<信>が要請される訳ですが、しかし、や
がて人間が思惟する果ては自らの思惟の限界を悟ることにもなるのではないか
思われます。それは言葉の限界をも意味するように思えます。

つまり、言葉への<信>のみとそれを駆使した思惟のみでは、人間は自分がい
ったい何処から来て何処へ行こうとしているのか、といった言い換えれば<生>
と<死>の問題は解けないのではないでしょうか、ですから御釈迦さんが菩提
樹下で悟ったところのものは思惟を超越した、つまり思惟を捨て去った最後に
残る残余の中に答えを見つけられたのではありますまいか?

御釈迦さんはそれを語ることを最初はためらわれたことと思います。何故かな
ら思惟の果ての残余を言語に置き換えることは困難を極めるからであります。

しかし、弟子たちは御釈迦さんにそれを語ることを執拗に要請します。そこで
御釈迦さんは知恵第一と言われた舎利佛に難信難解である事を告げながら語り
始めるというのが法華経の中の方便品と言う物語のストーリであると思います。

そして、やはり弟子たちには御釈迦さんの悟りの内実を理解することが大変困
難でありました。そこで御釈迦さんの教えをひたすら信じて、詩を読むように
御釈迦さんの発せられる言葉を繰り返繰り返し誦することによって語りつない
できたのが、仏教における経典であり仏教という信仰の歴史でもあったと思い
ます。

108犀角独歩:2003/01/29(水) 12:47

無徳さん:

横レス、失礼します。

>>「おのおの今日まで懐ける信仰を捨てよ」
> 私には新たな信仰の勧めではないかと思えます

これはどのような根拠の基づくのでしょうか。
現時点で、私は分の前後を見ていないので、コメントを避けているのですが、上述の如く仰る根拠は何でしょうか。

> 言葉への<信>のみとそれを駆使した思惟のみでは…

私はこのような考え方には賛成します。
だからこそ、単なる信の強要には賛同しかねるわけです。
そして、なにより、言語化された極致、「南無妙法蓮華経」が真理であるとか、宇宙生命であるとか、仏そのものであると言った言語の絶対視には否定的です。南無妙法蓮華経は言語以外の何ものでもないからです。ですから、妙法蓮華経が仏を成仏させた根本であるといった思考法や、法華経経典・題目を仏と見ることにも同様の見解を懐きます。まして、板漫荼羅信仰には言語以上に問題を投げかけるわけです。

そして、それら絶対的に信じることが成仏の要諦である如き教説は非仏教ではないのかと疑問を投じているわけです。

> 御釈迦さんの悟りの内実を理解…大変困難…御釈迦さんの教えをひたすら信じて、詩を読むように御釈迦さんの発せられる言葉を繰り返繰り返し誦することによって語りつないできたのが、仏教における経典

最古層の経典群は確かに以上のような経緯であったでしょうが、しかし、ここで私には2点、異義があります。

まず、一点はいわゆる大乗経典が上述のような伝承であるとは言い難いという点。
もう1点は「教えをひたすら信じる」といった現在、私たちが想像するようなものであったかどうかを、再考してみようというのが、ここのスレッドの意義であろうかと存じます。

ブッダの悟りがどのようなものであるか。それは結局、覚った本人しかわからない、故にそれを信じることで代替できるというほど、論理矛盾した考えはありません。ここであるのはブッダの悟りを信じてその追体験(修行)を実践することのみでしょう。しかし、修行の動機となる信は、単に信じれば成仏するなどという短絡思考とはおよそかけ離れたものであると想像することは外れたものではないであろうと私は思います。

109川蝉:2003/01/29(水) 15:16
ここは信が論題となっているので、場違いなコメントとなりますが、44問答迷人さん。45犀角独歩さん。に関連して、ちょと気になった点を書かせていただきます。

「衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に一心に仏を見奉らんと欲して自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」
の相当部分は、
南条・泉共訳「梵漢対照新訳法華経」では、
「もし正心に柔軟に命惜しまぬ諸有情(ひと)あらば、われ声聞の群衆の身を鷲峯に示現せむ」
となっています。
羅什使用の梵本のこの部分は「梵漢対照新訳法華経」の梵本テキストと極めて近い表現で有ったことが伺えますね。

譬喩品「此の経を毀謗せば 則ち一切世間の仏種を断ぜん」
の相当部分は
松濤・長尾・丹治共訳では
「仏陀の導きとして常に世の中に確立されている私の巧みな方便を誹謗し、眉をひそめて(教えの)乗り物を捨て去る、このような人がこの世でうける果報が(いかに)きびしいものであるかを、お前は聞け」
と訳されています。
上の訳の「(教えの)乗り物を捨て去る」の相当箇所を羅什は「仏種を断ぜん」として、この文節を意訳していると推測できます。

嘉祥大師が「法華義疏」に、仏種は、
一、一乗教を種子とする。すなわち教を種子とする。
二、菩提心を種子とする。
三、如来蔵の仏性を種子とする。
の三種類の使い分けがあると記しています。(巻第四・方便品第二の二)
嘉祥大師は、羅什訳の「仏種を断ぜん」と言う場合の仏種とは、「法華の理教」「作仏の種」と解釈しています。
「法華経の教えに由って一切の世間の人は成仏するのであるから、法華経は作仏の種である。毀謗することは、世間の人々を仏種から遠ざけることになる。(取意)」
と言う意味に解釈しています。
「仏種を断ぜん」とは「如来蔵の仏性を断じる」と言う意味ではないので、十界互具で云う仏性を断じると云う意味で無いことになります。

「我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」
の文について、
光宅寺法雲が
「復上の数に倍せりとあるから、最終的には限りがあり、無常である。ゆえに法華経の仏は常住仏ではない」旨を論じていますが、それに対して、天台大師、嘉祥大師が批判しています。
天台は御存知の通り
「成ぜし所の寿命とは、仏果の寿命ではなく、菩薩行(因行)で得た所の寿命のことである。円因を修行して初住の位を得た時にはすでに尽くし難き常寿を得るので、すでに上の数に倍すあるのであり、因位の菩薩でさえ常寿であるから、いわんや仏果の寿命が常住であることは云うまでもない、と云う経意である。
たとえば、太子の時の祿もすでに尽くすべからず、況や尊極に登りて祿用は尽きることがないようなものだ(取意)」(文句巻第九下)
といって、法雲が「成ぜし所の寿命」を仏果の寿命と読み違えたことが誤りであると批判しています。(続く)

110川蝉:2003/01/29(水) 15:18
(続き)
嘉祥大師は「復上の数に倍せり」について、
「前に三つの不可数を挙げている。一は世界不可数。二は世界を抹して塵とする不可数。三は成仏が此の数に過ぎる不可数である。
故に今[倍す]と云うことは、不可数の不可数であと考えなければならない。如来の寿命は数量の表に出ていて常であることを顕すために、[復上の数に倍せり]とあるのである。
維摩経にも[仏身は無為にして諸数に堕せず]とあり、僧叡が羅什法師の解を伝えて[寿量は定んで数に非らず]と云っている。
また法華論にも[また上の数に倍すとは、如来の常命を示現しているのである、方便をもって多数を顕しており、上の数量を過ぎて数知すべからず]と云っている。
則ち[復上の数に倍せり]とは顕了に仏の常を明かしているのである(取意)」(法華義疏巻第十・国訳一切経経疏部五・64頁))また、
「復倍上数というは、ただ常住であると表現するだけより、数を挙げて常住を語る方が、具体的に長さを覚える(感じる)事が出来るので数量を挙げているのである。上にすでに、世界不可知、末して塵とする不可知、久しく成仏する不可知の三不可知を明かす。今[復倍]と云うは、即ち一切の思量の境界を絶す。即ちいよいよ其の長きを覚すので、直ちに常を弁じるより勝れている(取意)」(法華統略巻下末・釈寿量品)
等と説明しています。
法雲と異なり、天台・嘉祥両大師は仏の常住無終を語っている文としているわけです。

優陀那日輝師は、天台大師と違って、[今猶未尽]を果寿と読むのですが、
「[今猶]と云うのは、今日猶未だ尽きない事で、滅度は非実である事を顕すために[今猶未尽]と云うのであって、往昔すでに久遠を経たが今日もまた猶を余寿の存する事を言う言葉である。
この文節では、未来は尽であるか不尽(無常であるか常住無終であるか)について言及している文節ではない。しかれども、今の未尽を云うについて[復倍上数]と云って、未来猶を無量永劫の寿を存するを顕している。
すでに果寿についてすでに数量を立てて久遠を顕しているように、この文節も、有尽に約して義は不尽を説くのであって、未来の寿の長久を顕すのに数量に寄せて[復倍上数]と云うのである。
天台大師が、不尽を強く談じる事は義に順じる故で、然れども、文は尽に寄せて不尽を語っているので、大師は[また尽くしがたし]と云っているのである。経文すでに[今猶未尽]と有るから有尽の義が分上に見えるが、経意は不尽ではない、しかし、文に約すれば、果寿常住の旨が顕れ難い、そこで因寿の解を作り、果寿の不尽を況顕して、遠く常住の義を顕したのであって、大師の巧説と云える」(如来寿量品宗義抄上)
等と解説しています。

世親菩薩は
「[我本菩薩の道を行じて、今猶未だ満ぜず]とは、本願を以ての故なり。衆生界未だ尽きざれば、願究竟せるに非らず。故に[未だ満ぜず]と云う。菩提満足せずと謂うには非らざるが故なり。
[成ぜし所の寿命、復上の数に倍せり]とは、此の文は如来の常に善巧方便もて多数を顕すことを示現するが故に、上の数量(五百塵点劫等)を過ぎて数え知るべからず。」(妙法蓮華経憂婆提舎巻下)
と解説しています。教導すべき衆生が存在する中は善巧方便の教導活動は永遠に続けると云う意でしょう。
衆生救済の願が究竟して教導すべき衆生が仮に居なくなっても、教導活動を息むだけと云う意もあるので、世親菩薩もまた、仏の無終常住を語る文と見ていたと云えます。

111犀角独歩:2003/01/29(水) 16:01

川蝉さん:

お久しぶりです。

まず「一心欲見仏」に該当する梵本の直訳は、南条・泉訳と岩本訳、どちらがより梵本に忠実なのでしょうか。私は梵本を読めるわけではありませんので、このご教示いただけますか。

第二の「仏種」に就き中国仏教における種々の解釈はけっこうなのですが、要は梵本自体に相当する語がなければ単なる訳語に振り回された解釈論争の域を出ないことになります。この点は「我本行菩薩道」についても同様です。

天台であろうが、嘉祥であろうが、それが世親であろうが、どんな論を展開しようが勝手ですが、要は、その元となった訳文が実際と違っているものをとって論じるものに、金輪際、振り回されるのは私は御免です。

什訳の十如にはまるで騙されてきましたが、坂本幸男師が確か指摘していたことですが、そもそも諸法実相と訳される語の「実相」に該当する梵本原文がないということでした。それにも関わらず『諸法実相抄』が金科玉条の如くに扱われたり、実相を論じることが教学の重要な部分を占め、そこに血道を上げ、「実相とは南無妙法蓮華経だ」と興奮していた過去の浅はかな自分があります。

そして、それら日蓮、天台、諸論師・人師の言を含めて、疑う者は地獄に堕ちるという脅し文句に怯え、改竄利用された「信」の呪縛から解き放たれることを意図して、私はこのスレッドに投稿しています。

天台その他の什訳を基礎とする解釈を、むしろ、私は批判的に見ています。

その意味から「仏の無終常住」には「信」を置くことはありませんし、什訳亡霊に踊る漢訳仏教解釈によって成り立つ天台学とは何ぞやと、天台無謬の禁域を土足でずかずかと入り込んで、その実像をしっかりと見てやろうという気持ちがあるばかりです。

その限りにおいて、ご提示いただける日蓮・天台の典型的“教科書”を睥睨させていただこうと思います。

112sat:2003/01/29(水) 17:39

>>106 Leoさん:

はじめまして

いつも私は言葉足らずなので、少し補足します。
私が「往事の価値観」と記したのは、無徳さんご指摘の「バラモン信ずるところの世界観」のこと単純に指して書きました。付け加えて言えば、疑うことなく当たり前とされてきた「大衆信仰の否定」、「社会制度に対する批判」はブッダが殊更意識したものではなく、延長として、結果として、或いは帰結として、つながったということで、後の菩薩に代表されるような救済原理とか、社会への積極的関与としての姿勢は特に見出せなかったのではないかと思います。

またその後の仏教の変遷においては、宗教と呪術、合理と神秘、教理信仰と土俗信仰との関係において相反するものもあり、相互干渉するものもあり、また同時に複合性を帯びるものもあったのではないかと思います。

>>107 無徳さん:

>「往時の価値観」とはバラモン的価値観と考えてよろしいのでしょうか?御釈迦さんが
菩提樹下で悟ったとされるものは、果たして哲学的思惟の結果でありましょうか?私には哲学的思惟を捨てられた結果なのではないかと思えますが間違っているでしょうか。

異論はありません。その通りだと思います。その上で補足といいますか、言葉を重ねさせていただきますと

ブッダの修行過程は、瞑想→瞑想からの離脱→苦行→苦行からの離脱→瞑想への回帰だったような気がします。出家後、ブッダはニ師に従い、①「無所有処」、②「非想非非想処」を会得したけれども、それは「感情・思考停止」を目指す瞑想の境地であり、輪廻の根本とされる業からの一時的・乃至一過性の解脱にしかすぎないことに気づいた・・そして、③苦行(止息行・断食行)に移ったが、輪廻的な生存を引き起こす欲望が最終的に無くなる事はないと気づいた・・といったようなことが数多くの仏教解説書には書いてあります。

五回それぞれ樹を変えて七日づつ瞑想し、三昧→解脱→梵天勧請に至ったとされる菩提樹での境地と悟りは、突然のものというよりは、当然のことながら、それまでの瞑想や苦行の延長にあったような気がします。言い換えればそれまでの瞑想や苦行の中において、既にブッダの悟りは胚胎していたのではないでしょうか。

その過程で、輪廻に関する全ての事実を事実として徹底的に観察・考察するための瞑想・・いわば思考停止の瞑想から、徹底思惟の瞑想へのコペルニクス的転回を図り、無徳さんご指摘の「人間が思惟する果ては自らの思惟の限界を悟る・・思惟を超越した、つまり思惟を捨て去った最後に残る残余の中に答えを見つけられた」ということでありましょうし、独歩さんご指摘の「苦楽中道」に至ったということでもあるような感じがします。

厳密に言えば、まじない・通力・呪術の類は否定したものの、瞑想そのものを直接否定した訳ではなく、むしろ踏襲しながら反転して、当たり前とされてきた思惟と思惟方法への根本的懐疑を為すことがブッダの覚知した世界に至る出発点であり、①形而上学的問題への関与を拒否し、②経験事実のみの直視した中で見出しえた世界を、③四聖諦・八正道や縁起説として説き、④補完としての無常観や非我説を説き、⑤戒定慧の三学という修行体系を現すに至ったということではないでしょうか。

ブッダが悟りを開き、その後の、無徳さんご指摘されるところの仏道修行する人々の集まりであった「僧伽」における、①修行方法、②修行体系、③修行実施システムがいかなるものであったか・・その後、修行体系がどのように変容していったか、或いはブッダの言説がどのように再解釈されていったという点を考えていくと、往事の修行と信(仰)の問題について見えてくるものもあるかもしれませんね。

113顕正居士:2003/01/30(木) 01:58
法華経原典

はインターネットに存在しません。自我偈だけはわたしのサイトにあります。しかし
Kern氏の英訳は存在します。

Saddharma-pundarika translated by H. Kern
http://www.sacred-texts.com/bud/lotus/

法華経自我偈原文(Nanjo-Kern本)
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/jigage.html

自我偈の第6頌
rjavo yada te mrdavo mamadravas cotsrstakamas ca bhavanti sattvah|
tato 'ham sravakasangham krtvatmanam darcayamy aham grdhrakute||-6
のKern氏訳は
6. When such upright (or pious), mild, and gentle creatures leave off their bodies,
then I assemble the crowd of disciples and show myself here on the Gridhrakuta.
正法華経は
衆生之類 朽棄身體 然後如來 合集衆音 能自示現 顯大佛道

羅什三蔵の翻訳は正確です。「(一心)欲見佛」(mamadravas)も原文にはあります。

114犀角独歩:2003/01/30(木) 04:41

川蝉さん、顕正居士さんのご意見に拠れば、「一心欲見仏不自惜身命」は正確な訳であるそうです。この点は重要視すべきであると思いますので、先の私の記述について、再考してみようと思います。

いままで出た該当部分を列挙してみます。

原:rjavo yada te mrdavo mamadravas cotsrstakamas ca bhavanti sattvah
  tato 'ham sravakasangham krtvatmanam darcayamy aham grdhrakute

英:When such upright (or pious), mild, and gentle creatures leave off their bodies,
  then I assemble the crowd of disciples and show myself here on the Gridhrakuta.

正法華の該当部分と妙法華の該当部分は以下のとおりなのでしょうか。

正:衆生之類 朽棄身體 然後如來 合集衆音 能自示現 顯大佛道
妙:衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山

さらに南条・泉訳と岩本訳

南:もし正心に柔軟に命惜しまぬ諸有情(ひと)あらば、
  われ声聞の群衆の身を鷲峯に示現せむ
岩:この世の人々が心ただしく、おだやかで、愛欲を離れた者となったとき、
  そこで余は弟子の集団を集めて、ここグリドゥラ=クータ(霊鷲山)に余は姿を現す


正法華は難読なのですが「衆生の類 身体を朽ち棄つる 衆の音(こえ)を合集す 能(よ)く自ら示現して 大仏道を顕す」ほどの読みでよいのでしょうか。ここでは示現する場所、つまりgrdhrakute−Gridhrakuta−グリドゥラ=クータ−鷲峯−霊鷲山に該当する語彙が見られません。正法華は訳は正確だと言いますので、ちょっと、意外な感じがしました。

また、顕正居士さんのご指摘では「一心欲見仏」に該当する原文は「mamadravas」だということですが、正法華でも、Kern氏訳、南条・泉訳、岩本訳でも、相当する表現が見あたらないように感じます。私はどうも「一心欲見仏」が正確な訳であるとは思えないのですが、これは私の判読能力の不足に拠るのでしょうか。

115犀角独歩:2003/01/30(木) 09:25

・衆生が見るではなくて、仏が現

梵本原文側からわからないことは深刻であると思いました。
本年は少し独学でも勉強しようと決心しました。

さて妙法華の「一心欲見仏〜倶出」に該当するのは

Ke:show myself
正:能自示現
南:われ…示現
岩:余は姿を現す

であるように思えます。辞典に頼るのはあまり好きではありませんが、

じげん 【示現】
(名)スル
(1)神仏が霊験を示すこと。「奇跡―などの噂四方に嘖々たり/希臘思潮を論ず(敏)」(2)仏・菩薩が人々を救うために種々の姿に身を変えてこの世に現れること。「いかなる仏の濁世塵土に―して/奥の細道」

示現は「しげん」とも読むでしょう。意味は「この世に現れる」こと。この語彙を竺は使っています。たぶん、南条・泉訳もこれを参照したのであろうと思われます。Kern訳も意味として同様であると思えます。岩本訳も訳表現の違いはあるにせよ、同様です。

共通して、「姿を現す」という仏側からの記述になっています。
しかし妙法華では「一心に仏を見たてまつらんと欲して〜倶(とも)に出ず」と衆生側からの欲求に応じる一言(一心欲見仏)が付加された記述になっています。また、「現」ではなく「出」です。私はこの違いは大きいと思います。

しかし、顕正居士さんが113に

> 羅什三蔵の翻訳は正確です。「(一心)欲見佛」(mamadravas)も原文にはあります

と仰っておりますので、あるいは竺法護師、Kern師、南条師・泉師、岩本師より、鳩摩羅什師のほうが正確であるのでしょうか。
梵本を少し勉強してみようと思います。
と言っても、図書館に行き、まずは「mamadravas」の意味を『梵和辞典』で当たってみるばかりですが。

116アネモネ:2003/01/30(木) 12:09
私は法華経の全文を読んでいないので、断片的なところでの書き込みになりますが、
「一心欲見仏 不自惜身命」は、今でもすごく好きな一説です。

「心から仏と見えたいと思い、そのためならたとえ死んでも構わないとさえ思う」
「この身は死んでもいいから、仏様に会いたい」
後の渇仰恋慕にも続くこの気持ちの表現、私はけっこう好きなんですね。

だけど私は、そのように信じなさいという絶対的な信を強要したり命令したりするものとは読まず、もっとごく自然な仏を求める願いや誓いの心の様子を、淡々と描写されたものとして読んでました。
ですから私としては、ここで説く「信」は絶対的信を示すバクティというより、熱望や願望といったプラニダーナの「信」のように感じられるところです。
むしろ、その前の「衆生既信伏」の「信伏」に少しバクティ的な印象を感じないでもないですが…。

117犀角独歩:2003/01/31(金) 09:45

> 116

私も「一心欲見仏」は好きな一節でしたね。
私もアネモネさんのお気持ちを否定するものではありません。

ただ、この一節を以て我々は騙されてきたと思うわけです。
ここには概ね三つの問題が胚胎していると考えます。

一つは115に記したとおり、衆生たちが心浄いなどの条件を満たすとき、仏を見るのではなく仏は「現れる」だったという点です。

二つには、この仏が現れる場所を原文ではしっかりと「霊鷲山」としているのを、熱烈に信仰する人はどこでも見られるような教条解釈を教え込まれてきたと言うことです。
この原文は、仏の現れるところは、日本でもなければ、信者の心でもなければ、どこででもと書いてありません。「霊鷲山」と明記されています。しかし、法華経信奉者は信じ熱烈に渇望すれば、仏を見られると教え込まれ、そう信じてきたはずです。しかし、この考えを原文は指示しません。仏の現れる場所は霊鷲山という限定付きでした。たぶん、これは法華経制作者は霊鷲山を神聖な場所として崇拝する思想的な基盤があったのでしょう。いわば霊鷲山信仰と仏再臨信仰の合体があるのであろうと考えます。

三つには、上述に関連しますが、見仏は、たぶん「観仏」あるいは「念仏(仏を念じる)」と大きく関連していると思います。しかし、この観(念)仏は、やがて台学で主要をなす「観心」へと書き換えられていきます。さらに日蓮は観心本尊とまで言うに至るのでしょう。

ここで少し冷静に人類の思想系譜というものを考えてみる必要があると思います。
法華経が成立したのは紀元前100年から紀元後100年ぐらいの間であると研究者は言います。今から2000年前の人々は、心は神話世界の住人たちです。法華経と言えども、もちろん例外ではありません。ここに記されるのは、奇想天外、荒唐無稽と見えるSFファンタジーのような物語です。

この突飛な記述のなかで「仏が現れる」というとき、熱烈に信じる人の心のなかで仏が見えるなどというものではないはずです。「仏が現れる」と言えば、文字どおり、実際に目の前に現れるということでしょう。それも具体的に場所をしています。霊鷲山です。

これらのことを、中国に伝わり、日本に伝わった段階で教理化され、信心をする人のいる場所こそ、霊鷲山だ、漫荼羅を奉掲する場所は霊鷲山だ、そこで熱烈に信仰する人は、心で仏を見ることができるとするという「信」の形を、我々は与えられ、それを「信」じてきたわけです。

ここのスレッドのテーマである「信」の問題、バクティ的側面とは、また違う問題を以上のように、私は提示します。

118川蝉:2003/01/31(金) 15:11
羅什訳に関して

私はサンスクリットは全くの不案内です。南条・泉訳は六種の写本を校合したものだそうです。
羅什訳は意訳・達意訳で直訳でないから、言語的には正確でないことは周知のことです。
達意訳ですから、思想的に逸脱していければ良とすべきと思っています。
南条・泉訳に
「命惜しまぬ諸有情あらば」とありますが、何のために命を惜しまないのか説明が欠けています。
前節に「われを見ずして愛慕せむ」の意味は「仏にまみえたいと恋慕するに命を惜しまない」という意でしょう。
ですから「一心に仏を見奉らん」と言葉を加えても、原典を逸脱したことにはならないと思います。

苅谷定彦氏が平楽寺書店刊「法華経の思想と展開」に、該当文節を訳してあります。
「私は人々が(仏は入滅したと聞いて)落胆しているのを見るが、その時私は(決して)(血潮の通う美しい)肉親を現さない。とにもかくにも私(の生きた姿)を見ることを熱望させる。恋慕渇仰したもの(は正しい心が生じ)正しく柔軟で温和となり、愛欲を捨てたものとなった(時に)(はじめて私の生きた姿を見せ)正法を説き明かす」(153頁)
苅谷定彦氏訳文の
「私(の生きた姿)を見ることを熱望させる。恋慕渇仰したもの」の部分を、羅什のように「一心に仏を見奉らんと欲して 自ら身命を惜しまず」と意訳しても、なんら逸脱してないと私には思われます。

丹治昭義氏が同書第四章に「仏性と仏種」と云う論文を発表しています。
方便品の「諸の仏・両足尊は、法は常に無性にして、仏種は縁に従りて起こると知り、この故に一乗を説きたまえり」
の相当部分を
「実にこの法の説き方は常に確立し(永遠であり)、諸法の本性は常に明浄である。人々の中の最高の方々、仏陀方は(このことを)知って、私の一乗を解き明かされる」
と訳し、
「ここでは諸法の本性であって、心の本性ではないが、心性本浄思想を曖昧な形で受容していると思われる。少なくとも羅什はそう受けとめていたようである。彼(羅什)はこの詩頌の主題を縁起空に改めているからである。
[諸の仏・両足尊は、法は常に無性にして、仏種は縁に従りて起こると知り、この故に一乗を説きたまえり]
羅什は説く。法は明浄な本性などがあるのでなく、無性、無本性で空に他ならない。しかし、本性がなく空であることは、決して一切の衆生が救済できない無仏性だというのではない。無仏性だからこそ救われるのである。それは何故か。空、無性であるからこそ、仏種は一切の衆生に等しく縁起するのである、と。」
と論じ、さらに、
「原始経典以来、法性が縁起であることは説き続けられてきた。・・それが如来蔵思想になると、この基本的立場そのものが捨てられ[この一切衆生が如来蔵であることが法性であり、法の永遠性等である]と、抜本的に改訂されることになった。『法華経』のこの箇所は、この変質した基本宣言の影響下に成立したものと考えられる。
羅什はそれを再度改めて法性は縁起であるという本来の立場に祖先返りさせたことになろう。羅什の改訂は、繰り返しになるが、言外に心性明浄思想の排除を含意している。・・
この詩頌でも最後に[諸仏が私の一乗を説かれた]と、結論しているのである。しかし羅什の場合には[仏種が縁起]であると改められているので、この結論が唐突で論旨の展開が明確でない。
しかし羅什の意識のなかでは仏種は能詮の説法としての法と表裏をなしていたようである。そのことは[仏の導き方]を[仏種]と改めた二例から明らかに窺える。・・
仏の指導法を批判して、法華経を誹謗するか、或いは指導法を受容し法華経を修行するか以外に、仏種の断、不断はないと考えていたのではなかろうか。仏種は『法華経』の説法の方法、能説の法の受容に他ならない。」(129〜131頁)
と論じています。
仏教の基本的真理である縁起の観念に立って、「仏性は有に非らず無に非らず。仏道修行によって顕れるもの」法華経を受容し修行することによって仏性は顕現するのだから、「仏種は縁(法華経)によって起こる」とか、譬喩品においては「仏の導き方」を「仏種」と意訳したのであろうと云う見解のようです。
「仏種」と云う意訳は、やはり逸脱した訳でないと思います。

119犀角独歩:2003/01/31(金) 15:49

> 「私(の生きた姿)を見ることを熱望させる。恋慕渇仰したもの」の部分を、羅什のように「一心に仏を見奉らんと欲して 自ら身命を惜しまず」と意訳しても、なんら逸脱してないと私には思われます。

恋慕渇仰を一心欲見仏としたのであれば、前文に「咸皆恋慕懐 而生渇仰心」とあるわけですから重複訳と言うことになります。

ここでは訳の正確性を話しているのであって、それを好きなように表現した範囲をどこまで認めるかという議論になれば、単なる個人の趣味で判断すればよいことになります。意味のない議論です。

また、「仏種と表現」したかどうかを問題にしているのではなく、そのような訳によって新たな意味を与えられているにもかかわらず、それが恰も原文に忠実な訳であると思うところの問題を考えているわけです。

その忠実さから言ったときに、原文に該当する語がなければ訳として落第という話です。これはもちろん、実相、十如にも同様に言えることです。

120犀角独歩:2003/01/31(金) 15:50

もっといえば妙法蓮華経という訳語にも言えることでしょう。

121犀角独歩:2003/01/31(金) 16:22

現在の翻訳出版の場合、いったん翻訳したものをもう一度、元の言語で翻訳し直して、どこまで原文に忠実であるかをチェックすることは一つの出版倫理に含まれています。
これは訳者の私情を挟ませない、原文に忠実であるかという当然の措置です。

ところが漢訳仏典、殊に羅什は自由に言葉を作り、文章を代えている部分があります。それがまた、新たな教義を生み、真理の如く扱われていったのが漢訳経典に掛かる教義でした。いまとなっては漢訳仏典から考えるなどというのはある意味、時代遅れであって、その意味で、漢訳仏典を墨守することなどナンセンスも甚だしいと私は思います。

その意味から羅什の訳は徹底して考証し、かつ、羅什造語、創作によって生じた十如、実相の三千論、妙法蓮華経五重玄義、文句なども徹底して原文と突き合わせ、その実否を問うことが必要です。

そしてまた、天台の重視した日蓮の思想もそこまで立ち帰り見直すことが後世へ日蓮の名を伝える者の責務であると私は考えます。ただ、もちろん、私にその能力があるなどと蛮勇を奮っているわけではありません。いま妙法蓮華経と唱え、人に勧めるものは世間一般のなかでそのような責務を自ずと背負っていることぐらいは理解しているということです。

122川蝉:2003/01/31(金) 17:09
117 : 犀角独歩さんへ。

>仏が現れる場所を原文ではしっかりと「霊鷲山」としているの
>を、熱烈に信仰する人はどこでも見られるような教条解釈を教え
>込まれてきたと言うことです。

結経とされる「観普賢菩薩行法経」に
「眼の過患を説き罪を懺悔せば、此の人現世に釈迦牟尼仏を見たてまつり、及び分身・無量の諸仏を見たてまつり」

「夢中に於いて釈迦牟尼仏、諸々の大衆と耆闍崛山に在して、法華経を説き一実の義を演べたまうを見ん」

「神力品」
「能く是の経を持たん者は則ち為れ已に我を見 亦多宝仏及び諸の分身者を見、また我が今日 教化せる諸の菩薩を見るなり」

「分別功徳品」
「仏子此の地に住すれば則ち是れ仏受用したまう 常に其の中に在して経行し若しは座臥したまわん」

等の文に基づいても、信行者の所に仏影現し在したまうと思想が出てくるわけです。
法華経全体の思想から云えば、「仏の現れる場所は霊鷲山という限定付きでした。」とは云えないですね。

>今から2000年前の人々は、心は神話世界の住人たちです。法華経
>と言えども、もちろん例外ではありません。ここに記されるの
>は、奇想天外、荒唐無稽と見えるSFファンタジーのような物語
>です。

法華経は神話的神秘的表現を用いて思想を語っていることは確かです。
仏は十方に周遍し常住であるとは法華経の思想ですね。さすれば、見仏の資格ある人は、インドの霊鷲山に限らずどこでも見仏出来る道理ですね。

>信心をする人のいる場所こそ、霊鷲山だ、漫荼羅を奉掲する場所
>は霊鷲山だ、そこで熱烈に信仰する人は、心で仏を見ることがで
>きるとするという「信」の形を、我々は与えられ、それを「信」
>じてきたわけです。

観心主義的立場だと「信心をする人のいる場所こそ、霊鷲山だ、漫荼羅を奉掲する場所は霊鷲山だ、」と云うかもしれませんが、日蓮聖人には、いわゆる霊山往詣思想も重要な思想です。「かかる不思議なる法華経の行者の住所なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」(真蹟無・南条殿御返事・学会版1578頁)
と云う言葉はありますが、「信心をする人のいる場所こそ、霊鷲山だ、漫荼羅を奉掲する場所は霊鷲山だ、」と云う意味の言葉は無いのではと思います。
「日蓮宗事典」に日蓮聖人の七種の霊山観が解説されてます。ご参考までに省略してご紹介します。
一、釈尊が永遠に住む山。
二、法華経の説所。
三、諸仏来集したまえる仏の国土。
四、法華経の信行者の究極に到達すべき境界であり、妙法五字の光明に照らされて十界のすべてが成仏し、往詣することの出来る境地。
五、本化に付属した儀式の行われた所。
六、二乗作仏・久遠実成の大法門が説かれた霊跡。
七、霊山は本仏と我ら所化が同体となって、三災を離れ四劫を出たる常住の浄土として顕現される所である。しかもこの浄土は現実と離れた別の世界にあるのではなく、娑婆世界に即している。

123犀角独歩:2003/01/31(金) 19:21

川蝉さんともあろう方が私が書いている文章を枉げて批正を加えるとは珍しいですね。

> 法華経全体の思想から云えば、「仏の現れる場所は霊鷲山という限定付きでした。」とは云えないですね。

私は寿量品の記述について断って記しています。法華経の全体を通じて記しておりませんが。

> 信心をする人のいる場所こそ、霊鷲山だ、漫荼羅を奉掲する場所は霊鷲山だ」

と私が記したのが川蝉さんの学系に属する範囲について記したのではなく、富士門における相伝を意識して記しています。

例えば『本尊三度相伝』に

「今此の本尊大漫荼羅とは霊山一会の儀式を書き顕はす処なり、末法広宣流布の時分に於いて本化弘通の妙法蓮華経を受持せん輩は霊山一会の儀式を直に拝見し奉る者なり」

といい、また、石山精師『日蓮聖人年譜』には

「此の血脈一紙日興に付属す日興又日目に付す今房州妙本寺にあるなり此の御筆跡を見るに霊山一会現前未散の躰を拝したまふ事も疑ひ無し」

といい、石山亨師『富士史料類聚』に

「感応道交十方通同如一仏土の霊山一会儼然未散の聴聞なるべし」

という如くです。

なお、日蓮の霊山観は、法華経原文とは何ら関係がありません。

124川蝉:2003/02/02(日) 11:02
123 : 犀角独歩 さんへ。

>私は寿量品の記述について断って記しています。法華経の全体を
>通じて記しておりませんが。

法華経信行者の所には釈尊が影現してくれる(三昧力のない私には感見は無理ですが)と信じることは何ら誤りでないでしょう。
その経証は前のコメントに挙げたとおりです。
寿量品に於いても
「余国の衆生の 恭敬し信楽する者有れば 我復彼の中に於いて 為に無上の法を説く」
(かくてか語たらむ人々に われ今此処に涅槃せじ、 比丘よこれわが善巧方便なり あまたたび人の世に生まる)(南条・泉訳)

「その心恋慕するに因って乃ち出でて為に法を説く 神通力是の如し阿僧祇劫に於いて 常に霊鷲山及び余の住処にあり」
(われを見んとて渇仰の思いあるとき正法説かむ。わが加持常にかくあらむ 不思議千倶胝劫のうち、この鷲峯と胝劫なす その他の住処を去らざらむ)(南条・泉訳)

「諸の有ゆる功徳を修し 柔和質直なる者は 則ち皆我が身 此にあって法を説くと見る」
(さはれ順良柔軟の 有情は人間に生じてぞ、清浄業もて生じたる かれらは法説くわれを見む)(南条・泉訳)
等の文によっても、法華経信行者の所には釈尊が影現してくれると信じるのです。

先行経典といわれている般若経の一つ「金剛般若経」に
「彼ら(諸仏)の功徳には、結果としての化身(というはたらき)があって、衆生を導くのである。諸仏は、このようなはたらき(業)を、あらゆる場所で、(特別の)努力もなく自然に行っている」(長尾雅人訳・中央公論社刊大乗仏典1・65頁)
と有りますように、大乗経典では、仏は機縁有れば影現すると云う考えが共通です。法華経成文者もこの共通した思想を持っていたので、上掲の文があるのだと思います。
ですから「我及び衆僧 倶に霊鷲山に出づ」の文は、「仏はほかの場所に現れない。霊鷲山だけに現じる」と云う限定を意味していないと思います。この文の背後には、「どこでも機縁有れば影現・現れる」という認識があると見るべきでしょう。

教相上、現に、釈尊が生に非らずして生を現じ法華経を説いている場所であるし、出典は不明ですが「前仏、今仏みな此の山に居す、若し仏の、滅後には羅漢が住し、法滅には支仏が住し、支仏なければ鬼神住す。聖霊の居する所で、因りて霊鷲山と為す」と尊い場所であるとされていたので、法華経成文者は「生に非らずして生を現じる」場所の典型例として「我及び衆僧 倶に霊鷲山に出づ」と霊鷲山を特に挙げたのだろうと思うわけです。

大曼荼羅もしくは一尊四士の前にて信行するときには、釈尊・諸菩薩が影現してくれているはずであると想念することは法華経の思想にはずれていないと云うことを前のコメントで云わんとしたのでした。

125問答迷人:2003/02/02(日) 13:44

色々と、議論が白熱しています。本当に有り難いです。今後の議論の錯綜を避けるため、少し整理してみました。


【原始仏典に見られる「信」について】

信仰という意味の「信」ではなく、修行の動機付けとしての位置づけ。108に於いて、独歩さんが「ブッダの悟りがどのようなものであるか。それは結局、覚った本人しかわからない、故にそれを信じることで代替できるというほど、論理矛盾した考えはありません。ここであるのはブッダの悟りを信じてその追体験(修行)を実践することのみでしょう。しかし、修行の動機となる信は、単に信じれば成仏するなどという短絡思考とはおよそかけ離れたものである」と述べられていますが、そういうことなのだと思います。


【大乗仏典に見られる「信」について】

原始仏典にみられる「信」の意義は引き継がれているものの、バカバットギータの影響を受けて、仏陀の神格化が図られて、絶対的帰依としての信仰形態が強調されるにいたったと思われます。15において「阿弥陀信仰はまったく新しいそれまでの仏教を刷新したニューウエーブであったろうと思います。絶対他力とその神仏への無条件の信仰―バクティの影響によって成立したのであろうと推測しています。修行が信仰に取って代わられた瞬間であったのではないでしょうか。」との独歩さんの説明が、雄弁にその間の事情を説明していると思います。


【羅什の漢訳が、『「信」の意味を変質させたか、させなかったのか』について】

109以降、この点についての議論が、羅什訳の妙法蓮華経と、法華経の梵本、さらに、その他の訳本との比較で、議論が現在進行しているわけです。

以上、ロムされている方の便宜の為、簡単に整理してみました。

126問答迷人:2003/02/02(日) 15:08

独歩さん

>115
梵本を少し勉強・・・「mamadravas」の意味を『梵和辞典』で当たってみる

如何でしたでしょうか。

127無徳:2003/02/02(日) 20:18
問答迷人さん今晩は:

インフルエンザにしてやられ久しぶりの投稿です。

原始経典とされるパーリ四部経典の中の「長部経典」に於けるsaddhaは、
サンスクリットのsraddhaに比定され「信ずる」を意味するとされます。

「沙門果経」に
so tam dhammam sutva Tathagate saddham patilabhati.
so tena saddha patilabhena samannagato iti patisamcikkhati.
(彼はその如来の法を聞いて、如来を信じそれへの信具足によって、かく
熟慮した)

とあり、この彼は決して妄信でなく 法に基づいて理知的な信を獲得した
と言えます。
また、長阿含経の「衆集経」では、
<一者比丘信仏如来至真等正覚十号倶具>

とあり、十号を具えた如来を信ずることを目指しているが、やはり仏と共
に法をも信じる理知的な信を勧めていると言えます。

そして、「衆集経」では信saddha、精進viriya、念sata、定samadha、
慧panna、の「信」に始まり「慧」で結ばれる五根を勧めています。

また、長部経典でも信saddha、精進viriya、慚hiri、愧ottappa、念sati、
定samadhi、慧panna、の七力を勧めやはり「信」に始まり「慧」で結ば
れています。

このことからして、仏教では決して妄信でなく理知的な「信」を最重要視し
ていると言えます。

次回は大乗仏教における「信」ついて述べてみたいと思います。

128無徳:2003/02/02(日) 20:44
追記 <127>は望月海淑氏の「法華経における信の研究序説」からの引用です。

129問答迷人:2003/02/02(日) 21:54

無徳さん こんばんは

>仏教では決して妄信でなく理知的な「信」

やはり、原始仏典においては、バクティのような、絶対信を勧めてはいないと言うことですね。有り難うございます。了解いたしました。

130Leo:2003/02/03(月) 01:37
>>107 無徳さん
>>112 satさん。
はじめまして。ご教示ありがとうございます。
よろしくお願いいたします。

(ロム者のコメントです...失礼します...)
>>29 で独歩さん >>127 で無徳さんがそれぞれ述べられておられました初期仏教の
「五根」、「五力(七力)」のそれぞれの「最初」に置かれるところの「信」ですが、
(但し >>127 のように「決して妄信でなく理知的な「信」を最重要視」)
一方、大乗仏教では「信」から「はじまる」ことについては一貫しているように
思います。

・確認しましたところ以前「天台本覚思想について」スレで無徳さんが「信」について
触れられておられました。(ここでは(も)日蓮聖人と「信」のからみもありました)
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/honkaku.htm
63 無徳さん:
>また、『大智度論』の中の有名な
>「仏法の大海は信を能入となし、智を能度と為す。是の如く、若し人、心中に信清
>浄有れば、是の人は能く仏法に入る。若し信無ければ、是の人は仏法に入ること能
>わず。」

・華厳経(賢首品)では「信は道の元とす、功徳の母なり。一切もろもろの善法を長養す。
疑網を断除して愛流を出でて、涅槃無上道を開示せしむ。」とのこと。

131三吉:2003/02/03(月) 07:37
見知ったハンドルの方も多くおられますが、この掲示板はじめてですので、
よろしくお願いします。

一つ、気になった点を、述べたいと思います。
バクティに関してです。通説では議論が進んでいるように、「熱狂的なバクティ」を
仏教は廃してしてきたのですが、詳しく見ますと、原始仏典にバクティは数少ない
が、散見されます。それとバクティが知的要素なしという見解も仏教側からの一方的
な論難で偏見に属するのではないかと思います。
ただ、その後の仏教が意図的にバクティを廃したのは事実で、その中で偏見が培われ
たのではないかと思います。ある視点から立てば、後代の浄土経典は、阿弥陀に対す
るバクティなのですが、大無量寿経にはみごとに一例もバクティは使用されていませ
ん。中味からは、法華経も寿量品に至っては、釈尊に対するバクティです。
バクティとは、前3-2Cの詩なんかから類推しますと、尊敬すべき人格に対する敬愛な
わけですが、その同じ構造が大乗では阿弥陀へも釈尊にもみられるわけです。
これはバクティにもかかわらず、用語を表面的に変更して、バクティではないと
主張していたように感じます。
釈尊は「自らを帰依処」とせよとしたわけですが、この教説によると、人法一体とい
うのはとんでもなく、教えは導き手としていいが、どんなに尊敬すべき人でも他者を
拠り所にしてはいかんといわれているわけです。判断の根拠は自分の中にあると。
死ぬ間際なぜ釈尊がこんなことを言ったかと想像すると、釈尊が存命中から、釈尊や
先輩比丘に対するバクティがあったからだと思います。

132三吉:2003/02/03(月) 07:38
そこでバクティを仏教側の一方的な偏見を廃してみて見ますと、
バクティは、語幹からは第一義として、to divide(分割する)、to share with(共有す
る)、to partake of(相伴する)で、二段階目に、to resort to(よく行く)、to serve(役
立つように)、そして三番目に、to adore(礼拝する)、to love(敬愛する)です。
文献としてのバクティはインド最古の文献リグ・ベーダにあるわけで、
Ⅰ・127・5では、to serve(役立つように) Ⅶ・81・2では、to partake of(相伴す
る)、Ⅷ・27・11では、to adore(礼拝する)、Ⅹ・109・7では、to share with(共有する)
という使われ方をしています。仏教にバクティが最初に取り入られたのは、テラーガ
ータ370偈であろうという説があり、文法家パニニもその文典のⅣ・鄴・95において、
上記の範囲内での使い方をしているわけです。

それが紀元前1Cの大叙事詩『マハーバーラタ』の一部に挿入された前3-2cの『バ
ガヴァッドギーター』18章700余偈でバクティ思想は開花したわけです。
先行する正統派バラモンが、信仰によってはではなく、個人的内証知(vidyA)によって
神々に近づくの対し、バラモン階級以外の解脱・救済の宗教的論理として、バクティ
はギーターで主題になっています。
ギーターは、先行する解脱の方法として、ジュニャーナヨーガ(知識による方法)と
カルマヨーガ(行為による方法)の二種を挙げ、これを土台にして、バクティヨーガ
(帰依信仰による方法)を確立しています
「罪なき者よ、この世には二種の基礎的立場があると、かつて我は説いておいた。
即ち理論家のジュニャーナヨーガと実践家のカルマヨーガである」(ギーターⅢ・3)。

133三吉:2003/02/03(月) 07:39
ジュニャーナヨーガについてギーターは、人が苦しむのは「欲望」であると抑え、
この克服は知であると説きます。その知は先行的する「無行為的な知」を批判し、
苦から克服という実践的な知として説かれます。
「人が対象を思念するとき、その対象に執着が生ずる。執着から欲望が生まれ、欲
望から忿怒が生じる」「忿怒から愚痴が生じ、愚痴から憶念の動揺が生じる。判断力
の破滅から理性の喪失が生じ、理性の喪失から人間は滅亡する」(Ⅲ・62,63)
「なぜならば知に等しい浄化具はこの世にないから」(Ⅳ・38a)「たとえ汝が一切の
悪人中の極悪人であっても、この知の船によってのみ、汝は一切の罪障を渡り得る
であろう」(Ⅳ・36)など。
カルマヨーガは、先行する単に「行為」を重視するカルマヨーガから、ギーターに
おいては結果を問わないスヴァダルマの遂行へと深められます。
「行為の結果に対する執着を捨てた者、常に足ることを知って一切の欲を離れた者
は、身体的行為をなしても罪にいたることはない」(Ⅳ・20a,21b)
この辺りの思考法は、釈尊の思考法とさして変らないと私は思います。

134三吉:2003/02/03(月) 07:39
ただ、ギーターは単なる知を説いたわけではなく、神との合一する知です。
「ある者は、自己のマナス(意)によって、ある者はジュニャーナヨーガによって自
己の内奥に住しているアートマンを見る」(ⅩⅡ・24)「一切生類の内に住している
アートマンを見る。アートマンの内に一切の生類を見る」(Ⅵ・29)
アートマンを仏性と置き換えれば、前者は仏性思想と似ていますし、後者は、華厳
や唯識的だと思いますが、あくまでこのアートマンは、根元者である神が前提されて
います。釈尊はそういう見解に対し、アンアートマンと言ったわけです。
あるいは高揚されたスヴァダルマは、四姓制度を、本性から生じたもので神が創った
ものとして肯定します。
「四姓制度はグナ(徳)とカルマの配分により、神の創ったものである。バラモン、
クシャトリア、ヴァイシャ及びスードラの行為は夫々の本性から生じるグナによって
区別されるのである。静寂・自制・苦行・清浄・忍耐及び正直・理論的知・実践的知
・信仰は、その本性から生じたバラモンの行為である。勇敢・威光・堅忍・熟達・戦
場での不退却・布施及び支配権の行使はクシャトリアの行為である。農耕・放牧・商業
は、その本性から生じたヴァイシャの行為であり、奉仕の性質のある者は、その本性
から生じたスードラの行為である」(ⅩⅧ・41~48)
アンアートマンを唱えた釈尊はこういう発想についても「生まれではなく、行為によ
って人はバラモン(聖者)となる」と批判しています。

135三吉:2003/02/03(月) 07:40
ギーターにおいて「神」を云何に捉えているか、これも情報を提供したい。
「かの非顕現なるものに執着した人々の苦悩は非常に大きい。なぜならば、非顕現な
る境界には身体のある者にとって近づきがたいからである」(ⅩⅡ・5)
ギーターでいう神は形而上的存在ではなく現象界です。これはその後の仏教の仏身思
想への影響の根になっているのではと思います。少なくとも「応身」「報身」と同じ
構造だと思います。

さてバクティですが、Ⅶ・16,17に「神に帰依する四種類の人々、即ち悩める人、
知を求める人、財富を求める人、知を有するもの者などの四種の人の中で、知を有す
る者が最勝である。なぜならばその人は一向専心なるバクティを抱くが故に、彼は、
神を愛し神は彼を愛すが故に」とあるように、バクティは知と共に語られており、
仏教が一方的に「熱狂的盲信」と非難するが実は「知による理性的判断と結果の執着
から離れた確固たる自分の義務の遂行」という二つのヨーガの上に確立した、帰依信
仰なわけです。

136三吉:2003/02/03(月) 07:40
次に仏教におけるバクティの用例に少し触れますと、
テラーガータ370偈「師の言葉を知り、賢明であり、師の言葉を知り、愛情を起す者、
彼は実にバクティのある人であり、賢者であり、また諸々の教えを識別する智者であ
ろう」
小鷲本生譚第9偈で阿難の前生の鷲の将軍が鷲王(釈尊の前生)に言う「この私は、法
と法から等起した義とを留意しつつあなたに対するバクティを正観してますから、少
しも生命を欲しません」
増支部経典ではバクティは「サッダー、pema(愛情)、パサーダ」と併記され、
これらが少ない人が動揺する者であると抑えられています。

逆にバクティに対する批判は、部派の説一切有部の論書「法集論」1328で、
「如何なるものが悪友であるのか?信仰なき者や破戒者、寡聞者、有慳者、愚鈍者に
仕え、実行し、支持する者、親近し奉仕する者、バクティを持ち、バクティを持って
親交を持つ者、これらが悪友であると言われる」
この同文はその後、論書に引用され、大乗の二万五千頌般若経にも類似の表現がある
らしいです。
釈尊の頃は、まだバクティが民衆の間に広く影響力がなかったのかもしれませんし、
釈尊が直接何かを書き残したわけではありませんし、釈尊がバクティについてどう
考えたのかといいうの推測の領域になるわけですが、後代、五根・五力の基本にお
かれたサッダーは、古層スッタニパータによれば、
「人は信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え
智慧によって全く清浄となる」という発想はギーターのⅣ・36の知の捉え方や行為、
信の捉え方との類似性はあると思います。
ところが部派仏教時代に、民衆における他教バクティの高揚があり、意図的にバクティ
を廃し、非難する伝統ができたのではないかと思います。

137三吉:2003/02/03(月) 07:41
バクティに対する「知的ではない」という批判は、客観性がありません。ただ、バク
ティは、直接の対象を「人」とし、間接的には「人をとうしての法」なのですが、
遺言で他者を拠り所にする姿勢を批判したところで、仏教は釈尊在世時から、あるい
は死後すぐに「人に対する崇拝感情」があったわけです。
増支部に「静かにヴァッカリよ。この卑しき吾が身体に何が見られようか。ヴァッカ
リよ、法を見る者は吾を見るのである。吾を見る者は法を見るのである」と。
こうして人法一体思想は、初期仏教から説かれているわけです。

後代になると注釈家ブッダゴーサのように「サッダーは実践によってバクティの如く
なろう」と言う者や、馬鳴のように「バクティは法に順ずればプラサーダになる」と
いう見解を持つ者が出てくる。
歴史は一つの流れではなく、批判、影響を繰り返し、揺り戻しなどを経てあるのでは
ないだろうか。
蛇足だが、ギーターは19Cヨーロッパで紹介され絶賛されて以来、インド古典として
の価値は認められ、その思想は近世インド思想家の精神的支柱にもなったし、ガンジー
も尊敬していたと伝えられる。その思想内容に批判を加えるのはいいと思うが、繰り返
しになるが知的ではないとか、「狂熱的信仰形態」というのは一方的な偏見だと私は思
う。かつて大乗が部派に対して「小乗」と一方的に批判したり、創価学会がじぶんとこ
以外は駄目とかしている姿勢と同根だと。。。
長々と失礼しました。

138犀角独歩:2003/02/03(月) 09:00

川蝉さん:

「一心欲見仏〜倶出霊鷲山」につき、私はこの文に限って記したのに、「法華経全体では」という批正が2度繰り返されました。疑義を挟む私の文章の趣旨が違うわけですから、噛み合わない議論であろうかと思います。このまま、また私が応じれば堂々巡りとなり、ロムの方々の不快感を煽ることになるでしょう。この点は私は繰り返さないことにします。

しかしながら、文を限定して記すことを全体を通じて批正を加えるのは、議論のルールに反することであると私は思います。

なお、これも川蝉さんと議論をする気はありませんが「見仏」は原文直訳から見る限り、「影現」ではないでしょう。文字通り、見ることです。これを影現などとするのは漢訳仏教の勝手な解釈であると私は思います。

見仏は影現などではないという点、梵漢問題を考えるうえで重要な点であると私は考えます

139犀角独歩:2003/02/03(月) 09:01

126 問答名人さん:

まだ当たれないでいます。
もう少しお時間をください。

140犀角独歩:2003/02/03(月) 09:21

三吉さん:

はじめまして。と申し上げましても、一方的には数年前から貴掲示板を拝見し、その豊富な知識と、そればかりではなく、そのご賢察に、富桜那の弁を聴聞する思いをなしてきました。

さて、この度は豊富な資料と共に長文の投稿を拝見し、大いに参考となるところがございました。殊に

> 知的ではないとか、「狂熱的信仰形態」というのは一方的な偏見

とは。仏教内に限らず「バクティ思想」全体を指して仰ってお出でのことと拝察しながらも、真摯に受け止めるべき点であろうと思いました。

以下は、これはご賢察に異議を唱えることではなく申し上げることです。
私が特にバクティについて、論を立てるのは、やはり、Controversial Group における信念体系にその影を見るからに他なりません。また、世界貿易センタービルへハイジャック機で突っ込んだテロリストが、最期に服をはだけて胸を露わにし神の名を叫ぶという宗教儀礼を行ったはずだという指摘もありました。このようなところにもバクティは確かに崇め続けられていると思います。もちろん、それらと敬虔な信仰とを短絡的に結びつけひとまとめに論じる具を犯すものではありません。

しかし、かつて「お前は池田先生のために死ねるのか!」と声を荒げた先輩から迫られ「はい」と答えた私は、その贖罪と責任から、この問題をどうしても考えておかなければならないと考えてきたのです。

このような愚慮に対して、豊富な知識とご賢察をさらに賜れることがあれば、これに過ぎる喜びはございません。

これまた、一方的に申し上げる無礼をお赦しいただければ、今後ともよろしくお願い申し上げるものでございます。

141三吉:2003/02/04(火) 03:16
独歩さん ご丁寧なレス ありがとうございます。
私は先輩諸氏から「思索が足りん」と批判されている小生意気な馬鹿野郎にすぎません。
どうぞ、お手柔らかに願います。

かつて、小学生の頃、洗礼は受けてはいないとはいえ自覚的クリスチャンであった私は、
校区外の教会に通っていることについて学級会で学友から問題にされ、採決の結果、校則
通り親同伴でないと校区外に行ってはいけないと議決されことがあります。
論陣をはりましたが、効果なく敗れ去り、担任から校則守る旨説得されましたが、納得し
ませんでした。その時、私が感じたのは「信仰と言うものは、殺されても。。。」という殉教
者的気分でした。
ですので、私からしますと、死後の世界を信じているテロリスト達が大義の為に自爆テロ
をしたり、「先生のために死ねる」という発想は全く持て怪しむに足りない信仰の一段階と
して当然にあると思います。驚くに当たりません。
ただ、私はその発想を信仰の深い思索からくる発想ではなく、非常に浅い、小学生でも得
れる境地だと思っております。生意気申しますが、体験上からはそう考えています。

信仰というものは、諸刃の刃で危険でもあり、意味のあるものだとも思います。
私が接した新興宗教の信徒たちは、概して「いい人」たちが多い。
私のようなひねくれ者ではなく、一人一人はとてもよい人たちが、護教となると、一転し
て偏見に充ち満ちた狭い発想に閉じていく。イメージとしての信仰は「自分を開放」して
いくものにもかかわらず、現実、逆に「閉塞した論理に自己を閉ざしていく」事実に出会
います。
こういうことを危惧されての「信」の考察ではないかと愚考します。
ご考究のように大乗経典は、「功徳」と「脅迫」という飴と鞭で、信を勧め、現代の我らの
感覚からすると、反発を感じる発想に充ち満ちています。
善導あたりはその経典の脅迫を、事実として受け止めず、「抑止の論理」として解体してい
きます。単なる解釈にすぎませんが、私はそこに経典を超えた思索を感じます。
仏教内の閉ざされた「論理」を解体していく思索が私たちにも必要なのかもしれません。

論点からずれましたが、私の感想とさしていただきます。

142犀角独歩:2003/02/04(火) 08:56

三吉さん:

141にお記しいただいたこと、実に大きな「信」のテーマであると思います。

私自身、テロリストの殉教を単に批判し、勢いバクティを批判しようという短絡思考に陥る愚を犯すつもりはありません。

私自身が「先生のために死ぬ」という“信仰”で生きてきた過去の自分を否定するのは、その自身の熱情…バクティと言えようかと思いますが…を、というより、死を選ばせた対象が自身を死に値するほどの対象でなかったことを誤認識していた点に、私は自省があります。また自身の熱烈な信仰心、その会員の相対の熱烈さが、各人を、というより、会と指導者を潤す以上の意味を持たなかったという“すり替えられた”点に気づけなかった点に慚愧の念を催すのです。

ところで、僭越ながら、申し上げれば、三吉さんの文章を拝見し、私が実に勉強になるのは、豊穣な知識を有されながら、それをご自身の言葉でお記しになっている点です。私もこのような点を大いに見習いたいと思うものです。

さて、たいへん恐縮なのですが、私は浄土門については実に不案内なので、お示しの「善導」につき、いましばらくご解説をいただけませんでしょうか。何か一つの方途を見る思いがするものですから、もしご返答をいただければ有り難く存じます。

143みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/09(日) 04:20
>>3 問答さん

「修行者ども、耳を傾けよ。不死が得られた。わたくしは教えるであろう。わたくしは法(ダンマ)を説くであろう。汝らは教えられたとおりに行うならば、久しからずして、良家の子らが正しく家から出て出家行者となった目的である無上の清浄行の究極を、この世においてみずから知り、証し、体現するにいたるであろう。」(ブッダの人と思想)NHKブツクス62頁

まず、「不死が得られた」、というのは、本当に釈迦が死ななくなったという意味ではありません。釈迦は後に毒キノコを飲んで死にますから。久遠実成であるとか言う意味でもありません。法華経と生身の釈迦は関係ないですから。

 3つ解釈があると思います。一つ目は輪廻転生を認める立場。覚ったものが、輪廻を離れて二度と生まれ変わらないことを涅槃といいます。覚った仏は二度と生まれ変わりません。ですので、釈迦はこのインドでの人生を終えて死んだら、二度と生まれ変わらず、また死ぬこともありません。それを不死と呼んでいるという考え方。
 二つ目は、輪廻転生などインドのバラモン教のフィクションだとする立場。釈迦が輪廻を解脱するというのは、生まれ変わりを認めて、それから生まれ変わらなくなったのだとするのではなくて、そもそも生まれ変わりなどないのだ、それに自分は気づいたとする考え方です。
 三つ目は、覚る(=認識のあり方を変える)ぐらいで、輪廻しなくなるとは考えられないので、釈迦は来世も生まれ変わるのだが、生まれ変わることに恐れや不安がなくなった、という考え方。
 どれが正しいかはわかりません。この三つ以外にもあるでしょうし。

 「法」(=パーリ語でダンマ、サンスクリット語でダルマ)は、法ですね。悟りによって知られた事実が法です。悟りによって知らなくても法は世界にあり続けています。法が何かというのを説明するのは難しいですが、端的に言えば、当たり前の因果です。因果が当たり前に働いており、ものごとが相互に関係し合って、生起するというのが法です。仏教が説明しているのは全部、法についてです。仏教の経典や論書がやっているのは、法を説明して、法をわかれ、そのために覚れと読者に迫っているということです。そうすれば、トラブルが減るし、苦しみもなくなる、と言っているのです。

 法という言葉は、「おしえ」という意味と「ものごと」という意味の二重の意味をもって使われます。それは「おしえ」と「ものごと」が同じ事だからです。この世のものごとが現象するということだけが事実です。それだけがおしえです。どこか別のところに大切な教えが隠されているわけではないからです。法は常に見えています。体験しています。ただわたしたちが、智慧を開いていないので、気づいていないだけです。

 「教えられたとおりに行うならば」、釈迦がいうとおりの適切な方法で修行するならば、と言う意味ですが、なぜ修行が必要か。それは法は各人が勝手に覚るしかないからです。釈迦が法を覚ったから、それを釈迦が言葉で教えてあげる。そうすればほかの修行者にも伝わるというものではないからです。なぜならば、智慧を開いて覚らないと法はわからないからです。ですが、誰かが他人を覚らせるということは不可能です。それができると思っているならばその人は傲慢であり、勘違いしています。たとえ釈迦であろうと人間ができるのは覚る方法を教えるとか環境を整えることだけで、覚るのは本人自身の機縁次第です。それは、カルト宗教をやめさせるのが他人には不可能なのと同じです。カルトが妙なものである、自分にはいらないと本人が気づかなければ、周りがいくら説得してもやめませんよね。自分で気づかなければものごとは起きないというのは、カルト宗教をやめることも、覚ることも同じです。それらはどちらも「気づき」という意味では同じです。気づきの内容や対象が違うだけです。

144みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/09(日) 04:21
 「無上の清浄行の究極」が何であるのかは、覚る前にはわかりません。法華経の比喩にもありましたが、仏道修行のご褒美が何であるかは、覚らなくてはわかりません。どこに連れて行かれるのかは、到着してみないとわからないのです。口で説明することはできるでしょうが、覚っていない修行者には決してわかりません。なぜなら、それは覚らないとわからない、法(=ものごとのあたりまえのありさま、事実)をありありと体験するということ、だからです。

 「この世においてみずから知り、証し、体現するにいたるであろう」「この世においてみずから」というのは、この身で阿羅漢果に至るといっているのです。大乗以前の部派仏教では、釈迦以外の人が、この世で仏になることは考えられなかったので、阿羅漢果を最高のものとします。ですが、阿羅漢というのは釈迦の尊号の一つですので、悟って仏となるということと事実上同義です。ですので、これは、後の用語を使うならば、即身成仏すると言っているのと同義です。釈迦の弟子は、多数覚ったそうです。現在の日本仏教では即身成仏を言いながら、覚ったとされる人は誰もいません。釈迦の指導が適切だったからかもしれませんし、日本仏教の仕組みが実践的なものではなくなっているからかもしれません。または悟りの要求レベルが上がっているのかもしれません。「知り」というのは身と心で知ると言っているのです。「証し、体現する」というのは、知ったことによって、行動や言動が変ってきます。それを証し、体現する、と言っているのです。覚るという事実はきわめて身体的なもので、身体を離れません。なぜならば、覚る以前と同じ日常を見、体験しているにすぎないのにもかかわらず、ものごとから得られる情報が適切となるからです。それは余計な先入観や偏見で、自分の見たいように事実をねじ曲げてものごとを解釈することをやめるからです。その結果、行動や言動が変化します。それが体現するということです。

145みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/11(火) 00:54
>輪廻を離れて二度と生まれ変わらないことを涅槃といいます。

訂正
涅槃ではなく、解脱の誤りです。

146三吉:2003/02/14(金) 07:11
犀角独歩さん

まずは、お返事が遅れましたことと、この板で不適切な例示をしたことを
お詫びします。

善導が成した仕事は、大無量寿経に「唯除五逆誹謗正法」とあるが、
観無量寿経には「五逆」は摂するとある、この経典間の矛盾はなんだと、
その意味を探って解釈して、「それが重い罪だから、罪を犯さないように
除くとあるのだが、本当は犯しても摂するのだよ。だから観経では五逆の
者がテーマになっている箇所では摂するとあるのだよ。よくよく私の身の事
実を考えれば、五逆とは、既に犯してしまった罪だし、誹謗はまだ犯してな
い罪なんだよ。犯してしまっても本当は摂するのだよ」と。

「問ひていはく、四十八願のなかの〔第十八願の〕ごときは、ただ五逆と誹
謗正法とを除きて、往生を得しめず。いまこの『観経』の下品下生のなかには、
謗法を簡びて五逆を摂せるは、なんの意かあるや。答えていはく、この義仰ぎ
て抑止門のなかにつきて解せん。四十八願のなかの〔第十八願の〕ごとき、謗法
と五逆とを除くことは、しかるにこの二業その障極重なり。衆生もし造れば
ただちに阿鼻に入り、歴劫周章して出づべきに由なし。ただ如来それこの二
の過を造ることを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」とのたまへり。また
これ摂せざるにはあらず。また下品下生のなかに、五逆を取りて謗法を除くは、
それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。還りて大悲を発して摂
取して往生せしむ。しかるに謗法の罪はいまだ為らず。また止めて「もし謗法
を起さば、すなはち生ずることを得ず」とのたまふ。これは未造業につきて解
す。もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。」(観経疏散善義)

147三吉:2003/02/14(金) 07:12
さていい訳です。私が「宗教的脅迫」から善導の「抑止門」を短絡したのには
理由があります。かつて新興セクトの親鸞会の脱会者たちが運営する掲示板に
おいて、脱会者たちや注意深く見守っていた滝本弁護士に対して、現役信者さ
んたちが、「親鸞会の悪口をいうのは誹謗正法だから地獄オチだ」と真面目に
言うていたのに驚愕したインパクトが強かったためです。
彼らは実体的に「地獄がある」と思っており、恐らく善意でいうているらしく、
自信満々です。私は暗澹たる思いになったものです。
いわば浄土門としてはその根幹であるといってよい本願の中でも1番重視する
第18願に「唯除」があるのですが、経文を文字通り絶対視し、教条的に読めば
「五逆」の者と「誹謗正法」の者は全てを救うぞという本願から排除されること
になります。それを自戒としてではなく、自分のセクト擁護の論理として悪用し
他人さまからの批判を避けるために脅迫として用いてしまう。。。
善導は逆に、経典の脅迫を文面上で解釈せず、主体的に読み込んでいったわけです。
その思索が、「脅迫」を「抑止」と読み替えたわけです。私はそこに思索を感じる
わけです。
余談ですが、私は「釈尊」だけを仏教と思っていません。
伝承の古層より探った「釈尊」を絶対視し、その偏差から後代の仏教を間違っている
という立場には疑問を感じますし、同時に後代に成立した仏教をもって、例えば、経文
、祖師の論をもって絶対視し、それのみを正しいとする立場にも疑問を覚えます。
論理的整合性があるとか理屈が秀逸であるということでもなく、ただ単にその思索が
「私を感動させる」かどうかが私にとっての大事なのだと思います。
つまるところ私は私の感覚を「拠り所」にしているわけですから、あちこちに頭をぶつ
け、醜態を晒しておるばかりです。
ご参考になりましたかはどうかは不安でありますが、ご返事とさせていただきます。

148犀角独歩:2003/02/14(金) 10:48

三吉さん:

有り難うございます。

善導に係るご説明もさることながら、「私の感覚を「拠り所」にしている」というお言葉こそ、参考になりました。

現日蓮門下は「自力」を言いながら、違背するように、決定権を、指導者と組織に委ねてしまっています。自分を過小評価し、自分のことを人に判断してもらうことによって安心感を得ようとしているわけです。これは自分の人生を他人に委譲していることに他なりません。

三吉さんのご返信に感動したのは絶対他力に立ちながら、その自分の感覚を拠り所とされると仰ったことでした。この段を拝読し、日蓮門下にあった私は、絶対他力信仰者を誤解していたある部分が脱落した眩暈を覚えたのです。御礼申し上げるものです。

149犀角独歩:2003/02/14(金) 10:53

おっと、三吉さんを勝手に絶対他力信仰者と決めつけた記述になってしまいました。
外れておりましたら、お詫びいたします。
日蓮の基礎思想となった浄土門に精通した、と記したほうが、まだ適切であったかも知れません。

150阿呆陀羅經@半可通:2003/02/16(日) 16:37
興味深い経典のことばを見つけたのでカキコします。

カーラマ族の人々よ、あなたがたが疑うのは当然のことです。不確かで暖味なところ
に疑いは起こるものです。これから私が話すことを、よく注意して聞きなさい。
*ただ聞いたことを判断の基準にしない
*伝承、伝統、伝説を判断の基準にしない
*見当や当てずっぽうなことを判断の基準にしない
*聖典や古典を判断の基準にしない
*理屈を判断の基準にしない
*推論、推測を判断の基準にしない
*うわべだけの考えを判断の基準にしない
*自分の見解と同じということを判断の基準にしない
*可能性を判断の基準にしない
*語る人の偉大さ(師)を判断の基準にしない
カーラマ族の人々よ、もしあなたがたが何かを理解するときに『このことは不善であ
り、悪い行為で、賢者に非難されることである』と自ら知るならば、それらは捨て去
ることです。また『このことは善であり、善い行為で、賢者から非難されないことで
ある』と自ら知るならば、それらは受け入れ従うことです」と。
(アングッタラニカーヤ 『カーラマ経』)

151阿呆陀羅經@半可通:2003/02/16(日) 21:07
相通ずる趣旨のものを見つけましたので、追加します。

比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善
き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。
                         (マッジマ・ニカーヤ 22)

人々は、私の言ったことを盲信する必要はない。知識と知恵と判断力とによって確信
に到達すべきである。賢い人々が火で焼き、切り、試金石でこすって黄金の真偽を確
かめるように、あなた方も単に私への敬意からだけでなく、検べに検べた後に私の言
葉を受け入れるがよい。

152落ちこぼれ虎次郎:2003/03/28(金) 21:25
ゴメン下さい、。 「信」麗しいお言葉です。 だが「信」に耐えうるのは、、??
 他人を「信服」させる手の一つとして「信」を多用してはございませんか、、??
 「信」の前に「末法辱悪の我らは”疑い”の連続に投函されて居るようです、。
 まず「疑い」をはらすご努力こそ「一番」かと、、??


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