したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

信仰者の信仰責任

1問答迷人:2003/07/09(水) 06:33

アネモネさんから、スレッドテーマの提案がありましたので、立ち上げます。提案文等は以下の通りです。


8 名前: アネモネ 投稿日: 2003/07/08(火) 19:40

早速ですが、私からスレッドテーマを提案させて頂きたいと思います。
「信仰者の信仰責任」
このテーマでの議論を希望いたします。いかがでしょうか。


9 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/07/08(火) 20:00

アネモネさん 

掲示板への御参加、誠に有り難うございます。

蓮師は、一人の信仰者として、どのように己の言動に対して責任を取ったのか、或いは取らなかったのか。そこから派生して、蓮師に連なる信仰者は、それぞれの言動に対して、今までどのように責任を取ってきたのか、或いは取らなかったのか。こうした議論を大いに歓迎します。今までほとんど問われることの無かった視点で有ろうと思うからです。そのような新スレッドに賛成です。


10 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/07/08(火) 20:32

わたしも大変に興味のあるテーマです。
少し前に聞いた講演で早稲田大学・法学部の棚村師が以下のような問題提議をされました。

「どうして宗教と名前がつくと、法的な責任が問われにくくなるのだろうか、しかも、さまざまな被害を出している集団が、なぜ、宗教という名前でもって、免責をされて、許されているのだろうかと疑問をもちました。やはり、内心の信仰といっても宗教的な活動は、他人の権利・自由、社会と非常に深く関わります」

http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/open/ol001_tanamura.html

ぜひ、議論に参加させていただきたいと思います。

2アネモネ:2003/07/10(木) 22:46
スレッドテーマにご賛同頂きまして、誠にありがとうごさいます。
まずは私から、このテーマをご提案させて頂いた経緯を少しばかり記しておきたいと思います。

私が、約2年余り前にはじめて富士門信徒の掲示板に参加させて頂いたのは、「僧侶の妻帯の是非について」というスレッドだったかと思います。当時はまだ、掲示板が出来て間もない頃で、妻帯の是非を問うなどと僧侶に対して少しでも批判を向けようものなら、それこそ「謗法だ」といきなり叱責を受けるようなレスも多かったように記憶しております。寺院内での価値観がそのまま掲示板に持ち込まれてしまいそうな重々しい雰囲気の中、それでもスレッドはかなりの反響だったかと思います。
たまたま、このとき私は、富士門信徒の掲示板をみつけまして、スレッドテーマに非常に問題意識を覚え触発されました。

というのもそれは、私にとってのそれまでの約8年近くの法華講生活が、その組織内での派閥闘争からしても、とても信仰の場とは言い難いような、疑問を抱くことばかりの姿だったことが、私の中に大きく横たわっていたからといえるでしょう。
最初の疑問は、この教えの布教の責任が折伏の達成目標という数字で示され、直接的にその数字を背負って活動をしているのが、僧侶ではなく信徒であるという実態です。これにはなにかとても釈然としない思いを抱きながら8年間を過ごしてきました。
そもそも人が信仰を求めて入信をする動機は、まず救われたいという気持ちからではないかと思います。救われたいために、教えを求めてきているというのに、教えもわからず救われないうちから、御報恩だと折伏に煽られ、成果主義の価値観が植え込まれていくということになんとなく違和感を覚えたのです。
そうやって、仕事も家庭も生活もそっちのけで信徒はあくせく活動しているというのに、一方のご僧侶方はとてものんびりと過ごしておられるように思え、また奥様におかれては、いかにも優雅なものです。私の中にある蓮祖の姿とはとても重ね合わせられない、そんな思いを抱きながら、あのスレッドにぶつかったというわけです。
信仰における、本来の布教の責任は、きちんと修行を積まれたご僧侶こそが、第一に負うべきことなのではないか。これが最初の私の寺院内での疑問と問題意識でした。
そういう意味において、「僧侶の妻帯」という非常に象徴的なところから核心がつかめるようなテーマであり触発され、私の投稿ははじまりました。
その他、数あるスレッドの随所でレスさせて頂きながら、その約2年近くの間には、まさにお二方の緊迫した議論を通して、これまで一度も教えられていなかったことや、また教えられていたことの誤りも学ばせて頂き、まるで大きな人生の転機を迎えるほどの変化をもたらすような、とても有意義な参加だったといえます。
そして、結局そこで気がついたことは、自分が8年間の信仰生活において、ほとんど何も仏教を教わかってもいなかったということ、そして学んでもいなかったということだったのです。
つまり何もわかっていないのに、「この教えは絶対に正しい」と確信をもって自分の信仰を人に語っていたわけで、とても恥ずかしくもなりました。
確信をもって語る自分の言葉に、果たしてどれだけ私は責任を持っていたのだろうかと考えると、実は、ほとんど無責任だったのではないか。もっといえば、ただ自分の言葉に酔いしれているだけだったのではないかと、振り返るものでした。

3アネモネ:2003/07/10(木) 22:46
(つづき)
さて、2年が過ぎて再び私が大きく触発されたスレッドテーマは、現在進行形のスレッド「宅間守と日蓮正宗の相関性をどう感じる」でした。
かつて僧侶の妻帯のときには、問題意識を向ける対象は聖職者である僧侶や宗門に向けられていたものでしたが、このスレッドにおいて私は、僧侶のみならず信徒も含めた信仰者全体に向けるものとして意見を投稿してきました。しかしその中には、かつて無責任に信仰を語っていた自分をも含めているわけです、いわば自己反省もこめた文章を綴り投稿を繰り返してきたというわけです。
スレッドそのものに対しては賛否両論で、私としてはなかなか本題には進めないジレンマのような感触を残しております。それでも印象的に思ったことは、「なぜ日蓮正宗は宅間を救えなかったのか」という観点まではなんとかこぎつけたということです。しかし、そこからの議論の発展は、投稿も少なく、ほとんど進まなかったというわけです。

ほとんどの信徒の方々は、恐らくかつての私のように、いやそれ以上の確信をもって信仰を語っておられるものと思います。「この信心は絶対に正しい」「この仏法を信じれば必ず成仏する」「この仏法を信じないとやがて地獄に落ちる」などと、雄弁な言葉で広く勧誘をしてきているものといえるでしょう。
ところが、そのような絶対的な確信で信仰を語っておりながら、いざ今回のような問題を前にすると、まったく寡黙になってしまうわけです。テーマがテーマだったからということもあるかもしれませんが、そればかりともいえない感触も私は覚えました。
「なぜ日蓮正宗は宅間を救えなかったのか」ということに、どうして意識が向かないのか。私としては非常に素朴な疑問として残ったものです。

その素朴な疑問を突き詰めていくとき、布教活動を通して確信的に信仰を広めておりながら、実はその広めた教えに対しては、「信仰者の信仰責任」は非常に希薄なものだったということを、どうしても認めざるを得ないのではないか。そんな問題点をみつけました。
私なりに「なぜ日蓮正宗は宅間を救えなかったのか」ということを通して、みえてきた問題的として次の3点をまとめてみました。
①専門的な仏道修行をしていない信徒が、成果主義に基づく布教活動の担い手になっているということ。
②僧侶の法話が、信徒の折伏推進が中心となっていて、法華経も仏教もほとんど説かれていないということ。
③僧侶も信徒も、この信仰を絶対のものと確信しているため、何があっても限界も反省も認めないこと。
とりあえず大まかなところで、この三つが信仰責任の希薄さとして考えらました。他にも考えられるようなことがありましたら、ご投稿頂きたいと思います。
それはともかくとして、果たしてこのような状態が蓮師に連なる門弟の姿といって良いものなのか。蓮師の思いにかなった教団となっているものなのか。また蓮師が求めて止まなかった仏教の見地からみて、それが仏教徒の姿といえるものなのか。そんなことも考え併せながら、さらには、この教えを広めることにおける社会的な責任はどうあるべきかなのか、といったことも議論をしていけたらと思っております。

4アネモネ:2003/07/10(木) 22:47
①専門的な仏道修行をしていない信徒が、成果主義に基づく布教活動の担い手となっているということ。
まずはこの点から考えてみたいなと思っています。
ここでは、折伏のときに信徒が語る言葉における責任というものが問われるのではないかと思われます。
その辺りからの、ご意見を頂ければと思います。よろしくお願いいたします。

とりあえず、議論を絞り込みましたが、その点はそんなに堅苦しく囚われず、思い思いのことをレスして頂ければと思っております。

5犀角独歩:2003/07/12(土) 07:30

アネモネさん、いよいよ、このスレッドも始まりましたね。

はじめから、やや横道のことを記します。
富士門流信徒の掲示板の「宅間守と日蓮正宗の相関性をどう感じるか」のご投稿は興味深く拝見しておりました。
反面、多くの投稿が「どう感じるか」というテーマであったのに、スレッドの削除を求められたり、提案者の個人攻撃がなされたり、事実に基づかないから云々などと、半ばテーマの呼びかけと関係のない「抗議」ばかりが大半を占めていたのは、わたしのようなカルト問題を扱ってきた人間からすれば、多くのサンプルを蒐集できることになった側面がありました。

個人の内心で感じる「二つの事例の相関性」というのは、実は二つの事例をどのようにとらえるかという、感じる側の内心の経験と大きく関わっているわけです。この場合、「感じる」は書いて字の如く個人の感じ方そのものですから、その個人の経験から特定の事例に触れたときの感情を言うわけです。これは二つの事例の相関性という事実とは別の問題です。それを見聞する側の、内心の問題です。しかし、見る限りこの反応は以下のようなものでした。

・提案者への抗議
・テーマへの抗議
・スレッドの取り消し要求
・テーマ/スレッド肯定者への抗議
・二事例の、相関性を事実無根とす訴え

など。以上の反応は、二事例(宅間守/日蓮正宗創価学会)の関連性に対する過敏な拒絶反応として興味深く見ていました。また、これらの反応を示す方々の特徴は、「どう感じるか」という相関性の問いかけに答えず、「どう感じたか」という他者の感じ方に“注文をつける”ところでした。この場合、「相関性を感じた」とする個人の感性を否定するという側面まで見せていました。どのような感じるかは、個人の感情ですから、それについて、「こう感じるべきだ、ああ感じるべきだ」といえば、これはマインド・コントロール論で言う「感情コントロール」に相当することになります。

ここで相関性を感じる人への批判の基礎理論となっていたのは、「二事例の、相関性の有無」でした。たしかに「感じる」判断肢の基準になるものに違いありません。しかし、ここで意識されていない点がありました。それは何かといえば、事実と信仰の混同です。事実と信仰は、実は距離があります。事実認定は事実のみを扱いますが、信仰は証明不可能なことも取り扱います。このときに信仰面からのアプローチを切り捨ててしまえば、信仰面という判断肢からの結論はばっさり切り落とされることになります。

富士門流信徒の掲示板における議論は「信徒の掲示板」というサイト目が示すとおり、「信」に抵触した形で取り扱われています。「信とは何か」というテーマ自体、大きなもので、容易に結論は出すべきではありませんが、しかし、信徒掲示板であれば、「感じる」は「信じる」こととの関係性を除いて論じることはナンセンスです。さらに言えば、信仰という側面から見れば「救済」という一面はクローズアップされることになります。この救済というテーマから二事例を問えば、その信仰体系が有している救済理論(日蓮正宗創価学会教義)と信仰者(宅間守/相関性の是非を言う信仰者)の相関性という二事例の相関性を感じる、もう一つの相関性が、すなわち、各人の、二事例相関性への有無の感じ方が、実はスレッドテーマであったわけでした。しかし、この点は少しも進捗していませんでした。この進捗を妨げて傍論に置換してしまう心理こそ、もっとも興味ある点でもありました。

ここのスレッドで、仮に「宅間守と日蓮正宗(創価学会)の相関性をどう感じる」を論じ合うとすれば、わたしたちは、事実関係を論じる、無信の、警察、あるいは法律関係者などありませんので、信仰面から相関性有無を論じる方法を採ることになるでしょう。

また、その取扱は、「信仰者の信仰責任」という範疇から論じることで、当スレッドテーマと抵触させることは可能であると思えます。

なお、お断りするまでもありませんが、もちろんわたしは、あのスレッドの提案者ではありません。

6犀角独歩:2003/07/12(土) 08:34

さて、議論テーマとされた三つについて、一番目から考えてまいりたいと思います。

(1)(丸に数字は、Mac使用者などは文字化けして読めないと思いますカッコ数字のほうがよろしいかと思います)の「専門的な仏道修行をしていない信徒が、成果主義に基づく布教活動の担い手になっている」という点は在家主導型信仰集団の主立った特徴です。創価学会のように僧侶のいない団体では当然のこととなるのでしょうが、僧侶中心集団で、同じようになっているとすれば、それは、やはり奇異なことですね。これが一つ。もう一つは「布教者の信仰責任」ということが論じられようかと思います。これはしかしながら、(2)、あるいはさらに(3)と関連しますでしょうか。ですから、まず前者からとなるでしょうか。

ここで、アネモネさんは「専門的な仏道修行をしていない信徒」という表現を使用されています。わたしは在家主導集団の出身者ですから、この言葉に注意が向きます。その理由は石山の学会に対するアナウンスは「僧俗同等の修行」ということであったからです。この場合、言うところの修行とは正行・唱題/助行・勤行ということです。古来より石山では「一信二行三学」と信行学の順位を言います。修行は、その第二位になりますが、この信行においては僧俗の区別がないとするのが石山の在り方のようでした。ただし、「学」について、専門的に学ぶのが僧侶であると、ここで僧俗の差を言うようでした。

次に布教活動という点ですが、ここでアネモネさんが(1)の疑問を持たれることは日蓮教学の骨子からすれば、むしろ当然のことと思えます。

「在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか」(松野殿御返事)

という御書が、学会勃興以前は永年の主要をなしていたからです。
この書は真跡を有しないものですが、しかし蓮師の書として取り扱われてきたわけですから、真偽という事実とは別に、信仰面では蓮師の教えとして信仰者の規範を示してきたのは事実でしょう。ここで言われる点は三つです。

・在家は余念ない唱題行
・僧侶供養
・各人の力に随った演説

布教活動というテーマからすれば、三つめの「演説」が関わることになるでしょうか。
この点については、さらに徹底して使用される真跡のない書の一節があります。

「行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(諸法実相抄)

ただし、この書は最蓮房という僧に与えられたという前提ですから、俗への拡大解釈が可能かどうかは一考は要します。

教学面からすれば、あらまし以上の点が指摘できます。しかし現代社会における宗教団体の布教活動という側面からの視点では、信・不信の二者に跨ることになります。ですから、信仰面からの美徳ばかりでこれを論じることはできません。

わたしはスレッド提案用のスレッドで法学者・棚村師の言を紹介しました。もう一度再掲します。

「どうして宗教と名前がつくと、法的な責任が問われにくくなるのだろうか…なぜ、宗教という名前でもって、免責をされて、許されているのだろうか」

と言うのです。これは実に重要な問いかけであるとわたしは思います。
関連しますが、カルト問題を取り扱っている人であれば誰しも知っている明覚寺事件というものがあります。

「宗教法人・明覚寺の系列寺院である満願寺の2人の僧は、同教団がやっている“悩みごと相談”で依頼者に悪霊が憑いていると占い、それを祓うためと称して1億円にものぼる謝礼を受け取っていたことがございます。この手口は、新聞折り込みチラシに『3000円で霊視をします』というところから始めていました。自分の身に不幸なことがあれば『3000円ぐらいだったら、ちょっと、頼ってみようかな』となります。しかし、行けば必ず『あなたには悪霊が憑いています』となります。それで1億円を払ってしまった人が出たわけです」(高橋紳吾師『宗教病理と犯罪』から抜粋)

これは悩み事相談で1億円を取ったために訴えが起き騒動になり事件として取り扱われました。しかし、金品の多寡を問わなければ、宗教の現場では日常茶飯事のことです。「信心をしないと悪いことが起きる」「この信心は絶対だ」「罰が当たる」「功徳が出る」等々、個人の勝手な“確信”で、無責任な布教と、信仰の強要がなされています。

石山系グループにおいて、(1)から考えるとき、主張者の責任を支えるものは「仏道修行」というより、この場合、信行学の中では「学」の重となりましょうか。しかし、この学が如何に進んでも、その信憑性はさらに問われることになります。

7犀角独歩:2003/07/12(土) 10:58

- 補 -

『宗教病理と犯罪』
http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/open/ol001_takahasi.html

8アネモネ:2003/07/13(日) 20:25
犀角独歩さん

>富士門流信徒の掲示板の「宅間守と日蓮正宗の相関性をどう感じるか」のご投稿は興味深く拝見しておりました。

ありがとうございます。ついつい熱くなって投稿しておりましたので、振り返るとお恥ずかしいレスもたくさんあります。

また独歩さんの仏教再考のサイトの「日々雑感」で、このスレッドテーマについての考証を記しておられましたが、私も拝見させて頂きまして、非常に勉強になりました。そして改めて、自分自身が組織にいた過去8年間が、ほとんど法華経について教えられもせず、また自らも学ばずに過ごしてきていたんだなと、つくづく思い知らされるものでした。

あのスレッドで、私が最も言いたかったことは、煎じ詰めるとひとつだけなんですね。それは、もしも自分が信仰を語った相手から宅間の事件に関して相関性につながるような質問をされた場合、自分はどのように答えるのかということなのです。
そのことを信仰者の信仰責任において考えておくべきではないかと思い主張してきました。だからこそ、スレッド削除に私は反対の立場を固持し続けました。
それが自ら信仰を語った責任だと思いましたし、また、たとえ私のように信仰から距離を置いた者であったとしても、過去に語った責任は免れないものだと思ったからです。

そして極論かもしれませんが、あの現実、つまり宅間の問題を前に信仰が語れないならば、その信仰ははっきりいって嘘だと思いました。どんなに立派な理論に裏付けられた教義であっても、全ては空理空論だといえるのではないか。そう思って、あのスレッドに私はこだわり続けました。

富士門系と縁ある人による凶悪犯罪は、宅間の事件意外にもいくつか明るみになっていますが、私の組織体験を振り返ってみたところでは、そのいずれの事件も相関性が全くないとは言い切れないと思っています。それは、犯罪者の宗教的使命があったかどうかという観点よりはむしろ、宗教組織から影響される人格形成という点においての観点です。宅間の事件においてもそうです。宗教的使命といったものがあったかなかったよりは、情報開示されている彼の人格的な傾向性において、そのひとつひとつが、どうしても教団のもつ特異性との相関性を否定できないものだと私なりに思いました。しかし、そこまでは、さすがの私もあそこの掲示板では書けませんでしたね。その点は結果的に、抵抗に押された形となりました。

また視点を変えまして、法華経の目指すところの済度というテーマにおいて、この問題を考えていくときにも、否応なしに教団の実態が見えてくると思われます。私は、それこそ教団での8年間の経験則からいっても、その点がとても重要だと思っているわけです。
実質的に私は組織を離れているわけですから、この問題については、一切関知せずの姿勢を決め込めば、それはそれで非常に気楽なものなのです。
だけど、信仰を離れて一般の社会人になったとしても、その社会そのものが様々な宗教組織を認可し包括させているわけですから、そのことを考えみても、信仰の有無とは関係なしに宗教組織の実態というのは「関知せず」では全く済まされないものだと思うわけです。
それだけに犯罪者と信仰との関わりに関する情報も、出来るだけ公に公開されてしかるべき時代になってきているのかなという新たな思いも持ちましたし、宅間の事件に限らず、このような問題は事あるごとに、どんな立場の人もなぜ犯罪に至ったのかというあらゆる背景に対して関心を持つべきではないかととも思いました。

9アネモネ:2003/07/13(日) 20:26
(つづき)
>「専門的な仏道修行をしていない信徒が、成果主義に基づく布教活動の担い手になっている」という点は在家主導型信仰集団の主立った特徴です。

この在家主導型信仰集団ということ、法華講しか知らない私にとっては奇異に映っていたことですが、しかし、実はそうとも言い切れない、むしろ最もな姿なのかもしれませんね。
と言いますのも実は、一月ほど前にNHKスペシャルで、「文明の道 第3集 ガンダーラ・仏教飛翔の地」の放送を観ました。この番組では、法華経に限ったことではありませんが大乗仏教が発生した流れを、科学的根拠をもとに番組にまとめたもので、非常に興味深い内容だったのです。
そもそも、法華経が釈尊の直説ではないということは、それこそ2年前に富士門掲示板で、独歩さんによって最初に教えて頂いたことでした。当時は非常に衝撃を受けたものでしたが、その裏づけとなるような科学的根拠や史実に基づく、その発生から成立過程を示した内容だったわけです。
そして番組を観ながら改めて思いましたが、大乗仏教とは、そもそもが在家信仰として発生したものだったといっていいのかもしれないということです。その歴史的成り立ちからいっても、今日において在家信仰の姿が強くなってしまっているということは、ごく当たり前な本来的姿なのかもしれないという思いもしております。

>「専門的な仏道修行をしていない信徒」という表現を使用されています。わたしは在家主導集団の出身者ですから、この言葉に注意が向きます。

ここは私の表現が甘かったですね。
どうも蓮師が僧侶であったということで、門下の僧侶に対して、どうしても蓮師を重ね合わせたいという思いが、私に強くあったものだと思います。
しかし、そもそも大乗仏教は在家信仰の形であったと思えば、そのような流れから蓮師のような出家僧が出てきたことのほうが、考えてもみれば奇異、もしくは稀有なことだったのかもしれませんね。

>古来より石山では「一信二行三学」と信行学の順位を言います。

そのようですね。私は入信する前にいわゆる折伏の親に連れられて、はじめて法華講の座談会に出向いて、その場で入信を勧められました。そして「信行学のうち信が最も大事なのです」と信じることをいきなり迫られたわけです。
しかし考えてもみれば、「信」ということ、「信なくば立たず」という孔子の言葉がありますが、「信じる」という意思の前提には、信じる対象に対する「信頼」ということがなければおかしいと思うんですね。つまり、はじめて出向いた宗教組織において、何も信頼が築かれていないうちから、いきなり信じろというのは、いかにも横暴ではないかと、そんなことを今更ながら振り返って思うものです。
そのような観点からいって、まずここで教えて頂きたいのですが、この「一信二行三学」ということ、教学的にはどのような背景があるのでしょうか。

10アネモネ:2003/07/13(日) 20:26
(つづき)
>信仰面では蓮師の教えとして信仰者の規範を示してきたのは事実でしょう。ここで言われる点は三つです。
・在家は余念ない唱題行
・僧侶供養
・各人の力に随った演説
布教活動というテーマからすれば、三つめの「演説」が関わることになるでしょうか。

まず、各人の力に随った演説という点を少し考えてみたいなと思います。
演説ということ。非常に細かいことになりますが、ここでは「演説」といって「折伏」とはなっていないわけですね。つまり、蓮師にとっての布教活動とは、完全なる折伏までを意味していたことだったのか、それとも下種のことだったのか。この点について、ここで私は非常にこだわって知りたいと思っております。
と言いますのは、私の個人的な印象なのですが、蓮師は、信徒に対しての折伏行為にはむしろ非常に慎重だったのではないのかという印象を持っているからなのです。
具体的な御書の御文を引っ張り出せなくて申し訳ないのですが、たとえば四条金吾の主君江馬に対する折伏に際してなど、むしろ非常に注意を払っておられたのではなかったかと記憶しております。
このように個々の信徒に対しては、布教に通じる演説よりはむしろ、自分の信心を全うすことのほうを大事とされていたのではないかと、そのような印象をもっております。
というのもやはり、「学」の及ばない信徒の布教は、時として法を下げてしまうこともあり得るでしょうし、その場合の責任は、蓮師自らに及ぶものというところまでの配慮をもっていたのではないかと思われるところなのです。
ただし、この辺りのことは、私の拙い知識の上での個人的な印象です。
できればここでまず、蓮師の実像に迫って、その意図するとこを教えて頂けたらなと思っております。

>「行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(諸法実相抄)
ただし、この書は最蓮房という僧に与えられたという前提ですから、俗への拡大解釈が可能かどうかは一考は要します。

この御書は私のお寺で、「異体同心」の書とともによく暗唱しておりました。また、寺報においても毎回掲載されていた御文でした。しかし、対告衆が最蓮房という僧に与えられたということで、これは信徒よりもむしろ、これを暗唱させる僧侶方こそ、身に呈する書ではないかと思ったものです。また併せて暗唱させられていた異体同心の書、暗唱させられたのは次の一説ですが、

「殷(いん)の紂(ちゅう)王は七十万騎なれども同体異心なればいくさ(軍)にまけぬ。周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ。一人の心なれども二つの心あれば、其の心たが(違)いて成ずる事なし。百人千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず。日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。譬へば多くの火あつまれども一水にはき(消)ゑぬ。此の一門も又かくのごとし。」(異体同心事    弘安二年八月  五八歳)

しかし、これを深く読む限り、どう読めば成果主義には結びつくものなのか疑問を持ったものです。そしてさらに、異体同心の書も諸法実相抄も真蹟の書ではないとわかった今となっては、信徒増幅・教団拡大を操作的に使われた書と感じることは否めないばかりです。

11アネモネ:2003/07/13(日) 20:27
(つづき)
>わたしはスレッド提案用のスレッドで法学者・棚村師の言を紹介しました。もう一度再掲します。
「どうして宗教と名前がつくと、法的な責任が問われにくくなるのだろうか…なぜ、宗教という名前でもって、免責をされて、許されているのだろうか」

ご紹介して頂いた文面、非常に啓発されました。確かにそうなんですね。人権に関わる重要なところで、いずれの宗教も、あまりにも布教において免責され過ぎていますね。
たとえば、健康食品やダイエット食品といった薬事法に関わる領域において、いわゆる効能書きは非常に規制が厳しくなっています。これで痩せますとか、これで成人病が治りますといった、いわば確信的・絶対的な文言の効能書についての規制は非常に厳しくなっています。そうすることによって、誇大宣伝による消費者被害を防いでいるわけですが、しかしところが、宗教に至ってはいまだに法解釈からして非常に緩慢なわけですね。
しかも広める側の実態は、聖職者ではなく一般信徒によるいわゆる口コミに頼った布教であり、その内容は教義そのものよりも「体験談」という個人的リアリティという、科学的根拠に堪えない内容に基づいたことが確信的に伝えられているわけです。
一過性のダイエット食品や健康食品などとは違い、信仰に関わることはその人の人生そのものを左右し得るものだけに、この点はしっかりと注目して考えてみる必要があるといえるでしょう。

しかも、ここでの問題は、個人的リアリティでもって確信的に広める信徒の側は、広める相手の救済に対してどこまで考えているのか、ということではないでしようか。
広める側の実際の内心は、折伏相手への救済意識という済度の目的よりは、むしろ自分の罪障消滅という救済のためであり、もしくは仏(実質的には教団)への御報恩のためといったところが本当のところなのではないでしょうか。
私はこの点の目的の巧妙な摩り替わりについても、厳格に重視しておくべきできないかと思っております。

12犀角独歩:2003/07/14(月) 18:11

> 8

>「宅間守と日蓮正宗の相関性をどう感じるか」…言いたかったこと…ひとつだけ…信仰を語った相手から宅間の事件…相関性…質問…自分はどのように答えるのか…

ええ、そうでしょうね。わかります。至極、常識的な考え方です。
「関係ないよ」と言えば、相手が返す言葉はたった一言、「無責任」です。
実際、レスの多くをわたしはそのように受けとめました。

そもそも家に他宗の御守、仏像、仏画、十字架といったものがあるだけで「地獄に堕ちる」「悪いことが起きる」という信仰です。普賢岳の爆破は池田さんが批判発言した翌日のことであるとか、石山漫荼羅を学会が焼き捨てたから阪神淡路大震災が起きたなどと平然と述べる信仰圏の出来事です。それなのに「命も大切な本尊」がその家にあっても何ら影響がないといえば、論理的矛盾を来すことになります。

事実から言えば、家に他宗の信仰に係るものがあろうとなかろうとなんらない家とその差があるとは証明できません。ですから、関係がないが信仰を持たない人の結論であれば、別段言うことはありません。ところが信仰としてみれば、上述のとおりの主張ですから、関係なしといえば、本尊そのものに何の力もないことを意味することになるでしょう。

ですから、「この御本尊には絶対の力がある」と一度でも布教をした人であれば、その相関性について、弁明する義務があるとわたしは思います。悪人成仏を標榜する教義であれば、その悪人の成仏を具体的に語らなければならないでしょう。「関係ない」と言えば、悪人成仏という教義はまさに空理空論になります。これが、このスレッドで言う信仰責任と言うことでしょう。

> 宅間の問題を前に信仰が語れないならば…その信仰…嘘…空理空論

まったくそのとおりです。
「御本尊に功徳がある」と言って布教した経験を持つ人は、宅間に対して、この信仰がどんな効力を発揮するかを説明する義務があります。

> 富士門系と縁ある人による凶悪犯罪は、宅間の事件意外にもいくつか明るみ…

凶悪犯罪をここに列挙することはやめておきますが、なにより、わたしが最初に想起するのは高橋紳吾師の以下の記述です。

「小田晋師の『小田晋先生は、1960年代の同教団信者であった病者が、独特の教条主義“正法と三障四魔の闘争”を契機に犯罪へ至った鑑定例を取り上げています。教義のもつ反対集団への敵意が反社会行動として放散される場合があること、および同宗派の有するヒエラルキー構造が組織と個人の葛藤を招き危機犯罪の副次的原因となりうることを指摘しました」(宗教病理と犯罪)

ところでここでは「組織と個人の葛藤」がポイントになっています。
つまり、組織の命令という強制力の有無が問題であると考える人がいるかも知れません。これは社会心理学的な分析においては当然そうなのですが、法律的にはその意味を持ちません。例えばオウム真理教の地下鉄サリン事件は組織による個人への強制力が働いた事件である、と考えたいのですが、この判断を法律解釈は許しません。この殺人責任は組織についてもたしかに問われましたが、実行犯各人においては組織の強制力を認められない故に死刑判決に至ったというのが現実です。しかし、この法的判断の是非はさらに考えるべき点は多々あります。現行の法解釈では宗教の影響を考慮しないのが常道でしょうが、わたしは考慮されるべきであると思っています。

13犀角独歩:2003/07/14(月) 18:12

―12からつづく―

なお、ここで小田師の鑑定を紹介したついでに、以下の精神障害を紹介しておきたいと思います。「世界没落体験」と言われるものです。

「青年期に初発する精神分裂病に『世界没落体験』という症状がある。急性期に現れる妄想で『世界が今や崩壊に向かっている。いやすでに崩壊した。森羅万象のことごとくが生命を失った。最後の審判が開始された。世界革命が勃発した』などの、周囲の世界の劇的変化が絶対的な妄想確信をもって迫ってくる特有の妄想である。この妄想の際には不安と同時に昂揚感や宗教的啓示が現れ、世界の崩壊と同時に新しい未知の世界の誕生が予告され、しばしば世界の中心にある自分が至上者と一体化するという宗教的恍惚感が生じ、ときに救済妄想にいたる。精神病の初期には、自己の内部が崩壊していくカタストローフの感覚があり、しばしば患者は『自分が誰かわからない、狂ってしまいそうだ』と表現するが、この内的カタストローフが外界に全面投影されて生れるのが、世界没落体験である。
 一般に思春期は、自己のアイデンティティを形成していくうえで、危機的状況にある。『自分とは何者か』、『何処からきて何処へ向かうのは』、『何をすればよいのか』と真剣に悩む。
 世界没落体験は分裂病特有の症状というより、思春期を含めて、人が精神的危機状態にあるときに親和性を示す普遍的な心理的メカニズムなのである」(『超能力と霊能者』現代の宗教8 岩波書店 1997年2月5日 第1刷 P218)

以上の記述は、宅間と直接関係を示すというより、昭和30〜40年代の創価学会、また、現在の顕正会の勧誘に脅迫的に駆り立てられる青年達の心理と密接に関連しているようにわたしには映じます。いや、もっと言えば、日蓮信者の憎悪を煽ることにあるかも知れませんが、まさに蓮師の前半生の心理的特徴を説明しているようにすら見えるところがあります。

> 犯罪者の宗教的使命があったかどうかという観点よりはむしろ、宗教組織から影響される人格形成という点においての観点です

そう、ここです。組織の命令を実行するのであれば、それは使命に係ります。しかし、日常、あるい信仰経験者が犯罪を行う場合、そこに何らかの影響を考えることは重要です。

> 宅間…人格的な傾向性…教団のもつ特異性との相関性を否定できない

ええ。個人的に資料手放しで申し上げれば、わたしも同様に“感じ”ます。
ただし、これは相関性というより、宅間の特異性と列挙されるものと教団の特異性と列挙されるものが重複しているという点が、上げられるということです。
現実社会の否定、憎悪、攻撃、強迫観念、という特徴は教義構成と似通っている点があります。

「今の世の中は間違っている」「正しいことを信じないのは悪人だ」「徹底して非を責めなければならない」「命に代えても実行しなければいけない」、このように言い換えてみれば、その類似性は闡明になります。

宅間の事件が石山/学会/漫荼羅と相関性があるか、この点は事実考証によってしか明らかにできないでしょう。

しかしながら、信仰組織個人は、その“毒牙”を自己責任において、信仰の現場から取り除く作業をすることが社会的な責任を果たすことになるとわたしには思えます。これは、流行の言葉で言えば、「自浄作用」ということです。宅間事件は、宅間の家に自宗の漫荼羅があったことを反面教師として前向きにとらえるべきなのです。

わたしは、信仰者の「特徴」という点でいえば、上述したものに付し、さらに重要なものを上げたいと思います。何か。それは、つまり「責任感の喪失」という一点です。これはミルグラムの研究でも明らかにされた権威組織に判断力を委ねてしまった心理(代理状態)下の、最大の特徴として指摘されたものでした。

「無責任」、この特徴こそ、棚村師が指摘する点と並べて論ずるべき点です。
ここ「信仰責任」を考えるうえで、追ってこの点は闡明にしてまいりたいと思います。

> …犯罪者と信仰との関わりに関する情報も、出来るだけ公に公開されてしかるべき時代になってきている…宅間の事件に限らず…犯罪に至った…背景…関心を持つべき…

至極当然のことであろうかと思います。犯罪抑止において、関心は重要な要素です。

14犀角独歩:2003/07/14(月) 19:13

> 9

> 入信…信じることをいきなり迫られた

これは信仰問題を考えるとき、看過してはならない点です。

> …「信じる」…前提…信じる対象に対する「信頼」…宗教組織…何も信頼が築かれていないうちから、いきなり信じろ…横暴

ええ、まったくそのとおりであると思います。
批判精神を奪い去ったうえで、信じるものが何であるか/批判するものが何であるかを強要して心理操作します。この場合、信じるべき人/信じてはいけない人も心理操作されています。もっと言えば、信じていい神仏/信じてはいけない神仏、石山風に言えば、信じていい本尊/信じてはいけない本尊も心理操作れていきます。

アネモノさんに言うまでもありませんが、この対比は、善悪の価値で塗り分けられ、絶対の信仰の反対は極端な不信、忌避、そして憎悪の感情が吹き出すようにも操作されています。いわゆる権威主義的パーソナリティー(人格)、ステレオ・タイプといわれる心理的特徴です。

これまた、言うまでもありませんが、この心理操作はやめれば溶けるというものではありません。むしろ、「溶けた」と思っている人のほうが残っていることが多いというのが、わたしの経験則です。「わたしは脱カルとした。マインド・コントロールができた」などと易々と語る元メンバーの多くはまるで溶けていないことのほうが多いものです。

これらの二極論には、必ず自分が信じ、信頼する対象が“代わり”に用意されるているか否かである程度、判断が着く場合があります。

自分の判断を他の人に委ねている否か(委譲性)という点を見てみることです。
わたしが常に注意を促す「誰々が『こう言った』はやめよう」は、その意味です。
誰々の意見を参考にすることは決して悪いことではありませんが、このような心理操作が働いている人は、誰々とその言葉を“権威”として、自分では考えることを放棄しています。権威への委譲は、ミルグラム師が代理状態の主たる特徴でした。けれど、当人はそのことに気づけず、種々の言葉を引っ張ったり、「誰がこう言った」と引用するだけで、とても考えていると“錯覚”しています。ハッサン師が言う「思考停止」とはこの点です。

さて、以上のように、高橋師、ミルグラム師、ハッサン師を上げると、文章を読み込めない人は「独歩だって、人の言葉を使っているじゃないか」と反論するかも知れません(笑)

そう思われる方には、では他の引用する人と、わたしの引用の仕方とどこが違うかを考えてみてくださいと宿題を出しておくことにします。これは、もちろん自分の頭で考えるアネモネさんへの宿題ではありません(笑)

> 「一信二行三学」…教学的…背景

以下は資料的な説明です。
わたしがこの言葉を知ったのは享師の『富士宗学要集』でです。

『有師化儀抄』(水鑑沙弥)註解(日亨)
事行の本宗にては行体が肝心なり、一信二行三学の順序はあれども、行体なくんば信心を彰はすに由なく・講学を積むも詮なきものなり、然るに吾等動もすれば・布教の急なる為に講学の忙がしき為に・事務の劇なる為により、報恩給仕読経拈花の行体を等閑に付せんとする事あり・慎まざるべけんや。

―(理行に対する)時行の積善では、修行を体現することが肝心です。一番目に信、二番目に行、三番目に学の順序はあるけれど、修行を体現することがなければ、信心をあらわす由はなく、講じられるところを学んだとしても詮(かい)がないものである。ところが吾等はややもすれば、極端な布教のために、抗議を学ぶことが忙しいために、事務の激務であるために報恩のための読経拈花(ねんか=通常は拈香、焼香のこと、灯明華で仏前を荘厳することを示そうとしたものであると思う)の修行の体現をなおざりにふしてしまうことがある、慎むべきである―

とあります。あと、『富士史料類聚』では三箇所、その引用があり、この場合、『諸法実相抄』「行学の二道…」から説明されています。

亨師の説明では信より行に重が置かれているのは「行体なくんば信心を彰はすに由なく」という実践論的に論じられるからだと思います。

よくわたしが言うことですが、確信を持って語られる言葉は大概、根拠より、虚仮威しが先行します。「絶対ですから、信じなさい」は信じない注意を促すべき常套句であるということですね。

15犀角独歩:2003/07/14(月) 19:39

> 10

> 布教活動…演説

仏教語としての演説は、現代語と同じといえないません。これまた、アネモネさんに言うまでもないことです。「説を演(の)べる」という意味ですね。

> 「演説」といって「折伏」とはなっていない…蓮師…布教活動…完全なる折伏…下種

そのとおりです。
ここでもちょっと言葉の説明をしておきたいと思いますが、蓮師以降の折伏の用法は、真跡と逆の意味で使われています。強引な、相手を折り伏せる勧誘が折伏という意味で使われますが、真跡で見る限り、護法者が折り伏せられることを意味しています。布教活動と現代語に置いたほうが誤解がないと考えます。

> 蓮師は、信徒に対しての折伏行為…非常に慎重

折伏行為は、布教活動と置き換えさせてください。

> …四条金吾の主君江馬に対する折伏

『主君耳入此法門免与同罪事』のことを仰っているんでしょう。真跡はありません。
「主君の耳にこの法門を入れれば与同罪を免れること」と題された書です。

> …布教に通じる演説…自分の信心を全うすことのほうを大事とされていた

うーん、どうでしょうか。
これは両面性があるように思えます。そんな面もあったし、ひどく布教を訴えた面もあったように、わたしは考えています。

ただし、信仰の襟度として、いまここにアネモネさんが示される“日蓮像”は、そうあるべきものであると思います。

> 「学」の及ばない信徒の布教は、時として法を下げてしまう…責任は、蓮師自らに及ぶ…配慮をもっていた…個人的な印象

うん。そうですか。個人的な印象として、善意的な日蓮像ですね。
まあ、こういう面はあったかも知れません。

ところで、他山のことはあまりよく知りませんが、「法を下げる」は学会が大好きな石山語です。
珍しく、その影響の残滓をアネモネさんが示されたので、思わずほくそ笑んでしまいました。蓮師の引用では「法を下(くだ)す」で、法門を釈して低く評価してしまうほどの意味合いで記されています。その後の興師門では「聖人の法門(教え)を傷つける」という意味合いで使われますが、この場合は実践者の行いも含むと見えます。それを「法を下げる」行為などということはできるかも知れませんが、より正確さを期せば「法に悖る」というところでしょうか。石山語を使って誤解を受けないために、わたしはこの句の使用はやめています。あ、これはアネモネさんを批判しているわけではありませんよ。

> 蓮師の実像に迫って、その意図するとこ

これは、むしろ、『日蓮の予言と預言』スレッドで行っていこうと思っているところです。このスレッドでも折々に触れてもよいでしょうね。

> 異体同心…信徒増幅・教団拡大を操作的に使われた書

同感ですね。異体同心の故事の引用は真跡では見られません。
仮にあったとしても、現在「異体同心の団結」などと言うのは教団御都合主義の最たる使用法と映じます。

16犀角独歩:2003/07/14(月) 19:56

> 11

>> 棚村師
> いずれの宗教も、あまりにも布教において免責され過ぎていますね。

ようやくと信仰責任のテーマに入れますね。
ここです。ここで監視の目をゆるめてはならないとわたしは考えます。
徹底して説明義務を履行させるべきです。

> …薬事法…確信的・絶対的な文言…規制は非常に厳しく…誇大宣伝による消費者被害を防いでいる…宗教…法解釈からして非常に緩慢

この宗教に対する甘さは社会悪と言っても言い過ぎではないとわたしは考えています。
これまた、よく言うことですが、700年前に生体から分離した肉片が、生き続け/増殖し/脈打ち/汗をかいている/それも何の栄養も得ずに。こんなことを言って、自分たちは世界で一番正しい宗教だという複数組織がいまだに活発に会員を獲得しているのです。いまは21世紀ですよ。21世紀に、こんなことを言って、自分たちが正しいという組織と個人をわたしはペテン師、詐欺集団と、弾劾することを明言いたしておきます。

> 広める側の実態…聖職者ではなく一般信徒によるいわゆる口コミ…教義そのものよりも「体験談」という個人的リアリティという、科学的根拠に堪えない内容に基づいたことが確信的に伝えられているわけです。

この総括、正鵠を得ています。賛同します。

> …問題…広める相手の救済に対してどこまで考えているのか

個人的リアリティによる事実証拠に基づかない絶対の確信といわれるものは、精神病理学で言う「妄想」に近いものでしょう。

> むしろ自分の罪障消滅という救済のため…仏(実質的には教団)への御報恩のため…

もっと、手厳しく妄想による人心煽動の類であると、まず批判を置きたいとわたしは思います。すると、布教者側は反論するでしょう。そこで、わたしは挙証義務の履行を求めるという手順を採ります。「本物であるというのであれば証明しろ」「事実であるというのであれば、証明しろ」ということです。

科学的に効能が証明されない薬は売れません。安全が確認されない販売車を運転する勇気はわたしにはありません。信仰も同様です。正しいというのであれば、信仰者の説明責任義務を全うして、“利用消費者”の安全を保証する義務が布教者側にあるでしょう。

> 私はこの点の目的の巧妙な摩り替わりについても、厳格に重視しておくべきできないかと思っております。

大いに賛成です。この点に着目しながら、議論が進むことを期待します。

17アネモネ:2003/07/16(水) 00:43
12
>そもそも家に他宗の御守、仏像、仏画、十字架といったものがあるだけで「地獄に堕ちる」「悪いことが起きる」という信仰です。

もしも宅間の部屋にあったものが、別の信仰に関わるものであったなら、「謗法の現証」みたいなことを散々放言していただろうことは、容易に想像できますね。ところが、それが自宗の本尊となると、テーマにすらさせまいとする。これでは全く公正さに欠けています。
こういうところは、ある種の言論弾圧ではないかと感じられもしました。実際に学会では過去そのような事件もあったわけですから、そのような体質が、今も個々の信徒に波及しているのではないかと言わざるを得ない気もしたものです。

>13
>独特の教条主義“正法と三障四魔の闘争”を契機に犯罪へ至った鑑定例を取り上げています。

この鑑定例は非常に興味深いですね。小田晋先生の本は2冊ほど読みまして、個人的にもとても興味を持ちました。決して、信仰や宗教そのものを否定しているわけではないところで、宗教病理を研究なさっていらっしゃるところがとても印象的でした。

宅間の事件でもそうですが、信仰とどのように関わっていたのかについて、なかなか詳細な情報が公には出ませんね。弁護士は被告の供述の中で恐らく信仰についても触れて質問していることと思われますが、その内容もほとんど公に開示されることはないようです。となると、報道関係からの取材情報を待つということになるわけですが、創価学会絡みであったとなると、組織的圧力なども懸念して、何れの媒体も信仰に触れる内容の記事は敬遠したがる傾向というのが現状ではないでしょうか。

しかし、宗教組織を容認している社会に住む一国民としては、凶悪犯罪に至る背景を知る権利があるわけですね。被告が何らかの宗教を信仰していた経歴があるならば、その部分に対して知る権利があるのではないでしょうか。その所属組織は、事件解明の協力と犯罪抑止の観点からも、できることならば被告に関わる情報を何らかの形で開示してほしいものですし、社会的にも、そういう意識が高まっていかなければならないともいえるでしょう。

>教義のもつ反対集団への敵意が反社会行動として放散される場合があること、および同宗派の有するヒエラルキー構造が組織と個人の葛藤を招き危機犯罪の副次的原因となりうることを指摘しました

ここは非常に重要なところだと思います。石山系の組織信仰に傾倒すればするほど、こういう心理状態が長く続くものと考えられるわけですが、そうなると精神的もしくは人格的に何らかの歪が出てきてもおかしくないものだと思います。

18アネモネ:2003/07/16(水) 00:46
>14
>誰々とその言葉を“権威”として、自分では考えることを放棄しています。権威への委譲は、ミルグラム師が代理状態の主たる特徴でした。けれど、当人はそのことに気づけず、種々の言葉を引っ張ったり、「誰がこう言った」と引用するだけで、とても考えていると“錯覚”しています。

私もそうですが、独歩さんにおかれましても、誰かの言葉を引用する場合、より一層の理解を促すめたのいわば補足的な要素、もしくは参考的な兼ね合いで引用しているものだと思います。
ところが、ここに表現されたような、権威の委譲として用いられる場合は、その言葉は絶対的な意味合いを示すものとして使われていますね。
寺院内で何か疑問に思ったことを質問したとき、その返答の中でよく聞かれた言い回しはは、「猊下様は…と仰せです」とか、「御住職様は…と仰っています」といった言葉でした。
宗門における猊下の指南や、また寺院内における住職の指導は絶対的な権威であり、信伏随従がお約束ですから、この言葉が出ると問答や議論は実質的に打ち切りになってしまうわけです。問答無用、思考停止、原論封鎖、そういったことになるわけですね。
それでもうっかり、「でも私はこう思うのですが…」などと言おうものなら、「それは我見でしょ。謗法になりますよ」と言われてしまいます。私は何度これを言われてきたかわかりません。なぜ、自分の思ったこと、考えたことが自由に発言できないのだろうと、何度もどかしく思ったことでしょうか。

しかし、その引用している文言を、絶対的なものとして用いながら、恭しく引用しているその本人は、その言葉に対して全く無責任であったりするものです。というのも、その言葉に示された内容がどうかよりも、誰が発した言葉であるかが重要なわけですね。その無責任さすら自覚がないことが多いと思われました。

>亨師の説明では信より行に重が置かれているのは「行体なくんば信心を彰はすに由なく」という実践論的に論じられるからだと思います。

となると、この行が何を示すかということが問題になってくるかと思われますが、つまりそれが折伏・唱題・供養になっていくのでしょうか。となると、本当の「信」に至っていないうちから、形の上で入信してしまい、そして活動に煽動されてしまう理屈がここで成り立ってしまいまうのでしょうか。

>15
>蓮師以降の折伏の用法は、真跡と逆の意味で使われています。強引な、相手を折り伏せる勧誘が折伏という意味で使われますが、真跡で見る限り、護法者が折り伏せられることを意味しています。

確か、去年の11月の池上オフの時にも話が出ていたと記憶しています。
なにかとても重要なところだなと思っておりましたが、まだ本質的なところでの理解が出来ていないとも思えますので、もう少し説明していただけますでしょうか。非常に重要なところのような気がいたします。

>折伏行為は、布教活動と置き換えさせてください。

了解です。私も布教活動という語彙のほうがなんとなくしっくりきます。

19アネモネ:2003/07/16(水) 00:48
(つづき)
>ただし、信仰の襟度として、いまここにアネモネさんが示される“日蓮像”は、そうあるべきものであると思います。

富士門の掲示板では叱責非難を覚悟で、かなり蓮師の批判にも言及してきたつもりなのですが、それでもまだ私の深層心理の中では、思い描いてきた理想の日蓮像というのが大きく横たわっているようです。蓮師実像を実像として受けいれる心の準備はできているのですが…。

>珍しく、その影響の残滓をアネモネさんが示されたので、思わずほくそ笑んでしまいました。

お恥ずかしい。語彙の影響というのは、恐ろしく最後まで残るものですね。

>この宗教に対する甘さは社会悪と言っても言い過ぎではないとわたしは考えています。

そうなんですね。だいたい、日本人は一神教でなくなったときから、宗教に対して良く言えば寛容、悪く言えば甘いのかもしれませんね。
欧米では恐らくキリスト教の一神教でしょうから、いわゆる他の宗教は異端として非常に厳しく監視されるものかもしれません。ですから、どうしても監視という目でも甘くはなれないのでしょう。これは皮肉な話ですが、石山系が排他的であるのと同じ原理なのかもしれないと思うところも感じられます。

私見ながら、日本は仏教と神道が習合していったときから始まって、違う宗教であってもその教義を解釈によって融合させてきた経緯もあり、基本的に信不信とは別に宗教全般に対して看過してしまう傾向があるのかもしれません。
宗教組織を母体とする政党が政権与党の中枢に入り込んで権力を司ることに対しても、ある程度の嫌悪感はもっていながら、嫌悪や批判の意思を投票行動にまで示そうとはしないところが、日本人特有の習性なのかもしれません。
しかし、欧米におけるキリスト教は、一神教の原理主義でありながら、独歩さんの表現をお借りして、自浄作用でもって歴史的に民主化されてきた経緯もあり、ある程度21世紀に対応できる宗教として存在してきているといえるかもしれません。まあ、ある程度…のことでしょうけれども…。
ところが石山系となると、何れにおいても、お肉牙はもちろんのこと(笑)、人権意識からしてほとんど意識は遅れており、とても21世紀に対応できるものではないでしょう。ともすれば中世や近世の封建思想が持ち込まれそうなほど遅れているのが現状ではないでしょうか。

>16
>個人的リアリティによる事実証拠に基づかない絶対の確信といわれるものは、精神病理学で言う「妄想」に近いものでしょう。

やはりここなんですよね。
私自身、もともと思い込みが強いところがあると自覚するのですが、その思い込みが、信仰においては非常に強い個人的リアリティとなって、たとえば戒壇本尊での内拝のときなど、自分の中で蓮師のイメージを膨らませることによって、とても大きな感動とか確信といった恍惚感を味わっていたと振り返ります。
しかし、戒壇本尊は、蓮師が創られたものではないという可能性が濃厚になったときから、内拝はすっかりと、しらけたものとなってしまいました。
しかしもしも思い込んで嵌っているときに、世界没落とか終末思想もしくは末法思想といった預言めいたものと関連づけて、今の世の中を見てしまっていたならば、また、そこに自分の存在価値を見い出そうとしてしまっていたならば、恐らく大きな妄想となっていっていたことでしょう。私はその一歩手前のところまで陥っていたように思います。

20アネモネ:2003/07/16(水) 00:49
(つづき)
>そこで、わたしは挙証義務の履行を求めるという手順を採ります。「本物であるというのであれば証明しろ」「事実であるというのであれば、証明しろ」ということです。

やはり、この点においては、布教を担っている活動家が、権威の言葉に委譲している一般信徒であるという点が、どうしても問題だと思われます。そもそもそこからして、組織全体が無責任だと思うところなのです。
証明しろと言われれば、○○が仰せだから絶対なのですとか、××にはこう書かれているから絶対です、そんなところの説明だろうと思います。
責任を権威に委ねる、まさに責任委譲ですね。
キリスト教の聖書もそうです。エホバの人が訪問してくると、「聖書には神の言葉としてこう書かれています」なんて何かしら示すわけですが、「聖書に書かれているからってどうだというのですか?」と聞けば、「神の言葉だからです」といわれます。「じゃあ、それが本当に神の言葉だってどうして言い切れるのですか?」と返すと、「預言者の言葉だからです」となるわけです。要するに厳密に突き詰めていくと、神を信じているのではなくて、預言者を信じているとなるわけです。
それと同じことが、石山系でもいえると思います。蓮師を信じているようでありながら、その実は、猊下や池田さんもしくは浅井さんといった、教団のリーダーを信じているだけのことなのかもしれません。では、猊下や池田さん、もしくは浅井さんが、何かあったときにどこまで責任を持ってくれるのでしょう。言った言わないの、下世話な話になるのが関の山ではないでしょうか。

とはいえキリスト教でいえば、モーゼの十戒など、ある種の真理もいくつかは見い出せるものです。しかし、あくまで真理かどうかといった最終的な判断は、自分の中で培われてきた理性や良心に委ねるべきものではないかと思うのです。
誰にも依らずに自分で判断したことは、自分が自分に対して責任を持てるものです。いわば自己責任ですね。
ところが、権威に責任委譲している文言は、自己責任すら持ってはいないといえます。
猊下が仰せだから、住職が仰ったから…、その指導内容が「人を殺せ」というものだったら、そのまま従うのでしょうか。絶対という前提で言うからには、そういう話にもなるものだと思います。
事実、蓮師は「念仏者の首を切れ」と言っているわけですから、絶対的に信仰するのであれば、従わなければならない道理となると思います。
権威に委譲した発言は、自分の理性や良心で判断していないというところで、まず自己責任がありません。また自分に対して責任がもてない言葉は、人に対しても責任はないものといえるでしょう。

まず今も熱心に布教活動をしている個々の信徒が、自らが発する言葉における責任の希薄さに気づき、その自覚を持ってほしいものだと思います。

21アネモネ:2003/07/16(水) 08:16
下記、誤解を招く記述だったかもしれませんので、少し補足をさせて頂きます。

>20
>とはいえキリスト教でいえば、モーゼの十戒など、ある種の真理もいくつかは見い出せるものです。

ここでたまたまモーゼの十戒という具体的な宗教の教えを出してしまいましたが、これこそが真理だという意味で書いたわけではなく、たとえば人を殺すなとか、盗みをしてはならない、嘘をついてはならない…などといった戒めは、その宗教に対する信不信とは別に学べるところもあるという意味での記述です。
モーゼの十戒に限らず、他にも多くの宗教があるわけですが、いずれの宗教においてもそれなりの真理を見い出し、学ぶことはできるのではないかと思っております。蓮師の教えももちろんですし、釈尊の直説ではないとわかった法華経であっても同じように思っております。
そのような意味からの記述ですので、よろしくお願いいたします。

22犀角独歩:2003/07/16(水) 13:08
長文のレス、有り難うございます。
最初から、内容が多岐に亘ってきました。
手応えのあるやり取りを楽しませていただいております。

> …自宗の本尊…テーマにすらさせまい…全く公正さに欠けています…ある種の言論弾圧…学会・過去・事件

過敏に反応してしまうこと、この瞬間に冷静さを欠きますから、本性が露呈するということがあります。このようなときは、書かれているテーマではなく、何故そのことに過敏に反応するのかを見ると本質が近づくことになりますね。

宅間/石山学会・漫荼羅本尊の相関性を突きつけられたときの投稿者の反応を通じて、実はわたしも学会の過去の事件、具体的に言えば、昭和45年の言論出版妨害事件を想起していました。

自分たちが礼拝する漫荼羅本尊の効験の是非は信仰者にとって大問題であるわけです。宅間との相関性を否定するのは簡単です。しかし、効験の是非からいえば、相関性の否定は直ちに効験がないことも示してしまうダブルバインド(二重拘束)の構造がそこにあります。

ただ、あのスレッドの応答を通じて、看取できたのは投稿者には宅間の成仏はまったく興味がない、話題にもしないという点でした。

「空理空論」、アネモネさんはそのように記しましたが、まさにそのとおりで、悪人成仏、一切衆生皆成仏道といったテーゼはあの信仰圏ではもはや空文化しているのだと思えました。

> …宗教組織を容認している社会に住む一国民…凶悪犯罪に至る背景を知る権利がある

そうですね。情報開示という面ではもっとガラス張りになるべきであると思います。

> 被告…宗教・信仰…経歴…知る権利がある

わたしはこの点について、逆の面から記したいと思います。
信仰世界、特に石山系グループでは、人の人生の可否、人格を宗教によって判断します。「あの人が不幸なのは邪宗をやっているから」などと言った類の偏見です。
これが天に唾する自己批判であることを信仰者はもっと意識すべきでしょう。

23犀角独歩:2003/07/16(水) 13:09

―22からつづく―

> 「猊下様は…と仰せです」…「御住職様は…と仰っています」

これが学会、顕正会といった在家集団になると「先生はこう言っている」となります。
いずれも権威に対して、自己責任ごと決定権を委譲した異常心理ですね。

> 「でも私はこう思うのですが…」…「それは我見でしょ。謗法になりますよ」と言われてしまいます

ここは大事な点です。要するに「自分の頭で考える自由を奪われている」わけです。決定権の委譲に、解釈したりする自分の施行の権利が剥奪されています。
このような状態をマインド・レイプ、マインド・アビューズ、スピリチュアル・アビューズという精神虐待としてとらえ、人権問題として考えることが宗教問題を考える最先端であるとわたしは認識しています。

> 引用している文言…絶対的なものとして用いながら…本人…全く無責任

重要な点です。ミルグラムが『服従の心理』で解明した点です。
これらの決定権の委譲は換言すれば服従の心理であり、服従の精神的副作用は必ず「責任感の喪失」という形で現れるという分析は、ナチズムを解明した社会心理学の成果です。
無責任に陥った当人は宗教によるアビューズの被害者である点は認識されなければなりません。そのうえで、その被害者が次の被害者を生み加害者となっていくのがカルトの悲しい現実です。

> 本当の「信」に至っていないうちから、形の上で入信してしまい、そして活動に煽動されてしまう理屈がここで成り立って…

そのとおりです。
世間一般で言う信用というのは契約履行の積み重ねによる結果を言います。
たとえば銀行に行って「わたしを信用して1億円、貸してください」と言っても通りません。しかし、長い取引を通じ信用が蓄積されれば、それは実現されることはあるでしょう。
「信は蓄積の結果である」はずです。ところが宗教の現場では、この結果としての「信」をいきなり冒頭に持ってきます。そして、信じているという前提での行動を強要してくるわけです。そして、信は美徳とされ、信を深く見せれば見せるほど、奨励され、重視されるという倒錯した人間関係が形成されています。美徳化された信の、自分が体現者であることを証明するために、深い信に基づく行動をやってみせることになります。結果が出れば、その人の信は認知され、“組織内の生存権”は強固に認められることになります。
カルトの携帯は常に集団を価値観とする信仰形態を示しますから、集団への絶対忠誠は、カリスマへの服従と同等の意味を持ちます。リーダーとグループがメンバーを服従させる権威となっているわけです。しかし、実はこれは宗教的なものではなく、服従させる者/服従させられる者という支配者/奴隷の関係に基づく精神的な虐待であり、搾取であるというのが実態です。これは社会心理学的な問題なのであって、実は宗教はそのために利用されているだけであるという仕組みを見落としてはならないという点を、わたしは強調したいのです。

24犀角独歩:2003/07/16(水) 14:50

―23からつづく―


>> 折伏
> …本質的なところでの理解が出来ていないとも思えますので、もう少し説明

この点を特に主張しているのは今成師ですね。
この考えに反対意見はあるようですが、わたしは着目しています。
この点は以前、富士門流信徒の掲示板で記述したことがあります。

以下、真跡に見られる「折伏」の検索して見ると、従来の折伏観からすれば意外な点をいくつも垣間見られる。

「日蓮といえば折伏」と思われがちですが、断片を含む真跡250通ほどのなかで「折伏」語の使用はわずか12回に過ぎません。出てくる書で挙げれば

『転重軽受法門』文永8年(1271)10月5日50歳
『開目抄下』文永9年(1272)2月51歳
『富木殿御返事』文永9年(1272)4月10日51歳
『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』文永10年(1273)4月25日52歳
『常忍抄』弘安元年(1278)10月1日57歳

とわずか5編で取り上げられているのに過ぎません。

また、清澄寺で初説法を行った32歳からときから亡くなった62歳の30年の内で、上述の執筆年代を見ればおわかりのとおり、50歳から52歳に集中し、飛んで57歳に一書に記すのみです。折伏に言及したのは数年のことのように思えます。

折伏を考えるうえで『開目抄下』はその主要をなすことになります。文中8回も「折伏」語が使用されているからです。ここでまず折伏の論拠とされるのは妙楽師の『止觀輔行傳弘決』を引用しています。

「大経に刀杖刀杖を執持すとは、第三に云はく、正法を護る者は五戒を受けず、威儀を修さないのです。乃至下の文、仙予国王等の文、又、新医、乳を禁じて云はく、若し更に為すこと有れば、当に其の首を断つべし。是くの如き等の文、並びに是破法の人を折伏するなり」
(大經執持刀仗等者 第三云 善男子 護正法者不受五戒不修威儀 … 乃至下文仙豫國王等文 又新醫禁乳云 若有更爲當斷其首 如是等文並是折伏破法之人)

ここでいう「大経」とは『涅槃経』のことです。ここで「其の首を断つべし・折伏(斷其首・折伏)が出てきます。上の文では省略されていますが、ここの『涅槃経』の記述は大乗の信徒である王が五戒を受けず刀仗をもって正法と持戒の比丘を守るために、破壊の僧の首を斬ることが折伏であるという記述です。

(参:護法優婆塞應持刀仗 擁護如是持戒比丘 若有受持五戒不得名爲大乘人也 不受五戒執持刀仗爲護正法 乃名大乘 乃至下文仙豫國王等文 又新醫禁乳云 若有更爲當斷其首 如是等文並是折伏破法之人)

つまり、蓮師の念仏者斬首思想はここに根拠があるのであって、これが折伏であるというわけです。ただし、念仏者斬首という折伏を行うのは、比丘である蓮師ではなく、大乗信徒である為政者であるというところを読み違えると蓮師の思想から離れることになります。

大乗護持の在家の為政者が行うのが折伏である、この点は翌年の『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』にも明確に示されています。

「此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王(けんのう)と成(な)って愚王(ぐおう)を誡責(かいしゃく)し、摂受(しょうじゅ)を行ずる時は僧と成って正法を弘持(ぐじ)す」
(此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法)

以上の次第ですから、蓮師が折伏の人であるはずはありません。
では、在家信者は念仏者斬首に代表される折伏の担い手か、と問われれば、わたしは「否」と応えたいと思います。

その理由は『開目抄』では明らかになりませんが、大乗信者(善男子/優婆塞)は賢王であり、その元々は四菩薩であるというのが蓮師の思想であるからです。ここで「現在は民主主義だから、賢王とは民衆のこと」と言えば、これは解釈であり、蓮師の直接の考えとは別のものでしょう。

以上、駆け足ですが、蓮師における「折伏」語の原意は以上のように採れようかと思います。

なお、蓮師が『涅槃経』に忠実であったから念仏者斬首=折伏も肯定されるとはなるはずはありません。殺人を肯定する、この『涅槃経』の思想は批判されるべきであり、それを肯定する蓮師の思想も肯定する謂われは何もありません。間違っています。

25犀角独歩:2003/07/16(水) 16:31

> 日本人は…宗教に対して良く言えば寛容、悪く言えば甘い…宗教組織を母体とする政党が政権与党の中枢に入り込んで権力を司ること…嫌悪や批判の意思を投票行動にまで示そうとはしないところが、日本人特有の習性なのかもしれません。

まったく、このご指摘は的を得ています。
わたしは過去3回、海外取材を受けた経験があるのですが、外国の記者たちが異口同音に問うたのは「何故、日本人は一宗教団体が政権与党になり、大臣まで出していることに危機感を懐かないのか」という点でした。

宅間/石山学会・漫荼羅への反応とも関連しますが、ある面、日本人は宗教の心理的、あるいは社会的影響力を過小評価し過ぎているのではないのかと思える節があります。

> 欧米におけるキリスト教…自浄作用でもって歴史的に民主化されてきた経緯…21世紀に対応できる宗教として存在…ある程度…のことでしょうけれども…。

いや、ある程度ではなくて、しっかりと人々の心のなかに生きているのではないでしょうか。フランスでは1905年に『政教分離法』成立しています。100年前のことです。忌まわしい魔女狩り、その他の忠誠暗黒時代を経たヨーロッパならでは歩調です。日本は100年以上遅れていることになります。

> 石山系…人権意識からしてほとんど意識は遅れており、とても21世紀に対応できるものではない…封建思想が持ち込まれそうなほど遅れているのが現状ではないでしょうか。
まったくそのとおりであろうかと思います。
封建思想下の身分差別のような偏見が罷り通っています。
坊さんが勝れていて・在家は劣っているという採るに足らない差別思想です。しかし、この考えは僧俗関係に留まるのではなく、在家集団になると、幹部と会員の格差、差別、偏見と姿を変えます。その極端な例が「先生とご家族」という特権階級視という浅はかさです。会員は嬉々として隷属します。先生一家とその取り巻きが搾取し私欲を貪っています。
さらに会員は信・不信で人々を差別する人権侵害を何の罪悪感もなく日々考え実行しているわけです。

>> 個人的リアリティ
>…妄想

妄想は幻想と言い換えてもよいかも知れません。
少し前、バーチャル・リアリティ(仮想現実)という言葉が流行し、定着しました。
わたしは宗教とはもっとも早い時期から、教義に基づく支配を可能にするために、このバーチャル・リアリティで人心を弄してきた要素があると考えています。もちろん、それは日常の苦悩から夢見る逃避の余地を与え、カンフル的役割を担った部分もあったでしょう。それを否定してよいかは論議は分かれるでしょうが、これが高じて、自分たち以外を認められないところまでエスカレートすれば、中世ヨーロッパの魔女狩りと一緒です。

現代の学会を含む石山系グループメンバーが、憎悪感情で“闘争”する姿は、現代を暗黒時代としてしまっています。しかし、強い信念体系に陥った人は極度の高揚からの快楽を麻薬のように得ますから、さらにグループ、リーダーと教えの虜になり、加害行為を繰り返し続けることになります。彼らには自分たちが精神的なアビューズを行っているという実感すら持つことができないほど、精神は興廃し、麻痺しています。

>> そこで、わたしは挙証義務の履行を求めるという手順を採ります。「本物であるというのであれば証明しろ」「事実であるというのであれば、証明しろ」ということです。

この点をさらに補填しますが、以上のようなグループ、リーダー、メンバーから心身を守るために、“被害者”は相手の暴挙を食い止める方法を採ること必要があります。
言論におけるその最大の武器は挙証義務を強く迫る方法であるとわたしは考えています。
> …組織全体が無責任だと思う…証明…○○が仰せだから絶対…××にはこう書かれているから絶対です、そんなところの説明だろうと思います。

ええ、説明というより、単なるこじつけ、言い訳と言ってよいでしょう。
先にも書きましたが、700年も生き続けてきた肉があるとか、信じないと悪いことが起きるなどと人を脅かして、その煽動によって人の尊敬と利益を得ようとする浅ましさは徹底的に糾弾されるべきです。

もう一つ、、見落としてはならないことがあります。人間には「人に隷属する快感」という心理があるという点です。ナチズム翼賛者心理を、よく解明したE・フロムは、この点を解明し、『自由からの逃走』という不朽の名著を残しました。今はこの内容を繁く記しませんが、宗教的マゾヒズムが信者にあるという事実です。そして、自分が隷属する「主人」を求める傾向があるということです。これは権威への委譲として現れます。

自分が自分であること、この点を考えることこそ、自由の意味であるとわたしは考えます。

26犀角独歩:2003/07/16(水) 16:32

―26からつづく―

> …聖書には神の言葉…預言者の言葉

権威を権威たらしめるには舞台装置が必要となります。
それは人間が外見で人を尊卑を決めるという集団行動下の習性を身につけられているからです。尊大な態度、確信ある言葉、高級な身なり、高級車、自分を偉ぶってみせられると、何かへりくだらなければならないような強迫観念に迫られます。

こんな心理を巧みに利用し、人を傅(かしづ)かせるために用意されるのが神仏とその教えです。わたしはカルトと目される団体を宗教団体であると思いません。神仏と教義で自分を権威づけるリーダーとグループに過ぎないと本質を見るわけです。

> 神を信じているのではなくて、預言者を信じている…
> 石山系…蓮師を信じているようでありながら…猊下・池田さん…浅井さんといった、教団のリーダーを信じているだけのことなのかもしれません

「だけのこと」ではなく、そうでしょうね。
そのリーダーが解釈した「日蓮」を信じています。しかし、実の「日蓮」とは違っています。

彼らは単に「日蓮」の名と教義をもって、自分たちがその体現者であると自己宣伝しているのに過ぎません。言うのは勝手です。信じなければよいわけです。
その信・不信の篩(ふるい)を掛ける方法が徹底した挙証義務の要求です。
「戒壇之大御本尊」なるものの真偽を今の時代にやっていますが、こんなもの、科学的な調査をすればすぐにわかります。調べればよいだけのことです。調べない=挙証義務不履行、もうこの段階で信じるに足りません。教義裁定以前の問題でしょう。もちろん調べるまでもなく、肉が生きているは詐欺・ペテンの分類でしょう。こんなことが罷り通ること事態が異常です。

> 猊下や池田さん、もしくは浅井さんが、何かあったときにどこまで責任を持ってくれるのでしょう。言った言わないの、下世話な話になるのが関の山ではないでしょうか。

宅間に対して何等、責任を負うことがなかった石山漫荼羅信奉者の態度がすべてを物語っていると、わたしには思えるわけです。

> …あくまで真理かどうかといった最終的な判断は、自分の中で培われてきた理性や良心に委ねるべきものではないかと思うのです…自己責任…

賛同します。勧誘が、他者に対する責任であれば、こちらは自分のための責任を自分が負うと言うことですね。

> …自分に対して責任がもてない言葉は、人に対しても責任はないものといえるでしょう。

そのとおりですね。徹底して自分で調べもせず、グループとリーダーの話を鵜呑みにして、勧誘する無責任さ。それは他に対する無責任であると共に、自分に対する無責任でもあるわけですね。

> まず今も熱心に布教活動をしている個々の信徒が、自らが発する言葉における責任の希薄さに気づき、その自覚を持ってほしいものだと思います。

全面的に賛同の意を表します。

27犀角独歩:2003/07/16(水) 16:57

【23の訂正】

誤)自分の施行の権利
正)自分の思考の権利

誤)カルトの携帯は常に
正)カルトの形態は常に

【24の訂正】

誤)大経に刀杖刀杖
正)大経に刀杖

誤)威儀を修さないのです
正)威儀を修せず

【25の訂正】

誤)その他の忠誠暗黒時代
正)その他の中世暗黒時代

*ほかにもあるかも知れません。ご判読いただければ有り難く存じます

28アネモネ★:2003/07/19(土) 20:26
>22
>ただ、あのスレッドの応答を通じて、看取できたのは投稿者には宅間の成仏はまったく興味がない、話題にもしないという点でした。

そのようでしたね。日蓮の過激性に対する反論や本仏論肯定といったことになると、非常に饒舌にこだわり続けながら、しかし宅間の問題には一向に入ろうとしない。そんなところが、非常に印象的でした。

>信仰世界、特に石山系グループでは、人の人生の可否、人格を宗教によって判断します。「あの人が不幸なのは邪宗をやっているから」などと言った類の偏見です。これが天に唾する自己批判であることを信仰者はもっと意識すべきでしょう。

この点は、いつも考えさせられるところですね。今回は少し思い切って、憲法が保障する基本的人権の観点から考えみたいと思います。

現行憲法第二十条の「信教の自由」とは、文字通り、宗教の自由を意味するものであるわけです。ここで特に重要なことは、宗教を信じて布教する権利、これはよく認識し理解もされてきているところだと思われますが、実はここに保障された権利とはそれだけに留まるものではなく、宗教を信じない自由、宗教を変える自由、自己の信仰について沈黙を守る自由といったことも含まれているわけです。これらは意外と見落とされているところではないでしょうか。
つまり、日蓮本仏や戒壇之板本尊を信じる自由もここで保障されているわけですが、逆にそれらを信じない自由という権利も保障され尊重されなければならないというわけです。
自分の権利を主張する者は、他人の権利も尊重し守らなければならないということ、これは基本中の大原則ですね。
ところが石山系では、自分たちの信仰と布教の権利は強く主張する立場をとりながら、信じない人の権利を尊重し守るという意識はとうていうかがえないわけです。地獄に落ちるとまで言って恐怖心を煽り信じることを強要している行為は、いわば脅しです。このように脅迫してまで信じさせようという類のことは、基本的人権を侵害しているということになります。教団として社会的存在を法的に認めてもらっている以上は、何人といえども他者の人権も侵してはならないはずです。

また地獄に落ちるとか不幸が起きるといった言葉は、恐怖心や不快感を与え、場合によっては精神的不安や苦痛といったものをも引き起こしてしまうことがあります。まさに言葉の暴力であり、精神的虐待といえるでしょう。
しかし、往々にして布教活動をしている信徒の方々は、自分の言動が人を脅す精神的虐待行為でいるということに気づいていないわけです。このようなことは、往々にして見過ごされがちなことでしたが、しかし人権侵害という非常に大きな社会問題であるということが考えられるかと思います。

29アネモネ★:2003/07/19(土) 20:30
(つづき)
>23
>> 「でも私はこう思うのですが…」…「それは我見でしょ。謗法になりますよ」…
>要するに「自分の頭で考える自由を奪われている」…自分の施行の権利が剥奪されています。

現行憲法でいえば、内心の自由を保障する第十九条「思想および良心の自由」と、言論の自由を保障する第二十一条「集会・結社・表現の自由、通信の秘密」に反する人権侵害と考えられますね。

憲法によって、宗教教団としての存在や布教が保障されているにも関わらず、憲法で定められている基本的人権を脅かす文言が平然と使われているというのは、いかに社会的な意味での自分たちの立場がわかっていないかという社会性の欠如を象徴しているものだと思われます。

>ところが宗教の現場では、この結果としての「信」をいきなり冒頭に持ってきます。そして、信じているという前提での行動を強要してくるわけです。

これもまた、信じない自由を阻害している点で、憲法第二十条「信教の自由」に反する人権侵害とみなすことができるものと思われます。
信仰者が「信教の自由」を振りかざして自分たちの活動を肯定することは、これまで非常に多かったと思われます。しかし先にも記しましたように、この「信教の自由」には、「信じない自由という権利」も尊重し守られなければならないわけです。この点の認識は全く欠けているものだといえるでしょう。
また、顕正会では憲法改正論を平然と打ち立てているわけですが、これはある意味で自分たちの社会的存在を自分で追い詰める論理にもなっていくものではないでしょうか。
更に、そのような改正論に追従する信徒の方々が、基本的人権の理念をどこまでわかっているのかということも非常に疑問です。もしもその理念を正しく理解することなく、安易に教団の改憲論に追従し布教しているとしたら、とても危険なことであり、反社会的思想集団ということにもなるのではないかと思われます。

>リーダーとグループがメンバーを服従させる権威となっているわけです。しかし、実はこれは宗教的なものではなく、服従させる者/服従させられる者という支配者/奴隷の関係に基づく精神的な虐待であり、搾取であるというのが実態です。

精神的虐待という問題を認識することはとても大事なことだと思われますね。
宅間の問題でも私は強調してきましたが、宗教組織における信仰や思想は、その人の人格形成に何らかの影響を与えていくものであるという観点からみたとき、教団における精神的虐待という環境は、人格障害を引き起こす要因になり得るものであるといえるのではないでしょうか。
宅間の場合は、家庭内では父親から暴力的虐待を受けてきたわけで、更に信仰の場によって精神的虐待を受けながらその教えに感化されていったとすれば、彼の犯行に至る人格的歪みに何らかの影響があったかもしれないことは考えられなくもありません。
そこには、彼自身が長年受けてきたであろう「虐待」という二文字が大きく横たわっている点を、特に私は重要視して見ています。

30アネモネ★:2003/07/19(土) 20:33
(つつぎ)

>24
>つまり、蓮師の念仏者斬首思想はここに根拠があるのであって、これが折伏であるというわけです。ただし、念仏者斬首という折伏を行うのは、比丘である蓮師ではなく、大乗信徒である為政者であるというところを読み違えると蓮師の思想から離れることになります。

現在、折伏という言葉が、布教や入信勧誘の意味で使用されていることは大変大きな誤りであるわけですね。なるほど。ようやく理解ができた気がします。

となると、顕正会の国立戒壇論及び、そのための憲法改正論から理論論解釈されることは、この戒壇に対して信仰が出来ない人、また他の信仰が捨てられない人は、国権によって死刑に処せられるという理屈にもなってしまうのでしょうね。
だとすれば、これは大変な危険思想ではないかと、私は嫌悪感を持ちます。現行憲法の基本的人権という基本理念も理解しない若い青年たちが、このような反社会的な危険思想に煽動されていくことに、社会的(国家的)危機感すら覚えるところです。

>25
>ある面、日本人は宗教の心理的、あるいは社会的影響力を過小評価し過ぎているのではないのかと思える節があります。

恐らくこれも、人権意識の希薄さらくる、無責任ということがいえるかもしれません。その宗教を「信じない権利」はとても重要です。しかし、個人が信じない宗教であっても、その存在を社会は宗教法人として容認しているわけです。個人は社会の一員ですから、社会が容認している宗教がどのような思想を有して社会に影響を与えているものかといった動向に対しては、常に注意を払わなければならないといえるでしょう。それも社会の一員としての責任であると思われます。

憲法第十二条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とされています。
石山系宗教組織は、布教する立場としての信教の自由という権利をある意味で濫用している側面があるといえるかと思います。一方の国民の側においては、「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」というところの「不断の努力」を怠っているということが指摘されるかと思われます。「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と示される、その国民として負っている「責任」というものも、今一度個々に考えていかなければならないといえるでしょう。

このような人権意識が当然のごとく根付いてきている外国人の目から日本の社会をみるならば、宗教問題ひとつをとってみても、まったく権利放棄をしている無責任な姿に見えるものなのではないでしょうか。

31アネモネ★:2003/07/19(土) 20:35
(つづき)

>会員は信・不信で人々を差別する人権侵害を何の罪悪感もなく日々考え実行しているわけです。

こうしたことが、差別思想にも通じるものであるということが、案外と意識されていませんね。
私は、宗教の正しさを判断する基準とは、正しい本尊がどうこうということよりも、思想的にいかに偏見を克服し人を差別しないものとなっているかということ、これが私の中での最低限のハードルとなっているといえます。

憲法第十一条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」さらに、十四条では、「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的又は社会的関係において、差別されない」とされているわけです。

この点に注目してみたいと思うのですが、まず、信・不信による差別的言葉としては、「謗法の人」「邪宗の人」「悪縁の人」といったことが日常的によく発せられているわけです。しかし信仰の場で当たり前に語られているこれらの文言や考え方は、憲法でいうところの、信条や門地(生まれや家柄)によって人を差別している文言といえるのではないでしょうか。実際に、「謗法の人」「邪宗の人」「悪縁の人」との交流や接触を忌み嫌う考え方の人も多くおられます。また、それらを理由に婚姻が成立しなかったり破談になったり、または婚姻の際に相手に入信を強要するといったことも当然のように聞かれるわけですが、これらは全て、基本的人権に反する憲法違反に抵触した行為といえるのではないかと思われます。

>強い信念体系に陥った人は極度の高揚からの快楽を麻薬のように得ますから、…加害行為を繰り返し続けることになります。…彼らには自分たちが精神的なアビューズ…精神は興廃し、麻痺しています。

まさに人格障害に陥った姿ではないかと思われますね。

>25
>わたしはカルトと目される団体を宗教団体であると思いません。神仏と教義で自分を権威づけるリーダーとグループに過ぎないと本質を見るわけです。

このようなことを見抜くことが求められますね。拙い知識ながら、これこそ仏教でいうところの八正道に通じることではないでしょうか。

32アネモネ★:2003/07/19(土) 20:40
(つづき)

>「戒壇之大御本尊」なるものの真偽を今の時代に…科学的な調査…調べない=挙証義務不履行、…教義裁定以前の問題…肉が生きているは詐欺・ペテンの分類でしょう。こんなことが罷り通ること事態が異常です。

顕正会題が、国立戒壇を訴え本気で考えているのであれば、国や国民にそのことを認めさせる前提として、まず日蓮正宗の正しさというものをきちんと証明する義務が求められることになるでしょう。
何はともあれ国立戒壇となると、戒壇板曼荼羅というものの真偽をまず証明しなければなりません。国定文化財の指定であっても、間違いなく本物であるということが、科学的調査によって証明されてることが前提となっているはずです。それが国立戒壇ともなれば、当然のこと、750年前に日蓮が間違いなく戒壇の本尊としてお立てになったものであるということの証明は避けては通れないものとなるでしょう。それが、本物と証明されれば問題ないですが、もしも証明されなかった場合、一体どうするのでしょう。これは、顕正会や日蓮正宗の恥さらしでは済まされないことではないでしょうか。国際社会における先進国日本の信用問題にもなることではないかと思われます。

仮に、ご歴代の法主が建て直したものだという弁解を通すとなれば、今度はその法主の正統性を示す唯受一人の血脈というものが科学的に証明されなければならなくなるわけです。しかし、こちらも真蹟の書は現存しておらず、偽書である可能性すら濃厚なわけですから、個々の信徒がどれだけ確信をもっていたとしても、科学的証明とはなりませんね。日本はまさに世界中から物笑い国家となってしまうのではないでしょうか。おまけに、お肉牙の伝説も世界に配信されるとなれば、先進国としての信用はがた落ちとなることでしょう。
また仮にクリアして、国立戒壇を建立し日蓮正宗が日本の国教となってしまった場合は、謗法ということで他宗の寺院仏閣といったような文化遺産を焼き払ってしまわなければならなくなります。またこの信仰に帰依できない人を国権によって死刑に処するといったことにもなるならば、まさにタリバンと同じ問題政権と世界的にみなされてしまうものではないでしょうか。ましてやこの教えを世界に広める布教義務が国民に課せられでもしたら、私としては命懸けで亡命するしかありません。

このようなことを突き詰めて考ていくとき、果たしてこの教えが人々の恒久平和に本当に通じるものといえるものなのか、実に疑わしくなってきます。
戒壇本尊の不思議な霊力によって、日本が仏国土となるという建前かもしれませんが、もしもそうならなかったときには、教団とその布教者はどのような方法で国家と国民に責任をとるものなのでしょうか。詐欺罪程度すまされることではないでしょう。
そういったこともよく考えた上で、信仰者は布教の言葉を考えていかなければならないといえるでしょうし、まさにそれも信仰責任だと思います。

33問答迷人:2003/07/20(日) 18:25

しばらく個人的事情で、書き込めない状態が続いていました。全てのレスを読み返させていただきました。大変興味深い議論が為されており、驚いております。

僕は、先ず、日蓮正宗の法主の信仰責任について、少し思うところを述べてみたいと思います。

蓮師は、法華経を釈尊の金口と信じておられました。ところが、今日の仏教考古学は、法華経も含めて、大乗仏典が釈尊の金口などではなく、後世の仏教徒による創作で有ることを明らかにして仕舞いました。蓮師が、法華経を釈尊の金口と信じたことは、当時の文化事情からすれば、責められるべき事柄とまでは言えないかも知れない。しかし、今日、その正系門家で有り、蓮師の血脈をそのまま受け継いでいると主張している日蓮正宗の法主は、この「法華経が釈尊の金口ではない」という仏教考古学の知見に対して説明する義務を負うわけです。それが、信仰指導者としての当然の責任です。なぜなら、蓮師の教理体系は、大乗仏典が釈尊の金口であるという事を大前提として成り立っているからです。蓮師は、開目抄において、「我義破られずば、用いじ」と述べましたが、「我義」はその根本から破られてしまったわけです。蓮師の正統の後継者を主張する日蓮正宗法主は、先ずこの事を説明しなければならない。それが出来なければ、蓮師の信仰を広める資格が無いことを指摘しておきたいと思います。

34犀角独歩:2003/07/22(火) 13:44

問答名人さん:

お久しぶりです。
勝手に投稿をさせていただいております。

ご指摘の点、わたしも同様に考えてきました。

35犀角独歩:2003/07/22(火) 13:44

> …憲法が保障する基本的人権の観点から考えみたい

とても、大事な観点ですね。

> 宗教を信じない自由、宗教を変える自由、自己の信仰について沈黙を守る自由といったことも含まれている…

そうですね。見落とされているというより、信念体系に陥ってしまった人にとって、他の信念体系を認める人権感覚は損なわれていると明確化したほうがわかりやすいと思います。

> …日蓮本仏・戒壇之板本尊を信じる自由…保障…逆に…信じない自由…権利も保障…尊重…

この信じない自由を否定するというより、信じないことを罪悪視し、“罰論”という証明不可能な手前味噌の虚構を振りかざして、人を脅します。
この場合、脅す信者自身が脅され、操作されています。
また、信じない自由よりも、この罰の回避という“お節介”で人を裁きます。この段階で他者に対して、信じない自由を侵害するとき、人権侵害に抵触することになるのであろうと思います。

> 教団として社会的存在を法的に認めてもらっている以上

信者にはこの感覚が希薄なのでしょう。
自分たちは超法規的な存在であると思い込まされています。
法律は法治国家における国民の権利を守りますが、教義は、その上に存在するという、いわば形而上学的な見地に基づいています。
実に愚かなことですが、自分たちの教えは法律・科学以上のものであると信じ込まされています。

よく言われることですが、「科学では解明できないものがある」というのが常套句となっています。この句は「しかし、自分たちの教えは宇宙の心理を説き明かしている」などという“植え込まれた”信念体系を自分の言葉のように使うわけです。
科学ですら証明できないものが、証明もできない迷信で証明できるはずはありません。

> 何人といえども他者の人権も侵してはならないはずです。

これはまったくそのとおりです。
わたしは宗教は、人権問題の、最後に残った大問題であると思います。
「信じられない人は仏教の視点からすれば悪人である」などと平然と考えるわけです。
こう書くと、「そんなことはない」という人もいるでしょう。
しかし、蓮師は法華経を信じない念仏者を「斬首」にしろと言い切ったわけです。
斬首、極刑は大罪人=悪人への処罰でしょう。こんな思想が既に『涅槃経』に見られます。これらの教えは現代社会に当て嵌めるまでもなく、人権侵害の極と言っても過言ではありません。


> 地獄に落ちる…不幸が起きる…言葉…恐怖心や不快感を与え…精神的不安や苦痛…言葉の暴力…精神的虐待

まったくそのとおりです。
「脅し」と表現してよいこのような言葉の暴力はまさに虐待そのものです。

> …布教活動…自分の言動が人を脅す精神的虐待行為…気づいていない…人権侵害…大きな社会問題

それどころか自分たちは小善を廃し、大善を行っているという、深刻な勘違い、思い込みによって人権侵害を繰り返します。

> 憲法…宗教教団…布教が保障されているにも関わらず、…基本的人権を脅かす文言が平然と使われている…社会的な意味での自分たちの立場がわかっていない…社会性の欠如を象徴

同感です。このような教団の体質は指導者に代表され、そのコピーである信者たちもまた、平然と人権侵害を繰り返します。信者自身、日々教団及び同胞、先輩・幹部から虐待を受けている被害者でありながら、それが認識できず、その認識ができない故に他者に対して、今度は人権侵害の加害者となっていきます。

> 「信じない自由という権利」…全く欠けている

信じない自由を侵害するばかりではなく、信じない人を見下し、自分たちが優位に立っていると自惚れています。信じられる自分たちは選ばれた特別な人間であるとすら思っています。教団という集団で言えばファンダメンタリズム、個人的に言えばエゴイズムがすべてを覆いながら、その言動を世界平和、幸福などという世間一般の福利用語で虚飾を施してしまうわけです。

36犀角独歩:2003/07/22(火) 13:45

―35からつづく―

実はこのような指摘は、既になされています。
「存在権の配分」と言います。ハッサン師の説明を紹介します。

「もしだれかが絶対主義的あるいは全体主義的な真理観を持つと、彼にとっては、その光を見ていない人、つまりその真理を受け入れていない人は、ある意味で闇の中にいるのであり、悪と結合しており、汚れており、存在する権利を持たない。ここには『存在』と『無』という二分法が働いている。正当な存在は邪魔するものは押しのけられ、あるいは滅ぼさなければならない。存在する権利がない第二の部類に入れられた者は、心理的に内面の死滅または崩壊というすさまじい恐怖を経験する。しかし逆に受け入れられた場合には、自己をエリートの仲間と感じる大きな満足感がある…
 生きる権利を持つ者と持たない者の間に明確な線を引くという全体主義的な衝動は−−さまざまな度合いで起こりはするが−−人間の根本問題を解決する恐ろしい方法となりうる。このような方法は、全体主義あるいはファンダメンタリズム(宗教であれ政治理念であれ、自分たちが根本だと信じる立場を排他的に主張する主義=根本主義)を含めて、すべて、各時代においては二重に危険なものである」(『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版 P377)

> …顕正会…社会的存在を自分で追い詰める論理

そう思います。しかし、彼らは自分たちは社会の上を行くと妄想していますから、世間一般の価値観など見下していると思えます。

> 憲法…改正論に追従する信徒…基本的人権の理念をどこまでわかっているのかということも非常に疑問

この点について、わたしは現役信者と話したり、また、富士門流信徒の掲示板に書き込む会員と自称する言動を読む限り、「まったくわかっていない」というより、人権を意識していないと見受けるわけです。

> 理念を正しく理解することなく、安易に教団の改憲論に追従し布教…危険…反社会的思想集団…

わたしにも反社会的と映じています。

> …宗教組織…信仰・思想…人格形成に何らかの影響を与えていく…教団…精神的虐待…環境…人格障害を引き起こす要因になり得る…

なり得るでしょうし、より正確に言えば、補強するものとなる、あるいは基礎理論となり得るということでしょうね。
その典型例が全体主義であり、その支配下における戦争という殺戮肯定論です。
弁護士の滝本太郎師は

「悪意の殺人には限度があるが、善意の殺人は限度がない」です。「人は、宗教的確信にたったときほど、完璧に喜んで罪を犯す」

と言っていました。わたしは名言であると思っています。

> 宅間…家庭内…父親から暴力的虐待…信仰…精神的虐待…

「虐待は連鎖する」という性格を有します。
その方向は常に強者から弱者へ向かいます。
家庭内で親という強者が弱者である子どもに、学校では教師が生徒にという構造です。
その力関係がひっくり返ると家庭内暴力となり、学校崩壊となっていくのでしょう。
信仰の現場では信じる強者が、信じない弱者を虐待します。

宅間事件も、そんな弱者虐待の側面を大きく見せています。
宅間の虐待的嗜好は如何にして構築されたか、その一切合切を綿密に論及する必要があります。その中で信仰を除外しする理由はありません。宅間に与えた影響力の一つに数え検証することは何も批判されることではありません。

37犀角独歩:2003/07/22(火) 13:46

―36からつづく―

>…蓮師の念仏者斬首思想…顕正会の国立戒壇論…憲法改正論…理論論解釈…信仰が出来ない人、また他の信仰が捨てられない人は、国権によって死刑に処せられるという理屈…

「日蓮大聖人の仰せのまま」だそうですから、そこまで言わなければ蓮師の言うままではないでしょう。しかし、彼等は言っていません。つまり、「大聖人の仰せのまま」ではありません。しかし、いつ言い出すかわかりません。

たしかアネモネさんも憤慨していましたが、浅井さんが墓参りに行ったとき、念仏塔婆を引き抜きたい衝動に駆られたという投稿がありましたね。こんな以上発言の基礎理論は蓮師の念仏排撃論です。塔婆を引き抜く程度でも異常ですが、極刑の斬首が蓮師の思想です。ファンダメンタリストであれば、徹底した原理主義を貫徹しようとしますから、彼らが国を牛耳ることになれば、そんな施行は避けがたいことになるでしょう。

> 大変な危険思想…私は嫌悪感…現行憲法の基本的人権という基本理念も理解しない若い青年…反社会的な危険思想に煽動…社会的(国家的)危機感すら覚える

同様に思います。
人権侵害は高じれば、生存権を脅かすところまで発展します。故に私たちは監視の目を緩めてはいけないと思うわけです。その判断基準になることは、現段階では「虐待」的要素、次に「人権侵害」的要素と言うことになるでしょう。しかし、これはひとり顕正会に留まる問題ではありません。

この見極めの鍵は「憎悪」による操作ということです。何らかの信念体系が仮想の敵を設定し、信者にその対象を憎悪させることによって操作している現実があるとき、その団体は間違いなく危険な団体です。

>> …日本人は宗教の心理的…社会的影響力を過小評価し過ぎている…
> …人権意識の希薄さらくる、無責任…「信じない権利」はとても重要

重要ですね。
ここで一つ補いたいことは信念体系に陥っている人の無責任は社会心理学的で説明されていると言うことです。ミルグラムが『服従の心理』でこの点を分析しています。
ここでのキーワードは“権威”“服従”“代理状態”“責任感の喪失”です。その結果、そのような心理下にある団体と個人は人権を侵害するに至るという道順があると考えられます。

以下、アネモネさんが教団の人権侵害を憲法から考えてくださったので、わたしは、そのような人権侵害を引き起こす心理要因を説明する社会心理学の分析を紹介したいと思います。

・『服従の心理』(河出書房新社)からの抜粋です

【権威】

「ビアステットは、権威の存在は政府の存在よりも根本的な現象である、といみじくも指摘している。『……権威の問題は、適切な社会構造理論の根底そのものにある。……政府でさえ、ある意味では、単に政治的現象ではなく、第一に、そして根本的に社会的現象であり、そして……政府を生み出す母体は秩序と構造をもっている。政府の反対がアナーキーであるとすれば、社会の反対はアノミーである。いいかえれば、権威とは、狭い意味での純粋に政治的な現象ではない。権威は、政治的社会体制においてのみならず、その体制のすべてにおいて存在するからである。どれほど小さな、どれほど一時的な組織であれ、あらゆる社会組織に、それ自身の権威構造がある」(P276)

「権威への屈服は人間の非常に優勢な、力強い条件である」(P167)
「あらゆる規制の系列のなかで、権威への服従を要求する規制が最高の位置を占めている」(P184)
「“人々には”、“合法的権威が提示する行為の定義を受け入れる傾向がある”。すなわち、人間は行為を遂行するが、その行為の意味については権威に定義してもらうのである」(P192)
「行為はより高い地位の人に支配される」

上述は政治体制に基づいて論じられていますから「政府」「政治」となっていますが、これは宗教教団と置換は可能であると思えます。
信者は宗教的権威を設定するわけです。そして、疑うことのない信を立てます。
それを美徳ととらえます。その自分の在り方を信仰行為であると判断します。

「権威とは、狭い意味での純粋に政治的な現象ではない」という分析は
「権威とは、狭い意味での純粋に宗教的な現象ではない」と言い換えることができるでしょう。権威への服従、それがグループとメンバーをつなぐ、強固な粘着剤になっています。

38犀角独歩:2003/07/22(火) 13:47

―37からつづく―

【服従】

「児童発達の研究者たちがずっと以前から認めているように、『最初の社会関係は、権威の指示を認識し、それに屈服する関係である』-イングリッシュ、1961-(P271)
「われわれは潜在的服従能力をもって生まれ、この能力が社会の影響と相互作用して服従的人間をつくり出す」(P169)
「服従も同調もともに、自分以外の者にイニシアティヴをゆずり渡すことである」(P157)「服従しつづけるのは何のためであろうか?第一に……その場に釘付けにする拘束要因がある。礼儀を重んずる気持ち……手助けをするとの最初の約束を守りたい気持ち、途中で投げ出すみっともなさ、など。第二に、一連の思考調整が行われ、権威と決裂しようとする……決心をにぶらせる」(P24)
「“自発的”服従を得るには、イデオロギーによる正当化が必要不可欠である。それがなければ、個人は自分の行動が望ましい目的に役立っていると考えることができないからである。そのように思いこませたときにのみ、たやすく服従を獲得することができる」(P189)
「進んでやる気があり、強制が欠けているほど、服従は協調的気分に彩られ、個人に対して力のおどしや罰がほのめかされるほど、服従は恐怖によって強制される」(P11)

その他、服従に対する記述は枚挙に暇がないのです…服従の心理を記述する本ですから当然ですが…。富士門信徒に見られるような信伏という宗教的服従の心理は、当人たちにとっては深い信仰心の結果と自己評価が付されるのでしょうが、実は人間が本来持っている「権威への服従」という心理要因を利用する教団・指導者と教義を権威を認定して、あとは心理要因によって突き動いているのに過ぎない点を見落としてはならないと思えます。ミルグラムは

「暗黙の諸構造が、そうと気づかれずに……行動を規定している」(P68)

とも記しています。殊に集団内に置かれた人々は自分の考えで行動する違和感より全体の決定によって動くほうがストレスは少ないことになります。それがまた、権威への服従をスムーズにします。

「居心地のわるい事態を避けるためには、まだしも服従の方が耐えやすいと多く(略)が思うのである」(P199)

と分析される点です。しかし、これは人間集団という条件のみではないとわたしは考えます。

たとえば日蓮本仏論という権威から与えられた思考の海に漂うとき、その権威に反する他の教義を考えるより、日蓮本仏論範疇という概念内に閉じ籠もるほうが、その是非を問うより自分にとってはるかに“居心地”のよいことになるでしょう。その場合、日蓮本仏論の是非は集団・指導者・教義が考えてくれています。自分は唯信じるだけで、その権威を借りることができます。このような信念体系を権威に借りてしまうことをミルグラムは、“代理状態”と規定しています。

【代理状態】

「権威組織にはいった個人は、自分自身を自分の目的のために行動しているのではなく、他人の要望を実行している代理人と見なすようになる。ひとたび個人が自分の行動をこの観点から考えるようになると、彼の行動および内的機能様式に深い変化が起こる。この変化はきわめてはっきりしているので、個人は、この態度の変化によって、ヒエラルキーに組込まれる前にいた状態とは別の“状態”におかれたのだと言うことができよう。わたし(ミルグラム)はこの状態を“代理状態”(agentic state)と呼ぶことにする。それは、個人が自分自身を他人の要望を遂行する代理人と見なしている状態である。この用語は、“自主性”、すなわち、個人が自分自身を自分の意志で行動している見なしている状態と対比して用いられるよう」(P178)

以上の文章は以下の如く言い換えが可能です。

「入信した信者は個人は、自分自身を自分の人生の目的のために行動しているのではなく、日蓮大聖人の要望を実行している代理人、すなわち如来の使いと見なすようになる…信者が自分自身を日蓮大聖人、猊下、あるいは先生の要望を遂行する代理人と見なしている状態である」

わたしは学会時代、よく「私は生涯、先生の手足となって広宣流布のお役に立ちます」と言い、法華講時代には「猊下に信伏随従し、指導教師の指導に従います」などとやっていましたが、まさに、このように権威に自分を委ねてしまう在り方こそ、ミルグラムが言う代理状態といえるものでしょう。

39犀角独歩:2003/07/22(火) 13:48

―38からつづく―

自分の行動規範、あるいは信念を歴史上の一人に仮託してしまうのも同様であると思います。「日蓮大聖人がこのように仰せだから」「(権威ある)○○はこのように言っているから」と判断の是非を自分ではなく、他の人の言葉に置き換えてしまう心理構造、E・フロムはこれを権威主義的パーソナリティ(人格)と言い、その特徴を二極思考であると分析するわけです。多くの社会学者が研究し、カルト問題に携わる人が基礎理論とする点です。

二極思考、例えば善悪に分類し、すべての善は自分たちにすべての悪は他者にというファンダメンタリズムに容易く陥る心理状態です。自分が信念体系(権威)に服従している代理状態で、いったい何が起きるのか、ここからが、このスレッドのテーマである「信仰責任」と大きく関わる点です。その心理効果をミルグラムは「責任感の喪失」であると分析しているわけです。

【責任感の喪失】

「責任感の消滅は、権威への服従のもっとも重大な効果である」(P25)
「個人的責任の放棄が権威への屈服の主要な心理的結果である」(P210)
「代理状態のもっとも重大な結果は、個人が自分の指図している“権威に対して”は責任を感じるが、権威に命じられた行為の内容“については”責任を感じなくなるということである。道徳は、消滅するのではなく、根本的に違った点に集中される。従者が感じる恥や誇りは、自分が権威に求められた行為をどれほどうまくやったかということで決められる」(P193)

わたしは自分の信念体系が実際にどのようなものであるかを自分の責任において確認もせず、人に進めることを「無責任」と糾弾します。これは過去四半世紀の自己批判でもあります。事実関係も確認せず、組織・指導者が打ち出しを鵜呑みにして人を勧誘する行為は無責任というほかありません。しかし、このような無責任な状態こそ、宗教的権威に信仰という服従をする人々の心理的効果そのものである点を強く着目するわけです。
勧誘者の心理的健全さ、ひいて言えば信念体系集団の健全さの尺度は、まさに「信仰責任」あるというのがわたしの主張したい点です。

> 社会は宗教法人として容認している…

この点について、わたしは以前、本に書いたことがあります。1994年のことで記述は古いのですが、転載します。

「一般的に宗教集団が法人格の望む場合、宗教法人法により所轄庁より認証を得ることになります。この場合、憲法20条に「信教の自由」、すなわち「政教分離」を制度的に保障していることから、所轄庁は、「実質的宗教活動を規制すること、信仰・教義に対し、指導・助言を行わないこと」が原則となっています。
 この点は宗教法人法でも第1条に『宗教上の行為を行うことを規制するものと解してはならない』と明記しています。これは政治・行政権力が信仰上の行為に対して、介入しないように注意を促しているということです」(わたしの個人特定を避けるために著書名は明記しません)

あまり上手い文章ではありませんが、社会が宗教法人を認める内容は政教分離の原則からその教義には触れてはならないことを記したものです。

また、数年前、新宗教新聞編集長の廣橋隆さんが、パネラーとして、もう少し具体的に話されていたので、紹介します。

「『問題ある教団、カルトが、なぜ宗教法人として認証されてしまうのか』という質問です。
 これについては、宗教法人法について誤解があるようなので、説明いたします。ひとことで言うと、宗教法人法は、国や地方公共団体といった公の機関が宗教団体を認知して宗教活動の許可を与えるという法律ではありません。あくまでも、信者集団、信仰をともにする集団が集まって、財産をもつ場合の取り決めをする法律なのです。いわゆる人格なき集団では、誰かの名義とする必要があるわけです。たとえば信者の献金を集めて建物を建てたり、建物を集団の管理下に置いたりするとき、複数の信者の共有財産とすることを認めた法律なのですね。ですから、その団体を宗教であると公の機関が認めて、宗教活動を許す、という法律ではないのです。
 たしかに戦前の宗教統制時代は、そういう法律でした。宗教団体法によって宗教法人として認可されなければ宗教活動はできなかったのです。
 戦後は、憲法20条の信教の自由によって、誰でも、いつでも宗教活動ができるようになったのです。ですから、宗教法人ではないアレフでも、宗教活動を行っているわけです。これが趣旨です。宗教法人法によって宗教団体が非課税になっているのではありません。宗教という非収益性のある団体であるから非課税ということも、間違えないようにしていただきたいと思います」

40犀角独歩:2003/07/22(火) 13:48

―39からつづく―

ただ、以上のような原則ですが、アネモネさんが仰るように社会通念のなかで人々がその宗教法人を認めるのは護憲の範疇であるからだと思います。この点で、政教分離の原則といいながらも、違憲性があれば、オウム真理教、法の花三法教、ライフスペースのようにいくら政教分離された教義とは言え、違憲団体として、衆目の批判も買うのは当然のことであると思うのです。

その意味で、

> 憲法第十二条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とされています。

という条文でいう責任を宗教法人が負うのは当然のことですね。

> 石山系宗教組織…布教…信教の自由…濫用

なるほど。濫用か否かを憲法から考えることは、法治国家における国民と集団である以上、重要な点であると思います。

> 一方の国民の側…「不断の努力」を怠っている…

このスレッド的に言えば、勧誘を受けた場合、その教義、集団、指導者、器物について徹底した挙証義務の履行を求めるということになりますね。

> …宗教問題…まったく権利放棄をしている無責任な姿…

わたしもそう思います。

>>会員は信・不信…人々を差別する人権侵害…
> 私は、宗教の正しさを判断する基準…偏見を克服し人を差別しない…最低限のハードル…

これはつまり生存権の決定を教義の最低に委ねないと言い換えることができると思います。また、善悪の基準を教義から計らないことであると思うわけです。
宗教上の生前権とは「地獄に行く人を勝手に決めるな」と言えば、わかりやすいでしょうか。善悪の基準を協議に諮ると蓮師は「念仏斬首といったのは宗教的大確信、悪いことではない」などと日蓮教義を肯定するあまり殺人を肯定することになってしまいます。これでは麻原彰晃のポアと何も違いがなくなります。

> 憲法第十一条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない…
> …信・不信による差別的言葉…「謗法の人」「邪宗の人」「悪縁の人」といったことが日常的によく発せられているわけです。しかし信仰の場で当たり前に語られているこれらの文言や考え方は、憲法でいうところの、信条や門地(生まれや家柄)によって人を差別している文言といえるのではないでしょうか。

まったくそのとおりです。
わたしが言いたいのもこの点です。

> 実際に、「謗法の人」「邪宗の人」「悪縁の人」との交流や接触を忌み嫌う…婚姻…破…婚姻の際に相手に入信を強要…基本的人権に反する憲法違反に抵触した行為…

そうですね。布教の自由の行使が被勧誘者の基本的人権を侵すものであってはならないのは当然です。

>> 強い信念体系に陥った人は極度の高揚からの快楽…精神的なアビューズ…精神は興廃…麻痺…
> 人格障害に陥った姿…

強い信念体系に酔う人を人格障害者であると言えば、一種の差別発言と反論されるかも知れません。ですから、わたしは、わたし個人がかつて強い信念体系に陥り、「先生のため」、あるいは「御法主上人のために」死んでもよいと思っていた状態を思い出しながら、記述したいと思います。この基礎理論は「死身弘法」でした。ここでは法の最高の体現者は、先生、あるいは法主であるから、その“人”を仏と同等視して“疑うことなく”付き従うことが法を弘める実質的な姿勢であると考えていたわけです。つまり、法=人、富士門信徒の大好きな人法一箇という同等視が人に対する帰依を実現させることになっていたわけです。しかし、これは人間の心理構造にある権威への服従による代理状態であったことを否定できません。そこでは集団・指導者にすべての善があり、悪はそれを認めない、あるいは批判する他者にあるという二極思考に基づいてもいました。

41犀角独歩:2003/07/22(火) 13:49

―40からつづく―

わたしはいつもヤスパースの妄想の定義を持ち出すのですが、このようなわたしの状態はまさに妄想状態でした。(1)間違った考え(2)強い確信(3)訂正不能です。

この三つの定義で、(1)の「間違った」という点に強い信念体系権威服従代理状態にある人に理解できることではありません。間違っていないと思うからこそ、強い確信となり、訂正不能となるのでしょう。しかし、どんなに精緻な教義肯定論を積み重ねるにしても、結論は元より出ています。つまり、自分が「信じていることは正しい」というそれです。

このような状態に陥った人とはそもそも議論は成り立ちません。ただ、相手が反証を示そうが、資料を呈示しようがそんなものは目に入りません。ただ自分が正しいと思うことを鸚鵡のように繰り返し続けるだけです。これを信念体系内の価値観では「強盛な信心」「強い確信」と持て囃されることになりますが、客観的に見れば妄想状態にあることがわかります。

ですから、このような心理状態にある人には、信仰責任の上から挙証義務の履行を求めてもなにも得られないことになります。つまり、「義務を怠らない」側は、このような妄想を信じなければよいだけのこととなるでしょう。わたしが「絶対だ」と言って勧誘を強要した多くの人で、わたしの説明を納得しなかった被勧誘者の人に、今となっては深い敬意をはらうものです。

>> …カルトと目される団体…神仏と教義で自分を権威づけるリーダーとグループに過ぎないと本質を見る…
> …これこそ仏教…八正道に通じる…

なるほど。そのようにも言えようかと思います。

>>「戒壇之大御本尊」…科学的な調査…
> 顕正会…国立戒壇…戒壇板曼荼羅というものの真偽をまず証明…

ええ、そのとおりです。国立で戒壇を立てるのに、その安置漫荼羅本尊の真偽検証は絶対不可欠な条件です。しかし、それ以前、人に「本物である」と言う段階で、勧誘者はその事実検証結果を呈示する義務を負います。その延長に国家レベルの調査が行われ真偽を見極める手順となるでしょう。

しかし、それにしても、「日蓮の真筆」と言うのは筆を執って紙に墨を落としたものを言うのです。それを彫刻したものをそもそも真筆とは言いません。それは真筆のコピーに過ぎません。もはや、その段階で板漫荼羅が日蓮の真筆であるかどうかを論じること自体、わたしにはナンセンスだと思えます。

> 顕正会や日蓮正宗の恥さらしでは済まされないことではないでしょうか。国際社会における先進国日本の信用問題にもなることではないかと思われます。

ええ、ですから、こんな石山、または顕正会の言い分を真に受ける人はいないわけです。相手にもしていないでしょう。「伝日蓮真筆」は言い伝えであって、信念体系に陥り事実検証を放棄した人にしか通用しない戯言に過ぎません。
ですから、これを認めないことによって国際社会における日本の信用問題は確保されていることになりますね(笑)

> 仮に、ご歴代の法主が建て直したものだという弁解…唯受一人の血脈…科学的に証明

仮に唯受一人が事実であったとしても、伝わったことが正しいとは限りません。蓮師が無謬ではないからです。それよりなにより、「建て直した」と認めるのであれば、それは直ちに本物ではないことを言っていることになります。滑稽な話ですね。。

> …国立戒壇を建立し日蓮正宗が日本の国教…謗法…他宗の寺院仏閣…文化遺産を焼き払ってしまわなければならなくなります

ええ、そうです。それだけではありません。「日蓮大聖人の仰せのまま」だそうですから、念仏者は全員、神奈川県の湘南海岸、由比ヶ浜に連れて行って、斬首という死刑を執行しなければなりません。

こんな主張を「仰せのまま」と言って平然と考える信仰者には徹底して挙証義務の履行を訴えるしかありません。しかし、それでも彼らは権威服従という代理状態ですから、その心理効果として「責任感の喪失」状態に陥っています。そのために挙証義務の履行などどこ吹く風で無責任な布教の強行は繰り返されるのでしょう。信仰責任を徹底的に考える必要性を強く感じる次第です。

42犀角独歩:2003/07/22(火) 13:50

―41からつづく―

> 信仰に帰依できない人を国権…死刑に処する…タリバンと同じ問題政権…この教えを世界に広める布教義務が国民に課…私としては命懸けで亡命するしかありません。
> …果たしてこの教えが人々の恒久平和に本当に通じるもの…実に疑わしくなってきます。

まさに中世の暗黒時代と同じです。魔女狩りと科学の否定、「絶対平和」「絶対幸福」という看板を掲げる恐怖政治の台頭です。ナチズムや、『1984年』より、もっとひどいことになってしまいますね。

> 戒壇本尊の不思議な霊力によって、日本が仏国土となるという建前…そうならなかったとき…教団…布教者…国家と国民に責任をとるものなのでしょうか。詐欺罪程度すまされることではないでしょう。

これはたしかに憲法改正後、国立戒壇が実施されれた段階での責任問題です。
しかし、現時点でも「戒壇之大御本尊」を真偽調査もしないで「本物である」といい、また「700年生きている肉がある」などといって、「信じないと罰が当たる」「信じればいいことがある」と言った段階で、わたしは詐欺だと言いたくなります。詐欺が悪ければ、詐欺紛いとでもしましょうか。それ故の信仰責任の論考です。

> そういったこともよく考えた上で、信仰者は布教の言葉を考えていかなければならないといえるでしょうし、まさにそれも信仰責任だと思います。

まったくそのとおりであると考えます。

43犀角独歩:2003/07/22(火) 16:32

【37の訂正】

文末の以下の文を削除します。

「権威とは、狭い意味での純粋に政治的な現象ではない」という分析は
「権威とは、狭い意味での純粋に宗教的な現象ではない」と言い換えることができるでしょう。権威への服従、それがグループとメンバーをつなぐ、強固な粘着剤になっています。

44犀角独歩:2003/07/22(火) 21:40

【40の訂正】

誤)宗教上の生前権とは「地獄に行く人を勝手に決めるな」と言えば、わかりやすいでしょうか。善悪の基準を協議に諮る

正)宗教上の生存権とは「地獄に行く人を勝手に決めるな」と言えば、わかりやすいでしょうか。善悪の基準を教義に諮る

*その他、打ち間違えが散見できます。
 ご判読いただきたくお願いいたします。

45犀角独歩:2003/07/24(木) 13:54

ふと、自分のサイトを読み直してみたところ、いま議論していることについて、過去に記述していました。紹介しておきます。

国立戒壇論、憲法改正、信教の自由について
「現行法の許で」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/zakki_01.html#020715

精神的な虐待について
「スピリチュアル・アビューズという視点」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/zakki_01.html#020906


仏教再考−犀角独歩
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/zakki_01.html

46アネモネ:2003/07/25(金) 11:03
犀角独歩さん

>35より
>脅す信者自身が脅され、操作されています。

信仰者の信仰責任の中で、とりわけ一般信徒の信仰責任とは、この「脅す信者自身が脅されいている」ということを、信徒自身がどこまで客観的に認識できるか、ということに関わってくることかもしれませんね。

>自分たちは超法規的な存在であると思い込まされています。…教義は、その上に存在…

憲法における基本的人権の、その理念とは如何なるものかを研鑚し学ぶこともないまま、大見栄きって自分たちのほうが上だというその確信は、ほとんどハッタリではないかとさえ感じられるところです。
だからこそ、一般の人はほとんど相手にもしないのでしょうけれども、私などは耳にした以上、とても安閑としていられない気持ちになります。
もちろん仏法が憲法より観念上は上であっていいのです。そもそも憲法は絶対的なものではありません。たがらこそ改正できるようにその手続きまでも明記されているわけで、この先、時代とともに発展していく可能性を内在させているわけですね。
ところが憲法より上だとされる仏法とは、思い切って言うなれば、なんだかわからないけど、観念上は絶対的に完全なものであるという前提でその教義が成り立っているのではないでしょうか。
いまだ仏とならない人にとっては、この「なんだかわからないけど…」というところの自覚とか認識を持つべきではないかと思われます。それはたとえ先生といえども、猊下といえども、仏に成らなければわからない。そう言っていいはずです。ところが実際は、まるで戦前の天皇が「現人神」としてそのまま神格化されていたように、猊下や先生がそのまま仏として神格化されている状態といえるわけですね。発する言葉は、そのまま仏の言葉と拝して絶対的優位性を持ち、逆に拝せない人のことを「謗法」のレッテルでもって蔑視するわけですね。
しかし、実際に彼らの発する言葉や姿勢ひとつを聞くだけで、人権感覚の低さは露呈しているわけです。それが仏でない存在を仏と錯覚している現実的証拠といえるのではないでしょうか。

仏法を持っているから正しい。信じてるから優位にある。唱えてれば世の中が変わる。このような短絡的な発想や思考パターンが、いかに愚かしいものかを如実に示していると思います。

基本的人権を無視して、自分たちはその上の存在であると単に豪語することはたやすいことです。しかし、現実的な実践的思想や行動が見受けられなければ、それはただのハッタリに過ぎないとみなされます。本当に自分たちが正法の実践者であろうとするならば、憲法で示す基本的人権の理念以上の理念を示してしかるべきです。それは、成果主義一辺倒の組織拡大を目的とする布教などで示せるものではなく、その信仰をする人がどのような人間性や思想性を持ち、そしてどのような社会的行動にかえられるかといったことで、社会的に高い信頼と尊敬を得るものといえるのではないかと思います。
むしろ、そのようなことこそ本来的な布教(演説)ではないかと、私は思うのです。
ところがそのような布教(演説)が脅迫的な折伏(布教)活動に摩り替えられてしまっている点は、「脅す信者自身が脅されいている」ことに関係しているように思われ、特に次の(2)の項目で注目していきたいと考えます。

>信者自身…虐待を受けている被害者でありながら、…今度は人権侵害の加害者となっていきます。

この構造の認識はとても重要ですね。虐待の連鎖という一面が見受けられます。

47アネモネ:2003/07/25(金) 11:03
(つづき)
>存在する権利がない第二の部類に入れられた者は、心理的に内面の死滅または崩壊というすさまじい恐怖を経験する。しかし逆に受け入れられた場合には、自己をエリートの仲間と感じる大きな満足感がある…(『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版 P377)

ニューヨーク世界貿易センタービルの被害者遺族の中から、アフガン侵攻に対して反対の立場を示した人々がいたことが特集番組として報道されていました。彼らの言論は、報復一色のアメリカ社会で「非国民」というレッテルで反発され、不当な言論弾圧を受けてきたとのことでした。この「非国民」というレッテル行為は、独歩さんがここに示してくださった内容を非常に象徴的に示していると思われます。全く同じことが石山系の中でもありますね。「謗法」「退転者」「邪宗」「邪教」「外道」…全て言い放つ言葉の真意は「非国民」と同じ「存在する権利がない」という排他精神といえるものと思われます。
恐らく他を強く排斥していくことで、逆に自分の存在価値を示そうという心理なのではないでしょうか。憎悪を増して他を強く排斥するほどに、組織内では歓迎され自分の存在価値が確保されていくものなのでしょう。
しかもそれは、常に誰かを攻撃し排斥していないと自分の存在価値が見失われてしまうことも意味しているといえるでしょう。ただし、それは組織内だけの自己の存在を保障するものですね。その人の真の存在とは、組織を離れて個の人間になったときに、真に問われるものかと思われます。

>「まったくわかっていない」というより、人権を意識していないと見受けるわけです。

そもそも、日本の仏教が差別を助長してきた歴史がありますから、尚更かもしれませんね。しかし、次の項目に関係するところですが、本来の仏教はキリスト教から生まれた今日の人権思想に決して劣るものではないはずだと思っています。
問答さんが指摘されていたことですが、

>「我義破られずば、用いじ」と述べましたが、「我義」はその根本から破られてしまった

ということからも、
(2)僧侶の法話が、信徒の折伏推進が中心となっていて、法華経も仏教もほとんど説かれていないということ。
における信仰責任にも関わってくるところといえるでしょう。説かれる以前の問題で、研究・研鑚を怠っているのではないかとさえ思われるところです。
もしも研鑚していながら、それをきちんと信徒に伝えないまま、それまでの教義が絶対だと指導しているとなれば、それこそ完全なる詐欺が立証されるところではないかと思います。

>「虐待は連鎖する」という性格を有します。…信仰の現場では信じる強者が、信じない弱者を虐待します。

「虐待の連鎖」はひとつのキーワードですね。
次の項目になりますが、僧侶の法話が、信徒の折伏推進が中心となっていることに問題があると思われるわけですが、そこに最初の宗教的虐待があるといえるのではないでしょうか。

>ファンダメンタリストであれば、徹底した原理主義を貫徹しようとしますから、彼らが国を牛耳ることになれば、そんな施行は避けがたいことになるでしょう。

余談になりますが、法華経が成立した地域は、恐らくアフガニスタンの辺りであっただろうというお話を、昨年のオフ会の場ではじめて知りました。今でこそアフガニスタンはイスラム教信仰圏となっており、狂信的原理主義政権のタリバン兵士の姿が思い起こされます。バーミアンの遺跡を破壊したり、改宗者を死刑にしたりといった徹底した原理主義の姿は記憶に新しいわけですが、彼らの祖先が法華経の創作者であるとは言い切れないまでも、何かオーバーラップするものを感じてしまいます。

48アネモネ:2003/07/25(金) 11:04
(つづき)
>この見極めの鍵は「憎悪」による操作ということです。何らかの信念体系が仮想の敵を設定し、信者にその対象を憎悪させることによって操作している現実があるとき、その団体は間違いなく危険な団体です。

憎悪の操作というのも、ひとつもキーワードといえますね。

>人権侵害を引き起こす心理要因を説明する社会心理学の分析を紹介したいと思います。
・『服従の心理』(河出書房新社)からの抜粋です

ありがとうございます。非常に参考になります。
私は、児童心理学を少し学んだ程度での知識しか持ち合わせていないのですが、宗教と心理学というのは、ともて密接な関係があるようですね。

>信者は宗教的権威を設定するわけです。そして、疑うことのない信を立てます。
それを美徳ととらえます。その自分の在り方を信仰行為であると判断します。

日本人は特に、儒教の影響もあって「忠誠」とか「忠義」ということが好きですから、一層、「信」を美徳ととらえるのかもしれませんね。ただし、実際の武家社会での忠誠や忠義とは、主君と家臣の間できちんとした扶持における契約関係の上で成り立っていたものといわれていますね。ですから実際の関係はもっとシビアで合理的なものだったといえるでしょう。
ところが、信仰世界に忠誠概念を持ち込まれたときには、組織側に都合の良い解釈がなされ、巧みに利用され操作されているのが現実の組織の姿といえるかもしれません。

>富士門信徒に見られるような信伏という宗教的服従の心理は、…人間が本来持っている「権威への服従」という…あとは心理要因によって突き動いているのに過ぎない…

自己陶酔させられているといっていいものでしょうね。
「権威への服従」もひとつのキーワードになりそうですね。
それらを巧みに心理操作するように教義解釈が指導とされているといえるでしょうか。

>たとえば日蓮本仏論という権威から与えられた思考の海に漂うとき、…このような信念体系を権威に借りてしまうことをミルグラムは、“代理状態”と規定しています。

考えてもみれば、日蓮本仏論は、究極のつくられた権威と感じられますね。富士門での議論において意識が変革されてきたことが、非常に懐かしく思われます。
そして今となっては、ただの観念論に過ぎないものだったと振り返ります。それがたとえ久遠の釈尊であっても、また、キリスト教の絶対神であっても同じ。いずれも人間が観念の世界でつくった権威的存在なのだと思うようになりました。

>「入信した信者は個人は、自分自身を自分の人生の目的のために行動しているのではなく、日蓮大聖人の要望を実行している代理人、すなわち如来の使いと見なすようになる…信者が自分自身を日蓮大聖人、猊下、あるいは先生の要望を遂行する代理人と見なしている状態である」

主体性も自主性もない信仰活動という点は見逃せませんね。自己責任をまるで放棄しているということがいえるでしょう。
かけがえのないたった一人の自分として生まれたその一生を、誰かの代理人として生きることほど無意味な人生はないはずです。本来の仏道とは、今日的な言葉でいえば自己実現を目的とするものなのではないかと思われます。しかし、いつしかその自己実現が誰かの代理人として生きることに摩り替えられてしまっているとしたら、仏道の成就などできるはずもないのではないでしょうか。この辺りのことも、やはり次の(2)の項目で深く考えてみたいと思います。

49アネモネ:2003/07/25(金) 11:05
(つづき)
>判断の是非を自分ではなく、他の人の言葉に置き換えてしまう心理構造、E・フロムはこれを権威主義的パーソナリティ(人格)と言い、その特徴を二極思考であると分析するわけです。多くの社会学者が研究し、カルト問題に携わる人が基礎理論とする点です。

なるほど。二極思考というのは、まさに権威主義的パーソナリティの特徴だったわけですね。

>【責任感の喪失】
>事実関係も確認せず、組織・指導者が打ち出しを鵜呑みにして人を勧誘する行為は無責任というほかありません。

私もそのように思います。
自分が信じて人生を棒に振るのはまだいいでしょう、しかし、妄想や幻想、もしくは単なる思い込みかもしれないことでもって、他人の人生を左右することには、どこまでも慎重であるべきです。どんなに強い確信であっても、妄想や幻想の可能性も考慮せず、ただ確信を絶対のものと酔いしれ豪語することが、人の人生をいたずらに左右してしまうことであり、それがいかに無責任な行いであるかということを、信徒ひとりひとりが一度は考えてみるべきだといえるでしょう。

>勧誘者の心理的健全さ、ひいて言えば信念体系集団の健全さの尺度は、まさに「信仰責任」あるというのがわたしの主張したい点です。

仰る通りだと、私も同様に思います。

>政教分離された教義とは言え、違憲団体として、衆目の批判も買うのは当然のことであると思うのです。

政治は国家を統治する国権そのものですから、厳密には、政治と社会は全くのイコールではないと考えられますね。政治という国権が、教義内容に不介入だとしても、国権そのものとはいえない国民は、その教義を自由に批判する権利はあるでしょう。これも言論の自由ということになるかと思われます。
また宗教の側も、そのような社会的批判を受けることによって、組織の社会的健全化が図られていくものですし、これは宗教だけに限ったことではなく、政治もしかり、経済もしかり、教育もしかり、全て社会的批判にさらされながら改革・改善され、時代とともに発展していく側面がありますね。それが民主主義の姿なのだと思います。
もちろん宗教は民主的に評価されるものではありませんが、しかし宗教組織のあり方となると話は別で、民主的に論じられてしかるべきだと思います。そうでなければ反社会的な思想行動を看過していくことになり、やがてそれが社会の秩序を乱す存在となったときには、オウムのときにも問題になったように、破防法の適用という国家権力による存在抹消という政治的手段が講じられることにもなりかねません。それこそ政教分離の精神に反する人権の後退という状況にもなっていくわけですね。ですから、そのようなことにならないためにも教団の社会的健全化はできるだけ民主的に求められ、できれば教団組織自らの自浄作用によって図られることが望ましいといえると思います。

しかしどこまでも批判を許さない権威的存在は、自己反省といった自浄作用が働きにくく、やがては自ら腐敗を招いていくものと思われます。そのあたりのことは、
(3)僧侶も信徒も、この信仰を絶対のものと確信しているため、何があっても限界も反省も認めないこと。
にも関わってくることになるといえるでしょう。

50アネモネ:2003/07/25(金) 11:05
(つづき)
>つまり、法=人、富士門信徒の大好きな人法一箇という同等視が人に対する帰依を実現させることになっていたわけです。

この考え方は要するに、「私が法である」という専制君主的発想につながっていきそうな発想ですね。事実、教団内で指導されてきた「信伏随従」とは、そのようなものだったと思い返されます。

>しかし、これは人間の心理構造にある権威への服従による代理状態であったことを否定できません。そこでは集団・指導者にすべての善があり、悪はそれを認めない、あるいは批判する他者にあるという二極思考に基づいてもいました。

二極思考という思考とは、実質的には思考停止を意味するものではないかと思ってしまいますね。権威へ責任を委ねて自分は何も考えない。それが悲しいかな、正宗系信仰者の姿なのかもしれません。一般信徒は教団のトップや板曼荼羅に責任を委ね、教団のトップは教祖である日蓮を本仏に据えて責任を委ねているといっていいでしょうか。本仏は実存とは言い切れないどこまでも観念的存在ですから、ある意味で「責任感の喪失」の発露といえるかもしれません。

>人に「本物である」と言う段階で、勧誘者はその事実検証結果を呈示する義務を負います。

確信に基づく信仰の無責任さを気づいてもらうには、それが最も早道の有効手段といえるでしょうね。

>彼らは権威服従という代理状態ですから、その心理効果として「責任感の喪失」状態に陥っています。そのために挙証義務の履行などどこ吹く風で無責任な布教の強行は繰り返されるのでしょう。信仰責任を徹底的に考える必要性を強く感じる次第です。

自分の思いに酔っている姿に思われますね。本仏と信じる自分がこの上なく愛しい…そんな感じ、いわば自己満足や自己陶酔といったところではないでしょうか。ところが信じる日蓮の実像をどこまで認知するかということになると、案外と目を背けるわけですね。
結局、妄想か夢想か幻想、思い込みか願望に過ぎないかもしれないと言わざるを得ません。そして、そのようなことを信じないと地獄に落ちると布教させられているのが、一般信徒ですね。
人権侵害を侵してまで、脅迫まがいな言葉で布教をしながら自己陶酔している一般信徒が、果たしてどこまで仏教の本義をわかっているのかということが、次に問題になってくるかと思います。
その目安となるところは、結局、教団における指導内容ではないかと思われます。
私の過去8年間の組織体験での説法や法話では、法華経はおろか仏教についてさえも、もっといえば日蓮教義も、ほとんど教えて頂くことがなかったように思い返されるところなのです。せいぜい、教団の刊行物を通して独学に努める程度ですが、それをもって正しい日蓮教義や法華経や仏教を学んできたといえるものなのかどうか、とても怪しい思いがいたしております。
わずか8年をもって、教団の本質全てを語れるものではないかもしれませんが、しかし思い返すほどに釈然としないのです。

51アネモネ:2003/07/25(金) 11:06
問答迷人さん
レスありがとうございます。

>33
>蓮師は、開目抄において、「我義破られずば、用いじ」と述べましたが、「我義」はその根本から破られてしまったわけです。蓮師の正統の後継者を主張する日蓮正宗法主は、先ずこの事を説明しなければならない。それが出来なければ、蓮師の信仰を広める資格が無いことを指摘しておきたいと思います。

大変、重要なご指摘ですね。
私は今回、最初にこのスレッドの冒頭で3つの項目をあげまして、その一番目に「専門的な仏道修行をしていない信徒が、成果主義に基づく布教活動の担い手になっている」としましてレスを続けてきました。
言葉の表現は必ずしも適切なものではありませんが、この「専門的な仏道修行」という観点において、僧侶と一般信徒は、根本的なところで大きく違っていることがあるはずだという思いを抱き、富士門の掲示板参加当時から常々考えてきたことでした。特に指導されてきたことにおける私の中での大きな疑問としては、「僧俗一致」と「信伏随従」だったと思い出されます。富士門の掲示板でも角度を変えて様々に議論をしてきたことが思い出されます。

この「専門的な仏道修行」という言い回しについては、独歩さんが>6で、

>この場合、信行学の中では「学」の重となりましょうか。しかし、この学が如何に進んでも、その信憑性はさらに問われることになります。

と記してくださいました。
僧俗一致とはいっても、つまり同じ信仰者といえども、僧侶と一般信徒では「学」における責任の重さは自ずと違ってくるものかもしれません。だからこそ信徒は布教に対して慎重であってほしいと思われますね。たとえどんなに強く上から言われようとも、自ら律して慎重であるべきだと思うところです。そこが一般信徒の基本的な信仰責任であろうと思われます。

信徒はいかに無知なまま布教をしているか。このことは非常に重大なことですね。
宗教に救いを求めるということは、ただでさえ冷静な思考判断の出来ない心の狭い状態にあるのではないかと思われます。その迷いが、病気であれ経済的なものであれ、もしくは思想的なものであれ、その他どんなものであれ、いずれにしても心や思考に余裕がないということでは変わりはないと思われます。
当然、社会的視野も狭くなっているわけですから、所属した組織が、社会の中においてどのような所に位置しているものかを、客観的に観る余裕もないわけです。そこへもってきてさらに、仏教そのものも大局的に全体をみることが出来ないわけですから、自分の所属する宗教組織の社会的存在の位置もわからず、宗教的な立場も理解できず、また仏教全体の中の位置すらわからないまま、ただこれが最高の絶対的な教えと高見から布教するようになっているわけですね。また、謗法厳戒ということで、外からの情報も遮断するよう心理的に操作もされているわけですから、ますます知識や視野は自ずと偏っていくものといえるでしょう。

52アネモネ:2003/07/25(金) 11:06
(つづき)
そもそも僧侶は基礎教学として体系的に仏教を学ぶことから修行が始まることが想像されます。しかし一方の一般信徒の場合は、自らの救いを求めて入信する人が大半のはずです。仮に毎日のように寺院に参詣したとしても、僧侶のように体系的に仏教を学ぶ機会があるわけではありません。仮にそのようなことを独学で始めるとなれば、まさに出家同然の生活を余儀なくされてしまうものといえるものでしょう。
そのようなことを考えても、僧侶と信徒では、仏道における初心の志からして大きく違うはずのものだと私は考えてきました。
しかし現実問題として、成果主義的に布教の責務を負わされている一般信徒の仏道の初心は、自らの救いに始まっているわけですね。このことについては決して責められることではありません。ですが、その為に学ぶ「学」は、往々にして雑然と偏った知識体系にならざるを得ないのは避けられないものです。その雑然とした知識による仏教理解でもって社会に布教をしているのですから、考えても見れば恐ろしいことだと思われます。

私自身の過去8年間の組織信仰を振り返ってみて、特に印象に残る言葉として思い出されるあるお寺の住職の言葉です。
「この信心は折伏をしてはじめて解かるのです。この仏法が解かりたければ折伏をしなければならないのです」
この言葉は入信間もない、ある信徒の方の体験発表中に示された言葉だったわけですが、体系的「学」の至らない信徒に対して折伏を恫喝する実態を如実に物語る内容だったものと思い出されます。そのお寺は全国でも折伏達成率の非常に優れたお寺で有名でしたが、このように仏教について、右も左もわからない内から布教の責務を徐々に負わされ、遂には俄かに植え付けられた「正しい」という確信だけでもって人に語らなければならない状況に追い込まれるわけですね。
「学」の裏付けのない単なる「確信」からの誘い込みは、「地獄に落ちる」という脅しでしか語れないものになるのも当然といえるでしょう。
独歩さんとの議論の中でも概ね共感できたことですが、根拠の示せない確信は妄想の危険ありということを考える必要があると思います。人に語るときには特にその点を心得るべきではないでしょうか。

体系的な仏教学の知識のない信徒に、布教の責務を全面的に担わせる僧侶の責任は重大です。なおかつ、これは次の項目にも関わってくることですが、
(2) 僧侶の法話が、信徒の折伏推進が中心となっていて、法華経も仏教もほとんど説かれていないということ。
では、真に正しい仏教とはいかなるものかということにも関わってくるでしょう。
「真に正しい仏教とはいかなるものか」という視点こそ、蓮師の仏道者としてのお立場だったはずですね。
問答さんがご指摘されたところは、そのような蓮師の、志の原点からいっても大きく逸脱したものといえることができるでしょう。何十万人もの信徒が正しい仏道が成就できるか否かに関わることですので、その責任は非常に重大といえますね。

53アネモネ:2003/07/25(金) 11:07
信徒における信仰責任について「責任感の喪失」という実態が浮き上がってきたといえると思います。まず(1)についてのまとめを項目的に記しておきたいと思います。

・「地獄に落ちる」と脅して布教する信者自身が、実は脅され操作されている。
・脅されている操作こそまさに虐待である。
・虐待は強者から弱者へという流れで、限りなく連鎖していく。
・虐待を煽る背景に、憎悪の心理操作がある。
・自分たちは選ばれた特別な人間とされている心理操作がある。
・人間には権威への服従という心理を持っている。
・権威主義的パーソナリティ(人格)は二極思考を特徴としている。
・個々の信徒は、信念体系を権威に借りてしまう“代理状態”にある。

このような特性の中で、信徒は視野を狭め社会性を失い、知らず知らずに人権侵害に抵触するような言動をしてきているものといえるのではないでしょうか。
(1)の項目では、布教する信徒の社会性と責任の欠如、その背景が浮き彫りになったと思われます。
できれば、そのことに対する信徒の自己責任についても明確に考えてみたいところですが、その前にそのような信徒が、教団でどのような指導を受けているのかという、いわば教団の信仰責任について検証していく『(2)僧侶の法話が、信徒の折伏推進が中心となっていて、法華経も仏教もほとんど説かれていないということ』の方向で、レスを頂ければと思います。

54犀角独歩:2003/07/25(金) 13:25

アネモネさんのレスをいただいて、ようやくと次のテーマへと議論が展開できます。次に問答さんが33でご指摘くださった点も次に議論できますね。

(1)について、もう少し補足したいところがあります。追ってレスをさせていただく所存ですが、まずは『服従の心理』のなかでミルグラムが紹介しているエール大学・ローレンス・コールバーグ師の言葉を補足的に紹介します。

「個人は成熟してゆくにつれ、いくつかの道徳判断の段階を経てゆく…服従をつづけた者よりも決裂した者の方が高い水準の道徳判断に達していることを発見した」(同 P266)

そして、ミルグラム師は言います。

「今世紀の社会心理学は一つの大きな教訓を明らかにしている。個人がどうふるまうかを決定するのは、彼がどんな種類の人間かというよりはむしろ、彼がどんな種類の状況におかれているかということなのである」(同 P267)

以上、箴言は二人の学者の言であるというより、科学的実験によって証明された人間心理である点を読み違えてはならないと付言することにします。

55犀角独歩:2003/07/29(火) 11:50

(1)について、アネモネさんにまとめていただき、一つの議論の成果を感じております。その後、しばらく時間が空いてしまったので、やや予告的な意味合いを以て、端的に記します。

(1)の議論において、あと2点に亘り補足したいと思っています。
一つは転法輪、転教、折伏、布教、演説、そして勧誘の違いについて考えてみたいと思います。
もう一つは信者の信仰によって得られる快楽的要素、そのなかでは勧誘行為が信者にどのような影響を及ぼすものであるか、これもまた、社会心理学的な成果を踏まえて考えてみたいと思います。

以上、2点を記したのち、再度、アネモネさん、問答さんからご意見を頂戴し「(1)専門的な仏道修行をしていない信徒が、成果主義に基づく布教活動の担い手になっているということ」における問題点を整理いただければと希望します。

56アネモネ:2003/07/29(火) 12:04
>55
了解です。
よろしくお願いいたします。

57問答迷人:2003/07/29(火) 14:23

>55
了解です。よろしくお願いいたします。

58犀角独歩:2003/07/31(木) 14:16

アネモネさんが第一に挙げたテーマである「専門的な仏道修行をしていない信徒が、成果主義に基づく布教活動の担い手になっている」点について、専門的な仏道主義、成果主義、布教活動という三つの要素が含まれていようかと思います。

このテーマの守護は「布教活動」ですが、では、ここでいう“布教”とはいったい何であるのか、その定義が望まれることになります。

富士門全般では、通常「折伏」と言い慣らされるところです。この語彙の使用の仕方に対する疑義は、既に24に記しました。もう一度、再掲します。

※ 24からの転載 ※

折伏を考えるうえで『開目抄下』はその主要をなすことになります。文中8回も「折伏」語が使用されているからです。ここでまず折伏の論拠とされるのは妙楽師の『止觀輔行傳弘決』を引用しています。

「大経に刀杖刀杖を執持すとは、第三に云はく、正法を護る者は五戒を受けず、威儀を修さないのです。乃至下の文、仙予国王等の文、又、新医、乳を禁じて云はく、若し更に為すこと有れば、当に其の首を断つべし。是くの如き等の文、並びに是破法の人を折伏するなり」
(大經執持刀仗等者 第三云 善男子 護正法者不受五戒不修威儀 … 乃至下文仙豫國王等文 又新醫禁乳云 若有更爲當斷其首 如是等文並是折伏破法之人)

※ 転載 終わり ※

以上の如くで、蓮師の折伏とは在家為政者が僧侶を折り伏せる手段として、最終的には首を刎ねる(斷其首)ことを意味していることが窺われます。その後も度々、念仏者の斬首を主張するのですが、これが蓮師における具体的な折伏を意味したものであることが知れます。念仏者斬首=折伏ということです。

以上の如くですから、蓮師までの「折伏」の用法は布教を直接、意味するものでないと考えられます。では、布教に類する語彙はないのかとなりますが、これは「流布」がこれに当たると思えます。いわゆる広宣流布の「流布」です。また「説」、あるいは「転教」という語彙が妙法華に窺えます。

富士門では下種仏法というドグマを形成することから、折伏が直ちに下種を意味するように使われますが、「折伏」の誤謬からして、二重の用法の誤りと言えようかと思います。
しかしながら、説、流布、転教に基づく結縁の結果を「下種」という用法は随所に見られます。説は演説、説法等の用法となっていますが、通常は仏、ならびに弟子が法を説くという用法と見るほうが至当と思えます。流布は能化・所化に跨ります。もちろん、転法輪といえば仏の説法に限られる用法となるのでしょう。

それに対して、転教は信者側の流布を意味するように思えます。私は、この転教という言葉に着目しています。言わずとしれた五十転展の随喜に使われる語彙です。聞法随喜の福徳を述べる段です。

さて、以上のような仏とその教えを弘めることを弘教などとも言いますが、この用法は真跡には見られません。妙法華にも見られません。「弘通」は真跡、あるいは『涅槃経』に見られるようです。

以上、それぞれの用法を見ましたが、元来、それぞれ、意味は異なるのであって、それを同様の意味として使用することは乱暴であるとわたしは思います。

しかし、それらを引っくるめて「布教」というのが現代的な用法であるのは事実であるかと思います。ただし、わたしは現代の各団体の、信徒会員確保の仕方を布教であるとは到底思えません。

石山・末寺では寺院において受戒(漫荼羅本尊下付)を以て信徒とします。
創価学会では入会届と漫荼羅本尊授与、顕正会では本部勤行で入会届で会員と数える如くです。このような事務手続きが布教とカテゴライズされる転教、流布、弘通、下種などと言えるのか、というのがわたしの疑問です。

これらの事務手続きを以て信徒会員とする方法は、単なる勧誘としか映じません。
布教と勧誘は意を異にする、そして、富士門全般の信徒会員の獲得は、布教というより、勧誘として意味合いが強いとしか見えない点をわたしは特に強調したいわけです。これが補足の一つです。

59犀角独歩:2003/07/31(木) 14:19

【58の訂正】

誤)このテーマの守護は
正)このテーマの主語は

60犀角独歩:2003/07/31(木) 15:31

もう一つ。団体の如何を問わず、勧誘行為は美徳として奨励されるわけですが、これは団体利益と勢力に直接跳ね返るものであって、ここに宗教的な意義をわたしは見ません。宗教に名を借りた商行為、あるいは営利追求行為であると見えます。

このような集団利益のために“信者と言われる”人々が使役にかり出されるとき、しかし、その功利性は集団利益から上手くかわされて、個人の利益で説明されます。いわゆる「折伏すると功徳がある」などと言われるところです。

先に提示した点ですが、宗教権威に操られる人々は、代理状態にあるために、責任感は喪失しています。この状態で権威の言うがままに行動することが美徳と操作されていきます。この権威は重層性を持っています。根本的な権威は仏・法ですが、その実証者としての代理人、富士門で言えば蓮師が最高の権威として置かれ、その権威を継承する権威を唯一一人(石山住職、あるいは会長)として、唯一一つ(板漫荼羅)と絞り込むことによってファンダメンタリズムを決定づけています。

アネモネさんは「専門的な仏道修行」を勧誘の条件の如く表現されましたが、この場合、勧誘責任としての説明義務を追及する姿勢がそこに窺われます。この点についてはわたしは同意見なのですが、しかし、実際のところ、教団が仏道修行というものは“権威に対する粘着剤”以上の意味を持つことはありません。仏道修行が深まれば、さらに権威の代理状態が進むという心理効果がそこにあるわけです。なんとも皮肉な話です。

しかし、もちろん、学という側面のみで見ても、挙証義務を徹底して履行しようと思う信者があれば、いつしか挫折することになります。わたしの如くです。しかし、この挫折は虚偽への挫折ですから、喜ぶべきことでした。

さて、補足の本題に入ります。「快楽的要素…勧誘行為…信者…影響…社会心理学的な成果」から考えてみたいと思います。

勧誘行為について、ハッサン氏は次のように書いています。
まず、勧誘について、

「破壊的カルトの勧誘者はほとんど、自分たちがそもそも勧誘をしているのだということを否定する」(『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版 P185)

そして、その単なる勧誘に宗教的な意義付けを持たせることによって、勧誘行為に駆り立てることによって、さらにその心理操作の度合いを増します。

「社会心理学の研究が示したところによれば、自己の信念を他人へ売り込む努力ほど、その人の信念を固めるものはない。新メンバーにそれをさせることが、カルトの人格を急速に結晶させるのである」(同 P137)

すなわち信念体系を人に語る最大の効果はカルト人格を急速に結晶させることであるという点が重要です。これは社会心理学の用語・コミットメントで説明されるところであろうと思います。

しかし、これらの勧誘行為は「折伏・弘教」という宗教的美徳語によって表現して虚飾が施されています。会員はグループ、リーダーの奴隷となって集団利益のために使役されているだけなのですが、各人はそうは思っていません。例えば、ハッサン氏は自分の経験を

「私は神に『選ばれた』のであり、私の人生行路は今やそのただひとつの『真の道』にあるのだという思いで、私の心は高ぶった」(同 P47)

と述懐しています。これを富士門信仰で言い換えれば

「私は日蓮本仏に『選ばれた』のであり、私の人生行路は今やそのただひとつの『真の道』にあるのだという思いで、私の心は高ぶった」

となるでしょう。
さらに彼の述懐は続きます。

「ここで与えられたエリート的地位のため、私は特別なものだという気持ちになった…地上における神(仏と言い換えられます)の代理者としての承認を受けた(と信じていた)…自分がしていることは宇宙的意義をもっているのだという、あの興奮した感情が懐かしかった。ひたむきさが生みだす、あの力強い感覚が懐かしかった」

わたしは、自分が地涌の流類として特別の生を営んでいるとたしかに思っていました。その意味において、ハッサン氏が統一協会のメンバーとして感じたエリート意識を、神と仏という権威の差こそあれ、感じていました。これはまさに快楽的な要素であるといえるでしょう。

このような勧誘に駆り立てられるエリート意識…信・不信による差別思想と言ってよいとわたしは考えています…下にあるメンバーを総合的に分析しています。

61犀角独歩:2003/07/31(木) 15:32

―60からつづく―

「メンバーたちは、人類のエリート部隊の仲間だという感じをもたされる。自分たちは特別なのであり、献身的な前衛隊となって、人類史上もっとも重要な行動に参加しているのだというこの気持ちこそ、彼らの自己犠牲と重労働を続けさせる情緒的接着剤である。一つの共同体として、彼らは人類を暗黒から新時代へと導くため(神や歴史や超自然的な力によって)選ばれたのだと感じている。
カルトのメンバーたちは、強い使命感だけでなく、自分たちは歴史の中で特別な場所を占めているのだと強く意識している。自分たちの偉大さは永く後世に認められるのだ(のだと信じている)。
皮肉なことに、カルトのメンバーたちはおたがいに、ほかのカルト集団に入ったものを見下げている。すぐ、『あの人たちは、カルトに入っているのだ』とか『“彼らは”洗脳されている』とか認めてしまう。自分自身の状況から抜け出して、自分を客観的に眺めることができないのである。
エリート主義と運命の意識には、重い責任がともなう。もしその義務を完全に果たさないなら、彼らは全人類の期待に背くことになるのだと教えられる。
平会員たちは、先輩や勧誘されそうな人に対しては謙遜だが、外部者に対しては傲慢である。カルトのメンバーはしばしば、“いままでの人生のどんなときに感じたよりも”責任が重いのだと感じている。
世界が彼らの双肩にかかっているように感じて歩き廻る。カルトのメンバーに対して外部の人間が『カルトに入ることによって現実逃避や責任逃れをしてはだめだ』と言っても、何を言っているのか当人にはわからない」(同 P150)

勧誘行為は、以上のような快楽的要素、換言すれば「自分が特別な人間である」というエリート意識支えられています。

勧誘者には、高い評価と賞賛が下されますから、本人はさらに自分を特別視し、エリート意識はくすぐられることになります。勧誘の成功があたかも人間として最大の美徳であると錯覚し、それによって、自分が特別な人間であるという錯覚はさらに増長されていくことになります。しかし、勧誘はその集団の拡充を意味する以上の意味はなにもありません。日蓮を顕彰するように見えて、実際に尊敬を一身に集めるのはそのたった一人、正しく法を持(たも)っていると騙る本人が利益と尊敬を得ています。

このような麻薬構造が、集団利益とつながるとき、それは直ちに成果主義へと転落します。しかし、この成果主義は、集団と指導者の利益に直接跳ね返るばかりのものです。なにより、そこでは本来の権威である神仏、指導者に乗っ取られています。本来の教義は教団の都合で書き換えられています。神仏という権威にしたがっているつもりが、実のところは教団と指導者という入れ替わり成り代わった似非権威にすべてを奪われ去ってしまいます。
神仏とその教えにしたがっているはずが、実はその神仏とその教えを利用して利益を得る集団と指導者の奴隷になっているのに過ぎないというすり替えの心理技術こそ、ハッサン氏が“破壊的カルトマインド・コントロール”のテクニックと呼んだものでした。

グループ内の虚構の賞賛とエリート意識、その蜜に酔う姿は麻薬の中毒症状に似て等しいものですが、本人たちはその陶酔から「特別な人間」という虚構の自画像によって騙され続けていくわけです。そして、この自称選民の群れは、代理状態にある故に、自分が勧誘して進めていることの実否を自己責任において証明することもなく、実に無責任に見てきたような嘘を、確信を持って語り続けています。

各人の賞賛とエリート意識が本人の快楽であれば、教団と拡充と収入はその指導者の快楽となっているのでしょう。実に日蓮・仏教の名を騙る悪徳商法というほかありません。これはまさに布教などいう高尚な宗教行為などではなく、勧誘という商行為であるというべきものであると、わたしは訴えたいわけです。(1)のテーマに基づけば、信者会員という存在が集団・指導者に利益を与える存在であればこそ、その担い手になっているほかならないう点を論考に結論に加えていただきたいと思うわけです。

62犀角独歩:2003/07/31(木) 17:12

【58の訂正】

間抜けなことをしました。
24から間違ったまま転載してしまいました。
正確には以下のとおりです。

「大経に刀杖を執持すとは、第三に云はく、正法を護る者は五戒を受けず、威儀を修さず。乃至下の文、仙予国王等の文、又、新医、乳を禁じて云はく、若し更に為すこと有れば、当に其の首を断つべし。是くの如き等の文、並びに是破法の人を折伏するなり」

63モトミナ:2003/07/31(木) 20:59
はじめまして。モトミナと申します。今後ともよろしくお願いします。
何とも難しい題材を扱っておられるので、とても私には勉強になります。
まったくもって皆さんの御指摘される点は、当時活動家として必死になっていた自身の姿をくっきりと浮き彫りにされた思いがします。
そして現在に至っても未だに交流のある現役活動会員達との温度差を考えた時、彼等の行動原理が何によるものなのか、若干ながらも理解していきながら、進歩していきたいと思っております。

現在彼等はどのようなスタンスで自身の存在価値を見出しているのでしょうか。
独歩さんが指摘されているように、日蓮仏法を実践している者の多くは自らが何か特別な存在でありたい、という観念があるように私も見受けます。
こちらがどれだけ日蓮仏法に対して、或いは会に対しての問題点、疑問点を彼等に投げ掛けても、回答不能の事に疑問点を持つべき事を指摘したとて、頑なに拒みます。
勿論回答が用意できればそれを述べて抵抗しますし、返答不能となると”伝家の宝刀”の『信じる』という言葉に尽きて、返答の代替として乗り越えようとします。
私の場合、会員と会う席でも大抵はこのようなやり取りに終始してしまうのですが、先日幾度も私なりの問題点を指摘しているうちに、旧知の仲である会員の一人が、次のような事を言ってきました。
”では日蓮大聖人の仏法が嘘だとすると、いずれが本当の仏法か”と。また
”ではあなたにとってあなたの人生とは一体何なのですか。あなたの人生の真の目的とは何ですか”と。

私はこの彼の言葉を聞いて、結局はこれが彼等の行動原理なのだと感じました。
人生に目的を見出す・・・自身は人類史の中において、何の為に存在し、死滅していく必要性があるのか。
多感な青年期から実社会に適合していかなければならない生活を送る課程の中、大抵の人はやや自らの人生の限界、終点が見えてくるような感覚に陥り、そういった人達の中には、多く普通に生活している人と自身と区別して、”何か自分にはやるべき事があるのではないか。私は何かできるのではないか。”と自分の生を受けた存在意義を考えるのではないのでしょうか。
そして社会に貢献するあらゆる物事すら総括してしまって説き尽くされたかのような仏法の話に、いつしか”自分の存在価値”を見出し、更に人類史上とてつもない大事業を起こす一人物である、と刷り込まれていくのだと思います。
地涌説は勿論私達の会でも当然のように用いられ、全く自身の体内に受け入れてしまえば、空間的に大宇宙から、時間的に三世という巨大な時空間の中で、唯一価値を見出すならば、この現在の世しかないのだ、となり当然それまでほんのちっぽけな人生で終わる身であった我が身が、途轍もない巨大プロジェクトの大役を果たせる価値を有していた、となるわけですから、そこに人生の価値を見出してしまうのも頷けるのかもしれません。
だから、そういった自負を持つ彼等は仏法を知らない生活をしている者を見て心から蔑み、軽蔑し、自身を特別化することによって、納得し、己惚れているように思えます。
そして一般の人には理解されないのは”仏法が深い故、当然彼等が無智であるゆえ”と結論付け、あれこれ批難され用いられなければ”豚に真珠”の如く上から見下ろすような態度や行動に出ているように感じます。
そういった心理を持つ彼等にとっては、彼等なりの既に出ている結論に対して、あれこれ説いたところで、当方を頭から下に見下しているのですから用いる道理もないわけです。
まず彼らの上から見下ろして下の者を見るような、そういったスタンスこそ崩してこそ、問題解決の糸口が見える、と彼とのやり取りの中でふと思いました。

全くもってスレッドの意に沿わぬ不器用な発言、失礼いたしました。

64犀角独歩:2003/08/04(月) 16:21

○恐怖による操作

メンバーの誤ったエリート意識について、社会心理学の成果を紹介しましたので、その対極にある「恐怖」による操作についても補足しておきます。

以下、ハッサン師『マインド・コントロールの恐怖』(浅見定雄師訳・恒友出版)からの抜粋です。統一協会について、記したものであるのに、斯くも何故、ここまで類似するのか、今さらながら考えさせられます。

「<抜粋>
人々をコントロールしておくのに必要な道具は、罪責感と恐怖感である。なかでも罪責感は、集団への順応と追従を作り出すための、単独ではいちばん重要な感情的手段である。

・歴史的罪責感−−たとえば合衆国が広島に原爆を投下したという事実
・人格的罪責感−−たとえば『私は自分の潜在能力を生かしきれていない』といった考え
・過去の行動に対する罪責感−−たとえば『私は試験でカンニングをした』
・社会的罪責感−−たとえば『人々が餓死しようとしている』

恐怖感は、ふたつの仕方でカルトのメンバーを結束させるのに使われる。第一は、あなたを迫害する外部の敵を作りだすことである。(略)第二は、リーダーに見つかり懲罰されるという恐怖感である。自分の仕事を良くやらないと何が起きるか、という恐怖感は、大きな効果がある。
感情をとおしてだれかをコントロールをするためには、しばしば感情の定義をしなおさなければならない。たとえば幸福は、だれもが望む感情である。しかし、もし幸福とは神にいっそう近づくことだと定義され、そして神は(多くの宗教的なカルトがそうなのだが)いま不幸であられるだとすれば、その場合には、幸福である道は(神とともに)不幸になることである。だから幸福は、神にもっと近づくため苦しむことにある。このような観念はカルト的でない神進学の中にも見られる。しかしカルトでは、それが搾取とコントロールの道具になっている。
忠誠心と献身は、あらゆる感情のうちでいちばん高く評価されるものである。メンバーは、部外者に対して以外は、消極的な感情を抱いたり表現したりすることは許されない。メンバー決して、自分自身や自分に必要なことへ感情を向けず、いつもグループのことを考え、不平は絶対に言わないように教わる。彼らは決してリーダーを批判してはいけない。代わりに自分自身を批判すべきである(と教わる)。
カルトのメンバーは、ある瞬間ほめられたかと思うと、次の瞬間にはののしられて、心のバランスを失った状態におかれる。
過去の罪や過去の謝った態度を告白させることもまた、感情のコントロールの強力なしかけである。
感情のコントロールのいちばん強力な技術は、(第三章でふれた)恐怖症の教え込みである。カルトからの離脱を考えるだけで、人々は、発汗、激しい動悸、離脱の可能性を回避したいという強烈な欲求といったパニック反応を起こさずにはいられなくなる。離脱すれば暗黒の恐怖におそわれ、 なすすべもなく滅びる−−つまり発狂する、殺される、麻薬中毒になる、自殺する、などと教わる。講義と非公式なヒソヒソ声の噂話の両方で、そのような事例の実話が絶えず語られる。教え込みをされてしまったカルトのメンバーにとって、グループの外で安全を確保できると感じることは、ほとんど不可能に近い」(P121)


「恐怖症が、カルトグループやマインドコントロールとどんな関係があるのか。あるカルトではメンバーは、そもそもグループを離脱すること自体について、組織的に恐怖症にされている。今日のカルトは、メンバーの無意識の心の中に生々しい否定的なイメージを植え込み、メンバーがグループの外でしあわせだったりうまくやっていけると考えることをさえ不可能にしてしまうような、効果的な方法を心得ている。否定的なイメージを無意識に受け入れるように仕組めば、無意識はそれらのイメージがまるで真実であるかのように反応する。(略)彼らはやめたいという自分の願望にさえ気づいていない。自分はこのグループでこんなにしあわせなのだから、やめようなどと思うはずがないと考えている。このような人々は、グループをやめたあとの自分について、好ましいイメージを抱くことができないのである」(P89)

65犀角独歩:2003/08/04(月) 16:21

―64からつづく―

「カルトの恐怖症も人々の選択の自由を奪う。メンバーは、グループの安全圏を離れると自分は破滅してしまうのだと本気で信じる。自分が霊的、知的、情緒的に成長する道はほかにないと考える。このマインド・コントロールの手法によって、彼らは事実上奴隷にされてしまっているのである」(P92)

「感情のコントロールのいちばん強力な技術は、(第三章でふれた)恐怖症の教え込みである。カルトからの離脱を考えるだけで、人々は、発汗、激しい動悸、離脱の可能性を回避したいという強烈な欲求といったパニック反応を起こさずにはいられなくなる。離脱すれば暗黒の恐怖におそわれ、なすすべもなく滅びる−−つまり発狂する、殺される、麻薬中毒になる、自殺する、などと教わる。講義と非公式なヒソヒソ声の噂話の両方で、そのような事例の実話が絶えず語られる。教え込みをされてしまったカルトのメンバーにとって、グループの外で安全を確保できると感じることは、ほとんど不可能に近い」(P124)

「私が出会ったどの破壊的カルトでも、恐れが大きな動機づけとなっている」(P155)

「カルトでの生活は、ジェットコースターに乗っているようなものである。メンバーは、内部のエリートといっしょに『真理』を体験したという極端な幸福感と、自分を押し潰すような重い罪と恐れと恥の感情との間を上下に揺れる。問題はいつも“自分の”至らなさであり、グループの責任ではない。彼は基準を満たしていないことに絶えず罪を感じる。(略)こういう極端な揺れは、人間の活動能力に大きな犠牲を強いる。『昂揚』しているときは、メンバーはその熱情を大きな生産性と説得力に転換させることができる。しかしつぶれたときには、まったく活動できなくなってしまう」(同)

「破壊的カルトは、メンバーがそもそもグループをやめること自体を怖がるように、恐怖症を心に植えつける。こうすることで彼らは、自由な選択の扉を閉ざしてしまう。人々は破壊的カルトに入る自由はもっていたのだが、やめる自由はない。実際、破壊的カルトの目には、だれかがそのグループをやめる『正当な』理由など存在しないのだ。」(P192)

「もしそのグループをやめでもしようものなら何が起きるかわからないという恐怖の教え込みは、ふつう無意識の次元で行われている」(P296)

「植え込まれている否定的な感情−−カルトのメンバーである以外のことをするのは怖いという感情。
いちど積極的な接点が確立すれば、グループの外での暗く悲惨に満ちた生活という、カルトの作りあげた情景は、変化しはじめる」(P298)

「(あるメンバーは)やめると気が狂うという観念を(略)埋め込まれていた。驚いたことに、彼はやめたあと本当におかしくなった。両親は彼を病院へ連れていった。医師たちの意見では、彼はたしかにおかしい、実際分裂症だ、というのだった。青年はこの診断を、自分のリーダーが正しかった証拠だと解釈した」(P306)

※ 「「恐怖症は人々から選択の自由を奪ってしまうのである」(P89)

66問答迷人:2003/08/06(水) 20:33

モトミナ さま

「信仰者の信仰責任」のスレッドへの、モトミナさまの投稿の件、スレッド参加者の了解が得られましたので、引き続きご投稿をお願いいたします。

67犀角独歩:2003/08/07(木) 06:45

> 63

投稿許可が出ましたので、改めてモトミナさん、よろしくお願いいたします。

> 彼等の行動原理…理解…進歩…

このような分析は、わたしは第一人称であるべきと思っています。つまり「彼」は、我が心中の彼、すなわち、かつての自分の心象風景を、歩んで振り返ってみるというスタンスです。

わたしがいまの富士門流の発想と短絡を嗤えないのは、かつて自分はもっと先鋭的にその教義を鵜呑みにしていたからです。その頃の自分を振り返りながら、自省の観点から記すのがここでの投稿です。

人は容易く他者批判をすることはできますが、もっとも客観的に見られず、批判もできないのは自分自身です。我が心中の澱みと瑕疵の書き換えこそ、説得力があり、そして、かつての自分の考えに留まる人に意見を述べるのも、自己反省、訂正の結果であるとわたしは考えます。

もちろん、これはモトミナさんの投稿を批判してのことではありません。肩を借りて、もう一度、己の態度を闡明にするばかりです。

> 『信じる』


まったく便利な言い逃れ語です。同感です。
信じていれば、なにを言い、なにをしても好い、この無責任さは、しかし、代理状態、そして、その心理効果に由来するという点を再度、押さえたいと思います。

> ”では日蓮大聖人の仏法が嘘だとすると、いずれが本当の仏法か”
> ”ではあなたにとってあなたの人生とは一体何なのですか。あなたの人生の真の目的とは何ですか”

刷り込まれた鸚鵡返しですね。
全国津々浦々、会員誰に聞いても同じ答えが返ってくるでしょう。
刷り込まれた言葉を恰も自分の言葉のように語る、ハッサン師は、これを「テープレコーダー」と言いました。

間違っているのであれば、正しいものを示せという論法ですね、これは。
こんな答えがあれば苦労しません。この正しいものを一生涯かけて探すのが人間です。それもグループや、メンバーに与えられるのではなく、自分自身で探すことに意義があります。正しいものを自分で探し続けることが人生である、答えはここにあるとわたしは思っています。

刷り込まれた虚構としての信念…、その好例で、わたしがいつも辟易するのは、見てきたように一様に語る“成仏の相”というやつです。
「信心強盛だったあの人は、体は軽く白く、成仏の相だった」というあれです。
まるで自分が見てきたように語るわけです。「講談師、見てきたような嘘を言う」という類です。
わたしは葬儀参列は数多の宗派に亘りますが、遺体に信仰その他による差異など認められないというのが経験則でした。極端なことをいえば、極悪犯罪を犯した人も死に顔は穏やかでした。

話はどんどん横道に逸れますが、「色が白い」はインドに侵入し支配者になったアーリア人が白人で、土着民族・褐色人種ドルビダ人と違い色が白かったことに由来する支配者の勝手な伝承であり、さらに「体が軽い」は死んで天に行くという神話の連想が、仏教にもたらされ、ついに日本の蓮師にまで影響を与えた結果であると想像しています。要するに人種差別思想でしょう。こんなことをいまだに言い続ける神経は、700年前の肉片が生きているという与太話と何等変わりがありません。

68犀角独歩:2003/08/07(木) 06:45

―67からつづく―

> 社会・貢献…物事…総括…説き尽くされたかのような仏法の話

そう。このような分析は実に正しいと思います。
すべての善は自分たちに、悪はすべて他者にという二極論ですね。
カルトの、最たる特徴の一つです。

> ”自分の存在価値”を見出し、更に人類史上とてつもない大事業を起こす一人物である、と刷り込まれていく…

その象徴語が「地涌の菩薩」、あるいは「地涌の流類」というやつです。
自分と特別視しなければ優越感に立てないというのは、ひっくり返せば、劣等感の表れなのでしょう。インフェリオリティ・コンプレックスは、自分以上の力を得ると、容易くスピアリオリティ・コンプレックスとなるということでしょう。

この点を法華経創作者から継承されたものであるというのが渡辺照宏師であり、また岩本裕師でした。

「この経典(『法華経』)を捨て去る災難を数えあげるとすれば、いくら数えても最後に達しないだろう」という。この脅しの言葉はまさにインフェリオリティ・コンプレックスの表現そのものであり、あたかも小児が竹棒を持って強がりをいうのに類すると言っても言い過ぎではない。『法華経』のこの態度は日蓮に見られ、さらにその流れを汲む宗教団体に受けつがれていることは、よく知られていることである」(『佛教入門』中公新書 P167)

> 当方を頭から下に見下している…

劣等意識が強ければ強いほど、自分が上位にあり、見下せる立場だという自己像を作り上げることで優越感を形成します。劣等感と優越感、記述したとおり、表裏の関係です。謙虚が美徳であるといわれる所以であると思うわけです。

この優越感が虚構かどうか、徹底して挙証義務を追及すれば、馬脚はすぐに現れます。
「絶対」「確信」「間違いない」と根拠を示せない事象を「説明できない劣等感」の裏返しから優越感で着飾って、のうのうと語ります。かつてのわたしの姿です。

いまとなっては、同じような青年達を見ると、だだをこねる子供のような稚拙さに失笑を禁じ得ません。しかし、こんな暴走が社会問題になっては笑止千万ということになります。戦後すぐには創価学会が、しかし、社会的な制裁を受けて、やや沈静しました。その歴史的な反省もなく、同じ論調で半世紀も経ってやっているのがいまの顕正会です。「根拠のない確信ほど強いものはない。何故ならば証明する必要がないからだ」というのが、わたしの経験則です。

引き続き、有意義な議論ができることを期待しています。

69問答迷人:2003/08/07(木) 16:22

横レス失礼いたします。

独歩さん

>根拠のない確信ほど強いものはない。何故ならば証明する必要がないからだ

宗教は、基本的に根拠を示せないのではないでしょうか。それとも、根拠を示せる宗教というのは、あり得るのでしょうか。たとえば、キリスト教では、神の存在証明は確か、出来なかったと思うのですが。

設問の角度を少し変えますと、カルトの定義に該当しない宗教団体は、どのような団体が有るのでしょうか。

70犀角独歩:2003/08/07(木) 18:08

> 横レス失礼いたします。

問答さんがお記しになることが横レスであるはずはありません(笑)

> 宗教は、基本的に根拠を示せない…根拠を示せる宗教…あり得るのでしょうか。

なるほど。形而上学、神秘的主義、霊、魂、生命などと言い出す宗教は、仰るとおり、根拠は示せませんね。しかし、そんなものを宗教、己の宗(むね)とする教えとしてよいのでしょうか。

シャキャムニは証明できないことについては述べませんでした。言うまでもない「無記」です。

八正道は人としての生き方です。四聖諦は体験論的平安の心地を得るところです。
八正道に生きた結果、平安な心地を得ることは証明たり得ると思います。

> たとえば、キリスト教では、神の存在証明は確か、出来なかったと思うのですが。

ええ、ですから、証明によらない宗教でしょう。
シャキャムニの教説とは根本的に違っています。

> カルトの定義に該当しない宗教団体は、どのような団体が有るのでしょうか

まず概念規定が必要となってきますでしょうね。
「カルト」とは何かということです。
カルト、あるいはセクトと概念規定は、ハッサン師によるところが大ですので、詳しくは『マインド・コントロールの恐怖』を皆さんにはお薦めします。
日本では、浅見定雄師と西田公昭師の規定が裁判その他においても通用されているところですね。

まず、浅見師は

「“カルト”という言葉はもともとは宗教上の用語なのです。本来はラテン語で宗教儀礼一般を表すもので、ぜんぜん悪い意味はありませんでした。けれど、アメリカ英語では、この半世紀ぐらいのあいだに、特定の教え・教祖に熱狂するタイプの、比較的閉鎖的で小さな集団を指す傾向が出てきました。しかしまだこの時点でも、善いことをしている・悪いことをしているという基準はありませんでした。しかし、やがてアメリカでは80年代の終わり頃から、破壊的なことをする団体を指すように変わっていきました。
このように“カルト”とは、いまでは問題のある宗教を指す言葉ですが、アメリカ英語ではここからさらに、反社会的・反人道的なことをする宗教以外の団体についても、「商業カルト -commercial cult-」、「心理カルト(教育カルト-educational cult-・心理療法カルト-psychotherapeutic cult-)」、「政治カルト-political cult-」という言葉を使うようになりました。
詐欺商法をする集団、自己啓発セミナーを名乗って暴利をむさぼる団体、あるいは、過激な政治信念から破壊活動をする団体もカルトと呼ぶようになったのです。これが“カルト”という言葉の意味の変遷です」(JDCC第一回公開講座)

と、その語彙の変遷を語っていました。
また、西田師は『マインド・コントロールとは何か』のなかで

「カルト(cult)とは、何らかの強固な信念(思想)を共有し、その信念に基づいた行動を熱狂的に実践するように組織された集団のことをいう。『カルト』という言葉は、本来は、儀礼、崇拝、熱狂などの意味をもつ英語である。それから派生して、既成宗教の信者が、新宗教や異端的な宗教を「邪教」としてのレッテルを貼る意味で偏見的、差別的に用いることがある」(P12)

と定義しています。このお二人は、言うまでもなくオウム裁判その他で接見、あるいは鑑定にも当たる学者であって、概念規定としてはスタンダードなところを示しています。

誤解がないように申し添えますが、通常、専門家が「カルト」という時、それは「破壊的カルト・マインド・コントロールを駆使する団体」という意味で使用されています。この点で、上述の「カルト」語の規定より立ち入ります。

では、破壊的カルト・マインド・コントロールとは何かと言うことになります。
破壊的とは個人の人格の破壊を意味するのであって、そのグループの都合のよいように信念体系を変化させ、本来、個人が得るべき努力の結果をグループとリーダーが収奪してしまうが故に「破壊的」と言います。

注目したいのはハッサン師の以下の記述です。

「まっとうなグループは、破壊的カルトのように恐怖と罪意識を通してコントロールするというような極端には、決して走らないものである」(P192)

換言すれば、恐怖と罪意識で人々をコントロールするグループを破壊的カルトということになるでしょう。

71犀角独歩:2003/08/07(木) 18:08

―70からつづく―

さて、ここから問答さんのご質問に答えます。

上述のカルトの定義「何らかの強固な信念(思想)を共有し、その信念に基づいた行動を熱狂的に実践するように組織された集団…儀礼、崇拝、熱狂などの意味をもつ」としますが、では、原始シャキャムニの教団はどうであったでしょうか。

そこには生き方としての八正道、四聖諦は言われても、強固な信念体系であるというより実践理念でした。戒は自戒です。強固な信念体系などと称すべきものは見当たりません。儀礼もありませんし、崇拝対象もありません。常に禅定を好むこの人々に熱狂などあるはずもありませんでした。むしろ逆で、寂照とという平穏と静寂の佇まいです。

では、シャキャムニの教えは宗教と言えるのかという質問を投げかける人もいるようです。わたしは宗教であるとかどうであるとか、そんなことはどうでもよいことであると思っています。ただ、わずかに垣間見えるシャキャムニの静寂な佇まいを支えたものが八正道であり、四聖諦であったと言われるだけで充分であると考えるのです。

人間は生まれては、やがて老い、病んで、死んでいきます。その事実に目を覆い、生に執着し、老いることを嘆き、病み死ぬことを恐れます。しかし、それが自然の理であり、誰人も枉げることのできないのであれば、その事実を受け入れて、平安でいられる静寂な境地を構築できれば、その人は死を恐れないでしょう。寂滅を怖れないことでしょう。

わたしは、このシャキャムニの境地は、心理発達の最終段階と位置づけてよいと思っています。シャキャムニの教説は証明できない形而上学、神秘主義、(後世言われる超越的な)神仏など元より相手取っていません。その境地はまさに健全な精神状態です。わたしは何等現代の科学的成果に矛盾するところはないと考えています。否、もし、矛盾するところがあれば、そこは訂すればよいだけのことです、シャキャムニは絶対者ではないのですから。

あと、これも誤解がないように記しますが、社会心理学的な成果も、もちろん、絶対ではありません。役に立つ分析であるという範囲での紹介です。

72アネモネ:2003/08/12(火) 12:08
しばらく仕事に追われておりまして、間があいてしまいました。

モトミナさん、はじめまして。
スレッドへのご参加、ありがとうございます。
今度とも、よろしくお願い申し上げます。

73アネモネ:2003/08/12(火) 12:08
独歩さんの補足レス、モトミナさんのレス、さらに問答さんの疑問点、そして独歩さんのレスを読ませて頂き、ここで私自身の入信当時のことに触れながら少し記述してみたいと思いました。

自分の信仰責任を突き詰めて考えていくとき、やはり最後は、自分がこの宗教に入信した責任、自己責任に行き当たってしまいます。自分なりに振り返ってみたいと思います。

私自身は、日蓮正宗の信仰は8年間ですが、その前にはキリスト教での信仰経験が長く、宗教との関わりはこれまでの私の人生の中で、かなりのウェイトを占めてきたと思っています。

問答さんの疑問の中でもキリスト教のことも出てきたわけですが、キリスト教組織を経験してきた私としては、日蓮正宗での組織とキリスト教の組織とを、どうしても比較対照して見てしまっていたことは否定できません。これまで問題提起してきたことなども、素朴な疑問の発露はそのような対比から生じてきたものが多いですし、その結果、独歩さんの記述にもありましたように、「“布教”とは何であるのかその定義が望まれることになります」と、まさに布教活動、またその布教方法が、私の知っているキリスト教組織とは大きく違っていたことに8年間を通して戸惑い続け、最終的にはどうしても馴染めず終わりました。そしてここで、改めて布教とは何かということを信仰責任の観点からも考えてみたいと思いました。

ここで8年前の入信のいきさつを具体的に振り返ってみたいと思います。
私は、いわゆる入信を勧められた折伏の親からは、まず最初に夕食に誘われました。約束の時間に待ち合わせの場所で落ち合うと、そのまますぐに食事に行くのかと思いきや、「紹介したい人がいるから」ということでタクシーに乗ってお寺に連れて行かれたのです。
お寺ではちょうどその日、座談会が行われており、私に紹介したい人というのは、青年部長ということだったようです。
あのときの自分を振り返ると、実に滑稽なもので、私は半ば騙されてそこに連れて行かれたにも関わらず、怒って退散するという行動が出来ないものなのです。それどころか連れ出した折伏の親の顔を立てようと、笑顔でその場を取り繕っていたように思うのです。これは私の、人に好く思われたいと意識する心根が、そう振る舞わせたものといえるでしょう。

それはさて置き、私自身の中では、個人的な理由で仏教に対する憧憬が芽生えていた時期でもありました。仏教を学んでみたいという気持ちはあったわけですし、そのような話も折伏の親に話していたものと思われます。
ですから、何もわざわざ騙すようなことをしなくても、お寺の行事に誘ってくれればいずれ自然に出向いたはずなのに、それにも関わらず、折伏の親は私のことを方便を使ってお寺に連れ出したわけです。
まずここが問題だと思います。なぜそのような方法や手段を使う必要があったのかです。

私は、かつて長くキリスト教を信じ、教会に通っていましたが、仮に自分の友人を教会にお連れするにしても、嘘や方便を使って連れてくるようなことをしたら、それこそ牧師から大変な注意を受けたことでしょう。それは神の教えに背く行いと考えられるからです。
人を誘うにしても、「私はキリスト教の信仰があって教会に行っているんだけど、よかったら今度一緒に行ってみない?」せいぜいこの程度のお誘いですし、それ以上に入信を勧めたり強要したりするようなことはありませんし、信徒は布教の責任を負わされていませんしからその必要もありません。また、紹介者を連れてきたからといって、徳を積んだり罪障を消滅させたりといったような解釈の教えは見受けられず、組織ぐるみで即座に入信を勧めるといったことも全くありませんでした。また一度行ったからといって、追ってしつこく誘うということもなく、続けて来る来ないは、あくまで本人の意思に任せますし、教会に行かないと地獄に落ちるとか、不幸になるといった、そんな脅しじみた言葉は決して口にはしません。ですから方便を使う必要など有り得ず、それだけに安心して人を誘うこともできます。誰もが皆、「またよろしかったらいらしてください。共に神の言葉を学びましょう」この程度のお誘いで終始していました。

74アネモネ:2003/08/12(火) 12:09
(つづき)
また、キリスト教では受戒に相当する洗礼という儀式があります。宗派によって違いはありますが、私の知るプロテスタントの場合は、恐らく信仰心をもって教会に行っている人でもその半数以上は、洗礼を受けていない場合が多かったと思われます。だからといって、信仰心がないのかというとそうではないのです。洗礼は受けていなくても、教会に通いながら、徐々に信仰が芽生え培われ深めていくことが自然な営みとなっているのです。そして人生の最後、死を悟ったときに洗礼を受けて幕を閉じるといった人も多くいるくらいです。

このような信仰の姿は、日蓮正宗系の組織だけを知っている人からみれば、なんとも奇異に感じることかもしれません。しかし私は振り返ってみて思うに、人間が何かを信じていく過程、深まっていく過程に要する時間とは、一生をかけるくらいであるほうが自然なのではないかと思います。内心の自由という権利を最大限に尊重する形で教えや信仰を広めていくならば、こういう形になっていくのが望ましいのではないかと、法華講を経験したことによって、改めてそう考えるようになりました。

言うまでもなく、日蓮正宗の入信の場合は当然違っていたわけです。はじめて参加することになった座談会の最後に、円陣の輪の中で私は、いきなりその場で入信を勧められました。あまりに唐突なことだったので私は、「仏教について学びたい気持ちを持っておりますが、学んでいく先で、信仰が芽生えた段階で入信を考えたいのですが…」と率直にお答えました。それに対して法華講幹部の方は、「信・行・学の中で、信が最も大切であると大聖人様は仰せです」と、何かの御書の言葉と併せて、そのようなことを私に言われました。
最初に違和感を覚えた瞬間です。半ば騙されて連れてこられ、さらにいきなりその場で信じることを煽られるところなど、いきなり買わされたり、いきなり契約させられたりといったマルチ商法のようなそんな錯覚すら覚えました。

方便を使って連れ出さなければならない理由のひとつは、その場で入信を勧められるからといえるでしょう。またさらに信徒ひとりひとりが、報恩と功徳と罪障消滅などといった教義によって、布教の責任を負わされているということもあります。「折伏の親」といったような仏縁の構図は、考えてもみれば、いかにもネズミ講のような論理に裏付けられているようにも思えます。

しかし、なぜそのようなことになっているのでしょう。
教会の場合とは違って日蓮正宗では、私がされたように嘘や方便を使ってでもお寺に人を連れてくることを、善い行いとみなされているといえます。どんな方法であれ、お寺に縁をさせることが、功徳を積むことであり報恩でもあると教えられていると見受けられます。
要するに、目的のためには手段を選ばないわけです。個々の信徒は当然の如く、そのような思考パターンになっているといえますし、目的が何よりも優先されるため、目的達成のためにのその手段は非常に強引になっていき、目的に至る経過や過程の、心のあり方などは、ほとんど無視されます。全ては結果であって、やはり成果主義なのでしょう。
お寺に来た以上は、入信させなければならないわけで、嘘や方便を使ってでも強迫的に入信の既成事実をつくろうとします。
目的の為には手段を選ばないこのような考え方が何を発露として浸透していったものなのか。法華経なのか蓮師なのか、はたまた釈尊を源流とするものなのか、そのことも、このスレッドで検証してみたいものと考えます。さらにそれが真の仏教といえるものなのかといったことも、信仰責任のうえから明らかにしておきたいものです。

75アネモネ:2003/08/12(火) 12:09
(つづき)
ここで、問答さんの疑問について触れてみたいと思います。

>宗教は、基本的に根拠を示せないのではないでしょうか。それとも、根拠を示せる宗教というのは、あり得るのでしょうか。

宗教の定義というのは、ある意味で非常に難しいですね。宗教と信仰は一体のように考えられてきていますから、教祖は神格化されて当然の教義と解釈されがちでしょう。
キリスト教では、天地創造の神を絶対の存在として聖書という教典が成立してきているわけですが、その後のキリスト教では、いつしかイエスは神と同化した教えになっていきます。いわゆる三位一体といわれる解釈ですが、この解釈は、三身即一身や日蓮本仏論の解釈と非常によく似ているとも思われます。

もともと、人間を越えた存在を絶対的なものとして信仰する教えが宗教でしょうから、最初から近代的な科学的根拠は無視して教えが立てられている点は、宗教の最終的な限界であるのかもしれません。そういう意味で、お釈迦様の悟りを教える仏教が、宗教といっていいものなのかどうか、それも難しいところでしょうか。ただ、仏と成ることが人間を越えた存在だと捉えれば、その悟りと教えはやはり宗教となるのかもしれません。
しかし今の私は、個人的なことながら、信仰からは距離を置き、その教えを思想的な観点で捉えながら学んで実践する、そのような志向に至っているところかもしれません。

>たとえば、キリスト教では、神の存在証明は確か、出来なかったと思うのですが。

神の存在証明は出来るわけがないですね。過去世や来世と同じでわかりません。証明は出来ませんから、神がいるのかいないのか、私自身もいまだにわかりません。いるかいないかわかりませんが、聖書の言葉を神の言葉として長く学んできたかつては、天地創造の神を、証明されないまま、存在しているものとして、その前提で、聖書の言葉を神の言葉として信じていたと思います。また信じることによって、学べたこともたくさんありました。そのことは否定できません。
ですから、日蓮系の信仰者が、御書や法華経を通して久遠の釈尊を信じたり、日蓮を本仏と信じたりする気持ちは、私なりによくわかります。
そして私としては、そのような信仰心の全てを否定することはできないと思っています。その人が信じて大切にしていることであるならば、誰もその内心には立ち入ることはできないでしょう。また信仰心によって自己の存在をみつめることが、自己実現につながっていくことも多いことですし、信仰を通した他者との関わりにおいて、道徳観や倫理観といったものも培われていくという側面も非常に多いと思われます。
ですから私は、信仰から距離は置いても、信仰そのものを完全否定はしてはいないのが現状です。

しかし、信仰心はプラス面ばかりではないのも事実です。特にここで議論すべき大きな問題は、日蓮系の中でも特に石山系において、信じなければ地獄に落ちるという脅しの論法が著しく、そのような強迫観念でもって信仰を広めてきている点ではないかと思うのです。このことを信仰責任でどう考えていくべきかを検証してみる必要があると思いました。
他者を脅かし精神的苦痛や不安を与える以上、それは個人の内心の自由にとどまるものではないといえるでしょう。そこまで言う以上は、その根拠が求められてしかるべきもありますし、それができないのならば、個人の内心の信仰にとどまるべきではないでしょうか。そのことを信仰責任においてまじめに考えていくならば、自ずと布教方法も変らざるを得ないと思われます。

76アネモネ:2003/08/12(火) 12:10
(つづき)
キリスト教にも終末思想や最後の審判にまつわるある種の脅しはあります。イエスの教えの中にも見受けられます。神の国に行ける人行けない人、その選別がどうしても横たわってきたわけです。
実際に、エホバの証人のように、終末思想による脅しを使って半ば強迫的に信仰に勧誘するキリスト教組織もあります。これらは恐らくカルトの部類に入るのではないでしょうか。
そして日蓮正宗系組織の大半もその布教方法は、末法思想でもって、信じるか信じないかの二者択一を迫り、信じなければ地獄に落ちると脅かしていく手法が中心的です。また、いったん受戒によって信じた人は、内心の中で信じられなくなったり疑問をもったり、組織のあり方に疑問を抱いて組織を離れようとするとき、「退転」「謗法」といった言葉で脅迫するのが常套句となってきているわけです。

私は、特にそのような脅かしを使った布教活動を、信徒自身が担わされているところに、大きな問題があると思うのです。エホバの証人の場合もそうですね。聖職者とは言い難い一信徒が個別訪問によって布教活動をしているわけです。必ず、最終的には終末思想と最後の審判に話が持っていかれます。
このような末法思想や終末思想で人心の不安を煽る、これは教団のカルト性を示す材料のひとつといえるのではないでしょうか。

キリスト教の場合、かつて中世までは、免罪符に象徴されるように聖職者自身が脅かしによって教えを広めいたわけです。恐喝的手段でもって、信じさせるということは、多かれ少なかれ、どの宗教にも見い出されることかもしれません。
中世までのキリスト教信徒は、聖書を直接読むことはなかったわけですから、イエスが何を説いたのかは、宗教権威者から教えられるままを信じるしかなかったわけです。そこには権威者に都合のいい勝手な解釈が信じられ、やがて免罪符に象徴されるような教団の堕落が横行してきたわけです。
しかし、印刷技術の進歩によって、聖書が広く一般大衆にも読まれるようになる頃と前後して、中世的な権威主義的恐喝手段は、一部の宗派を除いて一応は徐々に改革されていったわけです。それを近代的改革とみるか、イエスへの復古とみるかは、様々かもしれませんが、それはさて置いても、このことはキリスト教が近代にまで残り、そして民主主義や人権思想まで生み出すに至る、非常に大きな転換だったと思われます。しかもその発展は、宗教組織のトップダウンで切り開いてきたものではなく、信徒の側からの意識改革という側面も非常に大きいわけですね。ある意味、ルネッサンスで民衆はいったん宗教離れをしています。民衆に見放された宗教は、自ら変らざるを得なかった。権威性に甘んじていた姿を省みざるを得なかったのが、ルネッサンス以降に見られる宗教改革ではないでしょうか。

さらにその後に、日本にもキリスト教は伝わってくるわけですが、植民地政策と並行して布教が勧められてきている側面もあり、このことを国際的な思想戦の一端として捉えることも出来るので、キリスト教伝来の歴史的評価は、ここで一概にはいえませんが、しかし少なくとも布教の担い手は、宣教師という聖職者であって、一般信徒ではありません。専門的に神学や聖書を学んできた布教の専門家であり、そのような聖職者だけが、布教を許され責任を負ってきたというわけです。

私の中で、長く培われてきた宗教観として根付いてきたことは、このような聖職者と信仰者の姿だったわけです。またこのような姿に、自らの信仰を通して疑問を持ったことはほとんどありませんでした。

77アネモネ:2003/08/12(火) 12:10
(つづき)
しかし一方の日蓮正宗では、仏教全般を体系的に学んでもいない一般信徒が布教の急先鋒として担わされていることが当然となっているわけですね。宗教改革以前のキリスト教にも見られたような、権威主義や選別思想、特権意識も根強いわけです。その意識を変えることそのものが、信仰の後退ではないかと恐れられるがため、人権感覚は一向に培われていかないわけですね。人に対して偏見をもったり、差別をしたりすることが、正しいことになってしまっているのです。しかし仮にどんなに教義が正しいとしても、信仰する人のがそのような差別思想や偏見思考になってしまうならば、それはどこかに問題があるはずだと私は疑います。
もしも私が、キリスト教の組織を経験していなければ、そのことを疑問には思わなかったかもしれません。しかし、キリスト教組織に馴染んでいた私としては、非常に違和感を覚えたことだったのです。
ここまで書くと、キリスト教の信仰を続けていれば済んだ話ではなかったのかというご指摘ももたれることでしょうから、その点を少しはがり説明しておきます。
私はその入信当時、個人的悩みを抱えておりました。それはキリスト教ではどうしても解決できない心の問題だったのです。生と死にまつわる問題といっていいかもしれません。個人的なことなので、具体的な記述は控えますが、キリスト教ではなく仏教に救いを求めざるを得なかったような、心の問題が私の中に横たわっていたからです。ある意味で、キリスト教の限界を知ったときでもありました。

最初にお寺に行った日から、数週間して、私はご受戒を受け事実上の入信をいたしました。
信じて入信したというより、信じることを誓ったといったところでしょうか。
しかし実際に救いを求めて入信したものの、私自身が抱えている心の問題を解決するには、この教えをとにかく人に広めなければならないという指導を受けるわけです。
お寺に自分の知人を連れてくることは、そんなに大変なことだとは思っていませんでした。自分が入信して、そこで心が救われる話を聞くことが出来たならば、誰に強要されることもなく、自然に人にも勧めてしまうものです。それこそが、五十転展の随喜というものでしょう。
ところが、随喜する以前の問題として、お寺に参詣してそこで聞かれる法話の内容は、ほとんどが折伏そのものを煽る内容ばかりです。随喜する材料がないといったところです。お寺で法話を聞くだけでは、法華経の有り難さも仏の慈悲も何もわかりません。わからないのですから、私自身は、お寺に行くだけでは随喜出来ないのです。
随喜もしていない私が、一体、何を人に語って布教していくことができるものなのでしょう。しかし、そのような疑問を正直に言えば、活動したくない愚痴とみなされ、我見と言われ、さらには懈怠謗法と言われるのがオチです。
正直なところ、お寺で教わったことよりも、個人的に読んだ書籍などを通して自分の中で膨らませた蓮師の世界に随喜することが多かったわけです。しかしそれは今となっては、随喜というよりは、もしかしたら自己陶酔だったかもしれません。
そこで随喜したこと、もしくは陶酔したことをもって、それが仏教だったといえるのかというと、どうもそういうことではないらしいという問題に直面してしまいました。となると、人に広めるどころの段階などではありません。

78アネモネ:2003/08/12(火) 12:11
(つづき)
レスが前後しますが、独歩さんのレス>58より
>石山・末寺では寺院において受戒(漫荼羅本尊下付)を以て信徒とします。

以前にも質問したことがあったと思いますが、そもそも、蓮師にとっての入信とは、このようなことだったのでしょうか。また、お釈迦様にとっての、いわゆる入信とはどのようなことだったのでしょう。入信というものではないかもしれませんが…。

>創価学会では入会届と漫荼羅本尊授与、顕正会では本部勤行で入会届で会員と数える如くです。このような事務手続きが布教とカテゴライズされる転教、流布、弘通、下種などと言えるのか、というのがわたしの疑問です。

疑問に至る道のりは、違うものではありますが、結果的に同様の疑問を私も持っております。何のために仏の教えを広めるのか…その根本的な志が見失われている気がしてなりませんでした。
法華講組織の中で、私がよく質問したことは、「お釈迦様は、何のために教えを説かれたのですか?」という質問です。ほとんどどなたも、明快な答えを示してはくれませんでしたし、それどころか、「そんな疑問を持つよりも、あなたがまず、自分の境界を高めることが先でしょ」と怒り出す人もいたくらいです。しかし、こんな根本的な疑問の答えも示せずして、どうして布教活動などできるものだろうかと思ったものです。

>富士門全般の信徒会員の獲得は、布教というより、勧誘として意味合いが強いとしか見えない点をわたしは特に強調したいわけです。

まったくそうですね。
結局、信徒が勧誘して連れてきた人を、僧侶が布教するというのが一応の図式なのかもしれませんが、しかし、私は入信に際しても、住職からは直接何の教えも頂かなかったのです。最初の座談会が終わった後も、場所をファミリーレストランに移してようやく遅い食事をしながら、更なる入信勧誘を説いたのは、青年部長と折伏の親でした。結局、僧侶との直接的な対面は、受戒の儀式のときが最初で、私は否も応もなく、僧侶として恭しく接してしまっていたという感じです。儀式ですから、それなりに感慨深いものがありました。
しかし、これは私自身の主体性や自主性において、しっかりした意思が貫けなかったという反省に尽きます。宗教組織のカルト性の問題ということに無知であり無頓着だった私の不覚の結果だったといえるでしょう。「学んでいく先で、信仰が芽生えたときに入信したい」この私自身の意思を貫くべきだったと、入信の自己責任において自省するものです。

そして入信後には、こんなことも指導されたのものでした。
「お寺に誰かを連れてくるときには、九割方の折伏をして、最後の仕上げで連れてこなければいけない。最初から住職に折伏の話をお任せするのようでは、大変申しわけないことだ」
結局、指導教師という立場の住職は、折伏(勧誘)に際しては、アンカーとして受戒の儀式をとりおこなうだけの役目なのではないでしょうか。
そもそも「折伏」の語彙の解釈や使い方からして、蓮師の教えから外れているわけですから、考えものです。
しかも、教えの解釈から、我見だとか謗法だとか懈怠だとか退転だとか、そのような言葉によって教えに対して疑問を思うことが閉ざされ、自由に口にできなくもなっていることにも問題があります。そのようないわば言論封鎖と統制も、カルト性を象徴するものではないかと思います。

79アネモネ:2003/08/12(火) 12:12
(つづき)
>宗教権威に操られる人々は、代理状態にあるために、責任感は喪失しています。

宗教権威の代理状態というのは、つまり、宗教権威そのものの意識にもなっているということでしょうから、優越感の極みでしょうね。しかし、宗教権威の責任というものを考えたこともないのが一般信徒ですから、代理による権威意識は更に恐ろしいものを感じます。

よく、「折伏させて頂く」このような言い回しが使われていました。しかし、実態は「させられている」わけですね。ところが、それを「させて頂く」と言いまわす。そこに大きな摩り替えと、錯覚が生じているように思われます。

それと、私自身を振り返ると、もともと檀家が日蓮宗だったこともあって、蓮師に対する親しみは強かったものです。その蓮師がお釈迦様の生まれ変わりであると教えられたことに、ある種に優越感や権威性を感じたと思われます。そして、日蓮第一の高弟の流れを汲む日蓮正統の宗派という説明にも、優越感と権威性をそそられた気がします。そこに縁をすることは、爪上の土よりも稀なことだなどと説明されると、すっかりその気になってしまいました。
また、第一回の夏期講習の登山が私自身の初登山でもあったわけですが、そのことも縁起の意味から、すごいことなんだと大きくおだてられたりもして、どんどん舞い上がっていった自分を振返ります。
もともと先にも記したように、私には、人から好く思われたいという心が強くありますから、おだてられればそれだけ期待に応えたいという気持ちも強く持ちます。疑問や葛藤はさて置き、期待に応えて必要とされたいという思いのほうが強くなっていきました。
そのような中で、次第に優越意識が強くなり、やがては不信の者を見下し排他し差別するようにもなっていっていたと振返ります。場合によっては憎悪にも転じ、また、そのような憎悪のエネルギーが、生活の活力そのものにもなっていったようにも思い返されます。
しかし、実際にはお寺の中は、派閥闘争ばかりで、空けても暮れても憎悪の連続。そんなところに、知人や友人を連れていく気にはなれず、いつしか自分自身も精神の健全性を阻害されてしまいうのではないかという不安も感じるようになりました。何より熱心な信徒の方ほど憎悪の心や思い込みが強いように思われたのです。
また僧侶の実態も知るにつけとても尊敬できるものではなくなり、また、そこにへつらいかしづく信徒の日常的な振舞いには、非常に心ない言動も多く、目標とする信仰者としての崇高な人格を見ることはできませんでした。
その延長上に、富士門信徒の掲示板に参加したといういきさつです。

私は、日蓮正宗の入信前には、長年親しんできたキリスト教の限界を感じ、仏教に救いを求めました。しかし、日蓮正宗の信仰を通して、私は宗教の限界というものも認めざるを得ないという思いにいたりました。
だからといって信仰も信仰を教えとする宗教も、頭ごなしには否定はしません。しかし、信仰責任という点からいっても、自らの意思で、社会感覚とのバランスを常に心掛けて信仰を続けていくことが求められるのではないかと考えるようになりました。そのために私は、組織や信仰そのものから距離を置いてみることを、自らの意思で選択しました。
距離を置くことで、見えなかったことがたくさん見えてきたような気がします。

80モトミナ:2003/08/12(火) 12:41
アネモネさん 今後ともよろしくお願いします。

独歩さん
67>わたしがいまの富士門流の発想と短絡を嗤えないのは、かつて自分はもっと先鋭的にその教義を鵜呑みにしていたからです。その頃の自分を振り返りながら、自省の観点から記すのがここでの投稿です。

全くその通りだと痛感いたします。
かつて人生の全てを投げ出す程の覚悟で求めていたものが、結局は自ら終止符を打たなければならない事態に至ってしまい、その際私は暫くはどうしようもない落胆とそして組織と指導者への憤りが繰り返し起きていました。
そしてそれまでの同志者や指導者を憎悪し、軽蔑し、侮辱するまでになってしまった時、私はまるで自分だけがただの被害者のような錯覚に陥っていた事実があります。
それでいて尚マインドコントロールが完全に解かれていない状況でしたので、組織と理屈には完全なる否定をしながらも暫くは何かに怯えていた自分がいたわけです。

そしてそのような状況を振り返ると、かつては加害者として歩んできた自らの過去がある以上、短絡的に自分が組織の非を認知した時点で突然被害者発想になるのは、実に自己中心的としかいえないものでもあると思わざるを得ませんのでこの点、充分に自身の心に常に留めておかねばならないものだと強く思っております。

しかし最近ではようやくpositive thinking的な解釈ができるようになり、今では宗教団体に入会しなければこれ程人生について考える事もなかったであろうから、自身にとってはとても有効であったと思えてもおります。

こういった自身の経緯をじっくりと見つめ直してみると、つくづく私は「自己」という枠から決してはみ出した物の考え方ができない小さな生き者であると、情けなくなります。
宗教団体の組織構成員として活動していた際は「矛盾した絶対」の中で『自己』に価値を見出し驕り、外部の批判ばあればまた「矛盾した絶対」の中で自己完結をして外部を「無智の哀れな者」として蔑んで『自己』に満足観を導き出し、組織から離脱すればするで、信じていた『矛盾した絶対』が事実矛盾していたことに憤り、心の底から信じた事を裏切られた事実に悲観と憤慨が相互に心を支配して「裏切られた」という『自己』を身勝手に被害者にしているだけではないかと痛烈に自身を批難したくなります。

しかし実際の所は、受け入れた自身に大きく問題があるわけですから、表現に不備はあるかもしれませんがある意味、壷を買わされた自身に非がある、といわざるを得ないのかもしれません。
そこからスレッドのタイトルを考えてみた時、私は『信仰者の信仰責任』とは現在の宗教団体や活動者に宛ててみると、本来能・受の双方にやはり責任は発生するものなのだろうと思います。

人の心に刻まれる、行動の根本すら支配してしまうものを勧める責任は多いに責任の発生すべき問題でしょうし、更に受け入れる側にも、無抵抗に取り入れてしまう問題点があるように思えます。

ところでこういった責任について見直してみた時、受の側にも問題があるとして、能の立場である側の一体根本的にはどこに一番の問題が含まれるのでしょうか。
独立宗派の「宗祖」、その教義に肉付けして更に神秘的な概観を持たせるようになって人の心をコントロールしようとし始めた「御歴代」、どちらの方が責任が重いものなのでしょうか。



思いつきのような発言ばかりで恐縮ですが、自身を見つめ直す点でも活発に参加させて頂きたいと思いますのでよろしくお願いします。

81犀角独歩:2003/08/12(火) 15:40
アネモネさん:

ご自身の折伏体験の、問題点を闡明にされながらのご記述、同意するところ、多々ありました。
少し考えて、レスをさせていただく所存です。

モトミナさん:

なるほど、能・受を分けて責任を考える、この提案、賛成です。
代理状態の心理効果、無責任に気をとらわれて、この点が緩んでいたかも知れません。
ご提案、有り難うございます。
少し考えてみたいと思います。

活発なご参加を期待しています。

82犀角独歩:2003/08/26(火) 12:32

アネモネさんの長文に圧されやや時間が空いてしまいました。
お詫びいたします。

アネモネさんが受けた勧誘の有様、まさに学会を含む大石寺系グループの問題点そのものであろうかと思います。

わたしがよく引き合いに出すJDCCで本年春にカルト予防パンフレット言うものが作られていました。その中に以下のような体験談が載っていました。

*** 以下、転載 ***

 ある日の夕方、帰宅途中のバス停で、20歳ぐらいの女性から声をかけられました。
 彼女は「青年サークルの青年意識調査を行っています。アンケートに答えてほしい」と言いました。
 私は人なつっこい笑顔に安心して、すべて答えただけでなく、自分の名前も、住所・電話番号までも教えてしまいました。
 その数日後から、勧誘されるようになったのです。手紙が届きました。何かのチケットが同封されていました。その夜、電話もありました。彼女は聞き上手でした。
 意気投合して、ずいぶんと色々なことをしゃべりました。
 すると、「青年サークルへ来てほしい」と言い出したのです。私は「話をしたいだけ、行かない」と答えましたが、結局、会う約束だけはしました。ある郵便局のポストの前で待ち合わせることにしたのです。それから2日間続けて「楽しみにしています」と手紙が届き、前日の夜には、確認の電話もありました。
 電話では、また青年サークルへの誘いを受けました。けれど、その気のないことを伝え、喫茶店で話すことにしました。
 約束の当日となり、彼女に会いました。私たちはおしゃべりをしながら歩き始めました。すると、いつの間にか、通りから外れた古びたビルの前に着いていましたした。そこは喫茶店ではありませんでした。
「○○カルチャーセンター」
と書かれた部屋のドアの前だったのです。
 私は抗議しました。しかし、彼女はニコニコ笑っているだけでした。「最初から、ここに来るつもりだった」とでも言いたげに、ドアを開けると、躊躇している私を、中へ押し込んでしまいました。
 受付の女性があたたかく応対するのです。ていねいにスリッパを用意してくれました。いまさら断れない状況になってしまいました。
 そこはビデオセンターでした。中は落ち着いた雰囲気でした。観葉植物と絵画、クラシック音楽がBGMで流れる居心地のよいところでした。
 いくつかあるテーブルの一つに案内されました。お茶とお菓子が出されて、ますます帰りづらい状況になっていったのです……。

*** 転載おわり ***

アネモネさんと体験と概ね二箇所共通している点があります。
一つは騙して連れ出されたこと、もう一つは行ってしまうと断れない雰囲気があることです。

上述の手記は、カルト体験なのであって、それが正宗、正法などと「正しい」という言葉を冠する集団で平然と行われていることに注目すべきであろうと思うのです。つまり、学会を含む石山系グループの勧誘方法は、まさにカルトの技術であるということです。
もはや、教義、血脈がどうのというレベルの話ではありません。わたしは詐欺、またはそれに類する違法行為に抵触している糾弾するばかりです。しかも、それはかつてわたしが行った勧誘でもあったわけです。強く反省している点です。

前者の「騙された」は違法性に抵触する集団の問題、では、後者「断れない」は、たしかに集団の問題点もありますが、こちらは被勧誘者の問題もはらんでいるとわたしは思うのです。先頃、とある社会心理学者の方と話していたのですが、このカルト問題について、非常に興味のあるご指摘をいただきました。

「一般的に思想信条に基づいて、人は行動していると考えがちである。けれど、実は逆で、行動してしまった結果、その思想信条を肯定しているのに過ぎない」というのです。

つまり、自分が採ってしまった行動に対して、その行動に係る背景に基づいて自分を肯定するということです。これが高じれば予定調和説などにも発展すると思えます。

勧誘の例で言えば、その場に行ってしまったために、その場の雰囲気(背景)で行動してしまうわけです。

ハッサン師は以下のように記していました。

「どんな勧誘者でも対応できない応答がひとつある。あなたが彼の前から立ち去るという応答である」(196頁)

しかし、これはなかなかできないものですね。

83犀角独歩:2003/08/26(火) 12:32

―82からつづく―

また、今回の投稿を拝読し、ようやくと、「専門的な仏道修行をしていない信徒…布教活動の担い手」という疑義の立った理由がわかりました。
これはキリスト教の経験からであったのですね。「宣教師」などというのでした。“専ら教える師”、そのために専門教育を受けている前提があるのでしょうか。わたしは、仏教の場合、宣教師である必要は必ずしもないと思う面はあります。例えば「五十展転随喜」説などがそれに該当します。

しかし、このスレッドの冒頭で紹介した法学的勧誘責任を問う棚村師の如き姿勢は、現在、最も望まれるものである以上、その流れからして、勧誘者は、勧誘内容に特に責任が持てる人でなければならず、となれば、宣教師のような様態はたしかにあるべき姿のように思えます。

それが石山の如く、鵜飼いが鵜を操って、呑み込んできた獲物を自分の前で吐き出して利を得るような有様は嘆かわしい限りです。それをまた、「僧宝尊信」と傅く様は、信仰者としての自己責任の回避といえます。棚村師は、勧誘に応じて自己決定するに当たり、以下三点を確認することが促していました。

*** 以下転載 ***

。「自己決定」とは、自分自身で物事を決めて、その決めたことに自分自身が拘束されることです。ある意味では、現在の流行の言葉でもあります。自己決定、つまり、自分自身の任意の判断をするためには、私は三つの要素が必要であると考えています。


 一つめは“情報”という要素です。 つまり、自由な判断をするために、それに必要な重要な情報、判断材料が十分に提供されていなければならないのです。


 二つめは“環境”という要素です。 つまり、十分な情報が与えられていても、その自由な判断をするために必要な環境が用意されていなければならないのです。どのようなことかと申し上げますと、「ノー(No)」と言える雰囲気が整っていないといけないということです。多くの皆さんがインフォームド・コンセント(informed consent)と言われるのは、実はこの二つ、情報と環境という要素までなのです。


 ところが、私はいろいろなケースを見てきて、法的な観点から、三つめの要素として、“保証”ということが必要であると思います。これはどのようなことかと言うと、自分が自由な判断をすることによって、あとで不利益や、恐い目に遭わないことも含めて、何らかの形で不利益を受けない保証があることです。


 その三つが整ったときにはじめて、本人が決めたことに本人が拘束されることになるわけです。リスクも、プラスもマイナスも、自分が負うべきなのだと思います。

http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/open/ol001_tanamura.html#01)

*** 転載おわり ***

繰り返しになりますが、先のアネモネさんの手記で「騙して連れて行く」は第一要素“情報”を敢えて、枉げ遮断する実に違法な行為に当たります。第二要素“環境”についても「断れない雰囲気」「紹介者に端を欠かせないようにせざるを得ない雰囲気」などがまるで演出設定になっているのが勧誘のための会合ですね。ここでインフォームドコンセントのかけらもありません。そして、「保証」ですが、「絶対に幸せになる」なるなどという根拠のない確信だけですから、これもないわけです。

情報・環境・保証がない勧誘は、そもそも勧誘者側の義務善意を損なうものであるわけですから、厳格にいえば、勧誘を無効とすることもできます。いわゆるクーリングオフといったところです。

しかしそれ以上に、ハッサン師が言うように

「破壊的カルトは、メンバーがそもそもグループをやめること自体を怖がるように、恐怖症を心に植えつける。こうすることで彼らは、自由な選択の扉を閉ざしてしまう。人々は破壊的カルトに入る自由はもっていたのだが、やめる自由はない。実際、破壊的カルトの目には、だれかがそのグループをやめる『正当な』理由など存在しないのだ」(192頁)

と言います。換言すれば、集団を離脱する正当な理由を用意していない様態こそ、まさにカルトなのだと言えるわけです。

84犀角独歩:2003/08/26(火) 12:33

―83からつづく―

> …受戒に相当する洗礼

ここで、キリスト教における洗礼の有様をレクチャーくださりましたが、わたしもこのような在り方には賛同の意を表してきました。一昨年、わたしの友人のお姉様が50歳の若さで亡くなったのです。祖父母の代からクリスチャンと聞いていました。子どもの頃から教会通いを習慣としている人でした。最期、自分の死を覚ったとき、洗礼を受けて、その三カ月ごに亡くなりました。本当に穏やかな笑みを含んだような表情と、色の白さが一際目立つ御遺体であったことを覚えています。

なお、これはアネモネさんに異を唱えるわけではなく、ほんの訂正ですが、洗礼に相当する仏教の儀式は灌頂であると思います。もちろん、灌頂は受戒を意味することになります。洗礼は洗う礼で頭に水を注ぎ洗うことですね。灌頂も同様です。ところでこの灌頂は、元来は仏教の儀式であったというより王位継承の儀式であったようです。

*** 以下転載 ***

かんじょう くわんぢやう 0 【灌頂】

〔梵 abhieka; abhiecana の訳。古くインドで、国王の即位、または立太子の際、頭頂に水を注いだ儀式から転じたもの〕
(1)〔仏〕
(ア)菩薩が最終の位にはいる時、仏が智慧の水を注ぐこと。
(イ)密教の儀式。伝法・授戒・結縁などのとき、香水(こうずい)を受者の頭に注ぐこと。
(ウ)墓参りなどのとき、墓に閼伽(あか)の水を注ぎかけること。
(2)雅楽・謡物(うたいもの)・和歌などで秘曲や秘事を伝授すること

*** 転載おわり ***

> 目的のためには手段を選ばない

悪事というのは常にそうですね。
わたしは、「子供がカルトに入った。助け出したい」、そう相談に見える親御さんに常に言うことがあります。「善意の目的のためには善意の手段を選ぶこと、目的のためには手段を選ぶこと」と言います。

> 成果主義…

成果主義は、集団にとっては利益を、集団のヒエラルキーにあるものでは忠誠心を、また信者にとって満足感を得るものとなります。しかし、まったく信仰とは関係のないものでした。ミルグラム師が

「“忠節”、“義務”、“規律”といった個人的価値は、ヒエラルキーの技術的必要からきている。個人はそれらを高度に人格的な道徳規範のように感じているが、体制の水準では、それらは、大きな組織を維持するための技術的前提条件に過ぎない」(『服従の心理』(河出書房新社)P242)

と記す点です。
なにより、ハッサン師が言うように信念を強固にする最大の実践教育でもあるわけです。

「社会心理学の研究が示したところによれば、自己の信念を他人へ売り込む努力ほど、その人の信念を固めるものはない。新メンバーにそれをさせることが、カルトの人格を急速に結晶させるのである」(『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版 P132)

入信したアネモネさんが、やがて、ご自身までも勧誘をし、構成員になっていった理由はここにあったのでしょう。

> …蓮師にとっての入信

実は「待っていました」と言いたいご質問です。
というのは、蓮師の真跡を当たると、この「入信」という語彙の使用は一カ所たりとも見出せないのです。それどころか真偽未決書を含めても、この語彙の使用はないのです。ですから、蓮師は「入信については何も言っていない」が正解ということになります。

ところが面白いことに灌頂(章安)述には既にこの語彙の使用は見られます。
蓮師の語法で言えば、むしろ「発心」がそれに近いのではないでしょうか。

85犀角独歩:2003/08/26(火) 12:34

―84からつづく―

> お釈迦様にとっての、いわゆる入信とはどのようなことだったのでしょう

これはどうでしょうか。この点、わたしは詳しくありません。
しかし、当時の社会で、シャキャムニは独立宗派を立てていた意識など毛頭なかったでしょう。バラモン教圏におけるシュリマーナ(=精進する者/沙門)としての自覚でしょう。それでも自分の集団を、男性出家修行者・女性出家修行者・男性在家信者・女性在家信者で構成していると見做し、持戒をもってそれを認めていたのではないのかと思えます。入信というより、日々の正道の繰り返しに力点があったのではないでしょうか。なお、ここでの戒律は自戒であって、集団から強要されるものではなかったようです。

> 自分の境界

以前も感心しましたが石山の、特に『大日蓮』表記では「境界」と書いて「きょうがい」と読ませます。学会では「境涯革命」などと言っていたと記憶します。「持つ」と書いて「たもつ」です。これらの表記、アネモネさんは見事に使われますね。

さて、真跡に見る境界は「きょうかい」であって「きょうがい」ではないは思えます。境界ですから界の境ですから、高めるも何もあったものではありません(笑)

それが仮に「きょうがい」であっても「境界(境涯)が深い/高い」は、単に信念体系が強固で思い込みの激しさが使命感・責任感として表れ、人の優位に立っているという勘違いを超えるものとは思えません。

> 結局、指導教師という立場の住職は、折伏(勧誘)に際しては、アンカーとして受戒の儀式をとりおこなうだけの役目

これは実際にそうなっていますね。頭に、巻いてある漫荼羅を当てて、日蓮宗一般で行う経巻頂戴の文句「今身より仏身に至るまで…」と唱え「持(たも)ち奉るべし」と応えれば、それで信者、受戒だとはよく言ったものです。おまけに「末法無戒」とまことしやかに語る舌の根も乾かさず、「受戒」「戒壇」というわけですから、自語矛盾も甚だしいと言わざるを得ません。

> 言論封鎖と統制も、カルト性を象徴する…

残念ながら、僧判断せざるを得ない側面が散見されます。

> 「折伏させて頂く」…実態は「させられている」わけです…

まさに仰るとおりですね。

> 私には、人から好く思われたいという心が強く…おだてられれば

いや、これは誰しも持つ感情です。ここを利用するわけです。ハッサン師は

「マインドコントロールは、露骨な物理的虐待は、ほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な植え込み効果をつくりだす。本人は、直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりに選択をしてしまう」(109頁)

> 次第に優越意識が強くなり…不信の者を見下し排他し差別…憎悪・エネルギーが、生活の活力そのものにもなっていったようにも思い返されます。

これがわずか数年で起きた変化であるわけですから、すさまじいものがあります。
絶大な影響力の行使が窺い見えますね。排他、差別、憎悪操作とそのエネルギーによる人心煽動、すべてが破壊的カルトといわれる集団で行われるところです。

> 組織や信仰そのものから距離を置いてみることを、自らの意思で選択しました。

立派なことであると思います。
先に記したとおり、カルト環境では「やめる正当な理由はない」やめた人は「裏切り者」「地獄に堕ちる者」とさんざんに貶されるばかりです。ですから、わたしは自分の意志でやめたことを表明する人に対しては、反対に万雷の拍手を送ると共に、心から尊敬の意を表する者です。

> 距離を置くことで、見えなかったことがたくさん見えてきたような気がします。

まったくそのとおりですね。

長くなりました。
そろそろ、(1)専門的な仏道修行をしていない信徒が、成果主義に基づく布教活動の担い手になっているということ のまとめをお願いします。

86アネモネ:2003/09/09(火) 21:21
>アネモネさんの長文に圧されやや時間が空いてしまいました。
お詫びいたします。

とんでもありません。私も時間の都合で、立て続けにレスしたかと思えば、今回のようにポッカリと間が空いて超カメレスになったりと変則的ですので、気楽に考えましょう。
少々間延びしてしまった感もあるかとも思いますが、やはり大事なテーマですので、引き続きお付き合い願いたいと思います。

>前者の「騙された」は違法性に抵触する集団の問題、では、後者「断れない」は、たしかに集団の問題点もありますが、こちらは被勧誘者の問題もはらんでいるとわたしは思うのです。

転載の体験談を読ませて頂いて、なにごとも「考える猶予」を持つことが大事だということを改めて考えさせられました。しかもそれは相手から与えられることを期待していてはだめで、自らの意思で主体的に求めていかなければならないものだとということを、つくづく感じたものです。

自分のことなのですから、結論を導く主導権は自分にあってしかるべきことです。ところが一歩組織的なところに足を踏み入れ、取り囲まれてしまうと、あっけなく主導権を奪われてしまい、結果的に気がついたら、あれよあれよと意思を委ねてしまうわけですね。
しかし、お寺にはじめて行ったその場で入信を迫るというのは、普通で考えればおかしなことなわけです。入信などということは、あくまで自発的に至る境地であって、他者が脅かして迫ることではないはずです。

それではなぜそのような組織の実態になっているのかという問題に、どうしても行き着くわけですが、そのようなことを煽っている教義内容と、またそれを煽動する聖職的立場の責任について、次の「僧侶の法話が、信徒の折伏推進が中心となっていて、法華経も仏教もほとんど説かれていないということ」の項目でじっくり考えてみたいと思います。

>「どんな勧誘者でも対応できない応答がひとつある。あなたが彼の前から立ち去るという応答である」(196頁)
しかし、これはなかなかできないものですね。

私の場合もそうでしたが、食事に誘われたり、または家に招かれたりと、友好的な関係が前提にあることが多く、そのために尚更、強く断ることが出来なかったりもするものです。言葉をかえれば、そのような友好的な信頼関係があるからこそ、組織に誘い込むような真の目論見など疑ったりしないという善意もあります。
しかし結局はカルト的組織への勧誘とは、そのような善意の関係や友好的な関係を利用する場合が多いものなのでしょう。
その関係を利用する信徒本人は、そのような手段であっても仏の意に叶った行いだと信じ込まされているわけですから、これもまた本当の意味での悪意ではないのかもしれません。

そもそも日本人は、その民族の大半が、農耕社会という相互扶助の精神で今日まできているわけですから、もともと他人に対して非常に親切であり、またお節介でもありますね。そういう意味では、個の確立や自立というよりは、むしろ共依存の形態が根強い民族だといえると思います。
ですから、独歩さんが提示して下さった、棚村先生の三つの要因の中でも、とりわけ「『ノー(No)』と言える雰囲気が整っていないといけない」という勧誘側の好条件の素地があり、見方を変えれば、カルトやマルチの勧誘とは、NOと言わない日本人特有の民族性を逆手に利用した手段や手法といえるかもしれないな、ふと思いました。

87アネモネ:2003/09/09(火) 21:21
(つづき)
ものごとをはっきりと断るといった言動は、非常に人間関係に角がたつことが多く、日本人はなるべく断りの文言を敬遠する民族といえるのではないでしょうか。
恐らく、古くから個人主義が発達してきた欧米などでは、たとえ相手がNOといったからといって、そのことがもとで人間関係がこじれるといったことはほとんどないのかもしれません。むしろ、はっきりと意思表示をする関係のほうが、信頼を得やすく、より友好的な関係が築けたりもするものかとも、私なりには、そのような印象を受けます。また、そこまで自分の意思表示をするだけに、意思決定について、それを他者に委ねたり責任転嫁をしたりといったことなどは、とても考えられないことではないかと思われます。自己責任の厳しく、自分に厳しく課せているように思われます。やはり個人主義が徹底されているのでしょう。

しかし、日本人の場合は大きく違っています。往々にして全体主義であり、一人浮いてNOと言ってしまったら、その時点で村社会での人間関係が崩れてしまいかねないわけです。恐らくそれは、農耕民族特有の共依存的な相互扶助を基盤とした共同社会だったからではないでしょうか。そのために、人間関係を崩さない手法のひとつとして、非常に曖昧な言葉のやりとりを構築し、微妙な言い回しによって意思表示をしたり、またそれを察したりという、細やかな神経の言語表現が出来上がってきたものかもしれません。
自己主張を控えて、周りに足並みを揃えるという協調性のほうが求められるわけですね。ですから、組織に連れてこられた瞬間から、その場の空気に合わせてNOといえなくなってしまう風潮は、日本人特有の風土的なものといえるでしょうし、また依存的意識も根強いわけですから、意思決定を他人に委ね、その結果、安易に責任転嫁してしまうケースも多いことなのでしょう。
そしてその場の空気に馴染んできたことで、「誰某さんが正しいといったから」「住職がこう言うから」「御法主上人が仰せだから絶対」といったような言い回しをするようになるわけです。一見、強固な信念に基づく言い回しのように聞こえるものの、その言葉にまるで自分というものはなく、また古くから受け継がれた滅私奉公の精神性ともあいまって、このような信仰姿勢がいかにも正しいと錯覚されているものでもあるでしょう。
しかし、意思決定の主体性こそ、信仰者の信仰責任の第一歩だと思います。その自己責任を自分に課したならば、こうした常套句は自ずと口に出来なくなるものと思われます。逆に平然と口にしている間は、無責任体質であるということがいえるでしょう。

>情報・環境・保証がない勧誘は、そもそも勧誘者側の義務善意を損なうものであるわけですから、厳格にいえば、勧誘を無効とすることもできます。いわゆるクーリングオフといったところです。

全くその通りですね。
キャッチセールスや訪問販売、さらにはマルチ商法の勧誘でさえも、クーリングオフという法律の規定によって、消費者の主体的な猶予が保護されているわけですね。
やはり考える猶予が持てるかどうか。またそこで判断された個人の結論を尊重されるかどうか。その結論によって人間関係を豹変させるようなことがないかどうか。人間関係の豹変は、まさにNOという意思表示をした人に対する、圧力を意味します。
独歩さんが富士門掲示板で紹介された、藤沢の顕正会員による事件などもこれに匹敵することといえるでしょう。
目的の為には手段を選ばないことはかねてより議論に出たことですが、実はその手段こそ、その人の人間性や人格を示すものといえるわけですし、信徒の人間性や人格は、教団の体質そのものが反映されたものと、とれるわけです。手段は選ばれなければならないといえるでしょう。
ところが、教団側は、いざ教団内から反社会的な不祥事が表面化すると、最後は破門にして教団としての社会的責任を回避し事なきを得ようとすることがよく聞かれます。しかし、これこそ教団の無責任体質の最たる姿だと思います。この点も次の項目に関連していく内容となるでしょう。

88アネモネ:2003/09/09(火) 21:22
(つづき)
結局は、教義の中身云々よりも、こういうなにげない信仰者の振る舞いが、その教えの健全性や信憑性、さらには正当性をも示すものではないかと思わざるを得ません。
どんなに立派な教義があっても、カルト性を脱していない組織には、出来るだけ近寄るべきではないということになるでしょう。騙してそこに連れてこられたときには、敬して遠ざける、「敬遠」こそ最善策ではないかと思います。実際に、勧められてもそのような判断に基づいて、敬遠の意思表示をしてきている人はたくさんいらっしゃいますね。賢明な人たちだと思います。
こうなってくると、友好関係を利用して勧誘する人たちは、結局は次第に友人からも社会からも敬遠されてしまいます。やがて社会的に孤立していくわけですね。ところが刷り込まれた信念体系が、社会から孤立していく自分の存在に、益々宗教的エリート意識を助長させ、その意識は誇大妄想化して、一層反社会的思考が強まるものといえるでしょう。そうなってくると最終的には社会的に不適応な人格的破綻者にもなりかねないわけで、そこが、カルト的宗教の最も恐ろしいところかと思います。
先にも書きましたように、日本人はもともとが農耕民族で、社会的孤立に耐えられるほどの強い個人主義の精神は培われてこなかったわけです。
日本人にとっては、最初から宗教の信念体系によって社会的に孤立していくこと自体が、最も危険な心理状態に陥るものであるかと思います。

また私もそうでしたが、往々にして、人生の苦しみに喘いでいる人の多くは、藁をも掴む思いであり、そのような状態のときは、冷静な思考や賢明な判断はなかなかできるものではありません。もっといえば、人の善意と、さらに人の弱味につけこむ勧誘方法をしているのが、カルト的宗教組織といえるものかと思われます。

また、人生の苦しみには直面していなくとも、社会的に未熟な青少年も同じく、賢明な判断が必ずしもできるものではないでしょう。たがらこそ、勧誘者はそのような心理的弱者をターゲットにしているものと考えられます。
法華講の場合は、伝統の仏教宗派を立て看板に据えて、お葬式を謳い文句に、高齢者への勧誘が多かったように思われます。しかし、高齢者も当然のこと心理的弱者に入るでしょう。NOといえない心理的弱者がターゲットとなり、やがて入信した心理的弱者はさらに別の心理的弱者をターゲットに勧誘を続けるという、連鎖の構図がみてとれます。

本来、心弱き心理的弱者こそ、癒し導かれて救われなければならないものだと私は思います。まずそれが先行されなければならないはずで、そのようなところに、宗教の存在価値というものがあるはずではないでしょうか。
ところが、心理的弱者は救うべき対象と称しながら、実際は教団を支える頭数と資金源として標的にされてしまっているわけですね。また本来、布教活動に勤しむべきは、聖職者のはずです。にも関わらず、聖職者は実質的な布教活動を怠り、ただただ信徒を手足にして寺院で妻子ともども安穏と暮らしているわけです。
出家僧が、妻子ともども安穏と暮らす。これ自体がおかしいわけです。
一方で、在家信徒は自らの経済的基盤も支えながら組織をも支え、時間を切り詰めて活動の犠牲を強いられているわけです。そのバランスを保つことは並大抵のことではないでしょう。当然、いつまでも保てるものではなく、仕事が疎かになれば、経済的破綻は免れません。生活が成り立たなくなって一家離散を余儀なくされてしまったケースも多く聞かれます。救いを求めたはずが、更なる苦しみが幾重にも重なっている現状です。しかも、不幸な末路は、教団の正当性を汚すものであり、救うどころかネグレクトされてしまったりもするわけです。そのような悲惨な状況に陥っている人は、潜在的に相当数いるのではないでしょうか。

そのような多くの信徒たちの犠牲を煽りながら、本来布教活動をするべき僧侶が安閑安穏とした生活をしているという点を、次の項目でじっくりと議論してみたいと思います。
いずれにしても、一般信徒は教団の手足にされているわけで、まんまと乗せられているその法話の内容について考え、真の仏教精神が説かれているものなのか否かということを考えてみたいと思います。
また、大石寺系から狂信的ともとれる在家教団が分裂していく背景にも、次の項目に関わる要因の一端があるのではないかとも考えるところです。

89アネモネ:2003/09/09(火) 21:22
(つづき)
>これはキリスト教の経験からであったのですね。「宣教師」などというのでした。“専ら教える師”、そのために専門教育を受けている前提があるのでしょうか。

象徴的な言葉としては、宣教師という言葉が一番に浮かびました。伝道師という言葉もありますね。この「伝道」という言葉はイエスの布教の行動を示す言葉として、聖書の中でもよく使われていたかと思いますし、エホバの証人は自分たちの勧誘活動を称しても「伝道」と言っていたようです。さらにそのように聖書の言葉を伝道していくことをエホバの人たちは、「奉仕活動」と呼んでいるようです。
しかし私は、エホバがいう奉仕活動に、実は非常に違和感を覚えております。私が親しんできたキリスト教組織では、いわゆる信徒による奉仕活動とは、老人ホームや福祉施設などへお手伝いに行くといった、ボランティア活動を指すものだったからです。訪問先の信不信を問わず、遍く社会や人々に尽すことが、神への奉仕と解釈されているわけです。
言葉ではなく、行いでもって、教えの精神を実践し、その実践によって世間の人々に教えを伝道していたように思うのです。
私が常々、難解な教義よりも、信仰者の振る舞いそのもので、その教えを推し量ろうとしてしまうのは、そのような宗教経験からくるものかもしれません。
まあ、その賛否はともかく、そのような行いの実践における究極の姿は、マザー・テレサにみることが出来るといえるでしょう。
マザー・テレサから直接、聖書の言葉を学ぶことはないとしても、彼女の行い取り組み、そして姿そのものが、大変大きな布教や伝道になっていると思うものなのです。
何が説かれているかよりも、説かれたことによって、どのような行いをするようになるのか。私はここが宗教の善し悪しを判断するところではないかと思います。
ですから、一般信徒が、ただ勧誘に明け暮れているだけの教団は、何も世の中を幸福へと導いていない、人々を救っていないものとみなしてしまうところです。実際に経験してみて、本当にそうだったと思います。

話しが長くなりますが、私が、入信した年は阪神・淡路大震災のあった年だったわけです。あまりに学会の仏罰まがいの話ばかり聞かされていたので、私はふと、そんなことより教団として何か義援活動などはしていないのかと、なにげなく折伏の親に尋ねてみました。そのときのことは、今でも思い出されますが、私の一言に対して、「豚汁つくって、やっているわよ!」と、非常に憤慨された様子で言葉を返されました。聞いてはいけないことを聞いたのかと驚きもしました。
後になってわかってきたことは、日蓮正宗は宗祖の精神に即してか、慈善活動などに対して非常に消極的、もしくは否定的だったわけですね。
私も改宗した以上は、元信じていた宗教よりもより高い精神性を示すものであることを望んでいたわけです。ところが、慈善活動そのものを、頭ごなしに見下す言葉が僧侶の口から何度も聞かされたものですから、そのことを自分なりに納得するのには苦慮しました。
しかしそれでも、8年も組織にいれば、考え方は次第に馴染んで変るもので、「慈善事業」という言葉の響きにいつしかを否定的な感覚を覚えるようにもなっていました。
自分の心が求めてきたものと、変えられてしまった心との狭間で、今もいろいろな葛藤は私の中で続いています。
しかし、苦しんでいる人、困っている人を目の当たりにしたとき、自分が何をしようとするかは、まさに自分の内面がどのような状態であるかを端的に示すものではないかと思います。成仏の相とは、臨終の顔色がどうこうよりも、むしろ生きているときのその人の行いにこそに顕れるものではないかと、そんなふうにも思うものです。

90アネモネ:2003/09/09(火) 21:23
(つづき)
>洗礼に相当する仏教の儀式は灌頂であると思います。

なるほど。そういうことになるのですか。

>自己の信念を他人へ売り込む努力ほど、…入信したアネモネさんが、やがて、ご自身までも勧誘をし、構成員になっていった理由はここにあったのでしょう。

信念も築かれていないうちから、信念を形として示す必要に迫られるわけですね。自分の罪障消滅ということももちろんですが、恐らく、突き詰めると、自分の存在意義を組織に求めようとしてしまっていたのではないかと振り返ります。いわば、自分の居場所です。
いろんなことが見えてきても、そこから抜け出す決心のつかない大半の人は、自分の居場所を失う不安が拭いきれないからではないでしょうか。
また、拠り所を失ってしまうことに対する恐れもあるでしょう。その拠り所とは、まさに自分自身の存在意義、要するに居場所ということと大きく関わるものではないかと思われます。

>蓮師の真跡を当たると、…蓮師は「入信については何も言っていない」が正解ということになります。

これは驚きです。「入信」という言葉よりはもしかすると、「帰依」とか「帰命」が適切なのでしょうか。

>ところが面白いことに灌頂(章安)述には既にこの語彙の使用は見られます。

この灌頂とは、在家の人に対しても行われた儀式なのでしょうか。

>蓮師の語法で言えば、むしろ「発心」がそれに近いのではないでしょうか。

発心という言葉は、とてもいい言葉だと思います。

>>お釈迦様にとっての、いわゆる入信とはどのようなことだったのでしょう
>入信というより、日々の正道の繰り返しに力点があったのではないでしょうか。なお、ここでの戒律は自戒であって、集団から強要されるものではなかったようです。

あくまで自分で律して、自分でつかみ、そして自分で悟っていくという姿が目に浮かびます。
自分を見失ってはならないはずの教えが、自分を見失うような教えに歪められているのは、組織の論理からくるものが大きいように思われます。この点も、次の項目と大きく関わっている点になるでしょう。

>これがわずか数年で起きた変化であるわけですから、すさまじいものがあります。

むしろ自分自身の弱さの裏返しで信念体系が強まっていったように思われます。

91アネモネ:2003/09/09(火) 21:23
(つづき)
>絶大な影響力の行使が窺い見えますね。排他、差別、憎悪操作とそのエネルギーによる人心煽動、すべてが破壊的カルトといわれる集団で行われるところです。

8年間という短い期間に、一気に慌しく駆け抜けたような気もします。
ただ、私自身の入信がある程度の年齢を越えていたこともありましたから、早々にいかがわしさに気がつき、狭められた視野を広げなおすことにさして時間はかからなかったのかもしれません。
実際のところ、しらけてしまったという表現がぴったりでしょう。
しかし、もしも入信が多感な青年期であったり、もしくは生まれついたときからの信徒であったならば、刷り込まれた思考を変えていくことは、とても容易なことではなかったと思います。ですから、議論を詰めどこかで矛盾を感じながらも、組織や信仰から距離を置く決心のつかない人の気持ちはよくわかるつもりです。
また同時に、意思決定に関わる自我も芽生えていない乳幼児のときから、親の意思で入信をさせてしまうとか、もしくは情緒的に不安定な青年を終末思想で動揺させて勧誘をする布教のやり方について、私は非常に問題視しています。おそらくこれからは、こうしたことも人権侵害に抵触していく問題として考えていかなければならないことではないかと思われます。
ただ数を増やすことばかりに腐心するカルト的教団には、警戒とチェックを怠ってはならない重大な社会問題であると考えております。

>カルト環境では「やめる正当な理由はない」やめた人は「裏切り者」「地獄に堕ちる者」とさんざんに貶されるばかりです。

組織から距離を置いて一年半ですが、昨年は、三十万登山の真っ最中ということもあって、人集めに躍起になっている信徒の方々からの勧誘の電話に悩まされていました。私自身も距離を置くという意思をくじかれたくない思いから、ついつい語気が強まり、それに感応する信徒の方は怒りをあらわに、「地獄に落ちますよ」と確信的に言われたものです。その言葉に動揺し不安にならなかったといえば、嘘になります。冷静さを取り戻して、不安を解消させる意味においても、富士門の掲示板での議論の参加は、非常に貴重な経験でした。

私自身は、たいして教学を身につけてきたわけではありませんが、それでも地獄に落ちるなんてことが確かなことではないということに目を向け、納得する為には、少なくとも刷り込まれただけの教学に対して、ひとつひとつ学び直していくことが有用なことだったといえます。刷り込まれた教学が、足枷になっていたわけですから、それを外さなければ、どうしても思考の身動きがとれないわけですね。

最初から確信をもった「信」があるわけではありません。受戒という「形」から入り、勤行唱題という「形」を続け、そして折伏(勧誘)という活動の「形」が仏道修行と思い込まされるわけですね。その「形」を少しでも怠って崩してしまうと、懈怠謗法になるという強迫観念がついてまわるわけです。その「形」の連続の中で、身につけていく(刷り込まれる)教学と信念体系も「形」の構築であり、私のように初級レベルで終わった者であっても、その「形」への捉われを取り除くには、結果的に掲示板参加の約2年を要したことになります。
やや抽象的な表現になりますが、要するに、その「形」こそが「信」だと錯覚していたのではないかと思うのです。また「形」の継続が「信念」だと思っていたと思うのです。
しかし、やがて培われた強迫観念は病的なところに至っていたと思われます。
宅間の問題でも思ったことですが、病的なまでの強迫観念や信念体系を継続させられる教団には、人格的破綻者が多いのは実態ではないでしょうか。
こうした実状を考えても、次の「僧侶の法話が、信徒の折伏推進が中心となっていて、法華経も仏教もほとんど説かれていないということ」は、一般信徒の勧誘活動の責任をも左右する、核心的な部分ではないかと思われます。
端的なまとめにならず恐縮ですが、第一項目は、第二項目と相互関係にあるものですので、徐々に議論を移しながらのレスを頂ければと思います。よろしくお願いいたします。

92犀角独歩:2003/09/09(火) 22:00

アネモネさん:

久しぶりのご投稿、有り難うございます。
思い出していたのですが、昨年の昨日9月8日。池上で富士門流信徒の掲示板のオフ会が開催されました。その時、初めてアネモネさんにお会いしました。
あれから、1年。いま、こうして有意義な議論ができることを嬉しく思います。

追って、レスを記させていただく所存です。

93アネモネ:2003/09/09(火) 23:21
犀角独歩さん

>思い出していたのですが、昨年の昨日9月8日。池上で富士門流信徒の掲示板のオフ会が開催されました。

早いものですね。
富士門信徒の掲示板は、3年足らずながら、とても大きな歴史を感じます。

>あれから、1年。いま、こうして有意義な議論ができることを嬉しく思います。

こちらこそです。
富士門信徒の掲示板には、新たな投稿者も増え、次の展開らしきものもみられて非常に興味深いですね。私などは、とても教学的に着いていけない内容が繰り広げられているので、すっかりロム専になってしまっておりますが、しかし、個々の参加者の投稿からは投稿姿勢、つまり信仰に対する取り組み姿勢というものが、垣間見えてくるような気がします。取り組み姿勢は、そのまま人間性を反映するものとも思われ、私はその点をいつも注目しております。
また投稿こそ頻繁にしなくとも、根気強くロムを続けながら、意識を新たにしていかれた方もとても多いことと思われますね。
有意義な掲示板であることを、改めて感じます。

私の場合、富士門の掲示板にたどりついたのは、まったくの偶然ですが、思い切って掲示板に参加して本当に良かったと思っています。
また独歩さんとはそれこそ、紆余曲折、何度も対話の決裂をみながらも、時を経てオフ会でお会いでき、こうして落ち着いた議論が出来るようになったことは、本当にとても光栄に思っております。
まあ、ともかく私は生意気でした(笑)
今も根本的にはその体質は変っていませんが、投稿における取り組み姿勢はいたって真面目なつもりです。その点に免じて、今度とも根気強くお付き合い願いたいと思います

94犀角独歩:2003/09/26(金) 19:27

しばらく時間が空いてしまったことをお詫びいたします。
ようやくと「(2)僧侶の法話が、信徒の折伏推進が中心となっていて、法華経も仏教もほとんど説かれていないということ」に入るところまでやって来ましたね。ご提案から実に3カ月余、100日が経過しました。このスピードですと、(3)が終わるのは来年の初夏になってしまいます(笑)
まあ、それも宜しいかと思います。

それにしても、お互いに応答を繰り返しているうちに、返すがえすで下ぶくれのように長文になってきてしまいました。先に頂戴したご投稿の一々にお応えしますと、また、著しく長いものになってしまいますので、今回は要点を掻い摘ませていただきます。ですから、次いで(2)の導入をお願いいたします。

> 自分のことなのですから、結論を導く主導権は自分にあってしかる

この主導権を如何に奪うかが勧誘側の技術になっているわけです。

> …カルト的組織への勧誘…善意の関係や友好的な関係を利用する

社会心理学で言う「ローボール・テクニック」ですね。

> NOと言わない日本人特有の民族性を逆手に利用…

そうですね。先にアネモネさんは「善意の関係」と記しておられますが、これを勧誘に転用した段階で、既にこれは善意でなくなっている点を注意したいと思います。
ここの分析は流石であると拝読しました。

> クーリングオフ

宗教勧誘でもクーリングオフはあってしかるべきです。
けれど、わたしも所属時代には“指導”されたのですが「折伏は断られたときから始まる」と言います。無限連鎖、際限なき、食らいつき、これを「善意」の美名で強行し、ついには社会問題にまで転落していくわけです。「自分たちは絶対に正しい」という無反省且つ厚顔無恥とも言える思い込みで“善意”を押し売りしてくるわけです。
ここではまったくクーリングオフは生きませんから、被勧誘側が毅然とした意志と、違法勧誘への知識で防備することが必要になってくるとわたしは考えます。

> 藤沢の顕正会員による事件

まったく、ひどい事件でした。
わたしはこの事件の概要を知り、正直、腹を立てました。
このような事件を正当化するのであれば、この団体は違法集団として弾劾せざるを得ないという認識を新たにしたものです。

> 教団の無責任体質…

無責任体質の教団は、それだけで既に社会悪である。
富士門流信徒の掲示板でも紹介した言葉ですが、浅見定雄師が「何を信じているのかは問わない。何をしているかである」と仰ったのはまさに達観でした。しかし、「教団論理が社会の上を行く」と考える違法集団では、この師の言葉を理解することは不可能でしょう。ここに深刻な問題があります。

> 結局は、教義の中身云々よりも、こういうなにげない信仰者の振る舞いが、その教えの健全性や信憑性、さらには正当性をも示すもの

これはそのとおりでしょう。
罪人として処罰された蓮師でさえ、「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ」と記したものでした。

> 敬遠の意思表示

大事な点です。しかし、こんなことで引き下がらないのが違法集団ですが。

> 人の善意と、さらに人の弱味につけこむ勧誘方法…カルト的宗教組織

このご意見には賛成します。

95犀角独歩:2003/09/26(金) 19:28

―94からつづく―

> 社会的に未熟な青少年…賢明な判断が必ずしもできるものではない…心理的弱者をターゲットにしている

これもまったくそのとおりでしょう。
このためにもっとも有効な方法は「予防」でしょう。

> 多くの信徒たちの犠牲を煽りながら、本来布教活動をするべき僧侶が安閑安穏とした生活をしているという点を、次の項目でじっくりと議論してみたいと思います。

そうですね。しかし、これは僧侶に限らず、在家団体における特権階級にも同様に言えることです。僧侶云々というより、宗教の美名の元で人心を操り収奪を繰り返す者が悪意を暴くことにも焦点を当てるべきでしょう。

> 大石寺系から狂信的ともとれる在家教団が分裂していく背景にも、次の項目に関わる要因の一端がある

つまり、この点です。

> 日蓮正宗…「慈善事業」…いつしかを否定的な感覚を覚える

ええ学会を含む大石寺家集団ではこのような理屈が罷り通っています。
しかし、海外では学会はNGOに積極的に参画したり、また、石山僧の中でもかつてはハンセン氏病救済活動をしていた人が伝えられます。大正皇后は石山信仰をされていたと伝わりますが、この方もまた同救済活動をされていたと聞いています。
しかし、集団組織として行っていないのはなぜか、何より信仰している個人が事前意識が宗教行為にすべて置き換えられてしまっている悪習、この点は考えなければならないでしょう。

> 成仏の相とは、臨終の顔色がどうこうよりも、むしろ生きているときのその人の行いにこそに顕れる

まさにそのとおりですね。

> いろんなことが見えてきても、そこから抜け出す決心のつかない大半の人は、自分の居場所を失う不安が拭いきれないからではないでしょうか。

それも一つあるでしょうね。もう一つは恐怖操作でしょう。

>> 蓮師の真跡を当たると、…蓮師は「入信については何も言っていない」が正解ということになります。
> …「帰依」とか「帰命」が適切なのでしょうか。

そうなりますね。そして、蓮師が言う帰依・帰命は、間違いなく集団に対してのものではなく仏・法に対してでした。その延長に自分への帰依も示しています。自分への帰命、この点に関してわたしの判断は慎重です。

>> ところが面白いことに灌頂(章安)述には既にこの語彙の使用は見られます。
> この灌頂とは、在家の人に対しても行われた儀式なのでしょうか。

これは先に洗礼に当たる儀式として、灌頂を挙げたのでアネモネさんは勘違いされてお出でなのでしょう。
ここでいう灌頂は天台智邈大師の弟子、章安大師灌頂のことです(笑)

なお、儀式としての灌頂が在家に対して行われるとすれば、それは昔で言う貴人に限ったのでしょう。石山系でいう国立戒壇とは、その元意は天皇が灌頂、すなわち授戒を受けるための壇という意味でした。

96犀角独歩:2003/09/26(金) 19:29

―96からつづく―

> …受戒・「形」…勤行唱題・「形」…折伏(勧誘)・「形」が仏道修行と思い込まされる

この点も富士門流信徒の掲示板で引きましたが、重要なので、ハッサン師の言葉を再掲します。

「はじめはわざと役割演技をやっていても、ついには演技そのものが現実となる。彼は全体主義的なイデオロギーを身につけ、それが自分のものになってしまうと、それが以前の彼の信念体系にとって変わる」(『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版 P105)

この「役割演技」という点が重要です。「信者であれば、信心があれば、こうするはずだ」というプロトタイプを提供され、そのようにやっていくうちに恰も自分が信心があるような錯覚に陥っていきます。

「信心強盛」、同信念体系内ではそのような表現されますが、なんて言うことはありません。「強盛」ならぬ、「強情」であるだけに過ぎません。

> 「形」を少しでも怠って崩してしまうと、懈怠謗法になるという強迫観念

この脅迫と恐怖を各人が勝手に陥るようにすれば、隷属としてはほぼ完成されたことになります。あとは指令を出さなくても、怯え、義務感に囚われ、決められたとおりに勝手に行動していくことになります。ハッサン師の言葉をもう一度引きます。

「マインドコントロールは、露骨な物理的虐待は、ほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な植え込み効果をつくりだす。本人は、直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりに選択をしてしまう」(同 P109)

「教義が、思想と感 情と行動のすべてを決める『マスター・プログラム』となる。それは完全で絶対的な真理そのもの なので、教義のどんな欠陥も、信者自身が不完全だからそう見えるのだとされる。信者は、たとい 本当には理解できなくても、決められたとおりの信条に従わなければならないと教えられる。同時に、真理をもっとはっきり『理解』できるようになるには、もっと働き、もっと信仰を深めなければならないといわれる」(同 P148)

以上は、ハッサン師が破壊的カルと言った統一教会の事情を説明したものです。
しかし、もし、この指摘が当て嵌まる集団があるとすれば、その集団もまた、同じく、破壊的カルト・マインド・コントロールを使用しているということです。

> 「形」こそが「信」だと錯覚していた…「形」の継続が「信念」だと思っていた

まさに名言であると思います。

以上、レスをさせていただいた形になりましたが、掻い摘んだつもりでもやはり長くなってしまいました。これは措いて「(2)僧侶の法話が、信徒の折伏推進が中心となっていて、法華経も仏教もほとんど説かれていないということ」への導入をお願いしたいと思います。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板