- 1 名前: ρ(=$ω\)ノ さぃきょぅ 投稿日: 2002/03/20(水) 13:39
読んだ事の無い本、観た事の無い映画、聴いた事の無い音楽。 何でも批評しちゃうヨ!
- 2 名前: ρ(=$ω\)ノ さぃきょぅ 投稿日: 2002/03/20(水) 13:40
「 男はつらいよ 」( 山田洋次 1969 )
日本映画史上に残る最高傑作。文芸と娯楽の両立を成し得た唯一の作品であり、 J.L.ゴダール、V.ヴェンダース、S.スピルバーグなど直接の影響を公言して憚らない作家も多い。
物語は主人公、車寅次郎とその妹さくらとの禁断の愛を軸に、世界を又にかけ活躍する秘密諜報員 寅次郎の活躍を描いている。 悲劇的な愛の行方やハリウッド顔負けのアクションシーンに眼を奪われがちだが、 この映画の真の見所は、キャメラワークの美しさにあるだろう。 映画冒頭の松竹の社名ロゴは一見他の作品と同じに見えるが、背景の富士は本作品の為に山田洋次自らデジタルハイビジョンで撮りなおし、 社名ロゴを米コダック社でデジタル合成するという懲り様である。 そのこだわりは本編でも遺憾なく発揮され、寅次郎の初登場シーンにおける、 浅草の街の俯瞰から寅次郎の雪駄へと切れ目無くズームしていく奇跡的なドリー撮影。 あるいは、遂に想いを遂げながらも不治の病いに冒された事実を兄に隠そうとするさくらの心情を描写する、 映画史上最も挑発的な、一切の台詞を省いた1シーン1ショットの長回し撮影。 そして妹の死を知らずに気楽な足取りで叔父夫婦の店へと帰って行く寅次郎の、 切なくなる程の陽気さをたたえた主題歌を唄うミュージカルシーンは、渥美清の好演とも相俟って、 フレッド・アステアの「踊らん哉」、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」に並ぶ最高の演出となっている。 圧巻は寅次郎の駆るトヨタ 2000 GTのカーチェイスシーンでの、 未だハリウッドでも成し得ない空間を自在に駆け巡るキャメラワークであり、 この撮影には延べ 3500 台のキャメラが使用され、 最大の見所である三社祭へと暴走した車が突っ込むシーンに動員された 5 万人のエキストラの贅沢さには目眩いすら憶える。
大ヒット映画の常としてシリーズ化され、その何れも傑作であったが主役を務める渥美清の逝去によってシリーズは途絶えていたが、 二代目寅次郎として西田敏行を迎えタイトルも「釣りバカ日誌」と改められ、 シリーズを重ねる毎に円熟味を増しながらも意欲的に実験を繰り返す山田洋次。
彼の目指す究極とは如何なる映画であろうか。
- 3 名前: ρ(=$ω\)ノ さぃきょぅ 投稿日: 2002/03/20(水) 13:42
- >>2 こんな感じ(これは以前のリプライズ)
参加、リクエストも待ってるよ!
- 4 名前: ρ(=$ω\)ノ さぃきょぅ 投稿日: 2002/03/22(金) 11:49
「奥の細道」( 松尾芭蕉 1689 )
日本の暗黒時代を赤裸々に描いたディストピア小説。 徳川幕府批判に満ちており、時の将軍綱吉によって長らく発禁とされ、明治になり、ようやく日の目を見る事となった俳聖・松尾芭蕉の問題作。
物語は遠い未来と設定されてはいるが、進化した犬に奴隷として飼われている人間、野生の人間を狩る場面など、当時の "生類憐れみの令" を揶揄したと思わしき骨子は、当時の権力者に充分な脅威となったのであろう。 原本は幕府により発禁とされ全て焚書となったため、現在「奥の細道」として流通しているのは、スウィフトが「ガリバー旅行記(1762年)」の下敷きとした英訳版からの再翻訳である。 そのため、物語の途中に効果的に挿入された俳句の一部は、芭蕉本来の句とは若干ニュアンスを変えている。 例えば有名な「夏草や 兵どもが 夢の跡」の、"夏草" は英文で "grass" であるが、これは当然 "マリファナ" の俗称であり、これを踏まえると「大麻による幻覚から醒めた後」の脱力感や、60 年代のフラワームーブメントに繋がる芭蕉のヒッピー精神の表れを読み取れなくてはならない。 芭蕉本来の意図としては『武士階級も(自分たちと同じく)マリファナを吸えば、平和的解決を悟ってくれるであろうになあ』である。(平泉は大麻の自生地)
これ以外にも数多くの反体制、反権力へのメッセージが込められ、自由人・芭蕉の扇情的な思想を色濃く映した作品だけに、発禁も止むを得なかったであろう事は想像に難くない。 タイトル「奥の細道」は、徳川幕府の行く末が先細りであり、物語の最終場面で再び旅立ったバショウとソラが見つける、朽ち果てた江戸城天守閣に直接繋がる暗示である。 ディストピア小説として読む「奥の細道」は、現在でも充分にエンターティメント小説として通用する作品となっており、後に映画「猿の惑星」の原作として再評価されている。
- 5 名前: ρ(=$ω\)ノ さぃきょぅ 投稿日: 2002/03/25(月) 15:12
「星の王子様」( サン・テグジュペリ 1943 )
童話や神話を詳細に読むと様々な隠された歴史の闇を読み取る事が出来る。 例えば「赤ずきんちゃん」であれば、表面的には "野生動物の恐怖" や、人狼伝説に結びついた "レイプ" への警鐘と読める事に加え、『なぜ、狼が出るような森の中に赤ずきんちゃんは一人で赴くのか』『なぜ、人里離れた森の中におばあちゃんは一人で住んでいるのか』といった疑問から、中世ヨーロッパで行われていたであろう、「子捨て」「姥捨て」の歴史が導かれる。
「星の王子様」は王家に産まれた、双子の内の一人である。王家にとって畜生腹は忌まわしい事である事に加え、王位継承の際のトラブルを未然に防ぐために、「星の王子様」は "小さな星" に流された、と考えて良い。 そこで王子は王家への反逆者(バラ)によって育てられ、自分自身を遺棄した "王家" に対する怨念を増幅させながら時を待つのである。 小さな星を押しつぶしかねない "バオバブの木" とは、王制による圧政を意味している。
そして、遂に王子様はバラの言葉によって "蜂起" し、自分自身を正当な継承者として現王家に対抗しようとするのである。 地球に至る道のりは王家に対抗する勢力集めの旅であるが、物語りの中でそれは失敗している。 そして、その力不足によって当然ながら、王子様は王家によって "反逆者" として殺されるのであるが、恨みそのものとなった怨霊としての王子様は、小さな星に戻り再び王家への怨念を育てる、という構造が見て取れる。
子供向けには書かれてはいるが、レジスタンス小説として書いたサン・テグジュペリの脳裏には、当時記憶に新しいナチズム、ファシズムへの恐怖と、それに屈した母国フランスへの不甲斐なさや哀惜の入り混じった複雑な感情があったのだろう。 それ故に、王制をナチス・ドイツ、小さな星を作者が亡命したアメリカ(の小さな自室)と読み替えれば、この作品が旧いヨーロッパのお家騒動劇になぞらえた、作者自身の物語りでもある事に気付かされる。
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