■掲示板に戻る■ ■過去ログ倉庫一覧■

「わかりやすさ」その他
1 名前: カマヤン 投稿日: 2003/01/22(水) 05:32
「わかりやすい」を巡る問題は、これもまた根が深いので、スレを立てました。

関連スレッド
http://jbbs.shitaraba.com/news/bbs/read.cgi?BBS=535&KEY=1039730401&START=40&END=45
http://jbbs.shitaraba.com/news/bbs/read.cgi?BBS=535&KEY=1028823000&START=646&END=671

以下、松代さんの言葉をかなり入れてます。

2 名前: カマヤン 投稿日: 2003/01/22(水) 05:33

「わかりやすい」という言葉は、二通りの、全く違う意味で使用されている。
仮に、「知識型」と「広告型」と呼称して、区別する。

A;知識型(学問型)
複雑な情報を整理統合し、必要な際には適宜参照を提示し、「問題」の焦点を
明瞭化する。
言及対象(「問題」)がどのようなパースペクティブの上にあるのかを明確化し、
「問題」の立体像を提示する。
情報がどのようなツリー構造をしているのかを、受信者へ提示する。
http://jbbs.shitaraba.com/news/bbs/read.cgi?BBS=535&KEY=1039730401&START=40&END=45

B;宣伝型(広告型)
複雑な情報の中から、部分だけを拾い出し、それ以外を捨ててしまう。
情報を断片化し、断片情報の少数をモザイク状に再構成し、受信者へ提示する。
単純化。粗雑化。短絡化。

3 名前: カマヤン 投稿日: 2003/01/22(水) 05:33

知的活動にとって生産的なのは、「知識型」だ。
「宣伝型」は、知的活動をしばしば不毛化させる。

カマヤンとしては、A(知識型)のみを「わかりやすい」と呼びたいが、
「わかりやすい」をB(宣伝型)の意味で使っている人や媒体は、
実際問題として、多い。

「知識型」での「わかりやすい」情報(クリアで正確な言説)は発信者に、労力と知性と、
しばしば受信者への愛情を、要求する。
「宣伝型」での「わかりやすい」情報(断片情報のモザイク、短絡化)を発信するのは、
惰性やルーチンワークで充分だ。発信者は労力を要さない。もちろん受信者への
愛情は欠片もない。

余談になるけど、本来、学問や教育は、上質な情報メディアであり、上質な知的刺激であり、
読者へ知的快楽を与える。
「わかりやすさ」を「宣伝型(広告型)」だと錯覚する知的怠惰が、学問や教育を貧弱で
退屈な情報メディアへ変質させ、また、刻々と腐敗させていると考える。以上、余談。

4 名前: カマヤン 投稿日: 2003/01/22(水) 05:34

「宣伝型」情報は、しばしば故意に、「粗雑化」「単純化」「短絡化」「幼稚化」を行なう。
結果、「問題」の背景を理解する助けとならず、誤読を誘発する。

しばしば、行政や官庁などは、「知識型」と、「宣伝型」を、故意に摩り替える。
たとえば、NGOなどが行政や官庁へ情報を求めるときは、
「知識型」のわかりやすさ(透明性、正確性)を求めるが、
行政や官庁は、故意に「宣伝型」わかりやすさ(断片化)へ言葉を摩り替え、
結果、正確な情報の得られない、貧弱な情報しか得ることができない、ということになる。

「宣伝型」情報は、しばしば「情緒」を刺激することのみを目的とする。
情緒を刺激することのみを目的とした「宣伝型」情報は、デマゴーグ(扇動)だ。

「宣伝型」情報は、「問題」がどのようなツリー構造をしているのかの立体像を、
受信者に与えない。情報は常に平板なものであり、常に断片である、と、受信者に
思い込ませる。断片情報しか与えられていないことへの自覚や問いを、受信者から奪う。

断片情報のモザイクである「宣伝型」を「わかりやすさ」だと錯覚している情報受信者は、
表面的な新鮮度でのみ、情報が有益かどうかを判断しがちになる。
情報に対峙する姿勢を持たない。
「もう知っているからいいや」と、情報を素通りし、情報が体験化されない。
情報が反省されない。

5 名前: カマヤン 投稿日: 2003/01/22(水) 05:34

日本のニュースの多くは「宣伝」「広告」でしかない。
だから、情報が継続しない。
情報は次々忘却され、蓄積化されない。
「問題」の立体像が見えない。

情報を受信している私たちは、情報に対峙し、情報に隠された意図を見抜き、
意識的に情報を蓄積し、情報を反省し、情報を立体的に再構成しなくてはならない。

私たちは、知の断片化、「知識」の分断統治に、抵抗しなくてはならない。

6 名前: カマヤン 投稿日: 2003/01/22(水) 05:49
以上、>>1-5
松代さんによる整理を、カマヤンが代筆しました。
松代さんの問題意識は、「広告」業界、それを無批判に(対峙しないで)
受益することへの警告、に、あると、私は理解するです。

連想ですが、以前、伊藤剛さんが、「この世には、抽象的思考のできない人間がいる」
ということをおっしゃってました。
学校の成績のいい人間には2種類あって、PCに喩えると、フォルダをツリー構造に
して整理する人(抽象的思考をする人)と、フォルダをただひたすら増やして並べて
しまう人(抽象的思考のできない人)がいるそうな。
「記憶力が強い」が、思考を練らない人は後者で、こういう人は、知識量は多いが、
知識を組み合わせる能力に欠け、とても賢いとは言えないわけですが、そういう人って
いますよね。これも余談でした。

7 名前: СТАЛКЕР 投稿日: 2003/01/22(水) 06:18
>>3「読者へ知的快楽を与える」はずの学問に対して何故怠惰になるのだろう。
何故と言う問いに答えは出ないので不毛な質問ですけども。

8 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/01/22(水) 06:39
7さん>
それは、受け手にとって意味がないからでしょう。
私も学校の勉強は大嫌いだったし。

余談になりますが、インテリの語源となった
ロシア語の『インテリゲンティヤ』には、
「上から押しつける」「お上が下々のモノに強制する」
という意味があるそうで、
知識とか知性の本質的な正体をよく分かっているなあ、
と感心した記憶があります。
親とか学校とか、逃げ場のない形で強制される知識って嫌だよね?

9 名前: カマヤン 投稿日: 2003/01/22(水) 06:52
(;´Д`)ノ あ… 「広告型」と「宣伝型」の呼称を不統一しちゃったので
書き直そうかと思ったけど、もうレスついちゃったのね…

「宣伝型」よりは「広告型」が妥当かな

今思うと「知識型」というより「啓蒙型」というほうが妥当かな

10 名前: カマヤン 投稿日: 2003/01/22(水) 07:00
>>7
>「読者へ知的快楽を与える」はずの学問に対して何故怠惰になるのだろう。

人間は可能な限り手抜きをしたがる生き物ですから…

情報発信者が自己満足人格で客観視に乏しいと、「発信者にとっては
面白いらしいが、受信者にとってはワケワカメ」にもなるだろうし。
2chでも自分一人だけ楽しがって他の人が大迷惑している厨房いるでしょ?
終身雇用制だと、人生経験の幅が狭くなるから、自分の扱っている「知識」が
社会の中でどういうパースペクティブなのか位置付けられず不安を感じ、
虚勢を張ることで自衛する、虚弱な自我の教員を生産するだろうし。

11 名前: 兎山帰郎inアカパンカビ 投稿日: 2003/01/23(木) 02:24
>>3,4,5 カマヤンさん
 仰るとおりで、騙される側の視点から言うと、次のようになります。
   1.広告を見て、スゴイん と思う。
   2.文句から 自分の思い込みで組み立てて ストーリー作成完了!
   3.広告対象に吸い寄る。
   4.思ってた期待と違った。外れダッタ!
   5.でも、そんなことを忘れる。1へ戻る。

これだと、知的興奮というより、物見みたいな精神の感じがします。
知的興奮がない原因の兆しは、「最初に思い込みを膨らませる」コトだと思います。
「何か有るのか?と気になり出した」「あ、思い込みを膨らませに来たな?」と
感づいたら要注意、というコツです。

逆に知的興味が奮うってのは、「裏事情を覗く、秘密を暴く」ことに似てるんじゃ
ないかな、と 仮に想定してみました。
でも、「魔法」とか「ハイテク」とか「宇宙のパワー」で説明されてしまうと、
なんだか分かった気になってしまいます。
(右脳、道徳、恋愛の論文を読むと たまに「宇宙のパワー」で理屈説明されて
 ガッカリ。全然 サイエンスっぽくない)

太陽光発電の仕組みは知らないけど、「太陽光が当たると電気ができる」、
「そんなものか」と割り切ってしまってます。
「ナゼ」よりも「何に使うか」の方が気になったり。便利か、経済的か?とかも。
使い方ではなくて仕組みに戻っていくのが 知的興奮かなぁ? と思ったりします。

「知りたがり」って人は少なくて、「自称・知りたがり」の実態は
「ひと安心したがり」なんじゃないかな、と思いました。
式A
  自分の納得できないことは納得できない。
  自分の納得できることは納得できる。
  なんか、奇怪なことを主張する物がある。確かめよう。
  ああ、やっぱりそうか。思ったとおりだ安心した。

上式Aは、知的興奮とは(未知を求めていないという点で)遠いと思うので
動機としては 分けて考えてみます。

「下腹部のたるみをとる運動」を知ったとたん、下腹部のたるみは取れると
安心して、忘れる。運動しない、とか。
だいたい、風車の仕組みとか 無関心なことを知りたがる人って少なそう。
知りたがってるとしたら関心があるからだろうと思いました。
中断。

12 名前: 兎山帰郎inアカパンカビ 投稿日: 2003/01/23(木) 02:41
加害者のタイプは、「構造見せ型」と「見栄っ張り型」、
被害者のタイプは、「ウラ取り型」と「鵜呑み型」、
で対応付くような気もします。

自分を振り返ってみて、「何かに詳しいコト」ってあるかなぁ、と見ると
それほどなくて、「上っ面カジリ型」かも知れないなぁ、と思ってます。
新聞を読んで 構造が見えないとか。
でも、「マニアは具体物に詳しい」とは 思いました。
加えて、「抽象的な言い分は分かるけど、具体が見えてこない」のもダメな気がしました。

分かりやすさっていう主題に戻ると、
「言葉のニュアンスが分からない」せいで分からない、ようなことがあると思いました。
英単語の本の日本語訳で よく そう思います。
1つの単語に複数の意味があるのは構わないんだけど、
requestとrequireの微妙な違いが分からなくて使いこなせない、とか。

あと、脳力開発の本で「脳を刺激する」と説明されても、
なんだか分かったつもりになっていて 「何が起こってるのか」分かってなかったり、
身につきません。

「分かりやすい」ってのは「分かったつもりになりやすい」ことなのかなとか、
分からないことを述べてみます。

13 名前: カマヤン 投稿日: 2003/01/23(木) 07:23
>>7
む。む。>10での返信、すれ違っていた。再レス。

>「読者へ知的快楽を与える」はずの学問に対して何故怠惰になるのだろう。

なぜ「受信者が」怠惰になるのか? ということですね?
発信者が、多くの場合、「知識型(啓蒙型)」発信をせず、「広告型」発信を
しているからです。
ヘタをすれば、「広告型」以下の発信能力だったり。
退屈で不鮮明な情報には刺激を喚起されませんです。

>10では、なぜ「発信者が」怠惰になるのか、を、書いてしまいました。

>>12
「判ったつもりになること」と、「判ること」の区別の自覚って、大きい問題ですよね。
「判ること」ってのは、「何が判らないのかに気づくこと」ですよね。

14 名前: なし 投稿日: 2003/01/23(木) 20:43
ちょっと気になったんだけど
http://kids.goo.ne.jp/info/webmaster.html#filter
>私どもは、子供達に良い情報を、よりわかりやすい状態で提供することが、
>インターネットを利用する子供たちのためだと考えております。
わかりやすくないという理由でフィルタリングして排除するの???

15 名前: СТАЛКЕР 投稿日: 2003/01/23(木) 21:38
規制反対派のサイトは軒並み、「危険であり見せたくないと考えるサイト」
らしいっす。

というか「子ども買春」でもかなりはじかれてるし。
ダメポ。

16 名前: カマヤン 投稿日: 2003/01/24(金) 01:39
http://kids.goo.ne.jp/navi_top.html
「性教育」だと、HPのリストは出ても、HPへは、フィルタリングされて、飛べない。
「労働組合」だと、HPのリストは出ても、HPへは、フィルタリングされて、飛べない。

すごいな。
これはこれで面白いから、どういうHPがフィルタリングされているのか
確認するスレッドを立ててみましょうか。

全労連
http://kids.goo.ne.jp/cgi-bin/kgframe.cgi?BL=0&SY=2&TP=http://www.zenroren.gr.jp/jp/
へは飛べるけど、
連合日本労働組合総連合会
http://www.jtuc-rengo.or.jp/new/index.html
は、フィルタリングされている。
http://kids.goo.ne.jp/cgi-bin/kgframe.cgi?BL=0&SY=2&TP=http://www.jtuc-rengo.or.jp/

17 名前: 蒼海 投稿日: 2003/01/26(日) 18:46
>>16
内の学校のパソコンに入っているフィルタリングソフト
(ソフトですが)では、加えてレンタルサーバーや
CGI系のページは全てカットされます。

18 名前: カマヤン 投稿日: 2003/02/05(水) 22:59
>17
そのフィルyタリングソフトが入っていると、たとえば、直接url書き込みしたり
フィルタリングソフトをオフにしたりしても、当該ページは見ることが
できないんでしょうか?

…あまり意味のない質問だと思いますが、ちょっと気になりましたので…

19 名前: うなぎ 投稿日: 2003/02/10(月) 19:11
>>18
おそらく「直接url書き込み」では、当該するページは見れないでしょう。
「フィルタリングをオフ」にすれば見れるとは思います。
但し、「フィルタリングをオフ」にするのには、パスワードを
入力する必要があると思われます。

20 名前: カマヤン 投稿日: 2003/02/16(日) 05:17
技術としての「判りやすさ」

「他者に判りやすく」(伝わりやすく)ものを書く、ものを言うための個人的な工夫を
以下に書いてみます。

作業1;「着想」
「胡散臭い」と感じる感度を大切に。「直感」に忠実に。

日本では「偽りのリアリティ」によって、「誤った問題設定」がなされることが死ぬほど多い。
「誤った問題設定」を、「胡散臭く」感じる感性は、大切だ。

「大勢に流されない勇気」が、直感を大切にするとき、最も必要とされる。
自分を実際以上に賢そうに見せようとする虚栄心は、「直感」を狂わせる。
「思い込み」の強すぎる人は、この「直感」をしばしば狂わせがちだ。
「偽りのリアリティ」「誤った問題設定」は、各人の「思い込み」を扇動するからだ。

マンガを描く際の、「着想」にこの作業は相当する。
「着想」に忠実に描けなかったマンガは駄作になり、誰一人面白がらせることはできない。

作業1は各人の内面での作業だ。
作業1は話者の感性が試される。

「偽りのリアリティ」
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=1274&KEY=1044564957&START=18&END=18&NOFIRST=TRUE

21 名前: カマヤン 投稿日: 2003/02/16(日) 05:17
作業2;「直感」を、言葉にしてみる。「ラフスケッチ」。焦点化。

内面での「直感」(「着想」)を、言葉にしてみる。マンガを描く際の「ラフスケッチ」の作業だ。
この時点では、他人に伝わるかどうかは全く考慮する必要はない。
「着想」「直感」に忠実な言葉になっているかどうか、が、ここでは問われる。
他人に伝わるかどうかは全く考慮する必要はないが、自分の心に忠実であるかどうか、
自分の考えを正確に言葉にしているかどうかが、ここでは問われる。

「自分の心にウソをつかない誠実さ」が、必要とされる。

言葉にする過程で、言葉に引っ張られ、作業1の「着想」「直感」をしばしばないがしろにしがち
なものだが、そうなってしまったら失敗だ。戦略を考えているうちに戦争目的を忘れてしまうのと
それは同じだ。マンガを描き慣れていない人が線を引いているうちに、描く対象が何なのか
自分で混乱して判らなくなってしまうのと同じだ。線に引き摺られずに、自分の意思で線を引く
ことが、この時点では大切だ。何を描くつもりなのかを明確化することが大切だ。

作業2は、「抽象」思考能力が試される。不純なものを排し、スッキリとしたモデルを心に
描く作業だ。

作業2では、自分自身が理解できるかどうか、納得できるかどうかが問われる。
自分が理解できたもの以上のものを、他者に伝えることは不可能だ。
作業1で感じた「直感」は、複雑なものの中に隠れてはいるものの、簡潔な光のようなものの
はずだ。作業2ではその光に形を与える。背景が複雑な場合、光の差したもののシルエットは、
他の人に通じないほどに複雑な言葉になってしまっているかもしれない。だが、どれだけ複雑
であっても、どこにどう光があたったのかを明晰にしておくことが必要だ。

22 名前: カマヤン 投稿日: 2003/02/16(日) 05:18
作業3;誤読可能性を減らすよう「言葉」を吟味する。客観化。

作業2の言葉は「自分語」になっている。これを、他人に伝わる言葉に翻訳する。
「思い込みの強い人」は、作業2で止めてしまいがちだ。これでは他者に言葉は伝わらない。

作業3は、話者が「他者」をどう考えているか、が、試される。人間はふつう自分の内面をモデル
として他者を想定する。
ムラ社会人間関係モデルしか想定していない人は、作業2で止めてしまう。「他者」はムラ社会
の外を意味する。ムラ社会人間関係モデルでは「自分の言葉に共感してくれる、ムラの仲間」と
「自分の言葉の通じない、ヨソ者」に分かれるから、作業3の必要性を覚えない。

「人間は幼稚なものだ」と考えている人はたいがい自身が幼稚であり、その反映として他者を
幼稚だと考えている。「人間は感情でしか反応しないものだ」と考えている人はたいがい自身が
感情に振りまわされているのであり、それを他者に投影している。
「わかりやすい」「易しい」「伝わりやすい」という言葉をどうイメージするかは、各人の人間観に
かなり規定される。

作業3では、作業2の言葉を、「客観視」あるいは「客体視」する作業だ。
「客観視」とは、「丸っきりの他人」になりきって、対象(作業2の言葉)を観察する作業だ。
「客体視」とは、対象(作業2の言葉)を、「丸っきりの他人が書いた言葉」だと想定して、
観察する作業だ。
「客観視」では、「観察者(自分)」が「他人」に自己同一化する。
「客体視」では、「対象(かつて自分だったもの)」を「他者」だと想定する。

23 名前: カマヤン 投稿日: 2003/02/16(日) 05:19
他者に対して人間は底意地が悪いものだ。あるいは他者はあなたに情を汲んであげなくては
ならない理由など何一つとしてない。他者はあなたの論敵だ。
論敵ならこの言葉にどうイチャモンをつけるかを想起して、作業2の言葉を観察する。
誤読可能性のある部分は、他者は必ず誤読する。
誤読可能性を極力避けるための作業が、作業3だ。

作業3では、日常馴染みのある言葉と、日常馴染みのない言葉との、感度が重要だ。
馴染みの薄い言葉は、誤読可能性を増す。適宜、補足や解説を加え、本来の意図通り
読まれるための努力をする。
他者が読んだとき、「つまずく」部分が少ないほうが、「伝える」目的には合致している。
「つまずかせる」部分だらけの文は、作業2で止まってしまった文だ。

24 名前: カマヤン 投稿日: 2003/02/16(日) 05:20
作業4;仕上げ。構成の工夫。より少ない言葉数にできるときは、より少なく工夫する。

日本語の構造は、以下のように考えることができる。

「対象」+「判断」

別な言い方をすると、「修飾語」+「助詞(方向指示)」+「述語」だ。

ふつう「述語」と呼ばれるものは、多くの場合、話者の「判断」だ。(そのことが折込済み
だから、日本語では、しばしば「主語」が省略される)逆に、話者の判断を含まない「述語」は、
日本語にはほとんど存在できない。

「対象(話題)」に対して、話者がどう「判断」したか、を、可能な限り、間延びせずに示す文が
「判りやすい」文だ。だから、一文一文は、短いほうが望ましい。
一文が長い、ということは、そのぶん読者へ「判断の保留」を長い時間要求することになる。
「述語」を読まない限り、話者がどう「判断」したのか、読者は知ることができない。
「述語」がなかなか登場しない文は、そのぶん、読者に負担を与えることになる。
「読者」は「他者」であり、話者に付き合わなくてはならない義理は欠片もない。
話者がどう「判断」したのかを、読者(聞き手)が「判断」することが、「読む」という作業であり、
「対話」という作業だ。

25 名前: カマヤン 投稿日: 2003/02/16(日) 05:22
話者は、可能な限り、冒頭で、「判断」を示すことが望ましい。
話者の「判断」は、作業1を正確に反映したものでなくてはならない。それを提示できなければ
失敗だ。
冒頭で自身の「判断」を示すことは、誤読可能性を減らすために、重要な作業だ。

「長い修飾語」+「短い修飾語」+「述語」が、日本語の構造では自然だ。
より長い修飾語は前に、より短い修飾語は後ろに配置し直すと、余計な読点、余計な接続詞が
省略できる。
「より少ない言葉数にできるときはより少なくする」とは、この推敲作業を指す。

接続詞は多くの場合、省略可能だ。接続詞は、話者の情緒を示していることが多い。

これらを考慮して推敲作業を行うことで、内容を劣化させることなくより少ない言葉数に
することが可能だ。
推敲によって内容が劣化してしまったら、失敗だ。

26 名前: カマヤン 投稿日: 2003/02/16(日) 07:17
>>22 補足

「客観的」という言葉がある。

「…的」という言葉は、しばしば、「…っぽい」「…みたいな」という意味で使用される。
だが、「…っぽい」「…みたいな」という言葉は、「…ではないニセモノ」という
ニュアンスを持つ。
「…的」という言葉を「…みたいな」「…ではないニセモノ」というニュアンスで使用
するのは、言葉の意味をズラし、別な価値判断を加えている。

「客観」という言葉は、しばしば、「他人事」という意味で使用される。
「他人事」という言葉は、ムラ社会人間関係・情緒的人間関係を前提としている。
「客観」という言葉を「他人事」と解する人は、既に言葉の意味をズラしている。

ので、「客観的」という言葉を、「他人事のフリをする(実は他人事ではない)」という
利用法をする人が、たまにいる。
「他人事のフリをする(実は他人事ではない)」という態度は、言外に、自己保身を
許している。これは「内輪/ムラの外」での二重規範から生まれる態度だ。

作業3で言う「客観化」とは、「自己保身」は、真っ向から対立するものだ。

27 名前: カマヤン 投稿日: 2003/02/16(日) 07:18
>>26最後1行訂正

作業3で言う「客観化」とは、「自己保身」とは、真っ向から対立するものだ。

28 名前: カマヤン 投稿日: 2003/02/19(水) 04:50
>>24-25 補足

日常会話での「混乱」の元は、2つの原因のうちの、どちらかだ。

1;「対象」の明晰な限定を怠る。
2;「判断」を不明瞭にする。

会話している現在「話題」=「対象」が何であるかを、常にチェックし直し、明晰化する努力を
怠ると、会話は混乱する。
しばしば、日常会話では、ズルズルと連想的に話題が横滑りしがちなものだ。

だが、事実は何か、正当性は何か、正誤は何か、という会話をしている時は、
「話題」(対象)の横滑りは、慎むべきだ。何について議論しているのか話者が忘れてしまったら
その議論はムダだ。

「対象」は「抽象(シンボル)」であり、ふつう、複合的で多面的だ。
人間は一度に複数のことを同時に思考することはできない。976×698を計算することは
さほど難しくない、29×67と51×39をそれぞれ別個に計算することもさほど難しくない。
だが29×67と51×39を一度に同時に計算するのは、特殊な訓練を積んでいない限り、ムリだ。

一つ一つ思考すること自体は、そんなに難しいことではない。一度に複数のことを同時に
思考しようとしないよう、私たちは心掛けるべきだ。
複雑な「対象」は、いくつの事柄が複合しているのか、適切に切り分けた上で、寄り道せず
丁寧に思考するべきだ。
(続く)

29 名前: カマヤン 投稿日: 2003/02/19(水) 04:51
「あれが」「それは」などの「指示代名詞+助詞」をあまりに過度に多用すると、
「対象」が何であるか不鮮明になりがちだ。適宜、誤読可能性がないかチェックして、
誤読可能性があるときは、「指示代名詞」を避け、「対象」の名詞を使用するべきだ。

日常会話ではしばしば「指示代名詞+助詞」をすら略しがちだ。これは混乱の元、
思考のエラーの元だ。

言葉は全て「抽象(シンボル)」であり、各人の内面の辞書は各人の人生経験によって作られている。

話者にとってある概念Aが別のある概念Bと無条件に繋がっているかのように感じるとき、
話者はしばしば概念Aから概念Bへ「対象」をスキップさせがちだ。
だが概念Aと概念Bが不可分であるかどうかかどうかは検討が必要だ。多くの場合、それは
分けて考えるべき、別のものだ。
複数の概念を同時に思考しようとすると、実際の実力よりずっと劣った思考しかできなくなる。

情緒は、枠組の一つだ。情緒枠組自体は別に悪くない。だが、正誤や正当性という枠組と
情緒枠組は別だ。「対象(シンボル)」と情緒はしばしば結びつきがちなものだ。情緒を喚起
させられると、「情緒」という複雑な概念と「対象」という複雑な概念を、同時に思考することに
なりがちだ。結果、実際の実力よりずっと劣った思考しかできなくなる。

日常会話では、助詞の使用法がいいかげんになりがちだ。だが、助詞は数学の四則(+−×÷)に
等しい、日本語に論理性を与える重要なものだ。「対象+助詞」と「述語」の関係で日本語は
構成される。
「『対象』が何であるか」
「『対象』を、『述語』はどう『判断』したのか(修飾・被修飾関係)」
この2つの明晰さを書いた文(会話)は、エラーを起こしやすく、誤読を喚起し、「わかりにくい」。

30 名前: カマヤン 投稿日: 2003/02/19(水) 04:54
>>29 一部訂正
>だが概念Aと概念Bが不可分であるかどうかかどうかは検討が必要だ。多くの場合、それは
>分けて考えるべき、別のものだ。
  ↓
だが概念Aと概念Bが不可分であるかどうかは検討が必要だ。多くの場合、それは
分けて考えるべき、別のものだ。

■掲示板に戻る■ ■過去ログ倉庫一覧■