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■漢文等と仮説や解説等●

160ハンドル付けて下さい:2008/02/09(土) 19:08:54
★ 李朝と日本との交易について ★

倭館に住居する日本人を朝鮮では『恒居倭』と呼び、居留地内では首領を頭とする自治が行われた。
貿易に従事する者は、図書(朝鮮国王の銅の私印)を与えられた者と
__________授職されたもの(朝鮮の官職を与えられた倭寇の首領)に限られました。

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【 年表 】
1392-1407年一切制限を加えなかった。
1407-1510年『興利倭船』の入港を
______慶尚左道都万戸所在地の東莱県富山浦(現在の釜山広域市)
__________慶尚右道都万戸所在地の金海府乃而浦(現在の慶尚南道鎮海市)
1419年、応永の外寇(朝鮮名:己亥東征あるいは対馬島征伐 → 対馬宗氏の独占貿易)
1426-1510年___________________________________蔚山の塩浦(現在の蔚山広域市)
___________漢城の『東平館』はソウルの倭館で『倭館洞』(現在のソウル特別市中区忠武路)
1443年(嘉吉3年)【『正統癸亥約條』あるいは『嘉吉条約』歳遣船を年間50隻で公貿易】
______同年、朝鮮は和館を三ヶ所に設けて接待の所とする。すなわち
_______________東莢の釜山浦、熊川の薺浦、蔚山の鹽浦。
1510-1512年_三浦の乱【1512年『正徳壬申條約』歳遣船を年間25隻に減ずる】
1512-1544年対馬と朝鮮の条約、薺浦(乃而浦)が再開、倭寇事件で乃而浦倭館は再び閉鎖
1521-1592年富山浦倭館の再開、1592年の豊臣秀吉による朝鮮侵攻まで存続。
1592-1607年_秀吉による朝鮮出兵
1607-1673年豆毛浦倭館(現在の釜山広域市東区佐川洞付近)に新設された
1678-1876年草梁倭館(現在の釜山広域市中区南浦洞の竜頭山公園一帯)に新築、新倭館とも呼ばれた。
1876年、明治新政府による釜山開港
1883年 済物浦(仁川港)で開市(開港)
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【 秀吉との事 】
天正年間(1573〜1592)に豊臣秀吉から宗氏に令して、朝鮮に慶賀の信使を送るように告げさせる。
___________朝鮮は日本までの航路がよく分らないと断る。
天正18年(1590)朝鮮から秀吉への天下統一慶賀のための国使3人が来る。
文禄1年(1592)豊臣出兵から途絶。


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