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■漢文等と仮説や解説等●

1名無しさん@現代思想本館:2006/06/19(月) 03:01:32
漢文等と仮説や解説等のコピペなどです。

>>2-11

>>12

2ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:12:03
『南齊書』列傳 第三十九 蠻 東南夷 梁 蕭子顕 撰
【原本闕、逸高麗傳下半百濟傳上半】
鎮東大將軍百濟王牟大今以大襲
祖父牟都(牟大の父でなかった×)爲百濟王、即位章綬等玉銅
虎竹符四【按有誤脱】。〔王〕其拜受、不亦休乎!」
是歳、魏虜(←北魏の事)又發騎數十萬攻百濟、入其界、
牟大(←百済王)遣將沙法名,賛首流,解禮昆、,木干那率衆襲撃虜軍、大破之。
・・・・・・・・今假沙法名行征虜將軍、邁羅王、
加羅國、三韓種也。
倭國・・・都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事安東大將軍倭王武號爲鎮東大將軍。

『梁書』諸夷傳(東夷条)唐  姚 思廉 撰
餘毘(扁田旁比)死、立子慶。慶死、子牟都立。
都死、立子牟太、齋永明中、除太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。
天監元年、進太號征東將軍。尋爲高句驪所破、衰弱者累年、遷居南韓地。

『隋書』東夷傳 唐 魏徴 等 撰
百濟 之先、出自高麗國。・・・國中大姓有八族、沙氏、燕氏、rai[冠刀脚刀刀]氏、
解氏、貞氏、國氏、木氏、hak[艸冠脚白]氏。婚娶之禮、略同於華。喪制如高麗。
・・・立其始祖仇台廟於國城、歳四祠之。・・・昌死、子餘宣立、死、子餘璋立。
・・・尋與新羅有隙、毎相戰爭。十年、復遺使朝貢。後天下亂、使命遂絶。
靺鞨、在高麗之北、邑落倶有酋長、不相總一。
凡有七種:其一號粟末部、與高麗相接、勝兵數千、多驍武、毎寇高麗中。

3ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:12:54
『舊唐書』東夷傳 (高麗・百濟・新羅・倭國・日本)後晋 劉 xu[日句] 他 撰
百濟國、本亦扶餘之別種、嘗爲馬韓故地、在京師東六千二百里、處大海之北、小海之南。
東北至新羅、西渡海至越州、南渡海至倭國。北渡海至高麗。
貞觀元年、・・・十五年、璋卒、其子義慈遣使奉表告哀。・・・
遺使冊命義慈爲柱國、封帯方郡王、百濟王。・・・永徽二年、・・・
六年、新羅王金春秋又表稱百濟與高麗、靺鞨侵其北界、已没三十餘城。
・・・顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。
虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送於京師,上責而宥之。
・・・文度濟海而卒。百濟僧道tin[扁王旁右深]、舊將福信率衆據周留城以叛。
遣使往倭國、迎故王子扶餘豊立王。・・・劉仁軌之辭也。
歃訖、埋幣帛於壇下之吉地、藏其盟書於新羅之廟。
仁願、仁軌等既遣、隆懼新羅、尋歸京師。
儀鳳二年、拜光禄大夫、太常員外卿兼熊津都督、帯方郡王、令歸本蕃、安輯餘衆。
時百濟本地荒毀、漸爲新羅所據、隆竟不敢還舊國而率。
其孫敬、則天朝襲封帯方郡王、授衛尉卿。
其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。

4ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:13:43
『通典』邊防 東夷上 百濟 新羅 倭國 唐 杜佑 撰
百濟 、即漢末夫餘王尉仇台之後、【後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」】
初以百家濟海、因號百濟。晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。
【今柳城、北平之間】自晉以後、呑并諸國、據有馬韓故地。
其國東西四百里、南北九百里、南接新羅、北拒高麗千餘里、西限大海、處小海之南。
・・・義熙中、以百濟王夫餘腆【佗典反】爲使持節、都督百濟諸軍事。
齊並遣使朝貢、授官、封其人。
・・・又毎歳四祠其始祖仇台之廟。大姓有八族:沙氏、燕氏、kyau[冠力脚力力]氏、
【[冠力脚力力]音侠】解氏、真氏、國氏、木氏、hak[艸冠脚白]氏。【音白】
國西南人島居者十五所皆有城邑。
後魏孝文遣衆征破之。後其王牟大爲高句麗所破衰弱累年遷居南韓地。
・・・
顯慶五年遣蘇定方討平之。舊有五部分統三十七郡二百城七十七萬戸
至是以其地分置熊津馬韓東明等五都督府仍以其酋渠爲都督府刺史。
其舊地没於新羅靺鞨夫餘氏君長遂絶。

5ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:14:23
『舊唐書』東夷傳 (高麗・百濟・新羅・倭國・日本)後晋 劉 xu[日句] 他 撰
新羅國 、本弁韓之苗裔也。其國在漢時樂浪之地、東及南方倶限大海、
西接百濟、北鄰高麗。・・・其王金眞平、隋文帝時授上開府、樂浪郡公、新羅王。
元和元年十一月、・・・
十一年十一月、其入朝王子金士信等遇悪風、飄至楚州[監]城懸界、
准淮南節度使李you[扁庸旁右都]以聞。是歳、新羅飢、其衆一百七十人衣食於浙東。
開成・・・
二年四月、放還藩、賜物遣之。
五年四月、鴻臚寺奏:新羅國告哀、質子及年滿合歸國學生等共一百五人、並放還。

6ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:15:16
資治通鑑巻第二百一 唐紀十七 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上

龍朔二年(壬戌、六六二)・・・
三年(癸亥、六六三)・・・九月,戊午・・・扶餘隆將水軍及糧船自熊津入白江,
以會陸軍,同趣周留城。遇倭兵於白江口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,煙炎灼天,
海水皆赤。・・・常之與別部將沙_相如各據險以應福信,百濟既敗,皆帥其衆降。
詔劉仁軌將兵鎭百濟,召孫仁帥、劉仁願還。
百濟兵火之餘,比屋凋殘,僵尸滿野。仁軌始命_骸骨,籍戸口,理村聚,署官長,
通道塗,立橋梁,補_堰,復陂塘,課耕桑,賑貧乏,養孤老,
立唐社稷,頒正朔及廟諱;
百濟大絓,闔境各安其業。然後脩屯田,儲_糧,訓士卒,以圖高麗。

麟紱元年(甲子、六六四)・・・
二年(乙丑、六六五)・・・上命熊津都尉扶餘隆與新羅王法敏釋去舊怨;
八月,壬子,同盟于熊津城。劉仁軌以
新羅、百濟、耽羅、倭國使者浮海西還,會祠泰山,高麗亦遣太子福男來侍祠。

7ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:16:09
『後漢書』高句驪 在遼東之東千里南與朝鮮wai[扁水旁歳]貊
『三國志』高句麗 在遼東之東千里南與朝鮮wai[扁水旁歳]貊
『晉書』夫餘國 肅愼氏
『宋書』東夷高句驪國 今治漢之遼東郡高句驪王高ren[偏王旁連]
『南齊書』東夷高麗國 西與魏虜接界
宋末高麗王樂浪公高ren[王連]散騎常侍都督營平二州諸軍事車騎大將軍
『梁書』高句驪 在遼東之東去遼東千里。漢魏世南與朝鮮穢狛東與沃沮北與夫餘接。
漢武帝元封四年滅朝鮮。置玄菟郡以高句驪爲縣以屬之。
『隋書』高麗 之先出自夫餘。・・・朱蒙建國。自號高句麗以高爲氏。・・・
・・・昭列帝爲慕容氏所。破遂入丸都焚其宮室大掠而還。昭列帝後
爲百濟所殺。其曾孫ren[偏王旁連]遣使後魏。ren[偏王旁連]六世孫湯。在周遣使朝貢・・・
遼東公遼東王。・・・進授大將軍改封
高麗王。歳遺使朝貢不絶。・・・都於平壌城・・・長安城東西六里随山屈曲
南臨bai[偏三水旁貝]水。復有國内城、漢城・・・「三京」。
『舊唐書』高麗 者、出自扶餘之別種也。其国都於平壌城、即
漢樂浪郡之故地、在京師東五千一百里。
東渡海里於新羅、西北渡遼水至于營州、南渡海至于百濟、北至靺鞨。

8ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:19:14
漢書地理
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/kan-tiri1.html
後漢東夷
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gokan-toui.html
  【HPが黒背景でドッキリ。内容は漢字かな混じり】
三国志魏書 東夷伝(翻訳の参考に なります。)
 http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
『魏志倭人伝』原文(意訳)
 http://www.johokan.net/history/Rekishi/earlyjapan/Yamatai/gi-original.html
魏志東夷
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html
晋書 巻十四 志第四 地理上 平州
 http://sangoku.lib.net/apl/kanseki/03-14-009.shtml
宋書夷蠻
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/sou-iban.html
通典
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/tuden.html
翰苑
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/kanen-wa.html
唐會要
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/toukaiyo.html

9ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:20:12
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/912/1150653692/l2

世界中に愛をWM元会員の語り場20
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1146927981/l5


天台宗(加持祈祷を教えてもらう)→←真言宗(加持祈祷は、こちらが師匠)
_↓
−↓−−−−↓−−−−↓
浄土宗___臨済宗__日蓮宗
−↓−−−−↓−−−−↓
浄土真宗__曹洞宗__日蓮正宗

この場合、天台宗→対等敵対←日蓮宗、とはならない。弟子の叛乱である。
浄土真宗→対等敵対←日蓮宗、である。

同じく

朱子学(孟子)→←ほかの儒家(荀子)
_↓
−↓−−−−↓
陽明学___性理説(朝鮮独特儒教)

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/912/1104987249/24-46

10ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:21:55
>餘牟大=牟太=太(沙法名・賛首流・解禮昆・木干那)→←後魏=北魏
>夫餘義慈=虜義慈→←餘豊=
>夫餘豊(百済太子、沙相如・沙井等・劉仁顔の熊津急襲(660)白村江戦(663))

【 百済の大姓八族 】
沙氏・賛氏(刀氏?・力氏?)・解氏・木氏・国氏・眞氏(貞氏)・燕氏・白氏?(苗氏?)

百済は、この「餘牟大=牟太=太(た)」という王様のときに北魏の侵攻を受け
北魏の孝文帝は世界史でも均田制や北魏の洛陽遷都で有名でこの時の在任期間だが
就任は5歳での即位で、遠征当時まだ9歳くらい皇太后の太氏が摂政だったようで
孝文帝のお母さんの太氏(た氏)が朝鮮半島への出兵をしたんだね。

遼東半島から平壌あたりを、高句麗と日本でいうが、当時は南斉国から
高麗国(こうらい国)と呼ばれていたが満州の瀋陽(奉天)あたりの
龍城に王都を構える北方遊牧民の鮮卑族慕容氏の燕国があり漢人や
高句麗人が王族に仕えていたり養子で王族の慕容氏を名乗っていた。

河北−北京〜遼西−錦州〜遼西−瀋陽まで直轄で、勢力範囲が遼東と楽浪。燕国の変遷が
鮮卑族宇文氏→前燕国(慕容氏)→前秦に併合で一時消滅(洛陽に家臣で仕える)→
後燕国(王−慕容氏・家臣−段氏)→北燕国(高麗人の王、家臣→王−馮氏)
となり最後は馮王が娘を楽浪公主に入れた平壌の高麗国へ亡命し、もとの王様暮らしで
わがままが通らなくて、南朝の南斉に行こうとして7千兵の護衛を持つ
南朝の使者を高麗国で亡命地近くまで迎えたが、高麗国が亡命させまいと暗殺したために
暗殺で北燕国には王がいなくなって、ついに北魏に併合された。436年。

その後、北燕国を併呑した北魏は、数十万騎を発する百済遠征で平壌を潰し
百済の漢城を陥落させ、さらに南下し新羅城あたりに加羅国(迦羅国・加羅任那)を
傀儡国として建てて、洛陽に帰還した。475年。

11ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:22:54
資治通鑑巻第二百一 唐紀十七 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上

[百済西部の人、黒歯]常之と別部将
沙□相如は、各々険に據り福信に応じたが、百済が敗北すると部下を率いて降伏した。
劉仁軌は常之、相如とその部下達へ任存城を取らせようと、兵糧を与えてこれを助けた。
すると孫仁師が言った。「こいつらは獣心だ。何で信じられるか!」
だが、仁軌は言った。「我の観るところ、この二人は忠勇で謀略もあり、
信に厚く義を重んじる人間だ。ただ、前回は託した者が悪人だっただけ。
今、まさに感激して功績を建てる時だ。嫌疑は不用だ。」
遂に糧杖を配給し、兵を分けてこれに従う。
唐軍は任存城を抜き、遅受信は妻子を棄てて高麗へ逃げた。
劉仁軌は兵を率いて百済を鎮守し、孫仁師、劉仁願は還るよう詔が降りた。
百済は戦乱の後で、家などは焼け落ち、屍は野に満ちていた。
仁軌は屍を埋葬させ、戸籍を作り、村へ人を集め、官長を一時代行し、
道路を開通させ、橋梁を立て、堤防を補強し、
陂塘を復旧し、耕桑を勧め、貧乏へ賑給し、孤老を養い、
唐の社稷を立てて正朔と廟諱を頒布した。
百済は大いに悦び、皆、生業に安んじた。
仁軌は、その後に屯田を修めて、兵糧を蓄え、士卒を訓練し、高麗を図った。
劉仁願が京師へ至ると、上はこれへ尋ねた。


『南齊書』列傳第三十九蠻東南夷 梁蕭子顕撰
是歳魏虜又發騎數十萬攻百濟入其界
牟大遣將沙法名賛首流解禮昆木干那率衆襲撃虜軍大破之。
 この歳(年)、魏虜(北魏)また數十萬騎を發し百濟を攻めるに、その界に入る。
 [百済王の余]牟大は、沙法名、賛首流、解禮昆、木干那の[四武]將を遣わし、衆を率い
 虜軍(北魏軍・北虜の軍・北方異民族の軍)を襲撃し、これを大いに破る。

12ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:23:48
【 後燕 → 北燕 】
高雲(?〜409) 字は子雨。北燕の恵懿帝。在位407〜409。高句麗の出身。
慕容宝が後燕の太子となると、武芸をもって東宮に侍し、侍御觔に任ぜられた。
永康二年(397)、慕容会の乱を平定した功により建威将軍に任ぜられ、
夕陽公に封ぜられた。慕容宝の養子となり、慕容姓を賜った。
慕容煕が立つと、危難を避けるため、病と称して官を去った。
建始元年(407)、馮跋に推されて盟主となり、慕容煕を襲殺した。
天王位に即き、都を龍城に置き、高姓に復した。正始と改元し、国号を燕とした。
正始三年(409)、寵臣の離班・桃仁らに殺された。


馮弘(?〜438)字は文通。北燕の昭成帝。在位430〜436。馮安の末子。
高雲が帝を称すると、征東大将軍となり、汲郡公に封ぜられた。
兄の馮跋が天王を称すると、侍中・尚書右僕射となる。
太平二年(410)、馮万泥らの乱を平定し、驃騎大将軍に任ぜられ、中山公に改封された。
尚書令・司徒・録尚書事に上った。
二十二年(430)、馮跋が没すると帝を称し、馮跋の子や宗室たちをことごとく殺した。
太興四年(434)、北魏に敗れて藩属した。
翌年、南朝宋と通じ、燕王に封ぜられ、黄竜国と称せられた。
六年(436)、北魏の大軍に
国都龍城を落とされ、高句麗に亡命して、北燕は滅んだ。のち
高句麗において殺された。

13ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:24:42
【 通鑑記事本末 北朝 】

北燕滅亡
・・・
燕王は東門から高麗軍を引き入れ、闕下にて郭生と戦った。
郭生は、流れ矢に当たって死んだ。入城した高麗軍は、自分たちの使い古した武器を棄て、
燕の武器庫から頑丈な武器を奪った。そして、城内で大いに略奪を働いた。
五月、燕王は龍城の住民を率いて東へ逃げた。この時、宮殿へ火を放ったが、
その火は十日間に亘って燃え続けた。
婦人にも武装させ、その周りを陽伊率いる精鋭兵が護衛し、葛盧孟光の軍は殿となった。
この一行は、前後八十里も続いた。
・・・
楽平王丕も言った。
「和龍も攻略したばかりでございます。まず、この地方で農桑を奨励し、
民が豊かになり軍事物資が溢れたならば、その時こそ進取するべきでございます。
そうなれば、たかが高麗など、一挙に殲滅できましょう。」
そこで、魏王は思いとどまった。

14ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:25:17
【 通鑑記事本末 北朝 】

馮弘の最期
 燕王が亡命して来た時、高麗王連は使者を派遣してねぎらった。
「龍王馮君、野宿続きで疲れただろう。」馮弘はむかついた。
 高麗王は、彼等を平郭へ住ませたが、やがて北豊へ移した。
 馮弘は、もともと高麗人を軽蔑しており
、政刑賞罰は、全て自国にいたときのように行っていた。ところが
、高麗人は馮弘の侍人を奪い、太子の王仁まで人質としてしまった。
 馮弘は怨み、宋へ亡命を打診した。
 十五年、宋では王白駒を使者として高麗へ派遣して
、馮弘を迎え入れようとしたが、高麗王はこれを望まなかった。
 高麗王は北豊へ人を派遣して、馮弘を殺した。「昭成皇帝」と諡する。
 王白駒は、七千の兵を率いており、馮弘を殺した人間を討ち果たした。
高麗王は、王白駒等が、自分の部下を殺したとして、宋の文帝を詰った。
文帝は、遠国のことでもあり、余り事を構えたくなかったので
、王白駒を牢獄へぶち込んだが、しばらくして釈放した。

15ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:25:54
馮玉祥 字は煥章、安徽巣県の出身、1882年生1947年没。(父、安徽の拳法家)
1897年より軍隊生活に入る。
1901年淮[勇]元字前営に入り、副教官に任じられる。
1902年より袁世凱の武衛右軍に入る。
1905年北洋第六鎮において将官となる。
1907年東三省総督に任じられた徐世昌に従って奉天へ行き、新民に駐屯、
    武学研究会に参加して革命活動に従事するようになる。
1910年第二十鎮四十協八十標三営管帯に任じられる。
・・・
(孫文からの2人の使いから渡された基督教の勧めの小冊子より
、半信半疑ながら信者となる。部下達への水道ホースによる一括洗礼は
、受け狙いな点も。)
(1924年、第二次直奉内戦中に直隷第3軍を国民軍と改称し
、紫禁城から溥儀を追放)
・・・

16ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:26:43
馮玉祥 先生つづき。
・・・
1933年5月察哈爾民衆抗日同盟軍を組織、軍事委員会主席
          総司令部総司令に任じられるが、しばらくして辞任。
1935年4月陸軍一級上将を授かり、
11月国民党第五期中央執行委員と常務委員に選出され、
12月には軍事委員会副委員長に任じられる。
1937年8月第三戦区司令長官に、
9月第六戦区司令長官に任じられるが、まもなく辞任。
1943年5月三民主義青年団第一期中央団部指導員として招聘される。
1945年5月国民党第六期中央執行委員に選出される。
1946年4月アメリカに水利視察に赴く。
1947年アメリカからソ連経由で帰国途中、
9月1日黒海において船が火災に見舞われ逝去。
享年65才。(スターリンによる暗殺か?)

17ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:33:20
魏虜(北魏王朝の鮮卑族)・
韃虜(満州)
北虜南倭(蒙古タタール・オイラート・土木の変など、倭寇)
両鬼子(朝鮮人、2番手、二股野郎)

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土木請負業  日本人経営0.125%  漢人満人経営0・5%
※売上高に対して課税。満州弘報協会刊「満州国現勢 康徳4年」より辛亥革命前後に
満州族は異民族と言う事で虐殺(駆除)された聞いたけど「韃虜の駆除」に反対した
人もいたの?韃虜の駆除を唱えたけれど漢民族と満州族は仲良くやっていたって事だね?

人間五十年: 塗説中國人唯有驅除
韃虜,建立民國,乃能對世界和平有所貢獻,斯非_禍而是「_福」也。
”__中國國民黨全球資訊網. “今天來同大家講三民主義。
民族主義は決して異民族を排斥する事ではない。異民族が我が民族の政権を
奪う事を拒否するだけである。

愛國!愛什麼國? 民族!愛什麼民族?好個"中國愛情"!
可見「中華」指華夏漢語族,不包括韃虜的滿族及其他異民族。
這正是古漢語「中華」(六朝時才出現)的本義,十足大漢沙文主義,與
羅貫中在該回的結尾_:“正是,終將 土木勞中國,又見干戈起我方。
未知何以禦之,全看下文分解。”(第一百五回)這裏的“

18ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:33:54
>四行とも電波説
>口先だけのトンデモ説

中国正史や解説書、今生きている
中国共産党の太子党の爺さん達が知る過去なのにか。馮将軍は老齢の時に、
若くして生きていた記憶のある、今も生きている爺さんたちの世代の事件。

今生きている世代で、ころころ歴史を捏造する連中と違う。
朝鮮戦争と言ったり、韓国動乱と言ったり、625動乱と言ったり。
朝鮮共産党北4道分局が、朝鮮共産党北分局といったり、朝鮮労働党といったり。
朝鮮共産党済州島党員を、南労党員と読んだり、でたらめな。

在日[朝鮮人]こそが、デムパ。

19ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:34:42
『後漢書』高句驪 遼東ではない。朝鮮ワイ貊ではない、南で接する。
『三國志』高句麗 遼東ではない。朝鮮ワイ貊ではない、南で接する。

『晉書』夫餘國 肅愼氏(高句麗・高麗・朝鮮という民族も国も無い。)
『宋書』高句驪國 わざわざ中国人で無いと断っている。漢王朝の時は遼東郡で高句麗王だった。

『南齊書』高麗國 わざわざ中国人で無いと断っている。西は魏虜(北魏)と接した。
營平二州諸軍事(遼西の2州の将軍)というが、ようは斉国は北朝北魏の敵だったので
北燕国の鮮卑族の王族の養子に高句麗族の太子(王子)を入れていたので実質でないが名を与えた。
『梁書』高句驪 遼東でなく東にあると書いている。
漢王朝や三国志魏のときは、朝鮮・穢狛・沃沮・夫餘と違い、境を接していたと書いてある。
漢王朝の武帝の元封四年に、朝鮮を滅ぼし。玄菟郡を置き、高句驪を縣となし郡に属させた。

『隋書』高麗 夫餘族から出た。朱蒙が高句麗と自称し、高氏と名乗った。
昭列帝のときに慕容氏の所領となった。丸都を焼いて略奪して遠征から帰国。
昭列帝のあとに百濟の所領とし百済で高句麗王を殺した。
その曾孫の「レン」は、後魏(北魏)に遣いをした。
「レン」の六世の孫の「湯」は、周にあって遣いを使いにさせ朝貢してきた。
遼東公、遼東王の名前で・・・高麗王と改めた。朝貢を絶やさなかった。
平壌城が都、長安城、國内城、漢城を「三京」とした。

『舊唐書』高麗 扶餘とは別種族だという。
平壌城が都。漢王朝のときに樂浪郡の地だった。
長安から東に5100里で、東に海を渡れば新羅国
西北は遼水を渡れば唐の營州、南に海を渡れは百濟国、北は靺鞨族に至った。

20ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:36:10
何を言っているのか、といえば。
高麗(高句麗)は、何度も滅ぼされ、領土も地域も民族も名前も変わっていると言うこと。

『後漢書』高句驪 隣に遼東・朝鮮・ワイ・貊。
『三國志』高句麗 隣に遼東・朝鮮・ワイ・貊。
『晉書』高句麗・高麗・朝鮮は滅ぼされて存在しない。

『宋書』高句驪國・中国人で無い・遼東郡・高句麗王。
『梁書』高句驪・遼東の東・漢魏の時の隣に朝鮮・穢狛・沃沮・夫餘。
 漢武帝元封四年に朝鮮を滅ぼし玄菟郡高句驪縣とした。

『南齊書』高麗國(高句麗でない)・中国人で無い・隣に魏虜(北魏)。
 營平二州諸軍事(遼西の2州の将軍)という北燕国の養子(高麗国王子)に名を与えた。
『隋書』高麗・夫餘族の朱蒙が自称で高句麗の高氏・慕容氏の所領で丸都を焼いて略奪・
 百濟の所領で百済が高句麗王を暗殺・曾孫「レン」後魏(北魏)・六世「湯」周・
 遼東公・遼東王→高麗王・平壌城・長安城・國内城・漢城。
『舊唐書』高麗・扶餘でない・平壌城・樂浪郡。隣が、新羅国・遼水營州・百濟国・靺鞨族。

21ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:37:01
歴史隠蔽と改ざん箇所ほか。。。
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『晉書』高句麗・高麗・朝鮮は滅ぼされて存在しない。
『南齊書』高麗國(高句麗でない)・中国人で無い・隣に魏虜(北魏)。
『隋書』高麗・慕容氏の所領で丸都を焼いて略奪・
百濟の所領で百済が高句麗王を暗殺・曾孫「レン」後魏(北魏)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

この北魏が「遠征で滅ぼした(百済王の余牟太と将の沙法名の防衛戦)」
後に北魏の「傀儡国の平壌城を都とする高麗国」
をつくり高句麗の旧領を「夫餘族」に支配させた。

高麗国の南には北魏の「傀儡国の新羅城を都とする加羅国」

-------------------------------------------------
唐が二番煎じをし

倭に人質だった百済太子の余豊の再建百済国を滅ぼし
高句麗族の宰相だった淵蓋蘇文の再建高麗国(高句麗)を滅ぼし

唐の「傀儡国の渤海国」をつくり
高麗国の旧領を「渤海靺鞨・靺鞨夫餘氏」に支配させた。

渤海国の南には
唐の「傀儡国の帯方郡王の帯方州」をおき
百済国の旧領を「渤海靺鞨・靺鞨夫餘氏」 に支配させた。

22ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:37:36
北魏の朝鮮半島への遠征事件が隠蔽されている。

北魏の半島での傀儡国としての「高麗国と加羅国」の建国記事が抜けている。

百済の北魏と戦った防衛戦争の記事も抜けている。

民族はバク(東夷)→句麗(高句麗)→夫餘(高麗)→
靺鞨(百済)→渤海(契丹)と変遷している記事が抜けている。

23ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:38:47
北燕国の建国(後燕国の滅亡)と
滅亡の記事(北魏の遠征軍の攻撃記事・王の亡命先での暗殺)も
漢人馮一族が高句麗族を王にしたが鮮卑族が殺し
漢人馮一族が高句麗族に殺された事への「歴史改ざん」している。

出身が違うが、日本とシナが戦争の頃に
馮玉祥という将軍が抗日戦争を内蒙古や満州西部でしたいた。
馮氏を、朝鮮や韓国の系列の者が殺したとあっては反日に都合悪い・・・。
という意図が感じられる。

白村江(はくすきのえ・白江口)の戦いの前の
百済叛乱で「沙相如」という者が660〜663年に指導し
北魏襲撃で「沙法名」という者が475年に出撃した件があり
沙氏を「歴史隠蔽」している。
ほか百済の大姓八族に白氏がいる。滅ぼされている。

滅ぼした沙氏と白氏を日本の大分の佐伯氏と見なすと
親日して都合悪いのでは・・・。という意図が感じられる。

200年ほど続く地元有力者ろか豪族の家系を隠蔽するには裏があると思う。ほかの
歴史記事の有力者は3代ぐらいで100年(北燕国)も、もたないのである。

中国側が激怒し、高句麗など無い。中国東北部(旧満州で
遼東半島の先の奥地部分)の一部というのは暴挙でなく史書的には正しい。

200年ほど続く地元有力者とか豪族の家系を隠蔽するには裏があると思う。

馮玉祥という将軍が抗日戦争を内蒙古や満州西部でしていた。

24ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:39:47
●朝鮮(北朝鮮の西半分、半島黄海側で北部に限る。黄海北道に限定した地域)
 地域: 楽浪郡−朝鮮県(現在の平壌〜沙里院周辺)
 意味: 朝貢(朝が)あさし(鮮し・「少ない」の意味)

●カラ(狭意義に、慶尚北道に限定した地域)
韓・加羅(現在の慶尚道の南北両道・
     帯水(漢江・もと帯方郡)上流の
     秋風嶺を越えた南で、洛東江流域の東夷の地域、
     別名は弁辰地域で、馬韓の東界(東側)と説明し
     いにしえの辰国(辰韓・新羅・小柄民族)と
     弁別した弁人(大柄民族)が住んでいる地域を示した)

東夷の韓より夏殷周王朝の方が古い。
      秦漢晋王朝の頃でも、東夷の韓に統一国は無かった。

西晋の陳寿の編纂した三国志魏書には、
      50余国の馬韓の集落国、24の弁辰と辰韓の集落国があり

六朝の梁あたりの編纂の南朝の宋書には、
      倭の武王が海北に95国(95か集落の国・任那)を
      有すると主張していた。

北魏の百済攻撃の際に、半島には
   百済国・任那・加羅国(この国の中に新羅城という一つの集落国がある)
があった。

25ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:40:53
魏明帝の頃に、魏将カンキュウケンが高麗を討ちワイ侯フジを服属させる。
高麗王はヨクソ・ワイに逃げたと言うが行方不明。一説に海に入りカラに逃げたと言う。
それゆえにヨクソ・ワイ・カラが高麗国だったのだろうと言われた。

同じく魏明帝の時に、楽浪郡太守の劉茂は兵を挙げ、
帯方郡の崎離営(漢人宿営)を襲った、韓(カラ)族を平定し、東夷の韓を滅ぼした。
(三国志魏書の馬韓50余国、弁辰と辰韓24国は滅んだ。)

西晋武帝の頃に馬韓王が朝貢しに来たが、
それ以降は三韓を聞かず、百済と新羅に併合されたのだろうと思われた。

しかし、六朝宋(〜420)への
倭の5王の朝貢記事によれば、海北(半島)には95か国があり
その95国の中に、百済・加羅・新羅・馬韓・辰韓・任那が含まれるとした説明である。

東晋(317年〜)や宋に南斉などの六朝と
五胡十六国時代に入る直前(西晋時代の313年)の
楽浪太守の亡命した先の「前燕国」から
前燕国の後継の北魏の手に落ちた「北燕国」の時代まで
もと帯方郡であった地域は、百済の王家が安定的な継承で支配していた。

「北燕国」の王家であり重臣一族の漢人馮氏の娘は楽浪公主というから
平壌(楽浪郡役所)あたりまで、北燕国(遼西・瀋陽)の勢力圏か領土と思われる。

26ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:41:58
百済に王統あり、後漢206年ごろに公孫康が楽浪郡を分割した
帯方郡へ移動し、遼東国公孫度(公孫康の父)の娘と政略結婚した
夫余王−尉仇台(位宮?高句麗王?)から子孫の
サン、ケイ、と数世代つづいた王統が帯方郡地域にあった。
(244〜246年に魏の遠征と太守の討伐で、高麗国は離散し、東夷の韓は滅ぶ。)

楽浪郡太守の張氏が、高麗国(高句麗)をおそれ
前燕国鮮卑族慕容氏へ亡命して、楽浪郡は滅び(313年)、
翌年に帯方郡も滅ぶが、仇台の地元有力者は依然健在なようで
仇台の廟を持つ帯方郡の余須、余映、から(317東晋〜420宋〜479ごろ)
北燕国龍城(前燕→前秦→後燕→北燕と変遷)を陥とし(436年)
高麗国丸都を焼いた北魏が
百済遠征で攻撃時の王の余牟太、前代の余牟都、ほか王統が数世代続いた。

北魏から百済を守った大族がおり「沙法名」ほか解氏、木氏、賛氏といた。
百済の諸将は六朝の南斉から将軍職がおのおの下賜された。
余牟太の頃の北魏は太皇太后の摂政時代で、帝(魏主)は孝文帝で
471年の即位の時に5歳、百済遠征475年は4年後である。

その後、余牟太から余章・余豊の白村江の戦い(663年)まで
余氏百済王家は存続する。それと同じく北魏を守った大族につながる
白村江の戦の前の蜂起時(660年)の百済豪族の「沙相如」のように
百済の大姓八族(沙・解・木・〔賛〕・燕・国・眞・〔白〕)も存続した。

27ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:42:43
新羅を、高麗国(高句麗)と百済国とマッカツ族の3者共同で
攻めていた時(655年)に百済地域の支配は虜義慈(夫余義慈)という
「渤海マッカツ族」の「夫余氏」に代わっていた。

余豊(倭国に百済太子として人質でいて、文度済海という百済王の没後
の後継者)が百済王に復帰する前で、かつ唐の遠征軍に降伏する前の事であった。

この夫余義慈から、子の夫余隆、一代おき、隆の孫の夫余敬まで
夫余氏が「帯方郡王」であった。その後に
帯方地域は、渤海マッカツ(大震国・渤海国)の勢力圏となる。
唐は「百済王」の称号を廃止して後漢の尉仇台・六朝の余須の血筋の王統を廃絶した。


朝は、朝廷・天朝・王朝の朝です。朝夕の朝ではありません。朝ありは、朝貢しに来たの意味です。


『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳 晉 陳壽撰  (宋 裴松之 註)
韓の条: 今「辰韓人」皆褊頭。男女近「倭」、亦文身。便歩戰、兵仗與馬韓同。・・・
「弁辰」與「辰韓」雜居、亦有城郭。衣服居處與「辰韓」同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、
 施竃皆在戸西。其「toku[偏水旁賣]廬國」與「倭」接界。十二國亦有王、其人「形」皆「大」。

「辰韓」の男女は「倭(日本人は小柄)」に近い
「弁辰」の人は「大(大柄)」

28ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:43:55
時代が交錯しています。
公孫度(位宮)と公孫康(尉仇台)の時代の問題と名前の区切り方の問題です。

漢文では異民族の名前の省略などに問題があり、百済の王が
「余須」から始まるのに「仇台の廟」を持つのです。

「尉」氏だから姓名省略で「仇台」かといえば、
「尉仇」氏の「台」と読むような真似をします。尉余須かと言えば、そうとは思えません。

北魏の百済遠征の際に、百済王なのは「牟太」です。
余氏で、余牟太でしょうか。尉余氏の牟太でしょうか。

牟太の父は、牟都ですが、省略で「都」です。困る事に、ほかの記事で余都という人物もいます。
都の省略は、余牟都なのか、余都なのかです。あるいは正式名が尉余牟都なのでしょうか?

牟太の省略は「太」です。問題があります。百済の王が「太」なら、百済を攻めた時期の
摂政であろう、北魏の幼年の孝文帝の母であろう皇太后も「太」です。
太皇太后と余牟太なのか、百済は姓名が変わり、
牟氏の太という王か「弁慶がな ぎなたを持って」ほどに、わからないのです。

29ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:46:37
高句麗は何度も漢人や鮮卑族の討伐で丸都(高句麗県)を荒らされています。

魏明帝の時に魏将カンキュウケンで高麗をヨクソに追い、
後燕国の鮮卑族慕容氏の昭烈の時に丸都を破壊、
北魏国の鮮卑族拓跋族の百済遠征でも破壊されています。

朝鮮族は良く意図的に世代をごちゃごちゃにします。
燕人衛満が倒した箕子朝鮮です。

箕子の40余世の準と衛満の孫の右渠が同世代ではないかと思われますが
李氏朝鮮では、衛満が箕子を倒しているように教えていたのも事実です。

人生50年で40世代前とは2000年前です。
イエス・キリスト(ユダヤ)をビンラディン(アラブ)や
ブッシュ大統領(アメリア)が倒すような、おかしな昔話です。

30ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:47:45
もっと、おかしいことがあります。

正史の南斉書・梁書・隋書・旧唐書に資治通鑑や通典などが参考ですが
百済とマッカツと高麗が、新羅を攻めていたのが655年
百済王族が唐に拉致られ滅亡し豪族叛乱が660年と663年(白村江=白江口の戦い)です。

ところが、倭の水軍は唐の蘇定方の水軍を討ち、655年の新羅を攻めたマッカツの
唐に降伏した虜義慈の子の夫余隆が水軍を持ち
倭の水軍は、義慈の子の隆の水軍(唐の水軍)に負けて半島を撤退したのです。

その後に、倭国・耽羅・新羅・百済の使者を劉仁顔が泰山まで連れて行き祠を参らせました。

百済に杜ショクという墳墓石碑を建て農事暦を配ったのに、高麗遠征に借り出した新羅が
百済を荒毀して杜ショクという書道拓本の石碑を消滅させたのです。この野蛮な
荒毀という行いでは、唐文化の書道が新羅に伝播したとは到底いえないわけです。
書道の文化を新羅が知っていれば、新羅が百済の文物を荒毀できるでしょうか?

さて、義慈は「虜義慈」であって「百済王」では、ありません。
新羅を攻めたマッカツの義慈であり、マッカツは今でいう東北部で
昔の満州です。高麗国(高句麗)でも百済でもないと言う事です。

31ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:48:28
この時の百済では「文度済海」が実権を握っており、彼が亡くなると
倭に人質だった「豊(余豊・夫余豊)」を王に迎えます。
余章豊の名で中国史書にはないです。余章(王へんがつく字)と、単に「豊」です。

虜は明朝で北虜南倭に使われる北方異民族をさす言葉です。
虜は鮮卑だったり(魏虜と使う場合は北魏をさす)、女真(満州族の八旗軍)だったり
蒙古(北虜南倭の北元国)だったりです。

旧唐書に資治通鑑や通典の百済は新羅とマッカツ(虜)に併呑され滅ぼされた
の記事が正しければ
日本書紀や三国史記の記事のほうに問題があるという事です。

>女真(満州族の八旗軍)だったり

正確には、明王朝ですから女直(満州)ですね。女真は金国や蒙古時代です。
で、「丙子胡乱」と韓国教科書の満州の朝鮮への攻め込み記事なはずで、実は昔の
書き方ですと「丙子虜乱」となります。満州も北虜(北方異民族)なのです。

32ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:49:34
箕子の40余世の準は、太白山脈の東海岸や漢江の上流のワイ族の伝説で、
平壌あたりの楽浪(朝鮮県)とは関係ない民話です。

衛満の行き着いた先は、小水バク(鴨緑江の中国側支流か遼河の
東側支流)といわれたクリ族の地で、後の高句麗になる部族が、漢人に討伐
された時に逃げた先のヨクソという半島東北部の日本海側の伝説です。
ピョンヤンあたりの朝鮮という地域と関係ない話です。

衛満は燕亡人ですから、魏志東夷伝や李氏朝鮮に語られるような
異民族(中国人が胡服を着た、公孫淵の燕皇帝の僭称事件か
討伐された記事や公孫氏が胡服で威を張る話)ではなく
燕地(河北・遼西)の中国人が、亡命して朝鮮やヨクソに逃げた話です。

楽浪郡で朝鮮県あたり、ピョンヤンあたりの説明に出て来ないものです。

33ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:50:30
(毎度ながら前置きもなく唐突に)個人的な意見(仮説)です。

佐伯はサエぎる(遮る)で、防風林で、外敵を防ぐの意味だと
ドコかのレスでありました。

沙法名という百済の将が、北魏の百済遠征を大破し、百済滅亡を防いだ
とあります。先のレスの
余牟太が王様の時です。この沙氏のほか解氏、木氏、賛氏も
功労があり六朝の南斉から将軍号を戴いています。

通典という歴史書ですと、百済の大姓八族という記事で出ており
沙氏・〔白〕氏・解氏・木氏・〔賛〕氏・眞氏・燕氏・国氏とあります。

沙法名が北魏を破ったように、百済王が唐に拉致られ王都が占領された時に
沙相如が立ち上がって百済豪族の叛乱で
王奪回や百済再興をする期待感は想像できるようです。

この沙氏と〔白〕氏を合せると、漢字の語呂合わせになりますが「佐伯」になります。

馬韓伯済国からある百済に、佐平の官があり、塞を守るので(塞で外敵をサエぎる)、
佐伯という説もあるようですが。

34ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:52:59
>>1

>>8-9

35ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:53:29
チョンに歴史書や学問テキストなど「書」は、ネコに小判だ。
豚に真珠。犬に聖なる物をくれてやるな。くれたものを
踏みつけたなら、くれた者に噛み付いてくるであろう。とは、
新約聖書の福音書でイエスの言葉。

中国人は出典を明らかにして自分の付けた注釈と本文の原文とを分けて考える。
朝鮮人は都合の良いように改ざんして原版を破却する。最新版(改ざん版)しかない。
引用や異説の注解が、まともに出来ない。

韓国人は本を読みたがらないと言うが、本は他人から盗んで
盗まれた相手に使えなくさせて、困らせるのに、書を入手にすると言う考え方。
まったくもって朝鮮文化とは文明の敵だ。書の中身を自分で理解しないし出来ない。

朝鮮人が今あるのは、遼東郡・玄菟郡・楽浪郡・帯方郡などの中国人を殺して
中華文物を盗んで日本人に自慢し、殺した中国人達の名前を自分達の名前に使って、
殺した中国人達の先祖を自分達の朝鮮人の先祖だと偽族譜(偽家系図)を誇る事だ。

アメリカ人は「日本人」を「トレブリンカ」や「ダッハウ」の絶滅収容所の
ユダヤ人のようにホロコーストやジェノサイドして、今でも日本女性を侮辱している。
朝鮮人の「完全統制区域(強制収容所・日本人収容所)」と同じだ。

サイパンや沖縄だけでなく、アメリカ軍の居た地域は、今でも口をつぐんでいるし
思い出させるな話すつもりは無い。などと逆上させる。
中国の人の逆上はするが、話は聞かせてくれるのとは大違いだ。
こういう泣き寝入り根性が、アメリカ人を増徴させ、朝鮮人を粋がらせて
漢字文化を破壊して、日本の漢字文化の輸入をまげて教え伝える事になっている。

36ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:56:53
他人を困らせるために盗むの、自慢の鼻をへし折る為に盗んで読めなく
させるの威張っている、そいつらの地元は鍋かぶりの知ったか日親しかおらん。
満州事変を起こし満州開拓団を自決させた、中国地元民から盗み漏洩の
キチガイ法華経教徒ではないか。君らの信用にたる朝鮮半島民から
戦後ドウ帰って来れたと言うのか。現在の拉致者すら戻らないし恐怖で
語らない帰国者しかいないのにか。大本教など神道系新興宗教も同罪。

関帝廟への毎度の拝拝で愛想を得て福建出身の台湾華僑から
買わせて戴いた,あなた方の一味の騙して盗んだ香港や台湾の
暦など中華文物をはじめ、騙し盗んだ物は全部私本人に返却して頂きたい。

中華街にキムチ屋ひらく嫌がらせ民族なのにか。
口先のごめんなさいは、いらんから物を返せ。
カトリックとも正教とも洗礼のお呼びは全く無いのだし
詐欺のモルモンとも絶縁している。

偶像崇拝になるから朝鮮人やモドキが盗み貰っておくとはならない。
洗礼受けても文化物として取っておく事は赦されている。
降霊術や、まじない行為を禁止しているだけ。朝鮮人!聖堂で神父の
許可を無理やり得てマリア像に向かって加持祈祷するな。
あれらは本当にカトリック聖職者なのでしょうか?激しく疑問です。

37ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:58:40
でなければ「カトリック国」や特に「改革派のプロテスタント圏」で
「博物館」は、建てられないし、設置できないし、利用できない。
「図書館」も「異教の本や写真や絵」などを掲載できない。
異教の教えの解説も、読んでいけないから解説記事も掲載できないし、
そういう本を置いてもいけない。何も対話も出来ない。鎖国より始末に悪い。

イコノクラズム(イコン破壊運動)並だな。「宗教戦争」時代の
聖遺物を焼き払ったり粉々に砕く運動ですよ。朝鮮戦争中や戦後の
イギリスアメリカの支援で7歩あるくと次の教会があるほどの韓国での
キリスト教(自称で長老教会、長老を敬う朝鮮にピッタリだと
こじつけ解説の)の繁盛と同じです。李朝の文物を破壊して、偶像崇拝は
いけないから朝鮮のお面も石像も木像も書籍も全部
壊し焼きましょう。アメリカに感謝しましょう。つーのと。同じだな。

朝鮮半島を焦土化して偶像を焼き払い清め、地面一面に障害物なし、高麗以来の
伝統焼畑って感じだな。というより、もともと赤茶けた緑ない山らしいが。
南部の海岸や山岳地しか緑が無いらしい。それでも山肌が見えるという。

風土病なのだろう。焚書坑儒や前時代の文物は全部破壊して、
最新の中国様が作った物を貰って使おう。という姿勢。
それがアメリカ様の作った物を貰って使おう。という姿勢に変わっただけ。
「中国様」→「アメリカ様」と「国名」が変わっただけなのだが。
あーと、つまり。姿勢とか思考回路が変わったわけでない。
ベクトルだけ。

38ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 14:24:57
●金国北部で東部

黒水____________黒水_吉烈迷(吉里迷)___庫葉島(樺太島)
______黒水______黒水_水達達
烏古部___混同江_黒水__黒水_鉄驪部(ハバロフスク周辺)
混同江支流_混同江_黒水__黒水_兀惹部
______混同江_黒水__黒水_五国部_支流
______混同江_蒲与路_混同江____支流_野人女直
敵烈部___混同江_混同江_胡里改路___支流_支流の支流
__混同江_上京路_混同江_混同江の支流_支流_____支流_恤品部
______混同江_混同江_上京会寧府__混同江の支流_水源_耶懶路(ナホトカ)
__________混同江_完顔部____混同江の支流_烏古論部(ウラジオストク)
__遼河______混同江支流の宋瓦江__宋瓦江の水源
______遼河______咸平路
______北京路_遼河__東京路__鴨緑江_豆満江
____北京大寧府_遼河_______鴨緑江_合懶路(羅津・咸南)
__________遼河__蘇館路__鴨緑江
__________渤海湾_婆達府路_黄海__東真人(東丹人・渤海人)

39ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 14:27:00
曷蘇館路 ← 蘇館路

●金国北部で東部

黒水____________黒水_吉烈迷(吉里迷)___庫葉島(樺太島)
______黒水______黒水_水達達
烏古部___混同江_黒水__黒水_鉄驪部(ハバロフスク周辺)
混同江支流_混同江_黒水__黒水_兀惹部
______混同江_黒水__黒水_五国部_支流
______混同江_蒲与路_混同江____支流_野人女直
敵烈部___混同江_混同江_胡里改路___支流_支流の支流
__混同江_上京路_混同江_混同江の支流_支流_____支流_恤品部
______混同江_混同江_上京会寧府__混同江の支流_水源_耶懶路(ナホトカ)
__________混同江_完顔部____混同江の支流_烏古論部(ウラジオストク)
__遼河______混同江支流の宋瓦江__宋瓦江の水源
______遼河______咸平路
______北京路_遼河__東京路__鴨緑江_豆満江
____北京大寧府_遼河_______鴨緑江_合懶路(羅津・咸南)
__________遼河__曷蘇館路_鴨緑江
__________渤海湾_婆達府路_黄海__東真人(東丹人・渤海人)

40ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:21:14
結論。従来の高麗(900−1392)という時代と国はない。
国がなく、契丹(東丹国)と女真(高麗藩・刀伊)と蒙古(東真国)の
州縣や郡縣となっていた。

北方異民族が侵攻して来る度に住民は、あちこちに移動させられた。
いま居る半島の住民は「渤海人と女真族」の住民移動による定住で
新羅の民は契丹と女真により遼東に移動させられ
モンゴル族の時に虐殺され消滅。

新羅が契丹(遼国の聖宗)に滅ぼされるまで
高麗(ヨクソ・ワイ・カラ)と偽ったため。
渤海は辰韓から名づけ、渤海国辰州を置いて、新羅を滅ぼす。

契丹(遼国)は興州、湯池縣(建安縣)を置いて
、南女直湯河司、楽浪郡海冥縣であった旧百済を支配。
契丹(遼国)は盧州、建安縣を置いて
、渤海「杉盧郡」であったソウル帯方郡を支配。
契丹(遼国)は開州、熊岳縣(建安縣)を置いて
、渤海「東京龍原府」であった新羅(高麗)慶州を支配。

女真(金国)が高麗藩を置いて、旧新羅・旧百済を支配。

41ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:34:00
遼史卷三十八志第八地理志二東京道東京遼陽府,本朝鮮之地 ...
遼史志第一至十四
二〕 宣化縣丁四千按地理志一,
宣化縣?四千。 一?一丁, 疑誤。〔三〕慶州玄寧縣 玄寧, 地理志一作玄紱。 ...
...三〕 縣二行唐阜俗按地理志一, 保和縣、
宣化縣均于統和八年隸彰愍宮。〔四〕州一按地理志二:「宗州,耶律隆運以所俘漢民置 ...
後徙遼城,並入?嶺縣。渤海後為紫蒙縣。?一千。
興遼縣。本漢平郭縣地,渤海改為長寧縣。
唐元和中,渤海王大仁秀南定新羅,北略諸部,開置群邑,遂定今名。?一千。
肅慎縣。以渤海?置。歸仁縣。順化縣。
開州,鎮國軍,節度。本?貊地,高麗為慶州,渤海為東京龍原府。有宮殿。
都督慶、鹽、穆、賀四州事。故縣六:曰龍原、永安、烏山、壁谷、熊山、白楊,皆廢。
疊石為城,周圍二十里。唐薛仁貴征高麗,與其大將?沙門戰熊山,擒善射者於於石城,即此。
太祖平渤海,徙其民於大部落,城遂廢。聖宗伐高麗還,
<六>周覽城基,複加完葺。
開泰三年,遷雙、韓二州千餘?實之,號開封府開遠軍,節度;更名鎮國軍。隸東京留守,
兵事屬東京統軍司。統州三、縣一。開遠縣。
本柵城地,高麗為龍原縣,渤海因之,遼初廢。聖宗東討,復置以軍額。民?一千。
鹽州。本渤海龍河郡,故縣四:海陽、接海、格川、龍河,皆廢。?三百。隸開州。
相去一百四十里。穆州,保和軍,刺史。
本渤海會農郡,故縣四:會農、水?、順化、美縣,皆廢。?三百。隸開州。
東北至開州一百二十里。 統縣一:. 會農縣。
賀州,刺史。本渤海吉理郡,故 縣四:洪賀、送誠、吉理、石山,皆廢。?三百。隸開州。
定州,保寧軍。高麗置州,故縣一,曰定東。聖宗統和十三年升軍,遷遼西民實之。隸東京留守司。
統縣一:定東縣。高麗所置,遼徙遼西民居之。?八百。
保州,宣義軍,節度。高麗置州,故縣一,曰來遠。聖宗以高麗王詢擅立,問罪不服,
統和末,高麗降,<七>開泰三年取其保、定二州,於此置 ?場。隸東京統軍司。

42ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:34:54
遼史卷三十八志第八地理志二東京道東京遼陽府,本朝鮮之地 ...
遼史志第一至十四
統州、軍二,縣一: 來遠縣。初徙遼西諸縣民實之,又徙奚、漢兵七百防戍焉。?一千。
宣州,定遠軍,刺史。開泰三年徙漢?置。隸保州。
懷化軍,下,刺史。開泰三年置。 隸保州。
辰州,奉國軍,節度。本高麗蓋牟城。唐太宗會李世攻破蓋牟城,即此。
渤海改為蓋州,又改辰州,以辰韓得名。井邑駢列,最為沖會。遼徙其民於祖州。
初曰長平軍。?二千。隸東京留守司。統縣一:建安縣。
盧州,玄紱軍,刺史。本渤海杉盧郡,故縣五:山陽、杉盧、漢陽、白岩、霜岩,皆廢。?三百。
在京東一百三十裏。兵事屬南女直湯河司。統縣一:熊嶽縣。
西至海一十五裏,傍海有熊嶽山。來遠城。本熟女直地。
統和中伐高麗,以燕軍驍猛,置兩指揮,建城防戍。兵事屬東京統軍司。
鐵州,建武軍,刺史。本漢安市縣,高麗為安市城。唐太宗攻之不下,薛仁貴白衣登城,即此。
渤海置州,故縣四:位城、河端、蒼山、龍珍,皆廢。?一千。
在京西南六十里。統縣一: 湯池縣。興州,中興軍,節度。本漢海冥縣地。
渤海置州,故縣三:盛吉、蒜山、鐵山,皆廢。?二百。
在京西南三百里。湯州。本漢襄平縣地。
渤海置州,<九>故縣五:靈峰、 常豐、 白石、 均谷、 嘉利, 皆廢。?五百。
在京西北一百里。崇州,隆安軍,刺史。本漢長岑縣地。
渤海置州,故縣三: 崇山、?水、䖝城,皆廢。?五百。
在京東北一百五十里。統縣一: 崇信縣。海州,南海軍,節度。本沃沮國地。
高麗為沙卑城,唐李世徠嘗攻焉。渤海號南京南海府。
疊石為城,幅員九里,
都督沃、晴、椒三州。故縣六:沃沮、鷲巖、龍山、濱海、昇平、靈泉,皆廢。 ...

43ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:38:27
遼史卷四十志第十地理志四南京道商京析津府,本古冀州之地 ...本
遼史志第一至十四
... 東至北烏魯虎克四百里,南至海邊鐵山八百六十裏,
西至望平縣海口三百六十裏,北至? 婁縣、範河二百七十裏。 ...
四:轄州府軍城八十七按「八十七」與下文所列州、府、軍、城之數不合。
五〕 本漢鏤芳縣地鏤芳,漢書地理志、後漢書郡國志均 作鏤方,屬樂浪郡。
〔六〕聖宗伐高麗還高麗原誤「新羅」,據紀統和三年七月、十年正月改。
...本漢無慮縣地。
聖宗統和三年置〔一三〕,以奉景宗乾陵。有凝神殿。隸崇紱宮,兵事屬東京都部署司。...
二六〕 潤州海陽縣原與隰州海濱縣互舛。金史地理志:「海陽縣,遼潤州海陽軍故縣也。」
「海濱縣,遼隰州平海軍故縣也。...
?陰縣。本漢泉山之霍村鎮。遼?季春,弋獵於延芳淀,居民成邑,就城故?陰鎮,後改為縣。
在京東南九十里。延若澱方數百里, ... 在州東北六十里。?五千。
望郡縣。本漢海陽縣,久廢。太祖以定州望都縣俘?置。有海陽山。縣在州商三十里。?三千。 ...


遼史卷三十八志第八地理志二
東京道 東京遼陽府,本朝鮮之地 ...
統縣一: 熊岳縣。西至海一十五里,傍海有熊岳山。來運城。本熟女直地。
統和中伐高麗,以燕軍驍猛,置兩指揮,建城防戍。...
統縣一: 湯池縣。興州,中興軍,節度。本漢海冥縣地。
渤海置州,故縣三: 盛吉、蒜山、鐵山,皆廢。?二百。在京西南三百里。...

44ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:46:47
金史志第一至七
廣靈亦作「陵」,遼統和三年析靈仙置。
靈丘晉縣,貞祐二年四月陞為成州,四年 割為代州支郡。定安晉縣。
... 二五〕興中本漢柳城地「漢」原作「唐」。按遼史卷三九地理志,
中京道,興中府「興中縣,本漢柳城縣地」。今據改。 ...

熾天使書城----元史志第十一地理二
... 至元六年,以鶴野縣、警巡院入焉。
州二蓋州,下。初為蓋州路。至元六年,並為
東京支郡,並熊岳、湯池二縣入建安縣。... 元貞二年,並兩司為
瀋陽等路安撫高麗軍民總管府,仍治
遼陽故城,轄總管五、千?二十四、百?二十五。...

金史志第一至七
六〕徙治寧州按遼史卷三八地理志,
東京道「寧州,觀察。統和二十九年伐高麗,以渤海降?置。兵事隸東京統軍司。
統縣一:新安縣」。蓋
寧州是遼舊地名,金末已廢,故不見于本書地理志。又本卷下文
東京路遼陽府鶴野縣
「鎮一:長宜,曷蘇館在其地。宜豐遼舊
衍州安廣軍,皇統三年廢為縣,有東梁河。石城興定三年九月,以縣之靈岩寺為
岩州,名其倚郭縣曰東安,置行省。

??-->金史-->志第五志第五. 地理上○
上京路鹹平路東京路北京路西京路中都路金之壤地封疆,東極
吉裡迷兀的改諸野人之境,北自
蒲與路之北三千餘里,火魯火□謀... 本高麗蓋葛牟城,遼辰州。明昌四年,
罷曷蘇館,建辰州遼海軍節度使。六年,以與「陳」同音,更取蓋葛牟為名。...

45ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:52:10
雲台書屋--?史書籍--二十四史--??--金史--志第六
導航:雲台書屋...留守司留守帶本府尹,兼本路
兵馬都總管。天紱二年罷行台尚書省,置轉運司、提刑司。天紱二年置
統軍司。有藥市四,?場。... 宋軍?郡。?八萬六千六百一十五。
縣五、鎮一:掖倚。有三山、夜居山、掖水。?陽有高麗山、七子山。鎮一衡村。

金史志第一至七
曷蘇館路,置節度使。天會七年,徙治
寧州,嘗置都統司,明昌四年廢。
有化成關,國言曰曷撒罕關。... 天顯三年,升為
南京,府曰遼陽。十三年,更為
東京。太宗天會十年,改南京路平州軍帥司為
東南路都統司之時,嘗治於此,以鎮高麗。 後置
兵馬都部署司,天紱二年,改為本路都總管府,後更置留守司。

金史志第二二至三一
十年, 改南京路都統司為東南路都統司,治東京以鎮高麗。
後又置統軍司于大名府。及海陵天紱二年八月,改
諸京兵馬都部署司... 詔遣官詣復州、
曷蘇館路,檢視富家,蓄積有餘筯直以糴。令近地居民就往受糧。十八年四月, 命
泰州所管諸猛安、

金史表第一至四
九月, 以
東京路兵馬都總管府判官蕭子敏為
高麗生日使。

46ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:53:51
逸海書城--?史書籍--二十四史--??--金史--列傳第十
天紱二年,遷右監軍。元帥府罷,改
山西路統軍使,領西南、西北兩路招討兵馬,坐無功,降
臨海軍節度使,?平陽、太原尹。... 天會十年,改南京路軍帥司為
東南路都統司,習 古乃為都統,移治東京,鎮高麗。
贊曰:金?疆土,斡魯、斡魯古方面功最先著,婆盧 ...

逸海書城--?史書籍--二十四史--??--金史--列傳第十九
破高麗戍兵。與石適歡討平諸部。蒲察部
雅裏孛?與其兄弟胡八、雙括等欲叛
歸遼,鶻謀琶執之,送于康宗,賜賚甚厚。破高麗
曷懶甸及下陀魯城... 徙同知河北東路都總管,改
同簽燕京留守司事,民遮留不得出,易服夜去。改
河東南路轉運使,尋改絳陽軍節度使。

??-->金史-->志第六地理中○
南京路河北東路河北西路山東東路山東西路南京路,國初曰?京,貞元元年更號
南京。府三,領節鎮三,防御八,刺史郡八,縣一百五。
都城門十四,曰開陽,曰 宣仁,曰安利,曰平化。曰通遠,曰宜照,曰利川,
曰崇紱,曰迎秋,曰廣澤,曰順義, ... 留守司
留守帶本府尹,兼本路兵馬都總管。天紱二年罷行台尚書省,置
轉運司、提刑司。天紱二年置統軍司。有藥市四,?場。 ...

金史志第一至七
斡塞伐高麗,太祖臥而得夢,亟起曰:「今日捷音必至。」乃為具於毬場以待。
有二?渡水而至,獲之,太祖曰: 此休?也。... 天眷元年,置
上京留守司,以留守帶本府尹,兼本路兵馬都總管。後置
上京曷懶等路提刑司。?三萬一千二百七十。

47ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 23:19:54
結論。従来の高麗(900−1392)という時代と国はない。
李朝前期が高麗国・後期が朝鮮国。

国がなく、契丹(東丹国・湯河司)と女真(高麗藩・刀伊)と蒙古(東真国・斉国)の
縣州や郡縣となっていた。

北方異民族が侵攻して来る度に住民は、あちこちに移動させられた。いま居る
半島の住民は「遼西人・渤海人・女真族」の住民移動による定住で、新羅の民は
契丹と女真により満州に強制移住させられ蒙古族の時に虐殺され消滅。
新羅が契丹(遼国の聖宗)に滅ぼされるまで高麗(ヨクソ・ワイ・カラ)と偽ったため。

契丹(遼国)は慶鹽穆賀四州、保定ニ州を置いて遼西諸縣民を新羅へ強制移住させ
奚兵漢兵で新羅を滅ぼし、新羅民を祖州へ強制移住させる。
旧渤海(順化縣(開州・開遠縣(鹽州・穆州)・會農縣賀州)崇信縣海州「沃晴椒三州」)
旧新羅(會農縣(定州・定東縣保州)來遠縣「宣州・辰州(もと蓋州→祖州、強制移住先)」)
旧百済(建安縣盧州「熊嶽縣(鐵州)・湯池縣(興州・湯州・崇州)」)

女真(金国)が、契丹の東京遼陽府(東京統軍司)から
高麗藩(遼国南女直湯河司)で旧百済を、女真の刀伊(遼国東京留守司)で旧新羅を支配。

48ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 23:23:47
『遼史』卷三十八志・第八地理志二・東京道東京遼陽府,本朝鮮之地


____________崇信縣海州南海軍疊石為城(沃、晴、椒州・沃沮國・南京南海府)
____________開遠縣鹽州本柵城(開州)
____________開遠縣穆州保和軍(開州)
____________順化縣開州鎮國軍(慶州・慶鹽穆賀四州・東京留守・東京統軍司・東京龍原府)
____________會農縣賀州(開州)
熊嶽縣鐵州建武軍來遠城_會農縣定州保寧軍(東京留守司・遼西民・保定ニ州)
建安縣盧州玄紱軍____定東縣保州宣義軍(東京統軍司・遼西民)
湯池縣興州中興軍____來遠縣宣州定遠軍(保州・遼西諸縣民・奚、漢兵)
湯池縣湯州_______來遠縣懷化軍(保州・遼西諸縣民・奚、漢兵)
湯池縣崇州隆安軍____來遠縣辰州奉國軍(蓋州・東京留守司・徙→祖州長平軍)


※(建安縣盧州玄紱軍・遼国南女直湯河司・渤海国杉盧郡漢陽。)

49ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 23:24:35
遼史卷三十八志第八地理志二東京道東京遼陽府,本朝鮮之地 ...
 遼史志第一至十四
?嶺縣。渤海「紫蒙縣」徙「遼城」
興遼縣。漢「平郭縣」渤海「長寧縣」
肅慎縣。渤海「歸仁縣」
 隸東京留守。屬東京統軍司。
順化縣。開州「鎮國軍」?貊,高麗「慶州」渤海「東京龍原府」
    都督「慶、鹽、穆、賀」四州事。故縣六:龍原、永安、烏山、壁谷、熊山、白楊
    疊石為城,熊山,石城。雙、韓二州,開封府「開遠軍→鎮國軍」
開遠縣。本柵城,高麗「龍原縣」
    隸開州。鹽州。渤海「龍河郡」故縣四:海陽、接海、格川、龍河
    隸開州。穆州「保和軍」渤海「會農郡」故縣四:會農、水?、順化、美縣
會農縣。隸開州。賀州。渤海「吉理郡」故縣四:洪賀、送誠、吉理、石山
    隸東京留守司。定州「保寧軍」遷「遼西民」。高麗「定州、定東縣」
 隸東京統軍司。
定東縣。高麗「定東縣」遼徙「遼西民」。
    保州,宣義軍,高麗「保州、來遠縣」聖宗以高麗王詢擅立,高麗降。「保、定」二州。
來遠縣。初徙「遼西諸縣民」又徙「奚、漢兵」七百。
    隸保州。宣州「定遠軍」徙漢「宣州」
    隸保州。「懷化軍」下。
    隸東京留守司。辰州「奉國軍」高麗「蓋牟城」渤海改「蓋州」又改「辰州」
      辰韓から名を得る。遼徙「辰韓民→祖州」初曰「長平軍」
 屬南女直湯河司。
建安縣。盧州「玄紱軍」渤海「杉盧郡」故縣五:山陽、杉盧、漢陽、白岩、霜岩
 屬東京統軍司。
熊嶽縣(熊岳縣)。來遠城。熟女直。熊嶽山(熊岳山)。
    鐵州「建武軍」漢「安市縣」高麗「安市城」渤海「鐵州」故縣四:位城、河端、蒼山、龍珍
湯池縣。興州「中興軍」漢「海冥縣」渤海「興州」故縣三:盛吉、蒜山、鐵山
    湯州。漢「襄平縣」渤海「湯州」故縣五:靈峰、常豐、白石、均谷、嘉利
    崇州「隆安軍」漢「長岑縣」渤海「崇州」故縣三: 崇山、?水、䖝城
崇信縣。海州「南海軍」沃沮國。高麗「沙卑城」渤海「南京南海府」
    疊石為城,都督「沃、晴、椒」三州。故縣六:沃沮、鷲巖、龍山、濱海、昇平、靈泉

50ハンドル付けて下さい:2006/06/23(金) 16:59:55
李承晩(アメリカ人妻・プロテスタント教徒・李朝の両班らしいが庶ゲツらしい)
李承薫(李朝後期の人で、朝鮮初のカトリック教徒)

朝鮮(朝貢(朝廷への参賀の貢ぎ)が少ない(あさい、鮮い)の意味。
   黄海に面した朝鮮北部のピョンヤンあたりの地名。中国人の血筋を強調。)

東夷の韓(カラと読み・加羅とも書く。異民族である事を強調。
     春秋戦国の周王朝の回りに韓という国があった。周辺とか端の意味。)

百済(馬韓伯済国からとも、百済王室が高句麗の東北向こうの
   夫余族が移住して来た事を意味する「百家済海」という表現の
   省略形ともいう。
   百の家(百姓、沢山の名前つまり全人民)を連れて
   海を渡って(済って)来たの意味の四文字熟語。
   遠い所から移住した意味に使う。
   半島南部の代表的な楽浪郡楽都県らしい
   羅州を北にくだった所「くだ羅」に百済がある。という仮説も。)

北魏(後魏・魏虜[虜は北方異民族を貶めていった単語])が攻めてきた時に
   百済の有力な四姓名の豪族(沙氏、木氏、解氏、賛氏)が防衛で戦い、
   今のソウルから任那や新羅のところに
   加羅国(迦羅国)を建てていた。
   迦羅国の新羅城(弁辰)は百済人(馬韓人)が王(辰王)であった。)

51ハンドル付けて下さい:2006/06/23(金) 17:52:49
金史志第一至七
...
銅山遼同州鎮安軍,本漢襄平縣,遼太祖時以東平寨置,因名東平,軍曰鎮東。
章宗大定二十九年,以與東平重,故更。
...
松山,遼松山州勝安軍松山縣,開泰中置,舊置刺史。太祖天輔七年置觀察使。
皇統三年廢 州來屬。承安三年隸高州,泰和四年後復。
...
靜封,承安二年以胡設務置,隸全州,三年 隸高州,泰和四年來屬。
三韓遼伐高麗,遷馬韓、辰韓、弁韓三國民為縣,置高州。
...
置遼東路轉運司、東京鹹平路提刑司。?五萬六千四百四。縣八:
平郭倚[縣],舊名鹹平, 大定七年更。
銅山[縣],遼同州鎮安軍,本漢襄平縣,遼太祖時
...
襲遼制,建五京,置十四總管府,是為十九路。
其間散府九,節鎮三十六,防御郡二十二,刺使郡七十三,軍十有六,縣六百三十二。
...
全州,下,盤安軍節度使。承安二年置,改胡設務為
靜封縣,〔二七〕鄢河舖為盧川縣,撥北京三韓縣烈虎等五猛安以隸焉。 ...
...
建置?二,天輔六年,仍立高州,更觀察作軍事,隸大定府路,治三韓縣。
天會元年,更□. □軍 節度(《金史》〈地理志〉:“
天會元年,以高州置[□□軍)節度”)。皇統三年,罷。 ... 盧川縣。
承安二年,析朔平、安豐縣立盧川縣,隸全州;尋改隸臨?府(《金史》〈地 ...
...
述不誤,唯“山東、河北、河東、陝西各分爲兩路”,嚴格?來蓋在,
大安二年。《金史》卷九
...
於神山縣]置惠州”;“復[於宜民縣]置川州”;“復[于安豐縣]置全州”
;“置靜. 封縣”;“升盧川縣”;“升?陽縣”;“改[徽川寨]爲徽川縣”
;“升[新城鎮]置威
...

52ハンドル付けて下さい:2006/06/23(金) 18:46:28
渤海靺鞨・契丹・女真・蒙古による、
    徙民政策(しミンせいサク、強制移住政策)
契丹族遼国上京臨黄府慶陵(遼西・熱河)

咸平路=鹹平路(吉林省・夫餘地(夫余地)・祖先の州(祖州?))

祖州・東京路・東京統軍司
建安縣・來遠城・南女真湯河司(東丹王・東真国 → 泰村王・泰封国)

三韓人→全州=高州(高麗地・遼東)
辰州=蓋州(新羅人・渤海人・摩震国)→祖州(遼東地・夫余地・鹹平・盧)

遼西人→建安縣來遠城、
    保州・定州(帯方郡・楽浪郡=杉盧郡漢陽=漢城=ソウル)

建安縣=來遠縣(來遠城)=保州(遼西諸縣民・
                奚兵(遼西の胡族)、漢兵(中国人))

建安縣(熊嶽縣(熊岳県)・湯池縣を吸収合併。
    開州(開城・開京)・松山縣(松岳県)・・・)

53ハンドル付けて下さい:2006/06/23(金) 18:52:18
辰州(辰韓(カラの古辰国)から名をとる、新羅の地)

蓋州(蓋馬大山(西蓋馬縣、蓋馬高原)の東は、東ヨクソを含み
   ヨクソ(渤海、大震国)・ワイ・カラの高麗の地で、
   高麗人が逃げた新羅の地でもある。)

54ハンドル付けて下さい:2006/06/23(金) 19:11:10
渤海靺鞨・契丹・女真・蒙古による、徙民政策(しミンせいサク、強制移住政策)

契丹族遼国上京臨黄府慶陵(遼西・熱河)
咸平路=鹹平路(吉林省・夫餘地(夫余地)・祖先の州(祖州?))

祖州・東京路・東京統軍司
建安縣・來遠城・南女真湯河司(東丹王・東真国 → 泰村王・泰封国)

三韓人(馬韓・辰韓・弁韓)→全州=高州(高麗地・遼東半島含む)
辰州=蓋州(新羅人・渤海人・摩震国)→祖州(遼東地or夫余地=鹹平の地=盧の地)
遼西人→建安縣來遠城・保州・定州(帯方郡and楽浪郡=杉盧郡漢陽=漢城=ソウル)

建安縣=來遠縣(來遠城)=保州(遼西諸縣民・奚兵(遼西の胡族)・漢兵(中国人))
建安縣(熊嶽縣(熊岳県)と湯池縣を吸収合併。開州(開城・開京)・松山縣(松岳県)・南女真)

辰州(辰韓(カラの古辰国)から名をとる、新羅の地・東京統軍司の管轄)
 ↑
蓋州(蓋馬大山(西蓋馬縣、蓋馬高原)の東は、東ヨクソを含み
   ヨクソ(渤海、大震国)・ワイ(太白山脈・単単大山)・カラ(洛東江)の
   高麗の地(高州)で、高麗人が日本海経由で逃げた(海に入り逃げた)
   新羅の地(百済人王(夫余人・全州)の加羅国新羅城)でもある。)

55ハンドル付けて下さい:2006/06/23(金) 19:39:12
【 遼王朝契丹の高州(高麗藩)→全州(東京路の留守司) 】
 (平壌と、契丹国の開州=渤海国(大震国)の慶州)

順化縣開州_開遠縣鹽州と穆州____會農縣賀州_崇信縣海州(沃晴椒三州)
熊嶽縣鐵州_建安縣盧州_會農縣定州_定東縣保州【東京−統軍司の管轄(旧渤海と新羅東岸)】
湯池縣興州と湯州と崇州_來遠縣宣州_來遠縣辰州=渤海(摩震国)の蓋州→祖州に強制移住

 (木浦)_______________(釜山・現在の慶州=新羅の金城)
【 南女真−湯河司の管轄(旧百済と旧帯方郡と新羅内陸) 】
(契丹の盧州=渤海国杉盧郡漢陽=李朝の漢城=百済の漢山=現在のソウル)

56ハンドル付けて下さい:2006/06/25(日) 08:03:56
2世紀に鮮卑族を統一した檀石槐

57ハンドル付けて下さい:2006/06/25(日) 08:41:58
前1世紀に前漢武帝が楽浪郡設置
2世紀に鮮卑族を統一した檀石槐(檀君)
4世紀に楽浪郡が滅亡・北燕国漢人馮氏娘が楽浪公主に・百済八族が北魏と戦う
7世紀に渤海国が杉盧郡漢陽縣(ソウル)を設置。

10世紀に遼国(遼西の西部・遼河上流の内蒙古(もと鮮卑地・契丹族・奚族))が、
         漢陽を建安縣盧州來遠城(南女真湯河司の統治)とする
         開州(慶州(熊嶽(熊岳)・松岳(松山)・開京・開城))・
         高州(全州・
         辰州(蓋州(元山〜金城))

12世紀に金国(女真)の時に、高麗は王の名で昌なる者を廃し、国が変わる。
         高麗の地元民が「藩」と自称し、女真は「生日使」を置く。
13世紀に元国が、斉国大長公主の領地とする。

15世紀に入る数年前に、李成桂や王弟(太宗)が高麗王と自称し王位を禅譲されたと説明する。
16世紀に、三浦の乱で対馬と熊川のみで交易し、倭寇が絶えない。
17世紀に入る数年前に、秀吉の足軽が唐辛子を持ち込み、
      対馬と草梁島倭館で倭館開市のみで交易。
      日本人と関わった朝鮮人を朝鮮国内で死刑とし、
      日本に渡った朝鮮人の引渡しを要求する。
      日本に朝鮮人の外交官を遣わさず、
      国書を対馬の日本人に東莱城(富山浦(オウサン港))まで持って来させ
      返信の国書を朝鮮で対馬の使いの日本人が貰い、日本へ伝える。

17世紀の前半に、李氏王朝(李朝)は満州八旗に降伏し、朝鮮国王に封じられる。
      外交の詳細から、国内の事件から税金の詳細まで、中国に報告する義務ができる。
      全面鎖国とし、外交は中国を通してのみ行い(事大主義)話を伝える事になる。
19世紀の後半に、事大党が清国(中国)の出兵と外交取り決めの変更の報告を入れる。
      太平天国の乱(キリスト教系統の新興宗教の民乱)を鎮圧した
      清国の淮勇と北洋艦隊(大臣李鴻章の私兵と軍船)を派遣し
      長崎で威嚇する。
      明治政府が、火輪船(鉄鋼製の蒸気船)を早急に大量に造船しないと
      大変な事になると、イギリスに依頼しフランスに外交を託す。
      アメリカはキリスト教会の私学校を通して、日本を議員によって操る方策で
      自由党を結成させ(民権運動により新政府を妥当する方針)、
      日本での憲法草案と議会制度取り入れと日本予算の報告を
      日本議員にアメリカ外交筋に入れるように有力者個人に契約を要求する。

20世紀の初め、英米を首班とする8か国が、中国の帝都の北京を
      インド兵・日本兵2万で占領させる。ドイツ軍とフランス軍は
      英米と同じくオブザーバー的に振舞う。

58ハンドル付けて下さい:2006/06/25(日) 08:47:30
前1世紀に前漢武帝が楽浪郡設置
2世紀に鮮卑族を統一した檀石槐(檀君)
4世紀に楽浪郡が滅亡・北燕国漢人馮氏娘が楽浪公主に・百済八族が北魏と戦う
7世紀に渤海国が杉盧郡漢陽縣(ソウル)を設置。

10世紀に遼国(遼西の西部・遼河上流の内蒙古(もと鮮卑地・契丹族・奚族))が、
         漢陽を建安縣盧州來遠城(南女真湯河司の統治)とする
         開州(慶州(熊嶽(熊岳)・松岳(松山)・開京・開城))・
         高州(全州・興州(光州))
         辰州(蓋州(元山〜金城(慶州)・東京統軍司や東京留守司の統治))

12世紀に金国(女真)の時に、高麗は王の名で昌なる者を廃し、国が変わる。
         高麗の地元民が「藩」と自称し、女真は「生日使」を置く。
13世紀に元国が、斉国大長公主の領地とする。

15世紀に入る数年前に、李成桂や王弟(太宗)が高麗王と自称し王位を禅譲されたと説明する。
16世紀に、三浦の乱で対馬と熊川のみで交易し、倭寇が絶えない。
17世紀に入る数年前に、秀吉の足軽が唐辛子を持ち込み、
      対馬と草梁島倭館で倭館開市のみで交易。
      日本人と関わった朝鮮人を朝鮮国内で死刑とし、
      日本に渡った朝鮮人の引渡しを要求する。
      日本に朝鮮人の外交官を遣わさず、
      国書を対馬の日本人に東莱城(富山浦(オウサン港))まで持って来させ
      返信の国書を朝鮮で対馬の使いの日本人が貰い、日本へ伝える。

17世紀の前半に、李氏王朝(李朝)は満州八旗に降伏し、朝鮮国王に封じられる。
      外交の詳細から、国内の事件から税金の詳細まで、中国に報告する義務ができる。
      全面鎖国とし、外交は中国を通してのみ行い(事大主義)話を伝える事になる。
19世紀の後半に、事大党が清国(中国)の出兵と外交取り決めの変更の報告を入れる。
      太平天国の乱(キリスト教系統の新興宗教の民乱)を鎮圧した
      清国の淮勇と北洋艦隊(大臣李鴻章の私兵と軍船)を派遣し
      長崎で威嚇する。
      明治政府が、火輪船(鉄鋼製の蒸気船)を早急に大量に造船しないと
      大変な事になると、イギリスに依頼しフランスに外交を託す。
      アメリカはキリスト教会の私学校を通して、日本を議員によって操る方策で
      自由党を結成させ(民権運動により新政府を妥当する方針)、
      日本での憲法草案と議会制度取り入れと日本予算の報告を
      日本議員にアメリカ外交筋に入れるように有力者個人に契約を要求する。

20世紀の初め、英米を首班とする8か国が、中国の帝都の北京を
      インド兵・日本兵2万で占領させる。ドイツ軍とフランス軍は
      英米と同じくオブザーバー的に振舞う。

59ハンドル付けて下さい:2006/06/25(日) 08:54:44
前1世紀に前漢武帝が楽浪郡設置(朝鮮縣・帯方縣・遂城縣など)
2世紀に鮮卑族を統一した檀石槐(檀君)

4世紀に楽浪郡が滅亡・北燕国漢人馮氏娘が楽浪公主に・百済八族が北魏と戦う
7世紀に渤海国が杉盧郡漢陽縣(ソウル)を設置。

10世紀に遼国(遼西の西部(慶州)・遼河上流の内蒙古(もと鮮卑地・契丹族・奚族))が、
         漢陽を建安縣盧州來遠城(南女真湯河司の統治)とする
         開州(慶州(熊嶽(熊岳)・松岳(松山)・開京・開城))・
         高州(全州・興州(光州・長興府史が倭寇で戦死))
         辰州(蓋州(元山〜金城(慶州)・東京統軍司や東京留守司の統治))

12世紀に金国(女真)の時に、高麗は王の名で昌なる者を廃し、国が変わる。
         高麗の地元民が「藩」と自称し、女真は「生日使」を置く。
13世紀に元国が、斉国大長公主の領地とする。

15世紀に入る数年前に、李成桂や王弟(太宗)が高麗王と自称し王位を禅譲されたと説明する。
16世紀に、三浦の乱で対馬と熊川のみで交易し、倭寇が絶えない。

17世紀に入る数年前に、秀吉の足軽が唐辛子を持ち込み、
      対馬と草梁島倭館で倭館開市のみで交易。
      日本人と関わった朝鮮人を朝鮮国内で死刑とし、
      日本に渡った朝鮮人の引渡しを要求する。
      日本に朝鮮人の外交官を遣わさず、
      国書を対馬の日本人に東莱城(富山浦(プサン港))まで持って来させ
      返信の国書を朝鮮で対馬の使いの日本人が貰い、日本へ伝える。

60ハンドル付けて下さい:2006/06/25(日) 08:55:52
16世紀に、三浦の乱で対馬と熊川のみで交易し、
      倭寇が絶えない(長興府史が倭寇で戦死) 。
17世紀に入る数年前に、秀吉の足軽が唐辛子を持ち込み、
      対馬と草梁島倭館で倭館開市のみで交易。
      日本人と関わった朝鮮人を朝鮮国内で死刑とし、
      日本に渡った朝鮮人の引渡しを要求する。
      日本に朝鮮人の外交官を遣わさず、
      国書を対馬の日本人に東莱城(富山浦(オウサン港))まで持って来させ
      返信の国書を朝鮮で対馬の使いの日本人が貰い、日本へ伝える。

17世紀の前半に、李氏王朝(李朝)は満州八旗に降伏し、朝鮮国王に封じられる。
      外交の詳細から、国内の事件から税金の詳細まで、中国に報告する義務ができる。
      全面鎖国とし、外交は中国を通してのみ行い(事大主義)話を伝える事になる。
19世紀の後半に、事大党が清国(中国)の出兵と外交取り決めの変更の報告を入れる。
      太平天国の乱(キリスト教系統の新興宗教の民乱)を鎮圧した
      清国の淮勇と北洋艦隊(大臣李鴻章の私兵と軍船)を派遣し
      長崎で威嚇する。
      明治政府が、火輪船(鉄鋼製の蒸気船)を早急に大量に造船しないと
      大変な事になると、イギリスに依頼しフランスに外交を託す。
      アメリカはキリスト教会の私学校を通して、日本を議員によって操る方策で
      自由党を結成させ(民権運動により新政府を妥当する方針)、
      日本での憲法草案と議会制度取り入れと日本予算の報告を
      日本議員にアメリカ外交筋に入れるように有力者個人に契約を要求する。

20世紀の初め、英米を首班とする8か国が、中国の帝都の北京を
      インド兵・日本兵2万で占領させる。ドイツ軍とフランス軍は
      英米と同じくオブザーバー的に振舞う。

61ハンドル付けて下さい:2006/06/25(日) 08:56:33
16世紀に、三浦の乱で対馬と熊川のみで交易し、
      倭寇が絶えない(長興府史が倭寇で戦死) 。
17世紀に入る数年前に、秀吉の足軽が唐辛子を持ち込み、
      対馬と草梁島倭館で倭館開市のみで交易。
      日本人と関わった朝鮮人を朝鮮国内で死刑とし、
      日本に渡った朝鮮人の引渡しを要求する。
      日本に朝鮮人の外交官を遣わさず、
      国書を対馬の日本人に東莱城(富山浦(プサン港))まで持って来させ
      返信の国書を朝鮮で対馬の使いの日本人が貰い、日本へ伝える。

17世紀の前半に、李氏王朝(李朝)は満州八旗に降伏し、朝鮮国王に封じられる。
      外交の詳細から、国内の事件から税金の詳細まで、中国に報告する義務ができる。
      全面鎖国とし、外交は中国を通してのみ行い(事大主義)話を伝える事になる。
19世紀の後半に、事大党が清国(中国)の出兵と外交取り決めの変更の報告を入れる。
      太平天国の乱(キリスト教系統の新興宗教の民乱)を鎮圧した
      清国の淮勇と北洋艦隊(大臣李鴻章の私兵と軍船)を派遣し
      長崎で威嚇する。
      明治政府が、火輪船(鉄鋼製の蒸気船)を早急に大量に造船しないと
      大変な事になると、イギリスに依頼しフランスに外交を託す。
      アメリカはキリスト教会の私学校を通して、日本を議員によって操る方策で
      自由党を結成させ(民権運動により新政府を妥当する方針)、
      日本での憲法草案と議会制度取り入れと日本予算の報告を
      日本議員にアメリカ外交筋に入れるように有力者個人に契約を要求する。

20世紀の初め、英米を首班とする8か国が、中国の帝都の北京を
      インド兵・日本兵2万で占領させる。ドイツ軍とフランス軍は
      英米と同じくオブザーバー的に振舞う。

62ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 11:10:17
韓国の歴史の誇張や捏造を暴こう! 十七
348 :マンセー名無しさん :2006/07/01(土) 20:04:34 ID:t+0WwDpz

閔妃暗殺犯として朝鮮政府に処刑された鮮人は何人もいる。(日本人はいない)
さらに、殺害現場を目撃した純宗(閔妃の息子)は「母ノ仇、禹範善」と述べ、暗殺者に
命を発し禹範善(王宮に突撃した朝鮮軍第二訓練隊の指揮官)を亡き者にした。

閔妃は、嫁の分際で義父=大院君を拉致幽閉したり、日本軍に育てられた訓練隊を解散さ
せたりのやりたい放題で、大院君と訓練隊に恨まれていたのだ。

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渤海国杉廬郡漢陽・東丹国・東丹王: 泰封国・泰村王 後高句麗弓裔・王建
遼国建安県廬州・玄徳軍来遠城・南女真湯河司: 後百済キョン萱
遼国来遠県辰州・奉国軍・東京統軍司留守: 摩震国 新羅敬順王
金国女真族・銅山県・松山県・開州・
 全州・高州熊嶽県・高麗生日使・夏生日使・宋生日使: 高麗は昌という名の王を廃した
元国蒙古王朝・斉国大長公主: 高麗の最後の7代つづく王は蒙古の王妃

63ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 11:24:40
アメリカは漢字文化を破壊するために
朝鮮民族の盗みと書き換えと消失をする手癖の悪さに期待している。

偶像崇拝だから昔の文書は口実を設け文書破壊する。
漢字は文化でないからアメリカだけ文明国と確信し
中国はアメリカと貿易するためには
韓国人通訳を使い簡体字にさせる
アメリカ教会に忠実な韓国人貿易者を重用という
信じられない根性に基づいて外交を行って来た。

今までの歴史消滅。
・・・
朝鮮半島を中国(前漢武帝)が支配していた事を教えない。
日本と中国の古代の交渉(倭の五王)を歴史教科書に教えさせない。
百済の王家の中国側伝承(尉仇台の移住・
            北魏と戦争)を教えないように学者を脅迫。
中国への日明貿易と倭寇(中国人海賊と日本海賊の交流)を教えない。
南北朝時代の天皇制度の存続にまつわる昔話(宮方武将)を教えない。
日本国内の宗教戦争(奈良時代の御蚕一揆・真宗の東西分裂・
  法華一揆・一向一揆・島原の乱・寺請制度・日蓮宗不受派弾圧・
  薩摩カヤカベ教(真宗)弾圧・廃仏毀釈など)を教えない。
朱印状貿易による東南アジアの日本人街や
  オランダ(出島独占)との友好関係を教えない。
ロシアの沿海州・千島・樺太でのアイヌ虐殺を教えない。
アメリカ軍の
  サイパン・沖縄・東南アジアでの日本女性虐殺を教えさせない。

64ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 11:57:01
削除基準・教えない基準

満州を発生源とする民族や建国の歴史・中国と日本の交流史(倭王や日本国王の任命に関する歴史)・
オランダ−ドイツやフランス−ロシアとアイヌの交流史・東南アジアや沖縄との交流史・
日本国内の生産者の組合や宗教団体による反乱(一揆)の歴史・
日本国内の天皇を巡る内戦(戦争)の歴史・
日本や北中国の間の遼東半島・朝鮮半島・山東半島をめぐる戦争の歴史・

475年の朝鮮半島の戦争は倭人(任那)と高句麗との間の戦争ではなく、
百済(百済武将、沙法名ら四天王(四武将)たち)と
北魏(均田制孝文帝の母の皇太后「太氏」の命じた遠征)の戦争だった。

663年の白村江の戦い後で668年の高麗国(高句麗)の滅亡前に
665年に山東半島の「泰山」で耽羅・倭国・百済・新羅の
「4カ国の使節」が「唐の将軍と盟約」した歴史事件を隠蔽して来た。

山東半島の登州に「満州の民族」の「渤海マッカツ族」が水軍で襲来して来た。
その後に安禄山が反乱を起こした。

渤海マッカツ族の大震国(渤海国)は漢江流域(帯水流域・帯方郡・
ソウルの流域)を支配し杉盧郡漢陽縣(ソウル)を置いていた。

遼国(契丹族・キタイ族)の時代の旧百済は
女真族の分派部族(玄徳軍)に支配され「南女真湯河司」を置かれていた。

新羅(辰韓)の住民は強制移住で立ち退かされ、安禄山の出身の胡族と
遼西の中国人が、辰州(もと新羅(保州・
定州など))へ入植し「東京統軍司留守」(奉国軍)の監理下に置かれた。

65ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 12:15:19
白村江の戦いは、渤海マッカツ族の夫余義慈の
子の夫余隆の水軍と、倭の水軍との戦いだった。『資治通鑑』

義慈は韓国の歴史教科書にある百済最後31代目の王ではなく『三国史記』
また「日本書紀」あたりの余豊章や余章豊という百済王子が最後の王でもない。

滅亡しているはずの義慈の
子の夫余隆と、夫余隆の
孫の夫余敬も、帯方郡王として旧百済を支配していた。『通典・旧唐書』
その後、山東半島に渤海マッカツ族が押し寄せ『資治通鑑』

渤海マッカツ族を含む安禄山が反乱し『十八史略』

渤海国が漢陽縣を設置し、支配し
契丹が玄徳軍によって、旧百済に南女真湯河司を置いて支配した。『遼史』

金国(女真族)は、高麗生日使(高麗勝利使)を送り、
高州を全州と名を改め、静封県を置いて支配した。『金史』

66ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 22:37:37
唐・安東都護府
渤海国・杉盧郡漢陽県(後の漢城・前の漢山)
遼・建安県盧州(南女直湯河司(玄徳軍))・
  湯州・祟州・・・。
  保州・定州 ← 来遠県辰州(東京統軍司留守(奉国軍))
 新羅人を南満州に強制移住、遼西の中国人や安禄山の系統の胡族遊牧民を新羅に移住。
 渤海人を遼東半島に強制移住、女真族を渤海に移住。 契丹族遼主聖宗の時。
金・高麗生日使(高麗勝利使)・高州→全州・静封県・銅山県・松山県・開州・熊嶽県
 高麗は藩と称し、王である昌なる名の者を廃した。
元・斉国大長公主
明・経略使(遼東都指揮使)・土司(遼東都司)・權國事(高麗知密直司事)帝不許賜。
--------------------------------------------------
契丹(遼国)は慶鹽穆賀四州、保定ニ州を置いて遼西諸縣民を新羅へ強制移住させ
奚兵(安禄山出身の契丹と違う遼西の遊牧民)と漢兵で新羅を滅ぼし、
新羅民を祖州(南満州の夫余?・[鹵咸]平路?現在の吉林東部延辺?)へ強制移住させる。

旧渤海(順化縣(開州・開遠縣(鹽州・穆州)・會農縣賀州)崇信縣海州「沃晴椒三州」)
旧新羅(會農縣(定州・定東縣保州)來遠縣「宣州・辰州(もと蓋州→祖州、強制移住先)」)
旧百済(建安縣盧州「熊嶽縣(鐵州)・湯池縣(興州・湯州・崇州)」)

女真(金国)が契丹東京遼陽府(東京統軍司)から
高麗藩(遼国南女直湯河司)で旧百済を
女真の刀伊(遼国東京留守司)で旧新羅を支配。

高麗はなく東契丹として東丹国(もと渤海国+新羅国)が置かれた。

67ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 22:42:16
良人(なにん)
 両班(やんばん)・
  任(にむ・長老[なうりにむ:旦那 とーりゃんにむ:お坊ちゃん])
下人(はいん)
 中人(ちゅんいん・ちゅにん)
  常奴(さんのむ)=常民(ちゃんみん・さんみん)・
    やんばん庶ゲツ・官奴(かんの)・
    真人(ちにん・救世主と名乗る弥勒教の教祖)
 奴婢(のび)
  率居奴婢・チゲ(荷背負い度道具・荷背負い人夫)
  外居奴婢・白丁(ぺくちょん)・ピョンヤン笠・
       広大(かんで・タルチュム[仮面劇]の芸人・反乱の頭目)・
       香徒契(ひゃんどげ・棺担ぎ人足・風水の穴掘り・身代金要求ヤクザ)
       居士(こさ)・男寺党(なむさだむ)・
       巫檀(むーだん)・妓生(きーせん)ほか

68ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 22:54:35
權國事(ごんコクジ) → 準国事 → 準国王(国王に準ずる)

権僧正(ごんソウジョウ)→準僧正(坊さんに準ずる)

権先達(ごんセンダツ)→準先達(先輩に準ずる)

69ハンドル付けて下さい:2006/07/07(金) 11:02:50
夫余王尉仇台が、後漢末の公孫度と公孫康の親子の時に、高句麗の位宮から逃れ
 楽浪郡のうち帯水(漢江)流域を分割した帯方郡へ南満州吉林東部から移住する。

古代の東夷の韓は、三国志魏明帝時代に、楽浪太守劉茂によって滅ぼされている。
ワイ侯フジは、三国志魏明帝時代に、魏将カンキュウケンの遠征軍によって
 高麗が新羅に逃げ、高麗の配下のヨクソからワイは解放され三国志魏に服属する。

高句麗あらため高麗国は、遼西の北燕国が北魏に陥とされ併合されると、
            鴨緑江の中流の丸都城を北魏に焼かれる。
漢山(慰礼城)の百済は、楽浪郡地域を席巻した、北魏の攻撃を受ける。
 時の百済王は余牟太(王の名は「太」)
 時の北魏は孝文帝の太皇太后(母「太氏」)。
大田(テジョン)で北魏軍(魏虜・虜軍)を破った可能性もある。
 百済の大姓八族の沙法名、解氏・木氏・賛氏の4氏の将軍が迎撃。

百済は、唐の将軍の劉仁顔・劉仁軌・蘇定方・
唐に降伏し服属した渤海マッカツの夫余義慈(虜義慈)の子の夫余隆が制圧し
夫余隆の水軍が白江口(白村江)で倭の水軍を4戦し破る。
以降、帯方郡王は
渤海マッカツ(渤海人)の夫余氏(隆の孫の夫余敬)の領地となる。
唐が北方異民族に押された時に夫余氏は唐を離反し、渤海国に服属する。
漢山(漢城)は、渤海国の杉盧郡漢陽県(もと帯方郡の一県に相当)となる。

新羅が、五代十国の時代に勃興した契丹(キタイ)に滅ぼされ、
遼国(東丹国)の辰州となる。遼西の遊牧民や漢人が新羅に強制移住させられ、
新羅の民は祖州(南満州?)に強制移住させられる。

すでに、三韓やワイ族が滅ぼされて、
8世紀(800年間、3世紀[260年頃]から12世紀[1100年代])
が経っている。

70ハンドル付けて下さい:2006/07/07(金) 11:04:02
! 前漢武帝の時代(BC109−108年から)は、完全に中国領。。。!!!

玄菟郡西蓋馬県〜玄菟亭(蓋馬大山・ヨクソ(渤海国)・咸鏡道)
楽浪郡朝鮮県(平壌〜沙里院・朝鮮国・黄海道)

楽浪郡帯方県(仁川〜漢城[ソウル]・帯方郡・京畿道)
楽浪郡屯有県(鉄原〜春川・ワイ族の単単大山(太白山脈)・江原道)

楽浪郡楽都県(羅州〜光州・弁楽奴国・全羅道)
楽浪郡海冥県(金海〜釜山・弁辰狗邪国・慶尚道)


>漢山(漢城)は、渤海国の杉盧郡漢陽県(もと帯方郡の一県に相当)となる。

>遼国(東丹国)の辰州となる。遼西の遊牧民や漢人が新羅に強制移住させられ

金国(女真・ジュルチン)時代には
もと百済地域は、南満州の夫余(南女真)民族が住んでいて
もと新羅地域は、遼西の遊牧民(鮮卑族の分派、鮮卑の祖始は檀君)民族が住んでいた。
もと高麗(高句麗・遼東半島)には、渤海人(ヨクソの女真族)が契丹時代に強制移住させられ住んでいた。

71ハンドル付けて下さい:2006/07/07(金) 11:05:08
>もと百済地域は、南満州の夫余(南女真)民族が住んでいて

箕子朝鮮は、太白山脈のワイ族の説話だが、
 夫余人(満州人)の全羅道(南女真)が中国人である由緒を説明する。

>もと新羅地域は、遼西の遊牧民(鮮卑族の分派、鮮卑の祖始は檀君)民族が住んでいた。

檀君は、中国の遼西地方の鮮卑族の説話だが
 契丹により新羅に移住させられ住みだした慶尚道(遼西の鮮卑族系の慶州)の由緒。

>もと高麗(高句麗・遼東半島)には、渤海人(ヨクソの女真族)が

衛満朝鮮は、燕の亡命人の衛満がヨクソ(渤海)に逃げた話だが
 契丹により渤海人が遼東半島に移住させられた移動元の地の咸鏡道の由緒。

女真族は遼東(中国)でヨクソ(高麗の逃げた地)で
 「衛満朝鮮(燕人は中国人だろう。。。)」だから
東夷だ

新羅族は高麗(東夷)でワイ(三国志に服属した東夷)で
 「箕子朝鮮(箕子の八条の教えを受け入れた東夷だろう)」だから
中華だ。
 とか
真反対の事を言う。

72ハンドル付けて下さい:2006/07/07(金) 11:06:32
★★★ 漢文資料上では ★★★

楽浪郡・ヨクソ(慎粛氏)・ワイ・フヨ(百済)・高句麗(高麗・バク夷)
 ↓
楽浪郡・帯方郡・馬韓(カラ)・馬韓東界(弁辰・弁辰東浜(辰韓))・ヨクソやワイやカラに逃げた高麗
 ↓
慕韓(慕容)・百済(帯方郡)・加羅(馬韓)・秦韓(辰韓)・新羅(加羅の一個城)・任那(倭人に従う弁辰)
 ↓
前燕国(鮮卑族の慕容氏、楽浪太守が亡命)・尉仇台の子孫の夫余が移住(百家済海)・高麗
 ↓
北魏(鮮卑族の拓跋氏)・百済国(百家済海・余氏が王家)・加羅国(新羅城を含む亡命高麗人が民で王は百済人)
 ↓
高麗国(日本史料のいう高句麗)・百済国・新羅国(加羅国(百済の代官)と任那(倭の代官)を併呑)
 ↓
渤海国漢陽県(渤海マッカツ族夫余氏)・新羅(百済人が分国した加羅国にいた金氏一族)
 ↓
遼国建安県盧州(契丹の南女真湯河司)・遼国来遠県辰州(東丹国・契丹の東京統軍司留守)
 ↓
金国全州静封県(高麗生日使(高麗勝利使))・熊岳県・松山県・銅山県・鉄州・開州・・・
 ↓
元国から斉国大長公主(蒙古王妃)の領地
 ↓
明国から司使が高麗で権国事(国号が朝鮮で準国王)
 ↓
清国から朝鮮国王(異色の丸首衣装(慶賀の千官は紅服))
  大同法という税理規定では、ソウル以北・江原道・済州島は徴税できない。

73ハンドル付けて下さい:2006/07/09(日) 09:03:47
檀君: 鮮卑族(遼西慶州の遊牧民)を統一した祖

慶州: 契丹族の遼国が渤海と新羅を攻めた時に、
    辰韓を遼国辰州と名付け、遼西慶州の遊牧民と中国人を強制移住させ
    入れ替わりに三韓の民を祖州に追い出し強制移住させて統治した。

---------------------------------------------------------------------
平安道: 中国人(楽浪郡)
黄海道: 中国人(楽浪郡)
京畿道: 夫余人、別名が百済人(帯方郡)のちに渤海マッカツ人(南女直湯河司)
忠清道: 夫余人、別名が百済人(帯方郡)のちに渤海マッカツ人(南女直湯河司)
全羅道: 弁辰人(弁楽奴国)・馬韓人(馬韓伯済国[百済国]・馬韓古蒲国[任那己文県])
慶尚道: 弁辰人(弁辰涜盧国・弁辰狗邪国[迦羅国])・
     倭人(任那[大伴・金村・佐伯])・
     高麗人(新羅城(辰韓斯盧国)・ヨクソ(渤海)・ワイ侯フジ(太白山脈)・
         バク弓(高句麗)・シンシュク)

 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

全羅道: 渤海マッカツ人(南女直湯河司: 建安県・湯池県・熊嶽県)
慶尚道: 遼西慶州の遊牧民・奚兵・安禄山系統と
     遼西諸県の中国人・漢兵(東京統軍司留守: 来遠県・辰州・保州・定州)
その他: 東契丹・旧渤海国の杉盧郡漢陽県(東丹国・漢山・漢城・ソウル)

74ハンドル付けて下さい:2006/07/09(日) 09:04:54
俗説、珍説、仮説を出してしまいました。
この説はドウでしょうか?

鮮卑(北魏)の祖が檀君であること。

北魏軍(虜軍)が、
北燕国龍城(遼西・鮮卑族募容氏を支えた漢人馮氏・慕韓)と
高麗国丸都(遼東・楽浪・鮮卑族募容氏の養子・秦韓)を陥落させ、
百済国(楽浪・帯方(熊津や泗比ふくむ)と任那(迦羅国・新羅城))
を攻めた事件。

唐の渤海マッカツ夫余氏(虜義慈・夫余隆・夫余敬)は、
後漢(東漢)の時の夫余王尉仇台(楽浪郡の南半分を帯方郡として分設した
                義父の公孫度の娘が奥さん、子の公孫康の義兄弟)や
余氏百済(余慶・余牟太・余昌・余豊)と違う民族と氏であること。

渤海は、ソウルを漢陽県として支配していた事。

契丹は、慶州を辰州や来遠県として、漢陽県近辺を建安県に、全羅道あたりを湯池県とし
    三韓人を祖州に強制移住させ、遼西の遊牧民と漢人を三韓に移住させて
    南女真湯河司(玄徳軍)と東京統軍司留守(奉国軍)によって支配していた事。

女真は、高麗生日使(高麗勝利使・高麗総督)を置き、
    開州に松山県・熊嶽県、全州に静封県を置いて支配していた事。

75ハンドル付けて下さい:2006/07/09(日) 09:07:59
蒙古は、斉国大長公主の領地としていた事。

明は、遼東経略使(高麗・瀋陽・鉄嶺・平壌・碧蹄館など)と
   建州三都司(女直・アイシンギョロ)・エホナラ・海西などによって
   国境と隣接国と折衝し(高麗は3年1朝貢で)支配していた事。

清は、迎恩門を立てさせ、三田渡受降壇での三跪九叩頭拝によって、
   塩の使用禁止、鋳造を禁止し中国銅銭のみ使用(金や銀を流通させず、
   朝貢で使い果てさせる)を行っていたこと。結果、
   大同法(漢城(ソウル)以北・江原道・済州島は徴税できない)のように、
   材木や雑穀や布による収税をし、貨幣も銅銭による収税で
   金や銀の使用が中国への支払い以外は国内流通を認められなかった。
   また、塩の禁止のために唐辛子と人尿の使用が起こり、健康に害があった。
(朝鮮は1年4朝貢で、雍正帝の時に文字の獄で3年見返り停止、国王をすげ替え景祖→英宗)

76ハンドル付けて下さい:2006/08/08(火) 21:30:22
北魏の太皇太后・北燕國は楽浪公主の匈奴妃 → 百済王−余牟太・将−沙法名(迦羅王)
高麗靺鞨・百濟    → 新羅(金真平の孫娘の女王の時代)
高麗・×百濟國    → 新羅・高麗靺鞨・唐(金春秋の時代)
×高麗國       → 新羅・渤海靺鞨(熊津都尉)・唐(熊津都督・帯方州刺史)
渤海靺鞨(渤海國)  → 新羅・靺鞨夫餘氏(帯方郡王)・唐
渤海・靺鞨夫餘氏・新羅→ ×唐朝(遼西の節度使の地は 渤海国と契丹[遼]に併呑)
契丹(遼)・渤海靺鞨 → 渤海国杉盧郡漢陽県(漢城・漢山)來遠城
             蓋州、×新羅國(奚林州刺史)
遼國・東丹國(渤海國)→ 辰州−東京統軍司留守−奉国軍(遼西漢人と奚族が三韓人と入替)、
             盧州−南女直湯河司−玄徳軍(先祖が靺鞨の女真族の統治)、
             來遠県保州、熊嶽県開州、高州、泰封國(渤海靺鞨=高麗)
女真(金國・黒水靺鞨)→ 全州静封県、建安県・湯池県(高麗生日使)摩震國(高麗、辛昌)
蒙古(元國)・東眞國 → 斎國(斉国大長公主=蒙古妃、趙弁、王世子の柑)
漢人(明國)     → 高麗國(権知高麗国事、李成桂・王弟(太宗)など 3年1貢)
満州(清國・女直)  → 朝鮮國(仁祖王〔三田渡受降壇三跪九叩頭礼・迎恩門〕1年4貢)
衛満・・         箕子・・

泰山の廟祠にて それぞれの先祖に対し
唐・高麗〔靺鞨〕・新羅・百濟〔渤海靺鞨夫餘氏〕・耽羅・倭國の使いが
和平を会盟す。

唐朝: 日本各地の国分寺(律令制度・中大兄皇子・藤原鎌足)
明朝: 日本各地の相国寺・安国寺(勘合貿易・日本国王=征夷大将軍・源道義[足利義満])
明朝: 日本各地で儒学振興(徳川の朱印状貿易・日本国王=天下人・平秀吉)

77ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 11:18:23
>今まで一度も戦争で負けたことも、
対馬島討伐という1415年の侵略は、対馬撤退の敗戦が結果では、なかったのか?
日清戦争1894-95年の「成歓の遭遇戦」は朝鮮軍(地元兵)も戦い、敗北したのではないか?

>属国にされた事もなく、
契丹、新羅の金城(渤海が置いた蓋州)ほか三韓の住民を祖州に強制移住させ
入れ替わりに遼西の漢人と遊牧民(奉国軍)を蓋州に強制移住させて
辰韓だったので「辰州」と改名する。のちに「遼西の慶州(北魏の元となった
鮮卑族の故地で檀君が祖先)」の出身者が東京統軍司留守の監視下にて奉国軍により
移住して来たため慶州(慶尚道:慶州・尚州)と改名する。

女真族が攻めて来た時に、高麗と呼ばれた旧百済地域は
契丹時代に遼西がもとは高麗から分派した百済の地域という意味で
高州と呼ばれたが「全州」と改名し、静封県を置いて
高麗生日使(高麗勝利使・高麗総督ほか、夏生日使・宋生日使もいた。
属州の朝貢は夏・宋・斉・高麗であった。)によって、支配されていた。

この地域は女真族の前に支配者だった契丹(遼国)が開州・高州と名指した地域で
契丹族の前に支配者だった渤海国が杉盧郡漢陽県(漢山・漢城・ソウル)を置いた所であり
さらに來遠城が置かれていて契丹の支配に交代した時に、建安県と改名され
南女直湯河司の配下の玄徳軍によって支配された。

百済(余[よ]氏)→渤海マッカツの夫余氏(南満州)→契丹の高州(南女直)→女真の全州(静封県)
ヨ氏→呂氏(韓国語発音、ヨし)帰化人名は宮?か?

百済の先祖は夫余王の尉仇台(南満州王の尉[イ]氏)で民族大移動(百家済海、
百家をともない海を渡ってくる[済ってくる])した事から始まった。
イ氏→李氏(韓国語発音、イし)

78ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 11:19:08
BC109年に玄菟郡高句麗県・BC108年に楽浪郡朝鮮県・楽浪郡帯方県
AD206年に帯方郡を楽浪郡の南半分として分設・百済(馬韓)に夫余王尉仇台の民族大移動
AD244〜246年に東夷の韓は楽浪郡太守劉茂により滅ぶ・韓の新羅へ高麗人が亡命移住
AD313年に楽浪郡太守張統が遼西の鮮卑族慕容氏前燕国へ亡命。楽浪郡滅亡。
AD314年に帯方郡が滅亡。百済として独立。317年に南朝の東晋が成立、隋まで南北朝時代。

漢人・北燕国・馮跋の娘は楽浪公主(匈奴王妃・北魏に遼西北燕国と高麗国丸都城は滅ぼされる)

北魏の百済遠征475年(北魏孝文帝の母−皇太后太氏・百済王−余牟太・百済将−沙法名)

契丹族・遼国・聖宗の時に、三韓は蓋州から祖州へ強制移住させられる。
 三韓の蓋州は辰韓であるので辰州と改名させられ、
 遼西の中国人と遼西の檀君太祖の鮮卑族で安禄山系統遊牧民の
 遼西の奚族が辰韓(慶尚道)へ強制移住してくる。
 「東京統軍司留守」奉国軍による住民交換。
 高州は全州と改名させられ、渤海国杉盧郡漢陽県(ソウル)あたりの來遠城に
 「南女直湯河司」玄徳軍による統治。

大院君(高宗国王の父で摂政)は1866年初め(日本の戊辰戦争から征韓論ごろ)
天主教(カトリック)大弾圧を決行するに至る。(中略)まず四人の[フランス人]宣教師が
刑場にひき出された彼らは獄中で受けた拷問のため衰弱しきっていたが流暢な朝鮮語で
『一般信徒に寛大な処置を』と訴え最後の祈りをささげて従容と刑を受けた。その刑は
二台の牛車で体を左右に引き裂かれるむごたらしいものであった(中略)弾圧は
ほぼ六ヶ月にわたり 国内のあらゆる地域で続けられた

79ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 11:23:05
女真族・金国・高麗生日使(高麗勝利使・総督・公使)の領地
蒙古族・元国・斉国大長公主(蒙古人妃・姫の私有地)の領地
漢人・明国・権知高麗国事(権署朝鮮国事・朝鮮は準州の知事)の領地

応永の外寇(朝鮮名:己亥東征、あるいは対馬島征伐)1419年。
前期李朝: 対馬−済浦・富山浦・塩浦(三浦[馬山・プサン・ウル山])
三浦の乱: 鎖国(1510-1512年)
秀吉の前: 対馬−熊川浦(金海[キメ]?)
朝鮮出兵: 戦争(1592-1607年)
後期李朝: 対馬−釜山沖4km草梁島の倭館で開市(東莱城釜山鎮で国書交換の外交)

 明王朝−李朝: 3年1朝貢
1401年〜1549年ごろまでの勘合貿易と
遣明船(幕府船・内裏船・大内船・細川船ほか、毎年・鎖国・10年1朝貢・不定期)
1600年〜1636年までの朱印状貿易による
ベトナム・フィリピン・カンボジア・タイ・マレーシアと大阪堺と長崎出島の独占貿易

 清王朝−李朝: 1年4朝貢
1636年〜黒舟開国まで、オランダ東インド会社が
東南アジア華僑船(広東船・福建船・カンボジア船)の寄港の仲介で
中国船と長崎出島の間の貿易をオランダ会社の名で独占

1801年の「辛酉教獄」で清国人宜教師の周文謨をはじめ300余名を処刑した
1839年の「己亥教獄」ではアンベールら三人のフランス人宜教師をはじめ200余人を処刑
1846年の「丙午教獄」では金大建ら20余人を処刑した
1866年の「丙寅邪獄」ではブルマーをはじめとする9人のフランス人宜教師と
南鐘三ら数千人のカソリック教徒を逮捕 処刑した
この後の6年間 漢城府では1000人以上の力ソリック教徒が殺害され
全国では数万人の信徒が殺害もしくは収監された

80ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 12:14:19

燕国(遼西)−−−燕国(遼東・夫余・鉄嶺(高麗)・小水バク(女真・満州))
燕国(河北)−海−燕国(楽浪(朝鮮・高麗(バク)・ヨクソ(渤海)))
斉国(山東)−海−蓋(帯方(楽浪南半)・韓(加羅(新羅城)・ワイ(太白山脈)))
呉越(江南)−海−倭(日本)


鮮卑(遼西)−夫余(鉄嶺)−−高麗国(高句麗)−ヨクソ(燕亡人衛満)
河北の袁氏−公孫度(遼東国)−楽浪郡(朝鮮国)−ワイ(ワイ侯フジ・箕子の八条の教え)
黄巾党青州兵(山東・斉国)−帯方郡(公孫度の娘婿の夫余王尉仇台が民族大移動(百家済海))
淮南子−−−−−−−−−−−−−−−公孫度の子の公孫康が楽浪郡南半分を帯方郡に分割)
呉越・江南−−−−−−−−−韓・倭


鮮卑
高麗
馬韓−馬韓東界(弁辰・弁人の王は馬韓人)−東浜(弁辰の東界・古辰国)
弁辰の或る村々は、任(ニム・長老・目上・酋長)が倭人(那人・倭のナ国)→任那


高麗→玄菟郡高句麗県(蓋馬大山)→ヨクソに高麗人が亡命
______________________↓
楽浪郡(遼西北燕国漢人馮氏の娘が公主)_ワイに高麗人が海に入り逃げる
______________________↓
新羅に高麗の民が亡命して来て王は百済人(カラに高麗人が亡命し落ち着く)
※ 新羅城は、北魏(鮮卑族)の襲来から百済国(先祖の王が尉仇台)を守った
百済の将軍の沙法名(迦羅王)の領地の迦羅国が支配する一つの城
百済の大姓八族という有力豪族(沙氏・木氏・賛氏・解氏・白氏・燕氏・国氏・刀氏)

81ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 12:15:43
⑤隋の文帝の時、初めて朝貢に新羅国の名
高麗国(高句麗)−−−−−−−−−−−渤海マッカツ族(族長が夫余氏・隋の後の唐に服属)
百済国(王家、余氏で、大姓八族という有力豪族の連合体)−新羅国(王家、金氏一族の独裁)


⑥唐の後期
−−−−−−−−−−−−−−−−黒水マッカツ族(吉林省・女真族(満州人))
契丹(遼東・楽浪)−−−−−−−渤海マッカツ族(渤海国(咸鏡道・江原道))
マッカツ族夫余氏(帯方・百済)−新羅(代々、唐へ王子を人質に出す)


⑦契丹初期
−−−−−−−−−−−−−−−女真
遼国−−−−−−−−−−−−−渤海国
渤海国杉盧郡漢陽県−−−−−−太白山脈
マッカツ族夫余氏−−−−−−−渤海国、蓋州


⑧契丹の侵攻
蒙古−−−−−−−−−−−−−女真(金国・完顔部)
遼国−−−−−−−−−−−−−金国合獺路(咸鏡道)
遼国盧州玄徳軍−−−−−−−−遼国高州來遠県(江原道〜慶尚道)
遼国南女直湯河司・高州湯池県−遼国辰州奉国軍・東京統軍司留守(遼西慶州の漢人を移住)

82ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 12:31:38
1.BC109年以前(前漢武帝による朝鮮半島へ漢人を入殖させる前)
燕国(遼西)−−−燕国(遼東・夫余・鉄嶺(高麗)・小水バク(女真・満州))
燕国(河北)−海−燕国(楽浪(朝鮮・高麗(バク・蓋馬大山)・ヨクソ(渤海)))
斉国(山東)−海−蓋(帯方(楽浪南半)・韓(加羅(新羅城)・ワイ(太白山脈=単単大山)))
呉越(江南)−海−倭(日本)

2.BC109・BC108年(玄菟郡・楽浪郡設置)〜AD206年(帯方郡分設)
鮮卑(遼西)−夫余(鉄嶺)−−高麗国(高句麗)−ヨクソ(燕亡人衛満)
河北の袁氏−公孫度(遼東国)−楽浪郡(朝鮮国)−ワイ(ワイ侯フジ・箕子の八条の教え)
黄巾党青州兵(山東・斉国)−帯方郡(公孫度の娘婿の夫余王尉仇台が民族大移動(百家済海))
淮南子−−−−−−−−−−−−−−−公孫度の子の公孫康が楽浪郡南半分を帯方郡に分割)
呉越・江南−−−−−−−−−韓・倭

※百家済海(百姓(ひゃくせい・多くの姓名・全人民)を連れ、海を渡ってくる)民族移動の事
民族大移動の事を指して、略して百済と呼んだ。

3.206年(帯方郡分設)〜246年(高麗の新羅への亡命と、韓族の滅亡)
鮮卑の領地
高麗国
馬韓−馬韓東界(弁辰・弁人の王は馬韓人)−馬韓東界東浜(弁辰の東界・古辰国)

※弁辰の或る村々は、任(ニム・長老・目上・酋長)が倭人(那人・倭のナ国)→任那

4.244〜246年、三国志魏の討伐で古代東夷の韓族が楽浪太守劉茂により滅亡
_.244〜246年、三国志魏の遠征で魏将カンキュウケンにより高麗を討伐し削減
_.313年、楽浪太守張統が遼西前燕国の鮮卑族慕容氏に保護を求め亡命し楽浪滅亡
_.436年、北魏が北燕国(遼西)を滅ぼし、のちに高麗国の王都の丸都城を焼く
_.475年、北魏が百済遠征し半島諸国を襲撃

高麗→玄菟郡高句麗県(蓋馬大山)→ヨクソに高麗人が亡命
______________________↓
楽浪郡(遼西北燕国漢人馮氏の娘が公主)_ワイに高麗人が海に入り逃げる
______________________↓
新羅に高麗の民が亡命して来て王は百済人(カラに高麗人が亡命し落ち着く)

※ 新羅城は、北魏(鮮卑族)の襲来から百済国(先祖の王が尉仇台)を守った
百済の将軍の沙法名(迦羅王)の領地の迦羅国が支配する一つの城
百済の大姓八族という有力豪族(沙氏・木氏・賛氏・解氏・白氏・燕氏・国氏・刀氏)

83ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 12:50:44
列口県→海州→盧州→熊嶽県→開州→開城(ケソン)
漢山→漢陽県→盧州→建安県→楊州→漢城(ソウル)

任那己文→高州→湯池県→全州(チョンジュ・晋州官奴・全羅道)

新羅城→健牟羅城→金城→辰州→慶州(キョンジュ・慶尚道)

84ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 13:04:44
朝鮮半島の中国人の郡縣配置

『晉書』地理志上平州唐房玄齡等撰
+『漢書・続漢書・三国志魏書』など

遼東郡西安平縣 小水貊   玄菟郡高顯縣
樂浪郡華麗縣 玄菟郡望平縣 玄菟郡高句驪縣
樂浪郡朝鮮縣 樂浪郡屯有縣 玄菟郡西蓋馬縣
帶方郡列口縣 樂浪郡遂城縣 樂浪郡不而縣
帶方郡含資縣 帶方郡帶方縣 樂浪郡鏤方縣
帶方郡提奚縣 馬韓伯濟國  樂浪郡渾彌縣
帶方郡長岑縣 馬韓古蒲國  樂浪郡駟望縣
樂浪郡樂都縣 弁辰涜廬國  帶方郡海冥縣
帶方郡南新縣 任那日本府  弁辰狗邪國


『続漢書』郡國: 樂浪郡樂都縣(弁樂奴國)
樂浪郡駟望縣(辰韓斯廬國)
樂浪郡渾彌縣(辰韓冉奚國・辰韓軍彌國)
ワイ侯不而(不而縣・沃沮諸縣・東沃沮・夫餘)
貊人高句驪(高句驪縣・華麗縣・西蓋馬縣・小水貊)
海北九十五國(任那日本府)

85ハンドル付けて下さい:2006/08/13(日) 17:57:22
新羅は恒常的に黄海に領土を持たない、高麗王朝は無い

《山海経(せんがいきよう)》
海内北経に〈蓋(がい)の国は鉅(おお)いなる
燕(えん)の南,倭の北に在り。倭は燕に属す〉

燕(河北・遼西[鮮卑]・遼東[高麗]・楽浪[朝鮮]・帯方[百済])
蓋(韓[古辰国=新羅]・半島南部)
倭(日本列島・あるいはワイ[朝鮮半島の太白山脈])

蓋→韓と改名

高麗(遼東国)
朝鮮(楽浪郡)
馬韓(韓だけを、特に馬韓と呼ぶ)
馬韓東界(弁辰、辰と弁別した弁が住む東部の地。王が馬韓人)
馬韓東界東浜(古辰国、弁人や馬韓人とも違う中国人に似た民)


右北平郡(遼西・盛強な鮮卑族)
遼東郡・鉄嶺(小水バク族→バク弓を使う民・夫余王尉仇台)
遼東郡(盛強な高麗国=高句麗族)
楽浪郡朝鮮県
楽浪郡(帯方郡・夫余王尉仇台と民の民族大移動=百家済海)
楽浪郡(任那)


北魏国(鮮卑族の中国王朝の北朝)
北燕国(河北省北部・遼寧省瀋陽付近)
高麗国(高句麗、ヨクソ・ワイ・カラに民がいると言う)
百済国(百家済海を省略し呼んだ)
迦羅国(百済の将、沙法名を王とした領地名。王は百済人)
加羅国(王の名は荷智=日、加羅=韓)
新羅城(韓の一部、高麗が逃げてきて出来た。王は百済人)


高麗国(遼西・遼東・楽浪・
    ヨクソ[咸鏡道]・ワイ[江原道]・韓[慶尚道]の北部)
百済国(帯方(旧楽浪の南半)・馬韓・任那[慶尚道の西南部])
新羅国(韓[慶尚道]の東南部)


渤海郡王の領地(渤海=粟末マッカツ族・唐王朝の家臣)
帯方郡王の領地(渤海マッカツ族の夫余氏・唐王朝の家臣)
楽浪郡王で新羅王の領地(新羅の金氏、唐王朝へ王子を人質に)

86ハンドル付けて下さい:2006/08/13(日) 17:58:12
中国本土の一部か、準州知事の扱い。


渤海郡王の領地(渤海=粟末マッカツ族・唐王朝の家臣)
帯方郡王の領地(渤海マッカツ族の夫余氏・唐王朝の家臣)
楽浪郡王で新羅王の領地(新羅の金氏、唐王朝へ王子を人質に)


渤海国本土(咸鏡道・江原道)大震国=渤海国(渤海郡王の国)
渤海国杉盧郡漢陽県(百済の漢山・漢江流域7県)
渤海国蓋州(新羅=古辰国)唐王朝が衰え滅ぶ頃に渤海人移住


遼国遼陽路(契丹本土)
東丹国盧州建安県來遠城(契丹の南女直湯河司・玄徳軍)
東丹国辰州(契丹の東京統軍司留守・奉国軍)蓋州→辰州と改名


金国高州熊嶽県
金国高州建安県・辛昌王を廃す。高州=高麗。
金国高州湯池県


金国東京路(女真本土)
金国合獺路(咸鏡道・江原道)
金国開州銅山県(慶州など4州)
金国保州來遠県(保州と定州の2州)
金国全州静封県(高麗生日使)高州→全州と改名


元国・斉国大長公主(蒙古人妃)・趙弁(弁別字)・柑(偏異)
元国・権知高麗国事(権=準、知事・知国・国事、太祖李成桂)


明国・権署朝鮮国事(朝鮮と言う名の準州の知事、王弟=太宗)


清国・朝鮮国王(王準が由来、仁祖王)

87ハンドル付けて下さい:2006/08/14(月) 11:07:06
吏読の問題:  吏読記号は地域差・学閥差・門中(一族)により違い
時代によっても違いまだ研究段階です。読めなくなった記号(新羅末期)
解明の仕様のない記号(一族の殺された血統の記号)もあるとの事です。

ヤンバン(両班)の文字は吏読記号:   李氏朝鮮は中国語そのものの漢文で
文字の読み書きをしており朝鮮語に読み下す段になって
「吏読」という日本のレ点や一ニ点やテニオハをつけるような朝鮮独特の記号を
添付して補って書き込み、読ませていました。つまり
もともと李氏朝鮮の文字書きでは吏読記号があってハングルなど必要なかったのです。

大きい字とは古代文字の意味:    漢字と違って字が大きく
古代文字(神代文字)はアルファベットのような小文字がないので
大きい字(ハングル)と呼びました。昔の書物の
たとえば聖書に書くようなヘブライ語の文字のようなギリシア線形B型文字ほか
古代文字は「小文字が無い」から「小文字なし」あるいは、活字の大きな書きの
「大きい字」を「古代文字」の別称でフランス人神学者がアダ名して呼んでいたのです。

訓民正音(世宗日誌・雑記
          のちの実録)
日本の対馬では阿比留(あびる)文字として1400年代に「造語」され
    1820年代に「銅鏡に造語」した神代文字として朝鮮に「知らせた」字です。
ハングル(ハング[大きい]ウル[字])は
フランス人神父が1830年ごろから朝鮮で
    カトリックの祈りを布教するために考案された文字です。
日本の長崎と江戸の学者の間では
    1850年代から知られ諺文(おんもん)と呼びます。
福沢諭吉は事情を知らなくてアビル文字を知ったのは
    1870〜80年代以降に金玉均(きむおきゅん)から教えられたという事です。

王世子は王弟の子(想定される原型) → 世宗は太宗の子(歴史の後智恵で王号などを脚色)

今上天皇 → 今の御世の天皇や現在に在世の天皇で平成天皇と書いたり呼ばない。

88ハンドル付けて下さい:2006/08/14(月) 11:13:36
王世子は王弟の子(想定される原型)
 → 皇太子は次期継承者(弟公)の子(可能性としての意味)

次期後継者 → 第2代あるいは、王の弟で先に継承権がある人物 → 太宗
継承者の子 → 王世子・皇太子・太子(王子・プリンス)

89ハンドル付けて下さい:2006/08/14(月) 11:36:06
全州(元国・金国女真)→高州(高麗=高句麗 の意味からずれる。金国・遼国契丹)
 →南女直鉄州(南満州鉄嶺 遼東半島北部に渤海人)→マッカツ夫余氏(渤海マッカツ 吉林)
            →余氏百済王(高句麗の小水バクや夫余 百家済海=百済)

李成桂(太祖)全州、反蒙古運動をし女真系統の血筋と由緒する。李=イ=尉(夫余王尉仇台・百済の祖)
_↓
−−−−−
_↓__↓
定宗_王弟(太宗)王世子の軍権を握り大臣等に勅命
____↓
___王世子(世宗)応永の外寇1419年(朝鮮名:己亥東征あるいは対馬島征伐)

90ハンドル付けて下さい:2006/08/14(月) 16:57:10
鮮卑族

137 檀石槐生まれる
156 檀石槐、雲中に侵入する
  檀石槐、モンゴルを統一する
158 檀石槐、匈奴中郎将張奐・南匈奴に敗れる
159 檀石槐、雁門に侵入する
163 檀石槐、遼東属国に侵入する
166 檀石槐、北方の九郡を略奪する
  檀石槐、張奐の討伐を斥け、王の印綬を拒絶する
  檀石槐、領土を東中西に三分して各々大人を置く
168 鮮卑、幽州・并州・涼州に侵攻する
174 鮮卑、北地太守夏育に敗れる
176 鮮卑、幽州に侵入する
177 鮮卑、三方から漢に侵入する
  檀石槐、夏育・田晏・臧旻・南匈奴に大勝する
  鮮卑、遼西に侵入する
178 鮮卑、酒泉に侵入する
  檀石槐、漁業の為に倭人を捕らえて移住させる
181 檀石槐死す 子の和連が後を継ぐ(大人の世襲制の始まり)

91ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:30:49
河東(太原)范陽(幽州)平盧(営州)安西(亀茲)北庭(庭州)
河西(粛州)隴右(善州)朔方(霊州)剣南(成都)嶺南(広州)

★ 前漢〜隋唐の史書にみる概略図 ★

北庭_匈奴_________鮮卑___靺鞨扶餘___邑婁(沿海州)
__________烏丸_営州柳城平盧_玄菟_貊(渤海靺鞨)
朔方_雲中__上谷_薊_右北平_遼西_遼東郡(渤海靺鞨)
_____代_趙_燕_漁陽幽州范陽−↓−樂浪郡(渤海靺鞨)_蓋馬大山_東扶餘
____晋陽(太原)_渤海−−−−−↓−朝鮮縣(渤海靺鞨)
河西__魏_隋_唐_邯鄲__東莱_登州−−(帯方郡王・靺鞨扶餘氏)_単単大山_穢
__秦__安邑(河東)_斉__琅邪−↑−−−長岑縣_屯有縣
隴右_長安__洛陽_陳__沛__−−↓←寧海軍使←←新羅國(楽浪郡王・奚林州刺史・金氏)
__蜀_漢_南陽__汝南_合肥_楚州城淮南準節度使−−−−倭_和泉_大漢國(蝦夷國)
剣南成都_巴東___江夏(武昌)建業(南京・呉)−−−倭奴國(隼人・熊襲・阿蘇)
___巴___南郡_赤壁__九江__会稽(越)
__________長沙___江南_天台山−−−−洲夷(琉球・沖縄)
__________零陵____建安(福建)
________桂林_____泉州−−−琉鬼(台湾・小琉球)
__________蒼梧__南海(広州・嶺南)
(ハノイ)交趾__合浦
___九真−−−−−珠崖(海南島)
____
_____
____日南(ユエ)
____林邑(占城)
__扶南(クメール・サイゴン)

92ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:31:20
  BC202〜AD008年 前漢
BC108年 楽浪郡設置(前漢武帝)

  AD025〜220年 後漢
AD206年 遼東国の公孫康(父が公孫度)が帯方郡を分設
       (高麗と鮮卑の間に居た夫余王尉仇台が、公孫度の娘を嫁に貰い帯方郡へ百家済海)

  AD220〜265年 三国志魏
AD246年 高麗討伐・ワイ族の服属・韓の滅亡(三国志魏カンキュウケン・楽浪太守劉茂)

  AD265〜317年 西晋(三国志魏書東夷伝倭人条AD280年ごろ)
AD313年 楽浪郡滅亡(楽浪太守張統が遼西の前燕国の鮮卑族慕容氏に亡命)
AD314年 帯方郡滅亡(夫余王尉仇台の子孫(百済←百家済海)が独立か?)

  AD383年 肥水の戦い
  AD317〜420年 東晋・AD420〜479年 宋・AD479〜502年 南斉 
  AD351〜394年 前秦・AD386〜534年 北魏
  AD400年ごろ 高麗(高句麗・遼東)の好太王の頃
  AD436年 北燕国(遼西)の龍城が北魏により陥落・
         亡命した先の高麗(高句麗)が南斉の使者を無視し北燕国馮氏を暗殺
AD475年 魏虜(北魏・鮮卑族拓跋氏・
          均田制の孝文帝の母の太皇太后)が百済(楽浪)へ襲来
AD512年 新羅が国号と王号を名乗る

  AD589〜618年 隋・AD618〜907年 唐
AD655年 新羅が、高麗・百済・マッカツ(渤海)の3国に攻められ北界30城を奪われる。
AD660年 百済が唐の奇襲で滅亡・百済大姓八族の沙氏や黒歯など豪族が蜂起
AD663年 白村口(白江口)の戦いでマッカツの夫余族の水軍(唐軍)に倭水軍が敗戦
AD665年 泰山の祠の盟約・百済が未だにマッカツの占領下にある。
AD668年 唐の遠征で高麗(高句麗)滅亡

93ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:32:20
天平外交史年表 724(神亀1)〜764(天平宝字8)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gaikou.html

     開府儀同三司、楽浪郡王。嵎夷道行軍總管、輔國大將軍、行豹韜衛大將軍、
都督林州刺史、寧海軍使、新羅王。
會昌元年七月、敕:「歸國 新羅官、新羅宜慰副使、兌州都督府司馬、緋魚袋金雲卿、輜州長史」

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
眞平卒、無子、立其女善徳爲王(善徳女王)。二十一年(647年)、
善徳卒、立其妹眞徳爲王(眞徳女王)、加授柱國、封樂浪郡王。
(貞觀)二十二年(648年)、眞徳遣其弟國相、伊贊干金春秋及其子文王來朝。
  (永徽)三年(652年)、
眞徳卒、爲舉哀。詔以春嗣(龍春?文興王?)、立爲新羅王、加授開府儀同三司、封楽浪郡王。
 六年(655年)、百濟與高麗、靺鞨 率兵 侵其北界、攻陷三十餘城、
          春秋(武烈王?)遣使 上表求救。
 顯慶五年(660年)、命 左武衛大將軍 蘇定方 爲熊津道大總管、統水陸十萬。
           仍令 春秋 爲嵎夷道行軍總管、與走方 討平百濟、俘其王
 (百濟王)扶餘義慈、獻于闕下。自是 新羅漸有高麗、百濟之地、其界益大、西至于海。
 龍朔元年(661年 16年後に扶餘敬が帯方郡王)
春秋卒、詔其子太府卿法敏(文武王?)嗣位。
(★ 儀鳳二年(677年 扶餘敬 帯方郡王 衛尉卿。56年後に渤海が山東攻撃)★)
法敏以開耀元年(681年)卒、其子政明(神文王?)嗣位。(4年前に扶餘敬が帯方郡王)
政明卒、立其子理洪(孝昭王?)(天授三年(692年)15年前に扶餘敬が帯方郡王)
理洪以長安二年(702年)卒、立其弟興光(聖徳王?)(22年後?に安禄山の乱)
                          (31年後に渤海の山東半島襲来)
 隋(581−617)新羅(金真平王576〜935敬順王・弓裔901−919)
 渤海靺鞨(698〜733〜926)唐(618〜907)
玄宗
(安禄山の乱724?[3節度使: 河東(太原)范陽(幽州)平盧(営州)])
 安西(亀茲)北庭(庭州)河西(粛州)隴右(善州)朔方(霊州)剣南(成都)嶺南(広州)

94ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:33:30
開元十六年(728年)、遣使來獻万物、又上表請令人就中國學問經教、上許之。
二十一年(733年)、渤海靺鞨 越海入寇 登州。
     時興光族人金思蘭先因入朝留京師、扶餘拜爲太僕員外卿、
     至是遣歸國發兵以討靺鞨、仍加授興光爲開府儀同三司、寧海軍使。
二十五年(737年 35年前に継承の時点で、更に25年前に扶餘敬が帯方郡王に襲封される)
興光卒、立其子承慶(孝成王?)
承慶卒、立其弟憲英(景徳王?)
憲英卒、立其子乾運(恵恭王?)
乾運卒、無子、國人立其上相金良相(宣徳王?・奈勿10世孫?)
良相卒、立上相敬信(元聖王?・奈勿12世孫?)
敬信卒、立敬信嫡孫俊you[冠巛脚邑](昭聖王?)
俊you[冠巛脚邑]卒、其子東興(哀荘王?)
  [    ] 、  重興(憲徳王?)爲王。元和元年(806年)十一月、放宿衛
     王子金獻忠歸本国。(元和)五年(810年)
     王子金憲章來朝貢。(元和)七年(812年)
重興卒、立其相金彦昇(憲徳王?興徳王?)、太和五年(831)
金彦昇卒、以嗣子金景徽(興徳王?[826−836]喜康王?門哀王?神武王?文聖王?)
開成元年(836)、王子金義[王宗](文聖王?[839−857])來謝恩、兼宿衛。
二年(837)四月、放還藩、賜物遣之。
五年(840)四月、鴻臚寺奏:新羅國告哀、質子及年滿合歸國學生等共一百五人、並放還。
會昌元年(841)七月、敕:「歸國新羅官、前人新羅宜慰副使、
    前充yen[冠亠脚兌]州都督府司馬、賜緋魚袋金雲卿、可si[偏三水冠巛脚田]州長史。」

唐が滅ぶ(907)までは残り63年間。その前の841年に新羅に官を帰還させている。
文聖王の後、憲安王。景文王。憲景王。定康王。真聖女王(887〜897)。
      孝恭王(897〜912)敬順王(927〜935)で金氏新羅王朝滅亡。
  神徳王(912〜917)景明王(〜924)景哀王(〜927)で朴氏新羅王朝滅亡。
901年、弓裔の泰村王の自立(泰封国の成立)
919年、王建が下克上。高麗国(摩震国)の成立
927年、渤海国の王侯武臣の亡命と人民の移住を受け入れる。渤海国から東丹国に改名。
935年、王建に降伏し禅譲で新羅国が滅ぶ。

95ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:58:53
>永徽二年、・・・六年、新羅王金春秋又表稱
> 百濟與高麗、靺鞨侵其北界、已没三十餘城。 
永徽二年(651年)、・
・・六年、新羅王の金春秋また表を称し(唐王朝に上表し、唐に助けを求めた文に)
百済と高麗(高句麗)と靺鞨(渤海)が、その北界(新羅の北部)を侵かし(侵略し)
すでに三十余城が没した(陥落した・渤海や高麗の手に落ちた)。

> 時百濟本地荒毀、漸爲新羅所據、隆竟不敢還舊國而率。
漸らく(しばらく)新羅の所據(所処)と爲(為)り、
時に百濟(百済)の本地は荒毀(破壊)す、
隆(夫余隆)は竟じて敢えて還ら不して、舊國(渤海マッカツ)にて而して率す。

> 其孫敬、則天朝襲封帯方郡王、授衛尉卿。
その孫の敬(隆の孫の夫余敬)に、
すなわち天朝(唐王朝)が襲封せし帯方郡の王なり、衛尉卿を授く。

一時的に百済は、新羅の土地となって破壊されたが、
唐王朝は百済を、渤海人(渤海靺鞨の部族・帯方郡王の夫余敬)の所領とさせていた。

> 其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。
その地(百済の地)は これより新羅
および渤海靺鞨(渤海国)の所分となし、百濟の種(民族)は、ついに絶す。

96ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:59:30
『舊唐書』東夷傳 (高麗・百濟・新羅・倭國・日本)後晋 劉 xu[日句] 他 撰
百濟國、本亦扶餘之別種、嘗爲馬韓故地、在京師東六千二百里、處大海之北、小海之南。
東北至新羅、西渡海至越州、南渡海至倭國。北渡海至高麗。
貞觀元年、・・・十五年、璋卒、其子義慈遣使奉表告哀。・・・
遺使冊命義慈爲柱國、封帯方郡王、百濟王。・・・永徽二年、・・・
六年、新羅王金春秋又表稱百濟與高麗、靺鞨侵其北界、已没三十餘城。
・・・顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。
虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送於京師,上責而宥之。
・・・文度濟海而卒。百濟僧道tin[扁王旁右深]、舊將福信率衆據周留城以叛。
遣使往倭國、迎故王子扶餘豊立王。・・・劉仁軌之辭也。
歃訖、埋幣帛於壇下之吉地、藏其盟書於新羅之廟。
仁願、仁軌等既遣、隆懼新羅、尋歸京師。
儀鳳二年、拜光禄大夫、太常員外卿兼熊津都督、帯方郡王、令歸本蕃、安輯餘衆。
時百濟本地荒毀、漸爲新羅所據、隆竟不敢還舊國而率。
其孫敬、則天朝襲封帯方郡王、授衛尉卿。
其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。

97ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:01:47
『資治通鑑』巻第二百一
麟紱元年(甲子、六六四)
冬,十月,庚辰,檢校熊津都督劉仁軌上言:・・・
仍以 扶餘隆 爲熊津都尉,使招 輯其餘衆。


『資治通鑑』巻第二百一
麟紱二年(乙丑、六六五)
10.上命 熊津都尉 扶餘隆 與 新羅王 法敏 釋去 舊怨;
八月,壬子,同盟于 熊津城。劉仁軌 以新羅、百濟、耽羅、倭國使者
浮海西還,會祠泰山,高麗亦遣 太子福男 來侍祠。

98ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:02:33
  ↓ ↓ ↓ 
泰山の祠に會い 舊怨を去り赦釋せん

麟紱元年(甲子、六六四)
 冬,十月,庚辰,檢校の熊津都督の劉仁軌 上(かみ)に言す。
 ないし扶餘隆を以って熊津都尉と為し 使いして其の餘衆を集め招く。
麟紱二年(乙丑、六六五)
 10.上(かみ) 熊津(くまなり)都尉の扶餘隆(プヨりゅう)と
 新羅王の金法敏(キンほうまい)ともに
 旧怨を釈(ゆる)し去(さ)らんとせよ と命ず。
(永徽六年 百濟と高麗靺鞨[扶餘氏]は 兵を率い 其[新羅]の北界を侵す『舊唐書』)
 八月 壬子(みずのえネ) 熊津城(くまなりジョウ)において同盟す。
 劉仁軌(りゅうジンキ)
 新羅(しらぎ)百済(くだら)耽羅(とむら)倭国(やまと)の使者を
 以(も)って また高麗(こうくり)もまた
 太子の福男(フナンなる名前の人)を遣わし来たりて 祠(ほこら)に侍(はべ)る。
 泰山(たいざん)の祠(ほこら)に会(あ)う。 海に浮かびて西より還(かえ)る。

隋(581−617)唐(618〜907)
渤海靺鞨(698〜733〜926)
新羅(金真平王576〜敬順王935・弓裔901〜919)

 初唐(太宗の貞観の治・五経正義)
 盛唐(玄宗・李白・杜甫)
 中唐(張継の楓橋夜泊・韓愈・白居易[白楽天])
 晩唐(杜牧の江南春[杜甫を学び李白の風]・白氏文集[白居易の進士論述試験の模範解答])

99ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:03:07
遂に韓を滅ぼす・百濟は靺鞨(渤海夫餘氏)の所分
『三国志 魏書』烏丸鮮卑東夷傳−韓条 晋陳寿選
①公孫模 張敞等 興兵 伐韓穢 倭韓遂 屬帶方。
②呉林 以樂浪本 統韓國 分割辰韓八國 以與樂浪。
③吏譯轉 有異同 臣智激 韓忿 攻帶方郡崎離營。
時太守弓遵 樂浪太守劉茂 興兵伐之 遵戰シ 二郡遂 滅韓。
『通典』邊防東夷上百濟新羅倭國 唐杜佑撰
百濟 大姓有八族:沙氏 燕氏 〔力〕氏 解氏 真氏 國氏 木氏 〔白〕氏。
其舊地没 於新羅靺鞨夫餘氏 〔百濟八族〕君長遂 絶。
『舊唐書』東夷傳−百濟条(旧唐書−百済伝)
時百濟 本地荒毀 漸爲新羅所據 〔夫餘〕隆 竟 不敢還舊國 而率。
其孫〔夫餘〕敬 則 天朝 襲封帯方郡王 授衛尉卿。
其地 自此 爲新羅及渤海靺鞨所分 百濟之種遂 絶。
『舊唐書』東夷傳−新羅条(旧唐書−新羅伝)
(貞觀)二十一年(647年)善徳卒立其妹眞徳爲王(眞徳女王)加授柱國封樂浪郡王。
(貞觀)二十二年(648年)眞徳遣其弟國相伊贊干金春秋及其子文王來朝。
(永徽)三年(652年)眞徳卒爲舉哀。詔以春嗣(龍春?文興王?)立 
爲新羅王 加授開府儀同三司 封楽浪郡王。
(永徽)六年(655年)百濟與高麗靺鞨 率兵 侵其北界 攻陷三十餘城
春秋(武烈王?)遣使 上表求救。
顯慶五年(660年)命 左武衛大將軍 蘇定方 爲熊津道大總管
統水陸十萬。仍令 春秋 爲嵎夷道行軍總管、與走方
討平百濟 俘其王(捕虜となる靺鞨王)扶餘義慈 獻于闕下。
自是 新羅漸 有高麗百濟之地 其界益大 西至于海。
龍朔元年(661年)春秋卒詔其子太府卿法敏(文武王?)嗣位。
> 儀鳳二年(677年)扶餘敬 帯方郡王 衛尉卿
> 56年後に 渤海靺鞨 入寇 登州 ※ 渤海=靺鞨=扶餘氏
法敏以 開耀元年(681年)卒 其子政明(神文王?)嗣位。

100ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:12:46
隋書は、唐の時代の作

書名   編著者  成立年代
史 記  司馬遷    前漢  前91年頃
漢 書  班固     後漢  後82年頃
三國志  陳壽     西晉  3世紀末 
後漢書  范曄     劉宋  432年頃 
宋 書  沈約     南齊  488   
南齊書  蕭子顕    梁   6世紀前半
梁 書  姚思廉    唐   636   
陳 書  姚思廉    唐   636   
晉 書  房玄齢 等  唐   648   
隋 書  魏徴 等   唐   636・656
南 史  李延壽    唐   659   
北 史  李延壽    唐   659   
通 典  杜佑     唐   801   
舊唐書  劉[日旬] 等 後晋  945   
新唐書  欧陽修 等  宋   1060


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