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■漢文等と仮説や解説等●

1名無しさん@現代思想本館:2006/06/19(月) 03:01:32
漢文等と仮説や解説等のコピペなどです。

>>2-11

>>12

2ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:12:03
『南齊書』列傳 第三十九 蠻 東南夷 梁 蕭子顕 撰
【原本闕、逸高麗傳下半百濟傳上半】
鎮東大將軍百濟王牟大今以大襲
祖父牟都(牟大の父でなかった×)爲百濟王、即位章綬等玉銅
虎竹符四【按有誤脱】。〔王〕其拜受、不亦休乎!」
是歳、魏虜(←北魏の事)又發騎數十萬攻百濟、入其界、
牟大(←百済王)遣將沙法名,賛首流,解禮昆、,木干那率衆襲撃虜軍、大破之。
・・・・・・・・今假沙法名行征虜將軍、邁羅王、
加羅國、三韓種也。
倭國・・・都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事安東大將軍倭王武號爲鎮東大將軍。

『梁書』諸夷傳(東夷条)唐  姚 思廉 撰
餘毘(扁田旁比)死、立子慶。慶死、子牟都立。
都死、立子牟太、齋永明中、除太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。
天監元年、進太號征東將軍。尋爲高句驪所破、衰弱者累年、遷居南韓地。

『隋書』東夷傳 唐 魏徴 等 撰
百濟 之先、出自高麗國。・・・國中大姓有八族、沙氏、燕氏、rai[冠刀脚刀刀]氏、
解氏、貞氏、國氏、木氏、hak[艸冠脚白]氏。婚娶之禮、略同於華。喪制如高麗。
・・・立其始祖仇台廟於國城、歳四祠之。・・・昌死、子餘宣立、死、子餘璋立。
・・・尋與新羅有隙、毎相戰爭。十年、復遺使朝貢。後天下亂、使命遂絶。
靺鞨、在高麗之北、邑落倶有酋長、不相總一。
凡有七種:其一號粟末部、與高麗相接、勝兵數千、多驍武、毎寇高麗中。

3ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:12:54
『舊唐書』東夷傳 (高麗・百濟・新羅・倭國・日本)後晋 劉 xu[日句] 他 撰
百濟國、本亦扶餘之別種、嘗爲馬韓故地、在京師東六千二百里、處大海之北、小海之南。
東北至新羅、西渡海至越州、南渡海至倭國。北渡海至高麗。
貞觀元年、・・・十五年、璋卒、其子義慈遣使奉表告哀。・・・
遺使冊命義慈爲柱國、封帯方郡王、百濟王。・・・永徽二年、・・・
六年、新羅王金春秋又表稱百濟與高麗、靺鞨侵其北界、已没三十餘城。
・・・顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。
虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送於京師,上責而宥之。
・・・文度濟海而卒。百濟僧道tin[扁王旁右深]、舊將福信率衆據周留城以叛。
遣使往倭國、迎故王子扶餘豊立王。・・・劉仁軌之辭也。
歃訖、埋幣帛於壇下之吉地、藏其盟書於新羅之廟。
仁願、仁軌等既遣、隆懼新羅、尋歸京師。
儀鳳二年、拜光禄大夫、太常員外卿兼熊津都督、帯方郡王、令歸本蕃、安輯餘衆。
時百濟本地荒毀、漸爲新羅所據、隆竟不敢還舊國而率。
其孫敬、則天朝襲封帯方郡王、授衛尉卿。
其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。

4ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:13:43
『通典』邊防 東夷上 百濟 新羅 倭國 唐 杜佑 撰
百濟 、即漢末夫餘王尉仇台之後、【後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」】
初以百家濟海、因號百濟。晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。
【今柳城、北平之間】自晉以後、呑并諸國、據有馬韓故地。
其國東西四百里、南北九百里、南接新羅、北拒高麗千餘里、西限大海、處小海之南。
・・・義熙中、以百濟王夫餘腆【佗典反】爲使持節、都督百濟諸軍事。
齊並遣使朝貢、授官、封其人。
・・・又毎歳四祠其始祖仇台之廟。大姓有八族:沙氏、燕氏、kyau[冠力脚力力]氏、
【[冠力脚力力]音侠】解氏、真氏、國氏、木氏、hak[艸冠脚白]氏。【音白】
國西南人島居者十五所皆有城邑。
後魏孝文遣衆征破之。後其王牟大爲高句麗所破衰弱累年遷居南韓地。
・・・
顯慶五年遣蘇定方討平之。舊有五部分統三十七郡二百城七十七萬戸
至是以其地分置熊津馬韓東明等五都督府仍以其酋渠爲都督府刺史。
其舊地没於新羅靺鞨夫餘氏君長遂絶。

5ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:14:23
『舊唐書』東夷傳 (高麗・百濟・新羅・倭國・日本)後晋 劉 xu[日句] 他 撰
新羅國 、本弁韓之苗裔也。其國在漢時樂浪之地、東及南方倶限大海、
西接百濟、北鄰高麗。・・・其王金眞平、隋文帝時授上開府、樂浪郡公、新羅王。
元和元年十一月、・・・
十一年十一月、其入朝王子金士信等遇悪風、飄至楚州[監]城懸界、
准淮南節度使李you[扁庸旁右都]以聞。是歳、新羅飢、其衆一百七十人衣食於浙東。
開成・・・
二年四月、放還藩、賜物遣之。
五年四月、鴻臚寺奏:新羅國告哀、質子及年滿合歸國學生等共一百五人、並放還。

6ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:15:16
資治通鑑巻第二百一 唐紀十七 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上

龍朔二年(壬戌、六六二)・・・
三年(癸亥、六六三)・・・九月,戊午・・・扶餘隆將水軍及糧船自熊津入白江,
以會陸軍,同趣周留城。遇倭兵於白江口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,煙炎灼天,
海水皆赤。・・・常之與別部將沙_相如各據險以應福信,百濟既敗,皆帥其衆降。
詔劉仁軌將兵鎭百濟,召孫仁帥、劉仁願還。
百濟兵火之餘,比屋凋殘,僵尸滿野。仁軌始命_骸骨,籍戸口,理村聚,署官長,
通道塗,立橋梁,補_堰,復陂塘,課耕桑,賑貧乏,養孤老,
立唐社稷,頒正朔及廟諱;
百濟大絓,闔境各安其業。然後脩屯田,儲_糧,訓士卒,以圖高麗。

麟紱元年(甲子、六六四)・・・
二年(乙丑、六六五)・・・上命熊津都尉扶餘隆與新羅王法敏釋去舊怨;
八月,壬子,同盟于熊津城。劉仁軌以
新羅、百濟、耽羅、倭國使者浮海西還,會祠泰山,高麗亦遣太子福男來侍祠。

7ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:16:09
『後漢書』高句驪 在遼東之東千里南與朝鮮wai[扁水旁歳]貊
『三國志』高句麗 在遼東之東千里南與朝鮮wai[扁水旁歳]貊
『晉書』夫餘國 肅愼氏
『宋書』東夷高句驪國 今治漢之遼東郡高句驪王高ren[偏王旁連]
『南齊書』東夷高麗國 西與魏虜接界
宋末高麗王樂浪公高ren[王連]散騎常侍都督營平二州諸軍事車騎大將軍
『梁書』高句驪 在遼東之東去遼東千里。漢魏世南與朝鮮穢狛東與沃沮北與夫餘接。
漢武帝元封四年滅朝鮮。置玄菟郡以高句驪爲縣以屬之。
『隋書』高麗 之先出自夫餘。・・・朱蒙建國。自號高句麗以高爲氏。・・・
・・・昭列帝爲慕容氏所。破遂入丸都焚其宮室大掠而還。昭列帝後
爲百濟所殺。其曾孫ren[偏王旁連]遣使後魏。ren[偏王旁連]六世孫湯。在周遣使朝貢・・・
遼東公遼東王。・・・進授大將軍改封
高麗王。歳遺使朝貢不絶。・・・都於平壌城・・・長安城東西六里随山屈曲
南臨bai[偏三水旁貝]水。復有國内城、漢城・・・「三京」。
『舊唐書』高麗 者、出自扶餘之別種也。其国都於平壌城、即
漢樂浪郡之故地、在京師東五千一百里。
東渡海里於新羅、西北渡遼水至于營州、南渡海至于百濟、北至靺鞨。

8ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:19:14
漢書地理
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/kan-tiri1.html
後漢東夷
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gokan-toui.html
  【HPが黒背景でドッキリ。内容は漢字かな混じり】
三国志魏書 東夷伝(翻訳の参考に なります。)
 http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
『魏志倭人伝』原文(意訳)
 http://www.johokan.net/history/Rekishi/earlyjapan/Yamatai/gi-original.html
魏志東夷
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html
晋書 巻十四 志第四 地理上 平州
 http://sangoku.lib.net/apl/kanseki/03-14-009.shtml
宋書夷蠻
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/sou-iban.html
通典
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/tuden.html
翰苑
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/kanen-wa.html
唐會要
 http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/toukaiyo.html

9ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:20:12
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/912/1150653692/l2

世界中に愛をWM元会員の語り場20
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1146927981/l5


天台宗(加持祈祷を教えてもらう)→←真言宗(加持祈祷は、こちらが師匠)
_↓
−↓−−−−↓−−−−↓
浄土宗___臨済宗__日蓮宗
−↓−−−−↓−−−−↓
浄土真宗__曹洞宗__日蓮正宗

この場合、天台宗→対等敵対←日蓮宗、とはならない。弟子の叛乱である。
浄土真宗→対等敵対←日蓮宗、である。

同じく

朱子学(孟子)→←ほかの儒家(荀子)
_↓
−↓−−−−↓
陽明学___性理説(朝鮮独特儒教)

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/912/1104987249/24-46

10ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:21:55
>餘牟大=牟太=太(沙法名・賛首流・解禮昆・木干那)→←後魏=北魏
>夫餘義慈=虜義慈→←餘豊=
>夫餘豊(百済太子、沙相如・沙井等・劉仁顔の熊津急襲(660)白村江戦(663))

【 百済の大姓八族 】
沙氏・賛氏(刀氏?・力氏?)・解氏・木氏・国氏・眞氏(貞氏)・燕氏・白氏?(苗氏?)

百済は、この「餘牟大=牟太=太(た)」という王様のときに北魏の侵攻を受け
北魏の孝文帝は世界史でも均田制や北魏の洛陽遷都で有名でこの時の在任期間だが
就任は5歳での即位で、遠征当時まだ9歳くらい皇太后の太氏が摂政だったようで
孝文帝のお母さんの太氏(た氏)が朝鮮半島への出兵をしたんだね。

遼東半島から平壌あたりを、高句麗と日本でいうが、当時は南斉国から
高麗国(こうらい国)と呼ばれていたが満州の瀋陽(奉天)あたりの
龍城に王都を構える北方遊牧民の鮮卑族慕容氏の燕国があり漢人や
高句麗人が王族に仕えていたり養子で王族の慕容氏を名乗っていた。

河北−北京〜遼西−錦州〜遼西−瀋陽まで直轄で、勢力範囲が遼東と楽浪。燕国の変遷が
鮮卑族宇文氏→前燕国(慕容氏)→前秦に併合で一時消滅(洛陽に家臣で仕える)→
後燕国(王−慕容氏・家臣−段氏)→北燕国(高麗人の王、家臣→王−馮氏)
となり最後は馮王が娘を楽浪公主に入れた平壌の高麗国へ亡命し、もとの王様暮らしで
わがままが通らなくて、南朝の南斉に行こうとして7千兵の護衛を持つ
南朝の使者を高麗国で亡命地近くまで迎えたが、高麗国が亡命させまいと暗殺したために
暗殺で北燕国には王がいなくなって、ついに北魏に併合された。436年。

その後、北燕国を併呑した北魏は、数十万騎を発する百済遠征で平壌を潰し
百済の漢城を陥落させ、さらに南下し新羅城あたりに加羅国(迦羅国・加羅任那)を
傀儡国として建てて、洛陽に帰還した。475年。

11ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:22:54
資治通鑑巻第二百一 唐紀十七 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上

[百済西部の人、黒歯]常之と別部将
沙□相如は、各々険に據り福信に応じたが、百済が敗北すると部下を率いて降伏した。
劉仁軌は常之、相如とその部下達へ任存城を取らせようと、兵糧を与えてこれを助けた。
すると孫仁師が言った。「こいつらは獣心だ。何で信じられるか!」
だが、仁軌は言った。「我の観るところ、この二人は忠勇で謀略もあり、
信に厚く義を重んじる人間だ。ただ、前回は託した者が悪人だっただけ。
今、まさに感激して功績を建てる時だ。嫌疑は不用だ。」
遂に糧杖を配給し、兵を分けてこれに従う。
唐軍は任存城を抜き、遅受信は妻子を棄てて高麗へ逃げた。
劉仁軌は兵を率いて百済を鎮守し、孫仁師、劉仁願は還るよう詔が降りた。
百済は戦乱の後で、家などは焼け落ち、屍は野に満ちていた。
仁軌は屍を埋葬させ、戸籍を作り、村へ人を集め、官長を一時代行し、
道路を開通させ、橋梁を立て、堤防を補強し、
陂塘を復旧し、耕桑を勧め、貧乏へ賑給し、孤老を養い、
唐の社稷を立てて正朔と廟諱を頒布した。
百済は大いに悦び、皆、生業に安んじた。
仁軌は、その後に屯田を修めて、兵糧を蓄え、士卒を訓練し、高麗を図った。
劉仁願が京師へ至ると、上はこれへ尋ねた。


『南齊書』列傳第三十九蠻東南夷 梁蕭子顕撰
是歳魏虜又發騎數十萬攻百濟入其界
牟大遣將沙法名賛首流解禮昆木干那率衆襲撃虜軍大破之。
 この歳(年)、魏虜(北魏)また數十萬騎を發し百濟を攻めるに、その界に入る。
 [百済王の余]牟大は、沙法名、賛首流、解禮昆、木干那の[四武]將を遣わし、衆を率い
 虜軍(北魏軍・北虜の軍・北方異民族の軍)を襲撃し、これを大いに破る。

12ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:23:48
【 後燕 → 北燕 】
高雲(?〜409) 字は子雨。北燕の恵懿帝。在位407〜409。高句麗の出身。
慕容宝が後燕の太子となると、武芸をもって東宮に侍し、侍御觔に任ぜられた。
永康二年(397)、慕容会の乱を平定した功により建威将軍に任ぜられ、
夕陽公に封ぜられた。慕容宝の養子となり、慕容姓を賜った。
慕容煕が立つと、危難を避けるため、病と称して官を去った。
建始元年(407)、馮跋に推されて盟主となり、慕容煕を襲殺した。
天王位に即き、都を龍城に置き、高姓に復した。正始と改元し、国号を燕とした。
正始三年(409)、寵臣の離班・桃仁らに殺された。


馮弘(?〜438)字は文通。北燕の昭成帝。在位430〜436。馮安の末子。
高雲が帝を称すると、征東大将軍となり、汲郡公に封ぜられた。
兄の馮跋が天王を称すると、侍中・尚書右僕射となる。
太平二年(410)、馮万泥らの乱を平定し、驃騎大将軍に任ぜられ、中山公に改封された。
尚書令・司徒・録尚書事に上った。
二十二年(430)、馮跋が没すると帝を称し、馮跋の子や宗室たちをことごとく殺した。
太興四年(434)、北魏に敗れて藩属した。
翌年、南朝宋と通じ、燕王に封ぜられ、黄竜国と称せられた。
六年(436)、北魏の大軍に
国都龍城を落とされ、高句麗に亡命して、北燕は滅んだ。のち
高句麗において殺された。

13ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:24:42
【 通鑑記事本末 北朝 】

北燕滅亡
・・・
燕王は東門から高麗軍を引き入れ、闕下にて郭生と戦った。
郭生は、流れ矢に当たって死んだ。入城した高麗軍は、自分たちの使い古した武器を棄て、
燕の武器庫から頑丈な武器を奪った。そして、城内で大いに略奪を働いた。
五月、燕王は龍城の住民を率いて東へ逃げた。この時、宮殿へ火を放ったが、
その火は十日間に亘って燃え続けた。
婦人にも武装させ、その周りを陽伊率いる精鋭兵が護衛し、葛盧孟光の軍は殿となった。
この一行は、前後八十里も続いた。
・・・
楽平王丕も言った。
「和龍も攻略したばかりでございます。まず、この地方で農桑を奨励し、
民が豊かになり軍事物資が溢れたならば、その時こそ進取するべきでございます。
そうなれば、たかが高麗など、一挙に殲滅できましょう。」
そこで、魏王は思いとどまった。

14ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:25:17
【 通鑑記事本末 北朝 】

馮弘の最期
 燕王が亡命して来た時、高麗王連は使者を派遣してねぎらった。
「龍王馮君、野宿続きで疲れただろう。」馮弘はむかついた。
 高麗王は、彼等を平郭へ住ませたが、やがて北豊へ移した。
 馮弘は、もともと高麗人を軽蔑しており
、政刑賞罰は、全て自国にいたときのように行っていた。ところが
、高麗人は馮弘の侍人を奪い、太子の王仁まで人質としてしまった。
 馮弘は怨み、宋へ亡命を打診した。
 十五年、宋では王白駒を使者として高麗へ派遣して
、馮弘を迎え入れようとしたが、高麗王はこれを望まなかった。
 高麗王は北豊へ人を派遣して、馮弘を殺した。「昭成皇帝」と諡する。
 王白駒は、七千の兵を率いており、馮弘を殺した人間を討ち果たした。
高麗王は、王白駒等が、自分の部下を殺したとして、宋の文帝を詰った。
文帝は、遠国のことでもあり、余り事を構えたくなかったので
、王白駒を牢獄へぶち込んだが、しばらくして釈放した。

15ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:25:54
馮玉祥 字は煥章、安徽巣県の出身、1882年生1947年没。(父、安徽の拳法家)
1897年より軍隊生活に入る。
1901年淮[勇]元字前営に入り、副教官に任じられる。
1902年より袁世凱の武衛右軍に入る。
1905年北洋第六鎮において将官となる。
1907年東三省総督に任じられた徐世昌に従って奉天へ行き、新民に駐屯、
    武学研究会に参加して革命活動に従事するようになる。
1910年第二十鎮四十協八十標三営管帯に任じられる。
・・・
(孫文からの2人の使いから渡された基督教の勧めの小冊子より
、半信半疑ながら信者となる。部下達への水道ホースによる一括洗礼は
、受け狙いな点も。)
(1924年、第二次直奉内戦中に直隷第3軍を国民軍と改称し
、紫禁城から溥儀を追放)
・・・

16ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:26:43
馮玉祥 先生つづき。
・・・
1933年5月察哈爾民衆抗日同盟軍を組織、軍事委員会主席
          総司令部総司令に任じられるが、しばらくして辞任。
1935年4月陸軍一級上将を授かり、
11月国民党第五期中央執行委員と常務委員に選出され、
12月には軍事委員会副委員長に任じられる。
1937年8月第三戦区司令長官に、
9月第六戦区司令長官に任じられるが、まもなく辞任。
1943年5月三民主義青年団第一期中央団部指導員として招聘される。
1945年5月国民党第六期中央執行委員に選出される。
1946年4月アメリカに水利視察に赴く。
1947年アメリカからソ連経由で帰国途中、
9月1日黒海において船が火災に見舞われ逝去。
享年65才。(スターリンによる暗殺か?)

17ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:33:20
魏虜(北魏王朝の鮮卑族)・
韃虜(満州)
北虜南倭(蒙古タタール・オイラート・土木の変など、倭寇)
両鬼子(朝鮮人、2番手、二股野郎)

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土木請負業  日本人経営0.125%  漢人満人経営0・5%
※売上高に対して課税。満州弘報協会刊「満州国現勢 康徳4年」より辛亥革命前後に
満州族は異民族と言う事で虐殺(駆除)された聞いたけど「韃虜の駆除」に反対した
人もいたの?韃虜の駆除を唱えたけれど漢民族と満州族は仲良くやっていたって事だね?

人間五十年: 塗説中國人唯有驅除
韃虜,建立民國,乃能對世界和平有所貢獻,斯非_禍而是「_福」也。
”__中國國民黨全球資訊網. “今天來同大家講三民主義。
民族主義は決して異民族を排斥する事ではない。異民族が我が民族の政権を
奪う事を拒否するだけである。

愛國!愛什麼國? 民族!愛什麼民族?好個"中國愛情"!
可見「中華」指華夏漢語族,不包括韃虜的滿族及其他異民族。
這正是古漢語「中華」(六朝時才出現)的本義,十足大漢沙文主義,與
羅貫中在該回的結尾_:“正是,終將 土木勞中國,又見干戈起我方。
未知何以禦之,全看下文分解。”(第一百五回)這裏的“

18ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:33:54
>四行とも電波説
>口先だけのトンデモ説

中国正史や解説書、今生きている
中国共産党の太子党の爺さん達が知る過去なのにか。馮将軍は老齢の時に、
若くして生きていた記憶のある、今も生きている爺さんたちの世代の事件。

今生きている世代で、ころころ歴史を捏造する連中と違う。
朝鮮戦争と言ったり、韓国動乱と言ったり、625動乱と言ったり。
朝鮮共産党北4道分局が、朝鮮共産党北分局といったり、朝鮮労働党といったり。
朝鮮共産党済州島党員を、南労党員と読んだり、でたらめな。

在日[朝鮮人]こそが、デムパ。

19ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:34:42
『後漢書』高句驪 遼東ではない。朝鮮ワイ貊ではない、南で接する。
『三國志』高句麗 遼東ではない。朝鮮ワイ貊ではない、南で接する。

『晉書』夫餘國 肅愼氏(高句麗・高麗・朝鮮という民族も国も無い。)
『宋書』高句驪國 わざわざ中国人で無いと断っている。漢王朝の時は遼東郡で高句麗王だった。

『南齊書』高麗國 わざわざ中国人で無いと断っている。西は魏虜(北魏)と接した。
營平二州諸軍事(遼西の2州の将軍)というが、ようは斉国は北朝北魏の敵だったので
北燕国の鮮卑族の王族の養子に高句麗族の太子(王子)を入れていたので実質でないが名を与えた。
『梁書』高句驪 遼東でなく東にあると書いている。
漢王朝や三国志魏のときは、朝鮮・穢狛・沃沮・夫餘と違い、境を接していたと書いてある。
漢王朝の武帝の元封四年に、朝鮮を滅ぼし。玄菟郡を置き、高句驪を縣となし郡に属させた。

『隋書』高麗 夫餘族から出た。朱蒙が高句麗と自称し、高氏と名乗った。
昭列帝のときに慕容氏の所領となった。丸都を焼いて略奪して遠征から帰国。
昭列帝のあとに百濟の所領とし百済で高句麗王を殺した。
その曾孫の「レン」は、後魏(北魏)に遣いをした。
「レン」の六世の孫の「湯」は、周にあって遣いを使いにさせ朝貢してきた。
遼東公、遼東王の名前で・・・高麗王と改めた。朝貢を絶やさなかった。
平壌城が都、長安城、國内城、漢城を「三京」とした。

『舊唐書』高麗 扶餘とは別種族だという。
平壌城が都。漢王朝のときに樂浪郡の地だった。
長安から東に5100里で、東に海を渡れば新羅国
西北は遼水を渡れば唐の營州、南に海を渡れは百濟国、北は靺鞨族に至った。

20ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:36:10
何を言っているのか、といえば。
高麗(高句麗)は、何度も滅ぼされ、領土も地域も民族も名前も変わっていると言うこと。

『後漢書』高句驪 隣に遼東・朝鮮・ワイ・貊。
『三國志』高句麗 隣に遼東・朝鮮・ワイ・貊。
『晉書』高句麗・高麗・朝鮮は滅ぼされて存在しない。

『宋書』高句驪國・中国人で無い・遼東郡・高句麗王。
『梁書』高句驪・遼東の東・漢魏の時の隣に朝鮮・穢狛・沃沮・夫餘。
 漢武帝元封四年に朝鮮を滅ぼし玄菟郡高句驪縣とした。

『南齊書』高麗國(高句麗でない)・中国人で無い・隣に魏虜(北魏)。
 營平二州諸軍事(遼西の2州の将軍)という北燕国の養子(高麗国王子)に名を与えた。
『隋書』高麗・夫餘族の朱蒙が自称で高句麗の高氏・慕容氏の所領で丸都を焼いて略奪・
 百濟の所領で百済が高句麗王を暗殺・曾孫「レン」後魏(北魏)・六世「湯」周・
 遼東公・遼東王→高麗王・平壌城・長安城・國内城・漢城。
『舊唐書』高麗・扶餘でない・平壌城・樂浪郡。隣が、新羅国・遼水營州・百濟国・靺鞨族。

21ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:37:01
歴史隠蔽と改ざん箇所ほか。。。
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『晉書』高句麗・高麗・朝鮮は滅ぼされて存在しない。
『南齊書』高麗國(高句麗でない)・中国人で無い・隣に魏虜(北魏)。
『隋書』高麗・慕容氏の所領で丸都を焼いて略奪・
百濟の所領で百済が高句麗王を暗殺・曾孫「レン」後魏(北魏)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

この北魏が「遠征で滅ぼした(百済王の余牟太と将の沙法名の防衛戦)」
後に北魏の「傀儡国の平壌城を都とする高麗国」
をつくり高句麗の旧領を「夫餘族」に支配させた。

高麗国の南には北魏の「傀儡国の新羅城を都とする加羅国」

-------------------------------------------------
唐が二番煎じをし

倭に人質だった百済太子の余豊の再建百済国を滅ぼし
高句麗族の宰相だった淵蓋蘇文の再建高麗国(高句麗)を滅ぼし

唐の「傀儡国の渤海国」をつくり
高麗国の旧領を「渤海靺鞨・靺鞨夫餘氏」に支配させた。

渤海国の南には
唐の「傀儡国の帯方郡王の帯方州」をおき
百済国の旧領を「渤海靺鞨・靺鞨夫餘氏」 に支配させた。

22ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:37:36
北魏の朝鮮半島への遠征事件が隠蔽されている。

北魏の半島での傀儡国としての「高麗国と加羅国」の建国記事が抜けている。

百済の北魏と戦った防衛戦争の記事も抜けている。

民族はバク(東夷)→句麗(高句麗)→夫餘(高麗)→
靺鞨(百済)→渤海(契丹)と変遷している記事が抜けている。

23ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:38:47
北燕国の建国(後燕国の滅亡)と
滅亡の記事(北魏の遠征軍の攻撃記事・王の亡命先での暗殺)も
漢人馮一族が高句麗族を王にしたが鮮卑族が殺し
漢人馮一族が高句麗族に殺された事への「歴史改ざん」している。

出身が違うが、日本とシナが戦争の頃に
馮玉祥という将軍が抗日戦争を内蒙古や満州西部でしたいた。
馮氏を、朝鮮や韓国の系列の者が殺したとあっては反日に都合悪い・・・。
という意図が感じられる。

白村江(はくすきのえ・白江口)の戦いの前の
百済叛乱で「沙相如」という者が660〜663年に指導し
北魏襲撃で「沙法名」という者が475年に出撃した件があり
沙氏を「歴史隠蔽」している。
ほか百済の大姓八族に白氏がいる。滅ぼされている。

滅ぼした沙氏と白氏を日本の大分の佐伯氏と見なすと
親日して都合悪いのでは・・・。という意図が感じられる。

200年ほど続く地元有力者ろか豪族の家系を隠蔽するには裏があると思う。ほかの
歴史記事の有力者は3代ぐらいで100年(北燕国)も、もたないのである。

中国側が激怒し、高句麗など無い。中国東北部(旧満州で
遼東半島の先の奥地部分)の一部というのは暴挙でなく史書的には正しい。

200年ほど続く地元有力者とか豪族の家系を隠蔽するには裏があると思う。

馮玉祥という将軍が抗日戦争を内蒙古や満州西部でしていた。

24ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:39:47
●朝鮮(北朝鮮の西半分、半島黄海側で北部に限る。黄海北道に限定した地域)
 地域: 楽浪郡−朝鮮県(現在の平壌〜沙里院周辺)
 意味: 朝貢(朝が)あさし(鮮し・「少ない」の意味)

●カラ(狭意義に、慶尚北道に限定した地域)
韓・加羅(現在の慶尚道の南北両道・
     帯水(漢江・もと帯方郡)上流の
     秋風嶺を越えた南で、洛東江流域の東夷の地域、
     別名は弁辰地域で、馬韓の東界(東側)と説明し
     いにしえの辰国(辰韓・新羅・小柄民族)と
     弁別した弁人(大柄民族)が住んでいる地域を示した)

東夷の韓より夏殷周王朝の方が古い。
      秦漢晋王朝の頃でも、東夷の韓に統一国は無かった。

西晋の陳寿の編纂した三国志魏書には、
      50余国の馬韓の集落国、24の弁辰と辰韓の集落国があり

六朝の梁あたりの編纂の南朝の宋書には、
      倭の武王が海北に95国(95か集落の国・任那)を
      有すると主張していた。

北魏の百済攻撃の際に、半島には
   百済国・任那・加羅国(この国の中に新羅城という一つの集落国がある)
があった。

25ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:40:53
魏明帝の頃に、魏将カンキュウケンが高麗を討ちワイ侯フジを服属させる。
高麗王はヨクソ・ワイに逃げたと言うが行方不明。一説に海に入りカラに逃げたと言う。
それゆえにヨクソ・ワイ・カラが高麗国だったのだろうと言われた。

同じく魏明帝の時に、楽浪郡太守の劉茂は兵を挙げ、
帯方郡の崎離営(漢人宿営)を襲った、韓(カラ)族を平定し、東夷の韓を滅ぼした。
(三国志魏書の馬韓50余国、弁辰と辰韓24国は滅んだ。)

西晋武帝の頃に馬韓王が朝貢しに来たが、
それ以降は三韓を聞かず、百済と新羅に併合されたのだろうと思われた。

しかし、六朝宋(〜420)への
倭の5王の朝貢記事によれば、海北(半島)には95か国があり
その95国の中に、百済・加羅・新羅・馬韓・辰韓・任那が含まれるとした説明である。

東晋(317年〜)や宋に南斉などの六朝と
五胡十六国時代に入る直前(西晋時代の313年)の
楽浪太守の亡命した先の「前燕国」から
前燕国の後継の北魏の手に落ちた「北燕国」の時代まで
もと帯方郡であった地域は、百済の王家が安定的な継承で支配していた。

「北燕国」の王家であり重臣一族の漢人馮氏の娘は楽浪公主というから
平壌(楽浪郡役所)あたりまで、北燕国(遼西・瀋陽)の勢力圏か領土と思われる。

26ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:41:58
百済に王統あり、後漢206年ごろに公孫康が楽浪郡を分割した
帯方郡へ移動し、遼東国公孫度(公孫康の父)の娘と政略結婚した
夫余王−尉仇台(位宮?高句麗王?)から子孫の
サン、ケイ、と数世代つづいた王統が帯方郡地域にあった。
(244〜246年に魏の遠征と太守の討伐で、高麗国は離散し、東夷の韓は滅ぶ。)

楽浪郡太守の張氏が、高麗国(高句麗)をおそれ
前燕国鮮卑族慕容氏へ亡命して、楽浪郡は滅び(313年)、
翌年に帯方郡も滅ぶが、仇台の地元有力者は依然健在なようで
仇台の廟を持つ帯方郡の余須、余映、から(317東晋〜420宋〜479ごろ)
北燕国龍城(前燕→前秦→後燕→北燕と変遷)を陥とし(436年)
高麗国丸都を焼いた北魏が
百済遠征で攻撃時の王の余牟太、前代の余牟都、ほか王統が数世代続いた。

北魏から百済を守った大族がおり「沙法名」ほか解氏、木氏、賛氏といた。
百済の諸将は六朝の南斉から将軍職がおのおの下賜された。
余牟太の頃の北魏は太皇太后の摂政時代で、帝(魏主)は孝文帝で
471年の即位の時に5歳、百済遠征475年は4年後である。

その後、余牟太から余章・余豊の白村江の戦い(663年)まで
余氏百済王家は存続する。それと同じく北魏を守った大族につながる
白村江の戦の前の蜂起時(660年)の百済豪族の「沙相如」のように
百済の大姓八族(沙・解・木・〔賛〕・燕・国・眞・〔白〕)も存続した。

27ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:42:43
新羅を、高麗国(高句麗)と百済国とマッカツ族の3者共同で
攻めていた時(655年)に百済地域の支配は虜義慈(夫余義慈)という
「渤海マッカツ族」の「夫余氏」に代わっていた。

余豊(倭国に百済太子として人質でいて、文度済海という百済王の没後
の後継者)が百済王に復帰する前で、かつ唐の遠征軍に降伏する前の事であった。

この夫余義慈から、子の夫余隆、一代おき、隆の孫の夫余敬まで
夫余氏が「帯方郡王」であった。その後に
帯方地域は、渤海マッカツ(大震国・渤海国)の勢力圏となる。
唐は「百済王」の称号を廃止して後漢の尉仇台・六朝の余須の血筋の王統を廃絶した。


朝は、朝廷・天朝・王朝の朝です。朝夕の朝ではありません。朝ありは、朝貢しに来たの意味です。


『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳 晉 陳壽撰  (宋 裴松之 註)
韓の条: 今「辰韓人」皆褊頭。男女近「倭」、亦文身。便歩戰、兵仗與馬韓同。・・・
「弁辰」與「辰韓」雜居、亦有城郭。衣服居處與「辰韓」同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、
 施竃皆在戸西。其「toku[偏水旁賣]廬國」與「倭」接界。十二國亦有王、其人「形」皆「大」。

「辰韓」の男女は「倭(日本人は小柄)」に近い
「弁辰」の人は「大(大柄)」

28ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:43:55
時代が交錯しています。
公孫度(位宮)と公孫康(尉仇台)の時代の問題と名前の区切り方の問題です。

漢文では異民族の名前の省略などに問題があり、百済の王が
「余須」から始まるのに「仇台の廟」を持つのです。

「尉」氏だから姓名省略で「仇台」かといえば、
「尉仇」氏の「台」と読むような真似をします。尉余須かと言えば、そうとは思えません。

北魏の百済遠征の際に、百済王なのは「牟太」です。
余氏で、余牟太でしょうか。尉余氏の牟太でしょうか。

牟太の父は、牟都ですが、省略で「都」です。困る事に、ほかの記事で余都という人物もいます。
都の省略は、余牟都なのか、余都なのかです。あるいは正式名が尉余牟都なのでしょうか?

牟太の省略は「太」です。問題があります。百済の王が「太」なら、百済を攻めた時期の
摂政であろう、北魏の幼年の孝文帝の母であろう皇太后も「太」です。
太皇太后と余牟太なのか、百済は姓名が変わり、
牟氏の太という王か「弁慶がな ぎなたを持って」ほどに、わからないのです。

29ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:46:37
高句麗は何度も漢人や鮮卑族の討伐で丸都(高句麗県)を荒らされています。

魏明帝の時に魏将カンキュウケンで高麗をヨクソに追い、
後燕国の鮮卑族慕容氏の昭烈の時に丸都を破壊、
北魏国の鮮卑族拓跋族の百済遠征でも破壊されています。

朝鮮族は良く意図的に世代をごちゃごちゃにします。
燕人衛満が倒した箕子朝鮮です。

箕子の40余世の準と衛満の孫の右渠が同世代ではないかと思われますが
李氏朝鮮では、衛満が箕子を倒しているように教えていたのも事実です。

人生50年で40世代前とは2000年前です。
イエス・キリスト(ユダヤ)をビンラディン(アラブ)や
ブッシュ大統領(アメリア)が倒すような、おかしな昔話です。

30ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:47:45
もっと、おかしいことがあります。

正史の南斉書・梁書・隋書・旧唐書に資治通鑑や通典などが参考ですが
百済とマッカツと高麗が、新羅を攻めていたのが655年
百済王族が唐に拉致られ滅亡し豪族叛乱が660年と663年(白村江=白江口の戦い)です。

ところが、倭の水軍は唐の蘇定方の水軍を討ち、655年の新羅を攻めたマッカツの
唐に降伏した虜義慈の子の夫余隆が水軍を持ち
倭の水軍は、義慈の子の隆の水軍(唐の水軍)に負けて半島を撤退したのです。

その後に、倭国・耽羅・新羅・百済の使者を劉仁顔が泰山まで連れて行き祠を参らせました。

百済に杜ショクという墳墓石碑を建て農事暦を配ったのに、高麗遠征に借り出した新羅が
百済を荒毀して杜ショクという書道拓本の石碑を消滅させたのです。この野蛮な
荒毀という行いでは、唐文化の書道が新羅に伝播したとは到底いえないわけです。
書道の文化を新羅が知っていれば、新羅が百済の文物を荒毀できるでしょうか?

さて、義慈は「虜義慈」であって「百済王」では、ありません。
新羅を攻めたマッカツの義慈であり、マッカツは今でいう東北部で
昔の満州です。高麗国(高句麗)でも百済でもないと言う事です。

31ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:48:28
この時の百済では「文度済海」が実権を握っており、彼が亡くなると
倭に人質だった「豊(余豊・夫余豊)」を王に迎えます。
余章豊の名で中国史書にはないです。余章(王へんがつく字)と、単に「豊」です。

虜は明朝で北虜南倭に使われる北方異民族をさす言葉です。
虜は鮮卑だったり(魏虜と使う場合は北魏をさす)、女真(満州族の八旗軍)だったり
蒙古(北虜南倭の北元国)だったりです。

旧唐書に資治通鑑や通典の百済は新羅とマッカツ(虜)に併呑され滅ぼされた
の記事が正しければ
日本書紀や三国史記の記事のほうに問題があるという事です。

>女真(満州族の八旗軍)だったり

正確には、明王朝ですから女直(満州)ですね。女真は金国や蒙古時代です。
で、「丙子胡乱」と韓国教科書の満州の朝鮮への攻め込み記事なはずで、実は昔の
書き方ですと「丙子虜乱」となります。満州も北虜(北方異民族)なのです。

32ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:49:34
箕子の40余世の準は、太白山脈の東海岸や漢江の上流のワイ族の伝説で、
平壌あたりの楽浪(朝鮮県)とは関係ない民話です。

衛満の行き着いた先は、小水バク(鴨緑江の中国側支流か遼河の
東側支流)といわれたクリ族の地で、後の高句麗になる部族が、漢人に討伐
された時に逃げた先のヨクソという半島東北部の日本海側の伝説です。
ピョンヤンあたりの朝鮮という地域と関係ない話です。

衛満は燕亡人ですから、魏志東夷伝や李氏朝鮮に語られるような
異民族(中国人が胡服を着た、公孫淵の燕皇帝の僭称事件か
討伐された記事や公孫氏が胡服で威を張る話)ではなく
燕地(河北・遼西)の中国人が、亡命して朝鮮やヨクソに逃げた話です。

楽浪郡で朝鮮県あたり、ピョンヤンあたりの説明に出て来ないものです。

33ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:50:30
(毎度ながら前置きもなく唐突に)個人的な意見(仮説)です。

佐伯はサエぎる(遮る)で、防風林で、外敵を防ぐの意味だと
ドコかのレスでありました。

沙法名という百済の将が、北魏の百済遠征を大破し、百済滅亡を防いだ
とあります。先のレスの
余牟太が王様の時です。この沙氏のほか解氏、木氏、賛氏も
功労があり六朝の南斉から将軍号を戴いています。

通典という歴史書ですと、百済の大姓八族という記事で出ており
沙氏・〔白〕氏・解氏・木氏・〔賛〕氏・眞氏・燕氏・国氏とあります。

沙法名が北魏を破ったように、百済王が唐に拉致られ王都が占領された時に
沙相如が立ち上がって百済豪族の叛乱で
王奪回や百済再興をする期待感は想像できるようです。

この沙氏と〔白〕氏を合せると、漢字の語呂合わせになりますが「佐伯」になります。

馬韓伯済国からある百済に、佐平の官があり、塞を守るので(塞で外敵をサエぎる)、
佐伯という説もあるようですが。

34ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:52:59
>>1

>>8-9

35ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:53:29
チョンに歴史書や学問テキストなど「書」は、ネコに小判だ。
豚に真珠。犬に聖なる物をくれてやるな。くれたものを
踏みつけたなら、くれた者に噛み付いてくるであろう。とは、
新約聖書の福音書でイエスの言葉。

中国人は出典を明らかにして自分の付けた注釈と本文の原文とを分けて考える。
朝鮮人は都合の良いように改ざんして原版を破却する。最新版(改ざん版)しかない。
引用や異説の注解が、まともに出来ない。

韓国人は本を読みたがらないと言うが、本は他人から盗んで
盗まれた相手に使えなくさせて、困らせるのに、書を入手にすると言う考え方。
まったくもって朝鮮文化とは文明の敵だ。書の中身を自分で理解しないし出来ない。

朝鮮人が今あるのは、遼東郡・玄菟郡・楽浪郡・帯方郡などの中国人を殺して
中華文物を盗んで日本人に自慢し、殺した中国人達の名前を自分達の名前に使って、
殺した中国人達の先祖を自分達の朝鮮人の先祖だと偽族譜(偽家系図)を誇る事だ。

アメリカ人は「日本人」を「トレブリンカ」や「ダッハウ」の絶滅収容所の
ユダヤ人のようにホロコーストやジェノサイドして、今でも日本女性を侮辱している。
朝鮮人の「完全統制区域(強制収容所・日本人収容所)」と同じだ。

サイパンや沖縄だけでなく、アメリカ軍の居た地域は、今でも口をつぐんでいるし
思い出させるな話すつもりは無い。などと逆上させる。
中国の人の逆上はするが、話は聞かせてくれるのとは大違いだ。
こういう泣き寝入り根性が、アメリカ人を増徴させ、朝鮮人を粋がらせて
漢字文化を破壊して、日本の漢字文化の輸入をまげて教え伝える事になっている。

36ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:56:53
他人を困らせるために盗むの、自慢の鼻をへし折る為に盗んで読めなく
させるの威張っている、そいつらの地元は鍋かぶりの知ったか日親しかおらん。
満州事変を起こし満州開拓団を自決させた、中国地元民から盗み漏洩の
キチガイ法華経教徒ではないか。君らの信用にたる朝鮮半島民から
戦後ドウ帰って来れたと言うのか。現在の拉致者すら戻らないし恐怖で
語らない帰国者しかいないのにか。大本教など神道系新興宗教も同罪。

関帝廟への毎度の拝拝で愛想を得て福建出身の台湾華僑から
買わせて戴いた,あなた方の一味の騙して盗んだ香港や台湾の
暦など中華文物をはじめ、騙し盗んだ物は全部私本人に返却して頂きたい。

中華街にキムチ屋ひらく嫌がらせ民族なのにか。
口先のごめんなさいは、いらんから物を返せ。
カトリックとも正教とも洗礼のお呼びは全く無いのだし
詐欺のモルモンとも絶縁している。

偶像崇拝になるから朝鮮人やモドキが盗み貰っておくとはならない。
洗礼受けても文化物として取っておく事は赦されている。
降霊術や、まじない行為を禁止しているだけ。朝鮮人!聖堂で神父の
許可を無理やり得てマリア像に向かって加持祈祷するな。
あれらは本当にカトリック聖職者なのでしょうか?激しく疑問です。

37ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:58:40
でなければ「カトリック国」や特に「改革派のプロテスタント圏」で
「博物館」は、建てられないし、設置できないし、利用できない。
「図書館」も「異教の本や写真や絵」などを掲載できない。
異教の教えの解説も、読んでいけないから解説記事も掲載できないし、
そういう本を置いてもいけない。何も対話も出来ない。鎖国より始末に悪い。

イコノクラズム(イコン破壊運動)並だな。「宗教戦争」時代の
聖遺物を焼き払ったり粉々に砕く運動ですよ。朝鮮戦争中や戦後の
イギリスアメリカの支援で7歩あるくと次の教会があるほどの韓国での
キリスト教(自称で長老教会、長老を敬う朝鮮にピッタリだと
こじつけ解説の)の繁盛と同じです。李朝の文物を破壊して、偶像崇拝は
いけないから朝鮮のお面も石像も木像も書籍も全部
壊し焼きましょう。アメリカに感謝しましょう。つーのと。同じだな。

朝鮮半島を焦土化して偶像を焼き払い清め、地面一面に障害物なし、高麗以来の
伝統焼畑って感じだな。というより、もともと赤茶けた緑ない山らしいが。
南部の海岸や山岳地しか緑が無いらしい。それでも山肌が見えるという。

風土病なのだろう。焚書坑儒や前時代の文物は全部破壊して、
最新の中国様が作った物を貰って使おう。という姿勢。
それがアメリカ様の作った物を貰って使おう。という姿勢に変わっただけ。
「中国様」→「アメリカ様」と「国名」が変わっただけなのだが。
あーと、つまり。姿勢とか思考回路が変わったわけでない。
ベクトルだけ。

38ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 14:24:57
●金国北部で東部

黒水____________黒水_吉烈迷(吉里迷)___庫葉島(樺太島)
______黒水______黒水_水達達
烏古部___混同江_黒水__黒水_鉄驪部(ハバロフスク周辺)
混同江支流_混同江_黒水__黒水_兀惹部
______混同江_黒水__黒水_五国部_支流
______混同江_蒲与路_混同江____支流_野人女直
敵烈部___混同江_混同江_胡里改路___支流_支流の支流
__混同江_上京路_混同江_混同江の支流_支流_____支流_恤品部
______混同江_混同江_上京会寧府__混同江の支流_水源_耶懶路(ナホトカ)
__________混同江_完顔部____混同江の支流_烏古論部(ウラジオストク)
__遼河______混同江支流の宋瓦江__宋瓦江の水源
______遼河______咸平路
______北京路_遼河__東京路__鴨緑江_豆満江
____北京大寧府_遼河_______鴨緑江_合懶路(羅津・咸南)
__________遼河__蘇館路__鴨緑江
__________渤海湾_婆達府路_黄海__東真人(東丹人・渤海人)

39ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 14:27:00
曷蘇館路 ← 蘇館路

●金国北部で東部

黒水____________黒水_吉烈迷(吉里迷)___庫葉島(樺太島)
______黒水______黒水_水達達
烏古部___混同江_黒水__黒水_鉄驪部(ハバロフスク周辺)
混同江支流_混同江_黒水__黒水_兀惹部
______混同江_黒水__黒水_五国部_支流
______混同江_蒲与路_混同江____支流_野人女直
敵烈部___混同江_混同江_胡里改路___支流_支流の支流
__混同江_上京路_混同江_混同江の支流_支流_____支流_恤品部
______混同江_混同江_上京会寧府__混同江の支流_水源_耶懶路(ナホトカ)
__________混同江_完顔部____混同江の支流_烏古論部(ウラジオストク)
__遼河______混同江支流の宋瓦江__宋瓦江の水源
______遼河______咸平路
______北京路_遼河__東京路__鴨緑江_豆満江
____北京大寧府_遼河_______鴨緑江_合懶路(羅津・咸南)
__________遼河__曷蘇館路_鴨緑江
__________渤海湾_婆達府路_黄海__東真人(東丹人・渤海人)

40ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:21:14
結論。従来の高麗(900−1392)という時代と国はない。
国がなく、契丹(東丹国)と女真(高麗藩・刀伊)と蒙古(東真国)の
州縣や郡縣となっていた。

北方異民族が侵攻して来る度に住民は、あちこちに移動させられた。
いま居る半島の住民は「渤海人と女真族」の住民移動による定住で
新羅の民は契丹と女真により遼東に移動させられ
モンゴル族の時に虐殺され消滅。

新羅が契丹(遼国の聖宗)に滅ぼされるまで
高麗(ヨクソ・ワイ・カラ)と偽ったため。
渤海は辰韓から名づけ、渤海国辰州を置いて、新羅を滅ぼす。

契丹(遼国)は興州、湯池縣(建安縣)を置いて
、南女直湯河司、楽浪郡海冥縣であった旧百済を支配。
契丹(遼国)は盧州、建安縣を置いて
、渤海「杉盧郡」であったソウル帯方郡を支配。
契丹(遼国)は開州、熊岳縣(建安縣)を置いて
、渤海「東京龍原府」であった新羅(高麗)慶州を支配。

女真(金国)が高麗藩を置いて、旧新羅・旧百済を支配。

41ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:34:00
遼史卷三十八志第八地理志二東京道東京遼陽府,本朝鮮之地 ...
遼史志第一至十四
二〕 宣化縣丁四千按地理志一,
宣化縣?四千。 一?一丁, 疑誤。〔三〕慶州玄寧縣 玄寧, 地理志一作玄紱。 ...
...三〕 縣二行唐阜俗按地理志一, 保和縣、
宣化縣均于統和八年隸彰愍宮。〔四〕州一按地理志二:「宗州,耶律隆運以所俘漢民置 ...
後徙遼城,並入?嶺縣。渤海後為紫蒙縣。?一千。
興遼縣。本漢平郭縣地,渤海改為長寧縣。
唐元和中,渤海王大仁秀南定新羅,北略諸部,開置群邑,遂定今名。?一千。
肅慎縣。以渤海?置。歸仁縣。順化縣。
開州,鎮國軍,節度。本?貊地,高麗為慶州,渤海為東京龍原府。有宮殿。
都督慶、鹽、穆、賀四州事。故縣六:曰龍原、永安、烏山、壁谷、熊山、白楊,皆廢。
疊石為城,周圍二十里。唐薛仁貴征高麗,與其大將?沙門戰熊山,擒善射者於於石城,即此。
太祖平渤海,徙其民於大部落,城遂廢。聖宗伐高麗還,
<六>周覽城基,複加完葺。
開泰三年,遷雙、韓二州千餘?實之,號開封府開遠軍,節度;更名鎮國軍。隸東京留守,
兵事屬東京統軍司。統州三、縣一。開遠縣。
本柵城地,高麗為龍原縣,渤海因之,遼初廢。聖宗東討,復置以軍額。民?一千。
鹽州。本渤海龍河郡,故縣四:海陽、接海、格川、龍河,皆廢。?三百。隸開州。
相去一百四十里。穆州,保和軍,刺史。
本渤海會農郡,故縣四:會農、水?、順化、美縣,皆廢。?三百。隸開州。
東北至開州一百二十里。 統縣一:. 會農縣。
賀州,刺史。本渤海吉理郡,故 縣四:洪賀、送誠、吉理、石山,皆廢。?三百。隸開州。
定州,保寧軍。高麗置州,故縣一,曰定東。聖宗統和十三年升軍,遷遼西民實之。隸東京留守司。
統縣一:定東縣。高麗所置,遼徙遼西民居之。?八百。
保州,宣義軍,節度。高麗置州,故縣一,曰來遠。聖宗以高麗王詢擅立,問罪不服,
統和末,高麗降,<七>開泰三年取其保、定二州,於此置 ?場。隸東京統軍司。

42ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:34:54
遼史卷三十八志第八地理志二東京道東京遼陽府,本朝鮮之地 ...
遼史志第一至十四
統州、軍二,縣一: 來遠縣。初徙遼西諸縣民實之,又徙奚、漢兵七百防戍焉。?一千。
宣州,定遠軍,刺史。開泰三年徙漢?置。隸保州。
懷化軍,下,刺史。開泰三年置。 隸保州。
辰州,奉國軍,節度。本高麗蓋牟城。唐太宗會李世攻破蓋牟城,即此。
渤海改為蓋州,又改辰州,以辰韓得名。井邑駢列,最為沖會。遼徙其民於祖州。
初曰長平軍。?二千。隸東京留守司。統縣一:建安縣。
盧州,玄紱軍,刺史。本渤海杉盧郡,故縣五:山陽、杉盧、漢陽、白岩、霜岩,皆廢。?三百。
在京東一百三十裏。兵事屬南女直湯河司。統縣一:熊嶽縣。
西至海一十五裏,傍海有熊嶽山。來遠城。本熟女直地。
統和中伐高麗,以燕軍驍猛,置兩指揮,建城防戍。兵事屬東京統軍司。
鐵州,建武軍,刺史。本漢安市縣,高麗為安市城。唐太宗攻之不下,薛仁貴白衣登城,即此。
渤海置州,故縣四:位城、河端、蒼山、龍珍,皆廢。?一千。
在京西南六十里。統縣一: 湯池縣。興州,中興軍,節度。本漢海冥縣地。
渤海置州,故縣三:盛吉、蒜山、鐵山,皆廢。?二百。
在京西南三百里。湯州。本漢襄平縣地。
渤海置州,<九>故縣五:靈峰、 常豐、 白石、 均谷、 嘉利, 皆廢。?五百。
在京西北一百里。崇州,隆安軍,刺史。本漢長岑縣地。
渤海置州,故縣三: 崇山、?水、䖝城,皆廢。?五百。
在京東北一百五十里。統縣一: 崇信縣。海州,南海軍,節度。本沃沮國地。
高麗為沙卑城,唐李世徠嘗攻焉。渤海號南京南海府。
疊石為城,幅員九里,
都督沃、晴、椒三州。故縣六:沃沮、鷲巖、龍山、濱海、昇平、靈泉,皆廢。 ...

43ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:38:27
遼史卷四十志第十地理志四南京道商京析津府,本古冀州之地 ...本
遼史志第一至十四
... 東至北烏魯虎克四百里,南至海邊鐵山八百六十裏,
西至望平縣海口三百六十裏,北至? 婁縣、範河二百七十裏。 ...
四:轄州府軍城八十七按「八十七」與下文所列州、府、軍、城之數不合。
五〕 本漢鏤芳縣地鏤芳,漢書地理志、後漢書郡國志均 作鏤方,屬樂浪郡。
〔六〕聖宗伐高麗還高麗原誤「新羅」,據紀統和三年七月、十年正月改。
...本漢無慮縣地。
聖宗統和三年置〔一三〕,以奉景宗乾陵。有凝神殿。隸崇紱宮,兵事屬東京都部署司。...
二六〕 潤州海陽縣原與隰州海濱縣互舛。金史地理志:「海陽縣,遼潤州海陽軍故縣也。」
「海濱縣,遼隰州平海軍故縣也。...
?陰縣。本漢泉山之霍村鎮。遼?季春,弋獵於延芳淀,居民成邑,就城故?陰鎮,後改為縣。
在京東南九十里。延若澱方數百里, ... 在州東北六十里。?五千。
望郡縣。本漢海陽縣,久廢。太祖以定州望都縣俘?置。有海陽山。縣在州商三十里。?三千。 ...


遼史卷三十八志第八地理志二
東京道 東京遼陽府,本朝鮮之地 ...
統縣一: 熊岳縣。西至海一十五里,傍海有熊岳山。來運城。本熟女直地。
統和中伐高麗,以燕軍驍猛,置兩指揮,建城防戍。...
統縣一: 湯池縣。興州,中興軍,節度。本漢海冥縣地。
渤海置州,故縣三: 盛吉、蒜山、鐵山,皆廢。?二百。在京西南三百里。...

44ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:46:47
金史志第一至七
廣靈亦作「陵」,遼統和三年析靈仙置。
靈丘晉縣,貞祐二年四月陞為成州,四年 割為代州支郡。定安晉縣。
... 二五〕興中本漢柳城地「漢」原作「唐」。按遼史卷三九地理志,
中京道,興中府「興中縣,本漢柳城縣地」。今據改。 ...

熾天使書城----元史志第十一地理二
... 至元六年,以鶴野縣、警巡院入焉。
州二蓋州,下。初為蓋州路。至元六年,並為
東京支郡,並熊岳、湯池二縣入建安縣。... 元貞二年,並兩司為
瀋陽等路安撫高麗軍民總管府,仍治
遼陽故城,轄總管五、千?二十四、百?二十五。...

金史志第一至七
六〕徙治寧州按遼史卷三八地理志,
東京道「寧州,觀察。統和二十九年伐高麗,以渤海降?置。兵事隸東京統軍司。
統縣一:新安縣」。蓋
寧州是遼舊地名,金末已廢,故不見于本書地理志。又本卷下文
東京路遼陽府鶴野縣
「鎮一:長宜,曷蘇館在其地。宜豐遼舊
衍州安廣軍,皇統三年廢為縣,有東梁河。石城興定三年九月,以縣之靈岩寺為
岩州,名其倚郭縣曰東安,置行省。

??-->金史-->志第五志第五. 地理上○
上京路鹹平路東京路北京路西京路中都路金之壤地封疆,東極
吉裡迷兀的改諸野人之境,北自
蒲與路之北三千餘里,火魯火□謀... 本高麗蓋葛牟城,遼辰州。明昌四年,
罷曷蘇館,建辰州遼海軍節度使。六年,以與「陳」同音,更取蓋葛牟為名。...

45ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:52:10
雲台書屋--?史書籍--二十四史--??--金史--志第六
導航:雲台書屋...留守司留守帶本府尹,兼本路
兵馬都總管。天紱二年罷行台尚書省,置轉運司、提刑司。天紱二年置
統軍司。有藥市四,?場。... 宋軍?郡。?八萬六千六百一十五。
縣五、鎮一:掖倚。有三山、夜居山、掖水。?陽有高麗山、七子山。鎮一衡村。

金史志第一至七
曷蘇館路,置節度使。天會七年,徙治
寧州,嘗置都統司,明昌四年廢。
有化成關,國言曰曷撒罕關。... 天顯三年,升為
南京,府曰遼陽。十三年,更為
東京。太宗天會十年,改南京路平州軍帥司為
東南路都統司之時,嘗治於此,以鎮高麗。 後置
兵馬都部署司,天紱二年,改為本路都總管府,後更置留守司。

金史志第二二至三一
十年, 改南京路都統司為東南路都統司,治東京以鎮高麗。
後又置統軍司于大名府。及海陵天紱二年八月,改
諸京兵馬都部署司... 詔遣官詣復州、
曷蘇館路,檢視富家,蓄積有餘筯直以糴。令近地居民就往受糧。十八年四月, 命
泰州所管諸猛安、

金史表第一至四
九月, 以
東京路兵馬都總管府判官蕭子敏為
高麗生日使。

46ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 18:53:51
逸海書城--?史書籍--二十四史--??--金史--列傳第十
天紱二年,遷右監軍。元帥府罷,改
山西路統軍使,領西南、西北兩路招討兵馬,坐無功,降
臨海軍節度使,?平陽、太原尹。... 天會十年,改南京路軍帥司為
東南路都統司,習 古乃為都統,移治東京,鎮高麗。
贊曰:金?疆土,斡魯、斡魯古方面功最先著,婆盧 ...

逸海書城--?史書籍--二十四史--??--金史--列傳第十九
破高麗戍兵。與石適歡討平諸部。蒲察部
雅裏孛?與其兄弟胡八、雙括等欲叛
歸遼,鶻謀琶執之,送于康宗,賜賚甚厚。破高麗
曷懶甸及下陀魯城... 徙同知河北東路都總管,改
同簽燕京留守司事,民遮留不得出,易服夜去。改
河東南路轉運使,尋改絳陽軍節度使。

??-->金史-->志第六地理中○
南京路河北東路河北西路山東東路山東西路南京路,國初曰?京,貞元元年更號
南京。府三,領節鎮三,防御八,刺史郡八,縣一百五。
都城門十四,曰開陽,曰 宣仁,曰安利,曰平化。曰通遠,曰宜照,曰利川,
曰崇紱,曰迎秋,曰廣澤,曰順義, ... 留守司
留守帶本府尹,兼本路兵馬都總管。天紱二年罷行台尚書省,置
轉運司、提刑司。天紱二年置統軍司。有藥市四,?場。 ...

金史志第一至七
斡塞伐高麗,太祖臥而得夢,亟起曰:「今日捷音必至。」乃為具於毬場以待。
有二?渡水而至,獲之,太祖曰: 此休?也。... 天眷元年,置
上京留守司,以留守帶本府尹,兼本路兵馬都總管。後置
上京曷懶等路提刑司。?三萬一千二百七十。

47ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 23:19:54
結論。従来の高麗(900−1392)という時代と国はない。
李朝前期が高麗国・後期が朝鮮国。

国がなく、契丹(東丹国・湯河司)と女真(高麗藩・刀伊)と蒙古(東真国・斉国)の
縣州や郡縣となっていた。

北方異民族が侵攻して来る度に住民は、あちこちに移動させられた。いま居る
半島の住民は「遼西人・渤海人・女真族」の住民移動による定住で、新羅の民は
契丹と女真により満州に強制移住させられ蒙古族の時に虐殺され消滅。
新羅が契丹(遼国の聖宗)に滅ぼされるまで高麗(ヨクソ・ワイ・カラ)と偽ったため。

契丹(遼国)は慶鹽穆賀四州、保定ニ州を置いて遼西諸縣民を新羅へ強制移住させ
奚兵漢兵で新羅を滅ぼし、新羅民を祖州へ強制移住させる。
旧渤海(順化縣(開州・開遠縣(鹽州・穆州)・會農縣賀州)崇信縣海州「沃晴椒三州」)
旧新羅(會農縣(定州・定東縣保州)來遠縣「宣州・辰州(もと蓋州→祖州、強制移住先)」)
旧百済(建安縣盧州「熊嶽縣(鐵州)・湯池縣(興州・湯州・崇州)」)

女真(金国)が、契丹の東京遼陽府(東京統軍司)から
高麗藩(遼国南女直湯河司)で旧百済を、女真の刀伊(遼国東京留守司)で旧新羅を支配。

48ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 23:23:47
『遼史』卷三十八志・第八地理志二・東京道東京遼陽府,本朝鮮之地


____________崇信縣海州南海軍疊石為城(沃、晴、椒州・沃沮國・南京南海府)
____________開遠縣鹽州本柵城(開州)
____________開遠縣穆州保和軍(開州)
____________順化縣開州鎮國軍(慶州・慶鹽穆賀四州・東京留守・東京統軍司・東京龍原府)
____________會農縣賀州(開州)
熊嶽縣鐵州建武軍來遠城_會農縣定州保寧軍(東京留守司・遼西民・保定ニ州)
建安縣盧州玄紱軍____定東縣保州宣義軍(東京統軍司・遼西民)
湯池縣興州中興軍____來遠縣宣州定遠軍(保州・遼西諸縣民・奚、漢兵)
湯池縣湯州_______來遠縣懷化軍(保州・遼西諸縣民・奚、漢兵)
湯池縣崇州隆安軍____來遠縣辰州奉國軍(蓋州・東京留守司・徙→祖州長平軍)


※(建安縣盧州玄紱軍・遼国南女直湯河司・渤海国杉盧郡漢陽。)

49ハンドル付けて下さい:2006/06/21(水) 23:24:35
遼史卷三十八志第八地理志二東京道東京遼陽府,本朝鮮之地 ...
 遼史志第一至十四
?嶺縣。渤海「紫蒙縣」徙「遼城」
興遼縣。漢「平郭縣」渤海「長寧縣」
肅慎縣。渤海「歸仁縣」
 隸東京留守。屬東京統軍司。
順化縣。開州「鎮國軍」?貊,高麗「慶州」渤海「東京龍原府」
    都督「慶、鹽、穆、賀」四州事。故縣六:龍原、永安、烏山、壁谷、熊山、白楊
    疊石為城,熊山,石城。雙、韓二州,開封府「開遠軍→鎮國軍」
開遠縣。本柵城,高麗「龍原縣」
    隸開州。鹽州。渤海「龍河郡」故縣四:海陽、接海、格川、龍河
    隸開州。穆州「保和軍」渤海「會農郡」故縣四:會農、水?、順化、美縣
會農縣。隸開州。賀州。渤海「吉理郡」故縣四:洪賀、送誠、吉理、石山
    隸東京留守司。定州「保寧軍」遷「遼西民」。高麗「定州、定東縣」
 隸東京統軍司。
定東縣。高麗「定東縣」遼徙「遼西民」。
    保州,宣義軍,高麗「保州、來遠縣」聖宗以高麗王詢擅立,高麗降。「保、定」二州。
來遠縣。初徙「遼西諸縣民」又徙「奚、漢兵」七百。
    隸保州。宣州「定遠軍」徙漢「宣州」
    隸保州。「懷化軍」下。
    隸東京留守司。辰州「奉國軍」高麗「蓋牟城」渤海改「蓋州」又改「辰州」
      辰韓から名を得る。遼徙「辰韓民→祖州」初曰「長平軍」
 屬南女直湯河司。
建安縣。盧州「玄紱軍」渤海「杉盧郡」故縣五:山陽、杉盧、漢陽、白岩、霜岩
 屬東京統軍司。
熊嶽縣(熊岳縣)。來遠城。熟女直。熊嶽山(熊岳山)。
    鐵州「建武軍」漢「安市縣」高麗「安市城」渤海「鐵州」故縣四:位城、河端、蒼山、龍珍
湯池縣。興州「中興軍」漢「海冥縣」渤海「興州」故縣三:盛吉、蒜山、鐵山
    湯州。漢「襄平縣」渤海「湯州」故縣五:靈峰、常豐、白石、均谷、嘉利
    崇州「隆安軍」漢「長岑縣」渤海「崇州」故縣三: 崇山、?水、䖝城
崇信縣。海州「南海軍」沃沮國。高麗「沙卑城」渤海「南京南海府」
    疊石為城,都督「沃、晴、椒」三州。故縣六:沃沮、鷲巖、龍山、濱海、昇平、靈泉

50ハンドル付けて下さい:2006/06/23(金) 16:59:55
李承晩(アメリカ人妻・プロテスタント教徒・李朝の両班らしいが庶ゲツらしい)
李承薫(李朝後期の人で、朝鮮初のカトリック教徒)

朝鮮(朝貢(朝廷への参賀の貢ぎ)が少ない(あさい、鮮い)の意味。
   黄海に面した朝鮮北部のピョンヤンあたりの地名。中国人の血筋を強調。)

東夷の韓(カラと読み・加羅とも書く。異民族である事を強調。
     春秋戦国の周王朝の回りに韓という国があった。周辺とか端の意味。)

百済(馬韓伯済国からとも、百済王室が高句麗の東北向こうの
   夫余族が移住して来た事を意味する「百家済海」という表現の
   省略形ともいう。
   百の家(百姓、沢山の名前つまり全人民)を連れて
   海を渡って(済って)来たの意味の四文字熟語。
   遠い所から移住した意味に使う。
   半島南部の代表的な楽浪郡楽都県らしい
   羅州を北にくだった所「くだ羅」に百済がある。という仮説も。)

北魏(後魏・魏虜[虜は北方異民族を貶めていった単語])が攻めてきた時に
   百済の有力な四姓名の豪族(沙氏、木氏、解氏、賛氏)が防衛で戦い、
   今のソウルから任那や新羅のところに
   加羅国(迦羅国)を建てていた。
   迦羅国の新羅城(弁辰)は百済人(馬韓人)が王(辰王)であった。)

51ハンドル付けて下さい:2006/06/23(金) 17:52:49
金史志第一至七
...
銅山遼同州鎮安軍,本漢襄平縣,遼太祖時以東平寨置,因名東平,軍曰鎮東。
章宗大定二十九年,以與東平重,故更。
...
松山,遼松山州勝安軍松山縣,開泰中置,舊置刺史。太祖天輔七年置觀察使。
皇統三年廢 州來屬。承安三年隸高州,泰和四年後復。
...
靜封,承安二年以胡設務置,隸全州,三年 隸高州,泰和四年來屬。
三韓遼伐高麗,遷馬韓、辰韓、弁韓三國民為縣,置高州。
...
置遼東路轉運司、東京鹹平路提刑司。?五萬六千四百四。縣八:
平郭倚[縣],舊名鹹平, 大定七年更。
銅山[縣],遼同州鎮安軍,本漢襄平縣,遼太祖時
...
襲遼制,建五京,置十四總管府,是為十九路。
其間散府九,節鎮三十六,防御郡二十二,刺使郡七十三,軍十有六,縣六百三十二。
...
全州,下,盤安軍節度使。承安二年置,改胡設務為
靜封縣,〔二七〕鄢河舖為盧川縣,撥北京三韓縣烈虎等五猛安以隸焉。 ...
...
建置?二,天輔六年,仍立高州,更觀察作軍事,隸大定府路,治三韓縣。
天會元年,更□. □軍 節度(《金史》〈地理志〉:“
天會元年,以高州置[□□軍)節度”)。皇統三年,罷。 ... 盧川縣。
承安二年,析朔平、安豐縣立盧川縣,隸全州;尋改隸臨?府(《金史》〈地 ...
...
述不誤,唯“山東、河北、河東、陝西各分爲兩路”,嚴格?來蓋在,
大安二年。《金史》卷九
...
於神山縣]置惠州”;“復[於宜民縣]置川州”;“復[于安豐縣]置全州”
;“置靜. 封縣”;“升盧川縣”;“升?陽縣”;“改[徽川寨]爲徽川縣”
;“升[新城鎮]置威
...

52ハンドル付けて下さい:2006/06/23(金) 18:46:28
渤海靺鞨・契丹・女真・蒙古による、
    徙民政策(しミンせいサク、強制移住政策)
契丹族遼国上京臨黄府慶陵(遼西・熱河)

咸平路=鹹平路(吉林省・夫餘地(夫余地)・祖先の州(祖州?))

祖州・東京路・東京統軍司
建安縣・來遠城・南女真湯河司(東丹王・東真国 → 泰村王・泰封国)

三韓人→全州=高州(高麗地・遼東)
辰州=蓋州(新羅人・渤海人・摩震国)→祖州(遼東地・夫余地・鹹平・盧)

遼西人→建安縣來遠城、
    保州・定州(帯方郡・楽浪郡=杉盧郡漢陽=漢城=ソウル)

建安縣=來遠縣(來遠城)=保州(遼西諸縣民・
                奚兵(遼西の胡族)、漢兵(中国人))

建安縣(熊嶽縣(熊岳県)・湯池縣を吸収合併。
    開州(開城・開京)・松山縣(松岳県)・・・)

53ハンドル付けて下さい:2006/06/23(金) 18:52:18
辰州(辰韓(カラの古辰国)から名をとる、新羅の地)

蓋州(蓋馬大山(西蓋馬縣、蓋馬高原)の東は、東ヨクソを含み
   ヨクソ(渤海、大震国)・ワイ・カラの高麗の地で、
   高麗人が逃げた新羅の地でもある。)

54ハンドル付けて下さい:2006/06/23(金) 19:11:10
渤海靺鞨・契丹・女真・蒙古による、徙民政策(しミンせいサク、強制移住政策)

契丹族遼国上京臨黄府慶陵(遼西・熱河)
咸平路=鹹平路(吉林省・夫餘地(夫余地)・祖先の州(祖州?))

祖州・東京路・東京統軍司
建安縣・來遠城・南女真湯河司(東丹王・東真国 → 泰村王・泰封国)

三韓人(馬韓・辰韓・弁韓)→全州=高州(高麗地・遼東半島含む)
辰州=蓋州(新羅人・渤海人・摩震国)→祖州(遼東地or夫余地=鹹平の地=盧の地)
遼西人→建安縣來遠城・保州・定州(帯方郡and楽浪郡=杉盧郡漢陽=漢城=ソウル)

建安縣=來遠縣(來遠城)=保州(遼西諸縣民・奚兵(遼西の胡族)・漢兵(中国人))
建安縣(熊嶽縣(熊岳県)と湯池縣を吸収合併。開州(開城・開京)・松山縣(松岳県)・南女真)

辰州(辰韓(カラの古辰国)から名をとる、新羅の地・東京統軍司の管轄)
 ↑
蓋州(蓋馬大山(西蓋馬縣、蓋馬高原)の東は、東ヨクソを含み
   ヨクソ(渤海、大震国)・ワイ(太白山脈・単単大山)・カラ(洛東江)の
   高麗の地(高州)で、高麗人が日本海経由で逃げた(海に入り逃げた)
   新羅の地(百済人王(夫余人・全州)の加羅国新羅城)でもある。)

55ハンドル付けて下さい:2006/06/23(金) 19:39:12
【 遼王朝契丹の高州(高麗藩)→全州(東京路の留守司) 】
 (平壌と、契丹国の開州=渤海国(大震国)の慶州)

順化縣開州_開遠縣鹽州と穆州____會農縣賀州_崇信縣海州(沃晴椒三州)
熊嶽縣鐵州_建安縣盧州_會農縣定州_定東縣保州【東京−統軍司の管轄(旧渤海と新羅東岸)】
湯池縣興州と湯州と崇州_來遠縣宣州_來遠縣辰州=渤海(摩震国)の蓋州→祖州に強制移住

 (木浦)_______________(釜山・現在の慶州=新羅の金城)
【 南女真−湯河司の管轄(旧百済と旧帯方郡と新羅内陸) 】
(契丹の盧州=渤海国杉盧郡漢陽=李朝の漢城=百済の漢山=現在のソウル)

56ハンドル付けて下さい:2006/06/25(日) 08:03:56
2世紀に鮮卑族を統一した檀石槐

57ハンドル付けて下さい:2006/06/25(日) 08:41:58
前1世紀に前漢武帝が楽浪郡設置
2世紀に鮮卑族を統一した檀石槐(檀君)
4世紀に楽浪郡が滅亡・北燕国漢人馮氏娘が楽浪公主に・百済八族が北魏と戦う
7世紀に渤海国が杉盧郡漢陽縣(ソウル)を設置。

10世紀に遼国(遼西の西部・遼河上流の内蒙古(もと鮮卑地・契丹族・奚族))が、
         漢陽を建安縣盧州來遠城(南女真湯河司の統治)とする
         開州(慶州(熊嶽(熊岳)・松岳(松山)・開京・開城))・
         高州(全州・
         辰州(蓋州(元山〜金城))

12世紀に金国(女真)の時に、高麗は王の名で昌なる者を廃し、国が変わる。
         高麗の地元民が「藩」と自称し、女真は「生日使」を置く。
13世紀に元国が、斉国大長公主の領地とする。

15世紀に入る数年前に、李成桂や王弟(太宗)が高麗王と自称し王位を禅譲されたと説明する。
16世紀に、三浦の乱で対馬と熊川のみで交易し、倭寇が絶えない。
17世紀に入る数年前に、秀吉の足軽が唐辛子を持ち込み、
      対馬と草梁島倭館で倭館開市のみで交易。
      日本人と関わった朝鮮人を朝鮮国内で死刑とし、
      日本に渡った朝鮮人の引渡しを要求する。
      日本に朝鮮人の外交官を遣わさず、
      国書を対馬の日本人に東莱城(富山浦(オウサン港))まで持って来させ
      返信の国書を朝鮮で対馬の使いの日本人が貰い、日本へ伝える。

17世紀の前半に、李氏王朝(李朝)は満州八旗に降伏し、朝鮮国王に封じられる。
      外交の詳細から、国内の事件から税金の詳細まで、中国に報告する義務ができる。
      全面鎖国とし、外交は中国を通してのみ行い(事大主義)話を伝える事になる。
19世紀の後半に、事大党が清国(中国)の出兵と外交取り決めの変更の報告を入れる。
      太平天国の乱(キリスト教系統の新興宗教の民乱)を鎮圧した
      清国の淮勇と北洋艦隊(大臣李鴻章の私兵と軍船)を派遣し
      長崎で威嚇する。
      明治政府が、火輪船(鉄鋼製の蒸気船)を早急に大量に造船しないと
      大変な事になると、イギリスに依頼しフランスに外交を託す。
      アメリカはキリスト教会の私学校を通して、日本を議員によって操る方策で
      自由党を結成させ(民権運動により新政府を妥当する方針)、
      日本での憲法草案と議会制度取り入れと日本予算の報告を
      日本議員にアメリカ外交筋に入れるように有力者個人に契約を要求する。

20世紀の初め、英米を首班とする8か国が、中国の帝都の北京を
      インド兵・日本兵2万で占領させる。ドイツ軍とフランス軍は
      英米と同じくオブザーバー的に振舞う。

58ハンドル付けて下さい:2006/06/25(日) 08:47:30
前1世紀に前漢武帝が楽浪郡設置
2世紀に鮮卑族を統一した檀石槐(檀君)
4世紀に楽浪郡が滅亡・北燕国漢人馮氏娘が楽浪公主に・百済八族が北魏と戦う
7世紀に渤海国が杉盧郡漢陽縣(ソウル)を設置。

10世紀に遼国(遼西の西部・遼河上流の内蒙古(もと鮮卑地・契丹族・奚族))が、
         漢陽を建安縣盧州來遠城(南女真湯河司の統治)とする
         開州(慶州(熊嶽(熊岳)・松岳(松山)・開京・開城))・
         高州(全州・興州(光州))
         辰州(蓋州(元山〜金城(慶州)・東京統軍司や東京留守司の統治))

12世紀に金国(女真)の時に、高麗は王の名で昌なる者を廃し、国が変わる。
         高麗の地元民が「藩」と自称し、女真は「生日使」を置く。
13世紀に元国が、斉国大長公主の領地とする。

15世紀に入る数年前に、李成桂や王弟(太宗)が高麗王と自称し王位を禅譲されたと説明する。
16世紀に、三浦の乱で対馬と熊川のみで交易し、倭寇が絶えない。
17世紀に入る数年前に、秀吉の足軽が唐辛子を持ち込み、
      対馬と草梁島倭館で倭館開市のみで交易。
      日本人と関わった朝鮮人を朝鮮国内で死刑とし、
      日本に渡った朝鮮人の引渡しを要求する。
      日本に朝鮮人の外交官を遣わさず、
      国書を対馬の日本人に東莱城(富山浦(オウサン港))まで持って来させ
      返信の国書を朝鮮で対馬の使いの日本人が貰い、日本へ伝える。

17世紀の前半に、李氏王朝(李朝)は満州八旗に降伏し、朝鮮国王に封じられる。
      外交の詳細から、国内の事件から税金の詳細まで、中国に報告する義務ができる。
      全面鎖国とし、外交は中国を通してのみ行い(事大主義)話を伝える事になる。
19世紀の後半に、事大党が清国(中国)の出兵と外交取り決めの変更の報告を入れる。
      太平天国の乱(キリスト教系統の新興宗教の民乱)を鎮圧した
      清国の淮勇と北洋艦隊(大臣李鴻章の私兵と軍船)を派遣し
      長崎で威嚇する。
      明治政府が、火輪船(鉄鋼製の蒸気船)を早急に大量に造船しないと
      大変な事になると、イギリスに依頼しフランスに外交を託す。
      アメリカはキリスト教会の私学校を通して、日本を議員によって操る方策で
      自由党を結成させ(民権運動により新政府を妥当する方針)、
      日本での憲法草案と議会制度取り入れと日本予算の報告を
      日本議員にアメリカ外交筋に入れるように有力者個人に契約を要求する。

20世紀の初め、英米を首班とする8か国が、中国の帝都の北京を
      インド兵・日本兵2万で占領させる。ドイツ軍とフランス軍は
      英米と同じくオブザーバー的に振舞う。

59ハンドル付けて下さい:2006/06/25(日) 08:54:44
前1世紀に前漢武帝が楽浪郡設置(朝鮮縣・帯方縣・遂城縣など)
2世紀に鮮卑族を統一した檀石槐(檀君)

4世紀に楽浪郡が滅亡・北燕国漢人馮氏娘が楽浪公主に・百済八族が北魏と戦う
7世紀に渤海国が杉盧郡漢陽縣(ソウル)を設置。

10世紀に遼国(遼西の西部(慶州)・遼河上流の内蒙古(もと鮮卑地・契丹族・奚族))が、
         漢陽を建安縣盧州來遠城(南女真湯河司の統治)とする
         開州(慶州(熊嶽(熊岳)・松岳(松山)・開京・開城))・
         高州(全州・興州(光州・長興府史が倭寇で戦死))
         辰州(蓋州(元山〜金城(慶州)・東京統軍司や東京留守司の統治))

12世紀に金国(女真)の時に、高麗は王の名で昌なる者を廃し、国が変わる。
         高麗の地元民が「藩」と自称し、女真は「生日使」を置く。
13世紀に元国が、斉国大長公主の領地とする。

15世紀に入る数年前に、李成桂や王弟(太宗)が高麗王と自称し王位を禅譲されたと説明する。
16世紀に、三浦の乱で対馬と熊川のみで交易し、倭寇が絶えない。

17世紀に入る数年前に、秀吉の足軽が唐辛子を持ち込み、
      対馬と草梁島倭館で倭館開市のみで交易。
      日本人と関わった朝鮮人を朝鮮国内で死刑とし、
      日本に渡った朝鮮人の引渡しを要求する。
      日本に朝鮮人の外交官を遣わさず、
      国書を対馬の日本人に東莱城(富山浦(プサン港))まで持って来させ
      返信の国書を朝鮮で対馬の使いの日本人が貰い、日本へ伝える。

60ハンドル付けて下さい:2006/06/25(日) 08:55:52
16世紀に、三浦の乱で対馬と熊川のみで交易し、
      倭寇が絶えない(長興府史が倭寇で戦死) 。
17世紀に入る数年前に、秀吉の足軽が唐辛子を持ち込み、
      対馬と草梁島倭館で倭館開市のみで交易。
      日本人と関わった朝鮮人を朝鮮国内で死刑とし、
      日本に渡った朝鮮人の引渡しを要求する。
      日本に朝鮮人の外交官を遣わさず、
      国書を対馬の日本人に東莱城(富山浦(オウサン港))まで持って来させ
      返信の国書を朝鮮で対馬の使いの日本人が貰い、日本へ伝える。

17世紀の前半に、李氏王朝(李朝)は満州八旗に降伏し、朝鮮国王に封じられる。
      外交の詳細から、国内の事件から税金の詳細まで、中国に報告する義務ができる。
      全面鎖国とし、外交は中国を通してのみ行い(事大主義)話を伝える事になる。
19世紀の後半に、事大党が清国(中国)の出兵と外交取り決めの変更の報告を入れる。
      太平天国の乱(キリスト教系統の新興宗教の民乱)を鎮圧した
      清国の淮勇と北洋艦隊(大臣李鴻章の私兵と軍船)を派遣し
      長崎で威嚇する。
      明治政府が、火輪船(鉄鋼製の蒸気船)を早急に大量に造船しないと
      大変な事になると、イギリスに依頼しフランスに外交を託す。
      アメリカはキリスト教会の私学校を通して、日本を議員によって操る方策で
      自由党を結成させ(民権運動により新政府を妥当する方針)、
      日本での憲法草案と議会制度取り入れと日本予算の報告を
      日本議員にアメリカ外交筋に入れるように有力者個人に契約を要求する。

20世紀の初め、英米を首班とする8か国が、中国の帝都の北京を
      インド兵・日本兵2万で占領させる。ドイツ軍とフランス軍は
      英米と同じくオブザーバー的に振舞う。

61ハンドル付けて下さい:2006/06/25(日) 08:56:33
16世紀に、三浦の乱で対馬と熊川のみで交易し、
      倭寇が絶えない(長興府史が倭寇で戦死) 。
17世紀に入る数年前に、秀吉の足軽が唐辛子を持ち込み、
      対馬と草梁島倭館で倭館開市のみで交易。
      日本人と関わった朝鮮人を朝鮮国内で死刑とし、
      日本に渡った朝鮮人の引渡しを要求する。
      日本に朝鮮人の外交官を遣わさず、
      国書を対馬の日本人に東莱城(富山浦(プサン港))まで持って来させ
      返信の国書を朝鮮で対馬の使いの日本人が貰い、日本へ伝える。

17世紀の前半に、李氏王朝(李朝)は満州八旗に降伏し、朝鮮国王に封じられる。
      外交の詳細から、国内の事件から税金の詳細まで、中国に報告する義務ができる。
      全面鎖国とし、外交は中国を通してのみ行い(事大主義)話を伝える事になる。
19世紀の後半に、事大党が清国(中国)の出兵と外交取り決めの変更の報告を入れる。
      太平天国の乱(キリスト教系統の新興宗教の民乱)を鎮圧した
      清国の淮勇と北洋艦隊(大臣李鴻章の私兵と軍船)を派遣し
      長崎で威嚇する。
      明治政府が、火輪船(鉄鋼製の蒸気船)を早急に大量に造船しないと
      大変な事になると、イギリスに依頼しフランスに外交を託す。
      アメリカはキリスト教会の私学校を通して、日本を議員によって操る方策で
      自由党を結成させ(民権運動により新政府を妥当する方針)、
      日本での憲法草案と議会制度取り入れと日本予算の報告を
      日本議員にアメリカ外交筋に入れるように有力者個人に契約を要求する。

20世紀の初め、英米を首班とする8か国が、中国の帝都の北京を
      インド兵・日本兵2万で占領させる。ドイツ軍とフランス軍は
      英米と同じくオブザーバー的に振舞う。

62ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 11:10:17
韓国の歴史の誇張や捏造を暴こう! 十七
348 :マンセー名無しさん :2006/07/01(土) 20:04:34 ID:t+0WwDpz

閔妃暗殺犯として朝鮮政府に処刑された鮮人は何人もいる。(日本人はいない)
さらに、殺害現場を目撃した純宗(閔妃の息子)は「母ノ仇、禹範善」と述べ、暗殺者に
命を発し禹範善(王宮に突撃した朝鮮軍第二訓練隊の指揮官)を亡き者にした。

閔妃は、嫁の分際で義父=大院君を拉致幽閉したり、日本軍に育てられた訓練隊を解散さ
せたりのやりたい放題で、大院君と訓練隊に恨まれていたのだ。

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渤海国杉廬郡漢陽・東丹国・東丹王: 泰封国・泰村王 後高句麗弓裔・王建
遼国建安県廬州・玄徳軍来遠城・南女真湯河司: 後百済キョン萱
遼国来遠県辰州・奉国軍・東京統軍司留守: 摩震国 新羅敬順王
金国女真族・銅山県・松山県・開州・
 全州・高州熊嶽県・高麗生日使・夏生日使・宋生日使: 高麗は昌という名の王を廃した
元国蒙古王朝・斉国大長公主: 高麗の最後の7代つづく王は蒙古の王妃

63ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 11:24:40
アメリカは漢字文化を破壊するために
朝鮮民族の盗みと書き換えと消失をする手癖の悪さに期待している。

偶像崇拝だから昔の文書は口実を設け文書破壊する。
漢字は文化でないからアメリカだけ文明国と確信し
中国はアメリカと貿易するためには
韓国人通訳を使い簡体字にさせる
アメリカ教会に忠実な韓国人貿易者を重用という
信じられない根性に基づいて外交を行って来た。

今までの歴史消滅。
・・・
朝鮮半島を中国(前漢武帝)が支配していた事を教えない。
日本と中国の古代の交渉(倭の五王)を歴史教科書に教えさせない。
百済の王家の中国側伝承(尉仇台の移住・
            北魏と戦争)を教えないように学者を脅迫。
中国への日明貿易と倭寇(中国人海賊と日本海賊の交流)を教えない。
南北朝時代の天皇制度の存続にまつわる昔話(宮方武将)を教えない。
日本国内の宗教戦争(奈良時代の御蚕一揆・真宗の東西分裂・
  法華一揆・一向一揆・島原の乱・寺請制度・日蓮宗不受派弾圧・
  薩摩カヤカベ教(真宗)弾圧・廃仏毀釈など)を教えない。
朱印状貿易による東南アジアの日本人街や
  オランダ(出島独占)との友好関係を教えない。
ロシアの沿海州・千島・樺太でのアイヌ虐殺を教えない。
アメリカ軍の
  サイパン・沖縄・東南アジアでの日本女性虐殺を教えさせない。

64ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 11:57:01
削除基準・教えない基準

満州を発生源とする民族や建国の歴史・中国と日本の交流史(倭王や日本国王の任命に関する歴史)・
オランダ−ドイツやフランス−ロシアとアイヌの交流史・東南アジアや沖縄との交流史・
日本国内の生産者の組合や宗教団体による反乱(一揆)の歴史・
日本国内の天皇を巡る内戦(戦争)の歴史・
日本や北中国の間の遼東半島・朝鮮半島・山東半島をめぐる戦争の歴史・

475年の朝鮮半島の戦争は倭人(任那)と高句麗との間の戦争ではなく、
百済(百済武将、沙法名ら四天王(四武将)たち)と
北魏(均田制孝文帝の母の皇太后「太氏」の命じた遠征)の戦争だった。

663年の白村江の戦い後で668年の高麗国(高句麗)の滅亡前に
665年に山東半島の「泰山」で耽羅・倭国・百済・新羅の
「4カ国の使節」が「唐の将軍と盟約」した歴史事件を隠蔽して来た。

山東半島の登州に「満州の民族」の「渤海マッカツ族」が水軍で襲来して来た。
その後に安禄山が反乱を起こした。

渤海マッカツ族の大震国(渤海国)は漢江流域(帯水流域・帯方郡・
ソウルの流域)を支配し杉盧郡漢陽縣(ソウル)を置いていた。

遼国(契丹族・キタイ族)の時代の旧百済は
女真族の分派部族(玄徳軍)に支配され「南女真湯河司」を置かれていた。

新羅(辰韓)の住民は強制移住で立ち退かされ、安禄山の出身の胡族と
遼西の中国人が、辰州(もと新羅(保州・
定州など))へ入植し「東京統軍司留守」(奉国軍)の監理下に置かれた。

65ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 12:15:19
白村江の戦いは、渤海マッカツ族の夫余義慈の
子の夫余隆の水軍と、倭の水軍との戦いだった。『資治通鑑』

義慈は韓国の歴史教科書にある百済最後31代目の王ではなく『三国史記』
また「日本書紀」あたりの余豊章や余章豊という百済王子が最後の王でもない。

滅亡しているはずの義慈の
子の夫余隆と、夫余隆の
孫の夫余敬も、帯方郡王として旧百済を支配していた。『通典・旧唐書』
その後、山東半島に渤海マッカツ族が押し寄せ『資治通鑑』

渤海マッカツ族を含む安禄山が反乱し『十八史略』

渤海国が漢陽縣を設置し、支配し
契丹が玄徳軍によって、旧百済に南女真湯河司を置いて支配した。『遼史』

金国(女真族)は、高麗生日使(高麗勝利使)を送り、
高州を全州と名を改め、静封県を置いて支配した。『金史』

66ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 22:37:37
唐・安東都護府
渤海国・杉盧郡漢陽県(後の漢城・前の漢山)
遼・建安県盧州(南女直湯河司(玄徳軍))・
  湯州・祟州・・・。
  保州・定州 ← 来遠県辰州(東京統軍司留守(奉国軍))
 新羅人を南満州に強制移住、遼西の中国人や安禄山の系統の胡族遊牧民を新羅に移住。
 渤海人を遼東半島に強制移住、女真族を渤海に移住。 契丹族遼主聖宗の時。
金・高麗生日使(高麗勝利使)・高州→全州・静封県・銅山県・松山県・開州・熊嶽県
 高麗は藩と称し、王である昌なる名の者を廃した。
元・斉国大長公主
明・経略使(遼東都指揮使)・土司(遼東都司)・權國事(高麗知密直司事)帝不許賜。
--------------------------------------------------
契丹(遼国)は慶鹽穆賀四州、保定ニ州を置いて遼西諸縣民を新羅へ強制移住させ
奚兵(安禄山出身の契丹と違う遼西の遊牧民)と漢兵で新羅を滅ぼし、
新羅民を祖州(南満州の夫余?・[鹵咸]平路?現在の吉林東部延辺?)へ強制移住させる。

旧渤海(順化縣(開州・開遠縣(鹽州・穆州)・會農縣賀州)崇信縣海州「沃晴椒三州」)
旧新羅(會農縣(定州・定東縣保州)來遠縣「宣州・辰州(もと蓋州→祖州、強制移住先)」)
旧百済(建安縣盧州「熊嶽縣(鐵州)・湯池縣(興州・湯州・崇州)」)

女真(金国)が契丹東京遼陽府(東京統軍司)から
高麗藩(遼国南女直湯河司)で旧百済を
女真の刀伊(遼国東京留守司)で旧新羅を支配。

高麗はなく東契丹として東丹国(もと渤海国+新羅国)が置かれた。

67ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 22:42:16
良人(なにん)
 両班(やんばん)・
  任(にむ・長老[なうりにむ:旦那 とーりゃんにむ:お坊ちゃん])
下人(はいん)
 中人(ちゅんいん・ちゅにん)
  常奴(さんのむ)=常民(ちゃんみん・さんみん)・
    やんばん庶ゲツ・官奴(かんの)・
    真人(ちにん・救世主と名乗る弥勒教の教祖)
 奴婢(のび)
  率居奴婢・チゲ(荷背負い度道具・荷背負い人夫)
  外居奴婢・白丁(ぺくちょん)・ピョンヤン笠・
       広大(かんで・タルチュム[仮面劇]の芸人・反乱の頭目)・
       香徒契(ひゃんどげ・棺担ぎ人足・風水の穴掘り・身代金要求ヤクザ)
       居士(こさ)・男寺党(なむさだむ)・
       巫檀(むーだん)・妓生(きーせん)ほか

68ハンドル付けて下さい:2006/07/02(日) 22:54:35
權國事(ごんコクジ) → 準国事 → 準国王(国王に準ずる)

権僧正(ごんソウジョウ)→準僧正(坊さんに準ずる)

権先達(ごんセンダツ)→準先達(先輩に準ずる)

69ハンドル付けて下さい:2006/07/07(金) 11:02:50
夫余王尉仇台が、後漢末の公孫度と公孫康の親子の時に、高句麗の位宮から逃れ
 楽浪郡のうち帯水(漢江)流域を分割した帯方郡へ南満州吉林東部から移住する。

古代の東夷の韓は、三国志魏明帝時代に、楽浪太守劉茂によって滅ぼされている。
ワイ侯フジは、三国志魏明帝時代に、魏将カンキュウケンの遠征軍によって
 高麗が新羅に逃げ、高麗の配下のヨクソからワイは解放され三国志魏に服属する。

高句麗あらため高麗国は、遼西の北燕国が北魏に陥とされ併合されると、
            鴨緑江の中流の丸都城を北魏に焼かれる。
漢山(慰礼城)の百済は、楽浪郡地域を席巻した、北魏の攻撃を受ける。
 時の百済王は余牟太(王の名は「太」)
 時の北魏は孝文帝の太皇太后(母「太氏」)。
大田(テジョン)で北魏軍(魏虜・虜軍)を破った可能性もある。
 百済の大姓八族の沙法名、解氏・木氏・賛氏の4氏の将軍が迎撃。

百済は、唐の将軍の劉仁顔・劉仁軌・蘇定方・
唐に降伏し服属した渤海マッカツの夫余義慈(虜義慈)の子の夫余隆が制圧し
夫余隆の水軍が白江口(白村江)で倭の水軍を4戦し破る。
以降、帯方郡王は
渤海マッカツ(渤海人)の夫余氏(隆の孫の夫余敬)の領地となる。
唐が北方異民族に押された時に夫余氏は唐を離反し、渤海国に服属する。
漢山(漢城)は、渤海国の杉盧郡漢陽県(もと帯方郡の一県に相当)となる。

新羅が、五代十国の時代に勃興した契丹(キタイ)に滅ぼされ、
遼国(東丹国)の辰州となる。遼西の遊牧民や漢人が新羅に強制移住させられ、
新羅の民は祖州(南満州?)に強制移住させられる。

すでに、三韓やワイ族が滅ぼされて、
8世紀(800年間、3世紀[260年頃]から12世紀[1100年代])
が経っている。

70ハンドル付けて下さい:2006/07/07(金) 11:04:02
! 前漢武帝の時代(BC109−108年から)は、完全に中国領。。。!!!

玄菟郡西蓋馬県〜玄菟亭(蓋馬大山・ヨクソ(渤海国)・咸鏡道)
楽浪郡朝鮮県(平壌〜沙里院・朝鮮国・黄海道)

楽浪郡帯方県(仁川〜漢城[ソウル]・帯方郡・京畿道)
楽浪郡屯有県(鉄原〜春川・ワイ族の単単大山(太白山脈)・江原道)

楽浪郡楽都県(羅州〜光州・弁楽奴国・全羅道)
楽浪郡海冥県(金海〜釜山・弁辰狗邪国・慶尚道)


>漢山(漢城)は、渤海国の杉盧郡漢陽県(もと帯方郡の一県に相当)となる。

>遼国(東丹国)の辰州となる。遼西の遊牧民や漢人が新羅に強制移住させられ

金国(女真・ジュルチン)時代には
もと百済地域は、南満州の夫余(南女真)民族が住んでいて
もと新羅地域は、遼西の遊牧民(鮮卑族の分派、鮮卑の祖始は檀君)民族が住んでいた。
もと高麗(高句麗・遼東半島)には、渤海人(ヨクソの女真族)が契丹時代に強制移住させられ住んでいた。

71ハンドル付けて下さい:2006/07/07(金) 11:05:08
>もと百済地域は、南満州の夫余(南女真)民族が住んでいて

箕子朝鮮は、太白山脈のワイ族の説話だが、
 夫余人(満州人)の全羅道(南女真)が中国人である由緒を説明する。

>もと新羅地域は、遼西の遊牧民(鮮卑族の分派、鮮卑の祖始は檀君)民族が住んでいた。

檀君は、中国の遼西地方の鮮卑族の説話だが
 契丹により新羅に移住させられ住みだした慶尚道(遼西の鮮卑族系の慶州)の由緒。

>もと高麗(高句麗・遼東半島)には、渤海人(ヨクソの女真族)が

衛満朝鮮は、燕の亡命人の衛満がヨクソ(渤海)に逃げた話だが
 契丹により渤海人が遼東半島に移住させられた移動元の地の咸鏡道の由緒。

女真族は遼東(中国)でヨクソ(高麗の逃げた地)で
 「衛満朝鮮(燕人は中国人だろう。。。)」だから
東夷だ

新羅族は高麗(東夷)でワイ(三国志に服属した東夷)で
 「箕子朝鮮(箕子の八条の教えを受け入れた東夷だろう)」だから
中華だ。
 とか
真反対の事を言う。

72ハンドル付けて下さい:2006/07/07(金) 11:06:32
★★★ 漢文資料上では ★★★

楽浪郡・ヨクソ(慎粛氏)・ワイ・フヨ(百済)・高句麗(高麗・バク夷)
 ↓
楽浪郡・帯方郡・馬韓(カラ)・馬韓東界(弁辰・弁辰東浜(辰韓))・ヨクソやワイやカラに逃げた高麗
 ↓
慕韓(慕容)・百済(帯方郡)・加羅(馬韓)・秦韓(辰韓)・新羅(加羅の一個城)・任那(倭人に従う弁辰)
 ↓
前燕国(鮮卑族の慕容氏、楽浪太守が亡命)・尉仇台の子孫の夫余が移住(百家済海)・高麗
 ↓
北魏(鮮卑族の拓跋氏)・百済国(百家済海・余氏が王家)・加羅国(新羅城を含む亡命高麗人が民で王は百済人)
 ↓
高麗国(日本史料のいう高句麗)・百済国・新羅国(加羅国(百済の代官)と任那(倭の代官)を併呑)
 ↓
渤海国漢陽県(渤海マッカツ族夫余氏)・新羅(百済人が分国した加羅国にいた金氏一族)
 ↓
遼国建安県盧州(契丹の南女真湯河司)・遼国来遠県辰州(東丹国・契丹の東京統軍司留守)
 ↓
金国全州静封県(高麗生日使(高麗勝利使))・熊岳県・松山県・銅山県・鉄州・開州・・・
 ↓
元国から斉国大長公主(蒙古王妃)の領地
 ↓
明国から司使が高麗で権国事(国号が朝鮮で準国王)
 ↓
清国から朝鮮国王(異色の丸首衣装(慶賀の千官は紅服))
  大同法という税理規定では、ソウル以北・江原道・済州島は徴税できない。

73ハンドル付けて下さい:2006/07/09(日) 09:03:47
檀君: 鮮卑族(遼西慶州の遊牧民)を統一した祖

慶州: 契丹族の遼国が渤海と新羅を攻めた時に、
    辰韓を遼国辰州と名付け、遼西慶州の遊牧民と中国人を強制移住させ
    入れ替わりに三韓の民を祖州に追い出し強制移住させて統治した。

---------------------------------------------------------------------
平安道: 中国人(楽浪郡)
黄海道: 中国人(楽浪郡)
京畿道: 夫余人、別名が百済人(帯方郡)のちに渤海マッカツ人(南女直湯河司)
忠清道: 夫余人、別名が百済人(帯方郡)のちに渤海マッカツ人(南女直湯河司)
全羅道: 弁辰人(弁楽奴国)・馬韓人(馬韓伯済国[百済国]・馬韓古蒲国[任那己文県])
慶尚道: 弁辰人(弁辰涜盧国・弁辰狗邪国[迦羅国])・
     倭人(任那[大伴・金村・佐伯])・
     高麗人(新羅城(辰韓斯盧国)・ヨクソ(渤海)・ワイ侯フジ(太白山脈)・
         バク弓(高句麗)・シンシュク)

 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

全羅道: 渤海マッカツ人(南女直湯河司: 建安県・湯池県・熊嶽県)
慶尚道: 遼西慶州の遊牧民・奚兵・安禄山系統と
     遼西諸県の中国人・漢兵(東京統軍司留守: 来遠県・辰州・保州・定州)
その他: 東契丹・旧渤海国の杉盧郡漢陽県(東丹国・漢山・漢城・ソウル)

74ハンドル付けて下さい:2006/07/09(日) 09:04:54
俗説、珍説、仮説を出してしまいました。
この説はドウでしょうか?

鮮卑(北魏)の祖が檀君であること。

北魏軍(虜軍)が、
北燕国龍城(遼西・鮮卑族募容氏を支えた漢人馮氏・慕韓)と
高麗国丸都(遼東・楽浪・鮮卑族募容氏の養子・秦韓)を陥落させ、
百済国(楽浪・帯方(熊津や泗比ふくむ)と任那(迦羅国・新羅城))
を攻めた事件。

唐の渤海マッカツ夫余氏(虜義慈・夫余隆・夫余敬)は、
後漢(東漢)の時の夫余王尉仇台(楽浪郡の南半分を帯方郡として分設した
                義父の公孫度の娘が奥さん、子の公孫康の義兄弟)や
余氏百済(余慶・余牟太・余昌・余豊)と違う民族と氏であること。

渤海は、ソウルを漢陽県として支配していた事。

契丹は、慶州を辰州や来遠県として、漢陽県近辺を建安県に、全羅道あたりを湯池県とし
    三韓人を祖州に強制移住させ、遼西の遊牧民と漢人を三韓に移住させて
    南女真湯河司(玄徳軍)と東京統軍司留守(奉国軍)によって支配していた事。

女真は、高麗生日使(高麗勝利使・高麗総督)を置き、
    開州に松山県・熊嶽県、全州に静封県を置いて支配していた事。

75ハンドル付けて下さい:2006/07/09(日) 09:07:59
蒙古は、斉国大長公主の領地としていた事。

明は、遼東経略使(高麗・瀋陽・鉄嶺・平壌・碧蹄館など)と
   建州三都司(女直・アイシンギョロ)・エホナラ・海西などによって
   国境と隣接国と折衝し(高麗は3年1朝貢で)支配していた事。

清は、迎恩門を立てさせ、三田渡受降壇での三跪九叩頭拝によって、
   塩の使用禁止、鋳造を禁止し中国銅銭のみ使用(金や銀を流通させず、
   朝貢で使い果てさせる)を行っていたこと。結果、
   大同法(漢城(ソウル)以北・江原道・済州島は徴税できない)のように、
   材木や雑穀や布による収税をし、貨幣も銅銭による収税で
   金や銀の使用が中国への支払い以外は国内流通を認められなかった。
   また、塩の禁止のために唐辛子と人尿の使用が起こり、健康に害があった。
(朝鮮は1年4朝貢で、雍正帝の時に文字の獄で3年見返り停止、国王をすげ替え景祖→英宗)

76ハンドル付けて下さい:2006/08/08(火) 21:30:22
北魏の太皇太后・北燕國は楽浪公主の匈奴妃 → 百済王−余牟太・将−沙法名(迦羅王)
高麗靺鞨・百濟    → 新羅(金真平の孫娘の女王の時代)
高麗・×百濟國    → 新羅・高麗靺鞨・唐(金春秋の時代)
×高麗國       → 新羅・渤海靺鞨(熊津都尉)・唐(熊津都督・帯方州刺史)
渤海靺鞨(渤海國)  → 新羅・靺鞨夫餘氏(帯方郡王)・唐
渤海・靺鞨夫餘氏・新羅→ ×唐朝(遼西の節度使の地は 渤海国と契丹[遼]に併呑)
契丹(遼)・渤海靺鞨 → 渤海国杉盧郡漢陽県(漢城・漢山)來遠城
             蓋州、×新羅國(奚林州刺史)
遼國・東丹國(渤海國)→ 辰州−東京統軍司留守−奉国軍(遼西漢人と奚族が三韓人と入替)、
             盧州−南女直湯河司−玄徳軍(先祖が靺鞨の女真族の統治)、
             來遠県保州、熊嶽県開州、高州、泰封國(渤海靺鞨=高麗)
女真(金國・黒水靺鞨)→ 全州静封県、建安県・湯池県(高麗生日使)摩震國(高麗、辛昌)
蒙古(元國)・東眞國 → 斎國(斉国大長公主=蒙古妃、趙弁、王世子の柑)
漢人(明國)     → 高麗國(権知高麗国事、李成桂・王弟(太宗)など 3年1貢)
満州(清國・女直)  → 朝鮮國(仁祖王〔三田渡受降壇三跪九叩頭礼・迎恩門〕1年4貢)
衛満・・         箕子・・

泰山の廟祠にて それぞれの先祖に対し
唐・高麗〔靺鞨〕・新羅・百濟〔渤海靺鞨夫餘氏〕・耽羅・倭國の使いが
和平を会盟す。

唐朝: 日本各地の国分寺(律令制度・中大兄皇子・藤原鎌足)
明朝: 日本各地の相国寺・安国寺(勘合貿易・日本国王=征夷大将軍・源道義[足利義満])
明朝: 日本各地で儒学振興(徳川の朱印状貿易・日本国王=天下人・平秀吉)

77ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 11:18:23
>今まで一度も戦争で負けたことも、
対馬島討伐という1415年の侵略は、対馬撤退の敗戦が結果では、なかったのか?
日清戦争1894-95年の「成歓の遭遇戦」は朝鮮軍(地元兵)も戦い、敗北したのではないか?

>属国にされた事もなく、
契丹、新羅の金城(渤海が置いた蓋州)ほか三韓の住民を祖州に強制移住させ
入れ替わりに遼西の漢人と遊牧民(奉国軍)を蓋州に強制移住させて
辰韓だったので「辰州」と改名する。のちに「遼西の慶州(北魏の元となった
鮮卑族の故地で檀君が祖先)」の出身者が東京統軍司留守の監視下にて奉国軍により
移住して来たため慶州(慶尚道:慶州・尚州)と改名する。

女真族が攻めて来た時に、高麗と呼ばれた旧百済地域は
契丹時代に遼西がもとは高麗から分派した百済の地域という意味で
高州と呼ばれたが「全州」と改名し、静封県を置いて
高麗生日使(高麗勝利使・高麗総督ほか、夏生日使・宋生日使もいた。
属州の朝貢は夏・宋・斉・高麗であった。)によって、支配されていた。

この地域は女真族の前に支配者だった契丹(遼国)が開州・高州と名指した地域で
契丹族の前に支配者だった渤海国が杉盧郡漢陽県(漢山・漢城・ソウル)を置いた所であり
さらに來遠城が置かれていて契丹の支配に交代した時に、建安県と改名され
南女直湯河司の配下の玄徳軍によって支配された。

百済(余[よ]氏)→渤海マッカツの夫余氏(南満州)→契丹の高州(南女直)→女真の全州(静封県)
ヨ氏→呂氏(韓国語発音、ヨし)帰化人名は宮?か?

百済の先祖は夫余王の尉仇台(南満州王の尉[イ]氏)で民族大移動(百家済海、
百家をともない海を渡ってくる[済ってくる])した事から始まった。
イ氏→李氏(韓国語発音、イし)

78ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 11:19:08
BC109年に玄菟郡高句麗県・BC108年に楽浪郡朝鮮県・楽浪郡帯方県
AD206年に帯方郡を楽浪郡の南半分として分設・百済(馬韓)に夫余王尉仇台の民族大移動
AD244〜246年に東夷の韓は楽浪郡太守劉茂により滅ぶ・韓の新羅へ高麗人が亡命移住
AD313年に楽浪郡太守張統が遼西の鮮卑族慕容氏前燕国へ亡命。楽浪郡滅亡。
AD314年に帯方郡が滅亡。百済として独立。317年に南朝の東晋が成立、隋まで南北朝時代。

漢人・北燕国・馮跋の娘は楽浪公主(匈奴王妃・北魏に遼西北燕国と高麗国丸都城は滅ぼされる)

北魏の百済遠征475年(北魏孝文帝の母−皇太后太氏・百済王−余牟太・百済将−沙法名)

契丹族・遼国・聖宗の時に、三韓は蓋州から祖州へ強制移住させられる。
 三韓の蓋州は辰韓であるので辰州と改名させられ、
 遼西の中国人と遼西の檀君太祖の鮮卑族で安禄山系統遊牧民の
 遼西の奚族が辰韓(慶尚道)へ強制移住してくる。
 「東京統軍司留守」奉国軍による住民交換。
 高州は全州と改名させられ、渤海国杉盧郡漢陽県(ソウル)あたりの來遠城に
 「南女直湯河司」玄徳軍による統治。

大院君(高宗国王の父で摂政)は1866年初め(日本の戊辰戦争から征韓論ごろ)
天主教(カトリック)大弾圧を決行するに至る。(中略)まず四人の[フランス人]宣教師が
刑場にひき出された彼らは獄中で受けた拷問のため衰弱しきっていたが流暢な朝鮮語で
『一般信徒に寛大な処置を』と訴え最後の祈りをささげて従容と刑を受けた。その刑は
二台の牛車で体を左右に引き裂かれるむごたらしいものであった(中略)弾圧は
ほぼ六ヶ月にわたり 国内のあらゆる地域で続けられた

79ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 11:23:05
女真族・金国・高麗生日使(高麗勝利使・総督・公使)の領地
蒙古族・元国・斉国大長公主(蒙古人妃・姫の私有地)の領地
漢人・明国・権知高麗国事(権署朝鮮国事・朝鮮は準州の知事)の領地

応永の外寇(朝鮮名:己亥東征、あるいは対馬島征伐)1419年。
前期李朝: 対馬−済浦・富山浦・塩浦(三浦[馬山・プサン・ウル山])
三浦の乱: 鎖国(1510-1512年)
秀吉の前: 対馬−熊川浦(金海[キメ]?)
朝鮮出兵: 戦争(1592-1607年)
後期李朝: 対馬−釜山沖4km草梁島の倭館で開市(東莱城釜山鎮で国書交換の外交)

 明王朝−李朝: 3年1朝貢
1401年〜1549年ごろまでの勘合貿易と
遣明船(幕府船・内裏船・大内船・細川船ほか、毎年・鎖国・10年1朝貢・不定期)
1600年〜1636年までの朱印状貿易による
ベトナム・フィリピン・カンボジア・タイ・マレーシアと大阪堺と長崎出島の独占貿易

 清王朝−李朝: 1年4朝貢
1636年〜黒舟開国まで、オランダ東インド会社が
東南アジア華僑船(広東船・福建船・カンボジア船)の寄港の仲介で
中国船と長崎出島の間の貿易をオランダ会社の名で独占

1801年の「辛酉教獄」で清国人宜教師の周文謨をはじめ300余名を処刑した
1839年の「己亥教獄」ではアンベールら三人のフランス人宜教師をはじめ200余人を処刑
1846年の「丙午教獄」では金大建ら20余人を処刑した
1866年の「丙寅邪獄」ではブルマーをはじめとする9人のフランス人宜教師と
南鐘三ら数千人のカソリック教徒を逮捕 処刑した
この後の6年間 漢城府では1000人以上の力ソリック教徒が殺害され
全国では数万人の信徒が殺害もしくは収監された

80ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 12:14:19

燕国(遼西)−−−燕国(遼東・夫余・鉄嶺(高麗)・小水バク(女真・満州))
燕国(河北)−海−燕国(楽浪(朝鮮・高麗(バク)・ヨクソ(渤海)))
斉国(山東)−海−蓋(帯方(楽浪南半)・韓(加羅(新羅城)・ワイ(太白山脈)))
呉越(江南)−海−倭(日本)


鮮卑(遼西)−夫余(鉄嶺)−−高麗国(高句麗)−ヨクソ(燕亡人衛満)
河北の袁氏−公孫度(遼東国)−楽浪郡(朝鮮国)−ワイ(ワイ侯フジ・箕子の八条の教え)
黄巾党青州兵(山東・斉国)−帯方郡(公孫度の娘婿の夫余王尉仇台が民族大移動(百家済海))
淮南子−−−−−−−−−−−−−−−公孫度の子の公孫康が楽浪郡南半分を帯方郡に分割)
呉越・江南−−−−−−−−−韓・倭


鮮卑
高麗
馬韓−馬韓東界(弁辰・弁人の王は馬韓人)−東浜(弁辰の東界・古辰国)
弁辰の或る村々は、任(ニム・長老・目上・酋長)が倭人(那人・倭のナ国)→任那


高麗→玄菟郡高句麗県(蓋馬大山)→ヨクソに高麗人が亡命
______________________↓
楽浪郡(遼西北燕国漢人馮氏の娘が公主)_ワイに高麗人が海に入り逃げる
______________________↓
新羅に高麗の民が亡命して来て王は百済人(カラに高麗人が亡命し落ち着く)
※ 新羅城は、北魏(鮮卑族)の襲来から百済国(先祖の王が尉仇台)を守った
百済の将軍の沙法名(迦羅王)の領地の迦羅国が支配する一つの城
百済の大姓八族という有力豪族(沙氏・木氏・賛氏・解氏・白氏・燕氏・国氏・刀氏)

81ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 12:15:43
⑤隋の文帝の時、初めて朝貢に新羅国の名
高麗国(高句麗)−−−−−−−−−−−渤海マッカツ族(族長が夫余氏・隋の後の唐に服属)
百済国(王家、余氏で、大姓八族という有力豪族の連合体)−新羅国(王家、金氏一族の独裁)


⑥唐の後期
−−−−−−−−−−−−−−−−黒水マッカツ族(吉林省・女真族(満州人))
契丹(遼東・楽浪)−−−−−−−渤海マッカツ族(渤海国(咸鏡道・江原道))
マッカツ族夫余氏(帯方・百済)−新羅(代々、唐へ王子を人質に出す)


⑦契丹初期
−−−−−−−−−−−−−−−女真
遼国−−−−−−−−−−−−−渤海国
渤海国杉盧郡漢陽県−−−−−−太白山脈
マッカツ族夫余氏−−−−−−−渤海国、蓋州


⑧契丹の侵攻
蒙古−−−−−−−−−−−−−女真(金国・完顔部)
遼国−−−−−−−−−−−−−金国合獺路(咸鏡道)
遼国盧州玄徳軍−−−−−−−−遼国高州來遠県(江原道〜慶尚道)
遼国南女直湯河司・高州湯池県−遼国辰州奉国軍・東京統軍司留守(遼西慶州の漢人を移住)

82ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 12:31:38
1.BC109年以前(前漢武帝による朝鮮半島へ漢人を入殖させる前)
燕国(遼西)−−−燕国(遼東・夫余・鉄嶺(高麗)・小水バク(女真・満州))
燕国(河北)−海−燕国(楽浪(朝鮮・高麗(バク・蓋馬大山)・ヨクソ(渤海)))
斉国(山東)−海−蓋(帯方(楽浪南半)・韓(加羅(新羅城)・ワイ(太白山脈=単単大山)))
呉越(江南)−海−倭(日本)

2.BC109・BC108年(玄菟郡・楽浪郡設置)〜AD206年(帯方郡分設)
鮮卑(遼西)−夫余(鉄嶺)−−高麗国(高句麗)−ヨクソ(燕亡人衛満)
河北の袁氏−公孫度(遼東国)−楽浪郡(朝鮮国)−ワイ(ワイ侯フジ・箕子の八条の教え)
黄巾党青州兵(山東・斉国)−帯方郡(公孫度の娘婿の夫余王尉仇台が民族大移動(百家済海))
淮南子−−−−−−−−−−−−−−−公孫度の子の公孫康が楽浪郡南半分を帯方郡に分割)
呉越・江南−−−−−−−−−韓・倭

※百家済海(百姓(ひゃくせい・多くの姓名・全人民)を連れ、海を渡ってくる)民族移動の事
民族大移動の事を指して、略して百済と呼んだ。

3.206年(帯方郡分設)〜246年(高麗の新羅への亡命と、韓族の滅亡)
鮮卑の領地
高麗国
馬韓−馬韓東界(弁辰・弁人の王は馬韓人)−馬韓東界東浜(弁辰の東界・古辰国)

※弁辰の或る村々は、任(ニム・長老・目上・酋長)が倭人(那人・倭のナ国)→任那

4.244〜246年、三国志魏の討伐で古代東夷の韓族が楽浪太守劉茂により滅亡
_.244〜246年、三国志魏の遠征で魏将カンキュウケンにより高麗を討伐し削減
_.313年、楽浪太守張統が遼西前燕国の鮮卑族慕容氏に保護を求め亡命し楽浪滅亡
_.436年、北魏が北燕国(遼西)を滅ぼし、のちに高麗国の王都の丸都城を焼く
_.475年、北魏が百済遠征し半島諸国を襲撃

高麗→玄菟郡高句麗県(蓋馬大山)→ヨクソに高麗人が亡命
______________________↓
楽浪郡(遼西北燕国漢人馮氏の娘が公主)_ワイに高麗人が海に入り逃げる
______________________↓
新羅に高麗の民が亡命して来て王は百済人(カラに高麗人が亡命し落ち着く)

※ 新羅城は、北魏(鮮卑族)の襲来から百済国(先祖の王が尉仇台)を守った
百済の将軍の沙法名(迦羅王)の領地の迦羅国が支配する一つの城
百済の大姓八族という有力豪族(沙氏・木氏・賛氏・解氏・白氏・燕氏・国氏・刀氏)

83ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 12:50:44
列口県→海州→盧州→熊嶽県→開州→開城(ケソン)
漢山→漢陽県→盧州→建安県→楊州→漢城(ソウル)

任那己文→高州→湯池県→全州(チョンジュ・晋州官奴・全羅道)

新羅城→健牟羅城→金城→辰州→慶州(キョンジュ・慶尚道)

84ハンドル付けて下さい:2006/08/11(金) 13:04:44
朝鮮半島の中国人の郡縣配置

『晉書』地理志上平州唐房玄齡等撰
+『漢書・続漢書・三国志魏書』など

遼東郡西安平縣 小水貊   玄菟郡高顯縣
樂浪郡華麗縣 玄菟郡望平縣 玄菟郡高句驪縣
樂浪郡朝鮮縣 樂浪郡屯有縣 玄菟郡西蓋馬縣
帶方郡列口縣 樂浪郡遂城縣 樂浪郡不而縣
帶方郡含資縣 帶方郡帶方縣 樂浪郡鏤方縣
帶方郡提奚縣 馬韓伯濟國  樂浪郡渾彌縣
帶方郡長岑縣 馬韓古蒲國  樂浪郡駟望縣
樂浪郡樂都縣 弁辰涜廬國  帶方郡海冥縣
帶方郡南新縣 任那日本府  弁辰狗邪國


『続漢書』郡國: 樂浪郡樂都縣(弁樂奴國)
樂浪郡駟望縣(辰韓斯廬國)
樂浪郡渾彌縣(辰韓冉奚國・辰韓軍彌國)
ワイ侯不而(不而縣・沃沮諸縣・東沃沮・夫餘)
貊人高句驪(高句驪縣・華麗縣・西蓋馬縣・小水貊)
海北九十五國(任那日本府)

85ハンドル付けて下さい:2006/08/13(日) 17:57:22
新羅は恒常的に黄海に領土を持たない、高麗王朝は無い

《山海経(せんがいきよう)》
海内北経に〈蓋(がい)の国は鉅(おお)いなる
燕(えん)の南,倭の北に在り。倭は燕に属す〉

燕(河北・遼西[鮮卑]・遼東[高麗]・楽浪[朝鮮]・帯方[百済])
蓋(韓[古辰国=新羅]・半島南部)
倭(日本列島・あるいはワイ[朝鮮半島の太白山脈])

蓋→韓と改名

高麗(遼東国)
朝鮮(楽浪郡)
馬韓(韓だけを、特に馬韓と呼ぶ)
馬韓東界(弁辰、辰と弁別した弁が住む東部の地。王が馬韓人)
馬韓東界東浜(古辰国、弁人や馬韓人とも違う中国人に似た民)


右北平郡(遼西・盛強な鮮卑族)
遼東郡・鉄嶺(小水バク族→バク弓を使う民・夫余王尉仇台)
遼東郡(盛強な高麗国=高句麗族)
楽浪郡朝鮮県
楽浪郡(帯方郡・夫余王尉仇台と民の民族大移動=百家済海)
楽浪郡(任那)


北魏国(鮮卑族の中国王朝の北朝)
北燕国(河北省北部・遼寧省瀋陽付近)
高麗国(高句麗、ヨクソ・ワイ・カラに民がいると言う)
百済国(百家済海を省略し呼んだ)
迦羅国(百済の将、沙法名を王とした領地名。王は百済人)
加羅国(王の名は荷智=日、加羅=韓)
新羅城(韓の一部、高麗が逃げてきて出来た。王は百済人)


高麗国(遼西・遼東・楽浪・
    ヨクソ[咸鏡道]・ワイ[江原道]・韓[慶尚道]の北部)
百済国(帯方(旧楽浪の南半)・馬韓・任那[慶尚道の西南部])
新羅国(韓[慶尚道]の東南部)


渤海郡王の領地(渤海=粟末マッカツ族・唐王朝の家臣)
帯方郡王の領地(渤海マッカツ族の夫余氏・唐王朝の家臣)
楽浪郡王で新羅王の領地(新羅の金氏、唐王朝へ王子を人質に)

86ハンドル付けて下さい:2006/08/13(日) 17:58:12
中国本土の一部か、準州知事の扱い。


渤海郡王の領地(渤海=粟末マッカツ族・唐王朝の家臣)
帯方郡王の領地(渤海マッカツ族の夫余氏・唐王朝の家臣)
楽浪郡王で新羅王の領地(新羅の金氏、唐王朝へ王子を人質に)


渤海国本土(咸鏡道・江原道)大震国=渤海国(渤海郡王の国)
渤海国杉盧郡漢陽県(百済の漢山・漢江流域7県)
渤海国蓋州(新羅=古辰国)唐王朝が衰え滅ぶ頃に渤海人移住


遼国遼陽路(契丹本土)
東丹国盧州建安県來遠城(契丹の南女直湯河司・玄徳軍)
東丹国辰州(契丹の東京統軍司留守・奉国軍)蓋州→辰州と改名


金国高州熊嶽県
金国高州建安県・辛昌王を廃す。高州=高麗。
金国高州湯池県


金国東京路(女真本土)
金国合獺路(咸鏡道・江原道)
金国開州銅山県(慶州など4州)
金国保州來遠県(保州と定州の2州)
金国全州静封県(高麗生日使)高州→全州と改名


元国・斉国大長公主(蒙古人妃)・趙弁(弁別字)・柑(偏異)
元国・権知高麗国事(権=準、知事・知国・国事、太祖李成桂)


明国・権署朝鮮国事(朝鮮と言う名の準州の知事、王弟=太宗)


清国・朝鮮国王(王準が由来、仁祖王)

87ハンドル付けて下さい:2006/08/14(月) 11:07:06
吏読の問題:  吏読記号は地域差・学閥差・門中(一族)により違い
時代によっても違いまだ研究段階です。読めなくなった記号(新羅末期)
解明の仕様のない記号(一族の殺された血統の記号)もあるとの事です。

ヤンバン(両班)の文字は吏読記号:   李氏朝鮮は中国語そのものの漢文で
文字の読み書きをしており朝鮮語に読み下す段になって
「吏読」という日本のレ点や一ニ点やテニオハをつけるような朝鮮独特の記号を
添付して補って書き込み、読ませていました。つまり
もともと李氏朝鮮の文字書きでは吏読記号があってハングルなど必要なかったのです。

大きい字とは古代文字の意味:    漢字と違って字が大きく
古代文字(神代文字)はアルファベットのような小文字がないので
大きい字(ハングル)と呼びました。昔の書物の
たとえば聖書に書くようなヘブライ語の文字のようなギリシア線形B型文字ほか
古代文字は「小文字が無い」から「小文字なし」あるいは、活字の大きな書きの
「大きい字」を「古代文字」の別称でフランス人神学者がアダ名して呼んでいたのです。

訓民正音(世宗日誌・雑記
          のちの実録)
日本の対馬では阿比留(あびる)文字として1400年代に「造語」され
    1820年代に「銅鏡に造語」した神代文字として朝鮮に「知らせた」字です。
ハングル(ハング[大きい]ウル[字])は
フランス人神父が1830年ごろから朝鮮で
    カトリックの祈りを布教するために考案された文字です。
日本の長崎と江戸の学者の間では
    1850年代から知られ諺文(おんもん)と呼びます。
福沢諭吉は事情を知らなくてアビル文字を知ったのは
    1870〜80年代以降に金玉均(きむおきゅん)から教えられたという事です。

王世子は王弟の子(想定される原型) → 世宗は太宗の子(歴史の後智恵で王号などを脚色)

今上天皇 → 今の御世の天皇や現在に在世の天皇で平成天皇と書いたり呼ばない。

88ハンドル付けて下さい:2006/08/14(月) 11:13:36
王世子は王弟の子(想定される原型)
 → 皇太子は次期継承者(弟公)の子(可能性としての意味)

次期後継者 → 第2代あるいは、王の弟で先に継承権がある人物 → 太宗
継承者の子 → 王世子・皇太子・太子(王子・プリンス)

89ハンドル付けて下さい:2006/08/14(月) 11:36:06
全州(元国・金国女真)→高州(高麗=高句麗 の意味からずれる。金国・遼国契丹)
 →南女直鉄州(南満州鉄嶺 遼東半島北部に渤海人)→マッカツ夫余氏(渤海マッカツ 吉林)
            →余氏百済王(高句麗の小水バクや夫余 百家済海=百済)

李成桂(太祖)全州、反蒙古運動をし女真系統の血筋と由緒する。李=イ=尉(夫余王尉仇台・百済の祖)
_↓
−−−−−
_↓__↓
定宗_王弟(太宗)王世子の軍権を握り大臣等に勅命
____↓
___王世子(世宗)応永の外寇1419年(朝鮮名:己亥東征あるいは対馬島征伐)

90ハンドル付けて下さい:2006/08/14(月) 16:57:10
鮮卑族

137 檀石槐生まれる
156 檀石槐、雲中に侵入する
  檀石槐、モンゴルを統一する
158 檀石槐、匈奴中郎将張奐・南匈奴に敗れる
159 檀石槐、雁門に侵入する
163 檀石槐、遼東属国に侵入する
166 檀石槐、北方の九郡を略奪する
  檀石槐、張奐の討伐を斥け、王の印綬を拒絶する
  檀石槐、領土を東中西に三分して各々大人を置く
168 鮮卑、幽州・并州・涼州に侵攻する
174 鮮卑、北地太守夏育に敗れる
176 鮮卑、幽州に侵入する
177 鮮卑、三方から漢に侵入する
  檀石槐、夏育・田晏・臧旻・南匈奴に大勝する
  鮮卑、遼西に侵入する
178 鮮卑、酒泉に侵入する
  檀石槐、漁業の為に倭人を捕らえて移住させる
181 檀石槐死す 子の和連が後を継ぐ(大人の世襲制の始まり)

91ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:30:49
河東(太原)范陽(幽州)平盧(営州)安西(亀茲)北庭(庭州)
河西(粛州)隴右(善州)朔方(霊州)剣南(成都)嶺南(広州)

★ 前漢〜隋唐の史書にみる概略図 ★

北庭_匈奴_________鮮卑___靺鞨扶餘___邑婁(沿海州)
__________烏丸_営州柳城平盧_玄菟_貊(渤海靺鞨)
朔方_雲中__上谷_薊_右北平_遼西_遼東郡(渤海靺鞨)
_____代_趙_燕_漁陽幽州范陽−↓−樂浪郡(渤海靺鞨)_蓋馬大山_東扶餘
____晋陽(太原)_渤海−−−−−↓−朝鮮縣(渤海靺鞨)
河西__魏_隋_唐_邯鄲__東莱_登州−−(帯方郡王・靺鞨扶餘氏)_単単大山_穢
__秦__安邑(河東)_斉__琅邪−↑−−−長岑縣_屯有縣
隴右_長安__洛陽_陳__沛__−−↓←寧海軍使←←新羅國(楽浪郡王・奚林州刺史・金氏)
__蜀_漢_南陽__汝南_合肥_楚州城淮南準節度使−−−−倭_和泉_大漢國(蝦夷國)
剣南成都_巴東___江夏(武昌)建業(南京・呉)−−−倭奴國(隼人・熊襲・阿蘇)
___巴___南郡_赤壁__九江__会稽(越)
__________長沙___江南_天台山−−−−洲夷(琉球・沖縄)
__________零陵____建安(福建)
________桂林_____泉州−−−琉鬼(台湾・小琉球)
__________蒼梧__南海(広州・嶺南)
(ハノイ)交趾__合浦
___九真−−−−−珠崖(海南島)
____
_____
____日南(ユエ)
____林邑(占城)
__扶南(クメール・サイゴン)

92ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:31:20
  BC202〜AD008年 前漢
BC108年 楽浪郡設置(前漢武帝)

  AD025〜220年 後漢
AD206年 遼東国の公孫康(父が公孫度)が帯方郡を分設
       (高麗と鮮卑の間に居た夫余王尉仇台が、公孫度の娘を嫁に貰い帯方郡へ百家済海)

  AD220〜265年 三国志魏
AD246年 高麗討伐・ワイ族の服属・韓の滅亡(三国志魏カンキュウケン・楽浪太守劉茂)

  AD265〜317年 西晋(三国志魏書東夷伝倭人条AD280年ごろ)
AD313年 楽浪郡滅亡(楽浪太守張統が遼西の前燕国の鮮卑族慕容氏に亡命)
AD314年 帯方郡滅亡(夫余王尉仇台の子孫(百済←百家済海)が独立か?)

  AD383年 肥水の戦い
  AD317〜420年 東晋・AD420〜479年 宋・AD479〜502年 南斉 
  AD351〜394年 前秦・AD386〜534年 北魏
  AD400年ごろ 高麗(高句麗・遼東)の好太王の頃
  AD436年 北燕国(遼西)の龍城が北魏により陥落・
         亡命した先の高麗(高句麗)が南斉の使者を無視し北燕国馮氏を暗殺
AD475年 魏虜(北魏・鮮卑族拓跋氏・
          均田制の孝文帝の母の太皇太后)が百済(楽浪)へ襲来
AD512年 新羅が国号と王号を名乗る

  AD589〜618年 隋・AD618〜907年 唐
AD655年 新羅が、高麗・百済・マッカツ(渤海)の3国に攻められ北界30城を奪われる。
AD660年 百済が唐の奇襲で滅亡・百済大姓八族の沙氏や黒歯など豪族が蜂起
AD663年 白村口(白江口)の戦いでマッカツの夫余族の水軍(唐軍)に倭水軍が敗戦
AD665年 泰山の祠の盟約・百済が未だにマッカツの占領下にある。
AD668年 唐の遠征で高麗(高句麗)滅亡

93ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:32:20
天平外交史年表 724(神亀1)〜764(天平宝字8)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gaikou.html

     開府儀同三司、楽浪郡王。嵎夷道行軍總管、輔國大將軍、行豹韜衛大將軍、
都督林州刺史、寧海軍使、新羅王。
會昌元年七月、敕:「歸國 新羅官、新羅宜慰副使、兌州都督府司馬、緋魚袋金雲卿、輜州長史」

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
眞平卒、無子、立其女善徳爲王(善徳女王)。二十一年(647年)、
善徳卒、立其妹眞徳爲王(眞徳女王)、加授柱國、封樂浪郡王。
(貞觀)二十二年(648年)、眞徳遣其弟國相、伊贊干金春秋及其子文王來朝。
  (永徽)三年(652年)、
眞徳卒、爲舉哀。詔以春嗣(龍春?文興王?)、立爲新羅王、加授開府儀同三司、封楽浪郡王。
 六年(655年)、百濟與高麗、靺鞨 率兵 侵其北界、攻陷三十餘城、
          春秋(武烈王?)遣使 上表求救。
 顯慶五年(660年)、命 左武衛大將軍 蘇定方 爲熊津道大總管、統水陸十萬。
           仍令 春秋 爲嵎夷道行軍總管、與走方 討平百濟、俘其王
 (百濟王)扶餘義慈、獻于闕下。自是 新羅漸有高麗、百濟之地、其界益大、西至于海。
 龍朔元年(661年 16年後に扶餘敬が帯方郡王)
春秋卒、詔其子太府卿法敏(文武王?)嗣位。
(★ 儀鳳二年(677年 扶餘敬 帯方郡王 衛尉卿。56年後に渤海が山東攻撃)★)
法敏以開耀元年(681年)卒、其子政明(神文王?)嗣位。(4年前に扶餘敬が帯方郡王)
政明卒、立其子理洪(孝昭王?)(天授三年(692年)15年前に扶餘敬が帯方郡王)
理洪以長安二年(702年)卒、立其弟興光(聖徳王?)(22年後?に安禄山の乱)
                          (31年後に渤海の山東半島襲来)
 隋(581−617)新羅(金真平王576〜935敬順王・弓裔901−919)
 渤海靺鞨(698〜733〜926)唐(618〜907)
玄宗
(安禄山の乱724?[3節度使: 河東(太原)范陽(幽州)平盧(営州)])
 安西(亀茲)北庭(庭州)河西(粛州)隴右(善州)朔方(霊州)剣南(成都)嶺南(広州)

94ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:33:30
開元十六年(728年)、遣使來獻万物、又上表請令人就中國學問經教、上許之。
二十一年(733年)、渤海靺鞨 越海入寇 登州。
     時興光族人金思蘭先因入朝留京師、扶餘拜爲太僕員外卿、
     至是遣歸國發兵以討靺鞨、仍加授興光爲開府儀同三司、寧海軍使。
二十五年(737年 35年前に継承の時点で、更に25年前に扶餘敬が帯方郡王に襲封される)
興光卒、立其子承慶(孝成王?)
承慶卒、立其弟憲英(景徳王?)
憲英卒、立其子乾運(恵恭王?)
乾運卒、無子、國人立其上相金良相(宣徳王?・奈勿10世孫?)
良相卒、立上相敬信(元聖王?・奈勿12世孫?)
敬信卒、立敬信嫡孫俊you[冠巛脚邑](昭聖王?)
俊you[冠巛脚邑]卒、其子東興(哀荘王?)
  [    ] 、  重興(憲徳王?)爲王。元和元年(806年)十一月、放宿衛
     王子金獻忠歸本国。(元和)五年(810年)
     王子金憲章來朝貢。(元和)七年(812年)
重興卒、立其相金彦昇(憲徳王?興徳王?)、太和五年(831)
金彦昇卒、以嗣子金景徽(興徳王?[826−836]喜康王?門哀王?神武王?文聖王?)
開成元年(836)、王子金義[王宗](文聖王?[839−857])來謝恩、兼宿衛。
二年(837)四月、放還藩、賜物遣之。
五年(840)四月、鴻臚寺奏:新羅國告哀、質子及年滿合歸國學生等共一百五人、並放還。
會昌元年(841)七月、敕:「歸國新羅官、前人新羅宜慰副使、
    前充yen[冠亠脚兌]州都督府司馬、賜緋魚袋金雲卿、可si[偏三水冠巛脚田]州長史。」

唐が滅ぶ(907)までは残り63年間。その前の841年に新羅に官を帰還させている。
文聖王の後、憲安王。景文王。憲景王。定康王。真聖女王(887〜897)。
      孝恭王(897〜912)敬順王(927〜935)で金氏新羅王朝滅亡。
  神徳王(912〜917)景明王(〜924)景哀王(〜927)で朴氏新羅王朝滅亡。
901年、弓裔の泰村王の自立(泰封国の成立)
919年、王建が下克上。高麗国(摩震国)の成立
927年、渤海国の王侯武臣の亡命と人民の移住を受け入れる。渤海国から東丹国に改名。
935年、王建に降伏し禅譲で新羅国が滅ぶ。

95ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:58:53
>永徽二年、・・・六年、新羅王金春秋又表稱
> 百濟與高麗、靺鞨侵其北界、已没三十餘城。 
永徽二年(651年)、・
・・六年、新羅王の金春秋また表を称し(唐王朝に上表し、唐に助けを求めた文に)
百済と高麗(高句麗)と靺鞨(渤海)が、その北界(新羅の北部)を侵かし(侵略し)
すでに三十余城が没した(陥落した・渤海や高麗の手に落ちた)。

> 時百濟本地荒毀、漸爲新羅所據、隆竟不敢還舊國而率。
漸らく(しばらく)新羅の所據(所処)と爲(為)り、
時に百濟(百済)の本地は荒毀(破壊)す、
隆(夫余隆)は竟じて敢えて還ら不して、舊國(渤海マッカツ)にて而して率す。

> 其孫敬、則天朝襲封帯方郡王、授衛尉卿。
その孫の敬(隆の孫の夫余敬)に、
すなわち天朝(唐王朝)が襲封せし帯方郡の王なり、衛尉卿を授く。

一時的に百済は、新羅の土地となって破壊されたが、
唐王朝は百済を、渤海人(渤海靺鞨の部族・帯方郡王の夫余敬)の所領とさせていた。

> 其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。
その地(百済の地)は これより新羅
および渤海靺鞨(渤海国)の所分となし、百濟の種(民族)は、ついに絶す。

96ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:59:30
『舊唐書』東夷傳 (高麗・百濟・新羅・倭國・日本)後晋 劉 xu[日句] 他 撰
百濟國、本亦扶餘之別種、嘗爲馬韓故地、在京師東六千二百里、處大海之北、小海之南。
東北至新羅、西渡海至越州、南渡海至倭國。北渡海至高麗。
貞觀元年、・・・十五年、璋卒、其子義慈遣使奉表告哀。・・・
遺使冊命義慈爲柱國、封帯方郡王、百濟王。・・・永徽二年、・・・
六年、新羅王金春秋又表稱百濟與高麗、靺鞨侵其北界、已没三十餘城。
・・・顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。
虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送於京師,上責而宥之。
・・・文度濟海而卒。百濟僧道tin[扁王旁右深]、舊將福信率衆據周留城以叛。
遣使往倭國、迎故王子扶餘豊立王。・・・劉仁軌之辭也。
歃訖、埋幣帛於壇下之吉地、藏其盟書於新羅之廟。
仁願、仁軌等既遣、隆懼新羅、尋歸京師。
儀鳳二年、拜光禄大夫、太常員外卿兼熊津都督、帯方郡王、令歸本蕃、安輯餘衆。
時百濟本地荒毀、漸爲新羅所據、隆竟不敢還舊國而率。
其孫敬、則天朝襲封帯方郡王、授衛尉卿。
其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。

97ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:01:47
『資治通鑑』巻第二百一
麟紱元年(甲子、六六四)
冬,十月,庚辰,檢校熊津都督劉仁軌上言:・・・
仍以 扶餘隆 爲熊津都尉,使招 輯其餘衆。


『資治通鑑』巻第二百一
麟紱二年(乙丑、六六五)
10.上命 熊津都尉 扶餘隆 與 新羅王 法敏 釋去 舊怨;
八月,壬子,同盟于 熊津城。劉仁軌 以新羅、百濟、耽羅、倭國使者
浮海西還,會祠泰山,高麗亦遣 太子福男 來侍祠。

98ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:02:33
  ↓ ↓ ↓ 
泰山の祠に會い 舊怨を去り赦釋せん

麟紱元年(甲子、六六四)
 冬,十月,庚辰,檢校の熊津都督の劉仁軌 上(かみ)に言す。
 ないし扶餘隆を以って熊津都尉と為し 使いして其の餘衆を集め招く。
麟紱二年(乙丑、六六五)
 10.上(かみ) 熊津(くまなり)都尉の扶餘隆(プヨりゅう)と
 新羅王の金法敏(キンほうまい)ともに
 旧怨を釈(ゆる)し去(さ)らんとせよ と命ず。
(永徽六年 百濟と高麗靺鞨[扶餘氏]は 兵を率い 其[新羅]の北界を侵す『舊唐書』)
 八月 壬子(みずのえネ) 熊津城(くまなりジョウ)において同盟す。
 劉仁軌(りゅうジンキ)
 新羅(しらぎ)百済(くだら)耽羅(とむら)倭国(やまと)の使者を
 以(も)って また高麗(こうくり)もまた
 太子の福男(フナンなる名前の人)を遣わし来たりて 祠(ほこら)に侍(はべ)る。
 泰山(たいざん)の祠(ほこら)に会(あ)う。 海に浮かびて西より還(かえ)る。

隋(581−617)唐(618〜907)
渤海靺鞨(698〜733〜926)
新羅(金真平王576〜敬順王935・弓裔901〜919)

 初唐(太宗の貞観の治・五経正義)
 盛唐(玄宗・李白・杜甫)
 中唐(張継の楓橋夜泊・韓愈・白居易[白楽天])
 晩唐(杜牧の江南春[杜甫を学び李白の風]・白氏文集[白居易の進士論述試験の模範解答])

99ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:03:07
遂に韓を滅ぼす・百濟は靺鞨(渤海夫餘氏)の所分
『三国志 魏書』烏丸鮮卑東夷傳−韓条 晋陳寿選
①公孫模 張敞等 興兵 伐韓穢 倭韓遂 屬帶方。
②呉林 以樂浪本 統韓國 分割辰韓八國 以與樂浪。
③吏譯轉 有異同 臣智激 韓忿 攻帶方郡崎離營。
時太守弓遵 樂浪太守劉茂 興兵伐之 遵戰シ 二郡遂 滅韓。
『通典』邊防東夷上百濟新羅倭國 唐杜佑撰
百濟 大姓有八族:沙氏 燕氏 〔力〕氏 解氏 真氏 國氏 木氏 〔白〕氏。
其舊地没 於新羅靺鞨夫餘氏 〔百濟八族〕君長遂 絶。
『舊唐書』東夷傳−百濟条(旧唐書−百済伝)
時百濟 本地荒毀 漸爲新羅所據 〔夫餘〕隆 竟 不敢還舊國 而率。
其孫〔夫餘〕敬 則 天朝 襲封帯方郡王 授衛尉卿。
其地 自此 爲新羅及渤海靺鞨所分 百濟之種遂 絶。
『舊唐書』東夷傳−新羅条(旧唐書−新羅伝)
(貞觀)二十一年(647年)善徳卒立其妹眞徳爲王(眞徳女王)加授柱國封樂浪郡王。
(貞觀)二十二年(648年)眞徳遣其弟國相伊贊干金春秋及其子文王來朝。
(永徽)三年(652年)眞徳卒爲舉哀。詔以春嗣(龍春?文興王?)立 
爲新羅王 加授開府儀同三司 封楽浪郡王。
(永徽)六年(655年)百濟與高麗靺鞨 率兵 侵其北界 攻陷三十餘城
春秋(武烈王?)遣使 上表求救。
顯慶五年(660年)命 左武衛大將軍 蘇定方 爲熊津道大總管
統水陸十萬。仍令 春秋 爲嵎夷道行軍總管、與走方
討平百濟 俘其王(捕虜となる靺鞨王)扶餘義慈 獻于闕下。
自是 新羅漸 有高麗百濟之地 其界益大 西至于海。
龍朔元年(661年)春秋卒詔其子太府卿法敏(文武王?)嗣位。
> 儀鳳二年(677年)扶餘敬 帯方郡王 衛尉卿
> 56年後に 渤海靺鞨 入寇 登州 ※ 渤海=靺鞨=扶餘氏
法敏以 開耀元年(681年)卒 其子政明(神文王?)嗣位。

100ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:12:46
隋書は、唐の時代の作

書名   編著者  成立年代
史 記  司馬遷    前漢  前91年頃
漢 書  班固     後漢  後82年頃
三國志  陳壽     西晉  3世紀末 
後漢書  范曄     劉宋  432年頃 
宋 書  沈約     南齊  488   
南齊書  蕭子顕    梁   6世紀前半
梁 書  姚思廉    唐   636   
陳 書  姚思廉    唐   636   
晉 書  房玄齢 等  唐   648   
隋 書  魏徴 等   唐   636・656
南 史  李延壽    唐   659   
北 史  李延壽    唐   659   
通 典  杜佑     唐   801   
舊唐書  劉[日旬] 等 後晋  945   
新唐書  欧陽修 等  宋   1060

101ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:13:23
『隋書』東夷傳
唐 魏徴 等 撰
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倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居、
魏時、譯通中國。三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。
其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里、
在會稽之東、與tan[扁人旁右澹]耳相近。
漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。
安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。
桓、霊之間、其國大亂、遞相攻伐、歴年無主。
有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立爲王。
有男弟、佐卑彌理國。其王有侍婢千人、罕有見其面者、
唯有男子二人給王飲食、通傳言語。
其王有宮室樓觀、城柵皆持兵守衛、爲法甚嚴。
自魏至于齊、梁、代與中國相通。

開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣闕。
・・・
雖有兵、無征戦。其王朝會、必陳設儀杖、奏其國樂。戸可十萬。

其俗、殺人強盗及姦皆死、盗者計贓酬物、無財者没身爲奴。
自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓、以弦鋸其頂。
或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。
或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。
人頗恬静、罕爭訟、少盗賊。樂有五弦、琴、笛。男女多黥臂點面文身、没水捕魚。
★★★ 無文字、唯刻木結繩。
    敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。 ★★★
知卜筮、尤信巫覡。毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節與華同。

102ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:14:05
『南齊書』列傳 第三十九 蠻 東南夷
梁 蕭子顕 撰  
--------------------------------------------------------------------------------
加羅國、三韓種也。
建元元年、國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登、遠夷洽化。
加羅王荷知款關海外、奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。」
--------------------------------------------------------------------------------
倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。土俗已見前史。
建元元年、進新除使持節、
都督倭新羅任那加羅秦韓〔慕韓〕六國諸軍事【據南史補】、安東大將軍、
倭王武號爲鎮東大將軍。
--------------------------------------------------------------------------------
南夷林邑國、在交州南、海行三千里、北連九徳、秦時故林邑縣也。
漢末稱王。晉太康五年、始貢獻。

梁武帝、禅宗の達磨大師520年。千字文(習字手本1000字の歌)周興嗣510年
梁時代に南斉書
ワニの渡来404年ごろ。『南齊書』に文字の倭国への伝播の記事なし。
475年、百済へ北魏が遠征して来る。百済の将の沙法名(邁羅王)など4将が迎撃。

『南齊書』
牟大【元龜,通史作『太』】
又表曰:「臣所遣行建威將軍、廣陽太守、兼長史臣高達、行建威將軍、
朝鮮太守、兼司馬臣楊茂、行宣威將軍、兼參軍臣會邁等三人、志行清亮、忠款夙著。
・・・是歳、魏虜又發騎數十萬攻百濟、入其界、
牟大遣將沙法名,賛首流,解禮昆,木干那 率衆襲撃虜軍、大破之。
建武二年、牟大遣使上表曰:「臣自昔受封、・・・

103ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:15:33
『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳
晉 陳壽撰  (宋 裴松之 註)
--------------------------------------------------------------------------------
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、
漢時有朝見者、今使譯所通三十國。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、
始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。
・・・其南有狗奴國(球磨国)、男子爲王、其官有
狗古智卑狗(菊池彦)、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。
・・・計其道里、當在會稽、東冶之東。其風俗不淫、男子皆露[糸介]、
以木緜招頭。・・・國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、
特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治
伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、
皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。・・・
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守
”劉夏”遣吏將送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王曰:「制詔 親魏倭王卑彌呼:帶方太守
劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。・・・
正始元年、太守
”弓遵”遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣
倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]、刀、鏡、采物、
倭王因使上表答謝恩詔。・・・政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。
因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

104ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:16:10
> 漢時有朝見者、今使譯所通三十國。從郡至倭、

漢(王朝)の時に朝見者が有り、
今は使譯所へ(倭人の)三十國が通う。(漢人の帯方)郡に從い倭に至る、

朝見者があり使訳所(吏役所)があるのに
漢字が判らないはずないでしょう。判らない土人だったにせよ
中国人側が倭人の言葉を翻訳したはずです。
帯方郡の太守の役所に従っています。

>傳送文書賜遺之物詣女王

文書を送り傳え、女王の詣でに之を遺わし賜う
三国志当時倭人側でも、漢字を知っていたんではないんですか?
文字を知らずに文書を送るのですか?
半島の太白山脈のワイ族あたりは、文書がなく「王の印(穢王之印)」だけです。

使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、
檢察諸國、諸國畏憚之。常治 伊都國、於國中
有如刺史。

倭に大いに使いし之を監し(倭に監察使を送っていた)・・・
檢察を諸国にす、諸国は之を、はなはだ畏れる。
常にイト国(大宰府・博多)が治め 国中に於いて刺史(国司)の如きが有り・・・

105ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:17:07
使譯所: 山がちの島の倭人の100か国に住む漢人(中国人)あての
    領事館や貿易事務所だと考えられますが?

吏譯(使譯): 三国志魏書の東夷伝の韓条

『後漢書』東夷傳 劉宋 范曄撰【唐 章懐太子註】
韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。
馬韓在西、有五十四國。其北與樂浪、南與倭接。
辰韓在東、十有二國、其北與wai[扁水旁歳]貊接。
弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。
凡七十八國、伯濟是其一國焉。

『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳 晉 陳壽撰(宋 裴松之 註)
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。
・・・部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、
吏譯(使譯)轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。
時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡
遂滅韓。

東夷の韓は、漢人(二郡の中国人・劉茂・弓遵・呉林)のAD246年討伐により
滅亡したのです。

106ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:20:53
『通典』
>魏の将軍で毋丘儉が討ったとき王が元百濟人で海より逃げた国が新羅で新羅王になる。
>梁の武帝の普通二年に王の姓は慕で名を秦といい百濟に従って献じてきた。

勿吉=靺鞨7大部族: 黒水・安車骨・伯咄・拂涅・號室・粟末(渤海)・白山
__________黒水部(女真)
_____安車骨部_
__________伯咄部__拂涅部__號室部
__________粟末部(渤海國『渤海郡王』=大震国・靺鞨7部族)
遼河_海_高麗國__渤海靺鞨_白山部(肅愼氏)
_____海____渤海靺鞨_渤海靺鞨
_____海_帯方郡の新羅國_渤海靺鞨(『唐の帯方郡王』靺鞨夫餘氏)
越州_海_百濟國__任那=斉_新羅國=摩震國
___海_任那=斉_任那=斉_新羅國(『隋の楽浪郡公』新羅は靺鞨と同盟)
_____海
_____倭國(六朝の倭國王→天皇 ・征夷大将軍や天下人→明朝の日本國王)

『梁書』諸夷傳(東夷条)唐姚思廉撰
--------------------------------------------------------------------------------

東北方向↑→文身國→大漢國(言語異)→東二萬餘里→扶桑國(沙門慧深 來至 荊州)
____倭國→↑
__南有↓四千餘里・船行可一年
____侏儒國
__又南↓
____黒齒國
_↓←←←又西南・西南萬里
裸國(海人)

107ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:21:55
貊弓を使う句麗=クリ=華麗県=高麗国=高句麗王=下句麗侯(三国志魏の時に辰韓に逃げる)

貊夷→東に→ヨクソ=沃沮(ヨクソに燕亡人の衞滿王で朝鮮)
↓南に↓東に→ワイ=穢(ワイ侯フジ・箕子の四十餘世が朝鮮侯の準)
馬韓→馬韓東界=弁辰(辰と弁別)→大海見える東浜→古辰国(前秦に辰韓在住の高麗人として朝貢)
南に接す↓
−−−倭が半島にいる。韓やワイと一緒に討伐されて
海の南の向こう___燕亡人衞滿王_帯方郡役所に服属させられてしまった。
____↓
____倭人の島



『近世韃靼と中世靺鞨と古代楽浪郡』
(北緯53度15分で周囲が海なので島と間宮林蔵が確認)

吉里迷[漢語]=ギリヤーク=黒水靺鞨=黒龍江=サハリャン[満州語]
ウィルタ=オロッコ 
赫哲  間宮海峡(韃靼海峡・ラッカ岬-北緯51度55分に続き53度も樺太)
鄂倫春    骨嵬(クヴェイ[満]=クリール[露]=苦夷[漢]=蝦夷[和]=あいの)
邑婁山靼  宗谷海峡(ラペルーズ海峡)
渤海靺鞨    北海道(蝦夷=あいの)
白山靺鞨  津軽海峡       
扶餘沃沮    本州
雉林州−靺鞨海−本州
 朝鮮海峡   本州(日本国)
  対馬海峡  本州
   壱岐海峡・関門海峡
  五島列島・九州 豊後水道 四国
舟山列島  天草・阿蘇
     薩摩
   奄美
 琉球=沖縄(北緯30度以南の西南諸島[米国が終戦直後に歴史名を認めない])

赫哲=ホーチォ=ホジェン=ナナイ
鄂倫春=オロチョン
鄂温克=オウンク=エヴェンキ

108ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:22:31
ヨクソ(衛満王)にワイ(朝鮮侯の準→箕子40余世代後)が従がっていた。
 ↓
前漢武帝が東夷を征伐し、楽浪郡と玄菟郡など郡県を設置する。衛満の孫の右渠を討つ。
 ↓
高句麗が馬韓を従がえて「三国志の魏」や「西晋」に朝貢してきた。
 ↓ 三国志魏明帝ごろの遠征した将軍の母丘倹の兵に降参し、ワイ侯フジが従がう。
 ↓ 三国志魏明帝ごろの楽浪郡太守劉茂と帯方郡太守の2郡漢人兵が古代の韓を滅亡させる。
 ↓
高麗国(高句麗)
 ↓から百済が出てきた(之先 出自高麗国:これ先[祖] 高麗国より出[現])。
 ↓
北朝
「前秦」符堅に百済(馬韓だったし)と新羅(辰韓は秦韓かも。と自己紹介)が朝貢してきた。
 ↓
高麗国は遼東半島と遼河を支配した宇文氏・鮮卑族慕容氏の燕国(後燕)の養子に入り(慕韓の)覇を張る。
 ↓
百済(朝鮮侯準のワイ王の印を持つプヨなので王を僭称とならない、プヨは尉仇台が王)
 ↓に新羅(燕人衛満に追われ韓王準が海を渡って逃げて来た)が従がっていた。
 ↓
百済(仇台の廟を持つ)の名は略称で、百家済海(百の家をしたがえ、海を渡って[済って]きた)という説明。
 ↓
北朝は「拓跋部・鮮卑族」が建国した
後魏(北魏)孝文帝の遠征軍を大破し百済の滅亡を防ぐ。百済の大姓八族(沙氏)。
 ↓
白村江(白江口・現在の錦江の河口)の戦いの前の百済豪族の反乱指導者(沙 相如)
百済王族はプヨではなく尉仇台からみて 尉氏(イ氏→読み同じ、李氏[イ氏])だが
この頃は宋書・梁書・隋書などから 余氏(イオ氏)となっていた。プヨ名は唐の書物から。

109ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:23:19
『資治通鑑』北宋の司馬光の編纂(水滸伝の時代設定の頃)
熊津城に新羅の金法敏を呼び靺鞨の夫餘隆と旧るい怨を釈放免し去るよう同盟を誓わせた。
百済の吉地に埋蔵金と夫餘の土地証文たる盟書を埋蔵(風水)し
新羅の廟には質子(人質としての王子)を唐国に入れる盟書を秘蔵した。

唐→→高句麗←渤海マッカツ(唐の別働隊・渤海兵)
____↑_唐の別働隊・新羅兵・唐に兵隊を供出。
___百済(唐の手先、渤海マッカツ兵の占領下)→新羅(唐に人質で裏切れない)
____↑_唐の命令。新羅が高句麗に寝返ったら人質の新羅王子をマッカツ兵が殺す。
___倭国(水軍の敗戦直後で、すぐに高句麗の救援に船の大群を作っては動けない)

『舊唐書』東夷傳−新羅条  鴻臚寺奏:新羅國告哀、質子及年滿合 歸國學生等 共一百五人、並放還。
 お寺からの天子様へのお願い: 新羅が哀願して告げてきまするに 人質の王子および年期が満了の
放還藩、賜物遣之
 藩に還えらしめんと放つ・・・
『通典』百濟条 其舊地没 於新羅靺鞨夫餘氏 君長遂 絶。
→新羅と靺鞨夫餘氏に於いて その〔百濟の〕旧地は没落し〔百濟の大姓八族の〕君長は遂に 絶滅す。

唐朝の夫餘氏=渤海人=靺鞨=女真=女直=満州人

唐の京師(長安の都)
太原の河東(3つの節度使を兼任の安禄山 → 契丹族の遼国 雲州[燕雲16州]雲崗石窟)
幽州の河北(3つの節度使を兼任の安禄山 → 契丹族の遼国 燕州[燕雲16州]燕京=北京)
営州の遼西(3つの節度使を兼任の安禄山 → 契丹族の遼国 営州・柳城(龍城)・隋の煬帝の高麗国遠征)
寧州の遼東(渤海マッカツ 山東半島の登州を襲撃 → 渤海族の東丹国 遼寧省 後燕国=慕容部・高麗は養子)
海州の楽浪(渤海マッカツ 山東半島の登州を襲撃 → 渤海族の東丹国 西京=平壌・朝鮮縣)
帯方州の泰封(マッカツ扶余氏 → 渤海族の東丹国 南京=広州・楊州・漢山城・漢陽県)
雉林州の摩震(真蕃郡と辰国・質子で還藩・新羅の王子)

「史書」編纂当時の名称・時代:李氏の立場___(異説__)→韓国の歴史改ざん捏造版
元代「金史」・権知高麗国事_:元朝の武臣の李氏(摩震−斉)→高麗朝の武臣 王妃・斉国大長公主
明代「元史」・権署朝鮮国事_:明朝の署事の李氏(前期李朝)→前期李氏朝鮮国 3年1朝貢
清代「明史」・朝鮮国王___:朝鮮国の王の李氏(後期李朝)→後期李氏朝鮮国 1年4朝貢

110ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:24:37
BC108年、前漢の武帝が、楽浪郡を置く
 AD206年、後漢の曹操の頃、楽浪郡の南半分を、帯方郡として分置
 AD244−246年、魏の明帝の頃、高句麗・ワイ・韓など東夷を漢人が征伐
            高麗(高句麗)人がヨクソ・ワイ・辰韓に亡命した移民が
            討伐後に帰国せず(辰韓人ではない)残留者が
            新羅城(蓋州城・蓋牟羅城=健牟羅城=金邑城=金城)を
            建てる

■吏譯轉 有異同 臣智激 韓忿 攻帶方郡崎離營。時
〔帶方〕太守弓遵 樂浪太守劉茂 興兵 伐之 遵戰シ 二郡遂 滅韓。
□吏譯が轉じ 異同有り 臣智が激し 韓が忿り 帶方郡崎離營を攻む。時に
〔帶方〕太守の弓遵 樂浪太守の劉茂 兵を興し 之を伐し
 遵 戰シするも 二郡は遂に 韓を滅ぼす。
●翻訳役人が転属し 異議があった 臣智(韓族の酋長達)が激怒し
 韓族の一般人民が忿(いき)どおり 帶方郡の崎離營を攻撃した。
 攻撃のあった時代の 帶方郡の太守の弓遵と 樂浪郡の太守の劉茂が
 二つの郡民に武器を与えて挙兵して この韓族の反乱を征伐し
 弓遵太守が戦シはしたものの
 帯方と楽浪の二郡の漢人の兵隊がついに 韓族を滅ぼした。

 AD280年、統一王朝の西晋(武帝、司馬炎「仏教の盂蘭盆会」を始めた皇帝)
 AD313年、楽浪太守の張統が、前燕国(遼西)に亡命し、楽浪郡が滅亡
 AD317年、南朝の東晋が始まる

■晉武帝 咸寧中 馬韓王來朝 自是無聞。三韓蓋 爲百濟新羅 所呑并
□晉の武帝が咸寧中に 馬韓王が來朝せし 是れ自り聞く無し。
 三韓は蓋し 百濟新羅と爲って 呑并の所なり
●晉の武帝(司馬炎)の咸寧年間にあったことで
 馬韓王が西晉王朝へ慶賀などに來たが
 これより後に三韓の名を聞くことが無くなった。
 三韓は おそらくは 百濟と新羅とによって 併合されたのだろうと。

北朝の前秦「符堅」の時から初めて異民族の間でも「道教の位牌」を押し立てて
弔い合戦をする。

111ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:25:43
新羅は、隋の文帝の朝貢時に、初めて王や国として任官を受ける。

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★盛強な2虜(2つの北虜=2つの北方異民族)の間のプヨ族
鮮卑−−−−プヨ族−−−−句麗=バク=高麗国
_______↑
遼東の公孫氏_↑_公孫氏はプヨ王に娘を嫁がせ(公孫度の)婿のプヨ王を動かす。
_______↓
プヨ兵を帯方郡に移動させ辺境防衛に使う。

プヨは殉死の儀式あり昼夜関係なく歌い声絶えず。
プヨ族は死んだ人の霊に動かされ気が触れていているように記述されている。
★ムーダン(巫壇)のクッ(死霊祀・死霊祭)のようなものか?あるいは、その原型か?
帯方郡は、帯水流域とその周辺部。ようは現在の漢江(ハンガン)流域と その周辺部のこと。
現在の黄海道・京畿道・忠清道・江原道のこと。

★白村江の戦い(白江口のマッカツ水軍扶余隆と倭水軍の戦い)唐が勝利し高麗国も滅亡させる
唐→→高句麗←渤海マッカツ兵「①乞乞仲象 ②大そ栄」の前世代
____↑
百済の渤海マッカツ兵「扶余隆」→新羅「金法敏」王子を人質に出す・
耽羅__↑_新羅の兵隊は高句麗遠征で出す・国は兵なくガラ空き
___倭国(水軍の敗戦で高句麗支援に動けず・泰山の祠の4カ国和約)

『通典』百濟条  其舊地没 於新羅靺鞨夫餘氏 君長遂 絶。
新羅(金興光)と靺鞨夫餘氏(夫餘敬)において その[百濟の]旧地は没[落]す
[百濟の祖の尉仇台の王家(君)と 沙氏を含む地来の大姓八族(長)の]
君長はついに 絶[滅]す。

『舊唐書』東夷傳 其地 自此 爲新羅及渤海靺鞨所分 百濟之種遂絶。
その地 これより 新羅(金興光)および 渤海靺鞨(夫餘敬)所分となり
百濟の種は ついに 絶す。

112ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:26:46
900年ごろ、日本の平安時代で延喜式、903年将門生まれる・940年天慶の乱。

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新羅は 渤海人(大震国)によって既に滅ぼされていて、漢江流域(帯方)には
渤海国「杉盧郡漢陽県」ほか5県の渤海人の県があって、新羅地域(慶尚道)は
「蓋州」と呼ばれていた。その後に金城(新羅城)にいた渤海人(朴氏新羅)は
契丹族に滅ぼされ
「辰州」と改名された。

契丹は、高麗(高州(新羅))に「盧州 來遠縣」などを置き
新羅など「三韓」民を半島から取り除き「祖州」へ
追いやる移住をさせ「遼西」諸縣の民である「奚族」や漢兵を
入れ替わりに移住させた。(東京統軍司・奉国軍)

女真は 高麗である「全州(高州)」に「全州 靜封縣」を置いた。
三韓の民の県に「高州」を立て「大定府路(祖州?)」に属させた。
「全州 熊岳縣・湯池縣・建安縣」が存続していた。
(契丹時に南女直湯河司・玄徳軍の支配地だった。)

蒙古は「蓋州路」を初め置き「東京支郡」に格下げし「建安縣」に吸収した。
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1146574746/628-644


唐辛子は中央アメリカ(グアテマラ〜コスタリカ〜パナマ)の原産。
南蛮渡来で秀吉の足軽たちが朝鮮出兵で南蛮(唐辛子)を持ち込んだ。

清(満州人王朝)により 塩の生産が禁じられたため
かわりに唐辛子を入れたのが キムチの
歴史の始まりです。文献に唐辛子を使ったキムチが現れるのは、
1766年に発行された「増補山林経済」です。

1700年代・李朝「チポンユソル(芝峰類説)」
李ス光(イすぐわん)の著に倭芥子(うぇケじゃ→唐辛子)として記載。
唐辛子は別名がコチュ(ちんぽこ)。
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1146574746/727-729

113ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 22:28:57
『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳晉陳壽撰(宋裴松之註)
夫餘在長城之北、去玄菟千里、

『隋書』東夷傳唐魏徴等撰
百濟
之(こ)れの先[祖]は、高麗國より(自)出でる。
其の國は婚[姻]を立て[がために]帯方の故地に[所領が]于(およぶ)。
漢[時代]の遼東太守の公孫度は娘(女)を以って之れの妻となす、
漸らくは昌盛を以(も)ち、東夷の強國と爲(な)る。
初(はじ)まりは百家濟海(百の家で海を渡る[=濟る])を以(も)って、
因(よ)って百濟と號(ごう)す[=名乗った]。

『隋書』東夷傳唐魏徴等撰
新羅國
[三国志]魏[明帝時代]の將[軍]の毋丘儉は高麗を討(う)ち、之れを破る、
[高句麗は]沃沮に奔(はし)る。後(のち)に故國に覆(かえ)り復歸す、
[復帰しない]者は遂に焉(おわること)新羅と爲(な)る。
故(ゆえ)は其(そ)の人が中華(華夏)の混血(雑[種])が有り、
高麗と百濟の(之)屬[国]なり、
沃沮と不耐(不而・フジ)と韓(カラ)之地を兼(かね)て有(あ)る。

http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=philosophy&amp;vi=1076414723&amp;rs=229&amp;re=234&amp;fi=no

114ハンドル付けて下さい:2006/09/11(月) 19:19:18
【 山海経 】
 燕−燕−燕地(北の隣・弧の地・矩の地・湾の地)
 燕−−−蓋の国(韓)
 斉
 楚
 呉
 越−−−倭人(南の隣)

-------------------------------------------------------

鮮卑−−−−鉄嶺(夫余)−小水(高麗=高句麗)
遼西−遼河−遼東−鴨緑江−楽浪(夫余)−蓋馬大山−ヨクソ(渤海マッカツ・高麗亡命)
燕地−−−−半島−−−−−帯水(漢江)−単単大山(太白山脈・ワイ族・高麗亡命)
河北−渤海−−−−黄海−−帯方(夫余=百済)−加羅(韓・カラ・高麗亡命)
河南−山東半島−−−−−−馬韓(韓)−馬韓東界(弁辰=辰と弁別の人)−東浜(古辰国・辰韓・高麗亡命)
淮南−−−−−−−−−−−−−−−−−−倭国(筑紫・阿蘇)−扶桑国(東国)
江南(呉越)−−−−−−−−−−−−−−狗奴国(熊襲・球磨)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−黒歯国(隼人・薩摩)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−裸人国(海人・琉球・沖縄)

115ハンドル付けて下さい:2006/09/11(月) 19:37:40
【 山海経 】
 燕−燕−燕地(北の隣・弧の地・矩の地・湾の地)
 燕−−−蓋の国(韓)
 斉−(マッカツの渤海国蓋州・南女直湯河=契丹の遼国辰州・盧州と高州=女真の金国慶州・全州=現在の慶尚道・全羅道)
 楚
 呉
 越−−−倭人(南の隣)

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高麗=高句麗

ワイ侯フジ(不耐=不而)、ワイ族のフジという酋長

フジ=単単大山(太白山脈)

116ハンドル付けて下さい:2006/09/11(月) 19:51:03
倭人100国、しだいに30国という

半島側に倭人の30国(海北95国・倭王武で六朝の宋国(南朝・300年代後半)の時)
列島側に倭人の70国(60余州)

半島側の倭人の30国に
使訳所(吏役所・倭に対する漢人の領事館・交易事務所)があったのだろうと。
(三国志魏書−東夷伝−倭人条)

117ハンドル付けて下さい:2006/09/11(月) 19:55:30
半島側に倭の支配する95国というのは内訳

馬韓54国以上
辰韓・弁韓あわせて24国(弁韓12国+辰韓12国)に
倭人の30国ぐらい

馬韓の54+弁韓12+倭人国30国=96国、うち
馬韓伯済国(1国・魏志倭人伝の辰王の月支国かも?)を除いたのであろう。

118ハンドル付けて下さい:2006/09/11(月) 20:04:48
馬韓が54国以上というのは
夫余王の尉仇台という酋長が
帯方郡(ソウル・駒の国(コマの国))あたりから南側に54国あって
楽浪郡を含め以北の
遼東半島北部(遼東郡・遼東国の北部)の鉄嶺(中国側の鉄州
                  → 半島の鉄原を鉄州に明朝初期の時)などの
小水バク(小水(鴨緑江の支流と遼河(大水)の支流の
     お互いの水源にまたがる上流地域)狩猟のバく弓を使うが
     ゆえにバク族と呼び、
     バクの分派の夫余族・高麗族(高句麗族)で姓名を弓氏とされた。
     → 帯方太守の弓遵・泰封国の弓裔など。)
までの夫余族の元の故郷の地までの
国の数は数えてないという事ではないか。という事。

119ハンドル付けて下さい:2006/09/11(月) 20:13:13
> 帯方郡(ソウル・駒の国(コマの国))

帯水(漢江)流域を帯方と呼び、最初は「楽浪郡の」帯方県を置いた(BC108年)。
楽浪郡の屯有県より南側の楽浪郡を分割し「帯方郡(AD206年・300年後)」
として漢人が夫余族(小水バク・バク弓で狩猟の部族・弓氏など)に与えた。
(馬韓だったし。と、中国人に自己紹介)

駒=馬=馬韓(韓の中で特に地域を区切って馬韓地域(コマの国)とした)

韓の中で小柄の「辰人と弁別」して大柄の鬼神を祀る「弁辰」を「弁韓」と改称

「古辰国」があったので「辰韓」とした。秦の始皇帝の頃の
秦の亡命人なので古秦だと言い「秦韓」ともいった。
(辰韓は秦韓かも?と、中国人に自己紹介)

120ハンドル付けて下さい:2006/09/11(月) 20:23:48
このバク弓の夫余族(高麗国から出る百済となる)は
遼東半島の北部の鉄嶺あたりから小水地域までの
故郷(祖先の州)から、強い2つの北方異民族(ニ虜)の
鮮卑族(遼西)と
高麗国(高句麗族・遼東)に挟まれて窮したので
遼東国(遼東郡から自立した群雄割拠の公孫氏(漢人))と組んで
娘を貰い帯方郡に勢力を移動した。

夫余族(帯方太守の弓遵につらなる異民族だが漢人の行政に組する)が
民族大移動(百の家をつれ海を渡る=済る→百家済海・略して百済)した。

そのため帯方郡の夫余族は国号を、百済国とした。

121ハンドル付けて下さい:2006/09/11(月) 20:39:48
辰韓の辰は「楽浪郡」の辰(辰巳、東南)の方角とも考えられる。

122ハンドル付けて下さい:2006/09/12(火) 05:23:32
> 帯方郡(ソウル・駒の国(コマの国))

帯水(漢江)流域を帯方と呼び、最初は「楽浪郡の」帯方県を置いた(BC108年)。
楽浪郡の屯有県より南側の楽浪郡を分割し「帯方郡(AD206年・300年後)」
として漢人が夫余族(小水バク・バク弓で狩猟の部族・弓氏など)に与えた。
(馬韓だったし。と、中国人に自己紹介)

駒=馬=馬韓(韓の中で特に地域を区切って[馬を知る地域を]馬韓地域(コマの国)とした)

韓の中で小柄の「辰人と弁別」して大柄の鬼神を祀る「弁辰」を「弁韓」と改称

「古辰国」があったので「辰韓」とした。秦の始皇帝の頃の
秦の亡命人なので古秦だと言い「秦韓」ともいった。
(辰韓は秦韓かも?と、中国人に自己紹介)

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/912/1150653692/100-121

123ハンドル付けて下さい:2006/09/12(火) 05:36:57
AD246年に三国志魏国明帝の頃
カンキュウケン将軍や楽浪太守劉茂[と帯方太守弓遵]に、東夷の韓は滅ぼされた。

AD665年の泰山の祠の5カ国(大唐・倭国・耽羅・百済・新羅)の盟約にて
百済の旧地は、渤海マッカツ族夫余氏の所領となり、百済は没落し種族は絶滅する。

124ハンドル付けて下さい:2006/09/13(水) 21:13:24
『南齊書』列傳第三十九蠻東南夷 梁蕭子顕撰
 是歳魏虜又發騎數十萬攻百濟入其界
 牟大遣將沙法名賛首流解禮昆木干那率衆襲撃虜軍大破之。

是歳(AD475年)
魏虜(後魏・北魏、均田制を発した孝文帝が5歳の頃で母の太皇太后の命による)

二年(乙丑、六六五)・・・上(かみ)命(めい)ず、
熊津都尉の扶餘隆と新羅王の法敏は舊怨を釋去せよと;
八月は壬子なり,同盟を熊津城に于(なし、おえん)。
劉仁軌は新羅・百濟・耽羅・倭國の使者を以って 
海に浮かびて西へ還り,泰山の祠(まつり)に會(かい)す,
[呼びもせぬ]高麗もまた太子の福男を遣わし來りて祠に侍(はべ)る。


《山海経(せんがいきよう)》
海内北経に〈蓋(がい)の国は鉅(おお)いなる
燕(えん)の南,倭の北に在り。倭は燕に属す〉

燕(河北・遼西[鮮卑]・遼東[高麗]・楽浪[朝鮮]・帯方[百済])
蓋(韓[古辰国=新羅]・半島南部)
倭(日本列島・あるいはワイ[朝鮮半島の太白山脈])

日本(倭)は韓国(蓋)の一部ではないです。

125ハンドル付けて下さい:2006/09/13(水) 21:14:48
西暦665年の8月に
マッカツ(女真の祖先)の夫余隆と新羅王の金法敏は
655年に百済王都を治める熊津都尉でマッカツの夫余隆が
新羅の北部30余城を占領した事件である
古い怨みを赦し去るように 唐の皇帝(上様)に言われた。
それは百済王都であった熊津城で同盟した時の事である。

この時に百済を征伐した唐の遠征司令官の
劉仁軌が新羅・百濟・耽羅・倭國の使者を伴(とも)なって
海路を(海に浮かびて)長安の都である
西に向かって帰還する途上で 山東半島の泰山という
中国古来の霊場での祀り(祠し)に参加させ 和平の会合をさせた。

これから高句麗(高麗)を討伐する遠征で、4か国の使者に祭りさせ
平和同盟させたから会集させたのに
どっから嗅ぎ付けたか呼びもせぬ高麗が 様子を見に
次期王様の王子の福男を派遣して、祭りの様子を見に参観しにきた。

126ハンドル付けて下さい:2006/09/13(水) 21:36:18
> 後漢末の公孫度と公孫康の親子の時(AD206年ごろ)

AD204年ごろの
三国志の赤壁の戦いの時期の出来事。呉の孫権と亡命の劉玄徳の呉軍と
曹孟徳の魏軍の水戦(軍船の戦い)のあたり。

127ハンドル付けて下さい:2006/09/13(水) 21:37:11
BC109年に玄菟郡高句麗県・BC108年に楽浪郡朝鮮県・楽浪郡帯方県
AD206年に帯方郡を楽浪郡の南半分として分設・百済(馬韓)に夫余王尉仇台の民族大移動
AD244〜246年に東夷の韓は楽浪郡太守劉茂により滅ぶ・韓の新羅へ高麗人が亡命移住
AD313年に楽浪郡太守張統が遼西の鮮卑族慕容氏前燕国へ亡命。楽浪郡滅亡。
AD314年に帯方郡が滅亡。百済として独立。317年に南朝の東晋が成立、隋まで南北朝時代。

漢人・北燕国・馮跋の娘は楽浪公主(匈奴王妃・北魏に遼西北燕国と高麗国丸都城は滅ぼされる)

北魏の百済遠征475年(北魏孝文帝の母−皇太后太氏・百済王−余牟太・百済将−沙法名)

契丹族・遼国・聖宗の時に、三韓は蓋州から祖州へ強制移住させられる。
 三韓の蓋州は辰韓であるので辰州と改名させられ、
 遼西の中国人と遼西の檀君太祖の鮮卑族で安禄山系統遊牧民の
 遼西の奚族が辰韓(慶尚道)へ強制移住してくる。
 「東京統軍司留守」奉国軍による住民交換。
 高州は全州と改名させられ、渤海国杉盧郡漢陽県(ソウル)あたりの來遠城に
 「南女直湯河司」玄徳軍による統治。

女真族・金国・高麗生日使(高麗勝利使・総督・公使)の領地
蒙古族・元国・斉国大長公主(蒙古人妃・姫の私有地)の領地
漢人_・明国・権知高麗国事(権署朝鮮国事・準州あつかいの朝鮮の知事)の領地

応永の外寇(朝鮮名:己亥東征、あるいは対馬島征伐)1419年。
前期李朝: 対馬−済浦・富山浦・塩浦(三浦[馬山・プサン・ウル山])
三浦の乱: 鎖国(1510-1512年)
秀吉の前: 対馬−熊川浦(金海[キメ]?)
朝鮮出兵: 戦争(1592-1607年)
後期李朝: 対馬−釜山沖4km草梁島の倭館で開市(東莱城釜山鎮で国書交換の外交)

 明王朝−李朝: 3年1朝貢
 清王朝−李朝: 1年4朝貢

128ハンドル付けて下さい:2006/09/13(水) 21:37:42
良人(なにん)
 両班(やんばん)・
  任(にむ・長老[なうりにむ:旦那 とーりゃんにむ:お坊ちゃん])
下人(はいん)
 中人(ちゅんいん・ちゅにん)
  常奴(さんのむ)=常民(ちゃんみん・さんみん)・
    やんばん庶ゲツ・官奴(かんの)・
    真人(ちにん・救世主と名乗る弥勒教の教祖)
 奴婢(のび)
  率居奴婢・チゲ(荷背負い度道具・荷背負い人夫)
  外居奴婢・白丁(ぺくちょん)・ピョンヤン笠・
       広大(かんで・タルチュム[仮面劇]の芸人・反乱の頭目)・
       香徒契(ひゃんどげ・棺担ぎ人足・風水の穴掘り・身代金要求ヤクザ)
       居士(こさ)・男寺党(なむさだむ)・
       巫檀(むーだん)・妓生(きーせん)ほか

權國事(ごんコクジ) → 準国事 → 準国王(国王に準ずる)
権僧正(ごんソウジョウ)→準僧正(坊さんに準ずる)
権先達(ごんセンダツ)→準先達(先輩に準ずる)

夫余王尉仇台が、後漢末の公孫度と公孫康の親子の時(AD206年ごろ)に
高句麗の位宮から逃れ 楽浪郡のうち帯水(漢江)流域以南に分割した
帯方郡へ、南満州・遼東半島北部から移住する。

東夷の韓が楽浪太守劉茂らの二郡の漢人兵に滅ぼされるのはAD244〜246年。

129ハンドル付けて下さい:2006/09/13(水) 21:42:16
AD246年 韓の言葉
AD665年 夫余(高麗)の言葉
AD900年 渤海(マッカツ・女真・満州)の言葉
AD930年 契丹(安禄山のカツ族(蒙古の別種)・奚族・鮮卑族壇君)の言葉

ようは、現代韓国語は、満州と鮮卑と遼西の漢人の言葉の入り混じり。
三韓や夫余(高句麗)の言語と全然違う。

130ハンドル付けて下さい:2006/09/13(水) 21:45:07
辰韓斯盧国(辰韓サロ国)→斯盧城(シろキ)→シラギ(新羅)呼びに変化

新しい加羅国(新しい任那・ようは新羅のこと)

131ハンドル付けて下さい:2006/09/13(水) 21:54:51
新羅の言葉は、辰韓である辰語ではなく、高麗(高句麗)の言葉です。

AD244〜246年、楽浪太守劉茂により辰韓が滅ぶ(辰語は使わなくなる)
           三国志魏明帝(曹叡)の時のカン丘倹将軍の高麗討伐で
           高句麗族(高麗人)が辰韓の地へ逃げ辰韓改め新羅となり
           辰韓の地では高麗の言葉をしゃべる。

132ハンドル付けて下さい:2006/09/13(水) 22:06:32
帯方郡役所へ、倭人の邪馬台国の卑弥呼・壱都が朝貢。
帯方太守劉夏
帯方太守弓遵・楽浪太守劉茂(AD244〜246年)三韓の支配者が滅び民は高麗の言葉に切り替え。
帯方太守??・楽浪太守張統(AD313年)が遼西の鮮卑族慕容氏の前燕国に亡命し楽浪滅亡
辰韓は無く新羅が高麗(高句麗)の言葉を喋る。
百済と加羅任那の時代に突入。(伽耶という地域名や国など無く、歴史の後知恵の作り話)

支配者が替わり、入れ替わった支配者の言語を支配された地の民が喋る。
民族の下層民の血筋・身体特徴が変わらなくても、
下層民は言語を替え、異文化に生活を変えて生き残る。

133ハンドル付けて下さい:2006/09/13(水) 22:11:59
>新しい加羅国(新しい任那・ようは新羅のこと)

蓋の国(山海経) → 韓の地域(三国志) → 加羅の地域(南斉書)
 → 加羅の地域のうち新しい城が一つ有る(隋書の新羅の説明・高麗人達の亡命事件)

加羅の土地に亡命移住した高麗人(高句麗族)が建てた新しい城が出来た(新羅城・シロキ)

134ハンドル付けて下さい:2006/09/14(木) 05:20:10
西暦665年の8月に
マッカツ(女真の祖先)の夫余隆と新羅王の金法敏は
655年に百済王都を治める熊津都尉でマッカツの夫余隆が
新羅の北部30余城を占領した事件である古い怨みを赦し去るように
唐の皇帝(上様)に言われた(命令があった)。
それは百済王都であった熊津城で同盟した時の事である。

この時に百済を征伐した唐の遠征司令官の
劉仁軌が新羅・百濟・耽羅・倭國の使者を伴(とも)なって
海路を(海に浮かびて)長安の都である
西に向かって帰還する途上で
山東半島の泰山という中国古来の霊場での
祀り(祠し)に参加させ 和平の会合を[使者たちに]させた。

これから高句麗(高麗)を討伐する遠征[が予定]で
4か国の使者に祭りさせ平和同盟させた[い]から会集させたのに
[なぜか]どっから嗅ぎ付けた[の]か
呼びもせぬ高麗が 様子を見に([偵察に])
次期王様の王子(太子)の福男を派遣して
祭りの様子を見に参観し(侍り)にきた。

http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1157210732/985

135ハンドル付けて下さい:2006/09/15(金) 02:21:48
帯方郡・韓・古辰国(後漢〜西晋・漢人)郡太守(弓氏)・
任那・加羅(六朝・漢人)六国諸軍事安東将軍(倭の五王)・
帯方州・新羅(唐国・鮮卑)熊津都督・帯方州刺史・帯方郡王(夫余氏)
漢陽県・蓋州(大震国・渤海マッカツ)南海府・渤海郡王(渤海国)
建安県・辰州(遼国・契丹)・東京統軍司留守・南女直湯河司(東丹国)
静封県・慶州(金国・女真=マッカツ)・高麗生日使(泰封国)
蓋州路・東京支郡・建安県(元国・蒙古)権知高麗国事(東真国)
高麗(明朝・漢人)権署朝鮮国事(高麗の反元運動の武班)
朝鮮(清朝・満州=女直)朝鮮国王(李氏朝鮮)

136ハンドル付けて下さい:2006/09/15(金) 02:32:33
玄菟郡高句麗県(下句麗侯・真蕃朝鮮故国・鴨緑江の支流がある遼東に?)

玄菟郡西蓋馬県(蓋州?=辰州?=慶州?・ヨクソ衛満王)

楽浪郡華麗県(高麗国?・遼東に?)

楽浪郡朝鮮県(朝鮮国・平壌?〜沙里院?)

楽浪郡帯方県(帯方郡・ソウル?)

楽浪郡楽都県(弁楽奴国?・奴国=羅国?=なコク?・羅州?)

楽浪郡海冥県(弁辰狗邪国?・金海?)

・・・

137ハンドル付けて下さい:2006/10/08(日) 17:01:59
中国24正史[中華書局など]ほか、から推定

秦韓(辰韓): 新羅城は、高麗(高句麗)が
        ヨクソ(西北・カン鏡道)から
        ワイ(太白山脈〜漢江上流域・江原道)を経て
        古辰国(秦からの亡命人である
        趙・斉・燕人の亡命地)へ逃げた結果
        出来た国という。
        同じ地域の高句麗(新羅城・辰韓サロ国を
        滅ぼした高句麗)とは別の
        古辰国人(辰韓人・辰韓サロ国から
        逃げた辰韓人[秦韓人])を示すと思われる。

慕韓(馬韓): 後燕国(王が鮮卑族の国だが、
        漢人馮氏の北燕国に滅ぼされる)で
        遼西の鮮卑族(伝説は壇君)の
        慕容氏の養子に高麗(高句麗)の太子(王子)。

任那(ニムな): 長老[ニム]は奴[ナ](和人が酋長、村長、
        ムラジ、倭の奴國)、
        弁樂奴國・奴國[ナぐっく]・
        羅州[ナじゅ] → 樂浪郡樂都縣 と思われる。

138ハンドル付けて下さい:2006/10/28(土) 21:21:14
『南齊書』
牟大【元龜,通史作『太』】
・・・是歳、魏虜又發騎數十萬攻百濟、入其界、
牟大遣將沙法名,賛首流,解禮昆,木干那 率衆襲撃虜軍、大破之。
建武二年、牟大遣使上表曰:「臣自昔受封、・・・

(百済王の余)牟大は・・・
このとし、北魏また騎(兵)数十万を発し、百済を攻めんと、その(領)界に入る、
牟大、将(軍)の沙法名を(派)遣し,
賛首流,解禮昆,木干那(の各将軍と、ともに) 衆をひきい、
北魏軍を襲撃し、これを大いに破る。
建武二年に、牟大は使(者)を(派)遣し、
上表(じょうひょう・中国皇帝に申し上げて)して、いわく:
「(中華の家)臣(なる私め)は 昔より (冊)封を受けており、・・・

139ハンドル付けて下さい:2006/10/28(土) 21:34:58
遼史卷三十八志第八地理志二東京道東京遼陽府,本朝鮮之地 ...
遼史志第一至十四

統州、軍二,縣一: 來遠縣。初徙遼西諸縣民實之,又徙奚、漢兵七百防戍焉。?一千。
宣州,定遠軍,刺史。開泰三年徙漢?置。隸保州。
懷化軍,下,刺史。開泰三年置。 隸保州。

辰州,奉國軍,節度。本高麗蓋牟城。唐太宗會李世攻破蓋牟城,即此。
渤海改為蓋州,又改辰州,以辰韓得名。井邑駢列,最為沖會。遼徙其民於祖州。
初曰長平軍。?二千。隸東京留守司。統縣一:建安縣。

辰州は奉國軍の節度。もと高麗の蓋牟城なり。
唐の太宗の會李世は攻破る蓋牟城は,すなわち これなり。
渤海あらため蓋州となす,また辰州と改める,辰韓もって名を得る。
井邑を、へい列す,もっとも沖會となす。
遼(契丹人)は、その民を祖州において徙(うつ)す(強制移住させる)。
はじめ長平軍という。かず二千。東京留守司に隷(属)す。
縣一を統(治):建安縣なり。

盧州,玄紱軍,刺史。本渤海杉盧郡,故縣五:山陽、杉盧、漢陽、白岩、霜岩,皆廢。?三百。
在京東一百三十裏。兵事屬南女直湯河司。統縣一:熊嶽縣。
西至海一十五裏,傍海有熊嶽山。來遠城。本熟女直地。
統和中伐高麗,以燕軍驍猛,置兩指揮,建城防戍。兵事屬東京統軍司。

金史表第一至四
九月, 以
東京路兵馬都總管府判官蕭子敏為
高麗生日使。

女真族歴史 表第一至四
九月をもって
東京路の兵馬都總管府の判官の
蕭子敏を
高麗生日使(高麗勝利使・高麗総督)となす。

140ハンドル付けて下さい:2006/10/28(土) 21:40:23
遼史卷三十八志第八地理志二東京道東京遼陽府,本朝鮮之地 ...
遼史(契丹歴史)志第一至十四

統州、軍二,縣一: 來遠縣。
初徙遼西諸縣民實之,又徙奚、漢兵七百防戍焉。?一千。
宣州,定遠軍,刺史。開泰三年徙漢?置。隸保州。

統州は軍二で縣一: 來遠縣なり。
はじめ遼西の諸縣民を これに じつに徙(うつ)す,
また奚、漢兵七百を徙し 戍(えみし)を防(ふせ)がんや。かず一千なり。
宣州は定遠軍の刺史なり。開泰三年に漢兵を置かんと徙(うつ)す。保州に隷(属)す。

141ハンドル付けて下さい:2006/12/02(土) 21:32:01
【 山海経 】

__矩(おお)いなる燕の国(河北・遼寧(鮮卑・高麗)・朝鮮(平壌))
北に↑
__蓋の国(韓(百済・新羅))
南に↓
__倭(朝鮮南沿岸部・対馬・五島列島・日本)


BC109−108
前漢武帝

_遼東郡_バク
_楽浪郡_玄菟郡(西蓋馬県・蓋馬大山・東ヨクソ)
_楽浪郡_ワイ(単単大山)
_楽浪郡_楽浪郡(楽は洛で都の意味・
         浪は狼で狼林山脈[平壌から妙香山])

AD00
新の王奔

_遼東郡_バク
_楽鮮郡_玄菟郡(朝鮮県)
_楽鮮郡_ワイ(単単大山・フジ)
_楽鮮郡_楽鮮郡(楽都県)


AD206
三国志(AD204年 赤壁の戦い・
      246年 東夷の韓が楽浪太守により滅亡・
      266年 倭が帯方郡役所に朝貢しに来る)

_遼東国_高句麗県・小水バク・バク弓
_楽浪郡_ヨクソ(高麗)
_帯方郡_ワイ(高麗)
_馬韓__東界(弁辰・弁韓)_東浜(古の辰国・辰韓・高麗の韓)

倭の邪馬台国

※ 韓(加羅・から)も高麗人が逃げ込んで住んでいる

AD313−314
西晋の司馬炎(武帝)・西晋の恵帝・
東晋(313年に楽浪太守張統が慕容氏に亡命)

_遼西・鮮卑族慕容氏前燕国_高句麗
_高句麗_ヨクソ
_扶余__ワイ(フジ・太白山脈)
_南扶余_任那(海北95国=倭)_亡命高麗の新羅城

倭国

142ハンドル付けて下さい:2006/12/02(土) 21:35:21
AD436−475
北魏と六朝の宋・南斉(加羅国(任那)は百済の属国の一つ・
           436年に北魏が遼西の北燕国龍城(後燕国)を滅亡させる。
                北魏が続けて襲来し鴨緑江中流の高麗国丸都を焼く
           475年に北魏が百済に襲来・沙里院〜平壌あたりか?
                沙法名など4人将軍が防戦、百済王が余牟太。
               北魏は均田制の孝文帝の幼少時期で皇太后の太氏)

_後燕国・北燕国_高麗国
_高麗国_____高麗国
_百済国_____高麗国
_百済国_海北95国(倭)で加羅国_加羅国の新羅城

倭の五王の時代

AD600年代
隋・初唐(663年に百済滅亡・新羅の人質を帰す記述で最後)

_隋・唐_渤海マッカツ国(マッカツ=女真=満州族)
_高麗国_渤海マッカツ国
_百済国_渤海マッカツ国
_百済国_新羅国_新羅国
(655年 高麗とマッカツと百済の3国が新羅の北部30城を占領し唐に泣きつく)
(660年 百済を唐に裏切ったマッカツが占領し王子と王を拉致・唐が入城し百済が反乱)
(663年 ハクスキノエ(白村江・白江口)の戦い・
      唐将の劉仁顔・劉仁軌・蘇定方・マッカツ水軍の夫余隆
      戦後に夫余王尉仇台の廟を復興し唐式の建物を建造
(665年 三東の泰山で、新羅・百済・耽羅・倭国が唐に従い和平の祀りをする)
(668年 高麗国(高句麗)が唐将の劉仁軌の遠征軍により滅亡
      遠征軍だった新羅の兵が帰国途上で
      復興した百済の唐式の建物と石碑を破壊し廃墟にする)

聖徳太子(遣隋使)から中大兄皇子に藤原鎌足−不比等(遣唐使)へ

AD700−800年代
盛唐・中唐

_安禄山の国_____大震国(渤海郡王の国・渤海国)
_大震国_______大震国
_開州(帯方郡王)__大震国
_高州(帯方州刺史)_蓋州(大震国・東丹国(泰封国)・東真国)

壬申の乱に桓武天皇(天台宗・真言宗)の時代

※ 扶余敬の国(帯方郡王・帯方州刺史)

143ハンドル付けて下さい:2006/12/02(土) 21:37:28
AD900年代
晩唐・契丹(遼(南女直−湯河司・東京−統軍司−留守))

_燕雲16州(遼)_東京路(遼)
_杉盧郡(遼)___東京路(遼)
_南女直(遼)___遠来県(遼)
_南女直(遼)___辰州・東京路留守(東丹国・遼・
                  遼西の慶州人を移住させる)

平将門(武士の発生)の時代

AD1000−1100年代
宋・金初(対馬や博多へ刀伊の入寇・異国船の北九州への襲撃)

_婆達府路(金)_合獺路(金)
_熊岳県(金)__盧州(金)
_建安県(金)__静封県(金)
_全州(金)___湯河県・祟山県(金)

八幡太郎源義家の前九年・後三年(津軽・下北・三陸を制圧)の時代
平泉と平清盛(金色堂と金つかませ書状の日宋貿易の神戸港と豆腐作り)に
頼朝と北条政子(臨済宗栄西の緑茶栽培で喫茶と味噌作り)の時代

AD1200−1300年代
金末(高麗−生日使[蕭子斉])・元初−元末(権知高麗−国事)

_蓋州路(元)___東京路(元)
_蓋州路(元)___東京支郡(元)
_建安県(元)___高麗国事(太白)
_高麗国事(全州)_高麗国事(慶州)

鎌倉仏教と女真刀伊来寇に蒙古襲来の時代

AD1400−1500年代
明(権署朝鮮−国事・経略使(平壌)・
          三衛−土司(満州[建州・海西(ヘソ)・?]))

高麗国(朝鮮国)

高利貸しの土蔵に白拍子から芸者に内容が変化・
庶民層に唐物の大量輸入・倭寇とマカオ・
足利義満からザビエルの時までの遣明使に勘合貿易で水墨画の雪舟の明朝文化・
秀吉と南蛮貿易と朝鮮出兵

AD1600−1800年代
清(朝鮮国王・宣化堂−監司(平壌)・朝鮮総理−通商事[袁世凱])

朝鮮国

徳川家康の堺商人による朱印状貿易と東南アジアの日本人街・
徳川家光以降の出島でのオランダ東インド会社の独占貿易・
漢籍の輸入と西遊記が広まる元禄−化政文化・
武士の仁儀礼忠孝の陽明学の儒教と士農分離の封建制度の定着

144ハンドル付けて下さい:2006/12/02(土) 21:44:08
【 山海経 】

__矩(おお)いなる燕の国(河北・遼寧(鮮卑・高麗)・朝鮮(平壌))
北に↑
__蓋の国(韓(百済・新羅))
南に↓
__倭(朝鮮南沿岸部・対馬・五島列島・日本)


BC109−108
前漢武帝

_遼東郡_バク
_楽浪郡_玄菟郡(BC109 西蓋馬県・蓋馬大山・東ヨクソ)
_楽浪郡_ワイ(単単大山)
_楽浪郡_楽浪郡(BC108 楽は洛で都の意味・
             浪は狼で狼林山脈[平壌から妙香山])

AD00
新の王奔

_遼東郡_バク
_楽鮮郡_玄菟郡(楽鮮郡 朝鮮県・平壌)
_楽鮮郡_ワイ(単単大山・フジ)
_楽鮮郡_楽鮮郡(楽鮮郡 楽都県・羅州・
            弁楽奴国(弁韓[三国志魏書=魏志]・
                 弁辰[続漢書=後漢書]) )

AD206
三国志(AD204年 赤壁の戦い・
      246年 東夷の韓が楽浪太守により滅亡・
      266年 倭が帯方郡役所に朝貢しに来る)

_遼東国_高句麗県・小水バク・バク弓
_楽浪郡_ヨクソ(高麗)
_帯方郡_ワイ(高麗)
_馬韓__東界(弁辰・弁韓)_東浜(古の辰国・辰韓・高麗の韓)

倭の邪馬台国

※ 韓(加羅・から)も高麗人が逃げ込んで住んでいる

AD313−314
西晋の司馬炎(武帝)・西晋の恵帝・
東晋(313年に楽浪太守張統が慕容氏に亡命)

_遼西・鮮卑族慕容氏前燕国_高句麗
_高句麗_ヨクソ
_扶余__ワイ(フジ・太白山脈)
_南扶余_任那(海北95国=倭)_亡命高麗の新羅城

倭国

145ハンドル付けて下さい:2006/12/02(土) 21:49:36
AD900年代
晩唐・契丹(遼(919,927-1119? 南女直−湯河司・東京−統軍司−留守))

_燕雲16州(遼)_東京路(遼)
_杉盧郡(遼)___東京路(遼)
_南女直(遼)___遠来県(遼)
_南女直(遼)___辰州・東京路留守(東丹国・遼・渤海の蓋州・
                  遼西の慶州人を移住させる)

平将門(武士の発生 903-940)の時代

AD1000−1100年代
宋・金初(対馬や博多へ刀伊の入寇・異国船の北九州への襲撃)

_婆達府路(金)_合獺路(金)
_熊岳県(金)__盧州(金・渤海の杉盧郡で漢陽県=漢城・京城・ソウル)
_建安県(金)__静封県(金)
_全州(金)___湯河県・祟山県(金)

八幡太郎源義家の前九年・後三年(津軽・下北・三陸を制圧)の時代
平泉と平清盛(金色堂と金つかませ書状の日宋貿易の神戸港と豆腐作り)に
頼朝と北条政子(臨済宗栄西の緑茶栽培で喫茶と味噌作り)の時代

AD1200−1300年代
金末(高麗−生日使[蕭子斉])・元初−元末(権知高麗−国事)

_蓋州路(元)___東京路(元)
_蓋州路(元)___東京支郡(元)
_建安県(元)___高麗国事(太白)
_高麗国事(全州)_高麗国事(慶州)

鎌倉仏教と女真刀伊来寇に蒙古襲来の時代

AD1400−1500年代
明(権署朝鮮−国事・経略使(平壌)・
          三衛−土司(満州[建州・海西(ヘソ)・?]))

高麗国(朝鮮国)

高利貸しの土蔵に白拍子から芸者に内容が変化・
庶民層に唐物の大量輸入・倭寇とマカオ・
足利義満からザビエルの時までの遣明使に勘合貿易(1401-1549)で水墨画の雪舟の明朝文化・
秀吉と南蛮貿易と朝鮮出兵

AD1600−1800年代
清(朝鮮国王・宣化堂−監司(平壌)・朝鮮総理−通商事[袁世凱])

朝鮮国

徳川家康の堺商人による朱印状貿易(1600-1638)と東南アジアの日本人街・
徳川家光以降の出島でのオランダ東インド会社の独占貿易(1636-1798)・
漢籍の輸入と西遊記(1636)が広まる元禄−化政文化・
武士の仁儀礼忠孝の陽明学の儒教と士農分離の封建制度の定着

146ハンドル付けて下さい:2006/12/02(土) 21:59:15
AD436−475
北魏と六朝の宋・南斉(加羅国(任那)は百済の属国の一つ・
           436年に北魏が遼西の北燕国龍城(後燕国)を滅亡させる。
                北魏が続けて襲来し鴨緑江中流の高麗国丸都を焼く
           475年に北魏が百済に襲来・沙里院〜平壌あたりか?
                沙法名など4人将軍が防戦、百済王が余牟太。
               北魏は均田制の孝文帝の幼少時期で皇太后の太氏)

_後燕国・北燕国_高麗国
_高麗国_____高麗国
_百済国_____高麗国
_百済国_海北95国(倭)で加羅国_加羅国の新羅城(高句麗[高麗]の亡命先の韓)

倭の五王の時代

※ 下句麗侯(高句麗王)−位宮、夫余王−尉仇台・尉サン・尉ケイ、百済王−余賛?−余典?

AD600年代
隋・初唐(663年に百済滅亡・新羅の人質を帰す記述で最後)

_隋・唐_渤海マッカツ国(マッカツ=女真=満州族)
_高麗国_渤海マッカツ国
_百済国_渤海マッカツ国
_百済国_新羅国_新羅国
(655年 高麗とマッカツと百済の3国が新羅の北部30城を占領し唐に泣きつく)
(660年 百済を唐に裏切ったマッカツが占領し王子と王を拉致・
      唐が入城し百済が反乱・沙相如・沙井等[さいとう]・黒歯常之・福信・余豊など)
(663年 ハクスキノエ(白村江・白江口)の戦い・
      唐将の劉仁顔・劉仁軌・蘇定方・マッカツ水軍の夫余隆
      戦後に夫余王尉仇台の廟を復興し唐式の建物を建造
(665年 三東の泰山で、新羅・百済・耽羅・倭国が唐に従い和平の祀りをする)
(668年 高麗国(高句麗)が唐将の劉仁軌の遠征軍により滅亡
      遠征軍だった新羅の兵が帰国途上で
      復興した百済の唐式の建物と石碑を破壊し廃墟にする)

聖徳太子(遣隋使)から中大兄皇子に藤原鎌足−不比等(遣唐使)へ

余章・余昌・叔父の文度済海と余豊、金国(女真)で高麗の最後の王は「昌(余昌に当てはめ)」

AD700−800年代
盛唐・中唐

_安禄山の国_____大震国(渤海郡王の国・渤海国)
_大震国_______大震国
_開州(帯方郡王)__大震国
_高州(帯方州刺史)_蓋州(大震国・東丹国(泰封国)・東真国)

壬申の乱に桓武天皇(天台宗・真言宗)の時代

※ 扶余敬の国(帯方郡王・帯方州刺史・マッカツ=女真=満州族なのに夫余氏の姓名を名乗る)
  扶余隆の孫である「扶余敬」

147ハンドル付けて下さい:2006/12/02(土) 22:04:30
【 山海経 】

__矩(おお)いなる燕の国(河北・遼寧(鮮卑・高麗)・朝鮮(平壌))
北に↑
__蓋の国(韓(百済・新羅))
南に↓
__倭(朝鮮南沿岸部・対馬・五島列島・日本)


BC109−108
前漢武帝

_遼東郡_バク
_楽浪郡_玄菟郡(BC109 西蓋馬県・蓋馬大山・東ヨクソ)
_楽浪郡_ワイ(単単大山)
_楽浪郡_楽浪郡(BC108 楽は洛で都の意味・
             浪は狼で狼林山脈[平壌から妙香山])

AD00
新の王奔

_遼東郡_バク
_楽鮮郡_玄菟郡(楽鮮郡 朝鮮県・平壌)
_楽鮮郡_ワイ(単単大山・フジ)
_楽鮮郡_楽鮮郡(楽鮮郡 楽都県・羅州・
            弁楽奴国(弁韓[三国志魏書=魏志]・
                 弁辰[続漢書=後漢書]) )

AD206
三国志(AD204年 赤壁の戦い・
      246年 東夷の韓が楽浪太守により滅亡・
      266年 倭が帯方郡役所に朝貢しに来る)

_遼東国_高句麗県・小水バク・バク弓
_楽浪郡_ヨクソ(高麗)
_帯方郡_ワイ(高麗)
_馬韓__東界(弁辰・弁韓)_東浜(古の辰国・辰韓・高麗の韓)

倭の邪馬台国

※ 韓(加羅・から)も高麗人が逃げ込んで住んでいる

AD313−314
西晋の司馬炎(武帝)・西晋の恵帝・
東晋(313年に楽浪太守張統が慕容氏[慕韓]に亡命)

_遼西・鮮卑族慕容氏前燕国_高句麗[高麗国・鮮卑の慕容氏へ養子]
_高句麗____ヨクソ
_扶余[百済]__ワイ(フジ・太白山脈)
_南扶余[馬韓]_任那(海北95国=倭)_亡命高麗の新羅城[秦韓]

倭国

148ハンドル付けて下さい:2006/12/02(土) 22:05:53
【 山海経 】

__矩(おお)いなる燕の国(河北・遼寧(鮮卑・高麗)・朝鮮(平壌))
北に↑
__蓋の国(韓(百済・新羅))
南に↓
__倭(朝鮮南沿岸部・対馬・五島列島・日本[九州・山陰])


BC109−108
前漢武帝

_遼東郡_バク
_楽浪郡_玄菟郡(BC109 西蓋馬県・蓋馬大山・東ヨクソ)
_楽浪郡_ワイ(単単大山)
_楽浪郡_楽浪郡(BC108 楽は洛で都の意味・
             浪は狼で狼林山脈[平壌から妙香山])

AD00
新の王奔

_遼東郡_バク
_楽鮮郡_玄菟郡(楽鮮郡 朝鮮県・平壌)
_楽鮮郡_ワイ(単単大山・フジ)
_楽鮮郡_楽鮮郡(楽鮮郡 楽都県・羅州・
            弁楽奴国(弁韓[三国志魏書=魏志]・
                 弁辰[続漢書=後漢書]) )

AD206
三国志(AD204年 赤壁の戦い・
      246年 東夷の韓が楽浪太守により滅亡・
      266年 倭が帯方郡役所に朝貢しに来る)

_遼東国_高句麗県・小水バク・バク弓
_楽浪郡_ヨクソ(高麗)
_帯方郡_ワイ(高麗)
_馬韓__東界(弁辰・弁韓)_東浜(古の辰国・辰韓・高麗の韓)

倭の邪馬台国

※ 韓(加羅・から)も高麗人が逃げ込んで住んでいる

AD313−314
西晋の司馬炎(武帝)・西晋の恵帝・
東晋(313年に楽浪太守張統が慕容氏[慕韓]に亡命)

_遼西・鮮卑族慕容氏前燕国_高句麗[高麗国・鮮卑の慕容氏へ養子]
_高句麗____ヨクソ
_扶余[百済]__ワイ(フジ・太白山脈)
_南扶余[馬韓]_任那(海北95国=倭)_亡命高麗の新羅城[秦韓]

倭国

149ハンドル付けて下さい:2006/12/13(水) 20:09:18
朝鮮事情シャルル・ダレ神父1850年ごろ
草梁島だけ交易の鎖国だった

> 日本と朝鮮の行き来は許されず 朝鮮国王と
> 対馬が従う日本の王
(太閤さま の後に居る日本のクニのヌシ)の

中国(酋長→帝):
 明朝・清朝は、北京の南郊にある天壇で奉る(満州は万里の長城入関以前は瀋陽で奉天する)
(大唐の玄宗は、山東半島の付け根の泰山で戴冠・春秋の周王朝は洛陽の南郊の天壇で祀る)
  +
 満州皇帝(元玉璽(蒙古の汗・熱河−承徳と西蔵−ラサのポタラ宮で奉天)16三8年 ・
      明玉璽(中国天子・北京の紫禁城・南郊の天壇で奉天)1644年。)

朝鮮(国事[明朝]→王[清朝]):
 朝鮮国王(三田渡の受降陣(受降壇)で、満州族の清朝太宗ホンタイジから
 三跪九叩頭礼で王位を受ける・
それまでは
 権署朝鮮国事(明朝)。
その前は
 権知高麗国事(元−蒙古)。高麗生日使(金−女真)・
 南女真湯河司(遼−契丹)・東京統軍司留守(遼)・渤海郡王(大震国−渤海)・
 帯方州刺史(唐)・帯方郡王(隋・唐)・帯方太守(後漢・三国魏・西晋)。)

日本(国王[足利・豊臣] → 国主[徳川])
 日本の最高位は「王」ですらなく「ヌシ」と呼び捨て。
ただし。
中国は皇帝を「主」呼びなので、「別の天朝」を戴いているとも
解釈できる。
明朝は「明主」と呼び、北魏の頃は「魏主」、女真の金の場合は「金主」と
中国「(北朝)皇帝」に対するものを「主」と称している。
臣下の礼の国は「従」と呼ぶ。金主・南宋従(宋と金の主従関係)。

150ハンドル付けて下さい:2006/12/13(水) 20:10:05
> 題名: 『歴史にIF・選択肢』
> [天皇家は]存続すれば言いは男子家系の存続に於いてです
>

存続すれば言いは、男子家系に於いて、神道によって、です。
仏教に改宗とか、キリスト教に改宗というのが
[天皇家に]基本的に無かった。

仏教の
法要に参加する。[聖徳太子・後醍醐天皇が自ら密教加持祈祷を修するとか]
キリスト教の
ヘボン[英和翻訳・医学博士]やニコライ[大主教]を表彰する。は、
あるのです。

--------------------------------------------------------------------------------
天皇家に政治責任を負わせない。

天皇家の存続と、政治的な責任を負う為に
[天皇家の]一族皆殺しでは洒落にならないのです。

天皇家の政治不介入は
日本国(国籍という[警察や自衛軍隊で防護する]政治)が
どんな罰や被害を受けるであれ
大和民族(地縁血縁の同じ風習の生活集団)という
種[族]にあっては
[どの階層であっても]男子家系が、消えて
もらっては困るのです。


モスクワ総主教(コンスタンチノープル総主教
        =ビザンツ第二ローマ総主教・東方正教会)
 +
ツアー(ロシア皇帝)
  東ローマ皇帝(ビザンツ王冠・
    キエフ公−ウラジミール・モスクワ大公−イワン3世)
   +
  モンゴルの領主(遊牧民の首領さま・
  キプチャク−ハン[オゴタイ−ハンの首領継承])


ローマ教皇(バチカン・カトリック教会=西方教会)
 +
カイザー(ドイツ人の王で、神聖ローマ皇帝)
  西ローマ皇帝(神聖ローマ帝国の皇帝)
   +
  東フランク王国の王(ドイツの王[フランケン→オーストリア])
       +
      スペイン王(ハプスブルク継承時)
       +
      ハンガリー王(ハプスブルク継承時)ほか。

151ハンドル付けて下さい:2007/03/17(土) 15:25:13
渤海国=大震国
渤海郡王・渤海マッカツ族(大震国)テチューヘ城
寧海軍使(マッカツ水軍使?)・山東の登州を襲撃
杉櫨郡○漢陽県 蓋州(旧新羅)○金城(健牟羅城)
高麗期の済州(巨済)=沙都の島(ソトがシマ)
耽羅=現在の巨済島


契丹国の東丹王の国(遼王朝・キタイ・耶律氏)
契丹の一部としての半島
遼の帝都は慶州(慶陵)
熊岳県・櫨州・建安県・湯池県→南女直湯河司
蓋州を改め辰州(辰韓)→東京統軍司留守
玄菟郡西蓋馬県【漢書】渤海国(東丹国)の領域
高句麗=高麗=高州


女真の金国の一部(ジュルチンの金王朝・完顔部)
金国合[頼]路、[頼の字は、リッ心偏付き]
金国婆達府路、×達婆府路×
  開州熊岳県
  漢陽・建安県
金国渇蘇館路、[渇の字は、三水無し]
×葛蘇路×→高麗生日使
  高州を改め全州・全州静封県
  辰州・塩州

152ハンドル付けて下さい:2007/03/17(土) 15:26:20
蒙古の元国の一部(モンゴル王朝)
漢陽・元国蓋州路東京支郡建安県→権知高麗国事
全州
月浦=木浦・塩州=塩浦・辰州を改め慶州(金城)
南中国の慶元=寧波・×元慶×
南中国の南京=集慶(南直隷省→南京省[安徽省と江蘇省])


明朝
平壌城・経略使(土司)辺境司令官
碧蹄館・漢城
全州・李成桂の出身地、王弟(太宗)→権署朝鮮国事
対日交易_1419−1510年
(己亥東征[対馬攻撃]−三浦の乱[日本人虐殺])
三浦とは、済浦=馬山・富山浦=釜山・塩浦=尉山の3港
対日交易_1512−1592年
(1港のみで交易再開−秀吉の朝鮮出兵)
熊川浦=鎮海


小水百[百は獣偏つき]華麗県・
西蓋馬県・高句麗県[麗は馬偏つき]・沃阻[阻は三水偏]
楽浪太守:劉茂・張統
楽浪郡朝鮮県・狼林山脈・歳[歳の字は三水偏つき]・漢山城
楽浪郡楽都県【続漢書=後漢書】・帯方郡
帯方太守:劉夏・弓遵・王誕
韓(馬韓)・弁辰(弁韓)・古之辰国(辰韓)

153ハンドル付けて下さい:2007/03/17(土) 15:28:39
清朝(満州王朝)
建州女直・(ヨクソ)沃阻[阻は三水偏]→燕亡人
衛満朝鮮王
__↑
1699年、童蒙先習(とんもんそんすぷ)・祀宇・祀壇
__↓
(ワイ)歳[歳の字は三水偏つき]→不而(フジ)
→太白山脈・非徴税地区・風水の保護区(大同法)
吏読:漢文読み下しをローマ字以前の子音母音を梵字で表し
___上中下点などを李朝の両班の学閥により特殊記号で表していた
宣化堂監司→平壌(柳商)
済物浦(仁川)・景福宮=きょんぽっくん(漢城)(店市)
富山浦(釜山)沖3,4km
草梁島の倭館で対日貿易1607−1871年(莱商)
東莱城府史(東莱城長官)
京畿道・忠清道・全羅道・慶尚道のみ朝鮮国王が徴税支配
黄海道以北、江原道・済州島からは徴税できない(大同法)。


清朝の対西洋貿易は初めは4港で
後に雍正帝の頃に広州のみに制限される
広州(広東・香港島−九龍半島の前・マカオと別に)
章州(福建・章は三水偏がつく。福州に替わって台湾や琉球への港町)
寧波に替わるセッ江の港町
雲台山(江蘇・清朝末期や民国時代に連雲港と名称変更)
台湾・琉球は明朝が福州、清朝が章州が窓口で朝貢。
日本に限り貿易は明朝で(勘合貿易)
1401−1434、10年1朝貢を決める−1523−1547(最後)
(マカオ貿易・南蛮)1580−1636
(朱印状貿易・東南アジア貿易の日本人町)1600−1636
(オランダ東インド会社・出島貿易)
1600−1798?東インド会社が破産した年?

154ハンドル付けて下さい:2007/03/17(土) 15:58:25
キリスト教はカトリック教会とハリストス正教会のみと見なす。
信仰宣言はAD三81年「ニカイア・コンスタンチノープル信条」とする。
私は[どのキリスト教の教派]に[も]会う会わないに関係なく上記信条を
正統とし、他を異端とする。
シの直前の緊急洗礼を旨とし希望するが[日ごろにキリスト教形式で
祈り願うも、シに臨み聖職者が来なく、冥福を祈って貰えない場合を考え
ご先祖の菩提寺の宗派の曹洞宗、菩提寺地元にある真言宗、
ほか個人的に自発で勉強したる修験道を[キリスト教の洗礼者でなければ
キリスト教の先祖供養なるパニヒダ・レクイエムが出来ないので]
先祖の法要形式の場合に認め、曹洞宗式か真言宗式の葬式は受け入れる]
ゆえに偶像物の廃棄はせず盗難は俗世の法で問う。
礼拝に偶像[崇拝]の[宗教の礼拝対象を置く]方式の礼拝をしなければ
よいと考える(ローマ教会の偶像概念で、ユダヤ教の顔[パナイ]を偶像と
する解釈は多く用いない)
入信の正統は主イエズス−キリストより弟子−聖ペテロを通じ
ローマ教会(東 ハリストス正教会、西 カトリック教会)の
監督(東 主教、西 司教)の按手などを受けたる聖職者と信徒の
合意(アクシオス・適任)をもってすると信じ、
主の祈り(天主経)[の祈り]を[採用し]認める。
洗礼前に信徒の罰則などは当てはめられないし[その団体の統制に属さないので
団体責任者に責任を負わせられ無いから]受け入れない。
[当該の通告のあった団体に限らず、どの宗教であれ]
契約・約束・お恵み・お慈悲・
犯罪(カツ上げ[罪]←→恵み、泣き寝入りを口約束させる[罪]←→慈悲)と
宗教的罪(原罪)の概念と理解に問題ありとす。
聖書は新約をギリシア語原文、ラテン語ウルガタ訳を正統とし、
旧約をギリシア語72人訳、ラテン語ウルガタ訳、ヘブライ&アラム(アラマイ)を
正統とし、各民族の母国語の概念による[翻訳聖書を原典とした]ものは認められない。
ローマ教会の神学者[特にプロテスタントを聖書勉強会と見なすので、
その研究家も含め]の解説を必要とする。以上。

155ハンドル付けて下さい:2007/03/23(金) 00:26:12
契丹の歴史には
新羅の名がない。高麗はモロゲダ部の後世に名が見える。

たぶん、五代十国の時に、マッカツ(渤海)により新羅が滅び
モロゲダが出現する。

モロゲダ部(蒲盧毛朶、部)とテツライ(鉄麗、てつレイ→鉄嶺)が
新羅の後継で
モロゲダは、曷蘇館「路」となり、
遼の聖宗の時に
曷蘇館「大王」カリキ(曷里喜)やアプカ(阿不曷)が出現する。

アプカは、
アスカ(飛鳥・朱鳥)を文字ったマンガチックな名である。

遼史 表 第七 部族表
聖宗開泰元年 曷蘇館大王「曷里喜」
聖宗開泰八年 曷蘇館「阿不曷」
  太平
興宗重煕十九年 蒲盧毛朶部「綃隠(テキいん)」「信篤(シンとく)」
       、回骨部、曷蘇館、この年に「高麗」の名が初めて出る。

>遼の聖宗の時、曷蘇館を罷め(やめ)、辰州遼海軍節度使を置く。

>       曷蘇館=新羅(曷蘇館大王カリキ・アプカ)
>    渤海国の蓋州=遼国の辰州
> 遼国の東丹王の蓋州=遼国の辰州(蓋州)
>    遼国の曷蘇館=辰州[遼国]遼海軍節度使=辰韓(辰州)

156ハンドル付けて下さい:2007/03/23(金) 00:29:07
女真の金国の時代には、
日本の支配で「朝鮮総督」のような
女真の支配で「高麗生日使」がいて、代々、支配していた。

金史 巻六十 一三八六ページ 金史 第二 交聘表 上
     歴代の「高麗生日使」
太宗天会四年_十一月「高随」
煕宗天会十四年十月甲寅「呉激」・・・「乾文閣」
__皇統ニ年_正旦乙巳、高麗国王の名が初めて出る高麗国王「王楷」
            開府儀 同三司,上柱國
__皇統六年_五月壬申「王楷」こうず(死す)
            嗣位「睍(王睍)」が喪を報告する
海陵天徳三年_九月「蕭子敏」東京路_兵馬_都總管府_判官から異動
海陵天徳四年_九月「完顔麻潑」都水使者から異動
__貞元元年_九月「窊合山」吏部郎中から異動
__正隆三年_九月丁丑「高存福」教坊提點から異動
__正隆四年_九月「完顔達紀」宣武将軍_翰林待から異動
__正隆六年_八月「張崇」太常博士から異動
__↓
  金史 第二 交聘表 上
  金史 第二 交聘表 中
  金史 第二 交聘表 下
__↓
__泰和八年「池利中」礼賓卿からの異動
__興定二年_四月癸丑,以詔付遼東行省(遼寧省に併合の詔勅が降った)
__興定三年_正月戊辰朔,遼東行省報〜朝貢之礼俟他日徐議。
__元光
哀宗正大
哀宗天興三年_正月己酉,國亡

>「蕭子敏」東京路_兵馬_都總管府_判官
 × 蕭子済
 ○ 蕭子敏

157ハンドル付けて下さい:2007/03/23(金) 00:37:34
> 蒲盧毛朶部=帯水流域(帯方郡の北部、帯方郡の南部は百済・新羅)
(阿利水流域=漢江流域、江華島[蒲?]〜ソウル[盧]〜忠清道清州[毛?]〜江原道鉄原[朶?])
>
>鉄州=鉄嶺=鉄麗=高句麗←高麗→高州=全州(全羅道)→鉄原=明史のいう鉄州

158ハンドル付けて下さい:2008/02/02(土) 19:23:41

碧蹄館 小早川 明
tp://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E7%A2%A7%E8%B9%84%E9%A4%A8%E3%80%80%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E3%80%80%E6%98%8E&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

露梁海戦
tp://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E9%9C%B2%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

159ハンドル付けて下さい:2008/02/03(日) 18:46:14
任那 - Wikipedia
tp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3

安東大将軍、鎭東大將軍
tp://toron.pepper.jp/jp/kodai/nicchou/shougun.html

『後漢書』倭人伝
tp://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm

160ハンドル付けて下さい:2008/02/09(土) 19:08:54
★ 李朝と日本との交易について ★

倭館に住居する日本人を朝鮮では『恒居倭』と呼び、居留地内では首領を頭とする自治が行われた。
貿易に従事する者は、図書(朝鮮国王の銅の私印)を与えられた者と
__________授職されたもの(朝鮮の官職を与えられた倭寇の首領)に限られました。

============================================
【 年表 】
1392-1407年一切制限を加えなかった。
1407-1510年『興利倭船』の入港を
______慶尚左道都万戸所在地の東莱県富山浦(現在の釜山広域市)
__________慶尚右道都万戸所在地の金海府乃而浦(現在の慶尚南道鎮海市)
1419年、応永の外寇(朝鮮名:己亥東征あるいは対馬島征伐 → 対馬宗氏の独占貿易)
1426-1510年___________________________________蔚山の塩浦(現在の蔚山広域市)
___________漢城の『東平館』はソウルの倭館で『倭館洞』(現在のソウル特別市中区忠武路)
1443年(嘉吉3年)【『正統癸亥約條』あるいは『嘉吉条約』歳遣船を年間50隻で公貿易】
______同年、朝鮮は和館を三ヶ所に設けて接待の所とする。すなわち
_______________東莢の釜山浦、熊川の薺浦、蔚山の鹽浦。
1510-1512年_三浦の乱【1512年『正徳壬申條約』歳遣船を年間25隻に減ずる】
1512-1544年対馬と朝鮮の条約、薺浦(乃而浦)が再開、倭寇事件で乃而浦倭館は再び閉鎖
1521-1592年富山浦倭館の再開、1592年の豊臣秀吉による朝鮮侵攻まで存続。
1592-1607年_秀吉による朝鮮出兵
1607-1673年豆毛浦倭館(現在の釜山広域市東区佐川洞付近)に新設された
1678-1876年草梁倭館(現在の釜山広域市中区南浦洞の竜頭山公園一帯)に新築、新倭館とも呼ばれた。
1876年、明治新政府による釜山開港
1883年 済物浦(仁川港)で開市(開港)
=============================================
【 秀吉との事 】
天正年間(1573〜1592)に豊臣秀吉から宗氏に令して、朝鮮に慶賀の信使を送るように告げさせる。
___________朝鮮は日本までの航路がよく分らないと断る。
天正18年(1590)朝鮮から秀吉への天下統一慶賀のための国使3人が来る。
文禄1年(1592)豊臣出兵から途絶。

161yu-ki♪:2008/02/29(金) 23:26:22
手のひらでふくれあがったクリを刺激しながら、中指を熱くたぎった中心に差し込み、かき混ぜるようにする。
ぬめりけを帯びた液体をかき混ぜるような激しい音。そしてからみつく中の肉。
「あっ……! んぅぅっ!」
ビクビクン! とのけぞって、ソファに背筋を押しつける。指先を吸い込むようにその部分が数回震えて、同じ回数だけ小さく達していたようだ。
「くぁぅぅっ! ああんっ!」
手の動きは止めない。再び小さく叫んだ彼女は……
つづきは現実で
ttp://deai-baby.com/me/AeWMr21C

162ハンドル付けて下さい:2010/05/16(日) 18:33:13
キリスト教−リンク−ダイジェスト
  ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1197684362/311-314n

『四柱推命』『功過格』因果応報と功過応報 曹洞宗 真言宗 数を試みる など
  ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1197684362/325n


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