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自然摂理の法則

1璃流:2004/05/24(月) 21:49
初めまして。
楠本璃流(くすもと りる)と申します。
中3で錬金術に興味を持ったのですが、
知りたい事があって書き込みさせて頂きます。
自然摂理の法則とは何ですか?
これがよくわからないのです・・
もし知っている方は教えてください。
それでは。

2おおはし:2004/06/14(月) 02:26
りるさま

待っても返事がないというのはさびしいものでしょう。ひとつちょっとながい引用をしてみます。
〈自然・摂理・法則〉は三つの輪をすこしずつずらしてかさねたことばのようにも思え、あなたの期待に添うものかどうかわかりませんが。
本が古くて(5世紀後半から6世紀に生きた人の本だというばかりか、昭和十三年の訳なので、便宜上、旧字は新字に、旧かなは新かなに改めさせていただきました)、ことばがちょっと難儀ですが、そこはご海容ください。

「万物の発生、可変的事物のあらゆる進展、及びすべての種類の運動は、その原因・秩序及び形相(forma)を神の精神の不易性から受取る。この精神は、自らの単一性の城壁の中に在って、事物支配に対する多種多様の様式を設定した。この様式が神の叡智の純粋性それ自らにおいて考えらるる時には摂理 (providential) と名づけられる。しかしこれが、神に動かされかつ規定される諸物に関連して考えられる時に、それは古人によって運命と呼ばれている。この二つが異なるものであることは、その各々の意義を熟慮してみれば容易に明らかになるであろう。摂理とは万物の最高始源者の内に在って一切物を規定するところの神的摂理そのものである。然るに運命とは、可動的諸物に固着する規定であって、この規定によって摂理は各々の事物にそれぞれの秩序を与えるのである。すなわち、摂理はありとあらゆる事物(それがいかに異なっていようとまたいかに数多くあろうと)をことごとく一緒に包括する。然るに運命は個々物をそれぞれ別々の場所・形相・時間に配置して分れ分れに運動せしめる。かくて、この時間的秩序の展開が神的精神の先見の中に合一されれば摂理であり、これに反して、その同じ合一が時間の中に分置され・展開されれば運命と名づけられるのである。この二つは異なったものであるとはいえ、一は他に依存して存する。すなわち運命の秩序は摂理の単一性から出て来るのである。例えば芸術家がその制作すべき事物の形相をあらかじめその精神の中で把握して仕事にとりかかり、彼がさきに単一的かつ現在的に観じたところを時間的秩序を通して作り上げるように、ちょうどそのように神は、そのなすべき事柄を摂理によって単一的かつ不易的に規定し、そしてその規定した事柄自身を運命によって多様的かつ時間的に施行するのである。
 ゆえに、摂理に仕えるある種の神的精霊によって運命が実行されるにしても、あるいは霊魂によって、あるいは全自然の奉仕によって、あるいは星辰の崇高な運動によって、あるいは天使の力によって、あるいは鬼神の種々な巧みによって、あるいはこれらのものの若干の協力によって、あるいはこれらすべての協力によって運命の序列が織り成されるにしても、とにかく確実に明白なのは、摂理は生ぜられるべき諸物の不動的で単一的な形相であるのに対し、運命は神的単一性に依って生ぜられるべく規定された諸物の可動的結合と時間的秩序とであるということである。したがって、運命に服する一切は摂理にも従属する。運命それ自身が摂理に従属しているのだから。しかしある種のものは、摂理の下には置かれるが運命の序列に対してはその上にある。それは最高神性に近接していて、確固不易で、可動的運命の秩序を超越するところのものである」。
ボエティウス・畠中尚志訳『哲学の慰め』第四部六、岩波文庫(今は品切れかもしれませんが、岩波文庫はときどき記念復刊されます)
これは女性の姿をまとった哲学(フィロソフィア)が著者に語りかけることばなので、もうすこし優しい語りことばになるといいのですが...

3もえぎさえこ@東京:2004/06/16(水) 14:20
はじめまして ず〜っと拝読しております不勉強な不精者です。

ボエティウス・畠中尚志訳『哲学の慰め』岩波文庫
日本の古本屋  http://www.kosho.or.jp/
多数ヒットします。楠本璃流さまが、日本在住なら便利ですよ。


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