したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

仏法あれこれ。。。お勉強スレッド

1遥 </b><font color=#FF0000>(CuAGZ/CY)</font><b>:2004/01/14(水) 08:02
sonomitohaさんの『自己紹介』レスをこちらに移動させていただきました

すべてとは諸法即実相を言っております
そこには煩悩即菩提や衆生所遊楽も含んでおるのです
もちろん既存の教典の解釈ではありません、内なる対話です
自我を認めるとはありのままの自分を認めること
それはどういうことかと言いますと
執着や所有は手放すこと知識や教養は手放すことから始まるのです

47非活動1年生:2004/02/05(木) 17:20
続きです。

でも「信じるしかない」という捉え方を案外宗教人でも認めない人は多いのに
ビックリします。特に新興宗教においては(不思議なことですが)そこに
どうしても客観性を置いてみたくなるらしくて、あらゆる新興宗教は明確な
「客観的因果律」を強調します。例えばオウム真理教の信者の方達が「自分たちの
宗教は科学的であり、ちゃんと科学的に証明出来る」という様な表現をよく
していたのにはビックリさせられました。その背景にはどこかで「科学は
万能である」という現代人の「科学信仰」があって、私はその考えは実は
「宗教」に対する、又、「科学」に対する冒涜であると思います。
(私は宗教も科学も同レベルで尊敬しています)

48非活動1年生:2004/02/05(木) 17:48
続きは続く・・・

それでは宗教とは全く主観的なものであって、誰にも自分の「信」を証明できないのか
と言うと、それは違うようにも思います。「主観的」なもの、という点は
動かせない事実ですが、両さんのお言葉を借りれば、
>人間中心で、その宗教を有益で正しいものにするのもまた人だろうとする前提がある解釈になります。

両さんが「相互通行」という言葉をどの様な意味で書かれたのかは分かりませんが
私のこの言葉の解釈は「信じる」だけならば、それは全くの主観に過ぎず、
人にはどんな説明も出来ない事になるけれど、その「信」を礎にしたその人の
行為はやはり誰の目にも明かな「証」と思います。そしてその様な行為に
至らしめた「信」はそう言う意味で「相互通行」(一方的に受け身にただ信じる
という事ではなく)なのかな、と思います。上手く言えなくてゴメンね。
又、勘違いもあったら許してください。

49:2004/02/06(金) 17:52
>非活動1年生様
 多くの時間を生活そのものに費やしているので、やはり実感するのは、世間を知るということや、自分を客観視できるという意味で「相互通行」と言いました。生活実感から仏法の理解が深まるし、仏法から生活上の悩みに曙光を見出してきた経験から、一体のものだと思っています。

 崇高な思想の高見から世間に落としていく宗教家の道徳観のような捉え方は、実は「信」がなくて「知」の切り売りのような気がします。

 また、学会の組織の活動方針にしたがうだけの労働は趣味に近く、人生を掛けた戦いなどという、こじつけた「信」の人もいますが、本来の生活と離れたところにある活動で、自らの課題に集中できるものでしょうか。

 また別に、「指導」と称される「教育」も組織内でありますが、よく考えると指導する側(組織側)に都合のいいものしか出てきたためしがない(笑)。そもそも「教育」とは、親や組織や国家に都合のいい人間を作る(矯正する)ことが主眼で、概してMC的なものでしょう。だから「指導」も、純粋に「信」の自立のためとは言い難い。

 自分も組織に属しているから感じるのですが、活動者の多くが「信」と勘違いしているのは、池田氏と学会への忠誠でしょう。確信といえるものはなく、服従することで安心を得ているだけではないでしょうか。だから、個人では御書すら読まない人が多い。また実利的な信仰だから、たとえ読んでいても教条的に受け入れる傾向が強く、熟慮が欠落していることも多い。やはり、自らの成長より、即席に利益を求めることが本音にあるから、呪術的な拝読や、指導のような具体的指示の方が都合がよく、好んでしまうのだろうと見ています。

 何でも自分で判断することは大変な労力が要るし、不安感にも襲われるものでしょう。他人任せより苦労も多く、ほとほと疲れるのものですが、成長の実感があり、新しい発見がある。そのための「学」と「信」だと思っています。

 また、アインシュタインが、これまで誰も絶対軸として疑わなかった「距離」や「時間」を変化するものであると疑えたのも、信を意識しているから「信じない」ことを意識できて、その既成概念を疑う思考の柔軟さが発見に至ったのだと連想しました。
 できれば、自分も読んでみたい。その「三浦綾子」さんの書名を教えていただきたいのですが。。。

50非活動1年生:2004/02/06(金) 19:01
両様

本の名前は新潮文庫「光あるうちに」です。
この本はプロテスタント作家の三浦さんの「キリスト教入門」書っぽい内容
なので、キリスト教になじみが薄い方はひょっとすると反感を抱かれるかも
知れません。ただ、「宗教」という大きな括りで読むのなら、うなずける
所もあるように思います。実は私もプロテスタント校出身ですが、カソリック
作家の遠藤周作氏の著作の方に惹かれました。

今から仕事です。取り急ぎ。又、落ち着いてレスさせてくださいね。

51非活動1年生:2004/02/07(土) 18:44
両様
>生活実感から仏法の理解が深まるし、仏法から生活上の悩みに曙光を
見出してきた経験から、一体のものだと思っています。

宗教を生活の上に反映させることが出来るのは何よりの事で、又、それこそが
宗教の持つ本当の意味と思います。

ところで、私は両さんの事をよく存じ上げないので、一つだけお聞きしても
良いでしょうか?(失礼であったら許してね)

両さんは察するところ、「仏教」そのものには「信」をお持ちだと思っています。
さてその「仏教」ですが、両さんにとっての仏教は「日蓮仏教」なのでしょうか?
あるいは釈迦仏教全般なのでしょうか?

私は学会仏教はもちろん、法華経もその他の釈迦の仏説にもあんまり惹かれ
なかった人なので、仏教を語る資格はないです。
ただ、両さんの文中の「仏教」って何を指しているのかな、と興味を持ちました。
もしも日蓮仏教だとしたら、どの様にそれを仏教全般の中で位置づけておられる
のかも知りたいです。良かったら教えて下さいね。

52:2004/02/08(日) 11:19
非活動1年生様
紹介ありがとうございます。
 さっそく検索して、ネットでレビューを読み、「こうして紹介されなかたら、この本はきっと読む機会がなかっただろう」と思いました。
 キリスト教を嫌悪しているようなことはないのですが、やはり特定の宗教をやっていると他宗の教書を求めることが少なくなるでしょう。また個人的に、著者と性別が違うだけで読みにくいという、トラウマがあり未だに克服できていないようです(笑)。(今、発注分が届いたら、次回注文する予定です。機会があれば感想など。)

 自分が信じているものを厳密に言うと、日蓮の題目だけということになります。教義は、「信じて題目をあげる」以外の部分で、いずれ理解に至らなけらばならないものだと思っています。

 また、仏教全般との関係については、「あわせて」というニュアンスの相互の疎通があるもので、先に述べた生活と信仰の関係性と同じ意味で捉えています。
 しかし、今の自分の理解で率直に言うと、日蓮の仏法と釈迦の仏法は全く別物だとの前提があります。現代風に言えば、「発明した」という意味です。
 ニュートンとアインシュタインくらいに違うもので、公式の書き換えが可能で、実際は、日々の生活で違いを感じるより人の感覚の曖昧さ大きい。それと同じような感じで捉えています。

 また、教団は「均質化」だろうと考えています。組織は常に内外の異質を排除することで均質性を保つ。これが組織の必要悪であり、様々な軋轢も生むことにもなるのでしょう。信者個人を見れば実に様々で、純粋に教や信の違いというより、指導者個人の特性や資質の問題として捉えられます。だから、同じ宗教でも、穏健な派閥もあれば、二元論的な発想で排他的に行動する派閥もあるのでしょう。組織内にいるとその解釈の影響や行動の強要を受けるものでしょうが、教に戻れば、もっと個人差が出てくるものかもしれません。

53非活動1年生:2004/02/09(月) 17:26
両様
大変レスが遅れてしまいました。ごめんなさいね。

>著者と性別が違うだけで読みにくいという、トラウマがあり未だに克服
できていないようです(笑)。

うちの夫もそうですよ。ご紹介した本はエッセイ集なので手軽には読めますが
両さんにはヨーロッパあたりのバリバリの「神学論」の方が興味深く読める
かも知れませんね。

>日蓮の仏法と釈迦の仏法は全く別物だとの前提があります。
現代風に言えば、「発明した」という意味です。

なるほど。日蓮っていう人は悟りの新たな方法論の発明者、という意味でしょうか。
それはすなわち「題目」ということなのでしょう。その点、日蓮という人の仏教は
「オリジナル」と言えるのかもしれません。

ところで、日蓮正宗と言われる派は「日蓮本仏論」を掲げていると思いますが、
このことについて、両さんはどう思われますか?学会もその出自は「日蓮正宗」
にあり、私も「日蓮大聖人は末法のご本仏」と習いました。
私は学会にいた時、どうしてもこの考えが理解出来ませんでした。

日蓮を偉大な仏教者として崇拝する、というのは分かるような気がしますが、「崇拝する」
ということと「ご本仏である」ということは違うように思います。

質問ばかりでごめんなさいね。でも私が両さんにこの様な事を質問するのは、決して
両さんの「信」に対して「それはおかしい」と言いたいからではありません。
両さんや私のように、「学会教学」と言う怖ろしく偏向した仏教を学んだ人間が
そこから離れて、自分なりに「宗教」を咀嚼しようとすると、様々な葛藤があります。
私は両さんが学会教学から離れてどのように仏教を捉え直したのか興味を持った
のです。(私の場合は学会否定の過程で日蓮否定にもなっていったので)

54富士山噴火:2004/02/09(月) 19:35
どんな宗教にしろ、例えば釈尊生誕前の原始宗教でも「祈り」が根本ではないでしょうか?
信じることは犬でも出来るが「祈る」ことは人間にしか出来ないことです。間違ってたらごめんなさい。

55非活動1年生:2004/02/09(月) 20:20
富士山噴火様
お久しぶりです。お元気ですか?

>信じることは犬でも出来るが「祈る」ことは人間にしか出来ないことです。
私の考えでは信じることも犬には出来ません。
(犬に聞いてみても真偽のほどは分からないですが・・・)
犬はえさをくれる飼い主を「信じて」いるのではなくて、この人がえさをくれる
人である、と「認知」しているだけです。そしてその人が今日もきっとえさを
くれるにちがいない、と過去の事実に基づいて、「推測」しているだけです。

私の中にある「信じる」はもっと形而上的なものです。えさを直接見なくても
「信じる」のが人間だ、と思っていますよ。
でも祈るという行為が人間にしか出来ない行為というのは賛成です。
付け加えて、「信じる」もそうだと思います。

>間違ってたらごめんなさい。
誰もこの様な話題で「正しい」人なんていないと思いますよ。
だから同様に「間違っている」人もいないと思ってます。

56富士山噴火:2004/02/09(月) 20:34
>>55非活動1年生さん、こんばんは。

なるほど。

57えっ?:2004/02/09(月) 22:50
そう、人のために祈らねばなりません。

けっして、打倒○○だとか極悪○○なんてのじゃなくってね。

それは祈りではなくって呪いです。

犬だって、信じてると思いますよ。犬畜生って良く言うけど、犬の気持ちなんって
なってみなけりゃ解らない。

呪いと祝は、なんで似てるんだろう・・・・・ま、いっか

58:2004/02/10(火) 14:33
>>53 非活動1年生様
 トラウマ本については、最初のきっかけが「サルでもわかる何々」でした。だからショックが大きい(笑)。「自分は偏ったところがあるな」との自覚もでてきました(笑。

 日蓮を本仏とするのは、学会も宗門もそうですね。日寛の教学が根にありますから、これはどちらも一宗として変えられないことだと思っています。だから日蓮宗各派との隔たりも将来も埋められないような予想をしています。

 御書を読んでいて、本仏の自覚から書かれた部分とそうではない部分を佐渡前後で分類していますよね。法華経文底に秘められた極意を読み砕くため、後世の教学から確立していったものだと思いますが、今の自分の信心からすると、これの方が題目を信じるという立場からは素直に入ってきます。
 つまり、文底という捉え方に汎用性を感じていて、意味を砕き後世に応用できる可能性を残したものだと考えているので、日蓮が本仏であるとすることに、自分個人としては論理の必要性を感じているということになります。
 また、新しいパラダイム転換が受け入れられる方法だと捉えています。「日蓮の本音は仏教を悟ったというより、自分の発想に近い思想が法華経であった」と捉えると、本仏となるのが妥当だとの考えです。

 学会教学については、そう言うと統一されている印象を持ちますが、実際、自分が知る範囲で、違う見解が多く混在しているように思っています。学会のオフィシャルな捉え方としては池田氏の著作からくみ取るのでしょうが、どうも教学として考えるというより部分所見を述べるもので、統合されたものだとは言い難い。また、川田氏らのような研究者の考え方とも矛盾しているという印象を持っています。
 しかし、信仰者としては、教学の部分の排除せず、また無条件に信用するのではなく、誰々何宗だからということより、所在よりエッセンスが自分の生活上有効で妥当な解釈を求めていくという意味で、学ぶ姿勢を保つようにしています。

 学会の評価ついては、もともと教義と指導実態が明らかに異なる組織ですし、教義を都合良く組み合わせることに矛盾を感じる会員も少ないということもあるでしょう。難解な解釈をどう論じようが、理念の正当性ではなく、まるでお話にならない組織の実態を「常識」で判断しています。
 小学生から活動者としてやってきた者から見て、「これでは会員が不幸になる」と、今、当たり前に思っています。実際、およそ、周囲の活動者と言われる人で、健全な精神性を持っている人が全く居なくなってしまった。と感じています。
 組織実態は客観的に観察して判断すればいいことですが、これをあえて教義と関係させるならば、末端組織に降りてくるものは、なんら根拠のない、一貫性のない、幹部や組織に都合のいい命令ばかりで、仏教とも日蓮の仏法とも異質なものだと思っています。
 勝った負けたと、個人崇拝と、メンツ論と感情論ばかりで、思考の根拠すら無い。その結果、盲従することを強いることになり会員が病気になると言えば、言い過ぎでしょうか。

追伸。
この頃、午前中、毎日頭痛に悩まされていました。
何が原因か、風邪でもないし自律神経系の疾患かと思っていました。
ところがなんと、朝風呂に入るのを止め、
シャワーで済ませるようにしたら直りました(笑
寝ぼけて湯につかって目を覚ます習慣がよくない。
これはやめたほうがいい冬は血管が切れると思いました。
だから、こんな頭悪い人なので、もう少し軽い話題にしてください。お願いします。

59非活動1年生:2004/02/10(火) 16:40
両様
私のような「仏教一家に育ちながらの仏教知らず」な人間にご丁寧にレスを
頂きありがとうございます。
言い訳がましいのですが、私は仏教そのものが嫌いで教学を蔑ろにしたのでは
なく、どう考えても(両さんも書かれているように)学会教学が偏向している
と幼い時から感じていて、どんなに勉強しようと思っても、魅力を感じ得なかった
のです。(今から考えると、自分の幼いながらの感性は意外に適切なものであった
と思っているのですが)

「ご本仏」論に関しては両さんの見解は分かりました。又、両さんが学会教学と
いうものに常に曝される環境にいながらも、ご自分なりの仏教咀嚼をされてきた、という
事も文中より受け取りました。

学会組織というものを知らない人にとっては、「宗教」を自分の頭で咀嚼する、という
ことは当たり前だと思うかも知れません。しかしながら、現実はそう簡単なこと
ではありません。その当たり前のことがどうしても出来ないのが学会員だと思います。
日蓮という人の捉え方一つとっても、世の中には恐らくたくさんの解釈が存在して
います。法華経の捉え方においても、又、仏教そのものの捉え方においても、それは
言えることです。解釈は自由であり、どの解釈が正しいとか、間違っている、とか
いうことは誰にも言えませんが、少なくとも解釈は一つではない、と言うことだけは
言えます。

学会員にとっては池田氏の仏教解釈が、そのまま自分たちの仏教解釈となっている
所が多く見られます。自分を「仏教徒」と呼ぶのなら、人の解釈の上に立つのでは
なく、自分で仏教を学ぶ姿勢があっても良いと思います。たとえて言うなら、
法華経を学ぶのなら「法華経の智慧」を読むのではなく、法華経そのものを
読む(学ぶ)べきです。(とは言え自分も読まなかった一人ですが・・)

私のようなもはや仏教徒でもない人間につき合って、丁寧にお返事を頂いて
ありがとうございます。(私も実は頭痛持ちです。お気をつけてくださいね)

60:2004/02/12(木) 16:33
非活動1年生様
そうですか。
質問の主旨がなんとなくわかったような気がします。
生まれながらの学会員で、会合で「せいせい!、せんせい!」と大合唱できない。
小学生の自分でも、はずかしくてこんなことはできなかった。
しばらく悩んだこともありますが、自分は違う人間だと結論しました(笑。
生き仏のように崇める。これに違和感がない人が、未だに理解できないでいます。
非活動1年生さんの違和感というのも、もしかしたら、同じじゃないですか。
仏教じゃないと直感したのはこれだろうと思いました。

自分が、学会員に求めるのは「世間並みの常識」だけです。
学会員で非常識な人と、極普通な人の違いは、
単純に、池田大作を崇めるか崇めないかで、はっきり分類できると思っています。
個人崇拝だとの指摘もありますが、学会がそうし向けなければならない理由は、
仏法だけでは説明が不能な、どんな活動でも会員に納得させるためでしょう。
これが良いか悪いか、妥当なのか、理屈などより、
会員の生活の統計をとれば、背筋が凍る結果を見ることになる気がします。

感情に捕らわれて理性を失い、悪い女に(男に)騙されて。。。
不幸のどん底に落ちるドラマのようにも思えます(笑。
しかし、生きている他人を崇拝するということは、こういうことでしょう。
本質的に、驚く程デタラメで嘘つきな人間というものの意志に、
もしくはその組織の意志に、支配されて生きていくということになる。

在世の日蓮の振る舞いは人(菩薩)としてですよね。
本仏の位置づけは、後世の解釈からです。だから菩薩の解釈の宗派もあるのでしょう。
そうした教義解釈とは異なり、学会の本音は「現代の生き仏」の位置づけがある。
池田本仏論もあったし、その後、「現代の仏は法主だ」という時期もあった。
口が裂けても、「本仏」とは言わないでしょうが、事情と活動の実態を配慮すれば、
彼か組織か、両方が仏だと見えてきます。それほど崇高で無謬だとしている。
こうして組織の方針に会員が盲従できるシステムが出来上がっているでしょう。

彼が亡き後は、「永遠の指導者の遺命により、何々を行う」と、
強引に神格化(仏格化)して「だから学会は現代の仏の組織(軍団)になるのだ」との、
歪曲したロジックをまた使うだろうと予想しています。
よって、こんな自分は、依然、学会の中で肩身が狭い。
「正義は我にあり、我以外は悪であり殲滅すべし」と熱狂に酔う人達を嫌悪せざるを得ないのですから。

61非活動1年生:2004/02/13(金) 14:10
両様
>仏教じゃないと直感したのはこれだろうと思いました。
私は「仏教」を云々出来るほどには仏教には詳しくないです。(恥)
でも、私は「原典主義」(原理主義ではないです)は物を学ぶには大切だと
思う人なので、何重にも「コーティング」された考えは好きじゃないのです。
そうなると、一体「元の考えはどんなもの」なのか、「どこからどこまでが誰の
解釈」なのか、さっぱり分からなくなると思うのです。

そう言う意味で、学会員は今の学会教学をそのまま受け取らず、自分なりに
もう一度仏教を(あるいは宗教そのもの)を考え直してもいいのになぁ、と
思います。ああ、又、仕事です。時間が出来たら又レスします。

62みれい:2004/02/28(土) 00:25
非活動さま、
こちらへ移動しました。こちらで続きを。
(といっても私は今月いっぱいでつ・・・)

>>また書いた内容や時間やその時買って食べたおやつ(笑)なども世の中に何かしら影響を与えます。
そういう因果律はありかと。

>私もそう思います。実は私は「因果律」はない、と言ったのは人間の考える
ような「因果律」は存在しない、と言う事で、実は違う尺度の「因果律」は
ある、いや、あって欲しい、と考えるのです。

アインシュタインの相対性理論で因果律、解けませんかね??
時空も長さが変わる事が数式でわかった現代です。

63みれい:2004/02/28(土) 00:35
本スレより
>そう言う意味で、学会員は今の学会教学をそのまま受け取らず、自分なりに
もう一度仏教を(あるいは宗教そのもの)を考え直してもいいのになぁ、と
思います。

以前どこかの書き込みで(日本の宗教関係ですが忘れました)
学会の中枢部の方も呪術的な今のあり方では先の組織の伸び悩みが目に見えるので、
現代教学を基盤にすすめる方向を打ち出したが、何せ信者の方がその方向転換に追いついていない、
と言う書き込みを見たのですが、実際のところどうなのでしょう・・・???
変わるのはいいことだと思いますが、引っ張る方向が右へ左へと、ついていく方は大変ですね。

64非活動1年生:2004/02/28(土) 01:01
みれい様

今月いっぱいって、マジですか?
ごめんなさい。主人が帰ってきたので続きは明日。(明日はまだ2月ですよね)

65非活動1年生:2004/02/28(土) 17:02
みれい様
>ちなみに我々凡夫の尺度とお釈迦様の尺度は違います。
 私の言いたかった違う尺度の因果律というのは、みれいさんのこの言葉に
 かなり近いです。しかし全く同じでななく、同じ事を違う断面で見ている
 のかもしれませんが

毎日全く罪のない多くの人たちが死んでいきます。たとえば戦争で。たとえば幼児虐待により幼い子どもが。
この様な一見何の落ち度もない人の「理不尽この上ない死」を私たちはどのように捉えたらよいのでしょうか?
その様な人たちに私はかける言葉を見つけることが出来ません。
「仏の尺度とあなたの尺度は違うので、これもやっぱりどこかには意味がありますよ」と私はその人達に言えません
私はこのことを考えるときに、人間には根源的な不幸という物がそんざいする、と思うようになりました。
(仏教ではその根源的不幸も道理の一つとするのだと思いますが)

ともかく、道理というものが例えあったとしても、その尺度は人間には、はかり知れないとなると
それは「道理」(みちのことわり)と呼ぶに値するのでしょうか?それは人間には「不可知」なものであり、
「不可知」である以上、(人間の考えるような)「秩序」はこの世には存在しない、のと
同様だ、と思うのです。(存在しない、と言いません。存在しないに同様に思える、の意味です)

すなわち私もみれいさんと同様に世界は(人間の考え得るような)「道理」を超越したものである、と
思っています。しかし又、(人間の考えを超越した)「道理」はやはり存在しているとも
思っています。そうでなければ人間はあまりにも悲しい。
その「道理」は私にとっては「大いなる善」です。「みちのことわり」というような
論理的な存在ではありません。論理的という言葉を人間は好きですよね。しかし私にとっては
論理的という言葉は逆に「限界」を伴っている言葉です。

66非活動1年生:2004/02/28(土) 17:37
考えてみれば私もみれいさんも学会員だったのですよね。
その二人がこんな会話を交換し合うのは本当に面白い話です。
(現役学会員が見れば、お互いとんでも無い我見の持ち主として
罵られるのでしょうね、ウフフ)
こうしてネットでお知り合いになれたのも仏教的に言えば「縁」でしょうね。

宮本 輝氏(彼は学会員ですね)の本に
「外的偶然を内的必然と見るのは宗教的である」という小林秀雄の言葉が載って
いました。私もみれいさんもやはり「宗教的」人間かも知れません。
だからこそ学会にはいられなかった、というとバリさんに叱られそうですが、、、

67みれい:2004/02/29(日) 22:16
祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり ですね・・・

私も人にアドバイスをするほど詳しくも賢くもないので、
私の今知っている限り、思うことで恐縮ですが・・・

>この様な一見何の落ち度もない人の「理不尽この上ない死」を私たちはどのように捉えたらよいのでしょうか?
その様な人たちに私はかける言葉を見つけることが出来ません。

これ、「お寺ネット」でいろんな宗派のご住職さんに聞いてみるといいですよ。

実際目の前で起こったとき「どう捉えるか」「どんな言葉をかけようか」と考えている暇はないです。
今は今出来る自分の精一杯な行動を起こすのみです。
行動してその結果の生きた言葉が相手に届くと思います。
届かないなら何かが違っている、道理からはずれている、ということかも知れませんね。

御釈迦さんの言葉や道理は指針であり、マニュアルではないと思います。

また悲劇や不幸を自分に当てはめた時、この理不尽さをどう捉えるか。
私の場合は、理不尽も沢山味わったけれど、それでも過去は過去で前へ進む力を身につけることが、
人間には出来る、という実感がある、としか今はいえないなぁ・・・
おそらく、そういう積み重ねでいつか道理もわかってくるものだと思います。
で、そういった積み重ね方が各宗教各宗派の教えで変わってくるのでしょう。
お釈迦さんか日蓮さんか学会かでも違ってきますね。

(ちなみに御釈迦さんは目の前に大勢溺れている人が大勢いたら、どうやって助けるか?
貧乏人より金持ちか、将来何の役にも立ちそうもない人より世界の発展の為に役立ちそうな人か、
犯罪者より聖者か、病人より健康な人か、大人より子供か、祈祷や念力や奇跡を使うか。
お釈迦さんの答えは「自分の手の届く目の前の人から助ける」だそうです。
ああシンプル。キリストさんはいかに・・・)

68みれい:2004/02/29(日) 22:24
本当に、ここで話すという事も何かのご縁と思います。
遠いところに住んでいるのか、同じスーパーで買い物をしているのか、わかりませんが(笑)。
案外ご近所だったり・・・

69非活動1年生:2004/02/29(日) 22:40
みれい様
今日が2月の最後の日ですね。と言うことはこれでしばらくはお休みでしょうか?
寂しいです〜。又、お会い出来る日を楽しみにしてます。
>犯罪者より聖者か、病人より健康な人か、大人より子供か、祈祷や念力や奇跡を使うか。
 お釈迦さんの答えは「自分の手の届く目の前の人から助ける」だそうです。
 ああシンプル。キリストさんはいかに・・・)

同じだと思いますよ。良くは分かりませんが、キリストは一般人の「悪人」とか
「罪人」の概念を覆した人です。(と、私は思います)

>理不尽も沢山味わったけれど、それでも過去は過去で前へ進む力を身につけることが、
人間には出来る、という実感がある

私もそう思っています。私の場合はそれは「道理」よりはもっと大きな尺度がある
と感じる事で可能になった、(と言うと又、ややこしいですね)

ともかく理不尽さが有るが故に人は「祈る」、それを覆したいがゆえに「信じる」のだと
私は思います。

>御釈迦さんの言葉や道理は指針であり、マニュアルではないと思います。
いかにも、です。(私の場合は、主語がお釈迦さんでは有りませんが)

まだまだ話は尽きませんが、私はみれいさんが以前は「私には宗教は必要がない」と言うような
言葉を他掲示板にて仰っていたのを覚えています。(違ったらスミマセン)
しかし「宗教」という事を今一度お考えになられるようになったことを大変喜ばしいと
(老婆心ながら)思っています。どうか、お元気で。本当にお世話になりました。(感涙)

70ラビット:2004/03/01(月) 07:19

>(ちなみに御釈迦さんは目の前に大勢溺れている人が大勢いたら、どうやって助けるか?
>貧乏人より金持ちか、将来何の役にも立ちそうもない人より世界の発展の為に役立ちそうな人か、
>犯罪者より聖者か、病人より健康な人か、大人より子供か、祈祷や念力や奇跡を使うか。
>お釈迦さんの答えは「自分の手の届く目の前の人から助ける」だそうです。
>ああシンプル。キリストさんはいかに・・・)

これは私も時々考えます。舟に乗っていて沈んだ時とか地震に遭った時とか
電車に乗って事故にあった時とかですね。普通は身内からとか助けやすい
周りの子供とかになりますけどね。自分が死んでも誰か一人でも助けなければ
とまではまだなれません。

人間死ぬまで勉強だという言葉がありますがそうだと思います。たとえ負け組みに
なったり刑務所に入ったりしても諦めずに信心して精進、努力すれば誰でも救われ
人格者になれる、全てそのためのプロセスと考えればいいのかもしれません。

71石のだるま:2004/04/10(土) 09:30
他の掲示板でも書いているので内容は重複しますが、お許しを。
仏のいう法則とは何かを整理してみての私の意見。

第一の法則  人(仏)はいつか必ず死ぬ時がくる。

<補足説明> 逆に言うと死んだ者はいつか必ず生まれるということでもある。どんな時代に生まれ、どんな環境に生まれるかは分からないが、仏といえども寿命が存在することに違いはない。

第二の法則  寿命には個人差があり、時代によっても集団としての平均寿命の差と違いがある。

<補足説明> 生活スタイルによっては、この平均は延びるだけでなく縮むこともあり得る。どんなに暴飲暴食をしてもいいということではない。特に人間苦があると縮む傾向が強いということでもある。戦争などはその際たるものであろう。生きる上で人間苦は大敵である。故に人間苦は滅ぼす責任が生まれる。害虫を退治するように特に仏にはその責任が生まれるし望まれる。人であっても仏であっても、その寿命の長短はいつの時代にあっても存在する。比較するとどうであったのかという違いでしかない。

第三の法則  120年限界説は存在しない。

<補足説明> ここでは120年という数字を使ったが、常識として人間が120年という数字を頭に描いているから使ったまでで、150年であっても200年であっても限界説としては存在しないということである。強いて言うなら“尽未来際”としての可能性があるということである。時代と共に生き、歴史と共に生きるのが人間の本来あるべき姿と理想であるということになり、宇宙時代とはそんな時代でもある。そのために無限の時間と空間があり、それを生かしきるか否かということになる。

すでに書いてあることだが、仏というのはスーパーマンではない。外見は普通の人間である。故にいつでも死ぬ可能性は持っている。言葉としての完全なる不老不死ではない。ただいたずらに死を恐れる必要はないとは言える。また人間(仏)にはいたずらに人を死に追いやらないだけの責任と義務が生まれ、それを守らねばならないし守る必要が生まれる。人(仏)は人(仏)を殺さないという法律や道徳でもある。権力者といえども例外はない。

人が死の危険にある時には、あらゆる手段を講じても守らねばならない。それは言われなくても守るべき仏としての義務と責任である。人と仏の違い、それは寿命の違いでしか認識することはできない。悟りの世界に特別な霊能力などは必要ないものであり、普通の認識能力と継続への力さえあれば充分に悟りは可能である。馬鹿は死なねば治らないと巷の言葉にはあるが、確かにそういうことも言えるのかもしれない。仏に成れない人間は早く老いて早く死ぬ運命にある(かもしれない)ということである。嘘を語るのは仏であったのか、人間であったのか、僧侶であったのか、学者であったのか、はたして誰なのか?

72が〜ん:2005/01/06(木) 02:32
はじめまして。非活のガ〜ンと申します。色々な方の様々な捉え方は勉強になります。

組織というものは上意下達の習性から逃れられない存在だと思います。それゆえ「仏」というものを遠い存在にしておきたがるのでしょう。「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて」とありますように、釈尊も日蓮も組織の頂点に君臨するつもりは毛頭なかったのではないかと私は考えています。そして私は、日なたの部分の伝承しか残ってない釈尊よりも、人間くさい日蓮のほうに憧れを感じます。

73地震:2005/01/25(火) 21:39:04
が〜んさんはじめまして。
組織という観念というものに従って組織に属するのであれば、それは、悪魔の絆だと思います。
こうこうあれこれという因縁に従って組織に属したのであれば、それは悪魔の絆から離れた縁というものに拠っているもので大丈夫だと思います。

74地震:2005/01/25(火) 22:40:39
もし、この縁に常に洞察を続けるなら、かつての因と果は滅して不可思議なる、必遇然の一致を目の当たりにすると思います。
維摩経「かつて会わないのに今会う」。不可思議解脱(不可思議を認めて迷わない)にはいると思いました。
だから信心で意味の無いことは存在しないと先輩は言うのかも。と思いました。
すいません。私も非活です。しかし学会員の組織に属する者として認めて貰っています。
悪魔の絆というのは経典の言葉であって、(不信)に近いものだと捉えています。

75地震:2005/01/25(火) 23:20:13
不可思議というのは考える余地を与えない・・・。つまり、同時に起こる。
思惑外れな部分が過去と一致するが、本来見るべき因縁には関係しないので知り得ない。ということでもあると思います。だから、あえて、必偶然という言葉は撤回します。

76地震:2005/01/25(火) 23:32:54
過去に限らず他とも並んで一致することがあり、それは驚嘆することに等しい思います。
観念の虜は不信のもとで、因縁に従うのは信のもとだと思うのですが、いつも例外があると思いますので
すいませんが、このへんで止めておきます。

77地震:2005/01/25(火) 23:57:14
77。
思惑外れであろうがなかろうが過去と一致する。これは記憶力を養うものであり、確かであるという信を
得る元となると思います。

78地震:2005/01/28(金) 20:25:40
(ここに偽の独覚がいるとして、全ての思惑は異教徒の教えであると知り、あらゆ
る論争に傷つけられる事が無く、無の境地であり、また、言葉の世界において主語
を持たず、無始無終の完成者である者がいるとする。
この人は主語を定め、有始有終に入るにも自在なのである。
しかし、無間の独覚から脱することができない咎があるのである。
それ故に、両界による神通力によって彼は全てを剥ぎ取られる事により、恩に信順
し、真の独覚になるのである。

79地震:2005/01/28(金) 21:07:36
但し、この経に遭う者に限る。また、剥ぎ取られたもの、捨て去りしものはこの経にて最高の玩具のごとき形となって再び与えられるのである。)

80地震:2005/01/28(金) 21:12:09
玩具のごとき→訂正→願望の形

81地震:2005/01/28(金) 21:56:22
多分一般の学会員は現実主義で民衆主義なので、「それは無いだろう」とか「不思
議である」とか「祈るべきである」とか「魔の所為である」と答えると思いました。
しかし、言葉ではどうしょうもない人に私はこのように言うのです。
「言葉の秩序を乱し、言葉の持つ意味を無効にすべきではない。
無効にすれば神通力によって補われる。
神通力によって無意識が働くことは、意識にとって恐怖でありうる。」と。
しかし、逆をする人には逆を答えています。
言葉で済んでる内が良いのかもしれませんし、行き過ぎて言葉ですべてを把握する
ことは逆に良くないかもしれません。
お詫び:
表現方法として神通力と言う言葉や仏教用語を使ってみたかっただけだから不気味
に思った方の為にここでお詫びします。m(_ _)m
っていうかそういう方には無視されてると思いますが(笑)失礼します。

82地震:2005/01/28(金) 22:09:47
何度もすいません。>81ですが、レスも返って来てないのに(笑)をいれると
おかしいと思いました。すいません。
あと、80の訂正で願望の形に訂正すると願望の形形となってしまうので、願望
のにまた訂正します。すいませんでした。

83地震:2005/01/29(土) 16:45:02
(ここに偽の声聞がいるとする。常に教えを理解し、その教えを聞いて喜び自分の
ものとする力と機根を備えている。また、自らに与えられない言葉も自らのものと
し、常に教えを聞くことと、それを理解し師の言葉を理解する事において巧みであ
る。しかし、この人は常に同じ類の物しか受けられず、そういうことが理由で無間
の声聞から脱することができない。しかし、この安楽を完成させようとし、自ら他
の利を横取りしようとする事により失敗し、自信を失うとともに全ての教えは捨て
られ、それまでの師から教えを聞くことを受け入れる事ができないでいる。それ故、
自らを道を誤れりとし、振り返り道を求むる以前の恩人に信順するのである。
この経に遭うひとは、失われた教えは不動のものとして再び与えられ異なる教えを
利あるものとして通達させることとなり無間より脱するばかりでなく善き教えを常
に両界より受ける恵みを得、真の声聞となるのである。)
(この経に遭わないものは川原で石を積んでは鬼にそれを崩される子の絵図の如
し。)

84地震@はぐれメ○ル:2005/01/29(土) 17:09:57
夢物語りはまだ続けてもよいのでしょうか。ニーゲチャオーット......(((^。^;

85地震:2005/01/29(土) 22:08:47
書き込むことでいやされました。遥さん=Loveさんありがとうございます。
84は愛嬌です。なれなれしかったらすいません。
では、唱題します。

86ブルーセブン:2005/01/30(日) 16:57:03
地震からHNを変えました。
僕は楽しい範囲で占いやカルトが少々好きになったことがありまして、どうもこの
HNは嫌われそうなので。
ところで、ブルー・セブンの法則って知ってますか?
最近知ったのですが、ブルーとセブンは嫌われないという法則があるそうです。
そういえば細○さん最近見ないなあ。

87ブルーセブン:2005/02/25(金) 21:15:06
>>86
カルトとオカルトと同じと思ってました(汗
カルトはオカルトと思ってました。間違いです。
カルトについてもよく知りません。
訂正させて頂きます。

88ブルーセブン:2005/03/02(水) 14:37:04
仏教っぽいことを書いたと思ったのですが、読んだ書物をもっともらしく連想しただけのような気がします。

90Love ◆gxloveUhfc:2007/03/06(火) 09:42:42
rice boyさんの質問です

>煩悩障と煩悩魔の違いって分かります〜?

なつかしい。。。
三障四魔だーーーwww
じゃああ、わかりやすく説明しますね
煩悩障とは、
riceboyさんの常識のない書き込みをするという『煩脳』の働き
いわゆるおかしい行動をとってしまうことです
煩悩魔とは、
riceboyさんの常識のない書き込みをするという『煩悩』の働きを促す魔の働きのことです
この『魔』というものは、イロイロな姿に形を変えてしまうので、この『魔』にいかにふりまわされないかが『信心』です

93riceboy:2007/03/06(火) 22:04:16
Loveさん、すばらしいですね〜。パチパチパチ(拍手)、さすが、教授だ

けのことはありますよね。僕なんかまだ、その一段、

下ですからまだまだですね〜(笑)。因みに煩悩即○○も教えて欲しかっ

たですね〜。

94riceboy:2007/03/06(火) 23:50:02
仏法あれこれ。。。お勉強スレットというタイトルをつけるのは、

勝手ですけど、仏法を命で理解していないのに、信心の確信を掴んだこ

とが無いのに、このタイトル付けるのは、まだ早いような気がします

よ。「上げ足取り方あれこれ。。。お勉強スレット」にしたほうがいいと

思いますよ。

95Love ◆gxloveUhfc:2007/03/07(水) 09:13:25
>>93

riceboyさん

勝手な解釈は困りますね
やっぱりバリバリさんは恐いですね
私の書き込みのどこに『教授』と書かれているのかとても不思議です

>>94

よっぽど悔しかったんですね
可哀想に(┯_┯) ウルルルルル
今朝は北海道とても寒かったのに、朝7時40分にはここを覗いていたのですね
ごめんなさいね
主婦って以外と忙しいんですよ

書けば書くほど『創価学会』の悪い部分を出していることにまだ気がついてませんね?
何度もいいますが、ここは削除しませんよ

96Love ◆gxloveUhfc:2007/03/07(水) 10:23:02
>>91>>92
Loveの2重投稿により削除していますーぺこ <(_ _)>


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板