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祈りは叶わない(?)

1プッシー:2004/01/06(火) 19:21
私はこないだまで御本尊を信じてたんですが…今は信じてません。皆さんはどう思われますか?

49富士山噴火:2004/01/26(月) 16:04
>>43遥さん

めっちゃ凄いやん!

50遥 </b><font color=#FF0000>(CuAGZ/CY)</font><b>:2004/01/26(月) 16:37
>>49

あっ!
富士山噴火さんだっ☆
おひさ〜〜〜
元気でちたか(^_-)☆

51富士山噴火:2004/01/26(月) 18:52
>>50遥さん

いやいや。年末から原因不明の腹痛が続いてましてね。今日検査に行ったんだ。
でもなにもなくて良かった。ホっとしてます。ん〜〜。ストレスかな?

52非活動1年生:2004/01/26(月) 20:58
>>48
う〜ん・・この問題は難しいですね。
私は日蓮仏法は性に合わないので、その観点からは何も言えないのですが、
学会員は「祈りは何でも叶う」という事を強調しすぎる、とは思います。
学会員がそう言う背景には本尊に対する信仰というのがバックボーンにまず
あって「祈りが叶う」はその一部であり、核心ではない、という事を表したいの
かも知れませんが、どう考えても普通の人は「祈りが何でも叶う」っていう
かなり魅力的な(?)表現にばかり目が行きかねない指導をしているなぁ、とは
思いますよ。

長いこと学会にいて「これこれが出来て(叶って)幸せだった」と言う
体験は山ほど聞いたけれど、「これもあれも叶わなくても人間として幸福だった」
っていう体験はあんまり聞いた事ないなぁ。「幸せ」の観点が違うのかなぁ。

もちろん叶う事は良いことだし、必死の祈りの人もいるわけだけれど、
私個人としては宗教ってむしろ「つらい人」を「つらい時に」心から支えるものだと思うし、
その前に自分にとって「真の幸福」って事を教えてくれる物でもあると思うのですが。

ああ〜。又分かりにくい文章をしたためたよ〜。許して。

53さかなこ:2004/01/29(木) 11:59
>>48

私も日蓮仏法というか創価仏法は性に合わなかったタイプの人間でした。
「祈りが叶わなかった」ときのギャップに私自身が苦しんだことも
ありましたし…。

「祈りは何でも叶う」というのは聞こえはいいのですがこの世の中には
どうしても不可能なことがあるということを教えることも大事だと思う
のですよね…。精神的な病に宗教はプラスにならないというのが現代の
精神医学会の見解のようですし…。創価学会の精神医師も題目をあげること
を規制するような治療をしていたHPを見たことがあります。

最近、育児、出産関係の雑誌を読みますがそこにかかれていた産婦人科医の
言葉がとても印象的でしたので書いておきます。
「戦後の教育で努力すれば報われるというようなことを教えすぎて
努力してもどうしようもないことがあるということを誰も教えてこなかった。
実が熟さずに途中で落ちてしまう木の実があるように流産、死産、子供に恵まれないなどの
人がいるのは自然の摂理として当然のことである。それを悪いことだとする
世間的な風潮のために心理的な負担を女性たちに負わせる傾向が未だに
残っている。努力してもどうしようもないことがあるという方が
自然なのだということも知ってもらいたい。」

54名前はごめんね:2004/01/29(木) 14:57
非活動1年生さん、さかなこさん

>>52
>宗教ってむしろ「つらい人」を「つらい時に」心から支えるものだと思う

>>53
>この世の中にはどうしても不可能なことがあるということを教えることも大事だと思う

同感です。
「つらい時に」かける言葉が上に書いてきたような足りないとか何とかじゃねぇ・・・

私はこの宗教に関してふか〜〜〜く体得した訳ではないですが
普通に信仰しようと思い立ち、学会活動をしていく中で
絶対に思い当たるこのような疑問に納得のいく答えが提示される事はありませんでした。
そして私が出した答えはとにかく実践。頭で考えても分らないんだから
行動あるのみってやつです。そういう指導もされますから。
でも結局同じ疑問に戻ってきてしまいましたw

自分なりに一番納得がいく考え方が出来るようになったのは
さかなこさんの書いてくれた産婦人科医の言葉と同じような考えでした。
そこまで辿り着くまで非常に辛かったのですが。

あきらめとは違います。可能性を閉じる事はしたくありません。
・・・けれども、どうしようもない事も確実にあるんですよね。
それが不幸かどうかも人によって感じ方も違いますしね。

55非活動1年生:2004/01/29(木) 17:16
さかなこ様 名前はごめんね様

レスをありがとうございます。
何だかお二人のお言葉、読んでいて涙がでました。(歳のせいで涙腺が弱い)

実は私も活動家時代は「何でも叶う教」の信者でした。
でもその考えが逆に自分を大いに苦しめたのです。

私は今まで、自他共に認める努力家で、どんなことでも努力によって
大概は自分の思い通りにことを運ぶことが出来ました。
何だか今考えれば「おめでたい」人だよね。

でも歳を経るに従い、「自分の努力ではいかんともしがたいことが世の中には
ある」という、実に当たり前のことに気が付き、ものすごく愕然としました。
(ホント、めでたい人!)
それ以来、私は逆に「努力」という言葉が死ぬほど嫌いになりました。
「人間の努力なんか、何になる」という究極のニヒリストになったのです。
(誤解なきように言っておきますが、物理的に悲しい出来事があったわけじゃないです。
ただ、ある時そう感じ始めたのです。)

その時ウチの主人に
「努力って一体何?世の中には人間の努力なんて及びもしないことがたくさん
あるよね」
と言った時のウチの主人の顔ったら!
「ポカ〜ン・・君、アホちゃうか?そんなこと、小さい子供でも知ってるで。
今までそんなことも知らんかったとは、ぬぉ〜!おめでたい!」
後編に続く・・・

56ニコ:2004/01/29(木) 17:31

非活動1年生さん!
後編に続く前に今気が付きました・・・
>>54はわたすですた(´・ω・`)ごめんね

57非活動1年生:2004/01/29(木) 19:57
ニコ様
了解だす。

後編も再びコテコテ関西弁は続く・・・
主人曰く
「でもそれと、努力に意味がない、というのは違うで。同じように努力した人間
でもマラソンで金メダル取る人もいるし、最下位でゴールする人もいる。その
最下位でゴールした人間に、努力なんて意味ないね、って君、言うんか?
努力が叶うって金メダル取ることだけか?」

私は返す言葉が無かったです。(関係ないけど、私マラソンは苦手ですだ・・・)

ここで問題なのが、私にとっては宗教(当時は学会活動)も「努力」の範疇
であったのです。こんなに(嫌なことを)やってるんだから、報われるのが
当然だ、という考えです。(もちろん、日常的意味での努力の上に、ですが)
そして、主人の言うように私にとって、「報われる」は金メダルの意味だった
ように思うのです。(自分では、自覚が無かったけれど)

何故そんな近視眼的な物の見方であったのかは、色々理由がありますが、
私の場合は学会の指導をその様に曲解していた、というのも有るかも知れません。
その様に受け取ったのはもちろん、私に責任があるのですが、学会の指導も
あまりにも「勝負」とか「勝て」ということに重きを置きすぎると思います。

ああ〜、ちょっと今から仕事です。
このつまらない話はまだ続く・・・・

58非活動1年生:2004/01/29(木) 23:56
つまらない話、続き。
折も折、座談会の「一口発言」コーナーで誰にしゃべってもらうかを
決めている時に、ある幹部が「志気を高める為にも、功徳をもらった人だけに
して、あと、しょぼい人は黙っていてもらおうや」

ガ〜ン!あんた、それでも宗教やってるのか、苦労している、苦しい人達こそ
慰めるのが宗教だろ!と私は持っていた「大百蓮華」を投げつけた。(と言うのはウソ)

私はその頃は究極のニヒリストを脱していて、どんな人間の小さな努力も(信仰も含めて)
結果はどうあれ、尊いと信じるようになっていたので、その場にいること自体に
ムチャクチャ違和感を覚えたのです。

まだ、続くつまらない話。今日は寝ます。つまんなくってゴメン!

59非活動1年生:2004/01/30(金) 15:41
つまらない話で又、登場してます。

「一口発言事件」を切っ掛けに、私は
「自分は学会にいてはいけない。ここにいると、自分の様に本質的には
結果主義の人間は、結果ばかりを追求して、そのむなしさに又、つまずき、
再びニヒリストへの道を歩む」と思って学会からは離れました。
(他にも理由は山ほどあるけど)

誤解されてはいけないので、付け加えると、学会員の皆さんが全員結果主義とは
思いません。なかには宗教の本質を知る高潔な人がたくさんいました。
でも、私は違った、というだけです。そして私のような人はやっぱり、学会には
(というか、創価仏法には)徹底的に合っていない、と思ったまでです。

だけど私はやっぱり「祈りは(大きな意味では)叶う」と今も信じているし、
(学会で言う祈りの叶い方とは違うけれど)祈る人を尊敬してますよ。
またまた、意味不明、長くてつまらない話でした。ごめんね。

60さかなこ:2004/01/30(金) 16:07
非活動1年生さま、ニコさま>

お二人のレスをうんうんと頷きながら拝見させていただきました。

以前、母親が連れ出しをした友人が体験発表を聞いてこんなことを言っていた
そうです。
「確かに体験発表は素晴らしかったと思う。でも、同じ体験をして成功
しなかった人はどういうふうに思うだろう…その人の気持ちも考えて
あげてほしいと思う」というような発言をしていたそうです。
そのときはバリバリだったので意味を掴めませんでしたが、今はそれを
言った人の気持ちが分かるような気がします。

宗教というのは案外、現世利益を得るためのものではなくて
どうしようもできないことを受け入れるための勇気を得るための
ものだったのかもしれませんね。もちろん私も現世利益を否定したりは
しないのですけども。

61:2004/01/30(金) 17:18
今の自分の信仰心からすると、
「願いが叶う」とういのは「希望を失わない」というニュアンスかな。

特別なことが突然起こるとは捉えていなくて、
どんな状況でも絶望しないで解決の糸口を見いだせたり、
不可能なことに思えることでも突破口を見いだせたり、
だからあきらめず頑張れて、結果的に願いが叶うといった感じで捉えています。

62非活動1年生:2004/02/02(月) 17:50
両様

初めまして!よろしくお願いします。
>>61
>「願いが叶う」とういのは「希望を失わない」というニュアンスかな。

私もそう思いますよ。

有名な言葉なのでご存じの方も多いと思いますが、私は次の言葉が好きです。
(キリスト教に反発を感じる方は有名な言葉だ、とだけ解釈してね)
「神よ、私に、手に負えないことがらを受け入れるだけの冷静さと、出来る
範囲のことを変える勇気と、それらの違いを見分ける分別を与えたまえ」

かの名著、デール・カーネギーの「道は開ける」にも載ってますよね。
クリスチャンではないので、この文章の本意が分かる、とは言えませんが
好きな言葉です。

63ニコ:2004/02/02(月) 17:53
非活動1年生さん。

全然つまらない話なんかじゃないですよ!
何故だか最近ゆっくりパソコンの前に座っていられないので
後日またゆっくりレスしますが、よかったらその時また読んでください。
ご挨拶まで・・・失礼します。
勝手なこと言ってごめんなさいね(・ω・`)

64さかなこ:2004/02/02(月) 19:40
1年生さん>

>「神よ、私に、手に負えないことがらを受け入れるだけの冷静さと、出来る
範囲のことを変える勇気と、それらの違いを見分ける分別を与えたまえ」

以前、どこぞの掲示板で仏教的だと話題になって言葉と同じですね…
あっちはマイケルJフォックスの書籍からだったけど..こっちが
元ネタかな…(;´瓜`)

やっぱり同じような言葉をうつ病の本で読んで「はっ」と思ったことがありました。
「できないことを無理にやろうとしてない?できることをやらないでいない?
まずはできることからゆっくりと初めてみよう」とか…
「不可能なことを可能にする信心!!」を信じてきた私には目からうろこだった
思い出があります。

65非活動1年生:2004/02/02(月) 20:41
さかなこ様
マイケルJフォックスはパーキンソン病で、確かそれに関する本を出していて
そこにこの言葉を引用されているのだよね。
関係ないけれど、彼が「スチュワート・リトル」で、スチュワートの「声だけ」を
担当しているのを知り、又、その彼に報いるためか、同映画の中でスチュワート
が「バック・トゥー・ザ・フューチャー」で演じたギターで踊るシーンを
スチュワートに演じさせているのを見て、とても感動しました。
演技が出来なくても声だけでも演じる彼に対するオマージュなのでしょうか?

話題は戻りますが、
この言葉、元は「何とかさん」という(スッゴイ健忘症、許して!)牧師さんの
言葉だったと思う、です。

66非活動1年生:2004/02/02(月) 21:22
バカな私、自己訂正文。
>>65
>スチュワートが「バック・トゥー・ザ・フューチャー」で演じたギターで踊るシーンを

の文、「スチュワートが」を「マイケルが」に変えて読んでくださいね。
何か、訳が分からないことになっちゃってゴメン!特にマイケルファンの皆さん。

67遥 </b><font color=#FF0000>(CuAGZ/CY)</font><b>:2004/02/03(火) 01:10
非活動1年生様

>マイケルJフォックスはパーキンソン病で
知らなかった( ̄□ ̄;)
超ショック。。。
そういえば。。。出ていないよね( ̄◇ ̄;)   
「スチュワート・リトル」。。。見ていないので早速チェックじゃ

68ニコ:2004/02/03(火) 15:31
非活動1年生さん

万人を救う宗教と言いつつ、やっぱり『合わない』ってありますよね。
どんなに高潔な理想を掲げていても、いざ実践となると『合わない』と感じる場面が多々あります。
私の場合は親を通して創価学会という宗教を信じ込んでいたんでしょう。
いざ自分にとっての宗教を考えてみると本当に強くそう思います。
仏教とか日蓮の法華経ではなく実は創価教だったんですよね。
だから『合わない』と感じる場面があるんだと思います。

ちょっと関係ないけど私がもう限界!合わない!!!と思ったのは
スケジュール帳が学会関係の予定で埋まる事ですw
よく常に何か予定が入ってないと取り残された気になる人っていますよね。
何かしてないと生きていないような気がしてしまうのでしょうか?
私はそれとは正反対で予定が入っていると気が重くなるタイプです。
来月子供の検診が入ってるってだけで緊張するんですw
その日は風邪も引けないし行かなくちゃ!とか考えると気が・・・・・
そんな訳で最後のほうはほぼノイローゼー気味でしたw
予定で埋まった手帳にw
あんまり効率的ではない生き方かもしれないですけど
それが私には一番気持ちよく生きていける生き方なんですね。
その事に気が付いてからものすごく楽になりました。

人それぞれ個性や性格がある以上、唯一絶対と言うのなら
誰もが納得できる創価教でないとおかしいと思います。

という事で、創価学会の題目で祈りが叶うとは思えません。
という結論がでました(・∀・)

69非活動1年生:2004/02/03(火) 16:25
ニコ様
>万人を救う宗教と言いつつ、やっぱり『合わない』ってありますよね。
私もそう思いますよ。っていうか、自分はその代表選手だったりする・・・

>私はそれとは正反対で予定が入っていると気が重くなるタイプです。
実は私もそうですよ。今はそう言う自分も「自分」と認めているので、
何とも思わなくなったのですが、以前は活動的な友人と自分を比べて
「自分ってなんて人生を有意義に生きられないんだろう」と思い悩んだり
しました。でも今はかなり成長して(?)悩んだり、おろおろしたり、
泣いたりする内省的な自分も「自分なりに」一生懸命に生きている、と
思っています。そして、もうそれだけでも自分は価値がある、と思うように
しています。(加藤諦三先生の受け売り?)

70ニコ:2004/02/03(火) 16:40
>>69
非活動1年生さん

同じだぁ〜!(´・∀・`)のんびりタイプって事でw
私はお天気のいい日にベランダに干した布団に顔をうずめて
ふかふかの布団のにおいに無上の幸せを感じるタイプです・・・
ますます話がそれていくわ・・・

>悩んだり、おろおろしたり、泣いたりする内省的な自分も
>「自分なりに」一生懸命に生きている、と思っています。
>そして、もうそれだけでも自分は価値がある、と思うようにしています。

そうですね。辛い事とか、不幸と感じることを避けては生きていけません。
本来そういうことを乗り越える力となるものが宗教ですよね。
一律無理して学会活動する事がその力になるとは言い切れないですよね。

71:2004/02/03(火) 17:33
>>62
非活動1年生様
どうぞよろしくお願いします。

>「神よ、私に、手に負えないことがらを受け入れるだけの冷静さと、
出来る範囲のことを変える勇気と、それらの違いを見分ける分別を与えたまえ」

 自分はこの文から、常に客観性を失わないことの大切さ、といった印象を受けました。「己を知り敵を知る、百戦あやうからず。」や、「八風に侵されない賢人。功徳とは六恨清浄。」などとも共通している概念なのかな。宗教の役割として、人間の理性を高度に発揮することがやはりあるのだろうと思っています。

72:2004/02/03(火) 17:36
>一律無理して学会活動する事がその力になるとは言い切れないですよね。

学会活動と信仰心は別のものだろうと自分も考えています。
信仰ですから人の営みの全てを信心修行と捉えることができますが、
熱心な活動家だから、信心があると言えるでしょうか。
垣間見る言動から、「どうも信心がない人ばかりが活動者になった」と
この近辺では暗黙の了解があったりします(笑。
学会活動でいえば
新聞啓蒙、民音等の営業支援や、選挙支援等の政治活動の目的を、
信仰と結びつけるのは簡単ですが、手段が目的化した例だとも言えるでしょう。
どう言っても、聖教新聞社、民音、公明党とその連立党が利するためのもの。
どう捉えるかを会員に強いることが信心であるような強弁もあるでしょう。
また、人間らしさって、「信」を信として知情意と区別していることで、
同一視したところから、正義を振りかざした思考の停止した
非人間的行為もあるのだと思っています。

73非活動1年生:2004/02/03(火) 17:53
ニコ様
ホント、私も「のんびり屋さん」です。これからもぱるぱるさんの
お言葉どおり、「しょぼしょぼ」いきましょう。

両様
>宗教の役割として、人間の理性を高度に発揮することがやはりあるのだろうと思っています。
そうかも知れませんね。
この言葉「神よ、〜」を聞いて、「それは負け犬の諦めってことじゃないですか?」
と言う人もいるかも知れませんが、私はそうじゃないと思っています。

マイケルJフォックスのような状況に陥って、全てを諦めて絶望する人間も
恐らくはいます。でも例え「声だけ」でも出演する彼は本当に偉大だと
思います。あんな大スターが人前に出ることさえ出来ないのは本当に
辛いだろうと思いますが、それに負けない彼を誰も「負け犬」とは言えない
です。

あれ〜、こんな時間。夕食作りますだ。又ね、両さん。

74:2004/02/03(火) 19:27
>>73
人生を語れるほど悟っていませんが、
人生って「負け」の連続だと思っています。
なにも自分を卑下してそう思うのではなくて、
恐らく多くの人が負けの連続を意識していないだけで、
大部分の人が客観的にそうだろう見ています。
偶に勝って、自己実現が可能になったアメリカンドリームがドラマになるのも、
極端に悲惨な末路を歩む人生が絵になるのも、
バーチャルに他人を見て自分を投影しているから、
笑ったり泣いたりできるのだと思います。
ドラえもんのポケットと、学会がよく煽る「勝利」って、
リアルさがないのがよく似ていますが、現実の儚さを知っているから
これも人情で楽しめるのではないでしょうか。
リアルじゃないと意識しているかどうか、大人でもこれは別だと思いますが。。。
どちらにしても、わびさびの日本人の心や、仏教の説く人生観と、
学会のやたらの煽りは、異質な文化だろうと感じています。

75非活動1年生:2004/02/04(水) 15:30
両様
>>74
>仏教の説く人生観と、学会のやたらの煽りは、異質な文化だろうと感じています。

私は浅学なので仏教の本質は分かりません(仏教団体にいたのになぁ)
ある時学会の指導に不信を持ち、学会指導→御書→法華経→法華経以外の釈迦仏教
と少しだけ勉強しました。(あくまで少しだけね、すこしだけ)

その時、この矢印が一つのまっすぐな道を辿っていないことに気づきました。
詳しくは書きませんが、(書けませんが?)「大乗非仏説」という言葉に
つきあたり、法華経や他の大乗仏教が釈迦の直接説いた説ではない、という
学説を知りました。その時同時に「法華経」の仏教における一般的位置づけも
知りました。それはここでは書きませんが、要するに学会がその指導の
拠り所としている仏教はその本流とは「似て非なるもの」と感じました。

76非活動1年生:2004/02/04(水) 15:39
続き

でも、学会の仏教のとらえ方を「間違っている」と私は言いたいのではありません。
つまるところ、宗教は「解釈」に過ぎないのだから、どう解釈をしても良いのだし、
学会教学も釈迦仏教と異なることをむしろ誇りとしている、と思いますよ。
(釈迦仏教ではもはや衆生は救われない、といつも言っていますものね)

ただ、私は学会指導とも日蓮さんというお坊さんともあんまり気が合わない
ので、勉強をしていても何となく納得出来なかったです。
まあ、やっぱり相性の問題でしょうか。

77非活動1年生:2004/02/04(水) 16:32
オマケと言い訳

何だか自分の書いた文を読むとかなり誤解をされそうな文だったので一言。

私は「本流」が常に正しい、と言いたかった訳じゃありません。その論法で
いくと人類には進歩なんてあり得ないことになる、と思います。それに
「宗教」にそもそも「正しい」という尺度なんかは必要がない、とも思います。
自分の信じるものはその他の物と比べようがないし、学会の指導で幸せになる人は
たくさんいます。ただ「本流(古典的の意味)の方が性に合います」とか、
「いや、仏教以外の宗教が自分には合う」とか言う人を「正しくない」とは
言って欲しくはないなぁ。より、分かりづらくなっちゃった、です。ゴメン。

78:2004/02/04(水) 18:11
およそ、同じ宗教でも個人の理解や捉え方の差のほうが激しいものでしょう。
また、思想や宗教なんて、人間が醸成していくのが本筋だと思うのです。
社会が新興宗教と旧来を区別するのは、醸成期間があったかどうかで、
人が味を決めていく要素が強いからだと思っています。
そういった意味で本流に回帰することがどうか、微妙なところですね。
回帰の前提として、意を汲んで教条的にならないことが必要だろうと考えています。

79非活動1年生:2004/02/04(水) 18:49
両様
このスレは「祈り」に関するものなので、ちょっと話題がずれてきていまい
ました。しかし、私も宗教を考えることは好きなので、両様の>>78への
レスは既存の「仏法あれこれ お勉強スレ」に書き込みます。

どうかよろしくね。

80:2004/02/04(水) 19:01
>>79 リョウかいしました。

81イタル:2004/02/18(水) 20:39
一応突っ込んどきます。

>>80←しゃれかよ(三村、田中)ヽ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∇ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄;)ノ

さてと
自分の掲示板に掲載したものをアレンジしたものを書き込みます。(;´▽`A``

「信じるものは救われる」良く言われる言葉であるが、この信じるとは何か。
これは他力ではなく自力の信なのです。けして誰かに救ってもらうものなど
ではなくて、自分で解決するものなのです。功徳も罰も、神や仏がくれるもの
ではありません。全ては、自分が造りだすものなのです。

お願いは、自分に対するものは適いません。必ず自身の思い(決心、誓い)
が適うのです。信念を持って行えば、回りもそれにつれて上手く動いていく、
それが諸天の加護と言うものなのです。万が一上手くいかなくても、何らか
の障害が有っても、それをプラスに転換していくのが、変毒為薬であり転重
軽受なのです。自分に宿った命は今世では変えられませんが、自分で運ぶ
命は変えられるのです。運命を変えて(思ったようにして)いく、之を今世の
宿命転換と言うのです。お願いは、他人に対するものが適います。そしてそ
れが自身に返って来るのです。

人は思った以上にも以下にもならないといいます。思った通りの生き方しか
出来ないのです。願いは全ての人に適います。最初と言ってる事が違うと思
われるかもしれませんが、そうではありません。普通の人は必ず、何か思い
や願いが有っても「多分ダメだな」とか「きっと失敗するな」と思ったりするの
です。だからその通りになってしまうだけなのです。河合師範の指導などにも
有ります。また辻副会長の指導にも有りました。残念ながら今は有るお方の
指導としてしか出てきませんので、この辺りが指導されなくなっていますね。

そして、闘うとは自分に対してであり、けして自分に敵対する人を打ち負かす
事などでは有りません。周りは全て自分の鏡であり善智識であります。そして
信仰の対象となる「ご本尊」は、全て適えてくれる神様仏様ではなくて、自身を
写す鏡なのです。鏡に向かって何を願っても、それは自身に向かっているの
と同じなのです。全てはこの胸中に有るのですから。

つづく

82イタル:2004/02/18(水) 20:41
つづき

前向きに考えている時と、後ろ向きに考えている時では、免疫力にかなりの差
がある事が科学的に証明されてきています。病も「もうだめだ」と思ってしまえ
ばそれまでなのです。必ず治すんだと思えれば、思い続けられれば絶対に治ら
ないものなど無いのです。TV番組で手術不能の脳腫瘍を治した少年の話しが
ありましたが、これは奇跡でもなんでもないのです。絶対にやっつけてやると
の思いが、思い続ける事が腫瘍を消し去ってしまったのです。元々自分自身が
自分自身の中に造り出したものでしかないのですから。

今の人は病を楽しんでいるとしか思えないところがあります。結局諦めの心境
がそういう結果を招いていると言う事なのです。また共に戦うとは、お互いが相
手の苦しみを自身のものとして同苦し解決に向かって共に進んでいく事なので
す。願いの適う人と適わない人がいるのは、結局どこまで自身の思いが継続で
きるかでしかないのです。しかし、何でも適うと言っても、その願い思いによって
は、かかる時間が違います。よってものによっては今世では時間が足りないも
のが有ります。来世の事は(本当に有るものかは)、死んでみなければ判りませ
んから何とも言えませんが、その意識の継続が自身にとってのプラスに働いて
いくものだと思います。

めいっぱい忙しい時は風邪なんか引きません。暇になったり、気を抜くと風邪を
引いたりします。これなども「気=自己免疫力」だと思います。自分に負けなけ
れば全てに勝てるとは、こう言う事だと思います。信仰はこれらを助けるもので
有ると思います。けして自分を見失う事無く、正しい思いを持続していければ、
必ずや良い方向に向かって行くものであると思います。そして、それを導くもの
が宗教であると思います。

同じ様な事を「ゆうきさん」(sonomitoha)が言われてますが、祈り
として適わざる事無しとはこう言う事であると思います。よってある意味宗派は
関係無いとも言えますね。そして判っていても、お前はどうなんだって言われれば、
なんとも答えられない。まあこの辺りが難しい事では有りますが。(;^_^A アセアセ・・・

83ぱるぱる:2004/02/19(木) 13:31
このスレに合うかわかりませんが、与太話を一つ。
他のかたもこういうことありますか?
私はすごく心配性なので心配事があると、ずっとそれに心を奪われて
どうしようもないくらい心配が続くんですが、いざとなると
全く問題なく事が運ぶ事がよくあります。
これは私の心配が過剰で実際はそうでもなかったのか、あまりにも思い続けるあまり
何かしら見えざる次元で「はからい」があったのか・・・そうだとも、そうでないとも
どっちの場合もあるとも言えることですけど。
あと、人に話すと危険が回避されるということもままあります。
念の力はあると私は思うのですが、そしてそれが解明されれば楽しいなとも知りたいともおもうのですが、
その一方で、これははっきりしないことこそ人類のためなのかもしれないとも思います。
なにごとも解明されりゃあいいってわけでもないですもんね。

84イタル:2004/02/19(木) 17:32
ぱるぱるさん、こんにちはm(__)m

私はじつは初めてではないんですが、ぱるぱるさんは私を知らないと思うので
はじめましてm(__)m、私の事は自己紹介を見てね。

与太話などではありません。
人の念と言うものは存在いたします。それが解明できるかって言うと、今の科学と言われる
ものでは無理でしょう。でも、夫々の人はなんとなく判っているんじゃないでしょうか。

また「気」と言うものに置き換えても良いですね。
あなたの心配ごとは、多分「上手くいきますように」「失敗したくない」って思っていたのだと
思いますが、前向きであったので上手くいったのだと思います。

これらは、全て神や仏のハカライではないのです。自身の思いが適ったということだと思います。
人に話すと云々は、その人のあなたへの思いも加わるからではないでしょうか。

85:2004/02/19(木) 18:28
>>81
イタルさん。はじめまして。
ありがとうw。

86イタル:2004/02/19(木) 20:12
どうもぉ、はじめまして

関西系は、どうしてもつっこみを入れたくなりますもんで(^▽^;)

87ぱるぱる:2004/02/20(金) 00:51
>>84
>これらは、全て神や仏のハカライではないのです。自身の思いが適ったということだと思います。
仰ることわかります。
ただ、なにを神や仏と名付けてるかという点で、そしてそれをどう捉えるかというところで
意見が違ってくるのかもしれません。

私はこの世の意識は別々になっていても根は一つと考えます。
自分が頑張ってれば、また一途に思えばその力が発揮されると考えています。
それを「はからい」と捉えることが私は好きです。
そう思うところに感謝も生まれると思うので。
一つと思えば、他のスレッドにイタルさんが書いていらっしゃる、悪口を言えば
自分に返るというのもわかりやすいかな?とも思います。
だって自分に言ってるんですものね。
それはさながら自傷行為と言えるでしょう。

88イタル:2004/02/21(土) 20:46
こんばんは

昔、なんかの映画でミトコンドリアレベルでみんなつながってるって言うのが有りましたね
なんだったかなあ?

ま、それはそれとして、生物は水が無いと発生しません。その水を通して全てつながってる
って言う説もありますね。

少しずれました( ̄∇ ̄;)。

どの宗教も、原点では他人への愛を説いています。そして我欲も捨てるように説いてますよね。
なのに、発展中に自分達だけになっちゃうのは不思議ですねえ。

ま、全ての因は自分に有りって事は・・・・・・・・間違いない(長井秀和)
自傷行為は、なんとしても助けたいと思いますが、自慰行為は笑って見てるしかないか。

89イタル:2004/02/25(水) 23:20
これageちゃお

90ラビット:2004/03/28(日) 07:13
「祈り」ではこのスレッドがありましたね。

キリスト教の祈りにはイエス自身がこう祈りなさいと言った「主の祈り」が
有名です。クリスチャンでも祈りが叶わないと試練を感じます。これをどう克服する
かで信仰を磨かれるのでしょうがね。耐えられない試練はないとは言われているのですが
低周波騒音地獄はまだ止まっていません。

91くるみ:2004/03/30(火) 12:29
お久しぶりです(^-^) 最近思う事私は、今まで御本尊に頼り過ぎていたかも…って

私の悩みは人間関係なのですが叶うのを当てにして実際自分で努力しなかった。


頭では祈ってるだけではダメなのは分かってるはずなのに…

だから学会から離れてやっとどしたら良いのかきちんと考えるようになりました。

学会は私にとってはマイナスだったのかな…

みんな、悩みがあって学会に入ってくるわけだから学会員の人、お願いだから魔法のような事を言わないで下さい!

それで期待して入会される方もいるので、現実を教えてから勧誘してあげて下さい!お願いしますm(__)m

92モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/04/02(金) 00:06
しかし祈るたびに願いがかなったら
そいつは確実に堕落するな・・・

そんなにしょっちゅう願いが叶わなくても
日蓮さんの仏法は生きる支えになってくれてるから
自分はそれでいい・・・
ほかの人がどう考えてるかは知らんけど・・・

93ラビット:2004/04/05(月) 23:35
宗教はアヘンと言う言葉があります。確かに宗教、神仏に頼り過ぎて真の努力
を怠り入る前より悪くなっている人を多く見受けます。麻薬と一緒でどんどん
きついものを求めるようになり人の忠告も耳に入らなくなってしまっている哀れな
人がいます。
集団の力は確かに強力ですがこれを自分の力と錯覚して躁状態になるのですね。
後でそれに気づいたときの恐怖に怯えて組織の言われたとおりにすると言う人が多いよう
ですね。
宗教は本来一人であるいは少数でやってこそ自己のためにもなるのではないでしょうかね。
等身大の自分でいいのですよ。

94モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/04/06(火) 00:50
私はいつも等身大でやっているつもりです。
誰の指図も強制も受けないので無理なく背伸びせず
できることだけやってます。

95くるみ </b><font color=#FF0000>(WEud8dUs)</font><b>:2004/04/06(火) 05:09
おおっとこんな時間に(;^_^ A フキフキ

ラビットさんもモーリスさんも自分の意見をきちんと言える方みたいで尊敬しちゃいますねぇ☆

>>92
>しかし祈るたびに願いがかなったら
そいつは確実に堕落するな・・・

それ言えてます。でも、学会の方って勧誘の時そんな感じの文句で折伏される様なので
>>91は書かせていただきました(^-^ ) ニコッ

>日蓮さんの仏法は生きる支えになってくれてるから
自分はそれでいい・・・

支えって考えなら良いですよね〜
私も支え的に考えられたら良かったんですが…

96くるみ </b><font color=#FF0000>(WEud8dUs)</font><b>:2004/04/06(火) 05:18
>>93ラビットさん

>宗教はアヘンと言う言葉があります。確かに宗教、神仏に頼り過ぎて真の努力
を怠り入る前より悪くなっている人を多く見受けます。

確かにそうですよね。。。私が寧ろ中毒てきだったかも…

>等身大の自分でいいのですよ。

この言葉、素敵ですね☆

なんかレスは私宛ではなかったと思いますが、意味不明なレスしちゃいました;スルーしていただいて結構ですので(;^_^ A フキフキ

97バナナパフェ:2004/05/05(水) 06:57
病気、ビンボー以外での、願いの叶った私の体験が、あります。今から20年以上前、テレビアニメーション「アンデス少年ペペロの冒険」がTV放送されていました。私はこのアニメを再び鑑賞したいと、今から祈ったのが5年ほど前です。

再放送は期待できず、LDで出る気配もなく、なつかしのTVアニメ特集といった番組でも扱われない、マイナーな作品ですが、
どうしても見たい!と祈ったのです。そうしたら、そのアニメが今年DVD・BOXで発売されたのです! もちろん即購入し、鑑賞しました。 叶うかどうかよりも、とにかく見たい!見たい!!という考えしか、頭にありませんでした。
今度はどんな事を祈ろうかと、ワクワクしています。

もちろん私は過去に病、ビンボーに遭遇し、祈りで克服した体験がありますが、それはまたの機会にカキコさせていただくかも
しれません。

98池ラーになろうよ♪:2005/10/27(木) 19:39:19
人生では人気PCゲーム、ファルコンのソーサリアンのようにしなければいけないと思います!
剣(道理)だけを使う世紀の勇者だけじゃなく魔法(祈り)だけを使う世紀の勇者も必要にしなければいけないと思います!
政治も
剣(自民)だけを使う世紀の勇者だけじゃなく魔法(公明)だけを使う世紀の勇者も必要にしなければいけないのではないでしょうか!
だから世界を政治を人生を、ソーサリアン化しなければいけないのです!



人生はソーサリアンですからー、
ザンネーン!

広きこうやにわれらはたてり
ケンタウァ目指して白馬も堂々
いざや行かなん世紀のソーサリアンw
我と我が友よ広布に走れ!!!!

斬りぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!


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