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TLCCC長老たちの信仰の態

1にほ:2004/03/17(水) 17:49 ID:.R6R1dDk
T弁護士とA責任長老の会談録を見ていて、思ったことがあります。

>「秋 給料を払いたいと思っています。」

この言葉は、A氏は自分の行いに自覚的悪意は無く、未だ彼の中では「信仰の姿勢(彼の独善である)」が保たれているから出る言葉なのではないかと。

私はこう思っていました。A氏は、もはや彼の信仰によってではなく、利己的保身を行動の動機としており、内部の服従している人はそれを善意に「信仰」と解釈している、と思い込んでいました。

A氏の「信仰」の結果が酷い霊的精神的虐待になり、「これはおかしい」と思われた方が脱会しているわけですが、A氏はちっともおかしくないと思っている…。

服従している牧師・長老もA氏を信じている自分を信じて虐待をする。または、信じても自分は虐待的なことはしない。または、とにかく外から虐待と言われても、それをしなければリバイバルが来ないなら、虐待といわれても「訓練」をする、と思っている…。
これが実態なのでしょうか。

皆さんの見方をお聞かせください。
これによって今後の課題への対応や解決策を考えなければならないと思います。

2高島:2004/03/18(木) 18:38 ID:30JeOtkU
 会話をした本人です。
 あのときは,私も,私の同労者(神学オタクっぽいところあり)も唖然としていました。
 
 その分析は,にほさんの仰るとおりだと思います(私には気づかない視点でした)。
 本人の表情ですが,「うっかり口が滑った。しまった」という表情は見て取れませんでした。「当たり前の如くに言い放った」というニュアンスでした。こちらは,いささかオーバーゼスチャーで驚いたのですが,「何驚いているの」という雰囲気だったと思います(さすがに記憶の正確な再現はできませんが)。
 間髪入れぬエゼさんのフォローがいかにも,「ばか殿」を守る老中と言う感じで,さすがに,「長老」と言うだけのことはあります。
 しかし,エゼさんは,良心の呵責というものは,感じていないのでしょうか? 2/29,3/07のメッセージを拝聴する限り,彼は,本部の流れとちがうことを考えているのではないかと思うのですが,希望的観測に過ぎないでしょうか?

 私は,エゼさんは,本質的に善良な方である,と直感しているのですが。

 にほさんには,エゼさんの心理分析もお願いしたいと思います。

3高島:2004/03/19(金) 22:19 ID:qVMvs6Ww
>A氏の「信仰」の結果が酷い霊的精神的虐待になり、「これはおかしい」と思われた方が脱会しているわけですが、

 ここまでは,「アーメン」です。

>A氏はちっともおかしくないと思っている…。

 これは,本当にそうなんでしょうか? 私は,バルティアンであり,人間の理性とか良識とか言うものには否定的です。
 しかし,人間は,神に似たものとして想像されたわけで,そこまで,腐っている人間っているのでしょうか?
 
 私は,職業柄,いろいろな人間を何千人と見てきましたが,どんなに邪悪な人間にも「神の似姿の欠片(カケラ)」を見て取ることができました。

4高島:2004/03/19(金) 22:25 ID:qVMvs6Ww
 「想像されたわけで」は「創造されたわけで」に訂正。


 P・Aさんは,やはり,TLCCCで示唆されているような普通でない「人格」なのでしょうか? だとすれば,何故? 私には,いくらかの推論が可能ですが,これ以上は,書けません。

5高島:2004/03/19(金) 22:36 ID:qVMvs6Ww
 キリスト教系の学者(宮田光雄だと思いましたが,その外水野謙も書いていたと思います)が「ナチスの精神構造」を研究して著書を書いています。ヒントは歴史にあるのかもしれません。

6高島:2004/03/19(金) 22:39 ID:qVMvs6Ww
4の訂正

TLCCC

は「TLCCCの真実」に訂正します。

7niho:2004/03/24(水) 13:37 ID:3upBukPc
九州のK「長老」は、Aを完全に「神が立てた使徒」と思い込んでいます。
私が'98年に彼と会話をした時のこと、私は「主の十字架の中で、各々の信仰(の中での判断)で長老を長老と認めるのだと思います。」(私は、各々の方がAやKを「長老」や「使徒」と思わなくても、それはそれで救いと祝福の道には何の変わりもないからそれで良い、と思っていました。)と言ったところ、K「長老」はかなり強く否定した記憶があります。つまりKにとってAは世界の誰にとっても使徒である「普遍的使徒」なのだと、今考えると思えます。そして、K自らも神に立てられたので神のためにAと共にその使命を全うするために、自分はその権威を使う、と考えていた、と思います。それらは今も変わらず、Aが聖書や「神の示し」を語る時、Kはそれを絶対化して受け取ると思います。しかしその受け取り方は、恐らくAはコミュニケーションを省き詳しい説明をしないので、「示し」の内容の字面だけをKは受け取っている状態だと思います。その「字面」を絶対化して常識を超えた権威ある「字面」とし、異常な執着心(「命がけ」との言葉をよく使って)をもって長老権威として九州の牧師や教会にその「字面」を説教しています。これは、私が97年12月に九州に異動時にも強く感じたことです。預言や示しの運用方法が全く間違っていると。「いくら長老が言っても間違いを含むことはあるので、神に従え。長老が示されたと言ったことでも、自分が示されないなら動かない。」これが私の当時の認識でしたし、当時の関東牧師会でAが言っていたことでした。(しかし裏では笹井社長らへの不当な扱いがありました。これもAの「示し」への執着や偶発的な出来事を「神の摂理」と思い込む姿勢、コミュニケーション能力の欠如が原因と言えると思います。)しかし、Kは「長老の言葉には神の権威がある」との一点張りでした。

>>3
>>A氏はちっともおかしくないと思っている…。
>
> これは,本当にそうなんでしょうか? 私は,バルティアンであり,人間の理性とか良識とか言うものに
>は否定的です。
> しかし,人間は,神に似たものとして想像されたわけで,そこまで,腐っている人間っているのでしょう
>か?

A氏の場合、前も書きましたが、彼の示されたと思っているビジョンに合う「超自然的な事」への期待や、それに対して都合の良い偶発事が起こる「法則性」を信じ、今も事象の勝手な解釈によってその法則の継続の実を見ており、自分達は神に肯定されていると認識していると思います。(虹の出現や偶然の出会い、映画の内容を示しと捉えたこと、元々傷のある人がAに受容されてAの主張に沿って「悔い改めた」こと、非難を受けて感謝して踊ったことなどはその現われと思います。)ビジョンの実行のために現実的視点や常識レベルの人への愛を欠いた状態です。それは人としてのバランスを欠いた人格の状態と言え、その上で「神の示し」への過度の執着をしているのです。それを彼ら長老や従う方々は信仰のあるべき態と認識しているようです。(私の論拠は、既にネット上に書かれたり、出てきている長老の行動、九州で体験した事です。)
そのような「カルト的思い込み」は、どんなに批判があっても「彼らにとっての決定的な否定(神からの否定でしょうか)」がない限り、「命がけ」で継続される可能性があります。これだけの指摘を受けても動じないほど「命がけ」で信じきっていますから。
私は、「現実的視点や常識レベルの人への愛を欠いた状態での示しへの執着」の原因について、論議する必要があると思います。なぜ、彼らは普通に人がもつ常識や愛を捨てたのか、です。

8niho:2004/04/03(土) 00:12 ID:fn4T6HbQ
主の十字架クリスチャンセンターで、A氏K氏を使徒とした「アジアの使徒団」をスタートさせるということは、96年前後に当時の本部である主の十字架クリスチャンセンターキリストの町教会と長崎を含め全国の教会の週報に掲載されていました。
現在でも主の十字架内部においては、全ての長老・牧師が「使徒」含む五職のどれかに召されているとの認識がされています。
主の十字架の特徴は、働きの実質よりも五職の「職名」が信仰の名の下に先行することです。
K氏の説教・牧師会などの発言から、A氏の神的権威へのK氏の絶対的信仰が、A氏を「世界的使徒」と見ている、と充分考察できると思っています。
私の発言の意図は、長老権威への絶対信仰への警鐘と、A牧師の権威に対する絶対信仰を教団内に確立する長老達の言動への警鐘にあります。
この文章の真偽確認は読者によってなされるものと思います。

9にほ:2004/06/16(水) 11:52 ID:rYdrWbR6
信徒・神学生が、長老・牧師たちを信じ続け、その結果、ボロボロになってしまう。
それが、「神の権威」を騙り、自分の思いつきを強制するこの教団の姿です。
様々な苦しみを経て、やっと信頼できるものを得た人たちは、神と教職者を分けて考えることはなかなかできません。
しかし、人は罪人です。絶対ということはあり得ないことです。
教職者を、「神の遣い」とするのは、幻想であり、行き過ぎです。

10にほ:2004/07/13(火) 19:11 ID:rYdrWbR6

6/23イギリスの新聞インディペンデントに、複数のイスラエルの元兵士のコメントが載ったそうです。彼らの一人は、異常だった18歳当時の兵士心理をこう書いているとのことです。

―-イスラエル国防軍の制服を着て、銃を持ち、銃弾を込め撃鉄を起こして、立つと、自分の命令に逆らう人間がバカに見えてくる。こっちはいつでも撃てる、台座で殴ってやろうか、と。司令官も「ようやくまともなことができるようになった」と言うだろう。自分は子供で、生きることについて知らないが、制服と銃で、決意ができている。――

長老たちのことが、それに重なって見えます。
「自分は、神の声を聞いて、神の言葉と行くべき道を宣言している。抵抗しても、神が手を下す。」と彼らは言います。
TLCCCの初期は、皆自信がなく、メッセージも不信仰と言われてしまうような弱々しいものでした。
彼らが強くなったのは、「神の言葉は剣で、力がある。宣言することで、悪霊の覆いを砕き、聖霊が働き、人の心に届く」との教えがあったからでした。それに加えて、使命感を鼓舞されたり、『神のことばを止めるのは、不服従』との教えもあり、自分の思いを否定して突っ走るように仕向けられました。結果、まともな思考力もなくなったのです。牧師・神学生・奉仕者は、自分で一つ一つ考え、納得するというプロセスが許されない、という環境になって行きました。

主のため、リバイバルのためと、自分を無にすることを教える教えには、そのような落とし穴があることを、悟る必要があります。
世にある人間性を否定するものの一つに過ぎない、あまりにも人間的な落とし穴なのですが、いくら教会が熱心でも、聖書の熟読がされていても、防ぐことができませんでした。この事実をしっかり学習することは、健全な人間の知恵だろうと思っています。

本当のリバイバルとは、人の内面に深く悔い改めと、良い実を結ぶはずです。それも個人個人に個別にです。決して誰かの言うことに心酔したり、他人に起った奇跡を追い求めるものではないはずです。

11にほ:2004/07/14(水) 18:39 ID:rYdrWbR6

>>10
>>[TLCCCの初期は、皆自信がなく、メッセージも不信仰と言われてしまうような弱々しいものでした。
彼らが強くなったのは、「神の言葉は剣で、力がある。宣言することで、悪霊の覆いを砕き、聖霊が働き、人の心に届く」との教えがあったからでした。それに加えて、使命感を鼓舞されたり、『神のことばを止めるのは、不服従』との教えもあり、自分の思いを否定して突っ走るように仕向けられました。結果、まともな思考力もなくなったのです。牧師・神学生・奉仕者は、自分で一つ一つ考え、納得するというプロセスが許されない、という環境になって行きました。]

このくだりには、やや違和感を覚えた方もいらっしゃるかもしれないと思いました。
84年にTLCCCが設立され、もう20年経ちます。私が参加したのは90年からですから、初期とは言えないかもしれませんね。しかし、今の現状からすると、あの頃は今とは大分違う雰囲気でした。関東圏の神学生や牧師はかなり自由にやっていましたし。
そして、95年頃の長老任命あたりから、権威的になったと思います。
そして、K氏の影響力がかなり強くなったと、個人的には思います。
K氏については、九州の問題(http://www.h5.dion.ne.jp/~j.1/kyushu1.htm)でも書きましたが、深い理解というより、ただA氏の言うことを字面通り行うという側面が強かったと思います。しかし、監督制の下で「徹底した服従が必要」などと言われれば、だれも反論できる人は居ません。勢いが強い言い分が勝ってしまいます。
それが、私の目から見たTLCCC変容の転機でした。
関東方面では、98年以降変化が来たとも聞きました。私が九州に異動した年ですが、私は私で、関東と九州のあまりの違いに驚いたものです。
当のK氏は、「関東は生ぬるい」と常日頃言っており、彼の下訓練されていた牧師の方々の中にもそのような思いがあられたようですが、私から見れば、彼らにはかなり人間的強引さばかりが目に付きました。「関東が生ぬるい」のが問題なのではなく、「個々人の動機付けや体験を神が導く」との信仰がK氏に無かったことが問題でした。私は、関東の牧師の頃、K氏の神学校テープがあまりに酷い時は、止めていましたが、あのテープの影響は広くあったのではないでしょうか。
今の現状に通じるものが、九州ではかなり以前からあったと、私はこれらのことで思っているわけです。
しかし、関東にしても、「神が導く」と言いながら、裏ではかなり人間的なことが行われていたのが明らかになってきているわけで、そのようなダブルスタンダードが落とし穴になったとも思います。「人間教だ」と他教会を批判していながら、A氏もかなり度を外れて人間的だったことは、マルコーシュの笹井さんの話を聞いて初めてはっきりしたことでした。

皆さんそれぞれの視線で、投稿いただければ幸いです。

12にほ:2006/04/13(木) 19:57:52 ID:rYdrWbR6
秋元俊人氏の説教要旨から
http://web.astone.co.jp/tlccc_hp/onsei/200603w2/20060326.html

引用>> 神のみこころを行おうと願うなら、神からのものかどうか見分けられるとあります。しかし私達には、神のみこころを行い、従う力はありません。みこころを行う時には、神の助けがあるのです。聖書には、私達は律法を行うことはできないとあります。<<

神のみこころとは、端的に言って律法ではなく「神と人を愛すること」でしょう。
神の本質は愛であり、神の創造による人の性質には愛があります。
また、さらに私達は初代教会以降、聖霊によって愛することができます。

つぎの「私達には力がなく、聖書にも律法は行えないと書いてある」とは酷い説教の展開です。「私達はダメだから、神によってできるように祈ろう」との意図のようです。
この言い回しは秋元氏をはじめ、主の十字架クリスチャンセンター牧師達が好んで頻繁に使うものです。
これで聴衆に植え付けられるのは、「私達はダメ。神に聞こう。しかし、神のみこころを知っているは牧師だから、牧師に従おう」という発想です。



引用>> けれども、他の人を通して神様のわざが起こると、おもしろくないと思うことはありませんか。それは、ねたみです。しかしそれは当たり前のことです。なぜなら私達は罪人だからです。私達は義人からスタートではなく、罪人からスタートするのです。<<

とても、信仰的とは言えないことばです。
義人は信仰によって生きるはずです。
だれにでもある感情を根拠に、「罪人だ。ダメだ。」と聴衆の人格を否定しています。

信仰と救いの喜びは、だれにでもあるこのような罪的状況を神がキリストの十字架の犠牲のゆえに受け入れ、赦していることにあります。これに触れないことに大きな問題があります。

A氏は、「それは当たり前のことです。」と言って聴衆を慰め、同時に「自分は罪人」だと聴衆の意識を固定化しています。
長崎教会の木原真氏は、確かにここでキリストを持ち出しますが、結果は同じです。
要するに強調点は、「神に従えない罪人の自分」というセルフイメージを聴衆に与えることです。「みんな弱い人間なのだ」と謙遜にさせる良いメッセージでは決してありません。その証拠に、聴衆は、長老・牧師は神の声を聞く権威だと、ヒーロー視させられ、「神の権威である牧師への服従は神の掟」だと、この説教の外で言っているのです。


信仰と救いの喜びを与える意図はなく、「リバイバルのための産みの苦しみ」と称する人格否定ばかりが彼らの説教の特徴です。

13読みました:2006/04/15(土) 11:41:42 ID:fprss.Rk
リンクの説教読みましたが福音派のと変わりばえしないありきたりの説教に見えました
ただ「また、賜物を通してのわざの場合、神様から来ているかどうか吟味するのは、お祈りをした相手の責任なので、」はよく判らないですが「こちらから神様から来ていると押し付けないようにしてください。自分では神様から来ていると思ってやっていますが、吟味するのは相手の問題なのです。またその逆の場合も吟味するのは自分の責任です。」という自己責任論は私の教会でもよく言われています
これマインドコントロールならほとんどの福音派は危ない

14にほ:2006/05/12(金) 10:37:49 ID:rYdrWbR6
>>13書き込みありがとうございます。

>自己責任論は私の教会でもよく言われています
>これマインドコントロールならほとんどの福音派は危ない
霊的神秘的なことの自己責任論が言われていながら、実際は意識の中に牧師頼みがある場合にマインドコントロールが可能になります。
牧師の側は、信徒の牧師頼みがどうしても在ることを前提に、意図しないマインドコントロールが起きないように配慮することが必要だと思います。


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