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救い≠キリスト教業界人化

1にほ:2003/12/25(木) 15:10 ID:2n74/OhM
今回の問題は、キリスト教「業界」の体質に起因する、というのが私の意見です。

新約聖書の使徒の働きと書簡に書かれている教会の姿は、決して今のように規格化されたものではありませんでした。
それぞれの地方教会が、個人の個性ほどに独自のスタイルを持っていました。
献金は困った人や働き人を適宜助けるためで、会堂建設や地方教会の長老(牧師)の固定給・専門職化があったのかどうか…。また、集会の形も現代の「礼拝式」とも呼ばれるような、格式ばったものではない、現代の家庭集会に近かったことが読み取れます。そして問題も多く起こりましたが、その都度長老や使徒がコミュニケーションを図って解決に努める姿が描かれています。
現代の「まともな教会」とされる基準で判断すれば、初代教会の姿は「おかしい」とさえ言われるかもしれません。対応が行き当たりばったりだとか、会堂もなくて宗教として貧弱で信用できない、とか…
しかし、初代教会には、長老・信徒に「まともな」羊飼いや働き人が居て、各々その賜物をもって、愛と誠実さで御体に仕えていました。その愛の交わりの故に一致していました。

私は現代の地方教会が、安泰を図るために問題が起こることを異常に警戒し、事前に問題の芽を摘み取ろうと、聖書を都合よく解釈して律法的に説教したり、信徒を取りまとめるために各派の伝統や教理を信仰の指針として教えるなどしているのでは?と感じます。
これはクリスチャン各々に内住する聖霊による導き・見分け・信仰の成長の機会を奪ってはいないでしょうか?
「福音」「救い」の純粋さに「律法」や「立場」の教え込みという混ぜ物をして、「これを守るっことが霊的一致」だと謳い、「教会組織」の政治的安定化が目的の伝道や組織化を行う「宗教」が、多くの人を救う「福音」の生きる教会たりえるのでしょうか?

2名無しさん:2005/02/24(木) 10:01:22 ID:1Bn3GfuM
↑にほさんは、現在の教会組織のようでない宣教や伝道について、
何か具体的にこのようにできれば、という考えはありますか?
「キリスト教業界」といった考え方が興味深く、また、この批判はごもっとも、
と思えるからこそ聞いてみたいのですが。

3仁保裕介:2005/02/25(金) 23:38:09 ID:rYdrWbR6
レスありがとうございます。

まず、前提を書きます。
業界人化と言われても、全くピンとこない教会の方々もいるはずです。人間性、社会性を、犠牲にすることが少ない健全な教会もあるはずなので。
(問題の大きい教会に限らず、組織というものには、必ず個性の制約や疎外が伴います。個性とは、目に見えるその人個人の社会生活の在り方や、人生のビジョンが含まれます。それが、組織に属することよって、制限されたり、疎外されたりすることは、普通の社会常識です。教会組織は、そのような組織の普通の在り方を、特に避ける意識が必要です。もちろん、社会全般でもその志向があるべきなのですが。現実は簡単ではありません。)

聖書が求める「キリストのからだ」と呼ばれる教会は、愛で結ばれ、聖霊に導かれることが前提です。同時に、人間に自己中心性・利己性(愛の逆の性質=キリスト教で言う「罪」)があることも事実として認めねばなりません。どんな教会教職者でもその罪の問題は免れられません。

聖書は、教会形成のための分かりやすいマニュアルとは言えません。
キリスト教の聖書への理解は、以下の内容が中心だと思います。
人が、上に書いたような「人としての罪」を認めること。
その上で、神の下へ行き、キリストの犠牲による赦しと聖霊の伴いを得ること。
人が罪に従う性質から、神と人を愛する性質へ志向することを、指導すること。

教会とは、その「愛への志向」を前提とした、交流と励ましと教えがあるところ、ではないでしょうか。(そこに聖霊の働きがあることは、言うまでもありません。)


私は、「愛」の解釈、「罪」の解釈、「聖霊」の解釈、「人の交流・励まし」の解釈、「教え・教職」の解釈、が人や集団によって拡大解釈されたり、曲解されることが、問題だと思っています。また、聖書では触れられていない、個性の領域まで踏み込もうともします。
本来、信仰生活と聖霊によって、個々人が、罪の束縛や痛みから解放され、愛を持ち自立し、様々な社会的責任を全うするだけの人格回復を受け取れるはずです。しかし、誰かが外れた解釈を思い込み確信して、人に説得してしまい、それが拡がるという現実があるのではないでしょうか。そしてその外れた解釈も、人のどうしようもない弱さや、悲しい体験による、かもしれないのです。

人は、社会的な生き物です。周りの人にはどうしても影響されてしまうものです。その中で、愛を基準に真実なものを求める姿勢を貫くのは、容易なことではありません。教会という社会の中でもまた、「何が良いもので神に受け入れられ、完全であるか」を、見分けなければならないのでしょう。悲しい現実を憂い、痛みながら。

以下、また後日に、、つづきます。


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