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コミュニケーションと聞き従い

1にほ:2003/12/06(土) 13:55 ID:Lz37lrO2
私は、今も聖霊の御声に聞き従うことが生活の一部です。
しかし、聞き従っていればそれでいいかというと、そうは単純に行かない現実があります。
それが私たちの人間性の問われる時であり、愛の有る無しが問われるところであり(Ⅰコリント13章)、そして成長するべき部分でもあるでしょう。

私たちが神の御声だと思っても、その全てが自動的に実現するわけではありません。私たち自身の思索の妥当性や、感受性などを総動員してベストを尽くして、一歩一歩様々なことを発見したり学びんだり、クリスチャンノンクリスチャンを問わず他の誰かと交わったり、いろいろ刺激を受けて進む時、初めてこれが御心かと、最初に言われていた「御声」の真相を知ったりすることも多いです。

======私たちはこの世を去って天国に入れられるまで聖化され続ける途上にあるわけで、この世にいる限り、どの時点でも「私は完璧」だとは決して言えないと思います。
またそれは、地上に居る人間全員に言えるわけで、例外は無いですし、誰かを「完璧」と評価することも全くナンセンスですよね。

そして、私たちは私たちの行った「現実」には責任を取らなければなりません。たとえそれが「聞き従い」の途上の結果であったとしても。それが人間性や誠実さということになります。

私たちは地上に居る限り間違いを犯し続け、加害者にもなれば被害者にもなる。
日常の小さいことを含めれば、毎日絶えずその繰り返しと言えます。
これを否定する人は正に、自分には罪が無いと言う人でしょう。

私たちはそんな中で教会に行き、自分の実相を見つめ、また、十字架の赦しと聖霊の内住の確認と励ましを受けるのではないでしょうか?

日常に柔軟に悔い改めがある人が、真のクリスチャン(キリストにある人)と言えますよね?======

私は、聖書を読む、教会に行くことと同じように、人や社会とコミュニケーションをとることが重要なことだと思います。
神・キリスト・聖霊は愛こそが最も大事だと今も私たちの中で証しし続けてくださいますが、それは私たちが「清い」教会に交わりだけにとどまることを意味せず、全世界に出て行き、また、この世の最も小さいもののところに行くように命令され、日常では隣人に対してしなさいと言われていますよね。それで私たちは「世の光・地の塩」なわけですが、主の十字架ではその「良いわざ」の中身は自分達の専売特許のように言いますし、福音派の教会もそう言います。
しかし書簡でパウロはこう言っています。「最後に、兄弟達。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そこほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなた方と共に居てくださいます。」ピリピ4:8〜9
この世の良いことが、使徒の言葉と同列の扱いです。

2にほ:2004/07/14(水) 21:12 ID:rYdrWbR6
悔い改めとコミュニケーション

Aや彼に絶対服従するKなどが発する言葉とオーダーは、「神のため」とのことで正当化できる範囲を越えています。言葉は、理解しあうために互いが努力すべきものですが、内部で権威的威圧的一方的になっているここ5年、責任長老の二人とその教会の牧師達は、神と対話していると主張して、人との健全なコミュニケーションを取っていません。

コミュニケーションの努力は、対等の関係で、双方でなされるべきものです。
主の十字架CCの権威秩序の体制はそれを明らかに否定しています。
私の立場は、小倉福音センターのHPに書きました通りですが、各々の方がご自分の人格を確立させ、神との交わりや個人の体験や人とのコミュニケーションや指摘を通して、真理を発見しつづけることが、普遍的教会の一義だと思っています。
真理を、誰かが神の名をかたって強制することはできません。

神は、人の弱さをすべて受け入れた上で、様々な愛に満ちた摂理によって現実的に導く方法を取ります。それが神と分からなくても、真実を求める人にはそれが入って行くものと信じています。ですから、私自身は、牧師として奉仕の中で一方的に指摘することは避けています。

愛のコミュニケーションとして、厳しい言い方はもちろん認めます。しかし、人それぞれ状況や段階もあり、逆効果になってしまうことも事実あります。人は不完全ですから、それは避けられませんし、正当化もできません。反省して、謝罪し、注意深くなる必要があるのみです。そこに成長があります。ところがこれをTLCCCでは全くしていません。「権威が間違っても神が責任を取るので、不平を言わず秩序を保て」の一点張りで、長老の謝罪など聞いたことがありません。私達は、決して同じ穴に落ち込んではならないでしょう。

TLCCCではこの愛の叱責が、非常に簡単に悪く変形し、結果として悪用されてしまったことが問題の一つです。私はそのようなTLCCCの姿勢に疲れ、それ中で心の健全さを様々失ったことから自分にも自信を無くし、結局愛への信頼を無くしました。今は、内部も脱会者も、何を悔い改め、正しいとするのかわからない状態にまで、人格破壊が進んでいる状況と言えるのではないでしょうか。

その中で、私にとっての悔い改めとは、一言で言えば、信仰が変形・形骸化したやり方への決別でした。そして、今は、ぼろぼろの内面を神に受け入れてもらいながら、きっと神が地上に創造した愛への信頼の新たな局面に進もうとしているところなのだと考えています。

そうなる前の信仰と愛のある賜物の運用や権威秩序を決して否定はしませんが、現実的に人間の限界を見た思いがします。最初の理想は、常に人の弱さを計算に入れて、寛容さをもたなければ、成り立たないものだったのです。今のTLCCCは、その真逆です。神のためリバイバルのためとの意識が先走り、神の指示があった、と形ばかりの信仰の歩みを先行させ、丁寧な人への対応がされず、人それぞれの事情は全く考慮されず、ただひたすら上は強引な権威の行使、下は脅迫的服従に終始していました。

私は思うのですが、寛容さを死ぬまで続けられる権威者は、果たして存在するのでしょうか?自分の不完全さを意識しても尚、TLCCCは暴走しているのです。

TLCCCは、公の器として社会的責任がある団体であって、一個人の体験からHPで批判や評価を与えられるだけの公的立場と規模があります。個人で抵抗不能な不義不正があれば、告発側に人間的な不十分さがあっても、公に指摘されてしかるべきです。

翻って、TLCCC告発を批判する様々な声への応答として書きます。
被害を受けた個人の内面まで、HPにおいて、表立って踏み込むのは、たとえ自分のことであってもかなり難しい問題です。内面の細かな思いを公にさらす動揺を、果たして想像し理解していただけるでしょうか。
もちろん、個人個人では内面を見つめる必要や、行動や思い入れの愚かさを反省する必要はありますが、しかしそれは、多くの脱会者が既に痛感しているところです。
これは非常に繊細な問題です。それこそTLCCCのように誰かの号令で同じ悔い改めを迫られるのは、滑稽です。
確かに脱会者もおのおの悔い改めた上で、熟慮した投稿記事が出されるべきという指摘は正論なのでしょう。しかしそれは空論的理想であって、現実的ではありません。脱会した者の内面はそのような理屈では、到底制御できるものではありません。
外部の方々が、このような内面の問題への助けの手を、実際に伸べていただけることを願って止みません。

3にほ:2004/07/14(水) 21:19 ID:rYdrWbR6

権威への傷と、リハビリ

私はかつて、愛と寛容を持った権威の行使に大いに賛成していました。
しかし、TLCCCの事件で、権威を持った人間がいかにもろく、簡単に悪い方向に行くかを見ました。いや、見せられた、と思います。

しかし、私は、最近の生活の中で、人に間違いを指摘されたり、私が決めた事に口を挟まれると時に感情的になり怒りを感じてしまったことがあります。その時の心理状態は、「自分がすべてを負っている」と、何も委ねていない状態です。頑張って、アルバイトも含めて仕事をしようとすると、「神に自分が課せられた、間違いが許されない、やるべき正しいことをやるため」と思い込む思索が働いてしまいます。また、傷がある分、自分を崖っ淵に追い込まないと意思も体も動かない状況でもありました。

この自分の状態には非常に葛藤しました。しかし、このように、神の側や、絶対正しいとの立場になることが、TLCCCの問題の本質であったのではないでしょうか。

そのような私の、TLCCC在籍時からの自分の心を整理する方法なのですが、
私は、先ず、神は愛で寛容である、という前提に立ちました。それは、教会の中に、深い傷を持つ人がいても、TLCCCのやり方ではとても回復しないことを感じたからです。イエス・キリストは、強い人のためではなく弱い人、病人のために来ました。
私は、助けを求めている弱い人を救えない権威は、ちりに等しいと思いました。
価値判断のすべては、「弱い人を救う福音」に懸かっていました。
目に見える教会の体制や組織が救うという解釈でなしに、クリスチャンが個別に持つ思考と教会の活動が福音的か、が判断の基準でした。
それで、考えや判断をするように努力しました。私の中に無意識に染み付いた権威的思索は多分相当なものでしたから。
また、人を救うということが、本当にその人のニーズに合っているか、こちらの理解の押し付けではないかという、自己吟味を心がけました。
なにより、『自分が神に従い、やるべきことをやらねば人が救われない』との、自分の奉仕の絶対性と、そこから来る使命感や義務感からの解放が大切でした。
それには自分の神観が、健全に変えられる必要がありました。
その神観とは、
『神はすべての人を寛容に愛をもって導いている。
その手は短くない。その手はクリスチャン個々人に個別に直接及ぶ。
働き人をも、弱い人間として寛容に見守っており、働き人は、「神の代理人として人の救いに責任を負わされる」というようなことはない。
クリスチャンに対して神は、伝道した相手ひとりの救いの全貌さえ、また、そのクリスチャン本人の救いの全貌さえ、実はほとんど明らかにされず、全ては未知の神の手の摂理の中にある。』
というものです。
働き人は、弱さや至らなさも含めて、、本音の部分で受け入れてくださる神に対しても、そして人にも、自分を偽らないことが必要だと思いました。人へは礼儀や思いやりが要り、神へは隠されずすべて見えているという違いがありますが、自分の本質を偽って人と接することは御心ではないと思いました。
教職者は結局、自分のことでも人のことでも、個々の問題や救いの全ての知識や権威は持っておらず、ただ、聖霊によって、許された範囲で、神の計り知れない知識の断片を知らせていただき、奉仕をしているに過ぎません。また、自分についても「神が愛」との知識を得て、救いをいただいているだけの存在です。私はそのように思うように努力しました。ご承知の通り、聖書の文章の霊的意味さえ、私達は一生かかっても全ては分からないでしょうし、その聖書より天で主と顔と顔を合わせて初めて分かることの方がはるかに多いわけですから。
栄光は全て主に帰されるとは、そのような普遍的教会の全体像があるからではないかと今思います。

これらの具体的過程は、正に生活と人間関係の現場で、ふと教えられたり、失敗して教えられたりしたものです。
当然これらは、自分で考えたというよりも、そのような思考に導かれた、という方が当たっています。
ただ、5年前のTLCCC脱会で自分の奉仕が権威者に中傷され、教会員を奪われたという体験をしたことから、4年位前から今も、私は「自分がもっと頑張らないとこの奉仕が実を結ばない」との強い脅迫的恐れを持つことがあります。脅迫的恐れに神経を病み、正直自殺を考えたこともあります。でも、上記の神観と「神様は真実で、この方に従うしかない」との思いから、私は奉仕に留まっており、その中で段々と解放して下さっています。

4にほ:2004/07/14(水) 21:21 ID:rYdrWbR6

>>3「権威への傷と、リハビリ」の続き

私は、権威をあらゆる人に対しての絶対性として自覚した人は、キリストが嫌われた、パリサイ人律法学者に当たると、今は思っています。

正しい教会の権威とは、愛を持ち、下位に居て仕えることで、初めて神の国で認められるもので、徹頭徹尾その姿勢を変えるべきものではない、と思います。「天で神に認められる人は、最も低い人だ」とは、何の解釈も必要としない、事実そのものだと思います。そして、低くなることは、平安をもたらす御霊の実によることでしょう。これは正論です。
ところで、パウロは、人を裁き投獄した自分の律法知識をゴミ扱いし、封印しました。人をつまづかせないために、偶像に捧げれた肉を食べないと宣言しました。
今、私は権威について、今そのような思いです。律法が良いものでしたが、信仰による救いの前には、つまづきになりました。権威もそのようなものになってしまう現状があるのなら、愛のゆえに封印するのが福音的だと思います。神はそれを理解されると思います。
私は今は、自分が権威を使わず、意識することなく、奉仕に当たるべきだと、考えています。また、それしかできません。
なぜなら、私の権威の意識はTLCCCで完全に歪められているからです。

また私はこれからの奉仕で、私の奉仕を受け入れてくださった誰かが心の中で、私の語った言葉に霊的力や助けを受けたなら、そのまま口に出さず心の中で感じていて欲しいと思います。そして、その方は、表向き反発的態度であってもいいと思います。

TLCCCは、形ばかりの権威を求めたのではないでしょうか。
信徒が表向き反発しても、信徒個人で中味の成長があれば、良しとすべきと思います。
実際に反発されると、動揺はしますが、それこそ神に祈り、短絡的な判断は避けるのが知恵だと、私達は自分に言い聞かせなくてはいけのでしょう。

そして、神の圧倒的なあらわれの時、愛において忠実だったかを、神に見ていただきたいと思っています。

初めの最も純粋な思いや愛を思い出すことが、私には最近かなり助けになっています。しかし、それも、周りに理解し受容し肯定してくれる人がいて初めてできることだと感じます。まずは、かつての『リバイバルの器』という人間的努力の鎧を脱ぐ努力と、奉仕や信仰の動機の再確認を始めることが、大切だと思います。そして、その過程を周りの方にお話しされることをお勧めします。きっと良い交わりが与えられると思います。

私も自分自身に対してまだ葛藤の中に居ます。しかし、この権威の問題を、神が意図した通り正しく理解する過程が、今導かれていると思います。
主の働きに預かるものとして、及ばずながら、共に考えさせていただければと思います。


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