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悪霊の問題

1にほ:2003/12/01(月) 22:01 ID:pF.l6jCs
私の立場はまず、「実生活が成り立つことが全て」だと思っています。
2番目に、「傷、罪、霊」の問題は単純に切り離せない、ということです。

前に、連絡帳の方で書いたのですが、福音派は罪の問題、主の十字架は霊の問題に執着し過ぎるように思います。

実際問題として、私も体験しましたが、明日の支払いができない、食費すら無い、という状況で、普通は実際的な金策に走るはずです。養う家族があるときは特に。
その時、悪霊に倒されて何も出来ないという状況が果たしてあり得るのでしょうか?
(私も鎌倉教会時代もその後も、毎月神に期待して待って丁度満たされる経験を普通にしましたが、ここで言うのはそう言う場合ではなく、満たされる兆候が全く無い状態を言っています。)
ちゃんと起き上がってなすべきことができるのではないでしょうか?
悪霊に動くのを阻止されて餓死した話など聞いたことがありません。
私が言いたいのは、献身や召し、教会での霊的立場(預言者とか何かの責任者とか)を、聞き従いや見分けで完璧に行うということはナンセンスでは?それのみに目が行くと、実生活ができなくなる状態があるのでは?ということです。

神様は既に私たちの罪の性質を承知の上で、キリストの故に、私たちをご自分のものとされました。
その中には、傷や罪の他に、霊…例えば恨みを握って悪い霊的状態になることなど、全部含まれると思います。それらを前提に導くと思います。それほどまで十字架は完璧です。
誰も誇ることの無いために…。

「嵩に着る」スレでも書きましたが、聖霊による自然な思索・導きは、私たちが従うのに無理の無いものだと思います。
その導きは、社会的常識も弁えさせ、健全な実生活を行うことをも促すはずです。
もちろん、信仰から逸れたら、私の命はキリストにあるので、引き戻されるでしょう。
(私は20代前半の社会人時代、給料をもらえる幸せに、信仰が二の次になりましたが、心は空しくなりました。)
神様は、私たちは弱いことをご存知です。弱さによる逸脱をもその手で引き戻してくださいます。
そして、自分の限界や本当に悪い面まですべて神は知っていて導くことに私たちは癒されるのです。

霊的潔癖は福音的ではないと思います。

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5にほ:2003/12/03(水) 21:12 ID:hj4LNhik
ペロチューさん 書き込みありがとうございます。
しかし、文章の内容がつながらない気が…

迫害・背教の時代は具体的にいつ来るのでしょう?
少なくとも今は来ていませんし、具体的に直近の兆候もありません。
私には今の毎日の生活だけで必死です。アルバイトもなかなか手につかないこともしばしばで、時間的に会社に迷惑をかけているかもしれません。

…なんて、自分の生活のことを書いたら反論しにくいでしょうか?
実際、世の中の人は必死で働いていますし、悪霊がいるからあなたとは仕事できないとは言えないです。
私は会社に悪霊がいるなどとは意識していません。悪霊は教会にだって、私たちの間にも普通にいて誘惑をしてくるでしょう。
でも、実感としてこんな時に悪霊のことなど構っていられないという生活観があります。
もちろん、相談されたら悪霊に力がない実相を説明して、神の愛にあって歩む力強さを説得します。
が、共感はしますが同情はしないかもしれません。信仰の自立が鍵だと思うからです。心の傷が原因の場合は別ですが、最終的には信仰的に自分をとらえ、否定的な思索やその裏返しの高慢の罠から解放され、本当の自分自身で歩むよう説得すると思います。孤独は感じるでしょうが、やはり信仰の自立が大事だと思うからです。自分で決心し踏み出す勇気以上に強力な武器はありません。
私の場合は、ただ「死なずに生きよう」という一心でいろいろ選択「させられた」感があって、実際的選択が悪霊の誘惑とも言うべき「死」から私を守ったという実感があるのです…

6にほ:2003/12/03(水) 21:29 ID:hj4LNhik
ローマの8:35〜39はキリストの愛の中で私たちは圧倒的勝利者であるとまず読み取れます。
そして36節のクリスチャンの患難ですが、もし逐語的に読むなら、私はこう適用します。
死に定められるような状況でも、食事はしなければなりません。聖書の表現そのもので具体的なその時の思い・切迫感・生きるためにしなければいけないことまで考えると、生活のための知恵を身につけなくては、と思いますし、そういう状況でもキリストの愛を確かなものにすることは大事だな、と私は自分に適用します。
しかし、現場とは、想定のようにはいかないもので、実際はただキリストの伴いだけが頼りになるのではないでしょうか?ですからそのキリストとの関係を日ごろから確かなものにしておくことが備えとなることは言うまでもありません(マタイ25:1〜13)。
私はこのローマの箇所から直接的に悪霊からの攻撃で死に瀕するとは読み取れませんし、「実生活の問題より信仰が大切」との教えとも思えません。
文脈からいけば、律法で裁かれる恐れから解放する説得を主眼にしている思います。
確かに福音書にある終末の患難を想起させる記述ですが、私には「励まし」と映ります。
律法主義の裏に悪霊がいるとおっしゃりたいのなら、否定はしませんが、律法主義になることが生活第一主義になることではないでしょう…
ただ、私が「実生活第一主義」とペロチューさんが印象を持たれたことに対しての、ご自分の立場の根拠を言うための引用のようですが…私が背教するのですか…
(私は神に従って困窮することもあり、その中の体験で信仰的に学ぶことは多いと思っていますが…)

神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイ6:33

私は神の国とは、まずキリストが私の中に住んで下さっていることだと思います。あなた方の中に神の国はあると言われているからです。そして、神の国の完成である天の御国が来ます。
神の国を求めるとは神キリストとの愛の交わりを求めることだと、私は思います。
そして、世を生き抜く力をその中で神は与えてくださっていると実感します。

しかし、人にはこの世で様々な弱さも残されました。時には「死」も感じることがあるでしょう。
その中でも圧倒的な勝利者になる、のではないでしょうか?


「完璧な奉仕はできない」との部分に引っかかれたのでしょうか?
だとしたら、誰が「完璧な奉仕」を自覚できるのでしょう?人が完璧と思っても、必ず欠けはあるものです。
私たちが「完全である」とは、自分の罪を認めて神の赦しと恵みに頼る時なのではないでしょうか?
人は誰にも、権威は無く、ただ弱さを認めて、神に従うだけです。
それが立派な奉仕でも、人を英雄視することはナンセンスですよね。
教会の機能として「霊の見分け」があるとの主の十の主張ですが、私はそれに絶対的権威を着せることには反対です。あくまで個人の信仰の自立がある上で、一人一人が判断する問題です。
その見分けの機能がやはり弱い人間であることは間違いのないことですから。
私は人に作られた教会システムに頼るのではなく、自分の内の聖霊、神への愛を先ず第一にと思います。
それぞれが聖霊に導かれた教会の自由な交わりと励ましと愛があって、そのなかで不十分な自分もフォローされたり、いろいろなことに気付かされたりするのではないでしょうか?
 
一人一人の心の中でキリストだけを英雄とするべきでしょう。
初めに人の証しを通して神を知った人が、直接神の愛への確信を持たなければ意味が無いのと同じです。

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9にほ(管理人):2003/12/05(金) 15:37 ID:U43J5GOM
4と7の発言は発言者の希望により削除しました。

10赦された罪人(某福音派教会員):2004/01/05(月) 01:03 ID:Cncy5LOQ
>>6
>>迫害・背教の時代は具体的にいつ来るのでしょう

もう先触れみたいなものは来てます。
確かにイエス・キリストの再臨は近いのですから。
私は幼稚園がバプテスト系でした。けれども公立小学校、中学校と行けば、
進化論を習いますし、プール開きには神主を呼んで偶像崇拝をします。君が代を歌わされます。
幼稚園で御言葉をならってイエス様を信じていながら、
イエス様を信じる人がまわりに全くいない環境にある、しかも小学生、と
いう経験は大変なことでした。
世の人々もリベラルの人もイエス・キリストが唯一の救い主で、
この方以外に救いがない、という聖書の教えを悪魔的といえる熱心さで否定し、迫害します。
焼香などといった偶像崇拝にも妥協させるような力が働きます。
(リベラル、エキュメニカルの人たちは偶像崇拝に妥協するようです。)
リベラルはキリスト教と称しながら聖書から差引き、
復活しないキリスト、処女降誕でない「人間イエス」をつくり出しました。
これが背教でないのでしょうか。すでに背教ははじまっていると言えないでしょうか。
>>1
>悪霊に動くのを阻止されて餓死した話など聞いたことがありません。

けれど、悪霊は人を非常に惨めな状態にしますし、感情を縛ります。
人々がイエス様を信じて救われることができないようにします。
まさに悪霊が働いているのではないですか。

12グレイス:2010/01/02(土) 02:28:28 ID:vlX7PeDM
宗教は否定しません。ただ社会は宗教だけではありません。私はあまりわかりませんが、キリストを信じ聖書を何度も読みキリストを信じている人もいます。
私は社会性が教会にもっとあったら、と、思います。疲れた。と言われたら。祈りましょう。悪くないと思います。ただ、話を傾聴してるのかな?って思います。
話の内容がたとえば人の悪口になったとします。それはあなたが悪い。人のことを悪く言ってはいけない。とサタンがついてると言って一喝してるようなきがします。
愚痴が必要な時だってあります。聞いてるだけでいい。つらかったなって。大変だったなって。
考えがおかしいなんてことない。だれだってある。ふつう。
先のことなんてわからない。わからないことのほうがおおい。なったそのときに考える。
自分の評価。競争社会でうまくできなくなっている人もいると思います。自分で自分を知り評価する。
こういったこと社会に生きている以上私は必要だと思います。

13名無しさん:2010/03/22(月) 21:15:08 ID:CKi8alYE
≫12

>愚痴が必要な時だってあります。聞いてるだけでいい。つらかったなって。大変だったなって。

困っている時、人に助けを求めることはあると思います。
けれども、人の悪口を言うのは止めるべきだと思います。


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