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悪霊の問題

6にほ:2003/12/03(水) 21:29 ID:hj4LNhik
ローマの8:35〜39はキリストの愛の中で私たちは圧倒的勝利者であるとまず読み取れます。
そして36節のクリスチャンの患難ですが、もし逐語的に読むなら、私はこう適用します。
死に定められるような状況でも、食事はしなければなりません。聖書の表現そのもので具体的なその時の思い・切迫感・生きるためにしなければいけないことまで考えると、生活のための知恵を身につけなくては、と思いますし、そういう状況でもキリストの愛を確かなものにすることは大事だな、と私は自分に適用します。
しかし、現場とは、想定のようにはいかないもので、実際はただキリストの伴いだけが頼りになるのではないでしょうか?ですからそのキリストとの関係を日ごろから確かなものにしておくことが備えとなることは言うまでもありません(マタイ25:1〜13)。
私はこのローマの箇所から直接的に悪霊からの攻撃で死に瀕するとは読み取れませんし、「実生活の問題より信仰が大切」との教えとも思えません。
文脈からいけば、律法で裁かれる恐れから解放する説得を主眼にしている思います。
確かに福音書にある終末の患難を想起させる記述ですが、私には「励まし」と映ります。
律法主義の裏に悪霊がいるとおっしゃりたいのなら、否定はしませんが、律法主義になることが生活第一主義になることではないでしょう…
ただ、私が「実生活第一主義」とペロチューさんが印象を持たれたことに対しての、ご自分の立場の根拠を言うための引用のようですが…私が背教するのですか…
(私は神に従って困窮することもあり、その中の体験で信仰的に学ぶことは多いと思っていますが…)

神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイ6:33

私は神の国とは、まずキリストが私の中に住んで下さっていることだと思います。あなた方の中に神の国はあると言われているからです。そして、神の国の完成である天の御国が来ます。
神の国を求めるとは神キリストとの愛の交わりを求めることだと、私は思います。
そして、世を生き抜く力をその中で神は与えてくださっていると実感します。

しかし、人にはこの世で様々な弱さも残されました。時には「死」も感じることがあるでしょう。
その中でも圧倒的な勝利者になる、のではないでしょうか?


「完璧な奉仕はできない」との部分に引っかかれたのでしょうか?
だとしたら、誰が「完璧な奉仕」を自覚できるのでしょう?人が完璧と思っても、必ず欠けはあるものです。
私たちが「完全である」とは、自分の罪を認めて神の赦しと恵みに頼る時なのではないでしょうか?
人は誰にも、権威は無く、ただ弱さを認めて、神に従うだけです。
それが立派な奉仕でも、人を英雄視することはナンセンスですよね。
教会の機能として「霊の見分け」があるとの主の十の主張ですが、私はそれに絶対的権威を着せることには反対です。あくまで個人の信仰の自立がある上で、一人一人が判断する問題です。
その見分けの機能がやはり弱い人間であることは間違いのないことですから。
私は人に作られた教会システムに頼るのではなく、自分の内の聖霊、神への愛を先ず第一にと思います。
それぞれが聖霊に導かれた教会の自由な交わりと励ましと愛があって、そのなかで不十分な自分もフォローされたり、いろいろなことに気付かされたりするのではないでしょうか?
 
一人一人の心の中でキリストだけを英雄とするべきでしょう。
初めに人の証しを通して神を知った人が、直接神の愛への確信を持たなければ意味が無いのと同じです。


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