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質問

1管理者:2009/02/07(土) 20:42:27

新しいスレッドの提案が有りましたので立ち上げます。提案文は以下の通りです。


「質問」
日蓮、仏教、宗派の教義、歴史などの質問。検索すれば直ぐにわかることを除く。

2hage:2009/02/07(土) 21:08:50
それでは、さっそく質問させて頂きます。
日蓮門下でそれぞれ解釈の違いがあると思いますが
天台宗と高祖日蓮大士との「法華経」の頂き方の違いとは?

富士派の日蓮本佛論もそのあたりから来ていると思うのですが
明確な違いをお聞かせください。

3顕正居士:2009/02/08(日) 01:38:42
天台過時、本化応時、嘱累総付、神力別付等のドグマをおいて法華尊重の仕方でしょうか。

湛然は『止觀義例』に
「況所用義旨以法華爲宗骨。以智論爲指南。以大經爲扶疏。以大品爲觀法。引諸經以増信。
引諸論以助成。觀心爲經。諸法爲緯。織成部帙。不與他同」
(況んや所用の義旨は法華を以て宗骨と爲し、智論を以て指南と爲し、大經を以て扶疏と爲し、
大品を以て觀法と爲し、諸經を引て以て増信し、諸論を引て以て助成し、觀心を經(たて)と爲し、
諸法を緯(よこ)と爲し、部帙を織り成す、他と同じからず)
と自宗を称揚しています。

日蓮は『法華取要抄』(真蹟・中山法華経寺在)にこう述べています。
「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む。所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」

これは日蓮があれだけ批判した源空の選択(せんじゃく)の思想と同じという評価がありますね。
しかし日蓮は綜合仏教の分解を阻止するために、五字を一切経の総要、「法華弘通のはたじるし」
(日女御前御返事・真蹟不在)として、いわゆる対抗改革をはかったのではないでしょうか。

さて新仏教や対抗改革の動きをよそ目に中国天台が残した密教との綜合を完成した日本天台は
更に進んで「顯説法華教とは妙法華の外、更に一句の經無し」(最澄・守護國界章)の絶待妙の
思想を展開して行きます。浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗は三大宗派に成長しますが、室町時代に
仏教思想を主導するのは依然日本天台であり、日蓮宗は天台新思想に依って教義を形成します。

4hage:2009/02/08(日) 12:34:42
>日蓮宗(一致派?)は天台新思想に依って教義を形成します。

そこには、「所謂上行菩薩所伝」という事に対してどう感得されているのでしょうか?

過去の歴史の中には
文殊菩薩を主体に法華経を信仰するもの、普賢菩薩を主体に法華経を信仰するもの
観音菩薩を主体に法華経を信仰するもの、薬王菩薩を主体に法華経を信仰するもの
弥勒菩薩を主体に法華経を信仰するもの、そしてお釈迦様を主体に法華経を信仰するもの
と、あったと思うのですが、
日蓮聖人の信仰に於ける法華経は上行菩薩を中心とした法華経であることが一番の違いなのでしょうか?

5プーさん:2009/05/10(日) 11:45:04
少々質問です。簡単に述べると

八品派の「一仏二名」とは、本仏である教主釈尊が解脱の時には釈迦として現れ、下種の時には上行(日蓮)として現れるという教義だと思いましたが。

「日蓮本仏」とは、本仏である教主釈尊とは、南無妙法蓮華経のことで、その南無妙法蓮華経は日蓮が説いたものであるから、日蓮が久遠元初の本仏で
あるという教義だと思いましたが。

以上、ご指摘下さい。

6顕正居士:2009/05/10(日) 22:44:47
富士派の宗祖観も八品派のと基本は同じですが、
末法下種の時には名字即本因位の釈尊(=宗祖)がそのまま現れる。
つまり等覚の上行ではないところが特色です(完成した教義では)。
なお繰り返しの顕本は積極的に主張はされません。その辺曖昧です。

7斧不一:2010/01/05(火) 12:19:30
 新掲示板なんですが、メールアドレスを記入しないと書き込みができないようですね。

 これは、アドレスが公開される(=ロボットに拾われる)のでしょうか?

8管理者:2010/01/05(火) 12:27:57

斧不一さん

適当に、例えば、ono 等と書き込めば投稿できます。

9斧不一:2010/01/05(火) 14:19:22
>>8

 管理者様、ありがとうございます。

10学生:2010/03/23(火) 11:34:51
石山の卒塔婆について教えて下さい。

中興入道女房御書には塔婆に南無妙法蓮華経の7文字を書きなさいと
御指南されていますが、石山の卒塔婆は妙法蓮華経の5文字ですよね。
この違いについて教えて下さい。深い意味はないのでしょうか。

11海野:2010/06/27(日) 16:20:04
Web百科事典のWikipediaで「富士門流」や「本門宗」の項目を執筆するためいろいろと情報収集をしていて、この掲示板にたどりつきました。
内部の方からみて、なにかおかしいところありましたら、ぜひ編集に参加していただけたらと思います。

質問は、明治期から昭和前期にかけて存在していた富士門流の統一宗派「本門宗」の歴代管長について紹介された文献をご存知でしたら、ご紹介いただきたい、というものです。
Web上の情報では1998年に就任した第22代までの管長と、1941年に三派合同で「本門宗」が解消したときの管長の名前(由比日光師)を確認しました。

12迷子:2010/07/14(水) 21:04:41
はじめまして。
創価学会元男子部で現況は非活の前進長です。自筆模写御本尊など作成し信仰対象としても良いものですかね?近年の偽物騒ぎに嫌悪してます。

13問答迷人:2010/07/14(水) 21:55:22

迷子さん

>自筆模写御本尊など作成し信仰対象

真心を込めて書けば、僕は何等問題はないものと考えています。あたかも宮沢賢治が曼荼羅を残しているように。

>近年の偽物騒ぎに嫌悪し

いずれも、唯授一人の血脈相承が根拠となっていますね。法主の書写した曼荼羅で無いと功徳がないとか、日顕上人には血脈相承が無いから、日顕上人が書写した曼荼羅には功徳はないとか、最近の論調では67世が偽法主だから68世も偽で、68世の書写した曼荼羅にも功徳がない・・・。

実にばかばかしい、我田引水のオンパレードだと思います。

日蓮聖人は「妙法蓮華経の五字」を「受持」しなさいと教えられて、その「妙法蓮華経の五字」を曼荼羅として多数書かれて、弟子旦那に授与されました。その曼荼羅の形式は多数のバリエーションはあっても、基本的には、中央の妙法蓮華経の五字の左右に釈迦多宝の二仏四大菩薩を書き、両端に愛染明王・不動明王を認め、妙法蓮華経の五字の下に「日蓮」と書かれて「花押」を書かれています。この形式は共通しています。そして多くの曼荼羅の四隅には四大天が書かれています。

また、これ等の曼荼羅の骨子を改変することがなければ、多少の変更は問題ないと思えます。例えば、創価学会草創期の日寛曼荼羅は、かなり列集が省略されています。

極論だと思われるかもしれませんが、唯授一人の血脈相承が日蓮聖人に由来するものではなく、後世の創作で有る事が明らかにされていますから、自分で曼荼羅を書写して本尊とするも何等問題性はなく、本尊抄に日蓮聖人が述べられている通り、釈尊の因行果徳の二法は、迷子さんが自筆された曼荼羅に厳然と具足するものと愚考いたしております。

ちなみに、僕は、日蓮正宗とは縁を切りましたが、日顕上人書写の曼荼羅を本尊としています。

14迷子:2010/07/15(木) 21:16:32
重ねてありがとうございます、問答迷人さん。
貴重な参考御意見として賜りますね、こんな愚問に真摯に答えて下さる方は稀少なので。

16古沢石日:2011/06/23(木) 00:51:30
こんばんは。
読めば「なむみょうほうれんげきょう」なのに
どうして創価学会や日蓮正宗は
「なんみょうほうれんげっきょう」なのでしょうか。
勤行に関しても独自のリズムで読み飛ばしばかりです。
「にじせそん」がどうして「にぃいじぃいせっそん」なのでしょうか。
「ほんまつくきょうとう」が「ほんまっく ょう おう」です。
一言一句正確に読経しなければ読経にならないと思うのですがいかがでしょうか?
唱題・勤行だけでなく葬式などで聞く他宗の坊さんの経も
まったく何いってるかわからないくらい省略したりつなげたり
まるで歌のようなお経もあります。
ご回答宜しくお願い申し上げます。

17問答迷人:2011/06/23(木) 16:35:39

>「なんみょうほうれんげっきょう」なのでしょうか

これは地域性もあるのかもしれませんが、岐阜の住職さんたちは、「なんみょうほうれんげーきょう」だとおもいます。「む」を「ん」と発音するのは音便なのだとか。

経典の読み方については、勤行要典には読みかなが振ってあり、読み記号も有ります。その通り発音する、という事で統一されていると思います。個々の読み間違いや、読み癖については、直した方が良いに決まってますよね。

他宗の事は良く存じませんので、コメントは差し控えたいと思います。


戒壇板本尊については、日蓮聖人が作られたものではなく、原本もパッチワークで作られていることは諸兄の研究によって概ね明らかになっています。担ぎ出したのは、中興の祖とされている日精上人だと僕は考えています。大石寺の宣伝の為に、人寄せパンダとしてこの板本尊を利用したのだと考えています。

出世の本懐は、勿論、板本尊であるはずがありません。

一大秘法たる「妙法蓮華経の五字」を弘められた事が出世の本懐かも知れませんね。七百年たっても、僕を含めて、毎日一時間以上、唱題に日々励んでいる人々が多数存在するわけですから、確実にこの日本に定着していると考えて良いと思います。

疑問点、多数あると思います。どんどんあげてください。細部を詰めて行きたいと思いますから。

18古沢石日:2011/06/24(金) 00:43:57
引き題目では「なーむーみょうほうれんげきょう」ですから
「なむ」と唱題するのが正しいと思います。
以前創価系掲示板で「ナム」を早く、連呼すると「ナン」になる。
問題ないと書かれていたことがありました。
山田さんを「ヤンダ」さんと呼んでも、当人はご自分が呼ばれていると思わない
でしょう。私は小学生の頃から会合で「勤行・唱題の発音」を訴えていたのですが
「住職なんか我々よりもっと聞こえずらいからいいのだ。子供が細かいことを 
 言うな。」と相手にされませんでした。私はこれからもゆっくり細かく丁寧に
 唱題していきたいと思います。

19古沢石日:2011/06/24(金) 00:47:31
ご自身の事をを含めお身内のお葬式はどうお考えでしょうか。
数年前父を亡くしたときは友人葬でした。
今高齢の母がおります。
自身はバリバリの創価学会員ですが、宗門への批判は一切しません。
「学会もお寺もみんな健康。同じ御本尊に題目をあげているから。」が
口癖です。

20古沢石日:2011/06/24(金) 00:55:34
創価学会が御本尊の取替えをしたとき日本全国の
日顕上人の御本尊はどうしたのでしょうか。

21古沢石日:2011/06/24(金) 01:07:23
戒壇の御本尊については、私も問答迷人さんがおっしゃるとおりだと思います。
いつ創価学会の公式見解として出世の本懐は戒壇の御本尊建立ではありませんよと
お話があるかずっと待っておりました。
気がついたら、知らぬ間にHPが書き換えられていました。
ほとんどの会員さんは、気づいてないんじゃないでしょうか。

22問答迷人:2011/06/24(金) 07:58:18

>ご自身の事をを含めお身内のお葬式はどうお考えでしょうか。

現時点では、自身が死んだ場合は無宗教家族葬を考えています。創価学会、日蓮正宗、日蓮宗、既成宗教各派、何処にも葬儀をお願いする気になれませんから。家族が亡くなった場合は、本人が生前希望する形がある場合は、その希望に沿いたいと思っています。特に意思表示がなければ無宗教家族葬にしたいと考えています。

>創価学会が御本尊の取替えをしたとき日本全国の日顕上人の御本尊はどうしたのでしょうか。

宗門に返却するような指導があったとは聞いていませんし、考えにくいですね。当然、本部会館等で焼却処分したのだとかんがえています。

>創価学会は、正本堂建立の時に、板本尊の修理をしています。その時、板本尊の年代測定を実施したという説が流れています。それが事実なら、その段階で、板本尊が七百年前に遡れない事は分かっていた筈です。当然、日精上人の駄法螺に気づいたから、何時かは別れなくてはならないと、時期を狙っていたのだと僕は思います。これは会員が気づかないように秘密裏に実施されなくてはなりません。板本尊を絶対と信じている会員が騒ぎ出しますから。

23古沢石日:2011/06/24(金) 23:21:21
無宗教家族葬ですか。
そうですよね。母は私の題目でおくります。
私は死期が近づいたら自身で唱題し録音して、
それ以外のお経は禁ずるようにいたしましょう。

日顕上人の御本尊を会館で焼却したという噂は
聞いておりました。命が削られる思いでした。
やはり事実なのでしょうか。
不敬とは行為でなく心だと思います。
私は今でも書物に印字された御金言を粗末にできません。
御書が印刷された新聞がゴミ箱に丸めて捨てられるのが許せません。
よって聖教新聞、大白蓮華は購入いたしません。
どうしても捨てる場合は心より唱題してから出します。

24古沢石日:2011/06/24(金) 23:28:08
>板本尊を絶対と信じている会員が騒ぎ出しますから。

騒がないでしょうね。
創価学会には信心がありませんから。

25古沢石日:2011/06/24(金) 23:52:01
もっと早く発表すべきでした。
学会は先生が言えば全てOK
先生でなくても上からの指導があればOK
黙ってて影でコソコソするから騒ぐんですよ。

ためしに民主党と連立してみたらいいですよ。
明日から全員一丸となって民主のために走りまくりますよ。

26問答迷人:2011/06/25(土) 11:50:06

>騒がないでしょうね。創価学会には信心がありませんから。

そうですか。そうかもしれませんね。だけど、一体、創価学会員は何を信じているのでしょうか。逆にご質問して恐縮ですが、どう思われますか。

27古沢石日:2011/06/26(日) 00:35:54
>一体、創価学会員は何を信じているのでしょうか。

様々なご意見があるでしょうが、池田先生でしょうね。
どんなに不合理な矛盾したした通達でも上からの指令は絶対です。

戸田先生は「創価学会が新興宗教だという人にはこういってやりなさい。
富士のお山に来てみなさい。700年前からの木々が生い茂っております。」
そういう歴史ある信徒団体だったのですが、今では聖教新聞販売促進部であり
公明党集票グループです。

「先生が空を飛びなさいと仰せです。」といわれれば
空を飛ぼうとするでしょう。

28問答迷人:2011/06/26(日) 07:32:57

>様々なご意見があるでしょうが、池田先生でしょうね。

了解です。つまりは、創価学会の本質は池田教であると。

もう一点、ご質問させてください。池田氏は、日蓮聖人の教え・一大秘法の信奉者・実践者なのでしょうか。さらに突き詰めると、日蓮聖人の再誕者なのでしょうか。如何お考えになられますでしょうか。

29年中夢中:2011/06/26(日) 19:15:42

古沢石日さん 初めまして

問答迷人さん 御無沙汰しています。

少なくとも、創価学会員は池田先生が御本仏日蓮大聖人さまの教えを正しく信奉・実践している世界で唯一の大指導者であると信じて疑わない。そして、学会員の中でも多くの人々は、池田先生が実は日蓮大聖人の生まれ変わりであると信じています。この強固な信仰で成り立っている創価学会と言う教団は、実に稀有の正統仏教教団であり、その中には日蓮大聖人の仏教の精髄が脈打っていると会員は確信しています。

ですから、仮に池田先生が民主党との連立政権を打ち出されたら、その意味は良くわからなくても、池田先生の為に命を投げ出す覚悟で、民主連立政権の為に走り回るのは当然だと思います。

古沢石日さんのご意見、実に見事に創価学会の実体を捉えておられると思いました。

30古沢石日:2011/06/26(日) 22:06:18
問答迷人様。
創価学会は池田教に間違いないと思います。

>日蓮聖人の再誕者なのでしょうか。
池田大作という方は折伏という観点では世界一だと思います。
日蓮大聖人様の題目を世界に広めた功績は誰が何を言えるレベルではありません。
再誕者?って何処からでた議論なのでしょうか。
ご本人も組織も会員も考えてないのではないでしょうか。

>一大秘法の信奉者・実践者なのでしょうか。
それもご本人でないとわかりませが、同時中継などで拝見する
名誉会長の唱題は「題目」じゃないと思います。
わざと崩しているとしか思えないくらい
「なむみょうほうれんげきょう」と 言えてません。
そこから考えると法華経の信奉も実践も無いのかもしれませんね。

31古沢石日:2011/06/26(日) 22:16:04
年中夢中さん、はじめまして。

>その意味は良くわからなくても、池田先生の為に命を投げ出す覚悟

いろいろな宗教数千年、数万年かもしれません。
長い長い信仰、信心の殉教という歴史を勉強してみてください。
意味がわからなくて命を投げ出す行為は「愚か」だと思います。

不惜身命の意味をしっかりとお考えになられることをお勧めします。

軽はずみに命をとか言わないでください。

意味がわからないまま焼け焦げた鍋を頭から被されたり、耳や鼻をそがれても
心確かに生きれますか?

32問答迷人:2011/07/01(金) 08:27:38

古沢石日さん

多忙で書き込みが遅くなって申し訳ありません。

>再誕者?って何処からでた議論なのでしょうか。ご本人も組織も会員も考えてないのではないでしょうか。

僕が創価学会に在籍していたころは、「池田先生は日蓮大聖人の生まれ変わり」という話が、組織内のあちこちで囁かれていました。伊豆に指導に行ったときには、『巨木の前で、「懐かしいなぁ」と池田先生が仰った』等と言う話がそれとなく流されていました。勿論、反対する人たちは、「その巨木を調べたら、樹齢約500年だった。」などと言う議論をしていました。

>名誉会長の唱題は「題目」じゃないと思います。

そうでしたか、僕なんかは、池田先生の澄み切った唱題の声に心酔したものでしたが・・・

まぁ、正確には「南無妙法蓮華経」とは唱えていない、と言うことですね。了解しました。

33問答迷人:2011/07/01(金) 08:31:29

年中夢中さん

>古沢石日さんのご意見、実に見事に創価学会の実体を捉えておられると思いました。

同感です。しかし、創価学会の中に、古沢石日さんの様に冷静に判断しておられる方がいらっしゃる事、とても心強いですね。

34管理人:2011/07/02(土) 00:20:57
問答迷人さん。
ご多忙の中ご返事頂き恐縮です。
伊豆の巨木の話はネットで知りました。
都市伝説か、アンチの創作ですよ。

殉教の話が出たのでご意見頂きたいのですが
永遠の生命であらば、信心のために今ある肉体を捧げることなど
簡単なものであろうかと思う反面、死んでしまっては
今を生きる己の存在価値を問えるのかという疑問もあります。
腰に刀や銃をぶら下げていた時代と違い、今はぬるま湯のような時代。
口先ではなんとでも言えると批判されましょうが、口が動くかぎりは
お題目を唱え続けたいと決意しております。

35古沢石日:2011/07/02(土) 00:26:24
失礼しました。
34は私です。
自分の板で書き込みをしましたので「管理人」のままでした。
申し訳ございません。いやぁお恥ずかしい。

36問答迷人:2011/07/02(土) 12:17:16

古沢石日さん

>永遠の生命

これは、確認する術を僕は持ちません。なので、永遠の生命を前提にした思考は僕はしていません。釈尊が「無記」とされた態度に学ぶべきだと僕は考えています。

>殉教

これは南無妙法蓮華経と唱える唱題の最終帰結なんだと捉えています。
己の心身の全てを日々妙法蓮華経の五字に捧げ続けること、そして、己の人生の全てを妙法蓮華経の五字に捧げてしまう事、そこに殉教があるのだと思います。
日々、己の心身の全てを妙法蓮華経の五字に南無し続けることこそが最も大切なことであり、その行為の中に、三世十方に広がる己自身の存在の実感・覚知が在るのではないかと考えています。
殉教は信仰を極めて判りやすく披瀝する形ではあっても、極めて特殊な信仰の形態である事は間違いないと考えいます。誰にでも出来ることでもなければ、それを粋がって真似るべきことでもない。

>口が動くかぎりはお題目を唱え続けたいと決意しております。

全く同感です。最低一日一時間と決めて、唱題に励んでいます。

37古沢石日:2011/07/02(土) 21:14:51
>己の心身の全てを日々妙法蓮華経の五字に捧げ続けること、そして、己の人生の全てを妙法蓮華経の五字に捧げてしまう事、
>日々、己の心身の全てを妙法蓮華経の五字に南無し続けることこそが最も大切なことであり、その行為の中に、三世十方に広がる己自身の存在の実感・覚知が在るのではないかと考えています。

問答迷人さん。
素晴らしいお言葉です。

今まで頂いたどの指導より心にしみました。
お昼に書き込みを読ませていただき、ずっと感動し続けておりました。
ありがとうございます。

38古沢石日:2011/07/02(土) 21:16:20
殉教に対してのご意見でしたが
生きる為のご指導です。

39問答迷人:2011/07/03(日) 07:39:20

古沢石日さん

ご賛同賜り、恐縮いたしております。

舌足らずと思うところがありますので、少し補足させてください。

「妙法蓮華経の五字」について

日蓮聖人は随所に「妙法蓮華経の五字」或いは「題目の五字」と仰せです。この表現を以て表そうとされた内容は何か、それは、『本当に大事なのは法華経二十八品ではなく題目の五字だよ』『帰命する対象は妙法蓮華経という経典ではなく、妙法蓮華経如来神力品で釈尊が地涌の菩薩の上首たる上行菩薩に授与された一大秘法たる妙法蓮華経という五文字なんだよ』という事なんだと思っています。法華経二十八品や、妙法蓮華経という御経に説かれた法門ではなく、単に妙法蓮華経という五つの文字、声に出して読むことが出来、目で見ることが出来る『五つの文字そのもの』を信仰対象として選ばれた所に日蓮聖人の卓見というか、真骨頂というか、深い悟りからの見識があるのだと思います。法華経二十八品と言っても、読める人は限られ、読んでも理解する人はさらに限られ、しかもその人その人によって理解する内容は異なってしまいます。その様な抽象的な内容は信仰の対象には不向きなんだと日蓮聖人は考えられたのだと思います。しかも、この妙法蓮華経の五字は法華経二十八品の経題であり、この妙法蓮華経という五文字で法華経二十八品を代表させることが出来ます。日本という国名が、一都一道二府四十三県を代表するのと同じです。この五文字で法華経の全てを代表させ、しかもこの五文字が神力品付属の正体である、というのが、日蓮聖人の教えの骨髄なんだと思います。

40古沢石日:2011/07/03(日) 15:00:36
問答迷人さん。
ありがとうございます。
お言葉に対しどう返答してよいか
言葉がみつからないくらい感謝感激いたしております。
問答迷人さんの素晴らしいお考えは、何時何処でどの様にして
育たれたのでしょうか。
創価学会・日蓮正宗の仏道修行を経て得られたものでしょうか。
それ以後に何かに出会い得られたものでしょうか。
是非私も末席に加えて頂けませんでしょうか。

41問答迷人:2011/07/03(日) 16:57:18

古沢石日さん

>考えは、何時何処でどの様にして育たれたのでしょうか。

大石寺戒壇板本尊が後世の作であり、日蓮聖人の出世の本懐などと言うものではない、と気付いた時、僕の信仰は一時崩壊しそうになりました。しかし、創価学会在籍中の入信七年目に体験した『御本尊の文字と己とが一体に融合した数日間』に、「必ずや日蓮聖人の教えは真実であり、法華経は真実である」という確信を持ちました。戒壇本尊に対する信仰は見事に崩壊しましたが、この不思議な経験の時に感じた確信は動くことはなかったです。「日蓮聖人が命懸けで伝えかたった世界は実在する。今はまだそれが何なのか不明確なだけだ」と気を取り直し、本尊抄を読み返しました。

『釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』

この一節の「妙法蓮華経の五字」は日蓮正宗・創価学会では、「戒壇大御本尊」の事だと教えられてきました。しかし、戒壇大御本尊が偽物であることがはっきりとした以上、この一節はありのまま「妙法蓮華経という五つの文字」のことではなかろうか、と漠然と思いました。そのとき、過去の御本尊の文字との融合体験を思い起こし、きっとそうに違いないと思いました。

それから、この「妙法蓮華経の五字」について、日蓮聖人がどのように教えられているのは調べ上げて行きました。

曽谷入道許御書には「爾時に大覚世尊寿量品を演説し、然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属し給ふ。其の所属之法は何物ぞ。法華経之中にも広を捨て略を取り、略を捨てて要を取る。所謂、妙法蓮華経之五字、名体宗用教の五重玄也。例せば九苞淵之相馬之法には玄黄を略して駿逸取る。史陶林之講経之法には細科を捨てて元意を取る等云云。加之、霊山八年之間に、進んでは迹門序正之儀式に文殊・弥勒等の発起影向之聖衆にも列ならず、退ひては本門流通之座席に観音・妙音等の発誓弘経之大士にも交はらず。但此の一大秘法を持して本処に隠居する之後、仏の滅後正像二千年之間に於て未だ一度も出現せず。所詮、仏専ら末世之時に限りて此れ等の大士に付属せし故也。」とあります。又、本尊抄末文には「天晴れぬれば地明らかなり。法華を識る者は世法を得べきか。一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと大公・周公の成王を摂扶し四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者也。」

さらに、本尊抄には、あの有名な「在世の本門と末法之初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此れは種也。彼は一品二半、此れは但題目の五字也。」の一文があります。

これらを総合的に考えると、もはや日蓮聖人が「妙法蓮華経の五字」を以て末法の法華経とされた事は動かないと確信するに至りました。そして、立宗の暁から唱えられた「南無妙法蓮華経」という御題目は、この究極の正法たる妙法蓮華経の五字に南無するぞ、という誓願の言葉、祈りの言葉なんだと思いました。

開目抄の「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず。」と言うお言葉は、菩薩の四弘誓願と取れます。そして、その四弘誓願の根幹こそが「南無妙法蓮華経」という誓願なのではないか、と思い至ったとき、日蓮聖人の教えが簡潔で、しかもなんと見事な三世十方の広がりを持つ広々とした教えなんだと、感嘆するしかなかったです。これほど人の生き方を根源的に指し示した教えは、空前絶後だと思います。

>是非私も末席に加えて頂けませんでしょうか。

僕はいつも末席が好きです。一人で静かに一大秘法を実践して生涯を終えたいと思っています。しかし、もし、同じお考えの方がいらっしゃれば、どれほどか心強いか知れません。そういう意味で、無教会信徒の横の連帯がネットを通じて生まれれば、それが一番日蓮聖人の望まれておられる形に近いのではなかろうか、等と思っております。今後ともご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。

42古沢石日:2011/07/05(火) 00:11:00
問答迷人さん。

>御本尊の文字と己とが一体に融合した数日間

素晴らしい体験をお持ちなのですね。
私は一瞬ですが私にも南無妙法蓮華経の文字と己が融合した体験があります。
私の場合、御本尊の前でなく空に向かって唱題しているとき、空に浮かんだお題目が、
上手く説明できないのですが、頭の先から足の先まで歓喜にあふれ
空に浮かぶお題目・・・   すみません。言葉で上手く言えませんが体験しております。
短い時間ですが、多々あります。

自己紹介では半世紀とあいまいに書きましたが性格には入信は45年前でして
小学6年生時に正本堂で戒壇の大御本尊の御開扉を父と二人で受けた時から
信仰に対象が「物」でいいのかとずっと疑問に思っておりました。
正信会が「出世の本懐がダイナマイトで爆破できる物であるはずがない。」という
事を言っていたと最近しりましたが、それに近い考えをずっともっておりました。
しかし自宅に頂いた御本尊を敬う気持ちは、もう誰にも負けないくらい深い
物をもっておりました。

問答迷人さんは、素晴らしい体験に加え勉強に勉強を重ねられて今日の信心を
確立されてらっしゃいます。
私には、全く教学がありません。「こう感じる」だけの信心ですが信ずる心は
人一倍だと思っております。
もっともっと早く勇気を出して、この掲示板にお邪魔していればと思いました。
ロムして自分で解釈するより指導していただいたほうがどれほど素晴らしいかと
後悔いたします。

無学で理解力の無い私ですが、今後ともご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。

43問答迷人:2011/07/05(火) 07:06:31

古沢石日さん

>私は一瞬ですが私にも南無妙法蓮華経の文字と己が融合した体験があります。

恐らくは、同じ体験をされたのだと思います。僕はその数日間は、やることなすこと、思いのままに運んだ記憶があります。これが「自在」という事なのか、とその時思いました。そして、その体験を再現したい、その体験を日蓮聖人の教えの上から確認したい、そんな思いで過ごしてきて、色々な事がありましたが、その体験の日から今日まで約40年、今日に至るも信仰を捨てることなく来れました。とても有難いと思っています。

同一体験をお持ちの方とお会いすることが出来て、とても嬉しいです。出来れば、これからは、少しでも同信の輪を広げて行きたいものだと存じます。宜しくお願い申し上げます。

44古沢石日:2011/07/06(水) 00:46:10
問答迷人さん。

>僕はその数日間は、やることなすこと、思いのままに運んだ記憶があります。これが「自在」という事なのか

おっしゃるとおりです。
やる事といいますか、振り返るとこれしかないという生活を歩めるのです。
よく世間で「運が悪い、不運だとか、間が悪い。」といわれますが
まったく真逆で、こういう場面にめぐり合いたいなといった場面が
あちらからやってきます。

時がたつのが楽しくてしょうがないといった感じです。
何がしたいどうして欲しいではなく、こうしてもらって最高だっと言う気分です。
万年も生き続けたい。
もっと上手く説明させていただきたいのですが、
言葉で説明できなくらい、幸せです。

問答迷人さん。
いつもご指導ありがとうございます。
明日より週末まで出張となりましてしばらくパソコンに迎えませんが
まだまだご指導いただきたいことが山盛りです。
戻りましたらいろいろご質問させて頂きたく思います。


今後とも是非、ご指導ご鞭撻の程宜しくお願いもうしあげます。

45古沢石日:2011/07/06(水) 00:47:28
失礼しました。

× パソコンに迎え
○ パソコンに向かえ

46問答迷人:2011/07/06(水) 07:20:08

古沢石日さん

>まったく真逆で、こういう場面にめぐり合いたいなといった場面があちらからやってきます。

日蓮聖人の言葉を借りると、次の様になるのでしょうね。『今日本国の法華経をかたきとして、わざわいを千里の外よりまねき出だせり。此をもってをも(思)うに、今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし。』十字御書(重須殿女房御返事)

お戻りになるのをお待ちいたしております。

47古沢石日:2011/07/11(月) 21:35:42
戻りました。
これからも宜しくお願い致します。

48古沢石日:2011/07/11(月) 21:48:14
問答迷人さん

私は40年以上前の創価学会編集の御書を大事にしております。
御書を大切にするのは「心」だと思っております。
御書を拝する時は手を荒い心をもって拝します。
しかし御書は出版社で印刷された書物です。

新聞等にも御書より御金言が毎日のように掲載されております。
私は定期購読はしておりませんが、
購読者は読めば廃棄してしまうと思います。
保管して会合等に使う物もあると思うのですが
御書より引用された御文が毎日全国で大量に粗末に扱われているのが
気になります。
考えすぎでしょうか。

49問答迷人:2011/07/12(火) 06:47:06

古沢石日さん

受持・読・誦・解説・書写の五種の修行が法華経には説かれています。この中で、「書写」は文字経典が出来上がった時に付け加えられたのだと思います。その一番の意義は、令法久住なんだと思います。

今日、印刷技術が発明されて、それが高度に発達しています。さらに、今後を考えれば、電子書籍の全盛期に入ってゆくのはほぼ間違いのないことだと思います。早晩、新聞紙に印刷された所謂「新聞」は姿を消すことになると思います。

このような技術革新の中で、令法久住はどうあるべきかを考えることが「書写」を考える上で重要なんだと思います。

書写の今日的意義は、恐らくは、正確性ではないかと僕は考えています。日蓮聖人も法華経の六訳三存の中から、鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経二十八品」を最も原型に近いものとして採用されています。

恐らくは経典研究は更に進み、印度で制作された当初の法華経が更に解明されてゆくことだと思います。

日蓮聖人の御書にしても、創価学会版の御書全集が発刊された意義は、本当に素晴らしいものがありますが、今日的には、日蓮聖人の著作でない、後世の偽書が真蹟と同等に扱われている事等、様々な問題点が指摘されています。宗派や団体の都合に影響されずに、「真蹟遺文」と、「偽書」を峻別し、真蹟は残ってはいないものの、文体や内容から、「真蹟遺文と同等に考えてもよいもの」、明らかに後世の作であり、「日蓮聖人の著作とは言えないもの」を明確にして編集された御書全集の発刊が待たれるところです。そして、それは更にその後の研究によって、補正されてゆくべきものと考えます。そうした、日蓮聖人の遺文に対する真摯な態度こそ、令法久住の意義に叶うのだと考えています。

大量消費時代の現代、こうした努力の積み重ねこそが、真に日蓮遺文を大切にすることだと思います。読者が、そういう見識を持ったとき、編集者や出版社はいずれ、そうした読者の要請に従うものと考えます。

50古沢石日:2011/07/12(火) 23:54:41
問答迷人さん

「真蹟遺文」と「偽書」の峻別という意識は創価学会内には全く無いと思います。
そもそも御真筆の御本尊でも他所のお寺にあれば「邪」であるといった思想が
今となっては全く理解できません。
宗祖御真筆が「邪」血脈を受けた弟子の書写が「正」理解できません。
しかし何十年も何の疑問も持たなかったのは自分自身です。

上からの指導・指示は全て鵜呑み。
創価学会員の末端会員は全てそうだと思います。

本当に矛盾だらけに気付いても誰も口に出しません。
公式見解がジワジワ変わっていっても見て見ぬふりです。

大聖人様のお名前だけを使った「創価学会の御本尊・御書」なんでしょうね。

スレ違いになってしまいまして申し訳ございません。

51古沢石日:2011/07/13(水) 00:52:45
問答迷人さん

御書には我々が拝む「御形木御本尊」様についてのお言葉は無いと聞きました。
法主が直々に書写して頂けるのではなく、それを元に印刷されるものですね。
形式としては個々に違いの主張はあるのでしょうけど「印刷」ですね。
その後お寺では「開眼供養」されるそうなのですが、法主に直々頂くものでなく
地方のお寺で下附されます。今までの何千万幅の御本尊を全て法主は
「開眼供養」されたのでしょうか。
地方のお寺には運送便とか郵便で発送なのですよね。
運送の方は荷物を粗末にはされないでしょうが
信者のそれと比べると心配です。
お寺にも「心」が無いように思えるのですが。

やはり大聖人様御真筆の御本尊御安置のお寺で唱題と考えるのですが
その寺にある釈迦像がとか何像がとかが私には謗法になりますので
それも出来ません。

大聖人様が一幅一幅御図顕なさっておられた時、全信者の手元に
御本尊をとお考えになっておられたのでしょうか。

52問答迷人:2011/07/13(水) 13:27:20

本尊について

日蓮聖人の十大部である「唱法華題目抄」には、御真筆曼荼羅の原型とおぼしき記述があります。『問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、』(日興写本)

『本尊は題目、その題目の左右に釈迦仏と多宝仏を書き、さらに十方の諸仏普賢菩薩等を書いてもよい。又、釈迦多宝十方諸仏普賢菩薩等は仏像として造立して題目の左右に立ててもよい』

まぁ、こんなところでしょうか。

一つ一つ検証します。

先ず、仏像を立てることを全然否定されていない事。謗法等と言う御考えは微塵も読み取れません。

本尊は題目を書いて本尊とせよ、とあるのみです。法主が書いたものでなければならないとか、日蓮聖人が書いたものにだけ利益があるとか、そういう事は全く想定外だと思います。法華経の題目を書いて本尊とせよ、これが日蓮聖人の基本的お考えと思われます。

後に、日蓮聖人は曼荼羅を認められて、本尊とするように弟子檀那に授与されましたが、この御文からすれば、各自が題目を書いて本尊とすれば良いのだけれども、日蓮聖人が代わりに書いて上げた、と言った風情にも取れます。

やはり、真筆曼荼羅に拘る意味合いは何もないのではないでしょうか。御書は偽書との峻別が不可欠ですが、題目は誰が書いても題目に違いはないのではありませんか。

54問答迷人:2011/07/13(水) 14:38:32

追加です。

日蓮聖人は必ずしも筆で書け、とは仰せではありません。また、仏像を立てても良いと述べられているわけですから、印刷も基本的には問題にならないと僕は思います。

ただ、日蓮聖人の真筆曼荼羅を型木に彫って、印刷することに対しては、日興上人が戒められた御文が残っていますが、これは、真筆曼荼羅を木に張って彫ってしまう事を嫌われた側面も有ったのではなかろうかと僕は考えています。どこまでも、真蹟遺文、真筆曼荼羅を後世に残されようとされた日興上人ですから、当然のご配慮かと思います。

今日に於いて、印刷した曼荼羅を法主が開眼して信徒に授与されていますが、曼荼羅自体が本来、諸仏の眼たる妙法蓮華経の五字を認めたものなのに、果たして、諸仏の眼が題目として認められているのに、どうやってさらに開眼するのかなぁ、と思ってしまいます。まぁ、開眼と称して、印刷の曼荼羅を配布することへの言い訳を日蓮聖人の申し上げるのではないかなぁ、等と考えています。例えば、『眼の書かれていないダルマさんに筆で眼を入れる事を開眼』と言うのが、『開眼』の普通の意味合いであると思います。諸仏の眼たる妙法蓮華経の五字をさらに開眼するというのは、全く変てこな話だと思われませんか。

>全信者の手元に御本尊をとお考えになっておられたのでしょうか

これは、物理的に考えて、無理だと思います。中心拠点の為に曼荼羅を授与されるので、精一杯ではないかと思います。ですから、本尊が無くてもお題目を唱えればその功徳は一緒だと教えるか、「各自で曼荼羅を書いて本尊とせよ」と言うか、あるいは、今日的に「印刷した曼荼羅を本尊として配布する」か、何れかの方法によるしかないと思います。信徒が本尊欲しさに勝手に怪しげな曼荼羅を書いてしまうのを防ぐという意味では、印刷本尊の配布がベターではなかろうかと考えます。

55古沢石日:2011/07/13(水) 23:01:28
問答迷人さん

いつも本当にご丁寧にご説明くださりましてありがとうございます。
毎日毎日この掲示板でのご説明を読ませていただく度に
自分の心が輝いていくのがとてもよくわかります。
日蓮正宗の方や創価学会の方もこの掲示板に来て
いままで自分達が「日顕宗」だ「池田教」だと争い罵りあってきた
愚かさに気づかれると思います。


「木絵二像開眼之事」を御本尊の開眼、「聖人御難事」を戒壇の御本尊。
今まで数多くの人がこの議論を繰り返しいますが、
私は何度拝しても法華講や創価学会の主張は「こじつけ」としか思えませんでした。
とても心が軽やかになりました。本当にありがとうございました。

御本尊に関してもう一つ質問させてください。
身延の売店やネットで売られている御曼荼羅や
日像上人などが書写した御本尊とか日蓮宗系の僧侶が個人的に書写した御本尊とか
書道家が書写して友人知人に配ったという話も聞きます。
お題目・釈迦仏と多宝仏・諸仏普賢菩薩等を活字印刷、例えばワープロ打ちのように
したもの等に対してはどうお考えでしょうか。

私は近い将来、電子書籍のように御本尊も仏壇がパソコンに変わり
そこに保管されるように思えるのです。
紙に印刷したものに比べて、汚れや破損等の不敬の心配も無いので安心だと思うのですが。

56問答迷人:2011/07/14(木) 06:42:55

>お題目・釈迦仏と多宝仏・諸仏普賢菩薩等を活字印刷

日蓮聖人は妙法蓮華経の五字、と仰っていますが、その書体についての言及は、少なくとも真蹟遺文にはありません。ただ、日蓮聖人が書かれた曼荼羅は、髭文字と呼ばれる、髭のように文字の端を伸ばした書体が用いられています。日本で用いられている活字には、このような髭文字書体はありませんね。現代活字を用いることには、この点が課題となるのではないでしょうか。

>電子書籍のように御本尊も仏壇がパソコンに変わり

電子曼荼羅を拝するのに都合の良い形態の「パソコン仏壇」はあり得ますね。現に、顕正会の会館では曼荼羅をモニターに映して勤行・唱題する形が行われているのを「顕正新聞」で見たことがあります。文字は紙に書くものだ、という先入観がありますが、法華経経典も初めは、椰子の葉に書かれていたわけです。所謂、貝葉本です。将来、媒体がパソコンモニターに代わっても何ら不思議は無いし、その時代に即した形になってゆくのが良いのではないかと思います。

57古沢石日:2011/07/14(木) 23:41:09
問答迷人さん

ご多忙の中いつもご丁寧なご指導ありがとうございます。

私は教学がありません。
何十年もの間唱題を重ねてきて、直感的に信心を考える事がほとんどです。
研究を重ねられ勉強を積み重ねられる方々からすれば
私の直感等は寝言戯言かもしれません。
しかしせっかくこのような巣晴らしい掲示板にめぐりあえましたので
お叱りを受けるのを覚悟で今後も質問させて頂きます事をご容赦くださいませ。


妙法蓮華経を、何の迷いも無く、生命ある間保ち続けることが出来る信者なら、
意識の中にある御本尊(目の前に常に正しく御本尊を想い浮かべる事が出来る)と
実際にご安置した書写(印刷)ご本尊に差異が無い様に思えます。
そもそも大聖人様が御本尊を御図顕されたのは、しっかりとした対象がないと
信弱き者はいろんな物にお題目をあげてしまわないようにではないでしょうか。
他宗の曼荼羅は言うまでも無く、他には身近の木仏・石仏とか、動物だとか爬虫類だとか。


思いますにお曼荼羅は地図であり扉であり楽譜である。
お題目は地図を読み心を目標へ運ぶためにあったり
扉を開ける鍵でもあったり楽譜に書かれた最高のメロディを
奏でる(声なのか楽器なのか)物なのではないでしょうか。

扉の位置をしっかり把握している者、地図が無くとも目的地をしっかり
理解している者、楽譜を完璧に頭に記憶できている者には

つまり御本尊をいつも目の前に御安置出来ている人物には
お曼荼羅は無くてもよいのではないでしょうか。

そもそも紙に書かれたという事は、お手紙お手本なのでは。
記してあげたから一生懸命信仰して心に刻みなさいとおっしゃっていらっしゃったのだと。
御図顕して頂いたお弟子の中には、ご立派な家屋をお持ちの方ばかりではなかったはずです。
紙に顕されたお曼荼羅を、雨や嵐や風や火事や物取りが多発する時代の中、
代々の子孫まで信仰の対象として保つのには難しいです。

一刻も早く生命に刻みなさい。そう思われていたのではないでしょうか。

58問答迷人:2011/07/15(金) 17:31:07

古沢石日さん

>お叱りを受けるのを覚悟で今後も質問させて頂きます事をご容赦

とんでもありません。僕は学問として仏教を学んだ者ではありません。一信徒として考えてきた事を書き込ませていただいているのみです。

>お曼荼羅は地図であり扉であり楽譜である。

十大部の『顕仏未来記』に次のような記述が有ります。

「此の人は守護の力を得て本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか。例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩「我深敬」等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意之同じ。彼の像法の末と是の末法の初めと全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり。」

不軽菩薩は二十四字の法華経、日蓮聖人は五字の法華経、と語句は違っていてもその意味内容は同じであると読めます。日蓮聖人の教えは『五字の法華経』と言う事ですから、妙法文字曼荼羅は日蓮聖人の『五字の法華経』をそのまま表したもの、ということになると思います。
そして、それが悟りへの地図であり、悟りへの扉であり、悟りへの設計図、つまりは音楽に於ける楽譜に相当するとのお考えに賛同します。

>扉の位置をしっかり把握している者、地図が無くとも目的地をしっかり理解している者、楽譜を完璧に頭に記憶できている者にはつまり御本尊をいつも目の前に御安置出来ている人物にはお曼荼羅は無くてもよいのではないでしょうか。

確かに、日蓮聖人御自身は、曼荼羅がなくとも法華経修行に事欠くことは無いと思います。ただ、私たち信徒は、日蓮聖人に導かれて正しく法華経を修行させていただく立場ですから、曼荼羅は必要ない、と言うのは行き過ぎではないでしょうか。常に日蓮曼荼羅を拝して信仰に励むのが日蓮信徒の基本姿勢ではないかと僕は思うのですが、如何でしょうか。先に引用しました「唱法華題目抄」の次の部分には「行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、」と有りますから、日々の信仰の基本としては曼荼羅を安置してその前で座って題目を唱えよ、ということだと思います。そして、「道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず」ですから、生活の合間に歩きながら題目を唱えることは一向に構わない」ということだと思います。

59古沢石日:2011/07/16(土) 00:41:48
問答迷人さん

日々この掲示板を開く事が自分の生命を磨いてくれます。
ご指導いただく度に生命に新芽が育つ気分です。
爽快とはまさにこの心境であること間違いなしです。
まとこにありがとうございます。

おっしゃいますとおり御本尊を拝するがこそ
常に身支度を整えるという生命が湧きます。
自分ではしっかりきっちり生きているつもりでも自分の姿は
自分では見えません。
御本尊という生命のお鏡で自分を磨くことが一番大切ですね。
ありがとうございました。

60古沢石日:2011/07/16(土) 00:54:37
創価学会の会合では「幸せになるために日々信心してます」という言葉が多々でます。
御本尊は「幸福製造機」であるという指導を今でも耳にします。

はてさてその幸せとはいかがなものなのでしょうか。
数々の体験・指導を聞かせて頂き判断するに全て現世利益です。
病気が治った、事業が成功した、欲しいものが手に入った云々。

これって「天界」ではないのでしょうか。

不治の病が完治しても、その先風邪をひいたり虫歯になったりすることもあります。
死ぬまで全くの医者要らずというわけでもありません。
金儲けも欲を言い出せばきりがない。
欲しく欲しくてしょうがなかったものも、手に入ればやがて飽きます。

それらは本当に「功徳」と呼んで良いのでしょうか。

61問答迷人:2011/07/16(土) 08:18:38

古沢石日さん

>数々の体験・指導を聞かせて頂き判断するに全て現世利益です。・・・それらは本当に「功徳」と呼んで良いのでしょうか。

立正安国論の末文に「弥よ貴公の慈誨を仰ぎ益愚客の癡心を開けり、速に対治を回して早く泰平を致し先ず生前を安じて更に没後を扶けん、唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ。」と有ります。ここに「先ず生前を安じて更に没後を扶けん」と有ります。「生前を安じて」とは現世利益を述べられたものだと拝します。「更に没後を扶けん」と言うのは、後世の大事であり、一生成仏を述べられたものと拝します。日蓮聖人がこの書を著して幕府を諌められたこと自体、安国を願われた訳で、現世利益の一面と言えると思います。
大事なのは、単なる安国ではなく、仏教による安国を教えられたわけで、それは後世につながると言うことだと思います。三世に亘っての仏教の利益を述べておられると拝します。

以上の事から、南無妙法蓮華経を離れた現世利益は泡沫の様な儚いものですが、南無妙法蓮華経を根本にした現世利益は後世の利益をそこに含んでおり、単なる現世利益ではなく、功徳そのものだと思います。

62古沢石日:2011/07/17(日) 00:28:00
問答迷人さん

ご指導まことにありがとうございます。
問答迷人さんはどの様な質問に対しても
即座に御書の御文を用いられ、解説していただきますが
その膨大な知識はどのような学習にて身につけられたのでしょうか。

御書はどちらの編集発行の御書をお持ちなのでしょうか。
他にもどれくらいの書籍をお持ちでしょうか。

ご推薦される書籍等がありましたら、是非ご教授いだだけますでしょうか。

63問答迷人:2011/07/17(日) 06:43:12

>御書の御文を用いられ、解説

学生の頃、創価学会版の御書を三回ほど意味も分からず通読しました。断片的ながら、どの御書にどんなことが書かれているか、極めてアバウトながら把握することが出来たと思います。その後の信仰の中で、その都度、御書を読み返したりしてきましたので、少しばかり全体観は養われたのだと思います。

ただ、一番為になったと思うのは、当掲示板で諸賢から、真蹟遺文によって日蓮聖人のお考えに迫るという手法を教えていただき、宗派や団体の御都合教学の洗脳から自由になることが出来た事です。特に犀角独歩さんから徹底した真蹟主義を学ばせて戴いた事は、戒壇板本尊を離れた今、どれほど有難かったことか、深く感謝しています。

>御書はどちらの編集発行

創価学会版、大石寺版、日蓮宗現代宗教研究所の真蹟遺文、この三種を常用しています。

>ご推薦される書籍

浅学の身ですから、特に推薦すると言ったことはありませんが、富士宗学要集は、創価学会と日蓮正宗という自身の出自を知る上で欠かせない書籍であると思っています。戒壇板本尊が偽物だとの確信を持ったのは、宗学要集を検索する事によって、でした。

>指導

僕は指導と言う事が出来る立場でも、資格も、能力のないと思っています。指導ではなくて、僕自身が信ずるところを述べさせて戴いているのみです。出来ましたら、「指導」という言葉は僕には似つかわしくないと思っていますので、お使い戴かない様にお願い出来ますでしょうか。

64古沢石日:2011/07/17(日) 10:11:30
問答迷人さん、おはようございます。
お忙しい中ご回答頂きましありがとうございます。
創価学会員は、新聞、大百蓮華の資料をもとに会合で勉強しますから代表される御文しか知識に無いと思います。
最近では会合に御書を持たず大百で御書学習をされるかたが大半だそうで、ますます御書から離れていってしまいます。
会員の中で一度でも通読された方は数える程しかいないのではないでしょうか。私もまったくその通りです。
まずは通読にチャレンジさせて頂きたいと思います。

この掲示板に書き込みさせていただくようになり、数々の御回答をいただきました。
ワールドワイドウエブの素晴らしさをこんなに体感させて頂いたのはこの掲示板だけです。
言葉ではうまくお礼の表現ができませんが、体が震えるほど喜びを頂いております。

問答迷人さんから頂いた言葉は「問答迷人様指導」というフォルダに保存させて
頂いております。私自身は毎回頂くお言葉はご指導享け賜ったものと心しておりあますが
ご指摘をいただきましたので、今後は言葉の使い方に注意してまいります。

今後とも宜しくお願い申し上げます。

65古沢石日:2011/07/17(日) 10:23:41
問答迷人さん

創価学会草創期の折伏で、相手に罰論をバンバン訴えて折伏相手に罰を受けるように
会合で題目を上げ、相手を落とすだけ落としてから救ってやろうといった折伏があったそうです。
相手の不幸を願う唱題は自身に降りかかって来るように思えるのですが
こういった行為はいかなるものでしょうか。

66問答迷人:2011/07/17(日) 11:14:44

>相手を落とすだけ落としてから救ってやろうといった折伏

曾谷入道殿許御書(文永十二)に、天台の法華文句を引用されて次のように書いておられます。

「本已に善有るには釈迦小を以て之を将護し、本未だ善有らざるには不軽大を以て之を強毒す 中略 仏の滅後に於て三時有り。正像二千余年には猶お下種の者有り。例せば在世四十余年の如し。機根を知らざれば、左右無く実経を与ふべからず。今は既に末法に入て在世の結縁の者漸漸に衰微して権実の二機、皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓を撃たしむる之時也。」

『法華経を直ちに説いて、相手が反発して、誹謗すれば、法華誹謗の罪で罰を蒙る、その時に、再び法華経を説いて聞かせて、法華経に導く。』という姿が、法華経不軽品に説かれています。この経文について、天台は、過去に仏に結縁した事のない衆生には、法華経を説いて誹謗させることによって、法華経に縁を結ばせるのだと解説しているわけです。日蓮聖人はこの天台の説を受けて、それを肯定されています。

ただ、日蓮聖人が相手が罰を受けるように祈ったというのは、真蹟遺文には明文は無いようです。真剣に相手の成仏得道を願って法華経を説かれたから、反発した人も遂には信徒になった、というのが真相では無いかと思います。

67古沢石日:2011/07/17(日) 19:38:50
創価学会の功罪を考えるスレの1944で
>昔の折伏は相手の幸福を第一に祈念したものです。
と書き込みしましたが訂正させてください。我々凡夫は私利私欲ギラギラです。
相手の幸福を祈りつつ、折伏達成により自分に功徳を頂ける事を第一に考えてるのが事実ですよね。
欲望・祈り・願い みんな人より一歩でも幸せになりたいでしょうね。


>真剣に相手の成仏得道を願って法華経を説かれた


近年の大災害を思いますに、人は人として人のために働くことが自分のためにでもある。
風邪薬一つとっても、世の中に多く風邪で苦しむ人がいるから薬が開発調合販売されるんだなあと。
ガソリン・電気なども人間一人ではなんにもできません。
人間って素敵ですね。
真剣に相手を願ってを思いだ出さなくてはいけませんね。

私の質問には全く一貫性が無い事を反省しております。
過去組織で質問を繰り返しましたが、誰一人として納得する答えをいただけませんでした。
納得するまで繰り返していたら「難癖」をつけているように言われやがて組織から遠ざかってしまいました。
私自身あれもこれもお答え頂きたい気持ちが整理できず、考える前に書き込みしてしまいます。
ですので「何を聞きたいのかわからん奴」とお思いでしょうが末永く宜しくお願い申し上げます。
掲示板で討論された内容を重複しないようロムさせて頂いておりますが、
他スレで解決済みの質問などを私がした場合には「何スレの何番を読め」とおっしゃってください。

68問答迷人:2011/07/17(日) 20:22:38

>他スレで解決済みの質問などを私がした場合には「何スレの何番を読め」とおっしゃってください。

了解です。

ご質問に仮に一貫性が無くても、それは一向に構いません。古沢石日さんのご質問お答えしてゆく中で、結果として一貫性が出てくるのではないかと思っています。どうぞお続けください

69古沢石日:2011/07/18(月) 01:40:05
>>55で質問させていただきました御本尊書写の活字印刷の事なのですが
髭文字の書体を印刷出来ないという事で好ましくないとご回答いただいておりました。
富士教学研究会談所という掲示板の「伝興尊御本尊」というスレッドに紹介されていました
日興上人ご書写の御本尊にはほとんど髭がないのです。
柳澤宏道氏著 「石山本尊の研究」からの大石寺第三世 日目上人筆のご本尊も
妙と蓮の文字が少し伸びていますがほとんど楷書に近いです。
創価学会の御本尊は掠れた部分を加筆したり修正したりしていると聞きます。
色を足したり太くしたりしたら、書を印刷したと言えず、文字を作って印刷したと
なるのではないでしょうか。
電子書籍化してパソコンに御安置する御本尊は活字印刷というのは無理があるでしょうか。
梵字に関しては活字というよりもツールで文字作成になってしまいます。

70問答迷人:2011/07/18(月) 17:01:42

古沢石日さん

>電子書籍化してパソコンに御安置する御本尊

僕は、インターネットにアップされている「御本尊集」からダウンロードして、パソコンに取り込めば良いのではないかと思いますが、やはり、活字印刷に拘られますでしょうか。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

71古沢石日:2011/07/18(月) 19:34:58
問答迷人さん

せっかくのご意見ですが、寺院に宝蔵されているお曼荼羅ですから、その寺院の教義や信徒の願い
それに撮影した人間までが介入するような気がしますのでネットDLは気がすすみません。
2番目の京都妙蓮寺宝蔵のお曼荼羅は背景を処理してアップしているみたいで
御真筆とはいえず、画像作成の分野に入ってしまうかと思います。

72古沢石日:2011/07/18(月) 23:58:30
問答迷人さん

>>39 >>53 >>54 のご意見を頂きましてから
私なりに考えてまいりました。
いつもの如く文証もなく、心に浮かんできた事なのですが
御図顕されたお曼荼羅は与えられたお弟子がいらっしゃいます。
授与書まで頂いております。
「貴方は間違いなく私の弟子だから、この曼荼羅をいつも肌身離さず保つ
事で信心を深く保ち唱題を重ねて折伏しなさい。」といった、
なんと言いましょうか人生の手引書であり、お弟子である証明書の意味なのでは
ないでしょうか。
創価学会も日蓮正宗もお曼荼羅の意味を取り違えているように思えて来ました。
御本尊とは曼荼羅ではなく「南無妙法蓮華経」だと思うのですがいかがでしょうか。

日蓮宗の信徒も創価学会や日蓮正宗と同じように
御形木御本尊と頂き本尊としているのでしょうか。

73古沢石日:2011/07/19(火) 01:53:33
もう一つ質問させてください。
組織では、唱題はとにかく数多くと指導されてきました。
題目表もあります。
大聖人様も数多い唱題が多くの功徳をいただけると仰せでしょうか。

常識外れな質問をしてはいけないと思いまして、
自分なりに少し勉強せねばと、最近ネットでいろいろ検索するのですが
私が今まで組織から受けてきた指導は御書よりも日寛上人の書と
戸田二代会長の指導が中心になっているのではと思います。

75問答迷人:2011/07/19(火) 15:12:08

>御本尊とは曼荼羅ではなく「南無妙法蓮華経」だと思うのですがいかがでしょうか。

日蓮聖人はこの二つを区別せずに仰っておられる場合がありますので、必ずしも分けて捉えなければならないとまでは言えないのではないかと思います。当然、御本尊は題目の五字、妙法蓮華経の五字であり、これを一大秘法ともいわれる訳です。南無妙法蓮華経とは、この妙法蓮華経の五字、一大秘法に南無し奉る、という意味ですが、これも転じて、五字七字と日蓮聖人はあまり意識して区別ははなさっておられない様です。曼荼羅は、妙法蓮華経の五字という御本尊を中心にして認められていますから、曼荼羅の全体も御本尊と捉えても間違いではないと思います。

>日蓮宗の信徒も創価学会や日蓮正宗と同じように御形木御本尊と頂き本尊としているのでしょうか。

日蓮宗には宗定本尊があり、それを書写して印刷したものが久遠寺の境内の仏具屋さんで売られています。これを買い求めて、所属寺院の住職に裏書してもらって仏壇に安置されていると、日蓮宗の某御僧侶からお聞きしたことがあります。

>大聖人様も数多い唱題が多くの功徳をいただけると仰せでしょうか。

文永三年の法華題目抄には次のようにあります。
「琥珀は塵をとり磁石は鉄をすう。我等が悪業は塵と鉄との如く、法華経の題目は琥珀と磁石との如し。かくおもいて常に南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべし。ーー中略ーー  南無妙法蓮華経と一日に六万十万千万等も唱えて、後に暇あらば時時は弥陀等の諸仏の名号をも口すさみなるように申し給わんこそ、法華経を信ずる女人にてはあるべきに、ーー後略ーー」

ここで、「常に南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべし」或いは「南無妙法蓮華経と一日に六万十万千万等も唱えて」とあります。一日に六万遍唱えようと思うと、一時間三千遍として、二十時間唱えて六万遍ですから、数多い唱題を勧められている事は間違いなさそうですね。

76問答迷人:2011/07/19(火) 15:41:08

>御本尊書写の活字印刷の事

唱法華題目抄の教えに従えば、問題はないと思います。ただ、配置とか、バランスを取るのがなかなか難しいでしょうね。

御本尊集の第16番、万年救護本尊は対告衆を特定しない目的からか、対告衆が書かれていません。これなら、問題点、解決しませんでしょうか。

77古沢石日:2011/07/20(水) 01:07:03
問答迷人さん

いつもご丁寧にお答え頂き本当にありがとうございます。
この掲示板出会わず疑問を独学で解決しようとしていたら
何万年かかっても無理でした。本当に感謝いたしております。

その万年救護本尊なのですが、一天四海皆帰妙法を達成するまでは(広宣流布と同意語と解釈しました。)
公表しないという意味がまたまた疑問を生みました。
唯一御本尊と書かれた御曼荼羅をしかるべきところに安置し、広宣流布達成を
皆で祈念するための御図顕であれば、御本尊に祈る大切さがわかるのですが
広宣流布達成されたあと公開とおっしゃられたのであらば「証明書」ではないかと。
授与書きが無いのも、その時の最も大事な人物に授与される為なのではないでしょうか。

長年創価学会で御本尊は命より大事なものと指導を受け続けておりましたが、
幼少の時から戒壇の御本尊は後世の物と思っておりましたし、御本尊を大事にする
「信心」が最も大事でその心を表すのが「題目」だと思い続けております。

長年学会宗門の醜い争いを遠くから見ていて、生命とはお題目であって御曼荼羅では
無いのではないかという気持ちがどんどん強くなっていきます。

78古沢石日:2011/07/20(水) 01:10:54
>「琥珀は塵をとり磁石は鉄をすう。我等が悪業は塵と鉄との如く、法華経の題目は琥珀と磁石との如し。かくおもいて常に南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべし。ーー中略ーー  南無妙法蓮華経と一日に六万十万千万等も唱えて、後に暇あらば時時は弥陀等の諸仏の名号をも口すさみなるように申し給わんこそ、法華経を信ずる女人にてはあるべきに、ーー後略ーー」

ありがとうございます。
唱題できてない人は「数よりどれだけ心をこめれるかだ。」とか
言い訳するんですが、わたしとしては「意識ある間は常にお題目を口ずさみたい。」
寝ている以外は常に唱題が目標です。
数より真剣さだ、なんていい訳してるひとには御教授いただいた五書を
突きつけてやります。

79古沢石日:2011/07/20(水) 01:12:01
すみません。
御書を五書と間違えてしまいました。

80問答迷人:2011/07/20(水) 07:47:52

>生命とはお題目であって御曼荼羅では無いのではないか

日蓮聖人が私たちに示された究極の教えは、南無妙法蓮華経と唱える事(お題目)だと言う事は、これは疑問の余地がありません。そして、それが、妙法蓮華経の五字に南無する、という意味であることも疑問の余地がありません。曼荼羅は、この南無すべき「妙法蓮華経の五字」を中心に認められています。つまり、南無妙法蓮華経と唱える中に、「曼荼羅の妙法蓮華経の五字」に帰命するという意味が篭められているわけです。この関係をよくよく考えると、「南無妙法蓮華経と唱えること」と、「お曼荼羅」とは、一つであり、切り離せないと思います。

81問答迷人:2011/07/20(水) 07:57:09

>一天四海皆帰妙法を達成するまでは(広宣流布と同意語と解釈しました。)公表しないという意味がまたまた疑問を生みました。

これは、日蓮聖人がそのように仰せになられたという記録があるのでしようか。恐らくは後付ではないのかと僕は考えていますが・・・。

82古沢石日:2011/07/20(水) 23:38:06
>これは、日蓮聖人がそのように仰せになられたという記録があるのでしようか。恐らくは後付ではないのかと僕は考えていますが・・・。

失礼しました。少しネットで検索しただけで解った様な書き込みをしまして
申し訳ございませんでした。

実はわたしが御曼荼羅の質問を繰り返すには理由がございます。
今から折伏をしたりされたりして大聖人様の仏法を学びたいと発心した人に
何処で御本尊を授与して頂けばよいのかわかりません。

組織にとらわれず信仰できるのが一番だと思うのですが、御本尊を頂くため
だけに学会やお寺に所属させるわけにもいかず、また組織側でも入会入信させたら
一人で信仰など許されるわけもなく、どうすればよいか悩んでおります。
どうか御教授お願い申し上げます。

83古沢石日:2011/07/20(水) 23:39:34
訂正です。
したりされたり→ されて
失礼しました。

85問答迷人:2011/07/21(木) 13:56:36

>今から折伏をしたりされたりして大聖人様の仏法を学びたいと発心した人に何処で御本尊を授与して頂けばよいのかわかりません。

大石寺の大講堂に安置されている板本尊は保田の万年救護本尊の版を基に板に刻んだ本尊であることは有名な事です。特に差し支えるという明らかな根拠が見当たらないので、この保田妙本寺の万年救護本尊を、インターネットの御本尊集からダウンロードして印刷の出来るような和紙、或いは丈夫な洋紙に印刷し、掛け軸として表装して仏壇に安置するというのが、誰の手を煩わすこともなく、既存の宗派・団体に関わることもなく、問題が一番少ないのではないかと思います。勿論、パソコン仏壇を作って、モニターに映すのも可、と思います。

86問答迷人:2011/07/21(木) 15:09:28

御本尊集はこちらのサイトの方が画像が大きく鮮明です。

http://www.lbis.jp/gohonzon/


万年救護本尊

http://www.lbis.jp/gohonzon/016.htm

87古沢石日:2011/07/22(金) 00:29:44
問答迷人さん。

ありがとうございます。
感謝感激です。
仰せの通りにいたします。
私のような者の戯言に、ご丁寧にそしてわかりやすく親切に
接してくださりました本当にありがとうございます。
御本尊に関しての最後の最後の質問なのですが
もう一つだけご回答お願い申し上げます。
印刷して表装し安置した御本尊からパソコン仏壇に取り替えた場合
印刷した御本尊はどうしたら良いと思われますでしょうか。
どこかのお寺に受け取っていただくよう、お願いするのがよいでしょうか。

88古沢石日:2011/07/22(金) 00:32:37
それなら最初からパソコンにせよとお思いでしょうが
まったく信心のない人にはいきなりパソコンよりも
丁寧に表装された御本尊のほうが、「信仰心」が湧きあがると思います。
何から何までご面倒をおかけいたしますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

89問答迷人:2011/07/22(金) 06:10:11

パソコン仏壇に取り換える理由は何でしょうか。きちんとした表装を表具屋さんにお願いすると、結構な値段にもなります。それに、信仰対象であってみれば、簡単に取り換えるという気持ちにもならないのではないでしょうか。経年変化で表装が傷んでしまった場合、再度表装をやり直すこともできますし、その段階でパソコン仏壇に変えるというのなら、収納スペースを作って初代曼荼羅として収納しておくのも良いのではありませんか。お寺に頼んで受け取ってもらっても、例えば、日蓮正宗のお寺では「生抜き」をして焼却処分にすると聞いています。

日蓮聖人の出世の本懐であるぞよ、との信仰心からの配慮が求められるところだと思います。

90問答迷人:2011/07/22(金) 14:54:43

補足です。

曼荼羅は、本尊たる「妙法蓮華経の五字」を中心に認められています。南無妙法蓮華経と唱える事は、具体的には、曼荼羅に認められた「妙法蓮華経の五字」に南無することです。ですから、曼荼羅を離れて南無妙法蓮華経という御題目が別にあるわけでないと思います。勿論、曼荼羅の五字を思い浮かべて南無妙法蓮華経と唱えるとしても、曼荼羅は欠かせないわけですから。

91古沢石日:2011/07/22(金) 22:03:56
問答迷人さん。
本当にご丁寧にありがとうございます。

「生抜き」とは、どうされるのでしょうか。

>日蓮聖人の出世の本懐であるぞよ

万年救護本尊図顕が出世の本懐なのでしょうか。

92古沢石日:2011/07/22(金) 23:55:24
>南無妙法蓮華経と唱えるとしても、曼荼羅は欠かせないわけですから。

熱原の信徒たちは一人一人御曼荼羅は授与されていなかったと聞きます。
約790年間御曼荼羅を目にする機会も頂けなかったが、生涯心より
信心唱題を続け功徳を一身の頂いた信徒も数少なくないと思います。

93問答迷人:2011/07/23(土) 05:48:05

>「生抜き」とは、どうされるのでしょうか。

開眼供養の逆なのだと思います。閉眼供養でしようか。詳細は分かりませんが、開眼供養にあまり意味が無いように、生抜きにもあまり意味がないと僕は思っています。

>日蓮聖人の出世の本懐

妙法五字の曼荼羅を確立された事、それが日蓮聖人の出世の本懐であると、僕は考えています。

>御曼荼羅を目にする機会も頂けなかったが、生涯心より信心唱題を続け功徳を一身の頂いた信徒も数少なくないと思います。

授与される事なく、生涯を終えた信徒はいらっしゃったでしょうね。全く曼荼羅に縁することがなかった信徒さんは、そんなに多くはないのでは。寺院や有力信徒は曼荼羅を安置していたはずですから、何らかの形で拝していたと考える方が自然ではありませんか。また、生涯、曼荼羅を弟子檀那に授与された日蓮聖人の御本意を考えると、日蓮聖人の教えの一番の肝要が曼荼羅であることは疑問の余地がないと僕は思います。

95問答迷人:2011/07/23(土) 12:07:12

補足です。

出世の本懐について

守護国家論には「法華経は如来出世の本懐なる故に『今者已満足 今正是其時 然善男子 我実成仏已来等』と説く。」と仰せです。釈尊の出世の本懐は法華経を説くことにあったと日蓮聖人は述べられています。そして、日蓮聖人は末法の法華経として「妙法蓮華経の五字」を説かれ、その末法の法華経を、明確な形として残されたものが曼荼羅であると考えています。

つまり、日蓮聖人の出世の本懐は妙法曼荼羅であると考えています。

96古沢石日:2011/07/23(土) 13:40:39
>約790年間 → 約740年間です。失礼いたしました。

>日蓮聖人の出世の本懐は妙法曼荼羅であると考えています。
文永8年の10月に出世の本懐をとげられたのでしょうか。

出世の本懐といえば、すぐに「聖人御難事」をあげられる方が多くいらっしゃいます。
「聖人御難事」が戒壇御本尊のことを仰せでないのは、この御書を初めて
拝したときから存じ上げておりました。
どうして出世の本懐が「聖人御難事」となるのか、書物やネット等のいろいろなお考えを
読ませていただいてもまったくわかりません。
お忙しいところご無理をもうしますが、「聖人御難事」の本当の意味を
御教授お願いできませんでしょうか。

97問答迷人:2011/07/23(土) 15:21:59

>文永8年の10月に出世の本懐をとげられたのでしょうか。

どの段階で、曼荼羅が確立されるか、という事ですね。基本形は、文永8年10月の楊子本尊から、観心本尊抄執筆の文永10年4月を経て、文永11年3月の赦免までの佐渡流罪の時期に固まったと考えて、そんなに間違いはないのではなかろうか、と思います。いずれにしても、出世の本懐は、何年何月何日と特定出来るような事ではないと考えます。

>「聖人御難事」の本当の意味

まぁ、この書に本尊の「ほの字」も見当たりませんので、日蓮正宗59世の日亨上人が仰る通り、特定の本尊を指し示す書でないことは明らかだと思います。日蓮聖人は他の御書でも、諫暁八幡抄の『二十八年』とか、今までの弘通を振り返って述べられている個所がありますので、特に聖人御難事の『二十七年』だけに重大な意味があるとは僕には思えません。

98古沢石日:2011/07/23(土) 22:58:43
文永・建治年間では、首題が大きく力強く一目で「南無妙法蓮華経」が
浮かび上がりますが、弘安年間では首題が小さく、四天王・梵字が凄く大きく
相貌は同じでも、全く違うという印象を受けるのですが、何か意味があるのでしょうか。

>今までの弘通を振り返って述べられている

おっしゃるとおりですよね。お題のまま「聖人御難事」を振り返られている御書
ですよね。どうしてこれが「戒壇の本尊」なのかこじつけもいいとこです。

そうしましたら、御書には「戒壇の御本尊」についての御文は「無」ということ
になりますでしょうか。

99問答迷人:2011/07/24(日) 06:08:27

古沢石日さん

>相貌は同じでも、全く違うという印象を受けるのですが、何か意味があるのでしょうか。

申し訳ありませんが、僕は曼荼羅の相貌について研究したことがありません。この掲示板をご覧の諸賢が、書き込んでくださるのを待ちたいと思います。

>御書には「戒壇の御本尊」についての御文は「無」ということ

戒壇について述べられた個所はありますが、戒壇本尊などと言うヘンテコな記述はありません。『戒壇本尊』は一体、誰が言い始めたのか、後世であることは間違いないですね。

100古沢石日:2011/07/24(日) 13:32:26
問答迷人さん

こちらの板では全員「日蓮聖人」とお書きになります。
日蓮聖人と日蓮大聖人の違いは何なのでしょうか。


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