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大石寺戒壇板本尊の歴史について

100素朴な隣人:2011/01/17(月) 01:06:56
私も問答迷人さんのお考えに全面的に賛同いたします。「法華経の題目を以て本尊とすべし」と大聖人は諸御書で繰り返し仰せになられてますし、これ以上明快な答えはありませんよね。

キリスト教でも聖骸布を科学鑑定したり古文書を研究したりして、正統派とは何か異端派とは何かを考えたり、信仰の原点を見出そうとしてるじゃないですか。板曼荼羅の科学鑑定を拒否し続けている大石寺の態度は、中世キリスト社会の姿そのままと思わざるを得ません。そう考えますと、犀角独歩さんが曼荼羅の筆跡鑑定を試みられているのはとても意義のあることだと思います。

世界ではキリスト圏とイスラム圏の争いに終止符を打とうと努力をしているというのに、「戒壇御本尊こそ大聖人の出世の本懐」という思想があるばっかりに、小さな日本の中で興門派と身延派の間で親の敵のようにいがみ合っているのですから、大聖人の立教開宗は何の為だったのだろうと思わざるを得ません。他門流を批判するエネルギーを念仏や禅宗に向ける方が、まだ大聖人の御心に適うことではないでしょうか。

また宗門と学会も、いがみ合う暇があったらもっと他にすることがあるだろうと思うんですね。今、恵まれない子供達に匿名で寄付をしている「伊達直人現象」がニュースになっているじゃないですか。これがニュースになっているのは、今の日本にも「人に喜んでもらいたい」と思っている善意の人が少なくないことに、世間が心の温もりを感じたからなんですね。

仏は時を観じ、衆生の機根に応じて法を説いて衆生を歓喜させます。本山に何十万人も結集させるのも結構ですが、聖教新聞を何部も購読させるのも結構ですが、寺を建てたり会館を建てるのも結構ですが、それが衆生の機根に応じた説法の姿であるかどうか、それで世間が心の温もりを感じるかどうか、今一度考え直す必要があると思うのです。それぞれ何十万人や何百万人も抱えている団体なのですから、協力しあう必要は無いにせよ、それぞれが社会に向かって善意の行動を起こしたら、今の日本はもっと良い国になるはずです。それこそが広宣流布の目的だったはずだと思うのです。

ここのスレッドの趣旨と関係ない書き込みをしまして、申し訳ございませんでしたm(。。)m


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