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大石寺戒壇板本尊の歴史について

1管理者:2009/01/24(土) 08:42:26

大石寺の戒壇板本尊が何時制作され、どういう経過で今日に至っているのか、「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」スレッドでの議論を踏まえながら、活発な議論が展開される事を期待して、このスレッドを立ち上げます。

2問答迷人:2009/01/24(土) 08:47:06

大石寺の公式発表では、「日蓮大聖人が弘安二年十月十二日に楠の板に直接認め、それを弟子の日法上人が彫刻した」という事になっていますが、この説は、文献的には何時頃まで遡れるのでしょうか。

3問答迷人:2009/01/24(土) 08:53:57

二つ目に、日蓮門下で板曼陀羅が製作されるようになったのは、何時頃が始まりで、盛んになったのは何時頃なのでしょうか。

とりあえず、この辺りから、議論を始めては如何でしょうか。

4彰往考来:2009/01/24(土) 11:46:44

>2 日法上人が彫刻したという・・・説

文献史料で日法師が戒壇本尊を彫刻したとの記述がでてくるのは寛文2(1662)年の家中抄までしかさかのぼれません。
これは、高橋智偏氏の『創価學會が真実なら』(昭和35年、信人社、9頁)に「このありがたそうな伝説が、もツともらしく文書にあらはれたのは、おどろく勿れ、大聖人滅後400年ごろの大石寺日精師の「家中抄」から」と指摘されています。
日精師「富士門下家中見聞 下(家中抄 下)」の「日法伝」に、
「大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是レなり」(堀日亨/編『富士宗学要集 第五巻 宗史部』昭和53年、創価学会、244頁)
とあります。

このような縁起が作成された背景は、「日蓮から日興を経て大石寺に伝えられたはずの決定的な物的証拠を必要としていたという当時の状況である。室町時代末から江戸時代前期には、秘仏や寺宝の縁起と同様の筆法で、大御本尊の由来が語られるようになり」(村上重良『創価学会=公明党』1967年、青木書店、73頁)というようなことではないかと考えます。

遠霑講寺(細草談林)完則が明和年間頃(1764年頃)に著されたとされる「大石寺宝蔵目録」には、
「富士大石寺戒壇之本尊
板墨塗文字金箔傳云日法上人彫刻 長四尺七寸五分 横二尺一寸五分 厚貳寸二分」
(窪田哲城『日蓮聖人の本懐(増補版)』平成12年増補版3刷(初版:昭和35年)、山喜房佛書林、196頁)
とあります。

なお、「當家諸門流繼圖之事」に
「日憲参詣ノ時委ク拝奉、 (中略) 右ノ脇ニ本門戒壇之願主彌四郎國重法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日云云、彌四郎トハ波木井殿ノ事也、私云板本尊ヲ彫リシモ御影モ日法ノ御作也」(『日蓮宗宗学全書 第十八巻 史伝旧記部(一)』昭和43年第3版(初版:昭和34年)、山喜房佛書林、150頁)
とあるのですが、「當家諸門流繼圖之事」の成立年が不明瞭です。当該箇所は下総峰妙興寺の大法院日憲上人の増補とのことです。

by 彰往考来

5顕正居士:2009/01/24(土) 13:33:05
以下に家中抄と明細誌の関連文章をまとめた投稿があります。
少なくとも日法彫刻伝説は七面信仰が発生した後になりますね。


創価学会をみんなで考えよう掲示板
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/4943/1195253947/26

6問答迷人:2009/01/24(土) 13:40:24

彰往考来さん

早速の御教示、有難う御座います。

家中抄が完成されたのは富士年表によれば1662年、完則の目録が1764年であれば、それぞれ日蓮聖人滅後380年、482年という事ですね。これだけでも、随分と現代に近い時代の記録しかない事が解ります。

ところで、日法上人が日蓮聖人の御影を彫刻したという伝説は、何処まで遡れるのでしょう。お尋ねいたします。

7問答迷人:2009/01/24(土) 16:10:16

彰往考来さん
顕正居士さん

有師物語聴聞抄佳跡(富要一の二五三頁)に、諸御書全集には載せられていない「松野殿御書」が引かれています。

「又松野殿御書中に御影造立の御称美之有り。御書に云く『安房国東条小松原の道善坊持仏堂にして念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊の姿を申出し候へば数百人、兵者共敵成し、いる矢は雨の如く、打つ太刀は電光の如し、当座に弟子一人打死し既に日蓮は頭に疵を蒙り法華経の御為に命を捨る事まのあたりなり、殊に伊豆佐渡の大難は申すに及ばす種々の難に値へり、先札に申尽し候間今之を書かず等云云、依之命かなへ候て身延山に隠居せしむ法華経を読み奉る折節我弟子の中に和泉阿闍梨と申す僧一人御座候、朝夕身を離れず給使奉事致さるゝ 事比類なく秘蔵弟子なり、然るに彼の泉阿闍梨行功をはげまし日蓮か形をあらわさんか為に七面の明神に祈念せし故か、又天道道の至りか浮木出来せり、此の木を以 一躰ならず三尊まで造る一尊は大仏なれし身延山に安置せり、故に末世に於て日蓮か形をきざみつる事は泉阿闍梨無んば造仏しがたし、爾も闍浮第一の弟子なり、然るに予は妙法蓮華経の中の字を取て日蓮と名乗り候間彼の泉の阿闍梨には法の字を取て日法となづけて候、然る間日蓮や前き日法やさき日蓮やさきと云ふ意を以て日法となつけて候、定て弟子達うらやましくやをもはんずらん、又はあだみめねみやすらん、兎に角末代に於て法華宗たらん者は日法一人を信仰せば日蓮を信仰するに成るべきなり。諸宗の中には妙法蓮華経第一の良薬なり、一切衆生の中には日法一の人第一の導師なり、上行所伝の寿量肝心是好良薬の妙法を口に唱へ入れ候えば悪人女人如何なる人非人成り共是人於仏道、決定無有疑豈唐捐ならんや、是故に日蓮か弟子檀那は日法に不背、日本国の一切衆生の口に上行所伝の要法を入れんとはげまんこと肝要なり、日蓮もしきりに法華経をひろめまいらせ候ひしを鎌倉殿にくみついらせ大難を蒙らしめ玉ひしかども、仏天の御使か、今日まで命ながらへ候て当山に住せしめて法華経を読ましめ候処に、日蓮が形を木像に造立せしむる日法は、末世の師匠孝行の手本たるべし、日興一人ならず日朗等に至るまで漸々丁聞せしむるなり、末世日蓮二度の出世とは此の木像を申すなり、頼母敷く思ひ候てをがませ玉へ、恐々謹言、日蓮在御判』已上全文。此御書は世間希なる間今具に之を書くなり、然に此の中に一体に非ず三尊まで造ると者当山の最初仏重須正御影なり、一躰は岡宮に之有りと云へり、又七面の明神者本来之有るか、七面の池之有り此池水に浮ひ出たる楠木なり、此板御本尊倶に三尊と遊されたるか、亦板御本尊の事をは略し遊されたるか測り難き者なり。」以下略

この御書が偽書で有るにしても、その製作年代についてご存知ないでしょうか。

8彰往考来:2009/01/25(日) 10:51:33

>4 日蓮門下で板曼陀羅が製作されるようになったのは、何時頃が始まりで、盛んになったのは何時頃

富士大石寺関係の出鱈目な資料を除けば、管見に入った限りでは日蓮宗全般の板本尊で一番古いのは、影山堯雄/編『新編 日蓮宗年表』(平成元年、日蓮宗新聞社)に
「正安2(1300)年 ・身延山日向、板本尊を造立す(添書)」
との記載があるものと思います。
これは、「創価学会の功罪を考える」のスレッド1520で紹介した日向師の板本尊です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015575530/1520
日達師が昭和52年の『蓮華10月別冊号』(蓮華編集部)で解説していますが「身延山文書」の「身延山久遠寺諸堂等建立記」(『日蓮宗宗学全書 第二十二巻 史伝旧記部(五)』昭和47年第2版(初版:昭和35年)、山喜房佛書林、56頁)に
「一、板本尊 本尊ハ祖師ノ御筆ヲ写ス歟、下添書ハ第三祖向師ノ筆也、下添書云、正安二年庚子十二月日右日蓮幽霊成仏得道乃至衆生平等利益ノ為ニ之ヲ造立ス」(原漢文)
とあり、正安2(1300)年ですから宗祖示寂後かなり早い段階で板本尊が造立されたことになります。この板本尊は、堀日亨師が『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会)で、
「一般の板曼荼羅の思想は、比叡山にも御門下にもいくぶんかあったものとみえ、延山の中蔵に民部日向師の書写で「幽霊」云々の脇書ある板本尊があり、また東蔵には中世の数枚の板本尊がある」(『富士日興上人詳伝』219頁)
「板本尊は延山に多数ある。なかにも、日向の添書に「正安二年庚子十二月日。右日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利盛の為に之を造立す」とある丈二尺七寸、幅一尺八寸の大聖人の御筆を写した板本尊が、宝蔵に厳護されてあるが、ほとんど秘仏で、一般には公開せられていないのはなんのためかを知らぬ」(『富士日興上人詳伝』321頁;引用者注:「身延山文書」には「法界」の二字なし。また「利盛」は「利益」の誤記)
と指摘していますが写真公開はされていないので本物であるかどうか判断できません。

確実な文献史料では、中山門流日祐師の康永3(1344)年の『両寺法花本妙本尊聖教録』に
「板本尊一躰
(中略)
已上本妙寺」(寺尾英智『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』平成9年、雄山閣出版、149頁)
とあるのが確認できます。本妙寺はもともと太田乗明の館内持仏堂ですので、この板本尊は太田乗明か子息の日高師により造立されたと思われます。制作年など定かではありませんが、日祐師の「一期所修善根記録」(『日蓮宗宗学全書 第一巻 上聖部』昭和43年第2版(初版:昭和34年)、山喜房佛書林、446頁)に、
「觀應二年 (中略) 身延山久遠寺同御影堂、大聖人ノ御塔頭、塔頭板本尊金薄(引用者注:「金薄」は「金箔」の誤記)造營修造結縁」
とありますので、身延山久遠寺塔頭板本尊が中山の板本尊の見本であったかもしれません。
日祐師の「一期所修善根記録」(445頁)に、
「一、本妙寺本尊釋迦多寶等造立事 建武二年乙亥二月二十三日事始」
とありますので、建武2(1335)年のころ本妙寺の本尊は釈迦多宝の二尊であったと考えられますので、本妙寺の板本尊は建武2(1335)年以前の造立である可能性があります。これは『両寺法花本妙本尊聖教録』の執筆年である康永3(1344)年と矛盾しません。
しかしながら、天正20(1592)年の「中山霊宝之注文」に板本尊の記載がないことから、中山法華経寺の板本尊は、この頃までに雲失してしまったものと考えます。

9彰往考来:2009/01/25(日) 10:52:31
 
スレッド8の続きです。

日興門流ではどうでしょうか。試しに『富士年表』(平成20年増訂2版(初版:昭和39年)、大日蓮出版)を紐解いてみますと、

文和3(1354)年11.8 保田妙本寺の板本尊〔願主5代日賢〕彫刻(保田妙本寺蔵)
応安3(1370)年2月 中山日祐 板本尊造立(神奈川上行寺蔵)
応永26(1419)年8.8 保田妙本寺板本尊彫刻(保田妙本寺蔵)
応永27(1420)年4.15 日有 黒須野妙本寺本尊〔宗祖本尊模刻〕造立(8-194・同寺蔵)
文安2(1445)年11.6 日有 紫宸殿本尊を模刻す(8-194・石蔵)

といった記載がみられます。保田妙本寺の文和3年板本尊は、康永3(1344)年8月日日の日郷本尊の模刻、応永26年板本尊は、宗祖第87番本尊(身延山久遠寺蔵)の模刻で、これら2体の板本尊写真は佐藤博信『中世東国日蓮宗寺院の研究』(2003年、東京大学出版会、446頁)にて公開されています。
興味深いのはこれらの記録が日法師示寂(歴応4(1341)年)後に現れていることです。板本尊と日法師とは関係がないことを表わしていると思います。当然ながら日興上人のご在世中には板本尊はみられません。
応安3(1370)年の板本尊は、中山法華経寺3世日祐師の応安3(1370)年の板本尊(神奈川上行寺蔵)で、『日蓮聖人展図録』(昭和44年、大塚工藝社)写真81にて公開されています。同目録の出品解説には、「日蓮聖人の曼荼羅本尊を板に彫りつけたものを「板本尊」と呼ぶ。ここに掲げたものは、応安三年(1370)のもので、その最も古い例の一つである」とあります。
いままでの文献調査ではどうも板本尊は身延山久遠寺が最初で、それを中山門流が踏襲したようです。なんでもありの日興門流が板本尊を見逃すはずがなく、文和3年の保田妙本寺を最初に続々と導入されたのではないかと考えます。それが戒壇本尊(初代)に繋がったのでしょう。応安3(1370)年の板本尊は、戒壇本尊(初代)の見本となっていた可能性すらあります。
なお富谷日震/編『日宗年表』(昭和60年復刻版(初版:昭和10年)、本山要法寺)には板本尊関係の記述は見当たりません。これは編集者である富谷日震氏が板本尊に興味がなかったためか意図的に避けたためと思われます。

10彰往考来:2009/01/25(日) 10:53:27

スレッド9の続きです。

中山門流の板本尊の記録は、佐藤博信氏が『中世東国日蓮宗寺院の研究』(2003年、東京大学出版会、447頁;引用者注:原文は漢数字)に、
「こうした板本尊の歴史的性格については、すでに中山門流寺院における下記の事例によって検討されてきた。それは中尾堯の①応安3(1370)年2月日付日祐板本尊(縦95.8センチx横44.0センチ。神奈川県横浜市金沢区六浦上行寺所蔵)、②応永9(1402)年8月28日付妙福寺(成田市小菅)所蔵板本尊(縦111センチx横54センチ。杉材)、③応永26年2月日付円静寺(八日市場市安久山)所蔵板本尊(縦84センチx横40センチ)の検討を通じた貴重な業績である。
中尾は、とくに①から「本尊の紙本から板への材質の転化は重要である。今に残る当時の紙本の曼荼羅本尊がとても良好な保存状態にあることは、これが講会の折りに掛けられ、終了すると同時に巻き納められたものであることを物語っている。これに対して板本尊は常に堂に掲げられるべきものであった。つまり、いつ参詣しても本尊を礼拝することができるようになったことは、その宗教施設の独立坊から寺へと発展の状態を示すものに外ならない」とされたのであった。 (中略)
このような(中尾の)理解は、「板曼荼羅本尊」として立項する『日蓮宗事典』にも、「室町時代に多くの板曼荼羅本尊が造立されている」「教団草創期の本尊奉安が、教団の展開に伴って堂宇の規模が宏大になるにつれて、大曼荼羅本尊の木造化が進められたものと考えられている。また中山門流等に見られるように、その下部に信仰的結合のあかしとして、一結衆の交名を彫刻したものが見られる」という形で定説化されるにいたったのである」
と記述しています。

まとめますと、日蓮宗における板本尊は宗祖示寂後、比較的早い時期に身延門流や中山門流に現れ、その後日興門流でも造立されるようになった。板本尊が多く造立されるようになったのは室町時代以後であろう、といったところでしょうか。

by 彰往考来

11彰往考来:2009/01/25(日) 11:08:00

>6 日法上人が日蓮聖人の御影を彫刻したという伝説は、何処まで遡れるのでしょう

このお問い合わせについては当スレッドのテーマとはちょっと違いますし、相当文献調査を要するはずですが今その考えはありません。私のほうから今すぐお答えするのはいたしかねますが、関連資料がありましたら追って提示することにします。

彰往考来

12問答迷人:2009/01/25(日) 11:25:49

彰往考来さん

とても貴重なご研究のご提示、誠に有難う御座います。

>教団草創期の本尊奉安・・・堂宇の規模が宏大になるにつれて、大曼荼羅本尊の木造化が進められた

そういう経過の中で、板曼陀羅が作られたという事は、大変納得できます。

>なんでもありの日興門流が板本尊を見逃すはずがなく、文和3年の保田妙本寺を最初に続々と導入されたのではないかと考えます。それが戒壇本尊(初代)に繋がったのでしょう。

このお考え、賛同いたします。

>応安3(1370)年の板本尊は、戒壇本尊(初代)の見本となっていた可能性すらあります。

これは、何か類似点があるからなのでしょうか。もう少し、このお考えをお聞かせ戴けると幸いです。

>日法上人が日蓮聖人の御影を彫刻・・・関連資料がありましたら追って提示

了解いたしました。

13彰往考来:2009/01/25(日) 16:57:09

>7 「松野殿御書」・・・その製作年代についてご存知ないでしょうか

「松野殿御書」は明確な偽書で、真蹟はもちろん不在、録内御書や録外御書にも収録されおらず近年編纂された『昭和定本 日蓮聖人遺文』(身延山久遠寺)などの御書全集にも収録されていない怪文書とでもいうべきものです。偽書が論文のロジックの中に入り込むと全てが瓦解しますので挙証資料として取り扱うものではありませんが、偽書も成立背景を探ると史実が解かることがあり、何時・誰が・何のために、を明確にすることは意味なきことではありません。ただ偽作者が何時何のために作成したか証言を残しているはずがなく、その探索はかなり困難ではあります。「松野殿御書」で解かっていることは日因師が「松野殿御書」を紹介した「有師物語聴聞抄佳跡 上」(『富士宗学要集 第一巻 相伝・信条部』昭和49年、創価学会、251頁)を著したのが宝暦7(1757)年ですから、「松野殿御書」の成立年はそれ以前であるということのみと言っても過言ではありません。
ここでは関連資料を紹介しながら何時・誰が・何のために「松野殿御書」を作成したのかを考えてみたいと思います。このような性格のものから多分に推測の部分があり、一つの仮説としてください。

最初に富士大石寺の板御本尊と「松野殿御書」の関係を指摘したのは、昭和31年の安永弁哲氏による『板本尊偽作論』だと思います。以下『板本尊偽作論』の引用文は1989年に鹿砦社から販売された『板本尊偽作論』復刻版からです。
安永氏は、『板本尊偽作論』で
「若しこれを大石寺や創価学会が取り上げるとすれば、彼らは七面大明神の信仰を許さねばならぬ」(『板本尊偽作論』復刻版、143頁)
と指摘しています。これは、「松野殿御書」で「七面ノ明神ニ祈念セシ故か」(『富士宗学要集 第一巻』251頁)とあり、同様の内容が日精師の「家中抄」の「日法伝」にあることを指します。「家中抄」の「日法伝」には、
「或る時日法御影を造り奉ラんと欲す七面大明神に祈念し給ふ感応の至りか浮木出来せり、此ノ木を以ツて戒壇院の本尊ヲ造立し、(中略)大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是レなり」(堀日亨/編『富士宗学要集 第五巻 宗史部』昭和53年、創価学会、244頁)
とありこちらは七面大明神とともに板本尊が出てきますが「松野殿御書」には板本尊が出てきません。
「松野殿御書」に七面大明神が出てくることはスレッド5で顕正居士さんが「少なくとも日法彫刻伝説は七面信仰が発生した後になりますね」と指摘されている点と繋がります。これが何時・誰が・何のために「松野殿御書」を作成したのかを考えるひとつの視点となるでしょう。

14彰往考来:2009/01/25(日) 16:58:19

スレッド13の続きです。

では七面大明神が日蓮宗で現れるのはいつからでしょうか。望月真澄氏は、「文献上に登場する七面大明神は、天正二十年(1592)大坂雲雷寺を開いた日宝上人(京都妙傳寺十二世)が曼荼羅本尊で勧請したのが最初とされています」(『御宝物で知る身延山の歴史』平成18年、日蓮宗新聞社、103頁)と指摘しています。
そうすると日精師の「家中抄」の記載が「松野殿御書」からの引用であるとするなら、「松野殿御書」は天正20(1592)年から「家中抄」の著された寛文2(1662)年の間に作成されたのではないかということが言えそうですし、逆に「松野殿御書」の記載が日精師の「家中抄」からの引用であるとするなら、「松野殿御書」は「家中抄」の著された寛文2(1662)から「有師物語聴聞抄佳跡 上」の著わされた宝暦7(1757)年の間に作成されたのではないかということになります。多分「家中抄」のネタ本の一つは「松野殿御書」でしょうから、「松野殿御書」は天正20年から寛文2年の間の作成ということが言えそうです。

「松野殿御書」の偽作者について安永氏は、『板本尊偽作論』で、
「斯かる偽書を作ったのは誰かということを考えてみれば、大石寺関係の誰かであったことは確実であろう」(『板本尊偽作論』復刻版、144頁)
と「松野殿御書」の作者は大石寺関係者であると述べています。
これに対して日蓮正宗布教会/編『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』(昭和31年、日蓮正宗布教会(代表:細井精道))での反論は、
「安永君、まづ聞くがよろしい。松野殿御書にはどういう事が書かれているか、言う迄もなく御影彫刻のことを挙げてあるが、此れが主意でなく、日法師を称歎し給うのが主意である。此れを見れば日法上人の係流に伝わつた御書であることは明らかではないか。即ち岡の宮光長寺辺りに伝わつたのではないか。直接板御本尊に関係なく唯御影に関係がある許りであるところの、この御書を大石寺に於て偽作する理由がどこにあるか。日因上人が物語抄の注に記入せられたのは「此書世間ニ希ナル間今具ニ之ヲ書クナリ」と仰せられたのである。而して目をひかれたのは日法上人の彫刻の記事があるからである。日蓮正宗に伝わつたものならば其様な念書はなさらぬ筈である。今此には真偽の論は差し置いて、大石寺の偽作ではないことを証明しておく。わかりましたか。安永君の言葉を借りると火の無い処に煙はたたないのであるから、かような御書をずつと調べると尊い史実が浮び上つてくるものである。粗略に扱つてはならないのである」(『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』50頁)
というものです。つまり「松野殿御書」についての日蓮正宗(若かりし細井精道師?)の反論は、
・御影彫刻のことを挙げ板本尊について触れられていない
・彫刻の日法を称歎するものである
・日因上人が引用したのは日法上人の彫刻の記事があるからに過ぎない
・富士大石寺の偽作ではなく日法上人の係流、岡宮光長寺辺りが出処ではないか
ということになります。

15彰往考来:2009/01/25(日) 16:59:16

スレッド14の続きです。

実際、日因師は「有師物語聴聞抄佳跡 上」で、「板御本尊ノ事ヲハ略シ遊されたるか測り難き者なり」(『富士宗学要集 第一巻』251頁)と「松野殿御書」に板御本尊の記載がないのを疑問視されていいます。確かに富士大石寺で偽作されたのであれば板御本尊についての記載があってしかるべきであり大石寺関係者の偽作ではないと考えます。その意味で「松野殿御書」がまず存在し、それを日精師が参照して(つまりパクって)「家中抄」の内容になったと思います。
美濃周人氏は、「この『松野殿御書』は岡の宮の光長寺の弟子たちが残した文書である」(『日蓮正宗・創価学会 謎の暗黒史』1994年、三一書房、22頁)と断定していますが、その根拠を明らかにはしていません。私は『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』の「岡の宮光長寺辺りに伝わつたのではないか」という記述を論拠とすると推測しています。岡宮光長寺辺りで「松野殿御書」が作成された証拠はありませんので推定でしかありませんが、後世の彫刻の日法伝説は岡宮光長寺が発祥地ではないかと考えますので有り得る話です。

<まとめ>
「松野殿御書」について断定できない面もありますが、天正20年から寛文2年の頃に日法上人の係流、恐らく岡宮光長寺辺りで彫刻の日法を賞賛するために作成された偽文書ではないかと思われます。

by 彰往考来

16顕正居士:2009/01/25(日) 18:18:50
Webで読める『身延町誌』の七面山敬慎院についての記事です。

44 七面山敬慎院(海抜1,699メートル)
開創の時期、縁由に就いて古来の所伝は、建治3年(1277)宗祖説法の座に佳人聴聞し、
ついでその本体を明らかにし、後末この身延山を護持し、一乗受持の行人の所願を満足
させんことを誓って七面山に飛去する、その跡を今日高座石と伝う。
宗祖入滅後16年、永仁5年(1297)9月に既に入道して日円と名乗られる実長公と日朗上人
とが登山して七面天女を祀った。これが七面山の開闢(びゃく)で、9月19日を大祭の日とする。
開創はこのように伝えられているが、七面天女の信仰は次第に高まったものと思われる。
18世の日賢上人(1599化、41歳)、文禄5年(1596)に「七面大明神宝殿常住本尊」を認めて
いたので、この頃には七面明神社の立派な宝殿が建立されたことが推知出来る。
(以下略)
http://www.town.minobu.lg.jp/chosei/choushi/minobu/T11_C03_S01_3.htm

17独学徒:2009/01/25(日) 18:35:46

御無沙汰しています。

>>なんでもありの日興門流が板本尊を見逃すはずがなく、文和3年の保田妙本寺を最初に続々と導入されたのではないかと考えます。それが戒壇本尊(初代)に繋がったのでしょう。
>このお考え、賛同いたします。

私はこの部分は賛同できません。
逆ではないでしょうか。「日興門流はなんでもなし」じゃないですか。仏像はダメ、色袈裟もダメ、一部読誦もダメ、日興門流がなんでもありなんてのはありえないと思います。

石山をはじめとする興門は、「五人所破抄」にあるとおり全身の舎利(法門)を本とするので身延山参詣は考えられず、まず身延で先行した板曼荼羅の実態を直接石山系がつかむとは思えません。

保田の例も同様で、石山日行と保田日伝の代には、既に東坊地の争論が惹起しており、その後の通用は途絶えています。
したがって、保田の例を真似て石山が彫刻を作ったことも考えられないと思います。

ただし都守師の論考にも有りましたが、中山日祐の「立正安国論私見聞」からの引用と思われる記述が、日叶「百五十カ条」にみられることは、少なくとも左京日教が尊門時代に中山と通用があった可能性はあるでしょう。

また注意すべきは日尊門流では、日大筆写の「尊師実録」に日尊の仰せとして身延山の参詣をとがめるべきでないことが書かれています。

『身延山参詣有るべきやの事。尊仰せに云く、日興日向の対論は、和光利物の一遍也。没後の今の於いては、既に三代に及ぶ。二聖は同一浄土に帰寂にして、曾て鬱憤を残した給うべからざる也。・・・爾れば末弟等の中に、身延参詣何の不可云々』(柳澤宏道著「日尊上人略伝」80頁)

また板曼荼羅と異なりますが、日尊門流での本尊授与については、

『仰せに云く、之に付て予が思う事有り、所詮大聖人御自筆の本尊を印版に刻み当座道場六人の衆徒、一同の為、評定の上、信心の強弱・行業の久近・給仕の忠否香華供養の堪否を糾し、一揆の衆議を以て、之を授与すべし。』(柳澤宏道著「日尊上人略伝」75頁)

とあって、本尊書写ではなく宗祖直筆の御形木御本尊を授与すべきとの考えがあったものと思われます。

このように興門の中では例外的に、日尊門流だけが身延・中山との通用が考えられます。その日尊門流とは日道自身も交流があり(「遺日尊之状」歴全1巻287頁)ましたが、日道は下之坊在山で大石寺での活動には疑問が出ていますので、ひとまずこれを除くとしても、日道の弟子で横領ではありますが、大石寺を最初に東西掌握を為した日行には、山口範道著「総本山大石寺歴代上人著述目録」によれば、京都要法寺に所蔵される日行直筆の消息類(目録上は「與斉藤入道状」「與美作入道状」「與法西状」と名がついている)があるようですので、これらを勘案すると、石山は日尊以降京都要法寺(当時は上行院)と通用が続いていたとおもわれ、身延あるいは中山⇒日尊門流⇒石山への伝来が考えられると思います。

日法御影彫刻は円明日澄師の註画讃に先んじるものが有れば興味深いですね。

18彰往考来:2009/01/26(月) 07:59:28

問答迷人さん

>>応安3(1370)年の板本尊は、戒壇本尊(初代)の見本となっていた可能性すらあります。
>これは、何か類似点があるからなのでしょうか。

応安3(1370)年2月日付日祐板本尊(縦95.8センチx横44.0センチ。神奈川県横浜市金沢区六浦上行寺所蔵)の画像を、富士教学研究所のスレッドをお借りして掲載しました。
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/3/53/

戒壇本尊(初代)の見本となっていた可能性というのは確証のあるものではなく、主としてその相貌、特に両明王の形などの相似性と時代背景にあります。もし日有師が初代戒壇本尊を造立したとするならこのようなものではなかったかという個人的な想いにすぎません。

彰往考来

19名前語らず:2009/01/26(月) 18:37:44
日蓮正宗の中でつまらん派閥や批判ははっきり言ってつまらんわ!何で一つになれへんねん!よその宗派と一緒やんか 根本は日蓮正宗やないかい!

20管理者:2009/01/26(月) 19:07:22

名前語らずさん

>日蓮正宗の中でつまらん派閥や批判ははっきり言ってつまらんわ

つまらんのに、なんで書き込むのですか。荒らしが目的ですか。書き込むのなら、話し合いの気持ちで参加されることを求めます。この様な投稿を続けられるのなら、当掲示板では、書込み禁止になります。警告いたします。

21問答迷人:2009/01/26(月) 22:54:01

彰往考来さん

>もし日有師が初代戒壇本尊を造立したとするならこのようなものではなかったかという個人的な想いにすぎません。

了解しました。ご提示、誠に有難う御座いました。

拝見して、僕が一番注目したのは、腰書が有る事でした。腰書きが、戒壇本尊に独特なのかと思っていましたから、このように広範囲な腰書の存在は、やはり、戒壇本尊への流れを予想されるに十分で有ると思いました。これも単なる個人的感想に過ぎませんが。

22彰往考来:2009/01/26(月) 23:09:49

問答名人さん

>21 広範囲な腰書の存在

そうなんです。特に中山門流には多いようです。ですから戒壇本尊の議論の中で、腰書がなにか特殊なものであるかのような議論がありましたが、それを私は不思議に思っていたくらいなのです。

23SSOJ会員:2009/07/27(月) 19:24:20
昨日の午後、戒壇本尊を正面より観てまいりました。日禅授与曼荼羅の首題の傾き角度
とは相違するように思われます。正面より観ると、左右の角度に微妙差がありますが。
ほぼ直立しているようでした。

24問答迷人:2009/07/27(月) 19:44:54

SSOJ会員さん

日蓮正宗関連HPリンク集に、戒壇本尊 日禅授与本尊の写真が数種類アップして有ります。ご覧戴いて、もう一度その様子をお聞かせいただけますでしょうか、宜しくお願い致します。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm

25SSOJ会員:2009/07/27(月) 21:19:20
写真の件は承知しております。近々月に再訪いたしますので、詳細は暫時お待ち願い上げます。
右方向と正面の拝観が終えましたので、左方向よりの確認を予定しております。

26犀角独歩:2009/07/27(月) 21:27:06

この傾きの相違は確かにそうで、彫刻本尊の場合、中央題目を少し右に振り、傾きをなおして、原本としていますね。

これはたぶん、彫刻制作者が、日蓮が、中央題目を左傾して書くという“癖”を知ってか知らずか訂正したものと思われます。

図形鑑別の際、日禅授与本尊の中央題目をやや右に立て直し、重ねると、ピタリと重なることは、既に確認したことです。

一つ。板本尊は原本通り、彫られているというのは、固定観念であり、実際は、実際は、適宜、レイアウトのの調整がなされている。

一つ。日顕さんは彫刻本尊と日禅授与本尊の中央題目はサイズが違うと言ったが、鑑別したところ、それは嘘で同じだった。

一つ。大石寺や、法華講員のサイトでは、中央題目が投稿のごとく傾きが違うために日禅授与本尊は原本ではないというが、傾きを調整したことは、図形で鑑別すれば容易に確認できる。

以上の点は、既に検証したことです。

27犀角独歩:2009/07/27(月) 21:31:42

なお、日蓮真筆現存130余の大漫荼羅を見ると、中央の題目は、ほとんどが左に傾いています。
ですから、むしろ、中題目に傾きがないような本尊は、贋作であると疑ってかかるのが、むしろ、本尊鑑定の有様であると思います。
その意味に於いて、所謂「本門戒壇の大御本尊」と称される彫刻に傾きがないこと自体が、贋作である傍証となり得るとわたしは考えます。

28問答迷人:2009/07/27(月) 22:15:03

犀角独歩さん

犀角独歩さん

>日蓮真筆現存130余の大漫荼羅を見ると、中央の題目は、ほとんどが左に傾いています。

日禅授与曼陀羅も左に傾いている、と言う事は、日禅授与曼陀羅が日蓮聖人の真筆曼陀羅であるかもしれないわけですね。

29SSOJ会員:2009/07/27(月) 22:38:21
犀角独歩様

日蓮上人の曼荼羅の中央首題は、左傾の気味がみられますが。上人のお目の病若しくは
、加齢に伴う体中線の変化などの古伝がございますか。

30犀角独歩:2009/07/27(月) 22:44:58

問答さん

日禅授与本尊が、真筆かどうか、少なくとも北山蔵は違うように思えますが、さて、大石寺蔵はどうか、一考を要しようかと存じます。

SSOJ会員さん

どうぞ、こちらのルール通り「さん」づけでお願いします。

中央題目の傾きが、日蓮の病気によるというのは、どのような根拠なのでしょうか。もし病気による傾きであれば、他の諸尊勧請も曲がってしかるべきですが、そうはなっていません。わたしは、なんらかの意図、もしくは書き癖により傾きであると考えます。

31ヨシヨシ:2009/07/27(月) 23:17:55
問答さん
犀角独歩さん

日禅授与と板本尊を比べると、妙の少のR部分が板本尊のほうが日禅授与に比べ
R部分が強く出ているように思います。
それによって中央題目が日禅授与と比較しても板本尊が真っ直ぐに見える
ようにもなるように感じます。
このような細工が相違を顕すための偽作ではなかったかと感じます。

32犀角独歩:2009/07/28(火) 06:03:47

ヨシヨシさん

彫刻は、他から原本をもってきて、主要な部分は使いながらも、臨模作為して別の作品に仕立て上げた贋作ですね。だから、元の本尊がわからないように細工をしているように思えます。その第一が紙幅と板の縦横比率の違いです。
たまたま、そうであったのかわかりませんが、神と板のサイズの相違があります。そのために、中央題目と四大天玉といいったそれぞれのパーツを別々に、籠抜き、もしくは模写でとり、板のサイズに合わせてレイアウトし直し、愛染明王のように欠けている部分は書き足し、讃文は適当に整理して配置するなど、いわばパッチワークして、レイアウトも変更しています。こうしてできた板彫りの原図は、原本とした基の漫荼羅、すなわち、日禅授与本尊とは、一見、受ける印象が違うものになっています。

特に日蓮は、なぜか中央題目を左に傾けて書いています。たぶん、これには何らかの意図があるのでしょう。たとえば、五重塔を、正面より右に立って仰ぎ見ると、左に傾いて見えます。そんな位置の表明のために意図的に傾けたのではないか? もちろん、これは憶測を出ませんが、そんな日蓮の意図を感じるわけです。

ところが書写される本尊は、こうした左傾を嫌い、真っ直ぐと書かれてきました。真っ直ぐな書写本尊を是とするセンスから、原本とする日蓮漫荼羅の左傾は気になった。よって、その傾きを直して、原図にしたのではないかと、わたしは想像しています。經の時を支点にして、南の頭を右に振ると、日禅授与本尊と、彫刻の中央題目は重なります。しかし、それほど、大きく振ったわけではありません。実際のところ、彫刻の中央題目も左傾していますから。

熊田葦城著「日蓮上人」所載の彫刻写真については、さきに差し上げた拙書に、また『現代宗教研究』第39号289頁に、“いまの”奉安殿本尊写真についてはブログに、写真入りで記しています。

大石寺漫荼羅本尊の真偽について―図形から見た鑑別
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/pdf/syoho39.pdf
所謂「本門戒壇の大御本尊」彫刻写真の解析
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51202191.html

34幻明影偲:2009/11/24(火) 07:23:45
おはようございます。

わたしの愚考ではございますが本門戒壇が石山尊厳であるものであれば何故堀
日享が富士門家家中見聞稿本零編でこのような事を述べるのか疑問でなりません。
板本尊事也今在房州妙本寺(二重線削除)当山也


享云板ノ字ハ精師二似タレモ当山ノ二字ハ全ク目師ナリ又二所ノ消し方精師ノ例ヲアラス又師二万年救護ノ説アルク年譜ニハ弘安二年ニ慧トカケタリ常在寺ニハ万年板本尊ヲ本堂ニ安シタリ 別委記
保田妙本寺萬年救護と書いた箇所に二重線を引き、板本尊当山と書き直しています。
納得がいかないといわざるおえません。

35れん:2009/11/24(火) 13:45:45
幻明さん

文中の“目師”は「因師」の誤読ですね。要するに、日因師が、日精師の文に手を加えたことを指摘する堀日亨師の指摘ということですね。

36幻明影偲:2009/11/24(火) 21:34:46
れんさん

誤字があり、申し訳ありません。
この精師の中に具体的な本門戒壇に関する述書を今の所諸賢する事が出来ません。

37皆目:2010/01/26(火) 03:38:20
犀角独歩さんの出されている戒壇本尊の写真ですが
出所を明かさず、しかも画像処理を施してあれば
、どこかのお坊さんと一緒で ただ特権階級の者だけ真実を知っていると言うこと。
罪深いものだ。

38問答迷人:2010/01/26(火) 05:23:26

皆目さん

>出所を明かさず、しかも画像処理を施してあれば

入手経路を特定されない、という条件で提供を受けたものだと理解しています。その条件を破る事は写真提供者に対する信義違反です。それこそ罪深いと思いますよ。

39犀角独歩:2010/01/26(火) 05:35:46

皆目さん

では、お尋ねしますが、

(1) 出所を明らかにしないことは行けないわけですか
(2) 出所が明らかならばよいわけですか
(3) 画像処理とはどのようなことをいうわけですか
(4) どこかの坊さんとは誰ですか
(5) 出所を明らかにしない・画像を処理すると、なぜ罪深いわけですか

40問答迷人:2010/01/26(火) 05:36:37

皆目さん 追加です。

画像処理の件ですが、

一 画像処理することによって、入手経路が特定できないように配慮されている。
二 鑑別に充分な精度を残している。

という二重の配慮がなされているわけですから、この独歩さんが公開された戒壇本尊の写真で、その真実は悉く明らかになっていると考えています。どうしても問題だと思われるのなら、単なる挑発や言い掛かりと取られない為にはもう少し明確に、どこに問題性があるのか指摘される必要があると思います。

41ヒロサトル:2010/03/05(金) 17:28:29
お初にお目にかかります。
犀角独歩氏も>>40氏も見苦しいですよ。
情報提供者を守るために画像処理した?
馬鹿か?
それで筋が通っていると思うなら、もはや貴殿等に公の場で発言する資格などは無い。

もう一度言おう。
お前たちは馬鹿だ。

42犀角独歩:2010/03/05(金) 17:36:22

やはり、この点は、こうした人間が出てくることを懸念し、書いておけばよかったですね。

問答さんが、画像処理と書かれたのは、たぶん、鑑別のために、輪郭を取るその他のことを仰ってのことでしょう。

元の写真は、画像処理はされていません。
単に不要な部分、つまり、厨子周辺をトリミングしただけです。

残念でした。悪しからず。

天に唾を吐く者は己の面にかかる。大石寺も大好きな言葉です。

以上の次第ですから「馬鹿」という言葉は、発言者の面を汚すことでしょう。

まあ、そういうわけなので、わたしは大目に見て上げましょう。

あとは、管理人さんのご判断にお任せします。

43問答迷人:2010/03/05(金) 19:19:43

犀角独歩さん

>問答さんが、画像処理と書かれたのは、たぶん、鑑別のために、輪郭を取るその他のことを仰ってのことでしょう。

いえ、僕は解像度を下げる、という処理を想定していました。

>まあ、そういうわけなので、わたしは大目に見て上げましょう。

了解です。「馬鹿」発言は、当掲示板のルールを破っていますが、犀角独歩さんが大目に見られるのであれば、ルールには外れますが、僕はこのままにしておくのが良いと思います。文脈を明確に保存して置く方が良いのではないかと考えるからです。もし、このまま放置するのがダメなら晒しスレッドに転載して残すのも良いと思います。


ヒロサトルさん

>情報提供者を守るために画像処理した?
>馬鹿か?
>それで筋が通っていると思うなら、もはや貴殿等に公の場で発言する資格などは無い。

僕には貴方の言われんとする意味が判りません。なぜ発言する資格が無いという事になるのは、理解不能です。この点をもう少し僕にでも判るように解説して戴けると有り難いですが・・・。

44犀角独歩:2010/03/06(土) 05:59:47

問答名人さん

解像度を下げる=画像処理、なるほど。
それは、もちろん、しました。

つまり、これは、わたしがブログに「ネットでの公開に就き、画像はモノクロに、解像度も下げて、考証内容も限定してのことである」とした一文の解釈ですね。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51202191.html

解像度を下げることを、どこかでわたしは「画像処理」と書いたかどうか失念しましたが、通常、解像度を下げることを画像処理とは言わないと思うのです。

印刷であれば、1200dpi以上、ネット用であれば、72dpi程度というのは、いわば編集の常識であって、特にネットの場合、解像度が高ければ、サーバーに負担になりますし、閲覧に際しては、元の解像度のままでしたら、アップできませんし、出来たとしても、各自のコンピュータに表示されるまでにかなりの時間を要すると共に負担になります。となれば、適性解像度に下げて、アップするのは、常識的なことですね。

画像処理というのは、画像を故意に改竄するような行為ですね。

該当の彫刻で言えば、日禅授与本尊に似せて、彫刻の文字を改変してしまうようなことです。

CG(コンピュータ・グラフィック)を、ドローソフトを使って描き、改変するようなことではないですか。

一部、法華講員が、わたしが流通した彫刻写真を、そのように加工したものであるというデマを流しています。こうした嘘を真に受けて、「彫刻写真は画像処理をしたCG」という嘘を鵜呑みにして、彫刻の真偽鑑別の信頼性を下げようと言うわけです。

そうした経緯で、今回のような跳ねっ返りが出てくるのでしょう。

わたしの彫刻写真の真偽は、奉安堂の彫刻の写真を大石寺が発表し、比較すれば、わかることです。いずれにしても、大石寺の許可で撮影され、熊田葦城著『日蓮上人』に載った写真がありますから、この写真と比較すれば、ある程度、事足ります。その結果、この2つには大差がないことがわかりました。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51203640.html

彫刻を大石寺や、顕正会のアナウンスどおり信じたいという信者心理はわかりますが、偽物は、どんなにあがいても偽物であることは、10年来、
問答さんとお話してきたとおりですね。

45んっ?:2010/03/06(土) 07:55:12
犀角独歩さん,お早う御座います。

「芸者写真」はどうだったのか?と問えば如何でしょう?

46犀角独歩:2010/03/06(土) 07:56:52

と仰いますと?

47ヒロサトル:2010/03/06(土) 12:34:08
お昼休みに失礼します。
まず画像処理については、私のはやとちりがあった様です。この点に関しては、犀角氏と問答氏に丁重にお詫び申し上げます。
大変失礼しました。

しかし御戒壇様と日禅師授与の御本尊様に関しましては、既にそこかしこで言われております通り、そもそも顕された年代が近いのですから、御相貌が似ていても、それは当然の事であります。

日蓮正宗の御本尊様とは、
本門戒壇の大御本尊様の御事であられ、それは『色香美味の良薬』。
宗祖御本仏日蓮大聖人様の『仏法』であります。
世間事から、顕された年代の御相貌が似ておられる事を、我々一介の一在家が云々する事自体が、そもそも間違いであり、それは馬鹿以外の何者でもありません。

「薬の味が似ているから、あの大良薬はあの処方箋を真似たに違いない。」と、我々がどんなに詮索してみても、畏れ多くも御戒壇様と創価学会偽本尊では、明らかに違う。
それは味とか色とか香りの問題では無い。

心が満たされ歓喜するか、
頭が狂うかの違いだ。

それは実際に飲み比べた者にしか判らない。
つまり、
お前たちは馬鹿だと云う事だ。

これにて失礼します。

48問答迷人:2010/03/06(土) 12:48:20

ヒロサトルさん

>御戒壇様と日禅師授与の御本尊様に関し

日蓮正宗の戒壇板本尊が偽物であり、日禅授与の本尊を基にして作られたという事を最初に言い出したのは、67世の日顕上人です。そして、その話を河辺慈篤師が書きとめ、「河辺メモ」として世に知られるようになったわけです。宗門も67世も河辺師もその河辺メモが偽物だとは一言も言っていません。「記録ミス」と言うのみです。しかも、全く辻褄の合わない弁解に終始しており、記録は正しく、日顕上人が戒壇板本尊が偽物である事に気付いて、それを河辺師に話し、それを河辺師が書きとめた事は間違い有りません。この点については、当スレッドで論証が終わっています。落ち着いて読んでみてくださいね。

49問答迷人:2010/03/06(土) 12:50:32

あっ、訂正です。当スレッドではなく、「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」スレッドです。

50ヒロサトル:2010/03/06(土) 12:54:23
最初の「馬鹿」発言を容認しておきながら、自分たちに都合の悪い「馬鹿」発言は削除する。
これを世間ではダブルスタンダードと言い、仏法でも虚事・佞事と表す。
「さすが」としか言い様がないな(笑)。

51ヒロサトル:2010/03/06(土) 13:01:40
ああ、今度はきちんと掲載されていました。>>50は失礼。

因みに当時日蓮正宗の教学部長だった御隠尊日顕上人猊下様が、御戒壇様に対するあらゆる疑難に対して思慮を巡らされる事は、当然の義であり、故河辺師がそれをどの様に記録され様と、それは故河辺師の自由である。
以上。

52犀角独歩:2010/03/06(土) 13:15:29

まあ、管理人さんが、ちゃんと説明されるでしょうが、なにも削除されていないでしょう。なにをいっているのやら。

仏教とは衆生済度の目的で、法を説く。
済度すべき、相手は、「馬鹿」だと詰ることしかできないのは、その信じている仏教と、信じている人間に力がない証拠でしょう。

人を馬鹿呼ばわりするしかできない人間は、その信仰団体が力がないことを証明し、人を馬鹿呼ばわりするような侮辱しかできない差別団体であることを証明しているだけのこと。

わたしは罵倒されたからといって罵倒で返すような愚は、ここにはいたしません。人を馬鹿呼ばわりするような世間一般の非常識をするほど、気分はすさんでおらず、愚かでもありませんので。

さて、すでに問答さんもお応えになっていますが、わたしのほうからも少しだけ。

法華経寿量品を引いて、彫刻をいくら薬に例えたところで、板は板。ただの彫刻。

弘安2年10月と弘安3年5月とでは、本尊の相貌は違うのであって、似ているのではなく、中央題目ほか、大きさも形も“同じ”だと証明しているのです。つまり、日禅授与本尊を原本として臨模作為された作品であるということです。

どうやら、わたしのブログを見ず、訊いたことだけか居ているのでしょうか。

以下、よく見てから、もう一度、どうぞ。

PC
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51202191.html
携帯からは
http://www.geocities.jp/saikakudoppo02/mob/kaidanhonzongizo001.html

53問答迷人:2010/03/06(土) 13:19:00

ヒロサトルさん

何をムキニなって居られるのでしょうか。もう少しで良いから冷静になられては如何ですか。
日蓮正宗に席を置いていたものとして、貴方のお姿は余りにも哀れです。宗門の言いなりですね。お気の毒としか言い様が有りません。貴方の書いて居られる事は、全て宗門の受け売りに過ぎません。少しで良いからご自身の頭で考えて見られては如何でしょう。思考停止のお姿はお気の毒としか言い様が有りません。

54ヒロサトル:2010/03/06(土) 17:20:23
『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(日興跡条々事・真蹟大石寺蔵)』

あまりムキになるな(笑)。

55ヒロサトル:2010/03/06(土) 17:33:38
「日興跡条々事(真蹟大石寺蔵)」は、元弘二年(1332年)十一月十日の御執筆であられ、日蓮正宗に於いては当時より今日に至るまで678年間、『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊』とは、[本門戒壇の大御本尊様]の御事であり、それ以外にある可能性は、0%である。

56ヒロサトル:2010/03/06(土) 17:49:21
>>55続き

第二祖日興上人様御在世、身延山久遠寺本堂に。また富士大石寺に、板本尊があられたと云う事実は、恐らく多くの御弟子様方が、御存知であられたでありましょう。
しかし元弘二年十一月十日の【日興跡条々事】が顕されるまで、その大御本尊様の意義を、誰も知らなかったと云うのが、日蓮大聖人様から日興上人様への『唯授一人血脈相承』所以であります。

『日興が身に宛て給は』れたる【本門戒壇の大御本尊様】は、現在も、血脈付法第68代御法主日如上人猊下様の御許、富士大石寺奉安堂にましまされます。

急ぎ急ぎ御参詣奉るべし!!

57北斗:2010/03/06(土) 18:16:40
>55


>(日興跡条々事・真蹟大石寺蔵)


ほーっ。初耳っすね。

58問答迷人:2010/03/06(土) 18:20:55

ヒロサトルさん

日興跡条々事
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_28.htm

残念ですが、これはバリバリの偽書です。第一、日興上人は北山本門寺根源の開祖、第二祖は日代上人。日興上人が日目上人に相伝する理由が無いです。真跡だと言いますが、大石寺は今日に至るまで、公開していません。否、できないのだと思います。それにこの日興跡条々事が元弘二年の執筆というのは根拠が有りません。

59問答迷人:2010/03/06(土) 18:29:11

58の日興跡条々事のリンク先の画像は、顕正会がパンフレットに載せていた写真を転載したものです。顕正会も「真跡」とうたっていますね。もし真跡なら大変な物なんでしょうがね・・・。

60犀角独歩:2010/03/06(土) 19:18:18

まだ、こんな形で信じ込んでいる人がいるわけですね。
まあ、わたしもそうでしたから、昔の自分を見るようで、微笑ましいというか、気恥ずかしいというか。

この条々事に係る一連の話は、問答さん、れんさんほか、皆さんが充分に解析をし、大石寺の言うことは、まったく作り話であることははっきりさせた件ですね。

過去ログを読んでから投稿すればよいものを、信徒会員は、自分たちの集団の文章しか読めないために、こんな調子になるんでしょうね。

北斗さん、問答さんは、条々事偽書としてお書きになっている。
当然なのですが、偽書と言うことはとりあえず、置いて、55に

> 弘安二年の大御本尊…本門戒壇の大御本尊様…それ以外にある可能性は、0%

ということについて、過去の議論を振り返りながら、整理して書きましょうか。

この「弘安二年本尊」については、大石寺4代日道師の書とされる『御伝土代』に書いています。

「弘安二年…熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ」

そして、この本尊につき

「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云」

というわけですね。

第31世因師は『有師物語聴聞抄佳跡 上』のなかに

「本門戒壇の御本尊、寸尺、長四尺七寸五分、横弐尺壱寸七分、厚弐寸弐分御首題御勧請皆金薄入りなり、仏滅後“二千二百廿余年”等と云云』(富要1-251)

と書いています。つまり、大石寺の歴代が、戒壇本尊には「二千二百二十余年」と書かれていると明言していますが、日道師の書とされる『御伝土代』に「二千二百三十余年」だというわけです。

つまり、条々事でいう「弘安二年」本尊が、戒壇本尊である可能性は100%ないというのが、先行議論でした。

61犀角独歩:2010/03/06(土) 19:32:40

一つ書き足せば、先の『御伝土代』には

「大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」

とあるわけです。つまり、本尊に「日興上人」と書かれたという意味です。
しかし、堀日亨師がまとめた『富士宗学要集』8巻の本尊脇書に

「(楠板彫刻戒壇大御本尊)
 右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、考安二年十月十二日 」

とあり、戒壇本尊という彫刻には「日興上人」の4文字がないことは、はっきりしています。

つまり、この彫刻が、御伝土代、条々事でいう弘安二年本尊でないことは明らかだというのも、先行議論でした。

ついでに、もう一つ。

> 富士大石寺奉安堂にましまされます。
> 急ぎ急ぎ御参詣奉るべし

なんだか、時代劇のセリフみたいですね。
いまは21世紀ですよ。

さて、種明かし。1回5000人、1人2000円の御開扉料、つまり、1回につき、1000万円、1日2回、週2回、月8回で、8000万円の収入になるのが、この参詣の正体です。

本物であると信じ込まされて、濡れ手に粟のような御開扉料稼ぎの宣伝マンにされている自画像は、まさにお気の毒と言うほかありません。

まだ、本物であれば、救われもしますが、図形鑑別で明らかなように、日禅授与本尊を原本にして臨模作為された後世の作品、要は偽物であるわけです。

投稿規約ぎりぎりで記せば、「馬鹿」はどちか? よく再考し直したほうがよろしいでしょう。

62問答迷人:2010/03/06(土) 19:34:34

犀角独歩さん

>二十余年

もう遠い昔の事の様で、議論の中身を改めてお示しいただくと、感慨深いものが有ります。有難うございます。

63犀角独歩:2010/03/06(土) 19:40:02

問答名人さん

> もう遠い昔の事の様

この議論もそうですが、彫刻が日禅授与に酷似していると、問答さんが仰ったとき、むしろ、わたしは消極的な意見を述べました。そして、それより以前、この本尊の御開扉にわたしは40年も通っていたのでした。
すべてが、遠い昔の話です。

仰るとおり、感慨深いものがあります。

64ヒロサトル:2010/03/06(土) 21:00:14
>>60
まず仏滅後云々についてですが、日蓮大聖人様が顕された御本尊様の中にも、『仏滅後二千二百三十余年』と『仏滅後二千二百二十余年』の表記が二通りあり、それは御歴代御法主上人猊下様が【御戒壇様】を御書写遊ばされる時も御同様で、日蓮正宗御本尊様に於ける慣例です。
つまり『二千二百三十余年』と『二千二百二十余年』の、どちらでも良い。
二つとも間違いでは無い。が、日蓮正宗での認識です。
そしてここで問題とされる第四世日道上人様の『御伝土代』と、第三十一世日因上人様の『有師物語聴聞抄佳蹟 上』の表記についてですが、共に【本門戒壇の大御本尊様】の御事を指しておられております。
先にも述べた通り、日蓮正宗御本尊様の仏滅後の表記は、『二千二百三十余年』と『二千二十余年』の二通りありますが、そのどちらも同じ【本門戒壇の大御本尊様】の御事であると言える理由としては、仏様には必ず『人』と『法』があり、日蓮正宗御本尊様の『仏滅後』の仏であられる釈尊が、【如来神力品第二十一】に於いて、地涌上行菩薩に結要付嘱された事を以って、『法』としての釈尊の仏滅と捉えるか=『二千二百三十余年』。
或いは紀元前949年の、『人』としての釈尊の仏滅と捉える=『二千二百三十余年』かの相違であり、これは日蓮正宗の御歴代御法主上人猊下様が過去世に、どの様な形で釈尊。または仏法に縁して居たかに依って生じる異なりであり、日蓮正宗では教義的に、そこまでは立ち入らないのです。

65北斗:2010/03/06(土) 21:13:13
まぁ、仮に>>55さんの言うように「日興跡条々事・真蹟大石寺蔵」なら、多少なりとも信徒さんとやり取りしたり、大石寺の「やり方」を見て来た人からすれば「真蹟なら、大石寺は鬼のクビを取ったように豪語するだろう。信徒も同じ」と、わかる話ですね(笑)


つまり信徒が「日興跡条々事・真蹟大石寺蔵」こんな発言したところで、失笑を買うしかありません。

また、独歩さんのご説明は、学者の皆様の、特に、大石寺の僧侶も以前は通っていた「立正大学」の教授でも指摘する事でして、まぁ、当然の指摘ではないでしょうか。

それを、論点ズラシやら「嘘」やら「馬鹿発言」でかわそうとしているのが>>55さん、と見えてしまいますね。

まぁ、日蓮正宗系団体、信者の主張は「その範囲」でしか通用せず、だ〜れも信じてないのが実情ではないでしょうか。




ちょっと、論点がズレました。申し訳ありません。

66ヒロサトル:2010/03/06(土) 21:13:40
また>>61は、
歴史と文法に疎い者の戯れ言です。
第四世日道上人様の『御伝土代』の「大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」の前文には、『この時』とありますが、"その時"とは、日興上人様の折伏教化に因って起きた『熱原の法難』です。
"その時に"「大聖人御感有て日興上人と御本尊に」遊ばされたのですから、この脈絡の目的語は『御本尊』にあり、『日興上人』は補助でしかありません。
つまり「熱原法難の時、大聖人様が日興上人と御本尊様を顕された」と読むのが、『御伝土代』の普通の読み方です。

67ヒロサトル:2010/03/06(土) 21:21:39
さらにまた
>>60
「まあ、わたしもそうでしたから、昔の自分を見るようで、微笑ましいというか、気恥ずかしいというか。」

とあるが、
それがお前の頭の悪さ=馬鹿さであり、信心である。

今のままで無間地獄はさぞ苦しかろう。
今あるしがらみから離れ、あなたが日蓮正宗に縁した初心を思い出して、一日も早く懺悔滅罪して下さい。

『命限りあり。
惜しむべからず。』

68北斗:2010/03/06(土) 21:21:59
>>64


依義判文ご苦労様です。

さて、>>64さんの言う通りと仮定しても、更に疑問が残ります。

板本尊の願主の素性が明らかでないってのは、どういう事ですかね?

古文書を当たっても、該当人物が存在しないのですが。

69犀角独歩:2010/03/06(土) 21:24:04

ならば、その御伝土代で記述される本尊とはなんですか。
歴史に疎くないところを見せていただきましょう。

70犀角独歩:2010/03/06(土) 21:31:12

なあ、ヒロサトルさん。

「それがお前の頭の悪さ=馬鹿さであり」、こうした下品な言葉に、人は頭破作七分を見るのでしょうね。大石寺の信仰をすると、こうした言葉を吐くほど、常識がなくなると人は思うでしょうね。

たかが、後世に制作された彫刻じゃないですか。

それを信じ込まされて、人権侵害の言辞を吐いて恥ずかしいとも思わない非常識ロボットに洗脳されているあなたの姿が世間一般には、よほど、頭破作七分と映じていますよ。

71犀角独歩:2010/03/06(土) 21:33:47

それから、これも書いておきましょう。

わたしが無間地獄とは、いったい、なんのことでしょうか。
大石寺をやめて、わたしは本当に幸せになりました。

下らない迷信を信じさせられている奴隷から解放されたからです。
本当に幸せですよ。

72北斗:2010/03/06(土) 21:40:41
>>67


久しぶりに笑ったw

>それがお前の頭の悪さ=馬鹿さであり、信心である。



信心ない人に「信心である」なんて言ったところで、通用しないですね。


ハッキリ言えば、アタマの悪さアピールしてるだけに見えますが(大爆笑)

73問答迷人:2010/03/06(土) 21:46:02

ヒロサトルさん

>66つまり「熱原法難の時、大聖人様が日興上人と御本尊様を顕された」と読むのが、『御伝土代』の普通の読み方です。

貴方が言うような、「弘安二年十月十二日に日蓮聖人が日興上人と御本尊様を顕された」という読み方をしたら、歴史事実と辻褄が合わないですよ。その時、日興上人は熱原の法難の法難の陣頭指揮を執っておられ、身延には居られなかったのです。これは日興上人の写本が現存する「伯耆殿御返事」から明らかです。ですから、この箇所は普通の読み方ではなく、「日興上人」と曼荼羅に書かれたと読むのが正しいと考えます。

74北斗:2010/03/06(土) 21:58:08
ヒロサトルさんの発言って、創価学会批判に出ている主張ばっかりですね。

下手したら、創価学会批判の方が「より詳しく説明」してくれていますよ。

日蓮宗よか板本尊を知らない信者って一体…。

えらい勢いで噛み付いていても、所詮そんなもんなのかな…。

75犀角独歩:2010/03/06(土) 22:03:53
「共同」、先刻、ご承知の話です。

日達氏が、まだ精道と名乗っていた頃書いた『悪書板本尊偽作論粉砕す』に、次のようにあります。

「日蓮門下に於ける最も古い歴史である日道上人の御伝草案によれば、大聖人は熱原法難に御感あって日興上人と共に御本尊を建立し給いしことを記している」(P17)

ところが、問答さんがご指摘のように、『伯耆殿御返事』があります。
大石寺の御書全集にも載りますね。

「大体此の趣を以て書き上ぐべきか。但し熱原の百姓等安堵せしめば、日秀等別に問注有るべからざるか。
 大進房・弥藤次入道等の狼藉の事に至っては、源行智の勧めに依りて殺害刃傷する所なり。若し又起請文に及ぶべき事之を申さば全く書くべからず。其の故は、人に殺害刃傷せられたる上、重ねて起請文を書き失を守るは古今未曽有の沙汰なり。其の上、行智の所行書かしむる如くならば身を容るゝ処なく行ふべきの罪方無きか。
 穴賢穴賢。此の旨を存じ、問注の時強々と之を申せ。定めて上聞に及ぶべきか。又行智証人を立て申さば、彼等の人々行智と同意して百姓等が田畠数十苅り取る由之を申せ。
 若し又証文を出ださば謀書の由之を申せ。悉く証人の起請文を用ゆべからず。但現証の殺害刃傷のみ。若し其の義に背く者は日蓮の門家に非ず日蓮の門家に非ず。恐々謹言。
弘安二年十月十二日 日蓮花押
伯耆殿
日秀
日弁等へ下す」

日蓮聖人が弘安2年10月12日、すなわち「本門戒壇の大御本尊」を、日達氏の言を借りれば、日興師と共同して本尊を書いたはずの日に書かれた書ですね。

一緒に書いたはずの日に日蓮聖人は、日興師に手紙を送っている。つまり、その日、一緒にいなかったからこそ、手紙を書いているというのが、問答さんの指摘ですね。

76問答迷人:2010/03/06(土) 22:23:15
ヒロサトルさん

>64

これは問題は極めて簡単です。単に表記の問題です。御伝土代には「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊」とあります。つまりは、その曼荼羅には「仏滅後二千二百三十余年」と表記されているという訳です。ところが大石寺戒壇板本尊には「仏滅後二千二百二十余年」と書かれている訳です。

つまりは、御伝土代が述べている曼荼羅と、現在の大石寺戒壇板本尊では賛文の表記が違うわけです。つまりは別物だと言うことです。極めて簡単な事です。法だとか仏だとか言う事以前の表記の問題ですから簡単明瞭でしょ。反論は不能だと思います。

77犀角独歩:2010/03/07(日) 06:53:57

さて、昨晩は眠かったので、あまり詳細に記さなかったのですが、もう少し書いておきます。

まず、64につき

> 『仏滅後二千二百三十余年』と『仏滅後二千二百二十余年』の表記が二通りあり、それは御歴代御法主上人猊下様が【御戒壇様】を御書写遊ばされる時も御同様で、日蓮正宗御本尊様に於ける慣例です。
つまり『二千二百三十余年』と『二千二百二十余年』の、どちらでも良い。
戒壇彫刻を書写という点は、ずいぶんと議論しました。
この文章は、少なくとも3つの嘘があります。

1つ。彫刻には「二千二百二十余年」という表記しかない。よって、これを書写したのであれば「二千二百三十余年」にしかならない。
1つ。「どちらでも良い」というのは、嘘である。
大石寺歴代の“書写”本尊は、「二千二百三十余年」である。
なぜか。それは、大石寺に伝わる本尊相伝にそうあるからだ。

『御本尊七箇相承』に「仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なりと遊ばさる」

『本尊三度相伝』に「仏滅後二千二百三十余年の間一閻浮提の内未曽有の
大漫荼羅」

つまり、大石寺は、この相伝に従って、本尊書写では、二千二百三十余年としか書かない。

1つ。つまり、大石寺の本尊は「奉書写之」(之(これ)を書写し奉る」と言いながら、彫刻と違うことを書いている。

以上が「日蓮正宗での認識です」。

78ヒロサトル:2010/03/07(日) 07:57:34
頭を冷やせ。
見苦しいぞ謗法者。
お前たちはもう終わってる。
目を覚ませ。

79管理者:2010/03/07(日) 08:28:07

ヒロサトルさん

一連の貴殿の投稿は当掲示板の書込みルールに著しく違背しています。

今後の投稿をお断りいたします。

なお、ルールでは貴殿のルール違反の投稿を削除する事になっていますが、管理者は削除せずにこのまま掲示する事と致します。

80犀角独歩:2010/03/07(日) 10:09:07

【77の訂正】

誤)1つ。彫刻には「二千二百二十余年」という表記しかない。よって、これを書写したのであれば「二千二百三十余年」にしかならない。

正)1つ。彫刻には「二千二百二十余年」という表記しかない。よって、これを書写したのであれば「二千二百二十余年」にしかならない。


管理人さんのご裁断です。ここまでとしますが、「見苦しい」と言っている本人が見苦しいだけでした。「天に唾をする」という例えを、何度も引きましたが、相手を批判する言葉が、すべて自分に当てはまるというのは、どんな理由なのか、改めて興味が湧きました。

一日も早く、目を覚まし、大石寺の宣伝営業マンにされていた自画像を確認し、自分の生活に戻ることを祈るばかりです。

正気に戻ったら、またお会いしましょう。

81再挑戦者:2010/03/21(日) 23:55:16

 、、ゴメンします、。 マッコト、、御憧憬 の 至り で ゴザンス。 サスガ、、です、、。

  それにしましても、、、 本当に 難儀な こと で ゴワス ですばい 、、ネ ? 
 (「FORUM 21>本部幹部会スピーチ代読のダマシ」、「 私が愛した代作>講談社」、『国民新聞」、「宗教被害者情報」、「有害カルト情報」、「、脱会委員会」、)

82皆目:2010/05/27(木) 23:39:54
 あのですね。犀角独歩さんのその写真ですが、決定的真実と
後の代まで伝わる様にして頂きたいだけですよ。
ある特定の人だけ真実を知っているのは、私は、大きな罪と思います。
例えばですよ、宗門が御戒壇様は本当は前立本尊と、言い始めたらどうします。
理由づけは、いくらでも出来ますよ。ですからなるべく早く。

83犀角独歩:2010/05/28(金) 20:35:45

そうですね。そうしたいとは思っています。まあ、じっくりとやるつもりです。

御前立とはしかし、言えないとは思います。

84皆目:2010/05/29(土) 17:20:56
 全く、後ろ向きの発言 真実を知らない者をいなしただけですか?
>御前立とはしかし、言えないとは思います。
宗教が、言えないことを平気でやるから、このサイトが有るんでしょうが!

85管理者:2010/05/29(土) 17:46:45

皆目さん

この掲示板は、話し合いを重んずる事を基本原則としています。喧嘩腰で食って掛かるような発言は如何なものかと思います。一言ご注意申し上げました。

86皆目:2010/06/13(日) 17:23:04
あのですね。冷静に私の書き込み見てくださいね。

87管理者:2010/06/13(日) 18:06:59

皆目さん

>あのですね。冷静に私の書き込み見てくださいね。

はい。冷静に判断させていただきます。よろしくお願いいたします。

88ひきこもり:2010/12/05(日) 02:45:27
私が中学生の時から信仰してきた宗教の、本門の戒壇の大御本尊が偽作であるとは。
『日蓮正宗教学辞典』にはこれに対して反論が書かれてありましたが、私を折伏した
青年自体がこの問題に関すると、顔色を変えていました。

戸田先生が絶対と語っていた、本門の戒壇の大御本尊を偽作であると否定してしまっ
たら、私の信仰はどうなるのでしょうか?昭和33年と昭和43年の『折伏教典』と
昭和43年の『日蓮正宗教学小辞典』を読んだら、長崎に原爆が落とされたのはキリ
スト教の町だったからだとか、広宣流布しなければ神札は魔の住処だとか、イスラム
教は生命の尊厳を無視した低い宗教などと書かれてありました。

これを英語やアラビア語の翻訳して世界に発表したら、日蓮正宗も創価学会もキリス
ト教過激派やアルカイダに攻撃されてしまいます。しかし長崎に原爆が投下されたの
はキリスト教の町だったからだなんて酷いですね。

89ひきこもり:2010/12/05(日) 02:54:28
『富士宗学要集』は値段が高かったため、買わなかったのですが、バカバカしい文学全集
など買わずに、あれを買っておけば良かったと思っています。あと昔の『大白蓮華』は昭
和43年から採ってあったのですが、破門時代から捨てるように言われて全部捨ててしま
いました。採ってあれば創価学会史を正しく残して置くことができました。残念です。

いずれにせよ、日蓮正宗も邪宗であると言うことになりますね。

90ひきこもり:2010/12/05(日) 02:59:22
結論として、私は創価に残ることにしました。紆余曲折はあっても、戦後の平和主義
に貢献したことは確実です。また御本尊は唱題する我々の生命の中にあるのですから、
他に求める必要などないのです。

91問答迷人:2010/12/05(日) 08:39:12

ひきこもりさん

>戸田先生が絶対と語っていた、本門の戒壇の大御本尊を偽作であると否定してしまっ
たら、私の信仰はどうなるのでしょうか?

日蓮信徒にとって、日蓮曼荼羅に対して絶対の信仰に立つのはごく自然の事と思います。それを『本門戒壇の大御本尊』のみに特化して、他の曼荼羅は全て駄目だ、というのが、我田引水の邪義だと申し上げています。なぜなら、『本門戒壇の大御本尊』だけが唯一の絶対的存在であるという主張を裏付ける日蓮聖人の真蹟遺文が一つも存在しないからです。しかも、歴史的に見て、『本門戒壇の大御本尊』のみが絶対の存在ならば、なぜこの『本門戒壇の大御本尊』が建立されたとされている弘安二年十月十二日以降も、日蓮聖人が曼荼羅授与をされ続けたのか、意味不明になります。

僕は、日蓮聖人が直接認めた曼荼羅も、門下の上人方が書写した曼荼羅も、六老僧門下の歴代の上人方が認めた曼荼羅も、全てを絶対の信仰で拝するのが日蓮法華の本来のあり方であり、日蓮聖人のお心であると考えています。理由は簡単です。それらは全て日蓮法華曼荼羅だからです。

>また御本尊は唱題する我々の生命の中にあるのですから、他に求める必要などないのです。

これは変ですね、これでは、日蓮聖人が多数の曼荼羅を認めて門下の弟子檀那に授与した歴史的事実を意味のないことと否定することになってしまいます。何の為に日蓮聖人が曼荼羅を認められたとお考えでしょうか。『本門戒壇の大御本尊』のみが絶対である、というのが一方の極端ならば、この曼荼羅無用論は、もう一方の極端ですね。どちらも正しくないと考えます。

92ひきこもり:2010/12/05(日) 10:49:32
>>91
おはようございます。

深夜に書き込んだことが気になってしまい、悪夢にうなされて目を覚ましました。

『日女御前御返事』日蓮大聖人御書全集1243ページの第2段落には御本尊の相貌が
書かれてあります。1244ページの9行目から10行目には「此の御本尊全く余所に
求むる事なかれ・只我等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団にお
はしますなり」と書かれています。この御書は建治三年八月二十三日、五十六歳御作と
なっていますから、現在のグレゴリオ暦に直すと1277年九月二十九日、満五十五歳
御作となります。

また現在日蓮宗は三宝尊など本尊の形態がバラバラですね。これは『本尊問答抄』の冒
頭の「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答へて云く法華経の
題目を以て本尊とすべし」とありますから、日蓮正宗と創価学会だけが本尊の形態をき
ちんと守ってきたことになります。

93問答迷人:2010/12/05(日) 15:00:10

ひきこもりさん

引用された『日女御前御返事』は、曼荼羅無用論が書かれているのでしょうか、むしろ逆に曼荼羅供養の重要性を述べられられています。

このように、文脈を無視して、自分の都合の良い箇所を引用するのを「切り文」と言います。それでは述者の本意は無視されてしまいます。

さらに引用された箇所だけを取っても、「法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる」と有ります。この「法華経」が何を指しているのか、どう考えられますか。

文脈からは、「法華経の肝心たる妙法蓮華経の五字」の事かと思われます。つまりは、妙法五字曼荼羅です。この曼荼羅を信仰する信徒の胸中の肉団に本尊が立ち現れるのだ、という意味であり、曼荼羅の存在が大前提になっていると思われます。

>日蓮正宗と創価学会だけが本尊の形態をきちんと守ってきたことになります。

日蓮聖人がどのような本尊奉安形態を身延の草庵において実際に採用されていたかは、様々な議論の有る所です。早計には判断しかねます。

仮に百歩譲って、日蓮正宗の本尊奉安形態が日蓮聖人の流儀に叶っていたとしても、「本門戒壇の大御本尊」が日蓮聖人が建立された唯一絶対の本尊であるとか、日蓮聖人の仏法は唯授一人の血脈相承によって日蓮正宗にのみ伝えられている、等という我田引水の大嘘にまみれた日蓮正宗や創価学会に日蓮聖人の正系門家を語る資格は微塵も無いことだけは確かであると指摘しておきます。

94正理会会員:2010/12/10(金) 15:50:02
日蓮大聖人の仏法はここを見てから

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/

95通行人:2010/12/29(水) 20:09:50
偽作といっても、基本設計者は日蓮なんだから、それで効力はあるんではないですか?
本尊の価値は物体(物質)そのものではなく、日蓮が初めて明らかにした「ソフト」
そのものにあるのではないですか?

96問答迷人:2010/12/29(水) 21:12:12

通行人さん

>本尊の価値は物体(物質)そのものではなく、日蓮が初めて明らかにした「ソフト」そのものにある

全く同感です。仰る通りであると考えています。基本設計から大きく外れることが無ければ、何ら問題が無いと考えます。

基本設計から大きく外れるとは、例えば「南無妙法蓮華経」を、「南無阿弥陀仏」とするとか、です。つまり、観心本尊抄において、日蓮聖人は信仰の対象を「妙法蓮華経の五字」と特定されたわけです。これが基本設計であると考えています。

97素朴な隣人:2011/01/16(日) 16:03:27
初めて書き込みさせていただきます。

これまでの皆様の書き込みを大変興味深く読ませていただきました。また、学会員として疑問に思っていたことも、皆様の書き込みを読むにつれ、少しずつ解決しているような気がしております。

私が疑問だったのは、学会が宗門から破門された直後(日寛上人書写の御本尊を学会独自で下付する前)、67代書写の御本尊に向かって題目をあげながら、「学会が非難している人が書いた本尊には題目をあげてもよくて、他門流所蔵の大聖人書写御本尊に題目をあげるのはよくない」という論理がおかしいと思ったのです。御本仏が書いた物はだめだけど禿人(法華講の方気を悪くしたらごめんなさい。学会ではそう呼んでます)の物でも功徳がでるということがあるはずがないと思い、実は大聖人真筆御本尊のある寺にこっそり参拝したこともありました。

また、戒壇御本尊が大聖人出世の本懐であるという文証は、聖人御難事の「余は二十七年なり」だけですが、聖人御難事の執筆は戒壇御本尊建立の前ですよね。「余は二十七年なり」だけで「これから出世の本懐を遂げます」と解釈するのは飛躍しすぎですよね。ご自分の出世の本懐を具体的に書かないのは、諸御書であれだけ緻密な論理を展開しておられる大聖人らしくないと思ったのです。「ひょっとして、この御文と戒壇御本尊は関係ないのでは?」と思いながら折伏してたこともありました。

小樽問答で「戒壇の御本尊について書かれた御書がないのは、当時の門下ではそれが常識だったので書き残す必要がなかったから」と発言がありましたけど、門下の常識である「法華経こそ最大一」を大聖人は何べんも繰り返し御書で書かれていますよね。「これは大事なこと」と思われたからこそ、繰り返し書かれたのですから、戒壇御本尊についても建立後は繰り返し消息文に書かれてもおかしくないと思っていました。

ここではすっかり偽書と断定された日興跡条々事には「本門寺に懸け奉るべし」とありますが、「板本尊であれば『安置し奉るべし』ではないのかな・・・。紙幅なら『懸け奉るべし』でもおかしくないけど・・・。昔の人はあまり細かい表現を気にしないのかな。それとも、『懸け』にはいろんな意味があるのかも」と自分に言い聞かせてました。

子供たちがウルトラマンやスーパーマンに憧れるように、人間はヒーローを求めたくなるじゃないですか。また、「ヒーローはこうあってもらいたい」という願望が、ゴーダマシッダルタを32相80種好の姿に作り替えたり、鳩摩羅什の舌だけ焼け残らせたり、大聖人のお肉牙の肉だけを成長させたりする伝説を生んだのでしょう。

98素朴な隣人:2011/01/16(日) 16:06:07
宗教は自分たちの正当性を主張するために、さまざまな神秘を作ったり主張したりしがちですが、それが他者との抗争の道具になってしまうのは本当に悲しいですね。ましてや、犀角独歩さんが書かれたように、戒壇御本尊を月8回の御開扉で8000万円も儲かる道具にしてしまったのは、宗教者に内省がないからだと思います。「宗教者に内省がない」という点は学会にもあてはまることですが・・・。

神秘的なものを次々と作りだし、それを搾取の道具にしたり、人の心を縛り付けるような宗教の体質には十分注意しなければなりませんよね。

99問答迷人:2011/01/16(日) 17:22:45

素朴な隣人 さん

書き込み有難う御座います。詳細に当掲示板の書き込みを御覧戴いたこと、有り難く存じます。

僕は、日蓮聖人は徹底した合理主義者で在られたのだと拝しています。神秘的なものを徹底して排除されていると考えています。96でも書きましたが、信仰対象についての基本設計は、簡潔にして、合理的、具体的です。何しろ「妙法蓮華経の五字」に尽きるとされる訳ですから。

後世の人々が、日蓮聖人の御本意から大きく外れて、大石寺戒壇板本尊の様に色々と飾り立て、神秘化してしまいましたが、これは日蓮聖人の何ら知らぬことだと考えています。

信仰対象を「妙法蓮華経の五字」と日蓮聖人は示されます。それが一大秘法であり、上行菩薩が神力品で久遠釈尊より授与された正体であることを諸御書において繰り返し示されています。そして、この「妙法蓮華経の五字」を信じて南無妙法蓮華経と唱えることを繰り返し勧められています。

この妙法蓮華経の五字とは、言うまでも無く妙法蓮華経という経典の経題であり、そして、この妙法蓮華経という経典に何が説かれているのかと言えば、突き詰めれば、如来寿量品第十六に説かれるところの「久遠五百塵点劫に顕本した仏様」であり、それを日蓮聖人は観心の本尊抄に於いて「無始古仏」と示されています。

つまり、この「無始古仏」こそが妙法蓮華経という経典の正体であり、釈尊の悟りの正体でもあると日蓮聖人は悟られて、妙法蓮華経という経典の経題である「妙法蓮華経の五字」を信仰の対象とされたのだと考えています。

この一連の思考は極めて合理的であり、神秘主義の入り込む余地は何処にも無いのではなかろうか、と思います。

100素朴な隣人:2011/01/17(月) 01:06:56
私も問答迷人さんのお考えに全面的に賛同いたします。「法華経の題目を以て本尊とすべし」と大聖人は諸御書で繰り返し仰せになられてますし、これ以上明快な答えはありませんよね。

キリスト教でも聖骸布を科学鑑定したり古文書を研究したりして、正統派とは何か異端派とは何かを考えたり、信仰の原点を見出そうとしてるじゃないですか。板曼荼羅の科学鑑定を拒否し続けている大石寺の態度は、中世キリスト社会の姿そのままと思わざるを得ません。そう考えますと、犀角独歩さんが曼荼羅の筆跡鑑定を試みられているのはとても意義のあることだと思います。

世界ではキリスト圏とイスラム圏の争いに終止符を打とうと努力をしているというのに、「戒壇御本尊こそ大聖人の出世の本懐」という思想があるばっかりに、小さな日本の中で興門派と身延派の間で親の敵のようにいがみ合っているのですから、大聖人の立教開宗は何の為だったのだろうと思わざるを得ません。他門流を批判するエネルギーを念仏や禅宗に向ける方が、まだ大聖人の御心に適うことではないでしょうか。

また宗門と学会も、いがみ合う暇があったらもっと他にすることがあるだろうと思うんですね。今、恵まれない子供達に匿名で寄付をしている「伊達直人現象」がニュースになっているじゃないですか。これがニュースになっているのは、今の日本にも「人に喜んでもらいたい」と思っている善意の人が少なくないことに、世間が心の温もりを感じたからなんですね。

仏は時を観じ、衆生の機根に応じて法を説いて衆生を歓喜させます。本山に何十万人も結集させるのも結構ですが、聖教新聞を何部も購読させるのも結構ですが、寺を建てたり会館を建てるのも結構ですが、それが衆生の機根に応じた説法の姿であるかどうか、それで世間が心の温もりを感じるかどうか、今一度考え直す必要があると思うのです。それぞれ何十万人や何百万人も抱えている団体なのですから、協力しあう必要は無いにせよ、それぞれが社会に向かって善意の行動を起こしたら、今の日本はもっと良い国になるはずです。それこそが広宣流布の目的だったはずだと思うのです。

ここのスレッドの趣旨と関係ない書き込みをしまして、申し訳ございませんでしたm(。。)m


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