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一念三千とはなにか

1管理者:2007/11/12(月) 05:51:41

春風さんより、新しいスレッドの要請がありましたので、活発な議論を期待して、新しいスレッドを立てます。要請文は以下の通り。

「一念三千とはなにか」というスレッドを立ててください。観念的には分かっていても実感として分かりません。禅の悟りとどこが違うのか、など皆で議論したいです。

13パンナコッタ:2007/11/15(木) 01:14:53
横レス、失礼します。
草木成仏──国土世間 (断簡二四〇)ですね。

『真実に円の行に順じて、常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。
 心に存すべき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり』
蓮祖の場合、初めから題目ありき のような印象を受けますね。

御書システムの解説で、
"「法華経」の本門に至って釈尊の久遠成道が明かされることにより、それまでの衆生心所具の理の一念三千が
本因・本果・本国土の基づく事の一念三千へと転換し、その事の一念三千が妙法蓮華経五字に包まれ、
衆生がその五字を受持した時に自然譲与されて、そこに衆生心事具の一念三千が成就する。
しかも、そのようにして成就される事の一念三千こそ、末法衆生を成仏へと導く仏種に他ならないと説明されている。
このように、天台の所説では三千世間は衆生心に本来性具するものと規定されていたが、
宗祖はその仏種を一旦は衆生から奪い去り、久遠実成という事を意義付けしてそれを妙法五字の中に納め、
その妙法蓮華経の五字七字の受持を条件として再びそれを衆生に送り還した、という図式となる。
宗祖にこのような作業をなさしめたのは、おそらく末法思想であろう。一念三千義という人間性肯定の思想を
三毒強盛といわれる末法の衆生にそのまま適用することは不可能で、そこに受持の一行を絶対条件とすることにより、
末法の衆生成道に適合するように一念三千義を再構築されたのである"
 これは、なかなかの解説だと感じました。

14パンナコッタ:2007/11/15(木) 01:16:00
非常にややこしい部分なので前提としての参考文献。真蹟中"一念三千"の語彙の使用は、

 断簡三四七 一念三千名目出処勘文
 十章抄
 如来滅後五五百歳始観心本尊抄
 八宗違目抄
 兄弟抄 
 撰時抄 
 四信五品抄 
 治病大小権実違目
 ………………………
 法門可被様之事
 寺泊御書
 真言諸宗違目事
 日妙聖人御書
 像法決疑経等要文 
 浄土九品事
 四教略名目
 断簡五十
 断簡三四八
  http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm


天台撰述部。注法華経及び断簡三四七の引用文献。
 摩訶止觀 10巻 天台大師説潅頂記 T46'No1911
  http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/2data/01/23.txt
 止觀弘決 10巻 荊渓湛然撰 T46'No1912
  http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/2data/01/32.txt
 摩訶止観輔行捜要記 10巻 荊渓湛然述 Z99(2-4)
  http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/2data/01/22.txt
 止觀義例 2巻 荊渓湛然述 T46'No1913
  http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/2data/01/35.txt
 觀心論疏 5巻 章安潅頂撰 T46'No1921
  http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/2data/01/64.txt
 覺意三昧 1巻 天台大師説 潅頂記 T46'No1922
  http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/2data/01/62.txt
 觀心食法 1巻 天台大師 Z99(2-4)
  http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/2data/01/66.txt
 觀心誦經 1巻 天台大師説湛然注 Z99(2-4)
  http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/2data/01/63.txt
 小止觀 1巻 天台大師述 T46'No1915
  http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/2data/01/16.txt

15犀角独歩:2007/11/16(金) 19:18:13

10 一字三礼さん

パンナコッタさん、顕正居士さんのご投稿もあり、この点も参考にしながら、お問いかけに、美は尽くせませんが、少しばかり記します。

まず、「十界互具」ですが、この語彙は智邈・灌頂/湛然の記述にはなく、また、初期天台文献に見られません。この初出は不勉強でわかりませんが、独学徒さんがご提示下さった伝教大師全集のデータベースで検索すると『本理大綱集』『斷證決定集』『一心戒體祕決』に見ることができます。
もちろん、「十界互具」と成句するところは『摩訶止観』の「夫一心具十法界 一法界又具十法界百法界」にありによるところでしょう。記すまでもありませんが、この文は「一界具三十種世間 百法界即具三千種世間 此三千在一念心」として一念三千の礎文となっています。重複になりますが、先にも記したとおり、智邈説/灌頂記止・文・玄には「一念三千」の成句はなく、これは湛然更釈する決・記・籤の段階で現れるわけです。また、細かいことを言えば、「百界千如」は止にはなく、文・玄にはある点も指摘できます。

以上が天台から(伝)伝教に係る前提であると思います。

いま、ここでは日蓮の十界互具、百界千如、一念三千の用法を考えているわけですが、上述の歴史的推移は、ある面、二次元的にとらえられている感は否めません。

> 身土一念三千…一身一念遍於法界…妙楽釈は、明らかに華厳教学の範疇

この点ですが、当然というか、日蓮は逆で、華厳宗が盗み取ったという立場ですね。さて、ではどちらかと考えると、智邈は華厳学の大家でもあったわけで、坂本幸雄師であったと思いますが、その残る智邈のものとされる学説は、むしろ華厳のもののほうが多いと読んだ記憶があります。となれば、中国では、この天台・華厳の優劣を論じることはナンセンスで、日本の段階、伝教以降においての優劣を日蓮が引きずったと見るべきでしょうか。

また、一字三礼さんのお考えでは、日蓮『本尊抄』における十界互具と一念三千は別立てということでしょうか。この点は、どうも咀嚼できないでおります。

わたしの認識としては、日蓮における十界互具/百界千如と一念三千の分別は、先に挙げたとおり、情(十界互具/百界千如)非情(一念三千)ということであると思えるからです。
敢えて観法と言えば、止観行に約し、観念観法していく、段階として、十界、百界、三十種世間(三世間(五陰・衆生・国土)それぞれの十如)百界三千種世間ということですから、十界五具・百界千如で、その行を区切るという意味がよくわからないのです。

日蓮が観心を挙げ、一念三千を述べるのは久遠五百塵点における仏界が「娑婆世界」という国土世間によって成就することを言うのではないでしょうか。しかし、これは三千ですが、さらに無始古仏では、その三千は一であるということだとわたしは解しています。三千が開であれば、三身所顕無始古仏は合一という意味です。やや蛮勇をもって記せば、観法としては三千、観心としては無始古仏一仏となるという考えが日蓮になかったのだろうかと勘案しています。

18犀角独歩:2007/11/16(金) 19:36:25

―15からつづく―

> ①何故、日蓮は「観法」を重視しなかったのか

この点について、パンナコッタさんが挙げてくださった資料を詮索するとき、日蓮は一念三千を観法と言っていることがわかります。
顕正居士さんのご投稿とも関わりますが、より正確に記せば、日蓮は一念三千観法を重視しなかったわけではなく、座禅といった止観行を重視しなかったというほうがより的確なのだろうと思います。つまり、座禅を簡んで唱題を採ったということです。

では、なぜ、座禅を重視しなかったかと言えば、当時の比叡山そのものが、そんな風潮にあったことを、これまた顕正居士さんがかつてご指摘下さった記憶があります。この点は寡聞、不勉強で、よく調べていませんが、斯かる状況下で重視されていたのは称名念仏であり、ここで、陀仏(=他仏)を簡び、日蓮は法華唱題を選んだという時系列なのだろう俯瞰します。

> ② 「観法」から唱題へ代わる理由は何か

この点は、むしろ、ご賢察を承りたいと思います。
その歴史的な背景は、上述、①の如くだとは思うのですが、教学解釈の態度としては、たとえば『四信五品鈔』の「慧又不堪以信代慧 信一字為詮」というような信の強調に、その原因を見ることができると思います。

ただ、ここで、先に顕正居士さんが唱題をして「易行」とおっしゃった如く、日蓮は批判対象と、つまるところ、同じ思惟経路を辿ってしまっていないかと、わたしには思えます。つまり、初期天台復興を叫んだ天台沙門日蓮は、止観禅を廃し、ただ、一心に信じて唱えればよいというのであれば、法然がいう易行道を形式的に踏襲していないだろうかという疑問です。ここでは、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経といった南無する対象の差はあっても、信じることで、慧は軽視されていくからです。

今回は、以上でいったん留めます。

19一字三礼:2007/11/16(金) 23:36:20

犀角独歩さん

ご投稿を拝読しながら、片手で小さな白旗を力一杯振っております。そして、難しいご講義に、つい心が遠出してしまいました。

「一念三千とはなにか」というスレッドを見た時に、私が感じたものは、このテーマではいつもの堂々廻りの議論になりはしないか、という危惧でした。

「一念三千」という議題、あるいは「一念三千と題目」に関して、日蓮門下には意外に強固な共通のイデオロギーが存在するのではないかと想像しております。

「一念三千とはなにか」と問われれば、天台三大部・六大部で、あるいは観心本尊抄その他で、その思想と構成は説明されます。
そして題目との関係を聞かれれば、「題目に一念三千の珠が含まれる」という説明で理解できなくても納得してしまうのです、御遺文の記述ですから。しかし、一応は納得しますが、やはりよく解らないので、「一念三千とは何だろうか」という同じ問いを発するということを繰り返して来たのではないかと思います。

‘一念三千から題目へ’には顕正居士さんからひとつの回答をいただけました。

私は‘一念三千と題目’の関係を明確にできれば、日蓮の一念三千観、題目の意味も鮮明になるのではないかと考え、出来る限り違う切り口、違う発想から日蓮の一念三千を考えてみるのがよいのではないかと思います。

さて、私は天台に全く詳しくないので、犀角独歩さんのご投稿に、しっかりとした論述が出来る筈もありませんが、思うところをすこし。

>日本の段階、伝教以降においての優劣を日蓮が引きずったと見るべきでしょうか。

日蓮には、伝教にも無かった法華原理主義といいますか、法華一経主義があるように思います。ですから、法華と諸経との優劣を厳しく論ずるのは、日蓮の特徴ではないでしょうか。

>敢えて観法と言えば、止観行に約し、観念観法していく、段階として、十界、百界、三十種世間(三世間(五陰・衆生・国土)それぞれの十如)百界三千種世間ということですから、十界五具・百界千如で、その行を区切るという意味がよくわからないのです。

仰るとおりです。
私もよくは解らないので、お叱りを覚悟で突飛なことを記します。

天台の一念三千の構成要素の出典は、十如是は方便品ですが、他の十界互具と三世間は、法華経が出典元であるとは止観には書いてありませんよね。

ところが、日蓮の一念三千は、十界互具と三世間を寿量品から引いてきます。

日蓮は、観心本尊抄の四種三段で一品二半より他は、邪教・覆相教・未得道教と弾呵します。そのため、極めて広範囲な教学的素材から構成された、天台の一念三千を、究極まで絞り込んだ一品二半中心の日蓮が採用できなかったことはむしろ当然のように思います。

寿量釈尊は、一品二半にのみ現ずる仏ですから、日蓮の観法は、一念三千と称しながらも、百界千如を除く、十界互具(国土世間を含む)に絞られたのではないか、と考えました。

20顕正居士:2007/11/17(土) 04:34:23
なお玄義には「一法界具十如是,十法界具百如是。又一法界具九法界,則有百法界千如是」
以外に次の文があります。

「華嚴云、遊心法界如虚空、則知諸佛之境界。法界即中也、虚空即空也、心佛即假也。
三種具、則佛境界也。又遊心法界者、觀根塵相對一念心起、於十法界中必屬一界。
若屬一界、即具百界千法、於一念中悉皆備足。此心幻師於一日夜常造種種衆生、
種種五陰、種種國土」(巻上之三)

華嚴ニ云ク、「心ヲ法界ニ遊バサバ虚空ノ如シ、則チ知ンヌ諸佛之境界ナリ」ト。
法界即チ中也、虚空即チ空也、心佛即チ假也。三種具ハラバ、則チ佛境界也。(注1)
又遊心法界トハ、根塵相對シテ一念ノ心ノ起ルヲ觀ルニ、十法界中ニ於テ必ズ一界ニ
屬ス。若シ一界ニ屬サバ、即チ百界千法ヲ具シ、一念ノ中ニ於テ悉ク皆備足ス。
此ノ心幻師ノゴトク一日夜ニ於テ常ニ種種ノ衆生、種種ノ五陰、種種ノ國土ヲ造ル。(注2)

注1 三界唯一心 心外無別法 心仏及衆生 是三無差別(華厳経)
注2 心如工畫師 畫種種五陰 一切世界中 無法而不造(華厳経)

一念三千は直接的には華厳経に由来する教理であること、三世間が挙げられ玄義で
すでに(百界千如でなく)一念三千が述べられていることが分かります。

21犀角独歩:2007/11/17(土) 09:55:38

一字三礼さん

華厳と一念三千の相関については、顕正居士さんの引文で合点のいくところですね。

> 「一念三千とはなにか」…いつもの堂々廻りの議論…危惧

この一念三千議論への危惧といったご指摘はごもっともで、この問いを投げかけられて目から鱗が落ちる思いをさせてくださった方に、島田裕巳師もいらっしゃいました。

また、「堂々巡り」といった点では、『JSCPR』第11号が発刊(5)の論説『スピリチュアリティ・ブームの光と陰』櫻井義秀師を読む④に「問題はこのままでよいのかということである。聖化された自己、世界や自然といった抽象的な観念に対して堂々巡りの議論をやったり、感性を磨いたりすることだけで私達の社会が変わっていくだろうか。いや、自分を変えていくことができるのだろうか」(P19)
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51162013.html

といった櫻井義秀師の分析もまたしかりだと思います。

提議される「一念三千と題目」の相関性の分析は、しかし、実に興味深いテーマだと思います。この点を考える題材としては、やはり『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』となるわけですが、わたし自身、この相関性をテーマに、日蓮の思惟に不審を懐いたのは以下の件です。

「雖然所詮非一念三千仏種者有情成仏 木画二像之本尊有名無実也」といい、これに対して、経釈を引き、「六波羅蜜自然在前…具足道…薩者名具足…薩者六也…沙者決云六…六為具足義…沙者翻為具足…薩者梵語…此翻妙」と、SADDHARMA-PUNDARÎKA の‘SA’を薩/沙と充て、六=具足=妙と説明していきます。これはつまり、情も非情も一念三千の仏種を具足しているという大難=大難信難解を、どう考えるべきか、経釈には六=具足=妙とある、さらに「私加会通如黷本文」と謙遜を示しながら、けれど、「雖爾文心者釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足 我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」と結論付けていきます。
「私加会通」という以上、これは日蓮独自の思惟であるという宣言でしょうか。

たぶん、わたしが敢えて不審といった点こそ、一字三礼さんが、堂々巡りとなりかねないと危惧された点と一致すると拝察しております。

この日蓮の具足論は、たぶん、その証を名体宗用教の五重玄を、妙法蓮華経と見なし、法華六大部を貫徹するテーマを一念三千としたうえで、五字に、一念三千=仏の因行果徳=成仏道が裹まれるとするコンセプトに拠るのではないかと、わたしは想像します。しかし、この日蓮の思惟は、飛躍か、はたまた達意か、この点は、さらに経釈を通じて精査する必要があると考えます。

22犀角独歩:2007/11/17(土) 09:56:17

―21からつづく―

> 天台の一念三千の構成要素の出典は、十如是は方便品

ええ、諸法実相の文でしょう。

> 他の十界互具と三世間は、法華経が出典元であるとは止観には書いてありませんよね。

「他の十界互具」という点が判読できません。もう少し記していただけませんでしょうか。

三世間については華厳経でしょうか。三世間の該当部分を挙げます。

「如華嚴云 心如工畫師造種種五陰 一切世間中莫不從心造 種種五陰…色 受想行識…五陰世間、攬五陰通稱衆生 衆生不同…衆生世間也、十種所居通稱國土世間」
余談ながら、智邈は、仏の国土世間の経証を仁王經を挙げています。

「仁王經云 三賢十聖住果報 唯佛一人居淨土」

> 日蓮の一念三千は、十界互具と三世間を寿量品から引いてきます。

「寿量品云 然我実成仏已来無量無辺百千万億那由他劫等[云云] 我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也 経云 我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数等[云云] 我等己心菩薩等也 地涌千界菩薩己心釈尊眷属也 例如太公周公旦等者周武臣下 成王幼稚眷属 武内大臣神功皇后棟梁 仁徳王子臣下也 上行無辺行浄行安立行等我等己心菩薩也 妙楽大師云 当知身土一念三千 故成道時称此本理一身一念遍於法界等」

> 天台の一念三千を、究極まで絞り込んだ一品二半中心の日蓮が採用できなかったことはむしろ当然

このご指摘は、実に興味深いと思いました。

> 十界互具(国土世間を含む)

この意味が咀嚼できません。もう少しご説明願えませんでしょうか。
寿量品における国土世間とは、「今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土」というのが日蓮の記述ですが、「仏既過去不滅未来不生 所化以同体 此即己心三千具足三種世間也」と続きます。十界互具というより、一念三千だと思うのですが。
また、三世間の一つ国土世間が入れば十戒互具から、三百に踏み込んだことになりませんでしょうか。

また、この段の日蓮の結論は「所化以同体」で、これは寿量仏/四菩薩の同体と解されるのでしょうが、その前句で「我等」とありますから、十法界衆生を通じて攬っているとも思うのです。

以上の点、ご説明いただければ、さらに理解を深められそうです。
お願いいたします。

23犀角独歩:2007/11/17(土) 09:58:54

【訂正】

誤)十戒互具
正)十界互具

24犀角独歩:2007/11/17(土) 17:01:11

いま調べ直したところ、島田裕巳師が小松邦彰師に一念三千につき、質問を投げかけた勉強会は、一字三礼さんも出席されていたのですね。

ということは、'06年2月以来、1年半に及ぶ議論と言うことになります。感慨深いものがあります。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50408762.html

25一字三礼:2007/11/17(土) 23:22:35

>わたしが敢えて不審といった点こそ、一字三礼さんが、堂々巡りとなりかねないと危惧された点と一致する

犀角独歩さんが不審とされた、まさにその点です。

>この日蓮の思惟は、飛躍か、はたまた達意か、この点は、さらに経釈を通じて精査する必要があると考えます。

私も経釈の精査は必要であると思います。

しかし、例えば日蓮真筆遺文の中の、題目の説明をしている個所をすべて検索し、書き並べて、はたしてそこに現代人の納得できる、題目、乃至は唱題行の意味が見えてくるでしょうか。この作業の結果については、私はかなり悲観的です。

本当であれば、挙証のために遺文の引用をしなければならないのですが、量が多いうえに、書き並べても、読み辛く、繰り返しになるだけですので、要点だけしるせば、

題目(唱題を含む)とは
①全ての経と法門が含まれる
②意味を知らなくても、それのみで成仏可能
③塔中付嘱の正体である
④寿量品の肝要
⑤一念三千の珠を含む
⑥事の一念三千
⑦法華経の極理
⑧地涌菩薩の条件
⑨声聞の成仏の因
⑩釈尊の因果の功徳を譲り与えられる
⑪脱の一品二半・種の題目
⑫二十四字と意は同じ
その他、多数

遺文中、上記ように多義的に説明される題目の定義に、統一した見解や整合性は見出すことは至難の業です。もちろん、一念三千との関係も同様に困難ではないかと思います。

私の個人的な所感ですが、日蓮が題目の説明をする時、もしくは弟子・信者などから説明を求められた時の日蓮の姿勢は、全ての徳目を題目に当てはめているだけで、本当の意味での題目の説明を、あまり積極的にしていなかったのではないか、と思えるのです。

学のある弟子に対しては、「題目は一念三千を含む」と説明し、学の浅いものには「題目には、全ての仏法が含まれる」と説き、共に難を受けている弟子には「題目と二十四字とは同じ意味」と説明したのではないでしょうか。

その理由としては、パンナコッタさんが述べておられるように、「初めから題目ありき」だったからでしょう。

では、その初めの題目とは何か、ということを日蓮を取り巻く環境や時代、布教の動機から考えることが必要ではないのかと思います。(いけね!一念三千から外れちった!)

ご質問の件につきましては、次回に投稿させていただきます。

26犀角独歩:2007/11/18(日) 09:33:07

一字三礼さん

25のご投稿、同感するところです。
ただし、スレッドテーマに立ち戻って記せば「一念三千とはなにか」ということですね。この問いを忠実に応えれば、智邈述/灌頂書の止観で展開された座禅修法の観念観法を、その解説書(釈の釈)である決において湛然が一念三千と成句したこと、と言ったところでしょうか。

まずは、原意(台家)をしっかり押さえたところからはじめ、次に日蓮(当家)における一念三千の受容、つまり、題目との相関性を探るという順位で、議論を進めるのが学的であると考えます。

いずれにしても、智邈/灌頂から湛然、最澄を経、(確証してよいか悩みますが俊範:恵心流を経、)円仁によって真言密教化も経、法然によって流行した称名念仏という天台宗からいでた異端流行のなかで、日蓮が受容した一念三千とは何かという歴史性は、パンナコッタさん、顕正居士さんがご指摘されたとおり、十分に考慮しなければならない点だと考えます。

また、実際に、一念三千観法に基づく参禅体験と、皆さんが共有する唱題体験が、では、どこがどう違うのかという実践的な対比も、十分に可能だろうと思います。以上の点を考えず、ただ唱えるだけの唱題は、たしかに日蓮の意図する唱題の有様の一つですが、ここでは、その唱題の実体験ばかりを考えることではなく、その構造を解体することを目的にしているのでしょう。故に、体験だけで畢らせるのであれば、公開の議論の場に出てくる必要はなく、個人的唱題三昧をすれば足ります。そのような個人の実践は妨げませんが、同じように議論を妨げられる筋合いはありませんね。ここで存分に議論したいと希望します。


では、一字三礼さん、先のご解答を楽しみにお待ち申し上げます。

27犀角独歩:2007/11/18(日) 10:03:47

【訂正】

誤)天台宗
正)法華宗

28一字三礼:2007/11/18(日) 22:20:23

犀角独歩さん

≫ 他の十界互具と三世間は、法華経が出典元であるとは止観には書いてありませんよね。
>「他の十界互具」という点が判読できません。

言葉が足りませんでした、申し訳ありません。
一念三千を構成する三種類のカテゴリーは「十如是」と「十界互具」、「三世間」ですから、「十如是」は方便品ですが、その他の構成要素は、という意味でした。

≫寿量釈尊は、一品二半にのみ現ずる仏ですから、日蓮の観法は、一念三千と称しながらも、百界千如を除く、十界互具(国土世間を含む)に絞られたのではないか、と考えました。
>十界互具(国土世間を含む)

観心本尊抄では、法華経の各品から十界互具の証拠を引きますが、「仏界所具の九界」と国土世間は寿量品を論拠とします。しかし、十如是の出処は方便品以外にはありません。

日蓮は、一念三千の出処について
「一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限る。」(十章抄)

「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり。龍樹天親知て、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみこれをいだけり。」(開目抄)

「又、本門十四品の一経に序正流通有り。涌出品の半品を序分と為し、寿量品と前後の二半、此れを正宗と為す。其の余は流通分也。其の教主を論ずれば始成正覚の釈尊に非ず。所説の法門も、亦、天地の如し。十界久遠之上に国土世間既に顕る。一念三千、殆ど竹膜を隔てたり。」(観心本尊抄)

日蓮は、「一念三千は寿量品の文の底にあり」にあるといいますが、一念三千が十如是を
含むものである以上、本当なら「一念三千は法華経の本迹にあり」と言わなければならな
いと思うのですがいかがでしょうか。

ここから推測すれば、日蓮が考える一念三千観は、その構成である「十如是」と「十界互
具」と「三世間」の価値が等分ではないと考えていたのではないでしょうか。

日蓮:「十界互具」>「三世間」>「十如是」

天台:「十如是」>「十界互具」>「三世間」

こんな感じになるように思います。

29顕正居士:2007/11/19(月) 01:06:11
日本天台には本勝迹劣思想というべきものが存在し、何でも本門にもっていきます。
東寺密教に対抗するために迹門--顕教・理、本門--密教・事という教判を形成した
のです。日蓮の一念三千についての理解が中国天台からかけはなれたものである
のにはそういう背景があります。この辺は浅井円道著・『上古天台本門思想史』
(S50 平楽寺)が唯一の詳しい研究です。

30一字三礼:2007/11/19(月) 22:23:57

顕正居士さん

ご紹介いただきました浅井円道氏の研究書はさっそく読んでみようと思います。

日蓮の一念三千義を考える時、論理的解釈に基づく理解求める意識と、法華の歴史的・伝統的教学上の説明との狭間で、結論を出せずに来てしまいました。

それこそ、中世人の思考のままでの理解を是とする坊さん達と、それによく躾けられている信者達であれば、伝統的教学だけを聴かせればそれで済むでしょう。

しかし、一般人にとっては、そのような理神論的な説明は、まったく納得できないでしょう。

迷路に入り込む前に、これからの議論の方向性を決めた方がよいのでしょうか。

31犀角独歩:2007/11/20(火) 07:31:46

顕正居士さん

いつもながら、適切な情報、有り難うございます。
今回も「目から鱗が落ちる」思いがしました。
一致派は主導権を握る現代の日蓮宗では受け入れがたい日蓮像ですね。
わたしは、それにしても(勝劣義といってよいのでしょうね)、本面迹裏、本勝つ迹劣は、富士門下教学と思い込んでいたのですが、これすら、宝の影響であったわけですね。恐れ入りました。


一字三礼さん

追って、申し上げる所存です。

[30]について、先に申し上げれば、ここでの議論は、「一念三千とはなにか」で、現代人に通用する日蓮の教えではないと、わたしは分類して考えています。
前者については、基本に立ち還って考証する必要があると考えます。しかしながら、この基本は法華六大部ですから仰るとおり、現代人には理解しづらく、また、役にも立たないかも知れません。しかし、事実の素描とその実用性は別の問題ではないでしょうか。それはあたかも歴史を知らなくても生きていくことはできますが、それを素描するとなると、既に失われた言葉・文字や文化の固有名詞も扱わなければならないと同じです。

後者については、「現代人が納得できる日蓮教学」などで、別の議論といたしませんか。

ともかくも、「仏は生命だ」「生命は一念三千を具える」類の世迷い言が横行する信仰圏に立っての話です。まずは、正確な一念三千の意味の割り出しを法華六大部、日蓮の真蹟遺文を足がかりに割り出す作業が先行すると思うのです。

32犀角独歩:2007/11/20(火) 07:33:27

短い文でも打ち間違え、失礼しました。

【訂正】

誤)一致派は主導権を握る
正)一致派が主導権を握る

誤)本勝つ迹劣
正)本勝迹劣

33犀角独歩:2007/11/23(金) 17:38:54

まず[31]の訂正

誤)本面迹裏、本勝つ迹劣は、富士門下教学と思い込んでいたのですが、これすら、宝の影響であったわけですね。
正)本面迹裏、本勝迹劣は、富士門下教学と思い込んでいたのですが、これすら、他からの影響であったわけですね。


28 一字三礼さん

> 寿量釈尊は、一品二半にのみ現ずる仏ですから、日蓮の観法は、一念三千と称しながらも、百界千如を除く、十界互具(国土世間を含む)に絞られたのではないか、と考えました。

どうも、この点が、繰り返し考えたのですが、よく理解できません。
お会いした折にでも、ご教示願うことといたします。

> …推測すれば、日蓮が考える一念三千観は、その構成である「十如是」と「十界互具」と「三世間」の価値が等分ではないと考えていたのではないでしょうか。

この点は、たしかに智邈・灌頂/湛然と違っているのかも知れません。
小松邦彰師は、「天台の一念三千は方便品・諸法実相であって、寿量品は重視されていない」といったことを仰っていましたね。たしかに等分ではないのかもしれません。

関連するかどうか分かりませんが、神力品の結要付嘱というのは、法華経を読む限りでは今番法華説法での儀式ですが、どうも日蓮は、妙法蓮華経の付嘱は久遠五百塵点劫に採っているようですね。だから、久遠仏と、その初発心弟子という時点に拘りを見せるわけですね。今番の釈尊の一念三千は法華説法でよいわけですが、久遠における国土世間の明証を寿量品に求めることで、真の一念三千が成就するという考えがあるわけですね。

> 日蓮:「十界互具」>「三世間」>「十如是」
> 天台:「十如是」>「十界互具」>「三世間」

なるほど、この点も、もう少し補足願えれば有り難く存じます。

34雪山童子:2010/01/11(月) 13:40:10
テスト

35名もなき詩より:2010/11/06(土) 02:22:47
名もなき詩よりです。  はじめまして 宜しくお願いします。

十界互具については、「八宗違目抄」(日蓮大聖人御書)にも触れて、論じてみてください。

よろしく。  ではまた。

36名もなき詩より:2012/01/05(木) 01:48:38
十界互具について、十界互具を人間の生命内に観ると、
まず依報(さまざまな十如是の姿)を覚知することにより十界が顕れる。
そしてそれに対処しようと、正報の自らの境涯に応じて収まる十界より顕れ、対処しようとする十如是(立ち向かう自分の姿)が、顕れる。
十界×十界、それぞれに十如是が収まる。心具から始まり心生(湧現、顕現)へ・・・十如是を持って十界は顕れ、十界を持って十如是が顕れる。
依報における十如是を捉え、十界が顕現し、
それぞれの境涯に応じて十如是の役割と働きを行う。
その、それぞれの十如是と十界を捉えることで、
十界互具がどういうものか、見えてくる。
妙法蓮華経は、即これ十界互具である。
認識と対処・・・
生命内においてそれぞれの境涯に応じて十界と十如是が役割と働きを行う。
・十如是(正確な言葉が見当たらないのですが、、、
所、つまり依報の十如是)を持って十界が顕現する。
または、まわりの妙法蓮華経の姿を持って十界が顕現する。
・十界(それぞれの境涯が対処しようとする命)を持って十如是が顕現する。
次の例で考えてみてください。
「 蛇に、にらまれた蛙 」蛙は、
瞬間的に依報に存在する一つの妙法蓮華経の姿、この場合は蛇ですが、
蛇の持つ特性と蛇がこれから蛙に向かって行おうとする一連の行動を見ます。
これが依報に存在する一つの妙法蓮華経の姿、十如是です。
蛙は未来に起こる一連の現象(蛇の動き、動作)を見ます。
(自分が食べられる姿を)瞬間に心が出てきます。
(恐怖の、、、この場合地獄界でしょうか?)、
これが蛙の認識*十如是を持って十界が顕現する。
そして、どう対処するか、それは蛙の境涯によって、境涯による十如是
(対処する一連の行動)が決まる。*十界を持って十如是が顕現する。
蛇と蛙の例で、これは想像してみてください。
蛙が何も出来ない場合は、身動きできず、地獄即地獄。
蛇は、空腹なら地獄即餓鬼。十界互具が見えてきているように思うのですが、
いかがでしょうか?
依報に存在する妙法蓮華経(十如是)の姿を五陰で認識し、
それを持って境涯に応じた十界が顕現する。心如工画師を思い出して下さい。
九界即仏界、仏界即九界は、真の十界互具の在り方。

37名もなき詩より:2012/01/05(木) 01:55:57
 十如是とは、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等である。( つまり諸法は必ず相、性、体…如是本末究竟等の十の範疇をもって顕現する )ということが真実の相であると説いたのである。 諸法とは森羅万象であるが、十界に収まる、とすると、諸法実相十如是とは、地獄界、餓鬼界…仏界のどの界も、平等に( 十如是をもって顕現する )ということであり、十界が、現象として顕現した面では相互に差異があっても、顕現する仕方、形式の面においては平等であるという真理がここに明らかにされたことになるのである。その結果、( 二乗も含めて一切衆生が、仏と同じく十如是の法則に基づいて顕現している )ことであって成仏の可能性をもっていることが明らかになったのである。このことによってまた、これまでの三乗を開いて一仏乗を明かすことが仏の本意であるという( 開三顕一 )の法門がほぼ明かされたことになった。ここから( 略開三の十如実相 )といわれているのである。 ちなみに、( 広開三顕一 )は、方便品の一大事因縁・開示悟入の説法がそれにあたる。そこでは、はっきりと、釈尊が自らの出世の目的は衆生をして仏の知見を開かしめ、示し、悟らせ、仏知見の道に入らしめるところにあることが宣言されたのである。 さて、十界の一切衆生が仏知見すなわち仏界を具えているということは十界がそれぞれに十界を具えているということである。ここから十界互具・百界千如の法理を天台大師は立てたのである。 天台大師は、百界千如については法華玄義等に明かしたが、一念三千だけは摩訶止観第五巻第七章「正観」の十乗観法中、第一不思議境を明かすところに説いたのである。 その際、三世間は大智度論巻七十の「 世間に三種あり、一には五衆世間、二には衆生世間、三には国土世間なり 」という文を根拠にしたことは天台大師の他の著作などから明白である。 したがって、天台大師は、一念三千の出処を法華経迹門方便品の十如実相に置いたのであるが、三世間とくに国土世間が明かされている経文は本門寿量品である。そのことを「 一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る 」と仰せられている。

38首都高バトル01:2012/01/05(木) 02:16:24
ハンドルネームを、

名もなき詩より から 首都高バトル01 に、改めましたので、
ご報告申し上げます。

39首都高バトル01:2012/01/05(木) 04:56:16
>>36は、あくまで、仕組みを客観的に観ただけ。

その実体(仏界)を証得してみないと、一念三千とはどういうものなのか、
解らないと思います。

仏道修行、つまり実践の中で会得していくしかないように思います。

絶待とは、どういうものなのか(実践で)。
これをつかむことが、一念三千を識ることになるのかも知れません。

40フランコ:2012/01/12(木) 21:39:28
>>39仏道修行、つまり実践の中で会得していくしかないように思います。

はじめまして、フランコと申します。
もうずいぶん昔、学会員として池田先生の指導のままに学会活動を頑張っていれば仏道修行になると思い込んでいた頃、実践のその先には、広宣流布(死語♪)の実現があると無邪気に信じ込んでいました。
(もしかしたらその頃の方が幸せだったかも♪)

一念三千を識るには、仏道修行・実践の中での会得しかないという首都高バトル01さんの
ご意見に賛同しますが、いかなる修行・実践が、本当の意味での仏道修行になるのか判らなくなってしまっているのが現在ではないでしょうか。

修行以前というか、修行に努力する前に、どのような修行をすれば仏道修行となるのかを選び取る・判断する・決断する、ということが大変重要だと思います。

ここの掲示板では戒壇の大御本尊はパッチワークでこしらえた後世の偽作であるという意見が大勢を占めており、これまでの信仰は間違いであったという意見や考証はたくさんありますが、それならば、いかなる法を信じ、いかなる修行・実践を行えば衆生は救われるのかといった方向性の議論はあまり進んではいません。

ちなみに首都高バトル01さんのお考えになる仏道修行とはどのようなものなのでしょうか。
差し支えなければお教えください。

41正木敏夫:2012/03/02(金) 08:37:18
すみません。天台の理の一念三千摩訶止観は、一分も理解していない者です。
日蓮仏法を奉じて46年、事の一念三千とは、筆舌に尽くし難く、命で悟るものだと思っています。

42フランコ:2012/03/08(木) 23:26:08
正木敏夫さん

フランコと申します。よろしくお願いします。

〉日蓮仏法を奉じて46年、事の一念三千とは、筆舌に尽くし難く、命で悟るものだと思っています。

事の一念三千とは、大聖人様のことです。
僕らはただの信者ですから、「命で悟るもの」などと肩ひじはらずに
ただただ御本尊様(大聖人様)を有難いと拝めば良いと思います。

43首都高バトル01:2012/03/25(日) 05:24:28
フランコさん、はじめまして。

仏道修行は、信心で捉えた一念の実践だと思います。

付け加えて、
信心は、究極の帰納(本行)、演繹(助行)の両面からの、
真実の幸福の追究であると思います。

44フランコ:2012/03/28(水) 13:11:15
首都高バトル01 さん、フランコと申します。
あらためまして、よろしくお願いします。

>43仏道修行は、信心で捉えた一念の実践

なるほど、確かにそのように表現することはできると思います。
ただし、それぞれの修行者の信心のあり方によって様々な一念を捉えてしまうわけで、
仏界でない一念を捉えてそれを実践してきたであろう人達をたくさん見てきたし、
自分自身もきちんと仏界を捉えることのできる信心をしているかどうか…。

どこまで行っても、信心の正邪ということが問題で、邪な信心修行を強盛に行えば
不幸な結果になるであろうことは論を俟たないと考えます。

では、いかなることが正しい信心なのかというと、もうこれは修行者の数だけ正しい信心
があるのだろうし、正邪を判定する客観的な基準もなく、証明する方法もない。
それぞれが自己責任で自分の信じたもの(何も信じないという判断も含む)を
墓場まで抱いて逝くしかないのでしょうね。

45首都高バトル01:2012/03/29(木) 01:50:13
フランコさん どうもです。
そうですね。
一念と言っても感覚でとらえているものであると思いますから
そういう意味で、曖昧でわかりにくいのかも知れません。

一念の実践、御本尊を信じ日々の生活で、依報との触れ合いの中で、
影響を受け一念のズレが生じたり、
まあ気づいたら(気づかなかったらそれまでですけど)、
修正すればいいのではないかと。 修行ですから。

法則性があると思いますから、
そこに正しさを見いだしていくのも、ありかと。

46首都高バトル01:2012/03/29(木) 02:23:40
続けてで、すみません。

ちょっと気になったものですから。
広宣流布は、死語?
これについて自分の考えを言わせてくださいね。

他板でも言ったのですが、御本尊の中に広宣流布は、完成している。
完成されている。あとはやるだけ。実践するだけ。
地湧の菩薩の使命を自覚するとは?
地湧の菩薩の使命とは、広宣流布。
せっかく御本尊の中に広宣流布は完成しているのに、もったいないです。

地湧の菩薩の使命を自覚、地湧の菩薩であるなら、勇気を持って、
希望を大事にし、虚空会の儀式に参加した地湧の菩薩として
証明するために頑張ることが、いいのかと思います。
私は、地湧の菩薩の使命を自覚して頑張っています。

あきらめる訳には いかないです。
なぜなら広宣流布とは万人成仏だから。
また先にも述べましたが、南無妙法蓮華経の御本尊の中に
広宣流布は完成しており、万人成仏の法であるからです。
...これは、諸仏 菩薩の誓願です。
たとえ自分が最悪の人間だとしても、実証を示していき、
日蓮大聖人の仏法が正しいことを証明するために頑張ります。

47首都高バトル01:2012/03/29(木) 03:06:13
専門的内容の掲示板と思いますが、
自己啓発みたいになるかも知れませんが、
自分が思う実践における法則性を書きます。

(1)やることは、キチンとやる。抜け落ちてないか?
やることを、キチンとやることを極める。
(2)九界即仏界.生死即涅槃.煩悩即菩提、難即前進。→
強い思い、熱い思い、強い一念(まことの時の勝利、
生死一大事の[時の]勝利、絶体絶命の[時の]勝利の一念)
を持つこと。題目で養う。

(1)(2)の2つから、智慧が出てくる法則があります。
ヘレンケラーは、演繹(仏法で言うところの観行)
スリハンドクは、帰納(スリハンドクは、名字即を行っている。)
智慧を出したり、克服しています。
この信心は、両方行っていると思います。
私が勝手に言っているのではなく、彼らのおこないを
よ〜く見ればそのとおりであることが、わかります。

もっと専門的な内容だといいのですが、私が語れるのは、
これぐらいなので申し訳ありません。
私がよく投稿しているのは、創価学会非公認非公式掲示板2です。
(もう少し詳しく、ヘレン、スリハンドク、帰納や演繹等を。)
興味があれば、また覗いてみてください。

48フランコ:2012/03/29(木) 15:04:27
首都高バトル01 さん、こんにちは。フランコです。

>46他板でも言ったのですが、御本尊の中に広宣流布は、完成している。
完成されている。あとはやるだけ。実践するだけ。
地湧の菩薩の使命を自覚するとは?
地湧の菩薩の使命とは、広宣流布。
せっかく御本尊の中に広宣流布は完成しているのに、もったいないです。

嬉しいなぁ!
戒壇の大御本尊はパッチワークの偽物だとかの、夢も希望もないような
意見ばかりが幅を利かせていたこの掲示板でこんな意見に出会えるとは!

明日から、いやたった今から頑張ろうって、勇気が湧いてきます。
ありがとうございました。

49FBI(笑)Oh My Buddaha !:2012/03/30(金) 20:30:25
トピずれ&横レスになり申し訳ありません。

>>戒壇の大御本尊はパッチワークの偽物だとかの、夢も希望もないような
意見ばかりが幅を利かせていた

逆でしょう。

そこから夢も希望も自ずと見えてくるのでは。

50フランコ:2012/03/31(土) 09:34:34
FBI(笑)Oh My Buddaha !さん、フランコと申します。
よろしくお願いします。

FBI(笑)Oh My Buddaha !さんが、どのような脈絡で戒壇の大御本尊が偽物であることに対して
夢や希望を感じておられるのかよくわかりませんが、私の考えを書きます。

私の考えでは、戒壇の大御本尊こそが仏教の究極・最終到達点(=事の一念三千)であり、
一切の出発点(=久遠元初)です。これが偽物なら、仏教など、ただの世迷言に過ぎなくなってしまいます。
戒壇の大御本尊を否定してなお、仏教の勉強をしている人は一体何を目指しているのでしょう?

私は、今生ではありませんが、信仰を通じ、自ら釈尊となって法を説くという夢があります。
戒壇の大御本尊が本物であればその夢は叶いますので、私は信じています。

あと、美術品の真贋の鑑定をするような意味での本物性に関しては、あまり関心はありません。
そもそも、戒壇の大御本尊が大聖人様の御真筆であったとしても、その部分は削り落としてあるわけで・・・。
要は、「信仰する→成仏する」という機能が発揮できれば良いわけで、仮にパッチワークで後代にこしらえた
ものであっても、その機能に何ら問題はない、というロジックの開発は必要かなと思っています。

51問答迷人:2012/04/01(日) 22:36:29

フランコさん 初めまして

>これが偽物なら、仏教など、ただの世迷言に過ぎなくなってしまいます

日蓮聖人は大曼荼羅を残されています。大石寺の所謂戒壇本尊が偽物でも、日蓮聖人の大曼荼羅に籠められた法力・仏力は何の変化もありません。大曼荼羅を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、成仏は疑いがありません。何で大石寺戒壇板本尊に固執されるのか、意味をなさないと存じます。如何でしょうか。

>その機能に何ら問題はない、というロジックの開発

そんなロジックは全然必要ないと考えます。いくらパッチワークだろうが、大石寺戒壇板本尊も、大曼荼羅の書写には違いありませんから、大曼荼羅としての法力・仏力は何ら他の大曼荼羅と変わりが有りません。戒壇板本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば成仏は疑いありません。

但し、『戒壇板本尊だけが究極の本尊であり、幾ら日蓮聖人の曼荼羅であっても、功徳は無い」などと言う、日蓮正宗の駄法螺を信じない事が大前提です。この駄法螺を吹く日蓮正宗のアナウンスは、日蓮聖人の大切な大曼荼羅を完全否定している訳ですから天魔の所業だと考えます。

52フランコ:2012/04/02(月) 20:45:57
問答迷人さん、はじめまして。
管理人さん自ら書き込みいただいて、光栄です。

文を読ませていただいて、恐らく問答迷人さんと私とで、御本尊や信仰に対する
考えは、根本の所では、ほとんど変わらないのではないかと感じています。

1点だけ。
 
>日蓮聖人は大曼荼羅を残されています。

文面からして、どこそこ寺の・この大曼荼羅、というわけではなく、
あえて文で表現するなら、
「日蓮大聖人・己心の・大曼荼羅」といった意味だと思いますが、
このような理解でよろしいでしょうか?

53問答迷人:2012/04/03(火) 12:49:34

御本尊集として、現在はインターネットでも見ることが出来ますが、多数の真筆曼荼羅が現在にまで伝えられています。七百年以上経過して、これほどの多数の曼荼羅が伝えられてきたことが奇跡に近いと思っています。これらの曼荼羅の事です。

54フランコ:2012/04/03(火) 22:21:12
問答迷人さん

なるほど、勝手に自分の考えとほとんど変わらないんじゃないかと思っていましたが、結構違いますね。

私の理解での仏教を、ものすごく単純化して表現すると、それは「仏様を拝む宗教」です。
仏様は尊極の衆生とも呼ばれ、とても尊いわけですが、衆生には違いありません。
衆生ですから当然、色心不二です。

鎌倉時代の大聖人御在世当時は、生身の大聖人様を拝めば良いわけです。
そして多数の一期一縁の真筆曼荼羅は大聖人様の分身散体と考えます。大聖人様は、ただお一人です。

大聖人様滅後の我々も、基本的には同じ事で、大聖人様を拝めば良いわけですが、
生身の大聖人様はいらっしゃらないわけで、その身代わりが戒壇の大御本尊と言う訳です。
そして私の考える、「信仰する→成仏する」という機能が発揮できる本尊は、戒壇の大御本尊の分身散体という
意義を有するものでなければならない、ということです。

私の考えでは、色心不二ですから拝む対象としての「色」が必ず必要で、その「色」は戒壇の大御本尊以外に考えられないと思います。
戒壇の大御本尊が正当な「色」でないとするならば、それ以外の、究極の・一体の・「色」を、立てなければなりませんが、
恐らくそれは無理でしょう。
また、究極の一体の「色」を立てなくても良いという考えに立った場合、色心不二との整合性はどうするのでしょうか?

また、私の考え方で問答迷人さんの考えを見ると、大聖人様が何人もいる、ということになってしまい、少々具合が悪い。

>51 但し、『戒壇板本尊だけが究極の本尊であり、幾ら日蓮聖人の曼荼羅であっても、功徳は無い」などと言う、
日蓮正宗の駄法螺を信じない事が大前提です。

日蓮正宗にも改善すべき点は多々あると思いますが、これまで述べてきた理由により、上記は「日蓮正宗の駄法螺」ではなく
衆生を善導するための、真実だと思います。

55問答迷人:2012/04/04(水) 07:39:31

フランコさん

>鎌倉時代の大聖人御在世当時は、生身の大聖人様を拝めば良いわけです

日蓮聖人はその様には仰せではありません。観心本尊抄には『釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』と述べられています。『妙法蓮華経の五字』を受持することが全てだと仰せです。この点はどのように考えられていますか。

56フランコ:2012/04/04(水) 21:24:18
問答迷人さん

現代の私たちが御本尊様を拝むという行為は、鎌倉時代であれば生身の大聖人様を拝むのと同じですよ、ということを言ったまでです。

>『妙法蓮華経の五字』を受持することが全てだと仰せです。この点はどのように考えられていますか。

私の考えでは大聖人様を御本仏と信じ手を合わせる事が『妙法蓮華経の五字』を受持することになると思いますが・・・。
大聖人様の悟られた、あるいは所持されている『妙法蓮華経の五字』に手を合わせるということです。
大聖人様の御心から離れた『妙法蓮華経の五字』は、ただの文字に過ぎないと思います。

57問答迷人:2012/04/05(木) 20:44:42

フランコさん

少し整理してみます。

一 御本尊様とは、具体的には日蓮聖人の大曼荼羅。
二 大曼荼羅の中尊は妙法蓮華経の五字・一大秘法。
三 この妙法蓮華経の五字は、法華経神力品において地湧の菩薩が久遠釈尊から譲られた一大秘法である。
四 この一大秘法・妙法蓮華経の五字を受持すると、久遠釈尊の因行果徳の二法が譲り与えられる。
五 久遠釈尊の因行果徳の二法が譲り与えられる、とは成仏するという事。
六 御本尊様を拝むという行為は、妙法蓮華経の五字を受持する行為であり、そこに成仏が叶う。

つまり、日蓮聖人は、誰でもが妙法蓮華経の五字・神力品付属の一大秘法を受持することが出来る様に、御自身の命を懸けて、一大秘法を証明され、それを曼荼羅として顕されたのであると。

日蓮聖人は、極めて現実的具体的です。「妙法蓮華経」とは言わずに「妙法蓮華経の五字」と仰せの意味は、極めて重要だと考えています。つまり、字は書かれていて初めて字ですから、「妙法蓮華経の五字」との仰せは、紙幅曼荼羅に書かれた、中尊の妙法蓮華経の五字をさしておられるのは明らかです。しかも、五字ですから、題目の五字、書きあらわされた法華経の題目の五字を意味しています。

>私の考えでは大聖人様を御本仏と信じ手を合わせる事

これは無理です。なぜなら、日蓮聖人滅後の私たちは生身の日蓮聖人を拝することは叶いませんから。

>大聖人様の御心から離れた『妙法蓮華経の五字』、

その様な事があり得るとは思えません。日蓮聖人にとって、「妙法蓮華経の五字」は久遠釈尊から付属された一大秘法であり、金色に光り輝く久遠釈尊の御尊体と拝しておられたと存じます。法華経の全ての文字も金色に光り輝く仏様だと述べられています。

長々と書きましたが、大曼荼羅を信じて南無妙法蓮華経と唱えることが妙法蓮華経の五字を受持することになり、それが成仏の直道。如何でしょうか。

58フランコ:2012/04/06(金) 20:37:02
問答迷人さん

>一 御本尊様とは、具体的には日蓮聖人の大曼荼羅。

御本尊様とは、日蓮大聖人=戒壇の大御本尊=自受用報身如来の御♜體

>二 大曼荼羅の中尊は妙法蓮華経の五字・一大秘法。

一大秘法とは、本門の本尊。

>三〜六は、一・二の捉え方次第、というところでしょうか。

>つまり、日蓮聖人は、誰でもが妙法蓮華経の五字・神力品付属の一大秘法を受持することが出来る様に、御自身の命を懸けて、一大秘法を証明され、それを曼荼羅として顕されたのであると。

問答迷人さんの理解での、日蓮聖人と一大秘法との関係がよくわかりません。
私の理解は、前述の通り
一大秘法=本門の本尊=戒壇の大御本尊=自受用報身如来の御♜體=日蓮大聖人、です。
問答迷人さんの記述だと、一大秘宝が、かつて創価学会等で盛んに言われていた「宇宙根源の法則」のようなニュアンスに取れてしまうのですが、いかがでしょうか。

>日蓮聖人は、極めて現実的具体的です。「妙法蓮華経」とは言わずに「妙法蓮華経の五字」と仰せの意味は、極めて重要だと考えています。つまり、字は書かれていて初めて字ですから、「妙法蓮華経の五字」との仰せは、紙幅曼荼羅に書かれた、中尊の妙法蓮華経の五字をさしておられるのは明らかです。しかも、五字ですから、題目の五字、書きあらわされた法華経の題目の五字を意味しています。

ちょうどいい塩梅にスレタイが「一念三千とは何か」ですので、質問をさせていただきます。
問答迷人さんのお考えで、「妙法蓮華経の五字」を、五蘊・衆生・国土の三世間に約すと、どの世間に当たるでしょうか?

>>大聖人様の御心から離れた『妙法蓮華経の五字』、
>その様な事があり得るとは思えません。日蓮聖人にとって、「妙法蓮華経の五字」は久遠釈尊から付属された一大秘法であり、金色に光り輝く久遠釈尊の御尊体と拝しておられたと存じます。法華経の全ての文字も金色に光り輝く仏様だと述べられています。

妙法蓮華経は大聖人様ご生誕の前からありますので、聖人様の御心から離れた『妙法蓮華経の五字』、というのは有り得るでしょう。ただ、問答迷人さんの信仰のスタンスで「その様な事があり得るとは思えません。」というのは、理解できます。
ちなみに、前述の質問の答えがここに書いてありますね。

>長々と書きましたが、大曼荼羅を信じて南無妙法蓮華経と唱えることが妙法蓮華経の五字を受持することになり、それが成仏の直道。如何でしょうか。

大曼荼羅の解釈次第、という事に尽きると思います。

59問答迷人:2012/04/06(金) 21:06:33

フランコさん

書き込み有難うございます。対立軸がほぼ明らかになってきたと思います。

今日、明日は、家業が大変繁忙なので、明後日に書き込ませていただきます。

60問答迷人:2012/04/08(日) 16:36:15

フランコさん

何か、当掲示板に不都合が生じており、何度試してもエラーになってしまいますので、下記にて書き込みました。「日蓮法華掲示板」です。そちらにて議論の続きをお願いいたします。

http://bbs.2ch.co.jp/user/nichirenhokke/test/read.php/bbs1/1333869633/2

61問答迷人:2012/04/08(日) 16:41:37

フランコさん

当板、書き込みの文字色も『黒』に設定してあるにも拘わらず、このような赤色で書き込まれてしまいます。何らかのエラーが発生しているものと考えられます。勿論ウイルスの可能性も有ります。少し趣旨は違いますが、当板の後継掲示板として、『日蓮法華掲示板』を立ち上げてありますので、よろしくお願い申し上げます。

62フランコ:2012/04/09(月) 08:00:40
了解しました。


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