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一念三千とはなにか

54フランコ:2012/04/03(火) 22:21:12
問答迷人さん

なるほど、勝手に自分の考えとほとんど変わらないんじゃないかと思っていましたが、結構違いますね。

私の理解での仏教を、ものすごく単純化して表現すると、それは「仏様を拝む宗教」です。
仏様は尊極の衆生とも呼ばれ、とても尊いわけですが、衆生には違いありません。
衆生ですから当然、色心不二です。

鎌倉時代の大聖人御在世当時は、生身の大聖人様を拝めば良いわけです。
そして多数の一期一縁の真筆曼荼羅は大聖人様の分身散体と考えます。大聖人様は、ただお一人です。

大聖人様滅後の我々も、基本的には同じ事で、大聖人様を拝めば良いわけですが、
生身の大聖人様はいらっしゃらないわけで、その身代わりが戒壇の大御本尊と言う訳です。
そして私の考える、「信仰する→成仏する」という機能が発揮できる本尊は、戒壇の大御本尊の分身散体という
意義を有するものでなければならない、ということです。

私の考えでは、色心不二ですから拝む対象としての「色」が必ず必要で、その「色」は戒壇の大御本尊以外に考えられないと思います。
戒壇の大御本尊が正当な「色」でないとするならば、それ以外の、究極の・一体の・「色」を、立てなければなりませんが、
恐らくそれは無理でしょう。
また、究極の一体の「色」を立てなくても良いという考えに立った場合、色心不二との整合性はどうするのでしょうか?

また、私の考え方で問答迷人さんの考えを見ると、大聖人様が何人もいる、ということになってしまい、少々具合が悪い。

>51 但し、『戒壇板本尊だけが究極の本尊であり、幾ら日蓮聖人の曼荼羅であっても、功徳は無い」などと言う、
日蓮正宗の駄法螺を信じない事が大前提です。

日蓮正宗にも改善すべき点は多々あると思いますが、これまで述べてきた理由により、上記は「日蓮正宗の駄法螺」ではなく
衆生を善導するための、真実だと思います。


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