[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
(続) 大石寺の歴史
1
:
管理者
:2002/03/08(金) 16:40
ここから、このスレッドの過去レスを見る事が出来ます。
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/rekisi2.htm
『大石寺の歴史について』スレッドが 300レスを越えましたので、こちらに続編を作成しました。よろしく御願い致します。
2
:
問答迷人
:2002/03/15(金) 10:03
お伺いします。何方かお答え戴けると幸いです。平成版御書1883頁の『日興跡条々事』の冒頭の一節、
『 一、本門寺建立の時、新田�Q阿闍梨(にいだきょうあじゃり)日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子(ちゃくし)分として管領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之を領掌(りょうしょう)すべし。』
これは、如何なる意味なのでしょうか。『何か、「あがり」の分配の取り決めの様だ、そんな事を日興上人が本当に仰るだろうか』と疑問を呈する向きがあります。よろしくお願い致します。
3
:
いちりん
:2002/03/15(金) 11:20
ちと関連文献を調べてみました。
「有師談諸聞書」富要集2巻 139 頁あたり。
---------------------------------------
一、日蓮聖人も武家に奏したまふ日興も只武家に訟へたまふ、爰に日目上人元めて国王に奏したまふ、
去る間だ日興上人大石寺の御置文に云く天下崇敬の時は日目を座主として日本乃至一閻浮提の山寺半分は日目之を配領すべし、其の余分自余の大衆是れを配領すべしと云へり、
日興の遺跡は新田の宮内卿阿闍梨日目最前上奏の人たれば大石寺の別当と定む、
異本に云く寺と云ひ御本尊と云ひ墓所と云ひと遊ばし置きたまひ畢りぬ、末法万年未来永々まで大石寺の別当日目で御座す事を人知らずして、上代に流布あらばこそ左様にも有らめ末代に天下御信用あらば座主誰にてか有らんずらんと、
此の自讃により洛陽辺土の弘通者達日々夜々に弘通責伏有り、但し智慧の弘通なれば迹門なり迹門の時は高租日蓮聖人の御本懐に非らず必ず元三より歎已上、
日目独り出世の本意にまかせて愚者の責伏・患者の上の弘通なり、当時教義時国相応の本門なり、只偏に兵者のみ乱を待つて運を開く道理に任せて爾なりと已上。
---------------------------------------
「天下崇敬の時は日目を座主として」
「末法万年未来永々まで大石寺の別当日目で御座す」
などという表現は、日目さんは、広宣流布のときに出現するという考えがあるんでしょうかね。
4
:
独歩
:2002/03/15(金) 11:31
問答名人さん:
> …半分は日目嫡子(ちゃくし)分として管領せしむべし。…残る所の半分『何か、「あがり」の分配の取り決めの様だ
これは以前にも問題したことがありますが、原則的には封建制に基づく取り決めであろうかと思うのです。つまり、天皇と武家が国家を二分して領していることから、来るのではないでしょうか。この点については霑師の説に私は賛成です。
目師は公卿の出身ですから、そちらのほうを、のこる大衆分は武家とその管領地ということでしょうか。
しかし、このようなことを本当に興氏が考えていたかとなると、どうにも納得できないところは、たしかにあります。
5
:
いちりん
:2002/03/15(金) 11:41
そもそも、日興さんの次は、日目さんとすんなり決定されていたのでしょうか?
いろいろもめたりは、しなかつたのですか?
日目さんの次は、いろいろもめましたよね。
6
:
独歩
:2002/03/15(金) 11:44
いちりんさん:
> 日目さんは、広宣流布のときに出現する…
この伝説は保田妙本寺・我師の申状見聞に見られますね。
此の申状奏せずして終に臨終す此の土の受生雖も無しと所用今一度人間に生れ此の状を奏可しす、若し此の状奏間の人於て未来に有ら之れ者日目か再来と知る可し
石山も、この一文をもって、一閻浮提御座主目師説を立てるわけです。しかし、石山の言い分は完全な切り文解釈ですよ。なぜならば、上の文章は
然る処に正慶二年より明応八年迄百六十七年奏する人無し…爰に日要奏す争か之れを疑ふ可けん乎
と続いているのです。つまり、妙本寺・要師こそ、目師の再来であると言うのが、この文章の意味するとことです。
まあ、石山の言うところは、一種のパクリであると私は考えているんです。あるいは我師がパクったのかも知れませんが。
いずれにしても、臨終に立ち会った郷師が「伝えた」というのしょうが、実際にそんな遺言があったのかどうか、どうなのでしょうか。
7
:
問答迷人
:2002/04/11(木) 08:21
立宗宣言について
日蓮正宗では、三月二十八日に立宗法要を実施とし、四月二十八日にも、もう一度法要を実施するそうです。このことに関連して、日道上人の御伝土代の記述について皆さんの御意見をお伺いしたいと存じます。
御伝土代 『八十八代一院の御宇・建長五年みつのとのうし三月二十八日・清澄寺道善房持仏堂の南面にして浄円房並に大衆等少々会合なして念仏無間地獄 南無妙法蓮華経と唱ひ始給ひ畢ぬ、然る間其日清澄寺を擯出せられ給ひ畢、』(富士宗学要集第五巻1頁)
と、立宗宣言が三月二十八日に行われたと書かれています。所が、真蹟御書を拝しますと、以下の通りです。
清澄寺大衆中 『建長五年四月二十八日、安房国(あわのくに)東条郷(とうじょうのごう)清澄寺(せいちょうじ)道善(どうぜん)の房の持仏堂の南面にして、浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其の後二十余年が間退転なく申す。』(平成版御書946頁)
聖人御難事 『去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡(ながさのこおり)の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御(み)くりや(厨)、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや(御厨)、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午(うま)の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。』(同1396頁)
この違いは、どう考えれば良いのでしょうか。単なる、日道上人の記憶まちがいの様に思えるのですが、如何でしょう。御存知の方、御教示をお願い致します。
8
:
川蝉
:2002/04/11(木) 11:40
問答迷人さん今日は。
開宗の月について。
「本門宗要抄」にも、三月二十八日とあるそうですね。
ただし、「本門宗要抄」は真蹟無く、興門の日代師は「聖作に非らず。偽書なり」(日蓮宗宗学全集第二巻・229頁)と評しています。
日道師の「御伝土代」(宗学全集第二巻237頁)の他には、日進師(身延三世、宗祖にも直接師事)の「日蓮聖人御弘通次第」(宗全第一巻・339頁)にも「三月二十八日」となっています。
宮崎英修師が「日蓮とその弟子」に、三月としているのは、真蹟遺文に四月二十八日とあるからには、訛伝・写誤と見るべきであろうと指摘しています。
昔は四の字を二
二
と縦に並べる場合があるそうで、この二を縦にならべて書かれたものを三と写誤や読み間違いしたものであろうと推測されているわけです。
(四の字を表すに他に、二を横に二つ並べたものと、もう一つありますが、キーボードで打てません)
現存の日道師の「御伝土代」と日進師の「日蓮聖人御弘通次第」が間違いなく正本であるなら、専門家にもう一度、読みを確かめて欲しいものですね。
9
:
五月雨
:2002/04/11(木) 16:17
はじめまして。とりあえず法華講員をしている者です。皆さんに教えて頂きたい事があります。開宣大法要が二度も行われるそうです。つまり、立宗の日が二回あるという事ですよね。どんな解釈をしたとしても、今から一宗を立ち上げますという事を
何ゆえに大聖人様は、二度も宣言されたと言うのでしょう。どう考えても理解不能です。皆さんは、どのように納得されているのでしょうか。教学力の無いバカな私に、分かり易くご教示お願いします。
10
:
川蝉
:2002/04/11(木) 16:51
2 問答迷人 さんへ。
文字通り読めば、
日本国を始め世界中が同帰した時には、日目が戒壇のある本門寺の座主になって、日本と世界中の寺の半分を管理しなさい。あとの半分の寺院は、その他の人が責任を持ち管理するようにしなさい。
と云う意味ですね。
「分配の取り決めの様だ」と、感じる人は、意地悪く読み過ぎではないかなと思います。
元徳二年は、日目師は72歳、興師は86歳ぐらいですね。
両師の入滅は1,3年後だそうですね。
すでに相当老年であった日目師の生存中に、日本をはじめ世界の国々が妙法に帰依する高い可能性があると、興師が考えていたことになるが、そんな誇大妄想的な事など興師が考える筈はない。
で、この文章は興師のものとは思えない。
第一条は理想実現の時を仮定して云ったものであると弁明しても、日目師生存中には現実的に実現不可能な事などを譲り状に記する必要などまったく無いはず。
「弘安八年より元徳二年に至る五十年の間」
とあるが、実際は四十五年間である。
譲り状であるのに、「十一月十日」とあるだけで年が記されていない。本文が何時書かれても例えば二三年後にでも、年月日と署名印が記された時点で、正式な文書としての価値が生じるものである。
元徳二年説、元徳四年三月説(要法寺日辰師の祖師伝には、書写したとき「元徳四年三月 日興在判」と有ったとしている)
このように、譲り状であるのに、年月日がしっかり記されてない。
等とうの理由から、信憑性はきわめて疑わしいと云う見解が出されてします。
12
:
問答迷人
:2002/04/11(木) 17:37
川蝉さん
私も、日興上人の御真筆とは思えないのです。ご指摘の通り、内容が変ですし、そんな遺言をされたとは思えない。恐らく、後世の作。両山問答における北山の言に従えば、日有上人が作ったとか、そんなところではないかと思っています。ありがとう御座いました。(御真筆とされている、なお、條々事を以下のアドレスにupして有ります。)
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_28.htm
13
:
独歩
:2002/04/11(木) 17:46
問答名人さん:
川蝉さん:
五月雨さん(はじめまして):
3月28日・4月28日ということについて、顕師は「第7回慶祝記念局委員会で、以下のような発言をしているようですね。
現在、創価学会が使っておる『御書全集』は「3月28日の宗旨建立」ということが示されておるところの、『御義口伝』『大白牛車書』『清澄寺大衆中』等を全部、4月に変更してしまっております。本来、それらの文書は3月と伝わっておったのであります。…
さらにこのことは、大聖人様が御入滅あそばされる直前に池上において『立正安国論』を御講義あそばされた時の解釈内容を、日興上人が『安国論問答』としてお書きになっておりまして、これは御真筆として残っておりますが、実はこの中に宗旨建立のことが3月28日とあるのです(歴代法主全書1巻10頁)。…
『安国論問答』という文書が日興上人の御真筆として残っておりますが、そのなかに日興上人の御正筆として、宗旨建立の日が建長5年3月28日ということがあるのであります(歴代法主全書1−10ページ)。そのほかに、いわゆる門下全体で最も古い史伝書と考えられる日道上人の『御伝土代』においても3月28日となっております(歴代法主全書1−53ページ)。
この趣旨については31世日因上人の『三四会合抄(さんしえごうしょう)』という抄がありまして、この抄のなかに宗旨建立が2回にわたって行われた意味と、さらに教義的に色々な面から広く述べられておる次第であります。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/paper.html
14
:
独歩
:2002/04/11(木) 18:46
―13のつづき―
御義口伝「建長五年三月廿八日に始めて唱ヘ出だす処の題目を指して…」
大白牛車書「日蓮は建長五年三月二十八日、初めて此の大白牛車の一乗法華の相伝…」
清澄寺大衆中「建長五年太歳癸丑四月二十八日に、房国東条郷清澄寺…」
で、たしかに石山版では、「原文のとおり」ということのようです。
しかしながら、真蹟である『清澄寺大衆中』は4月28日になっています。
また、その他、真蹟では、『聖人御難事』も4月、『諌暁八幡抄』も4月となっているのは、いかがなものでしょうか。
それにしても、またもや、編集の段階で“変更”、まったく重要な点で、創価学会に係る資料は恣意的な改竄が多く、それが常識として定着するという恐ろしい事態が各所で見られることに改めて憤慨を禁じ得ません。
15
:
モモ
:2002/04/11(木) 21:16
3月に立宗法要を行うのは日顕上人の思い付きで、今回御虫払いを無くしたのは
けしからん、という意見があります。
私は今のところ意見はありません。
16
:
川蝉
:2002/04/12(金) 09:19
13 独歩 さんへ。
顕師が
「現在、創価学会が使っておる『御書全集』は「3月28日の宗旨建立」ということが示されておるところの、『御義口伝』『大白牛車書』『清澄寺大衆中』等を全部、4月に変更してしまっております。本来、それらの文書は3月と伝わっておったのであります。」
と説法しているとの事ですが、大石寺56世日応師校閲の佐藤慈豊師編纂「日蓮大聖人御書新集」では、『御義口伝』『大白牛車書』とも四月になっています。
創価学会『御書全集』以前に、すでに『御義口伝』『大白牛車書』とも四月とされていたようですね。
「『清澄寺大衆中』も4月に変更(趣旨)」
と語っているのは、説法とは云え、顕師はちょと荒っぽいですね。
日蓮宗の「霊艮閣版」も『御義口伝』『大白牛車書』とも四月になっていますので、『大白牛車書』は、録外版も四月であるようです。
昭和定本の『御義口伝』は、清水梁山師校訂平楽寺版を元にしたようです。下段に諸本対校が注記されていますが、『御義口伝』は大阪妙徳寺本、元亀本(堀日享師蔵)、京都要法寺版、金沢妙覚寺本と対校されています。
下段注記によると、妙徳寺本のみ三月となっているようです。
日興上人の『安国論問答』と日道上人の『御伝土代』とも、正本が有るとすると、編纂者の読み違いでないならば、なぜ宗祖真蹟と違う3月と記されているのか謎が残りますね。
17
:
独歩
:2002/04/12(金) 10:40
16 川蝉さん:
丁重な解説有り難うございます。
いずれにしても3月28日説、興師門下の言うところということになるのでしょうか。
安国論問答が本当に真筆であるとすれば、それなりに何らかの根拠はあったのであろうと思います。少なくとも『聖人御難事』は興師布教の熱原のことを記す書で、この記述を興師が知らなかったとは思えない節があります。また『諌暁八幡抄』も石山に伝わる真蹟なのであって、これを道師が閲していないなどということがあるのだろうかという疑問も残ります。
31代因師『三四会合抄』に何が記されているのやら、興味が惹かれるところです。
18
:
顕正居士
:2002/04/12(金) 13:43
暦
本朝の太陽太陰暦は持統帝6年の元嘉暦以後、8回改められ、明治5年太政官布告
により太陽暦が施行、明治31年勅令により置閏法が制定され今日に至る。
釈尊の降誕、出家、成道、入滅。いづれも第2の月の満月の日と伝承し、之に基いて
各の法会の日にちを決めたというが異な話である。暦の換算をいかに行おうが、どれ
も同じ日になるはずでないか。
「釈尊は、二月八日の明星の出ずる時、霍燃と大悟したまう」
-堅樹日寛・開目抄愚記
http://kanazawa.cool.ne.jp/bn/kaimokusyougukige.html
二月八日は「仏祖統紀」の説であるが、今日、何宗も成道会は十二月八日である。
19
:
五月雨
:2002/04/12(金) 21:40
沢山のご教示を有難うございました。皆様方の教学力の深さ、鋭さには驚くばかりです。教学が苦手な私には、皆様方のお話に付いていくのは中々大変です。
大白法の猊下の甚深の御説法を読みましたが、始めに結論有りきの、理由はこじつけの様に感じました。七百五十年にわたり、立宗の日は四月二十八日だったのが、
急に三月二十八日もその意義があると言い出すなんて、どういう事なのかと不審に思うのです。
時の猊下だったら、何を言い出してもいいのでしょうか゛。日興遺誡置文の「時の貫主といへども・・・」の御文を思い出します。こうして教義は曲がっていくのでしょうか。
顕正居士さまの様に、暦の換算ではどれも同じ日になるはずとの解釈は、簡単で良いなと思います。もう少し詳しく教えて頂ければ幸いです。
20
:
独歩
:2002/04/13(土) 01:29
私は、3月28日という根拠について、まじめに考え様と考えています。しかし、それにしても以下の創価学会の文章を読んで、本当にこの団体の、中学生・高校生の悪口程度の程度の低さに呆れ果てました。Libraさんや、宮本さんがこの団体に一員であると信じがたいものがあります。
「 杉山(男子部長) 先月の末に、また日顕(上人)が、バカバカしい説法をしたそうだ。
林(関西女子部長) またですか!(笑い)今度は、何を言い出したんですか?
迫本(青年部長) 一月三十一日に大石寺で、突然、〝今まで『立宗の日』は四月二十八日とされてきたが、実は三月二十八日である〟と言い出したんだ。
林 エエーッ!『三月二十八日』?(大笑い)
館野(副女子部長) とうとう、『本当に』狂っちゃいましたね。(爆笑)
迫本 それで日顕(上人)は〝三月二十八日にも大法要をやる〟なんて言っている。
橋本(学生部長) なんだ、なんだ。立宗の法要を二回もやるのか(爆笑)。
迫本 しかも日顕(上人)は、〝御書の記述も三月二十八日に変える〟と言い出したそうだ。 (中略)
館野 日顕(上人)は、いったい、何を根拠に、こんな呆(あき)れた『妄説』を言い始めたんですか?
杉山 日興上人が書かれた『安国論問答』と、第四世の日道上人が書いた大聖人の伝記『御伝土代』のようだ。 そこには、『三月二十八日』という記述がある。
迫本 それで日顕(上人)は、〝『三月二十八日』をおろそかにしてはいけない。このことは三月二十八日の法要の時に話をする〟なんて、もったいぶって言い始めたようだ。
中野(青年部総主事) なんだ、そんなことか。 日興上人の仰せに『三月二十八日』という記述があることくらい、我々は、とっくに知ってるよ(笑い)。
日興上人の『安国論問答』や、日道上人の『御伝土代』に書かれているのは、知っていたよ。それを偉ぶって(大笑い)。
佐藤(総合青年部長) その上で、堀日亨上人も、日淳上人も、日達法主も、『四月二十八日』と言われてきたのではないか(後略)」
21
:
Libra
:2002/04/13(土) 03:20
独歩さん:
> しかし、それにしても以下の創価学会の文章を読んで、本当にこの団体の、中学生・高校
> 生の悪口程度の程度の低さに呆れ果てました。
全く、お恥ずかしい限りです。
この問題については、東哲の小林正博氏がある御著書の中で、『安国論問答』や『三師
御伝土代』などを引用した後に次のように言われています。
──────────────────────────────────────
これらから三月二十八日説は一概に否定されるべきではないと思われる。ただ、確
実な日蓮大聖人の御真筆によれば立教開宗はまちがいなく四月二十八日である。「諌
暁八幡抄」には「今日蓮は去ぬる建長五年四月二十八日より今年弘安三年……」(五
八五頁)とある。「諌暁八幡抄」の御真筆は大石寺に現存するが、「三師御伝土代」
を書いた日道は、これを知らなかったのか三月二十八日としている。さらに「聖人御
難事」(真筆は中山法華経寺蔵)では「去ぬる建長五年四月二十八日に……」(一一
八九頁)とあるが、こちらのほうは日蓮大聖人でない他の者がわざわざ四月を消して
三月と書き変えているのである。
(佐藤弘夫・小林正博・小島信泰『日蓮大聖人の思想と生涯』、第三文明社、1997年、
pp. 55-56)
──────────────────────────────────────
「聖人御難事」が書き変えられているというのは本当でしょうか。
22
:
独歩
:2002/04/13(土) 09:51
Libraさん:
20はけっしてLibraさん、宮本さん、もっと言えば善良な学会員の人を貶そうという意図によるものではないのです。けれど、こんな出版物をどんどん、出している以上、外部の認識は、よいもので…勲章を取ったとか、NGOの活動をしたとか…などではなく、最低のところを基準にして判断するのが世の中というものだと思うわけです。
理由はどうあれ、若い青年がいくら幹部であるとは言え、80歳に手が届く老僧を呼び捨てにして笑い者にする、さらにそれを公然と報道する、これが結局、偽らざる創価学会の真の姿であると人々は思うでしょう。
私は、どんなLibraさんが正当なことを論じて「あの人は、あの団体の人だから…」と評価されることになることを哀しく思います。しかも、それは、20に載せるような実に低俗な独善的な他者攻撃が招いた結果であるわけです。
つまり、創価学会にしても、法華講にしても、また顕正会などにしても、他者蔑視、独善性を、カリスマ崇拝に起因して行っているのであり、その行動原理は“憎悪”なのでしょう。それは「リーダーの悪口を言うものは許さない」という口コミによって形成されていくグループ・ダイナミクス、わかりやすく言えば集団浅慮の扇動に基づくわけなのであろうと分析します。この段階では日蓮、法華経は見失われています。
延々と繰り返される20のごとき愚考は、もとより、池田氏の名を地に堕とすと共に、引いては日蓮、そして、法華経に対する人々の認識を低下させるいままでと同様の結果が永続することになるでしょう。
教義の見直し以上に、この信者の行動原理に奥底にある“憎悪による操作”の本質を、各人が見極め、法華経の常不軽等に見られる菩薩精神を復興させることが、もっとも重要な課題であると私が思う所以です。
23
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 10:00
お久しぶりです。
とんちきちゃんと言います。
三四会合抄は、31世日因上人の御抄です。
内容の一端
内証と外用に付いて解説し内証が深秘で外用は、浅権であると説き立宗宣言の3月を
内証とし4月を外用と解説した。
大石寺版の日蓮大聖人正伝や夏期講習会のテキストも3月に宗祖が内証宣旨と言う様
に書かれています。
そして、4月に立宗宣言と書かれています。
私としての見解もありますが、この場であえて述べません。
中古天台本覚思想のスレッドも私は、拝見しましたが立正大学の浅井要麟氏の日蓮聖
人教学の研究の影響を強く感じた次第です。
ある研究者は、三十四箇事の成立時期を宗祖御誕生前と推論し清澄寺を東密系の寺院
と推察しています。
日蓮本仏論に付いても色々ありますが、開山上人の御抄から御供養を釈尊の御宝前に
供えると記されたものが無いのは、なぜなのでしょうか?
五人所破抄見聞にも興味があります。
脱線してしまい申し訳ありません。
24
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 10:13
上記の書き込みは、出鱈目かもしれませんので、とんちきちゃんの言う事を簡単に
信じないで下さい。
では、バイナラ!!
25
:
独歩
:2002/04/13(土) 10:23
> 浅井要麟氏の日蓮聖人教学の研究の影響を強く感じた次第です。
以前、ワラシナさんから美濃周人の影響みたいなことを言われたよりは、ずいぶんとましなご意見です(笑)
しかし、私、個人のことを申し上げれば、あまり学者の意見は重要視していません。
あくまで原典主義です。
> ある研究者は、三十四箇事の成立時期を宗祖御誕生前と推論し清澄寺を東密系の寺院
と推察しています。
たしかに、このような説はありますが、となると、どのようなことを言えるのでしょうか。
> 日蓮本仏論に付いても色々ありますが、開山上人の御抄から御供養を釈尊の御宝前に
供えると記されたものが無いのは、なぜなのでしょうか
興師の記述は、「仏(釈尊)聖人(御影)の御前」に供養を捧げたという表現なのであって、仏は当然、釈尊を指すものでしょう。
なにより、この点を問題にするとすれば、「本尊(曼荼羅)の前」というより御影像に、とするところを注しすべであろうかと思います。しかし、これは日蓮を本仏と仰ぐ、結果と言うより、木像を日蓮と見なす御影信仰の側面から考えるべきことであろうと、私は思います。聖人の義に釈迦立像の随身・礼拝は見られても、御影信仰は確認できないからです。
26
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 10:54
親愛なる独歩様へ
丁寧な回答ありがとうございました。
とんちきちゃんは、御経日蓮聖人や先師宝前とは、日蓮大聖人の事だと思いますので
上記の説にやや疑問を感じています。
しかも御書には、教主釈尊と記載しているのに開山上人が釈尊と記載しないのは、疑
問があります。
27
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 12:12
とんちきちゃんの出鱈目な見解
「仏(日蓮)聖人」だと開山上人は、御教示されたのでは、ないのかなと思いました。
28
:
独歩
:2002/04/13(土) 14:07
とんちきちゃんさん:
親愛なるとは恐悦至極です(笑)
> 御書には、教主釈尊と記載しているのに開山上人が釈尊と記載…
からかわないでくださいよ〈笑)
『原殿御返事』に
日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像
『佐渡法華講衆御返事』には
上下万人しよほちしん(初発心)のしやか〈釈迦)ほとけ(仏)をすてまいらせてあるいハあミた(阿弥陀)ほとけ〈仏)あるいハ大日によらい〈如来)あるいハやくし(薬師)ほとけ〈仏)をし〈師)とたのミてほんし(本師)しやか(釈迦)によらい〈如来)にそむきまいらせ候
とあるではありませんか。
私は興師が「仏・聖人」というのは、仏=釈迦仏・御影=日蓮=上行菩薩、すなわち、興師の義である一尊(久遠実成釈尊)四士(上行を筆頭)を現す言説であると考えます。
【25の訂正】
誤)美濃周人
正)美濃周人さん
29
:
川蝉
:2002/04/13(土) 16:12
とんちきちゃさん、独歩さん横から失礼します。
興師は曼荼羅本尊の前に祖像を安置していたのでは。
私自身、供物を具えるときには、心情的には「お祖師さま、どうぞ」と云う気持ちですね。
興師は宗祖に御給仕・報恩の気持ちが強く、常に照覧されていると云う意識を持っていたのでしょう。
そこで、ご消息状に「法華聖人の見参に」とか「聖人御影の見参に入れまいらせ候」等との言葉を、自然と書かれたのでしょうね。
宗祖を本仏とし本尊と考えて、そうした言葉を書かれたと云うわけではないと思います。
「与由比氏書」(宗全第二巻188頁)
にある「仏聖人」の意味するところを、
とんちきちゃさんは、「仏(日蓮)聖人」の意と思うとのことですが、興師が宗祖を本仏とし本尊としていたと云う考えからの読み方ですね。
独歩さんの、「「仏(釈尊)聖人(御影)の御前」に供養を捧げたという表現なのであって、仏は当然、釈尊を指すものでしょう。」との解釈のほうが、独歩さんが28に挙げた『原殿御返事』や『佐渡法華講衆御返事』の文により真意に近いと思います。
道師の「日興上人御伝草案」に
「日蓮聖人云はく本地は寂光地涌大士上行菩薩・・
本門教主は久遠実成・・
法を云えば・・南無妙法蓮華経なり。
弘通を申せば後五百歳中末法一万年の導師なり(略抄)」
(宗全第二巻253頁)
とあって、仏宝は釈尊、法宝は妙法五字、僧宝は宗祖としています。
この仏法僧の配当の考えから云っても、興師が宗祖を本仏とし本尊としていたとは云えないでしょうね。
ですから「仏(日蓮)聖人」の意と見るのは如何と思います。
さらに別な読み方も考えられるのではと思います。
「与由比氏書」のはお盆の供養料としての供物に対する礼状ですね。
「この程は仏の御施餓鬼絶え候処に」
とありますね。興師の用語を調べたわけでないので、確信を持って云えないですが、この「仏」とは故人(精霊)を指しているようにも思えます。釈尊や宗祖には施餓鬼供養など必要ないわけですから。
とすると、前にある「仏聖人の御座候座に」とは、「供養の対象である故人と宗祖とが影現されている法座に」と云う意味にも取れるかなと思うのです。
ただし、この文の後の「盆の謝日十五日寮迚候堂有り」の意味が不明なのと、興師が故人(精霊)を「仏」と表現することがあったかどうか分からないし、故人(精霊)を聖人の前に置く言葉も変かな?と思うので、確信のある解釈ではありません。
30
:
独歩
:2002/04/13(土) 17:06
29 川蝉さん:
ほぼ仰るところ、賛同いたします。
> 故人(精霊)を「仏」と表現することがあったかどうか…
たしか、この説は石山ですら依用していましたが、失念して、該当資料を思い出せません。私は、この点は、川蝉さん同様、やや疑問が残ります。
なお、「仏」の用法について、釈迦仏像の可能性は私は否定できないと思っています。
川蝉さんが仰るように、たぶん安置の形式は曼荼羅・御影であったと見るのは至当ですが、引用されている道師三宝義を是とするとき、安置において僧宝(日蓮=上行)、法宝(妙法曼荼羅)ばかりをおいて、肝心の仏宝を廃するというのは、興門義以外では、かなり常軌を逸したものであるわけですね。本来であれば、形像に結べない法宝を略し、仏・脇士をもって示すことはあれ、仏そのものを略した奉安など考えも及ばないところではないのか、と私は考えてきました。
聖人在世は常に釈迦立像一体仏を随身され、読経唱題に必ずや取り出して礼拝供養されていたと想像されます。その在世往時を偲べば、曼荼羅を懸け、その前に釈迦像が置かれ、そこに聖人を導師として読経唱題の儀式が営まれていたのであろうと思います。
その聖人の往古を偲ぶ御影であれば、曼荼羅・仏像・御影の順位に安置をなし、さらに、そこに三宝義を拝することは、少しも不自然ではないことになります。
しかし、ここで問題になるのは当の釈迦像ですが、これは聖人滅後、持ち去られたという史実があるわけです。されに興師は、その複製を製作しようとした円入道と異轍を生じることになるわけですね。
この点で、以前、問答名人さんとも論じ合ったのですが、この聖人随身仏についてです。
現代、日蓮門下一般の認識として釈迦立像は漁の網にかかったものを聖人に献上したとなっているわけですが、重須資料に拠れば、網にかかったのは仏像ではなく、仏像の材料とされた浮木であったとも考えられるわけです。私は、ここから仏像は聖人が自ら刻まれたものか、あるいは刻ませたものであると類推しているわけですが、いずれにしても、お筆の曼荼羅同様、聖人の手にかかるものであった、故に、それが持ち去られたからといって、易々と複製を作り、代わりに充てることに興師は難渋を示したのであろうと思えるわけです。
つまり、本来の安置は曼荼羅・仏像・御影であったけれども、失した仏像は、その返還を待つ意味で略されていたのではないだろうか、それが、いわゆる御影式と後世、称されるように奉安の形式の始まりであったのではないかと、私は考えています。そして、終には曼荼羅正意が形成され、富士では仏像は撤廃されていったのではないのかと思うのです。
また、この点は重須ばかりではなく、大石寺にあっても同様で興師の筆で確認できる「持仏堂」の仏とは、当時はまさに仏像を指したのであり、その仏像の後ろに懸けられたのが曼荼羅であったのであろうと思えるわけです。
そもそも日蓮本仏義が後世の思いであれば、曼荼羅、あるいは御影を仏と拝するなどということは考える余地はなく、となれば、持仏堂の仏は仏像以外に契当するものなど、あるはずはないからです。
なお、以上、記したことは、Libraさんのように、偉い先生方の説に順ずるものではなく、私自身が思惟したところに過ぎません。叱正をいただければ有り難く存じます。
31
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 18:33
とんちきちゃんです。
レスどうもありがとうございます。
私は、やはり釈尊の御宝前や釈尊にまいらせなどの御供養に関する記述が無いのが非常に不思議な感じがします。
現在伝えられる日興上人の御手紙は、90通を数えるが、これらの中に一遍として釈迦本仏という語を見つけることが出来ない。
信徒から御供養は、御宝前にお供えするが、釈迦仏にそなえるということがないのである。
ところで御供養に関して次のように御書に示されています。
「仏を一劫が間供養したてまつるより、末代悪世の中に人のあながちににくむ法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりととかせ給ふ。」
長くなりましたので続きは、次のレスで!!
32
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 19:06
続きです。
「末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり。」
これらの御文は、沢山あるが、特に佐後に見られる。
ここに劣釈迦勝宗祖の思想がみえないであろうか。
さらに宗祖は、次の様に御教示されています。
「今末法に入りぬ。 人毎に重病あり。 阿弥陀・大日・釈迦等の軽薬にては治し難し。」
病と薬に譬えて釈尊では、末法の人々を救済できないと述べられて続いて
「上行菩薩の出現して弘めさせ給ふべき妙法蓮華経の五字を、先立ちてねごとの様に、心にもあらず、南無妙法蓮華経と申し初めて候ひし程に唱ふるなり。」
とて、上行菩薩に先立ちて題目を唱えたと述べられています。
続く!!
33
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 19:23
さらに重須の日順師には、次の様な記述もあります。
「久遠元始自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元始の自受用身と取り定め申すべきなりと。」
ここには、日蓮本仏論が示されていると思われます。
では、バイバイ!!
34
:
川蝉
:2002/04/13(土) 20:55
30 独歩 さんへ。
「本尊抄」においては、大曼荼羅を仏像として表現すれば、一尊四士像であると日蓮宗の宗学者たちが指摘しています。
本化妙宗でも一尊四士像は大曼荼羅の妙略であり、仏像として表現する場合は一尊四士像であると云う見解です。
仏智を表する中央題目は釈尊の証悟であるから、釈尊像の内容とし、本仏であることを表する為に四菩薩を脇士にすれば、仏法僧の三を具えた本尊であるとしています。
顕本の中川日史師は、一尊四士像は法宝が欠けるので、一塔両尊四士像の方が三宝具足するので良い、としていたと思います。
中川日史師は大曼荼羅の肝要部分(中心)は三宝尊であるとしています。
また、本尊抄によれば、大曼荼羅全体をもって釈尊の証悟(身・土)が表されていると云えますね。
形は文字で現しているので法本尊と理解する人達もいますが、単純なる法本尊ではなく、三宝を体としています。
私などは、大曼荼羅を拝するときには、霊山虚空会のままの諸尊が影現している想像しながら拝します。
中央題目も単なる法でなく、成仏せしめてくれる釈尊の慈悲の結晶であり、題目に即して釈尊が影現していると想像します。
私の所は、大曼荼羅とその前に祖像を安置していますが、仏祖三宝を拝していると云う実感です。
興師の心情を私が如き者の気持ちで推し量るのはどうかと思いますが、興師が、大曼荼羅本尊の前に祖像を奉安する御宝前を拝していたとしても、「仏・聖人」と観じられていたであろうと推測できると思います。
>聖人在世は常に釈迦立像一体仏を随身され、・・その聖人の往古
>を偲ぶ御影であれば、曼荼羅・仏像・御影の順位に安置をなし、
>さらに、そこに三宝義を拝することは、少しも不自然ではないこ
>とになります。
その通りと思います。
日蓮宗では中山法華経寺に宗祖当時の一尊四士像が残っています。宗祖の直弟子や信徒が本尊としていた一尊四士像や釈尊像は他に残っているものが無いようですね。
>大石寺にあっても同様で興師の筆で確認できる「持仏堂」の仏と
>は、当時はまさに仏像を指したのであり、その仏像の後ろに懸け
>られたのが曼荼羅であったのであろうと思えるわけです。
「持仏堂」と有るのですか。興師が、造立するなら四菩薩を添えなければいけないと云っていますし(仏像形式造立反対ではなかった)、充分推測は出来ますね。
35
:
独歩
:2002/04/13(土) 21:40
とんちきちゃんさん:
> 日興上人の御手紙は、90通を数えるが、これらの中に一遍として釈迦本仏という語を見つけることが出来ない
それは日蓮本仏も同様でしょう。日蓮が本仏であると書かれているところもないわけですね。
引かれる順師の文は本因妙口決、偽書濃厚とされる書です。
また、「劣釈迦勝宗祖の思想」というのは、つまり、その原形は「天台勝釈迦劣」という中古天台本覚恵心流口伝の焼き直しである点は、何度も記したとおりです。
どうぞ、他をご参考ください(笑)
36
:
独歩
:2002/04/13(土) 21:58
川蝉さん:
> 興師…(仏像形式造立反対ではなかった)、充分推測は出来ますね。
この点については、私は富士門流の言い分をそのままにしても(ここは富士門流の掲示板なのでその点から考えるわけですが)、たった二つの仮定で簡単に説明できると思っています。
仮定1 もし朗師が釈迦立像を持ち去らなかったとしたら
仮定2 もし波木井円師が終生、興師の弟子であり続けたとしたら
という二つの仮定です。
朗師が釈迦立像を持ち去らず、波木井円師と興師がずっとうまくいっていれば、聖人の遺言のとおり、釈迦立像は、いまでも聖人の墓所の横に立っており、そして、身延は興師が二祖ということになったでしょう。とすると、聖人の教えを忠実に継いだ興師とその門弟は墓所と仏像を守り続けたことになったでしょう。
つまり、墓であれどこであれ、“興師の寺には仏像があり続けた”ことになったわけですね。否定の仕様もない点です。
いずれにしても川蝉さんがおっしゃるとおり、本尊において三宝を拝することは常道でしょう。当然のことであろうかと存じます。
ただ、私は個人的に曼荼羅一体に三宝義を拝することは是としても、その形式において、美を尽くしているようには思えないわけです。つまり、本尊(釈尊)と脇士(四菩薩)、そして法(妙法蓮華経)の関係が、仏像で一塔二尊四師、あるいは一尊四士とするような整然とした配列を示していないということです。ですから、曼荼羅一幅に御影を安置するだけでは、聖人の御立の三宝は必ずしも尽くしきれない、仏像の像立は必要であったろうと思うわけです。
しかし、仏・脇士をもって教説を表現することが可能であったように、曼荼羅をもって仏を表現することもまた、可能ではあろうかと存じます。案外、曼荼羅正意論の展開は、そんな点に対する“気づき”に由来するのではないかと思えます。
37
:
宮本
:2002/04/14(日) 02:58
独歩さん、並びに皆さん:
今晩は。
>私は、3月28日という根拠について、・・・。
原文は、拝見しておりませんが、御指摘の内容の出版物は、良くないですね。
恥じ入るばかりです。(ちなみに、私個人としては、現在、新聞啓蒙は
全てストップしております。正常化次第再開しますが)
理由の一つは、発言者の方々の端からみると狂気じみた多忙さ故と、
編集方針決定者の御認識、等々といった所が原因かと思います。
結局、長い視点でみると、自分で自分の首を締めてしまったり、将来、自分が
同じ目にあうのが、怒りの感情もあって見えないのだろうと思います。
阿部日顕氏の命の中の仏性を見てとるとは、中々、いかないのでしょうね。
おそらく、発言者(出席者)の方か、校閲した方は、善いと思っているでしょうから
始末の悪い話です。(御存知とは、思いますが)
ただ、これと関連してですが、多くの学会員の方々が
阿部日顕氏や御僧侶等の諸先生方々と法華講の皆様とが
全て同じの考えをもち、行動しておられると固定観念をもってしまうことの方が
危惧を感じます。
「蘭室の交わり」のような状態は、いつのことやら・・。
38
:
宮本
:2002/04/14(日) 03:02
訂正致します。
御認識--->誤認識です。
39
:
宮本
:2002/04/14(日) 03:15
川蝉さんへ:
宮本と申します。今晩は。
川蝉さんの仏法に関する御発言(書き込み)は、いろいろなサイトで拝見しています。
当方が、一方的に教えて頂くばかりで、本当に申し訳なく思っております。
今後とも、よろしくお願い致します。
40
:
一字三礼
:2002/04/14(日) 09:37
独歩さん:
川蝉さん:
大曼荼羅の諸尊の配座を見ると、四菩薩を添える事に少々疑問があるのですが。
この大曼荼羅を空間的にとらえ、その位置関係を考えた時に、以下の優先順位といいますか、上下関係があるように思います。
太字>細字 上>下 左>右 中央>周辺
この中で、太字>細字、上>下、中央>周辺は、蓮祖聖人の地位や、教主釈尊との関係を御自身が、象徴的に表されたものとして面白い考察が、幾つも出来そうですが、長くなりますので、左>右、のみに限定します。
まず、首題を挟んで、左に「釈迦」、右に「多宝」があります。ここでは左側が優先されます。つまり、釈迦の方が多宝より偉いとします。それは曼荼羅がシンボルとして機能するには、それが常にある程度の普遍的適応性を含むと考えた場合です。また、蓮祖聖人の筆記順でも、中国的表記方法でも、慣例的に左方(釈迦仏)が優先されます。
ここまでの推論を是としますと、曼荼羅上では、上行菩薩以下の諸尊が、首題を挟んで、二仏と対面している虚空会座になります。
この形については、優陀那日輝師、宮崎英修氏も言及してたと記憶してますが。
つまり、一尊四士が大曼荼羅の妙略であるなら、四菩薩は礼拝者に背を向けて、釈尊と対面していることになります。ここから考えれば、一塔両尊は妙略だと思いますが、一尊四士はどうかと思いまして。
41
:
一字三礼
:2002/04/14(日) 09:43
言葉が足りませんでした。
釈迦仏、多宝仏、及びほぼ首題の下に位置する日蓮を除いて、上行菩薩以下、全ての尊名は逆に配されている、ということに注目しての疑問です。
42
:
とんちきちゃん
:2002/04/14(日) 11:09
とんちきちゃんです。
無作三身という言葉が最初に見えるのは、伝教大師の守護国界章であります。
次に伝教大師滅後、無作三身の言葉が用いられるのは果たしていつからか、言い換えれば、中古天台の無作三身思想がいつ頃に成立したのかという問題であります。
過去のレスより室町時代あたりとする浅井円道氏説が中心の様に見えましたが宝地房証真の法華玄義私記にすでに無作三身批判が見えるのであります。
そして無作三身思想が証真以前の成立であるとすれば日蓮大聖人に無作三身思想があっても不思議ではなく、無作三身の用語より御書の真偽問題を論ずるのは、できなくなるのあります。
私は、中古天台の無作三身思想は、三十四箇事書の選者である皇覚あたりで成立したのであろうと推察しております。
中古天台恵心流の口伝の件は、現代仏教(身延系)でも取り上げられていましたね。
又、日蓮大聖人が純正天台思想への復帰を目指していたとのレスも拝見した事が有りましたが私の考え方は、日蓮大聖人の時代に中古天台本覚思想があり清澄寺が東密系の寺院であり過去に日蓮大聖人が虚空菩薩求聞持法などの修業や不動愛染感見記や八舌の鑰の口伝や過去ログより密教、中古天台本覚思想の影響を受け、さらに天台の六即義を超えた名字即但心唱題を主張されたのでは、ないのかなと思っています。
皆様、今迄ありがとうございました。
私は、明日から徹夜作業が続きますので(15日、18日次の日も休みで無い)しばらく書き込めませんので中止にさせていただけませんでしょうか?
やはり掲示板の書き込みには、一定の時間がかかりますね。
では、バイバイ!!
43
:
とんちきちゃん
:2002/04/14(日) 11:37
そういえば1つ忘れていました。
先師宝前、聖人に申上、法華聖人の御宝前、法主聖人の御宝前、御経日蓮聖人などが開山上人が御供養を供えた事が書いていますが釈迦仏の御宝前や釈迦仏にまいらせなどは、ありませんが御経日蓮聖人は、あります。
しかも宗祖在世の一尊四士が現在では、中山法華経寺(富木日常)にしか見当たらないのに宗祖の曼荼羅本尊は、百二十数幅も現存するのは、曼荼羅正意を裏付ける物だと思われます。
まあ中止するしかないので明日からは、難しいです。
44
:
独歩
:2002/04/14(日) 12:06
この問題はかつてワラシナさんとも、またLibraさんとも多少、議論したことのあるテーマです。“尊卑”というのは、現在では差別に抵触する語彙であるのであまり使いたくないのですが、ここを言い換えていますと、煩雑になりますので、敢えて原文のままで記します。
かつて寛師が、この点について本尊抄文段で記している点を興味深く読んだものでした。
止観第五の文を挙ぐるなり。止五百十七に云く「如来行の時は帝釈右に在り、梵天左に在り。金剛前に導き、四部後に従う」等云云。
今謹んで案じて日く、この止観の文の梵帝の左右は恐らくはこれ反転せり。応に「帝釈左に在り、梵天右に在り」というべし。
以上、つまり、寛師は『摩訶止観』竪破見假の「如來行時。帝釋在右梵王在左」の文を間違いであるというわけです。そして、その前提として
凡そ月氏の風俗は右尊左卑なり。その故は君・父・師は皆東面なるが故なり。故に甫註四四十に云く「天竺国は君・父・師皆東面なり。則ち左は北、右は南。北は是れ陰方、南は是れ陽方」等云云。これ陰陽を以て尊卑を表するなり
宝塔既にこれ西向きなり。故に北はこれ右尊にして上座なり。南はこれ左卑にして下座なり。
これはつまり、東西南北の関係の陰陽で見ることに基づくもので、つまり、陽が尊となる前提に基づいています。(陽:陰=尊:卑)
北(陰)
│
西(陰)─┼─東(陽)
│
南(陽)
すると曼陀羅を宝塔と見做すと、西に向いている宝塔に、当面して座すと南が上座となることになるわけです。果たして、天台の止観の記述が間違えているのかどうかは、一考を要しますが、曼陀羅が西面であり、釈迦・多宝が顔を向けているとすれば南(右)が陽ですから、右尊左卑ということになります。
これに対して、日本の古来の風習は天子南面なのであって(石山の伽藍配置、また曼荼羅の安置も同様)、この場合、東(陽)は左ということになります。故に日本は古来では左尊右卑ということになります。
なお、仰る
> 一尊四士が大曼荼羅の妙略であるなら、四菩薩は礼拝者に背を向けて、釈尊と対面していることになります。ここから考えれば、一塔両尊は妙略だと思いますが、一尊四士はどうかと…
というのは、上述の問題とは別に曼荼羅を宝塔品虚空会に凝らしたものであれとすれば、一塔(涌出宝塔)二尊(二仏並座)四士(四菩薩)であれば妙略になるけれど、一尊四士ではその義を成じない旨を指摘されてのことであろうと拝察します。
私は個人的に曼荼羅を仏本尊の妙略であるとい考えには消極的で、それぞれ別意の意義を存すると拝しています。
そこから一尊四士について申し上げれば、曼荼羅図示の座配は、たしかに宝塔品虚空会を様子を本尊“為体”と顕わすわけでしょうが、しかし、これは結要付属に至る儀式の表現なのであって、滅後末法弘通の相を必ずしも表現しいません。
つまり、末法の弘通は教主釈尊を本尊として、四菩薩がその弘通の任に当たるものです。すなわち、補処の脇士は四菩薩です。この様を表現しようとすれば、つまり、一尊四士という仏像本尊でなければならないはずです。
私が曼荼羅と一尊四士の並立を言うのが聖人の本尊抄一巻の意味であると言うのは、このことです。
以上、ご賢察いただければ幸甚です。
45
:
独歩
:2002/04/14(日) 12:28
とんちきちゃんさん:
言葉は軽めに、しかし、実はなかなかの論客と拝しました(笑)
> 無作三身思想が証真以前の成立であるとすれば日蓮大聖人に無作三身思想があっても不思議ではなく、無作三身の用語より御書の真偽問題を論ずるのは、できなくなるのあります
仮に無作三身を聖人が知っていたら、という仮定に基づいても、私は違う論点を持っています。知っていたのであれば、なおさら、なぜその点が真蹟に確認できないのかということです。つまり、聖人はこの説を斥けていたのではないのかという類推が成り立つであろうということになります。
故に無作三身から真偽問題が論じられないことにはならないでしょう。
> 日蓮大聖人の時代に中古天台本覚思想があり清澄寺が東密系の寺院であり過去に日蓮大聖人が虚空菩薩求聞持法などの修業や不動愛染感見記や八舌の鑰の口伝や過去ログより密教、中古天台本覚思想の影響を受け、さらに天台の六即義を超えた名字即但心唱題を主張されたのでは、ないのかなと思っています
この分析は、当然、言われていることであって考証の価値は充分にあると思います。中古天台本覚思想と聖人の接点、今後、追及すべきテーマであろうかと思います。
けれど、だからといって、日蓮が「私が本仏」と言ったことにならない点が重要でしょう(笑)
> 先師宝前、聖人に申上、法華聖人の御宝前、法主聖人の御宝前、御経日蓮聖人などが開山上人が御供養を供えた事が書いていますが釈迦仏の御宝前や釈迦仏にまいらせなどは、ありませんが御経日蓮聖人は、あります。
この事情は実に簡単なことであって、興師は御影堂の建立をもって重須に移っていらっしゃる。つまり、重須は生御影安置の聖地と言う位置付けなのであって、そこを守る興師への供養という前提であれば、当然、返礼は上述のような表現になることでしょう。
しかし、だからといって興師が聖人を本仏と見なしていたという証拠にはなりません。
> 宗祖在世の一尊四士が現在では、中山法華経寺(富木日常)にしか見当たらないのに宗祖の曼荼羅本尊は、百二十数幅も現存するのは、曼荼羅正意を裏付ける
これは論点が少し混乱していませんか。一尊四士は興師の説なのであって、他門はたとえば釈迦一体仏立像等をもって本尊造立に充てるわけで、日蓮門下における造像はその例に事欠きません。また、弘安2年の真蹟『日眼女釈迦仏供養事』には
三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女…今日眼女は今生の祈りのやう(様)なれども、教主釈尊をつくりまいらせ給ひ候へば、後生も疑ひなし。二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとをぼ(思)しめすべし。
と賞嘆されるのであり、また聖人が生涯一体仏を随身されてお出であったことも周知の事実でしょう。
聖人ご自身が積極的に仏像を造立されなかったことが曼荼羅正意であったとするのは短絡ではないでしょうか。
聖人は曼荼羅図示、弟子檀那はその意を受けて仏本尊を造立するという、言わば役割分担がそこにあったのであろうと私は拝察しています。
46
:
独歩
:2002/04/14(日) 12:30
44は40の一字三礼さんへのレスです
47
:
独歩
:2002/04/14(日) 12:52
ところで、とんちきちゃんさんは、28の私のレスを読み飛ばしてしまったのでしょうか
興師の記述として
日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像
上下万人しよほちしん(初発心)のしやか〈釈迦)ほとけ(仏)…ほんし(本師)しやか(釈迦)によらい〈如来)
を挙げたおいたではありませんか。
つまり、興師は日蓮を聖“人”、釈迦を“仏”と呼び分けていますよ。
供養の返礼で釈迦仏の名が出てこないなどということより、上述の如く、明確に釈迦=仏と記されているわけですから、何も日蓮聖人という「人は、実は仏なんだ」なんて、おまじないみたいなことを言う余地はないでしょうね(笑)
48
:
川蝉
:2002/04/14(日) 14:06
39宮本さん今日は。
宗祖は開宗前に真言批判を確立して居られたかどうかと守護国家論の趣旨について別な掲示板に見解を述べた際、賛同のコメントを頂いたお方のようですね。今後ともよろしくお願いします。
40とんちきちゃんさんへ。
一尊四士像が妙略と云う事について。
これは本化妙宗の山川智応居士等の見解です。
「一尊」は釈尊で「本果」を顕し「四士」は本化四菩薩で「本因」を顕していて、本因本果が揃い、本因本果のまします処は「本国土」で本門十妙のうちの根本の三妙が具足していることになります。
そこで本尊抄の法体段の
「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生せず、所化以て同体なり。此れ即ち己心の三千具足の三種の世間なり」
という内容を概略的に表現していることになります。
とんちきちゃんさんが
>一尊四士が大曼荼羅の妙略であるなら、四菩薩は礼拝者に背を向
>けて、釈尊と対面していることになります。ここから考えれば、
>一塔両尊は妙略だと思いますが、一尊四士はどうかと思いまし
>て。
と思うとのことですが、形をそのまま略したのではなく、法体段と曼荼羅本尊の体相意義を略して表現したものなのです。ですから四士を釈尊と対面する形で現さなくても良いわけです。
俗に考えると云うか理屈で云えば、生花を仏壇に供える時は本来、花束の正面を仏壇奥に向け、花束の背面を外に向けるべきかも知れませんが、荘厳と云う意味で、花束の正面を外に向けるのと同じように考えても良いですね。
49
:
独歩
:2002/04/14(日) 14:19
川蝉さん:
40 座配について、質問を立てられているのは一字三礼さんですよ(笑)
50
:
独歩
:2002/04/14(日) 14:31
川蝉さん:
> 48 山川智応居士等…「一尊」は釈尊で「本果」を顕し「四士」は本化四菩薩で「本因」を顕していて、本因本果が揃い、本因本果のまします処は「本国土」で本門十妙のうちの根本の三妙が具足
これは聖人の本尊抄の「己心菩薩」という点からは説得性がなくもありませんが、元来、本因とは『法華玄義』釋名本十妙に
我本行菩薩道時不在中間。過是已前所行道者。名之爲本。即是本因妙也。
というのであって、すなわち菩薩の道を行ずる釈尊の因行であって四士に配当される四菩薩についてではないのではないでしょうか。なんで、こんな解釈になっているのでしょうか。
51
:
川蝉
:2002/04/14(日) 16:26
50 独歩 さんへ。
>40 座配について、質問を立てられているのは一字三礼さんです
>よ(笑)
これは失礼しました。とんちきさん、一字三礼さんご容赦のほどを。
仰る通り本因とは本来、玄義巻第七の本の十妙の略釈に
「本初の菩提心を発し、菩薩の道を行じて修する所の因なり」
とあるように、本仏釈尊の因行ですね。
大曼荼羅勧請の諸菩薩等等は、達意的にいえば、釈尊の教化を受け、それぞれの当位に在って仏願、仏行を実践している人達で、いわば釈尊の手伝い、代行を行い、釈尊の支分となっているとか、釈尊に具されている九界の者としての実を現している者と云えましょう。
本果釈尊は、常に証し常に満じているとされています。常に衆生教導活動の本因行を行なっていると云う事だと思います。
その釈尊の衆生教導の働きの代行、手伝いを行う者は本因行を行っている者と云えるし、釈尊もそれらの者を通して衆生教導を行っているとも云えると思います。
釈尊所具の九界としての真価を発揮している者となっている諸菩薩や諸天等等を四菩薩の眷属として、四菩薩に統合して、四菩薩で代表せしめ、釈尊像の脇士としていると思います。
以上は「本化四菩薩で本因を顕している」と云う事に対する私の理解ですので、山川智応居士の意を捉えてないかも知れません。
52
:
とんちきちゃん
:2002/04/14(日) 16:47
日蓮本仏論について
末法の主師親の辺から論証するべきと思います。
御書に下記の様な御文があります。
夫れ一切衆生の尊敬すべき者三つあり。 所謂主・師・親これなり。・・・日蓮は日本国の諸人にしうし父母也
日蓮は日本国の人の為には賢父也、聖親也、導師也
日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし
日蓮は、当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり
大聖人を上行菩薩の再誕と見る限り、いかに時機に約した日蓮本仏論がやっとだと思います。
しかし大聖人が末法の主師親であるならば、末法の仏と言う事が可能だと思われる。
一尊四士は、御書の四菩薩造立抄の影響が大なるものだと思います。
富木日常の仏像に対する執着からの機情の見だと思われます。
現在も中山に一尊四士が現存するのが微笑ましかったのです。
しかし、曼荼羅本尊が開山上人よって多数書写され、御筆止め御本尊を拝したときに曼荼羅正意だと思いました。
開山上人が造立した一尊四士が現存するのでしょうか?
53
:
とんちきちゃん
:2002/04/14(日) 17:07
つづきです。
御書の権実相対判のタームの部分においては、釈尊の仏像を本尊にする事を一時認めたりしていると思います。
権教よりも実教を進める為の一時の容認と思われます。
54
:
独歩
:2002/04/14(日) 17:13
川蝉さん:
> 本化四菩薩で本因を顕している
残念ながら、私は、この点はどうも理解できません。
四菩薩が本因であるなどという釈義は思い当たらないからです。
55
:
独歩
:2002/04/14(日) 17:55
とんちきちゃんさん:
お忙しいところ、書き込みご苦労さんです(笑)
> 日蓮本仏論…末法の主師親の辺から論証するべき
要は、これも日蓮本仏論者が用意した理屈であるわけでしょう。そもそも主師親具備をもって本仏とするという説明は、どんな根拠に基づくのしょうか。
この場合、主師親をもって三徳などと称するようですが、そもその三徳とは法身・般若・解脱をいうのです。主師親が三徳であるという根拠はなんでしょうか。また、それが三徳であり、本仏の条件であるという根拠はなんでしょうか。
因みに「主師親」は天台初期資料61篇中で主師親は『涅槃經疏』純陀品に一度出てくるだけですが、もちろん、三徳の意味では取り扱われいません。
仮に聖人が自ら一切衆生の主師親の自覚を吐露されたからといって、それが本仏を己証を示すとは言い難いでしょう。
> 一尊四士は、御書の四菩薩造立抄の影響が大なるものだと思います。
この書は真蹟を存しないので注意を要すると思います。
> 富木日常の仏像に対する執着からの機情の見だと思われます。
こういう論の展開事態、曼荼羅正意論者の勝手な感情でしょう。
45に記したとおり、聖人自体、仏像を賞賛しているわけですから、成り立たない議論です。
また、興師も弘安元年ごろまで四十九院の供奉僧であったわけで、とならば、その院内の尊像に礼拝給仕していたことは否定の仕様がありません。
> 曼荼羅本尊が開山上人よって多数書写され、御筆止め御本尊を拝したときに曼荼羅正意だと思いました。
開山の曼荼羅を拝し、心を動かされた御信心はもとより否定しません。しかし、それが直ちに曼荼羅正意の証拠とはならないでしょう。
ただし、興師は晩年、曼荼羅正意に傾いていったという時間的な変遷はあったろうとは思います。
> 御書の権実相対判のタームの部分においては、釈尊の仏像を本尊にする事を一時認めたりしていると思います。権教よりも実教を進める為の一時の容認と思われます。
これまた、曼荼羅正意論でよく語られるところですが、本尊抄における、本尊とは「本門本尊教主釈尊」「寿量仏」「仏像」、ここに本門本尊という限り権実判の限りではなく本迹判に心がかかっているのではないでしょうか。
また、「権教よりも実教を進める為の一時の容認」と書かれるけれど、先に挙げた日眼女の仏像像立讃嘆は弘安2年と最晩年のことです。まったく、一時のことで本懐を終えられたわけではないでしょう。
56
:
川蝉
:2002/04/14(日) 18:35
とんちきちゃんさん、独歩さん横からご免なさい。
他所の掲示板にコメントしたのが有りますので、ご参考までに貼り付させて頂きます。
開目抄・本尊抄に、「日蓮は釈尊に遣わされた仏使、上行菩薩の再誕である法華経の行者である」旨を教示されています。
釈尊が教主であり、ご自分は使い(遣使還告)であると教示していることは、釈尊が根本教主であること、すなわち本仏である事を語っていることですね。
日蓮聖人は私たちに取っては三徳具有の慈悲者であることは云うまでもありません。しかし、釈尊が根本的な三徳者なのです。
「下山御消息」には
「抑釈尊は我等がためには賢父たる上、明師也、聖主也。一身に三徳を備へ給へる仏」(学会版348頁4行)
とあり、
そして同「355頁12行」には
「自讚には似れども本文に任て申す。余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母也。二には師匠也。三には主君の御使也」
とあります。
「三には主君の御使也」と有ることからもわかりましょう。
他の御書にご自分の事を三徳者であると述べられていても、その意味は「下山御消息」に伺える意味です。
57
:
独歩
:2002/04/14(日) 19:58
56 川蝉さん:
ご指摘有り難うございます。
『下山御消息』に「抑(そもそも)釈尊は我等がためには賢父たる上、明師なり聖主なり。一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼(ぶつげん)を以て」の“三徳”を、川蝉さんは、やはり、先の主・師・親に係るとお考えですか。そうですか。実は、この点に私は慎重なのです。
真蹟中、聖人が「三徳」を使われるのは、この下山抄のみですね。
私は、ここを「一身に法身・般若・解脱の三徳を備へ給へる仏」であると言ってきました。
理由は55に記したとおり、主師親をもって三徳に配する義を他に知らないからです。また、川蝉さんが引かれている所にもありますが、後では三徳と記さず「三の故」となっています。
あと、
自讃には似たれども本文に任せて申す。“余”は日本国の人々には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母なり、二には師匠なり、三には主君の御使ひなり。経に云はく「即ち如来の使なり」と。又云はく「眼目なり」と。又云はく「日月なり」と。
ですが、これは日蓮聖人を指すのでしょうか。そもそもこの御消息の署名は「僧 日永」であって聖人ではありません。ご承知のとおり、聖人が代筆をしたものです。つまり、署名が日永であれば、“余”とは日永を指すことにならないでしょうか。
(もっとも文脈からは、余は聖人を指すとしか思えませんが)
また、この書はかの有名な一節「教主釈尊より大事なる行者」とも記されるのであって、なかなか微妙なないようをはらんでいようとは思います。
さらに興師選定の十大部に一書に数えられますが、この十大部が本当に興師の選定か否か、川蝉さんはどのようのご見解をお持ちでしょうか。
下山抄はたしかに真蹟を存するものの、それ所在は29箇所にも分断される点、やや慎重になるところはあります。ただ、若宮法師、重須澄師の古写本を残す以上、その考証は尽くされているのかもしれません。
58
:
川蝉
:2002/04/15(月) 11:35
57 独歩 さんへ。
独歩 さん今日は。
>真蹟中、聖人が「三徳」を使われるのは、この下山抄のみです
>ね。
>私は、ここを「一身に法身・般若・解脱の三徳を備へ給へる仏」
>であると言ってきました。
「下山御消息」の
「釈尊は我等がためには賢父たる上、明師なり聖主なり。一身に三徳を備へ給へる仏」
の文に有る「三徳」とは、主師親の三徳ですね。前後の文から考えても、主師親の三徳を指していますね。先学もそのように解釈しています。
真蹟在の「南条兵衛七郎殿御書」(文永元年・学会版1494頁)に
「法華経の第二に云「今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子而今此処多諸患難唯我一人能為救護雖復教詔而不信受」等云云。此文の心は釈迦如来は我等衆生には親也、師也、主也。我等衆生のためには阿弥陀仏、薬師仏等は主にてはましませども、親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。親も親にこそよれ、釈尊ほどの親。師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ」
真蹟在の「法門可被申様之事」(文永六年・1266頁)に
「仏は閻浮第一の賢王、聖師、賢父なり。されば四十余年の経経につきて法華経へうつらず、又うつれる人人も彼経経をすてゝうつらざるは三徳備たる親父の仰を用ざる人、天地の中に住べき者にはあらず」
真蹟在の「八宗違目抄」(文永九年・155頁)に
の始め部分に「法華経第二に云はく」の図表に、三徳の言葉は使ってないですが、釈尊は「主国王世尊・親父・導師なり」と記しています。
>聖人が代筆をしたものです。つまり、署名が日永であれば、“余
>”とは日永を指すことにならないでしょうか。
>(もっとも文脈からは、余は聖人を指すとしか思えませんが)
「下山御消息」は、冒頭に、日永師が「御庵室の後ろに隠れ、宗祖の説法を聞いた」と述べ、後の部分はずっと、宗祖の説法の内容を語っている構成になっています。ですから“余”とは、宗祖がご自分の指して云っている言葉です。
>後では三徳と記さず「三の故」となっています。
「三の故があるから主師親の三徳を具えている」という意を含んだ文章と見るべきですね。
「一谷入道御書」(真蹟・1330頁)に
「日蓮は愚なれども釈迦仏の御使、法華経の行者也・・・日蓮は日本国の人人の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。是を背かん事よ。」の文が左証となりましょう。
>また、この書はかの有名な一節「教主釈尊より大事なる行者」と
>も記されるのであって、なかなか微妙なないようをはらんでいよ
>うとは思います。
そうですね。「教主釈尊より大事なる行者」は、日蓮本仏論者が、その証として、よく挙げる文ですね。
「此等の経文のごときは日蓮この国になくば仏は大妄語の人・阿鼻地獄はいかで脱給うべき」(報恩抄312)
の文や
「日蓮末法に出ずば仏は大妄語の人、多宝、十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百二十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助たる人但日蓮一人なり。」(聖人御難事1190)
とありますね。これらの文は、日蓮聖人が出現しなければ、法華経の未来記が実証されません。
日蓮聖人の出現によって、法華経の教説の真実性や釈尊の予言の真実性、また日蓮聖人と云う使いを遣わした本仏釈尊の実在が証明されるわけです。
言い換えれば、釈尊が根本救済主である事を証明したのが日蓮聖人で有ると云う事ですね。
この観点よりすれば「教主釈尊より大事なる行者」と云うことですね。
こうした意味で「教主釈尊より大事なる行者」と書かれた文と見るべきですね。
「下山御消息」に「教主釈尊より大事なる行者」とあっても、「下山御消息」全体を読めば、日蓮本仏論や釈迦より日蓮聖人の方が偉いと云う思想などありませんね。
>さらに興師選定の十大部に一書に数えられますが、この十大部が
>本当に興師の選定か否か、川蝉さんはどのようのご見解をお持ち
>でしょうか。
日蓮宗では普通「五大部」という事は云いますが、十大部と云うことは云わないようです。興師選定の十大部が興師の選定になるかどうか知りません。
まずは以上まで。
59
:
問答迷人
:2002/04/15(月) 20:03
独歩さん
川蝉さん
横レス失礼いたします。
「主師親の三徳」について述べられた真蹟御書を検索してみましたら、川蝉さんが提示されたとおりでした。一方、法身解脱般若の三徳について述べられた真蹟御書を探してみました。以下に列挙してみます。
「法身解脱般若の三徳」の用例
始聞仏乗義(1207頁)
答ふ、生死とは我等が苦果の依身なり。所謂五陰(おん)・十二入・十八界なり。煩悩とは見思(けんじ)・塵沙(じんじゃ)・無明(むみょう)の三惑なり。結業とは五逆・十悪・四重等なり。法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来なり。我等衆生無始曠劫(むしこうごう)より已来此の三道を具足し、今法華経に値(あ)ひて三道即三徳となるなり。
竜樹菩薩、妙法の妙の一字を釈して「譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。毒と云ふは何物ぞ、我等が煩悩・業・苦の三道なり。薬とは何物ぞ、法身・般若・解脱なり。「能以毒為薬」とは何物ぞ、三道を変じて三徳と為すのみ
妙楽云はく「若し三道即ち是三徳と信ぜば尚能く二死の河を度(わた)る。況んや三界をや」云云。末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず、父母も又即身成仏せん。此第一の孝養なり。病の身たるの故に委細ならず。又々申すべし。
秀句十勝抄(1324頁)
大唐(だいとう)新羅(しらぎ)諸宗義匠(ぎしょう)依憑天台義集一巻前入唐習業沙門最澄撰「大唐南岳の真言宗沙門一行、天台の三徳に同じて数息(すそく)三諦の義あり。其の毘廬遮那経の疏第七の下に云はく、三落叉(らくしゃ)とは是数なり。数は是世間なり。出世の落叉は是見なり。三相とは謂はく字と印と本尊となり。随って其の一を取るに一合の相是なり。字と印と尊と等しく、身と語と心と等しきをば実相を見ると名づく。乃至能く持誦せしむとは、浄ければ一切の罪をして除かしむ。若し浄からざれば更に一月(いちげつ)等しく前の如くするなり。所説の念誦の数とは上の文に牒するなり。此の法則に異なるべからざるなり。是の故に耳をして聞かしめ、息出づる時は字出で、入る時は字入り、息に随って出入せしむるなり。今謂はく、天台の誦経は是円頓の数息なりとは是此の意なり○猶天台の法身・般若・解脱の義の如し」云云。
これら、二通、四箇所の用例を見てみると、三道と対比させて述べられているか(始聞仏乗義の三用例)、あるいは、法身、解脱、般若の名目を挙げて「三徳」を述べられています(秀句十勝抄)。今、下山抄について検討してみると、三道との対比や、法身、解脱、般若の名目を示すことなく、「三徳」とお示しであり、しかも、「三徳を備える」との語法は、「法門可被申様之事」の語法と一致していますから、やはり、ここは「法身解脱般若の三徳」ではなく、「主師親の三徳」と読むべきではないかと私は思います。如何でしょうか。
60
:
一字三礼
:2002/04/15(月) 21:16
横から失礼します。
独歩さん:
川蝉さん:
お示しいただいたお二人の本尊観については、よく考えさせていただきます。今のお話の流れを邪魔したくないので、とりあえずこのへんで。
61
:
独歩
:2002/04/16(火) 00:04
川蝉さん:
“三徳”に関するご教示有り難うございました。
どうやら、以前に検索したとき、真蹟から落としていたようです。
考えを改めることにいたします。
それにしても出家を基とする仏教において、親の恩をここまで強調するのは如何にも聖人の特質をあらわすものであろうと改めて考えるところがありました。
また十大部のこと、やはり興門の“伝説”のようだと考えるのが至当かと思いました。
問答名人さん:
検索、有り難うございます。お久しぶりです。
書き込みを拝見し、ほっとしました。
ご指摘のとおりであろうかと存じます。なお、法身・般若・解脱の三徳の場合、三道と対照させられるのは台釈の在り方であろうかと存じます。
一字三礼さん:
どうぞ、ご遠慮なく議論をお加わりください。
62
:
問答迷人
:2002/04/16(火) 12:05
独歩さん
22の、「教義の見直し以上に、この信者の行動原理に奥底にある“憎悪による操作”の本質を、各人が見極め、法華経の常不軽等に見られる菩薩精神を復興させることが、もっとも重要な課題であると私が思う所以です。 」
この点、大切な視点であると思いました。ついついこういう実際の実体を忘れてしまいがちです。しっかり見抜いて行かなくてはならないな、と思いました。
川蝉さん
58の、「釈尊が根本救済主である事を証明したのが日蓮聖人で有ると云う事ですね。この観点よりすれば「教主釈尊より大事なる行者」と云うことですね。」
とっても判りやすいですね。ここを捻じ曲げて、日蓮本仏論の根拠とするのは、やはり、乱暴な論議だと思いました。
63
:
問答迷人
:2002/04/22(月) 10:46
4月16日付けの大白法に日顕上人の、3月28日の法要における御説法が載せられています。3月28日と4月28日の二度にわたって立宗宣言が行われたとされる件についてです。皆様のご意見をお聞かせください。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/paper.html
64
:
問答迷人
:2002/04/22(月) 19:56
幾度も拝しましたが、日顕上人の御説法は、充分に根拠のあるものであることが判ります。創価新報等が言うような、軽々しいことではないと考えます。一番の根拠は、3月とされた御書と4月とされた御書では、場面設定が異なっているからです。やはり、二度、行われたのであると思いました。
65
:
問答迷人
:2002/04/22(月) 20:13
つづきです。
このスレッドの7において、日道上人御伝土代の3月28日との記述について、
『単なる、日道上人の記憶まちがいの様に思えるのですが、如何でしょう。』
と書きましたが、お詫びし、取り消させていただきます。私は、日道上人御伝土代の記述が実に正確であるとの思いを新たに致しました。
66
:
独歩
:2002/04/23(火) 13:22
問答名人さん:
ご提示の顕師の説法を拝読しました。
諸資料の真偽を論じながら、しかし、真偽未決が真書のように扱われている箇所は気になりましたが、全体的に「28」の意義を法華経28品に見るなど、相変わらず冴えた賢察が散見でき、衰えを見せていないと思ったものです。
道師の書き込みから四月二十八日の記述を知っていたのにも関わらず、土代に「三月二十八日」と記したという件は実に説得性があります。
まったく創価学会の茶化し馬鹿にするばかりの論調の低俗・下品さばかりとは好印象ということになりました。
67
:
川蝉
:2002/04/23(火) 13:43
二度開宗説について
「清澄寺大衆中」は平賀本録内では「三月」になっているようですが、小川泰堂居士の「高祖遺文録」は、身延所蔵の御書にも対校したと云われています。「清澄寺大衆中」も御真蹟と対校して、小川泰堂居士が「四月」に改めた可能性大と推せられます。
国柱会編「類纂遺文集」では、四月の「四」が二を縦に並べてあります。小川泰堂居士の自筆の「高祖遺文録」最後の定本の原稿に依っているので、真蹟も、二を縦に並べていた可能性大です。
前にも申しましたが、
身延進師の「日蓮聖人御弘通次第」も、宗学全書の読みに誤りがないかどうか、具眼の士に正本を調べてもらいたいものですね。
日道師の「御伝土代」も編者が「正本富士大石寺に在り、今之に依る」とありますが、確実に正本か、読み違いでないか、同じく具眼の士に調べて貰いたいですね。
昭和定本の『御義口伝』は、清水梁山師校訂平楽寺版を元にしたようです。下段に諸本対校が注記されていますが、『御義口伝』は大阪妙徳寺本、元亀本(堀日享師蔵)、京都要法寺版、金沢妙覚寺本と対校されているようです。
下段注記によると、妙徳寺本のみ三月となっているようです。
京都要法寺版、金沢妙覚寺本が三月としていると云う注記はありません。
日顕師は、「要法寺版、金沢妙覚寺本も三月としている」との事ですが、両本があれば確かめたいところですね。
しかし、いずれにしても『御義口伝』は第一資料と出来ませんね。
四月と有る文献も三月とある文献も、「申しはじめて」(御難事・清澄寺大衆中)「仰せ出でられ」(身延進師)「唱ひはじめ」(道師)と、いずれも初めてとあります。
「初め」は最初という事ですから、開宗説法が二度あったとは仮定しにくいと思われます。
また、道師は
「三月二十八日・・その日きよすみ寺をひんひつ(擯出)せられ給いおわんぬ」(御伝土代)
と、記していますので、もし、三月開宗説法とすると、四月にはすでに清澄を追われてしまっていることになり、再度の開宗説法は不可能です。開宗説法二回説は無理がありますね。
真蹟御書に四月と有る以上、三月とあるのは真蹟・正本の読み違い、或いは書写時の間違いと推測するのが妥当のように思えます。
68
:
独歩
:2002/04/23(火) 13:55
67 川蝉さん:
四月説のほうが妥当性はあると思いますし、御義口伝が資料などになるはずもありません。その点は同感です。
ただ、石山では三月・四月二つの説が並存し、故に中世では両日、法要が行われていたというのが顕師の言わんとするところでしょうね。
これは別の論点でしょう。
69
:
志楽
:2002/05/01(水) 18:51
文献考証のほどはよくわかりませんが、素朴に思ったのは開宗説法が二度あるのってどうかなとは思いました。
あ、これは顕師の説を否定しているという意味ではないです。文献考証からそうならそうかもしれないですね。
ただ気になるのは他門流の方が開宗2回説というのを聞いたことがなかったもので。
70
:
志楽
:2002/05/03(金) 07:15
日顕上人の開宣法要の御説法について少々。
1.日因上人の「三四会合抄」の大旨は、内証と外用の二大法門をもって大聖人様の御法義を全般的に拝判するとともに、3月を内証、4月を外用とし、
とありますが、3月にも宗旨建立が示されているとの発言は単に正宗内での御発言ではすまされない重要な御発言であることから、「三四会合抄」を是非公表していただきたいと思います。
また、どなたかこの点についておわかりであれば教えて下さい。
2.御義口伝を根拠資料に使用されていますが、わたしは、このサイトで学んだ範囲においては、根拠資料として使用することには異を唱えますが、石山においては口伝書としての価値を認めているため、ここでは、見解が相違するとのみ述べます。
3.「昭和定本日蓮聖人遺文」では、「大白牛車書」「清澄寺大衆中」の2書を改変する、と発言されていますが、この点は事実なのでしょうか。かりにも日蓮宗並びに立正大学関係者等により編纂され学的に高く評価されている「遺文」を改変したとされることはかなり重要な御発言と思います。
事実がそのようでありましたらよろしいですが少し気になります。
71
:
志楽
:2002/05/03(金) 07:34
4.「日蓮正宗要義」「日蓮大聖人正伝」等において、3月28日は大聖人様の御内証の上から宗旨建立の意義を述べています。しかしながら具体的な説法は4月28日に行われたという記述をしてまいりました。
この2書は日顕上人の責任のもと作成されてきたものではないでしょうか。その当時は気づかなかったが今日「軽々に変更すべきではないことを確信するに至った」ですまされるものでしょうか。
5.日興上人の「安国論問答」に3月28日とあることは文献考証はなされているのでしょう。しかし他方興師は4月28日もご存知だつたのではありませんか。すなわち「八幡抄」等を御覧になっていたからです。興師は3月及び4月の二つがあることはお述べになっているのでしょうか。
是非教えてほしいものです。
72
:
志楽
:2002/05/03(金) 08:04
6.満願の日は28日とあります。三七日の祈願から起算すると28日とありますが、その月は3月でも4月でもなく「蓮公薩垂略伝」では10月とありますね。それを28日の深義、それも宗旨建立の月に掛けることはどうなのでしょうか。わたしの理解が足りないのであれば訂正しますが、ここの文脈が十分に会通できません。
7.正宗は日蓮大聖人様を末法の御本佛とされていますが、釈迦本佛の初展法輪は1回だと理解しているのですが、内証・外用はともかく普通に見ると2回あったと誤解されませんか。わたしの理解がまちがっていれば訂正いたしますがなんとなく釈然としない面が感じられます。
8.また、佛は自解佛乗ではないでしょうか。虚空蔵菩薩はその「誘引手段となる意味より」「久遠元初の仏法の開顕証悟の誘引として」とありますが、特に正宗では釈尊より前に悟られた久遠元初の御本佛、それも即座開悟を言われていることと併せ考えると、いかがかと思いますが、これは偏見・邪見でしょうか。
わたしはこのサイトの御教示のおかげで、蓮祖は佛ではないと思うに至りましたので、今のわたしの立場からは修行の過程で蓮祖が虚空蔵菩薩に祈念したこともありうべしと考えますが、釈尊はじめ三世十方の佛の能証の根源である自受用報身如来様がこのようなことでよろしいのでしょうか。
73
:
志楽
:2002/05/03(金) 08:23
9.「総勘文抄」は蓮祖の真筆ではないと今では理解するに至りましたが、これは見解の相違としておきます。
10.「御自身の内面的な悟り」とありますが、32歳以降龍の口法難までの天台附順のお立場、佐渡での開観二抄の宣旨に至るまでにおいては蓮祖においても試行錯誤(必ずしも適切な表現ではありませんが)でおいでだったんではないでしょうか。内証等のお言葉を使用されていること等、このあたりは見解が相違するところです。
74
:
志楽
:2002/05/03(金) 08:58
11.説法の場所の異なりについてお述べになっています。「それが同一のものと断定すべき積極的な理由は何も見当たらず、単なる推測に過ぎません」とあります。そして「会通ができます」「別の場所たる諸仏坊の持仏堂で行われたことも考えられます」とありますが、このお考えもまた断定すべき根拠としてはやや弱いと思うのはわたしの偏見でしょうか。
12.3月は内証に具わる題目・内面的な悟り・久遠元初以来無始無終三世一貫の内証の題目である故に初めて唱えだすところがそのまま久遠常恒の法体に即する 中略 久遠元初本因即座開悟の妙法の深意、
4月は一期弘通の題目・外面的な化導・題目の自行化他の弘通化導を示されるところに特性がある
このような考えになぜ至るのか凡慮のため十分に理解できません。
13.「根本法華」の用法と下種の「顕説法華」の用法の主意が理解できません。
75
:
志楽
:2002/05/03(金) 09:56
14.25世代、33世代には宗旨建立の御報恩日及び立宗報恩御講が行われていた記録もあるとのこと。日道上人もはたまた日興上人も3月、4月の宗旨建立がおわかりであったと文面から推察されますが、ではなぜ往時において二つの行事が行われていたのか、いないのか、そのあたりも御発言があってしかるべきではないかと思います。いかがでしょうか。
15.これはやや観点が異なりますが、59世日亨上人の年表にはこの記述がないのはどうでしょうか。確かに富士年表には内証宣旨が記載されていますが、これはのちに作成されたものですね。過ちをはばかるなかれと言いますからその点はよいとしても日亨上人は富士宗学全集百何十巻を編纂された方ですのでこのあたりの事情はおわかりになっていたと思うのですが。わたしは3月28日説をやみくもに荒唐無稽だとは必ずしも思いません。しかしこれは一宗門の問題ですむ事柄ではありませんので、主張されるのであれば少なくとも「三四会合抄」を天下に公表することが良心的ではないかと思います。そして3月28日説がなぜ発生したのか、また推測ではなくどこでなされたのか等についても考証を十分にいたされてほしいと思います。
16.真偽は定かではありませんが、ある説では立教開示は清澄寺山上ではなく、山をおりた里坊で里人をまねいて行われたのではないかとみる考えもある由です。また、持仏堂についても領家の持仏坊であり里にあったという考えもあるようです。当時清澄寺は女人禁制ではないでしょうか。これはわかりませんがかりに女人禁制であれば、父母のうち母、あるいは領家の尼などのかたがたは説法の席につらなることはできたでしょうか(このへんはよ
くわかりません)。また、南面にして説法されたとありますが、なぜ正面ではなかつたのでしょうか。
17.正宗では3月、4月二説を言いますが、日蓮宗他門流ではこのあたりはどうなのでしょうか。このような伝承は正宗だけが知っているはずはないはずです。当時のお弟子方等は少なからず蓮祖からお話を聞いていたはずであり、正宗に残っているのですからいわんや他門流でも残っているはずです。
以上愚見・偏見をかえりみず書きましたが是非とも正宗のみならず批正していただければと思います。まちがいがあればすみやかに訂正いたします。
76
:
独歩
:2002/05/04(土) 08:42
70〜75 志楽さん:
整理されたご指摘、なかなか読み応えがありました。
> 「三四会合抄」を天下に公表することが良心的
まったく同感です。
> 南面にして説法されたとありますが、なぜ正面ではなかつたのでしょうか
日本では古来から“天子南面”であるからではないでしょうか。いわゆる南面が正面ということになると私は考えていました。。平安京などもそのようになっています。
http://www.kyoto.isp.ntt-west.co.jp/wnn/rekishi/shijin/heian.html
石山も曼荼羅の安置は五重宝塔を除いてすべて南面になっているのは、その建造が風水の四神相応を意識し、なにより聖人の南面説法を意識したからでしょう。
当然、御影像(日蓮)は永遠に南面し続けることになっているわけでしょうね。
> 批正していただければと思います。まちがいがあればすみやかに訂正
このような姿勢がどんどん境地を高めるものであると思います。自らの考えを道理・証文によって改めてどんどん前へ上へと進んでいく、気持ちのよい学的な姿勢であると敬服します。
77
:
川蝉
:2002/05/10(金) 15:13
70 志楽 さん:
>「三四会合抄」を是非公表していただきたいと思います。
>また、どなたかこの点についておわかりであれば教えて下さい。
興風談所から平成十年に興風叢書として非売品三百部が出されています。
上巻に、開宗月日についての御書、各門流の古伝を引き終わって、<「私に云、精師は正しく諌暁八幡抄に依る故に爾か云うなり。然るに三月二十八日の御書等一文に非らず。具に上に挙る所の如し。
又御義口伝・安国論の御注、皆是大聖人の御説法、興師の御執筆、六老僧等の見聞する所なり。
又日道上人・日時上人御伝記等をは御失念有るかの故に会合無きなり。日因之を案ずるに、六老僧等の直聞の方々は多く三月二十八日を取るなり。故に鎌倉方・京都・池上・平賀等の寺々皆三月二十八日に依るなり。京都・西国・江戸等には多く四月二十八日に依るなり。もし会合せすんば御両筆一は虚妄なるべし云々。
第三に正しく三四の会合を明かさば、
一には啓蒙三十に諸文を引いて云、註画讃抄に三月閏月あるを以て三月四月の異説和合するは非なり。東鑑を以て考るに三月は閏月之無し。又愚案記三(六十二)一両所御自筆に四月二十八日、又建長五年夏の頃と遊ばされる事もあり、註画讃に云、三或は四に作る云々。註の意は或いは四に作するを正義と為ると見へたり云々。
二には、精師御年譜の上に或抄を引いて云く、一部通惣の妙法の題額を以て所行として神力の塔中付属の要法の妙法五字の首題、三七日道場に入て豁然として大悟し玉う云々。又宗要抄云、一七日入堂。此の二文は録内に文無し云々。
三には、日因私案して曰く、・・凡そ末法弘通の題目に二種有り。所謂る内証外用、方便真実なり。
第一に内証真実の題目とは法華経の本門寿量品の文底下種の三大秘法の南無妙法蓮華経是なり。
第二に外用方便の題目は法華経一部八巻二十八品の肝心如是我聞の上の妙法蓮華経是なり。此を亦は法華経一部通惣の題目とも云うなり。又は迹仏所説の妙法なるが故に迹門の題目とも云うなり。
然るに今末法の大導師日蓮聖人の本意は則ち是れ内証真実寿量品の文底下種の南無妙法蓮華経なり。・・故に大聖思惟して建長五年三月二十八日子丑の終わり寅の砌りに朝日に向かって南無妙法蓮華経と唱へ内証真実久遠名字の最初妙覚の成道を示現したまう。
しかして後に道善坊の持仏堂の南面にして午の刻に始めて南無妙法蓮華経と唱え、浄円房並びに少々の大集の為に法華経本迹二門の大事を説きたまう。・・然るに浄円房並びに少々大衆は即法華経の本迹二門深義を得悟すと云へども、而も道善房・円智房・実成房・東条左衛門景信等の謗法逆悪の大衆旦那方は惑耳驚心して一向に之を信受せず、還って大悪心を起こして問註を作す。故に三月二十八日の御説法は只一日にして相止みぬ。
此に於いて蓮祖大慈大悲の心願を起こし思惟分別すること四七日、即ち四月二十八日に至って亦始めて外用方便の題目法華経一部八巻二十八品の惣要如是我聞の上の妙法蓮華経を唱へ諸仏房の持仏堂の南面にして午の時に法華経を以て禅・念仏等の諸宗謗法の逆罪之科を折伏したまう。・・故に浄顕房・義浄房等は之を信受すと云へども、その余の大衆旦方は弥々悪心強盛にして道善房は座を立ち走り去り、円智・実成等は悪口誹謗するかの故に地頭東条左衛門敵と為て蓮祖を襲ひ奉る。・・故に知んぬ三月二十八日は是始めて御内証真実の南無妙法蓮華経を唱え出し、午の刻の御説法には権実本迹の法門を以て禅・念仏・真言・天台の慈覚・弘法等を破責したまうなり。
四月二十八日には是始めて外用方便の南無妙法蓮華経を唱えて別して念仏の逆罪を破責し惣じては則ち禅・真言等の諸宗の謬を折伏したまうなり。・・・故に知んぬ三月・四月両度宗旨建立の御書判不同なり。」>
等と上巻に論じています。
まずは要所の紹介まで。
78
:
川蝉
:2002/05/10(金) 15:14
70 志楽 さん:
>3.「昭和定本日蓮聖人遺文」では、「大白牛車書」「清澄寺大
>衆中」の2書を改変する、と発言されていますが、この点は事実
>なのでしょうか。
「大白牛車書」は真蹟無です。刊本録外に三月とあったとすれば、幕末の小川泰堂居士が四月に変えたものでしょう。
(小川泰堂居士自筆の「高祖遺文録」最後の定本の原稿に依っている「類纂高祖遺文録」に、四月になっていますから。)
「清澄寺大衆中」も平賀本は三月となっているとの事ですが、「類纂高祖遺文録」には、四月(二を縦に重ねた四)になっています。「清澄寺大衆中」は身延曾存ですから、小川泰堂居士は真蹟と対照して、四月に改めたのでしょう。
昭和定本は、小川泰堂居士の「高祖遺文録」を底本とした「霊艮閣日蓮聖人遺文」を底本としているので、同じく四月としているのでしょう。
79
:
いちりん
:2002/05/10(金) 19:04
三月か四月かはともあれ、日蓮さんは、どうして二十八日に、立教開宗したのでしょうかね。
たとえば、五字七字の南無妙法蓮華経であれば、五月七日とか、七月五日とか。
二十八日というのは、一般的には、不動明王の縁日ですよね。
清澄寺には、お不動さんでも祀ってあって、その縁日に、地元の人が訪れるようになっていた。
そのことに合わせて、説法したとか。そんなことは、ないっすよね。
しかし、どうして二十八という日にしたのか、なにか日蓮さんは書いていますでしょうか?
80
:
菊水護国
:2002/05/11(土) 09:13
ほんとうの事は置いておきます。全く私の考えです。
28日というのは、昔の暦では最終の日ですね。
すなわち28日は、翌日に新しい月が来る前の日ですね。
たとえば、丑虎は夕の終わりでもある訳ですね。
28日には「にぜん経」の終わりを意味し、「法華経をこれからひろめる」意志があるように思います。
すいません。全くまとまりがありませんが、28日が昔の月末であった事に意味を感じます。
81
:
いちりん
:2002/05/12(日) 23:26
あれれ?
月の満ち欠けの周期ではかるから、旧暦には、二十九日も三十日もありますが。
日蓮さんの御遺文には、二十九日や三十日に書かれたものがたくさんあります。
さすがに三十一日は、存在しませんが。
82
:
菊水護国
:2002/05/13(月) 16:54
そうですね。
変な想像から月の満ち欠けは、28日と勝手に思ってしまった。
根拠は下品なので御想像にお任せします。
83
:
独歩
:2002/05/13(月) 17:02
> 82
いいなあ。こういう潔く訂正する姿勢。尊敬しますよ、私は。
84
:
ななし
:2002/06/01(土) 08:30
>>79-82
こんなのありますた。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents40.html
86
:
菊水護国
:2002/06/05(水) 14:38
> 84
そこのホームページ見ましたが、バックが赤くて読みにくい。
目がチカチカするよ。管理人は直して欲しい。
87
:
ノンセクト
:2002/07/05(金) 14:27
ちょっとしたニュース
正信会内部でもこんなことが・・・・
「正信覚醒を取り戻せ」
http://isweb43.infoseek.co.jp/novel/syousin/index.htm
「正信会所属寺院内掲示板での内紛」
http://www.tt.rim.or.jp/~kodama/gyohoji/mii.cgi
みなさんのご意見は?
88
:
犀角独歩
:2002/07/05(金) 16:20
内部紛争が顕在化するのはけっこうなことでしょう。ある程度の人が集まってくれば、違う意見が出てくるのも当然、異轍を論じたら破門して固めるほうが、かえって独裁主義的で不健全でしょうね。
正信会の坂井師、…いまでも宗会議長でしょうか、なかなかの人物ですね。
私は本年初頭に始めてあって、「いい坊さんだな」と思いました。
「まあ、うちもいろいろあるし、いろいろな考えの人が集まっています」と言っていました。「正信会には二箇相承真筆派、偽作派の両方がいます」と言っていました。当然、これでよいわけです。真筆がなければ、一つのグループでいくつもの意見があっていいわけですから。
日蓮聖人の世界展、御書検索システム、まじめな学究を感じられて、これらの点は私は高く評価しています。
89
:
五月雨
:2002/07/19(金) 12:44
過去ログを読ませて頂きました。戒壇の大御本尊様は楠の半丸太に彫られていて、重さが200キロ近くあるということですが、昔、下之坊に行った時に義足の僧侶のお話を聞きました。日興上人様が身延山を出られた時に、戒壇の大御本尊様を背負ってこられ(ご自身なのか弟子だったかは忘れました。)南條邸に到着されて、戒壇の大御本尊様をこの地に下ろす時、背中に括りつけていた蔦(だったと思います)を置いた所から、蔦の芽が生えてきてそれが立派に成長し、近年になってその僧侶が他の場所に、移植した折に破傷風に罹り両足切断をしたそうです。「足が無くなるという事は、御本尊様のご命令でここから動く事なく、お寺を守れと言われているのだろう」とお話されていました。そのお話から想像するに200キロもある重たい物を背負うなんて事ができるのかしらと不審に思います。
それとも、私の記憶違いでしょうか。下之坊で同じ話を聞かれた方はいませんか。正しいお話の内容を教えて下さい。又、このお話は何を意味するのでしょう。
90
:
犀角独歩
:2002/07/19(金) 13:04
> 戒壇の大御本尊様…背中に括りつけていた蔦の芽が生えてきてそれが立派に成長…
お弟子の一人、百貫房仙師が身延から背負ってきたという伝説から派生した物語ですね。以前は美談として、石山創建物語には必ずや語られていたことでしたが、いつの間にか公式の出版物から、その記載は姿を消してしまいました。
仰るとおり、200㎏もあろうかという戒壇之本尊を背負ってくるのは無理だとわかり、話をひそめてしまったのでしょうね。
91
:
五月雨
:2002/07/19(金) 15:31
詳しい解説を有難うございます。私の記憶は大体あっているという事でしょうか。印象深いのは名調子で事実の如くお話されていたことです。伝説だとは思いませんでした。少しの間違いもなく少しの嘘も無い、100%正直で正しい“日蓮正宗”にこんなお粗末な伝説話があったとは。勉強になりました。
92
:
犀角独歩
:2002/07/19(金) 17:30
> 名調子で事実の如くお話されていた…
以前も記しましたが確信ある言葉というのはたいがい嘘だ、というのが私の経験則です。
「講談師、見てきたような嘘を言う」なんて格言を引いても「講談師てなに?」と言われそうですが、こういう言葉もあるくらいですから。
93
:
現時点
:2002/07/20(土) 12:15
板御本尊が聖人であるという考え
言われてみればこんなあたりまえのおかしな話になんで長くだまされていたのかと
救われたい、助けてほしいという弱い心、依存した心が生む悲劇なんだと
宗教はその意味で非常にこわいと
そしてよくわかりもしないまま、あるいは原典にもあたらないまま人にすすめることは
いけないことだと
仏教がそんなにたやすくわかるものではないと
シャキャムニの教えは何かと
そこを探求することが大事だと現時点で思います
それは自分で求めていくしかないと
94
:
犀角独歩
:2002/07/28(日) 11:51
ワラシナさん:
問答名人さん:
過去ログで禅師授与曼荼羅、石北両山にある話題の時、ユーモアを交えて、ワラシナさんは以下のように指摘されました。
…大聖人様もお忙しい中よく二つも書いてくださいました。
だけど、ここで思い出されたのが、かって「徳明」氏に教えられた真跡紙幅本尊の
クローン複製法?です。和紙の表層をうまくはがせば、そっくりコピーさんがもう
一丁できあがる、というあの話です。
のり弁当ののりをはがせば、醤油に染みたおかかは均等ではない。しょうゆにしみ
だご飯と染みない白いご飯の部分が混ざった感じになっている。
表層一枚をはがして下に残った本尊の表面は、墨の汁が表層のやつほど濃くはない
だろう。こういうことがあるんじゃないかな、と考えています。
(大石寺の歴史 158
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/rekisi.htm
)
この方法を、『日蓮正宗史の研究』で山口師が記しているのを副次的に見つけました。
既読であろうかと思いますが、取りあえず、転載します。
剥離表層(これは主として御本尊に見られるものと云われる)、剥離すると本体と影本という両本が出来るが何れも偽物ではない。本体と影本と並べて見ると容易に判別できるが、殆ど所蔵が離れているので一箇処に並べてみることが出来ない(P14)
ロムの方々に少し説明を付せば、川辺メモで問題になった禅師授与曼荼羅は石山にあることになっているのに、実は北山にもあるという指摘をワラシナさんがしてくださった。
なぜ、二体あるのかを説明されたのが、上記のワラシナさんの投稿でした。
和紙が厚みがあるので、うまくすると表層をうまく剥がせ、2枚にすることができる、剥がしても墨は裏のほうまで染みているので、表層を取られても、墨痕・文字はしっかりと残る、そのために真筆の曼荼羅を二体(本体・影本)に分けられる。この方法を使って、二体に分けた禅師曼荼羅が石北両山にあるのではないのかという話です。
95
:
宮本
:2002/07/28(日) 12:29
独歩さんへ:
横レスごめんなさい。
これに関連してですが、たしか、以前、閉鎖になった
置時計さんのサイトで、
板御本尊の製作方法の二方法ってことで、どなたかの発言で見た
記憶があります。
板に御本尊様を書いた紙を貼り付け、彫る(謹刻)とかありました。
その時、張った紙の上側をはがす方法もあるとありました。
(ワラシナさんの発言だったかな)
紙幅本尊でもあったんですね。知らなかったです。
96
:
犀角独歩
:2002/07/28(日) 13:10
宮本さん:
> 板御本尊の製作方法の二方法
制作方法のことですか。板と紙幅のことでしょうか。
これは、近年になってから言われるようになったことと、古くから言われることと二つあるんですね。
近年では、久保川師当たりが、実は戒壇の本尊には紙幅の本体があると言い出したそうですが、この点は私は余り詳しくありません。また、創価学会では『日寛上人の御本尊下付の正義の証明』か『日顕宗の邪義を破す』のどちらかで
例えば、戒壇の大御本尊は、大聖人が弟子の日法に謹刻させたもので、大聖人の直筆である紙幅の御本尊は、現在御宝蔵に保管されています。
と記したわけです。それに対して石山側は
「直筆である紙幅の御本尊は、現在御宝蔵に保管されてる」と言っていますが、大石寺の御宝蔵はもちろんのこと、この世のいずこを探しても、彼等の言う「紙幅の戒壇の大御本尊」なるものは存在しません。このような前代未聞の珍説がどこから生まれたのか判りませんが、これも創価学会お得意の、ないものをあったが如く偽る、悪しき体質の一例です。
と反論しています。
古くは法師門の流れで戒壇の本尊は板に貼って彫ったから鉋屑はこちらにある、日蓮が魂は墨に染め流したのだから、戒壇の本尊の魂はこちらにあるという主張があったと読みました。
しかし、石山側のアナウンスでは、聖人は板に直接記し、それを彫ったというのが公式見解ですね。ただ、置時計さんの話では享師は暗黙に紙幅戒壇曼荼羅の存在を語っていたといいます。私は論拠を見ないので、この点は、なんとも決し得ません。
97
:
宮本
:2002/07/28(日) 14:29
独歩さん:
享師が、おっしゃたのでしたら、本当なのかもしれませんね。
ただ、楠木の板で、裏側は半丸太、今と違い表面を高精度の水平で
鉋(初期だとちょうなでしょうか)で削ることは、難しいでしょうから、
製作過程で紙幅のものを貼って,いったん上側をはがし、一方を保存し、
後、謹刻、後は、金箔、漆の重ね塗りってことかもしれしれません。
おそらく、何回か、てなおししているでしょうから、その都度、
保存状態を考えて、いろいろとやったのかもしれませんね。
98
:
ワラシナ
:2002/07/28(日) 15:38
no94の独歩さんへ
>『日蓮正宗史の研究』で山口師が記しているのを副次的に見つけました。
との事ですが、完全に読み落としていました。ご指摘ありがとうございます。
99
:
問答迷人
:2002/07/28(日) 21:44
犀角独歩さん
ワラシナさん
94について
やっぱり、そうなんですね。これで、やっと胸の支えがすっとしました(笑)。ありがとうございました。
大石寺の日禅授与本尊に、何時の時点で剥離コピーが実施されたかは、はっきりとはしませんが、大石寺の日禅授与本尊は、「本門寺に掛け奉るべし」と認められて、それが削除された跡がある、という日亨上人の言葉によれば、少なくとも、北山において、戒檀本尊としての意義付けが為されて以降という事ですから、日興上人が無くなられて以降の北山において、と言う事になるでしょうか。そして、そのコピーを元にして、大石寺戒壇板本尊が作られたとする、川辺メモの記述を採用すると、年代幅としては、1333年以降、1482年までの約150年間と言う事になりますね。
100
:
犀角独歩
:2002/07/29(月) 11:33
宮本さん:
> 享師が、おっしゃたのでしたら、本当なのかもしれませんね。
これはあくまで未確認情報ですから、本当とは言えませんね。
ただ、学会がなんで戒壇紙幅曼荼羅があるなどと言い出したかは、実に謎です。
> ただ、楠木の板で、裏側は半丸太、今と違い表面を高精度の水平で
> 鉋(初期だとちょうなでしょうか)で削ることは、難しいでしょう
みんな、そのように思ってしまうんですね。
私はこの鉋を使って大材を削るところを見たことがありますが、それこそ紙よりも薄い鉋屑が切れることもなく空に舞う見事な切れ味でした。
第一、聖徳太子の時代から日本は世界に誇る木造建築を造る技術があったのです。それが目で見てわかるほどごつごつにしか削れていないなどということはないでしょう。
また、仮に板曼荼羅が鎌倉期のものであっても、上に漆を塗り重ねれば、下地も整えるわけですから均一の平板にすることは難しいことでないはずです。
正面は以上のようなことで、論じられてきている鉋については、この正面ではなく、半丸太側の切削についてのことであろうと私は判断しています。
> 製作過程で紙幅のものを貼って,いったん上側をはがし、一方を保存し、
> 後、謹刻、後は、金箔、漆の重ね塗りってことかもしれしれません。
この想像は実際の制作とは全く違うでしょうね。
紙幅を板に改めるとき、紙幅の曼荼羅の上に薄く透けた浸透度のない和紙を起き、筆で輪郭を取って彫刻用の下書きを造るのでしょう。その下書きを板に貼り、彫るのです。
それに板に改めたものはあくまで第二転なのであって、いわば影本です。ですから、正本である紙幅曼荼羅が保存されていたのであれば、間違いなく虫払その他の保存は心がけられるでしょうし、なにより、正本に読経唱題供養をなさないなどということは、考えられないのです。
これはしかし、印刷曼荼羅と写真製版で造られた複製でしか、曼荼羅を制作できない創価学会に感覚的に理解できないかもしれません。もちろん、宮本さんが、ということではありません。
> おそらく、何回か、てなおししているでしょうから、その都度、
> 保存状態を考えて、いろいろとやったのかもしれませんね。
近年では正本堂へ遷座するとき、赤沢朝陽がお色直し(修繕)を行ったことは周知の事実です。
その際、聖教新聞社のHカメラマンが詳細に撮影したとのことでした。
実際の話かどうかわかりませんが、離間後、八王子牧口記念館に入れる曼荼羅は、この写真を元に戒壇之曼荼羅のレプリカを入れる計画があったとのことですが、会員の動揺を考慮して取りやめになったと聞いています。
余談ですが、牧口展、戸田展などで展示される学会重宝なるものも、そのほとんどがレプリカだそうです。
もっとも会員に配られる池田氏の直筆と云われる色紙も、その創作グループがあって書いているとのことですし、執筆も大作ならぬ、代作。
話はずれてしまいますが、このような体質の創価学会がいう「紙幅の戒壇の本尊」という話の信憑性は薄弱であると思うわけです。
101
:
犀角独歩
:2002/07/29(月) 19:57
問答名人さん:
板曼荼羅、創作はいつであったのか。以前も話題になったことですが、興師寂から有師寂までの150年のうち、どこら辺のことであるとお考えになりますか。
103
:
問答迷人
:2002/07/30(火) 14:27
犀角独歩さん こんにちは
大変難しい御質問ですね。
以前調べた宗学要集からは、日有上人の晩年には、大石寺戒壇板本尊の存在がほぼ、確認でき、それ以前には大石寺戒壇板本尊について述べた文献がありません。
また、北山の日浄記が、大石寺戒壇板本尊を日有上人が制作したことを示唆しています。
このふたつの事から、制作は日有上人の在座期間、1419年から1482年までの63年間と僕は考えています。
年代をさらに絞りこむには、資料が不足しています。
104
:
犀角独歩
:2002/07/30(火) 17:03
103 問答名人さん:
やはり、この辺りでしょうか。
資料の絶対的な不足は否めませんね。もっとも「これこそは、日蓮聖人直筆の大曼荼羅なり」と偽物を、本物のように示そうとするのに証拠を残しているはずもありませんが。
そうなると、結局、どこから固有名詞が出るかで見極めていく問答名人さんの方法論は当然のことと思います。
> 日有上人の晩年には、大石寺戒壇板本尊の存在がほぼ、確認でき…
これは何を指していらっしゃるのでしょうか。
105
:
問答迷人
:2002/07/30(火) 18:23
1484年の穆作抄(富士宗学要宗第二巻)に次の様にあります。
末法応時の大曼荼羅顕れて仏滅後二千二百二十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅の御本尊の後何ぞ造り書く可けんや(284頁)
例の左京阿日教師の記述です。ここで、『仏滅後二千二百二十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅の御本尊の後何ぞ造り書く可けんや』と書かれているのは、「大石寺戒壇板本尊をさしていると思われます。
106
:
犀角独歩
:2002/07/30(火) 19:04
105 問答名人さん:
なるほど、こんな教師の言葉があったのでしたっけ。
これは、たしかに重須文書に見られるような「二千二百三十余年」ではなく、「二十余年」を言う点でも注意が引かれますね。
ところで、以前も記したことなのですが、私は、有師というのは「当宗の本尊の事 日蓮聖人に限り奉るべし」などということから、どうも戒壇之曼荼羅(本尊)に力点が入っているように思えないのです。それに対して、教師は積極的に見えます。
たとえば、上述の文を挙げる教師とその周辺でこそ、戒壇之曼荼羅が造立された可能性は考えられないものでしょうか。
107
:
問答迷人
:2002/07/30(火) 19:32
犀角独歩さん
>上述の文を挙げる教師とその周辺でこそ、戒壇之曼荼羅が造立された可能性
教師は、後に、大石寺を去っていますね。そして、最終的に北山本門寺の僧となったのではなかったでしょうか。もし、教師が造立したのなら、大石寺に戒壇板本尊が現存する説明が難しいし、日浄師は、教師から、戒壇板本尊造立の顛末を聞いていたと思うのです。そうすると、日浄記の日有造立説は出て来ないのではないでしょうか。
ちなみに、日浄師の没年は1493年、日教師の没年は1489年以降。僕は、逆に、この二人の間で、大石寺戒壇板本尊が議論され、日浄記が書かれたのではないかと推理しています。年代的、内容的に、可能性が高いと思っています。もし、そうであれば、日浄記の信憑性はさらに増すと思います。
108
:
犀角独歩
:2002/07/30(火) 21:20
問答名人さん:
> 日浄師…日教師…この二人の間で、大石寺戒壇板本尊が議論され、日浄記が書かれた…
この推測は面白いですね。
教師は、有師の弟子などといわれますが、実際は指定などという関係にあったように思えませんね。教師が有師を慕ってきたのに、あまり相手にしなかったみたいな印象を私は懐いているんですが、それで、北山に赴く、浄師と接触ですか。
いやあ、こんな歴史的なドラマがあったとしたら…、なかなか現実味のある推理ですね。
109
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 00:09
問答名人さん:
先のも議論したことですが、興師の葬送録は、なんで西山にあるのでしたっけ?
110
:
問答迷人
:2002/08/01(木) 12:10
犀角独歩さん
まず、前提として、大事な事は、御遷化記録は日興上人の晩年に、重須から盗まれて行方知れずになってしまったことです。そして、それが西山本門寺に現存しているという不思議です。
オフ会における、置時計さんのお話として、「保田妙本寺が重宝を売りに出したことがあって、その時、西山が購入したのではないか。」という事であったと思います。
保田に御遷化記録があった可能性を考えるのは、重須の御影堂に押し入って御遷化記録等を奪った盗人の張本人は、実は、大石寺関係者ではなかったか、という推測に基づくものです。
日郷師は、万年救護本尊と共に御遷化記録も手に入れていて、保田に持ち出したと考えると、辻褄があう訳です。
111
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 12:27
問答名人さん:
あ、そのようなお話の流れでしたか。
あの時のお話は面白かったですね。興師・目師不仲説まで出ていました。
郷師経由で西山に、ですか。なるほど。
有り難うございました。
112
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 13:01
重ねて問答名人さん:
戒壇之曼荼羅というのは達師の説法で「半丸太である」ということでした。
ところが一般的には「板曼荼羅」と、こう称されるわけですね。
精師の頃までは御影堂に安置され、特に内拝なんていう方法は採られていなかったという達師説法もあったわけで、まあ、そうなのであろうと私も思っています。そうなると、御影堂で拝された方は正面から見て「おや、板に刻まれているんだ」とびっくりして帰る、それが伝聞されて、「板だ」と言うことで板曼荼羅と他山が言うようになったとこんな流れなのかと思っていました。
ただ、この類推は一つ何点が宝冊の什宝の記載です。
一、本門戒壇の板大漫茶羅 一幅
…末代不朽の為に楠の板に書く厚さ二寸二分竪四尺七寸五分横二
尺一寸五分なり
量師によるとされるこの記述は、まず板に直接書いたこと、その厚さが「二寸二分」であることが明記されています。量師は石山48世ですから、当然、戒壇之曼荼羅を元に、こう記述したと思うのです。
まあ、確かに宝冊をして亨師は注して「量師の正本を見ず…此書は先師も曽て怪奇の書と貶せられた」という本で、その資料性は如何ばかりか疑うところもあるのですが、やはり、一般的には「厚さ二寸二分」の楠板と理解されています。
しかし、実際は半丸太であるという、この食い違いは、どのようなところから来ていると思われますか。
113
:
問答迷人
:2002/08/01(木) 16:20
犀角独歩さん
>しかし、実際は半丸太であるという、この食い違いは
推測ですが、実際は半丸太なんだけれども、前面部分は、板に見えるよう、加工されているのではないでしょうか。その一部分板になっている部分の厚さが二寸二分あるのではないでしょうか。写真で見る限りでは、四隅は面取りしてあり、板の様に見えます。
114
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 16:28
また、打ち間違えてしまいました。
> 112
誤)ただ、この類推は一つ何点が宝冊の什宝の記載です
正)ただ、この類推は一つ難点が宝冊の什宝の記載です
115
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 16:33
問答名人さん:
> 113
うーん。そうですか。
たとえば、板と半丸太の二体ある可能性はどうでしょうか。
あと、最近、一番前で内拝したから、「なんな薄い厨子で半丸太が収まるんでしょうか」という問いをいただいたのですが、なにせ最近、内拝などしていませんので、答えに窮しました。この点も何かご存じところがございましたら、ご教示ください。
116
:
五月雨
:2002/09/08(日) 22:12
今日ご開扉を受けながら、戒壇本尊を初めてまじまじと観察しました。見るからにお寺と同じような板本尊に見えましたが、半丸太だとすると、どのように納まっているのでしょう。もの凄く
不思議です。
117
:
犀角独歩
:2002/09/11(水) 07:33
以前、どなたかに私の記している内容は美濃周人さんと類似しているという指摘を受けておりました。そんなこともあって、この度、篤志の方が、私にその美濃さんの『日蓮正宗創価学会 謎の大暗黒史』を下さりました。
一瞥して、「この人と私が同意見!?」と、がっかり。
扱っている資料、提示した資料に重複はあるけれど、これはかなり違うという印象でした。
違っているところは、多々ありますが、一番の違いは美濃さんは二箇相承を大石寺文書のように扱っているけれど、私は二箇相承は北山文書であると思っている点。また百六箇抄についても同様で、私はこれを要山資料と思っています。
あと、この本を一瞥して思ったのは美濃さんという方は、たとえば富士宗学要集をすべて読み尽くし、その中から歴史を読みとったのであろうか?という疑問が残りました。自分で読んで出した結論と言うより、石山批判として、既に切り出されている資料・解説をわかりやすい言葉で書きまとめたのが、この本ではないのかと思った次第。まあ、外れていたら、美濃さんごめんなさい…会ったこともありませんけれど(笑)
実際、文中はジョージ左京氏と安永弁哲師の孫引きが大半を占めていました。
余談ですが、安永師の石山歴代管長批判の文章は『大石寺の正体』から引用していたけれど、初出は、むしろ『板本尊偽作論』のほうが先ではないのかと私は思います。また、この批判に対しては達師が精道師の名乗りの頃、宗務院として、この批判に答えているわけで、この点を何ら紹介しないで、悪口をそのまま、記すというのはどうかと思いました。
殊に恭師の葬式は焼けこげた腸(はらわた)だけみたいな悪口を鵜呑みにして、そのまま紹介する点は、私は「人間の善意を記す」本としては甚だ不可であるとも思いました。
しかし、美濃さんの記すことと、私が言うこと、そんなに似ていますか、突き当たった資料から考えて、やや類似した点がある程度ではないでしょうか。根本的な歴史の読み、教義の読み方がまるで違っています。第一、私は人の本を簡単に解説して、一冊本を書いてしまおうなんて乱暴なことはしませんよ。また、人のまとめた本を読んで、さも自分で考えたような素振りなんかしません。
いただいた本を読み、違いを確認できました。有り難うございました。
118
:
犀角独歩
:2002/09/11(水) 08:10
↑ 読み直すと、本をくださった方に文句を言っているようにも摂られかねないへたくそな文書。もちろん、まったく逆で本をくださった方には感謝。私と美濃さんの類似性を言う方は、どうか再考いただければ有り難いという意味です。ご判読いただければ、と思います。
119
:
いちりん
:2002/09/11(水) 10:07
美濃さんの本は「日蓮正宗・創価学会50の謎」(三一書房)というのを一冊だけ読みました。
とてもわかりやすくて、わたしには手ごろな本でした。
怨念が、さほどこもっていなくて、事実とか資料をあげて、素朴に「これはいったいどうしてだろうか?」「そんなことがあるのだろうか?」と、疑問を投げかけるような書き方がよいのかなあと思ったりしました。
なんというか、まあ、もしも学会批判とか宗門批判の本を書くとしたら、
──「けしからん」「とんでもない」「許せない」「目にもの見せてくれようぞ」──
というような、怨念とか怒りのエネルギーが入っていると、伝わりにくいかなあと思ってもみたりします。
120
:
犀角独歩
:2002/09/11(水) 10:32
> 119
私は過去には『家庭内宗教戦争』1冊を読んだだけであったので、怨念のエネルギーでここまでやってきたと見えてしまうのですね。
寺報に今東光のことを書いた、住職に「猊下を誹謗した人だ。その部分を切り取れ」と言われ、寺報の1部1部から切り取り作業をしているうちに怒りがこみ上げてきた、そして、法華講を離れた、そんな彼の怨念のエネルギーがようやく冷めてきたものの、しかし、奈辺で燻っていると思えてしまいます。つまり、そのような自分の怨念を肯定化するために集めに集めた資料をまとめたのが一連の出版かと。
美濃さんは奥さんが信者であったから引っ張られてやるようになり、ついには自尊心が傷付けられるような事件を経て怨念をもってやめていったのでしょうね。ひととき、奥さんへの愛情から石山信仰の“真似事”みたいなことをしたけれど、本心ではなかったのだろうと思えるわけです。
私は石山・学会の家に生まれて、日蓮・日興で育ってきました。石山の批判はするけれど、いまでもあの場所は懐かしい。思い出せる石山住職は達師と顕師だけ。2人に恨みと言うより、懐かしさが先行します。山も懐かしい。
私の石山批判は、かつて絶対であると思っていた自分の親父を、長じて、客観眼を得て見たら、間違いも多い一人の人間で、そのあとを継ぐ自分は親父の過ちごと相続しなければならない、間違った点は素直に謝り・是正を心がけるしかなかった、絶対であると思っていた親が、絶対でないとわかっても、でも親に対する憧憬と思いは残った――そんな親父に対する思いと日蓮・日興・石山に対する思いはどこか共通しています。
私の石山批判は、一種の自己否定であるけれど、美濃さんのそれは確実な他者否定なのですね。基本的なコンセプトの違いがあると思いました。
121
:
ワラシナ
:2002/09/12(木) 22:06
no117独歩様へ、、「美濃さん本に似ている」についての弁明とお詫び
>美濃さんの記すことと、私が言うこと、そんなに似ていますか、突き当たった資料から考えて、やや類似した点がある程度ではないでしょうか。
1、以前の私の指摘「似ている」語も上の括弧内のニュアンスで使いました。その際、質的な差異には触れませんでした。それは比較して読めば、誰にでも明らかな事だから。
長所も圧倒的で際立っていた場合には、一種の迫力であって、人を沈黙させることがある。その気分に影響されていたことも有った。
2、それと石山批判本として先に市場で知られていた美濃さんのお名前を出し、「(その或部分が)似ている」という指摘でこの方面に興味の有る読者の関心を独歩さんの石山批判論にむけさせる事ができたら、、という期待も預かっていた。
3、私が感じた「似ている」部分とは、「石山公式発表では何かがおかしい、と感じざるを得ない」素朴な疑問から問いを起こす、発想の部分です。それと「誰でも似たところに疑問を抱くものだ」という共通点の発見、と言ってもよい。
4、だだそれ以後の論考展開は異なっており、「その差異を補足して表現しておけばよかった」と自分の至らなさを今後悔しているところです。この部分ではご迷惑をお掛けしたようでお詫びします。
(5、美濃さん本はそれを読んだ高橋師がやはり怨念を感じた位だから感じ方次第では「怨念あり」で間違いではないのでしょう。ただ、いちりんさんご指摘の如く、ご自分の素人っぽさに居直って、どこか分限をわきまえているかのような素朴なタッチ
が面白いと思う。)
122
:
犀角独歩
:2002/09/13(金) 13:33
121 ワラシナさま:
わざわざ、お書き込みをくださり、有り難うございました。
大変有意義な弁明をいただきました。けれど「お詫び」などいただく必要はございません。
どうぞ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
前回のミニオフではお会いできず残念でした。ぜひともこの次はご参加いただければと、勝手に念願いたしております。
123
:
みかん
:2002/10/01(火) 08:05
>>116
もともとの「戒壇本尊」は半丸太で、下のほうが腐ったため、
日達時代に仏具店・赤沢朝陽で板状のレプリカを作ったという
説が、美濃周人氏の本に載っていました。
つまり、現在使われている「戒壇本尊」は板状のレプリカであ
るという説を美濃氏は唱えているわけです。
124
:
犀角独歩
:2002/10/31(木) 06:40
昨日(02/10/30)、立正大学で『日蓮聖人―その行動と思想』と題した福神研究所が企画した講演とシンポジウムが開催されました。
この席で中尾堯師が「日興上人が筆録した『宗祖御遷化記録』は6通作成され、全員に配られた」とはっきりと明言していました。
そのうちの1通はたしかに身延山久遠寺にあったけれども、明治8年の大火で焼失したということでした。
そうなると、頂師が重須に居していたとき、富士には2通の『宗祖御遷化記録』があったことになると想像されます。
125
:
問答迷人
:2002/10/31(木) 07:10
独歩さん
>「日興上人が筆録した『宗祖御遷化記録』は6通作成され、全員に配られた」
やっぱり、そうだったのですね。そうすると、西山の『宗祖御遷化記録』は、誰のなんでしょうね。大変興味が湧きます。
126
:
犀角独歩
:2002/10/31(木) 08:10
この中尾師の話は、問答名人さんが、たぶん、興味を持ってくださると思いました。
基調講演のなかでさらっと話されたことであったのですが、わざわざ質問用紙に記入して、質問して確認しました。「興師は葬送記を6通作り、六老僧が、それぞれに花押し、それぞれに配られたのですか」という私の質問に「そうです」ときっぱりと答えていました。
「複数存在していると思う」と、そのご意見を聞いたのは、西山から北山にも行った日、天母山の頂上であったと記憶しています。あの時、私は1通しかなかったと思い込んでいましたから、その意味で、問答名人さんの推理が正しかったことが証明されたわけです。参りました(笑)
> 西山の『宗祖御遷化記録』は、誰のなんでしょうね
この点については、むしろお考えをご教示いただきたいと思います。
128
:
問答迷人
:2002/10/31(木) 09:12
独歩さん
やはり、日興上人の『宗祖御遷化記録』でしょうね。日頂師、日持師の分の『宗祖御遷化記録』は、本人に渡されたか、あるいは身延離山の時に、身延に残されたと思われます。なぜなら、日興上人の厳しい御性格からすれば、本来、自分の所有するべきでないものを富士に持ってきてしまうとは考えられませんから。
そして、重須の御影堂から盗まれて、大石寺の蓮蔵坊を経由して、日郷上人に渡り、保田妙本寺の所有するところとなり、さらに西山に後年に渡って、現在に至っているのだと思います。西山に渡った理由は、紛失した時の、日興文書に、出てきたら、日代に返すべきである、と有る事が拘わっているのではないかと思っています。
129
:
犀角独歩
:2002/10/31(木) 10:07
128 問答名人さん:
やはり、興師のもの、そして、経由も是の如きですか。
> さらに西山に後年に渡って、現在に至っている
ここの部分ですが、これはどのような経緯であったのでしょうか。
130
:
問答迷人
:2002/10/31(木) 10:20
独歩さん
これは、僕には良くわかりません。三学無縁さんのご専門かと存じます。
三学無縁さん
よろしくお願いいたします。
132
:
しゅんかん
:2006/12/29(金) 19:30:49
管理人さん、すいませんが下記を拝読する術を持合せておりません。
『大石寺の歴史について』スレッドが 300レス・・・
ご教示の程、宜しくお願いいたします。
133
:
管理者
:2006/12/29(金) 20:32:22
富士門掲示板が以前ダウンして使えなくなったことがありました。それで、新しいアドレスで再度立ち上げて現在に至っています。以前の掲示板の過去ログを再構成して、「富士門掲示板過去ログ」としてアップしてあります。そちらをご覧ください。
富士門掲示板過去ログ「富士大石寺の歴史」スレッド
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/rekisi.htm
134
:
しゅんかん
:2006/12/30(土) 00:36:47
管理人さん、ありがとうございます。
135
:
独学徒
:2006/12/30(土) 02:04:12
大仏師越前法橋快恵謹作の大石寺正御影が遷座されていたのですね。
http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/jpn/topix/20061128_j.htm
本格的に大改修するようですね。日精上人建立の「本門戒壇本堂」は、どの程度原型を残せるのでしょうか。
136
:
犀角独歩
:2006/12/30(土) 09:22:15
いっそのこと、建造当時のように、御影の後ろに「本門戒壇之大御本尊」を置いたら、どうでしょうか。
137
:
独学徒
:2006/12/30(土) 12:51:12
犀角独歩さん、
>建造当時のように、御影の後ろに「本門戒壇之大御本尊」を置いたら
これは良い案ですね。
御影の影に隠れて、余計なところが見えなくなりますので、願ったり叶ったりじゃないでしょうか。
談議所の方に、画質が悪くわかりにくいですが、在りし日の御影堂安置の彫刻をアップしてみました。
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html
138
:
天蓋真鏡
:2007/01/22(月) 12:22:04
石山等、派閥抗争的に教学体系が出来上がったのでしょうか。漫荼羅正意派、本門寺戒壇堂派等の派生は『法華一乗』の信学行の範囲内?
139
:
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講
:2007/09/18(火) 10:19:09
北山と石山の馬鹿な争い、主導権争いが今日の富士派混迷状態を招いた。
あの二山は今後・・・。
潰すべきじゃないだろうか。
140
:
ある興門派
:2010/02/26(金) 18:05:56
寛師会で相撲をやっていると聞いてへーと思いました
相撲って神社の奉納相撲を思い浮かべますが
寺に土俵かまえてるところって日本でも大石寺ぐらいでしょう
やっぱり正宗は異色というイメージです
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板