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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

2バックアップ:2002/02/20(水) 13:45

2 名前: nanasinokoibito 投稿日: 2002/01/31(木) 18:27

仏とはなんなのでしょう?
そして、我々の成仏への道は?

3バックアップ:2002/02/20(水) 13:45

3 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/01(金) 03:21

nanasinokoibitoさま:

> 仏とはなんなのでしょう?
> そして、我々の成仏への道は?

上述の文章は疑問形になっていますが、質問にも、発題にもなっていません。

小学生に「仏とはなんでしょうか」と問うたら「片仮名のイとムを並べて書くと仏になる」と答えるかもしれません。しかし、あなたが聞きたい答えはこのようなことではないでしょう。また、弁護士事務所に法律相談に出向き、「法律とはなんですか」と訊いたら、弁護士に呆れられるだけでしょう。

(1)仏のなにを質問しているのか、具体的に発題しなおしてください。

それと、質問をする最低限の礼儀として、「自分はこのように思っている」という自分の責任で、自分の考えを述べるべきでしょう。それはまた、自分が理解していることを相手に告知し、質疑応答の無駄を省く役割をもつものです。

(2)以上のことから、あなたが考える「仏とはなにか」「成仏の道はなにか」を提示してください。あなたが考えるです、創価学会の友人が言ったなどは必要ありません。

4バックアップ:2002/02/20(水) 13:46

4 名前: nanasinokoibito 投稿日: 2002/02/04(月) 19:49

以前にも書きましたが、私は皆様のように仏法に精通している者ではありません。
様々な教義を持った方々の話を聞いている中で、何が真実なのかを模索している
最中です。
自分がこう思っているというしっかりとした意見は恥ずかしながらありません。
では、質問し直します。
「日蓮大聖人の仏法の中で顕される仏」とは具体的にどんな存在をいうのでしょうか。
また、仏とは実在する存在なのでしょうか。

日蓮仏法の教示している「成仏」とはどういった現象もしくは状態なのでしょうか。
また、「成仏」という結果を得る為には何が必要なのでしょうか。

また、できましたら皆様が体験された現象に基づいた解説をいただけると、具体性
が増し、納得できると思のでお願いいたします。
いますどのような宗教も元は民衆救済という名目では同じだと思っています。
ですが、実際に皆様は日蓮仏法を熱心に信仰されているという事は、日蓮仏法
にしかない「何か」があるのでは?とも思います。
もし、よろしければ皆さんの信仰する理由も聞かせていただけると、嬉しいです。

5バックアップ:2002/02/20(水) 13:47

5 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/04(月) 20:41

nanasinokoibitoさま:

一週間ぶりの登場ですか。少し質問が具体的になりましたね。

>「日蓮大聖人の仏法の中で顕される仏」とは具体的にどんな存在をいうのでしょうか。
また、仏とは実在する存在なのでしょうか。

ここでは、まず「存在」を問うて、のちに今度は「存在なのか」と自らの前言に疑問を投げかける形になっていますね。まあ、細かい点を特に拘るのはやめましょう。

まず、仏教は大前提として、何の存在も説いていません。説いているのは縁起だけです。
「仏」の意味は仏教辞典でも繙く努力をしてください。私は個人的に『織田仏教大辞典』を薦めます。著者・織田得能師の血の滲むような精進も共に俯瞰していただければ、仏教を学ぶ人間の努力の一端を垣間見られるのではないかと思います。

さて、日蓮聖人が説く「仏」とは他のスレッドでも記すところですが、法華経寿量品の久遠五百塵点成道本門教主釈尊ということです。しかし、これは存在ではありません。

> 日蓮仏法の教示している「成仏」とはどういった現象もしくは状態なのでしょうか。

成仏は現象でもなく、状態でもありません。

> また、「成仏」という結果を得る為には何が必要なのでしょうか。

聖人の教説に添えば、本門教主釈尊を本尊として、南無妙法蓮華経と題目を唱えることとなります。この結果がどのようなものであるのか、それは言語道断・心行所滅の境地でしょう。解説を求めること自体、既に方法論として間違っています。

> また、できましたら皆様が体験された現象に基づいた解説をいただけると、具体性
が増し、納得できると思のでお願いいたします。

私自身の個人的な体験としては、やはり、唱題の最中の実感ということになります。

> 宗教も元は民衆救済という名目では同じだと思っています。

民衆共済というより、慈悲の顕現ということであろうかと存じます。とはいうものの、私自身は、社会一般のなかに帰っていく活動、社会福祉、障害者問題、青少年問題、高齢者・福祉問題への取り組みという形で具体化を目指しています。根幹となるのは仏教の慈悲の精神です。

> 実際に皆様は日蓮仏法を熱心に信仰されているという事は、日蓮仏法
にしかない「何か」があるのでは?とも思います。

私にとっては、やはり、唱題の実感ということになります。
しかし、これを文章で表わすことはできません。

6バックアップ:2002/02/20(水) 13:47

6 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/04(月) 21:44

独歩さま
わたしも『織田仏教大辞典』(通称「おだぶつ」)がよいと思います。
仏典や論書からの出典がたくさん出てくるのがよいですね。

あと、岩波の「仏教辞典」もお薦めですね。
これは、サンスクリット語、パーリ語が明記されているので、漢訳化されるもともとの意味を知るのに、とてもよいです。

本格的なのは「望月大辞典」ですよね。10巻以上ありましたか。滅多に引くことはありませんが、よくもまあ、あそこまで作りましたよね。

7みなみつくし:2002/02/22(金) 12:38
すごく変な質問ですが…。

コスプレって謗法なのでしょうか。
自分自身はセーラームーンの大ファンで、
セーラー服とかナースとかの洋服を着るのが大好きですが、
元邪宗の修行僧だった職場の先輩に「コスプレしていいの?」と
突っ込まれました。
また、自身はUFOと宇宙人が好きでラエリアルムーブメントに興味が
ありますが、あれは宗教なのでしょうかそれともただのサークルなんでしょうか。
バレンタインはキリストの祭りだということはしっていますが、
何故か宗門内であげてるひとがいましたがそれは果たしていいのでしょうか。
また、バレンタインに代わるプレゼントの渡し方を教えてください。
本命は正宗信者だから理解してくれてるけど、他の男性が心待ちにしています。
でもあげないのはかわいそうだし…。

8問答迷人:2002/02/22(金) 14:38

うーん、難しい。

私は、習俗になった事柄は、本来は他宗教に由来する事であっても、多少の事は、そのまま認めて良いと思います。コスプレだって、バレンタインのチョコレートだって、構わないと思いますが…。

9みなみつくし:2002/02/23(土) 20:00
ありがとうございます。バレンタイン、終わっちゃってた…。
今からでも間に合いますか?(爆)

ラエリアルムーブメント。やっぱり気になります。
本厚木のパンフでは、「サークル」ですが、
他に、
宇宙人はGOD(神)と間違われた。
地球人は宇宙人によって作られた。
クローン人間にYES。
科学を止めるものは悪である。
等、ありました。

10板東:2002/02/23(土) 20:05

コスプレは知らんけど,バレンタインも謗法!と,オレがいた寺の住職の女房は,女子部が所化にもってきたチョコレートをたたき返していたね.
その前にチョコを受け取る所化の顔見てたんだけど,あれが出家ってやつかね,まったく,殴って根性たたきこんでやろうかとおもったもんだ.
おっと,不適切発言かな?

11板東:2002/02/23(土) 20:10

ラエリアルムーブメントが好きなんだ.
むかし,創価学会にいたころ,2001年宇宙の旅に出てきたモノリスを「あれはご本尊だ」と言った男子部がいたもんだ(爆)
似たようなもんかね,考え方は.宇宙人だ,UFOだで日蓮正宗の信じてますってか.
つながるわけなんだ.ふ〜ん.ま,どう考えようと自由だけんどねえ.

12みなみつくし:2002/02/23(土) 21:57
いや、ラエリアンが好きって訳ではないんですけど。
宇宙人にはすごく興味があります。
変な教団とかセックス宗教とか噂されてるけど真相が知りたいのです。

13tokumei:2002/02/24(日) 14:00
この団体は倫理的に問題があると思います。

14問答迷人:2002/03/02(土) 10:32

前から、不思議に思っていることがあります。聖人の御在世当時は、御僧侶が盛んに、他宗の僧侶を折伏して、改宗させています。例えば、熱原の法難でも、寺院をそっくりそのまま折伏する、という事が行われています。ところが、本宗の御僧侶が、他宗の僧侶を折伏した、という話は聞いた事がありません。なぜなんでしょう。

15tokumei:2002/03/02(土) 10:53
そうですか。
大聖人様滅後は、本宗の御僧侶は他宗の僧侶を折伏していないのですか。

16一講員:2002/03/02(土) 11:41

問答さん
tokumeiさん

>大聖人様滅後は、本宗の御僧侶は他宗の僧侶を折伏していないのですか。

そんなことはないでしょう。昔はバンバンやってたと思いますよ。だけど、最近、特に明治以後はあまり聞きませんね。勿論、江戸時代は、寺請制度で、折伏はできてません。今の僧侶を見ていると、本宗に限らず、みんな家族を持っていて、半ば、僧侶という家業を継いでいるように見えます。だから、その宗教が間違っていると判っても、商売だから止められない、そんな事情があるんだと思いますよ。それで、宗門も、あまり効果が上がらないものだから、信者の折伏に精を出すことになってしまったのではないかと思います。

17問答迷人:2002/03/02(土) 12:59

tokumeiさん
一講員さん

>大聖人様滅後は、本宗の御僧侶は他宗の僧侶を折伏していないのですか。

書き方が悪かったです。『今日においては』という意味です。聖人のころは、他宗の僧侶が改宗した場合、事実関係は良くは分かりませんかが、宗門僧侶として受け入れていた様に思われます。現在は、もう一度、所化から修行しなおさなければならないし、所化になれるかどうかも難しいのではないのでしょうか。御存知の方、御教示お願い致します。

19一字三礼:2002/04/12(金) 17:12
また、皆様から御教示いただきたいのですが。
十如是についてですが、実は私は一年ぐらい前から三転読していません。もともと三転読は、「是相如・・如是相・・相如是・・」と読みかえることを報身・応身・法身の三身、空・仮・中の三諦、法身・般若・解脱の三徳と観じて「我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり」(御遺文は一念三千法門です。真蹟も古写本も無しですが、三転読の意味は同じであろうと引用しました。)と知るところにあると思うのです。しかし、そもそも方便品読誦の意義は五人所破抄によれば「純一無雑の序分には且く権乗の徳果を挙げ、廃迹顕本の寿量には猶伽耶の近情を明かす。」為としています。また「方便読誦は本意に非ざれば只是牒破の一段なり」と言うことであれば、方便品はそのまま読誦すればいいのであって、ことさら一念三千や三身如来と結びつける必要を感じません。なにより、教義を経典にあてはめて読み替えをすることが本末転倒に思えるのですが。掲示板を御覧の方々はどのようなお考えをお持ちか、ぜひお聞かせください。

20独歩:2002/04/13(土) 01:32

一字三礼さん:

> 教義を経典にあてはめて読み替えをすることが本末転倒に思えるのですが

私は、この考えには大いに賛成です。

21一字三礼:2002/04/13(土) 10:15
独歩さん:
少々ほっとしました。
御賛同いただいた点は、蓮祖聖人の基本スタンスさと思いますので、聖人御自身も三転読なさらなかったのではないか、とまで考えておりますが、この点につきましては、どのようにお考えですか。

22独歩:2002/04/13(土) 14:26

一字三礼さん:

> 聖人御自身も三転読なさらなかったのではないか

これはどうでしょうか。この点を決定付ける資料は考え付きません。
ただ、三転は玄義「釋名三法妙」に現れる

依義讀文凡有三轉。
一云。是相如是性如。乃至是報如。
二云。如是相如是性。乃至如是報。
三云。相如是性如是。乃至報如是。

に拠りますから、その継承者であれば、この点を否定したとは考えづらいような気がします。私は、むしろ、三転読誦と言いながら、経文の字句どおりを、3回繰り返して三転読誦というのではなく、玄義文の如く、読み替えながら読経していたのではないのかと考えています。

ただし、これは資料によるものではありません。この点、どなたか確かなところをご教示いただければ幸甚です。

いずれにしても、聖人の読経の行儀と違っているのは方便品を十如で打ち切り、その後、世雄偈を唱えないほうが、よほど相違している点ではないのかというのが、私の見解です。

23一字三礼:2002/04/13(土) 21:05
独歩さん:
>十如で打ち切り、その後、世雄偈を唱えないほうが、よほど相違している点ではないかと・・・
とても勉強になります。そうでしたか、当時は世雄偈も唱えていたのですか。さほど長くも無い世雄偈を、削る理由もわかりませんし、世雄偈ではまだ、二乗作仏も説かれていませんね。二乗作仏まで来れば、所破の為とする意味はわかるのですが。となると、方便品読誦の目的は、理の一念三千ということになりますね。また、三転読誦については、蓮祖聖人の経典至上主義も天台三大部の前には、鈍るのではなく、別の視点で御覧になっていた、と思いたいです。

24独歩:2002/04/13(土) 22:31

一字三礼さん:

> 蓮祖聖人の経典至上主義も天台三大部の前には、鈍るのではなく、別の視点で御覧になっていた…

私も以上のように考えています。
天台宗は当然、天台の釈義を金科玉条に扱うわけですし、さらにそこに本覚論的展開が加わり、さらにことをややこしくしていたわけでしょう。その意味において、聖人は、まず本覚論の排除から、さらに教典の原典主義に戻っていこうとされたのだと私は考えます。

先に少し記しましたが、そもそも三身論にしても真蹟で見る限り、聖人は極めて消極的にしか扱っていないように私は感じてきたのです。そもそも天台宗における三身は応身・釈迦、報身・阿弥陀、法身・毘盧遮那という見解であってそれが一身に具わるという展開です。念仏が天台宗から出た所以、さらに真言宗との親和性は、ここいらからすれば、むしろ当然のことであったろうと思えるわけです。

しかし、それなのに、聖人は阿弥陀も大日も斥け、久遠実成の釈尊ばかりを本尊と規程し直すわけです。この時点で、私は聖人の本尊観はある意味、天台以上に法華経に忠実であったと、私は思うわけです。

そのお考えは先鋭的で、寿量(品)仏と無量寿仏(阿弥陀)と同等性を論じる天台義すら、敢然と排斥していったわけです。
私は聖人の、この肉薄に感動すら覚えるものです。

なお、やや余談ですが、この聖人の姿勢とは別に法華経と浄土教は近隣・兄弟関係にある点は安楽行品の“安楽”がスカバティ(極楽)に充てられた初期の漢訳語であった点から天台の阿弥陀受容もまた致し方のない点であったろうとは思います。

やや余談ですが安楽行品の“安楽”は極楽を意味するスカバティの訳語に使われていることから四安楽行が極楽での修行で語ることは説得性を持つものである気がします。ただし、これは梵本における教学展開ではなく漢訳仏典を基礎とする仏教展開である点は注意を要します。


「スカヴァティー「極楽」の訳語としての定着までの推移」

年    訳語    出典
179  須摩提   『般舟三昧経』
186  須摩提、   須阿提 漢訳
253  須摩題    呉訳
252  “安楽”   魏訳
253  須阿摩提  『慧印三昧経』
269  須摩提   『方仏泥【シ+亘】経』
312  須訶摩提  『菩薩受斎経』
316  須訶摩提  『三曼陀[風友]陀羅菩薩経』
402  極楽    『阿弥陀経』
479  極楽    『如来智印経』
713  極楽     唐訳
1001  極楽     宋訳

25モモ:2002/04/14(日) 06:06
たまたまネットを眺めていたらば、日達上人から日顕上人への相承はなかった、
というページを見つけてしまいました。石田次男氏の話が書かれてます。
また日顕上人の御本尊では功徳はなく、罰がでる、ということも書いてあります。
いかが思われるでしょうか。最近は情報がめちゃくちゃでどう考えていいかよく
わかりません。

http://www.linkclub.or.jp/~taroh/rihen/rihen_18_2_1.htm

26宮本:2002/04/14(日) 16:31
モモさんへ:
今日は。
 御存知かもしれませんが、学会の公式見解も
 聖教新聞では、相承は、なかったとなっております。
 で、必然的に同様に

 >日顕上人の御本尊では功徳はなく、罰がでる、ということも書いてあります

と同様になっております。

  それで、具体的にどうしたらいいのか・?ということになりますが
 なかなか結論が出ない場合は、御本尊様にお尋ねする形をとるのも
 いかがかと、僭越ながら思います。(これじゃ答えになってないかな)

27独歩:2002/04/14(日) 17:06

モモさん:
宮本さん:

顕師の相承を学会がとやかく言うのは如何のものでしょうか。
私は、元学会でしたが、池田さんがエレベータの中で戸田さんから血脈を受けたと読んで大笑いしたものでした。「そんな馬鹿な」と個人的には思っています。
しかし、やめてしまった他団体が作り話であったとしても、実際のところ、池田さんを中心に動いているのは事実のわけですから、他人がとやかくいうことではないでしょう。言った所で非難としかとらえられません。

同じことで、喧嘩別れをした団体がいう敵対相手の公式見解など、悪口の域を越えるものではありません。

それに仮に顕師の相承がなかったというのであれば、あることを前提に会員を動かしてしまった会の責任は追及されるべきでしょう。池田さんは居士衣までもらって法華講総講職を受け、それに基づいて会員を動かした最高責任者であるわけです。

いまの時代、議員秘書や、事務員が言ったやったことで代議士が引責辞任させられる時代でしょう。

なお、曼荼羅についていえば、顕師の血脈の可否によって功徳を云云するのは、私はナンセンスであると思っています。内証を写したとは思いませんが、750年已来の化儀に基づいて書写されたものでしょうから、拝する側の御信心の問題であろうと思うわけです。

そんなことより、他団体の歴代曼荼羅を印刷頒布したもの、大きく伸ばして会館にかけた曼荼羅なんかに功徳なんかあるのか? 罰はないのかという問題のほうがよほど考えるべき問題ではないのかと私は思っています。

そもそも信心の血脈(こんな考え方自体、私は否定的ですが)は、団体に流れるのではなくて、個人の信心に流れるものならば、印刷業者や、販売頒布者、さらには書写の人の預かり知らないところではないのでしょうか。

曼荼羅を拝し、何を掴み取るのか、それを真剣に考えるとき、販売頒布団体、書写の血脈の可否に気を取られていれば、何も得るものはないのではないでしょうか。

顕師曼荼羅に罰が当たるなら、寛師曼荼羅を勝手に印刷頒布したものであっても罰は当たるのであろうと思います。しかし、私は、こんな議論は実に馬鹿らしい、自讃毀他以上のなんの意味ももたない不毛な思惑であろうかと存じます。

それぞれの団体のご都合によって構築された詰り合いは無視するに限ると私は思います。

28宮本:2002/04/14(日) 19:39
独歩さんへ
  私の書き込みの前半は、公式見解を書いたのですが
それは、あくまで、現状の説明です。他意はありません。
(聖教新聞(公式見解)の信頼度は、ほとんど、ありませんから)
 で、
 >・・拝する側の御信心の問題であろうと思うわけです。
 と
 >御本尊様にお尋ねする形をとるのも
 >いかがかと、僭越ながら思います。
 で
  独歩さんと、同様のつもりです。

 >それぞれの団体のご都合によって構築された詰り合いは無視するに限ると私は思います。
 
  その通りなんですが、実際は、心が安定するまで、揺れるものなんです。
 それで
 >最近は情報がめちゃくちゃでどう考えていいかよく・・。
 と書かれているのです(私の推測ですが)

  私のような二世三世でもないものは、比較的、割り切れる人が多いのですが
 やはり、
 >他人がとやかくいうことではないでしょう

(その通りなんですが)といかんのでしょうね。

 先生以下、入信暦の長い方とかは、まだ、とやかく言いたいのでしょうね。
たくさん供養をした方とかも、過去のいきさつとかあって、
なかなか納得出来ないようです。

 独歩さんが、仰っておられるように、
 早急に別々の宗派であるという前提に立ってもらいたいものです。
 (こう書くと学会員失格なのかもしれませんが)

29独歩:2002/04/14(日) 20:09

28 宮本さん:

どうも私は判読能力がないようで、いつも意を取り損ねております(笑)

私は曼荼羅の利益というのは(功徳は積功累徳の意味で善根の蓄積を言うので、やや富士周辺での使用は違うであろうと思いますので利益と敢えて言いますが)以下の、私のサイトにアップしてある楠山師の発言に尽くされていると思います。

有り難いと思って唱える人にとって、他から罰が当たると思う曼荼羅でもちゃんと歓喜と利益の実感を得られるものなのであろうと思うわけです。

楠山師は朗門の御僧侶ですけれども、虚心坦懐に偏見なく読める人には曼荼羅の利益を得られるであろうと、むしろ私は思うのです。

【問】その板本尊も、創価学会特定の印刷本尊も功徳利益があるというのですが、実際利益はありますか。

【答】利益―功徳はあるでしょうよ。元来、利益というものは自分の観念の上にとらえられるものですから、何宗でも利益はあります。「僕は利益をいただいた。罰が当たった」と素直に受け取る人が幸せなのです。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/n_kusuyama_001.html

30宮本:2002/04/14(日) 21:30
独歩さんへ
 >どうも私は判読能力がないようで・・・。
 当方こそ、書き込みがたらず、すみません。(面談ですと、こんなことないのですが)
>有り難いと思って唱える人
>虚心坦懐に偏見なく読める人
実際の所、私にとっては、常にこの生命状態を保つのは、難しいです。
 では、また失礼致します。

31独歩:2002/04/15(月) 00:16

宮本さん:

特定の組織に入っていると、どうしても他組織の言葉は素直に読めないものでしょうね。
それでも宮本さんは必死にその壁を超えようと呻吟されている心情はわかる気がします。

32モモ:2002/04/15(月) 03:40
宮本さん、独歩さん、レスありがとうございます。

>それぞれの団体のご都合によって構築された詰り合いは無視するに限ると私は思います。

まさしくそのとおりだと思います。

私が驚いたのは石田次男氏が日顕上人から日達上人への御相承を否定されて
いることです。
石田氏は当時、戸田城聖氏に創価学会の三代会長に推薦された、という話が
あります。ゆえに今では創価学会ではなく法華講ではないかと私は思ってました。
石田次男氏とはどういう人なのでしょうか。池田氏に煙たがられ、窓際に追い
やられてしまった、という話も聞いたことがあります。

33独歩:2002/04/15(月) 04:34

モモさん:

> 石田次男氏とはどういう人なのでしょうか

戸田さんの直弟子で、次男という名前に引っ掛けて、「次の会長はおまえ」だと言われていた人です。

『現代諸学と仏教』という本を著して、池田さんの教学が外道義であると喝破した人でした。

不思議なのは、顕師の相承を否定したというけれど、その葬儀は故人の遺志によって石山に拠ったと記憶しています。

人望のあった人で、正信会、また内藤邦夫さん、福島源次郎さん、原島高さんをはじめ、人々が慕っていたということでした。

なにより清貧の人で生涯、本当に貧乏であったといいます。ご本人と共に私はご夫人も尊敬いたします。

ただ、この方は一つの組織に偏る人ではなかった。正理を基にされる人であった。つまりは、組織、故人の絶対を論じることなく、善い面、悪い面、両面をしっかりと告知された方であったと拝察します。

教学的には、惜しくも本覚義その他の考証は浅いところがあり、真偽考証も甘かった点は惜しまれます。

私は、実は福島源次郎さんから紹介いただく約束を取りながら、その直後に逝去され、お会いできなかったという経緯があり、今でも悔いを残しているのです。でも穏やかな好人物であったと聞いております。

34菊水護国:2002/04/15(月) 08:23
石田次男さんと言えば中杉さん(現平和神軍)との関係を思い出しますが・・・。

35独歩:2002/04/15(月) 09:00

菊水護国さん:

お久しぶりです。

> 石田次男さんと言えば中杉さん(現平和神軍)との関係…

そうでしたね。あのころは、平和神軍ではなく、正理研究会、上述した『現代諸学と仏教』の出版も、この人に係ることでした。

36モモ:2002/04/16(火) 06:30
独歩さん、菊水護国さん、レスありがとうございます。

32のレスの御相承については「日達上人から日顕上人」です。謹んで訂正いたします。

>不思議なのは、顕師の相承を否定したというけれど、その葬儀は故人の遺志によっ
>て石山に拠ったと記憶しています。

そうなのですか。やはり日蓮正宗で葬儀をしたいというのが当然の心情だと私も思い
ます。

>ただ、この方は一つの組織に偏る人ではなかった。正理を基にされる人であった。
>つまりは、組織、個人の絶対を論じることなく、善い面、悪い面、両面をしっかり
>と告知された方であったと拝察します。

仏法に限らず、それが真理を求める本来の姿勢だと私も思います。

>教学的には、惜しくも本覚義その他の考証は浅いところがあり、真偽考証も甘かっ
>た点は惜しまれます。

このようにしっかりと批判することは大事だと思います。「真偽考証」まで踏まえて
教義を批判すべきである、ということは言われてみれば当然のことですが、私はこの
掲示板ではじめてその意義を知りました。

>石田次男さんと言えば中杉さん(現平和神軍)との関係を思い出しますが・・・。

私も中杉氏の大石寺批判を読んだことがあります。この掲示板で批判されている内
容と同じようなことも書かれてありました。

37問答迷人:2002/04/16(火) 13:17

独歩さん

27の、「なお、曼荼羅についていえば、顕師の血脈の可否によって功徳を云云するのは、私はナンセンスであると思っています。内証を写したとは思いませんが、750年已来の化儀に基づいて書写されたものでしょうから、拝する側の御信心の問題であろうと思うわけです。」

私も、そのように判断しています。聖人のお認めを正しく写された曼荼羅を拝して、罰が出るとか、利益がないとか、変てこな議論だと思います。そんな議論とは、一線を画すべきであろうと考えています。


モモさん

36の「『真偽考証』まで踏まえて教義を批判すべきである、ということは言われてみれば当然のことですが、私はこの掲示板ではじめてその意義を知りました。」

私も、従来は考えてもいなかった視点です。独歩さんはじめ、徹底して聖人の教えを求める方々は、やはり、そこに行き着かざるを得ないと思います。そういう真偽考証を単なる学問として蔑み、信仰は学問とは違うんだ、と仰る方々が、現実には大勢でしょうが、その方々に、どの御書が真蹟御書なのか、とお聞きしてみると、答えに窮される場合が、多いのに驚きます。宗派、所属団体のアナウンス通りに信じることが、はたして、信仰のあるべき姿でしょうか。私は、つい、次の、立正安国論の末文の一節を思い浮かべてしまいます。

『我(われ)一仏を信じて諸仏を抛(なげう)ち、三部経を仰ぎて諸経を閣(さしお)きしは是(これ)私曲(しきょく)の思ひに非ず、則ち先達(せんだつ)の詞(ことば)に随ひしなり。十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。』

38いちりん:2002/04/17(水) 21:06

これ、かなり素朴な質問なのですが。
日蓮さんの遺文は、たくさん残っていますが、どうして弟子の手紙がないのでしょうか?
日蓮さんと弟子とのやりとりの部分の、日蓮さんの手紙しか、後世に残っていないですよね。
波木井さんが日興さんに出した手紙は、残っていますよね。
富木さん、四条さん、上野さんなど、実在した人物の、日蓮さんあての手紙が、おそらく一つも残っていません。
これは、どうしてだと思いますか?

39いちりん:2002/04/17(水) 23:40

いちおう、叩き台として、わたしなりに考えてみたのですが。

1)リサイクルした

当時は、紙が貴重であったし、佐渡や身延の時代には、なおさらのこと貴重であった。
だから、弟子の手紙を、すきかえしたりして、日蓮さんは、それを手紙にしたためた。

2)大切にしなかった

後生の弟子たちは、日蓮さんのお手紙だけを大切にしたので、弟子の手紙は大切に保存しなかった。

3)都合が悪かった

最蓮房などのように、架空の人物に仮託して、偽書を作ったりしたので、弟子からの手紙があったりなかったりすると、偽書がバレてしまうので、全部、処分してしまった。

40顕正居士:2002/04/19(金) 04:13
日蓮は二度の流罪に遭っています。当時の法律に照らしてこれが合法的な処置で
あったか否か別として、思想犯罪者として逮捕されたのであるから、檀信徒からの
手紙などは証拠資料として押収されたのでないでしょうか?しかし身延時代のも
ほぼ存在しない理由はわかりません。

41顕正居士:2002/04/19(金) 04:36
身延時代にも三度目の流罪の噂があったというから、幕府が安全視していたわけではない。
弟子や檀信徒が日蓮に遣った手紙には危険な内容を含むことがあり得るから、焼却したこと
は考えられます。

42菊水護国:2002/04/19(金) 07:52
全てではありませんが、あります。
重要文献として、信徒さんが預かっている物が結構あります(確認済)。

43顕正居士:2002/04/19(金) 08:59
高森大乗師の「日蓮聖人の情報網と連絡網」
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents30.html
では

「門弟からの手紙は多くは反故にされたとも推測できる」

「反故裏を何かしら利用している(略)事例は確認されていない」

44いちりん:2002/04/19(金) 09:37

菊水護国さん

>重要文献として、信徒さんが預かっている物が結構あります(確認済


たとえば、どなたのお手紙が残っている(残っていた)のでしょうか。
どんな内容なのか、わかる手だてはありますか?

45いちりん:2002/04/19(金) 09:39

顕正居士さん

ありがとうございます。
高森大乗さんって、若手のしっかりした研究者のようですね。
いちど、「法華会」のほうに、出かけてみようかと思います。

46独歩:2002/04/19(金) 10:38

顕正居士さん:

ご紹介の高森大乗師の「日蓮聖人の情報網と連絡網」を拝見しました。
有り難うございました。

47菊水護国:2002/04/19(金) 12:02
勝手に氏名を書くと怒られるので・・・
身延信徒が「太田殿の関係文献」を持っております(僕が確認したのはこれ)。
池上信徒にも数通あります。
身延等の管長の許可を得れば公開可能だとは思います。

48独歩:2002/04/19(金) 12:15

菊水護国さん:

> 身延等の管長の許可を得れば公開可能だとは思います

つまり、これらは個人所有、また門外不出、あるいは著作権問題などが絡み、公開できないという意味なのでしょうか。

49いちりん:2002/04/19(金) 16:32

菊水護国さん:

それって、日蓮さんの真筆の手紙のような気もしますが。
もしも、信徒の日蓮さんに対する手紙が現存していたら、たいへんな発見じゃないでしょうか。
それは、一宗門の管長の許可云々という次元じゃないような気もしますが。

日蓮さんの真筆の手紙の断簡でしたら、わりと日蓮宗のお寺さんで、持っていたりしますよね。

50菊水護国:2002/04/19(金) 21:37
いちりん様
お寺にあるかは知りませんが、身延系の御僧侶が写しを立正大学の講義で持ってましたから、身延系では常識の範疇なんじゃありませんか。

51菊水護国:2002/04/19(金) 21:40
続き
というわけで、講義で写しを使っている位ですから、新たな発見でも何でも無いんでは・・・。
管長の許可云々と言ったのは大学が身延系ですから、所有権も身延系にあると推測しただけです。
誤解を与えましたことお詫び申します。

52一字三礼:2002/05/15(水) 16:59
本当に素朴な疑問です。

初詣に友人と柴又の帝釈天に行ってきたのですが、有名な法華経の彫刻を見ていたら奥から唱題が聞こえてきました。
そこでは、南無妙法蓮華経の南無を正確に“ナム”と発音していました。

池上本門寺では“ナン”と発音していたし、中山法華経寺では“ナム”で唱題していました。

どちらかが正しいというような類ではないのでしょうけれど、どちらが正しいのでしょうか(笑)

疑問ではありませんが、いちりんさんが挙げてくださった、蓮祖聖人の随身仏の15万円のレプリカ拝見しました。
通肩の衣に施無畏と与願の印。なんか一般的すぎて・・・。私としては、時代は下りますが、円空さんの彫った様のような素朴な仏様を想像していたのですが・・。

53菊水護国:2002/05/15(水) 19:53
帝釈天とは柴又の日蓮宗題経寺ですね。
寺男の、がじろうはいませんでしたか(寅さんじゃ無いって)。
南無を「ナン」と読むか「ナム」と読むかは、宗派によって違いますね。
富士門では大聖人以来の読み方が伝わっていてそれが「ナン」だとなっています。
どちらが正しいかどうかは、ご自分でご判断下さい(私は無責任だな)。
言い易い方でどうぞ(何て言ったら、堅い法華講員に怒られるかな)。

ちなみに、本門正宗のページに行くと、もっとも正しい読み方と称する声が聞こえてきます。
しかし、あれは出鱈目だな(爆)。

54一字三礼:2002/05/15(水) 22:01
菊水護国さん

そうです、寅さんの題経寺です。
私自身は、「寅さん」とか「水戸黄門」、「サザエさん」のような超マンネリズムの世界は生理的に受け付けないので、行きたくなかったのですが、どうしても断りきれなくてしぶしぶ行って来たんです。それでも彫刻だけは見事でしたよ。

しかし、日蓮聖人御親刻と伝わる毛彫りのような「帝釈天」は、目を凝らして見ていると、だんだん甘栗太郎の絵に見えてきました。(檀家の方ごめんなさい)

>「ナン」と読むか「ナム」と読むかは、宗派によって違いますね。

御教示ありがとう御座いました。やはりそうですか。まあいまさら「ナム」が正しいと言われても、体に染み付いている富士派流の唱えかたは、変えられそうにありませんが。

55独歩:2002/05/17(金) 15:27

一字三礼さんの書き込みを拝見して、池上本門寺も「なん」であるというのは以外でした。富士門系の特徴であると思っていたからです。


石山の勤行でも“引き題目”は「なーむ」ですね。
たしか教学部見解で立宗の時、朝日に向かってお唱えは、この引き題目であったと聞いております。

「ナメキョ、ナメキョ、ナメキョ」と、なんだか鶏みたいな早口の唱題、あれは出きるだけ短期間に題目を唱えるという池田さんのアイディアでしたか。勤行3分なんていう裁判記録もありましたね。これ、悪口になるでしょうか? もっとも、学会批判者の故内藤国夫さんでさえ、招待されて、数千人の唱題を聞いたときには圧倒されたと書いていましたが。

この早口唱題の起源を、小僧さんの寒経なんかの修行などにその原形が見られると、とある僧侶に指摘を受けたことがありました。

まったく余談ですが、古来の日本語には「はひふへほ」の音はなかったと大野晋博士が書いていましたね。では、どんな音であったかというと「ぱぴぷぺぽ-pa・pi・pu・pe・po」であると言います。それが中世には「ふぁふぃふぅふぇふぉ」になり、「はひふへほ」に変化してきたと言います。「んな、馬鹿な」と思いたいところですが、たとえば「か」と「が」を発生する時、口唇咽喉の形状は同じです。他のか行の音もそうです。これはさ行・た行も同様。しかし、は行だけは清音の発生では唇を開いたまま、濁音を発生する時には閉じていた唇をはじくように開いて発生します。ところが半濁音である「ぱぴぷぺぽ」を発生する時の口唇咽喉の形状は濁音と同様。このことから、は行は本来、P音であったと言われるわけです。

そうなると南無妙法蓮華経は「なむみょうぽうれんげきょう-Nam・Myou・Porengek・you」となってしまうわけです。しかし、これは一概に否定できないのです。なぜならば、真蹟のない『御義口伝』ですが妙法蓮華経の梵語を「薩達磨芬陀梨伽蘇多覧」とあります。これは現在、「さだるま“ふ”んだりかそたらん」と訓読みされるのですが、「芬陀梨伽」は梵語の pundarika の音写ですから、プンダリーカ。通じていえば、sad-dharma-pundarika-sutra 、これを日本語的に読めば「さだるま“ぷ”んだりかすーとら」となり「ふ」ではなく「ぷ-pu」であるからです。

さらに定着しませんでしたが、日本語の旧仮名遣いでは「きょう」は「けふ」となりますが、平安文学の研究などでは、この旧仮名遣いは文字どおりに読んでいたのではないのかといわれています。「なむみょうほうれんげきょう」を旧仮名遣いで記すと「なむめうほふれんげけふ」となるのでしょうか? すると Nam・Mehu・Pou・Renge・Kehu という音に近いことになるようです。

また、古代人は現代人よりはるかにゆっくりと話していたと言われ、たとえば歌舞伎のあのゆくくりとした発生のスピードが標準的なものであったのではないのかとも言われていると教えてくれた先生がおりました。

700年の時間の経過は文語的な変化ばかりではなく、それ以上に口語的変化があったことは否めません。

ここで素朴な疑問です。いったい、聖人が唱えられていたお題目は、如何様なものであったのでしょうか。

あと、よく言われることですが、座法も、正座ではなく、胡座であったことは御影像からも間違いのないことであるようですね。

ここでも、素朴な疑問です。しかし、女性はどうであったのでしょうか。ここら辺はよくわかりません。ご存知の方、いらっしゃりましたら、ご教示ください。

56独歩:2002/05/17(金) 20:06

【55の訂正】

誤)発生
正)発声

57いちりん:2002/05/17(金) 22:53
>座法も、正座ではなく、胡座であったことは御影像からも間違いのないことであるようですね

こないだ日蓮さんの涅槃図というのを観ました。
作られた年代は、よくわかりませんけど、相当古そうな。
釈迦の涅槃図にならって、日蓮さんの涅槃の姿を中心にして、弟子たちが描かれていました。

そのとき、描かれている弟子たちは、みんな胡座をかいているんですね。
一人として、正座していない。
ああ、なるほど、もしかして、鎌倉時代あたりは、胡座がちゃんとして座法だったかもしれないなあと思いました。

正座が正式な座り方になったのは、お茶の作法からという話もありますよね。
狭い茶室でお茶をいただくときには、胡座だと狭くなってしまうので、正座になったとか。

わたしは唱題は、やはり丹田に力が入るので正座で行いますけど、ながあく唱えるときや、インドの太鼓などを響かせながら、瞑想的に唱えるときには、坐禅の坐布を敷きまして、ヨーガの瞑想みたいな座り方です。

唱題しては、瞑想、そして唱題、そして瞑想なんてのも、なかなかよいです。

58一字三礼:2002/05/17(金) 23:27
うーん。そうなると、古来の日本語と現代語との相違で、濁音も気になりますね。
現代では「がぎぐげご」は文頭にこない限り、「んがんぎんぐんげんご」のような、鼻濁音で発音しますよね。関東圏に限るかもしれませんが。
少なくとも私の所属している南池袋の某寺院では、読経の時には意識的に注意して濁音と鼻濁音使い分けていたように感じました。

この濁音と鼻濁音の使い分けが、古来よりの伝統であったとして、また蓮祖聖人は現在の千葉県の御出身ですから、もしかすると「なんみょうほうれんんげきょう」と発音なさっていたかも。
いや、独歩さんの示された旧仮名使いと合わせれば「なむめうほふれんんげけふ」となるかも。
・・なんか原型とどめていませんね。

胡座での唱題ってなかなかイメージ湧きませんね。だいたい座像の御影像は、説法像が多いから。
でも考えてみれば天台流の止観行を深化継承している観心行として、唱題行をとらえると胡座でも自然かなとも思えます。

59独歩:2002/05/17(金) 23:28

57 いちりんさん:

聖人の涅槃図ですか。興味深いですね。

臨滅度の曼荼羅も懸かっているのでしょうね。伝説では入滅に当たり図示されたなどとありますが、それなのに、入滅図ではすでに表装されている(笑) ここらへんの乱暴さは微笑ましい分類でしょうか。

唱題と瞑想、発声と無声の差異はあるのでしょうけれど、根本的には同じなのでしょうね。正座と胡座、私は半結跏趺坐がいちばん、しっくりと合うんですね。

この前、とある誤僧侶と話していたら、「日蓮宗系は行道(経行)が欠けている」と。なるほど、言えていると思ったものです。いつしか、動的な要素が欠けてしまったのでしょうか。

海外の寺院などでは、むしろ、遶仏・遶堂は一般的なのでしょうね。
あと、五体投地も廃れてしまっていますが、『忘持経事』に常師が「教主釈尊御宝前…五体投地」とあるのを見て、当時は門下も当然、行っていたのだ思ったものです。
この辺を、いちりんさんの旅行経験からご教示いただけませんか。

60独歩:2002/05/17(金) 23:39

58 一字三礼さん:

「なむめうほふれんんげけふ」というより、「なむめう“ぽ-po”ふれんんげけふ」
たぶん、「なああむ・めえう・ぽおう・れえんげい・けいふう」というような感じかもしれません(笑)

鼻濁音ですか、なるほど。その問題もありますね。「む」音と「ん」音、限りなく近い音になりますね。

あと、御影像が胡座であるから唱題は胡座であったというのは、実は、私は石山教学部任務の僧侶から聞いたことです。まあ、石山では半ば公式見解でしょう。でも、たしかに御影は説法像ですね。大衆に向かって置かれることを想定した御影像が合掌礼で造立するのには抵抗はあったのでしょうね。

61菊水護国:2002/05/18(土) 12:45
> 勤行3分なんていう裁判記録もありましたね。

いえいえ、勤行0分だったと思いますよ。
ただし、裁判の証拠資料の池田さんのタイムスケジュールですが。

62独歩:2002/05/19(日) 08:10

池田さんを庇うわけじゃないけれど、“題目を上げる”音声はなかなかよかったのを覚えています。

けれど、いつか会合で顕師からもらった居士衣を着て正座していたら足がしびれて苦しんでいるところを写真に撮られて報道されてしまった(笑)それで「3分勤行」で物笑いにされたわけです。で、私は「なんだ、そんなもんだったのか」と思ったわけです。
ところが、故福島源次郎さんに会ったとき、「私は一緒に1時間、題目を上げたことがあるから、ああいった批判はよくない」、こう言っていました。公然と池田さんを批判していた人だけに、私はこの福島さんの発言は立派だと思いました。

感情的、侮蔑的批判は、批判する本人の人格を帰って疑われることになるものだと改めて考えさせられたものでした。

63川蝉:2002/05/26(日) 10:26
唱題の発音に関連して、

妙法尼御前御返事(弘安元年七月十四日・真在)
「めうほうれんぐゑきやう」と仮名で書かれていますね。

どなたかが、「池上本門寺ではナンと発音している」とコメントされていましたが、池上本門寺では「なむ」と発音することになっています。

臨滅度の曼荼羅は、入滅に当たり図示されたという伝説があるのですか?。知りませんでした。
弘安三年三月とされていますね。欠けていて見にくいですが、弘安三年太才庚辰三月と書かれているようです。

64独歩:2002/05/26(日) 13:14

川蝉さん:

ご指摘有り難うございます。

> めうほうれんぐゑきやう

の「ぐ」は編集の段階でよみの便宜に濁音を補ったのでしょうね。「ゑ」は既に失われた母音なので、実際はどのように読まれていたのでしょうか。大野晋説を敷衍すれば

「 Meu-Pou-Rengu“e”-Kiyau 」

とでもなるのでしょうか。
編集段階の表記の改めというのは、けっこう、ありますでしょう。聖人は吃音を「ん」で表記されていたと読んだ覚えがあります。となれば、「思って」は「おもんて」などとなり、実際のところ、当時はそんな発声であったのであろうと私は想像しています。

> 臨滅度の曼荼羅は、入滅に当たり図示されたという伝説があるのですか?

これは朗門系の方から聞いたでした。仰るとおり、図示年が記されてあり、やはり伝説の域を出ない話でしょうね。

65いちりん:2002/05/26(日) 14:45

ナムって、深く帰依するとか、信じたてまつるとか、心から尊敬するということでしょうが。
わたしなどは、まあ「おまかせ」という感じでとらえています。ちと真宗っぽいかなぁ。

で、南無の発音のことです。

インドあたりでは、「ナマステー」と挨拶しますが、ナマス(尊敬します)テー(あなた)ということですね。

「オーム・ナマ・シヴァーヤ」というマントラは、もっとも親しまれていますが、これはシヴァ神に帰依しますということになりますね。

神さまに捧げる儀式では、「オーム・サッチダーナンダ・ナマハー」という唱え方があります。
サッチダーナンダ(サット・チット・アーナンダ 至福につつまれている究極的な意識=自受法楽である神)に帰依します、というような意味でしょうか。

スリランカやタイあたりの坊さんは、「ナモー・タッサ・バガヴァト・アラハト・サンマー・サンブッダ・サー」と唱えますね。
阿羅漢である聖なるブッダに帰依しますということになります。

南無の原音は、ナマー、ナマハ、ナモー、ナームという感じがします。
これは、学術的な話じゃなくて、わたしのインドあたりのフィールドワークで感じたことですが。

まあ、「ナム」でも「ナン」でも、なんでもいいとは思いますが、心ゆくまで唱える、喜びで唱える、深い祈りで唱える、ありがたいと思って唱えるのがいいんでしょうね。

というか、唱えていると、心ゆくまで唱えられてくる。唱えていると、喜びに包まれる。唱えていると、深い祈りになる。唱えていると、ありがたいと感じる。ということになりましょうか。

唱えたから、祈ったからそれで、願いが叶うかどうかということもありましょうが、それよりもなによりも、しんどいてきでも、つらいときでも、よろこびのときでも、そのときのありのままに、唱えられる。それが、すばらしいことだと思います。

もっともシンプルで、難しいことではありますよね。

67モモ:2002/07/18(木) 00:52
質問です。御供養について。「貧女の一灯」「砂の餅」の話をひくと仏様に
なす御供養は大きな功徳を積むといいます。御法主上人の御指南によると大
六天の魔王も仏様に御供養して第六天の魔王になったそうです。

とはいっても所属寺院に御供養を沢山したいとは今はあまり思いません。な
んで信者が頑張れば頑張るほどお寺が儲かる仕組みになっているのでしょう
か。お坊さんもお金が集まるから思い上がるのでは、と思います。お寺と信
者を預かっているという意識の薄い僧侶もいるのではないかと思います。私
の寺院ではお講などの法要の時間が10分から20分ぐらい遅れるのはいつ
ものことです。そんなものでしょうか。私はこれでは参詣している信者に失
礼だし、明らかにマナー違反だと思いますが、講頭、副講頭をはじめ、誰も
なにも言いません。

御供養について、それならば大石寺に御供養すればよいのでしょうか。

私は感情論ではなく、御供養の功徳を積み、成仏したいと思っています。

68犀角独歩:2002/07/18(木) 02:54

御供養をすると功徳が積まれ、成仏するというのは本当でしょうか。

石山寺院に拠出した金品も、大石寺に拠出した金品も、けっして仏様の元には届かないでしょう。宗教法人○○寺、宗教法人大石寺の、それぞれの住職に届くだけです。それが供養といえるのでしょうか。

読経唱題こそ、仏様への供養なのではないでしょうか。

ただし、仏の使いである聖僧日蓮への報恩は、正しく日蓮の教説を伝える僧を供養することは否定すべきではないと思います。(ただし、それが石山僧であるというわけではありません)

聖僧の恩をば凡僧に報ずべし

まさに身命を捨て菩薩道に邁進する僧に報ずべきであると私は思います。

69モモ:2002/07/18(木) 03:37
独歩さん、レスありがとうございます。

>御供養をすると功徳が積まれ、成仏するというのは本当でしょうか。

新池御書に「信心もよはく、僧をも恭敬せず、供養をもなさず云々」
とありますが、これって真筆も写本もないのですね。驚きました。

>まさに身命を捨て菩薩道に邁進する僧に報ずべきであると私は思います。

今の大石寺にはなかなかそのような御僧侶は見当たらないのでは、といったら
おこられてしまうでしょうか。全部が全部とは言いませんが。

70犀角独歩:2002/07/18(木) 12:56

モモさん:

>> 身命を捨て菩薩道に邁進する僧に報ずべきである
> 今の大石寺にはなかなかそのような御僧侶は見当たらない

そうですね。いなければ、報ずべくもないということなのであろうと思うのです。
私は個人的に、石山僧と限定もしませんし、僧と限定もしません。
尊い菩薩の道を歩まれる方であれば、宗派の違いもなく、僧俗を区別するもなく、仰いで供養讃歎するばかりです。

71いちりん:2002/07/19(金) 10:04
「供養」とか「お布施」って、どこか「取引」っぽい心情がつきまといますね。
「供養したから、いいことがあるぞ」という。
「立派な、偉大な、正義の、真実の聖者とか僧侶とか教団とかに供養したら、いいことがあるに違いない」と。
それって、それはそうかもしれませんが、なにか「取引」「投資」みたいな感じがしますね。

で、そういう気持で「供養」とか「お布施」をすると、期待どおりにならないと、怒りが出てきたりするんじゃないでしょうか。

まあ、創価学会の言動を見ていると、そんなサンプルでしょうか。
日蓮正宗は偉大である、真実である、だからさんざん供養してきた。にもかかわらず、なんだ! という怒りがみられますね。

72いちりん:2002/07/19(金) 10:12

インドに行きますと、もうすごい数の乞食さんに出逢います。
もう、しつこいのなんのって、、、。
で、いくらか(日本円にして、10円とか5円くらいです)渡します。

で、あちらの乞食さんは、感謝の言葉も態度もありません。あったりめえだという顔をして、通り過ぎていきます。(少額だからというわけではないのです)

わたしとしては、なあんだ、少しは嬉しそうな顔をしたり、ありがとうみたいな表情でもしてくれたらいいのに、という気持になります。

どうして、インドの乞食さんは、感謝しないのだろうかと、わたしなりに考えたのですが。
たぶん、こう思うのです。

「お前さんは、わたしがいるから、御布施ができたんだよ。御布施によって、功徳が積めたんだよ。わたしらみたいなのがいなければ、お布施をしたくても、できないじゃないか。
だから、感謝するのは、お前さんのほうなんだよ」

……と。
お布施(あるいは供養)をするには、「お布施をする人」と「お布施を受ける人」がいないと、なりたちませんよね。
「お布施を受ける人」がいてはじめて、お布施が成り立つ。
そして、もうひとつ。「お布施するもの」が必要ですね。

「もの」というのは、たとえば、「お金」です。あるいは、「知識とか情報とか技術とかの手助けになるもの」もそうでしょうし。
あるいは「やさしい言葉」「にこっと微笑む」「穏やかな波動」みたいなものでも、「お布施するもの」になるんだと思います。

でまあ、そういうのは、「こういうことをしたら、いいことがある」という気持だったり、あるいは「感謝されること、見返りを期待するという気持」でやったとしたら、なかなか心は穏やかに澄みきることはない、と。ますます、執着を生むだけかもしれないなあと、思うわけです。

73いちりん:2002/07/19(金) 10:24
で、やっかいなのは、宗教は「正しさ」に依存することがあることだと思います。
「わたしたちは正しい」「わたしの信仰するものは正しい」「わたしの行は正しい」と、とにかく「正しい」というエネルギーがすごく出ます。

これが、信仰の力でありますが、じつのところ、これがいちばんなやっかいなものだと思います。
なにしろ「わたしは正しいことをしている」というのですから。

正しいと思いこんで、信じ込んで、まあお布施とか供養とかに、すごく頑張ってしまう。
頑張れば頑張るほど、わたしは正しいという思いが強くなる。そして、ますます頑張る。

でも、それって、もしかして、
仏教の正しい道を歩んでいる、正しい修行をしていると思いこみながら、じつは執着を強めて、怒りの心を増幅させているってことも、あるんじゃないかと思うわけです。

お釈迦さまのいいたかつたことは、「いいことをしなさい。悪いことはやめなさい」ということもできますが、それが本質じゃないと思いますね。
「いいことをして、悪いことはやめることによって、心を清らかにすること。清らかになること」だと思います。

心が清らかになるということは、たぶん、
これは自分のものだ、自分の成果だ、わたしの力だ、どうだすごいだろう、どうだみたか……という、そんな執着とかとらわれから自由になっていることなんじゃないかと思います。

で、そのとらわれの、執着の心が、よおく観察できるのは、お布施をするときですよね。
やっぱり、お布施をすると、感謝されたいという心があるから、それがないと心が穏やかでないから。

ああ、だから、カッコいいことをいっても、わたしはまだまだだなあ、などと自分の心を観察するいい機会になりますね。

自分のみっともなさ、醜さ、駄目なところを、よおくよおく観察して、気づいていく道。それが、心を浄めていく道。それが、お釈迦さまの説いた道と思うわけです。

74五月雨:2002/07/19(金) 11:47
ご供養のお話ですが、私は二年前の宗務院役僧と法華講連合会役員の全国行脚の指導会に参加したことがあります。その時の話では、Y沢さんが「ご供養をしたら功徳がある」とハッキリ言ってました。だから多くの人に功徳を積ませるために奉安堂ご供養に参加させてあげなくてはならないと。
もう一人の登壇者は、前年度のご供養の集まりが悪かったから「今年は去年の轍は踏まない」と言ってました。ご供養は真心なのに、“去年の轍”とは何事だと心の中では思いました。それでまあ前年度よりも多く出した記憶があります。宗内では「ご供養をしたら功徳がある」常識です。どこで狂ってきたのでしょうね。いちりんさんの仰った心根の“ご供養”のあり方は最初から無かったのでしょうか

75犀角独歩:2002/07/19(金) 11:47

供養の見返りを考えること、御利益信仰にはつきものですね。
そもそも、朝晩、勤行をするのも、「いいことがあるように、願いが叶うように」という欲求に基づいている人は多いのでしょうね。
供養は、喜捨ともいい、喜んで捨てること、捨てるから見返りを期待しないことと言われるわけですが、しかし、本当にそのような思いで御供養をする人は稀でしょう。

私の母親はここの掲示板で話題になる宗教団体の昭和28年からの信者でした。
40年間、居続けたのですが、財務、供養、出版物購入、レコード、テープ、興業チケット、活動費…、いったいいくらぐらい使ったのか計算してみたことがあります。ざっと7000万円、溜息が出る金額でした。

ふつうだったら、これだけの金品と労力、時間を費やして、言われた“効能”がなければ、裁判沙汰にもなるところです。たとえば統一協会であれば霊感商法被害などで訴訟となっているわけです。ところが、石山周辺ではならない。なぜだろう。しんみりと考えてみたことがありました。

私の母は「出した供養はあとになって倍になって返ってくる」という指導を本気で信じてつぎ込んでいったわけです。供養を出すときには、出すときに叶えたい願望、つまり祈願・祈念も篭めていました。

結局、出した供養があとになって倍になって返ってくることなんか、もちろん、ありませんでした。それでも文句は言わない。なぜなのか。これは要するに「倍になって返ってくる」ためには前提条件が付されているからでした。条件とは「もし、あなたの信心が強盛であれば」ということです。「叶う叶わないは各人の信心による」というやつです。もう少しわかりやすく言うと、叶わない=信心がない、叶う=信心があるという条件が付いていることになります。つまり、「叶わない。倍になって返ってこない」ということは「信心がない」ことを意味するレトリックが仕組まれているわけです。

信心をしている人は、たいがい、自分は信仰心があるという自尊心があるから、「信心がない」というレッテルを貼られることを、幹部になればなるほど、恐れることになるわけです。だから、叶わなくても、倍になって返ってこなくても、叶ったような、戻ってきたようなポーズを取るはめになります。それ故、「倍になって返ってくる、願いが叶う」という宣伝文句に偽りがあっても、文句を言う人はいないことになります。

また、これだけではなくて、倍になって返ってこなくても、願いが叶わなくても「お金という形で戻ってこなかったけれど、願いも念じた形ではなかったけれど、いま私がこんなに幸せを感じているのは、あのとき供養したからだ。自分に信心があったからだ」とすり替えられて肯定化されていく構造があります。

このような人の心理を、とことんわかったうえで、「倍になって返ってくる。願いは叶う」と指導して、恥じないのが、この組織というものであったわけです。

欲望・煩悩の肯定が大乗仏教だと吹き込まれた末路の常の有様です。
信者の多くが体験発表やらなんやらで、自分の成功、幸福をアピールしてやまないのは、実はこんな事情がひそんでいるのだと思います。

年老いた母の小さくなった背中を見ながら、この宗教の名を騙る悪徳商法の手口を、今頃になって気付いた、己の愚かさを思う自分があります。

そういえば、私の所属していた寺院の住職は、「ふつうの生活ができることが幸福なのです。つつましやかな生活の何が悪いのですか」と上述の在家団体にこするように御講で説法していたものでした。しかし、その当人が1億円近い個人預金を貯め、上場企業の部長クラスの給与を受け取り、国産最高級車を乗り回している私生活を知る側にとっては、空しく響く虚言であるとしか思えないものでした。

76犀角独歩:2002/07/19(金) 12:55

五月雨さんが引く話は、そもそも石山義に反します。
中興の祖・有師は紙一枚、半銭であっても、多額の供養であっても志を表すことに代わりはない、同じように仏様に取り次ぐことを石山の在り方としているわけです。

享師はこれを註するなかで、殊に多額の供養をする人に特別の表彰などを行って他を釣るような行為を厳重に誡めています。

達師もこれを略解して「供養の志は同じですありますから、そのまま平等に御本尊様にお供えすべきであります。もし僧が供養の物に、多少とか善悪の考えを持つと、すでに貪欲の心が生ずることになるから、地獄、餓鬼、畜生の三悪道に墜ちることになります」と、しっかりと記しています。

この意を、私は供養の多少で人を計り、多額の斡旋をする心中が既に三悪道に墜ちている相(すがた)であると解します。つまり、今の石山の供養斡旋が五月雨さんが記す如くであれば、現代の法華講連合会は先師の遺誡に背き、三悪道の浅ましい相を曝しているわけですから、石山においても、まして仏教の本義においても、それに従うことは仏法に背くこととなるのでしょう。

Y沢などと名前を伏せる必要はありません、柳沢さんでしょう。連合会で集めた金で最高級車を兄貴を運転手に乗り回して、金集めの斡旋をやっているこの人の、この指導が三悪道に墜ちた醜態であるということでしょう。金集め、堂塔伽藍の整備、人集め、こんなことでしか、信仰を表現できないこの人を私は哀れに思うのです。

・以下、参考に

【有師・化儀抄】
一、人の志を仏け聖人へ取り次ぎ申さん心中大切なり、一紙半銭も
百貫千貫も多少ともに志の顕はし物なり、あらはす所の志は全く替
るべからず、然る間、同等に多少軽重の志を取り次ぎ申すべし、若
し軽重の心中あらば必ず三途に堕在すべし云云。

【享師・註解】
一紙半銭を上つる猶志の薄きにあらず・故に取次を為す
僧分にては物資の軽重多少と其供養主の貧富とを邪計して一には重
大な供養を取別け鄭重に取り扱ひ・叩頭百拝は無論の事特別の作法
まで設けて其篤志を表彰して密に他を釣るの方便に供し・能施の人
に衒名驕恣の念を起さしむ、此に引きかへて軽少の供養に対しては
懇の挨拶をも為さず此様な取次は面倒なりと云ひたらんやうの顔し
て、能施の人に信仰供養の志念の萎縮せしむるに至る、此れ决して
善き取次ぎ方にあらず、二には猥りに能施者の意中を推量して、彼
の家にして此の志の薄きは何事ぞ、彼人にして此志の厚きは怪しき
等と・能施者の貧富と其場合と其物資の厚薄とを連想し猥りに其志
の厚薄を断定して、或は懇に或は踈かに本仏の宝前に披露せん事亦
决して其人其場合全力を尽したる絶対無上の供養と見て懇に御披露
申すべき事なるが故に・能施の弟子檀那も其の場合出来得る限り絶
待無上の志を表はすべき事勿論の事なり、「同等に多少軽重の志」等
とは・此時取次の心中に能施の物資の多少・志の軽重に偏執するこ
となく・其儘数量の有の儘をのみ宝前に披露すべしと云ふ事なり、
「若し軽重の心中」等とは・取次の僧分が一念も軽重に偏執して或
は踈かにすることあらば、其罪に依りて三悪道に堕ちて永く信行権
を停止せられ浅間敷苦労を為すべしと告誡し給へり

77五月雨:2002/07/19(金) 15:09
ご供養の仔細良く分かりました。させて頂く心掛けがあるように、仏様に取り次ぐ心掛けもあって当然ですよね。こんな事は言いたくないけれど
ウチの住職は、お寺に赴任した頃(まだ25才の若さでした。)に、母親に
御講に参詣した信徒の下足の数と、ご供養の封筒の数を数えさせ、二つが合致しないと御講の法話の中で、していない人はして帰るようにご指導?していました。石山はどんな教育を僧侶にしたのでしょう。でも、日達上人のお弟子の彼は、独歩さんが引いた達師の言葉に完璧に違背していますね。
 柳沢さんの名前は伏せても意味はありませんか。柳沢さんは法華講の中ではすごい信心をしていると尊敬されています。(指導は長いけれど僧侶の指導よりも現実的でした)
学会も連合会も大幹部は、信仰心を利用したお金で贅沢三昧してるなんてやっぱり“ドッチモドッチ”です。

78いちりん:2002/07/19(金) 15:36
しかし、あれですねえ。
ブッダたちは、ほとんど衣と鉢とサンダルくらいし持ってかなかったのでしょうけど。
出家というものの、どこの宗派の坊さんたちも、いろいろ持っていますね。
お金を持っている、家を持っている、車を持っている、肩書きを持っている、家族をもっている。
ひとつの「職業」ですね。
そして、停年退職のない、リストラもない、なかなかいい仕事だといえるかもしれませんね。

79いちりん:2002/07/19(金) 15:40
とくに創価学会の躍進時代には、日蓮正宗の坊さんは、二十代で住職になることができました。
でっかい寺の主ですからね。
収入もすごいし、所化さんもいて、人も使って。
それじゃあ、やっぱり勘違いしてきますね。

人が参拝して当然、御供養を持ってきて当然、相手が先に自分に頭を下げて挨拶するのは当然、……当然、当たり前……というような心になってしまいがちです。

で、それって、いつかは清算しなくちゃいけないこともあって。
やはり人間として一人前になるには、あとでいろいろと、苦労もしなければならんのですよね。

80犀角独歩:2002/07/19(金) 16:42

> 柳沢さんは法華講の中ではすごい信心をしていると尊敬されています

そう、あんな「すごい信心」はしたくありませんね(笑)

81犀角独歩:2002/07/19(金) 17:24

> ウチの住職は、お寺に赴任した頃(まだ25才の若さでした。)に、母親に御講に参詣した信徒の下足の数と、ご供養の封筒の数を数えさせ、二つが合致しないと御講の法話の中で、していない人はして帰るようにご指導?していました

本当ですか。寺院名を挙げるとご自身の匿名性が失われるのでしょうが、私は、このような摘発が事実であれば、どしどし実名で非を説くべきであると思っています。

こういうことを黙って聞いてはいけないのです。「あんた、なにを言っているんですか」と窘めて、自分のこめかみを人差し指でトントンと二回叩き、「ここ、大丈夫?」と、惚けたおつむが壊れていることを、ちゃんと教えてあげなければいけませんよ。

こんなものを指導教師、手続の師匠、僧宝尊信なんて言って、持ち上げるからいい気になるんです。いちりんさんの仰るとおり、どこかでちゃんと精算してあげないといけないのです。はっきり言って、こういう手合いを僧侶などと思っていけないのです。真跡はありませんが、彼らが使う御書に「法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし法師と云う名字をぬすめる盗人なり」とあります。このような者は僧侶ではなく、法の盗人です。御講で商う売僧というしかないでしょう。

私が学生時代に種々指導を受けた僧侶は「僧の僧たる自覚をあたえるは檀那なり」というのが石山の義であると教えてくれたものでした。古い檀家さんなんかは、小僧さんなんかが悪いことをすると怒鳴って叱りつけたりするものです。まあ、住職にそんなことをするとなると緊急事態ですが、若い世間知らずの者が住職になったのであれば、一般常識を教えるのは檀家の努めでしょう。これは自分の寺を檀家が責任を取るということです。それでもし、役を追われようと、寺を追われようと、断固たる信義を貫くのは祖師・日蓮への御報恩であり、必ず冥加に叶うと心得るべきであろうかと思います。

そして、決して等閑の供養はしないこと、道に外れた僧侶の供養は差し止めることが仏教の本筋です。聖人は『立正安国論』に

能仁(のうにん)の以後の経説(きょうせつ)は則ち其の施を止む。

と記されます。僧侶に理不尽な行動・言動があれば、その非を責められないまでも、供養をやめることは檀那として、正しい在り方でしょう。

82犀角独歩:2002/07/19(金) 17:26

ちょっと、文章がうまくありませんでした。

> どしどし実名で非を説くべき

というのは、五月雨さんが実名でということではなくて、この寺院と住職を実名でという意味です。

83現時点:2002/07/20(土) 23:34
金ゃ供養を求める宗教団体・教団はつたない経験から思うとシャキャムニの教えではない

にせものだと思います

ノルマ的な折伏や新聞啓蒙、組織活動を要請する宗教はにせものだと思います

供養とは見返りを求めないこと、シャキャムニの教えとは何かに依存しないで自立して生きよ

と思うのです

お山や学会の組織信仰をやめたのです

シャキャムニの言う 自灯明 で この現実を 何かに依存しないで 生きると

現時点でそう思います

84五月雨:2002/07/21(日) 00:12
住職の実名=私の実名がバレテしまいますね。私はここに書き込む事によって、本人は読んでいるだろう、そして期待もしていないが、心情的には本人の少しの反省もあるだろうと少々思っています。今まで書き込んできた事は、本人にはすぐ分かる事柄ばかりです。独歩さん、彼に限って言えば今まで書いた事実なんて序の口です。
「僧の僧たる自覚をあたえるは檀那なり」 
講頭初め役員も、何度も話し合ったのですが、しもじものものが何を言っているんだという彼の態度に、皆諦めました。くっらぁい(暗い)気持ちで、御本尊様対自分だと諦めての信心で、足を運んでいる法華講のじぃちゃん、ばぁちゃんばかりです。
ウチのお寺も二十年で消滅やねと言ったら、法華講のばぁちゃんは十年もたへんと言ってました。泣き笑いのウチのお寺の現状です。

85モモ:2002/07/21(日) 03:42
今日は御登山の日です。独歩さんをはじめ御教示ありがとうございました。
今日はやはり大石寺に御供養申し上げようと決めました。今の私にはそれが
必要なことだと主観的に思ったからです。

五月雨さんも講中活動において悩まれたことと思います。

ここで私の体験をお話ししようと思います。私もお寺の中で3歳年上の執事に
いじめられていました。具体的に話してしまうと正体がばれてしまうので細か
いことはやめておきますが、役職を降りるときに追い討ちをかけるようなこと
を言われたり、「自分は君の面倒を見ているんだ」みたいなことを言われたり、
無視、仲間はずれ、そんなのばかりでした。私が冬の寒い日にお寺に参詣する
とストーブを消されたり。本人は意識していないでしょうけど、そんなことを
されたら普通の信者はどう感じるでしょうかね。そんなのばかりでしたよ、は
っきり言って。それが、今年の3月に移動になったのですね。喜んだこと、喜
んだこと。ばんざーいって感じでしたよ。ちゃあんと仏様のお計らいってある
のかなって思いましたね。もちろん自分にも反省すべき点はあったのですが、
その分を差し引いても正直言って傷つきました。取りあえずこれ以上はやめて
おきますが、いずれにせよ私はこれからも仏道を求める信者でありたいと思っ
てます。

86現時点:2002/07/21(日) 08:06
深い反省をこめて言えば、盲信、原典にあたらない二次的情報への鵜呑み、社会的常識等の

知性の不足等によりだまされてきたと思います

上記に記されているところの組織の信仰はその意味でやるに価値ない信仰ではないのか、そうも

思えます

登山の強要や金銭的供養等が信仰だとするなら、それはシャキャムニの教えではないと

思います

87現時点:2002/07/21(日) 08:26
仏様は供養を求めたでしょうか、仏様はおいしいものやぜいたくな暮らしをしていた

でしょうか

おこりっぽかったり、ひとをさげすんだり、絶対正しいなどと言ったでしょうか

私にはそうは思えません

だとすれば、その反対のことどもをなしているものは、シャキャムニの教えではないと

私には思えてなりません

なけなしのお金などを供養しても誰もあなたが困ったときに守ってはくれないのですよ

大切な人生と生きるために大事なお金や時間を無駄遣いしないこと

深い自省をこめて今の私は思います

88菊水護国:2002/07/21(日) 09:07
実は古い寺院では宗教法人の責任役員に在家もなっております。
その代表役員は住職ですが、決議権は平等に1票有ります。
新しい寺院では宗教法人の責任役員体制はどうなっておるのでしょうか。
知っている方、御教示ください。

89問答迷人:2002/07/21(日) 13:19

私のお寺では、信徒総代3名が責任役員になっています。創価学会寄進による、お寺です。形式上、毎年、県と、宗門と、寺院控えの3通の会計報告書に承認印を押すために寺院に呼ばれます。そして、形式的に報告書の簡単な説明を受けて、帰って来ます。総代は、自嘲して「判子総代」と言って苦笑いしています。

90犀角独歩:2002/07/21(日) 16:29

五月雨さん、皆さん:

> 講頭初め役員も、何度も話し合ったのですが、しもじものものが何を言っているんだという彼の態度に、皆諦めました

要するに、これは寺院・住職と檀信徒の関係にしか目がいっていない発言であると思うのですよ。
しかし、宗教法人というのは公益、公共に係る法人、つまり、信者であるとかないとかではなく、世の中に利益に関わる存在であり、その健全維持は檀信徒に委ねられているという関係が見落とされていませんか。寺院というのは宗教団体と僧侶、檀信徒のためにあるのではないのです。責任は信じている側が担っています。諦めてはいけないのです。

ただし、私は石山・末寺に日蓮の神(たましい)はもはやなしと判断しましたので、その場を去りました。しかし、祖師日蓮を片時も忘れたことはありません。そして、その祖師が「御恩、報じ難し」とまで言われた釈尊を仰ぐために、自分なりの道を選んだのです。

短い一生です。愚痴を言っている暇はありません。
私は私のやり方で、この問題にはきちんと片を付け、仏祖に対する報恩を果たそうと思っています。

91ワラシナ:2002/07/21(日) 22:03
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題」

0、暑いので体力的にきつくてここでは論証的には書けませんから、かいつまんで
述べますと。結論的にいえば「あるタイプの信者はこの問題で理念矛盾を抱え込ん
でいるため在家信者としての力、パワーを100パーセント生かし切ることができ
なくなっている、このタイプを信者総体としてみればったかなりのの割合でいる、
と観察される。
したがって、今後長期的には教団が社会に与えるよい意味での感化力、影響力は縮
小されたものになるだろう。(言い換えれば、社会にとっては存在していないのも
同然扱いになる)」と考えられる。

1、この抱え込んだ理念矛盾とは、「正宗入門」の信者の評価基準を見れば明らかで
よき信者の「よき」とは「旦那」語義と同じで「寄進の量的な規模の大なること」で
ある。決して「布教の量的な達成の大なること」にはないのである。
この二つを原理的に突き詰めて考えるとき、ふと陥る考えが、これは矛盾相克ではな
いか、というものである。ひとりが一年にひとり入信者を作る布教活動でそこそこの
御供養をやっていく地道な活動のどこが矛盾なんだと抗議される方のためにもう少し
説明すれば、人生の限られた時間と経済の中で遂行されるべきものとしての「経済と
信仰の二者択一、優先順位付け」をどう理想的にやっていくべきか、についての、そ
の信仰哲学的な指針みたいなものが、一元的に統一したあり方で信者に示されていな
いのが現状ではないのか、ということを感ずるのである。

2、いいかえれば、信者の信仰増大と私生活の充実の両者の調和を目指したような適
切な割切り方がガイドラインとして示されていない、不足しているように感ずる。

3、であるから、こんごはつい先頃あった事件、教団対立問題での思想的な相克が克
服できず自殺に追い込まれてもその為の事後策が打ち出された形跡もない、この現状
では、同様に逼迫する経済問題と信仰の理想との両者の達成の戦いに敗れて自殺の追
い込まれる信者さんも多くなることと予想される。

4、対策としては、信者は「入門」のガイドラインにお示しのように信者たるべき者
の第一優先順位を「金(カネ)」の確保に置き、信仰活動を第二順位、二義的にせざ
るを得ないのである。

92五月雨:2002/07/21(日) 22:43
独歩さんの見方は、世間から見た寺院・住職と檀信徒の関係ですね。私は、日蓮正宗については当てはまらないと思っていました。“邪宗とは違います”から。一緒にしたら怒られますよ、法華講員に。そんな雰囲気です。指導教師の事を、会合の時など何と呼ぶかご存知でしょう。「御尊師」て゜す。(私は頭の中ではつい「ご損師」と思い浮かべてしまいますが・・・余談でした。)「御尊師」と呼ぶように指導教師から教わりました。自称「御尊師」の尊い方に、日頃の行いをご注進申し上げるには言葉遣いに気をつけて、細心の心遣いでお話していました。丁寧な物言いのお願い口調の叱咤は、やはり通じません。そして彼はあまりに鈍感でした。持って生まれた性格によるものて゜しょうね。仕方ありません。世間付き合いは嫌いと、世間との関わりは極力避けて、ご近所での評判も悪いお寺ですので、きっと公共の利益にはかかわらないと思います。こんな考え方はいけないと言われそうですね。私は自分の信仰の矛盾にやっと気付いたところです。まだまだ勉強しなくてはいけません。そしてこの矛盾が自分の言葉で語れるようになるまで、時間はかかりそうですが、独歩さん初め、このサイトでご発言の皆様方には勝手ながらいろいろとご指導・ご教示をいただけますように心からよろしくお願い申し上げます。なるべく愚痴は言わないように致しますので、お許し下さい。
 
>私は私のやり方で、この問題にはきちんと片を付け、仏祖に対する報恩を果たそうと思っています。

独歩さんのやり方はどんなやり方ですか。差しつかえが無ければ教えてくださいませんか。それと、独歩さんは御書の拝読について常に真書を読む事の大切さを訴えておられますが、真書かどうかはどうすれば分かるのですか。書いてる書物などがあるのでしょうか。お教え願えませんか。「生死一大事血脈抄」「兄弟抄」はどうなのでしょうか。
よろしくお願いします。

93アネモネ:2002/07/21(日) 22:51
私のお寺は、派閥争いが絶えなくて、私が入信してからでも、派閥争いがもとで3回も講頭以下役員が変わってます。
最初は、任期目前にいきなり住職の命令で役員全員が辞表を書かされ交代し、そうかと思えば、次の講頭と副講頭は一ヶ月ほどで講中への説明もなく自ら辞表を出して投げ出してしまい、仕方なく前の講頭が再任されましたが、その後も派閥争いは続き、一昨年前には講中の全く知らないところで、「常任会議」などという秘密めいた組織が数人のメンバーでつくられ、そこで講頭・副講頭罷免が決議され、さらに次の現講頭・副講頭まで決められ、それを住職も承認してまた交代し、現在に至っています。
その都度きちんとした説明もないまま、いわゆる「しもじもの講中」の知らないところで、勝手に役員が決められていくことがあまりに不可解で、私は幹部の人に「法華講規約を見せてほしい」と申し上げました。そうしましたら、「規約は誰も見たことがないんですよ」というお返事。「そんなのおかしいです」と続けようとすると、何か意味不明なことを繰り返して、私の言葉は遮られてしまいました。
ところがです、今度は派閥内での内部抗争が起きたようで、講頭を罷免する会議「常任会議」のメンバーだった一人が粛清にあったらしく、罷免会議のときの文書を御講のとき講中の人に配ったんです。(この文書で「常任会議」の存在と現講頭選出の経緯を知りました)
その文書を見てびっくりです。「講頭、副講頭の罷免について」の項目があって、そこには、「○○寺支部規約則り、少なくともトップは互選されるべき」と、規約の内容が記されています。講頭などの幹部は支部講中で互選されなければならないということですね。これまでのどの役員選出も、講中互選の手続で選ばれてきたとはとうてい思えません。しかも、この常任会議そのものだって講中で承認したものではないわけです。この秘密会議で現講頭が互選されたとしても規約違反ですし、それまでの幹部選出にまつわるすべての経緯が、明らかに規約違反だったのです。
だけど、講中のほとんどの人は、規約を見たことはなく、その内容はもちろんのこと、もしかしたら存在すら知らないのが現状です。恐らく、どこのお寺でもそうなのではないでしょうか。

先日、私のところにお電話をかけてこられた代々の法華講で地方部の連合会で役に就かれている方にも、「信徒に法華講規約を開示していないこと自体おかしい」と言いましたら、
やはりその人も「規約は見たことないなぁ。あるのかなぁ」と、明らかにとぼけるのです。私は、「規約を開示したがらないのは、規約に不正な形で講が運営されていてるからじゃないのでしょうか」と言いましたら、「規約、規約と教条主義的に運営するもんじゃないでしょ」と怒鳴られました。私は、「そんな組織なら所属したくありません」と言いましたところ、今度は「規約もこれから変えて行かなければならないでしょう」と小声でブツブツ。「見たことないなんてウソじゃない」と言ったら、とうとう黙ってしまわれました。
それにしても、ごく当たり前に規約を持ち出しただけなのに、まさかそのことを「教条主義」と返されるとは思いもよりませんでした。
だいたい、信徒に規約を見せないこと自体、宗教法人としての責務に反しているのではないでしょうかね。

ちなみに文化庁のホームページにはこういうことが記載されています。
http://www.bunka.go.jp/frame.asp?tm=20020721210321
宗教法人の運営は規則に決めたとおりにしましょう。
1まず,みなさんの法人の規則を見てください。
規則は,みなさんの法人を運営するための根本原則です。
みなさんの法人が,その運営方法について所定の手続きを経て正式に作成し,所轄庁の認証を受けたものです。言い換えますと,みなさんの法人の運営方法について公に示したものです。ですから,法人の運営を規則に従って公明正大に行うことは,法人として当然の責務であり,社会的な信用を損なわないよう適正な管理運営が求められています。

94アネモネ:2002/07/21(日) 22:52
五月雨さん、モモさん

私はこんな調子でしたので、お寺の中では、特に幹部からはものすごく疎まれてました。
メチャメチャわざとらしく挨拶を避けられる方もいるんですよね。いやな感じです。
寄らば大樹の陰で、強い者に巻かれる心理の人が大半ですから、私なんかのちょっとした質問はすぐにかき消され、質問した私がいかにも悪いみたいに言われるんですね。また、そんなことに気をとられているうちに、いつのまにか今度は自分が修羅の心になってしまっていたりして、この空間はなんなんだ!って感じでした。
五月雨さんとモモさんが、どんなに情けない気持ちでお寺に参詣されていたか、本当によくわかります。
きっと口にはできなくても心の中で、同じことをなんとなく感じている人はたくさんいて、五月雨さんやモモさんの書き込みを目にして、共感していることと思います。

95アネモネ:2002/07/21(日) 22:52
ワラシナさんの「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題」賛成です。
『第一優先順位を「金(カネ)」の確保』にはちょっと抵抗もありますが、でもそのくらいはっきり示さないと変革されないでしょうしね。
お寺の方に、「信心第一、仕事第二のご指導は納得できない」と言いましたら、「そんな指導は聞いたことないな」とぼけられました。私はいやというほど、御講で聞かされたんです。「ウソつき!」と言いたかったです。

96犀角独歩:2002/07/21(日) 23:19

五月雨さん:

> 独歩さんの見方は、世間から見た寺院・住職と檀信徒の関係ですね

違います。世間からの見方と信者との見方に隔壁がある異常さの指摘です。

> 御尊師…

ですから、もしそちら重職がやっていることじじつであれば、「御尊師と呼べ」と言われたら、そう呼ばなければいけない理由がどこにあるのですか。やっていることは法盗人、「この泥棒!」と窘められればよいわけです。

事実、私は、そういうところではまったく妥協がありません。
ここでは丁寧、儀礼をもって書いていますが、現実の私は相手が。間違っている判断するとき、何の妥協も躊躇もなく、思ったことを、身振り手振り、過激な言動も含めてしっかりと伝えます。つけあがらせる必要はありません。

御尊師をご損師と思うならば、そのまま、相手に伝えればよろしいわけです。私はそのようにします。こそこそ裏で言って、本人なあなあで付き合うなどという二枚舌は私にはできません。

>> 私は私のやり方で、この問題にはきちんと片を付け、仏祖に対する報恩を果たそうと思っています。
> どんなやり方ですか

ここで簡単に記すことはできません。しかし、私を知る人はこう記せば、すぐに了解されることでしょう。五月雨さんとお会いすることが、今後、あるかどうか。しかし、追ってここで記した意味はご理解いただけるようになるでしょう。時のしからしむるのみです。

> 真書かどうかはどうすれば分かるのですか

真跡が残っていれば、真書でしょう(笑)
これは祖書学の基本です。
以下のような頁があります。
また、お持ちの御書の目次にも真跡の有無は記されています。

http://www.raidway.ne.jp/~ben/data/g-list2.html


> 「生死一大事血脈抄」「兄弟抄」はどうなのでしょうか

もう何度も記してきたことですが、『生死一大事血脈抄』の対告衆と係る御書は架空のものでしょう。方や『兄弟(きょうてい)抄』は、もちろん真跡でしょう。

97犀角独歩:2002/07/21(日) 23:26

ワラシナさん:

お久しぶりです。
現在、身延オフを企画しています。ご参加いただけませんか。

K会では席を失うほど、優れたご提言をなさってこられたこと、敬服いたしております。同じく、同様の勢いで、いまの有様の過ちをどしどしと改変される慧眼をお示しいただければ、私も参考になります。

僧侶の立場を考慮して、状況を鑑みるなど、ワラシナさんには似つかわしくないところと存じます。

かつて私が市中の独覚とお呼びした提言の冴えの復活を心待ちしております。

98ワラシナ:2002/07/22(月) 10:07
アネモネさんへ

*結論命題「既存の産業社会あるいは、その中での教団経済との関係現実などが当然視され、仏教の、宗祖の理想としたような経済システムの存在が発想されない事」

1、「金(かね)」の確保が最優先されなければならない訳は、教団の信仰活動の現実そのものだから。
1ー1、登山には費用がかかり、何回も行く為には、仕事を休まねばならず、最近増えて来た賃金体系である(日給月給)では、その日の信仰の為に明日一日の自分のくびを絞める所作、になる。
1ー2、塔婆代のコストダウンをすれば浮かばれる先祖のカズがふえて先祖も喜ぶと思うのに、今の値段では、何本もできない、ここでも、先祖供養という信仰をよりよくする為には、金が沢山必要になる。

2ー0、結論的にいえば「まず」ですよ、「まず」金が無いと信心活動が(うまく)できないシステム」なんです。まず金が無ければ何も出来ない、なんて当然じゃないかと、言う方もおられるでしょうが、その既存の当然性を疑り得る発想を許したのが「宗教の価値」じゃなかったかと思う。

99五月雨:2002/07/22(月) 11:39
独歩さん
 キビシイお言葉の数々、肝に銘じました。

>世間からの見方と信者との見方に隔壁がある異常さの指摘です。

ウチのお寺の状況は“異常”なのでしょうね。ウチのお寺の信徒は「元・学会員/現・法華講員」の集まりです。代代の法華講信者のいない中において、僧侶との関わり方を知りませんし、住職に御注進申し上げるのも、腹に据えかねてやっとの思いで、やんわりと回りくどく言うのが正しいあり方だと思っていました。それ以上の事は批判・中傷で「僧宝」に対する謗法に当たると自重してきたのです。「僧侶批判は罰が当たる」と皆思っています。「功徳か罰か」行動の基準です。罰が当たる事はしたくないというのは本音です。そんな気持ちが強かったので何も言えなかったのです。現在お寺に通っている人も同じ思いでしょう。私がお寺を見限って以来も、講の人たちは同じ事をこぼしています。私も散々な事を言われ続けてきましたが、やはり墨染めの衣を着て僧侶の形をしている人間に対して、どんな酷い言葉を投げ付けられても、言い返す時は丁寧語で十のところを三くらいしか言えませんでした。「私らは奴隷よ、犬畜生以下よ」前・副講頭がよく言ってました。独歩さんみたいに強い信徒がいれば彼などボコボコにしてたでしょうね。今度彼に会う事があったなら、独歩さんに“二枚舌”と言われないように素直に彼の苦手な「関西弁」で気持ちを言います。
 真書の件、早速に教えて戴きまして有難うございます。あまりの不勉強の輩に呆れて物も言えないのではないですか。でも、ここのサイトでお会いしましたのも何かの縁と諦めていただきまして(勝手な事を言ってゴメンナサイ)こんなクダラン質問をする私をご容赦ください。

100いちりん:2002/07/22(月) 11:52
信仰というのは、どんなときでも、誰でもできることだとは思いますが。
それこそ、幼児から臨終間際の人でも、寝たきりの人でも。

でも「恒産なければ恒心なし」というのは、ありますよね。
経済的な基盤がなければ、食うや食わずの生活では、もう余裕はなくて。

かつては、農家の次男や三男で、食って行かれないと、寺に預けて坊さんにしてしまうなんてことがあったんでしょうね。

いまの日本では、出家するにも、すごくお金がかかりますね。
袈裟だの法具だの師匠や本山に対するお布施だのと。まあ100万円くらいは必要なんでしょうか。

いろんな団体とかみていますと、まあ、どこもやはり金がかかる。
まあ金がかからないで、文無しでも、暮らしていける団体があるとしたら、ヤマギシあたりかなあ、なんて。(お金のある人は、ぜんぶ寄付してしまうわけですが。逆に、なんにもない人は、寄付するものもないから、ラクなわけです)

ヤマギシににいる、もと坊さんがいましてね。
彼が言うには「寺にいるときには、土地も車も持ちきれないほどのものがありました。山木虫に入って、いまわたしの持ち物は、風呂敷一枚に入るものしかありません。どちらが出家かといえば、寺よりもこちらのほうが出家だと思います」と。

インドに行きますとね。まったくお金を取らないで、もう何年でも、いられるアシュラムがたくさんあります。泊まるところも食事も、お金を取りません。ただ、セヴァといいまして、魂の成長となる奉仕活動はします。

瞑想とか修行が好きなら、まったくお金が必要なくても、修行のできる場がインドにはたくさんあるんですね。

もともと日本の寺も、そういう場だったんだと思いますけど。


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