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六巻抄について

1バックアップ:2002/02/19(火) 20:21

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/15(火) 22:12

名前: 独歩 投稿日: 2002/01/15(火) 21:44

さて、六巻抄の発題をさせていただきます。

「六巻抄は何を説こうとしたのか」

まず、この点をフリーハンドで論じ合いたいと思います。

2バックアップ:2002/02/19(火) 20:22

234 名前: tokumei 投稿日: 2002/02/15(金) 02:06

もう一つ。
 自然界にある素因数の暗号化では、17年蝉(ジュウシチネンゼミ)が有名です。この蝉は地中で17年を過ごし、やっと羽化して寿命を全うするのですが、なぜそんなことをするのか今以て不明です。ある説では、寄生虫を避けるためとしています。ここに、蝉を狙うライフサイクルの長い寄生虫が居るとして、地中に発生する時期をずらさなくてはなりません。寄生虫のライフサイクルが2なら、蝉は2の倍数を避けて地中に出ようとします。或は発生しようとします(つまり交尾)。最良の策は、割り切れない長い素数の年月を過ごすことです。17はどの数でも割り切れないので、寄生虫のライフサイクルが仮に2年としても34年間は同時発生することがありません。また、寄生虫はこの蝉に合わせようと毎年発生したとすると、16年間は顔を合わせないで待たなければならない。16年間、宿主のない寄生虫が生き延びるのは大変なことです。
そこで、ある時期にライフサイクルを17年に合わす可く、引き延ばし進化し続けて、16年になったとします。ところが16かける17では272年間は顔を合わすことがないのです。どちらにしてもこの寄生虫は絶滅したことでしょう。
 さて、私はこの無始から始まっての数と立宗の750年が何か関連がないかと期待しています。

3バックアップ:2002/02/19(火) 20:22

235 名前: Libra 投稿日: 2002/02/15(金) 02:27

 独歩さんへ

> やはり、反論されましたか。当然でしょうね(笑)

 申し訳ありませんでした。つい書いちゃいました(笑)。

> 実際、その実否はとことんやると六巻抄見直しスレッドからはみ出ますので、
> まあ、やめましょう。

 了解です。このスレッドのせっかくの話の流れを、私がおかしくしてしまっ
たようですね。申し訳ありません。

> 229については、少し休んでから後述します。

 私ごときの愚考などは捨て置いて、本題の方を進めちゃって下さい。

4バックアップ:2002/02/19(火) 21:12

236 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/16(土) 10:13

Libraさん:

> 仰りたいことは分かります。「相即」とか「空」とかいう考えは、正しく使
わないと、すぐにとんでもないことになってしまいます。

そう思います。

>  タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子)

これはなかなか面白かった。タントリズムが仏教の最終形態でありながら、先祖帰りを通り越して批判しそうに戻ってしまい、ついには仏教とは言えないものになったという批判は、インド学などでも言われていたと記憶しています。なにせバラモンでは、司祭が祈りをやめると太陽も昇らなくなると人々は怯えていたし、死後、祈りを捧げられないと餓鬼となって、さ迷い歩くことになるなどと恐れられていたと言います。ですから、司祭は絶対的な存在で、崇められ恐れられすべてを委ねていた…、学会にいたとき、「先生に逆らうと地獄に堕ちる」と言われていて、石山に来たら「猊下に逆らうと地獄に堕ちる」と、こうなりました。この根源はブラフニズム的宗教観という似非仏教にあったのでした。曼荼羅はタントラですから、これを本尊と言ってしまえば、こういう誤謬は自動的に引き出されていくことになるでしょうね。

>  「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解(小川一乗)

これも言えています。漢訳の問題、さらにインド人と中国人の根本的な思惟形態の違いも大きな原因にあるのでしょうね。さらに日本には日本教ともいうべき「カミ」という思想が生き続け、神道、仏教、キリスト教という宗教のなかに大きく生き続けています。この“引き算”をせずに語られることが余りに大きいわけでしょうね。
いちりんさんのサイトなどを拝見すると、しかし、こんな問題意識をもたれた方がいらっしゃるので、見識のある方は、やはり気付いていると思うわけです。
縁起・空という言葉を使えば大乗仏教だ、ではなく、その根本的な思惟が板につかないとだめだということでしょうね。しかし、「空」は本当にむずかしいですね。第一、「空」と文字に書いた瞬間、言葉で説明した瞬間に実在化が生じてしまうわけです。

>  しかし、だからと言って、「空とか相即などと言うのはやめよう」と言うわ
けにはいかないと思うのです。重要なのは、「相即」とか「空」とかいう考え
を〝正しく使う〟ということではないでしょうか。

そうですね。「言語道断・心行所滅(原語の道を断ち、心の業を滅するところ)」という限界を常に意識していくこと、まあ、厳格には正しく使えないという限界をまず知ることでもあるでしょうね。それでも正しく使おうと努力するしかありませんね。

> 「報身」についても同じように考えます。

ここは、まあ今後ともゆっくりと(笑)

>  〝真理は「無始無終」であるが、ただ真理があるだけでは「仏」はまだ存
   在しない。「真理」を「智慧」としてさとって、衆生を導く存在が出現
   した時に「仏」はこの世に誕生するのである〟

Libraさんの常套句ですね(笑)
これがまた、無始のうえに五百塵点が置かれる意義であると考えています。

> つまり、「真理」が「法身如来」になったのは、それを「智慧」としてさとって、衆生を導く存在である「仏」が出現した時点であると。

言われることは、わかるような気がします。すると、法性、真如と法身は違うということでしょうか。

>> 難しいことを書くこと自体、もう罪悪視するような傾向があります。
> これは実感としてとてもよく分かります(涙)。

仕様がないと思うわけです。釈迦滅後1000年(聖人の考えでは1500年)部派によって構築された膨大な概念を、さらに中国仏教の誤謬を、さらに日本教の混入を、さらには中世の汚染を、さらに現代思想の混入を選別していこうとするわけですから。まして法華経は難解難入といい、学ぶのに難信難解でありながら、随自意というのでしょうから。しかし、Libraさんもお感じになられると思いますが、この思惟は、実に興味尽きるものではなく、そして、楽しく、思惟するほどに心洗われ、わかるほどに元気の出る作業ですね。私にとっては生きがいです。

> 私ごときの愚考などは捨て置いて、本題の方を進めちゃって下さい。

何をおっしゃいますか。よろしくお付き合いいただければと存じます。

5バックアップ:2002/02/19(火) 21:13

237 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/16(土) 10:18

tokumeiさま:

数学から相承までですか。また、深秘を記号と。構造主義のようで興味が涌きます。
私の尊敬するある方は、当初、仏教を学んだけれど、さらに知りたくなって精神医学に転じました。その方の仏教の説明は実に説得力があります。

数学で仏教が説明できるとしたら、これはまさに永遠の真理たりえるでしょうね。思惟を期待します。

6バックアップ:2002/02/19(火) 21:14

238 名前: 無明 投稿日: 2002/02/17(日) 10:11

独歩さま

ありがとうございます。

寛師説を聖人・天台の祖意から見直すという本来の目的感から自ら脱線してしまいました。ややこしくなるので、これらの点はまとめてあとで考えたいと思いますが、いかがでしょうか。

仰せのとおりです。六巻抄の見直しが主題ですので他日御高見を拝聴いたしたいと心から願います。

三五の問題で三は因位をあらわし、五は釈尊の果位をあらわしているとみれないでしょうか。六或示現ではとも思うのですが。

これは、どうでしょうか。的外れの応答しないために、もう少し詳しく再掲していただけますか。

三五の問題で三は因位をあらわし、五は釈尊の果位をあらわしているとみれないでしょうか。六或示現ではとも思うのですが。
これは、どうでしょうか。的外れの応答しないために、もう少し詳しく再掲していただけますか。

浅学でありますので、定見がないため、北川師の考えを記します。

「法華取要抄」には、三者三千塵点劫。諸京経或明。釈尊因位或三祗。或動喩塵劫。或無量劫也。 略 又諸仏因位与釈尊因位糺明之。諸仏因位或三祗或五劫等。
釈尊因位既三千塵点劫巳来。娑婆世界一切衆生結縁大士也。此世界六道一切衆生他土他菩薩有縁者一人無之。

これについて、北川師は「日蓮聖人教学の研究」で、過去三千塵点劫における釈迦菩薩と我々と法華経を媒介として必然的な関わりがあることを述べられ、釈尊が菩薩という因位において我ら衆生に法華経の縁を結ばれた 中略  本門寿量品において釈尊の果位として五百塵点劫が明かされる 
によったものを省略して記載したものでした。

「清澄寺大衆中」は身延曽存で石山系では真蹟に数えますが、他門下では別れています。やや慎重に扱いたいところですが、この文の「我」と「先」が何を意味するのかが問題になります。けれど、常識的に読めば寿量品の「我」、つまり、釈尊です。では「先」を“(五百塵点)以前”と読めば、無始古仏と整合性を示すことになりますでしょうか。

北川師は真跡主義をとられていると思います。曾存も含むという意味でもあります。
ここで北川師は、同遺文を踏まえ、「これらのことから聖人は五百塵点劫を始めがあり終わりがあるという常識的時間観念でとらえられていたのではなく、久遠無始と解釈されたのである。そのことを「開目抄」には発迹顕本によって釈尊の本因本果が明らかにされた次下に
九界も無始の佛界に具し、佛界も無始の九界に備わりて、真の十界互具、 一念三千なるべし
と断定されている。これは聖人が顕本された時間を久遠無始という観念で把捉されていたと推測できる。したがって五百塵点劫の意味は顕本の本、無始と同義に解釈されるべきものであろう。」と記載されています。

7バックアップ:2002/02/19(火) 21:15

239 名前: 無明 投稿日: 2002/02/17(日) 10:36

独歩さま

つづき

久遠無始と解釈するのはよいのですが、では逆に、ならば法華経では、ここに敢えて五百塵点という表現を用いなければならなかったのでしょうか。

そうです。ここがまさにポイントです。独歩さまが御高見の一端を披瀝されましたので、浅学である私は、浅井麟師の論文、北川師の本では把握の仕方が異なるので、両氏の考えに対して是非とも独歩さまの卓見をお聞きしたいという趣旨で記載させていただいたものです。
無始の古佛という言葉は聖人に始まる用語ではないでしょうか。是非、日蓮教学の学識者の通説に対する独歩さまの御高見を批判的にお示しいただけるとありがたいです。

報中論三については、独歩さまの考えが正しいのかも知れません。要麟師は天台教学を踏まえた通説的説明をされていますが、独歩さまの仰せのように聖人にはそこまでのお考えはなく三身円満の釈尊というお考えだったとも思います。

聖人は「寿量品の仏」を正意の本尊とみなされ、三身ともに無始無終の佛格とみなされていた、それが久成三身すなわち無始無終という「一代五時鶏図」のお考えだったのでしょう。

すみません。私の定見がなく参考文献の引用になってしまっていまして。

無始の古佛と己心の釈尊が同一か異同があるのか。そこのところを独歩さまの考えを中断させてしまいまして、申し訳ありませんでしたが、ここのところを平易にご説明願えれば幸甚です。

8バックアップ:2002/02/19(火) 21:16

240 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/18(月) 14:56

無明さま:

> 無始の古佛と己心の釈尊が同一か異同があるのか…ここのところを平易…

端的に申し上げれば、この点を聖人は明確にされなかったのではないでしょうか。
もしかすれば、極一部のお弟子には明かにされておられたのかもしれません。しかし、確実な資料でそれを知ることができないのが現状です。

古仏について真蹟から拾えば

・三身円満の古仏(開目抄下)
・無始古仏(本尊抄)
・過去古仏

の三点のみです。無始無終の三身円満をもって古仏と記されていることはわかります。私自身は五百塵点成道の釈尊を本尊、無始の古仏を三身円満であると考えるのです。しかし、実際のところ、計り知れない過去にそのような仏が“居た”と言った実在性を議論すべきではなく、法華経の文から本尊を選定し、さらに三身古仏を己心法の中に観ていくことを聖人は記されているのではないのかというのが一応、結論です。
極端なことを言えば、永遠の過去に仏が居たか居無いかという実在論、いわば有論に執して論ずるべきではないのではないのかという思いもあります。

一念三千という止観によって観る仏法界は、しかし、印度応誕で観るべきではなく、五百塵点の成道の仏と観、さらに無始三観円満古仏を観法したという聖人の思惟が披瀝されたものであるいうのが私の現段階の結論です。

10無明:2002/02/21(木) 12:16
独歩様

有難うございます。上記について拝見致しました。

執行海秀師の「日蓮の観心本尊抄に現れたる佛身観」から引用します。

「壽量品に現れたる本佛とは何ぞやと云うに、それはかの「諸法実相抄」に云うがごとき凡夫の当体を直ちに本佛と云うのではない。
それ(本佛)はあくまで我等凡夫の父なる客観の佛を指すのであって、しかもそれを本尊とするのである。
即ち、父子一体、佛凡一如の事一念三千の妙法蓮華経を説いた本門の教主釈尊こそ、久遠実成の本佛であって、我等の信仰すべき主師親三徳有縁の本尊である。」

「しかるに「諸法実相抄」「授職灌頂口伝抄」等においては無作顕本を論じて、観心の立場においては、客観の久遠本佛とは即ち自己主観の顕れであって、自己にほかならないと云うのである。
「本尊抄」においては、観心の場合、己心に客観の久遠本佛を具足することは説くも、これをもって直ちに自己即本佛なりと云うのではない。ただ観心の世界においては、客観の本佛が、自己と没交渉に在他のものとして存在するのでなく、自己の中に本佛が影現し、己心に本佛の顕現を味識するのであって、いわば本佛と自己との父子一体の関係を体認することなのである。
即ち観心本尊とは、客観の本仏を信仰の世界に自己との関係において見出したものと云うことができよう。」

「ゆえに「本尊抄」においては客観的な本門の本尊の外に主観的な観心の本尊を説くのではない。
従来、「本尊抄」によって己身本佛己心本尊を説くがごときは、観心をもって直ちに本尊と解したがためであろう。もっとも本抄に
   我等己心本尊五百塵点乃至所顕三身無始古佛。
と云い、また、
   佛既過去不滅未来不生所化以同体此既己心三千具足三種世間也。
と云う文によって、己心本尊を主張せんとするものである。
しかしこの文はあくまで在他の本佛の存在を認めた上で、これが自己の己心に具足することを述べたのであって、しかもかかる観心を直ちに本尊とするのでないことは、前述したごとくである。
即ちかかる観心は佛の悟りの世界に現れた事一念三千であって、これは本門の題目として信受すべきものなのである。」

11無明:2002/02/21(木) 12:18
続き

「しかして「観心本尊抄」に説く観心本尊とは信仰の世界に現れた「久遠実成の本佛」にして、これを「本尊抄」には『五百塵点乃至所顕三身無始古佛』とも、或いは『五百塵点已然の佛』とも云うのであって、いわゆる「本門の教主釈尊」であり、更に剋実して云えば「本門の観心たる妙法蓮華経の教主釈尊」を指すのである。」

「これは「開目抄」に『壽量品の佛』と云い、『久遠の佛』と云い、或いは『久遠実成の佛』と云う佛にほかならない。 中略 「観心本尊抄」に現れた日蓮の佛身観は「開目抄」の佛身観と全く同一基調の思想に立つものと云うことができる。」

「中古天台の説く佛身観は、法界縁起の一大円佛論であり、あるいは唯心縁起の理神論である。
ところで「本尊抄」に現れたる佛身観は、かかる一大円佛でもなく、また理神的存在でもない。
それは我等の己心に内在して、しかも相対的に絶対者として、超越的に存在する事佛であって、帰依渇仰すべき対象である。
しかしてこの本仏を「我本行菩薩道」の誓願に酬いて無始以来より三世成恒に、毎自悲願の救済を垂れて止まざるところの、久遠実成の佛であると見るのである。」


山川智応師の「日蓮主義の信仰」から引用します。

「日蓮聖人の教義は、理よりも事を重しとし、法よりは佛を重しとする。そしてその佛は無始の佛である。天台の云うような五百塵点劫の始覚という始めのある佛でなく、無始無終の佛である。そこに旨帰がある。」

12無明:2002/02/21(木) 12:24
独歩様  

無始古仏に関して学識者の論説を紹介してきましたが、この過程で顕本論や三五塵点についての考え方が実に様々であることがわかりました。また、この過程で真跡主義の重要性(望月師も真偽未決の遺文の扱いにやや難がある等)、中古天台本覚思想が石山だけでなく朝師、導師等に大きく影響していることがわかりました。その事も含めて独歩様の「試案」(己心の釈尊と無始古佛の立て分け)については大いに刮目していますし、このような考えについて私なりに理解を示しているところであります。
非常に有意義でした。心から感謝申し上げます。

しかしながら、「六巻抄」の検討が立宗七百五十年の今、極めて重要ですので、本件については、もしよろしければ、この辺で終息させて頂き、次に進んで頂ければ幸いです。
引き続きロムをしつつ学ばせて頂きます。

13無明:2002/02/21(木) 12:28
問答迷人様

無始古仏で時間をとってしまい大変失礼致しました。
次の問いが既に問答迷人様から発せられておりますので「六巻抄」の検討を再開願いたいと思います。引き続きロムをしながら学んでいきたいと存じます。
そして、適宜独歩さま、問答迷人さま等のお考え等について質問をさせて頂ければうれしいです。
「六巻抄」の検討は本当に重要だと思っていますので、よろしくお願い申し上げます。

14問答迷人:2002/02/21(木) 14:23

無明さん

とんでもありません。一番突っ込んだ疑問点なのでしょうね。私もよく勉強させていただこうと思っています。先に進んだ場所で、又、この問題が浮上してくる局面が、きっとあると思います。その段階で、又新鮮な視点をお示しいただけるとありがたいと考えています。それから、別に、このスレッドは、六巻抄のみ限定のスレッドという訳でもありませんので、一見関係無いような論点でも、後々に大きく影響してくるものだと思います。無明さんの、これからの六巻抄見なおしの議論への御参加を御願いする次第です。

15独歩:2002/02/21(木) 18:48

無明さん:(どうやら、こちらでは「さん」付けがコンセンサスとなったようなので、私も準じることにしました。今後は、私にもどうぞ「さん」で、お願いいたします)

無始古仏の問題は、まだまだ詰めるるべきところは多いにありますが、六巻抄の見直しをスレッドのテーマとしているので、ご提案のとおり、前に進めさせていただきたく思います。なお、引用される執行師の見解は大部、私は賛同しているものです。

いずれにしても、直ちに結論に至り無始を論ずるのではなく、有始を基に無始に迫るという思考階梯が重要であろうかと存じます。これはまた、四句分別と言った思惟法に順ずるべきであるという点をロムの皆様に締め括りとして、申し添えさせていただくものです。

16問答迷人:2002/02/27(水) 13:38

独歩さん 御質問です

【第七に種脱相対して、一念三千を明かすを示すとは】の段の

日寛上人が何れの文底に一念三千が沈められているかと言う設問において、

『師の曰わく、本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり云云。』

と述べていますが、この原文は、何処にあるのでしょうか。原文に当れません。

17独歩:2002/02/27(水) 16:12

問答迷人さん:

> 師の曰わく、本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり云云。』
と述べていますが、この原文は、何処…

実は私もわかりませんでした。当流の深秘の相伝だというのではないでしょうか。

早坂師は、この文に

「本因初住」では、本因の菩薩の位の事であり、
我本行菩薩道所寿命。今猶未尽。復倍上数。
と、説かれる本因妙のことであり、「文底」の意味不明瞭ではないか。
寿量品で一念三千の理論が完成するのは、国土世間が明示されてからである。このことからすると、問いの答えに該当せず、日寛の的外れの解釈である。(『六巻抄』に関する一考察(530頁)

と難じています。
この批判は的を得ています。そもそも「本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給え」とはなんでしょうか。本因妙の「我本行菩薩道所寿命今猶未尽復倍上数」の菩薩という菩薩を現す文の底に名字妙法事一念三千が秘沈しているというのでしょうか。これでは国土世間によって殊極まるはずの事一念三千がそれ以前に成じていることになります。本迹勝劣を高飛車に述べながら、これでは本迹一致とすら見えます。寛師教学は天台の本・事を迹・理とし、ただ聖人のみが真の本・事であるというのに、あにはからんや、国土世間を待たず

また、続く名字妙法事一念三千とは、すでに天台の事一念三千ではなく、寛師己義の一念三千なのでしょう。名字即究竟を説明しているのでしょうが、そもそも、その根拠が曖昧で単に「こっちは五十二位なんか経なくても直達正観」だと掛け声があるばかりです。

それで、言われるところは、この事一念三千とは久遠元初自受用報身如来即日蓮大聖人、即戒壇之本尊、こう信じれば、名字即究竟、直達正観で即身成仏だという枠組でしょう。
名字の言をもってきて、下種にかけるわけでしょうが、実際、この結縁とは久遠元初ではなく、明らかに五百塵点劫であるというのが寿量品の説相です。ここでも矛盾しています。

このような「深秘の相伝」と言われるものは、聖人の教えと違背し、かつ天台の説とも違い、さらには寿量品、すなわち、釈迦牟尼仏の説相とも違う、久遠下種そのものを改変したものであるというほかありません。。

18問答迷人:2002/02/27(水) 17:25

独歩さん

それでは、本国土妙の「娑婆世界常説法教化」の文底という事でしょうか。

19独歩:2002/02/27(水) 18:27

問答名人さん:

>18

まあ、どうでしょうか。聖人の仰せのまま、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底」ではないでしょうか。本因妙・本果妙・本国土妙の三妙は合論ですから、切り出すと部分観になってしまいますね。

それを「本因妙」にこだわるのは、つまり菩薩道、上行菩薩への導引のためではないでしょうか。「上行菩薩、即日蓮は本仏である」これを言わんがためと思えます。さらに凡夫即極、人界まで仏を引き下げる理由は、結局は法主(石山住職)絶対を鼓舞する足がかりなのしょう。

以前、早坂師の講義を一度だけ聴いたことがありますが、「本因妙の教主って、おかしな言葉ですよ。本因は菩薩なんだから教主のわけはないでしょう。教主だったら仏じゃなくちゃおかしい」そんなことを話されていた。

私は、細かい点で、早坂師とは、ぜんぜん考えは違うのですが、こういう当たり前の視点というのは本当に大切であると思っています。

それを深秘だ、相伝だとやって、「この御書の釈迦とは日蓮大聖人と読まなければいけない」とか「この御本尊というのは戒壇之本尊ということだ」と、すべて日蓮本仏、人法一箇で説明する、これは、もはや病気です。石山の開目抄解釈というのは、手前勝手な読み替えによって、煙に巻き、まっすぐに読めば、素直にわかることを、まるで見えなくしてしまっています。心の目を閉ざさせて、ひとり石山の言うがままに信じ込ませようとする作意に充ち満ちています。もちろん、私はけっして目の不自由な方を差別する気はありません。心眼ということに限って申し上げることです。

20問答迷人:2002/02/27(水) 19:16

そうすると、三重秘伝抄で言えば、

『有るが謂わく、通じて寿量一品の文を指す、是れ則ち発迹顕本の上に一念三千を顕わすが故なり。』

が正解と。そうですね、それが一番素直であると思います。ひねくり回すと、訳が判らなくなってしまいますね。了解です。

21問答迷人:2002/02/28(木) 08:15

独歩さん

次ぎの【事理の一念三千を示さば】において、「本門を事の一念三千と名づく是因果国に約して此れを明かす故なり」と述べた後、当流の秘伝として、文底独一本門が別にある、という展開になっています。逆に捉えれば、日寛上人も、三妙合論を以って、事の一念三千が明かされたという立場を一応は踏襲している事が判ります。この場合、何れの文底かと言えばやはり、寿量品一品の文の底に一念三千が沈められている、という意味と思われます。

さて、問題の、文底独一本門ですが、『独一本門』という言い方には、何か由来するところがあるのでしょうか。いかにも、、唐突な感じがしますが。

22独歩:2002/02/28(木) 10:38

問答名人さん:

「文底独一本門」、これがまた、観念文では「人法一箇文底独一本門戒壇の大御本尊」となってきて、石山僧俗には意味は知らずとも、毎日、誦する常套句となっていくわけですね。

「本門を事の一念三千と名づく是因果国に約して此れを明かす」とは、天台の教判に、まあ忠実なのでしょう。本尊は五百塵点成道・教主釈尊(人=仏)、法は事一念三千、しかし、となるべきところが、人(日蓮)法(戒壇之本尊)へと、いきなり飛躍しています。で、独一であると、まあ、独一でしょう、こんなことを言っているのは寛師とそれ以降の石山ばかりですから。

ところで、因果国とは菩薩道・成仏・娑婆世界とは五百塵点を指しているわけです。しかし、石山教学では、久遠元初当初(そのかみ)を言うのであって、これは因果国の五百塵点已前を指しているわけです。つまり、当初思想は五百塵点成道を簡んでいるわけで、この点で成道論が二つになっており、これは現在も2種の日蓮本仏論が立ち混乱の原因となっています。

なお、一念三千が、即自受用報身如来とするのが中古天台本覚思想の説であって、独一でありません。ただ、それを天台ではなく、日蓮とするところで、独一となるのでしょう。
これしかしながら、いくら相伝だと叫んだところで、その原形が天台の変形亜流である恵心流口伝法門にあるのでは独一も、当流の秘伝とも言えないことになります。

まさに仰るとおり、唐突という感は否めません。

23独歩:2002/02/28(木) 10:43

既に問答名人さんにはご紹介しているところですが、ロムの方のために、恵心流口伝法門の焼き直しであるという点について、早坂師の指摘を挙げておきます。
↓以下をご覧ください。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/hayasaka_001.html

24問答迷人:2002/02/28(木) 12:46

独歩さん

なるほど。そうすると、独一には、由来するところがあり、それは、中古天台の恵心流口伝法門である、という事になるわけですね。それでは、日寛上人が「師の曰わく、本因初住の文底に久遠名字の妙法……」という時の師とは、どなたなのでしょうね。変な話という事になります。


>ところで、因果国とは菩薩道・成仏・娑婆世界とは五百塵点を指しているわけです。しかし、石山教学では、久遠元初当初(そのかみ)を言うのであって、これは因果国の五百塵点已前を指しているわけです。つまり、当初思想は五百塵点成道を簡んでいるわけで、この点で成道論が二つになっており、これは現在も2種の日蓮本仏論が立ち混乱の原因となっています。

他スレッドで、この点はすでに議論されてきた事ですが、『久遠元初当初』という表現がこの段に現われていますので、簡潔に、二つの日蓮本仏論を整理していただけませんでしょうか。

25いちりん:2002/03/01(金) 00:16

「本因」とは、すべての原因、第一原因というような意味でしょうかね。
もう、これ以上の原因はない。究極の原因である、と。

26tokumei:2002/03/01(金) 05:50
>>19
以前、早坂師の講義を一度だけ聴いたことがありますが、「本因妙の教主って、おかしな言葉ですよ。本因は菩薩なんだから教主のわけはないでしょう。教主だったら仏じゃなくちゃおかしい」そんなことを話されていた。
********
とありますが、以下のような文獻があります。
寛記雑々
   蓮祖は本因妙の教主なる事
問ふ、凡そ教主とは但三界の独尊を指すべし。何ぞ蓮祖聖人を以て、教主と名づくるや。
答ふ、末法下種の三徳有縁の師なり。何ぞ教主と名づけざらんや。況んや復台家に於て智者大師を以て教主と為す、真言に於て善無畏三蔵を以て教主と為す。何ぞ但吾宗を難ずべけんや。
問ふ、証文如何。
答ふ、止一【初】に云く、止観明静前代未聞智者大随の開皇十四年四月廿六日より荊州玉泉寺に於て、一夏敷揚し二時に慈霑したまへり【文】。弘一上【八】に云く、止観の二字は正しく聞体を示し、明静の二字は体徳を歎ずるなり。前代未聞とは能聞の人を明し、智者の二字は即ち是れ教主なり。大随等とは説教の時なり【文】。故に知んぬ、台家には智者大師を以て教主とするなり。
釈書一【十】に云く、善無畏とは甘露飯王之裔なり。唐開元四年【丙】辰長安に至る、玄宗預め真儀を夢む、入対するに●び、夢と異なる無し。大いに悦んで西明寺に館し、崇めて教主となす【文】。宋高僧伝第三無畏伝に云く、開元の始め玄宗夢む、真僧と相見ゆ、丹青に御して之を写す。畏れ此に至るに及び、夢と符号す。帝悦んで内道場を飾り教主となす【文】。真言宗には無畏を以て教主とする事明かなり。
   追
補注十二【十四】に云く、且夫れ儒者は乃ち三皇五帝を以て教主と為す。尚書の序に云く、三皇の書、之を三墳と謂ふ、大道を云ふなり。五帝之書之を五典と謂ふ、常道を云ふなり。此の墳典を以て天下を化す。仲尼孟軻よりして下は但是れ儒教を伝ふるの人なるのみ。尚教主に非ず、況んや其の余をや。
御書九【十八】に云く、儒家には三皇五帝を用ひて本尊と為す【文】。
華厳宗には浄源法師を以て、中興の教主と名づくる事、統記卅【十一】往見。

27独歩:2002/03/01(金) 07:37

問答名人さん:

> 簡潔に、二つの日蓮本仏論を整理

大きくは二つであると思います。一つは日蓮と釈尊を同一者とすること、もう一つは日蓮を釈尊の師とし、別者とすることです。

いみじくも26にtokumeiさんが引いている『寛記雑々』に

「蓮祖は是れ釈尊のこと」(富要3-313)

といいます。ところが『日蓮正宗要義』では

本門の釈尊と雖も…文上の仏、永遠に即する当初に一人の聖人あって…根本の仏こそ日蓮大聖人(96頁)

もちろん、この二つは五百塵点を無始と解すれば等価となり、本(日蓮)迹(釈尊)、体(日蓮)用(釈尊)の現われということにもなるでしょう。

なお、日蓮本仏論の濫觴という有師は「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」といい、戒壇之本尊と聖人の一箇論にはいたっておらず、寛師の本仏論は区別すべきであろうと考えます。

28独歩:2002/03/01(金) 07:48

いちりんさん:

「本因」というのは、つまり、釈迦が成仏することができた根本の因ということなのだと思うのです。つまり、「菩薩道」であると。

ところが、日蓮本仏論では、たとえば、『当体義抄』の

至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す

などといい、さらに『三世諸仏総勘文廃立』に

釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき

と言って、この本因を簡び、斥けて、即座開悟を言い出すわけです。しかし、この書では、まだ即座開悟は釈迦如来であるとするのに、現代石山教学では、27に引くとおり、その釈迦如来を簡び斥けて、日蓮を本仏、あるいは体の仏である言い出したわけです。

寿量品の本因は潰え、当初(そのかみ)の即座開悟、つまり、本因説を破るとともに、寿量品の説相にも違反する、途方もない珍説であると考えます。

29独歩:2002/03/01(金) 08:02

tokumeiさん:

引用される『寛記雑々』の教主説は、寛師のまったく己義でしょう。聖人の説とは違います。真蹟遺文を追って見ればすぐにわかりますが、聖人は「教主」の語彙を釈尊に使うのであって、その他、阿弥陀、大日にも断りを入れて使われますが、いずれにしても教主を仏以外に使用されていません。

なお、引かれる雑々にいう「夫れ儒者は乃ち三皇五帝を以て“教主”と為す」は、たぶん、開目抄の文を引用しているのでしょうが、この原文は

儒家には三皇・五帝・三王、此等を“天尊”と号す

です。つまり、寛師は故意に天尊を教主と言い換えて、日蓮教主説の論拠しています。このようなことは寛師には見られるのであって、この点、十分に注意を払う必要があります。

30問答迷人:2002/03/01(金) 23:05

独歩さん

>一つは日蓮と釈尊を同一者とすること、もう一つは日蓮を釈尊の師とし、別者とすることです。

了解です。そうすると、日寛上人は、この二つの、日蓮本仏論をどのように統合したのでしょうか、或いはしていないのでしょうか。


もう一つ、お伺いします。次ぎの、【第八に事理の一念三千を示さば】に踏み込みますが、本尊抄の、

「一念三千殆ど竹膜を隔つ」

の文を引いて、日寛上人は、独一本門の存在証明にしています。日寛上人の説(理の一念三千と事の一念三千の差は、大変な隔たりがあるのだけれども、文底独一本門から見るとき、その差は、竹膜ほどの僅かな相違になってしまう)に拠らず、本来の聖人の祖意に戻って考えるとき、この『竹膜を隔つ』とは、如何なる意味でしょうか。

31独歩:2002/03/05(火) 09:28

問答名人さん:

少しご無沙汰しました。

> 一念三千殆ど竹膜を隔つ

ご指摘を受けて、改めて「竹膜」が寛師教学でここまで強調されて、使われていることに改めて驚きを禁じえないところがありました。
かなり前にも記したことですが、「一念三千」というのは釈迦牟尼仏、法華経を説いただけでは闡明にならなかったのであり、結局、天台の出現を見て、世に現れた法門であるというのが“法華宗”としての聖人のお考えなのであろうと思います。つまり、その対比は釈迦の法華経、天台の一念、日蓮の題目という関係です。

ですから、法華経に寿量品が説かれても、その経文だけで読めば、一念三千が沈んでいることはわからないけれど、国土世間まで説かれるのであれば、もう、まさに竹の節目の間にある膜一枚ほどまでぐらいまで、経の文の上からは読めないけれど、迫っている、それほどのことを表すばかりの意味ではないのでしょうか。

32tokumei:2002/03/05(火) 16:40
>>31つまり、その対比は釈迦の法華経、天台の一念、日蓮の題目という関係です。

なるほど、ひとによって一念三千が違うのですね。
すると・・・一念三千とは宇宙に存在する真理なのでしょうか?それとも誰かが説いた仮説(教義)なのでしょうか?

本因の教主が存在すると考えなくては理解できないほど現在の科学者は混乱しています。
というのは、科学者は大体がキリスト教徒なのですね。この辺が科学の限界です。理解できないことは神の意志として片づけてしまうのです。もっとも、比喩的に神の意志というわけで、実際に神が居るのか、偶然の産物なのかは判断不能です。
たとえば、宇宙はホットビックバン理論で膨張を続けることがわかっていますが、宇宙が生まれる初期状態を生み出す確率は(100×10000の1)×100分の1(記述しにくい(笑) と言う確率です。つまり、宇宙爆発が起こっても、その宇宙が成長を続けて宇宙になる確率はそれだけすくない、極めて偶然性の高い産物で、ほとんどあり得ない確率です。
本因の教主が法であるか人であるかは存じませんが、私は生まれることが出来て有り難いと思います。
それはそれとして、この膨張の先には、膨張を続けるか縮小に戻るかまだ意見が分かれています。かりに縮小が起こるとして、縮小に反転すると、宇宙から時間概念が無くなってしまいます。これはどう言うことかというと、可逆性と非可逆性という問題で、ビデオテープの逆再生が可能である状態では、起きた事象が過去であるか未来であるかが判別できないのです。
何も知らないでビデオを見た人はどちら向きに回っているかわかりません。これは鶏が先か、卵が先かという問題です。
さて、そうすると本因の教主は過去の人なのか、未来の人なのか、わからないのですよね。これは今現在が久遠であるか末法であるか判別不能であることとよく似ていると思います。

33独歩:2002/03/05(火) 18:10

tokumeiさん:

> 32

お書きになられるような現代科学と仏教を同列に論じることは、わたしは無意味であると思っています。また、久遠仏は天地創造、全知全能といった類の超越的な存在ではないでしょう。

> …一念三千とは宇宙に存在する真理なのでしょうか?それとも誰かが説いた仮説

このような疑問を立てられる人は、たぶん一念三千の出所であるとされる『摩訶止観』を読んだうえでの一念三千理解ではないのでしょう。

その正体は止観(禅定)における観法なのであって、いわゆる真理であるとかなんとかということとは無縁でしょう。つまり、我が心、就中、仏の己心を三千の法と観るということでしょう。すなわち「説己心中所行法門」です。

また、『摩訶止観』とは関口真大師の言を籍りれば、

摩訶止観10巻は、仏教史上にあらわれた最大かつ最も懇切な座禅の指導書であり、すなわちまた禅の指南書である(岩波文庫9頁)

というのです。

「一念三千は真理」であるとか、宇宙の法則などというのは、そもそも原文を読まずに徒に神秘化した結果であろうと、私は思います。もちろん、tokumeiさんは、疑問形で書かれているので、そう思われていないのだろうと拝察します。

34独歩:2002/03/05(火) 18:10

tokumeiさん:

書き忘れました。「本因の教主」とはなんでしょうか。

35tokumei:2002/03/05(火) 18:59
つぶやきに書き込めば良かったのでしょうか。どうやらスレッド違いのようで申し訳ないですが、

>「本因の教主」とはなんでしょうか。

この板と御書に出てくる用語として使いました。独歩さんはきっともっと根元的なことを言われているのだと思いますが

>>31つまり、その対比は釈迦の法華経、天台の一念、日蓮の題目という関係です。
>>33その正体は止観(禅定)における観法なのであって、いわゆる真理であるとかなんとかということとは無縁でしょう。つまり、我が心、就中、仏の己心を三千の法と観るということでしょう。すなわち「説己心中所行法門」です。

少し異同があるようにおもうのですが、結論として独歩さんは天台説を採るという事ですか?

36問答迷人:2002/03/06(水) 07:55

独歩さん

なるほど。竹膜というと、理の一念三千と、事の一念三千との隔たりの事だと刷り込み済みなので、文上の法華経と文底の一念三千との隔たりとは考えも出来ませんでした。確かに、本尊抄の文は、その様に読めば、何の抵抗もなく、ストンと心に落ちてきます。了解です。しかし、日寛上人も、随分と御苦労されて、ひねくり回されたものですね(笑)。

37独歩:2002/03/06(水) 11:50

tokumeiさん:

> 結論として独歩さんは天台説を採るという事ですか?

まず、このご質問に答える前に、私の書き込みの基本姿勢をもう一度、記します。
私は750年間の間に聖人の教えがいろいろと解釈され、偽書が捏造されて、その祖意がわからなくなっている、だから、まず「聖人の祖意は何であるのか」、この点を闡明にしよう、個々がスタート時点であると書きつづけてきたのです。

その結論から申し上げて、少なくとも聖人と興師の教えに「本因(妙)の教主」という考えはないはずです。それと聖人の説は天台とは何ら矛盾しないと私は考えています。

しかし、聖人は「止観(禅定)ではなく唱題行ではないか」という疑問は生じるかもしれません。この点を本尊抄に

一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ。

というのは、止観の否定ではなく、さらに簡便な修行法の提示であったと拝しています。つまり、法華経において五種法師、四安楽等の修行、止観に一念三千の観法(実際は不可思議境まで考慮すべきですが)、聖人において唱題といい、つまり外適時宜ということで、それぞれを否定する関係ではないと考えるのです。

ですから、tokumeiさんが「異同」とする点は、私は異同とは感じません。唱題行自体、止観行であり、五種法師その他の修行の意義を含むと思うからです。

ただ、私が記したのは一念三千は真理であるなどということではなく、止観行において、己心に十法界を観、さらに十如、三世間と観る禅定における観(十)法(界)であると記したのです。

38独歩:2002/03/06(水) 11:51

問答名人さん:

> 日寛上人も、随分と御苦労されて、ひねくり回されたもの…

まったく仰るとおりであると(笑)

39tokumei:2002/03/07(木) 00:04
>>33また、『摩訶止観』とは関口真大師の言を籍りれば、
摩訶止観10巻は、仏教史上にあらわれた最大かつ最も懇切な座禅の指導書であり、すなわちまた禅の指南書である(岩波文庫9頁)

と、かようにおっしゃるので独歩さんは禅宗の人かと思いました。

40独歩:2002/03/07(木) 01:25

tokumeiさん:

> 関口真大師…独歩さんは禅宗の人

そうですか。では、一念三千を引く日蓮聖人は天台宗の人ですか(笑)

41tokumei:2002/03/07(木) 02:25
>>40そうですか。では、一念三千を引く日蓮聖人は天台宗の人ですか(笑)

違うでしょう。独歩さんの理論では禅宗でしょう(笑)

43問答迷人:2002/03/08(金) 22:46

tokumeiさん
独歩さん

禅宗とか、天台宗とか、何か、難しすぎて良く分かりません。まぁ、この辺で、次ぎに進めさせていただきたいと存じます。よろしくお願い致します。


【第八に事理の一念三千を示さば】

問う、文底独一本門を事の一念三千と名づくる意如何。答えて云わく、是れ唯密の義なりと雖も今一言を以って之れを示さん、所謂人法体一の故なり。

人法体一、というのは、普通は無いですよね。法を師として仏に成る事が出来るわけですから、当然、法が勝れ、人が劣る。ところが、ここでは、人法体一であると。それが、事の一念三千であり、文底独一本門であると。寛師が、このように断定すると、何か、それが本当の様に聞こえるから不思議です。

そもそも、釈尊の教えに、人法体一とか、人法一箇なんて教えがあるのでしょうか。

44独歩:2002/03/09(土) 00:21

問答名人さん:

> 43

まさに、そうですね。人法ではなく、仏法であるはずです。
ただ、人法ということは他宗でも言い、日本仏教に共通した成句ではあるようです。それを使い恒一、体一、一箇とやるところが寛師ですね。

私が、いちばん指摘したいのは、そもそも寛師がいう法とは法ではないという点です。
人法一箇というとき、人とは日蓮、法とは戒壇之本尊(曼荼羅)というのが寛師です。
しかし、文字として板、あるいは紙幅に書き記されたものが法そのものでしょうか。文字即実相と言えばそれまでですが、しかし、文字を直ちに法というのは空・縁起という大乗仏教の指標と真っ向から対立する実在論(有論)でしょう。

天台は破法偏に

因縁生の法は即空即中にして心行の処滅し言語の道断ず(心行処滅・言語道断)

というのであって、そもそも言葉・文字で表わせないのが法です。それなのに、寛師においては法が板曼荼羅という実在化されているとする点で、もはや仏法の法から逸脱しているわけです。もちろん、人を日蓮に配当する、天台勝釈尊劣を焼き直した日蓮勝釈尊劣という日蓮本仏(示同凡夫=人、凡夫本仏論)の過ちは既に指摘してきました。

45問答迷人:2002/03/09(土) 09:18

独歩さん

ところで、法華経では、妙法蓮華経とは、本門の教主釈尊を指しているのではなかったでしょうか。もし、そうなら、法華経においては、人=本門教主釈尊、法=妙法蓮華経で、人と法は実は一つだ、という事ではないのでしょうか。

46独歩:2002/03/11(月) 07:20

問答名人さん:

> 人=本門教主釈尊、法=妙法蓮華経で、人と法は実は一つだ、という事…

私は、このように拝さないのです。拝するとすれば、仏=本門教主釈尊、法=妙法蓮華経で、つまり、仏・法であろうかと思うのです。
聖人の真蹟を追えば

寧(なん)ぞ人法を謗じて殃(わざわい)を招かんや(秀句十勝抄)

と見られるのですが、この「人」は仏を意味するもののように思えません。
仏法=人法とみていくのは、やはり、凡夫本仏論などの本覚的な発想なのではないのかと、私は疑っています。

47問答迷人:2002/03/11(月) 08:36

独歩さん

>仏法=人法とみていくのは、やはり、凡夫本仏論などの本覚的な発想なのではないのか

あっ、気がつきませんでした。仰る意味、判ります。知らず知らずに、「人法」という用語に引きずられて、本覚思想的発想をしてしまっている、というのは実に恐ろしい事だと思いました。やはり、何事も、聞いてみないと判らないものです。Sさんが、カルチャーショックと言われてましたが、いまさらの様に、話し合う事が大切だと思いました。ありがとう御座いました。

48問答迷人:2002/03/14(木) 08:06

【第九に正像未弘の所以を示さば】

日寛上人は、次ぎの本尊抄の文を引いて、迹門、本門、観心が、それぞれ、三重秘伝の第一権実相対、第二本迹相対、第三種脱相対に該当すると述べています。

『問うて曰く、竜樹・天親等は如何。答へて曰く、此等の聖人は知って之を言はざる仁なり。或は迹門の一分之(これ)を宣べて本門と観心とを云はず』

この本尊抄に聖人が、迹門、本門、観心、とりわけ、『観心』と述べられた事は、何を意図されているとお考えですか、お伺い致します。

49独歩:2002/03/15(金) 12:20

問答名人さん:

「観心」、難しい問題ですね。本尊抄の題号の読みとも関わりますね。
まあ、「観心の本尊」で「“の”の字が大事」、「観心とは信心」「受持即観心とは、受持即信心」などというのですが、実際は、どう読むべきなのでしょうか。また、本覚思想との関わりからは、どう考えるべきなのか、問題は山積みですね。

本尊抄であれば、

観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是を観心と云ふなり

とあるばかりです。となると、この己心に観ずる十法界中、仏界を五百塵点成道・釈尊を観、本門教主と立てるというのが、趣旨ということになるのでしょうか。

いずれにしても寛師が観信を信心と読み替えるのは、なかなかにくいアイディアではあるけれど、聖人が仰るのは、やはり、本尊抄の文面の範囲で考えるべきであると、私は思うのです。

50独歩:2002/03/15(金) 14:05

49の訂正

誤)寛師が観信を信心と読み替えるのは
正)寛師が観心を信心と読み替えるのは

51問答迷人:2002/03/16(土) 07:51

独歩さん

聖人が観心について述べられている真蹟御書を三箇所、挙げて見ます。

法華題目抄(文永三年一月六日 平成版御書357頁)  
法華経の時迹門の月輪(がつりん)始めて出で給ひし時、菩薩の両眼先にさとり、二乗の眇目次にさとり、凡夫の盲目次に開き、生盲の一闡提も未来に眼の開くべき縁を結ぶ事、是偏に妙の一字の徳なり。迹門十四品の一妙、本門十四品の一妙、合せて二妙。迹門の十妙、本門の十妙、合せて二十妙。迹門の三十妙、本門の三十妙、合せて六十妙。迹門の四十妙、本門の四十妙、観心の四十妙、合せて百二十重の妙なり。

報恩抄(建治二年七月二一日 平成版御書1034頁)
陳(ちん)・隋(ずい)の代に天台大師出世す。此の人の云はく、如来の聖教に大あり小あり顕あり密あり権あり実あり。迦葉・阿難等は一向に小を弘め、馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて実大乗の法華経をば、或は但指をさして義をかくし、或は経の面をのべて始中終をのべず、或は迹門をのべて本門をあらはさず、或は本迹あって観心なしといゐしかば、南三北七の十流が末(すえ)、数千万人時をつくりどっとわらふ。

白米一俵御書(弘安三年 平成版御書1545頁) 
たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細(いさい)にかんがへて候へば、観心(かんじん)の法門なり。観心の法門と申すはなに(何)事ぞとたづ(尋)ね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは薬王のひぢ(臂)をやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをと(劣)らぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供(じく)やう(養)、凡夫のためには理くやう(供養)、止観の第七の観心の檀はら(婆羅)蜜と申す法門なり。

52問答迷人:2002/03/16(土) 08:23

つづきです。

法華題目抄の文では、「迹門の四十妙、本門の四十妙、観心の四十妙、合せて百二十重の妙なり。」と述べられ、報恩抄の文では、「天台大師出世す。此の人の云はく、…或は本迹あって観心なしといゐしかば」とそれぞれ述べられ、『迹門』『本門』『観心』を三本柱とされています。さらに、白米一俵御書の文では「観心の法門と申すはなに(何)事ぞとたづ(尋)ね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。」と述べられています。

これらを綜合的に考えてみると、『観心=聖人の独自法門』という解釈は出来ず、本尊抄の文は、独歩さん仰るように、そのままの意味で「この己心に観ずる十法界中、仏界を五百塵点成道・釈尊を観、本門教主と立てる」と捉えるのが正解であろうと、私もそのように思います。

そうすると、結局、教相は、権迹相対し、本迹相対して、法華経本門を選び出す事によって尽きており、観心とは、その後の、法華経本門の教えを如何に実践するか、という時点で、観心というあり方が問題にされる、という事なのでしょうか。

53顕正居士:2002/03/16(土) 12:47
日蓮五大部の『觀心』用例

一「本尊抄」
1-問曰。出處既聞之。觀心之心如何。答曰。觀心者觀我己心。
見十法界。是云觀心也。
2-問曰。龍樹天親等如何。答曰。此等聖人知而不言之仁也。
或迹門一分宣之不云本門與觀心。
二「開目抄」
1-止七云。(略)一種禪師。唯有觀心一意。
2-弘七云。(略)一師唯有觀心一意等者。
三「安國論」-無し。
四「報恩抄」-或ハ本迹アツテ觀心ナシトイヒシカハ。
五「撰時抄」-一字一句ニ因縁約教本迹觀心ノ四ノ釋ヲナラヘテ。

これだけです。日蓮聖人の「觀心」は端的に「一念三千」(凡身
に三因仏性を具す)の意義とみえます。但し、流通語として禅観
の意義に用いることがある。

所で奇怪な遺文があって、「立正觀抄」、「立正觀抄送状」です。

54いちりん:2002/03/16(土) 13:07
「観心」という言い方そのものは、天台あたりからでしょうかね。
「観」という感じでは、「観念」「観法」という言い方もありますが。

「摩迦止観」も「観」ですね。「止」と「観」。
天台の観心の行法は「四種三昧」ということになりましょうか。

55問答迷人:2002/03/16(土) 13:53

顕正居士さん

なるほど。端的に、法華経迹門、法華経本門、一念三千法門(法華経本門文底)、という意味ですか。私は、やっぱり寛師教学の発想で考えてしまうので、回りくどくなってしまいます。反省。どうもありがとう御座いました。

56独歩:2002/03/16(土) 15:35

観心の、聖人の受容というのは実にいろいろと考えられると思うのです。
観心というのは、いちりんさんがおっしゃるように観法と置換することも痛痒はないと思います。

原則でいえば、教相と観心でしょうし、また、問答名人さんが引かれた法華経題目抄の百二十重妙(天台と聖人では法数の取りが違う)、本尊抄では四種三段の観心三段…、それにしても白米書は独自の世界を展開されていると感じます。また顕正居士さんが「奇怪」と仰せになられる立正観抄では一心三観論として展開されています(この書を奇怪と仰せになられるのはどのような意味であるのか文面からは計れませんけれども、しかし、私も同様に「?」を付す書です)

注視すべきであると思うのは、寛師が独自の五重相対義の説明のなかで登場する観心はいみじくも五重相対と違う配立を示している点です。問答名人さんが

> 教相は、権迹相対し、本迹相対して、法華経本門を選び出す事によって尽きており、観心とは、その後の、法華経本門の教えを如何に実践するか、という時点で、観心というあり方が問題にされる

と問われるのは至極当然のことで、本迹に次ぎ観心を言うのは四釈であって、つまり、因縁釈・約教釈・本迹迹・観心釈でしょう。ですから、本迹相対の次に相対を立てるのであれば、むしろ本(門)観(心)相対とでもしたほうが、むしろ自然な気が、私はしてきました。まあ、この点は煩雑になりますのでのちに譲ります。

いずれにしても聖人において、観心を代表して述べるのは本尊抄ということになると思うのです。ここで、この題号『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の“観心本尊”とは、どのような意味となるのかが問題になると思います。同抄に説くところは四種三段なので、その結論をもって文底・観心とするのも至極で、また、観心を十法界を観ること、すなわち一念三千を観ることとするのも至極であろうかと思います。ただ、私は寛師が言う「観心(信心)の本尊)というのは、どうも納得できません。

本尊を論及されるのに己心観心(法)の末、本門教主釈尊をして本尊とする結論に至られるわけですが、ここでいう本尊と観心と関係は、観心の本尊というより、「心で観る本尊」という意味合いが強いように思われます。つまり、観心の本尊というような観心=本尊の関係ではなく、心で観るのは一念三千(法)と本尊(仏)という二立であると思えるわけです。もちろん、詰まる所、法と仏を一体と見なすことは誤りとはいえませんが、はじめから束ねてしまって論ずるべきではないように感じます。文底・観心は通常、四種三段の

又於本門有序正流通…十方三世諸仏微塵経々皆寿量序文也

というのであって、ここに三世間が成就し、事一念三千(法)がなり、その教主(仏)、すなわち本尊も明らかになる、この点を心で観ることを観心本尊というのであろうと思うわけです。また、付言すれば、これはまた、釈迦牟尼の在世(正法)でもなく、天台の時(像法)でもなく、聖人の時、すなわち、末法に始まることを言うのが「如来滅後五五百歳始」であって、末法の機とすることを

末法之始為正機

と述べられるのでしょう。ただし、これは機の辺で論ずる故に、末法が優れているとか、釈迦・天台より日蓮が優れているなどという論点とは違っているはずです。

つまり、聖人における観心法門とは記上の文底・事一念三千であり、その教主を五百塵点成道・本門釈尊とするわけです。

ところが寛師は、ここを本門・一念三千ともに理であるなどといい、事一念三千は南無妙法蓮華経、それも戒壇之本尊、さらに教主・仏を日蓮(自受用身)として人法一箇として、仏と法を取り替えてしまうわけです。まさに聖人の本意は、恰も誉め殺しにされ、天台の説は色を失い、釈尊はおシャカとされてしまうわけです。途方もない牽強付会であると言わざるを得ません。

57無徳:2002/03/16(土) 23:01
独歩さん今晩は、

>ところが寛師は、ここを本門・一念三千ともに理であるなどといい、事一念三千は
>南無妙法蓮華経、それも戒壇之本尊、さらに教主・仏を日蓮(自受用身)として人
>法一箇として、仏と法を取り替えてしまうわけです。まさに聖人の本意は、恰も誉
>め殺しにされ、天台の説は色を失い、釈尊はおシャカとされてしまうわけです。途
>方もない牽強付会であると言わざるを得ません。

あいや!
 何とも強烈な言説に驚くと共に、拠って立つ位置が違うと斯くも受け止め方が違う
ものかと、あらためて人間の認識の位相からくる言語理解の根底にアンビギュイティ
を感じざるをえません。

 私は日寛教学に通暁しているわけではありませんが、日蓮本仏や戒壇本尊ならびに
人法一箇(人即法)と言った、いわゆる興門教学に信仰の立脚点を置く身からすると
日寛教学はほとんどストンと胸に落ちるタームに満ちているように思われます。

 それはまあ!興門教学なるものが日寛上人によって体系化されたものとすれば当然
と言えば当然なんですが、

>さらに教主・仏を日蓮(自受用身)として人法一箇として、仏と法を取り替えて
>しまうわけです。

とは、如何なる意味なのでしょうか?

58独歩:2002/03/16(土) 23:45

無徳さん:

こんばんわ。

> 57

驚かれるのは意外です。
まさに記したまま、そのままですよ(笑)

59無徳:2002/03/17(日) 01:20
独歩さん:

 私の知り合いに松本修明と言う方がおられます。おそらく独歩さんもご存じかと思
われますが、(現在御僧侶をされておられますので実名を述べさせていただきました)
この松本修明さんは一仏二名論との立場を採られております。

 つまり、一名を五百塵点成道における仏とし、もう一名を南無妙法蓮華経であると
して、日蓮御坊を人本尊として立てずあくまで上行再誕として位置づけているみたい
です

 松本修明さんも日寛教学に強烈な批判(ほとんど否定論者といえそうです)を加え
ておられますので、私と会うと何時も激論になります。もっとも、とても私の教学力
では太刀打ちできませんのであくまで信仰論で逆襲します(笑い)。

 独歩さんも一仏二名という松本さんの論に近いと考えてよろしいでしょうか?

60独歩:2002/03/17(日) 09:07

無徳さん:

松本修明という方を、私は存じ上げません。

> 一仏二名論…一名を五百塵点成道における仏とし、もう一名を南無妙法蓮華経…日蓮御坊を人本尊として立てずあくまで上行再誕…

ほお。しかし、私の考えとは違います。私は五百塵点成道の本門釈尊を、聖人は本尊(仏)と立て、南無妙法蓮華経を題目の行として立てたという字句どおりの考えです。

本尊抄の祖意に基づけば、釈尊と無始古仏の二仏論と一仏二名は言えなくもありませんが、この点についても、やや違うであろうというのが、私の見解です。

南無妙法蓮華経を仏、つまり「南無妙法蓮華経如来」という成句をもって言ったのは、たしか霑師でしたか。

私は、南無妙法蓮華経を仏とするのは、法の擬人化ならぬ、擬“仏”化であって、賛同しかねます。法に仏的、あるいは人的ファクターをもたせることには反対です。(その意味で、実は天台も援用する三身説の扱いには極めて慎重です)

ただ、松本師が全体的にどんなお考えなのかわかりませんので、「松本さんの論に近い」かどうかは推し量りかねます。

61顕正居士:2002/03/19(火) 12:23
立正観抄(法華止観同異決)、同送状

立正観抄と及び同送状は止観勝法華、禅勝止観を批判した書で
最蓮房に宛てたものである。奇怪であるのは、
立正観抄-「一言妙法」(石塔血脈)の説が出る。
同送状-「止観別教分斉」の説が出る。
本ノ大教興レバ観心ノ大教廃ル。日本天台は開祖最澄以来、東寺真言
に対抗するために密教の摂取に努めた。本門思想の時代といえる。
(参考-浅井円道「上古天台本門思想史」・平楽寺書店)
観心ノ大教興レバ本ノ大教廃ル。次に祖師禅最勝の思想が興った。
観心思想の時代といえる。しかし四重興廃の後、室町時代には再び
法華超勝の思想が蘇り、本迹を捨てない観心を唱える。尊舜「法華文句
略大綱私見聞」や偽日興「御義口伝」であり、立正観抄、同送状の教判
は「略大綱私見聞」、「御義口伝」に同じである。すなわち、立正観抄と
同送状に現れた思想は、爾前、迹門、本門を剋実して寿量文底の
一念三千(三法妙)をもとめ、これを題目の実体とする日蓮聖人の思想
と筋道を異にするのみでなく、室町時代に発達した高度の教判である。
また「本迹を捨てない観心」は「本迹を捨てる観心」、止観勝法華や
禅勝止観を換骨奪胎した「本因妙抄」等の思想とは異なるものである。
立正観抄(法華止観同異決)
http://www4.justnet.ne.jp/~bekkann/goso0527.html
立正観抄送状
http://www4.justnet.ne.jp/~bekkann/goso0534.html

62顕正居士:2002/03/19(火) 12:35
訂正

本ノ大教興レバ観心ノ大教廃ル→本ノ大教興レバ迹ノ大教廃ル

迹門-中国天台
本門-日本天台(台密)
観心-口伝法門
の三時期を経過し、過去を整理したのが四重興廃であるとおもう。

63いちりん:2002/03/19(火) 14:37
……

「天台己証の法」とは是なり。
当世の学者は、血脈相承を習い失う故に、之を知らざるなり。
故に相構え相構えて、秘す可く秘す可き法門なり。然りと雖も、汝が志神妙なれば其の名を出すなり。

「一言の法」是なり。
伝教大師の「一心三観一言に伝う」と書き給う是なり。
問う、未だ其の「法体」を聞かず如何。
答う、所詮一言とは「妙法」是なり。

(中略)

「天台大師の血脈相承の最要の法」は「妙法の一言」なり。

天台伝教の解釈の如くんば「己心中の秘法」は但「妙法の一言」に限るなり。
然而当世の天台宗の学者は天台の「石塔の血脈」を秘し失う

……

読みやすいように、句読点と「」をつけてみましたが、なるほど、きっかいな書ですね。

「一言の法」それは「妙法」という一言。
天台の「己心中の秘法」はただ「妙法の一言」である。
そして、それは天台が「石塔の血脈」に記されていたのである、と。

しかし、最蓮房宛の書は、ほとんど偽書っぽいですね。
もしや、もともと最蓮房など存在していなくて、本覚法門を日蓮に仮託して語る際に、最蓮房という天台教義に蘊蓄のある人間を仮構すれば、表現しやすかったのでしょうかね。

64顕正居士:2002/03/24(日) 01:22
最蓮房

が実在したという説をみなさん何かご存知でしょうか。最蓮房宛の遺文
の多数には日蓮聖人の教学とは全然異なる思想が表現されています。
これらに真翰は存在しませんが、最蓮房宛諸書が引用されている上古
の文献は真偽を別にして何かありますでしょうか?

65いちりん:2002/03/24(日) 01:28

最蓮房って、不思議ですよね。

最蓮房宛の御遺文は、どうなっていますでしょうか。

たとえば、ほとんどが真偽未決か偽書とされているのか。
あるいは、なかでも、真跡があるのでしょうか。

66問答迷人:2002/03/24(日) 09:22

顕正居士さん

富士宗学要集を検索してみました。キーワードは、最蓮、祈祷、諸法実相抄、十八円満、草木成仏、生死一大事、血脈、当体、立正観、です。問題のある文献も含まれていますが、そのまま列挙します。日精上人以降は省きました。


1350年頃日順上人本因妙口決 御書に云はく本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なりと書す是れなり(二巻80頁)

1380年日眼上人五人所破抄見聞 立正観抄に御判釈ある止観法花の勝劣、(四巻13頁)

1480年日叶上人百五十箇条 最蓮御房御返事に云く、当世の天台宗何より相承して止観は法華に勝ると云うや、(二巻174頁)

1487年日教上人四信五品抄見聞 祈祷抄に云く正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如く(四巻64頁) 

1660年日精上人日蓮聖人年譜 祈祷経送状に云く別紙に一巻註して進らせ候、毎日一返闕如無く読誦せらる可く候(五巻131頁)

67いちりん:2002/03/24(日) 10:55
問答迷人さん

なるほど、室町時代以降の文献から出てきますか。

しかし、「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」あたりは、出てきませんですね。

68問答迷人:2002/03/24(日) 15:58

変ですねぇ

あれだけ有名な諸法実相抄なのに、様々なキーワードを追加して検索しましたが、日寛上人の文段以降しか、引用例がありません。検索キーワードは【行学、なみだ、大事の法門、日蓮一人、日蓮が一門、妙法蓮華経の当体、日淨、日浄、諸法実相、体の三身、用の三身】を追加しました。

日寛上人の引用を一例、挙げておきます。富士宗学要集第四巻257頁の観心本尊抄文段下に『諸法実相抄に云く「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし」等云云。』と引用されています。

69顕正居士:2002/03/24(日) 15:59
問答迷人さん。検索ありがとうございます。

「本因妙口決」の「御書に云はく」は、当体蓮華の説が出る当体義抄で
ありますね。しかし「本因妙口決」は三位日順の著述ではないでしょう。
問題になるのは「五人所破抄見聞」であって、この著者が妙蓮寺日眼
なら1380年には「立正観抄」が成立していたことになるが、1世紀後の
西山日眼と取り違えて伝承した可能性がある。もし日教(日叶)の引用
が最初なら最蓮房宛諸書の成立は15世紀半ばに想定されるでしょう。

70問答迷人:2002/03/24(日) 16:36

さらに、生死一大事血脈抄は、何処にも引用されていませんね。キーワードは【臨終只今、自他彼此、水魚、異体同心、臨終正念】を追加して検索してみました。宗学要集には引用箇所なし、です。

71問答迷人:2002/03/24(日) 16:52

顕正居士さん

>しかし「本因妙口決」は三位日順の著述ではないでしょう。

私も、内容からして、その様に考えています。この文書には、本因妙抄が引用されている事から、日順上人の著述とは考えられない、とされています。

>問題になるのは「五人所破抄見聞」であって

仰る通りだと思います。もし、そうだとしたら、又しても左京阿日教師の御登場ですね。大石寺戒壇大御本尊に付いての記述の初出もこの人でした。二箇相承の写本を大石寺にもたらしたのもこの人です。

72独歩:2002/03/24(日) 20:44

問答名人さん:

> 66〜

この検索結果はすばらしい成果であると感服します。
なるほど。

73いちりん:2002/03/24(日) 20:55

ちなみに「三大秘法抄」を検索したら、どのあたりから出現しますでしょうか。

74独歩:2002/03/24(日) 21:28

問答名人さん:

『五人所破抄見聞』は妙蓮寺眼師ではありませんでしたか。これを教師と言われるのは、なにか特別な意味があるのでしょうか。

75問答迷人:2002/03/25(月) 08:04

独歩さん

宗学要集の記載によれば、年代が混乱しているのです。

Ⅰ 五人所破抄重須本奥に云く 嘉暦三戊辰年七月草案 日順。(1328年)

Ⅱ 応永廿二●正月廿九日。日代聖人御筆大事の書也可有る重宝也。太夫阿闍梨日円に授与す之を  日任華押(1415年)

Ⅲ 日眼見聞蓮山本の奥に云く。伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢本化末弟日眼在御判(1380年)

Ⅱの記載は西山の第四代日任師によるものであり、その後に妙蓮寺日眼師が注釈すると言うのは不自然である事。さらに日任師の署名が1415年なのに、その後に妙蓮寺日眼師が1380年に注釈すると言うのは、不可能でしょう。この日眼師は西山第八代の日眼師(在位1458年-1486年)と見るのが妥当ではないかと存じます。顕正居士さんのご指摘は、このような内容であるかと考えました。もし、西山第八代の日眼師とすれば、日教(日叶)師の百五十箇条(1480年)が先である可能性があると思ったわけです。

76問答迷人:2002/03/25(月) 08:47

いちりんさん

ざっと検索してみましたら、やはり、左京阿日教師の「四信五品抄見聞」(1487年)が初出のようです。(それ以前のものとして、日順師の著作と伝えられる、例の本因妙口決にも出ますが、これは、前述の通り、採用できません。)

『太田抄に云く報花経を諸仏出世の大事と説かれて候は此の三大秘法を舎みたる経にて渡らせ玉へば可し秘す々々』(富士宗学要集第四巻65頁)

詳しくは、時間があるときに検索してみます。少し御時間をください。(どなたか、検索して、結果を御報告戴けると有り難いのですが…。)

77いちりん:2002/03/25(月) 09:16
ふと思ったのですが、そもそも「富士宗学要集」というものは、富士門流の宗学を集めたものでしょうが、それは大石寺関係のものだけですよね。

それで、そもそも「日蓮は菩薩か本仏か」とか「法華の本門と迹門は勝劣があるのか」という論議は、室町時代に京都で盛んになっていたのではないでしょうか。

なにしろ京都は、町衆がほとんど日蓮宗だったようですし、二十一本山があって、たいへんな勢いでした。いわば、最先端の仏教ニュー思想みたいな。(北陸では、真宗がニュー思想で勢いを伸ばす)

だから、日蓮本仏論、種脱相対論、凡夫本仏論みたいな論議は、富士のふもとの田舎で行われるよりも、京都で行われたのではないでしょうか。

だから、大石寺の法主たちの書いたものよりも、要法寺あたりの坊さんのほうが、先進的な理屈を展開していたかもしれなないなあと思うのですが。

最蓮房関連の偽書とか、御義口伝とか、そういうものは、室町時代の京都あたりで盛んに作られたりしませんでしょうか。

78いちりん:2002/03/25(月) 09:22
板曼荼羅とか、二箇相承書がどうじゃこうじゃというのは、大石寺のお宝ですから、「富士宗学要集」を調べると、いろいろと改竄、偽作のプロセスが見えてくると思いますが、日蓮本覚思想とか日蓮本仏論の発生過程となると、「富士宗学要集」だけでは難しいかなあと感じました。

八品派の日隆さんとか、要法寺あたりの坊さんたちの書いたものとかを、調べなくてはいけなくなりそうな。。

79いちりん:2002/03/25(月) 09:26

ちょっと室町時代のことを、調べてみますと。

まず、鎌倉末期に、日像によって妙顕寺の「四条門流」がひらかれ、南北朝時代には、本国寺の「六条門流」がひらかれる。

室町時代には、新宗教として、「法華宗」と「真宗」が活発にひろまりまった。

真宗は、蓮如の活躍によって、北陸の農民に広がり、法華宗は日像の力による。日蓮は幼少の日像さんを見抜いて、伝法を託したとも伝えられる。

日像は、後醍醐天皇から布教の勅許を得たり、足利直義から将軍家の祈祷を託されたりして、法華宗が一気にメジャーに踊り出た。

そもそも法華宗は、現世利益っぽいから、京都の町衆にどんどんと広まった。
応仁の乱の前夜には、京都の町衆の大半が法華信仰に帰したともいわれている。
(ちなみに、1536年の「天文法華の乱」では、武装した比叡山の僧兵によって、法華宗の21本山は、すべて灰燼に帰してしまい、以後十年間は、法華宗の布教は許されなかった)

法華宗は、日本の中心地・京都において、もっとも活発でダイナミックな新宗教として広まっていったのだと思います。そのなかで、教義論争が沸騰していった。なにしろ日蓮主義は、教義論争が大好きだから。

80独歩:2002/03/25(月) 13:16

問答名人さん:

> 75

有り難うございます。顕正居士さんのご説明の妥当性もともに確認できたところであろうと思います。

通常、所破見聞は眼師、聖滅99年の作、それも日蓮本仏論、初出資料といわれるところですが、やはり、この点には疑問が呈されてきました。ご紹介のもう一人の眼師についても、執行師も指摘しておりましたね。

教師となれば、以下に続くいちりんさんの京都の思想勃興との整合性もあり、私も多いに賛同するところです。

81Libra:2002/03/25(月) 13:29
 『五人所破抄見聞』の成立問題については、宮崎英修氏の以下の説も参考になると思い
ます。

  「五人所破抄見聞」は妙蓮寺日眼の著作ではない(宮崎英修)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/102.html

82いちりん:2002/03/25(月) 13:44
Libraさんのよく整理された資料には、感心します。
なにより、読みやすいし。啓発されて、ありがたいです。

宮崎英修さんの次の文、おもしろかった。
「……大そう丁寧な誡励をいただいたが更に「よく調べ直すがよかろう、もし判らなければ教えてもよい(30)」との御慈教を蒙っている。この某師の論調は全体がこのような責任のない無根拠の小児的主張にのみ始終しているが或は別の記録類をご存知の方でもあるのであろうか。どのような記録か知らないが、これで大石寺の門末を満足させることができると考えられているならばまことに天下泰平、感嘆すると同時に憫笑にたえない。」

あの温厚で好々爺風のような晩年の宮崎先生を思い出しました。

83Libra:2002/03/25(月) 15:12
いちりんさん:

> Libraさんのよく整理された資料には、感心します。

 ありがとうございます。しかし、素晴らしいのは「学説の主張者」であって私ではあり
ません。

  ──────────────────────────────────────
  ある先行する学説に対して、その後に述べられる学説がもつ関係は四つしかない。つ
  まり、肯定と批判と無知と無視である。しかし単なる〝肯定〟ならば、同じ学説を繰
  返すことに意味はない。せいぜい先行する学説の主張者の業績をうばわない様注意す
  べきだ。〝無知〟というのは、先行する学説の存在を知らないことだが、これは致し
  方がない。後でそれを知ったとき、自説を修正しなければならない。しかし言うまで
  もなく〝無視〟ということが最悪であり、日本の学界に横行している。これを平和的
  共存というべきか。

  (松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 17)
  ──────────────────────────────────────

 私自身は「単なる無知者」です。いや、それも言い過ぎで、<「単なる無知者」である
ことすら難しい>というべきかもしれません。

  ──────────────────────────────────────
  少しでも考えれば、自分の過失を全く知らないために結果的に思い上って見えるだけ
  の人はあくまでも単なる無知者であって、決して度し難い「増上慢」の人ではありえ
  ないことはすぐ分ると思うからである。単なる無知なら知れば直ちに改めうるが、知
  っていても改めようとしない「増上慢」は、知れば知るほど開き直るだけに過ぎない。
  従って、「増上慢」とは、今日風に言うなら、いくら言葉や論理によって、その非を
  批判されその誤りを知るに至ろうとも、言葉や論理ばかりが全てではないとばかりに
  居直りを決め込んで従来の考え方を少しも改めようとしない人のことなのである。

  (袴谷憲昭「『法華経』と本覚思想」、『駒沢大学仏教学部論集』第21号、1990年、
    pp. 113-114)
  ──────────────────────────────────────

  「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/003.html

84独歩:2002/03/25(月) 17:47

Libraさん:

秀逸な先行業績のご提示、有り難うございました。
襟を正す思いです。

それにしても、所破見聞のことで、四半世紀も前に英修師が、顕師と、それも月刊ペンで争っていたとは知りませんでした。

また、松本師の

その後に述べられる学説がもつ関係は四つ…肯定と批判と無知と無視

とは、まさにそのとおりでしょうし、しかも、これが学説という高尚なレベルばかりではなく、ある特定のグループ、あるいはリーダーの教えを絶対するメンバーの固執・偏執した態度にも当てはまるものであると思ったものです。

さらに袴谷師の「無知」と「増上慢」の説明も実に参考になるものでした。

このような点を押さえながら、なせれる冷静な議論であれば、多いに意義のあるところでしょう。もっとも先行学績を隈なく認知することは困難で、その一端を披露いただくことに、Libraさんへの期待するところが大となります。

85顕正居士:2002/03/26(火) 08:12
無始古佛

「台宗二百題」の『法華教主』に
「問う。法華の教主は、三身の中には、いづれぞや。答う。報身なり。
もし、報身なりといわば、相多身大、これを報身と名づく。法華の教主は
、四八の相好なり。まさにこれ応身なるべし。〜」
法華教主は顕本しても丈六劣応の姿は変えず、久成の三身は多宝、
分身で表現されます。「生身尊特」の論と云います。ゆえに

「我等己心釋尊五百塵點乃至所顯三身無始古佛也」の意義は
「己心釋尊」=「釋尊五百塵點乃至所顯三身」=「無始古佛」です。
三語は同一の対象を指し、本尊抄で繰り返し出る「教主釈尊」に対応
します。法華教主自身は顕本しても丈六劣応の身のままであるから、
久成三身は観心の対境であります。しかし、
「教主釋尊五百塵點已前佛也。因位又如是」であり、教主釋尊と異なる
古佛がいるのでないが、それは法華教主の姿で直接に表現されないから
「迹に即した本」は観心の対境になる。「本門本尊抄」でなくて「観心
本尊抄」が題である理由とおもう。

参考
台宗二百題(隆文館その他)
金光明經文句記卷第三(下)-大正蔵
http://ccbs.ntu.edu.tw/cgi-bin/webgetfile_.exe?pid=9259&offset=5

86独歩:2002/03/26(火) 18:38

顕正居士さん:

貴重な資料のアップ、いつも感謝申し上げております。

> …法華の教主は、四八の相好なり。まさにこれ応身なるべし

この「台宗二百題」について、委しく知るところでないのでお尋ねしたいのですが、これはつまり、印度応誕お法華経説法の教主、すなわち、曼荼羅には並座の釈迦牟尼仏と表わされるほうの教主ということでよろしいのでしょうか。

反面、五百塵点成道の釈尊は報身正在で分かつという意味でありましょうか。

不勉強のところ、解説いただければ有り難く存じます。

87顕正居士:2002/03/26(火) 20:17
「天台宗論議二百題」

はいわゆる中古の邪義を一掃した上で、天台学の難問200題をめぐる
議論を編纂した書で、享保2(1717)年の東叡山版が最初の出版です。
純正日本天台の学習に必携の書で、簡単に入手できるかと思います。
200題の各の名称はKanden師のサイトに在ります。
http://www.biwa.ne.jp/~kanden/data/200dai.html
『法華教主』の議論は質問、解答があり、反論が始まった冒頭です。
法華教主は丈六の生身、華厳教主のごとき尊特身に非ず、応身である
という反論に法智大師の生身尊特、尊特は生身にわたるの論で会通を
して行きます。ですから。
「五百塵点成道の釈尊は報身正在で分かつ」のでなく、わかたない、
丈六の生身ただちに法身と達し、報身と判ずるので、本尊抄においても
釈尊を分けたりしないが、丈六の生身を無始古佛と感見することは
脱益円機の衆生には教相でも、種益円機の衆生には観心である、
ゆえに三大秘法の名目では本門本尊であるのに、この抄を観心本尊抄
と題するのであろうということであります。

88独歩:2002/03/27(水) 01:54

顕正居士さん:

> 「天台宗論議二百題」

のことでしたか。これは、たしか手許にありました。山から探して再読してみます。
ここに無始古仏に係る内容がございましたか。

有り難うございます。

89いちりん:2002/03/28(木) 16:18
「三身論」ってよくわからないなあ。。
とくに天台のいう「報身」って、本来の伝統的な「報身」と随分と違いますよね。
三諦論と連動させるために、無理にこじつけたのでしょうか。
しかし、天台においては、この「報身」がポイントなんですよね。

90顕正居士:2002/03/29(金) 04:58
「法報應三身」

『丁福保佛學辭典』によりますと
http://www.jhoo.com/cgi-bin//dic.cgi?i=2314&kw=法報應三身&bk=ding

「台家所立の三身也。法報應の名は法華論より之を取る、
是れ開真合應の三身也。開真とは法と自受用・報に及ぶとの二なり。 
合應とは應中に他受用と報の勝應とを合する也。 
一、法身、中道の理體也、本有の三千也。
二、報身、報とは因行の功紱にして顯佛の實智也。
之を二分すとは、自受内證法樂の身を名づけて自受用報身と為す。
初地已上の菩薩に對して應現する報身を名づけて他受用報身と為す。
此と應中の勝應身とは同體の異名なり。 
三、應身、又應化身と曰ふ。 
理智不二の妙體自り、衆生を化度せんが為に種種の身を應現する也。
亦之を二に分つ。 初地菩薩に對して應現する者を名づけて勝應身と
為す。即ち上の他受用報身也。
地前凡夫と及び二乘とに應現する者を名づけて劣應身と為す。
釋迦如來の丈六の身是れ也。(以下訓読省略)」

91顕正居士:2002/03/29(金) 09:04
法報應三身説は法華論に由来し台家所立だが独創説ではなく
嘉祥大師「法華義疏」卷10
http://www.buddhist-canon.com/SUTRA/DCX/DFaHua/T340603b.htm
にあります。両つの三身説はややこしくはなく、開合の異であります。
「然し、また、自受用智は他とは関係なく、全く自内證の法楽を受けるの
智であるから、他受用智とは別であると考へられ得るし、然らざれば、
智の範囲が広過ぎることになる點で、真の報身は自受用智を指し、
他受用智は之を應身となすほうが整斉した説になる。同時に此應身は
地上の菩薩に対するものであるから、特に勝應身とし、一般の應身を、
之に対して劣應身となすべきである。(中略)故に、法應化の三身説を
合真開應、又は合本開迹の三身説と呼び、法報應の三身説を
開真合應、又は開本合迹の三身説と称して区別する。此中では、
前者の方が歴史的に古く現れ、後者は後に発達したもので、此後者で
まさしく、一應、発達の頂点に達したと認められるのである。」
(宇井伯壽「仏教汎論」p.46)

92独歩:2002/03/29(金) 12:37

顕正居士さん:

非常に明解且つ原意に基づくご説明有り難うございます。

皆さん:

やや蛇足ながら、法華三大部に限り、『天台電子辞典』により「三身」語で検索してみました。単に検索結果を挙げるばかりです。なお、前後行を列する方式のために文を充分に表わしておりませんが、意を汲む便には叶おうかと思います。

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法華玄義.TXK(5707):5釋名三法妙,T33'No1716,744a,23
條餘者可領。三道三識三佛性三般若三菩
提三大乘三身三涅槃三寶三徳。諸三法無
量止用十者。擧其大要明始終耳。三道輪
********************************************************
法華玄義.TXK(5711):5釋名三法妙,T33'No1716,744a,27
三識。知三佛性。起三智慧。發三菩提心。行
三大乘。證三身。成三涅槃。是三寶利益一
切。化縁盡入於三徳。住祕密藏云云。一類通
********************************************************
法華玄義.TXK(5810):5釋名三法妙,T33'No1716,745b,6
相似乘。四十一位分眞乘。妙覺究竟乘云云。七
類通三身者。眞性軌即法身。觀照即報身。資
成即應身。若新金光明云。依於法身得有
********************************************************
法華玄義.TXK(5825):5釋名三法妙,T33'No1716,745b,21
報身。微妙淨法身。即法身。具相三十二。即應
身。三軌名異義。即三身。故普賢觀云。佛三種
身從方等生。法界性論云。水銀和眞金能
********************************************************
法華玄義.TXK(5828):5釋名三法妙,T33'No1716,745b,24
塗諸色像。功徳和法身處處應現往。若此
三身不縱不横。妙決了三身入法身妙。歴
七位妙云云。八類通三涅槃者。地人言。但有
********************************************************
法華文句.TXK(1854):2序品1,T34'No1718,21b,28
生。此之分文極有眉眼。覈論宗體殊無趣
向。若歎通教。通教無三身。又非入佛慧。名
不普聞種種義不成。若歎別教。別教初地已
********************************************************
法華文句.TXK(10122):8寶塔品11,T34'No1718,113c,2
如分身皆集。由多寶出故則三佛得顯。由
持經故即具三身。普賢觀云。佛三種身從
方等生即此義也。有人分此品下十一品。是
********************************************************
法華文句.TXK(11503):9壽量品16,T34'No1718,129a,1
P:129a
用耶。可以意得不俟説也。一身即是三
身不一不異。當知一佛身。即具諸身壽命
********************************************************
法華文句.TXK(11521):9壽量品16,T34'No1718,129a,19
也。三阿耨達池出四大河。此譬應身壽命從
法報出同他長短也。此品詮量通明三身。
若從別意正在報身。何以故義便文會。義
********************************************************
法華文句.TXK(11523):9壽量品16,T34'No1718,129a,21
若從別意正在報身。何以故義便文會。義
便者。報身智慧上冥下契。三身宛足故言義
便。文會者。我成佛已來甚大久遠。故能三世
********************************************************
法華文句.TXK(11527):9壽量品16,T34'No1718,129a,25
故能益物故言文會。以此推之正意是論
報身佛功徳也。復次如是三身種種功徳。悉
是本時道場樹下先久成就。名之爲本。中間
********************************************************
法華文句.TXK(11533):9壽量品16,T34'No1718,129b,1
P:129b
場及中間所成三身。皆名爲迹。取本昔道場
所得三身。名之爲本。故與諸經爲異也。
********************************************************

93独歩:2002/03/29(金) 12:38

―92からつづく―

法華文句.TXK(11534):9壽量品16,T34'No1718,129b,2
場及中間所成三身。皆名爲迹。取本昔道場
所得三身。名之爲本。故與諸經爲異也。
非本無以垂迹。非迹無以顯本。本迹雖
********************************************************
法華文句.TXK(11576):9壽量品16,T34'No1718,129c,14
下。破近顯遠。初又三。一出所迷法。二出能
迷衆。三出迷遠之謂。祕密者。一身即三身
名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説
********************************************************
法華文句.TXK(11577):9壽量品16,T34'No1718,129c,15
迷衆。三出迷遠之謂。祕密者。一身即三身
名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説
名爲祕。唯佛自知名爲密。神通之力者。三身
********************************************************
法華文句.TXK(11578):9壽量品16,T34'No1718,129c,16
名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説
名爲祕。唯佛自知名爲密。神通之力者。三身
之用也。神是天然不動之理。即法性身也。通
********************************************************
法華文句.TXK(11581):9壽量品16,T34'No1718,129c,19
是無壅不思議慧。即報身也。力是幹用自在。
即應身也。佛於三世等有三身。於諸教中
祕之不傳。故一切世間天人修羅。謂今佛始
********************************************************
法華文句.TXK(11583):9壽量品16,T34'No1718,129c,21
祕之不傳。故一切世間天人修羅。謂今佛始
於道樹得此三身。故執近以疑遠。此本説
中不復言及二乘但對菩薩。菩薩攝在天
********************************************************
法華文句.TXK(11663):9壽量品16,T34'No1718,130c,11
今之望分身。亦如華嚴十號中所列釋迦異
名若干不同。又諸經所辯。佛有三身名字
不同。所召法體皆異。或説毘那或舍那或
********************************************************
法華文句.TXK(11672):9壽量品16,T34'No1718,130c,20
知。就法報應佛壽命大小。如玄義云云。或
三身相望辯大小。或三身各別皆爲小。合説
名爲大。例三點云云。此皆隨所應度。爲其
********************************************************
法華文句.TXK(11881):9壽量品16,T34'No1718,133a,19
明文在茲何須迴捩疑誤後生耶。然今非
實下。第二迹中唱滅。三身並有非滅唱滅
義。如淨名云。法本不生今則無滅。即是法
********************************************************
法華文句.TXK(11944):9壽量品16,T34'No1718,133c,22
釋難値。三佛並難値。衆生樂著小法見
思障重。聞三身不滅則不修道。難得契
會也。所以下釋也。諸薄徳人過百千劫。或
********************************************************
法華文句.TXK(11948):9壽量品16,T34'No1718,133c,26
惡。不爲其人唱滅。是人見佛常在靈山
也。或不見佛。其人障重善輕。爲説三身難
會。衆生聞之便作是念。三佛雖復非生非
********************************************************
法華文句.TXK(13055):10觀音品25,T34'No1718,146a,25
例如此。結名不煩文。別答爲三。一口機應
二意機應三身機應。口又二。初明七難次
結。火難爲四。一持名是善。二遭火是惡。三
********************************************************
法華文句.TXK(13075):10觀音品25,T34'No1718,146b,15
勸供養。應以者。答方便力也。現身答其問
遊也。説法答其問口也。凡有三十三身十
九説法云云。從成就下。結別開總。別文廣
********************************************************

94独歩:2002/03/29(金) 12:38

―93からつづく―

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摩訶止觀.TXK(1800):2歸大處5,T46'No1911,20c,19
若。實相之身非色像身非法門身。是故非
身非非身。所作辧已歸於法身。達此三身
無一異相是名爲歸。説此三身無一異相。
********************************************************
摩訶止觀.TXK(1801):2歸大處5,T46'No1911,20c,20
身非非身。所作辧已歸於法身。達此三身
無一異相是名爲歸。説此三身無一異相。
是名爲旨。倶入祕藏故名旨歸。若謂般若
********************************************************
摩訶止觀.TXK(3705):4方便章6,T46'No1911,42a,5
也。蔽三諦上醜遮三諦上見愛寒熱。却三
覺蚊虻莊嚴三身。故以三觀爲衣。即是伏
忍柔順忍無生寂滅忍也。又起見名寒起愛
********************************************************
摩訶止觀.TXK(3711):4方便章6,T46'No1911,42a,11
例可解。百一長衣者。即是一切行行助道之
法。助成三觀。共蔽諸惑嚴於三身。此是歴
諸法修忍爲衣也。食者三處論食。可以資
********************************************************
摩訶止觀.TXK(10288):8業相境4,T46'No1911,114c,21
圓極。故名無上。即是報身。垂形九道普門
示現。故名自在。即是應身。如是三身即是
大乘高廣直至道場。餘如上説云云。
********************************************************
以上です。

95独歩:2002/03/29(金) 13:17

―94につづく―

なお、私は“三身”の説明としては岩本裕師が『正しい教えの白蓮』に書くところが、もっとも納得のいく説明であると考えています。その意味で、天台学で展開されるところが直ちに是であるというものではありません。

「余は最近にさとりに到達した」と説くのも、すぺて仏の方便であるという。また、「如来が入滅した」と説くのも、「如来がこの世に現われるのは希有である」ことを知らせるための方便であるという。したがって、ブッダは入滅したのではなく、永遠に教えを説きつづける存在であり、ブッダの寿命は無量であると説かれる。

そののち、数百年が経つあいだに、このように永遠に教えを説く仏の姿が信仰的に次第に固定化し、この仏は特定の言葉で表現されるようになる。すなわち、仏は永遠に教えを説く存在として、仏教徒の心の中に生きている神的な存在、言い換えるならば人間的な存在を超越した存在となったのであって、このような仏を応身仏というのである。応身とは梵語ニルマーナ=力−ヤ nirmanakaya の訳で、「不可思議な創造(ニルマーナ)により出現した身(カーヤ)」の意であるが、永遠に教えを説く存在として特定の姿をしているわけではなく、教えを受ける者の信仰に関する先天的能力に応じて現われると考えられ、応身と訳された。各経典の冒頭に出てくる「如是我聞、一時仏在」といったときの「仏」は、表面的には歴史上のブッダが類推されているが、実は応身仏としての仏である。

ところが、この応身仏に象徴化されている歴史上のブッダの肉身が滅び去り、この世に存在しないことは、まぎれもない事実である。仏教徒は応身仏に歴史上のブッダの経歴なり生活環境なり、あるいはその人格などを反映させて、応身仏を修飾し、その具体化をはかったが、なおそのブッダの姿を彷彿たらしめることはできなかった。そこで、ヒンドウ教のアヴァターラ(権化)思想にならって、応身仏の化身を出現させた。これが報身仏である。報身は梵語サンボーガ=力−ヤ sambhogakaya の訳で、元来は「果報を享受する身」の意で、求法者として長いあいだ修行に精進して、その果報として仏国土を主宰し、その楽しみを享受する仏であることを意味する。阿弥陀如来・薬師如来はもともと報身仏であり、大目如来もその成立においては実は報身仏であったが、後期の成立であるだけに、その原初的性格は不明瞭であることも杏めない。

こうして、応身仏が成立し、報身仏が展開したが、ここにそれらの仏をして仏たらしめる絶対者が当然存在しなければならない。この原理としての「仏」を法身仏という。
応身・報身・法身の三身説を含めて仏身に関しての仏典の記載は錯雑を極める。上述したところは応身・報身・法身の三身説に関して最も簡明に整理して説明した発生的な見方である。ところが、この三身説についても、『妙法華』を所依の経典とする天台宗では、別の解釈をする。すなわち、『妙法華』の所説により、伽耶城で成道し、拘戸那掲羅城で八十歳で入滅した釈尊を応身とし、報身の釈尊をその実体とし、報身は久遠の往古に成仏し、未来永劫にわたって常に霊山の浄土に住すると説き、これを久遠実成の釈尊とする。しかも、この久遠実成の釈尊は法身・報身・応身の三身相即で、「菩薩」としての修行によって仏となったのではなく本来自然に元から仏であるとする。日蓮はさらにその意義を強調しているのであって、彼のいう「釈迦仏」とは実にこの久遠実成の釈尊である。この久遠に対する日蓮の渇仰は熱烈であり切実であるが、この信仰形態を前述の三身説に照らして分析してみると、これらの三身のその成立の根源である歴史上のブッダとが完全に一体化されて、法身仏としてのブッダということになっていることが知られる。発生的に考察するならば、歴史上のブッダの象徴が応身仏であり、その権化が報身仏であることから、歴史上のブッダが応身仏・報身仏をして仏たらしめる最高原理としての法身仏と同一視され、逐に一体化されたと考えられる。しかも、このような仏教者の心象は、歴史上のブッダをさえ「仏」たらしめる元初仏をを生み出すに至った。その端的な例がわが国の真言宗の本尊である大日如来に見られる。すなわち、大日如来はその成立においては明らかに報身仏であるが、教学においては本地法身仏とされ、原初仏の性格を持つに至った」(上368頁)

ただし、岩本師の、ここでいう聖人に対する分析については、果たして真偽分析、また、滅後の派祖教学展開とを明瞭に分析した結果から述べるところであるかは、やや疑問が残るところです。

96Libra:2002/03/29(金) 15:48
 三身説については、以下の資料も参考になると思います。

  智ギ(〔豈+頁〕)の三身論と『起信論』の本覚思想(花野充道)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/096.html

  日蓮聖人は報身仏を中心に据えている(浅井円道)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/106.html

97独歩:2002/03/29(金) 16:09

Libraさん:

待っていました(笑)

いま『法華論疏』を読み直していて、宝塔並座と三身の部分で、Libraさんの曼荼羅観を擦り合わせていました。Libraさんの言うところは伝統的な解釈と矛盾しないと思えました。

上述のことは、ちょっと置いて、引用される充道師は起信論の真偽について論じられない野は憾みを感じますが、それも置いて「法(法身)が絶対(常住・遍満)であるが故に、その法を証得した仏(報身)もまた絶対である」という点は、やや難を感じます。そもそも「絶対」ということを天台が言っているとする点は頷けません。

なお円道師の田村師の法身に対して、『法華文句』寿量品釈の「報身正在」を説くのは尤もなのでしょう。私はこの点を本尊の選定面から読むのですが、これは違うのでしょうか。

元来、三身は「祕密者。一身即三身名爲祕。三身即一身名爲密」と釈されるのであって、すると、「法身か、報身」という問いは人の「身(カーヤ)」の優性を論ずるような誤解を招くと思います。聖人の真蹟中に三即一を見出せない理由は、この辺りにあると言えば、やや言い過ぎかもしれませんが。

98顕正居士:2002/03/29(金) 17:49
独歩さん。お調べの三大部「三身」出現数と比較すると
「註法華経」の「三身」出現数はたいへん多く、六大部の「三身」が出る
重要箇所をほとんど記入してあるのかも知れません。日蓮聖人の主要
な関心が「本地三身」と「迹中三身」にあったと断定できるでしょう。

ゆえに岩本裕氏の三身概説はもっともですが、「本来自然に元から仏」
はどうでしょう。「我本行菩薩道」、本因妙の存在も天台家の説であり、
「総勘文抄」みたいの純理佛は日蓮が否定するところとおもいます。

「註法華経」はEISAI師のサイトに電子版があります。
http://www.kosaiji.org/download/hokke/index.htm

99Libra:2002/03/29(金) 18:45
独歩さん:

> いま『法華論疏』を読み直していて、宝塔並座と三身の部分で、Libraさんの曼荼羅観を
> 擦り合わせていました。Libraさんの言うところは伝統的な解釈と矛盾しないと思えまし
> た。

 またいろいろ教えて頂ければ幸いです。しかし、その前に、

  犀角独歩さんとの対話
  http://www.be.wakwak.com/~libra/z021.html

の続きを早くアップした方がいいかもしれませんね。

> 引用される充道師は起信論の真偽について論じられない野は憾みを感じますが、それも
> 置いて「法(法身)が絶対(常住・遍満)であるが故に、その法を証得した仏(報身も
> また絶対である」という点は、やや難を感じます。そもそも「絶対」ということを天台
> が言っているとする点は頷けません。

 <実相にまで到達しえた智慧であるが故に、その智慧はそれだけの「常住性と普遍性」
を持つ>ということを天台は言っているのだろうと思います。しかし、逆に、「実相の理」
を「法身」たらしめるのは「修得の智」であるとも思います。

  ──────────────────────────────────────
   「真理」には口がありませんから、いくら「無始」であっても、そのままでは衆生
  を救済する力を持ちません。
   私は、
  
    〝真理は「無始無終」であるが、ただ真理があるだけでは「仏」はまだ存在しな
    い。「真理」を「智慧」としてさとって、衆生を導く存在が出現した時に「仏」
    はこの世に誕生するのである〟
 
  と考えています。つまり、「真理」が「法身如来」になったのは、それを「智慧」と
  してさとって、衆生を導く存在である「仏」が出現した時点であると。

  (229 名前: Libra 投稿日: 2002/02/14(木) 19:02、
    旧・富士門流信徒の掲示板、スレッド「六巻抄について」、
    http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/rokkansyo.htm
  ──────────────────────────────────────

 浅井前掲論文で「釈迦の成道によつて始めて存在の常住性・無限性が成立するところに、
天台教学の本来がある」と言われているのも、そういうことではないかと私は思っていま
す。

100Libra:2002/03/29(金) 18:46
―99からつづく―

> なお円道師の田村師の法身に対して、『法華文句』寿量品釈の「報身正在」を説くのは
> 尤もなのでしょう。私はこの点を本尊の選定面から読むのですが、これは違うのでしょ
> うか。

 ここは、<「教主釈尊」と「無始古仏」の差異>の問題とも関係するところかもしれま
せんね。

  ──────────────────────────────────────
   独歩さんが仰るように、宗祖は言葉を厳密に使われる傾向が強いと思いますので、
  「無始古仏」と「教主釈尊」は意識的に区別して用いられているのかもしれません。
   その場合、問題は、それらの間の「差異」ということになりますが、法身(〝無始〟
  無終)までも視野に入れた三身全体を「無始古仏」と呼ばれ、特に智慧の側面である
  報身(〝有始〟無終)に着目する時に「教主釈尊」と呼ばれている、という考えは成
  り立たないでしょうか。つまり、一尊四士の「一尊」は「無始古仏」で、曼荼羅の
  「妙法蓮華経」は「教主釈尊」である、というふうには考えられないでしょうか。

    拙文「本尊論メモ」、〔01.12.10付記〕
    http://www.be.wakwak.com/~libra/z013.htm#fuki011210

  (「犀角独歩さんとの対話」、http://www.be.wakwak.com/~libra/z021.html
  ──────────────────────────────────────

 「本尊の選定」についてですが、浅井円道氏は、創価学会で説かれている「宇宙生命論」
について、

  ──────────────────────────────────────
  また宇宙の大生命とは「宇宙自体がすでに生命そのものであって」太陽も地球も星く
  ずもアミーバも大生命体の部分的発現に他ならぬという。非常に荘大華麗な構想であ
  り、人を天文学的夢幻境に誘うに充分であるが、これは法界を身体となす毘盧遮那法
  身仏思想の通俗化である。

  (浅井円道「創価学会の出現と問題点」、望月歓厚編『近代日本の法華仏教』〔法華
    経研究Ⅱ〕、平楽寺書店、1968年、p. 173)
  ──────────────────────────────────────

と言われています。確かに、このような「密教的法身を中心とする」仏身論によって、現
在の創価学会のような密教的本尊観が成立しているのだろうと思います。

  勤行─大宇宙と自身の生命交流の儀式(「やさしい教学」『聖教新聞』)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/063.htm

  大宇宙即御本尊(戸田城聖・池田大作)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/064.htm

101独歩:2002/03/29(金) 20:14

顕正居士さん:

註法華経との関連でのご指摘、まことに有り難うございます。
また、参考になるサイトのご紹介をいただきました点も、深く御礼申し上げます。
拝読し、比較対照しながら、考えてみます。

> ゆえに岩本裕氏の三身概説はもっともですが、「本来自然に元から仏」
はどうでしょう。「我本行菩薩道」、本因妙の存在も天台家の説であり、
「総勘文抄」みたいの純理佛は日蓮が否定するところとおもいます。

なるほど。参考に資させていただき、顕正居士さんの思索の跡追いをさせていただきます。 蹲踞

102独歩:2002/03/29(金) 20:39

Libraさん:

引用くださったジャンプには「密教の本尊観」としてさらに、そのジャンプがつながれており、こちらもなかなか興味深いのですが、こちらは追って読ませていただきます。

ここのところ、ずっと考えてきたは「法」ということ、この捉え方は重要なのだという点です。

私は無徳さんのレスで「法身」には懐疑的で、かつ三身説には慎重であると申し上げたのですが、これもこの捉え方と大きく関連します。

少し前、十二因縁ということが問題になったわけですが、まあ、これが釈尊の真説ではない点はそれとして、四諦、八正道などといわれる点と、たとえば、Libraさんが100に参照する池田さんや、戸田さんがいう法に対する理解は根底的な相違があると思うわけです。つまり、シャキャムニが法というとき、それは修行者が「いかに考えるべきか、いかに行ずるべきか」という範囲に留まっていると私は拝察します。
反面、ブラフミニズム化、あるいはタントリズム化から言われる法は「宇宙真理」であるとか、「生命の実相」であるなどという法則性のような色合いを濃くし、さらにその法則の所有者が想定され、ついには一体感を言われることになっている点が窺われます。

これはたとえば曼荼羅、本尊、一念三千などというときも同様で、私は常に前者の視点で捉えるべき点を強調してきたわけですが、およそ石山周辺では大なり小なり池田さん・戸田さんのごとき発想を帯びていると思うわけです。

池田さん的な言い方を奪って言えば、たとえば「万有引力とニュートン、相対性理論とアインシュタインは人法一箇なのか」と仮定は立てられるわけですが、そもそもこんなことを言うのはナンセンスでしょう。ところが宇宙根本法則(生命)と覚った人は一体であるというのは違和感を懐けない点に問題があります。

この点は、Libraさんが「一尊四士の「一尊」は「無始古仏」で、曼荼羅の「妙法蓮華経」は「教主釈尊」である」ということと、私はどうしてもダブるわけですよ。ただ、Libraさんのこの試案は概ね伝統解釈からすれば、そうなるであろうとも思います。けれど、私は曼荼羅は戒定慧から捌くとしたことは既に申し上げたとおりです。

本覚論などで展開する仏・法はニュートン、アインシュタインと同列に論じられないのは当然ですが、そんな過ちを、どうも仏教解釈で冒していることはないのか、富士門周辺を概観して私は思うわけです。

ところがこの点は、真言教説の勃興をはたで睨むなかで法身説は応・報に匹敵する、さらには中心的な重要性を帯びるようになる、この点を率直に指摘するのが田村師のような気がします。ですから、円道師と報身説と、田村師の法身説は、そもそも視点が違っていると私は思い、両論ともいうことはわかるわけです。

ただ、天台の土壌で考えるとき、法は法であって、それを何ゆえ、身(カーヤ)としてしまう必要が、どこにあるのかという点に以前、疑問が残ります。いつも私がいう擬人化ならぬ、擬“仏”化という逆行であると思えるわけです。

ですから、充道師についてLibraさんは説明を加えてくださいましたが、法を覚る側も「絶対」などという点は頷けません。ただ、三身説がそのような結論を支持していることは了解しているつもりです。なにか法は限りなく擬仏化され、反面、仏は限りなく擬法化され、ついには相即と論じられることになる、そんな推移を感じるわけです。

実は、寛師の考証を終え、聖人の祖意を案じたあと、天台学におけるこられの点も考えようという企ては懐いているのですが、なにせ、まずは六巻抄(笑)をやり終えた気持ちがあります。しかし、皆さんのレスがあまりに魅惑的なので、つい私も脱線してしまいます。しかし、ここのところは三身については、すこしの論じ合うことは有効であろうと思った次第です。

103独歩:2002/03/29(金) 20:41

いちりんさん:

ここのところ、長々と引用ばかりしてすみません。けれど、102に記したごとく、89にいちりんさんがおっしゃるように実は私もかんがえていると言うのが、現時の想いなのです(笑)

104独歩:2002/03/30(土) 13:58

顕正居士さん:

さっそく、註法華経の“三身”の該当箇所を拾って見ました。
仰るとおり、その引用の多さには驚かされます。また、真蹟遺文中に見出せない“三身即一身”も見出され、実に興味を引きました。
また、仰せのとおり、「日蓮聖人の主要な関心が「本地三身」と「迹中三身」にあった」というご指摘は頷けるところでした。有り難うございます。

以下、私は慮ったのは(多分、この点はLibraさんの主要興味の点でもあろうかと思いますが)釈迦と大日、あるいは釈迦と阿弥陀の三身に係る関係を、聖人はどのように決せられておいでであったのかという点です。もし、お考えをお聞かせいただければ有り難く存じます。

○山家顕戒論云。稽首十方寂光・常住内証三身仏
○輔之六云。弥陀・釈迦二仏既殊者。問。既云。十方諸如来。同共一法身。一身一智慧。力・無畏亦然。今何故云二仏異耶。答。拠彼々三身体遍。実不可分別。体等悉同。
○弘八云。問。但聞三身従法身起。不聞余三従化身起。及以法・報従応身起。答。従勝起劣即是施権。従劣起勝即是開権。跨節明義不可思議。無非法界。故得相起・相入無妨。其相云何。如化応自説吾今此身即是法身。況不是報。能起既然。相入例此。○論云是三一相。是故義同。雖一而三。故復別説。
○一者約身。言仏性者応具三身。不可独云有応身性。若具三身。法身許遍何隔無情。二者従体。三身相即無【斬/足】離時<三身相即無暫離時>。既許法身遍一切処。報・応未嘗離法身。況法身処二身常住。故知三身遍於諸法。何独法身。法身若遍尚具三身。何独法身。
○記九云。然諸教中豈無三身。但為兼帯及未明遠。是故此経永異諸教。若不爾者。請験諸経。何経明仏久遠之本同此経耶。
○文句九云。仏於三世等有三身。於諸教中之不伝。故一切世間天・人・修羅。謂今仏始於道場得此三身<謂今仏始於道樹得此三身>。
○記九云。初釈約三身法体。法爾相即。次釈約今昔相望。以今法体望昔故也。亦可前釈通諸味。後釈斥他経。
又云。広約諸教・諸味簡已<広約諸味簡已>。更約今昔簡之。方顕本地三身神通。[文]
記十云。故須雙述今昔二門。
輔云。疏一身即三身者。即一身即三身。法華之前未曾説。故名秘<故名為秘>。三身即一身。以本証得所不知<以本証得衆所不知>。故名為密具<故名為密也>。疏三身之用者。以本地三身為体。迹門三身是用也。
又云。疏於諸教中者。諸教通前四味也。更約今昔簡者。昔謂本地三身。今即迹中三身也<今則迹中三身也>。及以漸教<及以漸教者>。方等・般若也。今明本地三身<今正明本地三身>。故不得用此三釈漸教中三身也。
○不空羂索神変真言経第二十八云。一切如来三身一体。皆等毘盧遮那法身相好<皆等毘盧遮那仏身相好>。
○宝法師云。正法千五百才也<正法千五百歳也>。
記十云。経云五百歳者。…答。既云如説修行。即依経立行。具如分別功徳品中。直観此土四土具足。故此仏身即三身也。
○或人。空海法華大日経十異不同云<空海法華大日経十不同云>。一者。法華経是釈迦説。雖云三身即一。於応身上詮法報也。胎蔵界是法身説。雖云三部一体。若論其実唯是法身也。所説主上詮言<法身所説主上綸言>。応身所説臣下伝宣。二者法華経是同居土説。雖四土云不寂光土也<雖四土不二初後穢土也>。譬如紫辰龍尾雲泥懸也<譬如紫宸龍尾雲泥懸也>。三者。法華会中凡聖相伴。胎蔵席座唯是菩薩<胎蔵座席唯是菩薩>。凡夫相雑猶如閭巷。純有菩薩蓬莱仙宮。四者。法華経是二乗説。臣私書也<民官符>。牛車。法華経座中上慢退座。胎蔵界唯有真実。譬如民間柔屋応掃粮<譬如民間草屋応掃糠>。中殿上唯有錦繍<禁中殿上唯有錦繍>。六者。法華中二乗生疑。胎蔵界令衆印信<胎蔵界令衆信仰>。七者。多宝如来非是釈迦。胎蔵界中大日即釈迦。八者。法華<法華分身之外有化仏胎蔵界意者三部之外無有余仏>。
○真言義決云。南天竺有鉄塔。中有大経本。無畏三蔵。七日経塔念誦呪<七日遶塔念誦呪>。曰白芥子七粒打開塔門<以白芥子七粒打開塔門>。乃至還如故也。
{9-099}法華観心陀羅尼云。曩謨・三曼陀[普仏陀]〓〓[三身如来]

105独歩:2002/03/30(土) 14:03

104の訂正

誤)○真言義決云。南天竺有鉄塔。中有大経本。無畏三蔵。七日経塔念誦呪<七日遶塔念誦呪>。曰白芥子七粒打開塔門<以白芥子七粒打開塔門>。乃至還如故也。
{9-099}法華観心陀羅尼云。曩謨・三曼陀[普仏陀]〓〓[三身如来]

正)○真言義決云。南天竺有鉄塔。中有大経本。無畏三蔵。七日経塔念誦呪<七日遶塔念誦呪>。曰白芥子七粒打開塔門<以白芥子七粒打開塔門>。乃至還如故也。
法華観心陀羅尼云。曩謨・三曼陀[普仏陀]〓〓[三身如来]

106独歩:2002/03/30(土) 14:11

《注》

104の文中にある【斬/足】などは、ワープロ所蔵文字にないものを記号化したものです。この本則は顕正居士さんのサイトからもリンクされている以下のページにあります。実に便利な表記であると思います。

中華電子仏典協会・一般組字式基本規則
http://ccbs.ntu.edu.tw/cbeta/version/loseword-version.htm

107いちりん:2002/03/30(土) 16:46
独歩さん

岩本さんの引用ありがとうございました。
こちらはわかりやすいですね。
まあ、しかし、いろいろと仏教談義は、漢字熟語が多くて難しいことでありますね。

108独歩:2002/03/30(土) 17:35

いちりんさん:

> 仏教談義は、漢字熟語が多くて難しいことでありますね

まったく仰るとおりで、引用しながら、いつもいちりんさんのお顔ならぬ、お気持ちを気にしてしまいます。(お顔はこの次のオフ会で拝見すれば、その後は心に浮かぶところとなります(笑))

しかし、いつも感心するのは、こういった難しいことを引用しない人の話は、恐ろしく稚拙な解説書を超えることがないのに、いちりんさんの書き込みは文章こそ、平易であれ、十分にそれらの意を汲んでいるという事実です。敬服いたしております。

109いちりん:2002/03/30(土) 17:43

「応身」と「報身」というのを考えてみました。

「応身」というのは「応化身」ですよね。
「人々の求めに応じて出現する仏」という意味でしょうか。

「報身」というのは「果報身」ですね。
「しっかり修行して達成した仏」という感じでしょうか。

これは違う仏ではなくて、違う角度から観た場合の仏の分類のように思います。

お釈迦さまが、インドらあらわれたのは、人々に求めに応じてあらわれたのである。それは、「応身」ですよね。

そして、お釈迦さまの過去世の修行をみていくと、さまざまな修行を積んでその成果として仏になることができた。それが、「報身」という見方。

よく阿弥陀如来を「報身」と位置づけますが、それは法蔵菩薩が修行をして達成した仏というところからみたことですね。ところが、阿弥陀如来は衆生の求めに応じてあらわれたという見方をすれば、それは「応身」と。

卑近な例で言うと、小泉総理がいますよね。
この方は、まあ大衆の求めに応じてあらわれた総理という見方もできる。
これは、「応身」という見方でしょうか。

インターネットにしても、大衆の求めに応じてあらわれたツールという見方がありますよね。大衆が求めなければ、ものごとはあらわれないというとらえ方があると思います。
そして、あらわれる時には、大衆の求めに即したカタチであらわれる。まあ、自分の都合というよりも、大衆の都合が主体ともいえましょうか。

政治家になって、頑張って総理になったという見方があります。それは、小泉さんの努力とか才能とかそういうことで、総理になった。それは、果報としての総理ですよね。それが、「報身」的な見方。

……などと、考えてみました。

110いちりん:2002/03/30(土) 17:44

でまあ「自受用報身如来」などといいますよね。

それは、字義通りみていくと、「自分で修行して、自分で仏を達成した」と読めるかなあと思ったりします。

第一番成道の仏というのは、まず自分がいて、自分が自分を原因として修行して、自分が結果として仏を得る、と。それが、「自受用報身如来」と。

まあ、「自作自演仏」とでもいいましょうか。
演ずるのも自分、脚本も自分、観衆も自分、舞台も自分。なにからなにまで、すべてが自分であると。

それが、原初仏、アーディブッダ、第一番成道の仏、自受用報身如来。

111独歩:2002/03/31(日) 20:25

○「自受用」で検索すると

【天台】
摩訶止観 0
法華文句 0
法華玄義 0

【釈三大】
止観弘決 1
文句記_ 3
玄義釋籤 1

【その他】
五百問論 9
戒疏明曠 9

【日蓮】
真蹟__ 0
註法華経 0
真偽未決 43

という結果になります。妙楽釈上で、当然、見られる語彙ですが、聖人は真蹟中で、その使用が見られません。

興味深いのは伝統的な台学81資料中、「自受用報身如来」は一箇所も使用がなく、真蹟にもなく、真偽未決でも百六箇抄に1、本因妙抄に1、産湯相承に1の使用を見るばかりです。

112問答迷人:2002/04/02(火) 09:57

独歩さん

注法華経にも見られないということは、「自受用」語句が用いられている御書は、逆に偽書の疑いが濃厚、という事になりそうですね。以下、並べてみますと、やはり、偽書の疑いが濃厚とされてきた御書が殆どですね。

真言天台勝劣事(文永七年),四条金吾殿御返事(建治二年六月)、日女御前御返事(弘安二年八月)、十八円満抄、本因妙抄、百六箇抄、上行所伝三大秘法口決、産湯相承事、御義口伝、御講聞書

113独歩:2002/04/02(火) 11:51

問答名人さん:

>「自受用」語句が用いられている御書は、逆に偽書の疑いが濃厚、という事になりそうですね。

そうですね、やはり。妙楽の釈には出典が確認できるわけですから、聖人が知らなかったわけはないと思うのです。ところが註法華経にすら、書きこまれなかったのは、いったい何を意味するのでしょうか。

いずれにしても、「自受用報身如来」はまったく問題外ということになりますでしょうね。

しかし、偽書の疑い濃厚という御書を並べると日蓮本仏義では錚々たるものばかり、溜息を禁じ得ません。

114独歩:2002/04/06(土) 08:30

112までに、自受用について考えたのですが、富士門では…というより中古天台口伝では、この語は自受用報身如来として成句するわけです。

『一帖抄』(惠心流内證相承法門集)には

自受用報身如來。以顯本爲正意也。…山家大師釋云。一念三千即自受用身。自受用身者出尊形佛文以此道理以報身爲正意習也

とまったく富士義のように扱われる文章がそのまま現れています。
仙波における口伝では自受用報身如来とは天台を呼称することを秘密裏に伝えるといいます(早坂説)。これが富士においては日蓮を指すようになる故、中古天台本覚思想慧心流口伝の“焼き直し”であると見るより他、ないことになります。

なお、富士では日蓮の本地を“久遠元初自受用報身如来”と成句するわけですが、この久遠について、御義口伝には

久遠とははたらかさず、つくろはず、もとの儘と云ふ義なり。無作の三身なれば初めて成ぜず、是動(はたら)かさゞるなり。

と言います。御義口伝、つまり聖人の口伝であるという「久遠の事」の一節は、実は尊舜(1451-1514)『文句略大綱私見聞』巻五に

所詮 久遠ト云ヘバトテ、過去ノ久遠ノ義ニ非ズ…サレバ久遠ノ文点ヲ久遠(モトノマヽ)トモ 久遠(ツクロワズ)トモ読む也

と言います。ほぼ全同の中古天台義が、富士では聖人の言としてもっとも尊重される御義口伝に座を占めているわけです。

次の久遠元初は、富士では特に弘安2年10月の述作と周到な『三世諸仏総勘文教相廃立』の

釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき

の一節の釈迦如来を日蓮大聖人と読み直したうえで「当初」を強調するわけです。これは釈尊五百塵点成道已前をいうものですが、この原形は、『等海口伝抄』第十二の

“五百塵点最初”実成時分 云本実成 云顕本也。

と見れるわけです。

以上のことから、祖師を自受用報身如来と見たてることは慧心流口伝の天台=自受用報身如来の転用であるとともに、久遠・当初もまた、その転用・転訛であることが知れるのであって、このような説を日蓮已来の口伝・相伝であるとする寛師教学は、まったく叙用に耐えないというほかありません。

115問答迷人:2002/04/06(土) 09:21

独歩さん

>サレバ久遠ノ文点ヲ久遠(モトノマヽ)トモ 久遠(ツクロワズ)トモ読む也

こういう文献を知らなければ、御義口伝を聖人の口伝であると信じて居れる訳ですが、今朝、この文を拝見して、興ざめしてしまいました。

ところで、一帖抄は何時頃の成立なのでしょうか。

116独歩:2002/04/06(土) 14:31

問答名人さん:

> 一帖抄は何時頃の成立

いちおう、口伝宗なのでしょうから、口伝として成立と、文献としての成立の二段階が考えられると思います。前者は知るべくもありませんが、後者については同抄の末尾に以下のようにあります。

延文三年八月十日。於土御門御房御本下給。
三日之中書寫畢。不思議之感得尤此事也。法
皇御玉筆。并御自筆之示書等有之。甚外見不
可有云云
楞嚴一流求法沙門心運

文明三年辛卯十月二十八日授泰藝
權少僧都榮源花押
P:48a
永正十四丁丑拾月十三日授日憲了
日意花押


底本。身延藏。文明三年泰藝書寫本。
對校本。
イ。身延藏。永正十四年日意授日憲本。
ロ。身延藏。書寫年時不明身延十四世日鏡藏本。
ハ。身延藏。永正八年大乘房日尭寫安樂房日授藏本。
對校者。岩田教圓。


「土御門…法皇御玉筆。并御自筆之示書等有之」が本当であれば、寛喜3年(1231)以前で、その書写の「延文三年」(正平13年)は1358年、石山行師の時代ですね。

寛喜3年は聖人が10歳、ご生涯のうちにご覧になられたかどうか、また土御門法皇その他の記述が実際のことか、学的考証を待つしかありませんが、「底本。身延藏。文明三年」辺りに日蓮門下に流通があったと見るのが至当ではないでしょうか。あの文明年間ですから。

117顕正居士:2002/04/06(土) 21:04
日本天台本覚思想

を学修する為の基本の書籍を挙げます。入手は比較的容易です。

○上杉文秀『日本天台史』 破塵閣書房 昭和10年
日本天台思想史。口伝法門の資料多数。
○硲慈弘『日本仏教の開展とその基調』 三省堂 昭和43年
天台本覚思想と鎌倉仏教。
○ 田村芳郎『鎌倉新仏教思想の研究』 平樂寺書店 昭51年
天台本覚思想と鎌倉仏教。
○浅井円道 『上古日本天台本門思想史』平楽寺書店 昭50年
日蓮学の立場からの天台密教研究。
○日本思想大系9『天台本覚論』岩波書店 昭和 48年
初期・中期の主要文書。および概説。

完成期の文書である『等海口伝』、『文句略大綱私見聞』、『天台名匠口訣鈔』は
学修に必須です。これ等は『大日本仏教全書』がある図書館で複写するのが
よいでしょう。

118独歩:2002/04/06(土) 22:43

顕正居士さん:

> 117

有効な資料のご提示、有り難うございます。

最近、ようやくと初期天台資料のデータベースを入手して、かなり楽をしている(笑)のですが、伝教大師、また本覚思想系は、データベース化されたものがあるのでしょうか。苦労しております。

殊にお示しの『等海口伝』『文句略大綱私見聞』『天台名匠口訣鈔』ほか、『二帖抄』『二帖抄見聞』『蔵田抄』などのデータベースはないものでしょうか。もし、ご存知のことがございましたら、ご教示いただければ有り難く存じます。

119独歩:2002/04/07(日) 11:30

○伝教大師に始まる『相承略系譜』をアップしました。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/honkakukeihu.html

120顕正居士:2002/04/07(日) 11:50
日本天台文献

の電子版があるのは世界中でKANDEN師のサイトのみです。
http://www.biwa.ne.jp/~kanden/lib.html
他には
天台宗典編纂所(野本覚成師)で日本天台初期文献のCD化の計画があります。
http://www.biwa.ne.jp/~namu007/

日本天台の有名な文献は『天台宗全書』か『大日本仏教全書』にあります。所で。
これ等の版にもとづいて電子版をWEBにあげても、刊行年代から考えて著作権の
問題はほぼ生じないとおもいます。但し。

返り点、送り仮名、割り註をどう表現するか難かしい。PDFでは不便ですから。

121独歩:2002/04/07(日) 13:59

顕正居士さん:

> 120

有り難うございました。両サイトとも利用させていただいております。
少し前に天台宗典編纂所からCD2を入手して非常に重宝しております。

また、KANDEN師のサイトから種々ダウンロードさせていただき、使用させていただいております。

私も『本理大綱集』『天台法華宗牛頭法門要纂』『修善寺決』などから、テキストデータ化しアップしようと考えております。ともかく、今は電子化こそ、蒙を啓く近道のように考えております。

顕正居士さんをはじめ、皆さんのご努力には深く御礼申し上げるものです。

122独歩:2002/04/08(月) 23:33

ここのテーマとは直接、関係ありませんが、『本理大綱集』をサイトにアップしました。ダウンロードしてお使いください。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/honritaikoshu.zip

『本理大綱集』は伝最澄とされる本覚初期の資料です。が、円道師は最澄へ仮託した後世の作であると分析しています。

ただ、資料として価値を有するのは池上本門寺に蔵される聖人真蹟であるという『本理大綱集等要文』に以下の点が抜書きされています。(ただし全同ではないとのことです)

十界互具之文
一 案十界始終、仏界心境中具在九界性、心遍万水、是故一々法
界具九界互、此天台所立十界互具宣是宗瑜伽意、是故天台所立十
界互具之文与秘密最大卅七尊住心城之文、大道雖異不思議一意也
麁食者疑云、案仏界心境者、有清浄功徳無有九界妄染、仍清浄
離於染故、羅什云経云、断諸法中悪、般若経窮源尽性妙智存云、
大乗起信論中如来蔵中唯有清浄功徳宣無量義云云、如此、況金剛
般若中有清浄善云云、迷悟其性得意異者、過恒沙等浄功徳、具妄
染虚妄相耶、故九界妄染不可具仏界心鏡中者耶

答曰、弾曰、未知汝法華之超八円与大毘盧舎那経一大円教雖顕
密異大道無乖耳、案宗瑜伽一大円融教者仏界心境中具足三千性相、
三千者非千如百界法門乎、尋千如百界法門者、従十界心起、案十
界者、従仏界心九界性相始流出、是故仏界心性具九界心性、九界
心性具仏界心境
三千世間之形収仏界心時、曰是法住法位世間相常住、是法等者
説普賢延命智、尋十界者、従普賢一心起、三千世間法、何時非普
賢心色耶、開時曰三千、合時曰一如無二如、是故曰世間相常住、
是宣天台円融心理也

但至汝語者誰不知此、上来語而断諸法中悪者、顕
於別教〔権〕説如此云也、未観心意、況諸説文宣〔権〕門意、未一大円融
意耶、大乗(起信)論意宣対治邪執門意也、未一実心観一心教意也
一心一念内取界如三千法門、是故華厳経云、三界唯一心心外無
別法等云云、九界即一心全不可云理外法耳、汝仏界心不可具九界
妄染云以非

また、本尊抄の「華厳経云 究竟離虚妄無染如虚空 仁王経云 窮源盡性妙智存 金剛般若経云 有清浄善 馬鳴菩薩起信論云 如来蔵中有清浄功徳…開拓経文 断諸法中悪等云云」の箇所は上述中、

麁食者疑云、案仏界心境者、有清浄功徳無有九界妄染、仍清浄
離於染故、羅什云経云、断諸法中悪、般若経窮源尽性妙智存云、
大乗起信論中如来蔵中唯有清浄功徳宣無量義云云、如此、況金剛
般若中有清浄善云云、迷悟其性得意異者、過恒沙等浄功徳、具妄
染虚妄相耶、故九界妄染不可具仏界心鏡中者耶

に取材したものである(円道説)と言います。
来週には『二帖抄』をアップする予定です。

123独歩:2002/04/08(月) 23:47

【122の訂正】

誤)価値を有するのは…以下の点が抜書きされています
正)価値を有するのは…以下の点が抜書きされているからです

124いちりん:2002/04/09(火) 15:17
独歩さん

『本理大綱集』のテキスト、ありがとうございます。
『天台法華宗牛頭法門要纂』『修善寺決』なども、楽しみにしています。

125独歩:2002/04/09(火) 18:20

いちりんさん:

> 124

お声をかけてくださるとやった甲斐を感じます(笑)
有り難うございます。

少しじっくりと本覚資料をデータベース化しようと思います。

今日、図書館に行って『大日本仏教全書』を眺めてきたのですが、61巻に圓信『破日蓮義』なる書があり、一挙に読んでしまいました。これは、めっぽう面白いものでした。

126Libra:2002/04/09(火) 18:48
 「六巻抄の見直し」というテーマからは、完全にずれてしまうのですが、日本天台文献
のことが今話題になっていますので、それに便乗して、少し気になっていることを書かせ
て頂きます。

 創価学会の「宇宙生命論」(に基づく生死観)は、道元によって「仏法にあらず」とし
て批判されたところの日本天台本覚思想の「心常相滅論」そのもののように私には思えま
す。『御義口伝』の

  ──────────────────────────────────────
  自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり

  (『御義口伝巻上』、全集、p. 724)
  ──────────────────────────────────────

という部分はまさに「心常相滅論」だと思うのですが、この部分に似た表現は日本天台文
献の中にあるのでしょうか。もしもご存知の方がおられましたら、ご教示頂ければ幸いで
す。

【参考文献】
 硲慈弘「鎌倉時代に於ける心常相滅論に関する研究」、『大正大学学報』第三十四輯
 (1942年10月)、pp. 36-54〔『日本仏教の開展とその基調』下巻、pp. 298-318に再録〕

127顕正居士:2002/04/10(水) 04:39
心常相滅論

「伏シテ以(おもんみ)レバ。生死ノ二法ハ一心ノ妙用。有無之二道ハ本覺ノ眞徳ナリ。
所以(ゆゑ)ハ心トハ無來無去ノ法。神(たましひ)トハ周遍法界ノ理也。故ニ生ルル
時モ來ルコト無ク。死ヌル時モ去ルコト無シ。無來無去ノ心ニ有ノ用ヲ施サバ。心即チ
六根ノ體ヲ現ズ。之ヲ以テ生ト名ヅク。周遍法界ノ神ニ空ノ徳ヲ施サバ。神即チ五陰
ノ身ヲ亡ス。之ヲ指シテ死ト曰フ。別(これ)無來ノ妙來。無生ノ眞生。無去ノ圓去。
無死ノ死也。生死ハ體一。有空ハ不二ナリ。是ノ如ク知見シ。是ノ如ク觀解スレバ。
心佛ノ體顯レ。生死ニ自在ナリ。」

天台法華宗牛頭法門
http://www.biwa.ne.jp/~kanden/lib.html

がいちばん有名です。日本天台四学(円密禅戒)中、禅を最勝とする傾向で、後に
止観勝法華、禅勝止観の教判に発達します。牛頭決の成立は鎌倉時代です。

「御義口伝に云く一門とは法華経の信心なり車とは法華経なり牛とは南無妙法蓮華経
なり宅とは煩悩なり自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり云云。」

室町時代の『御義口伝』は「色心常住論」ですから、上の文章も心も相ともに常住の意
に解するべきでしょう。

128Libra:2002/04/10(水) 05:51
顕正居士:

 おはようございます。

 ご丁寧なコメントありがとうございました。

 『天台法華宗牛頭法門要纂』の「第五 三惑頓断」と「第九 生死涅槃」に心常相滅論
があることは、硲慈弘氏の前掲論文(p. 45)に書いてあったので知っていたのですが、
『御義口伝』の「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」が<心常相滅論ではなく
色心常住論である>とは思いませんでした。というよりも、<「色心」がそのままで常住
である>などということはありえないので、「色心常住」と言っても、<「色心」を永遠
に支え続ける「心の体」が常住である>という意味で「心常相滅」と同じことなのだろう
と、恥ずかしながら私はそのように思い込んでいました。「色心常住論」と「心常相滅論」
というのは具体的にはどのような違いがあるのでしょうか。ご教示頂ければ幸いです。

 また、そのように区別された場合、創価学会で言われている「宇宙生命論(に基づく生
死観)」は「心常相滅論」と「色心常住論」のどちらに近いと言うべきなのでしょうか。

  輪廻説は仏教ではない
  http://www.be.wakwak.com/~libra/z006.html

  タツノコさんとの対話2─戸田先生の宇宙生命論について─
  http://www.be.wakwak.com/~libra/z016.htm

129顕正居士:2002/04/10(水) 08:57
「色心常住論」と「心常相滅論」

「心常相滅論」は唯心論です。仏教唯心論には「一心」のみが実在するという説と、
複数の「アラヤ識」が実在するという説(人々唯識)があります。西洋の唯心論にも
「大霊(Great Spirit)」のみが実在する説と、個々のソウルあるいはモナドが存在し、
予定調和している説があります。「心常相滅論」はもちろん『起信論』起源ですから
「一心」実在です。
「色心常住論」は心=実体、物質=仮象を否定し、心的現象、物的現象ともに常住
(絶対的・現象即実在)の説です。相互の交渉がないままに、華厳系統の思想の
摂取と批判の結果、シナ、日本両天台ともに此処へ到着しました。

シナ天台-湛然の教義をめぐる山家・山外の論争の結果、法智大師(四明知礼)が
「事理両重総別」、「色心等分」、「一色三千」、「生身尊特」の論をもって収束し、
正統天台が唯心論でなく、まったく同等に唯物論であることを示した。キーワードは
「一色一香無非中道」である。
*参考-安藤俊雄『天台性具思想論』(平楽寺書店)

日本天台-鎌倉時代には祖師禅最勝の思想が活発であったが、室町時代には
法華最勝の思想がリバイバルし、唯心論と同等に唯物論が成り立つ(色心不二)
と唱えた。ここでは五大思想、地水火風空の五元素が宇宙常住の要素なりという
説が重要である。。キーワードは「是法住法位世間相常住」である。

織田右大臣による比叡山破却後、再建比叡山は「中古の邪義」を一掃、四明学に
基づく正統天台の山に成った。日蓮宗またこれに習い、四明学を土台に近世教学
が行われる。四明学と爛熟期の天台本覚法門はまったく出自を異にするが、
「色心等分」、「色心常住」を唱え、唯心思想に反対するのは一緒であるから、
明確な抵抗がなく、両法華宗とも四明教学に統一されたのでないかとおもう。

「宇宙生命論」は別に書きます。創価学会の特色では別になく、何宗の方(僧侶)の
サイトを見ても「仏教=宇宙生命論」が多い。「とんでもない。間違ってる!」と折伏
するサイトが、また何宗にもあります。

130顕正居士:2002/04/10(水) 11:57
宇宙生命論

「宇宙自体が一箇の生命体である」

と表現してみます。生命体の特徴はホメオスタシス、体表を外被で覆って生体環境を
恒常に維持することです。恒常機能も、自己複製も金物で実現可能とおもえますから
有機体であることは必須といえないが、天然には非有機起源、石から生じた猿(斉天
大聖)はありません。

大自在天(シヴァ神)が宇宙自体であり、われわれ衆生、人間や動物はその体内の
寄生虫の如きものという説は古来あります。山とは何か。シヴァ神の骨格である。
海とは何か。シヴァ神の血液である。「素朴汎神論」と云えばよいでしょうか。宇宙
自体が一箇の大きな人間である。それこそ元初の人、アダム、われらの見える神で
ある思想は西洋にもある。西洋では見える神に二箇あり、原人アダム(宇宙自体)
および太陽であります。仏教のヴァイローチャナ(ビルシャナ、大日)は両者を統合
し、宇宙自体であり、かつ大日輪である。日蓮も太陽を「生身妙覚の仏」と呼んで
いる。見える神は宇宙(自然)か太陽である。宇宙(自然)を神とする傾向が汎神論
へ発達し、太陽を神とする傾向が一神論へ発達したのが一箇の仮説であります。
たとえば、手塚治虫の「火の鳥」で、不死鳥は宇宙の自我であって、大日輪という
能生の根源ではない、しかし「宇宙の自我」という発想は、単なる「素朴汎神論」とは
異なる。

「宇宙」とはわれわれの観察対象の一切を指し、宇宙の外はないのだから、
「宇宙自体が一箇の生命体である」などはおよそ意味を有しない発言であります。
しかし「宇宙生命論」は人類の科学の発達と分離できない表象であったとおもう。

131一字三礼:2002/04/10(水) 13:29
独歩さん:
はじめまして。
私は聖人の初期の「首題両尊」のみの曼荼羅では、信仰はともかく形式上は、不空三蔵の法華経観智の儀軌と同じものになるのではないかと思います。
そこに、聖人の法華経本門の観点から、四菩薩を付け加えて出来あがったものがほぼ定型化した「大曼荼羅」と考えます。また当時のお弟子さん達の
認識を考えると、在家はともかく、出家であれば「はい、大曼荼羅だよ」と言われれば、聖人オリジナルというよりも密教の大曼荼羅をまず連想した
のではないかと想像します。
もし、このような推理が許されるのであれば、このスレッドで論じられている「教主釈尊」と「曼荼羅」の関係は、東台両密教の「大日如来」と「曼荼羅」
の関係からの類推も面白いかと思います。

132Libra:2002/04/10(水) 14:59
顕正居士へ(1/2):

 またもやご丁寧な解説ありがとうございました。お手数をお掛けしました。

> 「心常相滅論」は唯心論です。(中略)「心常相滅論」はもちろん『起信論』起源です
> から「一心」実在です。
> 「色心常住論」は心=実体、物質=仮象を否定し、心的現象、物的現象ともに常住
> (絶対的・現象即実在)の説です。

 「心常相滅論」で言われるところの<常住なる「心性」>というのは、「心的現象」の
<本体>とも言うべきようなもので、「心的現象」とは少し違うようにも思えるのですが
いかがでしょうか。
 「色心常住論」は「心的現象、物的現象ともに常住」の説だそうですが、生死観として
語られる場合(「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」)、まさか<「肉体」も
「心的現象」も常住>というようなことになってしまうのでしょうか。繰り返しになりま
すが、やはり私には、(生死観としての)「色心常住」というのは、「肉体」と「心的現
象」を永遠に支え続ける「法性」の常住性を媒介にして、<表面上は常住などではないけ
れども、本当は「色心」は常住である>と言っているようにしか思えません。
 「法性」と「心性」では確かに語感が異なりますが、しかし、それらがともに<万物を
支える「基体」>を意味するのであれば、「心常相滅論」も「色心常住論」もあまり大差
がないように私には思えます。

133Libra:2002/04/10(水) 15:00
顕正居士へ(2/2):

> 創価学会の特色では別になく、何宗の方(僧侶)のサイトを見ても「仏教=宇宙生命論」
> が多い。

 「宇宙生命論」は仏教系に限らず、いろんな人が言っているのでしょうね(苦笑)。

  新宗教における生命主義的救済観(対馬路人 他)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/041.htm

> 「とんでもない。間違ってる!」と折伏するサイトが、また何宗にもあります。

 私としては、是非ともこちらの方に頑張って欲しいものです(笑)。

> 「宇宙」とはわれわれの観察対象の一切を指し、宇宙の外はないのだから、
> 「宇宙自体が一箇の生命体である」などはおよそ意味を有しない発言であります。
> しかし「宇宙生命論」は人類の科学の発達と分離できない表象であったとおもう。

 「人類の科学の発達と分離できない表象」であるかどうかは今はおくとしまして、「宇
宙生命論」と「元来の仏教」は対立するものだろうと私は思います。顕正居士はいかがで
しょうか。

134独歩:2002/04/10(水) 21:58

○「是法住法位泄間相常住」と俗諦常住

「是法住法位世間相常住」の文を読み下す場合、古来、法華
文句の釈義に従って、「この法は法位に住して、世間の相常住なり」と訓
むならいであったが、岩波文庫の『法華経』(坂本幸男訳注、上巻120頁
は、「これ法の住・法の位にして、世間の相も常住なり」と訓むぺきで
あると主張し、その理由を説いて、「法住」は「法位」と同様に一の仏教
術語であるから、法と住とを切り離して、「法は…住して」と訓むのは誤
りであるといい、その先例に三論宗の吉蔵と法相宗の基の訓みを紹介して
いる。またこの文の意味を説いて、「これは」とは、経の前文の「仏種従縁
起」なる縁起の理法を指し、「法住法位」とは、縁起の法に固有にして不
変な止まり方・在り方という意味であるから、これを要するに、縁によっ
て起こるということは法の本来的な在り方であるという意味である。また
「世間相常住」とは、生滅変化してやまない世間の相も、縁起である限り、
その生滅変化の相そのままが、法の住、法の位、即ち常住であるという意
味であり、日本天台では、これを本覚思想を最も良く表現した経文と見て
いると。
日本天台でこの文を重視した人に、台密の祖の円仁がある。彼は金剛頂
経疏巻一之本でその経の経題を釈するとき、「法華に是法住法位と云へり、
今正しくこの秘密の理を顕説するが故に全剛頂と云ふなり」とて、法華経
と金剛頂経との理同の所以を「是法住法位」に求めた。また円仁は蘇悉地
経疏巻一で、法華経等と大日経等とは「世俗勝義円融不二を説く点にお
いて理同であると説くから、両疏を対照すると、密教の極理は世俗(俗諦)
勝義(真諦)円融不二、即ち真諦のみならず俗諦も常住であるとするところ
にあり、法華経では「是法住法位」の文に俗諦常住の典拠があると考えて
いたことが明らかとなる。円仁の著述と考えられる俗諦本生不滅論や、慈
覚大師伝(寛平御伝)によると、円仁にこの法門の重要性を教示したのは、
師の最澄であるが、現存する最澄の真撰書によれば、最澄はそれぽど明瞭
に俗諦常住の法門を展開したわけではない。ともかく、こういう事情によ
り、日本天台では、以後永く法華経のこの文を俗諦常住の一典拠として重
視した。(天台本覚論419頁)

第四 俗諦常住。

夫三諦者天然之性徳也。中諦統一切法。眞諦者泯一切法。
俗諦者立一切法。擧一即三非前後也。含生本具。非造作所得也。悲哉。
夫祕藏不顯。蓋三惑之所覆也。故無明翳乎法性。塵沙障乎化導。
見思阻乎空寂。然茲三惑。乃體上之虚妄也。於是。大覺世尊。
【口+胃】然歎曰。眞如界内。絶生佛之假名。平等性中。無自佗形相。
但以衆生妄想不自證得。莫之能返也。由是。立乎三觀。破乎三惑。證乎三智。
空觀者破見思惑。證一切智。成般若徳。假觀者破塵沙惑。
證道種智。成解脱徳。中觀者破無明惑。證一切種智。成法身徳。然茲三惑。
三觀。三智。三徳。非各別也。非異時也。天然之理。具諸法故。
此三諦性之自爾。迷此三諦。轉成三惑。惑破藉乎三觀。觀成證乎三智。
智成成乎三徳。從因至果。非漸修也。説之次第。理非次第。
大綱如此。網目可尋而已。(天台法華宗牛頭法門要纂)

135独歩:2002/04/10(水) 22:13

顕正居士さん:

(Libraさんは、たぶん居士を、先生、尊師などと同様の尊称と判断されるので、末尾に「さん」をつけないのでしょう。いちおう、わたしはHNと判断させていただき、「さん」付けとさせていただきます)

> 130

宇宙生命のご説明、たいへんにわかりやすいものでした。
いずれにしても、このような考えを生じさせる土壌は東洋思想のなかに胚胎してきたのだろうと思います。それを何らかの形で台門が継承したとしたら、天台の学問的バックバーンにあった華厳思想との関係で見てみる必要があるのではないのか、と私は考えています。

136いちりん:2002/04/10(水) 22:28
うむむ。なにか、おもしろくなってきましたですね。
いろんな奥行きが出てきて、ありがたいです。
いま、じっくり読むだけの体力がないので、あとで楽しみに読ませてもらいます。
つぶやき、お茶入れモードでした。。

137Libra:2002/04/10(水) 23:49
 読者の方々に誤解を与えてしまうといけないので、ハッキリと申し上げておきたいと思
います。

 私は顕正居士さんを「仏教学の先生」としてずっと尊敬してきました(私ごときに「先
生」などと呼ばれると、かえって顕正居士さんには迷惑かもしれませんがどうかご容赦下
さい)。

 これまでずっと、「顕正居士」とお呼びしてきましたので、この掲示板に限って「顕正
居士さん」とお呼びするのはとても抵抗がありました。申し訳ございませんでした。私も
今後は「顕正居士さん」とお呼びするようにいたします。

138Libra:2002/04/11(木) 00:16
独歩さん:

 また私が話を変な方向に持っていってしまったような気がします(自己嫌悪です)。

 せっかく顕正居士さんがいらしているので、個人的に気になっている「心常相滅論」に
ついて、お話を少しでもお伺いできればなどと、つい思ってしまいました。

139顕正居士:2002/04/11(木) 09:18
居士

は、「〜庵」、「〜亭」、「〜散人」などの仲間であり、「雅号」といいます。文章や絵に
署名するペンネームですから、今日のハンドルネームとも一緒であります。明治の
時代には文士、学者の居士号は多かった。たとえば有名な哲学者・漢学者である
井上哲次郎 (1855−1944)は「巽軒居士」として知られています。

居士には在家の仏教徒の他に、出仕しないあるいは退官した読書人、商人、四姓の
中のヴァイシュヤの意味があります。

当然ですが、中国の人が読む文章は、どんな下世話のことも漢字だけで書かれます。
中国の人には漢字だけの文章を読むことは別に怖いことでない、それしかないので、
日本人と違い、お経を読む人が幾らでもいます。ゆえに、坊さんは印度学、仏教学を
専門に修めた上で、具足戒を持つ必要があります。Googleの言語ツールを中国語に
して「居士」を検索すれば、幾百人もの「居士」のサイトが見つかるでしょう。

Google中文
http://www.google.com/intl/zh-TW/

140顕正居士:2002/04/11(木) 11:08
宇宙生命論・続き

>「宇宙生命論」と「元来の仏教」は対立するものだろう

「宇宙が一箇の生命体」はナンセンスですが、意を取って、1-自然信仰、2-太陽信仰
とすれば、人類の宗教、科学の母胎であるんでないでしょうか。自然信仰は巍巍たる
山脈を仰ぎ、さらに入っては踏み分け、人間を超えたXの存在を感得する、回峰行の
類いに伝承されている。太陽信仰はエネルギーの根源についての思索と云え、より
教理的、社会的方面の達成に関係する。ギリシャ人の太陽中心説はヘルメス文書に
伝承され、近世に蘇った。錬金術-化学-物性論の系統はむしろ自然の詳細の観察と
経験に由来しよう。

「元来の仏教」が根本仏教、釈尊と直弟子の時代の教説の意味であるなら、根本仏教
に自然信仰なく、太陽信仰もない。釈尊の教説はソークラテースの教説と同じく、著しく
社会、言語、論理にかたよる。ソークラテースは自然の探求を無価値とみなした。
プラトーンは西洋唯心論の源流になった。アリストテレースは二人を嘲り、「最初の
科学者」になった。そして「救世主の先駆者」、大文字の「哲学者」と称された。
釈尊の教説また同様に自然の探求を無価値とみなしたが、印度にアリストテレースは
現れなかった。

日本新興宗教の宇宙生命論はクリスチャンサイエンスを輸入し、生長の家が唱えた。
クリスチャンサイエンスは純唯心論に立つアメリカの新興宗教です。だが「心の実相」
といわず、「生命の実相」といった。創価学会の人の著作をみると、「色心不二」など、
「俗諦常住」系の伝統教義をいうので、たてまえとして唯心論を否定しているようには
おもうが、否定以外に主張する内容が何かあるのかはわからない。新興宗教の宇宙
生命論は別に評します。自然信仰や太陽信仰の永い伝統と無縁ではないとおもうが、
ナンセンス、解読不可能、引写しなどの文章が多すぎ、格別の主張内容があるのか
否かがわかりにくい。この二文は新興宗教の宇宙生命論とは直接には関係ないです。

141独歩:2002/04/11(木) 11:43

顕正居士さん:
Libraさん:

顕正居士さんが140に「この二文は新興宗教の宇宙生命論とは直接には関係ないです」と記されるのが、私が134に挙げた2文を指すのか否かわかりませんが、殊に宇宙生命論との脈絡で提示したものではありません。129に「室町時代には法華最勝の思想がリバイバルし、唯心論と同等に唯物論が成り立つ(色心不二)と唱えた。ここでは五大思想、地水火風空の五元素が宇宙常住の要素なりという説が重要である。。キーワードは「是法住法位世間相常住」である」という部分から、ロムの方の注意を促したまでのことです。

顕正居士さんが「色心常住論」と「心常相滅論」がLibraさんの質問を受けて説明されたところは、実に参考になったところで、先にも記したとおり、「相互の交渉がないままに、華厳系統の思想の摂取と批判の結果、シナ、日本両天台ともに此処へ到着」という慧眼には大きく頷くところがありました。

ただ、ここは寛師・六巻抄を中古恵心本覚の影響から問い直そうという意図を持っているので、「是法住法位世間相常住」が『天台法華宗牛頭法門要纂』の俗諦常住の関係から真言系と相互して語られていることが基礎にあることをロムの方に示すことを目的にしたものでした。つまり、宇宙生命論との関わりで挙げたものではありません。なおまた、140の宇宙生命に係る釈尊経説のご説明は正確なものであると思いました。

もちろん「居士」号に難儀を凝らす意図など、毛頭ありません。

142顕正居士:2002/04/11(木) 13:19
独歩さん。

「二文」は小生の「宇宙生命論」、「宇宙生命論続き」のことです。「宇宙が一箇の生命
である」といえばナンセンスだが、自然信仰と太陽信仰とが宗教と科学の母胎である
ともいえる故に「宇宙生命論」が無価値、無意味の思想とはいえぬ、しかし新興宗教
のは唯心論の言い換えが多く、主張する内容が明確でもないから、これは言説のみ
の分析に意義が少なく、宗教社会学の方面から別説するべきであろうと云いました。

「是法住法位世間相常住」に付いてのご投稿は尤もであると考えます。Libraさんの
ご質問の趣旨、俗諦常住と心常相滅に大なる相違があるかは、大なる相違がある、
唯心論と唯物論であると答えました。但し。毘盧遮那一本異ならぬ自受用の内証に
おいて「一色三千」が成り立つのではなく、法爾に「一色三千」が成り立っている。

観心本尊抄の「四十二字法体」が本仏果上の一念三千か、凡夫己心の一念三千か、
昭和に論争された。しかし「一色三千」は本仏果上でもなく凡夫己心でもなく、法爾に
成り立っている。五大こそが無為の法であり、万物の五大によらぬものはないので、
俗諦は常住であるが、敢えていうなら、「涅槃」、「仏」等、無為法と云われたものは
却って有為法である。それが『諸法実相抄』などの思想であるとおもうわけです。

143独歩:2002/04/11(木) 13:56

顕正居士さん:

> 142

私の勘違いに対してまで、ご鄭重なレス、有り難うございました。
また、お示しのところ、きわめて重要な点と拝しました。

144Libra:2002/04/11(木) 14:00
顕正居士さん:

> Libraさんのご質問の趣旨、俗諦常住と心常相滅に大なる相違があるかは、大なる相違が
> ある、唯心論と唯物論であると答えました。

 私としては、依然として、<『御義口伝』の「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行く
なり」>と<生死観としての「心常相滅論」>に「大なる相違がある」とはどうしても思
えず、むしろ「大差ない」ように思えるのですが、これはすべて私の勉強不足の故なのだ
ろうと思います。

 いろいろとご教示頂きまして、本当にありがとうございました。

145独歩:2002/04/11(木) 14:04

128にLibraさんが硲慈弘「鎌倉時代に於ける心常相滅論に関する研究」に載るという『天台法華宗牛頭法門要纂』の該当文は以下のとおりです。

第五。三惑頓斷。
伏以。生死二法者一心之妙用。有無之二道者本覺之眞徳。
所以心者無來無去之法。神者周遍法界之理也。故生時無來。
死時無去。無來無去心施有之用。心即現六根之體。以之名生。
周遍法界神施空之徳。神即亡五陰之身。指之曰死。別無來之妙來。
無生之眞生。無去之圓去。無死之死也。生死體一。有空不二。如是知見。
如是觀解。心佛顯體。生死自在。哀哉。六道衆生。悲哉。三界凡夫。
雖生徒生。生故不知。雖死空死。死由不覺。本有無作之生死。
無始無終常住。有無之心體。非斷見。非常見。若云離生。三世諸佛。出於世間。
不可利益衆生。若云止死。十方如來。入於涅槃。不可受寂滅之樂。
勿欲住生死。難忍輪廻之苦故。勿存離生死。難免斷見之咎。
纔悟一心之體。早離二見苦。或除自佗共無因之四計。
或愈作止住滅之四病。是生死自在之法藥。臨終正念之祕術也。
行者常能思念勿怖生死矣。

第九。生死涅槃。
生死二法。一心妙用。有無二道。圓融眞徳。
本周遍。無有去來。亦無生死。無相湛然。
心施假用。現六根體。心施空用。亡五陰身。
生時無來。死時無去。生是眞生。死即圓死。
生死體一。空有不二。迷假謂生。迷空謂死。
空假二用。唯一心體。三諦一諦。非三非一。
而三而一。不可思議。三各具三。倶體倶用。
入有不有。入空非空。體用倶時。畢竟常樂。
一切諸佛。不離生死。而離生死。不取涅槃。
而得涅槃。道法共絶。常樂我淨。三界衆生。
依生死見。沈沒六道。欲斷生死。不出生死。
欲取涅槃。不得涅槃。無作生死。本無始終。
圓理有無。非常非斷。汝能觀之。不恐生死。
生死本樂。人迷觀苦。速除此見。當至佛地。

146Libra:2002/04/11(木) 14:17
 私がここで心常相滅説について述べてきた考えは、<心常相滅説も、それを批判した道
元の身心一如説も、ともに如来蔵思想である>という松本史朗氏のお考えに影響を受けた
ものであることを記しておきます。

【参考文献】
 松本史朗『禅思想の批判的研究』、大蔵出版、1994年。

147顕正居士:2002/04/12(金) 12:40
><心常相滅説も、それを批判した道元の身心一如説も、ともに如来蔵思想である>

『禅思想の批判的研究』を読んでいないので、ここの意味はよくわかりませんが。

道元の心常相滅説批判というのは『辨道話』
http://www.shomonji.or.jp/zazen/genzou00g.htm
の「とうていはく、あるがいはく、生死をなげくことなかれ」以下とおもいます。
「しるべし、佛法に心性大總相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず」
以下、「一心」以外の実在なきゆえに心と物、性と相を分離するするのは誤りであると
延べ、唯心論は物質の存在や生滅の現象の否定にまで至るので、『辨道話』は純粋の
唯心論の立場から心常相滅二元論を批判している如くに見えます。

対して、完成期の本覚法門は五大すなわち物質の元素を常住とする唯物論といえます。
佛性 Buddha-dhatu に還元しない。もはや「本覚」と云わず、「不覚」と云います。
不覚が本、覚は迹、色が本、心は迹。ゆえに如来蔵思想の範疇と称せないのです。

148独歩:2002/04/13(土) 01:36

顕正居士さん:

貴重な書き込みに感謝申し上げるものでございます。

> 不覚が本、覚は迹、色が本、心は迹。

この点について、具体的、かつ端的に記されている文書はございますでしょうか。

149Libra:2002/04/13(土) 02:02
顕正居士さん:

 顕正居士さんのご意見は、おそらく、<道元の立場は「唯心論」であるから、その意味
では、それを「如来蔵思想」とする松本史朗氏のご意見は妥当であろうが、今問題になっ
ている「五大すなわち物質の元素を常住とする唯物論」は「如来蔵思想」とは言えない>
ということなのだろうと思います。

 しかしながら、私から見れば、「五大すなわち物質の元素を常住とする唯物論」も、立
派に「基体説」に見えるということです。

  ──────────────────────────────────────
  “dha ̄tu-va ̄da”とは、現象的なあれこれの存在は、「無常」であり、「無我」で
  あるが、それらを生み出す原因となる基体(dha ̄tu 場)それ自体は、「常」であり、
  「我」であり、実在であると説くものである。

  (松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、p. 408)
  ──────────────────────────────────────

150Libra:2002/04/13(土) 02:39
顕正居士さん:

 少し補足です。

 「五大すなわち物質の元素を常住とする唯物論」と言いましても、実際にはいろんな論
じ方があるのでしょうから、必ずしも「基体説」と言えない場合もあるのかもしれません。
しかし、私自身は最初から、そのような「唯物論」一般を問題にしようとしていたわけで
は決してありません。『御義口伝』の「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」と
いう具体的な一例について、その<生死観>を問題にしたわけです。この点は以前の投稿
でも強調しておいたつもりですが、再度強調しておきたいと思います。

151顕正居士:2002/04/13(土) 19:56
松本史朗師の教説は

「如来蔵思想は仏教でない」として知られています。如来蔵思想は禅のルーツであると
されるから、師が云いたいことが禅は仏教でない意味か、ほんものの禅は如来蔵想を
ルーツとしない意味かまずわからない。

Dhatu-vadaというのは『究竟一乗宝性論』の冒頭の偈を、仏性が先ず在り、三宝は之
より自然に生じると師は解釈する。三宝が自然に生じるのは仏教を一貫する修道論と
異なる意義であろう。しかし三宝が自然に先在すると主張する訳でなかろう。三宝には
因があらねばならない。月称は『入中論』で菩提心、大悲心等を因として菩薩が生じ、
而して菩薩より仏が生じると述べる。界といい、因といい、ほぼ同じことである。三宝の
自然存在を主張するのでないなら、師のDhatu-vada批判は何のことかわかり難い。
Libraさんの引いた「“dha ̄tu-va ̄da”とは」以下はそう定義している意味では理解は
できfるが、本体と現象にわけなければいかなる説明も不可能だから、反知性主義を
述べているのでないなら、何のことかやはりわからない。

> 不覚が本、覚は迹、色が本、心は迹。
『諸法実相抄』の「凡夫本、仏迹」のことであります。仏凡一体は心法妙においてのみ
感得しあたうと解釈し来たったから、凡夫(不覚)が本、仏(覚)が迹なら、色本心迹に
なります。「不覚が本、覚は迹、色が本、心は迹」は小生の要約ですが、字句が似た
文章は古典にあるのかも知れません。田村芳朗先生は晩年、天台本覚論の以後に
展開する反本地垂迹思想の研究を志ざされておられたのですが。(感懐省略)。

152顕正居士:2002/04/14(日) 21:51
dhatu-vada批判

は道元の寂後、臨剤的に解釈され来たった曹洞宗と近代の西田、田辺哲学への批判
として理解できますが。中観、唯識に次いで大乗仏教の第3の流派である如来蔵思想
が仏教でないと云うのは、中観と唯識は仏教である意味であるし、大乗仏教でないで
なく仏教でないだから、部派仏教は仏教であり、如来蔵思想だけが変わり者の意味で
あろう。しかし。如来蔵思想に発達する原始的の表現は上代からあるし、如来蔵思想
の元祖は世親であるのだから、標語そのものが理解が困難である。

「“dha ̄tu-va ̄da”とは、現象的なあれこれの存在は、「無常」であり、「無我」で
あるが、それらを生み出す原因となる基体(dha ̄tu 場)それ自体は、「常」であり、
「我」であり、実在であると説くものである。」

「場」と注記するから、西田、田辺などの「場の哲学」への批判であると思うのだが。
現象と本体にわけなければいかなる教説も生じない。十二支縁起の支分を本体と
し、現象の苦、空、無常、無我が説かれる。「基体(dha ̄tu 場)」を本体とする説を
批判し、臨剤、西田、田辺等であるが、チベットにも類似した思想がある意味では
なかろうか。

165管理者:2005/02/13(日) 12:41:51

1945 名前: 無徳 投稿日: 2005/02/10(木) 00:01:23

愚鈍凡夫さん、

>江戸時代に日寛という矛盾に満ちた不可思議な理論を展開する人物によって
>「日蓮本仏論」を前面に押し出し、辻褄合わせが完成を見たのではないですか。

とのことですが、<矛盾に満ちた不可思議な理論>この辺を少し解り易く解説
していただければ幸いです。決して急ぎませんですからお時間の許される範囲
でお答え願えればと存じます。

166管理者:2005/02/13(日) 12:43:38

1954 名前: 愚鈍凡夫 投稿日: 2005/02/10(木) 09:22:46


無徳さん、ご無沙汰しております。レス有り難うございました。
島田師の講演会、行かれたのですね(羨ましい)。

小生の拙い教学で、何処まで論じられるか分かりませんが、間違いがあれば御叱責下さい。

日寛師は、三重秘伝抄に
「今謹んで案じて曰わく、一には爾前は当分、迹門は跨節、是れ権実相対にして第一の法門なり。二には迹門は当分、本門は跨節、是れ本迹相対にして第二の法門なり。三には脱益は当分、下種は跨節、是れ種脱相対にして第三の法門なり。此れ則ち宗祖が出世の本意なり、故に日蓮が法門と云うなり。今一念三千の法門は但文底秘沈と曰う、意此こにあり、学者深く思え云云。」(「三重秘伝抄」富要3巻P13)
と、開目抄の「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。」(「開目抄」学会版P189)
の文証を五重相対の権実・本迹・種脱の三重に配して展開されていますが、果たしてそのような意味で、蓮祖は言われているのでしょうか。
小生は、「法華経の寿量品に三妙合論が説かれ、その意義を天台大師が一念三千へと結実させた」と言っているように思います。
「故に日蓮が法門と云うなり。今一念三千の法門は但文底秘沈と曰う、」
とありますが、一念三千は天台大師の理論であって、蓮祖の理論ではないのではないですか。
蓮祖は「但我が天台智者のみこれをいだけり。」と仰っています。一念三千が「日蓮が法門」であるとは言っていません。
更に、蓮祖は先の開目抄の文証の後に「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(「開目抄」学会版P189)と展開されています。種脱義には触れていません。
そして、「我が身にもさもやとうちをぼうる事は二乗作仏久遠実成なるべし、」(「開目抄」学会版P191)とありますから、権実・本迹の意義を含んでいるとは思いますが、種脱義が「第三の法門なり」とも、「日蓮が法門」とも述べられていません。
日寛師は、「開目抄」の一説と次の「常忍抄」の一説を合体させて論を進められているのではないでしょうか。
「法華経と爾前と引き向えて勝劣浅深を伴ずるに当分跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台妙楽伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり、」(「常忍抄」学会版P981)
同じ常忍抄に、
「此の法門に於て如来滅後月氏一千五百余年付法蔵の二十四人竜樹天親等知つて未だ此れを顕さず、漢土一千余年の余人も未だ之を知らず但天台妙楽等粗之を演ぶ、然りと雖も未だ其の実義を顕さざるか、伝教大師以て是くの如し、」(「常忍抄」学会版P981)
とありますから、「日蓮が法門は第三の法門なり」とは法華経の題目、即ち、「南無妙法蓮華経」を指すのではありませんか。
要するに、「一念三千」の観法ではなく、唱題行であるとの意味ではないでしょうか。
「又正像末の不同もあり摂受折伏の異あり」(「常忍抄」学会版P982)
とありますから、勝劣の立場ではなく、時期相応の行という立場で「日蓮が法門は第三の法門なり」との仰せではないでしょうか。

167管理者:2005/02/13(日) 12:45:50

1955 名前: 愚鈍凡夫 投稿日: 2005/02/10(木) 10:09:26


>>1954:からのつづき

「開目抄」は1272(文永9)年、「常忍抄」は1278(弘安元)年(学会版では1277(建治3)年)に著されています。6年の隔たりがあります。依文にするには少々無理があるのではないでしょうか。
1273(文永10)年の「観心本尊抄」には、
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、」(「観心本尊抄」学会版P254)
とあります。この文証では、法華経の題目に一念三千が包み込まれていることになっています。
それに、「日蓮が法門」という語彙は、真蹟遺文だけを見ると「兄弟抄(文永12年)」、「常忍抄(弘安元年)」、「法華証明抄(弘安5年)」に見られますが、それ以前の遺文には見られません。
身延に入られてから、ご自身の法門としての意識が強くなったのではないでしょうか。


1956 名前: 愚鈍凡夫 投稿日: 2005/02/10(木) 11:17:25


>>1955:からのつづき

更に、文底秘沈抄に、
「次に人の本尊とは即是久遠元初の自受用報身の再誕末法下種の主師親本因妙の教主大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり。」(富要3-77)
とありますが、これは、
「阿難。若世中有二如來者。終無是處。若世中有一如來者。必有是處(阿難、一世中に二如来有らんは終に是のことわり無し。一世中に一如来有らんは必ず是のことわり有り)」(中阿含心品多界經第十第四分別誦)
の文証とも、
「一一沙弥等。所度諸衆生。有六百万億。恆河沙等衆。彼佛滅度後。是諸聞法者。在在諸佛土。常與師倶生。(一一の沙弥等の度する所の諸の衆生、六百万億恒河沙等の衆あり。彼の仏の滅度の後、是の諸の聞法の者、在在諸仏の土に常に師と倶に生ず)」(妙法蓮華經化城喩品第七)
の文証とも、反するのではないでしょうか。
一世界に一如来が仏教のルールではないでしょうか。蓮祖が次のように述べられているのは、この義をふまえた上でのことと推察します。
「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる、親も親にこそよれ釈尊ほどの親師も師にこそよれ主も主にこそよれ釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ」(「南条兵衛七郎殿御書」学会版P1494)
日寛師の先の文を解釈すれば、娑婆世界に「釈迦牟尼仏」と「日蓮大聖人」という二人の仏を認めるという奇妙なことになりませんか。
日寛師の次の文は、蓮祖の「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる」との仰せを無視しているように思います。
「問て言く教主とは應に釈尊に限るべし何んぞ蓮祖を以って亦教主と称するや、答ふ釈尊は乃是熟脱の教主なり蓮祖は即是下種の教主なり故に本因妙の教主と名づくるなり、」(富要3-80)
この文の続きに、
「應に知るべし三皇五帝は儒の主なり無畏三蔵は真言の教主なり天台大師は止観の教主なり、今吾蓮祖を以って本因妙の教主と称するに何の不可有らんや、」
とありますが、思わず「なんじゃ、こりゃ」と呟いてしまいました。
蓮祖を本因妙の教主とする理由になっていません。

168管理者:2005/02/13(日) 12:47:28

1957 名前: 愚鈍凡夫 投稿日: 2005/02/10(木) 12:08:31


>>1956:からのつづき

依義判文抄に、撰時抄の
「仏滅後に迦葉阿難馬鳴竜樹無著天親乃至天台伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり、此の深法今末法の始五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべきやの事不審極り無きなり。」(「撰時抄」学会版P272)
との文証を引用して、
「問ふ夫正像未弘の大法、末法流布の正体、本門の三大秘法とは一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、寿量品の中には但文底秘沈の大法なり、宗祖何んぞ最大深秘の大法経文の面に顕然なりと言ふや、」(富要3-104)
と、先の「開目抄」の文証を石山風にアレンジして設問し、
「文底の義に依って今経の文を判ずるに三大秘法宛も日月の如し。故に経文の面に顕然なりと云うなり。」(富要3-104)
と結論付けていますが、法華経には次のように書かれています。
「我滅度後。後五百歳中。廣宣流布。於閻浮提。無令斷絶。惡魔魔民。諸天龍夜叉。鳩槃荼等。得其便也。宿王華。汝當以神通之力。守護是經。處以者何。此經則爲。閻浮提人。病之良藥。若人有病。得聞是經。病即消滅。不老不死。(我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。宿王華、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし。所以は何ん、此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病あらんに是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん)」(妙法蓮華經藥王菩薩本事品第二十三)
撰時抄の
「此の深法今末法の始五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべきやの事不審極り無きなり。」
とは、法華経のこの文証を依文としての仰せではないでしょうか。文底義によっての仰せではないと思います。確かに、「正法経文の面に現前なり」ではないでしょうか。
無理に文底義に結びつける必要はないのではと思います。

風邪で寝込んでますので、少し寝ます。悪しからず。 m(_ _)m

「六巻抄」
http://nakanihon.net/nb/gorekidai.html

169管理者:2005/02/13(日) 12:48:20

1958 名前: 愚鈍凡夫 投稿日: 2005/02/10(木) 16:33:57

>>1957:からのつづき

末法相応抄には、もっと不思議なことが書かれています。
観心本尊抄の文証の解釈ですが、
「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。八年之間、但、八品に限る。正像二千年之間、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗竝びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。」(「観心本尊抄」昭定P712)
この文証を引用して、
「問ふ又云く本尊抄八に云く其本尊の体たらく本時の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右には釈迦牟尼仏多宝仏釈尊の脇士には上行等の四菩薩、乃至正像に未だ寿量品の仏有さず、末法に来入して始て此仏像出現せしむべきか云云、此仏像の言は釈迦多宝を作る可しと云う事分明なり云云、此の義如何、答ふ其の本尊の体たらく等とは正しく事の一念三千の本尊の体たらくを釈するなり、故に是れ一幅の大曼荼羅即法の本尊なり、而も此法本尊の全体を以て即寿量品の仏と名け亦此仏像と云うなり、寿量品の仏とは即是文底下種の本仏久遠元初の自受用身なり、既に是自受用身の故に亦仏像と云うなり、自受用身とは即是蓮祖聖人の故に出現と云ふなり、故に山家大師秘密荘厳論に云く、一念三千即自受用身、自受用身者出尊形仏云云、全く此釈の意なり之れを思ひ見る可し、又仏像の言未だ必しも木絵に限らず亦生身を以って仏像と名るなり、」(富要3-160)
と、論理展開していきます。
何故、「此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず」との文証を、「正像に未だ寿量品の仏有さず」と「造り画けども」の文を省いたのでしょうか。法主の一人であっても、宗祖の御遺文の一節を都合に合わせて改変してよいものなのでしょうか? 疑問に思います。
不思議なことはまだあります。
「此法本尊の全体を以て即寿量品の仏と名け亦此仏像と云うなり」何故、寿量品の仏が仏像なんでしょう。それに、「既に是自受用身の故に亦仏像と云うなり」何故、自受用身であれば仏像なんでしょう。そして、極めつけが、「又仏像の言未だ必しも木絵に限らず亦生身を以って仏像と名るなり、」との一節です。何故「生身を以て仏像」と名乗るんでしょう。生身の蓮祖は仏像なのでしょうか?
この疑問について、本文では明らかにされません。
ただ、「即文句第九の如し、若し必ず木絵と言はば出現の言恐らくは便ならず、前後の文本化出現云云。之を思ひ合す可し云云。」
とあるだけです。
また、山家大師(伝教大師)の秘密荘厳論と観心本尊抄との関係について説明されていません。「一念三千即自受用身」、「自受用身者出尊形仏」と、秘密荘厳論の都合のいい文証を引用しているだけです。

小生は、こういった日寛師を信頼できません。説明すべきところで説明せず、理論をどんどん先に進めていきます。結局は、「戒壇之本尊」と称する板漫荼羅に結論づけるわけですが、蓮祖を敬愛しているようで、その実、自宗の板漫荼羅を宣揚するために、蓮祖を利用しているだけに思えてなりません。
その意味で、

> 江戸時代に日寛という矛盾に満ちた不可思議な理論を展開する人物によって、「日蓮本仏論」を前面に押し出し、辻褄合わせが完成を見たのではないですか。

と申しました。
管理人さん、長々と駄文を投稿してしまいました。お許し下さい。 m(_ _)m

170管理者:2005/02/13(日) 12:49:20

1959 名前: 愚鈍凡夫 投稿日: 2005/02/10(木) 16:57:49

訂正
「長々と駄文」とは引用文のことではありません。小生の文章のことです。(念のために。)
小生の表現に不愉快な思いをされた方がいらしたら謝罪します。 m(_ _)m


1960 名前: 真実 探求者 投稿日: 2005/02/10(木) 17:39:54

、、ごめん下さい、、、。 イヤー、、、 スッゲー、、、、です,、!!

171管理者:2005/02/13(日) 12:50:07

1961 名前: 犀角独歩 投稿日: 2005/02/10(木) 18:13:20


愚鈍凡夫さん、横レス失礼します。
風邪とのこと、あまり無理をなさらないでください。
…と言いつつ、話しかけていますが(笑)
わたしも昨日より、どうも調子が悪く「鬼の霍乱」のようです。

さて、寛師『六巻抄』に関するご賢察、拝読しました。
非常に良く整理されていると思いました。

日蓮宗では、早坂鳳城師が、その分析に当たり、現在進行形ですね。

『六巻抄』の構造と問題点(一)「三重秘伝抄」を通して
 http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/01/01_031.htm

『六巻抄』の構造と問題点(二)「文底秘沈抄」本門の本尊編を通して
 http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/02/02_060.htm

『六巻抄』の構造と問題点(三)「文底秘沈抄」本門の戒壇編を通して
 http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/03/03_086.htm

また、同抄については、3年ほど前、当板でもスレッドを立てて、議論したことがありましたね。
途中になっており、気になっていたところでした。

『六巻抄について』
 http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/rokkansyo.htm

わたしは、要は、この虚構を派祖継承住持の絶対論、要するに「大石寺御法主上人猊下が一番偉い」、「日寛、わたしが最高だ」という理論構築なのだと読みました。実に馬鹿ばかしい一書と言えるでしょう。3年前、わたしは以下のように記して、この議論を始めました。
長い引用で恐縮ですが、

*** 以下転載 ***

○六巻抄は何を説こうとしたのか

六巻抄を読もう、研究しようとなると、やはり、三重秘伝抄からというのは定石となるようです。

朗門から、近年では早坂鳳城師著「『六巻抄』に関する一考察―『三重秘伝抄』を中心に―」という小冊子が出ています。この内容については、追ってダイジェストします。

しかし、私は六巻抄の主題というのは実は当流行事抄、当家三衣抄にあると考えています。つまり、三重秘伝抄は、その導入に過ぎないという考えです。

久遠元初の仏法僧は則ち末法に出現して吾等を利益し給う。若し此の三宝の御力に非ずんば極悪不善の我等争でか即身成仏することを得ん(当流行事抄)

が、これです。そして、

南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初、自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。
南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。
南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。
此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云々。(当家三衣抄)

172管理者:2005/02/13(日) 12:51:03

1962 名前: 犀角独歩 投稿日: 2005/02/10(木) 18:13:41

―1961からつづく―

これこそが、六巻抄のもっとも言いたい点でしょう。

下種三宝 ― 仏・日蓮聖人、法・戒壇之本尊、僧・興師-目師-歴代諸師

ここから、読み戻っていくと、六巻抄の真の趣旨は理解できます。

「此くの如き(下種)三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし」とは、つまり、唱題の一念を具体的に限定しているわけです。ただ、ひたすらに日蓮本仏・戒壇之本尊・興目歴代を念じる唱題をして一生を送れというのです。

ここで注意すべき点は、寛師教学は有師已来の日蓮本仏思想を集大成したものであるという点です。もっとも疑われる点は派祖本仏思想、あるいは代官思想なのであって、要師がいう「大聖冥益・当住顕益」思想が、その奈辺にひそんでいると疑う必要があると思います。

下種三宝を一歩進めるとき、唯受一人・興目両尊から連なる歴代住職(法主上人猊下)は日蓮本仏の内証を相承し、戒壇之本尊と不ニの尊体であるという、いわば法主本仏論が、実は本音の結論ではないのかと思えるわけです。

つまり、六巻抄とは、日蓮聖人・戒壇之本尊・興目両尊という聖滅400年に積み重ねられた権威の一切を石山住職が一手に握ることを宣言した書であると見るべきです。この結論を見るとき、冒頭の三重秘伝などという美名は吹き飛んでしまうと私には感じるのです。

もちろん、このような思想が聖人の祖意に見られるはずはありません。


*** 転載おわり ***


以上のような議論は既に畢えたものですから、既に寛師の過誤は、当板では既に一掃されたものと思っていました。寛師の文は、愚鈍凡夫さんも・早坂師も、ご指摘されるとおり、実に引用がいい加減で、さらにひどい理論の展開(牽強付会、短絡、決め付け…)で、読むほどに、立腹を通り過ぎ、半ば呆れ嘲笑する愚論です。実に読後感の不快なものであるといえるでしょう。学者としての真面目さがまるで感じられません。なんで、こんな書がもてはやされるのか、首を傾げざるを得ません。

結局のところ、日蓮本仏・彫刻本尊と併せ、他山の相伝を寄せ集めて、自山顕彰して恥じることもなく、なにより、日蓮本仏・興師正嫡は、結局のところ、それを継承する自分がいちばん優れているという何とも困った「臨終お蕎麦」物語で結論を見ています。

近年、石山能化文書で「戒壇の大御本尊と御法主上人猊下は不二の尊体」などといい、学会から反撃を受けて引っ込めてしまった、その思い上がりの基礎は、この寛師已来の倒錯にあるのであろうと思えます。

さらに言えば、「会長本仏論」などの基礎理論も、こうした「大聖冥益・当住顕益」思想のアレンジによって生じたものであろうと観察します。

しかし、このようなものを手に取って、いまだに戒壇建立などというもはや潰え去った近代の妄想が、罷り通っていることには、嘆息を禁じ得ません。

以上、長々と書きましたが、愚鈍凡夫さんのご投稿は実に、簡潔に整理され、同書の問題点を突いたものであると敬服するものです。


1963 名前: 真実 探求者 投稿日: 2005/02/10(木) 18:50:10

、、御免下さい、。 続々とヒットされました貴重な御発言には「、、スッゲーーー、、、」と再々も、いとわず申し上げる御無礼をお許しくださいませ、、。 真実の探求に百万万歩ほど近ずいたような、実感が致します、、。 多大謝謝、、!! 早々、、。

173管理者:2005/02/13(日) 12:52:00

2040 名前: 無徳 投稿日: 2005/02/13(日) 08:39:00

愚鈍凡夫さん体調の十分でない中で私の愚問にお答えいただき大変恐縮で
す。あまりに皆さんの書き込みが凄いので、お答えに対するレスが気後れ
して遅くなってしまい申し訳ありませんでした。

私は日蓮本仏論者を自称しながら実は日寛教学(六巻抄・分段等)をじっ
くり学んだ事がありませんでした。これを機会に少々日寛教学を学んでみ
たいと思いますので、ご指導のほど宜しくお願い申し上げます。

その意味では、私の日蓮本仏主義は日寛教学に裏付けられたものとは言えな
いのかも知れません。しかしながら40数年間にわたって日蓮正宗の教義を
自身の信仰の中核に据えて来たことは紛れも無い事実ですから、結果として
日寛教学を信じていたことに変わりはないと言わざるを得ません。何故かな
らばご存知の如く日蓮正宗の教義はイコール日寛教学と言って過言ではない
からです。

したがって、愚鈍凡夫さんに日寛上人についてお聞きしたのは決して妙な下
心を隠してのものでは有りません。(笑)本当に日寛教学に対する私の理解を
確認したいが為の質問であることをご了解ください。

ただ、愚鈍凡夫さんの日寛教学に対するご理解と拙いながら私の日寛教学に
対する理解とは、おそらくは前提となる規範に違いがあることを認めざるを
得ません。

まず、私はこの掲示板においては大半偽撰として扱われている、本覚思想を
内胚した宗祖の真偽未決の御書(多くは最蓮房に与えられたもの)を自身の
教学理解においては排除していません。また、血脈抄ともされる本因妙抄や
百六箇抄も排除しておりません。

したがって、これらを日寛上人が六巻抄や各文段でふんだんに引用されてい
るゆえに、おそらくは、これらをお認めにならないであろう愚鈍凡夫さんと
日寛教学に対しての共通理解を得る事は困難であろうと思われます。

しかし、共通理解は困難であるとしても互いに学びあうことに不都合は有り
得ないと確信しております。

まずは、風邪で体調を崩されている中で私の愚問にお答えいただいた事に深
く感謝申し上げるとともに、次回に愚鈍凡夫さんのお答えをベースに私なり
に感じるところを述べさせていただきますので、今後とも宜しくご指導の程
お願い致します。

174犀角独歩:2005/02/13(日) 12:58:57

管理者さん、新スレへの移動、お手数をおかけしました。
有り難うございました。

175愚鈍凡夫:2005/02/13(日) 13:01:03

無徳さん、お気遣い有り難うございます。 m(_ _)m
小生は、無徳さんの「六巻抄」に対するお考えを知りたいと思います。
良ければ投稿なさって下さい。読ませて頂きたいです。

176管理者:2005/02/13(日) 13:02:08

「素朴な疑問」スレッドでの議論を、このスレッドに移転させていただきました。引き続き、活発なご議論を宜しくお願いいたします。

177愚鈍凡夫:2005/02/14(月) 10:08:03

補足
済みません、>>167:の

> 「阿難。若世中有二如來者。終無是處。若世中有一如來者。必有是處。」(中阿含心品多界經第十第四分別誦)

の読み下しは、

「阿難、世中に二如来有らんは終に是のことわり無し。世中に一如来有らんは必ず是のことわり有り」(中阿含心品多界經第十第四分別誦)

に訂正します。悪しからず。 m(_ _)m

また、「一世界一如来」に関して、世親の「倶舎論」に次のようにあります。

「若爾何故一世界中無二如來倶時出現。以無用故。(若し爾、何故に一世界中に二如来倶時に出現すること無し。無用を以っての故に)」(阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之一)

「謂一界中唯有一如來便深敬重。(一界の中に唯一の如来のみ有れば、便ち深く敬重せしめうればなり)」(阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之一)

「故一界中無二佛現。(故に一界中に二仏現れる無し)」(阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之一)

とあります。

178愚鈍凡夫:2005/02/14(月) 12:38:28

追伸、
「ひつこいちゅうねん!!」 (▼▼メ)
ひょっとして、
「倶時ではなく、異時ならば一世界に二如来でもセーフじゃないのか」
と仰る方もいらっしゃるやも知れませんので、長文ですがそのまま引用します。
尚、長文の読み下しは全く自信がありませんので、ご訂正願えれば幸いです。

「若爾何故一世界中無二如來倶時出現。以無用故。謂一界中一佛足能饒益一切。又願力故。謂諸如來爲菩薩時先發誓願。願我當在無救無依盲闇界中成等正覺。利益安樂一切有情。爲救爲依爲眼爲導。又令敬重故。謂一界中唯有一如來便深敬重。又令速行故。謂令如是知一切智尊甚爲難遇。彼處立教應速修行勿般涅槃。或往餘處。便令我等無救無依。故一界中無二佛現。(若し爾、何故に一世界中に二如来倶時に出現することなし。無用を以ての故に。一界中に一仏足りせば能く一切を饒益す。また願力の故に、諸の如来菩薩の時に先に誓願を発す。願わくは我当に無救無依の盲闇界中に在って等正覚を成さん。一切の有情に安楽を利益し、救いと為し、依と為し、眼と為し、導きと為す。また敬重の故に、一界中に唯一の如来のみ有れば、便に深く敬重せしめうればなり。また速行の故に、是の如く一切智尊を知り甚だ難遇を為す。彼の所立教を速やかに修行し応に般涅槃すこと勿れ。或は便に我等無救無依の余所に往かん。故に一界中に二仏現れること無し。)」(阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之五)

再び訂正
>>177:の倶舎論の文証は、
「阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之一」ではなく「阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之五」です。悪しからず。 m(_ _)m

179犀角独歩:2005/02/14(月) 14:07:57

愚鈍凡夫さん、

引用される所から考えると、この南閻浮提、娑婆世界においては一仏=釈迦以外の仏は有り得ないというのが、その所説、ひいて言えば仏法の基本中の基本であるということですね。

つまり、それ以外の仏を「此土」で言ったとき、それはもはや、此土(一仏土)の仏法ではないということですね。

そこから結論すれば、日蓮本仏とは、似非仏であるという結論が容易に導き出されることになるわけですね。

この点を乗り越えるために寛師は久遠釈尊=日蓮という‘一仏論’を展開したわけですね。

ところが、近代の教学は、この点を読み誤って、釈尊と日蓮を別々の仏であるとし、さらには日蓮は釈尊の師匠仏であるという珍妙な説まで展開したわけでした。この時点では、一仏土一仏という鉄則を知って論を展開した寛師以上に、逸脱をしてしまった近代石山(学会)教学史があるということですね。

180愚鈍凡夫:2005/02/14(月) 18:36:41

犀角独歩さん、どうもです。
蓮祖は一世界一如来の原則にしたがって、娑婆世界有縁の仏は釈迦牟尼仏一人と決められたんだと思います。故に相伝書・口伝書と称する、まるで蓮祖自身が釈迦牟尼仏に取って代わるような事を暗示させる書を残すはずがないと思います。
本仏も何もない。娑婆世界に仏は釈迦牟尼仏唯お一人。これが終生変わらぬ蓮祖のお立場であったと理解しています。

181無徳:2005/02/15(火) 02:47:47
愚鈍凡夫さん今晩は、私はいま『三重秘伝抄』を読みながらこの拙文を
書かせていただいています。

先日(2月6日)は犀角独歩さんの計らいでオフ会を兼ねた島田裕巳氏
の私的体験と創価学会に関する試論とも言うべき講演を聴く機会を得さ
せていただきました。

オフ会に参加する前に島田氏の著書である『創価学会』を読んでいまし
たから、将来のことはともかく、現在時点で島田氏の創価学会論に大き
な期待をすることは無理であると思っていましたので、島田氏の人とな
り知ることを出来たことが収穫でありました。

ただ、島田氏がいま「御書」を読み進めているとの事でしたので、いず
れ氏が書くであろう「日蓮論」?とも言うべき著書に大いなる期待を抱
いております。

それにしても『三重秘伝抄』を読みながら、あらためて愚鈍凡夫さんと
私の日寛教学に対する理解の違いを確認せざるを得ませんでした。
そのことは173にも書きましたが、私が自称日蓮本仏論者でありなお
かつ天台本覚論的要素のある真偽未決の御書や相伝書等を排除せずに、
日寛教学を理解しなおかつ高く評価もし、その説かれているところの内
実とも言うべきものを信じてもいるのですから当然と言えば当然のこと
と思われます。

したがって、私の現在時点の教学的能力では日寛上人が説かれるところ
の諸説・所論に対し疑義を差し挟むところはあまり有りません。

ただ、島田裕巳氏との共著で『日本人は宗教と戦争をどう考えるか』なる
本を出した橋爪大三郎氏が、かつて『仏教の言説戦略』なる著書を出して、
ヴィトゲンシュタインの<言語ゲーム>理論をモデルに仏教を社会学的に
読み解くという野心的な試みをしています。

その著書の中で、仏教を<悟りを訊ねあうゲーム>であるとする、あらた
な視点で読み解こうとする作業をしつつ、イスラムやキリスト教との違い
を浮き彫りにしようと試みています。

次回には、私も<悟りを訊ねあうゲーム>と言う橋爪氏の試論を借りて、
総本山の宗門としてのあり方や、教義の問題点を浮き彫りにしたいと考え
ています。その中であらたな日寛教学の解釈や位置付けが可能になるかも
知れません。

182愚鈍凡夫:2005/02/15(火) 12:02:30

無徳さんどうも。レス有り難うございました。
「六巻抄」を読みながら、お気づきの点などを色々と御教示下さい。

183無徳:2005/02/15(火) 23:21:08
橋爪大三郎氏は仏教をインドにおけるお釈迦さんが<悟った>とされる
悟りの内実を追体験して自分も悟りたいと念願するサンガたちによる、
<悟りを訊ねあうゲーム>であるととりあえず規定したのだと思います。

しかし、お釈迦さんは自らの悟りの内実を言葉にする事の困難さを充分
に知っておられたため、最初はなかなかお説きにならずに沈黙されてい
ましたが、再三の弟子たちによる懇願に応えられ様々な比喩を屈しして
自らの悟りの内実を語り始められとするのが<悟りを訊ねあうゲーム>
の出発点と言えるのではないかと思います。

では、なぜお釈迦さんは悟りの内実を直接的な言葉で言い表す事が困難
とされ、多くの比喩を用いられたのでしょうか?

つまり、この事は言語に纏わる人間の認識能力における最大のアポリア
であることを意味しているのだと思います。そして、それは西洋哲学に
おいても人間の認識がどこまで真理に到達できるかという、人間の認識
能力の限界という最も困難な課題を意味する事柄だと思われます。

そして、いよいよインドに誕生した<悟りを訊ねあうゲーム>はインド
から中国そして日本へとわたるに随って、大乗仏教というまさに豊饒な
る言語の山脈を形成し、様々な困難を乗り越えてついに<言語ゲーム>
はクライマックスを迎へたと私は考えています。

さらに、私自身が現在に生きる意味とは、この<悟りを訊ねあうゲーム>
という<言語ゲーム>のクライマックスに参加し立ち会っているのだとい
う思いがしてしかたありません。

つまり、日蓮仏法との出会いと日寛教学を現在学ぶことの本来的意味は
<悟りを訊ねあうゲーム>の最終章に立ち会っているということなのか
も知れないということです。

そして、このことの意味は他者から見れば幻想に過ぎないと見られる事
でしょうが、あくまで自分自身にとっては<言語ゲーム>の完了であり
悟りへの道程の最終章でもあると思っています。

184無徳:2005/02/15(火) 23:22:07
続きです。

しかし、そのためにはどうしても突破しなければならない大きな課題と
壁があるのです。

それは、成功したか否かは別としてヴィトゲンシュタインが為したよう
に、人類が築き上げた既存の言語体系(哲学)をまずもって一旦は解体
せんとしたことをモデルにして、我々も現在の日蓮正宗の宗門が絶対化
している言語体系である既存の教学、そしてそれは私が現在学んでいる
日寛教学も含めて一旦は解体し、相対化する必要があると考えています。

なぜかならば、宗門の僧侶や法華講に属する在家信徒たちまでが宗門の
法主を法水写瓶であり唯受一人の血脈付法にて「戒壇本尊と不二の尊体」
とまで形容して法主を絶対なる存在に仕立て上げてしまったため、それ
らが日蓮正宗という体制内言語として、つまりはイデオロギー化してし
まった結果、創価学会や正信会さらには顕正会等を次々に破門に処し、
更には正本堂や大客殿等々信徒のまごころで寄進した建造物を殆ど破壊
するというアナクロニズム的な暴挙に打って出る始末です。

しかしながら、かつては創価学会や正信会さらには顕正会等もそのよう
な体制内言語を当然としていたのですから、皮肉な結果ではありますが
今も創価学会や顕正会もそれぞれの長を絶対化するという同じ過ちを犯
しているわけですから、その意味で富士宗門全体が言語(教学)を含め
て現体制を一度解体して出直すことが肝要であり、そうでなくては何時
までも<悟りを訊ねあうゲーム>を終焉させることは出来得ないであり
ましょう。

もっとも、<悟りを訊ねあうゲーム>つまりは<言語ゲーム>に終焉は
もともとあり得ず。人間にとって「悟り」などありえないとする言語も
あり得るのかも知れません。

186愚鈍凡夫:2005/03/20(日) 17:01:12

> 日寛上人が正しく書写された御本尊を正しい信力・行力で拝み、厳然と仏力・法力に浴している学会員に、何一つ足りないものなどないのである。

「ふむふむ。創価学会には、カルト宗教として何一つたりないものなどないのか・・・・」
メモメモメモ_φ(._.φ(゜-゜;φ(._.φ(゜-゜;φ(._.φ(゜-゜;)カキカキカキ

187一字三礼:2005/03/20(日) 20:44:50
> 185

ハンドルネームから想像するに、浄土門の方のようですね。ただ何を主張されたいのかよくわかりませんが「究極の奥義」ってなんか凄そうですね。

「究極の奥義」を会得する為にはやっぱり、がんばって座談会に出て、体験発表して、濁悪の歌うたって、強制新聞5部くらいはとらないとダメかもしれませんけど。

191愚鈍凡夫:2005/03/21(月) 12:15:56

法蔵さん、初めまして。
続編の投稿がない。期待しなかった方が良かったかな。 ( ̄ヘ ̄)ウーン

小生は、日蓮正宗が新手の「密教」で、創価学会が正真正銘のカルト宗教であると言っているように受けとれましたが・・・・・。

193犀角独歩:2005/03/22(火) 12:01:14

かつて創価学会は、戸田さんを中心に国立戒壇を目指し、(公称)75万世帯を達成。その後、池田さんに継承されて(公称)750万世帯。その後、昭和42年、正本堂供養を行い、800万人実名供養名簿とともに500億円近い金額を集め、同47年に正本堂建立。この段階で、石山・学会は国立戒壇の名称を放棄。しかし、この段階で創価学会側が固執したのは正本堂が事戒壇であるか否かという点でした。石山は事戒壇を「願って」の範囲に留めたわけです。その後、正本堂は解体されるも、それまでの主張であった民衆立戒壇についても、論じられることはなくなり、今日に至っています。

唱題行はまだ盛んなことから本門題目義は存していることになるのでしょう。また、三大秘法本尊とその呼称を代えるも、まだ本門本尊義は存していることになります。

では、上述した本門戒壇義については、まったく不問とされることになります。
投稿で紹介された「四大秘法」なる造語が何を意味するのか、ここでは、どうでもいいことであるけれど、では、本門戒壇義(解体された正本堂に変わる事戒壇)を、現学会教学が欠くとすれば、これはもはや、三大秘法とは言えず、二大秘法と言うことになります。となれば、一つ足した四大秘法を糾弾するのよいとしても、一つ欠いた二大秘法はどうなるのか、という問題は少しも解消されていないことになるがこの点はどうでしょうか。

このように記すと、「本尊を安置する場が戒壇である」という反論は、当然怒るわけでしょうが、これはしかし、寛師の言う義・戒壇であり、事戒壇ではないわけです。この点を現学会教学は、未だクリアしていません。

三大秘法惣在本尊とは弘安2年大本尊であることは火を見るより明らかであり、これを一大秘法に束ねて、究竟の本尊とするのが、寛師教学です。つまり、この彫刻本尊を抜きにした寛師教学などあり得ないわけです。また、この本尊顕彰の表裏を為すのが、唯受一人血脈相承で、石山歴代のみが正統師である、また、富士戒壇・本門寺と共に、その主張であるわけです。

わたしは、取るに足りない寛師教学から、学会が脱皮していくことに対しては薦めるところです。その場合、しかし、会員頒布用の印刷本尊は寛師書写という点は、高いハードルと思えます。

戒壇義無き二大秘法教学、そして、彫刻本尊・唯受一人顕彰の寛師教学を学会が是認することは、まったく自己矛盾であり点を、それこそ、寛師の六巻抄すら読まない会員の教学レベルの低さで露呈しないという構造を、ここに見ます。

それにしても、いまどき、創価学会が、寛師教学を取って、石山を批判すれば、その返す刀で自ら斬り殺すほかない点に、いまだ気付けないとは、笑止千万というほかありません。寛師教学から脱却は、創価学会が今後を歩んでいくための必須条件であることは、その著述を熟読すれば、すぐに気付けることでしょう。

不都合なところは全部改竄、削除して用いるというのであれば、話は別です。しかし、少なくとも、現段階で創価学会が寛師教学を用いれば、既にそうなっている構造があることを、少しでも寛師を学んだことがある人であれば、直ぐに理解することができるでしょう。

194犀角独歩:2005/03/23(水) 00:44:26

しかし、三大秘法、就中、一大秘法、すなわち、弘安2年彫刻本尊、この問題を語るのであれば、是非とも『本尊抄文段』でやりたいですね。
寛師の文段・愚記はなかなか面白い、大いに議論したいと思います。

まさか、読んでない?なんてことはないでしょうね(大笑)

195吉祥仙人:2005/03/23(水) 06:29:54
 まさかの、読んでない人間なので、ロム専門にさせていただきます。

196犀角独歩:2005/03/23(水) 08:16:34

以下、nbさんの資料室に置かれています。
お読みになってみては如何でしょうか。

観心本尊抄文段上
http://nakanihon.net/nb/honnzonnsyoumonndann.html
観心本尊抄文段下
http://nakanihon.net/nb/honnzonnsyoumonndannge.html

その他
http://nakanihon.net/nb/gorekidai.html


付言します。
文底秘沈抄以上のものはないそうですが、同文段には

「当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、自行化池、形貌種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり」

とあります。一瞥すればわかるとおり、文底秘沈抄のみにその相伝があるわけではありません。また、先立つ、精師は家中抄に

「日目天奏の為に上洛せんと欲す当宗嫡々法門相承どもを日道に付属す、其の外高開両師より相伝の切紙等目録を以て日道に示す、其の目録に云はく。
日興御さくの釈迦一そん一ふく/御しゆうそく/日興の御ふみ一/授職灌頂きりかみ/結要付属きりかみ/三衣の相伝/三衣の口決/廻向口伝/広裳衣相伝/念珠の相伝/今此三界きりかみ/蓮師名相の口伝/大黒のきりかみ/日蓮弘法日興付属きりかみ/天台大師四十八の起請文/当家神道きりかみ/日文字のけいづ/佐渡妙泉寺日満と申す付弟のきりかみ/大聖人の父母の御事きりかみ/日円の御本尊一ぷく/日番御本尊一ぷく/高祖の仏法修行の習ひきりかみ/十羅刹のきりかみ/三衣授与のきりかみ/日興上人の御自筆御経(ありと云ふ事以後の証文になるべし)。/大石寺のさしづ/二字の習のきりかみ/観心本尊抄の合文/三大秘法のきりかみ/本尊相伝のきりかみ/愚者が日文のきりかみ
日目御自筆今当山に在るなり」

と相伝を語ります。この実否を言うところではありませんが、少なからず、精師の何代か跡を取った寛師が、この内容を知らないわけはなく、しかし、これら一切が文底秘沈抄に記されてはいません。

また、完則の大石寺宝蔵目録には、

「日目上人記 宗祖孫弟日興弟子大石三祖 云高祖開山両師相伝切紙目録 一授職灌頂切紙 一結要付嘱切紙 一三衣相伝 一回向口伝 一念珠相伝 一今此三界切紙 一蓮師名相之口伝 一大黒切紙 一日蓮仏法日興付嘱切紙 一当家神道切紙 一日文字之系図 一佐渡妙泉寺日満申付切紙 一大聖人父母之御事切紙 一高祖仏法修行習切紙 一十羅刹女切紙 一三衣授与切紙 一二字之切紙 一観心本尊抄切紙 一三大秘法切紙 一本尊相伝切紙 已上大石寺宝蔵有之」

とあります。
もちろん、わたしは、これら相伝類の正当性を論ずることを目的とするのではありません。寛師の時代、既にこのような切紙相伝、相承は成立していたわけです。となれば、子細の相伝はこのような切紙、もしくは口伝をもって相承されていたことはほぼ確実です。つまり、文底秘沈抄一抄に限らず、以上のような形式で伝えられていたのでしょう。先にも記したとおり、七箇相承、三度相伝のように図示して具体的な書き方を示されていますが、漫荼羅書写を本山住職の権能に据える石山では、当然、この書写儀式に就き、何らかの秘伝があったとしても不思議はないでしょう。(ただし、それが蓮興嫡々と伝えられた形跡は見当たらない)

いずれにしても、寛師教学は「弘安二年十月十二日本門戒壇の大御本尊」を究竟漫荼羅として構築されたものである以上、その彫刻本尊そのものが偽物であれば、一切合切は灰燼に帰するわけで、いまさら、寛師、就中、文底秘沈抄を最高だと言ったところではじまりません。

既にわたしは、この(現在の)彫刻本尊が禅師授与漫荼羅を原本とし、臨模・作為して制作されたものであることを明らかにしました。
よろしく、この事実を受け容れ、自身の信仰を再考することを勧めるばかりです。

199大盛:2005/03/23(水) 19:41:09
日寛が知識人に通用するわきゃないのだ

200大盛:2005/03/23(水) 20:58:16
185と197は違う人間が書いているな、たぶん。
クズビラがフェイク紙にかわったんはなんで???

205顕正居士:2005/03/24(木) 09:43:14
松岡雄茂師の文章というのはこれでしょう。

http://www.nichiren.com/ronbun.html

まあ日蓮正宗の宗学の範囲内の議論といってよいでしょう。

206顕正居士:2005/03/24(木) 09:51:37
コピペ投稿

本文がなく、引用のみで、かつ引用元を示さない投稿は著作権を侵害していますから
投稿のルールにこのことを示しておかれるのがよいかとおもいます。

208彰往考来:2005/03/24(木) 16:02:26
>207

犀角独歩さん、

件の文章はフェイク第586号でしょう。

http://www.sfken.net/easyBBS/bbs.acgi?r=room_02&BBS_MSG_050319164432.html

210犀角独歩:2005/03/24(木) 16:24:41

彰往考来さん、ご教示、有り難うございます。
なるほど、こんな他での投稿があったということですか。
顕正居士さんが仰るよう出典不掲載のコピペであったわけですか。
ようやくと謎が解けました。

211愚鈍凡夫:2005/03/26(土) 01:53:37

聖教新聞の「寸鉄」って、結構笑えるネタが多いのですが、これを書いてる御仁はギャグの意識がないのが、ちょっと怖いかも・・・・・。 (-"-;A ...アセアセ

寸鉄2004年7月から
http://www.geocities.jp/unofic/04bsunt.htm

213犀角独歩:2005/03/26(土) 02:11:16
愚鈍凡夫さん、

> 寸鉄2004年7月から

こんなの本当に活字になっているんですか! 冗談でしょう。
これを読んで、学会員は、変とも何とも思わないわけですか。
これはこれは(爆笑)

219管理者:2005/04/08(金) 06:19:10

法蔵さん
犀角独歩さん
皆さん

185の法蔵さんによるコピペ投稿は、著作権を侵害している恐れがあります。このまま放置いたしますと、掲示板管理者が管理責任を問われる恐れが有りますので、誠に申し訳有りませんが、削除させていただきたいと存じます。ご理解の程、宜しくお願い申し上げます。

なお、この措置に伴い、犀角独歩さんの189、192、198、201、202、204、207、215。法蔵さんの197のレスが、意味不明となりますので、誠に申し訳ありませんが、合わせて削除させて頂きます。

ただし、この削除は規約に抵触したための削除ではなく、当掲示板運営上の必要性からの措置ですので、必要に応じて、現ルールに抵触しない形で再投稿していただくことを遮るものでは決して有りません。どうか宜しくお願い申し上げます。

220藤川一郎:2005/04/08(金) 10:13:28
>>213
本当です(爆)。
さて寸鉄ですが、我が家には、私が料金を支払ってもいないのに、毎日聖教新聞が届きます。
寸鉄は、月〜金の平日は最後には必ず「坊さん批判(就中、日顕上人)ネタ」があり、
土日は多少お休みして、政治家批判ネタになる場合が多いようです。
しかし、毎日毎日すごいね。

221藤川一郎:2005/04/08(金) 10:14:11
なお、これ以上は、スレ違いなので、ここで中止します。

222犀角独歩:2009/02/01(日) 11:21:22

偶ロム偶ログさんが紹介された『現代宗教研究』第42号P329所収「『六巻抄』の構造と問題点(5)―「依義判文抄」を通して(その1)―」を通読。

小編ながらよくまとまっています。
早坂師とは『顕正会についてⅡ』で執筆を共にしました。
現代宗教研究所主任を経、現在は研究員だったと記憶します。
数年来『六巻抄』研究を手がけています。

創価学会・顕正会を含む大石寺圏の僧俗には、『六巻抄』は他派を完全に破折した完璧な書であると信じ込まされており、<破折宣言> → <大石寺は正しい> というトコロテン短絡思考の元祖のような存在。

日寛の記述はたしかに、それなりの構造を有し、理が尽くされている…、と見えます。それは文章がうまいこと、何より構成がうまいことが、その理由でしょう。しかし、どんなに人を感動させる文学や映画も、虚構であるように、いかに大石寺僧俗を虜にしようと虚構は虚構にすぎません。

信心で読むとアラもわからないが、日蓮教説から割り出した教学から見れば、他愛もない虚構であることは了解できます。

今回の所収分の結論に、早坂師は、シニカルな一言を放っています。

…こうして、三大秘法の文証論、教証論を説くべき「依義判文抄」の序においても、堅樹日寛の己義、曲会私情の釈であり、「依義判文抄」というより、むしろ「己義判文抄」といえましょう。(P345)…

適正な結論です。

日寛が死ぬときに蕎麦を食ったら自分がいったことは羅什の舌が焼けないのと同様、すべて真実だとか遺言したといいますが、破戒僧羅什の舌が焼け残ろうが、日寛が蕎麦を食おうが、そんなことは訳釈の是非と何ら関係ありません。

「日寛は己義判文」という早坂師の嘆息はしかし的を射ています。
そもそも依義判文という解釈の態度がすべての誤りの元となっています。
解釈に供する義が己の好いように考えられたところから文を判(解釈)じようというのだから、まことに厚かましいと言わざるを得ません。

わたしが高校生の頃、創価学会では、池田本仏論がまことしやかに囁かれていた。こう言われたものでした。

「御書にある釈尊はすべて日蓮大聖人と読み替えるのが文底読み。そうすれば日蓮本仏論はわかる。
 同じように、御書にある日蓮はみな池田先生と読めば、創価学会の正しさはわかる」

創価学会の都合のよい義によって文を判じると、どうにでもいいように解釈できたわけです。

しかし、日蓮の教説は、そうした読者側の勝手な解釈に併せて、その遺文を読んでもわかりません。

当たり前すぎる話ですが、日蓮の遺文を虚心坦懐に拝し、その文から意義はくみ取るのが在り方です。つまり、依義判文ではなく依文判義こそ、正当な理解です。

依義判文などといって憚らない日寛の教学的態度は、仏教を学するものとして落第なのです。

しかもいえることは、日寛のこのふざけた手前勝手な解釈は、いまも依然として創価学会・顕正会を含む大石寺圏に蔓延していることです。

彼らのいうところ、日蓮といい、日興というとも、結局、自分たちの都合よく解釈した己義判文です。受けて立つ側がいくら依文判義で立ち向かっても、元とするところは己義私情からでた勝手な考えに基づく押しつけです。

ならば、どんな明証、明文をもってしても好いように解釈して「自分たちが正しい」「破折済み」だなんだと、お得意のトコロテン短絡思考でおしまいとなります。結局は、いまの信者たちの短慮の元祖は、このふざけた日寛の解釈をなす態度にその起源があったわけです。

よって、今日、早坂師が、堅樹日寛を批判することは、日蓮の真意を見出すうえで実に意義のある作業であると、わたしは評価します。

223北斗:2009/11/26(木) 00:11:43
素朴な疑問スレか、こちらか迷いましたが、こちらにレスします。

早坂鳳城さんの「『六巻抄』の構造と問題点(二)「文底秘沈抄」本門の本尊編を通して」

を現代宗教研究所ホムペで見ました。(携帯で見てるせいか、現代宗教研究第37号(平成15年3月)より後年のは見れないんです(┰_┰))


早坂先生の指摘によると、日寛による御書等の「改竄」がありますよね。

この「改竄」している時点で、もはや日蓮を裏切っている事にはならないのでしょうか?また、そのように石山一家は感じないのでしょうか?

そんな日寛教学を持って「自分達が正しい」とよく豪語できるな〜と、つくづく思います。


で、石山一家はこの「改竄」について、どういった解釈しているのでしょう?

224顕正居士:2009/11/26(木) 11:52:54
遺文ではなく『修禅寺決』です。日蓮の前後に成立した日本天台文書で、
「臨終の一心三観」として唱題を勧めています。早坂師のいうのは
「南岳大師。以一念三千觀本尊。付智者大師。所謂繪像十一面觀音也」です。
これは史実ではないでしょうが、唐代には十一面観音像が多く作られました。
その文の後はなぜ阿弥陀仏でないのか、観音・弥陀は一体の異名であるから
と続きます。
日寛には「一念三千を観じるための本尊」(観心の本尊)を「一念三千の本尊」
(一念三千=三秘惣在の本尊=我山の例の曼荼羅)というレトリックはあって
わざと「觀」を落としているというのは、そうかも知れないですが。

225北斗:2009/11/26(木) 19:08:49
顕正居士さん


>遺文ではなく『修禅寺決』です。

確かに、その部分も早坂さんの論文では指摘されてました。

しかし、「文底秘沈抄」本門の戒壇編を通して」では「三大秘法抄」を日寛が改竄していると指摘しています。
その部分を引用します。

>次に『三大秘法抄』には、「事の戒法と申すは是れなり」とありますが、☆堅樹日寛は、「正しく事の戒壇とは」と戒法を戒壇に改竄し、宗祖の御書の如き言い回しで述べていますが☆、これは、法の理論と場の理論にすり替えたのに他なりません。
『三大秘法抄』の「懺悔滅罪の戒法のみならず」を堅樹日寛は、「懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず」と「戒法」を「処なり」と改竄し、同じく宗祖の御書の如き言い回しで述べ、法の理論を場の理論にすり替えています。
 また、『三大秘法抄』に云くと、言いながら『同抄』の改竄が見られます。それは、原文の「三大秘密の法を持つて」を「三大秘密の法を持たん時」と改竄している所です。


このように指摘されています。

>「三大秘密の法を持つて」を「三大秘密の法を持たん時」と改竄している所です。

この部分は、私自身、調べました。

確かに、改竄しています。


「法を持って」と「法を持たん時」では、随分意味合いが変わると私は思います。

そして、真偽未決ではあるものの「御書改竄」したってのは日蓮に背く行為だと思うのですが…。

また、それを「教学決定版」のように使う石山一家に義はなしと判断しています。

226顕正居士:2009/11/26(木) 23:09:23
北斗さん。

「秘法抄に云く」の引用は「有徳王、覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん」を
はしょっていますが、それは「王臣一同に三秘密の法を持つ」ことと別のことではなく、
依義判文抄には全文を引いていますし、文底秘沈抄を読む人で三秘抄の文を知らない
人はあり得ないので、単なる省略であって意図はないものと思います。

227北斗:2009/11/27(金) 01:20:23
顕正居士さん


>依義判文抄には全文を引いていますし、文底秘沈抄を読む人で三秘抄の文を知らない
人はあり得ないので、単なる省略であって意図はないものと思います。




なんか腑に落ちないですね。

早坂さんの解釈だと、

>『三大秘法抄』には、「事の戒法と申すは是れなり」とありますが、☆堅樹日寛は、「正しく事の戒壇とは」と戒法を戒壇に改竄し、宗祖の御書の如き言い回しで述べていますが☆、これは、法の理論と場の理論にすり替えたのに他なりません。


「戒法」と言っている文を「事の戒壇」などと「改竄」してるのが単なる「省略」ですか?

全く、意味合いが変わって来ますよね。


また、『三大秘法抄』の「懺悔滅罪の戒法のみならず」を堅樹日寛は、「懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず」と「戒法」を「処なり」と改竄し、同じく宗祖の御書の如き言い回しで述べ、法の理論を場の理論にすり替えています。



これも「単なる省略」ですか?


三大秘法抄全文を、別の書にて引用しているからと「改竄」(省略?)するってのは、どうも、腑に落ちないです。

228北斗:2009/11/27(金) 01:29:07
顕正居士さん


もうひとつお尋ねしたいです。

>依義判文抄には全文を引いていますし、文底秘沈抄を読む人で三秘抄の文を知らない
人はあり得ないので、単なる省略であって意図はないものと思います。


「持って」と「持たん時」じゃあ、省略とは言わないのではないでしょうか。

全く意味合いが変わってしまいますよ。

いくら、別の書で三大秘法抄引用しているからと言っても、「文底秘沈抄を読む人で三秘抄の文を知らない人はあり得ない」
なんて、なんで言い切れるのでしょう?

229顕正居士:2009/11/27(金) 02:42:07
戒壇者王法冥仏法仏法合王法王臣一同に三秘密の法を持て(有徳王覚徳比丘の
其乃往を移末法濁悪未来)時勅宣並御教書を申下て尋似霊山浄土最勝地可建立
戒壇者歟可待時耳事の戒法と申は是也

{王臣受持→勅宣並御教書→尋最勝地→建立戒壇}=事の戒法 ということです。
「事の戒法」とは理戒に対する事戒の意に非ず、戒壇建立のことなりとの意味です。

この文を暗記していない人が六巻抄を披くことは当時に於てあり得ません。
六巻抄は漢文です。()を省略すれば「持たん時」と訓むことになります。

230北斗:2009/11/27(金) 04:11:37
顕正居士さん


なんか、納得出来ません。

しかし、私は漢文読めないので反論できませんので「持たん時」の解釈が正しい事にしておきます。


しかし、他のはどうですか?

231北斗:2009/11/27(金) 04:28:20
とは言ったものの、早坂鳳城さんが「漢文読めない」なんて有り得るのかな?

まして、日蓮宗現代宗教研究所の方…。

う〜ん…。

232犀角独歩:2009/11/27(金) 04:33:14

ありませんよ(笑)
もちろん、読めます。
現宗研の元主任です。

師の『六巻抄』講義は、数度、拝聴していますが、主張は、仰るとおり、日蓮の原文の改竄と牽強付会です。

233顕正居士:2009/11/27(金) 06:28:47
三秘抄は日蓮党があるていどの勢力になってから、三井寺の三昧耶戒壇に倣って
山門からの独立を述べた文書だと考えます。日蓮の思想の正規の発展ではあるが、
これだけが三秘中の戒壇の正釈とはいえないから、三秘抄自体を批判するのは
よいのですが、日寛の解釈に別に問題はありません。

日寛の宗学の難点は三秘の中心を本尊とすることです。三秘は戒定慧ですから
どれを取ることもできますが、やはり三秘惣在という際は題目だろうとおもいます。
ここで戒壇が関係して来るので、戒壇とは一箇の事壇であるから、その戒壇本尊と
いう一箇の本尊があるべきで、それは我山の例の板曼荼羅である、そしてこれが
あるから我山は日蓮宗の総本山なりというわけです。しかしそういう理屈が成り立つ
としても、我山の板曼荼羅に客観的な由緒がありませんし、壇信徒にしか通用しない。
日蓮自身のアイデアとしては三位日順の曼荼羅は戒壇の図というのが妥当と思う。
三秘惣在は通常皆が題目とするのに無理に本尊とするのはこういう我田引水に
持っていくためである。そして後世に我田引水のほうが教義になってしまい、日寛の
すぐれた部分が台無しになっていると感じるわけです。

234北斗:2009/11/27(金) 07:13:40
犀角独歩さん


>もちろん、読めます。
現宗研の元主任です。


ですよね〜。読めない訳がないですね(笑)

早坂さんに、大変失礼な発言してしまいました(泣)。


>主張は、仰るとおり、日蓮の原文の改竄と牽強付会です。


私が、知る限り(早坂さんの論文で、私が見れる資料の範囲ですが)改竄を4ヶ所ほど確認しました。

早坂さんが指摘された箇所を、当該御書と六巻抄とで比較しました。

やはり、意味が変わってしまう「省略」は「改竄」だと思います。

235北斗:2009/11/27(金) 07:25:59
顕正居士さん


>日寛の解釈に別に問題はありません。


いやぁ、宗祖の遺文を改竄してまで自分の解釈に論拠があるようにしないといけない「日寛の解釈」は、大いに問題ありだと私は感じますけどね。


>そして後世に我田引水のほうが教義になってしまい、日寛のすぐれた部分が台無しになっていると感じるわけです。


いくら優れていても本仏と崇める「日蓮」の遺文を改竄したら、それこそホーボーではないでしょうか。

と、いうか私には日寛の優れた部分ってのが、よく理解出来ません。

236天蓋真鏡:2009/12/04(金) 10:50:01
漫荼羅は 法華経伝播を説明する図であって 戒壇堂の配置では無いと考えたいです。 弟子檀那への戒壇であって堂宇指図では違うのでは無いかと。 五重塔中心指図は斬新過ぎます

239a:2016/08/22(月) 09:58:49
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