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板本尊

2ニセ本尊:2006/04/04(火) 22:42:59
昭和の板本尊伝説
1945年(昭和20年)6月17日未明、大石寺の大書院から出火、またたくまに大坊と客殿を焼き尽くし時の法主(62世日恭)は焼死した。御隠尊猊下(61世日隆)は、戦争から板本尊を守るため、以前住職を務めていた東京の某寺院の法華講員を呼び寄せた。当時は、アメリカ軍が富士山を目指して上陸してくるという噂も飛び交っていたこともあり、一方、東京の下町は3月の大空襲以降は、もう目立った目標物もなく、かえって安全と思われた。終戦間際という大変な時期に、車で来いというのだ。なぜ車か?それは重さ200kgはあろうかという板本尊を密かに運び出し、某寺院の境内に埋めて守るという計画だった。

日蓮正宗では、9世日有の時代に、板本尊を大石寺から別の場所に移して守ったという伝統があり、計画そのものは何の障害も無く実行された。当時、創価教育学会は壊滅し、何の役にも立たず、戸田城聖にも知らされない話だった。宗務院の重役の中でも、極一部の者しか知らないこの計画は、秘密裏に実行されおよそ1年間、秘密は保たれた。

それから約半年後、次期法主(63世日満)が決定すると、ふたたび秘密裏に板本尊を本山に戻すことになった。しかし、ここで思わぬ事態が勃発する。某寺院の境内に埋めて置いた板本尊(楠の半丸太)の下部が、なんと腐ってしまって3分の1以上が脱落してしまったのだ。1946年(昭和21年)のことである。戦争のため物資が乏しい中、なんとか油紙で包んで大事に土に埋めて置いたのだが、埋めた場所が隅田川の近くであり、水分を多く含んだ土壌だったために、わずか半年という短い期間で腐ってしまったのだ。上野の赤沢朝陽の社長は大変な苦労して、およそ半年の歳月を掛けて板本尊の復元を行った。彼は一級の技術を持つ本物の佛師だった。復元に当たっては、当時法道院にあった日禅授与本尊、および1911年(明治44年)に出版された日蓮聖人という本に掲載された戒壇の大御本尊の写真が使用された。この写真は第二次大戦中にお守りとして、多くの法華講員が所持していた。こうして1946年(昭和21年)に復元された戒壇の大御本尊は、もちろん1279年(弘安2年)の板本尊と呼ぶことは出来ない。


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