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摂折について。

1川蝉:2005/06/10(金) 13:54:45
「摂受を行ずる時は、僧と成つて正法を弘持する」について。

「摂受を行ずる時は、僧と成つて正法を弘持する」の直ぐ前に
「今末法の始め小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し、天地顛倒せり。・・・此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。因謗堕悪必由得益とは是なり。」(昭定719頁・学会版253頁)
とあります。

この文意は
「末法の初めである今は、謗法盛んであるから、妙法蓮華経の五字をもって下種結縁しなければならない時である。汝の信仰は謗法であると強く批判されれば当然、反発し日蓮に怒りを抱き日蓮を誹謗迫害するであろう。しかし、下種結縁によって、やがては法華経を信受する暁を迎えるであろう。
日蓮の採るこの而強毒之の弘経方法は、不軽菩薩が強いて、二十四字を専ら説き礼拝する事を誹謗した者達が、悪道に堕ちたものの、結縁の因縁をもって、やがて信受し救われた、と云う事と同例である。」
と云うものでしょう。

末法の初めは、大判すれば、本未有善の機、謗法の機なので、一念三千の仏種である妙法五字を強いて聞かせ下種結縁しなければならないと云う五義判からの結論に立って、当然起こる法難迫害を忍んで(摂受して)他の謗法を批判し妙法信受を強く迫る化導法を採る(道門折伏)というのが本尊抄の立場であることが分かります。

このように大判としては道門折伏ですが、細判としては道門折伏一辺倒ではありません。
富木殿の再度の法論を止められたことなどが例です。

次直ぐ後の
「摂受を行ずる時は、僧と成つて正法を弘持する」
と矛盾があるのではないかという意見が出てくるのですが、日蓮聖人の思考が分裂していない限り、同一論文の中で異なる見解を述べる筈はないわけです。

そこで、
「折伏を現ずる時は」の折伏とは涅槃経の有徳王の如き、俗人、身行の折伏で、行門の折伏であり、「摂受を行ずる時」の摂受とは行門の摂受で、日蓮聖人は折伏はせられたが、それは出家、口、意の折伏で、教門の折伏であり、行門の折伏でないと古来から会通されています。

そうした先師の見解に基づき
「日蓮聖人御遺文講義2」に担当の石川海典師が
「摂受を行ずる時の聖僧は『正法を弘持す』とあるから、此の摂受は口業の師子吼を意味する。
此の聖僧の師子吼を摂受としているが、其の実は折伏である。事実聖人御一期の大師子吼は本化の上首たる上行菩薩が、聖僧と示現して正法を弘持した以外のものではない。・・・何が故に標準御書の観心本尊抄に之を摂受としてあるかを究める要がある。そしてそれは結局、在家と出家、僧と俗と異なるによって其の修行の形式に寛厳の相違があり、出家たり僧たる者の折伏は、之を在家たり俗たる者の折伏に比する時は摂受と云われる。口業の師子吼は身業の武力に比すれば猶摂受なりという意味に外ならない。・・・大師子吼は折伏ではあるが、之を刀杖斬首の如き行門の折伏に比する時は、なお多分に摂受の傾向を含むから、聖僧の正法弘持を摂受とされたのであろう。」(321頁)
と解釈しています。

66shamon:2005/07/05(火) 20:36:12
他からの評価が見えず、進んで自らの品位を落とす人というのは哀れなものですね。お話にならない文章が多いですが・・。

>「片づいた」などと誤魔化している点が笑える

①日蓮聖人は、仏教の弘教方法には摂受と折伏の二門があるが、時に応じて折伏を前とした。
>> 折伏を前にしたと述べているのですよ(shamon)
> ですから、そんなことは誰が否定したのですか。(犀角)
片づいてますね(笑)

> 自分の都合の悪いところは飛ばし読み、「速行重科」のどこが、止施だというのでしょうか。
「速やかに重科を行え。然からば〜」とあれば、まともに日本語の文意を読める人ならば、「然からば〜」の後に指し示すものが重科であることは容易に理解できますね。

> では、如説修行抄が真筆であることを
他の所で好きなだけやるとよいですよ。ここでは誰も、如説修行抄を引用してませんからね。

> 日蓮教学を見る場合は採用しないと言うことです。
犀角さんは、いつから日蓮教学の権威になったのでしょうね(笑)。まともに日蓮聖人の教学を学ぶ場合は、当然の事ながら天台大師の三大部等は外さないですね。

> 日蓮聖人は「首を斬れ」と言っていないと言うわけですか。
日蓮聖人が、「首を斬る折伏をしろ」と言った等とは、聞いたことも見たこともないですね。どこにあるのでしょうね。

> なんだ、顕本ですか。これは笑えますね。
ROMしている方に。戦前・戦後の日蓮宗と顕本法華宗の合同・独立の際に、顕本(什門流)は日蓮宗の改革のために半数近くが日蓮宗に残っています。かっては「教学の顕本」と言われたわけですから、疑義のある主張に対しては、真摯に速やかに批判がなされる宗風を今後も護って参りましょう。で、今成上人の所説を拝借している犀角さんが笑うのは傑作ですね。

> この点は、どのように会通されるのでしょうか。
増上慢になる前に、日蓮聖人の御遺文を読めるようになることが先決です。犀角さんには無駄で面倒ですが、他の方の参考になれば・・。開目抄に
「答う、大経は偏えに折伏を論ずれども、一子地に住す。いかんぞ曾て摂受なからん。この経は偏えに摂受を明せども、頭破七分という。折伏なきにあらず」とありますように、折伏を表としても摂受を具足し、摂受を表としても折伏を具足しているのが、摂折の二門だからです。まともに学んでいる者にとっては、全く矛盾しません。

> 笑えるわけです。(>64)
上記の事が理解できないので、会通出来ずに頓珍漢な話が出てくるのでしょう。何度も同じ事を書くのは、本当に面倒ですが(笑)。引用全文は>44
『この語(非法の悪人を降伏すること)を聞き已つて、咸(みな)共に瞋恚して、この法師を害せん。この説法の者、たといまた命終すとも、故(なお)持戒自利利他と名づく」等云云』
非法の悪人を降伏する(折伏)し、咸(みな)共に瞋恚して、この法師を害せん(摂受)。この説法の者、たといまた命終すとも、故(なお)持戒自利利他と名づく(降伏は持戒の安楽行品に背くと言う非難があるが、これこそ持戒であり、自利であり利他である。)

> 門派の汚点
この方、自分が顕本を罵倒していたことをお忘れのようです。窪田哲城上人とは、お誉めを頂いている師弟の間柄でしてねえ(笑)。

> 真跡遺文をご存じないようなので
検索できても、中味を読めなければ無駄ですね。引用した「法蓮抄」「撰時抄」「高橋入道殿御返事」(ちなみに「高橋入道殿御返事」は真蹟と言っても断片しかないもので、しかも大石寺にある)の内容ですが、これは日蓮聖人が他宗の僧に憎まれて役人の手引きの元に襲撃にあった上で、「日蓮の首を刎ねるならば、謗法の僧侶の首を刎ねるべきではないのか」と言われているものです。白衣の折伏の在り方について、思想的に言及した類のものではないですね。こういうものは、弘教の方法である摂受・折伏における仏教思想を鑑みる上では、まともな方は考慮しません。それよりも、日蓮聖人が門註所において「お前は他宗の坊主の首を斬れと言ったのか」との問いに対して、権勢に阿ねることなく、もし言ったなれば首を刎ねられることは確実であるのに、「言いましたとも」と、堂々と涅槃経を引用されて答えたところが日蓮聖人の立派なことです。

さて、忙しい中クダラナイことに時間を費やすのも馬鹿馬鹿しいですので、日蓮聖人の言われた「白衣のなすべき折伏」を片づけなければなりません。
犀角さんから、日蓮聖人が白衣のなすべき折伏は「首を斬る」ことと主張されていたことを、御遺文を以て証明して頂けないのであれば、相手には出来ませんが。

67犀角独歩:2005/07/06(水) 10:06:19

shamonさん

> 他からの評価が見えず、進んで自らの品位を落とす人というのは哀れなものですね。お話にならない文章が多いですが・・。

このように自分への評価を人にこするのがうまいですね。
このように悪口からしか、書き始められないところにあなたの人間性があるのでしょうね。気の毒です。

>>> 折伏を前にしたと述べているのですよ(shamon)
>> ですから、そんなことは誰が否定したのですか。(犀角)
> 片づいてますね(笑)

片づくとか何かと勝った負けたで、さも自分が勝ったような言葉「片づく」という言葉を使うところが、あなたという人間なのでしょう。

わたしはあなたとの議論以前から折伏・摂折の前後を言っているわけで、それを既に言っていたわけですから、別段、この問題はあなたとのやり取りでどうこう動いたことではないと言っているのですよ。わかりますか。片づくも何もないと言うことです。

> 「速やかに重科を行え。然からば〜」とあれば、まともに日本語の文意を読める人ならば、「然からば〜」の後に指し示すものが重科であることは容易に理解できますね。

この程度の理解力しかないわけですか。では、その前の「速行罪科」は、その前の「月氏国之戒日大王は聖人也。其の上首を罰し五天之余黨を誡む。尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む」に係るわけです。ここに挙げる月氏の例のどこが止施なのでしょうか。また、止施については「一切の四衆、其の悪に施さず」とその施さない者を四衆としていますが、「速行罪科」とは為政者が為すことで、主体者が違っています。

> 他の所で好きなだけやるとよいですよ。ここでは誰も、如説修行抄を引用してませんからね。

おやおや、偽書であると人をなじり、真筆だと豪語する人間が、途端に逃げ腰ですね。
これまた、回答不能ということですね。


> 日蓮教学を見る場合は採用しないと言うことです。
> 犀角さんは、いつから日蓮教学の権威になったのでしょうね(笑)。まともに日蓮聖人の教学を学ぶ場合は、当然の事ながら天台大師の三大部等は外さないですね。

これまた、単なる逃げ口上でしょう。
そもそも、わたしがここに書き込んでいるのは、富士門流信徒の掲示板で、真跡遺文で見る日蓮聖人摂折について、皆で話し合っているところに、ここで悪口雑言の限りを尽くす、あなたに対して抗議するためにやってきたわけです。ですから、「採用」云々はその富士門流信徒の掲示板での議論について言っているわけです。
なお、日蓮教学理解のために法華‘六’大部ほかを外せないのは当然のことですが、これも、真跡遺文に限ってみるという議論では引用されているところに限って考えるという申し合わせ事項に拠っている点を、あなたは読んでいない。
ただし、天台教学史、日蓮宗教学史という視点から見れば、その間口を広げるのは当然のことです。しかし、そのような議論とは別に分けているのです。

> 日蓮聖人が、「首を斬る折伏をしろ」と言った等とは、聞いたことも見たこともないですね。どこにあるのでしょうね。

これまた、自分の言葉を右に左に換えながら、逃げ口上を言っています。
先にわたしが応じたのは、あなたが

> 「首を斬れ」と言うがために、涅槃経を引用したのではない

という言に基づいたわけです。それをこのように言い方を替えるのは「卑怯」に属するでしょう。

なお、日蓮聖人が「斬首」を主張されたのは、先の引用で明らかです。これは開目抄における止観・大経の引用からすれば、この折伏義を基本にしたことは明らかでしょう。
そうではないというのが、あなたの意見のようですが、ならば、日蓮聖人の「斬首」の主張は、一体、何を根拠にしたのでしょうか。ここに明証を挙げてください。

> かっては「教学の顕本」と言われた

それで、いまはどうなんでしょうか。

68犀角独歩:2005/07/06(水) 10:07:34

―67からつづく―

> 今成上人の所説を拝借している

これまた、ただの言いがかりです。わたしは過去に今成師の講演、講義を聴き、また、『福神』第4号に載る師の摂折論を読み、「わたしは、個人的には今成師の摂折論には一定の説得性を感じる」と感想を述べたことに端を発してはじまったのが富士門流信徒の掲示板における議論です。ここでは今成師の所論は所論として紹介したものの、そこから既に離れて論じていることは、読めばすぐにわかることでしょう。

> 増上慢になる前に、日蓮聖人の御遺文を読めるようになることが先決

この言葉はまったくあなた自身に当てはまる言葉です。

> 摂受を表としても折伏を具足しているのが、摂折の二門

では、あなたがいう折伏は摂受でもあるわけですか。
ならば、その口汚い、人格攻撃、人権侵害は一体なんですか。
一片の摂受もなく、また、その口汚い侮蔑意識は、折伏にも悖ります。

> 非法の悪人を降伏する…

これはわたしの質問の答になっていません。
この法師は悪人降伏(折伏)していません。降伏できないが故に害されています。
この説法者はまさに持戒摂受です。
わたしの質問は持戒は折伏かということです。

>…窪田哲城上人とは、お誉めを頂いている師弟の間柄でしてねえ(笑)。

そうですか。では、この点は確認を取らせていただきましょう。
それにしても、ずいぶんと失が違うものですね。

> …「お前は他宗の坊主の首を斬れと言ったのか」…「言いましたとも」…涅槃経…日蓮聖人

これでは、言ったと認めているわけでしょう。
先には「涅槃経を引用して

> 相手には出来ませんが。

まあ、こういう言葉に、人間性というものがにじみ出ています。

超多忙などといいながら、自分は投稿するわけでもない富士門流信徒の掲示板をせっせとロムするネットに張り付いた姿を見せて、その富士門流信徒の掲示板から目が届かない、ここでせっせと人の悪口を書く暇さ加減を示し、それに対して、わたしは抗議しているわけです。元より、富士門流信徒の掲示板における議論で、相手にされていないのはあなたですよ。

その理由は、悪口雑言、侮蔑、軽蔑、人権侵害を恣にしているからです。
言うところは日蓮聖人の遺文やら、顕本の教えの口真似をしているようだが、その実態は、ここに透けて見える人間性は日蓮聖人の精神とも、かつて教学の顕本と言われた佳例とも似ても似つかない他者蔑視です。そして、「片付ける」「相手にしない」などと、自分からこそこそ悪口を言って議論に及び、回答不能を重ねた上で、まだ強がって見せている。

> 日蓮聖人が白衣のなすべき折伏は「首を斬る」ことと主張されていたことを、御遺文を以て証明

これは、一体、誰がそんなことを言ったのですか。
日蓮聖人は、開目抄で止観、大経を引用して「執持刀杖斬首」を引用し、折伏義とするが、これには日蓮聖人は当たらないとわたしは記したまでです。それが恰も、記上のようにわたしが言っているかのように詐術を弄しています。

> 忙しい中クダラナイことに時間を費やすのも馬鹿馬鹿しい

まったくそのとおりで、そんなに忙しいのであれば、富士門流の掲示板までのぞき見て、せっせと人の悪口を書くような真似は止めることです。

悪口・人権侵害と、折伏の区別が付かないあなたの書き込みは、せっかくの顕本の受け売りもかすんでしまっています。

69犀角独歩:2005/07/06(水) 11:05:25

> 顕本(什門流)は日蓮宗の改革のために半数近くが日蓮宗に残っています

これはしかし、看過できない発言ですね。
「かつての教学の顕本」は、昔を偲ぶところはないほど、衰退しているのは「かつての」という言葉からも明らかです。本弟子門派の改革が言えるような状態にいまの顕本はないでしょう。他のことより、自分達の改革を考えるほうが先決ではないのでしょうか。

日蓮宗に残った顕本の人々が、日蓮宗改革のためにいるなど言う認識は、当の日蓮宗側にはない感覚でしょうね。こんな発言をするとしかし、「軒を貸して母屋を取る」ような野心がある如く誤解を招きかねず、日蓮宗になった元顕本の人々には迷惑を被るでしょうね。それとも、そんな改革運動をするために、日夜、その勝機を狙っているとでも言うのでしょうか。この点は、確認を取ってみることにします。

さて、今成師は顕本であるわけですが、では、同じ顕本のshamonさんは、この今成師を、どのように批判するのでしょうか。当然、今成摂折論は誤りという立場でしょうから、ここに総括していただきましょうか。

顕本の今成上人、shamonさんから見て、どこがどう間違っているというのでしょうか。

70伝六:2005/07/06(水) 21:24:29
69は、摂折とは完全に関係のない話だから、犀角独歩氏には削除をおすすめする。

71伝六:2005/07/06(水) 22:11:01
摂折問題はネット上の与論解決というわけにはいかない。ある程度研究した人で研究者解決をしないといけない問題でないだろうか。武力とか首を切るのが折伏だということを聞くと一般の人は何とひどいと思うだろう。一般人がたとえ犯罪者でも人の首を切ったら殺人罪を犯したことになる。裁判で死刑となった人の首をきったら、ただ刑罰として切っただけである。涅槃経の例では一子地に住している菩薩国王が一せんだいの首をきったことになっている。一子地というのは、たしか極愛一子地と言って一切衆生を視ることわが子のごとくなる境地だったと思う。そういう菩薩がなした行為でなければ、折伏ではないのである。そういう行為はおそらく世界の大宗教は肯定していると思う。ただし、現実の実行問題となった時は世界悉檀から考えて実行していい時と悪い時がある。仏は親切に説いているのに、習いそこないで、物騒なことをやれば害をのこすだけである。現に過去にあったようだが、そのなかに田中智学大居士の演説をきいていた人があって、あれだけの話をする人があって、世の中がよくならないのだから、自分は一人一殺でいくとか言ったらしいが、こういうのはまちがった方向である。

72犀角独歩:2005/07/07(木) 06:12:00

伝六さん

69は、摂折論に関係あります。今成師の説を「拝借した」などと言う汚名を掛けられたわけです。わたしは、今成説に一定の納得をしたが、それを駄目であるというのであれば、元に戻り、今成師のどこが間違っているというのか尋ねるのは当然のことです。

また、日蓮宗に残った顕本の人々が日蓮宗改革を目論んでいることは、その「折伏」の意義に絡み、看過できない発言でしょう。無関係とは言えません。

> 摂折問題…研究者解決

という意見にはわたしは大いに賛成です。
ただし、ネット上で、意見を述べることを遮るべきことではないでしょう。

わたしは、真跡遺文を通じ、日蓮聖人が生涯、折伏主義を通したというそれまでの意見が、必ずしも文面から看取できないと記してきたわけです。

殊に開目抄では止観・大経を引いて(在家)執持刀杖斬首を折伏義というのは文面に明らかな経釈証であるけれど、念仏禅無間と言った法華誹謗者への言説攻撃を折伏とする門下一般の解釈につき、その経釈の証はなんであるか、それがあれば、そのような聖人の行動は折伏といえるが、なければ、ただちに折伏と即断するのは如何なものかと問うてきた。ところが、その経釈証を真跡遺文中から指し示し、折伏を説明するのであれば、納得するが、それを問うただけで、一連の悪口雑言に遭ったが故に、それを抗議したというのが、ここでの顛末です。自分の権利は自分で守ります。悪口雑言をされて放置はしないのがわたしの主義です。

悪口雑言に関しては、ただちに謝罪すること。
日蓮聖人言説攻撃を折伏というのであれば、その経釈証を挙げること。

この二つがここにわたしが記したことです。ところがこの二つ共にさらに悪口雑言の限りを尽くすに、当掲示板では「誹謗・中傷等は、即刻削除」という既定を冒頭に掲げながら、削除もしないという体たらくに憤慨するのは当然のことです。

摂折論を話し合うのに、その反対意見を述べるものを罵倒、軽蔑をしなくても議論はできるはずでです。ところが自分と異なる意見を述べるものは如何に侮蔑的な言辞を弄して軽蔑してもよいという、もっと言えば、わたしのことは特例的にどれ程、侮蔑してもよいというshamon氏の態度と、ここの管理には大いに文句があります。本来、摂折議論は富士門流信徒の掲示板で為していたことであるので、わたしへの侮蔑記述を停止され、該当の記述が削除されれば、即刻、ここを去ります。長居は無用です。

なお、誤解がないように申し上げますが、伝六さんが、一定の矜持を以て記されるところに異見を持つというより、むしろ、賛同するところも多いことは、一言書き残しておきます。

73shamon:2005/07/07(木) 12:32:42
(shamon)「彼の富士門流信徒の掲示板では、日蓮聖人は在家に折伏(悪口雑言・暴力)を煽って、自らは安楽行品のように摂受に留まった(>315)と、全く素晴らしい結論に落ち着いたようですね。」
(犀角)「まったく素晴らしい」ご意見をお待ちしましょう(大笑) shamonさんも来る度胸と根性と度量があればどうぞ(嗤)」
(ロム専)「>shamonさんも来る度胸と根性と度量があればどうぞ(嗤)  チンピラ以下の三下でしょう。今時高校生の喧嘩でも出ない上等文句ですね。(大笑)度胸も根性も度量もさぞかし御ありのようですが、残念ながらこう言った言を吐くものほど、格がないばかりかおっしゃる三拍子は無い可哀想なゴロツキと言うのが世の常でしょう。二度と立ち入らぬよう管理人様にはお願いいたしたいものです。


さて、ロム専さん等が心配したような様相になってきましたね(笑)。レッドカードで削除された「捨てハンドル」投稿も多々ありますが。創価学会の方でさえ引くような罵詈雑言を並べ立て、悪口罵倒しているのはそっちだ、その口汚い、人格攻撃、人権侵害とがなり立てる。さすが、創価学会で長い間活動していただけのことはありますね。頓珍漢な質問を次から次にして、回答不能、回答不能等とエサような者は相手に出来ません。文意も読めずに、まともな議論が出来ないのなら、早く立ち去るのが良いですね。

>「片づいた」などと誤魔化している点が笑える

①日蓮聖人は、仏教の弘教方法には摂受と折伏の二門があるが、時に応じて折伏を前とした。
>> 折伏を前にしたと述べているのですよ(shamon)
> ですから、そんなことは誰が否定したのですか。(犀角)
片づいてますね(笑)

(shamon)「速やかに重科を行え。然からば〜」とあれば、まともに日本語の文意を読める人ならば、「然からば〜」の後に指し示すものが重科であることは容易に理解できますね。
(犀角)この程度の理解力しかないわけですか。では、その前の「速行罪科」は、その前の「月氏国之戒日大王は聖人也。其の上首を罰し五天之余黨を誡む。尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む」に係るわけです。ここに挙げる月氏の例のどこが止施なのでしょうか。また、止施については「一切の四衆、其の悪に施さず」とその施さない者を四衆としていますが、「速行罪科」とは為政者が為すことで、主体者が違っています。

「この程度の理解力しかないわけですか」との悪口罵詈も、犀角さんにお返ししましょう(笑)。「立正安国論」について再度教えてあげましょう。月氏国之戒日大王、並びに尸那国之宣宗皇帝の厳しい処置を例に挙げて、「速やかに重科を行え。然からば〜」とあれば、まともに日本語の文意を読める人ならば、「然からば〜」の後に指し示すものが、その重科であることは容易に理解できますね。「〜速行重科。然則四海万邦 一切四衆 不施其悪 皆帰此善 何難並起 何災競来矣」であり、「然れば則ち四海万邦、一切の四衆、その悪に施さず、皆この善に帰せば、何なる難か並び起り、何なる災か競い来らん」と、結論として再度”施を止めよ”と述べているのです。四衆とは、出家・在家ともにと言う意味です。
これは、涅槃経の斬首等という厳しい折伏の例を挙げて、「客の曰く、もし謗法の輩を断じ、もし仏禁の違を絶たんには、彼の経文のごとく、斬罪に行うべきか。(涅槃経のように謗法の者の首を刎ねるべきか)」との問いに対して、宗祖は「夫れ釈迦の以前の仏教はその罪を斬るといえども、能仁の以後の経説はすなわちその施を止む。(それは釈尊がこの世にお現われになる前の仏教の話で、今の釈尊がこの世に現われてからは、殺害という罪を犯さず布施を止めて謗法を対治することである」と述べられているのと同じです。「首を斬れ」と言うために、涅槃経を引用したのではありません。

> ここに挙げる月氏の例のどこが止施なのでしょうか。
僧侶を罵倒する割には、全く頓珍漢ですね。

(shamon)日蓮聖人が白衣のなすべき折伏は「首を斬る」ことと主張されていたことを、御遺文を以て証明して頂けないのであれば
(犀角)これは、一体、誰がそんなことを言ったのですか。

やっともう一つ、片づきましたね(笑)
②日蓮聖人は「首を斬る」折伏を白衣に説いていない。

74犀角独歩:2005/07/07(木) 13:11:45

> 「チンピラ以下の三下」「可哀想なゴロツキ」「頓珍漢」

このような言が、どうして、ここでは許されるわけですか。
これが悪口雑言でなくして、なんでしょうか。

わたしの言でこの掲示板に違反することがあれば「即刻削除」すれば、よい。
しかし、この人物の書くことも同様です。
何故、ここの管理者はこのようなことを放置するするのでしょうか。

> 一切四衆 不施其悪

一切四衆とは為政者ではないといっているのです。

> 日蓮聖人が白衣のなすべき折伏は「首を斬る」ことと主張されていたことを、御遺文を> 以て証明して頂けないのであれば
> (犀角)これは、一体、誰がそんなことを言ったのですか。
>やっともう一つ、片づきましたね(笑)

何が片づいたのですか。このあとにわたしは
「日蓮聖人は、開目抄で止観、大経を引用して「執持刀杖斬首」を引用し、折伏義とするが、これには日蓮聖人は当たらないとわたしは記したまでです。それが恰も、記上のようにわたしが言っているかのように詐術を弄しています」

言っていないことを、言っていないと言うのは当然のことでしょう。
それで、片づくとはどういう意味でしょうか。
口汚いばかりではなく、論法自体も汚いことを平気でし、日蓮聖人もないものです。

さて69の質問はどうしましたか。
悪口雑言で誤魔化して、また、回答をしないつもりですか。

75犀角独歩:2005/07/07(木) 13:26:52

shamonさんの論法は、人が言っていないことを、あたかも言ったと書き、それを「言っていない」と抗議すると「片づいた」と勝ち誇る単純な構造になっています。

なんでこんなことをするんでしょうかね。
馬鹿げているとしか言いようがありません。

76犀角独歩:2005/07/07(木) 16:08:55

夫れ釈迦之以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能忍之以後の経説は則ち其の施を止む。此れ又一途也。
月氏国之戒日大王は聖人也。其の上首を罰し五天之余黨を誡む。尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。其の罪之軽し。
‘之’は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ。
然れば則ち四海万邦、一切の四衆、其の悪に施さず。皆此の善に帰せば何なる難か竝び起り、何なる災か競ひ来たらん矣。

以上が立正安国論の該当文です。

それ、釈迦以前の仏教はその罪を斬るといえども、能仁(釈尊)の以後の経説は、すなわち、その施を止めた。これまた、(ひたむきな)一つの途である。
月氏国の戒日大王は聖人である。その上首を罰し五天之余党を誡めた。尸那国の宣宗皇帝は賢王である。道士12人を誅して九州の仏敵を止めた。彼は外道であり、、道士である。その罪はこれは軽い。
‘之’(これ)は内道であり、仏弟子である。その罪は最も重い。速やかに重科を行いなさい。

さて、‘之’とは何を指しますか。その「之」に対して、速やかに重科に行へという文章ではないですか。

そのように、立正安国論上の「主人」が、悪を断罪に処せば、一切の四衆は、その刑の執行を見て、悪に布施をすることはなくなり、善に帰す。善に帰せば、難が並び起こり、災いが並び来ることはないという文意でしょう。

まして、この問では「若し謗法之輩を断じ若し仏禁之違を絶せんには、彼の経文の如く斬罪に行うべき歟。若し然らば殺害相加へ罪業何んが為さん哉」であり、その答が「之は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ」であることは明らかでしょう。
これ程、明快な文章で言い張る理由がわかりません。

77shamon:2005/07/07(木) 19:59:38
さて、犀角さんと言う方は、自分の放った言葉は棚に上げて「詐術を弄しています」などと非常に失敬な方で、次から次へと「口汚いばかりではなく、論法自体も汚い」等と中傷しながら論点の解りずらくなるような長い投稿を繰り返しますね。本当に、この方は弁護士として仕事をなさっていたのでしょうか。

何度も馬鹿馬鹿しいですが、これが最後ですよ。「その罪最も重し。速かに重科に行え。しかればすなわち、四海万邦、一切の四衆、その悪に施さず、皆この善に帰せば、何なる難か並び起り、何なる災か競い来らん。」しかれば以降が、重科として四衆(出家・在家)の行うべき事であるのは、まともな人なら一目瞭然です。重科を行う理由として引用した例を、実際に行うのではありませんね。

①日蓮聖人は、仏教の弘教方法には摂受と折伏の二門があるが、時に応じて折伏を前とした。
>> 折伏を前にしたと述べているのですよ(shamon)
> ですから、そんなことは誰が否定したのですか。(犀角)

②日蓮聖人は「首を斬る」折伏を白衣に説いていない。施を止めよと説いている。
>> 日蓮聖人が白衣のなすべき折伏は「首を斬る」ことと主張されていたことを、御遺文を以て証明して頂けないのであれば(shamon)
> これは、一体、誰がそんなことを言ったのですか。(犀角)

以上①②は片づいています。さて、次に「僧侶の折伏」について進みましょう。開目抄の摂折二門について述べたものです。“摂・折の義”です。

「法華経の安楽行品に云く『楽(ねがつ)て人及び経典の過を説かざれ。また諸余の法師を軽慢せざれ」等云云。汝この経文に相違するゆへに天にすてられたるか。』答て云く、止観に云く『夫れ仏に両説あり。一には摂・二には折。安楽行に不称長短というごとき、これ摂の義。大経に刀杖を執持し、乃至首を斬れというはこれ折の義。与・奪途(みち)を殊(こと)にすといえども、倶に利益せしむ』

答えて云わく、涅槃経に云わく〜「非法の悪人を降伏すること能わず。かくのごとき比丘は自利し及び衆生を利すること能わず。まさに知るべし、この輩は懈怠懶惰なり。能く戒を持ちて、浄行を守護すといえども、まさに知るべし、この人は能くなすところなからん。乃至、時に破戒の者あつて、この語を聞き已つて、咸(みな)共に瞋恚して、この法師を害せん。この説法の者、たといまた命終すとも、故(なお)持戒自利利他と名づく」

ここで述べているのは
1)非法の悪人を降伏することをしない僧侶は怠け者であって、自利も利他も出来ぬ者である。たとえ持戒し浄行すると雖も、全く何の役にも立たぬ者である。(摂の義にある僧侶)
2)非法の悪人を降伏させようとした僧侶は、破戒の者から迫害されて命を落とすようなことがあっても、持戒し自利利他を為した者である。(折の義にある僧侶)

犀角さんという方は日蓮聖人の御遺文に違って、非法の悪人を降伏させようとした(折伏の義にある僧侶)を否定し、非法の悪人を降伏することをしない僧侶(摂の義にある)僧侶を肯定するのでしょうか? さらに、日蓮聖人は述べています。

「(釈尊を捨てよと教義を立てていた)念仏者・禅宗等を責めて彼等にあだまれたる、いかなる利益かあるや。答て云く、涅槃経に云く「もし善比丘、法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し、挙処せずんば、まさに知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駈遣し、呵責し、挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり」

ここで述べているのは
1)法を壊る者見て、呵責せず、追い出さず、見逃すような僧侶は仏法の怨である。(摂の義にある僧侶)
2)(法を壊る者見て)追い出し、呵責し、見逃さぬ者こそ、真の我が弟子である。(折の義にある僧侶)

犀角さんという方は日蓮聖人の御遺文に違って、法を壊る者見ても呵責せず見逃すような仏法の怨である僧侶(摂の義にある僧侶)を肯定して、法を壊る者見て呵責し見逃さぬ真の我が弟子である僧侶(折の義にある僧侶)を否定するのでしょうか?

78川蝉:2005/07/07(木) 20:22:39

私は語学がからしき駄目なので、立正大の伊藤瑞叡教授に、幸い一部残っていた教授の「摂折論の新研究上・下」を送ってもらいました。
「第一章勝鬘経の摂折論(摂受折伏の原語・意義を究明する)」
の、
「六、摂受折伏の原語・原意」において、
折伏のサンスクリット原語は、チベット訳語から、「制止的な調伏」を意味するnigrahaないしnigrahana(nの下に点あり)と還元推定することが出来るとし、
nigrahaは、語根と諸訳を対照してみると、
「(責任倫理による呵責=論理的批判を示して)制止的に調伏する(べく説示する)こと」
を原意とする、と理解されるとし、
勝鬘経に於ける折伏とは、先行経文を合わせ見て
「悪業をもって生活したり、如来の定めた法と律儀を汚辱したりする、悪律儀のもの、清浄なる禁戒を毀犯するものを見たならば、決して看過しないで(責任倫理による「呵責」=「令法久住という目的に適応する真実語をもってする理性的論理的批判」を示して)制止的に調伏する(べく説示する)こと」
であると考察し、
「それは日蓮教学の伝統説でいう、因謗堕悪必由得益とか禁断謗法とか呵責などの意を含む折伏の義に相当します」
と論じています。

さらに、「九、十地経論における摂折論」には
摂受・折伏の原語をanugraha・nigrahaであると仮定すると、この二語は十地経論のチベット訳にも対峙併挙されているとし、
十地経論の折伏とは
「菩薩が菩提を得るために、(自分が)邪論により自法より変転(=退転)しないために、他者が(邪論により)引導されないために、無畏なる弁才(無碍智)をもって邪論外道を破折すること」
である、と知られるます。と論証しています。

さらに「十、結論」において、
確認されるべき要点として23点を提示していますが、その中の(12)には、
折伏の対象となる衆生は、勝鬘経によると「悪業をなす悪律儀のもの、如来法の律儀を汚辱し清浄禁戒を毀犯するもの」(今経は一乗とされるから、これは一乗の視点より見てのこととならうから、一乗を毀犯するものか)であり、義疏によると「重悪のもの(邪智謗法のもの)」であり、十地経論によると「菩薩をして自法より変転せしめ他者をして引導する外道異論者たる邪論者」であり、大日経によると「悪趣の因に住する者(悪趣の因を有する衆生)」であり、極楽願文によると「邪説(をもつもの)」である。
と述べ、
(13)には
「よって折伏は、「悪律儀をなし悪趣の因に住する重悪の邪論者」および「邪論者に引導される人々」に対する「菩提を求める(上求菩提下化衆生の自行化他をなす)菩薩」の責任としての倫理によるものである、と知られる。
と述べています。

「持戒の比丘ありて威儀具足し正法を護持し、法を壊する者を見て即ち能く駈遣呵責糾治するあらば、当に知るべし。この人福を得ること無量にして称計すべからず。・・・持法の比丘も亦復是の如し。壊法の人を駈遣呵責して善法を行ぜしめば、福を得ること無量なり。善男子、たとえば長者所居の処は、田宅、屋舎に諸々の毒樹を生ず。長者知りおわりて即便ち斫伐して悉く永く尽さしむるが如し。又少壮の首に白髪を生ずれば、愧じて翦抜して生長せしめざるが如し。持法の比丘も亦復是の如し。戒を破し正法を壊する者有るを見ば、即ち駈遣、呵責、挙処すべし。若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」(長寿品第四)

79川蝉:2005/07/07(木) 20:23:36

と有って、持戒の比丘、持法の比丘も駈遣呵責糾治して戒を破し正法を壊する者を斫伐するのですから、この文の中に折伏という言葉が無くとも、伊藤教授が論じた折伏の語意から云えば、折伏を行じる者と云うことになります。
金剛身品第五にも
「それ護法の者は、・・利養の為めに国王、大臣、長者に親近せず。諸々の檀越に於いて心諂曲無く、威儀を具足し、破戒、諸々の悪人等を摧伏す。是れを持戒護法の師と名づく。能く衆生の真善知識と為る」
ともあります。威儀を具足した比丘も破戒者悪人を摧伏するのです。この経文中に折伏という言葉が無くとも、摧伏するのですから折伏を行ずる者と云えます。

ですから、謗法の諸宗を呵責した日蓮聖人の弘通の化儀も、当然、折伏の範疇に入ることになります。

伊藤瑞叡教授の「折伏論の新研究(上)」に「第二章不軽品の摂折論(但行礼拝は摂受か折伏か、原典をもって解明する)」が有ります。
教授は
「したがって、常不軽行は、上慢者(=逆縁)に強いて真実語(=乗種)をもって略法華(=妙法)を説示し三毒を激発せしめ(因謗堕悪必由得益せしめ)て下種結縁(=教化)せしめることをもって逆化するものである、と知られます。
すなわちかくの如くして乗種をもって畢竟じて上慢者のもつ重悪(=邪智謗法)を激発し消去せしめて制止し、しかして性種を勧発し成熟せしめるべく調伏するもの(=折伏)である、とも理解されましょう。
 要するに常不軽行は、逆化の次第をもつ折伏の作用を有するものである、と結論することができましょう。」
とし、
「第二章の七、結論ー略法華の真意義ー」においては、
「なお常不軽の但行礼拝・略法華経は、理念的には仏性の性種(=元品の法性)に対して摂受を、現存的には仏性の性種を覆障する元品の無明に対して、それを激発して、仏性(=仏知見)を勧発するために乗種を下種する折伏を、それぞれ示現している、と解釈することもできましょう。天台大師は前者を視野に入れて折伏を示唆し、妙楽大師は後者に力点を置いて折伏の意義を闡明している如くであります。
 かくして人々によっては、性種に対する但行礼拝の側面を重視して、これを摂受であるとのみ判断する場合もありえましょう。無理もないことですが、知的怠惰による誤解は顛倒であります。
(上慢者に仏性を見る点で)意業摂受・(但行礼拝を修し略法華経を説く点で)身口折伏とも、(但行礼拝を修する点で)身儀摂受・(略法華経を説く点で)口説折伏とも見ることができるでありましょう。
 しかし已に論明した如くですから、但行礼拝の常不軽行は、普遍なる性種と特殊なる乗種との総合という具体的普遍の次元にあっては、すなわち現存的には、上慢者を対象とする故に折伏を示現している、と見るべきであります。
 以上、但行礼拝は、原典をもって解明すれば、まさしく折伏である、と結論せられます。」
と論じています。

私がずっと「不軽菩薩の化儀は折伏であり、その後を紹継された日蓮聖人の弘通の化儀も折伏の範疇に入る」と主張してきたと同じ見解なので、参考として伊藤教授の論をおおざっぱですが紹介しておきます。

80犀角独歩:2005/07/08(金) 08:00:48

shamonさん

あなたは、向けられた質問を棚上げにし、わたしが言っていないことを言ってとして同じことを繰り返しています。また、必ず、冒頭に人を詰る言葉を付しますが、これはこの掲示板の決まりに反するのみならず、人権を侵害しています。

片づいたとすること

(1) わたしは本来、末法は摂受・折伏あるべし、摂折は車の両輪ということを引用し、折伏を前、摂受を後といっているので、あなたが「わたしが言った」とするようなことは言っていないわけです。それを何度も言ったように繰り返し続けることを詐術と弄するといったのです。

(2) この点についても2度までも、わたしが記したことは 「日蓮聖人は、開目抄で止観、大経を引用して「執持刀杖斬首」を引用し、折伏義とするが、これには日蓮聖人は当たらないとわたしは記した

このように人の言っていないことを言ったとして、言っていないことで片づいたなどと言うから「詐術を弄する」と言っているのです。嘘は100遍繰り返しても嘘です。

つまり、片づくも何も、本来、わたしの言っていないことを繰り返しているだけです。

立正安国論の文は、客の「即行罪科」、一切四衆「止施」を敢えて、読み替えることでしか、あなたの論法は成り立っていません。

この当時の日蓮聖人の主張を整理すれば

………開目抄………………本尊抄…………立正安国論
折伏…前:刀杖斬首………賢王誡責愚王…即行罪科
摂受…後:不称長短………僧弘持正法……(護持正法)
自身…不置呵責……………不置呵責………不置呵責
万民……………………………………………止施

以上の主張は先に挙げた日蓮聖人謗法者刎頭を為政者に勧めるという点と一致しています。


◎shamonさんが答えていないこと(片づいていないこと)

(1) 謗法攻撃が折伏に当たる経証は何か
(2) 持戒が折伏に当たる経証は何か
(3) 如説修行抄が真筆である科学的な証拠は何か
(4) 顕本法華宗が日蓮宗で改革を目論んでいるとはどのような意味か
(5) 顕本法華宗・今成師の摂折論は何が間違っているのか

○77にまた、「片付けた」を作るための決めつけを始めようとしています。

> (折伏の義にある僧侶)を否定し、非法の悪人を降伏することをしない僧侶(摂の義にある)僧侶を肯定するのでしょうか? 

これはshamon氏が答えない(1)に関連します。
「説法者設復命終故名持戒自利利他」でいう説法者は持戒者であるので摂受に当たるがどうか、という問を無視した決めつけです。肯定しないのは僧侶云々ではなく()で括られた摂折の配当する断定です。持戒の僧侶が肯定されるのは当然です。しかし、これは当初から、わたしが言っていることなので、片づいたなどと、学会のように勝利宣言をして、さも勝ったような虚偽を重ねないこと。

> 法を壊る者見ても呵責せず見逃すような仏法の怨である僧侶(摂の義にある僧侶)を肯定して、法を壊る者見て呵責し見逃さぬ真の我が弟子である僧侶(折の義にある僧侶)を否定するのでしょうか

これはshamonmさんが答えない(1)に関連するところです。

以上の2問で、(折(伏)の義にある僧侶)(摂の義にある僧侶)であるということが何で言えるのかというのが、わたしの質問です。間違いを指摘することを否定するいわれはありません。これまた、わたしがずっと主張してきたことです。わたしが言っていることなので、片づいたなどと、学会のように勝利宣言をして、さも勝ったような虚偽を重ねないこと。

わたしはもちろん、悪侶は認めません。

81犀角独歩:2005/07/08(金) 09:08:02

折伏という言葉が無くとも…折伏を行じる者
折伏という言葉が無くとも…折伏を行ずる者
(折伏)である、とも理解されましょう。
折伏を示唆…折伏の意義を闡明している如く
折伏とも見ることができる
折伏を示現している、と見るべき
折伏である、と結論せられます

このように、真跡遺文から離れて、折伏義というのは作られてきたわけですね。
実に参考になりました。

82犀角独歩:2005/07/08(金) 11:21:31

【80の訂正】

………開目抄………………本尊抄…………立正安国論
折伏…前:刀杖斬首………賢王誡責愚王…即行罪科
摂受…後:不称長短………僧弘持正法……(護持正法)
自身…不置呵責………………………………不置呵責
万民……………………………………………止施

83川蝉:2005/07/08(金) 13:23:30
81 番:犀角独歩さんへ。

>折伏という言葉が無くとも…折伏を行ずる者
>(折伏)である、とも理解されましょう。

折伏という言葉が無くとも「義があれば」と言うことが抜けています。私の主張が誤解を受ける恐れがあるので、「義があれば」が抜けている事を指摘しておきます。

「文が無くとも義があれば論拠の文になる」と云うことを否定されているのですか?。

文永元年七月の「法華真言勝劣事」に
「住心品に於ては全く文義共に之無し、有文有義無文有義の二句を虧く信用に及ばず、」(学会版p121)
とあります。教学上では、無文有義は文証となると考えられていますよ。

84川蝉:2005/07/08(金) 13:51:11

>………開目抄………………本尊抄…………立正安国論
>折伏…前:刀杖斬首………賢王誡責愚王…即行罪科
>摂受…後:不称長短………僧弘持正法……(護持正法)
>自身…不置呵責………………………………不置呵責
>万民……………………………………………止施

犀角独歩さんが此処に云う「不置呵責」とは
「置いて呵責せず」の意味ですか?。
あるいは「置かずして呵責する」との意味ですか?。

もし「置いて呵責せず」の意味とすると、
開目抄には「日蓮聖人は置いて呵責せず」と云う事が読み取れるのですか?。

開目抄に
「日蓮強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし」(p233)
とありますね。諸宗の謗法を呵責されたと云うことですね。

同P236にも
「問うて云く念仏者禅宗等を責めて彼等にあだまれたるいかなる利益かあるや、」
とありますね。この文も、日蓮聖人は念仏者禅宗等を呵責したことを語る文ですね。

85shamon:2005/07/08(金) 13:59:03
犀角さんと言う方は、文意も読めず、「しからばすなわち」と言う日本語の意味が解らないようですね。自分の放った言葉は棚に上げて「詐術を弄しています」などと非常に失敬な方で、今度は「悪僧」呼ばわりですか。お話になりませんね。犀角さんが、回答不能!回答不能!と言ったところで、頓珍漢な質問には私が答える義理もないことが解らないのでしょう。

馬鹿馬鹿しい愚問ですが、もう一つ指摘して差し上げましょう。
 > 説法者は持戒者であるので摂受に当たるがどうか、という問を無視した
この方は、日蓮聖人が、非法の悪人を降伏する僧侶(折の義にある僧侶)は持戒以上の者であると述べている文章が読めないようです。

この方は、自分で自分の言っていることも解らないのでしょうか。全く話にはなりません。
> 80 (1) わたしは〜折伏を前、摂受を後といっている (2)「執持刀杖斬首」の折伏義は日蓮聖人は当たらない

再掲します。
①日蓮聖人は、仏教の弘教方法には摂受と折伏の二門があるが、時に応じて折伏を前とした。
>> 折伏を前にしたと述べているのですよ(shamon)
> ですから、そんなことは誰が否定したのですか。(犀角)>50

②日蓮聖人は「首を斬る」折伏を白衣に説いていない。施を止めよと説いている。
>> 日蓮聖人が白衣のなすべき折伏は「首を斬る」ことと主張されていたことを、御遺文を以て証明して頂けないのであれば(shamon)
> これは、一体、誰がそんなことを言ったのですか。(犀角)> 68

以上①②は片づいています。さて、次に「僧侶の折伏」について進みましょう。開目抄の摂折二門について述べたものです。“摂・折の義”です。

「法華経の安楽行品に云く『楽(ねがつ)て人及び経典の過を説かざれ。また諸余の法師を軽慢せざれ」等云云。汝この経文に相違するゆへに天にすてられたるか。』答て云く、止観に云く『夫れ仏に両説あり。一には摂・二には折。安楽行に不称長短というごとき、これ摂の義。大経に刀杖を執持し、乃至首を斬れというはこれ折の義。与・奪途(みち)を殊(こと)にすといえども、倶に利益せしむ』

答えて云わく、涅槃経に云わく〜「非法の悪人を降伏すること能わず。かくのごとき比丘は自利し及び衆生を利すること能わず。まさに知るべし、この輩は懈怠懶惰なり。能く戒を持ちて、浄行を守護すといえども、まさに知るべし、この人は能くなすところなからん。乃至、時に破戒の者あつて、この語を聞き已つて、咸(みな)共に瞋恚して、この法師を害せん。この説法の者、たといまた命終すとも、故(なお)持戒自利利他と名づく」

ここで述べているのは
1)非法の悪人を降伏することをしない僧侶は怠け者であって、自利も利他も出来ぬ者である。たとえ持戒し浄行すると雖も、全く何の役にも立たぬ者である。(摂の義にある僧侶)
2)非法の悪人を降伏させようとした僧侶は、破戒の者から迫害されて命を落とすようなことがあっても、持戒し自利利他を為した者である。(折の義にある僧侶)

犀角さんという方は日蓮聖人の御遺文に違って、非法の悪人を降伏させようとした(折の義にある僧侶)を否定し、非法の悪人を降伏することをしない僧侶(摂の義にある)僧侶を肯定するのでしょうか? さらに、日蓮聖人は述べています。

「(釈尊を捨てよと教義を立てていた)念仏者・禅宗等を責めて彼等にあだまれたる、いかなる利益かあるや。答て云く、涅槃経に云く「もし善比丘、法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し、挙処せずんば、まさに知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駈遣し、呵責し、挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり」

ここで述べているのは
1)法を壊る者を見て、呵責せず、追い出さず、見逃すような僧侶は仏法の怨である。(摂の義にある僧侶)
2)(法を壊る者見て)追い出し、呵責し、見逃さぬ者こそ、真の我が弟子である。(折の義にある僧侶)

犀角さんという方は日蓮聖人の御遺文に違って、法を壊る者見ても呵責せず見逃すような仏法の怨である僧侶(摂の義にある僧侶)を肯定して、法を壊る者見て呵責し見逃さぬ真の我が弟子である僧侶(折の義にある僧侶)を否定するのでしょうか?

86犀角独歩:2005/07/08(金) 15:22:20

川蝉さん、折伏論というものが、どのように醸造されていったのか、これは本当に参考になりました。

また、ご指摘、有り難うござます。

誤)不置呵責
正)置不呵責

でした。慌てて、打ち、間違えました。

87犀角独歩:2005/07/08(金) 15:25:16

やはり、思ったとおりの展開ですね。
そうやって、実際と違う形で、どんどんと決め付けていくわけですか。
それが顕本法華宗の在り方なのですか。

85については、既にこちらが返したことをまた繰り返しています。
ところがわたしが為した質問には何も応えません。

◎shamonさんが答えていないこと(片づいていないこと)

(1) 謗法攻撃が折伏に当たる経証は何か
(2) 持戒が折伏に当たる経証は何か
(3) 如説修行抄が真筆である科学的な証拠は何か
(4) 顕本法華宗が日蓮宗で改革を目論んでいるとはどのような意味か
(5) 顕本法華宗・今成師の摂折論は何が間違っているのか

88犀角独歩:2005/07/08(金) 15:42:18

答えないついでに質問を足しましょう。

> 1)法を壊る者を見て、呵責せず、追い出さず、見逃すような僧侶は仏法の怨である=摂の義にある僧侶)

だそうですが、これは悪比丘であれば摂受とはなりません。
このような僧を「摂の義にある僧侶」とする証はなんですか。

なお、建治・弘安の交の立正安国論のあなたの読みはもちろん間違いです。
言い張らないほうがよろしいのではないでしょうか。

> 「悪僧」呼ばわりですか

はて、悪比丘を退治するとは日蓮聖人の言を引用したまでですが。
日蓮聖人はそのようにお書きになっておりませんでしたか
それとも、まさかご自身、悪侶の自覚があるわけですか。

> 頓珍漢

この言葉はあまり品位のよい言葉ではないので、お使いにならないほうがよろしいですよ。こうして、あなたが、このような言葉を書きためることは、あなたにとっても、この掲示板にとって、物的証拠を残すことになります。

> 質問には私が答える義理もないことが解らないのでしょう。

答えられないと言うことですね。

89犀角独歩:2005/07/08(金) 15:44:57

一つ落としました。7つ目の質問です。

> 非法の悪人を降伏する僧侶(折の義にある僧侶)は持戒以上の者であると述べている

だそうですが、この折伏が持戒以上であるとする経釈の証はなんでしょうか。

90犀角独歩:2005/07/08(金) 15:52:33

川蝉さん:

> 文が無くとも義があれば論拠の文になる…無文有義

なるほど、この点が川蝉さんが仰る点ですね。

要は、日蓮聖人の折伏は文はないが、義があるということですね。

91犀角独歩:2005/07/08(金) 16:15:44

―90からつづく―

しかし、こうなりますと、『撰時抄』に引用される玄義の

「與修多羅合者 録而用之 無文無義不可信受」

に反してしまうと思うのですが、この点は如何でしょうか。
経釈証を、しつこく、わたしが言うのもこのためなのです。

92川蝉:2005/07/08(金) 17:04:55
91 番:犀角独歩さんへ。

>「與修多羅合者 録而用之 無文無義不可信受」
>に反してしまうと思うのですが、この点は如何でしょうか。
>経釈証を、しつこく、わたしが言うのもこのためなのです。

経と合う義とは、経文に文と義がある場合と、文(語句)は無くとも義として経に説かれている場合でしょう。
無文無義と異なって、無文有義は一向に「與修多羅合者 録而用之 無文無義不可信受」の意趣と反してないですね。

93犀角独歩:2005/07/08(金) 17:11:29

では、総合しますと、日蓮聖人における折伏を川蝉さんが言う場合は、文はないが義のみがあるという主張ですね。

94川蝉:2005/07/09(土) 09:09:36
93 番:犀角独歩 さんへ。

妙楽大師が法華文句記(5−35右)に
「今謂はく、文有り義有るは、常人これを用う。
文無くして義有るは、智人これを用う。
文有って義無きは、暗者これを用う。
文無く義無きは、迷者これを用う。
故に経に云はく、義に依って語に依らざれと。即ち此の意なり。」(天台大師全集392頁)
と述べています。

>では、総合しますと、日蓮聖人における折伏を川蝉さんが言う場
>合は、文はないが義のみがあるという主張ですね。

開目抄の「折伏を前とすべし」の文段やそれ以降の文段に引用されている涅槃経や天台妙楽の文は、在家と王権の折伏だけでなく、折伏と云う成語(術語)が無くとも、義理として、僧の折伏の文証となる、と云う事を述べてきました。

95犀角独歩:2005/07/09(土) 10:41:43

川蝉さん

「無文有義智人用之」という、妙楽の言によるということですね。
なるほど。この点は、納得できます。釈に違反していません。

> …折伏と云う成語(術語)が無くとも、義理として、僧の折伏の文証となる

このような道筋でお考えになっているということですね。
わたしが富士門流信徒の掲示板で話し合っていたことは真跡遺文に僧侶折伏を示す文(=成語(述語))がないという点の洗い出しに主眼を置いたことでした。この点で、川蝉さんもまた、僧侶折伏・無文の見解であったことを迂闊にも採りかねていました。

そのうえで、引用されるところに僧侶折伏‘義’ありや・否やは、次に話を進めていこうと思っていたことです。

取り敢えず話が繁くなりますので、いまは息めますが、石山人は堅樹日寛師の『六巻抄』中‘依義判文’に惑わされてきたわけです。この発想は、当然、無文有義智人用之を後ろ盾にしているのに違いありませんが、しかし、実際のところ、恣意的な解釈(日蓮本仏・彫刻本尊・石山血脈絶対)という己義によって文を判じる牽強付会によって成り立っていることは、川蝉さんもご承知のところと思います。

ですから、門下一般に話を拡げて見るについても、その言われる僧侶折伏義が、己義なのか、経釈義なのか、蓮師義なのかという点の見極め慎重になるのは、過去の苦い経験に基づくわけです。つまり、他でどなたかが言っておりましたが、「折伏」という成句は、不幸にも戦後創価学会の専売特許のように扱われ、いまでは顕正会の専門用語のように取り扱われています。しかし、この石山から出た在家集団がいう折伏が実際の折伏と同語異義であることは闡明にしなければならない点であろうかと思います。これらの点は、また、富士門流において、考えてまいろうと思っているわです。

ともかくも、川蝉さんが、僧侶折伏、真跡遺文、無文であるというご見解であることを確認できたことは収穫でした。

96伝六:2005/07/10(日) 18:13:41
念佛無間という主張を摂受とよぶべきか、折伏とよぶべきかと問われたら、漢字の意味を解する人なら折伏とよぶべきであるというでしょう。摂受なら、念佛すれば極楽往生しますかと聞かれれば答えるけれど、わざわざでかけていって、極楽往生ではない無間地獄だということはしないでしょう。しかし、相手が怒って暴力でせまってきたときには暴力で対抗することはされませんでした。ただし右の頬を打たれれば左の頬をさしだせなどとやっていた日には命がいくつあっても足りないから、可能なかぎり難はさけられた。在家は日蓮聖人をおまもりするために、刀をふるって戦った人はあるけれど、暴力で相手を折伏?した人はないし、個々の人にそのようなことを教えられたことはないと考えます。古人に本尊抄の僧摂受に対して僧俗分別の義があるそうですが、これは僧とは何かと定義してかからないと話がややこしくなります。しかし実行問題とはあまり関係がないので、究明は学者にまかせたいと存じます。

97shamon:2005/07/10(日) 21:23:56
犀角さんと言う方は、創価学会で長年「折伏」とは、相手に兎に角勝つことだ。論理に窮するようなことがあったら、相手を中傷・罵倒してでもやり込めることだと洗脳されてきたことから抜け出せないようです。勝っただの、負けたのだに拘って、自尊心を満足することに執着してまともな議論も出来ず、都合が悪くなると自分のしてきたことは棚に上げて他を非難をするなど、本当にウンザリしますのでいい加減にお引き取り願いたいところですね。最近の論調はshamon以外には、何とか誤魔化して繕おうとされているようですが、シツコイので再掲しておきます。(管理人さん、ロム専さんお許しを)

(shamon) 彼の富士門流信徒の掲示板では、日蓮聖人は在家に折伏(悪口雑言・暴力)を煽って、自らは安楽行品のように摂受に留まった(>315)と、全く素晴らしい結論に落ち着いたようですね。(川蝉さんへの返信であった)

(犀角)「まったく素晴らしい」ご意見をお待ちしましょう(大笑) shamonさんも来る度胸と根性と度量があればどうぞ(嗤、あざわらい)

(ロム専)>shamonさんも来る度胸と根性と度量があればどうぞ(嗤)  チンピラ以下の三下でしょう。今時高校生の喧嘩でも出ない上等文句ですね。(大笑)度胸も根性も度量もさぞかし御ありのようですが、残念ながらこう言った言を吐くものほど、格がないばかりかおっしゃる三拍子は無い可哀想なゴロツキと言うのが世の常でしょう。二度と立ち入らぬよう管理人様にはお願いいたしたいものです。

さてその後の犀角さんの論理を無視した罵詈雑言や、中傷罵倒するための頓珍漢な質問の続くこと、皆さん既に御存知のようにロム専さんの心配通りとなりました。レッドカードで削除された「捨てハンドル」投稿も多々ありますが。

98shamon:2005/07/10(日) 21:26:39
議論を粛々と続けるのであれば、すでに片づいたことは何度でも再掲する必要があります。

①日蓮聖人は、仏教の弘教方法には摂受と折伏の二門があるが、時に応じて折伏を前とした。
>> 折伏を前にしたと述べているのですよ(shamon)
> ですから、そんなことは誰が否定したのですか。(犀角)>50

②日蓮聖人は「首を斬る」折伏を白衣に説いていない。施を止めよと説いている。
>> 日蓮聖人が白衣のなすべき折伏は「首を斬る」ことと主張されていたことを、御遺文を以て証明して頂けないのであれば(shamon)
> これは、一体、誰がそんなことを言ったのですか。(犀角)> 68

(1) わたしは〜折伏を前、摂受を後といっている (2)「執持刀杖斬首」の折伏義は日蓮聖人は当たらない、(以上犀角 > 80)

言っていないことを言う悪僧だと謗る犀角さんのために、議論を進める上で犀角さんの発言した項も御丁寧に添付しました。したがって、以上①②は片づいています。さて、次に「僧侶の折伏」について進みましょう。日蓮聖人が、開目抄において摂折二門について述べたものです。“摂・折の義”です。

1)非法の悪人を降伏することをしない僧侶は怠け者であって、自利も利他も出来ぬ者である。たとえ持戒し浄行すると雖も、全く何の役にも立たぬ者である。(摂の義にある僧侶)
2)非法の悪人を降伏させようとした僧侶は、破戒の者から迫害されて命を落とすようなことがあっても、持戒し自利利他を為した者である。(折の義にある僧侶)

犀角さんと言う方は、日蓮聖人が「非法の悪人を降伏する僧侶(折の義にある僧侶)は持戒以上の者である」と述べている文章が読めずに、「持戒ならば摂受」だと拘っています。このかた、何のために日蓮聖人が摂折の二門について述べているのか、全く解っていません。日蓮聖人が「非法の悪人を降伏することをしない僧侶」を摂の義に配当し、「非法の悪人を降伏させようとする僧侶」を折の義に配当しているという簡単な文意が読めません。

1)法を壊る者を見て、呵責せず、追い出さず、見逃すような僧侶は仏法の怨である。(摂の義にある僧侶)
2)(法を壊る者見て)追い出し、呵責し、見逃さぬ僧侶こそ、真の我が弟子である。(折の義にある僧侶)

犀角さんと言う方は、日蓮聖人が摂折の二門について「法を壊る者見ても呵責せず見逃すような(摂の義にある)僧侶は、仏法の怨である」と述べ、「法を壊る者を見て呵責し見逃さぬ(折の義にある)僧侶は、我が真の弟子である」と述べて、折の義を勧めている文意が読めません。

> このような僧を「摂の義にある僧侶」とする証はなんですか。等と、犀角さんは頓珍漢な意味のない質問を繰り返しますが、この方「法を壊る者を見て、呵責せず、追い出さず、見逃すような僧侶」を折の義にある僧侶と思い、「法を壊る者を見て呵責し見逃さぬ僧侶」を摂の義にある僧侶だと考えているのでしょうか。お話になりませんね。

99shamon:2005/07/10(日) 21:33:40

頓珍漢な質問を繰り返して、回答不能!回答不能!と勝たような自己満足を得ようとするのは、創価学会時代から全く変わっていないようですね。今時の創価学会が教育している内容をよく知らない世代で、しかも理性のある方からは、毛嫌いされる陳腐なやり方と思いますよ。

余りに馬鹿馬鹿しい頓珍漢な質問であることを、本人は全く気が付かないようですが、シツコイので少しコメントしましょう。

(1) 謗法攻撃が折伏に当たる経証は何か
答う、謗法を呵責することは折伏の義であることを、御遺文を以て日蓮聖人の思想を議論していることが、犀角さんという方は全く理解する能力がないようです。

(2) 持戒が折伏に当たる経証は何か
答う、何度も繰り返していますが、「折伏の義にある僧侶は、ただ持戒の僧侶よりも優れている」とする日蓮聖人の思想について議論していることが、犀角さんという方は全く理解する能力がないようです。

(3) 如説修行抄が真筆である科学的な証拠は何か
答う、如説修行抄の古い写本は現存しますが、加筆部分がある可能性も高いので、私の議論には引用されません。したがって、当然のことながら真偽云々を証明する必要は無いことが、犀角さんという方は全く理解する能力がないようです。
  
(4) 顕本法華宗が日蓮宗で改革を目論んでいるとはどのような意味か
答う、近代日蓮宗の歴史を知らずに、誰も言ってないことを勝手に宣い、議論とは関係のない頓珍漢な言いがかりを付けて、何がしたいのでしょうね(笑)。馬鹿馬鹿し過ぎますね。

(5) 顕本法華宗・今成師の摂折論は何が間違っているのか
>なんだ、顕本ですか。だったら、今成師は、ここの人でしょう。顕本の顕本批判をやっているわけですか。これは笑えますね。(犀角 >60)
答う、このような正気の沙汰とは思えない犀角さんと言う方を相手にしていますが、今成師の摂折論については、本人と直接公開対論していますので、読みたければ勝手に探して読めば良いでしょう。犀角さんの他を罵倒してまでする主張に誤りがあることを議論しているのであって、上記のようなことを答える義理は全くないと言うことが、犀角さんという方は全く理解する能力がないようです。「答えられないと言うことですね」(犀角)等とは、本当に馬鹿馬鹿し過ぎますね。

簡単な文意も読めず、日本語に意味も解らず、罵詈雑言を尊大に繰り返す「創価学会の折伏」の洗脳から抜け出せない方との議論は無駄です。「僧侶の折伏」について、はぐらかし、頓珍漢な質問で議論を進めないのであれば、これ以上嫌な思いをして品位を下げることないように、引き下がった方が良いですね。相手をしたいと、ここに招待したわけではありませんからね。

100shamon:2005/07/10(日) 22:53:58
辟易する話が続いていますので、皆さんに御参考までに(犀角さんは読まなくて結構です)。

日蓮聖人は若き時の密教的修行に於いて不動明王と愛染明王を拝見し、そして御曼陀羅の両脇にも梵字で大きく描いています。不動明王と愛染明王は共に忿怒(ふんぬ)尊であり、忿怒相をとっているのは、教化し難い衆生を調伏し、そして救済するためであります。調伏とは、内的には身心を調和制御して、外的には敵意ある者を教化し、障害をもたらす者を降伏させることを言います。

101ロム専2:2005/07/10(日) 23:23:04
>>99
ロムっていましたが、口を挟ませてもらいます。

犀角さんの(1) 謗法攻撃が折伏に当たる経証は何か(2) 持戒が折伏に当たる経証は何か
に対してshamonさんのレスは答えになっていないように思うのですが。率直に言えば経証はないということでしょうか。

(3) 如説修行抄が真筆である科学的な証拠は何か
に対しては証明の必要がないとのことですが、>>46>>56において偽書扱いをすることに対しての批判をしているのですから、偽書ではないという立場をshamonさんがとるとしても、真筆ではないことは受け入れなければいけないのではないでしょうか。それを率直に認めないのであれば、真筆であることの証明をすることが誠実な態度であると思います。

(5) 顕本法華宗・今成師の摂折論は何が間違っているのか
「今成師の摂折論については、本人と直接公開対論していますので、読みたければ勝手に探して読めば良いでしょう」とのことですが、とても興味があります。ぜひリンクをはっていただき、ロム専の人間にも、shamonさんと今成師との間でどのような議論がなされているのかを明確にしていただけるとうれしいのですが。

102shamon:2005/07/11(月) 00:42:53
ロム専2さん、ロム専さんに似たハンドルは使っては宜しくないですね。「口を挟ませてもらいます」と最初に述べることは、批判をすると言うことですから、安易には考えないで下さいね。

1)日蓮聖人が、謗法の者を呵責することを折伏としていたかどうかを知るのには、日蓮聖人の御遺文が最も確かで十分であることが理解できますか。日蓮聖人が根拠としている他に経証の有る無しを述べること、新たに別の経証を出すことも必要ないと言うことが理解できますか。
2)持戒が折伏に当たる等との頓珍漢な事を、私が述べていないことは理解できますか。日蓮聖人が「非法の悪人を降伏する僧侶は持戒以上」と述べている文章は読みましたか。

3)>46の「偽書とは考えにくいでしょう。」は、>35の伝六さんの「今成師は如説修行抄を偽書としている」との批判に答えて投稿されたものです。その理由として、古い写本が現存するが「ただし、写本には折伏の語が増えたり、加筆されたりすることの可能性はあります」と答えています。>48で犀角さんは「滅後、間近であるから偽書はないというのは素人考えです」と頓珍漢な批判をし、これに対し>56で私は「真蹟に準ずるとされてきた録内御書を早々に偽書扱いですね」と答えています。私は、ただの一度も真筆であるから云々等と言っていませんので、「真筆でないことを受け入れず、真筆であることを証明しないのは、不誠実な態度である」等と言われる所以がないのは理解できますか。如説修行抄が真筆・真蹟であるのか、加筆されたものか、或は偽書であるかは疑義を唱えた者と、研究者の間で十分になされる内容です。たとえ結果が出たとしても、本件の議論には全く影響しないことが理解できますか。
4)真摯に取り組もうと言う方ならば、すでにリンクされているHPの内容は読んでいるでしょう。真摯でない方は、今成師への反論の内容に難癖を付けてここで罵詈雑言のために利用し、話を頓挫して誤魔化すことに使うでありましょうね。犀角さんとの議論には関係のないことだとは、理解できますか。

103犀角独歩:2005/07/11(月) 03:45:30

まず最初に分析。
shamonさんの投稿は、もうほとんど荒らしに変わらない様相を呈しています。
書き込みはいつも同じです。(a)悪口を書く、(b)言っていないことを書く、(c)答にならないことを書く。


分析(a)悪口を書く

> 犀角さんと言う方は、創価学会で長年「折伏」とは、相手に兎に角勝つことだ。論理に窮するようなことがあったら、相手を中傷・罵倒してでもやり込めることだと洗脳されてきたことから抜け出せないようです。勝っただの、負けたのだに拘って、自尊心を満足することに執着してまともな議論も出来ず、都合が悪くなると自分のしてきたことは棚に上げて他を非難をする

書かれる悪口は常に自分自身に当てはまります。以下のように書き換えられます。

「shamonさんと言う方は、顕本法華宗で長年「折伏」とは、相手に兎に角勝つことだ。論理に窮するようなことがあったら、相手を中傷・罵倒してでもやり込めることだと洗脳されてきたことから抜け出せないようです。勝っただの、負けたのだに拘って、自尊心を満足することに執着してまともな議論も出来ず、都合が悪くなると自分のしてきたことは棚に上げて他を非難をする」

ここで「創価学会」であることがまるで悪いことのように書いていますが、わたしから見れば、shamonさんより創価学会のほうがよほどましです。こんな汚い手口は使わないからです。また、わたしは「折伏」など論じていないのであって、折伏を言っているのはshamonさんのほうです。顕本法華宗には知り合いもいますが、しかし、こんなひどいことはしません。一応、上のように言い換えてみましたが、顕本法華宗も迷惑をしているのだろうと気の毒に思います。顕本法華宗のイメージダウンをするためにこのようなことをやってみせているのでしょうか。

> 頓珍漢

繰り返しますが、このような語句は使用しないほうがいいでしょう。


分析(b)言っていないことを書く

> ①、②

この二つはわたしが記したことではなく、自分で作文し、わたしが言ったことのように偽り、それを繰り返しています。先に記したとおり、嘘は100遍、書いても嘘です。

分析(c)答にならないことを書く

質問に対する答になっていません。

(1) 謗法攻撃が折伏に当たる経証は何か
shamonさんの答え「理解する能力がないようです」
(2) 持戒が折伏に当たる経証は何か
shamonさんの答え「全く理解する能力がないようです」
(3) 如説修行抄が真筆である科学的な証拠は何か
shamonさんの答え「全く理解する能力がないようです」
(4) 顕本法華宗が日蓮宗で改革を目論んでいるとはどのような意味か
shamonさんの答え「馬鹿馬鹿し過ぎますね」
(5) 顕本法華宗・今成師の摂折論は何が間違っているのか
shamonさんの答え「本当に馬鹿馬鹿し過ぎますね。」

以上、詰るばかりで何一つ答がありません。


> 簡単な文意も読めず、日本語に意味も解らず、簡単な文意も読めず、日本語に意味も解らず、罵詈雑言を尊大に繰り返す「創価学会の折伏」の洗脳から抜け出せない方との議論は無駄「創価学会の折伏」の洗脳から抜け出せない方との議論は無駄

上記、抜き書きに明らかなように、「簡単な文意も読めず、日本語に意味も解らず、簡単な文意も読めず、日本語に意味も解らず、罵詈雑言を尊大に繰り返す」のもshamonさんのほうです。また、今度は「創価学会の折伏」という言葉を連発して、また、レッテル張りをしていますが、これはわたしへの批判としてはまったく的はずれです。また、創価学会のほうがよほど、shamonさんよりましです。とはいうものの、わたしは創価学会を肯定する立場にはありません。

104犀角独歩:2005/07/11(月) 03:46:20

◎shamonさんが答になっていないのは以下のとおりです

(1) 謗法攻撃が折伏に当たる経証は何か
(2) 持戒が折伏に当たる経証は何か
(3) 如説修行抄が真筆である科学的な証拠は何か
(4) 顕本法華宗が日蓮宗で改革を目論んでいるとはどのような意味か
(5) 顕本法華宗・今成師の摂折論は何が間違っているのか
(6) 悪侶が持戒の僧を害することが摂受になるとはどういうことか
(7) 折伏が持戒以上のことであるという経証は何か

105一寸法師:2005/07/11(月) 08:15:20
いやいや、正気の沙汰ではない方に付き合わされました(笑)。馬鹿馬鹿しいので、御相手は終わりです。どうぞ、お引き取り下さい。

106shamon:2005/07/11(月) 08:26:43
一本取られましたね(笑)

107犀角独歩:2005/07/11(月) 08:29:17

先にはshamonさんが、今度は一寸法師さんが、わたしに、引き取れと書いています。お二人は同一人物ですか。また、引き取り依頼をすると言うことは管理人さんでもあるわけでしょうか。

3人は同一人物ですか。shamonさん=一寸法師さんが=管理人であれば、管理人からの要請と言うことになります。そうであれば、shamonさんが管理するような場所に長居は無用です。引き取りますよ。

どうなんでしょうか。

ただし、正気沙汰などという侮蔑される筋合いはありません。
謝罪を希望します。

108川蝉:2005/07/30(土) 18:11:20
日蓮聖人の不軽菩薩観

日向上人の著述「金綱集」は、「日蓮宗事典」によれば、
「佐渡阿闍梨日向が日蓮聖人より聴聞したところに基づいて諸宗の大綱を記述した著書。」とのことです。
その「金綱集第十下」に、
「摂受とは、世間の文に当たる。安楽行品の意、世界歓喜為人生善の意なり。(中略)
折伏門とは、世間の武に当たれり。不軽品の意、対治破悪是れなり。(中略)今時は日本国、摂受か折伏か、能く能く思案有るべきなり。
善導の千中無一と、法然の捨閉閣抛と、弘法の無明辺域非明分位、如此乘乘得名望後作戯論と、正覚房の牛飼履採とは、前代未聞の大謗法、(中略)是の時不惜身命の文を守って一言も法敵謗法を責めん事、真実時尅相応の殊勝の功徳たるべし」(宗全第十四巻495〜6)
と有ります。
日蓮聖人が講義の中で、「安楽行品の意は摂受、不軽品の意は折伏」と語っていたと考えられるし、すくなくとも直弟の日向上人が「安楽行品の意は摂受、不軽品の意は折伏」と領解していた事になります。

また「日蓮宗事典」には、「中老日法の『日蓮聖人法門聴聞分集』(宗全第一巻)は身延での日蓮聖人の『一代五時図』の講述を筆受されたものと推定される。」
と記しています。
その「日蓮聖人法門聴聞分集」には

「不軽品と薬王品等には或いは強説、或いは五五百歳中広宣流布等如何、その上へ仏に両説之れ在り、一切経は摂受と折伏を出でず(中略)末法折伏の世に難ずべからず」(宗全第一巻108)

「末法は是れ折伏の時なり」(宗全第一巻111)
とあります。

日蓮聖人が講義で「不軽品は強説であり、現今は末法折伏の世であるから強説を否定すべきでない。末法は折伏の時」と語られておられたか、直弟の日法上人がそのように領解していたと云うことになります。

また「宗全第一巻40」に、収録されている直弟の日頂上人の「申状 」には、
「折伏を起こして」と、日蓮聖人の弘通を形容しています。

このように直弟が不軽品を折伏ないし強説と領解していたことがわかります。

「開目抄」に
「抑たれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるる誰の僧か刀杖を加へらるる、誰の僧をか法華経のゆへに公家武家に奏する誰の僧か数数見擯出と度度ながさるる、日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし、」(昭定598・学会版230)
とあるように、日蓮聖人は勧持品二十行の偈を色読したと云う確信を懐かれています。

相手に順応し軟語を以て次第に法を説く摂受の弘通ならば、三類の迫害を受けることはないわけですが、相手の間違いを強く指摘批判したり、強いて正義を説き聞かせる結果、三類の迫害を招くことになるわけです。
三類の迫害を招いた事実から云えば日蓮聖人の化儀は折伏を面としたと云う事になります。

二十四字の教えを拒む者に強いて説いた故に、罵りや杖打を受けた事から云っても、不軽菩薩の弘経化儀も強説・折伏と云うことになります。

109川蝉:2005/07/30(土) 18:12:06

嘉祥大師が
「持品の末に、悪世の弘経は毀辱誹謗を被りて諸々の苦悩を受くと云う。小行の流れは(=初心低位の菩薩は)多く退没を生じて弘経すること能わず。この故に今、四行に安住せば悪世に居すと雖も常に快楽を受くべしと明かす」
と云って、勧持品と安楽行品の関係を述べています。

勧持品の迫害を招く本地が高位の菩薩の強説弘宣、すなわち折伏の化儀と異なる摂受の弘通化儀が安楽行品に説かれたと云う事です。
法華経には摂受の安楽行品と強説(折伏)の勧持品並に不軽品が有るわけです。

「顕仏未来記」に
「例せば威音王仏の像法の時不軽菩薩我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人日蓮は名字の凡夫なり。」(昭定740・学会版507)
とあります。
文意は、「不軽菩薩の弘宣した二十四字の教えと日蓮弘通の妙法五字とその意は同じである。また彼の像法の末と現今の末法の初めとも同じであり、また弘宣者も同じく凡夫位である、このように時・機(逆機)・法・導師も同一である。」
と云う意味です。

日蓮聖人は勧持品の色読者であることを自任していると同時に「不軽菩薩を紹継する」と云う自覚をもたれています。
と云うことは、不軽菩薩の化儀も勧持品と同じく強説(折伏)と見られていた事になります。

こうした日蓮聖人のお考えを聴聞していたから、直弟子が不軽菩薩の化儀を折伏・強説の化儀と記し、日蓮聖人の弘通を折伏を称していたのでしょう。

文永十二年の「曽谷入道殿許御書」に
「夫れ以れば重病を療治するには良薬を構索し逆謗を救助するには要法には如かず(中略)悪人為る上、已に実大を謗ずる者には強て之を説く可し、」(曽谷入道殿許御書・昭定895・学会版1026)
とあるように、大判すれば、日蓮聖人は末法の五逆・謗法の衆生の救助の対象としたのであるから当然、強いて説く、即ち折伏の化儀を採られた事は明白です。

続いて、「強いて説く」経証として、不軽品の
「乃至遠く四衆を見ても亦復故に往いて」
「四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り悪口罵詈して言く是の無智の比丘何れの所従り来りてか」
「或は杖木瓦石を以て之を打擲す」
の文を引き、さらに、法華文句十の「本未だ善有らざるには不軽・大を以て之れを強毒す」との文を証として挙げ、

「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり、 」と、日蓮聖人の弘通化儀は不軽菩薩の化儀と同じ方法を採っていると述べられています。

日蓮聖人の弘通化儀が折伏を面としているのですから、当然、日蓮聖人は不軽菩薩の化儀を「強いて説く・而強毒之」すなわち折伏の化儀と見られていたことは確かです。
「開目抄」に「不軽品の如し」の句が無かったとしても、日蓮聖人が不軽菩薩の化儀を強説・折伏と理解されていた事は確かでしょう。

110shamon:2005/07/31(日) 10:40:53
全く、川蝉さんの仰る通りです。開目抄の「常不軽品の如し」が例え後人の挿入であったとしても、日蓮聖人は他の御真蹟において不軽菩薩の「強いて説く」ことと「受難の覚悟」については、再三に述べられています。 日蓮聖人の思想を理解していれば、開目抄の折伏の義に「常不軽の如し」とあっても何ら矛盾しませんし、文意も変わりません。

すべては、十界互具に基づきます。そもそも仏性の顕発というのは、「愚かなる凡夫」に「悟れる仏」を顕わそうとするものです。相反する性質のものが、実は相互に他を具している。したがって、内在し相反する性質を、表に顕わそうとする修行が必要になります。不軽菩薩の「但行礼拝」も一見すれば摂受の行でありますけれども、その内には「強いて説く」折伏の義を含んでいるのです。摂受に内在する折伏を超越させて、顕わさねばなりません。俗的な言い方をすれば、人心が乱れているような時には「表面的に優しいだけでは駄目だ、本当に優しいのなら、優しいが故に厳しさを顕せるものが本物である。」と説いているようなものです。本来摂受的である僧侶が、折伏的姿勢を顕わすのも同じ修行でありましょう。内在する性質を顕わすことが出来なければ、仏になることなどは到底適いません。不安を苛まされる愚かな人間が安心を得ることも、臆病な人間が自信を持って生きれるようになることも出来なくなります。

涅槃経は折伏、法華経は摂受の経典とされていますが、日蓮聖人が涅槃経の内の摂受を見出し、法華経の内に折伏を見出してそれを顕わさんとするのも、すべて一貫した思想に基づいているものです。

111伝六:2005/07/31(日) 21:37:57
開目抄の真筆に「常不軽品のごとし」がなかったということの妄説であることを、完璧に論じないといけないのだけれど、それは後にして、たとえで話すことをおゆるしいただきたい。「若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴(たづ)鳴きわたる」という歌があるが、山部赤人の真筆には「鶴」という文字は無かったとメモしてある写本があったら、メモがおかしいと誰も考えるだろう。たとえ藤原定家であってもそういうメモがあればおかしい。定家の真筆かどうかを鑑定しないといけないわけだが、そんな問題がおこるわけがない。「常不軽品のごとし」がなかったということは、そういう問題である。それが宗門人のなかにわからない人があるというのは元品の無明かと思うくらいだ。川蝉さんのご努力には敬意を表します。

112shamon:2005/07/31(日) 23:17:51
開目抄「大経(涅槃経)は偏えに折伏を論ずれども、一子地に住す。いかんぞ曾て摂受なからん。この経(法華経)は偏えに摂受を明せども、頭破七分という。折伏なきにあらず」

> 涅槃経は折伏、法華経は摂受の経典とされていますが

彼の掲示板では、そんな学説があれば紹介して下さいとか、通説を鵜呑みにしたければとか、論拠を挙げない日蓮解釈の受け売りだとか言っているようですが、あの方達は日蓮聖人の御遺文をきちんと読まずに何を根拠に論議しようとしているのでしょうね。きっと門流独自の習性と言うのが染みついているのでしょう。

113伝六:2005/08/04(木) 12:19:53
「(上略)就中最も長篇にして、且つ吾人が読みて最も興味を感z3えしは、田中氏の摂折論なりとす。蓋し吾人が多とする所以のものは、其経論の解釈正こうを得たるが為にあらず、其法門の構成巧妙なるが為にあらず、吾人は今日の如き宗教萎靡、信仰冷却の時に当たりて全身是熱情、満腔是信念とも見ゆる田中氏の、敬虔なる、真摯なる、活信仰を聞くを得たるを喜ぶものなり、本篇を読みて粛然襟を正さざるものは宗教家にあらざるなり。」これは「本化摂折論」を読んだ無尽灯(浄土真宗の機関紙)記者の評です。明治時代の話ですが。真正の折伏に偏狭独善の要素は微塵もないことが、この評でもわかります。

114伝六:2005/08/04(木) 12:23:27
訂正します。「感z3えしは、」は「感ぜしは」です。

115川蝉:2006/06/17(土) 11:31:22
皆さん今日は。

このスレッドの8番で、私は「『破日蓮義』に対する反論書として、円明日澄の「日出台隠記」が刊行されているが長文なので紹介できない」旨を記しましたが、このたび試しにブログを作りましたので、そこに「破日蓮義」の部分に対応する「日出台隠記」の箇所を訓じて、掲載しました。

この掲示板に投稿するには長文過ぎてご迷惑になると思いブログで紹介することにしました。
もし興味をもたれる方は閲覧してみてください。
http://houmyou.blog.ocn.ne.jp/ です。


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