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上代の興門流について

1史志高:2004/11/17(水) 12:35
管理人様はじめまして。宗門上古の頃の大石寺と重須本門寺の関係はどのような状態だったんでしょうか?
よろしければ御教示を賜りたく存じます。

2直人:2004/11/20(土) 20:49
史志高さん、はじめまして。

 日興上人は正応二年春(日蓮宗では正応元年末)、波木井実長と法義上の確執から身延を離
山して大石寺を建立しました。けれど、日興上人は9年後の永仁六年、重須へ移っています。しか
し、大石寺には永仁六年以降に書写された本尊が32幅あるので、日興上人は重須へ移った後も
大石寺と交流があったことが窺えます。大石寺四代・日道師も重須で学ぶなど初期興門における
中心的拠点は大石寺ではなく、重須であったと云えますね。
 けれど、正慶二年、日興上人が寂し日目師も京都にて寂した後はどうでしょう。興目二師の寂後、
重須は西山と正嫡争いをし、大石寺は目師寂後、七十二年間に渡って郷門と争います。要山日辰
師の時代になると重須と西山の和睦がなろうとしましたが、西山が日代師を加歴することを要求し、
重須が反対したことによって和睦はなりませんでした。
 また、日辰師は日院師に通用を申し入れていますが、日院師は日辰師の《造仏読誦》を批判して
通用を拒否しましたが、大石寺は日主師の時代、相当衰退したようで日主師は要法寺に通用を申
し入れています。日辰師は造仏読誦論者ではあったけれど、仏像を造立していないようです。けれ
ど、日辰師の後継者である日?師は要石通用の六年後、一塔両尊四菩薩像を造立してこれは享保
十五年まで続くわけです。大石寺と通用があった頃の要法寺の本堂には大曼荼羅ではなく、仏像
が安置されていたわけです。

3川蝉:2004/11/21(日) 09:34
すでに直人さんのコメントがあり重複しますが。

「日蓮宗大事典」の「本門寺(西山)」の項に次のような解説がありました。
日代師が西山に移った以後において、重須本門寺は保田の妙本寺と組んで西山や大石寺を攻撃したこともあったようですね。

「あるいは西山が大石寺と結び重須を攻撃し、重須は保田の妙本寺と組んで西山や大石寺を攻撃するなど内訌を繰返し来った。これに対し京都要法寺日辰は弘治二年(一五五六)より永禄二年(一五五九)にわたる間、西山、重須に下ること二度、両者を説いて和融の道を開かんとした。」(日蓮宗大事典)

4史志高:2004/11/21(日) 14:29
直人さんレスご丁寧にありがとうございます。
なるほど・・
 とすると、大石寺と重須の通用は興目上人御遷化の後にほぼなくなっていくということでしょうか。

5直人:2004/11/21(日) 19:17
史志高さん、こんばんは。

 重須で学んだ大石寺歴代は大石寺五代・日行師が最後ですね。『家中抄』に「日興に給仕し兼
ねて法華を習学す。興師滅後の後、目師に随順し常に下之坊に居住す」とあります。それ以後の
大石寺歴代は武州仙波に天台を学びに行き、重須とは交流がなかったようですね。
 その後は川蝉さんがコメントされているように、重須は保田と組み、大石寺は西山と組み互いに
対立してきたわけです。

6史志高:2004/11/22(月) 17:39
直人さん、ありがとうございます。
 興師寂後において、代師がその跡目を相続したとされていますが、「八通の譲り状」を見る限り、正直非常にうさんくさくみえてしまうのは私だけでしょうか?
一人の弟子に対してそこまでするかなあと一人疑問に思っております。
 

>重須は保田と組み、大石寺は西山と組み互いに
>対立してきたわけです

この辺の根拠となる文献を教えて頂けたら幸いです。

7直人:2004/11/22(月) 22:58
史志高さん、こんばんは。

 日代師が日興上人から重須を付属されたのは史実でしょう。これは日蓮宗でも大石寺でも
異論はないはずです。しかし、方便品読不読をめぐって日代は重須から擯出され、そして、建
武元年から以後320余年にわたって重須と西山は正嫡論争をするわけです。この過程で、自
山の正統性を示そうとして重須は『二箇相承書』『與日妙書』を、これに対して西山は『日代置
状』を偽作してきたわけでしょう。日順師の『摧邪立正抄』に『二箇相承書』を指す記述がある
こと、日代師の『目安』、日時師の『大石記』に『日代置状』の記述があることから、それらの相
承書は早くは聖人滅後60年代に成立、80年代には大体出揃っていたでしょう。
 『二箇相承書』は重須が西山に対して自山の正統性を示そうとしたものであって、大石寺と
は何ら関係のない文献ですね。大石寺十四代・日主師は『日興跡条々事示書』の中で「相承
書を以ってのことは他山のことである。大石寺は本門戒壇の大御本尊・譲座本尊を以って唯
授一人の付属とする(趣意)」と云ってますね。

8川蝉:2004/11/23(火) 10:49
史志高さん今日は。

>この辺の根拠となる文献を教えて頂けたら幸いです。

「日蓮宗事典」には具体的な文献資料を挙げられていません。

平楽寺書店刊・執行海秀教授の「日蓮宗教学史」に、文書資料を挙げていませんが、

「室町時代に於ける興門の大勢は・・大石寺は重須本門寺との間に伝統の正潤を争い、日郷門徒の保田妙本寺とは、戒壇の坊地問題でその係争は文明年間に及んだ。
大石寺日有は文明年間、大石寺根本道場、重須隠居説を主張したが、これに対し、重須日浄は保田日安と結んで抗した。
而してあその余塵は大石寺日鎮の代に重須の本門寺号問題となって、重須の日国と争ったのである。
一方、重須は西山との間に本門寺伝統論を争ったが、西山は石山と結び、その確執は天正年間に及んだ。」(136頁)

と記しています。

9史志高:2004/12/19(日) 14:44
レスありがとうございました。いろいろと勉強になります。わからないことだらけで恥ずかしい限りです。
 管理人さん、また他の方々にも御教示願いたいのですが、大石寺六世日時について、どのような人なのか、もし宜しければ資料や伝説その他諸々教えて下さい。

10直人:2004/12/20(月) 06:01
史志高さん、こんにちは。

 日時師の事蹟・伝承は不詳な部分が多いのが現実です。その昔(昭和30年代後半)、大石寺
の教学部が『三大秘法抄』『本因妙抄』の写本に日時本があるという発表をしたようですが、これ
に対して元大石寺僧侶の研究者(興風談所)から否定的見解が出されています。(『興風』14、
『興風叢書』6)
 また、大石寺においては日道師以後、日有師に至る迄の間の歴代の学説については今日の
史料からは直接的に窺がえません。後代の伝承によって類推するほかない、というのが現実で
しょうか。

11史志高:2004/12/20(月) 09:52
直人さんありがとうございます。
日時師について、御影の返還の訴状や、その他にも各末寺の信徒にあたえた曼荼羅本尊が残っているぐらいかと思うのですが、そこからなにか見えてくるものがあるとおもうのです。
例えば、大石寺は道郷72年の係争と言われる「東坊地問題」に端を発し、その後日有師まで疲弊していたという話ですが、日時師の垣間見える動向からはそうでもないのではと思えるのです。
非常に漠然とした意見ですが、いかがでしょうか?

12直人:2004/12/22(水) 06:31
史志高さん、こんにちは。

 今日の日時師の事蹟から「何かが見えてくる」とする何かとはは史志高さんが研鑚して見出して
下さい。史志高さんとは別の観点になりますが、大抵は日有師に至って教学基盤ができる、とする
ようですが私は日時師の時代、ある程度の教学基盤はできていたであろうと考えています。ただ、
日時師の学説を伝える直接の文献が現存しない以上、後代の伝承から推考するしかないというわ
けです。

13名無し:2010/06/17(木) 19:21:44
 日蓮大聖人様は諸宗は無得道・堕地獄の根源、南妙法蓮華経のみ成仏の法なりと折伏され国家権力による死刑を受けられました。 熱原の法華講衆は平左衛門から法華経を捨てて念仏を唱えよとの脅しに屈する事なく自らの命に代えて「南無妙法蓮華経」と唱え答えに替えました。日霑上人は明治政府から身延に合併しろとの命令に身延が大きいから身延に入れという命令例え道端に餓死する事があっても断じて断わると、規模の大小ではなく、法が正しいか間違っているかで判断しなさいと、命を賭けて明治政府に訴えました。全て国家権力に対しての日蓮大聖人様及び弟子の起こした行動です邪宗を絶対認めない姿勢が伺えます しかし戦時中の大石寺は軍の圧力に屈して邪宗の神札を受取り境内に神棚を祭ってしまいました。その現罰で法主は寺の火災で焼死しました、その後も、援交や強姦などて゛僧侶の逮捕者がでたり遺骨問題で寺側が完全敗訴など罰は続きます。

14ななす:2010/07/05(月) 20:31:58
いつも大変お世話になっております

15常修院二番弟子:2014/09/13(土) 12:44:39
エイチティティピー://zyoushuin2.web.fc2.com
↗︎↗︎
こちらで、本門戒壇の大御本尊が正しい事を確認しましょう。


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