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上代の興門流について

2直人:2004/11/20(土) 20:49
史志高さん、はじめまして。

 日興上人は正応二年春(日蓮宗では正応元年末)、波木井実長と法義上の確執から身延を離
山して大石寺を建立しました。けれど、日興上人は9年後の永仁六年、重須へ移っています。しか
し、大石寺には永仁六年以降に書写された本尊が32幅あるので、日興上人は重須へ移った後も
大石寺と交流があったことが窺えます。大石寺四代・日道師も重須で学ぶなど初期興門における
中心的拠点は大石寺ではなく、重須であったと云えますね。
 けれど、正慶二年、日興上人が寂し日目師も京都にて寂した後はどうでしょう。興目二師の寂後、
重須は西山と正嫡争いをし、大石寺は目師寂後、七十二年間に渡って郷門と争います。要山日辰
師の時代になると重須と西山の和睦がなろうとしましたが、西山が日代師を加歴することを要求し、
重須が反対したことによって和睦はなりませんでした。
 また、日辰師は日院師に通用を申し入れていますが、日院師は日辰師の《造仏読誦》を批判して
通用を拒否しましたが、大石寺は日主師の時代、相当衰退したようで日主師は要法寺に通用を申
し入れています。日辰師は造仏読誦論者ではあったけれど、仏像を造立していないようです。けれ
ど、日辰師の後継者である日?師は要石通用の六年後、一塔両尊四菩薩像を造立してこれは享保
十五年まで続くわけです。大石寺と通用があった頃の要法寺の本堂には大曼荼羅ではなく、仏像
が安置されていたわけです。


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