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祈り・祈祷に関する事

1ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2004/10/28(木) 10:21
管理人さん、皆さん、初めまして。

こちらの掲示板は、以前からちょくちょくROMさせていただいています。
お聞きしたい事がございますので、初めての書き込みであるにも関らず、いきなりスレッドを立てさせていただきますけど、そこのところは何卒お許し下さいませ。
ちなみに、私は創価学会に籍こそあるものの、3年前の春からあそこに対して批判的な考えを持つようになり、現在は組織との関りを避けていて、脱会したのに等しい状態で、単独信者のスタンスをとっています。

祈りに関する事なのですが、日蓮聖人は、伊豆流罪の時期に地頭の伊東八郎左衛門の病を祈祷により治癒させて、同じく、故郷の地に戻られた際、死の淵にあった聖人の母・妙蓮を祈祷で蘇らせたというお話は有名ですよね。
聖人の祈りが通じたのは、伊東八郎左衛門の場合、わずかながらも法華経への信仰心を抱いた、母・妙蓮の場合には、法華経の信者であった為なのだそうですけど、ならば、祈られる側に信仰心がなくては、(祈る側が)いくら祈っても通じないという事になるのでしょうか?
また、日蓮系の宗派の中には、病悩の治癒や厄除けの為の祈祷を行なっているところがあるようですが、効果はどうなのでしょうか?
他者の事を想っての祈りは、はたして通じるのだろうか・・・?と、私が前々から抱いている大いなる疑問なのです。

ご意見・ご教示のほど、よろしくお願い致します。

2川蝉:2004/10/29(金) 10:49
ドプチェクさん今日は。

諸天は、原則的には「法の為めの故に護る」ということですから、祈願の範疇は
1、法華経の信行者。
2、その人を守護すると、結果的に信行者を護ることになる人。
3、意識的ではないが、信行者を助けているような人。
4、未信であるがやがて信行者になるであろう人。

を考えてよいのかなと思われます。

4に付いて、さらに云えば、やがて信者に成るかどうかは不測のことですが、もしかしたら祈願を機縁として妙法との宿種が芽生えるかも知れないと云う思いで、未信の人の祈願を行います。

日蓮宗では、祈祷を縁として、あるいは祈願成就を機縁として、信徒に成る人が多いのが現実です。
未信の人であっても、頼みすがる思いが強くなければならないですね。
建治三年「四条金吾殿御返事」に
「だんな(檀那)と師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし。又だんなと師とをもひあひて候へども、大法を小法をもつてをかし(犯)てとしひさし(年久)き人人の御いのりは叶候はぬ上、我身もだんなもほろび候也」(昭定1303頁)

弘安三年五月「新田殿御書」
「経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似たり。三事既に相応せり。檀那の一願必ず成就せんか」(昭定1752・真蹟)

等とありますね。
すでに御存知とは思いますが、祈願成就の条件として大切な、三事すなわち、師・檀那・法については、真蹟では有りませんが建治三年「法華初心成仏抄」に

「譬へばよき火打と、よき石のかどと、よきほくそと、此三つ寄り合ひて火を用ゆるなり。祈りも又是の如し。よき師とよき檀那とよき法と是三つ寄り合ひて、祈りを成就し国土の大難をも払ふべき者なり。よき師とは指したる世間の失無くして、聊のへつらふ(諂)ことなく、少欲知足にして慈悲あらん僧の経文に任せて、法華経を読み持ちて、人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に、吉第一の法師なりと讃められたり。吉檀那とは貴人にもよらず、賎人をもにくまず、上にもよらず下をもいやじまず、一切人をば用ひずして、一切経の中に法華経を持たん人をば、一切の人の中に吉人なりと仏は説き給へり。吉法とは此法華経を最為第一の法と説れたり。」(昭定1423頁)
と説明されています。

これによると、祈願を受ける人も守護を信じ正法を信受している事が理想ですね。

病気平癒の祈願でも、(摩訶止観に六種の病因を挙げていますが)主原因が霊障の場合は効果が顕著であった話しを沢山聞きます。
(この場合、祈願とともに供養も行います)

ただし、祈祷祈願で縁を結んだとしても、なかなか正信を得てもらうのは難しい事のようです。

3ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2004/10/30(土) 11:42
川蝉さん、お久しぶりです(一昨年の秋、富士門流信徒の掲示板でお会いして以来ですね)。
ご教示ありがとうございました。

>>2

>2、その人を守護すると、結果的に信行者を護ることになる人。
>3、意識的ではないが、信行者を助けているような人。

法華経信仰者にとっては、何らかの形でプラスになる(なっている)存在という事になるのでしょうか。
信仰と直接的に関係する存在のみならず、たとえ信仰と無関係であっても、信仰者自身にとっては個人的に大切な存在も含まれるのでしょうかね?

>4に付いて、さらに云えば、やがて信者に成るかどうかは不測のことですが、もしかしたら祈願を機縁として妙法との宿種が芽生えるかも知れないと云う思いで、未信の人の祈願を行います。

過去に私が入信させた人間は一人だけなのですが(私の友人ですけど、彼は入信してまもなく辞めてしまいました)、昔はそういう想いで祈っていました。
単独信者のスタンスでいる今は、昔ほどではありませんけど、でも、そういった気持ちは心の中に存在していますね。

>日蓮宗では、祈祷を縁として、あるいは祈願成就を機縁として、信徒に成る人が多いのが現実です。

それは初耳でした。
私は日蓮正宗系(富士門流)の教団(創価学会)に所属していた為、これまで祈祷に関する事とはまったくの無縁であり、知らなかったのですが、日蓮宗では祈祷が縁で入信される人が多いのですか。

>未信の人であっても、頼みすがる思いが強くなければならないですね。

日蓮聖人に祈祷で病を治癒された伊東八郎左衛門が、そのような感じではなかったのでしょうかね。
最初、八郎左衛門が日蓮聖人に「祈って治せ」と命じたのを聖人は申し出をきっぱりと断られて、その後、八郎左衛門が僅かながらでも法華経を信じる気になったので、祈祷を行なったら、聖人の祈りが通じたという事だったのでは。

ところで、昨年の初め頃、某掲示板(すでに閉鎖されましたが)で「動物の成仏はあるのか?」という事が話題になっていましたけど(川蝉さんもご意見されていましたよね)、祈りは人間に対してだけでなく、動物や植物へも通じるのでしょうかね?
以前、ネット上で凍死しそうになった昏睡状態の猫の為にお題目を唱えると、猫が意識を取り戻し元気になったというお話に接した事があります。
また、ずいぶん昔に動物園の飼育係の人が話していたのですが、その人が世話をしていた病気で危険な状態に陥った動物の回復を願いお題目を唱え続けたら、少しずつ健康を取り戻して行ったという事なのでした。
「山川草木悉皆成仏」と言いますけど、それはいったいどのようなものなのだろうか?と思っているのです。

4川蝉:2004/10/31(日) 10:06
ドプチェク さん今日は。

2、その人を守護すると、結果的に信行者を護ることになる人。
3、意識的ではないが、信行者を助けているような人。

は同趣旨なので二つに分ける必要は無かったようですね。
2、3、は建治三年九月「崇峻天皇御書」の

「さてはなによりも上の御いたはり(所労)なげき入て候。たとひ(設)上は御信用なき様に候へども、との(殿)其内にをはして其御恩のかげ(蔭)にて法華経をやしなひまいらせ給へば、偏に上の御祈とぞなり候らん。大木の下の小木、大河の辺の草は正く其雨にあたらず其水をえずといへども、露をつたへいき(気)をえてさかうる(栄)事に候。此もかくのごとし。阿闍世王は仏の御かたきなれども、其内にありし耆婆大臣、仏に志ありて常に供養ありしかば、其功大王に帰すとこそ見へて候へ。」
(昭定1390頁・真。学会版1170頁)
の部分を思って挙げました。

>信仰者自身にとっては個人的に大切な存在も含まれるのでしょう
>かね?

「薬草喩品」に 
「皆苦を離れて 安穏の楽  世間の楽 及び涅槃の楽を得せしむ」
とありますが、「安穏の楽  世間の楽」は、心(精神)、健康、財が護られて得られる楽だとおもいます。
信行者の心(精神)、健康、財の為めに支えになる人が入ると思います。

ある婦人信徒さんは、お酒にだらしないご主人に苦労しておりまして、参詣を続けていました。ご主人は立ち直りかけたいたところ急死しました。二人の息子さんは父親を反面教師としたようで、真面目に成人し、現在では兄弟二人とも嫁さんともども、母親を大事にしております。
息子さん達が良く成長したには、その婦人の晩年の幸せのために、諸天の影の力が関与していたに違いないと思っています。
    
>日蓮宗では祈祷が縁で入信される人が多いのですか。

若いときに新寺建立を果たした説教の大家である千葉誕生寺の現貫主さんや、瀬戸内寂聴さんのような例外は有るでしょうが、昔から説教では寺は建たないと云われているそうです。

現に、寺院・教会・結社で盛んな所は修法師とか霊能力のある教師の所が多いようです。

一般的には、お参りの動機のほとんどは病気や何かの悩みですから、修法師とか霊能力のある教師の所に先ず足を運びたくなるのでしょう。

>動物や植物へも通じるのでしょうかね?

ペットの病気平癒祈願は頼まれたことはありませんが、一度、出先で行方不明になった愛犬の発見祈願を頼まれたことがあります。
諸天はペットのことまで守護してくれるかどうかの理屈は抜きにして、飼い主の心情をおもんばかり祈願の読経唱題をしたことがあります。

植物(作物)は病虫害の対処などの生育上の工夫努力と気象が極めて強く作用するので、個人の祈願の作用が関与する余地がないのだろうと思われます。

>「山川草木悉皆成仏」
この熟語は聞き慣れた言葉のようにも思えますが、御書に無い熟語のようですね。(有りましたかね?)
御書には「草木成仏」の語はありますが、草木が修行開覚すると云う意味ではないようですね。

5川蝉:2004/11/01(月) 16:06
ドプチェクさん今日は。

>「山川草木悉皆成仏」と言いますけど、それはいったいどのよう
>なものなのだろうか?と思っているのです。

駒澤大・田上太秀教授が「大般涅槃経」の
「この説明(仏性に関する釈尊の説法のこと)を聞いたバラモンてちは仏性がすなわち我(アートマン)であると知って、阿耨多羅三藐三菩提を求めるこころを起こし、すぐに出家し、修行を始めた。この成り行きをみていた鳥や水陸に所属するものも、阿耨多羅三藐三菩提を求めるこころを起こし、いまの生き方を捨てて仏道にしたがった生活を始めた。」第二十七巻師子吼菩薩品第十一の一・田上口語訳)
を引き
「先にのべた魚や貝も、蟻もゴキブリも、ハイエナもライオンも五蘊から成るので仏性があるといえるが、果たしてこれらの生類が菩提心を起こすだろうか。八正道を修めるだろうか。常識的見解では有り得ないと考えられる。しかし『大般涅槃経』がものは衆縁和合のダルマに則って生滅していて、固定した在り方はなく、不定だと説いたのは、これらの生類でもいつかは菩提心を起こし、八正道を修める可能性があると考えたのである」(大蔵出版・仏性とはなにか・261頁)
と述べ、「大般涅槃経」は、畜生でも成仏の可能性を認めていると論じています。

六道輪廻の教説から云えば、畜生でも心識を有するから、死んだ後、その心識が次の身体を受けると云うことになりますね。
もしも、罪を償い終わった場合は畜生の身体を脱する事ができるわけですから、菩提心を起こせる身体を受ける可能性があるといえますね。
追善廻向は心識に功徳を送る事ですから、功徳を送られたペットの心識は、その分だけ善功徳が増加し、より一歩、菩提心を起こせる身体を受ける可能性を高めることが出来ると考えても良いのでしょうね。

田上太秀教授は
「草木にいのちがあるとは、意識とまでいわないが、感覚があると釈尊は考えていたといえよう。(原始経典ブィナヤに植物を、一つの感覚器官のある生命と呼んでいる例がある)
じつはこれが『大般涅槃経』の中で草木に悪心を抱いてはならないと説法した論拠になっているのではないだろうか。(第十六巻梵行品第八の二)
これが仏性説と関わるとすれば、先の土壁、瓦礫、石ころとは区別して、草木にも仏性があるろ考えていたとも忖度される。しかし『大般涅槃経』にはこれを明言した文句はない。・・たとえ仏性があるとはいえ、菩提心を起こす能力がない者は成仏は不可能である。」(260頁)
と、「大般涅槃経」は、草木にも仏性があるろ考えていたとも忖度される余地があるが、成仏出来るとは考えてない立場であろうと論じています。

さらに
「(大般涅槃経は)五蘊からなるものに関してのみ仏性内在説、仏性現象説を唱えている。山川草木は五蘊からなるものではない。仏性は五蘊に内在し、五蘊がなければ仏性は無いのであるから、山川草木に仏性はなく、仏性でもないことが明白である。(取意)」(262頁)
と、「大般涅槃経」は 山川草木に仏性無しと云う立場であると論じています。(続く)

6川蝉:2004/11/01(月) 16:07
(続きです)
もし 「大般涅槃経」が、 山川草木に仏性無しと云う立場であるとすると、「非情有仏性」を主張する天台教学と相違する点があることになりますね。

妙楽大師は十義を挙げて「非情有仏性」を説いています。(摩訶止観輔行伝弘決第一の二・天台大師全集 摩訶止観1・96頁)
ただし宝地坊証真の「私記」によると、妙楽大師も草木の発心修行成仏は論じていないようです。

妙楽大師の十義についての宝地坊証真の「私記」の注釈を見てみましたが、天台教学では草木の発心修行成仏を認めていないですね。
>「山川草木悉皆成仏」
は、「一仏成道 観見法界 草木国土 悉皆成仏」の略のようですね。中陰経の文と云われていますが 中陰経にはないそうです。
宝地坊証真がこの文を
「仏眼の照らす所は一色一香も遮那に非ざることなし。故に成仏と云う。始成に非ざるなり。
若し彼の経の如くんば、一切の依正皆已に成仏す。唯だ仏界有り。故に知んぬ、聖に望むれば皆聖、凡に望むれば皆凡なり。金ぺい論に云はく迷悟殊なりと雖も、事理体一なり。故に一仏成道すれば法界、此の仏の依正に非ざること無し」
(天台大師全集 摩訶止観1・98頁)
と解釈しています。

この解釈のおおよその意味は、
「仏眼で見ればすべて法身でないものはないと云うことである。そこのところを指して成仏と表現しているので、草木が発心修行して成仏したという意味ではない。
聖に望むれば皆聖、すなわち、仏にとっては仏界であり、仏界の依正であるから皆成仏しているというのである。
妙楽大師の金ぺい論にも、迷に在る者と悟った仏と境涯(依正)は異なるが、事理体一(別のものでないの意味か?あるいは真如と事象は一体の意味か?)であるから、一仏が成道すれば法界はすべて仏の依正(身・土)でないものはない。」
というような意味と思います。

「山川草木悉皆成仏」といっても、草木が発心修行して成仏すると云う意味でなく、草木は仏界の依報となるということを表現している事になりますね。

天台大師全集には、慧澄痴空の講義と大宝守脱の解説が載っていますが、まだ読んでいないので省いて置きます。

7ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2004/11/02(火) 07:23
川蝉さん、こんにちわ。

>>4

>「薬草喩品」に 
>「皆苦を離れて 安穏の楽  世間の楽 及び涅槃の楽を得せしむ」
>とありますが、「安穏の楽  世間の楽」は、心(精神)、健康、財が護られて得られる楽だとおもいます。
>信行者の心(精神)、健康、財の為めに支えになる人が入ると思います。

その人自身は信仰していなくても、間接的に信仰している人へ、特に信仰へプラス作用をもたらす存在という事になるのですね。
お話されたご婦人のケースは、ご主人の事で苦労されていた時にはわからなくても、後に振り返ってみたら、結果的に諸天の力が働いていたというわけなのでしょうか。

>一般的には、お参りの動機のほとんどは病気や何かの悩みですから、修法師とか霊能力のある教師の所に先ず足を運びたくなるのでしょう。

そういった気持ちになるのは、誰しも皆、基本的には同じではないのかと思いますし、私自身もそうです。
平穏無事な時には信仰に対して無関心な姿勢であったり、あるいは、信仰者としての勤めを怠ったりしていても、いざ自分自身や周囲の者に悩みや不幸な出来事が生じた場合、苦しい時の神頼みで、神仏にすがりたくなる人が多いのでしょうね。
そういうのは良くない事であり、常日頃信仰心を忘れずに精進を心がけて行くべきだと思いますけど、しかし、喉元過ぎれば、元の木阿弥になってしまうケースが多いのかもしれません。
でも、何かがきっかけとなって、信仰というものが少しずつでもわかるようになり、本物の信仰者への道が開けて行けたらと思っています。
言うは易し行なうは難しなのかもしれませんけど。
私はここ2年位の間で信仰というものが次第にわからなくなって来て、迷いの状態に陥り、そして、かなり冷めてしまって、この1年間はほとんど勤行・唱題をしておらず、ずいぶん長く仏壇の扉を閉じたままでいたのですが、最近になり、ちょっとした事がきっかけで、再び実践し始めたところなのです。

>植物(作物)は病虫害の対処などの生育上の工夫努力と気象が極めて強く作用するので、個人の祈願の作用が関与する余地がないのだろうと思われます。

そのような場合、信仰者が自らの信仰によって智慧を働かせ、何らかの方策を考え出して行くべきという事になるのでしょうかね(私の所属していた教団では、こういうのをよく仏智を働かせるとか、御本尊から仏智をいただくとか言っていたように思います)。

>>「山川草木悉皆成仏」
>この熟語は聞き慣れた言葉のようにも思えますが、御書に無い熟語のようですね。(有りましたかね?)
>御書には「草木成仏」の語はありますが、草木が修行開覚すると云う意味ではないようですね。

私自身は不勉強の為、詳しくないのですけど、御書に「山川草木悉皆成仏」という語句が出て来たのを目にした記憶はありません(私のそれは、まったくと言っていいほどの当てにならないものなのですが^^;)。
私の場合、一般の仏教関係・日蓮関係の書籍で「山川草木悉皆成仏」という語句に接したのですが、もしかすると、後世の人たちによる表現ではないのか?とも思ってみます。
草木成仏というのは、正直、私には今一つピンと来ず、よくわかりません・・・

・・・と、実はここまで書いてからROMしてみると、川蝉さんが新たに5と6を書き込まれていたのでした(^^;)。

>>5
>>6

貴重なご教示・文献からのご紹介、ありがとうございます。
動物の成仏や草木の成仏に関する事ですね。
私にはなかなか難しい内容ですけど、参考にしてこれから自分なりに考えさせていただきます。
ありがとうございました。

8初心者:2012/11/11(日) 01:32:18
御無沙汰しております。
以前は、日蓮聖人の御妙判についてお教えいただきありがとうございました。

さて此の度は、寺院の参拝の仕方について少しご教示いただきたいのですが、よろしいでしょうか?
私は東京の柴又帝釈天に参拝させてもらうことが多いのですが、
お題目だけ唱えて参拝するだけでは何か物足りないというか、申し訳なく思うようになりました。
幸いあちらのお寺は自由に昇殿できるので、御宝前の片隅で他の方の迷惑にならないようにして、
法楽の読経を捧げたいと思うのですが、どうでしょうか?

またその際の次第なのですが、

礼拝>奉請>開経偈>読経(方便品、如来寿量品)>唱題>祈願廻向文>帝釈天廻向文>四弘誓願
>お題目三唱>礼拝(参考:日蓮宗勤行要品(大八木興文堂))

のような感じでは如何でしょうか?

お忙しいところ恐縮ですが、よろしくお願い致します。

9管理者:2012/11/11(日) 10:50:16
初心者さん、こんにちは。
仰せの通りの式次第で結構です。

>御宝前の片隅で他の方の迷惑にならないようにして、
>法楽の読経を捧げたいと思うのですが、どうでしょうか?
はい宜しいと思います、が山務員の方に一声おかけになると気兼ねなく読経・唱題が出来るのではないでしょうか。
ますますのご信仰をお祈り申し上げます。

10初心者:2012/11/11(日) 21:23:36
管理者さま、さっそくご回答をいただき有り難うございます。

>>9
>仰せの通りの式次第で結構です。

ありがとうございます。
なかなかこういうことを相談できる場所がないので、本当に助かります。
さっそく次回の参拝から読経・唱題をさせていただきたいと思います。

>が山務員の方に一声おかけになると気兼ねなく読経・唱題が出来るのではないでしょうか。

貴重なアドバイスをいただき誠に有り難うございます。
確かに読経・唱題をすれば、普通の参拝より長い時間御宝前に居ることになりますから、
山務員の方にお断りを入れてからのほうが、気兼ねなく読経・唱題ができますね。

此の度はご教示いただき有り難うございました。
今度ともよろしくお願い致します。

11初心者:2012/12/17(月) 17:55:36
お世話になっております。
いつも質問ばかりで恐縮なのですが、本日は読経の方法について質問させていただきます。

普段の読経の際に、欲令衆や提婆達多品の訓読を読誦させていただいているのですが、
どこでこれらのお経を読誦すればよいのか迷っております。

現在私は、方便品と如来寿量品の間に挟んで読ませていただいていますが、
音読の読誦が全て終わった後に訓読の読誦をすることが多いようで、
正式にはどちらが正しい読誦の仕方なのでしょうか?

毎回毎回、初心者丸出しの質問ばかりで申し訳ありませんが、
どうぞよろしくお願い致します。

12初心者:2012/12/21(金) 01:50:02
管理者さま、

まだご回答がいただけていないようですが、>>11の質問に何か不都合がございましたでしょうか?
もしかして、檀信徒は欲令衆や提婆品の訓読は読誦してはいけないのでしょうか?

今後の参考の為に、御回答がいただけない理由をどうぞお教え下さい。

13管理者:2012/12/23(日) 08:00:22
>>11
大変遅くなりまして、ごめんなさい。
メールを開ける暇なく、先ほど読ませて貰いました。

>欲令衆や提婆達多品の訓読を読誦
>方便品と如来寿量品の間に挟んで読ませていただいています
日蓮宗の寺院ではご指摘の通り「真読」「訓読と分けての読誦が殆どかと。
それは回向文にも現れて、真読は祈願・訓読は回向という風に勤行してます。

そこで、欲令衆・方便品・提婆達多品・如来寿量品と品の順番通りの拝読方法が良いのでは。

田中智学居士の制定されたお経本、順番通りに真訓が並び回向文もその他も付いて本化妙宗聯盟にて販売してます。
私も田中居士の説の通りに拝読してます。

>毎回毎回、初心者丸出しの質問ばかりで申し訳ありませんが
いいえ、一向にお構いなく私が知る限りでしたらお答え致します。大変お待たせしましたが、またお越し下さい。

14管理者:2012/12/23(日) 08:06:07
追伸
初心者さんへ
書き込みの有無を知らせる機能があります、上のスレッド一覧の下段
掲示板の使い方 / 新着をメールで受信 / 過去ログ倉庫 / スレッド一覧 / リロード
の中の新着メールを受信に必要な事項を記入すれば、新着があった場合メールで知らせてくれます。

以上、お知らせまで。

15初心者:2012/12/26(水) 00:09:04
>>13
管理者さま、

>メールを開ける暇なく、先ほど読ませて貰いました。

それはそれは…、大変お忙しいところ、初歩的な質問に付き合っていただいて、
誠に申し訳ございません。ご回答をいただき本当に有り難うございます。

>日蓮宗の寺院ではご指摘の通り「真読」「訓読と分けての読誦が殆どかと。
>それは回向文にも現れて、真読は祈願・訓読は回向という風に勤行してます。

なるほど、確かに真読は祈願・訓読は回向ということは小耳に挟んでおりましたが、そうなりますと、

>欲令衆・方便品・提婆達多品・如来寿量品と品の順番通りの拝読方法が良いのでは

品の順番通りの読誦が理の当然になりますね。
日蓮宗のお経本はいろいろな種類のものがあるので、少し迷っておりましたが、
おかげさまですっきりと致しました。

>いいえ、一向にお構いなく私が知る限りでしたらお答え致します。大変お待たせしましたが、またお越し下さい

有り難うございます。
ひとりで法華経に取り組んでいると、どうしても分からない事が出てきて煮詰まってしまうので、
そのように仰っていただけると本当に助かります。

これからもよろしくお願い致します。失礼致しました。

16明星:2013/05/16(木) 02:10:04
ご無沙汰しております。
本日は読経・供養の方式について質問させていただきます。

先日、ある日蓮宗のお寺の供養会に参加したのですが、読経の順番が、

方便品>如来寿量品>如来神力品>観世音菩薩普門品>提婆達多品(訓読「大智徳勇健にして・・・」)

というものでした。提婆達多品の訓読を最後にもってくる読経を体験するのは初めてだったので
非常に興味深く思い、そこの信者さん達に質問したのですがよくわからないようでしたので、
改めてこちらでお伺いしたいと思います。私の持った興味というか疑問というのは、

①提婆達多品は悪人成仏・女人成仏の品と云われるが、その訓読は供養や因縁消滅の為に読誦される品なのか?
②何故「大智徳勇健にして〜」からなのか?(そこからが重要なのか?)
③この読経方式を自宅の朝夕の勤行で用いてもよいか?(それとも在家はあまり込み入った事はしない方がよいか?)

というものです。

私及び我が家は因縁が深くいろいろな問題が噴出しておりまして、
少しでもそれらの解消をはかる為、今は毎日の読経唱題に力を入れています。
そういう経緯があるのでそこのお寺の読経方式に興味を持ちました。

本来ならばそのお寺の住職に聞くべきなのでしょうが、なかなかお会いする
機会が得られないようなので、申し訳ございませんがこちらの掲示板でお伺い致します。

どうぞよろしくご教授ください。

17佐藤敬:2013/06/20(木) 19:13:52
ドプチェクさんへ

「祈られる側に信仰心がなくては、(祈る側が)いくら祈っても通じないという事になるのでしょうか」
そんなことはありません。
「日蓮系の宗派の中には、病悩の治癒や厄除けの為の祈祷を行なっているところがあるようですが、効果はどうなのでしょうか?
効果抜群!
「他者の事を想っての祈りは、はたして通じるのだろうか・・・?」
当たり前だろ。通じないわけはない。信念を持ってさっさとやれ!それが我々の使命だ。


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