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祈り・祈祷に関する事

6川蝉:2004/11/01(月) 16:07
(続きです)
もし 「大般涅槃経」が、 山川草木に仏性無しと云う立場であるとすると、「非情有仏性」を主張する天台教学と相違する点があることになりますね。

妙楽大師は十義を挙げて「非情有仏性」を説いています。(摩訶止観輔行伝弘決第一の二・天台大師全集 摩訶止観1・96頁)
ただし宝地坊証真の「私記」によると、妙楽大師も草木の発心修行成仏は論じていないようです。

妙楽大師の十義についての宝地坊証真の「私記」の注釈を見てみましたが、天台教学では草木の発心修行成仏を認めていないですね。
>「山川草木悉皆成仏」
は、「一仏成道 観見法界 草木国土 悉皆成仏」の略のようですね。中陰経の文と云われていますが 中陰経にはないそうです。
宝地坊証真がこの文を
「仏眼の照らす所は一色一香も遮那に非ざることなし。故に成仏と云う。始成に非ざるなり。
若し彼の経の如くんば、一切の依正皆已に成仏す。唯だ仏界有り。故に知んぬ、聖に望むれば皆聖、凡に望むれば皆凡なり。金ぺい論に云はく迷悟殊なりと雖も、事理体一なり。故に一仏成道すれば法界、此の仏の依正に非ざること無し」
(天台大師全集 摩訶止観1・98頁)
と解釈しています。

この解釈のおおよその意味は、
「仏眼で見ればすべて法身でないものはないと云うことである。そこのところを指して成仏と表現しているので、草木が発心修行して成仏したという意味ではない。
聖に望むれば皆聖、すなわち、仏にとっては仏界であり、仏界の依正であるから皆成仏しているというのである。
妙楽大師の金ぺい論にも、迷に在る者と悟った仏と境涯(依正)は異なるが、事理体一(別のものでないの意味か?あるいは真如と事象は一体の意味か?)であるから、一仏が成道すれば法界はすべて仏の依正(身・土)でないものはない。」
というような意味と思います。

「山川草木悉皆成仏」といっても、草木が発心修行して成仏すると云う意味でなく、草木は仏界の依報となるということを表現している事になりますね。

天台大師全集には、慧澄痴空の講義と大宝守脱の解説が載っていますが、まだ読んでいないので省いて置きます。


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