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【大石寺教学の研究】質疑応答は此方で

1管理者:2004/09/02(木) 16:17
この度、等板に富士門流系の貴重なレスを書き込んでくれてます直人氏が研究書を出版されました。

大石寺教学の研究

内容
二箇相承の考察
百六箇抄の考察
本因妙抄の考察
御本尊七箇相承の考察
日興跡條條事の考察
大石寺門流のおける宗祖本仏思想の考察
大石寺門流における本門戒壇之大御本尊の考察
附録
宗祖御正墓所在地の考察
近世における要石両山の交流について

です。この考察についての質疑応答は、此方でお願いします。

勿論、不適切な書き込みは削除させて頂きます。

2勉強中:2004/10/25(月) 01:47
初めまして。

直人さん、23日の日蓮宗教学研究発表大会での論考、大変に勉強になりました。
「大石寺教学の研究」も拝読させていただきます。

これからもがんばってください。

3直人:2004/10/26(火) 07:54
勉強中さん、はじめまして。

>大変に勉強になりました。「大石寺教学の研究」

過分なお言葉、ありがとうございます。
本当は、皆様と真正面から向き合ってお話させていただきたかったのですが、恥ずかしながら
演壇の前に立った途端に固まりまして、自己紹介した後のことはほとんど記憶にないのです。
ですから、きちんと伝わったかなと心配していたところです。
想定外の質問もありましたし、自分にとっても勉強になる大会でした。
『大石寺教学の研究』は文章力が拙く、今となっては恥ずかしく思います。今度本を出すときは
もっと精緻なものにしたいと願っています。

4勉強中:2004/10/28(木) 00:30
直人さん、返レス恐縮です。

犀角独歩さんもそうですが、インターネット上で活躍されています方々が演壇に立たれ、研究書も出版される。
私のような浅学な、初学のものにとっても夢と希望のあることだと感じています。

私もいつの日か、皆様のようになりたいと思います。

5直人:2004/11/01(月) 20:55
勉強中さん、こんばんは。

 私は仏教系大学の出身でもなく、立正大学の大学院で専門的に研究したわけでもあり
ません。序文にも書いたようにちょっとしたきっかけからこの道に興味を持ち、その結
果として今の自分があるのですね。
 ですから、勉強中さんが想い続ける限り、学術大会で論考を発表したり、本を出版し
たりすることは決して叶わぬ夢ではないですね。

6直人:2004/11/10(水) 20:03
〔「大石寺蔵板曼荼羅」再考〕

 私は板曼荼羅の成立過程を考証するなかで、その原本を「弘安二年十月十二日」の御筆御
本尊と考えた。それは、弘安二年十月十二日の『伯耆殿御返事』からは日蓮聖人の熱原衆へ
の気遣いが窺われ、熱原衆の安穏無事を祈念した御本尊があったろうと思うのである。板曼荼
羅の脇書に日興上人独自の筆法で「弘安二年十月十二日」と記されている点はかつて弘安二
年十月十二日の御筆御本尊が存在していたことの傍証になると考えた。
 けれども、大石寺は板曼荼羅には「釈提桓因大王」と記されていると云い、これは弘安二年十
一月以降の筆法であるから、直ちに弘安二年十月十二日の御筆御本尊を原本とすることは難し
い。弘安二年十一月以降に熱原法難と関連する何らかの事柄があったろうか。堀日亨師は弘
安三年四月八日を熱原衆の斬首日とした。しかし、この説は大村寿顕氏、在勤教師会によって
否定されている。私としては斬首は弘安二年十月十五日、弘安三年四月八日は斬首ではなく、
熱原衆の追善供養のための御本尊を図顕した日であると思う。日興上人が熱原法難三十周年
を記念して御本尊を書写したのも日蓮聖人がそうした御本尊を図顕していたことを踏襲してのこ
とであったろう。
 とすれば、板曼荼羅の原本のその一つは現存しないが弘安三年四月八日、熱原衆の追善供
養の意義から図顕された御本尊であり、熱原法難という意義から「弘安二年十月十二日」と加
筆したものと思う。年号の下に二行書きで月・日を記す筆法が日興上人独自のものである以上、
板曼荼羅(或いはその原本)に日興上人が関与していたことは動かし難い。
 日興上人は徳治三年四月八日、熱原神四郎追福のために御本尊を書写(重須本門寺蔵)
している。日興上人が同日に複数の御本尊書写をしている例があることから、もう一つ御本尊
があってもおかしくなく、大石寺にも熱原神四郎追福のための御本尊があったろうと思う。それ
が今の板曼荼羅の原形となったものと考える。
 御本尊脇書に「法華講衆」と見られるのは早くとも日行師の時代であるので、おそらくは、日
興上人が御筆御本尊を板に模刻したものがあり、日時師の時代にそれが再治されたものかも
しれない。日時師の時代の大石寺と云えば、所謂「七十二年係争」がようやく終結した時代で
もある。この係争の中で大石寺の重宝が郷門に流出している。また、この当時は重須と西山が
本門寺の正閏を争っていた時代でもある。そうした中で大石寺は持ち出された重宝に代わるも
の、本門寺の正閏を示すものを構築する必要があったのであろう。そこで日時師は「本門戒壇
本尊所在の処を本門寺と号すべし」(日寛師『文底秘沈抄』宗全4−P38)という如く考え、興師
直造板曼荼羅を再治して「本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆等敬白」と加筆し熱原神四郎
追福御本尊を「本門戒壇之大御本尊」へ祀り上げ、新たな重宝とし、またそれによって大石寺
こそが真の本門寺であることを示そうとしたものではなかろうか。

7直人:2004/11/10(水) 20:04
>>6の続き

 板曼荼羅の筆体は首題はおおむね弘安三年五月のもの、「不動明王」は弘安三年五月のも
のよりも弘安三年四月のものに近い。ところで、問題はどの御筆御本尊が原本となったかという
ことである。山口範道氏の「大聖人御本尊宝量」によれば、大石寺には現在、八幅の御筆御本
尊が現存するようであるが、問題の弘安三年四月、五月の御本尊は一幅しかない。この御本尊
は「弘安三年太歳庚辰卯月日」に日禅師に授与されたものとされているが、「卯月日」は山口氏
の誤記であろう。ただ、大石寺は1569年の諸堂焼失、1631年の諸堂焼失、日典師の時代の大
坊焼失と火災に見舞われているのでこの時に原本たる御本尊が焼失してしまったものかもしれ
ない。
 「経」字の旁を「フ」の如く記す筆法や「不動明王」が「く」の如く記し「大廣目天王」の「大」字
と接する筆法が日時師の書写本尊に見られる点は、日時師書写本尊の原本が弘安三年のも
のであったことを語っているように思う。かかる推論が許されるならば、日時師が弘安三年四月
〜五月の御本尊を中心に再治したことは推定に難くない。では、板曼荼羅はの原本は日禅授
与本尊であろうか。否である。板曼荼羅と日禅授与本尊は「華」「経」が著しく相違し、板曼荼羅
の筆体は日禅授与本尊よりも妙海寺蔵のものに近く、別幅の妙海寺型の御本尊があったので
あろう。
 ところで、弘安三年の御本尊には所謂「紫宸殿本尊」も含まれている。この御本尊は本来、門
弟の誰人かに授与されたものであったが、察して云えば日時師が新たな重宝を形成する過程で
授与書を抹消し「紫宸殿本尊」へと祀り上げたものと思う。その当時、本門寺建立と国主帰依は
一体であったからである。こうして本門寺建立時の本尊(「本門戒壇之大御本尊」)と皇室献上
用の本尊(「紫宸殿本尊」)が成立したものかもしれない。

8勉強中:2004/11/12(金) 01:35

直人さん今晩は。

直人さんは本当に富士門流に詳しいですね。

伝「紫宸殿本尊」ですが、大石寺に伝わるものと要法寺に伝わるものとでは相貌が違うそうですね。
大石寺のものは直人さんのおっしゃる82番の曼荼羅だと思いますが、要法寺のものは御本尊集にも不収録の真偽不明のものらしいですね。
日目上人が朝廷に授与するために持参していたと仮定しますと、京都に残った日尊師がこの本尊を預かったと考えるのが自然と思われ、その意味では要法寺の伝「紫宸殿本尊」が真筆であってほしいのですが、どうもその筋書きは信憑性に欠けるようです。
この点につきましても何か観解がございましたらご教示下さい。

9直人:2004/11/12(金) 20:56
勉強中さん、こんにちは。

 要法寺で云うところの「紫宸殿本尊」とは、「紫宸殿曼荼羅御形木原版の「暦応二年庚申八月 
日 上行日尊刻彫之」の十余文字」(『日大上人』P18)ですね。その相貌はオスカーさんによる
と「首題と四菩薩は文永式…全体的に弘安式とも採れるが…偽筆の可能性が濃厚」(門下・門
流史№52)のようです。日尊師は『尊師実録』の中で日蓮聖人の御筆御本尊を模刻して与える
べきと云っていますから、その原本は御筆御本尊であったでしょう。ただ、彫刻の過程で原本と
似ても似つかないものになったのかもしれません。
 今日、要法寺において「紫宸殿本尊」と称されているものは宝暦六年に御所で天覧を賜った
ことに由来しているわけですが、天覧を賜った御本尊も日尊師が彫刻した形木原版と同じもの
であった。だから、形木原版が「紫宸殿曼荼羅御形木原版」と伝承されているのではないでし
ょうか。
 
 日目師は如何なる御本尊を所持して天奏したか。私は萬年救護本尊であろうと思います。た
だ、ここで問題となるのは『副書』ですね。それには御影堂に安置せよとあるからです。しかし、
私は『副書』が日蓮聖人のものとは思いません。「建治元年太歳乙亥六月十七日」(『千葉県の
歴史』資料編・中世3−P1049)と干支を記すのは日蓮聖人の筆法ですが、『副書』の成立時期
が萬年救護本尊の図顕よりおよそ半年後という点は奇異な感がします。また、通例ではこうし
た添書を書くのは日興上人であるからです。日興上人は干支を記しません。
 日郷師と日尊師は日目師の天奏に随行した。けれども、日目師は元弘三年十一月、京都に
て寂し、その遺骨の一部はは京都鳥辺野に、残りの分骨と萬年救護本尊を日郷師が富士に
持ち帰ったのでしょう。その経緯で萬年救護本尊が郷門に流れたのではないでしょうか。 
 保田五代・日伝師は戒壇に法華経を安置するという経巻本尊義を展開していますが、保田十
五代・日侃師は広宣流布の時には萬年救護本尊を本堂に安置せよと云うわけです。日郷師以
降で干支を記す保田歴代としては日伝・日安・日要・日我が挙げられますから、『副書』はそれ
らの歴代、おそらくは、日伝師の偽作ではないかと思います。宗祖御影が郷門に持ち込まれた
のはこの頃ですから、日伝師は戒壇には法華経を安置し、御影堂には萬年救護本尊と宗祖御
影を安置しようとしていたのかもしれません。それが、日我師の時代に大石寺における「本門戒
壇之大御本尊」の伝承が伝わり、日侃師は萬年救護本尊を戒壇本尊に祀り上げたのではない
でしょうか。

 日蓮聖人が本門寺建立時の御本尊を残されなかったように、皇室に献上するという「紫宸殿
本尊」も初期興門にはなかったでしょう。それが、門弟授与の御本尊を「紫宸殿本尊」へ祀り上
げたり、日尊師模刻のものが天覧を賜ったことで「紫宸殿本尊」と称されるようになったのでは
ないでしょうか。
 ちなみに、『御本尊集』№82が「紫宸殿本尊」であることは山口氏が認めています。また『御
本尊集』№111、№116の「所蔵不明」とされる御本尊も大石寺のものです。(『日蓮正宗史の
基礎的研究』P151)

10オスカー:2004/11/12(金) 23:33
今晩は、直人さん
私の手元にある要山紫宸殿本尊をお送りさせて頂きます。
どのように、すればいいですか。
スキャナーが無いのでお許し下さい。

11直人:2004/11/13(土) 00:00
オスカーさん、こんばんは。

 「要山紫宸殿本尊」をお貸ししていただけるということでしょうか。その場合は私の連絡先を教
えますのでフリメでもよいのでメールをいただきたいと思います。

12勉強中:2004/11/15(月) 01:25

直人さん、オスカーさん、今晩は。

なにかすごい方向にお話が展開しつつありますね。

要山紫宸殿本尊を私にも是非拝見させてください。

13磯野波平:2004/11/30(火) 08:33
参考までに、日蓮大聖人御書写の「万年救護本尊」をお写しした板御本尊が大石寺の大講堂に御安置されています。

14直人:2004/11/30(火) 18:27
磯野波平さん、はじめまして。

 大石寺大講堂に安置されている万年救護板曼荼羅は日忠師が板に模刻(『諸記録』1−P70)
したものですね。大講堂には今でも万年救護曼荼羅が安置されているのでしょうか。今はどうか
知りませんが、常在寺の本堂にも万年救護板曼荼羅がある(研教6−P362)そうですね。
 万年救護曼荼羅と云えば、最近『家中抄・稿本』の記述と『家中抄・中』の記述をめぐって質問
されました。(http://blog.livedoor.jp/naohito_blog/archives/9975485.html

15直人:2004/12/08(水) 20:57
ご無沙汰してます。
勉強中さん、よければメール下さい。

16直人:2004/12/30(木) 19:12
〔所謂「両巻血脈抄」の流伝について〕

 興門の相伝書である『百六箇抄』『本因妙抄』の所謂「両巻血脈抄」はその内容から尊門日大系
に属する文献とみて差し支えないが、これらは尊門以外にも伝持されている。保田文書には、

  右、観心本尊抄・本因妙抄、其の外の御大事、何れも日要上人より日杲相承の分
  (『千葉県の歴史』資料編−中世3−P30)

といい、『法華本尊問答抄見聞』に、


  【百六ヶ】に云く、日興は先陣を懸くれば無辺行菩薩、日朗は後陣にひかうれば安立行菩薩、
  日蓮は大将なれば上行菩薩と云々(『興風叢書』3−P66)

といい、これによれば、両巻血脈抄は日要師の時代における保田にすでに伝わっていたことが分
かる。『法華本尊問答抄見聞』は文亀元年(1501)に日要師が語ったもので、これに先立つ文明
十三年(1481)、日教師が大石寺に帰伏している。これによって両巻血脈抄が富士に伝わったも
のと推定される。或いは、日要師は日向に赴いていること、八品派とも交流があったことから、こ
の時、尊門(住本寺・安養寺)と接触する機会があったのかもしれない。
 重須においては『本尊已下還住目録』(富要9−P22)に両巻血脈抄が紛失した旨が記されてお
り、これによれば、武田の兵乱以前の重須においては両巻血脈抄があったもののようである。し
かし、日興上人はもとより日順師の確実な文献に両巻血脈抄の如き思想は見られず、上代重須
に両巻血脈抄があったとは思われない。日教師は大石寺帰伏後、重須にも赴いたと伝えられて
いるので、この時に両巻血脈抄が重須に伝わったと推定される。
 西山におけるこの頃の住持といえば西山八代・日眼師である。日眼師の著作に『日眼御談』が
あるが『日眼御談』には両巻血脈抄の引用を見ることができない。この点から、『本因妙抄』が略
述引用されている『五人所破抄見聞』の著者を西山日眼とする説は否定される。日辰師は辰春
問答において日春師に対して「録内御書を用いずに両巻血脈抄を依用しているのか」(富要6−
P29)と質問し、これに対して日春師は、

  本因妙抄百六箇の事は興上への御付属の抄なり、然れば録内録外の沙汰に及ばず之を
  依用する事なり(富要6−P31)

といっている点は日春師の時代には西山に両巻血脈抄が伝わっていたもののようである。西
山に両巻血脈抄が伝わったのは日眼師以後であると推定できる。かくして、西山十八代・日
順師によって日代相承説が形成されたものと考える。

17直人:2005/01/05(水) 19:18
>>16の補注
〔『五人所破抄見聞』の著者〕

 『五人所破抄見聞』は従来、妙蓮寺五代・日眼師の著書とされてきたが、この説に対して、宮
崎英修教授は奥書の識語・伝奏の記述から西山八代・日眼師と推定された。しかし、私は著者
を西山日眼師とすることは難しいと思う。西山日眼師の著書として『日眼御談』(成立年代不詳)
があるが、両巻血脈抄の引用を見ることができない。ところで、『五人所破抄見聞』には、

  日興も寂を示し玉ひ次第に譲り玉ひて当時末代の法主の処に帰り集る処の法華経なれば
  法頭にて在す也(宗全2−P515)

といい、妙法が代々の法主に伝わるというのである。こうした所謂「貫首絶対論」は日教師の大
石寺帰伏後の著書である『類聚翰集私』は長享二年(1488)、『六人立義破立抄私記』延徳元年
(1489)にしばしば見られる思想である。しかし、西山日眼師はこれに先立つ文明十八年(1486)
に寂している。この点から、西山日眼師を著者とすることは難しい。
 仮令、両巻血脈抄が日教師の大石寺帰伏後直ちに西山に伝わり、つまり、『日眼御談』成立
後、文明十八年までの間に成立したとする考えもあるかもしれない。けれども、『五人所破抄見
聞』を読めば、両巻血脈抄の引用が見られるが決して正確に引用しているとは言えない。
 これらの点から、私は『五人所破抄見聞』の著者を次のような人物と考える。

  ○ 両巻血脈抄の眼福を得なかった人
  ○ 日教師の学説の影響を受けつつ、日教師の著書を見ず−伝聞して記した人

18直人:2005/01/14(金) 02:13
〔興門と天台恵心の関係について〕

 私は拙書の中で大石寺の本仏論について、『一帖抄』等を引用して、

  こうした中古天台恵心法門は大石寺門流における宗祖本仏思想の構造と極めて酷似して
  いるのである。(中略)大石寺門流は中古天台恵心法門を基盤として宗祖本仏思想を形成
  し、釈尊本仏思想から宗祖本仏思想へと変遷していったものであろう。(P80〜81)

と結論づけましたが、訂正します。
 日時師の学説を伝える直接の文献は現存しないが、真実、日時師が恵心法門を理論基盤と
していたのであれば日有師も恵心法門を理論基盤とした本仏論を展開ことは推定に難くない。
しかし、日有師は『二帖抄』を相伝されながらも恵心法門を理論基盤にしていない点は当時の
大石寺教学が恵心法門の直接的影響を受けていなかったことを物語っているのではないだろ
うか。
 では、興門教学は恵心法門と無関係か。否である。しかし、これは大石寺よりもむしろ尊門日
大系が大きな影響を受けたものであろう。日大師は『三種法華聞書』において恵心流口伝法門
を伝えている点からすれば、日大師以後の尊門において恵心法門が研鑚され、その過程で両
巻血脈抄が、それより少し後に『文句略大綱私見聞』を土台として『御義口伝』が偽作されたの
ではないだろうか。
 しかし、日教師の改衣により、両巻血脈抄が大石寺にも伝わり、そうした相伝書は日精師に
よって整理され、その後、日寛師に至って大石寺教学はその教学の体系化を見るのであるが、
歴史を見たとき、日寛師の学説というのは尊門教学(日教の学説)の継承、そして、その当時
大石寺に伝わっていた恵心法門を摂取したものといえるかもしれない。
 
 諸賢の御叱正を賜れれば幸甚です。

19磯野波平:2005/01/21(金) 08:46
大石寺大講堂には今でも万年救護御本尊が御安置されています。昨年秋に登山して唱題行のときに見ました。

20直人:2005/01/27(木) 23:28:21
磯野波平さん、こんばんは。

 大講堂の御本尊が万年救護本尊とのこと、ありがとうございます。しかし、この万年救護本尊
はどのような所以で大石寺に安置されているのでしょうか。
 『家中抄稿本』には日精師の時代、常在寺には万年救護本尊があったといい、『家中抄』には、

  この年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり、日興より日目に
  付属して今房州に在り、此西山に移り、うる故に今は西山に在るなり(富要5−P154)

といい、日精師の時代、万年救護本尊は西山にあり、その西山は大石寺と通用があったようで
すからその時に模刻され、それが常在寺の本堂に安置されたのでしょうか。では大講堂の方は
というと、日忠師の時代には万年救護本尊は保田に返還されていたようですから、どのような所
以で日忠師が模刻したのか興味深いところです。

21富士:2005/04/06(水) 18:07:22
直人さん。
緊急ですので、見ていたら例のチャットへお願いします。

22直人:2005/09/15(木) 19:08:06
 管理人さん、久しぶりに投稿させていただきます。

〔『本尊抄得意抄添書』について〕

 二箇相承を論じる時『本尊抄得意抄添書』の真偽が問題となる。『本尊抄得意抄添書』におけ
る問題の箇所は、

  興上一期弘法の付属をうけ日蓮日興と次第日興は無辺行の再来として末法本門の教主日
  蓮が本意之法門直受たり、熟脱を捨て下種を取るべき時節なり(宗全1−P44)

である。日興上人を無辺行菩薩と位置づける文献といえば、まず両巻血脈書が思い浮かぶが、
日順師の『日順阿闍梨血脈』に「殆ど無辺行の応現か」(宗全2−P335)とあり、日順師は日興
上人を無辺行菩薩の再誕と考えていたもののようである。ただ、「応現か」といって断定に至って
いない点は、日興上人を無辺行の再誕と見る思想はこの頃から萌芽していったということを物語
っているように思われる。
 『日興上人御遺告』よれば、日興上人は久遠実成釈尊を本門教主と見るのであって「末法本門
の教主日蓮」という点は大いに疑わしい。日蓮聖人を本門教主と位置づけたのは尊門の日教師
である。日教師は両巻血脈書を富士に伝えた人であるので、この時に『本尊抄得意抄添書』が成
立したのだろう。
 だいたいにおいて、『本尊抄得意抄添書』末尾によれば、

  下江房日増(宗全1−P45)

に宛てられ、それが今日、佐渡世尊寺に存するという。『本門寺並直末寺院縁起』(P353)によれ
ば、佐渡世尊寺は開山を日興上人とし、開基を下江房日増とするのである。日増師は日興上人の
教化によって文永十年(1273)、世尊寺を法華道場に改めた。けれども、『富士年表』によれば、
建治元年(1275)の項に、

  6.22 佐渡世尊寺2代下江房日増寂84(過)(『富士年表』P34)

と記されている。御宗門の『日蓮宗年表』も殆ど同じ見解で相違は「6.22」のところを「6.1」として
いるのみである。徳治3年を西暦に換算すると1308年であり、これは日増師寂後33年に当たるの
である。
 これらを勘案した時、私は『本尊抄得意抄添書』の正筆であるとは到底考えることができない。

23直人:2005/09/15(木) 19:11:31
訂正

〔誤〕『本尊抄得意抄添書』の正筆であるとは
〔正〕『本尊抄得意抄添書』が日頂師の正筆であるとは

24HAPPY:2005/09/15(木) 23:33:30
 こんばんは。今、直人様著「大石寺教学の研究」を読み、石山教学を勉強している学会員です。

 僭越ながら質問させていただきます。

 「大石寺門流における宗祖本仏思想の考察」の72ページに、

 『したがって、宗祖に主師親の三徳が具備されておられるからとして、
   
   日蓮は日本国の諸人にしたし父母なり
   日蓮は当帝の父母、念仏者、禅衆、真言師等が師範なり、又主君なり

  という御文を宗祖本仏思想の文証とすることはできない。』

 とあります。上記の2つの御文はどう解釈すればよろしいのでしょうか? 私たちは、主師親の三徳を具備されている方は仏だと教え込まされています。私は、宗祖本仏論否定者なのですが、いつもこの御文で考え込んでしまいます。直人様はどのような解釈をされているのかお教えください。

 私は教学が初心者なので、レベルの低い質問ですが、どうぞご教示ください。

25直人[TRACKBACK]:2005/09/16(金) 04:16:27
HAPPYさん、こんばんは。

 私ごときに「様」はいりません。気軽に「さん」づけでお願いします。

>日蓮は日本国の諸人にしたし父母なり
>日蓮は当帝の父母、念仏者、禅衆、真言師等が師範なり、又主君なり

 前者は『開目抄』、後者は『撰時抄』の御文ですね。P71に『撰時抄』の御文を引用しています。
そこに「仏の御使いとして南無妙法蓮華経を流布せんとする」とあります。つまり、日蓮聖人は「仏
の御使」、つまり上行菩薩として末法今時に南無妙法蓮華経を流布されようとしたのですね。
 また、P71に『下山御消息』の御文を引用しています。「一には父母也、師匠也、三には主君の
御使也」というものです。ここに日蓮聖人の三徳観が如実に表れているといえるでしょう。日蓮聖
人はあくまでも「主君の御使」なわけです。なので、日蓮聖人は『下山御消息』において、

  釈尊は我等がためには賢父たる上明師也聖主也。一身に三徳を備へ給へる。
  (定本P1319、学会版P348)

と、釈尊にこそ主師親の三徳が兼備されているといわれるわけです。それが、『祈祷抄』の「釈迦
仏独り主師親の三義をかね給へり」ということでしょう。HAPPYさんがいわれるように学会教学で
は「主師の三徳を具備されている方は仏」となりますが、日蓮聖人に三徳があるとはいえ、あくま
でも「主君の御使」なわけで、三徳具備=本仏であれば、釈尊こそ本仏ともいえるわけです。
 また、>>22に引用していますが『日興上人御遺告』というものがあります。これは日道師が元徳
四年に筆録したもので、題名からして日興上人の門下に対する「遺言」「遺誡」でしょう。その中に、

  日蓮聖人云く本地は常光寂光地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首也久遠実成釈尊の最
  初結縁令初発道心の第一の御弟子也。本門教主は久遠実成無作三身寿命無量阿僧祗却常
  住不滅、我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数の本仏也。(宗全2−P253)

とあります。すまり、日興上人はあくまでも日蓮聖人を上行菩薩と見、本仏は久遠実成釈尊とする
わけです。私は「大石寺門流における宗祖本仏思想の考察」の中で日順師に宗祖本仏論があると
記しました(P79)が、川蝉さんとの論談(下記URL参照)の中で私の解釈は総計であったという結
論に達しましたので訂正致します。

  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3171/1083994937/r77-79

26HAPPY:2005/09/17(土) 01:44:02
直人さん

 ご丁寧なご教示をありがとうございます。

 まだ、教学は初心者でして難しいことはわかりませんが、直人さんの著書を何度も読み返しております。

 また疑問等があるかもしれませんので、その時は宜しくお願いいたします。

27直人:2005/09/17(土) 02:03:04
HAPPYさん、こんばんは。

 拙書をご高覧下さり、ありがとうございます。私はいつでも此処にいますので些細なことでも
遠慮なく質問して下さい。今後ともよろしくお願い致します。

28直人:2005/10/12(水) 19:46:18
今日は大石寺蔵「本門戒壇之大御本尊」が図顕されたと伝わる日である。今更詳論するまでもな
く板曼荼羅は楠でできているのであるが、七面山には楠がないと指摘されたのは安永弁哲師であ
った。これに対して細井日達師は大野山の楠を論拠として身延にも楠がある、さらに大野山の楠の
樹齢は1200年以上であるという。ところで、大野山の楠は昭和41年に身延町の天然記念物に指定
され、樹齢は330余年と推定されたのである。また、身延山の本堂付近に楠があることも大石寺門
下による反論材料となっている。幸いにしてというべきか『慧妙』には大野山と身延山の楠の写真が
載る。

  http://the49.hp.infoseek.co.jp/emyo_g/em1705b2.gif

 下の身延山の楠は大野山の楠よりも一回り小さいことが分かる。それは換言すれば身延山の楠
は大野山の楠の樹齢330余年を下回ることも意味するだろう。事実、山梨県下最大の大楠は大野山
の方であって、身延山の方は天然記念物にさえ指定されていない。だいたいにおいて大野山や身延
山に楠が育成しているからとて日蓮聖人が板曼荼羅を図顕した少佐になり得まい。なぜなら大石寺
の所伝によれば、楠を得たのは七面山であって身延山でも大野山でもない。
 それでは七面山はというと日蓮聖人滅後十六年にあたる永仁五年(1297)に日朗上人によって開
闢された(『身延山史』『七面山』)という。この点、堀日亨師が「七面は後世の勧請にして祖師の在世
に之なし」と指摘された点と合致しよう。ところで、大石寺は楠の育成の適地として次のようにいう。

  楠が生育する適地は暖温帯湿潤気候の、標高五百メートル以下の場所である(中略)日蓮大聖
  人がお住まいになった草庵(身延山久遠寺)は標高三百数十メートルの地である。
  (『暁鐘』363−P51)

 『日蓮宗事典』によれば七面山の標高は1982メートルである。また、今日、七面山には七つの池
があるといわれ、今日では一の池、二の池が確認されている。その所在地は山頂であるり、これは
楠木が育成するのに適している標高のおよそ4倍にあたり七面山は楠の生育に適していないことが
分かる。事実、大野山の楠や身延山の楠を論拠として提示することはできても七面山の楠について
は何ら提示するところがない。

29慎之輔:2005/10/13(木) 09:28:04
直人さんおはようございます。
楠の話、面白いですね。
さて、智学先生の「日蓮聖人の教義」がよく大石寺系では真似しただの盗んだ
と書かれたりしますが、彼らは何を根拠にそのように言われるのでしょうか?
日蓮本佛諭と日蓮主義を混同するような顛倒の方々に何を言われようとかまい
ませんが、いちおうどういった観点からそういった事になるのか知りたいと思
います。

30直人[TRACKBACK]:2005/10/13(木) 18:37:11
慎之輔さん、こんばんは。

 大野山は慶長十三年(1608)の開創ですね。昭和41年(1966)の時点で推定樹齢が330余年であ
ったということは、その時点から330年を遡っても寛永十三年(1636)で、日蓮聖人滅後355年の時で
す。つまり、大野山の楠は開創後2.30年の間に何処かから植樹されたものでしょう。だから、大野山
に楠があるといっても大石寺門下には何ら有力な傍証にはなり得ないわけです。むしろ、聖人滅後3
00年代以後の楠しか提示できず、さらには肝心の七面山は育成に適していないという点において板
曼荼羅造立の大前提が崩れ去るわけですね。だからなのか、堀師も板曼荼羅について「研究の余
地が存ずる」といい、大石寺門徒の河合隆徳氏も原本たる紙幅曼荼羅があったと考えたのでしょうが、
今日の大石寺はこうした「紙幅曼荼羅原本説」に否定的で、水島公正師は平成9年8月26日の第46
回全国教師講習会明確に否定しています。もはや、言い逃れができない状態となっているわけです。

 さて、『日蓮聖人の教義』の件ですが、残念ながら手元に『日蓮聖人の教義』がありませんので、智
学居士がどのように主張されているかはいま一つ分からないというのが本音です。ただ、大石寺の末
寺である常泉寺法華講員であった松本佐一郎氏が『尋勝論』という国柱会批判の書を著しており、こ
れは手元にあります。ここでの批判対象は『日蓮聖人の教義』ではなく、『宗門之維新』ですが、結論
として「居士の精神は最も良く日蓮正宗に於て発揮し得べし」という項目を設け、その中で、

  護国同志諸君よ。驚いてはいけない。怪しんではいけない。居士が一生をかけて唱導した多くの
  法門の精神は、実は富士門徒が七百年の悲風惨雨を貫いて命がけで持ち伝えてきたものである。
  試に思へ。本尊を統一せよ、法主は一人に限れ、化導を統一せよ、本山を統一せよ、富士に国立
  戒壇を建てよ、といふ宗門之維新の主張、居士一期唱導の根幹は、皆これ富士門徒のものでは
  ないか。(『尋勝論』P28)

といっています。参考までに。そういえば、戒壇論、ある時は大石寺の教義であるといえば、都合が
悪くなると「国立戒壇論は田中智学(居士)の唱えた邪義だ、大石寺の教義ではない」といっていま
したね。
 
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3171/1065657732/r119-120

 最近調べ物をしている途中に気づいたことなのですが、智学居士は北山を改革しようとしていたら
しいですね。また、要法寺とも交渉があったようで少なからず興門との接点があったのですね。

31慎之輔:2005/10/13(木) 19:16:09
直人さん早々にご返事ありがとうございました。
さすがによく勉強していらっしゃいますね。m(__)m
またよろしくお願いいたします。

32耀一:2009/12/04(金) 01:34:46
32直人さん、はじめまして輝一です。
 20でのご疑念ですが、大講堂完工を前に、保田妙本寺の当時の貫主・富士日
 照師が大石寺に帰一しました。戸田会長もよく決心したとほめられていました。
 完工式で大石寺64世日淳師が妙本寺の帰一を記念して、あらたに万年久護のご本尊
 を三体、板ご本尊になおしました。当時は写真にとって、ごく薄い印画紙に焼き
 板に貼って彫刻しましたから、それまでの模刻とは一線を画す立派なでkでした。
  うち一体を大講堂に護安置したという日淳師の説法がありました。そのとき
 大聖人と日興上人の位牌をご本尊の左右に安置したという説法が日淳師からありました。
 同時に3体を模刻し東京池袋常在寺、と保田(?)に納めたと記憶しています。
 淳師の肉声を今日も記憶しています。富士門でも、佐渡始顕、文永11年の佐渡始顕は、
 弘安2年の戒壇大ご本尊いたる節目節目で大事にしていましたから、よい記念になった
 とおもいます。学会の戸田会長も大聖人のご化導における万年救護本尊の意義を以前から
 講義していました。

33輝一:2009/12/04(金) 01:46:44
上記、位牌は日興上人、と日目上人だったでしょうか。
訂正します。

34輝一:2009/12/04(金) 02:48:19
直人さん
またまた訂正です。
32の10行目「文永11年の佐渡始顕」は「文永11年の万年救護」の誤りです。
たびたび、お騒がせして恐縮です。

35直人:2009/12/05(土) 18:44:03
輝一さん、はじめまして。

万年救護本尊に関する御教授、有難う御座います。
つまり、安房妙本寺が大石寺に帰一した際に万年救護本尊が三体、模刻され、
その一つが大石寺大講堂に安置されているものである。これは理解できます。

「同時に3体を模刻し東京池袋常在寺、と保田(?)に納めた」というのは
位牌のことと解してよいでしょうか。

36輝一:2009/12/12(土) 17:34:10
直人さん、おそくなりました
位牌ではなく、万年救護ご本尊を3体模刻したとの日淳法主(65世・訂正)の
話でした。3体目は保田ではなく富士門では由緒ある某末寺と記憶しています。
保田は万年救護御本尊を日常的には公開安置していません(板であっても)
お虫払いのおりに拝観できます。他の紙幅御本尊が軸に巻いて桐箱におさめる
姿で保存されていますが、万年救護御本尊は縦長の本紙の周囲を表装して、z字
状にたたんで保存されています。

37輝一:2009/12/12(土) 17:48:33
位牌の安置の由来は、建物が講堂ですから、ご本尊・日蓮大聖人、興尊、目師
の三師の常住此説法の姿を表わす意味という説法もありました。(出張の時差
ボケでたびたびの訂正と誤字、お許しください)


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