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門下・門流史関係

105川蝉:2013/03/11(月) 09:22:26
明星さんへ、その一。
安土宗論の資料を所有していないので、資料を検討しての私の見解は現在の所、述べられません。
「日本仏教全書97」に、日蓮宗日淵の「安土宗論実録」・「信長公記」・日蓮宗日著の「安土問答」の三が収録されているそうです。法蔵館の「仏教大辞典によると、「前半は日著仮託の偽書、後半も後世の編集である」としています。
明星さん紹介のブログの見解が、如何なる資料を基に論述しているか解りませんが、かなり一方的な理解の様ですね。
「日蓮宗が武力戦闘集団で有った」旨を語って居ますが、その前に日蓮宗の教線拡大(武力戦闘力に依る勢力隆盛ではありません)を危惧した比叡山の僧兵による「天文法難」が起こり、そのご幾年かは、日蓮宗寺院は京都から追放され、その後、漸く京都布教を許されたので、日蓮宗の布教が再び盛んになり教線拡大著しく成った時点で起きたのが安土宗論です。
「日蓮宗事典」に、日蓮宗の一般的な安土宗論観が説明してあるので、ご参考に以下、紹介します。
●天正七年(一五七九)五月、織田信長の命による日蓮宗と浄土宗との安土宗論の結果、日蓮宗側が蒙むった法難をいう。安土宗論の発端は次のようにいわれる。普伝日門は信長の膝下の安土城下にきて猛烈な折伏伝道を行い、これによってまず土地の有力者大脇伝介、建部紹智は日門の熱心な帰依者となり、かくして、毎日一〇〇人、二〇〇人という改宗者を生じたという。あたかも天正七年五月中旬頃、関東より浄土宗の霊誉玉念という長老が安土城下にきて説法していた。そこへこの大脇伝介、建部紹智の二人が説法の座で疑義を問うたのに対し、玉念は「仏法の深義は若輩の汝らに話してもわからぬ、汝らのたのむ宗門の僧を出せ」といって、七日の法談を一一日間にのばしたことより端を発し、宗論へと進む。しかし本宗論の背景には信長の仏教弾圧政策があり、また浄土宗と信長の計画によって周到に準備されていた。浄土宗の僧聖誉貞安はかねてから信長の寵を得、新しく出入を許されていた人物であったが、安土における日蓮宗の急速な発展をみて痛憤し、これを信長に訴え、信長にとってもまた、かねてから各所に展開された日蓮宗徒の烈しい折伏伝道は、一個の強力な社会勢力として、天下統一を企図する信長にとって無視できぬ存在であった。信長はたえず自身の制覇の障害となるものを除したという。例えば比叡山の焼打ちや石山本願寺との対立などにみられる仏教弾圧政策があり、それ故信長は、これを機に浄土宗との宗論を命じ、日蓮宗の弾圧にのりだしたものといえる。


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