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門下・門流史関係
100
:
川蝉
:2007/02/25(日) 10:13:33
ララさん初めまして。
真如(宇宙の理法)を単なる理法、真理と見ないで、人格的(理智身)なものとし、一切の諸法はこの法身佛の現れ、流類とし、法界全体を法身仏と考える思想と、
寿量品の久遠実成の教説は、凡夫も無作三身の本覚の仏であることを顕すためのものであると解釈する思想とが、一緒になった思想が中古天台思想と云えましょう。
中古天台の亜流では、ついには、迷いの衆生の振る舞い(行為)は、そのまま仏の行いである、と考えて、修行軽視、釈尊軽視に、おちいった思想も出たようです。
日蓮聖人は、真如をそのまま無作三身の本覚の如来とは捉えていないのです。
久遠実成は、釈尊が三身具足の無始の古仏であることを教示するものであると、日蓮聖人は解釈されています。
十界互具論から、衆生も仏界(仏心)を具していると見ますが、あくまで、妙法五字を介して、釈尊の智徳(因行果徳の功徳)を譲与されなければ、仏心の顕現は出来ない、と云う思想です。
真如を無作三身の本覚佛とし、総ての存在は本覚仏であると考える一元論から、衆生本来仏なり、と云うのではなく、十界互具の実相論から、衆生も三身即一の仏を具している、としているのが、日蓮聖人の立場でしょう。
もし中古天台の思想と同じものならば、日蓮聖人の法門は、内相承の法門とか、別頭の法門とか、神力別付の法門であるなどと、云えないことに成ってしまいます。
ですから、中古天台の思想と酷似している御書は、日蓮聖人の思想としては傍系であるか、偽書と判断されています。
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