したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

御本尊のご開眼について

56川蝉:2005/05/24(火) 14:42:32
顕正居士さん今日は。

「四に體用に約して本迹を明かすとは。昔最初に修行し理に契ふに由り、法身を證するを本と為す。」

「六重本迹」の中の
「理事本迹」や「理教本迹」の場合は、「本」は「無住の理」「本時の実相真諦」「実相の真本」と説明されているので、「理法」を指していますが、
體用本迹の場合の「本」とは、
「修行し理に契ふ」「法身を證する」身ということですから、慈悲救済の念熱い人格的仏身(報身的)を指して「本」としていると思います。

「初に得る法身本なる故に」とありますが、ここに云う「法身」とは、人格的仏身(報身的)を指していると思います。
法身は真如実相の理をも指しますが、涅槃経では、悟りを開き(真如を悟り)常住不滅金剛不壊の身となった仏身をも法身と表現しています。この用例に順じて、一分中道を証悟した菩薩を「法身の大士」とか「法身の菩薩」と云う用例もあるわけです。

このように體用本迹を理解して、綱要の日導上人や茂田井教亨師は、中央題目を「本」(体の三身本仏・本体仏)とし右側の釈尊を「迹」に配当したのだと思われます。


凡夫が仏の教の媒介なしに直接に実相真如を証悟して行くことはできません。故に単なる法身としての実相真如の理法は本尊と成り得ません。

山川智応居士の以下の解説をなるほどなと納得しています。
「最初に覚った仏と法とは不二一体のものである。能覚の内容を能説の根本原理として、一言に説き顕したのが南無妙法蓮華経の五字七字であるから、本尊問答抄に云うところの法本尊とは、決して本有の理乗二法を云うのではなくて、覚法の直潟たる根本教法、神力別付の結要の大法を指している。神力結要の題目は本仏の御覚り一念三千の結論、根本教法で、本仏の心であるから、名は法で体は本仏の覚りである。すなわち『名法体仏』である。
これに対して、報恩抄に『本門の教主釈尊を本尊とすべし』とある本尊形貌の中尊は本仏の一念を妙法蓮華経の智慧光明であるから、これは『名仏体法』である。(取意)」(本門本尊唯一精義50〜52頁)

「御本尊を拝見すると、ただ妙法蓮華経ではない。理法をば妙法蓮華経と仏が結論的に名づけた。それが法である。南無とは帰依帰命である。帰依帰命ということはどうしても人でなければならない。南無妙法蓮華経ということは、本有の法に帰依帰命していることだ、本有の法に帰依帰命していることは何だ、この七字の全体がそのままこれは人格を示したものである。すなわち法仏一如の人格を示したものだ。所謂無始の妙法蓮華経に南無すること、それをば絶対的に完全に実行している人格は何だ、それは無始の仏界である。(取意)」(本門本尊論168頁)


ご紹介の執行海秀教授の『日蓮宗の本尊』掲載の「みのぶ」が手元に残っていました。
執行海秀教授は
「観心本尊抄には曼荼羅の用語がなく、それに対する明瞭な解説がない。曼荼羅そのものは、本尊でなく、本尊の原理本質を図示された図表である。日蓮聖人の正意本尊は久遠の本仏で、その表現形式は一尊四士の造立にある」
等と主張されたとのことです。
一尊四士も本尊とすることには異論はありませんが、曼荼羅は本尊でないという見解はだいぶ無理があると思っています。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板