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御本尊のご開眼について

55顕正居士:2005/05/24(火) 14:10:34
ところで「体用」の「体」を「実体」と理解すると、「体用論」は全く非仏教的なものにみえます。
仏教、特に大乗仏教は現象の背後にあって、永遠に不変である実体というものの存在を認めません。
「体用」が中国ではどういう意味に使われるのか、中国社会科学院の蒙培元教授はこう解説します。

「中国哲学も「本体論」をいうが、西洋哲学とは非常に大きな相違がある。西洋哲学のいう「本体」
とは「実体」である。これは哲学において最後に要請されるものである。中国哲学のいう「本体」
も要請されるものではある。しかしそれは「実体」ではなく、「本源的なもの」あるいは「潜在
的なもの」である。なんらかの創造や発展の可能性であって、それが実現して作用、効能となる。
これがつまり中国哲学の「体用観」である」(『実体と境界』)
別の文章では「心に体用有り、未発の前は是れ心の体、已発の際は是れ心の用なり」(朱子語類)
を実例であるとします。
http://www.confucius2000.com/poetry/shtyjj.htm

さて、曼荼羅の中尊と釈迦仏について「体用本迹」を述べた御抄があります。『諸法実相抄』です。

「妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」

「法身五道に流転するを名けて衆生と曰ふ」(不増不減経)ので、中尊を仏と解すると、それは
法身の意味ですから、理即の仏である衆生のことにもなります。「体」とは「潜在的なもの」を
いうから、凡夫のほうが「体」であり、仏のほうが「用」です。そして「体」が本、「用」が迹
です(体用本迹)。「五百塵点は迹仏の寿命、森羅万像は本仏の寿命」(文句略大綱私見聞)。
しかし凡夫がほんものの仏であるとか、釈迦仏よりもえらい仏だといっているのではありません。


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