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御遺文関係は此方で

106川蝉:2004/05/11(火) 14:27
宗祖の祈願で病悩が癒えたのは伊東朝高と、漠然とインプットしていました。朝高でなく祐光だったんですね。

103 慎之輔さんが
>もし伊東八郎左衛門が船守と弁殿の同一人物であるならば、立像
>仏を御聖人はなぜ生涯大切にされたのでしょうか?

と云われていますが、感情的には、伊東八郎左衛門が、宗祖の教化を受け、生涯妙法の信仰を続けた人で有って欲しかったですね。
後で妙法に背いた伊東八郎左衛門から、貰った釈尊像では何だか有り難みが、その分だけ減るような・・。

鎌倉龍口寺の新倉貫主さん著「日蓮聖人伝百話」を見ましたら、
海中出現の釈尊像に言及している「船守弥三郎許御書」は、真蹟不伝で、「文体的にも、内容的にも、疑問点が多い」(126頁)
とし、さらに
「冨士門流所に伝わる『五人所破抄』に、「日蓮聖人所持の釈尊像は弘長配流(伊豆流罪)の昔、これを刻み、弘安帰寂の日も随身せり。と記している(取意)」と言及しています。

新倉貫主さんが「五人所破抄」は、室町初期の建武年間(1334〜8)頃に成立していたと考えられるとしています。
祖滅50年ごろには海中出現の伝承がなかったことになりますね。
海中出現を記す「船守弥三郎許御書」は「御遺文辞典歴史編」に依ると、「祖滅300年ごろの本満寺御書に初めて名称が出てくる御書で、身延期の御書を下地にしたものでないか」と、解説しています。
とすると、本当は海中出現の像でなく日蓮聖人が自ら刻まれた釈尊像であったという可能性が大ということになりますね。

むかしに読んだ物語風な祖伝は鵜呑みにできないなと云う感じです。


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