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御遺文関係は此方で

103慎之輔:2004/05/10(月) 18:57
管理人さんおひさしぶり(^○^)
信濃守が八郎左衛門祐光というのは吾妻鏡や伊東家系図、仁科?系図からも
間違いないようです。実は吾妻鏡のサイトや工藤、伊東家関連のサイトで
調べました。原図は見ていませんが、あだ討ちで有名な曽我兄弟も縁者なのですね。
工藤祐経の兄弟が祐親でその子が、祐通、祐泰(曽我兄弟の父)祐清の兄弟
祐清の子が祐光(信濃守)その子が祐兼、または朝高で、僕の見た資料では
朝高では無くて祐兼が登場していました。工藤祐経は源頼朝についていたので
北条泰時や政子が政権をとった後では工藤祐経の家系が身内人となり信濃の守
になることは不可能であろうと思いますがどうでしょう?
祐経は1198年に名前が上がっており、この時17歳であれば1261年の
時には78歳、ましてや弁殿御消息の時点では年をとりすぎているような気も
しないではありませんが、どうも今ひとつわかりません。
でも、もし伊東八郎左衛門が船守と弁殿の同一人物であるならば、立像仏を
御聖人はなぜ生涯大切にされたのでしょうか?
私には弁殿御消息の伊東八郎左衛門と船守弥三郎許御書の地頭の伊東は別人だと
思うのですが?
(なんか脈絡がなくてすいません<(_ _)>)

また、伊東家はもともと工藤氏で曽我兄弟のあだ討ちは親族の不動産をめぐる
争いが発端ですね。歴史研究家の中には曽我兄弟のバックに北条氏がいると
考えていられる方も多いようです。余談


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