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本門の戒壇について

1野菊:2003/10/09(木) 09:02
またまた新スレッド作ってしまいました。<(_ _)>
本門の戒壇というとすぐ国立だの富士山だのとなってしまいますが、
私は一番重要なのは、自誓戒ということが本門の特徴だと思うのです。
偉い坊さんから授かるのではなくて、自らすすんで御本尊に誓う。
折伏といえどもこの例外ではなくて、説き伏せて、泣き脅して(笑)
某教団などとは違い、我々はそんなことはしませんが、そんな方法で会員を
増やしたところで、他人に強制されて立てた誓いでは本門の戒壇ではないわけです。
どうでしょう?

115空き缶:2004/05/09(日) 21:35

 直人さん、ご快諾ありがとうございました。
 出典の付け加えと、訂正をして掲載したいとおもいます。

 また新しい寄稿も、わたしにとってとてもタイムリーな話題です。
 現在某掲示板にて創価学会員と思われる方と論議しています。是非参考にさせていただきます。

 でも、日蓮正宗宗門の方や創価学会の方との議論は疲れる上、身にならないのできりのいいところでやめようかと思います。
 日蓮正宗宗門と創価学会は、ネット活動家が多いのか、はたまた多重なのかわかりませんが、一人に複数で噛み付いてきますから本当に疲れますよね。
 まあ、根本的にはチョッとしたことで「カチン!」ときて、長々付き合ってしまう私に全て問題があるんだと思いますけど。

116直人:2004/05/10(月) 23:33
空き缶さん、こんばんは。

>是非参考にさせていただきます。
 
 こんな文章でも何らかのお役に立てれは嬉しいですね。

>長々付き合ってしまう私に全て問題があるんだと思いますけど。

 私は今となっては基本的に大石寺系の信徒会員と討論しませんが、あまりにも
ひどい誹謗をしてくる場合は彼らにとって反論不能の書き込みを投稿してしまいます。
 (手加減してやれって言う人もいますが異流義破折に手加減なんかあるもんです
かってんだ!(笑))

117直人:2004/05/10(月) 23:36
>>113の続き

 池田氏は1959年5月3日・第二十回本部総会において、
  
  大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべき、どうしても通ら
  なければならないのが、創価学会の選挙なのでございます。(『会長講演集』4−P81)

と述べている。けれども、真実、戸田氏が云う如く「日蓮正宗の国教化」「衆参両院の議席獲
得」「政権獲得」を目指さないのであれば、「関所ともいうべき、どうしても通らなければならな
い」などとしなくてよいはずである。
 もっとも、戸田氏によれば、国立戒壇は万民一同が日蓮正宗に帰伏し、かつ、国会の可決
を以って建立されるとする(>>112)のである。かくの如く行うのであれば、創価学会員を政界
に進出させ、一定の議席を獲得しなければならない。こうした戸田構想を具体化したものが池
田氏による《学会青年部内閣構想》であったのであろう。
 池田氏は1960年6月10日・中部総支部幹部会において

  創価学会は衆議院には出ません。なぜかならば、あくまでも宗教団体ですから。政治団
  体ではありません。 (『会長講演集』1−P86〜87)

と云い、1961年6月「文化局の使命」と題する巻頭言において、

  われらは政党ではない。ゆえに、けっして、衆議院にその駒をすすめるものではない。参議
  院ならびに、地方議会等、その本質にかんがみて、政党色があってはならない分野に、人
  材を送るものである。(『巻頭言・講義集』1−P33)

と云うのである。しかしながら、この《衆議院不進出路線》はわずか4年で破棄されるのである。
かくして、1964年5月3日・第二十七回本部総会において、

  公明政治連盟を一歩前進させたい。すなわち、公明政治連盟をば、皆さん方の賛成がある
  ならば、王仏冥合達成のために、また時代の要求、民衆の要望にこたえて、政党にするも
  よし、衆議院に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがでございましょうか
  (大拍手)それでは全員の賛同を得ましたので、これをもって決定とします。
  (『会長講演集』12−P175)

と云い、公明党結党の既成事実を形成するのである。その後、1964年6月30日・第七回学生
部総会において、

  御書には「国立戒壇」ということばなどはどこにもありません。戸田先生も、ちょっと「国立
  戒壇」ということばをもらしたことがありますが、私も先生がおっしゃったから申し上げたこ
  とも一、二ありますけれども、御書にも日興上人のおことばにも、日寛上人のおことばにも
  「国立戒壇」ということばはないのです。「戒壇」といえば「本門戒壇建立」となるのです。
  (『会長講演集』11−P214)

と云い、「国立戒壇」の名称放棄を行うのであるが、これは公明党結党に際して政教一致批
判を回避するための詭弁である。

118直人:2004/05/10(月) 23:40
>>117の続き

 公明党は国立戒壇論について次の如く反論する。

  荒木 これは看過(かんか)できぬ問題だ。第一、創価学会は「国立戒壇」論を、今から三
  十年も前、昭和四十五年に教義的にも否定し、公式に完全否定しているからだ。
  白浜 いや、もっと正確にいえば創価学会は、「国立戒壇」論をもっと早い時点、公明党結
  党以前に否定しているよ。(『政教分離』P27)

 このような反論は意味をなさない。なぜなら、これより後に池田氏自身が政教一致的発言を
しているからである。池田氏は『立正安国論講義』(1966年)において次の如く述べている。
  
  かくして、三十九年十一月十七日、公明政治連盟は、公明党として、脱皮し、立正安国論
  に日蓮大聖人が示された王仏冥合の精神を具体化すべく、いよいよ本格的な活動を展開
  することになった。ここに、公明党とは即、創価学会の異名であり、一体不二の関係にある
  ことを知らなければならない。しかして、化儀の広宣流布の推進、王仏冥合の実現による大
  衆福祉、社会の繁栄と個人の幸福、世界の恒久平和の実現以外のなにものでもない。
  (『立正安国論講義』P72)

 池田氏は「化儀の広宣流布の推進、王仏冥合の実現による大衆福祉」と云うのであるが、創
価学会における《化儀の広宣流布》の定義とは国立戒壇の建立にほかならなかった。戸田氏は
1956年3月・「広宣流布と文化活動」と題する巻頭言において次の如く述べている。

  化儀の広宣流布とは、国立戒壇の建立である。(『巻頭言集』P189)

 公明党の政界における役割が「化儀の広宣流布」であるならば、それは、公明党を駆使し宿
願であった国立戒壇の建立を目指したということである。これは戸田氏の「王仏冥合論」の具体
化であり、池田氏の《学会青年部内閣構想》の実現を目指したものと云えよう。したがって、公
明党の『政教分離』における反論は何ら的を射ていないのである。(この稿、了)

119直人:2004/05/11(火) 20:01
 阿部日顕師は未だ教学部長であった昭和47年、『国立戒壇論の誤りについて』と題する著書
を著している。阿部師は『国立戒壇論の誤りについて』において、

  最初に国立戒壇なる語を使用したのは、身延派日蓮宗より出て在家の教団を組織し、明治
  三十五年妙宗式目を論述した立正安国会(後の国柱会)主、田中智学である。
  (『国立戒壇論の誤りについて』P5〜6)

と云い、田中智学居士の「国立戒壇論」について、

  彼の国立戒壇論の要点をあげるならば
  一、大聖人の御一生は国教の奠定にある。
  二、大聖人の本門戒壇は国家中心である。世界の教法統一の根本として国家の道法化を
   目標とすべし。
  三、三大秘法抄の王仏冥合とは法国冥合ということであり、その本門戒壇は、勅命国立の
   戒壇である。

と三点に要約し、

  以上の三点を一言でいうならば、彼の戒壇論は国家中心、国家対象ということに尽きると
  思う。その諤々の議論は、あくまで田中智学個人の見解であり、大聖人の仏法を曲解する
  ところより生じたものである。

と云うのであるが、かかる戒壇思想―特に「一」「三」は大石寺貫首にも見られるのである。
 いま試みに以下にその文を列挙してみる。
 まず、「一」について。堀米日淳師は昭和32年の「新年の辞」において、

  真に国家の現状を憂ふる者は、その根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国
  教樹立こそ必要とすべきであります。(淳全P1625)

と云うのである。堀米師にとっての正法とは日蓮正宗をさすのであるから、上記の発言は日蓮
正宗の国教化を意味するものとなろう。
 次に「三」について。堀日亨師は『富士日興上人詳伝』において、

  未来勅建国立戒壇のために (詳伝P277)

  三堂建立は興師の御理想なるも、実現は大国主すなわち大日本皇帝陛下の御命により一
  時に大荘厳を極めた(詳伝P285)

と云い、堀米師は「北尾日大氏に寄す」(昭和9年)において、

  若し戒壇の遺付が一大事と指すならば戒壇建立のことたるや王者の勅宣御教書によるの
  である。それ以前に民衆の力によって建立せよとは仰せられてをらぬ(淳全P1247)

と云うのである。そして、大石寺門流は、

  實に國立戒壇の建立こそは第二祖日興上人にのみ御遺命になつたのだ。そしてその場所
  も富士山と明白に御指示になつている。又、あらゆる正史料から、日蓮正宗のみが大聖人
  の御遺命をうけて富士山に事の戒壇(國立)を建立しようと必死の努力を続けてきたことは
  明白になつた。近頃は田中智学門流でさえも囀つているではないか。
  (『創価学会批判の妄説を破す』P202)

と云い、あたかも大石寺門流こそが「国立戒壇論」の本家本流であるかの如く云い、智学居士
門下を悪罵している。しかるに、国立戒壇論を放棄せざるをえなくなると一転して、

  田中智学の創唱する国立戒壇論の名称(『国立戒壇論の誤りについて』P8)

と云い、《国立戒壇論=田中智学の邪義》という構図を形成するのであるから、厚顔無恥と云う
ほかない。(この稿続く)

120直人:2004/05/12(水) 21:05
>>119の続き

 阿部師は『国立戒壇論の誤りについて』において、

  決して前に挙げた国柱会の思想に同調して使用したというものではない。
  (『国立戒壇論の誤りについて』P8)

と云う。しかしながら、この主張は正しくない。それは堀師・堀米師に智学居士の「国立戒壇論」
と同じ戒壇思想が見られるからである。(>>119
 また、阿部師は『国立戒壇論の誤りについて』において、

  国立戒壇をとなえる者も、幕府とか執権職の存在しない今日において、御教書をそのまま実
  現せよという愚かさはさすがに自覚しているらしく、これを〝国会の議決〟〝内閣の意思〟と
  現代的解釈に転じている。しかし、勅宣については、新憲法にも天皇の国事行為が定められ
  ていることをもって、天皇の詔であるとの解釈になお固執している。しかしながら、いずれも、
  現憲法の解釈について明らかに誤りを犯しており、不可能を実現せよというのに等しい。今日、
  憲法第二十条に定められた政教分離の原則によって、国会も閣議も、「戒壇建立」などという
  宗教的事項を決議する権限を全く有していない。仮に決議したとしても、憲法違反で無効であ
  り、無効な決議は存在しないことと同じである。(『国立戒壇論の誤りについて』P33〜34)

と云い、

  御教書もない。したがって、現在もなお、こうした古い時代の形式に固執し、戒壇の本意を失う
  ことがあるとすれば、それは誤りというべきである。もし、これにあくまで固執するなら当然、憲
  法改定が必要になる。これは、まさに時代逆行であり、また宗門としてこれを主張することは、
  宗教の立場と政治の立場を混同することになる。(『国立戒壇論の誤りについて』P59〜60)

と云う。しかし、阿部師が批判するところの《国立戒壇論・国会の決議・天皇の詔》を主張実践して
きたのが大石寺門流であった(国立戒壇論>>112-113 国会の議決>>112 勅命建立>>119)。そし
て、創価学会が政界に進出したのも国立戒壇を建立するための手段であったはずである。でなけれ
ば、公明党の意義・役割が「化儀の広宣流布」(>>118)となるはずがない。
 結局、『国立戒壇論の誤りについて』は戦後から昭和45年までの20数年間の主張実践を全否定
するものなのである。

121直人:2004/05/16(日) 00:37
>>120の続き

 時系列は前後する。
 池田氏は昭和39年5月3日・第27回本部総会において、

  恩師戸田先生が、大客殿の建立が終わったならば、ひきつづいて、すぐに正本堂を建立
  しなさい。(『会長講演集』11−P170)

と云い、

  正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれがさいごなのであ
  ります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります。
  (『会長講演集』11−P172)

と云うのである。創価学会におけるもっとも早い「国立戒壇論」放棄(名称のみでその本質は
国立>>109)はこれより後のことであった。また、戸田氏は一貫して「国立戒壇論」を貫いてお
り、第27回本部総会における池田発言は、

  イ、宗門によって建立される堂宇は正本堂が最後である。
  ロ、広宣流布の暁には国会の議決によって国立戒壇が建立される。
  ハ、正本堂は本門戒壇(国立戒壇)ではない。

ということである。しかしながら、池田氏は『立正安国論講義』(昭和41年)において、

  正本堂、すなわち事実上の本門事の戒壇が建立されるのである。正本堂建立こそ、日蓮
  大聖人の御遺命たる本門戒壇建立の具体化であり、宗門七百年来待望の壮挙ということ
  ができるのである。(『立正安国論』P658)

  日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって
  完全に終了するのである。

と云い、正本堂を究極的な戒壇―本門戒壇と位置づけるのである。さらに、昭和42年、細井
師は「新年の辞」において、

  日蓮正宗総本山に、事の本門戒壇堂ともいうべき、正本堂の建立起工式が行なわれる
  (「新年の辞」『大白蓮華』188号[昭和42年1月号]P12)

と云うのである。かくして、正本堂は本門戒壇と意義づけられるのである。けれども、この《正
本堂=本門戒壇》路線がこれ以降定着したかと云えばそうではない。昭和41、2年の時点で
は本門戒壇と意義づけられていた正本堂であるが、昭和47年4月28日に発布された訓諭に
は、

  日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証
  となす。正本堂は、一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の
  戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。
  (達全2−1−P3)

と云い、「広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき」として、昭和42年の発言よりはやや後退
した感がある。ところで、昭和51年、阿部師が『本門事の戒壇の本義』を著しているが、細井
師は『本門事の戒壇の本義』の緒言において、

  正に正本堂は本門事の戒壇である。
  (『本門事の戒壇の本義』緒言『大日蓮』361号[昭和51年3月号]P23)

と云い、訓諭では「広宣流布の暁」として未来に委ねられていたものが緒言では《正本堂=
本門戒壇》となったのである。

122直人:2004/05/16(日) 00:38
>>121の続き

 こうした正本堂の意義づけに対して真っ向から反発したのが今日における顕正会の前身
である妙信講であった。『日蓮大聖人の仏法』『日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ』によれ
ば、妙信講は「第一次諌暁」「第二次諌暁」「第三次諌暁」(第四次以降は破門後)と称して
細井師・創価学会に対して《正本堂=本門戒壇》とする意義づけを批判し、国立戒壇論を主
張している。こうした経緯を経て、妙信講は昭和49年8月12日、講中解散処分(破門)となる
のである。

  今回、私は所定の手続きを経て本日付をもって妙信講の解散処分を行いました。昭和四
  十五年五月三日、日大講堂において私は大聖人の仏法が日本一国のみにとどまらず、
  全世界の民衆を救済すべき大仏法であるたて前から「今後国立戒壇の名称は一切使用
  しない」旨を公式に言明いたしました。然るに妙信講は、この公式決定に従わず、更に昭
  和四十七年四月二十八日付の正本堂に関する「訓諭」に異議を申立て
  (「元妙信講講員へ」『大日蓮』343号[昭和49年9月号]P12)

 正本堂の意義づけのために著された『国立戒壇論の誤りについて』『本門事の戒壇の本義』
であるが、この二書を以ってしても宗内の戒壇思想の統一を図れなかったようである。

  いまだに妙信講のことについて、妙信講の方が正しいんだなんていうような僧侶があるか
  のようにこの間聞きまして、まことに残念に思っております。
  (昭和51年5月27日・第18回寺族同心会大会 達全2−6−P529)

 それにしても、かくの如く資料を見たとき大石寺門流は本門戒壇論をあまりにも軽々しく論
じているようにさえ感じる。結局、国立戒壇論の放棄は僧俗一致体制の破綻(妙信講破門)、
宗史改竄(国立戒壇論に関する語句改竄>>113-114)しかもたらさなかったのである。そして
その根源は史料批判・先師批判、何より大石寺本来の立義でなかったことに起因していると
云えるのではなかろうか。哀しいかなこれが亜流の宿命なのであろうか。
 なお、正本堂は平成10年、阿部師によって取り壊され、その跡地に奉安堂が建立されたが、
奉安堂の意義は、

  「我々が『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇として奉安堂を建てる」などというようなナン
  センスな、莫迦げたことを今、日蓮正宗においてはけっして考えていないのであります。
  (平成13年1月1日・元旦勤行の砌『御法主日顕上人猊下御言葉集』P19)

というものであって、本門戒壇建立は未来に委ねられているようである。

#変遷が過ぎるので頭が痛い(苦笑)

123直人:2004/05/16(日) 00:46
[加筆訂正]

〔誤〕(>>121)
>日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって
>完全に終了するのである。

〔正〕
>日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって
>完全に終了するのである。(『立正安国論講義』P659)

〔誤〕(>>122
その根源は史料批判・先師批判

〔正〕
その根源は史料批判・先師批判をできなかったこと

124直人:2004/05/18(火) 21:24
>>122の続き [結語]

 これまでは史料解説を中心として大石寺門流における本門戒壇思想の史的変遷について
述べてきたけれども、最後に私が思うところの本門戒壇論について述べてみたい。これはあ
くまでも私論であることをご了承下さい。
 宗祖は「三大秘法抄」において次の如くに御教示されている。
  
  戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有
  徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申下して、
  霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つ可きのみ。事の
  戒法と申すは是也。三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈
  等も来下して給うべき戒壇也 (定本P1864〜1865)

 一閻浮提の隅々にまで妙法が広宣流布され、権力者も民衆も妙法を護持してこそ、はじめ
て王仏冥合と云えよう。そうした社会においては本門戒壇はおのずと建立されるであろう。そ
してその本門戒壇とは「三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈
等も来下して給うべき戒壇」であって、日本一国のみの国立戒壇というようなものではなく、敢
えて云うならば「一閻浮提立」「王立」「世界立」といった《国立戒壇の精神を継承した本門戒
壇》となろう。
 決して、

  今、深くこれを思うに、日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に
  純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目、南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてま
  つることができたとき、そのときこそ日本国一国は広宣流布したと申し上げるべきであると、
  思うのであります。(達全2−5−P538)

というような偏頗な広宣流布観によって本門戒壇が建立されるのではない。あくまでも妙法が
一閻浮提の隅々にまで流布したとき、一つの広宣流布達成の証として建立されるのである。
 本門戒壇建立は如何に高尚に哲学的に論じたところで成されるものではない。日蓮聖人門
下が真実、「死身弘法」「不自借身命」の精神で一閻浮提広宣流布に邁進してこそはじめて
本門戒壇建立への道が見えてくるのではなかろうか。(「本門寺戒壇のこと」全了)

 上代>>98
 中世>>103-104
 中世・近世>>105
 近代>>109
 戦後>>112-113 >>117-122 〔訂正>>114>>123

125今川元真:2006/05/31(水) 09:55:39
●『本門の三秘密の法』とは、具体的に御書遺文でどこを指すのでしょう。●一閻浮提広宣流布の暁に建てる戒壇堂に造立する彫像とは、漫陀羅に記されている「南無」を冠した名称のものでしょうか。御書遺文に記されているのでしょうか。

126shamon:2006/06/06(火) 23:06:30
三大秘法抄は真蹟であるかどうか疑義があるので、御真蹟である報恩抄から「一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし。此事いまだひろまらず。」

127今川元真:2006/06/07(水) 10:22:03
shamonさん、ありがとうございます。 【本門戒壇】の疑問なのですが、延暦寺に対する戒壇堂の意味でしょうか?漫陀羅の意味でしょうか。シャクソン像+戒壇堂+唱題と考えれば故郷の寺に宛てたものなら合点がいきます。けれど、別の掲示板で「天台では本仏とは言っても本尊とは言わない」と見た事があるのですが、本尊と書いて説明が其の様だと仏像では無くて漫陀羅の様な気がするのですが?如何でしょう。

128shamon:2006/06/10(土) 02:05:10
http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/

129JIN@霊○会:2007/02/14(水) 17:20:37
創価における戒壇論、とても勉強になりました。

ただ、一点協議の編纂について心にとどめて置くべき社会情勢があります。
それは憲法です。牧口・戸田氏の時代は大日本帝国憲法下での指導であり、
社会法自体が現代とは編纂しておりますので注意が必要かと存じます。

三大秘宝抄の御文で言えば、

【大日本帝国憲法下】
「王仏冥合」=国主(天皇)の仏法顕彰の姿が勅を持った国教化が通説となるでしょう。
「王臣一同」=天皇から臣下にいたるまで一人でも多く(あるいは全員)
「勅撰・御教書」=天皇の命令書・幕府(国政)からの命令書
「有徳・覚徳」=上記の条件を満たす具体例

【日本国憲法下】
「王仏冥合」=国の主権者(民衆)による仏法顕彰の姿
「王臣一同」=天皇から臣下にいたるまで一人でも多く(あるいは全員)
「勅撰・御教書」=国の政治に携わる人から出る教示(建築許可証)
「有徳・覚徳」=上記の条件を満たす具体例

※いずれにせよ、「末法濁悪の世」に建立すべきなので、流布達成の時に立てる解釈は誤り
※「有徳」は仏法を滅せんとする悪僧と戦った事より、敵が存在する時代に立てるべき事は明確

これより考えれば、指導が編纂していく事情も理解できる気がします。
先輩方のご意見を頂戴できれば幸甚でございます。

・・・・・なんか創価を擁護するかのような内容となりましたが、
当方にその意図はございません。

130直人:2007/02/15(木) 01:36:13
JIN@霊○会さん、はじめまして。

>牧口・戸田氏の時代は大日本帝国憲法下での指導

牧口常三郎氏は戦時中、獄中において亡くなっています。獄中調書の中で王仏冥合について触れたことはありますが、私の管見の限りでは牧口氏は戒壇論を展開していません。創価学会の歴史の中で戒壇論をはじめて展開したのは戸田城聖氏でした。戸田氏は昭和25年の総会で国立戒壇を建立すべきことを論じます(>>112)。
それから、大日本帝国憲法と日本国憲法ということですが、日本国憲法は昭和21年11月3日公布・昭和22年5月3日施行ですから、戸田氏の戒壇論は日本国憲法施行後3年、つまり、日本国憲法下での指導となります。そしてこの指導は大体、昭和40年に入るまでは機関紙誌において見られました。昭和40年頃から改竄作業が始まり、初の戸田全集では「国立戒壇」が「本門戒壇」と書き換えられています。
余談となりますが、大石寺が発行している印刷物には今なお原本に忠実に「国立戒壇」の語句が用いられていますが、創価学会が発行する印刷物はそれが会長指導であっても「本門戒壇」と改竄してしまっています。

ちなみに「御教書」が建築許可証というのは阿部日顕師が未だ教学部長時代に論じたことですが、これは行き過ぎたとして近年、その説を取り下げています。

「あのなかでは、王法や勅宣・御教書に対する解釈を述べるなかで、「建築許可証」というようにも書いてしまってある。これは当時の在り方において、学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまったのです。けれども、今考えてみると、やはり今は、勅宣・御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです。」(『大日蓮』706−p54)

131JIN@霊○会:2007/02/15(木) 11:03:10
>直人さん、

ご親切なレスに深く感謝申し上げます。

牧口氏の戒壇に関する論については、『特高月報』(昭和十八年八月分)の調査分に
若干記載されておりましたが、現顕正会の説と類似しております。
ただし、これは直人様の仰る通り、会員に対する指導展開ではありません。
あくまでも獄中調書において、取調べ官に対して話した内容です。

私は現在職場にいます為、該当分を引用できずに恐縮でございます。
趣旨としては、日蓮正宗の目的は?との問いに対して、天皇及び万民が信仰に目覚め、
富士の天母山に戒壇を建立するとの主張があったと記憶しております。
原文に関しましては後日UPさせていただきます。

>戸田氏の戒壇論は日本国憲法施行後3年、つまり、日本国憲法下での指導となります。
直人さんの仰る通りです。しかしながら施行後3年ですので、前憲法及び慣習については、
そう簡単に一新されることもなく、当時の慣習を引きずっての指導である事は容易に想像がつきます。

尚、戸田氏の戒壇に関する指導については、当初、天皇が信仰して万民を帰依させる方法より、
主権者が変わった事から、民衆立(現在の創価の主張)と編纂を遂げているのは事実です。

安部日顕氏講義 第53回全国教師講習会 平成16年8月26日
「6月30日には、おもしろいことを言っている。これも本当かうそかは判らないのだが、
本尊流布は豆腐で、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと、
戸田先生が何度もおっしゃったと言うのです。これはもし、言ったとすれば、
戸田氏は、昔だったら天皇が一人信仰して、その力で一国全部を信仰させればよいのだけれども、
現在の主権在民の上からすれば国民全体が信仰しなければならない。そうなると、
どうしても本尊流布が大事になるということから、本尊流布が豆腐なのだという意味のことを言ったのかも知れない。
したがって、むしろ内容的には、本尊を流布してみんなが幸せになるのが豆腐であって、
それに対して戒壇建立はその結果であるから、戒壇建立はおからであり、
カスのようなものだと言ったのかも知れません。」

また、上記を肯定するような指導が池田氏よりでております。

東京台東体育館における学生部第七回総会 昭和三十九年六月三十日
「戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆が幸せになることであります。
その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。
したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます。」

>「御教書」が建築許可証というのは阿部日顕師が未だ教学部長時代に論じたことです
勉強になります。

「御教書」の解釈については、創価でも「国会の議決、選挙」と発言していた事もあるようです。
手元に資料がなくてすみません。

これを抽象的な表現ですが、堀米氏は、「国政の衝にあたる人の教示と介す」と日淳上人全集で述べてます。
日蓮聖人遺文集で確認しましたが、当時、勅撰・御教書は、漢土に渡るのにも必要な手続きだったようですね。
現代解釈ならパスポートになるのでしょうか?

132JIN@霊○会:2007/02/16(金) 00:36:28
牧口氏の戒壇に関する発言を記載します。(出展は上記)

「(略)戒壇は観念の上からは、虚空不動的の戒の相であるが、信心から言うと、
広宣流布の時の戒壇堂であります。宗門では富士山麓の大石寺に戒壇堂を建て、
一大仏教都を建設しようと言うのが宗祖の願望であり、また私達の願望・・」

「戒壇の建立される場所は『天母原』と後世に言っております」

「ただし、戒壇堂に安置すべき御本尊は弘安二年から五年の間において・・・」

「この戒壇について、事相に顕わるる戒壇堂と、義理の上で戒壇とも思えるものとの」

「事相の堂は将来広宣流布の時、即ち一天四海皆帰妙法の社会が実現した時に、
勅命で富士山下に立ち、上は皇帝より下万民に至るまで受戒すべきところであります。」

尚、戸田氏の発言(戸田城聖全集 第4巻 昭和31年4月8日)

「昔の広宣流布の仕方は、一国の帝王を折伏して一国に広宣流布しようとする方程式を
もっておりました。帝王付嘱がこれであります。しかるに、今日の時代には、
天皇陛下がこの御本尊様を拝んだところで、断じて広宣流布はできないのであります。
いかんとなれば、国家の権利は、民衆に主権が移っている」

国主=主権者の解釈は、掘米日淳氏の指導が初見か?

「王法と仏宝が冥合して一となり、其の時の主権者が戒壇堂をご建立せられ」
(仏教手保登記 昭和26年9月12日)

誠に申し訳ないが、私個人としては、どうしても三秘法抄が真筆とは思えないし、
戒壇本尊も本物とは思えないのですが、一連の創価の指導を見ると、
発言の内容は編纂が見られるものの、根本の定義からは外れていない気がします。
とは言え、もし本尊も三大秘法抄も後世の偽作であったとすれば、
創価もまた浮かばれないと同情してしまうばかりであります。

133直人:2007/02/16(金) 02:16:11
JIN@霊○会さん、こんにちは。

>牧口氏の戒壇

ああ、思い出しました。ここ数年、創価学会のことから離れていたもので見落としていました。
それは牧口氏の戒壇論というよりは堀日亨師の『日蓮正宗綱要』からの引用(そのままではないですが)ですね。

文中でいうところの天母原戒壇の論拠はおそらく『大坊棟札』によるものでしょう。私は『大坊棟札』の筆蹟を見ましたがとても日興上人の筆蹟であるとは思えませんでした。おそらく、日典師代の大坊消失とその当時の要山教学の流入によって偽作されたものでしょう。けれど、昭和40年代半ばの頃は『大坊棟札』を宝物と位置づけていました(『日蓮正宗大石寺』p138)また、池田氏は細井日達師に天母山の土地・25万8千坪を寄進しています(『日蓮正宗大石寺』p274)。
今日、本門戒壇建立地を天母原とするのは顕正会以外では北山本門寺でしょう。これは元来、北山本門寺は天母山下にあった説に起因しているものかもしれません。なお、北山本門寺の貫首である本間日諄師は世尊寺時代の著書『日興上人の風光』の中でやはり戒壇建立地を天母原としており、天母原戒壇論は北山発祥→左京日教師・広蔵日辰師という要山系→石要両山の通用による大石寺流入という流れでしょうか。

大石寺と顕正会の間で戒壇建立地について種々論争され、大石寺側は六万坊・天母原を否定しますが、堀師は六万坊を否定しても天母戒壇については富士諸山で語られるものであれば何らかの伝承−相伝?−があったものと考えていたようですね。

「本書には直に天母原と指定することを定めて深由あるべし。宗開両祖の書判に明文なきが如しといえども、天母戒壇は富士諸山の共認するところなば、あながちに本師の私言にはあらざるべしと信ずるなり。(「類聚翰集私の要領」『隠れたる左京日教師』P57)」

>戸田氏の戒壇に関する指導…民衆立

そもそも民衆立というのは昭和40年代になってから創価学会が言い出したことですね。最初は国会に進出し、国会の議決を以って国立戒壇を建立すると論じており、創価学会が政界に進出した所以もそこにありました(>>112)。つまり、昭和20年代から昭和40年に入るまでの10余年間は国会の決議を経ての国立戒壇、というものでした。
それが40年代になると民衆立戒壇へと転換し、民衆立戒壇=正本堂=本門戒壇、こんな風に位置づけるわけです。

>東京台東体育館における学生部第七回総会

この指導は昭和39年。この頃から国立戒壇論が論じられなくなりました。それ以前はというと、

大聖人様御在世に大聖人様を迫害したがゆえに一国謗法であり、一国が正法を護持しなかったがゆえに他国侵逼の難、二回の他国侵逼の難がございました。文永の役と弘安の役。その大きい難を通じて、 民衆は大聖人様の予言を少しずつ知ってきたわけでございますが、下って 大東亜戦争の際、日蓮正宗を国家が弾圧し、創価学会を弾圧し、二度の原子爆弾の投下をされております。一発は九州、一発は広島。日本の国が正法を誹謗した報いです。(中略)国立戒壇建立を、もしかできなければ、日本の国は永久に属国とし、永久に日本民族は滅びる運命の段階にあります。ただひとつ、三大秘法の御本尊様を信じ、国立戒壇を建立するならば、仏天の加護によって日本の国には原子爆弾は落ちないし、日本民族は必ず繁栄するというのが、会長先生の御遺訓なのであります。(池田大作発言、昭和33年5月18日・第一回男子部九州総会『会長講演集』3−P290〜291)

国立戒壇を建立しなければ「永久に属国」「永久に日本民族は滅びる運命」といい、国立戒壇の建立を至上命題としていました。(>>113 >>117)これは顕正会と何ら変るところがありませんね。ある時は至上命題と位置づけておきながら、ある時は「ひとつの石碑…従の従…形式の形式」というのは如何なものかと思いますが。「従の従…」といった指導については大石寺から戒壇建立を軽視していると批判されています。

>天皇陛下がこの御本尊様を…国家の権利は、民衆に主権が移っている

だからこそ、戸田氏は創価学会による政界進出を行ったのでしょう。政界に進出し、国会の議決によって国立戒壇を建立する。それを至上命題としていました。この観点から言えば今日の公明党とは一体何ぞや、ということにもなりますが。

>三秘法抄が真筆とは思えないし、戒壇本尊も本物とは思えない

私も戒壇大御本尊は偽作であると考えています。もっとも戒壇大御本尊が偽作であれ功徳を戴いたという大石寺門下を否定するつもりはありません。『三大秘法抄』については考究の余地があるものの、現在の態度は保留にさせて下さい。

134JIN@霊○会:2007/02/16(金) 10:15:32
直人さん、

ご返信いつもありがとうございます。

>日興上人の筆蹟であるとは思えませんでした。
妙観講指導教師の小川僧侶が「堀ノート」を提示して宗門の見解を明確にしてるようですね。
筆跡の違い、書風の違い(お家流)、南条氏の役職、日興日目の連盟の花押の不自然、
興尊の「興」の字の間違い、上棟時の日時の間違い等から徳川時代に作られたものと断定されてます。

「この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊かなるふうにて薬研彫りにせるも文句は全く棟札の例
にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみにて、また棟札の意味なし。ただ頭を角に切りて縁をつけた
ることのみ棟札らし」

確かに以前は、「丑寅勤行」の証文として、堀米日淳氏等が棟札文を引用しておりましたが、
堀氏の後、完全に後世の偽作だと断定がなされたようです。

戒壇建立の場所を明確にしたのは、石門では、やはり堀氏ではないでしょうか?
「日興上人詳伝」において、「四神相応の勝地」として大石寺を建立地として定めてます。

「まさに四神相応に近からずや。富士四山(重須、下条小泉、西山)の地勢は、大いにこれに遠きにあらず
や。おのおの、その開基時代相地の用意・不用意、深く味わうべきことで、ことに我れら開山日興上人・開基檀
那南条時光の、遠き未来を鑑みての十二分の御用意に感謝すべきである」

また、直人様のご提示の通り、大石寺では要法寺より稚児を寺主としてスカウトしておりましたが、
論客日振氏が北山等で学んだ天母山説が、そのまま要法時の見解となり、
その要法寺系僧侶から自然に大石寺教学に浸透して行ったかと思われます。

ちなみに日寛氏なども「天母山」説を文段等で採用していたようですが、
後年、三位日順師の心底抄を引用して、(六巻抄)

「戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後
難を招くあり、寸尺高下註記する能はず」

とされ、

「「若経巻」とは即ち是れ本門の本尊なり、「皆応起塔」とは本門の戒壇なり、
故に此の文意は本門の本尊所住の処に応に本門の戒壇を起つべし。」

と、天母山説→後世の人間が決定→戒壇本尊所住の地と意見が編纂しております。

>ある時は至上命題と位置づけておきながら、ある時は「ひとつの石碑…従の従…形式の形式」
>というのは如何なものかと思いますが。
最初は至上命令と信じていたものの、実は信ずべき対象が全てまがい物であることを気がついたのだと、
主張する方もいます。いずれにせよ、虚飾を剥ぎ取り、真実の教えが誰人にも平等に
拝聴できる日が待ち遠しいです。まずは勉強ですね。^^

135直人:2007/02/16(金) 18:42:09
JIN@霊○会さん、こんばんは。

>筆跡の違い、書風の違い(お家流)…

私が知っているのは小川師ではなく、高橋粛道師ですが、上掲の指摘は大石寺の僧侶であれば必ず指摘するところですね。私は役職云々を論じずに「興」字の1画目から13画目に注目し、同時期の日興上人の花押と対比しましたが、そのような書式のものは他に見えませんでした。

>堀米日淳氏等が棟札文を引用しておりましたが、堀氏の後、完全に後世の偽作

大石寺歴代の順でいえば、堀日亨師(59代)→堀米日淳師(65代)で、堀師はというと大正時代、既に『大坊棟札』を偽筆視していたでしょう。堀師が『大坊棟札』を真蹟と見ていたのであれば、「宗開両祖の書判に明文なきが如し」とは言わないでしょう。『大坊棟札』は偽筆ではあるものの天母戒壇は富士の正伝と認識していたのでしょう。
堀米師が『大坊棟札』を引用している(『日淳上人全集』p1637)ことは知っています。これは昭和34年の新年の挨拶で、堀師が亡くなった1年数ヵ月後となりますか。堀米師が真・偽の何れに立っていたかは分かりませんが、仮令、偽筆であっても記されている内容総てを否定するものではない、ということでしょうか。
何れにしても『大坊棟札』が積極的に偽筆であると論じられるのは昭和40年代以後、日達師代のことです。ちなみに、日蓮宗現代宗教研究所では、

「大石寺系教団は旧来、天母山を「国立戒壇」建立の地と定め、その地の獲得を目指していましたが、昭和四十五年の言論出版妨害事件を契機として、正宗と学会は国立戒壇建立の思想を破棄するに至り、大石寺こそが戒壇建立の地であると主張を転換しました。」(『顕正会』<Ⅱ>p25)

といいます。これは正鵠を射ているでしょう。事実、池田氏は天母山の土地25万8千坪を大石寺に寄進しているのであり、その背景には天母山周辺に戒壇を建立するという考えがあったのでしょう。でなければ、莫大な資金を投入してまで寄進する必要はないでしょう。けれど、妙信講問題が起り、そうした過程で『大坊棟札』は否定されるようになったのでしょう。

>日寛氏なども「天母山」説を文段等で採用していたようですが、後年、三位日順師の心底抄を引用

天母戒壇が見えるのは『報恩抄文段』で、『本門心底抄』を引用したものは『依義判文抄』ですね。余談となりますが日寛師が『本門心底抄』を引いた箇所は戒壇の在り方についての設問ですが、日寛師は『六巻抄』の中で両巻血脈書等の相伝書を種々引用しているのにどうしてここでは『本尊三度相伝』を引用せずに『本門心底抄』を引用したのか気になるところです。

136JIN@霊○会:2007/02/22(木) 22:57:38
体調を崩しておりました為、ご返信が遅くなりまして恐縮でございます。
直人さん、ご返信いつもありがとうございます。

>大石寺歴代の順でいえば、堀日亨師(59代)→堀米日淳師(65代)
●なるほど。仰る通りでしたね。すみません。私の勘違いでございました。

>「興」字の1画目から13画目に注目し、同時期の日興上人の花押と対比
●素晴らしき見識眼だと存じます。大変勉強になります。

>(『顕正会』<Ⅱ>p25)
●顕正会は主張を簡易に編纂する故、今一信用が置けません。
現在では、北山戒壇説を声高々に宣揚する同会も、かつては大石ヶ原建立説を唱えておりました。

「日興上人は、身延を離山されてから、まず上人の養家河合の由比家に落着き、ついで上野の郷主・
南条時光殿の招きをうけて下条にある南条家の持仏堂に移られた。この持仏堂が、実は現在の下之坊である。
 下条より約半里ほど離れた北方に「大石が原」という茫々たる平原がある。後ろには富士を背負い、
前には洋々たる駿河湾をのぞみ、、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地
としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。
かくて、日興上人は弘安二年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場とし
て地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号されたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始ま
りである」「富士」十三号(昭和三十九年八月二十三日発行)

>池田氏は天母山の土地25万8千坪を大石寺に寄進
●確かに何かしらの意図、もしくは構想は存在していたのかも知れませんね。
(以外に、単純に興尊に縁深い場所だからなんて単純な理由だったりするかもしれませんが)

>背景には天母山周辺に戒壇を建立するという考えがあったのでしょう。
●これはどうなのでしょうか。当時、戸田氏と堀氏は昵懇の仲で合ったと言われてますし、
富士宗学要集、全集を作成するに当たっても、相当、創価(戸田氏)の協力があった事が伺えます。
堀氏擁立派の戸田氏ですから、堀氏が棟札に記載されている「北山建立説」、「六万坊説」を
否定していた事から、北山説は創価の中には無かった可能性も否定できません。

「六万坊の伝説、あまりにも空大すぎる。一閻浮堤中心の仏都となりてもである、
考えうべきことなり。ある人は、いま現在の万坊が原をさして六万坊につきあわせるも、
これはあまりにも狭少すぎて、一千坊すら建たざるべし。ただし、
この伝説の根源となるべき古文献は、百六箇抄に挿入せられしもの等であろう。」
伝説資料・百六箇抄の末文「四大菩薩同心して六万坊を建立せしめよ」、
伝説資料・百五十箇条「八十四 尋て云く本門戒壇院の外別に常寂光土無きや、
難じて曰く然るときは本門戒壇院在所を定め玉う是は徒なるべきや、
答て曰く此の戒壇院は広宣流布の時御崇敬有り最も六万坊を建立有るべしと。」、
正資料・類摺翰集私「天生ヶ原に六万坊を立て法花本門の戒壇を立つべきなり、
六万坊と申せばとて六万多に非ず一巳独に非ず只表示の釈なれば一人也とも正信ならば
六万坊建立に成るべきなり・天台の釈の意なり、」

「この日教(要山僧にして石山に帰入せし者)の意を見るべし。
天台の円融の法義におぼれて、坊舎建立の事実を空理にする人々の伝説は、
まじめの物質的な後人を誤らす事大なり。ことに空談にもせよ、
天生が原の寸地にいかに重畳しても、摩天楼にしても六万の坊舎が建設せらるべきや。」 
「富士日興上人詳伝」

>『本門心底抄』を引用したのか気になるところです。
●大変興味深いご指摘ですね。
曼荼羅正依の大石寺の教義とは大いに異なるはずの『本門心底抄』では、
「安置の仏像は本尊の図の如し云云」ですから余計に含蓄が深いご指摘と感じております。

137直人:2007/02/23(金) 03:03:22
JINさん、こんにちは。

>堀氏が棟札に記載されている「北山建立説」、「六万坊説」を否定していた

堀師は六万坊については『富士日興上人詳伝』に記す如く懐疑的ではあったものの、天母戒壇論については「天母戒壇は富士諸山の共認するところなば、あながちに本師の私言にはあらざるべしと信ずるなり」といって、否定していません。それから、大正時代、日蓮正宗総講頭を務めた荒木清勇氏は『聖教乃正義』の口絵には「事の広布の時本門戒壇堂及六萬坊を建立せられるへき霊地也 天母ヶ原」とあります。また、堀師は『日蓮正宗綱要』において

「三国一の名山たる冨士山の下に堂々たる戒壇堂を中心にして一大仏教都を建設しようと云ふ御考えであつたろうが、其地割等も公にしていない、日興上人に口傳せられて其傳統は上人の腹中に存するのであらうが、場所だけは後世に天母原と云ってをる」(p143)

といいます。これは牧口氏が獄中で論じた土台となっています。

それから、六万坊については天母山には六万もの坊舎を建てられない、故に六万坊は謬説である。こんな風に論じられています。しかし、実際に六万もの坊舎を建立する必要はないわけです。比叡山なんかは三千坊なんていいますが、実際に三千もの坊舎があるわけではなく、坊舎は一つであれ、若干数であれ六万坊となるでしょう。このあたりの事を細井日達師は昭和45年6月28日、富士学林研究科の砌において、

叡山では「叡山塔中三千坊」というとおり、そんなに三千坊の寺はなかったと思います。だけど三千坊と言っております。それと同じです。本山においても一つの塔を建てて六万塔と言っております。(中略)たったひとつでもこれを六万塔といっております。そうすると、必ずしも六万坊といっても六万がそのまま建つと考えることはできません。そうすると、必ずしも六万坊といっても六万がそのまま建つと考えることはできません。(達全2−5−p333)

といいます。

>曼荼羅正依の大石寺の教義とは大いに異なるはずの『本門心底抄』では、「安置の仏像は本尊の図の如し云云」

仏像不造・大漫荼羅正意は大石寺九代・日有師代には既に確立していました。この本尊意識はもう少し時代を遡れるでしょう。ちなみに『日蓮正宗要義』では日順師や日代師の書状に見える仏像について「釈尊に四士を加える如き像でなく、法に具わる人本尊として大聖人の御影を指すのである」(『日蓮正宗要義』p258)と会通します。ただし私は日興上人は造像を認めたものの、自身は造立することがなかった。そして未来広布の戒壇本尊のみが本尊図の如く形像するものである、というのが日興上人、日興門下の本尊意識であったと考えています。

138JIN@霊○会:2007/02/26(月) 15:11:42
勉強になります。

>堀師は六万坊については『富士日興上人詳伝』に記す如く懐疑的
はい。ただ建立すべき勝地としては、四神相応として大石寺と明確に断じていたかと記憶しております。

「(大石寺を指して)まさに四神相応に近からずや。富士四山(重須、下条小泉、西山)の地勢は、大いにこれに遠きにあらず
や。おのおの、その開基時代相地の用意・不用意、深く味わうべきことで、ことに我れら開山日興上人・開基檀
那南条時光の、遠き未来を鑑みての十二分の御用意に感謝すべきである」

また、確かに天母山との説も大石寺に残っていたものの、明確に大石ヶ原と主張した法主もいたようです。

日因氏(研究教学書十六巻七一)
「広宣流布の日は、当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号す可し」

日宣氏(世界之日蓮)
「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す」

私の見解では、大石寺の法主によって、教義が右に行ったり、左に行ったりしてたのでは?
と言った印象を受けております。

>日興上人、日興門下の本尊意識であったと考えています。
なるほど。と、なると造仏をした日精氏などは、興尊の意図に適った記述を
「随宜論」に記載したのですね。

それを創価や堀氏が叩いた。

実際、古くから言われてきた曼荼羅設計図論ですが、直人様の見解をお示し頂けると幸甚です。
主題+花押は彫刻文字(石山の戒壇本尊の如く)になるのでしょうか。
それとも法華経の経巻+御姿像のような形になるのでしょうか。

139直人:2007/02/26(月) 18:57:54
JINさん、こんばんは。

>明確に大石ヶ原と主張した法主もいた

日因師は大石寺31代、日宣師は大石寺44代ですね。この二師より後の大石寺歴代は天母戒壇を論じます。

戒壇の地を富士の天生山に撰び置き板本尊及戒壇堂の御真筆在り
(35代日穏師「五人所破抄一覧」富要4−P205)

後五百歳中広宣流布の金言虚しからずんば、上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、此を事の広宣流布と云ふ。其時、天皇陛下より勅詔を賜はり富士山の麓に天母が原と申す曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立(56代日應師「本門戒壇の大本尊縁由」應全P3)

それはともかく、私は大石寺でどのように論じられていたかというその事実を見つめ、語っているにすぎず、大石寺や顕正会のように戒壇建立地を大石寺である、いや、天母山であると論じるつもりはありません。

また、堀師が『富士日興上人詳伝』で大石が原を称賛しようとそれは一つの解釈です。では私はどうか。広宣流布が達成していない時点で戒壇建立地を論ずること自体、無意味だと思います。事実、日興上人は戒壇建立地を富士とするのみでそれ以上は言及していません。北山本門寺は『本門寺額』『本門寺棟札』を論拠に北山本門寺こそが戒壇建立地であるといい、大石寺は戒壇大御本尊のある大石寺こそが戒壇建立地であるといいます。けれど、両山が論拠とするものは偽筆・偽作であって論拠にはなり得ません。それぞれの論拠が失われている以上、戒壇建立地を論じること自体、日興上人の祖意から外れているものでしょう。
日興上人は大石寺系の僧侶と重須系の僧侶にそれぞれ本門寺の重宝を守護させており、このことを勘案すると日興上人は北山・大石寺、そんな分け隔てをせずに富士の麓に両山にまたがるような壮大な大戒壇を建立しようとしていたのではないでしょうか。その詳細は国主帰依の時、群議すべきであるとしていたものと考えるものです。このあたりのことを日順師は『本門心底抄』に「戒壇の方面は地形に随ふべし」といいます。


>『随宜論』に記載

『随宜論』はその存在は知っていますが眼福を得ていませんので態度を留保させて戴きます。

>主題+花押は彫刻文字…それとも法華経の経巻+御姿像のような形

さぁ、どうでしょうか。今となっては分かりません。『尊師実録』には「本門寺の本尊造立記文相伝」といい、上代においては戒壇本尊の形態、つまり、どの大漫荼羅をどのように形像化するのか、そうした相伝はあったでしょう。しかし、今日では散逸したのか伝わらず、明瞭を欠くことは残念な限りです。

140JIN@霊○会:2007/02/27(火) 10:53:03
直人さん、レスありがとうございます。

>両山が論拠とするものは偽筆・偽作であって論拠にはなり得ません。
全くもって同意でございます。調べれば調べるほど色々な意見が散逸し、
かつ、自門の正当性を主張する為、偽作と言う所作を平然とやってのける。
日蓮聖人や興尊の深き悲しみが聞こえてきそうな感を受けます。

>日順師は『本門心底抄』に「戒壇の方面は地形に随ふべし」といいます。
順氏のこの言葉こそが正論であるべき気がします。

>広宣流布が達成していない時点で戒壇建立地を論ずる
直人さんの言われる広宣流布の達成とはどの時点をさされるのでしょうか。
私見ですが、戒壇建立と広宣流布の達成は関係ないような気がしております。
三大秘法抄の真偽は別として、同抄の御分を借りるなら、

「有徳王・覚徳比丘のその昔を末法濁悪の未来に移さん時」

と、時の条件を明確にされてます。

有徳王は、敵が沢山いる中で命を落とされたのですから、
戒壇建立の時は、敵が国中に満ち溢れ、正法が滅っせんとした時に、
正法護持の人間が蜂起した時と解釈されるのではないでしょうか。

また、顕正会や、昔の創価のように、一人も残らず全員が信を取った時点を広宣流布達成と
いうのであれば、その地は既に寂光土となり、「雨土くれを砕かず」となり、
「宝土何ぞ壊れんや」となります。

有徳・覚徳のその昔を移すべき未来=末法濁悪の時でなければなりません。

そう考えると、諸宗の主張する「戒壇建立は達成の時」では無く、
敵が多数存在する時と考える必要があるのではないかと思います。

ご意見を頂戴できれば幸甚でございます。

141直人:2007/02/27(火) 20:13:32
JINさんか、こんばんは。

御法門に関して語るのは御僧侶の領域で、在家の私が軽々に語るものじゃないと思っていますので、本当はこちらの管理人さんたちにお願いしたいところですが、指名されていますから一応。

>広宣流布の達成とはどの時点

上古の教学意識にもとづくならば国主帰依、一国同帰の暁となるでしょう。JINさんが引かれた『三大秘法抄』にも「戒壇とは…王臣一同に…」とありますね。一国同帰が前提となることは『報恩抄』末文などにも見られます。
しかし、国主帰依がなされてもそれが直ちに広宣流布達成(厳密には完了、終了)となるわけではなく、国主が帰依した後も弘教し続けていくことは不可欠でしょう。

>「戒壇建立は達成の時」では無く

また、『本門心底抄』には「国主信伏し造立の時至らば」といいます。ここにいう「造立」とは何をさすものか。これは「戒壇の方面…」に係る語句です。つまり国主帰依の暁に戒壇建立の詳細を群議するというものです。それから、日代師は日印師の質問に対して「国主帰依以前に仏像を造立することは私的戒壇の建立につながる」といいますから、国主帰依と戒壇建立を分けて論ずることは無理ではないかと思います。

142川蝉:2007/02/28(水) 14:45:33
JIN@霊○会さん、直人さん、横から失礼します。


「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時 」
との意味についてですが。

先師が
「今ここには大法広布の為めに賭せんと誓う信仰的国王の出現に譬う」
と解釈しています。

で、
「国王はじめ枢要の人たちが、法華経の精神をもって政治を行い、本門の法門を受持して、有徳王が身命をかけて、覚徳比丘と正法をまもったように、本門の法門の流布の為めに勢力、国力をかけるように成ったとき 」
と解釈すべきだと思います。


在俗の主立った人たち、それから各宗派の指導的立場の人たちが、改宗帰依し、一般の人たちを教導すれば、多くの人たちも順次、改宗帰依するようになるだろうと推測できます。

しかし、なかなか素直に信受しない人たちも居ましょうし、他の国の人たちに広布するには、さらに時間がかかるのでは。

直人さんが
「しかし、国主帰依がなされてもそれが直ちに広宣流布達成(厳密には完了、終了)となるわけではなく、国主が帰依した後も弘教し続けていくことは不可欠でしょう。 」
と云われる通りではないですか。

143大東亜の星:2009/09/07(月) 12:42:06

悪僧日達は、正本堂を指して「事の戒壇」と云い、また「今や広宣流布」と云って、宗開両祖の御教示を蔑ろにして、己義・邪説を構えて世間と八百万信徒を欺いた。この出来事は宗門史に長く残る破廉恥な悪行である。

このような悪僧日達の独善的教義歪曲は、創価学会の政治選挙を勝たせるためであり、伝統教義を歪曲してまでの開き直りとも云うべき、魔僧の出来以外には考えられない変節であった。

この邪義を粉砕すべく、当時、弱小在家教団の妙信講を率いる浅井氏は、宗門諌暁書たる「正本堂に就き宗務御当局に糾し訴う」を、日達をはじめ宗門12人の高僧に奏呈。

それに驚いた日達は、昭和45年4月3日浅井氏を本山に呼び付け「浅井さん、この本は実に良く書けていますねぇ、宗開両祖の仰せのままです。間違ったところは一つもありません。私にもこんなに上手くは書けません」と、発言。

そのような発言をして浅井氏を褒め称えながら、4年後の昭和49年8月12日、悪僧日達は妙信講の頸を刎ねて云く「宗門の公式決定に従わず、国立戒壇を捨てないため」との理由で、大聖人以来の正しい教義を展開する在家の信徒団体を根こそぎ抹殺したのである。

ある教に云く「道理、証文よりも現証に如かず」悪僧日達は、妙信講の頸を刎ねて5年後の昭和54年7月22日の未明、突然襲ってきた発作により、敢え無く黄泉の国へ旅立つこととなったが、退院後、池田大作と二人してアメリカ旅行を楽しみにしていた矢先の出来事だった。

144大東亜の星:2010/03/04(木) 13:56:04

悪僧日達は信徒団体の池田大作の奢侈におぼれ、諂いが高じて御本仏大聖人の究竟の御願業たる広宣流布「国立戒壇」を放擲して創価学会・公明党の政治選挙の為に驚くべき邪説を公式宣言してしまったのである。

①日蓮正宗を国境にすることはしない。②今後「国立戒壇」とは言わない。「民衆立」である。③正本堂を以って最終の戒壇とする。④今はすでに広宣流布である。だから事の戒壇も建つのである。などと言うもの。

悪僧日達の先代を務められた第六十五世の日淳上人の云く「真に国家の現状を憂ふる者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法たる国教樹立こそ必要とすべきであります」(大日蓮 昭和32年1月号)と御教示である。

なんと日淳上人の仰せは宗開両祖の富士の流儀そのものである。唯一の正系門家と言われる日蓮正宗は、あの悪僧日達の時代から教義は曲がったままなのである。宗門が「国立戒壇」の正義を取り戻さない限り、戦後の自民党政権から民主党に政権は取って代ったとはいえ、国は崩壊の道をまっしぐらに進んでいる事には変わりは無いのである。その故は「仏法ようやく転動しければ世間も亦濁乱せり、仏法は体の如し世間は影の如し体曲がれば影斜めなり」とは是れである。

145大東亜の星:2010/03/08(月) 13:47:21

国柱会の田中智学という人物の元を糾せば、邪宗日蓮宗身延派の坊主をやっていたが途中で坊主の職を投げ出し還俗して明治13年に蓮華会を設立したのである。その2年後の明治15年に我が日蓮正宗に教義論争を仕掛けてきたのであった。後の「横浜問答」といわれるものだ。この時、本宗第52世の日霑上人が教義論争の主席を務められ、田中智学は口をして鼻の如くコテンパンにやっつけられたのである。

その後、田中智学は姿を晦まし秘かに我が日蓮正宗の教義を深く学び、明治35年に彼の著述した「本化妙宗式目」と後の「日蓮聖人の教義」の中で盛んに「富士戒壇論」や「国立戒壇論」なる語句を好んで使用することになったのだ。正確には、田中智学の方が我が日蓮正宗の教義を盗んで「国立戒壇論」を口真似したのは明白な事実なのである。誰が考えても解るとおり、日蓮正宗の信徒でもない身延の坊主崩れが、大聖人の終窮究竟の本願を知る道理は存在しないという事だ。

その証拠を示す。本宗第六十五世日淳上人は「田中智学氏の『日蓮聖人の教義』なる著書は、日蓮正宗の教義を盗んで書いたものであることは明白である」(興尊説冤盲説を破す)と御教示であり、また、創価学会から発行された(日蓮正宗創価学会批判を破す)書籍には「じつに国立戒壇の建立こそは、第二祖日興上人にのみ御遺命になったのである。そしてその場所も、富士山と明白にご指示になっている」との記述に明らかである。

また「あらゆる正史料から、日蓮正宗のみが、大聖人の御遺命をうけて、富士山に事の戒壇(国立)を建立しようと、必死の努力を続けてきたことは明白になった。近頃は田中智学門流でも、本宗の国立戒壇を囀っているではないか」などと、田中智学の国立戒壇論を批判しているのである。

かつて日蓮正宗の信徒団体であった創価学会ですら、このように田中智学を批判していたのである。田中智学は後年、戒壇の御本尊ばかりは如何にしても手が届かない事を悟り、それに対抗するため「佐渡始顕の本尊」なるものを編み出したのである。身延の坊主だった過去を持つ田中智学が、日蓮正宗の宗門古来からの「国立戒壇」を言い出した。等という悪坊主日顕の邪義ということが歴然としたことであろう。

憲法違反の的外れの批判を恐れる悪僧日顕は「国立戒壇」は田中智学が創唱したという邪説を展開し「国立戒壇」なる教義は、本宗には存在しない邪義だとする事で国家を欺き、八百万信徒を騙し続けているのである。「国立戒壇」を否定する事によって、憲法に従属、迎合する形で安住の地を得ようと計ったのであるが、現今の正宗僧侶の全ては悪僧日顕の邪義に染まって、心底から「国立戒壇」は田中智学の創唱と思い込んでいるのであるから始末が悪いのである。

146伝六:2010/03/10(水) 20:20:23
145の書き込みについて参考までにききますが、横浜問答については、富士山宗学要集の記録を読んだ上で書いているのか、それとも誰かから聞いたことをそのまま書いているのかどちらですか。

147大東亜の星:2010/03/12(金) 11:10:20

邪義破折班の「最後に申すべき事」を砕破す(P.9)に、悪坊主日顕さんをヨイショして胡麻すりながら諂って云く「御法主日顕上人御登座二十七年の長きに亘る宗門教導のお振る舞いと、僧俗一致の真の広布大前進の実相こそ、大聖人の門底下種仏法を日顕上人が厳然と承継遊ばされていることを証明しているのである」云々と。

思い起こせば、悪坊主日顕さんが猊座を簒奪したのは昭和54年7月22日、先代の悪僧日達管長さんが「国立戒壇」の御遺命を歪曲した仏罰により、入院先のフジヤマ病院で退院の朝、突然の激烈な発作に見舞われて、臨終思うようにならなず黄泉の国へ旅立ったのです。その期に乗じて悪坊主日顕さんは自己申告によって猊座にしがみつかれたのでした。それは、当日の夜の日達管長さんの通夜の席で参列者の多くが茫然自失して意気消沈している最中、「実はあっしが相承の授受を賜っとったんよ」などと。まさか、そんな、と思う間もなくおもむろに宣言して、第六十七代を継くに至ったのでした。

それでも管長職に就いた当座は何とか乗り切れたものの、悪坊主日顕さんは突然黄泉の国へ旅立った悪僧日達管長さんに輪を掛けたような下劣な人で、それこそ、創価学会の走狗のような諂いぶりでした。昭和52年の教義逸脱問題から法華講総講頭の重職を投げ出して責任を取った池田大作さんを、再び彼の誕生日を選んで総講頭の要職に任ぜられたのでした。そんな悪坊主の日顕さんに異論を唱え反旗を翻した坊さん達は、宗門全僧侶の2/5に達するほどの200人を超える数に及んだのでした。

これら200人を数える坊さん達が一斉に血脈相承の授受を疑い、悪坊主日顕さんを「法主に有らず」として裁判の席に誘き出して決着を付けようと裁判を仕掛けたのです。そうしたところ、悪坊主日顕さんはその報復として、その者達の頸を斬るべく、擯斥処分(宗門追放)で対抗する事となり、宗門挙げての前代未聞の大騒動となったのです。処分を受けた200余名の坊さん達が支配する寺院数も200ヵ寺に及び、その坊さん達の後には約10万人の正宗信徒が控えていたのです。それが現在の正信会です。今現在176ヵ寺が正信会系の寺院なのです。

悪坊主日顕さんは、200人を超える坊さんの頸を斬ったものだから、自動的に200ヵ寺を超える寺院と10万人の正宗信徒の頸を斬ることに繋がったのは云うまでもありません。こんな酷い仕打ちは出家僧侶としてあるまじき無慈悲な所業です。頸を斬られた坊さんの中には、その象徴的な存在として、あの第六十六代の猊座を務めていた悪僧日達さんの次男坊である、実修寺の住職をしていた細井琢道が含まれている事は、驚きと共に特筆される出来事でした。

こんな驚天動地の不祥事は邪教日蓮宗、諸山でも決して起こらない忌まわしい出来事です。これこそが、宗祖日蓮大聖人の御遺命である「国立戒壇」の本願に背いた仏罰なのです。「国立戒壇」を放棄した正宗信徒は、唯一の大目的を失ってしまったのです。そうなってしまえば活力を無くしてしまうのは当然の帰結です。まるで、信徒の大半は老人ばかりの無気力な集団に成り果ててしまったのです。

宗門では昨年「立正安国論正義顕揚七百五十年」と銘打って大きな掛け声と共に3年がかりで盛大な式典を催しました。その折、本山に78,423人の信徒を総動員して無意味で虚しい式典を開きました。なんの感激も沸かないまま、次への目標を打ち出しました。それは、①日興上人御誕生七百七十年の平成27年までに、法華講員数の50%増を目指す。②大聖人御誕生八百年の平成33年までに、法華講員数を現在の40人万体勢から80万人体勢にするというものですが、いずれの目標も掛け声倒れで虚しく終わるものと思われます。

148伝六:2010/03/12(金) 12:53:41
146の書き込みの富士山宗学要集は富士宗学要集の打ちまちがいにつき訂正します。

149大東亜の星:2010/03/13(土) 10:31:52

邪義破折班の「最後に申すべき事」を砕破す(P.10)に、悪坊主日顕さん諂って開き直って云く「御法主日顕上人が、いつ御本仏一期の御遺命を破壊せんとしたのか。それこそ事実無根の妄言である」云々と。

邪義破折班のこれほどの開き直りは他に類例を見ない悪質なものだ。邪義破折班に籍を置く諂いの面々も、宗祖大聖人の御目は恐ろしくはないとも、悪坊主日顕さんのギョロ目は怖いと見えて、上記のような言辞を弄して魔僧のお先棒を担いで平然としている有様だ。悪坊主日顕さんの御遺命を破壊した言説は、枚挙に暇も無いほど存在するが、その代表的な実例を少しく挙げると次のとおりである。

昭和42年、正本堂の建立発願式に参列した後に悪坊主日顕さんの云く「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、本懐成就より六百八十年を経て、現法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕さんとしている」などと。悪坊主日顕さんは、正本堂を指して「事の戒壇の建立」と言って邪義を展開しているではないか。

次に悪坊主日顕さんは「国立戒壇の誤りについて」と題する冊子の中では、三大秘法抄の文々句々を曲会して云く「王法」=「政治をふくむあらゆる社会生活の原理」等と、頓珍漢な出鱈目解釈をして創価学会の「国立戒壇」放棄を助けたのである。更に「王臣一同」=「民衆一同」と捩じ曲げ「有徳王」=「池田先生」と諂い「勅宣並びに御教書」=「現行憲法の信教の自由の保証によって実現」などと、とんでもない解釈をして池田大作さんを喜ばせている。

「霊山浄土に似足らん最勝の地」=「大石寺境内」と牽強付会し、「時を待つべきのみ」=「現在は王仏冥合の時であり、現在戒壇建立の意義を持つ戒壇堂を建てるベき時」として、正本堂の建設を諸手を挙げて賛成していたのである。また「覚徳比丘」=「日達上人」などと解釈して、いぶかる信徒を、衣の権威で威圧したのは他でもなく、悪坊主日顕さんであったのは紛れもない時事なのだ。

序にいうと、「王法」とは、一義的には王の法であるから天皇の定める法令をいうのであるが、具体的には「王法」とは、国家統治の法則を指すことは云うまでもない事なのである。

150大東亜の星:2010/03/16(火) 13:30:00

邪義破折班の「最後に申すべき事」を砕破す(P.11)に云く『御法主上人には、その折、某二老師の古稀の宴席に他の第六十世日開上人の遺弟、法類の方々と共に、それも夫々夫人同伴で招待されたものである。したがって、汝が誹謗する如き、「芸者あそび」などではない。二老師の一生に一度の晴れのご招待の席を「芸者あそび」などと貶すとは無慚極まるというほかない』などと。

これは悪坊主日顕さんが、創価学会から贅を凝らした「芸者あそび」を指摘された時の言い訳である。おおよそ、出家僧侶たるものは、小欲知足を以って旨とすべきなのである。御開山上人の二十六ヵ条には「先師が如く予が化儀も聖僧たるべし、但し時の貫首或いは修学の仁に於いては、設ひ一旦の媱犯有りと雖も、衆徒に差し置くべき事」と御教示であるが、この誡文の冒頭部分の「先師が如く予が化儀も聖僧たるべし」とは、坊主の妻帯を禁じておられる誡文そのものなのである。

それを、棚に上げて「某二老師の古稀の祝いの宴席に夫々が夫人と同伴で宴席に招待された」とは恐れ入る。これはいうなれば出家僧侶の堕落以外に何ものでもない。大体、出家僧侶の衣食住の全ては、在家信徒が供養という簿財で一切を賄っているのである。僧侶たるものその一端に思いを馳せれば、温泉場で贅沢三昧の宴席を挙行するなどもっての外であろう。

また、御開山日興上人は「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて髄力弘通を致すべき事」とのご教示を併せ拝する時、大聖人の御遺命たる「国立戒壇」を永久放棄しながら、古稀を祝う宴席を設けるとは言語道断、正系門家の名はすでに地に落ちたという以外に言葉もない。ここで正系門家たる所以は、何を以って正系門家と呼ぶに値するかと云えば、「一期弘法付嘱書」に明白にお示しなのである。それは、大聖人の御存生の御時から、本門の本尊と、唯授一人の血脈と、国立戒壇の三ッを頑なまでに堅持して来たが故に正系門家と呼ばれて来たのである。

ここで「一期弘不法付嘱書」を謹拝してみよう。「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり。時を待つべきのみ。事の誡法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。

「日蓮一期の弘法」とは「本門の本尊」の御事である。次に「白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」とは「唯授一人の血脈」である。次に「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり」とは正しく「国立戒壇」ではないか。

ところが、昭和45年5月3日、悪僧日達さんは創価学会の第33回総会の席で、池田大作さんの身に余る奢侈に溺れ、遂に諂いが高じて「国立戒壇」の永久放棄宣言をやってのけ、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのである。こうなっては、最早当然の事ながら正系門家とは言えないのである。この宣言を耳にした邪宗日蓮宗はもとより、日本のあらゆる宗教団体は諸手を挙げて、「国立戒壇」永久放棄を歓迎し、今に我が家の春を謳歌しているのである。

正系門家切っての英邁な猊下であられた第六十五世の日淳上人は「真に国家の現状を憂える者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法たる国教樹立こそ必要とすべきであります。(大日蓮 昭和32年1月号)とご教示なのである。この堂々たる獅子吼こそ、日蓮門家は味職すべき金言なのである。

151大東亜の星:2010/03/18(木) 15:54:11

邪義破折班の「最後に申すべき事」を砕破す(P.17)に、悪坊主日顕に諂い迎合して云く「血脈付法の御法主上人は、御内証に大聖人以来の法水を御所有遊ばされ、以って御遺命を捧持されているのである」云々と。また、(P.17)に云く「そもそも、唯授一人金口嫡々の血脈相承により大聖人の御遺命を捧持あさばされる御法主上人が、御遺命に背くなどということは絶対にありえないことである」などと。

何度も云うようだが、日蓮正宗が正系門家たる所以は、三つの大事を堅持して来たからである。①本門戒壇の大御本尊がお在すこと。②唯授一人の血脈が存すること。③本門戒壇=「国立戒壇」を本願としていること。これ等の三つの大事は日蓮正宗の命なのである。故に、一期弘法付嘱書には、この三大事が明確に示されているのである。

悪坊主日顕は管長職に就く以前から、現在の日本国憲法を主、仏法を従としての認識に立ち、③の「国立戒壇」を否定し続けてきたのであれば、邪義破折班の吹聴する如く「大聖人以来の法水をご所有遊ばされ、御遺命を捧持されている」云々は、まるで当らない嘘八百という事だ。

邪義破折班は、大聖人の御遺命に背いた悪僧日達管長と、悪坊主日顕管長を両上人として持ち上げて(P.18)に云く「両上人は、令法久住、広宣流布を第一義として、僧俗一同を教導あそばされてきたのである。御慈悲あふれる日達上人、日顕上人に反逆」などと、聞いて呆れて寒気でゾクゾクするような賛辞を並べて両管長を絶賛しているが、拙者がその化けの皮を剥がしてあげよう。

「国立戒壇」を永久放棄して正本堂を「事の戒壇」と偽り宣伝した悪僧日達管長の云く「今振り返って我々が戒壇を論ずる時、三大秘法抄・一期弘法抄に云う処の戒壇は理想の大戒壇である。それは望ましい戒壇である。然し、今我々は現実に帰り、この戒壇の御本尊在します所は即ち、常寂光土・真の霊山であるという深い信念の下に御本尊を信じて行かなければならない。

152大東亜の星:2010/03/18(木) 15:55:48

もし、現在のこの戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所詮義の戒壇であるならば、だだ理論上のことだけになってしまう。それならば、何も本山まで貴い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどうおしても三大秘法抄の立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にこなければよろしい。それまで成仏しなければよろしい。

ただいつ来るか判らない未来の世界に浸っておるよりも、現実のこの世界に於いて我々は信心の誠を行かなければならない」云々と。(大日蓮 昭和45年7月号)とある。

これは正に驚きである。凡そ血脈を継がれた貴い貫主にあった方の言葉とは到底思えない言辞である。「現在のこの戒壇の御本尊の在します所が、事の戒壇でなければ、所詮義の戒壇であるならば、ただ理論上のことだけになってしまう」とは、正本堂を指して事の戒壇と牽強付会して、800万進とを騙したうえに、日本国家をも騙し続けたのである。

次に、正本堂が義の戒壇であり事の戒壇でないならば「何も貴い時間と金を費やして本山にまで足を運ぶ必要がない」とは恐れ入る。金だけ毟り取られた挙句、こんな下衆な言葉が返ってくるとは悲しくなってくる。また「もしどうしても三大秘法抄の立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にこなければよろしい。それまで成仏しなければよろしい」とは、何たる言い草だ。これでは、まるで悪ガキの捨て台詞そのものではないか。

こんな暴言を吐いて純真の信徒を愚弄して信心を欺くような貫主だから、仏罰を蒙ることになったのであろう。悪僧日達は、昭和54年7月22日の未明、退院の朝、入院先のフジヤマ病院で、激烈な発作に見舞われ急死を遂げ、正系門家の貫主に有らざる見っとも無い死にざまを晒すことになったのである。

153あんだお前?:2010/04/30(金) 23:09:32
創価学会かよ?

154通りすがり:2011/01/25(火) 12:48:16
大東亜の星←どうも顕正会系の人らしいですね。
 それにしても表現の仕方が余りに汚く、到底、礼儀礼節を重んじる筈の仏教徒とは思えないお人柄です。
 この板の注意事項にも抵触しているような…。
 私の御師匠様はいつも言われています。「仏教徒は何故、合掌礼に始まり合掌礼に終わるか。それは礼儀礼節を重んじる証でもある」と。
 別に綺麗事をならべるつもりはありませんが、ネットという顔を知らない人同士の対話であるならば、尚更、こういうことは気をつけて互いが無用な感情に走らないようにするべきではないでしょうか?

155伝六:2011/02/26(土) 20:22:38
大東亜の星というハンドルネームだから、大東亜の星たることをめざしているのかもしれないが、書いてあることは掲示板のゴミである。富士宗学要集の一局部を読んでのことか、その他の伝聞?を読んでかしらぬが、「口をして鼻の如く」などと事実無根のことを書くのは正気の沙汰ではない。自らの修養につとめられよ。

156名無し天:2012/01/11(水) 18:52:49
本門の戒壇を論じるときに、「国立か、民衆立か。どこに立てるか」といった議論ばかりが目立ちますが、
その戒壇堂が建立されたとき、授戒する師はどなたがなるのでしょう?

妄語ばかりついて、すでに妄語戒を破りまくっている人でも授戒師になれるでしょうか?
また、「我等こそ大聖人の正統なり」主張する在家団体の人が授戒をしようなどと、およそ仏教史に例を見ないことですが、

①破戒の人でも授戒師になれるのか
②在家でも授戒師になれるのか

以上の2点について、どなたかご教授願えませんでしょうか。よろしくお願いいたします。

157名無し天:2012/01/11(水) 23:29:41
訂正 ×妄語戒 → ○不妄語戒

「妄語戒」では嘘をついても良いことになってしまいますね(笑)失礼しました。

158伝六:2012/01/13(金) 10:03:02
本門戒体抄によれば、受戒には必ず三師一証一伴で、三師は迹門の受戒は和尚(わじょう)釈迦如来、阿闍梨文殊師利菩薩、教授弥勒慈尊でほかの戒師はもちいられていません。信者が師としている人から戒を授かるのは、その人から授かるのでなく、三師から授かるので、その場合授戒の儀式をおこなう人は伝戒であるという位置づけになると思います。どんなえらい人でも伝戒師であって、伝授戒師ではない。日蓮聖人は公場対決がおこなわれたら、「わが弟子等の出家は主上上皇の師となり在家は左右の臣下に列せん」となることを言われています。この場合の出家はいわば宗教の専門家という意味だと思いますが、肉食妻帯をしない文字どおりの出家であるという意見もあると思います。

159名無し天:2012/01/13(金) 14:36:19
>158伝六さん

大変ありがとうございます。私が持っております米田版・御遺文集には本門戒体抄が載っておりませんので、
いずれ全文を読んでみようと思います。

戒を授けるのは、迹門の場合でいえば釈迦と文殊・弥勒であって、儀式を行う人は仲介役という理解でよろしいでしょうか?
仲介役でしたら破戒など一切ない完全無欠の人でなくても勤まりそうですね(笑)

「わが弟子等の出家は主上上皇の師となり在家は左右の臣下に列せん」
これも本門戒体抄の御文でしょうか?大聖人のご真筆かどうかはともかく、この文が書かれた当時としては、
伝戒は出家が執り行うもので、在家が執り行うものではないという意識があったのでしょうね。

私はこの文を読んだかぎりでは、出家は文字どおりの出家であろうと思うのですね。宗教専門家という意味だとすると、
受戒の場にいるような人は僧侶でない人も宗教専門家と自称できるでしょうし、するとそこには在家が存在しないことに
なるのではと思ってしまいます。

すると、本門の場合の戒師は釈迦、地涌の菩薩(二人)となるのでしょうか。曼荼羅の座配から推察すると上行菩薩と浄行菩薩
ということになりそうですね。

以前、あるサイトで「日蓮花押がバンからボロンに変わったのは、授戒を意識したからではないか」といった内容の記述を読んだことがあります。
(うろ覚えなので、詳細な説明ができませんが)曼荼羅の中の「日蓮・花押」が、大聖人は伝戒師であることを意味している・・・と、ふと思いました。

御叱正等いただければ幸いです。

160伝六:2012/01/13(金) 19:39:23
伝戒の師の資格の問題はよくわかりません。戒というのを五戒とか十善戒とかの具体的なものだとすれば、末法は無戒ですから、破戒の問題はおこりません。妙法受持の根本戒を破っている場合は問題外でしょう。「わが弟子等の・・・・」は「諸人御返事」の御文で真蹟があります。本門の場合の戒師は本門戒体抄には書かれていません。「南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承修行したまへ」(生死一大事血脈抄)という御文からかんがえると、上行菩薩は三師のなかの一師で、上行菩薩の応現としての日蓮聖人は伝戒師ではなく、伝授戒師の資格となると私は考えます。日蓮聖人には凡夫日蓮の立場と上行日蓮の立場とがあると考えます。

161名無し天:2012/01/14(土) 15:13:21
「末法は無戒」という言葉をよく聞きますが、実を申しますと私がここで質問を始めたのはまさにこのことについて疑問を持ったからなんですね。

(スレ違いかと思ったので、ストレートに書かなかったのですが)戒が無いなら戒壇も必要ないことになり、妙法を受持することが戒で肉食妻帯は可なら、日本はいざ知らず、アジアの他の仏教圏でそんな出家者の声に耳を傾ける人がいるでしょうか。

(是非はともかく)日蓮宗の修法師のところで、それぞれ悩みをかかえた人たちが御祈祷を受けるのは、100日間の厳しい荒行を終えた人を信用しているからです。
スリランカの道端で僧侶たちが供養を受けるのは、釈尊の時代から続く戒律を守っている人だからと信用されているからです。

私の言いたいことは、犀角独歩さんがすべて書かれていらっしゃるので、多くを述べるのは控えたいところではあります。
ttp://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51855044.html#

明治政府による廃仏毀釈で建物や仏像が壊されたことがよく語られますが、「肉食妻帯勝手たるべし」によって仏教の精神が壊されたことに、どれだけのご僧侶方が気付いておられるでしょうか。
「日本仏教は時代の変化に応じて発展した」と語られますが、広宣流布は日本一国ではありません。

妙法受持の戒を言い訳に在家同様の生活を送る僧侶に一閻浮提広宣流布など果たしてできるでしょうか。

「戒壇で受ける戒とは何か」が判明すれば、戒壇堂のあり方は自ずと解決される問題であると思っています。

「大地を的とするなるべし」と言われる広宣流布を真剣に考えていらっしゃる方、特にご僧侶のご意見を賜りたいと存じます。

162伝六:2012/01/15(日) 11:24:23
「出家在家、法を護らんには其の元心の所為を取り、事を棄て理を存してまさに大教をひろめよ」という章安大師のことばがあって、事の戒というものを持たないという意味で無戒ということであって、戒が無いなどということではない。今の僧侶は昔の基準からは、ウバソクであって、比丘と称しても南方仏教では認めないというのはあたりまえでしょう。現在日本の仏教界に比丘は存在しない。しかし将来において、宗団において比丘が存在するようになるかもしれない。そんなことはわからない。「妙法受持の戒を言訳に」とはなんという言いぐさか。いったいあなたは、信者なのか、疑者?なのか。なにを広宣流布するつもりなのか。

163名無し天:2012/01/17(火) 14:34:49
できましたら他の方のご意見も賜りたかったのですが、この掲示板をご覧になる人は少なかったのでしょうか。

末法無戒の意味がよく分かりませんでしたが、少なくとも私が意味を間違えてとらえていたことが分かりました。ご教示に感謝いたします。

私が書き込んだ後に、「そういえば昔は、入道という存在があったな・・・」と思い至りました。もちろん、私は仏様の教えを信じる信者であるつもりですが、出家のあり方に疑問をいだく疑者であったかもしれません。

広宣流布する法体は素晴らしくても、広める人の行いが正しくなければ、人々の理解は得られないのではないかと思ったのですが、「同じ法を信じる者として、僧侶も信徒も力を合わせていくべき」と、結局私の中では元の結論に戻ってしまいました。行いの正しさを言うのであれば在家も同じことで、まずは自らを律することも大事ですしね。

言葉の使い方が下手なので誤解を与えかねませんが、
「五戒を破るよりも法華誹謗の罪は重い」→「法華誹謗の罪よりも五戒を破る方が罪は軽い」→「法華を守るためには五戒を破ってもよい」→「例えば親を殺すこともやむなし」

かなり極端な例ですが、オウム真理教はこのような思考を持っていましたよね。
また、これも極端な例ですが、「教団を守るためには、教団の破壊をたくらむ者を盗聴してもよい」(*あくまでも例え話です*)ということになった場合、法は立派であると言ってみたところで、説得力はありませんよね。

飛躍した話で大変恐縮ですが、そこで、本門の戒壇で受ける戒とは妙法受持だけでよろしいのか、そもそも出家の肉食妻帯を禁じる戒など無いのか・・・どなたか菩提寺のご住職に質問できる勇気のある方はいらっしゃいませんか?(汗)

164伝六:2012/01/22(日) 14:39:05
オウム真理教については、事件をおこす前の記憶としては、何の選挙だったか、転輪聖王麻原ショウコウというポスターが街にはってあって、ずいぶんとイカレタやつがでてきたと思った記憶があります。空想の中で世界を統一するつもりだったのかもしれない。サリン事件の後に、オウムではどんなことを教えていたのかと思って、図書館でオウム発行の本を読んだら、仏教の十二因縁のでたらめ解説が書いてあって、真面目に検討するほどの教義的なものはなかった。弟子は出家で佛弟子の名をつけていたようだけれど、仏教を形でいつわろうという意図があったかもしれない。空中浮遊を神通力であるかのように宣伝していたけれど、そういうものに価値を認めるなら、外道である。「例えば親を殺すこともやむなし」というのは、言葉の使い方が下手というよりは、例が悪い。オウムはサリンをまくのもやむなしと考えたのでなく、何かの妄想からあるいは妄的意図からサリンをまいたのだったと思いますが。


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