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本門の戒壇について

147大東亜の星:2010/03/12(金) 11:10:20

邪義破折班の「最後に申すべき事」を砕破す(P.9)に、悪坊主日顕さんをヨイショして胡麻すりながら諂って云く「御法主日顕上人御登座二十七年の長きに亘る宗門教導のお振る舞いと、僧俗一致の真の広布大前進の実相こそ、大聖人の門底下種仏法を日顕上人が厳然と承継遊ばされていることを証明しているのである」云々と。

思い起こせば、悪坊主日顕さんが猊座を簒奪したのは昭和54年7月22日、先代の悪僧日達管長さんが「国立戒壇」の御遺命を歪曲した仏罰により、入院先のフジヤマ病院で退院の朝、突然の激烈な発作に見舞われて、臨終思うようにならなず黄泉の国へ旅立ったのです。その期に乗じて悪坊主日顕さんは自己申告によって猊座にしがみつかれたのでした。それは、当日の夜の日達管長さんの通夜の席で参列者の多くが茫然自失して意気消沈している最中、「実はあっしが相承の授受を賜っとったんよ」などと。まさか、そんな、と思う間もなくおもむろに宣言して、第六十七代を継くに至ったのでした。

それでも管長職に就いた当座は何とか乗り切れたものの、悪坊主日顕さんは突然黄泉の国へ旅立った悪僧日達管長さんに輪を掛けたような下劣な人で、それこそ、創価学会の走狗のような諂いぶりでした。昭和52年の教義逸脱問題から法華講総講頭の重職を投げ出して責任を取った池田大作さんを、再び彼の誕生日を選んで総講頭の要職に任ぜられたのでした。そんな悪坊主の日顕さんに異論を唱え反旗を翻した坊さん達は、宗門全僧侶の2/5に達するほどの200人を超える数に及んだのでした。

これら200人を数える坊さん達が一斉に血脈相承の授受を疑い、悪坊主日顕さんを「法主に有らず」として裁判の席に誘き出して決着を付けようと裁判を仕掛けたのです。そうしたところ、悪坊主日顕さんはその報復として、その者達の頸を斬るべく、擯斥処分(宗門追放)で対抗する事となり、宗門挙げての前代未聞の大騒動となったのです。処分を受けた200余名の坊さん達が支配する寺院数も200ヵ寺に及び、その坊さん達の後には約10万人の正宗信徒が控えていたのです。それが現在の正信会です。今現在176ヵ寺が正信会系の寺院なのです。

悪坊主日顕さんは、200人を超える坊さんの頸を斬ったものだから、自動的に200ヵ寺を超える寺院と10万人の正宗信徒の頸を斬ることに繋がったのは云うまでもありません。こんな酷い仕打ちは出家僧侶としてあるまじき無慈悲な所業です。頸を斬られた坊さんの中には、その象徴的な存在として、あの第六十六代の猊座を務めていた悪僧日達さんの次男坊である、実修寺の住職をしていた細井琢道が含まれている事は、驚きと共に特筆される出来事でした。

こんな驚天動地の不祥事は邪教日蓮宗、諸山でも決して起こらない忌まわしい出来事です。これこそが、宗祖日蓮大聖人の御遺命である「国立戒壇」の本願に背いた仏罰なのです。「国立戒壇」を放棄した正宗信徒は、唯一の大目的を失ってしまったのです。そうなってしまえば活力を無くしてしまうのは当然の帰結です。まるで、信徒の大半は老人ばかりの無気力な集団に成り果ててしまったのです。

宗門では昨年「立正安国論正義顕揚七百五十年」と銘打って大きな掛け声と共に3年がかりで盛大な式典を催しました。その折、本山に78,423人の信徒を総動員して無意味で虚しい式典を開きました。なんの感激も沸かないまま、次への目標を打ち出しました。それは、①日興上人御誕生七百七十年の平成27年までに、法華講員数の50%増を目指す。②大聖人御誕生八百年の平成33年までに、法華講員数を現在の40人万体勢から80万人体勢にするというものですが、いずれの目標も掛け声倒れで虚しく終わるものと思われます。


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