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法華経の悪人成仏と親鸞の悪人しょうき説との違いは?

1野菊:2003/09/06(土) 12:58
提婆達多品でしたっけ?法華経の修行をすれば救われる?
浄土真宗はよくわかりませんが、悪人も努力せずに救われる?
悪人とは犯罪者ではなくて、戒を破る人?
ほかのサイトでも同じような質問しちゃったかも。ごめんなさい。

2川蝉:2003/09/07(日) 11:53
「真宗新辞典 」によると、
親鸞聖人は、謗大乗・五逆・一闡提を、難化の三機・難治の三病といって、それを悪人と説明してあるそうです。

悪人正機については、
悪人をただ無条件に許容し、悪をみとめることではない。
仏の智慧門に於ける是非善悪への厳しい批判の中から、善に務めようと努力し、自己への厳しい批判を実行しながら、しかも善人になりえず、善行を行い得ない絶対悪の自己を見つめ、そこに仏の慈悲を仰ぎ、仏の悪人を捨てることができないとの慈悲の深さをしらされてゆく中からいわれたのが悪人正機ということばである。

この点で、悪人正機は、悪人を許すと無条件に無反省にうけとられるものでなく、そこに仏の慈悲の深さをしり、悪の誘惑に打ち勝たねばとかえって自己への精進を志すべしとうけとれれねばならない。
等と説明されています。

3野菊:2003/09/07(日) 19:42
川蝉さんありがとうございます。
やはり、歎異抄というのは、親鸞聖人の直接説いたものではないのでしょうか?
悪人が何もせず、そのまま成仏ということは無いのですね。納得

4川蝉:2003/09/08(月) 09:40
3 : 野菊 さんへ。

>歎異抄というのは、親鸞聖人の直接説いたものではないのでしょ
>うか?

歎異抄の著者は如信、覚如であると云う説も有ったとのことですが、現在では唯円の説というのが有力だそうです。
親鸞聖人の言葉と親鸞聖人の教えを体得した人の信境が述べられていると見られているようです。

>悪人が何もせず、そのまま成仏ということは無いのですね。

詳しいことは知りませんが、さきの辞書の説明は、阿弥陀仏の慈悲を信じる者であるならば、「悪行を行ってもかまわない。悪行のままで過ごしていても良い」と云うような考えは懐かない、という事を言わんとしているのでしょうね。

しかし、阿弥陀仏は悪者も摂取してくれると真宗では説いているのでは。
浄土経を読むと、十念が条件のようですが、真宗ではその十念の念仏さえ往生の条件としていないかも知れません。

ホームページを覚えていないのですが、「死んだら誰でも摂取して貰えるのだから幽霊的な迷った霊魂など無い」と書いてあったような覚えがあるのです。

それから浄土経では、まず浄土に往生して、そこで説法を受け修行して成仏するとなっています。

5野菊:2003/09/09(火) 08:25
>ホームページを覚えていないのですが、「死んだら誰でも摂取して貰えるのだから幽霊的な迷った霊魂など無い」と書いてあったような覚えがあるのです。


そういえば、真宗は葬儀のとき清めの塩は使いませんね。
でも、僕はもともと使わないから、日蓮宗もでしょうか?

末法の世にあって、どんな状況でも希望を捨てなさんな。ということなのかな?

6管理者:2003/09/09(火) 12:46
川蝉さんの説明でお分かりと思いますが、龍谷大学の仏教大辞彙に、

アクニシ ンョウキ 悪人正機 悪人は弥陀本願の救済を蒙らしむる主正の根機なりとの意。選択集下に曰く「極悪最下の人の為に極善最上の法を説く」と。愚禿鈔上に曰く「一に菩薩、二に縁覚」三に声聞辟支等(浄土の傍機也)、四に天、五に人等(浄土の正機也)」と。元暁の遊心安楽道に曰く「四十八の大願、初に 先づ一切凡夫の為にし、後には兼ねて三乗の聖人の為 にす、故に知んぬ浄土宗の意は本凡夫の為、兼ねては聖 人の為なり」と。口伝鈔に曰く「一、如来の本願はもと 凡夫の為にして聖人の為にあらざる事。本願寺の聖人、黒谷の先徳より御相承とて、如信上人仰せられていはく、世の人つねにおもへらく、悪人なをもて往生す、いはんや善人をやと。このこととをくは弥陀の本願にそむき、ちかくば釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の劬労、六度万行の堪忍しかしながら凡夫出要の為なり。また聖人の為にあらず。しかれば凡夫本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。(中略)かるが故に傍機たる善凡夫なを往生せば、もぱら正機たる悪凡夫いかでか往生せざらん。 しかれば善人なをもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふベしとおほせごとありき」と。歎異鈔に曰く「一、善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この條一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり(中略)善人だに往生す、まして悪人をやと、おほせさふらひき」とあり。これ弥陀の本願は十方衆生を救済せんと願じたるものなれば、人・天・声聞・縁覚・菩薩の凡聖五乗に互りて博く被らしむベしと雖、其主眼とする所は声聞・縁覚・菩薩の聖者にあらずして、人・天の凡夫にあり。其凡夫の中に於て、善凡夫よりも悪凡夫を以て主眼とす。これ本願力にあらずんば永く成佛すること能はざるものなればなり。故に此悪人正機は佛慈悲の究竟を顕はすの語なり。されども佛悪人を好むとの意にはあらず。凡そ佛には慈悲・智慧の二門あり。慈悲門に於ては悪人正機なり、智慧門に於ては是非善悪を照して非悪を悪む。譬へば父母の衆児に対するに一視平等なるも、特に不肖悪性の児に対して慈念瞬時も息まず、而も其不肖悪性を好むに非ざるが如し。佛また然り、悪を救ふも悪を好まざるなり。好まずと雖大慈悲の心主として悪人の上にあり、故に悪人正機にして善人なほ往生す、いかにいはんや悪人をやと云はざるべからざるなり。然るに法然上人の法語には「罪をば十悪五逆の者なほ生ると信じて、小罪をもおかさじと思ふベし、罪人なほ生る、何況や善人をや」(法然上人行状画図第二十一・和語燈第四)とありて、其意相異なるが如し。之に就て興隆の口伝鈔録には「元祖は常途因果の理に准じて願生心を起すベしと勧む。これ浄土門初開の時なるが故に。その本意は選択集に遊心安楽道(前出)の文を引き、及び所々に機悪を疑ふを誡むる為凡の釈義あるにてその意見るベし」とあり。覚寿の口伝鈔略述に「元祖(法然)の語と、世人のおもはくと言は同じきに似たれどもその意各別なリ。もと元祖の御言は本願にほこりて造悪を許す邪見を試むる意にて、十悪も五逆も往生すればとて小罪をも犯すべからずと示し、悪を慎み善を作すべしと勧善懲悪す。これ更に往生の為に非ず、邪見を誡むる意なり。凡そ元祖一代の御教化種々あり。悪人正機を勧むるあり、耶見を誡むるあり。和語燈につよく信ずる方を勧れば邪見を起し、邪見を起させじと誘ふれば信心つよからず成るが、術なき事にて侍る也とあり。これより見れば上の和語橙第四の文は邪見を誡むる言なり。爾ればこの世の人の語は、元祖の耶見を誡め給ふ語を誤りて、止悪作善が往生の為になるやうに心得たるなり。故に本願の意趣に背けりと誡むるも、元祖の御言を破するに非ず。吾祖(親鸞)も邪を誡むる時は、薬あればとて毒を好むべからずとあり。元祖と同意なり。又元祖も本願の正機を顕すには機の深信の釈を引きて勧むるは吾祖と同意なり」とあり。千巌の口伝鈔講義其意また同じ。

7管理者:2003/09/09(火) 12:50
以上です。ご参考まで。
余り文章が長いので、全て書き込めるかどうか心配でしたので、試しにリターンを押したら、何と全て収まってしまいました。
失敗失敗・・・・m(_ _)m

8川蝉:2003/09/16(火) 14:29
6 : 管理人さんへ。

今日は。遅いコメントですが。

龍谷大学の「仏教大辞彙」の説明の紹介有り難うございました。
長文でお疲れでしたでしょう。
おかげで 、 私が引用した辞書の「悪人正機 」の説明がさらに良く理解出来ました。

9管理者:2003/09/16(火) 14:36
川蝉さんへ
今日は。わざわざ有り難う御座いました。
「仏教大辞彙」の引用、長くなるのでどうか?と躊躇してました。此の辞書は比較的公平なのと、出典も明記されていて重宝してます。
残暑厳しい折、川蝉さんもお体ご自愛の程ご精進下さい。

10込山 (女):2003/11/11(火) 13:17
川蝉さま、管理人様 こんにちは。

このスレッドにもちょっと興味を持ちました・・・

「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」という有名な言葉
は、親鸞の著書の中にもあるのでしょうか。なぜ歎異抄の引用として
しか紹介されないのでしょうか。変な質問ですいませんが、ご存じな
ら教えてください。

11川蝉:2003/11/11(火) 16:08
込山さんへ。
今日は。

歎異抄の著者は、現在では、弟子の唯円の説というのが有力だそうです。
「歎異抄」は、唯円が親鸞聖人の言葉と自らの信境を書いたものと云うわけですね。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」という言葉は「歎異抄」の中にあるだけなので、歎異抄の引用としてしか紹介されないのでしょう。

12込山 (女):2003/11/11(火) 23:06
川蝉さん 今晩は。込山です

>「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」という言葉は
>「歎異抄」の中にあるだけなので、歎異抄の引用としてしか
>紹介されないのでしょう。

そうなんですか。何も知らなくてすいません・・
私の変な質問にいつも丁寧に教えて頂きありがとうございます。
私の質問などで無理に時間を割いてるのではないかと心配です。
川蝉さん、もし、忙しいときは無視して下さいね。
でも、無視しないでくださね。

13管理者:2003/11/12(水) 12:10
込山さんへ。
今日は。早々○○さんにての書き込み有り難う御座います。
実は、親鸞聖人の名前、6回?改名してるのですが、「日蓮聖人と親鸞」の中に書いてあったように記憶してまして調べて居ましたらこんな時間に、

川蝉さんの
>現在では、弟子の唯円の説というのが有力だそうです。
で、古くは(^.^; 「日蓮聖人と親鸞」山川智應著84頁に
「善鸞の子の如信といふのが、親鸞の末子彌姫と共に、始終傍に居て教を聴き、これを後に筆記したのが、「歎異抄」「口伝鈔」「改邪鈔」であるといふことである。」
と、ご参考まで。因みに親鸞聖人の子供ですが、「日蓮聖人と親鸞」山川智應著68頁に
「親鸞聖人の家庭には、次男明信、三男善鸞、四男有房、二女嵯峨姫、三女彌姫の五子が、この稲田(常陸の笠間郡稲田)で出来た。」
と、有りまして?長男・長女は、と又探しましたら、「日蓮聖人と親鸞」山川智應著64頁に
「玉日姫は聖人(親鸞)の流罪後、間もなく死んだので、下野国真岡なる三善為教の娘を娶って、流罪赦免の翌年十二月には早や昌姫といふ子が出来た。或は玉日が三善為教の娘と変名して行ったともいふ。この婦人は後に髪を下して恵信尼となった。この人も稲田へ来た。こゝに親鸞は夫婦で入道的生活をなしたこと、安貞・寛喜・貞永の頃に至るまで約十年乃至十五年であると伝へられる。」

因みに親鸞聖人の幼名は、「日蓮聖人と親鸞」山川智應著22頁に
「伝説によると、平安朝公家政府の末、高倉天皇の承安三年四月一日、時の皇太后宮大進藤原日野有範の子と生まれ、母は源氏で吉光女といひ、幼名を松若丸十八公丸、鶴光丸など呼んだ。」

以上、引用の書籍の意を十二分に引用は出来てませんが、ご参考まで。

14三吉:2003/12/01(月) 07:45
皆様、頭が良くていらっしゃる。
私は以上の説明は難解すぎると思います。

「悪人正機」という語は親鸞にはない。親鸞がなにを「正機」と言っているか主著「教行信証」をみると一箇所だけだが以下のように言っています。
「観経」に「若仏滅後諸衆生等」とあるが、これの意味するところは「未来の衆生が往生の正機」たることを顕しているのだよと。
未来のあらゆる人が、弥陀の本願を機縁として往生するのだよと。
理念的には特に悪人に限定した話ではないのだが、実際的には、悪人の自覚がなければ、往生したいと本人は思わないので、「信」上、自覚がターニングポイントとなります。
努力はしなくてよいです。弥陀が正しく清く努力した結果に乗ろうというのが浄土教、他力の法門ですら。能力も金力も努力も必要はない。愚かであるという自覚と、南無の気持ちがあれば充分。
ところが親鸞晩年の頃、「本願を誇り」わざと悪さして、悪いほうが救われやすいんだといい、努力して悪さをする者がでてき、「なんでやねん!」と親鸞はあわてふためき、「薬があるいうて、なんでわざわざ毒のむねん!」と絶句したそーです。

15三吉:2003/12/01(月) 07:48
山川さんって時代が古いのでしょうけど・・むちゃくちゃ言うてるね。
基本的に本願寺の作り話そのまま信用しているという感じの立場ですね。

16三吉:2003/12/01(月) 08:00
覚如と言う人のでっちあけた話がもとなのですが、
元々本願寺は、親鸞の墓所で、関東門徒に親鸞の娘が寄進して、
娘の血筋が現地管理人だったのですが、覚如は異父兄弟と地位を争い、
関東門徒にへつらって地位を容認してもらうと、一転、天台の末寺となり、
本願寺と名告り関東門徒所有から独立したのですね。一種の詐欺です。
で、親鸞血筋の者が正統だという説を固めるために、わざわざ東北まで、
如信に会いにいき、口伝受けたとするのね。
で、その如信の父は、親鸞から義絶されている善鸞なので・・・汗。
まあ善鸞のもとに走った如信を親鸞のそばにいたと伝説つくり、そこから
親鸞の法門受け継いだとするのですけど、怪しい限りです。

17野菊:2003/12/01(月) 08:19
>>16 【三吉さんこんにちわ<(_ _)>】
>その如信の父は、親鸞から義絶されている善鸞なので・・・汗。
>まあ善鸞のもとに走った如信を親鸞のそばにいたと伝説つくり、
>そこから親鸞の法門受け継いだとするのですけど、怪しい限りです。
  以下省略
三吉さん、はじめまして、よろしくお願いします。
浄土真宗関係の方なのですか?お詳しい。
なんか、いずれの宗門にも困った人達がいたのですね。
またよろしくお願いいたします。
山川先生は、田中智学先生の高弟で明治、大正、昭和の前半にご活躍され
日蓮教学の基礎を作られた方ですが、他宗門のこと、また情報開示(爆)
が進まない頃の話ですからね。間違っていたら御容赦願います。

18ぽん州:2003/12/03(水) 01:26
三吉さん こんにちは。

便乗質問ですが 阿弥陀さんというのは 易行難行どちらを修し、浄土門聖道門
どちらなのでしょうか?

19三吉:2003/12/04(木) 08:18
阿弥陀さんは寿量品の釈尊と同じく法身の仏(架空の仏)なのですが・・・
大無量寿経に、
「国を棄て王を捐てて、財色を絶ち去け、自ら六波羅蜜を行じ、
人を教えて行ぜしむ。」とありますので、六波羅蜜も実践してたことに
なりますね。実践してただけではなく人々に勧めたと。
で、続けて「無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ。あるいは
長者・居士・豪姓・尊貴となり、あるいは刹利国君・転輪聖帝となり、ある
いは六欲天主、乃至、梵王となりて、常に四事をもって一切の諸仏を供養し
恭敬したてまつる。かくのごときの功徳、称説すべからず。」
阿弥陀さんの修行時代の教化実践の成果は、「無上正真の道」という仏教的
な救いだけではなく、長者というお金持ちになったり、名誉ある地位を得たり
というこの娑婆世界での成功も成果例としてあげられています。

蛇足でした。

20ぽん州:2003/12/06(土) 21:42
三吉さん どうもありがとうございます。 てっきり親鸞教の方かと思い
質問させていただきました。

「唯信鈔文意」には
  この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、
  法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたま
  ふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけた
  てまつりたまへり。
  この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申
  すなり。
とありますし
「一念多念証文」には
  この一如宝海よりか たちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、
  無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふが
  ゆゑに、報身如来と申すなり。

とありますから、報身如来であると思っています。ただ 浄土宗のほうでは
報身如来か三身即一如来かの論争があるやに聞いてますが どんなもんで
しょうね。

 親鸞の著書には真偽に注意を払わなければならないものが多数有るようで
上記の「唯信鈔文意」も真偽未決のように思えます。書誌学だの文献学だの
という以前に 本願寺と高田専修寺の正嫡争いみたいに 門外漢には思えます。

 さて 当該スレは 一方に親鸞の悪人正機説が扱われていますが、三吉さん
の #15
>「悪人正機」という語は親鸞にはない。
というように、そもそも師匠の法然の「悪人正機」を親鸞が受け売りしたもの
という説もあったように記憶してます。法然の親鸞以外の弟子の門流の寺から
詳しくは覚えていませんが 「法然上人は 善人往生す況や悪人おや とお説
きになった」という文書が発見されたということでしたが、その後の研究は
どう発展しているのか 興味のあるところです。

 まあ それはともかく 阿弥陀さまは六波羅蜜を行じ、それも大経によれば

   たとへば大海を一人升量せんに、劫数を経歴せば、なほ底を窮めてその
   妙宝を得べきがごとし。人、至心に精進して道を求めて止まざ ることあ
   らば、みなまさに剋果すべし。いづれの願か得ざらん

といったように 大海の水を一升づつこつこつと汲み出していけば最後には
妙宝を得ることが出来るという 世自在王仏の教えで大変なご自力聖道門を
歩かれたのですね。

 自力は認める だけど 煩悩具足の凡夫の衆生は 誰ひとり自力による
成仏など出来ない という思想は 法蔵比丘の自力成仏が必要とされるの
でしょうね。 阿弥陀さまの功徳を回向していただかなければならないわけ
ですから。

21三吉:2003/12/07(日) 01:07
こんばんは ぽん州さん

基本的にあなたのご関心が私には明確にわからないので応えようがないのです。
でもせっかくレス頂いていますので、私の関心から「真宗」を語ります。
「唯信鈔文意」の引用箇所は、弥陀を「方便法身」と抑えた上で、「方便法身」が法蔵菩薩という姿に具現したとみるわけです。「方便」とは、「真実に至るための手立て・方法論」のことですが、「法身」だけでは、「すがた・かたちもなく認識すら不能」ですので、我々に働きかけるときは、「手立て」として実体化が必要なわけです。その実体化が法蔵菩薩というあり方であり、そのあり方の手立ての根幹は「不可思議の大誓願」にあると展開しているわけです。
「法身」が、「方便」という「具体」を持つから我々に「気づき」が生まれうるわけですが、その「方便という具体」は、法身の<慈悲>なわけです。
私の関心からすれば、「生身」か「法身」かで終わります。
他に「化身」「応身」「報身」といろいろ仏教は展開していますが、その複雑な教義にさほど関心がないのですが、「方便法身」と「報身」ってどうちがうのでしょうか?
つまり史的実在を越えたところの仏陀観でしょうし・・・以下略。

私は「報身」という押さえよりも「方便法身」と押さえ、「なまんだぶぅ」の本尊の裏書にも「方便法身」と書く真宗の感覚は鋭敏だと思います。(真宗は弥陀を報身と押さえていますが、私には報身という言い方は、自画自賛が入って誤解を生む表現と思っています。報身=完璧な仏となり、報身だから一番偉いんだ、他の宗派が奉じる仏は報身じゃないから駄目なんだ、ほんものじゃないんだ・・・と)

法然の受け売り説は、十五年ほど前に浄土宗西山系の西福寺からでた「輪円草」あたりのことでしょうが、こちらは「・・・善人尚生る。況や悪人をや」だそうです。
大正時代に真言宗醍醐寺で発見された「法然上人伝記」(醍醐本)にそもそも「善人尚以往生況悪人乎」があったのだけど、漢語灯録など正統派の法然の言行録になかったので、これは歎異抄からの挿入と無視されていたのですね。で15年ほど前、「また別の寺から発見されたみたいだぞ。どうも法然さんもいうてたみたいだな」と、私が学生の頃そういう噂が流れていました。なつかしい。この寺が西福寺とか知ったのは、下記書籍からです、私は。
書籍としては「大東名著選 悪人正機説」 梶村昇 が参考にはいいかも。2100円で手ごろだし。

「自力は認める ・・・云々」とのことですが、別に経典には自力他力など触れてないですね・・・。
「誰ひとり自力による成仏など出来ない 」は、道綽ですね。正確ではないですけど・・・。
道綽は、「これほど仏教が廃れた時代になっては、もはや浄土教でしか道はない」というようなことを言ったのですね。根拠は「大集経」という経典に「末法では、仏教はもはや浄土門の一門しかないので、みんな浄土門を歩もう」とあるとのこと。これを日蓮さんは批判しています。「どこにあんねん!」と。そう、道綽の引用はいい加減で経典に当該箇所はない・・・(笑)。法蔵阿弥陀は無関係で、道綽の解釈の問題です。
で浄土教はこの「我が末法の時の中に億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得る者あらじ、と。当今は末法なり。この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。」が、根幹です。(ちなみに道綽のころ、仏教弾圧があり、僧全員、還俗させられている)
親鸞に言わせると、「今また人をやっていること自体、輪廻繰り返して繰り返して成仏に失敗し続けてきた証左である」と。(願って悪趣に生れた仏・菩薩は除く)
法蔵さんの五劫と10劫の修行なんて、人にできるわけないじゃん。
そこまで寿命はもたない^^;

22うらら:2004/01/11(日) 17:40
三吉さんへ!!どーも、はじめまして!

>阿弥陀さんは寿量品の釈尊と同じく法身の仏(架空の仏)なのですが・・・

    ↑ ↑ ↑ ↑ ↑

言ってるおられる意味が分かりません!!!
架空の仏とはどういう意味ですか?久遠釈迦は人間の空想ってことですか


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