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社会と同性愛 支配階級と同性愛もしくは小児性愛
19
:
<古代>
:2010/02/19(金) 23:27:34
「衆道の日本における最初の記録について、日本書紀に
『神功皇后摂政元年に昼が闇のようになり、これが何日間も続いた。
皇后がこの怪異の理由を尋ねたところ、ある老人が、
神官の小竹祝が病死したことを悲しんだ天野祝が追死し、
両人を合葬した「阿豆那比(アヅナビ)之罪」のなせる業であるという。
そのため墓を開き、両者を別々の棺に納めて埋葬するとただちに日が照りだした』
との記述があり、ある説は
この「阿豆那比之罪」こそが男色について述べた日本最古の記述であるとする。
また「続日本記」には、天武天皇の第七王子である道祖王が
聖武天皇の喪中に侍児と男色行為にふけって廃太子とされた記述が見える。」
(
>>14
wiki「衆道」より)
「『本朝男色孝』の著者によれば、これが(*『日本書紀』の阿豆那比之罪)
日本での男色の正史に現れる始めとされている。
「(現代語訳) 皇后は紀伊国においでになって、(中略)
更に小竹宮(和歌山県御坊市小竹)に移られた。
このときちょうど夜のような暗さとなって何日も経った。
時の人は「常夜(とこや)行く」といったそうだ。
皇后は紀直の先祖、豊耳に問われて、「この変事は何のせいだろう」と。
一人の翁がいうのに、
「聞くところでは、このような変事を阿豆那比の罪というそうです」と。
「どういうわけか」と問われると答えて、
「二の社の祝者(はふり)を一緒に葬ってあるからでしょうか」という。
それで村人に問わせると、ある人がいうのに、
「小竹の祝と、天野の祝は、仲の良い友人であった。小竹の祝が病になり死ぬと、
天野の祝が激しく泣いて『私は彼が生きているとき、良い友達であった。
どうして死後穴を同じくすることが避けられようか』といい、
屍のそばに自ら伏して死んだ。それで合葬したが、思うにこれだろうか」と。
墓を開いてみると本当だった。ひつぎを改めてそれぞれ別のところへ埋めた。
すると日の光が輝いて、昼と夜の区別ができた。」
(講談社学術文庫『日本書紀』上 p.196)
(
http://www.spacelan.ne.jp/~yosimo/u-essay/ghistory.html)
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