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【分館】 参考資料スレ

47シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 10:52:35
  事物が私たちにとって打ちかちがたい障害となってあらわれるとき、
 私たちはそれらの事物のなかに悪意ある力を見るような気がします。

  冷静さを失わせるような破局にぶつかると、私たちはよく
 「夢をみてるんじゃないか?」とつぶやきます。

かりにいま、
 石の塊をまえにした人間たちがむやみに動きわらるのをやめて、
体系的に考えだし 梃子(てこ)の使用を思いついたとすると、
すべてが変化します。

 梃子(てこ)は、
 対象を分割することなしに対象の重さを分割する手段 だといえます。

 そのとき石はそれまでの悪意をすべて失ってしまいます。
 どんな重さも力に抗しきれるものではありません。

 たとえば、私たちの50キロの力と300キロの重さとのあいだに
 ひとつの≪関係≫を打ちたてるだけで充分なのです。

 、、、、
このような発想は、
 世界にある悪意にみちた力のすべてを抑えつけてくれます。    

 私たちが働きかけ 自分たちの痕跡を世界に残すであろう、 そのような関係が
つねに存在するのです。

 分解することさえできるなら、いかに小さな力であっても、
 どのような大きな力にでも打ちかつことができます。
 つまり、
 石にやみくもに飛びかかり、魔術のようなやり方で石に打ちかとうと希う人と、
 てこを探しにいく人のあいだには 本質的な差異があるのです。

 情念は、第1の態度をとるようにしむけ、
 第2の態度をとるためには、英雄的な努力が必要とされる 
 ということに注意しましょう。
 ≪労働≫はたえずこの種の≪努力≫を要求します。


 石にやみくもに飛びかかっていくとき、悪夢のなかにでもいるような気がするものですが、
 ≪体系的なことばにのっとった行動≫は
 夢とはいかなる関係もありません。

 しかし、
 いま石についてお話ししたことのなかには
 ≪意外さ≫が何もないのですから、
現実的なものもなにもありません。
 

 科学や≪推論≫においては、
 自分のとりあつかう問題のなかに ≪自分のもちこんだものしか≫(仮説)残りません。

 けれども、行動のなかに自分のもちこんだものしかない とすると、
そこには障害がなかったことになり、行動もないことになりましょう。


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