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【分館】 参考資料スレ

45シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 10:41:52
(B)≪私たちに方法体系をもたらすことができるのは、ことばだけです。
    それというのも まさにことばが現実とは無縁なものだからです。≫

  じっさいのところ、私たちは世界のなかにあって、欲求に従わなくてはなりません 

 たとえば、私たちはあるかぎられたキロ数のものしか持ちあげられません。
 それ以上の重さはすべて同一の名目-『重すぎる』 のもとに
 私たちには無縁のものになるため、私たちにとってどれも同じものになってしまいます。

   反対に私たちは、どんな大きいキログラムのものについても、
   欲求するままに語ることができます。
   キログラム、ということばは、どんな重さも持っていないからです。

 ≪ことばは、私たちに、 私たちの欲求とはまったく無縁な関係を設定することを
  可能にしてくれます≫                、、、、                      
 
語はお金もかからず、重さもなく、私たちは語を用いて、
  ≪完全に私たちの自由になるひとつの関係≫を 打ちたてることができるのです。 


  ここで、≪客観的なものとして、ひとつの必然性として 私たちにあらわされるのが
        私たちだけに依拠しているにすぎない秩序 である≫ 

          という逆説に注目してください。
 
   世界は私たちに数をまったく提供してはくれません。
   数という系は、完全に私たちのつくりあげたものです。
    たとえば嵐のとき世界は私たちに 砂粒を一粒・二粒・三粒と提供してくれるわけではありません。
    1+1=2 という必然性と、2キロの重さのものが頭上に落ちてくる必然性とのあいだには、
いかなる関係もありません。

  そこで、次のことが言えます。  

    (1) ≪ことばはあらゆる方法体系にとって唯一の源泉である≫

    (2) ≪ことばだけが、私たちが客観的と呼んでいる必然性なるものをもたらす≫

          その必然性が、
         私たちの欲求や身分や感情や状況などから
         独立している という意味で、客観的なのです
            
    この二つのことはたがいに相関関係にあります。 
方法体系がなければ客観的必然性もなく、
    客観的必然性がなければ方法体系もないからです。

(C) ≪しかしながら、ただ”語”のみに限定すれば、秩序と必然性は消え去ります。≫


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