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【分館】 参考資料スレ

1zebla:2009/09/25(金) 19:00:20
 ◆各スレッドでの話題に関連した参考資料などを貼るスレッドです◆

―参考資料に関する感想・雑談・議論をここで行うことも可です。ただし
 各スレッドで行われている議論とクロスする場合は
 議論の被りや混乱を避けるため、できるだけ該当スレでお願いします―
     
○著作権等の問題に関しては投稿者が責任をもってください。
○個人サイトのURLに関しては各人で慎重に判断していただきたいと思います。 
問題があった場合、管理人が予告なく削除する場合があります。
★★★ 必 読 「この掲示板利用にあたって/管理人」 ★★★
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=2470&KEY=1040148566

※なお、現在(2009年9月)管理人氏は、
『・定期的に監察することが難しい・削除依頼に気づきにくい
 (管理人宛のメールは常にスパムメールに紛れている。
 メールアドレス変更してもおそらく日を待たず同じ状況となる)』
という状態にあるため、
問題箇所の削除の必要が生じた場合には、できれば、メールではなく、
スレッド上で削除依頼、もしくは削除の必要性、を表明するようお願いします。

2 『Primal Scream』wikiより:2009/09/25(金) 19:05:09
『The Primal Scream(原初からの叫び)』(1970年)は
『Primal Therapy: The Cure for Neurosis(原初療法:神経症の治癒)』
の副題がついた、原初療法の創始者アーサー・ヤノフ博士の著作。
『The Primal Scream』の版のいくつか(ABACUSから1977年に出版された版など)では、
表紙にエドヴァルド・ムンクの『叫び』が使われている。

■内容
序章では
:ヤノフが自らの患者の一人である22歳の大学生ダニー・ウィルソン(仮名)から聞いた
画期的(remarkable)と言える悲鳴について述べられている。
ヤノフの言葉によれば、その悲鳴はあたかも殺されようとする人が発する悲鳴のようであり、
その悲鳴には「既知の心理療法を根底から覆す」可能性があった。
ヤノフによれば、
彼自身も彼の患者もそうした子供じみた行為に意味を見いだせなかったものの、
ウィルソンに「ママ! パパ!」」と叫ぶように頼んだ。
しばらく躊躇しためらった後、ウィルソンはヤノフの指示に従った。
するとウィルソンは半狂乱になり、痙攣を起こし、
ついには声を限りに混じりっけなしの悲鳴を上げた。
悲鳴の直後、ウィルソンは「わかった(感じられた)」と断言した。
数ヶ月後、ヤノフはゲーリー・ヒラード(仮名)という30歳の患者に同じ手法を試み、
ヒラードもまた叫んだ。ヤノフもヒラードも共にこのことにショックを受けたが、
その後、ヒラードは直感的洞察を得て、己自身を理解したようだと博士は書いている。
ヤノフは彼の患者達において観察された変化を解明し、そこから原初療法を開発した。

3第1章:2009/09/25(金) 19:08:37

第1章『問題』は
:理論とは 「観察された一連の現実に対して我々が与える意味である」
と定義することから始まる。ヤノフは「我々に欠けているのは、
それぞれの治療の各時間ごとに患者とどのように話していくかという
確固たるガイドラインを与えてくれる、ある種の一元的な構造だ」
と書き、精神療法の理論や方法論は増える一方だと文句を言う。
ヤノフは全ての神経症には同じ原因があり、同じ治療に反応すると主張する。
そしてフロイドの信念
―人は神経症的に生まれ、最も強い防御システムを持つ人が
  社会において最も良く機能できる人である― を批判する。
ヤノフはこの見解と「我々がかつて考えていたのとは全く違う状態
―すなわち、人がまったき己自身であり、深い感覚と内的統一感を経験できるような、
 緊張もなく、防御もない人生が存在する― という自らの見解を比較する。

4第2章:2009/09/25(金) 19:10:39

第2章『神経症』では、
;神経症は満たされなかった欲求(ニーズ)によって引き起こされる、と主張される。
ヤノフによれば
「幼児は自力では空腹感を克服できないが故に,,
あるいは、愛情の代替物を見出そうとするが故に、自らの感覚を,,意識から切り離さざるを得ない。
こうして自らの欲求や感覚から自分自身を切り離すことは、
過剰な苦痛を遮断するための本能的な手段である。 我々はそれを『分裂』と呼ぶ」。
これらの抑圧された欲求は存在し続け、象徴的に表出されざるを得ない。
しかし、こうした象徴的な満足がその下に潜む欲求を満たすことは決してない。
感覚の抑圧は段階的に神経症を発現することへと繋がり、
やがて現実の自分と実在しない自分との分裂にまで至る。
ヤノフは、最終的に神経症を誘発するこの出来事を
『主要な原初の場面(The major Primal Scene)』と名付け、
おおむね5歳から7歳の間に起きるとしている。
主要な原初の場面の前には、数多くの小さな原初の場面がある。

5後の数章:2009/09/25(金) 19:13:17

苦痛と記憶に関するこの後の数章では、
: 苦痛からの逃避は、神経症の発現に重要な役割を果たすと断言される。
ヤノフによれば、現時点での苦痛がその原因と釣り合っていない時、
その原因は、抑圧された苦痛が年齢とは無関係に
そのまま残っているからであり、
それらは再び体験することによってのみ解放される―そこで
原初療法家(Primal Therapists)が必要とされる。
彼は、神経症になるのは、肉体的な痛みが人を意識不明にするようなものだとし、
神経症の発現は記憶に影響を与えると断言する。
記憶は苦痛と共に抑圧されるし、
苦痛を感じるとそれらの記憶を甦らせる。

6第5,6章:2009/09/25(金) 19:17:03

第5章『緊張の性質』では
:自然な緊張 (ヤノフの意見では必要なもの)と
不自然な緊張(こちらは不必要なもの)とを区別する。


第6章『防御システム』では、
:あらゆる防御は神経症的なものである、とする。
この中でヤノフは薬物中毒と同性愛は似ているとする。
「彼(=薬物中毒者)は他の神経症患者とは違って自らを防御することができない。
彼は針と直接に関係を深めていく。
苦痛…針…安堵。針がなくなれば、そこには苦痛が存在する。
同性愛にとってのペニスも同じ役目を果たす。
どちらも緊張からの安堵(解放)を表象するのだ」
ヤノフはまた、こうも主張する。
「針の使用、あるいは男性同性愛者の性行為における苦痛にもかかわらず、
その象徴的な感覚は快楽、あるいはより正確には安堵である」

7第17(7?)章,補遺:2009/09/25(金) 19:20:10

第17章『性愛、同性愛、両性愛』では、
主な論題の一つに同性愛を取りあげている。
ヤノフは同性愛を神経症と認定する。
同性愛行為が性愛であることを否定し、現実の性愛の拒否であると主張する。


『The Primal Scream』には二つの補遺がある。
一つは、その治療が原初療法の記録となったある患者を扱ったもの。
二つめは原初療法患者のための7つの指示
―すなわち、喫煙、飲酒を慎むこと、薬物使用を慎むこと、緊張を緩和する習慣をやめること、
治療前は24時間完全に一人になること、療法家が言ったことを正確に行うこと、
治療の初期段階では働いたり学校に行ったりしないこと、
原初療法後の患者の会に参加すること、である。
こうした指示を守らない場合、原初療法は奏功しない。

8zebla:2009/09/25(金) 19:28:10
以上。原文は ttp://en.wikipedia.org/wiki/The_Primal_Scream

9吉本?髢セ 「詩とはなにか」 思潮社 [詩の森文庫C09]:2009/11/09(月) 21:32:46
・・・(略記号とする) *(引用者による註とする)

【詩とはなにか】   
わたしのように、かきかいことをかく、といった無自覚な詩作者のばあい、
詩の体験はいつも“さめた”あとの夢に似ている。
そのあとに意識的な光をあてておぼろげな筋骨のようなものをとりだすことはできる。
だが、詩的体験からひとつの“さめきった理論”をみちびきだすことは、
とうていおぼつかないのである。
・・・
一九五二年頃“廃人の歌”」という詩の中で
「ぼくが真実を口にすると、 ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によって、
 ぼくは廃人であるさうだ」 という一節をかいたことがある。
この妄想は、十六、七歳ころ幼い感傷の詩をかきはじめたときから、
実生活のうえでは、いつも明滅していた。
・・・
わたしがほんとのことを口にしたら、
かれの貌も社会の道徳もどんな政治イデオロギーもその瞬間に凍った表情にかわり
とたんに社会は対立や差別のない単色の壁に変身するにちがいない。*
詩は必要だ。詩にほんとうのことをかいたとて、
世界は凍りはしないし、あるときは気づきさえしないが、
しかしわたしはたしかにほんとのことを口にしたのだといえるから。
そのとき、わたしのこころが詩によって充たされることはうたがいない。

 (*この「対立や差別のない」は理想社会と意味するのではなく、
“私”を疎外するという意味でひとつのかたまりとして壁になる、という意味だと思う)

10吉本?髢セ 「詩とはなにか」 思潮社 [詩の森文庫C09]:2009/11/09(月) 21:48:32
 年少のころ、日常いつもつきあたったのは、
慣習的な精神への苦痛だった。
たとえば、きみたちは素直で健全でなければならないなどと
教師が説教したとすると、おおうそだとおもってたいてい馬鹿にした。
・・・いまは別だが年少のころは、こういうのは精神を習慣に服従させた結果だ
とかんがえていた。
たとえ、本人がどうであろうと、素直さとか明るさというものは、この社会では、
誰か他人(おおくは肉親)の手によって小環境が守護されてきたことを意味している。
かれはのほほん顔の王様にすぎないが、かれを王様に育てた人物たちは、
この社会からの疎外の波をアトラスのように支えたはずだ。
こういうことが判りかけたのは、いくらか後になってからである。

 しかし、慣習的な精神への苦痛や侮蔑は、実生活では解消することはできなかった。
まず世間は、あらかた素直で健全な精神に荷担するし、明るく素直な少年は、闊歩した。
・・・戦後、時代はかわり社会は一変したかにみえたが、
ただひとつかわらないことは、素直で健全な精神は、社会を占有し、
そうでないものは傍派をつくるという点である。これはイデオロギーによって左右されない。

11吉本?髢セ 「詩とはなにか」 思潮社 [詩の森文庫C09]:2009/11/09(月) 22:02:14

おそらく、「ほんとのこと」を口にできる社会や時代は、
現在のところただ指向しうるだけである。
わたしにとって、詩にほんとのことを吐き出すというのは現実上の抑圧を、
詩をかくことで観念的に一時的に解消することを意味しているようである。
・・・
詩のなかで現実にはいえないほんとのことを吐き出すことによって、
抑圧を解消させるというかんがえは、詩の本質についてある端緒をなしている。
抑圧は社会がつくるので、吐き出しても、またほんとのことを吐き出したい意識は
再生産される。だから、詩は永続する性質をもっている。
・・・
詩の場合には、ほんとのことはこころのなかにあるような気がし、
批評文の場合にはある事実(現実の事実であれ、思想上の事実であれ)
に伴ったこころにあるような気がする
・・・
以前なら、このほかに必要なしとかんがえ、判断をとめたにちがいないが、
いまわたしには詩にたいしていくらかの余裕をおいた好奇心がある。
他の詩人や批評家や哲学者が、詩についてなんといっているか、たずねてみたい。
ちがった答えにぶつかるのはじゅうぶん承知のうえである。

12吉本隆明 「詩とはなにか」 思潮社 [詩の森文庫C09]:2009/11/09(月) 22:23:48
中村光夫は『小説入門』(新潮文庫)のなかでつぎのようにかいている。

   詩の場合は作者の思想や感情は言葉によって直接に表現されます。
 詩の本質は歌であり歌であるとはよくいわれることであり・・・
 歌は言葉であるとともに、言葉以前の肉声―または叫び声―です。
 僕らの感動のもっとも直接的な表現です。
   詩はこの肉声に言葉をできるだけ近づける性格を持ち、
 そのために言語を、そのために言語をその日常性社会からできるだけ解放すること
 を目指します。                      
                         
(*以下は吉本)
・・・詩の本質が歌であり、
歌は言葉以前の肉声―または叫び声であるという箇処に着目したい。
ほんとのことを口に出せば世界は凍ってしまうならば、それができない社会では、
絶えず、ワァッとかウオウとかいう叫びをこころに禁圧しているとも考えられるからである。

日常の会話でも対者から言葉をおさえられたとき、意識は
言葉にならない叫びのようなものを呑みこむ。

・・・ヴァレリーが
「詩は、節調ある言語によって、叫び、涙、愛撫、接吻、嘆息などが暗々裡に表現しようとし
また物体が その外見上の生命あるいは仮想された意志 によって
表現したいと思っているらしい、それらのもの、或いはそのものを
表現し、再現しようとするの試みである」(「文学論」堀口大学訳)

とのべているのは、中村光夫とほぼひとしい地点にたっている。
言語のまえに、有節音があり、
そのまえには、ワァツとかウオウとかいう叫びがあったとすれば
そしていまもなお叫び声が人間と現実との関係に介在するとすれば、
詩をこれに結びつけるのは、ひとつの見解たるを失わないのである。

13吉本隆明 「詩とはなにか」 思潮社 [詩の森文庫C09]:2009/11/09(月) 22:30:28
>>12 訂正 
  >そのために言語を、そのために言語をその日常性社会からできるだけ解放すること
  >を目指します。
                   ↓
 詩はこの肉声に言葉をできるだけ近づける性格を持ち、
 そのために言語をその日常性社会からできるだけ解放することを目指します。

14吉本隆明 「詩とはなにか」 思潮社 [詩の森文庫C09]:2009/11/09(月) 22:48:34

 わたしはわぜ、じぶんがほんとのことを口に出せば、
世界を凍らせるかもしれないという妄想をもったのだろうか。
おそらく、年少の頃ある日ほんとのことを口に出したのだ。いや、
ほんとのことを幻想したことを喋言ったのであってもよい。

そのとき、対者であるAはじっさいに凍ったような表情をした。
また、ある齢のある時、Bにほんとのことを言い、
対者BはAとおなじ表情をした。C、D…もまた同様であった。
わたしのまわりの小社会は、ほんとのことを口に出すと
すべて凍った表情にかわった。もはや大社会でも事情はまったくおなじであることを
合点せざるをえない。

・・・ほんとのことを口に出すと小社会は住みにくくなった。
住みにくさを免れるには、ほんとのことをこころに禁圧しておくのがいちばんよい。
時がくれば、ほんとのことを口に出したい欲求さえが消滅してしまうにちがいないから。
しかし、どうしたことか
ほんとのことを口に出したい欲求は、なくならないばかりかますます強固になったのである。

15吉本隆明 「詩とはなにか」 思潮社 [詩の森文庫C09]:2009/11/09(月) 22:56:18
  何をさしておまえは「ほんとのこと」といっているのか?
・・・直接には答えようがない。ただ、
わたしのいう「ほんとのこと」を口に出したいとかんがえるとき、
じぶんをこの社会のあるゆる関係の外においているらしいのである。
すくなくともその瞬間だけはわたしはじぶんをこの社会の局外に立たせているのだ。

それはじっさいには不可能なひとつの幻想的態度である。
したがって、おそらくは「ほんとのこと」を口に出したいわたしの欲求もまた、
この社会の慣習の淘汰によっては消滅しないのである。

じっさい的な態度としては、わたし自身もまた
「ほんとのこと」を他から口に出されると表情を凍らせるひとりの存在にすぎない
と見るべきだ。
この幻想的態度とじっさい的態度のあいだが、
現実社会からわたしたちが何かをつかみだす場所である。

・・・わたしが「ほんとのこと」を妄想として意識に固定させるのは
わたしの自発的なこころの働きである。まして詩にかこうとするのは、
わたしの自発的な意識を、かくという行為によって外化することにほかならない。

・・・詩をかかない多くの人びとは、
ほんとのことを口に出せば、この世界は凍ってしまうとう妄想を、
それぞれの実生活のうえで処理している。
かならずしも妄想は、わたしに固有なものでも、詩をかくものに固有なものでもないのである。

16吉本隆明 「詩とはなにか」 思潮社 [詩の森文庫C09]:2009/11/09(月) 23:41:34
>>14 訂正
わたしはわぜ       → わたしはなぜ
ほんとのことを幻想した → ほんとのことと幻想した

17銀河鉄道の夜 宮沢賢治:2009/12/02(水) 00:38:57
初期稿 ()内が削除された部分

-------------------------------------------------------------------
(1)たのしいケンタウル祭の晩なのに、ジョバンニはぼろぼろのふだん着のままで、
病気のおっかさんの牛乳を配られて来ないのをとりに、下の町はづれまで行くのでした。

(ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのに、あんなことを云ふのだらう。
 ぼくのお父さんは、わるくて監獄にはひってゐるのではない。わるいことなど
お父さんがする筈はないんだ。去年の夏、帰って来たときだって、ちょっと見たときは
びっくりしたけれども、ほんたうはにこにこわらって、それにあの荷物を解いたときならどうだ、
鮭の皮でこさへた大きな靴だの、となかいの角だの、どんなにぼくはよろこんで
はねあがって叫んだかしれない。ぼくは学校へ持って行ってみんなに見せた。
先生までめずらしいといって見たんだ。いまだってちゃんと標本室にある。
それにザネリなんかあんまりだ。けれどもあんなことをいふのはばかだからだ。)

 ジョバンニは、せはしくいろいろのことを考へながら、さまざまの灯の木の枝で、
きれいに飾られた町を通って行きました。

18銀河鉄道の夜 宮沢賢治:2009/12/02(水) 00:39:42

(2) ...けれどもジョバンニは、いつかまた深く首を垂れて、そこらの
にぎやかさとはまるでちがったことを考へながら、町はづれへ急ぐのでした。

(お母さんは、ほんたうにきのどくだ。毎日あまり心配して、それでも無理に外へ出て、
キャベヂの草をとったり燕麦を刈ったりはたらいたのだ。あの晩、おっかさんは、
あんまり動悸がするからジョバンニ、起きてお湯を沸かしてお呉れと云ってぼくをおこした。
おっかさんが、ぼんやり辛そうに息をして、唇のいろまで変わってゐたんだ。
ぼくはたったひとり、まるで馬鹿のように、火を吹きつけてお湯をわかした。
手をあたためてあげたり、胸に湿布をしたり、頭を冷やしたり、いろいろしても、
おっかさんはたゞだるそうに、もういゝよといういふきりだった。
ぼくはどんなに、つらかったかわからない。)
 
 ジョバンニは、いつか町はづれのポプラの木が幾本も幾本も、高く星ぞらに浮かんでゐるところに
来てゐました。


-------------------------------------------------------------------------------
 (「ハイ・イメージ論Ⅱ吉本隆明「視線論」より孫引き」

19ヘーゲル 「歴史哲学概説」真下信一訳 より:2011/02/16(水) 18:55:45
*歴史は 或る自然状態、罪のない無垢な状態 から始められるのが常である。

(略)

族長制は、家族が すでに或る部族または民族へ増大し、
それゆえにまた、紲(きずな)が 愛と信頼の紲(きずな)ではなくなって、
奉仕のつながり となっているような或る過渡(かと)の状態である。

――まず、「家族道徳」のことを述べよう。

家族はただ一個の人格である。その成員たちは
かれらの人格性(それとともに権利関係や、さらにはもっとそのほかの特殊的な
もろもろの関心事や我欲)を、相互に放棄しあっているか(親)、
それとも まだ人格性を獲得していないか
(さしあたりまだ上述の自然状態*のうちに在るところの子供たち) のいずれかである。

20ヘーゲル 「歴史哲学概説」真下信一訳 より:2011/02/16(水) 19:14:42
したがって家族の成員たちは
感情の一体性のうちにあり、相互的な愛と信頼のうちにある。
愛において個人は己れの意識を他者の意識においてもち、己れから放棄されており、
そしてこの相互的放棄において個人は他者をも、
自己自身をも――他者と一体のものとして――己れに獲得しているのである。

さらに、生活上の必要を充たしたり、外的な要件を果たしたりする仕事、
また家族成員たち自身の内部での、子供たちにかんするしつけ、
こういったことが共同の目的をなす。

(略)

道義性は、家族においても国家においても
個人的人格性と個人的関心の感情、意識、意欲の「うちに」存するのでは「ない」。
しかしこの一体性は家族において本質的に、一つの感じられた一体性、
自然的あり方のうちにとどまっている一体性である。

略)

しかし一つの族長制的全体への家族の「拡大」は
その土台の自然面である血縁的紲を越え出るであり、そして
この自然面の「向こうがわ」で、
諸個人は人格性の立場に踏み入らねばならない。


(世界思想教養全集4「ヘーゲルの思想」 河出書房新社)

21:2011/02/16(水) 19:28:31

さて、
本スレ(回想録6)で提案した「紹介スレ」ですがロイの回答がないので(今日現在)
そこでも書いたように、さしあたりここを利用してはどうかと思います。

今までどおりの使い方(資料の引用=紹介)を拡大するだけだから
問題はないと思います。

朝倉泉や、内田樹や、パンク的仏教解説本など
ここの住人はなかなか面白い本やサイトを知っているようなので
ぜひ利用してもらいたいと思います。  

                  (当スレ、スレ建て人 N)

22zebla:2011/02/24(木) 15:31:25

前から気になってた、ひろゆきが昨年紹介してたスレ。

ひろゆきの日記「日本に生まれたのは、単なる偶然だよね。」
http://hiro.asks.jp/70849.html

上の日記の後で建ったネタばらし(たいへん微妙)の
後日スレを先に読んだほうがいいのかもしれない。
(衝撃度は下がってしまうけれど)
http://mudainodqnment.blog35.fc2.com/blog-entry-1358.html

23zebla:2011/02/26(土) 14:42:09
地上波テレビの10倍は面白かったネット鼎談番組。
メジャーなテレビ局ってホント、ダメだなぁと思う。

「博士の異常な鼎談」
( どの回もほとんどハズレがないので
 たまたまググって最初に出てきた回を)
http://www.youtube.com/watch?v=3EJyCWdaEZg

24子供の不安について @yasushi64のツイートより:2011/03/29(火) 06:21:05
子どもがネットやニュースで不安になっているという事を
前に触れましたが、事態が長引いて、その後も心配してます。
子供が不安そうな時はむしろ分かりやすいですが、
子供は心に重い陰がある時に意外な形でサイン出してくる事があって
それを周りがキャッチしてあげて欲しいです@yasushi64

子どもの不安について、先に書いたことを、以下、続けて再掲してみます。
子供からのサインを見逃さないことと、ケア、それぞれの家や周りの大人が、
気遣ってあげてください @yasushi64

25子供の不安について @yasushi64のツイートより 2:2011/03/29(火) 06:22:38

まずサインの話から。子供が具体的に怖いと言ったり、
ニュースについて説明を求めてきたりするようなのは、目に見えるサインで、
周囲はすぐに分かると思います。ただ、家庭の状況はまちまちですし
子供の性格も色々なので明示しない場合があります @yasushi64


子供は知識が十分で無い中で、自分なりに誤解したまま
それを外に出さずにずっと抱えて、心の状態が次第に傾いていくことがあります。
こういう時は、言葉などで出さないので分かりにくく、
また知らないうちに子供の中でかなりしんどくなっているので要注意です @yasushi64


目に見えないサインは、子供によってかなり違ってくるので、僕が見かけたり
思いつく範囲で挙げてみます。
まずその子が遊びや食事、テレビなど生活にパターンを持っているのに
そのパターンが崩れる、つまり
いつも見てる番組を観ない、食事の時間がずれる、食べない等 @yasushi64


また、寝付きが悪い、逆に寝起きがいいはずなのに随分朝が遅くなる
(どうも脳は傾きそうになると 事前に自分を守る為に
睡眠させて逃れる事があるみたいです)、
好物に興味がなくなる、妙にいつもよりなついてくる、
普段悪口を言わない子が急に言うようになる @yasushi64


こういった変化は、たまたまかもしれないし、
子供の普通の気まぐれかもしれないのですが、目に見えないサインの場合もあります。
もちろん一番気がつくのは一番近くに居る親などの大人なので
具体的なその子のサインについて発見的に気づくことはあると思います @yasushi64


陽気にはしゃぐ、というのも、実はサインの場合があります。
子供は不安が強くなってくると、本能的に自分で楽しい雰囲気を作って
そこに逃げ込もうとする場合があるようです。時節柄ですから、
元気だから放っておいていいと判断しないほうがいいです @yasushi64

26子供の不安について @yasushi64のツイートより 3:2011/03/29(火) 06:23:29

ケアは、基本的に一人の時間を少なくすることですね。
それとなく声を掛けることは大事です。ただ「怖い?」と直接聞くのはよくないです。
子供は「心配されている」と感じるのもまた負担になる事があります。
「お腹すいた?」「学校で風邪引いてる子いる?」等 @yasushi64


あと、体に触れてあげる、というのも大事です。
子供にとって親が触ってくれることの安心感は反応に表れなくても大きいものです。
日頃から抱っこしたり気軽にできる雰囲気なら密度を濃くする、
やってない場合はさりげなく「あれ?熱有るんじゃ?」と額に手を当てる等 @yasushi64

わざわざ「ちょっと話をしようか」とか言われると
子供も親の気づかいを察知してしまうので
話を自然にするような場作りをして流れで持っていくのが良いです。
これは家々で色々合った手があると思いますが、
例えばお菓子を焼くとかすれば嫌でも輪ができますよね @yasushi64


子供も子供なりに先行きが見えない事に不安を感じています。
親も、来月や来週の具体的な保証をしてあげることは難しいでしょう。
取りあえず子供の目に見える範囲の未来を教えてあげることで
細かく不安が埋められていきますので、気配りしてあげて下さい @yasushi64


この未来予想図は大袈裟なことではなく予定を予告するだけでいいんです
「明日買い出しに行くから手伝い頼むね」とか「晩ご飯は6時だからね」等。
これで子供は、その時まではマンガ読んでて良いんだ、とか、
6時になればみんなテーブルにつくんだ、と安心出来ます @yasushi64

27子供の不安について @yasushi64のツイートより 引用ラスト:2011/03/29(火) 06:24:42


一般論としてのケアを挙げましたが、家々で安心材料になるものはあれば
活用してあげてください。幼児で必ず喜ぶ遊びがあるならそれをしたり。
お節介ならそれはそれでいい。中学生くらいだと逆に
「あ〜汚い、部屋掃除させてもらうよ」と介入しちゃうのもアリです @yasushi64


二歳だと何と言っても言葉より親の体温ですよね。ハグも沢山して、
通りかかる時でも何気に頬や手に触れるようにすると良いと思います。経験的に…
"@singsheep 積極的に抱きしめるようにしていたら快方へ向かい出しました。
これからもいっぱいハグしていこうと思います@yasushi64

28N:2011/04/04(月) 20:15:27
(メモ) オキシトシン
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/brain4.html

29zebla:2011/11/08(火) 20:34:01
kusamura氏 久々奮戦中

30N:2012/01/31(火) 01:39:02
渡辺京二がモテてるようだ
http://www.amazon.co.jp/%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%AD%A6%E7%94%9F%E3%80%81%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%BA%AC%E4%BA%8C%E3%81%AB%E4%BC%9A%E3%81%84%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%81%8F-%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E4%BA%AC%E4%BA%8C%C3%97%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%A1%BE%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%B8%89%E7%A0%82%E3%81%A1%E3%81%A5%E3%82%8B%E3%82%BC%E3%83%9F/dp/4750511234/ref=pd_cp_b_1

31N:2012/01/31(火) 02:24:00
スコップ団
http://www.1101.com/yamamotocho/2011-09-13.html
二代目団長
http://blog.goo.ne.jp/cheapdust/e/8863d4e1c8b0d577f0ed6a85462e4bae
途中に団長VS二代目団長抗争シーン
http://blog.goo.ne.jp/cheapdust/e/80b1f9541623db0f9cf74a5644ada87a

32N:2012/04/08(日) 00:08:05
最近のお気に入りは「孟子」

富なせば仁ならず
仁なせば富ならず

別に誰とは言わないが、とある電力会社などを思い浮かべると
時空を超えた真理を感じる

他にもおもしろいことをいっぱい言ってる
読み下し文を読むだけでも十分おもしろい。
ただ、たまたま目についた貝原訳の講談社文庫を買ったが、
あまりいただけない訳もある。
「現代ポピュラー音楽」などという訳がある。いただけない。
でもわかりすいw
次は岩波のを買おうと思ってる

もともと儒教というのは権力者(王)に対する戒めを説いている。
おまえら儒教を100回読めと思わず言いたくなるようなやつの多いこと。

孟子の倫理の(つまり帝王学)の柱は仁・義・礼・智である。

上がそれらを守らなければ下は乱れる、と孟子は言っている。

次の言葉も好きだ。
「民を貴(たっと)しとなし、社稷(しゃしょく))これに次ぎ、君を軽しとなす。」

社稷は土地と穀物の神であり、貝原は国家と解しているが
どちらかというと自然的な社会、もしくは自然それ自体に基づく共同性と解した方が
現在の国家という言葉がもつ響きより社稷に近いように思う。

衆愚などという言葉を平気で使うエリート主義政治家が集う政府と官僚=国家、
孟子がいま日本に現れれば何を語るだろうか。いやすでに語っている。
それが『孟子』という書物だ。

33N:2012/04/16(月) 21:45:12
岩波の「孟子」では
貝原が「現代ポピュラー音楽」と訳していた部分を
「楽しみ」と解釈して、音楽と取っていない。

要するに原文は「楽」とあるだけなんだな。
たった一字の解釈で、こんだけ内容が変わる。
げに言葉はむつかしい。

34N:2012/04/17(火) 22:58:19
貝原ではなく貝塚だった。
貝塚茂樹、中間子の存在を予言してノーベル賞を取った湯川秀樹の実の兄だそうだ。

固有名詞はもう、覚えるのも思い出すのもほとんど壊滅的状態、なのだ、なう。。

35N:2012/04/19(木) 07:04:53
『孤独』とう言葉の由来が孟子に載っていた。

 老いて妻なきを鰥(かん)と曰(い)い、
 老いて夫なきを寡(か)と曰い、
 老いて子なきを独(どく)と曰い
 幼にして父なきを弧(こ)と曰う。

孟子はこの四者を「天下の窮民にして告ぐるなき者なり」と言う。
これは孟子が斉(せい)の宣王(せんのう)の「王者の政治とかはどういうものか」
と尋ねられて答えている部分だ。
以下岩波口語訳(適宜改変)
 

 これら四種の人たちは、この世でもっとも困っていて助けを求める相手もいない人たちです。
 文王(※周王朝を打ち立てた武王の父親、文王・武王は孔孟にとって理想的な王政の体現者)
 が仁政を行うにあたっても、この四種の困窮した人たちの救済をま真っ先にいたしました。
 だから、詩経にもこのことを
 『よきかな、この富める人(文王)、これら寄るべなき人々を哀れむとは』と
 詠んでほめたたえているのです。


宣王は「それは良い話を聞かせてもらった」と言い、
孟子が「そう思われるのならなぜ実行しないのですか」と詰め寄ると
わしには悪い癖があって、と弁解を始める。

ここからさきは、本を買って読んでほしい。
(ま、ネット検索すれば孟子を読めるサイトもいくつかあって、
 そっちの方が直訳に近く訳者のバイアスが少なかったりはするのだが)

儒教を知ることは、西洋(聖書)の倫理とは異なる東洋の倫理を知ることでもある。
特に日本(と韓国)は儒教との関係が歴史的に密接だ。
儒教の行方は今の日本をはかる上でもひとつの角度を提供する。

36N:2012/07/15(日) 22:13:14
良い(気に入る)孟子と悪い(気にくわない)孟子がある。
個人的には「礼」などに関する孟子は悪い(気にくわない)孟子。

にしても、日本に入り込んだ儒教の影響の大きさに改めて気づかされる。
たとえば
仏壇に先祖の位牌を置くというのは
仏教ではなく儒教。
だいたい、輪廻を断ち切る解脱を目標とする仏教で
本来、先祖をまつるという発想は出てきようがない。

日本のなんとか流の礼儀作法なんていうのも元は儒教。
日本人の精神文化を儒教抜きで考えることなどできない。今でも。
ま、政治家・役人はベツだが。
連中は
孟子の後の儒教、荀子(じゅんし)の鬼ッ子、法家(、韓非子(かんぴし)の徒。
これにマキャベリを足すと連中ができあがる。

37落ち葉瞑想法:2013/01/16(水) 22:41:14
http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20120111.html
【実習コーナー】1日15分!脳の簡単トレ より

「まずは楽な姿勢をとります。
いすに座っていても、寝た状態でもかまいません。
そして軽く目を閉じます。
次に、小川が流れている情景を思い浮かべます。
どんな川でも結構です。
小川のほとりに座って、ゆったりと流れる川面を見つめているイメージです。
次に、その小川に葉っぱが流れている情景を思い浮かべます。
何枚でも構いません。
この情景が思い浮かんだら、次に自分の心に目を向けます。
感情や物といったいろいろな思考が湧き起こるでしょう。
その湧き上がってきた思考をすっと葉っぱに乗せて川に流してしまいます。
この時、無理に流そうとしなくて結構です。途中で引っかかってもかまいません。
沈んでしまってもかまいません。
その場合は、もう一度すっと葉っぱに乗せて川に流してみます。
いろいろな思考が湧き起こるので、その度に葉っぱに乗せて流すという事を繰り返してください。
このトレーニングを1日10分〜15分程度、毎日続けてください。
朝起きたとき、お風呂上り、夜寝る前、いつ行っていただいてもかまいません。
無理をすると効果は得られません。
あまり無理をせずに行うようにしてください。」

38旧約聖書  申命記:2013/02/11(月) 22:03:33
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2470/1088350818/912 関連
(宗教の苛烈さ  皆殺し)

持ってる聖書は明治訳だが、同じ訳がネットにあった。
ネット検索で見たところ、口語訳聖書は所々表現を弱めているように思われる。
(新共同訳では強い語調は復活しているようだ。http://bbbible.com/bbb/bbbde072.html..htm#de7.1-5)
(サイトにはふりがながないので手持ちの聖書から適当に補遺)
http://bible.salterrae.net/meiji/html/ 文語訳舊約聖書(1953年版)(明治訳)
----------------------------------------------------------------------------

『申命記』
   
第3章
3:1斯(かく)てわれら身をめぐらしてバシヤンの路に上り行けるに
  バシヤンの王オグその民をことごとく率ゐ出てエデレイに戰はんとせり
3:2時にヱホバわれに言たまひけらく 
  彼を懼(おそ)るるなかれ  我 かれと その一切の民 とその地とを汝の手に付さん
  汝、かのヘシボンに住たるアモリ人の王シホンになせし如く彼に爲(なす)べしと

3:3我らの神ヱホバ すなはちバシヤンの王オグとその一切の民を我らの手に付したまひしかば
我ら之(これ)を撃ころして一人をも遺さざりき
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3:4その時に我ら これが邑々(まちまち)をことごとく取(れ)り (略)
3:6我らは ヘシボンの王シホンになせし如く 之を滅し
その一切の邑(まち)の男女および兒童をことごとく滅せり
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3:7惟(ただ)その一切の家畜と 
  その邑々よりの掠取物(ぶんどりもの)とは これを獲(え)て われらの物となせり


第7章
7:1-2 汝の神ヱホバ 汝が往(ゆき)て獲(う)べきところの地に汝を導きいり
    多の國々の民 ヘテ人ギルガシ人アモリ人カナン人ペリジ人ヒビ人ヱブス人など
    汝よりも數多くして 力ある七の民を 汝の前より逐はらひたまはん時
    すなはち汝の神ヱホバ 
    かれらを汝に付(わた)して 汝にこれを撃せたまはん時は 
    汝かれらをことごとく滅すべし
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
    彼らと何の契約をもなすべからず 彼らを憫むべからず

7:3 また彼らと婚姻をなすべからず 汝の女子(むすめ)を彼の男子(むすこ)に與(あた)ふべからず
   彼の女子(むすめ)を汝の男子(むすこ)に娶るべからず

7:4 其(そ)は 彼ら汝の男子を惑はして 我を離れしめ 
   之をして 他の神々に事へしむるありて 
   ヱホバこれがために 汝らにむかひて怒(いかり)を發し 
   俄然(にわか)に汝を滅したまふにいたるべければなり

7:5 汝らは反(かへっ)て斯(かく)かれらに行ふべし
   即ち かれらの壇を毀(こぼ)ち その偶像を打擢(うちくだ)き
   そのアシラ像を斫(きり)たふし 火をもてその雕像を焚(やく)べし


7:9 汝知(しる)べし
   汝の神ヱホバは神にましまし 眞實の神にましまして
   之を愛し その誡命を守る者には 契約を保ち恩惠(めぐみ)をほどこして千代(せんだい)にいたり
7:10 また之を惡む者には覿面(てきめん)にその報(むくい)をなして これを滅ぼしたまふ
   ヱホバは己を惡む者には 緩(ゆるやか)ならず 覿面にこれに報いたまふなり

7:18 汝かれらを懼るるなかれ 汝の神ヱホバがパロとエジプトに爲たまひしところの事を善く憶えよ  (略)
7:19 汝の神ヱホバまた 汝が懼るる一切の民に爲たまふべし
7:20 即ち 汝の神ヱホバ 黄蜂(くまばち)を彼らの中に遣(おく)りて 
   終(つい)に 彼らの遺(のこ)れる者と 汝の面を避て匿れたる者とを滅したまはん (略)
7:23 汝の神ヱホバ かれらを汝に付(わた)し 大にこれを惶(おそ)れ慄(おのの)かしめて
   終に これを滅し盡(つく)し
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
7:24 彼らの王等を 汝の手に付したまはん
汝かれらの名を天が下より削るべし
汝には當ることを得る者なくして 汝つひに 之を滅ぼし盡すに至らん
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
7:25 汝かれらの神の雕像を火にて焚(やく)べし

39旧約聖書  申命記 (つづき):2013/02/11(月) 22:04:58
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(9章、12章、にも同様の記述が散見される。 
 ただ20章では、全滅相手の細分化が加わる。
 3章では「男女および兒童をことごとく滅せり 。
       惟(ただ)その一切の家畜とその邑々よりの掠取物(ぶんどりもの)とは 
       これを獲(え)て われらの物となせり」 となっていたのが
       20章では「掠取物(ぶんどりもの)」に女性が加えられる。
       ただしそれは、エホバが与えると約束した国々に属してない町の征服に限られる。)
------------------------------------------------------------------------------


第20章 
20:1 汝その敵と戰はんとて出るに當り馬と車を見また汝よりも數多き民を見るもこれに懼るる勿れ
    (以下、エホバのついた神軍であることの鼓舞- 略)

20:10 汝ある邑(まち)に進みゆきて之を攻んとする時は 先(まづ)これに平穩(おだやか)に降ることを勸(すす)むべし
20:11 その邑もし平穩に降らんと答へて その門を汝に開かば
    其處なる民をして都(すべ)て汝に貢(みつぎ)を納(いれ)しめ 汝に事(つか)へしむべし

20:12 其(それ)もし平穩に汝に降ることを肯(がへ)んぜずして 
    汝と戰かはんとせば汝これを攻(せむ)べし
20:13 而(しか)して汝の神ヱホバ これを 汝の手に付(わた)したまふに至らば
    刃をもてその中の男を盡(ことごと)く撃殺(うちころ)すべし
            

20:14 惟(ただ)その婦女嬰孩家畜(をんなこどもかちく)および
    凡(すべ)てその邑(まち)の中にて 汝が奪ひ獲たる物は
盡く己(おのれ)に取(とる)べし
    抑(そもそも) 汝が その敵より奪ひ獲たる物は 汝の神ヱホバの 汝に賜ふ者なれば
汝これをもて樂(たのし)むべし
20:15 汝を離るることの遠き邑々 すなはち是等(これら)の國々(くにぐに)に屬せざるところの邑々には
    凡(すべ)てかくのごとく行なふべし

20:16 但し
汝の神ヱホバの 汝に與へて ?業となさしめたまふこの國々の邑々においては
呼吸する者を一人も生し存べからず
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
20:17 即ちヘテ人 アモリ人 カナン人 ペリジ人 ヒビ人 ヱブス人などは
汝かならずこれを滅ぼし盡して汝の神ヱホバの汝に命じたまへる如くすべし

20:18 斯(かく)するは 
    彼らがその神々にむかひて行ふところの憎むべき事を 汝らに繁へて 之を倣(なら)ひおこなはしめ 
    汝らをして 汝らの神ヱホバに罪を獲(え)せしむる事のなからんためなり

40ティンバーランド女性靴:2013/10/24(木) 20:52:21
ティンバーランド革
ティンバーランド女性靴 http://www.jinanyida.com/スニーカー-oj-15.html

41メンズ 鞄 ビジネス:2013/10/25(金) 15:11:41
バッグ メンズ ビジネス
メンズ 鞄 ビジネス http://www.szweian.com/paul-smithポールスミス-4otr-2.html/

42ティンバーランドジッパーの靴:2013/10/28(月) 17:25:37
ティンバーランドスノーブーツ
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43シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 10:30:09
*引用を始める前に。

「ヴェーユの哲学講義」は、正確にはシモーヌ・ヴェーユ自身の著作ではない。
(ヴェーユは生前、本を一冊も出版してない)
ヴェーユが若き哲学教師として、ロアンヌ女子高等中学で授業をしていた時
その授業を受けた女生徒のとっていたノートだ。
(序文によると、ヴェーユは一貫して、点数や成績順位をつけることを拒否していたそうだ)

ノートの中身は生徒の感性で変わってくる。
けれど、この女生徒(アンヌ・レーノー)はとても真面目な生徒だったに違いなく
ヴェーユが黒板に書いた表と、その例として(おそらく口頭で)あげたものを
可能な限り一生懸命ノートに取っている。ヴェーユ自身による正規の文章ではないが
当時のヴェーユの哲学的な思考のエッセンスは捉えられていると思う。

『哲学講義』ノートは、ヴェーユが34歳の若さで死んだ後、
元女生徒自身の手で出版された。
この哲学講義をしていた時、ヴェーユは24歳-25歳だった。

44シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 10:36:43
-------------------------------------------------------------------------
『ヴェーユの哲学講義』 シモーヌ・ヴェーユ(ちくま学芸文庫) p094〜
                      (省略=”、、、、” 改行・行変え=引用者の恣意)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

≪私たちに行動をもたらす関係と ことばをもたらす関係とを 比較しましょう≫

(A)≪私たちに行動をもたらす関係は、私たちの欲求に従属しています。≫

 たとえば、、、、私たちが牛をまえにして逃げ出すとき、
私たちに関係のあるのは牛の角だけです。

私たちは自分の欲求にたいしては何の力も持ちえません。
『秩序が決定されていない』からです。

塩の一粒はまったく何の役にもたちません。私たちに役にたつのはひとつかみの塩なのです。
滑車を使って10キロの重さのものを引きあげるには10キロ以上の重さが必要です。   、、、、
「量は質に変化する」と、ヘーゲルは申しました。      、、、、

  ≪欲求はつねに全体にかかわります。≫

 身体それ自体、死骸をもたらすことなくしては解剖することのできぬ、
 ひとつの全体にほかなりません。

  ≪欲求はいきあたりばったりに継起します≫

 したがって、ただ注意だけが、
 私たちの何もなしえない秩序のうえに関係を設定するわけですから、
 偶然にもとづくひとつの秩序しかないことになります。つまり
 ≪秩序そのものは、まったく存在しないのです≫

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

45シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 10:41:52
(B)≪私たちに方法体系をもたらすことができるのは、ことばだけです。
    それというのも まさにことばが現実とは無縁なものだからです。≫

  じっさいのところ、私たちは世界のなかにあって、欲求に従わなくてはなりません 

 たとえば、私たちはあるかぎられたキロ数のものしか持ちあげられません。
 それ以上の重さはすべて同一の名目-『重すぎる』 のもとに
 私たちには無縁のものになるため、私たちにとってどれも同じものになってしまいます。

   反対に私たちは、どんな大きいキログラムのものについても、
   欲求するままに語ることができます。
   キログラム、ということばは、どんな重さも持っていないからです。

 ≪ことばは、私たちに、 私たちの欲求とはまったく無縁な関係を設定することを
  可能にしてくれます≫                、、、、                      
 
語はお金もかからず、重さもなく、私たちは語を用いて、
  ≪完全に私たちの自由になるひとつの関係≫を 打ちたてることができるのです。 


  ここで、≪客観的なものとして、ひとつの必然性として 私たちにあらわされるのが
        私たちだけに依拠しているにすぎない秩序 である≫ 

          という逆説に注目してください。
 
   世界は私たちに数をまったく提供してはくれません。
   数という系は、完全に私たちのつくりあげたものです。
    たとえば嵐のとき世界は私たちに 砂粒を一粒・二粒・三粒と提供してくれるわけではありません。
    1+1=2 という必然性と、2キロの重さのものが頭上に落ちてくる必然性とのあいだには、
いかなる関係もありません。

  そこで、次のことが言えます。  

    (1) ≪ことばはあらゆる方法体系にとって唯一の源泉である≫

    (2) ≪ことばだけが、私たちが客観的と呼んでいる必然性なるものをもたらす≫

          その必然性が、
         私たちの欲求や身分や感情や状況などから
         独立している という意味で、客観的なのです
            
    この二つのことはたがいに相関関係にあります。 
方法体系がなければ客観的必然性もなく、
    客観的必然性がなければ方法体系もないからです。

(C) ≪しかしながら、ただ”語”のみに限定すれば、秩序と必然性は消え去ります。≫

46シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 10:44:27

   たとえば、幾何学でひとつの面に一本の線を書きくわえる場合を考えてください。
   ことばにかぎっていえば「百歩」を言おうとして「一歩」からはじめる必要はありません。    
   つまり、≪ことばのもつ力は、ことばとほかの事物との関係のなかに見いだされます≫

   ≪行動≫が≪現実≫をもたらすのです。

    こうして私たちにとって、≪現実≫というまったく新しい概念が登場するわけです。

  行動がことばのあとからやってきて自身をことばに従わせるとき、
  行動はそれまでなかった≪何か≫をもたらすことになります。

  百歩と≪言う≫ことと百歩≪歩く≫こととのあいだには、ひとつの差異があります。
  ことばと比較した場合、
  行動が内包するこうした「プラス」を否定しさることは不可能です。

  あるいはむしろ、
  そこにあるのは「プラス」ではなく、まったく違う何かだと言うべきかもしれません。
  それが 現実 なのです。 ことばをどれほどとおくまで押し進めていっても、
  けっしてことばによって現実を発見することはありません。

  そこで、外的世界の 現実にかかわる問題は、簡単にこうまとめられるでしょう。

  ≪百歩歩くのが、百歩と言う、のとはべつの事柄である、という単純な事実こそ、
    私たちに現実を証明してくれるものにほかならない。≫

  ≪意外さ≫とは、体系的なことばのなかには含まれていなかったもののことです。

47シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 10:52:35
  事物が私たちにとって打ちかちがたい障害となってあらわれるとき、
 私たちはそれらの事物のなかに悪意ある力を見るような気がします。

  冷静さを失わせるような破局にぶつかると、私たちはよく
 「夢をみてるんじゃないか?」とつぶやきます。

かりにいま、
 石の塊をまえにした人間たちがむやみに動きわらるのをやめて、
体系的に考えだし 梃子(てこ)の使用を思いついたとすると、
すべてが変化します。

 梃子(てこ)は、
 対象を分割することなしに対象の重さを分割する手段 だといえます。

 そのとき石はそれまでの悪意をすべて失ってしまいます。
 どんな重さも力に抗しきれるものではありません。

 たとえば、私たちの50キロの力と300キロの重さとのあいだに
 ひとつの≪関係≫を打ちたてるだけで充分なのです。

 、、、、
このような発想は、
 世界にある悪意にみちた力のすべてを抑えつけてくれます。    

 私たちが働きかけ 自分たちの痕跡を世界に残すであろう、 そのような関係が
つねに存在するのです。

 分解することさえできるなら、いかに小さな力であっても、
 どのような大きな力にでも打ちかつことができます。
 つまり、
 石にやみくもに飛びかかり、魔術のようなやり方で石に打ちかとうと希う人と、
 てこを探しにいく人のあいだには 本質的な差異があるのです。

 情念は、第1の態度をとるようにしむけ、
 第2の態度をとるためには、英雄的な努力が必要とされる 
 ということに注意しましょう。
 ≪労働≫はたえずこの種の≪努力≫を要求します。


 石にやみくもに飛びかかっていくとき、悪夢のなかにでもいるような気がするものですが、
 ≪体系的なことばにのっとった行動≫は
 夢とはいかなる関係もありません。

 しかし、
 いま石についてお話ししたことのなかには
 ≪意外さ≫が何もないのですから、
現実的なものもなにもありません。
 

 科学や≪推論≫においては、
 自分のとりあつかう問題のなかに ≪自分のもちこんだものしか≫(仮説)残りません。

 けれども、行動のなかに自分のもちこんだものしかない とすると、
そこには障害がなかったことになり、行動もないことになりましょう。

48シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 10:56:47
 私が自分に課題をたてたときと
行動をなしとげたときとのあいだには、
 さまざまな偶然のできごとが起こるものです。

≪現実は そうしたことをとおして定義されます。 
 現実は当初の課題のなかには含まれていません。
 現実とは、体系的な方法をもってしても予知しえないもののことです≫


 
  現実はなぜこのように、
 いわば否定的にしかあらわれえないのでしょうか?

 ≪「私」の痕跡≫が ≪方法体系≫であって、
それは 私たち以外のところからくるわけではありません。

 私たちが現実に≪存在≫しはじめるのは、
 私たちが≪方法的体系≫を≪現実において≫行使する瞬間  にほかなりません。

  方法体系を
象徴 にたいしてしか行使しないとき、
  私たちは遊びのようなものにとどまるのにすぎません。

 体系的行動においては、私たち自身が行動します。
 方法的体系を見いだしのが私たち自身だからです。
 
 ≪意外さ≫が姿をあらわすからこそ 私たちは現実において行動するのです。

いかなる現実もけっして証明することはできません。
 ≪現実は証明すべきもの ではなく、確認すべきものです。≫

  現実は、まさに証拠となるものが不充分であるがゆえに  確証されなければなりません。

  ≪外的世界の現実 を示すものは、
  ことばの持つ不可欠であると同時に、不充分な、 その性格なのです≫

49シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 11:03:01
(*前レス最終文)
  ≪外的世界の現実 を示すものは、
  ことばの持つ不可欠であると同時に、不充分な、その性格なのです≫) 

【反省、その結果】――

 だれにとってもこの関係があきらかになることはほとんど絶対ありません。
 行動が推論から生じることはめったにないからです。

 もっと正確にいえば、
 ≪おなじ人間がその推論を行動に移すことは稀なのです≫
          (頭を働かせるのは技師であり、働くのは労働者です)
 
 カントは≪芸術≫を、≪自然と精神のあいだの奇跡的な一致≫と定義しました。
   音楽の一節が精神にのみ属する何かではないと気づかせるのは、
   各瞬間ごとに意外さがあるからです。

 ≪人間の偉大さが存在する≫とすれば、
 それはただ現実を確実に意識しているときだけです。
 各人のなかの、ことば と 現実をもたらしてくれる行動 とのあいだの
 この関係をあきらかにしようとしないのは、ひじょうに残念なことだと言わなければなりません。


 こうして私たちは、≪科学上の問題≫と≪倫理上の問題≫とを
 いっぺんに解決してしまったことになります。つまり、

≪悪意のある人には、自分自身の行動を
 ことばでいいあらわすことができないということです≫

≪悪≫は、体系的なことば と 行動 との関係 のなかにあります。
 知的な徳は、
 ことばを体系的に使い、うまく運ぼうとして
 けっしてことばを抑制したりしないことのなかにあるのです。


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                                      (*引用終了)

50シモーヌ・ヴェイユ:実在と想像:2015/03/20(金) 11:49:07
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』 訳:渡辺義愛 [シモーヌ・ヴェイユ著作集Ⅲ](p120-121)

「知覚のなかの実在的なもの、そして知覚と夢を区別するもの、それは必然性である。
 洞窟のなかにとどまって、眼を閉じたまま旅行を想像する人びとと、
 実際に旅行する人びととの差異。
 精神的な領域にも実在的な部分と想像的な部分とがあり、そこでも”必然性”が区別の役割を果たす。
 単なる苦しみだけでは区別の役目は果たせない。なぜなら想像上の苦しみもあるからである。」

「精神の領域でどうして実在的なものと想像上のものを区別したらよいか?」

「謙遜は、精神的な進歩のうちで、想像上の進歩にすぎない部分を取り除くことを目的としている。
 実際よりはるかに自分の進歩がおくれていると思いこんでも、なにも不都合なことはない。
 ,,,実際よりすすんでいると思いこむのはすこぶる不都合である。そのとき、
 外部からの評価がききめを発揮するからだ。」

「実在的なものを見きわめる一つの基準。
 それはかたくてざらざらしていることである。
 そこい見いだされるのはよろこびであって、楽しみではない。楽しいものは夢の世界に属している。」


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