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ある体験の・・・回想録5
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『この掲示板利用にあたって/管理人』
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2470/1040148566
警告:以下には虐待に関する文章及び性的な描写が多く含まれる。
人によってはフラッシュバック誘発の恐れがある事を留意の上
自己責任で参加するように。時には自ら離れる勇気も必要だ。
そして、参加者は上記のスレッドの注意書きに
目を通す義務を有するものとする。(読まない者の参加を認めない)
ここは管理人である「私」こと「ロイ(EGLIC9Vs)」が
個人的理由によりある悪夢を体験談的に回想するための場である。
私の悪夢は異常なまでに生々しく残り続け時を構わず再現される。
真偽の程は想像にお任せする。どちらにしろ詮索には意味がない。
しかし、この掲示板に書かれた内容の全てに置いて
実在の人物、団体、組織を特定しうる情報は何もなく
真偽の程を特定するだけの証拠には一切なりえない。
また、実在の犯罪、事件に関する情報として提供しうるものを
管理人は有していない。仮に、管理人がなんらかの情報を
握っているように見えようとも、それは読み手側の問題であり
管理人には訴えるにたるだけの物的証拠は何もなく
他者を巻き込む意図も訴訟に関わる意思も全くない旨を明記しておく。
これはあくまでも管理人の見た『悪夢』の回想録であり
解決・未解決に関わらず実在の事件との関わりは一切ない。
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>>1252
悪い状態ととらえたのは別に間違いではないよ。
あれを書いたときの精神状態はすこぶる悪く
失ったもの、再び手に入れられないもの、
それらのその大きさに凄まじい喪失感があり
形容しがたい怒りの塊が自分の中にあった。
怒りの種類としては長らく俺(AR)の中にあり続けたもので
最近ロイその他にも噴出し始めたもので
そろぞれが、元々俺がもてあましてきた時動揺
怒りにたける自分を抑えがたくなったことが内側としては印象的だった。
この怒りそのものは多分これからもずっと抱えていくことになるんだと思うよ。
ただ、その怒りに潰されそうになっている状態のときと
この怒りや憎しみを凌駕できるだけの“他のもの”に
目を向けることができている場合とがある。
そしてここ1年くらいの話に限定していえば、
その場合とは、意識的に頑張って怒りから目をそらしているわけではなく
たいていは自然に他に目が向いている状態。
ただし、突如理由もなく、または夢や誘引原因の何かによって
すさまじく再噴出してくる類のものだ。
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その怒りが噴き出している状態=>>1216=悪い状態 ととらえ
>>122-1224=その悪い状態がおさまってきた状=回復
ととらえたのなら、それは間違いじゃない。
ロイが答えた「回復ではない」は「>>1216が悪い状態ではない」
という意味ではなく、>>1216の状態は継続しているという意味だから。
緩急ある噴出だからはたからはわかりにくいかもしれない。
んで、「緩」 つまり凄まじく噴出する怒りが緩やかになった
という意味での回復(多分俺たちはそれを回復と思ってないんだろうけどね)
までの間に何があったのか?という問いなら
ロイの答えはずれてるけど・・・・やっぱ答えにくくはあるなぁ。
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>純粋に内的な葛藤の変化なのか、外側の変化が内にそれをもたらしたのか
あるいは、内的な変化が外側にも影響したのか、
その「順番」−つまり、内的な変化が先か、外側の変化が先か- を切実に知りたく思う。
内的な葛藤の変化、はあると思う。
さっきも言ったように緩、急、という意味で。
元からある葛藤がなくなりはしないが緩む時はあるので。
しつこいようだが、あるなし の変化ではなく、強くでるか弱くでるかの違いだ。
更に外側からの影響(ただしこれは変化じゃない)もあるにはあると思う。
具体的にどうこういう話じゃないが、
例えばある時期いつも同じところに咲く花があるとする。
そこにはいつも咲くのだ。その花が。
俺たちは「緩」状態の時も「急」状態の時も常にそれを目にしている。
特に意識することなく目の端にうつしていることもあれば
ある日突然それを美しいと思うこともある。
時にはその花をうざく忌々しいものと八つ当たり的に睨むこともあるだろう。
つまり、外側の変化ではないのだな。花は変わらないのだから。
けど内側の「緩急」の状態変化、怒りなどの噴出する勢いの違い、
そんなものの程度の差によって、同じものを目にした時の感じが違う。
>>1222-の心情というのはまさしく「緩」状態だからこそ
日ごろ目にしていた「花」によって慰められ
その「花」にありがたみを感じ、安らぎを得ている“時” というわけだ。
あくまでも比ゆ的な話でしかないが。
ちなみにこの“時”というのはやはり 一時的 でしかないよ。
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>純粋に内的な葛藤の変化なのか、外側の変化が内にそれをもたらしたのか
あるいは、内的な変化が外側にも影響したのか、
その「順番」−つまり、内的な変化が先か、外側の変化が先か- を切実に知りたく思う。
ただ、どちらからの変化が先か、
つまり何の影響により変化しえたか? と分析することにあまり意味はないように思う。
これは多分誰にでもあることだと思うが、
そんな風に定規で測ったようにぴったしといくものではなくて
卵が先か鶏が先か、判別しがたいほどの癒着した相互作用だと思うから。
こういう話をする時、いつも頭に思い浮かぶのは
俺たちの恩人であるK先生の言葉だ。
『心と体は繋がっている』
納得して以降、本当に繋がっているのだと日々あらゆる場面で実感している。
内側である心が荒れている時に目にする花は美しくはうつらない。
ところが荒れていたはずなのに、美しい花を目にしたことによって和むことがある。
この2つは矛盾しているようだが、両立している。
両立というか、同時に存在していると言ったほうがいいかな。
その時どちらの旗色が濃くなるか、どちらに勝敗が傾くか、
偶然のような神の采配(あえて配剤ではなく)でしかないのではと思うことがある。
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それから、感じ思うようになったことに
『外界と内界もまた繋がっている』ということがある。
これは説明しがたいので宗教的な概念のように思われてしまいそうだが
あくまでも俺たちの漠然とした感覚だと思って欲しい。
外界と内世界、つまり他人である世界と内側である自分自身は
全くの別物じゃないのだ。いつも必ずどこかで何かが繋がっている。
だから誰かが深く考えもせず意図もなく行った何かの行為が
まわりまわって、また時にはダイレクトに自分に影響することがある。
すさみきった気持ちで歩いてたら、たまたま和む光景を目にした。
その光景を作り出したやつらは別に、俺を和ませようとして
その行為をしたわけじゃなかろうが、現に俺は和んだ、としよう。
そういうことはままあるが、
それはつまり、外界が、内界である俺たちに影響を及ぼした、
外→内 方向で繋がっているのであり、
また逆に俺がした何かが、意図したわけでもないのに
誰かを喜ばしたり、怒らせたり、なんらかの影響を与えることがある。
それはつまり、内界である俺たちが外側である世界に
内→外 方向で繋がっているからだ と感じる。
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