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<長文・連投> HYPER 雑談スレッド II <通な議論>

1extright:2004/06/28(月) 00:40
★★★ 必 読 「この掲示板利用にあたって/管理人」 ★★★
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=2470&KEY=1040148566

ここは雑談スレでは敬遠されがちな 長文、連投 OKスレになりました。
何処かのスレで気になった一文について詳しく聞いてみたい時、ひとこと申し述べたい時、
更に議論に発展しそうな話題にと、幅広くご活用ください。

[ご注意]
 ・古参者にとっては、新ネタ旧ネタ繰り返しが延々となされる様に感じるでしょうが、
  そこにこそ新たな発見もあるかもしれないという、柔軟な考え方で進みましょう。
  うっかりさんが現れても叩きはやめましょう。
  何故そういう考え方に至ったのかを聞き、理解しあう事が大切です。
  言葉とは何のためにあるのか、今一度ロイのスタンスを学びましょう。

※ご利用前に
 ・一度は全てのスレに目を通し、これまでの雰囲気を掴んでおきましょう。
※コテハン推奨
 ・これは議論へと発展した場合にどれが誰のレスなのかを判別し、混乱を防ぐ為です。
 ・また、板の「検索機能」によって過去の意見を参照する際にも便利です。

887N (リハビリ):2012/09/17(月) 23:03:06
リハビリの支えになってる話。

ギプスが半分取れることになった日、
診察前の待合で、同じように右手親指中手骨骨折のじいさんが隣に座って
話しかけてきた。 カーテンレールを切ろうとしたらグラインダーが破損して
サンダーの部分が割れて飛びちり、それが当たって骨折したと言っていた。
仮に山本さんとしておく。その山本さんから聞いた話。

山本さんの釣り仲間に、膝のギプス3ヶ月で膝が固まってしまい
そのあと5年くらい膝が曲がらずびっこ引いてた人がいたそうだ。

その人も含めて数人で渓流に釣りに行った時、
その人が滑って、岩の間に曲がらない右足が挟まれたまま後転したそうだ。
大激痛でものすごい悲鳴をあげたその人のところへ駆けつけてみると
5年間まがらなかった右足が曲がっていたそうだ。
で、以後、普通に歩けるようになった、と山本さんが言っていた。

偶然その日の診察で、その日からリハビリを始めることになったのだが、
リハビリ室で、まったく曲がらない右親指を「このままほっておいたら一生そのままですよ」
と言われたあと、かなり強引に曲げリハビリを受けた。
ま、けっこう痛かったが、
山本さんから聞いた、釣り仲間の大激痛に比べたらこんなのまし、と思えたw

その後も、その話が頭からはなれず、
けっきょくリハビリというのは、
その大激痛を、小分けにしてちょっとずつ支払ってるようなもんだ、と思うようになった。
痛みを分割払いして、大激痛一回分に匹敵するくらいまで貯めるのがリハビリなんだな、と。

888N:2012/09/17(月) 23:15:03
偶然となりあって一時間ちょっと話しただけだが
山本さんの話はいろいろ妙に印象に残ってる。
今だに謎なのは、
ギプスをつけたままの右手で、その日の昼のうどんを
病院付属の食堂で、箸を使って喰べてきたという話。

親指以外の、四本の指で箸を使って、うどんを喰べたというのだが
いったいどうやったのだろうか?
いろいろ試してみたが、
塗り箸で汁うどんをつまむというのは至難の技であると思う。

889zebla:2012/09/19(水) 20:32:17
コテつけるとあぼーんされちゃうから外してみる。
コテ外してまで読ませんじゃねーよの場合は脳内あぼーんしてくれ。

>>887
前にも書いた気がするが、
バイク事故で左小指第二関節を潰した時は、
湯船の中で温めてから痛みを堪えて曲げ続けた。
約30分銭湯の湯船でやってた。
膝をお湯に浸せない時は、ビニール袋で濡れないようにして湯船に入った。
全然曲がらなかった指が半年で曲がるようになった。
今では自分の意志で曲がる。
リハビリイコール痛みというのはその通りで、
曲がるように腱が剥離していくから痛む。
一ヶ月続けても、ほんとに曲がるんかいな?
って感じだったが、今では見た目以外は普通だ。
薬指の第一関節は腱が切れたので外には自分の意志では曲がらないけどね。
根気よく頑張ってくれ。

890N:2012/09/20(木) 19:36:19
>>889
ネットでいろいろ検索してみると
関節軟骨の挫傷・損傷は骨折と違うたいへんさがあるみたいだね。

そういえば数年前に、
背骨のまんなかへんの軟骨の変形異常を患ったことがあるが、
背骨の手術はリスクが高く、
むしろく変形の進行にまかせて骨同士がくっついてしまえば
神経性の痛みはなくなるということで、
治療もリハビリもせず放置する、という方針に決まったのを思いだした。

温めるのがいいのは共通のようだ。

今回の場合、親指にプレートも入っていてそれがちょうど関節の部分にもかかっているため
ちょっと特殊条件が付加されてはいるけれど
「半年」くらいは覚悟しなければならないかもしれないというのは心にとどめておくことにするよ。サンクス。

891N:2012/10/01(月) 05:05:08
曲がりは順調に進んでるが、(目標54度、現在40度ちょい)
それにつれて、右手を使う回数が増えたためか、
それともリハビリのやり過ぎなのか、
手首が痛んだり、なにより肩から上腕にかけて、奇妙にびりびりとした痛みが走るようになって
これは想定外だった。

接骨院のC先生によると「胸郭出口症候群」の疑い、
リハビリの理学療法士は、事故の時に鎖骨・親指以外にも損傷があったのではないかと疑い、
主治医だけはろくにさわりもせず「あ〜痛いですか」で終わり。

892zebla:2012/10/02(火) 21:24:12
再びコテを外すが、
精神衛生を優先するなら読まないことを推奨する。

リハビリは痛みそのものという意見を覆しはしないが、少々補足したい。
大きすぎる痛みはリハビリを阻害する。
リハビリの基本は、ストレッチ&ホールド。
伸ばして、痛みが生じたらその状態を保持するのが基本。
30秒から1分が保持する時間だ。
肉体が損傷すると、肉体は再生を試みる。
その過程で、諸々は癒着する。
接着剤で固めるようなもので、ガチガチに近くなる。
それを剥がすのが、リハビリで痛みを伴うものとなる。
急ぐあまり、ストレッチして、ホールドするところを更にストレッチすると
当然ながら痛みとともに更に損傷を招く。
そして損傷は癒着を産み、リハビリは停滞もしくは後退する。

>>891の状態を判断しかねるが、
危険もあることを念頭に置いて欲しい。

893N:2012/10/09(火) 13:38:20
>>892
忠告いたみいる。ま、おおむねその方向でやってる。

最近、
肩痛の解きほぐしで通ってる接骨院(整形外科医の了承を得ている)のC先生から聞いた体験談を聞いて、
指系のリハビリ痛は「まっすぐ」に近い時の方が大きい、という仮説を抱いた。

C先生がバスケット部員だった高校生のころ
薬指を脱臼をし、そのまま数ヶ月放置していたところ、曲がったままになってしまった。
それでリハビリに通ったのだが、
曲がった状態からまっすぐの状態へすすむにつれてリハビリ時の痛みが増大し、
最後、指を完全にまっすぐにす段階のリハビリでは、そのあまりの痛さに
もともと痛さには強いという自信を持っていたC先生が、
苦悶に身もだえ、こらえきれずに涙を流した。という話。

つまり、まっすぐから曲げ始めた時が一番痛かった俺の場合と
まっすぐになるにつれ痛みが増していったC先生のデータ数わずか2つから導いた頼りない仮説だw


>>891の状態は、別の原因が絡んでる可能性がある
 (事故の時に右の上半身が頭−鎖骨−ろっ骨−親指まで傷んだのに肩だけ何もなかったいうのも不自然だ)
 ので、気にしないでくれたまへ。

894N:2012/10/19(金) 07:45:06
本日、2度目の右手ペットボトルふた開けに成功した。

Ⅰ度目は4日ほど前だったが、そのあと親指周辺の腱が痛みが強くなり
本のページを摘んでめくることも痛みが伴う状態が続いていた。
接骨院で親指の根本  (母指球筋 http://www.joa.or.jp/jp/public/sick/condition/img/carpal_tunnel_syndrome_01.gif
をマッサージしてもらったり(かなり痛いw)、
すこし自主リハビリを控えめにしたりして、今朝は親指を動かしても痛みがなかったので
2リットルジャスミン茶のペットボトルに挑戦したところ、数回トライで開けるのに成功した。

ペットボトルの蓋を開けるというのは、ここ数ヶ月来の念願だったのだw

895N:2012/10/21(日) 20:12:48
考えてみれば、小学校低学年のときの扁桃腺手術以来の入院だった。
担任のおばさん教師の差し入れは、なぜかパスツールの伝記だった。

謎につきあたったとき、いくつか仮説を立て、
それらをふるいにかけながら、すこしづつ真理に近づいていくパスツールの姿に
けっこう影響をうけた気がする。
小学校高学年になったとき学級会でわりとよく意見を言うようになった。

しかしある時、高学年の担任だった女教師に「理屈が多い」と言われ、
(しかも理屈のうえに「屁」をつけられてw)その後、学級会で発言することはなくなった。
いま思いかえしても怒りが沸く。

おそらく、俺以外の同級生も傷つくようなことを、あの女教師にそれぞれ言われたのだろう。
弟の方は小学校を卒業したときのクラスの同窓会が頻繁にあったが
うちの卒業クラスの同窓会はついに一度も開かれなかった。

ともかく、小学校低学年のときの読書はけっこう、その後に影響するのかもしれない
と、いま初めて気がついた。

896N [リハビリ・(私記)]:2012/10/28(日) 21:54:54
ペットボトル蓋開けの自信は、以外と大きい。
先週土曜日、予想より早く自転車を試す気になった。
3kmほど離れた新規のラーメン屋。

レバーを握るとき少々痛みが走ったが、肩の痛みは思いのほか小さく、走りだす気になった。
これは予想外だったが、乗って歩道を走りはじめると、かすかに恐怖心が湧いた。
しばらく走ってると薄れたが、これがバイクなら、どの程度の恐怖心が湧くか予想がつかなかった。
もっとも、バイクは事故で廃車になってしまったので、
またKモータースに頼んで中古を2年分割でお願いすることになる。それはまだ先の話。

ばあさんのチャリンコが追い抜いていく。いま京都でもっとものろいチャリだ。 それでよい。

意外な障壁はチャリンコの鍵。すっかり錆ついていて固かった。傷ものの右手では無理。
左手でも苦労した。 

 (ここで思いたち、接点復活剤を持って部屋を出、吹きさらしのチャリ鍵に噴きかけたところ軽くなった。
  ついでに、不安材料のなくなったチャリでそのままラーメン屋へ出かけた。
  事故を起こした日に行こうとしていた7月開店のラーメン屋だ。 
  やや薄めで普通の背脂醤油だった。めんが妙に立っていた。 自家製麺だった)

初回チャリの後、しばらく肩が痛んだが、
3日後にはまたチャリに乗って、三条河原町にできたつけ麺屋に行った。
結果この一週間で、新規のラーメン屋4軒。あほ、だ。 かまわん。

リハビリは、進んでも一晩たつと戻ってしまう、の繰り返しで半月以上、
ただ、痛みはすこしづつましになってる。         以上。

897N [リハビリ・(私記)]:2012/10/31(水) 03:00:08
昨夜もチャリで新規のラメン屋だ。一週間ちょいで5軒目だ。
7月から10月までに20軒近くのラメン屋が開店しているのだ。
そして、半年もたずに閉じた店もけっこうある。

木屋町のごったがえした細い道をチャリ通行したわけだが、
我がトロトロ運転では、前を歩く若い兄ちゃんを追いこせなかった。
なかなかのもんだ。

−−−−−−− ところで −−−−−

親指を曲げてペットボトルの蓋を開けれるのに
まっすぐにすると
なぜティッシュを摘むのさえ痛みが走るのか?
今日、ひとつの理解の仕方が浮かんだ。

テコを思い起こせばいい。
親指を曲げて力を入れたとき、支点は、親指の根本にあるが
まっすぐにして動かすと、
支点が、手根骨の底部(母指球の手首に近い側)-つまりピンが刺さっている骨-のあたりになる。
だから、ほんのすこしの力でも荷重が直接伝わる。

これが正解ではないか?

こんな簡単なことに気づくのにずいぶんかかった。
明日は3週間ぶりの通院日だ。 担当医に尋ねてみよう。 うむ。

898N [リハビリ・(私記)]:2012/11/01(木) 18:56:01
’治療’としてのリハビリは終了になった。

指の「てこ」理論に関して、
主治医は首をひねって「う〜ん」というのみ。
改めてなぜ、指を伸ばした状態では摘む・掴むで痛みが走るのか、聞いてみたが
これに関しても「う〜ん」のみ。 

リハビリ療法士は、「おっしゃるとおり」と肯定。
なぜ痛みが走るのかについては「あくまで可能性」として
骨折箇所に入っているプレートが、その下にある腱を押さえつけているためではないか
と、それなりの推測をしてくれた。 
プレートが下を走行している腱を押さえつけていることは、理学療法的にはあきらかであるらしい。
主治医はそこも「プレートは骨にきちんと沿っている」と述べて、それすら否定的だった。
ただ、次の診察で「リハビリの先生がこう言っていた」と言えば、そこは認める可能性があるが
もう、どうでもいい。

昨日の最後のリハビリで、療法士はそれまでと違って
ソフトに母指球を揉みながら親指を、これまたソフトに、さするように伸ばすという運動を
10分ほどしてくれた。 その時はなにをしているのかわからなかったが、
今日、痛みがかなり緩和している。 

どうやら、痛いだけがリハビリではないのかもしれない。
というより、
「治療」としてのリハビリと「回復」あるいは「緩和」のためのリハビリがあるのかもしれない。
しかり、整形外科と連携したリハビリでは、親指が目標の角度まで曲がるようになれば
それで終了ということになるのだろう。
最後は、
「あとは、自分で工夫してください」と言われて終了となった。 

ところで、昨夜は12時間寝た。
指の痛みの軽減が、リハビリにあるのか12時間睡眠にあるのか判断できんが、
とりあえず、なんでもいい、楽に、小便さえできれば(あの摘む動作がこれまで痛みなしに行えなかったのだ)。

899A ◆CPjaa6Nup6:2012/11/26(月) 15:19:43
メモメモ

900N [リハビリ・(私記)]:2012/11/26(月) 23:46:21
>>899
高齢おっさんの症例は、若い(若すぎるw)坊ちゃんにはあてはまらないだろうと思う。

将来、A自身、パートナーとかそのご両親が同じようなことになった場合は
多少参考になる面があるかもしれないが。
(Aもまだ若いらしいが、骨の状態とかは高齢おっさんに近いのかもしれない、という印象に基づくw)
当然、怪我の状態によって予後も違ってくるだろうが。

ま、参考になるかどうかわからんが、
三角巾がとれたあとの固まった肩のリハビリとして教わったのは
両手を後ろで組む、という簡単なものだった。
痛くなくなったら後ろで組んだ腕の角度を深くしていく。

俺は親指のリハビリに全力を投じてて、肩のリハビリをサボっていたので
今になって報いを受けているという感じだw

治療にはならないが肩の痛みが固定を外したあと頻繁に起きるのであれば
対処療法としてロキソニンバップを処方してもらうのもいい。
痛み止めと抗炎症の作用があり
柔軟性と接着力が市販のばんそこより強力なので剥がれにくい。

901N [リハビリ・(私記)]:2012/11/27(火) 00:09:03
自損事故として申告すれば、最低限の条件しか入っていなかった任意保険でも
通院補助費がでることが最近わかり
それが接骨院でも使えると知って、最近急に熱心に通っている。
我ながら現金なもんだw

902N [リハビリ・(私記)]:2012/11/27(火) 00:18:49
京都府の国民健康保険からは
数ヶ月遅れで、保険適用前の医療費が通知されてくるのだが、
7-8月の入院費(手術費を含む)は、額面的には115万円だった。
これを生で払えと言われたら貧乏な俺は破産してた。日本国には不満な所も多いが、国保制度だけは
アメリカ人じゃなくてよかったと思わざるを得ないw。
(すべて無料のキューバにはかなわないがw)

903N [リハビリ・(私記)]:2013/01/31(木) 05:24:49
もう半年以上経つが、
親指を開くと痛みが走る状態はいっこうに改善しない。
具体的にいうと、
CDを掴もうとすると親指の根本が痛みやがるのだ。
以前Rが書いていた「日にち薬」という言葉に腹がたつ、というのがわかった気がする。
先が見えない状態で「薬」もへったくれもあるか、コノヤロ! という感じだ、コノヤロー

904A ◆CPjaa6Nup6:2013/02/06(水) 09:02:34
森美術館 で開催されている
会田誠の「天才でごめんなさい」が物議をかもしている。
正直、個人的に苦手なものが多いけれど
この人を否定はしない。

戦争画リターンズなどは大変よい。


見たくない人は足を運ばなければ良いし
さらに過激な作品は「18禁部屋」展示だそうだし
とりあえず、資料
http://paps-jp.org/action/mori-art-museum/
http://list.jca.apc.org/public/cml/2013-January/022250.html
この資料に書かれた扇情的な作品は18禁ゾーンでの展示なんですね。
 Webサイト(森美術館の)からは削除されたなら
どこが問題なんだろう?

真に欲望を実施するものたちは
ポルノ作品なんかみなくても実施するんじゃないかな。

作品を
描くな、展示するな
はなんか違う気がする。
美術館はあらゆる自主規制をすべきではないと思う。

905zebla:2013/02/07(木) 11:29:21
規制したがる人は実際の被害者のことなど1ミリも考えたことがないというのが定説よ。
自分が嫌だからダシにしてるだけ。
あと警察が楽なお仕事を増やしたがってるのと、宗教絡みの利権。

906zebla:2013/02/07(木) 22:39:09
美術館側から「法律に反しない限りは展示する」との回答が出ましたよ。
http://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/message.html

907N:2013/02/08(金) 10:17:47
そもそも最初から18禁部屋として展示することになっていたようだ
http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/11-3dba.html

会田誠のツイッターにはいろいろ関連するツイートや
抗議団体や賛同者の集会などが紹介されてるな
https://twitter.com/makotoaida

----------以下個人的意見・感想

今回初めて会田という人の作品を見たが、
社会的なメッセージ性(本人のいうところの皮肉=アイロニー)の強い作品は
個人的にはあまり好きではない。
それよりは犬シリーズのような、内的なゆがみを表象させているような作品のほうが
個人芸術としては好みだ。

というわけで>>904 の会田作品に対する好き嫌いはちょうど正反対になってしまうけれど
後段に関しては、全面的に、賛成します。



表現者としての個人を組織、団体が叩くというのは原則的に汚いやりくち

上の会田誠のツイッターで紹介されてる抗議者たちの言い分は
もっぱら「自分の支持者」へ向けられたいかにも「党派」的なものいいに溢れていて
むかしの解放同盟の暴力糾弾と同じ体質を感じる。
啓蒙主義者というのはなんで
こうもいやらしいまでにモラルエリートである自分に疑いをもたないのだろうか?
なぜなら、それでメシを喰ってる(公的援助や協賛金など)から、としか言いようがない。

というわけで、>>905もほぼ全面的に賛成。
「宗教絡みの利権」という部分だけ、こちらの情報不足でいまいち把握できてないけど。

908N:2013/02/08(金) 10:41:44
会田自身は、
ツイートの中でエゴン・シーレ(たぶん女性の自慰を描いたデッサンなどのこと)に言及してるけど
2月5日の
「深夜、最後のツイート。 今、すんげ??闘志がフツフツと湧いてます。
「次回作は、そこらのカタブツどもがビビってションベン漏らすほど、
 すんご????く渋くて地味なシリーズ作ってやる??」っていう。」
というのは、すこし気になる。

ボッティチェルリが、サヴォナローラの神権政治下で、
「すんご????く渋くて地味なシリーズ作」に転向したことを思い起こさせる。
もちろん、会田という一筋縄ではいかなそうな人物のアイロニー表現とはわかりつつも。

なんにせよ、糾弾される個人も、ツイッターをつかえば、
団体・組織と渡り合える、という点で、昔とすこし状況が変わってる、ってことを
この問題を教わって、いろいろ検索してるうちに実感したのはやや収穫。

909zebla:2013/02/08(金) 16:51:05
今回は美術館の姿勢がぶれてなくて本当によかった。

宗教絡みの利権というのは、今回に限らず表現の規制をしたがっているところが
宗教的倫理観に基づいてやってることが多いという話ね。
幸福の科学やキリスト教原理主義等、純潔主義を掲げてるところ。
宗教団体は票を持ってるから、政治家がなびきやすい。
政治家は興味がないから取引に使いやすい、みたいな話です。
子供や女性がヒドイ目に!って言われたら逆らいにくいしねえ。

AKBの写真集で少し話題になったけど、児童ポルノ禁止法辺りを調べると色々出てくるです。

910N:2013/02/10(日) 19:55:24
>>909  りょ!  (これを一度使う機会を与えてもらってありがたい)

なるほど、言われてみればたしかに宗教は美術・芸術を弾圧の標的にすることが多いな。
古くは、キリスト教徒によるアレクサンドリア図書館・博物館・美術館の破壊
前述の「清廉潔白」な修道士サヴォナローラによる“虚栄の焼却”
タリバンによる石窟大仏の爆破、 などすぐに思い浮かぶ。

さらに、原理主義という単語を見て、あぁそうだな、と。
原理主義は、つまるところ頑迷な教条主義だし、狭量で幅がない。

そういう意味では「イデオロギー」も思想と言うよりは宗教に近いしな。 
イデオロギー(○○主義−○○に入るのはマルクスでも国家でも民族でも何でもいい)
は、絶えざる自問自答を繰り返す思想や哲学と違って、ただの信念に近く
柔軟性のない教条主義をふりまわして他者ばかりを責め、
自らを省みることのない点で、視野狭窄の原理主義的宗教とまったく同じ。

「狭い」をシソーラスで引いてみると

「度量が狭い ・ 料簡が狭い ・ 視野が狭い ・ 狭量な ・ 偏狭な ・ 偏屈な ・ (考えが)小さい
差別的な ・ うたぐり深い ・ 猜疑心の強い ・ (心に)余裕がない ・ ギスギスした(社会) ・
 小心な ・ こせこせする ・ いじましい ・ ケチな(考え) ・ ちぢこまった(考え) ・ おおらかでない ・
 大様(おおよう)でない 」

と、まさに原理主義者そのものの姿がでてくるから面白い。

イデオロギーによる芸術・美術・言論に対する弾圧・抑圧も
ナチズム(国家社会主義)の退廃芸術焼却をはじめとして、
戦中の日本(明治時代にも黒田清輝の裸婦展示問題があったが)、
旧ソ連、文化大革命の中国など、枚挙にいとまがない。
すべて「健康」的な文化以外は認めないという点で、完全に共通してる。
健康 などということを大上段に持ち出す奴は用心したほうがいい、という教訓だなw
今回の抗議をした元・軍人擁護会やら女権運動家(マルクス主義からの転向者が多い)やらも
その資質からすればソフトファシズムやソフトスターリニズム(吉本の用語)みたいなもんだ。

というわけで、いろいろ納得した。

911N:2013/02/10(日) 20:13:28
そういや、明治時代には天皇原理主義者が廃仏毀釈をやってたな。

912N:2013/02/10(日) 22:13:49
イスラム原理主義や、5世紀にムセイオン破壊を行ったキリスト教徒などの
源泉となっているエホバの命令は、
申命記の第5章、つまり十戒の声明に依ってる。

ほかの、汝殺すなかれ、や汝、隣の妻を貪るなかれなどと比べて
偶像に対する破壊の命令は、異様なくらい熱がこもっている。

すべての民族主義の心性は、旧約の申命記やヨシュア記を読むと
そのすさまじさがよく解る。 
これに比べればマキャベリなどはとてもソフトに思えるくらいだ。
じっさいマキャベリは、支配のコツとして、善政をひくことをあげてるくらいで
ところどころ、孟子の言ってることに通じる部分がある。

旧約のエホバにはそんな部分はない。
砂漠の思想と言われるのも、さもあらん、と思わせる荒々しく乾いた恫喝と敵意に満ちていて
そもそもエジプトのような「征服」という考えすらなく、
エホバがイスラエルの子孫に約束した土地にすむエホバ以外の他神を信ずるものたちの子孫は
あたりまえのように「滅亡」させることが神の命令となっている。

この古代の心性は、いまもイスラエルやイスラム原理主義や
白人キリスト教国の底に流れているリアルなしたたかさの底流に流れている。
聖書はいまでも読まれ続けているから。
創世記以外の旧約も、一度は目を通してみる価値がある。

(というか、俺も今回はじめて流し読みじゃなく申命記とヨシュア記をじっくり読んでみて
 エホバの思想のすさまじさにたじろぎ、どこかに吐き出したくなって
 こうして書いているわけだ。歴史学的視点もふまえて冷静に読めるようになるには
 もっと勉強が必要なんだろうな)

913N:2013/02/10(日) 22:32:45
昨年、 「集団愚」 「集合悪」 という言葉を思いついたことがある。

個々の成員の内心をさぐってみれば、
集団や組織のたてまえの愚かしさをわかっていても
集団愚に流される。  

そもそも集団・組織が愚かしいことを行うことと
その成員ひとりひとりを見れば賢い奴もいるということが
矛盾せず両方存在する、それを集団愚という。

個人としての賢い意見も、集団のなかにいる場合には
ほかの成員との妥協や、他集団への集団的な結束を第一義とする
自己存在のみを目的化して、もっとも通りやすり妥協案の前に引き下がる。
これは
集団・組織が根源的にもつ宿命のようなものだ。

集団・組織は、成員の賢さとは別の力動因をもって、
かならず集団愚に陥る。 
すくなくとも日本ではそうだ。外国は観光旅行すら行ったことがないのでようわからん。
すこしは外国においてどうなのか、を考えてみる必要があるのかもしれないが。

914N:2013/03/03(日) 05:01:17
今日、スーパーで割り込まれる夢をみた。
買い物かごをレジに置いていたら、
あとから来たおばはんがレジの兄ちゃんの前に自分のビン牛乳をどんと置きやがった。
ムッとして、その牛乳瓶のまえに買い物かごを割り込ませた。
当然、レジの兄ちゃんが俺のほうを精算しはじめたら
おばはんがごちゃごちゃ言い始めたので、
「なんだあんたは。自分を中心に世界が周ってるとでも思ってるのか」
と、言い募ったところで目が覚めた。

そしてふとおもった。
引用した申命記の民族主義(選民思想)と、自己中心主義は似ている、と。

自己中心主義と個人主義と利己主義はそれぞれ違う。
自己中心主義=個人主義ではないし、自己中心主義=利己主義でもない。
これをわざと混同させる奴は非常におおいが、違う。

個体は、皮膚によって閉じられているので、当然
すべての個体は、相互に独立している。
そこから、いろいろな態度の違いがでてくるのは当然のことだが
そもそも、各個体は生命史の中で発生しているので
生命史の連続を保つため、同時に共同性も生まれる。
クラゲやイソギンチャクのような群生という発達のしかたをする類もある。

(へんな終わり方だが、思考がここでストップしてしまったので終了w)

915N:2013/03/24(日) 12:35:21
たいした理由じゃなくても
一度呑み込んでしまった言葉は
外にで出づらくなる傾向がある。 >おしゃべり、日常会話について

今朝NHKで「雑談力」というテーマで番組やってた。
人が一番よろこぶのは「失敗話」だそうだ。

俺がしたかったのはそんなコミュニケーションとかいう高級なレベルじゃなく
もっと初歩的な話だ。

そのことについて考えたのは、
もと緘黙児で、ずっと無口だった俺が(ま、今でも会話名人のおばさま連に比べれば断然無口だと思うがw)、
最近、接骨院では比較的よくしゃべる患者になったからだ。
おおもとは、入院の後半一週間、隣のベッドで寝ていた人と話すようになったことだった。

−−−−−−−今、急激にPCが重くなった。
マウスは引き摺るような感じで数秒遅れるし、
パソコンの音には、やたら雑音が入る。
ウィルス検査ではなにもひっかからないし、
メモリもCPUもとくに多く消費している訳でもない。。
とりあえずは再起動すれば治るはずだが、(一週間ほどまえからこの症状があらわれはじめた)
いまDLしてるので(P2Pなのでいつ終わるかわからない)
ダウンロードが切れるまでは再起動したくない。
------------- ということで、いったん休止----

916N : 日常会話について:2013/04/03(水) 23:21:31
けっきょくOSを再インストールするはめになった。
さて、
大部屋の話は面白いがなかなか本筋にいけないからやめる。
まだ記憶の比較的残ってるあいだに一度は書いてみたいのだが。

とにかく、退院後、
接骨院に頻繁に通うようになると
怪我のいきさつ、日々変わる状態・調子、
いろいろ伝えなければならなかった。

数ヶ月、週に数回(多いときにはほぼ毎日)通ってるうちに
昨日なに喰ったとか、近所の店がどう、とか、
話の中身がだんだん病状から離れていき、
接骨院で流れてるBGMのCDなんかまで作り始めたりする状態になって現在に至っている。

そんな背景から日常会話について考えてみたことがあった、という話。



なにを考えたかというと、
人と人がしゃべることは、いくつかに分類できそうだ、ということ。

〜ここからが本題


まず、第一分類は 『用件』 。
 

「ちょっとそれとって」 「あとで」 「今夜は遅くなるかも」
「さっさとしなさい」「ちょっと待って」
これらは『用件』。
約束、頼み事、要求、苦情、それからいわゆるほうれんそう「「報告」「連絡」「相談」」など
相手の具体的な行動(制止・精神的な提供も含む)を促すのが用件、
といちおう定義しておく。 


『用件』の量は関係に応じて変化する。
用件が多ければ、関係の密度は高い、といちおうは言えそうだ。

逆に関係が深いから用件が多いとはいえないかもしれない。

親と子の間(特に母子間)は用件が多い。
親の側から子にいろいろ行動(または制止)を求めることも多いし
子供側からもあれして、これしてと、特に母親に対しての用件は多い。

考えてみれば、赤ん坊が泣くのも
感情を伝えるというよりは、「乳呑ませろ」とか「おむつを替えてくれ」
とか、間接的な用件の場合がかなり含まれてる気がする。

空腹とか気持ち悪さとかあるいは感情的な不安とか
泣くことを促す具体的な現象があるから泣くわけだが、
とにかく、母親を呼ぶわけで、相手の具体的な行動を間接的に求めているには違いない
ので、それらは『用件泣き』。


おそらく夫婦間より親子間のほうが用件は多いのではないかと
独り身としては「推測」するほかないが、そんな気もするが
まぁ、保険やら家計やら、夫婦間でも用件は多いのかもしれん。 経験がないんでわからん。
恋人間でも、いさ「結婚」という段取りになれば、かなり会話の中身も『用件』化するんだろうな、とか。



一般的にいって、
男は『用件』をもっておしゃべりに替える。
用件以外の「はなし」は、女のほうが量的に多い気がする。

無口な男(基本的には俺ももともとはそうだ)は、
用件 と 一般論 のふたつしかおしゃべり材をもってない場合が多い。
一般論は「会話」といえるかどうかかなり怪しい。
結果、用事がなければ話さないことになる。

ついでに書くと、
2チャンネルを作ったひろゆきという人物の書いたり言ったりしてるところを見ると
8〜9割がた「用件」だけで成り立っている気がする。あれは『用件』ニンゲン。

ま、『用件』については、だいたいそんなとこ。

917N : 日常会話について 「用件」 追加:2013/04/04(木) 18:16:41
『用件』 には、目的やら目標がつきまとう。
これは『用件』から、“おしゃべり”として価値を奪う。

“おしゃべり”は、目的や目標などもたない。

無目的・無目標にただ行われる、のがおしゃべりの本分でありそこに価値がある。

918N : 日常会話について 「用件」 追加 2:2013/04/04(木) 19:04:29
おしゃべりとコミュケーションとは別ものだ、と考えざるを得なくなったのは
こないだNHKでやってたコミュニケーション学の特集を見たときの違和感による。
その番組では
大学のコミュケーション講座に特別講師として落語家を招聘していた。

落語家?  あいつら、コミュケーションの名人か? お話の名人か?

落語で演じられる会話なんて(ま、あまり知らないが)
特に江戸落語の会話なんて、多くが『用件』と『一般論』のすれ違いじゃないか。
町内のご隠居が、相談にきた熊さん八ッつあんに
さまざまな知識・知恵(これは俺の分類では『一般論』にあたる)を与え、
それを熊さん八っつあんがいかに勘違いして失敗するのか、
乱暴にいえばそれだけじゃないか。

つまり相談(用件)と回答(一般論)しかないじゃないか

もし、勘違いにコミュケーション学が意味を見いだすのなら(よく知らないが)
コミュニケーションとやらと、おれが最近その価値に気づいた日常会話(おしゃべり)とはべつものだ。

--------------------------------------
どうでもいいことだが2チャンネルの元・管理人/用件ニンゲンひろゆきについて昨日すこし触れたので、
ついでに書いてみると、
たぶん,ひろゆきは2ちゃんねるを『用件』の場所として設定したかったんじゃないだろうか。

「2ちゃんねるは失敗だった」とひろゆきが言ったのは
教えてちゃん叩きの横行を指しているのではないか。
相談というのは立派に『用件』だから、
ひろゆきの意図としては、おおいにアリだったはずではないだろうか。
だからひろゆきは「教えてちゃん」SNSを別に立ち上げた
と、ひろゆきを「用件ニンゲン」と見ている俺は推理する。

要するに「目的・目標」がないとひろゆきは話ができない。
ゲームなんてのは「目的・目標」の達成がメインで、
ゲームが先かひろゆきの資質が先かわからないが
彼がゲームおたくになるのは当然のなりゆきだったろう。
---------------------------------------

教えてチャン叩きをする奴ってのは
たいてい中途半端な知識しか持ってない奴だ。
中途半端な知識の暗黙の共有を前提とするなら
『用件』は成立しない。

『用件』とは 表沙汰にする ことだからだ。

いったん表沙汰になれば、
暗黙の共有(「空気読め」)は単なる隠蔽か抑圧にすぎなくなる。
バカな話だ。たいていのバカバカしさは、中途半端な知識(通俗的な一般論)から生じる。

−−−あ、 疲れてきた。  やめよ。  -----

919N : 日常会話について 「用件」 追加 2α:2013/04/04(木) 19:09:20
隠蔽か抑圧というより「排除」の感性だな。 >「空気読め」

920N : 日常会話について:2013/04/10(水) 01:06:07
鬼の霍乱。 珍しく風邪ひいてダウンしてた。さて、

仮に分類してみて『用件』より、
おしゃべり(日常会話」の柱だと思うのは『自分のこと(相手のこと)』 と 『共通性』。

共通性というのは、仮にそう名付けてみただけで
まだうまく整理できてない。
とりあえず「自分のこと(相手のこと)」について書いてみる。

入院中半月のうち前半一週間、
救急病棟(四人部屋)に4日→脳外科病棟(6人部屋)に3日いた。
そこに話相手はいなかった。 それどころじゃない人ばっかりw (ま、俺もそうかw) 

さて、ここで思い出話をしてしまおうか。 

どうせ誰も読んじゃねえ。好きにさせてもらおう。 

そういや、どの大部屋でも独り言を言うやつが必ずいたな。
とくに、昼間の面会(大半が家族)の多いやつは
皆が帰ってしまってからのひとりごとが多かった。

頭が会話モードになったまま、相手がいないんで
そうなるんだろう。

921N : 入院話:2013/04/10(水) 01:21:38
-----入院までの経過-----

夜の10時過ぎ、第2日赤に救急車で運ばれて、
いろいろ検査を受けてるうちに脳挫傷が判明し、
救急病棟に運ばれたのは夜中の2時をまわっていた。

最初、骨折に関しては明日の朝、
近くの病院で診てもらってくれと言われ、
鎖骨2箇所、ろっ骨4本、親指の根本のまま、
とりあえず家に帰ってくれといわれた。

脚の骨は折れてなかったので、上半身骨折の痛みをガマンすれば、
とにかく一応立つことができたからだ。
たまたま運び込まれた第2日赤では
「自力で立てるかどうか」 が、入院の基準としてかなり大きいことが後にわかった。

922N : 入院話:2013/04/10(水) 20:43:40
-------救急病棟---------

夜の2時過ぎだったから
運び込まれた救急病棟の4人部屋は消灯してて
まっくらだった。

数時間すると、ななめ向かいの奴が大声をあげ始めた。
看護婦が来て、叱りつけた。かなりきつい口調だ。
後にわかったが、その白髪交じりの70前後のおっさんは
騒ぎの常連だった。

こっちもそれどころじゃないんで
その時はなにを騒いでいるかわからなかったが
次の夜も騒ぎはじめてようやくわかった。
要するに「家に帰る」と言って、点滴をひきちぎったりして騒いでいたのだ。
このじいさん、
昼間、奥さんが来てるときは借りてきた猫のようにおとなしく、
奥さんの話を聞いているだけで、ろくに返事もできないくせに
夜中になると必ず大声をあげて騒ぎを起こした。

3日目、このじいさん向かいの隔離部屋に移されたが
そこでは昼間から騒ぎはじめて、
その声は、廊下を隔てたこちらの部屋にも聞こえてきた。

向かいの奴は何を考えてるのかよくわからない奴だった。
3〜40代にみえたが、昼間面会に来るのは母親だけだった。

緊急病棟では毎朝、看護婦から
「自分の名前、いまどこにいるのか、今日の日付」を質問されるのだが
向かいのやつはふたりとも、自分の名前以外は答えられなかった。
(ま、俺だって、日付はかなり怪しかったw)

923N : 入院話   E君:2013/04/10(水) 21:24:16

看護婦は、隣の奴には毎朝恒例の質問をしなかった。
まったくしゃべらないからだ。

年齢はよくわからなかった。顔つきは3〜40代にみえたが頭は白髪だった。

仰向けの姿勢のままぴくりともせず、眼は天井をみつめたまま瞬きもしない。
だから、看護婦が毎日かならず目薬をさしていた。
緊張型分裂病のカタレプシー(蝋屈-ろうくつ-症)ってやつだ。たぶん。

こんなもん、詐病なんかできない。
俺は一日24時間、4日間ずっと隣で寝ていたが
ずっとその姿勢は変わらなかった。(ただし、間にカーテンがあるので
夜中には眼を閉じて寝ているのかどうかはわからなかった。

ただ、夜中やたら息が荒くなるときがあった。
俺はカーテン越しに深呼吸をした。
長く息を吸い、長く息を吐く。
特に、長く息を吐くときに、その音が隣にも聞こえるようにすこし大きくしながら。
それは、俺の思い込みによる「交信」だった。

たぶん偶然だと思うが、それをすると、
カーテン越しの隣の呼吸はおだやかになった。
何度かやったが、その一方的な「交信」をすると
必ず、穏やかになった。

カーテン越しの彼にある変化が起きたのが何日目の夜だったか、今となると判然としない。

その夜も、息を荒げるのは一緒だったが、
そのあと、
「シュ・シュ・シュ・シュ」とシーツの速く擦れる音が始まった。
隣で同じ体勢で横たわっている俺は
その音のする場所がカーテン越しでもはっきりわかった。
彼の股間あたりからだ。


緊急病棟では、夜中でも数時間おきに看護婦の巡回がある。
深夜の巡回にきた看護婦が彼の行為を見つけた。
そして、やつの手を押さえつけているのであろう物音がカーテン越しに聞こえた。

しばらくすると、看護婦は3人に増えていた。
3人がかりでないと抑えられなかったのだろう。

朝、病室の中にあるトイレに小便をしに行った帰り、
(ということはたぶん3日目の朝だ。最初の2日間小便は溲瓶にして呼び鈴を押し
 看護婦に捨ててもらっていた。)

奴のベッドを覗いてみると、奴の右手は包帯でぐるぐる巻きにされて
ベッドの手すりにくくりつけられていた。

昨夜の看護婦との無言の葛藤劇があったはずだが
頭の後ろに組まれた左手は微動だにせずそのままの姿勢だった。

-------------------
ここまで書いた後、いろいろ考えてみた(昨夜はそれで中断した)、
俺が奴に向かって発信していた呼吸の「交信」は、もちろん「交信」とは受け止められなかった。
だが深夜の闇の病室の中で、わずか1mほどしか離れていない俺の吐く長い呼吸音は
カーテン越しに聞こえていたはずだ。
その音が、彼の中でどのように変換されたのかは無論わからない。
ただ、それは彼の脳に「他者」を呼び覚ましたのかもしれない。

分裂病は「性」の病だと吉本は心的現象論で書いている。
どこまで本当か判断する材料は持ち合わせていないが
知人がふたり、そのような診断を受けて長期入院(数ヶ月と数年)している。
そのうちのひとりは、毎回必ず、「失恋」が引き金になっていた。

隣の「ヤツ」の中で他者が呼び覚まされたとすれば、
それが性的な色合いを帯びる可能性はある。

もちろんこれは俺の主観に満ちた憶測にとどまる。
-------------------

転科するとき看護師に聞いたところ、彼は長期間救急病棟にいるらしかった。
俺がそこにいた四日間、面会客はひとりもいなかった。

924N : 入院話   脳外科病棟:2013/04/11(木) 22:31:09
脳外科病棟は6人部屋だった。
救急病棟はこぎれいで、部屋の中にトイレもあったが
(部屋の外に出て倒れられると発見が遅れるからかもしれない。
 俺は部屋の外に数歩出たら看護婦に叱られた。)
脳外科病棟は旧館のままで救急病棟より設備も古く
廊下も狭く、所々黒ずんでいた。

この病棟で会話に関して書くべきことはほとんどない。

救急病棟から車椅子で脳外科病棟まで運んでくれた看護婦から
入室前「ここは空気を読んでくださいね」的なことを笑いながら言われ、
「いや、俺、空気読めないから」と笑いながら返したが
たぶん脅しジョークだったんだろう。 
そこに読むような空気など存在しなかった。

6人中2人が独り言を言うヤツだったが、おとなしいヤツだった。
というか皆おとなしかった。 

入室して、ベッドの位置に不都合があったので
(右肩・右手・右ろっこつ4本が折れていて使えないのに、
 水を飲むのもベッドから降りるのも
 すべて右側でしかできない配置になっていた。)
看護婦にベッドの位置を変えてくれるよう交渉していると
反対側のまんなかの患者の母親が、「変わってもいいですよ」と声をかけてきて
場所を変わってくれた。

一見20代のその男は、頭を短く刈り込んだ坊主でひげをはやし一見ヤバそうな雰囲気の男だったが
実はこの部屋でいちばんまともな男だった。
一日中母親がつきそっていたがほとんど会話はなく、ひとりごとも言わなかった。
一日中カーテンを閉めっぱなしだったが、カーテン越しに漏れてくる看護婦とのやりとりからすると、
どうやら、サーフィンをしていて溺れたらしかった。 (入院していたのは7月)
看護婦との会話中のヤツの言葉で印象に残っているのは、
「ここではいちんち中眠ってる」 という言葉だ。

脳外科病棟にはテレビもなかったし、回診も一度もなかった。

925N : 入院話   脳外科病棟 2:2013/04/11(木) 23:37:59
最初に予定されていた左端の場所から
右側のまんなかに移って、向かい側を見ると見覚えのある男がいた。

初日に向かい側にいてすぐ次の朝いなくなった男だった。
こいつもほとんどしゃべらないヤツだったが、E君と違って、動くし、表情もあった。
「あぁ、なんか見覚えのある人がいる」と看護婦に言うと、
そいつはすこし驚いたような顔をしていたが、すぐに鉄仮面に戻った。
顔つきでいうと、ブルーハーツのヒロトに似ていた(頭髪はは真っ白だったが)。
こいつも母親がずっとつきそいで来ていた。
母親とは会話らしきもの、時々返事するだけだが、もしていた。

時々診察に行って帰ってくると、ずっとカーテンをオープンにしている俺とも顔を合わす。
一度会釈してみたが、奇妙な顔をされただけだった。 
看護婦とは比較的しゃべっていた(聞き取れないぼそぼそ声ではあったが)。 
ま、女好きではあったのだろうw


左側は年齢不詳の小柄な白髪男で、言語不明瞭、看護婦とのやりとりも
ろれつが周っていないのでほとんど何を言ってるのかわからなかったが
看護婦は理解していたようだ。 
この男は独り言を言った。 いや独り言というか、声を出して何か読んでいるようだった。
ベッドを降りてコチラ向きに座って、なにかを勉強しているようだった。

ろれつは周らないが、人の善さそうな感じで、
この病棟で、こちらの会釈に嬉しそうにニッと笑いながら会釈を返してくれたのは
この人だけだった。  
ほかの患者にはみな無視された。
(最初に場所を変わってくれたいかつい男は一日中カーテンを閉めっぱなしだったので
 会釈する機会は一度もなかった)

だから、病棟を変わるとき「お世話になりました」と転科のあいさつをしたのは
その人のようさそうな言語不明瞭のおっちゃんだけだ。
“あぁどうも”という感じで会釈を返してくれた。 
それにしても声を出しながらいったいなんの勉強をしていたのだろう。
何時間も読む声が聞こえていたが、何を読んでいるのかついにわからなかった。

右側のおっちゃんも独り言を言う男だった。
外見はまともで、どっかの会社で事務長をして退職したみたいな雰囲気だった。
独り言も内容は常識的で、「さて、トイレに行くか」とか病院食に「味が薄いなぁ」とか
そういう感じだ。 
しかし俺の前を通るときには絶対こちらを見ようとしないので
会釈のしようがなかったw 
たぶん面会には奥さんが来ていたと思うのだが、まったく思い出せない。

斜め奥のヤツもまったく思い出せない。

926N : 入院話   脳外科病棟 3:2013/04/11(木) 23:38:17
ついでに言うと、脳外科にいた時の俺の主治医の名前も、今、まった思い出せずにいるw

この脳外科医も奇妙なじいさんだった。
後に、退院してから通院で診察室に行ったときには
さすがにまともな応答だったが、入院中は、俺の病状の説明もせず
救急病棟で2,3度様子を見に来たときも、カーテンから顔だけ出して
ニコニコしながら一度だけ「どうですか?」と漠然とした質問をしただけで
「あぁ、あちこち痛いです」と言うと返事もせずニコニコしながら手を振ってすぐカーテンを閉めて帰った。
その後はカーテンからちらっと顔を覗かせてなんの説明も質問もせず
手を振って帰るだけになった。
ま、脳挫傷のあとの経過観察で入院していた(のだろう)から
昏倒や昏睡状態にでもならない限り、看護婦から様子を聞いて、それでOKだったんだろう。


骨折の手術のために整形外科病棟に移るまえ、MRI検査を受けたのだが
その結果報告がいっさいないので、
一度、整形外科病棟から歩いて脳外科病棟へ行き、出会った看護婦に
「検査の結果を聞きに来たんですが」と言うと、いまの主治医(転科したので主治医は整形外科医に変わっていた)
を通してください、と追い返された。

ま、それは病院内のルールなんだろうから別にいいが、
(俺が救急で運ばれたとき宿直担当だった整形外科医は、
 俺の主治医が脳外科になったあとも、何度か顔を見せて様子を聞いてくれたが)
脳医学関係のヤツはコミュケーション的に問題のあるヤツがけっこう多い、
というのが俺の観察だ。

927N : 整形外科 (前):2013/04/19(金) 10:37:02
整形外科に3度目の転科してすぐ入院中最初で最後の風呂に入った。
次の日に手術があるからだ。右手が使えないので、背中は看護婦さんに洗ってもらった。

この病院の手術室は10個の手術室がトビラの奥に巨大に並び
まるでSF映画のようだった。

前日に手術の説明で麻酔科医が、静脈麻酔について
「マイケル・ジャクソンが死んだのと同じヤツです」と説明した。
(今ググってみると、プロポフォールという麻酔薬だ。
 「経験者の約3分の1は記憶がなく、約3分の1は夢を見たが内容までは思い出せないという。
  残りは「鮮明で、時に性的な夢」を見ている」)http://www.newsweekjapan.jp/stories/us/2011/11/post-2339.php

術前、最初の覚醒から次の睡眠の間のことは記憶が残りません、
と説明を受けたが、断片的には覚えている。 
導尿のためにいれられた管の不快感に衝撃を受け、体をねじったイメージが残っている。
看護婦に聞くと、ねじったどころではなくけっこう暴れたらしいw
後でつきそいに弟が来ていたことを知ったが
「こんな目に遭っているのは自業自得だと思っているのだろう」というようなことを
誰かに言った記憶がある。 (相手の顔はなく視覚的には真っ白な空間)
弟に聞くと「躁状態だった」とにやにや笑われながら言われた。 

術後、
カーテンの動きのなかになにかのイメージが浮き上がってくる瞬間をなんども味わったが
ひょっとしたら麻酔薬の後遺症だったのかもしれない。

整形外科病棟は脳外科とちがって一人一台テレビがあったが、
有料だったんでカードは買わず、ページをめくることができないので本も読まず、なにもすることがなかった。
消灯後、幻覚を見るのはむしろ楽しみだった。

928N : 整形外科 (後):2013/04/19(金) 10:39:18
昼間は、病棟の大きな窓から見える街路樹をずっと眺めていた。
ただ、俺のベッドは部屋の一番奥だったので、
窓際のふたりがしきりのカーテンを閉めるとほとんど見えなくなる。


整形外科は4人部屋で,隣のベッドにいたのは70代のYさん
(仮名というより、実はどうしても名前を思い出せない,,,,)。
糖尿病の影響で、右足の指を2本切断する手術をし、
残った指もそのまま悪化すれば切断することになるというので経過観察しているところだった。
毎日家族が来ていたが、帰った後も独り言を言わない珍しい人だった。

Yさんの向かい側にいたのは、若白髪だが顔を見ると2〜30代の男だった。
こちらは母親が毎日、昼間きていて、案の定、夜になると時々ひとりごとを言った。

俺の向かいは60代くらいの男性で、奥さんが毎日、一度だけ友達が来ていた。
この人はずっとテレビを見ていた。 漏れ聞こえた友達との会話によると眼鏡屋さんらしかった。
たまに、短く独り言を言っていた。

ひとりごとを言わない隣のYさんが入院中、長く「おしゃべり」をした唯一の人だ。
なにがきっかけで話すようになったか思い出せないのだが
ひょっとしたら街路樹を見たいためにカーテンをすこし開けていいか頼んだのが最初だったかもしれない。
(同じことは、斜め向かいの若白髪の母親にも頼んだ。
 Yさんも母親もこころよくお願いを聞いてくれた)

Yさんは、奥さんが毎日見舞いにきていたが、聞くばかりでほとんど自分からはしゃべらなかった。
俺がいた一週間の間は、俺との会話量のほうが多かった。
けっきょく、俺はYさんが、戦後、買い出しを始めたことから
ヤクザ映画に親分役のエキストラでちょいちょい出ていること、
麻雀狂いになってろくに家にも帰らなかったことなど、Yさんの半生を知ることになった。

Yさんは、残った足指はチョコレートのようにくろずんでいたが、
それを毎日撫でさすっていた。 そのままだと残った足指も切断しなければならなくなる可能性があったからだ。
撫でさすってると、足指は黒ずんだチョコレート色から、綺麗なピンクになったいった。
「あぁ、足指、びっくりするくらい良い色になってますね」と言うと、
ヤクザ映画の親分役もしていたこわもての顔を嬉しそうに輝かせ、
巡回にきた看護婦にも、嬉しそうにそのことを話した。 看護婦はあまり信用できないような顔で応答したが
俺は毎日Yさんの足指がピンクになるたびに
「あぁ、綺麗ですねえ」「信じられないくらい前と色が違う」と、とにかく褒め称えたw

あとは病院食の批評とか、声を潜めて病院批判をしたりしたw

これが、入院中楽しかった唯一の思い出だ。

つまり、
俺がおしゃべりの2大柱を「自分のこと(相手のこと)」と「共通性」と分類する根拠は
この思い出による。

基本的には用件以外、他者とおしゃべりなどしてこなかった俺が
無謀にもおしゃべりについて何かを言う気になったのは、
この入院中の思い出と
退院後、しばらくして毎日かようようになって
(ギプスをしている間は接骨院に行っても向こうもどうしょうもなかった)
接骨の先生と、私的な話ができるようになったこと  のたったふたつの理由による。

退院してからYさんとは切れてしまったし、今月いっぱいで接骨の先生も故郷に戻って
開業するため、また来月からは、何ヶ月もおしゃべりのない無口な日常に戻るだろう。
だからいまのうちに書いておきたかった。 

理屈めいた説明は、また別の日に。

929N : 余談:2013/04/19(金) 10:42:41
ついでに書くと、来月、ボルト&プレートを抜くため再手術をすることになった。
局所麻酔で、途中で神経を切られない限り
(医者によると一度目より二度目のほうがそのリスクは高くなるらしい)
日帰りの手術なので、大部屋に入ることはない。

930N : おしゃべりについて:2013/05/04(土) 22:34:19
「自分について(相手について」 は
たとえば病院で相手が医者や看護婦(士)の場合、「用件」化する。

おしゃべりとしての「自分について」は、もっと気楽で選択の自由がある。
>>928で書いたYさん(昨日、名前を思いだした。実際はSさんだが)のように
自分の半生を語るだけが「自分について」ではない。

昨日どこそこへ行った、だの、明日はどこそこへ出かけるだの、といったことも
「自分のこと(相手のこと)」にとうぜん含まれるし、
相手に「どうでした昨日は?」と、水を向けることも含まれる。
裁判や病院のごとく話す範囲が限定されている「用件」とちがうのは
その幅と、どの部分についてどこまで話すか(聞くか)という選択に自由性があることだ。

さらに言うなら、おしゃべりというのは、芸人のように「ウケる」必要などみじんもない。
これはとても重要だ。 退屈で下手でも「まったく」かまわない。 
これは日常会話としてのおしゃべりにとって、非常に重要な原則だと思う。

931N : おしゃべりについて 「共通性」:2013/05/04(土) 22:56:17
もうひとつの柱「共通性」に関して
おしゃべり初心者の俺に書けることは非常にすくないw
(できれば、応援が欲しいところだw)

まず「お天気」。
これ共通事としては案外大きい。とくに、話の入り口としては欠かせない。
同じ地域に住んでいるもの同士だから成り立つおしゃべりの導入だ。
欠点は長続きしないことだw 
近所の接骨院の受付嬢(といってもアラファイブ)だが)は患者がきたとき、
今日は寒い、とか、しばらく雨が続くらしい、とか天気に関する話を多用する。
そのため欠かさず天気予報は見ているらしい。
それは、用件だけではない交流への姿勢でもある。

道ばたで近所とすれ違うだけの時でも、なにも言わず会釈だけするのと
「今日は寒いですね」とか「いい天気ですね」と声をかけるのではまったく違う。
俺はこの「立ち止ま」ることがまだスムースにできない初心者である。

立ち止まる。 これが始まりだ。

ほかに経験した共通項は近所の話だ。
どこそこが工事している、とか、店が出来た、とか店が閉じた、とか。
俺はこの話題をながびかせるため、近所にできた定食屋に食いに行ったw
画期的だw 自分に関心のないことでも、「おしゃべり」のネタのためだけに行くというのは。

共通性の項目にはたぶんほかにもいろいろあるんだろうが
(テレビネタとか芸能ネタは共通項になるのか「一般論」に入れたほうがいいのかはちょっといま整理できないw超初心者の俺には
このへんが限界だ。

こういうことの名人は落語家などではなく、
美容院の人や、接骨院の先生など、比較的長時間、客と対する商売の人だろうと思う。

932N : おしゃべりについて 「共通性」と「一般性」:2013/05/08(水) 00:53:13
「共通性」と「一般性」とを区別する定理を思いついた。

「共通性」は、
そこに立ち止まった一人の私ともう一人の私の双方が、
相互に参加できる可能性をもっていること、 
をもって話題の「共通性」とする。

一方「一般性」は、
その場に立ち止まったもののうち
どちらか片方だけで、相互性なしに語れる内容を指す、
とする。


------ 具体例

先日、接骨院で、地元に帰郷する先生に最後の施術を受けた。
そのときのおしゃべりは、なぜか「歴代の総理大臣のフルネーム」を言いあう
というものになったw
相手が現代史の専門家ならこれは知識量の差がありすぎて共通項にならないが
俺は現在の総理大臣の下の名前がすぐに思い出せなかったし
先生もあいまいだったので、相互性(共通性)がなりたっていた。 

そのあと俺が自由民主党に二つの大きな派閥対立、
元自由党系と元民主党系があるという話を始めると、会話はとまってしまった。

このふたつの派閥は、同党でありながら時によっては敵対的でさえあった、という話になると、
(それは俺の世代にとっては常識的な話なのだが)
相手の若い先生(30代前半)は、そのテーマには参入できず、共通性は失われ、
結果的におしゃべりは停滞した。

---------- つまり、俺は共通性を損ね、
話を「一般性」にしてしまったわけだ。

先生もなにかネタをもっていれば、「共通性」となりえたので
テーマが共通性となりえるかどうかは、実際に試してみなければわからない。
一般論は相手が誰であれ「一方的」に話ができる。 
その時、相互性(同等性)は失われる。

おしゃべりは、いきもののようでもあり、化学反応のようでもある。

おしゃべりは「いま、ここにいる」具体的なわたし と、もうひとりの「いま、ここにいる」具体的なわたし
の「間」にだけなりたつ一期一会のおこないだ。
繰り返されることで、脳の神経軸のように、互いのシナプスの数が増えたり減ったりする。

933N : おしゃべりについて 「共通性」と「一般性」:2013/06/05(水) 00:39:03
一般論は、知識・思想・批評などだが、
つまり、学校の教室で授業中に先公が話すようなことだ。
日常のおしゃべりとしては固すぎたり、そぐわなかったりすることも多い気がする。

情報ははたして一般性なのか共通性なのかよくわからないところがあるが
とりあえず知識より短期で不確定で寿命が短い、と定義してみる。
近所情報は共通性だが、政治がどうしたこうしたというのは一般性、という程度の区別。


−−−−
テレビで、
サッカーの中田たちが資金提供している地域の寄り合い所の放送を見た。
放送を見た限り、その家はなにをするわけでもない(何か発信したりもしてるらしいがよく知らない)
近所の被災者が勝手にやってきておしゃべりする拠点ハウスみたいな感じだった。
運営の女性が非常に印象に残ることを言っていた。

正確には覚えてないが
「わたしたちは一度、震災でコミュニティを失い、避難所で新しくコミュニティをつくったが
これも仮設ができていくに従って失われていき、ここでまたコミュニティをつくろうとしている」
(実際の言葉はかなり違ったはずだが、印象としてはそういうような内容だったと記憶している)

そこで言われていたコミュニティは、まさに、おしゃべりの世界のことだと解釈した。
具体的なわたし、と、別の具体的なわたしが、
つまり実存としてのわたし、が、おしゃべりをする世界が、
一次的な、直接的な共同性の具体的な姿なのではないだろうか、と。

そう考えてみると、村の世界は、町とも市とも県とも国とも違う発生的な根拠をもっている。
「進歩」的な人々は、これを消えゆく古層、非近代的、非現代的と見做していた節がある。
進歩史観からみれば、共同体の古い形にみえるかもしれない。
たまたま今回、被災地の多くが農業・漁業といった一次産業地帯であったためよけいそうみえるかもしれない。

ただ、おしゃべり、という観点から見直してみれば
そういった歴史的段階史観とは別に、
普遍的に発生の根拠をもつ直接共同性、というものが措定できる気がする。


ま、最近までおしゃべり童貞だった俺のにわか思考は、別にそんな「知識人」的な意味で
考え続けているわけではないが。

934N : おしゃべりについて:2013/06/20(木) 01:03:12
接骨院の院長が故郷に帰ってから、
その後俺の担当になった先生とは、またいちからやり直しだ。
考えてみれば、もともと口数の少ない俺が、院長と雑談ができるようになるまでには数年かかったのだ。

おしゃべりの共同性は、もろい。

935N:2013/06/28(金) 00:18:08
3度目の手術の日程が決まりそうだ。
お盆。

2度目の抜釘では痛みは去らなかった。
むしろ、増えた。

術前から可能性が低く、むしろ術中に神経を切ってしまうリスクや再骨折のリスクが高いことを理由に
医師は抜釘術に否定的だった。
抜釘は昔はルーティン手術だったのだが今はアメリカ医学界の流りで、放置する流れが多い)
しかし俺はそれを強く要望し、
結果、ほんの少し可動域は増えたが、指の痛みはなくなるどころか、動作痛が増えた。
(痛みが増える事は医師にも予想外だったようだが)


しかし後悔はない。
やれることをやった結果は、受け入れるほかにない。
むしろ、やれることをやらなかったことで
いつまでもぐじぐじと引き摺ることになるのが嫌だった。
簡単に言えば、あきらめがついた、ということだ。

同じ理由で、別の箇所の抜釘を要望した。
痛みが増えた結果を踏まえた上で3度目の手術を要望したため
こんどは医師も事務的に、日取りの調整に入った。

結果がどうなろうと、
事故を、自分の中で終わらせるため、お盆のあたりに3度目の手術をする。

936N:2013/07/20(土) 12:55:06
昨日、7月19日は、事故一周年だった。
ま、誰一人そんなことは知らない、 

と思っていたら、
保険会社の担当ねえさんから「どうですか」と電話があった

8月にもう一度手術するの、まだ症状固定の診断書を取れないことを
連絡してなかったからだが
面白いもんだ、
「用件」のみのつきあいの人だけが
事務的に、事故一周年に気がついてくれた

937N:2013/07/20(土) 13:02:00
鬱から回復して(奇妙なことだが、きっかけは東日本大震災の洪水映像を見続けていたことだ
しばらくたってから、
kusamuraあたりに鬱に関してなにか書こうと、ずっと思っているのだが
いつもやろうとすると、途中で気が重くなってしまう。

レジェメ風に書くと、
○無気力ではなく、「急激な変化」への対応ができないのだ、ということ
○抗うつ薬の是非 (俺は医者にいってないのであくまで書物上の情報しかもってないが)
○吉本の「表現的自己」の低下、と、木村の「自己に遅れをとること」の共通性の日常語的な翻訳 
などなんだが、、、

938N:2013/07/20(土) 13:14:07
今朝、また、
ひさしぶりに、脳のDL感があった
ただ、以前ほど明確に「なにかをダウンロードしている」感は明確ではないが
なにか、ドーパミン的なものが脳内に満ちていく感じは一緒だ

よく、癲癇発作の前に多幸感があるというが
それほど強烈ではなく、もっと、脳の前部分
というか、頭蓋骨の内側、がほんわかとぬくもり続ける感じ
頭を取り巻く環状の筋から上だけがそうなる

事故以前はなかったので脳挫傷(脳内出血)と何らかの因果関係がありそうな気はするのだが
よくわからない
とにかく、異常なほど、記憶力は急激に低下している
医者に聞いてみたが因果関係は「わかりませんねえ」ということだ

(エンターキーを押してみたが投下はされないな、、
 途中投下の時はなんのキーを叩いてしまうのだろうか、,,)
ま、いいが、、

939N:2013/08/03(土) 08:13:13
お盆(というか、京都では「大文字焼き」の日)に3度目の手術が決定。
今回は全身麻酔のため、前日から入院する。
予定では入院は一週間ほどになる。

T字帯(術度しばらく道尿管をつけていなければならないため)
曲がったストローを取り付けられるコップ(寝たままで水分をとれるように)
バスタオル、
靴 (整形病棟ではいちおう転倒よけでサンダル不可。だが俺の運動靴は5、6年目でかなり汚いw
   ので、いま流行の穴あき靴_クロックスとかいうヤツ_をネットで検索したがわずか数日用のためには高い、
   という話を接骨院でしてたら、
   隣で施術を受けてたおばさんが、クロックスのまがいものを売ってる店を教えてくれた。
   行ってみた。 398円 !  迷うことなく求めていたのはこれだ! 即、買った。)
高額療養(減額)のカードも更新した。

なんかしらんが、 小さな旅行でもするような、 気分転換、 
(肉体的な苦痛は精神的鬱屈を、一時的にだが、駆逐する_なにも解決はしないが)

940N:2013/09/09(月) 11:07:28
別のことを書くつもりで来たが、どうやら事後報告をしてなかったようなんで
一応書いておく。

398円の贋クロックスはけっきょく必要なかった。愛用の100円サンダルで十分だった。
それより術前入浴の石けんがなく、鎖骨付近だけ備品のシャンプーで洗った。

6人部屋は2回目だったが、4人部屋に比べると
みなカーテン閉めっぱなしで、かんじゃ同士の会話というのがいっさいなかった。

見舞客が頻繁な人間ほど独り言率が高いというのも
改めて実感した。


今回は手術時間も短く(30分-これは前回の親指のプレート抜釘(45分より短い)
小便用カテーテルがなかったので楽だった。
前2回とは比較にならないくらい術後の痛みも軽く、
夜に痛み止めを一度服用しただけですんだ。

それより、なんぎだったのは、隣の親父の「いびき」だ。
6人部屋なので、カーテンで一応仕切られているとはいえ隣のベッドはとても近い。
カーテン一枚あるだけで俺の耳と親父の顔との距離は70〜80cmだ。

親父の向かいの親父が、消灯前に眠剤を頼んでいたので「神経質なヤツだな」と思ったが
消灯して30分も経たないうちに、俺もブザーを押して眠剤を頼むはめになった。

親父も(見舞客からは『先生』などと呼ばれていたがなんの先生なのかはわからずじまい)
当人にもいびきの自覚はあるらしく、
次の日は、就眠時間が近づくにつれ鼻うがいをしてる音なども聞こえたが,
そしてたしかにしばらくはすこしましだったが、消灯一時間で、ふたたび眠剤を頼む状態になった。

4泊5日の退院の時、持ってきたリュックを背負って
隣に挨拶しに行き「短い間でしたがご迷惑をおかけしました」と俺が言うと
「いや、こちらこそ」 と恐縮していた。 いい人なんだろう。
いい人でもいびきはうるさいのだ。

941N:2013/09/09(月) 11:28:41
ま、結果、肩の状態も指の状態も改善はせず
自賠責保険用に症状固定の診断と、
患部の痛み止めだけもらいに行くつもりの近所の病院への紹介状をもらうことで
(もらうというか、費用が発生するので、買うわけだが)
一年超に渡る事故後の通院は終了した。

今後は接骨院と薬局通いが事故のなごりをとどめることになる。

ついでに書くと、
バイクが潰れて京都市内ラーメン屋探訪ができなくなった俺は
最近、接骨院と薬局で流れているBGMを、頼まれていもないのに作って持って行くのが趣味だ。 
ネタはネットに転がってる。そんなことを接骨院や薬局で話してると、
PCでネットをやってるヤツなんて、ほんとに少数派なんだな、とつくづく実感する。

942N:2013/09/18(水) 08:49:51
他人の間違いはすぐわかることが多いが
自分の間違いに気づくには時間がかかる。
時として数十年、あるいは一生気づかないままに。

943N:2013/09/18(水) 08:51:41
この世界に、ゆがんでない人間など一人もいない。
例外はない。 原理的に。

944N:2013/09/18(水) 09:11:39
我々が記憶するのは、「事実(できごとそのもの)」ではなく
「事実から受けた印象」。

945ポールスミス 時計:2013/10/13(日) 12:21:16
父と息子に同じ忍耐として蛇の最初のイスラム教徒は。彼の目は急騰殺すように意図されている。
ポールスミス 時計 http://www.jppaulsmithbrand.com/

946N:2013/10/19(土) 10:00:32
「マス社会」思考と「ミニ社会」思考というのがある、と考えついた。
今の日本社会は入り組んで、
その二つの異なる思考形態をいったりきたりすることになるが
俺は、じょじょに「マス社会」思考から「ミニ社会」思考へ重点が移動しつつあるのだな
と、そう考えれば、ひとつの整理的観点は得られる。

というか、もうとっくの昔に「マス社会」的な流れからは放逐されているとw


---------------------
上のことを思いついたのは
バリバラ(バリアフリーバラエティ__障害者バラエティ)の録画の最後に
今日、11時からEテレでやる加島という詩人のドキュメンタリの予告を見たからだ。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/
どんな内容なのかは知らないが、予告編で「60歳で社会から逃走した」というテロップがあって
そこからインスパイアされた感じ。
-------------------------

947モカシンミネトンカ:2013/10/21(月) 05:51:27
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948A ◆CPjaa6Nup6:2013/10/24(木) 18:11:47
>946 N
ぼちぼち見ている。興味深いな。

949N:2013/10/27(日) 23:51:46
>>948
番組はあまり面白くなかったな。
ディレクターと対象との奇妙な距離感が表に現れてて、見ててすっきりしないところが多かった。

社会からの逃走なんて謳ってても、単に、家族から逃走しただけにしか見えなかった。
それだって、知識人社会からすれば、十分に「隠棲」なんだろうが、
さびれかけた商店街の清掃を生業としながら絶対に売れない絵を描き続けているガタロさんの言葉のほうが
俺には深く感じた。
ホームレスのSから言われた「(あんたは)バカだと思う」に対して
「あの人の“バカ”は深いねえ」とニコニコしながら嬉しそうに語るガタロさんの方が
「ロンリーからアローン」へ括る元東大教授より心に響いた。

それはそれとして、
たまたま別のことを思いだそうとして手に取った吉本の「良寛論」が
日本の伝統的隠棲をアジア的な視点から見直していて、
そこから荘子の話になり、荘子は南中国的な思想で、アジア的には初期の思想に属し
にも関わらず、荘子は中国の古代思想の総括になっているという評価を読んだ。

単純な俺は、数日後には荘子を買っていたw 
現代語訳が解説の中に混ざった形になっていて面倒なので
岩波のを買い直そうかと思ってる。

まだ、最初のへんしか読んでないが、
孔孟がマス思考なのに対し、敗戦国として侮蔑的な扱いをされていた宋出身の荘子は
ミニ社会的な思考の老子をさらにつきつめているような気配を感じている。
同時に、インドとも近い南中国的な雰囲気から、儒教よりも禅仏教に近いようなところもある感触だ。
ぼちぼち読みすすめていこうと思ってる。

孔孟が壮年向きだとすれば、老荘は初老以降向きなのかもしれない。
(ま、これは、まだ数十頁しか読んでない初学者の浅はかで暫定的な感触ですだ)

950N:2013/10/28(月) 00:17:28
バリバラの方は面白かった。 
この回は、福祉機器はすごいことになってきてる、という話だった。
想念だけで、足の代理機器を動かすことが実用寸前までいってるらしい。
全盲者が額に付けた機器で環境を「見る」というのも紹介されていた。
ブレイン・マシン・インターフェイスというらしいが
この略語BMIは(肥満度チェックBody Mass Index)とダブっているので
検索としては、脳波 制御 機器 でしたほうが早い。

先週は、自称「ダウン症のイケメン」君が、
毎日「今日一日楽しかった」という日記を十年続けてる、というのをやっていた。
母親が死んだ日も、腰が抜けるほどの衝撃を受けながら
日記には「残念です。」の後に「今日も一日楽しかった」と書いていた。
もちろん、強度に無理して書いたのだ。


俺はこの番組と探偵ナイトスクープが、単純に、好きだ。


誰か(たとえば家族)が代弁するのではなく、時間がかかっても、当事者が自由に話すからだ。
代理糾弾者と当事者には、超えることのできない大きな違いがひとつある。

当事者は「赦す」権利をもっているが
代理告発者は「赦す」権利を与えられていない。

この違いは決定的に大きい。

951N:2013/10/28(月) 00:27:01
あ、そうだ。 「ダウン症のイケメン」くんは巨乳好きである。
絵画教室に通っているが、
そこの先生に最初「なにが描きたい?」 と聞かれて迷わず 「 巨乳 」 と答えたそうだ。

952N:2013/10/28(月) 00:38:50
「イケメン」くんは、さらにグラビアアイドルの水着を透視する特殊能力も持っている。
部屋の奥から「イケメン」が、グラビアアイドルの乳首を「透視」して描いた絵を
兄貴がカメラ前に持ってきた。

イケメン君はその後スタジオで
「ウヒー、恥ずかしいぃ」と言って顔を覆っていたが
その日の日記には、「今日も一日楽しかった」、と書くのだろう。

953N (言葉):2013/11/10(日) 18:14:58
言葉に関して、たぶんこれはまちがいないだろう、と思える事は
今のところひとつしかない。それについて書いてみようと思う。

「言葉はイメージのピン留め」 だ。
これを思いついた経緯を書いてみる。 

------------------------------------------------------------------------
ある日、俺は寺町に最近できたラーメン屋に自転車で出かけた。
その帰り、普段通らない細道を通った。
するともう突然、別のラーメン屋にでくわした。
ここを覚えておこうと思ったが、考え事をしながら走っていたので
いまどこらへんなのかよく判らない。

京都市の中心部は道路が碁盤の目のになっているから
寺町のラーメン屋からここまで、どこを何回曲がったか思い起こせば現在地がだいたいわかる。

ラーメン屋から出てその後どう走ったかを、頭の中で思いだそうとした。
つまり、イメージだ。  
ところがいきあたりばったりにあちこち曲がってたので、一気に全体のイメージが浮かばない。
ある道を走ってるイメージはあって、ある角で曲がったイメージはある。
次に曲がった道を走っていて、しょっちゅう走っている道を通り越したイメージもある。
そうやってただ順番にイメージを追いかけていっても、途中でよくわからなくなる。

そこで、
あの見覚えのある道は「四条通り」だ、とイメージに言葉を付けてみる。 
「四条」という言葉によって、碁盤の目の東西の直線が一本、全体のイメージの中に「ピン留め」された。
南北の直線は、ラーメン屋を出たあと何本の南北の道を通り過ぎたかを思いだして決定する。
「寺ごこふやとみ」という南北の道を覚える「言葉」は寺町から西の道の覚え方なので役に立たない。

角のイメージははっきりしてるのだが、その角を言葉で「四条○○」という風に「ピン留め」できないので
その後の道のイメージは思いおこせるのだが、うまく、現在地をことばで「ピン留め」することはできなかった。

その後走って、よく知ってる「川端-丸太町」にでくわしたから、そこから遡れば
突然でくわしたラーメン屋の場所を「ピン留め」できただろうが、
「イメージのピン留めとしての言葉」 というインスピレーションに耽っていて
「名称」によるピン留め作業を怠った。あのラーメン屋がどこにあったかいまだにわからない。
---------------------------------------------------------------------------------------

どこをどう走ったか、イメージの量はたっぷりあったのだが
言葉による「ピン留め」ができなかったため、その地点を記憶に留めることができなかった。

「ピン留め」としての言葉、という想念を反芻してみると

1, 何かを特定するための「ピン留めとしての言葉  ということと同時に
2, 言葉より先にイメージがあり、その量の方が内面的には圧倒的に多い。

というふたつのことが、今のところ俺の中でピン留めされている。

さらに言うなら、
3,ピン留めするための「言葉」は学習されてなければ使えない。

(イメージはあるのに南北の道をピン留めできなかったのは、
 単純に、寺町より東の南北道の名称のそらんじ方を知ってなかったからだ)

さて、俺はものすごく記憶力がないので
3つになると、うまく自分の中にピン留めできない。
そこでもっと短くすると、「イメージと言葉」 になる。
このピン留めさえあれば、そこを起点として、いろんなことを引っかけることができる(かもしれない)。

954N (言葉):2013/11/10(日) 18:18:25
もっと短くするなら 「ピン留め」 。  これならいくら俺でも覚えておける     (、たぶん)w

955N (言葉):2013/11/10(日) 18:45:43
「ピン留め」 とまで縮めてしまえば
つまり、「言葉」すら省略てしまうと、
イメージをピン留めするための手段として、「言葉」が唯一の方法ではないことに思い至る。

絵もそうだろう。 人間は虫と違って臭いより視覚イメージのほうに親和性が強い。
そういえば、障害補助器具の中に、
盲目者が額につけると外部をイメージできる器具というのをバリバラで見た。
カメラに再現されていたのは大きなドットでできた絵のような映像だった。
すくなくとも前に障害物があるということは最低限その器具でわかるというものだ
(対象の弁別には多少の訓練と慣れがいるようだったが)。

時には「トラウマ」さえ何かによってピン留めされたイメージだという考えも浮かぶ。
(というか、今浮かんだ)  

果たしてトラウマというのは何によってピン留めされてしまうのか。その記憶(イメージ)を誘発するのはなにか。
「似たもの」「似たできごと」だろうか。いったいそれはどこに刻印されているのか。  「無意識」ってやつの中にだろうか。
そういえばフロイトの「前意識」という概念もあったな。
なんにせよ、今んとこ俺にはわからない。。

このように、いつも俺は考えが拡散していく。 今日はここらへんが「潮時」だろう。

956N  (ピン留めAA):2013/11/11(月) 17:52:33

            [ピン留め]のイメージ



              /      /      / ___     /
          ---------------------------- | |------------- (イメージの碁盤)
            /      /      /  Σ Z  /
          /      /      /     Y /      /
         -------------------------------- | ---------------------
         /       /      /      /      /      /   
       / ____    /      /      /      /      /       
     ------| |-----------------------------------------------------
    /   Σ Z /      /      /      /      /       
   /     Y/      /      /      /      /      / 
------------ | ---------------------------------------------------
/      /      /      /      /      /      /     
      /      /      /      /      /      /
------                -----------------------------------
         ↑               /      /      /  
        (ピン留め)         /      /      /

957N:2013/12/04(水) 03:04:23
他スレで図書館から借りてる本について少し触れたので悪口を言ってみようと思う。

そもそも悪口というのは、たぶん、比較によって生まれる。

直接被害を被むる場合、悪口なんて言ってても解決しない。
味方を増やして応援・援助してもらいたい場合は悪口というより訴えに近い。
 
俺が日常であまり人の悪口を言わないのは
要するに比較できるほど多くの人とつきあってないからに過ぎない。

おしゃべり好きの間では、悪口が一番楽しい、らしいが(マツコ・デラックスの言)
それにはふたつの要素があると思う。
つまり、人付き合いが広い、ということと、無責任であること。

たとえば、上司の立場になったとすれば
部下に関しては悪口を人に言いまわる前に、まず、自身の管理責任が問われる。
悪口を言う前にすることがあるだろう、ということになる。
悪口より批評・評価・教育が先になる。
親は、自分の子の悪口なんて悠長な事、してられないだろう。
無意味な悪口なんぞより、どうやって改善、または受け入れるかが圧倒的な優先事項と推測する。

というわけで、おしゃべりの華(らしい)悪口は、
直接なんの被害も責任も負わない芸能人とかが一番楽しい、ということになりそう。


----------------

さて悪口だが、今借りている大森荘蔵がつまらない、
ということを書こうと思ったのだが面倒くさくなってきたw

「時は流れず」って本だが、かなり大上段に
「数千年間、えらい哲学者もみな間違って時は流れる」と思ってる、というような前フリが
あって、なぜ「時は流れず」というのかついて、書いてるのだが、
その内容より、その書き方になにかイヤミなところがあり、
それは弟子筋の中島ナンタラ(思い出せないし、わざわざ本を探す気にもならない)
もそのまま受け継いでる。 こいつの本は数頁読んでるうちになんとなく不快になってどこかへ放り投げた。

俺は「時間」についていろいろ考えてるので、
以前から大森荘蔵ってのは、どういうヤツなんだろうと思ってたが
どうやら戦後の東大哲学の大ボスという位置づけになるようだ。
それだけの事だ。 


以上が悪口。 
日常ではあまり人の悪口を言わないが(つまりいろいろな人間と比較できるほどの人付き合いがない)
哲学本は多少あれこれ喰い散らかしてるのでいちおう比較くらいならできる。
だから悪口を言える。
 
ちゃんとした批判は別になるが今、けっこう疲れてるのでめんどくさい。
もし書く気になればそのうち書く(かもしれない)。 誰も興味ないだろうなw

958N:2013/12/15(日) 22:02:28
誰も興味ないだろうけど。  http://bb2.atbb.jp/xronos/topic/65964

959Shounnyviobby:2013/12/20(金) 19:43:18
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960N:2014/01/18(土) 17:32:19
「定位」と「社会的既定」

「社会的既定」 おおざっぱにイメージするなら「肩書き」みたいなもの
「定位」  イメージをどこに定めていくか、ということで、辞書的な定義とはすこし異なる。
      
(子供を例に)
「こども」という社会的既定は、本人が自分をどう定位するかとは別に
勝手に「向こう側」から既定される。
本人が「だって、ボク(orアタシ)、こどもだも〜ん」 というなら
それは本人が自分を「こども」と定位したことになる。 
赤ちゃんは自身を定位できない。 
しかし「赤ん坊」とか「幼児」とかの社会的既定は勝手に向こう側から与えられる。

ひとりの人間であっても複数の社会的既定の位相がある。
家族の中では「親・子供」 
これに男女が(これは「生物的既定(セクシャリティ)と社会的既定(ジェンダー)というふたつの位相があるが)
加わると 「父親・母親」「長男長女次男次女・・・」「姉・兄・妹・弟」「末っ子」などなどが被さる。
こどもも齢を重ねると社会的既定が増える。
「園児」とか「小学生」さらに細分化されて「何年何組」とか「班長」とか「委員」とか。


定位は、自分の主体性に基づく、個人的な「思索行為」。
つまり、社会的既定がどうであれ、どう自分を「定位」するかは、当人の自由だ。
一個人の行為だから、気分や環境変化などで、定位が変化していくのも自由だ。
「定位しない」という選択もおおいにあり得る。

社会的既定だけがはびこっている世の中で、
自身が自身をどう「定位」するかという自由はもっとあっていい。

961N:2014/01/18(土) 18:19:28
「うんこ」(俺のお気に入りのテーマだ)

バリバラは先週と今週、震災訓練をやっていた。
とりあえず、避難所への避難がたいへんだ。という段間を経て
避難所に落ち着くと、まず最初にやってくるのが「排泄」の問題だった。

物理的にはその場で垂れ流す、がもっとも早いに決まってるが
赤ん坊以外は皆、そういう選択は避けたい。 
(なぜそうなのかは歴史・文化まで遡及しなければならないから棚に上げておくとして) 
簡易トイレはなにかと(特に車いすにとって)問題があった。
最終的な解決策は、
1,避難所が学校で椅子がたくさんある事を利用し
  椅子を組み合わせてもっともおさまりのいい形のところで脚をガムテで固定。
2、段ボール箱の内側にビニール袋(ゴミ袋など)の口を広げて装着し
  用を済ませたら、ビニール袋の口を閉じて外してどこかへもっていって処理する。
というのだった。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−----------------------
それに啓発されていろいろ思いを巡らしているうちすこし別の角度にいきついた。

うんこしょんべんという排泄への誘い兆候は
自分の意思や状況とは関係なく、とにかく訪れる。

垂れ流しを卒業した幼児が排泄をしぶったりする場合、
そこまで継続していた時間の流れを切断されることがいやなのだろう。
特に楽しい遊びをしていたならよけいに中断は不服な事態だ。
まして他人から行くように強制されるとますます自分の「意思」が疎外される気分になって意固地になる。

昨年見た子育てに関する「すくすくアイデア大賞」では
トイレに行くことを新たな遊びにして、
(インタビューごっことか、親がトイレ屋さんになってお店ごっこにしてトイレで排泄すると
 トイレ屋さんがポイントをくれるとか)
あたかも子供が能動的な意思によって排泄する、というふうにうまく導いていた。

意思と、意思を無視するうんこ、との相反関係。

観念論者は外部の物質を認識と関係ない物自体として退けることはできても
自分の内なるうんこは、どう処理するのだろうか。
ガマンして便秘にでもなるのか。 ま、確かに思索自体は、うんこしてても可能ではある。
カントは便秘だったのだろうか。 フランスは19世紀ごろまで貴婦人でもそこらで垂れ流す文化だったはずだが
ドイツもそうだったのだろうか。

あぁ、うんこの世界は深い。

962zebla:2014/02/13(木) 02:10:44
大便が自分の意志に反して出てくるのがコワかった。

963N  (個人的なこと):2014/05/07(水) 20:32:17
3月の終わり頃から、体に変調が起き始めた。
目覚めたときから、寝るまでの間、ずっと四肢が痺れている。
今もずっとそうだ。 
4月の第一週に神経内科へ行き診察を受けた。
首のレントゲンを撮り、整形外科へ廻された。 
その状態が続くようであれば、一度MRIを撮るよう勧められた。
今週、予約を取りに行くつもりでいる。

実は、弟が4月の最終週に手術を受けた。
「頸椎症性脊髄症」だ。 
どうも、俺のもそれな気がする。ただ、弟のは下肢が勝手に貧乏揺すりしていたり、
書字が読めないくらい乱れたり、はしを持つ手が震えたり、症状がひどかったので
手術適応となったが、
俺の場合、それほどひどくないので(というか、別の原因があるのかもしれない)
もし診断が弟と同じであれば、基本、悪化するまで放置ということになるのかもしれない。

もしそうであるなら 原因は   老化  だ www

>962
幼児期の記憶?

いまの俺は、意思に反して出てこない方がコワい。。w

964N  (Eテレ):2015/01/19(月) 13:16:46
Eテレ 「日本人は何をめざしてきたのか」で
吉本隆明と石牟藎道子を連続でやってた。次は三島由紀夫らしい。
http://www.nhk.or.jp/pr/keiei/shiryou/soukyoku/2014/12/006.pdf

吉本の再放送はもう終わってしまったようだが
石牟藎道子は 1月24日(土)午前0時00分〜午前1時30分(金曜深夜)
http://www.nhk.or.jp/postwar/program/schedule/

石牟藎道子はパーキンソン病だそうで首がゆらゆらしていた。
渡辺京二も出ていて 「芸術家ってのは”幻”を見る人のことだ」 
と言っていたのが強く印象に残った。

吉本の回では、長女(漫画家ハルノ宵子)を初めて見た。
ただ、俺は吉本フォロワーにあまり共感したことがない。今回もそうだった。

さあ、今日も病院だ。白内障と眼筋強化の目薬を貰い、検査をする。

965N:2015/01/19(月) 13:28:23
ひょっとしたらPCを修理に出すことになるかもしれないので、まとめて書いておく。

昨年あたりから、
言葉には 「解釈のことば」 と 「描写のことば」がある
ということを基本にしてことばを捉えていくのがいいんじゃないか、と考えだした。
俺はここ数年どんどん「解釈」寄りになっていく。
ロイは、回想では描写のことば性が強く、
掲示板でのリアルタイムのやりとりでは 解釈+描写 つまり「表現」 の文体が確立していて
しかもそれはたいへん優れたことば性を獲得していた。 

自分に根ざしたオリジナルな文体の確立は 誰にでもできるlことじゃない。 
それはけっこう「希有なこと」だということは 
本人はどう考えているかわからないが、ぜひ自覚してもらいたい。

966zebla:2015/03/05(木) 03:30:29
先週のバリバラ「マンガナイト」で紹介されてた’ギャングース’
第一話が出版社のサイトで公開されてる 
ttp://www.moae.jp/comic/gangoose/1

’聲の形’ 出だし21ページのみ
ttp://sokuyomi.jp/product/koenokatat_001/CO/1
’志乃ちゃんは自分の名前が言えない’一部
ttp://www.ikedahayato.com/20140720/9704750.html

967:2015/03/20(金) 12:00:06
ざらざらした現実にあてがわれるクリームが幸福(という感情)だとすれば、
幸福が一様に見える理由を説明できる。不幸が、それぞれに異なっていることも。

※トルストイ「アンナ・カレーニナ」冒頭部
「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、
不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっている。」

968:2015/03/20(金) 12:04:56
言葉(表現としてのことば)もまた、
かたくざらざらした現実に塗るクリームになりえる。

969:2015/03/20(金) 12:13:15
>968
それは裏返せるが,裏返してなんになる。鬱の種を蒔くことに。
偽りの希望は別のことがらだ。意図し偽装された言葉はおうおうにして現実の皮膚を荒らす。

970:2015/03/20(金) 12:17:44
そうか。現実もまた、実在の解釈のひとつにすぎないわけか。
実在はものの内にあり、現実は言葉の内にしかない。

971:2015/03/20(金) 12:31:14
現実は実在の解釈のひとつにすぎず、したがって現実はいくらでもある。
だから常識というのは常に間違っている。
常識をたてにした判断は常に覆われた錯誤に伴う強迫観念への服従となる。
常識と経験と、まったくは別の次元にあることを肝に銘じておかないと。

972N:2015/06/08(月) 21:55:07
ヴェイユの”実在”はアランからきている。

-----------------------------------------------

「存在する世界の、あのざらざらした城壁 に面した時」
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「我々は、この壁に直接触れることがない。」
ここで我々と言うのは
”思考している人”、あるいは”思想者”と解することができる。

”存在する世界”は「あらゆる 瞬間 と 状態 での弁証法があって、
 これが、我々(思考する人)をそこから(存在する世界)から引き離すのである。」

------------------------------------------------
                 「ラニョーの思い出」アラン 中村弘訳 p.18

(以上、jane styale 383 テスト投稿を兼ねて)
今回、旧バージョンでの投稿ができなかったので
ブラウザから雑談スレに投稿したが
あの投稿欄では長文のばあい全体が見渡せない。

そろそろ、ここでの独白のむなしさ、あるいは気楽さに、
-まるで空気を叩いているような-虚しさがよぎりはじめた。
同じ虚無なら、最初からそれを覚悟した場所に移動したほうがいいのかもしれない。
あるいは並行して、とか。 

要するにだいぶ弱ってきているということかw

973N:2015/06/08(月) 22:00:16
お、投稿できたな。 別に広告もでてないし。
2ちゃんはずいぶん前から見てないし、これなら従前とかわらんな。

974N:2015/06/27(土) 09:15:55
≪解釈≫には、色も形も味も匂いもない。
  だから人は解釈を嫌う。
  ただ6番目の感覚、内臓感覚と位置感覚は残っている。それが辛うじて人を引き留める。

≪表現≫は光や音や香りや肌触り、味、内臓感覚、位置感覚、
 あらゆる感覚の中から自在に選ぶ。そのようにして存在と言葉の交差点を彩る。

≪思想≫は、解釈の言葉に表現の言葉が入り交じる。表現の言葉が入り交じれば
 そこには必ず『私』が現れる。

975N:2015/06/27(土) 09:28:17
幸福は、生命と生命との直接的な接触のなかで生成される感覚。
だから愛と結びついている。
だからそれは限定されている。
したがって、幸福は排除のなかでしか成り立たない。
ほんのすこしの気がかりや心配に、幸福は傷つけられる。
それを排除しようと勤める。 


孤独な人間に幸福は訪れない。 (ペットの存在意義)
          (食は生命との接触といえるだろうか)
だからといって孤独な人間が必ず不幸であるともいえない。
幸福と不幸は異なるカテゴリーに属するのであってコインの裏表のような対語ではない。

976N:2015/08/17(月) 18:42:34
孤人に訪れるのは、「充足」「満足」とか「平穏」とか、だ。

うまいもの食って「幸せだ〜」
だけどそれは俺にいわせれた「充足」とか「満足」だ。
なにが「幸福」と違うかといえば、持続時間。

一瞬で、あるいはせいぜい数十分、長くても数時間で消えていくのが充足とか満足。
そこが持続性をもつ幸福との違い。
別に個人を訪れる満足を低く見るわけではない。そもそも俺は"弧人"の側だ。

ただ、幸福という概念が他の生命との関係に基づく感情だ、と定立しておくと
いろんなことがすっきりする、というだけ。

977N:2015/08/17(月) 19:14:44
wikiでフランス哲学に深入りしているうちに
とうとうフランス革命の頃まで遡ってしまった。
「観念学」という項目を作ったのは俺(まだ未完成だが)。 
で、この学派はもろにフランス革命と関係している。

「幸福」という概念が、国家と関係づけられたのはまさにこの時で
観念学派はイギリスの経験主義者ジョン・ロックの影響を
仏蘭西で広めたたコンディヤックの弟子たちみたいなもん。 

この時期にまさに「人間」という概念が生まれ、観念学派はそれをフランス革命のさなかに
追求した(wikiではまだそこまで踏み込んでないが)。
こういうことは知っておいて損はない。

観念学派は今のリベラル(ブルジョワ(プチブルジョワ)民主主義)の原基となる啓蒙思想を
議員や行政者としてフランス共和政府のなかに注ぎ込む実践者となった。
だから恐怖政治の時代には多くの関係者が獄中の捕らわれた(コンドルセは自殺した)。
「市民」という概念もこの時に生まれ、国家(共和国政府)として行政における中心的理念となった。
そこで「市民」の中に入らない下層階級、という観念から、ブルジョワ民主主義を批判する社会主義が
この時代に生まれた。
そういったことに関する非常に良い論文がネットで読める。
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/16685 
(130ページあるが、上に書いたことは前半だけで十分認識できる)

ま、これは俺の近況報告だ。  

ではまた来月。なにか書く、書かないは別にしてとにかく見には来るぞ、ということで。

978N:2015/08/18(火) 09:14:28
リンク間違い。。
「理性の使用-啓蒙と社交の社会学のために 富永茂樹(2002)」
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/78292

979N:2015/09/23(水) 00:01:58
論文などというものを書く機会を持たなかった俺にとってwikiの執筆は良い経験になっている。
もちろんwikiのレベルは一本の論文を書き上げるしんどさに匹敵はしないだろうが、
少なくとも「博士論文」レベル、というものがいかに大変かという実感くらいはもてるようになった。
正確な過去研究の解釈・理解を最低条件として上で
なんらかの独自解釈-新しい切り込み角度(プラスα)、視点のオリジナリティが必要な博士論文と
wikiごときでは比較するのも失礼なレベル差があるが。

たしかに、独自解釈アウトのwikiでの記事執筆は、ある種のストレスが溜まるが
その独自解釈を本当に自力で展開「しきれるか」ということを想像してみると
文系だろうが理数系だろうが専門分野の博士論文がいかに高いハードルかという
いわばその距離感くらいはもてるようになった。

特に、語学力(外国文献読みとか、和でも過去文書の読解力)の基礎学力が「最低限」必要となるレベル
との距離の遠さはつくづくわかったぞ、と。

ま、wikiでは書けそうなとこだけ書いて
不安な部分は「節スタブ」(加筆・訂正依頼)でも貼って逃げられるからw かなり楽だし
そうでもなければなんのステイタスにも金にもならないwiki執筆なんてやってられないぞ、と。

というわけで、最近書いた記事 「先天盲」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E5%A4%A9%E7%9B%B2 
さすがに、医学的な部分は「節スタブ」貼ったが、我慢できずに、
ど素人検索で、いくつかの病気については書いた。 
検索過程でわかったことの一部は、大胆にも眼科専門記事にも加筆なんぞしたし、
加筆協力者がでてこなければ続けてど素人の俺が医学的な部分も書くかもしれん。 
それがwikiだ。 
まちがってれば専門家が訂正すればいい。
(もっとも今の日本語wikiのいくつかの分野(特に哲学)には、もう
 それほどのエネルギーがないのかもしれんのだが)

さて、こんなことをここに書いてなんになるんだろうか。

知らん。   

とにかく今月のおつとめを果たしてみただけだ、と。

980N:2015/09/23(水) 00:19:31
現在立頁予定の記事で、初めて、フリーでDLできるイラレCS2を使ってSVGファイルを作った。
というかイラレを使うこと自体初体験だった。 単なる赤い長方形とかだけどなww

で、wikiに画像貼るために仕方なくコモンズにアップロードしてるが
いままで2回くらい削除され、いまも1枚、削除依頼をだされてる。
反論するだけの英語力があれば、削除されなかったかもしれない。
今回の削除依頼はむかついたので、横断翻訳を使って反論してみたw
来月ここになんか書くかもしれないときには結果がでてるだろう。
コモンズではいまんとこ2戦2敗だが。(どっちもアレンジしてオリジナル作品登録で復活させてるけどな)

ところで、「日本の同性愛」という記事を作ることはできるかもしれない。
もちろん完璧な記事にはできないが、それなりの資料はある。いまんとこ作る余裕はないが。
それを思いついたのは、かのベンサムが実は「同性愛擁護」の論文を書きながら
ついにそれを発刊しなかった、という話を図書館で借りた『哲学の歴史6』で読んだからだが。

981N:2015/09/25(金) 00:30:33
訂正、『哲学の歴史 8』(http://www.amazon.co.jp/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E7%AC%AC8%E5%B7%BB-18%E3%83%BC20%E4%B8%96%E7%B4%80-%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6-%E4%BC%8A%E8%97%A4/dp/412403525X
言葉足らずかもしれないので補足しておくと、
ベンサムがなぜこの同性愛擁護の論文を発表できず、かつ死後の著作集にも載せられなかったかというと、
当時のイギリスで「男色」は死刑だったからだ。
19世紀はじめには死刑を言い渡される罪状を減らす運動が起き、実際かなり減らされたが
男色の死刑は残された。19世紀の半ばになって、死刑から終身刑になったが、
イギリスで男色が「犯罪」でなくなったのはやっと1967年になってからだ。(p.349)。

男色に寛容だった日本的感覚を倒立させたのは、
欧州のものまねで近代ナショナリズムを輸入した明治政府以後にすぎない。

982N  無意識は-:2015/10/11(日) 20:58:53
夢について書きに来た。
今朝見た夢だが、夢の通例に漏れず鮮明なのは最後の部分で
その前は茫洋としている。

しかし本当は、夢で重要なのは最後ではなくその前、
そしてその前、さらにその前、遡れば遡るほど夢の本質が露わになる、
夢はそういうものだ。
目覚めて5分くらいまでに遡る意図的な努力をしないと夢の本質は逃げてしまう。
今朝は捕らえ損なってしまったのだが、それでも、
想い出せる範囲のことを考えているうち、ある発見をした。自分にとっては重大な発見を。

だからこの夢について書く。

983N  -意識より-:2015/10/11(日) 21:25:49
とにかくなぜそうなったのか、もう、想い出せない。
ほぼ最後の部分だけしか想い出せない。だからこの夢についての本質はわからない。

その夢では、俺は主役ではなく、透明な傍観者として存在していた。
主役は、透明な俺の横を走っている顔のはっきりしない男だ。
ヤツは走っている。
なぜか(そこが想い出せないのだが)、
観光に来た外国人のグループのひとりひとりと競うことになってしまっている。

町でランニングをしていたヤツは、外国人男性グループを追い抜き
その中のひとりと100m競争のようなことになり勝った。すると
次の外国人男性は200m競争を挑んできて、ヤツはまた勝つ。

そして次の外国人男性とは長距離競争のようになっているのだが
今度は何メートル競争なのかわからないまま、とにかく
ヤツは外国人男性にどんどん差をつけていき、
川沿いの堤防に飛び乗ってから、後からまだ外国人男性が追いかけてくることを感じ取り
いったいどのくらいの距離を走ればお前(外国人男性)は納得するのか、負けを認めるのか
を問いかけるために堤防の上で立ち止まる。
堤防に上がってきた外国人男性は42.195kmを主張して譲らない。
絶対ヤツに勝てないのは明らかだから1500mで十分じゃないかと、透明な俺は思うだが、
その外国人男性は頑固に42キロを主張し続ける。


さて、実はここで夢が覚めて、考え始めたのか夢の中で考え始めたのかどうもはっきりしない。
ただその外国人男性の頑固さにいらだち、なんとかできないのかと考えていた。

そしてあることに気づいた。

984N  -賢い。:2015/10/11(日) 21:38:40
町中で42キロ走ろうとしたって、信号があるから
どれほど走る男が差をつけたって立ち止まらざるを得なくなる。
整備されたマラソン大会じゃあるまし、日常の町中で42キロ競争したって
決着つかないじゃないか。

そこで俺しばらく考えているうち
走る男がなぜ堤防に飛び乗ったのか? その意図に気づいた。
堤防沿いに走り続けるのなら、信号はない。
走る男はだから、堤防に飛び乗ったのだ。

さあ、ここで問題だ。
その走る男とは誰だ。俺の夢だから、当然、その走る男の思考は俺の思考でもあるはずだ。
しかし俺自身の意識には、堤防を走れば信号に当たらない、という情報は、事前にはない。
そのことについて考えているうちに走る男の意図に思い当たった。

さて、発見の話だ。
透明な傍観者である俺は、俺の意識に違いない。
とすれば、俺の意識ではすぐには気づけなかった意図を秘めて
スムースな夢の流れで堤防に飛び乗った男は、俺の無意識だ。

つまり無意識は、意識よりよく考えているのだ。
無意識は意識より賢いのだ。 
これがこの夢について考えた俺の発見だ。

「無意識は意識よりはるかに賢い」

985N  wiki:2015/10/11(日) 22:09:21
この一ヵ月、ほとんど一本の記事(>>980)にかかり切りでまだ立頁できてない。
もう8万バイトを越えた。初めての大作だ。文章のほうは昨日であらかた終わった。
推敲するのがめんどくさい。。 

それよりはじめて動画GIFに挑戦してる(きわめて単純に手を伸ばすというだけのGIFだ)が
けっこうむずかしい。 うごきがやけにぎくしゃくするw 
なかなかupするまでにいたらない。 

あと、ウィキコモンズにあげた画像でもめてる>>980の件はまだ決着がつかず
宙ぶらりんだ。 語学の壁は厚い。
外国留学したインテリが突然愛国者になって帰国する、ってのもすこしだけ分かった気になった。
日本にも外国にもクソはいるんだが、外国のクソに言葉で反論が十分できないぶん
外国文化への反発と反動が形成されてしまうというメカニズムじゃないか、と勘ぐってみる。 

あ、誰か推敲してくれねえか。(ま、まったく期待してないがw)
下書き本日分
「先天盲からの回復」(下書き)
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Kusamura_N/sandbox&amp;oldid=57140213

986N  wiki:2015/10/19(月) 10:22:25
先天盲からの回復 は正式に記事にした。
レイアウトなどを変更する編集を受けてるがまぁそれは仕方ない。

コモンズでは俺の主張が通って、削除依頼は無効となった。

wikiにも色んなヤツがいる。 
いまのところ長期にわたってまともな記事を書き続けてるヤツは見かけてない。
自分の書ける記事を書き終われば去るか、テンプレなどの見張り番・添削屋になって残るか
そのどちらかのようだ。 俺もいずれ去る。 未完記事が多いのでまだもうしばらく続けるが。


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