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近現代史綜合スレ

1とはずがたり:2004/01/15(木) 18:45
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutu.htm
近代史の人物に関するデータベース

http://sound.jp/jyosyuu/gunkayougokaisetu.htm
軍歌用語解説

戦後政治史ファン倶楽部
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/index.html

吸収したスレは>>2-6あたり。

2とはずがたり:2004/01/15(木) 18:45
http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1046858414.html
大東亜戦争
1 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/03/05(水) 19:00

大東亜戦争を史実を元に冷静に検証してみましょう。
主に
大東亜戦争開戦日(昭和十六年十二月八日)
から
サンフランシスコ講和条約発効日(昭和二十七年四月二十八日)
まで
の大東亜戦争そしてGHQの占領政策を分析してみましょう。
大東亜戦争から話題がそれても構いませんが、
大東亜戦争が話題の中心であることを忘れず
大日本帝国憲法施行日(明治二十三年十一月二十九日)
から
サンフランシスコ講和条約発効日(昭和二十七年四月二十八日)
まで
のことを話してください。

3とはずがたり:2004/01/15(木) 18:46
http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1071296674.html
旧日本領再考
1 名前: 日帝極右保守反動分子 投稿日: 2003/12/13(土) 15:24

旧日本領である
台湾、南樺太、朝鮮、南洋諸島などに
におけるかつての日本人の足跡を辿ってみましょう。

4とはずがたり:2004/01/15(木) 18:46

http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1071297789.html
満洲研究
1 名前: 日帝極右保守反動分子 投稿日: 2003/12/13(土) 15:43

満洲に関するスレッドです。
満洲に関する話題でしたら
高句麗からの歴代王朝、満洲国、満鉄、中国東北三省の現状
に関することなどなど何でも構いません。
満洲は古くは高句麗、近代では満州国と
日本と非常に縁のある地域です。
そんな満洲について皆さんで語ってみませんか?

5おりーぶの木:2004/01/15(木) 18:46
スレ立て乙でつ。
新撰組が始まりましたので幕末ものを改めて読もうと思っている今日このごろ。

6とはずがたり:2004/01/15(木) 18:46

http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1041730592.html
戦後の日本歴代政権の評価
1 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/05(日) 10:36

サンフランシスコ講和条約が発効して日本が主権を回復した
昭和二十七年(西暦一九五二年)四月二十八日以降の
日本歴代政権の政治を評価してみましょう。
ただし現政権は除きます。

8 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/13(月) 17:49
確認

吉田茂内閣 昭和二十七年(西暦一九五二年)四月二十八日から昭和二十九年十二月十日まで
鳩山一郎内閣 昭和二十九年十二月十日から昭和三十一年十二月二十三日まで
石橋湛山内閣 昭和三十一年十二月二十三日から昭和三十二年二月二十五日まで
岸信介内閣 昭和三十二年二月二十五日から昭和三十五年七月十九日まで
池田勇人内閣 昭和三十五年七月十九日から昭和三十九年十一月九日まで
佐藤榮作内閣 昭和三十九年十一月九日から昭和四十七年七月七日まで
田中角榮内閣 昭和四十七年七月七日から昭和四十九年十二月九日まで
三木武夫内閣 昭和四十九年十二月九日から昭和五十一年十二月二十四日まで
福田赳夫内閣 昭和五十一年十二月二十四日から昭和五十三年十二月七日まで
大平正芳内閣 昭和五十三年十二月七日から昭和五十五年七月十七日まで
鈴木善幸内閣 昭和五十五年七月十七日から昭和五十七年十一月二十七日まで
中曽根康弘内閣 昭和五十七年十一月二十七日から昭和六十二年十一月六日まで
竹下登内閣 昭和六十二年十一月六日から平成元年(一九八九年)六月三日まで
宇野宗佑内閣 平成元年六月三日から平成元年八月十日まで
海部俊樹内閣 平成元年八月十日から平成三年十一月五日まで
宮沢喜一内閣 平成三年十一月五日から平成五年八月九日まで
細川護煕内閣 平成五年八月九日から平成六年四月二十八日まで
羽田孜内閣 平成六年四月二十八日から平成六年六月三十日まで
村山富市内閣 平成六年六月三十日から平成八年一月十一日まで
橋本龍太郎内閣 平成八年一月十一日から平成十年七月三十日まで
小渕恵三内閣 平成十年七月三十日から平成十二年四月五日まで
  森喜朗内閣 平成十二年四月五日から平成十三年四月二十六日まで

7とはずがたり:2004/01/15(木) 18:49
その他の関連スレッド

第四十回衆院選後の政局を振り返る
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1039260401/l30

大日本帝国憲法改正新憲法制定
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1042000975/l30

8とはずがたり:2004/01/15(木) 18:52
>>5
幕末の激動から帝国主義,現代史と面白い話題は満載なのに余り盛り上がらないので統一スレッドを建てました。
『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』でも読んでみようかなあ。

9おりーぶの木:2004/01/15(木) 19:09
>>8
「世に棲む日々」をまだ読了してないのでそれを読もうかなあと思ってます。

10とはずがたり:2004/01/15(木) 19:14
恥ずかしながら司馬遼太郎,なぜか(メジャー過ぎてかな?)まだ一冊も読んでないのです…。

時間が出来たら読んでみたいがどの辺から読んだらいいかな?

11おりーぶの木:2004/01/15(木) 19:30
>>10
やっぱ「竜馬が往く」でしょう。基本ですね。「関が原」もイイッすよ。

12とはずがたり:2004/01/16(金) 17:39
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1068688996/288
>1947年に日本進歩党が民主党(芦田均、犬養健ら)に衣替えしたときは、
>市場原理を重視する「日本自由党」と、弱者救済のために市場への国家介入を主張する「民主党」という、
>当時の感覚では保守右派と保守左派、今日で言う保守とリベラルに対応する分類になっていました。

この辺の話しですな。

(1945頃)   (1947-8頃) (1950)   (1952)  (1954)    (1955)       
日本自由党─┬民主自由党─自由党─────────┬─┬┐
______↓___↑___________日本自由党┤├自由民主党―→
日本進歩党―民主党─┴─国民民主党─改進党─日本民主党┴┘
_____________↑
日本協同党─国民協同党──┘

民主党
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jiten.html#minsyutou
民主党は「進歩党で、幣原総裁に批判的な若手議員らを中心に、自由党内で吉田首相と対立していた芦田均を引き抜く形での新党結成が計画され、1947年3月31日、進歩党を母体に、自由党離党の芦田らに国民協同党や無所属の議員も加えて結成。修正資本主義的な中道政党の立場をとった」

民主自由党
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jiten.html#minjitou
1948年3月15日、日本自由党①119名と民主党①を離党した幣原派らで作る民主クラブ36名、無所属その他4名が合同して結成(翌日6名脱党)。

13憲政擁護者:2004/01/17(土) 14:24
>>12
おお、早速こちらに議論を移して下さいましたか!まさしくその辺の話です。
反吉田派保守政党については、民主党スレからの以下のコピペをご参照下さい。

>仰る通り、大日本政治会系政治家が集った日本進歩党(1945-47)、戦前派政治家が復帰して生まれた改進党(1952-54)、
>脱吉田路線を掲げた日本民主党(1954-55)は、国家主義的傾向が見られました。
>しかし、進歩党は戦前派政治家の大量公職追放で壊滅的打撃を受けたため、路線転換を図り、
>後継政党たる民主党(1947-50)、及び国民協同党との合同で生まれた国民民主党(1950-52)は保守中道路線だったのです。
>また、立憲政友会と立憲民政党が政権を争った昭和初期は、むしろ政友会が国家主義的で、民政党が国際協調派でしたね。

14とはずがたり:2004/01/17(土) 15:34
上の議論の引用とかの便もありますし一応民主党スレで議論は続けましょうか。
向こうでの議論が一段落したらこっちへリンク貼っつけときます。

15憲政擁護者:2004/01/18(日) 11:21
民主党スレの戦後史論も、第2保守党から吉田茂個人の話に移っています。
そこで、こちらで吉田の話をしたいと思います。

吉田は根っからの自由主義者であり、自由主義路線こそが日本の政治・外交の進むべき道と確信していました。
国際協調と自由貿易を進めることにより、世界や日本自身の発展を導くことができる、という訳です。
また、吉田は自由主義の強い英米との協調によってこそ、日本の自由主義が達成されると考えていました。
それ故に戦前は日英同盟の復活を熱望し、戦後は首相として日米安保条約を締結したのです。
とはいえ、決して米国追従の政治・外交を志向していたわけではありません。
現に首相在任中、GHQとは何度も渡り合っています。

吉田は自由主義者として、極右・極左両方の全体主義を毛嫌いしていました。
戦時中に終戦工作をして憲兵に捕まったり、マッカーシー旋風に併せて共産党幹部を公職追放したのです。
因みに、吉田は広田弘毅内閣で外相に起用される予定が、自由主義者故に軍部に話を潰されました。

ただ、吉田は自由主義者ではあっても、議会軽視と批判されるなど、民主主義者ではなかったと言われています。
古典的な自由主義者として、「民主政治は無知蒙昧な大衆による衆愚政治を招く」と考えていたようです。
ですから、吉田を「自由主義者」ではなく「リベラリスト」と書くと、今日の感覚では間違っていることになります。
またそれ故にエリート嗜好で、池田勇人や佐藤栄作に代表される官僚を次々と議会に送り込んで登用し、
大衆迎合的で政治理念がないとして戦前派党人政治家をこよなく嫌っていました。
因みに、河野一郎が吉田に嫌われた筆頭格でしたが、孫の麻生太郎が河野の息子・洋平の側近となったのは皮肉ですね。

一方で吉田は明治人の気風を持ち、日本の伝統を愛する民族主義者でもありました。
これは実父が土佐藩士で自由民権運動に携わったことと、大久保利通の次男・牧野伸顕が岳父だったことが影響しています。

吉田はよく、「軽武装経済優先路線」を築いたと言われますが、吉田本人の意図は違ったといわれています。
つまり、日本に共産主義革命が起こらない様にするために、当面は民生の安定が最優先であり、再軍備の余裕はないが、
それ相応の経済力を持つに至った場合には、専守防衛のための軍隊を持つべきである、と考えていたようです。
これは数々の国会答弁では触れていないので、そういう誤解も無理ないでしょう。

因みに私の思想は、吉田茂に関する著作を読み漁ったことが大いに影響しています。

16とはずがたり:2004/01/18(日) 11:37
> 国際協調と自由貿易を進めることにより、世界や日本自身の発展を導くことができる、という訳です。
まあこの辺は賛成ですね。経済繁栄すればこその弱者救済も可能と思ってますので,自分の中で左翼と自由競争は矛盾しません。

民主政治が衆愚政治に堕する危険もよく理解できますが(ばらまきの自民党政治がだらだら続く様はまさに),有権者の見識を期待しております。

17憲政擁護者:2004/01/19(月) 00:54
>>16
これは「参加民主政治論」の受け売りですが、
有権者の見識というのは、やはり政治参加の教育効果によって得られるものだと思います。
しかし、専門知識の多い国政レベルでの直接的政治参加には難があるので、
生活に身近で、一般有権者の判断し易い、基礎自治体レベルから始めるべきでしょう。
戦後日本は民主化が進んだと言っても、まだまだこの点で遅れていると思います。

18とはずがたり:2004/03/04(木) 21:23
http://www2.asahi.com/senkyo2003/localnews/kagawa/OSK200310140025.html
《検証 香川の総選挙史:上》小選挙区制で「自民王国」

 香川は、3つある衆議院小選挙区を自民が独占し、他党の国会議員がいない「自民王国」だ。しかし、かつて70年代には、県知事と高松市長が「革新」で、野党勢力を勢いづかせていた。どこにターニングポイントがあったのか。政権交代を問うといわれる今回の総選挙を前に、香川の選挙史を振り返る。まずは革新の動きから。

 「前川さんをかつぎ出した社会、共産、公明、民社各党幹部のどの顔もゆるみっ放し。そこへかけつけた革新の脇信男・高松市長と『新しい地方政治をやろう』とがっちり握手した」(74年8月27日付朝日新聞)

 元香川大学長の故前川忠夫氏(09〜88年)は野党4党に推され、この年の知事選で7選を目指す現職を破って初当選した。

 元社会党衆院議員の三野優美(よしみ)さん(72)は振り返る。「このころは『政権が取れる』という情熱にあふれていた」

 この時代、香川の革新の「看板」は、三野さんが秘書としてつかえた故成田知巳氏(12〜79年)だ。香川郡多肥村(現高松市多肥上町)生まれ。東大から三井鉱山などを経て、47年に旧香川1区で初当選。以後76年まで12回連続当選し、社会党委員長に上り詰めた。

 故脇信男氏(19〜97年)は、成田氏の秘書から高松市長になった。71年に社共共闘で初当選し、連続6期。全国革新市長会長も務めた。

 前川氏の知事当選は、脇氏の初当選から3年後のこと。「社会・公明・共産・民社」の4党共闘は当時でも珍しかった。以来3期12年、憲法擁護を看板に掲げて県政を担った。

 81年9月の朝日新聞に掲載された「新人国記」で、前川氏は「香川の革新の強さ」をこう語った。「琴平などは早くから全国の人が集まって都会化し、進歩的な人が多かった。農民運動も昔から盛んだった」。こんぴらさんに代表される「都会」としての活気が、革新を支えたという見方だ。

 それがなぜ、30年の時間の中で「自民王国」に変貌(へんぼう)したのか。

 三野さんは「小選挙区制のためだ」と憤る。三野さんは86年、90年、93年と旧香川1区で3期連続当選し、成田氏以来の社会党の議席を守った。

 しかし、与党となった細川政権時代の94年1月、小選挙区比例代表並立制を導入する政治改革4法が成立。三野さんは党議に従わず、本会議で反対票を投じたが、流れは変わらなかった。

 一方、共産党県委員会の田村守男委員長(54)は「最初は『反自民』で県政をつくったのに、前川さんの引退後、社会党は自民と手を握った」と社会党を批判する。

 政権が取れると思った時代に取れず、取ったと思えば流れが急転する。自社さ政権が誕生すると、社会党は衰退。96年の選挙で、自民が香川の3小選挙区を独占。その時、社民党(旧社会党)は、四国全体で議席を失っていた。
 (10/12)

19とはずがたり:2004/03/04(木) 21:23
http://www2.asahi.com/senkyo2003/localnews/kagawa/OSK200310150039.html
《検証 香川の総選挙史:下》「大物」消えて調整の時代

 香川の革新・中道勢力は、成田知巳氏や、旧民社党を結成した西尾末広氏(1891〜1981)らを生んだ。

 一方で保守勢力も、総選挙中に急死した総理大平正芳氏(10〜80年)や、保守合同による自民党誕生に一役かった三木武吉氏(1884〜1956)といったそうそうたる面々が活躍した。

 しかし、こうした重鎮が舞台を去った80年代以降、政党や派閥の「大物」は生まれていないといっていい。

 「最近、口角泡を飛ばしておらぶ(叫ぶ)ような演説会がなくなったね。候補者に熱意がなくなった」。自民党県連の木村嘉己幹事長(74)は、そう話す。「落ちる心配がないからかな」という声もある。

 中選挙区時代、旧香川1区は成田知巳氏が長い間議席を確保。残る2議席を自民の木村武千代、福家俊一、藤本孝雄の3氏が激しく争う時代が続いた。旧2区も、70年代の初めごろまで福田繁芳、加藤常太郎、大平正芳の3氏によるつばぜり合いが展開されていた。

 総選挙となれば「自民の敵は自民」。自民の県議でも、代議士の系列が違うと選挙中は口をきかないとまでいわれた。その激しさが大物を生む素地にもつながった、と木村氏は言う。

 しかし、1選挙区で1人しか当選しない小選挙区制度が導入されると、選挙前の調整で「勝負」がつくようになった。旧2区でライバルだった大野功統氏(67)と森田一氏(69)は、森田氏が比例ブロックに回ることで折り合いがついた。前回、無所属で出馬した平井卓也氏(45)と現職藤本孝雄氏(72)の争いも、平井氏が当選して自民入り後、藤本氏が比例に回って収まった。

 この安定感をどう崩すか。近づく解散に備え始めていた連合香川の幹部はこの6日朝、新聞各紙を読み比べて顔をしかめた。「民主・自由の合併大会」が1面トップと思ったのに、若い石原国交相の「道路公団総裁を更迭」に押しのけられていた。幹部はうなった。「小泉内閣はうまい」

 小選挙区制は、中選挙区制よりも政権交代の可能制が高まるともいわれる。その中では、政治家個人よりも政党のイメージをどうアピールするかが重要な鍵を握る。

 一方で、「個」が政治に大きな波紋を投げかけるケースが地方から起きてもいる。そのひとり、田中康夫・長野県知事は民主党の立候補予定者を応援するため訪れた高松市で講演し、こう話した。

 「小異を捨てて大同につくという言葉がある。私はこれはあまり好きじゃない。小異を捨てる必要はない。小異を抱えながらも大同につくっていうことです。それは自分を捨てるってことじゃないです」
 (10/13)

20とはずがたり:2004/06/21(月) 02:00
杉原千畝記念館入館10万人!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040620-00000007-cnc-l21

八百津町八百津の「杉原千畝記念館」の有料入館者数が19日、10万人を突破し、10万人目の愛知県の男性と前後の2人に、記念品が贈られた。開館4周年を前にしての達成となった。

 記念館は、第2次大戦中に“命のビザ”を発給して多くのユダヤ人を救った同町出身の外交官・故杉原千畝氏の功績を伝えようと、2000年7月に開館。ビザや写真、肉声テープなどを展示している。

 10万人目となったのは、愛知県半田市の無職古川正春さん(92)。1人前は、三重県鈴鹿市の主婦豊田久乃さん(30)、10万1人目は名古屋市の会社役員桑原恵子さん(65)。

 赤塚新吾町長らと一緒に記念館前でくす玉を割って節目を祝した後、記念品として八百津せんべいやみそ漬けなど町特産品のセットが贈られた。古川さんは、「杉原さんの足跡を以前から見てみたいと思っていた。(10万人目となって)感無量です」と喜んでいた。

 町によると、最近は県内や愛知県の中学や高校の見学も多く、イスラエルからの来館者も増えているという。(中日新聞)
[6月20日11時24分更新]

21とはずがたり:2004/07/05(月) 20:50
下山事件で浮上、「ライカビル」解体 姿消す戦後史舞台
http://www.asahi.com/national/update/0705/019.html

 昭和史上最大の謎とされる下山事件が5日で55年を迎えた。連合国軍総司令部(GHQ)直属の日本人情報機関のアジトがあった通称「ライカビル」(東京都中央区日本橋室町3丁目)の解体作業が始まった。米軍将校や右翼関係者が出入りし、同事件の「謀略の拠点」として当時の東京地検も注目した。自他殺の結論が出ないまま半世紀がすぎて老朽化が進み、「戦後裏面史の証人」は姿を消す。

 戦前から残るビルはれんが壁の5階建て。「日本に3台しかない」と記された蛇腹式扉のエレベーターのほか、4階に巨大な金庫もあった。石造りの階段の床面はすり減っていた。

 事件が起きた1949年当時、1階にカメラのライカを取り扱うシュミット商会があり、「ライカビル」と呼ばれた。2〜4階は貿易会社「亜細亜産業」。GHQ直属の謀略機関「キャノン機関」につながる日本人情報機関の役割を担った、とも言われる。

 事件のあった7月5日午前9時半すぎ、国鉄総裁の下山定則氏が消息を絶った三越はビルの南約200メートル。ビル隣の建物にある地下鉄出入り口は地下道で三越につながっており、疑惑を深めた。

 下山総裁は翌日未明、足立区内の常磐線の線路上で轢死(れきし)体で発見された。衣類にぬか油と塩基性の特殊な染料が付いていた。朝日新聞が入手した東京地検の内部資料には、東京工業薬品染料協同組合名簿から63社がリストアップされ、ライカビルだけ「×」印があった。

 キャノン機関ナンバー2で米バージニア州に住むビクター松井氏(当時76)は99年秋、朝日新聞の取材に「キャノン機関は事件にはかかわっていないが、私もライカビルへは出入りした。右翼や大陸浪人、GHQ関係者らが交わるサロンのような存在で、キャノン専用の小部屋もあった」と証言していた。

 亜細亜産業は東南アジアから生ゴムを密輸したり、北朝鮮との密貿易で共産圏の情報を収集したりしていたという。同社は事件後に閉鎖され、社長は98年に死亡した。

 庶務課長を務めたことがある社長の弟(83)は「兄がどういう仕事をしていたかは知らない。ビルが取り壊されるのは寂しいけど、歴史ということだね」と話す。

 昨年、ビルを購入した不動産会社は「昭和史の裏舞台だったとは知らなかった。レトロな雰囲気にひかれたが、老朽化が激しかった」。6月下旬から解体を始めた。再開発計画は白紙だ。

 〈下山事件〉 国鉄が約3万人の人員整理を発表した翌日の1949年7月5日、下山定則・初代国鉄総裁が自宅を出たあと、東京・日本橋の三越に入ったまま行方不明になった。翌6日午前0時20分ごろ、足立区の五反野付近の国鉄常磐線北千住―綾瀬間の線路で遺体で発見された。東大の鑑定は「死後轢断」と他殺説の根拠となる結果を出した。しかし自殺説の根拠となる「生体轢断」との主張も他の法医学者から出され、米情報機関による謀略説も取りざたされた。 (07/05 16:04)

22とはずがたり:2004/08/06(金) 01:02

おいおい。凄いねぇ。血盟団事件ってのはまだ現代史なんか?!

歴代首相指南役、四元義隆氏が死去…血盟団事件で服役
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040805-00000512-yom-soci

 戦後、歴代首相の指南役と言われた四元義隆(よつもと・よしたか)元三幸建設工業社長が6月28日、老衰のため、神奈川県鎌倉市内の病院で死去していたことが5日、わかった。96歳だった。

 告別式はすでに、親族だけで済ませた。

 四元・元社長は、東大在学中の1932年、井上準之助・元蔵相らが暗殺された「血盟団事件」にかかわったとして、殺人罪で実刑判決を受けて服役。その後、近衛文麿、鈴木貫太郎両元首相らの秘書を務めて政界とのつながりを持ち、戦後、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作ら歴代首相と親交があった。中曽根康弘・元首相の在任中には「ご意見番」と呼ばれ、その後も、政治の舞台裏で活躍した。

 55年に三幸建設工業(東京都中央区)の社長に就任。2000年から会長となり、昨年4月に退任した。(読売新聞)
[8月5日21時53分更新]

23さむらい:2004/08/16(月) 23:38
戦後の日本は日本国憲法に守られたのではありません。
自衛隊、在日米軍、日米安保、
核の傘
つまりもし他国が日本を攻撃したら
アメリカは核(在日米軍基地に恐らく配備されているであろう核)を
使うかもしれないぞというプレッシャー
があったからこそ守られたのです。
実際これらの力の空白の生じた
南樺太、千島列島、歯舞諸島、色丹島、竹島
も侵略されてそのままになってますしね。
(樺太、千島守備隊がいましたが一旦武装解除しましたし
 南樺太、千島列島、歯舞諸島、色丹島を守るという意味では
 大量のソ連軍には無力でしたからね。
 あれだけの軍隊あのような補給等の状態から
 ソ連軍の北海道上陸を阻止したことはすごいことだと思いますが。 )
確かに吉田茂の軽武装主義で国防費の負担が少なくなり
経済復興、経済発展を成し遂げましたが。

24とはずがたり:2004/08/26(木) 00:34
AFPが復活60周年 パリ解放5日前、奪還秘話を配信 
http://www.asahi.com/international/update/0823/006.html

 フランス通信社(AFP)が20日に「復活60周年」を迎えた。1944年8月の「パリ解放」5日前、ドイツ監視下にあった仏情報公社(OFI)を元記者らのレジスタンスが自力で奪い返した。

 AFPは、1835年にできた世界初の情報配信サービス業、アバス通信が前身。1940年にフランスを占領したドイツは同通信をOFIに改め、対独協力政権の宣伝メディアにした。

 AFPが18日に配信した「奪還秘話」によると、44年8月20日朝、アバス時代の社員ら約10人がパリのOFI本部に自転車で乗りつけ、内部に突入した。驚く10人ほどの編集部員を前に、演説を始めたのは実行グループの最年長で、後に初代社長となるマルシャル・ブルジョン氏だ。

 「動かないで。みなさんは今後、ドイツ人のためではなくフランスのために働くことになる」

 ドイツの検閲官をみんなで地下室に閉じ込め、この日を待ちわびていた新聞人たちに電話した。

 記念すべき初配信は同日午前11時30分。「自由な新聞が続々と生まれそうだ。フランス通信はそのために初の配信を始める」。記事はタイプで打たれ、レジスタンスや地下新聞の拠点に自転車で届けられた。AFPの名もこの時からだ。

 現在、165カ国に取材拠点を持ち、ロイター通信(英)やAP通信(米)と並ぶ大手。欧州のほか中東やアフリカなどに濃密な情報網を築いている。

(08/23 19:18)

26とはずがたり:2004/10/13(水) 17:21
あった無かったの水掛け論は不毛だと思うが…

抗議受け漫画休載 南京大虐殺めぐり集英社
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041013-00000094-kyodo-soci

 「週刊ヤングジャンプ」で連載中の漫画「国が燃える」(本宮ひろ志氏作)に登場した南京大虐殺の描写に対し、地方議員グループが「歴史を歪曲(わいきょく)している」と抗議したのを受け、発行元の集英社は13日、28日発売号から当分、この漫画を休載することを明らかにした。
 集英社は「描写の参考にした写真は『ねつ造された』との指摘もある。そういう資料を使ったのは不適切だった」としている。
 「国が燃える」は昭和初期の官僚の半生を描いたフィクションで、2002年11月から連載。9月16日発売号と22日発売号で、旧日本軍が南京で市民らを殺害する様子を描いた。
(共同通信) - 10月13日12時39分更新

27とはずがたり:2004/10/16(土) 12:21
大町に疎開の「木崎会」が最後の里帰り
http://mytown.asahi.com/nagano/news02.asp?kiji=4755

 第2次世界大戦末期に東京都世田谷区から大町市の木崎湖畔に疎開した児童でつくる「木崎会」(約80人)が結成20周年を迎え、32人の会員がこのほど、大町市などに12回目の「里帰り」をした。里帰りのたびに老人ホームへの慰問や祭りへの参加を続け、世田谷区の区民まつりに同市の特産品の出展を持ちかけるなど、自治体を結ぶ橋渡し役も果たしてきたが、会員の高齢化などを理由に会としての里帰りは今回が最後になるという。

 木崎湖畔には44年8月から45年11月にかけて、世田谷区の多聞、祖師谷、塚戸、砧の4国民学校の児童延べ500人近くが九つの民宿に分宿する形で疎開していた。木崎会は84年、「40年ぶりの里帰り」を機に発足し、おもに隔年で里帰りを続けてきた。

 里帰りのたびに、「当時お世話になった感謝の気持ちを表そう」と、市内の養護老人ホーム「鹿島荘」を慰問し、寄付金を贈ったり、会員がダンスを披露したりするなどして交流を進めてきた。寄宿先の民宿は代替わりがあるものの、同世代の経営者やおかみさんたちと旧交を温めている。

 先月末の2泊3日の里帰りでは、結成当初の高橋恭男元市長や市幹部らを招いて、湖畔の温泉施設で20周年記念パーティーを開いた。席上、腰原愛正市長から「市と区の橋渡し役に尽くした」などとして、感謝状などが贈られた。45年5月から第3次の疎開先になった北安曇郡白馬村の旧神城国民学校(現白馬南小学校)なども巡った。

 会は、当時の6年生らが中心になって結成され、70歳前後の人たちがほとんどという。会長の阪上順夫・東京学芸大名誉教授(72)は「私たちもいつの間にか老人ホームにお世話になる世代になった。会としては最後だが、元気な者同士、声を掛け合って里帰りを続け、区と市の交流も続いてほしい」と話した。

 疎開当時、砧国民学校5年生だった浜砂和子さん(70)は「冬に軒先のつららがどんどん大きくなるのにびっくり。ガラス戸のない破れ障子から吹き込む風が冷たかったけど、全面結氷した湖面でげたスケートをしたり、氷がせり上がる御神渡り現象も見られたりして楽しかった」などと、思い出話に花を咲かせていた。

(10/15)

28とはずがたり:2004/10/17(日) 23:38
対米開戦通告の遅れ、最終電文修正が一因 元大使が新説

 昭和十六年の日米開戦で最後通告の手渡しが遅れたのは、軍部と外務省本省による工作があったからだとする研究報告が十六日の日本国際政治学会で発表された。真珠湾攻撃が米国から「だまし討ち」と非難された原因が、駐米日本大使館の怠慢にあったという通説の見直しを求めるもので、米大統領から昭和天皇にあてた親電を軍部と本省が差し止めて最終電文を修正したことが通告遅れにつながったと指摘している。
 兵庫県東浦町で開かれた同学会で、元ニュージーランド大使の井口武夫・尚美学園大教授(日本外交)が発表した。
 昭和天皇あてのルーズベルト大統領親電が東京電報局に届いたのは開戦直前の十六年十二月七日正午。井口氏は、親電の暗号が平易だったため午後三時ごろには、親電の解読を終了していたと推論。午後五時に、十四部構成のうち駐米日本大使館への打電が保留されていた最後通告部分の「十四部」を東京電報局から発電した。このため、「時間的には符合する」として、親電解読と最後通告修正の関連性が認められると指摘している。
 十四部は電文の十三部までが打電されたあとも本省で約十五時間保留されていたが、軍部の圧力を受けた本省が大統領親電を解読し、この内容を検討して十四部に修正を加える必要があったからだと初めて指摘。また軍部と本省が大統領親電を解読していた根拠として次の状況を挙げる。
 グルー駐日米大使が東郷茂徳外相に外相公邸で大統領親電を手渡したのは八日午前零時半。この後、東郷外相が首相公邸で昭和天皇への上奏文を東条英機首相に見せたのが午前二時。移動時間(十五分程度)を差し引けば、わずか一時間十五分で昭和天皇への上奏文を外相が決裁したことになる。井口氏は「事前に親電を解読し、要約を作成していたから可能だった」と推論する。
 大統領親電が一見和平を呼びかけながら仏印からの全面撤退を要求する強硬な内容だったため、軍部の開戦決意は一層不動のものになった、と井口氏は分析している。
 結局、十四部は原案で「合衆国政府が現在の態度を持続する限り今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず」と条件付きで交渉を打ち切る内容だったが「合衆国政府の態度にかんがみ今後交渉を…」と単刀直入に交渉を打ち切る文面に修正されていた。井口氏は「親電内容が判明した時点で修正を加えたもので最終的な通告の遅れにつながった」と指摘している。
 波多野澄雄筑波大教授(日本外交史)「軍部の圧力の有無は立証が不十分で、さらに検討が必要だ。ただ解読した大統領親電を最後通告の十四部に反映させた可能性は十分あり、通告遅れの責任を現地の日本大使館だけに押し付けるのは無理があろう」
(産経新聞) - 10月17日3時9分更新

29とはずがたり:2004/10/18(月) 19:52
>>28
ソース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041017-00000001-san-soci

30とはずがたり:2004/11/30(火) 23:11
宮崎の人でしたか。

小村寿太郎しのび、墓前祭−−日南 /宮崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041130-00000165-mailo-l45

 日南市飫肥出身の外交官、小村寿太郎(1855〜1911)の命日の26日、同市楠原の墓地で墓前祭(小村寿太郎侯奉賛会主催)があった。市や地元関係者、遺族ら約20人が墓前に玉ぐしを供え、「誠(まこと)の人」の遺徳をしのんだ。
 来年は小村寿太郎の生誕150年、小村が日本全権を務めた日露講和条約締結100年。市や県、民間で各種の記念事業が計画されている。遺族の小村幸子さん(75)=飫肥2=は「侯の誠、正直を子供たちに伝える機会になれば」と話した。

11月30日朝刊 
(毎日新聞) - 11月30日17時50分更新

32とはずがたり:2004/12/08(水) 19:08
ほう,これは興味深い。>>31
個人的に更新による情報散逸は悲しむべきものだと思ってましたから。HPは基本的に雑誌みたいなものだし読み捨ての部分も大きいけど図書館は一部の雑誌はちゃんと保存の対象にしてますしねぇ。
「選挙でGO」の過去の履歴などどっかに全部残しといて欲しいものでした。

あとスレ違い等は余り気にせず書き込んで下さいな。俺が適当なところに貼り付け直したりしますし。

33とはずがたり:2004/12/14(火) 15:08
旧三井御三家だけに新御三家,物産・銀行・不動産辺りがカネ出すべきか?

「三井港倶楽部」が閉館 炭都繁栄の象徴 所有の三井鉱山 売却先募る 大牟田市
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041214-00000075-nnp-kyu

 産業再生機構の支援を受けて再生中の三井鉱山(本社東京)は十四日、福岡県大牟田市西港町に所有する明治建築の洋館「三井港倶楽部(くらぶ)」を売却したい考えを明らかにした。港倶楽部は三池港に出入りする外国航路の上級船員の宿泊所として建てられ、三池炭鉱で栄えた「炭都」の歴史を今に伝える建物。九州を代表する洋館でもある。現在、同社は結婚式場やレストランとして活用しているが、営業は二十五日で終了する。「現在の形のまま維持してくれるところがあれば」と引き受け手を募っている。

 港倶楽部は一九〇八(明治四十一)年に建てられ、三池炭鉱の主力坑・三川鉱の東隣に位置する。木造二階建てで、木組みの幾何学模様が白い外壁を飾る「ハーフティンバー」様式が特徴。三井系企業の社交場としても使われ、かつてはビリヤード室やボーイ部屋もあった。

 三井鉱山は昨年、同機構の支援が決まって以来、石炭やコークスの輸入販売・製造など主力事業以外の業務の整理に着手。今年八月には港倶楽部を管理運営してきた子会社の株式を売却し、倶楽部の経営は三井鉱山が行ってきた。倶楽部の営業は二十五日のランチが最後となる。

 同社は「社内でも閉館を惜しむ声は強い。公共性と歴史のある建物として今後も活用してほしい」と話している。
(西日本新聞) - 12月14日14時32分更新

34とはずがたり:2004/12/15(水) 12:36
こんなページみっけた。

昭和の注目の選挙区
http://www.geocities.jp/showahistory/history3/58e.html

35とはずがたり:2004/12/15(水) 14:52
こんなページも
むしろ面白かったのは筆保書記長の本音トークの部分。

救国のキリストか銀座のドンキホーテか
愛国党総裁 赤尾敏 24時間密着取材!
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/right1.htm

 しばらく、立ち話をした。私が、大喪の礼の日に見かけた金ピカ右翼の話をすると、「ああ、いいところに気づきましたね」と、腹にすえかねているものを吐き出すかのように、喋りはじめた。
 「今の右翼はもう、任侠右翼ばっかりですよ。ヤクザが右翼のふりをしている。だから、世間の右翼に対するイメージがどんどん悪くなっていく。真面目に政治活動やっているものが迷惑してるんです。だいたい、任侠の連中のやっていることは、要するに恐喝、ゆすりたかりだからね。街宣車買うと、頭金だけ払って残りは払わないし、マンションに事務所を構えると家賃を払わず、結局、大家がカネを積んで出ていってくれと頼むまでいすわる。そしてそのカネを握ると、その後もよそへ行ってまた同じことをやる」
 戦前の右翼と戦後の右翼を大きく分かつのは、一つは資金源の問題である。戦前は軍部と財閥が大きな資金源だった。戦後はそのルートが絶たれ活動は低迷するが、岸政権の時代の前後から、自民党と財界が左翼つぶしのために新たに資金を提供するようになる。その地下水のようなカネの流れのメカニズムは、ロッキード事件で児玉誉士夫が摘発され、一端が明るみに出たが、その後も日を追って街宣車の数が増えてゆくのを見ると、ガソリン代を提供するパイプはますます太くなりつつあるらしい。
 「街宣車が急に増えたのは、ロッキードの頃でしょう。あの頃、『田中打倒!』ってやってたら、公安じゃなくてマル暴の捜査四課が出てきて、『お前らが田中内閣打倒とか、自民党攻撃とは何事だ!』と言って取り締まりしてましたよ。警察はもう、自民党べったりだから。『お前ら右翼は、日教組と共産党だけ攻撃してればいいんだ』と、はっきり言う警察署長もいますしね」
 「この頃では、右翼というのが本来、純然たる政治活動だということがわからなくて、ただのシノギの一種だと思ってるヤクザも多いんですよ。愛国党でも、地方の支部なんかは地元のヤクザに嫌がらせをされて、迷惑してるんです。ここは俺たちの縄張りだからカネを出せって。政治活動に縄張りなんかあるわけないでしょう。それで断ると『覚えとれよ』と。広島や福山では、ウチの党員が地元ヤクザにバットでめった打ちにされたり、包丁で背中を刺されるという事件も起きてるんです。その後? いやこれは刑事事件ですから、警察に処置を頼みましたけど……任侠右翼とまともに正面からぶつかったら……やはり損でしょう……」
 「世の中、いったいどうしちゃったんだろうねえ……。70年安保の頃までは政治に熱気があった。左も右も人をひきつけたものだけど。昔は、街宣やってても人が集まったんですよ。何百人という人が赤尾総裁の演説を聴いてくれた。演説が終わると拍手がわきおこってね。新聞売るのでも、人が殺到してさばききれなかったくらい。それも安保がすぎたら、ぴたーっと人が集まらなくなった。この5年くらいは特にひどい。一人も聴衆がいないときもる。本当にどうしちゃったんだろう……ねえ……」
 私たちをぼんやり照らしだす、街頭の白い酷薄な光を、筆保は嘆息とともに見上げた。
 でも、と私は言った。天皇の御不例から崩御、大喪の礼に至るまでの国民の反応を見て、右翼は活気づいたんでしょう? あの記帳者の列を見て、体勢は我らにありと自信を深めたんじゃないですか?
 「いや、そうでもない。みんな困ってる。こうれからどうしたらいいのか……。もう国民に訴えかけるテーマがなくなってしまったでしょう。右翼はみんな困ってますよ。仕方ないからこれからは「切り取り」、企業を攻撃してカネをむしりとることですけど、それに専念しようって言ってるのもいますよ。任侠右翼の連中は特に、カネがかかるんですよ、接待で。大喪の礼の時も全国から集まってきたから、接待が大変だったらしいですよ。銀座とか赤坂とかで。ビラ貼りしてると、よく会いますよ。あいつらはビラ貼りなんて、こんな面倒で地道なことしないからね。飲んでるときに私の顔を見ると、照れくさそうな顔をする。『ごくろうさん』なんて言ってね」

36とはずがたり:2004/12/18(土) 13:24
みんなの国有地が税金を払わなくて良い宗教法人の元に。。どーなの?
時効も国に拠る接収も関係ないんだねぇ。
アイヌ人よ立ち上がれ!北海道からシャモ(和人)を全員追い出せ!(笑)
(magentaさんすんません,冗談です)

2004年12月17日(金)
富士山8合目以上の土地所有権、国から浅間大社に
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20041217/K2004121702890.html

 富士山の8合目から頂上にかけての土地の所有権が17日、国から富士山本宮浅間大社に移った。東海財務局が同日、土地の譲与決定を大社側に知らせたもの。所有権を巡っては、国側と大社の間で訴訟に発展し、74年の最高裁判決で大社側の所有が認められていたが、実際に所有権が移るまでに30年かかったことになる。同財務局は「静岡、山梨の県境が確定しておらず、登記手続きなどが取れなかった」と説明している。

 また、8合目から上が大社の私有地になるが、「登山客からの入山料は取らないと聞いている」(同財務局)という。

 富士山8合目以上の土地は約400万平方メートル。徳川家康が大社に寄進したとの記録があるが、明治維新後に国有地とされた。神社の施設などがある約16万平方メートル分については52年に大社側に譲与されたが、富士山頂が返還されなかったため、大社側が国を提訴し、最高裁まで争った。

 今回譲与されるのは、富士山測候所や県道用地などをのぞいた約385万1000平方メートル。

富士山頂付近の土地、浅間大社に譲与 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/society/story.html?q=18yomiuri20041217i112&cat=35

 徳川家康から寄進されたことを示す古文書が残されており、最高裁が1974年に、浅間大社の所有地と認定してから30年。財務省東海財務
局が同日、譲与通知書を大社に手渡し、所有権問題が決着した。

 譲与されたのは、8合目以上の土地(約405万平方メートル)のうち、すでに大社奥宮の境内地となっている約16万平方メートルと、富士
山測候所敷地や登山道など計約3万5000平方メートルなどを除く約385万平方メートル。

 山頂付近では静岡、山梨の県境や、地元市町村の境界線が定まっていないため、土地登記ができないなどの理由で、最高裁判決後も国が所有し
てきた。

 大社は1999年ごろから譲与通知の早期発行を国に働きかけており、財務、環境省などと協議を重ねた結果、譲与が決まったという。
[ 2004年12月18日1時40分 ]

37とはずがたり:2004/12/18(土) 13:40
意外と(?)ケチだったんだねぇ。

税務署と「わが闘争」?ヒトラー8億4500万円滞納 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/world/story.html?q=18yomiuri20041218i504&cat=35

 ナチス・ドイツ総統ヒトラーが、1933年に権力を掌握するまで税金逃れに奔走し、40万5000ライヒスマルク(現在の貨幣価値で約800万ドル=8億4500万円)を滞納していたことが17日、独研究者の調査で分かった。ヒトラーは首相就任後に支払いを免除されたという。

 税務専門家がミュンヘンの文書館でヒトラーの納税記録を発見。それによれば、ヒトラーは33年、アーリア人の人種的優越を説いた著書「わが闘争」の売り上げで123万ライヒスマルクの収入を得、うち60万ライヒスマルクについて納税義務が生じたが、納付しなかった。

 ヒトラーは記録には「著述業」と記載され、ほかにも新車のメルセデスを「社用車」として資産から差し引くよう試み、机の購入費などを他の「必要経費」と共に控除対象にしようと画策していた。

 ミュンヘンの税務署は33年以降、所得税免除などの措置を相次いで実施。税務署長はヒトラーに納税免除を提案後に、独税務当局のトップに昇進した。(ロイターES時事)

[ 2004年12月18日13時6分 ]

38magenta:2004/12/18(土) 15:19
>>36
実は私、元参院議員の萱野茂氏の主張にはかなり共感しているんですね。
(二風谷ダム問題など)
排除の論理に陥らず独自の文化を残していくのが望ましいというのが主張の中にあったはずです。

39名無しさん:2004/12/18(土) 17:45
>>36,38
北海道は日本の「植民地」ですから…
アメリカインディアンやアボリジニらと同様に、
収奪した土地に対して返還や補償をするのが本来はスジなんでしょうけどね。

40とはずがたり:2005/01/05(水) 18:45
安全保障スレや政治思想スレにも関連しそうだが取り敢えず現代史と云う事でこちらに。

【南京大虐殺関連資料】

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/535/1038323808/405-406
カマヤンさんとこから転載

405 名前: カマヤン 投稿日: 2004/12/02(木) 05:48

↓このサイトを作った方を、褒め称えます。すげえ大変なんだ、こういう作業は。

南京事件資料館
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/
★このホームページの目的
* 「南京事件はでっちあげ」という主張を,一次資料に基づいて検証します。
* 「歴史修正主義」に反対する人に,一次資料を提供します。
* 「自由主義史観」が欧米の「歴史修正主義」の日本版に過ぎないことを検証します。

資料一覧
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/sub1.html

南京事件論争史
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/ronso_history.html

南京事件FAQ
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/nankin_faq.html


406 名前: カマヤン 投稿日: 2004/12/02(木) 06:15

南京事件の真実
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm
「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ  

南京事件資料集
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

南京事件小さな資料集
http://www.geocities.jp/yu77799/

41とはずがたり:2005/01/05(水) 19:03
>>40
厳然として日本軍の虐殺はあったのだ。
大東亜戦争中のアメリカの日本市民への無差別空襲や広島と同じく。

中国や朝鮮が謝罪と賠償を要求し続けるのはただ一つ自民党政治家が戦後続けてきた妄言のせいであるに尽きる。
なんであんな昔の事でギクシャクしなければならないのか,国益を損ねる莫迦な発言を発信し続けた売国奴・国賊の自民党政治家どもの猛省を促したい。

42とはずがたり:2005/01/14(金) 10:11
おお,鮎川義助の孫!名門鮎川家の御曹司が44迄独身でいいんかね?×1?

杉田かおる極秘挙式で逆転勝ち
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050114-00000031-nks-ent

 自称「負け犬女の代表」が、チョ〜玉のこしに乗っちゃった。女優杉田かおる(40)が、日産グループ創始者、故鮎川義介氏の孫で投資会社「テクノベンチャー」の鮎川純太社長(44)と電撃結婚していたことが13日、分かった。ファクスで、11日に入籍を済ませたと報告。12日夜には都内で挙式・披露宴も行った。男と酒が大好きで借金持ち…大胆奔放な発言で世間を楽しませてきたが、名家の御曹司を射止めて人生を一発大逆転した。
 杉田は、結婚発表ファクスに「ウソのような本当の話」とつづった。「今までも、ドラマチックな人生を歩いてきた、私らしいと受け止めていただけましたら幸いです」。文面から、御曹司との結婚に、自分も驚いている様子が浮かんだ。
 あけっぴろげなキャラだが、人生最大の勝負のとき。慎重にコトを運び、見事着地させた。公には結婚話は12日に浮上。杉田はほとんど姿をみせず、珍しく沈黙を守った。杉田の母親も13日、都内の自宅でインターホンで「はっきりしたら娘が説明すると思います」と話しただけ。夕方にファクスを流したが、会見予定もない。鮎川氏も12日から、取材対応せず。テクノベンチャー社も「連絡がつきません」と繰り返した。
 しかし、2人は、杉田が11日朝に週刊誌の直撃取材を受けると、その日のうちに入籍。12日夜には都内でごく内輪だけで挙式・披露宴を行っていた。披露宴のもようを撮影したTBS「中居正広のキンスマ」によると、杉田や妹が号泣し、鮎川氏は「これまで本当に頑張ってきたこの3人の家族ですが、これからは自分が加わり、4人でやっていきます。どうぞよろしくお願いします」とあいさつしたという。くしくも同番組のスポンサーの1つは日産自動車。
 関係者によると、昨年8月、杉田が100キロマラソンに挑戦した日本テレビ「24時間テレビ27 愛は地球を救う」の打ち上げに、鮎川氏の姿があり、ワインを持参して、完走を祝っていたという。ちなみに同番組のスポンサーの1つも日産自動車。
 杉田なりに、世間への地ならしはしていた。昨年12月、著書「杉田かおる語録」の発売イベントでは「新しくできた恋人と別れました」と発言し、“その男性”とは100キロマラソン走破直後の昨年9月から交際し、3カ月で破局したと説明。一方で「来年は玉のこしに乗ります。今年で負け犬は終わり。来年は勝ちに行きます! 」と宣言していた。3カ月で破局したと言った相手が実は鮎川氏だったのでは、とも言われている。
 波瀾(はらん)万丈の半生だった。名子役として国民的人気になる一方で、私生活は10代から荒れた。両親の離婚、借金地獄も味わった。酒におぼれ、けんかを繰り返し、仕事もうまくいかず、恋も成就しなかった。しかし、30代半ばからはそれを逆手に取って「負け犬」になりきり、再び上昇機運に乗った。昨秋には、母親、妹と暮らしていた郊外から、都心の高級マンションに転居。事務所の倒産で抱えた借金も、返済のめどがついたといわれる。
 そしてついに負け犬人生と決別。杉田は結婚後も仕事を続ける。今度はどんな顔をみせるのか。セレブ・キャラに変身しちゃうのか。まだまだ楽しみだ。
(日刊スポーツ) - 1月14日9時23分更新

43とはずがたり:2005/01/14(金) 18:09
2005年01月13日(木)
杉田かおる玉の輿、日産コンツェルン御曹司の評判
http://news.goo.ne.jp/news/fuji/geino/20050113/20050113-f-21.html?C=S
(夕刊フジ)
 大ヒット曲「鳥の歌」をリリースし、最近は“負け犬”キャラとして人気の女優、杉田かおるさん(40)の結婚話が急浮上してきた。お相手は日産グループ創始者、鮎川義介氏の孫というのだから仰天だ。事実なら、それこそ“玉の輿”だが、財閥創業者の直系に当たる御曹司の評判は−。

 「義介氏は昭和初期の超大物です。そのお孫さんが、杉田さんと結婚ですか?! 最近は、鮎川一族の話など聞いたことがないから、大物の亡霊が出てきた感じだ」。財界関係者は驚く。

 杉田さんの結婚情報を“仰天スクープ”として掲載した週刊文春が「超玉の輿婚」と報じた相手は、ベンチャー企業向け投資などを行う『テクノベンチャー』会長兼社長、鮎川純太氏(44)。

 同社は、東京・築地本願寺近くの10階建て雑居ビルの4階にある。周辺には米穀店や青果店が立ち並び、下町の風情が残る。受付電話で、純太氏に面会を求めたところ、女性社員から「社長は不在です」との答えが返ってきた。

 普段から多忙で、あまり出社しないという純太氏の社長としての仕事ぶりには、「守秘義務がありますので…」と口を閉ざした。

 杉田さんとの婚約話について、社員らは12日、初めて知ったといい、「マスコミの問い合わせが殺到しているが、答えようがない」と困惑を隠せない様子だった。

 一躍、脚光を浴びることになった純太氏は昭和35年、米ボストン生まれ。成蹊大学経済学部卒業後、ボストンのマサチューセッツ工科大学経営大学院を修了。平成元年に山一証券入りし、4年2月から現職を務める。

 純太氏の友人は「山一時代、M&Aを担当し、仕事はそつなくこなしていた。お坊ちゃまタイプでなく、芯のしっかりした男だった。米国にもハイレベルな人脈がある」と話す。

 同誌によると、「中肉中背で、端整な顔立ち」「趣味は狩猟と日本刀の収集」というから、一般人とはケタが違う。

 信用調査会社によると、同社は昭和24年創業。業界内全国2648社中928位、社員7人、昨年12月期の売り上げは6億円と、それほど大きな会社ではない。

 だが、「超玉の輿」とされるのは、理由がある。純太氏は、日本史の教科書にもその名前が載っている「日産コンツェルン」を一代で築いた鮎川義介氏の孫に当たる超一流の大御曹司なのだ。

 「最近は、経団連で、ベンチャー投資の講演で講師として招かれるなどの活躍もしている」(関係者)。同社の大株主にも新日鉱ホールディングス、日立製作所、日産自動車など、かつてのコンツェルン内企業がズラリと並ぶ。

 祖父・義介氏の長男が、純太氏の父、弥一氏にあたり、弥一氏の弟は参院議員も務めた鮎川金次郎氏。「弥一氏が本邦初のベンチャーキャピタル企業としてテクノベンチャー社を創設し、純太氏が後を継いだ」(同)

 義介氏の大叔父は井上馨元外務相、純太氏の母方の祖父も宮内庁の侍従長を務めた人物。親族には日立製作所の創業者らがおり、家系は折り紙付きだ。

 そもそも、日産コンツェルンは日本15大財閥の1つ。第一次世界大戦後から昭和初期までに台頭した新興財閥で、日窒や理研などとともにコンツェルンと呼ばれた。

 不況で経営危機となった久原財閥を引き継ぐ形で誕生した日産コンツェルンは昭和13年、政府の要請もあって満州に移転。満州重工業開発株式会社として、満州鉄道に代わる重化学工業をほぼ独占支配した超大物企業だった。

 「戦後の財閥解体でコンツェルンは解散されたが、その後も日産や日立などグループ企業の結びつきは強く、『春光懇話会』という親睦・情報交換会があります」(財界関係者)

 12日、結婚話について口を閉ざした杉田さん。昨年末は、「負け犬は今年で終わり。来年は勝ちにいきます。玉の輿を狙います」と宣言していただけに、2人の今後が注目される。

44とはずがたり:2005/01/21(金) 00:21
日本との断交も視野 朴大統領暗殺未遂で韓国が文書公開
http://www.asahi.com/politics/update/0120/004.html

 韓国外交通商省は20日、74年8月にソウルで朴正熙(パク・チョンヒ)大統領(当時)が在日韓国人青年に銃撃された暗殺未遂事件(文世光事件)に関する外交文書を公開した。犯人が偽造の日本旅券で入国した上、日本の警察から盗んだ短銃が使われたため日韓関係は極度に悪化。韓国側が断交まで視野に入れて、日本側に特使派遣などを強く求めた当時の状況が明らかになった。

 文書は韓国政府の公電や日米との会談記録、捜査関連資料など計15件、約3000ページ。作成後30年たった外交文書を公開する情報公開原則に基づいて開示された。

 朴政権は対日世論の悪化を背景に、事件に対する日本の謝罪と韓国側捜査で関連が指摘された在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)など北朝鮮関係団体の取り締まりを強く日本政府に要求。佐藤栄作元首相、大平正芳元外相、椎名悦三郎元外相ら「大物級」特使が田中角栄首相の親書を持参するよう求めた。

 日本の国民世論を背に「謝罪特使と思われる」と渋る日本側に韓国の態度が硬化。同年9月5日には金東祚(キム・ドンジョ)外相が駐韓米大使代理と会い、「日本が誠意ある措置をとらなければ韓国としても国交断絶、大使召還まで含む措置を考慮せざるを得ないだろう」と述べ、「田中首相か木村(俊夫)外相に米側の関心を表明して影響力を行使できないか」と持ちかけた。

 だが、韓国の要求に対し米側は最後まで「等距離」を強調し、日韓に冷静な対応を促した。

 結局、椎名氏が特使を受諾。同年9月19日に訪韓して遺憾の意を表明するとともに田中首相の親書を朴大統領に手渡し、政治決着した。

   ◇

 〈文世光事件〉 74年8月15日にソウルで起きた朴正熙・韓国大統領暗殺未遂事件。偽造旅券で入国した在日韓国人の文世光・元死刑囚が、独立記念式典で演説中だった大統領に向かって短銃を発砲。大統領は無事だったが、壇上にいた陸英修夫人が被弾して死亡した。韓国政府は「北朝鮮の指令を受けての犯行」と発表した。元死刑囚は同年12月に刑を執行された。

(01/20 12:03)

45とはずがたり:2005/01/21(金) 00:23
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1043205301/772-780
日本植民地支配の徴用 「韓国政府が個人補償」 外交文書
日韓条約交渉文書、一部を初公開=韓国での個人補償問題に影響も
−日本と朝鮮半島関係資料集
など

46とはずがたり:2005/01/23(日) 00:31
日本側の朝鮮総連への腰の引けた態度が目に付く気がするが。。
しかし王道楽土の社会主義建設を進めていた北朝鮮と軍事クーデターで政権簒奪の韓国ではねぇ。

文世光事件:韓国政府・外交文書公開 日韓捜査に食い違い
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20050121ddm007030045000c.html

 ◇韓国側、不満あらわ−−「総連への捜査を忌避」

 【ソウル堀信一郎】20日公開された文世光事件の外交文書のうち、韓国法務省の資料で、両国の捜査結果の食い違いが浮き彫りになった。特に焦点の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の関与について韓国側は「日本は朝鮮総連の捜査を忌避している」と指摘し、日本側の捜査姿勢に不満をあらわにしている。事件発生から死刑執行まで、わずか4カ月。文書が公開されても、謎は残されたままだ。

 ◆指令があったか

 文元死刑囚がいつどのように犯行を決意したかについて、韓国側は「73年9月に朝鮮総連地方幹部が指令した」と断定。一方、日本側は「73年9月初めに在日本韓国青年同盟が8・15朴政権打倒のスローガンを掲げた時」とし、単独で決意したと結論づけている。

 ◆贈答の意図は?

 日韓とも文元死刑囚が朝鮮総連地方幹部から朝鮮ニンジン酒などを受け取っていたことを突き止めている。しかし、韓国側が同時に「革命のために努力しろというメッセージ」が伝えられたと明らかにしているのに対し、日本側は「異例なことではあるが、それ以上の関係は不詳」と結論付けた。

 ◆謀議はあったか

 韓国側は「朝鮮総連の指示により、地方幹部が文氏を扇動し、朴大統領狙撃や韓国政府転覆、共産革命を謀議した」と当時書類送検された朝鮮総連地方幹部との謀議を明確にしている。だが、日本側は「(同幹部による)狙撃教唆や陰謀の確証はない。同幹部を被疑者とみる捜査はできない」と共謀性を否定した。

 ◆資金協力は?

 韓国側は「74年5月中旬、文元死刑囚が朝鮮総連の地方幹部に犯行計画を報告し、7月25日に同幹部から現金80万円を受け取った」と断定した。日本側はこの地方幹部を資金提供者とは決めつけず、「マエダ」という名の正体不明の人物が75万円の犯行資金を提供したと推定している。

 ◆入院の理由は?

 文元死刑囚は74年2月に東京都内の病院に入院したが、韓国側は費用29万円を朝鮮総連の地方幹部から受け取り、「偽装入院した」と断定。「入院中に共産主義教育と狙撃要領の訓練を受けた」と結論づけた。日本側は入院費用の出所は不明としながら「病室は7人部屋のため、特別学習には適さない」と偽装を否定した。

 ◆万景峰号乗船の目的

 文元死刑囚は事件前、大阪港に停泊中の北朝鮮の万景峰(マンギョンボン)号に乗船していた。韓国側は「74年5月3日、文氏は朝鮮総連職員の案内で万景峰号に乗船し、北朝鮮の工作指導員から朴大統領の暗殺指令を受けた」と断定した。日本側は「日時は未確認だが、乗船したことは明白だ」としながらも、北朝鮮の指令伝達には触れていない。

47とはずがたり:2005/01/23(日) 00:32

 ◇米通じ対日圧力−−韓国

[ソウル堀山明子] 韓国政府が公開した文世光事件の外交文書では、朴正煕(パクチョンヒ)政権が朝鮮総連に対する取り締まりを日本に実施させるため、米国カードを使って圧力をかけようとする外交戦略の実態が浮き彫りにされた。事件の背後に北朝鮮の指示と朝鮮総連の協力があったとみる韓国は、朝鮮総連に対する規制を最大の外交目標にしていた。

 韓国外務省作成の狙撃事件特別外交計画案(8月26日〜9月15日)によると、韓国政府は、対日外交の重点として▽強制捜査の催促▽日本の陳謝▽犯罪人引き渡し▽朝鮮総連など反韓国団体の活動抑止−−と明記したリストを作成していた。

 さらに実行された項目の横には手書きで日付が書かれており、「日本側の態度に我々政府が納得できない場合、強硬な対日抗議を行うとの文書を発送」の横には椎名悦三郎自民党副総裁が特使として訪韓する直前の「9月14日」の日付があった。別の文書には日本が朝鮮総連に対する規制を取らない場合、国交断絶も含めた5段階の対抗策を講じるシナリオが記されており、こうした韓国政府の強い意思を日本側に伝えたとみられる。

 同計画案の対米課題には「米国政府要人を通じた対日圧力交渉」という項目があり、▽外相の訪米▽米国要人への直接説明▽駐米大使への特別訓令−−などのリストが挙げられ、9月中旬の日付が書かれていた。

 また、9月9日作成の対日交渉対策案によると、米国を通じて対日圧力をかけた経過について、▽外相が米国大使代理にわが国の理解と支持を求める(9・2)▽駐米大使に米国が対日影響力を行使するよう、交渉を指示(9・3)▽フォード米大統領、キッシンジャー米国務長官が訪米する日本の首相と外相に影響力を行使するよう、駐米大使に特別交渉を指示(9・3)−−と、日誌形式で掲載されている。

 日韓両国は当時、9月19日に再発防止のテロ対策で合意する方向で田中角栄首相の親書を作成中で、朝鮮総連規制をどこまで明記するかをめぐり攻防を続けていた。韓国政府は、田中首相が19日に訪米する計画である点に着目。米国を通じて、朝鮮総連への規制が具体的に確約されるよう働きかけていたとみられる。

 ただ、当時のフォード米政権は、日韓関係の悪化は北東アジアの安保体制を弱体化させると懸念しており、むしろ仲介役となって日韓関係改善を促していた。韓国の駐米大使から外務省への9月11日付公電は、米国務次官補から「韓日間の事態に深刻な関心を持っており、早く事態を収拾するよう要請された」と報告している。

 ◇最後に「バカでした」−−文・元死刑囚

[ソウル堀信一郎] 文世光元死刑囚は、1審(74年10月19日、死刑判決)、2審(同年11月20日、控訴棄却)とも起訴事実を認め、12月17日の大法院(最高裁)で上告を棄却され死刑が確定。12月20日に死刑が執行された。文元死刑囚は公判の中で自分の思想を語り、最後には「バカでした」と悔いながら死刑台に消えたという。

 韓国紙「朝鮮日報」出身の金泰浩(キムテホ)氏の著書「終わらない審判」(韓国・三民社)によると、文元死刑囚は「いつから共産主義思想を持ち始めたのか」との裁判官の質問にはこう答えている。

 「高校1年の時からだ。韓国人なので民族差別を受け、べっ視された。こうした民族的なコンプレックスを解消するために共産主義の本を読んだ」

 公開された外交文書「狙撃事件の真相と背景」によると、文元死刑囚は、高校在学中から「共産党宣言」「金日成(キムイルソン)選集」「毛沢東語録」など共産主義関係の本を読んだ。

 その過程で、日本の資本主義社会構造と、在日韓国人の不満を解消するには、全世界が共産主義社会になることだという考えに至ったという。高校2年で中退する際には「勉強すべきことは全部した。だからやめる」と話していたという。

48とはずがたり:2005/01/23(日) 00:33

 1審の判決公判によると、死刑の代価を払うことになった、国立劇場での狙撃はわずか7秒間の出来事だった。▽座席で銃を取り出そうとして1発目が誤発▽通路に移動して舞台に向かい、約20メートルの距離から撃った2発目は演説台に当たった▽舞台に近づいて発射した3発目は不発▽約18メートルの距離から発射した4発目が、陸英修(ユクヨンス)夫人に命中▽聴衆の足に引っかかって倒れながら発射した5発目は演壇後ろの国旗に当たった−−と明らかにされている。移動距離は約19メートルだった。

 死刑場には、たばこ、コーヒー、麦茶が用意されていた。「私はバカでした。韓国に生まれていれば、こんな罪を犯さなかった。朴大統領に心から申し訳ないと伝えて下さい。国民の皆さんにも申し訳なかったと伝えて下さい。(死亡した)陸女史と(流れ弾に当たって死亡した)女子学生の冥福をあの世に行っても祈ります。だまされて過ちを犯した私がバカで、死刑になっても当然です」

 死刑執行直前の言葉は、嗚咽で何度も中断したという。

 ◇事件の74年、南北朝鮮の対立が先鋭化−−韓国で民主化闘争、激しさ増す

 文世光事件が起きた74年は、南北朝鮮の対立が先鋭化する一方、韓国では朴正〓大統領の「維新体制」に反発する民主化闘争が激しさを増していた時期だ。

 韓国と北朝鮮は72年7月、自主・平和・民族大団結をうたった「南北共同声明」を発表した。しかし、南北分断後、初めて政府間レベルで行われた対話と交流は、統一への希望どころか双方の体制固めの転機になった。

 韓国は水も漏らさぬ北朝鮮の強力な統治体制に驚き、北朝鮮は韓国の発展ぶりに危機意識を募らせた。朴政権は「南北対話を進めるため総力体制を準備する」と非常戒厳令を宣布、国会を解散させ、同12月、維新憲法を公布した。強大な権限が大統領に集中し、言論・政治活動が厳しく制限された。

 一方、北朝鮮も新憲法を制定し、金日成氏が新設された国家主席に就任した。南北とも独裁的な支配が強まった。

 朴政権の強権政治は、日本社会も巻き込んだ。朴大統領の政敵、金大中氏は非常戒厳令宣布により、帰国を断念し、日本など海外で民主化闘争を展開したが、73年、滞在中の東京のホテルで、韓国の情報機関に拉致された。金大中事件である。

 同事件に絡め、北朝鮮は、南北対話を忌避する姿勢を鮮明にした。統一への展望が失われつつある中、韓国では学生運動が活発化し、維新体制撤廃運動が行われる。朴政権はこれに徹底した弾圧でのぞみ「政府転覆を企図した」として学生、知識人らを連行・起訴する「民青学連事件」(74年)が起きている。

 韓国政府は、日本で「金大中救援運動」など「反朴運動」を展開していた在日韓国人組織に対しても敵意をむき出しにした。「日本が北朝鮮の対南工作の中継基地」と警戒心を強め、在日韓国人留学生や研修生を次々とスパイ容疑で逮捕した。「在日社会」では、朴政権の強権政治に動揺、危機感を深める在日韓国人青年が多かった。

 文世光事件は、金大中事件の翌年に起きた。当時の韓国・捜査当局の発表によると、文世光・元死刑囚も「金大中救援運動」を行っていた。

 70年代、朝鮮半島情勢は、南北共同声明の「明」から金大中事件、文世光事件へと暗転する。この二つの事件を機に南北朝鮮の対立は決定的になった。北朝鮮による日本人拉致事件が多発するのは、文世光事件から数年後のことだ。[薄木秀夫]

49とはずがたり:2005/01/23(日) 00:33

 ◇「北朝鮮の関与、不思議でない」−−小此木政夫・慶応大教授

 私は「文世光事件」が起きた1974年8月15日の朝、2年間の韓国留学を終えて帰国したのだが、当時は、朴正煕政権が厳しい国際情勢の中で必死に生き残りを図ろうとしていた時代だった。翌75年にサイゴンが陥落した時には「いずれ韓国も北朝鮮に解放されてしまうかもしれない」という危機感があふれていた。

 米ソ緊張緩和(デタント)の影響を受けた南北対話も73年には終わり、南北対立は激化した。南北は激しい体制間競争を行っていたし、同年の金大中氏拉致事件で韓国の国際的な評判は地に落ちていた。北朝鮮側には、朴政権を倒しさえすれば北朝鮮主導で統一できるという発想があったのではないか。韓国側捜査結果のように、北朝鮮がこうした事件を起こしたとしても不思議ではない。

 日本と朝鮮半島の関係では、韓国が65年の日韓国交正常化以降、日本の資金を導入して経済発展を始めていた。北朝鮮とすれば、日韓関係にくさびを打ち込み、韓国の経済発展をなんとか止めなければならないという発想があったのではないか。

 そうした観点から見れば、在日韓国人である文世光元死刑囚を使ったのは、暗殺に失敗しても日韓関係を壊せるという思惑があったかもしれない。その点では、ある程度成功したともいえる。

 事件後の日韓関係を悪化させた(「北からの脅威はない」という)木村俊夫外相の発言は、一種のデタントぼけだろう。当時の田中政権内のデタント派は「日中国交正常化の次は北朝鮮だ」程度の認識で、朝鮮半島で深刻な闘争が行われているとは考えていなかったのではないか。だから、朴政権が朝鮮総連取り締まりを要求しても、「それは行きすぎだ」という話になった。

 今回の外交文書からは、韓国側の認識を改めて確認できる。だが、韓国側の文書だけでは日本側の見方がはっきりと分からない。日本も早く関連文書を公開すべきだ。[澤田克己]

 ◆文世光事件関連の動き(すべて1974年)◆

 7・18 大阪市の派出所から拳銃盗まれる
 8・15 文世光事件。韓国大統領夫人が死亡
   16 大阪府警、偽造旅券取得に協力した疑いで日本人女性を逮捕
   17 韓国、北朝鮮工作員と朝鮮総連関係者に犯行を指示されたという「自供」内容を発表
      朝鮮総連、関与否定の談話発表
   18 「自供」で名指しされた朝鮮総連関係者が「韓国発表は根拠がない」と否定会見
   19 大統領夫人の国民葬に田中角栄首相出席
      日本、日韓首脳会談で捜査協力を約束
      北朝鮮、「事件は朴政権延命のための陰謀」と反論
   20 韓国首相が演説で「日本に責任ないと言えぬ」と主張
   27 韓国が捜査結果を発表
      韓国外相、国会答弁で対日政策で「最大の覚悟」と言明
   29 木村俊夫外相、参院での答弁で「(朝鮮半島において)北朝鮮からの脅威はない」と発言。この発言で、韓国の反日デモが激化
   30 朴正〓大統領、駐韓日本大使に「(事件は)日韓関係に重大な影響与える可能性ある」と通告
 9・ 6 デモ隊の一部がソウルの日本大使館に乱入
   19 椎名悦三郎・自民党副総裁が特使として訪韓
10・ 7 ソウル地裁で初公判
   19 ソウル地裁で文世光被告に死刑判決
12・17 上告棄却で死刑確定
   20 死刑執行

 ◆事件前後の国際情勢◆
1961・ 5    朴正〓少将が軍事クーデター
  65・ 6    国交正常化の日韓条約締結
  68・ 1    北朝鮮武装ゲリラがソウル侵入
  70・ 3    「よど号」ハイジャック事件
  71・10    中国が国連加盟
  72・ 2    ニクソン米大統領が訪中
      5    米ソが第1次戦略兵器制限条約(SALT1)調印
      7    統一に関する南北共同声明
      9    日中国交正常化
     12    韓国、大統領権限強化の「維新憲法」公布
  73・ 8    金大中氏拉致事件
      9    金正日氏が労働党書記に
  74・ 2    北朝鮮、金日成主席後継者に金正日氏指名
      8    文世光事件
  75・ 4    サイゴン陥落し、ベトナム戦争終結
      7    日韓外相会談で金大中事件に政治決着
  78年ごろから? 北朝鮮が日本人を拉致
  79・10    朴正〓大統領暗殺される
  83・10    全斗煥韓国大統領狙ったラングーン爆弾テロ事件
  87・11    大韓航空機爆破事件
毎日新聞 2005年1月21日 東京朝刊

50とはずがたり:2005/01/23(日) 00:37
【文世光事件】>>46-50

日本人の在日韓国朝鮮人への差別意識がこの事件の遠因にあるとするならば我々日本人は日本人の名誉のためにこういう差別意識を持った日本人同胞を莫迦にし差別せねばなるまい。。
・・って差別する方もなんらかのコンプレックスを抱いているのだろうし在日問題や同和問題は難しいですなぁ。差別と恨みの連鎖は何処かで断ち切らねばならないのに。。

51とはずがたり:2005/01/27(木) 22:15:02
困窮、岸田劉生…お金 必死に工面 大阪で手紙発見
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050127-00000024-san-soci
自分の絵 分割でいいから買ってほしい
 『麗子像』などで知られる近代日本の代表的洋画家、岸田劉生(一八九一−一九二九年)が、関東大震災で避難していた京都から大阪の知人にあてた手紙が二十七日までに、大阪市内の古書店で見つかった。自分の絵を分割でもいいから買ってほしいという切羽詰まった内容で、困窮ぶりがひしひしと伝わってくる。当時、関西には多くの文化人が震災を逃れて移り住んでおり、彼らの被災生活を知る貴重な資料だ。
 手紙は、大阪府東成郡田辺町(現・大阪市東住吉区)の久米利助という人物にあてたもので、大正十二年十月二十一日付、京都・聖護院局の消印が押されている。
 内容は「この前、春陽会に出した椿花篭の図(五百円)をもしよろしかったら二度払い位にてとって頂けませんか、今二百円、来年の正月頃あと三百円で」と、自作を分割払いで買い取ってくれないかと、申し入れている。
 後半では、自分の絵を買ってもらえない場合、自ら収集している葛飾北斎の浮世絵の購入についても打診。「北斎の富士三十六景の中十五、六枚、その中一枚二百余円のものあり。(中略)それらをまとめて五百円に」などと書いている。
 大正末の物価は、冷蔵庫約三十円、自転車約七十円、新聞の月決め購読料が一円の時代で、五百円は相当な金額になる。
 『劉生日記』によると、結局、この手紙の相手である久米利助は十月二十九日に劉生宅を訪れ、「麗子像」の素描を百円で購入しただけだった。
 関東大震災は大正十二(一九二三)年九月一日に発生、家屋の焼失などで死者・行方不明者約十四万人の被害が出、都市機能もマヒした。このため作家の谷崎潤一郎や直木三十五らが関西に避難した。
 当時、劉生は、神奈川・鵠沼(くげぬま)(現・藤沢市)に住んでいたが自宅が半壊し、名古屋を経て、十月三日に京都・南禅寺に転居。翌日、志賀直哉のところに借金を申し込みに行ったが断られている。
 岸田劉生の京都時代に詳しい高知県立美術館の篠雅廣館長は「劉生は着の身着のままで逃げてきたうえ、関東に住んでいたときから古美術の趣味があり、東洋画や浮世絵など相当高価なものをずいぶん購入していた。こうしたいろいろな要因が重なって、当時はかなりお金には困っていたのだろう。手紙には、お金を工面するときの劉生の細やかな性格などもうかがえ、価値のある資料」と話している。
 ■岸田劉生(きしだ・りゅうせい) ジャーナリスト、岸田吟香(ぎんこう)の4男として東京で生まれる。武者小路実篤と知り合い、柳宗悦、バーナード・リーチら『白樺』同人と交流。大正7(1918)年、長女の麗子をモデルにした制作を始めた。昭和4(1929)年、満州(現・中国東北部)旅行の帰途、山口県徳山で病に倒れ、急逝した。代表作には『麗子微笑』(東京国立博物館)、『切通しの写生』(東京国立近代美術館)がある。いずれも重要文化財。
(産経新聞) - 1月27日15時5分更新

52とはずがたり:2005/01/28(金) 17:45:55
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/179.html?c=0
岡山生まれ。司法官僚、政治家。父は津山藩士。明治21年(1888)東京帝国大学法科卒業。東京控訴院部長、大審院検事、司法省民刑局長等をへて44年(1911)司法次官。大正元年 (1912)検事総長。8年(1919)臨時法制審議会副総裁。10年(1921)に大審院長に就任。12年(1923)第2次山本内閣司法相となる。翌年貴族院議員に勅選、枢密顧問官に任命される。また同年から復古的日本主義を唱え、国本社を主宰。のち枢密院副議長、議長を歴任。昭和14年(1939)首相。戦後A級戦犯として終身禁錮刑となった。

平沼騏一郎
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/ww2/jinbutu/hiranuma.htm
 1867.10.2〜1852.8.22。 岡山県出身。
 1888年帝大法律学科卒業。司法省に入り判事。1905年大審院検事、06年民刑局長。日糖事件の摘発を指揮する。07年大逆事件を捜査。11年第2次西園寺内閣で司法次官。12年検事総長、14年にはシーメンス事件を総指揮。21年大審院長。23年第2次山本内閣で法相。24年貴族院勅選議員。枢密顧問官となり、また国本社を創立。26年枢密院副議長。27年の若槻内閣や30年の浜口内閣など政党内閣を攻撃する。この結果元老西園寺公望に嫌われ、首相候補に推挙されず。34年の帝人事件や35年の天皇機関説事件にも背後で関わったと見られる。36年枢密院議長、同年国本社を解散。この頃から新米英派と妥協するようになる。39年に大命降下で組閣。国民精神総動員運動を展開する。しかし8月、ソ連との関係が悪化している中で、突如独ソ不可侵条約が締結されると、総辞職。「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉は流行語になった。40年から41年に掛けて国務相。45年枢密院議長。ポツダム宣言受諾に反対した※。48年A級戦犯で終身禁固刑となり、52年病気仮釈放直後に死去。

※他の資料と矛盾するがこちらが誤りか。

53とはずがたり:2005/01/28(金) 17:46:43
http://www.geocities.jp/since7903/zibiki/ko.htm
「国体明徴運動」
 貴族院勅撰議員・美濃部達吉法学博士の学説「天皇機関説」に対して、貴族院における菊池武夫議員が提出した質問に美濃部が反論したことによって、発生した運動。
 本来美濃部の「天皇機関説」は政党政治に法的解釈とよりどころを与えるものとして一般に通説と解されてきた。また、美濃部の東大における師は、枢密院議長の一木喜徳郎であったから、西園寺公の秘書であった原田熊雄などは、
「大体において美濃部博士は当て馬であって、要するに一木枢密院議長攻撃が目的である」
 と考えていた。その動きを後ろで操っているのが、右翼団体「国本社」の総帥にして、かねてから枢密院副議長にとどめられて憤懣を燃やしていた平沼騏一郎であると原田は考えていたのである。
 ところが、この機関説攻撃に政党までが与するようになった。当時多数を握りながら野党に置かれて苦悶していた政友会は、山本悌二郎を中心として美濃部を攻撃。衆議院はついに国体明徴に関する決議を採択した。
 野にある退役軍人会もこれに呼応し、軍部、特に皇道派が機関説排撃に動き、美濃部と一木枢府議長はますます窮地に追い込まれた。四月九日、美濃部の著作が発禁処分を受けた。
 内閣は美濃部博士を訴追することを防ぎたかったので、美濃部が貴族院の議席を拝辞することを希望していた。また、特定の学説を排撃することも希望しなかったので当初は国体明徴の声明を出すことを拒んだが、陸軍内部はどうにもおさまらなくなり、陸相を通じて国体明徴を声明する要請がたかまった。八月三日、政府は国体明徴を声明。翌月十八日、ついに美濃部は貴族院議員を拝辞した。
 しかし翌日、新聞紙上で美濃部は、
「私が貴族院議員を拝辞したのは混乱を収めるためであって、学説を放棄したわけではない」
 と語り、紛議が再燃した。大角海相などは岡田首相に、
「(もう一度)声明をしてくれ、声明をしてくれないと何が起こるかわからん」
 と依頼した。閣僚らは、軍部の動きは政友会などの岡田内閣倒閣派と連動していることを見抜いていたから非常に憤慨したが、陸軍の代表者である陸相自身の腰が定まらないものだから、事態は紛糾し、十月十五日、「天皇機関説はわが国体に反する」旨を再度声明することになった。
 さきにのべたように、機関説は政党と政党政治を是認化する憲法学説であったから、政友会の行動はまさしく自らの足元を掘り崩したものだとしか言いようがない。

一木枢密院議長はこの運動の最中、何度も辞意を洩らしていたが、西園寺にそのつど止められ、果たせなかった。しかし今度は牧野伸顕内府が老齢の故を以て内大臣拝辞。この後任として斎藤実が就任したが、その斎藤はこの直後に起こった二・二六事件によって射殺されるのである。

54とはずがたり:2005/01/28(金) 17:47:08
>>53-54

「国本社」

国本社会長・平沼騏一郎 大正十三(1924)年発会し、昭和十一(1936)年解散した、右翼思想団体。
 主催したのは司法官僚の巨頭平沼騏一郎である。平沼は国本社創立に先立ち辛酉会を主催していたが、これを母胎とした。また、竹内賀久治が創刊し、流行の民本主義に対抗する雑誌「国本」を機関誌として発足した。
 会長には平沼が、副会長には東郷平八郎、山川健次郎が就任。役員は顔ぶれの変動はあるものの、ビッグネームだけ挙げれば司法官僚系では原嘉道、鈴木喜三郎、山岡万之助、塩野季彦ら。内務官僚では後藤文夫ら。海軍軍人系では加藤寛治、末次信正、小笠原長生、有馬良橘ら。陸軍軍人では宇垣一成、荒木貞夫、真崎甚三郎、小磯国昭、四王天信孝らが加わっている。
 目的は社則に依れば、「国本を固くし国体の精華を顕揚する」ことであり、日本国粋主義を高々と標榜する右翼団体であった。機関誌「国本」も、そういった傾向を持ち、同時に反共・反欧米・反デモクラシー的な論文を掲載した。
 国本社自体の活動はともかく、その人脈は平沼騏一郎の政治運動の大きな一部であったと見なされている。
 特に政党内閣期とその後において平沼は幾度となく首相候補に挙げられ、それを官界・軍部におおきな影響を持つ国本社のメンバーが陽に陰に支援した。従って平沼を中心とする人脈の動きは常に元老西園寺公望とその周辺から「ファッショ」、国本社は日本ファシズムの牙城と目されて平沼は総理の座を逸し続けた。
 思想結社としての国本社の規模は、昭和十年に内務省警保局調査によれば全国道府県に三十九支部、会員数は一万七千人以上といわれる(翌年、内務省刑事局の調査によれば倍増どころではなく、十一万余といわれる)。
 昭和十一年二月、青年将校決起の二・二六事件が発生し、鎮圧されると宮中人事の刷新があり、一木喜徳郎枢密院議長が内大臣に転じ、平沼副議長の議長昇格となった。平沼はここで国本社会長を辞任、それにともない国本社自体も解散した。のちに西園寺は平沼を「エラスティックだからね」と評している※が、それはこのときに国本社解散を件を踏まえているからであろうか。

※戦争末期に終戦派として工作する等確かに実に柔軟ではあるな。

56とはずがたり:2005/01/28(金) 18:05:49
【平沼騏一郎特集】>>52-56

http://www.hiranuma.org/japan/
http://www.hiranuma.org/japan/talk.html
「平沼邸炎上す」
「父のこと」

なかなかドラマが有るねぇ。小説の題材に十分なりそうだ。
しかし右翼の巨頭としての平沼の姿は赳夫の目にはこう映っていたようだ。
> 西園寺公に、平沼は神がかりで、迷信家であると、嫌われた祖父。
>明治維新以後、西洋礼讃で、日本本来の姿が失われつつあるのを嘆じて、
>自ら国本社を興し当時のマスコミによりファッショの首魁とされていた祖父、
>この祖父のために弁解させてもらえば、騏一郎は、神がかりでも、ファッショでも、右翼でもない。
>強いて言うならば、神を信じ、神ながらの国日本を誇りとし、
>日本の伝統と文化をこよなく愛した愛国者だったのである。

>長年親交の深かったグルー米国防長官代理に一生懸命働きかけて、何んとか戦争になるのをくい止めようとしていたのであるが、
>これが軍に洩れ、「鬼畜米英に内通する国賊」とまでいわれ、その命をねらわれ、軍の意を体した右翼の神官が、
>騏一郎の郷里美作出身の代議士の紹介状を持って現れ、面談中の騏一郎めがけて、至近から、首から上をねらい、拳銃弾を浴びせかけ、五弾が顔面から首にかけて命中、騏一郎は瀕死の重傷を負った。
>七十歳を過ぎていたにも拘わらず、奇跡的に一命を取留めたのであるが、このことは平沼家にとっても一大事件であって、父にとっても大変なことであったと想像出来る。

平沼騏一郎は右翼の大物でしかも複雑怪奇と云って辞めた無能なイメージがあるが,開戦にも反対し,最終局面では無条件降伏派として活躍したのか,知らなかった。
それにもかかわらず戦争へ至る過程での指導的立場によりA級戦犯として服役したのか。。まぁ東京裁判の基準も全然公平なものではないだろうしね。

司法官僚のボスとしてまた観念右翼の大物として暗躍した姿と戦争回避に動く姿は被らないが,親米反共右翼だったと云う事なのか?それとも軍部と結んでの政党政治の排撃は権力闘争の一環であったか?
神憑りではあったが戦争が仕事の軍部と司法官僚出身者との違いが此処にあったのか?

57とはずがたり:2005/01/28(金) 18:56:12

http://www.t-kyoichi.com/Profile.htm
津島家系図

http://www.yosano.gr.jp/yosanoke/index.html
与謝野家の人々

http://www.mitsu-net.com/profile/grandpa.html
下条みつ
下条康麿・下条進一郎・石川一郎(初代経団連会長・元昭和電工株式会社社長)

http://www9.ocn.ne.jp/~senyou/keizu2.html#7
岸・安倍・佐藤・松岡

>>56
平沼家 <中川>恭四郎
 <飯田>包亮 ||――赳夫―広子・慶一郎・正二郎
<平沼> ||――節子
晋┬淑郎―広 (一家で騏一郎の養子となる)
  └騏一郎

http://www.hatoyamakaikan.com/family/index.html
鳩山会館

あと政治家で先祖自慢してた奴いたっけかやあ?

58とはずがたり:2005/01/28(金) 18:59:55
河野家

http://www.yohei-kono.com/profile/profile.html

河野太郎 長男 昭和38年1月10日生
河野 香 同妻 昭和40年2月25日生

河野二郎 次男 昭和39年10月26日生
河野典子 同妻昭和44年12月4日生

河野治子 長女 昭和43年11月2日生

故河野治平 (祖父:神奈川県議会議員、県議会議長)
故河野一郎 (父:衆議院議員、建設大臣、農林大臣、経済企画庁長官)
故河野謙三 ( 叔父:参議院議員、参議院議長)

田川誠一 (従兄弟:衆議院議員、新自由クラブ代表、自治大臣・国家公安委員長)
河野太郎 (長男:衆議院議員)

59とはずがたり:2005/02/07(月) 16:40:47
http://www.geocities.jp/since7903/
History of Modern Japan

60とはずがたり:2005/02/07(月) 17:49:53
箱庭的アジア植民地資料中心
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/1429/colo/menu.html

61片言丸 </b><font color=#FF0000>(/3J5SzQQ)</font><b>:2005/02/11(金) 19:49:26
真珠湾攻撃 最後通告に相違 日米保管の文書、25カ所
http://www.sankei.co.jp/news/050207/sha037.htm

 昭和16年12月8日(米国東部時間7日)の真珠湾攻撃当日に、在米日本大使館の野村吉三郎、来栖三郎両大使が、米国のハル国務長官に渡した対米最後通告と、日本が保管している対米最後通告に、25カ所の相違があることが6日、分かった。米国が受け取った最後通告の中には、日本で保存している文書にはない単語が含まれている部分もあり、新たな議論を呼びそうだ。

 昭和史を研究している徳島県小松島市の米国パシフィック・ウエスタン大学名誉教授、茶園義男さん(79)が相違を指摘した。

 茶園名誉教授は、米国立公文書館に保管されている対米最後通告の写しを入手し、日本の外務省が外交文書として公表している最後通告と、開戦当時に日本が在米大使館に送った最後通告の暗号電文を米軍が傍受し解読した「マジック」文書の三つを比較検討した。

 その結果、アルファベットや数字の大文字、小文字、コンマなどを含め、25カ所の相違を確認。単語部分は21語で、活字数で83字の相違を数えた。数字以外の相違の9割は、日本が公表している文書と米国が保管している最後通告との相違で、日本の公表文書と米軍の「マジック」の間では、相違はわずかだった。

 日本から14部に分けて打電された最後通告の8部目には、米国が受け取った文書にだけあり、日本の公表文書や「マジック」にない単語も見つかった。日本政府として反論するため米国政府からの申し入れを引用した部分「両国政府が第三国と締結しているいかなる協定も−」の「第三国と」の表現が、日本の公表文書は「with any third powers」だったが、ハル長官が受け取った文書では「with any third power or powers」になっていた。

 茶園名誉教授は「日本が公表している最後通告と米国が受け取った最後通告は同じであるべきなのに、相違があり、一方で米軍が傍受したマジックとよく似ている。そのからくりを解く必要がある」と話している。

                  ◇

 ≪対米開戦の通告遅れ≫昭和16年12月8日(米国東部時間7日)、日本の最後通告が真珠湾攻撃より約50分遅れ、米国から「だまし討ち」と非難された。開戦約30分前に在米日本大使が米国務長官に最後通告を手渡す予定だったが、在米日本大使館でのタイプ清書が間に合わなかった。その原因と責任の所在について、現在も議論が続いている。

【2005/02/07 東京朝刊から】

62とはずがたり:2005/02/12(土) 19:13:19
冷徹に現在の岐阜県出身と記述すべし。
親父の任地の旭川でたまたま生まれただけの井上靖が北海道出身になっているのは納得が行かないぞ,俺は!!


島崎藤村は何県出身?生地・長野の村は岐阜に越県合併
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050212-00000305-yom-soci

 長野県山口村が13日、県境を越えて岐阜県中津川市に編入合併される。

 同村出身でこれまで辞書などで長野県生まれと表記されてきた島崎藤村(1872―1943年)の出生地をどう表記するか。出版社や地元の人たちに、戸惑いの声も出ている。

 藤村が生まれたのは、当時の筑摩県馬籠(まごめ)村。同村の区域を含む筑摩県東部は1876年、長野県に統合され、馬籠地区は1958年の合併で山口村となった。藤村は、9歳で上京したものの、馬籠宿を舞台にした「夜明け前」など古里への思いが詰まった作品も数多く残しており、「信州人」という認識が定着している。

 岩波書店は広辞苑で長野県生まれと表記しており、改訂間近だけに対応に苦慮しているという。編集部は「岐阜県とした上で、旧国名や旧県名をカッコ書きする案もあるが、字数の都合や各人物が持っている雰囲気もあり、難しい問題」と話す。

 大辞林を出版する三省堂も「文化的なものには一般化された認識がある。いきなり(越県合併という)新しい状況を書いても理解されない」と、困惑気味だ。

 「長野県歴史人物大事典」など、藤村を扱う書籍を数多く出している郷土出版社(長野県松本市)は「藤村は信州人、という精神風土に合わせた表記が必要だが、改訂の際は、越県合併にも触れないわけにはいかないのでは」と話している。

 表記が変更される可能性について、山口村・馬籠宿にある「藤村記念館」関係者は「藤村自身はどう思うだろうか。越県合併しても、藤村が生まれたのは信州であることに変わりはない」と指摘する。

 藤村の孫の妻で、馬籠宿で土産物店を営む島崎黎子さん(68)は「藤村が信州を描いたのは確かだが、作品が変わるわけでもなく、馬籠も変わらない。(藤村が反対運動の象徴となった)昭和の合併のころとは、時代が違う。岐阜になるからといって、どうこう言う時代ではない」と話す。

 山口村教育委員長の小川洋一さん(71)は「藤村の古里が馬籠であることに変わりはない。信州の藤村でも岐阜の藤村でもなく、今や作品が外国語にも訳されている『世界の藤村』ですから」と話す。
(読売新聞) - 2月12日14時43分更新

63とはずがたり:2005/02/21(月) 17:10:18
クリック20世紀
http://www.c20.jp/index.html

64とはずがたり:2005/03/02(水) 10:40:52
http://www.rs.kagu.sut.ac.jp/~infoserv/museum/si/keisan.html
計算尺

http://www.concise.co.jp/store/rule/
CONCISE計算尺ネット販売

<計算尺>復刻へ 滋賀県職員がネットで呼びかけ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050302-00000025-mai-soci

 かけ算や割り算、三角関数などさまざまな計算に使え、技術者の必需品だった計算尺の復刻計画が進んでいる。電卓やコンピューターが普及し、教育現場から姿を消して30年余。40代以上でなければ見たことのない計算機だが、アナログ式の計算用具の魅力を知る人たちの間で、価値が見直されている。[西脇真一]
 インターネットで「計算尺愛好会」を運営する大津市の滋賀県職員、木村悟さん(43)が全国の愛好者に復刻を呼びかけた。木村さんは学校で計算尺を習わなかったが、中学時代に先輩の持つ計算尺にあこがれていた。10年ほど前に中古品を手に入れて以来、さまざまな機種を探し求め、現在300種類以上を所有。自分が携わる農業関係の仕事でも使うことがあるという。
 計算尺は、有効数字が3けたで、概算値を素早く知るには便利なため、電卓の登場まで盛んに使われた。日本商工会議所は54年から検定試験を実施し、最盛期の65年ごろは年間40万人以上が受験。学校に計算尺クラブができるほど普及していた。
 しかし、高校では70年、中学は77年に学習指導要領が改訂されて教育現場から消え、検定試験も82年を最後に終了した。
 木村さんらが復刻を依頼したのは、最盛期に年100万本以上を生産していたトップメーカーの「ヘンミ計算尺」(本社・東京)。同社は70年代に一般用の生産を打ち切り、特殊用途向けだけを扱っていた。木村さんが1月からネットで1本4500円で希望者を募集したところ、179本の申し込みがあり、200本を発注した。
 購入を希望する理由は、「懐かしい」「企画がおもしろい」がほとんどだが、「講義で使いたい」という大学教員もいる。木村さんは「若い人に計算する感動を味わってほしい。簡単な機能の子供用も作ってみたい」と語っている。
 純国産ロケット「H2」の生みの親で国の宇宙開発委員会参与、五代富文さん(72)の話 かつては計算尺や手回し計算機、そろばんを使い分け、ロケットの軌道や強度などの計算をしていた。計算尺は一目で概算値が算出できる。数学の面白さが分かるだけに、ぜひ残してほしい。
 ◇ことば=計算尺
 17世紀に英国で発明され、日本には明治中期に伝わった。一般的な形は、定規のような棒形で、円形もある。固定された上下二つの本尺と、真ん中をスライドする滑尺、表面上を動く縦のラインが入った透明のカーソルがついている。目盛りは対数スケールで、滑尺を移動させるとカーソル上に答えが出る仕組み。
(毎日新聞) - 3月2日10時17分更新

65とはずがたり:2005/03/05(土) 15:41:01
日本は帝国政府の官僚機構がそのままに横滑りなった。1940年体制と云われる由縁である。
一方,独逸は首都決戦を経験し帝都伯林は蘇連に依り解放され,ヒトラーは伯林の地下壕で服毒自殺を図っているが,その際海軍元帥デーニッツを後継に首相兼国防軍総司令に指名,ヒトラーの指名ではなく自らの意向で政府を組織し体裁を整え,総司令部をフレンスブルクに移して終戦交渉に当たる。ヒトラーの後継にしては戦後懲役10年で済んでいるのもの終戦時の斡旋が利いてるのか?
第二次大戦早々イギリスへ逃げた(?)ヘスが精神異常ながら終身刑を喰らってるのと比べてなんかアンバランスな感じがしなくもない。

http://www.uraken.net/rekishi/syusen10.html
第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月
本筋6:ドイツ降伏〜ヒトラー側近達のその後〜

http://www.geocities.jp/showahistory/history1/16c.html
ヘス謎の単機投降

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/index.html
第二次大戦資料館

http://members.at.infoseek.co.jp/hitler/
あまりにドイツ的、人間的な人物
アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/germany/ha/bormann.html
マルティン・ボルマン(官房長官)Martin Bormann(1900-45?)
 ベルリン陥落時にヒトラーの地下壕からの脱出に失敗して死亡したとされる。死体が発見されなかったため、南米への逃亡説も流れた。46年のニュルンベルク国際軍事法廷では欠席裁判で「住民と捕虜の殺害」などの罪で絞首刑の判決を受けた。

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/germany/ha/himler.html
ハインリヒ・ヒムラー(全ドイツ警察長官) Heinrich Himler (1900-1945)
−第二次世界大戦でもっとも忌み嫌われた男−
 1934年7月に、突撃隊隊長レームとほとんどの幹部やシュトラッサーを筆頭とするナチス純理論派を粛正した親衛隊は、その後、突撃隊にとって代わり、ナチス党の軍事部門としての地位を確固たるものとした。ヒムラー自身も1934年には国家秘密警察長官(いわゆるゲシュタボ)に就任し、1936年には全ドイツ警察長官に就任。
 敗戦間際の1945年4月に、ヒムラーは自分の身と親衛隊を救うため、ヒトラーを見限ることを決め、西側連合国と単独交渉を計画し、スウェーデンの赤十字代表フォルケ・ベルナドッテ伯爵に接触した。西側連合国はこの申し出を拒否し、この背信行為ととも言えるこの行動をラジオ放送で暴露した。総統官邸の地下壕でそれを知ったヒトラーは激怒し、ヒムラーをナチス要職のすべてのポストから罷免する。

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/index.html
カール・デーニッツ(最終階級:海軍元帥)Karl Doenitz(1891-1980)
−ヒトラーの後継者−

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/index.html
ヘルマン・ゲーリング(最終階級:国家元帥)
Hermann Goering(1893-1946)−国家元帥まで上り詰めた戦争政治屋−
39年、ヒトラーはゲーリングを後継者として指名し、40年には彼のために国家元帥の名称を創設した。しかし…40年の空軍力でイギリスを屈服させることに失敗したことを皮切りに、43年のスターリングラードで包囲されたドイツ軍への物資空輸作戦の失敗によって、ゲーリングの名声も権力の失墜も決定的となった。44年までにはナチス首脳部の実質的な決定機能から退き、絵画コレクションに傾倒するとともに、薬物への依存が高まり、常軌を逸していた。45年には再び野心を露わにし、ヒトラーの後継者としての立場を確かめる電報をヒトラーに送った。これが、マルティン・ボルマンによって裏切り行為としてヒトラーに伝えられ、激怒したヒトラーはゲーリングを逮捕、すべての地位を剥奪した。

66杉山真大 </b><font color=#FF0000>(sB4AwhxU)</font><b>:2005/03/31(木) 00:07:59
これを時代錯誤と言わずして何と言う!しかも何を考えているんだ民主党は!!!

4月29日を「昭和の日」に 今国会で祝日法改正へ
http://www.asahi.com/politics/update/0330/007.html
2005年03月30日23時42分

 「みどりの日」にあたる4月29日が「昭和の日」に、「国民の休日」とされていた5月4日が「みどりの日」に変わることになった。祝日法改正案が今国会で成立する見通しとなったためで、実際に変わるのは07年からになる。

 改正案については衆議院内閣委員会が30日の理事会で4月1日に採決することで合意。自民、公明、民主各党は賛成する方針で、今国会で成立する運びとなった。

 同改正案は過去2回、衆参両院のいずれかを通過しながら、衆院解散に伴って廃案になった。自民・公明両党が昨年の通常国会に共同で再提出し、衆議院で継続審議になっていた。

[My HP] http://politics.mtcedar.com/

67とはずがたり:2005/03/31(木) 13:17:22
戦争で中止、幻の1940年万博入場券 一宮の青山さんが保存
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050331-00000009-cnc-l23

[愛知県] 1940(昭和15)年に東京と横浜の2会場で開催予定だった「紀元2600年記念 日本万国博覧会」の抽選券付き回数入場券を保存している、一宮市西島町の織物業青山恭一さん(64)が、入場券の一宮市への寄贈を検討している。日本万博は日中戦争の影響で中止となったのに伴い、入場券の大部分が払い戻されており、博覧会協会によると回数入場券を1冊丸ごと残していた例は珍しいという。

 回数入場券は12枚つづり。1冊10円で、表紙の通し番号が抽選番号になっている。当時、東京に住んでいた青山さんの父・洋さんが購入したもので、万博中止後の44年、戦争激化に伴い一家で蒲郡市に疎開した後も、入場券はそのまま保管していた。

 70年の大阪万博の際、中止した日本万博の入場券と大阪万博の入場券の交換が可能となったため、洋さんは「家族で万博に行ける」と喜んだが、開幕前年の69年、念願を果たせないまま66歳で亡くなった。

 その後、入場券は名古屋市に住む青山さんの兄が保存していたが、愛・地球博(愛知万博)の開催に合わせて「愛知万博の盛り上げに利用できないか」と青山さんが譲り受け、一宮市への寄贈を打診中。

 既に、愛知万博の会場を訪れたという青山さん。父親が「大阪万博に行ける」と入場券を眺めながら喜んでいた顔を思い出したと言い、「父の夢がかないました。戦争で中止された万博から65年。無事開かれた万博に平和を実感した」と話している。 (広瀬和実)
(中日新聞) - 3月31日10時51分更新

68とはずがたり:2005/04/14(木) 21:11:04
ナチスがらみでは一儲けした印象のあるスイスの銀行だが。。

ナチス被害遺族へスイスの銀行は23億円支払え 米裁判
http://www.asahi.com/international/update/0414/009.html
2005年04月14日19時33分

 ナチスによる大量虐殺(ホロコースト)の犠牲者家族らが、UBSAGやクレディ・スイス・グループなどスイスの複数の銀行に対し、預けた資産を勝手にナチスに供出したなどとして起こした損害賠償訴訟をめぐって、ニューヨークの連邦地裁は13日、2人の犠牲者の遺族14人に対し2190万ドル(約23億円)の支払いを認めた。AP通信などが伝えた。同地裁は数千人のユダヤ人遺族らへの計15億5000万ドルの支払いを98年に命じており、その分配を特別の法廷に委託していた。

 同通信などによると、オーストリアの製糖工場の大株主だった犠牲者らは、ナチス・ドイツによる同国併合が迫ったため、株をスイスの銀行に移したという。銀行は合意なしに株を売却することはないと約束したものの、犠牲者やその家族が逮捕されたり、国外に逃亡したりした間に、圧力に屈してドイツの投資家に株を譲り渡したという。

 ロイター通信は、この訴訟をめぐってこれまで約3000件の支払いが認められたが、1件あたりの平均は12万9千ドル、としている。

69とはずがたり:2005/04/16(土) 11:49:51
日露戦争の真の功労者児玉源太郎特集

乃木希典なんて無能よ。

http://www.c20.jp/p/kgentaro.html
http://www.c20.jp/1904/12203ko.html
業を煮やした児玉源太郎は、乃木希典司令官からその指揮権を強奪し、わずか半日で二〇三高地の占領に成功した。 正確には、80分+30分で、だ。 そして、奪った二〇三高地を観測点として、この日のうちに旅順港内のロシア艦隊に砲撃を開始し、ほどなく壊滅的打撃を与えている。

http://www.jacar.go.jp/cloud_kodama.htm

http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/77.html?c=0

http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kodama_ge.html

70とはずがたり:2005/04/16(土) 12:08:47
奉天会戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%A4%A9%E4%BC%9A%E6%88%A6

目先の勝利や戦争拡大の雰囲気に惑わされず、講和への道を開いた兒玉源太郎は、翌年7月、日露戦争に気力の全てを注ぎ込んだかのように脳卒中でこの世を去った。

71とはずがたり:2005/04/16(土) 12:19:35
児玉源太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%92%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E

なんと。。>菅直人元民主党代表の長男・源太郎は、彼にちなんで名付けられた。

72とはずがたり:2005/04/25(月) 20:48:53
こんな仕事というか芸能者がいたんですねぇ。昔なりの社会保障制度だったのでしょうか?

最後の越後瞽女・小林ハルさん、105歳で大往生
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050425-00000506-yom-soci

 最後の越後瞽女(ごぜ)として知られる新潟県黒川村の小林ハルさんが25日午前2時10分、老衰のため、同村内の特別養護老人ホームで亡くなった。105歳だった。

 告別式は28日午前10時から同県荒川町坂町1750の1、ベルホール会津屋荒川で。喪主はなく、特養ホームを運営する社会福祉法人「愛光会」理事長、高沢正樹氏が葬儀委員長を務める。

 瞽女は、三味線を抱え家々を巡り歩きながら、民謡や小唄などを披露する盲目の旅芸人。冬場の娯楽が少ない雪国の「越後瞽女」は名高く、一時は500人を超えたとされる。戦後、急速に姿を消した。

 新潟県三条市の農家に生まれ、生後100日で白内障のため失明。4歳で瞽女に入門し、8歳で初めて旅に出た。1973年まで各地を歩いた。78年、文化庁から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」の技芸者と認定され、79年に黄綬褒章を受章。2002年には吉川英治文化賞も受けた。
(読売新聞) - 4月25日11時47分更新

73とはずがたり:2005/05/05(木) 01:17:25
>6月23日を「沖縄戦終結」、9月18日を「柳条湖事件」、12月8日を「太平洋戦争勃発」
やべぇ,歴史好きを自認してる筈なのに一つも知らんわ。。昔から年号とか覚えるの苦手やったしましてや日付をや。
当日はgoogleに頼んでバナー変えて貰いましょうよ。

「銃後」「御真影」知らず 大学生、沖縄戦の日も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050504-00000084-kyodo-soci

 「銃後(じゅうご)」「御真影(ごしんえい)」といった言葉を知っている学生が減り、近代史に関する日付として6月23日を「沖縄戦終結」、9月18日を「柳条湖事件」、12月8日を「太平洋戦争勃発」と正しく記憶している割合も低下していることが、教育史研究者の岩本努さんの調査で分かった。特に加害の歴史については理解不足が目立った。
 岩本さんは「中高校で近代史を十分教えず、マスメディアもあまり取り上げない。中国、韓国で反日運動が高まる中、歴史を正しく知らなければ、本当の意味の友好関係を築くことはできない」と話している。
 岩本さんの講義を受けている中央大の44人、法政大の79人を対象に4月に調べた。
(共同通信) - 5月4日16時41分更新

74とはずがたり:2005/05/08(日) 13:23:25
秀吉の朝鮮出兵「抵抗の碑」返還の可能性 調整本格化
2005年05月08日09時46分
http://www.asahi.com/politics/update/0508/001.html?t5

 20世紀初頭に旧日本軍の将校が朝鮮半島から運び去ったとされ、現在は東京・九段の靖国神社境内にある「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」が、朝鮮半島に返還される可能性が出てきた。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、地元の義勇軍が活躍したことをたたえた石碑で、韓国と北朝鮮が返還を求めるための調整を開始。日本政府も靖国神社側との仲介に乗り出す考えだ。同神社も「韓国と北朝鮮の調整がつき、日本政府から正式に要請があれば応じる」(社務所)としている。

 日本政府関係者によると、韓国の李海●(イ・ヘチャン)首相と北朝鮮の金永南(キム・ヨンナム)・最高人民会議常任委員長がジャカルタで4月下旬に会談した際、碑の返還方法や保管場所をめぐって意見交換した。これを受け、6日の日韓外相会談で、韓国の潘基文(パン・ギムン)外交通商相が「返還が実現すれば日韓関係のみならず、南北関係の改善にも寄与する」と要請。町村外相は「靖国神社側とよく話をしながら、誠意を持って対応したい」と応じた。

 この碑は18世紀初頭、現在の北朝鮮・咸鏡北道内に建てられた。義勇軍の子孫が韓国側に多いことから、返還する場合も、どちらに返還するか、韓国と北朝鮮の調整が必要とされていた。(●は王へんに賛)

75とはずがたり:2005/05/15(日) 00:01:38
米国防総省:ポーツマス条約ゆかりの海軍工廠も閉鎖
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/america/news/20050514k0000e030026000c.html
[ワシントン及川正也] 日露戦争を終結させたポーツマス講和条約ゆかりの歴史的な米海軍基地が消える?−−。米国防総省が13日発表した国内基地統合・閉鎖リストの中に、今年で100年を迎える同条約調印の場所、ポーツマス海軍工廠(こうしょう)(米メーン州)が含まれた。

 同条約は1905年、セオドア・ルーズベルト米大統領の仲介で小村寿太郎、ウィッテの日露両全権代表の間で署名。米側が交渉場所として提供したのがニューハンプシャー州ポーツマス市の隣町にある同工廠「ビルディング86」の一室。

 交渉は8月8日に始まり1カ月後の9月5日に調印。ルーズベルト大統領はこの功績でノーベル平和賞を受賞。同ビルには交渉当時の写真を飾った記念室もある。

 同工廠は、ロサンゼルス級原子力潜水艦の整備などに使用されている。閉鎖により約4000人の基地従業員の職が失われるため、地元選出議員らが反発している。

 調印100年記念行事を計画している「ポーツマス講和条約記念委員会」広報責任者のステファニー・シーコードさんは「工廠は歴史を象徴する場所で、ポーツマスの人々も誇りに思っている。閉鎖は最終決定ではないし、議員らも反対している」と語り、基地存続を訴えた。
毎日新聞 2005年5月14日 11時00分

77とはずがたり(1/2):2005/05/26(木) 10:07:21

「クリスマス・プレゼント」と称して日本へ復帰
奄美群島 
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/japan/amami.html

旧アメリカ領
1946年2月2日 北緯30度以南の奄美諸島が日本の行政権から切り離され、米軍の統治下に入る
1952年2月4日 サンフランシスコ平和条約に基づいて、北緯29度以北(トカラ列島の十島村)が日本へ復帰
1953年12月25日 奄美諸島が日本へ復帰

2002年は沖縄返還30周年でマスコミなども特集を組んでいたが、2003年は奄美返還50周年。でも全国的にはあんまり話題にならないでしょうね。

沖縄はアメリカ軍の占領とともに日本から切り離されて米軍の統治下に置かれたが、翌46年2月2日には北緯30度以南の奄美諸島の行政権も日本政府から米軍へ移された。発表はわずか4日前。奄美諸島では戦時中に空襲は受けたが米軍が上陸したことはなかった。終戦から半年経って突如日本から切り離されるなんて、奄美の住民たちにとってはまさに晴天の霹靂だ。

ただしアヤシイ兆候は敗戦直後からあった。奄美大島にいた日本軍の武装解除にやって来た米軍が携えてきた降伏文書にはNorthern Ryukyu(北部琉球)と書かれていたため、日本軍司令官は「ここは琉球ではなく、九州・鹿児島県に属する奄美群島である」と署名を拒否。すったもんだの押し問答の末、米軍側はマニラの司令部と相談してAmami Gunto Kagoshima Ken(鹿児島県奄美群島)と文面を訂正し、ようやく日本軍が降伏手続きが行われるという一幕があったのだ。

奄美諸島は鹿児島県だが、もともと沖縄の文化圏で言葉は琉球方言だし、かつて琉球王朝の統治下に置かれた歴史もある。17世紀初めに薩摩藩が琉球を征服した時に薩摩の直轄領に移された。アメリカは沖縄上陸の前から「琉球人は日本人によって虐げられていた少数民族である」と分析し、米軍の占領が終わっても沖縄は日本へ返さず、韓国のように独立させることも検討していた。そこで奄美諸島も「もともとは琉球の領土」とみなし、日本から切り離して沖縄の一部に加えるのが当然と考えたようだ。

アメリカは軍政府の下に琉球人による民政府を作り、限定的な自治を行わせることにした。しかし沖縄本島は激しい地上戦で破壊され交通・通信は壊滅状態だったので、沖縄、宮古、八重山、奄美の4つの「群島」に分け、それぞれに自治政府を作った。

こうして奄美では46年3月に本土出身の「日本人」が公職から追放されて鹿児島へ強制送還され、10月に「奄美人」による臨時北部南西諸島政庁が発足、50年11月には奄美群島政府に昇格し、ちょっとしたミニ国家のようになった。米軍の指令によって、本土企業の支店や営業所は接収されて公営企業となり、大島中央銀行も誕生した。群島政府知事や群島議会の選挙に先駆けて、協和党や社会民主党などの独自政党が生まれ、地下組織として結成された奄美共産党は当初「奄美人民共和国の独立」を掲げた。

78とはずがたり(2/2):2005/05/26(木) 10:07:43
>>77-78

しかし、4つの群島知事選の結果はいずれも「日本復帰の実現」を公約にした候補が勝利したため、不愉快になったアメリカは51年4月、新たに琉球臨時中央政府を設立し、群島政府は廃止することを決定。翌52年4月に琉球政府を発足させた。琉球政府のトップである主席は公選ではなく米軍からの任命で選ばれ、親米派の元英語教師を主席に据えた。こうして奄美の行政は沖縄と一体化することになった。

1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約では、琉球列島(日本式に言うと南西諸島)は正式に日本から切り離されてアメリカの施政権下に置かれた。平和条約の調印を前にして本土復帰運動が急速に盛り上がったが、なかでも激烈だったのが奄美。復帰要求の署名運動では、14歳以上の住民のうち99・8%もの署名が集まり(沖縄本島では72%)、数千人規模で村ぐるみの断食祈願(つまりハンガーストライキ)が繰り返された。

なぜかというと、日本と切り離された打撃は沖縄より奄美の方が大きかったから。アメリカ統治が始まってから本土との往来は禁止され、後に緩和されはしたものの本土へ行くにはパスポートが必要になったし、渡航許可は那覇を経由して申請したので手続きに数週間かかる。本土への商品出荷は「外国製品」として関税がかけられたため売れなくなり、日本政府や鹿児島県からの補助金はストップしたうえ、アメリカからの援助は沖縄本島の復興が優先されたので奄美にはほとんどまわってこなかった。このため奄美住民の生活は困窮し、沖縄のように基地産業で潤うこともなく、人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ移っていった。

ところでその頃、すでにアメリカによる沖縄統治の目的は変わっていた。サンフランシスコ平和条約ではアメリカによる施政権を認める一方で、日本の潜在主権も認められ、将来的に琉球列島(南西諸島)が返還される道を残したものになった。アメリカが施政権を保持するのは、当初のような「少数民族である琉球人の独立のため」ではなく、朝鮮戦争以降の東西冷戦の中で東アジアにおける軍事拠点を確保するためになった。そうなると、基地がない奄美諸島を占領し続けてもアメリカにとってメリットはない。むしろ復帰運動が激しいことでマイナスになった。

かくして53年になると、アメリカは奄美諸島を日本へ返還する方針を明確にした。一時は沖縄に近い与論島と沖永良部島を除外する案も出たが、小中学生が血書の嘆願状を出したり、「奄美と一緒に返還されないのなら島民全員で移住する」と決議するなど激しい反対運動が起きたため、結局すべての奄美諸島を返還することに決定した。返還日は12月25日だったので、アメリカはこれを「クリスマス・プレゼント」だと自画自賛した。

奄美の人たちは本土復帰が決まって万事メデタシかと言えば、新たな問題も生まれた。沖縄で働いていた3万人の奄美人は、奄美復帰とともに琉球人から日本人、つまり法的には「外国人」になってしまった。沖縄で仕事を続けるためには居住許可が必要となり、政治的権利は剥奪され、公務員にもなれなくなり、また土地所有権の取得が認められないなど、沖縄に住む奄美人は様々な差別を受けることになったのだ。こうした「民族分断」がもたらす矛盾が解消されたのは、72年に沖縄が日本へ復帰して、本土人も沖縄人も奄美人もみんな同じ「日本国民」になってからのこと。

79とはずがたり:2005/05/27(金) 17:59:12

旧日本兵:「数十人生存」情報も 半数が帰国希望
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050527k0000e040098000c.html

ミンダナオ島ダバオ市北方50キロの山々。この山中に元日本兵が生きている可能性が高いという=昨年12月、寺嶋会長らの捜索隊が撮影

 フィリピンに出征した旧日本兵らでつくる「曙光会」の近藤敏郎さん(83)によると、昨年12月20日にフィリピンから帰国した厚生労働省の遺骨収集団から、ミンダナオ島のキバウエ東方で中内続喜(つづき)さん(85)=高知県明治村(現・越知町)出身=ら3人が生存しているとの連絡が入ったという。近藤さんは「3人は現地のモロ族という部族に保護されているらしい。同島には旧日本兵の生存者が57人おり、半数が帰国を希望していると聞いた」などと話した。

 ◇未帰還者は21人

 厚生労働省によると、戦死情報がなく家族などの話から判断した旧日本兵の未帰還者は今年4月現在、21人。中国16人、旧ソ連2人、樺太とビルマ(現ミャンマー)、ベトナムの各1人で、フィリピンはゼロとなっていた。ただ、ミンダナオ島については、旧日本兵26人が集団で住んでいるという情報があり、72年8月と73年11月に現地を捜索したが、確証が得られなかった経緯がある。
毎日新聞 2005年5月27日 15時41分

80とはずがたり:2005/05/27(金) 18:31:21
精鋭の豹兵団、80%が戦死…元日本兵2人が所属
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050527-00000305-yom-soci

 防衛庁防衛研究所や戦友会の戦跡記録によると、ミンダナオ島で生存していた元日本兵と見られる2人が所属していたとされる旧陸軍第30師団は、1943年(昭和18年)6月、朝鮮半島の平壌で編成された。

 「豹(ひょう)兵団」と呼ばれ、総員約1万6000人、20歳代前半の兵士が主力だったが、80%が戦死したという。

 当初は対ソ連戦に備えていたが、南方の戦局悪化により、44年4月、ミンダナオ島防衛のため出動を命じられた。

 2人が所属していたとされる同師団捜索第30連隊は、車両などを備えた約470人の偵察部隊。同年6月、同島に到着し、ジャングルや山岳地帯で活動したという。

 第30師団の戦友会「豹の会」会長の市川豪一さん(89)(大阪府東大阪市)によると、同師団は「豹兵団」と呼ばれた精鋭部隊だった。

 しかし、戦場は米軍の制空権の下にあり、各地で激戦となった。同年10月にはマッカーサーが北のレイテ島に上陸、第30師団からも主力部隊が投入されたが壊滅した。45年3月には米軍がミンダナオ島上陸を開始。部隊は散り散りとなり、ジャングルなどでのゲリラ戦に突入した。同師団の戦死者・生死不明者は1万2000人を超え、日本に帰還したのは3000人程度に過ぎなかった。

 豹の会の戦跡記録によると、捜索第30連隊は、上陸した米軍と速射砲などでの激しい戦闘となり、劣勢の中、切り込み作戦などで応戦した。大勢が決してからは、飢えと病に苦しみながらジャングルの中を進み、投降が始まったのは9月になってからだった。

 同連隊では、在籍473人中、287人が戦死したという。
(読売新聞) - 5月27日13時38分更新

81ぽんこ:2005/05/28(土) 00:05:52
今朝、ドイツのラジオで日本海海戦のことを言っていました。
それはニュースではなく100年前の今日の出来事と言った感じでした。
ドイツでは3紙のうち1紙のみウェブ上で取り上げていました。
しかし英米の新聞のウェブではどこもやっていないようでした。
かなりの大事件だと思うのですが、やはりロシア(あるいは欧米全体)にとっては恥で、その配慮があるのかもしれません。
http://www.asahi.com/national/update/0527/TKY200505270145.html
http://www.asahi.com/international/update/0527/013.html
http://www.welt.de/data/2005/05/27/723522.html?search=japan&amp;searchHILI=1

82とはずがたり:2005/05/28(土) 00:28:26
>>81
おお,情報提供感謝です。
そういえば対馬海峡での慰霊祭にロシアから初めて参加者がとか云うニュースもどっかで見ました。

白人が黄色人種に負けたという意味ではとてつもない衝撃的事件だったでしょうからねぇ。

83とはずがたり:2005/05/28(土) 00:30:34
日露戦争の日本海海戦100年 ロシアで水兵追憶の式典
2005年05月27日18時28分
http://www.asahi.com/international/update/0527/013.html

 日露戦争の日本海海戦から100年たった27日、ロシアでは海軍が「水兵追憶の日」として全艦艇で式典をするなど、各地で催しがあった。だが、海戦史上最大の敗北とあって、受けとめ方は様々だ。

 極東の太平洋艦隊ではこの日の朝、母港ウラジオストクに停泊中の全艦艇上で水兵たちが黙祷(もくとう)をささげた。海戦参加者の墓にも、艦隊の幹部らが献花をした。

 バルチック艦隊の本拠地だったクロンシュタット軍港に7月、海上自衛隊の練習艦隊が初めて友好訪問するなど、日ロの防衛交流も進んでいる。ザハレンコ海軍司令官代理は、最近訪ロした先崎一統合幕僚会議議長に「東郷平八郎連合艦隊司令長官を尊敬している」と語った。

 しかし、ロシアのメディアには、主力艦がほぼ壊滅した海戦にいろいろな評価が出ている。

 国防省機関誌「赤い星」は27日、海戦の敗因に「艦隊建設計画のずさんさ、砲撃力の弱さ」などをあげ、「いまも予算不足で老朽艦ばかり。状態は変わらない」と強調した。

 一方で、現代のロシアの歴史教科書は海戦を「戦史上、恥辱の一ページであり、民族の誇りに痛切な打撃を与えた」と位置づける。

 愛国主義的な志向を強めるプーチン政権下のロシアでは、海戦をタブー視する傾向もある。週刊紙モスクワ・ニュースは「忘れたい歴史でも、忘れると同じ失敗をする」と警告した。

84とはずがたり:2005/05/28(土) 00:35:10
ドイッチュ語じぇんじぇんわからん・・。

Aus dem Gedachtnis: Erster in Asien
http://www.welt.de/data/2005/05/27/723522.html?search=japan&amp;searchHILI=1

Vor 100 Jahren versenkten die Japaner bei Tsushima die russische Ostseeflotte. Gerade 40 Jahre hatte Japan gebraucht, um sich nach seiner Offnung durch die Flotte des amerikanischen Commodore Perry von einem isolierten, in uralten Traditionen verharrenden Land in eine moderne Macht mit entsprechenden Interessen zu verwandeln. Weil man in Tokio Einflusgebiete auf dem chinesischen Festland gewinnen wollte, kam es 1894 zum chinesisch-japanischen Krieg. Doch alle Siege fuhrten nicht zum gewunschten Erfolg, legte sich doch der russische Zarenstaat dazwischen. Er besetzte die Mandschurei, durch die die Transsibirische Eisenbahn verlief, und pachtete den Hafen Port Arthur.

Keine zehn Jahre spater fuhlte sich Japan stark genug, diese Scharte auszuwetzen. Am 9. Februar uberfiel seine Flotte das russische Ostasiengeschwader in Port Arthur. Zwei Tage spater erst erklarte es den Krieg.

Um die Niederlage auszugleichen, beschlos man im Juni 1904 in St. Petersburg, die Baltische Flotte nach Wladiwostok in Marsch zu setzen. Doch erst am 15. Oktober konnte sie unter dem Kommando von Admiral Roshdestwenskij aus Liebau auslaufen. 34 000 Kilometer lagen vor ihr. Es wurde eine Reise in den Untergang.

Viele der 36 Kampf- und neun Begleitschiffe waren veraltet, andere nicht im besten Zustand. So blieb die Marschgeschwindigkeit langsam. Auch muste, weil kein Land das Anlegen erlaubte, die Kohle auf See ubernommen werden - die Hamburg-Amerika-Linie sicherte sich den Auftrag, entsandte 60 Kohledampfer und konnte von dem Gewinn ihre Luxus-Schiffe "Amerika" und "Kaiserin Auguste Victoria" bauen.

Als der russische Verband in die Tsushima-Strase zwischen Japan und Korea einlief, erwartete sie dort bereits die japanische Flotte unter Admiral Togo mit Schiffen, sie schneller und starker gerustet als die russischen waren und taktisch besser gefuhrt wurden. Die Folge der zweitagigen Seeschlacht war eine Katastrophe. Lediglich drei kleineren russischen Schiffen gelang der Durchbruch nach Wladiwostok. Acht Schlachtschiffe, neun Kreuzer und die meisten Begleitschiffe wurden versenkt oder auser Gefecht gesetzt. Mehr als 4000 russische Seeleute kamen um, 7300 und drei Admirale gingen in Gefangenschaft. Japan verlor drei Torpedoboote und 116 Mann.

Angesichts dieser Niederlage akzeptierten der Zar wie der Meiji-Kaiser - Japan hatte sich finanziell ubernommen - das Vermittlungsangebot der USA, das am 5. September 1905 zum Frieden von Portsmouth (USA) fuhrte. Japan erhielt die Mandschurei, Port Arthur und Korea als Einflusgebiete. Damit war es als erste asiatische Nation zu einem weltpolitischen Faktor geworden. Peter Dittmar

Artikel erschienen am Fr, 27. Mai 2005

85とはずがたり:2005/05/28(土) 00:35:44
>>84
=Translated by Alta Vista=
http://babelfish.altavista.com/

From the memory: First in Asia
Before 100 years the Japanese sank the Russian Baltic Sea fleet with Tsushima. Straight 40 years Japan had used, in order to transform after its opening by the fleet of the American Commodore Perry of an isolated country remaining in age-old traditions into a modern power with appropriate interests. Because one wanted to win in Tokyo spheres of influence on the Chinese mainland, it came 1894 to the Chinese-Japanese war. But all victories led not to desired success, put nevertheless the Russian Zarenstaat between them. He occupied the Manchuria, by which the Trans-Siberian railway ran, and leased the port haven Arthur.

Japan did not feel ten years later strongly enough to out-sharpen this scharte. On 9 February its fleet attacked the Russian Eastern Asia squadron in haven Arthur. Later only it explained two days the war.

In order to adjust the defeat, one decided in June 1904 in pc. Petersburg to set the Baltic fleet after Wladiwostok in march. But only on 15 October it could run out under the command of admiral Roshdestwenskij from Liebau. 34,000 kilometers lay before it. It became a journey into the fall.

Many of the 36 combat and nine consort ships had become outdated, others not in the best condition. Thus the cruising speed remained slowly. Also had, because no country permitted the creation, which are taken over coal on lake - the Hamburg America line secured itself the order, sent 60 coal steamers and could from the profit her luxury ships "America" and "empress Auguste Victoria" build.

When the Russian federation ran into the Tsushima road between Japan and Korea, it expected there already the Japanese fleet under admiral Togo with ships, it faster and than the Russian were more strongly prepared and were tactically better led. The consequence of the two-day sea-battle was a disaster. The break-through succeeded to only three smaller Russian ships at Wladiwostok. Eight battle ships, nine cruisers and most consort ships were sunk or put out of action. More than 4000 Russian sailors died, 7300 and three admirals went into shank. Japan lost three torpedo boats and 116 men.

In view of this defeat accepted the Zar like the Meiji emperor - Japan had financially taken over itself - the offer of mediation of the USA, which led on 5 September 1905 to the peace of Portsmouth (the USA). Japan received Manchuria, haven Arthur and Korea as spheres of influence. Thus it had become as the first asiatic nation a world-political factor. Peter Dittmar

Articles appeared at the Fr, 27 May 2005

86とはずがたり:2005/06/05(日) 03:28:16
歴史教科書 扶桑社版の誤り指摘
高嶋琉球大教授 「沖縄戦など5カ所」
http://mytown.asahi.com/ehime/news02.asp?kiji=4926

 歴史教科書の問題に取り組んでいる琉球大学教育学部の高嶋伸欣教授が3日、県庁で会見し、県内の県立中学校などで使用されている扶桑社版の歴史教科書について、「記述の誤りが14カ所あり、(今春の検定に通った) 改訂版でも5カ所残っている」 と指摘した。また、今夏の中学校教科書採択に向けて「慎重に教科書を選んでほしい」 と訴えた。

 高嶋教授は教科書問題について講演するために来県し、これに先だって会見した。 沖縄の視点を採り入れた公民の教科書づくりに取り組んでいるほか、扶桑社版教科書の内容に反対する講演活動などをしている。

 高嶋教授は、扶桑社版の歴史教科書には 「太平洋戦争での沖縄戦の開始時期を45年4月と記述しているが、実際には3月下旬から始まっている」 など誤りが14カ所あると指摘。 02年に同社に対して指摘したが、今でも直っていないという。

 今夏の教科書採択の対象となる改訂版でも 「沖縄戦の記述などに誤りが5カ所残っており、扶桑社の教科書づくりに対する姿勢が問われる」と話した。同社の公民教科書(改訂版) についても「改憲が当然のテーマとして記述されている」 と、問題点を述べた。

 そして、「愛媛では誤った記述がある教科書で子供たちが学んでいる。 これは教科書を採択した社会の責任だ」 と訴えた。 高嶋教授は4日に県美術館(松山市堀之内) で、5日は歴史文化博物館(西予市) で講演する。

 一方、扶桑社版歴史教科書の執筆者の一人である拓殖大学の藤岡信勝教授や俳優で前衆院議員の森田健作氏が講演する 「歴史教科書シンポジウム」 (教科書を改める愛媛1000人委員会主催) が5日、県民文化会館(松山市道後町2丁目) で開かれる。
(6/4)

87とはずがたり:2005/06/05(日) 11:32:36
またぞろなんか言い出したぞ。。
どーでもいいけど「自由主義史観」って名前は不正確なんじゃないの?

「集団自決強要は虚構」 自由主義史観研
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050605-00000007-ryu-oki

[東京] 新しい歴史教科書をつくる会副会長の藤岡信勝拓殖大学教授が代表を務める自由主義史観研究会は4日、都内で緊急集会「沖縄戦集団自決事件の真相を知ろう」を開催。5月下旬に座間味村、渡嘉敷村で実施した聞き取り調査などを基に「旧日本軍による集団自決の強要は虚構」として、教科書・教材から削除を求める決議を採択した。

 決議は(1)文科省に教科書検定方針を改め、「集団自決強要」の記述を削除する指導を求める(2)教科書会社やその他の出版社に、教科書や教師用指導書、副読本などから記述削除を求める―といった内容。
 藤岡代表は座間味村で海上挺進隊第一戦隊の梅澤裕隊長(当時)の伝令の役目をした男性、渡嘉敷村の集団自決で生き残った男性ら3人の証言をビデオにまとめて紹介し、「今回の調査で自決が強要されていないことが明らかになった」とまとめた。
 さらに「戦争の悲劇は忘れてはいけない。肉親の中で最も弱い者から殺された事件の重さに比べて、軍命は一割の比重かもしれない。しかし、自決を軍命とするのは、旧軍のみならず日本人、日本国に対する侮辱だ」と語り、聴衆に賛同を呼び掛けた。
 集会では横浜市内の中学校に勤める服部剛教諭が集団自決は軍命ではないとする考え方を導く、模擬授業を再現した。
(琉球新報) - 6月5日11時17分更新

88とはずがたり:2005/06/20(月) 17:50:08
国際法上は東京大空襲も原爆投下も明白な違反だよな。
日本が生産能力の85%を破壊されてもまだ戦い続ける狂った状態にあっとしてもだ。
勿論操縦士にも航法士にも何の責任も罪も無かろうが英雄でも無いことは確かだな。

広島原爆:
投下機の元航法士「自分の仕事をしただけ」
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050620k0000e040076000c.html

[オークリッジ(米テネシー州)國枝すみれ] 広島に原爆を投下したB29型爆撃機「エノラ・ゲイ」の元航法士、セオドア・バン・カークさん(84)は19日までに、毎日新聞との単独会見に応じた。「原爆は戦争終結を早め、多くの命を救った」と持論を繰り返す一方、「核兵器廃絶が理想だ」と話した。

 ジョージア州ストーンマウンテン在住で引退生活を送るバン・カークさんは、オークリッジで開かれた原爆開発計画「マンハッタン・プロジェクト」60周年記念行事に招かれていた。戦後60年たち、エノラ・ゲイの乗組員12人のうち、現在まで生存しているメンバーは、バン・カークさんを含め3人に減っている。

 −−原爆投下の瞬間の気持ちは。

 ◆うまくいった、よかった、と思った。不発だったらと心配した。爆弾を投下し、爆発した。作戦は成功だ。マンハッタン・プロジェクト全体も成功だと思った。これで戦争が終結する、少なくとも終戦が早まると思った。5年間の従軍で、戦いに疲れきっていた。家に帰りたかった。我々はみなプロの兵士集団というより、むしろ軍服を着た民間人だった。

 −−60年たって、同じ気持ちですか。

 ◆全く同じだ。変わりない。

−−原爆投下は必要なかったのでは。

 ◆原爆投下前の段階で、日本の生産能力の85%は破壊されていた。論理的な人間ならずっと前の段階で降伏していたはずだが、日本は最後まで戦うと主張し続け、多くの人々が連日死んでいた。日本本土への侵攻作戦が実施されていたらもっと犠牲は増えた。私は真実を知っている。原爆は戦争終結を早め、多くの命を救った。疑いの余地はない。

 −−核兵器についてどう思いますか。

 ◆核兵器は廃絶されるべきだと思う。誰もが核兵器を持っていない状態が最も理想だと思うが、もし他国が核を持っていたら、米国はそれより1つ多くの核を持っているべきなのだ。

 −−米国ではエノラ・ゲイの搭乗員を英雄視する向きもあります。

 ◆私の仕事は単に(太平洋西部の)テニアン島から広島に飛行機を飛ばし、爆弾を落とし、旋回して家に帰っただけ。自分を英雄だとは思わない。第二次大戦に参加した兵士は全員がそれぞれの役割を果たし、私も自分の仕事をしただけだ。
毎日新聞 2005年6月20日 15時00分

89とはずがたり:2005/06/23(木) 11:48:45
時効はないみたいですが収監されるとも限らないんですね。
ナチスもひどい事してたんだなぁと思いますが日本の三光作戦の実体と比べてどうなんでしょうかね?>村民560人の虐殺事件
更にはアメリカの空襲や原爆なども非戦闘員への無差別攻撃であって国際法違反である。新型爆弾に関しては知らないが空襲に関しては戦争中に日本政府はアメリカに抗議している。
勿論ソ連は日ソ中立条約の規定を破って参戦した上にシベリア抑留で日本兵は辛酸を舐めた。
我々は当時の気の狂った列強の行動をきちんと後世に伝えて行かねばなるまい。

61年前の村民虐殺で終身刑 元ナチス親衛隊10人
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/kokusai/20050623/20050623a3740.html
2005年 6月23日 (木) 08:45

[ローマ23日共同] イタリア・ラスペチアの軍事法廷は22日、1944年8月12日にトスカーナ州で起きたナチス親衛隊(SS)による村民560人の虐殺事件で、元隊員10人に終身刑を言い渡した。被告はいずれも80歳以上でドイツ在住。高齢のためもあって裁判には出廷せず、収監されるかどうかも未定。

長年ローマで埋もれていた関連書類が発見されて実行犯が判明したため、トスカーナ州など5団体が訴えを起こし、昨年4月に裁判が始まった。

判決によると、被告らは同州サンターナ・ディ・スタゼマ村で、農民などで組織された非正規軍であるパルチザンの隠れ家を教えるよう教会の司祭に要求。司祭が「パルチザンはいない」と答えると、村民のほぼ全員、560人を射殺しガソリンをかけて燃やした。10歳以下の子ども72人が含まれ、腹を割かれた妊婦もいたという。

90とはずがたり:2005/07/30(土) 04:42:36
宮脇(俺が宮脇と云ったら俊三の事である)の親爺さんは長吉という元軍人ながら軍部の増長を快く思ってなかったようだ。
黙れ事件という事件のの当事者だったらしい。
また宮脇の奥さんは彫刻家で離婚したらしい。本に出てくる奥さんは再婚相手か?二人ぐらい娘が居たと思ったがどっちとの子だ?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E9%95%B7%E5%90%89
宮脇長吉(みやわきちょうきち 1880年2月5日 - 1953年2月16日)は、日本の軍人・政治家。紀行作家宮脇俊三(1926年 - 2003年)の父。

香川県の農家の四男として産まれる。兄弟には田中義一内閣や幣原喜重郎内閣等で大臣を務めた政治家三土忠造(漢学者だった三土家の養子と
なった)、内務官僚として埼玉県や千葉県等の知事を歴任した宮脇梅吉(埼玉県知事時代に、初めて大宮・浦和・与野の「埼玉市」を構想し
た)がおり、地元では優秀な兄弟として知られていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E4%BF%8A%E4%B8%89
http://hamayan.livedoor.biz/archives/10775031.html
帝国議会「黙れ事件」
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/rare/rare-army-satoh.htm

Wikiの説明はなかなかつぼを心得てるね。宮脇の文章に慣れたら植村なんて不味くてとても読めたもんじゃねぇ。。
>地理や歴史の深い教養に裏打ちされた簡潔かつ格調高い文章、軽妙なユーモアにあふれた文章を書くことで知られる。熱心な鉄道ファンであ
りながら、鉄道ファン特有の嫌味さがほとんど無い飄々とした文体は多くの人々に受け入れられ、鉄道ファン以外にも多くのファンが存在す
る。「鉄道紀行」を文学の一ジャンルにまでした、と評されることもある(しかし、「鉄道紀行文学」で宮脇並みのレベルの作品を生んでいる
人物はその後誰もいない、とも言われている)。

91杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2005/12/17(土) 14:01:32
授業で「赤紙」配布 戦争拒んだ生徒に「非国民」 福岡
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1116734086/129

92とはずがたり:2006/01/07(土) 10:24:23
スクリュー音聞き分け 12歳“軍人”死と直面
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200601060019.html
2006年01月06日

 「戦艦大和の犠牲のおかげで生き残った」。小学校を卒業したばかりで軍の極秘訓練を受け、12歳で戦争に投じられることを運命づけられた旧海軍「少年研究生」の一人は、自らの生還の経緯をそう振り返った。六十数年前の少年たちは、10代の大半を死と向き合いながら生きていた。

 「機雷学校少年研究生(給仕)」。神奈川県横須賀市に住む榊原勇さん(78)の海軍時代の履歴表には実態を隠すためか、したこともない「給仕」が加えられている。

 「海軍が研究生を募集するらしい。詳しくはわからんが、勉強もできるし手当も出るようだ」

 66年前、小学6年の2学期。担任教師の言葉は、経済的に余裕がなかった榊原さんには魅力的だった。2年の「研究」の後、高校や大学へ進学する夢もふくらんだ。

 現在の同市田浦町にあった海軍水雷学校で試験を受けた。合格した榊原さんら15人は翌春から、研究生と教官らしか出入りを許されない同校の木造2階建ての建物で生活し、訓練を受けた。

 2階の講堂にはピアノと、米国で発明されたばかりで当時の日本では非常に珍しかった電子オルガン。教官の軍人がそれらを弾き、少年たちに音階を答えさせた。

 「わからねえのか、これが。でくのぼうっ」。元研究生の一人、同市佐原1丁目の三上金次さん(78)は、答えられない研究生への教官の怒声を、よく覚えている。

 訓練はしだいに実践的になった。ビルの屋上から電車の音を聞いて音符で再現したり、録音した米海軍の空母や潜水艦のスクリュー音を聞き分けたり。榊原さんは「実験動物に対する過酷なテストのようだった。訓練の目的も、だんだん分かってきた。『訓練に大金が投じられている』とも聞かされ、軍人を目指さざるをえなくなった」と語る。

 少年水中測的兵となった研究生らは、太平洋戦争末期に海へ出た。榊原さんの乗った巡洋艦は、米軍の機雷で封鎖された北陸沖の海を強行突破。爆沈を免れた直後の45年春、絶体絶命の命令が下った。

 「米軍が上陸した沖縄に水上特攻する」

 榊原さんは死を覚悟したが、間もなく特攻は中止に。先に出撃した戦艦大和が途中で撃沈されたためだった。別の駆逐艦で沖縄に向かうはずだった同市上町4丁目の元研究生、高橋豊さん(78)は「大和の犠牲がなかったら、今ごろ私たちも海の底だった。助かったのは奇跡的だ」と話す。

 元研究生のうち2人は、台湾に向かう途中で船が撃沈されるなどして帰らぬ人となった。

93杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/01/11(水) 18:22:40
この辺りは興味深いですねぇ。現在の女性運動にも通じるところがあるか!?>「金銭感覚の違いなどから次第に違和感を覚えていった」

東条内閣蔵相と市川房枝氏の証言を公開へ 国会図書館
http://www.asahi.com/national/update/0110/TKY200601100390.html
2006年01月11日14時24分

 日米開戦時に東条内閣の蔵相を務めた故・賀屋興宣(かや・おきのり)氏と婦人参政権運動の最前線で活躍した故・市川房枝氏の証言の録音テープと速記録が、13日から国立国会図書館の憲政資料室で公開される。

 賀屋氏は東京裁判でA級戦犯として終身刑を受けたが、10年間の服役後に仮釈放されて政界に復帰。その後、法相や自民党政調会長などを務めた。

 自らの戦争責任について「当時の閣僚で、事実上の開戦・和平の決定機関であった大本営政府連絡会議のメンバーでもあり、日本人として最も重大な責任を感ずべき一人だ」と言及。東京裁判については「侵略戦争を罰するという国際法の概念がない中で、事後法による戦争裁判は不当きわまりない」と不満を述べつつも、「苦痛をなめた多数の日本人に対する道義的責任はあり、巣鴨に収監されることには納得していた」と語っていた。

 市川氏は、日本で最初の女性運動団体「新婦人協会」の結成から解散に至る苦労話に触れて、「一癖も二癖もある人が多くて、団体としてまとまって活動していくのが難しかった」などと述懐した。同協会を一緒に作った女性運動家の故・平塚らいてう氏についても、「金銭感覚の違いなどから次第に違和感を覚えていった」と話している。

 今回の証言は、現代日本政治史上、重要な役割を果たした10人を対象に、国会図書館が聞き取りをしたものの一つ。

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94小説吉田学校読者:2006/01/14(土) 12:18:44
>>92
音感で敵味方のスクリュー音って聞き分けられるんでしょうか?
昔は内燃機関も騒音でしたが・・・・
>>93
市川は、奥むめをの悪口も言ってるんでしょうか?祈全文テープ起こし。


それはそれ。
この「文芸春秋」記事、私も読みましたが、ただの観光記事でありました。元捕虜の怒りも当然。
でもなんで、ユダヤ人団体が?
あと、読売のロサンゼルス駐在記者の記事の悪文ぶりも酷い。「当地」ってロス?アリゾナ?紀尾井町?バターン?
なんで、上段では「月刊『文芸春秋』」なのに下段は「月刊誌『マルコポーロ』」
(「月刊文芸春秋」なんて雑誌はないぞ、あるのは「文芸春秋」)

「バターン死の行進」記事、ユダヤ人団体が文春に抗議
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060114i504.htm?from=main5

【ロサンゼルス=古沢由紀子】日本軍が捕虜米兵らを炎天下歩かせた「バターン死の行進」についての月刊「文芸春秋」の記事が「歴史を誤って伝えるものだ」として、ユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は13日、当地で抗議の記者会見を開き、文春側に元捕虜らへの謝罪を求めた。
 記事は、同誌の昨年12月号に掲載された「『バターン死の行進』女一人で踏破」。ジャーナリストの笹幸恵さんが、フィリピンで行進のルートを4日間かけてたどり、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と報告。「日本軍による組織的残虐行為」との批判に、疑問を投げかけた。
 行進を体験した元米兵でアリゾナ州立大名誉教授のレスター・テニーさん(86)は、文春側に抗議文を送付。会見で、「水や食事をきちんととって歩いた彼女の行程は、当時の状況とかけ離れている」と批判した。
 同誌編集部は「抗議文などを見ておらず、現段階ではコメントできない」としている。
 同センターは1995年、文芸春秋社の月刊誌「マルコポーロ」の「ナチスのガス室はなかった」とする記事に抗議し、同誌は廃刊になった経緯がある。
(2006年1月14日11時3分 読売新聞)

95杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/03/01(水) 21:54:07
ちなみに「平和荘」はこちら → http://www.linkclub.or.jp/~k-nomura/retro/sumida/RIMG0513.jpg

大空襲の証人、取り壊し 東京のアパート平和荘
http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20060301/eve_____sya_____009.shtml

 一九四五年三月十日未明の東京大空襲で焼け野原となった東京都墨田区で、奇跡的に戦禍を逃れた鉄筋二階建ての建物が今春、取り壊される。空襲前は税務署だった建物に家を失った人々が住み始め、戦災被害者の願いが込められて「平和荘」と名付けられたアパートだ。

 建物を管理する財務省関東財務局東京財務事務所によると、二八年に建てられた。保存されている四一年の地図には、両国橋税務署と記録されている。

 鉄筋づくりで、当時としてはよい建物だった。戦中戦後の混乱で人々が逃げ込みアパートとして使われ始めたため、税務署は移転したとみられる。

 取り壊しのきっかけとなったのは、昨年十二月三十一日夜の火事。住民六人のうち二人が軽傷を負った。半焼だったが倒壊の危険があるため、住民らは親族に身を寄せたり、区の住宅に移り住んだりした。財務局は、今春にも建物を取り壊し更地にし、入札する予定という。

 火事で別のアパートに移った川崎忠雄さん(64)は、自宅を空襲で焼き払われ、たどり着いたのが平和荘だった。当時は三歳ぐらいだが記憶は鮮明だ。「荷車に家財道具を載せ小岩(江戸川区)から歩いてきた」。一面の焼け野原を父親が荷車を引っ張り、母親が後ろから押した。

 入居時には同じような境遇の家族五、六世帯が生活していた。その後、二、三十世帯に増えたが、東京五輪があった六四年ごろから公営住宅へ転出する人が増えた。周りに高層マンションが建ち始め、屋上から見えた隅田川の花火は、今はもう見えない。「取り壊しはやっぱり切ないね。六十年も住むと愛着が出る」と寂しそうだ。

 知人が住んでいたという東京空襲犠牲者遺族会の事務局長星野弘さん(75)も「保存して空襲の記念の場所にしたい、と言っていたのだが」と残念がっている。

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96杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/03/22(水) 16:16:17
偏っているのは被爆者の発言を偏っていると非難する学校教育の現場の方では?

「政治的発言、被爆者は自粛を」平和推進協の要請に波紋
http://www.asahi.com/national/update/0322/TKY200603220146.html
2006年03月22日12時52分

 長崎市の外郭団体・長崎平和推進協会(推進協)が証言活動をする被爆者に「政治的発言」の自粛を求め、波紋が広がっている。関係者は「言論の自由の侵害だ」と方針撤回を求めるが、推進協は拒んだままだ。

 1枚の文書が発端だった。タイトルは「より良い『被爆体験講話』を行うために」。推進協が1月20日、継承部会に所属する被爆者29人を集めた総会で手渡した。

 「意見が分かれる政治的問題についての発言は慎んでいただきたい」と記し、具体例として(1)天皇の戦争責任(2)憲法(9条等)の改正(3)イラクへの自衛隊派遣(4)有事法制(5)原子力発電(6)歴史教育・靖国神社(7)環境・人権など他領域の問題(8)一般に不確定な内容の発言(劣化ウラン弾問題など)の順で示している。

 危機感を抱いた被爆者らがつくった「被爆体験の継承を考える市民の会」は今月13日、推進協に方針の撤回を求めた。

 代表の舟越耿一(ふなこえ・こういち)長崎大教授(60)は「原爆は戦争という時代の中で落とされた。いま日本は戦争への準備を始め、核戦争の脅威も迫る。『政治』を抜きに語れない」。8項目を選んだ理由も不透明だと指摘する。

 推進協によると、以前から被爆者の証言について「話が聞きにくい」「主張が偏っている」という声が、学校などから寄せられていた。丸田徹事務局長(60)は「このままでは話を聞いてもらえなくなるし、中立性を保つことが必要だと考えた。文書は撤回しない」と話す。

 推進協は83年、原水爆禁止運動の分裂をきっかけに官民一体の幅広い組織を目指して生まれた。政治的に意見が違っても、核兵器の廃絶と平和の実現という「最大公約数」で団結しよう。今回の要請はその方針の再確認が狙いだったという。

 だが、推進協の設立に深くかかわった前長崎市長の本島等さん(84)は「一つの価値観への忠誠を強いて戦争へと突き進んだかつての道が現れた」と危機感を示す。

 88年12月に市議会で「(昭和)天皇の戦争責任はあると思う」と発言。90年1月、右翼団体のメンバーに市庁舎前で銃撃されて胸に重傷を負った。「民主主義は少数の意見も尊重し、議論を交わせること。社会全体が言論の自由を軽視するようになるのは心細く、寂しい」

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97とはずがたり:2006/03/25(土) 03:18:39

杉原氏の「懲戒処分なし」 政府、答弁書で表明
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/seiji/20060324/20060324a1490.html
2006年 3月24日 (金) 18:42

 政府は24日、ナチス・ドイツに追われたユダヤ人難民に日本通過査証(ビザ)を発給して約6000人を救い、「日本のシンドラー」と呼ばれた元外交官の故杉原千畝氏に関し、「定説」だった外務省による懲戒処分はなかったことを明らかにした。同日の閣議で決定した鈴木宗男衆院議員の質問主意書に対する答弁書で示した。

1940年に在リトアニアの領事代理だった杉原氏は、殺到するユダヤ人難民に独断でビザを大量発給。このため47年の帰国後、訓令違反として処分を受け退職に追い込まれたとされていた。

これについて答弁書は「(外務省の)指示要件を満たさない者にも発給した」と「違反」があったことは認めた。ただ外務省の保管文書で確認できる範囲では「懲戒処分が行われた事実はない」とした。

98とはずがたり:2006/03/25(土) 11:51:57
日中和平探った近衛文麿の自筆23枚、鏡台引き出しに
http://www.asahi.com/politics/update/0325/004.html
2006年03月25日08時02分

鏡台の鏡と台の間に引き出しがあり、その中に終戦工作の記録が隠されていた=東京都港区で

 太平洋戦争の末期、近衛文麿元首相(1891〜1945)が中国の蒋介石政権との間で和平交渉を模索したことを示す資料が見つかった。近衛が書き写し、家族の鏡台に隠していたもので、交渉の可能性を探るため北京で行われた会談の内容などが記録されていた。

 近衛の娘の山本斐子(あやこ)さん(74)が、昨年秋に発見した。母の縫子さんが使っていた三面鏡の、鏡と化粧台の間に外からは分からないように作られた引き出しに隠されていた。便箋(びんせん)23枚に万年筆で書かれていた。斐子さんら家族によれば、すべて近衛の筆跡だという。

 近衛家に伝わる文書類などの保存にかかわってきた東郷神社(東京都渋谷区)宮司の松橋暉男さんらが解読した。その結果、北京にあった燕京大のレイトン・スチュアート学長を仲介役にして、蒋介石政権と和平交渉ができないかを模索した記録とわかった。内訳は、スチュアートから近衛への手紙の訳文など39年のものが2点、近衛の側近がスチュアートの秘書と会談した45年5月の記録が2点。スチュアートはルーズベルト米大統領、蒋介石と親しいことで知られていた。

 45年5月の2点は、会談の内容が一問一答の形で記録されていた。「和平問題に蒋介石は自由に対応できるのか」と日本側が尋ねると、「直接全面和平は希望するところだが、日中和平は対米関係とは切り離せない」との回答。「中国を圧迫、侵略する必要も力も日本にはもうない。疑うのをやめてほしい」と日本側が話すと、「その通り。戦争をやめよう」と答えていた。

 戸部良一・防衛大学校教授(政治外交史)によると、交渉の存在は知られていたが、内容が明らかになったのは初めて。スチュアートは日本軍に拘禁されていたため、日本側が接触できたのは45年8月11日になってだった。すでに手遅れで、スチュアートにできたのはポツダム宣言の受諾を勧めることだけだったという。

 敗色が濃厚になった45年、軍部は終戦工作に警戒を強めていた。近衛が隠し場所を探していたので、鏡台のからくりを教えると、とても喜んだことを斐子さんは母から聞いていた。「憲兵隊の家宅捜索などに備えたのだろう」と斐子さんは思っている。

 発見された記録は松橋さんらが「近衛文麿『六月終戦』のシナリオ」(毎日ワンズ)としてまとめ、来月4日に出版される。

99小説吉田学校読者:2006/03/26(日) 06:53:13
蒋介石について「(日本にとって)忘恩の裏切り者」とか何だかんだ言っている人もいますが、
この記事読むと、満州事変の後には抗日戦は念頭にあったんだなと思う。国土統一に並々ならぬ野望が見てとれる。
北伐→国共→抗日というのが蒋介石のプランだったのではないかと私見。

「雪恥」対日戦へ決意の文…蒋介石日記、米大で初公開
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060325it05.htm

【パロアルト(米カリフォルニア州)=古沢由紀子】毛沢東と並ぶ現代中国の指導者、蒋介石(1887〜1975)が長年にわたってつづった日記の原本が24日、当地のスタンフォード大フーバー研究所で、初公開された。
 日中戦争の導火線となった満州事変(1931年)をめぐる心情や、当時の中国の最高実力者としての本音などがつづられており、中国近現代史や日中関係史の第一級資料として注目される。これまで台湾の研究者が日記の写しから一部を抜粋、引用してきたが、蒋介石自筆の原本が公開されるのは初めて。
 蒋介石が1917年から、75年に台湾で死去するまでつけていた日記は昨年、遺族から、台湾研究で知られる同大に寄託された。歴史資料としての価値が高いとして、大学が遺族に公開を要請したという。
 この日は、原本の一部が国民党関係者や研究者、報道陣に公開された。
 公開された日記は原本とコピーの計5日分。満州事変の約3週間後の10月7日の日記は、「雪恥」(恥辱をぬぐい去る)という2文字から書き始めている。「(対日関係は)戦争の勝敗にあるわけではなく、民族精神の消長と国家の存亡にある」「私が持っているのは、良心、人格、そして革命の精神主義だけだ」「もしも倭寇(わこう)(日本)が、わが政府を追いつめて、わが民族の独立と存続の余地をなくそうとするならば、もはや、勝敗や利益を考えている場合ではなく、自ら犠牲によって、国家の格を示し、民族精神を発揚しなければならない」などと記され、対日戦に向け徐々に決意を固める様子がにじんでいる。

100杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/04/01(土) 20:05:23
この種のリサイクルって結構昔から行われてたんですね。

明治期のレール大量発見、大阪三越の解体現場から
http://www.asahi.com/national/update/0401/OSK200604010053.html
2006年04月01日19時41分

 昨年5月に閉店した旧三越大阪店(大阪市中央区高麗橋)の解体現場から、明治時代に近畿一円の鉄道で使われたレール約500本が見つかった。1917(大正6)年に完成した7階建ての同店の建築時に、古レールを鉄筋として再利用したとみられる。日本最古で現存例が少ない「幻のレール」も数多く見つかり、各地の博物館や研究者から引っ張りだこになっている。(四倉幹木)

 大阪・北浜の堺筋に面した約1300平方メートルの敷地地下で、解体工事を進める長谷工コーポレーション(東京)によって発見された。

 同店は、れんが製土台に載せられた高さ約3メートルの鉄筋コンクリート製の基礎柱が、建物の骨組みとなる鉄骨を支える構造になっていた。基礎柱は全部で19柱あった。

 解体の技術顧問を務める柴山建築研究所(大津市)の高嶋三郎さんが調べたところ、それぞれのれんが土台の下にレール14本ほどが格子状に敷かれていたほか、基礎柱の鉄筋としても1柱当たり8〜10本が使われていた。レールの長さは2.5〜3.5メートルだった。

 さらにレールの刻印から約100本の製造者や製造時期が判明。大半が19世紀末の英、米、独などの外国製だが、20世紀初年に九州の官営製鉄所(後の八幡製鉄所)で生産されたものもあった。後に東海道線となる官設鉄道や旧山陽鉄道、旧関西(かんせい)鉄道など、近畿各地で明治期に開業した7路線以上の鉄道で使われたものらしい。

 三越の建設当時は鉄が貴重で高価だった時代。古レールは強度が高いため、三越でもすり減った古レールを集めて建築用に転用したとみられる。

 発見されたレールの3割ほどは、1870年代前半に英国でつくられた「双頭レール」だった。断面が上下同じ形のI字形で、一方が摩耗したら上下を逆さにして使う珍しい形状。双頭レールに詳しい「新日化環境エンジニアリング」(北九州市)の大石徹さんによると、初期のごく一部の鉄道にしか使われなかった「幻のレール」で、「こんなに大量に見つかる例はまれだ」という。

 このうち最も古いものは1870年製。1872年に日本で最初に営業運転した東京の新橋―横浜間か、続く74年開通の大阪―神戸間で使われたものに違いないという。

 レールはすでに交通科学博物館(大阪市港区)や八幡製鉄所の跡地にできる北九州産業技術博物館(北九州市八幡東区)=仮称・07年春開館予定=、日本工業大学工業技術博物館(埼玉県宮代町)などに贈られた。また、基礎柱1体も先月から大阪市立大学杉本キャンパス(大阪市住吉区)に展示されている。

 交通科学博物館の高井洋文課長は「諸外国製や国産の非常に早い時期のレールがそろっていて鉄道や製鉄技術の変遷をたどるのに十分な史料だ。詳しく調べたうえで公開したい」としている。

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101杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/05/14(日) 22:07:21
かの金大中も、李承晩の独立運動家としての功績を認めながらも後年親日派を登用し独裁政治に陥ったことを批判しているんですよね。こうした論争ができるようになった分だけ韓国も"戦後"が終わったということなんですかね。

李承晩をめぐる韓国学界の熱い論争
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/04/30/20060430000031.html

 現在韓国で巻き起こっている保守・進歩間で繰り広げられている論争は、より具体的に考察すると初代大統領、李承晩(イ・スンマン)をめぐるものといえる。特に昨年は「李承晩研究ブーム」が起こったという点で、その傾向は顕著だ。直接的な論争にはなっていないが、互いに違った立場から膨大な量の研究書を通じて論争を繰り広げている。

 まず左派進歩陣営の徐仲錫(ソ・ジュンソク)成均館大教授が昨年2月に『李承晩の政治イデオロギー』(歴史批評社)を出版した。左右合作路線を支持する徐教授は、李承晩の政治イデオロギーは当時の安浩相(アン・ホサン)文教部長官が主張した「一民主義」だとし、それはファシズムに似たものだとの自説を展開した。徐教授は李承晩の路線を「反共極右独裁」だったと評価している。

 昨年6月には呂運亨(ヨ・ウンヒョン)研究を専門とする木浦大の鄭炳俊(チョン・ビョンジュン)教授が、中間左派的な立場から李承晩を批判的に考察した『ウナム・李承晩研究』(歴史批評社)を出版した。これは徐教授の研究より実証的な分析が際立っていると評価されている。

 また西江大社会科学研究所のキム・スジャ研究員は、昨年9月に韓国建国当時の李承晩の政治姿勢を批判的に分析した『李承晩政権初期の権力基盤研究』(キョンイン文化社)を出版した。興味深いのは、李承晩を批判する側の理念的な傾向は左派で、みな韓国史学を専攻している点だ。

 これらに対する反撃は10月、元老政治学者の李庭植(イ・ジョンシク)慶煕大客員教授から始まった。李教授は長年の研究成果をもとに、『李承晩の旧韓末改革運動』(培材大出版部)を出版した。近代思想を率先して受け入れた改革派の政治家として李承晩を考察したものだ。南時旭(ナム・シウク)教授の研究は、李承晩に関する研究書という形ではないが、李承晩が「開化派第3世代」の代表的な人物であり、「韓国右翼保守勢力の始祖」という点を思想家的に立証したという点で、いわゆる「李承晩論争」の域を脱していない。

 2004年に出版されたが、日本統治時代の李承晩を考察した浦項工大の高珽休(コ・ジョンヒュ)教授の『李承晩と韓国独立運動』(延世大出版部)と、釜山の政治運動を新たに分析したジャーナリストのチョ・ヨンジュン氏の著書『大統領の無血革命』(ナナム)も、右派陣営の貴重な研究成果だ。ジャーナリスト出身の孫世一(ソン・セイル)氏が『月刊朝鮮』に5年間連載している「李承晩と金九」も、全9巻で出版が予定されている。

 李承晩体制をナポレオン体制と比較した論文で学位を取得した成均館大の金一榮(キム・イルヨン)教授(政治学)は、「現在の韓国政治勢力の大部分が民族主義から左右に分かれた時に生じた陣営に起源を発しているため、李承晩を取り巻く論争が激化している」とし、「これまでの実証的な研究もある程度終息しているため、今後は本格的な論争が起こるだろう」と見ている。

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102小説吉田学校読者:2006/05/14(日) 22:34:31
>>101
金大中は、日韓人脈に対する批判は凄かったですね。反共の下に、李承晩政権と日本右派(岸信介とか)の大同団結は朝鮮半島統一を妨げる、こういう文脈で親日派批判がなされていました。これはこれで一理あると思いますね。

103小説吉田学校読者:2006/05/20(土) 10:39:44
日本政府も辻政信の死亡を検証するくらいの度量が欲しい。

インド最大のミステリー ボース台北事故死の定説覆す
http://www.sankei.co.jp/news/060520/kok006.htm

 【シンガポール=藤本欣也】インドの独立運動の英雄、チャンドラ・ボース。第2次大戦終戦直後に台湾で飛行機事故死したことになっているが、同国の調査委員会はその定説を真っ向から否定する報告書をまとめた。日本で保管されている「遺骨」も「ボースのものではない」と結論付けている。ボースは死なずにどこに行ったのか。60年以上にわたり続くインド最大のミステリーに幕は下りそうもない。
 ボースは1945年8月18日、台北の松山空港で中国・大連に向かう際、搭乗機が離陸に失敗し炎上、全身火だるまになって病院で48歳の生涯を終えたとされる。遺体は台北で荼毘(だび)に付され、遺骨は日本に移送されたというのが定説だ。
 これに対し、1999年に組織された政府の調査委員会は今月17日、報告書を公表。(1)ボースは台北の飛行機事故で死亡しなかった(2)よって日本に保管されている遺骨はボースのものではない−と結論付けた。
 その理由として調査委員会は「しっかりとした状況証拠がある」と説明する。事故があったとされる45年8月18日とその前後に、台北で飛行機事故が発生した記録がないというものだ。調査委員長を務めたムケルジ元最高裁判事は、「台北市長(馬英九氏)と台湾の外交部(外務省)が確認した」とインドのメディアに語っている。
 これまでにも、政府の調査委員会が56年と70年に組織されたが、いずれも医師や事故の生存者の証言をもとに「ボースは台北の飛行機事故で死亡した」と結論付けている。初めて定説を否定した今回の報告書についてインド政府は、「細かく吟味したが、その結論には同意できない」とする異例の意見書を付けて、報告書とともに国会に提出した。今後、国会で論議を呼ぶ可能性もある。
(05/20 01:09)

104杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/05/24(水) 22:52:17
早速壺に屯しているネトウヨどもがファビョってますよ。
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1148467283/

「百人斬り競争」訴訟、二審も本社などが勝訴
http://www.asahi.com/national/update/0524/TKY200605240390.html
2006年05月24日20時39分

 旧日本軍将校2人が中国で1937年、中国兵を日本刀で殺害した人数を競う「百人斬(ぎ)り競争」をしたとする当時の新聞報道や、後にこの問題を扱った書籍を巡り、2人の遺族が「うそを書かれ名誉を傷つけられた」などと訴えた訴訟の控訴審判決が24日、東京高裁であった。遺族は毎日新聞社、朝日新聞社などと本多勝一・元朝日新聞記者を相手に出版差し止めや計1200万円の損害賠償などを求めていたが、石川善則裁判長は請求をすべて棄却した一審・東京地裁判決を支持。遺族の控訴を棄却した。遺族側は上告する方針。

 焦点は「何が真実かをめぐって論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現が、故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害したか」だった。判決は、違法に侵害したと言える前提として「摘示された事実の重要な部分が全くの虚偽であることが必要」との基準を示した。そのうえで、それぞれの記述は全くの虚偽とは言えないと判断。遺族側の主張を退けた。

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105杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/06/08(木) 23:12:18
試しにググってみたら、当の中澤教授のエッセーが「萬晩報」に載ってました。
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://www.yorozubp.com/0502/050228.htm

ネットで流行「アインシュタインの予言」、人違い?
http://www.asahi.com/science/news/TKY200606070141.html
2006年06月07日

 アインシュタイン博士が日本をべた褒めしたとされる「アインシュタインの予言」という文章が、ネットや一部の書籍で広まっている。だが実は、博士とはなんの関係もない言葉が孫引きで広まっただけだと、東京大学の中澤英雄教授(ドイツ文学)が主張している。調査でたどり着いたのは、シュタインという法学者の言葉とされていた文章だった。

 「神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」といったくだりがあるこの文章は、多少の相違はあるものの、1950年代から軍人や宗教家の書籍で紹介され始め、最近は日本文化を誇る「ちょっといい言葉」としてネットで引用されることも多くなった。

 だが出典が常にあいまいで、内容も博士の思想とは相いれないのではと疑問を持った中澤教授が、この言葉のルーツを追ってみた。その結果、アインシュタインの言葉として引用されている例として一番古いのは、56年の書籍であることがわかった。

 さらに戦前にさかのぼると、文意がよく似た文章が28(昭和3)年の『日本とは如何なる国ぞ』という本のなかに記されているのが確認できた。著者は、戦時中の日本の国体思想に大きな影響を与え、「八紘一宇」という言葉の提案者である宗教家の田中智学だった。

 ただし、この本では予言を語った人物はローレンツ・フォン・シュタインという明治憲法成立にも大きな影響を与えたドイツ人の法学教授だとされていた。

 中澤教授は、田中智学がこの言葉を知るもととなったシュタインの講義録などにも当たってみたが、該当する文章を見つけることはできなかったという。

 結局、起源はシュタインの言葉でもなく、田中智学が自らの思想をシュタインに寄せて語った文章の可能性が高いと中澤教授は見る。それが孫引きを繰り返されているうちに、どこかで「アイン」がついて、アインシュタインの予言だということにされてしまったらしい。

 中澤教授は「海外からみたらアインシュタインをかたってまで自国の自慢をしたいのかと、逆に日本への冷笑にもつながりかねない事態」と心配し、安易な孫引きにくぎを刺している。

 ■博士の言葉として流布「日本という尊い国に感謝」

 例えば、『世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰(せん)』(ごま書房、2005年)には、アインシュタイン博士の言葉として次のように記されている。

 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴(いただ)いていることが、今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一カ所ぐらいなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄ではなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それには、アジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」

     ◇

 〈アインシュタイン研究者の板垣良一・東海大教授(物理学史)の話〉 この言葉は、アインシュタインのものではないと断言できる。彼はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、「神」にこだわらない人だった。日記や文献を詳しく調べてきたが、彼が天皇制について述べた記録はない。

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106杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/06/12(月) 22:07:52
>>105
ネットを慫慂してみたら、中澤教授とは別に"アインシュタインの予言"なるものを検証しているblogがあったんですね。熱湯浴の言説に一つ一つ根拠を示しながら冷静に検証していく姿勢、見事です。
#でも中澤教授って「九条の会」の参加者だったんだな
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://alberteinstein.seesaa.net/

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107とはずがたり:2006/07/02(日) 20:14:10
色々酷いなぁ。。

鉱毒に消えた谷中:廃村100年 消極姿勢際立つ藤岡町 /栃木
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060626-00000059-mailo-l09

 藤岡町を貫く渡良瀬川のほとりに、足尾鉱毒事件に生涯をささげた田中正造の銅像が木々に囲まれて建つ。人目につかないその姿は、同町の正造への態度を表しているようにも見える。鉱毒事件を郷土史の欠かせない一部として伝える茨城県古河市や埼玉県北川辺町などに比べ、藤岡の消極姿勢は際立っている。[塙和也]
 ◇薄れゆく記憶に危惧も
 谷中村が1906(明治39)年に廃村となった際、合併先の藤岡町には古河市に次ぐ66戸が移り住んだといわれる。明治政府の買収に協力する「役場派」と、あくまで村に残ることを主張した「正義派」。廃村前から谷中村民は分裂した。
 役場派は廃村後も「裏切り者」と後ろ指をさされ、正義派も、正造を政府に盾突いた「国賊」と見る町内外の人たちから批判の的にされた。さらに、「谷中上がり」と呼ばれた子孫への差別が戦後も続き、次第に町民も旧村民も鉱毒事件に口を閉ざすようになった。
 昨年から今年にかけ、谷中村の子孫らが中心となり、廃村となった7月1日の記念日化を求めて藤岡町議会に請願や陳情を出した。だが、いずれも不採択。「廃村を語るなんて寝た子を起こすようなものだ。公害なんて暗いことは掘り起こさない方がいい」。採択に反対した岡田安雄町議は強調した。一方、谷中村残留民の末えいでもある島田稔町議は「議員という立場上、(自分の)意見は控えた」と苦しげだが、残留民らで続けてきた「田中霊祠」(正造を祭る神社)の例祭などは「子々孫々まで守るつもりだ」と言い切る。
 廃村100年の節目でありながら、町が独自に主催する催しはない。国土交通省によるイベント「谷中メモリアル100」も、鉱毒事件より、遊水地開発に向けたアピールの場となる可能性が強い。国は明治時代から、谷中村の廃村は鉱毒ではなく洪水の問題だと主張してきた。旧村民が鉱毒被害を語らなくなったことで、第二貯水池の掘削問題でも「遊水地の目的はあくまで治水対策」とする国交省側の主張のみが公の場で語られる。
 藤岡町はかつて町史の一部として谷中の資料を編さんするなど、記録作業に貢献したこともあった。それだけに、現状を危惧(きぐ)する人も多い。「今の町の姿勢では谷中の記憶は薄れていく。遊水地に30以上もある団体が、活動で一つになれないのも残念だ」と、谷中村民の菩提(ぼだい)寺「赤麻寺」の仙田光俊住職は語る。
 古河市で教育委員会とともにさまざまな行事を立案する「田中正造を後世に伝える会」の佐々木斐佐夫会長(76)は「合併先である肝心の藤岡町があまりにも消極的だ。『公害の原点』としての廃村は右も左もない歴史的事実。語り継がないのはおかしい」と憤る。(随時掲載します)

6月26日朝刊
(毎日新聞) - 6月26日12時3分更新

108杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/07/03(月) 23:16:45
特攻だったんですな・・・・・何と愚かしいことをしたことか怒りを感じたくなる。

沖縄特攻直前の戦艦大和の写真、米公文書館で見つかる
http://www.asahi.com/national/update/0703/OSK200607030062.html
2006年07月03日21時36分

 太平洋戦争末期の山口県徳山沖で、沖縄海上特攻作戦に向けて準備中の戦艦大和をとらえた米軍の偵察写真が米国立公文書館で見つかり、広島県呉市の大和ミュージアム(市海事歴史科学館)が3日、発表した。出撃の5時間前の写真という。国内での最後の姿をとらえた資料とみられ、年内に同館で展示される。

 同館の依頼を受け、「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議・米軍資料研究会」代表責任者で、山口・徳山高専教授の工藤洋三さん(56)が今年3月に探し出した。

 写真は45年4月6日午前10時、米軍のB29偵察機が高度約9300メートルから撮影した。一緒に特攻に向かった巡洋艦矢矧(やはぎ)なども写っていた。写真説明には「戦艦『大和』級1、重巡洋艦1、駆逐艦6」とあった。同館によると、沖縄特攻の対空戦に備え、大和が主砲塔などに機銃を増強した様子が分かるという。

 大和を旗艦とする第2艦隊は撮影直後の6日午後に出撃。大和は翌7日午後、東シナ海で米軍機の攻撃を受けて沈没した。

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109杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/07/08(土) 18:01:57
岸壁の母ならぬ「引き揚げの母」ね・・・・・

平和祈願・万国戦没者慰霊の会元会長の田端ハナさん死去
http://www.asahi.com/obituaries/update/0708/001.html
2006年07月08日02時35分

 田端 ハナさん(たばた・はな=平和祈願万国戦没者慰霊の会元会長、引揚を記念する舞鶴・全国友の会顧問)が7日、老衰で死去、99歳。通夜は8日午後7時、葬儀は9日午後1時から京都府舞鶴市倉谷1720の4の西舞鶴シティーホールで。喪主は長女の泉朝子さん。自宅は同市南田辺71の3。

 舞鶴港で戦後、同市連合婦人会長として多くの引き揚げ船を出迎えたことから、「引き揚げの母」と呼ばれた。

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110小説吉田学校読者:2006/08/03(木) 07:13:54
カストロも広島訪問した。ゲバラも訪問した。広島と革命家を繋いだのは「反米」か「反覇権主義」か「反大量破壊兵器」か「平和主義」か。

ゲバラが撮ったヒロシマ 地域誌が掲載
http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000000608010001

 キューバ革命を指導したエルネスト・チェ・ゲバラ(1928〜67)が47年前に広島を訪れた際、爆心地近くの平和記念公園で撮影した未公開のモノクロ写真がキューバで保管されていたことがわかった。存在を知った広島の出版社が「被爆61年を前に公開を」と遺族に求め、地域誌に掲載された。研究者は「伝説的革命家が核の脅威に強い関心を寄せていた証しではないか」と話している。(武田肇)
 写真を保管していたのは、ゲバラの遺族が運営する「チェ・ゲバラ研究センター」(キューバ・ハバナ)。03年に革命の同志であるキューバのカストロ議長が広島を訪問したのを機に、広島市の出版社「南々社」が足跡を検証。写真の存在を知って遺族と交渉し、発刊する地域誌「がんぼ」で7月末に特集を組んだ。
 同センターによると、撮影は59年7月。平和記念公園のアーチ形の原爆死没者慰霊碑の前で人がたたずむ姿をとらえ、原爆ドームや完成まもない広島市民球場も見える。ゲバラが同公園で撮影した別カットの1枚は海外など一部で公開されたことがあるが、今回の1枚は未公開という。
 ゲバラは革命政権が成立した直後に経済使節団長として来日した。池田勇人通産相(当時)と会見した後、予定になかった広島訪問を強く希望。1泊して慰霊碑に献花し、平和記念資料館(原爆資料館)や原爆病院を訪れた。
 遺族があわせて南々社に提供した「原爆の悲劇から立ち上がれ、日本よ」と題した手記(帰国後キューバで新聞掲載)には、「痛ましいのは原爆が投下されて14年たった今年も後遺症で多くの人が亡くなっていることだ」「資料館では、胸が引き裂かれるような場面を見た」と訴えている。
 旧ソ連ミサイルのキューバ配備をめぐり、核兵器使用の一歩手前まで緊迫した「キューバ危機」が起きたのは来日3年後の62年。直後にキューバを訪れ、工業相だったゲバラを撮影した写真家の近藤彰利さん(77)=東京都=は、現地の子供でさえ広島で起きたことを知っていたことに驚いた。「その陰にはゲバラの広島訪問があったかもしれないと納得した。一見平凡な写真だが、込められた意味は深い」
 チェ・ゲバラ研究センターの担当者は朝日新聞社の取材に「様々な困難を乗り越えた広島市民の勇気に敬意を表し、写真を公開することにしました」と説明している。
 《関係者を取材し71年に「チェ・ゲバラ伝」を著した作家の三好徹さんの話》 当時ゲバラは国内であまり知られておらず、報道はほとんどなかった。日本政府も使節団として受け入れながら、米国への配慮から広島訪問に難色を示していた。広島行きを強行したのは、多数の非戦闘員を一瞬で殺傷した原爆の残虐性に関心を持っていたからだろう。写真好きは有名で、ゲリラ活動中もカメラを持ち歩いたほど。新たに公開された写真はゲバラの関心がどこにあったか考える材料となり興味深い。
 《エルネスト・チェ・ゲバラ》1959年、キューバの指導者、フィデル・カストロ国家評議会議長とともにキューバ革命を成功させたアルゼンチン生まれの革命家。その後、大臣の地位を捨ててアフリカ・コンゴの反政府勢力にゲリラ戦を指導し、67年、南米・ボリビアでも革命を指導している途中に国軍に銃殺された。

111小説吉田学校読者:2006/08/05(土) 11:37:14
すでに歴史的風景となったロッキード事件。
今月号の月刊「現代」によりますと、全日空ルートの灰色高官とされた14名中12名の実名が掲載されております。
私の推測ではなく、記事そのまま書きますけれども、灰色高官は、二階堂進、佐々木秀世、加藤六月、福永一臣は既報されておりますが、そのほかには村山達雄、竹下登、木村睦男、関谷勝利、大橋武夫、佐藤守良、中川一郎、西村直巳の8名。いずれも運輸族、防衛族のお歴々であります。これはサラっと書いておりますが、歴史の空白を埋める作業でありまして、月刊現代と坂上遼はよくやったと思います。

で、中曽根サンが灰色とされたP3Cルートはもっともっと解明された方が良かったですが・・・

ロッキード事件:対潜哨戒機P3C事件化、東京地検断念
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20060727k0000m040180000c.html

 対潜哨戒機を巡っては72年2月、海上自衛隊の次期対潜哨戒機を国産化すると政府が閣議決定しながら、同10月の国防会議議員懇談会(議長・田中角栄首相=当時)で白紙撤回。74年12月に輸入の方向が強まり、ロ社のP3C輸入につながった。丸紅は72年11月、ロ社とP3Cの売却手数料授受契約を結び、73年7月には児玉誉士夫・元ロ社代理人(故人)とロ社との間で「50機の確定契約があった場合、ロ社は児玉に25億円を支払う」との誓約が結ばれた。
 当時の捜査関係者によると、76年2月の米議会での事件発覚直後、実際にP3C関連を専門に調べる検事が特捜部内におり、防衛庁関係者らを参考人聴取するなど、捜査を進めたという。
 同年4月、米証券取引委員会(SEC)から提出された全2860ページに及ぶ資料が日本の検察当局に届けられ、この中には「Tanaka」をはじめ政府高官名が記された人脈図などが含まれていたが、P3Cの対日工作を示す資料は見当たらなかったという。
 また、児玉元代理人の脱税を巡る捜査でも、P3Cに関するロ社側からの資金提供を裏付ける証拠はなく、かなり早い段階で、トライスター機導入を巡る捜査に重点を置いたという。
 1機当たりの金額は当時、トライスター数十億円に対しP3Cは100億円前後と言われ、採用された場合の導入機数もP3Cの方が多く見積もられ、ロ社にとってP3Cの方が「うまみ」は格段に大きかった。このため、田中元首相への資金提供があれば、P3Cの受注工作資金との見方が当初あった。
 一方で、日米安保条約という国策も絡むP3C疑惑の立件見送りは「米国謀略説を裏付ける」などさまざまな憶測を呼んだうえ、「事件の本質に迫れなかった」などとロ事件の評価につながる議論の下地にもなっていた。

112小説吉田学校読者:2006/08/12(土) 22:02:31
評価分かれるいうか、私はまったく否のほうで、「私兵特攻」の一件において、特攻で涙してしまう小泉首相とは歴史的認識を異にする私である。悲しみじゃなくて怒りがわかないか。

「宇垣特攻」最期の真実、親族女性が遺品調査
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060812i104.htm

 終戦を告げる1945年8月15日の玉音放送後に、海軍の宇垣纏(まとめ)中将が若い兵士を率いて出撃した「宇垣特攻」について、厚生労働省非常勤職員の吉田紗知さん(27)(東京都葛飾区)が、独自の調査研究を続けている。
 吉田さんは宇垣隊の一員だった親族が戦死しており、終戦記念日は61年目の命日となる。
 今年になって別の隊員の遺品が米国の博物館に展示されていることを知り、今月、博物館から遺品のノートのコピーを手に入れるなど、謎の多い宇垣特攻の最期に一歩ずつ近づいている。
 吉田さんの曽祖父の弟で、当時21歳の大木正夫・上等飛行兵曹(上飛曹)は8月15日夕、海軍大分飛行場を沖縄に向け飛び立った11機、23人の1人。大木上飛曹ら8機17人は戦死した。特攻作戦を指揮していた第5航空艦隊司令長官で、終戦後に「最後の特攻」を率いた宇垣中将については、「部下を道連れにした」との批判が多い。
 吉田さんは、戦争の話をよく聞かせてくれた祖父が2年前に亡くなったのを機に、「大木さんの生きた証しをたどりたい」と思った。今年2月、戦争体験を紹介する日本のホームページを通じ、米オハイオ州の国立空軍博物館に、宇垣特攻の搭乗員だった後藤高男・上飛曹(当時26歳)の救命胴衣の一部などが展示されていることを知った。入手した写真には、救命胴衣に「後藤上飛曹」と記されていた。
 救命胴衣などの遺品を博物館に提供したのは、終戦時、沖縄にいた元米兵のフィリップ・トンプソン氏(80)だった。吉田さんはトンプソン氏と文通を続け、その中で、後藤機が、米軍キャンプのあった沖縄・伊平屋島の砂地に激突後、爆発炎上したことを知った。
 吉田さんは、福岡県八女市で暮らす後藤上飛曹の弟、照男さん(79)を探し当て、今年4月、自宅に訪ねて写真を渡した。「兄貴は砂地に突っ込んだから、遺品が残ったんじゃのう。ありがたい」。照男さんは、そう感謝しながら吉田さんの話に聞き入った。
 博物館は、宇垣隊の別の隊員のノートも保管している。吉田さんは、宇垣中将の最期の様子や、大木上飛曹についての記述があるのではと、コピーを博物館に頼み、今月7日、全12ページ分が郵送されてきた。ノートは後藤上飛曹の同乗者のもので、残念ながら任務に関する記録ばかりだった。
 休日を利用して自費で関係者を訪ね歩くなどしている吉田さんは、「これからも調査を続け、将来は記録に残したい」と決意を新たにしている。

(「宇垣特攻」を知りたい人は)
松下竜一その仕事〈第21巻〉私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち (単行本)  松下竜一著
http://www.amazon.co.jp/gp/product/430962071X/sr=1-2/qid=1155387571/ref=sr_1_2/249-8232065-9478756?ie=UTF8&amp;s=books

指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく (文庫) 城山三郎著
http://www.amazon.co.jp/gp/product/410113328X/sr=1-3/qid=1155387623/ref=sr_1_3/249-8232065-9478756?ie=UTF8&amp;s=books

113とはずがたり:2006/08/12(土) 22:21:48
>>112
なるほど,こんなことがあったんですねぇ。近現代史もドラマですな。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/宇垣纏

特攻隊で死んだ者(更には戦死者も)には悲しみではなく怒りをという吉田学校氏の認識に共感。
国のために死んだ英雄ではなく無能な国家首脳の哀れな犠牲者なのだ。為政者に騙されちゃいかん。

114とはずがたり:2006/08/17(木) 21:13:58
【第一次大戦】
http://ww1.m78.com/index.html
第1次大戦と20世紀サイト

昭和天皇と事変の拡大
http://ww1.m78.com/topix/emperors%20decision.html

【大東亞戰爭研究室】
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-annai.html

帝国陸海軍 人事挿話集
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinjiotu/jinji2-annai.html

近代日本戦争史概説
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-annai.html

115とはずがたり:2006/08/21(月) 00:11:44

戦後の軍隊に宇垣一成を引っぱり出してくる辺り何とも云えず時代錯誤な感じもするが,当時の感覚だとなかなかの配役って感じになるのでしょうか?

幻の「新日本軍」計画 旧軍幹部、首相に提案  2006/08/20 21:39
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&amp;d=20060820&amp;j=0023&amp;k=200608204880

[ワシントン20日共同] 旧日本軍幹部が太平洋戦争後の1950年前後、「新日本軍」に相当する軍組織の設立を独自に計画していたことが20日、機密指定を解除された米公文書で判明した。構想は連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下で進み、河辺虎四郎元陸軍中将(故人、以下同)らが立案。最高司令官には宇垣一成元大将(元陸相)を想定しており、当時の吉田茂首相にも提案していた。

 戦後史に詳しい複数の専門家によると、服部卓四郎元陸軍大佐ら佐官クラスの再軍備構想は知られているが、河辺氏ら将官級による新軍構想は分かっていなかった。毒ガス隊など3部隊の編成を目指した河辺氏らの構想は最終的に却下され「幻の計画」に終わった。

 文書は、GHQや中央情報局(CIA)の記録を保管する米国立公文書館で見つかった。

116片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/08/21(月) 08:11:39
>>115
そういえば、下のニュースが最近ありましたね。GHQは戦前からの日本軍の人的蓄積を反共陣営強化のために使おうとしたんでしょうね。その代わりに、処罰や断絶は不徹底になったと。
日本の戦争総括・戦後体制は国際情勢次第でいかようにも変わりえたのでしょう。

GHQ資金で反共工作 旧軍幹部の「河辺機関」
http://kumanichi.com/news/kyodo/index.cfm?id=20060812000208&amp;cid=main

 【ワシントン12日共同】太平洋戦争後に日本を統治した連合国軍総司令部(GHQ)が河辺虎四郎元陸軍中将(元参謀次長)=故人、以下同=ら旧軍幹部を中心に編成した反共工作組織「河辺機関」が、GHQの資金提供で日本国内の情報収集のほか旧ソ連と北朝鮮への工作員潜入を計画していたことが12日、機密指定を解除された米公文書で判明した。秘密工作は「タケマツ作戦」と名付けられていた。

 「河辺機関」の存在は関係者の証言などで伝えられていたが、計画の詳細が米公文書で初めて確認された。河辺氏はじめ機関の主要メンバーは戦犯訴追を免れており、文書は冷戦に直面した米国が旧軍幹部の訴追よりも反共工作を優先させた軌跡を物語っている。

「河辺機関」に関する米公文書の要旨 
http://www.topics.or.jp/Gnews/news.php?id=CN2006081201003480&amp;gid=G15

 【ワシントン12日共同】「河辺機関」に関する米公文書の要旨は次の通り。

 ▽1949年5月20日付メモ1(秘密、発信者、受信者はなお機密扱い)

 一、「タケマツ」は連合国軍総司令部(GHQ)の参謀二部(G2)が進める秘密情報作戦のコード名。国内の情報活動(マツ)と国外での情報活動(タケ)からなる。

 一、活動全体がG2の資金で賄われる。

 一、タケマツ作戦の中心人物は河辺虎四郎、有末精三、辰巳栄一各元中将ら。米側の作戦指揮者はウィロビー少将、レイシー大佐ら。

 一、48年9月25日にレイシー、河辺、辰巳らが会談。河辺は活動経費8万7000円を要求。

 一、48年10月9日にレイシー、河辺らが会談。第1回の支払いとして3万7000円を河辺に支給。

 ▽49年5月20日付メモ2(同)

 一、48年11月20日、レイシー、河辺、有末らが会談。

 一、河辺がレイシーに南日本でのタケ作戦の概要を説明。

 第1段階 (山口県)防府を拠点に工作員を南朝鮮(現在の韓国)へ派遣、38度線を越え、北朝鮮と満州(現在の中国東北部)の情報を伝える。防府のビジネスマンの貿易ルートを利用。

 第2段階 対馬への情報拠点設置が可能。南朝鮮からの密貿易に使われており、日本人工作員の南朝鮮潜入に利用。ソ連船の情報獲得のため対馬の漁民を工作員に雇うことも可能。

 第3段階 米の無線機を使用。中国、朝鮮、ロシア語の放送を傍受。

 一、レイシーは必要な機材を用意すると約束。

 一、河辺は南日本での半年間の経費として390万5000円を提示。

 一、河辺は北日本でのタケ作戦の概要を説明。

 (1)北日本での作戦は49年4月に開始。本部を北海道・美唄に、支部を札幌、函館、礼文島に。

 (2)樺太(現在のサハリン)在住の信頼できる日本人に接触。(樺太や千島からの)帰還者を工作員にして送り返す。万年筆や時計の密輸ルートをソ連領内に開拓。意図的に船を難破させ船員をソ連領内に送る。周辺海域を高速艇で監視。無線傍受を実施。

 一、河辺は北日本での半年間の経費として596万2000円を提示。

 ▽49年5月20日付メモ3(同)

 一、48年12月3日にレイシーが河辺らと会談、ウィロビーが北日本の作戦に集中することを求めていると説明。ただ朝鮮への潜入も了承。

 ▽53年1月16日付の情報報告(秘密)

 一、G2が52年12月、河辺に次年度には関連予算が計上されないと通知。河辺は突然の決定に憤慨、機関の活動を公にする意向。

 一、河辺は機関解体を見越し、G2の決定前に、15人を保安隊に入隊させていた。

 ▽有末元中将の個人情報データ(59年9月15日付、秘密)

 一、48年末ごろ、ウィロビーが河辺機関として知られることになる情報組織創設を要請。下村定、河辺らが参加。

117名無しさん:2006/08/28(月) 22:12:53
渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言
http://www.sankei.co.jp/news/060827/sha047.htm
http://www.sankei.co.jp/news/060827/sha048.htm

≪元琉球政府の照屋昇雄さん≫

 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。

 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。

 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。

 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。

 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。

 300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の暴風」などに軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。

 その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。(豊吉広英)

118片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/08/28(月) 23:27:19
>>117
> −−ではなぜ集団自決をしたのか
> 「民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴(しゅりゅう)弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」

そういえば、高校生のときに読んだ大岡昇平の『野火』を久しぶりにまた読みました。
食べ物に窮乏したため、手榴弾を使って味方を殺し、人肉を食うってのは、考えさせるシーンでした。
戦争、特に孤島という状況だと、考え方も極限まで追い詰められてしまうものなんですかね。

しかし、まあ、こうやってなんたら陣営が相対立してる状況があるんですね。戦争は災難の連鎖を生むのかね。戦争とは別に、カネというものの魔力か。人間はそういうものだとは謂えど。

119とはずがたり:2006/08/29(火) 03:49:44
旧日本軍を神聖化する動きは真実がどうであれ,警戒する必要があると思う。
軍隊が日本国民を大いなる不幸に陥れた元凶であることは間違いないのであって,南京で実は虐殺はしてないとか,島民に自決を強制してないとかは些細な話。
なんかそういう背後に旧日本軍は立派だったみたいな風潮にしたい意志を感じる。戦死者は国を守った英霊なんかではない。惨めな犠牲者なのである。神様にして貰って遺族が救われると云う機構が弔いに成るだけなら良いが,国の為に死ぬことが崇高なことだとしたい連中が居るんじゃないか?自分らは戦争で死ぬ心算がない癖に,国民は為政者の私益の為に死ねと思ってる連中が。
靖国を神聖視するネット右翼を始め踊らされた間抜けな庶民どもが勝手に死ぬ分にはかまわんが,戦争は他の国民も犠牲にする迷惑なものである。更に本当に心穏やかに死者を弔いたいならお偉い議員の先生方に参拝させて悦に入ってるじゃねーよと思う。政治家みたいな俗な連中の参拝など断れや。

120小説吉田学校読者:2006/09/02(土) 09:39:01
昨日産経本紙に載っていましたが、ネットにはあがっていませんでした。
このメモ問題、私としましては、秦氏の見解と同じで、これを基にして靖国分祀論だ何だかんだと盛り上がるのは反対です。

メモといっても、巷間仄聞するところによれば「政治的な箇所はごく一部にとどまる」「食べ物、植物、戦前、戦争直後の苦労の話が多い」らしいです。となれば「「原田日記」「牧野日記」だけが昭和天皇か?」というのが富田氏の備忘の動機だったのかもしれない。
それと「とてもおもしろくて」の部分、私はこういう奥さんを持てた富田氏は幸せだったと思う。こういう奥さん、好きだなあ、俺。

メモ公表した富田元宮内庁長官夫人の真意とは
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/showa_emperor/story/01fuji320060901016

 昭和天皇が靖国神社のA級戦犯の合祀(ごうし)に強い不快感を示されたとされるメモを富田朝彦元宮内庁長官(故人)が書き残していた問題で、富田元長官の妻(81)は産経新聞の取材に応じ、「こんなに大騒ぎになるとは思わなかった。日記やメモを公表したのは、昭和天皇のお人柄を伝えたかったから」と語った。
 妻によると、メモや日記は元長官が平成15年11月に亡くなった後、東京都内の自宅寝室の奥に残されていた。
 「読んだらとてもおもしろく、まるで富田が生きているみたいで…」
 元長官は生前、日記やメモの扱いについて何も言い残していなかった。だが、彼女自身は「いずれ発表できる機会があればいいと考えていた」という。
 その理由については、「陛下は口数が少ないといわれていましたが、実はお話し好きでした。日記やメモには、富田が知らないことを(昭和天皇が)教えてくださったことがつづられていました。いろんな歴史も教えてくださったそうです。ユーモラスな方でもあって、そのお人柄をみなさんにもお伝えしたかった」と説明した。

121片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/02(土) 12:47:10
讀賣新聞のお盆の戦争検証特集は立派だと思いました。
軍の一部が先走ってしまい、非軍人もそれをコントロールできなかった構図(それがいろんな局面で起こる)が浮き彫りになっています。
しかし讀賣も、天皇に関する部分の検証がぽっかり抜けてるように感じました。
先代ってことで、検証はまだしにくいか・・・。

靖国神社の問題も、
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1114775789/237-239
↑と似たところがあるんですよね。
当時、「靖国」に殉じた人の想いをどうするかってところで。
終戦後の殉職者は、戦死ではないということで受け入れていないようですから。
http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20060825/1156477427

ところで、山口県護国神社合祀訴訟というのがかつてありましたが、
あれは戦後の殉職者(公務死者)について、各県の護国神社が受け入れているということですよね。
どこの自衛隊も、一律に護国神社で祀らせてるんだろうか?
東京都と神奈川県には護国神社がないようだけど・・・。

ともかく、新しい殉職者たちが靖国神社にどんどん合祀されていってる状況がないところは、不幸中の幸いというか。
仮にそんなことになっていると、将来の我々の選択も雁字搦めになりかねなかった。
平成の殉職者(公務死者)・靖国神社・天皇 この3者が密接にかかわる状況でなくて良かった。

靖国神社の扱いは難しいものがあるけれど、将来に向けてやるべきことはあると思いますね。

(調べつつ書きながら、なんて知らないことばかりなんだろうと思った・・・)

122片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/03(日) 17:18:52
>>120
驚くべきバイタリティ...

上坂冬子さんの富田夫人訪問記余話
http://oshimas.iza.ne.jp/blog/entry/33351/

上坂さんの文章を若干紹介すれば、7月22日付で投函された元宮内庁長官、富田朝彦夫人からの分厚い封書が自宅に届いた。富田夫人とは面識はなかったが、あけてみると、便箋4枚にぎっしり書かれた質問が14項目もあった。夫人は81歳だが、女子大生のような勢いのいい字だったとか。なぜ、富田夫人は、上坂さんに質問状を送ったのか。経緯はこうだ。
「富田メモ」の記事が出たのが7月20日。翌21日の産経新聞「正論」欄で、すばやく上坂さんは、「富田メモ」を第一級の資料なみに扱おうとしている風潮を批判した。この記事を富田夫人にみせたのは、同居している大学教授の息子さん。富田夫人はそれを読むやいなや、近所の書店にかけつけ、上坂さんの新刊『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)を買って、一晩で読み終えて、質問状を書き上げた、という次第のようである。 「ともかく行動的な人らしい」と上坂さんは書いているが、このくだりをゲラで読みながら、おもわず笑みが浮んでしまった。というのは、上坂さんご自身が、とびきり行動的な人だからである。何度も、上坂さんには、本誌で連載をお願いしているので、自信をもってそういえる。

123片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/03(日) 17:29:10
鎮霊社『靖国』の回答検証
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060829/mng_____tokuho__000.shtml

 靖国問題は自民党総裁選の中で数少ない争点の一つになっている。今月12日付の『こちら特報部』では、この靖国神社の一角にある鎮霊社にスポットを当てた。その後、読者の方々から「もっと詳細を」という要望をいただいた。前回は多忙を理由に取材に応じなかった神社側も、今回は本紙の質問に書面で答えてくれた。再び鎮霊社を舞台に靖国問題を考える材料を提供したい。 (浅井正智)

 【『こちら特報部』からの質問(1)】

 一八六九年に靖国神社の原型、東京招魂社が創建されて九十年以上たった一九六五年に、鎮霊社が建立された理由は何か。

 【靖国神社広報課の回答(1)】鎮霊社は、時の筑波藤麿宮司の発案で、戦なき平和を願い創建された御社。嘉永六(一八五三)年以降の戦争・事変にて非命に斃(たお)れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命断つなどして靖国神社に祀(まつ)られない御霊(みたま)と、同年以降の戦争・事変に関係し、死没した諸外国の御霊、二座を鎮祭している。

 一八五三年という年は何を意味するのか。この年以降の戦争で死亡した人を祀ることは、鎮霊社のみならず靖国神社本殿にも共通している。

 日本文化総合研究所の高森明勅(あきのり)代表はこう説明する。「靖国神社(当時の東京招魂社)が最初に祀ったのは戊辰戦争の官軍兵士。一八五三年のペリー来航から国難が始まり、明治維新につながったという認識があり、後にそこまでさかのぼって祀ることになった」

 【質問(2)】A級戦犯の本殿への合祀(ごうし)を避けるため、鎮霊社を建立し、以後、合祀された一九七八年まで、実際に祀られていたという指摘がある。これは事実か。

 【回答(2)】学者にはいろいろな推論もあろうが、御本殿の御祭神と鎮霊社の御祭神では全く性格を異にしている。鎮霊社の御祭神は奉慰の対象だが御本殿の御祭神は奉慰顕彰の対象と認識している。

 このA級戦犯の事実上の分祀説を採る日大講師で現代史家の秦郁彦氏は、靖国側が「学者の推論」と直接答えていない点について、「肯定はしていないが、否定もしていない点が重要だ」とみる。

 「神社側は一時的にでもA級戦犯が鎮霊社に祀られていたなら、否定はできない。だが、肯定すれば、A級戦犯は鎮霊社から分祀して本殿に移されたと認めることになる。これは靖国を深刻な矛盾に直面させる。つまりA級戦犯の本殿からの分祀を拒んでいる靖国自身が、分祀した過去を認めることになるからだ」

■『顕彰ならば 政治的行為』 

 鎮霊社の霊が「奉慰」の対象で、本殿の霊が「奉慰顕彰」の対象と差のある点についても注目される。

 筑波大学の千本秀樹教授(現代日本史)は「慰霊ならば宗教的な行為といえるが、顕彰というのは国のために死んだ人をたたえるという政治的な行為だ。靖国神社は政治的な施設であり、しかもA級戦犯を顕彰の対象にしていることが明確になった」と指摘する。

 【質問(3)】鎮霊社はだれを祀っているのか。「朝敵」や「逆賊」の怨霊(おんりょう)を鎮める役割を担っているのか。

 【回答(3)】御本殿で祀られていない全世界の戦争犠牲者であり、具体的な名前を挙げての鎮祭ではない。(怨霊論は)学者により説はさまざまあろうが、神社としては(1)で述べた通り。

 千本氏は、鎮霊社が戊辰戦争で官軍と戦った会津藩白虎(びゃっこ)隊や西南戦争で明治政府と戦った西郷隆盛らの「逆賊」の恨みを鎮めるためにつくられたという見解を採る。

 これに対し、高森氏は「鎮霊社と怨霊はおよそ結びつかない」と強調する。

 「怨霊を鎮めるというのは、不遇の死を遂げた人が現世にたたりをもたらすという発想に基づく。そうならば、この霊を祀らないとたたりがくるという具体性が示される必要がある。だが、全世界の戦没者を祀る鎮霊社にはこうした関係を考えることはできない」

124片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/03(日) 17:38:01
 【質問(4)】鎮霊社はなぜ鉄柵で囲われ、一般参拝者が近づけないのか。

 【回答(4)】過激派の活動が盛んであった昭和四十年代に、警備上、御本殿をはじめ、元宮、鎮霊社を守るために鉄柵を設けたのであり、鎮霊社だけを囲っているわけではない。また、現在、拝殿脇より誰でも参拝できる参道を設ける計画を進めており、十月には竣工(しゅんこう)予定だ。

■謎めいた存在10月には公開

 千本氏は「九〇年代まで天皇制に関心がある人でも、靖国神社を問題視する人はほとんどいなかった。かつての『靖国神社国家護持法案』に反対したのもキリスト者が中心で、日本の左翼は何もしていない。過激派対策のための鉄柵というのは、後から取って付けた理由としか思えない」といぶかる。

 秦氏は「靖国は分祀論にからんで、鎮霊社に関心が向くことを好まない」という見方を示す。今後、参道を設けるという点についても「一般の人が近づけず、しかも分祀論と結びつけられると、鎮霊社はいよいよ謎めいた存在にみられてしまう。むしろオープンにした方がよいという判断が働いたのでは」と推測する。

 【質問(5)】

 鎮霊社の例祭日(七月十三日)には、どのような方式で祭事が行われるのか。

 【回答(5)】

 他の祭事同様、神道の儀式で行われている。

 キリスト教やイスラム教などの一神教は他の神を認めない。このような信者を鎮霊社に祀り、国家神道方式で祭事をするのは、彼らの宗教心を冒涜(ぼうとく)することにはならないか。

 靖国自身は「名前を挙げての奉慰ではなく、戦争犠牲者全般の鎮祭であり、日本古来の神道形式で他国の戦争犠牲者全般の魂を鎮めることが、必ずしも冒涜にあたるとは認識していない」と補足して説明する。

 高森氏も「靖国神社がその一神教を国家権力と結びついて弾圧するのでない限り、独自に祭祀(さいし)対象を設定することを第三者が妨げることはできない。仏教系教団でも類似した例はあるが、それが問題になることはない」と靖国側を擁護する。

 これに対し、千本氏は「靖国が宗教法人である限り、祭祀対象を自由に決めることができる。しかし靖国がもつ強い政治的性格を考えると、純然たる宗教法人とはいえず、祀られることを拒否できないのは問題がある」と主張する。

 総じて今回の靖国側の回答は抽象的で、極めて慎重だった。そんな姿勢の背景を千本氏はこう分析する。

 「靖国神社自身がこれから戦没者を顕彰する政治的な施設として存続していくのか、慰霊・追悼に絞った宗教施設になるのか、自身の中で解決されていない。そのことが、外部に対して意見を明確に打ち出せないことにつながっている」

<メモ>鎮霊社 靖国神社の本殿脇に1965年、ひっそりと建てられた。現在は鉄柵で囲まれ、一般参拝者は存在にすら気づかない。本殿とは対照的に、明治維新の“逆賊”やイラク戦争などで亡くなった「万邦諸国の戦没者」も祀っているとしている。本殿でのA級戦犯合祀を回避するため、A級戦犯を一時的に祀っていたという指摘もある。

<デスクメモ>

 “逆賊”たる会津武士の末えいで、戦後右翼の大物だった故田中清玄氏は生前「(靖国参拝とは)長州藩の守り神にすぎないものを全国民に拝ませているようなものなんだ。ましてや皇室とは何の関係もない」と言い切った。靖国問題は「右左」で語れるほど単純ではない。まずは事実の把握が何より大切だ。 (牧)

125とはずがたり:2006/09/07(木) 16:58:56
嘘つけ!平安時代は結構色んな名前を付けてた筈>皇室の名前は、男子は「仁」、女子は「子」で2文字が原則。例外はあるが、858年に即位した清和天皇以来の伝統という。

新宮さま誕生、命名も秋篠宮ご夫妻で
秋篠宮家 男児ご誕生
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060906ic03.htm

 秋篠宮家に新宮さまが誕生した。7日目の12日には「命名の儀」が行われ、お名前が決まる。誕生に伴う儀式の流れは――。

  ◆賜剣(しけん)

 新宮さまが誕生した6日、天皇陛下からさっそく守り刀が贈られる(賜剣)。皇太子ご夫妻の長女、愛子さま(4)の時は、反りのない刀身約26センチの白サヤ短刀だった。女子には袴(はかま)の目録が添えられる。職員が病院の枕元に置き、守り刀として生涯、身近に置かれることになる。

 ◆お名前とお印(しるし)

 皇室の名前は、男子は「仁」、女子は「子」で2文字が原則。例外はあるが、858年に即位した清和天皇以来の伝統という。

 皇太子ご夫妻の長女、愛子さまの場合は、学者3人が天皇陛下に複数の案を上申し、陛下が皇太子さまの意向を聞いて決められた。陛下が決めるのは自分の子や皇太子の子の場合で、宮家は宮さまが決定される。秋篠宮さまは長女の眞子さまも、二女の佳子さまも、ご夫妻で相談して決められた。

 一方、身の回りの品につけるお印は、眞子さまは「木香茨(もっこうばら)」、佳子さまはハイビスカスの一種「オオハマボウ」の沖縄地方の呼称「ゆうな」。ともにご夫妻が好きな花を選ばれた。
 「命名の儀」は、お名前とお印が記された2枚の和紙をご夫妻で確認されたあと、宮務官が白木の桐箱(きりばこ)に納め、お子さまの枕元に置く。

 ご夫妻は、男女それぞれのお名前を考えられていたという。

 ◆皇統譜登録

 新宮さまのお名前は、官報に掲載されたあと、皇室典範の規定に従って皇室の戸籍である「皇統譜」に登録される。皇統譜は天皇、皇后両陛下を記載している「大統譜」と、その他の皇族用の「皇族譜」があり、新宮さまは、皇族譜に名、父、母、生年月日と誕生の時刻などが記され、羽毛田信吾・宮内庁長官と折笠竹千代・書陵部長が署名する。正本は宮内庁、副本は法務省で管理されている。

 ◆賢所皇霊殿神殿(かしこどころこうれいでんしんでん)に謁(えっ)するの儀

 誕生から50日を過ぎたころ、紀子さまに抱かれ、皇居内の賢所皇霊殿神殿にお参りする。一般の「お宮参り」で、新宮さまには白羽二重の産着が用意される。

 ◆初参内

 「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」を終えると、新宮さまは紀子さまに抱かれて御所を訪ね、天皇、皇后両陛下にあいさつされる。

 ◆お箸初(はしぞめ)

 一般のお食い初めと同様の儀式が120日目ごろに行われる。
(2006年9月6日14時10分 読売新聞)

126名無しさん:2006/09/07(木) 22:41:34
>>125
当初は仁の方が例外的で、11世紀ごろに増えだし、
14世紀ごろにようやく定着といった感じですね。

足利尊氏に名を与えた後醍醐天皇は「尊治」でした。

http://nekhet.ddo.jp/people/japan/jpn-emp.html

127片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/07(木) 23:23:59
そういえば、年号も、M T Sと来て、アルファベットをかぶらないようにHにしたという話がありますね。
修文や正化ではSになり、もうその略称が使えなくなりますから。
修文のほうが引き締まったいい年号のようにも思えますがねぇ。

O K N Y J D あたりでしょうね、次は。

>>125>>126
護良親王とかいましたねー。
例外なのか原則でさえなかったのかよくわかりませんけども、当時はどういう意識だったんですかね。
伝統慣習重視の命名者が仁をつけて、型破りな思考の者がつけなかったりしたんだろうか。

かぶらないで「○仁」ってつけるのは大変だな。即位した人だけならまだしも、即位してない人も合わせると・・・。

孝仁、常仁とかですかね。思いつきですが、樹仁(みきひと、たつひと)なんてのはどうでしょうか。

128とはずがたり:2006/09/07(木) 23:49:44
例外はあるかもしませんが
醍醐天皇の皇子は○明(安和の変で失脚した源高明が有名)
村上天皇の皇子は○平
後醍醐天皇の皇子は○良
で統一してあったり,結構天皇毎の特色が出たりしてましたね。

129とはずがたり:2006/09/16(土) 12:23:22
素晴らしい対応だ,(新)津市。合併によるメリットはかくありたい。

旧明村役場庁舎が国登録文化財に
芸濃で解体の危機免れる
http://www.chunichi.co.jp/00/mie/20060916/lcl_____mie_____006.shtml

 15日の国の文化審議会の答申で、津市芸濃町林の「旧明(あきら)村役場庁舎」が登録有形文化財(建造物)になることが決まった。旧芸濃町が解体しようとしたが、合併後に津市がストップをかけ、間一髪で貴重な文化財が守られた。大正初期の官庁庁舎は珍しいという。

 同庁舎は1916(大正5)年の建築。木造2階建て瓦ぶき。下見板で張った壁、上げ下げ窓など洋風デザインで、明治と大正の様式を融合させた。角地の立地を生かして玄関を建物の角に配置。ポーチを張り出し、その2階部分をバルコニーにするなど玄関部分を強調した特色ある構造となっている。旧津署の外観を参考にしたといわれている。

 56年の合併で芸濃町役場明支所となり、71年から町資料館として使用してきた。旧芸濃町は昨年、老朽化のため解体を決めたが、合併で工事の執行を引き継いだ津市が一転、保存することにした。県内の登録有形文化財は建造物で58件目。 (矢野修平)

130とはずがたり:2006/09/27(水) 03:51:22

福島市は福島県の県都としては明らかに北に寄り過ぎており,福島県を福島県とするのは余り適切ではない様な気がしてた。県の地理上の中心なら郡山だし,若松の歴史も古い。福島に県庁を置いたのは会津の影響を成るべく小さくしたかった明治政府の意向があったのではないかと思ってたけど,福島市が長らく東北の地方中枢都市機能を仙台市と分担しており,可能性としては今の仙台市の様な位置に成長した可能性もあったというのもあったのではないか?とちょっとこの記事を読んで思った。

東北電力福島営業所ただ壊すには惜しい
http://www.fukushima-minpo.co.jp/news/kennai/20060925/ronsetu.html

 福島市は歴史的な建築物をまたも失ってしまいそうだ。同市置賜町の東北電力福島営業所社屋で、解体・撤去への動きが進んでいる。平成7年から行われている都市計画道路・栄町―置賜町線の拡幅に伴い、敷地と社屋の約半分が事業対象となっているためだ。保存や移築は極めて難しい現状だという。

 同営業所社屋は昭和2(1927)年に福島電燈(でんとう)株式会社本社として完成。その後、東北配電―東北電力に受け継がれた。コンクリート製一部石造りで洗練された外観。車寄せや玄関が撤去され、内部が大幅改修されているものの、昭和初期の面影を残した貴重な建築物と言える。本県の産業発展を支えた電力供給の拠点として近代化遺産の価値もある。また、庭園は大正時代に酒造業を営んでいた加賀屋総本家の別邸の庭だ。樹齢100〜150年のナシの古木が枝を伸ばす。

 同市内には、かつて日本銀行福島支店や県農工銀行(第一勧業銀行支店)など明治・大正期の建造物があった。しかし、改築などによって相次いで姿を消した。一方、花の写真館(旧日本電気計器検定所福島試験所)や御倉邸(旧日銀福島支店長役宅)など、古い建築物を保存・活用する動きも広がっている。市民の中から社屋保存を求める声が上がるのも当然だろう。

 拡幅事業はJR福島駅の東側一帯の慢性的交通渋滞の緩和や市街地の回遊性促進などが狙い。栄町―置賜町線は県道と13号国道を結ぶ延長220メートル。現在7〜8メートルの幅員を22メートルに広げ、両側に広めの歩道・自転車道を新設する。車道は交互交通に切り替え、駅前を発着するバスが迂回(うかい)せずに直進できるようになる。電線を地中化し、ミニ公園を設ける予定だ。総事業費は約42億円で、22年度完成を目指す。

 拡幅事業に異議を唱えるつもりはない。しかし、拡幅地を道路反対側に設定したり、営業所敷地を迂回することはできなかったのだろうか…。市によれば、拡幅はバスプール移転など駅前整備と密接に関連しており、反対側を拡幅すればバスプールからの道が「鍵形」となって円滑な通行を妨げかねない。迂回策も、道路延長が短いため「無理な形になる」としている。

 社屋をそっくり後退させる案もこれまでに検討された。背後地が狭い上、費用が新築以上にかかるため断念せざるを得ないという。地権者の多くが既に立ち退きを済ませており、現時点での変更は協力を無駄にする結果を招く。

 現在、市と同社が協議を重ねており、市は20年度にも工事に入りたい考え。「ナシの古木などは移植を含めて保存を検討したい」としている。近年は建物の外観や一部を残しながらビルを建設したり、イメージ・デザインを受け継ぐ開発も試みられている。建物についても、何らかの形で保存したり、“記念物”を残す努力を望みたい。約80年の県都の歩みを見つめてきた建物をただ壊してしまうのは、やはり惜しい。
 同市に限らず県内には貴重な建築物はまだ多く、今後も同様の事態が起こり得る。計画時には配慮を求めたい。何より「壊して建て直す」から「生かしながら再開発」への転換が必要だろう。(鈴木 久)

131小説吉田学校読者:2006/09/28(木) 20:57:05
>>130
明らかに道路の邪魔でもありました。建物を壊さずに道路をギリギリに広げる福島市の街づくりがダメなのであります。おかげで狭い路地ばっかり・・

福島の位置は確かに変で、「郡山遷都論」もありますが、「福島県はオーストラリアに形が似ているんだから、シドニーとキャンベラみたいに政治と経済がある程度分離していてもいいんじゃないか」論もあるのも事実ではあります。
「行政、農政は福島、経済は郡山」みたいな区分けが地元に染み付いて、もう慣れているのも確かではあります。でも、経済発展は阻害しているよね。。

132とはずがたり:2006/09/28(木) 21:27:34
>>131
どんちゃんさわぎをした友人どもには理由を話して見に行くの付き合って貰ったのでしょうか??とまれ乙っす。

>行政、農政は福島、経済は郡山
行政=福島,商業=郡山,工業=いわきのイメージでしたが,最近福島は仙台に買い物客迄取られて衰退してるのではないでしょうか?
嘗ては東北一の人口を有する福島県の県都にして山形にも仙台にも近いという地の利が結局活用されませんでしたねぇ。

>でも、経済発展は阻害しているよね。。
県都がその政治力故に県内で一方的に発展するという構図は不健全だと思いますのでまぁこれでも良いのかもしれません。。

133小説吉田学校読者:2006/09/28(木) 22:21:17
>>132
いやあ、福交飯坂線のわびしさ最強。
東北電力福島支店は福島駅のすぐ近くにありますよ。
まあ、それはそれでありまして、福島の地の利は「山形にも仙台にも近い」んですが、どちらも山を越えなきゃいけないのがきついところですね。

134とはずがたり:2006/10/21(土) 12:32:23

角栄時代は遠くに成りにけり??

<田中角栄元首相>中越地震で破損の胸像、修復されずに2年
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061020-00000020-mai-soci

 新潟県中越地震で破損した小千谷市の故田中角栄元首相の胸像(銅製、台座を含む高さ2.5メートル)が、地震から2年たつ今もそのままになっている。修復の話も出たが、建てられた当時の関係者の多くが亡くなっており、資金が集まらないという。ロッキード事件で元首相が逮捕されてから30年。地元では「角栄先生の威光も昔話」とのぼやきが聞かれる。
 胸像が建てられたのは元首相が蔵相当時の1964年。当時の市長ら有力支持者が発起人となり資金を募集、市内の彫刻家に依頼し、信濃川を見下ろす神社に建てた。
 地震では土台のコンクリート部分が崩れ、台座も横に約30センチずれた。地元や長女の田中真紀子衆院議員の後援会関係者らから修復の声が上がったが、管理者が分からず、費用負担の協議もまとまらなかった。いまだに修復費の見積もりすらされていないという。
 同後援会の幹部は「(真紀子氏の)事務所に修復や移転を要望している」と話すが、長岡市の同事務所は「小千谷市の有志が作ったもので、直接関係ない」と当惑顔だ。
 胸像の向かいで、元首相がよく訪れた料亭を経営していた内山芳郎さん(76)は「地震で小千谷はめっきりさびれた。田中先生が生きていれば、復興はもっと良くなったはず」とさびしげに話した。【前谷宏】
(毎日新聞) - 10月20日13時26分更新

135今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/10/22(日) 09:18:58
>>134
角栄銅像といえばJR浦佐駅のものかとおもったら小千谷市ですか。
当時の市長って星野某ですかねえ。

私は北陸ツーリングにいったとき、銅像が長岡駅にあるかと思って駅前で
掃除してた老人に聞いたところ「みんなここ(長岡)にあると思って
聞くんだよなー」といわれましたw

136片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/11/23(木) 23:50:54
この資金提供って、どれくらいの意味合いがあったんだろう。

ライシャワー勧告で中止 自民党への秘密資金工作
http://www.sanyo.oni.co.jp/newsk/2006/11/23/20061123010003271.html

 ワシントン23日共同】1950年代後半から60年代にかけ、日本の保守政権安定と左派の弱体化を狙って自民党有力者らに資金を提供していた米中央情報局(CIA)の「秘密資金工作」は、工作発覚により日米関係に重大な支障が出ることを懸念した故ライシャワー駐日大使(当時)の勧告を受け、中止が決まったことが23日、分かった。関連文書の内容を知る米政府高官が共同通信とのインタビューで語った。

 自民党有力者と、旧社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に秘密資金を提供していた同工作をめぐってはことし7月、国務省刊行の史料集「米国の外交」で存在が確認された。しかし関連文書は公開されていないため、中止に至る経緯は分かっていなかった。

 高官はまた、米政府が秘密工作の中止に至る経過を伝える公文書3点の開示が、在日米大使館とCIAの反対で見送られたことを明らかにした。開示に踏み切った場合の日米関係への影響を危惧したとみられる。

 高官によると、ライシャワー大使は64年1月、国務省の要請を受け、秘密資金工作に関する意見を伝達。(1)日米関係が成熟し、親米政治家への資金提供の必要はなくなった(2)工作発覚時のダメージが大きい−ことを理由に中止を勧告した。

 高官は、ジョンソン米政権が最終的に工作中止を決める際、この勧告が「非常に決定的だった」と解説した。

 今年7月に国務省が出した「米国の外交」第29巻第2部「日本」は、秘密工作に関するライシャワー氏のホワイトハウスあて書簡など関連公文書を掲載せず「編集者による注釈」として秘密工作の概要だけを説明した。

137名無しさん:2006/11/25(土) 08:18:36
>>136
一番大きな効果は、社会党分裂・民社党結党('59〜'60)でしょう。

138名無しさん:2006/11/25(土) 08:20:58
左派弱体化狙い、秘密資金提供〜CIAが50年前、日本の保革両勢力に
http://www.usfl.com/Daily/News/06/07/0719_017.asp

 中央情報局(CIA)が1950年代から60 年代にかけて、日本の左派勢力を弱体化させ保守政権の安定化を図るため、当時の岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者と、旧社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に秘密資金を提供、旧民社党結党を促していたことが18日、分かった。

 同日刊行の国務省編さんの外交史料集に明記された。同省の担当者は「日本政界への秘密工作を米政府として公式に認めたのは初めて」と共同通信に言明した。

 米ソ冷戦が本格化した当時、日本を反共の「とりで」にしようと、自民党への支援に加え、左派勢力を分断する露骨な内政干渉まで行った米秘密工作の実態が発覚。日本の戦後政治史や日米関係史の再検証にもつながる重要史実といえそうだ。

 同省刊行の史料集「米国の外交」第29巻第2部によると、米政府は58〜68年「日本の政治動向への影響を狙った4つの秘密計画」を承認。アイゼンハワー政権は58年の総選挙前に「数人の親米保守の有力政治家」への資金提供を行うことをCIAに認めた。

 資金提供を受けた政治家には「米ビジネス界からの支援」との説明がなされたという。依然機密扱いの公文書を基に書かれた史料集は額や個人名を明かしていないが「適度の資金援助」が60年代も続いたとしている。

 またCIAは59年以降「左派穏健勢力」を社会党から分断し、「より親米で責任ある野党」の出現を目指した「別の秘密計画」を展開。民主社会党(後の民社党)が誕生する60年には、計7万5000ドルの資金援助を行い、秘密工作が打ち切られる64年まで同額程度の支援が続けられた。(共同)

■対米依存の「闇の構図」
 今回確認されたCIAによる日本政界への秘密資金工作は、当時先鋭化した米ソ対立や共産中国の台頭といった冷戦の激化を背景に、日本の左傾化を極度に恐れた米政府中枢の意思が介在した露骨な内政干渉だ。

 旧ソ連が旧社会党に資金提供していたことを示すソ連側文書はこれまでも見つかっているが、米国の秘密工作の影が、戦後政治の一角を占めた旧民社党の結党にも及んでいたことは衝撃的。日本の与野党が大国の資金提供を受けていた「闇の構図」が浮かび上がり、「55年体制」の新たな史的検証が必要となりそうだ。

 1958〜59年に立て続けに行われた総選挙、参院選などで資金が枯渇し、左派の躍進を強く懸念した自民党は、国内法的に違法性の高い外国からの資金援助に依存。明らかになった資料は、CIA主導の左派分断工作に乗じながら、保守長期政権の礎を築いていったことを示す。

 資金受領に携わった可能性がある岸信介、岸政権下で蔵相だった佐藤栄作両元首相らは、60年の日米安保改定や72年の沖縄返還という日米戦後史の大事業を成し遂げた親米保守政治家だ。

 安保改定や沖縄返還の際に「核持ち込み」の「密約」が交わされた経緯を考えると、米国の秘密資金工作が、「献金先」の親米保守政権が下した対米重要政策に影響を与えた疑念はぬぐえず、戦後の日米関係史にも見直しを迫る重要史実が今回確認されたといえる。(共同)

139とはずがたり:2006/11/25(土) 11:50:43
ううむ,民社の分裂で構造的に社会党が現実路線取れないばかりか,社会・民社の近親憎悪で共闘が巧くとれずに政権交代の機運を大きく削ぐなど罪は大きいなぁ。

140今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/11/25(土) 14:20:50
>>139
向坂老人が率い、旧社会党の地方組織を抑えていた社会主義協会
の存在をスルーするのは片手落ちだと思いますけどね

141とはずがたり:2006/11/25(土) 15:32:30
>>140
まぁ向坂先生のはあれはあれで正々堂々となされたことですから。。

142小説吉田学校読者:2006/11/25(土) 18:50:35
>>140
西尾派離脱は、非協会系党員大量離脱が痛い。これで、旧社会党の場合、左右対立が、左の多数の党員と右の少数の議員とに分かれる「上下対立構造」になり、党員に影響力を持った向坂翁率いる協会の教条主義を打ち崩せなくなってしまった。
歴史にifが許されるのであれば、西尾、河上派に支えられた江田委員長体制、見てみたかったです。そしたら、高沢寅男あたりが「左の社民連」を作っていたかもしれない。

143とはずがたり:2006/11/25(土) 18:59:09
>>140-142
勿論私も協会派に引っ張られれ現実路線が取れなかった社会党を手放しで認めてるわけではないっす。
むしろ「西尾、河上派に支えられた江田委員長体制」見てみたいですね。

なるほど,面白いっす>「左の社民連」
作るのは「早めに出来た新社会党」じゃないですかね?それとも「本土の社会大衆党」か?

144今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/11/25(土) 21:25:30
>>142
新自由クラブと社民連のジョイント(統一会派)も2年しか持ちませんでしたので…

145とはずがたり:2006/11/25(土) 22:43:18
>>144
新自由クラブ民主連合でしたっけ?
(右の)社民連は4人の所属国会議員を民社と社会の両会派に二人ずつ所属して接着剤たらんとしたりしましたが,左の社民連が出来てたならば社会と共産に半々で所属させたりして社共共闘させようと頑張ったりしたかもw

146小説吉田学校読者:2006/11/26(日) 07:09:09
>>144
「江公民」路線で、社会党の左派と民社党の極右派を切った社公民中軸路線。
社会党の左派は「左の社民連」を設立。人事・予算では閣外協力。個別政策はパーシャル連合。外にあって、社共対立、民共対立解消へと動く。

歴史にifあらせば、政権交代可能な体制が平成初めころには小選挙区導入待たずしてできていたかもしれない。

147今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/11/26(日) 08:39:35
>>145
統一会派結成記者会見のあとすぐに柿澤弘治(当時参院議員&党政策委員長)が
「政策面の合意ができないのに統一会派組むのは反対だった」
と離党したとか、なんともまあ。

148今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/11/26(日) 08:40:45
その13年後に柿澤さんは新進党結成時でも同じことやらかし、
結成パーティーに出る振りして逃げ出したりと

149片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/12/15(金) 22:07:32
ソ連と台湾が拒否権の応酬 日本加盟、土壇場で消える
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&amp;PG=STORY&amp;NGID=intl&amp;NWID=2006121501000570

 【ニューヨーク15日共同】日本が国連加盟を果たす前年の1955年末、日本など18カ国の加盟を認める安全保障理事会の決議案が、当時の国連で中国を代表し西側陣営に属していた中華民国(台湾)と、ソ連による拒否権の応酬の末、土壇場で否決された際の安保理内の具体的なやりとりが15日、国連の公文書で明らかになった。
 55年の加盟失敗の事実は日本の外交文書などで公開されているが、国連文書は当時の安保理内の「大国外交」の実態を生々しく記録している。日本は18日に加盟50年を迎えるが、文書は現在と同様、拒否権を持つ5常任理事国に翻弄される日本の姿を映し出した。

150片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/12/16(土) 19:20:04
国体明徴運動・・・http://www.c20.jp/1935/10meic2.html

天皇機関説学者を個別攻撃 報復警告し、転向を強要
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=MYZ&amp;PG=STORY&amp;NGID=intl&amp;NWID=2006121601000343

 【ワシントン16日共同】日本で軍部ファシズムの台頭につながった1935年の「天皇機関説事件」をめぐり、文部省思想局(当時、以下同)が憲法学者ら19人を「速急の処置が必要」など3段階に分類、機関説の修正に応じない場合は講義を担当させないなどの報復措置を警告し、学説の変更を強要していたことが16日、分かった。思想局の秘密文書が米議会図書館に保管されていた。
 事件から70年余。政府が学者を個別に攻撃、転向を迫る徹底した思想統制の過程が個人名や具体例とともに判明した。複数の専門家は、文部省による具体的な圧力の実態を記した文書が確認されたのは初めてだとしている。
 文書は、米国が終戦直後に日本で接収した「各大学における憲法学説調査に関する文書」で、計約450ページ。

文部省秘密文書の要旨 
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=MYZ&amp;PG=STORY&amp;NGID=intl&amp;NWID=2006121601000413

 【ワシントン16日共同】米議会図書館所蔵の旧文部省思想局の秘密文書「各大学における憲法学説調査に関する文書」の要旨は次の通り。(原文の大半は片仮名交じりの文語体)
 ▽天皇機関説論者の分類表(文書の題名、日付なし)
 一、速急の処置が必要な者。著書や講義内容の絶版、改訂を要求、受諾しない場合は著書の禁止を考慮。憲法講義を担任させない=中島重(関西学院大)、田畑忍(同志社大)、森口繁治、野村淳治(早大、明大)、宮沢俊義(東大)、浅井清(慶大)、中野登美雄(早大)、副島義一
 一、厳重な注意を与えることが必要な者。絶版、改訂を要求、受諾しない場合は憲法講義をやめさせる、または休講させる=佐々木惣一(立命館大)、野村信孝(明大、専大)、竹内雄(明大)、藤井新一(早大、日大)、渡辺宗太郎(京大)、河村又介(九大)、吉田一枝(関西大)、中村進午(立大、日大、拓大、上智大)
 一、(1)機関という語を使用させない(2)不穏当な個所を改めさせ将来を誓約させる−の点について注意を与えることが必要な者=西川一男(国学院大)、志田☆太郎(立正大)、田上穣治(東京商大専門部)
 ▽文部省部内メモ「憲法学説に関する件」(1935年8月10日)
 一、関西学院大の中島重教授の申し出によれば、機関説は講義しないことにしたとのこと。改説ではなく、自省して同説を説かないという。
 ▽竹内雄明大教授の上申書「憲法講義の根本的立場」(同年10月4日提出)
 一、天皇が最高決定者。国家意思は天皇意思。天皇が国家の機関として意思決定をされるのではなく、天皇が統治主体として意思を決定されることが国家の意思となる。
 一、拙著憲法原論は根本的に修正しつつ講義を進めている。
 ▽文部省思想局あて関西大の書簡(同10月7日)
 一、学長は文部省で専門学務局長に面会、指導取り締まりの方法などを拝承。自ら佐々木博士、吉田教授に面接、講義で一切天皇機関説に触れないよう注意し、両氏は了承。
(注)☆は金ヘンに甲

151片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/12/18(月) 09:44:09
鳥居龍蔵を京大に誘う 内藤湖南あて承諾の手紙見つかる 徳島新聞
http://www.topics.or.jp/News/news2006121706.html

 徳島市出身の人類学の先駆者・鳥居龍蔵(一八七〇−一九五三年)が東大講師時代の一九〇七(明治四十)年、東洋史学者・内藤湖南(一八六六−一九三四年)あてに送った、京大への転職を承諾する手紙が見つかった。湖南は当時、東洋史講座開設に際して京大に招かれており、鳥居を誘っていたとみられる。

 京大への転職は実現しなかったが、県内の鳥居龍蔵研究者らは「当時三十代だった鳥居が学界で大きな評価を得ていたことが裏付けられる、貴重な手紙」と話している。

 手紙は、湖南の孫・内藤敬子さん=京都市=が所有する百六十三通の書簡に含まれていたもので、谷川道雄・京大名誉教授らでつくる「内藤湖南研究会」(事務局・京都)の会員・名和悦子さん=岡山市=が整理中に確認した。

 明治四十年九月五日付で、「先日御はなしありし貴大学『人種学』云々の件小生は承知いたしました。都合によりて東京大学をやめてもよろしい」と記している。鳥居がきみ子夫人とともに教員として赴任していた蒙古カラチン(現在の中国内モンゴル)から送っている。名和さんによると、『人種学』とは、湖南が中心になって設立を進めていた「人類学教室」のこと。

 二人の交友については、一九〇五年に中国・奉天(現・瀋陽)での民族問題調査時に宿舎で同室となり親交を深めたことが、鳥居の「ある老学徒の手記」や湖南の「游清第三記」に記されているが、湖南が京大転職を持ちかけていたことは、これまで知られていなかった。

 前県立博物館長の天羽利夫さんは「鳥居は五十四歳で東大を助教授で去るが、もし京大へ移っていれば日本の人類史の歴史が変わっていたかもしれない」と話し、「湖南がどのようにして鳥居を誘ったのか、なぜ京大への転職が実現しなかったのか、県立鳥居記念博物館に残されている膨大な資料を整理・調査していけば、そのいきさつを解き明かすことができるかもしれない」と言う。

 また、その手紙には「家内よりもよろしく申居候 令夫人へもよろしく」とも記されており、同会会員の葭森(よしもり)健介・徳島大教授(中国史)は「鳥居と湖南の間に公私にわたる交友があったことがうかがえる。明治・大正期の研究者の交友関係がみえてくる点でも、非常に興味深い」と話している。

 ないとう・こなん 秋田県生まれ。本名・虎次郎。秋田県立師範学校卒業後、「萬朝報」主幹などを経て、1907年に京大の東洋史学の講師となり、09年から27年まで教授。東方文化学院京都研究所(現・京大人文研)評議員を務めるなど東洋史学の発展に貢献し、「京都学派の祖」と呼ばれる。

【写真説明】鳥居龍蔵から内藤湖南へ送られた手紙。京大への転職を受諾する内容となっている=内藤敬子さん所蔵

152とはずがたり:2006/12/20(水) 09:36:41
「中国正規軍による日本軍への不法攻撃」や「日中和平を拒否する中国側の意志があった」の表現になんら間違いは無いやろ。日本が中国に侵略していることに対しての反撃なんだから。ここをどう誤解されると云うんだ?ずれとるなぁ。

靖国神社:「遊就館」の展示 一部表現を変える方針
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061220k0000m010169000c.html

 靖国神社は19日、戦史博物館「遊就館」に展示している歴史記述で、当初は「見直す必要はない」としていた中国関連の記述について、一部表現を変える方針を決めた。10月に修正することを決めていた第二次世界大戦の米国関係部分に加え、来年1月1日から新しい展示に切り替える。

 新たに修正することを決めた中国関連の展示パネルは、「日露戦争から満州事変」「満州の歴史」「支那事変」の三つ。

 修正後の具体的な表現は最終調整中だが、例えば「支那事変」のパネルは、盧溝橋事件(1937年)が起きたきっかけとして、現在は「中国正規軍による日本軍への不法攻撃」や「日中和平を拒否する中国側の意志があった」などと表現しているが、「事実関係に誤りはないが、表現が足りずに誤解を与える部分があったので、もう少し柔らかい表現に言い換える」(監修関係者)という。他の2展示も、基本的には同じ考え方で見直す方針だ。

 また、記述の根拠となる史料として、中国側の刊行物も含めて多数提示し、一方的な記述ではないことを強調することも予定している。

 このほか「ヒトラー」「スターリン」「ルーズベルト」を同列に並べている展示方法や、「日米交渉」のパネルの記述についても見直す。

 同神社は今回の修正を「中間報告」と位置付けており、来年7月の遊就館新築5周年に向け、全面的な変更を検討している。【野口武則】

毎日新聞 2006年12月20日 3時00分

153とはずがたり:2007/01/08(月) 13:52:26

満州建国に尽力した故工藤忠資料館開館へ
子孫が春オープンへ準備
http://www.mutusinpou.co.jp/news/07010102.html

 満州国皇帝溥儀の侍従長を務めた板柳町出身の故工藤忠(本名・鉄三郎)さんの生家にゆかりの資料を展示しようと工藤さんの子孫の妻に当たる工藤静子さん(57)=同町小幡=が春ごろのオープンを目指して準備を進めている亡き夫正道さん=享年(63)=の遺志を継いだもので静子さんは「資料館のほか喫茶コーナーも設け地域住民に親しまれる場所にしたい」と意気込んでいる

 工藤さんは1882年(明治15年)生まれ。陸羯南らの影響で大陸への思いを募らせ、結氷の間宮海峡を徒歩で横断するなどして数回渡支。満州建国に尽力し、建国後は侍従長陸軍中将に任官され「忠」の名を賜った。その後日本に帰国し、1965年(昭和40年)に死去した。
 生家は築130年ほどで、広さは約260平方メートル。老朽化した母屋の活用法について数年前から夫婦で構想を練ってきた。だが2005年4月に正道さんが死去し、残された静子さんが私費を投じて志を継いだ。
 改築工事は06年4月から始まり、屋根と土台部分の直しを終えた。今後は内部を改装し、生家にある工藤さんの書、掛け軸、写真などのほか、町立郷土資料館に寄贈した資料約60点も併せて展示する計画だ。
 現在、陸奥新報の毎週火曜日付に、いずみ涼さん作「皇帝の森―ラストエンペラー溥儀と工藤忠」が連載されていることもあり、生家を訪ねてくる歴史ファンもいるという。郷土資料館長を務める中谷豊教育長は「激動の時代に活躍した郷土の偉人の遺品が実家に展示されれば、町民が(工藤さんに)再び目を向けるきっかけになると思う」と語り、関係者も「町の新たな観光スポットとなるのでは」と期待を寄せている。
 静子さんは「庭にはサクランボやクリなどの木があるので、展示館だけでなく庭も地域の子供たちのために活用したい」と夢を膨らませている。

154名無しさん:2007/02/16(金) 00:18:20
[正論]現代史家・秦郁彦 アジア女性基金の遅すぎる解散
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070206/srn070206000.htm

 ■誤解招く「河野談話」を取り消すべき

 ≪元慰安婦償い事業終了≫

 「アジア女性基金ニュース」第28号(最終号)なる刷り物が先日送られてきた。12年つづいた元慰安婦たちへの「償い事業」が今年3月末に終了、基金(村山富市理事長)が解散するというお知らせである。

 「償い事業への募金にご協力くださったみなさまへ」と題し、韓国、台湾、フィリピンなど計285人の元慰安婦たちに対する5億6500万円の支援事業が終わったという新聞公告を見たのは平成14年7月だから、「えっ、まだ解散していなかったの」とおどろく人もいよう。

 政府の補助金に全面おんぶするこの種の特殊法人は、あれこれと理由をつけては延命をはかるのが常道。女性基金も慰安婦たちのアフターケアが必要だとか、アフリカに女性会館を建てたいとか、いろいろと画策しているのを筆者も耳にしていた。

 ニュース28号でも和田春樹専務理事が「政府の形を変えた支援措置が望まれる」と未練たっぷりに書いているが、かねがね基金の事業を「税金の壮大な無駄遣い」とみなしてきた筆者は、仕事もないのに5年も延命させた責任を問いたいぐらいだ。ではなぜ無駄遣いなのか。

 国民から集まった浄財は5億円余だが、それを配る基金の人件費や事務経費に毎年3億〜4億円、合計すると50億円前後の国費を投入しているからである。

 しかも認定作業は相手国政府に丸投げ、送金は銀行がやるから、関係省庁や市民団体からの「天下り」職員は、時折開くシンポジウムのお膳立てか、作文コンクールの審査ぐらいでお茶を濁してきた。

 ≪米議会も対日非難決議案≫

 それでも国連のお墨付きまでつく日本の恥部にされてしまった慰安婦問題が決着したのなら50億円は安いものだが、そうはならなかった。野党3党は、この解決策は国が法的責任を回避するものだとして、韓国NPOなどと連携、別に公式謝罪と国家補償を軸とする救済法案を13年から何度も提出した。

 そのつど廃案になったが、まだあきらめていないようだ。条文のなかには「いまだ判明していない被害者の調査」もふくまれている。

155名無しさん:2007/02/16(金) 00:18:35
 こうした動きはアメリカにも飛び火して、同趣旨の慰安婦問題に関する対日非難決議案が下院に上程された。日本大使館の奔走もあり、決議案は昨年12月廃案となったが、日系3世のマイク・ホンダ議員らが中心となって1月31日、再上程にもちこんだ。

 さすがに自民党の有志議員による「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」小委員会は、いわゆる「河野談話」の見直しに向け、年頭から活動を始めた。

 河野談話とは5年8月4日、宮沢内閣の官房長官河野洋平氏(現衆院議長)が発表した政府見解で、新聞は「従軍慰安婦−政府、強制連行を謝罪」(読売)のみだしで報道した。筆者はその前日に担当の内閣外政審議室長から原案への意見を求められ、いくら政治的妥協とはいえ、たしかな証拠なしに強制連行を認めるかのような表現を入れると、必ずや将来に禍根を残すと切言したが、河野氏が事務局の抵抗を押し切ったとあとで聞いた。

 それから十数年、わが国では櫻井よしこ氏らの努力でこうした内情はかなり知られてきたが、海外では国連をふくめ、河野談話は日本の公式見解として定着してしまった。この誤解を解くには、285人の元慰安婦で官憲が強制連行した例は1件も見つかっていない事実をふくめ、河野談話を明確に否定する声明を出すしかないと思う。

 ついでに書けば、筆者は以前から河野という政治家のあやふやな歴史認識に危惧(きぐ)の念を抱いてきた。最近では昨年10月、ベトナムのズン首相を国会に迎えたとき「先の大戦で、わが国の軍政下において多数の餓死者を出したことを忘れてはならない」(10月25日付朝日)と挨拶(あいさつ)している。

 ≪ベトナム大量餓死の誤認≫

 餓死説の起源は、ホーチミンの独立宣言に出てくる「200万人餓死」のくだりだが、ベトナムはフランスの統治下にあり、日本が軍政をしいたのは餓死が下火になりつつあった昭和20年3月以降の5カ月にすぎない。

 それをフランスではなく日本の責任と言いだしたのはわが国の一部歴史家と運動家だが、ベトナム政府はその扇動に乗る気配はない。

 河野議長の迎合的言動をズン首相は黙殺したらしいが、朝日紙上で話を振られた河野氏は「過去を学ばねば流される」とのたまった。河野さん、まさか基金を作って謝罪と補償をと言い出さないでしょうね。(はた いくひこ)

(2007/02/06 05:53)

156小説吉田学校読者:2007/02/26(月) 07:10:28
酷評。国士なんてこんなもんだよ。

児玉氏・辻氏は使えず…米反共工作でCIA分析
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070225it16.htm?from=top

 【ニューヨーク=大塚隆一】米国の情報機関が東西冷戦初期、日本の戦犯容疑者や右翼を使って進めようとした反共工作や情報収集について、米中央情報局(CIA)が役に立たないケースが多かったと分析していたことがわかった。
 AP通信が24日、米国立公文書館で2005〜06年に解禁されたCIAの極秘文書をもとに伝えた。
 それによると、CIAなどの米国の情報機関は第2次世界大戦後、右翼の大物で後にロッキード事件の被告になった児玉誉士夫氏や戦犯容疑を免れた元陸軍参謀の辻政信氏らに接近した。
 しかし、CIAの文書は「彼らは自らの威信や利益のために情報をたびたび捏造(ねつぞう)した」「日本の戦後は、驚くべき数の、役立たずの情報提供者を生み出した」と指摘。工作資金を持ち逃げされたり、同じ情報が米国の複数の機関に売られたりした例もあったという。
 児玉氏の反共工作への関与の程度は不明だが、CIAは1953年の文書で、「情報要員としての価値は無きに等しい。彼はプロのうそつき、ギャング、ペテン師、大泥棒だ。もうけることにしか関心がない」と酷評。辻氏については、連合国軍総司令部(GHQ)の情報部門が対中工作を指揮させようとしたものの、逆に日本の再軍備のために米国を利用しようとしたと分析し、「第3次世界大戦さえ起こしかねない男」(54年の文書)と警告した。

157やおよろず:2007/02/26(月) 12:15:26
>>156

 この文からすると、辻政信は「国士」として評価できるような気がしますね

158小説吉田学校読者:2007/02/26(月) 21:20:26
稲田氏の場合は目的語が「写真」なのか「虐殺」なのか不明なので評価は避けますが、松原氏は「虐殺が事実無根」などと本当に言ったのか。
少数説までは、私も許容はできるのだが、さすがに「ゼロ」となるといかがなものか。感覚を疑われかねない。

「南京事件の真実を検証する会」が初会合
http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070226/ssk070226003.htm

 自民、民主の若手国会議員で作る超党派の勉強会「南京事件の真実を検証する会」は26日、国会内で初会合を開き、藤岡信勝拓殖大教授が中国系米国人、故アイリス・チャン氏が著書「レイプ・オブ・南京」で、「南京大虐殺」の証拠として掲載している写真の真偽を検証した。
 会合には自民党から14人、民主党から8人の国会議員が出席し、秘書らの代理出席を合わせると計48人が参加した。民主党の松原仁衆院議員は「虐殺が事実無根だということを資料を通じて国会議員が知っておく必要がある」とあいさつ。自民党の稲田朋美衆院議員は「うそだと分かっていることに抗議しないことが国益を損ない、国家の名誉を棄損している」と語った。
 藤岡氏はチャン氏の著書の写真11枚について合成部分や修正個所、写真説明の改変の跡を1枚ずつ説明し、「大虐殺があったとする証明の写真は、検証すれば間違いだと証明できる」などと指摘した。

159小説吉田学校読者:2007/02/26(月) 21:26:32
>>156-157
今亜寿氏でしたか「売国と簡単に言葉にするようなのは信用できない」と言いましたっけ。
私は、それと対になる形で「国難」とか「救国」とかいうのも信用できないんですねえ。

自民党結成資金の一部まで出して反共運動を起こしていた児玉氏ですけども、ならばなぜ共産党が少ないとはいえ国会に議席を持っているのか。
児玉氏に使った金はムダだったわけで、50年経ってCIA文書は、人物評価という一面をもってして輝きを持つのであります。

160とはずがたり:2007/02/26(月) 21:35:12
>>159
それらに加えて「国益」なんてのも同様かと。
まぁ煽りで俺も連発してますけどw
ネット上でも現実世界でも本気になって使っている人はちょっと疑ってしまいますねぇ〜。

161小説吉田学校読者:2007/02/26(月) 21:38:58
>>160
国益はまだ許容できるんですが、そこから発展して、「国益って具体的に何を指すのか」と問われると、みんな詰まるのね。右も左も。だったら使うなって(笑)。

162片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/26(月) 21:57:44
>>160-161
大まかな概念じゃないですかね。
個人対個人で面と向かってどうこうするのは場違いかと思いますね。
でも、外交や安保の話では使える場面もあると思うんですけど。

ちょっと関連する話題だと思うんですが、辛淑玉がゲストのこの嶌信彦のラジオが面白かったですね。
辛淑玉って悪評が立っている人という印象で、どういう人かその実知らなかった私ですけど。
http://www.tbs.co.jp/954/shima.html

163今亜寿@ ◆nlHjMum/8M:2007/02/26(月) 23:17:26
>>159
国益とか売国ってのは長い歴史のスパンで初めて
評価できる、そういう事象が多いのでは思ってる次第で。
そういう意味で幕末の小栗忠順や明治の小村寿太郎なんかは
じっくりといろんな文献集めて読んでみたい人物かなと思います。
(あ、もっとわかりやすく勝安芳がいたか)

164名無しさん:2007/02/26(月) 23:39:15
>>156
辻つながりで…1952・吉田首相暗殺&クーデター計画。

旧日本軍将校ら、吉田首相暗殺を計画…CIA文書
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070226it14.htm

 【ニューヨーク=大塚隆一】旧日本軍の参謀本部作戦課長を務め、戦後は連合国軍総司令部(GHQ)の秘密工作に関与した服部卓四郎氏らが1952年7月、当時の吉田茂首相の暗殺を企てていたとする報告が解禁された米中央情報局(CIA)の文書から見つかった。

 同年10月31日付のCIA文書によると、服部氏ら旧日本軍将校を中心とする6人のグループは、吉田首相が公職から追放された者や国家主義者に敵対的だとして不満を募らせ、暗殺によって首相を鳩山一郎氏にすげ替える計画を立てた。

 しかし、戦時中からの盟友で、グループの表向きの代表になっていた元陸軍参謀の辻政信氏が「クーデターを起こす時ではない」「敵は保守の吉田ではなく、社会党だ」と説得し、思いとどまらせたという。

 CIA文書には、計画の具体的な内容は記されていない。

 一方、同年に衆議院議員に当選した辻氏は61年、ラオスで消息を絶つが、CIA文書は北ベトナムからラオスを経て中国に入り、63年、共産党当局に拘束された可能性を指摘している。中国で処刑されたとする未確認情報もあるという。
(2007年2月26日22時1分 読売新聞)

165とはずがたり:2007/02/26(月) 23:53:15
wikiで辻とか小栗とか調べて読んでましたが,辻は参院議員にもなって挙げ句の果てに行方不明と波瀾万丈の人生ですな〜。

166やおよろず:2007/02/26(月) 23:57:26
>>158

 事実関係を詰めても、声の大きいほうが勝つのだから、徒労に終わる気がしますね
 
>>161

 ある程度、客観的に観測可能なものでないと、議論のしようがありませんね。

>>162

 交渉内容の有利さで、国益を測定できるのだ思いますが、
 国家目標がまったくわからないので、日本に関してはどこまで使えるのかはわかりませんが

167名無しさん:2007/02/27(火) 00:08:22
>>159
「地球市民」というのも信用できませぬw

>>162
相変わらず中身のない反日&韓国万歳だなぁ>シンスゴ
遠回しにホリエモン失脚を残念がっているのにワロタ
あと米軍にいる在日にインタビュー云々とさらりと言ってのけたけど、
[韓国籍+日本の特別永住資格+アメリカのグリーンカード(永住権)+市民権?]を
持っているというのはすごいな。
韓国に入国すると韓国の徴兵忌避で逮捕されそうな気もするけどw

168やおよろず:2007/02/27(火) 00:14:09
>>167

 株式保有という点からいくと、小泉政権時に「地球市民」化が一気に進みましたね
 特に、経済の中枢というべき銀行に関しても例外なく

169とはずがたり@自称コスモポリタン:2007/02/27(火) 00:27:06
>>167
地球市民は非常に素晴らしい発想だと思いますよ,胡散臭さはよくわかりますけど…w
近代国家など糞喰らえだヽ(`Д´)ノ

170とはずがたり:2007/02/27(火) 00:28:56
>>168
小泉には銀行株で資産倍増させて貰ったので頭あがらないかもっす。。

171やおよろず@マルクス主義者ではありません:2007/02/27(火) 01:02:45

 >>169

 資本主義は帝国主義的拡大を伴う(ローザルクセンブルグ)のでありまして、
 資本主義の力で、地球市民が誕生するのではないでしょうか?

 ドル危機論争で、危機否定の有力説として、
 資本主義の拡大により新興国が外貨準備としてドルを選択するので、ドル需要が拡大し、ドル暴落は起こらない
 というのを見て、まさに「資本主義」の「帝国主義的拡大」だなと思いました。


 しかし、近代国家崩壊後の世界は、無秩序か巨大権力による統治かの2者択一のような気がしますけど

172片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/27(火) 01:24:13
>>167
中身の無い反日なんですかね。
アメリカのことなんかは当たってる面があるなと思ったんですが。
反日に洗脳されますかね、私。

173片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/27(火) 01:33:55
>>169>>171
前にデヴィッド・ヘルド読んでそのへん勉強したけど、もうすっかり抜けちゃってる。哀しい。

174片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/27(火) 01:57:11
ちょっと読み返してみましたが、
ハイエクが理想としていたような「国境による制約を受けない市場」と裏表の関係にありますね、コスモポリタンな考え方は。
地球市民というのがコスモポリタンな法の支配(国境を越えた市場のもとでの自律性確保)を求める考え方だとすれば、小泉政権時云々ってのはよくわからないですけどね。

なんだかよくわかりませんが、結局、暴力による担保をゼロにはできないから、一般的イメージにあるような脳天気な「地球市民」的な考え方じゃ行き詰まりますよね。

175やおよろず:2007/02/27(火) 02:23:06
>>174

>>ハイエクが理想としていたような「国境による制約を受けない市場」と裏表の関係にありますね

 ハイエクに関しては、仮想しているのがパクスブリタニカであり、国際化による倫理の崩壊まで考えが及んでいなかったという批判があります。

 ハイエクにしてもマルクスにしても、市場における運動法則に絶対の信頼を置いていたので、突き詰めて考えれば結論が似たものになるのは、まあ必然的でしょう。

>>小泉政権時云々ってのはよくわからないですけどね。

 日本においては小泉政権時にコスモポリタンな法の支配が確立したということです。

>>暴力による担保をゼロにはできないから

 ゼロどころか、現在よりも格段に強力な暴力を必要とすると思います。

176片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/27(火) 02:40:44
>>175
やおよろずさんより経済わかってないと思うのでそのへんはご勘弁ください。

>市場における運動法則に絶対の信頼を置いていたので
なるほどと思いました。

コスモポリタニズムな法の支配とは、むしろ、超国境市場の現実におされる個人(市民)の政治的権利や自律性を確保するためと思われるので、あえて小泉政権というのもどうかなと思うんですけど。
グローバリズムという意味では小泉政権ってのもアリだなとは思いますが。コスモポリタニズムの要請が強まる状況を出来したという意味で(まだ日本ではそこまで個々人困窮してないかもしれないけど)。
まぁ定義とかイメージの問題で、「地球市民」を現状に結びつけるのも絶対ダメというわけではないでしょうけど。

>ゼロどころか、現在よりも格段に強力な暴力を必要とすると思います。
だから、無政府主義とか単一政体主義とかは、明らかに無茶な志向ですよね。
一方で、コスモポリタニズムは、突拍子も無いその名称ながらw、現実的路線もありうる。市場任せの「自由」に対して個人の「自由」を守るための介入はどうなされるべきかという、程度問題として出てくる。

しかし、まぁこういうのも、曖昧な言葉だから、説明無しに使ったり使う場面を間違えると、「国益」と同様なのかも。

177とはずがたり:2007/02/27(火) 04:43:33
みんなお詳しいですなぁ〜・・。
特にやおよろず氏は片言丸氏と同じ分野の人かと思ってましたが経済畑の人でしたん??

>>171
>資本主義の力で、地球市民が誕生するのではないでしょうか?
そうだと思いますよ。
先進国の労働者が資本主義の発展の過程で富裕化(マルクス的に云えばプチブル化)して,資本主義が(マルクスが想定したような社会主義ではなく)修正資本主義に変成しつつ,資本主義下の労働者が社会主義革命への担い手たることを止めた(むしろ社会主義への反対者として立ち現れるようになった)訳ですから,コスモポリタンが(修正)資本主義(今日風の言葉で言えばグローバリゼーション?)の裏打ちがあって成立してたとしてもまぁ宜しいかと。

>ゼロどころか、現在よりも格段に強力な暴力を必要とすると思います。
俺は憲法九条を非現実的だと思いながらもその理想論を是とする人間ですから。
その理想を前提としつつ,暴力やパワーポリティクスにどう対処してゆくかは現実的に思考すべきであると思ってます。

178やおよろず:2007/02/28(水) 13:55:59
>>176

>>超国境市場の現実におされる個人(市民)の政治的権利や自律性を確保する

 これの役割を果たすのが、国家でしょうな。
 さらに、その権利や自立性の内容は、国家による差異があってしかるべき。
 この辺の普遍化は、世界を支配するような巨大権力による圧制にほかなりません。

>>市場任せの「自由」に対して個人の「自由」を守るための介入はどうなされるべきか

 市場運動の完全性を仮に認めたところで、市場均衡は永久に達成されない。
 経済は均衡点の周囲の円状を周回し、不均衡状態が継続し続ける。
 という論もあります。(岩井克人「不均衡動学論」岩波書店・・私の理解が間違っているかもしれないので、時間があれば是非お読みください)

 氏は、その不均衡状態の正体は、さまざまな形での「差異」である。
 また、その不均衡状態が利潤を生み出す企業活動を引き起こすのだ、というように展開しています。

 市場の「自由」から守るべき個人の「自由」とは、この差異性ではないでしょうか?
 国際化の流れの中では、個人に限らず万物が標準がされていきますから、そこから守るべきものは「差異」ではなかろうかと。
 国境を設ければ、人間は普遍的な個人ではなく、国民になります。

 かなり荒い論立てですが、このようなことからも、現実的なコスモポリタニズムこそが、現存の国民国家体制ではなかろうかと思います。


>>177
 
 >>先進国の労働者が資本主義の発展の過程で富裕化(マルクス的に云えばプチブル化)して,
   資本主義が(マルクスが想定したような社会主義ではなく)修正資本主義に変成しつつ,
   資本主義下の労働者が社会主義革命への担い手たることを止めた(むしろ社会主義への反対者として立ち現れるようになった)訳ですから,
   コスモポリタンが(修正)資本主義(今日風の言葉で言えばグローバリゼーション?)の裏打ちがあって成立してたとしてもまぁ宜しいかと。
 
 19世紀に近代国として成立した諸国家について普遍的に当てはまる事実だと思います。
 しかし、これは史上最大の経済成長に支えられた、一過性のものではないでしょうか?
 「修正」資本主義の「修正」の部分が統一されていくのが、現在進行形の「国際化」の姿かと思います。
 「修正」の統一は不可能であるか、強国モデルの世界標準化でしょうから、「自由」か「強圧」かの選択になることと思います。
 よって、無修正資本主義、または、アメリカ資本主義によるコスモポリタニズムにしかならないのではないかと懸念しています。

 >>コスモポリタンが(修正)資本主義(今日風の言葉で言えばグローバリゼーション?)の裏打ちがあって成立してたとしてもまぁ宜しいかと。

 まだ完成の状態ではなく、国家による修正があります。
 純正資本主義が存在するかどうかは、また別の議論でしょうけど、各国に修正権のあるうちは、コスモポリタンの完成とはいえないでしょう。

 コスモポリタンの概念にやや近いのは、ヨーロッパ諸国でしょう。
 少なくとも金融が超国家権力に握られていますから。
 国民国家とはまったく別の次元で、統一的な標準が作られていくわけですから。
 超国家機関に権力を握られては、民主主義の手から権力が離れたも同然であり、このような事態が各分野で進展していくことこそ、地球市民化でしょう。

179やおよろず:2007/02/28(水) 14:19:44
訂正
×「不均衡動学論」
○「不均衡動学の理論」

180片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/28(水) 15:29:36
>>178
いろんな方向から語れる問題であるだけに、言葉遣いが難しいですね。

”国に属している、地域に住んでいるという意識がなければ
語り始める土台を有さない人になってしまう”、という意味で言えば、
「地球市民」をグローバリズム全面擁護の人と見ることになるし。
(地元アイデンティティがないなら、
 「他をさておき我が地域を守れ」と主張するのは矛盾的だし。)

ですが、ボーダーレスな企業活動をする側でなく、
むしろその現状を危惧する立場から「地球市民」という言葉を使ったりすることが実際は多いんじゃないでしょうか。
たとえば、「フェアトレード」を提唱したりする人たちとか。

日本では、あまり深い考えなしに、平和的国際的人的協力とか、反戦非戦運動とか、
そういうのを主張する人たちが使ったり、逆にそういうのを嫌う人たちが使ったりしてる感じですが。

そういう意味では、地球市民という言葉はワケがわからない。

近年のグローバル化反対勢力ですが、やおよろずさんの定義での「地球市民」に反対してるみたいなことになりますが、一体どうなってるの、と。
http://www.ken1.tv/kizon/article9912.html



話がバラっとしてしまいましたが、直接の返答をしておくと、
単一政体化は>>176に書いたとおりもちろん無茶なものであるけど、
政治的権利や自律性というものは、国家間の差異と簡単に片付けられるものではなく、
それが保障されるように、国際間で協力して努力するというのはよいことだと思います。
それが保障されることが圧制(圧政?)というのはおかしいと思います。

確かにEUだと、EUの政策決定にEU民が直接的に関与するのが難しくなり、
そういう意味では一定の政策に関する政治的権利や自律性が失われがちといえるかもしれませんし(それでも直接選挙の欧州議会ってありますけど)、
それが進んでいき、国をまさしく統合したり、国の意義が代議員輩出のみになったりすると問題でしょうけど、
現状、政治に参加しておおよそのことを言う権利やおおよそのことを決める自由がそれぞれの国で守られ、
基本的に各国民がそれぞれの国・地域の政策を決しているのであり、そういう状況を圧政とはいわないんじゃないでしょうか。

181やおよろず:2007/02/28(水) 23:05:59

>>近年のグローバル化反対勢力

>* 例えば各国が持つ、環境・労働基準・公衆衛生・消費者保護などの規則がある。WTOの主な役割の一つは、貿易上の非関税障壁撤廃なので、貿易促進の立場から見ればこうしたルールも「障壁」だ。そうなると、これらの「調和」を図るべく、最大限の保護効果を上げている加盟国の法律が、最も自由な=保護力最低ラインの国の水準に引き下げられる恐れがある。(悪しき過保護の撤廃は良いにしても。)自給自足でうまくいってる農村に、多国籍企業が「WTO」の旗を掲げて入って来て、新しい市場のルールがあてがわれ、自給も出来なくなってしまう、という懸念がある。
>* ある産品の輸入を衛生上の問題や環境破壊の危険があるとして拒むなら、売る側が無害性を示すのではなく、拒む側が有害性の科学的根拠提出を求められる。 これは、市民運動のみならず、加盟国間の根本的な対立の一つだ。例えば、成長ホルモン漬け牛肉、遺伝子組換え作物に慎重でありたい社会への輸出攻勢などが、これに当たる。
>* 外国産品に対する差別の禁止原則(自国産品同様に扱え)…というと聞こえは良いが、「我が社会の尺度では許されない人権無視の生産方法だ」と考えてある産品の輸入を拒否しても、制裁されてしまう可能性もある。
>* 「農産物の自由な輸出入」で食糧危機国から穀物が、「林産物の自由な輸出入」で森林破壊国から丸太が、歯止め無く流出する。
>* 絶滅危険種や有害廃棄物の取引は防げるか?
>* 武器貿易に歯止めがかけにくくならないか?

 1番目に凝縮されてますね。

>>近年のグローバル化反対勢力ですが、やおよろずさんの定義での「地球市民」に反対してるみたいなことになります

 「地球市民」に反対しているかどうかは、微妙ですね。
 環境・労働・消費者保護・武器取引が、この団体の言うように規制されたとしたら、この団体は反対運動を起こすでしょうか?
 逆に、多国籍企業は「グローバリズム」大反対!となるのではないでしょうか?
 この団体連合軍は、「グローバリズム自体」ではなく、「グローバリズムの中身」に異議を申し立てているのではないでしょうか?

 私は「グローバリズム」自体に反対しているわけです。
 「グローバリズム」は、絶対的「自由」か画一的「倫理」、または両者の混合でしか、なしえないと思います。
 「自由」は「倫理」の放棄に他ならないからです。
 旧来の倫理観から解き放たれることが「自由」であり、そこでは自分の「倫理」が通用しない。
 「自由」を絶対視すれば、「倫理」の出る幕はない。
 自らの「倫理」が通用していた領域が「自由」に蹂躙される。
 古来から延々と続く「倫理」を墨守しろという意味ではありません。
 変えるにしろ守るにしろ、もっと慎重であるべきだということです。
 「自由」を絶対化すること・「倫理」が画一化されることは、危険であると主張したいわけです。

 国家を絶対視しているわけではありません。
 できることなら地域・職域に細分化された「民主」が望ましいと思います。
 しかしながら、地域・職域が実力で「倫理」を維持するだけの力はないのではないかと思います。
 よって、国家がこの地域・職域の「倫理」を守るということが必要ではないかと思います。


 私には手に負えない壮大なテーマなので、駄文かつ長文なのを、お許しいただきたい。

182やおよろず:2007/03/01(木) 12:39:10
河野談話 慰安婦「強制性」に韓国から働きかけ

 宮沢内閣末期の平成5年8月、河野洋平官房長官(当時)は「慰安所の設置、管理および慰安婦の移送は旧日本軍が直接、間接に関与した。慰安婦の募集は、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、甘言、強圧によるなど本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、官憲等が直接これに加担したこともあった」とする談話を出した。

 官憲による慰安婦募集の強制性を認めたもので、韓国などにより、日本政府が正式に慰安婦の強制連行を認めたと拡大解釈、宣伝された。

 しかし、談話の根拠は元慰安婦女性からの聞き取り調査だけで、9年3月の参院予算委員会で平林博内閣外政審議室長は「個々の証言を裏付ける調査は行っていない」と答弁。河野氏自身も同年、自民党の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の会合で「強制的に連行されたものかについては、文書、書類では(証拠は)なかった」と述べている。

 証拠がないにもかかわらず、政府が強制性を認めたのはなぜか−。河野談話作成にかかわった石原信雄元官房副長官によると、当時、韓国側は談話に慰安婦募集の強制性を盛り込むよう執拗(しつよう)に働きかける一方、「慰安婦の名誉の問題であり、個人補償は要求しない」と非公式に打診していた。日本側は「強制性を認めれば、韓国側も矛を収めるのではないか」との期待感を抱き、強制性を認めることを談話の発表前に韓国側に伝えたという。

(2007/03/01 11:00)

http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070301/ssk070301000.htm

 ことなかれ主義が、問題を拡大させたって事かな?

183小説吉田学校読者:2007/03/02(金) 06:57:19
南京虐殺の方に対する私の書き込みに反応が大きいかなと思ったのですが、コスモポリタンまで話が及ぶところ、さすがの論客陣であります。

情けない話で、バカがやったことだと思います。他方、真面目に書き込む人もいるわけですから、撤去までするのはいかがなものか。該当部分を墨塗りすればいいんじゃないか。
だいたい、こういうノート、設置する側は「何を書かれても受けて立つ」意気込みが大事であると思います。だったら、最初から置かなきゃいい。他にも「手紙」投函箱とかやり方があるわけだし。

平和資料館ノートに落書き=ハングル感想文に差別用語−広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070301-00000151-jij-soci

 広島市の平和記念資料館が見学者に感想を書いてもらうために設置している 「対話ノート」に、悪質な落書きが見つかったことが1日、分かった。ハングルや中国語の感想に対して、韓国人や中国人らを差別する言葉が書かれていたといい、同館はノートを撤去した。
 ノートは1970年に設置されて以来1000冊目に当たり、撤去は初めてという。 同館によると、4カ所に韓国人らを直接、やゆする差別用語が書かれていた。このほか、「しょせん君らは僕らの植民地です」など、約12カ所に差別的な文言が記されていた。筆跡から同一人物によるものとみられる。

184とはずがたり:2007/03/02(金) 10:21:46
「西郷は征韓論」記述を削除 知事の要請で教科書出版社
2007年3月1日(木)22:06
http://news.goo.ne.jp/article/kyodo/nation/CO2007030101000825.html?fr=rk

 西郷隆盛らの征韓論を記述した日本史教科書に、西郷が朝鮮との平和的交渉を目指したとする「遣韓論」も併記するよう鹿児島県の伊藤祐一郎知事から要請を受けた教科書出版社7社のうち1社が、「西郷は征韓論を唱えた」との記述を削除していたことが1日、分かった。伊藤知事が県議会で自民党県議の質問に答え、明らかにした。記述を変更したのは、第一学習社(広島市)発行の高校向け日本史教科書。

185とはずがたり:2007/03/02(金) 10:25:41
>>156-183あたり
ちょいと忙しくて真面目に議論に参加できてないのですが,現代の近代国家体制が現代の多様で多元的な市民社会の擁護者として健全に機能しているというのがやおよろず氏の主張でしょうか?
大変説得力がありましたが,近代国家群として正常に機能しているヨーロッパがEUの壮大な実験で超国家機関をつくろうとしている一方,国民の収奪機関に成り下がっているアフリカ諸国の"国民国家"を見るに近代国家の超克の必要性を強く感じます。
定義にもよりますけど,其処迄厳密に地球レベルの国家権力を造って全世界人がその支配に服することという発想が地球規模の近代国家を作ろうとしているだけの発想にも思えます。
中世というのは日本も西洋も多元的な権力体系が存在しましたが,それが一定地域の最高権力として絶対王政ついで近代国家が掌握する過程が近代化だったように思われますけど,偏狭なナショナリズムの源泉となったり,アフリカの部族社会に無理矢理当てはめられた近代国家という存在を理想に基づいて改良して行く事は人類にとって必要であろうと思います。
もっと細かい皆さんの論点や用語法を質問して整理したいのですがまとまらないので取り敢えず暫定レスで失礼。

>>183
>バカがやったことだと思います。他方、真面目に書き込む人もいるわけですから、撤去までするのはいかがなものか。該当部分を墨塗りすればいいんじゃないか。
>だいたい、こういうノート、設置する側は「何を書かれても受けて立つ」意気込みが大事であると思います。
たしかに。仰るとおりですな〜。

186やおよろず:2007/03/03(土) 18:36:35
 この議論に含まれる様々な論点を含んでいると思うのでドイツを例に論を展開します



近代ドイツ成立小史

1789 フランス革命

1792 フランス革命への干渉戦争

1806 ライン連盟の成立
     
     神聖ローマ帝国終焉

1807 ティルジット講和

1813 諸国民戦争

1815 ウィーン会議

     ドイツ連邦の成立

1834 ドイツ関税連盟の成立  
     
1848 三月革命

1850
〜59 ドイツが工業国化の進展

1862 ビスマルクが首相に就任

1864 対デンマーク戦争

1866 対オーストリア戦争

1867 北ドイツ連邦の成立

1870 普仏戦争

1871 ドイツ帝国の成立

187やおよろず:2007/03/03(土) 19:20:38
1フランス革命

 フランスは、絶対王政からフランス革命と混乱期を経て、ナポレオン時代に突入した。
 ドイツはフランスの混乱を見て、「革命」ではなく「改革」を選択した。

2ライン連盟

 ライン連盟が、オーストリアのナポレオンに対する相対的劣位が明確になったため、フランスの庇護を受けるために結成される。

3神聖ローマ帝国の終焉

 ライン連盟諸国の神聖ローマ帝国からの脱退。
 オーストリアも神聖ローマ皇帝の帝位を返上。
 中世秩序の残存たる教皇=皇帝(国王)の関係が名実ともに消滅した。

4ティルジット講和以降

 ナポレオンの事実上の支配下に入ったドイツ諸国が、「農奴解放」「都市条例」など近代国家としての形式を整える。
 領邦国家レベルでの「改革」が進展する。

5諸国民戦争など対ナポレオン戦争

 プロイセンで「愛国運動」が起こり、ロシア遠征に失敗したナポレオンと戦う。
 オーストリアも反ナポレオン陣営につき、ナポレオン=フランスは相対的劣位に立たされる。
 形勢の逆転を見て、ライン連盟諸国も反ナポレオン陣営につく。

6ウィーン会議以降におけるドイツの工業化

 ウィーン会議により大規模戦争は休止の期間を迎える。
 その間、プロイセンでは工業化が進み、オーストリアとの間で経済的な優位が明確になる。

7ドイツの改革

 ナポレオン支配下から継続して改革が進む。
 フランス「二月革命」の影響で、ドイツでも「三月革命」が起こる。
 ナポレオン時代の課題が、この期に進展する。

8「大ドイツ」統一

 オーストリアはハンガリー・イタリア・ボヘミアを版図としており、多民族国家となっていた。
 各地で民族主義的蜂起が頻発する。

 オーストリアは工業面でプロイセンに立ち遅れる。
 オーストリアは関税面で折り合わず、ドイツ関税連盟に加入することは拒否する。

 民族主義の勃興と工業面の立ち遅れで、大ドイツ統一の試みは失敗する。

9「小ドイツ」統一

 北ドイツの勢力をのばしていたデンマークとの戦う。
 戦後処理を巡ってプロイセンとオーストリアが戦争する。
 オーストリアに加担した諸国を併合し、残りの諸国を参加に治める。
 この過程でビスマルクは、自由主義者からも支持を受けるようになる。

 南ドイツ諸国は北ドイツ連邦に参加しなかったものの、関税同盟を通じて北ドイツとの結びつきを強める。
 普仏戦争にはプロイセン側として参戦し、ドイツ連合軍としてフランスと戦う。
 これをきっかけに、南ドイツ諸国もドイツに加入し、「小ドイツ」の統一が達成される。

188やおよろず:2007/03/03(土) 19:42:21
>>185

>>地球レベルの国家権力を造って全世界人がその支配に服することという発想が地球規模の近代国家を作ろうとしているだけの発想にも思えます。

 ドイツの例は様々な要素を含んでいるとは思いますが、近代ドイツ成立の要因の一つは「反ナポレオン」では無いかなと思います。
 つまり、ナポレオンによって祖国を奪われた反動がプロイセンを反ナポレオンへと向かわせたのではないでしょうか?

 地球レベルでの国家権力の創造過程で、反対に民族意識が強まるおそれも十分に考えられます。


>>アフリカの部族社会に無理矢理当てはめられた近代国家

 これは、ドイツのパターンでは、オーストリアに近い形の国になっているものと思われます。
 これでは、国家に対する諸部族の反発が絶え間なく続くのではないかと思います。
 オーストリアの安定期は、宗教的支配によるものだったわけで。
 部族ごとに宗教のあり方の異なる連合国家は解体すべきと思います。
 
 理想形は、小国分割と、その枠組みを守るための国連軍の駐留です。
 
 また、この点、同じく人為的国境が引かれた中東諸国で超国家的に宗教勢力が「活躍」しているのは、とても興味深いことです。

>>国民の収奪機関に成り下がっているアフリカ諸国の"国民国家"

 国民の貧困の主因は人口爆発でしょう。
 人口抑制策に対する国の無作為、教育水準や生活水準を向上させるための援助物資の横領により、この主因に対応できていない。
 このような構造ではないかと思います。
 収奪の定義にもよりますが、民間企業の収奪の方がもっと過酷なのではないかと思います。

189名無しさん:2007/03/08(木) 00:35:50
朝日新聞 [社説]2007年03月06日(火曜日)付
「慰安婦」発言―いらぬ誤解を招くまい
http://www.asahi.com/paper/editorial20070306.html

 旧日本軍による慰安婦問題をめぐって、安倍首相の発言が内外に波紋を広げている。

 首相は先週、記者団の質問に答えてこう述べた。「当初、定義されていた強制性を裏付ける証拠はなかった。定義が変わったことを前提に考えなければならない」

 これが米国などで「安倍首相、戦時中の日本による性奴隷を否定」「安倍首相、性奴隷に証拠なし」などと報じられた。韓国の宋旻淳外交通商相が不快感を示したりもした。

 だが、この解釈は行き過ぎていたようだ。きのうの参院予算委員会で民主党議員に真意をただされ、首相は何度も「政府の立場は河野談話に書いてある通りだ」と繰り返した。

 この問題についての日本政府の公式見解は、93年に出された河野官房長官談話である。旧日本軍が慰安所の設置などに関与し、「総じて本人たちの意思に反して行われた」と認めた。慰安所での生活について「強制的な状況の下での痛ましいものであった」としている。

 首相は就任直後に、この談話を受け継ぐと表明した。そのスタンスは何ら変わらない。誤解はやめてほしい。そう言いたいのだろう。

 首相には「強制性」について、こだわりがあるようだ。それが首相の発言をわかりにくくしている。

 女性を集めた業者らが事実上強制をするような「広義の強制性」はあったが、当局が人さらいのように連行するといった「狭義の強制性」はなかった。きのう、首相はそう説明した。

 だが、いわゆる従軍慰安婦の募集や移送、管理などを通じて、全体として強制性を認めるべき実態があったことは明らかだろう。河野談話もそうした認識に立っている。細かな定義や区別にことさらこだわるのは、日本を代表する立場の首相として潔い態度とは言えない。

 首相の一言が大きな波紋を呼んだのは、首相自身がかつて河野談話を批判する議員グループの先頭に立ってきた過去があるからだ。

 このグループは、いまも河野談話の修正を求めようと議論を進めている。米国の下院に、慰安婦の問題をめぐって首相の公式謝罪を要求する決議案が出されたことに反発しているようだ。

 政府は河野談話に基づいてアジア女性基金を発足させ、元慰安婦への償いの事業に民間と協力して取り組んできた。自民党が連立する村山政権の時からだ。

 以後、橋本龍太郎氏から小泉純一郎氏まで4代の自民党首相が「おわびの手紙」に署名し、元慰安婦に送ってきた。戦争で蹂躙(じゅうりん)してしまったアジア諸国との和解のために、官民が連携して積み上げてきた努力なのだ。

 首相は政権として方針を決めた以上、要らぬ誤解を招く発言は避けるべきだ。日本の信用にかかわりかねない。米議会に対しては、こうした首相の手紙などの取り組みを説明すればいいことだ。

190名無しさん:2007/03/08(木) 00:36:06
3月7日付・読売社説(1)
 [慰安婦問題]「核心をそらして議論するな」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070306ig90.htm

 いわゆる従軍慰安婦問題の核心は、官憲による「強制連行」があったかどうかだ。

 米下院外交委員会で慰安婦問題に関する対日決議案が審議されている。日本の軍隊が若い女性を「強制的に性的奴隷化した」歴史的な責任を明確に認め、日本の首相は謝罪すべきだ、という内容だ。

 日本軍が組織的に「慰安婦狩り」をしたかのように決めつけている。だが、日本政府の調査でも、これを裏付ける文書はない。歴史家の間でもこうした事実はなかった、というのが「定説」だ。この決議案を提出した議員らは、これらを覆すだけの確かな資料があるのか。

 安倍首相は国会で、決議案は「客観的事実に基づいていない」と語った。麻生外相も、同様の見解を示して「甚だ遺憾だ」と述べた。曲解に満ちた決議案である以上、政府は事実を正確に説明して、採択を阻止しなければならない。

 首相は、慰安婦の募集について、「狭義の意味の強制性を裏付ける証言はない」と強調した。「官憲が家に押し入り、人さらいのごとく連れて行く、『慰安婦狩り』のような強制的なもの」、つまり、官憲による強制連行はなかったということを明確にした。

 その一方で首相は、民間業者による、本人の意に反した「広義の強制性」があったことを認めた。だが、こうしたケースと、軍による強制連行とは、まったく違うものだ。

 「強制性」を拡大解釈し、核心をそらして非をならす一部のマスコミや国会議員らは、今後も内外に誤った認識を広げるだけだ。

 それにしても、この問題は、なぜ、何度も蒸し返されるのか。

 その最大の理由は、1993年、当時の河野洋平官房長官が発表した談話にある。それには、慰安婦の募集に「官憲等が直接これに加担した」などと、日本軍が強制連行したかのような記述がある。だが、これが裏付けのないまま書かれたことは、元官房副長官らの証言ではっきりしている。

 自民党の有志議員らは、談話のあいまいな表現が、誤解を生む原因になっているとして見直しを検討中だ。米下院の決議案は、「談話の内容を薄めたり、撤回したりする」ものとして、こうした動きをけん制している。しかし、不正確な談話を見直すのは当然のことだろう。

 河野談話を発表した背景には、韓国側の圧力を前に「強制連行」さえ認めれば問題を決着できるとみた甘さがあった。政府は米下院決議をめぐり、再び、外交上の失策を繰り返してはならない。

(2007年3月7日2時0分 読売新聞)

191とはずがたり:2007/03/19(月) 03:10:33
>>186-189
大学時代経済政策と云いながら独逸経済史が専門の先生のゼミについてまして,独逸統合過程には関心があり国民経済の統合の興味深い例として俺も注目してます。但し後進資本主義国の国民国家形成の典型的に扱われる独逸では有りますが,現代から見ればやはり市民階層の形成やハンザ同盟や中世やそれ以前からのヨーロッパ経済圏の蓄積を考えるとやはり先進国としての一例に過ぎないとも云えるのではないかと思います。

>>地球レベルでの国家権力の創造過程で、反対に民族意識が強まるおそれも十分に考えられます。
個人的にはいきなり強権的な国家権力の様なものを造れと主張している訳でも出来ると想定している訳でもありません。EU統合の様に必要に応じて様々な葛藤の中でコンセンサスを積み上げてゆく中で現代の近代国家システムがよりよいものにすべきであって固定的に枠組みを考えてしまう事はないと思います。

>これは、ドイツのパターンでは、オーストリアに近い形の国になっているものと思われます。
旧オーストリア帝国の跡地は民俗と国家の版図が一致せず少数民族が発生してますがヨーロッパのような近代的市民階級がちゃんと蓄積している所は未だマシでありまして,アフリカの部族社会は近代国家の担い手たる市民階層が出来ていないのに形式的に近代国家を作ってしまった点に悲劇があるのであると思います。

>理想形は、小国分割と、その枠組みを守るための国連軍の駐留です。
いいですね。アフリカ諸国が自決を考えるならアフリカ連合が主導すれば良いんでしょうけど「近代国家」の利害を超越的に振る舞える組織では現段階では無さそうです。。

>国民の貧困の主因は人口爆発でしょう。
近代化の先駆として人口爆発が起きることもあり必ずしも人口爆発が貧困の原因であるというのは専門家のコンセンサスにはなってない面もあるようです。

>収奪の定義にもよりますが、民間企業の収奪の方がもっと過酷なのではないかと思います。
紛争地域は国家による収奪が主でしょうし,平和な国家では欧米の多国籍企業と現地の国家が結託して収奪している事も多いでしょうからどちらが過酷かは一概には決められない気もします。

亀レス失敬でした。

192やおよろず:2007/03/19(月) 05:02:42
>>いきなり強権的な国家権力の様なものを造れと主張している訳でも出来ると想定している訳でもありません。
 EU統合の様に必要に応じて様々な葛藤の中でコンセンサスを積み上げてゆく中で現代の近代国家システムがよりよいものにすべきであって固定的に枠組みを考えてしまう事はないと思います。

 ①国家からの包括的権限委譲の是非、②個別具体的権限委譲の是非という2つの論点があるのだと思います。
 この2つの論点から導かれるかたちで、この問題に関して、4つの立場が存在すると思います。

 一つは、包括的賛成・個別反対派。
 これは、個別委譲に関して否定的というよりは、個別委譲を越えて早期に包括的委譲を完成させようとするグループです。
 いわゆる左派・地球市民派が該当することになると思います。

 次いで、包括的賛成、個別賛成派。
 これは、包括的権限委譲を目標としながらも、現実的に個別具体的な権限委譲を推進するグループ。

 3つ目は、包括的反対、個別賛成派。
 これは、包括的権限委譲には断固反対であるが、個別案件について特例的に超国家機関を認めるというもの。

 4つ目は、包括的反対、個別賛成派。
 これは、国際的機関の存在を認めず、国家単位での統治を絶対視するもの。 

 とは氏は、2番目の包括的賛成・個別賛成派に分類されると思います。
 その上で、3番目の立場から、諸論点の中で特に、「民主」の観点から反論させてもらいます。

 諸制度を通じた支配機構の管理が、民主主義にとって肝要であると思います。
 その点、権限委譲は、管理対象たる機構を拡大させます。
 一般に、管理対象の拡大は、国民の管理可能性の低下を招きます。
 つまり、管理対象の拡大により、仮に規模的効用がもたらされるとしても、それは管理可能性の低下とのトレードオフにあるわけです。
 包括的権限委譲の完成時には、管理不能部分を多分に含む巨大な統治機構が生成されているわけです。
 管理可能性を考えれば、機構の規模は合理的に小さいものであるべきです。
 よって、超国家的機関の権限は特例的なものにとどめ、基本的には国家単位を脱することがないようにすべきであります。
 その点、国内においては、国家的巨大プロジェクトのような特例を除き、分権化細分化がのぞましいという結論になるわけです。
 「民主」の実現可能性は、管理可能性であり、その規模の拡大は、民主主義の危機であることもあります。

193とはずがたり:2007/03/19(月) 21:06:26
>>192
非常にクリアに論点を整理いただき勉強になります。ちなみに4つめは包括的反対、個別反対派ですね?

理想として目指せば面白いとは思うんですけど現実として他星人or火星や月へ移住した人類代表との交流の必要性でもない限り地球政府として纏まる必要性はないのかもしれません。。

また近代国家という権力形態を大前提にしている現状を批判しているので次世代の超国家機関がなにか近代版国家の拡大版みたいなものがリバイアサン的に君臨するものであってはならないでしょう。

ヨーロッパの試みを心情支援しつつ,途上国の収奪型の国家に対しては厳しい目を注ぎたいと思うのが自分の基本的姿勢です。俺だって民主制を侵害するようなものが出来れば反対ですし,理想的な何らかの組織が現在の国家システムを越えてできるのが無理だと諦めてるのではなくそれへの(そんなものがあるかどうかの模索を含めた)努力に期待をしつつあるといったスタンスです。
国家が国民の保護者として信頼を置いておくのか場合によっては戦争の実行者として懐疑的な目を向けるのかあたりがスタンスの分岐点になるのでしょうかね。

194やおよろず:2007/03/20(火) 07:35:50
>>193

>>国家が国民の保護者として信頼を置いておくのか場合によっては戦争の実行者として懐疑的な目を向けるのかあたりがスタンスの分岐点になるのでしょうかね。

 これは、2律背反する問題ではないと思います。
 性善説に基づく信頼を置いているのは能天気な話で、常に誠実性を失う誘引があるものに対しては、監査・監督体制を築くべきでしょう。
 その上で、国家のもたらす効用を享受できるわけです。
 国家性善説的な態度では効用を享受できないし、かといって国家を否定しても国家による効用は享受できないわけです。
 
 国家による暴力の独占がもたらす効用には、①対外的なもの②対内的なものが存在します。

 ①対外的効用とは、当然、他国との間の戦争において発揮されるものです。
 暴力が国家に独占されている分、一般に、諸邦が個別に戦うよりも、戦争遂行に係る効率性が高いものとなります。
 ②対内的効用とは、国内における内戦状態の回避です。
 国家が暴力を独占していれば、刑事事件的暴力行為は別ですが、いわゆる内戦が起こりえません。
 よって、国家は①他国からの圧力を排し②内戦状態を回避する権能を持っているといえます。
 この能力が効率的に発揮されるか否かについて、国民の管理可能性が必要とされるのだと考えられます。

 この国家の暴力は、当然に、国民の諸権利への重大な危険でもあります。
 これが、国家の暴力の負効用に当たるものであろうと思います。
 それでは、本来、①他国の圧力を排し、②国内の内戦状態の回避をもって、国民の諸権利の実効性を確保する機能が果たされなくなってしまいます。
 そこで、この暴力装置の管理可能性が、誠実に発揮されるか否かという点で、問題になるのではなかろうかと思います。

 つまり、暴力の独占の①効率性②誠実性について、国民は管理が必要ということになります。

 超国家的に、暴力が一元化されたとします。
 すると、規模的に効率性が上昇し、効用をもたらす能力は上昇します。
 世界的に一元化されることにより、対外的な力の発揮は必要なくなり、対内的な内戦状態の解消が世界的に広がるわけで、戦争そのものが回避されるように思えます。
 ここで、問題になるのが、誠実性に対する管理可能性です。

 この巨大となった暴力装置の管理可能性が、規模に応じて低下していくことが予想されます。
 管理可能性が喪失することにより、この一元的暴力機構は、諸国民に対して大きな、不幸ようをもたらすことになります。
 よって、結果として、史上最強のリバイアサンが誕生することになります。

 暴力の独占だけに限りません。
 例えば、欧州中銀に関して、その総効用に関しては、悲観的に考えています。
 フランスでは閣僚レベルからも、欧州中銀への批判が出てくるようになりました。
 通貨発行権の超国家的独占に対しても、諸国民の管理可能性を失ったまま、国家に対するリバイアサンとなって現れる可能性は条文に考えられます。

195片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/03/21(水) 12:08:13
>>192>>194
おっしゃる趣旨には、重点の置き方で差異があるにしても、おおむね納得します。
現実的には、やおよろずさんが書いた中で、2〜3の間でのせめぎあいだと思われます。

私は確たる信念を持っていませんので仮の立場から論じますが、
国家の枠組みが十分維持されている状態ならば、なんらかの権限委譲をすることが必ずしもマイナスにならない場合もあるんじゃないかと思っています(国際的自由貿易が発展してるもとでどうしても自立・自律できない人たちを支援するなど)。

富んでいる国や自由主義・民主主義が整備されている国民にとってはそういうのなくてもよいかもしれないですけど。
EU統合とは別の話になっちゃいますね・・・。


で、繰り返しになっちゃうかもしれませんが、やおよろずさんのお書きになったことからすると、小泉政権が地球市民的だというのがやはりよくわからないところもありますが。

196やおよろず:2007/03/21(水) 12:22:39
>>195

 英米金融資本が上部、日本産業資本が下部という国際経済構造を完成させたことにあります。
 小泉政権だけで構築されたものではありませんが、完成させたのは小泉政権です。

 資本構造が国家の枠から大きく踏み出し、制御不能なものにしたことで、「地球市民的」としました。
 資本に日本国籍をなくしたわけですから。

 株式持合の解消と銀行債権のバーゲンパーチェスが、この構築の柱です。

197小説吉田学校読者:2007/03/24(土) 09:53:22
「死に至らせないテロ」は生命の危険狙いより何かのメッセージであることが多いが、だからといって、テロが許されるわけがない。
知事選告示、岩見氏が抑えた筆致でこのことを書いているのが目を引く。「民主主義のしもべ」たる政治家がテロ支持のような言辞を弄するなど、絶対に許してはいけないと私も思う。政治家以前に人間としてどうか?

近聞遠見:三木生誕百年と「あの事件」=岩見隆夫
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/iwami/kinbun/news/20070324ddm003070134000c.html

198小説吉田学校読者:2007/03/25(日) 09:24:25
中曽根元首相vs外国人記者クラブ。慰安婦問題で集中砲火。

慰安婦問題でトバッチリ喰らった中曽根元首相
http://www.janjan.jp/government/0703/0703232269/1.php

199小説吉田学校読者:2007/03/31(土) 09:06:30
検定後教科書によれば、「集団自決に追い込まれた」という修正になっているが、それでは「追い込んだ」のは日本軍か米軍か、それとも「空気」のようなものか。
空気だとすれば、空気を作ったのは誰か。サイパンの住民自決とどう違うのか。
と、やはり論争の的になるのを断定的に書くのは「いかがなものか」。
日中、日韓の歴史論争以前に、国内でも、ここらへんの歴史はあまり研究が進んでいないのではないか?

日本史「沖縄戦集団自決」、「軍の強要」に検定意見
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070330i113.htm

 文部科学省は30日、来春から使用される高校中学年向け教科書の検定結果を公表した。
 日本史では、沖縄戦の集団自決に関する記述について、今回の検定から、日本軍の強制があったとする表現すべてに検定意見が付けられた。
 一方、数学や英語などの主要科目では、大学入試を見据えた教科書から、学力低下に対応するため小学校の内容を盛り込む教科書まで、二極化が鮮明となった。
 今回の検定には、工業など専門高校の教科を除く普通教科7教科207点の申請があった。「生物2」の2点が「誤りや不正確な記述が多い」として不合格となったほかは、最終的に205点が合格した。
 日本史で沖縄戦に言及したのは、日本史Aと日本史Bの教科書計10点のうち8点。文科省はこのうち7点について、日本軍が住民の集団自決を強要あるいは命令したという内容の記述に、「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある」との意見を付け、修正を求めた。修正後の記述は「追いつめられて集団自決した」などとなり、集団自決に軍が直接関与したとする表現は教科書からすべて消えた。
 文科省は最近の学説などを根拠に、「日本軍による集団自決の強要や命令があったかどうかは明らかでない」としている。これに対し、沖縄県民からは「集団自決を軍と切り離して考えることは出来ない」などの反発が出ている。
 沖縄県教委は「『集団自決』を含む沖縄戦の実相については様々な指摘がある。今回の検定内容については把握していないので、コメントを差し控える」としている。

200やおよろず:2007/04/01(日) 23:53:42
>>199

 集団自決の「自発性」の有無が論点ですね。

 集団自決の動機が問題になるものと思われます。

 しかも、集団自決事件は1つではないので、複数の事象を各々検討することが必要かと思います。

 この辺の研究は、イデオロギー対立や中国の情宣活動が混入しやすい部分なので、どこまで客観的に研究がなされるのかは疑問ですね。

201やおよろず:2007/04/20(金) 06:31:08
自民党の歴史教育議連、訪米中止

http://www.sankei.co.jp/seiji/seikyoku/070419/skk070419006.htm

 自民党の有志議員でつくる「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会長・中山成彬元文部科学相)は19日、慰安婦問題をめぐる米下院での対日非難決議の採択阻止に向け今月下旬から予定していた有志議員の派遣を、中止することを決めた。

 議会関係者への働きかけが採択阻止に逆効果になることが懸念されるうえ、シーファー駐日米大使が18日、決議が採択された場合でも「日米関係に大きな影響はない」と述べたことを考慮した。

202片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/05/03(木) 00:30:01
5月1日・2日と、日経が富田日記の検証特集をしていましたが読み応えがあってよかった。
昨年の8月ごろに小泉にぶち当てる形で一面の見出しをつけたのには疑問を感じたが、それ以外はよい仕事に思える。

昭和天皇って明治天皇を範としようとして苦しんだ人だ。就任後いくつかの政治への強い関与があり、立ち位置に苦労しているうちに世界的戦争に入っていったという感じだ。(日記とは直接関係ないが)
日記と関係あるとこで言うと、野望が強い高松宮との関係が面白い。

203やおよろず:2007/05/03(木) 00:49:28

 皆が尊皇攘夷になった、昭和初期は
 西郷にしろ、山県にしろ、明治天皇への尊崇の念は皆無だったのに比べて

 東郷や乃木は忠臣だったので、庶民からの人気も高かった

204片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/05/03(木) 01:35:18
明治帝ってのは庶民のあいだでも人気が高かったということなんでしょうかね。まぁそれはなんとなくわかる。

205やおよろず:2007/05/03(木) 01:37:58

 白河天皇は、京都市中の庶民から人気があったそうですがね。
 呪術や祭祀などが、受けたようです。

 近現代とは無関係

 今上天皇も難しい立場の中、国民からの支持は非常に高いと思います。

206片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/05/03(木) 01:45:24
今上は昭和天皇みたいに不勉強な進講者に厳しい質問をしたりしないだろうなぁー。
ちょっと無機質で面白みがない気もするが、まぁそんなもんか。

207やおよろず:2007/05/03(木) 01:52:50
            __,,,,_
            /´      ̄`ヽ,
            / 〃  _,ァ---‐一ヘヽ
         i  /´       リ}
          |   〉.   -‐   '''ー {!
          |   |   ‐ー  くー |
           ヤヽリ ´゚  ,r "_,,>、 ゚'}
         ヽ_」     ト‐=‐ァ' !
          ゝ i、   ` `二´' 丿
              r|、` '' ー--‐f´
         _/ | \    /|\_
       / ̄/  | /`又´\|  |  ̄\
皇太子殿下がこのスレッドに関心を持たれたようです。

208やおよろず@女系容認派:2007/05/03(木) 01:57:32

 今上陛下は、そこら辺の節度があって、名君だと思いますよ。

 皇太子殿下にしろ、日本に皇室があってよかったなあと思います。

 担いでいる人間への支持はともあれ、国民からの支持を考えれば、皇室は安泰でしょう。

 難しい局面を乗り切ったのは、人柄によるもんでしょう。

209片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/05/03(木) 02:50:00
皇室に生まれたからといって必ずよい人柄が出てくるとも限らないと思いますよ。
まぁ、目下のところの敵はそういうことよりも血筋の継承なので、それはそれでなかなか大変ですが。

天皇の意義については富田日記の中に名文がありました。陛下にとって私は武蔵野の雑木林、というくだり(長いので割愛)。
無私の努力をされるということは尊いことで、なにはともあれそこに思いをいたすのがよいのではないかなと思いました。

210やおよろず:2007/05/03(木) 04:04:42

 人格形成には、環境が圧倒的に大事でしょう。

 戦後の旧皇族が置かれた環境を見れば、こういう人たちを皇室に復帰させてはならないだろうなと思います。

211とは@憲法記念日ですねぇ:2007/05/03(木) 16:19:30
東京皇居付近はちょいと警戒体制でした。桜田門付近では社民党の街宣車もみた。まぁ基本的に街は平和でしたが。
平等と云う基本的人権と本質的に矛盾する皇室の存在に莫大なカネを投じて維持する事のメリットが果たしてあるのかねと思わなくもないですが、まぁメリットの方が多いのでしょうな。
戦後の(最近の?)皇室は当たり障りなさすぎて詰まらない気もしますが、要らぬ非難を避ける為には賢明に動いて来たのかもしれません。昭和天皇が皇室最後の政治家だった様な気がしなくもないですからウオッチするのは先代の方が興味深ったのかも。

212やおよろず:2007/05/03(木) 16:46:08

>>平等と云う基本的人権と本質的に矛盾する皇室の存在

 むしろ、皇族の自由権の問題であろうかとも思います。

>>莫大なカネを投じて維持する事のメリットが果たしてあるのかねと思わなくもないですが

 とは氏の他の事象に対する言説から、この結論に達するのは、論理一貫性が感じられます。

>>まぁメリットの方が多いのでしょうな。

 この辺は、温和な性格をものがったっている部分。

>>戦後の(最近の?)皇室は当たり障りなさすぎて詰まらない

 取り巻きは、煩いままです。
 ワイドショーも煩いです。

>>要らぬ非難を避ける為には賢明に動いて来たのかもしれません。

 そうでしょうな。
 皇室廃絶を狙う共産党・社民党は、あれですが、国士の皆さんも後継問題で大騒ぎ。
 皇太子一家批判など、まさに、国賊。
 
>>昭和天皇が皇室最後の政治家だった様な気がしなくもないですからウオッチするのは先代の方が興味深ったのかも。

 大正天皇の摂政から、天皇=神というトンデモ期を経て、占領期・左傾期を巧みに生き抜いてきた印象があります。
 存在感から、研究の対象にもなるし、また、畏敬の念を持つ人間が多いのも頷けます。

213とはずがたり:2007/06/23(土) 18:34:22
こうやって政権側に都合の悪い歴史は消されて行くんだな。

沖縄:教科書検定問題で記述の復活はしない考え…安倍首相
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070623k0000e040086000c.html

 安倍晋三首相は23日午後、沖縄県糸満市の平和祈念公園で行われた沖縄全戦没者追悼式に出席後、記者団の質問に答え、文科省の教科書検定意見で、集団自決を巡る日本軍の強制性の記述が削除された問題について「教科書検定調査審議会が学術的観点から検討している」と述べ、記述の復活はしない考えを示した。ただ、首相自らが軍の関与をどう認識しているかについては言及を避けた。【三森輝久】

毎日新聞 2007年6月23日 15時31分 (最終更新時間 6月23日 16時19分)

沖縄:教科書検定、国と溝 「自決強制」目撃の女性に怒り
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070623k0000e040055000c.html

 「日本軍がいなければ自決なんかしませんよ」。平和の礎(いしじ)に刻まれた親せきの名を前に、沖縄県南風原(はえばる)町の仲程(なかほど)シゲさん(77)は悔しさをにじませた。その額には62年前、沖縄戦で受けた艦砲射撃の砲弾の破片とともに、集団自決や日本兵による住民虐殺のいまわしい記憶が刻まれている。

 当時、本島南部の大里村(現南城市)に住んでいた仲程さんは、戦火が迫った5月28日、母カマさん(49)と13歳、10歳の弟、そしておじ、おばら計13人で南へと避難を始めた。6月19日、隠れていた糸満市真栄里のガマ(壕(ごう))に米軍の戦車が迫った。

 沖縄守備軍が現地で召集した防衛隊から逃げてきたおじが言った。「アメリカーにやられるより、自分で死んだ方がまし」。手投げ弾を持っていた。それを見たカマさんがおじの手に取りすがった。

 「いくら何でも生きている子供たちをなぜ殺せるか。まず待ちなさい」。子を持つ母親の訴えにおじは思いとどまった。

 夜、再び南へ。火炎放射器で焼き払われていた米須(こめす)集落で、激しい艦砲射撃に襲われた。おばがうめいて倒れたが、暗闇でどこをけがしたのかわからない。カマさんが「姉さん、恨まないでね」と額に手を当てると、息を引き取った。足の肉をえぐりとられて倒れたおじは「戦争が終わったら遺骨を取りにきてくれ」と言った。残していくしかなかった。

 翌日、隠れていた摩文仁の山中で砲弾がさく裂。仲程さんの額に破片がめり込んだ。さらに次の日、一人の沖縄の青年が、隠れている住民に呼びかけた。「アメリカの捕虜になったほうがいい。みんなで出て行こう」

 すると2人の日本兵が走り寄り「こんなバカがいるから沖縄は負けるんだ」と言い放つや、日本刀で青年の首を切った。

 怖くなって下りた摩文仁の断崖(だんがい)。海には赤ん坊の死体が浮き、岸辺には破傷風で苦しむ人たちが大勢いた。1週間近く、水だけでしのいだ。

 仲程さんが捕虜になったのは26日。別の日本兵が「日本は負けた。民間人は出て行ったほうがいい」と言ってくれた。当時、「米軍に捕まると、女は強姦(ごうかん)され、男は戦車でひき殺される」と言われていた。「この日本兵は命の恩人です」。だがおじ、おばらたくさんの親族を亡くした。

 仲程さんは、文科省の教科書検定に声を震わせて怒る。「軍さえいなければこんなことにはならなかった。人の命を大切にするのが教育なのに、あったことをなかったことにするとは何事ですか。生かされた私は亡くなった人の嘆き、苦しみ、悲しみを伝えなければならない」

 改憲を急ぐ安倍首相にも厳しい視線を向ける。「憲法9条は絶対守らなければだめ。首相は沖縄戦も空襲も知らないのに何を言うか。爆弾が家に落ちれば分かる。戦の末に生まれた基地がある限り、沖縄の戦後は終わらないですよ」【三森輝久】

毎日新聞 2007年6月23日 12時52分 (最終更新時間 6月23日 13時26分)

214やおよろず:2007/07/01(日) 05:10:43
原爆自業自得論は、左派の主流の論調だと思うんだけどね

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20070701k0000m010128000c.html

 一方で、79〜95年に長崎市長を務めた本島さんは「今の時期になぜ、こういう発言をしたのか分からない」と疑問を呈したうえで、
「被爆地では今も被害だけを強調する傾向がある。原因があるから結果がある。
 日本が戦争を始めなければ原爆投下はなかった」と話す。
 本島さんは日本の加害を問い続け、市長落選後は「原爆投下は仕方なかった」と繰り返してきた。

215とはずがたり:2007/07/01(日) 10:57:47
>>214
ハト派と重なる日本の左派の多くは原爆許せないだと思うんですけど。
特にソ連の核が平和の核だとしてもアメリカの核は駄目な核なんじゃないっすか?

原爆は非戦闘員の市民をも無差別に殺戮するどれかしりませんが国際法違反する行為だと思うんですけど,一方で日本の終戦への決断を早めたことはありましょう。
けど日本はずっと中立条約を結んでいたソ連の斡旋での終戦を望んでいて駄目だと諦めたのは急遽ソ連が有効期限内の条約を破って満州に攻め込んだ事の方が大きいでしょうから,この原爆しょうがない理論を使えば,関東軍や満蒙開拓団の悲劇は日本の終戦を早める為に仕方がなかったとなりますな。
どちられも真理は含まれているのでそれを歴史学上否定してしまうのは難しいでしょうが政治的には被害者感情を考えると愚かしい発言となりましょう。

216やおよろず:2007/07/01(日) 12:06:00
「あやまちはくりかえしません」の自業自得論は大きいと思いますよ
心情左翼の方はどうか知りませんが、
団体でやってるところで、これを掲げるところは多いです。

217小説吉田学校読者(解熱剤投入):2007/07/01(日) 12:27:24
>>216
この「繰り返しません」の主語が誰なのかというところで、争いがありますね。そこらへんが日本的曖昧さなのかもしれない。

岡本三夫氏の指摘のような考えが久間の頭にあったとなると、相当したたかなのかもしれませんが・・・ないでしょうね。

広島の被爆者らに怒り、ため息 久間発言
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200707010099.html

 久間章生防衛相が原爆投下を「しょうがない」と発言した三十日、被爆地広島では被爆者を中心に「核戦争を肯定するのか」「被爆の苦しみを理解していない」など怒りの声が渦巻いた。
 「かつて米国でぶつけられたのと同じ言葉を被爆国日本の大臣から聞くなんて理解できないし、本当に悲しい」。一九六二年以来、米国に被爆体験を伝える旅を繰り返している松原美代子さん(74)=広島市南区=は「二度と繰り返してはならない、と分かってもらうために語り続けてきたのに…」と声を震わせた。
 広島県被団協の坪井直理事長(82)は「原爆で何十万人も殺されたのに、人の命を何と考えているのか。核戦争を肯定しているとしか考えられず、まったく許し難い」。もう一つの県被団協金子一士理事長(81)も「米国の言い分そのままで、許せない暴言。いまも後障害に苦しむ被爆者の思いをまったく理解していない。核兵器を持ちたい本音があるのではないか」と怒りをあらわにした。
 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会の森滝春子共同代表(68)は「核武装も仕方がないとの世論を誘導しようという政権の意図があるのではないか」と警戒。従軍慰安婦問題をめぐり米下院外交委員会が日本政府に謝罪を求める決議をしたのに絡め、広島修道大の岡本三夫名誉教授(74)は「私たちも恨んでいない、と米国に伝える駆け引きにも思える」と指摘する。
 秋葉忠利広島市長は「被爆者の気持ちを踏みにじる暴言であり、強い憤りを覚える」、広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長は「被爆地の訴えに真摯に耳を傾けるよう求める」と、それぞれ発言の撤回を求めるコメントを出した。

218小説吉田学校読者(解熱剤投入):2007/07/01(日) 12:36:29
昭和天皇は「遺憾なことではあるが、戦争中のことでもあったので、やむを得なかった」発言を、昭和の広島、長崎はどう反応したのでしょうか?
久間がこの昭和天皇の言葉を引用して釈明したら、またぞろ天皇の政治利用という「失言スパイラル」に陥る可能性はありますので、そこらへんも注視していきたい。

久間氏原爆容認発言 被爆地に怒りと失望
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20070701/01.shtml

 「被爆者の尊厳を傷つける行為」。本県選出国会議員、とりわけ現職閣僚の久間章生防衛相から飛び出した“原爆容認論”。被爆地長崎からは、原爆投下を「しょうがない」と発言した久間防衛相に怒りと失望の声が上がり、被爆者、平和運動団体は防衛相あての抗議文を送付。週明けから抗議活動を本格化させる。
 若い世代への継承を平和行政の柱に掲げる長崎市の田上市長。三十日夕、市内での「高校生平和大使十周年記念の会」に出席した際、報道陣に囲まれ、「何らかの理由があれば核兵器を使用できるということにつながり、被爆地としては到底容認できない」と語気を強めた。
 被爆者や平和運動の関係者からは、防衛相としての資質や歴史認識を疑問視する声が続出。元長崎大学長の土山秀夫氏は「不見識極まりなく、論外」と非難。イラク戦争をめぐる久間防衛相の対米批判発言を挙げ、「日本は毎年、国連に核軍縮決議案を出し核廃絶を訴えてきたが、その足元からの発言。今度は米国へのポイント稼ぎか」と皮肉を込めた。
 長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の山田拓民事務局長は「原爆投下は日本を負かすためではなく、戦後(の核軍拡競争)をにらみ旧ソ連との関係を有利に導くためだった」と久間発言の“歴史観”を否定。「国際司法裁判所は『核兵器は使ってはならない兵器』と勧告的意見を出しており、『しょうがない』との肯定は許されない。大臣を罷免しないなら、政府・与党が同じ視点だと内外に示すことになる」と政府の対応を迫った。
 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の川野浩一副議長は「毎年、平和祈念式典にも出席していたのに何を聞いていたのか。情けない。防衛相は、原爆投下は誤りだったと米国に抗議する立場。怒りを通り越して悲しみが込み上げた」。長崎原爆青年乙女の会の広瀬方人会長は「日本の核武装への懸念を周辺国に抱かせるのではないか」と危機感を示した。
 県被爆者手帳友の会の井原東洋一会長は「被爆者の気持ちを逆なでした」と、被爆者五団体で政府、久間防衛相への抗議を計画。平和労働団体も週明けから、抗議行動を本格化させる。

219やおよろず:2007/07/01(日) 12:38:53
「君が代」の「君」と同じくらい明白だと思いますが>>「繰り返しません」の主語が誰なのか
 批判を恐れた左派が、無理やり作った論争だと思いますね。

>>>>>>>>広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長
 しかし、なんだか、インチキ臭いですなー

今回の発言が、「戦勝国の言い分を全て受け入れなければならない」
 という考えに疑義をもたらす切っ掛けになってくれればいいなと思いますけど、そうはならんでしょうね。

220とはずがたり:2007/07/01(日) 12:54:41
>>216
心情左翼のワタシとしてはアメリカもソ連も日本も英仏も侵略戦争やったので皆同等に悪いと思ってますよ。反省して自虐史観に染まって欲しいと思います。植民地収奪で迷惑を掛けたのは事実だし。
ただODA等でめちゃめちゃ戦後賠償は(日本を含めた)各国はしてるとは思いますけど。カネ散々恵んでもらっといてその言い草は何だという気持ちも良く判るけど近隣諸国を占拠するとその後の近親憎悪は兎角大変ですな。イギリスもエール(アイルランド)統治を後悔しているかも知れない。
更にサヨクとして6流の煽りを続けますと靖国に祀られている連中はただの犬死にした惨めな連中で,日本の英霊は日本の産業発展を支える過程で搾取され貧困の中で死んでいった労働者同志こそである!しかも前者が手厚く恩給貰ってるのに後者は歴史に埋もれ朽ち果てているのだ。。

>>217
従軍慰安婦決議問題でぎくしゃくする対米(議会)お追従って戦略ってことすかね?
選挙前に広島・長崎・沖縄なんかで自民の票を減らそうとは有り難い話しでw。

221名無しさん:2007/07/01(日) 15:49:59
石見銀山 世界遺産登録の舞台裏 欧州主導、アジア不利 カルチャー Sankei WEB
http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070701/bnk070701006.htm

紆余(うよ)曲折の末、世界文化遺産に登録された石見銀山遺跡(島根県大田市)。一連の経緯を今後の教訓にしようとする動きが広まっている。事前調査を行う専門家機関から「登録延期」という“落第点”をつけられ、日本政府の巻き返し工作でかろうじて登録にこぎつけた今回の“大逆転劇”。年々厳しくなる登録審査に、文化庁や他の候補地は戦略の見直しを始めている。

審査員へ説得工作奏功

 「えっ、本当?」

 ニュージーランドで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会から、石見銀山遺跡の登録決定の一報が文化庁に入ったのは28日午後0時26分。幹部職員らは一瞬、きょとんとした表情をみせたが、すぐに拍手と歓声が庁内に響いた。

 文化庁も驚かせる“意外な結果”だった。各国の専門家で構成するユネスコの諮問機関・国際記念物遺跡会議(イコモス)が、同遺跡について「登録延期」の勧告をしたのはわずか1カ月半前。勧告には「登録」「追加情報の提供」「登録延期」「不登録」の4段階があるが、下から2番目という低い評価に、「今回は無理かもしれない」と悲観的ムードが広がっていた。

 なぜ、逆転登録となったのか。

 文化庁の岩本健吾記念物課長は「地元の長年の努力と政府の巻き返し工作が土壇場で実った」と胸を張る。

 イコモス勧告を受け、文化庁は英文110ページの反論書を作成。ユネスコの近藤誠一大使をはじめ政府関係者も、世界遺産の審査委員を務める全20カ国の大使らに直接面会して説得に努めた。「土壇場でこれほど熱心な説得工作を行ったのは日本が初めてではないか」と関係者は振り返る。

 28日の世界遺産委員会。文化庁によると、石見銀山遺跡の審査では冒頭にイコモス勧告が説明された後、5、6カ国の代表から発言を求める挙手があった。

 「(石見銀山は)周囲の自然を破壊せず、共生している」「環境にも配慮している」−。

 否定的な意見は聞かれず、イコモス勧告は覆された。

アジアのハンデ

 今回の騒動を受け、他の国内候補地でもPR活動などの練り直しを進める動きが出ている。登録審査が年々厳しくなっている現状が、改めて浮き彫りになったからだ。

 今年は審査を受けた35件中22件が登録。採択率は62%で、3年前の82%から20ポイントもダウンした。

 来年審査を受ける「平泉の文化遺産」(岩手県平泉町)では、景観に配慮した町づくりなど「保存管理アクションプラン」の策定作業を急ピッチで進める。「彦根城」(滋賀県彦根市)では従来の戦略を大幅に見直し、登録の申請内容を単独の「城」から、周辺の城下町を含めた「城郭都市」に変更することを決めた。

 最大の関門はイコモスをどうやって説得するかだ。岩本課長は「アジア的な遺産はイコモスに過小評価されるおそれがある」と懸念を示す。

 日本イコモス国内委員会関係者によれば「イコモスは世界遺産が始まる前から欧州で発足していたNGOで、欧州の主導権が強い現状がある」といい、今後は各候補地の魅力を訴えるだけでなく、アジア全体の遺産価値をアピールする取り組みが必要になりそうだ。

 だが、やはり最大のアピールポイントは遺跡の魅力だ。平成15年にイコモス副会長を務めた西村幸夫東大教授は「最近は世界的知名度が足りない遺跡を申請しようとする自治体が増えている」と、観光振興を狙った安易な風潮を戒めている。

(2007/07/01 13:03)

222小説吉田学校読者(解熱剤投入):2007/07/01(日) 18:21:20
>>219
私、少年期にそれを「人類は」というように習ったのだが、大学へ行って初めて自業自得論というか「戦争を始めなければ原爆投下はなかった。主語は『私たち日本人』である」説を講義で初めて聞いて、なるほどそういう説もあるのかと素直に日本語の曖昧さに感心した記憶があります。それも日本語学のところで。小生、なにぶん、文学部卒。
「くりかえしません」より原爆への怒りがストレートなのが峠三吉の詩集です。峠三吉に原民喜、、、読まれなくなったね。
この日記、写真見る限り、読まれることを前提としていないので、たぶん、楽しい日記帳なんだと思う。

原爆詩人、峠三吉の愛妻日誌を初めて公開
http://www.asahi.com/culture/update/0701/OSK200707010001.html

 「にんげんをかえせ」の一節で知られる広島の原爆詩人、峠三吉(1917〜53)が、妻との出来事を記した日記が30日、広島市の平和記念資料館で初公開された。肺結核で療養中の峠を見舞う妻の服装や会話などが記され、自筆の挿絵もあった。原爆詩人の「愛妻日記」といえる内容で、峠の素顔の一端がうかがえる。
 「広島に文学館を!市民の会」が約20年前に遺族から寄託を受けて保管していた。市販のスケッチブックに記された17ページ。日付は51年1月7日から同4月11日までで、峠が国立広島療養所(広島県東広島市)に入所していた時期にあたる。
 峠は47年、3歳年上の和子さん(故人)と結婚。日記は「私はお前のために美しい園丁(庭師)となろう」と書き出され、「和子は思いがけなくやってくる。新しく作った藤色の和服のコートを着ている」などと記載。2人がかんだチューインガムや、夫婦で見た映画のチラシ、お菓子の包み紙、市内電車の切符などもコラージュ風に張り付けられていた。和子さんが口紅で書いたとみられる「三吉さん」という文字もあった。
 峠と親交があった詩人の御庄博実さん(82)は「こんな日記を書いていたとは知らなかった。原爆への怒りを織り込んだ詩集の力強さは、優しさと命へのいとおしみの裏返しだったことがよくわかる」と話していた。

223やおよろず:2007/07/01(日) 18:37:57
左翼団体の解釈は、どこも、こんなもんですよ

ここには侵略戦争を行なった反省など欠片もない。
ヒロシマに掲げられた「二度とあやまちはくりかえしませんから」とする、
血を吐くようなメッセージに込められた思いを踏みにじってはならない。

http://www.doro-chiba.org/nikkan_dc/n2005_07_12/n6147.htm
動労千葉

224小説吉田学校読者(やっと36度台復帰):2007/07/01(日) 18:45:13
コメントの「リベラルな父」の部分に政治家一家の真髄をみた。

宮沢喜一元首相の通夜に各界から1000人
http://www.asahi.com/politics/update/0630/TKY200706300254.html

 28日に死去した宮沢喜一元首相の通夜が30日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。中曽根康弘元首相や羽田孜元首相、河野洋平衆院議長、御手洗冨士夫・日本経団連会長ら各界から約1000人が参列した。
 長女の啓子さんは「私人としての宮沢喜一は妻を尊敬し、子供を信頼してくれた、少し風変わりな夫であり、リベラルな父だった」とあいさつした。1日正午から同所で密葬が行われる。

225名無しさん:2007/07/01(日) 19:13:29
あやまちというのは、開戦責任とは別に、終戦が遅れた責任もあるでしょう。
十日早くポツダム宣言を受諾していれば、広島も長崎もソ連参戦もなかった。

226やおよろず:2007/07/01(日) 20:28:35
戦争は相手があってやることだからね
終戦の交渉も同じ

227名無しさん:2007/07/02(月) 09:55:31
>>225>>226
始まり方は見方によっては、止むを得ない面もあったと思いますが。
「終わらせ方」はもっと難しい、と改めて思います。

228とはずがたり:2007/07/02(月) 12:16:18
確かにそうですね。>「終わらせ方」はもっと難しい、と改めて思います。
終戦の交渉は連合国側がポツダム宣言を発して後は日本がどのタイミングで受諾するだけで後は国内調整であって相手は関係ないような感じもしますが,逆の米ソの立場になってみると戦後の力関係を考えて日本の受諾の前に間に合わせるように戦勝国も実績作りに動きますから日本が急げばソ連の満州侵攻もアメリカの原爆投下も早まっていただけなのでしょうし。

229名無しさん:2007/07/03(火) 00:02:48
>>228
早めるって言ったって限界がありますよ。
最初の原爆実験は7月16日で、投下決定が25日。
日本の受諾に合わせて決めたわけじゃありません。

230とはずがたり:2007/07/03(火) 15:25:06
>>229
ご指摘感謝っす。
こんな新型兵器なのに初実験から一ヶ月以内に二発も実戦で使用とは,めためた急いだ感じを禁じ得ないんですけど。。
第二次大戦後半は既に米ソは戦後の対立を睨んで動いていたと見るのが順当ではないでしょうかね。

231やおよろず:2007/07/03(火) 20:33:59
スターリンにアメリカとの対立の意図はなかった。
ルーズベルトにもなかった。
スターリンは、中国革命を望んではいなかった。

しかし、モロトフとチャーチルは米英・ソの対決を予感していた。
トルーマンもアイゼンハワーもスターリンを信頼しなかった。

232名無しさん:2007/07/03(火) 22:52:24
ハリー・S・トルーマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

大統領就任後、トルーマンは外交政策に没頭した。1945年7月にはポツダム会談に参加した。26日にはアメリカ・イギリス・中華民国の3国による「ポツダム宣言」が発表されたが、三カ国代表のサインはトルーマンによって書き上げられた物であった。それには太平洋戦争の勝利をソ連抜きで行おうという意図があった。

1945年4月の時点で原爆の完成予定を知っていたトルーマンは、核の力でソ連を抑止できるという考えがあった。日本への原爆投下命令はポツダム宣言発表の一日前、7月25日に行われていた。共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせた。共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに原爆投下決定が伝えられたのは投下の二日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスチムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(一九六三年の回想録)と何度も激しく抗議していた。

トルーマンが原爆投下を決定した背景として、アメリカ軍の損失を最小限に止めること、実戦での評価、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったとする一方、自らを男らしい決断力のある存在として誇示する考えと、人種的偏見があったとする説もある。トルーマンは二発目の長崎投下後「さらに10万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」として、3発目以降の使用停止命令を出した。トルーマンは公式的な場では原爆投下を正当化し続けていた。またトルーマン大統領が日本へ計十八発もの原爆投下を承認していた事実がワシントン.ポスト紙にスクープされている。陸軍の完全な機密保持下に行われた原爆開発は戦後見直しを計られ、トルーマンは1945年10月に議会に対し原子力に関する教書を送った。それは原子力開発に関する管理体制についての物であった。翌年の8月には原子力法案が成立し、原子力委員会(AEC, United States Atomic Energy Commission)が作られた。1953年1月7日にトルーマンは、水素爆弾の開発を発表した。

233やおよろず:2007/07/05(木) 00:52:07
広島市長 米特使発言に不快感
http://www.nhk.or.jp/news/2007/07/04/k20070704000149.html

広島市の秋葉市長は、記者団に対し、アメリカ政府で核不拡散を担当する特使の
 ジョゼフ前国務次官が原爆投下について「戦争を終結させ、結果的に多くの日本人の
 命を救った」と発言したことについて「アメリカの政府首脳も広島や長崎のことをもっと
 深く理解すべきだ」と述べ、強い不快感を示しました。

 ジョゼフ前国務次官は、記者会見で、広島と長崎への原爆投下について「さらに何百万人
 もの日本人の命を奪うところだった戦争を終結させることができたというのは、ほとんどの
 歴史家が同意するところだ」と述べました。これについて、広島市の秋葉市長は、4日、
 総理大臣官邸を訪れた際、記者団に対し「アメリカ政府はこうした発言を続けているが、
 アメリカの歴史学者の定説とは大きく違う。アメリカの政府首脳も広島や長崎のことを
 もっと深く理解すべきだ。ブッシュ大統領にはできるだけ早い時期に広島に来てもらうことが
 非常に重要だ」と述べ、強い不快感を示しました。

 これに先だって、秋葉市長は、辞任した久間防衛大臣の発言をめぐって「閣僚全員が広島や
 長崎を訪れ、被爆の実態などを学習するよう求める」などとする安倍総理大臣にあてた
 要請文を政府側に提出しました。

234名無しさん:2007/07/07(土) 02:01:29
[正論]現代史家 秦郁彦 沖縄集団自決をめぐる理と情
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070706/srn070706000.htm
 ■報道は冷静な検証の姿勢忘れずに
 ≪情緒過剰な記事が並ぶ≫

 6月23日は、62年前に沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)の洞穴で、牛島軍司令官が自決、沖縄戦における日本軍の組織的抵抗が終わった日である。

 沖縄県は、この日を「慰霊の日」と定め、軍人・軍属、一般住民がそれぞれ9万余人、米兵をふくめると20万人の全戦没者を追悼する式典を挙行してきた。しかし今年は、住民の集団自決をめぐる高校用日本史教科書の検定で「軍命令による強制」が削除されたことについて、県議会が検定意見の撤回を求める意見書を採択したこともあり、騒然とした「慰霊の日」となった。

 ほぼ全面無視した読売新聞を除き、主要各紙は社説や社会面記事で大々的にこの問題をとりあげた。これまでは「沖縄の心」という目に見えぬ壁への配慮が働き、マスコミも識者もハレものにさわるような扱いをしてきたが、今年も同じトーンで生き残りの体験談を軸に情緒過剰な詠嘆調の記事が並んだ。今や生き残りといっても、当時は10歳前後だった人たちが主だから、要領をえないあやふやな証言ばかりになってしまった。

 たとえば、県の意見書のまとめ役になった当時8歳だった議員の体験談は「200人ほどの住民と壕に隠れていたところ、3人の日本兵が来て、泣き続けていた3歳の妹といとこに毒入りのおむすびを食べさせるよう迫った。敵に気づかれるのを恐れたため」(6月23日付朝日)というのだが、記者は不自然さに気づかなかったのだろうか。

 激戦のさなかに毒入りおむすびを作る余裕があるのか、毒と告げて親が食べさせるものか、食べたとしても、苦悶(くもん)の泣き声に変わるだけではないのか、そんなことをしなくても、200人も入っている広い洞穴なら奥へ移ればすむのではないか、と疑問の種はつきない。問題はそうした検証をいっさい放棄して、記事に仕立てた記者の資質にある。

 ≪攻撃用武器の手投げ弾≫

 ついでに記すと、県議会では「集団自決の軍命令はあったはず」と主張する野党と「なかったらしい」と主張する与党の議員が対立、妥協のすえ意見書は「日本軍による関与なしに起こり得なかった」という争点を外した表現におちついたとのこと。

 「関与」とは一部で日本軍の手投げ弾が自決用に使われたのを指しているらしいが、兵器不足に悩み、兵士に竹槍まで持たせていた日本軍にとって、手投げ弾は貴重な攻撃用武器だった。現地召集の防衛隊員(軍人)に持たせていたものが家族の自決に流用されたのに、16歳だった語り部の元短大学長が「手投げ弾は自決命令を現実化したものだ」と語るのを、朝日が社説(6月23日付)で「悲惨な証言」と信じ込み、引用しているのはいかがなものか。

235名無しさん:2007/07/07(土) 02:01:47
 ≪軍命令見つからない理由≫

 さすがに社説ともなると冷静なタッチが多いなかで、朝日だけは突出した情緒論で終始している。他にも日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告し実行していったとか、捕らえられれば「女性は辱めを受け、男性は残忍な方法で殺される。日本軍はそう住民に信じ込ませた」と書いているが、いずれも事実無根に近い。

 牛島軍は、県当局と協議して住民を予想戦場から遠ざけるため本土や本島北部への疎開を命じ、戦闘末期には米軍の保護に委ねるふくみで戦場外の知念半島への避難を指示している。

 その結果、米軍記録によると28万余人の住民が投降した。そのなかには日本軍陣地へ投降勧告に出向く志願者がいて、スパイと疑われ処刑された例もあったが、例外的事件にすぎない。

 そのころ12歳の軍国少年だった筆者も「鬼畜米英」への憎しみと恐怖を抱いていた記憶はあるが、誰が吹きこんだのか覚えていない。親や先生ではなかったと思うし、ひょっとすると、わが家で取っていた朝日新聞か主婦の友かもと考えたりもするが、少なくともこの種の流言、浮説を記した政府・軍の公文書はなかったと思う。

 ところが、研究者でも集団自決や慰安婦の強制連行を証する軍命令が見つからないのは、終戦時に焼却したからだとか、個々の命令はなくても戦前期の天皇制や軍国主義教育に起因すると強弁する人が少なくない。

 集団自決が起きたのに「いまさら『日本軍は無関係』と言うのなら、それは沖縄をもう一度裏切ることになる」としめくくった朝日社説も同類項なのだろうか。(はた いくひこ)

(2007/07/06 05:04)

236名無しさん:2007/07/07(土) 21:49:19
小沢発言は歴史歪曲? 「ドレスデン爆撃で米謝罪」
7月7日9時22分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070707-00000901-san-pol

 ■与党反発、外務省も「根拠なし」の立場

 1日に行われた安倍晋三首相と小沢一郎民主党との党首討論会で、小沢氏が「米国は(第2次世界大戦の)ドレスデン無差別爆撃について謝罪している」と指摘し、原爆投下について米国に謝罪を求めない日本政府の姿勢を追及したが、この問題で政府・与党側が事実関係が間違っているとして強く反発している。

 「(小沢発言は)事実に反する。ドイツは米英に謝罪を求めていないし、米英はドイツに謝罪していない。小沢氏は歴史をねじ曲げ、政局に利用しようとした」
 自民党の中川秀直幹事長は5日、記者団にこう語り、小沢氏に党首討論などの公式の場での釈明や謝罪を求めた。塩崎恭久官房長官も会見で「事実でないことを言ったのは政治的発言だから、政治的責任が問われる」と指摘した。
 1日の党首討論会で、小沢氏は米国はドイツに謝罪していると2度にわたって強調し、安倍首相に対し「謝罪を求めるという考えで、米国といろんな機会に話をすべきだ」と迫った。ただ、米国がいつどのように謝罪したかに関しては言及しなかった。

 ドレスデン爆撃では市民ら約3万5000人が犠牲になったが、外務省は「米国はドイツに公式謝罪などしていない」(中・東欧課)としており、小沢氏の話に根拠はないとの認識だ。
 また、現代史家の秦郁彦氏は「1945年2月に英米軍が行ったドレスデン爆撃では、罪の重さは英国8対米国2ぐらいで英国が主役。米国では責任論議はなかったはずで、謝罪までするはずがない」と解説する。
 これに対し、民主党は「戦後50年、55年、60年と、米英軍も参加して、和解の意味を込めて犠牲者追悼の式典が開かれた。正式に政府が謝罪したということではないが、互いに忖度(そんたく)した和解をしたということだ」(党幹部)と説明し、根拠がないとの批判に反論している。

237とはずがたり:2007/08/16(木) 01:14:46
若き日の吉永小百合が主演する映画『あゝひめゆりの塔』をみた。
①日本軍や国民は勇敢に戦って立派に戦争に殉じた
②戦争は悲惨だ
の2点は読み取れた。

①に関しては日本軍の一般構成員や銃後を護る臣民の汚い部分やずるい部分がまるで欠けている。本当にそうだったのかも知れないがリアリティに欠けてる様な気がする。
映画作成当時の国民みんなのあの戦争に対する虚しさを慰める自慰的な感じがあるけど作成時の1968年ですらまだこんなのが必要だったのか?戦争末期に少年少女だった連中も40代にならんとする頃だが。
それとももっと若い連中に軍国主義の或る種の良さを押しつける効果を狙った物なのか。②が有る分屈折していると云えるが。
今日の若者と教育がもし仮に堕落しているとするならば,その原因は日教組の偏向教育ではなくて,戦後の保守勢力の戦争郷愁路線が原因ちゃうやろか!?お国の為に市ねが無くて天皇陛下万歳だけあるのは畸形であるのかも知れぬし。

238やおよろず:2007/08/16(木) 08:05:03
戦後左翼と戦後右翼は、アメリカが生んだ双子の兄弟です。

戦後の保守勢力の戦争郷愁路線=日教組の偏向教育でしょう
ほとんど妄想に近いものではなかろうかと
左翼勢力が主張しているほど右翼が危険ではなく、右翼勢力が主張しているほど左翼が危険でもない。
どちらも、大した影響力がない。
しかしながら、自陣営の影響力を確保するためには、相手方の脅威を煽り立てるしかない。
本当に恐ろしいのは、その勢力の主張と言うよりは、それを隠れ蓑に使った様々な犯罪行為でしょう。

冷静な議論は、この両陣営が主張するベールを取り払ってみるべきかと思います。

それと、いわゆる日教組の偏向教育は、
彼らの中でも共産主義の敗北が確実になった80年代から激しくなっていくわけです。
中国の反日宣伝が始まるのは70年から、本多の「中国の旅」は72年です。

239とはずがたり:2007/08/16(木) 10:13:09
>>238
>戦後の保守勢力の戦争郷愁路線=日教組の偏向教育でしょう
>本当に恐ろしいのは、その勢力の主張と言うよりは、それを隠れ蓑に使った様々な犯罪行為でしょう。
>冷静な議論は、この両陣営が主張するベールを取り払ってみるべきかと思います。
なるほど〜。確かに2ちゃんの煽りじゃないですけど,向こう側の煽りあいに乗った時点で,この枠組みに組み込まれてしまいますよね。

80年代に日教組の偏向教育が激化したというのはどの事を指しているんですかね?
詳しくはないので生半可に論評出来ないんですけど,日中関係は70年代に国交恢復とともに出てきたって面も大きいんではないでしょうかねぇ?

240やおよろず:2007/08/16(木) 10:28:09

82年 「侵略・進出」誤報事件

これが一つ流れを作ったように思いますが、
慰安婦とかそういうのが教科書に登場するのは、その後です。

このあとで、近隣諸国条項ができて、教育問題が国際問題に直結することになり、
国内で支持を失った左翼側が、政府の攻撃材料に使えるとなり、激化していったものと思われます。

もっとも戦後において右翼が支持を得たことは一度もなかったと思いますが

241とはずがたり:2007/08/16(木) 22:02:30
>>240
>82年 「侵略・進出」誤報事件
これは教科書に侵略という用語を使うか進出とするかの議論でしょうか?

>もっとも戦後において右翼が支持を得たことは一度もなかったと思いますが
やや煽り気味に云うと,靖国に参拝したがる連中は,みんな右翼だと思ってるんですけど違いますかねぇ。
少なくとも自民党従って,政府は兎も角,議会の主流は右翼だったと思うんですけど如何でしょう。

>>237でもその前からでも思ってたんですけど,(日本的サヨ的の理想である)戦後民主主義の主流だった戦後は,その底流にかなりの戦前の意識を残していた様な印象があります。
其れが漸く弱体化したのが戦後40年経とうとする80年代ぐらいだったのかなぁという気がします。だから戦後自民党的保守への嫌悪感を持っているのは80年代に子供だった現30代ぐらい迄で,それより下の世代は嫌悪すべきエスタブリッシュメントが左翼になったのかなぁと現在のネット右翼全盛を見て思ったりします。
80年代の日教組の攻勢なんてのは,組合の弱体化を考えると幻想な気がするんですけどどうでしょうかねぇ。
思想的な1940年体制と云うべき様な物の終焉物が80年代に有ったような気がするんですけど,そのせいで一連の旧日本軍への反省行為の様なものが発生してきたのでは?

纏まらぬレスで3失敬です。。

242やおよろず:2007/08/17(金) 08:50:27
>>241
>>82年 「侵略・進出」誤報事件
>これは教科書に侵略という用語を使うか進出とするかの議論でしょうか?

「侵略を進出に書き換えた」という虚報を朝日新聞が報じて、中国から反発が来ました。
それ以降、教科書問題が国際問題化するようになり、
左翼陣営の活動の中心が教科書中心に移っていくわけです。

>(日本的サヨ的の理想である)戦後民主主義の主流だった戦後は,その底流にかなりの戦前の意識を残していた様な印象があります。

国民が連続していることを考えれば、それは当然と言えば当然でしょう。

しかしながら、事実として主権回復までの7年弱の期間、戦中の以上に激しい報道統制があったわけで、
その時期に少年期を過ごした年代は、報道統制から抜け出ていないというのも確実にあるわけで、
これが左派=良心的との評価の源泉ではなかろうかと思います。
社会の中軸が戦前派から戦中・戦後派に移行していくのが80年代であったのでしょう。


左派が決定的に信頼を失ったのは、「浅間山荘事件」で、
それ以前、60年代における経済成長で、共産主義に対する幻想は市井からは消えていたとは思いますが。


>80年代の日教組の攻勢なんてのは,組合の弱体化を考えると幻想な気がするんですけどどうでしょうかねぇ。

事実として日教組上層部の北朝鮮訪問が常態化していたわけで、「最も尊敬する人物は金日成将軍」などという日教組委員長の言葉も残っているほどで、
組合員の多くが思想・信条とは無関係であることは知っていますが、組合の上層部には確実に共産圏とのつながりがあります。

243やおよろず:2007/08/17(金) 09:11:12
>>242

>左派が決定的に信頼を失ったのは、「浅間山荘事件」で、
>それ以前、60年代における経済成長で、共産主義に対する幻想は市井からは消えていたとは思いますが。

続き

 この辺の左翼団体が平和団体・市民団体に衣替えしてきたのが大きいのかと思われます。
 実際、この辺が騒いでいただけで、イデオロギー的なものが一般市井に広がっていったわけではなかろうとも思いますが

 逆に言えば、いわゆる「右傾化」の動きは、戦争論やネット右翼というよりは、北朝鮮の拉致発覚が大きいでしょう。
 かといって、この問題で一般的に社民党をはじめとする左派=北朝鮮派が批判されているかと言えば、そうでもないような気がします。
 北朝鮮は批判されていますけど
 基本的に左派は北朝鮮シンパが多いので、北朝鮮批判が広がったことを捉えて「右傾化」と捉えているのかもしれませんが

 部落問題にしろ、北朝鮮問題にしろ、その当事者は批判されてはいますが、それをもって左派全体が批判されているかと言えば、そうでもないように思います。

244名無しさん:2007/08/17(金) 11:47:57
それと同様に、北朝鮮批判は支持されても、いわゆる右派の主張が受け入れられているわけでもないでしょう
世の中は右派と左派の2陣営に分割されるとの前提のもと、
左派が批判されれば、右傾化だとか、
左派陣営に属する北朝鮮が批判されているから、右派が支持を得ているとか、
そういう見方は間違っているのではなかろうかと思います。

245杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2007/09/10(月) 20:57:55
韓国国内で「日本の植民地支配は正しかった!『嫌韓流』支持!!戦前日本万歳!!!」てやっている面子と同じか!?!?

イスラエルでネオナチ集団逮捕、旧ソ連出身のユダヤ系移民
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070910i213.htm

 【エルサレム=三井美奈】イスラエル警察は9日、ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーを崇拝する8人のネオナチ集団を逮捕したと発表した。

 イスラエルは、ナチスによるユダヤ人虐殺を生き延びた被害者が中心となって建国しただけに、ネオナチの存在は国民に大きな衝撃を与えている。

 8人は16〜21歳で、いずれも旧ソ連出身のユダヤ系移民。同国中部ペタハティクバで、シナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)に出入りする信者やアジア系移民、同性愛者を次々と襲撃していた。報道によると、自宅でヒトラーの肖像や拳銃が見つかり、押収されたビデオには、8人がナチス式の敬礼をしたり、麻薬中毒者を路上でひざまずかせ、「ユダヤ人」であることをわびるよう脅したりする様子が映っていた。

 イスラエルは、ユダヤ人には無条件で国籍を与えており、8人は子供のころ、両親と移民したらしい。同国には1990年代、旧ソ連から100万人以上のユダヤ系が流入。現在、国内人口の約6分の1を占めるが、イスラエル社会にとけ込まず、ロシア語を使いながら独自の共同体を作っているケースも多い。

 逮捕者の1人は、腕に「白人パワー」という言葉を刺青しており、ユダヤ系としての自覚が薄い「白人至上主義者」だったと見られる。

 オルメルト首相は9日の閣議で、「イスラエル国民なら、だれでも無関心ではいられない」と話し、教育制度を見直す必要があると強調した。

246とはずがたり:2007/10/16(火) 20:10:57
旧日本軍を神聖化したい連中の野望が挫かれるのは非常に意義深い事である。

2007年10月16日(火) 夕刊 1面
「要請を実現したい」/細田幹事長代理前向き
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200710161700_02.html

 【東京】自民党の細田博之幹事長代理(元官房長官)は十六日午前、沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への日本軍の強制を削除した高校歴史教科書の検定問題への対応について、「本道に戻したい。(県民大会実行委員会の)要請内容を実現したいと思っている」と述べ、検定意見撤回や記述の回復に積極的に取り組む考えを示した。十一万人が参加した県民大会の実行委員会要請団に答えた。実行委はこのほか、社民党の福島瑞穂党首、公明党の太田昭宏代表や浜四津敏子代表代行、池坊保子文科副大臣らにも要請。教科書協会も訪ね、今回の検定で意見が付された五社の担当者らに記述の訂正を要請した。

 要請団の約百七十人は同日、七班に分かれて関係先を回り、検定意見の撤回と記述の回復を含めた四項目を要望。実行委員長の仲里利信県議会議長や高嶋伸欣琉球大学教授らのグループは自民党本部に細田幹事長代理を訪ね、検定意見の撤回などを求めた。

 仲里委員長らによると、同席した河村建夫広報本部長(元文科相)も「教科書に歴史の事実が書かれなければ、文部科学相はきちんと直すよう監督指導する責任がある」と述べ、文科相の責任で対応する必要性を強調したという。

 仲里委員長は要請後、細田幹事長代理の発言について「力強い話があり大きな前進だ」と歓迎。高嶋教授も、河村広報本部長の発言に「政治家の責任の在り方を示したいい発言」と評価した。

 一方、実行委幹事の伊波常洋県議(自民)らのグループは、自民党沖縄振興委員長の山崎拓衆院議員を平河町の個人事務所に訪ねた。山崎氏は冒頭、「超党派の県民大会は県民の総意としてしっかりと受け止めたい。沖縄振興委員会でも、この問題で何かできることがあるか検討している」と述べ、党として対応する姿勢を明らかにした。

 面談は非公開だったが、伊波県議らによると山崎氏は「子どもたちに教える立場から、軍部の関与については事実上元に戻すことを希望しており、そうなると予見している」など、記述回復に前向きな姿勢を示した。

 検定意見の撤回については「制度の問題があるが、今後起こらない仕組みを必ず確立する」と述べ、検定意見撤回以外の手段で解決に取り組む考えを示した。

 要請団の要望は(1)検定意見の撤回と記述の回復(2)教科用図書検定調査審議会の速やかな再開催(3)審議の公開と審議会への沖縄戦研究者の参加(4)沖縄条項の確立―の四点。

小沢氏、国会決議に意欲
「政府・文科省と戦う」

 【東京】民主党の小沢一郎代表は十六日、国会への「沖縄戦『集団自決(強制集団死)』の教科書検定に関する決議案」提出について、「民主党の認識は一致している。政府や文部科学省に対して戦っていく」と、意欲を示した。十一万人が参加した「教科書検定意見撤回を求める県民大会」実行委員長の仲里利信県議会議長らの要請団に答えた。

 検定手続きの見直しなどを求める同決議案提出をめぐっては、自民党執行部から反対意見が相次いでいるほか、民主党内からも「全会一致」の慣例を重視し「多数決ではできない」(平田健二参院民主幹事長)との異論が出ており、めどが立たない状況に陥っている。

 小沢代表はこれまで、「参院の判断、運営に任せている」と述べ、事態を静観する構えを見せていたが、今回の発言は従来より踏み込んだものといえる。

 仲里議長らによると、小沢代表はそのほか「政府は審議会に責任を負わせるような格好でやっているが、真正面からはっきりと政府の言葉を言わなければならない」と述べ、同問題をめぐる政府の対応を非難。

 その上で「歴史の事実は一つ。その事実を歪曲することは厳にあってはならないし、それは自分たちもただしていく」と述べ、県民大会で決議した検定意見の撤回や記述の回復に前向きに取り組む姿勢を示したという。

247とはずがたり:2007/10/28(日) 21:43:23

京大教授陣に反共工作 米、左傾化阻止へ世論誘導
http://www.47news.jp/CN/200710/CN2007102101000161.html

 【ワシントン21日共同】1950年代に日本の左傾化を恐れた米広報文化交流局(USIS)が日本で行った世論工作を詳述した報告書が21日までに米国立公文書館で見つかった。左派勢力が強かった京都大学の教授陣を対象にした反共工作のほか、日本映画やラジオ番組の制作、出版物刊行をひそかに援助、米国が望む方向への世論誘導を図った実態が細かく描かれている。

 報告書は、米政府情報顧問委員長(当時)を務めたエール大学の故マーク・メイ教授が59年、日本に5週間滞在しまとめた。フロリダ・アトランティック大学のケネス・オズグッド助教授が発見、冷戦時代の米対外世論工作をテーマにした著書「トータル・コールドウォー」の中で明らかにしている。

 報告書によると、USISは(1)日本を西側世界と一体化させる(2)ソ連、中国の脅威を強調する(3)日米関係の強化で日本の経済発展が可能になることを理解させる−などの目的で、50の世論工作関連事業を実施。このうち23計画が米政府の関与を伏せる秘密事業だった。

2007/10/21 16:00 【共同通信】

248とはずがたり:2007/12/02(日) 21:37:47
五・一五前夜のチャップリン 皇居前一礼の謎に新事実
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071202-00000919-san-soci&amp;kz=soci
12月2日18時50分配信 産経新聞

 昭和7(1932)年に来日した世界の喜劇王、チャールズ・チャプリン(1889〜1977年)が「五・一五事件」の前日、皇居前で一礼したのは自身を守る“演出”だった−。親日家でありながら、外国勢力打倒をかかげる軍人らの標的にされたチャプリンを守るため、皇居訪問を最優先させるなど、秘書やその知人らが訪日の行動計画をたてた手紙が研究者によって発見された。「親日ぶりの単なるアピール?」「不審な車につけられた?」など、その意味が明かされず謎とされた「一礼」が、チャプリンの“世紀の名演技”だったことを裏付ける貴重な資料という。

 手紙は元陸軍少将の作家、櫻井忠温(ただよし)がチャプリンの秘書、高野虎市(1885〜1971年)にあてたもので、チャプリン研究の第一人者、大野裕之・日本チャップリン協会会長が高野の遺品などから発見した。原稿用紙7枚に書かれ、正確な日付は不明だが、「最近の日本は騒がしいのでお気をつけください」など日本の情勢の報告とともに、「お早めに東京に来られたほうがいいと思います」「東京でまず宮城(皇居)に行く」よう指示。このほか、撮影所訪問や歓迎会への出席など行動計画が綿密にたてられていた。

 欧州やアジアをめぐる世界旅行の途上、5月14日に神戸港に入ったチャプリンは、京都や大阪を“とばして”東京に直行。その夜、ホテルへ行く前にまず二重橋に立ち寄った。「高野が『車から降りて皇居を拝んでください』というので、(腑に落ちないまま)礼をした」と、皇居への訪問を“最優先”させたことを自伝に記している。この「一礼」は当時、新聞などで大きく報じられたという。

 翌日には、一部軍人が蜂起して犬養毅首相を殺害した「五・一五事件」が発生、チャプリンも“外国文化の象徴”として標的にされていたことが、裁判記録などから明らかになっている。

 その特異な行程や一礼の意味はこれまで“謎”とされ、研究者からは「跡をつける不審な車におびえた高野が礼をさせた」などという見方も出されていた。

 高野はチャプリンより1カ月早く来日して日程を調整しており、大野会長は「不穏な動きを高野が事前に察知して、軍部に詳しい櫻井に相談したのではないか」と分析。「高野らが綿密に作戦をたて、チャプリンがその通りに演じたことが分かる貴重な資料」と、没後30年にして発見された資料を高く評価している。

 事件当日、チャプリンは首相の歓迎会には行かず、気まぐれで相撲観戦に出向き、難を逃れた。大野会長は「歴史は皮肉なもの。しかし高野の努力もあり、命拾いしたともいえる。手紙はそれを証明し、高野とチャプリンの深い関係をも裏付ける」と話している。

249とはずがたり:2008/01/31(木) 23:57:59
大恐慌を放置してもっとも人気のない大統領であるフーバーとGHQでお馴染みのマッカーサーの意外な関係

http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19430126buyou/buyou.htm

250とはずがたり:2008/02/01(金) 00:04:59
>>249
>もっとも人気のない
wiki等を見ると退任後は色んな活動を通じてそれ程悪評価で死んだわけでは無さそうである。。

251とはずがたり:2008/02/08(金) 21:49:47
こんなスタンスだったんですね。せめて西園寺も此に賛同してくれれば・・。

伊東巳代治の国連脱退反対運動
http://210.128.252.171/modern/column/07.html

この表現がなかなかいいっすねぇ。
>半世紀に及ぶ政治生活で伊東が放った最後の淡い光茫であった。

252とはずがたり:2008/02/28(木) 22:13:34
私は日本の民主主義社会の原点を室町・戦国期の町衆や国人らの自治に求めていて,南山城の国一揆や加賀の一向一揆(専門のウェブサイト迄みつけた http://rokuro.at.infoseek.co.jp/ )を高く評価してるけど,明治体制下のこの富山県の米騒動の震源地ぶりもなかなか評価できるぞ!
なんでも一番有名な1918年以外にも大きな物は3度あったそうだが,いずれも富山県がきっかけになっちょる。最近では自民党の金城湯池になっちまたが農地解放前迄は庶民の不満のポテンシャル高かったのか。

米騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

米騒動の発生契機としては凶作による米不足や米価格の暴騰が直接的な要因になる事が多い。一般に「米騒動」とのみ呼称した場合は、大正時代の1918年に発生したものを指す。しかし、単純な「米価格の暴騰に伴う民衆暴動」という定義の騒動は江戸時代の享保の大飢饉の頃から幾度となく発生しており、明治維新以降で全国規模にまで発展した米騒動は1890年、1897年、1918年の3度を数える。
1890年の米騒動
1890年1月18日、富山県富山市において市民による市役所・資産家に対する救助要請運動が始まったのをきっかけとして、同年4月から9月にかけて鳥取県、新潟県、福島県、山口県、京都府、石川県、福井県、滋賀県、愛媛県、宮城県、奈良県など19箇所において騒動が発生した。特に新潟県佐渡市相川町では6月28日から7月5日にかけて鉱夫を中心として2000名以上が蜂起し、軍隊の出動をもって鎮圧する事態にまで発展している。[要出典]
1897年の米騒動
1897年5月下旬の富山県魚津町での騒動をきっかけとして始まった騒動で、同年8月から10月にかけて、石川県、長野県、山形県、新潟県、福井県など10箇所において発生した。最も大騒動となったのは長野県飯田町の騒動で、9月1日から9月3日の3日間で約2000名の民衆が暴徒と化し、米問屋や警察署などを襲撃する事態に至った。[要出典]
1918年の米騒動
1918年7月下旬から9月にかけて、富山県魚津町を中心にして参加者100万人を超える全国規模の民衆暴動へ発展した事件。本項次節以降で詳述する。

253とはずがたり:2008/04/16(水) 12:50:41
上原勇作と云えばキーワードは帷幄上奏権・二個師団増設問題・軍部大臣現役武官制ですねぇ〜。基本事項であるから抑えておくよーに♪
民党の経費節減・民力休養に対する蛮勇演説の樺山資紀とついごっちゃになってしまうね。樺山と聞けばすっと蛮勇演説が出てくるけど。
熊本鎮台司令長官として熊本城を西南の役で守り抜いた谷干城も組閣の大命が下るも陸軍が陸相を推挙しなかった為に組閣に失敗した流産内閣宇垣一成も間違えない。田中義一も軍人出身だけど政友会総裁の印象が強いなぁ。
上原の日本史上というか日本史入試上の印象はこう見るとあんま強くないのかねぇ。
あんま関係ないけど「たにたてき」よりも「たにかんじょう」と有職読みするのが個人的な好み。もっと関係ないけど宇沢弘文先生もひろふみではなくこうぶんな感じですな。

旧陸軍大臣収集の「上原文庫」、都城市立図書館が調査へ
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20080413-OYS1T00337.htm

 旧陸軍大臣の上原勇作が集めた戦前の軍やOB関連の雑誌など約5000冊を蔵している「上原文庫」(宮崎県都城市立図書館)の本の劣化が進み、同図書館が保存や複写本の作成に向けて蔵書の内容調査を始める。上原は読書好きとしても知られ、文庫には国会図書館にもない貴重な史料が多いとみられているが、内容の詳細な研究は行われていなかった。専門家は「史料の重要性がつまびらかになれば」と期待している。

 同文庫は都城出身の上原の陸軍大臣就任を記念して1914年(大正3年)に設立。多くが上原の蔵書で、市民からの寄贈もある。OB組織「帝国在郷軍人会」の機関誌がほぼそろっているほか、新兵生活の苦心談などを掲載した啓発雑誌「皆兵」、陸海軍の下士官が投稿した作文や俳句などの文芸誌も。

 有馬学・九州大教授(日本近代史)によると、旧日本軍は平時から国民向けの啓発活動に熱心で、軍のOB組織が重要な役割を担っていた。雑誌などから陸軍や在郷軍人会が何を目指していたかがわかるという。「文庫は戦前の軍と社会の関係を研究する上で欠かせない史料群で、その豊富さは全国一では」と話す。

 しかし、蔵書はほとんどが酸性紙で劣化が進行。開くだけで紙が崩れる本もある。図書館では本をばらしてとじ直し、酸化を防ぐ箱の中で保管するほか、複写本を作るなどして史料の存続を図ることを計画。1冊あたり数千円の費用がかかることから、日本近代史に詳しい大学教授らに蔵書を読み解いてもらい、概要を記したリストを作成して重要な史料を選別していく。

 同図書館の羽田野信拓・副主幹は「各史料の内容調査を急ぎ、重要性を広く訴えたい」と話している。
(2008年4月11日 読売新聞)

254荷主研究者:2008/06/19(木) 23:32:04

http://www.kahoku.co.jp/news/2008/05/20080506t33007.htm
2008年05月05日月曜日 河北新報
旧陸軍施設相次ぎ解体 盛岡・青山地区

4月に解体された覆馬場。消えゆく赤れんが造りの建物に住民から惜しむ声が上がった=盛岡市青山2丁目

 旧陸軍関連の建物が数多く残る盛岡市青山地区で、街の景観が様変わりしている。覆馬場と兵舎が今年に入り、相次いで解体された。江戸期の町家をはじめ明治、大正期のモダン建築などの保存活用に力を入れる土地柄だけに、失われゆく地域のシンボルを惜しむ声が上がっている。

 市北西部の青山地区は戦前、騎兵第三旅団や工兵第八連隊の駐屯地として発展した。戦後は戦地などからの引き揚げ者が住み着き、戦時の記憶を色濃く刻む街並みとして知られる。それが今年、いずれも民間企業が所有する覆馬場と兵舎が次々壊された。

 さらに6月には、これも民間企業所有の覆馬場が姿を消す。旧陸軍施設で青山地区に残るのは市所有の覆馬場1棟だけとなる。

 施設解体後の跡地は緑地になったほか、今後、スーパーなどが建てられる。施設所有の企業側には工場の規模拡大や業務縮小という事情があり、「既に決まっていたこと」と口をそろえる。

 変ぼうする街並みに、青山大通り商店街の安部一夫会長(58)は「街の顔が失われていくのが寂しい。もう少し保存に向けて行政や企業と協議する時間が欲しかった」と肩を落とす。

 「いわて・戦争を記録する会」の加藤昭雄事務局長(花巻市)も残念そう。旧陸軍の関連施設が1カ所に集中するのは全国でも珍しく、「文化財としてとても価値が高かったのに…」と解体を惜しんでいる。

 建物の保存について、盛岡市は「多くは民間企業の施設で、市の現在の財政事情では買い取れない。ただ、市所有の覆馬場は国指定の文化財を目指して、地域の中で活用法を探りたい」(環境企画課)と語るのが精いっぱいだ。

255名無しさん:2008/06/22(日) 17:25:55
明治天皇の孫、海渡り60年 ブラジルで皇太子さま対面
http://www.asahi.com/national/update/0621/TKY200806210120.html
2008年6月21日17時58分

 【サンパウロ=島康彦】皇太子さまは20日夕(日本時間21日早朝)、サンパウロ市内のホテルで、日系人ら約50人と懇談した。その中に、約60年前、皇籍離脱してブラジルに渡った元皇族がいた。多羅間俊彦さん(79)。終戦直後の皇族首相・東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)氏の四男、明治天皇の孫だ。

 宮家のプリンスとして一目置かれる生活が、戦争で一変する。自宅は焼け、終戦直後の1947年、他の宮家とともに皇籍を離脱した。

 同じころ、知人からブラジル行きの誘いを受けた。大学でラテンアメリカ研究会に所属し、南米の自然にあこがれる気持ちもあった。「ロマンがある世界に飛び込みたかった」。コーヒー農場を経営する元外交官夫人の養子となって、51年、海を渡った。

 周囲は驚いたというが、多羅間さんは「苦労はなかったですね。希望に満ちていたから」と笑顔で振り返る。

 日系2世の女性と結婚。長男と3人でサンパウロで生活する。ブラジルでの半世紀を超える年月は「非常に豊かな人生でした」と話す。

 今回の皇太子さま訪問では、ブラジル日本文化福祉協会副会長として、準備作業にかかわった。「100周年は一つの区切り。日本側との連絡など今後も力になれることをやっていきたい」

256石垣眞人:2008/07/30(水) 14:42:20
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

257とはずがたり:2008/08/13(水) 18:38:39

終戦直前の東条手記 「内閣、国民に嘆息」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080813-00000060-san-soci&amp;kz=soci
8月13日8時0分配信 産経新聞

 太平洋戦争開戦時の首相だった東条英機陸軍大臣が、終戦直前の緊迫した情勢の中で心情をつづった手記が国立公文書館(東京都千代田区)に所蔵されていることが12日、わかった。

 昭和20年8月10日から14日の間に書かれたもので、昭和天皇が臨席された10日の重臣会議の記述から始まる。東条元首相は政府がポツダム宣言受諾を決めたことについて、11日に「新爆弾に脅(おび)え、ソ連の参戦に腰をぬかし一部条件を付し在りといえども、全く『敗戦者なり』との観念に立ちたる無条件降服を応諾せりとの印象」と政府の“弱腰”を厳しく批判している。

 13日には「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及び国民の無気魄(きはく)」に嘆息を漏らし、自身の責任に言及する。そして14日には首相時代の秘書官にあてて「大義に殉ぜる犠牲もついに犬死に終らしむるに至りしことは前責任者としてその重大なる責任を痛感する。事ここに至りたる道徳上の責任は死をもっておわび申上ぐる」と自決の覚悟を記している。

 東条元首相は同年9月にピストルで自殺を図るが一命を取り留め、東京裁判で絞首刑判決を受けて、23年12月に刑死した。手記は東京裁判で東条元首相の弁護人を務めた清瀬一郎弁護士が法務省に寄贈した裁判資料の中にあった。

 小堀桂一郎・東大名誉教授の話「生々しさはあるが、新たな発見はこれといってない。ただ興味深かったのは、東条さんのような地位にあった人でも、ポツダム宣言の条件を無条件降服だと思い込んでいたこと。国際法の厳密な解釈ができていないことが随所にうかがえる。また、全面的な武装解除を履行すれば国体の護持はできないという認識は正しく、この点はさすがに軍人だと感心した」

258とはずがたり:2008/08/14(木) 14:24:48
政界名(迷)言集
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/meigen.html

259とはずがたり:2008/08/15(金) 13:53:31
なんだ,この文語体であること以外あんま中身の無い文章は。。
しっかし,現代に於いて日本國民が8/15を大東亞戦争の一大劃期だと考えてゐるのは天皇から終戦を直接に語られた日だからなんだな。。

【正論】「8月15日」 埼玉大学教授・長谷川三千子
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080813/trd0808130328001-n1.htm

260とはずがたり:2008/08/20(水) 18:26:05
ちょいと前の記事だが。

2007/06/15
文科省が削除要求 「集団自決」修正
軍関与の記述部分 沖縄T
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1089893576/2746

2007/06/23
沖縄:教科書検定問題で記述の復活はしない考え…安倍首相
沖縄:教科書検定、国と溝 「自決強制」目撃の女性に怒り
>>213

「集団自決」に「軍の関与」復活 検定意見を実質修正
http://www.asahi.com/politics/update/1226/TKY200712260329.html
2007年12月27日06時47分

 沖縄戦の「集団自決」をめぐり、来春から使われる高校日本史の教科書検定で「日本軍の強制」が削除された問題で、渡海文部科学相は26日、教科書会社6社から出されていた訂正申請を承認した。「日本軍が強制した」という直接的な記述は避けつつ、「軍の関与」や「戦中の軍の教育」などによって住民が自決に追い込まれたと記しており、「集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因」と読める内容になった。

 一度検定に合格した教科書の記述に沖縄側が激しく反発したことをきっかけに異例の再審議となった。6社中5社は文科省側とやりとりしながら、訂正申請を一度取り下げたうえで、修正して再申請し承認された。文科省は、「軍の強制」を認めなかった検定意見を撤回しなかったものの、内容を事実上修正する結果となった。

 渡海氏はこの日の会見で「審議経過も明らかにしており、沖縄の理解をいただきたいと思っている」と語った。一方、9月末に開かれた沖縄県民大会の実行委員長を務めた仲里利信・県議会議長も会見し、「記述の回復がほぼなされ、これまでの検定意見は自動的に消滅したと考えている」と表明した。ただし、県民大会で決議した「検定意見の撤回」が実現しなかったことには不満の声も根強く、28日に実行委員会を開いて、正式な態度表明をするという。

 渡海氏は県民大会の直後、「訂正申請があれば真摯(しんし)に対応する」と表明。11月に各社から申請が出されたことを受けて、諮問機関の教科用図書検定調査審議会(検定審)に検討を要請。検定審日本史小委員会は25日に訂正申請を承認する報告をまとめた。

 今回の再審議では、「日本軍が強制した」と記した訂正を認めるかどうかが焦点だった。日本史小委は、沖縄戦や軍事史の専門家9人に意見を求めたうえで、(1)集団自決が起きた状況をつくった要因として、軍の関与は主要なもの(2)軍命令で行われたことを示す根拠は確認できていない(3)住民側から見れば、自決せざるを得ないような状況に追い込まれたとも考えられる――という「基本的とらえ方」をまとめた。この方針に沿って、教科書会社に訂正申請の根拠となる資料の提出や説明を求めた。

 その結果、三省堂、実教出版、清水書院、第一学習社、東京書籍の5社は訂正申請にあった「自決を強要された」「集団自害と殺し合いを強制した」といった直接的な表現を取り下げ、「日本軍の関与」「米軍の捕虜となることを許さないなど指導」との表現に変えて再申請した。山川出版社は事実関係だけで、背景や要因には触れなかった。

 「強制的な状況のもとで」「『強制集団死』とする見方が出されている」といった記述も承認された。文科省は「『強制』や『強要』があれば即不合格になるのではなく、全体の文脈の中で小委が判断した」と説明している。

261とはずがたり:2008/09/15(月) 01:18:04
麻生太郎外相と韓国・朝鮮、被差別部落/坂井貴司
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/c40aeeaef38844fe604e08bee1a98452

262名無しさん:2008/09/15(月) 01:58:31
>>261
典型的な朝鮮万歳系・部落万歳系の記事ですね。

263とはずがたり:2008/09/15(月) 09:18:17
典型的であろうと無かろうと近代や帝国主義の時代がこういう事が法治主義の名の元で行われてたって事は事実かと思います。
散々抑圧しといて向こうから日本に来たがったとか向こうが日本の名前欲しがったとか云う典型的な保守派の発言は身勝手で他者への配慮が決定的に欠けているとしか思えませんね。

264名無しさん:2008/09/15(月) 11:48:06
その話自体がインチキ臭いんですよね。

265とはずがたり:2008/09/15(月) 17:27:17
>>264
どの辺りがインチキなんでしょう?
あと50年もしたらこの時期(現代)の日本の政治家は韓国が嫌がるようなことを云った事実はない善隣友好に尽くしたのに中韓は勝手に日本を恨み続けたって言い出しそうです…。

267やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 02:04:54
>>265
>>261がファクトかどうかの話ですから。
嫌がったとか何とか、一般的な話にもっていくのは、いかがなものかなと思いますけどね。

ファクトを無視して、共産独裁国家を賛美していた大学教授や文化人など自称インテリ(実態は単なる馬鹿)の飯の種にしか思えませんけどね。

268とはずがたり:2008/09/23(火) 03:12:39
日本なりイギリス成りが朝鮮なりインドなりに植民地収奪したと云うファクトから出発しないと議論にならないような気がしますが如何でしょうか?
日本人が朝鮮地域の発展と繁栄のみを祈るお人好しだった疾っくに欧米の植民地となっていたでしょうし。
収奪なり侵掠なりしたと云うファクトから始めないと,無謬の皇軍,無辜の臣民,無欠の皇室が前提ではやおさんの云う共産独裁国家を賛美していた大学教授や文化人など自称インテリ(実態は単なる馬鹿)と大差ない事に成ってしまいませんかね。

269名無しさん:2008/09/23(火) 11:09:08
1.イギリスと日本が同じである。

これは立証なしで、前提としなければならないのでしょうか?

2.論点は、日本の善意の有無である。

日本が善良なお人好しでなければ、その行為は全て否定されるべきであるというのが前提になりますね。


どっちにしろ、奴隷として強制連行したことがファクトであるとの裏付けにはなりませんけどね。

270とはずがたり:2008/09/23(火) 20:02:22
>>269
>1.イギリスと日本が同じである。
>これは立証なしで、前提としなければならないのでしょうか?
まぁイギリスも善意でやってたかも知れませんので,其れを言い出すとなかなか大変ですな。。

>2.論点は、日本の善意の有無である。
>日本が善良なお人好しでなければ、その行為は全て否定されるべきであるというのが前提になりますね。
欧米の侵掠の危機に対して日本が自衛の為にやった事だから何やっても良いという結論にはならんと思います。

現在に至る迄,中韓が日本に頭下げろと云って来て腹立たしいと云う感情と当時の列強のやった事の是非は切り離して論じるべきではないでしょうかね。

271やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 22:25:04
>>270
善意かどうかと、強制連行があったかどうかとが、どういう風にリンクするのでしょうか?

272とはずがたり:2008/09/23(火) 22:31:08
>>271
日本の保守陣営の観点からの典型的な日本の植民地支配観は日本は良い事をしてあげたと云う善意論ではないでしょうかね?
革新陣営が主張する植民地支配者としての日本の悪行の典型の一つが強制連行だとするとそれの対応物かと。

273やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 22:35:12
>>272
強制連行の有無が論点ですけど。
植民地支配云々が論点ではないはずですが。

274とはずがたり:2008/09/23(火) 22:44:08
植民地支配の一環として”強制連行”があったのではないでしょうかね?
沖縄戦での陸軍の強制と同じくその強制の中身を論じないと駄目なのでしょうけど。
日本が朝鮮人に対して不利な立法をして経済的困窮に追い込み結果として日本の劣悪な労働環境で働くことを強いられるようになった,と云う事を強制では無く募集に応じたのが彼らの自発的行為だから強制連行は無かったという主張ですかね?

275やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 22:44:51
>>274
それでは、日本国民はどうなのでしょうか?

276とはずがたり:2008/09/23(火) 22:47:31
>>275
といいますと?
日本人労働者も当時の産業資本にさんざん搾取されていたから同じと云う事でしょうか?

277やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 22:49:27
>>276
そういうことになりませんかね?搾取論だと。
戦後の東北地方からの出稼ぎも、強制連行であるといえなくもない。

なんにしろ、奴隷狩り的な強制連行はファクトではありませんね。
かりに、搾取があったから強制連行でとしても、奴隷狩りをファクトとすることはできません。

278とはずがたり:2008/09/23(火) 22:53:33
>>277
そうだったんじゃないでしょうかね。
搾取という違うタームが付いているだけで本質は同じだと思いますよ。
一生懸命経済発展の為の資本蓄積をしていたとしても当時の劣悪な労働環境に置かれた労働者や明治政府に拠って植民地的な地位におかれた東北地方民が産業資本家や薩長藩閥政府に怒りを持ったとしてもそんなものは無かったと云う気には成れませんねぇ。

279やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 22:57:06
>>278
論点は、怒りの有無ではなく、奴隷狩りの有無ですが。

今なお朝鮮や中国からわたってくる不法難民も、強制連行なのでしょうか?

280とはずがたり:2008/09/23(火) 23:01:46
>>277 >>279
>奴隷狩り的な強制連行
日本は歴とした法治国家でしたからその辺は巧妙にソフィスティケートされていた筈です。
法律に照らしてグレーではあり,朝鮮人に不利なようになっていたかも知れませんけど,其処がクリティカルなんでしょうかね?

日本による植民地化が直接の原因で状況に追い込まれて日本に渡らざる得なかった,ってのと現代の独立国からの不法入国を同一視するのは無理があるんじゃないでしょうかね?

281やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 23:07:27
>>280
どうでしょうね?
まず、朝鮮と日本の経済格差が日本政府によるものであるのかどうか?

朝鮮内にいるのと、日本に行くのとで、日本に行くほうがカネになるのなら、
日本に来る朝鮮人が多くても不思議はありませんけどね。

そういう経済格差と人口動態は、現在の脱北者の行動と類似しているのではないでしょうか?

282やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 23:09:59
>>280
>>日本は歴とした法治国家でしたからその辺は巧妙にソフィスティケートされていた筈です。

一般に革新陣営が流布している言説は、虚言となってしまいますね。

飯の種とは言え、言説が過激になっていくことは、
誰のためにもならないのではないでしょうかね?

無理に一般国民と一般在日との間に壁を構築して、
それでもって、飯の種にしている人間が、社会的に一定の影響力を持っている以上、
どうしようもないことなのかもしれませんけどね。

283とはずがたり:2008/09/23(火) 23:26:06
>>281
論理を敷衍すると中韓が(半)植民地化されたのも,情勢を見て適切に国家運営できなかった彼らの自己責任でそれを侵掠した方の責任にするのは筋違い,全て合法的なものであったと云うことになるんでしょうかね。
確かに当時の産業資本の現代に繋がる発展への役割を無いと云うことは出来ず,寧ろ積極的な意義を見いだすべきだと思いますが,当時の劣悪な労働環境を問題であったと認識する事から現代の社会権や生存権が正当化されるのだと思います。

同じように当時の列強の行動を適切に批判してこそ将来嘗てのような帝国主義による抑圧が再来する事の抑止になると思ってます。
で,日本の支配にも積極的な意義があった可能性はあるとは思いますがその辺は当時の労働者と資本家への現代人の帰属意識よりも当時の朝鮮人の現代の朝鮮人の帰属意識の方が遙かに高いのでそれに日本人が触れるのは難しいであろうかと思います。

日本語が判らないのを良いことに契約書にサインして連れてきたり,美味い飯が食えるぞと騙して連れて来たりがあった様に聞いてますけど,少なくとも一部の拉致被害者を騙して自分の意志で北朝鮮入りさせた北朝鮮位には当時の資本家好き勝手やってた様に思いますけどねぇ。
タコ部屋での悲惨な生活を正確に知らされて日本に来た人なんているんですかね?

>>282
煽りあいがエスカレートしてゆくのは不毛でしょうね。
革新陣営が殊更に戦前の日本を貶め,保守陣営が殊更に無謬性を主張し,それに海外の言説も絡んで紛糾すると云うのは不健全でしょう。
日韓中で解決するのは難しそうですので欧米の歴史学者にも這入って貰って検証する必要があるのかも。ドイツとその周辺諸国みたいに自分らで解決できないのは情けないですけど,向こうは全部ナチスが悪いで押し込めてしまえたからなぁ。。

284やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 23:41:18
>>283
仲介業者がいたのは事実でしょうね。
仲介業者と労働者の話で、政府の話なのかどうかは微妙ですし、
全く無関係な世代が騒ぐことでもないような気がします。
そういう仕事についている人は別ですが。
暮らしが苦しいのと、普通に暮らしていたのを羅利するのとを同一視するところに、革新陣営の不誠実を感じますが。

革新陣営も細る一方なので、言説が過激になっていくのも組織の宿命として理解できます。

南北朝鮮とも、日本叩きなくして政権維持ができないでしょうから、これはどうしようもないですね。
学者も利害関係を背負ってるでしょうから、難しいでしょうね。

北朝鮮拉致問題ですが、拉致されたとされる人の中にも、北朝鮮に自ら入国した人もいるでしょうね。
現在のように、北朝鮮の情報が国内に流れるような時代でもなかったでしょうしね。
もちろん、普通に暮らしていて拉致誘拐されたケースが多いでしょうけど。

285とはずがたり:2008/09/24(水) 00:52:03
>>284
>政府の話なのかどうかは微妙ですし、
慰安婦なんかもそうでしたけど確かに微妙でしょうけど如く巧妙なソフィスティケートの一環で推奨しなかった迄も黙認等はあったでしょうから無関係と突っぱねるのもどうでしょうかね。

>全く無関係な世代が騒ぐことでもないような気がします。
これは矢張り帰属意識なんじゃないでしょうかね。
会津が薩長と"歴史的和解"みたいなニュースが時々流れますが裏返せば未だ引っかかるものがちょいとあるって事ですよね。
日中韓が会津と薩長ぐらい落ち着いた関係になるといいんですけど…。
知ってるのは留学生ぐらいですので本国の人の事は知りませんけど彼らは全くそんな不幸な歴史などなかったかの様に振る舞ってくれますし,騒いでるのは一部の人だけなんじゃないでしょうかね?

286やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/24(水) 02:18:54
>>285
一部ではありましょうけど、政権が左右されるほどの影響力を持つ一部ではあるでしょう。

287石垣眞人:2008/10/10(金) 15:23:57
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

288小説吉田学校読者:2008/10/24(金) 08:56:20
歴史の小さな一ページの一こまが変わるかもしれない。成田市の調査に期待する。

皇室用の防空壕?
http://mytown.asahi.com/chiba/news.php?k_id=12000000810230002

 成田市三里塚御料の三里塚記念公園に、地元で皇室用ではないかと伝えられる防空壕(ごう)が残っている。市によると、市にも国にも記録はなく謎のままになっていた。市は21日から地元からの要望を受けて内部の調査を始めた。(的場正)
 記念公園は、成田空港の建設前は宮内庁の御料牧場の一部だった。防空壕は皇族の宿舎などに使われた貴賓館の北に位置し、中央の部屋は深さ5〜6メートルのところにある。広さは6畳ほどで、天井の高さは約2・5メートル。壁はコンクリートで、出入り口は東西に2カ所。それぞれ厚さ約20センチの扉が二重になっていて、その外側に南北へ抜ける幅約1メートルの通路がある。いずれも部屋から見て左側にだけ階段が付いていて、階段の側を出入り口として使い、反対側は近くに爆弾が落ちた時に爆風が吹き抜けるようにしていたと考えられている。
 中央の部屋には電灯が付いていた跡やコンセントが残っている。防空壕の入り口付近にある配電盤には「昭和16年」の文字があり、1941年ごろに建設されたと考えられている。コンクリートの壁には69年の牧場移転後に書かれたらしい落書きもあったが、表面は建設されたときからほとんど劣化していないように見える。
 調査の様子を見ていた地元の人によると、地元では皇室用と考えられていた。「秘密の防空壕」と呼ばれ、御料牧場の関係者は「お文庫」と呼んでいたという。中央の部屋には畳が敷かれていたが、戦後は牧場でとれたサツマイモやジャガイモの貯蔵庫に使われていたらしい。
 2・9ヘクタールの公園一帯は国有地で、市は牧場の事務所棟を「御料牧場記念館」として、貴賓館とともに管理している。だが、防空壕は国にも記録がなく、これまで調査はされていなかった。今回、市が国に調査を申し出たところ、初めて認められたという。
 この日、中に入った小泉一成市長は「当時の最高の技術と材料が使われ、保存状態も想像以上に良かった。貴重な歴史的建造物を一人でも多くの方にみていただけるよう、一般公開に向けて努力します」と話した。

289とはずがたり:2008/10/24(金) 10:09:10
興味深い。子供の頃お寺の脇の崖に洞穴があって防空壕だと小学生の間では噂されてましたが本当だったのかなぁ。。
戦争末期は松代に地下要塞建設をしてたのは良く知られてますが,昭和16年だからもっと前の話ですね。
このまま成田に御遷座いただけたら今頃千葉が日本の首府に成ってたかも知れませんなぁw
それにしても新勝寺に空港に防空壕と成田は色々立地してますなぁ。。元々空港も御領牧場などが有って用地買収が簡単とか思ってのことなんでしょうかね。だとすると空港と防空壕の立地は偶然という訳でも無いでしょうけど。

290とはずがたり:2008/10/24(金) 10:26:48
やっぱそう(御料牧場があったから空港立地)なんか。。しかも今は廃止されてるのか。未だ残ってるのかと思ってた。。
>当初は千葉県富里村(現・富里市)を建設予定地としていたが、地元自治体との調整は難航した。そのため、1966年佐藤栄作内閣は、建設予定地を同県成田市三里塚に変更した。国有地である宮内庁下総御料牧場や県有林、またその周辺の土地は開拓農民達の物であった為、用地買収は容易に進むと考えたからである。

それにしても今は成田に合併を要請して断られている富里に空港が立地してた可能性もあったのか。

まさか新勝寺と御料牧場は関係あるまいなと思ったが流石に無関係かw

宮内庁下総御料牧場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

前身

江戸時代、下総台地の北部に江戸幕府によって佐倉牧が設置されて、軍馬や農耕馬の放牧地があった。佐倉牧は7つの牧から構成されていたことから「佐倉七牧」とも称され、三里塚一帯には七牧の1つであった「取香牧(とっこうまき)」が置かれていた。明治時代に入り文明開化の煽りを受け、国内での羊毛の生産を高める必要性が起こり、「1.青草に富むこと」「2.樹林地に恵まれていること」「3.物資の輸送に便利な所」を条件に、内務省は用地選定にアメリカの牧羊家アップ・ジョーンズを起用して各地の実地調査を行った。その結果、七牧の一つ取香牧(現:成田市取香、三里塚周辺)の隣接地が牧羊場に定められ、1875年(明治8年)9月、下総牧羊場が開場した。この時、取香牧も閉場し、牛馬の改良に当たる取香種蓄場として発足した。この頃、内務卿・大久保利通は現地の視察を行い、また、牧羊場・種蓄場両場の初代場長に、内務省の岩山敬義が就任した。

設立
1878年(明治11年)5月、大久保が暗殺され非業の死を遂げる。その影響もあってか1880年(明治13年)1月、両者が合併して下総種蓄場となった。この合併は事業を整理する意味合いが含まれていたとされる。下総種蓄場は、場内を三里塚区、両国区(現:富里市両国)など七区に分けられており、本庁は両国区高堀に置かれた。
下総種蓄場の管理は、1881年(明治14年)にそれまでの内務省から新設された農商務省に移され、1885年(明治18年)6月には宮内省御料局の直管となり、1888年(明治21年)10月に「宮内省下総御料牧場」と改められ、それまで高堀にあった本庁が三里塚に移された。その後、牧羊事業は次第に縮小され綿羊の数も減少した。

291とはずがたり:2008/11/20(木) 01:23:20
浄土宗、戦争責任を検証
戦後63年、加担を反省へ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1226053946/6

292とはずがたり:2008/12/10(水) 17:21:29

終戦時の鈴木首相証言、幻に 天皇へ波及恐れ 東京裁判
http://www.asahi.com/national/update/1210/TKY200812100191.html
2008年12月10日15時6分

 第2次世界大戦後に日本の戦争指導者らを裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)で、日本の弁護団は当初、終戦時の鈴木貫太郎首相を証人に呼ぼうとしていたが、天皇への波及を恐れる声が内部にあり、結局は断念していた。国立公文書館が所蔵する弁護団の内部資料から、こんな事実が分かってきた。国体護持のため天皇を裁判から守ろうとした弁護活動の内幕がうかがえる。

 資料は、法務省が70年代初めまでに収集。移管された公文書館が07年夏以降、公開している。6千冊を超え、専門家の分析も終わっていない。

 「鈴木貫太郎宣誓供述書」と題するタイプ文書によると、千葉県の鈴木邸を1946年5月12日、弁護団の清瀬一郎副団長が訪れた。

 清瀬は鈴木に、45年8月にポツダム宣言を受諾した時、宣言にある「戦争犯罪人」の意味をどう解釈していたのかを尋ねた。宣言が作られた時は、捕虜虐待など通常の戦争犯罪しか国際的に認められておらず、連合国が後から作った「平和に対する罪」や「人道に対する罪」は不当だと理論上、考えていたからだ。

 鈴木を訪れたのは、実際には政府がどう考えていたかを確かめるためだった。

 鈴木「国際法上、既成の概念として何人も疑念を持たざりし為(た)め、閣議に於(おい)ても別に議論は為(な)さず」。通常の戦争犯罪しか想定していなかったという説明だった。

 翌13日に、清瀬が法廷で「戦争犯罪」の解釈に異議を唱えたことは、速記録などで知られる。鈴木証言は、この裏付けの一つだった。ただ判事団は訴えを却下した。

 そこで清瀬は、再び「戦争犯罪」の解釈論を戦わせるべきだと主張。47年1月の「一般委員会取扱事項及劈頭(へきとう)陳述起草について」という文書では、ポツダム宣言受諾時の「首相並(ならび)に連帯責任ある各閣僚」を証人に呼ぼうと提案した。

 しかし、これには内部から反対の声が上がった。清瀬への返信と思われる「清瀬氏劈頭陳述案に対する所見」で、ある弁護人は「終戦は御上の御発意に依(よ)れる」ので、「受諾当時の首相其(そ)の他を証人とするは、御上に如何(いか)なる累を及ぼすや予断を許さざるものあり」と天皇への影響を懸念した。

 もし弁護側が鈴木を呼び、終戦の経緯をたてに「戦争犯罪」の解釈を争うなら、検察側も、終戦を決断したのは天皇だと証人に引きずり出そうとするのでは、と恐れたわけだ。

 いかなる形でも天皇を法廷に立たせないというのは、弁護の絶対方針だった。46年6月14日の「日本弁護団会議記録」には、天皇について「(戦争)責任として煩わさないことは勿論(もちろん)ですが、証人としても煩わさないということで進みたい」とある。

 その後、鈴木は証人に呼ばれず、宣誓供述書も法廷に提出されなかった。弁護側は48年3月の最終弁論で、連合国の「戦争犯罪」の解釈を法律論から批判。しかし判決は、こうした主張を退けた。(谷津憲郎)

■新しい知見

 東京裁判に詳しい日暮吉延・鹿児島大法文学部教授(日本政治外交史)の話 東京裁判で、弁護側は大量の証拠を次々と提出するのを法廷戦術の一つとしていた。にもかかわらず、鈴木元首相を呼ばず、宣誓供述書も提出しなかったのはなぜか。天皇への影響を恐れて、というのは新しい知見だ。この時期、東京裁判で天皇が起訴される可能性はすでになくなっていたが、弁護側にとっての現実的な脅威は、天皇が証人に呼ばれることだった。未提出の大きな理由の一つだろう。

293とはずがたり:2009/01/23(金) 15:53:46
硫黄島滑走路、島内移設へ 地下に眠る遺骨捜索要望受け
http://www.asahi.com/national/update/0123/TKY200901230199.html
2009年1月23日15時2分

 太平洋戦争の激戦地として知られる硫黄島(いおうとう)にある海上自衛隊管理の飛行場滑走路について、政府は、島内の別の場所に移設する方向で検討を始めた。地盤の隆起や沈下で運航に支障がでてきかねないため。島内に張り巡らされた地下壕(ごう)の跡などには今も1万3千人以上の戦没者の遺骨が残されており、移設後、滑走路の地下の捜索・収集を進めたい意向だ。

 旧日本軍は戦時中、米軍来襲に備えて硫黄島の地下に陣地を築き、トンネルを張り巡らせた。その長さは約20キロに及ぶといわれる。米軍は壕の開口部をふさぐなどして、日本軍の将兵を殺害した。このため、厚生労働省の把握できていない壕が島内のいたる所にあって、その中に戦没者の遺骨が多数あるとみられている。

 現在の滑走路は幅60メートル、長さ2650メートル。防衛省によると、米軍が1945(昭和20)年、旧日本海軍の元山(もとやま)飛行場を利用して設置した。その後、68(昭和43)年に硫黄島を含む小笠原諸島が米国から日本に返還され、改修を経て、70年5月9日、防衛庁の飛行場となった。米海軍航空母艦の艦載機の夜間発着訓練(NLP)にも使われている。

 硫黄島周辺はもともと火山活動が激しい。防衛省によると、93年に大規模な改修をしたが、その後、滑走路の中央部や東端が沈下する一方、西端が隆起し、凹凸の差は最大80センチになっている。今年度から数カ年かけて、アスファルトで滑走路をかさ上げする大規模な改修を予定し、工事費の一部11億円の予算を今年度分として確保していた。

 ところが、戦没者遺族らから滑走路下の遺骨収集への強い要望があり、方針を転換。現滑走路は応急的な改修にとどめる。本格改修をしてしまうと、今後何十年も滑走路を掘り返すことができなくなり、遺骨収集ができなくなるためだ。

 太平洋戦争の激戦地として知られる硫黄島(いおうとう)にある海上自衛隊管理の飛行場滑走路について、政府は、島内の別の場所に移設する方向で検討を始めた。地盤の隆起や沈下で運航に支障がでてきかねないため。島内に張り巡らされた地下壕(ごう)の跡などには今も1万3千人以上の戦没者の遺骨が残されており、移設後、滑走路の地下の捜索・収集を進めたい意向だ。

 旧日本軍は戦時中、米軍来襲に備えて硫黄島の地下に陣地を築き、トンネルを張り巡らせた。その長さは約20キロに及ぶといわれる。米軍は壕の開口部をふさぐなどして、日本軍の将兵を殺害した。このため、厚生労働省の把握できていない壕が島内のいたる所にあって、その中に戦没者の遺骨が多数あるとみられている。

 現在の滑走路は幅60メートル、長さ2650メートル。防衛省によると、米軍が1945(昭和20)年、旧日本海軍の元山(もとやま)飛行場を利用して設置した。その後、68(昭和43)年に硫黄島を含む小笠原諸島が米国から日本に返還され、改修を経て、70年5月9日、防衛庁の飛行場となった。米海軍航空母艦の艦載機の夜間発着訓練(NLP)にも使われている。

 硫黄島周辺はもともと火山活動が激しい。防衛省によると、93年に大規模な改修をしたが、その後、滑走路の中央部や東端が沈下する一方、西端が隆起し、凹凸の差は最大80センチになっている。今年度から数カ年かけて、アスファルトで滑走路をかさ上げする大規模な改修を予定し、工事費の一部11億円の予算を今年度分として確保していた。

 ところが、戦没者遺族らから滑走路下の遺骨収集への強い要望があり、方針を転換。現滑走路は応急的な改修にとどめる。本格改修をしてしまうと、今後何十年も滑走路を掘り返すことができなくなり、遺骨収集ができなくなるためだ。

294名無しさん:2009/01/29(木) 00:27:39
ここで良いでしょうかね!?とりあえず、URLのみをば。

朝日新聞襲撃犯、名乗り出る…87年阪神支局で発生 すでに時効、実名公表し詳細語る
http://www.zakzak.co.jp/gei/200901/g2009012817.html

当初、ヤフー(産経)で載って、すぐ削除、それでZAKZAK(夕刊フジ)の、しかもどうゆう訳か「芸能」に載ったそうです。

295とはずがたり:2009/01/29(木) 08:31:36
>>294
こういうテロはやりきれんですなぁ。。転載しておきます。

朝日新聞襲撃犯、名乗り出る…87年阪神支局で発生
http://www.zakzak.co.jp/gei/200901/g2009012817_all.html
すでに時効、実名公表し詳細語る

 1987年5月、朝日新聞阪神支局に何者かが押し入り散弾銃を乱射、記者1人が死亡した「赤報隊事件」(時効)の実行犯を名乗る男が、29日発売の週刊新潮に実名で手記を寄せていることが分かった。今年1月、別件で4年間収監されていた網走刑務所を出所した男は昨年1年間、同誌と情報を交換。収監先の刑務所では、朝日新聞記者2人と特別面会もしていたという。

 記事によると、男は都内の元右翼構成員。誰もが知る“公的な組織に属する人物”から「朝日を狙ってくれ」と金で依頼され、「東京本社」「阪神支局」「名古屋本社寮」「静岡支局」の順に襲撃(静岡支局は爆破未遂)。当初言われていた怨恨や思想的背景はなく、記者1−2人を殺害することのみが目的だったという。

 また、一連の朝日新聞襲撃事件と同じ「警察庁指定116号事件」に後に指定された「リクルート会長江副浩正宅銃撃事件」、参考事件の「中曽根康弘元首相襲撃事件」には関与しておらず、「赤報隊」を名乗る犯行声明は後日、別人に書かせたものだという。

 阪神支局襲撃にはバイクを使用し、複数回の下見の後、関西系暴力団に所属する案内役兼運転手と、男の手下で見張り役らの複数で実行。事件から10年後の97年、見張り役の男が自殺したことから、真相を表に出したいという思いを強くした。

 2004年、刑務所収監時に朝日新聞東京本社や阪神支局に手紙を送付し、記者2人との特別面会が実現したが、刑務所の面会室で、記者の1人に高圧的かつ直接的に問いただされたことから面会は決裂。今回の独占手記につながったという。

ZAKZAK 2009/01/28

296とはずがたり:2009/03/01(日) 01:08:19

半世紀前の京都知事選「大連立」工作の証拠か 側近?のメモ見つかる
2009.2.28 01:37
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090228/lcl0902280143002-n1.htm

 高度経済成長期を中心に京都府で7期28年にわたって知事を務め、革新府政時代を築いた故蜷川虎三氏が知事室に残した資料から、蜷川氏3選時の昭和33年の知事選の前に書かれたとみられるメモが見つかった。本来、蜷川氏の対立軸となる自民党側の動向に関する記述で、支持基盤の社会党と自民党が手を組み、無投票3選をもくろんだことをうかがわせる内容。同年には「55年体制」後初の衆院選が行われており、中央で自社2大政党化が進む中、京都では「大連立」が工作されたことをしのばせる興味深い資料となっている。

 メモは、府立総合資料館(京都市左京区)が保管していた。「知事選」と鉛筆で書かれた茶封筒の中に、昭和33年の知事選のスクラップや政見放送時の原稿とともに入っていたという。

 同年4月に行われた知事選は、社会のほか自民からも初めて推薦を受けた蜷川氏が、共産公認、保守系の2候補と対決。70%近い得票率で圧勝した。

 B5判の原稿用紙4枚のメモは手書きで、推薦の構図が決まる少し前に書かれたとみられる。「高山市長より午後三時前に電話があり…」という書き出しで、蜷川氏の側近が「至急耳に入れておきたい件あり」として当時の高山義三・京都市長から呼び出され、伝えられた話を書きとどめ、蜷川氏に渡したとみられる。

 メモには「『社会党推薦』に対する態度は今暫(しばら)く保留して頂き、自、社の『共同推薦』の形ではなく『無選挙』の方向にもってゆきたく思う。又その可能性も高い」と記載。高山氏が、自民党が独自候補を立てない確約を得たことをにおわせる内容で、さらに「東京へは是非行ってほしい。中央との話は出来ている」とし、蜷川氏自ら自民党本部へ行くよう促すような記載もある。

 また、反蜷川派の自民関係者が独自候補の擁立に動かないよう、後に衆院議長となる前尾繁三郎氏のビッグネームを利用したことをうかがわせる記述も。知事選の対立候補として前尾氏の名前がうわさされることについて「泡沫候補を封ずる為の作戦に過ぎない」とし、「絶対出ない者(前尾氏)を看板にしていくのだ」と、周到な戦略ぶりをうかがわせている。

 また「四月解散間違いなし(中略)そのおつもりでやって頂きたい」という記述も。実際、知事選のわずか2週間後には岸信介政権下で「話し合い解散」が行われており、5月の衆院選で自社が全議席の97%を占め、2大政党化が進んだ。

 当時を知る共産党関係者は「高山氏が東京を訪れ、自民党本部から独自候補を擁立しないという確約を得ていたといううわさは当時からあった。それを裏付ける内容だ」と話している。

297とはずがたり:2009/03/23(月) 15:57:39
小説「大菩薩峠」から宮沢賢治,赤軍派迄。

大菩薩峠の歌
http://www.ihatov.cc/song/bosatsu.html

 中里介山の未完の小説「大菩薩峠」は、原稿用紙にすれば13,000枚にもなるかという記録的な長編で、「日本一長い小説」とも「世界一長い小説」とも言われます。

 その物語は、武蔵と甲斐の国境にある大菩薩峠の頂上で、机龍之助という一人の剣士が、通りかかった老巡礼を無惨に斬り捨てる場面から始まります。この「動機なき殺人」によって、龍之助は血と欲望にいろどられた終わりのない旅を彷徨う宿命を背負いました。
 時は幕末、その後の龍之助は京で新選組と大立ち回りを演じたり、天誅組の蜂起に加わって失明したりしますが、盲目になることで彼の「音無しの剣法」はますます冴えわたります。善や悪などという観念を超出していくヒーローの魔剣は、さらに多くの人々の血を浴びつづけていくのでした。…

 ここに広がる情景は、私たちがイメージする宮澤賢治の作品世界とは、よほど異質で対極的なものに感じられますから、彼がこの「大菩薩峠」の愛読者であったと聞くと、かなり意外な感じもします。しかし、賢治の初期短篇の中には、何となくこれと相通ずるような劇画調のタッチの作もあり、彼もどこかには、このような世界への親和性を持っていたのだろうと思います。
 何よりも、作者の中里介山は、仏教とりわけ田中智学の主導する国柱会の日蓮主義に強く傾倒していたと言われています。また田中の方も、この小説が世に出た当初、各所でこれを賞賛し推奨していました。したがって、ひと頃の賢治――田中智学に心酔し、文学によって国柱会に貢献しようと決意していた――にとっては、当然この小説は必読の文献だったに違いありません。

 それにしても、読んだ小説をもとに自分で詞と曲を作り、歌曲にして唄っていたというのは、賢治としてもこの物語によほど何かの思い入れがあったのでしょう。…

  さて時は変わって、机龍之助の時代から100年後、また「大菩薩峠事件」と呼ばれる出来事が起こります。
 全共闘運動が敗北した1960年代終わり、最も暴力的な路線をとっていた共産同赤軍派は、「前段階武装蜂起」のための軍事訓練をこの大菩薩峠で行っていました。内偵を進めていた警視庁と山梨県警は、彼らの集結していた山荘を包囲して、最高幹部ら53名を逮捕します。
 この後、追いつめられた赤軍派はますます武器への固執を強めて連合赤軍を結成し、やはり中部の山岳地帯において、組織内部の連続リンチ殺人から「あさま山荘事件」を経て、崩壊へと進んでいったのです。
 机龍之助にしても連合赤軍にしても、暴力に魅入られた人間が歩もうとする道筋は、私たちに強い印象を与えます。また両者のその「修羅」のような行状が、「菩薩」という名を冠した地点で繰り広げられるアイロニーは、何か仏教的な「業」を連想させずにはおきません。
 中里介山がこの小説を形容した言葉で言えば、これはまさに「カルマ曼荼羅」です。

298とはずがたり:2009/03/24(火) 11:07:20
やれやれ勿体ない。。

旧吉田茂邸全焼、漏電と放火で捜査/大磯
2009/03/22
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivmar0903461/

 二十二日午前六時ごろ、大磯町西小磯の旧吉田茂元首相邸二階から煙が出ているのを男性警備員(66)が見つけ、一一九番通報した。木造二階建ての本邸約一千平方メートルを全焼し、約六時間半後に鎮火した。けが人はなかった。大磯署が漏電などによる失火と放火の両面で調べている。

 旧吉田茂邸は要人の会談にも使われた戦後史の舞台の一つ。西武鉄道が一九六九年に買収。県が二〇一二年度からの一般公開を目指し、西武鉄道から敷地を買い取って整備する計画を進めていた。

 大磯署の調べでは、二階部分の燃え方が激しいという。本邸から約二十メートル離れた警備員室内で漏電を知らせる警報器が鳴り、警備員が外に出て出火に気づいたという。二十三日以降に実況見分をして詳しい出火原因を調べる。

 同署や大磯町消防本部によると、邸には火災報知機やスプリンクラー、防犯カメラなどはなかった。

 敷地を所有する西武鉄道広報部によると、本邸には管理人夫妻が週五日、朝から夕方まで滞在している。本邸玄関の鍵は管理人夫妻が持っており、二十一日は夕方に施錠して帰宅したという。警備員は敷地内を一日九回巡回することになっており、出火約三十分前の見回りでも本邸や敷地出入り口の施錠を含め異常はなかったという。

 現場はJR大磯駅から西に約二キロ離れた国道1号と西湘バイパスに挟まれた丘陵地。吉田茂元首相(一八七八〜一九六七年)の養父健三氏が一八八四年に別荘として建て、戦後になり元首相が海外要人を招くため総檜(ひのき)造りの数寄屋風にした。

 政財界の大物が元首相に意見を求める「大磯参り」をしたことで知られる。七九年には大平正芳首相とカーター米大統領(いずれも当時)の首脳会談も行われた。吉田元首相の孫の麻生太郎首相も幼少期を過ごしている。

299とはずがたり:2009/03/24(火) 11:12:25
>>298
こんなんばっかやねぇ。。

重要文化財の旧住友家俣野別邸が全焼/横浜・戸塚区
2009/03/15
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivmar0903273/

 十五日午前五時ごろ、横浜市戸塚区東俣野町の国の重要文化財「旧住友家俣野別邸」から出火、木造二階建ての同別邸母屋約六百五十平方メートルを全焼したほか、隣接する工事用事務所と資材置き場のプレハブ二棟計約百八十平方メートルも全焼した。当時は無人でけが人はいなかった。

 戸塚署によると、現場には火の気がなく、出火元も分からないことから、十六日以降に現場検証を行い、詳しい出火原因を調べる。

 同署などによると、別邸は復元工事中のため高さ約三メートルのアルミ製フェンスで囲まれ、近づくと警備会社に通報する赤外線センサーが設置されていた。

 十四日は作業員九人が午前八時から午後六時ごろまで屋根の下地工事を行い、午後七時半ごろ出入り口を施錠。その際、センサーを起動させて帰宅したという。だが、火災発生時までにセンサーは作動しておらず、出入り口も施錠されたままだったという。

◆旧住友家俣野別邸 1939年に財閥の住友家16代当主の別邸として建設された。昭和前期モダニズムの趣向を凝らし、中世以降のヨーロッパ北部で見られる建築様式を基調とした和洋折衷建築。2004年に国重要文化財に指定。管理団体の市は昨年1月から復元工事を進めていた。事業費は約1億6000万円で11年春には完成し、一般公開される予定だった。

工事で報知器撤去/横浜の旧住友家別邸
2009/03/17
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivmar0903342/

 横浜市戸塚区東俣野町の国指定重要文化財「旧住友家俣野別邸」が全焼した火災で、昨年一月の復元修理工事着工後、邸内の火災報知機が撤去されていたことが十七日、分かった。戸塚署は同日から現場検証を開始。工事施工業者などから事情を聴き、出火原因を調べている。

 工事を監理する市まちづくり調整局と戸塚消防署によると、邸内の天井に備え付けてあった火災報知機があると工事に支障が出るとして、協議の上、昨年五月以降に報知機を撤去したという。

 消防法施行令では、重要文化財の建造物には火災報知機の設置が義務付けられているが、同消防署は「工事などで関係者以外が立ち入れない状況では(施行令は)適用されない。必ずしも火災報知機を設置しなくてはならないわけではない」と説明している。

 同局は工事期間中、施工業者に邸内での喫煙の禁止や消火器の設置などを記した説明書を配布し、二週間に一度のペースで点検していたという。

 戸塚署によると、別邸は高さ約三メートルのアルミ製フェンスで囲まれ、防犯センサーが設置されていた。センサーは異常の有無にかかわらず四時間おきに警備会社に通報する仕組みとなっており、出火の約一時間半前には異常は報告されなかったという。

300とはずがたり:2009/03/24(火) 15:22:45
>>298

戦後保守政治の舞台が灰に…絶句する地元住民ら
(2009年3月22日21時26分 読売新聞)

旧吉田邸全焼:防火設備なく 貴重品も灰に
毎日新聞 2009年3月22日 21時46分(最終更新 3月23日 2時38分)

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1036413264/2830-2835

301とはずがたり:2009/03/31(火) 03:13:41
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1194191152/83-84で出てきた高峰譲吉。
凄いですねぇ〜。
それにしても加賀藩典医の家の出とは知らなかった。

“三共の初代社長”―高峰譲吉―
http://www.geocities.jp/kazumihome2004/13-5.html

 高峰譲吉は近代資本主義の二つの神器、科学技術と産業をともに手にした最初の日本人である。研究開発が産業と結びつけば、巨大な富を生むことを実証して見せた。三共の初代社長にして、二十世紀初頭の世界をリードした高峰は、政府役人、科学者、実業家、“日米親善特使”の四つの顔を駆使した。米国人女性と結婚し、日米の融和に尽力した国際人でもある。その独創を支えたのは、粘り強い知的探究心と、臆することなく世界と向き合う「志の高さ」ではなかろうか。


1854 加賀藩典医・高峰精一の長男として、現在の富山県高岡市に生まれる
1862 金沢の藩校、明倫堂に8歳で入学
1865 長崎留学、英語を学ぶ
1868 京都の兵学塾、大阪の緒方塾に学ぶ
1869 大阪医学校・大阪舎密(せいみ)学校入学
1873 工部大学校(現・東大工学部)に入学、応用科学を専攻
1880 英国留学
1884 帰国後、米国ニューオーリンズ万博に事務官として出張、キャロライン・ヒッチと婚約
1885 特許局長代理
1887 キャロラインと結婚、人造肥料会社を興す
1890 高峰式元こうじ改良法で特許。米国移住
1892 高峰式のウイスキー製造実験に成功
1893 モルト業者が強く反発、工場が全焼。肝臓病で重体に
1897 米パーク・デービス社と消化酵素タカヂアスターゼの製造開始
1899 日本での同酵素製造販売のため、三共商店(現三共)を設立
1901 上中啓三とともに、アドレナリンの抽出に成功
1921 ワシントン平和会議の事前パーティなど、日米の融和に奔走
1922 7月22日、68歳で死去

以下略

302とはずがたり:2009/04/04(土) 15:22:43
すげえ。。
「昭和の脱獄王」

白鳥由栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E7%94%B1%E6%A0%84

303とはずがたり:2009/05/21(木) 22:27:02
興味深いデータなので転載保存。

151 名前:千葉9区[] 投稿日:2009/05/16(土) 12:00:00
おもしろいデーターです
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/giin/1242432267/103-203
165 :無党派さん ◆UVotersb9o :2009/05/16(土) 10:51:39 ID:+ImmaWui
衆院選惨敗ワースト記録・党首付(第二次大戦後のみ)
議席は追加公認含む
ただし党分裂の場合は去った議員の分を、併合の場合は来た議員の分を相殺
*分裂 +併合
それ以外の引き抜き・補選・引退・公職追放などでの変動は考慮せず

自由党、1949年民主党はいずれも自民党の源流の一部

1 -163 273→110 1946進歩/町田忠治
2 -85 133→48 1949社会*/片山哲(労農へ11→7)
3 -79 191→112 1955自由*/緒方武虎(鳩山自由へ43→鳩山民主へ)
4 -66 180→114 2005民主/岡田克也
5 -65 138→73 1993社会*/山花貞夫(板橋民主へ1→0)
6 -51 141→90 1969社会/成田知巳
7 -35 35→0 1952共産/紱田球一
8 -28 287→259 1983自民/中曾根康弘
9 -27 269→242 1952自由/吉田茂
9 -27 113→86 1986社会/石橋政嗣
11 -26 96→70 1949民主/犬養健(同志クへ32→民自へ)
12 -24 58→34 1980公明/竹入義勝
13 -23 40→17 1960民社/西尾末廣
13 -23 304→281 1990自民+/海部俊樹(新自クから5)
15 -21 40→19 1976共産/宮本顕治
16 -19 279→260 1976自民*/三木武夫(新自クへ5→18)

バカ負けしているのは軒並み野党。例外は鳩山ブームで議席を獲られた1955年の自由党くらい。
1946年の進歩党は、選挙前に259人が公職追放されたので特例と見るしかない。
議席数を考慮すると、自民の安定度恐るべし(1993年は分裂を相殺すると逆に+1)。
あの公明さえ結構な大敗を経験しているのに。
ちなみに党首自身が落選したのは片山哲だけ(町田忠治、紱田球一は選挙前に公職追放)。

152 名前:千葉9区[] 投稿日:2009/05/16(土) 12:00:23
175 :無党派さん ◆UVotersb9o :2009/05/16(土) 10:53:32 ID:+ImmaWui
衆院選躍進ベスト記録・党首付(第二次大戦後のみ)
議席は追加公認含む
ただし党分裂の場合は去った議員の分を、併合の場合は来た議員の分を相殺
*分裂 +併合
それ以外の引き抜き・補選・引退・公職追放などでの変動は考慮せず

自由党、民自党、1955年民主党はいずれも自民党の源流の一部

1 +108 161→269 1949民自+/吉田茂(同志クから32)
2 +102 46→148 1946自由/鳩山一郎
3 +83 213→296 2005自民*/小泉純一郎(国新へ3→4、新日へ3→1、公認漏れ26→13)
4 +81 15→96 1946社会/(片山哲)委員長空席で片山は書記長
5 +65 120→185 1955民主/鳩山一郎
6 +53 86→139 1990社会/土井たか子
7 +48 96→144 1947社会/片山哲
8 +45 259→304 1986自民/中曾根康弘
9 +41 98→129 2000民主/鳩山由紀夫
10 +38 0→38 1993日新/細川護煕
11 +31 4→35 1949共産/紱田球一
12 +29 258→287 1980自民/(大平正芳)選挙中死去により西村英一が代行
13 +29 151→180 2003民主+/菅直人(自由から22)
14 +28 90→118 1972社会/成田知巳
15 +27 29→56 1976公明/竹入義勝
16 +26 14→40 1972共産+/野坂参三(沖縄人民から1)

例の郵政解散など、ワーストに比べて自民が上位に食い込んでいる。
保守合同以前の保守政党が上位にいるのも特徴。
また社会の乱高下も読み取れる。

153 名前:名無しさん[] 投稿日:2009/05/16(土) 13:44:55
>>151に自民党が
>>152に民主党がランクインするのは間違いない

304千葉9区:2009/06/01(月) 22:32:20
http://www.asahi.com/international/update/0601/TKY200906010354.html
タイタニック号、最後の生存者死亡 97歳の英国女性
2009年6月1日20時25分

 【ロンドン=土佐茂生】1912年に大西洋で沈没し、1500人以上の犠牲者を出した英豪華客船「タイタニック号」の最後の生存者ミルビナ・ディーンさんが5月31日、英南部サウサンプトンの介護施設で死去した。97歳だった。英メディアによると、最近、肺炎を患っていた。

 1912年2月英国生まれのディーンさんは生後9週だった同年4月、両親が米カンザス州に移ってたばこ屋を開くために、タイタニック号の3等客室に乗った。

 船が氷山にぶつかる音に気付いた父の指示で客室から甲板に上がった母や兄に連れられ、救命ボートで脱出して助かったという。船に残った父は死亡した。

 晩年は入居していた介護施設の料金月3千ポンド(約46万円)の工面に苦労し、救助後に与えられた救援物資の入ったスーツケースなど、思い出の品をオークションに出した。このため、映画「タイタニック」に出演したレオナルド・ディカプリオさんやケイト・ウィンスレットさんが支援を約束していた。

305とはずがたり:2009/06/07(日) 22:51:46
NHKでやってますけど,愛国婦人会と国防婦人会は仲が悪くて悪口言い合ったりして戦争への貢献度を競い合ったそうです。
それらを統合して大日本婦人会となったそうな。

●婦人会 ふじんかい
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P330C100.HTM
アジア 日本 AD 
 婦人会の先駆者は奥村五百子で,軍人遺族の救護事業を目的として愛国婦人会を組織したことに始まる。

【奥村五百子】明治期の国粋・軍国主義に則った婦人運動家。1845年(弘化2)唐津の本願寺派高徳寺住職の長女として生まれる。17,8歳のころ,父兄の尊王攘夷運動を助け男装して萩藩への使者役を務めたこともあった。22歳で福成寺の住職と結婚したが死別し,のち水戸浪士鯉淵彦五郎と再婚。維新後江藤新平を支持し征韓論に賛同,大陸に関心をもつ。1887年(明治20)離婚し政治社会問題に没頭する。1894年(明治27)初めて朝鮮に渡り,日清戦争を経て再三朝鮮を訪れ同29年光州に実業学校を創設,子女の教育に尽力した。北清事変が起き日露戦争へと突入するなか,わが国の将兵が辛苦をなめる状況を視察し,全国の婦人が半襟一つを節約すれば軍人の援護は可能であると訴え,1901年(明治34)愛国婦人会を設立した。1907年(明治40)没。享年63歳。

【愛国婦人会】1901年(明治34)貴族院議長近衛篤麿の後援により,岩倉久子を初代会長として創立。総裁や名誉会長に皇族を頼み,会長・役員に華族や名流婦人を推し,上流婦人のみを対象とした構成であった。その数は1万3,000人にものぼり,日露戦争を契機に大飛躍を遂げ会員の人数も46万人と増大した。女性の戦争への協力を訴え,慰問団を満州に派遣するなど愛国思想を広めた。戦後は戦死者の遺族・傷病軍人の救護などの活動のほか,農村託児所をつくるなどの社会事業にも手を広げた。1917年(大正6)には事業範囲はさらに広がり,婦人の知識・道徳を高めるという婦人報国運動を起こした。昭和12年には会員数380万人となり,本部支部が台湾・朝鮮にも設けられた。このころ愛国婦人会と同様の趣旨で組織された婦人会に大日本国防婦人会・大日本連合婦人会があった。大日本連合婦人会は1931年(昭和6),文部省によって地域婦人団体(主として農村の女性)を統合した形で結成された。

【大日本国防婦人会】翌1932年,大阪で国防婦人会が結成され次いで東京でも結成された。1934年(昭和9)には大阪・東京の組織を統合した。会長には武藤能婦子がなり,愛国婦人会が上流社会の女性達によって組織されていたのに対し,陸軍・海軍大臣などの現役の将官夫人が幹部を務め,陸軍の監督のもとで後援を受けた。結成時の会員数は750万人であったが,1941年(昭和16)には1,000万人になっていた。会の目的は愛国婦人会と同じく戦時体制のもとでの婦人の国家への協力を促し,傷痍軍人や遺族の後援・慰問品の募集,さらには防空訓練を行い銃後を守るというものであった。こうした婦人会の活動のなかで,時局はますます戦闘の色を濃くしていき1941年太平洋戦争へと突き進んでいった。当局は非常事態を乗り切るため国民の大統一化をもくろみ,各婦人会を解散させ改めて一つの団体として統合させた。

【大日本婦人会】1942年(昭和17),太平洋戦争中に政府によって結成された婦人会の統合組織。国家への奉仕という精神に基づき,軍部・官庁の監督下で,軍人の援助・防空訓練を積極的に行うことはもちろんのこと,廃品の回収による節約,貯蓄の強化などの活動を行った。20歳以上の婦人をすべて強制加入させ,賛沢は敵とする集団活動は,婦人同士の行動を戒める方向へ向かい,共同意識を高めるとともに戦時下を婦人の手で守り抜くという体制翼賛運動を展開した。しかしその反面体制への批判・不満などを口にする者は即座に非国民のレッテルをはられ,さらには生活上の細部に至るまで統制する結果も招いた。1945年(昭和20),大日本婦人会は国民義勇隊に改編した。しかし戦争終結とともに解散しここに軍国主義的国策に沿った婦人団体は姿を消した。ただ婦人会としては家庭の主婦が協力し合い,平和を願う基本方針のもとに地域社会を形成する団体として,1952年(昭和27)に全国地域婦人団体連合会が結成され,現在に至っている。

306とはずがたり:2009/06/16(火) 02:53:47

韓国人だと捏造だとかファビョるネトウヨですが豪州人ですぞw

元捕虜「麻生首相は謝罪して」 旧麻生鉱業で炭鉱使役
http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009061501000678.html

 第2次世界大戦中、麻生太郎首相の父が経営していた旧麻生鉱業の吉隈炭鉱(福岡県桂川町)で使役されていた元連合国軍捕虜のオーストラリア人男性らが来日、同県飯塚市で15日記者会見し「わたしたちに与えた苦しみに対し、麻生首相は国を代表し謝罪していただきたい」と訴えた。

 来日したのは元捕虜のジョセフ・クームズさん(88)と息子2人、英国人捕虜だった故パトリック・マクアナルティさんの息子ジェームスさん(62)の計4人。16日に首相の親族が経営する麻生グループの親会社「麻生」(飯塚市)や吉隈炭鉱跡などを訪問する。

 クームズさんは1945年5〜8月に吉隈炭鉱で労働。「落盤事故が相次ぎ恐ろしかった。12時間もの重労働と粗末な食事のために両ひざを痛めた」と振り返った。首相に謝罪と補償を求める手紙を何度も送ったが返事がなく「奴隷のような労働をさせられた事実を認めてほしい」と訴えた。
2009/06/15 19:22 【共同通信】

308とはずがたり:2009/06/19(金) 00:30:14

別に乱を起こしたから賊だなんて思うべきではないと思う。政治なんてその時々の為政者の都合の良いように書かれるわけだし。反乱軍は印象が悪いという印象論の方を教育すべきかもしれぬ。日華事変を日中戦争,大東亜戦争を太平洋戦争としてイデオロギーを排したように佐賀の乱も佐賀戦争とすべきなのかもしれんね。西南戦争は最初から西南戦争だったんでしょうかね。

「佐賀の乱」にわかに地元白熱 「乱じゃない、戦争だ」
http://www.asahi.com/national/update/0612/SEB200906110032.html
2009年6月15日16時37分

 明治政府樹立後の士族の反乱のうち、佐賀藩出身の江藤新平を中心におきた「佐賀の乱」について、「国を乱したという印象を持たれる。表現を改めるべきだ」という意見が地元で持ち上がっている。新平は「首謀者」として処刑されたが、「新政府に仕組まれた戦争」とする学説も登場。歴史教科書の表記をめぐっても議論が起きている。

 11日の佐賀市議会。自民党系の市議が「中学校の歴史教科書の図表に『佐賀の乱』と記されている。印象が悪く放置できない。『佐賀の役』などと改訂を求めて運動すべきではないか」と質問。田部井洋文教育長は「授業で使う資料集では、最近の研究で佐賀の乱に新しい見方が出てきていることを紹介している。諸説ある中で史実を多面的に教えている」と答えた。

 論争の火付け役は「幕末維新と佐賀藩」(中公新書)などの著書がある毛利敏彦・大阪市立大名誉教授(76)。4月に佐賀市内であった講演では、佐賀の乱を不平士族の反乱とする通説に対し、「大久保利通が一方的に仕掛けた」との自説を紹介した。

 ただ、「乱」を「役」に改めるのには否定的。「『役』という言葉は国家権力の発動によって人民に無理を強いること。史実からすれば、中立的に『佐賀戦争』と言うべきだ」と話している。

 佐賀市内で毎年開かれる新平らの慰霊祭では「佐賀の役」と呼ばれ、「佐賀の役記念碑」もある。新平のひ孫の江藤兵部さん(69)=埼玉県=は「小さな頃から佐賀の乱と言われ続けてきたが、事実と違うという研究が進んできた。子孫の一人としてはありがたい話で、歴史認識を改めるきっかけにしてほしい」と話す。(白石昌幸)

 〈佐賀の乱〉 1874(明治7)年、明治政府の改革に不満を募らせた士族が起こした最初の反乱。政府軍が鎮圧し、明治政府の初代司法卿を務めた江藤新平、秋田県令(知事)を務めた島義勇(よしたけ)らが処刑された。これ以後、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争と、西日本各地で士族の反乱が相次いだ。

309名無しさん:2009/06/19(金) 02:09:30
>>308
「乱」を起こしたことに誇りを持って欲しいですね。

というか「大久保利通が一方的に仕掛けた」という説が事実なら、
江藤新平はカッコ悪いと思うんですが…

310とはずがたり:2009/06/19(金) 03:57:27
>>309
ですよね〜。
けど保守地盤の佐賀としてはややいたたまれない部分もあるんでしょうかねぇ。

大久保の挑発に乗せられたって部分はあるのかな,と云う気もしますが,当時の士族の不満は可成りのものだったでしょうから江藤としてはやむにやまれぬ心境だったのかもしれませんね。
司法の整備に力を注いだ元司法卿が叛乱の大逆を御犯す訳ですからさぞかし心中複雑であったかと思います。

311千葉9区:2009/06/21(日) 17:49:27
http://www.okinawatimes.co.jp/news/2009-06-20-M_1-025-1_001.html?PSID=a12b3b95c354dfb914d0ea98f29a8692
「軽便」糸満駅確認 鉄道ファン、住宅密集地で/「戦禍免れ現存 驚き」

手洗いに弾痕も


 【糸満】沖縄戦で破壊された軽便鉄道の糸満駅の一部とみられる建造物が糸満市照屋の住宅密集地に現存していることが19日までに分かった。元県立図書館館長の金城功さん(76)=那覇市=ら鉄道ファンのグループが調査し、トイレと浴室だった建物の下部部分を確認した。同鉄道の施設で現存しているのはほかに与那原町に1カ所のみ。糸満駅周辺は沖縄戦の激戦地で、金城さんは「あの戦争で破壊をまぬがれ、戦後60年余りも残っているのは驚き」と話している。(与那嶺功)

 現存するトイレには、弾痕や便器、男性用小便器の間仕切り、排水用の穴などがみえる。浴室は職員用だったとみられる。戦後、上部が増築され、しばらく住民が利用していたという。

 近くに住み、戦前の一帯をよく知るという伊敷喜栄さん(71)は「駅舎があった場所で、すぐ横をレールが走っていた。トイレだったのは間違いない」と話している。

 調査に加わった桃坂豊さん(48)(福岡県文化財保護指導委員)は「今回の確認で、糸満駅の場所が特定できた。銃弾の跡が痛々しく、戦争遺跡でもある」と感慨深げ。

 金城さんは「行政が標識などを立て、歴史的意義を広く知らせてほしい」と要望している。

 軽便鉄道の施設では、JAおきなわ与那原支店の1階壁に、旧駅舎の一部分が再利用されている。

312とはずがたり:2009/06/27(土) 15:22:02
左の日本が悪い,右の日本は悪くないと云う対立は不毛である。日本も英米も悪な訳である。
まあ実際に東京の非戦闘民を攻撃したのはアメリカだけど。

英、第二次大戦中に東京の毒ガス攻撃を検討 文書公開
2009.6.27 11:34
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090627/erp0906271135005-n1.htm

 第2次世界大戦中の1944年に英当局が東京への大規模な毒ガス攻撃を検討していたことを示す文書が英国で公開された。英紙タイムズ(電子版)が26日に報じた。

 タイムズによると、英政府の研究者は1944年5月の「ガス爆弾による東京攻撃」と題された文書で、英軍から提供を受けた東京の写真や情報に基づき、ホスゲンとマスタードガスの2種類の毒ガスを使った効果的な攻撃を分析した。

 毒ガスの使用時期については、夏の大雨の合間を縫って攻撃できるのであれば「(冬より)夏の方が良い」と指摘。

 また東京の住宅密集地域の道路は狭く、ガスの流れが阻害されるため「極めて多くの小型(毒ガス)爆弾」の使用を提言した。

 東京への攻撃は、まず最初に焼夷(しょうい)弾を使って木造住宅が密集する地域で火災を起こした後で、近代的な建物が多い地域で、毒ガス攻撃を行うのが最も良い方法だとした。(共同)

313小説吉田学校読者:2009/08/09(日) 00:59:52
インパール作戦は何のためだったのか。私も現代史の本は結構読んでるつもりだが、本当に何のためだったのか。

語り継ぐ夏:09京都/2 インパール作戦に従軍した桑原眞一さん /京都
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20090807ddlk26040537000c.html

◇戦友慰霊が役目、鎮魂の五条通復元図作り−−桑原眞一さん(87)=下京区
 「目の前で多くの仲間が倒れた。目玉が飛び出たり、腕を失ったり。即死もしょっちゅうだった。それでも怖いとか可哀そうとか考える余裕はなかった」。ずさんな計画で約7万人もの戦死・傷病者を出し、日本陸軍瓦解の発端とも言われるインパール作戦に従軍。何度も死線を越えた。
 赤紙が届いたのは大学在学中の1941年12月。入隊後、大隊砲を任された。中国・南京西方で揚子江沿いの警備を約1年務め、ベトナム、カンボジア、タイへと転戦。中国への補給ルートを断つため、数カ月の行軍を経て44年2月末、インド北東部のインパールに着いた。
 ここで、小銃隊はそれぞれ通常の2倍を超える20日分の米や乾パンなど食料と弾薬360発を持たされ、英印軍掃討のため、山間部の移動を繰り返した。戦況は泥沼。5月末には大隊砲の弾薬が尽き、戦闘だけでなく、飢えやマラリアで仲間がばたばた倒れた。
 「時には敵と鉢合わせになり、手投げ弾でやり合った。迫撃砲がすぐそばの樹木に当たって爆発し、仲間が吹き飛ばされたこともある。毎日夕方の点呼の度、戦友が一人、また一人と減っていった」。自身もその後、イラワジ川会戦で迫撃砲の破片が左腰部分を直撃。命に別条なかったのが不思議なくらいだという。
 そして、タイのノンプラドクで45年8月15日を迎えた。連隊長が停戦を命じ「次の命令があるから兵器を手入れしておくこと」と指示。すぐに敗戦のうわさが広がった。同月30日「敵に取られるよりはまし」と軍旗を「奉焼」した時、はっきり負けを悟った。全員ボロボロ泣いた。
 それから約10カ月、英印軍の捕虜としてタイの兵舎で過ごし、46年6月に復員した。生まれ育った下京区の五条通かいわいでは「建物疎開」があり、空襲の延焼を防ぐため、以前の自宅は強制的に取り壊されていた。
 多くの戦友の死を看(み)取った戦場から帰ってみれば、同じ小学校区から出征した同部隊の10人の中で生き残ったのは自分1人。仲間たちの死に対し、何もできないことを悔やんできたが、地元で07年8月に始まった五条通の復元図作りに加わり、少し当時を振り返る心の余裕ができた。
 「通りを歩くと、どうしても昔を思い出す。戦友を慰霊することが生きて帰った自分の役目。地図を作ることで戦友らをしのぶ気持ちもあったんです」
 その“成果”は9日まで立命館大学国際平和ミュージアム(北区)で展示されている。

314とはずがたり:2009/09/01(火) 10:22:28
【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 「リベラル政権」の桎梏忘れるな
2009.9.1 02:58
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090901/stt0909010259002-n1.htm

 ≪政策変更には長大な時間≫

 「一利を興すは一害を除くに如かず。一事を生(ふ)やすは一事を省くに如かず」という政治の要諦は、ジンギスカンに仕え、ユーラシア大陸空前絶後の大帝国である元帝国の基礎を築いた大宰相、耶律楚材(やりつそざい)の千古の名言である。

 民主党新政権の発足を控えて、私がこの言葉を引用したいのには二つの理由がある。一つは過去のリベラルな政権が遺したものが長く日本国民の桎梏(しっこく)となった例があまりに多いからである。

 民主党がリベラルな政権であるかどうかは今の時点ではよく分からない。ただ、民主党の中には左翼リベラルの流れを汲む人々が少なくないのも事実である。

 戦後日本でリベラルあるいは左翼的な政権と言えば、三木、細川、村山、宮沢各内閣であろう。

 三木内閣の残したものの中で、F−4戦闘機から空中給油能力を外したのを復元するのにはF−15の発注まで待たねばならなかった。防衛費の1%の枠を外すのには中曽根内閣まで10年を要した。武器輸出三原則の拡大解釈は三十余年を経ても今なお日米同盟の障害である。

 また、三木総理が自分の靖国参拝を「個人の資格」でと言った結果、天皇の行事には公私の区別をつけるのが難しいので、戦没者慰霊のために戦後欠かさず続けられていた天皇陛下の靖国参拝がそれ以来妨げられている。それは、韓国、中国の反対で靖国が国際政治問題化する10年前の話である。

 ≪「自民党単独」の残滓も≫

 細川内閣はさして負の遺産は残していない。1994年の北朝鮮核危機で日米間に不協和音が生じる恐れがあったが、内閣は自ら退陣して同盟の危機を避けた。それはそれなりに日本の国益に沿った立派な出処進退だったと思う。

 村山内閣が、国会の多数の支持もないまま、一方的に発した村山談話が、その後日本外交に及ぼした足かせについては今更言うまでもない。

 他に鈴木政権の教科書問題の時の宮沢官房長官談話、そして宮沢内閣の時の従軍慰安婦に関する河野談話は長く傷痕を残した。

315とはずがたり:2009/09/01(火) 10:22:49
>>314-315
 民主党政権は心して、このような後世の手を縛る一事を生むことを慎んでほしい。非核三原則の法制化などは、万一の場合によっては、国民に惨害をもたらす可能性をよく考えてほしい。党内の良識派も監視機能を発揮してほしいし、また、三木、村山政権と違うのは自民党という強力な野党が存在していることであり、自民党は国会で、そういう余計な一害が生じるのを避けるよう十分なチェック機能を働かしてほしい。

 他方、省くべき一事としては、自民党支配半世紀の残滓(ざんし)は少なくない。

 ただし、外交安保政策においては、他国との信頼関係維持のために、政権が代わっても一貫性が保たれるべきことは鉄則である。現に村山内閣といえども、就任早々日米同盟“堅持”の大原則を声明した。インド洋海上補給などは、民主党も支持している日米同盟の維持強化のための政策であり、省くべき一事とは性質が違う。

 ≪集団的自衛権に突破口を≫

 しかし、むしろ同盟の信頼関係強化を損ねるような、自民党単独支配の残滓がある。その整理を民主党政権にお願いするスジかどうかわからないが、政権が代わったときこそかかる堆積(たいせき)物を整理する機会であり、そうでなければ、二大政党交代の意味がない。

 その堆積物の最たるものは、集団的自衛権の行使は許されないという政府解釈である。

 そもそも憲法の解釈権は、政府でなく、裁判所にあると憲法に書いてある。まして、国会が批准し、憲法が遵守義務を定めている国連憲章などの条約に明記してあるのだから、日本にはその権利がある。権利があって、その行使が許されないなどという解釈は法治国家ではあり得ないことである。

 実は、選挙戦中の自民、民主の政策論争を通じて、集団的自衛権問題の一つの突破口が見えて来たかもしれないのである。

 それは自民党のマニフェストが集団的自衛権という言葉を使わず、単に、日本を守っている米国を攻撃するミサイルを撃ち落とす、共同行動をしている米艦を守るという、常識で反対出来ない問題提起の仕方をしたからである。

 もともと集団的自衛権が憲法問題だというのは、こじつけが重なって出来た解釈である。裁判所の有権解釈はすでに日本固有の自衛権を認めているし、集団と個別の間に線など引いていない。

 民主党も、これは憲法問題とは無関係で、ただ日本国民の安全を守るにはどうするかという行政府の政策の問題だと割り切れば、それこそ自民党支配半世紀の残滓を一挙に解決することになる。

 どうしても行使したくなければ、法的問題としてではなく民主党政権の間は政策として行使しないと言えば良いだけの話である。ただ、不測の事態を考えれば、それも言ってほしくはない。

 とにかく国民の安全に一害を加えるのを厳に慎むことである。(おかざき ひさひこ)

316とはずがたり:2009/09/15(火) 22:13:33

<河村名古屋市長>南京大虐殺「誤解されて伝わっている」 (毎日新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_takashi_kawamura__20090915_6/story/15mainichiF0915e071/

 名古屋市の河村たかし市長は15日開かれた市議会9月定例会の一般質問で、1937年の南京大虐殺事件について、30万人以上が死亡したとする説について、「当時の南京の人口より多いので絶対違う」と否定し、「一般的な戦闘行為はあったが、誤解されて伝わっているのではないか」などと述べた。

 河村市長は「おやじは終戦を南京で迎えた。南京の人に本当に優しくしてもらい、名古屋に帰ることができたと言っていた。30万人の虐殺があったら8年後に南京の人が優しくしてくれるのか」と疑問視。「一般的な戦闘行為で市民が亡くなったことはあった。捕虜収容所で放火があって市民が亡くなったり、残っている日本人を逃がそうとして銃撃戦になり、市民が亡くなった。そういうものが誤解されて伝わっているのではないか。事件そのものについて日中友好のためにきちんと検証し直す必要がある」となどと述べた。

 東郷哲也議員(自民)の市長の歴史認識を問う質問に答えた。

 河村市長は議会後、発言の真意について「日中友好を深めるため、正確なことを調べた方がいい。(死者数は)30万人説があれば、25万、3万もある。国会議員時代にも質問主意書を出している」などと語った。

 河村市長は著書の中で、「南京大虐殺は国民党のプロパガンダだったかもしれないとか言っていると、『河村たかしは陰謀史観』とかいう声が聞こえてくる。ワシは特別変わったことを言っているわけではない」などと記している。

 衆院議員時代の06年には、政府に対し「いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書」を提出。教科書などに「市民や捕虜の殺害」などが記載されている根拠や、政府見解を改めてただした。当時の小泉内閣は「1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害または略奪行為等があったことは否定できないと考えている」と答弁書を出した。【月足寛樹、丸山進】

[毎日新聞9月15日]

[ 2009年9月15日14時14分 ]

317とはずがたり:2009/10/04(日) 04:33:49
506 名前:無党派さん[] 投稿日:2009/10/02(金) 17:26:42 ID:0wwy023u
この前の「たかじんのそこまで言って委員会」で三宅久之が麻生と会って話した体験から、
言ってたけど、麻生はもの凄い楽観主義者で「もうすぐ給付金が国民に行き渡るから、
支持率は上がりますよ」みたいな態度だったそうだ。東條とそっくり。

東条英機首相
「大詔を拝し奉りて」

《およそ勝利の要訣は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、
我等は、未だ嘗つて戦ひに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる
強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。》

なかなか辞めようとしないところもそっくり。東條暗殺計画を相談された石原莞爾はそれに
賛同し、「あいつは殺しでもしない限り辞めないやつだ」と言ったそうだ。

そして、玉砕。

むかし東條、いま麻生w
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/giin/1246372643/84-86

318とはずがたり:2009/10/25(日) 00:53:11

西松建設が基金設立で和解 中国人強制労働、謝罪も
10/23 12:36
http://www.shizushin.com/news/social/national/2009102301000020.htm

 太平洋戦争中に強制連行され、過酷な労働を強いられたとして、中国人の元労働者ら5人が西松建設(東京)に1人550万円の賠償を求めた訴訟をめぐり、同社は23日、2億5千万円を信託して被害救済に向けた基金を設立し、謝罪することなどを条件に原告側と東京簡裁で和解した。
 訴訟自体は2007年に最高裁で元労働者側の敗訴が確定したが、この判決が「被害者らの精神、肉体的苦痛は大きく、関係者には被害救済に向けた努力が期待される」と指摘したことを受けて、双方が協議。今回、訴訟とは別の「即決和解」手続きを取った。
 戦後補償訴訟で、賠償責任を否定された企業側が自主的に金銭補償に応じるのは異例。同種裁判でのほかの被告企業にも影響を与えそうだ。
 和解条項によると、西松側は強制連行の事実を認めた上で、企業としての歴史的責任を認識し、元労働者側に謝罪の意を表明。広島県安芸太田町の安野発電所建設工事に携わった原告ら360人の中国人元労働者を対象に、2億5千万円の「西松安野友好基金」を設立するほか、後世の教育のため記念碑を建立する。
 元労働者らは1998年に提訴し、一審広島地裁で元労働者側が敗訴したが、二審広島高裁で逆転勝訴。最高裁判決は「日中共同声明で個人の賠償請求権は放棄された」として請求を棄却した。
 西松側は、今年発覚したダミー団体による政治資金規正法違反事件を踏まえ「会社の今までの問題を見直す一環」として和解に取り組み、新潟県での強制労働をめぐる訴訟でも同様の和解を検討している。

319とはずがたり:2009/10/25(日) 16:33:35
英国で「佐賀の乱」公文書発見 駐日大使が母国に報告
鹿島出身の徳本栄一郎さん発見
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1455771.article.html

 明治政府に対する士族の反乱とされる「佐賀の乱」(1874年・明治7年)について記述したイギリスの公文書が英公文書館で見つかった。当時の駐日大使が英政府に送った報告書で、24枚の文書には佐賀の乱を単なる一地方の反乱ではなく、「明治新政府内の対立を背景にしたもので、結末に不満もあり、政府は信頼を回復していない」という内容が書かれている。外国高官の目で佐賀の乱を分析した貴重な史料といえる。

 鹿島市出身のジャーナリスト徳本栄一郎氏(45)が今年6月、ロンドン郊外の公文書館で日本関連文書を閲覧して見つけた。佐賀の乱に関する外国公文書の発見は初めてとみられる。

 報告書は1874年4月25日付で、幕末から着任していたハリー・パークス大使が英外務大臣あてに送っている。首謀者とされる江藤新平の処刑日から12日後の日付になる。

 徳本氏によると、報告書は裁判の様子を記して「死刑に加えて江藤前法務卿と島(義勇)らはさらし首にされた。この判決は大きな不満も呼んでいるようだ」と指摘。政府軍に反抗した榎本武揚が後に特赦で要職に就いた例と比較して刑が重すぎるという意見を紹介、「佐賀の乱鎮圧で政府への信頼が回復したとは言えない」と分析している。

 さらに大蔵卿大隈重信らの辞任や、鎮圧を指揮した内務卿大久保利通の動きを報告し、「新政府が分裂し、人々は個人的感情が(江藤処刑に)復讐の性格を与えたと考えているようだ」としている。

 「佐賀の乱」をめぐっては、明治政府に不満を募らせた佐賀の士族が起こした反乱という通説に対し、明治維新史に詳しい毛利敏彦大阪市立大名誉教授は、大久保による謀略説を主張している。

 県内でも初代司法卿で「人権の父」といわれた江藤が、功績に比べて不当な評価を受けているとし、「佐賀戦争」や「佐賀の役」と呼称変更を求める意見がある。佐賀市議会でも6月議会で中学歴史教科書の表記をめぐり議論した。

 それらの議論に関心を持った徳本氏が、英国通信社勤務時から活用している英国公文書館に関連資料がないか調べた。

 徳本氏は「英政府が維新直後で不安定な日本の情勢を気にしていたことがうかがえる。佐賀の乱が内乱に発展し、英国にとっても対日貿易で不利益を受けることを懸念していたのではないか。歴史を内側だけでなく、外からの視点でみることも大事だと思った」と話している。

【写真】「佐賀の乱」に関する報告書が見つかった1870年代の日本関連ファイル=英国公文書館で徳本栄一郎氏撮影
2009年10月25日更新

320とはずがたり:2009/10/29(木) 09:44:34
歴史と云うには生臭いけど。

中曽根事務所が閉鎖へ 政治史の舞台また一つ消え
2009.10.29 01:10
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091029/stt0910290112000-n1.htm

 国会近くの東京・平河町にある中曽根康弘元首相の個人事務所が今年中に閉鎖されることが28日、わかった。来年からは中曽根氏が会長を務める世界平和研究所(東京・虎ノ門)に拠点を移し、政治活動を続けるというが、自民党の一時代を築いた政治史の舞台がまた一つ消える。

 中曽根氏の事務所がある「砂防会館」は、田中角栄元首相が率いる田中派(木曜クラブ)の本拠地だったことで知られ、現在も伊吹派(志帥会)や二階派(新しい波)が事務所を置く。

 中曽根氏がここに事務所を構えたのは昭和42年。53年から同じフロアの現在の場所に移し、30年以上政治活動の拠点としてきた。

 57年秋には自民党内で浮上した「中曽根総理、福田赳夫総裁」の「総総分離論」をけり、総裁選の予備選が実施された。中曽根内閣発足までの間の中曽根氏の一挙手一投足が注目され、事務所は中曽根派議員やメディア関係者で昼夜を分かたずごった返した。

 首相在任中は首相官邸や自民党本部を拠点にしたが、退任すると再び事務所に戻り、ゴルバチョフ元ソ連大統領や全斗煥元韓国大統領ら多くの外国要人を迎えたほか、政局の節目では自民党の大物・中堅議員が常に出入りした。

 平成15年の衆院選前には、当時の小泉純一郎首相が事務所を訪問し、引退を勧告。中曽根氏は「政治的テロみたいなものだ」と怒りを爆発させた。結局、56年にわたる議員生活から退いたが、その後も事務所で政治活動を続けてきた。

 ただ、中曽根氏も91歳。政権交代により、自らも若手議員として首相に担ぎ出した故鳩山一郎氏の孫、鳩山由紀夫氏が首相になったことも一つの区切りと感じたようだ。今後は政党色を薄め、世界平和研で外交や経済の政策研究に力を入れる考えだという。

321とはずがたり:2009/11/29(日) 03:57:10
森繁のお尻と角栄のカネかw
面白い話しなんでこっちにも転載しておきます。

近聞遠見:田英夫がもらした「秘話」=岩見隆夫
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1215411124/63

 佐藤政権末期、田中は通産相のポストにいたという。1971年夏ごろと思われる。田はTBSを退社し、社会党から参院選全国区に出馬、192万票の大量得票でトップ当選した直後だ。

 その日、田は陳情ごとがあって大臣室を訪ねた。田中は話題の人物を機嫌良く迎え入れ、

 「よし、よし、わかった」

 とつぶやきながら、かたわらの紙片にメモし、やおら、

 「おーい、次っ」

 と大声をあげた。田が、

 「じゃあ、大臣、よろしく」

 と腰を浮かしかけた、その時だ。田中の右手がさっと伸び、田のスーツの内ポケットに札束らしいものを突っ込んだ。早業である。とっさにこれはまずい、と思ったが、すでに大臣室のドアがあいて、次の陳情客が入りかけていた。返すに返せない。

 「カネはあって邪魔にならんよ」

 と田中の低い声を背中に聞きながら、田は辞去するしかなかった−−。

 帰ってみると、札束は100万円だった。

 「あの人、すごいねえ。あれ瞬間芸ですよ。あとに嫌な感じがまったく残らないんだなあ」

 と田は言った。そんな田中に感服したような口ぶりだった。そうかもしれないな、と当方も共感した覚えがある。

 この密室のエピソード、田は文字になるはずがないと信じたからこそ打ち明けたのだろう。だから、当方も長年、暗黙の約束を守ってきた。

 だが、亡くなったいま、<戦後政治のひとコマ>である貴重な証言を書くことを、田は許してくれると思う。

 当時、革新陣営の花形選手だった田に、首相の座が間近の保守実力者が現金を渡す。あのころの100万円は小さい額ではない。

 もしその時点で暴露されていたら、田中は首相のチャンスを失っていただろう。だが、そうならない確信が田中にはあった。何万回か、カネを渡してきた経験から、<カネと人間>の機微を熟知していたからだ。

 田が残していった秘話を書くべきかどうか、同僚に相談した時、

 「角さんは政界のモリシゲ(森繁久弥)じゃないの。モリシゲは女優のお尻を触るのが常習だったが、だれも文句を言わなかった。角さんも相手に抵抗なくカネを渡す術にたけていたということだ」

 と面白いことを言った。そんなところだろう。角栄・モリシゲの時代は遠くなった、という感慨もある。

322とはずがたり:2009/12/08(火) 02:24:59

陸軍中将が開戦直後に太平洋戦争批判 部下を前に演説
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2009120790091245.html
2009年12月7日 09時41分

 太平洋戦争開戦から間もない昭和16(1941)年12月末、中国・徐州に進駐していた陸軍第17師団の師団長だった平林盛人中将が部下の将校を集め、痛烈に開戦を批判する演説をしていたことが、元部下2人の証言で明らかになった。将校らは「他言無用」と申し合わせ、発言は表面化しなかったという。8日で開戦から68年。平林の危惧(きぐ)した通り、日本は戦争の泥沼に入り込み、日本人だけで300万人以上の命が失われた。

 平林の発言を証言したのは、元副官で蓮光寺住職の平谷典樹さん(94)=兵庫県太子町=と、元主計将校で飯野海運元社長の風早英雄さん(97)=東京都目黒区。中でも平谷さんは、起居を共にする一番の側近だった。

 2人の元将校の証言によると、平林の発言があったのは、掃討作戦などから徐州の師団本部に戻ってほどない昭和16年12月29日の将校昼食会の席。40人ほどの将校が出席し、食事を済ませると、平林がいつになく険しい表情で話し始めた。

 「現在の日本の戦力では、対米英軍相手に干戈(かんか)(いくさ)を交えても、絶対に勝てる見込みはない。真珠湾の奇襲で寝込みを襲い、戦果を挙げたかもしれないが、1年足らずで劣勢に追い込まれ、やがて敗戦に至るだろう」

 「装備劣勢の日本軍が近代戦を戦えないことは、先の(ソ連に惨敗した)ノモンハン戦で立証済みである」

 「泥沼化している中国戦線を未解決のまま米英軍を相手に戦う余力は、今の日本にはない。負け戦と分かっている戦争は、絶対にやってはならない」

 平林はこのように戦争の成り行きを予言。開戦を激しい調子で批判したという。

 さらに当時の東条英機首相について「本来憲兵司令官を最後に予備役に編入せらるべき人物で、陸軍大臣、総理大臣の器ではない。この難局を処理する能力など持っていない」と厳しく指弾した。

 話を聞いたときの衝撃を、平谷さんは「負けるとは考えもしておらず、みんなしゅんとしていました」と振り返る。風早さんは「びっくりしました。この話はなかったことにしようと、皆で話し合いました」と話した。

 平林は東条と気が合わなかったとされ、約1年後、師団長の任を解かれて予備役となった。その後、長野県松本市長となったが、任期途中で再任用され、長野師管区司令官として同県松代町(現長野市)の地下壕(ごう)に首都機能を移す「松代大本営」の建設などに携わり、終戦を迎えた。

解説

(中日新聞)

◆<解説>「良識派」無視し破滅へ

 海軍大将の山本五十六や陸軍中将の石原莞爾(開戦時は予備役)ら、対米英開戦に反対した軍幹部はいる。しかし開戦直後、部下を前に「聖戦」を真っ向から批判したのは、平林くらいのものだ。

 当時の日本軍は真珠湾奇襲に成功し、東南アジアでも快進撃を続けていた。勝利を伝える国策報道の影響もあり、国民も前線の兵士も、対米英戦争の勝利を信じ切っていた。

 そうした浮かれた気分に冷水を浴びせるような発言は、現在から見ると正当だが、当時としては「不見識」極まりなく、軍の秩序からすれば、到底許されない行為だった。

 平林が発言をした背景には、もともと反りが合わず、無謀な戦争を始めた東条英機首相(当時)への憤怒があったとみられるが、それだけではない。

 平林は参謀本部員当時、米国を研究する米班に所属し、東京外国語学校(現東京外国語大)で英語を学んだ後に1年間、欧米を視察旅行している。こうした経験などから、特に米国の軍事力を熟知しており、勝ち目はないと知っていた。

 平林は陸軍士官学校同期の石原莞爾と親しく、戦線拡大に反対する石原の考えに共鳴していたこともある。

 しかし、平林も石原も東条の手で予備役に退かされ、結局は開戦を止めることも、戦争を早く終わらせることもできなかった。

 「良識派」の声を吸い上げるシステムを持たない国家は、声高に進軍を叫ぶ主戦派に誤導されるまま、破滅への道を進んだ。 (社会部・加古陽治)

323荷主研究者:2009/12/14(月) 00:36:26

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20091208101.htm
2009年12月8日03時36分 北國新聞
小松の石切場に弾薬庫 大戦末期に使用

今も残る石切場の入口。大戦末期に火薬などが貯蔵されていた=小松市里川町

 太平洋戦争の開戦から8日で68年。小松市北東部の石切場が第2次世界大戦末期、弾薬や航空燃料などの貯蔵庫に利用されていた。旧海軍の下士官で管理していた西川清則さん(85)=同市安宅町=ら複数の地元関係者が証言した。軍需物資の保管場所という機密情報の一端が明らかになった。

 石川県立歴史博物館によると、旧日本軍は大戦末期、主に空襲を避けるため鉱山跡や石切場を地下軍事工場や弾薬庫として多用しており、県内でも金沢市額谷や小松市遊泉寺町など5カ所で確認されているという。

 西川さんによると、1945(昭和20)年7月に小松市立明寺町や鵜川町に赴任した際、石切場と倉庫数棟にドラム缶約500本の航空燃料やメチルアルコール、海軍の制服や缶詰、鍋などが大量に保管されていた。ドラム缶は46年2月ごろ、県などに引き渡したという。

 同市鵜川町の谷山喜二郎さん(86)は44年夏に倉庫の建設を開始、終戦後にドラム缶が運び出されるのを目撃した。旧海軍小松飛行場の滑走路は44年7月に完成しており、小松飛行場向けの物資だったとみられる。

 西川さんは終戦後、上官から「約1・5キロ北にある里川町の石切場に弾薬が保管されていたが、七尾に運ばれ、海中に捨てた」と聞いた。45年10月ごろ、米兵6人が弾薬を捜索に来たが、西川さんは地上に点々と残る黄色い火薬を指して「どこかに運ばれ、もうない」と告げたという。

 同市里川町の川本正芳さん(81)は44年、石切場に火薬を運び込む軍人を見たという。火薬は50〜60キロ入る木製の箱に納められており、川本さんは「全部で数十トンあったかもしれない」と話す。別の住民は「50年ごろ、海軍関係者の宿舎だった建物に直径25センチ、長さ70センチほどの砲弾があった」と証言。子どもが砲弾を持って落としたが、爆発しなかったという。

 西川さんは戦犯になることを恐れ、家族以外に戦時中のことは伏せてきた。しかし戦争経験者が減っているため広く伝える決意をしたという西川さんは「戦争を起こさないように当時のことを伝えていきたい」と話した。

324荷主研究者:2009/12/14(月) 00:55:40

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20091212102.htm
2009年12月12日03時52分 北國新聞
「異才」米山保三郎 漱石に文学勧め、子規に哲学断念させる

 ドラマ化で再び脚光を浴びている司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」に、金沢出身の米山保三郎(やすさぶろう)なる人物が登場する。夏目漱石に作家の道を勧めたり、正岡子規は保三郎と出会ったことで哲学の道を断念したという。近代文学史に名を残す2人が、若き日に影響を受けた「異才」の実像を追うと、加賀藩の「算盤(そろばん)侍」の血脈が浮かび上がった。(本江亜珠佳)

 訪れた金沢ふるさと偉人館で松田章一館長が膨大な資料とともに待っていてくれた。松田館長も今年初めから保三郎を調べていたという。金大教授も務めた大久保純一郎氏の「漱石とその思想」が詳しいと聞き、目を通す。驚くべき逸話が詳しく記されていた。

 明治20年代、漱石、子規、保三郎は第一高等中学校(のちの旧制第一高等学校)で机を並べた。建築家を志していた漱石に対し、保三郎は「文学をやれ、文学なら勉強次第で幾百年幾千年の後に伝えるべき大作も出来るじゃないか」と説いたという。後に漱石はこの助言に深い感謝の念を示している。

 保三郎は名作「吾輩は猫である」にも「天然居士(こじ)」として登場。漱石が「またとあるまじき大怪物」と評した手紙も残り、漱石研究者の間では名が通っているのだとか。

 子規も、数理、哲理に長(た)けた保三郎との出会いに「四度驚かされた」と回想している。その衝撃は、子規が翌日の野球の試合に出場する元気を失わせるほどだったという。子規は哲学の道をあきらめ、国文科へ進んでいる。

 「日本近代文学の波を変えた2人の青年の曲がり角に、保三郎は立っていたんです」。松田館長の口調は熱い。同郷として誇らしい気分になってきた。

 こうなると気になるのは保三郎の出生だ。1869(明治2)年、金沢の旧本馬町(現野町2丁目)に生まれた。父は加賀藩の財政に携わった算用者。映画製作の進む磯田道史氏のベストセラー「武士の家計簿」で描かれた猪山家と同じ「算盤侍」だったのだ。

 その血を受け継いだ保三郎は、東京帝大で哲学を学び、大学院では空間論を研究した。29歳で早世したが「長く生きていれば、西田幾多郎以上の哲学者になったかもしれない。何より、加賀藩の学力がいかに優れていたかを示している」と松田館長は指摘する。

 保三郎との出会いがなかったら、漱石、子規はどんな道を歩み、近代日本文学はどうなっていたのか。郷土が生んだ「明治の群像」の1人として、保三郎の存在がすごく大きく見えた。

●夏目漱石(なつめそうせき)1867年東京生まれ。本名・金之助。1905年「吾輩は猫である」の連載を開始、06年「坊っちゃん」を発表。「三四郎」「こころ」など数々の名作を残した。「明暗」連載中の16年死去。

●正岡子規(まさおかしき)明治期を代表する俳人・歌人。1867年、現在の松山市生まれ。俳句雑誌「ホトトギス」などを通じて近代俳句を提唱し、短歌改革や写生文による文章革新運動など大きな足跡を残した。1902年死去。

325チバQ:2009/12/27(日) 01:34:15
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091226-OYT1T00850.htm
住友家、吉田茂、太宰…神奈川の「歴史」灰に
 太宰治の小説「斜陽」の舞台となった神奈川県小田原市曽我谷津の別荘「雄山荘」が26日未明に全焼するなど、同県内で文化財や歴史的価値のある建物の火災が相次いでいる。


 県内では2007年5月と08年1月、藤沢市の旧モーガン邸が2度全焼。09年3月には、横浜市戸塚区にある国重要文化財の旧住友家俣野別邸と、大磯町の吉田茂元首相旧邸が全焼した。

 小田原署などによると、雄山荘は約10年前から空き家で通電されていない上、門の鍵はかかっておらず敷地内に自由に入れる状態だったことから、不審火の可能性が高いとみている。

 雄山荘前の道路を毎日掃除していたという近所の主婦(70)は「太宰ゆかりの別荘が灰になり、悲しくて泣けてくる」と肩を落とした。

 地元の「西さがみ文芸愛好会」代表代行の日達良文さん(78)は「5月に訪れた時には草ぼうぼうで、しゃれた別荘もすっかり朽ちていた。まさか火事で焼け落ちてしまうとは」と言葉を詰まらせた。

(2009年12月27日00時34分 読売新聞)

326荷主研究者:2009/12/30(水) 00:08:41

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200912170065.html
'09/12/17 中国新聞
土木遺産に呉・江田島の遺跡
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 江田島市沖美町の旧三高山砲台と、呉市昭和町の旧呉鎮守府兵器部護岸関連施設の二つの戦争遺跡が、土木学会(東京都)の本年度選奨土木遺産に選ばれた。文化的価値のある近代土木構造物と評価され、両市は観光資源として活用する。授賞式は20日に広島市である。

 旧三高山砲台は、軍港広島、呉へのバルチック艦隊入港を阻止するため、1901年に完成。国内最大級の砲台施設だったが、一度も使用されず、19年に廃止された。現在は森林公園として整備され、保存状態も良好なことが評価された。

 旧呉鎮守府兵器部護岸関連施設は、1889年の旧日本海軍の呉鎮守府開庁後、約10年間で完成した石護岸。クレーンや軍港時代の施設が一式で保存されている。現在は「アレイからすこじま公園」として観光スポットになっている。

【写真説明】<上>森林公園の一部となっている旧三高山砲台<下>当時のクレーンも残る旧呉鎮守府兵器部護岸関連施設

327名無しさん:2009/12/30(水) 12:38:23
いずれ歴史となりますのでここでよろしいでしょうか。

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091230ddm010040078000c.html
重大ニュース2009:日本と世界を変えた1年(その1)
 後世の歴史教科書に09年の出来事はどのように記述されるのだろうか。民主党が衆院選で圧勝、戦後憲政史上初という本格的な政権交代を果たした。オバマ米大統領は「核なき世界」を訴え、ノーベル平和賞を受賞。出口の見えない不況、新型インフルエンザの流行といった暗い話題にも事欠かなかったが、歴史の転換点かもしれない新たな動きがあったこの1年を振り返る。

 ◇民主党が政権奪取 自民が惨敗、下野
 ◇仕分け、ダムで論議 普天間は先送り
 第45回衆院選(8月30日投開票)で、民主党は定数480のうち過半数を大幅に上回る308議席を獲得し、政権奪取を果たした。1955年の結党以来、一時期を除き、政権を担ってきた自民党は、議席を約3分の1に減らす大惨敗で下野。99年から10年続いた自民、公明両党の連立政権は崩壊した。

 民主党の鳩山由紀夫代表は9月9日、社民党の福島瑞穂党首、国民新党の亀井静香代表と会談し、連立政権の樹立で合意した。鳩山氏は同16日に第93代首相に指名された。与党3党に無所属議員を含めると、参院で否決された法案を衆院で再可決できる320議席以上を有する「巨大与党」が誕生した。

 鳩山首相は選挙など党務を取り仕切る党幹事長に、小沢一郎前代表を指名した。安定政権を目指し、10年夏の参院選での単独過半数獲得を狙う。一方、自民党は9月28日の総裁選で麻生太郎前首相の後継総裁に谷垣禎一元財務相を選び、党勢立て直しを急いでいる。

 <政治主導掲げ>

 9月16日に発足した鳩山新政権は、子ども手当など独自政策の財源捻出(ねんしゅつ)を狙った無駄遣い削減に一定程度成功する一方、米軍普天間飛行場(沖縄県)の移設問題では混乱の中にある。いずれも新政権がアピールする「政治主導」の結果だ。

 鳩山政権はまず、麻生政権時代に組まれた約14兆円の09年度補正予算の一部執行停止に着手し、2・9兆円の支出を止めた。また、11月には10年度予算の概算要求などから449事業を抽出し、必要性を点検する「事業仕分け」を実施。1・9兆円を無駄と判じた。

 こうした野党時代からの無駄の追及を貫く姿勢は、国民から広く支持された。八ッ場ダム(群馬県)を巡っては、就任初日に中止を明言した前原誠司国土交通相の手法が批判されたものの、その後、ダムや道路事業の見直しにつながっている。

 一方、普天間問題は閣僚間の発言が食い違って混迷を深めており、民主党流の「政治主導」の負の側面が表れた。鳩山首相は衆院選前「少なくとも県外移設」と明言して沖縄県民に期待を抱かせる一方、オバマ米大統領には首脳会談で「私を信頼して」と伝えた。しかし、首相は年内決着を断念した。日米同盟の亀裂が懸念される中、着地点は見えない。

 ◇首相の元秘書起訴 献金偽装・虚偽記載、小沢氏秘書も
 鳩山由紀夫首相と小沢一郎民主党幹事長の政治とカネの問題がクローズアップされた。

 鳩山氏は6月30日、自分の資金管理団体の政治資金収支報告書に2177万円余の個人献金の偽装があったことを明らかにした。

 その後、パーティー券収入などでも虚偽記載が判明、04〜08年の偽装総額は4億100万円に。原資は鳩山氏や実母が提供した。東京地検特捜部は会計事務担当だった元公設第1秘書を政治資金規正法違反で12月24日に在宅起訴、元政策秘書も略式起訴した。

 一方、西松建設からの違法な献金計3500万円を収支報告書に虚偽記載したなどとして起訴された小沢氏の公設第1秘書の初公判が12月18日に開かれ、起訴内容を否認した。

328名無しさん:2009/12/30(水) 12:38:58
>>327

 ◇長引く不況、デフレ宣言 雇用不安、出口なし
 09年は、08年9月に起きたリーマン・ショック後の金融不安が世界規模で実体経済に波及して、底なし沼的な不況に沈んだ1年となった。

 欧州系銀行の巨額損失懸念などを背景に、投資家が比較的安全な円に資金を避難させ、1月下旬に1ドル=87円台前半まで円高が進行。欧米の消費低迷による輸出減と円高のダブルパンチで企業業績は急激に悪化した。

 3月には日経平均株価がバブル後最安値を更新。企業による減産↓人員削減・賃下げ↓国内消費の冷え込みという悪循環から、1〜3月期の実質国内総生産は前期比11・9%減(年率換算の確報値)と戦後2番目の落ち込みを記録した。

 その反動から、景気は4月以降持ち直しの兆しを見せたが、雇用の改善は進まず、国内は40兆円規模の需要不足が生じ、8月の消費者物価指数は前年同月比2・4%減と過去最大の下落幅。政府は11月、3年5カ月ぶりの「デフレ宣言」に追い込まれ、景気回復のきっかけをつかめないまま年を越そうとしている。

 ◇失業率最悪の5.7%
 09年の雇用は、派遣切りで仕事と住まいを同時に失った人たちが集った「年越し派遣村」とともに明けた。完全失業率は7月に過去最悪の5・7%を記録、有効求人倍率も0・42倍と過去最低となった。その後も、依然厳しい状況にある。

 厚生労働省の調査では、昨年10月から今年12月までに職を失ったか、失うことが決まっている非正規雇用労働者は24万9307人(12月16日時点)。失職などで住まいを確保できない「ハウジングプア」層が拡大。無料低額宿泊所の一部で、生活に困窮した入所者から生活保護費をピンハネする「貧困ビジネス」が問題化した。

 ◇GM、クライスラー相次ぎ破綻
 リーマン・ショック後の世界同時不況は、米国経済繁栄の象徴だったビッグ3(米自動車大手3社)のうち、米3位のクライスラー(4月末、米連邦破産法11条を申請)、米最大手のゼネラル・モーターズ(GM、6月1日、同)を相次ぎ破綻(はたん)に追い込んだ。クライスラーはイタリア大手、フィアット傘下入り。GMは米政府が約500億ドルを投入して発行済み株式の6割を握り、実質国有化して再建を目指すが、両社の前途は多難だ。

 ◇日航、支援の行方は視界不良
 経営危機に陥った日本航空は10月、官民共同出資の「企業再生支援機構」に支援を要請した。年明けにも支援が決まれば、公的資金による資本注入を受け、国の管理下で再建を目指す。競争が激化する航空業界で生き残るため、米航空大手との提携交渉も進めている。しかし、日航が公的資金投入の条件となる手厚い企業年金の減額に失敗し、機構が支援を見送った場合は、会社更生法の適用など法的整理も現実味を帯びる。

 ◇「核なき世界」に共感 オバマ米大統領、ノーベル平和賞
 米国史上初の黒人大統領に選ばれた民主党のバラク・オバマ氏は1月20日、第44代大統領に就任した。就任式でオバマ氏は「(国民が)責任を果たすべき新たな時代」と演説。長引くテロとの戦いや経済不振で閉塞(へいそく)感にあえぐ米国の「再生」を呼びかけた。

 大きな転換の一つは核政策だった。4月のプラハ演説では、核不拡散体制の確立とともに、「核兵器のない平和で安全な世界」を目指すと宣言。核兵器を使った唯一の国として「行動する道義的責任がある」と述べ、核軍縮の機運を高めた。

 対話重視の外交政策への転換は国際政治の新たな流れを生み出した。ノーベル賞委員会は10月9日、「国際的な外交を強化し市民の間の協力を強めることに非凡な努力を傾けた」としてオバマ氏へのノーベル平和賞授与を発表した。

 一方で、「オバマの戦争」とも称されるアフガニスタンの戦況はむしろ泥沼化。授賞式に先立つ12月1日には米軍3万人の増派を発表した。平和に貢献した人物に贈られる世界最高の栄誉が、戦時大統領に授与されることへの疑念が国内外から噴出。オバマ氏は授賞式で「戦争という手段には平和を維持するという役割もある」と述べた。

329名無しさん:2009/12/30(水) 12:39:16
>>328

 ◇北朝鮮、ミサイル発射
 北朝鮮は4月5日、長距離弾道ミサイルを発射した。1段目のブースターは日本海に落下、残りは秋田、岩手両県の上空を通過して太平洋に着水した。5月25日には2度目の核実験を実施。6月に国連安保理で追加制裁決議が採択され、国際的に孤立した。

 だが、北朝鮮が拘束した米記者の釈放を巡り、クリントン元米大統領が8月に訪朝したのを機に情勢は一転、韓国・現代グループ会長や温家宝中国首相の訪朝が続き、対話ムードが広がった。12月にボスワース米特別代表が訪朝し、米朝直接協議が行われたが、6カ国協議の再開確約には至らなかった。

 国内では金正日(キムジョンイル)総書記の三男正銀(ジョンウン)氏が後継候補として急浮上、偶像化が始まった。

 ◇COP15、新たな枠組みは来年以降に
 コペンハーゲンで開かれた国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)は12月19日、京都議定書に定めのない2013年以降の国際的な地球温暖化対策の方向性を示す政治合意「コペンハーゲン協定」を承認した。一部途上国の反対で採択は断念した。

 最大の焦点は、京都議定書を離脱した米国や削減義務を負わない中国などが参加する新しい枠組みづくりだったが、先進国と新興・途上国の対立が先鋭化する中、来年以降に先送りされた。協定には先進国は20年までの削減目標を来年2月1日以前に申告することや、新興・途上国も削減につながる行動計画をつくることが盛り込まれ、今後の枠組みづくりにつながる要素は残った。

 ◇家計を支援、高速1000円
 政府は09年、財政出動による景気刺激策を次々と打ち出した。1月に成立した08年度第2次補正予算では1人1万2000円、総額2兆円の定額給付金の配布を決めた。全国の高速道路では3月から、ETC(自動料金収受システム)搭載車を対象に土日祝日の料金を上限1000円とする割引を始めた。

 5月には総額13・9兆円の09年度第1次補正予算が成立。環境対応車(エコカー)の購入促進で最大25万円を補助する制度や、省エネ家電への買い替えを促進するエコポイント制度が導入された。

 新政権も12月、7・2兆円の経済対策を盛り込んだ09年度第2次補正予算案を決定。エコポイント制度など前政権の家計支援策を引き継ぐとともに、新たに住宅版エコポイント制度などを実施することを決めた。

 ◇若田さん・野口さん、長期滞在
 宇宙開発では節目となる出来事が続いた。

 7月には国際宇宙ステーション(ISS)に建設中の日本実験棟「きぼう」が完成。最後の取り付け作業は、日本人初のISS長期滞在員の若田光一宇宙飛行士が担当した。

 ISSに物資を運ぶ無人補給機「HTV」が9月、新型ロケットH2Bで打ち上げられ、無事任務を果たした。12月には野口聡一宇宙飛行士がロシアの宇宙船ソユーズでISSに向かい、約半年の長期滞在を始めた。

 ◇15歳未満の脳死臓器移植に道
 脳死からの臓器提供者の増加を目指して7月、改正臓器移植法が成立した。現行法では認められなかった15歳未満の子どもからも、家族の同意で提供可能になる。改正の背景には世界保健機関(WHO)が渡航移植を制限するとの見方もある。全面施行は来年7月。子どもの脳死判定や移植数増加に対応できる環境整備が進められている。

 ◇日本郵政めぐり大臣まで交代
 昨年12月の「かんぽの宿」売却先公表をきっかけに、日本郵政を巡る混乱が始まった。自公政権下、売却先選定が不透明だとして西川善文社長を責めた鳩山邦夫総務相は、閣内不一致のとがで更迭。郵政民営化見直しを掲げる新政権が誕生すると、今度は西川氏が辞任に追い込まれ、元大蔵事務次官の斎藤次郎社長が誕生した。

 ◇ウイグル自治区で大規模暴動
 中国・新疆ウイグル自治区ウルムチで7月5日、ウイグル族による大規模暴動が発生し、当局発表で約200人が死亡した。6月に広東省の工場で起きたウイグル族と漢族の乱闘がきっかけとされる。漢族が報復デモを行うなど民族対立が激化。胡錦濤国家主席はラクイラ・サミットの拡大会合をキャンセルして北京に戻った。

330名無しさん:2009/12/30(水) 12:39:38
>>329

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 ◇1月
 1日▽キューバ革命から50周年。

 3日▽イスラエル軍、ガザに地上侵攻。

 5日▽年越し派遣村の500人が撤収。

 7日▽エチオピアで誘拐の医師、赤羽桂子さんが解放。13日に帰国。

   ▽ロシアがウクライナのパイプラインを経由した欧州向けガス供給を完全停止。

   ▽天皇陛下、即位満20年。

12日▽麻生太郎首相と韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領がソウルで会談。

13日▽渡辺喜美元行革担当相が自民離党。

14日▽東京都文京区の中央大理工学部で同学部教授、高窪統さんが刺殺される。

15日▽米ニューヨーク市のハドソン川に旅客機が不時着水。乗客、乗員全員を救助。

17日▽日本初の心肺同時移植成功。

20日▽バラク・オバマ氏が、米大統領に就任。

22日▽イージス艦「あたご」衝突事故の海難審判で「第3護衛隊」に勧告を出す裁決。

23日▽温室効果ガス観測技術衛星「いぶき」を搭載したH2Aロケット打ち上げ。

   ▽三井住友海上グループHD、あいおい、ニッセイ同和の損保3社が統合で合意。

25日▽山形県知事選で無所属の元県教育委員、吉村美栄子氏が初当選。

29日▽天皇、皇后両陛下の負担軽減で、国体開会式などでの「お言葉」原則廃止方針。

 ◇2月
 4日▽三菱自動車が「ダカール・ラリー(パリ・ダカ)」から撤退を表明。

 5日▽円天事件で「L&G」会長、波和二容疑者らを組織犯罪処罰法違反容疑で逮捕。

 6日▽小和田恒判事が国際司法裁判所長に。

10日▽イランが革命から30周年。

   ▽「大光」社長の大賀規久容疑者らを法人税法違反容疑で逮捕。

   ▽汚染米虚偽表示容疑で「三笠フーズ」社長、冬木三男容疑者らを逮捕。

13日▽「かんぽの宿」一括譲渡契約白紙に。

17日▽中川昭一財務・金融担当相が辞任。G7での「もうろう会見」などの引責。

18日▽東京都の女性殺害、損壊事件で、東京地裁が星島貴徳被告に無期懲役判決。

19日▽香川県立中央病院が「昨秋、他人の受精卵を子宮に戻した可能性がある」。

22日▽日本人監督の「おくりびと」「つみきのいえ」にアカデミー賞。

24日▽麻生首相とオバマ米大統領が会談。

25日▽宇宙飛行士候補に全日空副操縦士、大西卓哉さん、空自2佐、油井亀美也さん。

 ◇3月
 3日▽西松建設の違法献金事件で、小沢一郎氏の大久保隆規・公設第1秘書らを逮捕。政治資金規正法違反の疑い。

 4日▽「定額給付金」の関連法成立。

10日▽チベット動乱から50年。

11日▽田口八重子さんの長男、飯塚耕一郎さんらが韓国で金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚と面会。

   ▽将棋の中原誠十六世名人が引退表明。

13日▽ソマリア沖海賊対策で海上警備行動発令。海賊対処法案も閣議決定。

   ▽損保ジャパンと日本興亜損保、統合で合意。

15日▽若田光一さん宇宙へ。国際宇宙ステーションで約4カ月間の長期滞在を経験。

16日▽「真相報道バンキシャ!」問題で、日本テレビの久保伸太郎社長が辞任。

18日▽闇サイト事件で名古屋地裁が2被告に死刑、1人に無期懲役の判決。

19日▽群馬県渋川市の「静養ホームたまゆら」で火災。10人が犠牲に。

22日▽吉田茂元首相の旧邸(神奈川県大磯町)全焼。出火時に漏電警報。

23日▽成田で貨物便が着陸失敗、2人死亡。

   ▽公示地価、97%の地点で下落。

27日▽宮崎県官製談合事件で前県知事の安藤忠恕被告に地裁が懲役3年6月の判決。

28日▽「高速道路1000円」本格スタート。

29日▽千葉県知事選で森田健作氏が初当選。

331名無しさん:2009/12/30(水) 12:39:50
>>330

 ◇4月
 1日▽介護報酬3%引き上げ。初のプラス。

 5日▽北朝鮮が長距離弾道ミサイルを発射。

   ▽オバマ米大統領、プラハで「核なき世界を」と演説。

 6日▽イタリア中部でM6.3。死者約300人。

 9日▽北朝鮮が憲法改正。金正日総書記が務める国防委員長を「最高指導者」と明記。

10日▽天皇、皇后両陛下が結婚50年。

12日▽秋田県知事選で、無所属の前秋田市長、佐竹敬久氏が初当選。

14日▽長崎県平戸市沖で、巻き網漁船が沈没。12人が行方不明。

   ▽強制わいせつ罪に問われた防衛医科大教授に最高裁が逆転無罪判決。

16日▽朝日新聞阪神支局襲撃事件の「実行犯」手記連載で週刊新潮が謝罪記事。

21日▽毒物カレー事件で最高裁が林真須美被告の上告を棄却。死刑が確定。

   ▽イージス艦「あたご」衝突事故で2士官を在宅起訴。

23日▽酔って公園で全裸になった疑いで草なぎ剛容疑者を逮捕。東京区検は起訴猶予。

24日▽WHOが米国、メキシコで新型インフルエンザ発生と発表。

26日▽名古屋市長選で、前衆院議員の河村たかし氏が初当選。

29日▽ワンガリ・マータイさんに春の叙勲。

30日▽3月卒業大学生らの就職内定取り消しは2083人。

   ▽米自動車大手クライスラーが破綻(はたん)。連邦破産法11条の適用を申請。

 ◇5月
 1日▽三井住友FGが米シティグループ傘下の日興コーディアル証券の買収を発表。

 2日▽愛知県蟹江町で兄弟殺傷。翌日、母の遺体も押し入れで発見。

 9日▽大阪の高校生ら3人、新型インフルエンザ感染と国内初確認。

   ▽森光子さん主演「放浪記」、上演2000回。

11日▽民主党の小沢代表が辞任を表明。

   ▽詐欺罪に問われた音楽プロデューサーの小室哲哉被告に、大阪地裁は懲役3年、執行猶予5年の判決。

15日▽福岡市の3児死亡事故控訴審で、福岡高裁は危険運転致死傷罪を認定、今林大被告に懲役20年の判決。

18日▽25年以上に及び7万人以上の死者を出したスリランカの内戦が終結。

   ▽秋田連続児童殺害事件で、畠山鈴香被告が上告を取り下げ、無期懲役が確定。

19日▽漢検協会の大久保昇前理事長と長男の浩前副理事長を背任容疑で逮捕。

   ▽静岡空港立ち木問題で伐採終了を受け、石川嘉延県知事が辞表を提出。

21日▽裁判員制度がスタート。

   ▽中央大教授殺害容疑で、教え子だった山本竜太容疑者を逮捕。

25日▽北朝鮮が2度目の核実験を実施。

28日▽原爆症認定訴訟で、東京高裁は9人を原爆症と認める判決。国は上告せず。

29日▽村上春樹さんの「1Q84」発売。この年最大のベストセラーに。

 ◇6月
 1日▽改正薬事法施行。薬局・薬店以外でも条件付きで一般用医薬品が販売可能に。

   ▽米自動車最大手、ゼネラル・モーターズが連邦破産法11条の適用を申請。

 2日▽山口県美祢市内のホテルで22人が一酸化炭素中毒。1人が死亡。

 3日▽羽田で日航システムに障害。31便欠航。

 4日▽「足利事件」の菅家利和さん、東京高検が釈放。23日、東京高裁が再審開始決定。

   ▽天安門事件から20年。

   ▽静岡空港(牧之原市、島田市)が開港。

 7日▽「バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で全盲の辻井伸行さん優勝。

12日▽日本郵政の西川善文社長の続投を決定。鳩山邦夫総務相は辞任。

13日▽イラン大統領選でアフマディネジャド大統領が再選。

14日▽千葉市長選で31歳の熊谷俊人氏が初当選。現役市長で全国最年少。

   ▽郵便不正事件で厚生労働省の村木厚子局長を逮捕。偽証明書作成関与の疑い。

22日▽「見切り販売」不当制限で「セブン−イレブン・ジャパン」本部に排除措置命令。

332名無しさん:2009/12/30(水) 12:40:54
>>331
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091230ddm010040092000c.html
重大ニュース2009:日本と世界を変えた1年(その2止)
 ◇菅家さん無罪の光 DNA鑑定覆り、再審開始
 栃木県足利市で90年、4歳女児が殺害された「足利事件」で無期懲役が確定し服役していた菅家利和さん(63)が6月、逮捕から17年半ぶりに釈放された。再審請求で、検察、弁護側双方推薦の鑑定人が、殺害された女児の下着に付いた犯人のものとみられる体液と菅家さんのDNA型を「不一致」と指摘した。

 仮釈放や病気以外の理由で受刑者を釈放するのは極めて異例の措置といえ、栃木県警本部長や宇都宮地検検事正が菅家さんに謝罪した。また、菅家さんの取り調べを録音したテープの存在が判明。否認に転じた菅家さんが、検事の取り調べで再び「自白」する模様などが録音されているとされ、取り調べの全面的な録音・録画(可視化)論議に一石を投じた。

 宇都宮地裁で10月に始まった再審公判で、菅家さんと弁護側は、冤罪(えんざい)・誤判原因の究明を求めており、来年3月に無罪判決が言い渡される見通し。

 ◇「布川事件」も再審確定
 茨城県利根町布川(ふかわ)で67年、大工の男性が殺害された「布川事件」で、強盗殺人罪などで無期懲役が確定し、仮釈放された桜井昌司さん(62)と杉山卓男さん(63)の再審開始が確定した。最高裁が12月14日、検察側の特別抗告を棄却する決定を出した。再審では強盗殺人罪について無罪となる公算が大きい。

 2人は公判で否認に転じたが、78年に判決が確定、約18年間服役し、仮釈放された。

 水戸地裁土浦支部は05年9月、再審開始を決定、東京高裁は08年7月、再審請求後に検察側から開示された目撃証言などを新証拠として採用し、「捜査段階の自白の信用性に重大な疑問がある」と指摘。最高裁も追認した。自白偏重の捜査と裁判が、改めて問われた。

 ◇裁判員制度スタート 刑事裁判に市民感覚 検証のあり方、審理の短さに課題
 国民が刑事裁判に参加して、裁判官とともに殺人などの重大事件を審理する裁判員制度が、5月21日始まった。8月3〜6日、全国初の裁判員裁判が東京地裁で行われ、殺人罪に問われた被告に懲役15年の判決が言い渡された。年内は全国各地で138件の裁判員裁判が実施された。

 裁判に国民が参加するのは、1928〜43年に行われていた陪審制以来。この際は陪審員が有罪・無罪だけを決めていたが、裁判員制度は裁判員が量刑の判断にもかかわる。

 制度は、国民の良識や感覚を判決に反映させるのが目的。法律知識のない国民にも分かりやすい審理を目指し、立証のビジュアル化など法廷でのやりとりも大きく変化した。裁判前に公判前整理手続きで争点や証拠を絞り込み、ほとんどの審理が3〜4日で終了するようになった。

 裁判員は国民の義務だが、裁判所側は辞退希望を柔軟に認める運用をしている。最高裁のアンケートで経験者の98・5%が「よい経験だった」と答えるなど、順調な滑り出しを見せた。しかし、守秘義務で評議の検証が困難な点や、短期審理に伴う立証の不十分さ、プライバシー配慮が求められる性犯罪を対象とすることの是非など、課題も浮かんでいる。

 ◇新型インフル、猛威 国内死者100人超す 春から1500万人感染、真冬の警戒続く
 豚に由来する新型インフルエンザが4月下旬、メキシコや米国で確認され、一気に世界中に広まった。日本でも5月16日に国内感染例が見つかり、世界保健機関(WHO)は6月11日、パンデミック(大流行)を宣言した。

 政府は、かねて新型インフルエンザへの備えを進めていたが、誤算があった。一つは、高病原性の鳥インフルエンザ由来でなかったこと。国の行動計画が高い致死率を想定していたため、空港では厳重な検疫態勢が敷かれ、感染者の濃厚接触者は隔離された。

 さらに水際阻止がかなわず、国内で感染が広がると、発熱外来の設置や一斉休校など、医療機関や自治体は従来にない対応に追われた。

 結局、新型の毒性が季節性とほぼ同じだとして、厚生労働省が検疫や医療態勢などを平常に戻したのは、国内発生から1カ月後の6月19日だった。

 もう一つの誤算が、例年の季節性より3〜4カ月早い8月下旬から、新型の流行が始まったことだ。ワクチン製造は流行開始に間に合わず、優先接種の対象者も9月まで決まらなかった。政治主導を掲げる鳩山政権の下で、接種回数の決定を巡る混乱も起きた。ワクチンに関しては、国内の生産基盤が弱く輸入品に頼らざるを得ない、日本の感染症対策のもろさも露呈した。

 年内に国内の推計患者は1500万人を突破し、感染者の死亡も100人を超えた。例年流行が本格化する真冬に向け、警戒は続いている。

333名無しさん:2009/12/30(水) 12:41:14
>>332

 ◇不審な死 詐欺事件の女の周辺、関東で、鳥取で
 埼玉、鳥取両県で、詐欺容疑で逮捕された女の周辺で複数の男性が不審死する事件が明るみに出て、捜査が続いている。

 埼玉県で8月、女と交際していた会社員の男性(当時41歳)がレンタカー内で死亡しているのが見つかり、遺体から睡眠薬の成分が検出された。東京や千葉でも女の知人の男性3人が相次いで死亡していた。

 鳥取県では4月と10月、元スナックホステスの女の知人男性3人が水死体などで見つかり、いずれも遺体から睡眠薬の成分が検出された。過去に死亡した知人男性にも、亡くなった経緯に不審な点があるという。

 ◇非業の死 千葉と島根の女子大生、殺害される
 千葉、島根両県で10月、女子大生殺害事件が相次いで起きた。千葉県松戸市で22日、放火されたマンションの自室から千葉大4年、荻野友花里さん(当時21歳)が他殺体で見つかった。別の強盗強姦(ごうかん)未遂容疑で翌月逮捕された無職の男(48)が、荻野さんのキャッシュカードでATM(現金自動受払機)から現金を引き出したことを認めた。島根県浜田市では26日夜、同県立大1年、平岡都さん(当時19歳)が行方不明となり、広島県の山中で11月以降、遺体の各部が相次いで発見された。その後、自宅の学生寮近くで靴が見つかり、不審車が目撃されている。

 ◇天皇陛下、即位20年
 天皇陛下が即位20年を迎えた。天皇、皇后両陛下の結婚50年と合わせ、節目の年となった。

 御在位20年記念式典は11月12日、東京都千代田区の国立劇場で行われた。あいさつで天皇陛下は、90年11月12日の即位の礼を振り返り、「あの日沿道で受けた国民の祝福は、常に私どもの支えでした」と述べた。宮内庁前の記帳所には大勢の人が訪れ、「国民祭典」が催された皇居前広場は約3万人で埋まった。

 天皇陛下は式典に先立っての会見で「私はこの20年、長い天皇の歴史に思いをいたし、国民の上を思い、象徴として望ましい天皇のあり方を求めつつ今日まで過ごしてきました」と述べ、模索し続けてきた心境を明らかにした。

 ◇2年7カ月、顔変え逃走
 千葉県市川市で07年3月に起きた英国人英会話講師、リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22歳)の殺害事件で、指名手配されていた市橋達也容疑者(30)が11月10日、大阪市内で逮捕された。2年7カ月余にわたり名古屋、福岡、神戸など各地を逃走していたとみられ、偽名で土木作業員として働き、整形手術を繰り返していた。

 ◇事故調の情報、JR西に漏れる
 9月25日、JR福知山線脱線事故で、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)の調査報告書案が公表前にJR西日本に渡っていたことが表面化した。

 その後、JR西が事故調の意見聴取会の公述人に有利な証言を頼んでいたことも判明。10月に山崎正夫前社長と土屋隆一郎副社長が取締役を事実上解任された。

 ◇豪雨や台風、西日本を襲う
 西日本を中心に豪雨災害が相次いだ。梅雨末期の大雨に見舞われた山口県防府市では7月21日、土石流が特別養護老人ホームを襲い7人が死亡するなど中国・九州北部で計31人が死亡。

 8月9日には、台風9号で河川がはんらんした兵庫県佐用町で、避難中の住民ら18人が死亡、2人が行方不明に。4県で死者は計25人にのぼった。

 ◇清純派女優が…芸能界、薬物汚染
 警視庁は8月8日、女優の酒井法子容疑者(38)を覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕した。清純派アイドルとして人気のあった芸能人の覚せい剤事件は社会に衝撃を与えた。

 同月3日には俳優の押尾学容疑者(31)が麻薬取締法違反(使用)容疑で逮捕されており、芸能界の薬物汚染問題が改めて浮き彫りになった。こうした問題を受け、警視庁は9月、芸能界主要3団体との会議を初めて開催し、薬物乱用防止で連携する方針を確認した。

 押尾容疑者については警視庁が12月7日、東京・六本木のマンションに一緒にいて薬物中毒死した女性に合成麻薬MDMAを渡したとして逮捕。女性に対する保護責任者遺棄容疑も追及する方針だ。

334名無しさん:2009/12/30(水) 12:41:55
>>333

 ◇6分半の皆既日食ショー
 皆既日食が7月22日午前、南日本などで観測された。日本の陸地で観測できたのは46年ぶり。太陽が月に隠れる皆既時間は約6分半と今世紀最長だった。観測条件のよい鹿児島県トカラ列島には国内外からファンが詰めかけ、悪天候の中、空を見上げた。列島全体で部分日食も観測された。次に日本で見られる皆既日食は2035年9月2日だ。

 ◇釜山射撃場で日本人10人死亡
 韓国・釜山市の室内射撃場で11月14日、火災が発生。中にいた16人のうち日本人観光客10人、韓国人のガイドら5人の計15人が死亡、日本人1人が重傷を負った。警察は射撃に伴う火花などが火薬の残存物や防音壁などに引火し、燃え広がったと判断。経営者と現場管理者の従業員の計2人を業務上過失致死傷容疑で逮捕した。

 ◇大雪山系で遭難の10人死亡
 北海道大雪山系トムラウシ山(2141メートル)で7月16日、中高年の登山ツアー客とガイド計18人が悪天候のため遭難し、8人が凍死した。このほか、個人の登山者1人と、同山系美瑛岳のツアー客1人も凍死。夏山としては戦後最悪の大量遭難事故となった。道警は業務上過失致死容疑でツアーの企画会社などを家宅捜索した。

 ◇「おくりびと」にアカデミー賞
 2月22日(日本時間23日)の第81回アカデミー賞授賞式で、滝田洋二郎監督の「おくりびと」に外国語映画賞、加藤久仁生監督の「つみきのいえ」に短編アニメーション賞が贈られた。外国語映画賞が56年度に独立した賞になって以来、日本映画の受賞は初。その後、日本での「おくりびと」の上映は異例のロングランとなった。

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 ◇7月
 1日▽新生銀とあおぞら銀が合併合意。

 5日▽静岡県知事選で静岡文化芸術大前学長、川勝平太氏が初当選。

   ▽大阪市此花区のパチンコ店で放火。5人が死亡。高見素直容疑者を逮捕。

   ▽中国・新疆ウイグル自治区で暴動。

 8日▽ラクイラ・サミットが開幕。

   ▽JR福知山線脱線事故で、山崎正夫・JR西日本社長を在宅起訴。

12日▽東京都議選(定数127)で、民主党が54議席を獲得、初の第1党に。

13日▽改正臓器移植法が成立。

16日▽北海道・大雪山系のトムラウシ山と美瑛岳で遭難相次ぐ。死者は男女10人に。

21日▽衆院が解散。7月の解散は史上初。

   ▽中国・九州北部で豪雨。31人死亡(11月19日現在内閣府まとめ)。

22日▽国内の陸地では46年ぶりの皆既日食。

 ◇8月
 3日▽東京地裁で殺人事件を審理する全国初の裁判員裁判の公判始まる。

   ▽合成麻薬MDMAを使用した疑いで俳優の押尾学容疑者を逮捕。11月の判決は懲役1年6月、執行猶予5年。

 4日▽米国のビル・クリントン元大統領が訪朝。米国人女性記者2人釈放される。

 8日▽出頭した女優の酒井法子容疑者を覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕。11月の判決は懲役1年6月、執行猶予3年。

10日▽台風9号の被害が拡大。兵庫県など4県で27人の死者・不明者(11月19日現在内閣府まとめ)。

11日▽駿河湾を震源に震度6弱。死者1人。

18日▽衆院選公示。

28日▽7月完全失業率、過去最悪の5.7%に。

30日▽衆院選が投開票。民主党が308議席(小選挙区221、比例代表87)を獲得。

   ▽茨城県知事選は橋本昌氏が現職最多の5選。横浜市長選は元ダイエー会長の林文子氏が初当選。

335名無しさん:2009/12/30(水) 12:42:15
>>334

 ◇9月
 1日▽消費者庁発足。野田聖子氏が担当相に。

 7日▽千葉県で03〜07年度不正経理30億円。

 8日▽公明党の新代表に山口那津男氏。

   ▽国際宇宙ステーション長期滞在要員候補に海自医官の1等海尉、金井宣茂さん。

 9日▽民主党、社民党、国民新党が連立政権を樹立することで合意。

10日▽三井住友FGと大和証券グループが「大和証券SMBC」の合弁解消で合意。

11日▽国産ロケット「H2B」1号機打ち上げ。無人補給機「HTV」を軌道に投入。

16日▽鳩山由紀夫内閣が発足。

   ▽花王「エコナ」シリーズ発売停止発表。

22日▽国連気候変動サミットで鳩山首相「温室効果ガスを1990年比25%削減」。

23日▽鳩山首相が米国でオバマ大統領、ロシアのメドベージェフ大統領と会談。

   ▽前原誠司国土交通相が八ッ場ダム建設予定地を視察。

24日▽国連安保理は米国提案の「核兵器のない世界」を目指す決議を全会一致で採択。

   ▽G20金融サミット、定例開催決まる。

28日▽谷垣禎一元財務相が自民党総裁に。

29日▽前長崎市長射殺事件の城尾哲弥被告に福岡高裁判決。1審死刑破棄、無期懲役。

   ▽南太平洋のサモア沖でM8.0の地震。

30日▽スマトラ島沖でM7.6の地震。

 ◇10月
 1日▽鞆(とも)の浦埋め立て免許差し止め訴訟の判決で、広島地裁は景観利益に基づく訴えを認める。

 2日▽男女区別が難しい疾患の総称「性分化疾患」に。

 8日▽大型の台風18号が、愛知県・知多半島付近に上陸。埼玉県などで計5人死亡。

 9日▽ノーベル平和賞はオバマ米大統領に。

10日▽鳩山首相が北京で中国の温家宝首相、韓国の李明博大統領と首脳会談。

12日▽前原国交相が「羽田をハブ空港に」。

15日▽10年度当初予算の概算要求で、一般会計総額は過去最大の95兆円台。

20日▽日本郵政の西川善文社長が辞任表明。

   ▽全国精神障害者社会復帰施設協会による厚生労働省の補助金不正流用事件で、高野修次会長ら3容疑者逮捕。

22日▽千葉県松戸市の火災現場で女性遺体。身元は女子大生。県警が殺人事件と断定。

24日▽伊豆諸島・八丈島沖で、佐賀県唐津市の漁船が転覆。4日後に船から3人救出。

27日▽埼玉県警が結婚詐欺容疑で逮捕した女の周辺で、連続不審死が発覚。

   ▽関門海峡で海自の護衛艦「くらま」と韓国のコンテナ船が衝突。6人負傷。

29日▽日航が企業再生支援機構に支援要請。

336名無しさん:2009/12/30(水) 12:42:26
>>335

 ◇11月
 4日▽トヨタ「今年限りでF1から撤退」。

 5日▽鳥取市の元ホステスと接点のある男性の相次ぐ不審死が発覚。

   ▽プルサーマル発電に向け、九州電力玄海原子力発電所3号機が起動。

 6日▽住友信託銀と中央三井トラストHDが経営統合で合意。

   ▽島根の女子大生と見られる遺体の一部、広島県の山中で発見。7日、身元確認。

 9日▽ベルリンの壁崩壊から20年。

10日▽英国人女性殺害事件で、死体遺棄容疑で指名手配されていた市橋達也容疑者を逮捕。12月2日、殺人容疑などで再逮捕。

   ▽鳩山首相が02年から08年の資産報告書など訂正。訂正総額は5億4500万円相当。

12日▽「天皇陛下御在位20年記念式典」。

13日▽オバマ米大統領が初来日。

14日▽韓国・釜山市の射撃場で火災。日本人10人を含む15人が死亡。

19日▽「EU大統領」にベルギーのファン・ロンパウ首相を選出。

20日▽菅直人副総理兼経済財政担当相が事実上のデフレ宣言。

22日▽東京都杉並区高円寺の居酒屋で朝火事。客ら4人が死亡。

23日▽イエメンで地元部族民に誘拐された技師の真下武男さんが8日ぶり解放。

27日▽行政刷新会議の「事業仕分け」。9日間で1兆9500億円捻出(ねんしゅつ)。

   ▽「ドバイショック」。一時1ドル=84円台。

30日▽肝炎対策基本法、中小企業者等金融円滑化臨時措置法(返済猶予法)など成立。

 ◇12月
 1日▽原爆症救済法が成立。

   ▽EUの「リスボン条約」が発効。

   ▽生活保護の母子加算が復活。

 2日▽16人死亡の個室ビデオ店放火で、大阪地裁は小川和弘被告に死刑判決。

 3日▽三菱自動車が仏プジョーに出資要請。交渉入りが明らかに。

 4日▽「1円株」誤発注訴訟で東京地裁、東証に賠償命令。

 7日▽旧日債銀粉飾決算事件で、最高裁が旧経営陣3人の有罪を破棄、高裁差し戻し。

   ▽終末期医療をめぐる川崎協同病院事件で、殺人罪に問われた元医師の上告棄却。

 8日▽2次補正予算に盛る7.2兆円の経済対策を閣議決定。

 9日▽スズキとVWが提携合意。

   ▽「西松建設」違法献金事件で二階俊博前経産相の長田武敏政策秘書を略式起訴。

11日▽北海道苫小牧市で7人乗りボート転覆。6人の死亡確認。

12日▽石油資源開発がイラクで油田落札。

14日▽「布川事件」で最高裁が検察側の特別抗告を棄却。桜井昌司さん、杉山卓男さんの再審開始が確定。

15日▽米軍普天間飛行場移設問題で、結論は来年に持ち越しと決定。

   ▽天皇陛下、中国の習近平国家副主席と会見。「1カ月ルール」めぐり波紋。

18日▽茨城県9人殺傷事件の金川真大被告に水戸地裁が死刑判決。

19日▽COP15が閉幕。新議定書は見送り。

21日▽野口聡一さんのソユーズ打ち上げ。

22日▽政府が10年度税制大綱決定。

24日▽鳩山首相側の偽装献金事件で、勝場啓二・元公設第1秘書を在宅起訴。

25日▽政府が10年度予算案を決定。

28日▽2倍を超えた8月の衆院選小選挙区の1票の格差、大阪高裁が「違憲」判断。

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 ※呼称や肩書は当時

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337とはずがたり:2009/12/30(水) 13:14:42
最新の歴史ですもんねw
投下有り難うございます

338とはずがたり:2010/01/05(火) 22:14:33

チャーチル英首相の通訳「千島列島引き渡しは国際法上誤り」
2010.1.5 19:22
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100105/erp1001051922006-n1.htm

 【ロンドン=木村正人】第二次大戦末期、ソ連の対日参戦を決めたヤルタ会談で、チャーチル英首相の通訳を務めたヒュー・ルンギ氏(89)が本紙のインタビューに応じ「千島列島は日本の領土で、ソ連への引き渡しを決めたヤルタ協定は国際法上間違いだった」と語った。会談では、体調がすぐれないルーズベルト米大統領に対し、ソ連最高指導者スターリンはメモなしで堂々と議論を進めたという。

 オックスフォード大卒のルンギ氏は大戦中、モスクワで英軍のロシア語通訳として勤務。米英ソ首脳による1943年のテヘラン、45年のヤルタ、ポツダムの3会談、44年10月の英ソ首脳会談で通訳を務めた。

 ヤルタ会談についてルンギ氏は「ソ連は対ドイツ戦の勝利をほぼ手中に収めていた。スターリンはご満悦の様子で、彼を取り巻く空気は快活そのものだった」と振り返る。そして「極東問題はルーズベルトとスターリンの2人で話し合われ、チャーチルは署名に応じただけだった。それが公に知られるようになったのは戦後何年もたってからだ」と語る。

 ルンギ氏がヤルタ協定の存在を知ったのも戦後のことだが、「スターリンはルーズベルトに『千島列島は日本が第二次大戦で占領した領土の一部だ』とデタラメの説明をした。ルーズベルトは、千島列島が日本の領土になった歴史的経緯を正確に示した米国務省の資料に、目を通していなかった」と説明。「千島列島は1875年の樺太千島交換条約でロシアから譲渡された日本の領土で、引き渡しは国際法上の誤りだ」と断言した。

 チャーチルのすぐ後ろで3首脳のやり取りを観察した氏は、スターリンについて「彼はすべての事実と、自分が何を求め、何を成し遂げたいのかを知っていた。非常に簡潔に要点を突いて話し、袋小路に迷い込むことはなかった」という。すべて暗記していて誰の力も借りず受け答えし、「会談中、一切メモを受け取らず、決意が固いことを周囲に見せつけようとしていた」という。

 一方、高血圧を患っていたルーズベルトは「見るからに調子が悪そうだった。顔はロウのように黄色かった。顧問団から多くのメモを受け取り、質問に答えるのを助けてもらっていた。チャーチルともメモを交換していた」と振り返る。

 3つの会談で米英ソによって戦後秩序が決められたにもかかわらず「ソ連はかなり邪魔だてしていた。スターリンは、ソ連が対ドイツ戦で攻勢に転じたクルスクの戦い(1943年)など、ドイツに関する軍事情報を一切米英に与えなかった。猜疑(さいぎ)心が強いスターリンは全員を敵とみなしていた。冷戦は大戦中からすでに始まっていた」と語った。

339小説吉田学校読者:2010/01/11(月) 09:16:21
記事の本題と外れるけど、「坂の上の雲」を読む前に、司馬遼太郎の四国ものは読まないといけないと思い、長宗我部元親を主人公にした「夏草の賦」を読みましたけれども、「まあ、戦国の英雄といっても、地の利とかタイミングとかないと、天下は取れないよね」と珍しく身も蓋もない話だったのでとても面白かった。

軍都・旅順を対外開放 中国政府、日本人観光客に期待
http://www.asahi.com/international/update/0110/TKY201001100255.html

 【大連(中国遼寧省)=西村大輔】日露戦争の激戦地で、中国政府が軍事区域として外国人の自由な立ち入りを禁じていた大連市旅順口区(旅順)が、軍事施設周辺を除いて対外開放された。観光産業や経済開発を重視しての措置とみられる。日露戦争が舞台のNHKドラマ「坂の上の雲」が始まったこともあり、地元は日本人観光客の増加を期待している。
 同区は人口約26万人。1996年に北部が開放され、日露戦争の激戦地二〇三高地、旅順港攻防戦の停戦条約が結ばれた水師営会見所跡などが外国人に開放された。一方、軍港の周辺に市街地が広がる南部では、外国人が立ち入るためには同市公安局の特別許可証が必要で、違反者は拘束されることもあった。
 近年、警備が緩和され、立ち入り禁止地区にある観光名所の一部も先行して外国人を受け入れ始めたが、全域の開放に向けた軍などとの調整に時間がかかっていた。同区政府によると、中国政府と中央軍事委員会が昨年末までに、軍港など軍事施設周辺を除いた地域の開放に同意した。記者も9日、市街地を歩いた。
 軍港周辺には、日本統治時代の建築物が残る市街地があり、伊藤博文を暗殺した安重根が死刑にされた旧旅順監獄、旧満州時代の文物を保存する旅順博物館などがある。
 同区経済合作局の王清副局長は「開放が遅れた分、今後の発展の可能性は大きい。日本人の関心は特に高いので、旅行客の増加や企業の投資が期待できる」と話した。新たに開放された地区で日本語の表示を増やすなどサービスを充実させていくという。

341荷主研究者:2010/01/12(火) 22:54:18

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201001040075.html
'10/1/4 中国新聞
日清戦争直後の広島地図現存
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 日清戦争(1894―95年)で「臨時首都」となった広島の市街地図が現存していた。明治天皇が臨席した大本営や帝国議会仮議事堂をはじめ当時の主要施設、町名が明記されている。広島の近代化であり、原爆で壊滅に至る「軍都」の始まりも表す地図は、三重県熊野市の民家で見つかった。広島市公文書館が寄贈を受け、新年度に公開する。

 広島は、日本が1894(明治27)年8月に清に宣戦を布告した翌9月、明治天皇の到着に伴い大本営が移された。続く10月には臨時帝国議会が開かれる。同時にこの月、市全域と仁保島村宇品(南区元宇品町)は「臨戦地境」として戒厳令が敷かれ、朝鮮半島と中国大陸への派兵拠点となった。

 地図は、広島城本丸の第5師団司令部を使った大本営や周辺の軍事施設、現在の県庁東館辺りに作られた仮議事堂、延伸間もない山陽鉄道(JR山陽線)と宇品港を開戦直後に結んだ軍専用の宇品線(廃線)を記載。後に埋めたてられる西塔川(中区の鯉城通り)や平田屋川(並木通り)沿いなどに広がる町並み、商業施設も書き込み、日清戦争を機に軍都の機能を増しながら全国有数の都市となる広島の原形が分かる。

342とはずがたり:2010/01/16(土) 18:21:27
徳富蘇峰、戦犯容疑笑ってくれ 熊本で書簡発見
01/15 20:56
http://www.shizushin.com/news/social/national/2010011501000981.htm

 明治から昭和にかけて活躍した言論人の徳富蘇峰(1863〜1957年)が終戦直後、A級戦犯容疑をかけられた際の心境を自嘲気味につづった親友あての書簡が15日までに、熊本県荒尾市で見つかった。
 漢文の書簡には「私は戦争犯罪人。笑ってくれ」といった記述があり、蘇峰に詳しい大阪大名誉教授の猪飼隆明さん(65)によると「戦犯指名直後に蘇峰の心情が吐露された書簡は珍しい」という。
 蘇峰は日清戦争後の三国干渉以降、国家主義の傾向を強めつつ言論界をリード。1945年12月2日にA級戦犯容疑をかけられた。書簡は、蘇峰と熊本洋学校で同級生だった余田末人さんが戦犯容疑をかけられた蘇峰の身を案じて同5日に送った手紙への返信で、同14日に記された。余田さんの孫の春光さん(81)=荒尾市=が保管していた。
 猪飼さんによると、前半部分は漢文で「持病を治療して監獄に行くつもりだ。自分にとって禍福や生死は関心事ではない」といった内容。

343ももだぬき:2010/01/16(土) 18:59:49
民主党へのクーデターといって、想像するのが、帝人事件ですね…。

344荷主研究者:2010/02/06(土) 23:49:51

http://kumanichi.com/news/local/main/20100201002.shtml
2010年02月01日 熊本日日新聞
熊本市に軍需地下工場跡 重爆撃機を製造か

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20100201002_DAT.jpg
熊本市龍田町で弓削で見つかった地下工場跡。最奥部には大きな空間が設けられていた

 太平洋戦争中に空襲を避けるため地下壕[ごう]で軍用機の部品などを生産していた地下工場跡が熊本市龍田町弓削で見つかった。旧陸軍の重爆撃機を製造していた三菱重工業熊本航空機製作所の工場で、「熊本の戦争遺跡研究会」が31日、現地調査。最奥部には製造機械を設置するものと思われる高さ4・5メートル、幅4・7メートル、長さ25メートルほどの大空間を備えており、県内に現存する軍需地下工場では最大規模とみられる。

 同会によると、同市健軍にあった同製作所の地下工場は県内に10カ所。同市などに分散して造られ、爆撃機の胴体などを製造していたとみられる。同会が聞き取り調査などから昨年11月に見つけた。

 地下工場は竹林の下にあり、岩をくり抜いた壕が約120メートル連なっている。「これだけの大きさは、県内にはないのでは」と同会。出入り口は未使用のものも含め4カ所だった。現在はイモの保管所として使われている。

 同会は10カ所のうち8カ所を発見。熊本市島崎と、「坂下」という地区にもあったと伝えられているが確認されていない。同会は「戦争遺跡を掘り起こし、後世に伝えるためにも他の地下工場を見つけたい」と、情報提供を呼び掛けている。同会・高谷さんTEL0968(74)5030。(藤本英行)

345とはずがたり:2010/02/07(日) 00:07:32
>>344
ちょっと山行がスレの対象っぽいけど,現役の芋倉庫として活躍中なんかw

346荷主研究者:2010/02/07(日) 00:10:31
>>345
をれも写真の感じ的には山行がスレかなと迷ったら。

>他の地下工場を見つけたい
この辺は山行が的要素か…

347とはずがたり:2010/02/07(日) 00:33:05
>>346
この辺ね。「坂下」という地区は場所も判ってない感じか。
>会は10カ所のうち8カ所を発見。熊本市島崎と、「坂下」という地区にもあったと伝えられているが確認されていない

348とはずがたり:2010/02/12(金) 10:06:55

ロッキード事件「中曽根氏がもみ消し要請」 米に公文書
http://www.asahi.com/politics/update/0211/TKY201002110364.html
2010年2月12日3時30分

写真:ロッキード事件をめぐり「MOMIKESU」との要請が記載された米政府の公文書=米ミシガン州のフォード大統領図書館ロッキード事件をめぐり「MOMIKESU」との要請が記載された米政府の公文書=米ミシガン州のフォード大統領図書館

 ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。中曽根事務所は「ノーコメント」としている。

 この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。

 ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。

 与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。

 文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる。

 さらに中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書いてある。中曽根氏はその際、「田中」と現職閣僚の2人が事件に関与しているとの情報を得たと明かした上で、「三木首相の判断によれば、もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。

 文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明だ。

 結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。(奥山俊宏、村山治)

349ももだぬき:2010/02/13(土) 09:42:17
今年、韓国では屈辱の韓国併合から100年を迎えます。

350荷主研究者:2010/02/24(水) 23:37:56

http://kumanichi.com/news/local/main/20100222006.shtml
2010年02月22日 熊本日日新聞
薩軍使用の雷管多数出土 植木町の山頭遺跡

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20100222145320001.jpg
西南戦争で薩軍が使ったとみられる銃の「雷管」

 植木町教育委員会は22日、同町滴水[たるみず]の山頭[やまがしら]遺跡で西南戦争時に薩軍が使用した銃の発火装置・雷管が多数出土したと発表した。これまでの調査ではすぐ近くに、官軍の塹壕[ざんごう]跡や銃弾の薬きょうなども見つかっており、同町教委は「詳細な交戦の状態を裏付ける具体的な証拠が確認されたのは貴重。大きな成果」としている。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20100222145320002.jpg
西南戦争で薩軍が使ったとみられる「雷管」が見つかった発掘現場(手前)。奥は兵士にふんした町教委の職員ら=22日午前、植木町滴水(小野宏明)

 見つかったのは、薩軍が使った旧式のエンフィールド銃の雷管106点。薩軍、官軍のどちらのものかは判明していないが、薬きょう23点や小銃弾6点なども見つかった。

 約10平方メートルの狭い場所に集中しており、同町教委は「薩軍兵士は1〜2メートルの間隔で立ち、発射したのではないか」とみている。

 同町教委は2008年、出土地点から西に50〜100メートル離れた場所で官軍の塹壕[ざんごう]跡と薬きょう、弾丸を発見。官軍の塹壕跡から西に約300メートル離れた場所には薩軍の陣地「荻迫柿木台場」があったことが分かっている。

 西南戦争の記録を示した官軍側の資料「従征日記」や「征西戦記稿」によると、1877(明治10)年4月6日に同台場をめぐる両軍の交戦記録があり、同町教委によると出土した一帯は、田原坂の戦いで敗走した薩軍と追撃する官軍の交戦地点だったこともあり得るとしている。

 同町教委は「文献や資料にある戦いの実証ができ、西南戦争戦跡群の国史跡指定に向けて弾みがつきそうだ」と話している。(鎌倉尊信)

351とはずがたり:2010/02/26(金) 00:35:39
拾った。

      _____
    /::::::─三三─\            リアルな話すると元帥の5人に3人は粛正で死ぬ。
  /:::::::: ( ○)三(○)\          ソ連の人口1億7000万人を平均寿命の50年で割ると
  |::::::::::::::::::::(__人__)::::  |  _____ 推定年間死亡者数は約340万人となる。
   \:::::::::   |r┬-|  ,/ .| |         このうち約35万人が粛正で死ぬ
   ノ::::::::   `ー'´  \ | |        つまり 10人に1人は、粛正で死ぬ。

       ____
     /:∪::─ニ三─ヾ          さらに正確な計算をすると、
   /:::::::: ( ○)三(○)\         1938年のソ連の年間逮捕者数は63万8500人
  (:::::∪:::::::::: (__人__)::::: i| ____  内 処刑者数は32万8600人。
   \:::::::::    |r┬-| ::::ノ  | |       実に10人に6人の割合で粛正で死ぬ。
   リ::::::::    `ー'´  ::\  | |       ヒーロー戦隊の3人は粛正で死ぬ。


       ______         
     /:∪::─ニjjニ─ヾ        またテキトーに説明すると、
   /:::li|.:( ○)三 (○)\      収容所や集団農場での死亡は
  (:::||!.:∪::::: (__人__)):::: i| ___ 処刑の約10倍。 40代〜60代が中心。
    ):::::::::::::   |r┬-| li::::/  | |     シベリヤが最多でカザフが最少。
  /:::::::::::::::   `ー ' ::::::ヽ  | |    つまり重労働のストレスで死ぬ。
     全体主義国の中ではソ連がダントツ2位。 独の1.2倍、日本の20倍、中共の1/4
    赤軍粛正者の大半は高級将校であり、中佐以下は10%に過ぎない。つまり、赤軍将官の58%
    およそ706人中408人は粛正で死ぬ。
    スターリンの精神衛生が安心。 皆生きるのがツラい。

352とはずがたり:2010/03/07(日) 12:43:17

三木元首相「自民出て総選挙」示唆 疑獄事件で米に密使
http://www.asahi.com/national/update/0306/TKY201003060351.html
2010年3月7日4時38分

写真:平沢氏を通じて伝えられた三木首相のメッセージを記録した米政府文書=米ミシガン州平沢氏を通じて伝えられた三木首相のメッセージを記録した米政府文書=米ミシガン州

 戦後最大の疑獄といわれるロッキード事件への対応をめぐり、1976年春、当時の三木武夫首相が外交評論家の平沢和重氏を密使に指名して、キッシンジャー米国務長官と交渉させていたことが、このほど秘密指定が解除された米政府の内部文書でわかった。三木首相は、日本政府・与党の幹部が事件に関与しているかどうか内密で確認を求め、回答次第では自民党を割って総選挙に打って出る可能性を伝えていた。日米関係の裏面史がまた一つ明らかになった。

 ロ事件は76年2月4日に米議会で明るみに出たが、ロ社のカネを受け取った政府高官の名前は伏せられていた。日本では真相解明を求める声が高まり、三木首相は同月24日、フォード米大統領に、疑惑に関する全資料の提供を求める親書を送った。

 その2日後、米政府・国家安全保障会議のピーター・ロッドマン氏に、若泉敬(けい)・京都産業大学教授から電話があった。ロッドマン氏の報告文書によれば、若泉氏は「三木首相がキッシンジャー長官との秘密会談にあたらせるため、平沢氏を『個人的な秘密代理人』に指名した」と伝えた。

 平沢氏は外交官やNHK解説委員を歴任し、三木氏の外交ブレーンだった。若泉氏は沖縄返還交渉などで佐藤栄作首相の密使を務めた人物で、その後も米政府と連絡を保っていた。

 平沢氏とキッシンジャー氏は3月5日、ワシントンで極秘に会い、大統領の返書について話し合った。国務省の記録によれば、米側は資料提供の条件として「秘密扱い」を求め、平沢氏の同意を得た。両者で返書の文案を検討し、表現をいくつか削除した。

 返書は3月12日に日本に届いた。両政府は、米国が資料を秘密扱いで日本の検察に渡すことで、同月23日に合意。捜査や訴訟にのみ使うのが条件で、「法執行の責任を有しない政府機関に開示されてはならない」と規定された。

 資料が届く前の4月上旬、平沢氏はロッドマン氏に電話し、三木首相からキッシンジャー氏へのメッセージを伝えた。「元首相、現職閣僚、与党幹事長のだれかが事件に関与しているかどうか極秘・緊急に知りたい」という内容。

 この際、平沢氏は「米側の返答次第では、三木首相は無党派の改革案を掲げ、内閣からも党執行部からも離れて国民の信を問うという、前例のない選択肢を実行に移すだろう」と述べた。

 しかし、米側は4月10日、「日本政府と最近合意した手続きによらなければならない」として、要請を断った。

 結果的に三木首相は衆院を解散せず、76年末に退陣。88年に死去した。(奥山俊宏)

353名無しさん:2010/03/08(月) 17:49:30
TheBarrenZone-04
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-04.htm

445Isogawa Takuji : 2009/10/16(金) 10:33:30 ID:FsII/bra0
瀬島龍三氏は、NTTの顧問として、米国外資の日本侵略のため
に通話明細を漏洩させ、伊藤忠の商売を成功させた行為により、
実際に第二の敗戦を招いている。

NTTの海外進出は、資金や資本を外資に略奪されるだけの粗末
な作戦だった。旧大日本帝国軍が敗戦したのも当然である。

瀬島龍三氏は、敗戦の原因を装備品の物量に求めたのだろうが、
実際には、作戦そのものが間違っていたと言えるだろう。


TheBarrenZone-06
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-06.htm

465Isogawa Takuji : 2009/10/21(水) 01:06:05 ID:5tRdRuLK0
また、グリコ森永事件やAUM真理教事件などの劇場型犯罪テロ
行為において、日本の旧内務省関係者が、電電公社や電話会社に
通話記録の蓄積と提供とを要求した行為は、それを仕掛けた軍産
複合体による日本企業への侵略を容易としている。

つまり、通話記録を入手することにより、日本企業の指揮命令の
系統や系列関係を、米国軍産複合体の系列である外資は、容易に
把握することができるようになっていた。

瀬島龍三氏は、そのような米国軍産複合体の謀略に加担していた
のである。

467Isogawa Takuji : 2009/10/21(水) 01:10:11 ID:5tRdRuLK0
瀬島龍三氏には、いろいろと迷惑を被っているので、書くことが
あるということです。>>466

彼の秘書が、私を訪ねてきたこともありました。

500Isogawa Takuji : 2009/10/21(水) 11:36:10 ID:5tRdRuLK0
ちなみに、旧軍関係者には国家として米国と戦争して敗戦したの
だから戦勝国の米国に従属あるいは隷属するのが当然だ、という
意識が強いが、一般国民は、阿呆で馬鹿な軍隊が、米国と勝手に
戦争して敗戦しただけであり、俺達が敗戦したわけではないから、
米国の対日要求に屈服する必要は無い、というのが一般的な意識
である。

瀬島龍三氏は、旧軍関係者であるので、米国への追随や隷属への
傾向が強く、伊藤忠商事の商売として、米国共和党の牙城である
南部の穀倉地帯や油田地帯、および、その勢力である軍産複合体
の系列から、穀物や原油を輸入するにおいて、対米従属外交は、
その私益において必須であったと言える。


TheBarrenZone-07
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-07.htm

840Isogawa Takuji : 2009/10/23(金) 20:53:23 ID:ZQsXS6D60
ちなみに、瀬島龍三氏が顧問であったNTTでは、通話明細での
政府や企業の動向を把握するという手法が採用されていた。


TheBarrenZone-08
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-08.htm

365Isogawa Takuji : 2009/10/26(月) 00:21:28 ID:kD3LtOLF0
日米開戦は、ソビエトにとって、ナチスドイツとの両面作戦での
負担を回避するに好都合である。ということは、瀬島龍三はソ連
のスパイであった疑いが強い。

戦後、シベリアに抑留されたのは、ソビエトの庇護を受けるため
であったとも疑われる。>>362


TheBarrenZone-12
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-12.htm

352Isogawa Takuji : 2009/11/20(金) 00:37:00 ID:CTpG13Hr0
情報力が重要であることが表現されていたが、NTTのように、
通話明細を漏洩して外資の日本侵略を補助して儲けるというよう
なことを、瀬島龍三氏はやってしまっているので、説得力が無い
と言えるだろう。

354名無しさん:2010/03/08(月) 17:52:28
>>353
TheBarrenZone-18
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2010-01/TheBarrenZone-18.htm

387Isogawa Takuji : 2010/01/12(火) 20:22:25 ID:Fb6T+QZc0
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/NHK-TaigaDrama/2010/Ryomaden-028.htm#984

第二次世界大戦で没落した旧軍部(薩長、旧幕等)が、米国共和
党を背景に勢力を復古しようとしたのが中曽根改革であり、その
中核として、電電公社の民営化による資金の獲得、通話記録漏洩
による情報の獲得が行われて、その後、瀬島龍三氏がNTT顧問
に就任することになった。>>823

瀬島龍三氏は、参謀本部で生存率の高い戦線に派兵することで恩
を売り、生存率の低い戦線へ派兵した人々からの報復を恐れて、
「抑留されていた」などとして、ソ連に亡命していたということ
になる。

昭和維新の共産主義革命は、蘇維埃連邦からの指導で実施され、
東条内閣が成立すると、対米戦争へと向かうことになった。

当時の認識では、米国の軍産複合体が、ナチスドイツに兵器技術
を供与して、欧州での大戦を再発させ、欧州を焦土とすることで、
大恐慌から脱出しようとしたという見方はある。

1936年 2月26日 二・二六事件
1941年 4月13日 日ソ中立条約
1941年 6月22日 ドイツ国防軍 対ソ攻撃開始
1941年10月18日 東條内閣発足
1941年12月 8日 真珠湾攻撃

瀬島龍三氏が、NTTで通話記録をデータベース化した通話明細
で、共産主義的なスパイの手法で、日本を東ドイツのように米国
の衛星国家にしたことは、大罪であると言えるだろう。

801Isogawa Takuji : 2010/01/22(金) 09:23:15 ID:7goe0FKB0
瀬島龍三氏の実像は、壹岐正(唐沢寿明氏)よりも、里井達也(
岸部一徳氏)の方に近いと思われるのだが。

昭和維新(二・二六事件等)は、共産主義革命であり、ソ連との
日ソ中立条約後の対米開戦(真珠湾攻撃等)は、ソ連からの指導
において行われたと疑われるのであり、参謀本部の瀬島龍三氏は
「抑留」という名目でソ連に亡命していたと言えるだろう。

その抑留が解除され、日本に帰国するに、CIAの傀儡(スパイ
)となることを約束させられていたはずで、瀬島龍三氏が、米国
の自動車会社と渡り合ったのかどという疑問が生ずる。

米国の自動車会社が米国民主党の勢力基盤であったことを考慮し、
米国共和党が南部の石油会社や穀物会社を勢力基盤としているの
で、伊藤忠商事が米国共和党の傀儡であることは現在でも同じで
あるという背景も説明すると、CIAが、米国共和党の利益誘導
をしていることも説明しなければならない。


Takuji-Isogawa_Talking-and-Walking
http://www.geocities.jp/isotaku503/

355名無しさん:2010/03/08(月) 18:26:40
>>348>>352
丁度昨日読み終えたとこなんですが、ロッキード事件の発生当時の政界の状況を描いた
ロッキード事件「葬られた真実」平野貞夫著講談社
による無茶苦茶単純化した物言いをすると
・2月初旬の事件発生当時は児玉ルートで中曽根が一番危なかったが主治医が麻酔などで意識不明状態を作って証人喚問回避に成功
・田中を葬りたい三木と検察が小佐野丸紅ルートを本筋にすりかえ
・3月にCIA関与の可能性が報道され「日本の複数政党に工作資金がばら撒かれた」という証言もでる
・自民党以外では民社党が工作対象とされ、国会正常化すると追求される側に回るかもしれないと野党共闘を放棄、自民と二党で予算案可決
・さらにそのまま解散総選挙で選挙後に三木首班の自民・民社連立政権(田中抜き)を中曽根主導で計画
という展開があったようです。
> 中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。
> 三木首相は無党派の改革案を掲げ、内閣からも党執行部からも離れて国民の信を問うという、前例のない選択肢を実行に移すだろう
というのもそういう予備知識込みで見るとそういう話か、と納得できました。

356とはずがたり:2010/03/08(月) 18:39:32
もしそのストーリーが真実ならアメリカが日本の政治を或る程度コントロールしているってのは本当になりますねぇ。
で,中曽根の民営化路線は,アメリカへのキャッシュバックだった,と云う事になりますか。

357名無しさん:2010/03/08(月) 19:05:47
>>356
> アメリカが日本の政治を或る程度コントロール
工作資金の話ですか?
それならこのストーリーとは関係なく、CIAから複数の政治家(岸とか)に資金提供があったというのは既に明らかにされてませんでしたっけ?
中曽根が親米なのはまぁそういう理由かもしれませんが、本質的に風見鶏体質な性格が、寄らば大樹の陰とばかりに米国に擦り寄らせたんじゃないかな、という気もします。

ついでに書いとくと、あの本は、むしろ巷間騒がれた「独自資源ルートを開拓しようとした田中が米国に狙い撃ちされた」という見方を否定(そういう方向でコントロールされてた訳ではない)という感想を抱かせるものだと思います。
もし未読であれば、(小沢憎けりゃ平野も憎いかもしれませんが)ご一読をお薦めします。

358とはずがたり:2010/03/08(月) 19:09:37
別に小沢も平野も憎くはありませんぜw

社会党へもソ連からなんて話しがありましたが,そういう資金なんかよりもこういう輿論が沸騰するような情報に関してアメリカが決定権持ってコントロールしてたと云う方が生々しい気がします。

359名無しさん:2010/03/08(月) 19:15:47
> 別に小沢も平野も憎くはありませんぜw
そうですか、ちょっと安堵いたしました。

> こういう輿論が沸騰するような情報に関してアメリカが決定権持ってコントロールしてた
これって具体的にどの辺の事でしょうか?
自分としてはそういう風にとれる個所はなかった気がするのですが、>>355の要約の仕方が悪かったので誤解をさせてしまってるかもしれません。

360とはずがたり:2010/03/08(月) 19:24:51
>>352の三木の件に関してです。
アメリカが情報を出せば自民党政権が斃れかねなかった訳で,ロッキードの決着が>>355の様に決して単純に真実が明らかになったんじゃないとするとアメリカが陰に陽に情報の制御で日本の方向性を制御してたんじゃないかと想像(妄想)出来るんじゃないでしょうかね

361名無しさん:2010/03/08(月) 19:41:58
>>360
米側が「極秘」を強調してたのは
・被告人サイドの人権尊重(政敵に政治的に利用されないため)
・西洋諸国にまたがる事件なので他国への影響を考慮
が理由とされてます。
逆に三木が「公表」を迫ったのはとにかく「田中」の名前をどんな形ででも出したかったらで、最初は「検察が極秘で取り寄せた資料でも刑事訴訟法47条但書を盾に公表しようとしてた」という感じです。
ところが実際に受け取った資料には田中の名が無かった(つまり、多分最初から公表しててもまともに対応してれば自民政権は倒れなかった)ので、そのウルトラCも不発に終わったと。
まぁアメリカが(向こうの人権感覚だと当然かもしれませんが)あまりに隠そうとする、一方で三木や野党は「被告人の人権」というか「田中の人権」なんて考えず「やばい資料だから隠そうとしてる」と思い込んだ結果の公開請求だったんだと思います。

ようは最初から悪玉を決めたりして結論もって事にあたって、それにそぐわない事実は全部無視するみたいな正義の味方ぶる方が一番有害なんだって感じですかね(まるっきり別スレで似たような事書いた記憶が)。

362名無しさん:2010/03/08(月) 19:45:36
あ、あと>>355見直して、省略しすぎて主語などの部分が抜けてて読み間違い易い書き方してたと思うので訂正(『』内の追記)します。
訂正
・2月初旬の『米国でのロ』事件発生当時は児玉ルート『が日本に関するものでは唯一証言されていたの』で『児玉と親しかった』中曽根が一番危なかったが『児玉の』主治医が麻酔などで意識不明状態を作って証人喚問回避に成功
・田中を葬りたい三木と検察が小佐野丸紅ルートを本筋にすりかえ
・3月に『ロ事件に』CIA関与の可能性が『米国内で』報道され「日本の複数政党に工作資金がばら撒かれた」という証言もでる
・『この米国報道を受けて日本国内では』自民党以外では『自民党に協力的態度をとる事が多い』民社党が工作対象『だったのでは』とされ、国会正常化すると『民社党は自分たちも』追求される側に回るかもしれないと野党共闘を放棄、自民と二党で予算案可決
・さらにそのまま解散総選挙で選挙後に三木首班の自民・民社連立政権(田中抜き)を中曽根主導で『三木と民社党とも恐らく共謀の上で』計画

363とはずがたり:2010/03/09(火) 01:27:48
平野の主眼はアメリカがどうのと云うより三木vs田中にあって,結果的にはバルカン政治家にコンピューター付きブルドーザーがやられたと云う構図なんですね。
三木vs田中の系譜が現在の仙谷vs小沢かw

364名無しさん:2010/03/09(火) 01:49:44
>>363
私の引用部分をまとめるとまぁそんな感じかもしれませんが、本書全体の記述内容としては
どんな事してでも田中を政治的に殺したい三木総理大臣 vs どんな事してでもこの国会を正常化したい前尾衆議院議長(正常化した後で別の目的有)
という感じになってます。そして平野は前尾の秘書という当時の立場から、三木への批判的コメントが多いですね。
アメリカ側はこれが日本を含めた他国で政治問題化する事を懸念し続け、田中側はこの問題自体を軽く見てまともな対応してない、という記述も多くされてます。

もし、三木が「ロッキード事件で悪党をやっつけようとした正義の味方」的な見方をされてるのなら、精神安定上読まれない方が良いかもしれません。

365とはずがたり:2010/03/09(火) 02:47:08
既にご承知と思われますが俺なんかもう三木は正義の味方とまでは行かなくても好ましく思ってる方ですが(同時代的に政治ウオッチしてたら河野親子と同じ程激しく嫌ってたかもですけど),自民党内でリベラルな政策を実現する為に上手に自分の印象を使ったんじゃないでしょうかね。
三木vs田中もどんな事してでもを政治的に殺したい個人的怨念みたいなのではなく党内基盤の弱い三木の数少ない武器という感じで。結局引き摺り下ろされちゃったあたりが限界か。

366名無しさん:2010/03/10(水) 09:33:07
山本五十六の大罪#52(本論) - 木庵先生の独り言 - Yahoo!ブログ
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木庵先生の独り言 一言メッセージ :アメリカ在住、比較文化論

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2010/2/12(金) 午前 1:37山本五十六の大罪歴史 Yahoo!ブックマークに登録
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山本五十六の大罪#52(本論)
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山下奉文を窮地に追い込む、大本営・陸海の共同謀議
3、 堀栄三は、出張命令により、13日夜の電報を打った後、山下奉文の方面軍司令部に到着した(10月16日)。それが、突然、大本営参謀を一時的に解職となり、山下奉文の司令部に配属となった(10月27日)。表向きでは「山下奉文が欲しがったから」との噂を流したが、実際は、参謀本部が唐突に行った追放人事である。この27日、事前の内示もない辞令を突然に受けて堀は戸惑い驚いた。
堀が東京に戻れば、瀬島の“電報にぎり潰し”がばれるので、陸軍省・参謀本部にまたがって大細胞に膨れ上がっていたGRU組織としては“堀の口封じ”をしたのである。レイテ島が玉砕し、ほとぼりの冷めた翌1945年1月末、堀を大本営陸軍部の情報部に戻した。瀬島のモスクワからの帰国が2月11日頃と余りに遅かったのは、ソ連軍の満州・樺太侵攻の作戦策定に「ソ連人」として瀬島が参加していたからとしても、堀の東京戻りの後にする狙いもあったろう。
4、 堀に加えて、参謀本部作戦課の杉田一次まで、わざわざルソン島に滞在させる必要はあったのか(10月19日〜11月15日)。レイテ島作戦に反対する山下奉文を監視する為だったのが、瀬島の悪事を気づいて暴く能力のある参謀は杉田しかいないから、杉田の"一時追放"だったと考えられる。当時の参謀本部で、「情報分析屋ベスト・ツー」杉田、堀の二人がいなければ、作戦課は、米軍の動向に関して出鱈目な状況を設定して好き放題の作戦命令ができる。
5、 海軍は、台湾沖航空戦の誇大な嘘戦果を、なにも10月14日〜16日に発表して、嘘の上塗りをする必要はない。それは、「撃沈は空母8隻、巡洋艦3隻、撃破は空母7隻、戦艦1隻、巡洋艦2隻・・・」と超誇大な嘘を並べたものであった。
瀬島は、海軍軍令部とのリエゾン将校であった。捷一号担当の作戦参謀でもあった。海軍の方では瀬島を、海軍の作戦参謀と同格に扱っていた。瀬島はいろんな工作を海軍に働きかけていただろう。このレイテ湾沖海戦の嘘戦果発表が瀬島と無関係とはいえない。
また海軍内部では、21日頃には、台湾沖航空戦で発表したのは嘘戦果だと気づき、米内海軍大臣ですら知るところであった。それを訂正もせず、27日に、新たな超誇大虚報を発表した、現地の山下奉文がレイテ島作戦を放棄するのを阻止するためでもあったろう。
6、 この27日、現地も報道で知っている、海軍の十八番「敵機動部隊が殆ど壊滅的打撃を受けたる疑いなく戦局は大局より観て我に有利・・・」との電報を、不必要にも、山下奉文の臨時側近となった杉田一次あて、参謀本部作戦課長(服部卓四郎)が送っている。27日はまた、堀の一時追放の辞令が突然言い渡された日で、堀にとって忙しい、この10月27日、「堀」の名前で、堀はそんな情報を持っていないのに、レイテ湾沖海戦の戦果についてほぼ官軍の公表どおりの嘘数字を情報部長宛に打電している。10月27日に集中して、工作めいたことが同時に起こったのは、これらが「服部ー瀬島」が実行した謀略工作だからである。

367名無しさん:2010/03/10(水) 09:37:09
>>366
戦史叢書の事実改竄と瀬島の影
政府公刊の『戦史叢書 レイテ決戦』には、首を傾げざるを得ない部分が多すぎる。まず、瀬島龍三が、この1944年9月上旬から、病名なしに「重症で入院していた」とか、「病気欠勤していた」とか、真赤な嘘が書かれている。瀬島本人は、1990年の回想時では。「鬱病」と言っている。1995年時の回想では、「心身疲労症」と言っている。だが、瀬島には鬱病になる病質が全くないから、この嘘は瀬島が元気だったことを裏付けする証拠になっている。
「9月上旬帰京し報告を終えるや衰弱の身を横たえた、・・・同少佐は重症であった」
この件について、中川は調査をしている。事実は次のようであった。
先ず、山下奉文が第14方面軍司令官(発令は9月26日)としてマニラに赴任するにあたって、瀬島を同行させようとしたので、これを回避すべく、瀬島は9月10日頃から害のない薬(木庵注:漢字で「むがいのやくぶつ」は《記事に登録できない文字列》になる)を飲んだのか入院して重病説を流した。"世紀の仮病演技"である。この結果、朝枝繁春が瀬島に代わり選ばれ、山下に同道した(発令は9月28日)。
10月に入るやすぐ、瀬島は通常通り勤務した。だから、堀の電報握りつぶしを10月13日やってのけられた。本人は、「9月から11月末までずっと欠勤していたというが、そう証言する作戦課の同僚は一人もいない。実際には、瀬島は10月1日あたりから年末まで、レイテ島戦に関する様々な工作をしていた。元気であったが故にこの年末、厳寒のモスクワに外交伝書使(クーリエ)となって、2ヶ月近くも滞在できた(1944年12月25日〜45年2月11日)。モスクワでは、ソ連軍の満州侵攻の手引きと、その作戦づくりに参画していたのだろう。
クーリエは必ず二人一組なのに、このときの瀬島クーリエは一人で、前例がない。このクーリエを命令した秦彦三郎・参謀次長(および服部卓四郎)が、実はソ連と通牒して、陸軍省・外務省トップから、一人でも特に許すとの、特例の了解を全力をあげてとりつけたようだ。
松本秀満は、『戦史叢書』の担当官であるが、彼が瀬島から高額の報酬を受けたかどうかはわからないが、不的確の人物であったことは間違いない。ところで中川は、瀬島から5百万円単位で金を受け取っている身近な例をいくつも知っていると書いている。中には2千万円のもいたという。
瀬島龍三は開戦時の1941年の時はむろん、戦時中はずっとソ連のGRUに所属し、シベリア時代ではNKGBに、1956年8月シベリアから帰還する直前にKGB第一総局付きの高級工作員になったようである。1979年、米国に亡命したレフチェンコKGB中佐が、米国議会で証言したコード名「クラスノフ」とは、瀬島龍三のことである。
瀬島は11年間のシベリア抑留時代のうち、1948〜50年の約一年半、モンゴルのウランバートルにあった、(偽装看板は一般収容所名の)高級工作員養成所で訓練を受けている。このときの教官の一人に、1954年、東京で米国に亡命した、ラストボロフNKGB中佐がいる。瀬島は、転々としたシベリア抑留時代の収容所名のすべてを明かさない。この高級工作員養成所に入所していたのが判別されないようにする、用心深さからである。
ラストボロフは、自分の教えた教室には11名の元・エリート日本陸軍将校がおり、その中に瀬島がいた旨を米国で証言している。在日のCIAオフィサーは、瀬島が1956年8月にシベリアから帰国直後、下船した舞鶴港にそのまま一週間ほど、「日本の官憲に依頼し」拘禁し尋問した。さらに瀬島が陸上自衛隊に入らぬよう、直ちに防衛庁その他に働きかけをした。米国の断固たる、この瀬島対策の根拠の一つは、ラストボロフ証言だった。
瀬島は、やむなく伊藤忠(商社)に入社したが、世間の眼は「ソ連のスパイ」であり、これを軟化させる一計を案じた。山崎豊子の所にいって自分を売り込む小説の主人公にしてもらうことであった。それが「サンデー毎日」に連載され(1973〜8年)、『不毛地帯』となった。そして、この小説の主人公「壹岐正』を通じて、瀬島はイメージを劇的に好転させるのに成功した、数多くの事実の歪曲や隠蔽にも成功した、瀬島の情報戦はかくも天才級で、スパイと名指しされながら、出世と栄誉の中で長命の人生を終えた。

368名無しさん:2010/03/10(水) 09:39:41
>>367
<中川は瀬島のことを以上のように書いているが、木庵もこれから調べてみる。You Tubで観た瀬島は次のようなことを言っていた。「シベリヤで共産主義万歳と言っていた人間も、日本に帰る船の中では、他の収容者と仲良くなり、シベリヤでのわだかまりもなく、無事に帰国できる喜びを分かちあった。やはり、同じ日本人の心をもっていたのだな」。嘘である。木庵がシベリヤ関係の人を取材したところによると、ソ連側の教育係になったような人間は、船から突き落とされるようなこともあった。ほとんどの抑留者は表向きは共産主義に賛同するようなポーズはとったが、心の底でソビエトの本当の犬になった人間、そのお陰で優遇されたり、威張っていた人間を恨んでいた。木庵>
写真の説明:ごんちゃんと猫ちゃんシリーズ、まだ続く。

http://history.blogmura.com/his_meiji/ ←ブログ村近代・現代史(日本史)。

369名無しさん:2010/03/10(水) 10:13:19
瀬島龍三氏 逝去-日本財団会長 笹川陽平ブログ
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1011

瀬島龍三氏 逝去 [2007年09月07日(金)]

(著:瀬島龍三 フジテレビ出版)

「瀬島龍三氏 逝去」


瀬島龍三氏が逝去された。享年95歳。

以下はウィキペディアからの引用である。
 『陸軍大学校を首席で卒業。昭和天皇より恩賜の軍刀をたまわる。関東軍参謀。東京裁判でソ連側証人として出廷。シベリア抑留から帰還後、伊藤忠商事に入社。最終職歴は伊藤忠特別顧問。

勲一等瑞宝章・受章。中曽根元首相のブレーンとして、土光臨調(第二次臨時行政調査会)委員などを務め、政治の世界でも活躍した。』

更に『ソ連との停戦交渉時、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で、捕虜抑留についての密約が結ばれたとの疑惑については、保阪正康氏の主張に対して、本人も半藤一利氏も否定している。』とある。

ウィキペディアで興味を引くのは、
『1979年、昭和天皇の孫・優子(東久邇宮盛厚の娘)の結婚の媒酌の役を務めており、ご臨席された昭和天皇より「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家社会のために尽くすように。

それから、今度お世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さい時に母と別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分面倒をみられず、長く心にかかっていた。

このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる」と、天皇のお言葉が引用されている。誠に恐縮だが、一瞬、まさかとの思いがわいた。

私は確認したわけではないが、瀬島氏は、東京裁判にソ連側検事証人として出廷し『天皇有罪論』を述べたともいわれている。その後瀬島氏は、その天皇から勲一等瑞宝章を親授された。

日本の勲章制度は与えられるものではない。自分が受章に値すると思えば、自らの履歴書と功績調書を作成し、しかるべき役所を通じ提出する。

賞勲局の審査を経て、最終的には官邸の了解を得て決定されるものである。

瀬島氏は、自ら功績調書を作成して、有罪をとなえた天皇より名誉を受けたのだろうか。

かつて、東京ヒルトンホテルの事務所で、旧ソ連での遺骨収集について話し合ったとき、問わず語りに「叙勲は女房のためだった。苦労をかけたからね」と話すのを聞いたことがある。

私には、彼の行動に、日本帝国陸軍参謀としての矜恃は感じられないのだが・・・。

かつて、モスクワ(ロシア)で日本人捕虜の責任者を務めたイワン・コワレンコ氏に会ったことがある。来日した折面会したこともあり、二、三度の面識である。

(著:イワン・コワレンコ 文藝春秋)

イワン・コワレンコ氏については、知る人も多い。
『旧ソ連共産党で、戦後長年にわたり対日責任者を務め、ジベリアに抑留された旧日本兵の親ソ化工作など、日ソ裏面史の生き証人といわれた。

第二次大戦後、旧日本軍将兵がソ連各地で強制労働などに従事したシベリヤ抑留で、抑留者を共産主義に変え、ソ連への協力者に仕立てる思想教育「民主化運動」を主導した。

日本帰国後の情報提供者の育成を任務とし、抑留者が読む日本語新聞「日本新聞」の編集長を務めた。』(日経テレコンから引用)人物である。

自宅に電話を入れると、ホテルまで来てくれた。

「心臓が悪いので、娘から外出を厳しく制限されている。今日は他でもない、笹川さんだから」と言って、日頃はもの暗い感じの男が、上機嫌で2時間近くも話してくれた。

「瀬島はラーゲリ(収容所)では静かで目立たない男であった。ただある時、ラーゲリの集会で演説を始めた。

何を話したかは記憶にないが、演説の終わりに、突然、ソビエト共産党万歳、日本共産党万歳と、両手を挙げて大声を発したのには正直いって驚いた。ひょっとしてこの男は対日工作に使えるかもと考えた。」

コワレンコ氏は、身振り手振りで話した後
「ラーゲリで瀬島が3年間近く行方不明になったことが、今も日本では謎とされているようだが、話は簡単。ウラジオストック郊外の一軒家に、女中もつけて、ソ連側検事証人として準備をさせていたのだ」と語った。

関係されていた亜細亜大学で、先年、大量の書類、資料などが焼却されたという。研究資料として、是非、残しておいてほしかったと、残念がる歴史家が多い。

昭和史のいくつかの重要な疑問点について、瀬島氏は沈黙を守られた。
そして、その沈黙は永遠のものとなってしまった。

ご冥福をお祈りする。

Posted by 笹川 陽平 at 08:29 |

370名無しさん:2010/03/10(水) 10:14:07
>>369
B&G全国市長会議(その2)-日本財団会長 笹川陽平ブログ
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1275#BlogEntryExtend

B&G全国市長会議(その2) [2008年03月18日(火)]

・・・、ある部分では尊敬していたのですが、陸軍参謀の瀬島龍三氏です。60数万人のシベリア捕虜を置き、自分だけはナホトカの一軒家に住んで、ソビエト側の検事証人として極東軍事裁判に臨んで天皇有罪論を唱えました。瀬島氏も同じように私はこんな良いことをしましたということで勲一等をもらった人です。私は本人に「先生は何故、叙勲を申請されたのですか」と聞いたことがあります。すると長い間苦労をかけた妻のためにもらったというのです。

数十万人の兵士が厳寒の地で苦しみ、多くが亡くなっていく中で、一人一軒家に住んで天皇有罪論を書き上げ、ソ連の検事証人として出廷した人が、その有罪論を唱えた天皇から勲章をもらっているのです。・・・

Posted by 笹川 陽平 at 07:41 |

371名無しさん:2010/03/10(水) 21:12:42
この名前が出てくるとは思わんかったけど出てくると当然という気もしてくる
> 西山元記者

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol&amp;k=2010031000832

西山元記者らを19日に参考人質疑=与党、歴代首相らも検討−密約問題

 衆院外務委員会(鈴木宗男委員長)は10日の理事懇談会で、日米間の「密約」問題の解明を進めるため、元毎日新聞記者の西山太吉さん(78)ら4人に対する参考人質疑を19日に行うことを決めた。また、民主、社民、国民新の3党は国対委員長会談で、自民党政権時代の首相、外相経験者を国会に招致する方針を決めた。密約にかかわりが深い関係者が国会で証言するのは初めて。
 参考人は西山さんのほか、斉藤邦彦元外務事務次官(75)、東郷和彦元外務省条約局長(65)、大平正芳元外相の秘書官を務めた森田一・元運輸相(75)。
 西山さんは、沖縄返還交渉で日本が米軍基地跡地の原状回復補償費400万ドルを肩代わりするとした機密公電を外務事務官から入手し、国家公務員法違反罪で有罪が確定した。斉藤氏は外務省の条約局長を経て次官に就任しており、核持ち込みなどに関する密約の経緯を熟知しているとみられる。
 東郷氏は核兵器搭載の米艦船の寄港を事実上黙認する政府方針を記した文書を、条約局長時代にファイルに保管したことを明らかにしている。また、森田氏は大蔵省(現財務省)勤務時に、原状回復費400万ドルの支出を担当。さらに、核搭載艦船の寄港をめぐる日米間の「暗黙の合意」を解消しようと苦悩する大平氏の姿を秘書官として間近に見ている。 
 一方、歴代首相らの招致に関し、民主党の山岡賢次国対委員長は記者会見で「自民党長期政権下で、国民に(密約を)知らせないままでいたことは誠に遺憾だ」と強調した。ただ、自民党の反発は必至で、実現するかどうかは不透明だ。(2010/03/10-20:39)

372荷主研究者:2010/03/14(日) 18:39:29

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20100313/CK2010031302000166.html
2010年3月13日 中日新聞
明治の貧窮救済策 米騒動発祥地 魚津で新史料

市役所書庫から見つかった米騒動に関係する議決書=魚津市役所第一分庁舎で

旧町議会の議決書原本
全国に先駆け米施与

 米騒動発祥の地とされる魚津市は十二日、市役所書庫で見つかった米騒動に関係する史料となる「貧民救済規定」や「貧民救済方法」を示した議決書の原本を報道陣に公開した。(武田寛史)

 一八八九−九一(明治二十二〜二十四)年の旧魚津町議会による議決書で、不作による米価高騰で米の買えない貧窮者に米を施与することを決めた内容。市議会事務局が昨年十月、膨大な議決資料の中から探し出した。

 全国的に米騒動が広まるきっかけとなった一九一八(大正七)年の魚津町の米騒動の後に、町議会が議決した臨時貧民救済規定の基になる議決であり、市は米騒動に関する重要な史料と位置付ける。

 議決書は縦十七センチ、横十三センチ、厚みは二・五〜四センチ。約三百七十ページで、一度、水に漬かったため、シミや変色があり、虫食いも多く見られる。

 明治時代の下層社会の労働事情を記録した魚津市出身のルポルタージュの祖、横山源之助(一八七一−一九一五年)が雑誌「国民之友」の中で、この議決書を評価する記事を記載している。

 長島潔市教育長は「議決書は全国でも類例がないとみられる史料。当時の魚津町が貧窮者の救済に先進的に動いていた証し」と話している。

 史料は二十六日から市図書館で一般公開する。

373名無しさん:2010/03/17(水) 15:55:28
韓国新聞・経済−& ‘ポスコ神話’の朴泰俊会長、‘戦後日本繁栄の策士’ 瀬島龍三氏に会う -wowkorea.jp
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&amp;nCP=&amp;pg=1
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&amp;nCP=&amp;pg=2
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&amp;nCP=&amp;pg=3
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&amp;nCP=&amp;pg=4
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&amp;nCP=&amp;pg=5
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&amp;nCP=&amp;pg=6
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&amp;nCP=&amp;pg=7
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&amp;nCP=&amp;pg=8
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&amp;nCP=&amp;pg=9

‘ポスコ神話’の朴泰俊会長、‘戦後日本繁栄の策士’ 瀬島龍三氏に会う


「韓国に行くのは私の最後の望みだ」。「また元気になって私と一緒に韓国に行きましょう」。95歳と80歳。 瀬島龍三氏と朴泰俊(パク・テジュン)氏の出会いは節度と友情、切なさをはらんでいる。 2人の出会いは「サンドイッチコリア」の脱出口を見いだすために中央日報が企画した。

朴泰俊元総理は中央日報の提案に快く応じて、瀬島氏を訪ねた。 20日午後、桜の花が咲き始めた東京・調布市の閑静な住宅街。 2階建ての住宅の玄関付近の部屋は瀬島氏が歩んできた人生の縮小版だった。 片方の壁をぎっしり埋めた本棚には「大本営帝国」「激動の昭和史」「日本戦略研究」「陽明学」など瀬島氏の歴程を見せる歴史書物や戦略書がぎっしりと埋まっている。 もう一方の壁の陳列台には瀬島氏が昭和天皇から受けた各種勲章が並んでいた。

そしてシーツが敷かれたベッドと車椅子。 瀬島氏は少し前にベッドから車椅子に移ったところだった。 明晰な頭脳と勝負師の気質で一時代を風靡した瀬島氏だが、自然の摂理には逆らえないようだった。 話している途中、頭を垂れ、言葉を続けるのが難しい場面もあった。 朴元総理と交わした20分間の対話でも生のエネルギーが消耗されるようだった。 歳月は流れても、若い時代の軍人精神は生き続けているのか。 瀬島氏は渾身の力で腕を上げて敬礼した。 朴元総理も敬礼でこたえた。

2人が頻繁に使う共通の言葉は「国家」「戦略」「東アジア」「生き残り」などだ。 朴元総理が「最近、北朝鮮問題が少しずつ解決の方向に向かっている」と話すと、瀬島氏は「そうか、なぜそうなっているのか」と関心を表した。 朴元総理は「米国が戦略的に進めている一方、北朝鮮も飢餓で苦しい境地にあり、中国も(解決しなければ)大変だからだ」と説明した。

朴元総理は04年の夏に瀬島氏と2時間ほど会った時のことを回想した。 当時、瀬島氏は「一緒に長生きしよう。韓日間の良くないことをわれわれが解決していこう」と語ったという。 「韓国侵略に対する安倍首相のあいまいな立場」について、朴元総理は「彼ら若い極右派らは韓国国民が抱いている感情を受け入れられずにいる。理解する能力もない」とし「瀬島先生らは終生、日本が私たちにしたことを真剣に考えた。そしてそれを頻繁に表現した」と語った。

瀬島氏は1990年に‘密使’の役割を果たした。 当時、盧泰愚(ノ・テウ)大統領の訪日を控え、天皇の過去の歴史反省表現の程度をどのようにするかが論議になった。 日本政府としては昭和天皇が84年9月に明らかにした「遺憾」という表現を踏襲しようという主張が優勢だったが、瀬島氏の考えは違った。 瀬島氏は日本外務省に悟られないよう韓国と日本を行き来した。 瀬島氏の水面下調整で、その年に皇位を継承した現天皇は「痛惜の念を禁じえない」と一歩進んだ表現をしたという。

374名無しさん:2010/03/17(水) 15:56:16
>>373
◇「株式会社日本」をつくった水面下の実力者、瀬島龍三氏とは

戦後の日本が旧日本帝国軍隊の組織をモデルに日本総合商社をつくっていく過程を描いた小説「不毛地帯」(1976年、新潮社)の主人公のモデル。 この小説は最近の人気ドラマ「白い巨塔」の原作者、山崎豊子氏(82)の代表的な小説だ。 日本陸軍士官学校を次席、陸軍大学を首席で卒業した瀬島氏は大本営(戦時最高統帥機関)陸軍部作戦課主任を経て、1945年7月、満州駐屯関東軍の参謀になったが、「手に余る戦い」として日本の拡戦に反対した。 前線でソ連軍に捕まった瀬島氏は11年間、シベリアで捕虜生活を送り、44歳で帰国した。

瀬島氏は「商社マン」に転向した。 47歳の時、伊藤忠商事航空機部次長となり、その後、軍需事業、石油事業、世界的な戦略的提携事業に飛び込み、次々と成功を収めた。 そして20年後、会長に就任した。 全盛期の瀬島氏は伊藤忠以外にも89の肩書があった。 こうした人脈と実戦経験は、瀬島氏が国家経営の水面下の戦略家になった資源だった。 60年代には「日本株式会社」をつくり、70年代に入ってからは経済開発に拍車を加えた韓国の政界・財界にアイデアを提供した。

82年11月に中曽根康弘首相が就任した後、韓日教科書問題が浮上した。 これをきっかけに瀬島氏は韓国を秘密裏に2度訪問し、全斗煥(チョン・ドゥファン)当時大統領と朴泰俊(パク・テジュン)氏、権翊鉉(クォン・イクヒョン)氏に会った。 戦後の日本首相の初めての韓国訪問を実現させるためだった。 この過程で日本が経済協力資金40億ドルを韓国に支給する‘取引’を実現させる役割をした。 当時の夕食会で中曽根首相が全体の3分の1を韓国語で演説したこと、2次会で韓国語で「黄色いシャツ」を独唱したのも瀬島氏の演出だったという。

瀬島氏はその後も日本電信電話公社(NTT)民営化改革作業を総括指揮する一方、中曽根・竹下政権で行政改革と教育改革の司令官の役割を果たした。 瀬島氏の戦略家的思考は日本経済政策の精神になった。 次は80年代の瀬島氏の発言だ。

「今後の大きな方向性は‘太平洋の時代’だ。 日本という国は世界から8億トンの原資材を輸入し、それを8000万トンの製品に加工して輸出しながら生きていく国だ。 したがって日本の生存条件は2つある。 まず、われわれが貿易をできるよう世界が平和かつ安定しなければならない。 二つ目は、製品を作るために高度の教育を受けた人材がなければならない。 こうした生存条件を満たせなければ、いかなる政策も無駄になるだけだ」。

瀬島氏は昨年まで日本国内の民間専門家らが設立した「日本戦略研究フォーラム」の会長を務め、国家戦略を説破した。 「日本右翼勢力の精神的支柱」「黒幕」という暗い評価もあるが、瀬島氏が「日本繁栄の策士」だったことには間違いない。


Copyright 2007(C)JOONGANGILBO NEWS. All rights reserved.
2007/3/26 16:57 入力

375名無しさん:2010/03/17(水) 18:54:36
>>373
>>374
韓国新聞・経済−‘ポスコ神話’の朴泰俊会長、‘戦後日本繁栄の策士’ 瀬島龍三氏に会う -wowkorea.jp
http://wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&amp;nCP=&amp;pg=1

376名無しさん:2010/03/19(金) 21:46:15
『季報』平成20 年「瀬島龍三特集」―目 次―Vol. 36
http://www.jfss.gr.jp/kihou_20_Spring.pdf

『季報』平成20 年「瀬島龍三特集」―目次―Vol . 36
「瀬島龍三特集発刊の意義―遺された示唆を探り今日に適用する」
会長中條高紱 ・・・・・1 〜2 頁
巻頭言「憲法はハード、教育基本法は魂」
初代会長瀬島龍三・・・・・・・3 頁
巻頭随想「瀬島龍三さんと私―戦後日本の再構築・日韓関係修復のこと―」
第71 代内閣総理大臣中曽根康弘・・・・・4 〜12 頁
国内時評「問われる国家の統治能力」
初代会長 瀬島龍三 ・・・・・・13 頁
国際時評「日本外交は毅然とすべし」
初代会長 瀬島龍三 ・・・・・・14 頁
主張「戦略なき国家に明日はない」
初 代会長 瀬 島 龍 三 ・・・・・・15 頁
個人史年表「瀬島龍三が関与した国家大事の年譜」・・・・・・・16 〜17 頁
瀬島龍三論「瀬島竜三の役割と責任」
現代史家秦郁彦・・・・・18 〜20 頁
瀬島龍三への思い「遺されたこころざし―滅私奉公―」
副理事長田久保忠衛・・・・・21 ~22 頁
瀬島龍三への思い「遺されたこころざし―次世代への継承―
<最後の最後まで日本のために―クリーンエネルギー開発への意欲>」
評議員 野地 二見・・・・・23 〜25 頁
瀬島龍三の投影『不毛地帯』・・・・・・・・・・・・・・・・・26 〜28 頁
小論「昭和の戦争指導と幕僚―何故同じ失敗は繰り返されたのか―」
防衛研究所戦史部所員和田朋幸・・・・・29~30 頁
戦略ターミノロジー(その4)「瀬島龍三の戦略思考」・・・・・・31 〜32 頁
瀬島龍三著書紹介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32 〜35 頁
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35 〜37 頁
日本戦略研究フォーラム役員・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38 頁

377荷主研究者:2010/03/20(土) 17:34:27
吉野作造は古川出身だったのか。「民本主義」懐かしいねぇ。おっ、佐々木公明先生が尚絅学院大の学長になったのは知らなんだ…。

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/03/20100315t15005.htm
2010年03月15日月曜日 河北新報
吉野作造の業績結集6000点 尚絅学院大が服部文庫創設

尚絅学院大に寄贈された資料を見る大学関係者

 民本主義を唱えた宮城県大崎市古川出身の政治学者吉野作造(1878〜1933年)の講義を記録したノートなどの文献・資料約6000点が、尚絅学院大(名取市)に寄贈された。福島大学長を務めた故服部英太郎氏(1899〜1965年)と、長男で東北大経済学部長を務めた故文男氏(1923〜2007年)が所蔵していた。19、20世紀の社会思想史や経済学史を学ぶ上で貴重な資料で、同大は「服部文庫」を創設し、研究に役立ててもらう。

 資料に含まれる講義ノートは、吉野が1921年に東京帝大で政治史の講義を行った際、英太郎氏が筆記した。その前年のノートは2008年に見つかっており、話題を呼んだ。

 ノートには労働運動や帝国主義の発達などについて記されている。吉野の著作や人物像などを知る上で貴重という。

 寄贈資料にはこのほか、ヒトラーが政権を取る前に発行された、ドイツ社会民主主義者や旧ソ連の指導者の著作本などドイツ語やロシア語の文献が数多くある。

 文男氏の門下生で、資料整理にかかわった大村泉東北大大学院経済学研究科教授によると、出版した国にも現存しない本もあるという。

 文男氏の死後、長女の石幡万里さん=仙台市泉区=と大村教授が、寄贈先を相談。膨大な資料を一括保管できて、公開もできる尚絅学院大に決めた。大学は「服部文庫」として保管、整理する。

 石幡さんは「自宅での資料保管も考えたが、研究者が誰でも見られるように寄贈することにした。現物をぜひ手に取って見てほしい」と話す。

 吉野は旧制二高時代、尚絅女学院を創設した米国人女性宣教師のアニー・S・ブゼル(1866〜1936年)が開いていたバイブルクラスで学んでおり、大学にも縁がある。今回の寄贈は、ブゼルの「孫弟子」の業績を引き継ぐことにもなる。

 佐々木公明学長は「英太郎氏は吉野に大きく影響を受けたと思う。民本主義の息吹が感じられる資料がコレクションに加わり、誇りに思う」と喜んでいる。

378荷主研究者:2010/03/22(月) 12:52:05

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/03/20100319t13015.htm
2010年03月19日金曜日 河北新報
白虎隊士の孫、長州に礼尽くす 養育説を確信、あす山口訪問

自決の場の飯盛山から、ただ1人生還した元白虎隊隊士の飯沼貞吉(飯沼一元さん提供)

飯沼 一元さん

 戊辰戦争で新政府軍と戦い、集団自刃した会津藩の白虎隊士でただ一人、命を取り留めた飯沼貞吉(1854〜1931年)の孫で、東京都の会社社長飯沼一元さん(67)=仙台市出身=が20日、かつての宿敵・長州(山口県)を訪れる。山口には、貞吉が戊辰戦争後の一時期、長州藩士の屋敷で過ごしたとの説が残る。一元さんは自らの調査などで「長州滞在」がほぼ確実だったと考えており、現地の人たちに感謝の気持ちを伝える。

 飯盛山(福島県会津若松市)で白虎隊の隊士が自決したのは、1868(慶応4)年10月。生き残った貞吉は戦争後、新政府軍によって東京に送られたらしい。

 1872(明治5)年に当時の逓信省の技師になり、下関を振り出しに神戸、東京などで勤務。日清戦争に従軍後、仙台逓信管理局の工務部長を務めた。長く仙台で暮らしたが、会津にはあまり戻らなかったとされる。

 一元さんによると、逓信省に勤めるまで数年間の足跡は明確になっていないが、意外にも、今の山口県美祢市で過ごした可能性が高いという。

 戊辰戦争で会津に攻め込んだ長州藩士楢崎頼三(1845〜75年)が、貞吉を会津から東京に護送し、さらに山口県まで連れて行って自分の家で養育したとされ、楢崎家で働いていた女性の話として地元に伝えられている。事実だとすれば、貞吉の「長州滞在」は1869年前後の約1年半とみられる。

 会津では、あまり知られておらず、地元研究者の間では「証拠がない」などと否定する意見も少なくない。

 一元さんも以前は「敵の本拠地に行って、世話になることなどあり得ない」と思っていた。2年前に現地で語り継がれている内容を聞いたり、自らも調査したりした結果、今ではほぼ間違いない事実とみている。

 一元さんは「貞吉が逓信省に入るまでには、(一人だけ生き残ったという)絶望の淵から立ち直るきっかけが必要だったはず。美祢では勉強の機会も与えられたようだ」と話す。

 一元さんは20日から山口県を訪れる。郷土史家らとの公開座談会に参加して会津と長州の歴史などを語り合う。楢崎家の墓参りもするほか、ゆかりの地を訪ねて祖父の足跡をたどる予定だ。

[白虎隊]会津藩が1868(慶応4)年、朱雀、青龍、玄武とともに設けた部隊。武家の16、17歳の男子約300人で構成。本来は予備隊だったが、戊辰戦争で戦った。各隊は身分によって、さらに士中、寄合、足軽に区別された。飯盛山での自決の悲劇として知られるのは士中二番隊。

379名無しさん:2010/04/01(木) 14:37:54
故・瀬島龍三氏は何という運命を背負って生まれてきたのか:イザ!
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/290750/

国を憂い、われとわが身を甘やかすの記
永田町をうろうろしながら感じたことや、面白かった本の感想などを記し、ときに国の将来を考えたりもします


阿比留瑠比さん

政治部首相官邸キャップ。政治部の前は社会部、その前は文化部生活班に所属。趣味は読書とマージャン。至福の時間はビールを飲み、うまいつまみを食べながら、好みの本(漫画も含む)を読むこと。持病は喘息、高尿酸血症、逆流性食道炎などいろいろ。


故・瀬島龍三氏は何という運命を背負って生まれてきたのか
2007/09/05 13:07


 「昭和の参謀」「昭和の生き証人」などと呼ばれ、山崎豊子氏のベストセラー小説「不毛地帯」の主人公のモデルでもあった瀬島龍三氏が4日、老衰のため亡くなりました。95歳でしたから、大往生と言えるでしょうが、やはり今年6月に妻、清子さんに先立たれたのがこたえたのでしょう。最近はあまり元気がなく、あまり人に会いたがらなかったと聞いていました。

 それにしても、瀬島氏は、何という運命を背負って生まれてきたのでしょうか。今朝の産経抄は「その人生行路は、波瀾万丈との表現が陳腐に感じられる」と書いていますが、私も同感です。元大本営参謀、元関東軍参謀という経歴から、誤解も含め毀誉褒貶も激しい人でしたが、私は一人の人間に、一度の人生に、これほどの多様で重たい運命を与えた「天」の不思議さを感じます。

 私は平成6年ごろ、当時かかわっていたシベリア抑留問題の取材で瀬島氏の会う機会があり、その縁から、瀬島氏の回想録「幾山河」の編集の手伝いをすることになり、瀬島氏からさまざまな話を聞くことができました。初対面のときに、瀬島氏はすでに80歳を超えていたのですが、とてもかくしゃくとしていて、肌のつやもよく、実年齢より10歳近く若く見えたのを覚えています。ここ数年は、数ヶ月に一度、瀬島氏の事務所に近況報告と雑談をしに行ったり、何かの折に記事のコメントをもらいに行く程度でしたが…。

 瀬島氏のエピソードについては、今朝の産経に書いた「秀才中の秀才 数奇な運命」という署名記事の中で、多少は触れましたが、例によって狭い紙面ではとても書ききれなかったので、この場を借りて思いつくまま、順不同に少し紹介したいと思います。なるべく重複は避けてお伝えします。

 瀬島氏は伊藤忠商事の元会長であり、第一義的には財界人なのですが、中曽根康弘氏をはじめ、歴代首相のブレーン・相談役的存在でしたし、臨時行政調査会や臨時教育審議会の委員を務め、国鉄分割民営化などで大きな役割を果たしました。当然、政治や行政とのかかわりも深く、政府の外交強化懇談会の座長として、外務省に総合外交政策局をつくったり、大蔵省の行政の在り方に関する懇談会や、衆議院改革に関する調査会の座長を務めたり、本当に戦後日本の中枢部で「参謀」として働いた人だと思います。

 私のような若造のヒラ記者が「久しぶりに雑談でも」とアポをとっても気軽に会ってくれ、いつも一人がけのソファで足を組み、たばこを吸いながら、ニコニコとしていろいろな意見を聴かせてくれる人でした。ですが、やはり重みと影響力はさすがで、一度、瀬島氏の紹介で厚生省に取材に行った際は、局長さんが自ら出てきて対応するので驚いたことを覚えています。あるとき、アポ通りの時間に事務所に行ったのに、先客がなかなか帰らず、20分間も待たされたので、一体だれだろうとイライラしながら外で立っていると、出てきたのは弊紙の社長とフジテレビの社長で、気まずい思いをしたこともありました。

 平成10年に、社会部から政治部に移ったと挨拶に行くと、「どうかね、政治部の方が面白いだろう」と聞かれ、当時は必ずしもそう思っていなかったので、答えに窮したものでした。3年ぐらい前だったか、突然電話をもらい、「イラクで働いている自衛隊員のために、国民から募って慰問袋を送るというのはどうだろう。外地にいるとき、ああいうものは、本当にうれしいものだ」と言われたこともありました。ものすごいプラグマティストでありながら、情に厚い人だなとも感じていました。

 いろいろと思いがあったのでしょう。戦没者の慰霊・追悼事業にも熱心で、ハバロフスクにシベリア抑留者の追悼祈念碑を建立した際も、私財を提供したと記憶しています。大東亜戦争全戦没者慰霊団協議会や千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会などの会長も務めていました。「幾山河」の印税も、確か慰霊・追悼事業に全額寄付したはずです。

380名無しさん:2010/04/01(木) 14:40:35
>>379
 パール博士顕彰碑建立委員会の委員長でもありましたね。この顕彰碑は京都市東山区にあるそうなのですが、残念ながら行ったことはありません。瀬島氏に、自身も出廷した東京裁判についてのコメントを求めると「本質は、勝者が敗者を腹いせや、復讐のために裁いたにすぎなかった」と述べていました。大東亜戦争は自存自衛の戦争だったというのが持論でした。

 一度、永田町で瀬島氏と某大新聞社のトップがけんかしたという噂が流れたことがありました。その真相はと瀬島氏に聞いたところ、珍しく顔をしかめて「けんかなどしていない。ただ、Wさんはビールを飲んでいるうちはいいが、ヒヤ酒をコップで飲むようになると、わけがわからなくなる」とこぼしました。さて、だれのことでしょう。

 まだまだいろいろな思い出がよみがえってくるのですが、あまり個人的なことを書いても仕方ないので、最後に、「幾山河」の中から、昭和天皇に関する瀬島氏の証言を一つ紹介します。もうご存じの人もいるでしょうが、私は「幾山河」の編集中、瀬島氏の原稿をチェックしていてこの部分で目をはらしてしまったもので。

 《昭和18年5月12日、アッツ島守備隊は強力な米軍の急襲上陸を受けた。山崎部隊長以下2千数百の将兵は勇戦敢闘したが、衆寡敵せず、5月下旬、現地の戦況は、極めて憂慮すべき事態に立ち至った。
 この状況は毎日上聞に達せられていた。5月24日の参謀総長上奏の際、陛下より「山崎部隊は本当によくやった」という趣旨の御沙汰があり、直ちに参謀総長から現地部隊に伝達され、山崎部隊長からも「恐懼感激、最後まで善戦健闘する」旨の返電があった。私はこのころ、南太平洋・東部ニューギニアの戦線へ出かけていたが、大本営から急遽帰京せよと命令を受け、5月20日ごろ東京へ着いた。
 29日、現地部隊最後の夜襲攻撃に先立ち、決別の電報が大本営に入り、それには本電発信とともに暗号書を焼却、全無線機を破壊するとあった。誠に悲痛きわまりない最後の電報だった。
 本電を直ちに宮中へお届けし、翌30日早朝、杉山参謀総長は拝謁の上、上奏した。私はこの参内に随行した。随行の折は随行者は別室で待機し、上奏が終わると総長が別室へ顔を出し「帰ろう」と言うのが通常だったのに、総長はこの日は別室に顔を出さず、ただ黙々として廊下を歩いていった。私は急いで追いかけ、総長の車に同乗した(私は左側座席を占め、運転手との間はガラスで仕切られてあった)。通常だと、坂下門を出たら車中でこの日の上奏内容、特に御下問と奉答について総長に聞き、随行者が車中でメモし、記録しておくのが習わしだった。しかし、この日に限って元帥はこちらから聞いても何も答えず、ただ黙然としていた。
 私がさらに聞くと、杉山さんは口を開き、「きょうは陛下は静かに上奏をお聞きになり、何も御下問はなかった。アッツ島部隊の将兵を追悼されているように拝した。ただ御一言だけ『将兵は最後までよくやった。このことを伝えよ』と仰せられた。畏れながらただいま奏上いたしましたごとく、既に最後の総攻撃に入り、無線機は既に破壊していますので、聖旨をお伝えすることができないと申し上げると、陛下は『それでもよいから電波を出せ』と仰せられた」。
 そして、総長は私に対し「帰ったらすぐ発電するように」と指示した。それを聞いて、私は涙があふれてメモを書くこともできず、杉山さんも言い終わると静かに目を閉じていた。こと切れた子供の名を呼び続ける親の気持ちのような大御心だと思われた。
 私は、帰庁後直ちに御沙汰の電報を起案し、アッツ島へ向け発電したが、普段だと約30分後には電報受領の返電がくるのに、このときは現地から何の応答もなかった。この旨、電話で侍従武官へ報告した。》


2007/09/06 11:09
Commented by 阿比留瑠比 さん
官僚軍人ではあったでしょうが、「赤」だったというのはちょっと違うように思います。中川八洋さんの著作は面白いし、勉強になりますが、ときどき一方的に決めつけるような表現を見受けます。

381名無しさん:2010/04/01(木) 15:04:09
瀬島龍三氏はソ連のスパイではない クライン孝子 杜父魚文庫ブログ
http://blog.kajika.net/?eid=995441

瀬島龍三氏はソ連のスパイではない クライン孝子
2009.11.22 Sunday name : kajikablog

瀬島氏捕虜売り渡しスパイ説の明白な否定理由(1)
参照:「スターリンの国際戦略から見る大東亜戦争と日本人の課題」 落合道夫著

http://www3.plala.or.jp/tkyokinken/ 

さても読者氏より昨日の我が日記に関して
<<いつもありがたく拝読しています。以下の情報の感想です。

引用:>
知人で瀬島と懇意だった同台経済懇話会常任理事・野地二見氏によると「(瀬島の捕虜売り渡し話は)ソ連側が収容所で流したデマエ作によるものだった。このことはソ連崩壊後の情報公開で明らかになった」という。(筆者註:拙著「大計なき国家・日本の末路」より

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396613423/chsakuraj )

感想:瀬島龍三氏の捕虜売り渡しスパイ説は以下の理由で明白に否定されます。

1.左翼が流すデマ:本当ならソ連が許すはずがない。ということで話にならないオソマツ。

2.ソ連工作の実態:スターリンは第二次大戦で捕えた各国の捕虜をスパイに使うことを考えた。そこでスパイになれば早く帰すという条件でスパイを強要した。

この結果日本では五百名とも一千名ともいう捕虜が、ソ連スパイになることに同意して帰国を許された。これはドイツ、イタリア、その他の捕虜も同じである。

彼らは帰国すると、日本共産党などの在日左翼組織とは一切関係を持たなかった。いわゆるスリーパーになったのである。そして各分野で昇進した。そしてある日、電話がきて、恐ろしい暗証をいう。スパイ強要の始まりである。

3.早期帰国:したがってソ連スパイの条件は早期帰国者である。そうでないと社会で昇進できないからである。スターリンは下層階級の人間は利用価値がないのでまったく相手にしなかった。

瀬島氏は10年以上の抑留を経験し、スターリンの死で始めて釈放された人である。本来は殺されていた人である。ということでスパイではないことが簡単に分かる。スパイはすぐに帰国したのである。

4.瀬島龍三氏の事績:ソ連は帰国させたことが悔しくて、左翼をつかって誹謗中傷をした。それを信じる日本人は馬鹿である。しかし、謀略工作ではソ連は超一流である。人間の卑しい心理をよく知っている。

■「愚かな大衆は連想し、知識人は推理する」(2)
5.近衛文隆氏の暗殺:近衛首相の長男・文隆砲兵中尉は抑留10年帰国が決まると、直前に毒殺された。KGBの仕業である。彼はスパイになることを拒否してきたのである。

文隆氏は、戦前米国に留学した人で、人格識見とも立派な人であった。だからソ連は日本支配の邪魔になると思い殺したのであろう。

仏のジャック・ロッシ氏は、獄中で近衛氏と会話(英語)した時の楽しい思い出を書いている。近衛中尉は長年の苦難にまけないさわやかな方であったという。文隆氏は同囚の日本人捕虜が病気で弱っていると、自分の乏しい食事を分け与えるような立派な人であった。

以上から、瀬島氏スパイ説は、全く馬鹿げた話であることが分かる。「愚かな大衆は連想し、知識人は推理する」とルボンは記している。

瀬島氏スパイ論は、謀略にすぐだまされる愚かな大衆の連想の結果である。しかしちょっとでも歴史を知っている知識人が合理的に推理すれば簡単に否定されるのである。

なお「正論」12月号において

http://www.fujisan.co.jp/Product/1482/

東京大学名誉教授小堀桂一郎氏も瀬島氏の捕虜売り渡しスパイ説疑惑について、拙著に対する書評の中で、
以下のように述べておられます。

<<生き残った軍人達の貴重な力をこの面(筆者註:戦後の情報戦)に活用できなかった不明にもまして、大きな過誤は、戦没将兵の霊に対する政府の忘恩と非礼である。

これは戦後の歳月の経過につれて益々顕著になった疲弊で、著者によれば、<占領政策の教育効果>が深く静かに潜行して日本人の精神の根幹をと(漢字)害し続けた、占領後遺症の重患部である。

論壇や自称現代史家達の中にも俗に言ふ能天気な人々が如何に多いか。

故瀬島龍三氏に向けられた所謂「密約疑惑」について著者は<これは戦争、とりわけ欧米諸国を相手に戦争し負けたらどうなるか、その実態を知らぬ者の実に無責任極まる発言>と断言してゐる。

評者も全く同感である>>

382名無しさん:2010/04/01(木) 15:05:04
>>381
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近衞文隆(このえ ふみたか)= 1915年4月3日 -1956年10月29日 死没地 ソビエト連邦イヴァノヴォ州

近衞文隆は、昭和期の陸軍軍人。元首相近衞文麿・千代子(父は豊後佐伯藩主・毛利高範、子爵)夫妻の長男。家系は藤原北家の嫡流にして摂家筆頭・近衞家。京都府出身。階級は陸軍中尉。位階は従五位。学歴はプリンストン大学政治学部修業。

学習院中等科卒業後、外交官を目指し、周囲の反対を押し切りアメリカに留学し、ローレンスヴィル高校を卒業、プリンストン大学に学んだ。ゴルフ部長として全米1位となる。滞米中はアマチュアゴルファーとして活躍。1938年(昭和13年)に帰国し、父の秘書官となる。

翌1939年(昭和14年)、東亜同文書院講師、兼学生主事(俸給・月 117円60銭、在外手当・月 54円40銭)に就任して上海へ赴く。上海では蒋介石との直接交渉の必要性を感じ、政府要人の娘と交際してその手引きで重慶に向かおうとして憲兵隊に捕まり、閣議でも問題視されたため帰国。

なお、中国側の女スパイだった鄭蘋茹に篭絡された文隆が機密情報を漏洩するのを恐れて帰国を命令したとする説もある。帰国後も青年同志会という組織を作って直接交渉を主張した。そのため軍部から問題視され、1940年(昭和15年)2月に召集され、満州阿城砲兵連隊に入隊。幹部候補生考査に合格して陸軍中尉まで昇進。

太平洋戦争のさなか、貞明皇后の姪・大谷正子と1944年(昭和19年)にハルビンで結婚。1945年(昭和20年)8月15日、満州で終戦を迎え、GRUのスメルシ部隊によって襲撃を受け、8月19日に捕虜となる。その後、シベリア抑留で15ヶ所もの収容所を転々と移動させられた。

1949年(昭和24年)のハバロフスク裁判で国際ブルジョアジー幇助という罪で25年の禁固刑を受ける。抑留中は士官であることを盾に労役を断固拒否しソ連に対し気骨のあるところを見せた。1955年(昭和30年)の日ソ国交正常化交渉に際し、鳩山一郎首相の帰国要求や国内からの数十万人もの署名入りの嘆願書があったが、帰国が叶うことはなく、1956年(昭和31年)10月29日にイヴァノヴォ州レジニェヴォ地区チェルンツィ村のイヴァノヴォ収容所(内務省第48号ラーギリ)で、動脈硬化による脳出血と急性腎炎のため死去したとされる。しかし、ソ連による暗殺説もある。その後、遺骨は正子夫人の尽力で1958年(昭和33年)に帰国した。

1991年(平成3年)10月18日付「政治弾圧犠牲者の名誉回復に関する」ソ連法第2条、3条で無罪、名誉回復。1992年(平成4年)2月27日、ロシア連邦軍最高検察は、近衞文隆の名誉回復を採択、1997年(平成9年)10月16日、ロシア軍最高検察から名誉回復証明書を出した。

正子夫人との間に実子はない。庶子(妾腹の子)に俳優の東隆明がいる。東には男子がいる。文隆という嫡男を失った近衞家は、文麿外孫の細川護莩を養子となし、護莩は近衞忠莩と改名した。

杜父魚ブログの全記事・索引リスト 
| クライン孝子 | 08:29 |

383荷主研究者:2010/04/03(土) 23:52:54

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/03/20100327t63012.htm
2010年03月27日土曜日 河北新報
福島大の松川資料室存続が決定 基金で運用研究所も設立

 1949年、福島市松川で起きた松川事件の裁判記録などを収蔵する福島大の「松川資料室」の存続が、26日までに正式決定した。基金を設け、大学が研究員を引き続き雇用する。「松川事件研究所」も設立し、充実を図る。

 資料室で事件の資料収集・管理を担ってきた福島大名誉教授の伊部正之さん(68)が、4月以降も研究員として残る。任期は2年。大学側が負担してきた人件費は、元被告や支援者らによる福島県松川運動記念会と大学で基金を設立し、賄う。

 4月1日には学内に松川事件研究所を発足させる。メンバーは教授や県内の弁護士ら学内外の16人。法律や政治、文学などの多様な分野から、事件の背景や裁判などを総合的に研究する。松川事件を扱う授業の開講も検討する。

 資料室を管理する福島大地域創造支援センターの伊藤宏之センター長(65)は「研究員のいる資料室の存続を求める声が全国から寄せられ、期待に応えるのが大学の使命と考えた。研究員の後継者育成が今後の課題になる」と話している。

 資料室は88年の開設で、元被告の手紙など約10万点を所蔵している。伊部さんの任期が3月末で切れるため、資料室が機能しなくなるのではないかと不安視する声が出ていた。

[松川事件]1949年8月17日、福島市の東北線金谷川―松川間で列車が脱線転覆し、乗務員3人が死亡した。労組員20人に一、二審で死刑を含む有罪判決が言い渡されたが、被告の支援運動が全国に広がり、61年に仙台高裁での差し戻し審で全員無罪が言い渡された。63年に確定。

384荷主研究者:2010/04/10(土) 17:01:14

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/04/20100403t13014.htm
2010年04月03日土曜日 河北新報
魯迅直筆の書幅を東北大に寄贈 参院議員高良とみさん遺族

魯迅の書幅を東北大に寄贈する高良真木さん=神奈川県真鶴町

 仙台で留学生活を送った中国の文豪・魯迅(1881〜1936年)の書幅(掛け軸)が、留学先の仙台医学専門学校(現東北大医学部)の流れをくむ東北大に寄贈されることが固まった。東北大には直筆の史料が残されておらず、魯迅の顕彰に弾みがつくと期待されている。

 書幅は、男女同権や平和運動に取り組み、戦後に初の女性参院議員の一人となった高良(こうら)とみさん(1896〜1993年)のため、魯迅がしたためた。とみさんの長女で画家の真木さん(79)=神奈川県=と、次女で詩人・評論家の留美子さん(77)=東京都=が大切に保管してきた。

 とみさんは31年9月に起きた満州事変に反対し、中国の知識人と話し合おうと32年1月、上海に渡った。日中文化人のサロン的存在だった上海内山書店の店主内山完造(1885〜1959年)に魯迅を紹介された。

 魯迅は当時の国民党政府に反体制的と目されて追われ、日本人にかくまわれていた。魯迅はとみさんと会食し、政治談議は避けつつ、日本時代を懐かしんだ。魯迅は10日ほどして書幅を記し、内山に託してとみさんに贈ったとされる。

 書幅には、1句7字の4句で起承転結を成す七言絶句の漢詩が書かれていた。前半は中国の人民が払う犠牲への祈り、後半は国難への対処を欠く国民党政府に対する風刺と解釈されている(高田淳「魯迅詩話」中公新書)。

 真木さんと留美子さんは昨年、とみさんと親しかった日中友好協会の関係者の打診を受け、東北大への寄贈を決めた。真木さんは「初対面の母に魯迅が書幅を贈ったのは、進むべき道を共有できたからだろう」と推し量る。留美子さんは「母の足跡や時代背景を含めて理解してほしい」と望んでいる。

 阿部兼也東北大名誉教授(中国文学語学)は「かつて国内には魯迅の書や手紙が少なからずあったが、多くは日中親善のため中国に贈られ、直筆のものは少ない」と学術的にも評価する。

 東北大の北村幸久副学長は「大変ありがたい。展示や保存の方法を工夫し、しっかりと後世へ伝えたい」と話している。

[満州事変] 1931年9月18日、中国東北部(満州)で日本の権益を代表した南満州鉄道(満鉄)の線路を、日本の軍隊である関東軍が爆破した。関東軍は中国側の仕業として満州全域へ軍事行動を広げ、後の日中全面戦争への転機の一つとなった。

385とはずがたり:2010/04/16(金) 04:01:05

米軍「自殺協定」と認識 慶良間「集団自決」
県公文書館が電文確認 日本兵の強制背景に
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-04-14_5715/
2010年4月14日 09時58分
(42時間2分前に更新)

 沖縄戦時下の慶良間諸島の「集団自決(強制集団死)」をめぐり、米軍が本国などへ報告した電文の中に、日本兵から投降を禁じられていた住民が「米軍上陸前の自殺協定(約束)」のため、多数が死傷したとする記述があることが13日までに分かった。打電の時期は米軍が「集団自決」発生直後に日本兵や住民へ尋問した直後にあたる。地域や戦場で影響力を持つ日本兵と住民の間に、強制力などで導かれた「集団自決」が存在したとの米軍側の見方をうかがわせる公文書として注目される。(知念清張)

 電文は1945年4月8日付。地上戦を担ったバックナー陸軍中将率いる第10軍が陸軍省やハワイの太平洋司令部などに報告した「アイスバーグ作戦(沖縄侵攻作戦)」の日付順ファイルに収められていた。県公文書館が、米国立公文書館から取り寄せ確認した。

 電文は「慶良間列島において、約350人の住民が軍政府の管理下に置かれ、病人を除く全員が一つの村に収容されている」と捕虜の状況を説明。「壕で一緒にいた日本兵から、(米軍に)投降することを禁じられていた住民約200人がいた模様。そのうち、米軍上陸前の自殺協定により、約20人が死亡、60人がのどに切り傷を負った」と記述されている。

 米軍による慶良間諸島での尋問記録から、日本兵が住民に「集団自決」を命令していたことを、2006年に明らかにした林博史関東学院大教授(現代史)は「住民は米軍が上陸した時には自殺するよう言い含められていた。協定というよりも約束させられていたという意味合いが強い」と指摘。

 「戦闘状況などを簡潔に報告する大文字だけの電報からは通常、住民の被害は上がってこない。それだけ、集団自決の事の大きさを米軍が認識していたのではないか。日本兵の集団自決への強制や誘導を、裏付ける資料になる」と語った。

 「集団自決」についての米公文書を県公文書館が確認したのは今回が初めて。仲本和彦公文書主任専門員は「集団自決を直接見聞きする状況になかったため、米軍側にも記録はほとんど残されていない。歴史を体系的に解明する助けになれば」と話している。

386名無しさん:2010/04/16(金) 04:23:41
ここにも貼っとくかw
NHKが昨年に引き続き、またしても今年も反日偏向番組の放送を予定しているようだ。
とはずがたり、オマエもしっかり反日売国偏向をチェックしておくように。

__________
2010年4月18日(日) 午後9時00分〜10時13分
総合テレビ
http://www.nhk.or.jp/special/onair/100418.html
プロジェクトJAPAN
シリーズ 日本と朝鮮半島
第1回 韓国併合への道 
伊藤博文とアン・ジュングン

1910年の韓国併合から100年になる。
日露戦争後の世界で日本はどのようにして大韓帝国を併合したのか。
その後35年に及ぶ植民地支配や、戦時動員の実態はどのようなものだったのか。
さらに戦後の関係改善はどのように行われていったのか。
5回シリーズで日本と朝鮮半島の100年の歩みに迫っていく。

第1回は、1910年の韓国併合。
その歴史的評価をめぐって、今も日韓の間で議論を呼んでいる。
その中心人物・伊藤博文について、最近、新資料が発掘された。
伊藤は欧米列強との協調を重視し、一種の「自治植民地」も構想していたというのだ。

しかし、1905年、日露戦争の勝利を受けて、伊藤が韓国を保護国化した
第2次日韓協約を結ぶと、大韓帝国皇帝・コジョン(高宗)と対立する。
1907年、コジョンはオランダ・ハーグで開かれた万国平和会議に密使を派遣。
協約が自らの意志に反すると訴えようとした。
しかし、英米だけでなく、議長国ロシアも外交方針を転換、日本と協約を結んでいた。

このハーグ密使事件を機に、伊藤がコジョンを退位させると、激しい義兵闘争が起こる。
そして、1909年、伊藤はアン・ジュングン(安重根)により、ハルビンで暗殺された。
アンは獄中で「東洋平和論」を執筆、韓国、清、日本が「みな自主独立して行くこと」を考えていた。
しかし、日本は韓国併合から大陸進出へと歩み出していった。

伊藤博文とアン・ジュングン、二人の軌跡を新資料で描き、
韓国併合への道を国際的な視点から明らかにする。

ちなみに第2回以降もこのような香ばしいラインナップwwwwwwww

第2回「民族自決を求める声」(仮)
第3回「戦場に動員された人々」(仮)
第4回「冷戦に引き裂かれた在日コリアン」(仮)
第5回「日韓関係はこうして築かれた」(仮)

387建設的与党らいおんはーと ◆S3/.7DxKSg:2010/04/19(月) 22:24:39
NHK「JAPANプロジェクト 伊藤博文と安重根」 - 村山談話から15年
http://critic6.blog63.fc2.com/blog-entry-276.html

今年は韓国併合から100年の記念年ということで、NHKが日韓近現代史の特集を5回シリーズで放送することになり、
第1回が昨夜(4/18)放送された。昨年、台湾論が放送されて話題を呼んだ「プロジェクトJAPAN」の第2幕で、
五十嵐公利が制作を統轄している。
今回の放送はそれなりに無難な出来で、台湾論のときのような問題は起きないだろう。
閔妃暗殺事件など、若干物足りなく感じる部分もあったが、73分間の内容は充実して面白く、知識や情報の面で有意義だった。
特に安重根に対する捉え方は積極的で、従来の日本人一般の歴史認識からは一歩踏み込んで、義士としての側面をよく浮かび上がらせ、
すべての国が自主独立できることが東洋平和なのだとする思想に内在的に光を照射していた。
伊藤博文暗殺の動機に理解的に接近する歴史認識の態度であり、韓国と歴史認識を共有する上で重要な契機となる。
しかし、この程度の番組は、もっと早い時期に制作され放送されているべきだった。
20世紀中にNHKが作品にしていておかしくなかった。

遅くなったのは、この間の日本の政治状況が極端に右傾化したからで、
今回の放送についても、安倍政権下であれば困難だっただろうし、政治の横槍が入って、自粛か改編の騒動に及んでいただろう。

右傾化は無益で、国益の損失をもたらすばかりである。
日本人は、韓国と仲良くすることが、どれほど国益を利して日本を富ませる方向に導くかを理解していない。

今年は村山談話から15年の年でもある。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、
植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、
心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、
責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません」。

こう宣言した村山談話は、特に韓国との二国間関係で基本法的な意味を持つ。この声明の準備に関わった人間が3人いる。
武村正義、鳩山由紀夫、司馬遼太郎。談話が出されたのは村山内閣だったが、準備と言うか、助走は細川内閣のときから始まっていた。
中心人物として名前を挙げるべきは武村正義だろう。
細川内閣のとき、司馬遼太郎が文化勲章を受賞した。当時、この50周年の宣言文の起草を司馬遼太郎が担当するのではないかという噂が立ち、
朝日新聞などはその前提で記事を書いていた。実際のやりとりは不明だが、残念ながら、その構想は実現に至らなかった。

武村正義と五十嵐広三がそういう依頼をしていたと考えるのは、特に外れた見方だとは思わない。
村山内閣の官房長官だった五十嵐広三は、96年3月の「司馬遼太郎さんを送る会」に出席していて、私はそれを大坂ロイヤルホテルの現場で目撃した。
鳩山由紀夫の東アジア共同体構想が出たときは、鳩山由紀夫が細川内閣の官房副長官を務め、記憶は曖昧だが、
特に歴史認識の領域で斬新で画期的な政府発言を繰り返したのを思い出し、当時との内面的な継続性を思わされた。
格調高い宣言文を日本は出したが、その後の15年間は、この宣言を行動で裏切って後退させる一方で、

特に小泉政権から安倍政権にかけての戦前回帰の妄動によって、日本政府は自らの立場を矛盾なく説明できなくなっている。

388チバQ:2010/05/04(火) 10:33:37
自分にとってバブルは歴史です
http://www.zakzak.co.jp/zakspa/news/20100427/zsp1004271036008-n1.htm
超ベタベタ“本物グルメ”へのこだわりに一体何の意味が★女がダメ出し! 痛い[40代バブル男]の共通点

2010.04.27
 ’87〜’91年に起こったバブル景気。この間の狂乱っぷりも、もはや昔話となり、当時、就職活動を行った“バブル世代”も、40代の立派な中年である。そして今、なんでも、このバブル世代が「若い女のコにモテる!?」と、うっかり、ときめいているんだとか……。現実は、さにあらず。若い女性たちから聞こえてくるのは、いまだギラギラが冷めない40代バブル世代への「イタい」「ウザい」といったブーイングだった!

 ■バブル時代の風景 会社の接待や忘年会が高級レストランや会員制クラブで行われ、高級食材を貪るグルメブームが起こった。イタリアンを「イタ飯」と呼んだり、ボジョレー・ヌーヴォーを異常にありがたがったりもした。

 ◇

 「新入社員の頃、経費月30万円を使うため、キャバクラや高級レストランに行きまくった」という男性(43歳・広告)の証言もある。確かに、いい店に行き、いい食材を食してきたのであろう。 しかし、

 「上司と食事に行くことになり、『回転寿司に行きたい』と言うと、『オレ、チェーン店とかって嫌いなんだよね』と連れていかれたのが車で1時間かかる高級寿司店。注文が不慣れな私に対して、ネタを知りつくしたように自慢げに自分の注文をしていくのがウザかった。私は回転寿司で気軽にお腹いっぱい食べたかったのに、食べた気がしなかった」(24歳・サービス)と、女のコはおいしいもの、高級なものならなんでも喜ぶと思い込んでいるのが、そもそも大いなるカン違い。

 まあ、ごちそうしてくれること自体はありがたくはあるのだが、「残業中の差し入れにピエールマルコリーニのアイスなど有名店のスィーツを買ってきてくれるのだが、『あのアイス、おいしかったろ?』とあとになってもしつこく言ってくる」(28歳・エネルギー)、「高層ビルの夜景のキレイな焼き肉屋に連れていかれ、終始、『こんないいお肉、食べたことないでしょ?』と何度も言われた」(30歳・エネルギー)と、恩を着せられてまで食べたくはない。

 さらに、「『バブル世代だからさ、食べきれないくらい料理頼まないと気が済まないんだよね』と、大量に注文して残す。もったいない……」(29歳・派遣)と、バブルな価値観がエコな時代に浮きまくるのも当然だ。「会社の女のコたちで『どこそこの○○がおいしいよね』と盛り上がっていると、片っ端からケチをつけてくる。『本物を知ったら、あんなの食べられないよ〜』と」(29歳・コンサルティング)

 そう、彼らの決めゼリフは、「本物の味を知っておかないと」。

 しかし、「ロマネコンティに異常なまでに反応」(32歳・IT)したり、「バーでマッカランを注文。『デキる男はこれだよね』と言った」(26歳・マスコミ)り。

 安価でもおいしいものがたくさんあり、選択肢も格段に増えた今、その超ベタベタの“本物”へのこだわりに、一体、如何ほどの意味があるのやら。

389チバQ:2010/05/04(火) 10:34:40
 ■バブル時代の風景 安田火災がゴッホ「ひまわり」を53億円で落札するなど、ジャパンマネーが世界を席巻。一般人も高級車を買い求め、BMW3シリーズが六本木カローラと言われたり。「24時間戦えますか」が流行語に。

 ◇

 若い世代の車離れが指摘されるが、「ベンツに乗っている上司に、『この車以外は乗れないよ。オレ、一流のものが好きだからさ』と言われた」(26歳・事務)とまあ、バブル世代にとって相変わらず車はステータスなのである。とはいえ、

 「42歳上司は20代の頃に買ったトライアンフのクラッシックカーが宝物。『月1回、イトーヨーカドーに行くくらいしか乗らないけどね』とうれしそうに語るが、月2万円の維持費に駐車場代までかけるなんて理解できない」(25歳・販売)と、車離れが指摘される若い世代に、その価値は伝わらない。

 しかし、彼らを面倒くさいと感じるのは、彼らが信奉する「高級=ステータス」の方程式が理解できないだけではない。

 「高層マンションに住んでいることを自慢したいらしく、頻繁にホームパーティに誘う。『素敵なマンションですね〜』とか褒めたりするのがめんどくさい」(28歳・商社)と、自慢話のお相手をするのにうんざりなのである。

 そんな40代バブル男が疎まれるのは、職場でも同様だ。

 「『接待もしないで仕事は取れないんだよ』と豪語。社長に疎まれていることすら気づかず、自分は仕事ができると思い込んでいる」(29歳・派遣)、「経費削減でバイトを解雇したため、社員も雑用をすることになったのだが、45歳の同僚は『これはオレの仕事じゃないよ』と文句ばかり」(30歳・IT)とその危機感のなさに、あきれる声多数。

 また、「特別賞与で1万円が支給され、みんなで喜んでいたら、『たった1万円でそんなに喜んでんの?』と、盛り上がる雰囲気を台無しにした」(32歳・飲食)と、なぜか場の空気に水をさしたがる。

 「『出世したければオレに聞け!!』とオレ様ぶり、飲み会の会計時は『いいよ、オレが出すから』と言うのだが、実際は立て替えているだけ。月末に1か月分の割り勘合計額が請求される。マジうざい」(26歳・販売員)と、気持ちだけはバブルでも、懐具合がついていかないのは痛々しいが……そもそも、ムリしなきゃいいのに。その虚勢がイタいんだってば。

 ■バブル時代の風景 アッシーやメッシーという、今となったら気恥ずかしい造語も誕生。クリスマスには、シティホテルは3か月前から満室。高級レストラン→カフェバー→ホテルが“ヤレる”デートの定番だったが……。

390チバQ:2010/05/04(火) 10:36:26
 ◇

 とにかく多かったのが、“肉食”40代バブル男性による被害報告だ。

 「合コン帰り、駅までワンメーターなのにタクシーに乗せられて、車内でキスされた」(27歳・商社)、「サークルで付き合いのある男性。電車で帰る途中、耳元で『このあと、どこに行く?』と囁かれた。どこにも行かないし」(25歳・派遣)、「得意先の40代ベンチャー社長に打ち合わせだとホテルの部屋に呼び出され、『風呂、入っていきなよ。眺めいいよ』と言われた。ホテルの部屋をとりさえすれば、ヤレるとでも思っているのだろうか」(27歳・自動車)など、そのアグレッシブさはある意味、尊敬。

 しかし、「『オレの若い頃はさぁ〜、最高で同時に3人の女とヤッた』という話が定番の自慢話」(24歳・金融)と、武勇伝を披露する人はこの世代、やたら多いのだが、「知人はバーで美人を発見すると『シャンパンをあちらの女性に』と言う」(28歳・製造)、「デートに誘われ断ったら、『寿司屋でゴールドカード、食後は車でドライブに夜景スポット。これで普通の女は落ちるんだけどな。君は難しいな』だって。アホか」(22歳・事務)とまあ、その口説きのテクニックもバブル……というか、古っ!!

 女性にしてみたら、普段行きなれない店や場所に連れていってもらい、大事に扱われることにときめかないわけではない。とはいえ、

 「『女のコは歩くの苦手でしょ?』とワンメーターでもタクシーを使い、しかも、わざわざカードで支払う。運転手さんに悪くて、私がいたたまれない」(28歳・証券)、「沖縄旅行に連れていってもらったが、台風が来ているのにもかかわらず、彼が事前に作ったオリジナルの旅のしおりどおりの行動を強いられた」(30歳・メーカー)、「合コンの2次会用にと、リムジン&シャンパンを予約していた。すでに時間は24時。平日開催の合コンで明日は仕事。当然、お断り」(27歳・メーカー)と、相手の都合や気持ちを考えない、カネにモノをいわせてのオレ様アピールはうんざりなのである。

 若い男子が草食化していると言われるだけに、肉食40代男性が下の世代に“猟場”があると踏んだのだろうが……20年前の成功体験を今に蘇らせても、盛りのついたオッサンにしか見えないわけで。それ、かなりイタいっすよ〜。

 ■バブル時代の風景 トサカ頭をした女性はボディコン、男性はソフトスーツ(アルマーニが流行)に身をつつみ、でかい肩パッドを揺らして闊歩。金のネックレスも流行した。ブランド全盛で「ハウスマヌカン」が人気職種にも。

391チバQ:2010/05/04(火) 10:36:37
 ◇

 若い頃に培ったセンスはそうそう変えようもないのだろうが、「20年前から変わってなさそうなテクノカットは、社内では笑いのネタ」(28歳・小売)と、時が止まってしまった人へのダメ出しが続出した。

 「44歳の取引先が飲みに連れていってくれたときのこと。支払い時に彼はおもむろにポケットから裸の札束を出し、その札束はキレイにクリップでとめられていた。マネークリップというものを、初めて知りました」(28歳・代理店)と、若い世代に新鮮に映ればまだいい。が、「今どき、セカンドバッグで通勤」(29歳・流通)なんて人もいまだ生息しているようで、「しかも、客先へもセカンドバッグで行くので、会社の品位が疑われないか心配」されている。

 また、当時のブランド信仰は強烈だったのだろうが、「全身ブランド。しかも、ロゴ入りがお好きのよう(笑)」(29歳・看護師)、「職場の人とテニスをしたとき、ポロシャツの胸元に金のネックレス。『これがないと調子が出なくって』と言われ、返す言葉がなかった」(27歳・保険)、「『これ、いいでしょ』とやたら自分の服やら時計を自慢し、聞かれないと自らブランド名を吹聴する」(31歳・建築)と、カネをかければオシャレだという発想がシャレてないのである。

 「夏は白いパンツに素足に白い靴。サングラスで出社し、『おはよう』と言いながら、そのサングラスを頭へ。格好だけはイタリア人だが、胸元の開いたシャツの隙間から段腹が見えた」(27歳・出版)、「ここぞという商談には、真っ黒のスーツにゼロ・ハリバートンのケース。そんな日は、『出たよ』と皆が彼に注目」(31歳・IT)と、気合が入りすぎてもイタいのである。

 トレンドについていったとしても、「着こなしがやっぱ’80年代。パンツの股上が深い。ハイウエストでベルトをギュッと締めがち。パンツはタックが一個余分。全体をまとめる力に欠ける」(32歳・アパレル)、「なぜ、リブ編みのカラーソックスをはくのか疑問」(29歳・販売)と、厳しいファッションチェックは続く。

 「ブルガリやD&Gの香水でイタリア男気取りの上司。『パフュームが僕の香りになっている』というが、女子社員、失笑」(28歳・商社)なんて話もあって。アラミスに馴染んだ世代。香水で伊達男を気取りたい気持ちもわからんでもないが……女性にとっては、ただの加齢臭消し!?

392荷主研究者:2010/05/07(金) 00:18:11

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/miyagi/news/20100426-OYT8T00105.htm
2010年4月26日 読売新聞
「尚和会」実態明らかに 東北大
大戦直前の1936年誕生 左翼学生再教育の場 

謎の団体だった「尚和会」についての新聞記事をみる柳原教授

 大戦が起きる直前の1930年代後半の不穏な時代の中にありながら、東北大で輝かしい青春の記憶として語り継がれる学生団体「森鴎外の会」。最近、鴎外会の前身だった謎の組織「尚和(しょうわ)会」の実態が、当時の新聞記事などから明らかになり、鴎外会設立の経緯なども浮かび上がってきた。(岡本公樹)

 鴎外会については、会報や回顧録などでその内容や活動について記録されていたが、尚和会については手記などが存在せず、設立された経緯や理由、内容の手がかりも見つかっていなかった。

 東北大百年史編纂の一環として、戦前の大学史を研究していた同大文学部の柳原敏昭教授が、鴎外会を調べていると、見慣れぬ名前の団体「尚和会」の存在に気付いた。

 教授の依頼で、同大百年史編纂室の中川学講師が、大学の資料室を探すと、埃をかぶっていた資料の山から、読売新聞をはじめとする尚和会についての新聞記事のスクラップを発見した。

 当時の日本は、治安維持法(1925年)などで共産主義者らを厳しく弾圧。30年代には、東北大でも左翼活動をした学生が大量に検挙、退学させられた。彼らが復学するための「再教育」の場として36年に作られたのが、尚和会と判明した。

 記事には、学生たちが「自主的」に設立したとあるが、実態は治安当局が主導したもので、会に参加することが復学の条件となっていたという。

 この会は、左翼運動家を監視する保護司制度ができたことでわずか10か月後に解散。翌37年、入れ替わるようにできたのが鴎外会で、尚和会の趣旨を引き継ぐものとして、思想犯担当の検事が、太田正雄・医学部教授(当時)に設立を依頼した。

 だが、文学者「木下杢太郎」のペンネームを持ち柔軟な思想だった太田は、「換骨奪胎」(柳原さん)して、森鴎外の作品の輪読などを自由な雰囲気の中で行った。この風通しの良さが学生たちの忘れられない青春の思い出として語り草になったとされる。

 柳原教授は「思想を上から一方的に修正する尚和会があったからこそ、多様な思想や文化を学ぶことで自分を見つめ直させる鴎外会が輝いて見えたのではないか」と話している。

393名無しさん:2010/05/26(水) 13:44:51
ジョン・ウォーカー・ジュニア・スパイ事件

「防衛取得研究」(第一巻 第一号)(平成19年06月)<PDF>
070630aquisionresearch_spring
http://www.bsk-z.or.jp/kakusyu/pdf/070630aquisionresearch_spring.pdf

米海軍スパイ事件の教訓

主任研究員高知尾隼

はじめに
 本事件が明らかになって既に20年以上が経過したが、事件の全容を紹介している「FAMILY OF SPIES」の日本語の翻訳本がないためこれを抄訳し、併せて当事件から教訓を導き、防衛省職員及び防衛関連企業関係者の秘密漏えい防止に資することをねらいとする。

1 事件の概要
 本事件は、1967年、当時米海軍准尉であったジョン・ウォーカーが、ソ連大使館に暗号規約を持ち込み、以後退役まで現金と引換えに暗号規約、暗号機のテクニカルマニュアル、米海軍の作戦基本計画等を提供し、1976年退役後は、海軍の友人ジェリー・ウィットワース、兄アーサー・ウォーカー及び息子のマイケル・ウォーカーから引き続き海軍の情報を盗ませ、ソ連に渡すことにより、米国の国防のバックボーンに大打撃を与えた。
 離婚していた妻バーバラが、1984年末、FBIにジョンのスパイ行為を通報し、翌年一味は逮捕された。
 この間に、米海軍の100万通の電報が解読されたといわれる。

2 ソ連との取引
 1967年4月、ジョンは当直中に第2次大戦から最もよく使われている暗号機KL-47の暗号規約を複写し、当直明けにワシントンにあるソ連大使館に赴き、これを渡すとともに暗号機等の情報を提供できることを申し出た。
 後日バルチモアの路上での会合で、ジョンはベトナム戦争で使用していた暗号機KW-7と暗号規約、水中固定機器(SOSUS)等に関する資料を提供できることを、ショッピングリストとしてKGBエージェントに手渡した。
 KGBは、情報資料は複写によることなく、ソ連側が用意するMinoxカメラで撮影すること、情報資料及び現金の授受は、デッド・ドロップ(情報提供者が情報を、工作員が現金をそれぞれ指定地点に置き、お互いが顔をあわせることなく持ち去る)によることをメモ書きした紙きれを手渡した。(ジョンの逮捕までにデッド・ドロップは30回に及んだ)
 ジョンは退役までソ連にKW-7等の暗号規約を半年に1回程度渡していた。(ソ連は、傍受電報をテープに録音しておき、数か月遅れで解読していたと考えられる。)その他、米ソ間の戦争開始時の米海軍の攻撃基本計画、SOSUSのマイクロフォンの敷設位置、沈没した米原子力潜水艦スコーピオンの捜索情報等が渡されている。

3 海軍の友人ジェリー・ウィットワースのリクルート(スパイ組織への引き込み)
 1974年ジョンは退役後の情報提供者として、サンディエゴの通信学校勤務中に知り合ったジェリーに、ユダヤに秘密を売れば月4千ドルになると持ちかけた。
 ジェリーは1976年から1983年の間、インド洋のディエゴワルシア基地や空母エンタープライズから、KW-7暗号機や新しい暗号機の技術情報や暗号規約を持ち出し、ジョンに渡していた。
 これらは米海軍にとって最大の被害であったと連邦検事は述べており、ジェリーの情報に対するソ連の支払いが、月1万ドルに上っていたことからも情報の重要性が理解できる。

4 兄アーサー・ウォーカーのリクルート
 アーサーは、海軍少佐で退役後、1975年からジョンの資金援助を得てカーステレオ販売店を経営していたが、1979年に倒産した。
 アーサーは海軍と最大の取り引きを持つVSE社に勤務し、ノーフォークでの艦艇のオーバーホールに関する仕事に従事していた。
 ジョンは、ジェリーだけに情報を頼ることに不安を持ち、アーサーを仲間に引き込むことを考え、1980年、過去の資金援助の見返りに、アーサーに秘密区分のない資料をコピーするように要求した。ジョンは、この資料に対し4千ドルを支払い、以後秘密資料を提供するよう要求した。
 第7艦隊旗艦ブルーリッジのダメージ・コントロール・ブックや強襲揚陸艦の技術資料及び両用戦艦艇の過去5年間の故障発生に関する情報がソ連に渡された。

5 息子マイケル・ウォーカーのリクルート
 マイケルは、ジョンとバーバラの4人の子供の末っ子であり、父を一番よく慕っていた。ジョンは情報源を確保するため、マイケルを海軍に入隊させた。
 ジョンはマイケルが空母乗組みになると、他の乗員が家族にしているように長期行動について知らせるよう言い含め、さらに複写した秘密文書に1か月5千ドル払うと持ちかけた。
 F-14戦闘機、トマホークミサイル、スパイ衛星及び新型機雷に関する資料が空母ニミッツから持ち出されたが、ソ連に渡ったかは不明である。

394名無しさん:2010/05/26(水) 13:49:21
>>393
6 スパイ活動の暴露
 バーバラは、1976年に離婚した後、ジョンが子供の養育費を一度も払ってくれないこと、及びスパイをさせる目的で長女のローラを海軍に入隊させようとしていること等から、1984年11月、FBIボストン支所に電話をして援助を求めた。
 バーバラは、FBI担当官に直接会い、ジョンと共にワシントン郊外でデッド・ドロップをしたことを話した。担当官は、バーバラがアル中であること、ジョンは1976年に退役しスパイをしているか疑わしいことから、これ以上の調査は必要なしと判断した。
 1985年春、この報告はノーフォークFBIにもたらされた。バーバラがポリグラフにパスしたことからFBIはバーバラの訴えを取り上げ、スパイのパートナーがアーサー・ウォーカーとジェリー・ウィットワースであることを知る。バーバラは、息子のことについては話をしなかった。

7 ジョンの追跡と逮捕
 FBIは裁判所の許可を得て電話傍受を行い、1985年5月19日夜ワシントン郊外でKGBとジョンの会合が行われるものと判断し、ワシントンへ向かうジョンを飛行機と車で追跡した。ジョンは、19日夜ワシントン郊外の指定場所にマイケルが空母ニミッツから盗んだ129件の秘密文書を入れたバッグを隠したが、FBIに押収された。KGBのドロップ地点には現金入りのバッグは置かれていなかった。ジョンはワシントン郊外のモーテルに入ったが不安を感じ、持っていたデッド・ドロップの指示書を部屋の外に隠そうと通路に出たところを、張り込んでいたFBIに逮捕された。
 FBIは、ジョンがデッド・ドロップしたバッグ内に、ニミッツに関係する秘密文書のコピーを発見した。このためイスラエルのファイファに入港中のニミッツに対し本国から電報による指示が出され、ジョンの逮捕8時間後にマイケルは憲兵事務室に連行された。
 アーサーは、ジョンの逮捕4時間後に、ジェリーは5時間後にそれぞれ自宅で逮捕された。

395名無しさん:2010/05/26(水) 13:51:43
>>394
8 教訓
(1)勤務評定
 ジョンは、1967年ソ連大使館に暗号規約を持ち込む以前はまじめであったと評価されているが、スパイ行為を始めた時期は全く勤務意欲をなくしていたという評価がなされている。これは、デッド・ドロップする時の緊張感と、実施後バレるかも知れないという、不安感が常につきまとっていたものと考えられる。
 上司が部下の勤務態度に異常を感じたら話し合う機会を持つ等、一歩踏み込んだ監督指導が必要である。
(2)生活態度
 ジョンはスパイ行為に慣れてくると金遣いが荒くなり、ノーフォーク郊外に豪邸を建て、若い女性を連れて週末は遊び回っていたが、上司は異常な生活態度に全く気付かず、また同僚はうすうす気付いていたが、上司に報告することもなかった。
 ジェリーについては、秘密の電報を許可なく複写したり、個人更衣ロッカーの中で秘密の書類を見たり、秘密の資料を家に持ち帰ったのを同僚が目撃していた。
 「何かおかしい」と思いつつ報告を怠ることは、問題が生じた後で後悔する原因となる。積極的に報告をさせる手段としての「仕組み」が必要である。
 米国では、1995年「大統領令:秘密情報に対するアクセス」が制定され、政府職員に対しセキュリティ上の問題点についての報告義務を求めている。
(3)秘密情報の持ち出し
 KGBは、秘密文書は複写によることなくMinoxカメラでの撮影を指示しているが、フィルムはかさばらないので艦艇からの外出時あるいは隊から帰宅する時に、とがめられる可能性は少なく、また、いざという時に処分しやすい利点がある。
 今日ではデジタル・カメラや携帯電話で接写ができ、直ちに送信できる機能もあるので、情報を扱う職場にこれらを持ち込ませてはならないし、会社の入出時にも持ち物の検査を実施すべきである。
(4)資格審査
 空母ニミッツでの幕僚庶務室勤務では、SECRETクリアランスが必要であったが、マイケルのチェックはなされなかった。後にFBIと海軍保全担当局によって、ニミッツの保全違反が指摘された。
 マイケルは、不要になった秘密文書を焼却袋に入れて作戦室の奥にある空調室へ行くことを許されており、艦載機の発着艦がない日の夜中に一人で焼却を行っていた。
 また、マイケルは作戦室に備えられている艦内電話帳に、金庫のダイヤル番号が記入されているのを見つけ、誰もいない時に金庫を開けて秘密文書を複写していた。
 秘密の取扱者に資格審査を受けさせること、秘密文書の破棄の手続き等、決められた事項を遵守する必要がある。
(5)被害対策
 1968年1月23日、米情報収集船プエブロ号が北朝鮮沖の公海上で拿捕され、KW-7暗号機が没収された。今日、KW-7暗号機はソ連に渡ったと信じられているが、当時NSA(国家安全保障局)は、KW-7を廃止することなく、機器及び規約に一部変更を加えて対処したのみであった。この変更内容は、ジョンによりソ連に知らされており、米海軍の電報100万通が解読されたとみられている。
 米国がベトナム戦争に敗れた原因の一つとして、暗号が解読された結果、米軍の爆撃効果があがらなかったことが挙げられている。
 情報の漏えいやそのおそれがある場合、被る被害については、最大のものを想定して対処する必要がある。

おわりに
 アメリカ人がスパイになる動機は、金を求めて自ら情報を売りにいくケースが大部分である。一方、日本人のスパイは、就職の依頼、卒業論文に必要な資料の入手等、善良な気持ちで外国人と関係し、プロの工作員にリクルートされてしまうという例が多い。日本人はスパイに対して、免疫力がないと言える。
 したがって、管理責任者が管理者に対して、スパイの脅威、保全手続き・規則及び部下の指導監督法について教育し、現場の実務担当者まで徹底を図り、強固な保全組織を作り上げる必要がある。

396とはずがたり:2010/05/27(木) 10:29:11
何で遺族会にばらまき続けてきた癖に自民党はシベリア抑留者には冷たかったんでしょ?

社説:シベリア抑留 国会は早く救済果たせ
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20100527k0000m070113000c.html
 戦後六十数年待ち続けあと一歩まで来たのにいつまで待たせるのか。

 超党派の国会議員が今国会に提出した「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)案が、成立一歩手前で足踏みしている。参院先議で先週参院本会議を通過、今週中に衆院本会議で成立する段取りだったのが、同案を審議する衆院総務委員会が放送法改正案の採決強行でストップ、同委では郵政改革法案も抱えているため成立を危ぶむ声も出始めた、という。

 法案は、戦後ソ連によって抑留されシベリアなどで強制労働させられた元日本軍兵士に対して、抑留期間に応じて1人当たり25万〜150万円を「特別給付金」として支払い、抑留の実態解明を進めることをうたったものだ。抑留兵士は約60万人。最長で11年に及び、56年、鳩山一郎首相が日ソ共同宣言を締結し最後の1000人の帰国が実現するまでの間に6万人が死んだとされる。

 この悲劇は、83年に直木賞を受賞した「黒パン俘虜記」(胡桃沢耕史著)などに詳しいが、極寒の地での強制労働に対する抑留者への補償問題が戦後処理の一つとして積み残されてきた。本来の支払い義務はソ連にあるが、共同宣言で賠償請求権を相互に放棄していたため元抑留者たちは日本政府に補償を要求、歴代自民党政権は財政難を理由にこれを拒否してきた。

 この問題に取り組んだのが野党時代の民主党である。共産、社民の両党とともに、元抑留者に特別給付金を支給する法案を繰り返し国会に提出、この国会では自民党も一緒になって全会一致で参院通過までこぎ着けた。昨年9月の政権交代や祖父の仕事を引き継ぎたいとする鳩山由紀夫首相の意欲がこの動きを加速させた。それが今国会会期末をめぐる与野党の攻防で宙づりにされている。

 現在生存する元抑留者は推定8万人で、平均年齢は88歳。大阪高裁で係争中の国家賠償訴訟では原告五十数人のうち2年間で5人が死亡、厚生労働省統計でもこの年齢の年間死亡率は8%前後となっており、「命があるうちに国としてのけじめをつけてほしい」(平塚光雄・全国抑留者補償協議会会長)との悲願を日々踏みにじる形になっている。法案でわざわざ「公布日に即日施行する」としている意味もこれではなくなる。

 「政治とカネ」や「普天間問題」でこの国会は、国民の期待に応えているとはとても言えない状態が続いている。戦後処理問題など司法や行政で対応しにくい政治課題に対し国民を代表した国会が問題解決能力を発揮する格好の機会でもある。党利党略を超えた選良たちの良識を一日も早く見せてほしい。

毎日新聞 2010年5月27日 2時32分

397名無しさん:2010/06/30(水) 20:42:48
John Anthony Walker - Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Anthony_Walker
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ジョン・アンソニー・ウォーカー

ジョン・アンソニー・ウォーカー・ジュニア(John Anthony Walker, Jr.、1937年7月28日 - 、ワシントンD.C.)[1]は、退役アメリカ海軍上級准尉の報道員で、冷戦(1945-91)期の1968年から1985年までの間に、ソ連大使館に暗号規約を持ち込み、ソ連のスパイをした件で有罪判決を下された。[2]1985年後半に、ジョン・ウォーカーは嘆願取り決めにおいて罪を認め、それによって、彼は共謀者ジェリー・ウィットワースに不利な証言をして、彼のスパイ活動の詳細を伝えて、彼の息子(マイケル・ウォーカー)に対する軽い処罰について交渉をした。[2]ジョン・ウォーカーは、ソ連のスパイとしての間に、ソ連が100万通の暗号化されたアメリカ海軍の電報を解読するのを援助した。[3]そして、このスパイ活動は、1987年のニューヨーク・タイムズで、「歴史上、希に見る、最もアメリカにダメージを与えたソ連のスパイ活動と言える」と報じられた。[4]

目次
1 スパイになるまで
2 スパイ活動
3 逮捕・監禁
4 参考文献
5 関連項目
6 脚注
7 外部リンク

スパイになるまで
ジョン・ウォーカーは、強盗の理由で逮捕された時に、刑務所行きか軍隊の道を提供され、1955年にアメリカ海軍に入隊した。[1][5]ジョン・ウォーカーは、ボストンに配属されている間に、バーバラ・クロウリーと出会って結婚した。そして、彼らは3人の娘と1人の息子の計4人の子供をもうけた。ジョン・ウォーカーは、チャールストン(サウスカロライナ州)において、アンドリュー・ジャクソン(USS Andrew Jackson, SSBN-619) に配属されている間に、お金の遣り繰りに失敗して、すぐに負債に陥ってしまった。[1]

398名無しさん:2010/06/30(水) 20:47:59
>>397
スパイ活動
ジョン・ウォーカーは、自分の財政難に取り乱して、ワシントンD.C.にあるソ連大使館のに赴き、1967年12月に、ソ連のスパイを始めた。[6]そして、彼は、週に500ドルから1000ドルの収入になる様に交渉しながら、アメリカの機密扱いの文書(暗号規約)を数1000ドル分売った。[1]ジョン・ウォーカーは、彼が、まず最初にソ連に売った機密扱いのアメリカ海軍の電報が、プエブロ号事件(この事件で、アメリカ海軍の環境調査艦プエブロは、領海侵犯を理由に北朝鮮当局に拘束され、その乗員は、ほぼ1年間捕虜になった。)で、完全に危険にさらしたという根拠に関して、この犯罪行為を弁明した。しかし、環境調査艦プエブロは、この電報が売られた1ヵ月後の、1968年1月に捕らえられた。さらに、ソ連の公文書と以前KGB将校であったOleg Kaluginからの情報を使っているアメリカ陸軍指揮幕僚大学で発表された2001年の論文が、プエブロ号事件が、ソ連が、ジョン・ウォーカーによってソ連に渡された機密文書によって記載された技術を研究したかった為に起こされた可能性を示しいる。[7]
ジョン・ウォーカーは、このスパイ活動に固執した。そして、機密情報の提供で、1ヵ月につき数1000ドルの収入を受けた。[1]ジョン・ウォーカーは、1969年に、ときおり、彼の妻バーバラの援助を受けている時に、更なる援助者を求め始めた。そして、彼は、カリフォルニア州のサンディエゴの通信学校勤務中に、学生であったジェリー・ウィットワースと知り合いになった。[1]ウィットワース、彼は、アメリカ海軍上級兵曹長(SCPO)/上級無線通信士長となって行くのであるが、1973年に、ジョン・ウォーカーが、非常に機密度の高い文書を手に入れる事を援助する事に同意した。[1]部署の移動は、ジョン・ウォーカーが、ソ連が欲っした機密文書を手に入れさせる事を困難にした。しかし、彼は、ウィットワースが、スパイ活動を困難なものにさせない為に、機密文書がアメリカ合衆国の同盟国であるイスラエルに行っていると彼に話す事で、彼が、機密文書を手に入れられ続けられる事を可能にした。しばらくすると、ウィットワースは、機密文書がイスラエルの代わりに、ソ連に行っていると理解した時、彼は、それにも関わらず、1983年にアメリカ海軍を引退するまで、ジョン・ウォーカーに機密文書を与え続けた。1976年に、ジョン・ウォーカーは、彼が、彼の特定の上級将校達が、彼の過去の記録の過ちを調査するのに、余りにも熱心であると思っていたので、彼の秘密事項扱い許可を諦め、アメリカ海軍を引退した。しかし、ジョン・ウォーカーは、彼のスパイ活動を止めなかった。そして、今まで以上に活発的に、情報提供者を自分の子供達や家族の中に捜し求めて行った(ジョン・ウォーカーは、この時には、私立探偵になっていた。)。1984年までに、ジョン・ウォーカーは、彼の兄アーサー・ウォーカー(彼は軍の少佐で退役した。)と彼の息子マイケル・ウォーカー(現役のアメリカ海軍の軍人)を仲間に入れた。[1]ジョン・ウォーカーは、彼の1番下の娘(彼女は、アメリカ陸軍に入隊した。)を仲間に入れようともしたが、彼女が、男性兵士と関係を持ち妊娠して、彼と結婚して、妻と母であることに専念してしまった為、彼女は彼女の軍人としての生活をすぐに止めてしまった。 ジョン・ウォーカーは、それから自分の注意を彼の息子に向けた。彼は、彼の10代の年の多くをふらふらして過ごし、高校を中退した。ジョン・ウォーカーは、彼の息子の保護をしっかりし、彼にスパイ活動の準備をさせる為に、彼の興信所の見習いとして働かせ、それから、アメリカ海軍に入隊させる為に、高校の卒業証書を取らせる様に再び高校に入学の薦めをした。
1990年に、ニューヨーク・タイムズのジャーナリストのJohn J. O'Connorは、「ある情報機関に携わる専門家達は、ジョン・ウォーカー氏が、ロシアとアメリカの間の勢力の均衡を変えるのに十分な暗号規約を提供したと見ている。」と報告した。[8]ジョン・ウォーカーは、後に、彼がどのようにして、それだけの機密情報を手に入れる事が出来たのか尋ねられて、「Kマートは、アメリカ海軍以上の良い保安をする。」と答えている。[9] 2002年に国家対情報局(Office of the National Counterintelligence Executive)で出された報告書に拠ると、ジョン・ウォーカーは、ニューヨーク・タイムズが、彼の収入が、わずか、350,000ドルであると見積もっているにも関わらず、[8]スパイの報酬で100万ドル以上を稼いだと思われている少数のスパイの内の1人としている。[5]ソ連が、アメリカ合衆国が、ソ連のスクリューで生じられる発泡現象(キャビテーション)に拠って、ソ連の潜水艦の位置を追跡する事が出来る事に気付いた事は、ジョン・ウォーカーのスパイ活動のおかげであった。この後、ソ連の潜水艦のスクリューは、発泡現象(キャビテーション)を減らす為に改善された。[10]

399名無しさん:2010/06/30(水) 20:51:52
>>398
逮捕・監禁
1985年5月に、FBIは、当時のジョン・ウォーカーの先妻のバーバラに拠って、彼のスパイ活動を通報を受けた。彼は、彼女に扶養手当を払うことを拒否していた。[1]捜査に従って、FBIは、ジョン・ウォーカー、ウィットワース、アーサー・ウォーカーとマイケル・ウォーカーを逮捕した。皮肉にも、ジョン・ウォーカー自身はモンゴメリー郡のモーテルで逮捕された。このモンゴメリー郡のメリーランド州では、彼が、人々を不貞事件に巻き込ませる計略を頻繁に行っていた。彼らのホテルの部屋に電話をかけて、彼らの車が事故で攻撃されたと彼らに話していたのである。[1]バーバラ・ウォーカーは、事件の究明をする事が彼女の役割であるが為に、起訴されなかった。[1][5]以前KGB職員であったVictor Cherkashinは、しかしながら、彼の著書の『Spy Handler』において、ジョン・ウォーカーは、Martynovと言う名のFBIのスパイによって危うくされたと述べている。Martynovは、モスクワで偶然に会話を耳にした。そして、Victor Cherkashinは、ジョン・ウォーカーの裁判の文書では、Martynovが、ジョン・ウォーカーの体裁の妥協で、重要な役割を演ずると述べていたと論じている。[11]
ジョン・ウォーカーは、捜査当局とは協力をした。そして、司法取引において、彼は服従の信念と終身刑を受け入れ、彼のスパイ活動の詳細の完全な開示を提供し、彼の息子が、わずか25年の投獄の判決しか受けないという保証を検察官から約束を受ける事と引きかえに、ジェリー・ウィットワースに対して証言することに同意した。[2][12]マイケル・ウォーカー以外の他のスパイ組織のメンバー全員は、スパイ活動での彼らの役割での終身刑を受け入れた。ジェリー・ウィットワースは、彼の罪に対して、懲役365年を宣告されて、410,000ドルの罰金を科せられた。ウィットワースは、2048年まで仮釈放には不適格である。ちなみに、その頃では、彼は111才である。
ジョン・ウォーカーの息子マイケル・ウォーカー(彼は、スパイ組織の中では、比較的に重要でない役割であり、減刑の判決と引き換えに証言する事に同意した。)は、2000年2月に、仮釈放で刑務所から解放された。[1]
ジョン・ウォーカーは、現在、行刑局(BOP)の囚人番号22449-037であり、United States Medical Center for Federal Prisoners(MCFP)に投獄されている。彼は、糖尿病とステージIVの喉頭癌に苦しめられていると言われている。彼の最も早い可能性のある仮釈放の日は、2015年5月20日である。その時点では、彼は、懲役30年と言う事になる。[13]

400荷主研究者:2010/07/19(月) 21:12:57

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20100625/CK2010062502000013.html
2010年6月25日 中日新聞
旧海軍の格納庫、取り壊しへ 鈴鹿市議会が議案可決

取り壊される可能性が高まった旧海軍航空基地の格納庫=鈴鹿市白子町で

 「貴重な戦争遺跡」として保存を望む声のあるNTT研修センター跡地(鈴鹿市白子町など)に残る太平洋戦争中の旧海軍航空基地の格納庫3棟が、取り壊される見通しとなった。24日の市議会本会議で、跡地開発を進めるための3議案が賛成多数で可決された。独立行政法人・都市再生機構(UR)が開発する。

 3議案は、19億円の債務負担行為を盛り込んだ一般会計補正予算案▽都市公園の区域決定案▽URによる工事の直接施行の同意案−。市の防災公園(7・3ヘクタール)に対する議案だが、今後URは、NTT西日本が所有し格納庫がある市街地整備区域(17・6ヘクタール)と一体的に開発する。このため、3議案の議決が開発に伴う格納庫の取り壊しの“GOサイン”となるため、議論となった。

 討論では、4人が反対。「戦争遺跡の扱いを考える時間的余裕が必要なのでは」「格納庫のある市街地整備区域の議論ができていない」「国の事業仕分けでも問題になっているURによる施工には、不透明性がある」などと訴えた。

 一人は「周辺に住宅地が多く、早い時期に防災対策を進める手法として有効だ」などと賛成した。

 採決した30人のうち8人が一般会計補正予算案と都市公園の区域決定案に反対。URの直接施工には10人が反対に回った。

 市は「(格納庫を)写真や映像で保存する」と、建物自体を残す意思を示しておらず、市やNTTなどがまとめた土地利用転換計画に基づき、開発が進みそうだ。

 議場には、保存を働き掛けた市民団体「鈴鹿市の戦争遺跡を保存・平和利用する市民の会」のメンバーら10人余りが傍聴。

 共同代表の一人、加藤二三子さん(75)は「残念だが、議会で議論となり、問題提起した意義はあった。取り壊されることになったとしても、悔いが残らない活動を今後もしていきたい」と話していた。

 (村瀬力)

401小説吉田学校読者:2010/08/01(日) 10:21:30
中ソ諜報よりも「金大中事件、『影の軍隊』関与説」否定の方が関心を惹くものであります。
冷戦終結21年、もうそろそろ東西冷戦下のウラ話、秘話の類が出てきてもいいんじゃないでしょうか、秘密を持っている皆様方。

中ソ諜報「ムサシ機関」私が率いた 元陸将補が証言
http://www.asahi.com/national/update/0731/TKY201007310376.html

 冷戦期に米軍と共同で情報収集活動に当たった自衛隊の元情報機関長が、朝日新聞の取材に応じ、国内外で行っていた諜報(ちょうほう)活動や創設の経緯などを明らかにした。民間人になりすまし、旧ソ連や中国などの共産圏諸国に出入りする人々から軍事情報を聞き出すのが主な活動だったという。同機関の存在は、金大中氏拉致事件などにからんで注目されたことがあるが、直接の責任者が証言するのは初めて。
 明らかにしたのは、陸軍士官学校出身で、陸上自衛隊の情報部門で長く旧ソ連担当を務めた元陸将補の平城(ひらじょう)弘通さん(89)。現在は東京都内で不動産業を営んでいる。
 1964年から2年間、情報収集の実動部隊だった「陸幕第2部特別勤務班(別班)」の班長(2佐職)を務めた。陸幕第2部が公刊情報の収集や電波傍受を行っていたことは防衛省も認めているが、諜報活動に従事した別班の存在については一貫して否定してきた。別班は部内で「ムサシ機関」と呼ばれ、在日米陸軍の情報部門と秘密裏に連携した。
 平城氏によると、情報協力をめぐって在日米軍の情報部門と陸幕第2部との協定が結ばれて米側との共同機関が創設され、56年から米軍の指導のもとで情報専門家を育成する訓練が始まった。米軍がもっていた偽装の仕方や人的情報の集め方などの基本ノウハウを身につけたという。
 拠点は東京郊外にあった米軍施設のキャンプ・ドレイク(現・朝霞駐屯地)。ここに米側の情報部門「500MIグループ」があり、61年、さらに共同責任で合同工作を行うことでも合意、62年から実践活動に移行したという。
 「日系の米側将校と意思疎通を図るため、慣れないゴルフを一緒に重ねた」と話す。
 日米ともに要員は15人前後。国内で写真店や小さな商社などを経営して、中ソや北朝鮮、北ベトナムなどに出入りする日本の商社員や漁業関係者などに接近し、日本への敵対行為の兆候などがないか情報収集をしたという。
 例えば、シベリア抑留者の現地墓参団の参加者に関係者を装って近づき、ソ連国内の写真撮影や地図の入手などを依頼した。
 また将来は、海外に住む日本人らの間に「独自の情報源と連絡網を作ることを目指していた」という。
 平城氏が活動した60年前後は、冷戦構造の東西対決が深まった時期にあたり、中国が金門島に砲撃を加え米第7艦隊が出動した第2次台湾海峡危機(58年)や、米ソが対峙(たいじ)したキューバ危機(62年)などが起きている。
 機関員になると自衛隊との一切の接触が禁じられたが、「陸幕第2部長の指示を受けた連絡幕僚から受ける形」で陸幕の指揮を受けたという。
 収集した情報は日米双方に提供され、防衛庁(当時)の防衛計画の立案に役立てられたほか、米太平洋陸軍(ハワイ)と陸幕の極秘の情報会合「JA会議」などで、米側の偵察衛星画像や通信傍受情報と交換されたこともあった。
 運営資金は60年代には「月額100万円程度」(60年当時の大卒の国家公務員の初任給は約1万2千円)。陸自と米陸軍から支給された資金などでまかなったという。
 ムサシ機関がいつまであったのかについては「ある時点で途絶えたという話を最近聞いたが、確かめようがなく、わからない」という。
 同機関については、日本共産党の赤旗が、「影の軍隊」として73年の金大中事件に関与したのではないかとの疑惑を70年代に報道したことがあるが、平城氏は「任務は国内での対外情報収集だけ。謀略や破壊工作、海外活動をしたことはない」と否定する。
 今回、内幕を明かした理由については「邪悪な謀略機関というイメージを払拭(ふっしょく)し、国家の正当な情報収集活動だったことを明確にしたかった」と話している。
 80年に防衛庁を退官した竹岡勝美・元官房長は「初耳だ。自衛隊が独自の秘密情報組織をもつことは認められるはずもなかった」と話す。
 平城氏はムサシ機関にかかわった当時の陸自幹部らを実名で登場させ、その内幕を描いた著書を9月に講談社から出版する予定。

402名無しさん:2010/08/09(月) 10:39:12
「癒着」って、いったい何のことだったんだろう? :イザ!
http://sarahctr.iza.ne.jp/blog/entry/1648662/

「癒着」って、いったい何のことだったんだろう?
2010/06/11 18:54



金大中拉致事件がKCIAの犯行と発表してアメリカに亡命した韓国人ジャーナリスト文明子と、米国務省韓国部長ドナルド・レイナードは、拉致事件が政治決着した裏で、田中首相にワイロが渡ったことを暴露した。


アメリカに亡命、後にフランスで失踪(拉致殺害説あり)した元KCIA部長金炯旭は米下院公聴会で、金大中拉致事件の首謀者がKCIA部長李厚洛であること、李厚洛の朴正煕政権の政治資金調達に日本企業が深く関わっていることを証言した。


在米韓国広報官長李在鉉(アメリカに亡命)の告発によって、円借款で行われたソウル地下鉄建設計画に絡んで、新韓碍子と日商岩井との関係、車両契約を受注した日立製作所のリベート問題が発覚した。

ロッキード事件に前後して相次いで表面化した、韓国の政治家や情報機関、財閥と、日本保守政界と政商、利権右翼、企業グループの癒着構造を「日韓癒着」と呼ぶ。

日韓癒着の起源は、朴正煕政権の発足直後にさかのぼる。
日韓条約締結交渉は、竹島の領有権や戦後補償の額をめぐって何度も決裂したが、韓国の密使が児玉誉士夫に接触したことで、10年以上続いた交渉は急転直下妥結した。


自民党内の反対派を説き伏せるのにどれだけの金が闇で動いたのかは見当もつかない。条約締結で、岸派・佐藤派と伊藤忠商事が、賠償利権を手中にした。伊藤忠の瀬島龍三と朴正煕は陸士の先輩後輩の間柄である。

かつてフジサンケイグループ総帥の鹿内信隆(元陸軍)は、朴正煕との対談番組で「日韓癒着と騒がれているのは、日韓の傷口が癒されている証拠だ」と揚言した。元産経新聞社員で、許永中事件に連座して逮捕された「政財界のフィクサー」こと福本邦夫は、産経退社後、政治家秘書として国際勝共連合の結成に関与したという。


現在も、フジテレビ社長村上光一は統一教会信者と噂され、産経新聞主筆住田良能はKCIAエージェントと噂されている。

「日韓癒着」は戦後日本のコアの部分だ。朴正煕は日本を腐らせた。

403名無しさん:2010/08/13(金) 20:01:51
10.26朴正熙大統領射殺事件


朴正煕大統領は、誰が、何ゆえに暗殺したのでしょうか かれは独裁者でしたが、反... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1414517769

北朝鮮からの度重なる工作活動と学生運動の激化に危機感をもった朴は、弾圧を一層強めましたが、その結果、韓国への国債世論が悪化し、かえって北朝鮮の思う壺になりかねないと、アメリカが朴大統領に民主化するよう求めました。しかし、北の干渉を恐れた朴はこれを拒否。するとアメリカは業を煮やして,韓国から手を引くことを告げます。
最後通牒とも言うべき結論を突きつけられた朴大統領は、それならばと、核兵器の開発保有を目指すこことを宣言したのです。
そうなれば北朝鮮の核保有を促すばかりか、背後の中国に付け入る口実を与えてしまう。
こうして下したCIAの結論が、朴大統領の抹殺だったのです。


もし日本が核武装を表明すれば、アメリカはどう出ると予想しますか? - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1318162253

彼は米軍の撤退に抗議し、核兵器の保持を主張したことでCIAに指示されたKCIAに暗殺されました。


10.26朴正熙大統領射殺事件
http://1026.skr.jp/1026/

404小説吉田学校読者:2010/08/15(日) 09:56:26
ウィキペディアの記述や浅田次郎の最新作などで、8月15日以後も、戦争が続いていたことが結構知られるようになりました。私も小さい頃「本当の終戦記念日は9月2日じゃないのか」と思ったものです。
とはいいながらも、今日は政府が決めた終戦記念日、65年前、ポツダム宣言を受諾した翌日で玉音放送が正午に放送された日であることは間違いありません。
整いました、「8月15日の靖国神社」とかけまして「昔のホームレス」ととく。その心は「右や左の旦那様をお待ちしております」。

終戦記念日静かに迎える政権 首相、閣僚は靖国参拝せず
http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010081401000535.html

 65回目の終戦記念日となる15日、民主党政権として初めて迎える菅直人首相と全閣僚は靖国神社を参拝しないなど、静かに犠牲者をしのぶ姿勢を見せている。首相の靖国神社参拝をめぐり内外がざわついたこともあった自民党政権とは異なった様相となりそうだ。
 首相は、日韓併合100年に関する首相談話も、当初候補の一つだった15日を避け、10日に閣議決定したとされる。
 靖国参拝に関しても、就任当初から「A級戦犯が合祀されており、首相や閣僚の公式参拝には問題がある」と指摘し、在任中は参拝しない意向を繰り返し表明。
 これを受け仙谷由人官房長官は「閣僚として公式参拝を自粛するのが政府の考えだ」と表明、連立を組む国民新党の自見庄三郎金融担当相を含め全閣僚が既に参拝しない考えを明らかにしている。
 一方で首相は、新たな国立追悼施設に関しても14日、「今すぐどうこうということではない。党内外の議論をみていきたい」と述べるにとどめた。15日は、千鳥ケ淵戦没者墓苑を参拝した後、全国戦没者追悼式に出席する予定だ。

405名無しさん:2010/08/19(木) 19:46:24
源田実論  出口吉孝氏 寄稿 - 草莽の記    杉田謙一 - 楽天ブログ(Blog)
http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/200807070000/
源田実論  後編 - 草莽の記    杉田謙一 - 楽天ブログ(Blog)
http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/200807070001/

406名無しさん:2010/08/23(月) 06:52:19
「つくる会」教科書検定合格おめでとう。
http://natto.2ch.net/mass/kako/986/986388406.html

46 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/04/05(木) 02:04

元桜花隊パイロットの方のおはなし

「(※特攻隊慰霊祭での)生存者代表の祭文に、『東京裁判史観に惑わされて国がおかし
くなってしまった』というような文言が散見される。日本遺族会や靖国神社も『侵略戦争
だなんて言うのは、戦没者の霊を冒涜するものだ。大東亜戦争は自存自衛の戦争である』
とキャンペーンを張っている。
 特攻隊にかぎらず、戦没者の大部分は、上からの命令に従い、祖国民族のためと思って
戦ったので、侵略戦争問題には関係がない。
 侵略戦争問題は、為政者や権力者の行為に対して論じるべきだ。
 為政者や権力者の行為と、大部分の戦没者の行為をまぜこぜにして、戦没者の名を借り
て、為政者や権力者の侵略行為を覆い隠そうとするならば、それこそ戦没者に対する冒涜
である。
 元特攻隊員の私とすれば、特攻隊の名を借りて、そういうことをされるのは、ぜったい
に許せない。生理的嫌悪感というか、腸(はらわた)が煮えくりかえる思いである。
 慰霊祭に政治を持ちこむことはやめてもらいたい。慰霊祭から政治色を抜いて浄化すれ
ば、靖国神社も戦没者たちも、もっと広くから敬愛されるようになるだろう」

 (生出寿『一筆啓上 瀬島中佐殿』(徳間文庫)所載)

407名無しさん:2010/09/02(木) 12:15:10
瀬島龍三氏の米寿祝う会に小渕首相、小沢党首ら勢ぞろい
http://www.asahi.com/1211/news/politics11009.html

1999年12月11日

 中曽根康弘元首相のブレーンで、伊藤忠商事特別顧問の瀬島龍三氏の「米寿」を祝う会が11日夜、東京都内のホテルで開かれ、小渕恵三首相、自由党の小沢一郎党首、橋本龍太郎前首相、中曽根氏らが顔をそろえた。瀬島氏は戦前、関東軍参謀を務め、戦後は伊藤忠商事に入社。政界にも知己が多い。

 瀬島氏はかつて臨時行政調査会や臨時教育審議会の委員として、民間の立場から行政改革や教育改革の推進役を務めた。

 あいさつした中曽根氏が瀬島氏とともに進めた行革の思い出話を語り、小渕首相も「教育改革が非常に大事だ。中曽根元首相、橋本前首相がやり残した仕事に力を尽くしていきたい」と語るなど、「改革」話に花が咲いた。

408名無しさん:2010/09/02(木) 12:17:04
國民新聞(平成11年1月)あの瀬島氏が「日本戦略研究フォーラム」を企画
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H11/1101/110113sejima.html

110113    あの瀬島氏が

「日本戦略研究フォーラム」を企画



 戦中は大本営、戦後シベリアからの帰国後は財界、中曾根
政権以降は政界の、それぞれ「参謀」としての道を歩んでき
た瀬島龍三伊藤忠商事特別顧問が国家戦略研究のため、日本
戦略研究フォーラム設立へ向けて動き出した。

 設立趣意書によれば、わが国の21世紀における国家戦略
確立へ向けて、政治、経済、軍事、科学技術分野に重点を置
いた研究を行う。

発起人には、

自由党の小沢一郎 党首、
 自民党の中山太郎 元外相、
 樋口廣太郎 アサヒビール会長、
 小田村四郎 柘植大学総長、
 田久保忠衛 杏林大学教授、
 岡崎久彦 元駐タイ大使

 らが名を連ねている。

抑留や東京裁判証人、ソ連(ロシア)との関係などで
さまざまに論評される瀬島氏だけに危ぶむ人々も。

409名無しさん:2010/09/02(木) 14:31:41
TheBarrenZone-04
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-04.htm

445Isogawa Takuji : 2009/10/16(金) 10:33:30 ID:FsII/bra0
瀬島龍三氏は、NTTの顧問として、米国外資の日本侵略のため
に通話明細を漏洩させ、伊藤忠の商売を成功させた行為により、
実際に第二の敗戦を招いている。


TheBarrenZone-06
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-06.htm

465Isogawa Takuji : 2009/10/21(水) 01:06:05 ID:5tRdRuLK0
また、グリコ森永事件やAUM真理教事件などの劇場型犯罪テロ
行為において、日本の旧内務省関係者が、電電公社や電話会社に
通話記録の蓄積と提供とを要求した行為は、それを仕掛けた軍産
複合体による日本企業への侵略を容易としている。

つまり、通話記録を入手することにより、日本企業の指揮命令の
系統や系列関係を、米国軍産複合体の系列である外資は、容易に
把握することができるようになっていた。

瀬島龍三氏は、そのような米国軍産複合体の謀略に加担していた
のである。

467Isogawa Takuji : 2009/10/21(水) 01:10:11 ID:5tRdRuLK0
瀬島龍三氏には、いろいろと迷惑を被っているので、書くことが
あるということです。>>466

彼の秘書が、私を訪ねてきたこともありました。


TheBarrenZone-07
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-07.htm

840Isogawa Takuji : 2009/10/23(金) 20:53:23 ID:ZQsXS6D60
ちなみに、瀬島龍三氏が顧問であったNTTでは、通話明細での
政府や企業の動向を把握するという手法が採用されていた。


TheBarrenZone-12
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-12.htm

352Isogawa Takuji : 2009/11/20(金) 00:37:00 ID:CTpG13Hr0
情報力が重要であることが表現されていたが、NTTのように、
通話明細を漏洩して外資の日本侵略を補助して儲けるというよう
なことを、瀬島龍三氏はやってしまっているので、説得力が無い
と言えるだろう。


TheBarrenZone-18
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2010-01/TheBarrenZone-18.htm

387Isogawa Takuji : 2010/01/12(火) 20:22:25 ID:Fb6T+QZc0
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/NHK-TaigaDrama/2010/Ryomaden-028.htm#984
瀬島龍三氏が、NTTで通話記録をデータベース化した通話明細
で、共産主義的なスパイの手法で、日本を東ドイツのように米国
の衛星国家にしたことは、大罪であると言えるだろう。


Takuji-Isogawa_Talking-and-Walking
http://www.geocities.jp/isotaku503/

410名無しさん:2010/09/02(木) 18:01:41
NTTと瀬島龍三/「日本戦略研究フォーラム」 - カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの虚業日記
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20051011/1129020189

412とはずがたり:2010/09/22(水) 09:42:23
先日池上さんが解りやすく解説してましたね

大阪大、壁壊したら「奉安庫」 戦前に御真影など収納
http://www.asahi.com/national/update/0921/OSK201009210065.html
2010年9月21日17時5分

写真:解錠作業が進められる奉安庫=21日午前、大阪府豊中市の大阪大学、筋野健太撮影解錠作業が進められる奉安庫=21日午前、大阪府豊中市の大阪大学、筋野健太撮影
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/nihonshi/OSK201009210068.jpg

 耐震改修中の大阪大学豊中キャンパスのイ号館の壁を壊したところ、戦前に天皇、皇后の「御真影(ごしんえい)」や教育勅語を納めていた金庫型の「奉安庫」が見つかった。同大は21日午前、鍵を開ける作業を始めた。全国の学校に設置されていた奉安庫、奉安殿の多くは、連合国軍総司令部(GHQ)が1945年12月に出した神道指令で解体された。発見した同大学の廣川和花助教は「奉安庫の手前に壁を作り、65年間も見つからなかったのは珍しい」とみる。

 イ号館は28年の建築。49年の学制改革で大阪大に包括された旧制浪速高校の本校舎で、国の登録有形文化財に指定されている。1階の元校長室(約66平方メートル)の北西角を斜めに仕切っていた壁(厚さ約3センチ)をはいだところ、しっくいに埋め込まれた観音開きの奉安庫(高さ94センチ、幅73センチ)が見つかった。

 東京、神奈川で奉安殿の遺構調査をした玉川大学教育博物館の白柳弘幸学芸員は「建物に埋め込まれた奉安庫を動かすのは大変なので、手前に壁を作り、GHQから隠したのではないか」と指摘する。調査した他の学校では、建物外の奉安殿は46年までに教職員がハンマーやダイナマイトで壊していたが、動かせない奉安庫は戦後、金庫や書類入れとして使ったという。

 神戸高校や奈良女子大には講堂に奉安庫の名残の観音開きの扉が残されている。神戸市外国語大学の長志珠絵(おさ・しずえ)准教授(日本現代史)は「旧制高校や帝国大学は行政や軍とかかわって、戦争を積極的に支える役割を担っていたため、GHQの捜索を受けまいと過剰反応して隠したのではないか」と推測している。

413とはずがたり:2010/09/22(水) 09:45:18
>>410
おお,カマヤンさん(ヤンが敬称だとするとさん付けなくて良さそうな気もするけどw)とこのリンクが貼られてますね。追加でカマヤンさんとこのオタクの政治プラス掲示板より

瀬島龍三《真正売国奴》スレッド
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1097928844/l50

414荷主研究者:2010/09/23(木) 14:08:53

http://www.oita-press.co.jp/localNews/2010_128356523638.html
2010年09月04日 10:50 大分合同新聞
「小倉陸軍造兵廠糸口山製造所」全容解明

豊の国宇佐市塾の例会で調査結果を報告した藤原さん(左)と、糸口山製造所で働いていた当時の様子を語る国東さん=2日、宇佐市森山の教覚寺

 戦時中、宇佐市糸口山に建てられていた「小倉陸軍造兵廠(しょう)糸口山製造所」について、豊の国宇佐市塾メンバーの会社員藤原耕さん(37)=中津市三光=の調査で建物の配置や規模、工員数などが明らかになった。これまで、残された資料もなく全容が分からなかったが、藤原さんが関係者の話や写真、地図などを収集して解明。同市塾はこれを機にさらに調査を進め、糸口山製造所のことを「記録として後世に残す」取り組みを始める。

 糸口山製造所は、北九州市にあった同造兵廠が爆撃を受けたため、移転先の一つとして1944年に建設。9月ごろから順次稼働を始めた。

 藤原さんによると、96万平方メートルの敷地内に機関砲を造る工場や倉庫、事務所などが分散配置され、床面積は44年時点で3万2千平方メートル、45年は6万4千平方メートル。軍人、工員、動員学徒など約1万人が働き、女子挺身(ていしん)隊員など女性も約3900人いた。

 藤原さんが調査に取り掛かったのは昨夏から。旧制宇佐中を卒業後、製図手として製造所に勤務していた国東利行さん(83)=宇佐市南宇佐=に話を聞き、造兵廠同窓会が出した史料を参考に配置図を作成。その後、米軍が戦後撮影した糸口山付近の航空写真や当時の製造所の地図も取り寄せ、調査内容を裏付けた。

 2日夜にあった同市塾の例会で報告。国東さんも参加し、「製造所のことは振り返られていなかったのでありがたい。一番不思議なのは、高い煙突や鉄道の引き込み線もあったのに一度も爆撃を受けなかったこと」などと語った。

 同市塾は工員ら製造所関係者の手記を募っている。平田崇英塾頭は「取っ掛かりができた。証言を寄せてもらい、これだけの規模の工場が稼働していたことを記録としてきちんと残したい」と話している。

415チバQ:2010/10/16(土) 20:19:07
http://www.asahi.com/international/update/1015/TKY201010150519.html
タブー破った? ベルリンで大規模な「ヒトラー展」2010年10月16日12時9分
 【ベルリン=松井健】ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーをテーマとする展覧会が15日からベルリンのドイツ歴史博物館で始まった。戦後ドイツではナチスの犯罪を紹介する展示は絶えず開かれているが、ヒトラー個人を取り上げることは、その主張を宣伝することにつながりかねないため、敬遠されがちだった。「戦後初の大規模なヒトラー展」として注目されている。

 「ヒトラーとドイツ人――民族共同体と犯罪」と題され、ナチス時代のヒトラー崇拝ポスターやナチスの制服などが並ぶ。ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)や第2次世界大戦などヒトラーが起こした惨劇も詳しく伝える。ヒトラーが着ていた制服などは、ネオナチから神聖視される恐れから展示しない。

 企画したミュンスター大のターマー教授は「ヒトラーの展示ではなく、ヒトラーとドイツ社会の関係がテーマだ」と話す。ヒトラーは秘密警察などによる弾圧や巧妙なプロパガンダも権力拡大に使ったが、当初は選挙で多くのドイツ国民に支持を広げた。経済が危機にあり、国民が強い指導者を求めた背景もあった。

 戦後ドイツにとって「ヒトラー支持」の過去は重荷で、ヒトラーは「怪物」として一面的に取り上げられることが多かった。だが、近年は多面的に紹介する動きが出ており、今回の展覧会もその流れに位置づけられる。

 今回、有力誌「シュピーゲル」は「右派からの歓迎と、ほかからの激しい抗議」の可能性に言及。「タブーを破った」(AFP通信)と報じるメディアもある。ターマー教授は「批判的に取り上げており、極右が喜ぶ恐れはない」と強調した。

416小説吉田学校読者:2010/11/02(火) 06:09:01
大阪地検の前代未聞の不祥事を病床でも聞いたか。イトマン事件という前代未聞の経済事件で大阪地検特捜部の捜査標的にされた(とされる)人物の死であります。
「人脈」を背景に活躍する「黒幕」時代の終焉。黒幕と言われながらもKBS京都は救えなかったので、「本当に黒幕かよ」と私は思っているのですが・・

福本邦雄氏死去 旧KBS京都元社長
http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010110101000803.html

 福本 邦雄氏(ふくもと・くにお=画廊フジ・インターナショナル・アート会長、旧KBS京都元社長)1日午前11時18分、敗血症のため東京都港区の病院で死去、83歳。神奈川県出身。葬儀・告別式は3日正午から港区高輪3の15の18、高野山東京別院で。喪主は妻智子(ともこ)さん。
 故竹下登元首相の政治団体代表を務めるなど、実力者との親交が深く政界フィクサーとして知られた。新聞社勤務を経て国会議員の秘書になり政界とのつながりを築いた。戦前の日本共産党幹部福本和夫氏の長男。

417小説吉田学校読者:2010/11/10(水) 19:31:34
往年の政治家のモノマネが、もうツボに入って入って、坪内ミキ子状態であります。ので、ご紹介。
私ができるのは亀井静香と自民党幹事長辞任表明時の小沢一郎くらいです。

ものまね 大物政治家 田中角栄渡辺美智雄大平正芳福田赳夫
http://www.youtube.com/watch?v=XMezkSHx_QE

418荷主研究者:2010/11/21(日) 13:43:25

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1011090016/
2010年11月9日 神奈川新聞
登戸研究所からみる戦争遺跡、旧日本軍の兵器や偽札を写真で紹介/川崎

登戸研究所や川崎市内の戦争遺跡などを紹介する写真展=明大生田キャンパス

 川崎と第2次世界大戦のかかわりを知ってもらおうと、明治大学生田キャンパス(川崎市多摩区)内にある、平和教育登戸研究所資料館で写真展「登戸研究所から戦争遺跡をみる」が開かれている。12月4日まで。

 同資料館は、旧陸軍の「登戸研究所」を活用した施設として今年3月に開館、4月から一般開放されている。今回は第1回の企画展として、市内在住の写真家小池汪さんが1960年代から2009年まで撮影した、同研究所にかかわる戦争遺跡などの写真23点が並ぶ。

 戦時中、中国にインフレを起こさせるために発行した偽札や、旧陸軍731部隊が開発した兵器などを写真で紹介しながら、戦争中に同研究所が果たした役割を解説。戦後も宮前区に残っていた兵舎、幸区や高津区の地下壕(ごう)など、市内の戦争遺跡の写真も展示している。

 同資料館は「普段暮らしている場所のすぐそばに軍事施設があり、兵器開発が行われていた事実を知ってほしい」と来場を呼び掛けている。

 午前10時から午後4時まで。日曜から火曜は休み。11月21日は開館。入場無料。問い合わせは、同資料館電話044(934)7993。

419チバQ:2010/12/29(水) 20:35:19
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201012280048.html
下関の旧山陽ホテル解体へ '10/12/28

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 JR西日本広島支社は27日、下関市細江町3丁目の旧山陽ホテルを解体すると発表した。旧鉄道省が1902年に国内初の直営ステーションホテルとして開業し、伊藤博文、アインシュタイン、ヘレン・ケラーたちが宿泊したとされる。戦前の下関の繁栄を象徴する建造物の一つが姿を消す。

 山陽ホテルは、01年の山陽鉄道(神戸―下関)開業を機に翌02年、当時の下関駅そばの現在地に建設。3年後、関釜連絡船が就航した。当初は木造2階建てだったが22年、漏電による火災で焼失。現在の鉄筋3階、地下1階建ては24年に再建された。東京駅を設計したことで知られる辰野金吾が設計を監修し、アーチ型の窓などが特徴だ。

 武者小路実篤や高浜虚子、山田耕筰、ベーブ・ルースも宿泊したとされ、04年には市民有志が保存を求めて署名活動をした。


 しかし、JR西日本は、老朽化が激しいため解体を決めた。

【写真説明】JR西日本広島支社が解体を決めた旧山陽ホテル(下関市細江町3丁目)

420荷主研究者:2011/01/17(月) 23:45:11

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201101050034.html
'11/1/5 中国新聞
旧海軍の地下タンク埋め立て
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ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20110105003402.jpg

 旧海軍が重油の保管用として大正時代に建設した、江田島市江田島町江南の「飛渡瀬地下タンク」の埋め立てが4月に始まる。約15万立方メートルのタンクは戦後は空洞のままで、地上は農地になっている。安全対策の一環で約2年かけて埋め、地上を農地に戻したうえで地下の所有権を地権者に移す。管理する中国四国防衛局は「農地の下の国の財産を用途廃止する全国でも珍しい工事」としている。

 大呉市民史によると、旧海軍が6年間かけて建設し、1923年に完成した。第1次世界大戦で国内の地上タンクが破壊され、爆弾投下対策として地下に建設されたとある。

 縦約100メートル、横約90メートル、高さ7〜8・5メートルのコンクリート製のタンクが二つ並び、内部に数メートル間隔で支柱が残る。江田島市文化財保護委員会の宇根川進委員長(59)は「呉の旧軍港近くに実験的に建てたのではないか。隠れた土木遺産としても価値が高い」と見る。

 工事は、老朽化したタンクの崩落を防ぐ目的。上部コンクリートを撤去し、支柱も倒してタンク内に土砂を入れる。砂などは船で輸送し、陸揚げ後にダンプで搬入。工事額の目安は15億円未満〜6億9千万円という。

 農地の土は一時的に別の場所に保管し、工事完了後に戻す。今は国が「地下タンクの管理」の用途で持つ権利は廃止し、農地の地権者が所有権を持つ。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20110105003401.jpg
【写真説明】<上>旧海軍が建設した地下タンクの上に広がる農地<下>工事概要のイメージ図

421とはずがたり:2011/01/18(火) 09:30:33
ヨッキは興味ないだろうけど山行がスレ相当ちゃうの?(・∀・)
其れは兎も角地下遺跡は文化財として残しにくいかなぁ。何か勿体ない。
>隠れた土木遺産としても価値が高い

422荷主研究者:2011/01/30(日) 21:35:50

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201101110024.html
'11/1/11 中国新聞
宮島に旧海軍の防空施設跡
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ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20110111002402.jpg

 世界遺産厳島神社がある宮島(廿日市市)に、太平洋戦争中、旧日本海軍が築造した防空施設跡が残っている。同市に記録はないが、防衛省防衛研究所(東京・中目黒)が保管する「呉海軍警備隊戦時日誌」に記述の「厳島聴測照射所」とみられることが、郷土史家らの調査で分かった。

 同照射所は呉軍港防衛のため敵機の探知を任務とし、指揮所や探照灯(サーチライト)、兵舎などを備えたらしい。施設跡は宮島の御床(みとこ)山南西部、標高230メートル前後の尾根筋に点在。指揮所とみられる平屋建物は、れんが積みモルタル仕上げの約80平方メートルで、扉や窓は失われ内壁も一部崩れていた。

 建物を挟んで離れた高い場所にはコンクリート台座(直径1メートル余り)が2基あり、聴音機や探照灯を設置していたらしい。掘削した平地に、かまどや流し台を伴った兵舎跡らしい数棟の建物基礎が確認された。貯水槽も2基ある。

 宮島の近代戦争遺跡には日露戦争当時の砲台跡があるが、1941(昭和16)年に始まった太平洋戦争当時の旧軍施設跡はほとんど知られていない。現地は厳島神社から南西へ約6・5キロの山中で、整備された登山道はない。これまで一部の登山愛好者や郷土史家に知られるだけだった。

 郷土史家藤下憲明さん(67)=廿日市市=によると、「呉海軍警備隊戦時日誌」などに「聴測照射所」「特設見張所」と記され、所収の地図中、島南西部に○印があった。42(昭和17)年2月に建設。広島湾や芸南海域の島々や、沿岸の山に配置された同種の施設と連携し、敵機に備えたとみられる。

【写真説明】ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20110111002401.jpg
<上>「厳島聴測照射所」指揮所とみられる建物内部。窓は失われ、内壁が一部剥落していた(昨年12月16日、撮影・宮原滋)
<下>宮島南西の尾根に残る旧海軍の「厳島聴測照射所」跡(昨年12月9日、撮影・山本誉)

423荷主研究者:2011/02/06(日) 13:28:50

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&amp;mode=0&amp;classId=&amp;blockId=9777959&amp;newsMode=article
2011/01/23 10:12 福島民報
松川事件転覆列車の一部か、部品を発見  

 福島市松川町で昭和24年に起きた松川事件で、脱線転覆した列車の物とみられる鉄製の部品が22日までに見つかった。蒸気機関車の石炭を燃やす「火室」の一部とみられ、事件現場近くで地中に半分埋まった状態で発見された。事件発生から60年余。関係する物品は裁判の証拠品を含めて散逸し、ほとんど残っておらず、関係者は「事件を後世に伝えるための貴重な資料」と注目している。

■福大資料室公開を検討

 発見場所は列車が脱線転覆した現場の東側の線路付近で、昨年春ごろに通り掛かった人が見つけ、福島大の松川資料室に持ち込んだ。大きさは長さ約50センチ、幅約30センチ。JR関係者や蒸気機関車の元機関士に確認したところ、脱線した列車と同じタイプのC51形蒸気機関車の「火室」に使われた鉄製の部品で、灰を取り出す下ぶた部分とみられることが分かったという。

 切断された痕跡があり、事件後、横転した列車を現場から速やかに撤去するため、車両を持ち運びできる大きさに切断したとされる記録にも合致している。切断したものを運び出す際に何らかの理由で現場に残された可能性があるとみられる。

 部品の発見場所は昨年春より前には草木で覆われており、JR東日本が視界を確保するため、草木を伐採した後に見つかった。

 松川資料室の研究員で、事件に関する著書もある伊部正之福島大名誉教授は「発見の状況からみて脱線した列車の一部にほぼ間違いない。事件を後世に伝えるために意義ある資料だ」と話している。松川事件の裁判資料を保管している法政大大原社会問題研究所も「写真や文書以外に、事件を伝える物があるとは聞いたことがない」としている。

 伊部名誉教授や関係者は今後、部品の製造年など詳細な鑑定と分析を行うことや、一般公開を検討している。

 突然の発見に関係者も驚いている。県松川運動記念会の渡辺香津夫事務局長は「60年も過ぎた今になって見つかるとは…。事件が残した問題の大きさを感じさせる。大事に保存する必要がある」と強調。事件の元被告の阿部市次さん(88)=福島市在住=は「忘れてはならない事件。貴重な物が見つかって良かった」と語った。

※松川事件 昭和24年8月17日未明、福島市松川町の東北線金谷川−松川駅間で上り列車が脱線転覆し、機関士ら3人が死亡した。レール外しによる列車往来妨害事件で、当時の国鉄と東芝の労働組合員ら20人が逮捕され、福島地裁は25年に死刑5人を含め全員に有罪判決を下した。その後、全国的な支援運動が展開され、36年に仙台高裁での差し戻し審で被告全員に無罪が言い渡された。38年9月、最高裁で全員無罪が確定した。現在まで真犯人は不明。

【写真】脱線列車の一部とみられる鉄製の部品を手にする伊部名誉教授

424荷主研究者:2011/02/06(日) 13:56:33

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/221784
2011年1月19日 02:01 西日本新聞
志免町・竪坑櫓 国重文指定1年 本格補修はこれから

志免町の竪坑櫓。1943年の完成から70年近くにわたり、町の歴史を見続けてきた

 志免町の中心部にそびえる「旧志免鉱業所竪坑櫓(たてこうやぐら)」(高さ47・6メートル)が国の重要文化財に指定されてから1年が過ぎた。「負の遺産」として、解体を求める声も強かったが、重文指定を経て、町は「積極的な保存」へとかじを切った。しかし、本格的な補修はこれから。具体的な活用方法の検討も4月の統一地方選で行われる町長、町議のダブル選挙後に委ねられる。

■苦肉の策で保存

 「旅行から戻って櫓が目に入ると『帰ってきたな』って思う」。竪坑櫓付近でカメラ店を営む花岡幸弘さん(72)はしみじみと話す。花岡さんは閉山間際の1962年まで、4年間櫓の上で地下から鉱員や石炭を上げ下げする巻き上げ機を操作していた。

 店には、鉱業所稼働時と閉山後の町の航空写真が並ぶ。様相の全く違う2枚の写真で共通するのは、竪坑櫓。町の変遷を見続けてきたことを物語っている。

 また、丘の上にあり、町内のあらゆるところから見える「町のランドマーク」と南里辰己町長。竪坑櫓はまさに、町のシンボル的な存在といえる。

 しかし、志免鉱業所の閉鎖(64年)後、竪坑櫓は消極的な言葉で語られてきた。「暗い炭鉱時代を思い起こさせる負の遺産」。住民の間では、こんな声が大勢だった。21世紀に入り、日本の産業発展を象徴する「近代化遺産」に注目が集まる中、竪坑櫓にも保存の要望が寄せられるが、財政的な負担への反対意見は多かった。

 このため“苦肉の策”として町は、2006年に竪坑櫓の半径40メートルをフェンスで囲み、安全を確保する一方、櫓本体には手を加えない「見守り保存」をしてきた。ただ、結果として閉山から現在まで40年以上、櫓には、本格的な補修がなされない状況が続くことになってしまった。

■住民の力に期待

 そうした中での09年12月の国の重文指定だった。「日本建設技術史上、価値が高い」との国のお墨付きに町は方針を転換。南里町長は昨年12月の議会で「見守り保存から活用保存へシフトする必要があるのではないか」と言及した。

 とはいえ、補修だけで億単位の経費がかかる。重文の補修費は国と県が6割を負担するが、それでも町は4割の負担を迫られる。とりあえず町は、11年度以降の予算で、強風などではげ落ちが激しいコンクリートの補強費を計上する予定だが、最終的な補修費として、少なくても数千万円の地元負担を強いられる可能性があるという。

 こうした事情もあって南里町長は「住民の力も借りて、櫓の付加価値を向上させたい」と期待する。

 05年に櫓の保存を要望する署名運動をした「志免立坑櫓を活かす住民の会」は毎年、櫓のライトアップイベントなどに取り組む。古庄信一郎会長(63)は「粕屋地区の財産である櫓を地元の商工、観光に生かす方策を考える時期」と意気込む。「旧志免鉱業所の歴史を学ぶ会」は、櫓をはじめ志免鉱業所の歴史を伝えるボランティアガイドを養成。森内平会長(75)は「説明を聞くことでより深く知ってもらう。地道に続けたい」としている。

■「先走りを心配」

 重文指定以降、竪坑櫓に関しては「エレベーターで屋上に行けるようにしては」「近くに物産館を」という町の活性化につなげようという意見が上がるものの、活用方針をめぐり意見は一様ではない。「保存計画を置き去りにして、活用のアイデアばかりが先走るのは心配」という声もある。

 炭鉱に詳しい東定宣昌・九州大名誉教授(68)=エネルギー産業史・石炭産業史=は「地元に愛されない文化財は長生きしない。地元が納得した方法で、自らの古里を確認できる場として残されるのが大切」と指摘する。

=2011/01/19付 西日本新聞朝刊=

425ソース:2011/04/11(月) 18:41:16
ttp://freewindblg.blog114.fc2.com/に飛渡瀬地下タンクへ通じる通路の画像らしきものが載ってる。名前が違うけどたぶんコレ

426荷主研究者:2011/05/15(日) 13:42:48

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/05/20110507t15007.htm
2011年05月07日土曜日 河北新報
野蒜築港の遺構被災 東松島・日本初の洋式港湾計画

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/MIYAGI/20110507_a3-001.jpg

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/MIYAGI/20110506014jd.jpg
津波被害を受けた野蒜築港遺構の橋の土台。左岸の3基のうち1基だけが残った=東松島市浜市

 明治政府が日本初の洋式近代港湾として、鳴瀬川河口に計画した宮城県東松島市浜市の野蒜築港の遺構が東日本大震災の津波で大きな被害を受けた。新鳴瀬川に残っていた橋の土台が流失、損壊したほか、工事で地ならしに使われたとされるローラーも失われた。市教委は実態把握を急いでいる。

 新鳴瀬川は港内への流砂堆積を防ぐため、鳴瀬川の東側に掘削された。1881(明治14)年から82年にかけて木橋が3本架けられ、橋1本につき、左右両岸にれんが製の土台がそれぞれ3基が建造された。橋そのものは後年、失われたが、土台はほぼそのまま残っていた。

 3月11日の震災では浜市地区にも津波が押し寄せ、土台がまるごと流されたり、れんがが壊れたりする被害が出た。れんがの一部は現場近くに残っているが、多くは不明のまま。当時を記念して浜市地域に置かれていた石製のローラーも流失したとみられる。

 市教委生涯学習課は「まず被害確認を急ぎたい。どうやって流失した土台を探し、復元を進めるか、見通しが立たない状況だ」と説明する。

 野蒜築港は土木学会の「選奨土木遺産」に選ばれるなど、地域のシンボル。鳴瀬川河口近くにある野蒜築港資料室も津波被害を受け、休館を余儀なくされている。

 地元住民らでつくる野蒜築港ファンクラブ事務局の松川清子さん(60)は「自分を含め多くの住民が被災した。今はまだ気持ちの整理がつかないけれど、時期が来たら津波被害と合わせ、地域の宝物である築港の歴史を伝えていきたい」と話している。

[野蒜築港]明治政府が東北地方を「富国強兵」「殖産興業」の重要拠点に位置づけ、1878(明治11)年に着工。安積疎水(郡山市)にも関わったオランダ人技師ファン・ドールンが工事を担当した。北上運河と東名運河を開削したが、84年9月の台風で突堤が流失、計画は断念された。

427荷主研究者:2011/08/28(日) 14:14:54

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004362437.shtml
2011/08/13 08:00 神戸新聞
地下指揮所66年ぶり現る 加西の旧海軍飛行場跡 

66年ぶりに全体像が明らかになった地下防空壕=加西市鶉野町

 太平洋戦争の際、旧姫路海軍航空隊の飛行士養成のため設置された鶉野飛行場(加西市鶉野町)の跡地に、同隊飛行科の指揮所(管制塔)とみられる地下防空壕が66年ぶりに姿を現した。民家敷地内にあり、流れ込んだ雨水で水没していたが、地元住民らが水を排出。複雑な内部構造が明らかになり、住民らは貴重な戦争遺跡を多くの人に見学してもらおうと、展示場として整備した。

 同飛行場に詳しい高砂市の戦史研究家上谷昭夫さん(72)によると、同飛行場跡には防空壕や滑走路、弾薬庫など約60の遺跡が残るが、中でも入り組んだ構造の防空壕が確認されたのは初めて。

 防空壕はコンクリート造りで、夏も涼しい。2部屋あり、東部屋が縦3・7メートル、横4・7メートル、西部屋は縦3・7メートル、横3・1メートル。両部屋とも天井はドーム状で、高さは最大約3メートル。壁は厚さ約1・5メートルの部分もあり、頑丈に造られている。

 部屋と地上を結ぶ通路は2カ所にあり、それぞれ全長約10メートル。外から爆風が入り込んでも部屋まで届かないよう、各通路には曲がり角が3カ所ある。

 この防空壕は、周囲に地上指揮所や、戦闘機を収納する格納庫があった状況から、空襲時に退避できる地下指揮所だったと推測できるという。

 戦後、この防空壕を含む用地は払い下げられ、現在は民家の敷地内にある。住民らによると、防空壕にはこれまで雨水が流れ込み、水深は約1・5メートルに達していたため、足を踏み入れることはなかった。

 戦後66年を迎える今年、地元老人会が防空壕を平和学習に活用し、地域の活性化にもつなげようと発案。7月下旬、消防団の協力を得て、たまった水を抜き清掃。排水設備も整えた。

 防空壕内では戦闘機の模型や現物のタイヤ、写真などを展示、戦争関連映像も見られるようにした。老人会の尾花幸雄さん(66)は「とても立派な防空壕で驚いた。たくさんの人に見てほしい」と話している。

 入場無料。見学希望者は事前に尾花さんTEL090・1023・2389へ。

(藤村有希子)

428荷主研究者:2011/10/02(日) 16:53:34
なかなか由緒ある建物ではないだろうか。勿体ない気がするなぁ。
>北陸電力の前身「高岡電燈(でんとう)」本社ビルだった歴史

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20110917/CK2011091702000143.html
2011年9月17日 中日新聞
高岡の「近代遺産」 本丸会館本館 解体へ

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011091702100086_size0.jpg
市急患医療センター(左奥)新築のため解体されることになった高岡市本丸会館本館=同市本丸町で

市長が方針 医療センター建設

 高岡市の高橋正樹市長は十六日、昭和初期建設の市本丸会館本館(本丸町)を解体し、跡地に、隣接する市急患医療センターの新しい建物を建設する方針を明らかにした。市議会九月定例会で、高橋市長が、畠起也(自民党議員会)、曽田康司(自民クラブ)の両氏の代表質問に答えた。(飯田克志)

 現在の急患医療センターは老朽化が進んでいる。高橋市長は、本丸会館本館を改修し、同センターとして再活用するには多額な費用がかかると説明。さらに、センターの現在の敷地内だけでは狭いため、十分な診療機能のあるセンターが造れないと説明。

 新築するセンターは、インフルエンザといった感染症患者と一般の患者が接触せずに診療できるようにするなど、機能を強化する方針。新築後、現在のセンターは取り壊す。

 本丸会館本館について、市は「近代遺産」として一定の価値を認めており、資料による記録など可能な保存方法を検討する。

 現在の急患医療センターが入っている本丸会館新館は一九六四(昭和三十九)年に建設された建物。センターは八〇年に開設され、高岡だけでなく、射水、氷見両市の市民も夜間や休日に利用している。

 本丸会館本館について、市民団体「本丸会館とまちづくりの会」などは、北陸電力の前身「高岡電燈(でんとう)」本社ビルだった歴史などから貴重な近代遺産として保存を求めている。同会の本田恭子代表は「大変遺憾。会員や有識者と話し合い、可能な限り保存を市に働き掛けたい」と話している。

 市は一月、内部検討委員会が歴史的・文化的価値を認めつつも、再活用は困難とする報告をまとめている。

429とはずがたり:2011/10/02(日) 23:11:54

歴史教科書“日中全面戦争”のウソ
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/other/530409/
配信元:産経新聞
2011/10/02 08:23更新

【from Editor】

 ことしの教科書採択は終了したようだが、毎年、考えるのは歴史教育が随分とゆがめられているのではないか、ということだ。教科書を執筆している人も、採択の担当者も教師も歴史を知らないのではないか、とさえ思えてしまう。とくに近現代史がそうで、例えば、昭和12年7月に始まったとされる日華事変(教科書では日中戦争)について、「北京郊外での日中両軍の衝突によって日本と中国が全面戦争状態に入った」などと書かれる。が、これは正しくない。

 盧溝橋事件は日本の支那駐屯軍と中国の宋哲元軍(第29軍)との衝突だが、10日後には宋が日本軍の香月清司軍司令官に遺憾の意を表明して停戦が成立している。しかも、日本軍の桜井徳太郎少佐が宋哲元軍の軍事顧問をしていたのである。日本軍と米軍が戦争しているときに、日本軍人が米軍の軍事顧問になるだろうか。

 その後、8月13日に第二次上海事変が起こり、日本軍と蒋介石軍との間で戦争状態となるが、日本軍が戦ったのは、蒋介石軍と、共産軍である八路軍であり、蒋介石軍と八路軍もまた、互いに戦争状態にあった。蒋介石軍と八路軍が戦闘をしている場面に出くわした日本軍が両軍の戦闘を傍観するということもあった。さらに、日本政府は国民政府の汪兆銘と協定を結び、その結果、日本軍は汪兆銘軍と共同して作戦を遂行したりしている。日本の将兵と汪兆銘軍の中国人将兵が一緒に行軍して、八路軍と戦うということもあった。

 また、上海のクラブでは、中国人バンドの演奏で、日本人と中国人が同じテーブルで酒を飲み、歌を歌い、踊りを踊っていた。そこにはアメリカ人もイギリス人もいて、中国各地で繰り広げられている日本軍、蒋介石軍、汪兆銘軍、八路軍の動向が話題に上ったりもしていた。映画「上海バンスキング」の世界である。

 当時の日本は政府であれ、軍であれ、国民であれ、中国と戦争をしているという自覚はなかったのである。あえていえば、日本の権益を守るために、それを妨害する蒋介石軍と八路軍を懲らしめているといった認識であったろう。あくまで戦争の対象は「蒋介石」であったから、「援蒋ルート」などの言葉も生まれたのである。

 わたしは産経エクスプレスのネット版に「歴史ドラマのウソホント」を連載しているが、教科書に「日中全面戦争」などと書かれては、「日本歴史教科書の大ウソ」といわなくてはならなくなる。(編集委員 大野敏明)

430荷主研究者:2011/10/18(火) 00:33:53

http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20110930/625041
2011年10月1日 下野新聞
足尾銅山の所長宅を公開 鉱都の勢い伝える

 【日光】鉱都・足尾の中枢施設の一つとして、旧古河鉱業足尾鉱業所が100年以上前に建築した所長宅と課長宅が1日から、足尾町掛水で一般に公開される。ほぼ創建時の状態で現存しているため、専門家も「全国的に極めて珍しい」と太鼓判を押す。昨年2月の県有形文化財指定を受け、所有する古河機械金属が公開の準備していた。

 所長宅は、1907年の足尾暴動事件後、焼失した事務所などの掛水への移転に伴い建築された。迎賓館の「古河掛水倶楽部」に隣接し、床面積100坪(約330平方メートル)超の木造平屋建て。東側の接客棟と西側の居住棟が中廊下で区切られ、それぞれに玄関がある。

 接客棟は、洋風応接室と座敷2室で構成。特に応接室はよろい戸のついた窓を並べ、外側は石積み風に仕上げられるなど意匠を凝らした造りだ。居住棟は4室の座敷や風呂などがある。

 建て替え計画があったものの、バブル崩壊で頓挫し、2年前まで社宅として使用されていた。そのため保存状態が比較的良好なのだという。

 同所には所長宅の他に5棟の重役宅があり、いずれも県指定有形文化財。調査を担当した建築史研究家の河東義之小山高専名誉教授は「当時としては最先端の住宅建築だった」と評価する。

 昨年11月に1日のみの特別公開をしたところ好評だったため、防火設備を設置し、所長宅と課長宅の2棟を一般公開することに。同社足尾事業所は「地域活性化につながれば」と期待している。

 入場料は、以前から公開しいる「古河掛水倶楽部」と合わせ、大人400円、小中学生200円。営業は土、日、祝日で、それ以外は事前予約が必要。冬季は休館。問い合わせは同社足尾事業所電話0288・93・3255(土、日、祝日は0288・93・2015)

431荷主研究者:2011/11/26(土) 15:03:02

あれはそう呼ぶのか。今の感覚ではみっともない様式に感じられるが、近代建築の歴史としては貴重なものかもしれないなー。
>鉄筋の現代建築に城郭風の瓦屋根を載せた「帝冠様式」と呼ばれる造り
>県本庁舎と、隣にある同じ帝冠様式の名古屋市役所庁舎の国重要文化財への指定を目指している

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20111101/CK2011110102000105.html
2011年11月1日 中日新聞
精巧!県庁舎プラモ 豊橋のメーカー試作、3日に展示

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011110102100051_size0.jpg
完成した県本庁舎のプラモデル試作品=県庁で(県提供)

 お城のような屋根が特徴の県本庁舎の模型を、豊橋市のプラモデルメーカー「ファインモールド」が試作した。鈴木邦宏社長(53)が31日、県庁を訪れ、試作品を大村秀章知事に紹介した。

 県本庁舎は1938(昭和13)年に完成。鉄筋の現代建築に城郭風の瓦屋根を載せた「帝冠様式」と呼ばれる造りで知られる。

 鈴木さんが4年ほど前に「世界に類がない特徴でプラモデルにしたら面白いのでは」と発案。来年5月の発売を目指し、原型となる試作品を完成させた。

 試作品は台座を含め幅21・5センチ、高さ10・5センチ、奥行き11・5センチで、サイズは本物の500分の1。合成樹脂製で、特徴のある瓦屋根や壁面などを精巧に再現している。販売価格は未定。

 同社はこれまで、映画「スター・ウォーズ」や、スタジオジブリのアニメ作品に登場する戦闘機の模型を製作してきた。鈴木さんは「官公庁の建物のプラモデル化は世界初では。新しい愛知ブランドになる」と売り込んだ。

 県は名古屋市と連携して、県本庁舎と、隣にある同じ帝冠様式の名古屋市役所庁舎の国重要文化財への指定を目指している。3日には県本庁舎内を一般公開するイベントを開き、この模型の試作品も展示する。大村知事は「県本庁舎は戦争で焼け残った建物で大事にしないといけない。プラモデル化は大変に勇気づけられる」と感謝していた。

 (島崎諭生)

433名無しさん:2012/01/21(土) 15:49:44
http://www.asahi.com/national/update/0121/TKY201201200767.html
2012年1月21日3時3分
靖国戦犯合祀、国が主導 地方の神社から先行

 戦争犯罪に問われた軍人らの靖国神社への合祀(ごうし)について、旧厚生省が日本の独立回復翌年の1953年に、公的援護制度の拡充などに応じて順を追って無理なく進める、との方針を決めていたことが同省の内部資料でわかった。方針に沿って、先に地方の護国神社での合祀を目指すとの記述もあり、朝日新聞が調べたところ、6カ所でA級戦犯3人を含む先行合祀の記録が残っていた。

 天皇や閣僚の参拝や、戦争責任をめぐる議論を起こしてきたA級戦犯合祀の原点となる方針が、独立回復に際して政府内で練られていたことになる。

 政府は従来、国会答弁などで、戦犯合祀は「靖国の判断」とし、宗教行為である合祀には関与しておらず、政教分離を定めた憲法に反しないとの姿勢を強調してきた。だが、今回の文書で、終戦までと同様、政府が合祀という靖国の根幹領域に立ち入って方針を定め、戦犯合祀の環境をつくり上げたことがわかった。

続きは朝日新聞デジタルでご覧いただけます

434とはずがたり:2012/02/10(金) 10:19:18

すげえ。。

第一次大戦兵士の最後の生存者死去、110歳の英国人女性
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120209-00000017-cnn-int
CNN.co.jp 2月9日(木)16時3分配信

(CNN) 米週刊誌タイムなどは8日、第一次世界大戦の従軍兵士で最後の生存者として知られる英国人女性のフローレンス・グリーンさんが死去したと報じた。110歳だった。

英BBC放送によると、同国ノーフォークにある養護施設で4日夜、就寝中に息を引き取ったという。111歳の誕生日を2週間後に控えていた。

グリーンさんは17歳だった1918年、停戦が発効する前の2カ月前に英国空軍の女性部隊に入隊し、食堂の接客係として働いた。

2008年にはタイム誌との会見に応じて戦時体験に触れ、「多数のパイロットと知り合い、デートもした」などと述懐。「航空機に乗る機会もあったが飛ぶのが怖かった。基地ではたくさんの友人ができ、暇な時には愉快なこともした。楽しい思いをさせてもらった」と振り返っていた。

グリーンさんの死去を受け、退役した元英空軍少将は「従軍兵士の最後の生存者は女性であるべきだったかもしれない。母国で奉仕した人物は、我々に戦争は塹壕(ざんごう)に限られた話ではないことを思い起こさせる」としのんだ。

435荷主研究者:2012/02/15(水) 23:55:50

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201201120055.html
'12/1/12 中国新聞
原爆資料館の写真、一部劣化

 写真フィルムが長い年月の間に化学変化を起こし、溶けるなどして画像が失われる「ビネガーシンドローム(加水分解による劣化)」が、広島市中区の原爆資料館に保管されている写真の一部でも起きていることが分かった。被爆後や復興期の写真を次代に継承できなくなる恐れもあり、専門家は「長期保存への多角的な取り組みが必要」と指摘している。

 同資料館によると、ビネガーシンドロームが見つかったのは、原爆の惨禍とまちの復興を記録した佐々木雄一郎さん(1917〜80年)のフィルム。

 約6万こまのうち、主に46年と、48〜49年の一部の計数百こまについて、フィルム同士が溶けて固まったり、波打つなどし、プリントできない状態になっている。「靴磨きの兄弟」(48年)の名で知られる写真も、フィルムが失われた可能性があるとしている。

 写真保存の専門家で日本写真家協会の松本徳彦専務理事が同館で確認した。「資料館の温度、湿度などの保管方法に問題はない。避けられない化学変化が進行している」と指摘。「劣化が進んだフィルムを別の容器で保管したり、健康なフィルムは早めに紙焼きしておくことが最善。画像の長期保存に向け、多角的な対策を進めてほしい」と言う。

 同館学芸担当の大瀬戸正司主任は「遺族が大事にしてきたフィルム。専門家の指導の下、紙焼きなども検討材料の一つとし、適切に保管管理をしていきたい」としている。

 ビネガーシンドロームは、主に50年までに製造されたフィルムで起きやすいという。松本さんは「日本の写真家の間でその危険性が話題になり始めたのもわずか10年程前から。国レベルでの研究、対策が始まったが、写真資料を保管する各地の公文書館や図書館などでも現象の有無を確認し、適切な管理を進めてほしい」と話している。

【写真説明】ビネガーシンドロームが起きた佐々木さんのネガフィルム

436荷主研究者:2012/03/31(土) 17:36:15
>>298
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1202110017/
2012年2月11日 神奈川新聞
09年焼失の旧吉田茂邸、県も予算化して再建始動へ/神奈川

 2009年3月に焼失した旧吉田茂元首相邸(大磯町西小磯)について、県と大磯町は12年度、再建に着手する。県は12年度予算案に建物の基本設計費を盛り込んだ。再建主体となる大磯町からの受託事業で、費用は同町が負担し12年度予算案に計上する。技術的支援を担う県が基本設計の発注業務を行う。建物の再建が予算化されるのは初めてで、地元や関係者の悲願が進み出した。順調に進めば、13年度に実施設計、14年度に建設工事着手のスケジュールが想定される。

 再建問題は昨年12月、県と町による再建方針案が確定。大磯町が建物の再建の主体となり、完成後の維持管理、運営を担当。県は、崖部分ののり面保護工事など敷地の基盤整備のほか、建物再建の技術的支援、協力を行うとしていた。

 県はこの役割分担により、設計に関する業務を町から受託して担当。新年度予算案で、公園整備費の中に基本設計費の枠を盛り込んだ。

 大磯町旧吉田茂邸再建基金には昨年12月末現在で、町民や全国から約2億5171万円の寄付が寄せられている。再建は焼失前の姿に戻すのが基本だが、再建の範囲、経費などは慎重に検討を進める。

 ◆旧吉田茂邸 総ひのき造りで数寄屋風の木造2階建て約千平方メートル。政財界の大物が元首相に意見を求める大磯参りを繰り返すなど戦後政治史の舞台の一つだった。1979年には当時の大平正芳首相とカーター米大統領の首脳会談も行われた。漏電などによる失火が原因とみられる火事で2009年に焼失。敷地約2・9ヘクタールは県が09年度に購入し県立公園として整備している。

437とはずがたり:2012/04/05(木) 12:18:10
>>251
>>249は読めなく成っちゃったし転載しておこう。


1933/03/28
日本、国際連盟脱退
http://www.c20.jp/1933/03datta.html
首相の斉藤は、もともとは、脱退反対論だった。閣僚の大半、内相山本達雄、蔵相高橋是清、文相鳩山一郎、農相後藤文夫、拓相永井柳太郎らも脱退には反対だった。また、海軍も斉藤を支持していた。閣僚ではないが、内大臣牧野伸顕も、イギリス提案をのんだ方がいいという意見だった。
だが、新聞各社は、圧倒的に脱退論をとなえていた。全国百三十二社が共同声明を作って、一面にのせた。内容は、満州国の存在を危うくするような解決案は、いかなる事情があろうとも、絶対に受諾すべきではないことを、全言論機関の名において声明する、というのであった。
客観的にいって、新聞はじつにだらしなかった。陸軍の青年将校の威勢のいい言辞にひきずられていた。
あるいは、同情的にいうならば、新聞にはもはや言論の自由はなかった。憲兵隊と特高警察がその力をほしいままにしていたのである。

伊東巳代治の国連脱退反対運動
http://www.ndl.go.jp/modern/column/07.html

昭和8(1933)年2月24日、国際連盟総会は満洲における日本の特殊権益を認める一方、同地方の主権は中国にあるとする対日勧告を採択した。それは「千九百三十一年九月前ノ原状ヘノ単ナル復帰ヲ定ムルモノニ非ズ」とされたが、日本は前年九月、日満議定書により満洲国を正式承認していたので落とし所を見出すのは困難だった。この問題は前年12月9日、十九ヶ国委員会に付託されていたが、委員会の段階で日本の劣勢が明らかになっていたことから、1月下旬になると国連脱退の主張が各界で頻りに唱えられるようになった。それは朝野、左右を問わず、ほとんど国を挙げての現象と化したが、その中にあって独り国連脱退に異を唱えた人物がいた。

それは帝国憲法の起草者の一人で伊藤博文の懐刀として聞えた伊東巳代治である。伊東は明治32(1899)年以来、枢密院に蟠居し、政党内閣期には「内閣の鬼門」として恐れられた。金融恐慌救済緊急勅令問題では第1次若槻内閣を倒し、不戦条約問題では田中内閣を倒壊寸前まで追い詰めた伊東はロンドン条約問題で浜口内閣に一敗地に塗れてからは鳴りをひそめていたが、今ここに脱退反対に立ち上がったのである。伊東は2月6日夜のラジオで十九ヶ国委員会の審議が満洲国の不承認で固まったことを聴き、憂慮のために寝つけなかった。9日、伊東は来訪した二上兵治枢密院書記官長に「脱退の危険なる事并に其理由なきこと」を内閣に伝えるよう求めた。二上は大正5年以来、枢密院書記官長を務め、「枢密院の主(ぬし)」とも「枢密院の癌」とも言われた人物である。ここから伊東の活動が始まり、10日には政友会の望月圭介、11日には国家主義者の杉山茂丸(作家夢野久作の父)、12日には政友会代議士の西岡竹次郎、13日には東京日日新聞社副社長の岡実(政治学者岡義武の父)、実業家の山下亀三郎、14日には政友会の岡崎邦輔(陸奥宗光の従弟)に外交の失敗を痛罵し、潜水艦の急造など軍備の拡張を主張している。伊東は満洲国の承認そのものに反対していたのではなく、日本の国際的孤立がもたらす軍事的危機を憂慮していたのである。

ここまでは政府の外交失策への批判だったが、14日に来訪した貴族院議員の石塚英蔵に牧野伸顕内大臣に対して「一朝の怒に乗して聯盟を脱するの不可なる所以」を忠告せよと依頼したあたりから国連脱退反対運動が本格化する。同じ日には来訪した外交官の吉田茂に「英国に頼りて一箇年の猶予を求むへきこと」を内田外相に伝えよと求めている。イギリスは在華権益を守るために日本との妥協を模索しており、伊東はここに期待をかけたのであろう。15日には旧友でライバルでもある枢密顧問官の金子堅太郎と会い、金子に栗野慎一郎・黒田長成の両顧問官に国連脱退反対を働きかけるよう勧説した。伊東は原嘉道・元田肇の両顧問官には自分が接触すると述べている。16日、山下の取り次ぎで海軍大臣の大角岑生が来訪したので、伊東は国連脱退は南洋委任統治領を失うことになるとして反対を説いた。大角は、国連に1年の猶予を求めよとの伊東の提議については熱河作戦が始まろうとしているので覚束無いと答えた。伊東は大角に進退を賭して脱退に反対するよう勧告した。17日には貴族院議員の児玉秀雄(源太郎の長男)、民政党の俵孫一に入説し、児玉は翌日、斎藤実首相に伊東の意向を伝達した。

438とはずがたり:2012/04/05(木) 12:18:31
>>437-438
18日、岡が大角の内意を伝えに来訪した。大角は自分一人が一身を賭しても国内を紛擾させるだけなので、伊東の注意に背くことになるかも知れないと言って来た。要するに反対は出来ないということである。海軍の反対に期待をかけていた伊東はかなり失望した。19日、荒木貞夫陸軍大臣が来たので、伊東は外交的には遷延策をとって、その間に中国の譲歩を引き出すべきだったことや潜水艦の急造などの持論を展開した。伊東は近く開始される熱河作戦について触れ、さらに問題が起きるので国連からの全権引揚げや脱退は不得策で軽挙だと説いた。荒木からは特段の意見はなかったようだ。実質的に賛同しなかったのだろう。

伊東の狙いは枢密院だけでなく、政官界の有力者に広く働きかけることで潜在している脱退反対論に点火し、最終決定の鍵を握る唯一の元老西園寺公望の意思形成に影響を与えることだったらしい。伊東の反対論はあくまで国連に留まって主張を貫くことが日本の国益にかなうというもので、二上が「硬軟ノ別ナラ却テ非脱退説ノ方ガ硬論ト云フコトカ出来ル」(「倉富勇三郎日記」昭和8年2月15日条)と評するように、決して「協調外交」「親英米論」の立場をとるものではなかった。

20日、伊東はラジオで西園寺が「内閣の提唱に一もなく雷同したる様子」を聴いた。「上下挙って聯盟の態度に憤懣の余り自制する所を知らす、一に脱退論に邁進しつゝあり」と判断した伊東は、自分はすでに首相・陸海相に忠告したので「今後一切此問題に触れさる覚悟を為すに至れり」と、脱退反対運動を諦め、この問題に背を向けたのである。誇り高い伊東は政治的なプライドが勝ち目の薄い抗争で傷つくのを嫌ったのであろう。半世紀に及ぶ政治生活で伊東が放った最後の淡い光茫であった。

439荷主研究者:2012/04/08(日) 16:10:17

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120220/CK2012022002000125.html
2012年2月20日 中日新聞
金嬉老事件 寸又峡温泉の旅館閉館へ 殺人犯籠城、昭和史に残る舞台

女将「元気なうちに」

山あいにたたずむふじみや旅館。金元受刑者は左手2階に籠城した=川根本町千頭の寸又峡温泉で

 ライフル片手にダイナマイトを抱えた殺人犯が、宿泊客らを人質に旅館に立てこもった金嬉老事件から20日でちょうど44年。昭和史に残る事件の舞台となった川根本町寸又峡温泉の「ふじみや旅館」が、近く閉館する。全国のお茶の間にテレビ中継され、劇場型犯罪の走りとされた壮絶な事件。人質だった女将の望月英子さん(73)は「元気なうちがいい」と廃業を決意した。静かな山あいの秘境温泉で、老舗旅館がひっそりと幕を閉じる。 (浅野宮宏)

 ふじみや旅館は1950年、発電ダム建設に従事する技師や作業員らの簡易旅館として寸又峡で一番古い開業。62年に寸又峡温泉の開湯で温泉旅館となった。静かな温泉街と旅館を一躍、全国に広めた籠城(ろうじょう)事件は68年2月20日深夜、金嬉老元受刑者がたどり着いて始まった。

 望月さんは、寝たきりの義母を看病し、子ども3人と母屋で寝ていた。突然、夫和幸さんに起こされ、旅館2階「藤の間」に連れて行かれると、金元受刑者にすごまれた。「最初は、何がなんだか分からなかった。でも、コンロ2つを近くに置いて、どんどん炭を燃やして、炎はわあって上がってて。近くにダイナマイトはあるし、ライフルだって撃つし。子どもだけは助けたいって」

 事件は4日後の夕、金元受刑者が逮捕されようやく終わった。望月さんは少し早く22日朝、子どもと解放されたが、生きた心地がしなかったという。「あらためて聞かれると、嫌な記憶を思い出すけど、時間が解決したというか」。金元受刑者が一昨年、亡くなったこともあり、事件を静かに振り返ることができるようになった。

 18年前、和幸さんは病死。3人の子どもも独立した。旅館を手伝ってもらった妹も県外に去り、最近は事実上、廃業状態だった。望月さんは既に旅館と土地を売りに出しており、近く廃業届を出す。

 「18歳で嫁いで。こんな人生を送った人なんていないよ。未練がないといえばうそになる。ここでほとんど生きてきたんだから」と、半世紀の女将人生を振り返った望月さん。「私はもうできないから。やりたい人があれば、譲りたい。そういうのは元気なうちがいいのよ。だって、ここは温泉がいいでしょ」と寂しさを振り払うように言い切った。

金嬉老事件 1968年2月、清水市(現静岡市)のキャバレーで暴力団組員2人を射殺した金嬉老(キム・ヒロ、本名・権嬉老=クォン・ヒロ)元受刑者が、寸又峡温泉の旅館で宿泊客ら13人を人質に88時間立てこもり、在日韓国・朝鮮人差別を糾弾して社会的な関心を集めた。金元受刑者は無期懲役に服したが、仮釈放で韓国・釜山入りし、2010年3月、81歳で死去した。

440荷主研究者:2012/04/08(日) 16:30:35

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201202200030.html
'12/2/20 中国新聞
旧日銀、50年代の装い再び

 広島市は2012年度から、被爆建物である中区袋町の旧日本銀行広島支店の国重要文化財指定に向け、被爆後に復旧工事を施した1950年代の姿に復元する取り組みを始める。3年がかりで調査し、15年度に復元工事の計画をまとめる。

 旧日銀広島支店は被爆後、50年代後半までに復旧工事を完了。その後も断続的に壁の塗り替えや床の張り替えなど修繕が行われた。

 調査では復旧当時の状態やデザインに復元できるかどうかを検討する。後で取り付けられた1階の天井板を取り外し、元の天井の状態を調べたり、壁の一部を削って当時の塗装の色や材料を確かめたりする。

 市は12年度一般会計当初予算案に調査費430万円を計上。14年度まで調査を続ける。15年度に工事計画を固め、復元に着手する。市文化財課は「当時の姿に復元すれば国重文に指定されるわけではないが、文化財的価値を高めて指定に近づけたい」と説明する。

 旧日銀広島支店は外壁が石張りの鉄筋3階地下1階で36年に完成した。ギリシャ風の装飾彫刻や渦巻き状の柱頭など古典様式が特徴で、昭和初期の広島を代表する建築物だ。

 爆心地から380メートルにあり、原爆で窓枠や欄干が吹き飛ばされ、内部が大破。職員たち20人が亡くなった。被爆2日後に業務再開し、92年まで支店として使われた。

 市は2000年に市重文に指定し、日銀が土地・建物を無償貸与した。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20120220003001.jpg
【写真説明】広島市が復元に向けた調査を始める旧日本銀行広島支店

441荷主研究者:2012/05/27(日) 11:21:43
明治期以降の建物でも伝統的建造物群保存地区に指定されるのか。
>明治期以降に建てられた店蔵

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/05/20120503t11017.htm
2012年05月03日木曜日 河北新報
県内初の「伝統的建造物群保存地区」 村田町が計画策定

村田町が伝統的建造物群保存地区への設定を目指す「蔵の町並み」

 宮城県村田町は「蔵の町並み」として知られる町中心部を、伝統的建造物群保存地区(伝建)に設定する準備を進めている。明治期以降に建てられた店蔵は東日本大震災で損壊が進んでおり、制度を活用して国から補修費の補助を受けたい考え。昔ながらの町並みを再生し、観光振興も目指す。蔵の町並みが伝建に設定されれば県内初のケースとなる。

 町は2013年度末にも、保存の基本方針や対象物件を記した保存計画を策定する方針。現在、設定に向けた役場内の体制整備、歴史を生かした町づくり構想の描き方などを検討している。地域内の住民への周知、合意形成も課題で、ことしの夏ごろに住民説明会を開く予定。

 町教委によると、町内には明治期以降に建てられた蔵などが約100棟あったが、うち約20棟は震災による損壊が著しく取り壊された。残る蔵の多くも土壁の崩落、柱や床の傾きなどが進んでいる。ほとんどの蔵は個人所有のため、持ち主が多額の修繕費用を負担しているのが現状だ。

 国から特に価値が高い重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されれば、歴史的建造物の修復に要した費用は国や町が補助するため、所有者の負担はほとんどなくなる。固定資産税などの税の軽減措置も適用される。

 一方、伝建内では建築物の新築や改築などについて町教委の許可が必要になり、歴史的建造物と調和しない建築物は許可されないといった規制も生じる。

 佐藤英雄町長は「制度は蔵の町並みを保存、活用するのに有効で、交流人口拡大にも役立つ。選定を受けた後に歴史を生かした町づくりをするため、住民と十分に話し合いたい」と説明している。

[伝統的建造物群保存地区(伝建)の制度] 城下町や宿場町、門前町など歴史的な集落、町並みを保存するため、1975年の文化財保護法改正で創設された。市町村が伝建を設定し、市町村の申し出に基づき、国が特に価値が高いと判断した地区は重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定される。現在、弘前市仲町、仙北市角館、福島県下郷町大内宿など77市町村の93地区が重伝建に選定されている。

442とはずがたり:2012/05/29(火) 10:30:59

小松原師団長はソ連のスパイ?=ノモンハン事件で新説
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201112/2011120800677&amp;rel=j&amp;g=soc

 太平洋戦争勃発の2年前の1939年、当時の満州国西部国境で日本の関東軍がソ連軍と衝突、大損害を被ったノモンハン事件について、黒宮広昭・米インディアナ大教授(ソ連政治史)が日本とロシアの公文書などを基に、関東軍第23師団の小松原道太郎師団長がソ連のスパイだった可能性が大きく、関東軍はスターリンの巧妙なわなに陥れられたとの新説を唱えている。
 小松原師団長は陸軍大学校卒で、満州国が建国された32年から約2年間、ハルビン特務機関長を務めるなど主に情報畑を歩んだ。38年に第23師団長に任命され、満州北西部ハイラルに駐屯。39年5月にノモンハン付近で発生した小競り合いに独断で部隊を出動させ、大規模紛争のきっかけをつくった。ソ連は周到な準備で機械化部隊を投入、同師団に壊滅的打撃を与えた。
 黒宮教授が米誌「スラブ軍事研究」12月号に発表した論文によると、小松原師団長は在モスクワ日本大使館付武官だった27年、ソ連情報機関による「ハニートラップ」(女性を使って弱みを握る工作活動)に引っ掛かり、ソ連の対日情報工作に協力するようになったとみられるという。
 ハルビン特務機関長時代には多くの機密情報がソ連側に漏えいした形跡があり、ロシア国立軍事公文書館などにそれを裏付けるファイルが保管されている。
 小松原師団長に対するハニートラップ説はロシアの研究者が唱えていたが、黒宮教授は最近、この研究者にインタビューし、ソ連の元防ちょう機関員(故人)が情報源だったことを確かめた。(2011/12/08-16:32)

443荷主研究者:2012/10/21(日) 17:44:43

http://www.at-s.com/news/detail/450477212.html
2012/9/17 08:50 静岡新聞
湖底に眠る「幻の戦車」 歴史継承へ調査開始 浜松

 浜松市北区三ケ日町で、同町の猪鼻湖に眠る「幻の戦車」の調査プロジェクトが動き出した。戦車は戦後ひそかに沈められたとされる「四式中戦車チト」。地元の若者たちが戦争を体験した住民らを訪ねて戦車と同町の関係に迫り、地元の歴史の再認識を図る。国内に1台しか残らないという歴史的遺産の探索は全国から注目を浴びそうだ。

 戦車が沈むのは同町大崎と下尾奈を結ぶ瀬戸橋付近。地元では昔から存在は有名だったが、終戦間際の日本陸軍が技術を結集したチトだということは知られていなかった。

 調査に乗り出すのは、同町の若者たちでつくるまちおこし団体「スマッペ」。中村健二事務局長が戦車が歴史価値の高いチトだと聞いたのがきっかけだ。中村事務局長がチトについて調べるうちに、水没作業に携わった技術兵で、戦後同町に暮らしていた大平安夫さんが既に亡くなっていた事を知った。当時の町の状況についても高齢化によって情報収集が困難で「地元の歴史を次世代に残すためには今しかない」と調査を決めた。

 同団体の若者を中心に、町内の70、80代の住民への聞き取りを実施。生前の大平さんに水没の経緯を聞いたことがある豊橋市の模型メーカー「ファインモールド」の鈴木邦宏社長らにも話を聞くという。

 実際の調査には、豊橋市の魚群探知機メーカーの協力を受けた。戦車の位置を確定し、ダイバーによる水中写真の撮影が大きな目標だ。一連の活動記録をドキュメンタリー映画として撮影し、映画祭などの出品も予定。来年2月をめどに兵器や戦史の専門家によるシンポジウムも検討している。

 四式中戦車チト 完成したのはわずか2両といわれる。戦局逆転の期待を担いながら戦場に出ることなく終戦を迎えた。従来の日本戦車と一線を画し、75ミリ戦車砲や400馬力の空冷ディーゼルエンジンを備える。1両は戦後、米軍に回収された。

444とはずがたり:2012/10/22(月) 21:49:19

キューバ危機50年記念あげ♪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%90%E5%8D%B1%E6%A9%9F

446荷主研究者:2012/11/25(日) 23:31:27
>>431
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20121027/CK2012102702000033.html
2012年10月27日 中日新聞
重文指定目指す県庁と名古屋市役所

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2012102602100177_size0.jpg
同時に重要文化財指定を目指す名古屋市役所本庁舎(左)と県庁本庁舎(右)=名古屋市中区で

 県庁本庁舎と名古屋市役所本庁舎で、国の重要文化財(重文)の指定を目指した調査が進んでいる。年内には市の有識者検討会も発足する。県と市の調査は来年度末まで続け、その後、国への働き掛けを本格化させる。十一月三日には両庁舎の公開イベントがあり、双方の担当者は「世論の盛り上がりにつながれば」と期待している。

 県庁舎は地下一階地上六階建てで一九三八(昭和十三)年に、市庁舎は地下一階地上五階建てで三三(昭和八)年にそれぞれ完成した。洋風建築に城郭風の屋根を載せた「帝冠様式」の建物が隣り合う景観は、わが国ではここだけという。

 壁や天井、タイルや内部の飾りなど建設当時のまま残されている箇所も多く、九八年には同時に国有形登録文化財に指定された。

 両庁舎の重文指定申請は、大村秀章知事と河村たかし市長の共同公約。県と市は昨年、担当部署によるプロジェクトチームを設置し、それぞれの庁舎の文化財的な価値や現状の調査を進めている。県などの担当者は「文化庁も『帝冠様式が二つ並んでいる景観はほかにはない』と言っている。脈はある」と重文指定に自信をのぞかせる。自治体の中枢機能を持つ庁舎が重文に指定されれば全国初という。

 県庁舎は小中学校の社会見学で人気を集めているほか、今年六月には豊橋市のプラモデルメーカーが模型を作り、売り出した。市庁舎もドラマや映画のロケ地に使われるなど関心が高まっている。市の担当者は「重文になることで、全国に誇れる建物というプライドを市民、県民に持ってほしい」と期待し、庁舎公開には「建物が自分たちの財産ということをあらためて認識してもらえれば」と話す。

 十一月三日の両庁舎の公開は、県庁が午前九時から、市役所は九時半から。いずれも午後四時までで無料。事前申し込みは不要。知事室や市長執務室、貴賓室などが見学できるほか、吹奏楽やダンスなどのステージイベントもある。

 問い合わせは県財産管理課=電052(954)6055、名古屋市総務課=電052(972)2106=へ。

 (吉光慶太)

447荷主研究者:2012/12/30(日) 23:54:14

http://kumanichi.com/news/local/main/20121126007.shtml
2012年11月26日 熊本日日新聞
荒尾市が「変電所跡」取得へ 戦争遺跡・二造

旧陸軍の火薬工場「荒尾二造」変電所跡。市民団体主催の見学会も開かれている=6月、荒尾市

 荒尾市は26日、旧東京第二陸軍造兵廠[ぞうへいしょう]荒尾製造所(荒尾二造)最大の遺構「変電所跡」を取得、保存すると発表した。12月3日開会の定例市議会に提出する本年度一般会計補正予算案に、建物を含む土地取得費208万円を盛り込む。

 二造は旧陸軍が造った巨大火薬工場で、敷地は約300ヘクタール。三池炭鉱の石炭を原料に、第2次大戦中に爆弾の原料となる火薬を生産した。一帯は戦後に払い下げられ、工場や病院、福祉施設、高校、団地などが建つ。

 変電所跡は面積約2020平方メートル。建造物は横40メートル、高さ約15メートルの鉄筋コンクリート2階建てで、崖に埋め込まれたような構造。二造を象徴する施設として、市民団体が保存を要望していた。

 市教育委員会社会教育課は「工場用地整備や道路の築造、市電に転用された引き込み線など、二造は市の社会資本整備の基盤となった。戦後復興のモニュメントとして残したい」と説明する。

 現在、土地と建物は国が所有。点在する火薬庫跡などほかの施設については「取得の話は進めない」としている。(小野由起子)

448とはずがたり:2013/01/25(金) 19:42:15

> 1911年(明治44年)に第13代宮崎県知事に就任した有吉忠一は細島、内海、油津の三港を宮崎県に於ける重要港湾として改修に着手、折しも飫肥と油津とを結ぶ県営軽便鉄道と、民間事業による内海と大淀駅(現在の南宮崎駅)とを結ぶ宮崎軽便鉄道が1913年(大正2年)に開通、港湾と鉄道による物流の整備が行われた。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1047289790/6160

細島は富高・延岡地区の,内海は宮崎の油津は飫肥・吾田・油津(日南)地区のそれぞれ港湾として機能してきた様だが,細島は三菱の石油化学コンビナート構想こそ実現しなかったけど,様々な工業が立地し,日南にも王子製紙の工場が有るのに対して,内海にはそういう近代資本主義的工業は皆無である。。
因みに日向市は(富高+細島=)富島と(多分平岩+幸脇=で)岩脇との合併で成立である。富高と細島で日向ではなく富島なのか。

内海は宮崎から結構遠い上に,平野らしい平野も無さそうであるし,宮崎には結局衰退した赤江港に代わりS44に大淀川の河口港の宮崎港が開設,細島・油津に次いで重要港湾の指定を受けることになる。折角だし赤江港に改称して欲しいところだけど,赤江は大淀川挟んで南側,今の宮崎空港辺りである。因みに南宮崎は大淀である。


宮崎港
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%B8%AF

宮崎港(みやざきこう)は、宮崎県中央部、宮崎市高洲町・吉村町一帯にある港湾。県庁所在地の宮崎市の東岸にあり日向灘に流れる大淀川河口の左岸(北側)、一ツ葉入江に位置する河口港。1969年(昭和44年)年に開港。港湾管理者は宮崎県。1973年(昭和48年)4月16日、県内では細島港・油津港についで3番目に重要港湾の指定をうける。

沿革
当港はかつて赤江港と呼ばれ日向沿岸の要港であった。文明年間は大陸交易路に日向沿岸経由の南海路が採用されはじめると、赤江港は寄港地となったとされ、藩政期の文化年間頃から、上方交易が活発となる。当時の赤江港は大淀川河口の右岸部(南側)に位置し、飫肥藩領における東北端の地であった。明治期は大淀川水運によって内陸部(国富町本庄、宮崎市高岡町など)と結ばれていたので、宮崎県最大の河口港として栄えた。

しかし、1923年(大正12年)年国鉄日豊本線開通による輸送体系の変化、河口港の宿命である漂砂堆積による航路維持困難さに直面し急激に衰退する。1937年(昭和12年)年、赤江港から宮崎港に改称する。第2次世界大戦後、後背圏の成長に経済成長に伴い、宮崎港の浮上が求められ、1958年(昭和33年)年から改修工事に着手、1969年(昭和44年)年に一ツ葉入江に宮崎港が再生する。

449荷主研究者:2013/02/10(日) 12:25:47

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20130115/CK2013011502000022.html
2013年1月15日 中日新聞
松代大本営建設に海軍関与の可能性 村長の記述見つかる

故塚田伍八郎さんが公務などについて詳細に記録していた日記=長野市の長野俊英高で

 旧日本軍が太平洋戦争末期、本土決戦に備えて長野市一帯に大本営や政府中枢機能を極秘移転しようと建設していた松代大本営に、海軍が関与していた可能性を示す資料が見つかった。大本営移転は陸軍主導で進み、海軍は反対していたという通説を覆す可能性も出てきた。

 見つかったのは当時を記録した日記と、海軍部隊名を記した表札や食器類で、長野市安茂里小市の塚田興造さん(75)の自宅に保管されていた。終戦当時、塚田さんの祖父の伍八郎さん(故人)は旧安茂里村の村長を務めており、公務記録を日記へ詳細に記していた。

 日記によると、終戦直前の一九四五年七月ごろから約一カ月間、海軍通信隊の薗田美輝中佐率いる部隊が安茂里村に駐屯し、伍八郎さん宅を宿舎や事務所として使っていた。この事実を裏付けるように「海軍薗田部隊士官宿舎」と書かれた表札や、部隊が使用した水筒などが見つかった。

 薗田中佐が松代大本営建設の現場責任者だった陸軍大尉の元を訪れた記録は既に確認されており、松代地区の陸軍と安茂里村の海軍の間で意思疎通があったと推測される。当時小学一年生だった塚田さんは「海軍の兵隊さんにトラックで松代へ連れて行ってもらい、穴を掘るのを見ていた」と証言する。

塚田さん宅に保管されていた表札=長野市の長野俊英高で

 松代大本営を研究している長野俊英高校(長野市)の土屋光男教頭は「当時、海軍部隊が安茂里村で地下壕(ごう)を掘っていたことが分かっているが、陸軍とも連携して本格的に大本営移転を進めていたと考えられる」と話す。

 日記には他にも重要な事実が書かれている。一九四五年六月二十八日には「大本営ヨリ両将校来場アリ」と書かれており、海軍幹部が東京の大本営から安茂里村を極秘訪問したとみられる記述がある。土屋教頭によると、海軍が組織的に大本営建設へ関わっていたことを示す記述と考えられるという。

 見つかった資料の一部は、塚田さんが長野俊英高校の郷土研究班に寄贈した。土屋教頭は「非常に貴重な資料ばかりで興奮している。日記を中心に解読を進め、新たな事実を発見したい」と話している。

 (武藤周吉)

 <松代大本営> 太平洋戦争末期、本土決戦に積極的だった陸軍を中心に国家中枢機能を移転しようと計画した地下壕群。長野市松代にある三つの山を中心に1944年11月から終戦まで工事が続けられ、地下壕の総延長は10キロ余りに及んだ。延べ300万人の住民や朝鮮人労働者が動員され、過酷な環境下で多数の犠牲者が出たと言われている。

450名無しさん:2013/02/28(木) 11:41:49
チャンネル桜が、瀬島龍三をソ連のスパイであったと断定する。

【アーカイブ】上念・倉山・浅野、政府の日銀総裁人事案を語る[桜H25-2-26] - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0LRNIospJ0c

50分から56分の間あたり。

451とはずがたり:2013/05/01(水) 21:57:50

時局匡救運動 ( じきょくきょうきゅううんどう)
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n384.htm
ニューディールかファシズムへの橋渡しか

 昭和初期の金融 恐慌 世界恐慌 金解禁 恐慌をうけて政府行政側の主導で全国に展開された事業。浜口 雄幸(おさち)内閣(蔵相は 井上準之助 )による金融引締 緊縮財政 金輸出解禁のあとをうけて、 犬養毅(いぬかいつよし)内閣 斎藤 実(まこと)内閣 岡田啓介内閣三代の大蔵大臣であった高橋 是清(これきよ)が編成した膨張予算で裏付けがなされた。内務省と農林省所管の土木事業が中心であるが、都市失業者救済 農村経済更正施設 米穀貯蓄奨励 繭共同保管 義務教育費国庫負担増額 船舶改善助成 移民奨励など、広くその他の分野に及ぶ。高橋財政の2本柱は、不況対策としての時局匡救事業費と、満州事変費を中心とする軍事費であったが、この金本位停止のもとにおける財政支出拡大策については、ニューディール型へ向かう歴史的可能性を秘めたものであったとする評価と、 ファシズム 軍国主義化への手助けになったとする評価に分かれている。
〈大分県での事業〉
 大分県における時局匡救事業費の決算額は下表のとおりである。決算年次は、昭和7年(1932)から11年までの5か年にわたっているが、7年から9年までの3年間に全体の92%が消化された。合計額の720万余円は、昭和6年度大分県総決算額に近い巨額なものであった。内容的には、土木費(54.3%)と耕地拡張改良農業土木費(17.0%)が中心であるが、それぞれ少額ながら、土木 産業関係費以外のものも見られる。 別大国道拡幅工事 大分港修築工事 大野川改修工事 のいわゆる県の三大事業とともに、県下全市町村で展開された時局匡救事業は、空前の事業ブームをまき起こした。土木事業への雇用等によって県民に貴重な現金収入をもたらしたことは評価されるべきであろう。しかし、工事がにわか仕立てで粗雑なものが多く、真の産業基盤整備に結びついていないとする批判も、県議会で出されていた。
〈田口県政〉
 時局匡救運動展開期の大分県 知事 は、第29代 田口 易之(やすゆき) であった。田口以前の歴代知事は、それぞれ政友 民政(憲政)両党との結びつきが強く、就任と同時に 党色人事 を敢行、各内閣と命運をともにして来た。田口は検事畑の出身で、京都府内務部長からの栄転であったが、党派色を持たず、したがって大飛躍もなかったが一度の休職もなく、大分県知事を最後に勇退した。昭和前期の歴代大分県知事の任期が2年に達する者が皆無という状況の中で、田口はただ1人3年10か月の長期在任を誇った。在任中の事績としては、時局匡救事業のほか、 選挙粛正運動 や 広瀬神社 の創建、 松栄山(しょうえいざん) 大分県 招魂(しょうこん)社 の神苑拡張、 宇佐神宮造営奉賛会 の組織等があげられる。勇退に際しては、県町村長会や県 農会 商工会等広範な階層からの留任要請をうけた。歴史的には、田口自身もまた、ニユーディーラーかファシズムへの橋渡し者かを問われる人物といえよう。なお、7年9月の文官分限令改正法の公布もあって、田口以降は大分県でも非政党知事が続くこととなる。
〈農山漁村経済更正運動との関係〉
 時局匡救事業は一時的なものであり、 農山漁村経済更正運動 の一部としてとらえることもできる。この運動は、兵庫県農会の自力更正運動に端を発するものであったが、政府が吸収して官主導のものとなって行く。7年9月農林省に設置された経済更生部がその中枢である。7年から16年まで続くこの運動の第1期(7〜10年)「組織整備の段階」と匡救事業の施行期が重なる。時局匡救事業は、更正運動の「組織整備」に寄与し、第2期(11〜13年)の「特別助成による本格的展開」を促して行くのである。
 参考文献 吉岡健次『日本地方財政史』

453荷主研究者:2013/05/12(日) 14:44:42

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1304170002/
2013年4月17日 神奈川新聞
「日吉台地下壕」坑口が解体へ、戦争伝える貴重な遺構/横浜

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宅地造成に伴い解体されつつある旧海軍地下壕の遺跡(大西章さん提供)

 第2次大戦末期に旧日本海軍が建造した横浜市港北区の地下壕遺跡のうち、民有地にある坑口が宅地開発に伴い解体されることが16日、分かった。壕は海軍の中枢機関が置かれた第一級の戦争遺跡として知られ、専門家は「戦争の実相を伝える貴重な遺構が消える」と危惧している。

 地下壕は大戦末期の1944〜45年、旧海軍が慶大日吉キャンパスの台地を借用して建設し、内部に連合艦隊司令部や航空本部を置いた。慶大敷地内の壕は現在、同大が保存している。

 今回問題になっているのは、台地の端に位置する民間業者の所有地。地下壕の坑口が4カ所あるが、3月下旬からの宅地造成のため一部の解体が進む。坑口の存在は50年代から知られていたが、民有地でもあり、専門家による調査は進んでいなかった。

 市民や研究者でつくる「日吉台地下壕保存の会」の大西章会長(慶応高校教諭)は「地下壕の構造がしっかり残っており、この一帯が海軍の中枢だったことが分かる」と遺跡の意義を説明。慶大の安藤広道教授(考古学)は「地元の横浜市が十分な調査をすべきだった。誰にも知られずに解体されることは、文化財行政にとって大問題だ」と話している。

 近代以降の戦争遺跡を保全する行政の枠組みは十分でない。文化庁は15年にわたり全国で調査を続けているものの、遺跡の役割や意義の「公式記録」となる報告書は、歴史認識をめぐる議論などを背景に、刊行されないままだ。遺跡が開発などで損なわれかねない現状に、懸念の声が上がっている。

 今回の件で、横浜市の文化財担当は「貴重な遺跡であることは認識しているが、法的な規制がない」と説明。戦争遺跡を市の文化財などに位置づけ、保護することについても「国の調査動向をにらみながら検討したい」と慎重だ。

 背景には、国による戦争遺跡の位置づけの曖昧さがある。文化庁は1998年度から、500超の「政治・軍事に関する遺跡」を調査、うち51件は詳細な現地調査も行ったが、報告書は未刊。同庁記念物課は「まとめる作業に時間がかかっている」と説明する。

 調査の事情を知る関係者は、こうした背景には「集団自決」が強制かどうかが議論になっている沖縄戦などを念頭に、歴史の「負の側面」を文化財とすることに消極的な「政治的判断」もある、と指摘する。

 しかし、国ではなく地元自治体が保存を主導する方策はある。専門家らでつくる「戦争遺跡保存全国ネットワーク」の代表を務める十菱駿武・山梨学院大客員教授(考古学)は「文化財は国の動向に左右されず、地域が主体となって守るべきだ」と訴えている。

454荷主研究者:2013/05/29(水) 23:45:40

http://kumanichi.com/news/local/main/20130512003.shtml
2013年05月12日 熊本日日新聞
点在の国史跡、西南戦争どう伝える 植木・玉東

田原坂資料館や弾痕の家などがある田原坂公園=熊本市北区植木町

国史跡に指定された戦跡群の一つの二俣瓜生田(うりゅうだ)官軍砲台跡。官軍が、薩群の陣地であった田原坂方面に向けて撃ったとみられる大砲の轍(わだち)跡が見つかった。写真奥には田原坂公園が見える=玉東町

 熊本市北区植木町と玉東町に点在する西南戦争戦跡群9カ所が3月末、国史跡に指定された。しかし、戦跡が広域に点在している上、民有地も多いため、今後、戦場跡としてどう整備し保存活用していくか課題も少なくない。

 1877(明治10)年の西南戦争の大激戦地だった植木・玉東地域には、古戦場跡や官軍砲台跡など、官薩両軍の攻防戦の実態を伝える多様な戦跡が良好な状態で残る。両市町は2009年、国史跡指定を目指して「西南戦争遺跡群連携保存活用協議会」を設置。戦跡の調査研究やPR活動に努めてきた。

 植木・玉東地域の戦跡群の特徴は、広大な地域に点在している点。今回指定された9カ所だけでも約20ヘクタールの区域に及ぶ。

 国史跡として生かすにはまず、西南戦争の歴史を振り返る戦場跡として地域を一体的に整備することが求められる。しかし、戦跡と戦跡が最大で4キロ近く離れ、畑や林になっている場所もあり、136年前の戦闘の実態を伝えるためには、整備手法をどうするべきか悩ましいところ。民有地の場合、土地取得も含めた所有者らとの調整も必要だ。

 今回の指定は第1弾で、両市町が追加指定を目指す残りの戦跡を加えると、区域はさらに広がる。両市町の担当者は「点在する史跡をどう結び付けて整備するかが難問。指定に向けて盛り上がった地元の熱意をどう維持していくかも含めて、これからが正念場だ」と口をそろえる。

 史跡の維持管理も課題だ。清掃などの日常的な維持管理費には国庫補助が出ないため、史跡を持つ自治体共通の問題だが、「行政だけでは限界があり、周辺住民の協力が欠かせない」と両市町。地域は自分たちで守るという住民の意識も希薄になりつつあり、史跡保存の担い手育成も急がれる。

 同協議会会長の甲元眞之・熊本大永青文庫研究センター長は「国史跡は、うまく保存活用しないと意味がない。そのためにも地元の理解と協力が不可欠。熱が冷めないうちに地元の理解とやる気を引き出す工夫を考える必要がある」と話す。

 一方、指定は、関係自治体との広域的連携の弾みにもなりそうだ。西南戦争の戦跡は県南や鹿児島、宮崎、大分に点在、戦没者遺族らは全国各地に広がる。「戦跡は、植木・玉東地域と全国各地を結ぶ格好の材料。顕彰や観光など活動の広がりが期待できる」と熊本市埋蔵文化財調査室の中原幹彦・主任文化財保護主事。今秋には国史跡指定の記念式典やシンポジウムも開き盛り上げを図るという。

 国史跡指定に向けて自治体の枠を超えた両市町の取り組みは、全国的にも注目され、10年近くかかるとされた指定を4年で実現した。地域の遺産をどのように保存活用するか、再び地域力が試される。(浪床敬子)

455とはずがたり:2013/07/29(月) 08:25:13

【歴史学者が橋下氏批判】「慰安婦制度は特異」 軍施設として組織的に設置 他国になし
http://www.47news.jp/47topics/e/242092.php

 旧日本軍の従軍慰安婦をめぐる日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長の発言に絡み、慰安婦問題に詳しい中央大の 吉見義明教授(日本史)が4日、大阪市役所で記者会見した。橋下氏が「他国も同じようなことをしていた」と繰り返し主張したことに対し「軍の施設として組織的に慰安所を作った国はほかにない。日本の慰安婦制度は特異だった」と否定した。
 吉見氏は「慰安婦は居住、外出の自由、拒否する自由がない性奴隷だ」と指摘。「慰安所を軍の施設として設置し、内務省や総督府も深く関与していた。橋下氏には国が慰安所を組織的に作ったという認識がない」と批判した。
 橋下氏は「国が暴行、脅迫、拉致をして女性を連れてきた事実はない」とも主張している。吉見氏は「業者が詐欺や甘言、人身売買で女性を連行したのを軍が認識した場合、女性を解放するべきだが、そうしなかった。官憲に連れて行かれたという証言もある」と述べ、旧日本軍の責任は免れないとの見方を示した。
 5月27日に橋下氏が日本外国特派員協会で記者会見した際、同席した日本維新の 桜内文城衆院議員が吉見氏の主張を「 捏造 (ねつぞう) 」と表現したことを「私の名誉を著しく傷つける発言だ」と非難した。
 吉見氏はまた、慰安婦に関する認識をただす約30項目の公開質問状を橋下氏宛てに提出し、1カ月以内の回答を求めた。
(共同通信)

456とはずがたり:2013/08/22(木) 19:16:32

二つの被爆地、資料館が参加=グーグル「歴史アーカイブ」−日本の施設で初
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201308/2013081900571&amp;rel=m&amp;g=int

被爆地・広島と長崎の原爆に関する二つの資料館がグーグルのサービス「歴史アーカイブ」に新たに参加し、原爆ドーム前で開かれた式典でテープカットする松井一実・広島市長(中央)ら=19日午前、広島市中区
 被爆地・広島と長崎の原爆に関する二つの資料館が19日、インターネット検索サイト「グーグル」のサービス「歴史アーカイブ」に新たに加わった。同サービスでは歴史的瞬間の写真などの史料を世界中で閲覧でき、ポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ博物館なども登録されている。日本の施設では初めてだ。
 グーグルによると、「原爆を世界に伝えるべきだ」として、広島平和記念資料館(同市中区)と長崎原爆資料館(長崎市)が選ばれた。同日の式典で、松井一実広島市長は「被爆の実相に触れるチャンスが増え、世界中の人と平和への思いを共有できれば」と話した。
 広島の資料館は計55点の写真を寄せた。原爆投下前後の広島の街や犠牲者の遺品、生き残った人たちを苦しめたケロイドなど「後障害」に焦点を当てており、爆心地近くで被爆して亡くなった女学生らが記した原爆投下前日の日記も見ることができる。
 一方、長崎は半分以上が常設展示品と異なる計177点の写真と動画を公開。長崎に多くの信者がいるキリスト教や、植物への放射能の影響をテーマにしており、今後は被爆者の証言などの公開も企画しているという。(2013/08/19-16:39)

原爆追悼「うんざり」に遺憾=イスラエル首相補佐官
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/world/jiji-130821X366.html
時事通信2013年8月21日(水)00:11

 【エルサレム時事】イスラエル政府高官がフェイスブック上に広島、長崎の原爆犠牲者を追悼する式典を「独善的でうんざり」などと書き込んだ問題で、イスラエルのアミドロール首相補佐官(国家安全保障担当)が、佐藤英夫駐テルアビブ日本大使に電話で遺憾の意を伝えていたことが分かった。在テルアビブ日本大使館が20日、明らかにした。

 イスラエル首相府筋によると、アミドロール補佐官は、この高官の主張は政府の立場を代表したものではないと伝えたという。

 高官は自身のフェイスブック上に「ヒロシマとナガサキは日本の侵略が招いた結果で、自業自得だ。追悼式典は独り善がりでうんざり」などと書き込んだ。

457とはずがたり:2013/10/12(土) 17:11:25

中ソ和解に見る演出「抱擁はだめ、握手だけ」 日韓は?
http://sankei.jp.msn.com/world/news/131008/chn13100815000011-n1.htm
2013.10.8 15:00

 やや意味深な題をつけたが、24年前、1989年5月の中ソ和解にかかわる話である。ゴルバチョフが北京を訪れ、トウ小平と首脳会談を行った際、握手はしたものの、抱き合うことはなかったという話である。

 ソ連の最高指導者の訪中は30年ぶりのことだったが、胡耀邦の死をきっかけとする民主化運動のあおりを受けて、ゴルバチョフの北京での日程は大幅な変更を余儀なくされた。天安門広場がハンスト学生らによって占拠されていたため、広場にある人民英雄記念碑への献花は中止され、広場に面する人民大会堂で予定されていた記者会見は場所を変えて行われた。

 ただ訪中のハイライトだったトウ小平との会談は人民大会堂で実現した。応援取材で北京にいた私は、会談の模様を実況のテレビ放送を通じて見守った。2人はまず握手を交わした。30秒間も続いた。腕時計で確認したのだが、長い長い握手だった。

 握手はしたものの抱擁はしなかったという事実を、当時、私はまったく気にとめなかったように記憶している。握手にばかり気をとられていた。ソ連の指導者とは握手をしても抱擁はしないというのが、その当時の中国政府の方針だったという。

 当時、中ソ和解にかかわった中国外務省職員が、北京で発行されている月刊誌(『百年潮』8月号)に回想記を寄せている。それによると、中ソ和解が現実のものとなりつつあった88年10月、トウ小平は李鵬(当時、首相)や銭其●(同、外相)らに、ソ連との首脳会談や外相会談の際、抱擁をするのかしないのか、検討するよう指示した。

 米国をはじめとする西側諸国は中ソ和解の動きを注視していた。社会主義国間の首脳会談では、抱擁は見慣れた光景だったが、トウ小平の指示はソ連との和解が西側諸国との緊密な関係を損なわないよう、配慮することを求めたものだった。

 李鵬らはトウ小平の指示に沿って、「握手だけ、抱擁はしない」ことを決めた。そのことはソ連側にも伝えられ、88年12月、銭其●がモスクワを訪れた際に行われた外相会談以降、この方針が実施されたという。握手だけでなく抱擁も、ということになれば「世界に誤ったシグナルを送ることになっただろう」と回想記には書かれている。

 最近では、「会談はだめ、立ち話だけ」という首脳と首脳の関係もある。むろんそれも、綿密な検討と計算をしたうえでのことだろう。(敬称略)

(前滋賀県立大学教授・荒井利明)

465とはずがたり:2014/03/23(日) 13:22:46

「慰安所隠蔽 軍が資金」元日本兵供述の資料 専門家「河野談話裏付け」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014032302000122.html
2014年3月23日 朝刊

 旧日本軍の従軍慰安婦問題で、太平洋戦争中にインドネシアのバリ島に海軍兵曹長として駐屯していた男性が、一九六二年の法務省の調査に「終戦後(慰安所を戦争犯罪の対象に問われないよう)軍から資金をもらい、住民の懐柔工作をした」と供述していたことが分かった。
 元兵曹長は「(慰安婦として)現地人など約七十人を連れてきた」「他にも約二百人を部隊の命で連れ込んだ」などと連行の実態も説明していた。
 関東学院大の林博史教授(日本近現代史)の研究室が国立公文書館(東京)保管の資料で見つけた。林教授は「河野洋平官房長官談話が認めた軍の関与を裏付けるもので重要だ」と評価している。
 安倍政権は、旧日本軍の関与と強制性を認定した河野談話の作成経緯を検証する方針を示している。
 法務省の担当者は、男性の供述について「既に公文書館に資料を移管していて確認できず、責任を持って答えられない」と回答した。
 法務省の資料によると、元兵曹長は四七年八月、オランダ軍がBC級戦犯を裁いたインドネシア・バタビア(現在のジャカルタ)の軍法会議で、住民への暴行などに問われ、懲役十二年(求刑懲役十五年)の判決を受けた。
 元兵曹長は六二年八月の調査に、罪に問われた十件余りは「殴った蹴った程度の事件ばかり」と振り返り「(発覚を)一番恐れたのは慰安所事件だった」と告白した。
 強制売春は戦犯行為に問われる。元兵曹長は「軍需部などに強硬談判して約七十万円をもらい、各村長を通じて住民の懐柔工作に使った」と述べ、組織的な隠蔽(いんぺい)を示唆した。「これが完全に功を奏したと見え(慰安婦関連では)一件も訴えが出なかった」と話した。
<河野官房長官談話> 宮沢内閣の河野洋平官房長官が1993年に従軍慰安婦問題の政府認識について発表した談話。「甘言、強圧により本人たちの意思に反して集められた事例が数多くある。官憲などが直接加担したこともあった」と旧日本軍の関与と強制性を認め、慰安婦に謝罪した。歴代内閣は談話を継承してきたが、菅義偉官房長官は談話作成の経緯を検証する方針を表明。安倍晋三首相は3月「安倍内閣で見直すことは考えていない」と述べた。

466とはずがたり:2014/04/28(月) 18:14:07
英、日本の尖閣領有権に疑問 「固有の領土」支持せず
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20140427/Kyodo_BR_MN2014042701001536.html
共同通信 2014年4月27日 18時34分 (2014年4月27日 19時57分 更新)

 【ロンドン共同】尖閣諸島に対する中国の領有権主張が注目を集めた1970年末、在日英国大使館が本国に「日本の領有権主張には疑問が残る」と報告、英外務省は翌71年に日本、中国のいずれにも領有権を証明する歴史的証拠はないと判断、どちらも支持しない立場を決めていたことが27日、英公文書で分かった。
 英の「不関与政策」は現在も引き継がれており、主要友好国でさえ、「尖閣は固有の領土」という日本の主張への立場表明を回避してきた実態が明らかになった。

467とはずがたり:2014/05/06(火) 14:04:25

富岡製糸場 「赤字続きで払い下げ」に疑義
http://news.goo.ne.jp/article/tokyo/region/tokyo-CK2014050302000151.html
東京新聞2014年5月3日(土)08:10

 官営富岡製糸場は赤字続きで民間に払い下げられた−。こんな通説が覆る可能性が出てきた。富岡製糸場総合研究センターがまとめた官営期の経営実態に関する研究で、上質な生糸の生産体制が整った一八八五(明治十八)年度以降は黒字に転じていたことが分かった。今井幹夫所長は「経営実態から、赤字続きで民間に払い下げられたとは言えない」と指摘している。 (大沢令)

 官営期の経営実態について、時系列で総合的にまとめた研究はこれまでないという。

 今井所長は、官営期の年報や報告などをもとに、収入に当たる生糸の生産量や売上高、支出に当たる事業費を年度ごとに精査。「官営期における経営実態に関する一考察」として報告書にまとめた。

 製糸場は明治五年に官営模範工場として操業を開始、同二十六年に三井家に払い下げられた。

 報告書によると、官営工場の払い下げ通達が出された同十三年度ごろから、輸出に堪える上質な生糸の生産が高まった。

 同八年の経営診断で、早急な民営化を提言した速水堅曹(けんぞう)が同十八年に二度目の所長に就き、労働時間延長などによる上質な生糸の生産体制が整って黒字に転換。

 その後、製糸場に公売方針が伝えられたが、払い下げまで黒字経営が続いた。各年度の報告書などをもとに、操業全期の総合的な損益を合算すると、報告書の一部不備で正確さを欠くものの、四千八百十二円の利益があったとしている。

 繭の購入資金を補うためか同十三年度から一時期、座繰り糸が生産されていたことも確認された。

 研究成果について、今井所長は「各年度の収支計算を厳密に行うことで、官営期の経営実態に迫ることができたのでは」と話す。

468荷主研究者:2014/07/11(金) 00:14:36

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20140619/CK2014061902000053.html
2014年6月19日 中日新聞
繊維協会ビル解体危機 一宮・1933年築の洋館

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2014061902100003_size0.jpg
81年前に建てられた尾西繊維協会ビル。昭和初期の繊維業界の繁栄を象徴している=一宮市栄で

 昭和初期に建造され、一宮市の繊維産業の繁栄を象徴する尾西繊維協会ビル(同市栄)が、存続の岐路に立つ。長年入居してきた繊維関連団体の事務所が、近くに新設される一宮商工会議所会館に移転するためだ。このまま借り手が見つからないと、来年秋ごろには、地域の「ランドマーク」は八十年余りで姿を消す。装飾に優れ、ノスタルジーを感じさせる洋館だけに、市民から惜しむ声も聞かれる。

 建物は、一九三三(昭和八)年に建造された鉄筋コンクリートの三階建て。建設時、こうした近代建築の造りは、現在の一宮市旧庁舎などごくわずかしかなかった。四五年七月の一宮空襲で市街地一帯が焼け野原になった時も、残った数少ない建物の一つだった。

 白いアーチ窓と茶色のタイル張りの外壁、天井や壁には花柄などの装飾が施されている。建設されたころ、毛織物の服地の需要が急増し、繊維業界が急速に発展を遂げた。業界の勢いは外観の豪華さにも表れている。

 和洋文化が融合する「昭和モダン」の時代を感じさせ、最近ではコスプレ愛好家たちの撮影スポットにもなっている。

 ただ、一宮商議所が来年秋ごろをめどに、建物近くに新会館を建設。これに伴い、入居する尾西毛織工業協同組合など十の団体、企業の事務所も移転または廃止することになった。

 残される建物について、尾西繊維協会の早川隆雄理事長は「レトロで面白い造りだが、繊維の組織を存続していく上で経費は掛けられず、条件が合わなければ取り壊すしかない」と話す。

 協会内でも残した方が良いとの声もあり、借り手を探しているが難航している。見つからなければ駐車場になる見通しだ。

◆昭和天皇のいす残る

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昭和天皇が戦後復興の視察に訪れた際に座ったいす=一宮市栄で

 終戦間もない一九四六(昭和二十一)年、昭和天皇が一宮市を視察した際に座った一人掛けの装飾いすが、尾西繊維協会ビルの倉庫に保管されている。

 尾西毛織工業協同組合の九十年史「毛織のメッカ尾州 尾西毛織工業九十年のあゆみ」によると、昭和天皇は愛知、岐阜県を巡幸した四六年十月、一宮中学校(現一宮高校)や一宮市役所などを訪れた。当時、県毛織物工業統制組合尾西支所だったこのビルにも立ち寄り、毛織産地の復興ぶりを見たという。

 今も残る昭和天皇が座ったいすは、金華山織りのきらびやかな模様に覆われているが、布地は半世紀の間に劣化が進んでいる。

 ビルの取り壊しが決まった場合、移して保管する場所がないため、尾西繊維協会は、公的な団体を中心に引き取り手を探している。

 (安福晋一郎)

469とはずがたり:2014/08/04(月) 21:44:21
終戦間際、幻の「橘花」に積まれた世界初のバイオジェットエンジン「ネ20」
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140804/biz14080412520004-n1.htm
2014.8.4 12:52

 終戦をわずか8日後に控えた昭和20年8月7日、東京湾上空を1機の戦闘機が飛行していた。千葉県の木更津基地を飛び立った海軍の特殊戦闘機「橘花(きっか)」だ。

 橘花は、文字通り“特殊”な戦闘機だった。海軍航空技術廠(空技廠)が開発し、石川島重工業(現IHI)などが生産に携わった日本初のジェットエンジン「ネ20」を搭載。物資不足が背景とはいえ、燃料の一部に松の根から採取した油を使用していた。橘花は、世界初のバイオ燃料を使ったジェット機でもあった。

 「日本のジェットエンジンの開発は米国や英国と比べても進んでいた」

 IHI航空宇宙事業本部史料館名誉館長の原田実氏(70)は解説する。当時、ジェットエンジンの研究開発は欧米で活発化していたが、日本も昭和15年ごろには着手していた。

 実用化にいち早く成功したのはナチス・ドイツだ。同盟国である日本は開発技術の入手に動いたが、潜水艦などを使った極秘輸送中に資料が散逸。日本の開発者の元に届いたのは1枚の断面図だけだった。

 それでも、蓄積した研究成果や技術で補完し、ネ20は完成した。ネは「燃焼噴射推進器」の頭文字。日本生まれのジェットエンジンを作るという技術者たちの思いがこもっている。組み立ては群馬県の農家の養蚕小屋などで行われた。

 初飛行から8日後、日本は終戦を迎えた。日本初のジェットエンジンの開発はここでストップした。

 石川島重工が航空エンジン事業に復帰するのは昭和29年。米ゼネラル・エレクトリック(GE)が開発したジェットエンジンの部品生産で技術提携した。当初は単純な交換部品の生産だったが、次第にライセンス生産も手がけていく。

 原田氏は「それが新しい技術を身につけるための唯一の情報収集の方法だった」と指摘する。その中で、品質管理や生産技術などを磨いた。

 「ジェットエンジンを作れなければ、日本は三等国だ」。経団連会長なども務めた元石川島重工社長の土光敏夫氏は、他社が手を引く中、こう言ってジェットエンジンの開発・製造の旗を振ったという。

 現在、航空機用ジェットエンジンの市場はGEなど欧米大手に占有されている。戦後、日本のジェットエンジンの開発が止まっている間も知識や技術を蓄積し続けてきたからだ。

 ただ、IHIは、米ボーイングの「B777X」に搭載予定の世界最大級の推力を持つGEの最新鋭エンジン「GE9X」の開発などにも参画。「日本企業がいなくなれば開発はストップする」といわれるほど、存在感を放っている。

 終戦間際に生まれた日本初のジェット機「橘花」は、結局、たった2機が生産されただけで歴史のひだに埋もれてしまう。しかし、ネ20の開発を指揮し、石川島重工顧問も務めた種子島(たねがしま)時休(ときやす)氏は終戦時、こう予言していた。「橘花は1回だけの飛行で消えていくが、将来、ジェット機の時代はやってくる」

470とはずがたり:2014/08/05(火) 12:13:29
マスコミスレ相当か?

「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断
http://www.asahi.com/articles/ASG7L71S2G7LUTIL05N.html?iref=com_rnavi_arank_nr02
2014年8月5日05時00分

 〈疑問〉日本の植民地だった朝鮮で戦争中、慰安婦にするため女性を暴力を使って無理やり連れ出したと著書や集会で証言した男性がいました。朝日新聞は80年代から90年代初めに記事で男性を取り上げましたが、証言は虚偽という指摘があります。

慰安婦問題を考える
 男性は吉田清治氏。著書などでは日雇い労働者らを統制する組織である山口県労務報国会下関支部で動員部長をしていたと語っていた。

 朝日新聞は吉田氏について確認できただけで16回、記事にした。初掲載は82年9月2日の大阪本社版朝刊社会面。大阪市内での講演内容として「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」と報じた。執筆した大阪社会部の記者(66)は「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」と話す。

 90年代初め、他の新聞社も集会などで証言する吉田氏を記事で取り上げていた。

 92年4月30日、産経新聞は朝刊で、秦郁彦氏による済州島での調査結果を元に証言に疑問を投げかける記事を掲載。週刊誌も「『創作』の疑い」と報じ始めた。

 東京社会部の記者(53)は産経新聞の記事の掲載直後、デスクの指示で吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという。

 97年3月31日の特集記事のための取材の際、吉田氏は東京社会部記者(57)との面会を拒否。虚偽ではないかという報道があることを電話で問うと「体験をそのまま書いた」と答えた。済州島でも取材し裏付けは得られなかったが、吉田氏の証言が虚偽だという確証がなかったため、「真偽は確認できない」と表記した。その後、朝日新聞は吉田氏を取り上げていない。

 しかし、自民党の安倍晋三総裁が2012年11月の日本記者クラブ主催の党首討論会で「朝日新聞の誤報による吉田清治という詐欺師のような男がつくった本がまるで事実かのように日本中に伝わって問題が大きくなった」と発言。一部の新聞や雑誌が朝日新聞批判を繰り返している。

471とはずがたり:2014/08/05(火) 12:13:50
>>470-471
 今年4〜5月、済州島内で70代後半〜90代の計約40人に話を聞いたが、強制連行したという吉田氏の記述を裏付ける証言は得られなかった。

 干し魚の製造工場から数十人の女性を連れ去ったとされる北西部の町。魚を扱う工場は村で一つしかなく、経営に携わった地元男性(故人)の息子は「作っていたのは缶詰のみ。父から女性従業員が連れ去られたという話は聞いたことがない」と語った。「かやぶき」と記された工場の屋根は、韓国の当時の水産事業を研究する立命館大の河原典史教授(歴史地理学)が入手した当時の様子を記録した映像資料によると、トタンぶきとかわらぶきだった。

 93年6月に、吉田氏の著書をもとに済州島を調べたという韓国挺身隊研究所元研究員の姜貞淑(カンジョンスク)さんは「数カ所でそれぞれ数人の老人から話を聞いたが、記述にあるような証言は出なかった」と語った。

 吉田氏は著書で、43年5月に西部軍の動員命令で済州島に行き、その命令書の中身を記したものが妻(故人)の日記に残っていると書いていた。しかし、今回、吉田氏の長男(64)に取材したところ、妻は日記をつけていなかったことがわかった。吉田氏は00年7月に死去したという。

 吉田氏は93年5月、吉見義明・中央大教授らと面会した際、「(強制連行した)日時や場所を変えた場合もある」と説明した上、動員命令書を写した日記の提示も拒んだといい、吉見氏は「証言としては使えないと確認するしかなかった」と指摘している=注①。

 戦時中の朝鮮半島の動員に詳しい外村大・東京大准教授は、吉田氏が所属していたという労務報国会は厚生省と内務省の指示で作られた組織だとし、「指揮系統からして軍が動員命令を出すことも、職員が直接朝鮮に出向くことも考えづらい」と話す。

 吉田氏はまた、強制連行したとする43年5月当時、済州島は「陸軍部隊本部」が「軍政を敷いていた」と説明していた。この点について、永井和・京都大教授(日本近現代史)は旧陸軍の資料から、済州島に陸軍の大部隊が集結するのは45年4月以降だと指摘。「記述内容は事実とは考えられない」と話した。

■読者のみなさまへ

 吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。
     ◇
 注① 吉見義明・川田文子編「『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実」(大月書店、1997年)

472とはずがたり:2014/08/05(火) 12:46:03
朝日新聞元記者 従軍慰安婦の虚報招いた吉田清治氏の嘘告発
2014.08.05 07:00
http://www.news-postseven.com/archives/20140805_269705.html

 韓国が喧伝する、いわゆる従軍慰安婦のデマは、いまや世界中に拡散し、欧米では「慰安婦=性奴隷」という誤ったイメージが定着してしまっている。その原点は、朝日新聞が報じた強制連行の「誤報」だろう。
 かねて朝日の報道をめぐっては、多くの識者やメディアから批判があったが、朝日は依然としてその過ちと向き合おうとしない。そんななか、朝日新聞元ソウル特派員として慰安婦問題を取材した記者の前川惠司氏(現ジャーナリスト)が、告発の声を上げた。
 * * *
 1991年5月22日付の大阪本社発行の朝日新聞の、「木剣ふるい無理やり動員 従軍慰安婦 加害者側の証言(手紙 女たちの太平洋戦争)」には、「自分は朝鮮半島で950人の女性を強制的に連行して慰安婦にした」と、告白する著述業・吉田清治氏(故人)の証言を大きく伝えた。
 実は、私が川崎支局員だった1980年ごろに、「朝鮮人の徴用について自分はいろいろと知っているので、話を聞いて欲しい」と電話してきたのが、吉田氏だったことがある。
 横浜市内の彼のアパートで3〜4時間は話を聞いた。大筋は、当時、警察に直結し、炭鉱などへ労働者を送り込む組織である山口県の労務報国会にいて、朝鮮の慶尚北道に行き、畑仕事をしている人たちなどを無理やりトラックに乗せて連れ去る「徴用工狩り」をした、ということだった。
 奇妙なことに、彼はその時、その後に「告白」する「慰安婦狩り」にまるで触れなかった。当時の記憶は薄らいでいるが、それでも、彼の話には辻褄が合わないところもあった。
 当時、私は、地方版で「韓国・朝鮮人」という連載を続けており、ちょうど、朝鮮人軍属の体験を書いていたので、吉田氏は、その記事を読んで電話をしてきたのだろうが、すでにたくさんの在日の方を取材し、徴用工だった人からも話を聞いていた。
 吉田氏が証言した、集めた徴用工を釜山港で船に乗せるときに「手を縛り、数珠つなぎにした」という話は聞いたことがなかった。山口県の報国会の「朝鮮人狩り」なら、徴用工を連れてくるのは、山口県内で働かせるためだろうから、どこに連れて行って働かせたかを尋ねると、行った先の現場などの名前ははっきりしなかった。重ねて尋ねると、「当時、朝鮮人はモノ扱いだったから」というような返事だった。
 余談だが、日本支配下の朝鮮は、経済的な理由や、重苦しい鬱屈した気持ちや、明日を捜そうと、朝鮮から脱出し、日本に行きたい人はたくさんいた。日本は当初、朝鮮半島出身者の流入を抑えたが、長引く戦争で、本土の労働力の穴埋めに徴用に踏み切った。徴用を日本行きの好機とした逞しい人も多かったはずだ。

 朝日新聞は、吉田氏の「慰安婦狩り」の証言を何回か紹介したようだが、私は、ソウルで伝手をたどり、
「戦争中に日本兵や日本人警官に無理やり連れて行かれた娘がいたか。そんな噂を聞いたことがあるか」
 と60歳を超えた友人の母や、新聞社の幹部、元軍人、大学教授などに尋ね回ったが、そんな噂を聞いたという人は、一人もいなかった。ある人の返事は、
「日本人が無理やり娘をさらったりしたら、暴動が起きましたよ」
 日本支配下の1929年に、列車の中で日本人男子中学生が朝鮮人の女子生徒をからかったことがきっかけで、生徒同士のけんかになり、とうとう大規模な独立運動にまでなった「光州学生事件」は、有名な出来事だ。そのようなことも合わせれば、日本の官憲が朝鮮人女性を暴力的に戦地へと連れ去ることなどはできることではないし、また、必要もなかったというのが私の判断だった。

473とはずがたり:2014/08/05(火) 12:46:27
>>472-473
 すでに朝鮮には、日本の公娼制度が持ち込まれ、あちこちに売春地区があった。女衒は、もう戦争前からあふれていた。そして、哀しい話だが、当時の日本本土と同様に、娘を売る親はいくらでもいた。
 ところで、吉田氏は、1992年8月12日にソウルに現われた。韓国で元従軍慰安婦を支援している団体である、「太平洋戦争犠牲者遺族会」に呼ばれ、亡くなった元慰安婦に謝罪し、慰霊するためだと、ソウルにある韓国プレスセンターで記者会見をした。
 吉田氏を取材したのは、彼が、朝鮮半島で慰安婦狩りをしたと書いた、『私の戦争体験 朝鮮人強制連行』(三一書房)を出版する1983年より前で、私は10余年ぶりの彼を見た。
 ひょろひょろとしていて、幾分か痩せたような気がしたが、ぬるっとした感じは変わらなかった。

 私は、「このうそつき」と言う目で見ていたが、記者会見では、他社の特派員も、済州島での慰安婦狩りについて、執拗に聞き続けるので、彼はちょっとしどろもどろになった挙げ句、会見の席上で怒り始めたように記憶している。
 韓国社会を熟知している各社の特派員は、吉田氏の証言を端から疑っていたのだ。朝日新聞だけでなく、ほかの新聞社も、従軍慰安婦問題の記事は、ソウル特派員ではなく、それぞれ本社の社会部などの記者が活躍していた気がする。
 結局、吉田氏は1996年には慰安婦狩りは「創作」だったと認めた。証言は、ドラマのような話だったのである。横浜のアパートで、慰安婦狩りを語らなかったのは、まだ、シナリオが十分に練られていなかったからだったか。
 ソウルの記者会見で話す吉田氏を写した写真を後から見ると、私の座っている方に顔を向けている写真は一枚もないのに気が付いた。
 それにしてもなぜ、慰安婦狩りと言う「物語」が、かくも事実として広まったのか。しかも、いまも、「吉田氏は、実際にはしなかったかもしれないが、本当に済州島で慰安婦狩りをした部下の話を聞いて、しゃべったのだ。だから、証言は本当だ」と主張する人たちがいるのも事実だ。
 私は、済州島を自転車で走ったことがある。急げば一周に2日もかからない、小さな島だ。女狩りのようなことが起きれば、あっという間に、島中に知れ渡り、今でも語り継ぐ古老がたくさんいるに違いないのだが。
 韓国の繁華街で白昼、普通の娘がいきなりさらわれ、売春街に売り飛ばされることが、頻発し、大社会問題になったことがある。この人さらいのやり方は、乱暴きわまる。街で「獲物」を見つけるや、いきなり殴りかかり、「お前なんで、家を出たんだ」などと叫ぶや、ワゴン車などに押し込んで、連れて行ってしまうのだ。
 韓国には昔から、「処女が子を産んでも言うべき言葉がある」という諺がある。まあ、女性の一種の気の強さを言っているわけだが、夫婦喧嘩でも派手に夫に逆らう姿に慣れているから、街中で必死に女性が抵抗し騒ごうが、周りは夫婦喧嘩か、と思い込んでまるで気にしないという、ウソのような、韓国社会ならではの手口だ。
 李朝時代には、未亡人を再婚させるときには、相手に「拉致」させた。貞操を守ろうとしたが、無理やりにという形にして、体裁を繕うためだ。
 儒教道徳の強い韓国では、「慰安婦にされた娘がいても、口にしたりしない」という人もいるが、他家の噂話にはあけすけなのも韓国だ。おばあさんたちの証言をはっきり裏付ける話が、知る限りでないのが気になるのは私一人だろうか。
※SAPIO2014年9月号

474名無しさん:2014/08/05(火) 16:21:33
■朝日新聞【伝説の珊瑚捏造事件】
http://asahi.kirisute-gomen.com/sango.html

475名無しさん:2014/08/06(水) 14:50:50
朝日、慰安婦報道で「誤り」…一部記事取り消し 読売新聞

朝日新聞は5日朝刊で、同社のいわゆる従軍慰安婦問題を巡る報道について、誤りがあったとして一部を取り消す記事を掲載した。

取り消したのは、「女性を強制連行した」との証言を紹介した記事。
同社は1982年から90年代初めにかけて、確認できただけで16回掲載したが、
裏付けが得られなかったとして、初報から32年後の異例の取り消しとなった。

済州島(韓国)で慰安婦にするために女性を強制連行したとする吉田清治氏の証言について、
追加取材の結果、「虚偽だと判断し、記事を取り消します」と結論付けた。
同社は97年3月31日朝刊でも、慰安婦報道の特集記事を掲載したが、吉田氏の証言の真偽は確認できないとしていた。

また、90年代初め、戦時下に労働力として女性を動員した「女子勤労挺身隊」と慰安婦とを誤って混同した記事が複数あったとも認めた。
原因は、参考資料などでも混同があったためだと指摘した。

同社は、91年8月に朝日新聞大阪本社版で報じた元慰安婦による証言記事についても事実関係を検証。
これによると、担当記者の義母は韓国人で、元慰安婦が所属した遺族会の幹部を務めていた。
これに対し、義母との関係を利用したとの批判があり、この元慰安婦が宴席での芸事を学ぶ「キーセン(妓生)学校」に通っていた事実も後に判明した。

しかし、記者は義母からの情報提供はなかったとし、「義母らを利する目的で報道をしたことはない」と説明しているという。
「キーセン学校」の件に関して も、同紙は元慰安婦を紹介する記事で触れなかったことを認めたものの、この点については「記事には、意図的な事実のねじ曲げなどはありません」と説明した。

朝日新聞社の杉浦信之編集担当は1面の署名記事で、「事実関係の誤りがあったことがわかりました。裏付け取材が不十分だった点は反省します」と記した。
同社広報部は5日、読売新聞の取材に「紙面で詳しく報じた通りです」と答えた。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140805-OYT1T50154.html

476名無しさん:2014/08/06(水) 14:53:31
【メディア】読売新聞「誤った認識が世界に広がる一因となった吉田証言、20年以上にわたり放置した朝日新聞の責任は極めて重い」

 朝日新聞は1982年9月、「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」
とする吉田氏の発言をうのみにして報じた。

◆世界に誤解広げた一因
 これが韓国の反日世論をあおっただけでなく、日本について誤った認識が、世界に
広がる根拠の一つとなった。今回、吉田証言を初めて虚偽と判断し、それをめぐる記事を
ようやく撤回した。

もっと早い段階で訂正されるべきだった。92年には疑問が指摘されながら、
20年以上にわたって、放置してきた朝日新聞の責任は極めて重い。

 朝日新聞は82年以降、確認できただけで計16回にわたって、吉田氏について
記事にした。92年に歴史家の秦郁彦氏が吉田証言への疑問を指摘したが、
修正することはなかった。

 97年3月の検証記事でさえ、吉田証言について「真偽は確認できない」
と表記するにとどめた。

 吉田証言は、96年の国連人権委員会のクマラスワミ報告にも引用された。
これが、慰安婦の強制連行があったとする誤解が、国際社会に拡大する一因となった。

※本文より抜粋しました
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20140805-OYT1T50178.html

477名無しさん:2014/08/06(水) 14:57:52
【慰安婦報道】 問題報じた雑誌SAPIOの注目度が上昇 「衝撃スクープ 朝日新聞 従軍慰安婦虚報 騒乱はうそつき男から生まれた」

朝日新聞が5日に従軍慰安婦報道に関する検証特集を紙面に掲載したが、
同日の社会面には「SAPIOに本社が抗議 『引用記事を歪曲』」の見出しの記事が掲載された。

これは国際情報誌・SAPIO9月号(8月4日発売)に掲載されたジャーナリスト・水間政憲氏による
『発掘! 朝日新聞の「韓国売春宿」突撃ルポ」という記事だ。

この記事は、元朝日新聞記者・前川惠司氏による『<衝撃スクープ>朝日新聞元ソウル特派員が告発・検証!
朝日「従軍慰安婦虚報」騒乱は「うそつき男」から生まれた』と題された特集の囲み記事として掲載されている。

水間氏は過去の韓国の妓生(キーセン=芸者と娼妓を兼ねた女性)を取材した朝日新聞の記事を発見。
SAPIOの記事では、「朝日の記事を読むことで、戦場慰安婦の多くは高給目当てに妓生から転身したものだった、
という歴史的経緯がはっきりするのである」と締められた。

朝日新聞はこれを「意図的な歪曲」とし、名誉と信用を著しく傷つけたと5日付けの記事で報じた。
この事態を受け、ネットでは「SAPIO」というキーワードが多数書き込まれる状態になっている。

その中には4日発売の同誌に合わせ、朝日が5日に慰安婦問題の検証記事を出したのでは? との指摘も。
http://yukan-news.ameba.jp/20140805-10882/

http://www.zassi.net/mag/SAPIO/201409/i/000.jpg

478名無しさん:2014/08/06(水) 14:59:51
【新聞】朝日新聞の「強制連行は使う人によって定義に幅がある」という言い逃れに池田信夫氏「朝日は見苦しい嘘の上塗りをやめよ」
従軍慰安婦なるものは、もともと吉田清治が性的好奇心に訴えて講演料を稼ぐためにつくった
フィクションである。もちろん戦地にも公娼はいたので、それに似た話をさがせばいくらでも
出てくる。それは吉田証言を信じた記者の確証バイアスが原因だ。

追い詰められた朝日新聞は「強制連行」は使う人によって定義に幅があるという言い逃れを
始めた。慰安婦の強制連行の定義も、「官憲の職権を発動した『慰安婦狩り』ないし
『ひとさらい』的連行」に限定する見解(秦郁彦氏)と、「軍または総督府が選定した業者が、
略取、誘拐や人身売買により連行」した場合も含むという考え方(吉見義明氏)が研究者の
間で今も対立する状況が続いている。

そんな対立は存在しない。吉見氏のいうような「軍の関与」は、日本政府が1992年の加藤談話で
認めて謝罪しており、すべての研究者も政府も一致する事実である。売春というのは紳士的な
仕事ではないので、民間の業者の「強制」や人身売買があったことは周知の事実だ。
そんな問題は争点ではないのだ。

「強制連行」という言葉をつくった朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』では、軍や官憲が
国家権力によって徴用したことをさしており、この意味での強制連行は245人の男性に
ついて確認されている。女性の徴用は制度としてなかったので、この意味での強制連行はありえない。

単純な嘘つきだった吉田清治より、定義を変遷させて問題をすり替える吉見義明氏のほうが
罪が重い。彼は民間業者の「誘拐や人身売買も強制連行である」と定義している。こう
定義すれば強制連行があったことは自明で、朝鮮戦争の時代の韓国にもあった。それに
政府や軍が「関与」したのも当たり前だ。戦場で軍が関与しないで商行為はできない。

朝日は1992年の女子挺身隊という報道が誤りだったことも認めたが、これは単純ミスではない。
宮沢訪韓の1週間前に「強制連行」のニュースを出して政権に打撃を与えるための政治的
演出だった。問題のコアである吉田証言が嘘であることを認めたのだから、朝日は見苦しい
嘘の上塗りをやめ、過去の報道をすべて虚心に見直すべきだ。

http://blogos.com/article/91851/

479名無しさん:2014/08/06(水) 15:05:19
【慰安婦問題】橋下市長「32年間、間違いを認めなかったことは大問題で、朝日の罪は大きすぎる」
読売新聞 8月6日(水)13時35分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140806-00050122-yom-pol

 朝日新聞がいわゆる従軍慰安婦問題を巡る過去の報道に一部誤りがあったとする記事を掲載したことに対し、
橋下徹・大阪市長は6日、市役所で記者団に
「(記事を最初に掲載した1982年から)32年間、間違いを認めなかったことは大問題で、
朝日の罪は大きすぎる」と批判した。

 朝日新聞は、5日朝刊で韓国で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の証言を取り上げた過去の記事を
「虚偽と判断した」として取り消した。これについて、橋下氏は「証言が根拠となり、強制連行があったと
国際社会から不当な批判を受けた。この記事でどれだけ日韓関係がこじれたか、しっかり議論していくべきだ」と語った。

480名無しさん:2014/08/06(水) 15:17:07
朝日慰安婦報道 「強制連行」の根幹崩れた

■これでは訂正になっていない

 朝日新聞が慰安婦問題の報道について、一部の記事が虚構だったことを認めた。だが、その中身は
問題のすり替えと開き直りである。これでは、日本がいわれない非難を浴びている原因の解明には
結び付かない。

 最大の誤報は、慰安婦を「強制連行した」という吉田清治氏の証言である。朝日はこれを虚偽だと
認め、記事を取り消すという。

 根拠なく作文された平成5年の河野洋平官房長官談話などにおける、慰安婦が強制連行されたとの
主張の根幹は、もはや崩れた。

 ≪誤りは逐次正すべきだ≫

 遅きに失したとはいえ、朝日が慰安婦問題の事実関係について検証したことは評価できよう。記事
取り消しも当然である。

 だが、真偽が確認できない証言をこれまで訂正せず、虚偽の事実を独り歩きさせた罪は大きい。

 訂正に当たる「証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します」との表現は特集記事中にあるが、
1面記事にもどの面の見出しにもない。削除対象の記事ぐらいは明記すべきだ。

 朝日新聞は今回、編集担当名の記事の中で、「問題の全体像が分からない段階で起きた誤り」と
して専門家による研究が不足していることに責任を転嫁している。

 取材などで事実が判明すれば、その都度、記事化して正し、必要があれば訂正を行うのが当然の
報道姿勢ではないのか。

 暴力で無理やり女性を強制連行したなどとする吉田氏の証言は、旧日本軍が慰安婦を「強制連行」
したり、「慰安婦狩り」が行われたりしたという誤解がまかり通るもととなった。

 吉田氏は戦時中に山口県労務報国会下関支部動員部長だったと名乗っていた。昭和58年に『私の
戦争犯罪 朝鮮人強制連行』という本を出し、18年に韓国・済州島に部下を連れて上陸し泣き叫ぶ
朝鮮人女性205人をトラックで強制連行したなどとしていた。

 朝日新聞は、吉田氏の講演内容を57年に報じたのをはじめ、コラムなどを含め、同証言をたび
たび取り上げていた。

 しかし、平成4年に現代史家の秦郁彦氏が済州島で現地調査を行ったところ、地元のジャーナリストや
古老らがそろって吉田証言を否定し、産経新聞がこの秦氏の調査結果を報じた。

 朝日新聞は9年の特集記事取材で、吉田氏への電話取材や済州島での取材を行ったものの、裏付けが
取れなかった。今年4〜5月、済州島で行った再調査でも証言は得られなかったという。

 慰安婦問題は、宮沢喜一政権発足まもない3年12月、慰安婦だったという韓国人女性が日本政府を
相手取り、謝罪と損害賠償を求める訴訟を起こしたのがきっかけだった。

 宮沢首相訪韓を控えた4年1月には加藤紘一官房長官が十分な調査も行わず「おわびと反省」の談話を
出し、宮沢氏も日韓会談で謝罪した。さらに翌5年に慰安婦募集の強制性を認めた河野談話が出された。

 当時、朝日新聞など日本の一部マスコミも慰安婦問題追及キャンペーンを展開した。この中には、
慰安婦と工場などに動員された「女子挺身隊」と混同した記事もあった。朝日新聞は今回、誤用したと
認めた。
(つづく)

産経ニュース 2014.8.6 03:43
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140806/plc14080603430002-n1.htm

 ≪事実が日韓の信頼築く≫

 朝日は今回の特集記事では、吉田氏の証言を他紙がどう報じてきたかという記事も掲載し、産経新聞が
5年に大阪本社版夕刊の連載「人権考」で「吉田氏を大きく取り上げた」とした。

 しかし、その後、本紙は取材や秦氏らの実証的研究をもとに、証言が「作り話」であることを何度も
報じている。

 朝日の報道が日韓関係悪化の発端となったにもかかわらず、「自国の名誉を守ろうとする一部の論調が、
日韓両国のナショナリズムを刺激し、問題をこじらせる原因を作っている」と、ここでも責任を転嫁
している。

 産経新聞が河野談話の虚構性や吉田証言が偽りであることなどをただしてきたのは、事実を重ね歴史
認識を正しく伝えることが長期的に日韓両国の信頼につながると信じるからだ。

 菅義偉官房長官は「客観的事実に基づく正しい歴史認識が形成されることを望んでいる」とした。
その通りである。事実を歪(ゆが)めては国際的な信用は得られない。

481名無しさん:2014/08/06(水) 17:00:24
【慰安婦問題】 “火付け役” 元朝日新聞記者の植村隆氏、神戸松蔭女子学院大学クビ→北海道の北星学園大学に

「誤りがあったかも知れませんがそれは彼の長い記者人生のなかでごく一部のこと。それだけで彼を評価するのはどうかと思います」
いわゆる従軍慰安婦問題の“火付け役”となった元朝日新聞記者の植村隆氏を非常勤講師として迎え入れた札幌市内の大学の学長はそう庇ってみせた。

植村氏といえば、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦がソウル市内に生存していることがわかったとする記事を書き、
慰安婦問題の先鞭をつけた記者である。いまではこの記事に捏造と言えるほどの重大な誤りがあることが明らかになっているが、
当時はこの記事をきっかけに韓国世論が沸騰し、日本政府はいわゆる河野談話を発表。強制連行を認めたとの印象を世界中に与える事態を招いてしまった。

その植村氏、小誌2月6日号の記事「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」で明らかにしたように、
今年3月で朝日を早期退社し、4月から神戸松蔭女子学院大学で教授となる、はずであった。

「文春の記事で批判が殺到し、神戸松蔭女子学院大学側は、植村さんと結んでいた雇用契約を3月に解消したのです。
すでに朝日を退職することが決まっていた植村さんはこれに激怒して、解約の無効を求めて大学を訴えると息巻いていました」(朝日新聞関係者)

2月6日号の取材では、植村氏は職場の朝日新聞函館支局を訪ねた小誌記者から走って逃げるばかりで、自らの記事について何ら説明することもなかった。

女子大教授の夢も叶わず、朝日も退社した植村氏は今、北海道内の大学で非常勤講師をしているという。

「札幌市内にある私立大学の北星学園大学の非常勤講師です。慰安婦問題についての記事の誤りが明らかになり、
処遇に困った会社が彼を北海道の支局で塩漬けにしていた2年前から講座を受け持つようになったことが縁だそうです」(同前)

現地で田村信一学長を訪ねて問うたところ、出たのが冒頭の発言だ。田村学長はこうも言う。
「韓国からの留学生に韓国語で講義できる人材を北海道で確保するのはたいへんです。その点、彼は韓国語に堪能で、うってつけの人材だと思っています」

だが、大学事務局に植村氏本人と連絡を取りたい旨を申し出たところ、植村氏が非常勤講師をしていることすら、なかなか明らかにしようとしない。
同大学関係者が話す。

「非常勤講師をしていると知った保守系団体がキャンパスのそばでビラ配りをしたこともあって大学はナーバスになっているのです。
学内で慰安婦問題の記事に触れるのはタブーで、誰も植村さんにこの話をしようとしません。

大学では主に韓国からの留学生を対象に、『メディアで読む日本 そして世界』という講義などを担当しています。
朝日の記事を学生に読ませて日本国内の問題や国際情勢について考えてもらうというもので、『早口だが、丁寧に教えてくれる』と評判です」

韓国人留学生に対し、自らの捏造記事を用いて再び“誤った日本の姿”を刷り込んでいたとしたら、とんでもない売国行為だ。
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/4261

482名無しさん:2014/08/07(木) 06:34:54
【社会】朝日新聞が慰安婦記事の一部を取り消し…韓国紙は25年前に強制連行を否定

朝日新聞が慰安婦記事の一部を取り消した。
欧米諸国で流布されている反日プロパガンダに英文で反論するため、
近現代史に関する日本語文献を英訳、発表するなどの活動を行う
「史実を世界に発信する会」の茂木弘道事務局長はこう語る。

「『済州島で連行』証言は裏付けられず、というのは
もう一つのうそである。現地の調査でうそが判明している。
うそが裏付けられている」
吉田清治氏の「済州島で慰安婦狩りを行った」という講演が
朝日新聞の記事に大きく取り上げられたのが、1982年。
83年にその講演と同じ内容の「私の戦争犯罪」が、
89年にはその韓国語訳版が刊行されている。
茂木氏は「地元の『済州新聞』の女性記者、許栄繕氏が郷土史家とともに
徹底調査をしたところ、そんな事実はなかったことを確認して、
89年8月14日付の済州新聞にそのことを報じるかなり長い記事を
載せている」と指摘する。

その記事の中で、郷土史家の金奉玉氏は「1983年に日本語版が
出てから何年かの間、追跡調査をした結果、事実でないことが判明した。
この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」
と憤慨している。
「もうこの時点で、現地で、吉田のうそは確認されており、
90年代以降もなお朝日新聞などが、吉田証言を取り上げていたのは、
報道として怠慢の限りである」と茂木氏。

*+*+ 東スポWeb +*+*
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/298202/

483名無しさん:2014/08/07(木) 07:39:50
朝日新聞が5、6日付の紙面で「慰安婦問題を考える」との大特集を組み、過去に同紙で取り上げた韓国・済州島での
強制連行があったとした男性の証言を虚偽とし、記事を取り消した。従軍慰安婦問題で国際世論をミスリードしてきた
非を認める大英断のようにも見えるが、その中身は言い訳がましい。“明確な謝罪なき検証”の先には、強烈なしっぺ返しが待ち受けている――。

朝日新聞は、5日付紙面で1面を含めた3ページで慰安婦問題を取り上げ、異例となる“釈明”に打って出た。

同紙は1980年代から90年代初めにかけ、日本人男性の吉田清治氏(故人)が済州島で
「女性を慰安婦として、無理やり連行した」という証言を何度となく掲載。強制連行があったとするキャンペーンを張っていたが
「再取材したが、証言を裏付ける話は得られませんでした」とし、記事を取り消した。

また90年代初めに女学生らを労働力とした「女子挺身隊」が慰安婦と同一扱いされた件も同紙は
「当時、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、誤用した」と間違いを認めた。

吉田証言は約20年前に吉田氏自身が創作と証言し、デタラメと判明。挺身隊と慰安婦の同一視問題も20年以上前に明らかとなっていたが、
朝日新聞は訂正に応じていなかっただけに、今回の特集は異例ともいえるわけだ。

ただ、保守論客で「マスコミと政治家が隠蔽する中国」などの著書がある前衆院議員の長尾敬氏(51)は「遅きに失するし、訂正はあっても謝罪がない。
誰も責任を取らない。捏造(ねつぞう)を確信犯で報じていながら、謝れない。朝日新聞の体質は全く変わっていない」と断罪する。

確かに特集では、慰安婦問題に火をつけたとされる91年に掲載した植村隆氏(当時記者)による元従軍慰安婦の金学順さんの証言は、
うそや隠蔽があったとされてきたが、同紙は「意図的な事実のねじ曲げはありません」と擁護すれば、女子挺身隊と慰安婦の混同は、
他紙でも見受けられたと責任逃れ。1面では「慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質」と問題をすり替えてもいる。

もっとも、吉田証言のうそ発覚から約20年にわたって、非を認めてこなかった朝日新聞が今回、わずかながらも訂正報道に踏み切った背景には社を取り巻く厳しい環境にあるようだ。

安倍晋三首相(59)は、一昨年の政権就任前に「朝日新聞の誤報による吉田清治という詐欺師のような男がつくった本がまるで事実かのように日本中に伝わって問題が大きくなった」と言及。
朝日関係者によれば、政権発足後は朝日バッシングが加速し、苦情や抗議活動、不買運動が連日展開され、部数を大幅に落とした。

明々白々なうそと分かっている慰安婦問題の過去報道を隠し切れなくなったというのが実情で、
同紙は「一部の論壇やネット上に朝日の捏造といういわれなき批判が起きている。読者への説明責任を果たしたい」と言及している。

自民党の石破茂幹事長(57)は「検証を議会の場で行うことが必要かもしれない」と朝日新聞関係者の国会招致の可能性もにおわせた。
保守陣営やネット上では「朝日の報道でどれだけの国益を損なったか。吉田証言がウソまみれと認めた以上、国は損害賠償請求するべき」
などと、朝日バッシングはやむどころか火に油を注ぐ事態となっている。
http://news.livedoor.com/article/detail/9121957/

484名無しさん:2014/08/08(金) 19:57:35
「慰安婦誤報訂正」なぜ今?関係者「実はネット調査で、朝日のイメージが“反日”と悪いため払拭したい意向もあるらしい」
朝日新聞が5日付の紙面で、従軍慰安婦をめぐり「強制連行」があったとした過去の
一部報道を取り消した。自民党の石破茂幹事長は6日夜のBSフジ番組で、過去の報道の
経緯を国会で検証すべきだとの考えを重ねて示すなど、問題は拡大している。

朝日新聞による強制連行報道は、30年以上にわたり日本のイメージをおとしめてきたが、なぜいまになって大新聞がそれを取り消したのか? その答えはインターネットにあった。

朝日新聞が初めて吉田氏の記事を掲載したのは1982年9月で、記事を取り消すまで32年近くもかかった。
 すでに本紙も報じたが、誤報を認めた背景には朝日バッシングによる部数減が大きい。

5日付の紙面で「一部の論壇やネット上に朝日捏造といういわれなき批判が起きている」
と言及したが、前出の関係者によれば、論壇と並列に匿名のネットの声を挙げたことに
驚いた者が多かったという。

「部数減が深刻で、朝日は急速にネット移行を進めている。新聞を読まない若者世代に
アピール中ですが、実はネット上の調査で、朝日のイメージが“反日”“親中、親韓”
と悪いため、そのイメージを払拭したい意向もあるようですね」(前出の関係者)

 最近ではネット上を中心に“韓流推し”を批判され、反日イメージを重ねられて
凋落したフジテレビが記憶に新しい。ネットの声が大手メディアを食う時代が来たのか。

※本文より抜粋しました
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/298672/

485名無しさん:2014/08/08(金) 19:59:59
元朝日特派員「記者の自負心ないのか」、朝日新聞の報道取り消しで、裏付けなど取材の基本をしなかったことが明らかに

慰安婦報道が、どのように日韓関係を歪(ゆが)め、日本の立場を貶(おとし)めたのか。
朝日新聞の慰安婦問題の2日間の「特集」は、その部分に関する検証が欠落している。

 日韓関係悪化の原因は、もちろん朝日新聞だけではなく、慰安婦支援団体や韓国側の
動きにもあった。だが、朝日新聞の一連の報道は、慰安婦支援団体に勢いを与え、運動を
正当化させた。そうした点を検証しないのはおかしいのではないか。点検であって検証
ではなかったと言える。

 吉田清治氏の証言を「虚偽」として取り消し、挺身隊と慰安婦の混同を「誤用」と
認めたのは、よいことだとは思う。だが、吉田証言は本来、吉田氏にデータ提供や面会を
拒まれた段階で新聞社として明確に疑問を呈すべきだった。挺身隊と慰安婦の混同に
ついても、当時は戦時中を知る人たちが大勢いたのだからそうした人に聞けばよかった。

「参考資料にも混同がみられた」と説明するが、それでは記者は一体何をしていたのか。
結局、「騙(だま)された」「騙した方が悪い」とすべて他人のせいにしている。
それでは「相手の言うことをうのみにして記事を書いているのか」ということになる。
かえって読者の信用を落とすのではないか。

後に「元慰安婦が強制連行ではなくキーセンに売られた」という話が出たのなら本人に
確認して報じればよい。取材の基本動作をしてこなかったことを自ら明かしてしまった
に等しい。ある意味で衝撃を受けた。

 産経新聞など他紙も吉田証言を取り上げたり、挺身隊と慰安婦の混同があったことも
指摘しているが、「他の人も同じことをやりました」というのは、報道の世界では
通用しない。自分たちが日本の報道を引っ張っているという自負があるならば
「他紙はどうだ」とは書けないはずだ。「朝日新聞にそういう自負心や誇りは
もうないんだな」と感じてしまう。

 一般商業紙は、政党機関紙とは違う。裏付けもしていない記事が新聞に出ているんだ
と読者に誤解させたことは業界全体にとっても大きなマイナスだ。朝日新聞だけでなく
新聞という媒体の価値を貶めることにもつながってしまったのではないか。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140808/plc14080810300013-n1.htm

486名無しさん:2014/08/08(金) 20:02:05
【朝日慰安婦検証記事報道】
橋下氏が朝日記者にチクリ「僕だったら瞬間に辞める」

 朝日新聞の慰安婦報道の検証記事をめぐり、橋下徹大阪市長は7日の囲み取材で、
朝日記者に対して「僕だったら報道が出た瞬間に辞める。日韓関係をこじらせちゃって、
とてもじゃないが(社内に)いられない」と皮肉った。

 橋下氏はさらに「検証記事はあれで終わりか。(記事を見て)どう思うのか」と逆質問。
朝日記者が「社内で議論しているところ」と答えると、「よく(社内に)いられる。すごい精神力。
政治家向きだ。僕だったら辞めるが、朝日の人はそこまでのことだと感じていないんでしょうね」
とたたみかけた。

 さらに「強制連行という話は日本国民、もっと言えば子供や孫たち全員に対して汚名を着せた」と強く批判した。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140807/wlf14080722410026-n1.htm

487名無しさん:2014/08/08(金) 20:08:59
【慰安婦問題】 朝日新聞の「世紀の大誤報」であり「捏造記事」だった

朝日新聞が、自身が展開してきた「従軍慰安婦記事」の検証と反省、訂正を始めました。なぜ今頃、とネット上では非難囂々です。
朝日新聞を国会へ招致し、事実関係の検証をしろ、という声まで出る始末。これは「世紀の大誤報」であり「捏造記事」だったわけで、
大いに「国益を損ねた」朝日新聞の信用失墜ぶりは目をおおうばかりです。

“被害者を「売春婦」などとおとしめることで自国の名誉を守ろうとする一部の論調が、日韓両国のナショナリズムを刺激し、
問題をこじらせる原因を作っているからです。見たくない過去から目を背け、感情的対立をあおる内向きの言論が広がっていることを危惧します。

戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできません。
慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです。”

慰安婦は売春婦である。戦前は売春は合法であり、多かれ少なかれ「性の相手を強いられた」のだ。
それは吉原の歴史を見ればわかる。朝日新聞は「軍が強制連行した」という証拠が出せなかったから「女性としての尊厳」に問題をすり替えているのだ。

問題の本質は女性の人権といった一般論ではなく、公権力による強制の有無である。民間の商行為に政府が謝罪する理由はない。
この点で特に問題なのは、1992年1月の植村隆記者の記事だ。

きのうの記事ではごまかしているが、植村記者の「解説」はこうなっている。

“一九三〇年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を設けた。
元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八割は朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。”

「当時は研究が乏しかったので挺身隊と慰安婦を同一視した」という言い訳には驚いた。私は当時、植村記者と同時に取材したが、
女子挺身隊は女性を工場に動員する組織であり、娼婦が含まれるはずがない。こんなことは「研究」するまでもない常識だ。

ここで朝日が「挺身隊の名で強制連行」という言葉を使ったことが問題を混乱させ、その直後に宮沢首相が訪韓して謝罪したために、
強制連行が既成事実になったのだ。今ごろ「訪韓の直前をねらったわけではない」などと言い訳しても、小保方氏ほども信用されない。

「軍関与示す資料」
については、原文を読めば
「慰安婦を誘拐するな」という業者に対する監督の文書であることは明らかだ。だからこれは秘密でも何でもなく、防衛研究所の図書館で公開されていた。

さらに唖然とするのは、「他社の報道は」

という記事だ。「吉田証言は他社も取り上げた」という。
しかし読売も産経も、のちに吉田の「慰安婦狩り」が架空だったことを認めた。朝日のように、いまだに「強制連行は本質ではない」などと言い張ってはいない。

慰安婦問題の本質は「日本政府は韓国に対する戦争犯罪を永久に謝罪しなければならない」という朝日の錯覚にある。
第2次大戦当時の朝鮮半島は日本の領土であり、戦争犯罪をおかすことはできない。旧植民地に謝罪した宗主国はなく、日韓条約でも謝罪はしていないのだ。

歴史に無知な記者が、こういう問題をごちゃごちゃにして「アジアへの責任」を語ることが、中韓が図に乗って「歴史問題」を蒸し返す原因だ。
日本政府が韓国に対して謝罪する理由はどこにもない。朝日の記者が歴史を勉強して問題の本質を直視することが出発点だ。

いまだに常務が開き直っているようでは、大きく傷ついたブランドイメージは回復できない。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140807-00010003-agora-soci

488名無しさん:2014/08/08(金) 20:11:14
リンクのワードがNGになってるので貼れない

489とはずがたり:2014/08/09(土) 11:43:53
一度に沢山のリンクを貼ろうとするとNGになることがあるのでその場合は俺はhttpのhを抜いて貼ってます。

あと一部のリンクはしたらばに貼れなくなっているようです。例えばfc2関係です。

490名無しさん:2014/08/09(土) 12:17:09
なるへそ、たまに改行を多様すると貼れる様になるのは不思議

491名無しさん:2014/08/09(土) 12:17:34
【慰安婦誤報】 朝日新聞の若手記者が悲鳴 「いい加減にしてくれ!直接批判にさらされるのは現場に出ている我々だ」

朝日新聞が5、6日付の紙面で「慰安婦問題を考える」との特集を組み、「強制連行があった」とした過去の一部報道を取り消したことに、
政界では自民党の石破茂幹事長や民主党の松原仁国対委員長、日本維新の会の橋下徹大阪市長などが批判した。

ネット上でも批判のオンパレードとなっているが、朝日新聞社内では若手記者を中心に「いい加減にしてくれ!」
と悲鳴に近い怒りの声が渦巻き、険悪な雰囲気になっているという。

ある20代の記者は本紙にこう激白した。「32年前のことをわざわざ『誤報だった』と報じて、直接批判にさらされるのは現場に出ている我々、
若い記者。取材先で『あれは何?』と聞かれても、僕らは答えようがないですよ」とため息交じり。

また30代の記者は「もし今、自分が書いた記事で『誤報でした』なんてことになったら大問題で、すぐ処分される。
内容次第では上司も飛ばされるでしょう。でも、32年前のこの記事では書いた記者も社会部長もおとがめなしどころか、結構出世してる。
退職金もきっちりもらってる。『こんな不公平はない』と社内は不満の声ばかりですよ」と明かした。

社内でも「なぜこの時期に検証記事を掲載したのか」との声もあるとか。
一因として「慰安婦問題の火付け役」の元記者U氏が今年3月、早期退職したのと関係があるともささやかれている。

「Uさんがまだ社内にいたとしたら、さすがに検証記事はやりづらいでしょう。
もっとも紙面ではUさんの記事について『意図的な事実のねじ曲げはありません』と擁護してましたけど…」(同)
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/299064/

492名無しさん:2014/08/09(土) 16:22:29
慰安婦の件で連日騒いでいるのは産経新聞だけ
新聞を見比べたけど他紙は冷静だ

むしろ産経新聞が騒ぎすぎでるから日中関係・日韓関係が悪化していくような気がするんだが

493名無しさん:2014/08/09(土) 22:37:35
朝日捏造問題動画

ウェークアップ!ぷらす
https://www.youtube.com/watch?v=XTUvnSrSQLk

辛抱
https://www.youtube.com/watch?v=jELH5Am-QJ4  8/5
https://www.youtube.com/watch?v=38iNnZ5U76E  8/6

関西テレ青山
https://www.youtube.com/watch?v=QMIQT-3ZSiY

https://www.youtube.com/watch?v=xDoWNBvm2_E

ミヤネ
https://www.youtube.com/watch?v=72-Irdg7RCY

494名無しさん:2014/08/09(土) 22:40:53
>>492
本当にそんな風に思ってるのか?www

495名無しさん:2014/08/10(日) 01:54:11
>>494
もち
煽って国民感情を悪化させてんだからさ

未来志向に水をさしているだけ

騒いでいるのは産経新聞とひきこもりニートが多数のネット保守だけだと思うよ
平日の昼間から騒ぎたてているんだから

ネット保守も人数はそんなに多くないけど声がでかいから目立つんだよな

ネットへの書き込みや抗議のメールなんかも1人で10回とかしちゃってるようだしね〜

経済面で中国・韓国との協力なしにはやっていけないのが現実で騒ぎ立てるのは国益も害する

ネット保守はネットの中しか知らないから教えても理解できないんだろうが

496名無しさん:2014/08/10(日) 07:58:52
大阪市の橋下徹市長(45)は8日、大阪市役所で開いた定例会見で、
朝日新聞が過去に報じた旧日本軍による従軍慰安婦の強制連行があったとする日本人男性(故人)の
証言を虚偽認定した問題に対し、追及第2弾を行った。

25分間にわたり「朝日の大誤報が日韓関係をブチ壊した」「これからどうやって自分のケツを拭くつもりか」と橋下節をさく裂させた。

会見は市政、大阪都構想関連の質疑・議論で予定の80分をオーバーしたが、
83分が経過した頃に慰安婦問題に関する質問が出ると、そこから25分間の“独壇場”となった。

橋下市長は朝日新聞が、5日付で80年〜90年代に16回にわたり報じた、
済州島(韓国)で女性を慰安婦にするため暴力を使って無理やり連れ出したとする日本人男性の証言に基づく過去記事を撤回した検証記事について
「言い訳じみてて、自分たちが日韓関係をこじれさせた最大の責任者だという認識が全くない。事の重大さを理解していない」と批判した。
http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/08/09/0007218324.shtml

497名無しさん:2014/08/10(日) 08:03:10
池田信夫氏「慰安婦問題は朝日新聞の捏造だ。植村氏は民間の人身売買だと聞いたのに官憲による連行と書いている。」

きのうの言論アリーナでも話したことだが、朝日新聞の「慰安婦問題の本質、直視を」という記事は、なかなか味わい深い。特
におもしろいのは、次の部分だ。

一部の論壇やネット上には、慰安婦問題は朝日新聞の捏造だといういわれなき批判が起きています。しかも、元慰安婦の記事を
書いた元朝日新聞記者が名指しで中傷される事態になっています。読者の皆様からは「本当か」「なぜ反論しない」と問い合わせが
寄せられるようになりました。

慰安婦問題が朝日新聞のブランドイメージを失墜させ、植村隆元記者がネトウヨの標的になって再就職もパーになった
(大学が採用を撤回した)。これ以上放置すると部数が落ち、まともな社員が入ってこなくなるという危機感があったのだろう。
今年5月のOB会でも、批判があったらしい。

特に「捏造」というのは意図的に嘘の話をつくったという意味だから、報道機関としては致命傷だ。この特集では、そこに
こだわって「挺身隊」は植村氏の善意のミスだったと主張している。しかし産経の阿比留記者も指摘するように、植村氏の記事は
矛盾している。「元慰安婦 初の証言」は、元朝日記者の植村隆氏(今年3月退社)が3年8月11日付朝刊で書いた「元朝鮮
人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」という記事を指す。韓国メディアより先に、初めて韓国人元慰安婦の証言を伝えたもので、
これも「母に40円でキーセンに売られた」と別のインタビューなどで語っている金学順氏について「女子挺身隊の名で戦場に連行」
と記している。この「挺身隊」の記事の前に植村氏は「キーセンに売られた」という話を本人から聞いている。それがなぜ
「戦場に連行」になったのか。朝日が言い訳するように、挺身隊については「研究が進んでいなかったため同一視」したとしても、
植村氏は民間の人身売買だと聞いたのに官憲による連行と書いている。このように事実を知った上で嘘を書くことを捏造というのではないか。

ところが朝日新聞は「捏造はなかった」と主張し、それを根拠にいくつかの週刊誌に抗議文を送っている。どうやら捏造を論点に
して反撃に転じようという作戦らしいが、上のように朝日の検証にもとづいても植村氏の記事は捏造である。強制連行がなければ、
商行為としての慰安婦は問題にならなかったので、「慰安婦問題」は朝日の捏造である。

http://blogos.com/article/92069/

498名無しさん:2014/08/10(日) 08:15:15
「植村隆・元朝日新聞記者を国会に参考人招致すべきだ」、野党からも強烈な朝日批判わき起こる[08/08]

朝日新聞が慰安婦報道の大誤報を32年もたって一部認めたことを受け、政界で強烈な批判がわき起こっている。結果的に、日本と日本人
の名誉を傷付けていることに、朝日関係者の国会招致の機運が盛り上がってきた。

検証報道当日(5日)に国会招致に言及した自民党の石破茂幹事長は6日夜のBSフジ番組でも、「朝日の記事は日韓関係にも影響を与えた。
国権の最高機関たる議会で議論を行うのは当たり前だ」と重ねて強調した。

朝日が何度も報道し、長年放置し続けた吉田清治氏の虚偽証言が、国際社会では「事実」として広まっている。このことが、日本の国際的地位
を貶め、日韓関係などを悪化させているのだ。

日本維新の会の橋下徹(大阪市長)代表も同日、「(誤報から)32年間、過ちを認めなかった朝日新聞が白旗をあげたが、言い訳じみている」
「どこまで日本を侮辱し続けるのか」などと猛烈に批判。「朝日新聞の罪は大きすぎる。ここで収束させてはダメだ」と述べ、朝日自らがさらに
検証すべきだとする見解を示した。

民主党の松原仁国対委員長も同日「日本の不名誉に同調する記事を30年以上放置した責任は極めて重大だ」と、朝日を切り捨てた。

次世代の党の山田宏幹事長は同日、元慰安婦の証言を初めて取り上げた、植村隆・元朝日新聞記者を国会に参考人招致すべきだとの考えを
示した。

植村氏は1991年8月11日付朝刊(大阪版)で、後に金学順氏と判明する元慰安婦を匿名で取り上げ、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、
日本軍人相手に売春行為を強いられた」と書き、慰安婦問題に火を付けた。ところが、金氏は記者会見や別のインタビューで「母に40円で
キーセン(朝鮮半島の芸妓=げいぎ=・売春婦)に売られた」と語ったのだ。

植村氏は、戦時中に徴兵、徴用された韓国人遺族らでつくられた「太平洋戦争犠牲者遺族会」の幹部の娘婿でもあった。

山田氏は「日本が国際的に非難される原点となった報道だ。予算委員会などを通じてただす必要がある」「朝日の検証に基づき、その内容を
聞くことは、取材や報道の自由に何ら抵触しない」と述べた。

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140807/dms1408071541013-n1.htm
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140807/dms1408071541013-n2.htm

499名無しさん:2014/08/10(日) 08:20:09
日本維新の会の橋下徹代表(大阪市長)は9日、朝日新聞の慰安婦報道に言及し「日韓関係をこじらせた最大の原因だ」と改めて批判し、
「やっと朝日が30年以上にわたる誤報を認めたが、しつこく言ってやろうと思っている。ここで終わらせたらいけない」と述べた。
大阪市内で開かれた「維新政治塾」の修了式でのあいさつで語った。

橋下氏は「朝日が(慰安婦の)強制連行はあったと言ったものだから、国家が組織としてやったということで世界に伝わった」と強調。
国際社会で慰安婦問題は平和条約で解決できない問題と認識されていると説明し、「(朝日の報道が)日韓関係がこじれている最大の原因だ」と批判した。
その上で「(朝日が誤報を認めたことで)強制連行はなかったことが明らかになった」とし、政府が韓国に対して慰安婦問題は日韓基本条約で解決されて
いることを説明していくべきだとの見解を示した。
 
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140809/wlf14080915130021-n1.htm

500名無しさん:2014/08/10(日) 08:23:39
朝日新聞、英文サイトに検証記事なし…「お答えは、さし控えます」

世界に悪影響を与えた朝日の誤報だが、なぜか英語版の記述が見あたらない

 慰安婦問題の大誤報を32年もたって認めた朝日新聞に、国際社会で日本と日本人の名誉回復を求める声が高まっている。

ところが、同紙ウェブサイトの英字版を見ても、5、6両日に掲載した特集「慰安婦問題を考える」の英訳記事がなかなか確認できないのだ。
一刻も早い「真実の発信」が不可欠のはずだが、一体どうなっているのか。

 「朝日が本気なら、赤字覚悟で(検証記事の)国際版を毎日刷り、『強制連行はなかった』『性奴隷(という表現は)はやめて』と世界各国に配信するしかない」

 日本維新の会の橋下徹(大阪市長)代表は7日夜、こう述べた。

 朝日は、吉田清治氏の「韓国・済州島で200人の朝鮮人女性を強制連行した」といった一連の証言を1982年以来、16回も掲載した。
吉田証言は権威付けられ、韓国政府の報告書や、慰安婦を「性奴隷」と認定した国連の「クマラスワミ報告」(96年)にも引用された。

 5日の検証記事で、朝日は吉田証言を「虚偽」とし、「記事を取り消します」とした。
吉田証言が強制連行や性奴隷の根拠となり、日本と日本人を貶め続けている以上、朝日は、韓国や国連、国際社会に対し、誤解を解く責任があるはずだ。

 長年、朝日の慰安婦報道の誤報について指摘してきた東京基督教大の西岡力教授も8日午後、読売テレビ系『ミヤネ屋』に出演し、「朝日は国際広報をする責任がある」と糾弾した。

 しかし、朝日が運営するウェブサイトの英字版では9日午前9時現在、誤報を認めた記事の英文版は確認できない。
朝日の主要記事は当日中に英訳され、同サイトに掲載されている。これだけ日本にダメージを与えた証言を取り消す検証記事は、少しでも早く掲載する必要があるはずだ。
万が一、掲載しないとなれば、「姑息」といわれても仕方ないのではないか。

夕刊フジが、朝日にこの件について問い合わせたところ、同社広報部は書面による質問を求めてきた。
このため、7項目の質問をFAXすると、5時間以上かかって回答書がきた。

 注目の回答書は、「いただいたご質問にまとめて回答します」で始まり、改行後、黒く太いゴシック文字で「お答えは、さし控えます」と続き、再び改行後、「以上です。どうぞよろしくお願いいたします」と書いてあるだけだった。

 電話で、回答ができない理由を担当者にたずねても、「さし控えますということです」という答えしか返ってこなかった。

 朝日のこの対応を、どう受け止めればいいのか。

2014.08.09
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140809/dms1408091546007-n1.htm

501名無しさん:2014/08/10(日) 11:00:12
産経の記事ばかり〜

502とはずがたり:2014/08/11(月) 19:33:49
個人が自立できずに全体主義招いたくせに自立した日本をとか何様かねぇ┐('〜`;)┌

「戦った父がいたから今の自分がいる」 靖国に思う「自立した日本を」
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20140809537.html
産経新聞2014年8月11日(月)09:03

 8月15日、先の大戦が終結してから70年目を迎える。国のために戦い生還した人々や戦没者の遺族は、ますます高齢化している。薄れゆく大戦の記憶を語り継ぐため、生存者を訪ねた。

 あの時から70年近い歳月を隔てても、胸に秘めた思いが色あせることはない。

 「祖国のために命をささげたあなたは英雄です」「もう一度あなたの子供として生まれ、一緒にうまい酒を飲みたい」

 来年8月15日に戦後70年を迎えるのを前に、靖国神社遊就館(東京都千代田区)が企画した「英霊に贈る手紙」。先の大戦で亡くなった兵士の遺族を対象に今年2月から8月末まで募集しているが、その数はすでに300通に迫る。

 差出人の約半数が遺児で、残りは兄弟や妻、孫、おいなど。「これまで父親のいる友達に負けるものかとずっとがんばってきました。父の元に行ったらほめて下さい」。記憶のかなたに浮かぶ父親、兄弟、夫らに宛ててつづられた思いは、いずれも切実だ。今回の企画を提案した展示課主典の後藤智司さん(33)は、「いずれの文面からも、『戦争で戦った父たちがいたからこそ今の自分たちがいる』という共通した感謝の思いが伝わってきます」と話す。

 手紙は、来年春に行われる靖国神社での慰霊祭で神前に供えられる。その靖国には、英霊とともに戦った“同期の桜”が今も足を運び、慰霊を続けている。

 ◆「慰霊こそ私の義務」

 「祖国の行く末を信じ、勇戦奮闘した仲間を思うと、その御霊(みたま)を慰めることこそが生き残った私の義務であると考えています」

 元海軍大尉、市來(いちき)俊男さん(95)=さいたま市南区=は、毎年6月17日に靖国神社に参拝している。海軍兵学校67期卒にちなみ、この日に決めた。もちろん、数少ない同期生も一緒だ。

 鹿児島県出身で、昭和10年に海兵に入学。67期248人のうち、終戦時の生存者は88人。亡くなった160人の大半が戦死だった。

 市來さんは大戦の口火を切った16年12月の米ハワイ真珠湾攻撃に駆逐艦「陽炎(かげろう)」航海長として参加。その後も多くの海戦や輸送作戦に従事した。兵士約1万人が餓死するなどし、敗戦への分岐点となったとされるガダルカナル島(ソロモン諸島)の戦い(17年8月〜18年2月)では、機銃掃射を受けながら増援部隊や補給物資を輸送した。

 この戦いで今でも記憶に残るのは、陸軍士官学校52期卒だった中尉の面影だ。海兵卒の市來さんとは、卒業年次でいえば同期に当たる。「士官室で夜更かししながら『上陸したら(ガダルカナル島を)取り返すぞ』などと話し込み、艦長に注意されたこともあった」。対立関係が取り沙汰された陸軍と海軍だが、現場での“同期生”の絆の強さは組織の違いを超えていた。

 市來さんは戦後、海上自衛隊、防衛研究所などに勤務し、47年に退官。その後も戦史研究と執筆に取り組んできた。

503とはずがたり:2014/08/11(月) 19:34:14
>>502-503
 戦後の東京裁判でA級戦犯とされた東条英機元首相ら14人が53年に合祀(ごうし)され、60年の中曽根康弘首相(当時)による公式参拝以降、中国、韓国が反発を強めているが、市來さんはこう喝破する。「国のために戦って亡くなった軍人を慰霊するのはどこの国でも当然の行為。内政干渉だ」

 ◆生き残り「私だけ…」

 東京の夏の風物詩として親しまれ、毎年約30万人の参拝者でにぎわう靖国神社の「みたままつり」。今年も7月13〜16日、英霊への感謝と平和を祈念して大小3万超のちょうちんが境内に掲げられた。その中に、「第二師団第十六連隊」という連隊名とともに、個人名が記された33個のちょうちんがあった。

 「新潟県新発田市にあった歩兵16連隊での同年兵の数と、自分の出陣のときの番号です。今や同年兵の中の生き残りは、私だけになってしまいました」

 ちょうちんを献灯したのは東京都大田区の●屋(すみや)久平さん(92)。33個のちょうちんに込めた思いを、こう語った。

 新潟県魚沼市出身。17年11月に南洋のニューブリテン島(パプアニューギニア)に出征後、フィリピン、シンガポール、ビルマ、中国で任務に就いた。

 ニューブリテン島では苦戦していたガダルカナル島への出撃に備えていたが、直前になって中止に。その代わりに担当したのが、野戦病院での遺体処理だった。

 火葬にすると敵の爆撃目標になるので土葬にしたが、深さ5メートルほどの穴を掘っては遺体を埋めるというつらい作業の連続だった。「戦友たちに土をかけ終わるまで涙が止まらず、埋葬後も戦友たちの家族に思いをはせると再び涙が出た」

 戦後は都内で修理業や食肉販売店などを営んだが、くじけそうになるたびに「戦場で亡くなった戦友に申し訳ない」と歯を食いしばって耐えてきた。靖国神社に参拝すると、戦友の面影を思い浮かべながら平和の尊さをかみしめる。

 ◆「自立した日本を」

 戦後日本の平和の礎となった英霊たち。国の行く末を案じながら亡くなった彼らの思いを、どう受け継ぐべきか。

 市來さんにとって、国防を忌避する風潮を強める戦後日本の光景は「平和ボケ」と映る。「戦争を嫌う気持ちは誰にもある。しかし、自分たちが自分の国を守らなくてどうするのか」

 史上最大の戦艦「大和」の副砲長としてレイテ沖海戦に参戦するなどした元海軍少佐、深井俊之助さん(100)=東京都世田谷区=もこう口にする。

 「今の世代に言い残したいことは、とにかく、自立した日本を取り戻してほしいということだ」

 日本の安全保障環境が厳しさを増す中、英霊の思いを代弁する元軍人たちの言葉は重い。(花房壮)

 【用語解説】靖国神社 明治政府が明治2年、戊辰戦争での官軍の戦死者を弔うため、東京・九段に東京招魂社を創建、12年に現在の名称となった。「国を靖(安)んずる」の意味で、明治天皇が命名した。先の大戦はもとより日清戦争(明治27〜28年)、日露戦争(37〜38年)などの戦没者のほか、坂本龍馬や吉田松陰ら幕末の志士も合祀されている。祭神総数は246万6千柱余に上る。

504名無しさん:2014/08/12(火) 17:23:50
反省しても謝罪なし 責任転嫁と矛盾の朝日新聞検証・・・現代史家・秦郁彦氏
朝日新聞から検証記事への見解を求められ、同紙6日付朝刊に寄稿した。
「自己検証したことをまず、評価したい」と書いたのは、過去にコメントをボツにされたことが度々あったからだ。

原稿が掲載されなかったら、朝日読者に批判が届かない。
朝日と付き合う際は作戦が必要。朝日の人たちは「評価」されて喜んでいたらしいけどね。

検証記事の話を事前に聞いていたので、いろいろと注文を出した。「すっぱりと反省とおわびをしなさいよ」と伝えたが、
朝日担当者は「それはみんなで議論します」としか答えなかった。

検証記事では「反省します」とだけ書いてある。みんなで議論した結果、「謝罪はしない」ということになったのだろうが、
反省と謝罪はセットのはずではないか。

工場などに動員された女子挺身隊と、何の関係もない慰安婦を混同していた問題でも、
朝日は「原因は研究の乏しさにあった」と説明している。こんなことは調べればすぐ分かる。
STAP細胞論文みたいに難しい話じゃない。責任転嫁していると言われても仕方がない。

朝日はよく「他の国が同じことをやっているからといって、日本が免罪されるわけではない」という趣旨のことを書いている。
だが、検証記事では他紙も吉田証言を報道したことを取り上げた。悪いのは朝日だけではなく「似たり寄ったりだ」と言いたいようだが、矛盾しているのではないか。

慰安婦問題の核心は「強制連行の有無」と「慰安所で性奴隷の扱いを受けていたかどうか」だ。
この2点について基本的な態度をはっきりさせることを期待していたが、検証記事ではそうはならなかった。

「強制連行」は分が悪いと判断したのか、慰安所での「強制」や「軍の関与」を持ち出してごまかしている。
慰安婦の稼ぎは兵士の数十倍で、廃業や接客拒否の自由もあったのに「性奴隷」というイメージは守ろうとしている。
慰安所での生活が「強制的な状況の下での痛ましいものであった」とした河野洋平官房長官談話をうまく利用しているという印象だ。

強制連行を裏付ける証言が「虚偽」だと分かって20年以上がたっている。今回の検証記事で1番の驚きは、よくもこれだけ長い間、嘘を放置してきたということだ。
その理由は検証記事では分からないが、引くに引けなくなってしまっていたのだろう。(談)

■秦郁彦(はた・いくひこ) 1932年、山口県生まれ。東大法学部卒業。法学博士。大蔵省財政史室室長、
プリンストン大客員教授、千葉大教授などを歴任。著書に『慰安婦と戦場の性』(新潮選書)など。

朝日新聞が16回も取り上げた吉田清治氏の「韓国・済州島で200人の朝鮮人女性を狩り出した」との証言について、1992年に現地調査を実施し、証言は虚偽と確認した。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140812/dms1408121140003-n1.htm

505名無しさん:2014/08/12(火) 17:28:25
1982年に朝日新聞は、当時日本の植民地だった朝鮮で旧日本軍が若い女性を大量に強制連行
していたという内容の吉田清治氏の証言を虚偽であったにもかかわらず報じ、その後も
16回に渡って従軍慰安婦についての記事を掲載した。
しかし、朝日新聞は32年が経過した今になって、吉田証言を虚偽だと認めて訂正し、
記事を取り消している。

そして、当時の日本政府が慰安婦に対する旧日本軍の関与を認め、宮沢喜一首相が謝罪。
翌年に発表されたのが河野談話であり、その内容は慰安婦の募集などを軍が強制性を持って
関わったことを認めるものであったと説明した。

また、番組では、慰安婦問題を研究している東京基督教大学教授の西岡力氏が中継で出演し、
朝日新聞が訂正しても吉田証言が国連人権委員会の報告書に引用され、英語の世界では
吉田証言が基準となってしまっていると解説。
さらに、韓国メディアに先んじて生存した慰安婦の証言を報じた1991年8月11日付けの
朝日新聞の記事についても、「女子挺身隊として強制連行された慰安婦」と書いたのは
「誤報」であると指摘した。

そして、この記事の担当記者を「植村さん(植村隆氏)」と名指ししたうえで、この記者の
義母が、元慰安婦が所属した別の団体の幹部であり、義理の母の裁判が有利となるような
誤報を、紙面を使って行った疑いがあると指摘した。

コメンテーターの岩田公雄氏は、朝日新聞が訂正までに32年かかったことに疑問を呈し、
「根本の部分で間違ったことについてはきちんと謝罪すべきで、外交問題になっていることに
ついてどう取り組むのか是正していくのかにつても責任が伴う」とコメントした。

最後に、西岡氏は、朝日新聞は訂正を英文でも行うべきであり、英文サイトに今回の記事を
掲載していないことは問題で、また、吉田証言が間違いだっと国連に訴えるなどの国際広報を
していく必要があるとも指摘。

これに対し、司会の宮根誠司氏は、「日本のマスコミ・政府が一丸となってもう一回韓国と
冷静に話し合うという場所を設けないといけないと思いますね」と語った。

※本文より抜粋しました
http://news.livedoor.com/article/detail/9131786/

506とはずがたり:2014/08/13(水) 09:03:53
人民日報「日本は暗黒国家に」朝日慰安婦報道で
http://www.yomiuri.co.jp/world/20140812-OYT1T50127.html?from=yartcl_popin
2014年08月13日 08時36分

 【北京=五十嵐文】12日の中国共産党機関紙・人民日報は、朝日新聞がいわゆる従軍慰安婦問題を巡る過去の報道に一部誤りがあったとする記事を掲載したことについて、「安倍首相率いる日本で進む右傾化の産物だ」と批判する論評を掲載した。

 中国の主要メディアが今回の朝日記事について論評するのは初めて。

 論評は、「右傾化の道を進むにつれ、日本が暗黒国家に変わりつつあることを国際社会にはっきりと示すものだ」などと主張。さらに「安倍政権と日本のメディアはいっそう足並みをそろえてきている」との見方を示した。

2014年08月13日 08時36分

507名無しさん:2014/08/16(土) 00:32:12
【朝日の大罪】誤報放置は「犯罪的行為」 病の完治を 英国人ジャーナリスト・ストークス氏 (1/2ページ)

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/images/20140814/dms1408141140010-p1.jpg
立派な社屋から誤報を発信した朝日新聞社【拡大】

 今回の件は、単なる誤報ではない。英国人ジャーナリストとして、一連の経過を観察してきた私としては、朝日新聞の慰安婦をめぐる恣意的報道は極めて問題である。
その背景を検証する必要がある。

 朝日が慰安婦報道の誤りを認め、記事削除を決定したことは、世界的にも異例の事態だ。
吉田清治氏の証言については、当時から疑義が指摘されてきた。
真実を伝えるべき報道機関が、それを30年以上も放置し、結果として日本と日本人の名誉を貶めた責任は重大で、「犯罪的行為」と言ってもいい。

 木村伊量(ただかず)社長以下、朝日の関係者を国会に招致して、徹底究明すべきである。
「報道の自由に抵触する」との意見もあるが、一連の報道が国家に与えた損害は甚大で、当然、その責任が追及されなければならない。
記事を削除すれば済む次元の問題ではない。

 朝日の慰安婦報道は「河野洋平官房長官談話」の素地ともなった。河野談話の欺瞞(ぎまん)性とともに、背景と真相を明らかにすることが重要だ。
河野談話は、日本政府と韓国政府がすり合わせて作成された。これは慰安婦問題ではなく、政治問題であり、国家主権の問題でもある。

 そして、どうして日本と日本人を貶めるストーリーが、巨大メディアや政府中枢で温存され、発信されるのか。
日本は一刻も早く、この病を完治しなければならない。

慰安婦問題だけではない。いわゆる「南京大虐殺」も、歴史の事実としては存在しなかった。
それなのに、なぜ「南京大虐殺」という表現が、刷り込みのように報道で使われるのか。南京大虐殺という表現を、報道で使うべきではない。

 すべての元凶は、連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥が主導した
「東京裁判」(極東国際軍事裁判、1946年5月〜48年11月)と、それに先駆けてNHKがラジオ放送した
「真相はこうだ」(45年12月〜46年2月)にあると、私は考えている。

 GHQ主導の下、NHKはまったく事実ではない「南京大虐殺」など、日本軍の残虐行為に関する虚構を、国民に向けて報道したのである。
こちらも朝日の慰安婦報道に加えて、しっかりと検証することが必要だ。

 8月15日も近い。敗戦と占領の呪縛を知り、失われた独立主権国家としての気概を、日本が取り戻すべき時が来ている。 (取材・構成 藤田裕行)

 ■ヘンリー・S・ストークス 1938年、英国生まれ。61年、オックスフォード大学修士課程修了後、62年に英紙『フィナンシャル・タイムズ』入社。
64年、東京支局初代支局長に着任する。以後、英紙『タイムズ』や、米紙『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局長を歴任。
著書に「英国人記者が見た 連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社新書)など。

2014.08.14
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/photos/20140814/dms1408141140010-p1.htm

508名無しさん:2014/08/16(土) 00:32:53
【マスコミ】 1989年 “サンゴ落書き捏造” 記事に見る、朝日新聞 「虐日偽善」の姿
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1398573426/

http://www.geocities.jp/ky_asahisango/picture/p4-20-1.jpg
http://www.geocities.jp/ky_asahisango/picture/p5-16-1.jpg
http://www.geocities.jp/ky_asahisango/picture/p5-20-1.jpg


この事件では写真の捏造ばかりが問題になったが、実は、記事の文章も「極めて悪質」と言わざるを得ない。その末尾は次のようになっていた。

「日本人は、落書きにかけて今や世界に冠たる民族かもしれない。
だけどこれは、将来の人たちが見たら、八〇年代日本人の記念碑になるに違いない。百年単位で育ってきたものを、
瞬時に傷つけて恥じない、精神の貧しさの、すさんだ心の…。にしても、一体『K・Y』ってだれだ」

仮に写真が本物であったとしても、この文章は二重の意味で明らかに間違っている。
第1に、犯人はまったく不明なのだから、日本人の犯行と断定することはできない。アルファベットのイニシャルだから、外国人の可能性も十分考えられる。

第2に、犯人が日本人だとしても、一部の人間の行為を日本人全体の犯罪として糾弾し、
モラルなき悪質民族と決めつけるのは、誠に異様である。それは、「世界に冠たる民族」「八〇年代日本人の記念碑」といった極端な表現に現れている。

ではなぜ、こんな発想が出てくるのか。

日本人を悪者として貶めたい欲求があるからではないのか。日本や日本人を「悪」と決めつけて糾弾することで、
自分自身は正義の側に立つことができる。他を貶めることで自分を美化し、道徳的優越感を享受したいのであれば、それは根本的に偽善である。
日本や日本人同胞を虐げる偽善だから「虐日偽善」と表現すべきである。

http://livedoor.blogimg.jp/saihan/imgs/f/6/f684ade6.JPG

509名無しさん:2014/08/16(土) 00:36:44
橋下氏の朝日検証記事に対する批判

 日本維新の会の橋下徹代表(大阪市長)は
9日、朝日新聞の慰安婦報道に言及し「日韓関係をこじらせた最大の原因だ」と改めて批判し、
「やっと朝日が30年以上にわたる誤報を認めたが、しつこく言ってやろうと思っている。
ここで終わらせたらいけない」と述べた。大阪市内で開かれた「維新政治塾」の修了式でのあいさつで語った。

橋下氏は「朝日が(慰安婦の)強制連行はあったと言ったものだから、国家が組織と
してやったということで世界に伝わった」と強調。国際社会で慰安婦問題は平和条約で
解決できない問題と認識されていると説明し、「(朝日の報道が)日韓関係がこじれている
最大の原因だ」と批判した。

 その上で「(朝日が誤報を認めたことで)強制連行はなかったことが明らかになった」
とし、政府が韓国に対して慰安婦問題は日韓基本条約で解決されていることを説明して
いくべきだとの見解を示した。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140809/wlf14080915130021-n1.htm

510名無しさん:2014/08/16(土) 00:40:30
【痛快!テキサス親父】朝日新聞の幹部はなぜ謝罪しない? 米国なら責任問題だ 誤報問題

2014.08.15

朝日新聞は、謝罪も記者会見もしない

 ハ〜イ! みなさん。朝日新聞が慰安婦報道を検証して、大誤報を認めたそうだな。ただ、テキサ
スの自宅で朝日ウェブサイトの英字版を見たが、何も掲載されていないぜ。世界に真っ赤なウソを拡
散しておきながら、国際社会には説明なしか? 一部メディアが「姑息」「卑怯」と批判しているら
しいが、なるほどと思ったぜ。

 日本の友人を通じて確かめたところ、朝日は、吉田清治氏の「韓国・済州島で朝鮮人女性を慰安婦
狩りした」という証言などを虚偽として、32年もたって取り消したという。吉田氏については、こ
の連載や俺の動画で何回も取り上げてきた。どの国にも、大ウソつきはいる。

 吉田氏の著書『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房)が出版された1983年以降、済州
島の地元紙や、韓国の郷土史学者、日本の現代史家、秦郁彦氏が追跡取材・調査をしたが、一切の証
拠や証言もなかった。20年以上前に「吉田証言=明らかな虚報」と分かっていた。

 ところが、朝日は吉田氏を82年から97年まで、16回も取り上げ続けたという。権威付けされ
た吉田証言は、国連に提出されたクマラスワミ報告(96年)や、米国下院121号決議(2007
年)などの証拠として引用され、日本と日本人を貶め続けてきたわけだ。

 俺が今年6月、大阪で講演会を開いたとき、大ベストセラー『永遠の0』で知られる作家の百田尚
樹氏がゲストとしてきてくれた。彼は最初から最後まで「ややこしいアジアの問題は、朝日が大半を
つくった」「身内の敵が一番やっかいだ」「朝日はクズと言っておきたい」などと、朝日に強い怒り
を表していた。一連の経過を聞いて、俺もなるほどなと思った。

 理解できないのは、朝日が大誤報を認めながら、社長などの幹部が記者会見もせず、謝罪もしてい
ないということだ。本当なのか? 朝日の大誤報は、購読者を欺いただけでなく、過去と現在、未来
の日本人全員の名誉を傷付けた。報道機関としてこの罪は重い。米国なら不買運動が盛り上がり、責
任問題が問われる。検証記事だけで済ませられる話ではないぜ。

 俺は、日本人の美徳の1つに「間違いに対しては、きっちり謝罪する姿勢」があると思っている。
だから、朝日が大誤報を認めるのに30年以上もかかり、謝罪をすることに抵抗しているのは、それ
なりの思惑・理由がある気がする。

 まさか、「慰安婦=強制連行」「慰安婦=性奴隷」という虚偽の事実が広まることが、誰かの利益
になるってことじゃないよな? この問題は今後も追及するぜ。

 親愛なるみなさんと日本に神の祝福がありますように。米国に神のご加護がありますように。

 では、また会おう!

 ■トニー・マラーノ 評論家。1949年生まれ。テキサス州在住のイタリア系米国人。サラリー
マンを退職後、動画サイト「ユーチューブ」などで連日、評論活動を行っている。世界のあらゆる“
悪”と戦う「プロパガンダ・バスター」でもある。大変な親日家であり、日本でも圧倒的ファンを獲
得している。著書に『テキサス親父の「怒れ! 罠にかかった日本人」』(青林堂)など。

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140815/dms1408151140008-n1.htm

511名無しさん:2014/08/16(土) 00:44:26
合同世論調査では、朝日新聞がこれまでの慰安婦問題の報道の一部を誤報だったと認めた検証発表について
「十分だとは思わない」とする回答が7割を超えた。慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話の発表や、
今日の日韓関係などに及ぼした影響を踏まえ、世論は朝日にさらなる検証と自己責任を求めているといえそうだ。

朝日の検証内容に関し、特に女性に厳しい反応が出た。
「十分だと思う」は男性の16・6%に対し女性は7・5%、
不十分だとしたのは男性が69・4%に対し女性は72・0%だった。
 特に、女性の20代は78・7%、30代の77・5%がいずれも不十分だとした。
男性も、20〜50代では不十分だとしたのが70%を超えた。一方、60代男性は、十分だとしたのが20・1%、不十分としたのは59・2%と出た。

 支持政党別でみると、不十分だとしたのは、次世代の党が100%に達し、
自民党74・2%、みんなの党71・4%、公明党と暫定的な「日本維新の会」が66・7%だった。
朝日の報道姿勢と似た主張を掲げてきた政党の支持層も、民主党の52・4%、
社民党の66・7%、共産党の64・3%がいずれも検証結果を「十分だとは思わない」とした。

 首都圏500人を対象にしたフジテレビ「新報道2001」の最新世論調査(7日実施)でも、
6割以上が朝日の慰安婦報道が日韓関係を悪化させたと回答した。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140811/stt14081119360004-n1.htm

512名無しさん:2014/08/18(月) 19:57:34
アパ元谷代表、朝日への広告やめる 慰安婦大誤報「国家的損失は天文学的」 (1/3ページ)


http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/images/20140815/dms1408151820018-p1.jpg
元谷外志雄代表

 朝日新聞は、慰安婦報道の大誤報を32年もたって認めたが、検証記事には謝罪もなく、木村伊量(ただかず)社長は記者会見も開かない。
日本の名誉を傷付ける原因をつくりながら、誰も責任を取らず、逃げ切るつもりなのか。
慰安婦問題を追及してきたアパグループの元谷外志雄代表は、夕刊フジの取材に、
「現状のままでは、朝日への広告出稿はない。他の日本企業も抗議の意思を示すべきだ」と明言した

続きは
2014.08.15
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140815/dms1408151820018-n1.htm

513名無しさん:2014/08/18(月) 19:59:33
69回目の「終戦の日」を迎えた15日の靖国神社は、政治家や政権への批判などはほとんど見当たらず、落ち着いた雰囲気だった。
その中で例年以上に目立ったのは、根拠がないまま慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話と、
慰安婦問題での自社報道の誤りを一部認めた朝日新聞への批判だ。

最寄り駅から靖国神社へ向かう歩道では、さまざまな団体が世相を映したビラを配っていた。例えばこんなものもある。

「『従軍慰安婦』は朝日新聞の捏造(ねつぞう)だ」
「韓国の大嘘宣伝【20万人が性奴隷にされた!】の火元は朝日新聞」

そのすぐそばでは、河野談話撤廃の署名活動も行われていた。

境内で毎年開かれる戦没者追悼中央集会では、司会者が次世代の党の山田宏幹事長について、
6月の政府による河野談話作成経緯の検証に道を開いたことを挙げて「英霊の名誉を守った」と紹介した。

河野談話によって旧日本軍兵士は、いわれなき罪を背負わされたからだ。

登壇した山田氏は、今月5、6両日に朝日新聞が掲載した自社の慰安婦報道に関する特集記事に関してこう批判した。
「朝日が捏造記事を書き、32年間も放置した。あの程度の記事で罪が償えると思うのか。なぜ今まで黙っていたのか。朝日は明らかにすべきだ」

この言葉は、韓国・済州島で女性を強制連行したと虚偽の証言をした吉田清治氏に関して昭和57年以降、
少なくとも16本もの記事を載せておきながら謝罪も訂正もせず、今回ようやく取り消したことを指す。山田氏の指摘には大きな拍手がわき起こっていた。

集会では、安倍政権の安全保障政策に関する次のような声明も採択された。
名指しはしていないが、これも朝日新聞をはじめとする左派メディアを念頭に置いていることは明らかだ。

「一部の報道機関から執拗(しつよう)かつ意図的な悪意ある報道が繰り広げられたことは周知の通りだが、その効果は意外なほど小さかった」

集会会場わきの書籍販売所には「〈河野談話〉の虚構」(勝岡寛次著)、「『従軍慰安婦』強制連行はなかった」(松木国俊著)といった本も並んでいた。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140815/plc14081523080043-n1.htm

http://sankei.jp.msn.com/images/news/140815/plc14081523080043-p1.jpg
http://sankei.jp.msn.com/images/news/140815/plc14081523080043-p2.jpg

514名無しさん:2014/08/20(水) 16:07:59
【慰安婦誤報問題】朝日は「虚偽認めたが、謝罪がない」…秦郁彦氏

現代史家の秦郁彦氏は19日、BS日テレ「深層NEWS」に出演し、いわゆる
従軍慰安婦問題に関連し、吉田清治氏(故人)による韓国で強制連行を行ったとの
虚偽証言について、「木刀ふるって女性を狩り集めるという非常にわかりやすい
話だった」と述べ、誤解を広める大きな要因だったとの認識を示した。

 朝日新聞は1982年以降、吉田証言を16回報道したが、今年8月5日の特集記事で
証言は虚偽と認め、記事を取り消した。秦氏は、朝日から事前に特集記事について
相談を受けた際、「謝罪をしていないのはなぜだという声が出るだろう」と指摘した
という。

 また、秦氏は吉田氏にまつわる話として、「国連に持ち込んで大騒ぎさせますよ」
とかつて語っていたことや、吉田氏の著書の出版社が「あれは小説だ」と話したことも
明らかにした。

 この日は、元慰安婦への「償い金」支給事業などを行った「女性のためのアジア
平和国民基金」(アジア女性基金)の下村満子・元理事も出演。同基金に強く反発した
元慰安婦の支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会」について、「実は元慰安婦の
人権を一切考えていない。反日運動の道具に使っている」と批判した。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140819-OYT1T50167.html

515名無しさん:2014/08/21(木) 16:41:02
朝日新聞の関係者「5日以降、年間購読している一般購読者の解約が後を絶たない。企業も広告出稿を控える事態になっている」

過去の従軍慰安婦報道について事実誤認を認めた朝日新聞が、さらなる窮地に陥った。
18日付の産経新聞で、先に朝日新聞が報じた「吉田調書」の内容について明確に否定する内容が報じられたのだ。

吉田調書とは、2011年3月11日の東日本大震災で東京電力福島第1原発が危機的状況に陥った際の、
吉田昌郎所長(享年58)と政府のやりとりを記した極秘文書だ。

朝日新聞は5月20日付の紙面で「所長命令に違反 原発撤退」というタイトルで、
震災直後の3月15日に第1原発にいた所員の9割に当たる約650人が、吉田所長の待機命令に背いて10キロ南の福島第2原発に撤退したと報じた。

これに産経新聞は調書の一部を独占入手した上で、吉田所長の命令に違反し所員が勝手に現場を離れたことはないと断定。
吉田所長から「退避」は指示されたものの、朝日新聞の言う「撤退」はなかったと強調した。

8月19日の朝日新聞デジタルは、朝日新聞社が8月18日付で朝日新聞社の名誉と信用を傷つけたとして、
産経新聞の東京編集局長と産経新聞に記事を書いたジャーナリストに抗議書を送ったと報じた。

朝日新聞といえば、従軍慰安婦の存在を広めながら、最近になって「確認できなかった」と一部の記事が事実誤認であることを認めたばかり。
その矢先に吉田調書でも大失態を演じたことから、ネット上では「また朝日か」「いい加減にしろ」と大ブーイングが飛び交っている。

事実、慰安婦の事実誤認以降、年間購読している一般購読者の解約が後を絶たないという。

同紙関係者は「一般読者だけでなく、企業も『慰安婦の誤報は許せない』と広告出稿を控える事態になっている。社内でも深刻な問題として捉えている」と話す。
http://news.livedoor.com/article/detail/9167414/

「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断
http://www.asahi.com/articles/ASG7L71S2G7LUTIL05N.html

516旧ホントは社民支持@鹿児島市:2014/08/21(木) 19:28:20
イデオロギー的なことはさておいて,出版されるのか。欲しいなぁ。

「昭和天皇実録」を両陛下に奉呈
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140821/k10013970101000.html
宮内庁が編さんを進めてきた昭和天皇の活動記録「昭和天皇実録」が、24年余りかけて完成し、21日天皇皇后両陛下に奉呈されました。
内容は、来月中頃に公開される予定です。

天皇実録は、歴代の天皇の活動を後世に伝えるため、天皇の日々の動静などを客観的な資料を基に、日誌のような形で年代順に記した記録集で、宮内庁は、平成2年から24年5か月かけて、「昭和天皇実録」を完成させました。
21日は、午後2時に両陛下のお住まいの御所で、宮内庁の風岡長官から、合わせて61巻、1万2000ページ余りからなる正本が両陛下に奉呈されました。
この際、天皇陛下は、実録の完成をうれしく思う気持ちと共に、作業に携わった関係者をねぎらう気持ちを示されたということです。
「昭和天皇実録」は、宮内庁の公文書や側近の日誌など、およそ3000件に上る資料を基に編さんされ、天皇の在位期間の長さや激動の昭和の時代を反映して、歴代の天皇実録の中で最も長編になりました。
当初、平成17年度に終わる予定だった編さん作業は、新たな資料の発見などで2度にわたって延長され、人件費を除いても2億3000万円余りの費用がかかったということです。
また、すべての内容の公開や書籍としての出版を前提に作られた初めての天皇実録で、一部を除いて口語体で記述されました。
「昭和天皇実録」は、来月中頃、内容が公開され、今年度末から5年をかけて順次出版される予定です。
昭和天皇の初めての公式記録集で、昭和史研究の基礎資料としての価値も高く、戦前から戦後の占領期を中心に、新たな事実や資料が示されるかどうかが注目されます。

「天皇実録」とは
「天皇実録」は、歴代の天皇の活動を後世に伝えるため、天皇の日々の動静や、関わりのある政治や社会情勢について、客観的な資料を基に日誌のような形で年代順に記した記録集です。
「天皇紀」と呼ばれることもあり、これまでに初代の神武天皇から大正天皇までのすべての天皇の実録が作られていました。
宮内庁の公文書をはじめ、側近が記した日誌や、皇族や歴代の総理大臣などの日記、それに外交や防衛関連の文書など膨大な資料を集めたうえで、関係者からも可能な限り聞き取りを行って編さんされます。
はじまりは、古代の朝廷が中国の例にならって編さんした歴史書で、奈良時代に成立した「日本書紀」から平安時代前期の「日本三代実録」まで6つが作られました。
その後、長く途絶えましたが、明治維新を経て、天皇の生涯の記録を残すため再び編さんされるようになり、明治時代に「孝明天皇紀」が、大正から昭和にかけて「明治天皇紀」が、昭和の初期に「大正天皇実録」が作られ、「孝明天皇紀」と「明治天皇紀」は、後に書籍として出版されました。
また、大正から昭和初期にかけて、江戸時代に至るまでのすべての天皇をまとめた実録も作られました。

公開と出版前提に編さん
「昭和天皇実録」は、すべての内容の公開や書籍としての出版を前提に編さんされた初めての天皇実録です。
「孝明天皇紀」と「明治天皇紀」は、いずれも完成後に公開されず、戦後になって書籍として出版されました。
「大正天皇実録」も長らく公開されず、平成13年の情報公開法の施行を受けて段階的に公開されましたが、宮内庁が個人情報の保護などを理由に、一部を黒く塗りつぶす措置を取ったことから、研究者などから「歴史資料としての価値が損なわれた」などと批判の声が上がりました。
宮内庁は、この時の公開の在り方の反省を踏まえ、「昭和天皇実録」については、すべての内容の公開を前提に、学業成績や病気の詳細など実録にふさわしくないと判断した部分を除いたうえで編さんを進め、両陛下への奉呈に続き、書籍として出版する方針を明らかにしていました。

517旧ホントは社民支持@鹿児島市:2014/08/21(木) 19:28:31
激動の時代背景に歴代再長編
87歳で生涯を終えた昭和天皇。
長寿で、在位期間も62年余りと長かったことに加え、戦前から戦後という激動の時代背景もあって、「昭和天皇実録」は歴代の実録の中で最も長編になりました。
本文は1万2000ページ余りに及び、これまでで最も長かった「明治天皇紀」のおよそ1.5倍の分量です。
これに目次などを加えて、合わせて61巻にまとめられていて、本を立てて並べても1.8メートルの幅を取ります。
「昭和天皇実録」の編さんに当たって、宮内庁は、公文書や側近の日誌などに加え、全国47の都道府県や海外にも職員を派遣して、およそ3000件に上る資料を集めるとともに当時の幹部や側近など50人近くから聞き取りを行いました。
当初は、平成17年度に終わる予定だった編さん作業は、新たな資料の発見や、事実確認に時間がかかったこともあり、2度にわたって延長され、編さんに要した期間も24年5か月と明治以降に作られた天皇実録では最も長くなりました。

専門家「歴史振り返る手がかりに」
近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は、昭和天皇実録の意義について、「昭和天皇の生涯が初めて日にちごとに詳細に分かる資料で、昭和天皇の全体像や歴史的な位置づけを考えるうえでの基本的な資料の1つになると期待される」と話しました。
そして、終戦を決めた御前会議やGHQ=連合国軍総司令部のマッカーサー最高司令官との会見など、昭和天皇の具体的な発言内容を巡って、専門家の間で意見が異なったり確実な資料が見つかっていなかったりする事柄が、新たな資料などによってどの程度解明されるかが注目されるとしています。
そのうえで古川教授は、「昭和天皇は、旧憲法下と新憲法下の両方の時代にまたがって在位し、さまざまな評価を受けてきた人で、実像が今まで以上に分かるということは、私たちの歴史を振り返るうえで、いろんな手がかりを与えてくれるのではないか」と述べました。

昭和天皇とは
昭和天皇は、確かな記録の残る歴代の天皇では最も長寿で、在位期間も62年余りに及び、戦前から戦後にかけての激動の時代を生きました。
昭和天皇は、明治34年4月29日、大正天皇の長男として誕生し、裕仁と命名されました。
天皇家の慣習に従って生後2か月余りで親元を離れ、厳しく育てられました。
明治天皇が亡くなると11歳で皇太子となり、学習院初等科を卒業後は新しく設けられた教育機関で、皇位継承者としての教育を受けました。
その仕上げとして、19歳の春から半年かけてイギリスやフランスなどヨーロッパ諸国を歴訪しました。
そこで、第一次世界大戦の爪痕を目にする一方で、ゴルフやお忍びのパリ見物なども楽しんだ昭和天皇。
後に、生涯で最も印象深かったことに挙げ、「あの旅行で本当の自由と楽しさを味わった」と語りました。
帰国後、病気の父・大正天皇を支える摂政に就任し、大正天皇が亡くなると25歳で第124代の天皇に即位しました。
日本は、昭和6年に起きた満州事変をきっかけに国際的に孤立する道をたどり、軍国主義の色合いも強まっていきます。
日中戦争に続いて、昭和16年には太平洋戦争が始まり、昭和天皇は大元帥として陸海軍を統帥しました。
戦局が悪化するなか、軍部の責任者などからもたらされる情報は、日本の不利な戦況を十分に伝えるものではなく、昭和天皇は長引く戦争に苦悩を深めたと言います。
アメリカ軍の本土爆撃が激しさを増すなか、沖縄での地上戦や、広島、長崎への原爆投下などを経て、昭和天皇も出席した御前会議で日本の降伏が決まりました。
昭和天皇は、終戦の詔書をみずから音読して録音し、8月15日に、ラジオを通じた「玉音放送」で国民に伝えました。
連合国の間から天皇の戦争責任を追及する声も挙がるなか、昭和天皇はGHQ=連合国軍総司令部のマッカーサー最高司令官との会見に臨みました。
そして、翌年の元日には、みずから神話と伝説に基づく神であることを否定する、いわゆる「人間宣言」を行いました。
この翌月、復興に向かう人々を励ますため、全国を回る旅を始めます。
戦後の民主化が進められるなか、新しい憲法で、絶対的な君主から、国の象徴へと転じた昭和天皇。
憲法に定められた国事行為を内閣の助言と承認に基づいて行い、東京オリンピックや国体の開会式などにも臨みました。
ヨーロッパ諸国やアメリカも親善訪問し、アメリカからの帰国後、テレビカメラを前にした初めての記者会見に臨みました。
この中で、在位中の最もつらく悲しかった思い出を尋ねられ、「言うまでもなく第二次大戦であると思います。こういう悲しむべきことが今後も起こらないことを祈っています」と話しました。
昭和62年に腸の手術を受け、一時は公務に復帰しましたが、再び体調を崩し、昭和64年1月7日、波乱に満ちた87年の生涯を終えました。

518とはずがたり:2014/08/22(金) 10:49:40

『朝日新聞』をダマした吉田清治とは何者なのか 慰安婦強制連行を「偽証」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140812-00000021-zdn_mkt-ind
Business Media 誠 8月12日(火)11時48分配信

吉田清治は『悪魔の飽食』(著・森村誠一、角川文庫)に影響を受けたのかもしれない

●窪田順生氏のプロフィール:
1974年生まれ、学習院大学文学部卒業。在学中から、テレビ情報番組の制作に携わり、『フライデー』の取材記者として3年間活動。その後、朝日新聞、漫画誌編集長、実話紙編集長などを経て、現在はノンフィクションライターとして週刊誌や月刊誌でルポを発表するかたわらで、報道対策アドバイザーとしても活動している。『14階段――検証 新潟少女9年2カ月監禁事件』(小学館)で第12回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。近著に『死体の経済学』(小学館101新書)、『スピンドクター “モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術』(講談社α文庫)がある。

 朝日新聞が「慰安婦」にまつわる記事を取り消した。

 といっても「テキトーな記事を32年も放置してごめんなさい」とかの謝罪の言葉は一切なし。それどころか、ドーンと紙面を割いて行った検証でも、「慰安婦狩りをした」という吉田清治(文筆家:慰安婦のねつ造を認めて、2000年に死去)の証言のみは誤りを認めるが、他は一歩も引かねえぞと“逆ギレ”のような釈明をしている。

 こうした一部の不正確な報道が、慰安婦問題の理解を混乱させている、との指摘もあります。しかし、そのことを理由とした「慰安婦問題は捏造」という主張や「元慰安婦に謝る理由はない」といった議論には決して同意できません。(『朝日新聞』〈8月5日〉)

 以前この『時事日想』のなかで、「報道」というのは「茶道」や「華道」と同じく厳密な作法があると述べた。それは、いかに頭を下げないでやり過ごすか。世間から叩かれようが、権力者から抗議がこようが、街宣車がワーワー騒ごうが、「取材には自信をもっております」と涼しい顔で切り返す。それこそが「報道」の真骨頂だ。そういう意味では、「さすが家元、けっこうなお手前でした」と唸ってしまうほどの期待を裏切らない記事である。

 この「〜〜という指摘もあります、しかし、〜〜だけは同意できません」という“朝日話法”を使えば、被害回復などの責任問題をウヤムヤにできるうえ、体面も保つことができる。これから謝罪会見などで朝日の社会部記者に厳しく断罪されるような企業はぜひとも参考にしていただきたい。

●ますます謎が深まった

 ただ、そんな朝日の検証記事を読んでみて、ますます謎が深まったことがある。

 それは、吉田清治の動機である。どういう目的で、どういう得があって、彼はこのようなデマカセを触れ回ったのか。ガセネタを食わされた“被害者”のような書きぶりなのだから、このあたりのもうちょっと探ってもいいはずなのに、朝日は気持ちいいくらいにスルーしている。

 仕方がないので、他の報道を見ていたら興味深い話を見つけた。『SAPIO 9月号』(小学館)に寄稿している元朝日新聞記者であるジャーナリストの前川惠司氏によると、ご自身が川崎支局員だった1980年ごろに吉田清治からネタの売り込みがあったというのだ。

 横浜市内の吉田清治のアパートで3〜4時間話を聞いたそうで、山口県の労務報国会にいて、朝鮮の慶尚北道(キョンサンプクト、けいしょうほくどう:日本統治時代の朝鮮の行政区画のひとつ)「徴用工狩り」をした体験を語ったらしい。ただ、強制連行したという現場を聞いてもはっきりせず、辻つまの合わないところがあったという。

 当時からうさん臭さ満点の情報提供者だったというわけだが、特筆すべきはこの時点で後に彼のメシのタネとなる「慰安婦狩り」についてはまったく触れていなかったということだ。つまり、1980年にはまだ“シナリオ”ができていなかったのである。

519とはずがたり:2014/08/22(金) 10:50:02
>>518-519
 では、そんな吉田清治が「慰安婦狩り」という物語を創作したのはいつ、なにがきっかけなのか。吉田のことが書かれた記事が朝日で初掲載されたのは1982年9月2日の大阪本社版朝刊社会面。大阪市内で行った講演で、「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」とぶちまけた。つまり、シナリオは1980年から1982年の間に練られたということになる。

 ご本人もすでに鬼籍に入っているので真相は分からないが、この2年の間に吉田氏にインスパイアを与える「何か」があったと考えるのが自然である。

●経歴がほとんどウソ

 いったい何か。個人的には1981年から『しんぶん赤旗』で連載された森村誠一氏の小説『悪魔の飽食』が関係しているのではないかと思っている。

 ご存じのように、旧日本軍で人体実験を行っていたとされる「関東軍731部隊」について赤旗記者の下里正樹氏の取材に基づいたもので「日本軍のおぞましい戦争犯罪」を告発したノンフィクション小説として大きな話題になった。

 1963年、吉田は『週刊朝日』の「私の8月15日」というテーマでの懸賞手記に応募して佳作をとっている。早くから戦争体験でメシを食いたいという志向があった。そんな人物が『悪魔の飽食』を目にしたらどう思うだろう。

 単純に「悔しい」と思うのではないか。「人体実験」と比べたら、畑仕事をしている朝鮮人を無理矢理トラックにのせて連れ去るなどパンチが弱過ぎる。もっとエグく、もっとインパクトのある戦争犯罪に“脚色”しなければ埋没してしまう。そんな風に思わなかったか。

 そう考えると、これまではまったく言及されなかった「慰安婦狩り」がなぜ1982年にポンと飛び出したのかが分かる。ただ、その一方で、吉田清治(本名・吉田雄兎)という人物が単なる詐話師レベルではないほど怪しい人物であることもまた事実だ。

 吉田のウソをいち早く見抜いた秦郁彦氏の『慰安婦と戦場の性』(新潮選書)を読むと、吉田清治という人物の経歴がほとんどウソでかためられていたことが分かる。本人が在籍したと言い張る大学や勤務先には、そのような記録は残っていなかったという。確かに、私自身、下関へ仕事に行った際に時間があったので、吉田が下関市議に出馬したころの住所へ行ってみたが、そこには彼やその一族のことを知る者を見つけることはできなかった。

●吉田清治のバックグラウンド

 これは一般的な話だが、戦争犯罪を“捏造”する人というのは、なにかしらの政治的なバックがあることが多い。有名なのは、1990年の湾岸戦争で、イラク兵が産婦人科病院で生まれたての乳児300人以上を床に投げ捨てて虐殺したと証言した15歳のクウェート人少女である。

 この告発によって“イラク許すまじ”という世論が高まって戦争へと突入したわけだが、後に吉田清治の「慰安婦狩り」と同様に真っ赤なウソだったことが明らかになる。少女は在米クウェート大使の娘さんで、クウェートから世論形成を請け負ったPR会社の書いたシナリオどおりに「イラクの戦争犯罪を目撃した少女」を演じただけだった。だったら、この経歴不明の怪しい男も、なにかしらの依頼を受けて「吉田清治」を演じていたと考えられないか。

 1970年ごろに日ソ協会役員をしていた男が80年代になるとまるでなにかの“天啓”を受けたかのように突然、「慰安婦狩り」を触れ回ったのはなぜなのか。

 今回、朝日が出した記事は「謝罪」でも「訂正」でもなく、「慰安婦問題どう伝えたか 読者の疑問に答えます」という上から目線の解説記事だった。

 無知な我々に「慰安婦問題の本質」を教え諭すのもいい。そういう新聞だ。ただ、吉田清治にすべての罪をかぶせるのなら、せめてもうちょっと彼のバックグラウンドを調べて教えてくれないか。

520とはずがたり:2014/08/24(日) 17:01:35
先日,練馬駅前の病院に入院している荻窪の伯母(我々は小さい頃から御世話になっており東京の伯母さんと云って懐いていた)を見舞った。

戦前生まれの伯母だが,元気そうであったが,戦争の話になった時に,当時荻窪には中島飛行機の工場があって空襲受けると云われながら,既に主力は三鷹その他に移転していたのを米軍は把握していて杉並は空襲受けなかったと云っていた。
女学生だったけど,中野辺りが空襲で焼けてるのは荻窪から見えたのだそうな。
当時は中野に陸軍の学校があって工場地帯では無いけど空襲を受けたとのこと。

521とはずがたり:2014/08/26(火) 14:13:57

2061 :名無しさん:2013/03/07(木) 20:11:09
 領有権や排他的経済水域設定をめぐって日本がロシア、中国、韓国と対立している北方領土、竹島、尖閣諸島
沖ノ鳥島に本籍を置いている日本人が、1月末時点で計642人に上ることが5日、管轄する4市町村への
取材で分かった。

 共同通信が2011年1月時点で同様の調査をした際は計約520人だった。2割以上増えた背景には竹島や
尖閣諸島をめぐる日中、日韓の緊張などがあるとみられる。

 本籍は原則として実際の居住地とは関係なく、日本国内のどこにでも移すことができる。北海道根室市が
管轄する北方四島は前回調査の175人から196人に増加。島根県隠岐の島町の竹島は69人から102人に
沖縄県石垣市の尖閣諸島は約20人から63人に、東京都小笠原村の沖ノ鳥島も262人から281人に増えた。
いずれも居住実態はない。隠岐の島町によると、昨年8月の李明博・前韓国大統領の竹島上陸後、本籍移転に
関する相談が急増したという。

ソース:MSN http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130305/plc13030511440016-n1.htm

2062 :名無しさん:2013/03/07(木) 20:13:33
1942、43年に旧日本陸軍の陸地測量部が発行し、日本海に竹島が記載された2種類の地図が
見つかったと島根県が6日、発表した。

所有していた宮崎市の男性が県に連絡して判明。竹島の近くに当時の国内発の航路も記されており、
県は研究用に地図を借り、複製を展示する予定。

県によると、地図は、アジア・太平洋地域などを収めた「太平洋素図」(42年、縮尺2000万分の1)と
「太平洋全図」(43年、縮尺1500万分の1)。

両方とも日本海に竹島が描かれ、「竹島」と島名を明記。そばには北海道・小樽と中国・大連を結ぶ航路を
示す点線が描かれていた。当時の竹島が、日本海を行き来する船の目印になっていた様子がうかがえるという。

鬱陵島の島名は「欝陵島(松島)」と書かれていた。

県が昨年11月に竹島に関する資料の提供を呼びかけた直後、男性から情報が寄せられた。県が調べた結果、
同じ地図は国立国会図書館や東北大などにしか残っていないという。県の呼びかけに対し、6日までに地図や
古文書など今回の地図を含む15件の情報提供が寄せられており、「竹島が日本領であることを示す資料が
あれば連絡を」としている。問い合わせは、県竹島資料室へ。

ソース
読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130307-OYT1T00483.htm?from=main2

【画像】「太平洋素図」に記された竹島(中央)。そばに小樽と大連を結ぶ航路が点線で描かれている
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20130307-865823-1-L.jpg

522とはずがたり:2014/08/26(火) 14:14:15
2067 :名無しさん:2013/03/20(水) 00:50:19
島根県は18日、日韓両国が領有権を主張する同県の竹島(韓国名・独島=トクト)で、
昭和初期に漁民が畑作をしていたことを示す県所蔵の地図を確認した、と発表した。
県は「昭和初期まで漁民が竹島で長期間生活していたことを示す資料」としている。

 地図は縦22センチ、横28センチ。青いインクで手描きされている。
畑跡のほか、アワビを塩漬けにする作業小屋や日露戦争時の望楼跡も記す。

 県によると、隠岐の島町の住民への聞き取りで、竹島で約1カ月滞在するため、畑にネギや大根を植えたとの証言があったという。
地図で畑跡の位置を初めて確認した。

 県は、地図に「昭和三年九月」と記されていることから1928年の状況を図示したとみる。
県が51年に外務省の事務官に宛てた報告書に添付していた。
県は昨年12月、県公文書センターを調査した際、報告書に挟んであった地図を見つけた。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201303190057.html
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn20130319005701.jpg

2234 :名無しさん:2014/01/22(水) 08:18:46
江戸後期の地図に「日本領・竹島」 幕府が作成に関与
2014年1月21日17時48分

島根県は21日、竹島を日本領と示した江戸時代後期の地図5点を確認したと発表した。
そのうち「蝦夷風俗人情之沙汰付図(えぞふうぞくにんじょうのさたふず)全図」(1790年)と
「蝦夷草紙(えぞそうし)全図」(同)の2点は、江戸幕府が関与。県は、幕府の要職も竹島を
日本領と認識していたことを裏付けるものとみている。

島根県によると、この2点は同じ内容で、幕府の蝦夷地調査隊で測量助手を務めた最上徳内がまとめた。
経世家の本多利明が序文を書いたうえで、幕府老中の松平定信に献呈されたといい、紀州徳川家の蔵書印
がある。日本領が赤茶色に彩色され、隠岐諸島の上方にある現在の竹島も同色だ。

島根県は昨年8月、竹島を初めて記したとみられる1760年代の地図を確認したが、地理学者の作だった。
今回は幕府の要職がお墨付きを与えた地図で、島根県竹島問題研究会座長の下條正男・拓殖大学教授(日本史)
は「日本が国家として竹島を日本領と認識していた証しで、大きな意義がある」と話している。

http://www.asahi.com/articles/ASG1N4Q9RG1NPTIB006.html
日本領が赤茶色に彩色された蝦夷草紙全図の一部。隠岐諸島(中央)の上方の右に現在の竹島が同じ色で記されている(神戸市立博物館所蔵)=島根県提供
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20140121001286_comm.jpg

524とはずがたり:2014/08/26(火) 14:14:51

2327 :名無しさん:2014/05/16(金) 04:42:05
国が昭和初期に出版した観光ガイド本「日本案内記」の中国・四国編に、竹島を紹介する記述があることが、
島根県竹島問題研究会の調査で分かった。

戦前に国が刊行したガイド本に竹島の記述が確認されるのは初めて。同会は「韓国の不法占拠以前から、
竹島が日本の観光名所として全国に認知されていた証拠になる」としている。
日本案内記は当時の鉄道省(現・国土交通省)が刊行し、北海道、九州など地方別の全8巻で構成。
沿線を中心に、各地の名所旧跡を図や写真を交えて紹介している。携帯しやすい三六判(横約9センチ、
縦約18センチ)で、ガイド本を旅先で持ち歩くスタイルを定着させたといわれる。
1934年の中国・四国編(453ページ)では、竹島について「隠岐島の西北一五七粁(キロ・メートル)、
日本海中にあり。二箇の岩嶼(がんしょ)より成り、断崖峭立(しょうりつ)、處々(ところどころ)に洞門あり、
海底深くして投錨とうびょう困難」と紹介している。
さらに、「海驢(あしか)の蕃殖地(はんしょくち)で、西郷町の竹島漁撈(ぎょろう)(合資)会社がその捕獲を
営んで居る。住民はない。この島は洋人の称するリヤンクール岩で、邦人はもと松島と呼んだが、明治三十八年
(1905年)島根県の所属となって、現名に改まった」と記載している。
日本案内記は人気を集めて改訂版も発刊され、竹島の紹介はそのまま残った。42年版(446ページ)には、
「(竹島漁労合資会社に代わって)隠岐五箇村がその捕獲を営んで居る」と、アシカ猟の漁業権の移り変わりに言及。
韓国が一方的に李承晩ラインを設定した後の54年版(441ページ)には「戦前は隠岐の島民が漁期に来て
その捕獲を営んでいた」の一文がある。
同会関係者が、図書館で昭和初期の資料を調べていた際に、竹島の記述があるのを見つけた。同会は
「昭和初期には、国が竹島を日本の主な観光地の一つと認めていたことがわかる。日本人に関わりの深い
名所であったことを再認識できる資料」としている。

ソース/読売新聞社
http://www.yomiuri.co.jp/national/20140514-OYT1T50255.html

2348 :名無しさん:2014/06/23(月) 21:32:26
竹島でアシカ漁に従事していた漁師たちの住所を記した明治後期の文書を確認[06/21]

 明治時代後期、竹島でアシカ漁に従事していた漁師ら6人の住所が記された文書が
県立図書館(松江市)に保管されていたことが、県竹島問題研究会の調査で分かった。
 居住地は隠岐諸島だけでなく、現在の出雲市や鳥取、鹿児島両県にも及んでおり、
同会は竹島漁労の実態を示す貴重な資料とみている。

 当時の竹島漁労に従事した漁師らの住所が判明したのは初めて。

 同会関係者によると、6人は、1905年に日本が竹島を編入した後、アシカ漁などを行うため
島後に設立された「竹島漁猟合資会社」所属の漁師ら。
 住所は、島後の西郷町と磯村(ともに現・隠岐の島町)、園村(現・出雲市)のほか、
鳥取県の田後村(現・岩美町)と赤崎村(現・琴浦町)、鹿児島県知覧村(現・南九州市)もあった。

 6人は操業中とみられる08年(記者注:1908年)4月19日午後2時頃、竹島付近で水雷を発見し、
同社の代表だった中井養三郎(1864〜1934年)が同年5月、6人の名前と住所を記した
報告書を島後の西郷署(当時)に提出。この書面を半世紀後に県職員が筆写した文書が残されていた。

 同会は「竹島が隠岐住民らの生活圏だっただけではなく、各地から漁師が集まるほど好漁場として
国内で広く知られていたことを示す証左」としている。(矢沢慎一)

読売オンライン 2014年06月21日 (リンク先に画像あり)
http://www.yomiuri.co.jp/local/shimane/news/20140620-OYTNT50202.html

525とはずがたり:2014/08/26(火) 14:15:09

2400 :名無しさん:2014/08/26(火) 13:56:53
竹島・武装韓国人の居座りによる日本領不法上陸および不法占拠から60年…消えゆく竹島の漁業の記憶を、絵本で読み聞かせ

竹島(島根県隠岐の島町)で行われていた漁猟の様子を描いた絵本「メチ(同町でのニホンアシカの呼び名)のいた島」の作者、
杉原由美子さん(71)=同町久見=が20日、横浜市立小2校で読み聞かせ会を行った。「竹島に行ってみたい」「何で竹島
の自然が少なくなっているの?」−。児童らの率直な言葉に杉原さんは「今後も気力の続く限り、竹島のことを伝えていきたい」
との思いを新たにしていた。

http://sankei.jp.msn.com/region/news/140621/kng14062102040001-n1.htm

江戸時代から戦後にかけて島根県隠岐の島町に住む漁師たちは当時「メチ」と呼ばれたニホンアシカやアワビ、サザエを
求めて竹島に向かった。昭和29年6月、韓国政府は竹島に武装した海洋警備隊を上陸させた。不法占拠から60年目を
迎える今日も武装要員は居座り続け、竹島と同島周辺12カイリ(約22・2キロ)は日本の漁船が近づけないままと
なっている。

竹島での漁業に携わった漁師のほとんどが鬼籍に入るなかで一人の女性が遺志を受け継ぎ、地道な活動を続けている。
 女性は隠岐の島町に住む元小学校教諭、杉原由美子さん(70)。明治期から昭和にかけて、竹島での漁業の拠点に
なっていた久見地区に生まれ育った。

 東京・多摩地域の小学校教諭として勤務した後、6年前に故郷へ戻った。当時、島根県竹島問題研究顧問だった杉原隆さん
(75)から昭和24年に亡くなった祖父・八幡長四郎さんの遺言を聞き、「何かしなくては。絵本で子供たちに竹島
のことを知ってもらいたいという思いに駆られた」という。

 長四郎さんの遺言は「三家代々受け継いできた竹島の漁業が再び日本人の手に返る時が来たなら、必ず残るものの手で、
竹島を乱獲から守るため漁業権を獲得してもらいたい」というものだった。

長四郎さんは戦前、久見地区にあった「竹島漁猟合資会社」の代表だったが、晩年は連合国軍総司令部(GHQ)が設定した
通称・マッカーサーラインにより、竹島には日本漁船が近づけない状態となっていた。竹島で漁が再開できると信じていた
長四郎さんは、周囲の漁師たちに遺言として、竹島での漁業の将来像を伝えていたのだ。


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140307/plc14030717430018-n1.htm

526とはずがたり:2014/08/26(火) 14:15:26
2401 :名無しさん:2014/08/26(火) 13:59:12
島根県の竹島問題研究会 竹島の漁業”隠岐で調査[08/24]

NHK 松江放送局

 県の竹島問題研究会は、かつて竹島で行われていた漁業を調査するため、24日、隠岐の島町の住民から、
当時の様子を聞き取りました。

 有識者などでつくる県の竹島問題研究会は隠岐の人たちが、かつて竹島で行われていた漁業やアシカ猟の
実態を明らかにしようと4年前から住民への聞き取りや資料の調査を進めています。

 24日は研究会の委員らがかつて漁を中心になって行っていた隠岐の島町の久見地区などを訪れ、当時の
様子を知っている4人の町民に聞き取りを行いました。

 このうち、夫の父親が漁船を所有し、船長として竹島に漁に出ていたという吉田はる子さんは(94)「竹島は
土がない石ばかりの島だったということですが、周辺の海は海産物が豊富だったので義理の父からは土産に
どんぶりのように大きな貝をもらったことを覚えています」と話していました。

 また「昭和初期には家の近くに木のオリがあり、竹島から連れて帰ってきた牛のように大きなアシカが入れられていて
『ウオーウオー』と夜中鳴いていました」と当時のようすを語りました。

 竹島問題研究会の委員、忌部正英さんは「竹島を知る人の高齢化が進んでいるので、迅速に調査を行い
竹島は隠岐の人たちの生活の一部であったことを記録に残していきたい」と話していました。

 今回の聞き取りは25日と26日は知夫村で行われることになっています。

NHK NEWS WEB 08月24日 19時01分 (リンク先に動画あり)
http://www3.nhk.or.jp/lnews/matsue/4033712061.html

527名無しさん:2014/08/27(水) 01:28:47
朝日新聞関係者「慰安婦報道以降、一般読者の解約が急増し企業が広告出稿を控える事態。シャレになりません」と顔面蒼白

読売新聞と双璧を成す大新聞の朝日新聞が、窮地に陥っている。

最大の原因は8月5〜6日に掲載された、過去の慰安婦報道の検証記事。

簡単にいえば、慰安婦が「強制連行された」と再三報じてきたが、今になって裏付けが取れず、記事を「取り消す」という内容だ。
これには、普段“お情け”をかける傾向にある同業界の新聞、雑誌も猛反発。
連日「反・朝日」の報道を繰り返している。
中でも威勢がいいのが産経新聞だ。7日には「編集日誌」で乾正人編集長の名前で以下の記事を掲載した。

<さすがは、朝日新聞。と思わずうなりました。5、6の両日にわたって掲載された慰安婦報道の検証記事に、です。
 記者たちは、21年前の小社夕刊(大阪本社版)に載った記事まで引用する取材力を発揮し、
 一部の記事が誤報だったことを(32年の歳月を経てですが)認め、取り消しました。
 ところが、記事の内容とは裏腹に、「おわび」や「訂正」の見出しがひとつも見当たりません。
 これは大変な技術(世間ではごまかし、ともいいます)が必要です。
 そればかりではなく、1面では、社の偉いヒトが「慰安婦問題の本質 直視を」と読者に教え諭してくれています。
 「慰安婦問題」の本質を直視しないといけないのは、とんでもない誤報をした新聞側にあるのに大したものです。
 朝日の読者は、本当に優しいですね>

皮肉以外の何物でもないが、産経の攻勢は続く。
18日付の同紙では先に朝日が報じた福島第一原発事故をめぐる「吉田調書」の内容を完全否定。
吉田調書とは、東日本大震災で福島原発が危機的状況に陥った際の、吉田昌郎所長(享年58)と政府のやりとりを記した極秘文書のこと。
朝日は5月20日付の紙面で「所長命令に違反 原発撤退」というタイトルで、
震災直後の3月15日に第一原発にいた所員の9割に当たる約650人が吉田所長の待機命令に背き、
福島ニ原発に撤退したと報じた。

これに、産経は調書の一部を入手した上で、吉田所長から「退避」は指示されたものの、
朝日新聞の言う「撤退」はなかったと否定した。

朝日はただちに「記事は確かな取材に基づくもので、『事実を曲げて』といった記述は誤りです」と産経に抗議書を送ったが、後の祭り。
ネット上では慰安婦問題に続く“重大誤報”と判断されたようで「また朝日か」「廃業しろ」など厳しい意見が飛んでいる。

朝日新聞の関係者は「慰安婦報道以降、一般読者の解約が急増し、企業が広告出稿を控える事態にもなっている。シャレになりません」と顔面蒼白。
産経が勢いづく理由について、舞台裏を知る関係者は「産経は系列の夕刊フジを含めて、右寄り。
さらに、安倍晋三首相と近い関係にある。官邸から『朝日をこらしめろ!』と指示が出ている可能性はある。

また産経は、ここ数年部数が落ち込んでいた。そこに、朝日の大スキャンダルが発覚。
飛んで火に入る夏の虫とはまさにこのことで、この機に乗じて、朝日の読者を根こそぎ奪ってやろうと考えている」と話す。

産経内では連日、朝日の過去の報道の“怪しい部分”を探しているという。朝日VS産経、軍配はどっちに上がるか――。

http://news.infoseek.co.jp/article/cyzo_20140826_571031

528名無しさん:2014/08/27(水) 01:30:42
 夏休みに合わせて朝日に「従軍慰安婦」大誤報訂正をぶつけられ(?)、夏休み明けの
各誌、その間の切歯扼腕(やくわん)ぶりが伝わってくるような誌面だ。

 『週刊文春』(8月28日号)「朝日新聞よ、恥を知れ!『慰安婦誤報』木村伊量社長が
謝罪を拒んだ夜」

 『週刊新潮』(8月28日秋風月増大号)「全国民をはずかしめた『朝日新聞』七つの大罪」

 『週刊現代』(8/30)「日本人を貶めた朝日新聞の大罪」

 『週刊ポスト』(8・29)「朝日新聞『慰安婦虚報』の『本当の罪』を暴く」

 『フラッシュ』(9・2)「エラいぞ、朝日新聞!(怒)『従軍慰安婦問題』誤報検証を検証する」

 内容は各誌、大同小異。
 唯一『文春』が加藤清隆氏(政治評論家)が最近、本人から聞いた話として木村社長の
肉声を。ある勉強会で加藤氏が「朝日はちゃんと謝った方がいいんじゃないか」と言うと、
木村社長、こう繰り返したという。
 「歴史的事実は変えられない。したがって謝罪する必要はない」
 歴史的事実を朝日がねじ曲げたのではなかったか。

 各誌、記事の結論部分を比較。
 『文春』〈謝罪なき言い逃れや、処分なき責任転嫁を繰り返していては、朝日はいつ
までも新たな一歩を踏み出せないのではないか〉
 『現代』〈自らが残した深い傷跡を自覚してほしいものだ〉
 『週刊ポスト』〈朝日が真に自らの報道を間違っていたと反省しているのかを量るため
には、「検証記事」を出すまでの経緯もきちんと検証するべきだ〉
 『新潮』がいちばん手厳しい。〈朝日が求める《隣国と未来志向の安定した関係を築く》
(5日付朝刊1面)ための早道は、真実よりプロパガンダを優先し、都合が悪ければ
頬かむりする、この詐話師ならぬ詐話紙にご退場いただくことだろう〉

http://sankei.jp.msn.com/life/news/140823/bks14082312050001-n1.htm

529名無しさん:2014/08/27(水) 01:36:05
32年間放置した朝日新聞の死に弔辞を送る 「社会の公器としての役割を終え、どうか安らかにお休みください」

「朝日新聞が死んだ」──8月5日、6日両日の紙面で従軍慰安婦問題について、連日2面にわたる“遺言記事”を掲載し波紋を呼んでいる。
32年前に慰安婦問題の火付け役となった証言を偽証と位置づけ、世紀の大誤報であることをようやく認めたのだ。
日韓関係の悪化に拍車をかけたメディアの死に何を思うのか?

弔辞

まさかこんな形で、朝日新聞が、大マスコミの看板を下ろす日が来るとは思いもよりませんでした。あまりにも急な別れで、言葉もありません。
忘れもしません。8月5日に突然、「慰安婦問題を考える」と題して、慰安婦報道に寄せられたさまざまな疑問の声に答えたのが、最後の言葉でした。
あなたは過去に、“慰安婦問題の先鞭”として、強制連行に直接、携わったという吉田清治氏の証言を、82年9月2日大阪本社版朝刊で紹介しましたね。

「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」
というセンセーショナルな見出しとともに、吉田氏の証言を掲載。トータルで16回にわたって、広く慰安婦問題を世に訴えかけました。

〈(朝鮮)総督府の五十人、あるいは百人の警官と一緒になって村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって女性を殴り、蹴り、トラックに詰め込む〉
〈吉田さんらが連行した女性は、少なくとも九百五十人はいた〉

こうした発言は世界に発信され、韓国は、今も既成事実として、日本に謝罪と賠償金を求めています。
ところが、この期に及んで、読者に向けてこのように説明しましたね。

〈吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。
済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした〉

なぜ32年間も外交問題に発展した発言を検証もせず放置してきたのでしょうか? 理解に苦しみます。
それもこれもあなたの頑固な性格が招いてしまったのかもしれません。90年代には、周囲の指摘に耳を貸さず、「挺身隊」と「慰安婦」の違いを混同したこともありましたね。

〈太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる〉(92年1月11日付)
これも20年以上が経過してからようやく釈明したのですから、あなたらしいやり方と言えます。

〈女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した『女子勤労挺身隊』を指し、慰安婦とはまったく別です。
当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました〉

最後まで謝罪をせずに“誤用”と言い切るのですから、その意固地ぶりには脱帽です。

91年8月11日の朝日新聞大阪本社版では、元朝日新聞の植村隆記者が韓国の支援団体が聞き取りした元慰安婦の体験談を、録音テープを聞いただけで、
「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」という“スクープ記事”に仕立て上げたこともありましたね。

かつて「クオリティペーパー」と言われていたあなたの発言は、常に世論をリードしてきました。今でも販売部数760万部を誇り、その影響力は国内外に絶大なものがあります。

あなたがこれまで16回も吉田証言を取り上げたことで、慰安婦問題は韓国でも広く知られるようになり、
韓国政府や慰安婦支援団体は、「天下の朝日新聞」に背中を押されて、「外交問題」として日本に痛烈な抗議を展開しています。

今では韓国内だけではなく、米国にまで慰安婦像が設置され、「日本軍が強制連行して性奴隷にした20万人の婦女子が慰安婦に──」
などという大風呂敷を広げた主張が碑文に盛り込まれ、世界中に喧伝されています。
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20140826/Asagei_25764.html

93年には日本軍による強制連行を裏付けるような文書は発見できなかったにもかかわらず、
元慰安婦へのおわびと反省の意を表して、政府は河野談話を発表しました。

96年の国連人権委員会のクマラスワミ報告では、慰安婦制度を「性的奴隷制」と指摘されましたし、
日韓両国の中学歴史教科書にも、「慰安婦強制連行」が書き加えられて、子供たちは日本軍の“非道行為”を学びながら育ちました。

創刊から135年、「社会の公器」としての役割を終え、どうか安らかにお休みください。

合掌

530とはずがたり:2014/08/27(水) 13:27:03
【社説】慰安婦報道撤回 本質は強制連行にない
http://www.kanaloco.jp/article/76014/cms_id/95741
2014.08.10 10:30:00

 朝日新聞が従軍慰安婦の報道の一部が虚報だったと認め、記事を取り消した。それをもって、慰安婦が強制連行されたとの主張の根幹が崩れたと唱える論が横行している。

 「木を見て森を見ず」のような、稚拙な言説である。

 朝日が誤りだったとしたのは「強制連行をした」という吉田清治氏の証言だ。韓国・済州島で朝鮮人女性を無理やりトラックに押し込め、慰安所へ連れて行ったとしていた。

 30年余り前の吉田証言は研究者の間でも信ぴょう性に疑問符が付けられていた。旧日本軍による強制連行を示す証拠は他にある。日本の占領下のインドネシアで起きたスマラン事件の公判記録などがそれだ。だまされて連れて行かれたという元慰安婦の証言も数多い。

 研究者による公文書の発掘は続いており、新たな史料に虚心に向き合わなければ、歴史を論じる資格を手にすることはできないだろう。

 強制連行を否定する主張はさらに、誤った記事により日本がいわれなき非難を受け、不当におとしめられてきたと続く。

 しかし、国際社会から非難されているのは強制連行があったからではない。厳しい視線が向けられているのは、人集めの際の強制性のいかんに焦点を置くことで問題の本質から目を背け、歴史の責任を矮小(わいしょう)化しようとする態度にである。

 問題の本質は、女性たちが戦地で日本軍将兵に性的行為を強要されたことにある。慰安をしたのではなく性暴力を受けた。兵士の性病まん延防止と性欲処理の道具にされた。その制度づくりから管理運営に軍が関与していた。それは日本の植民地支配、侵略戦争という大きな枠組みの中で行われたものであった。

 歴史認識の問題が突き付けるのは、この国が過去と向き合ってこなかった69年という歳月の重みだ。国家として真(しん)摯(し)な謝罪と反省の機会をついぞ持たず、歴史修正主義を唱える政治家が主流になるに至った。

 朝日が撤回した記事について、自民党の石破茂幹事長は「国民も非常に苦しみ、国際問題にもなった」と、その責任に言及し、国会での検証さえ示唆した。過去の国家犯罪の実態を明らかにし、被害国と向き合う政治の責任を放棄し続ける自らを省みることなく、である。国際社会の非難と軽蔑を招く倒錯は二重になされようとしている。

【神奈川新聞】

531とはずがたり:2014/08/27(水) 14:12:12
「自虐的」頓挫した平和祈念館 寄贈の戦争資料さまよう
http://www.asahi.com/articles/ASG8964H4G89UTIL024.html?iref=com_alist_6_01
佐藤純、吉浜織恵2014年8月13日13時46分

 5千点もの戦争資料が、東京都心の倉庫で眠ったままになっている。将来つくる平和祈念館のためにと、都が約15年前に市民から寄贈を募ったが、建設構想は頓挫。多くの提供者が、思い出の品を見ることも、見てもらうこともできぬまま、年齢を重ねている。

 港区白金台。

 都庭園美術館の敷地を進むと、1933(昭和8)年に建てられた旧朝香宮(あさかのみや)邸がある。その裏手、2階建ての倉庫の中で、資料は桐(きり)の箱に仕分けられ、保存されているという。

 「金庫で焼け残った目覚まし時計」「無事を喜ぶ手紙」「機銃掃射を受けた時に着ていた胴衣」

 絵画や日記、軍の内部資料とみられる文書なども含め、計5040点に上る。

 きっかけは平和祈念館の建設構想だった。都は戦時中の資料提供を広く呼びかけ、97〜00年度に281人から3492点の寄贈を受けた。さらに独自に1548点を購入した。

 だが構想がつまずき、資料は行き場を失った。当初は墨田区の江戸東京博物館で保管していたが、06年度にいまの場所へ。都生活文化局文化事業課の松下裕子課長によると、倉庫内の温度や湿度を管理する専門設備はないが、学芸員が随時、点検しているという。

532名無しさん:2014/08/27(水) 14:27:16
私は米国に住んで40年になりますが、ここ数年ほど「日本の危機」を感じたことがありません。
その1つが、韓国系団体によって、全米各地に慰安婦の碑や像が建てられていることです。

カリフォルニア州フラトン市議会で先週19日、日本政府に慰安婦問題での謝罪を求める決議が可決されました。
韓国系団体が提案したもので、慰安婦の碑の設置も提案されました。また、現地の日本人、日系人が罵(ののし)られ、つらい思いをするのでしょうか。

この根拠になっているのは、日本政府に慰安婦への謝罪を求めた2007年の米下院121号決議です。
これは韓国・中国ロビーから支援を受けるマイク・ホンダ下院議員が提出したもので、彼がよりどころにしたのが朝日新聞です。

朝日は5日、慰安婦報道の大誤報を認めました。その後、批判されて22日にようやく英文での訂正記事をHPに掲載しましたが、
それだけでは不十分です。中国人や韓国人の中には、英語を解さない人もいます。

中国語や韓国語、ロシア語やフランス語などで、朝日には慰安婦報道の大誤報を説明し、日本の国益を損ね、日本人を貶めてきた事実を謝罪してほしい。
そうすれば、どれだけ在外邦人が救われることでしょうか。

大誤報によって刷りこまれた日本や日本人のイメージを元に戻すことは困難です。
朝日は32年間も大誤報を放置し続けたため、日本人に対する悪い印象は消し去ることは難しくなっています。

実際、朝日の誤報記事は、米国でまだ「事実」として扱われています。先のフラトン市で開かれた公聴会でも、
韓国系住民が「朝日新聞も慰安婦の悲劇を認めている」と発言していました。誤報記事はまだ「生きて」おり、利用されています。

韓国系団体が求める碑文については、さすがに同市市長が「文面を中立にすべきだ」という意見を出しました。
これは現地の日本人や日系人が努力を重ねてきた結果です。とりわけ、若いお母さんたちが高い関心を持っており、公聴会にも出席して真剣に議事の進行を見守っていました。

彼女たちは、自分の子供が「忌まわしい日本人の子孫」として、イジメられ、危害を加えられるかもしれないと心配しているのです。
私たちの身辺には、それほど大きな恐怖があるのです。

このような現状を、朝日の木村伊量(ただかず)社長や社員の方々は分かっているのでしょうか。
「自分の子供、孫が米国に住んでいたら…」と想像しないのでしょうか。自社の責任を感じているのでしょうか。

朝日がまっとうな報道機関であり、報道機関の役割が「真実を伝えること」と理解しているなら、世界の隅々まで誤解を解く努力をしてほしい。
在外邦人たちはそれを切に願っています。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140827/dms1408271140005-n1.htm

533名無しさん:2014/08/27(水) 14:31:21
朝日新聞の元ソウル特派員が真実を告発 「そもそも強制連行の証言者はいなかった」

朝日新聞が8月5日付朝刊で、過去の慰安婦問題報道についての一部「誤報」を認めたが、
そうした中で「そもそも強制連行の証言者はいなかった」と語るのは、
慰安婦報道真っ盛りの1990年代に朝日新聞のソウル特派員だった、ジャーナリストの前川惠司氏だ。

新刊『朝日新聞元ソウル特派員が見た「慰安婦虚報」の真実』(小学館)を上梓したばかりの前川氏が、「当事者」として初めての告発をする。

私は、ソウルで伝手を総動員して、60歳を超えた人たちに、「身近な人で慰安婦にされた人はいるか。
当時住んでいた村とか町で、日本兵や日本の警察官に無理やり連れて行かれた娘がいたか。そんな噂を聞いたことがあるか」と、尋ね回った。
訪ねて行った先は、友人のお母さんから新聞社幹部、元軍人、大学教授など様々で相当の人数になったが、私の質問にうなずいた人はいなかった。

ある人はこう言った。

「無理やり娘を日本人がさらったりしたら、暴動が起きましたよ」

別の人が言った。

「酒一升のために娘を売る親はたくさんいました。街の女郎屋に売ったら、娘が稼ぎを渡されるか分からなかった。
軍絡みの所なら、稼ぎはちゃんともらえる。だから軍隊の方に売ったのです。売った先が軍の慰安所というのは、せめてもの親心だったのです」

日本軍の元将校だった人に、戦場の慰安婦はどうだったかも聞いた。

彼は、「敗戦後の南方戦線から釜山港への引揚船の甲板にテントを張って、彼女たちは商売をしていました。その根性に圧倒されました」と、自宅で振り返った。

この人たちの証言は、私の従軍慰安婦問題を考えるときの物差しの一つになった。
声高には叫ばなかったものの、そんな私の見方は、親しい同僚らとの打ち解けた席ではおりに触れ、話していたものだった。

ソウルで、おばあさんたちのデモに合わせて歩いていると、会社名の入った茶封筒を抱いた若い女性が眺めていた。
気持ちを尋ねてみると、「可哀想だと思う。でも、昔のことだから。そういうことがあった時代だったから」という答えが返ってきた。
そうだろうなと思った。沿道でデモを眺める人は少なかった。

強制性を認めたとされる、1993年8月4日の「河野洋平官房長官談話」よりかなり前の話だが、
日本の外務省にあたる韓国の省庁に行くと日本担当幹部は、「これはねぇ、日本にとって恥ずかしいことだろうが、韓国にとっても恥ずかしい話なのですよ」と、頭を抱えていた。

同胞の女性が従軍慰安婦だったことが、韓国の国家イメージ上昇につながるはずはないとの、当たり前の感覚だった。

従軍慰安婦報道の特徴の一つは、当事者の元従軍慰安婦のおばあさんがいるソウルに駐在している記者が、
おばあさんの証言などを細かく伝えるような記事をそれほど書いていないことだろう。

ほとんどは【東京発】か【大阪発】であったように思う。それが、従軍慰安婦報道の軌跡を方向づけたと言えるかもしれない。
http://www.news-postseven.com/archives/20140827_272961.html

534名無しさん:2014/08/27(水) 14:33:41
朝日新聞・編集担当の杉浦信之氏が検証記事(5日)で書いた、「私たちは元慰安婦の証言や少ない資料をもとに記事を書き続けました。
そうして報じた記事の一部に、事実関係の誤りがあったことがわかりました」という文面を読み、私は一瞬、朝日の勇気と良識に敬意を表したい、
という気持ちを抱いた。朝日が自らの過ちを自白することで、日韓両国を32年に渡って関係を悪化させてきた問題の源が消えたと思ったからだ。

ところが、続く文章を読んで愕然とした。そこには、「問題の全体像がわからない段階で起きた誤りですが、
裏付け取材が不十分だった点は反省します。似たような誤りは当時、国内の他のメディアや韓国メディアの記事にもありました」とあった。

この文章からは全く誠意も反省も感じられない。

私は、朝日の誤報によって韓国のナショナリズムを刺激し、日本の世論を二分し、世界中で日本と日本人のイメージを傷つけ、
読者を欺いてきたことを、読者や国民、国家に謝罪する文章が続くことを想像していた。

他社もやっていたから…という開き直りとも思える文章は、嘘を上塗りするものだ。真実を公正に伝える義務がある新聞社としては、世界から軽蔑されておかしくない。
見苦しい弁明である。

朝日は日本を代表する新聞社だ。もし、日本以外の民主主義国家で同じような「誤報」があったら、
重大事件として世論はもっと大騒ぎする。読者は購読を辞め、企業は広告を打ち切るだろう。

私は、朝日と国会に対し、次のことを提案したい。

第1に、朝日は、国民をだまし続けてきたことを率直に認めて、すべての真相と謝罪の意を、自社の紙面だけでなく、
他の国内メディアにも発表すべきである。今回の誤報は一部とはいえ、新聞社として重大な過ちである。

第2に、朝日は、海外メディアに対して、誤報の訂正と自国のイメージを著しく傷つけたことへの反省の記者会見を行うべきである。
誤報を根拠として発展した慰安婦問題の重大性と深刻性を認識すべきだ。

第3に、国会は調査委員会を設置して、朝日の誤報と、河野洋平官房長官談話の関係などを、徹底的に解明すべきである。
話が誤報から生まれて、「慰安婦=性奴隷」「日本=悪」といった汚名が広がったとすれば大問題だ。
韓国や中国も彼らの主張に自信があれば、日本の再調査を恐れる必要はないはずだ。

■ペマ・ギャルポ 国際政治学者。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140826/dms1408261140003-n1.htm

535名無しさん:2014/08/27(水) 23:45:06
元朝日記者が書く「従軍慰安婦虚報」の書籍が発売開始

2014年08月27日 13時11分
提供:アメーバニュース/政治・社会

 27日、『朝日新聞元ソウル特派員が見た「慰安婦虚報」の真実』という書籍が発売された。これ
は、朝日新聞元ソウル特派員でジャーナリストの前川惠司氏が執筆したもの。

 朝日は8月5日に過去の慰安婦報道の一部を取り消した。同氏はその日に発売された雑誌・SAP
IOで朝日報道について言及。従軍慰安婦報道の根拠となった吉田清治氏の嘘について言及した。

 そして、今回の『朝日新聞元ソウル特派員が見た「慰安婦虚報」の真実』では、同氏が実際に韓国
で体験したことや吉田氏との接触と証言がコロコロ変わることなどについても言及。慰安婦報道の検
証に加え、韓国の文化についても分析した。そして、日本が世界にこの件をどう訴えるべきかを提言
している。

 終章では日本が政府レベルですべきことについて「完全にプライバシーを守れる環境のなかで生存
者の聞き取りを徹底的に行ない、河野談話に絡んで聞き取った16人の内容を含めて、彼女らが記憶
する場所や時間など、ひとつひとつ裏付け調査し、その結果を韓国政府と一緒に、世界に向けて公表
することだ。亡くなったおばあさんには肉親からでも、できるだけ聞くべきだ。真相究明を訴えてき
た韓国政府が、協力を断るはずはないだろう」と提言している。

 同書の担当編集者は「韓国に詳しい元朝日の記者だからこそ書けた本だと思います」と自信を見せる。

http://yukan-news.ameba.jp/20140827-15509/

536とはずがたり:2014/09/04(木) 09:43:40

中曽根元首相が慰安所開設の証拠
中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が
http://lite-ra.com/2014/08/post-413.html
2014.08.29


 朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
 だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
 大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。
 何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。
「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」
 まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。
 タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」
 おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。
 ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。

 このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。
 だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。
 いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。

537とはずがたり:2014/09/04(木) 09:44:03
>>536-537

 国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。
 資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
 
 本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。
 宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。
「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる
 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」
 さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

 それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。
 そして2つの地図を見比べてみると、“ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。
 つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 
 もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。
 しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。
 実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
 
 つまり、中曽根首相がこうした“強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。
 朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。
 しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。
(エンジョウトオル)

538チバQ:2014/09/09(火) 21:17:42
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140909-00000017-jij-soci
2度の「聖断」で大戦終結=「国体も国家もなくなる」―終戦・昭和天皇実録
時事通信 9月9日(火)5時37分配信

 米国は1945年8月6日に広島、同9日に長崎に原爆を投下。そしてソ連が突如、対日参戦した。昭和天皇の2度の「聖断」により、日本はポツダム宣言を受諾し終戦に至ったが、戦争継続を求める陸軍との攻防が最後まで続いた。
 8月10日午前0時すぎ、昭和天皇は皇居・吹上御苑内の防空施設「御文庫」付属室で開催された御前会議に出席。ポツダム宣言受諾の条件をめぐって意見が分かれ、鈴木貫太郎首相が「聖断」を求めた。昭和天皇は「人民を破局より救い、世界人類の幸福のため(国体護持のみを条件とする)外相案にてポツダム宣言受諾を決心した」と述べ、午前9時、連合国側に伝えられた。
 これに対する米国側の回答をめぐり、政府と軍部で再び議論が続いた。昭和天皇は14日午前11時すぎ、御前会議に姿を見せ、鈴木首相は改めて「聖断」を求めた。
 昭和天皇は「戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなる。即時停戦すれば将来発展の根基は残る」と述べ、終戦の詔書を自らラジオ放送すると提案。午後11時、ポツダム宣言受諾が米国に伝えられた。
 放送の録音は午後11時25分から、宮内省の内廷庁舎「御政務室」で行われた。録音盤は侍従職事務官室の軽金庫に収納された。
 同日夜から翌朝にかけ、「聖断」撤回を求めた一部の陸軍将校がクーデターを決行。近衛第1師団長を殺害して偽の命令を出し、皇居内に侵入した。通信施設などを占拠して録音盤や御璽などを捜したが発見できず、朝には鎮圧された。目覚めて報告を受けた昭和天皇は、事件の発生を嘆いた。
 昭和天皇は15日午前11時20分、御文庫付属室で枢密院会議に出席。同50分、会議場に隣接する「御休所」に移り、正午から、前夜録音したラジオ放送を聞いた。平沼騏一郎枢密院議長ら会議参列者は、御休所外の廊下に整列し放送を聞いていた。

539とはずがたり:2014/09/21(日) 19:23:33

開戦前夜 「なと波風のたちさわくらむ」 御製読まれ暫時の沈黙
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140921/imp14092111040001-n1.htm
2014.9.21 11:04

 《会議のまさに終了せんとする時、天皇より御発言あり。(中略)天皇は、毎日拝誦(はいしょう)されている明治天皇の御製(ぎょせい)「よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ」が記された紙片を懐中より取り出し、これを読み上げられ、(陸海)両統帥部長の意向を質(ただ)される。満座は暫時沈黙の後、軍令部総長は、(第一に外交努力を尽くすとした)枢密院議長の発言の趣旨と同じ考えであり、(中略)参謀総長よりも軍令部総長の発言と全然同じである旨の奉答あり》

 対米開戦の準備方針などを決めた昭和16年9月6日の御前会議。昭和天皇実録には、軍靴の響きを高める陸海軍を何とか抑えようとする昭和天皇の姿が、克明に記されている。

 その前日、(1)自衛のため10月下旬をめどに戦争準備を完成する(2)外交手段を尽くして日本の要求を英米に認めさせる−とした「帝国国策遂行要領」の報告を受けた昭和天皇は、(1)と(2)の順序を入れ替えるよう要求。急きょ参内(さんだい)した杉山元参謀総長らを叱責した。

 《参謀総長より(中略)南方作戦は約五箇(か)月にて終了の見込みである旨を奉答するも、天皇は納得されず、(中略)支那事変当初、(杉山は)陸相として連戦即決と述べたにもかかわらず、未(いま)だに事変は継続している点を御指摘になる。参謀総長より、支那の奥地が広大であること等につき釈明するや、天皇は支那の奥地広しというも、太平洋はさらに広し(中略)と論難(ろんなん)され、強き御言葉を以(もっ)て参謀総長を御叱責になる》(同年9月5日)

 天皇の要求もむなしく、翌日の御前会議で同要領は原案通り決定された。この時の昭和天皇の思いは、明治天皇の御製を読んだ冒頭の場面からうかがえる。

 この御前会議の決定を、覆した人物がいる。開戦時の首相、東条英機だ。同年10月18日の組閣の際、天皇の意向に従い、同要綱を白紙に戻してぎりぎりまで外交交渉に努めた。

 開戦の最大の責任者とされた東条を、昭和天皇はあまり批判しなかった。そこにはこうした経緯もあったようだ。

540とはずがたり:2015/01/03(土) 17:06:18
こんなことがあったのか。

スエズ危機の教訓、ロシアがIMF支援を求めない理由
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141222-00000004-bloom_st-bus_all&amp;pos=3
Bloomberg 2014年12月22日(月)7時0分配信

  (ブルームバーグ):軍事進攻が米国の逆鱗(げきりん)に触れ、通貨防衛で準備は枯渇し、ついに国際通貨基金(IMF)に支援を要請することになった。

21世紀の世界地図に描かれたロシアの青写真ではない。1956年に英国が残した足跡だ。衝突の地はウクライナではなく、スエズ運河だった。

IMF融資はロシアが入り込んでしまった金融海峡を抜け出すための明白な手段だが、プーチン大統領は当面これを求めない、求めたくてもできないのは歴史が物語っている。当時も今も、IMF融資には米国の拒否権という不吉な影が差しているからだ。

「IMFに関与を求めるべき状況に至っている」と指摘するのは、メリーランド大学のフィリップ・スウェイゲル教授。IMFと米財務省での勤務歴がある同教授は、「ロシアは助けを必要としているが、プーチン大統領が助けを求める図は想像しにくい。そんなことをすれば屈服したも同然と考えるだろう。それにロシアが支援を要請すれば、米国はそれをレバレッジとして利用する可能性がある」と分析した。

約60年前に当時のアイゼンハワー米大統領が取った行動が、まさにそうだった。

世界貿易のライフラインであったスエズ運河をエジプトのナセル大統領が強引に国有化し、同運河を運営していた企業連合を追い出した後、英国は1956年、フランスを引き連れてイスラエルに加勢し、エジプトに侵攻した。

スエズ危機、ポンド危機

ポンドが投機家の攻撃を受け、英国は窮地に追い込まれた。イングランド銀行(英中央銀行)は自国通貨の防衛で準備を取り崩すしかなかった。

英国にとって「スエズ危機は金融危機でもあった」と、IMFの歴史に詳しいジェイムズ・M・バウトン氏は2001年の研究で指摘した。

ポンド切り下げを回避するために最低限必要とされる20億ドルの準備の維持が困難をきたし、英国は助け舟を探し始めた。米国からの直接援助はなさそうだと判断し、創立から約10年のIMFに目を向けた。

英国の望みはかなえられなかった。ジョージ・ハンフリー米財務長官は英国に対し、IMFの枠組みの中でしか支援はしないと言い放った。当時のIMFは「米国に抵抗するどころか、米国寄りの姿勢にあった」。

エジプト撤退、ルーブル急降下

準備が20億ドルを割り込みそうになった英国はついに折れ、エジプトからの軍撤退を発表した。これによって13億ドルの融資を受けられるようになり、ポンドは救済された。

バウトン氏によれば、「英国が金融支援を必要としていた状況は、米国にこれ以上望みようのないレバレッジを与えた」。

今も同じことが言えるだろうか。

ウクライナに対するロシアの関与が国際的な制裁を招き、これに原油価格の急落が重なり、通貨ルーブルは急降下した。2013年末に4700億ドルあった外貨準備からは、約1000億ドルが消えた。

ブリュッセルの調査グループ、リスボン・カウンシルのチーフエコノミスト、アレッサンドロ・ライポルド氏は「IMFが関与する経済状況と政治的な現実の二つは、全く相いれないものだ」と指摘する。元IMF当局者でもある同氏は、「経済的ケースは昔から新興国にはよくあることで、教科書通りと言っても過言ではない。しかしこれがすぐに起きる政治的なリアリティというのは実際のところ、ゼロに等しい」と述べた。

原題:Cold War-Era Lesson of Suez Crisis as Russia Burns Through Cash(抜粋)

541とはずがたり:2015/01/12(月) 09:14:38

旧ソ連から帰国したがなじめず、2人が永住断念
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150101-OYT1T50078.html?from=ycont_navr_os
2015年01月02日 14時54分

 第2次世界大戦末期、旧ソ連侵攻後にシベリアなどに抑留され帰国できなかったり、戦後も樺太(現サハリン)に残ったりして、ソ連崩壊の1991年度以降に永住帰国を果たした邦人のうち、少なくとも2人が旧ソ連やサハリンに戻っていたことが、読売新聞の取材でわかった。


 高齢で日本の生活になじめないことなどが理由で、戦後70年近くがたち、帰国した邦人支援の在り方が課題になっている。

 45年8月9日、旧ソ連は満州(現中国東北部)や日本領だった南樺太などに侵攻し、計約60万人を抑留。多くは日ソの国交が回復した56年までに帰国したが、帰国の手段がなかったり、現地にできた家族の事情があったりして、残留を余儀なくされる人もいた。

 厚生労働省によると、91年まで同国内に残っていた邦人のうち、これまでに計108人(サハリン85人、旧ソ連本土23人)が政府の支援などで永住帰国した。

 樺太生まれで60年以上、旧ソ連・カザフスタンで過ごした阿彦哲郎さん(84)は、現地で結婚した妻(78)と2012年から札幌市に住んだが、昨年6月、同国に戻った。同12月、現地で読売新聞の取材に「湿気の多い日本の気候が合わなかった」などと語ったが、知人の一人は「日本語を話せない奥さんが、生活になじめなかったのが原因では」と話す。

 また、残留邦人の帰国を支援する「日本サハリン協会」(東京)によると、04年にサハリンから北海道函館市に永住帰国した女性(97)も、近所にいた別の永住帰国者が亡くなるなどして孤独感を募らせ、13年、親族のいるサハリンに戻ったという。

 厚労省では、永住帰国した残留邦人がその後、旧ソ連領内に戻ったケースについて統計がないという。

 同協会の斎藤弘美会長は、「高齢でも永住帰国を願う残留邦人は多いが、頼れる日本の親戚は高齢化し、生活環境への適応も難しいのが現実。日本にずっと住めるよう支援を見直す時期に来ている」と指摘している。

2015年01月02日 14時54分

542名無しさん:2015/02/11(水) 13:28:01
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150210-00000558-san-pol
日本総領事館が米教科書執筆者に「事実誤認」指摘 「言論の自由侵害された」ハワイ大准教授主張
産経新聞 2月10日(火)19時33分配信

 【ワシントン=加納宏幸】米国の公立高校で使用されている世界史の教科書に「旧日本軍による慰安婦強制連行」など事実と異なる記述がある問題で、ハワイ州ホノルルの日本総領事館は9日、教科書の共著者のハーバート・ジーグラー・ハワイ大学准教授に対し、事実誤認を指摘するなどの申し入れを昨年12月に行ったことを明らかにした。

 申し入れについて報じた9日の米紙ワシントン・ポスト(電子版)によると、ジーグラー氏は日本政府から接触を受けたことを明かし、「私の言論と学問の自由を侵害した」と批判した。昨年暮れに日本総領事館の職員から教科書の記述について協議したいとの申し出があり、これを断ったが、2人の職員が大学を訪れ、教科書の文章を削除するよう求めたとしている。

 一方、日本総領事館は9日、産経新聞の取材に対し、ジーグラー氏とのやり取りの詳細は明かせないとしながらも「昨年12月に慰安婦問題に関して執筆者に申し入れを行い、事実誤認や、わが国の立場と相いれない部分が存在することを指摘した」と述べた。

 米歴史学者19人が発表した、教科書に関する「いかなる修正にも応じない」との声明をまとめたコネティカット大のアレクシス・ダデン教授もポスト紙に「声明は日本たたきではなく、日本の仲間を支援するためのものだ」と述べた。

 記事は、慰安婦問題で日本政府の責任を追及する吉見義明・中央大教授の研究が声明の根拠になっていると紹介。教科書を出版した米大手教育出版社マグロウヒルが「記述は史的事実に基づく」として修正を拒否したことも伝えている。

543名無しさん:2015/02/11(水) 17:26:22
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2015021100237
日中韓の歴史修正主義に懸念=アジアの将来は多極化-米専門家

10日、ニューヨークで時事通信のインタビューに答える米外交評議会のシーラ・スミス上級研究員
 【ニューヨーク時事】米国の有力シンクタンク、外交評議会のシーラ・スミス上級研究員(日本担当)は10日、時事通信とのインタビューで、日中韓とも歴史を見直そうとする「修正主義者」(リビジョニスト)であり、米政府は「日米の利益に合わない状況が北東アジアに生まれる恐れ」を強く感じていると語った。安倍晋三首相が発表する戦後70年談話に関しては、村山富市首相談話を継承すべきだとの考えを示した。主な発言は次の通り。
-米国は東アジアの歴史論争をどうみているか。
 歴史問題には、危険なため触れてはならない側面がある。日本の政治指導者が過去をどう考え、それが近隣諸国との関係に与える影響をどう考えるかを、米国人は問題にしている。戦争の記憶の問題は中国にも韓国にもある。3国とも歴史修正主義であり、それを声高に語る指導者を持つ。
 背景には力のバランスの変化がある。現状に不満を抱き、異なるバランスへの希求は極めて強い。歴史問題のため、米国と日本の利益にならない状況が北東アジアにつくりだされるかもしれない。それを米政府は強く感じている。
-戦後70年談話への期待は。
 安倍氏は(過去の)謝罪の基礎から離れたがっているように見える。村山談話が今でも尊重されるのは、日本の深い反省を直接に認めたからで、これを原則の一つとすべきだ。70年談話で日本の将来像をどう描くかに関心が高いが、村山談話を放棄するのは誤りだ。ただ、(慰安婦問題に関する)河野洋平官房長官談話の扱いは難問になるだろう。
-中国がアジア新秩序づくりに乗りだした。
 中国がどこに行くのか、まだわからない。経済的にダイナミックな巨大な国だが、将来アジアが中国中心になると思い込む必要はない。周りには日本、インドネシア、マレーシアなど活力あふれる国が多い。アジアは一つの重心ではなく、複数の重心を持つことになるだろう。米国もこの活力ある社会の一員となるべきであり、それがアジアの将来にとっても重要だ。 (2015/02/11-14:22)

544名無しさん:2015/02/15(日) 20:04:12
法学論集スレ、中華スレ、警察スレ、差別スレに跨りそうなこの話題。
後半部分が残留邦人中心だったのでこのスレへ書き込んでみます。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150215-00043615-playboyz-soci
“半グレ”として語られる犯罪集団「怒羅権(チャイニーズ・ドラゴン)」の有名無実化した存在とは
週プレNEWS 2月15日(日)6時0分配信

正直、よくわからない…というのが実情だろう。限りなく暴力団に近い犯罪組織=半グレとして語られる「怒羅権(チャイニーズ・ドラゴン)」。

中国残留邦人2世、3世という出自からメディアは彼らを「日本社会への怒り」と「差別への憤(いきどお)り」が生んだ“悪”として紋切り型に報じることが多かった。

しかし、その里帰りを密着する中でまったく別の顔が確かに見えてきた。常軌を逸するような凶悪犯罪の根っこにあるものとは?

■関東連合と怒羅権

「府中の不良にTという奴がいるんですが、怒羅権らしいんですよ。別に中国人じゃないんですけどね。川崎のM、知っているでしょ? あいつ、去年からいなくなったじゃないですか。

“飛んだ”って言われていますけど、そうじゃなくて。Tのグループにバラされて、青梅の山の中に埋められちゃったみたいなんです。これ、ヤバイ話なんで週刊誌でもいけると思います。全然書いてもらって構わないので。ちょっとTの素性を調べてもらえませんか?」

新宿の喫茶店で、ブローカーが言った。「取材の足しに」と続けて、5万円入りの封筒を差し出してきたので、金主付きの依頼なのだろう。僕は私立探偵ではないので封筒は断り、「詳しい筋に尋ねてみます」とだけ答えた。

彼のようなロートルのブローカーが現金を差し出してくるのは珍しく、与太話(よたばなし)ではないと思ったが、その府中のTなる男が怒羅権だという話は信じなかった。

週刊誌の世界では、定期的に「魔法の言葉」が入れ替わる。毎週、ネタ出しを迫られる週刊誌記者を使って、別の情報を集めたいと目論(もくろ)む人々は、まったく関係のない人物に「魔法の言葉」を塗(まぶ)すことで、記者をタダ働きさせようとする。古びることなく使われているスパイスは「内調」と「公安」で、この10年ほど流行っているのが「怒羅権」と「関東連合」だ。

「なぜ、フジノさんが関東連合ではなく、怒羅権に興味を持ったのか。その動機を書いてください」と担当編集者は言うが、それは、ただの偶然だ。僕が知っている関東連合と怒羅権の関係者を比較した場合、現時点で、より信憑(しんぴょう)性の高い言葉や行動の裏づけを提供してくれるのが、怒羅権の関係者だったというだけで、それ以上の動機はない。

545名無しさん:2015/02/15(日) 20:04:27
>>544

2013年3月。警視庁は怒羅権と関東連合を準暴力団に指定した。準暴力団とは、組長や若頭など整然と階級区分された犯罪組織としての暴力団ではないが、限りなく暴力団に近い「犯罪集団」を指す新しい概念だという。溝口敦が著書『ヤクザ崩壊』(2011年、講談社)で提唱した「半グレ」を官僚風に言い換えた名称だと考えて、特に不足はないだろう。

しかし、その直後、警視庁は準暴力団としての怒羅権の呼称を、実質的には「チャイニーズ・ドラゴン」という呼び方に切り替えている。それは、なぜか。

実のところ、怒羅権という存在はすでに有名無実化しており、警視庁が当初、「怒羅権のメンバー(OB)」と呼んでいた者たちは別段、「怒羅権の者たち」ばかりではなく、その多くが「怒羅権的なる者たち」であったことを悟ったからだ。準暴力団という造語が現れる前から、警視庁はこのふたつの呼称の間を右往左往していた。

「自分は怒羅権じゃないですね。もちろん、絡みはありますけど。最初は暴走族をやっていて、その後、10人ちょっとの義兄弟たちと契(ちぎ)りを交わして『自分らのグループ』をつくったとき、怒羅権の知れている幹部から連絡がありました。『(怒羅権の)傘下にならないか?』って。

でも、ハッキリ断りましたから。それから200人近くメンバーが増えましたけど、怒羅権の下に入ったことはありません。自分らは“ファミリー”なんで、怒羅権じゃないんです」

警視庁の捜査資料で、かつては怒羅権のメンバーだとされ、後にチャイニーズ・ドラゴンに立場を書き換えられた男は、僕に言った。一方、取り締まる側である警視庁の捜査員は、呼称への拘(こだわ)りを持っていない様子だった。

「彼らがどう考えるかなんてのは、どうでもいいですね。一応、リストは別々に作成していますが、結局、怒羅権もチャイニーズ・ドラゴンも、ただの呼び方です。

明らかに、彼らには以前から特定の人間関係が構築されていて、その人間関係を通じて継続的に犯罪が起きているなら、ワッパかけたとき、どうやって報道しますか? なんらかの名称をつけないと、“普通の犯罪”と同じになっちゃうでしょ」

■中国残留邦人という存在

そもそも怒羅権とは何か。80年代後半に結成されたとき、怒羅権は、いわゆる暴走族のひとつにすぎなかった。仮に、この時点で怒羅権に“独自性”を見いだすとすれば、話は第2次世界大戦以前に遡(さかのぼ)らねばならない。

1932年。日本は、現在の吉林省を中心とする中華民国の東北部に満州国を建国し、満蒙開拓団を筆頭に20万人を超える開拓民を送り込んだ。国策として、大規模な海外移民を推進した背景には、それ以前に開始されていたハワイ移民やブラジル移民と同じように、近代化による日本国内の急激な人口増加と、産業革命による農村の貧困問題があったが、満州入植の要因はそれだけにとどまらない。

かの地への入植が特に重要だったのは、中華民国の東北部がソビエト連邦(現ロシア)と国境を接するアジアの要衝だったからである。日本は、巨大な関東軍と国内で養えなくなった貧農を東北部に入植させることで植民地戦略の要衝を保持しようと考え、最終的に、100万人を超える日本人が満州で暮らすようになった。

しかし、すでに僕らが知るとおり、日本は第2次世界大戦に敗れる。玉音放送が流れる直前の1945年8月9日、ソ連軍は満州に侵攻し、怒りに燃える中国(中華民国、のちに中華人民共和国)人たちは、日本人を襲撃した。

全盛期には70万人ともいわれた関東軍は戦況の悪化にともない、大部分が満州の外の戦地に送り込まれており、また農民として入植した日本人男性も多くが徴兵されていたため、ソ連軍の侵攻時に兵士自身の家族を含む残留邦人を守る余力は残されていなかった。

その後の混乱は凄惨を極めたといわれる。ある者は殺され、ある者は自決し、ある者は信頼を寄せる中国人にわが子を託し、また、ある者は足手まといだとして自らの子を畑に捨て、残された日本人は離合集散を繰り返した。

これが「中国残留邦人」の起源である。日本政府のカテゴライズに従えば、中国残留邦人の対象者は「残留孤児」と「残留婦人」のふたつに区分される。残留孤児は、日本の敗戦当時、0歳から12歳の男・女児。残留婦人は、13歳以上の女性を指す。

彼らの大部分は、1946年から断続的に1958年まで行なわれた「集団引き揚げ」で日本に帰国したが、その網から漏れた1万人を超える残留邦人の帰国は、日中国交正常化後から開始された公開調査(1975年)まで待たねばならなかった。

●この続き、怒羅権の出自と里帰り密着ルポは明日配信予定!

(取材・文/藤野眞功)

546名無しさん:2015/02/19(木) 06:58:39
http://jp.wsj.com/articles/SB11442920196806124664104580468653993571856
安倍首相の歴史観で日米関係にかげり 訪日米議員が漏らす
By JACOB M. SCHLESINGER
2015 年 2 月 18 日 11:14 JST

 【東京】今週東京を訪れている米国の議員らによると、安倍晋三首相の歴史観が日米関係の将来にとって最大の懸念材料になっているという。

 ダイアナ・デゲット下院議員(民主)は16日、一部の記者団との会見で、「第2次世界大戦終戦70周年に関連したこれらの問題の一部が両国関係にひびをもたらす可能性がある」と述べた。

 同議員は「日本が慰安婦問題やその他の終戦時期あたりのいくつかの問題で逆戻りをしていると見なされないことが本当に重要だ」とし、慰安婦問題に関する米国歴史学者と日本政府の間の論争に言及した。

 デゲット議員らとともに10人の超党派訪日下院議員団に参加したジェームズ・センセンブレナー議員(共和)は「われわれの道にはでこぼこがあったが、今はこれを平らにする時だ」とし、安倍首相の「修正主義歴史観」は「近隣諸国との関係」に打撃を与えていると述べた。その上で、「これはクールダウンさせなければならない」と付け加えた。

 議員団の訪日は、米国議会日本研究グループと笹川平和財団USAがスポンサーとなった。前者の共同座長を務めるデゲット議員は、今回の訪問について、同グループが1993年に設立されてから行われている訪日の一環だとし、人数は1年前の4人の倍以上になったと指摘した。

 参加者は民主党が6人、共和党が4人で、この中にはジョセフ・ケネディ議員(民主)もいて、同議員は日本で特にキャロライン・ケネディ駐日大使に会いたいとしている。ケネディ議員は、大使の父である故ケネディ大統領の弟、故ロバート・F・ケネディ氏の孫。

 これとは別の、ポール・ライアン下院歳入委員長(共和)を代表とする議員団も今週、日本を訪れ環太平洋連携協定(TPP)について協議する予定だ。

 センセンブレナー議員は「今では日本に多大な関心が持たれている」とし、10年前に日本に継続的な関心を抱いていたのは同議員らほんの一部で、当時はほとんどの議員は「北京に向かう3万5000フィート(1万0500メートル)上空の飛行機の中から日本を見下ろすだけだった」と述べた。

 日本を訪れた議員らはおおよそ、両国関係が健全だとし、特に四半世紀前の通商問題で緊張状態にあった時に比べてそうだとしている。

 デゲット議員は「米国で圧倒的に語られているのは相互防衛と安全保障、アベノミクスの成功への期待、条約交渉などについてだ」とし、「だから、なぜ第2次大戦のころの問題がまだ現れてきているのか困惑させられる」と話した。

 同議員は特に、安倍首相の言葉が4月末か5月初めに予定されている首相の訪米に暗影を投げかける可能性があるとしている。同議員は「この訪米にわれわれは懸念している」とし、「首相はこれらのネガティブなセンチメントを引き起こすようなことはしてはならない」と語った。

 日系のマーク・タカノ議員(民主)は、ひどく2極化された米国の政治環境の中でさえ、安倍氏の歴史観は超党派の反発を引き起こしかねないと警告した。同議員の両親と祖父母は戦中に拘束されていた。同議員は「これは党を問わず反発を呼ぶ」としている。

 訪問団は16日に記者会見したあと、安倍首相と会った。参加者によると、デゲット議員はこの場で、訪米の際に米議会で演説をしてくれれば光栄だと首相に伝えた。実現すれば1961年の池田首相以来の日本首相による議会演説となる。演説するには下院議長の正式な招待が必要だが、歴史問題での韓国との関係悪化に対して一部議員が懸念していることから、招待は簡単にいきそうもない。

 韓国の朴槿恵大統領は13年5月にワシントンを訪問した際に議会演説を行い、この中で安倍氏の歴史観を批判した。

547名無しさん:2015/02/19(木) 06:58:52
>>546

 安倍氏は、前民主党政権下で悪化したと同氏が指摘する日米同盟を強化すると繰り返し表明している。同氏は、自衛隊が米軍とともにもっと活動できるようにすることや、中国によって形作られつつあるアジア太平洋地域での米国のリーダーシップを確立する上で不可欠のステップと米国が見るTPPの受け入れなど、米政府が働きかけてくる多くの政策を実現しようとしている。

 しかし、安倍氏とその多くの側近や支持者は、大戦中の日本の行為についての米国の取り上げ方に反論し、日本は国家の名誉にかけてこうした取り上げ方と公に論争することが必要だとしている。日本の外務省は昨年12月、教科書に載っている大戦中の「慰安婦」に関する説明を変えるよう、出版元のマグロウヒル・エデュケーションに申し入れた。

 これに対して米国の著名な歴史家から成るグループは抗議の書簡を日本に送った。この批判に対して外務省の伊藤恭子報道官は「われわれはより正確にわれわれの見解を表明する機会を持ちたい」と述べた。安倍首相が日本の戦争記録を修正しようとして関係を悪化させているとの批判について同報道官は「慰安婦問題についてわれわれは何度も何度も、これまでの政権の考えを支持すると言ってきた。戦後70周年での政府談話は、大戦中に日本がしたことへの反省、この70年間に日本が成し遂げてきたこと、それに将来日本が行うことという三つの要素を反映させたものになる」と語った。

 センセンブレナー議員は、安倍首相と朴槿恵大統領の首脳会談がまだ行われおらず、アジアにおける米国の二つの主要な同盟国同士の協力が困難になっていることなど、米国のアジアでの安保活動が歴史的緊張によって難しくなっていることに懸念を表明した。同議員は「北アジアの平和という観点からはこれは本当に不要なことだ」と述べた。特に北朝鮮が脅威となる可能性に対して「米国と韓国と日本はこれが一触即発の状態にならないように協力しなければならない」と話した。

 伊藤氏は、日韓間の緊張が日本のせいだとの指摘に反論し、「両首脳は無条件で会うべきだというのが日本の姿勢だ」とし、「日本側からはドアは常に開かれており、そのメッセージは多くの機会に出されている」と語った。

***

ジェイコブ・スレシンジャー


ウォール・ストリート・ジャーナル アジア経済主席特派員・中央銀行担当エディター

 ハーバード大学経済学部卒業。St. Petersburg Times 記者を経て、1986年ウォール・ストリート・ジャーナルデトロイト支局に記者として入社。89〜94年東京支局特派員。その時の取材をもとに日本の政治についての『Shadow Shoguns:The Rise and Fall of Japan's Postwar Political Machine』を執筆。帰国後ワシントンで経済記者、政治記者、ワシントン支局副支局長を経て2010年東京支局長に就任。2014年より現職。03年、特別報道チームの一員として企業不祥事を暴いて解明した報道シリーズでピュリツァー賞を受賞。14年、スタンフォード大学「2014年ショレンスタイン・ジャーナリズム賞」を授与された。

Twitter @JMSchles

548荷主研究者:2015/02/21(土) 18:37:16

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201502/20150215_15012.html
2015年02月15日日曜日 河北新報
<被災資料>鴎外、漱石らの生原稿を初公開

被災家屋から救出後、初めて公開された文豪の肉筆に見入る来館者

 亘理町教委と文化財の研究者が東日本大震災の津波や揺れで損壊した町内の家屋から救出した資料を集めた企画展「東日本大震災と救い出された資料」が14日、町郷土資料館で始まった。旧家や神社など7戸が収蔵していた美術品や日用品など200点を展示。明治、大正時代の文豪の肉筆など貴重な資料が並ぶ。

 肉筆は、森鴎外の晩年の傑作「北条霞亭」、夏目漱石の「文鳥」、武者小路実篤の「なにかと」などの生原稿、石川啄木、島崎藤村、坪内逍遙らの書簡など。竹久夢二のデザイン画や岸田劉生のデッサンも公開した。

 展示品の多くは、同町荒浜の旧荒浜村村長の江戸清吉氏(1938年没、享年52歳)が収集した2万点の一部。津波被害に遭った倉庫から救い出し、応急的な修復を施した。一般に公開されるのは初めてという。

 東京から駆け付けた日本学術振興会特別研究員で日本近代文学を専攻する多田蔵人さん(31)は「個人でこれだけ多くの作家の肉筆を趣味で収集するのは、めったにない。津波での流失を免れたのも奇跡だ」と驚く。

 このほか、同じ荒浜の旧家が収蔵した亘理伊達家の初代当主伊達成実の書状、揺れで損壊した内陸の家屋に眠っていた家電、津波で損壊した神社のみこしなどもある。

 企画展は3月29日まで。観覧料は一般100円、高校生50円。郷土資料館はJR亘理駅東側の悠里館1階にある。連絡先は資料館0223(34)8701。

549とはずがたり:2015/02/25(水) 22:39:29

【借金に追われて】日本が太平洋戦争に突入した理由が悲しすぎる【原発・靖国まで】
http://matome.naver.jp/odai/2136214578373977801
日露戦争で日本は、米国系ユダヤ人らから借金をして戦争を行い、「ロシアに勝利」しました。しかし、実際には、同じユダヤ人がソビエトに金を回し、ロシアの崩壊を誘導していたと言われます。そして、やがて太平洋戦争で米国に敗戦した日本ですが、太平洋戦争開戦時も日本は米国の借金を負っていました。
更新日: 2015年01月17日

借金につかまった日本

日露戦争で日本は、米国系ユダヤ人から借金をして戦争を行い、「ロシアに勝利」しました。

しかし、実際には同じユダヤ人銀行家がソビエトに金を回し、ロシアの崩壊を誘導していたとも言われます。
太平洋戦争開戦時もまだ、日本は米国のユダヤ系資本に莫大な借金を負っていました。終戦後、米国は同盟国に戦争賠償金を課さないことを呼びかける一方で、結局、しっかり昭和の終わりまでかけて金利を加えて日本から借金を回収したのです。

"日露戦争遂行のためのポンド建て日本国債は、借換債を発行しながら1986年(昭和61年)にようやく完済した"

最終的に返済を完了したのは82年経ってからでした。82年前の人の借金をせっせと返済していたと、団塊世代の何割が意識していたでしょう。

"日本人は戦後賠償よりも負債返済を優先「させられた」"

アメリカ合衆国は、戦争賠償金を大きくしないよう各国に要求しました。「第一次世界大戦でのドイツへの多額の賠償金請求に対する反省」などと言われますが、その一方で、日本から戦前の借金を取り立てを続けていました。日本からの回収率を上げるために、他国への賠償をしないよう圧力をかけていたのです。

結果的に現在の日本人は、隣国から領土問題をもちかけられ、さらなる戦後賠償を要求され、実際に政府開発援助や円借款という名の事実上の賠償金支払いを継続しています。そして、自分たちは、さらに大きな負債を抱えることが正義だと錯覚しています。

550とはずがたり:2015/02/26(木) 00:52:33
2006-06-10 告発される近代の悲劇
■[書評]原武史『大正天皇』朝日選書
http://d.hatena.ne.jp/pentaxx/20060610/1151723618

 ここで大正天皇の病歴を推測を交えて記述してみよう(用語は現代のものに変換してある)。明宮(大正天皇)は生後間もなく髄膜炎に罹患し、その後遺症に生涯苦しんだ。後遺症の重篤さを考えるとおそらくウィルス性で、脳炎も伴っていたのではないか。抗生剤のない時代でもあり、漢方治療のみでは十分な治療効果は得られなかったであろう。一〇代はほとんど持病のようになった感冒のほか、気管支カタル、腸カタル、胸膜炎などにしばしば罹患した。

 二〇代は後述するように健康を回復したが、天皇即位後は髄膜炎の後遺症とおぼしい脳器質性障害にもとづく言語障害、歩行障害などが進行した。知能の障害がどの程度であったかは判然としないが、記銘力の減退や一過性ながら幻視の訴えもみられている。裕仁皇太子が摂政となった一九二二年以降は、静養に徹したものの、病状は徐々に進行する。不整脈、浮腫、脳虚血発作などがたびたび見られ、慢性的な発熱が続く。おそらく脳虚血発作は多発性脳梗塞をもたらしていたであろう。一九二六年一二月二五日、「肺炎に伴う心臓麻痺(宮内省発表)」にて死去。四七歳の若さだった。  

 以上は身体医学の側からの所見である。しかし本書を読んで驚かされるのは、その病状がきわめて状況依存的である点だ。つまり環境要因、心理的要因によって病状が大きく影響されていた可能性が高いのである。本書の主題の一つも、実はそこにある。  

白粉(おしろい)と明治天皇
http://ohsawa.exblog.jp/17213822/

明治天皇が生まれ育った京都の宮廷文化は純和風で、遷都となって東京に来るまでは、洋装して各国の外交官達と社交するなどということはまったく考えられなかった。ある観菊会でも、外交団を皇居に招きながら1時間も待たせた挙句、一人馬に乗って現れ、彼らと直接挨拶もまじ合わせなかったという(オットマール・フォン・モール「ドイツ貴族の明治宮廷記」金森誠也訳 - 講談社学術文庫)。これにポルトガル公使夫人が激怒し、そのあとの宮廷行事をポルトガル公使館全員がボイコットしたらしい(同書)。これ以外にも、皇后と一緒に並んで歩かないなど男尊女卑の傾向があったという(同書)。

そんなことで明治天皇に興味を持った。調べてみて不思議なことを見つけた。側室が 5人、生まれた子供が 15人、内 2名が死産、6名が夭逝だという。日本も以前は乳幼児死亡率が高かったことは知っていた。でも、生まれた子供の半数以上が 1-2年で亡くなっているというのはかなり多い。側室は皆公家の系統だから、何か家系的な遺伝性の病気でもあるのかとも思った。ちょうど、「ドイツ貴族の明治宮廷記」に謎めいた次の文が出てきてますます気になった。

「 ---- 宮中で天皇の一番下の皇子昭宮猷仁親王が歯と関連のある脳の病気、脳膜炎にかかられた。皇太子明宮を除き、天皇のすべての皇子がこの病気で亡くなられている。この病気は日本の高位の貴族の家系に秘められた悲惨な伝統である。実にこの病気は日本の平民の間ではなく、とくに五摂家や大名家に多く発生している。」

そこで更に調べてみた。すると、明治天皇の皇子女は 10名が脳膜炎(現在の髄膜炎)で亡くなっているらしいことがわかった。その原因は白粉(おしろい)だという。大正の頃まで、高い身分の女性(明治以降は一般人も)はお化粧として首から胸まで白粉を塗っていた(公家や一部武家では男性も)。当時、白粉は鉛白 = 2PbCO3Pb(OH)2 を使っていて、それを使う女性は鉛毒を患っていた。その粉を乳幼児が吸ったり、母乳から摂取してしまうわけだ。存命した皇子の一人、明宮嘉仁親王(後の大正天皇)には乳母がいたが、彼さえも、その乳母から鉛を摂取し、結局脳膜炎にかかったと言われている(後年、病弱天皇として知られる)。

551とはずがたり:2015/02/26(木) 01:04:03
明治天皇は元田永孚や佐々木高行の影響下に伊藤博文らと対立して親政を試みた様だが,結局折れて機務六条となったそうな。何が折れるきっかけになったのかwikiの記述ではよおわからんが,立憲君主を選んだのは賢明だったと云えよう。明治天皇の皇子皇女が夭逝が多かったのはどうやら白粉のせい>>550という意見も。まあゆうても明治時代やからなぁ。

機務六条
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E5%8B%99%E5%85%AD%E6%9D%A1

機務六条(きむろくじょう)とは、1886年(明治19年)9月7日に明治天皇と伊藤博文(内閣総理大臣兼宮内大臣)が内閣を代表する形で交わした約束事。これによって、天皇と内閣の関係を規定すると同時に、明治天皇が親政の意思を事実上放棄して、天皇の立憲君主としての立場を受け入れることを表明した。

明治天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者・元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。
元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。
教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命されたことには不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省の顧問として御用掛に任命されることを知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2か月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。

こうした事態を憂慮した伊藤は、初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて、天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。その結果、明治19年(1886年)6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして、天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである[4]。

男子5人、女子10人がいたが、成人した男子は大正天皇ただ一人である。また成人した皇子女も、房子内親王(北白川宮妃)と聡子内親王(東久邇妃)を除き、皆40〜50代の若さで亡くなっている。

552名無しさん:2015/02/28(土) 02:58:07
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150227-00010002-agora-pol
大正デモクラシーはなぜ自壊したのか --- 池田 信夫
アゴラ 2月27日(金)15時50分配信

衆議院予算委員会は、西川農相の辞任騒動で紛糾し、予算の年度内成立が困難になったようだ。予算委員会が予算と無関係なスキャンダルで止まるのは、戦前から続く悪習である。

「大正デモクラシー」で政友会と民政党の二大政党が交代する慣行ができたが、予算は内閣がつくるので、帝国議会は予算に「協賛」するだけで修正する権限がなかった。このため注目を集める予算審議が、スキャンダル暴露の場になった。

こういう状況は、1928年の普通選挙で悪化した。高畠素之は「普選法による有権者は有象無象が多く、政党や政策を見て賛否を決するよりも、候補者の閲歴や声望に基づく有名無名が、彼らの判定する人物的上下の標準となる場合が多い」と評している。

普通選挙で巨額の選挙資金が必要になったため、政治腐敗が拡大し、各官庁の官僚や全国の地方官庁が政党に系列化された。一般の有権者は政策なんか知らないので、誰でもわかる金銭スキャンダルが投票に大きな影響を及ぼし、議会はその暴露合戦になった。

政治がこのように「劇場型」になると、新聞の役割が大きくなった。当時の新聞は「リベラル」な姿勢で反軍的な論調を取ることが多く、1930年のロンドン軍縮条約までは軍事支出の抑制を求めて軍部と対立していたが、1931年の満州事変以降、戦争報道で部数を拡大すると、新聞は軍を美化する報道に転じた。

腐敗して何も決められない二大政党に代わって「第三極」による「維新」運動が盛り上がり、その結果が青年将校のクーデタや大政翼賛会による「近衛新体制」だった。つまり大正デモクラシーは、それを弾圧する治安維持法や軍部につぶされたのではなく、デモクラシーの担い手だった議会と新聞によって自壊したのだ。

新憲法では国会の権限が強化されたが、野党に予算を修正する権限も能力もないのは同じだ。このため野党やマスコミは、スキャンダル叩きに奔走する。これに対して首相が「日教組はどうなってるんだ」などとヤジで応酬するようでは、昭和初期のように政党政治も終わりに近づいているのではないか。

池田 信夫

553名無しさん:2015/02/28(土) 13:36:52
田原総一朗「戦後レジームの正体」
安倍晋三首相は「戦後レジームからの脱却」を提唱している。70年前、GHQによって作り上げられた日本の制度は、どこに向かおうとしているのか。「戦後」を一貫して見つめ続けてきた著者、畢生の新連載!

【第2回】 東京裁判で問われたもの---日中戦争、真珠湾攻撃は正当だったか2015.02.27
田原 総一朗
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42280

【第1回】 GHQと東京裁判2015.01.27
田原 総一朗
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41864

554名無しさん:2015/03/07(土) 12:34:19
http://www.sankei.com/politics/news/150306/plt1503060023-n1.html
2015.3.6 12:41
独立国かは「回答困難」 琉球王国で政府答弁書

 政府は6日の閣議で、かつての琉球王国が独立国だったかどうかについて「『琉球王国』をめぐる当時の状況が必ずしも明らかでなく、確定的なことを述べるのは困難」とする答弁書を決定した。社民党の照屋寛徳衆院議員(沖縄2区)の質問主意書に答えた。

 琉球王国が米国、フランスなどと結んだ条約を国際的な合意文書と位置付けるかどうかについては「日本国として締結した国際約束でなく、確定的なことを述べるのは困難」とした。

555名無しさん:2015/03/08(日) 15:53:02
統帥権干犯問題で国策誤り、安倍首相「その通り」
朝日新聞デジタル 3月4日(水)1時0分配信
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1043205301/3129

 戦前に軍部の台頭を招いたとされる統帥権干犯問題などの歴史認識をめぐり、民主党の枝野幸男幹事長が3日の衆院予算委員会で、安倍晋三首相らの見解をただした。

 枝野氏が「統帥権干犯問題と、(陸・海相を現役軍人のみから選任する)軍部大臣現役武官制で、我が国が国策を誤った。教訓にすべきだと思うか」などと質問。首相は「その通りだと思う」と述べた。

 中谷元・防衛相も「その通りだと思う」と述べた。そのうえで、戦後の自衛隊の文民統制(シビリアンコントロール)について「国民から選ばれた政治家が軍事組織をコントロールすると改めたわけで、大事な原則だ」と説明した。

 統帥権干犯問題は、1930年にロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣に対し、軍の指揮権を握る天皇の統帥権を犯すものだと軍部などが批判。政党政治が衰退する一因となった。

朝日新聞社

556名無しさん:2015/03/14(土) 17:11:01
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150310-00813995-sspa-soci
資産2兆円のポール・アレン氏「戦艦武蔵は日本に寄贈したい」
週刊SPA! 3月10日(火)16時21分配信

 マイクロソフトの共同創業者であるポール・アレン氏が発見した旧帝国海軍の戦艦「武蔵」が、戦中・戦後世代はもとより、往年の軍艦ファン、ミリオタまで多くの人を興奮のるつぼに巻き込んでいる。

 なにせ、武蔵はあの「大和」の姉妹艦にして、旧帝国海軍が建造した最後の戦艦だ。両艦に搭載された46cm砲は世界最大を誇り、40km先の標的を攻撃できたというから、世界最強の艦に偽りなし。武蔵は竣工から2年足らずのレイテ沖海戦であえなく撃沈されてしまったが、「魚雷20本、爆弾17発、さらに無数の至近弾という、他に類を見ない集中攻撃を受けても10時間近く沈まなかった」(SPA!きってのミリオタ)と、その逸話は今でも語り草となっているのだ。

 3/10発売の週刊SPA!では、『宇宙戦艦ヤマト』で知られる松本零士氏が武蔵に対する思いを熱く語っているのだが、気になるのは今回、武蔵を発見したポール・アレン氏のこと。なぜ、当時の敵国の、それもマイクロソフト共同創業者というまったく畑違いの人物が発見するにいたったのか?

 その背景を知るのは、SPA!の連載陣としてもお馴染みの中年金融マンことぐっちー氏だ。「日本人は彼のことを“アレン”って呼びますけど、本当は『アラン』です。彼はアレンと呼ばれるのを嫌がるから注意してください」と前置きしつつ、アラン氏との出会いを振り返る。

「僕がモルガン・スタンレーに勤めていたときから、アランとは友人です。当時のマイクロソフトはお金がなくて、困窮していた。それで、日本からも出資を募ろうと来日したときに、僕が50億円集めたんです。そのことを、アランは今でも恩義に感じてくれている。それ以降、何度もアランの自宅には遊びに行きました。もう、サンダーバードの基地のような自宅ですよ(笑)。2010年のバンクーバー五輪のときなんかは、その自宅の前の湖から、自家用水上ジェットを飛ばして、五輪会場に連れて行ってもらいました。今回、武蔵を発見するのに使った『オクトパス』という名のクルーザーにも何度も乗りました。僕も昔、お金を貯めて3億円のクルーザーを買ったんですけど、アランにオクトパスを見せられたときは唖然としましたね。僕の船の何倍もの大きさですから。4階建てだから、もう客船クラス。当然のようにプールが備付で、ヘリも積んでいて、無人潜水艇も搭載しています。それと、シャンパンを山ほど(笑)。沖に出ては、何日もシャンパンを飲んだくれて過ごすわけです」

 米経済紙『Forbs』の2015年版長者番付によれば、アラン氏の資産額は175億ドル。日本円にして2兆1000億円! マイクロソフト以外にも複数の企業の大株主となっているほか、6つの財団を傘下に率いるポール・G・アレン財団を運営し、NFLのシアトル・シーホークス、NBAのポートランド・トレイルブレイザーズ、プロサッカーリーグのシアトル・サウンダーズのオーナーも務めているのだ。そんな超資産家にはもう1つの顔があった。

557名無しさん:2015/03/14(土) 17:12:15
>>556

「マイクロソフトのイメージからアランをエンジニアだと思っている人がいると思いますけど、彼が大学時代に専攻していたのは考古学です。昔からトレジャーハンターになりたかったとよく話していました。あまり知られていませんが、過去にアランは1898年のアメリカ=スペイン戦争のときの沈没船を引き上げています。そのときに見つかった財宝で200億円手に入れた、という話をしていました。今回、武蔵を探した理由について、『父親が太平洋戦争に従軍していたから興味があった』と話しているようですが、実際には一番になりたかったっていうのが理由でしょう。彼は『大和はすでに発見されているから、俺は武蔵を見つけたいんだ』と10年ほど前から話していましたから。アランはものすごい負けず嫌いなんですよ。共同創業者なのにビル・ゲイツにも対抗心丸出し。というのも、ビル・ゲイツを口説いたのはアランですからね。だから、『なんで、ビルばかり注目を集めるんだ……』と悔しがってた時期もあるようです(笑)」

 そんなアラン氏に、今回、ぐっちー氏は祝福のメッセージを送ったという。

「『おめでとう』メールを送ったら、アランから『日本に寄贈したいと思っているんだけど、フィリピン政府が介入してきて困っている』という返信がありました。どうやら、自腹で引き上げて、無償で日本政府に寄付するつもりだったみたいですよ?(笑)。どれだけ太っ腹なんだ!って話ですけど、彼にとっては数百億円の引き上げコストなんて屁でもないのでしょう。『フィリピン政府から買い取ってでも寄付する』とメールをくれました。本当にスケールの大きすぎる男です!」

 武蔵が日本に帰還する日はそう遠くない!? アラン氏の心からのご活躍をお祈り申し上げます! <取材・文/池垣 完(本誌) 写真/AP アフロ>

日刊SPA!

558名無しさん:2015/03/15(日) 08:53:11
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date1&amp;k=2015031400360
日韓は「独仏と異なる」=歴史問題で見解-仏外相

 フランスのファビウス外相は14日、東京都内の仏大使公邸で記者会見し、フランスとドイツを引き合いに、日本に歴史認識での反省を求めた韓国外務省当局者の発言に関し、「(仏独と)アジアでは取り巻く状況も地理的条件も異なることを忘れてはいけない」と述べ、単純に比較できないとの見解を示した。
 ファビウス外相は「仏独は(歴史上)互いを侵略したが、第2次大戦終結を機に和解した。今では世界で最も仲の良い国だ」と強調。「そこから何か感じてもらえると思う」と語った。 
 また、ウクライナ政府軍と親ロシア派の新たな停戦合意から1カ月を迎えるウクライナ東部情勢について、ファビウス外相は「おおむね停戦は守られている」と評価。その上で「緊張感が残るのは事実だ。ウクライナ東部に独立性を持たせることが求められる」と指摘し、東部への自治権付与を盛り込む停戦合意の着実な履行を訴えた。(時事)(2015/03/14-20:45)

559名無しさん:2015/03/21(土) 20:00:10
http://news.infoseek.co.jp/article/21kyodo2015032101001296
硫黄島戦で日米合同の慰霊式典 戦後70年、閣僚が初参列- 共同通信(2015年3月21日13時47分)

 太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)で日米合同の慰霊式典が21日、開かれた。初参列した塩崎恭久厚生労働相は「先の大戦の記憶を次世代に継承する」と誓った。ほかに中谷元・防衛相ら両国政府高官、遺族ら約550人が参列し、日米計約2万9千人の戦没者を追悼した。

 今年は戦後70年の節目となるため、参列者数を昨年の式典より大幅に増やし、規模を拡大した。遺族らでつくる硫黄島協会によると、閣僚の出席は初めて。

 塩崎氏は「大戦から学んだ教訓を深く心に刻み、悲惨な戦争を繰り返さない」と指摘。中谷氏は「日米同盟の一層強化に努力する」と表明した。

560名無しさん:2015/03/21(土) 22:31:23
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150317-00000536-san-pol
民主・細野氏「東京大空襲は米軍による残虐行為」 記者から問われて言及
産経新聞 3月17日(火)15時33分配信

 民主党の細野豪志政調会長は17日の記者会見で、東京大空襲について「10万人以上が短い期間で命を落としたことは、米軍による非常に残虐な行為だと考えている」と述べた。細野氏は10日の記者会見で、東京大空襲が非戦闘員の殺(さつ)戮(りく)を目的とした米軍の無差別爆撃であることには一切言及していなかった。

 17日の記者会見で、無差別爆撃である事実に言及しなかった理由について質問されると、細野氏は「それは当然のことだ」と語った。

 その上で当時の状況について「日本は制空権、制海権も完全に失っていた。いかんともし難い状況になっていても戦争を終結できなかった。政府の国策の誤りであることは明らかだ」と指摘した。

 細野氏は10日の記者会見で東京大空襲について「国策の誤りを反映した結果だ」と述べていた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150317-00000557-san-pol
「いかんともし難い状況になっていても、戦争終結ができなかった」民主・細野氏の東京大空襲発言詳報
産経新聞 3月17日(火)18時46分配信

 民主党の細野豪志政調会長の東京大空襲をめぐる発言の詳報は以下の通り。

 【17日の定例記者会見】

 --先週の東京大空襲についての発言で「国策の誤りの反映」といわれたが、なぜ無差別爆撃という点に触れなかったのか、改めて認識を聞きたい

 「東京大空襲は10万人以上の方が本当に短い期間であれだけ命を落とした。それ自体は、米軍による非常に残虐な行為だと私は考えている。ただ、それは当然のことであって、日本としてはそういう認識だ」

 「もう一ついえることは制空権、制海権も完全に失っていた。もはや、いかんともし難い状況になっていても、戦争終結ができなかったことも含めて、わが国の政府の国策の誤りということは明らかだと。この間(先週は)そういう説明をした」

 【10日の定例記者会見】

 (冒頭発言)

 「今日は東京大空襲からちょうど70年だ。10万人の方々が命を落としたといわれる。やはり、あれだけの犠牲を出したこと自体、わが国としてしっかりと胸に刻まなければならないし、国策の誤りを反映した結果だと思っている」

561とはずがたり:2015/04/08(水) 10:29:00
メルケルがこの前日本にやってきて偉そうに講釈垂れていたが,独逸も第二次大戦の精算が済んで居ないんじゃないか!?(笑)

其れは兎も角,ギリシャと独逸の間に正式な第二次大戦の決着を付ける条約的なものは結ばれていないのか?
>、欧州の複数の国の政府との合意の一部として1960年に支払われた賠償金や、1990年にかつての東西ドイツと連合国が調印した第2次世界大戦を正式に終結させる条約により、賠償問題は解決済みだとしている

ギリシャからの戦時賠償請求は「ばかげた話」、独副首相
http://www.afpbb.com/articles/-/3044789
2015年04月08日 08:11 発信地:ベルリン/ドイツ

【4月8日 AFP】ギリシャがドイツに対し、第2次世界大戦(World War II)の賠償として2780億ユーロ(約36兆円)以上の請求権があるとしていることについて、ドイツの副首相兼経済相は7日、戦時賠償の請求とギリシャのさらなる融資交渉を混同するのは「ばかげた話」だと一蹴した。

?ジグマル・ガブリエル(Sigmar Gabriel)独副首相兼経済・エネルギー相は、同日ドイツの首都ベルリン(Berlin)で開かれた行事で発言し、ナチス・ドイツ(Nazis)による4年に及ぶ非道なギリシャ占領に対しギリシャが賠償請求を行えば、巨額の債務を抱えるギリシャへの金融支援を継続していこうとする努力の進展を阻害するものでしかないと指摘した。

?さらにガブリエル氏は、ギリシャの返済能力を高めるためのギリシャと債権者との協議を「1ミリ」たりとも前進させるものではないとして、「正直に言って、ばかげた話だと思っている」と苦言を呈した。

?ギリシャの新しい急進左派政府は、自らの政策を遂行していく「余地」を確保しておきたい考えなのだとガブリエル氏はみており、「政策が転換されたこととそのための余地の確保は、第2次世界大戦やその時の賠償金の支払いとは一切関係がない」と断じた。

?今年1月に発足したばかりのギリシャ急進左派政府は戦時賠償を、解決を要する「倫理問題」と位置付けている。感情に訴え論争を巻き起こすこの問題を持ち出すことで、ギリシャはドイツに対する圧力を強めている。

?ギリシャの債務危機をめぐり、ギリシャとドイツとの間で意見対立が続く中、ナチスがギリシャを残虐かつ壊滅的な形で占領していた1941年からの4年間という痛ましい歴史の記憶が、改めて呼び覚まされてきた。

?ギリシャの財務副大臣が6日議会に対し、ドイツが負担すべき賠償額は2780億ユーロを超えると報告。これにはナチス占領軍によって強要された融資額およそ100億ユーロ(約1兆3000億円)も含まれている。

?ドイツ側は、欧州の複数の国の政府との合意の一部として1960年に支払われた賠償金や、1990年にかつての東西ドイツと連合国が調印した第2次世界大戦を正式に終結させる条約により、賠償問題は解決済みだとしている。(c)AFP/Kate Millar

562とはずがたり:2015/04/09(木) 12:44:54
>>561
ドイツが歴史の清算をちゃんとやってきたってのはやや美化しすぎで,ちゃんと体制内の枠組みにはめ込めれてただけだし,右翼がどっかで云ってたけど日本人は中韓と違って米ソの残虐行為に賠償を求めるような気質がないなんてのも東京大空襲への賠償を求める動きがあったし(アメリカを訴えたかったけどアメリカでは政府を訴えられない仕組みみたい)同じく嘘っぱちである。

ナチス戦後賠償は36兆円とギリシャ、独は否定
http://www.yomiuri.co.jp/world/20150408-OYT1T50104.html
2015年04月09日 08時08分

 【ローマ=青木佐知子】ギリシャのマルダス副財務相は6日、第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるギリシャ占領の損害賠償の推計額は2787億ユーロ(約36兆円)に上るとの見解を議会で明らかにした。

 緊縮財政と景気低迷にあえぐギリシャでは、財政規律を重視するドイツに対する国民の反発が高まっており、戦後賠償を求める動きが議会などで活発化。地元紙によると、銀行が強制された貸付金の返済分や占領下で生じた施設、個人に対する損害賠償だという。

 これに対し、ドイツは「賠償問題は法的に解決済み」との立場で、ガブリエル経済相は7日、「ばかげている」と述べ、ギリシャの訴えを否定した。

2015年04月09日 08時08分

563名無しさん:2015/04/11(土) 20:38:38
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150408-00000010-pseven-int
両陛下ご訪問のパラオ 親日国で国旗も日章旗に因むデザイン
NEWS ポストセブン 4月8日(水)7時6分配信

 日本の南3200kmに浮かぶ島国パラオを、天皇皇后両陛下が4月8日から慰霊に訪れる。この地は、ペリリューの戦いなど日米の激戦が繰り広げられ、約1万8000人が戦死した、太平洋戦争の大激戦地のひとつだ。

 世界屈指の美しい海に囲まれた島には、戦争の爪痕が今も数多く残されている。最後まで戦い抜いた日本将兵が籠もっていた戦闘壕。守備隊を率いた中川州男(くにお)大佐が自決した山頂の司令部壕。ジャングルに一歩足を踏み入れれば、不発弾や兵器の残骸が緑に埋もれている。兵器や基地の跡だけではない。パラオにはいまだ7000柱以上の日本兵の遺骨が眠っているのだ。

 第1次大戦後、委任統治を認められた日本政府は教育とインフラ整備に力を入れ、今日のパラオの基礎を作った。この地を計4度訪れたジャーナリストの井上和彦氏は「パラオの人たちはそのことに今も感謝している」と話す。

「日本に親近感を持っているためか、1994年に独立して国旗を決める際に、日本の国旗にちなんだデザインが住民投票で選ばれました」(井上氏)

 親日国家パラオ──英霊たちが眠る彼の地のことを、もう一度、思い起こす必要がある。

写真◆『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか』(井上和彦著、PHP研究所)より

※週刊ポスト2015年4月17日号

564名無しさん:2015/04/11(土) 20:39:28
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150404-00000016-pseven-cn
日本人200人超虐殺の通州事件 中国指摘する南京事件と酷似
NEWS ポストセブン 4月4日(土)16時6分配信

 日本に対して、「歴史の直視」を訴える中国政府の急所は、自国の歴史認識に他ならない。1937年に北京郊外で発生した通州事件と1946年に吉林省で発生した通化事件。いずれも多くの日本の民間人が虐殺されたが、中国共産党は、現在に到るまで隠蔽し続けている。戦後70年の今年、中国は戦勝国としての「面子」と「立場」を盛んに強調するが、自国の戦争犯罪を検証できない国に未来はないとジャーナリストの櫻井よしこ氏は指摘する。

 * * *
 今年に入って中国が、日本に対して次々と「歴史カード」をきってきています。最近では、虐殺の事実を確認できない南京事件の犠牲者を「40万人」とまで言い始め、「日本兵の残忍さ」を世界中に宣伝しています。3月21日の日中韓外相会談でも中国の王毅外相は日本の岸田文雄外相に「歴史を直視せよ」と述べ、安倍政権を厳しく牽制しました。

 しかしこの言葉は、中国にこそ向けて発せられるべき言葉だと、私は思います。

 中国の地で日本人が及んだとされる残虐な行為のほとんどは根拠に乏しいからです。たとえば南京では「赤ん坊を空中に投げ、落下するところを剣で刺した」という話を中国政府は広めています。日本の先人たちが、その種の暴虐に及んだとは俄(にわか)には信じがたいのです。

 調べてみると、そうした蛮行はむしろ中国人が日本人に対して及んだ行為であることが分かってきました。日本ではなぜかあまり知られていませんが中国では日本人に対する虐殺事件が幾度も起きています。代表的な事例が1937年7月29日の通州事件です。

 通州事件では約400人の在留日本人のうち200数十人が虐殺されました。女性たちは辱められ、遺体を切り刻まれ、中国兵たちは切り落とした頭部で遊んだとさえいいます。首を固定して吊るされている人たちも目撃されました。彼らは食事も水も与えられず放置され、何日間もの長い間苦しんで死に至ったのでしょう。

 気付かれたでしょうか。これらは、南京で日本人が犯した残虐行為だと中国政府が主張するものと酷似しています。

 人間は、自分の行動や価値観に基づいて、他人の行動を推し量ろうとする生き物です。中国政府が、日本軍が南京で及んだと主張する行為には裏付けがない。それどころか、日本人の犯罪を後からでっちあげるべく、自らの過去の蛮行を参考にした可能性があるのです。その一つが通州事件だったと私は考えています。

 通州事件は中国人の民族性の一端を表していますが、それは100年や200年のスパンで築かれたわけではありません。紀元前500年から紀元1000年までの約1500年の中国の歴史を、北宋の学者・政治家だった司馬光がまとめた『資治通鑑』という歴史書があります。

 1万ページに及ぶこの大著の中に中国人が長い歴史のなかですさまじい拷問を編み出し、政敵や反逆者たちへの罰として、繰り返してきたことが書かれています。中国では刑は残酷であることをもって是とされ、捕らえた者をより多く、より長く苦しませなければ、逆に刑吏が罰せられました。通州事件で日本人が受けた残虐な行為は、いずれも同書に繰り返し繰り返し登場する刑罰そのものでした。

 そうした民族性は、戦後も綿々と受け継がれました。 『資治通鑑』を17回も読んだとされる毛沢東は、大躍進政策で約2000万人の農民を餓死させ、文化大革命で3000万人以上の知識人や富裕層を死に追いやりました。

 現在も、反政府の活動家や中国共産党内の不満分子に対して、人を人とも思わないようなすさまじい拷問が繰り広げられている、国家主席をはじめとする中国の指導者層は、同書に書かれていた恐怖政治を体制安定のために敷いているのです。

※SAPIO2015年5月号

565とはずがたり:2015/04/27(月) 22:53:55
与党中にやっとくべきだったよなぁ

民主党:「反軍演説」復活働きかけへ
http://mainichi.jp/select/news/20150424k0000m010052000c.html
毎日新聞 2015年04月23日 20時38分(最終更新 04月23日 21時39分)

 民主党の長妻昭代表代行は23日の記者会見で、戦前の帝国議会で軍国主義に反対した「反軍演説」など議事録から削除され非公開になっている部分の公開に向け、衆院議院運営委員会で各党に働きかける考えを示した。自民党が社民党の福島瑞穂副党首の「戦争法案」発言の修正を求めた動きを念頭に、「野党が声を上げないと自由の範囲が狭くなる危機感がある」と懸念を表明した。

 衆院記録部によると、反軍で知られた戦前の政治家、斎藤隆夫(1870?1949年)が帝国議会で40年に日中戦争への疑問を表明した「支那事変処理に関する質問演説」(反軍演説)の削除部分を含む12件が非公開になっている。これらの議事録は95年に公開を検討したが、見送られたという。

566名無しさん:2015/05/03(日) 15:07:39
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1061910652/643
ブラジルでひっそりと逝った「明治天皇の孫」〈週刊新潮〉
BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり 4月29日(水)8時1分配信

 ブラジルに日本人移民が初めて到着したのは、1908年のこと。以来、移民は戦前に19万人弱、戦後に5万人余を数えるが、中には明治天皇の孫もいた。

 4月15日、サンパウロの自宅で逝去した多羅間(たらま)俊彦さんがそのお方だ。享年86。

 1929年、後に首相を務めた東久邇宮稔彦(なるひこ)王の四男として誕生。母親は明治天皇第九皇女の聰子内親王。つまり明治天皇の孫で昭和天皇の従弟にあたる。

 47年10月、秩父、高松、三笠の三直宮(じきみや)を除く11宮家、51人が皇籍を離脱。俊彦さんは慶應義塾大学法学部を卒業後、51年に元サンパウロ総領事の多羅間鉄輔さんの未亡人で、広大なコーヒー園を持つキヌさんの養子になり、ブラジルに渡った。

 俊彦さん本人は、小誌に〈皇籍を剥奪されても、特に何も感じませんでした。これでようやく身軽になれると思いました〉などと当時を振り返っている。

 皇籍を離れ、一農民になる意志で移民になったのに、ブラジルの日本人社会は天孫降臨だと大騒ぎで迎えた。

「日本人同士で敗戦を信じない『勝ち組』と『負け組』の対立がありましたから、元皇族が移民で来たことで、本当に負けたと悲しむ人もいたそうです」(ブラジルに詳しいジャーナリスト)

 コーヒー園の経営の後、外国からブラジルに進出する企業向けの不動産業を手がけた。沖縄出身の移民の娘と現地で結婚、1男を授かる。迷わずブラジルに帰化、普段はポルトガル語を使う。

「腰が低く、日系人の親睦会のまとめ役をなさったりして、尊敬を集めていた」(同)

 2008年、皇太子殿下のブラジル御訪問の際には、懇談の席で「両陛下からよろしくとのことでした」とお言葉を賜っている。

 日本よりブラジルが落ち着くと言いながらも、皇室の慶弔に礼を尽くしてきた。

※「週刊新潮」2015年4月30日号

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567名無しさん:2015/05/03(日) 15:14:54
>>566
>首相を務めた東久邇宮稔彦(なるひこ)王

東久邇宮稔彦王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B

第二次世界大戦終結後の1945年(昭和20年)8月17日、敗戦の責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで内閣総理大臣に就任、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。
東久邇宮は内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を実施した。また、「新日本建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待する」とし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望を示した。

1915年(大正4年)に予定通り明治天皇の第9皇女泰宮聡子内親王と結婚。1920年(大正9年)からフランスに留学。サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリテクニークで、政治、外交をはじめ広く学んだ。そして、後述するように、この留学時代、フランスの自由な気風に馴染み、クロード・モネやクレマンソーと親交を結んだり、自動車運転や現地恋人との生活を楽しんだ。この留学時代の影響から、皇室随一の自由主義的思想の持ち主として知られるようになる。

日中戦争では第二軍司令官として華北に駐留する。自身の自由主義的思想に基づいて、対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入にはきわめて批判的であった。そのような思想の持ち主でありながら、皇族・陸軍幹部というポジションにもいた東久邇宮は、和平派からはたびたび首班候補にあげられるようになる。
1941年(昭和16年)8月5日、昭和天皇と会談した際、天皇は「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかときいたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない。作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうもほんとうのことを自分にいわないので困る」と宮に述べた。これに対し、宮は「現在の制度(大日本帝国憲法)では、陛下は大元帥で陸海軍を統帥しているのだから、このたびの仏印進駐について、陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います。たとえ参謀総長とか陸軍大臣が作戦上必要といっても、陛下が全般の関係上よくないとお考えになったら、お許しにならないほうがよい」と、明治憲法の枠を越してでも天皇の大権によって陸軍の暴走を食い止めた方が良いと助言したという。しかし、英国訪問時に感銘を受けた立憲君主制への拘りから、昭和天皇には宮の助言は届かなかったという。

米軍占領直後には「終戦」という語句を用いて敗戦の現実を有耶無耶にしようとする流れを批判し、敗戦の現実を認識してはじめて国土再建が成ると閣僚に説いたが、下村陸軍大臣に国民の混乱を防ぎ、時局収拾を円滑にするため「終戦」という言葉を使ってほしいと説得され応じたという。
当時は、まだ制度上は帝国内閣だったにも関わらず、東久邇宮は国民の意見を国政に反映したいと考え「私は皆さんから直接手紙をいただきたい。嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でもよろしい。参考としたい」と呼びかけたという。すると毎日数百通に上る国民からの手紙が舞い込んできたという。

568名無しさん:2015/05/03(日) 16:51:14
>>555
>>567
統帥権干犯問題って、
濱口雄幸内閣に対して、野党・政友会の犬養毅と鳩山一郎が、
ある意味党利党略のために、統帥権干犯論を利用して、
「批判のための批判」をしたことが、きっかけだったんですね。
五・一五事件で軍部に犬養が殺されたのは皮肉だ。

統帥権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
濱口雄幸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8
犬養毅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85
鳩山一郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E
森恪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%81%AA
佐郷屋留雄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%83%B7%E5%B1%8B%E7%95%99%E9%9B%84
藩閥
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E9%96%A5

569とはずがたり:2015/05/04(月) 07:08:52
>>567
おお,俺も,2,3日前たまたまなんか調べてて東久邇宮稔彦王に辿り着いたところでした♪

治安維持法の廃止とかGHQに迫られて国体が維持出来ないと直ぐに内閣を投げ出して総辞職した印象だったのでもっと皇室出身でごりごりの人物かと思ってたけど自由主義者だったんですねぇ。

571名無しさん:2015/05/16(土) 23:13:48
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150513-00010000-bjournal-soci
歴史認識で知日派研究者187人が声明 安倍首相は忠告を受け入れられるか?
Business Journal 5月13日(水)6時1分配信

 米国を中心とした日本研究者、歴史学者ら187人が連名で、日本側の歴史認識を憂慮する「日本の歴史家を支持する声明」と題する文書が公表された。

 署名者の中には、『ジャパン・アズ・ナンバー1』で知られる社会学者のエズラ・ヴォーゲル(ハーバード大名誉教授)、日本近代史が専門で『敗北を抱きしめて』などを書いたジョン・ダワー(マサチューセッツ工科大学名誉教授)、日本の経済や社会構造を専門に研究しているイギリスの社会学者ロナルド・ドーア(ロンドン大名誉教授)ら、著名な知日派学者も含まれている。

●知日派からの愛ある忠告

 書面は「戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察犬の節度ある運用と、政治的な寛容さ」「科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきた」点を称賛したうえで、歴史認識、とりわけ慰安婦問題について、昨今の日本から発せられる主張に強い懸念を示している。

 慰安婦制度については、(1)その規模の大きさ、(2)軍による組織的な監理が行われた点、(3)植民地と占領地から貧しく弱い立場の女性を搾取した――という点で、戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春の中でも、「特筆すべきもの」と指摘。「強制連行はなかった」という点を強調し、あたかも朝鮮半島で女性たちが自発的に慰安婦になったかのような主張に対しては、「大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、すでに資料と証言が明らかにしている」として、被害者が受けた残忍な行為から目を背けないよう、たしなめている。

 この文書が重い意味を持つのは、いわゆる「反日」的な人たちからではなく、日本に好意を持ち、日本をよく知る専門家から出されているからだ。書面の冒頭には、「私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります」と、“日本愛”が吐露されている。アメリカで奴隷制度を廃止した後も今なお人種差別が残っていることや、欧米を含めた人種差別や植民地支配についても言及されていて、決して「上から目線」で日本を非難している内容ではない。

 しかも、慰安婦問題をめぐっては、「日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにもゆがめられてきました」として、日本だけに問題があるわけではないことも、明記している。この声明は英語と日本語で発せられているが、できれば韓国語と中国語のヴァージョンも発表してもらいたいと思う。

572名無しさん:2015/05/16(土) 23:14:03
>>571
●現政権による出版社や記者への圧力

 書面全体から強く伝わってくるのは、日本に対する「批判」より、「懸念」「心配」「落胆」と、それでも捨てきれない「好意」「願望」「期待」だ。

 こうした知日派の意見が今の時期に発せられたのは、過去の日本の「侵略」を認める発言を避け続ける安倍晋三首相の歴史認識への懸念や、この夏に出される戦後70年の首相談話への関心が高まっていることに加え、日本政府の歴史認識に関する対外発信のやり方に対する違和感が強まっているからだろう。

 例えば、日本の外務省は昨年11月、米国の高校向けの教科書に慰安婦についての誤った記載があるとして、出版社に訂正を求めた。米国では、日本の教科書検定制度のように国が教科書に関与する制度はないため、この訂正要求は「国家による出版に対する圧力」と受け止められた。今年に入ってから、ウォールストリート・ジャーナルなどの有力紙が、日本政府に批判的にこの問題を報じている。3月には、米歴史学者らが日本政府を批判する声明を発している。

 この問題については、その後、日本の歴史学者らが、誤った記載を指摘し訂正を求める要求を出版社に行っている。このように、間違いがあれば、学者同士の議論の中で正されるのが望ましい。いきなり政府が要求を突きつけたことは、出版や学問の場に権力がずかずかと踏み込んでくる印象を強く与えたに違いない。

 こうしたやり方は、米国においては逆効果であり国益に反する結果を招くと駐米外交官がわからないはずはないだろう。それでも抗えないほど首相官邸の指示が強力なのか。それとも日本の外交官の主体的判断力が著しく低下しているのか。あるいは、その両方なのか……。

 現政権は、欧米のメディアに対しても積極的に“意見表明”を行っているようだ。

 4月には、日本に滞在する海外メディアの特派員らで作る日本海外特派員協会の機関誌に、5年間の東京勤務を終えて帰国する独フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイツゥング紙のカーステン・ゲルミス氏が寄せた手記が話題になった。ゲルミス氏も、「私のこの国への愛情は募るばかりだ」と述べたうえで、日本の政府が海外メディアに対して閉鎖的になっている一方で、批判的な報道に対して高圧的な対応をとるとして、次のような経験を書いている。

573名無しさん:2015/05/16(土) 23:14:19
>>572
「私が安倍政権の歴史修正主義に批判的に書いた記事が掲載されると、フランクフルトの日本総領事が、新聞本紙の外交担当のデスクを訪ねてきて、『東京』からの異議を伝えた。中国がこの記事を反日プロパガンダに利用していると抗議したのだ。

 冷え切った90分間の会談の終わりに、デスクは記事が間違えているという事実を証明する情報を総領事に求めたが、それは無駄に終わった。『金が絡んでいると疑わざるを得ない』と外交官は言った。それは、私を、デスクを、そして新聞社全体を侮辱することにほかならない。そして、私の記事の切り抜きのフォルダーを引き出しながら、『中国のプロパガンダ記事を書く必要があるとは、ご愁傷様ですな』と続けた。私がビザ申請の承認を得るためにその記事を書く必要があったらしいと考えているようだった。

 私が? 北京の雇われスパイだって? そこに行ったこともなければ、ビザの申請をしたこともないというのに」(編註:日本語版原文ママ)

 このような対応で、記者や新聞社の論調を変えることができると政府が考えているとしたら、愚かなことだ。

●安倍首相は忠告に耳を傾けるか

 しかし安倍首相自身は、このような手法によるマイナス面には、まったく目を向けないようである。1月29日の衆院予算委員会で、先の米国の教科書の問題について問われると、「主張すべき点をしっかりと主張してこなかった結果、このような教科書が米国で使われている」と述べ、「国際社会においては、決してつつましくしていることによって評価されることはないわけでありまして、主張すべき点はしっかりと主張していく」と意気軒昂だ。

 ところで、米国の大学やシンクタンクでは、中国に対する関心が高まる一方で、日本研究の衰退が著しいという。これが米政権にも影響を与えているのではないかという危機感から、安倍首相は今回の訪米で、ハーバード大、マサチューセッツ工科大、スタンフォード大と相次いで大学を訪問して講演を行った。さらに日本研究への支援のため、マサチューセッツ工科大とコロンビア大、ジョージタウン大に対して、政府予算から約16億円を拠出することを明らかにした。

 日米政府だけでなく、国民同士の理解を深めるためにも、日本をよく知る専門家は大切な存在だ。知日派の研究者を増やしていく努力は必要だろう。ただ、そうであればなおのこと、日本の最もよい理解者である人たちの忠告には、真摯に耳を傾ける必要があるのではないか。

 今回、知日派研究者らが出した書面は、安倍首相の体面にも、十分に配慮している。安倍首相が米国議会での演説の中で、「人権」や「アジア諸国民に苦しみを与えた事実」に触れたことを高く評価。「過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる」ことへの期待が述べられている。

 書面は発表前に、首相官邸にも届けられた、とのことだ。友人たちからの心のこもった忠告は、安倍首相の心に届くのだろうか……。

江川紹子/ジャーナリスト

574名無しさん:2015/05/16(土) 23:16:23
http://www.asahi.com/articles/ASH575KGGH57UHBI01Y.html
日本の歴史家を支持する声明(全文)
2015年5月7日21時22分

 米国の歴史研究者らが公表した声明の全文は次の通り。(原文のまま)

     ◇

 日本の歴史家を支持する声明

 下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第2次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有する関心から発せられたものです。

 また、この声明は戦後70年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに70年間守られてきた平和を祝うためのものでもあります。戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と、政治的な寛容さは、日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ、全てが世界の祝福に値するものです。

 しかし、これらの成果が世界から祝福を受けるにあたっては、障害となるものがあることを認めざるをえません。それは歴史解釈の問題であります。その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる「慰安婦」制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。そのために、政治家やジャーナリストのみならず、多くの研究者もまた、歴史学的な考察の究極の目的であるべき、人間と社会を支える基本的な条件を理解し、その向上にたえず努めるということを見失ってしまっているかのようです。

 元「慰安婦」の被害者としての苦しみがその国の民族主義的な目的のために利用されるとすれば、それは問題の国際的解決をより難しくするのみならず、被害者自身の尊厳をさらに侮辱することにもなります。しかし、同時に、彼女たちの身に起こったことを否定したり、過小なものとして無視したりすることも、また受け入れることはできません。20世紀に繰り広げられた数々の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、「慰安婦」制度はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきものであります。

 「正しい歴史」への簡単な道はありません。日本帝国の軍関係資料のかなりの部分は破棄されましたし、各地から女性を調達した業者の行動はそもそも記録されていなかったかもしれません。しかし、女性の移送と「慰安所」の管理に対する日本軍の関与を明らかにする資料は歴史家によって相当発掘されていますし、被害者の証言にも重要な証拠が含まれています。確かに彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもっていません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。

 「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。

 歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が「強制的」に「慰安婦」になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます。しかし、大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません。

 日本の研究者・同僚と同じように、私たちも過去のすべての痕跡を慎重に天秤に掛けて、歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています。この種の作業は、民族やジェンダーによる偏見に染められてはならず、政府による操作や検閲、そして個人的脅迫からも自由でなければなりません。私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます。

575名無しさん:2015/05/16(土) 23:16:51
>>574

 多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、いまだに難しいことです。第2次世界大戦中に抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに40年以上がかかりました。アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに1世紀を待たねばなりませんでした。人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くっています。米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、19・20世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません。

 今日の日本は、最も弱い立場の人を含め、あらゆる個人の命と権利を価値あるものとして認めています。今の日本政府にとって、海外であれ国内であれ、第2次世界大戦中の「慰安所」のように、制度として女性を搾取するようなことは、許容されるはずがないでしょう。その当時においてさえ、政府の役人の中には、倫理的な理由からこれに抗議した人がいたことも事実です。しかし、戦時体制のもとにあって、個人は国のために絶対的な犠牲を捧げることが要求され、他のアジア諸国民のみならず日本人自身も多大な苦しみを被りました。だれも二度とそのような状況を経験するべきではありません。

 今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です。4月のアメリカ議会演説において、安倍首相は、人権という普遍的価値、人間の安全保障の重要性、そして他国に与えた苦しみを直視する必要性について話しました。私たちはこうした気持ちを賞賛し、その一つ一つに基づいて大胆に行動することを首相に期待してやみません。

 過去の過ちを認めるプロセスは民主主義社会を強化し、国と国のあいだの協力関係を養います。「慰安婦」問題の中核には女性の権利と尊厳があり、その解決は日本、東アジア、そして世界における男女同権に向けた歴史的な一歩となることでしょう。

 私たちの教室では、日本、韓国、中国他の国からの学生が、この難しい問題について、互いに敬意を払いながら誠実に話し合っています。彼らの世代は、私たちが残す過去の記録と歩むほかないよう運命づけられています。性暴力と人身売買のない世界を彼らが築き上げるために、そしてアジアにおける平和と友好を進めるために、過去の過ちについて可能な限り全体的で、でき得る限り偏見なき清算を、この時代の成果として共に残そうではありませんか。

576名無しさん:2015/05/16(土) 23:17:15
>>575

署名者一覧(名字アルファベット順)

ダニエル・オードリッジ(パデュー大学教授)

ジェフリー・アレクサンダー(ウィスコンシン大学パークサイド校准教授)

アン・アリソン(デューク大学教授)

マーニー・アンダーソン(スミス大学准教授)

E・テイラー・アトキンズ(北イリノイ大学教授)

ポール・バークレー(ラファエット大学准教授)

ジャン・バーズレイ(ノースカロライナ大学チャペルヒル校准教授)

ジェームズ・R・バーソロミュー(オハイオ州立大学教授)

ブレット・ド・バリー(コーネル大学教授)

マイケル・バスケット(カンザス大学准教授)

アラン・バウムラー(ペンシルバニア・インディアナ大学教授)

アレキサンダー・ベイ(チャップマン大学准教授)

テオドル・ベスター(ハーバード大学教授)

ビクトリア・ベスター(北米日本研究資料調整協議会専務理事)

ダビンダー・ボーミック(ワシントン大学准教授)

ハーバート・ビックス(ニューヨーク州立大学ビンガムトン校名誉教授)

ダニエル・ボツマン(イェール大学教授)

マイケル・ボーダッシュ(シカゴ大学教授)

トマス・バークマン(ニューヨーク州立大学バッファロー校名誉教授)

スーザン・L・バーンズ(シカゴ大学准教授)

エリック・カズディン(トロント大学教授)

パークス・コブル(ネブラスカ大学リンカーン校教授)

ハルコ・タヤ・クック(ウイリアム・パターソン大学講師)

セオドア・クック(ウイリアム・パターソン大学教授)

ブルース・カミングス(シカゴ大学教授)

カタルジナ・シュエルトカ(ライデン大学教授)

チャロ・ディエチェベリー(ウィスコンシン大学マディソン校准教授)

エリック・ディンモア(ハンプデン・シドニー大学准教授)

ルシア・ドルセ(ロンドン大学准教授)

ロナルド・P・ドーア(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス名誉フェロー)

ジョン・W・ダワー(マサチューセッツ工科大学名誉教授)

マーク・ドリスコル(ノースカロライナ大学チャペルヒル校教授)

プラセンジット・ドアラ(シンガポール国立大学教授)

アレクシス・ダデン(コネチカット大学教授)

マーティン・デューゼンベリ(チューリッヒ大学教授)

ピーター・ドウス(スタンフォード大学名誉教授)

スティーブ・エリクソン(ダートマス大学准教授)

エリサ・フェイソン(オクラホマ大学准教授)

ノーマ・フィールド(シカゴ大学名誉教授)

マイルズ・フレッチャー(ノースカロライナ大学チャペルヒル校教授)

ペトリス・フラワーズ(ハワイ大学准教授)

ジョシュア・A・フォーゲル(ヨーク大学教授)

セーラ・フレドリック(ボストン大学准教授)

デニス・フロスト(カラマズー大学准教授)

サビーネ・フリューシュトゥック(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)

ジェームス・フジイ(カリフォルニア大学アーバイン校准教授)

タカシ・フジタニ(トロント大学教授)

シェルドン・M・ガロン(プリンストン大学教授)

ティモシー・S・ジョージ(ロードアイランド大学教授)

クリストファー・ガータイス(ロンドン大学准教授)

キャロル・グラック(コロンビア大学教授)

アンドルー・ゴードン(ハーバード大学教授)

ヘレン・ハーデーカー(ハーバード大学教授)

ハリー・ハルトゥニアン(ニューヨーク大学名誉教授)

長谷川毅(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)

橋本明子(ピッツバーグ大学教授)

サリー・ヘイスティングズ(パデュー大学准教授)

トム・ヘイブンズ(ノースイースタン大学教授)

早尾健二(ボストンカレッジ准教授)

ローラ・ハイン(ノースウェスタン大学教授)

ロバート・ヘリヤー(ウェイクフォレスト大学准教授)

マンフレッド・ヘニングソン(ハワイ大学マノア校教授)

クリストファー・ヒル(ミシガン大学助教授)

平野克弥(カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授)

デビッド・ハウエル(ハーバード大学教授)

ダグラス・ハウランド(ウィスコンシン大学ミルウォーキー校教授)

ジェムス・ハフマン(ウイッテンバーグ大学名誉教授)

ジャネット・ハンター(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス教授)

入江昭(ハーバード大学名誉教授)

577名無しさん:2015/05/16(土) 23:17:38
>>576

レベッカ・ジェニスン(京都精華大学教授)

ウィリアム・ジョンストン(ウェズリアン大学教授)

ジャン・ユンカーマン(ドキュメンタリー映画監督)

イクミ・カミニシ(タフツ大学准教授)

ケン・カワシマ(トロント大学准教授)

ウィリアム・W・ケリー(イェール大学教授)

ジェームス・ケテラー(シカゴ大学教授)

ケラー・キンブロー(コロラド大学ボルダー校准教授)

ミリアム・キングスバーグ(コロラド大学助教授)

ジェフ・キングストン(テンプル大学ジャパン教授)

ヴィキター・コシュマン(コーネル大学教授)

エミ・コヤマ(独立研究者)

エリス・クラウス(カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授)

ヨーゼフ・クライナー(ボン大学名誉教授)

栗山茂久(ハーバード大学教授)

ピーター・カズニック(アメリカン大学教授)

トーマス・ラマール(マギル大学教授)

アンドルー・レビディス(ハーバード大学研究員)

イルセ・レンツ(ルール大学ボーフム名誉教授)

マーク・リンシカム(ホーリークロス大学准教授)

セップ・リンハルト(ウィーン大学名誉教授)

ユキオ・リピット(ハーバード大学教授)

アンガス・ロッキャー(ロンドン大学准教授)

スーザン・オルペット・ロング(ジョンキャロル大学教授)

ディビッド・ルーリー(コロンビア大学准教授)

ヴェラ・マッキー(ウーロンゴン大学教授)

ウォルフラム・マンツェンライター(ウィーン大学教授)

ウィリアム・マロッティ(カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授)

松阪慶久(ウェルズリー大学教授)

トレント・マクシー(アマースト大学准教授)

ジェームス・L・マクレーン(ブラウン大学教授)

ガビン・マコーマック(オーストラリア国立大学名誉教授)

メリッサ・マコーミック(ハーバード大学教授)

デイビッド・マクニール(上智大学講師、ジャーナリスト)

マーク・メッツラー(テキサス大学オースティン校教授)

イアン・J・ミラー(ハーバード大学教授)

ローラ・ミラー(ミズーリ大学セントルイス校教授)

ジャニス・ミムラ(ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校准教授)

リチャード・マイニア(マサチューセッツ州立大学名誉教授)

中村美理(ウェズリアン大学准教授)

ユキ・ミヤモト(デポール大学准教授)

バーバラ・モロニー(サンタクララ大学教授)

文有美(スタンフォード大学准教授)

アーロン・ムーア(マンチェスター大学准教授)

テッサ・モーリス=スズキ(オーストラリア国立大学教授)

オーレリア・ジョージ・マルガン(ニューサウスウェールズ大学教授)

リチャード・タガート・マーフィー(筑波大学教授)

テツオ・ナジタ(シカゴ大学名誉教授)

ジョン・ネイスン(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)

クリストファー・ネルソン(ノースカロライナ大学チャペルヒル校准教授)

サトコ・オカ・ノリマツ(『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』エディター)

マーク・ノーネス(ミシガン大学教授)

デビッド・桃原・オバミラー(グスタフ・アドルフ大学准教授)

尾竹永子(ウエズリアン大学特別講師、アーティスト)

サイモン・パートナー(デューク大学教授)

T・J・ペンペル(カリフォルニア大学バークレー校教授)

マシュー・ペニー(コンコルディア大学准教授)

サミュエル・ペリー(ブラウン大学准教授)

578名無しさん:2015/05/16(土) 23:17:50
>>577

キャサリン・フィップス(メンフィス大学准教授)

レスリー・ピンカス(ミシガン大学准教授)

モーガン・ピテルカ(ノースカロライナ大学チャペルヒル校准教授)

ジャネット・プール(トロント大学准教授)

ロジャー・パルバース(作家・翻訳家)

スティーブ・ラブソン(ブラウン大学名誉教授)

ファビオ・ランベッリ(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)

マーク・ラビナ(エモリー大学教授)

シュテフィ・リヒター(ライプチヒ大学教授)

ルーク・ロバーツ(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)

ジェニファー・ロバートソン(ミシガン大学教授)

ジェイ・ルービン(ハーバード大学名誉教授)

ケネス・ルオフ(ポートランド州立大学教授)

ジョルダン・サンド(ジョージタウン大学教授)

ウエスリー・佐々木・植村(ユタ州立大学准教授)

エレン・シャッツナイダー(ブランダイス大学准教授)

アンドレ・シュミット(トロント大学准教授)

アマンダ・C・シーマン(マサチューセッツ州立大学アマースト校准教授)

イーサン・セーガル(ミシガン州立大学准教授)

ブォルフガング・ザイフェルト(ハイデルベルク大学名誉教授)

マーク・セルデン(コーネル大学上級研究員)

フランツイスカ・セラフイン(ボストンカレッジ准教授)

さゆり・ガスリー・清水(ライス大学教授)

英子・丸子・シナワ(ウィリアムス大学准教授)

パトリシア・スイッペル(東洋英和女学院大学教授)

リチャード・スミスハースト(ピッツバーグ大学名誉教授)

ケリー・スミス(ブラウン大学准教授)

ダニエル・スナイダー(スタンフォード大学アジア太平洋研究センター副所長)

M・ウイリアム・スティール(国際基督教大学教授)

ブリギッテ・シテーガ(ケンブリッジ大学准教授)

ステファン・タナカ(カリフォルニア大学サンディエゴ校教授)

アラン・タンスマン(カリフォルニア大学バークレー校教授)

セーラ・タール(ウィスコンシン大学マディソン校准教授)

マイケル・ティース(カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授)

マーク・ティルトン(パデュー大学准教授)

ジュリア・トマス(ノートルダム大学准教授)

ジョン・W・トリート(イェール大学名誉教授)

ヒトミ・トノムラ(ミシガン大学教授)

内田じゅん(スタンフォード大学准教授)

J・キース・ヴィンセント(ボストン大学准教授)

スティーブン・ブラストス(アイオワ大学教授)

エズラ・ヴォーゲル(ハーバード大学名誉教授)

クラウス・フォルマー(ミュンヘン大学教授)

アン・ウォルソール(カリフォルニア大学アーバイン校名誉教授)

マックス・ウォード(ミドルベリー大学助教授)

ローリー・ワット(ワシントン大学(セントルイス)準教授)

ジェニファー・ワイゼンフェルド(デューク大学教授)

マイケル・ワート(マルケット大学准教授)

カレン・ウイゲン(スタンフォード大学教授)

山口智美(モンタナ州立大学准教授)

山下サムエル秀雄(ポモナ大学教授)

ダーチン・ヤン(ジョージ・ワシントン大学准教授)

クリスティン・ヤノ(ハワイ州立大学マノア校教授)

マーシャ・ヨネモト(コロラド大学ボルダー校准教授)

米山リサ(トロント大学教授)

セオドア・ジュン・ユウ(ハワイ大学准教授)

吉田俊(西ミシガン大学教授)

ルイーズ・ヤング(ウィスコンシン大学マディソン校教授)

イヴ・ジマーマン(ウェルズリー大学准教授)

ラインハルト・ツェルナー(ボン大学教授)

この声明は、2015年3月、シカゴで開催されたアジア研究協会(AAS)定期年次大会のなかの公開フォーラムと、その後にメール会議の形で行われた日本研究者コミュニティ内の広範な議論によって生まれたものです。ここに表明されている意見は、いかなる組織や機関を代表したものではなく、署名した個々の研究者の総意にすぎません。

579名無しさん:2015/05/24(日) 20:05:14
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150522-00000024-asahi-pol
ポツダム宣言「本当に読んでないようだ」 志位氏が皮肉
朝日新聞デジタル 5月22日(金)8時36分配信

 「事実誤認がある。本当に読んでいなかったことがうかがえる」。共産党の志位和夫委員長は21日の記者会見で、安倍晋三首相が20日の党首討論の際、第2次世界大戦で米・英・中の三国が日本に降伏を勧告したポツダム宣言を「つまびらかに読んでいない」と答弁したことについて、こんな皮肉を飛ばした。

 志位氏は、自民党幹事長代理だった首相が月刊誌「Voice」2005年7月号の対談で、「ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかり(に)たたきつけたものだ」と語っていたと指摘。だが、宣言は1945年7月26日に米英中の名で発表され、同8月6日と9日の原爆投下後、日本が同14日に受諾を決定した。志位氏は「(宣言は)二つ原爆が落ちた後に『たたきつけられた』ものではない。事実誤認がある」と述べた。

 20日の党首討論では、志位氏がポツダム宣言について「日本の戦争について世界征服のための戦争であったと明瞭に判定している。総理はこのポツダム宣言の認識を認めないのか」と質問。首相は直接答えず、「その部分をつまびらかに読んでいないので、直ちに論評することは差し控えたい。先の大戦の痛切な反省によって今日の歩みがある」と述べていた。

朝日新聞社

580とはずがたり:2015/05/25(月) 12:55:05

「大戦の結果ロシア領」根拠ない…菅長官が反論
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150520-OYT1T50122.html?from=yartcl_outbrain1
2015年05月20日 21時11分
 菅官房長官は20日の記者会見で、ロシアのラブロフ外相が北方領土が第2次大戦の結果としてロシア(旧ソ連)領になったと述べたことについて、「日露間において第2次世界大戦の結果は確定しておらず、ロシア側の主張に根拠はない。米国も日本の立場を支持しており、北方領土に対する日本の主張を認めていると認識している」と不快感を示した。


 日本と旧ソ連は1956年に「日ソ共同宣言」に調印し、戦争状態を終結させたが、北方領土問題は解決できなかった。菅氏は「領土問題の全面的解決が困難であったために、平和条約の締結交渉を継続することとし、日ソ共同宣言という国際約束が締結された。そういう意味で、日露間で第2次大戦の結果は確定していない」と述べ、ラブロフ氏の主張に反論した。

2015年05月20日 21時11分

581名無しさん:2015/06/07(日) 17:04:15
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150603-00050110-yom-soci
陛下「深い痛恨」大戦に言及…歓迎の宮中晩餐会
読売新聞 6月3日(水)22時52分配信

 国賓として来日したフィリピンのアキノ大統領を歓迎する天皇、皇后両陛下主催の宮中晩餐会(ばんさんかい)が3日夜、皇居・宮殿で開かれた。

 天皇陛下は冒頭のあいさつで、先の大戦時にフィリピンで多くの国民が犠牲となったことに触れ、「私ども日本人が深い痛恨の心と共に長く忘れてはならないことであり、戦後70年を迎える本年、犠牲者へ深く哀悼の意を表します」と述べられた。

 これに対し、アキノ大統領は「過去に経験した痛みや悲劇は、相互尊重や尊厳に根ざした関係構築に努めるという貴国の約束によって癒やされてきました」と英語でスピーチした。

 フィリピンの国賓を迎えた晩餐会は平成に入って3回目で、陛下が戦争被害に言及されたのは初めて。

 晩餐会には、皇太子、秋篠宮両ご夫妻や安倍首相ら149人が出席。昨年12月に20歳となった秋篠宮ご夫妻の次女佳子さまも初めて出席し、笑顔で乾杯された。皇太子妃雅子さまも昨年10月に続いて晩餐会に出席され、会場は華やいだ雰囲気に包まれた。

最終更新:6月4日(木)9時15分

582名無しさん:2015/06/14(日) 13:27:32
http://blogos.com/article/115859/
幻冬舎plus2015年06月10日 06:00「日本人難民」という戦後史の闇第5回 - 日本人の難民がいたことを知っていますか?〈戦後70年を考える〉 - 井上卓弥

今から70年前、百万人にものぼると言われる日本人が、敗戦によって「難民」となり、中国大陸や朝鮮半島などで、過酷な生活を強いられました。その日本人難民をテーマにしたノンフィクション『満洲難民〜三八度線に阻まれた命 』(井上卓弥著)が刊行されました。
?本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。

?郭山疎開隊をはじめ、大戦後の混乱のなかで朝鮮半島の北部に放置された日本人は、世界史のなかでもまれにみる悲惨な難民生活を強いられました。しかし、1949年に刊行されてベストセラーとなった『流れる星は生きている』(藤原てい著)などを除いて、これまでその史実が語られ、検証されることは、ほとんどありませんでした。
?本書の著者・井上卓弥さんは、戦争取材や難民取材など国際報道に携わったジャーナリストであり、また郭山疎開隊の「当事者」でもありました。

*?*?*

?この本に登場する井上寅吉と喜代の長女、泰子は、私の父で井上家の長男、昌平の姉である。つまり私にとって伯母になる。喜代は私の祖母にあたり、泰子にとって私は甥になる。伯母は結婚して長谷部姓となり、両親と同じく小、中学校の教壇に立った。退職後、戦後五十年にあたる一九九五年、手記『北朝鮮・郭山への墓標』を自費出版し、父母と私、三つ下の妹あてに一冊ずつ送ってくれた。私は当時、新聞社に入社して五年目だった。

?のちに知ったことだが、その手記は祖母、喜代が戦後間もない四七年に手書きの原稿用紙一〇〇枚にまとめて製本した『新京(満洲国)より終戦時北鮮に疎開して』を下敷きにして、伯母らの体験や思いが書き加えられていた。二〇〇五年には、父昌平が満洲に戻った一家の引き揚げまでの苦闘も含めて自伝『追想のわが来し方』を著した。

?父が保管していた祖母の手記とともに、父の半生記を読み終えた時、私は「当事者」になっていた。家族の歴史を何らかのかたちで残すことは、八五歳になる伯母との二十年越しの約束になっていたのかもしれない。

?日本に引き揚げてから建てた家の庭に、祖父母は離れをつくり、近所の子どもたちを集めて小さな書道教室をはじめた。私と妹も習いに行ったが、教室での祖母は厳しい先生だった。常に身近にいた祖母と祖父は、私が高校在学中の一九八一年に相次いでこの世を去った。孫の私に満洲や北朝鮮の話をすることはなかった。

?それだけに、伯母の手記で初めて知った飢餓地獄の事実は重かった。それなりに幸せに暮らしている自分の家族は半世紀ほど前にこんな恐ろしい体験をし、それでも何とか命をつないで日本に帰ってきていた。叔父にあたる末弟は満洲の地で亡くなった。もし父が同じような目に遭っていたら、私たちきょうだいはこの世に生まれて来なかった。

?その後、国際報道に携わった私は、紛争や難民受け入れの現場に立つ機会を得た。最初は九九年、旧ユーゴスラビア・コソボ紛争のアルバニア系難民の取材だった。国境を越えて隣国アルバニアに逃れてくる難民の姿が、半世紀前の家族に重なって見えた。しかし、近年に至るまで、先の大戦に伴って満洲から北朝鮮に疎開した日本人の記録はほとんど見当たらなかった。日頃の大々的な難民報道に比べても、明らかに悲惨な状況に置かれた北朝鮮の日本人難民たちの証言がなぜ表に出て来ないのかと、もどかしい思いにとらわれた。

?二〇一〇年代に入ると、当時を知る人々が次々に亡くなりはじめた。政治・外交交渉に期待を見いだせず、民間の独自ルートを通じて北朝鮮への墓参が動きだした。

583名無しさん:2015/06/14(日) 13:27:43
>>582

?一四年一月、偶然チャンネルを合わせたBS ― TBSの二時間特集番組に引き込まれた。番組の最後になって、予想しなかった地名「郭山」が初めて現れた。疎開隊の名簿は、私の故郷を遠く離れた九州の地で保管されていた。東京周辺でそれなりに問いかけてきたにもかかわらず、反応を得られなかったわけも納得できた。私のなかで歯車がカチッと音を立てて?み合い、二十年近くも揺るがなかった厚い壁が一気に崩れた。「当事者」として行動しなければならないと思った。

一人の視聴者としてTBS「報道特番」にメールを送り、祖母が書き残した「一三班」の名簿の確認をお願いした。ほどなく宮本晴代ディレクターから返信をいただいた。

「昨夜、郭山疎開隊員名簿を見ましたところ、一三班のところに確かに井上さんご一家のお名前があり、ボロボロの紙を持つ指先が震えました。あの名簿の持つ重みを、改めて認識させられたような気が致します」。番組に出演した鹿児島県在住の田中友太郎さんは私の面会の願いを聞き入れてくれた。持参した伯母の手記も読み、事情を理解してくださった。

?田中さんの紹介で福岡県在住の扇京一さん、熊本県在住の白石ヤス子さん、中尾(田中)陽子さんとお会いできた。私の家族が言葉を交わしたかもしれない方々である。故松本健次郎さんの妻幸子さんにも話をうかがった。私が「当事者」であることを知った扇さんは、七十年近く大事に保管してきた二冊の「郭山避難民団の記録」のファイルを妻サカヘさんに託し、手紙を添えて送ってくださった。

?松本さんの手による「疎開日誌?其ノ二」の最初のページには、祖母のそばで亡くなった木幡とも子さんを含む三人の仮葬の記録が正確に書き込まれていた。のちにお会いした白石さんは、祖母の手記を繰りながら病室の場面で手を止め、小さく声を上げた。「脊椎(せきつい)カリエスの女性……。これ、私だ!」。手記の内容は裏付けられた。

?この本のなかでやってきたのは、一〇〇〇人超の郭山疎開隊のうち、北緯三八度線を越えて日本に引き揚げたほぼ半数の「南下班」と満洲に戻ったやはり半数の「北上者」の間に横たわる歳月と距離を乗り越えて、全体をつなぎ直す作業だったかもしれない。


?井上さんは本書「終章」の最後で、次のように綴ります。


?郭山疎開隊を引率し、本書に記したような詳細な記録を残した満洲国経済部官吏一〇人のうち、すに八人はこの世にいない。残留班を率いて最後に三八度線を越えた山谷橘雄(やまやきつお)医師も二〇一三年に他界している。朝鮮北部の日本人が「難民」として辛酸を嘗(な)め尽くした被害者としての記録は、今、日本の現代史のなかにきちんと位置づけておかなければ、永遠に消え去ってしまうだろう。そして遠からず、また同じような被害がくり返されることを危惧する。

?それはまた、昨今の靖國神社公式参拝の是非をめぐる議論からはじかれ、やはり置き去りにされようとしている民間人被害者の存在を再認識することにもなるはずである。その認識こそが、唯一の本土決戦を経験した沖縄はもとより、原爆投下や無差別空襲によって、国内外を問わず無数の民間人が犠牲となった先の大戦の本質を捉えることにつながるものと信じたい。

*?*?*

?作家の半藤一利さんは本書を読み、「国に棄てられた人々の過酷な運命に、驚き、涙し、憤った。戦後70年の今、この悲劇に光が当てられた意義は、はかりしれなく大きい」というコメントをお寄せくださいました。
『満洲難民〜三八度線に阻まれた命 』をぜひお読みいただけると幸いです。

584名無しさん:2015/06/14(日) 21:35:57
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150609-00000026-rcdc-cn
イタリアの戦争指導者は公開処刑されたが、日本では侵略戦争を指導したA級戦犯が神様扱いされ首相や閣僚が参拝している―千葉大教授が批判
Record China 6月9日(火)9時57分配信

2015年6月4日、石田憲・千葉大教授が「戦後70年」と題して講演し、イタリアと日本の戦中・戦後について解説し、記者の質問に答えた。日独伊枢軸体制は、3カ国がともに後発帝国主義国であり、利害関係で結びついた「病」としてのファシズムだった、と指摘。広場で処刑された独裁者ムッソリーニらイタリアの戦争指導者と異なり、「日本では侵略戦争を指導したA級戦犯が神様扱いされ、祀られている靖国神社に首相や閣僚が参拝している」と批判した。

戦前の日独伊枢軸体制は、3カ国がともに後発帝国主義国だったことと関係する。(理念のない)利害関係で結びついた「病」としてのファシズムであり、3国それぞれの思惑が異なっただけでなく相互不信を深めつつ、背反する利益追求へと走った。枢軸3国の関係はリアリズム的観点からすれば矛盾としか言えない性質を持っていた。

イタリアの侵略した諸国への補償としては、バルカン諸国に対しては賠償条約を締結して保障した。日本がアジア諸国と個別に補償したのと同様だ。エチオピア、リビアなどアフリカ諸国に対しては、カダフィ政権末期のリビアにベルルスコーニ政権が賠償協定を結んだ。石油など国益が優先している。

イタリアでは独裁者ムッソリーニら戦争指導者は広場で処刑されたが、日本では侵略戦争を指導したA級戦犯が神様扱いされ、祀られている靖国神社に首相や閣僚が参拝している。指導者の過ちをはっきり認めてけじめをつけ、補償をきちんとしなければ、最終的に信頼関係をアジアの国々と結ぶことはできない。難しい対応だが、どの政権でもきちんと対応していかなければ将来的に危うくなる。(八牧浩行)

585名無しさん:2015/06/20(土) 21:20:38
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150615-00000002-wordleafv-soci
元ゼロ戦パイロット・原田要さん「戦争の罪悪で世界一、非人道的な人間に」
THE PAGE 6月15日(月)16時50分配信

 私ほど人の命をあやめた人間はいない――。元ゼロ戦パイロットで戦争反対を訴え続けている原田要さんは、14日に長野市内で開かれた講演会でこう告白した。「お国のために」と命を投げ出す覚悟で海軍に入ったが、気がついたら「世界一、非人道的な人間になってしまった」と悔いる。折しも国会で安保関連法制の審議が熱を帯びる中、集まった300人の市民を前に、「戦争という苦しいことがもうない世の中に」と語りかけた。現在98歳と高齢のため、今回が「最後の講演」になるという。

<原田要さんの講演要旨>
 8月で99歳になる老兵、原田要です。戦闘機の実戦の体験者ですが、70年も前のことで記憶も薄れがちです。

 17歳のときに一生をお国のために海軍の一兵卒として使ってもらおうと考えました。それから12年余、いろいろなことがありましたが、私は世界一、非人道的な人間になってしまったのです。その間約10年の航空生活を通じ8000時間余の飛行時間、その私ほど人の命をあやめた人間はいないのです。

 結局は戦争という罪悪のために、こうしたみじめな人間が生まれてくるのです。だから戦争をなくしてほしいと感じるわけです。もうだめだと思ったことが4回ありました。それを皆さんに伝えて、こうした苦しいことがもうない世の中になるようにと最後のお願いにあがりました。

 昭和11年にパイロットになり、さっそく中国の南京陥落に関係する作戦で戦闘機に乗りました、ところが中国船に交じっていた米英の船舶を攻撃したことが国際問題になり、下士官にまで及ぶ処分が行われて、私も内地に戻って操縦の指導に当たっていました。

 そのうち日米の関係が悪化し昭和16年の秋、海軍の大艦隊はひそかに移動を開始。北に向かうのでいぶかしく思っていましたが数日後の朝、気がつくと周りが雪に覆われた湾に入っていました。エトロフ島でした。赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴の航空母艦、潜水艦などの大艦隊が集結したのです。

586名無しさん:2015/06/20(土) 21:21:39
>>585
 そして12月8日の真珠湾攻撃に向け艦隊の幹部が作戦室に集められ、「日米交渉が駄目になったら宣戦布告の上、ハワイを攻撃する」と説明があり、艦隊には「いよいよか」の空気が広がりました。真珠湾攻撃の際、私は攻撃隊の小隊長になるつもりでしたが、艦隊の警護に回されたのです。

 私は攻撃隊への参加を主張したのですが、「艦隊を守るのも大事だ。これは命令だ」と言われて、380機を超える攻撃機を見送りました。

 攻撃から帰ってきたパイロットたちは戦果を語り、戦勝気分で「バンザイ」まで出ていました。ただ、彼らに「真珠湾に空母は何隻いたのか」と聞くと「1隻もいなかった」という返事で、心配でした。結果的にアメリカの空母艦隊は温存されていたわけで、それが戦争の結末につながってしまった。

 その後、インドの南、セイロン島ではイギリスの戦闘機ホーカーハリケーンと戦い、私の小隊で5機、全体では100機近い敵機を落としたこともあります。追われた敵機のパイロットは手で「もうやめてくれ」というそぶりをするのですが、それを見逃すと自分がやられる。それが戦争なのです。

 オランダの植民地だったスラバヤでも戦闘がありました。ゼロ戦は脅威だったため敵は2〜3機で1機のゼロ戦と戦う作戦に出てきました。7・7ミリ機銃と破壊力の大きい20ミリ機銃を使い分けたり、相手がまぶしくなるように太陽を背に攻撃に出るなどさまざまな戦法を駆使しました。

 ミッドウエー海戦で日本は空母と多くの優秀なパイロットを失いました。そしてガダルカナルで私はアメリカのF4F戦闘機との戦いで左腕に被弾、ヤシ林に突っ込み気を失いました。2日間ほど山中をさまよっていたら、墜落した艦上攻撃機の乗員の佐藤さんという人が顔を血だらけにして歩いて来ました。

 一緒にさまよっていると向こうに米兵らしい姿があるので、2人で拳銃を出し構えて行こうとしたら、負傷で左腕の不自由な私が拳銃を右手で用意しているうちにうっかり引き金を踏み、暴発してしまった。その音を聞いた人影が「日本人か」と声をかけてきて、助かりました。海軍の基地だったんです。15〜16歳の少年兵たちがいました。
 
 私はその後デング熱にかかったりして40度の高熱を出し、気が付いたらきれいなベッドの上にいた。これは捕虜になったに違いないと思って、ベッドから逃げようとしたら、「兵隊さんどうしました」と声がかかった。日本の看護婦さんでした。

 何回も命拾いをしてきました。私は戦争を憎み、なくしていくために語ってきましたが、次の世代の人たちにもそれをお願いしたいのです。

(高越良一/ライター)

587とはずがたり:2015/06/22(月) 08:32:33
やりたい放題やった当時の列強に対する痛烈な批判となっているし韓国の主張には敬意を表する。日本憎しでそんな事考えてないのかも知れないけど。

世界遺産登録、日韓協力で一致 「徴用工」記載で調整
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASH6P7J7WH6PUTFK00R.html
03:03朝日新聞

 岸田文雄外相は21日、韓国の尹炳世(ユンビョンセ)外相と東京都内で開いた会談で、日韓で課題となっていた「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産への登録について、協力することで一致した。韓国は「強制労働」の問題があるとして反発していたが、日本側が関連する資産の説明文に、徴用工の歴史的事実を記載する方向で調整する。

 岸田氏は会談後、「両国の推薦案件『明治日本の産業革命遺産』『百済の歴史(遺跡)地区』がともに登録されるよう協力していくことで完全に一致した」と記者団に語った。世界遺産登録は実現に向けて前進することになる。

 韓国は日本が申請している23資産のうち7資産で朝鮮半島出身者計5万7900人が「強制労働させられた」と主張。歴史的な事実を対外的に説明するよう日本に求めていた。日本は、戦時中に朝鮮半島から労働者が動員された徴用工の問題は、遺産が対象とする時期より後だとして、当初はこうした説明も必要ないとの立場だった。ただ、世界遺産の登録には韓国の理解が欠かせないと判断し、韓国の主張に配慮。一部の施設で徴用工が働いていた事実を日本が自発的に説明し、韓国も反対しない方向で調整することになった。

588とはずがたり:2015/06/24(水) 18:46:00
中国、戦時中の役割「過小評価」修正狙う-9月の軍事パレードで
http://jp.wsj.com/articles/SB11377468785266573983404581065443503383276?mod=WSJ_article_EditorsPicks
By TE-PING CHEN原文(英語)
2015 年 6 月 23 日 19:17 JST

 「歴史は勝者によって書かれる」という。だが近年――少なくとも第2次世界大戦に関しては――中国は適切な書き方をしなかったと感じている。

 中国政府は今秋、それが修正されることを期待している。この9月に盛大な軍事パレードが北京の天安門広場で予定されており、習近平国家主席がそこで演説することになっている。反ファシズム戦争勝利70周年の記念式典と軍事パレードの当局者によると、パレードは「中国国民が払った多大な犠牲と、世界的な反ファシズム戦争への歴史的な貢献を示すものになる」という。 

 中国は1937年から数十万人規模の日本軍に侵攻され、西側の同盟諸国よりも一足先に戦争に突入した。日本軍は「南京大虐殺」のような残虐行為に及び、現在に至るも中国と日本の関係に深い傷跡を残したままだ。中国の犠牲者は1400万人に達したほか、鉄道網や工場など多くが破壊された。

 軍事パレードの詳細に関する23日の記者発表では、そのテーマについても説明があった。軍事パレードは今回で15回目だ。

 中国共産党中央宣伝部の王世明・副部長は「反ファシズム戦争における中国の位置づけと役割という点に関して、一部の西側諸国は常に客観性と公平な理解を欠いてきた」と話す。

 王氏は1931年の満州事変に言及し、「中国の抗日戦争はどこよりも早く始まり、最も長く続いた」と指摘。さらに「14年間も続いた中国の抗日戦争は最も長かった。欧州の戦闘は5年余りで、太平洋戦争は約4年だった」と述べた。

 王氏は、統計によると中国の直接的および間接的な経済損失額はそれぞれ約1000億ドル(現在のレートで約12兆3000億円)、5000億ドルにのぼると述べた。

 中国政府によると、記念式典には第2次世界大戦に関係した主要国首脳が招待される。日本が招待されるかどうかは23日時点では明らかにされなかった。軍事パレードに加え、戦勝を記念する演劇や映画、テレビ番組のほか、愛国的な合唱イベントなどが予定されている。

 中国史の専門家ラナ・ミター氏が近著「Forgotten Ally(忘れられた同盟国)」で書いているように、戦時中の中国の貢献度については長い間、過小評価されてきた。「中国が考慮されることがあったとしても、米国やソ連、英国などがはるかに大きな役割を果たした戦争でごくわずかな出番しかなかった脇役として捉えられるだけだ」

 とはいえ、中国共産党によるこうした歴史観の修正の試みに対しては批判もある。台湾の国防部(国防省)の報道官は今年、中国共産党は同党の軍隊による戦争貢献を強調しているように見えるが、それよりも大きな役割を果たした当時の与党・国民党の貢献を見落としていると述べた。国民党は国共内戦で共産党に敗れた後、台湾に拠点を移した。

 かつての国民党の人たちは戦勝イベントに参加するだろうか。当局者は早口でこう言った。「国民党は戦時中に重要な役割を果たした。中には参加する人もいるだろう」と。

589名無しさん:2015/06/27(土) 22:28:23
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150626-00000063-jij-soci
強制連行で国を提訴=中国人元労働者と遺族―大阪地裁
時事通信 6月26日(金)11時52分配信

 第2次大戦中に日本に強制連行され、河川改修など過酷な労働をさせられたとして、張広勲さん(87)ら中国人元労働者2人と遺族11人が26日、国を相手に総額7150万円の損害賠償と謝罪を求める訴訟を大阪地裁に起こした。
 訴状によると、張さんら元労働者は1943〜45年、中国華北地方などから強制連行され、秋田県大館市の花岡地区や大阪港で、地下溝を掘ったり土砂や荷物を運んだりする労働をさせられた。国の政策に基づいて連行され、劣悪な労働環境や虐待を国が放置したとしている。
 戦時中の中国人強制連行をめぐる訴訟では、最高裁が2007年、「日中共同声明により個人の賠償請求権は放棄された」との判断を示している。原告側は、この共同声明の解釈は誤りで、中国が放棄したのは国家間の賠償だと主張している。
 張さんは45年6月、花岡で中国人が蜂起し多くの死者が出た「花岡事件」に参加した。提訴後の記者会見で「毎年6月30日になれば悲しい気持ちになる。日本政府は何の賠償も行っていない」と訴えた。
 外務省の話 訴状が送達されていないのでコメントは差し控えたい。

590とはずがたり:2015/06/27(土) 23:08:03
日本軍の原爆開発資料発見 京大、GHQの押収免れる
http://www.kyoto-np.co.jp/environment/article/20150625000018

サイクロトロンの図面。昭和17年12月の印がある(京都大総合博物館所蔵)

 太平洋戦争中に旧日本海軍から原爆研究を委託された京都帝国大(現京都大)の荒勝文策研究室が、ウラン濃縮の遠心分離装置開発に取り組んでいたことを示すノート3冊や関連資料が24日までに、京大放射性同位元素総合センター(京都市左京区)で見つかった。京都帝大による原爆開発の全容は、終戦直後に連合国軍総司令部(GHQ)が一切のデータや研究ノート類の提出を命じ、押収した資料は米国で機密指定されていたため、明らかになっていない。なぜ押収を免れたかは不明だが、秘められた日本の原爆開発と科学技術史を検証する上で、貴重な発見といえる。

■秘められた歴史に一石

 研究ノート類は、戦時中に荒勝研究室に講師として所属していた故清水栄・京大名誉教授の研究室があった同センター分館書庫で見つかった。表紙に英語で「超遠心分離」の表題と清水氏の署名がある。日付は皇紀で記され、戦争末期の1944年10月、11月に書いたとみられる。

 原爆の開発にはウランを濃縮する過程が必要だが、当時の日本では技術が確立していなかった。清水氏のノートには、遠心分離装置の回転数を計算した表が書き込まれ、海外の関連論文を写真撮影し貼り付けた資料などがある。「超遠心分離装置製作資材大要」は資材のリストで、軽量合金「超々ジュラルミン」など材料の直径や長さなどが指定されている。

 京都帝大の原爆開発は43年に旧海軍が委託し、fission(核分裂)の頭文字を取って「F研究」と呼ばれていた。海軍がウラン鉱石を提供したとの複数の記録や証言がある。遠心分離法によるウラン濃縮を目指したが、終戦までに完成しなかった。

 京都帝大は戦中、原子核物理の研究に用いる円形加速器「サイクロトロン」の建造中だった。終戦後にGHQは「原爆開発につながる」と破壊し、荒勝研のデータやノート類は米軍が持ち去ったとされる。戦後見つかった荒勝研資料は、米議会図書館で2006年に発見された清水氏らの加速器開発過程のノート2冊など、ごく限られている。

 また京大総合博物館では関係者遺族が寄贈した資料の中から、サイクロトロンの図面を見つけた。

 日本における戦中の原子核研究に詳しい政池明京大名誉教授は「荒勝教授らは、この戦争中に原爆は完成しないだろうと考えていたようだ。一方で、ノートと資材リストの発見はウラン235の分離、濃縮に向けて実際に遠心分離装置を作ろうとしていたことを裏付ける貴重な証拠となる」と話している。

 <原爆とウラン濃縮>第2次大戦中に旧日本陸軍は理化学研究所の仁科芳雄研究室に、海軍は京都帝大の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託。原爆の製造には原料のウラン鉱石から、ウラン235の濃度を90%以上に分離・濃縮する過程が必要と言われる。仁科研究室は「熱拡散法」で、荒勝研究室は「遠心分離法」で分離を試みようとしたとされる。戦局の悪化で、海外から十分な量のウラン鉱物確保が難しく、京大は終戦までに完成しなかったとの見方が通説になっている。

【 2015年06月25日 07時41分 】

591名無しさん:2015/06/28(日) 10:35:15
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150619-00000017-pseven-int
引揚途中の強姦被害者47人 加害男性の国籍は朝鮮、ソ連など
NEWS ポストセブン 6月19日(金)16時6分配信

 果たして韓国の言う「私たちは常に被害者」という姿勢は、本当にその通りなのか。歴史を振り返れば、韓国は過去幾度となく、日本人への蛮行を繰り返してきた。

 11歳の時、朝鮮北部から命からがら京城に脱出した日系米国人作家、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ(旧名・川嶋擁子)の自伝『竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記』(ハート出版刊)。引揚の記録をありのままに綴った同書は、今から約30年前の1986年に米国で出版され、後に一部の州で中学校の教材になった。

 だが、韓国人と韓国系米国人がこれに猛反発。執拗な抗議活動を繰り返し、韓国外交通商部が州政府に是正を求める事態に発展した。実は同書は、2005年に韓国でも翻訳出版されているが、こちらも発売禁止に追い込まれている。韓国主要紙も「間違った『ヨーコの話』学びたくない」(朝鮮日報)、「『ヨーコの話』の最大の過ちは加害者と被害者を入れ替えた点」(中央日報)と題した特集記事を掲載し、メディアを挙げてネガティブ・キャンペーンを行った。
 
 在留邦人、引揚者を襲った悲劇の痕跡は、日本国内にも残されていた。福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にかつて存在した『二日市保養所』の存在だ。この保養所は、引揚の途中に朝鮮人らに犯され妊娠した女性の救済施設堕胎手術を秘密裏に行う病院だった。当時、堕胎手術は違法(*)であったが、施設は引揚援護庁が1946年2月に開設したもので、厚生省が「超法規的措置」として黙認していた側面がある。

【*現在も刑法上の堕胎罪は存置されているが、母体保護法では「妊娠の継続、分娩が身体的・経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのある者」、「暴行・脅迫により抵抗、拒絶できず姦淫され妊娠した者」などに対する指定医の処置が認められている】

 同施設の医務主任・橋爪将氏による1946年6月10日付の報告書によれば、施設の開設から2か月間で強姦被害者47人を治療し、加害男性の国籍内訳は「朝鮮28人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人」だった。1947年の施設閉鎖まで、堕胎手術件数は500件に及んだという。

 戦時中の日本人の残虐性を世界中で訴えている韓国人は、この事実をどう受け止めるのだろうか。

 日本人が戦時中に犯した罪は、真摯に反省しなければならない。しかし、だからといって、日本人が受けた残虐行為を、歴史から消し去ることもできぬ。正しき歴史を知ることが、真の日韓友好につながるのではないか。

※SAPIO2015年7月号

592とはずがたり:2015/07/02(木) 01:20:41
大正天皇実録、大半の黒塗り開示 「一時人事不省」判明
http://www.asahi.com/articles/ASH713G64H71UTIL009.html?ref=goonews
島康彦2015年7月1日19時52分

 大正天皇(1879〜1926)の日々の行動などを記した「大正天皇実録」について、宮内庁は2002〜11年に公開した際に「個人識別情報」として一部を黒塗りにした方針を見直し、その大半を開示した。宮内庁は「歴史的文書の公開・非公開の判断にあたり、時の経過を考慮した結果」と説明している。

特集:昭和天皇実録「激動の87年」
 大正天皇実録は1937年に完成し、計95冊で構成される。朝日新聞社の情報公開請求を契機に、2002年から4回に分けて開示された。しかし、全体の約3%が黒塗りにされ、専門家からは「歴史への冒?(ぼうとく)」という批判の声があがっていた。

 宮内庁によると、昨年公開された昭和天皇実録では、11年に施行された公文書管理法の「時の経過」を踏まえて検討し、黒塗りされなかった。今回の見直しでも同様の水準を適用し、黒塗りは全体の0・5%ほどに減ったという。

593とはずがたり:2015/07/03(金) 12:31:38
「火垂るの墓」登場の病棟取り壊し…苦渋の決断
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150629-OYT1T50023.html?from=yartcl_outbrain1
2015年06月29日 10時22分

 西宮回生病院(兵庫県西宮市大浜町)の旧病棟が老朽化による建て替えのため、7月に取り壊される。

 病院は戦時下の西宮市などを舞台に、アニメ映画にもなった小説「火垂るの墓」(原作・野坂昭如)にも登場しており、市民やファンからは惜しむ声が上がりそうだ。

 同病院は1907年に創立。34年の室戸台風で当時の病棟が流出し、37年にアニメにも描かれた木造一部2階建ての旧病棟(約600平方メートル)が建設された。弧のような曲線を描いているのが特徴で、84年に現在の病棟を建設した際も病院の象徴として、そのままの形で残した。

 アニメでは、空襲で母親を亡くした主人公の清太が幼い妹の節子と、病院とみられる建物をバックに香櫨園浜で遊ぶシーンや、病院の玄関前で無事を喜び抱き合う家族を見て、2人がうらやましがる様子などが描かれている。

 だが、すでに旧病棟建設から80年近くが経過し、南海トラフ巨大地震の発生なども懸念される中、病院側はこれ以上使い続けるのは困難と判断した。同病院を運営する平成医療福祉グループの武久敬洋副代表(35)は「内部でも保存すべきとの意見も多かった。苦渋の決断だった」と心情を吐露する。

 毎年夏に、アニメゆかりの地をファンらと巡っている「火垂るの墓を歩く会実行委員会」の辻川敦さん(55)は「病院の事情があり、取り壊しは仕方がない。当時の雰囲気がそのまま残る場所だっただけに残念」と悲しんだ。

 同病院によると、7月上旬に取り壊しを開始。跡地には新病棟を建設する。来年8月の完成予定で、過去の病棟の写真などを展示する記念館を設けるほか、現在の建物の柱をベンチなどに活用するという。

 病院は7月4日午後2時から見学会を開く。井上馨院長(58)は「皆さんに愛された場所で、三脚を持って写真に収めるファンもいる。最後の姿を多くの人に見てほしい」と話している。入場無料。問い合わせは同病院(0798・33・0601)へ。(清家俊生)

594名無しさん:2015/07/04(土) 11:32:27
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20150629-00000030-jnn-pol
先の大戦「国策の誤り」か、防衛相も明言せず
TBS系(JNN) 6月29日(月)17時18分配信
 日中戦争や太平洋戦争などの一連の戦争をめぐって、「国策を誤った」と認めるかどうか、29日の国会の委員会で質された中谷防衛大臣は、「歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」などと繰り返し、「国策の誤り」については明言しませんでした。

 「70年前の戦争、これは政策を誤ったと、間違った戦争であったと、こういうことから戦後出発したと理解してるんですが、間違えた戦争だった、政策が誤ったということは、なんで言葉としておっしゃらないんですか。明確に言えないわけですか」(民主党 長妻昭 代表代行)
 「これはこの内閣として申し上げておりますけれども、村山談話を含めて歴史認識に関する歴代の内閣の立場は全体として引き継いでおり、今後も引き継いでいくと。そして累次申し上げてきたように、基本的には歴史の問題等につきましては、歴史家に任せるべきであるということでございます」(中谷元 防衛相)

 民主党の長妻代表代行は、今回の安全保障関連法案が成立した場合、間違った戦争を始めないためには、運用を担当する防衛大臣が過去の戦争の教訓を正しく認識することの重要性を指摘しました。

 その上で、柳条湖事件から満州事変、太平洋戦争へとつながる一連の戦争に踏み込んだ当時の政府の政策判断について、「国策を誤った」と考えるかどうかを質しました。

 これに対し、中谷大臣は「政治が軍をコントロールできなかったことは問題」だとする一方で、「国策の誤り」については明確に答えず、「安倍内閣として、過去の内閣の立場を全体で引き継いでいる」などと繰り返しました。

 長妻氏は、一連の戦争に対する「国策の誤り」をめぐっては、同じように安倍総理も明言していないことを指摘したうえで、「安倍内閣の体質なのかと疑う。“間違った戦争だと思いたくない”というふうに受け取られても仕方のない答弁だ」と批判しました。(29日11:30)
最終更新:6月29日(月)19時0分TBS News i

595名無しさん:2015/07/06(月) 01:17:36
http://www.47news.jp/FN/201507/FN2015070501001658.html
日本政府、労働の強制性認める 

産業革命遺産の審査の席で日本側は、朝鮮半島出身者が「自らの意思に反して労働を強いられた」と述べた。

2015/07/05 22:59 【共同通信】

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2015070500084
改善ムード維持へ妥協=日韓関係、望みつなぐ-世界遺産

 【ソウル時事】「明治日本の産業革命遺産」の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産登録をめぐる日韓の交渉はぎりぎりまで難航した。最終的に決定にこぎ着け、登録への協力で一致した先の日韓外相会談の結果が生かされた。今後の関係改善に望みをつないだ。
 韓国の尹炳世外相は5日夜、ソウルで記者会見し「円満解決」と評価。「韓国の懸念が忠実に反映された形で決定されたことをうれしく思う」と満足感を表明した。
 日韓の詰めの交渉は、世界遺産委員会で韓国代表が行う発言内容などをめぐって難航した。韓国国内ではこの問題をめぐり、外務省の対応が遅れたという批判が強く、韓国はぎりぎりまで強気の対応を継続。この結果、「1940年代に意思に反して韓国人らが動員され、強制的に働かされた」と日本側が発表することで合意。韓国としては、ほぼ望み通りの対応を引き出した。
 尹氏は6月21日、韓国外相として約4年ぶりに訪日し、岸田文雄外相と会談。登録へ協力することで一致した。「政治決着した」(日韓関係筋)と受け止められ、同月22日の国交正常化50周年記念行事に両国首脳が出席したことと合わせ、関係改善ムードを高める大きな要因となった。
 決裂なら、外相訪日の効果は吹き飛んでいた。決裂の責任をめぐって両国が応酬する事態になれば、関係改善の機運に水を差すのは必至だった。こうした危機感が、最終的に両国を妥協に向かわせたとみられる。(2015/07/05-23:47)

596名無しさん:2015/07/06(月) 01:18:24
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&amp;k=2015070500214
岸田外相、請求権問題は解決済み=世界遺産

 岸田文雄外相は5日、明治日本の産業革命遺産の世界文化遺産登録決定後に日本のユネスコ代表部大使が「朝鮮半島の多くの人々が意思に反して働かされたことへの理解を進める措置を取る」などと演説したことに関し、「これまでの日本政府の認識を述べたもの」であり、「朝鮮半島出身者の徴用の問題を含め、日韓間の財産・請求権の問題は解決済みだ」とする談話を発表した。(2015/07/06-00:09)

597とはずがたり:2015/07/09(木) 12:01:03
何で空襲で亡くなった遺族が泣き寝入りしてるのに国からカネ貰ってきた戦没者遺族が威張ってんだ?( ゜д゜)、 Peッ

戦闘機10年お蔵入り…展示予算、当面はゼロ?
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150703-OYT1T50055.html?from=yartcl_outbrain1
2015年07月03日 11時30分

 10年前、県民から県に寄贈された戦闘機が解体され、倉庫に保管されたままになっていることが、2日の滋賀県議会一般質問で明らかになった。

 「平和を考えるシンボルに」と県平和祈念館(東近江市)での展示を求める県議に対し、三日月知事は「鑑定に多額の費用がかかる」と、当面、展示は難しいとの認識を示した。

 県健康福祉政策課によると、戦闘機は全長約8・5メートル、両翼約11メートル。戦没者遺族が県外から購入し、2005年8月、当時建設が計画されていた同館で零式艦上戦闘機(零戦)として展示してもらおうと、県に寄贈した。

 しかし、「来歴など正確な情報が不明」として、県は12年の同館開館後も展示せず、東近江市に借りた倉庫で解体して保管。調査や展示は、数百万から数千万円が見込まれるとして見送っている。現在の倉庫は老朽化により改修が必要で、同市が別の場所での保管を求めているという。

 一般質問では、木沢成人県議(良知会)が「展示の要望が戦没者遺族らから出ている」と指摘。三日月知事は「展示の経費や場所の課題もあり、活用は慎重に検討したい」と述べるにとどめた。(小野圭二郎)

598とはずがたり:2015/07/16(木) 09:47:23

サハリンで朝鮮人強制労働の証拠発見か!? 世界遺産登録で歴史問題にあらたな火種
日刊サイゾー 2015年7月14日 15時00分 (2015年7月15日 20時30分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20150714/Cyzo_201507_post_18700.html

 軍艦島をはじめとする「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録をめぐり、日韓関係の混迷がさらに深まりつつある。そんな中、韓国では「サハリンで、日本人に強制労働させられた朝鮮人の資料が発掘された」というニュースが、大きな話題となっている。同ニュースは、世界遺産登録が決定する2日前の7月3日に、中央日報、東亜日報など、大手メディアによって一斉に報じられた。現在、韓国では日本政府が「強制連行」を認めたという解釈が一般になり、そのため、あらためて注目を浴び始めた形だ。

 戦前のサハリンで、日本政府や企業による朝鮮人の強制労働があったという資料は、韓国の「対日抗争期・強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会」によって発表された。同委員会は、韓国・国務総理(首相)室所属の委員会である。

 同委員会は、昨年にロシアの国立サハリン州歴史記録保存所などから、朝鮮人の名簿や関連記録物を入手。強制性が明確だと考えられる846人を、同委員会の「強制動員名簿」に記載したとしている。収集された資料の中には、1941〜44年までの間に、豊原警察署が作成したものも含まれるとされる。

 同委員会の調査に立ち会った、韓国外国語大学中央アジア研究所のパク・イルグォン教授は、豊平警察署とその資料について、次のように指摘している。

「もともと豊平は、日帝時代に南サハリンの植民地を担当していた樺太庁があった場所。現在のユジノサハリンスク地域に当たります。そこで書かれた警察文書なので、植民地時代の日本の治安行政担当部署の内部資料といえます」

 豊平警察署の資料には、“朝鮮人関連”という資料が多く残されているという。内容としては、一般手配者や、要注意人物の監視、所在不明者に関する手配、捜査資料などがある。これらの資料は、日本人の立場からすると、治安関連の資料ということになる。

「ただ、この資料を他の資料と併せて読むと、他の文脈が出てくる。そのひとつに、朝鮮人労働者の逃走に対する手配と関連した文献があるでしょう。ここには、サハリンだけではなく、北海道、九州などの地名が出てきます。それらの労働現場で、多くの朝鮮人労働者が現場から脱出を試みているのです。その数は、1941年だけでも1,400人。当時、彼らが逃げるのを、日本側が治安対象として取り締まっていたということになる。強制的に働かせていないのであれば、なぜそもそもそのような過酷な場所に、朝鮮人労働者が集団で移動することができたのか。また、自分の意志で辞めたとして、治安対象となり追われなければならなかったのか。そういう事実からは、当時の朝鮮人労働者たちが、意思とは無関係に抑圧的な状況にいたということが見えてくるでしょう」(パク教授)

 世界遺産登録を皮切りに、あらためて歴史問題の論争に火がつこうとしている日韓関係。果たして、同資料が新しい火種となるのだろうか?
(取材・文=河鐘基)

599名無しさん:2015/07/20(月) 11:30:57
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150716-00000073-san-pol
クマラスワミ氏を礼賛 女性自衛官ブログ削除へ
産経新聞 7月16日(木)7時55分配信

 政府は15日、北大西洋条約機構(NATO)に派遣している女性自衛官が在ベルギー日本大使館のホームページで公開しているブログの一部を、近く削除する方針を固めた。ブログは慰安婦を「性奴隷」とする国連報告書をまとめたクマラスワミ氏との会談について「光栄」とし、「とても穏やかで徳が感じられる方」と礼賛している。

 ブログは今年3月に公開された。歴史認識をめぐり日本政府と相いれない立場を取るクマラスワミ氏をたたえる内容のため、自民党国防部会で「軽率だ」などの声が上がっていた。ある議員は「自衛官にも表現の自由はあるが、大使館ホームページで公開する以上、国際社会からは政府の公式文書とみられる。内容をチェックしない防衛省にも責任がある」と指摘する。

 女性自衛官は昨年12月からNATO本部に勤務。自身の活動を定期的にブログで紹介している。政府が削除するのはクマラスワミ氏に関する記述があるブログのみの方向だ。

 クマラスワミ氏が平成8年に国連人権委員会に提出した報告書は、朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏の虚偽の証言を引用しながら慰安婦を「性奴隷」と定義し、日本政府に法的責任の受け入れや元慰安婦への補償などを勧告している。

 朝日新聞が吉田氏の証言を引用した記事の誤報を認めたことを受け、政府は昨年10月、クマラスワミ氏に報告書の一部を修正するよう求めた。クマラスワミ氏は拒否している。

600とはずがたり:2015/08/05(水) 18:07:00
村山談話、複数国が見解確認 政府、閣議決定と強調
http://www.asahi.com/articles/ASH845GNVH84UTFK00R.html?iref=com_alist_6_02
冨名腰隆
2015年8月5日05時11分

 戦後50年の「村山談話」が発表された直後の1995年8月、談話が政府の公式見解かどうかをめぐり複数の国から疑問が出ていたことが、朝日新聞が外務省への情報公開請求で得た文書や外交記録でわかった。日本政府は閣議決定した談話であり、政府の公式な見解だと強調。各国に理解を求めていた。安倍晋三首相が近く出す戦後70年の談話(安倍談話)でも、その内容に加えて閣議決定の有無が焦点となっている。

特集:戦後70年
 当時の文書によると、8月15日の村山談話の発表を受けて、外務省は各国政府の反応をまとめた。同省総合外交政策局は翌16日、各国首脳らの発言などから「総じていえば、過去の植民地支配と侵略に対し、深い反省とおわびの気持ちが率直に述べられたことを評価した」と分析した。

 ただ、一部の国には異なる反応もあった。

 豪州では、21日に当時の長谷川和年駐豪大使がエバンス外相と面会。外相は「おわびが総理個人としての気持ちか内閣全体としてなのかについては、若干の微妙な問題がある」と指摘した。大使は内閣として決定した点を念押ししたが、外相は「内閣は総理個人の発言として承認したのではないか」と返した。

 インドネシアでは24日、日本大使館職員と接触した大統領補佐官が「首相が一人称で語っていることから政府の立場ではないとの見方がある」と言及。職員は「談話は閣議決定を経て初めて発表されたものであり、政府の見解だ。一人称なのは政府を代表して総理が述べたからであり、通常のこと」と説明した。野坂浩賢官房長官も23日、中国共産党機関紙の人民日報のインタビューに対し、「村山談話は内閣の決定を経ている」と強調した。

601とはずがたり:2015/08/06(木) 22:36:15
>この中から何をくみとってどうするかは、首相にお任せする
こんなんでは安倍が汲み取るのは韓国への植民地支配は完全に合法(キリッ)ぐらいやん。

<有識者懇>「満州事変以後、侵略拡大」70年談話へ報告書
毎日新聞社 2015年8月6日 21時40分 (2015年8月6日 22時18分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/politics_g/20150806/Mainichi_20150807k0000m010098000c.html

21世紀構想懇談会の西室泰三座長(左)から報告書を受け取る安倍晋三首相=首相官邸で2015年8月6日午後4時33分、藤井太郎撮影
[拡大写真]

 安倍晋三首相の私的諮問機関「21世紀構想懇談会」(座長・西室泰三日本郵政社長)は6日、「戦後70年談話」に関する報告書を首相に提出した。日本が1931年の満州事変以後、大陸への侵略を拡大したことを認め、30年代後半からは植民地支配も過酷化したと指摘。一方で、戦後の日本は先の大戦の「痛切な反省」のもとに発展を遂げたと評価した。

 首相は同日、首相官邸で西室氏から報告書を受け取り「この報告書を基に、先の大戦から何を学び、どのような道のりを進んでいくべきかを世界に発信する談話を作成したい」と述べた。14日にも談話を発表する。

 首相は2月、懇談会の初会合で(1)日本が20世紀の経験からくむべき教訓(2)戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献への評価(3)中国、韓国などアジア諸国とどのような和解の道を歩んできたか??など5項目を諮問。懇談会はこれに沿って議論し、報告書にまとめた。

 焦点の歴史認識を巡っては、報告書は「侵略」の範囲を満州事変以後と明記。「世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた」として、「30年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重い」と指摘した。ただ、「侵略」の記述に関しては複数のメンバーから異議が出たことを脚注で紹介した。

 戦後50年の村山富市首相談話(95年)、戦後60年の小泉純一郎首相談話(2005年)に盛り込まれた「おわび」を70年談話でどう扱うかには踏み込まず、北岡伸一座長代理は6日の記者会見で「おわびするかどうかは首相の判断だ」と述べた。西室氏も「この中から何をくみとってどうするかは、首相にお任せする」と語った。

 報告書では「中国、韓国、東南アジアとの和解」に関する記述が全体の4分の1を占めた。中国、韓国との間では「和解が完全に達成されたとはいえない」と総括し、今後の地道な話し合いを求めた。

 一方、安全保障分野では積極的平和主義の推進や防衛体制の再検討、日米同盟の強化などを提唱した。

 報告書は英訳版も公表された。【当山幸都、松本晃】

 ◇21世紀構想懇談会の報告書・骨子◇
・日本は満州事変以後、大陸への侵略を拡大し、無謀な戦争でアジア諸国に多くの被害を与えた
・1930年代後半から植民地支配が過酷化
・日本は先の大戦への痛切な反省に基づき、20世紀前半とはまったく異なる国に生まれ変わった
・戦後70年の日本の平和主義・国際貢献路線は国際社会と日本国民から高い評価
・中国、韓国との和解は完全に達成されたとはいえない

602名無しさん:2015/08/08(土) 22:14:43
http://news.infoseek.co.jp/article/20150808_yol_oyt1t50088/
樺太の日本人墓地調査へ…民間人4000人犠牲
読売新聞 / 2015年8月8日 16時51分

 政府は、第2次世界大戦末期にソ連の侵攻を受け多数の住民が犠牲になった樺太(サハリン)で、民間人の戦没者らが埋葬された墓地の調査を行う方針を固めた。

 当時、日本領だった南樺太には約40万人が住んでいたが、戦後はソ連、ロシアが支配し、日本人の墓地は荒廃しているという。

 ソ連は1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄して対日参戦。南樺太にも侵攻し、終戦後も攻撃を続け、同25日に占領を完了した。一連の戦いで樺太では民間人約4000人、軍人約1000人の計約5000人が犠牲になったとされる。

 これまで政府は、戦後ソ連に抑留されて死亡した軍人・軍属や、アジアや南洋などの戦闘地域で亡くなった将兵らの遺骨を収集してきた。南樺太でも、ソ連が停戦交渉の軍使を射殺し、 執拗 しつように日本軍を攻撃した真岡(ホルムスク)付近の激戦地など一部で遺骨の収集活動を実施してきた。だが、厚生労働省や、樺太出身者でつくる「全国樺太連盟」(東京)によると、南樺太で民間人の墓地を中心に調査した記録は残っておらず、今回の調査が初めてとみられるという。

603とはずがたり:2015/08/09(日) 09:57:04
日韓は,日韓併合を合法的に強行できて日韓基本条約で補償が完全に解消されたとできた欧米列強主体の帝国主義体制そのものを批判するというより高い水準の批判で共闘すべく連携しないとあかんねー。
その欧米列強主体の帝国主義体制の延長上に戦後レジームや現代の世界秩序があるからこの批判はチャレンジングで危険ですらあるのかも知れないけど。。

<70年談話報告書>韓国紙、批判強める 併合過程触れず
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/world/mainichi-20150809k0000m030114000c.html
08月08日 22:43毎日新聞

 【ソウル米村耕一】安倍晋三首相の私的諮問機関「21世紀構想懇談会」が6日に公表した「戦後70年談話」に関する報告書について、韓国メディアは「侵略」や「植民地支配」について明記されたことを評価する一方、報告書が1910年の日韓併合の過程に触れず、また「謝罪」の表現が含まれていないことを一斉に批判している。

 中央日報は8日付の社説で、報告書は「朝鮮半島の強制併合の過程を省略した」と指摘。そのうえで、列強が「未開」の地域を文明化するために植民地化するという構図を世界で普遍化しようとした、との報告書の表現についても「帝国主義によって日本の責任を覆い隠したもので、植民地支配については謝罪する必要はないとの認識をさらけ出した」と強く批判している。

 また、京郷新聞の8日付社説も、朝鮮半島植民地化の過程が省かれている一方、台湾の植民地化は明記されていることについて「韓国と中国の間を離間させようという意図だ」と、疑念を示した。

 7日付朝鮮日報は「韓日関係悪化を韓国のせいにする安倍談話の準備会合」とする社説を掲載。14日発表される予定の安倍首相の戦後70年談話について「報告書の内容そのままなら韓日関係の将来は暗い。談話に期待するのはやめて、その後の対日戦略について頭を悩ますほうが賢明だ」と主張した。

 報告書について韓国外務省は6日に「両国関係を発展させようというわが国の意思と努力に逆行するだけでなく、歴代内閣の歴史認識を受け継ぐとの日本政府の公式発言と相いれないものだ」などと批判するコメントを発表している。

604名無しさん:2015/08/10(月) 15:19:32
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150806-00000002-withnews-soci
「86を次世代に伝える」 広島のテレビ局が8月6日のラテ欄に込めた思い
withnews 8月6日(木)5時14分配信

 広島での原爆投下から70年となる「原爆の日」の6日夜、プロ野球・広島カープはホームのマツダスタジアムで阪神と戦います。球団と地元テレビ局・中国放送(RCC)の主催試合。新聞のテレビ番組表(ラテ欄)をよーく凝視すると、そこには彼らの熱い思いが込められていました。

昨年は「カープ応援できる平和に感謝」
 広島県内に6日に配達される朝日新聞朝刊のラテ欄。午後6時50分からのRCCの放送内容の左端の文字列を「縦読み」すると、「86を次世代に伝える」というメッセージが浮かび上がります。

 この縦読みメッセージ、RCCは昨年の8月6日も当日のラテ欄に用意していました。「カープ応援できる平和に感謝」。このメッセージを仕込んだ同社の担当者は、昨年のウィズニュースの取材に「平和だからこそ、みんなでカープを応援できる。そんな喜びを、ファンの目線で伝えたかった。来年以降も8月6日に中継する機会があれば、ぜひメッセージを込めたい」と語っていました。

胸に「PEACE」掲げて試合
 今年は5日から、「ピースナイター」と銘打っての対阪神戦。5日のラテ欄では「広島の勇気と希望カープ」と鼓舞しました。
 惜しくも阪神に敗れたものの、五回終了後にジョン・レノンの「イマジン」を流し、原爆ドームとほぼ同じ高さ(約25メートル)の2階最上段席付近に座る観客が赤い新聞紙を掲げて「ピースライン」を形作る演出がありました。

 6日の試合では、胸に「PEACE」(平和)、背中に個々の名前ではなく「HIROSHIMA」の文字、そして全員同じ背番号「86」が入ったユニホームで、選手らが記憶の継承を訴えます。

「子供たちの大好きなカープを通じて考えるきっかけに」
【8月6日20時30分に追記】
 昨年に続いて今回の縦読みを考案したRCCの桑田ディレクターは、同社のツイッターで「8月6日に原爆が投下されたことを知らない子供たちが増えていく中で、子供たちの大好きなカープを通じて8月6日について考えるきっかけになれば」と、ラテ欄に込めた思いを語っています。

605名無しさん:2015/08/10(月) 15:20:08
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150806-00000023-mai-soci
<広島原爆の日>ケネディ大使らも…過去最多の参列国
毎日新聞 8月6日(木)10時55分配信

 ◇広島市の平和記念式典に

 被爆70年の節目となる広島市の平和記念式典には6日、海外から過去最多の100カ国と欧州連合(EU)代表部の代表が参列した。アフガニスタンやスリランカ、フィリピン、モナコなど初参加の7カ国の大使らも祈りをささげた。

 核保有5大国からは米英仏露が出席。広島市は1998年から核保有国を招待しているが、2009年にオバマ米大統領がプラハで行った核廃絶演説を受けて、翌10年には当時最多の74カ国が参列し、西側の核保有国として初めて米英仏3国が出席した。一方、中国は08年に初めて出席したが、それ以降は欠席が続いている。

 米国からは昨年に引き続きキャロライン・ケネディ駐日大使と、米政府高官では初参加となるローズ・ガテマラー国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)が出席した。式典中は終始硬い表情を崩さず、足早に会場を後にした。

 一方、英仏両国は式典を前に報道陣の取材に応じ、原爆被害者へ哀悼の意を示すとともに、核廃絶へ向けた自国の取り組み姿勢をアピールした。

 英国のティム・ヒッチンズ駐日大使は「核拡散防止条約(NPT)実現のためには、他国との交渉とともに、我々核保有国が削減の努力をしないといけない」と述べた。

 ポールベルトラン・バレッツ駐日仏臨時代理大使も「フランスは核兵器の削減目標を掲げており、NPTの一員としてその枠組みをより具体化することに注力している」と強調した。【立野将弘、菅沼舞】

606名無しさん:2015/08/10(月) 15:51:46
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150809-00000036-san-pol
対日宣戦布告時、ソ連が公電遮断 英極秘文書
産経新聞 8月9日(日)7時55分配信

 ■1時間後に満州・樺太侵攻…日本政府は4時間後に報道で把握

 昭和20年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破って参戦した時点で、ソ連の宣戦布告が日本政府に届いていなかったことが8日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。宣戦布告を通告された佐藤尚武(なおたけ)駐ソ連大使が日本の外務省宛てに打った公電がソ連当局によって電報局で封鎖されていたためだ。ソ連は宣戦布告から約1時間後に満州(中国東北部)や樺太などで一斉に武力侵攻を開始。その約4時間後にタス通信の報道などで参戦を知った日本は不意打ちされた格好となった。(編集委員 岡部伸)

                ◇

日米開戦における真珠湾攻撃で対米宣戦布告が約1時間遅れたことで、日本はだまし討ちをする卑怯(ひきょう)な国と東京裁判などで汚名を着せられたが、終戦直前の意図的な闇討ちで、北方領土を奪ったスターリン首相の背信行為が改めて明らかになった。

 秘密文書は20年8月9日、日本の外務省から南京、北京、上海、張家口(モンゴル)、広東、バンコク、サイゴン、ハノイの在外公館にソ連の宣戦布告を伝える電報で、英国のブレッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読したもの。この文書は英政府の最高機密文書「ウルトラ」として保管された。

 電報を要約すると、「ソ連は8月9日に宣戦布告した。正式な布告文は届いていないが、(日本がポツダム宣言受諾を拒否するなど、対日参戦の趣旨と理由を書いたソ連の)宣戦文の全文と日本政府の声明がマスコミで報道された」などと書かれている。外務省がソ連による正式な宣戦布告ではなく、マスコミ報道をベースにソ連の侵攻を在外公館に通知したことが分かる。

 ソ連のモロトフ外相はモスクワ時間の8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、クレムリンを訪問した佐藤大使に宣戦布告文を読み上げ手渡した。モロトフ外相が暗号を使用して東京に連絡することを許可したため、佐藤大使はただちにモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。

 しかし、外務省欧亜局東欧課が作成した「戦時日ソ交渉史」によると、この公電は届かなかった。モスクワ中央電信局が受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかったためだ。

 ソ連は佐藤大使への通告から約1時間後のモスクワ時間8月8日午後6時(日本時間9日午前0時)に国交を断絶し武力侵攻を開始。日本政府がソ連の宣戦布告を知るのは日本時間の9日午前4時で、ソ連が武力侵攻を開始してから4時間がたっていた。タス通信のモスクワ放送や米サンフランシスコ放送などから参戦情報を入手したという。

 正式な宣戦布告文が届いたのはマリク駐日大使が東郷茂徳外相を訪問した10日午前11時15分。ソ連が侵攻してから実に約35時間が経過していた。

 日本が8月15日にポツダム宣言を受諾し、降伏文書が調印された9月2日以降も、武装解除した北方四島などに侵攻したソ連が一方的な戦闘を停止するのは9月5日。日本は最後までソ連に宣戦布告していない。

607名無しさん:2015/08/10(月) 15:52:23
>>606

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150809-00000037-san-pol
公電ソ連遮断 日本をだまし討ち、事実上の無通告
産経新聞 8月9日(日)7時55分配信

 ソ連の対日宣戦布告を伝える佐藤尚武(なおたけ)駐ソ連大使の公電がソ連当局に封鎖され、日本に届かなかったのは事実上の「無通告」であり、満州などに武力侵攻したソ連が和平仲介の望みをつなぐ日本をだまし討ちしたことになる。ソ連の後継国家であるロシアは北方領土の領有を「第二次大戦の結果」と主張するが、スターリン首相が日露戦争の報復と領土拡張のため、中立条約を無視して踏み切った「侵略」戦争の側面があったことは否定できない。 (編集委員 岡部伸)

                   ◇

 「ソは遂ニ起チタリ、予ノ判断ハ外レタリ」

 昭和20年8月9日午前6時(日本時間)、大本営からの電話でソ連の参戦を知った河辺虎四郎陸軍参謀次長は日記にこう記している。「中立」を信じてソ連の仲介による戦争終結を構想していた日本には、ソ連の宣戦布告はまさに寝耳に水だった。

                  ×  × 

 敗色濃厚となった日本の中枢は、最後の頼みの綱としてソ連を仲介役に米英との和平を模索していた。日本にとってソ連は中立条約を結んでいる唯一の大国だった。20年4月5日にソ連は日本政府に中立条約を延長しないことを通告してきたものの、条約は翌21年4月まで有効で、20年6月中旬からソ連を仲介役とする米英との和平工作がひそかに進められていた。

 ところが、2月のヤルタ会談で対日参戦の密約を交わしたソ連は侵攻の準備を進めていた。日本の甘い見通しにソ連は明確な態度を示さず、参戦準備を察知されないように在欧日本人の帰国の便宜を図るといった隠蔽(いんぺい)工作も行っている。

 ソ連に傾斜した日本は近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣することを決め、7月12日、天皇から親しく命を受け、東郷茂徳外相はモスクワの佐藤大使に「ソ連の意向を調整するよう」訓電を送っている。

                  ×  × 

 外務省欧亜局東欧課作成の「戦時日ソ交渉史」によると、佐藤大使は近衛特使派遣をソ連に告げ、モロトフ外相との面会を求めた。ポツダム会談から首脳が帰国した8月7日、クレムリンから「8日午後8時(日本時間9日午前2時)にモロトフが会う」と連絡があり、その後「8日午後5時(同8日午後11時)」に前倒しされた。

 佐藤大使は近衛特使派遣をソ連が受け入れたと期待して8日、クレムリンを訪れたところ、モロトフ外相から渡されたのは宣戦布告文だった。最後にどんでんがえしを食らった格好だ。

 9月2日、スターリンは対日「戦勝」記念演説で次のように語った。

 「1904年の日露戦争でのロシア軍の敗北は国民の意識に重苦しい思い出を残した。この敗北はわが国に汚点を印した。わが国民は日本が粉砕され、汚点が一掃される日が来ることを信じ、そして待っていた。その日は訪れた。このことは、南樺太と千島列島がソ連に移ることを意味する」

 スターリンのこの演説は日露戦争への報復と領土拡張が日本との戦争の目的だったことを示している。

608名無しさん:2015/08/10(月) 16:24:03
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150807-00000045-rcdc-cn
三菱マテリアル、米国人元捕虜への謝罪、事前に日本政府に報告=韓国ネット「日本は独裁国家」「日本政府はなぜそんなに韓国を嫌う?」
Record China 8月7日(金)17時24分配信

2015年8月6日、韓国・聯合ニュースによると、三菱マテリアルが先月19日、第2次世界大戦中に強制労働させられた米国人捕虜に謝罪した問題で、訪米に先立ち日本政府に報告していたことが分かった。

元米国人捕虜への謝罪に同席した三菱マテリアルの岡本行夫社外取締役は最近、韓国メディアとのインタビューで「謝罪に先立ち、日本政府に報告をした」と明らかにした。岡本氏はまた、「請求権問題はすでに解決しているので、賠償金を支払うことはできないというのが日本政府の立場だ」と強調した。

三菱マテリアルが第2次世界大戦中に強制徴用された元中国人労働者に謝罪し、賠償金を支払うと報じられていることについては、「賠償金を支払うとしても、企業や人として謝罪するという意味であり、元中国人労働者との請求権は解決済みだ」と述べた。また、元韓国人労働者については「韓国人労働者を働かせた事実はまだ確認されていない」とし、「強制労働の事実が確認されたら、当然謝罪するべきだ」との考えを示した。

岡本氏は自身の発言が三菱マテリアルの公の立場ではないと述べたが、韓国メディアは「三菱マテリアルが元韓国人労働者に謝罪しないのは、日本政府の態度が影響を及ぼしているのではないか」と懸念している。

これについて、韓国のネットユーザーは以下のようなコメントを寄せている。

「韓国人労働者を働かせた証拠はたくさんあるはず。写真もたくさん残っているでしょ?」
「韓国人強制徴用の事実を歪曲(わいきょく)するために、日本政府は『韓国が提示する証拠は全て偽物だ』と国民に教えている。国民はだませても神様はだませない!」

「日本政府はなぜそんなに韓国を嫌う?」
「日本人の多くは今でも米国の原爆投下を憎んでいる。いつか日本は米国を裏切るだろう」
「日本政府の主張は正しい。韓国人がいくら賠償金を要求しても、2度は支払わないよ」

「不買運動をして韓国の力を見せつけよう」
「弱者に強く、強者に弱い日本。本当に卑怯な国だ。いつか必ず、後悔する日が来るはず」
「三菱のエレベーターを見ると腹が立ち、壊してしまいたくなる」

「日本は独裁国家だ。そして今、安倍首相は日本に嫌韓を広めようとしている。本当に恐ろしい国」
「日本人は韓国の車を買わないのに、どうして韓国にはこんなに日本車があふれているの?」
「韓国政府は恥を知れ。どれだけ日本になめられているんだ?」(翻訳・編集/堂本)

609名無しさん:2015/08/10(月) 16:24:55
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150807-00000039-rcdc-cn
「日本に標準時間を奪われた」北朝鮮、15日から標準時間を変更=韓国ネット「無知なやつほど勇敢だ」「韓国も見習うべき!」
Record China 8月7日(金)14時38分配信

2015年8月7日、韓国・聯合ニュースによると、北朝鮮の最高人民会議常任委員会は、光復(解放)70年を迎える8月15日から標準時間を30分遅らせると発表した。

北朝鮮は日本の植民地時代から東経135度を基準とする「東京時間」を使用してきたが、15日以降は東経127度30分を基準とする「平壌時間」を使用すると明らかにした。これにより、15日以降は日本と北朝鮮の間に30分の時差が生じることになる。

「平壌時間」を使用する理由について、朝鮮中央通信は「日本帝国主義者は朝鮮半島を踏みにじり、標準時間まで奪う許しがたい犯罪行為を行った」と説明した。

一方、韓国は社会的費用や在韓米軍の軍事作戦などを理由に、現在も「東京時間」を使用している。

これについて、韓国のネットユーザーはさまざまなコメントを寄せている。

「国ごとに時間を定めたらかなり面倒くさいことになる」
「日本植民地時代と何の関係がある?スペインが『英国と同じ時間を使用するのはプライドが傷つく』と言ったことがあるか?」

「無知なやつほど勇敢だ」
「そんな細かいことまで気にしていたらきりがないよ。30分遅らせる利点が1つも見つからない」

「北朝鮮もたまには正しいことをする。韓国も標準時間を変えなければならない」
「それならクリスマスもなくすべき!東アジアの中でクリスマスを祝日にしているのは韓国だけだよ」

「韓国も見習って!韓国の時間を決めて、日帝残滓(ざんし)を消し去ろう!」
「小さい朝鮮半島の中に2つの時間が存在するなんておかしくない?南北統一がどんどん遠ざかっていく…」(翻訳・編集/堂本)

610名無しさん:2015/08/13(木) 15:23:09
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150813-00044509-jbpressz-bus_all
日本にもいた?原爆投下を必要としていた者たち
JBpress 8月13日(木)6時25分配信

 ロシア政府が、アメリカによる広島と長崎への原爆攻撃について検討する会議を開催した。そのなかで、プーチン大統領の側近として知られるナルイシキン下院議長が「軍事的に必要のなかった原爆攻撃は人道的に許されるものではない。アメリカの原爆攻撃はこれまでのところ国際法廷で裁かれてはいないが、人道に対する罪には時効はない」とアメリカを痛烈に非難した。

 この時期において、なぜロシア政府は対米非難をしたのか。背景に、アメリカが原爆による大量虐殺という重大な戦争犯罪を犯していたことを宣伝することによって、ロシアによるウクライナ侵出に対する国際的非難を軽減させようとする意図があるのは見え見えである。現に、ロシア自身がウクライナ情勢の悪化に伴って核兵器の使用を考えていたことを公言している。

 それに加えて、日本国内では“低調”な原爆攻撃に対する議論を喚起して反米感情を煽り、日米同盟に打撃を与えようとする意図もまた明らかである。

 そのような意味で、日本は被害国であるからといってロシアなどが対米訴追を提唱しても軽々に加担してはならない。

■ アメリカで広く浸透している「原爆攻撃免罪論」

 「原爆攻撃に対する議論が低調」というのは日本の人々が「広島」や「長崎」に関心がないことを意味しているわけではない。日本では、とりわけ8月6日と9日が近づくと、多くのメディアが原爆特集を組む。今年は70周年ということに加えて安保法制の審議も行われているためか例年以上に力が入っているようである。

 しかしながら、それらの報道や特集の多くは、原爆がもたらした悲惨な状況を伝えることにのみ焦点を当てている。もちろん、核兵器の恐ろしさや非人道性を啓蒙することは欠かせないのであるが、「なぜ原爆攻撃が必要だったのか?」といった被害国ならば関心を持ってしかるべき疑問に対しての関心は極めて低調である。

 そして、多くの日本の人々が「原爆投下によって戦争が終結することになった。確かに広島と長崎ではおびただしい人々が犠牲になったが、戦争が継続されていた場合に生じたであろう犠牲はその比ではなかったであろう」というアメリカでまことしやかに語られている「原爆攻撃免罪論」を、積極的にではないものの、受け入れてしまっている感も否めない。

 もっとも、原爆投下による大虐殺を敢行した当事国であるアメリカでは、一般的には原爆の話題は好まれない。原爆に限らず嫌な歴史には触れたがらないのだ。そしてアメリカ社会には、上記の「原爆攻撃免罪論」が広く浸透しており、核兵器の非人道性は認めつつも対日原爆攻撃は「戦争においての必要悪」であったということで“納得”している。

■ 原爆攻撃は必要ではなかった

 しかし国防戦略に関与する人々にとっては「原爆攻撃が必要であったのか」という命題はそう簡単に“納得”してしまうようなテーマではない。もちろん、アメリカ政府や軍部としても公的には「原爆攻撃免罪論」に固執している。しかし、少なからぬアメリカ海軍関係戦略家たちは、以下のように考えて原爆攻撃は不必要であったとしている。

 「1945年春には、アメリカ海軍によって日本海軍はほぼ壊滅させられていた。そのため、日本と太平洋方面の間の補給線はほぼ完全に遮断され、満州や中国大陸それに朝鮮と日本の間の補給すら寸断されていた。もはや日本列島は完全に孤立する寸前であった。本土決戦と叫んだところで弾薬兵器が不足しているだけでなく、食糧自給も欠乏していたため、1945年末までには数多くの餓死者が出ても不思議ではない状況であった。したがって、日本指導層に少しでも理性が残っていたならば、原爆攻撃など敢行しなくても間違いなくポツダム宣言を受諾したであろう」

611名無しさん:2015/08/13(木) 15:24:10
>>610

 さらに、原爆使用決定過程において何人かのアメリカ海軍首脳部が原爆攻撃に強く反対していたという事実を根拠にして、以下のように当時の海軍を擁護する海軍関係者も少なくない。

 「海軍首脳の多くは原爆攻撃について軍事的理由からも人道的理由からも反対した。ただし、もし原爆攻撃なしで日本が降伏した場合、勝利の主役はアメリカ海軍ということになる。なんといっても、海軍が反撃に転じたミッドウェイはじめ数々の海戦や、ガダルカナルやタラワを皮切りにした数多くの島嶼攻防戦によって、日本海軍や島嶼守備隊をほぼ全滅に追い込んだのは海軍と海兵隊(海軍と海兵隊はともに海軍省が管轄する)だった。したがって、陸軍陣営は海軍(と海兵隊)に太平洋戦域での手柄を独り占めにされるのを嫌って、硫黄島攻略戦以上に強烈な決定打が欲しかったのだ。まさに原爆攻撃はうってつけであった」

■ 戦争を終わらせたのはソ連の満州侵攻だった

 このように「原爆攻撃は不要であった」とする人々も、2発の原爆によって「少なくとも終戦が決定的になった」という点では「原爆攻撃免罪論」と五十歩百歩である。

 しかし、「原爆によって終戦がもたらされた」という説明を“神話”であると退ける人々もいる。

 例えば、以下のような理由で、日本がポツダム宣言を受け入れたのは原爆攻撃を受けたからではなく、ソ連が対日戦に踏み切ったからであると主張する人々もいる(例えば、Ward Wilsonの「爆弾ではなくスターリンが日本を打倒した」Foreign Policy、2013年5月30日)。

 日本の最高戦争指導部、とりわけ1945年当時に最も権力を掌握していた陸軍首脳は、さすがに敗戦は避けられないとは感じていたものの、「国体護持」と「軍指導者の戦争犯罪人裁判回避」という条件のもとでの終戦実現に関心を集中させていた。アメリカによる対日無差別都市爆撃での日本国民の犠牲は、最も重視すべき関心事というわけではなかったようである。

612名無しさん:2015/08/13(木) 15:25:08
>>611

 実際に、広島攻撃前の3週間だけでも17の都市がB-29の絨毯爆撃攻撃を受け壊滅的損害を受けている。しかし、戦争指導部にとって衝撃であったのは、そのような国民の多大な犠牲よりは、8月9日午前0時から開始されたソ連軍の満州侵攻であった。これによって、戦争指導部にとり最後の望みであったソ連を通しての停戦工作の望みが完全に絶たれたからである。

 そして、最高戦争指導会議がソ連侵攻後の8月9日に開催され、昭和天皇の「ご聖断」を仰ぐことになった御前会議が8月10日午前0時3分から開催されたのであった。

 このような時系列から判断しても、日本の戦争指導部に終戦の決意を促したのは、原爆というよりはソ連であったということができる。

■ アメリカにも日本にも都合が良かったという説

 日本降伏の直接的な引き金は原爆だったのか?  ソ連だったのか?  という議論をより進化させて、「原爆攻撃は、日本の戦争指導部にとっても“タイミングが良い”出来事であった」という考え方も存在する。

 すなわち、原爆攻撃以前にも多数の都市が絨毯爆撃攻撃や艦砲射撃によって破壊され、数多くの国民が犠牲になっていったが、日本の戦争指導部はそのことに対してあまりに無能であった。

 ところが、「残虐なる新型爆弾」による「想像を絶する損害」を口実にポツダム宣言を受け入れることにすれば、自らの無能な戦争指導から原子爆弾に責任を転化することができるというわけだ。

 つまり、「原爆攻撃免罪論」はアメリカのリーダーたちにとっても日本の最高戦争指導部にとっても、それぞれ自身が抱える罪悪感を軽減するために好都合な説明ということになる。

 もちろん、このような解釈も数ある「原爆攻撃に対する議論」の1つにしか過ぎない。しかし、被爆国である日本がさしたる疑問も抱かずにアメリカでの定説であるからというだけで「原爆攻撃免罪論」を受け入れているようでは、犠牲になった人々に対して無責任であるとの誹りを免れないであろう。

北村 淳

613とはずがたり:2015/08/15(土) 20:52:50

細川護熙元首相「祖父、近衛文麿の“遺書”が裏付けた侵略戦争」〈週刊朝日〉
dot. 2015年8月14日 07時00分 (2015年8月15日 15時52分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20150814/asahi_20150814_0000.html

 元熊本県知事、第79代首相の細川護熙(もりひろ)氏は、戦後70年の談話(安倍談話)について持論をこう語る。

*  *  *
 私の祖父の近衛文麿は、亡くなる前の晩に次男の通隆に宛てて遺書のようなものを残していますが、その中で、日支事変の拡大、仏印進駐は自分の政治的誤りであったということを言っています。先の大戦は侵略戦争であったということを裏付けるような発言です。当時その責にあった人がそう言っているわけで、その言葉は重く受け止めざるをえない。

 だから首相に就任した1993年8月の最初の記者会見で記者の質問に答え、先の大戦について侵略戦争だったと、間違った戦争だったと認識していると、首相として初めて明言しました。私が言わなかったら村山談話も小泉談話もあそこまで踏み込んだものにならなかったかもしれません。それまで歴代の総理は、戦争を通じて多大な損害を与えたことに対する真摯な反省の気持ちを述べられていましたが、「侵略」に関しては政権の内外とも奥歯にものが挟まったような発言が繰り返されていました。しかし、私には明確な歴史認識を示すことで、近隣諸国の対日不信感を払しょくする一助になるのではないかという信念がありました。

 私の発言は、中国と韓国はもちろん欧米の首脳にも広く歓迎されました。ロシアのエリツィンさんは、首脳会談で来日されたとき、私のあの発言がなかったら、自分はここにいなかったとはっきりと言われました。

 おそらくあのときが一番、日本とほかの国との関係が外交的にはうまくいっていたときだと思います。

 でも自民党からは、もう総攻撃でした。石原慎太郎さんや橋本龍太郎さんらから予算委員会でも徹底的に追及されました。当時の与党のみなさんもびっくりされたと思います。与党の人たちからは特になにも言われなかったんですが「よく言った、そのとおりだ」と真っ先に言ってくれたのは小泉(純一郎)さんだったというのも意外でしたね。

 安倍さんが戦後70年談話を出されるということですが、私の考えは極めて簡単で、村山、小泉談話をそのまま継承すればいいということです。いささかでも私の発言や村山談話から外れてその精神を損なうものであれば、それは有害なものになるでしょう。「侵略」とか「植民地」とかいくつかのキーワードを継承していかないと、「未来志向」と言っても意味がない。

 そもそも10年ごとに談話を出す必要もないと思っています。過去に対して向き合うのが10年ごとに変わるのでは困ります。そして日本と中国、韓国との関係においては、平和友好以外の選択肢はありえません。

(構成 本誌・長倉克枝)

※週刊朝日 2015年8月21日号

614名無しさん:2015/08/15(土) 21:11:33
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150814-00044645-gendaibiz-soci
日本人はヒトラーをどう見ていたか?〜ファシズムへの共感が広がった理由 【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』4
現代ビジネス 8月14日(金)9時1分配信

 日本はなぜファシズムに傾斜していったのか? モデルとなったのはもちろんヒトラーのナチスドイツ。当時の日本人はこれをどう見ていたのだろう。ヒトラーのナチズムが「先進的な模範モデル」として徐々に共感を広げていった様子を追う。

 (*井上寿一『戦前昭和の社会 1926-1945』より「Ⅳ章 カリスマ待望と戦争」を4回に分けて特別公開。最終回)

ファシズムへの共感

ヒトラー・ユーゲントの一大旋風
 日本国民に枢軸国に対する親近感を抱かせるうえで、大きな政治的・社会的役割をはたしたイベントとして、ヒトラー・ユーゲント(ドイツ青少年団)の来日がある。

 1938(昭和13)年8月、横浜港にグナイゼナウ号で来日した一行30名余は、11月に神戸から帰国の途につくまでの約3ヵ月間、日本に一大旋風を巻き起こすことになる。

 写真壁新聞も逐一、報道する。8月19日号「ようこそ!! 若き盟友!! /青年日本の歓迎裡に憧れの帝都へ」は、「バンザイバンザイの熱狂的な青年日本の歓迎陣に迎えられて……防共の誓新たなるを覚える中に宮城へ堂々と行進を起した」として、宮城前を行進するヒトラー・ユーゲントの写真を載せる。その写真は東京駅から宮城へとハーケンクロイツの旗を先頭に行進するヒトラー・ユーゲントを取り巻く人びとが埋め尽くしている。

 写真壁新聞は、他方でドイツを訪問する日本の青少年団の様子も伝えている。8月21日号「独逸各地で歓迎攻め/我が訪独青少年団代表一行」は、港に到着した直後の行進風景の写真である。

 ヒトラー・ユーゲントの足跡を追う写真壁新聞は、9月21日号で大島の三原山を登山する一行の姿を伝えている。「活火山を持たぬドイツ国民とて火山ではすっかり驚嘆〝凄い凄い〟を連発して下山」したという。

 ヒトラー・ユーゲントの来日の政治的・社会的影響は大きかった。一行の様子は多くのメディアが報じた。『ホーム・ライフ』もそうである。1938年10月号は、3頁の特集を組んでいる。「万歳・ヒットラー青年」は、靖国神社を参拝する一行の写真である。横浜港上陸から東京駅前、富士登山、山中湖畔での「日本青少年団交歓キャンプ」の写真がつづく。

615名無しさん:2015/08/15(土) 21:11:59
>>614

模範国としてのナチス・ドイツ
 注目すべきことに、亀井貫一郎「この世界観──自由主義を揚棄する所以」が同じ号に掲載されている。亀井貫一郎とは、社会大衆党の幹部のひとりで、近衛内閣の成立に協力した人物である。当時、亀井は前年に訪問したドイツから帰国し、近衛新党の結成を画策していた。

 亀井は同論考において、「日本はナチス・ドイツの真似をしているとよくいわれる」と言う。ところが亀井によれば「これはまちがいで、実はナチス以前の統制の真似をやっているにすぎない」。日本はナチス・ドイツと同様に「新らしい文化を建設するために、自由主義を揚棄するのである」と力説する。

 「そのためには男性も婦人も『性』を超越し、一つの目的へ向わねばならない、この世界観さえしっかりしていれば、末梢的な梅干弁当や、見当違いの勤労奉仕などから起る矛盾も解消すると思う」。

 ナチス・ドイツは男女間の格差を是正する新しい文化と生活様式を創造する国である。亀井にとってヒトラーのドイツは、この意味で日本の模範国だった。

 ドイツの社会的な影響は『ホーム・ライフ』にもおよんでいる。その具体的な現われの一つが日本の「民族優生保護法案」への関心である。大和民族をより強く、より立派にしようとする法律にもとづく民族強化政策は、明らかにナチス・ドイツに範を求めたものだった。

 同誌の1939(昭和14)年12月号は、「京大講師・医学博士藤森速水」に「ドイツに留学中何かと見聞したナチス・ドイツの民族強化政策」を語らせている。藤森は言う。

 「国家が権力をもって人たるの本能を奪うのは怪しからんと説く人があるが、これは大変な誤解である。今日の進歩せる手術をもって断種法を施す場合、被手術者に何らの苦痛を与えず、しかも手術後も何ら人生の本能を阻害することなく生殖能力を差止めることができる」。

ヒトラーの下での平等──山田耕筰がみたドイツ
 ヒトラー・ユーゲントをとおして生まれた共感のさきにあったのは、優生学への関心だけではなかった。以下ではドイツで見聞を広めたふたりの人物に注目する。

 ひとりは音楽家の山田耕筰である。山田は1938(昭和13)年1月13日から15日の『東京朝日新聞』に「ナチ独逸人を語る」を連載している。このなかで山田は、ベルリンフィルハーモニーによる自作の曲の演奏会のことにふれる。山田は見逃さなかった。入場券には「この演奏会、ユダヤ人の入場を許さず」と記されていた。

 しかし山田はユダヤ人差別の是非を論じることなく、別の点でドイツ人を賞賛する。「独逸人の性格でまた最も尊敬すべきものの一つに身の程を知るという美点がある」。「身の程を知る」とは何か。「床屋は床屋として、下僕は下僕として其職を蔑まない。あらゆるものがその与えられた職分を守って精進する」。これがドイツ人にとって「身の程を知る」ということだった。

 他方で日本においては、山田によれば、たとえば「車夫」が弁護士になるといった「成功線上を彷徨して夢の成功を握」ろうとするという。これではいけない。ドイツ国民の「健康性」は「吾が国の現状には移し植えて培うべき特性である」と山田は言う。

 要するに山田が感嘆したのは、ヒトラーの下でのドイツ国民の平等だった。ヒトラーの下で職業の貴賤はない。ヒトラーの下で社会的な格差が是正される。

 「持たざりし大多数の者が持ち得ざりしあるものを与えられて、はじめて僅なる陽の目を喜び楽しんでいる……。国家社会主義ナチの現象としてはこれはあまりにも当然すぎる事実である」。

 山田は叫ぶ。「この勝れた盟邦独逸と独逸国民の上により多き祝福の加えられんことを祈念し、Heil Hitler!」(『東京朝日新聞』1938年1月15日)。山田はヒトラーの国家社会主義による社会の平等化に日本の理想を見出した。

616名無しさん:2015/08/15(土) 21:12:22
>>615

新しい生活様式のモデル
 もうひとりは「東京聯合少年団中央健児女子部長藤村千良女史」である。藤村のドイツ見聞録は、「新興の意気が到る処に満ち満ちて居ることでした。何を見ても唯感心する他なく、学ぶべきことが実に沢山ありました」とはじまる(『東京朝日新聞』1938〈昭和13〉年9月16日、17日)。

 藤村は日本の女性に伝える。

 「ドイツに於ける赤ちゃんの大切にされていることは日本の婦人には想像だに出来ないことです。/汽車などに乗る時でも、お母さんが腰をかけているその前に、赤ちゃんは乳母車ごとそのまま乗れるようになって居ります。/地下鉄などでも赤ちゃんの乳母車の上げ下ろしを男子までが、自分の子供よりも大切にして手伝うのです」。

 藤村は乳幼児と母親が社会的に大切にされている理由がわかっていた。「よい体格の女子とよい体格の男子との結婚によってよき子を生むことに依って強き第二国民に将来の大使命を負わせよう」とするためである。それでも藤村にとって、ヒトラーのドイツの下では、男女は平等だった。

 藤村は言う。「ドイツの婦人全体に真に国家のためと云う観念が生活の凡ゆる方面に漲って、緊張した生活をしています」。藤村はこのような緊張感を日本の銃後社会に持ち込もうとした。「盟邦ドイツに学んで、更に一層銃後の婦人の緊張に拍車をかけなければならないと思います」。

 ヒトラーのドイツは日本の新しい生活様式のモデル国家となった。

ファシズム優生学への「期待」
 日本はドイツのようなファシズム体制をめざす。そうは言っても日本は日本である。ドイツを真似したところで同じようになれるわけがなかった。

 たとえばナチス・ドイツ流の優生学を導入するといっても、限界があった。この点に関して、医学博士の林髞は言う。

 「この事変以来、日満支の一体が叫ばれ、日本人の進出を多く見るようになったが、その場合結局一番問題になるのは異種族間の結婚……だが恐らくこの問題は、近親結婚よりこの方が数からいって少くはないかと思う。異種族間の結婚問題は、ある程度の弊害はあるとしても、要は増殖率が多いかどうかにあると思う」(『ホーム・ライフ』1939〈昭和14〉年12月号)。

 日本はドイツのようにユダヤ人を排除しアーリア民族の優秀性を唱えたくても唱えることができなかった。日中と「五族協和」を掲げる満州国の三国が「東亜協同体」をめざす立場からすれば、「五族」の異種族間の結婚は、推奨すべきではあっても、禁止すべきことではなかったからである。

 この背景にはつぎのような日独のちがいがあった。ドイツは第一次欧州大戦に敗れて植民地を失った。対する日本は形式的ではあれ、戦勝国である。しかも台湾を領有し、韓国を併合している。日本はすでに多民族国家だった。多民族国家日本が一方的に大和民族の優越性を強調するわけにはいかなかった。

 優生学の導入は、日本の文脈において再解釈される。当時の日本では、法律によって、伯父・叔父と姪、伯母・叔母と甥の結婚は禁止されていた。それを従兄妹同士にまで広げようというのである。

 林は言う。「日本で問題になる近親結婚としては、この従兄妹同士というのが一番多いわけだから、時代が経つと禁止になるかも知れないと、私は思っている」。

 近親結婚は、自由主義的な結婚観の立場からであっても、忌避されるべきだろう。これはナチス・ドイツ流の優生学とは異なる。医学の発達段階にともなう近代的な常識にもとづく判断である。

 それでもファシズムが持つ平準化作用の魅力は失われない。林は結婚した者には独身者の二倍の賃金を与えろと提言する。戦争景気の下で高賃金を得た独身の若い労働者が贅沢をしている。「この弊害を改める上にも、妻のある者には二倍の高賃金を払うか、独身者には普通の賃金しか払わないとなれば、独身者はそんなに遊びまわる余裕がなくなり、早く結婚して平和な生活をしようと工夫するようになると思う」。

 ファシズムの優生学は賃金格差の是正と「平和な生活」への期待を抱かせた。

617名無しさん:2015/08/15(土) 21:13:00
>>616

近衛新体制の末路
 日本は日本的なファシズム体制をめざす。日本的とはいっても、ファシズム体制である以上、大衆に支持される「独裁者」が必要だった。日本の場合、その「独裁者」は近衛以外に見当たらない。本章1節(→こちら)でふれたように、近衛は三度、政権の座に就くことになる。

 近衛に対する大衆の期待は変わることがなかった。「近衛氏のほかに、人なしとして、同氏にだけ、のぞみをつないでいるというありさま」だった(筒井清忠『近衛文麿』)。

 その近衛は第二次組閣に際してのラジオ放送において、政府と国民が一体となって社会の平準化(より正確には戦時下における下方平準化)をめざすべきことを訴えた。

 「国民の全部が皆私心を去り、一面積極的増産に力を致すと共に、他方大節約に努めなければならない。/凡そ奢侈逸楽を事として興隆せる国家は未だ曽て之を見ない。政府に於ても予算に出来るだけ削減を加え、不急を除き、冗費を節したい」(1940〈昭和15〉年7月23日放送)。

 大衆が支持したのは、近衛の下での社会の下方平準化だった。

 新体制の確立をめざす近衛を勇気づけたのは欧州情勢である。ヒトラーの電撃戦の成功は欧州新体制をもたらしつつあるようにみえた。近衛にとってヒトラーのドイツは、近衛の「弱い性格」を補完する。仮装パーティでヒトラーに扮した近衛の写真がある。この写真は近衛の二面性を示唆する。

 一方では近衛はヒトラーを揶揄しないではいられなかっただろう。ヒトラーの出自と野蛮な暴力主義の権力奪取の手法は、近衛とは相容れないところがあった。他方では、ヒトラーの存在は近衛の決断力不足、優柔不断さの心理的補償作用となった。

 近衛がめざしたのは、そのヒトラー(とムッソリーニ)との三国同盟による国際新体制およびこの国際新体制と連動する国内新体制の確立だった。

 近衛にとっての国内新体制とは、ナチズム体制に類似した一国一党体制のことである。しかしこの国家路線を追求する過程で、近衛は帝国憲法の改正という難問に直面する。憲法改正をためらった近衛が作ったのは大政翼賛会だった。大政翼賛会は、一国一党体制とはほど遠い、諸政治勢力の寄せ集めにすぎなかった。

 他方で国際新体制に関しても、元老西園寺がさきの近衛のラジオ放送を評して「実にパラドックスに充ちていた」と述べたように、三国同盟と日米関係の調整を両立するのは困難だった。三国同盟は近衛の主観的な意図とは異なり、客観的な結果としてはアメリカに対日戦争の覚悟を固めさせることになったからである。第三次近衛内閣は総辞職する。

 それでも写真壁新聞の1941(昭和16)年10月28日号は「大活躍の我が野村駐米大使」との記事において、ワシントンで対米交渉をつづける野村(吉三郎)大使の写真を掲載している。依然として政府は、国民に対米国交調整の努力を伝えていた。

 しかし日米交渉は不調に終わる。政党内閣崩壊後、残されたほとんど唯一の切り札だった近衛を失った日本に真の危機が迫っていた。

 (了)

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井上 寿一(いのうえ・としかず)
1956年、東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院法学研究科博士課程などを経て、現在、学習院大学法学部教授。法学博士。専攻は日本政治外交 史。主な著書に『危機のなかの協調外交』(山川出版社、吉田茂賞)、『日中戦争下の日本』(講談社選書メチエ)、『昭和史の逆説』(新潮新書)、『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書)、『山県有朋と明治国家』(NHKブックス)がある。
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井上寿一

618名無しさん:2015/08/16(日) 18:19:51
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150814-00003107-kana-l14
戦死の誤報で母再婚 父2人のはざまで娘は…
カナロコ by 神奈川新聞 8月14日(金)7時0分配信

 父の腕に抱かれ、ハンカチで口元を押さえる少女。BC級戦犯としてフィリピンで死刑判決を受けながらも恩赦によって横浜港に帰還した元日本兵と、約10年ぶりに再会した子どもたちの写真が、1953年7月23日の本紙に載った。その少女、尾畑慶子さん(76)=旧姓前川、横浜市鶴見区=は「これで元に戻れる、と思いました」と当時の心境を振り返る。けれども、そこに母の姿はなかった。夫が戦死したとの誤報を信じて再婚していたからだ。市井の人の「戦争」は続いていた。

 「私は覚えていないんですが、お葬式をしたと母から聞きました」と慶子さんは話す。終戦から2、3年後に父・前川治助さんの戦死公報が届いた。母の邦子さんは、生活を案じた近所の人の紹介で再婚した。2人の幼い弟は新潟の父方の実家に引き取られ、母は新しい父との間に妹と弟をもうけた。

 治助さんがフィリピンの刑務所で健在だと分かると、邦子さんは煩悶(はんもん)した。日本人戦犯の減刑のために奔走した横浜出身の歌手、渡辺はま子さんにしたためた手紙に「再婚したものゝ、前川が生存して居ると知つた其の時から、此の帰りを待ちわびて来た私でした」と真情を吐露した。

 帰国がかなった53年7月の恩赦に加えて同年12月、さらなる恩赦で釈放されるまで、治助さんは東京・巣鴨刑務所で服役した。その間、邦子さんは再婚した夫とともに巣鴨を訪れ面談した。結局、邦子さんが選んだのは治助さんだった。その気持ちを慶子さんは推し量る。「あんたが大人になったら分かる、とだけ言っていました。結局、好きだったということでしょうね。母は大恋愛で結ばれ、16で私を生んだんです」

 治助さんは邦子さんを許し、新潟の弟たちも一緒に暮らすことになった。横浜港で慶子さんが見せた涙には、新潟、横浜と離れ離れだった弟に再会した喜びもあった。「うれしくてしょうがなかったんです」

 一方で、新しい父は身を引き、妹と弟を連れて家を出た。慶子さんにとって、その2人も大切なきょうだいだった。内職に忙しかった母に代わり、赤ん坊のころから銭湯へ連れて行き、かわいがったのだ。「会いたくて、親に黙って顔を見に行ったこともあります」

 その弟は病で早世し、妹は慶子さんが20代前半のころ奉公に出されることになった。そのことを慶子さんが伝えると、治助さんは自分が引き取ると言った。戦後十数年、戦争に翻弄(ほんろう)された慶子さんのきょうだいが一つ屋根の下に集まった。「私たちを育ててくれた新しいお父さんにも恩返しができたと思いました」

 治助さんが亡くなったのは90年。フィリピンでのことは口を閉ざしたままだったが、かの地で10年間、家族を思い続けたことだけは確かだった。慶子さんは、横浜港で父が最初に発した言葉を忘れない。「お前、腕は大丈夫か」。ごく幼いころ腕に負ったやけどを、ずっと心配していたのだ。

 ◆フィリピンのBC級戦犯 非戦闘員や捕虜などを殺害、虐待したなどの容疑でフィリピン政府が起訴した日本兵151人を指す。79人が死刑判決を受け17人が刑死。エルピディオ・キリノ大統領の恩赦で帰国できたのは108人だった。戦犯は首都マニラ郊外のモンテンルパにあるニュービリビッド刑務所に収監された。教誨(きょうかい)師の加賀尾秀忍や、戦犯が作詞作曲した「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌った歌手の渡辺はま子らが減刑を嘆願した一方、日米両軍が激突し約10万人の民間人の命を奪った1945年のマニラ市街戦などを背景に、日本兵に対する住民の憎悪は根深かった。自身も妻子4人を日本兵に殺されたキリノは、キリスト教精神に基づき恩赦を決断したが、必ずしも国民の共感は得られず、直後の大統領選で落選した。

619とはずがたり:2015/08/20(木) 12:28:24
イタリアもエチオピアやリビアへの侵掠の罪を直視してんだろーねー。
そしてその先には当然宏大な土地を侵掠した英仏の罪がある筈である。狂った帝国主義時代を反省すべくガンガンやろう♪

イタリア、「日本の中国侵略の罪」を歴史教科書で明確に・・中国への関心高まり―中国メディア
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20150820/Xinhua_26689.html
フォーカス・アジア 2015年8月20日 12時05分 (2015年8月20日 12時20分 更新)

中国・新華網は19日、イタリアの小学校から高校で使用する歴史の教科書で近年、「日本の中国侵略の罪」が明確に記述されるようになったと伝えた。イタリアで中国への関心が高まったことが背景にあるという。
報道によると、10年前、イタリアの歴史教科書では中国に関する記述があまりなかったが、今ではさまざまな教科書が日本の中国侵略について記し、「満州国の成立」や「南京大虐殺」にも言及するようになった。ある教科書では「日本は歴史修正主義で、虐殺の罪を認めることを拒絶しているだけでなく、中国で犯した罪について教科書の中で大きく扱わないようになってきた」と指摘している。
ローマのある歴史教育専門家は、イタリアの歴史教科書で中国に関する内容が増えた背景について、中国が世界第2位の経済体となり、その歴史を理解することの重要性が高まったこと、中華系住民が増えたこと、また同国の歴史教育が欧州中心主義ではなくなってきたことがあると語った。
(編集翻訳 恩田有紀)

620とはずがたり:2015/08/27(木) 11:16:12

日本は謝罪も経済支援もした!中国のくどい“お詫び要求”に根拠などない―仏メディア
レコードチャイナ 2015年8月26日 19時14分 (2015年8月27日 11時02分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20150826/Recordchina_20150826057.html

17日、仏メディアRFI中国語版は中国外交部が安倍晋三首相の戦後70年談話に満足しなかった点に言及し、「中国が歴史問題で日本に毎年のように謝罪を迫るのは根拠のないことだ」とする記事を掲載した。写真は中国人民抗日戦争記念館。(Record China)

2015年8月17日、仏国際ラジオ放送ラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)中国語版は中国外交部が安倍晋三首相の戦後70年談話に満足しなかった点に言及し、「中国が歴史問題で日本に毎年のように謝罪を迫るのは根拠のないことだ」とする記事を掲載した。

同記事は中国の作家らの文章を引用し、中国の寛大さに感謝を示した安倍談話を「中国への尊重」と評価。過去の戦争を反省し、永遠の不戦を誓った日本に比べ、日本による侵略、植民地化をくどくどと訴える中韓はあまりにも遅れていると指摘する。さらに、田中角栄元首相が初めて毛沢東国家主席(当時)に会った際、頭を下げたことに触れ、「日本が中国に謝罪していないなどということはない」「反省や謝罪だけでなく、罪を償うための賠償もしている」と巨額の対中支援や対中投資を例に挙げた。

さらに、「平和主義を掲げる日本が軍事拡張路線を進む中国に服従するはずがなく、民主主義の日本が権威主義の中国に屈することはない。国際主義の日本が民族主義の中国の配下となることもない」と述べ、現実的な中国人は日本人とむやみに張り合おうとすべきではないと指摘した。

このほか、「人類にとって戦争は日常茶飯事で、侵略者と被侵略者の違いは、どちらが勝ったかで判断される」「領土割譲や賠償、戦勝国による一定期間の占領、戦争裁判などが終われば、敗戦国の謝罪や清算も終わりを告げられる」との意見を紹介し、償いを終えた敗戦国にいつまでも戦争問題を訴え続けることに疑問を呈した。

その上で、日本の首相が替わるたびに中国が謝罪を求めている点を挙げ、同じ敗戦国であるドイツやイタリアでは見られない事態だと指摘。また、「日本人と中国人では謝罪の捉え方が違う」と説明し、「中国人にとっての謝罪は負けや失敗を意味するがゆえに中国人は謝罪問題に対して強い姿勢に出る」との見方を紹介した。そして最後に「安倍談話に盛り込まれた“謝罪”というキーワードは、表面上は中国の勝ちのように思われがちだが、国際世論を考えれば本当の勝者は安倍首相だ」とまとめた。(翻訳・編集/野谷)

621名無しさん:2015/08/28(金) 00:05:10
http://news.livedoor.com/article/detail/10503441/
【戦後70年首相談話】橋下氏、「謝罪の宿命負わせない」に同意 「指導者と国民は別。政治家は謝罪し続けなければ」とも… 
2015年8月24日 8時7分 産経新聞

 橋下徹大阪市長(維新の党最高顧問)が23日、安倍晋三首相の戦後70年談話に初めて言及した。

 「戦争責任は国家の指導者と国民を分ける二分論で整理すべき」と述べ、「政治家は反省を前面に出し、まだ謝罪をし続けなければいけない。中国や韓国には謝罪の意はきちっと表明しなければいけない」との持論を展開した。

 市内で行われた市主催の戦後70年記念行事のあいさつでの発言。橋下氏の言う「二分論」は、「二分法」として知られる戦争指導者と国民を分ける中国の論理で、橋下氏は日中国交正常化で中国が国内の説得に使った論理として引用した。

 ただ、この二分法の論理は「A級戦犯」をまつる靖国神社への首相参拝を批判する根拠にもなっており、国政政党の幹部でもある橋下氏が中国側の論理を引いて戦争責任のあり方に言及したことで波紋を広げる可能性もある。

 また、橋下氏は「変なところで過去の歴史を正当化したり、謝罪はもういらないと言ったりするのはあり得ない」と述べ、「戦争の一番の歯止めは指導者に常に反省の気持ちを持ち続けさせること」と語った。

 一方、安倍談話が「(将来世代に)謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と言及した部分には同意。「日本だけでなく、いろんな国が帝国主義だった時代だ。原爆投下や大阪大空襲など民間人無差別攻撃も問題提起しなければならない」とも指摘した。

622名無しさん:2015/08/30(日) 14:57:33
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150826-00000004-jct-soci
山本太郎議員の国会質問がまた話題 「原爆投下や大空襲は米軍の戦争犯罪では?」
J-CASTニュース 8月26日(水)19時50分配信

 山本太郎参院議員(40)が国会でした質問がまた、反響を呼んでいる。今度も、「米軍による日本への原爆投下や東京大空襲は、戦争犯罪ではないのか」という単刀直入なものだった。

 山本太郎氏は、誰もが持つ素朴な疑問を次々に安倍晋三首相にぶつけている。2015年7月29日には、「原発がミサイル攻撃されたら?」と質問して、ネット上でもその内容が賛否両論になった。

■イラク戦争での米軍による「一家銃殺事件」を取り上げる

 今回質問したのも、安保関連法案を審議した同じ参院平和安全法制特別委員会だった。「生活の党と山本太郎となかまたち」共同代表として、山本氏は8月25日の委員会で、安倍首相の見解を問いただした。

 民間人の殺害などを禁じるジュネーブ諸条約、国際人道法は、日本も批准している。山本氏はまず、日本がこうした国際法に違反する行為をしている他国への支援、協力は行わないかへの確認を求めた。

 答弁に立った安倍首相は、自衛隊が国際法違反の行為への支援は行わないのは当然だとし、もしある国がこうした行為をしたとき、日本がその行為を支援することはないと明言した。それは、同盟国でも米軍でも同じで、日本は共犯者になることはないと言い切った。

 そこで、山本氏は、フリージャーナリストの志葉玲さんが4月28日にヤフー・ニュースに投稿した記事を元に、イラク戦争のケースを取り上げた。記事では、06年3月15日にイシャキ村で米軍が一家銃殺事件を起こしたと紹介し、安保法案について、こうした戦争犯罪でも日本は支援するのかと疑問を投げかけている。山本氏は、この記事内容について、「総理、これ戦争犯罪ですよね? 国際法違反ですよね?」とただした。

 これに対し、安倍首相は、事実確認のしようがないので、論評は差し控えたいと述べるに留まった。

「必要な議論」「政治で通じない」賛否分かれる
 米軍のほかの行為について、安倍首相と同様なやり取りをした後、山本太郎氏は、「もっと分かりやすい例え」を持ち出した。それは、多くの一般市民が犠牲になった広島や長崎への原爆投下や東京大空襲は、戦争犯罪であり国際法違反ではないかということだ。

 この点については、民主党議員からもすでに質問があり、政府は8月14日の臨時閣議で、「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、人道主義に合致しないものであった」などとする答弁書を決定している。そのことを踏まえ、岸田文雄外相は、山本氏の質問に「国際法の思想的基盤にあります人道主義の精神に合致しない」とだけ述べた。

 これに対し、山本氏は、安倍首相に聞いており外相は呼んでいないと不満を漏らし、「過去の米軍の過ちを認められないものが、どうやって戦争犯罪常習国である米国の行動をこの先ジャッジできるんですか」と批判した。最後に、山本氏は、「自衛隊は、米軍の2軍ではないんですよ」と指摘して、安保法案に対して反対する考えを強調した。

 国会での山本氏の質問については、今回もネット上で、賛否両論になっている。質問に共感する声としては、「よく言ってくれた」「これは必要な議論でしょ」「割と痛い所ついてくるよなw」といった書き込みがあった。一方で、「安保法案を理解してないね」「正論が政治で通じるとは限らんのよ」「アメリカを敵に回して何かいいコトあるんか?」といった疑問や批判も出ていた。

623名無しさん:2015/08/31(月) 18:10:03
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2015083100531
戦後70年談話を評価=「侵略、一人称が望ましかった」-北岡座長代理

 安倍晋三首相の戦後70年談話に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」で座長代理を務めた北岡伸一国際大学長は31日、東京都内の日本記者クラブで会見し、談話について「基本的には、懇談会の報告は大体踏まえていただいて、ほぼ満足している」と評価した。
 一方、談話に盛り込まれた「侵略」に関しては、「ここは(首相に)一人称でできれば言ってほしかった」とも指摘。「植民地支配の犠牲者についても、もうちょっと触れてもよかった」と述べた。
 北岡氏は、談話を受けた中国と韓国の反応にも言及。韓国に関しては「非常に理性的で抑制されたものだった」としたが、中国については「こんなに書いたんだから、もう少し良く受け止めてくれるかと思った」と感想を語った。 (2015/08/31-15:44)

624とはずがたり:2015/09/01(火) 16:42:08
その金は何処へ行ったんだ?戦後汚いカネでのし上がった日本の新興企業も多そうだ。

日本が戦争中に中国から奪った金は6000トン、日本はこれで戦後復興した=中国ネット「中国は戦争に勝ったのに…」「侵略者よ、ありがとう!」
配信日時:2015年8月30日(日) 21時22分
http://www.recordchina.co.jp/a117764.html

2015年8月27日、広州日報は「第2次世界大戦中に日本が中国で略奪した文物は10万点、金は6000トンに上る」とする記事を掲載した。これに中国のネットユーザーが反応を示している。

記事は、日本が大戦中に中国を含むアジア各地から洗いざらい持ち出したと説明。「中国から奪った金は6000トン、東南アジアでは1万トンに上る。これらは日本の戦後復興を支えた基盤となり、奪われた側のアジア諸国は貧困に苦しんだ」と指摘し、当時これに関わった人の話として「日本の手段は卑劣極まりない。墓に埋葬された人が身に付けていた金品まで持ち去った」と伝えた。さらに、現在でも日本各地の博物館で当時の略奪物が展示されていると紹介し、なかには重要文化財として展示されている文物もあると説明した。

625とはずがたり:2015/09/02(水) 08:29:30
習氏、抗日勝利「国民党も貢献」…中台連帯演出
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E7%BF%92%E6%B0%8F%E3%80%81%E6%8A%97%E6%97%A5%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%80%8C%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A%E3%82%82%E8%B2%A2%E7%8C%AE%E3%80%8D%E2%80%A6%E4%B8%AD%E5%8F%B0%E9%80%A3%E5%B8%AF%E6%BC%94%E5%87%BA/ar-AAdPuQu
読売新聞 9 時間前

【北京=竹内誠一郎、台北=向井ゆう子】中国の習近平国家主席は1日、「抗日戦争勝利70年」の軍事パレード出席のため北京を訪問している台湾与党・国民党の連戦元党主席らと会談し、中国国営新華社通信によると、共産党と国民党が「ともに抗日勝利に重要な貢献をした」と強調した。

国民党が反発してきた「共産党が抗日戦争の主体だった」とする従来の主張は控え、パレード開催に向け、中華民族としての連帯を演出した形だ。連氏も「国民党は正面作戦で日本軍に大きな打撃を与え、共産党はゲリラ作戦で日本軍をけん制、壊滅させた」と中国側に歩調を合わせた。

連氏の発言に対し、台湾の総統府報道官は1日、「すべては国民党が指導した。史実を否定することは許されない」と批判した。

626名無しさん:2015/09/03(木) 22:40:43
http://www.jiji.com/jc/c?g=tha_30&amp;k=2015082900152
ソ連の対日参戦

 ソ連の対日参戦 ソ連は1945年2月、米英とのヤルタ会談で、対日参戦の見返りに南樺太(サハリン)と千島列島を占領する極東密約を結んだ。ドイツ降伏3カ月後の8月9日、日ソ中立条約を破棄して満州(中国東北部)に侵攻。樺太では11日、千島では18日から戦闘を始めた。日本兵はシベリアに連行・抑留され、逃げ遅れた在留邦人から残留孤児が出た。日本の降伏文書調印3日後の9月5日、北方領土の占領を終えた。(モスクワ時事)(2015/08/29-14:43)

http://www.jiji.com/jc/c?g=tha_30&amp;k=2015090200100
ソ連の対日参戦

 ソ連の対日参戦 ソ連は1945年8月9日から、米英との極東密約(ヤルタ協定)に基づき、日ソ中立条約を破って満州(中国東北部)、南樺太(サハリン)、千島列島に順次侵攻。日本兵はシベリアに連行・抑留され、在留邦人から残留孤児が出た。日本の降伏文書調印3日後の9月5日、北方領土の占領を完了。ロシアはこれら地域を「日本軍からソ連軍が解放した」という歴史観を持つ。(モスクワ時事)(2015/09/02-07:33)

627とはずがたり:2015/09/04(金) 18:47:50
>>619-620

中国は日本に「謝罪迫る資格」なし・・・莫大なODAを忘れたか? ドイツもイタリアも侵略の謝罪はせず=仏メディア
http://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%80%8C%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E8%BF%AB%E3%82%8B%E8%B3%87%E6%A0%BC%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%97%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E8%8E%AB%E5%A4%A7%E3%81%AA%EF%BD%8F%EF%BD%84%EF%BD%81%E3%82%92%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%8B%EF%BC%9F-%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%82%82%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%82%E4%BE%B5%E7%95%A5%E3%81%AE%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E3%81%AF%E3%81%9B%E3%81%9A%EF%BC%9D%E4%BB%8F%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2/ar-BBm5RzF#page=2
サーチナ サーチナ モーニングスター株式会社 2015/08/25

 フランス国際放送、RFIはこのほど、運営するニュースサイト(中国語版)で、中国が歴史問題で日本に毎年謝罪を迫るのは根拠がないなどの主張を紹介する記事を掲載した。日本が莫大(ばくだい)なODAなどで中国を支援してきたことにも触れた。

 記事は、複数の中国人が示した意見を紹介する形で書かれている。まず日本が戦争行為を反省し、永遠の不戦の誓いをしていることは「だれでも知っている」と指摘。一方で、中国人と韓国人が毎日のように「日本の侵略と植民の歴史」を唱えているのは「見劣りがする」と断じた。

 謝罪については、田中角栄元首相が国交正常化のために訪中した際にすでに、「深々と頭を下げた」と指摘。日本は「贖罪のための賠償もした」として、ODAなどによる巨額の対中経済援助を挙げた。

 記事は続けて「今の平和主義の日本が、軍拡主義の中国に服従することはない。民主主義の日本が権威主義の中国に服従することはない。国際主義の日本が民族主義の中国に服従することはない」と論じた。

 戦争については、人類の歴史で「日常茶飯事」だったと主張。侵略行為の認定も勝利国によるもので、敗戦国は領土喪失、賠償、一定期間の占領、戦争犯罪者の裁判などが強いられるが、「これらが終了すれば、謝罪や清算はすべて完結したことになる」と論じた。

 さらにドイツやイタリアも侵略国であり敗戦国だが、「何度も繰り返して相手国に謝罪するのは見たことがない」、「国際法でもそんなことは定められていない。中国以外の世界中の第二次世界大戦の“被害国”は、そんなことをしない」と論じた。

**********

◆解説◆ 中国では「ドイツは戦争についてきちんと謝罪」が“常識”になっている。しかし、中国でよく例となるワルシャワにおけるブラント首相(1970年当時)の謝罪も、ユダヤ人の迫害に対するもので、ポーランド侵攻を含む戦争発動に対するものではない。

 1985年の終戦40周年式典でのフォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説では「われわれ全員が過去からの帰結にかかわりあっており、過去に対する責任を負わされている」と述べたが、「反省」や「謝罪」の言葉はなかった。

 イタリアは日独と同盟する枢軸国として第二次世界大戦に加わったが、戦局が不利になると指導者のムッソリーニを排除し(最終的に処刑)、連合国側に加わり日本にも宣戦布告した。このため、他の連合国と同格ではないが、敗戦国扱いは受けていない。(編集担当:如月隼人)

628とはずがたり:2015/09/04(金) 18:50:03
>イタリアは、国民性の問題もあり戦争はだめだった
笑。ここhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1165050511/6-7参照

抗日戦で「本当に頑張った」のは国民党の広西軍・・・日本軍から学ぶ柔軟性もあった、「共産党軍は軽部隊」と中国人専門家
http://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E6%8A%97%E6%97%A5%E6%88%A6%E3%81%A7%E3%80%8C%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E9%A0%91%E5%BC%B5%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%AF%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A%E3%81%AE%E5%BA%83%E8%A5%BF%E8%BB%8D%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AD%A6%E3%81%B6%E6%9F%94%E8%BB%9F%E6%80%A7%E3%82%82%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%81%E3%80%8C%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E8%BB%8D%E3%81%AF%E8%BB%BD%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%80%8D%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AE%B6/ar-BBm6qCp#page=2
サーチナ モーニングスター株式会社 2015/08/26

 中華民国研究の専門家で、江蘇行政学院(南京市)で教授を務める李継鋒氏は、日中戦争で日本軍と最も頑強に戦い成果を上げたのは、広西省(現、広西チワン族自治区)の国民党軍だったと論じる文章を発表した。日本軍の戦い方を直ちに採用するなどの柔軟性もあったという。共産党も戦意は旺盛だったが、「軽部隊」だったという。

 李教授は、当時、ファシスト国家であったドイツや日本は戦力が高かったと主張。ただし「イタリアは、国民性の問題もあり戦争はだめだった」と論じた。

 日本については、「武器もすごかった。精神面も頑強。そのため、中国軍は死傷率が極めて高かった」と論じた。第2次上海事変で「日本軍の損害は4万人。中国軍は25万人。25万人です。どう考えたらよいのか」と論じた。

 当時の中国は徴兵制の定着前だ。「人さらい」で兵員を補充した。李教授は、「民族自衛戦争なのに、人さらい。本来ならば、自ら喜んで兵になるはずだが、そうは簡単にいかなかった」と論じた。

 李教授は、日本には徴兵制が確立していたと指摘。日本兵と異なり中国兵は多くが字も読めず、先進的な武器は扱えず、組織生活も軍事訓練も経験していなかったと説明した。

 李教授によると、戦意が高かったのは共産党の支配地域と広西省だった。広西省は中国で最も早く徴兵制度を導入し、兵士の戦闘能力は高かったという。

 広西軍は第2次上海事変にも参加した。大損害を受けたが、指導者の白崇禧、李宗仁らは日本軍の「塹壕戦」を直ちに取り入れた。広西軍は戦いが始まって数カ月で、日本軍から戦術を学習し能力を大いに向上させたという。

 共産党軍については「軽部隊。重火器もあまりない。そのため、大量補給も必要なかった」と指摘。国民党軍については重砲、戦車、航空機、自動車などを使っての戦いであり、ガソリンや弾薬の補充が絶対に必要だったと説明。組織的に大規模な戦いを進めたと指摘した。

**********

◆解説◆ 白崇禧は1893年生まれ。広西軍の指導者のひとり。蒋介石に日本軍の補給線を崩壊させる「総力戦」を提案した。日本の敗戦により接収した台湾で反国民党の暴動(1947年、2.28事件)が発生すると、現地に乗り込み庶民から聞き込み調査をした上で国民党側の非を認め、捕えられた学生の恩赦を行うなどした。

 蒋介石とは1946年ごろから疎遠になり、48年には防衛大臣を罷免された。国共内戦で国民党が敗北すると、大陸を離れる最後の部隊を率いて台湾に渡った。1966年に台北で没した。(編集担当:如月隼人)

629名無しさん:2015/09/06(日) 11:57:23
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015090502000251.html
新選組 斎藤一に新史料 西南戦争従軍歴など国立公文書館に恩給関係文書
2015年9月5日 夕刊

 西南戦争で右肋骨(ろっこつ)に銃撃を受け、警視庁では中間管理職の警察官-。幕末に活動した新選組の生き残りとして知られながら、史料が少なく、謎が多いとされる斎藤一の明治維新後の従軍歴などが、国立公文書館が所蔵する明治時代の恩給関係の文書で明らかになった。歴史研究家のあさくらゆうさん(46)が公開請求した。
 文書は、退職公務員の恩給請求書などをまとめた「明治廿六年官吏進退恩給二」の文官恩給の部。斎藤は警視庁を退職翌年の一八九三年一月十九日付で、警視総監宛てに申請した。丁寧な文字で書かれた「西南之役従軍履歴」などは直筆とみられ、維新後から使った「藤田五郎」の名前で、押印もある。
 これによると、斎藤は七七年二月二十日に内務省の警視局で警部補となり、同五月十七日に「警視第二番小隊半隊長」として西南戦争へ従軍。四日後の同五月二十一日に大分県の嵯峨へ着き、同七月十二日に大分県の高床山で弾丸により右肋骨を負傷すると、陸軍の出張病院へ入院した。部隊復帰は同八月十五日で、戦闘終結後の同十月二十四日に臼杵で乗船。帰京後の七九年十月八日に勲七等を与えられた。
 八一年の警視局廃止後は、陸軍省の御用掛に。警視庁の設置で、同年十一月十一日に巡査部長となり、翌年十二月に月給が十二円から十五円へ昇給した。階級は八五年七月三日に警部補、八八年十一月一日に警部へ上がり、九二年十二月十四日に退職。当時四十八歳で「官ノ都合ニ依リ諭旨」とあり、十六年間の勤務に対する恩給は年四十六円だった。
 これらは、妻トキヲが斎藤の死亡後、遺族年金に当たる「文官扶助料」を申請した書類にも記されていた。斎藤は後に東京高等師範学校(現筑波大)や東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)で守衛や会計などの仕事に就いたが、この間の恩給の請求記録はなかった。
◆実像知る手掛かり
 歴史研究家のあさくらゆうさんの話 人気漫画やゲームのキャラクターにも描かれるなど、歴史に興味がある人以外にも斎藤一の人気が広がっているが、残されている史料は少なく、足跡には謎が多い。警視庁時代のこともスパイや暗殺者として書籍に書かれるなど、怪しいイメージがつきまとうが、見つかった史料は公文書で、実像を知る手掛かりになる記録が出てきた意義は大きい。
 <斎藤一> 1844〜1915年。江戸生まれとされる。1863年に近藤勇らが京都で結成した壬生浪士組に入り、新選組となった後は最年少幹部で副長助勤に。沖田総司と並ぶ剣豪とされた。会津藩主松平容保が務めた京都守護職の下、反幕府派を襲撃した池田屋事件などのほか、新選組を離れた元隊士の暗殺にも関わったとされる。戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽伏見の戦いを経験し、近藤が投降後も会津藩に合流し新政府軍に抵抗した。明治維新後は、松平家が斗南藩として再興した青森の五戸へ移り、後に上京した。

630名無しさん:2015/09/06(日) 13:08:47
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150903-00045078-gendaibiz-pol
ナチ・ドイツと現代日本〜ヒトラーは「恣意的な憲法解釈」から生まれた
現代ビジネス 9月3日(木)6時2分配信

 なぜ、文明国ドイツにヒトラー独裁政権は誕生したのか。『ヒトラーとナチ・ドイツ』を著した東京大学大学院総合文化研究科教授の石田勇治氏に、ヒトラー政権誕生の歴史から、わたしたちはどのような教訓を導き出すことができるのか、話を聞いた。

はじめは有権者の26%しかナチ党に投票していなかった
 ーーヴァイマル憲法という民主的憲法をもったドイツに、なぜ民主主義を否定する政権が誕生したのでしょうか? 
 「ヒトラーは選挙(民意)で首相になった」とよく言われますね。たしかにヒトラー率いるナチ党はヴァイマル共和国末期の経済的危機、社会的混乱に乗じて台頭し、1932年7月の国会選挙で第一党(得票率は37%)になりました。

 しかしナチ党の勢いはここまででした。その年の11月の国会選挙で約200万票を失い、得票率も33%に下落します。地方選挙でも大敗を喫し、12月には党のあり方をめぐって分裂の危機に直面します。

 経済はこのころ好転の兆しが見られ、このままいけば民意はさらに離れ、ヒトラーもナチ党もやがて政界から消え去るのではないかとの観測も出てきます。ヒトラーが大統領によってドイツの首相に任命されたのはその直後、33年1月30日のことでした。

 「ヒトラーは選挙(民意)で首相になった」という言い方は事柄の本質を半分しか言いあてておらず、なぜヒトラーが首相になったのかという問いへの答えとしては不十分です。

 いま述べた32年11月の国会選挙の投票率は80%でしたから、ヒトラーが首相になる直近の国会選挙で有権者の26%しかナチ党に投票していなかったことになります。

 大衆はヒトラーの虜になっていたように言われますが、ヒトラー政権が誕生するまではそれほどではなかった。大衆はそんなに愚かではなかったのです。

 むしろ落ち目のヒトラーを救い出し首相の座に引き上げた大統領と、その周りに集まった既成の権力者たちの行動が問題でした。

「大統領の大権」で国会が形骸化
 ーーヴァイマル共和国末期の国会はすでに形骸化していたようですが、具体的にどのような状況だったのでしょうか。

 ヴァイマル憲法は、現在のドイツや日本と同じように、国会に基礎をおく議院内閣制を定めていました。しかしヴァイマル共和国末期の国会には、政党間のイデオロギー対立と相互不信が深刻化し、妥協と調整による多数派(合意)形成能力がすっかり失われていました。

 ヒトラーに先立つブリューニング、パーペン、シュライヒャーといった共和国末期の政権はどれも国会に基盤らしい基盤のない少数派政権で、まともな議会運営ができません。そこで「大統領の大権」が用いられたのです。

 ヴァイマル憲法は大統領に大きな権限(首相・閣僚の任免権、国会の解散権、非常時の緊急命令権)を与えていました。この時期の政権は、その力を借りて政権運営をはかります。

 たとえば国会で否決された法案は大統領緊急令として公布されました。国会がその緊急令を否決すると、大統領が国会を解散することもありました。大統領の大権をこのように行使することは憲法が想定したものではないのですが、非常時を乗り切るためと称して頻繁に用いられ、これが国会の形骸化をもたらしました。

 ナチ党が国会第一党となり、第三党となった共産党とあわせて議席の過半数をおさえた1932年の後半には、国会はもう何も決められない状況に陥ります。

 当時の共産党はソ連型独裁を志向しており、議会制民主主義をブルジョワ支配の道具だといって攻撃していました。政府は国会を解散して大統領緊急令による統治を続けますが、世論はいっそう反発し、国会不要論が噴出してきます。

 当時の大統領はヒンデンブルクという人物です。ドイツ帝国陸軍元帥で、プロイセンの伝統を引く帝政主義者でした。25年に大統領に初当選。32年春に再選されたとき、すでに84歳でした。共和国の大衆民主主義を衆愚政治とみなし、それに代わる権威主義的な新国家の建設をめざして大統領緊急令を出していきます。

 ヒンデンブルクがヒトラーを「ボヘミアの一兵卒」と呼んで見下していたことは有名な話ですが、共産党の躍進を恐れる財界の要請をうけてヒトラーをついに首相に任命しました。

631名無しさん:2015/09/06(日) 13:09:16
>>630

ヒトラーは当初、過小評価されていた
 ーー発足時、ヒトラー政権にナチ党員は3名しかいませんが。

 ヒトラー政権はナチ党の単独政権ではなく、保守派の国家人民党との連立政権として発足しました。ナチ党から入閣したのはヒトラー首相のほか、フリック内相、ゲーリング無任所相だけです。ヒトラー政権は当初、やはり少数派政権で、大統領の大権に依存していたのです。

 反ヴァイマル右翼運動を率いるヒトラーと野合した保守派は、それで何を達成したかったのでしょうか。答えは三つです。議会制民主主義を廃止し、共産党(マルクス主義)を撲滅し、強いドイツ(再軍備・軍拡)を実現することです。

 これらはヒトラーが求めていたことでもあり、両者はこの目的のために手を組んだのです。これらが達成できれば、あとはまた大統領の力でヒトラーを政権から追い出せばよい。保守派はそのように高を括っていたのです。

 ーー保守派に両脇をしっかり固められたヒトラーですが、それがどうしてヒトラー独裁へと向かうのでしょうか? 
 ヒトラーは当初、世間からも過小評価されていました。国政担当の経験がなく、専門的な知識もない、どうせ保守派の閣僚の手玉にとられてさっさとお払い箱になるだろうというわけです。

 そんな甘い予想に反して、ヒトラーは一気に攻勢に出ます。国会を解散、選挙にうって出ました。

 選挙戦の最中に大統領緊急令を出させて言論統制をおこない、国会議事堂炎上事件(33年2月27日)が起きるとこれを徹底的に利用して、共産主義者など左翼反対派を一網打尽にします。

 そして言論・集会・人身の自由など憲法が定める国民の基本権をすべて停止したうえで政府の独裁権を求めるのです。国難危急にあたり「強い政府」が必要だというのです。

 ヒトラーが目をつけたのが授権法です。授権法は全権委任法とも呼ばれ、政府に立法権を委ねるものです。これが成立すれば政府は国会から自由に、また大統領に依存することもなく法律を思うがまま制定できます。

 じつはヒンデンブルク大統領も授権法の制定に賛成していました。ここ数年来の大統領統治には憲法違反の嫌疑が向けられており、ヒンデンブルクはそのことの精神的負担から早く免れたいと思っていました。議会制民主主義の限界を言いたてる与党の国家人民党も、自党の政策が容易に実行できる授権法の制定に意欲を示します。

632名無しさん:2015/09/06(日) 13:09:42
>>631

ヒトラーは当初、過小評価されていた
 ーー発足時、ヒトラー政権にナチ党員は3名しかいませんが。

 ヒトラー政権はナチ党の単独政権ではなく、保守派の国家人民党との連立政権として発足しました。ナチ党から入閣したのはヒトラー首相のほか、フリック内相、ゲーリング無任所相だけです。ヒトラー政権は当初、やはり少数派政権で、大統領の大権に依存していたのです。

 反ヴァイマル右翼運動を率いるヒトラーと野合した保守派は、それで何を達成したかったのでしょうか。答えは三つです。議会制民主主義を廃止し、共産党(マルクス主義)を撲滅し、強いドイツ(再軍備・軍拡)を実現することです。

 これらはヒトラーが求めていたことでもあり、両者はこの目的のために手を組んだのです。これらが達成できれば、あとはまた大統領の力でヒトラーを政権から追い出せばよい。保守派はそのように高を括っていたのです。

 ーー保守派に両脇をしっかり固められたヒトラーですが、それがどうしてヒトラー独裁へと向かうのでしょうか? 
 ヒトラーは当初、世間からも過小評価されていました。国政担当の経験がなく、専門的な知識もない、どうせ保守派の閣僚の手玉にとられてさっさとお払い箱になるだろうというわけです。

 そんな甘い予想に反して、ヒトラーは一気に攻勢に出ます。国会を解散、選挙にうって出ました。

 選挙戦の最中に大統領緊急令を出させて言論統制をおこない、国会議事堂炎上事件(33年2月27日)が起きるとこれを徹底的に利用して、共産主義者など左翼反対派を一網打尽にします。

 そして言論・集会・人身の自由など憲法が定める国民の基本権をすべて停止したうえで政府の独裁権を求めるのです。国難危急にあたり「強い政府」が必要だというのです。

 ヒトラーが目をつけたのが授権法です。授権法は全権委任法とも呼ばれ、政府に立法権を委ねるものです。これが成立すれば政府は国会から自由に、また大統領に依存することもなく法律を思うがまま制定できます。

 じつはヒンデンブルク大統領も授権法の制定に賛成していました。ここ数年来の大統領統治には憲法違反の嫌疑が向けられており、ヒンデンブルクはそのことの精神的負担から早く免れたいと思っていました。議会制民主主義の限界を言いたてる与党の国家人民党も、自党の政策が容易に実行できる授権法の制定に意欲を示します。

633とはずがたり:2015/09/07(月) 03:03:04
>>630-633
姑息な手段で「授権法」成立
 授権法成立には国会議員総数の3分の2の出席と、出席議員の3分の2の賛成が必要です。この選挙(33年3月5日)でナチ党は44%、国家人民党は8%をとり、政府は過半数の議席を手に入れます。しかしまだ十分ではありません。

 政府は共産党の国会議員81名全員と一部の社会民主党議員を国会議事堂炎上事件の容疑者として拘束(逃亡を含む)していましたが、議決にあたり社会民主党の「欠席戦術」を防ぐため、議長が認めない事由の欠席は出席とみなすという議院運営規則改正案を直前に国会に提出して、賛成多数で通過させます。じつに姑息な手段です。議場内に入ったナチの突撃隊員が見守るなか、授権法案は可決成立します。結局、反対投票したのは社会民主党だけでした。

 成立した授権法には、「国の法律は、憲法に定める手続きによるほか、政府によっても制定されうる」(第1条)、「政府が制定した国の法律は憲法と背反しうる」(第2条)と記されています。ヴァイマル憲法はこうして改正されることも廃止されることもなく形骸と化したのです。

 ナチ体制下のドイツではおびただしい数の法律が制定されました。かつては議論が百出して日の目をみることのなかった法案も易々と成立します。「決められる政治」が実現したのです。ホロコーストへいたるユダヤ人迫害は合法的に進みましたが、それはこの授権法によって可能になったのです。

 授権法の成立は1933年3月23日。ヒトラー政権の誕生からわずか50日あまりで、ドイツはもはや民主主義国家に戻れない不可逆地点を乗り越えてしまったのです。

ナチ・ドイツと現代日本〜ヒトラーは「恣意的な憲法解釈」から生まれた
写真:現代ビジネス
権力者の恣意的な憲法解釈を許していいのか
 ーーいまの日本を考えるうえで、ヒトラーの「政権掌握」やナチ・ドイツの歴史から何が言えるでしょうか? 
 当時のドイツといまの日本とでは、それぞれを成り立たせている前提条件が違います。ヒトラー独裁政権は、第一次世界大戦から間もない、世界恐慌の最中に起きたものです。当時のドイツには議会制民主主義の考え方が十分に定着しておらず、民主主義と独裁は矛盾しないとまで言われていました。

 これに対して現在の日本では、日本国憲法が定めた議会制民主主義は少なくとも制度として広く国民に支持され、浸透しています。ただ「決められない政治」に嫌気がさして、強い首相や「決められる政治」を待ち望む声はいまの日本にも存在しますね。

 そして一昔前は考えられなかったヘイトスピーチや排外主義的な風潮の広がりは、日本の社会から寛容さが失われつつあることを物語っています。これがエスカレートすればどのような事態に行き着くか、ヒトラーとナチ・ドイツの歴史はそのあたりをよく示しています。

 さらに気がかりなのは、日本の政治指導者の誤った歴史認識です。一昨年夏の「麻生発言」は私にとって大きなショックでした。

 「憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」

 麻生氏は撤回しましたが、更迭されたわけではありません。この発言で日本が失った国際的な信頼は計り知れないと思います。政治家こそ歴史をしっかり学んでほしいですね。

 最後にひとこと。

 ヴァイマル憲法は大統領の大権について「詳細は、共和国の法律でこれを定める」(第48条第5項)としながら、結局それを定めず、時の権力者の恣意的な解釈を許しました。それが大統領の大権の濫用につながり、国会の形骸化を招き、ひいてはヒトラー政権をもたらしたのです。

 憲法の条文を時の政府が勝手に解釈して、憲法の実質的な骨抜き=形骸化をはかることなどあってはならないことです。戦後70年、道を誤って独裁と戦争を招来することがないよう、過去の人類の失敗の歴史をふりかえることは、大切なことのように思います。

 読書人の雑誌「本」2015年9月号より

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石田 勇治(いしだ ゆうじ)
1957年、京都市生まれ。東京外国語大学卒業、東京大学大学院社会学研究科(国際関係論)修士課程修了、マールブルク大学社会科学哲学部博士課程修了、Ph.D. 取得。現在、東京大学大学院総合文化研究科(地域文化研究専攻)教授。専門は、ドイツ近現代史、ジェノサイド研究。著書に『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』『20世紀ドイツ史』(ともに白水社)、『図説 ドイツの歴史』(編著、河出書房新社)、『ジェノサイドと現代世界』(共編、勉誠出版)などがある。

634とはずがたり:2015/09/07(月) 03:03:43

東アジアの「最先進国」は韓国か?
「一君万民」で読みとく、日清戦争から大統領選挙まで
http://toyokeizai.net/articles/-/14480
與那覇 潤 :歴史学者

…しばしば「近くて遠い国」とも呼ばれるように、多くの日本人にとって、朝鮮史の知識は乏しい(おそらくは、逆もまたしかりだろうが)。

この問題について「意識の高い」人々のあいだでも、注目されるのは目下の従軍慰安婦問題のような、植民地化以降の話題に限られがちだ。そのことがかえって、韓国との歴史問題といえば「解決不可能なもの」、いつまでもそれに熱くなる韓国人は「理解できない人々」といった印象を、強くしているようにも思う。

昭和史を先取りした、併合以前の朝鮮王朝

しかし当たり前のことだが、朝鮮に植民地化される以前の歴史がないわけではない。むしろ、近現代でも互いに「国と国」の立場で対峙した時代を紐解く方が、「対等」の関係に近づくがゆえにこそ修復が困難をきわめる、今日の日韓関係への、ヒントを得られるかもしれない。

趙景達『近代朝鮮と日本』は、朝鮮民衆史の第一人者による併合「以前」の通史だ。平明な新書でありつつも専門研究を踏まえた筆致からは、時として私たちにも似た、朝鮮王朝下の人々の相貌さえ浮かび上がる。

併合以前の朝鮮王朝の特徴は、「民本主義」を「一君万民」の形式で実現しようとする、儒教的な政治文化にあった。

民本主義と聞くと、大正時代に吉野作造がデモクラシーにあてた訳語を連想するが、元来は西洋思想と関係はない。

『書経』の「民は惟れ邦の本(たみはこれくにのもと)」に由来し、民衆の生活を安んずることを政治の本義におく、儒教の統治理念だ。その担い手を、貴族や官僚といった中間搾取者を排して、衆庶の声に直接耳を傾けてくれる英明な君主に求めるのが「一君万民」の発想である。

日本の世界史教科書で習うと、頑迷な鎖国主義者にしかみえない大院君(執政1864〜73年)は、実はこの理念に最も忠実たらんとした君主であった。

既往の地方官の収奪を取り締まり、エリート階級たる両班(ヤンバン)の特権を削減する政治を行い、民衆からも熱狂的な支持を得ていた。その人気が、失脚以降の日朝関係史の画期にも関わっているという。

たとえば1882年の壬午軍乱は、大院君に代わった閔氏政権が中間搾取を復活させたという不満のもと、一部軍人が困窮民と合流しつつ、閔氏打倒を訴えて大院君を担ぎだすクーデターだった。いわば、貧農救済のために天皇親政を標榜して、「君側の奸」を殺害した昭和の五・一五、二・二六事件の先駆けである。

実際に大院君の一時復権を勝ち取った点では、後の青年将校よりも優越するが、その鎮圧にあたって強大な隣国(清国)の介入を招かざるをえなかった点に、島国日本と異なる朝鮮半島の悲劇があった。

日清戦争の契機となった甲午農民戦争(1894年)でも、大院君は自身の人気を利用し、密書を発して農民軍を抗日蜂起に導く脇役を演じる。「忠君愛国」ゆえにこれに応じた全?準の人となりは日本人にも感銘を与え、井上馨も助命運動を支援したという。

おおむね武士層限定だった幕末の「尊王攘夷」と異なり、実際に民衆を動員しえた点に、朝鮮の志士の力を見たのかもしれない。

一君万民という本来、天皇制の冠絶性を説くはずの国体論の用語が、田中正造の直訴が弾圧された明治日本よりも、国王への直訴が広く認められた朝鮮王朝の方に当てはまるとは、原武史『直訴と王権?朝鮮・日本の「一君万民」思想史』の指摘でもある。とすれば意外にも、植民地化「した」日本の方が、「された」朝鮮の伝統を追いかける形で、両国の近代史は展開したことになろう。

635とはずがたり:2015/09/07(月) 03:04:04
>>634-635
大統領制の政治は日本の未来の予兆か

それはひょっとすると、日韓の未来にも当てはまるのかもしれない。浅羽祐樹『したたかな韓国?朴槿恵時代の戦略を探る』が描く大統領選挙のダイナミクスには、ふとそんな思いを感じてしまう。

今日の韓国では与野党とも、党公認候補を決定するための予備選挙で、党員以外からの投票も受けつけるほか、世論調査での支持率まで票数に換算して組み込んでいるという。後者は世界に類例がないというが、まさしく現代版の「一君万民」であろう。

しかも本番の大統領選挙は全国を一選挙区とするシンプルな勝負で、相対的に一票でも多い方の勝ちだ。さらに直接議会に法案を出せるなど、当選後の権限も強い。

米国に比べても、民意を大統領一人に集約する度合いが高いわけだが、首相公選制や国民投票といった「直接民意を代表させる」体験への期待が高まる日本人が望む政治のあり方と、それは実のところ近似していないだろうか。

民主政下の「一君万民」はポピュリズムに堕すのか


木村幹『韓国現代史?大統領たちの栄光と蹉跌』(2008年、中公新書)
事実、木村幹『韓国現代史?大統領たちの栄光と蹉跌』は、前代の李明博(イミョンバク)氏が就任するまでの各大統領の人生から描く戦後史だが、民主化以降の描写は近年の日本と対照しても示唆が深い。

根深い地域ごとの党派対立を克服し、インターネットを駆使して特定の派閥によらない国民統合を模索したのは、前々代の盧武鉉(ノムヒョン)大統領。

自身の支持者で固めた新党で臨み、守旧派議員を放逐して圧勝した2004年の国会議員選挙は、小泉純一郎首相の郵政解散に一年以上先行する。

もっとも、その後の盧武鉉政権の急速な失墜を、木村氏は「改革」すれば必ず社会の進歩につながるという国民の期待と、政治の力で起こせる変化はすでに尽きていた同国の現実との、落差に求める。

そもそも一君万民とはポピュリズムの異名でもあり、大院君も民衆へのバラマキのツケとして悪貨鋳造によるインフレを招いたとは、趙氏の著書にも見える。過度な改革幻想や成長神話に基づく、民衆側の統治者への無批判な一体化を戒める上で、わが国にとっても益するところの多い挿話だろう。

むろん、史実の解釈は多様であっていい。しかしいたずらに自国の栄光を誇り、他国の失敗をあげつらう関係は虚しいだけだ。

これまでも、これからも多くの課題を共有する両国であればこそ、互いに相手の経験を鏡とするような、成熟した歴史の語りを持ちたいものである。

【初出:2013.6.8「週刊東洋経済(マンション時限爆弾)」】

636名無しさん:2015/09/07(月) 19:19:23
>>633
とはさん、貼り忘れのフォローありがとうございます。
記事読みながら貼っていたら、貼ったつもりになっていたようです。。。

637とはずがたり:2015/09/07(月) 19:42:37
>>636
いえいえ,こちらの方こそいつも興味深い記事有り難うございます!

638名無しさん:2015/09/12(土) 16:00:57
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150912-00083211-toyo-soci
それでも「君が代」が国歌であり続ける理由
東洋経済オンライン 9月12日(土)6時0分配信

議論の絶えない国歌「君が代」。近代日本を背負った140年余のその生命力とは。『ふしぎな君が代』著者の辻田真佐憲氏に聞いた。

 ──政治と芸術の視点から「君が代」の歴史をひもとくと、新しい理解ができるのですか。

 合意が取れていない議論を延々と繰り返すのはあまりに不毛だ。なぜ問題になるのか。一言で言えばこの歌は近代日本そのものなのだ。1869(明治2)年に誕生して、今まで国歌であり続けている。近代日本のいいところも悪いところも象徴している。まず政治と芸術の視点から、知られざる歴史に迫ったらどうか。

■ 「君が代」が国歌になるまで

 ──誕生秘話にも定説がありませんね。

 明治早々、英国王子の来日で急きょ国歌が必要になる。急場しのぎで、『古今和歌集』の詠み人知らずの短歌に鹿児島で愛唱されていた「蓬莱山」の節をつけて間に合わせたというのが、維新の元勲、大山巌の回想を基にした有力説だが、真説とは断定しにくい。

 ──探究すると説は八つに及ぶとか。

 ここ20年、近代音楽史の研究は進み、「君が代」の論文も最新の研究がいくつか出ている。国歌がこんなに問題になるとは思っていないので、誕生にまつわる資料は皆無だ。昭和になってから伝聞が記述され残っている。誰が歌詞を選んだかは特定できないが、明治政府の誰かが選んだ。それを英国人が作曲し、日本語で歌えるように雅楽の若き専門家の奥好義(よしいさ)らが改訂し、ドイツ人が五線譜に直して1880年に今の「君が代」ができたことはわかっている。

 当時、日本には国歌という概念自体がなかった。だが、なくては文明国扱いされないので、急きょ作らなければならない。いい歌詞はないかと既成のものを探し、最終的に絞られたのが和歌の「君が代」で、『古今和歌集』に載っているもの。『古今和歌集』では、「我が君は」で始まる。それが平安時代末期に「君が代は」に言い換えられたといわれる。

639名無しさん:2015/09/12(土) 16:01:32
>>638

 『古今和歌集』に載っているといっても、決して古臭いわけではない。君というのは天皇だけでなく、将軍という意味や、目の前のあなたという意味でも1000年ぐらいの間に使われ、その人が「千代に八千代に」健康で長寿であるようにとの祝いの歌として使われてきた。歌詞が物語や戯作の中に取り込まれ、江戸時代にはポピュラーソングだった歴史さえある。諸外国でも君主国は皆、国王万歳という国歌を作っている。君を天皇ととらえれば、これはちょうどいいとなったようだ。

■ 近代日本のいいところ、悪いところも象徴

 ──国旗国歌法では作曲者が林広守となっています。

 奥が中心になって作ったがたくさんの人がかかわっている。ドイツ人のお雇い軍楽教師・エッケルトは外せないし、奥は林広季(ひろすえ)と一緒に作ったという説もある。林広守は直接には作ってはいなくて雅楽チームの代表者名義みたいなものだ。

 ──いつ国歌に。

 海軍が宮内省を巻き込んで決めたといっていい。ほかの役所や政府として承認していたわけではない。陸軍は「扶桑」を、文部省は別の「国歌按」を考えて、「君が代」に対抗し始める。ところが、ほかの曲は出来が悪い。詞は長いし、メロディもなじみにくく、「君が代」に勝てない。「君が代」の歌詞は歌い継がれてきたほどだから、よくできている。現代からすると変だといわれるが、メロディも一度英国人が作曲したものを日本人に加えドイツ人も直してハイブリッドに修正されている。ぽっと出のものより当然出来がいい。

 1999年に国旗国歌法ができるまで、法律では多くの国と同様に国歌を定めていない。学校で教える機会があって定着した。天長節をはじめ祝日大祭日の儀式用唱歌として子どもたちが歌う。祝日に歌われていたことで、国歌の資格が定まった。レコードもラジオもない時代だけに、重要なポイントであり、そこに「君が代」が入り込めた。文部省も自分たちの曲は出来が悪いとわかってあきらめた。文部省が受け入れた時点で、デファクトとしての国歌になった。もともと西洋では事実上の国歌というのが普通であり、法律で定めるのは珍しい。

640名無しさん:2015/09/12(土) 16:02:20
>>639

 ──どのように普及していったのですか。

 普及手段は限られている。楽譜を配っても読める人は皆無。本格普及は昭和初期、レコードが普及した時期と重なる。公式の楽譜も用意されて、文部省が単なるメロディラインだけではなくて、どこで区切るか、息継ぎするのかを示した楽譜を作る。学校で教えられ、ラジオでも模範的な歌い方が聞けることで定着する。半世紀ほどかかった。

■ 「君が代」は政治と芸術の関係の古典的問題だ

 ──そして、戦争期です。

 戦争期は、天皇を中心に団結しようというのが当時の雰囲気。「君が代」は都合がいい。「君が代」が必要とされた時期で普及が加速する。ただし厳粛な歌であり、歩きながら口ずさむようなものでない、ご真影に向かって歌うなどと教えられた。国威発揚に大いに利用され、植民地での公民化政策に使われた面もある。

 ところが、戦争に負け、その歌詞では不都合になった。憲法が変わって、天皇は象徴になり、主権は国民。「君が代」ではよくないのではないかとなって、新しい国歌の候補曲公募が次々と行われる。日教組も「緑の山河」を作った。しかし、結局、「君が代」に勝てない。

 ──もめ続けます。

 国民一般はこの議論から一歩引いた姿勢だが、一部の右と左が争い、両者は妥協する気がない。しかも保守的な政権になると強制しようと、教育者に懲戒処分を行ったりした。明治時代にも「君が代」は暗い、歌う気がしないといった批判はあったが、この状態をこれからも放置していていいわけはない。

 ──どうすべきですか。

 世界を眺めれば、歌うことを義務化しているのは中国など一部しかない。欧州はほとんど歌わない。日本はどちらのタイプを選ぶのか。歌わせるのは確かに圧迫感が強い。斉唱が反発の原因だと思うので、「聞く国歌」はどうか。スポーツの国際試合などでもほかの国の国歌は聞く。歌い手にお願いする、歌いたい人は歌うなどでいいのではないか。それが日本の状況に合っている気がする。

 ──政治と芸術の関係とも絡む。

 戦後70年経って政治と芸術や文化を警戒なく結び付けるところが目立ってきた。自衛隊の募集ポスターにアニメキャラが使われたり、少し前の自民党若手議員の勉強会で配られた会の目的に「政策芸術」という言葉があったり。「君が代」は政治と芸術の関係の古典的な問題といえる。これ以上進むと、プロパガンダになってしまう。その線引きが今後の一つの防波堤になると思っている。

塚田 紀史

641名無しさん:2015/09/20(日) 11:00:08
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150909-00016133-president-bus_all
靖国神社参拝論争の運命を握る「ある民間人」とは誰か
プレジデント 9月9日(水)11時15分配信

■参拝を問題化させた三木総理の「基準」

 安倍晋三総理が2013年12月に靖国神社に参拝した。7年ぶりの総理の参拝は、中国や韓国から非難され、さらにはアメリカ政府からも「失望」を表明される異例の事態となった。国が戦死した兵士の慰霊をするのは、世界的に見て普通のことなのに、なぜ外国は総理の靖国参拝を問題視するのか、疑問に思う方も多いだろう。それを理解するために、まず靖国神社の歴史を押さえよう。

 靖国神社は、1869年に明治政府によって「東京招魂社」として創建された。招魂とは、死者の魂を招いて祀ること。当初は、戊辰戦争の官軍の戦死者を祀る神社だった。10年後、東京招魂社は神社の格を上げるという意図のもとに「靖国神社」と改称される。靖国は、国を平和にするという意味。この改称と前後して、内戦の戦死者にとどまらず、国民的な対外戦争の犠牲者も合祀の対象になっていく。

 靖国神社は国が管理していたが、その性格は戦後に大きく変わった。1945年12月にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が神道指令を発して、政教分離の原則と国家神道廃止を打ち出した。日本政府には宗教性を薄めて国の慰霊施設として残すか、国から切り離すかという2つの選択肢があったが、選んだのは後者だ。翌年に宗教法人令で靖国神社は民間の宗教法人となり、国のコントロール下から離れた。

 宗教法人となった後も、総理の多くは参拝している。当時は、それが問題視されなかった。問題になったのは、75年に三木武夫総理が終戦記念日に参拝してから。三木総理は私的参拝であることを表明、私的参拝の基準(公用車を使用しない、お供を連れていかない、肩書を記帳しない、玉串料は私費)を示した。それまでは公的か私的かということにこだわらなかったのに、私的参拝を強調したことで「総理の参拝は政教分離の原則に反するのではないか」という論点が浮かび上がった。

■中国とアメリカが参拝を非難する理由

 ただ、問題化したといっても、この当時は国内問題だった。しかし、78年に当時の靖国神社の宮司によってA級戦犯が密かに合祀された。A級戦犯とは、日本を戦争に導いた指導者として東京裁判で罪に問われた人たちのことだ。そして翌年、共同通信と朝日がこれをスクープした。ここからリベラル派の攻撃が激化したが、それでも海外から抗議はこなかった。

 国際問題化のきっかけは、85年の中曽根康弘総理の参拝だ。中曽根総理は終戦記念日の公式参拝を事前に表明。それに対して中国外務省は公式に非難声明を発表した。これを機に、総理の靖国参拝、さらにA級戦犯合祀が外交問題に発展したのである。

 靖国は、国内におけるイデオロギー対立の一大争点となってしまう。リベラルメディアは中国まで行ってコメントを求め、キャンペーンを張る。また、靖国参拝や歴史認識に関する閣僚の失言でも攻勢を強める。靖国参拝は一種の「踏絵」と化して、中曽根総理以降はしばらく総理の参拝が途絶えた。

 その後、96年の橋本総理、01年以降の小泉総理、そして13年の安倍総理と、総理が参拝するたび中国から抗議がきて日中関係は悪化した。

 中国は、なぜ靖国参拝に抗議をするのか。基本としてA級戦犯合祀の問題があることは間違いないが、背景にあるのは中国自身の国内政治である。実は中曽根総理はいったん公式参拝した後、参拝をしていない。自分が参拝すると、仲のよかった改革派の胡耀邦(こようほう)総書記の立場が中国国内で悪くなることを憂慮したからだ。かつては中国にも、胡耀邦のように靖国問題をスルーしてもいいという勢力がいた。しかし、胡耀邦の失脚後、そのラインは途絶えてしまった。その後の指導者は、保守派に配慮して抗議をせざるをえない立場にいる。靖国は中国の国内問題なのだ。

 一方、アメリカはどうか。アメリカにとって日本はかつての敵国。今は同盟国でも、先の戦争は正しかったという右派の歴史認識は絶対に認められない。戦争責任の罪を負ったA級戦犯が合祀されている靖国神社に総理が参拝することに、いい顔はしないのである。

 中国やアメリカにはこうした事情があるので、国の代表が戦没者を慰霊するだけだと説いても通じないのだ。

642名無しさん:2015/09/20(日) 11:00:56
>>641

■A級戦犯の分祀は実現するのか? 

 国内の靖国問題で問われている本質とは、国家の命令で戦い亡くなった人をどうするのかということだ。兵士の犠牲のもとに今の社会があることを忘れると、戦争は誰かがやってくれるから怖くないという風潮が広がり、戦争へのハードルを下げてしまう。その意味で、宗教右派、右派、中間層、リベラルまで、兵士の慰霊を行うことに関して異論はないはずだ。

 ただ、そのやり方については、各立場で考え方の違いがある。ここは意見が分かれるところだが、私はA級戦犯を分祀して、天皇陛下が御参拝できる環境を整えることが、どの立場の国民も納得する落としどころではないかと考えている。A級戦犯の合祀が発覚して以降、天皇陛下の御参拝は途絶えている。御参拝が再開されることは宗教右派も歓迎する。もちろん、何らかの形での靖国神社の国家管理が前提だ。

 しかし、実現は容易ではない。というのも、靖国神社は民間の宗教法人であり、国が介入できないという建前があるからだ。仮に政府が分祀を望んでも、宮司が首を縦に振らなければ動かない。兵士の慰霊は国として取り組むべき重要な仕事なのに、一民間人が外交関係にまで影響しうる問題のキャスティングボートを握っている。そこに靖国の問題の根深さがあるのだ。

■靖国神社と首相参拝の歴史

 【1869年】東京招魂社として創建。戊辰戦争の官軍戦死者を祀る。

 【1879年】靖国神社に改称され、別格官幣社となる。

 【1946年】改正宗教法人令で、民間の宗教法人に。

 【1975年8月】三木総理が私的参拝。公私の区別が論点に。→参拝の「基準」がつくられた

 【1975年11月】昭和天皇、戦後8回目かつ最後の靖国神社御参拝。

 【1978年】松平永芳宮司が独断でA級戦犯を合祀。

 【1985年】中曽根総理が公式参拝。中国が非難声明を発表。

 【1987年】胡耀邦失脚。中国保守派の勢力が拡大。

 【2001年】小泉総理が参拝。以来、毎年参拝。

 【2005年】中国で反日デモ。日本側の対中感情も悪化。

 【2013年】安倍総理が小泉総理以来7年ぶりの参拝。

 ▼靖国神社に合祀されているA級戦犯14名

 [絞首刑]
東条英機(首相)/板垣征四郎(陸軍大将)/土肥原賢二(陸軍大将)/松井石根(陸軍大将)/木村兵太郎(陸軍大将)/武藤章(陸軍中将)/広田弘毅(首相)
[終身刑]
白鳥敏夫(駐イタリア大使)/平沼騏一郎(首相)/小磯国昭(陸軍大将)/梅津美治郎(陸軍大将)
[禁固20年]
東郷茂徳(外相)
[判決前に病死]
永野修身(海軍大将)/松岡洋右(外相)

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日本学術振興会特別研究員・青山学院大学兼任講師 三浦瑠麗(みうら・るり)
国際政治学者。2010年東京大学大学院法学政治学研究科修了(法学博士)。11年東京大学政策ビジョン研究センター特任研究員。13年より現職。著書に『シビリアンの戦争』ほか。
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日本学術振興会特別研究員・青山学院大学兼任講師 三浦瑠麗 構成=村上 敬 撮影=宇佐美雅浩

643名無しさん:2015/09/21(月) 11:18:28
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150921-00045447-gendaibiz-pol
絵空事ではない琉球独立宣言!「本土」の皆様、サヨウナラ
現代ビジネス 9月21日(月)6時2分配信

なぜ琉球人が独立まで求めるようになったのか
 なぜ琉球人が独立まで求めるようになったのでしょうか。

 ネットの世界で飛び交っている、琉球独立運動への偏見に満ちた空虚な言葉によっては、琉球で今起きていることは理解できません。

 あなたの好きな琉球だからこそ、静かに島の人の声に耳を傾けてみませんか。日本人の平和な生活を守るためにも琉球独立が必要であることが分かるはずです。

 今年8月に台湾に行ってきました。桃園国際空港の運行スケジュールの電光掲示板を見ると、「琉球(沖縄)」と表示されていて、大変嬉しくなりました。

 かつて琉球国という独立した国がありました。最近も琉球人というアイデンティティを持つ人が増えています。1972年、琉球が沖縄県になるときに、中華民国(台湾)政府は日本政府に強く反対しました。

 「沖縄は日本固有の領土」と日本政府は考えているようです。しかし琉球の現在の「県」という政治的地位は必ずしも確定したものではありません。

 琉球が日本の一部になったのは1879年でしかなく、しかもその時日本政府が軍事力で無理やり日本の一部にしたのです。

 琉球はアメリカ、フランス、オランダと修好条約を結ぶ独立国家でした。3つの修好条約原本は日本政府に奪われ、今も国の外交史料館にあります。琉球ではその返還運動が盛り上がっています。

けっして他人事ではない
 読者の皆さんはこの本(『琉球独立宣言』)の表紙に少し驚いて手に取るかもしれません。

 日の丸を背景にして「日本から独立する」と訴えています。シーサー(琉球)が赤瓦にしっかりと足をすえており、琉球独立論が事実や理論をしっかり踏まえたものであることが暗示されています。

 琉球の独立宣言はアメリカの独立宣言を参考にして考えました。日本の「同盟国」であるアメリカはイギリスから独立したのです。

 琉球は日本から本当に独立できるのだろうか。何のために独立するのだろう。私たちにとって独立とは世界のどこかのことであり、自分とは関係がないと思っている人が多いのではないでしょうか。

 日本ではこれまで大衆的な独立運動が発生したことがありません。戦後の日本の「独立」もアメリカによって準備されたものでした。そのような日本の中で琉球では本気で独立を目指す運動が活気づいています。

 どこから独立するのでしょうか? 
 あなたが住んでいる日本からです。ですから琉球の独立は他人事ではないのです。琉球人は日本からの独立を宣言します。

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松島 泰勝
1963年沖縄県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、早稲田大学大学院博士課程単位取得。博士(経済学)。専門は島嶼経済。在ハガッニャ(グアム)日本国総領事館、在パラオ日本国大使館の専門調査員、東海大学海洋学部助教授等を経て、現在、龍谷大学経済学部教授。2007年「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」を立ち上げ代表に。’13年「琉球民族独立総合研究学会」の設立メンバーとして共同代表に就任。現在も国内外で多くの講演や交流、活動を精力的に行っている。
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松島泰勝

644名無しさん:2015/09/23(水) 19:48:52
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150923-00010001-tokyofm-life
【誰かに教えたくなる話】「岩倉具視」の子孫はあの有名人!? 偉人達の意外な子孫とは
TOKYO FM+ 9月23日(水)11時40分配信

明治維新で活躍した、幕末の志士たち。あれから150年……彼らの子孫は孫、ひ孫と世代を重ねています。そのなかには、ご先祖様に負けず劣らずの有名人も。そんな「驚きのトリビア」をご紹介しましょう。

まず、お札にもなった政治家、岩倉具視。教科書にも必ず出てくる偉人です。
岩倉使節団として各国を訪問、日本を近代化に導いた重要人物ですが、実は子孫にたくさんの有名人が。
そのうちの一人が、若大将のニックネームでおなじみの加山雄三さん!
なんと、玄孫にあたるそうです。

次に、小栗上野介。
アメリカ相手にひるまない外交を行い、「日本人最高の人物は、小栗上野介である」と言わしめた人物。
幕末の歴史好きから圧倒的な人気を誇る小栗の子孫は……格闘家の、武蔵さん!
相手に対してひるまない……似ている部分が、あるかもしれません。

最後にご紹介するのは、説明のいらない幕末ナンバーワンの人気者、坂本龍馬。
龍馬の末裔であるのは、自然画家の坂本直行さん。
……ご存知ない方もいらっしゃるでしょうか。
では、あの北海道のお菓子屋さん「六花亭」の紙袋の絵を描いた方、と言ったらどうでしょう。
あの有名なイラストを描いたのが、坂本直行さんなのです。
意外なところで、龍馬と六花亭が繋がっていたのですね。

聞いてびっくり、偉人の子孫の活躍ぶり。
調べてみると、面白いかもしれませんよ。

(TOKYO FMの番組「シンクロのシティ」5月7日放送より)

文/岡本清香

645とはずがたり:2015/09/24(木) 05:13:13

「尖閣は琉球の一部」記載の最古の地図 1804年独製
http://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E3%80%8C%E5%B0%96%E9%96%A3%E3%81%AF%E7%90%89%E7%90%83%E3%81%AE%E4%B8%80%E9%83%A8%E3%80%8D%E8%A8%98%E8%BC%89%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%9B%B3-%EF%BC%91%EF%BC%98%EF%BC%90%EF%BC%94%E5%B9%B4%E7%8B%AC%E8%A3%BD/ar-AAep2Tc?li=BBfTvMA
朝日新聞デジタル 6日前

 自民党の国際情報検討委員会などの17日の会合で、尖閣諸島が琉球(沖縄)に含まれることを示す1804年のドイツ製の地図が発表された。従来最古とされていた地図より60年以上古く、同党は、尖閣諸島領有の正当性をアピールする資料として外務省などに活用を働きかける方針だ。

 地図は、1780年代に尖閣諸島周辺などを探索したフランスの航海家の情報に基づき、ドイツの地図発行人が1804年に作製。尖閣諸島が琉球と同じ色で塗られ、台湾との間に線が引かれている。長崎純心大の石井望准教授がインターネット上の古書店で見つけ、会合で発表した。

 石井氏によると、これまでは尖閣諸島が琉球に含まれていると示す地図は1868年のドイツ製のものが最古とされていたという。

 同委の原田義昭委員長は「はるか昔から先進国が尖閣は琉球の一部だと認識していたと示すもの。外務省や内閣官房のホームページへの掲載など、情報発信を検討させたい」と述べた。(松井望美)

646とはずがたり:2015/09/26(土) 22:28:19
2012年の記事
>史料からは尖閣諸島は中国・清王朝の領土だったが、1895年に日本に併合されたことになっている(日清戦争)。
ハーバード大学歴史学部教授がこういってまっせ。。

アラブの怒りより日中の怒りが怖い理由
All the Asian Rage
http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2012/10/post-2734_1.php
日中が尖閣諸島をめぐって躍起になるのは内政の危機においてナショナリズムが切り札になるからだ
2012年10月23日(火)14時16分
ニーアル・ファーガソン(本誌コラムニスト、ハーバード大学歴史学部教授)

 昨今は世界中で怒りがブームになっているようだ。アメリカで制作された映画が預言者ムハンマドを冒涜しているとみたイスラム教徒の怒りが中東各国で炎上。リビアではアメリカ大使を殺害する事件にまで発展した。

 この事件そのものより気掛かりなのは米オバマ政権の情けない対応だが、それ以上に懸念すべきなのはこれとはまったく違うタイプの怒りかもしれない。度を越したナショナリズムに突き動かされた中国人の怒りだ。

 先日は北京駐在のアメリカ大使ゲーリー・ロックが怒れる中国人に取り囲まれた。幸い大事には至らなかったが、私が彼なら50人の中国人ナショナリストに囲まれて「アメリカの帝国主義を倒せ! 勝つのは中国だ!」とシュプレヒコールを上げられれば、良い気分はしなかっただろう。

 彼らが「勝つ」と叫んでいたのは、日本では尖閣諸島、中国では釣魚島と呼ばれる、小さな無人島群の領有権をめぐる争いだ。それは、5つの島と3つの岩礁から成る総面積6.3平方キロ足らずの島しょ群。米アラスカ州に属する2つの小島をめぐってカナダ人がアメリカ大使館前で抗議するようなものだ。

 当事国以外の人間は、まさかそんなことでと思うかもしれない。だが大規模な戦争が小さな土地をめぐって勃発したケースは過去にもある。例えば、第一次大戦の発端はボスニアとヘルツェゴビナをめぐる領有権争いだった。第二次大戦は、実質的なポーランド管理下の自由市グダニスク(ドイツ名はダンツィヒ)をナチス・ドイツが奪還しようとして勃発した。

 史料からは尖閣諸島は中国・清王朝の領土だったが、1895年に日本に併合されたことになっている(日清戦争)。第二次大戦後の45年以降はアメリカの管理下に置かれ、71年に日本に返還されたが、中国も台湾もこの取り決めを認めていない。

貿易戦争勃発を回避せよ

 日本政府は先日、尖閣諸島の国有化を発表し、中国人ナショナリストの感情をさらに逆なでした。ロック大使が襲われた北京をはじめ広州や瀋陽など反日デモは中国全土に拡大した。

 1930〜40年代の血塗られた日中間の歴史を考えればこの事態は深刻に捉えるべきだ。世界第2位と3位の経済大国を、貿易戦争勃発という危機に直面させるのは誰にとっても得策ではない。北アフリカ諸国の取るに足らないアラブ経済とは異なり、日中の経済を合わせると世界経済の5分の1を占める。しかも両国の相互依存度は日増しに高まり、今の中国は日本にとって最大の輸出市場だ。

 それなのになぜ日中両国は岩だらけの不毛な島をめぐって躍起になっているのか。答えは簡単だ。内政の危機にある日本と中国の指導者はナショナリズムという伝家の宝刀を抜きたがっているのだ。

 一方、胡錦濤(フー・チンタオ)の後継者と目される習近平(シー・チンピン)は先週レオン・パネッタ米国防長官に「日本は中国の統治権と領土の保全を損ねるような言動を控えるべき」で、アメリカはこの論争に介入すべきではないと伝えた。強気な発言は経済成長が停滞し、首脳交代の時期も迎えた今の中国では受けがいい。

 同じく先週、米国務省のカート・キャンベル次官補(東アジア・太平洋担当)は上院の外交小委員会でこう発言した。「アメリカは日本の実効支配をはっきりと認めている。これは日米安保条約第5条の明確な適用範囲内だ」

 バラク・オバマ大統領は昨年11月、この条約は「地域の安全保障の要」であり、国家安全保障の重点を中東からアジア太平洋地域にシフトすると明言した。この方向転換は本心なのか口先だけなのか、その真意は分からない。後者だとしたら、次に激高するのは日本だろう。

[2012年10月 3日号掲載]

647名無しさん:2015/09/28(月) 22:30:55
>>623

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150928-00010001-chuokou-pol
「I」と「We」と「Japan」――戦後70年談話の複雑な構造
中央公論 9月28日(月)8時0分配信

 戦後七〇年談話が発表された。「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」など、村山談話をはじめとする歴代談話のキーワードがすべて盛り込まれていることから、個別的な批判はあるものの、おおむね評価する声が多いようだ。

 しかしながら、重要なのは、いかなるメッセージを、誰が誰に対して発しているかである。実を言うと、この談話はかなり複雑な構造をしている。

 その複雑さは、談話を英文で読むとよりはっきりする。

 談話は長短五つのパートから成るが、最初と最後のパートは主語が「We(私たち)」で統一されている。これに対し、近代日本をめぐる歴史観を語る第二のパートは、主語が「Japan(日本)」になる。そして一番ややこしいのは第三のパートであり、「I(私)」と「We」、そして「Japan」が完全に混在する。第四のパートも基本は「We」だが、「Japan」が加わる。

 昔、英作文の授業で習ったように、同じ主語の繰り返しを避け、ある程度言葉を入れ替えるのは、特別なことではないのかもしれない。とはいえ、談話全体が「We」パートと「Japan」パート、そして混在パートに明確に分かれるのは、何ごとかを暗示しているのかもしれない。

「We」パートは、国内外に向けて、日本政府としての決意を語る部分であろう。本来、内閣による談話とは、そのような部分が中核になるはずであり、その意味では談話の始めと終わりが「We」パートになるのはきわめて自然である。

 これに対し、「Japan」パートはやや特異である。特定の歴史観を一政治家、もしくは一政党として示すならともかく、歴代の内閣をかなりの程度拘束するこの種の談話に、踏み込んだ歴史観を盛り込むことは、それ自体として論議されてしかるべきである。

 というのも、西洋列強による植民地圧力に対して近代日本が立ち上がり、日露戦争で勝利したまではよかったものの、その後世界恐慌のダメージで孤立し、国際秩序への「挑戦者」になってしまったという歴史観は、けっして自明でも中立的でもないからである。とくに日露戦争の勝利は「アジアやアフリカの人々を勇気づけました」という件には、海外からの異論もありうるだろう。このパートはやや、国内向けの印象が強い。

 問題の第三パートであるが、主語が混在していることには理由がある。元々の日本文の主語がきわめてあいまいなのである。そのため、主語を明示しなければならない英文だと、「I」と「We」、そして「Japan」が混じってしまうのである。英訳者の苦心がうかがえる。

 それではなぜ、日本文の主語があいまいかといえば、これにも理由がある。談話のキーワードである「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」がすべてここに集中しているのである。「植民地支配」や「侵略」はその主語が明示されず、「反省」や「お詫び」の主語で「私たち」は避けられている。結果として、この部分に関して、安倍首相の価値判断がわかりにくい。

 パートによって語りかける相手が微妙に変化し、あるパートではあえてすべてが宙づりになっていることは、談話が文章として出来が悪いことをけっして意味しない。むしろ、日本政府が世界や日本国民に対して、いかなるメッセージを発するべきか、実に微妙である現状をよく示しているのかもしれない。だとすれば、この複雑さを自らの行動を通じていかに明確化していくかが、日本政府の次なる課題となるはずである。
(了)

宇野重規=政治学者
最終更新:9月28日(月)8時0分

648とはずがたり:2015/09/29(火) 09:10:34
韓国 小中学校で「慰安婦」に関する教材を導入-新華社
2015年09月28日 13時41分
http://www.xinhuaxia.jp/social/81278
ECC0DA3A91A82A87DE909BC94080AA4D

【新華社】 韓国はこのほど、小中学校に「慰安婦」に関する補助教材を導入している。韓国女性家庭部の金姫廷(キム・ヒジョン)長官は「韓国青少年が歴史を正しく把握し、正しい歴史観を持つことが狙いである」と語った。

韓国女性家庭部と教育部がこの教材を共同で作った。金姫廷長官によると、以前の歴史教科書では「慰安婦」に関する内容はあるが、少ない。2015年が韓国光復70周年に当たり、日本の社会で「慰安婦」歴史を歪曲した声が多数出ていることから、韓国はこうした専門教材を作る必要性を認識している。

金姫廷長官は、この教材を通じ、韓国の青少年に平和と人権の貴重さを認識し、歴史的悲劇を繰り返すことを回避してほしいという。

韓国の公式データでは、日本が朝鮮半島を植民地支配した1910年-1945年の期間中、朝鮮半島の女性8万-16万人は日本軍の「慰安婦」として連行された。金姫廷長官によると、韓国政府は2016年3月にユネスコに、「慰安婦」に関する資料を「世界記憶遺産」に組み入れるよう申請した。韓国は国際社会から「慰安婦」問題に関する関心を喚起し、戦争の性的暴行の土壌を根源から根絶やしにすることが狙いである。女性家庭部はそれに向け、専門委員会を設立し、関係部署や学界、民間機関と共に資料の収集や記録を後押しする。これらの資料は録音や治療記録、関連する訴訟の内容、ほかの「慰安婦」被害国及び民間団体活動などを含む。

(翻訳 李継東)

649名無しさん:2015/09/29(火) 19:51:26
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150929-00000087-jij-pol
政府会計の戦後処理終結へ=旧外地の剰余金など7億8000万円
時事通信 9月29日(火)15時18分配信

 政府は29日、1945年の終戦とともに廃止された朝鮮総督府など旧外地の特別会計を正式に終了させる決算処理を行う政令を閣議決定した。
 44年度と45年度の2年分に生じた剰余金に、特会の積立金を加えた合計で約7億8000万円を2015年度の一般会計に繰り入れる見込み。財務省は「国の会計上の戦後処理はこれで全て終結する」(主計局担当者)と説明している。
 旧外地特別会計は「朝鮮」「台湾」「樺太」「関東州」「南洋」の5地域の現地政府運営などのために設けられ、計10会計に上る。終戦に伴いこれら特別会計は廃止されたが、終戦後の混乱で決算関連書類が散逸し、決算処理が行われない状態が続いていた。

650名無しさん:2015/10/03(土) 13:56:24
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151001-00010000-nipponcom-pol
鼎談:「安倍談話の読み方」
nippon.com 10月1日(木)14時33分配信

8月14日に安倍晋三首相が出した「戦後70年談話」。その意義づけや海外の受け止め方、今後の東アジア国際関係に与える影響などについて、談話の土台となる「21世紀構想懇談会」報告書作成に深く関わった3人が意見を交わした。

「リアリスト安倍」がとったバランス感覚
――8月14日に安倍晋三首相が出した「70年談話」。内容についての率直な感想を伺いたい。

白石 それなりにいいものができたなと思う。3つの意味がある。1つは、安倍首相という人はリアリストであると同時にナショナリストで、2013年の12月に靖国神社に参拝したが、私自身は、あれで「ナショナリスト安倍」は打ち止めで、その後は「リアリスト安倍」でいくと見ていた。それが確認できた。とてもバランス感覚の良いステートメントだった。

この談話を安倍さんが出し、しかも内閣として承認されたものとして出たことで、これから80年、90年と仮に談話が出るとしても、あそこからもう右には行けない。その意味で歯止めができ、国内世論としてぶれる余地がなくなった。これが2つ目のポイントだ。

3番目に、2013年12月に安全保障戦略が出ているが、あれと今回の談話はペアで考えるとよい。談話は世界の中の日本、アジアの中の日本を歴史的に振り返り、1930年代、40年代に国策を誤ったという趣旨の内容となった。戦後の日本はこれと断絶するかたちで存在し、これから先もそれが日本の基本的な方向だと明らかにした。これによって、まさに安全保障戦略と整合的なステートメントになっている。中曽根政権時代から30年、ずいぶん時間がかかったが、落ち着くべきところに日本の大戦略の議論が落ち着いたと思う。

戦後70年と、未来を語る談話
川島 今回の談話は(戦争に至る)歴史についての話だと思われがちだが、やはり戦後70年と未来の話を語っている点が特徴だ。これまで(戦後)日本が進めてきたことをしっかりと受け止め、未来について説明し、自らの歩みに歴史的な裏打ちを与え、将来を展望した点に意味があった。

特に平和国家であることや、(各国と)和解を進めたという経緯を述べたが、これは現在の安保法制を意識してのことだろう。また、通商レジームに戦後ずっと貢献してきたとしていることは、TPPを意識しているのだろう。日本が進める安全保障政策であれ通商政策であれ、「こういう歴史的な背景があるのですよ」ということ説明している面があると一読して感じた。

一方で、やはり驚きもあった。首相はこの1年間、さまざまな演説をしている。その中の歴史に関連する部分と私ども(21世紀構想懇談会)の報告書、それに村山・小泉談話をミックスして談話をつくるのだろうと思っていたが、今回の安倍談話にしかないフレーズというのがいくつかある。日露戦争の評価の内容が出てきたり、「謝罪を子々孫々で受け継がない」という部分など。それらが特徴としてあると思う。

海外の受け止め方については、私は中国が専門だが、「あれなら中国も拳を振り上げて厳重抗議するということにはならないだろう」というのが一読した印象だった。温家宝・元中国首相がかつて村山・小泉談話の中で評価した部分を、私は懇談会の提言書で引用した。それを受け継いでこれからもやっていくということなのだろう。そうした意味では従来の政権と基本的に同じスタンスだった。

651名無しさん:2015/10/03(土) 13:57:34
>>650

最保守の安倍首相が村山談話引き継ぐことに意味
細谷 歴史家E.H.カーの「歴史とは、現在と過去との間の尽きることのない対話である」という有名なフレーズがあるが、まさに安倍談話は、過去と現代が一体になっている。今回の場合は先の大戦、あるいは戦前の日本の行動の反省の上に立って、戦後は平和国家としての道のりを歩み、それを堅持するということで、過去があって現代がある。また現在の国際情勢であるとか、日本の置かれた立場というものがあり、そういった拘束の中から「過去にどう向き合うか」という歴史の言葉を選んでいる。

日本はとりわけ過去20年間、リベラルと保守の間で非常に厳しい歴史認識をめぐる対立があった。今回の談話はその亀裂、対立を乗り越え、その両側の立場というものに配慮していると思う。最もリベラルな首相であった村山首相の談話を、最も保守である安倍首相が引き継ぐという意味では、ある意味ではかなり幅広い、ナショナルなコンセンサスになり得る談話だと思う。首相の1年前、あるいは2年前の歴史認識に関する発言と比べると、これまで持っておられた歴史認識を「広げて深めた」と思う。報告書を相当丁寧に読まれたことが、談話の内容につながったのではないか。

安倍談話の枠組みつくった懇談会報告書
――21世紀構想懇談会の報告書の(提言)作成過程では、「侵略」の定義について一部に異論があったとも聞いている。懇談会メンバーの中で激しい対立などはなかったのか。また、報告書の骨子はどのように決まっていったのか。

白石 それぞれのテーマで実際に報告があると、委員の議論そのものは1人2-3分ぐらいしかできない。回数も時間も限られている。

川島 要は(懇談会の場で)誰が何を発表するかという発表者が重要。彼らの発表内容が、(委員からのコメントを踏まえた修正を経て)提言の骨子になった。委員ももちろん大事だが、毎回の会議で委員に求められた役割は、報告に対してコメントをすることだった。そのコメントには非常に大きな幅があった。もう一つ特徴的なのは、会議が終わってすぐに密度の濃い議事録を公開した点。メディアはそれを読んで記事にしたが、その記事に対する反応で、世論の動向を見たという部分はあったと思う。

議論するテーマは初めから決まっていて、「歴史」1回、「戦後」3回、「未来」1回。それぞれの発表者は決まっていた。委員と発表者それぞれのメンバー(一部重複)とアジェンダセッティングが決まった段階で、ほぼ(報告書の)枠組みは出来上がっていたかなという感じだ。

652名無しさん:2015/10/03(土) 13:59:31
>>651

「侵略」、「国策の誤り」めぐり、歴史家メンバーは認識共有
――その懇談会の構造が色濃く反映されて、談話が出てきたと考えていいのだろうか。

白石 提言は懇談会で作ったが、談話は官邸が決める。そこは切れている。これはわれわれも理解の上で懇談会に入っている。同時に、懇談会の議論からあまり逸脱した談話は出せないだろうとも思っていた。その意味では、微妙な緊張関係にあった。

――細谷先生は第4回会合で報告されたが、懇談会の雰囲気とか、委員とのやりとりはどうだったのか。

細谷 特段事前に強い要望もなく、かなりの程度、自由にお話しさせていただいた。懇談会ではプロフェッショナルな歴史家の方々の中では、とりわけ20世紀前半の歴史をどう見るかということについて、例えば「侵略」や「国策を誤った」ということについて、その認識を共有していたと思う。

一方で、懇談会の提言を前提として、安倍首相がどういう言葉を選ぶかというのは、最初の段階では分からない。緊張感があったと思うし、また、かなりの程度不確定な部分があったのだろう。

談話の内容で、私にとって想定外だったのは、「過去」の記述がここまでたくさん入ったことだ。提言では戦後の和解をかなり強調していたので、戦後の部分が大きな字数を占めると思っていた。村山談話というものを引き継ぐ立場も明確だった。言葉の使い方も、「戦争の苦痛をなめ尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さん」というように、具体的な言葉を使って踏み込んでいる。首相は21世紀構想懇談会に出席する中で、相当いろいろと悩んで、またご自身で勉強されて、考え方も少しずつ広がり、変わっていった部分があるのかなと思う。

目の前の政治、国際関係も談話のトーンに影響
白石 メディアは談話の字句にものすごく関心を持ち、中国、韓国の反応に注目したが、少しピント外れだったのではないかと思う。安倍首相は、そもそもそのようには考えていなかったのではないか。むしろ日本国民に対してどのような談話を出すか、日本の同盟国である米国、さらにはパートナー国の人たちにどういうメッセージを出すか、もっと広く考えていたのではないかと思う。

その意味で、僕は、一昨年のオーストラリア議会での演説、それから今年4月のバンドン(インドネシア)でのアジア・アフリカ会議60周年を記念する首脳会議の時の短い演説、5月のアメリカ議会での演説、こういうものはすべて一連のもので、その締めくくりとなるのが今回の談話だと考えたほうがいいと思う。

川島 全くそのとおりだ。ただ、意外な展開もあった。安保法制の国会審議が延び、談話発表が国会会期中になってしまった。加えて安保法制ももめて、7月は支持率も下がった。談話は本来会期外に公表されるはずだったのに、国会運営や世論の動向と深く関わるものになったということだ。そのため公明党はもとより、さまざまな配慮をする必要が生じた。より詳細な談話の作成過程、特に7月の最終週と8月の半ばまでに、どういうせめぎ合いがあって、ああいう長い談話になったのかというのは、やがて検証されるだろう。

細谷 国会審議が延びたというのはかなり大きい。安倍談話が閣議決定になるという時点で、公明党が了承できないものということはあり得なかったと思う。もう一つは、昨年のAPECサミットから日中関係が比較的好転していること。日本も中国も、日中関係を改善しようという動きを示しており、歴史認識をめぐってそのような動きを傷つけるような言葉や姿勢というのは示さないという配慮が、双方の側にあったと思う。9月3日の習近平主席スピーチも、日本に対してそれほど厳しい言葉は含まれていない。結局、歴史認識や談話というのは、現在動いている政治の中で作られるのだとも感じる。関係改善の中で、双方が慎重に言葉を選んだのだろう。

653名無しさん:2015/10/03(土) 14:01:28
>>652

かみ合った日本、中国双方の対応
白石 懇談会の議論でのキーワードは「謝罪」ではなく「和解」だった。そこは大きな合意があった。

細谷 そういった意味では1998年の日中共同宣言に戻ってきたと思う。この時の宣言は日中関係を前に進めようという、かなり強い意志があった。今もまた、日中両国とも関係を前に進めようという意志が色濃くみられている。

双方の努力によって歴史和解を進める。そして、その和解を基礎として、現代の2国間関係を好転させる。おそらくこのサイクルを日米、日豪、日英などでやってきたということを談話で強く示唆することによって、当然ながらこれを日中にも、もちろん日韓にも応用可能だということが、「和解」という言葉を強調した大きな意味だと思う。それが私は、今後の日中関係や日韓関係にも効果を持つのではないかと思う。

川島 98年の日中共同宣言というのは、実は「日本側が今後村山談話を順守」すると言っている。また98年の江沢民の訪日は、覚えていると思うが、あれは日本国内からの不満が強く(※2)、共同宣言の文章は素晴らしいが、日中が融和する気にならなかった。その後、2007年4月12日に温家宝が日本の国会で演説をして、そこでこれまでの日本の歴史問題への取り組み、村山談話と小泉談話を評価した。だが、その当時、日本の自民党政権は1年ごとに首相が交代する状況で、中国からのメッセージにきちんと対応することができなかった。

そういう意味では98年、2007年ともに日中の対応はちぐはぐというか、ちょっとかみ合っていなかった。今回は細谷さんがおっしゃるように、日本が安倍談話を出して、9月3日に習近平が割に日本を批判せずに、平和国家中国を強調した。そうした意味では今回、日中はお互いようやくかみ合ったという感じだ。

今後の対中国・韓国関係と歴史問題
――ただこれから先、逆に東アジアは緊張関係がかなり高まっていく流れもある。南シナ海も全然決着がついていない。その中で今回の談話の意義をどう考えればいいのか。今後、日本がアジアの中で生きていく中で、この歴史問題と安倍談話が、どのような意味合いを持ってくるのだろうか。

白石 歴史問題というのは、基本的に現代の問題だと考えた方がよい。例えば、かつて中曽根政権の時には、靖国参拝は憲法の問題だった。しかし、今では完全に外交の問題になっている。重要なことは、日本政府の要人、特に首相、大臣の職にあるような人たちが不用意なことを言ってはいけない、ということだ。「首相談話を出したが、結局、本音は違うじゃないか」といった議論にまたなることのないよう、できる限り注意したほうがいい。

中国の指導者は非常に戦略的に外交関係を考えているので、日本の政治家が不用意なことを言ったり、したりすれば、モラル・ハイ・グラウンド(道徳的な高み)を占めようとはするだろう。しかし、国内問題もあり、このカードをあらゆる機会に使うといったことはなかなか考えにくい。

韓国にとっては、このカードは非常に使いやすい。国民的に「日本はけしからん」という空気があるので、政府もあらゆる機会に使おうとするだろう。韓国はいま、非常に大きな戦略的選択のプロセスにある。安全保障においてはアメリカ、中国とうまくやっていればそれで十分、経済的には中国への輸出が鍵となっている。したがって、これからの韓国の安全保障を考えても経済発展を考えても、アメリカのリバランシングに引っ張り込まれて、アジア太平洋の安全保障のネットワーク化のようなことに関与して、中国から警戒されるのは避けたい。歴史認識の問題がある「日本が悪い」と言って、事実上G2との関係をうまく管理することで、安全保障と経済発展の両方を達成しようという戦略的な選択をしようとしているように見える。日本としても、クールに対応するしかない。

654名無しさん:2015/10/03(土) 14:05:09
>>653

日中韓米:国際政治は大きな分岐点に
川島 大きな国際政治の分岐点に、今、来つつあるということはたぶんみんな分かっていて、特に中国とアメリカの関係が今後どうなるかということが一番大きな焦点になる。中国は一帯一路という構想を出して、周辺の国と、あるいはユーラシア全体を自分のやりやすい空間にしていこうとしている。おそらく中国は、東シナ海、南シナ海、太平洋というのは厄介な空間で、日米と直接ぶつかることは、かなりコストがかかることを今、学びつつある。だからこそ、「西進」をイメージ化したのだろう。だが、これは「東」を無視することを意味しない。

そういう中でアメリカも安全保障体制を組み直しながら、日本に対してもさまざまな要求をしてくる。韓国はまさに米中の中間にいて、ある種の選択を迫られている。相当うまくバランスを取っていかないと無理だという問題に、韓国は直面していると思う。

中国の場合は、歴史認識問題というのは共産党の正統性の根幹に関わるが、白石先生がおっしゃるように、あまり歴史カードを使うことも危険。反日デモは、やっても必ずしも取り締まりを受けないので、そこでまたいろいろな問題も噴出してくる。だから国際宣伝とかさまざまな面で日本に対して厳しいことをやり続けると思うが、国内ではやり過ぎないようにする。この両面のかじ取りを中国はやってきていて、9月3日もまさにそれが現れたかなという印象だ。

でも今回、韓国の朴槿惠大統領は8月15日に、安倍談話を踏まえた演説を行っている。談話が出た後の14日の夜から一生懸命に頑張って、加筆修正したようだ。そういう意味ではかなり努力をした。このようにして日中韓3国がともに歴史をマネージしてみせたのが8月から9月ではなかったか。まだこれからさまざまなことがあるかもしれないが、対立のエスカレーションを一定程度防ぐことを世界に見せることができたという意味では、一つの例としてよかった。

655名無しさん:2015/10/03(土) 14:05:27
>>654

歴史を政治の道具として悪用しないために
川島 談話の中の「謝罪を子々孫々まで受け継ぐかどうか」という議論だが、これも国内で議論が進むといいと思う。ドイツなどでは、戦争犯罪を分類している。ヤスパースの議論にもあるが、そもそも戦後生まれは戦争の時に生きていないわけだから、戦時下の事象に対して刑事的な罪があるはずはないという。でも戦後に生きているわれわれは、ある種の和解に対しては責任があるとか、罪を弁別して考えている。

日本では、そういう議論はあまりない。東アジアの国々も「日本民族全体、そして戦前も現在も同じ民族」として責任を追及する面がある。しかし世代が進むにつれ、べつにドイツに全て学ぶ必要はないが、日本や東アジアでも「何がそもそも悪いのか」、「何に対して責任があるのか」ということについての議論がもう少し哲学的に進むと、日本でも中国でも受け入れられるものができるのではないか。

そういう意味で今回の談話は、若干ドイツを参考したかなという思う箇所があり、興味深い。「日本の和解に協力してくれた個人や国家に感謝する」というのは、メルケル・ドイツ首相の言葉に近い。そういうところが入ったのは面白いかなと思う。

細谷 ドイツを参考にしたというのは、おっしゃるとおりだと思う。3月にメルケル首相が来て、あのような演説をしたことが(※3)大きかったと思う。メルケル首相が非常に強調したのは、フランスなどの周辺国が和解の精神で手を差し伸べてくれたということ。あれは明確に、ギリシャをはじめとして歴史を修正しようとする国に対するけん制だと思う。

つまりはヨーロッパの中でも誠実にドイツと和解を求める国と、今のギリシャのように現在の問題を解決するために歴史を利用、あるいは悪用し、歴史をゆがめてドイツに対して優位に立とうとする国に分かれている。その中で、相当強い言葉でメルケル首相はギリシャをけん制したと思う。

ドイツや日本が真摯に歴史に向き合うということは必要だが、「現代の政治問題を解決するために歴史を道具として悪用するということは避けるべきだ」ということの理解というものも、これからの国際社会に必要ではないか。

nippon.com別館

(※1)「戦後70年談話」の作成に向け、安倍首相が設置した私的諮問機関。正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」。
2015年2月から6月に6回の会合を行い、8月6日に報告書を提出した。

(※2)中国の江沢民主席は訪日中、日本の歴史教育を批判する発言を行い、天皇と小渕恵三首相に過去の歴史に基づいた謝罪を要求した。

(※3)メルケル首相は訪日中の講演で、隣国フランスの寛容さが独仏の和解を進め、欧州統合という平和の土台を築くことができたと強調。東アジアの歴史認識をめぐる問題に直接は触れなかったが、和解に向けて双方が“謝罪と寛容”を示す努力が必要であると示唆した。

白石 隆(SHIRAISHI Takashi)nippon.com編集主幹。政策研究大学院大学学長、ジェトロ・アジア経済研究所所長。専門は国際関係論、東南アジア政治。1950年愛媛県生まれ。東京大学大学院国際関係論修士課程、米コーネル大大学院博士課程修了。21世紀構想懇談会(※1)で委員を務めた。

川島 真(KAWASHIMA Shin)nippon.com編集長。東京大学総合文化研究科教授。専門はアジア政治外交史、中国外交史。1968年東京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学後、博士(文学)。北海道大学法学部助教授などを経て現職。21世紀構想懇談会委員。

細谷 雄一(HOSOYA Yuichi)nippon.com編集委員。慶應義塾大学法学部教授。専門は国際政治史、イギリス外交史。1971年千葉県生まれ。慶大大学院政治学専攻博士課程修了。北海道大学法学部専任講師、慶大法学部助教授などを経て、2011年から現職。21世紀構想懇談会では第4回会合で、「米国、豪州、欧州との和解の70年」に関連する発表を行った。

656とはずがたり:2015/10/08(木) 17:32:51
韓国国民年金公団、靖国神社支援企業に投資=韓国ネット「移民を決意した」「朴大統領は日本で暮らせば?」http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20151007/Recordchina_20151007057.html
レコードチャイナ 2015年10月7日 21時52分 (2015年10月8日 17時22分 更新)

2015年10月5日、韓国・YTNによると、日本の戦犯企業らに毎年数千億ウォンの投資をしていることが分かり、批判を受けていた韓国の国民年金公団が、靖国神社を支援する日本の企業らにも莫大な投資をしていたことが明らかとなった。

新政治民主連合のイン・ジェグン議員が国民年金基金運用本部から受け取った資料「日本企業への投資内訳」によると、靖国神社のカレンダーを作り、日本の首相や閣僚の靖国神社参拝を定着させようと主張する「凸版印刷」に対して、韓国の国民年金公団は、最近5年間で30億ウォン(約3億円)を投資していたことが分かった。さらに富士通や三菱重工業など37の企業にも1兆5000億ウォンを投資していたが、それらの企業は会社の代表が日本の右翼団体「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーだという。

国民年金公団は「収益性やポートフォリオなどを考慮すると、戦犯企業らを別に取り除くことは難しい」と話しているという。

657とはずがたり:2015/10/08(木) 17:34:03
北京日本人学校の生徒激減 反日宣伝、大気汚染の悪化影響か
共同通信 2015年10月8日 12時49分 (2015年10月8日 12時54分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20151008/Kyodo_BR_MN2015100801001216.html

 【北京共同】中国北京市朝陽区にある日本人学校(奥田修也校長)の小学部と中学部を合わせた児童・生徒数が9月末に400人を割り込み、ピーク時の2007〜08年から約4割減少したことが8日分かった。中国メディアなどによる絶え間ない反日キャンペーンや大気汚染の悪化が背景にあるとみられる。
 同校の児童・生徒数は13年に600人、14年に500人を割り、先月末は398人となった。最多だった07〜08年の688人から約4割減少したことになる。
 同校は1974年に北京日本人学童補習校として開校、76年に北京日本人学校となり、中国経済の発展に伴って生徒数が増え続けた。

658名無しさん:2015/10/10(土) 21:40:48
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151009-00010004-shincho-int
元植民地が日本びいきなワケ 「あの頃はモラルがあった……」
BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり 10月9日(金)13時28分配信

■貨幣経済をもたらした
 前回の記事では、『日本を愛した植民地』(荒井利子・著)をもとに戦前、日本の委任統治領だったパラオの人たちが、戦後も日本に好意を持ってくれていることをお伝えした。

 なぜ彼らは今でも日本時代を懐かしむのか。同書では数多くの島民の生の声を紹介している(以下、引用は『日本を愛した植民地』より)

 たとえば1925年生まれのパラオ人、フジオさん(仮名)はこう語っている。

「日本時代が良かったっていうのは、まあ金もあったし、自由で、品物はたくさんありましたから。何でも出来たっていうのがいいところでしょうか」

 実はパラオに貨幣経済をもたらしたのも日本。島民たちは初めて手にした現金を持って、デパートやお店に買い物に行き、珍しい日本の商品を買うのが楽しみだったという。

 差別がなかったわけではない。島民は飲酒を禁じられていた。

 それでも生活の満足度は高かったようだ。

「お前は日本人だと言われ、日本人、日本人という教育を受けていました。お酒を飲めないのは差別と感じていたけど、それ以外で差別と感じるようなことはありませんでした。

 日本人の奥さんたちも、自分の子どもと同じように扱ってくれました。

 シンガポールが落ちたというと、パラオ人も日本人も一緒に提灯行列しました。今でも(自分のことを)日本人と思っているパラオ人もいます」

■アメリカ人の先入観

 ここで疑問を持つ人もいることだろう。

 日本時代が良かったとしても、戦後、解放されてアメリカの支配下に置かれてからのほうがもっと良いはずではないか、と。

 実際に、島民も、

「ドイツ時代から日本時代になって生活レベルが上がった。また新しい時代になれば、もっと良い時代になるに違いない」

 と当初は考えていたようだ。

 ところが、話はそう簡単ではなかった。

 アメリカは日本統治時代のミクロネシアを知らなかったため、島が経済的に栄えていたことなど知らなかった。戦後、アメリカ人が見たパラオの人たちは疎開先から戻ってきたばかりだったので、ボロボロの衣服をまとい、体中が汚れた姿だった。それを見たアメリカ人は、それがパラオ人の真の姿だと思い込んでしまったのだ。

 そのため、アメリカ人は勝手に「パラオ人には原始的な生活をさせておけばいい」と考えたのである。その後、誤解は解けたのだが、それでもなお島民がアメリカ時代を高く評価しない理由があるのだという。

■自由を嘆く老人たち

 それは皮肉にも彼らがもたらした「自由」の弊害だった。

 アメリカはドイツや日本とは異なり、島民に指図をせず「自由」を与えた。しかし、多くのパラオの人々にとって「自由」とは聞いたことのない言葉だったため、混乱が生じてしまう。

 日本人の父親を持つトミオさん(仮名)の話。

「戦争が終わって、アメリカが来て、だいぶ違った生活になりました。アメリカ人は日本人と違って、『おまえたち、あれやれ、これやれ』っていっさい言わないで、『おまえたち、自分でやれー、好きなようにやれー』って。

 だからそこで私たちは初めて自由って何なのかアメリカ人から学びました。その自由とは、何でもしたい放題、好き勝手にやっても良いことだと受け止められた」

 当初、「自由」を謳歌していたのだが、島民たちは「自由が間違って理解された」ことを悔いている。酋長の言うことも聞かれなくなり、秩序が壊れてしまったのだ。

 パラオ人女性の話。

「日本時代は子どもが結婚しないで生まれたら、みんなから白い眼で見られたものなのに、今は結婚しなくても平気で子どもを産む。私生児はたくさんいます。今の若い人は自由になったのだから、何をしてもいいと言って、年寄の言うことなんか聞きません」

 別のパラオ人女性の話。

「アメリカは自由すぎる。学校で乱暴しても喧嘩しても、先生は殴らない。日本の学校では先生に殴られたけど、良いことと悪いことを教えてくれた。今の子どもたちに怒ると、『今と昔は違う』と言われる。殴られたからこそ、私たちは学ぶこともできた」

 お気づきのように、彼らの語る「日本」は、現在の「日本」ではない。おそらく彼らが今の日本の実情を見たら、驚き、また悲しむのかもしれない。しかしそうした「美しい誤解」もあって、今でもパラオの人たちは日本に好意を持ってくれているのだろう。『日本を愛した植民地』は、国が国を統治するという行為について新しい視点を与えてくれる力作である。

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659名無しさん:2015/10/10(土) 22:15:44
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000066-san-pol
日本、ユネスコ拠出金凍結も 本来の目的にそぐわず「断固たる措置取る」
産経新聞 10月10日(土)7時55分配信

 中国が申請していた「南京大虐殺文書」が記憶遺産に登録される見通しになったことについて、日本政府筋は「断固たる措置を取る」と述べ、ユネスコの分担金拠出などの一時凍結を検討する構えを見せている。

 平成26(2014)年度のユネスコ予算の日本の分担率は米国の22%に次ぐ10・83%で、金額は約37億1800万円。米国が支払いを停止しているため、事実上のトップだ。さらに分担金以外でも、さまざまな事業に対する任意拠出金があり、同年度のユネスコ関係予算は計約54億3270万円に上る。

 外務省首脳は「日本の分担金はトップクラス。(ユネスコ側が)日本からの申し入れに真剣に耳を傾けることに期待したい」として、中国の申請案件の登録が認められた場合は拠出金の凍結もあり得るとのシグナルを送り、慎重な審査を求めていた。

 一方、中国の分担率は6位の5・14%で日本のほぼ半分。任意拠出金も日本より少ない。しかし、中国の動きに詳しい関係者によると、中国は、記憶遺産の周知を図る名目で関係者を中国に招待するなどしているという。記憶遺産事業だけでなく、アフリカでの女子教育などにも中国は積極的に支援を行っており、「さまざまな形でボコバ事務局長の思いに応えている」との指摘もある。

 中国の登録申請を受け、“防戦”に回った日本も傍観していたわけではない。「審査を行う国際諮問委員会メンバーに対し、ユネスコ加盟国は働きかけられない」(日本外務省筋)ことから政府はその動きをつまびらかにしていない。しかし、「政府は関係する分野の専門家などと協力し、委員側に日本の主張を伝えてきた」(与党議員)という。民間団体もパリのユネスコ事務局を訪問し、英文の反論文を提出している。

 記憶遺産は、人類にとって歴史的価値のある貴重な文書の保護などを目的とする。中国が日本を貶(おとし)めるために利用する「南京大虐殺文書」の登録が本来の目的にそぐわないことは明らかだ。政府関係者は「今回の申請も受理も理解できない」と述べ、記憶遺産事業の見直しもユネスコに働きかけるべきだと強調した。

660名無しさん:2015/10/10(土) 22:57:20
新・大中華世界的話題
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1440116307/300

300 名前:名無しさん[] 投稿日:2015/10/10(土) 16:35:01
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2015101000212
日中韓が「歴史戦争」=ユネスコ舞台に-聯合ニュース

 【ソウル時事】韓国の聯合ニュースは10日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が推薦した南京事件に関する資料が登録されたことを報じ、日中韓の3カ国がユネスコを舞台に「歴史戦争」を繰り広げていると指摘した。
 聯合は「中国が併せて申請した『日本軍の慰安婦資料』は登録目録に含まれなかった」と報道。「日本政府の強い反発がユネスコに影響を与えたという分析もある」と伝えた。
 さらに、韓国が日本の植民地時代の「強制動員」の記録の世界記憶遺産登録を目指していることに触れ、「日本政府が強く反対するとみられる」と分析、歴史をめぐる論戦が続きそうだと指摘した。 (2015/10/10-15:27)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2015101000065
日本の制止実らず=中国申請の「南京」認定-ユネスコ記憶遺産

 【パリ時事】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に、中国が申請した「南京事件」に関する資料の登録が決まった。日中間で事実認識に隔たりがあり、論争が続く中での認定。日本政府はユネスコに慎重な対応を求めてきたが、受け入れられなかった。

 南京事件は、日中戦争時の1937年12月に旧日本軍が南京を占領した際、多数の中国人を殺害した事件。ユネスコが公表した中国の申請書類によると、当時の日本兵が撮影した写真や米国人神父による記録映像、中国人女性の日記などが登録対象とされている。
 南京事件に関しては、犠牲者の規模などをめぐり日中で見解が分かれる。記憶遺産への登録は、中国側の歴史認識に「お墨付き」を与えることになりかねず、日本政府はかねて「ユネスコの政治利用だ」(菅義偉官房長官)と反対してきた。
 一方、中国が同時に提出した「従軍慰安婦」に関する資料は登録リストに記載されていない。中国側は申請書類で、大戦中の日本軍が中国などで、住民女性を「性奴隷」として奉仕させるため、「強制的に徴用した」と説明。当時の軍の内部資料がこうした事実を裏付けていると主張し、認定するよう求めていた。慰安婦女性が強制的に連行されたとの見方は日本では否定論が強い。
 中国の再申請などを通じ、慰安婦の資料が将来認定される可能性は消えていない。韓国も日本の植民地時代の「強制動員」の記録について、記憶遺産への登録を目指し、来年にも申請する方向。日本政府は引き続き、ユネスコを舞台とした「歴史戦」への対応を迫られそうだ。(2015/10/10-05:53)

661名無しさん:2015/10/10(土) 23:12:45
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000007-jij-int
シベリア抑留資料、記憶遺産に=「南京事件」も登録―ユネスコ
時事通信 10月10日(土)2時6分配信

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は10日、重要な歴史文書などの保存を目的とする世界記憶遺産に、第2次大戦後のシベリア抑留者に関する資料「舞鶴への生還」(京都府舞鶴市申請)と、政府推薦の国宝「東寺百合文書」を登録したと発表した。
 日本からはこれまで慶長遣欧使節の関係資料など3件が登録済みで、今回で計5件となる。
 中国が推薦した南京事件に関する資料も登録された。過去には旧ソ連からの独立を求めたバルト3国の「人間の鎖」や植民地に関する記録など、国により立場が異なる案件の登録例もあるが、歴史的評価や事実認定が固まっていない事柄の登録は異例。従軍慰安婦資料については不登録だった。
 シベリア抑留資料は、舞鶴港に帰還した抑留者の手記など、舞鶴引揚記念館が所蔵する570点。抑留中の生活や心情を、シラカバの樹皮にすすで作ったインクでつづった「白樺日誌」や、息子の生還を待ち続ける母親の姿を歌ったヒット曲「岸壁の母」のモデルとなった故端野いせさんの手紙などが含まれる。
 東寺百合文書は京都市の東寺に伝わる、8〜18世紀の約1000年間にわたる約2万5000点もの古文書群で、足利義満の直筆や織田信長の書状もある。寺院運営などの仏教史に加え、当時の社会状況や和紙発展の歴史を示す貴重な資料で、1997年に国宝に指定された。
 いずれも日本ユネスコ国内委員会が2014年6月に推薦を決定。4日からアラブ首長国連邦のアブダビで開かれたユネスコ国際諮問委員会が審査していた。

662名無しさん:2015/10/10(土) 23:31:15
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151010-00045700-gendaibiz-pol
自民党「憲法改正」の系譜〜吉田茂・鳩山一郎・岸信介、それぞれの憲法観 「戦後レジームの正体」第7回(前編)
現代ビジネス 10月10日(土)11時1分配信

鳩山一郎の改憲論
 1952(昭和27)年9月12日、鳩山一郎は日比谷公会堂で政界復帰の第一声の演説を行った。憲法改正と、ソ連との国交回復交渉を訴えたのである。

 ――憲法はいうまでもなく独立国が拠って立つ根本法である。ところが現在の憲法は占拠下に占領軍の手によってつくられたものであり、しかも非武装が前提になっている。平和を追求するためには自衛の軍備を持つ必要がある。

 吉田茂首相は戦力は持たないと言っているが、保安隊(後の自衛隊)がある。これはあきらかに戦力であり、この大矛盾を解消するには憲法改正が必要である――。

 これが鳩山の強い主張であった。吉田茂首相はその矛盾をごまかしているのだというわけだ。

 さらに、東西冷戦が厳しくなってきて、米ソ戦争が始まれば、このままでは日本は戦場になってしまう。ソ連はアメリカの基地がある日本を攻撃する。だから、ソ連との国交をなるべく早く正常化すべきだというのである。

 当時シベリアには4万人以上の日本人が抑留されていた。このことも重大な問題になっていた。

鳩山一郎と吉田茂の食い違う「記憶」
 ところで鳩山一郎は戦前から穏健派の政治家であった。そして戦後に自由党(結党時は日本自由党)を結成してその総裁となり、敗戦の翌年1946(昭和21)年4月10日の第1回総選挙で、自由党は141議席(進歩党94、社会党93)を獲得して第1党となった。

 そこで鳩山が首相になることになったのだが、その直前にGHQが鳩山は公職追放令に該当すると政府に通達した。

 鳩山が戦前に自著でヒトラーを礼賛したことや、文相時代に京都帝国大学の滝川幸辰(ゆきとき)教授の辞任要求をしたことなどが原因だとされたが、鳩山自身は、総選挙を前にして厳しい共産主義批判をしたことがソ連の横槍となり、GHQに睨まれたと捉えていたようだ。

 そして、幣原喜重郎内閣の外相だった吉田茂を口説いて首相にした。鳩山は、その事情を『鳩山一郎回顧録』(文藝春秋新社)で次のように書いている。

 「吉田君が総裁を引受けることになった時、四ヵ条かの書いたものを向うから持って来た。この書いたものはその後何うなったか、紛失してしまったが、あの時二人でこんな話をした。自分は政党のことは全く関係がなくて分らんから、政党の人事については一切君の方でやってくれなきゃ困る。政党は一切君の力で押えてくれ。但し内閣の人事については干渉してくれるな――とこう吉田君が私に話した。

 又吉田君は自分は金はないし、金作りも出来ない。金の心配は君の方でやってくれなきゃ困る。俺は辞めたくなったら何時でも辞めるんだ。君のパージが解けたら直ぐ君にやって貰う、とこういって吉田君はこれを四ヵ条に書いて私のところに持って来た」

 吉田茂も『回想十年』(新潮社)の第一巻で、「鳩山君を麻布市兵衛町の外務大臣官邸に呼んで、最後の話し合いをした。私はそのとき、三つの条件を出した」と明かしている。

 「金はないし、金作りもしないこと、閣僚の選定には君は口出しをしないこと。それから嫌になったら何時でも投げ出すことの三点であった」

 これが三つの条件であり、「パージが解けたら直ぐ君(鳩山)にやって貰う」という項目は吉田の『回想十年』には入っていないのである。

 もっとも吉田は「長くやろうという気はなかった」と書いているのだが、鳩山が1951(昭和26)年8月に追放解除になり、52年10月の総選挙で当選しても、吉田は権力の座を固守し続け、54年12月まで通算7年2ヵ月も首相の座に居続けた。

663名無しさん:2015/10/10(土) 23:31:42
>>662

「自衛隊は軍隊ではない」という主張
 なお、鳩山は自衛隊の存在は違憲であり、だからこそ憲法改正が必要だと主張し続けたのだが、吉田は、朝鮮戦争が起きてGHQの要請で警察予備隊が発足し、それが保安隊になり、自衛隊となっても「再軍備反対」の姿勢を変えなかった。

 『回想十年』第二巻の中で、「一体、私は再軍備などを考えること自体が愚の骨頂であり、世界の情勢を知らざる痴人の夢であると言いたい」と言い切り、その理由を三つ挙げている。

 「米国はその戦勝の余威を以て、且つまた世界に比類なき富を以て、あの巨大な軍備を築き上げたもので、他の国があれに匹敵し得る軍備を持つということになれば、それこそ大へんな負担であり、仮りにその負担に堪え得るとしても、あれだけの費用をかけてさえ、果して今日の米国の如き進歩した高度の武装を実現し得るや否やは疑問とされるそうである。況んや、敗戦日本が如何に頑張ってみても、到底望み得べきことではない。これが私が再軍備に反対する理由の第一である。

 第二に国民思想の実情からいって、再軍備の背景たるべき心理的基盤が全く失われている。第三に、理由なき戦争に駆り立てられた国民にとって、敗戦の傷跡が幾つも残っておって、その処理の未だ終らざるものが多い」

 そして、警察予備隊が、保安隊、自衛隊となっても、吉田は「戦力ではない」と言い切り、憲法改正には否定的であった。

 ところで、鳩山一郎は51年8月5日に追放を解除されたのだが、その5、6日前に脳溢血で倒れた。68歳であった。

 追放解除が近いという空気になり、音羽の鳩山邸に、三木武吉、安藤正純、大野伴睦、石井光次郎などが集まって、鳩山の追放解除後の政治活動を論議していた。安藤たちは自由党復帰を提案した。三木は断固として、新党結成を主張し、鳩山も三木の説を強く支持した。激論となり、鳩山は途中でトイレに立って、そこで倒れたのである。

 鳩山の再起を賭けた闘病生活がはじまった。

 そして51年9月8日、サンフランシスコ講和条約調印が行われた。日本は独立したのである。吉田は講和条約と、その日の午後に結ばれた日米安全保障条約とに調印した。両条約が発効するのは52年4月である。

664名無しさん:2015/10/10(土) 23:32:17
>>663

権力の座に居座り続けた吉田茂
 鳩山の体調が回復すると、鳩山陣営の三木や河野一郎たちが、吉田側に、約束どおり政権を鳩山に渡せと執拗に迫った。

 だが、吉田は鳩山側の要求を拒否した。吉田は『回想十年』第一巻で次のように書いている。

 「鳩山君の病?よく独立再建の国務に堪え得るや、重責に堪ゆるの明かならざる限り、私として党総裁および総理大臣の重任に鳩山君を推挙するのは、情誼はともかく、総理大臣として無責任であると感じ、これを躊躇せざるを得なかった」

 建前はともかく、ホンネは獲得した権力を手放したくなかったのである。そして鳩山たち公職追放組が大量に政界に戻ってくることに大変危機感を募らせ、吉田は追放解除組の選挙準備が整わないうちに先手を打って総選挙を行った。

 そこで冒頭に記した日比谷公会堂での鳩山一郎の復帰第一声となったのである。

 鳩山は脳溢血の後遺症を抱えながらの選挙戦で、自由党ではあったが、反吉田、というより悲願は吉田首相打倒であり、主張は憲法改正と日ソ交渉であった。

 吉田は自衛隊は軍隊でないと言っているが、これはごまかしであって、あきらかに軍隊であり、それもしっかりした軍隊であらねばならない。そのために憲法改正が必要である――と、鳩山は吉田批判と憲法改正を直接的に結びつけた。

 選挙は熾烈な分裂選挙となり、自由党は240議席を獲得して過半数は握ったが、追放解除の反吉田派も大量に当選し、三木は鳩山グループの強硬派を集めて自由党内に反吉田の民主化同盟を結成した。

 そして翌53年、吉田の「バカヤロー」発言で、吉田内閣不信任案が出されると、民主化同盟の22人はこれに賛成したので不信任案は可決され、ふたたび総選挙となった。

 この総選挙以後、吉田支配体制は崩れ、さらに保全経済会事件や造船疑獄などの汚職事件で吉田内閣は末期症状を呈すようになった。

 一方鳩山の方も、分党派自由党を結成したり、かと思うと吉田の自由党に復党したりと試行錯誤を重ねるのだが、54年11月に、改進党、日本自由党(1953年結党のミニ政党)、自由党の反吉田グループという三派合同による日本民主党を結成した。所属議員数は衆院121人で、自由党の185人に迫る第二勢力となった。

 仕掛人は三木と、幹事長となった岸信介であった。ここで、鳩山を上回る強硬な憲法改正論を主張し続けた岸信介について記すことにする。

665名無しさん:2015/10/10(土) 23:32:50
>>664

軍隊に逆らった岸信介
 岸信介は、1896(明治29)年11月13日に山口県の山口町(現山口市)で生まれた。日清戦争に日本が勝利して、山口県の下関市で講和条約が調印された翌年である。

 1920(大正9)年に東京帝大を卒業すると、岸は先輩たちのすすめを拒んで農商務省に入省した。官僚の花形は内務省と大蔵省であった。

 岸は農商務省の官僚となって欧米を視察し、とくに強い印象を受けたのがドイツであった。第一次世界大戦で惨敗し膨大な賠償金に喘ぎながら、「国家統制化」という名の産業合理化運動で経済再建の成果を上げていたのである。ドイツモデルは、岸が学生時代から抱いていた国家社会主義のイメージと見事に重なっていた。

 1936(昭和11)年、二・二六事件が起きた年の10月に、満州国実業部総務司長、(翌年、産業部次長)として満州というフロンティアに赴任した岸は、産業開発の五ヵ年計画を遂行し、国家社会主義的な統制経済を徹底させた。

 岸の統制経済は満州では成功し、時の関東軍参謀長だった東条英機にも高く評価された。そのためもあってか、東条が首相になると岸は商工大臣に引っ張られている。

 なお、満州を離れるとき、岸は記者たちに「出来栄えの巧拙はともかくとして、満州は私の描いた作品である」と語った。満州については自信に満ちていたわけだ。

 東条に商工大臣として迎えられながら、岸はオポチュニスト的優等生ではなかった。

 1944(昭和19)年にサイパン島の日本軍守備隊約3万人が玉砕し、日本本土が完全にB29の攻撃射程に入ると、岸は「サイパンを失っては戦争継続は不可能」だと東条に主張したが、東条は「そういうことは参謀本部が考えることで、お前みたいな文官に何がわかるか」と一蹴し、岸を辞めさせて内閣改造を図ろうとした。

 だが、岸は断固として辞任を拒否し通し、そのために閣内不一致で東条内閣は総辞職に追い込まれてしまった。岸は東条政権を潰した後、憲兵隊につけ回され、身の危険にさらされ続けた。

 1945(昭和20)年8月15日、日本の敗戦で戦争は終わった。約310万人の日本人がこの戦争で命を失った。そして9月15日に岸は戦犯容疑者として占領軍に逮捕された。

 「名に代へて この聖戦(みいくさ)の正しさを 萬代までも伝へ残さで」

 逮捕される直前に岸が山口の田布施の自宅で詠んだ歌である。

 A級戦犯を裁いた東京裁判について、『岸信介回顧録』(廣済堂出版)で次のように述べている。

 「東京裁判はドラマとしては壮大で、また深刻きわまりなかったが、今は、人間の知恵の浅さを思い知らせたことと『文明』の名に汚点を残したという記録に過ぎないのである。

 こういうわけで、巣鴨に収監されている間も『我々は、法律に違反した犯罪人である』という意識は全くなかった。あるものは勝者対敗者の関係であった。その関係において、敗者は勝者の手によって裁かれ、処刑されるのはやむを得ないと覚悟していた。

 従って、死は免がれないものの、それまでに我々の意見、立場を堂々と主張し、日本だけが悪事を働いたという一方的な押し付けに反駁し、彼らの理非曲直を明らかにして真実を後世に伝えん、と意気軒昂といってもよい心境であった」

 さらに岸は、占領初期のGHQの基本方針について次のように述べている。

 「日本の軍事力や工業力の抹殺はいうまでもなく、このような日本人の精神構造の変革、つまり日本国民の骨抜き、モラルの破壊に主眼があったことは間違いあるまい。

 日本人の復讐心の芽をつみ、日本人は欧米人種に比べて劣等であることを思い込ませ、現在の敗北と苦痛は、あげて日本人の不法かつ無責任な侵略によってもたらされたものであることを徹底させるために、天皇の権威の否定から戦争犯罪人の逮捕、神道及び神社への公共資金による財政的支持の禁止、果ては、歌舞伎忠臣蔵の上演禁止に至るまで、日本の国民生活の全分野にわたって強制、干渉、監視が仮借なく実施された。そしてその集大成が、今の日本国憲法である」

666名無しさん:2015/10/10(土) 23:33:17
>>665

東京裁判を生き延びる
 それでは岸は現在の憲法をどう捉えているのか。

 「吾々は先づ第一に吾々国民の自由意思に基く吾々の憲法を持たねばならぬ。憲法は云ふまでもなく独立国の拠って以て立つ根本法である。現行の憲法が占領下に於て時の占領軍の最高司令官から押し付けられたものであり、原文が英語で書かれた翻訳憲法であることは今日では公知の事実である。斯くの如き憲法を持って居る独立国は古今東西に其の例を見ざるところである。

 (中略)唯単に憲法九条だけの改正の問題ではない。民族の魂が表現せられた憲法であるべきであって、日本の土と血に繋って居る民主主義を内容とする憲法であるべきものと確信する。祖国を吾々の手に依って防衛すると云ことは独立国として当然の義務であると同時に権利である。他国の軍隊を国内に駐屯せしめて其の力に依って独立を維持するといふが如きことは真の独立国の姿ではない」(岸の後援会誌『風聲』1954年1月号より)

 1948(昭和23)年12月23日の午前零時すぎ、東条英機、土肥原賢二、松井石根たちA級戦犯7人の絞首刑が執行された。そしてその翌日、クリスマス・イブの日の朝、岸は児玉誉士夫、笹川良一など他の18人のA級戦犯容疑者とともに巣鴨拘置所から釈放された。

 そして追放解除が近づくと、岸は新党を旗揚げして、全国を演説して回る計画を立てていた。それに対して新聞記者が「戦犯容疑者や追放解除者が日本再建の音頭を取るのはおかしいという意見もあるが」と問い質すと岸はひるむことなく答えた。

 「私は巣鴨生活で過去のいっさいは清算したつもりだ。自分としては政治の再建に携わる資格はあると思う。東条英機内閣の閣僚だった、軍の手先だったと言われるかもしれない。それはある程度、事実だからやむを得ない。現在の気持ちとしては、元商工相とか翼賛政治会総務とか、そんな過去の経歴にこだわる気持ちは毛頭ない」(『憲法政戦』塩田潮 日本経済新聞出版社)

 国民の多くは、戦争の影を引きずり、強いこだわりを抱いていたのだが、開戦と戦争遂行に深くかかわった岸は、過去の清算は終わったと言い切った。

 そして52年4月19日に、日本再建連盟を結成し、岸は顧問に就任した。

 岸の狙いは吉田政権の打倒であった。

 岸にとって、吉田政権とは、GHQが日本弱体化のために日本人の骨抜きを謀るべく押し付けた憲法を押し頂き、誇りも理念もなくひたすら政権の延命だけを図る存在でしかなかった。また戦前派や追放組の中には岸と同じ思いの人間が少なからずいた。

 明日公開の後編につづく

田原 総一朗

667名無しさん:2015/10/11(日) 12:44:37
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151011-00045702-gendaibiz-pol
ゼロからわかる「55年体制」〜自由民主党はこうして生まれた 「戦後レジームの正体」第7回(後編)
現代ビジネス 10月11日(日)11時1分配信

 前編では、「現憲法維持」の吉田茂、「改憲論者」の鳩山一郎、そして鳩山を上回る「強硬な改憲論者」岸信介の三者三様の憲法観を紹介した。今回は、戦争指導者としてA級戦犯容疑をかけられた岸信介がいかにして政界に復帰し、吉田茂政権を打倒したか。自民党が誕生した経緯を解説しよう。

A級戦犯から再び政治の舞台へ
 岸は講和条約が発効した28日に追放解除となった。

 そして10月1日に総選挙が行われた。再建連盟は40人以上の候補者を立てたが、岸自身は出馬しなかった。「A級戦犯容疑者」であった岸を選挙民がどう捉えているかを計りかねていたのである。

 だが再建同盟は、総選挙で惨敗した。

 そこで岸は作戦の練り直しを余儀なくされたのだが、それを見て、岸の実弟で自由党幹事長であった佐藤栄作が強引に入党させた。

 実は、岸は惨敗後に「戦う民主主義」を標榜する西ドイツの実情を知るために現地へ旅立ったのだが、その間に吉田の「バカヤロー」発言による内閣不信任、そして衆院解散、総選挙となり、佐藤が岸の留守中に自由党への入党と立候補の準備を済ませたのである。

 選挙区は岸も佐藤と同じ山口二区で、佐藤は1位、岸は3位(定数5人区)で当選した。

 岸は1年生議員ではあるが、大勢のいわば子分を抱えて岸派を形成する大物で「台風の目になる」と注目されていた。

 総選挙で、第1党は吉田自由党が199、重光葵の改進党が76、そして鳩山の分派自由党が35となり、革新側は左派社会党が72、右派社会党66と、保革両陣営とも多党乱立状態であった。

 岸は、吉田自由党に属しながら、実は反吉田で、占領政治の打破、そして憲法改正のために保守合同を目指していた。

 ところが、米ソ冷戦が際立ってきてアメリカは日本に防衛力増強を要求するようになり、分派自民党の限界を感じた鳩山が、防衛力強化のための憲法改正、そのために憲法調査会を設置することを条件に自由党に復党した。そして、佐藤の進言で、岸が新設の憲法調査会の会長となった。

 「だが、吉田は憲法改正が簡単に実現するとは思っていない。岸が反吉田で動き出さないように憲法調査会という玩具を与えて適当に遊んでいてもらう魂胆であった。

 ところが、岸は憲法改正を通じて政界再編を実現する考えである。一も二もなく飛びついた」(憲法政戦』塩田潮、日本経済新聞出版社)

 岸は54年3月12日、憲法調査会の発会式で挨拶した。

 「現行憲法は現在とはまったく違った環境の下でつくられたものです。いまや全面的に再検討すべき時期にきている。もし改正の要ありという結論に達したら、具体案を決め、国民大多数の支持を得られるようにしなければならない」(前掲書)

 吉田自由党は鳩山たちを復党させて、岸にも玩具を与えて安定するかに思えたのだが、造船疑獄に火がついて、4月20日に、検察は佐藤幹事長に対する逮捕許諾請求決定した。

 現職の幹事長が逮捕されれば、吉田内閣は崩壊を免れ得ない。吉田の指示で、犬養健法相が翌21日に指揮権を発動して佐藤逮捕を強引に阻止させた。

 だが、この事件で国民の吉田政権への不信感は決定的となり、5月に吉田内閣の支持率は23パーセントとなってしまった(朝日新聞)。

 こうした世論に呼応して、いやむしろ先んじて、吉田自由党を含む保守陣営内で「吉田降ろし」の動きが活発となり、指揮権発動の1週間後には「新党結成促進協議会」がつくられた。公然と吉田抜きの保守合同合作がはじまったのだ。

 中核となったのは三木武吉、石橋湛山、河野一郎、そして岸信介であった。岸は協議会改め「新党結成準備会」の事務局長となった。巣鴨拘置所から出所して約5年半、追放解除となってわずか2年余で、岸は新党運動のリーダーの一角となったのである。

668名無しさん:2015/10/11(日) 12:47:29
>>667

自由民主党の誕生
 保守合同のためには、鳩山自由党、重光改進党と、首相であり総裁である吉田を排除した吉田自由党を合体させなければならない。

 岸は、まず鳩山と重光、さらに三木、石橋らを加えた会談を実現させ、保守合同で一致させた。さらに吉田が頼みとする副総理の緒方竹虎には、「とりあえず鳩山を新総裁にして、次は必ずあなたを総裁にする」と約束して、吉田からの離反を図った。

 10月20日、新党結成準備会拡大大会が開かれ、12日後、11月1日に鳩山が新党結成準備委員長となった。つまり鳩山が新党総裁になることが確定したわけだ。舞台裏を仕切ったのは岸と、保守陣営きっての策士である三木武吉であった。

 そして11月24日の日本民主党の結成となったのである。衆参あわせて142人の議員が参加した。

 総裁は鳩山、副総裁は重光、そして岸は幹事長となった。三木武吉は総務会長になったが、緒方は日本民主党には参加しなかった。

 このとき、吉田自由党の衆院議員は180人で、数の上では民主党を大きく上回っていたが、総務会長の大野伴睦をはじめ、少なからぬ自由党議員が、実は反吉田であった。岸、三木たちの根回しが自由党の隅々までいきわたっていたのである。

 11月30日に臨時国会が召集されると、岸は左派、右派社会党の書記長を口説いて、吉田内閣不信任案を提出する態勢を固めた。

 岸は三輪寿壮など右派社会党にパイプを持っていたのだ。民主党と左、右社会党が結束すれば、不信任案は可決される。そこで吉田は衆院を解散しようとしたが、それを支持したのは子飼いの佐藤と池田勇人だけで、緒方をはじめ議員の大半が解散に反対した。

 こうして吉田はついに通算7年2ヵ月で辞任に追い込まれたのである。

 12月9日、後継首相指名選挙で、鳩山が指名された。三木と岸が、早期解散、総選挙を実施するための「選挙管理内閣」だといって左、右社会党を説得したのである。

 鳩山は55年1月に衆院を解散した。ワンマン吉田の長期政権に厭きた国民の多くが、脳溢血に倒れて、舞台裏を三木や岸にまかせた、いわば担がれ神輿としての弱々しさを歓迎して「鳩山ブーム」が起き、民主党は124議席から185議席へと大きく伸び、逆に自由党は180議席から112議席へと激減した。

 だが、三木と岸は、勝ったとはいえ危惧を強めていた。過半数にほど遠い少数政権であったうえ、左・右社会党が21議席も増やして156議席も獲得していた。

 岸たちは、社会党の左・右が合併し、近い将来政権奪取するのではないかと危機感を抱いていたのだ。現に左、右社会党内では権力奪取のための合併話が進んでいたのである。

 三木と岸はなんとしても保守合同を急がねばならないと思い、自由党で強い影響力を持つ大野伴睦に目をつけた。大野と三木とは東京の市会議員の時代から不倶戴天の間柄であったが、三木は「このままでは赤化の危機にさらされる」と大野を口説き落とした。三木と岸の作戦は成功した。

 10月13日に政権奪取を目指して社会党が統一された。そして1ヵ月後、11月15日に民主党と自由党が解体されて自由民主党が誕生した。いわゆる55年体制がスタートしたのである。

 ただし、このときは「総裁」は空席で、鳩山、緒方、三木、大野の4人が代行委員となった。岸はあえて一歩退くかたちで、しかし抵抗なく幹事長となった。このあたりが岸の手堅さであり、したたかさである。

 実は、岸が「初代総裁は鳩山で、ただし日ソ交渉を花道にして早晩緒方に譲る」と大野たち自由党の幹部に話をつけ、自由党の顔を立てるために、結成時は「総裁」の空席というかたちをとったのだ。

669名無しさん:2015/10/11(日) 12:48:48
>>668

防御態勢の確立と国家社会主義
 22日に、鳩山は首相に三選された。三木、岸、大野、石井光次郎の密約では、翌56年4月には緒方が総裁に選ばれ、首相に就任することになっていた。ところが緒方は56年1月28日に急死した。67歳だった。7月4日には岸が頼りにしていた三木武吉も死去。71歳だった。

 三木と岸の作戦は、鳩山を早晩引退させて、緒方に「権力」という贈り物をして、緒方から首相の座を岸に禅譲させるということになっていたのだが、岸の目論見は潰えた。自力で権力を奪取せざるを得なくなったのである。

 なお岸は『風聲』56年1月号に、「巣鴨の拘置所で送った三年三ケ月の生活及びそれに続く追放時代より一貫して把持し来つた私の政治的信念」として次のように書いている。

 一、憲法の改正と防衛態勢の確立
二、自由主義国家群との連繋の強化と東南アジアに対する経済外交の推進
三、放漫なる自由主義経済の是正と計画経済の推進による経済自立の達成
四、教育制度の根本的改革による道義の昂揚

 岸のいう防御態勢の確立とは、GHQが日本弱体化を狙って作成した憲法九条を改正して交戦権のある軍隊、つまり自衛軍をつくり上げることであった。それと「放漫なる自由主義経済の是正と計画経済の推進」という指摘には、国家社会主義による満州経営の自信が底流にあったのであろう。

 なお、岸は小選挙区制の実現を自民党の主目標の一つにした。憲法改正のためには各議員の総議員の3分の2以上の賛成を獲得しなければならず、そのためには小選挙区制の実現が必要だと考えていたのである。

 鳩山も憲法改正を主張したが、これは反吉田という意味合いが強く、首相になって政治生命を懸けたのは日ソ交渉であった。もっとも一時は北方領土問題で完全に行き詰まったが、日本側が棚上げすることで妥協し、56年10月19日にモスクワで日ソ国交回復の共同宣言が発表された。

 日本側にソ連との国交回復を急がなければならない事情があったのだ。シベリアに抑留されたままになっている数多くの日本人(帰国がかなったのは2689人)の帰還問題に加え、ソ連が賛成してくれないと国連加盟ができなかったのである。日本の国連加盟が実現したのは12月18日であった。

 鳩山はソ連から帰国すると、11月2日に退陣を表明した。吉田と違って権力に執着しなかった。病?で気力を失っていたともいえる。引退後2年2ヵ月余で死去した。

 岸は権力奪取のため、それなりに根回しを計ったようだが、頼りの三木がいなくなり、1885年に日本で議員内閣制が発足して以来はじめての総裁選挙となった。岸、石井、そして石橋湛山の三者が立候補した。岸派が3億円、石橋派が1億5000万円、石井派が8000万円をばらまいたともいわれる金権選挙でもあった。

 第1回目の投票で、岸は1位とはなったが過半数に達せず、決選投票では2、3位連合が功を奏して、石橋が首位となった。ところが首相となった石橋が体調を壊し、代わって岸が念願の首相となった。衆院議員となって3年10ヵ月しかたっていなかった。

670名無しさん:2015/10/11(日) 12:49:50
>>669

国民の要望に応えようとしたつもりが……
 岸首相の狙いは、もちろん憲法改正と防衛態勢の確立であった。だが、自民党内からも、経済界からも、何と社会党からも不平等な日米安保条約を改正すべしという意見が強く打ち出された。

 1951年9月8日、サンフランシスコで対日講和条約の調印が行われた日の午後、サンフランシスコ郊外の米軍の駐屯地で吉田茂が日米安全保障条約に署名したのだが、この安保条約はいわば米軍による占領の延長で、米軍が、日本のどこにでもどれだけでも望むがままに基地をつくることができて、それでいて日本を守る義務はなく、期限も決まっていなかった。その意味ではきわめて不平等な条約だったのである。

 そこで、実は鳩山内閣時代に、重光外相が安全保障条約の改正を図ったのだが、ダレス国務長官にすげなく扱われて失敗していた。このとき、岸は重光の対米交渉に同席していたのである。

 しかもこのとき、ニューズウィークのハリー・カーンがダレスに「岸こそ現在日本では最も重要な政治家であり、岸と秘密裏に会うべき」だと書き送っている。現にダレスは時間をとって岸と会っていた。

 また、岸から、日本の共産化を防衛するために資金を援助してくれと頼まれて、ダレスは長期間、大量のカネをCIAに用意させていた、ということだ(『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子 幻冬舎文庫)。

 ようするに岸はダレスに信用され、CIAのカネという尋常でないアメリカとのパイプを有していたことになる。

 岸には重光外相がダレスとの安保交渉に失敗した理由がわかっていた。重光外相は対等条約を望み過ぎたのである。ダレスが意地悪く「アメリカが万一攻撃を受けた場合に、日本は軍隊を国外に派遣して、アメリカを助けてくれるのか」と問うたのに対して、重光外相は答えを持っていなかった。憲法改正を行って、自衛隊を交戦権を有する軍隊にしない限り海外派兵はできない。

 だから、重光外相の交渉に同席したとき、岸は安保条約改正の前に憲法改正が必要だと考えたのである。

 だが自民党内や経済界だけではなく社会党からも不平等条約の改正を求める意見が強まって、岸は考え方を変えた。それに、マッカーサー駐日大使との幾度もの会談で、相当の安保条約改正は可能だとの感触を持っていたのだ。

 だから、岸は、いわば世論の要望に応えるつもりで安保改正に取り組んだのであった。アイゼンハワー大統領訪日の予定も取り付けた。

 そして両方を実現させて国民の支持が高まったところで選挙を行い、3分の2以上の議席を獲得して、念願の憲法改正を行おうとにした。繰り返し記すが、岸にとっては、安保条約改正は国民の要望に応えて支持を盛り上げる手段のつもりだったのである。

 日米安保条約とその改定についてはあらためて記すが、60年の安保条約改定は、岸が予想もしていなかった大騒動となり、岸は日本を戦争に駆り立てる大悪党として集中攻撃された。60年の安保騒動である。

 岸は、自民党の中でも孤立して、結局安保改定と心中するかたちで首相を辞めざるを得なかった。憤死である。そのために念願の憲法改正にも、小選挙区制の導入にも、手をつけることができなかった。

 第8回につづく

田原 総一朗

671名無しさん:2015/10/11(日) 13:25:24
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000104-san-soci
世界記憶遺産登録 「これで戦友浮かばれる」シベリア抑留経験の90歳男性
産経新聞 10月10日(土)14時35分配信

 「これで死んでいった戦友たちも浮かばれる」。舞鶴引揚記念館でボランティアガイドを務めるシベリア抑留経験者の原田二郎さん(90)=京都府綾部市=は、登録決定をほっとした様子で受け止めた。

 原田さんは陸軍の衛生兵として従軍。昭和20年10月にロシアのハバロフスクの収容所に送られ、その後約4年間をすごした。

 「次々と仲間が死に、いつ自分の番かと不安で仕方なかった。引き揚げ船が舞鶴に着くまでは安心できなかった」

 原田さんは戦後約50年にわたり抑留体験について口をつぐんでいた。「捕虜となって生き延びたことは恥ずかしいこと」という思いがあったからだ。だが、地元の人たちに請われて徐々に体験を語りはじめ、今は記念館を訪れる小中学生らに、当時の体験を語るようになった。

 心境の変化があったのは、仲間への思いからだ。抑留生活では多くの仲間が死んでいったが、自分が生き残ることができたのはシベリア抑留の経験を語り継いでいく役割を託された、と思うようになったのだという。

 「今の子供たちは平和をあたりまえのことと思っているが、もっと真剣に考えてほしい」と語る原田さん。「記憶遺産に登録されて、シベリア抑留や引き揚げのことを世界中の人たちに知ってもらうことは、言葉にできないぐらいうれしい」と話した。これからも、体力が続く限り抑留体験を語り継ぐ覚悟だ。

672名無しさん:2015/10/11(日) 14:10:02
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2015101000267
記憶遺産、被害強調=「広島・長崎と並ぶ惨事」-中国

 【北京時事】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録された旧日本軍による南京事件は、中国にとって「アウシュビッツ強制収容所、広島・長崎(への原爆投下)とともに第2次大戦の三大惨事」(国営新華社通信)とされる。中国は登録を受け、犠牲の大きさを強調しつつ、自らが主張する「歴史」の宣伝を続けていくとみられる。

 中国メディアによると、登録決定を受け、中国のユネスコ代表は「資料の真実性と唯一性に対する承認であり、完全性に対する最高の称賛であり、世界的な意義がある」と語った。
 アウシュビッツ収容所と広島の原爆ドームは既に世界文化遺産に登録されている。中国は昨年2月、南京が攻略された12月13日を「国家哀悼日」に定めており、「南京大虐殺記念館」(南京市)の朱成山館長は「記念日の制定で国内の認知度が大きく上がり、記憶遺産登録で世界の人々が共通認識を得た」と解説した。
 今回申請された資料は、中国人女性や外国人の日記、米国人牧師や旧日本軍が撮影したとされるフィルム・写真、南京軍事法廷の判決書、生存者の証言など全11組。
 南京軍事法廷の記録は「犠牲者30万人以上」とする中国の主張の根拠となっている。女性の日記は中国版「アンネの日記」とも呼ばれ、フィルムには日本兵に襲われ体中に傷を負った妊婦が写っているという。ただ、申請書類がそろって公開されているわけではなく、不透明感が残る。
 「抗日戦争・反ファシズム戦争勝利70年」の今年、中国は内外で戦争被害を訴え、戦勝に果たした中国の役割を強調してきた。中国側は「資料に記載されているのは中日両国の憎しみではない」(研究者)と言うが、登録には至らなかった「従軍慰安婦」の資料についても再度登録を目指す可能性があり、歴史をめぐる日中の摩擦は消えそうにない。
 南京大虐殺記念館では学者や生存者を集めた座談会を開催。広場には記憶遺産登録を記念した石碑の設置を計画しているという。(2015/10/10-18:37)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2015101000296
中国の南京事件資料

 新華社電によると、南京事件の世界記憶遺産登録で中国が申請した資料は次の通り。
 (1)住民らの避難地区にいた中国人女性の日記
 (2)米国人牧師の16ミリ撮影機とフィルム
 (3)日本軍が撮ったとされる写真16枚
 (4)当時、中国人から提出された暴行の写真
 (5)南京軍事法廷の判決書
 (6)南京軍事法廷での米国人の証言記録
 (7)生存者の証言記録
 (8)当時の調査委員会の調査表
 (9)南京軍事法廷での犯罪証拠
 (10)市民からの上申書
 (11)外国人の日記
(北京時事)(2015/10/10-20:29)

673名無しさん:2015/10/11(日) 14:10:13
>>672

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2015101000210
中国の歴史宣伝を懸念=日本政府、「政治利用」抗議

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に南京事件の資料が登録されたことを受け、中国の登録申請を「ユネスコの政治利用」としてきた日本政府は10日、在北京日本大使館を通じて中国外務省に抗議した。政府はまた、中国が「犠牲者30万人」とする主張を既成事実化し、日本の「負の歴史」を宣伝することを強く懸念。今月末にも開かれる日中韓首脳会談を控え、対応に苦慮しそうだ。

 南京事件をめぐり、日本政府は「犠牲者数は諸説あり、確定していない」との立場。川村泰久外務報道官は10日に発表した談話で、「日中間に見解の相違がある」とした上で、今回登録された資料について「完全性や真正性に問題があることは明らかだ」と指摘した。
 今回の登録を機に、中国が南京事件に関する対外発信を強化し、中国の主張が国際社会で「史実」として広まることを日本政府は警戒。これまでも「過去の一時期における負の遺産をいたずらに強調することは極めて遺憾だ」(菅義偉官房長官)と繰り返し中国側に抗議してきたが、今後も冷静な対応を求めていく考えだ。
 一方、政府はユネスコに対しても「政治利用」を許したとして抗議する方針。ユネスコに1割強の分担金を拠出している立場から、記憶遺産事業で「中立性」を確保するよう制度改革を主導したい意向だ。(2015/10/10-20:07)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2015101000313
「ユネスコへの妨害やめよ」=記憶遺産、日本に反論-中国

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は10日、南京事件に関する資料が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録されたことについて「歓迎」する考えを表明した。日本政府の非難に対しては「歴史を直視したがらない誤った態度だ」と反論。「中国にとやかく言ったり、ユネスコの正常な業務を妨害したりするのを直ちにやめる」よう求めた。
 また「歴史を心に刻み平和を大切にし、未来を共につくり、人類の尊厳を守る役割」を、これらの資料が十分に果たせるよう保護・普及を図ると表明した。
 その上で、南京事件は「国際社会公認の歴史的事実」であり、「全人類の共通の記憶」になるべきだと強調。日本に対し「歴史に責任ある態度で、侵略の歴史を直視し深く反省し、誤りを正すよう促す」と述べた。 (2015/10/10-22:02)

674名無しさん:2015/10/12(月) 09:53:34
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151012-00010001-nishinp-pol
「岸信介を傘下に納めた」日米双方の思惑が築いた蜜月関係
西日本新聞 10月12日(月)8時30分配信

 憲法改正を目指し、対米自立を望んだ岸信介元首相は、首相に就任する前から米国の冷戦戦略に取り込まれていた―。そんな認識を示す文書を、日米外交に深く携わった元米国務次官補が残していた。孫の安倍晋三首相の政治姿勢にも強い影響を与えた岸氏だが、背景を探ると、もう一つの顔が浮かび上がった。

 文書はワシントン近郊のジョージタウン大図書館にあった。戦前戦後に在日米大使館で勤務し、1960年の日米安保条約改定時には極東担当の国務次官補を務めたグラハム・パーソンズ氏の文書コレクション。パーソンズ氏は、退官後の80年代前半に書いたとみられる未刊行の自伝で、岸氏に関してこう語っていた。
 「戦犯(容疑者)だった岸氏は50年代半ば、大使館のわれわれによって傘下に納まった。その後、(自民)党総裁になり、信頼に足る忠実な協力者となった」(「傘下に納まった」の原文は「cultivate」。和訳は文書を見つけたオーストラリア国立大のテッサ・モーリス・スズキ教授と吉見俊哉東大大学院教授の共著「天皇とアメリカ」=2010年刊から)
 63年の同僚宛ての手紙にも「われわれは54年、岸を傘下に納めた」。そこには有望な政治家と見なす岸氏を取り込んだ、との視点が鮮明にうかがえる。
 55年の保守合同で自民党が誕生する直前の混乱期。保守派リーダーの一人だった岸氏は、米国とどうつながっていたのだろうか。

民主、自由両党の合同前に
 保守合同前夜の1955年7月9日午後、東京の在日米大使館。当時の民主党幹事長だった岸信介元首相は、大使館のジョージ・モーガン参事官に招かれた。「キングサイズのスコッチ・アンド・ソーダ」を片手に約3時間半。モーガン氏の質問に冗舌に答える岸氏の姿があった。

 膨大な米公文書の調査などを基に戦後の日米関係を米国側の視点で描いた「『日米関係』とは何だったのか」の著者、米アリゾナ大のマイケル・シャラー教授(68)が90年代に見つけた大使館から本国への報告文書には、その時の様子が詳しく記録されている。
 民主、自由両党の合同はまだ時期が公になっていなかった。民主党を主導する岸氏は、合同が11月ごろになるとの見通し、新党首選びの状況、憲法改正や積極的な反共外交政策の採用、再軍備促進といった新党の政策などについて情報を「提供」(シャラー氏)。社会党の動向に関する推察も伝えた。いずれも米国側が欲していたとみられる。

675名無しさん:2015/10/12(月) 09:55:57
>>674

岸氏こそ米国の政策に合致
 岸氏は戦前、在日米大使だったジョセフ・グルー元国務次官とじっこんだった。同氏が日本で立ち上げたロビー団体の米誌東京支局長は、民主党幹事長時代の岸氏の英会話の家庭教師。支局長らは米政府に日本の政治状況などを報告、岸氏を売り込んでいたという。
 50年代、反共のとりでとして日本に安定した保守政権の誕生を望む米国の思惑をよそに、54年12月に退陣した吉田茂首相の後を継ぐ鳩山一郎、石橋湛山両氏はそれぞれソ連との国交回復、日中関係改善を志向。もともと反共・反ソで保守合同の強力な推進者、岸氏こそ米国の対日政策に合致する政治家だった。ロビー団体の人脈などを通じて、米国は岸氏をさらに「磨いた」とシャラー氏は語る。
 シャラー氏によると、50年代半ば、在日米大使館員が岸氏と会ったり、酒を飲みに行ったりしたとの記述も文書に散見された。岸氏がモーガン氏と会った当時の首席公使が、岸氏を「傘下に納めた」と記したグラハム・パーソンズ氏。大使館と岸氏とは深い結びつきができていたとみられる。

蜜月関係が権力へ導いた
 シャラー氏は「岸氏は米国に取り込まれたというより、むしろ積極的に取り入ろうとしていたと私は考える」。日米安保条約の不平等性の解消を目指した岸氏だが、「米国の信頼を得なければ、それは成し遂げられないし、信頼されれば国内での自身の政治力も増すという計算もあっただろう」とみる。
 55年、鳩山政権からの条約改定申し入れを一蹴した米国は、57年の岸政権からの交渉提起には応じ、60年に改定は実現した。
 一方でシャラー氏は、岸氏が首相就任後、米中央情報局(CIA)と秘密の資金提供の関係を結んだと著書で明記した。「権力の座に駆け上がる過程で米国と築いた濃密な関係が、資金提供の土壌になったのもまた事実だ」と指摘した。

岸氏の戦略「独立のために従属」
▼「岸信介証言録」などの著書がある原彬久・東京国際大名誉教授
 「cultivate」の意味について、私は「米国は自分たちの望む方向に動くように岸氏を取り込んだ」というニュアンスに受け取った。米国は岸氏を利用しようとしていた。彼らは岸氏を高く評価していたが、利害関係とは別のところで尊敬したり評価したりはしない。そんな生やさしい世界ではない。一方、岸氏も国内外の共産勢力と戦うため、米国を利用しようとしていた。だから米国の信頼を得るために情報を提供することもあろう。政治家として熟察し、いろんな計算の下で動いていたといえる。
 CIAから資金提供を受けることは道義的に問題ありだが、当時は革新勢力も旧ソ連から資金援助を受けていた。強力な保守政権を築き米国から何とかして自立したい、選挙で革新勢力に負けたくない、との思いから岸氏はきわどい政治判断をしたのではないか。
 逆説的な言い方だが、米国から独立するために従属する―というのが、皮肉にも岸氏の対米戦略だったと考える。

西日本新聞社

676名無しさん:2015/10/13(火) 22:43:34
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000582-san-pol
世界記憶遺産 維新・今井幹事長「大変遺憾、登録手続き間違っている」
産経新聞 10月13日(火)20時31分配信

 維新の党の今井雅人幹事長は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が申請した「南京大虐殺文書」が登録された件について「大変遺憾だ。歴史的検証がはっきりとなされていない中での登録は手続きとして間違っている」と批判した。

 政府・自民党からユネスコへの拠出金の削減を検討する意見が出ていることに関しては「どういうやり方かはともかく、対抗措置を講ずるのは当然だ」と強調した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000543-san-pol
世界記憶遺産 共産・山下書記局長「ユネスコ拠出金削減検討は国際社会の理解得られない」
産経新聞 10月13日(火)15時57分配信

 共産党の山下芳生書記局長は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、中国により登録申請されていた「南京大虐殺文書」を記憶遺産に登録した件に関し、政府・自民党からユネスコへの分担金拠出の削減を検討する意見が出ていることについて、「日本政府の主張が認められなかったからといって、拠出金削減を検討するなどという対応は国際社会の理解を得られないだろう」と述べた。

 山下氏は「南京事件については、どの程度の規模だったかについては議論があるとはいえ、大虐殺が行われたことは動かしがたい歴史的事実だ」と強調した。

677名無しさん:2015/10/13(火) 23:47:01
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000093-mai-pol
<ユネスコ分担金>二階氏「のうのうと…よいのか」停止検討
毎日新聞 10月13日(火)21時1分配信

 ◇世界記憶遺産に「南京大虐殺」 菅官房長官が表明

 菅義偉官房長官は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が申請した「南京大虐殺」に関する資料が登録されたことについて、日本がユネスコに拠出する分担金や任意の拠出金の停止、削減を検討すると表明した。分担金などの支出は年間約42億円(2014年)にのぼり、ユネスコに制度改革を促す狙いがあるが、野党の一部からは慎重論も出ている。

 菅氏は会見で「(日中両政府の)意見が全く違う中で登録され、公正であるべき国際機関として問題だ。政治的に利用されることがないよう制度の透明性を強く求めたい」と述べ、登録の審議が非公開である点などを問題視し、制度見直しを求める考えを改めて示した。

 外務省によると、日本の2014年のユネスコ分担金は約37億2000万円。10.8%の分担率は加盟国では米国(22%)に次いで2番目に多い。これに加えて任意で約5億円の拠出金もある。米国は11年以降、パレスチナのユネスコ加盟に反発して分担金の支払いを停止しており、日本は実質的には最大の拠出国だ。

 自民党の二階俊博総務会長は会見で「協力金を一生懸命納めておきながら、日本の意見や主張はどこまで通っているのか。のうのうと引き下がってよいのか」と指摘した。

 自民党の国際情報検討委員会の原田義昭委員長が会合で「南京大虐殺、従軍慰安婦の存在をわが国は全く否定しようとしているときにもかかわらず記憶遺産で取り上げるのは承服できない」と発言するなど、党内には、政府の公式見解とは異なる主張もくすぶっている。相次ぐ支出見直し発言には、こうした党内事情も反映しているとみられる。

 共産党の山下芳生書記局長は会見で「日本政府の主張が認められなかったからといって拠出金削減を検討する対応は国際社会の理解を得られない」と批判した。【高本耕太、小田中大】

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000525-san-pol
世界記憶遺産 民主・細野政調会長「ユネスコの分担金削減あっていい」
産経新聞 10月13日(火)12時47分配信

 民主党の細野豪志政調会長は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に、中国が申請した「南京大虐殺文書」が登録された件を受け、「記念遺産になるまでのプロセスに不明確な部分がある。(日本がユネスコに拠出している)分担金の削減を検討することはあってもいい」との見解を示した。

678名無しさん:2015/10/15(木) 22:54:30
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151015-00000570-san-eurp
ロシア、日本の記憶遺産登録の撤回を要求 シベリア抑留資料で 日本は「パンドラの箱を開けた」と非難
産経新聞 10月15日(木)20時46分配信

 【モスクワ=遠藤良介】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に日本のシベリア抑留資料が登録されたことについて、ロシア政府は15日までに、ユネスコの「政治利用」だとして登録の撤回を求める方針を固めた。露ユネスコ国内委員会のオルジョニキゼ書記が国営ロシア通信に対して明らかにした。日本政府は、中国の申請で「南京大虐殺文書」が登録されたことを同様に「政治利用」と批判しており、この問題は日中露が入り乱れる構図となった。

 オルジョニキゼ氏は「ユネスコに政治問題を持ち込むことには反対だ」と述べ、日本が登録を申請しないよう事前に申し入れていたことを明らかにした。今後はユネスコと日本政府の双方に登録撤回を働きかけるとしている。

 1945年の第二次大戦終戦後、ソ連軍が満州や朝鮮から約57万5千人を連行して強制労働を課し、約5万5千人が犠牲となったシベリア抑留。ロシアではこの問題の認知度が非常に低く、終戦後の出来事であるにもかかわらず、抑留者が「軍事捕虜」と称される。

 オルジョニキゼ氏も、抑留者は「大戦後の48〜56年に帰還した軍事捕虜だ」との認識を示し、「捕虜たち自身の回想によれば、その扱いは妥当なものだった」と主張した。

 中露両国は今年、首脳が互いの「戦勝70年行事」に出席し合うなど、歴史認識をめぐる「共闘」を演出している。対日戦での中ソの協力関係を誇示することで「戦勝国」の立場を強化し、日本への圧力とするのが狙いだ。

 オルジョニキゼ氏は、世界記憶遺産をめぐる「パンドラの箱」を開いたのは抑留資料を申請した日本だと批判。ただ、中国の「南京大虐殺」についても「同様のことは多くの国であり、問題は2国間で解決するべきだ」と指摘し、戦争関連の出来事は世界記憶遺産にそぐわないと述べた。

 「南京」と異なり、シベリア抑留の規模や犠牲者数に関する見解は日露間でおおむね一致するが、ロシア側は犠牲者1万5千人超の資料を開示していない。

 菅義偉官房長官は15日の記者会見で、「シベリア抑留の申請は舞鶴市の姉妹都市であるナホトカ市の理解と協力を得ている。広い意味で世界的な重要性があるということでユネスコの委員会から推薦された」と述べ、ロシアと連携して進めているとの見方を示した。

679名無しさん:2015/10/17(土) 16:41:01
http://www.asahi.com/articles/ASHBH54VFHBHUHBI01D.html
「シベリア抑留」登録、ロシアが撤回要求へ
モスクワ=駒木明義2015年10月15日19時17分

 ソ連によるシベリア抑留に関連した記録がユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界記憶遺産」に登録されたことについて、ロシア・ユネスコ委員会のオルジョニキゼ書記が14日、「ユネスコで政治的な問題を扱うべきではない」として撤回を求める方針を明らかにした。

 ノーボスチ通信によると、オルジョニキゼ氏は「ユネスコに政治問題を持ち込むべきではない。戦争に関連した遺産を登録することは控えるべきだ」と指摘。日本とユネスコ事務局に対して、シベリア抑留に関する記録の撤回を働きかける考えを明らかにした。

680とはずがたり:2015/10/18(日) 08:11:46

慰安婦の登録、ユネスコが中韓共同申請を奨励か
http://www.yomiuri.co.jp/world/20151013-OYT1T50071.html?from=yrank_ycont
2015年10月13日 19時02分

 【北京=竹腰雅彦、ソウル=宮崎健雄】中国外務省の華春瑩フアチュンイン副報道局長は12日の定例記者会見で、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が登録を申請し、今年の選考で見送られた「慰安婦に関する資料」について、「(ユネスコ側に)関係国との共同申請を奨励する意見があり、中国は真剣に考慮し検討する」と述べた。

 いわゆる慰安婦に関する資料については、韓国政府も記憶遺産への登録準備を進め、これまでに中国への協力を表明しており、今後、中韓両国が共同申請を目指す可能性がある。

 中国外務省副報道局長の発言について韓国外交省報道官は13日、「韓国の民間団体が(『慰安婦に関する資料』の世界記憶遺産)登録と国際協力を推進していると知っているが、具体的内容は把握していない。民間団体が判断しなければならない」と述べた。

2015年10月13日 19時02分

681とはずがたり:2015/10/18(日) 08:12:01
>>679

「シベリア抑留」記憶遺産、露が取り下げ要請
http://www.yomiuri.co.jp/world/20151017-OYT1T50089.html?from=yrank_ycont
2015年10月17日 20時13分

 【モスクワ=緒方賢一】ロシアの国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)委員会のグリゴリー・オルジェニキーゼ書記は16日、シベリア抑留に関する資料の世界記憶遺産への登録について、露外務省でモスクワの日本大使館幹部と会談し、登録申請を取り下げるよう求めた。


 日本側は要請を受け入れない姿勢を示した。

 会談で同書記は「申請はユネスコの政治利用につながりかねないので見直してほしい」と語った。日本側は、「政治利用する意図は全くない」と強調した。

 世界遺産総合研究所(広島市)の古田陽久所長は「世界自然遺産・文化遺産では登録後の抹消が2例あるが、世界記憶遺産では聞いたことがない」と話した。
     ◇
 日本政府は資料について「ユネスコが求める『真正性』を完全に満たしている」(外務省幹部)との立場だ。ロシア側の抗議は当たらないとし、申請の取り下げには応じない方針だ。

2015年10月17日 20時13分

682とはずがたり:2015/10/18(日) 08:13:37
次は中共による中国国民大虐殺だな

2015.10.17 20:55
韓国メディア「腹立たしいが反論は困難」 文春“ベトナム韓国軍慰安所”報道
http://www.sankei.com/world/news/150513/wor1505130021-n1.html

 韓国軍がベトナム戦争中に、サイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていた-という「週刊文春」のスクープ記事の余波が、韓国国内で広がっている。同国メディアが、朴槿恵(パク・クネ)政権に対し、軍による慰安所運営の実態を調査するよう注文をつけたのだ。自国の恥部を、明らかにできるのか。(夕刊フジ)

 「週刊文春の『韓国軍トルコ風呂』報道、腹立たしいが反論は困難…」

 ハンギョレ新聞(日本語電子版)は4月25日、こんな神妙なタイトルの記事を掲載した。問題としたのは、同誌4月2日付春の特大号に掲載された、TBSの山口敬之ワシントン支局長(当時)による衝撃リポートだ。

 文春記事は、山口氏が米国で発見した公文書に「韓国軍による韓国兵専用の慰安所」の存在が明示されていたという内容で、これを裏づける元米軍海兵隊幹部の証言なども盛り込まれている。

 朝日新聞が大誤報を認めたことで、日本の慰安婦問題の核心(強制連行)は崩壊している。それでも、韓国が「解決」を求め続けていることを念頭に、山口氏は「もし韓国政府がこの問題を黙殺したり、調査もせず否定したりするなら、彼らこそ都合の悪い事実に背を向け、歴史を直視しない国家であることを、国際社会に対して自ら証明することになる」とリポートを結んでいる。

 ハンギョレは「腹立たしくはあるが反論しにくい主張だ」と指摘し、韓国政府に対して「慰安所の運営・管理に軍当局がどこまで介入したのかなどを明らかにするための調査と後続措置に乗り出さなければならない」と促しているのだ。

 夕刊フジで「新・悪韓論」を連載する、ジャーナリストの室谷克実氏が背景を分析する。

 「私の知る限り、文春報道を取り上げた韓国メディアはハンギョレだけだ。同紙は韓国内では左派メディアと位置づけられており、軍に対して批判的な報道が目立つ。『アンチ軍』の立場から文春のスクープに飛びついたのだろう。一方、他の韓国メディアの中には『軍と対立したくない』という空気が強く、ハンギョレの報道を追いかける可能性は低い」

 ハンギョレはこれまでにも、韓国の恥部といえる、韓国軍によるベトナム民間人虐殺疑惑や、「基地村女性」「洋公主(ヤンコンジュ)」などと呼ばれた米軍慰安婦の問題を取り上げてきた。

 今回の報道が、政府や軍への本格的追及につながるとは考えにくい。ただ、報道がなければ「韓国の人々は、軍の慰安所に言及した公文書の存在を全く知らされなかった」(室谷氏)だけに、その意義は大きいといえそうだ。

683名無しさん:2015/10/18(日) 12:01:34
>>681

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151016/k10010272441000.html
記憶遺産に抑留資料 「政治利用ではない」
10月16日 16時17分

ユネスコ=国連教育科学文化機関の「記憶遺産」に、いわゆるシベリア抑留などに関する資料の登録が決まり、ロシア側が「ユネスコに政治問題を持ち込んだ」として日本を批判していることについて、馳文部科学大臣は閣議のあとの記者会見で、政治利用ではなく批判は当たらないという認識を示しました。
ユネスコ=国連教育科学文化機関は、今月開かれたユネスコの国際諮問委員会で、日本が申請していたいわゆるシベリア抑留や、戦後、旧満州などから引き揚げた人たちに関する京都府舞鶴市の資料を「記憶遺産」に登録することを決め、ロシア側は「ユネスコに政治問題を持ち込んだ」などと、登録を申請した日本を批判しています。
これについて、馳文部科学大臣は閣議のあとの記者会見で、「舞鶴市は姉妹都市であり、抑留者を乗せた引き揚げ船の多くが出港したロシアのナホトカ市の当局と意を通じ合い、申請に同意を得ていたと聞いている」と述べました。そのうえで、馳大臣は「政治利用すべきではないという観点に立ち、姉妹都市とも連携して合意を得たうえでの申請となっており、政治利用には当たらない」と述べ、ロシア側の批判は当たらないという認識を示しました。

684とはずがたり:2015/10/20(火) 22:13:01
>毛布でくるまれたうえ紐で縛られてそのまま自宅へ送り返された
笑。木戸孝允すげえw

黒田清隆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86

黒田内閣は、大隈重信が主導した不平等条約改正交渉の失敗によって大隈が襲撃され、翌 明治22年(1889年)10月に倒れた。改正の条件に外国人の裁判官を置くという別の不平等を持ってきたことが、国内の反対を受けたのである(辞職後2か月間三条實美内大臣が首相を兼任)。なお、この時に、条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件(明治22年(1889年)12月15日夜)を起こして政府内から非難を浴びて謹慎している。

酒乱
平生はその手腕を買われていた黒田だが、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であったと言われている。ある時、酒席で暴れ、武術家としても知られていた木戸孝允に取り押さえられ、毛布でくるまれたうえ紐で縛られてそのまま自宅へ送り返された。以来、「木戸が来た」というと大人しくなったという。

685名無しさん:2015/10/20(火) 23:02:07
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151020-00000056-asahi-pol
「シベリア抑留」登録、ロシアが取り下げ要請 日本反論
朝日新聞デジタル 10月20日(火)18時34分配信

 岸田文雄外相は20日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が世界記憶遺産に登録したシベリア抑留に関連する記録について、ロシア政府が日本政府に取り下げを求めたと明らかにした。日本側は「政治利用の指摘は当たらない」と反論したという。

 16日、在ロシア大使館にロシア外務省から要請があった。岸田氏は「申請に先立って(京都府)舞鶴市関係者が在大阪ロシア総領事を通じて、申請の経緯と趣旨を説明したと承知している。引き続き理解を求めていく」と述べた。

朝日新聞社

686とはずがたり:2015/10/23(金) 00:06:50
日本軍による南京大虐殺はなかったと云う論。
なんで政治家があんな妄言を繰り返すのか不思議だったけどそれなりの体裁をとっているのだな。ひょっとしたらなかったのかも。
皇軍の規律正しさや無謬性を強調するのではなく,旧日本軍の愚かしさや蛮行を認めて帝国主義を非難し日本軍国主義体制を全面否定した上でそれでも南京虐殺はなかったのだというならもっと信頼置けるんだけどなーw
そういうスタンスの人はいないのかな?

四度あった南京大虐殺(リニューアル保存版)
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2668.html

687名無しさん:2015/10/24(土) 17:13:37
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&amp;k=2015102300389
ロシアに説明済み=シベリア抑留資料登録-菅官房長官

 菅義偉官房長官は23日午前の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産にシベリア抑留の資料が登録されたことに対するロシア政府の批判について、「申請に先立って、京都府舞鶴市の関係者から在大阪ロシア総領事を通じて申請の経緯と趣旨を説明済みだ。だからロシア側も事前に承知をしている」と述べ、同国の主張は当たらないとの考えを示した。 (2015/10/23-11:51)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&amp;k=2015102300096
細菌兵器の死者「120万人」=中国と日本がまた応酬-国連総会委

 【ニューヨーク時事】中国の傅聡軍縮大使は22日、国連総会第1委員会(軍縮・国際安全保障)での大量破壊兵器に関する討論で、第2次世界大戦中、旧日本軍が中国で化学兵器や細菌兵器を組織的に開発、使用し、民間人が多数犠牲になったと非難した。細菌兵器による死者について、「未完成の統計」を根拠に「広島と長崎の原爆犠牲者数の4倍に当たる120万人以上」と主張した。
 化学兵器は1131回使用され、多数の民間人が犠牲になったと指摘。中国に遺棄した化学兵器の処理を急ぐよう日本に要求した。その上で「日本は戦争から70年たっても、歴史の隠蔽(いんぺい)と言い逃れにこだわっている」と批判した。
 これに対し、日本の佐野利男軍縮大使は、日本政府が中国の主張を裏付ける客観的な記録を持っていないと説明。化学兵器の使用回数には「疑問があり、誇張されている可能性がある」と反論した。遺棄兵器については「処理計画は着実に進展している」と強調した。 
 傅大使は20日、日本が核物質を大量に保有していると指摘し、核兵器開発に乗り出す恐れを主張。佐野大使がこれを否定し、応酬となった。(2015/10/23-06:47)

688名無しさん:2015/10/24(土) 18:31:42
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151021/k10010277181000.html
国連総会「核武装」で日中が応酬
10月21日 9時01分

国連総会で軍縮問題を扱う委員会で、中国の軍縮大使が、「日本は原子力発電所の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを大量に保有しており、核開発に乗り出す可能性がある」と指摘したのに対し、日本の軍縮大使は核武装の意図はないと強く反論するなど、双方が応酬しました。
ニューヨークの国連本部では、今月上旬から国連総会で軍縮問題を扱う第1委員会が始まり、20日には各国が核軍縮を巡る立場を表明しました。
この中で、中国の傅聡軍縮大使は中国が核軍縮に取り組む姿勢を強調する一方で、日本が原子力発電所の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを47トン以上も保有しているうえ、国内には核武装を求める声も根強くあるとして、日本が核開発に乗り出す可能性があると指摘しました。
そして、「なぜ日本はこれほど大量のプルトニウムを保有しているのか。日本はごく短時間で核兵器を保有することができる状況にある」と述べ、日本側に説明を求めました。
これに対して日本の佐野利男軍縮大使は、日本はIAEA=国際原子力機関の査察を受け入れ、すべての核物質を監視下においているとしたうえで、「専守防衛を基本方針とする日本は、他国への軍事的な脅威になることはない。非核三原則も堅持している」と述べ、核武装の意図はないと強く反論しました。

689名無しさん:2015/10/24(土) 20:57:46
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00022309-hankyoreh-kr
日本の歴史教科書から軍国美談はいかに消えたか(1)
ハンギョレ新聞 10月24日(土)15時9分配信

朴槿恵(パク・クネ)政権が推進する韓国史教科書国定化方針に対して、日本の市民社会が憂慮している。彼らの反対理由を知るため、日本が1903年から施行した小学校教科書国定化の流れと、その結果作られた教科書の内容を調べてみた。そこで発見できたのは、教科書を通じて国民の精神を支配して、無謀な侵略戦争に若者たちを駆り立てた日本政府の悪しき本音だった。すべての悲劇は一件の偶然な紛失事故から始まった。

 日本が朝鮮の支配権などを巡ってロシアと一大決戦を行うべしという世論が高まった1902年11月のある日のことだった。 東京の品川駅周辺を歩いていた一人の住民が、田畑に落ちている革カバンを発見し警察に申告した。 カバンの中には手帳一冊と当時の教科書の大手出版社だった普及社の社長、山田禎三郎(1871〜1930)の名刺が入っていた。 警察にはすでに山田氏からカバンをなくしたという紛失届けが出されていたので、カバンは間違いなく山田氏のものだった。

 カバンを受け取った担当警察官は好奇心から手帳を開いて内容を覗き見た。 その中には韓国の広域自治体長に相当する日本の各県知事、視学官(奨学官)、その他教育関係者の名前とその横には金額のような小さな数字がびっしり記されていた。 それを見て何か尋常でないと感じた担当者は警視庁に連絡し、警視庁は東京地裁検事局にその事実を通知した。1カ月程度の内偵の末に検察はその年の12月17日、今回の事件を教科書出版社が教科書採択権限を持つ教育関係者らに大規模なわいろを上納したものと規定し、事件を公開捜査に切り替えた。 以後、日本の政官界を揺るがす大型贈賄スキャンダル「教科書疑獄事件」の始まりだった。

■修身・歴史・国語から国定化

 この事件を契機に日本政府は1887年5月、「教科用図書検定規則」制定以来16年間にわたり維持してきた小学校教科書の検定制度を撤廃し、本格的な国定化を進めることになる。 その名分はもちろん「国民の精神を統制するため」ではなく、「教科書採択を巡る業界の不正を一掃する」だった。

 今月12日、韓国政府が2017年度から中学・高校で使われることになる韓国史教科書を、朴正煕(パクチョンヒ)政権の維新時期に導入された国定制に回帰すると明らかにした後、それを憂慮する日本の市民社会の強い反発が相次いでいる。「子どもたちに渡すな!あぶない教科書大阪の会」など24の教科書・歴史関連市民団体は16日、声明で「かつて日本は日露戦争直前の1903年から敗戦の1945年までの42年間の長きにわたって国定教科書を使用し、その結果、多くの日本人が侵略戦争を『聖戦』と信じこみ、アジアの人々を殺戮した」と指摘した。 日本の朝日新聞も19日付社説で「民主化して30年近くたつ韓国は、多様な価値観が存在する先進国である。いまになってなぜ、歴史教科書のみを国定化せねばならないのか理解に苦しむ」と朴槿恵(パク・クネ)政権を遠回しに非難した。

 日本の市民社会はなぜ韓国の教科書制度に強い関心と憂慮を明らかにしているのだろうか。 その背景には日本人が過去の軍国主義時期に体験した辛い経験がある。

 日本のNHK放送が1982年5月に放映したドキュメンタリー「明治教科書疑獄事件 〜国定化への道〜」によれば、日本政府が教科書疑獄事件を活用して教科書の国定化を周到綿密に貫徹していく過程が描写されている。

 検察が事件を公開捜査に切り替えて1カ月にもならない1903年1月9日、教科書国定化案が閣議に提出され、続いて3カ月後の4月13日には小学校令が改定され、修身・日本史・地理・国語の4科目国定化が立法化された。 まさに電光石火のような動きだった。 当時、日本の国会で政府のこのような動きに反対したのは根本正議員(1851〜1933)だけだったと伝わる。

690名無しさん:2015/10/24(土) 20:57:58
>>689

 当時、日本の教科書国定化を指揮したのは、明治の軍人、児玉源太郎(1852〜1906)だった。児玉は事件発生の直前である1902年9月18日、桂太郎首相(1848〜1913、朝鮮強制併合当時の首相)に教科書界に蔓延したわいろ不正の摘発を急ぐよう手紙を送った。 わいろ事件の摘発を契機に国定化方針が確定すると、彼は1903年7月に桂内閣の内務大臣と文部大臣を兼任し、教科書国定化を本格的に指揮していく。 こうして見ると、日本の教科書国定化と戦争遂行のための「忠良な皇国臣民養成」はコインの両面だった。

 以後、日本の教科書は国民精神改造の道具に変わって行く。日本が最初に国定化を推進した科目が、人間の思想に関連する修身・歴史・国語科目だったという事実がこれを象徴的に示している。

 それとともに既存の検定制教科書の内容が大幅に修正され始める。 滋賀大学附属図書館が2006年11月に出した『近代日本の教科書のあゆみ-明治期から現在まで』によれば、「これまで多くの検定教科書が神代(日本の歴史で神話の時代に該当する時期)を省略してきたが、国定教科書では神代から始める歴史教育を復活させた」と指摘している。 これは日本の子供たちが自国の歴史を石器時代という“考古学的事実”ではなく「(日本の創造神である)天照大神は天皇陛下の先祖」という“主観的神話”から習い始めたことを意味するわけだ。 戦争末期に使われた『初等科国史』下巻は、日本が起こした満州事変と大東亜戦争を「東洋平和を確立するためのもの」と正当化し、「私たちは一生けんめいに勉強して…立派な臣民となり、天皇陛下の御ためにおつくし申しあげなければなりません」で終わっている。このような天皇中心の歴史観は、靖国思想などと結びついて「日本は神国なので絶対に戦争に負けない」 「天皇のために死んで靖国で会おう」という盲目的な国家観につながっていった。 当時の日本政府の宣伝戦がどれほど乱暴だったかは、朝鮮総督府が発行した機関紙である毎日新報の紙面をいくつか見るだけで容易に感じをつかむことができる。
(2)に続く。

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:10月24日(土)15時33分

691名無しさん:2015/10/24(土) 20:59:36
>>690

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00022310-hankyoreh-kr
日本の歴史教科書から軍国美談はいかに消えたか(2)
ハンギョレ新聞 10月24日(土)15時9分配信

1902年、教科書わいろ事件を活用し 
1945年まで国定教科書を使用 
石器時代でなく建国神話で始まり 
盲目的国家観で戦争を美化 
侵略戦争を“聖戦”と信じこませ 
日本を占領した連合軍司令部の 
最初の措置は既存教科書にあった 
戦争美談を墨で消せとの命令 
形ばかりの検定制という批判はあるが 
“国定化”は良くないという合意がある

■ねつ造された「水兵の母」

 国民を戦争に動員するために日本政府が最も心血を注いだのは「戦争美談」だった。 当時の小学校5年用国語教科書に収録された美談「水兵の母」を見よう。

 明治27〜28年、戦争(日清戦争)が終わらんとしている時であった。ある日、軍艦高千穂の一水兵が手紙を読みながら泣いていた。通りかかったある大尉がこれを見て、余りにめめしいふるまひと思って、「こら、どうした。命が惜しくなったか。妻子がこひしくなったか。軍人となって、軍に出たのを男子の面目と思はず、そのありさまは何事だ」と鋭く叱った。水兵は驚いて立ちあがり、しばらく大尉の顔を見つめていたが、「それは余りなおことばです。私には、妻も子もありません。私も、日本男子です。何で命を惜しみませう。どうぞ、これをごらんください。」といって、その手紙をさし出した。

 兵士の母親が送った手紙であった。「聞けば、そなたは豊島沖の海戦(忠清南道牙山近海で起きた日清戦争の緒戦)にも出でず、八月十日の威海衛攻撃(日清戦争で日本軍の勝利が事実上決定された戦闘)とやらにも、かくべつの働きなかりし由、母はいかにも残念に思ひ候。何のために軍(いくさ)には出で候ぞ。一命を捨てて、君の御恩に報ゆるためには候はずや。村の方々は、朝に夕に、いろいろとやさしくお世話なしくだされ、一人の子が、御国のため軍に出でしことなれば、定めし不自由なることもあらん。何にてもえんりょなくいへと、しんせつに仰せくだされ候。母は、その方々の顔を見るごとに、そなたのふがひなきことが思ひ出されて、この胸は張りさくばかりにて候」

 中内敏夫・一橋大学名誉教授は著書『軍国美談と教科書』(1988年)でこのエピソードに関して、「名も無き母子家庭の老母とその息子、このような家庭の母親が一人息子を国家のために喜んで差し出して、天皇の戦争に身を捧げるよう願っているという文は、軍の指揮部が見れば国民教育の絶好の素材になっただろう」と指摘した。しかしこの母子の現実は日本軍部が願った模範的モデルとは相当な乖離があった。 水兵の実際のモデルは、現実には病弱で豊島沖海戦が起きる前に船から下りるよう命令を受けたことがあり、エピソードが出た後にほどなくして人々の目を避けて鹿児島県の故郷へ帰り3年後に病死したためだ。

 当時の軍国美談の中では現実を巧妙に歪曲したりねつ造したという疑いが濃厚なものが多い。 最も代表的なものは第1次上海事変が進行中だった1932年2月22日、上海郊外の鉄条網陣地を破壊するために爆薬筒を持って肉弾攻撃を敢行した江下武二、北川丞、作江伊之助の3人の工兵を指す「肉弾3勇士」の美談だ。当時、日本のマスコミは作戦遂行のために命を捧げた三勇士を称賛する記事を書き立てたが、兵士たちが亡くなったのは死を覚悟した勇猛な作戦の結果ではなく、導火線の長さを誤って計算した“ミス”だったことを暗示する関係者の証言が出てきた。

692名無しさん:2015/10/24(土) 20:59:47
>>691

 このような“神話ねつ造”は戦争を遂行した日本大本営の得意技だった。 大本営は特殊潜水艇に乗って1941年12月8日米国の真珠湾を攻撃した海軍の「九軍神」、日本軍として最初に守備隊全員が降参せずに決死抗戦し全員が死亡した「アッツ島玉砕」などを大々的に宣伝して戦争美化の道具として使った。 しかし九軍神の潜水艇は何ら軍事的成果を上げられなかった失敗した作戦であり、アッツ島の兵士は全員玉砕したのではなく一部は生き残り米軍の捕虜になったという事実が以後の研究と実態調査を通じて明らかになっている。 韓国で発見できる似た事例としては、1968年に「僕は共産党が嫌いです」という言葉を残して共産軍に殺害されたという「少年イ・スンボク」のエピソードが挙げられる。 このエピソードは永く国民学校道徳教科書に載り、その痕跡が今でも小学校の校庭の一画に放置された銅像として身近な所に残っている。

 日本の歴史教育が再び大転換することになった契機は1945年8月の敗戦だった。 戦争が終わった後、日本を占領した連合軍最高司令部(GHQ)は軍国主義的な教科書が日本を戦争の道に導いたという判断の下、どのように過去と断絶した新しい歴史教育を樹立するかを検討することになる。 占領軍が取った最初の措置は、既存の教科書から天照大神から始まる日本の建国神話や戦争美談を墨で消すよう命令することだった。 連合軍最高司令部は次に日本政府の介入を排除して民間学者が参加した新しい教科書の編纂に乗り出す。

 日本の歴史学者の家永三郎(1913〜2002)ら4人の学者が東京大学史料編纂所に集結したのは1946年5月17日だった。 彼らは連合軍最高司令部所属の米軍将校とともに、特定のイデオロギーを宣伝しない▽軍国主義・超国家主義的神道教育をしない▽天皇の業績が歴史の全てではない▽経済・文化など民衆の歴史を扱う、という原則に則り、新しい小学校用歴史教科書『国のあゆみ』を執筆する。当時の作業の意味について、家永三郎は1977年に放送されたNHK特集ドキュメンタリー「戦後教育の開始」で「不十分な教科書だったが、日本の歴史が神の降臨ではなく石器時代から始まるように変わったのは大きな意味があることだった」という証言を残している。 以後、日本は1948年に教科書検定制を復活させ、本格的な戦後歴史教育を始めることになる。

■歪曲教科書採択率が6.4%まで上がる

 それから60年余りの歳月が流れた今、日本の検定制は再び大きな危機に直面している。 2012年12月に登場した安倍晋三政権が、教科書の執筆と検定の基準になる学習指導要領解説書や教科書検定基準などを詳細化し、各出版社が教科書にどのような内容を入れるかを逐一定めているためだ。 そのため日本の市民団体は現在の教科書検定制について「形だけの検定であり事実上の国定制」と批判している。 その上、安倍政権は日本の侵略戦争を美化する育鵬社教科書など歴史わい曲教科書が一線の学校でより多く採択されるよう種々の支援を惜しまない。 それによって2001年に登場した歴史歪曲教科書は、2016年から使われる中学校教科書基準で採択率が6.4%まで上がっている。

 それでも日本では、韓国の朴槿恵政権のように戦争前のような国定制に回帰しようとする動きはない。 過去の歴史の悲劇を通じて“越えてはならない一線”に対する社会的合意が存在するためだ。 かつての日本の教科書の問題点を指摘したが、維新時期の韓国の国定教科書も盲目的な愛国心と反共主義を強調したという点で特に変わりはないと言えるだろう。 歴史は朴槿恵政権の今回の措置をどのように記憶するだろうか。 時代に逆行する韓国政府の国定化の試みは成功できるだろうか。

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:10月24日(土)15時9分

693とはずがたり:2015/10/24(土) 21:18:19
解りやすいかもw

護国戦争
http://hosokawa18.exblog.jp/17900986/
北洋軍閥についてゲームの攻略本チックに見ていきます。

694名無しさん:2015/10/25(日) 08:41:22
http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150810-OYT8T50122.html
占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102
2015年08月11日 05時20分

おくの・せいすけ 1913年、奈良県生まれ。東大法卒。38年、内務省入省。自治事務次官を経て63年衆院選に自民党公認で初当選し、13回連続当選。文相、法相、国土庁長官などを歴任し、2003年に政界を引退した。現在、アジア福祉教育財団名誉会長。

 「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。

 そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。

 ポツダム宣言受諾について、9日深夜から御前会議をやったが、内閣としては閣議で決定できていなかった。内務大臣(内相)の安倍源基さんは「日本の国体はどうなるのか」と執拗に迫り、受諾を承知しなかった。「国体護持」の考えが皆にしみこんでいたからね。内相が頑張っている中、我々は作業を進めた。

 官房長たちとの会議の主な議題は、軍の物資の処理だった。「軍が持っている物資は膨大だが、このままでは没収される恐れがある。だが国民に行き渡っていれば、その恐れはないだろう」と判断し、占領前に、軍が保有する食糧や衣料品などの物資を困窮する国民に早く分けようという方針を決めた。

 もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。

 会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。

 問題は、軍隊をどう収めるか。下手な収め方をしたら軍が決起するからね。大変な状況だった。

695名無しさん:2015/10/25(日) 08:41:34
>>694


役所一転「上司」はGHQ

 1945年3月、東京大空襲を経験した。翌日、私は霞が関から内務省の職員50人を連れ、下谷(現・台東区)の区役所の応援に行った。広場にたくさんの人が荷物をリヤカーに積んで逃げてきて、焼夷しょうい弾で焼け死んでいた。どぶ川をさらうたびに死体が上がった。

 あんな場所にリヤカーで集まったら、焼夷弾に焼かれるのは当たり前だよ。住民への避難指導が十分に行われていなかった。「こんなことでは戦争にならない」という感じを強く持った。

 5月の「山の手大空襲」では、今の渋谷区にあった自宅がやられかけた。近くまで焼夷弾が落ちてきたので雨戸を閉め、家内は荷物を防空壕ごうへ放り込み、子どもを背負ってどこにでも逃げられるようにした。

 焼夷弾がどこに落ちるか見定めようと空を見上げていると風向きが変わり、焼けずにすんだ。運だよ。

 翌朝は歩いて内務省に向かった。表参道まで来ると、熱風を避けようとしたのか、鉄筋の建物の脇で人が重なり合って死んでいた。赤坂の辺りでも人間が燃え、黒い小さな塊になっていた。

 4月初めだったか、陸軍省から内務省に、「沖縄は放棄せざるをえないが、降伏はしない。敵を本土に迎え撃って必ず最後の勝利を収めるから、敵が上陸してきても各行政組織が統一的に運営されるようにしてほしい」と連絡してきた。もう一つ、「国民も軍に協力してほしい」とも言ってきた。この時、次官の灘尾さんが私の耳元でささやいた言葉を今でも覚えている。

 「軍は国民を道連れにしようとしている。けしからん」「国民に協力を、と言われても、竹やりぐらいしかないじゃないか」

 それが灘尾さんの気持ちだったが、内務省に戦争を終わらせる力はなかった。私は軍の要請を受け、敵の本土上陸後も行政を維持できるよう、地方総監府(※)の官制原案を書いた。

 6、7月に灘尾さんと一緒に九州を一回りした。国民に全く戦意がないことがよくわかった。とにかく受け身だった。

 7月26日、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、陸軍は最後まで強硬だった。8月10日には受諾の聖断が下るが、陸軍は徹底抗戦を訴えていて内情は大変だった。

 15日未明には、天皇陛下が事前収録した玉音ぎょくおん放送の録音盤を奪おうと、反乱軍が探し回るんだよ。見つからなかったのは幸いだった。そして最後は阿南惟幾これちか陸相が腹をかききって……。天皇陛下に謝って自殺することで、軍は収まったんだと思うなあ。

 15日は、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総監府に公文書焼却の指令書を持って行った。

占領下の日本 改めて実感

 玉音放送の内容は聞き取りにくかったな。でも事前に大体分かっていたからね。みんな宮城きゅうじょうの前に行って頭を下げ、泣いたもんだよ。

 軍隊を収めるのは大変だったと思うな。最後はやっぱり、天皇陛下の力だな。天皇の力なくしては戦争を終結できなかったね。それは事実だと思うよ。

 玉音放送の後、私は愛知県庁に置かれていた地方総監府を訪れ、古井喜実知事(戦後、厚相など歴任)に、指令書と灘尾さんの「後は頼む」と書いた手紙を渡した。古井さんは私の媒酌人で、灘尾さんが辞めた後の内務次官になった。

 名古屋からは15日夜のうちに帰京した。ところが翌日だったか、高熱が出た。パラチフスだった。それから長く仕事を休んだ。

 出勤は約3か月後。連合国軍総司令部(GHQ)から最初に命じられたのは、「内務省が地方に対して持っている権限を洗いざらい書いて出せ」という仕事だった。

 日本が占領下にあることを改めて実感したな。

(聞き手 編集委員 福元竜哉 撮影 鈴木竜三)
 ※地方総監府 連合国軍の本土上陸で国土が分断される事態に備え、1945年6月、内務省が全国8区域(北海、東北、関東信越、東海北陸、近畿、中国、四国、九州)に設置した地方行政機関。地方総監には、管内の知事への指揮権など強力な権限が与えられた。同年11月に廃止された。

696名無しさん:2015/10/25(日) 08:41:44
>>695


「日本再起のきっかけに」…天皇の地方巡幸

 内務官僚だった奥野さんは、静岡、山梨両県に続く3か所目の地方赴任として、1941年4月、鹿児島県庁に配属された。その8か月後、太平洋戦争に突入し、奥野さんは戦時下で役人生活を送った。

 この年、鹿児島県庁を視察に訪れた東条英機首相(当時)と県職員たちとの記念写真に納まっている。東条首相に対しては、「家々のゴミ箱をのぞいて回り、国民に食料が行き渡っているかどうか調べた、と言われたが、あれはパフォーマンスだった」と冷ややかだ。

 奥野さんは鹿児島で特別高等警察(特高)課長などを務め、内務省に戻ると、公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた。32歳だった。

 強く印象に残っているのは、自身が時折敬愛の念を込めて「天皇さん」と呼ぶ、昭和天皇の姿だという。

 「天皇さんはマッカーサー(連合国軍最高司令官)に対し、飢えた国民を救ってくれと求めた。そして、全国を歩き回り、我慢してくれと国民に呼びかけた。あの行動が、日本が再起する機会の一つになった」

 戦後は保守政治家になり、1世紀余を生きてきた奥野さん。「二度と戦争をしないのは大事なことだ」と平和の尊さを訴えている。

(福元)
2015年08月11日 05時20分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

697名無しさん:2015/10/25(日) 18:37:09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151025-00000052-jij-n_ame
83年、戦争「一触即発」=ソ連、演習偽装の攻撃警戒―米機密文書
時事通信 10月25日(日)16時17分配信

 【ワシントン時事】米ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館は24日、冷戦時代の西側の先制核攻撃に対するソ連の警戒の深さを分析した米機密文書を公開した。
 1983年に行われた北大西洋条約機構(NATO)の軍事演習の際、「米国は不用意にソ連との関係を一触即発の状態に陥れた恐れがある」と指摘している。
 NATOは当時、核戦争を想定した演習を毎年実施。83年11月の「エイブル・アーチャー(優れた射手)」と題した演習では、同9月の大韓航空機撃墜事件を受け、対ソ関係が緊張する中、実物に似た模擬核弾頭を搭載した航空機を動員するなど、新たな手法を取り入れた。
 これに対し、ソ連側は東ドイツをはじめとして、空軍が高度な警戒状態に入り、情報収集活動も大幅に強化。実際に危機が起きた時と同様の警戒態勢を敷いた。報告書は「米国が演習を隠れみのに利用して攻撃に着手するとソ連軍首脳は真剣に危惧していた可能性がある。少なくともソ連にとって戦争の恐怖は現実味を帯びていた」と結論付けた。
 公開されたのは、1990年2月に米大統領の諮問機関、対外情報諮問委員会に提出された報告書。公文書館が情報開示請求を通じ入手した。

698名無しさん:2015/10/26(月) 22:44:54
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2015102500216
安倍首相がコンサート鑑賞=日本人抑留者建設の劇場で-ウズベキスタン

 【タシケント時事】安倍晋三首相は25日午後(日本時間同日夜)、昭恵夫人とともにウズベキスタンの首都タシケントにあるナボイ劇場を訪れ、コンサートを鑑賞した。

 同劇場は第2次世界大戦後、旧ソ連による強制連行で抑留された日本人が建設に携わったもので、1966年の大地震でも倒壊を免れた。コンサートでは、出演者が日本の唱歌「ふるさと」を合唱する場面もあり、首相は盛んに拍手を送っていた。
 これに先立ち、首相と昭恵夫人は日本人抑留者が埋葬された墓地を参拝した。 (2015/10/25-23:53)

699名無しさん:2015/10/26(月) 22:46:24
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151022-00039496-crankinn-movi
アンジー監督作『アンブロークン』公開決定、日本軍捕虜となった元五輪選手の半生描く
クランクイン! 10月22日(木)8時0分配信

 ハリウッドの人気女優アンジェリーナ・ジョリーが映画監督として、第二次世界大戦で日本軍の捕虜となったオリンピック・アスリートの半生を描いた最新作『不屈の男 アンブロークン』の日本公開が決定した。

 映画の舞台が日本でもあるにも関わらず、国内公開がないことに違和感を感じた製作のユニバーサル・スタジオと配給のビターズ・エンドが、「戦争を描くいろいろな形の映画があるべき」というスタンスから合意。シアター・イメージフォーラムの賛同も得て、日本での公開決定が遂に実現。

 本作の主人公は、1936年のベルリン・オリンピック5000メートルで驚異的なタイムを叩き出したルイ。第二次世界大戦で空軍パイロットとなるも、搭乗していた爆撃機が海に不時着。47日間の漂流の末、日本軍に見つかり、捕虜として収容所に送られてしまう。収容所では、ルイに対して病的な執着を見せるワタナベ伍長の執拗な虐待が待ち構えていたが、彼は不屈の精神で耐え抜き、終戦によって遂に解放されるのだった。

 ルイ役を演じるは『300 <スリーハンドレッド> 〜帝国の進撃〜』『名もなき塀の中の王』のイギリス人俳優ジャック・オコンネル。そして、ワタナベ伍長役に抜擢されたのは、ミュージシャンのMIYAVI。アンジーに才能を認められて、俳優としてハリウッドデビューを飾った。

 『不屈の男 アンブロークン』は、2016年2月よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー。

700名無しさん:2015/10/26(月) 22:48:30
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00000001-withnews-ent
これは「反日」映画なのか? 批判を覚悟、捕虜虐待の軍曹演じた決意 「アンブロークン」のMIYAVI
withnews 10月25日(日)10時0分配信

 「日本軍の捕虜虐待を強調している」――。作品や原作に対するそんな反発が米国での公開前からネットを中心に広がり、日本での公開が一時は暗礁に乗り上げたアンジェリーナ・ジョリー監督の米映画「不屈の男 アンブロークン」。「反日」批判から劇場探しも難航したが、ようやく来年2月、まずは東京で公開されることになった。世界ツアーなどを重ねるミュージシャンのMIYAVIさん(34)が、捕虜に苛烈な態度をとり続けた実在の渡辺睦裕軍曹役をなぜ演じ、批判をどう受け止めたか。ロサンゼルスで語ってもらった。

「受けるつもりはありませんでした」
 2013年5月ごろ、東京の事務所にキャスティングディレクターの奈良橋陽子さんがやって来ました。彼女は映画については触れず、「どういう音楽をしてるんですか」「どんな映画が好きですか」と聞いてきた。「どういう俳優が好きですか」という質問には、ほんとにたまたまなんですが、「アンジェリーナ・ジョリー」と答えた。奈良橋さんはそれでも何も言わず、「英語で何か話してください」と僕の動画を撮影しました。

 出演依頼について聞かされたのはその後です。アンジーはネットで僕の動画も見たようです。

 でも、受けるつもりはありませんでした。まず、自分には演技の経験がない。脚本の内容を聞き、賛否両論を巻き起こす可能性を感じたこともありました。

 アンジーと会ったのはその年の7月。ブラッド・ピット主演「ワールド・ウォーZ」のプロモーションのため、一緒に来日していた。ブラッドはすごく気さくで、部屋に入ってきた瞬間、「WHAT’S MY NAME? WHAT’S MY NAME?」って、僕の曲を口ずさんだんですよ。アンジーをすごくサポートしてました。

 でもその時も、出演は決心していなかった。だけどアンジーが開口一番、こう言ったんです。「ルーイ(ザンペリーニ)の人生を通じて、どれだけ人間が強くあれるか、ゆるせるかというメッセージを届けたい。そのためには軍曹の役が必要。すごくセンシティブだけれども、そこを乗り越えたメッセージを日本の人にも伝えたい」。僕が音楽でやろうとしていることと、すごく近いと思った。

701名無しさん:2015/10/26(月) 22:48:55
>>700

「どのみち誰かがこの役をやるなら、僕が」
 戦争といってもいろんな見方や意見、立場がある。同じ日本軍にも捕虜と一緒に音楽を作ったり、いい関係を作ったりした人たちもいる。その中で、渡辺軍曹がどうであったか。お会いしたことがないので僕たちの描写がすべて正しいとは言えませんが、戦争という、一部を除いて誰も望まない状況の中で、渡辺氏も含め、みんなが葛藤を抱えていたと思う。

 ルーイ自身、本当に苦しい時間を過ごした日本に戻ってきて、地元の人たちや子どもたちと長野五輪の聖火リレーで走り、みんなが笑顔になった。アンジーはこの瞬間にかけて全てを作り上げた。僕もその実際の映像を見て、やる意義があると思った。これを届けるためなら僕は悪役にだってなるし、でもただの悪役ではなく、人間性を含めて演じたいなと思いました。どれだけできるか、不安もありましたが、どのみち誰かがこの役をやるなら、僕が責任をもってやりたいと思いました。

 渡辺謙さんたち日本の俳優を世界に出そうとやってきた奈良橋さんがこの作品に関わっていることも、出演を決めるうえで、すごく大きな判断材料になりました。

「撮影中は、よく瞑想してました」
 撮影中もいろいろ悩みながら、自分なりに、憂いの部分を表情や言葉で出すようにしました。撮影中は、よく瞑想(めいそう)してましたね。

 渡辺氏の手記も読みましたが、彼もお母さんに会いたい気持ちがあった。戦争中も、日本が負けていく中で、恐れがあったと思う。

 ルーイとは米国で会うことができた。渡辺氏と会うことができなかったルーイが、僕と会ってどんな反応をするか、アンジーもプロデューサーもすごくナーバスになっていたんですが、ルーイはほんとに陽気で、一緒に連れて行った僕の娘たちと遊んだりして、チャーミングだった。
 ルーイは「僕は何もいま思っていない。渡辺氏に会いたかったのは、それを伝えたかったためだ。長野五輪の聖火リレーに参加したのもほんとに大事な思い出だ」と話していた。渡辺氏の親族にも伝えてほしい、と言っていた。

 同じ直江津捕虜収容所にいた元米兵にも会いました。彼は戦後、直江津に行っていて、実は日本食が一番好きだそうです。

702名無しさん:2015/10/26(月) 22:49:17
>>701

「『偏った反日映画』とは、まったく思っていない」
 2020年に東京五輪を迎える。同じことを絶対、繰り返しちゃいけない。過去を忘れると、同じことを繰り返してしまいかねないと思う。戦争がいかにむごいか、僕たちに何をもたらすか。この作品は国境を超えた教訓になると僕は思う。日本がダメだという話ではない。

 この作品が「偏った反日映画」だとは、僕は一貫してまったく思っていない。むしろ逆です。原作の記述には異論があり、だから僕は懸念していました。でもアンジーは、映画は原作とは切り離して、ルーイの人生や強さに焦点を当てたいと言った。正直、日本人として見るのは心が痛い部分もありますが、日本が70年、戦争してこなかったことに対して、もっとプライドや自信を持つべきだと思う。あの戦争を乗り越えられているなら、受け入れられるはずだと僕は思う。ルーイも、乗り越えた時に初めてゆるすことができたんだと思う。

 米国の人たち、日本のことが大好きですよ。日本がその後、戦争していないことをみんな知っている。それゆえの敬意がある。日本を嫌いな人に会ったことないですよ。「シンドラーのリスト」を見てドイツを嫌いにならないでしょう。

 一方、この映画に出演したことで、ネットで僕は「反日」だと言われています。オヤジは在日コリアンから日本国籍を取得、母は日本人。つまり僕はハーフコリアンですが、日本人として生まれ、日本人として育ってきた。韓国語はまったくしゃべれないし、サッカーや野球の日韓戦では当たり前に日本を応援してきた。海外でプレーする時も日本人としてやってきた。僕は日本で活動し、ファンもたくさんいる。日本のことを悪く言うだけの映画だったら出るつもりはなかった。

「もうこれからは当たり前に世界の中の日本」
 日本の人たちにもこの作品を見てほしい。今年1月の放送映画批評家協会賞授賞式でも、隣に座っていたアンジーが「ルーイの人生を通して平和のメッセージが届けばいいね」って話していました。

 昨年6月、ロサンゼルスに拠点を移しました。日本向け、世界向け(と分けるの)じゃなくて、もうこれからは当たり前に世界の中の日本。それが音楽家としてあるべき姿だと思う。

 昨年末にNHK紅白歌合戦の出演が終わると、すぐに米ナッシュビルに飛び、(複数のミュージシャンで楽曲を作る)「ライティング・セッション」をやった。放送映画批評家協会賞授賞式では、以前日本で前座をやったことのあるジャレッド・レトに久しぶりに会い、「『アンブロークン』見た。すごいよかったよ〜」と言われました。ニューヨークではクリス・コーネルと会ったりして。米国ではグラミー賞受賞者など歴史を作ってきた人たちと会える機会が多くて、刺激を受ける。音楽家として、そういう環境に自分を置きたかった。

703名無しさん:2015/10/26(月) 22:49:57
>>702

「外のことを知らないと、自分のこともわからなくなる」
 英語を勉強し始めたのは約8年前。それまでアジアや欧州に行ったことはありましたが、通訳を介したコミュニケーションと、直接やりとりするのとでは全然違うと感じた。音楽に言葉はいらないとはいえ、僕はもっともっと勉強したいと思い、当時、音楽活動をいったんやめてロサンゼルスに来ました。

 在米中は発電機を買って、カリフォルニア州のベニスやサンタモニカの海岸沿いでストリートパフォーマンスをやってました。ダンサーの友達を作り、踊ってもらって。ロックやジャズ、ヒップホップ、ポップは西洋の文化。そこから何かを得るには英語が必要だった。その中でアジア人の自分がギターを弾く意味を見つけたかった。

 語学学校に行き、わからない単語はすぐ聞き、友達をいっぱい作った。毎晩勉強しましたが、ほんとに、泣いてました。その時間は本来音楽に費やせるはずなのに、英語という基本スキルがないことへのフラストレーションがあった。今でも、それはある。

 渡米は5歳と4歳の娘たちの教育のためでもあります。これからの時代、ネットと英語は必須。日本語の教育もし、日本文化も大事にしながらですが、世界で当たり前に戦える土壌にいさせてあげたい。外のことを知らないと、自分のこともわからなくなるのではないか。そんな風に思っています。(聞き手・藤えりか)

704名無しさん:2015/11/02(月) 22:57:48
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151031-00000003-sasahi-peo
【秘話発掘】横井庄一さんは殺される寸前だった! 知られざる“元日本兵生還劇”の舞台裏〈dot.〉
dot. 10月31日(土)7時14分配信

 終戦を知らないまま、グアム島に28年間も潜伏し、奇跡的な生還を果たした元日本兵・横井庄一さん(享年82)が生誕して100年。週刊朝日では、現地で横井さんを発見した男性を07年8月に取材している。その際にこの男性は、これまで語られなかった“新事実”を明かしていた。年老いた証言者が見た光景とは--。(週刊朝日2007年8月24日号に掲載した記事をニュースサイト「dot.」編集部が再編集しました。年齢は07年8月当時)

 「恥ずかしながら生きながらえて帰って参りました」

 1972年、28年ぶりに祖国の土を踏んだ元日本兵・横井庄一さんが発した第一声は、あまりにも有名である。

 太平洋戦争の記憶が薄らぎつつあった時代に、日本社会に衝撃を与えた奇跡の生還劇。横井さんが亡くなって10年目の7月末、本誌は横井さんの発見者であるマニュエル・デグラシア氏(74)をグアム島に訪ねて、あらためて発見当時の状況を語ってもらった--。

 1972年1月24日、グアム島南部のタロホホ村に住むデグラシアさんは、義兄と2人の息子と一緒に、タロホホ川付近のジャングルへ鹿狩りに出かけた。夕暮れが近づき、周囲が暗くなりつつあった。

 義兄の後方を歩いていたデグラシアさんは、獲物がいないか辺りをうかがっていた。すると、生い茂った草むらがゴソゴソと揺れているのが見えたという。

「最初は村の猟師仲間だと思いました。左から右に動いた影を見ると、どうも村人ではない。目を凝らして見たら、ヒゲがのび放題でボロボロの服を着た日本人らしき男だったんです」(デグラシアさん)

 グアム島南部では戦後になってからも、旧日本兵が発見されていた。魚を捕るウケを右肩に担ぎ、左手にもうひとつのウケを持って腰をかがめながら歩く日本人らしき男性。その人こそが横井さんだった。

 デグラシアさんは、目の前に現れた横井さんを見ると、大きな声で叫んだ。

 「日本兵だ!」

 突然の出来事に顔を引きつらせた横井さんは、両手を合わせて命乞いをするようなしぐさをした。

 横井さんは当時の状況を、手記『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』(文藝春秋)にこう記している。

〈私は無我夢中で目前の現地人に飛びついて銃をひったくりに行きましたが、体力の相違か無念にも押し倒されてしまいました。「ニホンヘイカ」と日本語で尋ねられ、やがて、横にいた何人かが「ツイテコイ」と両側から私を立たせました。で、私は「もうどうでもせよ」という気持で、あとからしょんぼりしょんぼりとついて行きました〉

 だが、デグラシアさんによれば、実際に見た状況と手記の内容は食い違っているという。

「横井さんは体力が衰えていたためでしょうか、ほとんど抵抗しなかった。あまり伝わっていない話ですが、実は私の義兄は横井さんを殴りつけたうえに、射殺しようとして銃の引き金を引こうとしたんです」

 射殺直前--。手記にはこのような記述はいっさい見当たらない。いったい、どういうことなのか。

 デグラシアさんの記憶をもとに、当時の状況を振り返ってみよう。

 デグラシアさんの義兄は横井さんが日本兵だと認識すると、素手で殴りつけて失神させ、殺意に満ちた恐ろしい形相で銃口を向けたという。

 その様子を見て驚いたデグラシアさんは、大声でこう叫んだ。

 「やめろ!」

 一緒にいた息子とともに羽交い締めにして制止しようとしたが、義兄はそれを振り切ってなお、引き金を引こうとした。デグラシアさんは再び叫んだ。

 「彼を殺してしまったら、われわれも殺人者になってしまう!」

 その言葉を聞いた義兄は我に返り、横井さんの射殺を思いとどまったという。

 ここまで横井さんに憎しみをぶつけた理由は何だったのか。残念ながら、義兄は7年前に亡くなったが、デグラシアさんがその心境をこう代弁した。

705名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:07
>>704

●肉親を殺害した日本兵への恨み

 「実は義兄は日本兵をひどく恨んでいた。1950年にジャングルに潜んでいた残留日本兵に弟と甥を殺されていたんです。殺され方もあまりに無残だった。銃殺されたり、ナタのような刃物で切り殺された。肉親を奪われた義兄の怒りはすさまじく、『絶対に犯人を捜し出してやる』とよく言っていたものです。それに2人の遺体は、横井さんを発見した場所の近くで見つかっていたんです」

 事実、横井さんが“容疑者”として疑われていたフシもある。

 グアムの警察当局は発見当初、横井さんが先の2人を殺害した可能性が否定できないとみていたようだ。殺人事件の再捜査を求めるか否か、警察はデグラシアさんの義母に問うてきたというのだ。

 これに対して、義母は警察の申し出を断ったうえでこう語ったという。

「遺体となってしまったが、子供は私のもとに帰ってきた。すでに犯人は許していますので、捜査をやり直す必要はありません」

 義母はカトリック信者として、残留日本兵もまた戦争の被害者で、責めることはできないという慈悲の精神を持っていた--デグラシアさんは義母の心情を代弁している。

 「日本兵も被害者」。日本兵に子供を殺された母親にそう言わせたグアム島の戦争とは、そもそもどんなものだったのか。

 太平洋戦争の主導権を米軍に握られていた1944年。サイパン島を攻略した米軍は7月21日、約5万5千人の兵力でグアム島に上陸した。

 グアム島は戦前、米国領だったが、開戦直後に日本軍に占領されていた。

 だが、6月に米軍はマリアナ沖海戦で日本海軍の機動部隊を壊滅させ、マリアナ諸島の制海権、制空権を奪取した。グアム島に残された約2万人の日本軍守備隊は、援軍や補給のない絶望的な戦いを強いられた。

 日本軍は7月25日、上陸した米軍に対してマンガン山から夜襲による総攻撃を試みるが、米軍の機銃掃射の前に次々に倒れ、3日後には司令官の高品彪中将が戦死する。

 生き残った日本軍は密林地帯に逃れて抵抗を試みるが、8月11日には小畑英良中将が大本営に向けて「己の身を以て、太平洋の防波堤たらん」とした決別の電報を打った後、叉木山(マタグアック)の地下壕で自決する。日本軍の組織的戦闘は終結し、米軍は全島を制圧した。

 日本軍は捕虜になることを厳しく禁じていたため、食料も武器もなく追い詰められた兵士には自決した者も多い。2万人いた日本兵のほとんどが二度と祖国の土を踏むことはなかった。追い詰められた日本兵が、現地住民を虐殺する事件も発生した。
 グアム島在住の日本人男性(50)はこう語る。

「私も30年ぐらい住んでいますが、いまだに高齢者から肉親が日本兵に殺された話を聞くことが多い。日本兵につけられた傷跡を見せてくる人もいます」

 島南部の密林に逃げた兵士のなかには、横井さんもいた。終戦後も投降を拒み続け、28年間、ジャングルのなかで自給自足の生活を続けることになる。

 日本軍が玉砕した叉木山は現在、「南太平洋戦没者慰霊公苑」として整備されている。日米両軍の戦没者を祭る慰霊塔が設置されているほか、敷地内の「平和寺」と書かれた建物には仏像も安置されている。ただ、日本軍兵士の鉄兜などの遺品が一部ガラスケースに展示してあるが、乱雑に置かれ、まったく手入れされていないようだ。

「以前に比べて訪れる人も少なくなってきています。駐グアム米軍が定期的に芝刈りを行っていますが、国営ではないので管理は不十分な状態です」(前出の日本人男性)

 一方、アサン湾の高台には現地住民と米軍の戦没者の追悼碑があった。現地住民は約1万6千人、米軍は約2500人の戦没者の一人ひとりの名前が金属製プレートに刻まれている。ところが、今年7月上旬には、一部のプレートが剥がされ、くず鉄として中国に輸出される事件も発生している。
 戦争の記憶は確実に薄らいできているのだ。

706名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:25
>>705

●一本橋を悠々と渡った横井さん

 横井さんの発見時に話を戻そう。

 デグラシアさんは「不測の事態」に備えて、横井さんを後ろ手に縛り、安全な場所に保護しようとした。

 「発見現場から400メートルほど離れた畑に、私のジープを駐車していました。それに乗せて自宅まで連れていこうと思いました」(デグラシアさん)

 横井さんは空腹を我慢できなかったのか、「食べもの、ある?」と日本語で尋ねてきたという。

 デグラシアさんは、息子が携帯していたパンケーキを横井さんに食べさせた。

「パンケーキは口のなかでパサつくから、一口食べただけで、それ以上は食べなかった。水も飲ませてあげました」(同)

 印象に残っている光景もある。ジープを止めてある場所に行く途中、丸太で作った“一本橋”を渡ったときの出来事だ。デグラシアさんは縛られたままでは横井さんが渡りにくいと思い、縄を解こうとした。

 だが、横井さんは後ろ手のまま、身軽に橋を渡っていった。その姿を見たデグラシアさんは、横井さんの身体能力の高さに驚いたという。

「手を縛られたまま、軽々と渡っていくので、たいへんびっくりしました。現地の人でもこわごわ渡っている橋でしたから」
 横井さんを乗せた車が自宅前に着くと、音を聞きつけた子供たちが家から飛び出してきた。

 「獲物は捕れたの?」と子供たちが目を輝かせて尋ねると、「これが獲物だよ」とデグラシアさんは横井さんを指さした。

 子供たちが不思議そうに見つめながら、「この人、誰なの?」と尋ねると、「名前は知らない」とデグラシアさんは答えたという。

 その後、ロープを切って横井さんを家の中に招き入れた。デグラシアさんは横井さんがおなかを空かしていると思い、家族に食事の支度をするように指示した。

 目の前に出されたのは、牛のテールスープと白米、マカロ(アジに似た魚)のスープなどだった。

「白米はペロッと平らげたけど、テールスープの牛肉は残していました。牛肉は口に合わなかったようですけど、マカロのスープは魚も全部食べました」

 デグラシアさんは、日本兵を捕まえたことを伝えるため、タロホホ村の村長がいる事務所に出向いたが、村長が通夜で不在だったため、場所を教えてもらい、村長の行き先に向かった。

 通夜に出席していた村長を呼び出して、日本兵を保護したことを伝えた。だが、まったく信じてもらえなかったという。

「村長は『ウソだろ』と言って、なかなか信じてくれなかった。私が『本当ですよ』と強く言うと、村長は非常に驚いていました」

 デグラシアさんは、横井さんから事情を聴くため、村長の事務所に連れていった。通訳として、現地住民と結婚した沖縄出身の女性に協力を仰いだ。警察や政府など関係各所に連絡すると、パトカーや白バイが村長の事務所に集結した。

707名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:35
>>706

●「殺害されても仕方ない状況」

 「私は、横井さんが村長の質問に答える様子をそばで見ていた。聞かれた質問には時間をかけて答えていた。自分が置かれた状況を整理できなかったのか、横を向いたり、上を向いたりして、まるで言葉を探しているようだった。困惑した表情も浮かべていた。殺されるのではないかと恐れていたのでしょう」(デグラシアさん)

 確かに、横井さんは警戒心を解いていなかったようだ。このときの状況について、前出の手記ではこう記されている。

〈家の中から日本人らしい人が出てきて日本語で何か訊かれたりしましたが、ハッキリ覚えておりません。そのうえ警官が来て、村の連中も物見に押しかけてきて、部屋中ごった返すなかで調べられました。多少日本語もまじっていたようですが訊かれる意味はろくに分らず、まるで見世物みたいに引き回されている気持でした〉

 横井さんは15年間、タロホホ川流域の洞穴を住み家にしていた。昼間は魚やエビ、ネズミなどを捕獲したほか、ジャングルの植物を口にして飢えをしのいだ。

 現在、横井さんが住んでいた洞穴はどうなっているのか。記者も実際に確認しようと試みたが、現地住民によると、すでに大半が崩落しており、近くに立ち寄ることができず、放置されている状態だという。

 横井さんの妻、美保子さん(79)は、夫が発見された翌年に横井さんと洞穴を見学している。

「当時はまだ縦穴が残っている状態で、下まで下りることができました。ですが、横穴は天井がすでに崩れており、奥まで行くことができませんでした。内部はたいへん蒸し暑いうえに息苦しかったことを覚えています。こんなところで生活していたなんて、信じることができませんでした」

 ところで、美保子さんは、横井さんが「銃殺寸前」だったことを知っていたのだろうか。

「いえ、主人からは何も聞いていません。初めてお聞きしました。現地の方は日本軍に対する感情がよくないので、主人が発見された時点で殺されても仕方ない状況だったと考えています。ケガもなく、主人を日本へ無事に帰してくださりたいへん感謝しております」(美保子さん)

 かりに発見者がデグラシアさんでなければ、横井さんが過ごした日本での“第二の人生”はなかったかもしれない。

(金子哲士)

708とはずがたり:2015/11/12(木) 13:43:38
中国にはなぜ「親日派」がいないのか(『橘玲の中国私論』あとがき)
橘玲 | 作家
2015年3月16日 16時11分配信
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tachibanaakira/20150316-00043897/

中国には「知日派」はいても「親日派」はいない。中国で「親日」のレッテルを貼られると、「漢奸」「売国奴」として社会的に抹殺されてしまうからだ。

これには歴史的な経緯がある。

日中戦争が泥沼化し、首都南京を攻略しても終戦のきっかけがつかめないなか、軍部は謀略によって傀儡政権を樹立することを計画する。白羽の矢が立てられたのは国民党の創設メンバーでありながら蒋介石と対立していた汪兆銘で、参謀本部第八(俗称「謀略」)課長影佐禎昭(かげささだあき)らが工作の中心となった。

1938年7月、汪兆銘の密使として極秘裏に日本を訪れた国民党政府の外交官、高宗武に対し、陸軍大臣、板垣征四郎は「日本は従来の因縁によって、どうしても蒋介石とは両立せぬ、もし蒋に代わって汪兆銘が出るならば、条件を寛大にし,、十分面子を立てるようにして、決して漢奸に終らしめることをしない」と約束した。

日本の敗戦によって、南京の傀儡政府も崩壊した。汪兆銘は終戦直前に病死していたが、その後を継いだ陳公博ら政権要人の亡命を日本政府は受け入れた。だが「戦勝国」である中国国民党政府から彼らの逮捕・送還を要求されると、政府と外務省はパニックに陥った。

外務省の決めた対応策は、「日本政府が信義をおろそかにするものではないことを力説する」としながらも、「結論的に日本政府の公式的な意見は、これを述べることなく、逆に陳主席の意向を引き出し、その次第によってあらためて処置を考える」というものだった。陳公博らの亡命工作を指導した小川哲雄(南京政府軍事顧問兼経済顧問補佐)はこれについて、「要約すれば、日本側から、中国に帰ってくださいとは、とうてい言えないが、帰ってもらえば助かる。何とか主席の面子を傷つけることなく、帰国の雰囲気に話をもってゆきたいということである。誠に虫のよい話。もはや正面きった信義論などどこかに吹き飛んで、厳しい現実に立った妥協が全面に出てきた」と述べている(劉傑『漢奸裁判』中公新書)。

日本に居場所のなくなった陳公博は中国に帰国し、ただちに処刑された。南京政府首相・汪兆銘は、敵国・金と和解するために愛国の英雄、岳飛を処刑した南宋の宰相、秦檜(しんかい)と並び、中国の歴史上最悪の漢奸となり果てた。日本の政治家や官僚は保身のために平然と「信義」を捨て、彼らを見殺しにしたのだ――こうして「親日」と「売国奴」は等号で結ばれることになった。

日本の保守派には中国の歴史認識や反日教育を批判するひとが多いが、元をただせばそこにはすべて理由がある。彼らがときに異常なまでに激高するのは、日本が侵略者であるかぎり、中国側の主張に理があることがわかっているからだろう。理屈で説得できなければ、あとは相手を恫喝するほかはない。

709名無しさん:2015/11/12(木) 22:59:20
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151111-00000002-sundaym-pol
<サンデー時評>日本しか発信できないもの 核めぐる2人の語り部物語
mainichibooks.com 11月11日(水)11時39分配信

 ◇倉重篤郎のサンデー時評 連載75

しつこいようだが、ラグビーワールドカップの感動が続いている。理由はエディー・ジョーンズ前ヘッドコーチ命名の「ジャパンウェイ」という戦略にあるような気がする。

 日本人の体格には不適とされたアングロサクソン好みのラグビーの世界でも、俊敏さ、体力、技術、チーム力、真面目さといった日本的特質を強化するニッポン方式によって、十分に国際水準に到達することができる、その新鮮な発見が、あらゆるところで驚きと共感を広げているのではないか。

 もちろん、単なる日本回帰ではない。体力・健康管理に最先端の技術を使い、世界から一流のコーチを呼び、チームも外国出身選手を多数起用した多国籍的構成であった。国際化と日本化を同時追求し、国際インフラの活用で日本的特質を深掘りしたことが、選手たちの潜在能力をコアコンピタンス(他にマネのできない核となる能力)にまで高めあげたわけである。

 この鮮やかなお手並みには脱帽だ。商売柄、日本政治にもジャパンウェイの可能性を模索したい。今週は、そんな覚悟や使命感を持って発信しようとしている2人の語り部について語りたい。いずれも、発信の中身は、核にまつわるものである。すなわち、前者は「ヒロシマ、ナガサキ」であり、後者は「フクシマ」である。

 1人目は柴田優呼(ゆうこ)さん。朝日新聞記者を経て中国、米国で学位を取得、現在はニュージーランド・オタゴ大の助教授(日本文学専攻)だ。彼女は近著『"ヒロシマ・ナガサキ"被爆神話を解体する――隠蔽(いんぺい)されてきた日米共犯関係の原点』(作品社)で以下の問題を提起した。

 日本は戦後70年を機に原爆の語られ方(言説)をいま一度見直すべきである。

 なぜならば、従来の言説は、米軍占領期の言論統制下でスタート、いまだに「永久敗戦」たる日本と、「永久勝戦」たる米国との間のいびつな日米関係に縛られており、本来その被爆体験が世界史的、人類的に共有すべき衝撃、意義に見合う言説となりえていない。

710名無しさん:2015/11/12(木) 22:59:51
>>709

 ◇被爆体験と原発事故 核の倫理的抑止力を世界に向けて語れ

 例えば、原爆「投下」という表現。原爆による「攻撃」、「原爆を落とされた」といった表現を避け、「投下」という機械的で中立的な表現にすり替わった。

 被爆の語られ方も然(しか)り。放射能汚染被害の深刻さは十分な言及が行われてこなかった。柴田さんは、その典型的事例として、被爆ルポの原典ともいわれるジョン・ハーシー『ヒロシマ』(1946年『ニューヨーカー』誌掲載)をやり玉に挙げ、空爆前後の落差を詳報することで爆発の威力は印象付けられているが、長期的被害や放射能の影響はわずかにしか語っておらず、あたかも自然災害的な一過性の出来事の如(ごと)く描かれている、と指摘。また、ハーシー本がひな型化し、原民喜、峠三吉ら被爆作家の作品は国際的に認知度が低い、という。

 そして、被爆体験を矮小(わいしよう)化する言説を被爆神話と呼ぶとすれば、それを作り上げてきた責任はまぎれもなく日米両国にある。米国は原爆を正当化するため、日本はその米国の姿勢を結果的にサポートしたために。それは被爆体験の隠蔽であり、大きな犠牲の対価として本来人類が知るべきことを知らせなかった罪における共犯者だという。

 この共犯関係を解消しよう。被爆体験者がいなくなる前に、米国に遠慮せずに体験の真相を語り、国際社会の言論に介入し、交渉、説得すべき時である。日本にしかできない貢献の一つだという。

 2人目は、菅直人氏である。

 2011年に首相を退陣して、はや4年。この間、外遊15回。米国、欧州、台湾、韓国の反原発市民団体から呼ばれ講演、あるいは、各国の原発や最終処分場などを視察して回った。日本国内よりも外国での存在感の方があるようだ。史上最大級の過酷な事故に遭遇し、行政トップとしてその収束作業に当たった人物は、世界を見渡してもそんなにいない。あえて言えば、スリーマイルのカーターとチェルノブイリのゴルバチョフか。

711名無しさん:2015/11/12(木) 23:00:20
>>710

 3・11についてはこう語る。原子炉が立て続けにメルトダウンした際には、首都圏も含め半径250キロが避難区域化、5000万人が避難しなければならない、というシミュレーションが出て、戒厳令に近い強権の発動と、皇室や国家機関の避難まで検討した。日本一国で5000万人もの難民問題が生じる可能性が出てくるほどの事態だったのだ、というと欧米の聴衆は鋭い関心を向けてくる。

「今世紀中に原発はなくなります」とも説く。その理由として、コスト高という経済原則、原発なしでもこの2年間電気不足はなかったという実績、再生可能エネルギーの充実、司法の変化(地裁での原発運転差し止め判決)を挙げた。実際に、菅氏が海外に赴いた15回のうち、3カ所(米サンディエゴと韓国・古里で廃炉、台湾で建設凍結)で変化があった。

 柴田さんの「日米共犯」説には強く同調したい。そもそも核という最終兵器の軍事的抑止力を支えるものは何か。広島、長崎が立証したその恐るべき破壊力と非人道性が独裁者に対してすらその使用を躊躇(ちゆうちよ)させるという倫理的抑止力とはいえないか。その意味では、世界で一つしかない日本の被爆体験の希少さを我々はもっと大事にし、自分のものとして、国際問題解決のために有効に使うべきだろう。そこにはジャパンウェイのあるべき一つの姿が見えてくる。

 菅直人氏の脱原発伝道師としての国際的な仕事ももっと注目されていい。原発推進派には目の上のたん瘤(こぶ)であろうが、日本にしかない体験を臨場感と証拠をもってここまで発信できる人はいない。小泉純一郎、細川護熙両元首相と連動できればもっと強力なジャパンウェイになると思うが、いかがか。

712名無しさん:2015/11/15(日) 11:52:09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151114-00010001-tokyofm-life
もしも、お相撲さんの頭に「まげ」がなかったら……
TOKYO FM+ 11月14日(土)12時0分配信

ちょんまげ・月代(さかやき)が当たり前だった江戸時代から明治に入り、何といっても変わったのは「髪型」。そんな髪型の変化で影響を受けた、ある職業の話を紹介します。


人々の生活を大きく変えた明治維新。
そんな明治を表わす言葉に「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」
というものがあります。
散切り頭……そう、明治時代、「断髪令」が政府から布告されました。
正確には「散髪脱刀令」。
ちょんまげと、刀を持つことをやめさせる令です。

一般庶民が次々と髪を切っていくなか、困っている人々がいました。
そう、力士たちです。
髷(まげ)があってこその力士……切るわけにはいかない。
ですが、政府の命令は絶対。一体どうすればいいのか悩んでいたのです。

明治時代、相撲は「江戸の名残りの庶民文化」として、低俗だと思われる節がありました。
髷を結ったまま行うなど、新しい時代にふさわしくない……
一時は存続の危機すらあったのです。
そんな危機を救ったのは、2人の人物。
明治天皇と、大久保利通です。

明治天皇は、大の相撲好きでした。
なんと、自分自身も相撲を取り、あの山岡鉄舟と組み合ったこともあったとか。
力士隊長と言われた伊藤博文とも、
何度も相撲を取ったのだそう。

明治に入り、断髪令とともに「裸体禁止令」が出されました。
力士たちがそれを拒否することにより、
罰金や、むち打ちの刑など、辛い目にあっていたなか、
救いの手を差し伸べたのが大久保利通。
「大相撲だけは髷を残したい。伝統を大切にして力士にだけは髷を残しましょう」
そう、明治天皇に手紙を書いたのでした。

相撲好きだった明治天皇はこれを受け、承諾。
もし、このやりとりがなかったら、
お相撲さんの頭には髷がなく、洋服を着て闘っていたかもしれません。
いえ、もしかしたら相撲という文化すら残ることが難しかったかもしれませんね。

江戸の時代から庶民に愛され、今や国技となった「相撲」。
たくさんの人物に支えられ、私たちも楽しむことができるのですね。

(TOKYO FMの番組「シンクロのシティ」6月3日放送より)

文/岡本清香

713名無しさん:2015/11/16(月) 23:54:11
日本は中国とは違う、西欧に一目置かせた伊能忠敬
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151116-00045273-jbpressz-bus_all

714名無しさん:2015/11/17(火) 22:34:39
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151117-00000019-pseven-life
「明治維新を全否定」の歴史本 会津地方で大ベストセラーに
NEWS ポストセブン 11月17日(火)16時0分配信

「吉田松陰は山県有朋が創った虚像である!」
「久坂玄端は天皇拉致未遂犯である!」
「勝海舟は裏切り者である!」
「長州藩はテロリスト集団である!」

 このように、新聞広告にはなんとも刺激的な惹句が並ぶ。日本を近代化に導いたと教えられてきた明治維新を全否定する歴史書が、ベストセラーになっている。ヒットの背景を探ってみると、やはりあの“遺恨”があった。

 歴史書としては異例の5万部を超えるヒットとなっているのは、「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」のサブタイトルを冠した『明治維新という過ち』。出版元・毎日ワンズの松藤竹二郎社長がいう。

「立花隆氏が週刊文春、斎藤美奈子氏が週刊朝日の書評で取り上げて話題になりました。ただし、読みもしないで新聞広告を見ただけで抗議をしてくる人も多いんです」

 著者の原田伊織氏は69歳で、作家のほかクリエイティブディレクターとしても活躍する人物。なぜこんな刺激的な歴史本を書こうと思い立ったのか。

「子供の頃から、自国の歴史を否定する風潮に疑問を感じていました。洋の東西を問わず、戦争に勝った方が自分たちに都合のいいように歴史書を書く。ただし、どの国も戦後100年も経てば必ず当時を検証するものです。ところが明治維新後に生きた日本人はその検証をやってこなかった。そこで明治時代以降の歴史を一冊にまとめておくべきだと思ったのです」

 なかでも原田氏が鋭い筆鋒を向けているのが吉田松陰である。一部を抜粋する。

〈松陰とは単なる、乱暴者の多い長州人の中でも特に過激な若者の一人に過ぎない。(中略)今風にいえば、東京から遠く離れた地方都市の悪ガキといったところで、何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男である〉

〈思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山縣有朋などがでっちあげた虚像である〉

〈松陰の外交思想というものは余り語られないが、実に稚拙なものであった。北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有するべきだというのである〉

715名無しさん:2015/11/17(火) 22:35:07
>>714

 そして〈長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力として、松陰の主張した通り(中略)軍事進出して国家を滅ぼした〉と原田氏は主張するのだ。他にも、久坂玄瑞を天皇拉致未遂犯として糾弾し、勝海舟を〈長州・薩摩に幕府を売った張本人〉と指弾するなど、維新の志士、英傑たちをなで斬りにしている。

◆幼稚園のお遊戯は「白虎隊」

『明治維新という過ち』はある地方で突出して売れているという。長州と遺恨の深い福島・会津である。

「会津若松市の方からの反響はもの凄く、『よくぞ書いてくれた』という激励の言葉をたくさんいただいた」(原田氏)

「『長州テロリスト』の言葉を見て、即買った」(48歳会社員)という人も珍しくないようで、同市内では100冊以上売れた書店もあるという。

 明治維新において、会津藩は長州藩・薩摩藩を中心とする新政府軍から「賊軍」の汚名を着せられ、徹底的な弾圧を受けた。会津戦争では「白虎隊の悲劇」に代表される数多くの犠牲者を出し、しかも新政府軍が犠牲者の埋葬を禁じたため、会津の人々は家族の遺体が野に晒され、鳥や獣に食い散らかされる悲惨な状況を目の当たりにしたとされる。

 この時の遺恨は150年経った今も消えていない。2007年、山口県出身の安倍晋三首相が会津若松市を訪れて「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語り、2011年7月には東日本大震災の義援金などへの謝意を伝えるため会津若松市長が萩市を訪れたが、市長は「和解とか仲直りという話ではない」と語った。

 歴代の会津若松市長が和解を拒否してきたのは、市民レベルで“反長州”が根強い証左でもある。

「幼稚園のお遊戯会の出し物といえば、白虎隊の剣舞。ラストシーンでは刀を抜いて、お友達と刺し違えて倒れるんです。それが当たり前と思って育ってきたので、長州に対して敵対意識が芽生えるのは当然ですよ」(会津在住・50歳会社員)

「亡くなった祖母の口癖は『薩長から嫁はもらうな』。社内の県人会では年配の先輩たちが酔っぱらって『薩長の首を取れ!』とわめくのが恒例になっている」(会津出身・35歳会社員)

 なかには、「会津を通る国道が“49号線”という縁起の悪い数字なのは長州の嫌がらせ」(会津在住・58歳公務員)と真顔で語る人もいる。会津の人たちが同書を読んで溜飲を下げたのは当然かもしれない。

※週刊ポスト2015年11月27日・12月4日号

716名無しさん:2015/11/17(火) 22:39:16
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151117-00010010-agora-soci
日本軍の最大の罪 『毛沢東』 --- 池田 信夫
アゴラ 11月17日(火)18時31分配信

毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書)
遠藤 誉
新潮社
★★★★★

中韓との歴史論争は、80年代以降の現象である。韓国では全斗煥、中国では江沢民が初めて「歴史問題」を外交の場に持ち出した。特に重要なのは後者である。江沢民の父は汪兆銘政権(日本の傀儡政権)の幹部であり、それを隠すために「反日」の姿勢を強調したのだ。

毛沢東は、日本に対して歴史問題を持ち出さなかった。なぜなら彼も汪兆銘の協力者だったからだ。彼は日本を恨むどころか、戦後に何度も「日本軍が国民党を倒したことに感謝する。日本軍がいなかったら、われわれは政権を取れなかった」と公言している。

毛沢東の主要な敵は蒋介石であり、彼を倒して政権を取るために日本と協力し、国民党軍の内部情報を日本軍に通報した。その拠点になったのが、北京にあった「岩井公館」で、毛沢東の指令で岩井と連絡を取っていたスパイが潘漢年だった。

毛沢東はソ連の支援を受けていたが、中共軍は貧弱で、国民党との内戦で劣勢だった。しかし国民党の内部情報を得ていた毛沢東は、張学良を使って1936年に西安事件で「国共合作」させた。このとき毛沢東は「日本軍に対して団結する」と宣伝し、中共軍は全滅をまぬがれたのだ。

翌年から始まった日中戦争では、国民党軍が南京や重慶で消耗戦を強いられていたとき、毛沢東は延安に逃げ、汪兆銘を通じて日本軍と蒋介石を倒す交渉をしていた。中共のスパイが、国民党の軍事拠点の位置や作戦計画を日本軍に通報した記録が残っている。

だから毛沢東は「南京大虐殺」に一度も言及したことはない。敗戦で日本軍が投降すると、その装備を奪って国民党軍と戦い、蒋介石を台湾に追放した。そして対日工作を行なったスパイをすべて抹殺・投獄し、口を封じた。

毛沢東は日本軍と戦って勝ったとは思っていないので、日本に賠償も求めなかった。9月3日の「抗日戦争勝利記念日」を盛大に祝ったのは、習近平が初めてだ。日本軍の最大の罪は、国共内戦で(結果的に)共産党を支援して毛沢東に政権を取らせたことであり、それは今も世界情勢に大きな影響を与えている。

池田 信夫

717とはずがたり:2015/12/20(日) 21:50:47
「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」って?
http://www.newsweekjapan.jp/newsroom/2013/06/post-266.php
2013年06月29日(土)16時10分

「海を渡ったオキュパイド・ジャパン」という、ちょっと興味深い展覧会が開かれている(於:六本木ヒルズ森タワー49階/アカデミーヒルズ入口の展示スペース)。

 オキュパイド・ジャパン(Occupied Japan)とは、第2次大戦後の「占領下日本」のこと。民間貿易が再開された1947年から、サンフランシスコ講和条約が発効した52年まで、日本からの輸出品には「MADE IN OCCUPIED JAPAN」の刻印を付けるようGHQ(連合国最高司令官総司令部)から命じられていた。

718名無しさん:2015/12/23(水) 09:25:27
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2015122300084
自民歴史勉強会、コメントせず=米国務省

 【ワシントン時事】米国務省のトルドー報道部長は22日の記者会見で、自民党が日本の近現代史に関する勉強会の初会合を開いたことについて「コメントはない。日本政府に問い合わせてほしい」と述べた。米政府としては議論の推移を注視する構えとみられる。
 会見では極東国際軍事裁判(東京裁判)が取り上げられる可能性を指摘する質問も出たが、報道部長は「(第2次)世界大戦中に起きたことについて私たちには私たちの見解がある。しかし、今回の動きは日本の政権の動きであり、論じるつもりはない」と語った。 (2015/12/23-07:40)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2015122200879
「侵略否定」なら反対=記憶遺産の選定過程見直し-中国

 【北京時事】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産をめぐり、日本が選定過程の見直しを求めている問題で、中国外務省の洪磊・副報道局長は22日、日本を念頭に「(見直し問題を)政治化しようとし、侵略の歴史を否定・美化する目的があるなら、国際社会は断固反対する」との見方を示した。
 中国が申請した「南京事件」の関連資料が記憶遺産に登録されたことを受け、日本政府は選定過程の透明性確保などをユネスコに要求。ユネスコは複数国が関係する申請案件について、関係国間の事前協議を求める方向で検討しているが、洪副局長は「加盟国の希望を十分に反映すべきだ」と訴えた。 (2015/12/22-20:05)

719名無しさん:2015/12/25(金) 06:17:59
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151225/k10010352391000.html
「ロン・ヤス」関係の原点 外交文書で明らかに
12月25日 5時27分

中曽根元総理大臣は、自民党の総裁予備選挙に立候補していた1982年11月、アメリカの政府高官と会談し、「総理大臣に選ばれた場合には、翌年1月にもアメリカを訪問したい」と伝えていたことが、外務省が公開した外交文書で明らかになりました。当時、外務省は、貿易摩擦で両国関係が悪化していたため、訪問には入念な準備が必要だとしていましたが、就任直後のアメリカ訪問という中曽根氏の強い意向が、のちに「ロン・ヤス」と愛称で呼び合う関係の原点となりました。
これは、当時の中曽根総理大臣のアメリカ訪問に関する情報を記録した外交文書で明らかになりました。
それによりますと、1982年11月18日、自民党の総裁予備選挙に立候補していた中曽根氏が、日本を訪問していたアメリカ政府高官と会談し、「総理大臣に選ばれた場合には、翌年1月にもアメリカを訪問したい」と伝えていたということです。
その直後に総理大臣に就任した中曽根氏のアメリカ訪問を巡っては、当初、外務省が、貿易摩擦で日米両国の関係が悪化していたため、入念な準備が必要だとして、1983年の4月末から5月初めの大型連休を利用した訪問を、「ほとんど唯一の実行可能な案」として検討していました。
しかし、結果的に中曽根氏の強い意向を受けて、総理大臣就任直後の1月18日に、アメリカでレーガン大統領との初めての首脳会談が実現し、のちに「ロン・ヤス」と愛称で呼び合う関係の原点となりました。
また、外交文書では、中曽根氏が日米首脳会談の1か月前の1982年12月18日、大河原駐米大使に、首脳会談に臨む姿勢として、「レーガン大統領と『レッツ・ゴー』の精神で意気投合したい。信頼関係を強化し、日米関係の円滑化を図りたい」と述べていたことや、当時、課題となっていた日本からアメリカへの武器技術の供与について、「自分が決断すればいいことなので、いけると考える。国会が止まることも覚悟して対処する」と述べていたことも明らかになりました。
日米外交史が専門の東洋英和女学院大学の増田弘教授は「中曽根氏は、いち早くトップどうしで信頼関係を築くことが日米関係にとって極めて重要だと考えており、中曽根氏自身の対米戦略や外交方針が文書の中に色こく出ている」と話しています。

720名無しさん:2015/12/31(木) 09:43:49
古い記事

http://www.jiji.com/jc/zc?g=&amp;k=201507%2F2015072800658
妥協の産物、歴史は評価=姜尚中・東大名誉教授に聞く-日韓正常化【戦後70年】

 政治学者の姜尚中氏(東大名誉教授)に1965年調印の日韓基本条約や当時の政治情勢について聞いた。

 -日韓基本条約の評価は。
 あの時代、韓国も日本も(条約に)反対のうねりがあった。今から思うと信じられないくらいだ。一切、過去の問題を閑却したことは、妥協の産物だったのだろう。歴史認識は非常に大きな溝があった。当時の状況をそのまま反映させた。
 それでも国交正常化がなければ、日本も韓国も歴史が大きく変わっていた。基本条約は限界があったにしても歴史的によかったという評価をしている。
 -日韓が接近した背景は。
 やはり米国の要請と、戦前からの人脈が両国関係を結び付けた。くしくも朴槿恵韓国大統領の父(朴正熙元大統領)と安倍晋三首相の祖父(岸信介氏=首相退陣後も日韓国交正常化に尽力=)、この二人の力は大きかった。歴史の因果だ。

 -歴史問題はあやふやにした。
 今に通じるところがあるが、歴史の問題はおそらく、それをやりだしたら、パンドラの箱を開けることになるのではないか。それよりは今ある非常に現実的な問題、共産圏の中国、ソ連、北朝鮮の脅威に対抗し、日本、韓国、台湾の3者が連携することを米国としても望んだ。
 -日韓関係は冷え込んでいる。
 かっこ付きの「正常化」だった。韓国は(民主化宣言した)87年以降大きく変わった。民主化の代償だ。民主化のパラドックスともいうが、今起きているぎくしゃくしている面は、日韓の国民同士の交流が増えたからだ。国内世論が多様で、民主的な価値を持つ社会であればあるほどそうだ。要するに変数が多くなったということだ。
 -かつての韓国は軍事政権で世論を抑え、歴史や賠償の不満を抑えていたということか。
 そう思う。よく中国が民主化されたらいいと言われるが、もっと難しい事態が出てくる。歴史の問題が韓国どころではない形で飛び出してくる可能性がある。 (2015/07/28-16:27)

721名無しさん:2016/01/24(日) 17:09:03
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date3&amp;k=2016012200867
A級戦犯「犯罪人と言うのは抵抗」=自民・稲田政調会長、東京裁判で発言

 自民党の稲田朋美政調会長は22日、BS朝日のテレビ番組収録で、極東国際軍事裁判(東京裁判)に関し、「国内的にA級戦犯は犯罪人だと言い切ることには抵抗がある」との認識を示した。また、「判決に書かれている連合国のストーリーに『違うことは違う』と言うことはサンフランシスコ講和条約に反していない」と主張した。
 東京裁判の結果に疑義を呈したとも受け取れる稲田氏の発言は、戦勝国の米国などの反発を招く可能性がある。同党が安倍晋三総裁直属の機関で進めている歴史研究にも影響を与えそうだ。
 また、稲田氏は憲法9条について「海外から自衛隊は軍隊と見られている。立憲主義の意味からも空洞化している」と指摘。「自衛権行使を認める(と明確化する内容に)、しっかり変えるべきだ」と改正の必要性を訴えた。 (2016/01/22-19:40)

722名無しさん:2016/01/30(土) 14:55:37
http://www.jiji.com/jc/movie?p=mov611-movie03
零戦、日本の大空に再び=爆音響かせ天高く舞う雄姿-海自鹿屋基地

 「零戦里帰りプロジェクト」を進めるゼロエンタープライズ・ジャパンは27日、零式艦上戦闘機(零戦)のテスト飛行を海上自衛隊鹿屋航空基地で行った。操縦桿(かん)を握ったのは、米国で零戦操縦のライセンスを持ち、NASAのテストパイロットを務めていたスキップ・ホルム氏(72)。大勢の報道陣が見守る中、機体は爆音を響かせ天高く舞い上がり、再び日本の大空でその雄姿を見せた。
 この機体を所有するのは同社取締役でニュージーランド在住の石塚政秀氏(54)。当初、購入するつもりはなかったが、契約者が支払いできず、その保証人になっていたため、肩代わりすることになったという。その代金は3億5000万円。牧場や自宅を手放すなどして費用を捻出し、完済するまで2年を要した。維持費などを含め、既に5億円以上は投じていると話す。
 この零戦は、三菱重工業の小牧工場で1942年後半に製造された零式艦上戦闘機二二型。全長9.06メートル、全幅12メートル、重量1863キロあり、最高時速540.8キロを誇った。大戦中、パプアニューギニアで駐機していた時に攻撃を受け、尾翼が折れた状態にあった。これを78年に米サンタモニカの軍事博物館が回収し、修理した。飛行できる現存の零戦は5機のみ。その1機という貴重な歴史的資産となっている。
 戦後、零戦は2度、日本の空を飛んでいる。その時は米国人が所有する五二型であったが、「日本人が所有する二二型の飛行は戦後初」と石塚氏は話す。
 ホルム氏がエンジンを掛けると、爆音が辺りに響き渡った。テークオフの位置までゆっくりと滑走路を進む零戦。加速していくとふわりと宙に浮き、スムーズに高度を上げていった。基地の上空を優雅に旋回し、その性能の高さを披露した。
 石塚氏は、「飛ばすまでにいろいろなハードルがあり、挫折しかけたこともあった」とこれまでを振り返り、「この飛行機から、若い人たちに日本の歩みを知ってほしい」と零戦への思いを話した。【時事ドットコム編集部撮影】

723名無しさん:2016/02/11(木) 15:25:36
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&amp;k=2016021000492
強制連行「確認できず」=慰安婦、国連で説明へ-日本

 国連女子差別撤廃委員会の対日審査が16日にジュネーブで開かれ、慰安婦問題に関するやりとりも行われる見通しだ。日本政府は事前の答弁書で「政府の調査では軍や政府による慰安婦の『強制連行』は確認できなかった」と回答したが、韓国はこれに反論。審査には杉山晋輔外務審議官が出席し、日本の立場を説明する。
 同委員会は昨年8月、女性に関する問題について22項目から成る質問状を日本政府に送付。この中に慰安婦に関する質問が含まれていた。
 日本は今年1月に提出した答弁書で、慰安婦問題について、昨年12月28日に日韓両政府が「最終的かつ不可逆的な解決」で合意したと説明。関係省庁や米国立公文書館の資料、関係者の聞き取りなどの結果、「強制連行は確認できなかった」と回答した。
 昨年12月の日韓合意は「国連など国際社会において、この問題で互いに非難、批判することを控える」とうたっている。韓国外務省報道官は1月末、答弁書に関し「慰安婦の動員、募集、移送の強制性は否定できない歴史的事実だ」と反論。日本に対して「(日韓)合意の精神、趣旨を損なう言動を控えるよう」求めた。
 一方、日本外務省幹部は、答弁書は「何も新しいことを言っているわけではない」と日韓合意への影響はないとの考えを示し、「合意が実現するよう努力していく」と話している。(2016/02/10-14:17)

724とはずがたり:2016/02/14(日) 18:15:03

隠岐漁民、竹島の岩ノリ製造…不法占拠前から
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160208-OYT1T50149.html?from=yartcl_outbrain1
2016年02月09日 07時48分

 韓国が1952年に李承晩ラインを一方的に設定し、竹島(島根県)の不法占拠を開始するより以前の明治後期から大正期にかけて、隠岐諸島の漁民が竹島で岩ノリを摘み取り、製品化していたことが、島根県竹島資料室の調査でわかった。

 同室は「竹島が隠岐漁民の生活拠点の一つとなっていたことが改めて裏付けられた」としている。

 同室が昨年10、12月に隠岐の島町久見地区で聞き取り調査し、夫の母親から竹島産の岩ノリ製造の話を聞いたという作田アイコさん(83)や、作田さんの息子2人の証言を得た。

 作田さんは「夫の祖父(作田芳吉さん、1878〜1955年)が竹島に行き、岩ノリを摘んだことがある。竹島の岩ノリは大きくて長いので、久見では縄のひもに引っかけて干した」などと証言した。

 また、アシカ漁などを行うために島後に設立された「竹島漁猟合資会社」の「生産品勘定帳」(1911年5月4日)を、元県職員が53年に筆写した写し(県立図書館所蔵)には、竹島からノリ1俵を入荷したことが記載されていた。

 県内は「十六島うっぷるい海苔のり」など、岩ノリの主要産地。なかでも隠岐諸島は高品質な岩ノリで知られ、竹島産もそれらと一緒に、長崎や大阪に出荷されていたという。

 県竹島問題研究顧問の下條正男・拓殖大教授は「日本が竹島を持続的に実効支配していた明確な証拠で、我が国固有の領土であることをさらに補強することになった」と話している。

727名無しさん:2016/02/17(水) 00:16:10
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date1&amp;k=2016021600486
「強制連行確認できず」=慰安婦問題で日本説明-国連委

 【ジュネーブ時事】国連女子差別撤廃委員会の対日審査が16日、ジュネーブの国連欧州本部で行われた。杉山晋輔外務審議官は慰安婦問題について、「日本政府が発見した資料の中には軍や官憲による、いわゆる強制連行を確認できるものはなかった」と説明した。

 政府は1月に委員会の質問に対して提出した答弁書で、既にこうした日本政府の立場を回答。これを受け、韓国外務省報道官が慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した2015年12月の日韓合意の精神を損なう言動を控えるよう求めた経緯があり、今回も韓国政府の反発が予想される。
 杉山氏は韓国・済州島で女性を強制連行したという故・吉田清治氏の証言によって、強制連行の見方が流布されたと指摘。この内容が朝日新聞に報道され、国際社会に大きな影響を与えたが、証言は研究者によって「想像の産物」と証明され、朝日新聞も事実関係の誤りを認めていると説明した。 
 一方で、12月の日韓合意について、「両国政府は合意内容を誠実に実行に移すべく取り組んでおり、この点は現時点でも全く変わりない」と強調。両国政府の努力に国際社会の理解を求めた。
 中国の委員は加害者の訴追や首相による被害者への書面での謝罪が必要だと訴えたが、杉山氏は「政府がこの問題について歴史の否定をしているとか、何の処置も取っていないという批判は事実に反すると言わざるを得ない」と指摘した。
 答弁書は慰安婦問題について、関係省庁や米国立公文書館の資料、関係者の聞き取りなどの結果、「強制連行は確認できなかった」と回答。韓国外務省報道官は「慰安婦の動員、募集、移送の強制性は否定できない歴史的事実だ」と反論していた。
 委員会は3月7日に審査の最終見解を示す予定。(2016/02/16-22:06)

728名無しさん:2016/02/20(土) 15:29:42
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&amp;k=2016021700419
「強制性否定できない」=韓国当局者

 【ソウル時事】国連女子差別撤廃委員会の審査で日本政府が慰安婦問題に関して「いわゆる強制連行を確認できるものはなかった」と説明したことに対し、韓国外務省当局者は17日、「強制性は国際社会が既に明確に判定した、否定できない歴史的事実」と反論し、「被害者の証言で裏付けられている」と強調した。 
 当局者はまた、慰安婦問題をめぐる日韓合意の精神や趣旨を損なうような言動を控えるよう日本政府に改めて求めた。(2016/02/17-12:26)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&amp;k=2016021700425
慰安婦像設置に懸念=中曽根日米議連会長

 日米議員連盟会長の中曽根弘文元外相らは17日、米民主党のダイアナ・デゲット下院議員ら米議員団と東京都内で会談した。中曽根氏は米国内で慰安婦像を設置する動きがあることについて、「慎重に対応してほしい。米国の日系人、韓国系社会など、地域のコミュニティーを分断する恐れがある」と懸念を示した。これに対し米側は直接には答えず、「慰安婦問題は過去の問題で、もう解決したという認識だ。未来に向かうべきだ」と述べるにとどめた。(2016/02/17-12:37)

729名無しさん:2016/02/20(土) 15:31:03
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&amp;k=2016021900174
英政府、昭和天皇崩御で対応苦慮=参列者選定「慎重に」-外交文書

 【ロンドン時事】昭和天皇崩御に当たり、英政府が対日関係と国民感情のはざまで対応に苦慮していた様子が、19日に解禁された英外交文書で明らかになった。第2次大戦の歴史を踏まえ、欧米で微妙な評価を受けていた昭和天皇をめぐる「弔問外交」の舞台裏を浮き彫りにした。
 文書は崩御前の1988年9月29日付で、サッチャー政権の閣議内容が記録されている。闘病中だった天皇について、担当者は「容体は深刻で、死は目前に迫っている」と報告。崩御は「日本における一時代の終わりを示唆する」ものの、「日本の政策に重要な影響を及ぼす可能性は低い」との見解を示した。
 閣僚らはその上で、来る葬儀に向けた対応を協議。対日関係は重要である一方、第2次大戦中の日本の行為と戦争捕虜への処遇をめぐり、英国民の間に依然「強い(否定的な)感情」があることから、参列者の選定は「相当に慎重になる必要がある」との考えで一致した。
 89年2月の大喪の礼に英国から参列したのは、エリザベス女王の夫フィリップ殿下とハウ外相ら。当時の資料によると、高位の代表派遣に英国内では元捕虜らから抗議の声が上がったという。(2016/02/19-09:15)

730名無しさん:2016/02/20(土) 15:31:44
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;rel=j7&amp;k=2016022000144
沖縄に核配備、機密扱いせず=写真も公開-米政府

 【ワシントン時事】米政府は、沖縄に1972年の日本復帰まで核兵器を配備していた事実を機密扱いすることを取りやめた。ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館が19日、国防総省による機密指定解除の動きを指摘し、併せて沖縄に配備された核兵器の写真を紹介した。

 国防総省はサイト上で、「1972年5月15日の沖縄の日本復帰前に、米国の核兵器が沖縄に配備されていた事実」の機密指定を解くと表明した。ただ、米統治下の沖縄への核配備は、これまでに公開された公文書から既に明らかになっている。 

 同大学が提示した写真は計3枚。うち2枚は62年10月に嘉手納基地で行われた武器装着の技量を試す競技会で撮影され、「マーク7」「マーク28」と呼ばれる核爆弾と、装着準備に当たる米兵らの姿が写っている。残る1枚は、地下施設の核巡航ミサイル「メースB」を捉えた。
 いずれも空軍が90年に公開したが、爆弾やミサイルの名称が記載されているだけであるため、誰も重要性に気付かなかったもようだという。(2016/02/20-11:58)

731名無しさん:2016/02/21(日) 22:45:48
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160221/k10010417241000.html
北方領土発言にロシア「歴史的事実わい曲」と反発
2月21日 21時21分

ロシア外務省は、北方領土問題を巡って、日本の外務省の幹部が「第2次世界大戦の結果がすべて清算されたわけではない」と発言したことについて、歴史的な事実をわい曲したものだと主張して反発しました。
北方領土問題を巡って、外務省欧州局の相木俊宏参事官が、ロシアの通信社に対して「日ロ間では、第2次世界大戦の結果がすべて清算されたわけではない」と述べたことを受けて、ロシア外務省は20日、コメントを発表しました。
この中で「日本は降伏文書に調印して、ソビエトへの行動に対するすべての責任を負った」とする見解を示しました。
さらに「日本は、1951年のサンフランシスコ平和条約で、千島列島などを放棄した。ソビエトは、この条約に署名しなかったが、日本の義務には影響しない」と主張し、北方四島は、放棄した千島列島には含まれないとする日本の立場に反論しました。
そのうえで「日本側は歴史的な事実の恣意(しい)的で、わい曲した解釈を公開の場で展開した」として、相木参事官の発言に反発しました。
日ロ間では、4月中旬にラブロフ外相の訪日と安倍総理大臣のロシア訪問の調整が進められていますが、これを前にロシア側は「先の大戦の結果、北方領土はロシア領になった」とする自国の立場を改めて強調したものとみられます。

732とはずがたり:2016/02/24(水) 12:45:01
優秀な人間が『老害』になる理由とは?歴史に学ぶ「慢心」
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E5%84%AA%E7%A7%80%E3%81%AA%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%8C%E3%80%8E%E8%80%81%E5%AE%B3%E3%80%8F%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%90%86%E7%94%B1%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%80%8C%E6%85%A2%E5%BF%83%E3%80%8D/ar-BBpTDRm#page=2
ダイヤモンド・オンライン
神野正史
1時間前

優秀な人間が『老害』になる理由とは?歴史に学ぶ「慢心」: 「優秀であるがために、老害化する」。そのメカニズムとは?c diamond 「優秀であるがために、老害化する」。そのメカニズムとは?
「優秀な人間ほど、その優秀さゆえに、老害化してしまう」。この歴史的事実をどう思いますか?世界史5000年の歴史から生まれた「15の成功法則」を記した『最強の成功哲学書 世界史』から見ていきましょう。

2つの「顔」を持つ男
 フィリップ・ペタンという人物をご存知でしょうか。彼は第一次世界大戦において、ドイツの猛攻に屈しそうになったフランスをその魔の手から救った「救国の英雄」として、少なくともフランスでは知らぬ者とていない超有名人です。

 そして同時に、第二次世界大戦において、ドイツの侵寇を前にして、あっさり祖国をドイツに売り渡した「売国奴」としても有名です。

 同じひとりの人物なのに、これほど正反対な顔をもつ人も珍しい。第一次大戦後、あれほど国民から喝采を受けた彼が、それから四半世紀後には死刑判決を受けるほど、国民から憎まれるようになってしまったのはなぜでしょうか。

くすぶっていた男が、どんどん出世できた理由
 彼は、第一次世界大戦が勃発したころ、すでに58歳でした。退役寸前であったにもかかわらず、大佐どまりで、決して期待された軍人ではありませんでした。

 それは彼が無能だったからというわけではなく、ちょうど彼が軍人として脂の乗りきったころに大きな戦がなく、その才を発揮する場がなかったためです。フィリップ・ペタンは、その点、時代に恵まれず、ここまでくすぶっていました。

 しかし、ここで第一次世界大戦が勃発。当時のフランス参謀本部の「積極的攻撃論」がことごとく裏目に出、ドイツ軍は破竹の勢いでフランス北東部を次々と占領していきます。祖国はあっという間に存亡の機!

 このとき、「積極的攻撃論」にひとり異を唱えていたペタンに耳目が集まります。

「そういえば、あのペタンという男だけが「攻撃論」に反対していたっけな」

 最初からあの男の作戦を採っていればこんな状態じゃなかったかも。こうして注目を浴びたペタンは、どんどん出世していき、またその期待に応えて戦果を挙げていきます。「陽」が当たるようになった途端、まさに“水を得た魚”。

兵法の「基本精神」とは?
 そんなとき、ドイツ軍によって包囲されていたヴェルダン要塞が陥落寸前になります。ヴェルダンといえば、フランスの都パリの“絶対防衛線”。ここが敵の手に陥ちてしまえば、あとはパリまでドイツ軍を防ぐものは何もありません。ドイツ軍は、何もなき野を往くが如く、パリに迫るでしょう。つまり、ヴェルダンの陥落は即ち、パリの陥落を意味し、そしてそれはフランスの滅亡を意味します。

733とはずがたり:2016/02/24(水) 12:45:11

 そんな状況化で、ペタンが参謀部からヴェルダン総司令官を拝命したとき、彼は自信満々に宣言しています。「決して敵は通しませぬ! ご安心あれ!」

 彼の採用した作戦は「縦深(じゅうしん)陣地戦術」。

 これは彼が編み出したオリジナル新戦法というわけではなく、「マラトンの戦い」や「カンネーの戦い」、はたまた「三帝会戦」などなど、古くから使い古された戦術とその根本に流れる精神は同じものです。

1、まず、わざと敵に弱点をさらし、敵にその弱点を攻撃させ、2、防御地点を突破されても、あまり抵抗せず、むしろわざと兵を退かせる。3、調子に乗った敵軍がさらに押してきても、敵軍の包囲態勢づくりに尽力する。4、敵軍が気付いたときには前後左右からの包囲が完成しており、潰滅する。

 どんなに時代が移り変わり、兵器が近代化し、戦術が変わったように見えても、兵法の基本精神は変わりなく通用するものです。ペタン将軍は、この戦法でついにドイツ軍の猛攻に耐えきり、これを撃退することに成功します。

栄光の落日
 その結果、ドイツ軍はまもなく降伏し、大戦はようやく幕を下ろしました。この八面六臂の活躍により、大戦勃発の時点では「大佐」だった彼は、戦後、陸軍最高位の「元帥」にまで昇り詰めます。

 国民からは「ヴェルダンの英雄」と讃えられ、どこへ行っても喝采を浴び、独身だった彼は、なんと64にして父娘ほど歳の離れた女性(42)と結婚。

 まさに“我が世の春”を謳歌します。もう歳も歳ですし、このまま満ち足りた豊かな老後生活の中で天寿を全うするかに思われました。

 しかし、ここから彼の転落が始まります。

 一線を退いたあとは隠居でもしていればこんなことにはならなかったのでしょうが、その後も「陸軍最高顧問」という肩書を得て、陸軍の方針に口を挟み続けたのが、のちに彼の人生を狂わせます。

同じ相手に、同じ手は通用しない。
 彼は、自分の成功体験から、独仏国境に強大な要塞建設を支持しました。所謂「マジノ線」です。時代は常に進んでおり、特に手痛い敗北を喫した側は、死に物狂いで敗因を研究し尽くし、対策を練るものです。

 今回勝てたからといって、同じ手で同じ相手に臨むならば、必ずや手痛い敗北を喫することになります。勝ったればこそ、より一層研究を尽くして、相手の対策の上を行く戦略をあらかじめ練っておかなければなりません。「勝って兜の緒を締めよ」とはこのことです。ところが、すでに老境に入っていたペタンにはこうしたことがまったく理解できませんでした。

 人間は歳を取れば取るほど、新しいものを受け容れる能力が衰え、過去の古いやり方がそのまま未来にも通用すると思い込んでしまいがちです。それが「老害」です。

 要塞さえあれば、たとえ将来ドイツ軍が津波の如く攻め寄せようとも、縦深陣地戦術で敵を破ることができる!

734とはずがたり:2016/02/24(水) 12:45:31
>>732-734
 同じ手が通用するのは、敵がよほどのマヌケの場合だけです。しかも、要塞というものは、爆撃機が存在しない時代の遺物です。空から雨あられと空襲を受けたのでは、要塞は護り切れるものではありません。ペタンはそうした時代の動きが見えない“老害”そのものとなっていきましたが、イメージ先行の国民はペタンに期待し続けるという悲劇が生まれていました。

そして売国奴へ
 やがて、第二次世界大戦が勃発します。軍事予算の多くを傾けて造りあげたマジノ線は何の役にも立たず、ドイツ軍はあっという間に英仏連合軍を駆逐しながら、首都パリまで快進撃しました。「嗚呼、もう駄目か!? なんのなんの、ドイツ軍など恐るるに足らず!こっちにはまだ『救国の英雄』ペタン将軍がおられるのだ!」

 こうして、英雄(ペタン)が担ぎ出されます。しかし、このときすでに84歳となっていた彼には、ヒトラーと戦う戦術もなく、気力すら残されていませんでした。

 20年前、“救国の英雄”だったペタンは、そのころ名もなき敗軍の伍長にすぎなかったヒトラーの前にあっけなくその膝を突くことになりました。ペタンは戦後、「売国奴」として裁判にかけられたときに述べています。

「ヴェルダンの功によって、私の軍事的精神は鎖されてしまった。戦後、新しい道具、新しい兵器、新しい戦術が次々と発明され、導入されていったにもかかわらず、私はそれに無関心だったのだ」

 彼が19世紀の軍事知識のまま、20世紀の新しい戦争に対応できず、「時代に取り残された」故の悲劇でした。

 しかし、彼の場合、第一次大戦終了時にすでに老齢でしたので、それ自体は責めることは酷かもしれません。

 彼の罪深きは、先進の精神を失ったこと自体ではなく、それを自覚できず、いつまでも新時代に口を挟んだことです。

老いては「子」に従え
 たとえ若いころどんなに優秀だったとしても、人は老いれば、多かれ少なかれ頭が固くなり、時代に取り残され、古いやり方に固執するものです。

 それは、「常に状況の変化に応じて、臨機応変に対応する」ことができなくなることを意味します。

 したがって、彼は事後のことは潔く後進に譲るべきでした。ペタンは、死刑判決を受けたあと、当時の大統領ド・ゴールによって罪一等を減じられ、無期禁固刑に減刑されます。

 そして、死刑判決から5年後。彼は流刑地の孤島で淋しく人生を終えました。享年95。彼が道を踏み誤ることなく、後進に道を譲っていれば、豊かで充実した余生を送り、現在に至るまで「英雄」として讃えられ続けたでしょうに。

735とはずがたり:2016/02/25(木) 21:16:37

こんな組織があったのか。

軍事参議院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2

軍事参議院(ぐんじさんぎいん)とは、大日本帝国において、帷握の下に在って重要軍務につき天皇の諮詢に応じる国家機関である。1903年(明治36年)に設置され、1945年(昭和20年)に廃止された。
軍事参議院は、天皇の諮詢を待って、参議会を開き、意見を上奏するものとされて、独自に活動することを禁じられた。なお、陸海軍互に相関繋しない事項については陸軍または海軍のみの参議官を以って参議会を開くことが認められていた。

というか,この声明出したのこの組織の協議の結果だったのか。。

事態の収束を図るために軍事参議官も非公式に会議を開き、次の陸軍大臣告示(昭和11年2月26日)が発せられた。
陸軍大臣告示(昭和11年2月26日)
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之レ以上ハ一ニ大御心ニ待ツ

736名無しさん:2016/03/19(土) 15:34:38
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&amp;k=2016031600745
沖縄の苦難忘れず=菅官房長官

 菅義偉官房長官は16日午後の記者会見で、太平洋戦争末期の沖縄戦で犠牲になった住民の遺族らによる損害賠償請求が棄却されたことについて、「国の主張が認められた」とした上で、「沖縄が先の大戦で悲惨な地上戦を経験したという苦難の歴史を私たちは忘れてはならない」と述べた。(2016/03/16-17:11)

737名無しさん:2016/03/19(土) 15:54:29
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&amp;k=2016031800401
「歴史的事実を歪曲」と非難=慰安婦記述縮小とも-日本の教科書検定に韓国

 【ソウル時事】韓国教育省報道官は18日、日本の文部科学省の高校教科書検定結果に関する声明を発表し、「歴史的事実を歪曲(わいきょく)し、独島(竹島)に対する不当な主張が盛り込まれた教科書が合格した」と非難した。その上で「根本的な是正」を求めた。
 声明は「独島は歴史的、地理的、国際法的に韓国の固有の領土だ」と強調。さらに、従軍慰安婦問題に関し「軍の関与を削除したり、記述を縮小したりした教科書が合格した」と主張、「深い失望と遺憾」を表明した。(2016/03/18-12:21)

738名無しさん:2016/03/20(日) 15:03:15
>行政も政治も関与できない検定制度
この言葉の「政治」は議会を指しているのか?

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160319/k10010449461000.html
検定教科書 文科相が韓国に理解求める
3月19日 21時05分

馳文部科学大臣は記者団に対し、検定で合格した高校の教科書に島根県の竹島など領土を巡る記述が増え、韓国が反発していることについて、教科書作成の指針に沿った結果だとしたうえで、韓国の担当大臣との会合の場などで理解を求めていく考えを示しました。
来年4月から使われる高校の教科書の検定では、おととし改訂された教科書作成の指針に基づき、「現代社会」などの教科書で、竹島など領土を巡る記述がこれまでの1.6倍に増え、韓国外務省が「われわれの固有の領土に対する日本の不当な主張は嘆かわしく、直ちに訂正することを求める」などとする声明を出すなど、反発しています。
これについて馳文部科学大臣は、愛知県みよし市で記者団に対し、「行政も政治も関与できない検定制度となっており、基準に従って検定を通過した教科書だと報告を受けている」と述べ、教科書作成の指針に沿った結果だという認識を示しました。
そのうえで、馳大臣は「ことしは初めて日中韓教育大臣会合を開催し、お互いに率直な意見交換をすることができた。教育に関する案件については、ひざを交えて意見交換していきたい」と述べ、韓国の担当大臣との会合の場などで理解を求めていく考えを示しました。

739とはずがたり:2016/03/25(金) 09:18:15
虐殺が有ったのか無かったのか,有ったなら何人なのか何十万人なのか,を論じるのは不毛になるけど,この程度の認識が中国人にあれば議論できるんじゃないの!?
>中国軍は南京攻防戦でも日本側とほぼ同数の11万の兵力を擁していたが、わずか5日で壊滅・潰走と指摘。そのため「捕虜多数が虐殺された」と主張し、「中国人は日本軍の大虐殺を非難するが、守備軍が民を守る上で無能だったことも避けては通れない」と主張した。

中国はなぜ、日本への戦争賠償を放棄したのか 答:コテンパンに負けていたからだ=中国メディア(編者解説付)
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20160322/Searchina_20160322130.html
サーチナ 2016年3月22日 22時15分 (2016年3月25日 00時01分 更新)

 中国語ニュースサイト鳳凰網は22日、「中国は戦後なぜ、日本から戦争賠償を獲得できず、最終的に放棄したのか?」と題する文章を掲載した。鳳凰網は衛星テレビ局のフェニックステレビ(鳳凰衛視)系列のニュースサイト。フェニックステレビは香港に拠点を置くが、論調は中国大陸寄りで経営者も人民解放軍出身であることなどから、事実上の中国メディアと理解してよい。

 文章は、日中戦争勃発当時の中国を「分裂状態の落ちこぼれの農業国」、日本を「工業強国」と形容。中国はさらに、政府の腐敗が著しい「病弱国」だったと論じた。

 中国軍は南京攻防戦でも日本側とほぼ同数の11万の兵力を擁していたが、わずか5日で壊滅・潰走と指摘。そのため「捕虜多数が虐殺された」と主張し、「中国人は日本軍の大虐殺を非難するが、守備軍が民を守る上で無能だったことも避けては通れない」と主張した。

 終戦間際にも、日本軍は太平洋戦線では追い詰められていたが、「中国戦線では依然として極めて優勢だった」と指摘。例として、1944年から45年の大陸打通作戦で、国民党軍が総崩れになったことを挙げた。そのため日本人の多くが戦後、「(日本は)米国に敗れたのだ」と考えたことになったと指摘した。

 文章は、戦争を説明する資料に「誇張や歪曲があってはならない」と指摘。国力を示す数字として、開戦当時の日本の鉄鋼年産量は580万トンで、中国は4万トンにも満たなかったと紹介した。…

さらに米国は年産8000万トン以上であり、「中国は戦勝国としての待遇を得られず、他の同盟国に見くびられた原因は、きちんと定量分析して理解せねばならない」と主張した。

 中国が日本から戦争関連の賠償を得られなかった理由については、米国が単独で日本を屈服させたことを認識する必要があると主張。米国は1948年に対日賠償を最終放棄したので、「ソ連も英国も中国(国民党政府)も放棄せざるをえなくなった」との見方を示した。

 さらに、中華人民共和国が1972年に日本と国交を樹立した際にも、(中華民国が日本に対する賠償を放棄したという)事実に変更を加えることは難しく、承認せざるをえなかったと論じた。

**********

◆解説◆
 中華人民共和国は、1949年の同国の成立にともない、中国の正統政府は「中華民国から中華人民共和国に代わった」と認識している。つまり、中華人民共和国は中華民国の後継国家だ。

 後継国家は基本的に、それまでの国家(政府)の権利や資産を継承する(負の遺産も継承する)。従って中華人民共和国は、中華民国が第二次世界大戦の結果とした諸成果を引き継ぐと主張している。上記記事は、「中華民国が日本に戦争賠償を求められる立場にはなかった」と主張した。つまり、毛沢東や周恩来が日本に戦争賠償を要求しなかったのは「好意」からでなく、「要求できる立場になかった」との理屈になる。(編集担当:如月隼人)

740名無しさん:2016/03/26(土) 18:09:04
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&amp;k=2016032300155
大統領の広島訪問「検討中」=式典出席の米国務次官

 【ワシントン、ハバナ時事】米国務省のゴットメラー国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)は22日、ワシントン市内で記者団と懇談し、オバマ大統領が伊勢志摩サミット(5月26〜27日)に合わせて被爆地の広島を訪れる可能性について「ホワイトハウスで検討されている。推測はしない」と語った。
 ゴットメラー次官は昨年8月、ケネディ駐日大使と共に広島、長崎の式典に出席した。次官は記者団に対し「大統領は広島を訪問できれば光栄だと語っている。いつ、どのように実現するかは彼が決めること」と話した。
 一方、複数の米政府高官は取材に対し、「ケリー国務長官が4月に広島を訪問し、その反響を見るまで大統領訪問の可否を決めることはない」と述べた。米国内では原爆投下に肯定的な意見が根強く、大統領の訪問は退役軍人らの反発を招く恐れもある。(2016/03/23-09:16)

741名無しさん:2016/03/26(土) 22:26:45
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date1&amp;k=2016032600123
米英仏外相、平和公園で献花へ=政府、オバマ氏の訪問期待

 先進7カ国(G7)外相が、4月10〜11日に広島市で開かれる外相会合に合わせて平和記念公園を訪れ、原爆死没者慰霊碑に献花することが26日、固まった。核保有国である米英仏外相の訪問は初めてで、被爆地から核軍縮・不拡散に向けたメッセージを発信する。政府内では、ケリー米国務長官に続き、オバマ米大統領の広島入りへの期待が高まっている。
 G7外相会合は、ベルギーの連続テロを受けた国際テロ対策や欧州の難民流入問題への対応が主要議題になる見通し。議長役の岸田文雄外相=衆院広島1区=は核軍縮に力を入れており、各国外相に「被爆の実相を見てほしい」と平和公園訪問を要請していた。被爆の惨状を伝える同公園内の資料館も視察する方向だ。(2016/03/26-14:24)

742名無しさん:2016/03/27(日) 08:16:59
http://www.jiji.com/jc/zc?g=pol&amp;k=201510%2F2015101700040
現代の日本人「責任なし」=前原氏に全人代副委員長-中国

 【北京時事】中国の吉炳軒全国人民代表大会(全人代=国会)常務委員会副委員長は16日、訪中した民主党の前原誠司元外相と会談し、先の大戦に関し「過去の出来事は歴史上の人々が責任を取るべきであり、現代を生きるわれわれが責任を負うべきではない」と述べた上で、歴史から教訓を学ぶことが重要との考えを強調した。
 歴史認識を取り上げながらも、改善基調にある日中関係に配慮した発言とみられる。
 前原氏によると、吉副委員長は「中国は決して現在の日本人が責任を取ることを望んでいるわけではない。中国側の望みは、歴史を直視し正しい態度で過去の歴史を二度と繰り返さないようにしてもらうことだ」と語った。 
 習近平国家主席は9月の「抗日戦勝70年」のレセプションで「あの(戦争の)時代以降に生まれた人たちも、正しい歴史観を堅持し、歴史の教訓を心に刻まなければならない」と発言。戦後70年談話で「私たちの子や孫、その先の子どもたちに謝罪を続ける宿命を負わせてはならない」とした安倍晋三首相を暗にけん制している。(2015/10/17-06:11)

743名無しさん:2016/04/02(土) 17:38:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016033000846&amp;g=pol
「慰安婦問題、収束を」=村山元首相が岸田外相に

 岸田文雄外相は30日、村山富市元首相と外務省で会談し、昨年末の慰安婦問題をめぐる日韓合意について意見交換した。村山氏は席上、「せっかく合意したのだから、いろいろな困難があるだろうが、ぜひ成功させてほしい」と述べ、合意の着実な履行に期待を示した。その上で「慰安婦の問題は、いいかげんにけじめをつけて収まるようにしてほしい」と要請した。(2016/03/30-19:30)

744名無しさん:2016/04/02(土) 20:53:50
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016033100383&amp;g=pol
慰安婦合意の精神尊重を=安倍首相と対話継続期待-韓国大統領

 【ソウル時事】韓国の朴槿恵大統領は、米ブルームバーグ通信との書面インタビューで、日本政府に対し、昨年末の慰安婦問題をめぐる合意の精神を尊重するよう求めた。韓国大統領府が31日、発言内容を公表した。
 また、「歴史を直視し、過去の過ちを忘れずに、将来の世代に対する正しい教育に努めなければならない」と強調した。歴史教科書の検定などを念頭に置いた発言とみられる。
 朴大統領は、安倍晋三首相との間で、首脳会談や電話会談を通じて意思疎通を図っており、「こうした基調が続くよう期待している」と述べた。(2016/03/31-11:51)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040100230&amp;g=pol
米大統領「最後の訪日、いろいろ努力」=広島訪問に期待の声

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は31日、ワシントンでの安倍晋三首相との会談で、5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に関し「大統領として日本を訪問する最後の機会だ。いろいろな意味で日米関係がさらに良くなる努力をすることを考えていきたい」と述べた。同席した萩生田光一官房副長官が記者団に明らかにした。
 大統領の発言について、日本政府内では、被爆地、広島訪問が念頭にあるのではないかと期待する声が出ている。ただ、萩生田氏は「広島について(会談で)個別・具体的なやりとりはなかった」と説明した。(2016/04/01-09:17)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040200049&amp;g=pol
国務長官の広島訪問発表=米

 【ワシントン時事】米国務省は1日、ケリー国務長官が広島市を訪問し、10〜11日に開かれる先進7カ国(G7)外相会合に出席すると正式に発表した。訪日に先立つ6〜8日にはバーレーンのマナマを訪れ、湾岸協力会議(GCC)閣僚会合に参加する。(2016/04/02-06:03)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040200231&amp;g=pol
G7外相、平和公園訪問へ=広島原爆資料館も視察

 広島市で開かれる先進7カ国(G7)外相会合2日目の11日、各国外相が平和記念公園を訪れ、被爆の惨状を伝える広島平和記念資料館(原爆資料館)を視察することが決まった。岸田文雄外相が2日、同市内で記者団に明らかにした。核保有国である米英仏の現職外相が同公園を訪れるのは初めて。
 各国外相はこの際、原爆死没者慰霊碑に献花する。岸田氏は外相会合の広島開催に当たり、同公園を訪問するよう各国に要請していた。岸田氏は記者団に「世界の指導者に被爆地を訪問してもらい、被爆の実相に触れてもらうことは、核兵器のない世界を目指す国際的な機運を盛り上げる上で大変重要だ」と語った。(2016/04/02-18:24)

745名無しさん:2016/04/03(日) 00:17:47
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160402/k10010465921000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_001
G7外相 広島の平和公園そろって訪問へ
4月2日 18時05分
岸田外務大臣は、今月、広島市で開かれるG7=主要7か国の外相会合の際に、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスをはじめ各国の外相が、そろって広島市の平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するとともに、原爆資料館を訪問することを明らかにしました。
G7の外相会合は、今月10日から2日間の日程で広島市で開かれ、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスの外相が、初めて、被爆地を訪問します。
これについて、岸田外務大臣は広島市で記者団に対し、「世界の指導者に、被爆地を訪問して被爆の実相に触れてもらうことは、『核兵器のない世界』を目指す国際的な機運を盛り上げるうえで、大変、重要なことだ」と述べました。
そのうえで、岸田大臣は、外相会合の2日目の今月11日に、各国の外相がそろって広島市の平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するとともに、原爆資料館を訪問することを明らかにしました。
第2次世界大戦で広島に原爆を投下したアメリカの現職の国務長官が、被爆地の慰霊の行事に出席するのは、初めてのことになります。
また、岸田大臣は、「今回の外相会合は、被爆地で初めて開催されるので、核兵器国と非核兵器国がともに参加するG7として、核軍縮や核不拡散に関する明確なメッセージを打ち出すことが大切だ」と述べ、外相会合の共同声明とは別に、核軍縮への今後の取り組みの在り方などをまとめた「広島宣言」という文書を発表する方針を明らかにしました。
「被爆者の生の声 聞いてほしい」
G7外相会合の際に、各国外相が広島市の平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するとともに原爆資料館を訪問することについて、3歳のときに広島市で被爆し、日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会で全国理事を務める箕牧智之さん(74)は「主要7か国の外相がそろって原爆資料館などを訪問すると聞き、とてもうれしい。資料館で被爆者の遺品や写真などを見ることで、71年前の原爆の実相に触れ、『核兵器があるから世界は安全だ』という考えを改める機会にしてほしい」と述べました。
そのうえで、「忙しい日程を割いて資料館などの訪問を調整したのだと思うが、各国の外相にはぜひ被爆者にも会い、生の声を聞いてもらう機会ができたらいいと思う」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160331/k10010463471000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_042
韓国大統領「歴史問題が日韓関係発展の障害に」
3月31日 19時07分
韓国のパク・クネ(朴槿恵)大統領は、アメリカ・メディアとのインタビューで、日韓関係について、北朝鮮への対応など多くの利害を共有する重要なパートナーだとする一方で、「歴史の問題が両国関係の発展の障害になっている」と述べ、歴史認識の問題で日本は韓国に配慮すべきだという考えを示しました。
核セキュリティーサミットに出席するためワシントンを訪れているパク・クネ大統領は、アメリカの大手メディア、ブルームバーグの書面インタビューに応じました。
この中でパク大統領は、日韓関係について、「両国は北の核問題のような安全保障の課題など、多くの利害を共有する重要なパートナーだ」と述べました。その一方で、「歴史の問題が未来志向の両国関係の発展に引き続き障害となっている」としたうえで、「日本政府は昨年末妥結した慰安婦問題の合意の精神を尊重し、未来の世代に対する正しい教育に努力しなければならない」と述べ、歴史認識の問題について、韓国に配慮すべきだという考えを示しました。
日韓両政府は、昨年の慰安婦問題での合意の際、この問題を巡って国際社会で、互いに非難・批判することを控えることを確認していますが、韓国国内では合意への批判が根強いうえ、日本の高校の教科書で、島根県の竹島について、日本固有の領土であることについての記述が増えたことなどへの反発も強く、こうした発言に及んだものとみられます。

746名無しさん:2016/04/03(日) 09:50:32
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040200318&amp;g=pol
松井広島市長「極めて意義深い」=湯崎知事も歓迎-G7外相平和公園訪問

 広島市で開かれる先進7カ国(G7)外相会合で、各国外相が11日に平和記念公園や平和記念資料館を訪問すると岸田文雄外相が明らかにしたことを受け、広島市の松井一実市長は2日、「極めて意義深い」とするコメントを発表した。この中で「核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向け、ゆるぎない決意を固めてほしい」と訴えた。
 広島県の湯崎英彦知事も2日、コメントで歓迎の意を表すとともに「(外相訪問が)G7サミット参加国首脳の被爆地訪問につながるよう、引き続き働き掛けたい」との考えを表明した。(2016/04/02-21:28)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160403/k10010466081000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_004
G7外相会合で「広島宣言」 各国と調整
4月3日 4時28分
政府は、来週、広島市で開かれるG7=主要7か国の外相会合で、核軍縮への今後の取り組みの在り方などをまとめた「広島宣言」を発表するため各国と調整を続けており、「核兵器の非人道性」など日本の主張をどこまで盛り込めるかが焦点になっています。
G7の外相会合は来週10日から2日間の日程で広島市で開かれ、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスの外相が、初めて被爆地を訪問します。
これについて岸田外務大臣は2日、広島市で記者団に対し「世界の指導者に、被爆地を訪問して被爆の実相に触れてもらうことは、『核兵器のない世界』を目指す国際的な機運を盛り上げるうえで、大変重要なことだ」と述べました。
そのうえで岸田大臣は、外相会合の2日目の今月11日に、各国の外相がそろって、広島市の平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するとともに、原爆資料館を訪問することを明らかにしました。特に、第2次世界大戦で広島に原爆を投下したアメリカの現職の国務長官が被爆地の慰霊の行事に出席するのは、初めてのことになります。
政府は外相会合の際に、G7の議長国として、テロ対策や、中東や東アジアの地域情勢など、協議の成果を盛り込んだ共同声明を採択することにしています。
そして、これとは別に、核軍縮への今後の取り組みの在り方などをまとめた「広島宣言」という文書を発表することにしています。広島宣言では、日本が主張している、「核兵器の非人道性」や、核保有国がどれだけの核兵器を保有しているかを明らかにする、「核兵器の透明性」などについて、どこまで盛り込めるかが焦点となっており、政府は、外相会合の協議が終了するぎりぎりまで各国と詰めの調整を続けることにしています。

747名無しさん:2016/04/04(月) 23:16:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040400301&amp;g=pol
広島から平和メッセージ=菅官房長官

 菅義偉官房長官は4日午前の記者会見で、先進7カ国(G7)外相会合が10日から広島市で開かれることについて、「広島の地から核兵器のない世界に向けて、力強い平和のメッセージを発信したい」と強調した。「北朝鮮や海洋安全保障といった地域の問題についてG7で揺るぎない対応を示したい」とも語った。(2016/04/04-12:10)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160404/k10010467101000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_007
米 国務長官「広島 平和公園の訪問は重要」
4月4日 14時51分
岸田外務大臣は、アメリカのケリー国務長官と電話で会談し、来週、広島市で開かれるG7=主要7か国の外相会合の際に、そろって平和公園を訪れることは「喜ばしい」と謝意を表したのに対し、ケリー長官は「訪問は重要だ」と応じました。
来週、広島市で開かれるG7の外相会合では、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスをはじめ、各国の外相がそろって広島市の平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するとともに、原爆資料館を訪問することになっています。
こうしたなか岸田外務大臣は、アメリカのケリー国務長官と、4日午前8時半すぎからおよそ15分間電話で会談しました。
この中で岸田大臣は、「広島から、G7外相による力強いメッセージを出せるよう引き続き連携したい。ケリー長官を含むG7各国の外相とともに広島の平和公園を訪問できることは喜ばしい」と述べ、謝意を表しました。これに対しケリー長官は、「自分にとって初めての広島訪問であり、楽しみにしている。平和公園の訪問は重要だ」と応じました。
また両外相は、G7外相会合の成功に向けて日米両国で引き続き連携していくことを改めて確認するとともに、気候変動問題など、地球規模の課題に両国で協力して対応していくことで一致しました。

748とはずがたり:2016/04/05(火) 14:03:33
ポーランド排除の理由は??
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%BC%91%E6%88%A6%E5%8D%94%E5%AE%9Aに拠ると,ポーランドとチェコスロバキアの指名は共産側,スイスとスウェーデンは国連側(詰まり西側)の指名だったそうだからポーランドの共産政権崩壊と関係ありそうだけど,自由選挙は1989年だったみたいだし,仮にソ連圏からの離脱があったとしてもNSCCがわざわざポーランドを除外する事はないよな。

2016年 04月 4日 08:12 JST 関連トピックス: トップニュース
アングル:非武装地帯のカウベル、朝鮮「休戦監視」の最前線
http://jp.reuters.com/article/korea-dmz-idJPKCN0X0020?sp=true

[板門店(韓国) 1日 ロイター] - 厳重に防備が固められた朝鮮半島の軍事境界線。松の木やバラの茂みに囲まれた小さな食堂では、ステーキとアスパラガスのランチが提供されている。そこから一歩出れば、鳥の鳴き声がプロパガンダをがなり立てる北朝鮮の拡声器と張り合っている。

「ここは非武装地帯(DMZ)で一番のレストランだ」と、中立国監視委員会(NNSC)のスウェーデン師団を率いるマッツ・エングマン少将は語る。NNSCは、平和条約の代わりに休戦を維持するため、朝鮮戦争(1950─53年)後に設けられた。

当初は、北朝鮮側の代表としてポーランドと旧チェコスロバキアを含む4カ国で構成された委員会だったが、北朝鮮からわずか数メートルの場所に50年代に造られた兵舎には現在、スウェーデンとスイスだけが残っている。

50年代半ばには200人ほどが駐留していたが、現在はスウェーデンとスイスの将校がそれぞれ5人ずついるだけだ。

NNSCは毎週、非武装地帯内の境界をまたぐ兵舎でミーティングを行い、木箱を使って議事録を北朝鮮側と共有している。

「1995年5月以降、彼らは箱を空にしたことはない。存在しない団体からは書簡を受け取れないというのが彼らの言い分だ」と、今週3500回目のミーティングで議長を務めたスイスのウルス・ゲルバー少将は言う。

木箱があふれないように、NNSCは数カ月に一度は空にするという。

米国との平和条約をずっと求めてきた北朝鮮は、休戦が「長いこと機能せず」、NNSCは「歴史のなかで忘れ去られている」と主張する。

朝鮮戦争を終わらせた休戦協定において、孤立する北朝鮮と裕福な民主主義の国である韓国は、厳密にはいまだに戦争状態にある。

749とはずがたり:2016/04/05(火) 14:03:54
>>748-749
<ゴースト団体>

北朝鮮は1995年にNNSCがポーランドを除外してから同団体を認めなくなった。その2年前には、スロバキアとチェコに分裂したのを機に、チェコスロバキアも外していた。

「彼らはわれわれをゴースト団体と呼ぶ」とゲルバー氏は語る。

朝鮮半島で唯一独立した軍事機関であるNNSCは冷戦後、毎年恒例の米韓軍事合同演習を監視する中立的なオブザーバーとして自らを変革した。同演習をめぐっては、北朝鮮は攻撃準備だと抗議する一方、米国・韓国側は防衛のためだとしている。

スイスとスウェーデンの将校たちは、定期的な査察を行うことで、こうした演習が休戦に違反しないよう目を光らせている。

NNSCはまた、韓国軍の前線に赴き、休戦について講義を行うなど教育プログラムも実施している。そして、NNSCが従うのはスウェーデンやスイス、米国の政府ではない。

「平和条約もしくは戦争だけが、われわれの任務を終わらせる」と、ゲルバー氏は話す。

<森林に響く地雷音>

鮮やかな赤色のスイス兵舎にはビリヤード台があり、カウベルが飾られている。一方、スウェーデン兵舎には暖炉やバイキングのヘルメットがある。

板門店が一触即発の緊張状態となる以前の1970年代初めごろは、北朝鮮軍の高官がスイス兵舎のバーを訪れることも時折あったという。

「まるでリゾート地のようだ。素晴らしいし、静かで、空気も新鮮だ」と、冒頭のスウェーデン代表団のエングマン空軍少将は語る。

だが、休日のキャンプのような雰囲気が生み出しかねない気の緩みを警戒してか、NNSCのメンバーは境界フェンスの向こうに潜む危険に対し厳戒態勢をとり続けている。北朝鮮政府が休戦を守っているかを確認できる独立した機関は他に存在しない。

北朝鮮の深い森のなかから、シカやイノシシが地雷を踏んだ音が聞こえてくる夜もある。

今年に入り最も騒がしかったのは、北朝鮮が国連決議を無視して1月に4度目の核実験を実施した後、韓国が流したスピーカー放送に対抗した北朝鮮のプロパガンダ放送だったという。

「いら立たしかった。眠れないなんていうレベルではない。耳栓が必要な夜もあった」と、エングマン氏は当時をこう振り返った。

(James Pearson記者 翻訳:伊藤典子 編集:下郡美紀)

750とはずがたり:2016/04/05(火) 14:12:45
やはり北朝鮮が主体的に─NSCCが能動的にではなく─チェコとポーランドのNATOの加盟で北朝鮮がその中立性を失ったと判断して構成国から追放した(expelled 〜 component)と云う事だな。
delegation 派遣団・troop 一団

もはや北朝鮮を監視出来なくなったポーランドだが会合には出席を続けているそうな。既に実質的に機能してないのにこんなのに派遣される軍人は貧乏くじだなぁ。。

Neutral Nations Supervisory Commission
https://en.wikipedia.org/wiki/Neutral_Nations_Supervisory_Commission
From Wikipedia, the free encyclopedia

Following the collapse of communism leading to Czechoslovakia and Poland joining NATO, and the dissolution of Czechoslovakia into the Czech Republic and Slovakia in 1993, North Korea believed the NNSC had lost its neutrality, and took the view that the NNSC had collapsed.[10] North Korea expelled the Czech component in 1993 and the Polish component in 1995.[11][12]

Since 1995 North Korea has not recognized the existence of the NNSC.[12] The Swedish and Swiss delegations continue to submit reports on South Korean troop movements to North Korea, which are ignored.[13] Poland continues to attend NNSC meetings, although it is no longer able to observe troop movements in North Korea.[14]

751名無しさん:2016/04/05(火) 23:18:11
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040500611&amp;g=pol
慰安婦合意、履行に準備必要=韓国

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は5日の記者会見で、昨年末に日韓が合意した元慰安婦を支援するための財団設立に関し、「合意の円滑な履行のため、必要な準備を十分に行うことが重要だ」と述べるにとどめ、設立時期について言及を避けた。報道官は「できるだけ早く財団を通じて被害者の名誉と尊厳が回復し心の傷が癒やされるよう努力する」と語った。(2016/04/05-15:56)

752名無しさん:2016/04/09(土) 17:17:10
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040600098&amp;g=pol
「第2次大戦戦没者を追悼」=長官の広島・平和記念公園訪問-米国務省

 【ワシントン時事】米国務省のトナー副報道官は5日の記者会見で、ケリー国務長官が先進7カ国(G7)外相会合の出席に合わせて広島市の平和記念公園を訪れることについて、「第2次世界大戦の全戦没者を追悼するためであり、オバマ大統領が提唱する『核なき世界』(の重要性を)を強調する意味合いがある」と語った。
 国務省がケリー長官の被爆地訪問の意義に言及したのは初めて。長官は11日、英仏独各国外相らと共に平和記念公園で献花し、広島平和記念資料館を視察する。
 副報道官は、長官が平和記念公園訪問などに関連して講演する計画などは「ない」と述べた。(2016/04/06-07:10)

753名無しさん:2016/04/09(土) 21:02:49
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040900179&amp;g=pol
指導者訪問、「広島宣言」明記へ=G7外相会合、10日に開幕

 5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)関連閣僚会合の第1弾となる先進7カ国(G7)外相会合が10日、2日間の日程で広島市で開幕する。喫緊の国際課題であるテロ対策などに加え、核軍縮への取り組みを討議。11日に発表する「広島宣言」には、世界の指導者による広島、長崎訪問や、核兵器国に透明性向上を促す文言を明記する方向だ。
 11日には核兵器を持つ米英仏の現職外相が初めて市内の平和記念公園を訪れ、他のG7外相とともに「核なき世界」を目指す姿勢を示す。
 議長を務める岸田文雄外相は、被爆地での初の開催となる今回の外相会合を通じ、「停滞する核軍縮をめぐる議論を再起動させたい」と意欲を示す。広島宣言では、核保有国と非保有国の双方が協力し、「現実的かつ実践的な取り組みを積み上げる」重要性を打ち出す。
 また、これとは別に出す共同声明には、フランスやベルギー、トルコなどで相次ぐテロや、欧州で深刻化する難民問題への対応が盛り込まれる。各国はテロ行為を断固として非難、結束して撲滅に取り組む決意を示す見通し。難民問題ではG7各国が固有の事情を超えて、どこまで共同歩調を取れるかも焦点となりそうだ。(2016/04/09-14:29)

754名無しさん:2016/04/10(日) 11:13:32
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160408/k10010471581000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_032
G7外相の平和公園訪問 “被爆の現実 実感に期待”
4月8日 10時35分
岸田外務大臣は、10日から広島市で開かれるG7=主要7か国の外相会合の際に各国の外相がそろって原爆資料館などを訪問することについて、「自分の目や心でさまざまなものを見てもらうことが重要だ」と述べ、被爆の現実に触れてもらうことに期待を示しました。
10日から2日間、広島で開かれるG7の外相会合では、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスをはじめ各国の外相がそろって広島市の平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するとともに、原爆資料館を訪問することになっています。
これについて岸田外務大臣は閣議のあと記者団に対し、「おととし広島市で開かれた非核保有国の外相会合の際、参加国の外相に平和公園を訪れてもらったが、『一生忘れられない思い出になった』などといった感想を口々に言っていた。今回も、それぞれの外相が自分の目や心でさまざまなものを見てもらうことが重要だ」と述べ、各国の外相に被爆の現実に触れてもらうことに期待を示しました。

755名無しさん:2016/04/10(日) 11:39:30
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160410/k10010473641000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_002
G7外相会合 被爆地・広島できょう開幕
4月10日 6時16分
G7=主要7か国の外相会合が10日、広島市で開幕します。議長を務める日本は、被爆地での開催を「核兵器のない世界」を目指す国際的な機運を高めるきっかけにしたい考えで、岸田外務大臣は9日夜、会合終了後に発表する予定の核軍縮に関する「広島宣言」について、G7として力強いメッセージになるという見通しを示しました。
G7外相会合は、来月の伊勢志摩サミットに合わせて全国各地で行われる10の閣僚会合の最初の会合で10日、広島市で開幕します。2日間にわたって行われる外相会合は岸田外務大臣が議長を務め、初日の10日はテロや難民問題など国際的な課題への対応策を巡って意見が交わされる見通しです。
また、8年ぶりにアジアで行われることから、南シナ海での中国の軍事拠点化の動きや、北朝鮮の拉致、核や、ミサイル問題など、アジア地域の懸案についても重点的に議論されるものとみられます。
日本としては、被爆地で初めて開催される今回の会合を、「核兵器のない世界」を目指す国際的な機運を高めるきっかけにしたい考えで、今回の会合の成果の1つとして、会合終了後に核軍縮・不拡散に関する「広島宣言」を発表する方向で調整を進めています。
これに関連して岸田外務大臣は9日夜、カナダのディオン外相と会談し、「広島宣言は、核兵器のない世界に向け、核保有国と非保有国の協力の在り方を世界に示すものだ」と述べ、G7として力強いメッセージになるという見通しを示しました。
11日は、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスをはじめ、各国の外相がそろって、広島市の原爆資料館や原爆慰霊碑などを訪れることにしていて、国際的な核軍縮の動きが停滞するなか、核保有国と非保有国がともに参加するG7として、どのようなメッセージを打ち出せるかが焦点です。
世界の核軍縮 現状は
世界では、核兵器の保有国による軍縮が停滞する一方で、核兵器が拡散する脅威は一段と高まっています。
世界各国が保有する核弾頭の数は1万5000発に上るとされ、その90%以上をアメリカとロシアが保有しています。オバマ大統領は就任早々、「核兵器のない世界」を目指すとして核軍縮に取り組む姿勢を示しましたが、その後、ウクライナ情勢などを巡って米ロ関係は冷え込み、核兵器の削減に向けた動きは停滞しています。また、この間にも核保有国のうち中国が核武装を強化していると指摘されています。
こうしたなか去年開かれた5年に1度のNPT=核拡散防止条約の再検討会議では、核軍縮の遅れにいらだつ国々が核兵器を法的に禁止すべきだと訴えましたが、核保有国が強く抵抗しました。結局、世界の核軍縮の指針ともいえる「最終文書」が採択されないまま会議は閉幕し、核軍縮を巡る厳しい現状が浮き彫りになりました。
一方、核兵器の不拡散を巡っては長年にわたって核兵器開発の疑惑が持たれていたイランが、去年、核開発を大幅に制限するのと引き換えに欧米各国が制裁を解除することで合意に達し、一定の進展が見られました。しかし、NPTからの一方的な脱退を宣言している北朝鮮は、ことし1月、国連安保理の決議を無視して4回目の核実験を強行し、安保理は先月、北朝鮮との貿易を大幅に制限するなどかつてなく厳しい制裁を科す決議を全会一致で採択しました。またNPTに加盟していないインドやパキスタンも核兵器の放棄に応じていないほか、イスラエルも核兵器の保有を続けているとみられています。
さらに、イスラム過激派組織が勢力を伸ばすなか、核兵器や核物質がテロリストの手に渡れば、大惨事につながりかねないという懸念もあり、先月ワシントンで開かれた核セキュリティーサミットでは、各国の首脳が核物質を厳しく管理していく重要性を確認しました。

756名無しさん:2016/04/10(日) 11:39:41
>>755

米国務長官 広島訪問のねらい
10日から広島市で始まるG7=主要7か国の外相会合で、アメリカの閣僚として初めてケリー国務長官が被爆地、広島を訪れることについて、アメリカ政府は「核兵器のない世界を目指すオバマ政権の姿勢を示すものだ」として、核軍縮に向けた機運をいまいちど高めるきっかけとしたい考えです。
核兵器のない世界を理想に掲げるオバマ大統領は、2010年に当時のルース大使をアメリカの駐日大使として初めて広島の平和記念式典に派遣し、その後も、高官による広島や長崎への訪問が続いています。
こうしたなか、G7の外相会合に合わせて今回、ケリー長官が閣僚として初めて広島を訪れることについてアメリカ政府は、自然な流れのなかで訪問を実現できるよい環境だと考えているとみられます。
ただ、アメリカ国内には今も、原爆投下は戦争の早期終結のために必要だったという意見が根強く、アメリカ政府は、今回の訪問が原爆投下の正当性の議論につながることを懸念しています。このため今回の訪問については、過去の原爆投下について議論するものではなく「第2次世界大戦で戦死したすべての人々を追悼するものであり、核兵器のない世界を目指すオバマ政権の姿勢を示すものだ」と強調しています。
残りの任期が1年をきっているオバマ政権としては、今回のケリー長官の広島訪問を通じて、核兵器のない世界という理想は変わっていないことを強調し、核軍縮に向けた機運をいま一度高めたい考えです。
アメリカと原爆
アメリカでは広島と長崎への原爆投下について「戦争の終結を早め、多くのアメリカ兵の命を救った」などとして、正当なものだったという認識が根強くあります。1995年には首都ワシントンにあるスミソニアン博物館が、広島に原爆を落とした「エノラ・ゲイ」や、広島と長崎の被害について展示することを計画しましたが、退役軍人の団体やアメリカ議会などから「日本が戦争の被害者のような印象を与える」などと激しい反発が起き、展示は中止に追い込まれました。
一方で、時間の経過とともに、アメリカ国民の意識は徐々に変化しているという指摘もあります。去年、アメリカのシンクタンクが行った調査では、「原爆投下は正当だった」と答えた人が56%と依然、過半数に達しているものの、15年前と比較すると7ポイント低下したことが明らかになりました。
また、2009年に就任したオバマ大統領は、「核兵器のない世界」を目指す姿勢を打ち出し、核軍縮への機運を高めました。そして、翌年の2010年には、当時のルース大使をアメリカの駐日大使として初めて広島の平和記念式典に派遣しました。ルース大使は長崎の式典にも出席したほか、後任のケネディ大使も広島と長崎の式典に出席するなど、政府高官の訪問が続き、今回、アメリカの閣僚としては初めてとなるケリー国務長官の訪問につながりました。
核軍縮以外の焦点
欧米各国は、フランスのパリやベルギーのブリュッセルで大規模なテロ事件が相次いだことを踏まえて、テロや過激主義への対策を喫緊の課題として話し合いたい考えです。具体的には、シリアやイラクを拠点とする過激派組織IS=イスラミックステートに対する軍事作戦の現状や、テロ組織への資金の流れを断つ方策、さらに内戦が続くシリアの安定化をいかに進めていくかなどテロ対策を包括的に協議するとみられます。
また、アジア太平洋地域の安全保障を重視するアメリカは、中国が南シナ海で軍事的な活動を活発化させている問題についても議論したい考えです。アメリカ政府は、中国の習近平国家主席が去年9月、オバマ大統領との首脳会談のあと、南シナ海を軍事拠点化しないと明言したにもかかわらず中国軍が活動を続けていると不満を強めていて、各国の外相と懸念を共有するねらいがあるとみられます。
このほか、欧米各国は、国連安全保障理事会の決議を無視して、核実験や弾道ミサイルの発射を繰り返す北朝鮮やウクライナ情勢など地域情勢についても意見を交わしたい考えです。

757名無しさん:2016/04/10(日) 11:40:09
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160409/k10010473321000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_006
岸田外相 G7外相会合を前に平和公園など視察
4月9日 18時44分
10日から広島市で開かれるG7=主要7か国の外相会合を前に、岸田外務大臣は各国の外相が訪問する平和公園などを視察し、準備の状況を確認しました。
G7外相会合は来月の伊勢志摩サミットを前に、10日から広島市で2日間の日程で開かれ、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスの外相が、各国の外相とともに広島市中区の平和公園を初めて訪れます。
これを前に岸田外務大臣は9日、現地を視察し、原爆資料館を訪れた後、平和公園のほぼ中央にある原爆慰霊碑の前で、外務省の担当者から外相たちが献花を行う際の立ち位置や手順について説明を受けました。
続いて岸田大臣は、公園内の広島国際会議場に開設された国際メディアセンターを訪れ、海外メディア向けにセンター内に設置された被爆の実態を伝えるブースなどを視察しました。さらに岸田大臣は、各国の外相が10日に訪れる予定の広島県廿日市市にある、世界遺産の厳島神社も訪れ、神社の担当者らとともに順路や説明の内容を確認していました。
岸田外務大臣は記者団に対し、「会議の内容も含めてまだ調整は続いているので、全力で準備を進めていきたい」と述べ、成功に向けて決意を示しました。

758名無しさん:2016/04/10(日) 14:35:38
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160410/k10010473871000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_001
北方領土に関する映画上映 沖縄北方相「関心持って」
4月10日 14時26分
島尻沖縄・北方担当大臣は北海道東部の別海町で北方領土に関するアニメ映画の上映会に出席したあと、記者団に対し、若い世代の人たちの北方領土問題に対する関心を高めることで、早期解決につなげていきたいという考えを示しました。
島尻沖縄・北方担当大臣は10日、北海道東部の別海町を訪れ、北方領土の色丹島で旧ソビエト軍の侵攻を受けて過酷な生活を送った日本人家族の姿などを描いたアニメ映画「ジョバンニの島」の上映会に参加しました。
政府は今年度の予算で、「ジョバンニの島」の上映会の回数を増やそうと、映画の使用料の政府負担分を拡充していて、上映会には地元の小学生や中学生など、およそ100人が参加しました。
このあと島尻大臣は記者団に対し、「若い人たちに正しい歴史認識を伝えていくことは大事だ。約70年前に何があったのか関心を持ってもらいたい」と述べ、早期解決につなげていきたいという考えを示しました。

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041000069&amp;g=pol
米大統領の広島訪問検討か=数時間滞在、演説も-Wポスト紙

 【ワシントン時事】米紙ワシントン・ポスト(電子版)は9日、オバマ大統領の側近らがオバマ氏の広島市訪問の可能性について検討し始めたと報じた。5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)出席後に数時間訪れる可能性があるものの、最終決定は下されていないという。
 政府高官は同紙に対し、大統領の広島訪問が実現した場合、2009年4月に「核なき世界」を提唱したプラハでの演説を想起させる演説が行われる可能性があると述べた。
 また、ホワイトハウス高官らは先進7カ国(G7)外相会合に出席するケリー国務長官が広島市内の平和記念公園を訪れることなどを「大統領訪問の可能性の露払い」と注視。一方、大統領の訪問が弱腰の外交姿勢を表しているとして野党共和党を中心に国内で批判される恐れも認識しているという。(2016/04/10-14:18)

759名無しさん:2016/04/10(日) 22:29:17
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041000198&amp;g=pol
各外相が厳島神社訪問=夫人は平和公園で献花

 先進7カ国(G7)外相会合に出席した各国外相は10日夕、岸田文雄外相の案内で広島県廿日市市厳島(宮島)にある世界遺産の厳島神社を訪問した。そろって境内を散策し、歓迎のため屋外舞台で披露された舞楽を鑑賞した。ケリー米国務長官が自らのスマートフォンで舞楽を撮影するなど日本の伝統文化に関心を示していた。各外相はこの後、島内の和風旅館に移り、夕食会に臨んだ。

 一方、英国、フランス、イタリア、カナダ各国外相の夫人は同日、岸田氏の裕子夫人とともに広島市の平和記念公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花。広島平和記念資料館(原爆資料館)も見学し、被爆者の証言を聞いた。また、裕子さんの母校の広島女学院高校を訪問し、平和教育などをめぐり意見交換した。 (2016/04/10-20:12)

760とはずがたり:2016/04/12(火) 12:34:15
結構凄いことが実現したと思う。

G7外相、広島平和公園で献花 核保有の米英仏現職で初
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASJ4B5K8HJ4BUTFK005.html
04月11日 12:36朝日新聞

G7外相、広島平和公園で献花 核保有の米英仏現職で初
原爆慰霊碑に献花する(左から)シュタインマイヤー独外相、岸田文雄外相、ケリー米国務長官、ハモンド英外相、ディオン加外相、モゲリーニ欧州連合外交安全保障上級代表(外相)=11日午前11時49分、広島市中区、代表撮影
(朝日新聞)
 広島市で開かれている主要7カ国(G7)外相会合に出席した各国外相が11日午前、同市の平和記念公園を訪れた。公園内の広島平和記念資料館(原爆資料館)を訪問し、原爆死没者慰霊碑に献花した。核保有国の米英仏の現職外相による公園訪問は初めて。

 各国外相は一列に並んで慰霊碑の前に進み、花輪を手向けた。その後、公園内の原爆ドームの近くまで足をのばし、視察した。外務省によるとケリー米国務長官の提案という。

 公園訪問後、岸田文雄外相は「『核兵器のない世界』に向けた機運を再び盛り上げるための歴史的な一歩となった」とのコメントを発表した。

 G7外相の平和記念公園訪問は、広島が地元の岸田文雄外相の強い意向で実現した。G7で結束して、核軍縮・不拡散の意思を示す狙いだ。11日午後には、「核兵器のない世界」の実現をアピールする特別文書「広島宣言」を発表する。

 原爆を投下した米国からは、ケリー国務長官が訪問した。これまで駐日米大使らが公園を訪問したことはあるが、現職閣僚は広島市訪問自体が今回初めてだ。

 岸田氏は11日午前、ケリー氏と会談。岸田氏は「G7外相とともに平和公園を訪問する歴史的な日になる。広島から世界に向けて力強い明確な平和のメッセージを発信したい」と述べた。ケリー氏は「広島は私にとっても特別な意味を持つ場所だ。平和記念公園はいかに平和が重要かを示すものだ。大量破壊兵器などの絶滅のために両国がリーダーシップをとる必要がある」と語った。

 ケリー氏に同行した米政府高官は取材に対し、ケリー氏は公園訪問で、原爆投下を謝罪する表現は使わないものの、「憎しみではなく愛情の心で再建してきた広島の市民と米国民が、戦争を憎み、平和に向けた決意を共有する」と語った。「日米の和解が並外れたレベルにまで達したことを示すことになるだろう」とも述べた。

 さらにこの高官は「核兵器を唯一使った国として、米国は世界の核軍縮に向けて努力をする責任がある」とも語り、オバマ政権が2009年のプラハ演説で提唱した「核なき世界」の実現に向けて今後も努力していく考えを強調した。

761とはずがたり:2016/04/12(火) 12:36:01

<G7外相広島訪問>中国、日本の戦争責任強調
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/world/mainichi-20160412k0000m030122000c.html
04月11日 23:35毎日新聞

 主要7カ国(G7)外相会合に参加した外相らが広島市の平和記念公園を訪問したことを受け、中国政府は日本の戦争責任を強調する見解を表明。米主要メディアは、原爆投下に対する謝罪ではないとの米政府の立場を伝えた。

 ◇中国

 【北京・河津啓介】主要7カ国(G7)外相会合に参加した外相らが広島市の平和記念公園を訪問したことについて、中国外務省の陸慷(りく・こう)報道局長は11日、定例記者会見で「我々は、被爆地訪問を計画した日本政府の目的が、自らが軍国主義の道を再び歩まない決意表明であることを望む」と述べ、日本の戦争責任と関連づける評価を示した。

 陸局長は会見で、広島、長崎への原爆投下について「罪のない日本の国民が被った苦痛に同情する」としながら、「日本の軍国主義分子の頑迷な幻想を徹底的に打ち砕いた」とも述べた。

 中国は昨年春の核拡散防止条約(NPT)再検討会議でも、被爆地訪問を呼びかける日本の提案を「歴史歪曲(わいきょく)の道具としている」と反対。今回のG7外相会合の直前には、一部の中国メディアが「日本は自らが第二次大戦の『被害者』だと強調しようとしている」と批判する記事を掲載していた。

 中国指導者による被爆地訪問では、1983年11月、胡耀邦・中国共産党総書記(当時)が長崎市の平和公園を訪ねて原爆犠牲者に献花したことがある。

 一方、G7外相会合が「東シナ海、南シナ海の状況を懸念する」などと明記した声明を出したことについて、陸局長は「まだ見ていない」と断りつつ「G7が個別の国の利益に束縛されるなら、G7の役割や発展にプラスにならないだろう」と不快感を示した。

 ◇欧米

 欧米の主要メディアもケリー氏の広島訪問を取りあげ、関心の高さを示した。

 米CNNは「広島への謝罪なし」と題した記事を電子版に掲載。ケリー氏に同行した米政府高官の「広島を訪問する目的は謝罪かと問われれば、答えはノーだ」との発言を引用し、謝罪ではないとの米国側の立場を強調した。

 一方で「ケリー氏の広島訪問は、オバマ米大統領が来月、G7サミットのため訪日する際に、広島を訪問することへの道を開くことになり得る」とも指摘した。

 英BBC(電子版)はケリー氏の訪問理由を「領土問題を巡る中国の強硬姿勢に対する懸念が、日本や他の米国の同盟国に影響を与えており、日米関係の強化に向けた努力が必要とされているため」と分析した。【福岡静哉】

762とはずがたり:2016/04/12(火) 16:21:34
毎度のことだけどこうも堂々と一方的に韓国を侮辱する文章を垂れ流すと韓国に味方したくも成ってくる非常に反日的で国益を損なう記事だな〜。。

2016.4.12 11:00
【竹島を考える】
「日本には哲学がない」「低級な侍文化」…韓国〝侮日〟教授が唱える山法師の論理 振り回される歴史は今も 下條正男・拓殖大教授
http://www.sankei.com/west/news/161205/wst1612050002-n1.html

 戦後の日韓関係は、振り回され続けた歴史でもあった。その最初が1952(昭和27)年1月18日の「李承晩ライン」の宣言と、韓国政府による竹島の不法占拠である。それが54年10月28日、韓国の卞栄泰外相が、竹島を「日本による韓国侵略の最初の犠牲の地」として以来、日本は侵略国家とされてしまった。

抑留の漁船員を盾に無理難題の韓国政府

 その歴史認識は、53年12月12日、公海上に引かれた「李承晩ライン」を根拠にした「漁業資源保護法」の制定で増幅された。それに違反した者は「3年以下の懲役、禁錮または50万円以下の罰金に処」され、日本人漁船員の拿捕(だほ)抑留が急増したからだ。

 それも韓国政府は、拿捕抑留した日本人漁船員を盾に、日本政府に対して無理難題を吹っかけたのである。

 その事実は、3月27日付の中央SUNDAY(電子版)で韓国・世宗大学の保坂祐二氏が紹介した昭和31年4月13日の「第24回国会、衆議院法務委員会議録第24号」でも確認できる。保坂氏は、重光葵外相が「韓国が独立国としてやった処置…日本はこれを否認していくことはできぬ」とした発言を「日本側が李ラインを容認した証拠」と曲解したが、重光外相は李ラインを容認などしていない。

「日本が李ライン容認」と曲解

 重光外相が「韓国が独立国としてやった処置」としたのは、日本人漁船員を拿捕抑留した韓国政府が、刑期を終えた日本人漁船員と引き換えに、日本に密航して大村収容所に収容された韓国人と、戦前からの韓国人刑余者の釈放を求めたことに対してである。

 それも「前科9犯ないし12犯の者が13人、6犯ないし8犯の者が80人、3犯ないし5犯の者が240人」を釈放して、日本に止まるかどうかは刑余者の自由意思に任すとの内容であった。

 この時、韓国政府は、拿捕抑留した日本人漁船員を人質として、難題を要求したのである。保坂氏はそれを「日本が李ラインを容認した」と曲解し、拿捕抑留された日本人漁船員の存在は無視したのである。

763とはずがたり:2016/04/12(火) 16:35:50
多分日本が先に目を着けた竹島だと思うけど敗戦後日本が実効支配力を失っていたから韓国に奪われたということであろう。法学的な正しさに関しては素人で全く判らないけど沖縄や南千島と同じく仕方が無い事である。歴史的に日本の領有が正統だったとしてもどうしようも無い気がする。領土を棚上げにして漁業権さえ確保出来れば勝ちであろう。

2016.3.22 15:00
【竹島を考える】
歴史論争で勝ち目ない韓国、「対外宣伝工作」に戦術変更 下條正男・拓殖大教授
http://www.sankei.com/west/news/160322/wst1603220005-n1.html

 竹島問題は今、新たな局面を迎えている。韓国側は「独島(竹島の韓国名)は韓国固有の領土」と標榜(ひょうぼう)し、竹島を所管する慶尚北道を中心に、攻撃的な対外宣伝工作に乗り出したからだ。

 3月14日付の『慶北毎日』(電子版)などによると、慶尚北道では今後、韓国観光公社の海外支店31カ所、在米の韓国学校千校余りと協力関係を構築し、500人の外国人リーダーを選抜して、「独島広報」に活用するという。

歴史論争避け、宣伝工作選択した韓国

 これは、島根県竹島問題研究会が『竹島問題100問100答』を刊行し、昨年8月に『最終報告書』をまとめたことと無関係ではない。竹島が歴史的に韓国領でなかった事実が明らかにされ、韓国側では戦術の変更を余儀なくされたからである。

 だが、韓国側の「独島は韓国固有の領土」の宣伝文には意味がない。竹島を「固有の領土」と言えるのは、「無主の地」であった無人島を1905年に領有した日本だけである。1952年、韓国政府が「李承晩ライン」を宣言した当時の竹島は、すでに「無主の地」ではなかったからだ。韓国側が竹島を「固有の領土」とするためには、1905年以前に、竹島が韓国領だった確証を示さなければならなかったのである。

 しかし、韓国側は歴史領域での論争を避け、対外宣伝工作を選択した。

「見える」のは、独島か鬱陵島か

 ではなぜ、韓国側は歴史論争を忌避したのか。それは、韓国側には伝統的に歴史を演繹(えんえき)的に捉える傾向があるからである。

 1954年、韓国政府が竹島を武力占拠すると、日本政府は国際司法裁判所への付託を提案したが、韓国政府はその際、竹島を日本による「韓国侵略の最初の犠牲の地」とする「歴史認識」を示して、提案を拒絶した。

 以来、韓国側は、「独島はわが領土」とする先入見を根拠に、文献を読むことになる。そのため、『世宗実録』の「地理志」や『新増東国輿(よ)地勝覧』(いずれも朝鮮で編纂(へんさん)された地誌)などに「見える」という記述があると、韓国側では「欝陵島から独島が見える」と解釈し、竹島を韓国領である証拠とした。

 ところが、17世紀に日本と朝鮮が欝陵島の領有権を争った際、朝鮮側ではその「見える」を「朝鮮半島から欝陵島が見える」と解釈し、欝陵島を朝鮮領とする論拠としていたのである。

文献批判怠る韓国

 この事実を島根県のウェブサイト(『実事求是』)で明らかにすると、慶尚北道の独島研究組織の議長を務める崔長根教授は、3月3日付の『大邱日報』(電子版)で「下條の主張は捏造(ねつぞう)した論理」として、「日本政府の独島政策は、下條の論理をそのまま反映している」と非難。名古屋大学の池内敏氏も『竹島-もうひとつの日韓関係史』(中公新書)を刊行して、その一部で私を論難したのである。

764とはずがたり:2016/04/12(火) 16:36:07
>>763-764
 だが両氏は、文献を恣意(しい)的に解釈しただけで、文献批判を怠っていた。崔氏は「1454年に編纂された『世宗実録』の「地理志」が、1530年に編纂された『新増東国輿地勝覧』に影響を与えたとするのは、驚きの論理だ」と私を批判した。

 しかし、『世宗実録』の「地理志」は、実際に『東国輿地勝覧』が編纂される過程で参考にされていた。

 それは、『東国輿地勝覧』の一部となる『慶尚道続撰地理志』の序文で「我が世宗朝、また地理誌を撰し、これを史館に蔵す。その規模節目に於いて詳らかかつ尽くせり」とし、今その「前志を続撰し、以て闕略を補す」としているからだ。

 これは『世宗実録』「地理志」に続けて、不足の部分を補筆した、との意味である。

島根県の竹島研究を「論破した」と錯覚?

 この崔氏と五十歩百歩の解釈をしているのが、池内氏だ。池内氏は逆に、「下條の論じ方」は、「後世の解釈を前代に持ち込んでいるという点で誤りである」と批判したのである。だが『新増東国輿地勝覧』と『世宗実録』「地理志」には、竹島(独島)に関する記述は一切ない。

 そこで、竹島問題の核心的文献となるのが、1770年に刊行された『東国文献備考』だ。『東国文献備考』の分註には、「于山島は所謂倭の松島なり」とあるため、韓国側では「後世の解釈を前代に持ち込んで」、『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』にある于山島を松島(現在の竹島)と解釈し、竹島が韓国領である証拠としてきたのである。

 だがその分註は、改竄(かいざん)された事実が明らかにされ、韓国側には竹島(独島)を韓国領とする歴史的根拠がなくなってしまった。池内氏はその事実には触れず、韓国側の主張に沿って『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』を解釈し、私の解釈を論難することで、島根県の竹島研究を論破したと錯覚したのである。

「夷を以て夷を制す」のが得意な韓国

 池内氏はその著書の後半で、竹島問題研究会の塚本孝氏らの研究に言及しているが、いずれも詭弁(きべん)を弄しただけである。

 韓国(及び中国)では「夷(い)を以て夷を制す」戦術が得意なようで、外国人を用いて対外宣伝をしてきた。

 かつては、『史的検証竹島・独島』(岩波書店)と『竹島=独島論争』(新幹社)を刊行した島根大名誉教授の故内藤正中氏が、その役割を果たしてきた。だがそれは、もろ刃の剣。荒唐無稽な論理は、それが蟻の一穴にもなる。

 近年、韓国側が対外宣伝工作に重点を置くようになったのは、歴史論争では勝算がないことに気づいた証左である。

765とはずがたり:2016/04/12(火) 16:39:22
日韓に影落とす竹島問題、まずは一緒に漁させて-地元漁業関係者
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2015-02-12/--i61fuf3f
Isabel Reynolds、広川高史
2015年2月12日 09:58 JST 更新日時 2015年2月12日 12:32 JST

かつては日本の漁民がアシカやアワビの漁場 として利用していた島根県沖の竹島(韓国名・独島)。その領有をめぐ る問題が日韓関係に影を落とし続けている。韓国の実効支配下にある竹 島周辺から事実上締め出されている日本の漁業関係者からは、せめて韓 国側と同じように周辺での漁ができるよう望む声が出ている。
日本外務省のウェブサイトによると、韓国は1954年以降、警備隊員 を駐留させている。竹島から約158キロの距離にあり、日本の有人島と しては最も近い位置にある島根県の隠岐の島では約1200人が漁業を営むが、1人として竹島に上陸したことはない。
島根県漁港漁場協会理事の濱田利長氏は1月下旬、隠岐の島を訪れ た外国メディア記者に対し、「竹島が帰ることが一番いいことですが、 なかなか今の現状では到底、来年、再来年といった早い時期には帰らん と思っております。できれば、韓国の漁業者とわれわれ、隠岐の漁業者 が竹島で共同で漁業できるようなことになれば」と語った。
テンプル大学日本校のロバート・デュジャリック現代アジア研究所 ディレクターは、日本が竹島をめぐる問題で韓国から譲歩を引き出す可 能性はゼロだ、との見方を示す。

漁業権
島根県のウェブサイトは、竹島周辺で、アワビ、サザエ、ワカメ、 イワノリ、テングサを対象とした漁業権を設定しているが、現状は「韓 国が竹島を実力支配しているため、漁業権に基づく操業が事実上できな いことは関係者の共通した認識」と記述している。1999年発効の日韓漁 業協定は、竹島周辺を含む海域を「暫定水域」に設定。両国の漁船がそ れぞれ操業できることになっている。
竹島に近い韓国の鬱陵(ウルルン)島にある鬱陵郡のジョン・ソン ファン氏は、「独島が日本に帰属すると言うのは完全にばかげたこと だ。日本の漁民はもっと漁がしたいから領土のことを言っている」と語 った。鬱陵の漁業者団体代表、ジョン・ヨンファン氏も、日本の漁民に 抗議されるようなことはしていない、と話している。

竹島の日
日韓両政府ともに、自国が竹島を利用していた歴史を示す資料があると主張している。人口1万5000人の隠岐の島では、竹島をめぐる問題 から目をそらすことはできない。フェリー乗り場には「竹島は今も昔も 隠岐の島」と書かれた大きな立て看板が見える。役場にも竹島の領有権 確立を求める垂れ幕がかかっている。
2012年には当時の李明博大統領が韓国のトップとして初めて竹島を 訪問。日本が駐韓大使を一時帰国させる事態に発展している。島根県 は05年に2月22日を「竹島の日」とする条例を制定。韓国ではこれに反 発するデモが発生し、慶尚北道はこれまで友好関係にあった島根県との 交流を取りやめている。

3人
隠岐の島に住む八幡昭三氏(86)は若い人とか一般の人々は竹島には あまり関心を寄せてこなかったが、最近はメディアが問題を取り上げて いることもあり、島民の韓国への感情は悪化してきているという。

隠岐の島の八幡氏は、少年時代にアシカの子どもを飼っていた経験 を今でも覚えている。八幡氏のおじは1930年代に竹島で漁を行っていた が、終戦後は二度と竹島を訪れることはできなかったという。韓国が一 方的に竹島を奪い占領したと訴える八幡氏は、今は普通の状況ではな く、韓国には自分たちとうまくやっていける道を考えてほしい、とい う。
韓国政府のウェブサイトによると、竹島には漁師とその妻、詩人の 3人が現在住み、約30人の警察官が駐在している。

米国
テンプル大日本校のデュジャリック氏は、米国は東アジア地域での 中国の影響力を限定するとともに、対北朝鮮政策での協調を進める上 で、日韓の協力を望んでいると指摘。竹島をめぐる問題は、中国と北朝 鮮を利しこの地域における米国の立場を難しくするだけだ、と話している。
ブリンケン米国務副長官は9日、ソウルで記者団に対し、日本と韓 国は米国の最も緊密なパートナーであり、日韓が直面しているいくつか の難しい問題をうまく処理するよう促し続ける、と語った。

--取材協力:Sam Kim、沢和世、Juwon Park.

766とはずがたり:2016/04/12(火) 16:41:39
1998年にはなんとに暫定水域(両国が共に利用でき、水産資源を共同管理していく水域)なんかが協定で設置されたんか!お互いどういう心算だったんか??

2011/8/315:44:53
竹島は漁業権どうなてますか
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1468037479

ベストアンサーに選ばれた回答
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chaigou54さん 2011/8/319:45:09
1998年11月28日に「漁業に関する日本国と大韓民国との間の協定」(「新協定」)の署名が行われ、竹島をないものとした海域の中間線付近に暫定水域(両国が共に利用でき、水産資源を共同管理していく水域)を設置した。

暫定水域では韓国の漁具は海底に置くものが中心で、日本の底びき網漁船が網を引くと知らずに韓国の網やかごを引っ掛けてしまい、多額の賠償金を取られることがあるため、鳥取県の沖合底びき網漁船はトラブルを恐れて暫定水域に入れません。
こうして暫定水域は名ばかりで日本漁船は締め出されており、まして竹島近辺は航行さえ不可能です。

767名無しさん:2016/04/14(木) 23:47:33
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041100636&amp;g=pol
広島訪問の大切さ伝える=大統領報告を明言-米国務長官

 先進7カ国(G7)外相会合に出席したケリー米国務長官は11日、広島市で記者会見し、平和記念資料館(原爆資料館)訪問について「胸をえぐられるような非常に厳しい内容で、戦争がいかなる惨禍をもたらすかを想起させられた」と述べた。その上で「(オバマ)大統領には必ず私が目の当たりにしたことを報告し、いずれかの段階での(広島)訪問がいかに大切かを伝えたい」と強調した。
 長官は資料館の芳名録に「世界中の誰もがこの資料館の力を見て感じるべきだ」と記帳したことに触れ、「米大統領もいつかこの中の一人となって来てほしいと思う」と述べた。長官はオバマ大統領が「公に広島にいつかは行きたいと言っている」とも指摘した。(2016/04/11-22:28)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041100544&amp;g=pol
「オバマ氏は被爆地訪問を」=トルーマン元米大統領の孫語る

 【ワシントン時事】日本への原爆投下を命じたトルーマン元米大統領の孫で元記者のクリフトン・トルーマン・ダニエルさん(58)は11日までに時事通信の電話取材に応じ、自身の被爆地訪問経験を踏まえて「オバマ大統領に被爆地の訪問を促す。妥当だと思う」と語った。原爆投下の是非については「戦時に正しい決定は行われない。祖父を愛している」と擁護した。一問一答は次の通り。
 -オバマ大統領が広島訪問を検討している。
 私は2012年に家族と一緒に広島、長崎両市を初訪問した。被爆者の話に耳を傾け、原爆の恐ろしさを知り、二度と使用してはいけないと思った。被爆者から自分たちの経験を伝え続けてほしいと求められた。私はオバマ大統領に被爆地訪問を促す。
 -被爆地訪問であなたの中で変わったものは。
 大量の核兵器が存在する世界の危険性を認識した。これまで核兵器について考えてこなかった。被爆者の対応や思いやりに恐れ入っている。彼らが謝罪を求めていない事実に米国人はショックを受ける。
 -日本は米国の「核の傘」に守られている。
 現実の世界は恐ろしく複雑だ。(核兵器保有を追求している)北朝鮮にはわれわれの常識は通用しない。オバマ大統領の被爆地訪問は象徴的かもしれないが、とてつもなく大きな意味もある。人々の考え方を変えるために小さな一歩を積み重ねていくしかない。
 -原爆決定は正当だったと思うか。
 原爆投下が本当に戦争を終結させたのかどうかは分からない。当時はソ連の宣戦布告もあった。私にとって重要なのは議論を続けることではなく、(日米)双方が話し合い、互いの見方を理解することだ。戦時に正しい決定は行われないと思う。そして祖父を愛し、尊敬している。(2016/04/11-15:47)

768名無しさん:2016/04/16(土) 16:33:13
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041100495&amp;g=pol
米大統領、広島訪問判断へ=「核なき世界」推進の機会に

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は、ケリー国務長官が11日に広島市の平和記念公園を訪問したことを踏まえ、5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の出席に合わせて現職大統領として初めて被爆地・広島を訪問するかどうかを近く判断する。11月の米大統領選の行方を含め、国内外の政治情勢に与える影響を見極める考えだ。

 オバマ氏は、ケリー長官が「大統領も(広島に)来てほしい」と述べていることを重視するとみられる。大統領の広島訪問が実現した場合、サミット後にヘリで移動して数時間滞在し、2009年4月のプラハ演説で唱えた「核なき世界」の推進を訴える演説を行う可能性がある。
 オバマ氏はこれまで、被爆地との関係構築を少しずつ進めてきた。10年にルース駐日大使(当時)を広島の平和式典に派遣。12年以降、米大使の広島、長崎の両式典参列は恒例となった。
 一方で、ホワイトハウス高官は、オバマ氏の被爆地訪問を「米国民がどのように受け止めるか」を懸念している。米調査機関ピュー・リサーチ・センターが昨年4月に実施した世論調査によると、米国人の56%が「原爆投下は正当だった」と回答。戦争終結を早め、結果的に多くの人命を救ったとみている。
 仮に大統領が原爆死没者慰霊碑に献花した時に拝礼すれば、「謝罪と受け取られる可能性もある」(ホワイトハウス高官)。オバマ氏は09年11月、訪日で天皇陛下に深々とお辞儀をしたことが「卑屈だ」(米メディア)との批判を受けた。
 一部の知日派は「日本の首相に対し真珠湾訪問を要求する声が出てくるだろう」と指摘する。大統領選を控え、オバマ氏の広島訪問が野党共和党や退役軍人会から弱腰外交と攻撃され、日米関係が批判の的にされる恐れもある。(2016/04/12-00:33)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041200347&amp;g=pol
オバマ氏広島入りに期待=G7外相会合「歴史的一歩」-菅官房長官

 菅義偉官房長官は12日午前の記者会見で、5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)で来日するオバマ米大統領の広島訪問について、「米国が決めることだ」とした上で、「世界の指導者が広島、長崎を訪問し、被爆の実情に触れることは、核兵器のない世界に向けた国際的な機運を高める意味で極めて重要だ」と期待感を示した。
 また、先進7カ国(G7)外相会合が核軍縮に関する「広島宣言」を発表したことに関し、「G7の枠組みで広島宣言を取りまとめ、各国外相が被爆の実情に触れたのは歴史的な第一歩だ」と評価。「今回の成果を伊勢志摩サミットにつなげ、国際社会の議論をリードしたい」と語った。(2016/04/12-12:03)

769名無しさん:2016/04/16(土) 20:45:51
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041300072&amp;g=pol
大統領訪問を前向き検討=広島は「核なき世界の象徴」-米報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は12日の記者会見で、オバマ大統領が5月に訪日する際の広島訪問は決まっていないとしながらも、「人類初の被爆者がいる都市ほど『核なき世界』への取り組みを象徴的に示す場所はない」と強調し、前向きに検討していることを明らかにした。
 報道官は「広島市は恐ろしい破壊をもたらす人類の悲劇的な能力を象徴している。このことは大統領が『核なき世界』を目指す中で核安全保障サミットを開催してきた理由の一つになっている」と指摘した。(2016/04/13-12:07)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041300768&amp;g=pol
広島宣言、訳は適切=「非人間的苦難」めぐり川村外務報道官

 外務省の川村泰久外務報道官は13日の記者会見で、先進7カ国(G7)外相会合で採択された核軍縮に関する「広島宣言」をめぐり、外務省の翻訳に異論が出ていることに反論した。報道官は「訳の作成には全体の文脈に照らして適切な言葉を当てている」と語った。
 宣言には、広島、長崎が原爆投下で「極めて甚大な壊滅と非人間的な苦難を経験した」との一文がある。「非人間的な苦難」は英語原文では「human suffering」。humanは「人間の」という意味で、インターネット上では外務省の訳に対して、「無理がある」「広島の世論も考えて強引に訳した」などの批判が出ていた。これに対し、報道官は「宣言の趣旨を踏まえれば適切だ」と述べた。(2016/04/13-19:41)

770名無しさん:2016/04/17(日) 09:24:37
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041400383&amp;g=pol
慰安婦合意「責任持ち実施を」=菅長官

 菅義偉官房長官は14日午前の記者会見で、韓国総選挙で与党セヌリ党が惨敗したことに関し、「日韓関係の重要性については、韓国の与野党を問わず共通認識が存在している。さらに前に進めていきたい」と述べた。その上で、慰安婦問題に関する日韓合意について「両国にとって、責任を持って実施することが極めて重要だ」との考えを強調した。(2016/04/14-12:18)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041400830&amp;g=pol
慰安婦合意、着実履行促す=「蒸し返し」警戒-日本政府

 韓国総選挙で朴槿恵大統領を支える与党「セヌリ党」が大敗したことについて、日本政府は「厳しい結果だ」(外務省幹部)と受け止めている。慰安婦問題をめぐる昨年12月の日韓合意が着実に履行されるよう韓国側に働き掛けていく方針だ。
 菅義偉官房長官は14日の記者会見で、「両国にとって、責任を持って実施することが極めて重要だ」と指摘。選挙結果が日韓合意に与える影響については「考えられない」と否定した。
 日本政府は韓国総選挙が終われば、日韓合意に基づき、元慰安婦を支援する財団の設立や、ソウルの日本大使館前の少女像撤去などに向けた調整が本格化すると期待していた。ワシントンで行われた3月末の日韓首脳会談でも「誠実な履行」を確認したばかりだった。
 政府は今後、韓国政界の状況を注視するとともに、韓国側に合意実施を促していく考えだ。19日には外務省の斎木昭隆外務次官が林聖男韓国外務第1次官とソウルで会い、日韓合意の着実な履行を確認することにしている。 
 日韓議員連盟会長の額賀福志郎元財務相は14日の会合で、「国と国との約束だから、決めたことはしっかりとお互いに実行に移していくことが大事だ」と述べ、韓国側が慰安婦問題を蒸し返さないようくぎを刺した。
 韓国では、政権末期に対日強硬姿勢を強める傾向がある。残り任期2年を切った朴大統領に対し、日本政府内には「一度決断したことは信念を持って進める」との期待がある一方、自民党内からは「次第に身動きが取れなくなるのではないか」(中堅)と懸念する声も出ている。(2016/04/14-20:02)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041500904&amp;g=pol
サミットでテロ資金対策を=首脳被爆地訪問は「米国が先」-仏大使

 ダナ駐日仏大使は15日、東京都内の日本記者クラブで会見し、5月に開かれる主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)では「テロ組織の資金調達対策を取り決めてほしい」と要望した。
 パリやベルギーでのテロを踏まえ、「サミットではテロ対策が主要課題になる」と強調。テロ組織への資金流入を止め、若者を駆り立てる宣伝工作を広めないための各国間の情報共有を含む行動計画策定が重要だと訴えた。
 広島、長崎両市がサミット参加国の首脳に被爆地訪問を要請していることに関しては、オランド大統領の「日程計画には入っていない」と説明。一方で「日本政府から要請があれば、この問題について最初に考えて答えを出すのは米国だ」と述べた。(2016/04/15-19:00)

771名無しさん:2016/04/17(日) 10:41:19
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160414/k10010478561000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_066
日韓議連会長 選挙結果にかかわらず慰安婦合意は履行を
4月14日 14時36分
日韓議員連盟の会長を務める自民党の額賀元財務大臣は、派閥の会合で、韓国の総選挙で与党が大敗したことについて、パク・クネ(朴槿恵)大統領の政権運営への影響は避けられないとする一方、慰安婦問題を巡る日韓両政府の合意は選挙結果にかかわらず履行するよう求めました。
この中で、額賀元財務大臣は、韓国の総選挙でパク・クネ大統領を支える与党が過半数を割り込んで大敗したことについて、「今後、パク大統領の政権運営に影響を与えることは間違いない」と指摘しました。
そのうえで、額賀氏は、去年12月の慰安婦問題を巡る日韓両政府の合意について、「韓国の野党内には『合意をやり直せ』という意見も相当あるが、合意は国と国との約束であり、決めたことはお互いにしっかりと実行に移していくことが大事だ。パク大統領には2国間の約束をしっかりと守っていただきたい」と述べ、選挙結果にかかわらず合意を履行するよう求めました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160413/k10010477471000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_081
オバマ大統領の長崎訪問 市長が要請
4月13日 17時16分
来月の伊勢志摩サミットに合わせてアメリカのオバマ大統領の被爆地訪問への期待が高まるなか、長崎市の田上市長が13日、ケネディ駐日大使と面会し、オバマ大統領の長崎への訪問を要請しました。
11日まで広島市で開かれたG7=主要7か国の外相会合の際、アメリカのケリー国務長官は、閣僚として初めて、被爆地・広島で原爆の犠牲者を追悼し、記者会見で「すべての人が広島に来るべきでアメリカ大統領にもその1人になってほしい」と述べました。
来月の伊勢志摩サミットに合わせてオバマ大統領の被爆地訪問への期待が高まるなか、長崎市の田上市長は、13日、東京のアメリカ大使館でケネディ駐日大使と面会し、オバマ大統領の長崎訪問を求める要請文を手渡しました。
要請文では、オバマ大統領が2009年に核兵器のない世界を目指すと演説したことなど、これまでの取り組みに敬意を示したうえで、世界中に核兵器が1万6000発近く存在するなか、核廃絶に向けたリーダーシップを発揮するよう求めています。
そして「核兵器廃絶への揺るぎない決意を被爆地長崎から世界に発信してほしい」として、広島と同時に長崎も訪問するよう求めています。
ケネディ大使は田上市長に「オバマ大統領はサミットに合わせて広島に向かうことができるか検討していると聞いている」と述べたうえで、長崎への訪問要請については本国に伝えることを約束したということです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160412/k10010475861000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_107
外相 オバマ大統領の広島訪問に期待感
4月12日 11時59分
岸田外務大臣は閣議のあと記者団に対し、アメリカのオバマ大統領の被爆地広島への訪問について「個別の日程を申し上げるのは控える」としながらも、「世界の政治指導者に広島訪問を働きかけていきたい」と述べ、期待感を示しました。
11日まで広島市で行われたG7=主要7か国の外相会合では、アメリカのケリー国務長官が、第2次世界大戦で広島に原爆を投下したアメリカの現職の閣僚として初めて平和公園を訪れ、原爆の犠牲者を追悼しました。
これに関連して、岸田外務大臣は記者団に対し、アメリカのオバマ大統領の広島への訪問について「大統領の個別の日程を申し上げるのは控える」と述べました。そのうえで「被爆の実相に触れてもらうことは、核兵器のない世界への機運を高めるうえで重要であり、世界の政治指導者に広島訪問を働きかけていきたい」と述べ、期待感を示しました。
また、外相会合で南シナ海を巡る問題を取り上げ、海洋の安全保障に関する文書を発表したことに中国が不快感を示したことについて「不満の表明は承知している。ただ、G7各国がすべて強い関心を持って合意した内容を発表したのであり、しっかり説明していきたい」と述べました。

772とはずがたり:2016/04/21(木) 19:41:46
2016.3.25 07:03
不法占拠の韓国に打撃…竹島で戦前に鉱業権設定 日本の領有権証明に有力証拠発見 
http://www.sankei.com/west/news/160325/wst1603250016-n1.html

 韓国が不法占拠を続ける竹島(島根県隠岐の島町)をめぐり、戦前に政府が周辺でリン鉱石の試掘権を設定していたことを示す公文書が、県竹島資料室の調査で見つかったことが24日、分かった。竹島でのリン鉱石採掘については聞き取り調査などで知られていたが、それを裏付ける資料が確認されたのは初めて。関係者は「日本が当時、竹島を実効支配していた有力な根拠の一つ」と評価。日本が求めている国際司法裁判所での領有権問題の審理が実現した場合、有力な証拠になるとみられる。

 見つかった資料は、竹島周辺でのリン鉱石の試掘を認めた「試掘原簿」と、試掘の申請者が出願の際に添付した「鉱区図」。

 試掘原簿には、昭和14(1939)年6月、鳥取県に住む申請者2人に対し、竹島の島内と周辺海面の8万3800坪(27万平方メートル)でリン鉱石試掘権を政府が設定・登録したこと、戦後には別の人物に試掘権が移り、24年2月に期間満了を迎えて登録が抹消されたことなどが記されている。

 また、鉱区図によると、9年6月の出願段階では20万坪(66万平方メートル)分の試掘が申請されたが、最終的には13年8月、8万3800坪(27万平方メートル)分に申請を変更して、試掘権が認められた。

 これまでの調査で、当時、竹島周辺で盛んだったアシカ猟の従事者が猟に支障が出ると反対していたことが分かっている。今回見つかった資料からは、政府がアシカ猟に配慮して海岸線付近などアシカの生息区域を除外し、試掘権を認めた状況がみてとれる。

 県竹島資料室は「政府による鉱業権の設定は、まさに国家主権の行使。当時の日本が一帯を実効支配していた状況が確認できた意義は大きい」と指摘。竹島問題に詳しい下條正男・拓殖大国際学部教授(日本史)も「韓国が竹島を不法占拠する1952(昭和27)年以前に、韓国側が竹島に国家主権を行使した証拠は一切見つかっていない。今回の資料は、竹島問題が国際司法裁判所に付託された場合、日本が当時、竹島を占有していた実態を示す有力な根拠となる」と話している。

773名無しさん:2016/04/23(土) 13:29:42
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042000232&amp;g=pol
「広島の経験」伝達=米政府内で国務長官

 【ワシントン時事】カービー米国務省報道官は19日の記者会見で、ケリー国務長官が広島市の平和記念資料館(原爆資料館)を訪問したことについて「その経験を政府内の人々に確実に伝達した」と述べた。ケリー長官は11日に広島市で記者会見した際、オバマ大統領に被爆地訪問の大切さを伝えると語っていた。
 報道官は一方で、広島訪問をめぐるケリー長官とオバマ大統領とのやりとりの有無に関しては「私的な会話には言及しない」と明らかにしなかった。その上で「(被爆地)訪問がケリー長官にどのように影響を与え、彼が全ての人に原爆資料館の訪問を促そうとしているのを聞いたと思う」と語った。(2016/04/20-10:33)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042200393&amp;g=pol
オバマ大統領は広島訪問を=「謝罪意味しない」と日系米下院議員

 【ワシントン時事】米カリフォルニア州選出で日系3世のマーク・タカノ下院議員(民主)は21日、本会議で演説し、オバマ大統領に対して5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)出席に合わせて被爆地の広島を訪問するよう促した。また、同様の趣旨の書簡も公表した。
 タカノ氏はこの中で、大統領の広島訪問は「米国を代表して謝罪することを意味しない」と強調。むしろ「世界最大の軍の司令官として、世界最多の核弾頭を保有する司令官として、その破壊力のすさまじさを認識していることを示すシグナルとなる」と述べた。
 タカノ氏は2002年、被爆者の親戚と共に初めて広島市の平和記念資料館(原爆資料館)を訪問したという。(2016/04/22-11:35)

774名無しさん:2016/04/23(土) 13:29:52
>>773

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042300006&amp;g=pol
オバマ米大統領、5月の広島訪問を近く最終判断=ロンドン会見では回答避ける

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は来週にも、5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)出席に合わせて広島を訪問するかどうかを最終判断する。訪英中のオバマ氏は22日、ロンドンでの記者会見で、広島訪問を予定しているかと聞かれて「(自分が)アジアに行くまで、アジアに関する質問は待ってほしい」と述べ、明言を避けた。
 ホワイトハウス高官によると、国家安全保障会議(NSC)は米世論が大統領の広島訪問を「前向き」に受け止めていると判断し、大統領に訪問案を提示している。オバマ氏が訪問を決断すれば、現職米大統領として初めて。2009年に「核なき世界」を訴えてノーベル平和賞を受賞した外交レガシー(遺産)の一つとなる。
 オバマ氏は現在、中東・欧州を歴訪中で、25日の帰国後に日米両国の政治情勢や世論を慎重に見極め、判断する。NSC報道官は22日、「大統領の訪問先は現時点で何も決まっていない」と述べた。大統領の訪問先を事前調査するための「先遣隊」も22日時点で広島を訪れていない。(2016/04/23-08:27)

775名無しさん:2016/04/24(日) 08:42:56
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160423-00000077-asahi-pol
「米国に謝罪求めてない」岸田氏、外相会合でケリー氏に
朝日新聞デジタル 4月23日(土)21時7分配信

 岸田文雄外相は23日、今月広島市で開かれた主要7カ国(G7)外相会合を前に、米国のケリー国務長官に対して「決して米国に(原爆投下への)謝罪を求めているわけではない」と繰り返し伝え、広島平和記念公園への訪問を促していたことを明らかにした。北海道岩見沢市で行われた講演で語った。

 米国内で原爆投下を正当化する世論が根強いことに配慮し、謝罪要求ではないことを事前に伝えることで広島訪問への環境整備を図ったとみられる。また、岸田氏はケリー氏に「人類の悲劇を二度と起こしてはならない。核兵器を持つ米国にも理解してもらい、核兵器のない世界を作っていく思いを確認するために訪問してほしい」とも伝えていたという。

 G7外相会合では、核保有国である米英仏を含めた各国外相らがそろって平和記念公園内にある平和記念資料館(原爆資料館)を参観し、原爆死没者慰霊碑に献花した。さらに、ケリー氏の提案で原爆ドームにも足を運んだ。(安倍龍太郎)

776とはずがたり:2016/04/25(月) 19:07:28
>第二次大戦後に他国が日本が有する権原を取得する方式としては割譲しか残されていないことになる。(論理的には、日本による権原の放棄により無主地化された後に他国による先占の権原が成立すると考えることもできるが、国際法学者のブラウンリーはサンフランシスコ条約による日本の権原放棄は、連合国への処分権の譲渡として整理している)。そして割譲には主権移転への日本の同意が必要となるのである。
竹島を日本が放棄したから韓国が占領したのでは無く元々韓国(李氏朝鮮)のものだったから独島は韓国のものだと韓国は主張してゐるのは韓国もこのブラウンリーの主張を受け容れてるのか?てかそもそもブラウンリーの考えが正統なのか?

日本の敗戦と戦後の領土
http://takeshima.cafe.coocan.jp/wp/?page_id=284

戦後処理に関する日本と韓国の主張の大きな対立点はSCAPIN677及びサンフランシスコ条約の解釈であろう。しかしながら、SCAPIN及びサンフランシスコ条約に関する解釈や主張には、統治行為と主権・領域権原の混同若しくは混乱があるように見受けられる。統治行為は主権の一部を構成するものではあるものの、主権と同じものではない。また、国際法において国家がある地域に有効な主権を設定し行使するためには領域権原を有してなければならず、領域権原を有せず国家活動を表示させたとてそれは対世的な効力を持ち得ない。第一次大戦後に征服の権原が違法化されていることから、戦後の日本において戦勝国の一方的な意思表示により日本の領域主権が移転されることはなく、第二次大戦後に他国が日本が有する権原を取得する方式としては割譲しか残されていないことになる。(論理的には、日本による権原の放棄により無主地化された後に他国による先占の権原が成立すると考えることもできるが、国際法学者のブラウンリーはサンフランシスコ条約による日本の権原放棄は、連合国への処分権の譲渡として整理している)。そして割譲には主権移転への日本の同意が必要となるのである。

則ち、戦後の領土の処理を巡っては、日本が他国への主権の移転に合意したかどうかがポイントであり、表面上の統治行為をもって主権の移転とすることはできない。他国による統治行為は最近の事例ではフセイン政権瓦解後の米英軍が思い出されるであろう。しかし、これをもってイラクの主権が米英に移転されたと主張する学者は存在しない。また、現在の日本においても各国大使館の敷地や在日米軍基地では日本の統治行為が制限されているが、これをもって主権の移転とみなす学者もいない。国際法学者のブラウンリーはポツダム宣言やヤルタ協定に基づく、条約締結前(敗戦国の同意のない)の連合国の占有に対して以下のように評価している。

領土の喪失国は平和条約の規定によって関係地域に対する権原を放棄することもありうるし、また実際に放棄した。しかしながら、この処分(ポツダム宣言等の決定)はこうした放棄にかかわりなく有効と仮定され権原を受領する国は通常、平和条約の発効前に占有を行っていた。この処分または譲渡の権限の存在は法学者によって承認されているが、彼らはそれに対する十分な法的根拠を示唆したり同意することが困難であると考えている。(中略)承認及び黙認がいくつかの事例においてこうした手続きに影響を与えうる違法性の要素をどの程度相殺するかが重要なのである。この種の処分は通常、多数国間の平和条約やその他のものによって承認されている。

韓国に関して言えば、サンフランシスコ条約前に朝鮮半島の南半分において自国領として占有を行っていたが、それに法的根拠はなく連合国による違法性のある手続きに基づくものだったということになる。サンフランシスコ条約において日本が処分権を連合国に与えることにより、その違法性の法的治癒がなされたものとみなすことができるのである。なお、竹島について韓国が法的根拠なく占有していたのか、SCAPINに基づき日本の代理人として米軍が施策権を行使していたとするのかは判断に迷うところである。何れにしても、サンフランシスコ条約前に韓国が竹島の権原を取得していたとするには日本の主権移転への同意が証明されなければならない。

更に国際法では「何人も所有しないものを与えることはできない」とされている。サンフランシスコ条約の前に、韓国が竹島の領域権原を取得するには「日本からGHQや連合国への主権移転の同意(割譲)」と「GHQや連合国から韓国への主権移転の同意(割譲)」といった2段階のプロセスが成立したことを証明しなければならないのである。

777とはずがたり:2016/04/29(金) 18:01:31
さて,来れるかな?

オバマ氏広島訪問、米有力紙は支持 「謝罪」懸念の声も
http://www.asahi.com/articles/ASJ4K413TJ4KUHBI00L.html
ワシントン=佐藤武嗣2016年4月18日11時04分

 オバマ米大統領が、5月の主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)の際に広島を訪問することを本格検討するなか、米国のメディアや専門家の間でも議論が起きている。複数の米有力紙が広島を訪れる意義を強調し、訪問を支持する社説を掲載する一方で、オバマ氏の訪問が謝罪と受け取られると懸念する意見も出ている。

特集:核といのちを考える
 ワシントン・ポスト紙は16日付紙面で「広島の教訓と遺産」と題する社説を掲載。「オバマ大統領は謝罪のためではなく、核の平和に向けて努力するために都市(広島)を訪問すべきだ」とした。

 社説では、広島と長崎への原爆投下を「無慈悲な高熱の爆風と放射能を解き放った、戦争の歴史で最も恐ろしい出来事の一つ」と表現。「現実に核兵器がすぐに消滅することはない」としつつ、オバマ氏が2009年に「核なき世界」を訴えたプラハ演説に触れ、オバマ氏が広島を訪れて核軍縮の道筋を示す意義を強調した。

 ニューヨーク・タイムズも13日の紙面で「広島から核なき世界へ」と題する社説を掲載。「ケリー氏が地ならしをした以上、オバマ氏が初めて広島を訪問する大統領になることを妨げるものはないはずだ」とし、「核兵器のない世界」の実現に向けた新提案を用意して臨むよう促した。

 また、オンライン雑誌「戦略文化財団」は16日、元中央情報局(CIA)情報分析官のポール・ピラー上級研究員の論文を掲載。ピラー氏は原爆の犠牲者の大半が軍人ではなく一般市民だったことや、戦後日本が専守防衛に努めてきたことを挙げ、「オバマ氏は広島に行くべきだ」と主張した。

■米国民の間では注目集めず

 米国の主要な新聞では、オバマ氏の広島訪問に反対する論調はいまのところない。オバマ政権が懸念していた米大統領選への影響も、トランプ氏ら共和党候補者は現段階では、この問題に焦点をあてた発言はしていない。広島訪問が検討段階ということもあり、米国民の間でも大きな注目は集めていないのが現状だ。

 ただ、一部の保守系雑誌などは、ケリー米国務長官による先週の広島訪問がオバマ大統領訪問の布石になっているとの警戒感をあらわにしている。

 政治雑誌「ナショナル・ジャーナル」は15日、「オバマ政権は広島について謝罪すべきではない」との論文を掲載。ケリー長官が広島を訪問し、平和記念資料館(原爆資料館)を参観したことなどが、「謝罪」を示唆していると批判。原爆投下が戦争終結を早めたと主張し、「日本は20世紀で最も残忍な政権の一つだった」などとした。

 また、保守系のオンライン雑誌「アメリカン・シンカー」も15日、ケリー氏の広島訪問を「日本が真珠湾で我々に攻撃を仕掛け、悲劇をもたらした事実を無視するものだ」と批判し、原爆投下への謝罪は不要だとする論評記事を掲載した。(ワシントン=佐藤武嗣)

778名無しさん:2016/04/30(土) 11:11:55
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042900557&amp;g=pol
慰安婦合意の再交渉要求=韓国野党代表

 【ソウル時事】別所浩郎駐韓大使は29日、韓国第2の野党「国民の党」の千正培共同代表と会談した。千代表は慰安婦問題をめぐる日韓合意の「無効化」を要求し、「被害者の実質的権利を考慮した交渉が新たに行われなければならない」と指摘。また、元慰安婦と面会するよう大使に求めた。党側が発言内容を発表した。
 これに対し、別所大使は「両政府が最大限努力して達成した合意であり、誠実に履行していくことが重要だ」と強調した。(2016/04/29-20:15)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042700545&amp;g=pol
米大統領の広島訪問を憂慮=「日本は被害者」に反発-韓国

 【ソウル時事】オバマ米大統領の広島訪問について、韓国の外交専門家やメディアからは、第2次大戦をめぐって「日本が被害者としてのみ認識されかねない」と懸念する声が出ている。
 韓国政府系シンクタンク、外交安保研究所の辛東益所長は、25日に発表した論文で「韓国や中国などでは、ドイツのように過去に対する完全な反省と謝罪がない状況で、加害者である日本が、むしろ被害者として認識されかねないという憂慮がある」と指摘。「仮に米大統領が広島を訪れるのであれば、過去の歴史を忘れないよう、第2次大戦に対する日本の責任を明確にすることが重要だ」と主張した。
 有力紙・中央日報は12日付の社説で、先のケリー米国務長官の広島訪問に関し、「日本が加害者ではなく被害者という誤ったメッセージを送らないか、気掛かりだ」と表明、オバマ大統領の訪問は「時期尚早だ」と反対した。夕刊紙・文化日報も、15日付のコラムで「日本が被害者としてのみ認識されないようにしなければならない」と強調した。(2016/04/27-14:47)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042700533&amp;g=pol
被爆地訪問、7年越し=世論・政治情勢見極め-オバマ米大統領

 【ワシントン時事】オバマ米大統領が広島訪問の意向を固めたのは、今回が任期中の最後の訪日になるのに加え、国内外の世論・政治情勢を見極め「障害はない」と確信したためだ。オバマ氏は2009年4月にプラハ演説で「核兵器なき世界」を提唱し、試練を経ながらも核軍縮や不拡散を進めてきた。被爆地訪問は常に視野に入っていたとみられ、7年越しの実現となる。
 オバマ氏は09年11月に初訪日した際、「広島と長崎を将来訪れることができたら、非常に名誉なこと。私にとって非常に意味がある」と語った。(2016/04/27-14:37)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042700521&amp;g=pol
オバマ氏、5月広島訪問=「核なき世界」推進訴え-現職米大統領で初・来週にも発表

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は26日、1カ月後に迫った主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に合わせて、広島を訪問する意向を固めた。来週後半の正式発表を目指し、詰めの調整を進める。複数の日米当局者が明らかにした。実現すれば、オバマ氏は現職米大統領として初めて訪れる被爆地で、自身が唱える「核兵器なき世界」を推進する重要性を訴える。
 サミット最終日の5月27日、会議終了後に空路で広島に移動する案が有力視されている。平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花し、演説することも検討。日本側に訪問計画を伝えた上で、事前調査に当たる「先遣隊」を現地に送る。治安上の理由から、旅程の詳細は直前まで公表されないのが通例だ。(2016/04/27-14:13)

779名無しさん:2016/05/04(水) 15:38:52
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016050300090&amp;g=pol
原爆投下、謝罪は不要=米報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は2日の記者会見で、米国による広島と長崎への原爆投下について、オバマ大統領は日本に謝罪すべきだとは考えていないと述べた。オバマ大統領は、5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の出席に合わせて広島を訪問する意向を固め、最終調整している。(2016/05/03-09:08)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016050300215&amp;g=pol
「韓国が決めることでない」=米大統領広島訪問、論評せず

 【ソウル時事】オバマ米大統領が広島訪問に向け詰めの調整を行っていることについて、韓国外務省当局者は3日、「第三国の大統領がどこに行くかという問題は、大統領が決定することであって、韓国が決めることではない」と述べた。韓国のメディアや外交専門家からは「日本が戦争の被害者としてのみ認識されかねない」と懸念する声が出ているが、広島訪問の是非に関し、論評しない立場を示した。(2016/05/03-16:35)

780名無しさん:2016/05/05(木) 18:55:38
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016050500045&amp;g=pol
広島訪問の予定なし=独首相

 【ベルリン時事】ドイツのメルケル首相は4日(日本時間5日)、安倍晋三首相との共同記者会見で、今月下旬の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に合わせた広島訪問について、「私のスケジュールは伊勢志摩だ。それ以外を訪問する予定はない」と明らかにした。(2016/05/05-05:30)

781名無しさん:2016/05/14(土) 13:08:42
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051400159&amp;g=pol
「核犯罪者の正体隠す目的」=オバマ氏の広島訪問非難-北朝鮮

 【ソウル時事】14日付の北朝鮮の労働党機関紙・労働新聞(電子版)は、オバマ米大統領の広島訪問決定について「核の犯罪者としての正体を隠そうとしている」と非難した。「オバマ(大統領)が唱える『核兵器のない世界』は欺瞞(ぎまん)だ」と題した記事で、「歴史は、米国こそが核犯罪国家であることを示している」と主張した。(2016/05/14-12:33)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051300535&amp;g=pol
米大統領広島訪問「喜ばしい」=日系人収容経験者のミネタ元長官

 【ワシントン時事】第2次世界大戦中の日系人強制収容所の跡地保存に取り組む全米各地の日系人を集めたパーティーが12日夜、ワシントンの駐米大使公邸で開かれた。ノーマン・ミネタ元米運輸長官はオバマ大統領の広島訪問について、収容所に入れられた経験を持つ立場からも「喜ばしい」と歓迎した。(2016/05/13-14:36)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051300137&amp;g=pol
日米70年の進展で所感=米大統領の広島メッセージ

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は12日の記者会見で、オバマ大統領が27日の広島訪問で発信するメッセージについて、「日米関係の重要性と戦後70年の著しい進展について所感を述べることになるだろう」と述べた。
 報道官は「日米は(約)70年前には戦争をしていたが、現在は幅広い問題で協力している。両国が築き上げた素晴らしい進展の証しだ」と語った。さらに、広島でのオバマ氏の発言の詳細は分からないが、「大統領は厳粛な場所で感じたことを共有する」と話した。(2016/05/13-08:39)

782名無しさん:2016/05/14(土) 13:40:25
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051200646&amp;g=pol
広島訪問、半年前から模索=オバマ氏側近動く-日米世論の動向が決め手

 【ワシントン時事】オバマ米大統領が主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)閉幕後の27日、現職米大統領として初めて広島を訪れる。オバマ氏は、被爆地訪問を「核兵器なき世界」への取り組みと日米関係の成熟といった外交レガシー(遺産)の象徴としたい考えだ。大統領の側近は、少なくとも半年以上前から「広島」を視野に入れて動いていた。
 ◇ケネディ大使「行くべきだ」
 「もし大統領が広島を訪問したら、どんな反響があるだろうか」。核軍縮を訴える米シンクタンク「軍備管理協会」のキンボル事務局長(52)は昨年秋、ホワイトハウス高官からこう聞かれて面食らった。相手はローズ大統領副補佐官。オバマ氏が「核兵器なき世界」を唱えた2009年4月のプラハ演説のスピーチライターであり、側近中の側近だ。
 キンボル、ローズ両氏は停滞する核廃絶をどう活性化させるか意見交換していた。
 オバマ大統領の被爆地訪問は過去、訪日のたびに検討されては見送られてきた経緯がある。しかし、今回は任期最後の訪問になると大統領周辺でも強く意識されていた。
 米マンスフィールド財団のフランク・ジャヌージ理事長(51)は、広島市から依頼されて水面下で大統領訪問をホワイトハウスに要請し、昨年の早い時期から「大きな障害はない」と前向きな反応を得ていた。同氏は「ケネディ駐日大使が『大統領は行くべきだ』と明言した。可能性は高いと感じた」と話す。
 ◇オバマ氏しかいない
 大統領が広島を訪問する際の最大の懸案事項は、原爆投下に対する「謝罪」をめぐる日米世論と、歴史問題で日本と対立する韓国や中国の反応だった。あるホワイトハウス高官は「慰安婦問題をめぐる昨年12月の日韓合意が大きかった。これでケリー国務長官の広島訪問もスムーズに進んだ」と打ち明けた。
 大統領側近の一人は今年2月の時点で「広島を最初に訪問する米大統領はオバマ氏しかいない」と言明。米側の動きを察知した外務省も3月に入って大統領の被爆地訪問に備え始めた。
 オバマ大統領は3月31日、ワシントンでの安倍晋三首相との会談で「(訪日では)いろいろな意味で日米関係がさらに良くなる努力をすることを考えていきたい」と語り、日本側は広島訪問への明確なシグナルと受け止めた。

 ◇日本側「十中八九来る」
 ケリー国務長官は4月11日、広島の平和記念資料館訪問後の記者会見で「胸をえぐられるような非常に厳しい内容だ」と語った。国務省高官によると、この表現は応答要領にはなかった。
 国務省は、大統領の広島訪問について聞かれることを想定した上で、最初の質問で日本人記者を指名。ケリー氏は「米大統領もいつか来てほしいと思う」と答えた。その数日後、アーネスト大統領報道官は「人類初の被爆者がいる都市ほど『核兵器なき世界』への取り組みを象徴的に示す場所はない」と述べ、観測気球を上げた。
 米紙ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズなどはいずれも社説で広島訪問を支持。日本政府高官の一人は、日米双方で原爆投下の是非論が高まらず、世論が前向きなことから、「大統領は十中八九、広島に来る」と確信した。
 オバマ大統領は4月下旬の中東・欧州歴訪を終えた後に被爆地を訪問する意向を固め、先週後半、日本側に内々に伝達した。直ちに正式発表することも検討されたが、実際に発表されたのは、5回目の核実験を強行する恐れがある北朝鮮の労働党大会閉幕後の10日だった。(2016/05/12-23:52)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051200045&amp;g=pol
米大統領「大々的演説」行わず=数日内に広島へ先遣隊-報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は11日の記者会見で、オバマ大統領が27日に広島を訪問した際に「メジャー・スピーチ(大々的な演説)」は行わず、被爆地を実際に訪れて感じたことを語ると明らかにした。具体的なメッセージの発信形式は日本側と調整している。
 オバマ大統領の広島訪問をめぐっては、大統領が2009年4月に「核兵器なき世界」を唱えたプラハ演説に類する大規模な演説が行われる可能性に期待が高まっていた。アーネスト氏は、そうした見方や報道は「正確ではない」と述べた。
 また、大統領がメッセージの中で被爆地・長崎に触れるかどうかについて「現時点で詳細は分からない」と話した。大統領の広島平和記念資料館(原爆資料館)視察に関しては「数日内に先遣隊が日本に到着する予定だ」と説明し、近く訪問先を最終決定する考えを示した。(2016/05/12-08:58)

783名無しさん:2016/05/14(土) 13:42:30
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051200131&amp;g=pol
「決定は性急で遺憾」=米大統領広島訪問で韓国紙

 【ソウル時事】12日付の韓国主要紙はオバマ米大統領の広島訪問決定を社説で取り上げ、「決定は性急で、遺憾だ」(中央日報)などと批判、一定の理解を示した韓国政府とは対照的な反応を見せた。
 中央日報は「広島訪問は日本の被害者イメージのみを浮き彫りにし、真の被害者である韓国・中国など周辺国に誤ったメッセージを送ることになりかねない」と主張した。
 朝鮮日報も「日本は『ヒロシマ』を前面に立て、被害者のふりをしている」と断じ、「オバマ大統領は広島で日本の戦争責任を指摘し、悲劇の原因をつくったのが誰なのか、真の被害者が誰なのかを明確にするよう願う」と訴えた。
 東亜日報は「日本の一部では、広島訪問を謝罪と見なす雰囲気だ」と指摘。「安倍政権が日本の戦争責任回避に利用しようとするなら、決して容認しない」と強調した。(2016/05/12-08:36)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051200021&amp;g=pol
核のない世界へ「重要な機会」=オバマ大統領の広島訪問-米紙

 【ニューヨーク時事】11日付の米紙ニューヨーク・タイムズはオバマ大統領の広島訪問に関する社説を掲載し「核のない世界というオバマ氏のビジョンを推進していくための具体的で新たな取り組みを示す重要な機会になる」と論評した。
 イランとの核合意やロシアとの新戦略兵器削減条約(新START)締結などをオバマ氏の「重要な成果」と評価する一方、「2009年に発表された『核兵器のない世界』という高尚な目標にははるかに遠い」と指摘。「広島訪問での力強いスピーチや新たな取り組み(の表明)」が、オバマ氏の威信を高める機会になると訴えた。(2016/05/12-01:10)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100898&amp;g=pol
「オバマ氏の信念に立脚」=広島訪問に理解-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省当局者は11日、オバマ米大統領の広島平和記念公園訪問が決まったことについて、「『核兵器のない世界』を通じて平和と安全を求めるオバマ大統領の信念に立脚している」と述べ、理解を示した。
 また、「米国は、韓国人(朝鮮半島出身者)の被爆者も含めた犠牲者を哀悼する意味があると説明している」と語った。(2016/05/11-19:23)

784名無しさん:2016/05/14(土) 13:45:33
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100880&amp;g=pol
安倍首相の真珠湾訪問案が浮上=日米同盟の成熟アピール

 安倍晋三首相が、日米開戦の舞台となった米ハワイ州ホノルル市の真珠湾を訪れる案が11日、政府内で浮上した。オバマ米大統領の広島訪問を受けた構想で、太平洋戦争の象徴的な地を日米両首脳が相互訪問することが、成熟した同盟関係のアピールになるとの判断からだ。11月のペルーでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に合わせた訪問が取り沙汰されている。
 日米両政府は10日、オバマ大統領が主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)のため来日した際、広島を訪問すると発表。これに関し、菅義偉官房長官は11日の記者会見で「政権発足以来、日米同盟が基本との思いの中で外交を進めてきた」と述べ、同盟強化につながるとの認識を示した。
 こうした中、首相の真珠湾訪問案が持ち上がった。政府関係者は「前からある話だ。実現へのハードルも高くない」と語った。米側からも水面下で、首相の真珠湾訪問への期待が寄せられているという。(2016/05/11-19:11)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100868&amp;g=pol
「軍国主義の道」反省を=米大統領広島訪問で日本に-中国

 【北京時事】中国外務省の陸慷報道局長は11日の記者会見で、オバマ米大統領の広島訪問について、日本側の目的が「再び軍国主義の道を歩まないと表明することであるよう希望する。この道は日本国民、アジアと世界に深刻な災難をもたらした」と述べ、各国要人を被爆地に招くに当たっては過去の戦争への反省が必要との考えを強調した。
 中国は第2次大戦を「世界反ファシズム戦争」と位置付け、侵略による大きな被害などを挙げて戦勝に果たした自らの役割を強調してきた。核廃絶への動きには賛同しつつ、原爆の惨状がクローズアップされ、日本の「加害者」としての立場が弱まることに警戒感を抱いているとみられる。
 陸局長は、原爆投下について「日本軍国主義者の頑強に抵抗する幻想を打ち砕くと同時に、多くの一般人の死傷も招いた。罪のない人々が受けた苦痛は、確かに同情に値する」と指摘。改めて軍国主義を非難する一方で、日本国民も被害者だとの認識を示した。(2016/05/11-19:02)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100847&amp;g=pol
謝罪にこだわらず=米大統領の被爆地訪問で-湯崎広島知事

 広島県の湯崎英彦知事は11日、オバマ米大統領の被爆地・広島訪問に関し、原爆投下への謝罪にはこだわらない考えを示した。湯崎氏は首相官邸で記者団の取材に対し「二度と核兵器を使わせてはいけないという思いが一番強い。いろんな気持ちはぐっとのみ込んでも、その前進をしてほしいというのが、(被爆者ら)多くの皆さんの願いではないか」と述べた。(2016/05/11-18:43)

785名無しさん:2016/05/14(土) 13:50:15
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100253&amp;g=pol
公明代表、核廃絶へ活動強化を=広島訪問、野党からも期待感

 オバマ米大統領の広島訪問について、与野党幹部から11日、評価や期待の声が相次いだ。
 自民党の佐藤勉国対委員長は記者団に「素晴らしいことだ。日米関係の努力の積み重ねが広島訪問につながった」と強調。公明党の山口那津男代表は党会合で「この歴史的意義をしっかり踏まえて日本の果たすべき役割を示し、国際社会と連携をつくり出していくことが重要だ」と語り、核廃絶に向けた日本の取り組み強化を促した。
 民進党の岡田克也代表は日本外国特派員協会での記者会見で「うれしいニュースだ。心から歓迎する。『核なき世界』に向かって大きな足跡を残すことを期待したい」と述べた。共産党の穀田恵二国対委員長は会見で「重要な前向きな変化だ」と評価した上で、大統領が原爆投下について謝罪するのが望ましいとの考えを示した。
 おおさか維新の会の松井一郎代表(大阪府知事)は府庁で記者団に「英断だ。原爆を落とした国の大統領が現場に来れば、あの兵器がいかに悲惨なものかが一番分かる」と指摘。社民党の吉田忠智党首は会見で「被爆者の声を直接聞き、原爆の悲惨さを実感してほしい」と述べ、大統領と被爆者の面会を求めた。(2016/05/11-18:08)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100501&amp;g=pol
米国内で不安と期待交錯=核廃絶へ行動求める声も-オバマ大統領の広島訪問

 【ワシントン時事】オバマ米大統領が主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)閉幕後の27日に広島を訪問すると決断したのを受けて、米国内では不安と期待が交錯している。旧日本軍の捕虜となった退役軍人らは「大戦の犠牲者を忘れる訪問には反対」と主張。広島との関わりが深いアメリカン大学核問題研究所長のピーター・カズニック教授(67)は、オバマ氏の訪問は「暗黙の謝罪になる」と歓迎した。
 フィリピンで旧日本軍の捕虜が多数死亡した「バターン死の行進」を生き延びたレスター・テニー氏(95)は4月19日、オバマ大統領に宛てて手紙を送った。
 「私は(大統領に)広島行きを促すが、太平洋で自由のために犠牲になった米軍と連合国軍へ最初に謝意を示さない、どのような訪問にも反対だ」。テニー氏は1942年4月に旧日本軍に降伏、フィリピンから九州に移送され、炭鉱で「奴隷」のような扱いを受けたという。
 旧日本軍捕虜のグループ代表を務めるジャン・トンプソン氏(58)は取材に対し、「ルーズベルト大統領(当時)は欧州戦線を優先させていたため、太平洋戦線の兵士は見捨てられたと思っている。オバマ氏が過去を振り返らず、未来を語るのは彼らを傷つける」と訴える。トンプソン氏の父ロバートさんは「バターン」経験者だ。

 一方、カズニック教授は毎夏、学生を広島に引率して被爆者との交流を進めている。同教授は「広島、長崎への原爆投下は必要なかった。トルーマン大統領(同)がソ連をけん制するために使用した」と主張。オバマ氏の広島訪問を「遅過ぎたぐらいだ。大統領は今後30年間に1兆ドル以上を投じる核の近代化を求めている。行動は言葉以上にものを言う」と批判した。(2016/05/11-14:22)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100359&amp;g=pol
安倍首相の真珠湾訪問「検討せず」=菅長官

 菅義偉官房長官は11日午前の記者会見で、オバマ米大統領の広島訪問発表を受け、安倍晋三首相が米ハワイの真珠湾を訪問するとの見方が出ていることについて、「政府として検討している事実はない」と述べた。(2016/05/11-11:48)

786名無しさん:2016/05/14(土) 13:58:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100049&amp;g=pol
受け入れ準備に着手=オバマ氏広島訪問-政府

 政府は11日、オバマ米大統領の広島訪問が正式決定したことを踏まえ、受け入れ準備に着手した。現職の大統領による初の「歴史的訪問」を成功させるため、米側との調整や警備に万全を期す。
 菅義偉官房長官は同日午前の記者会見で「犠牲になった全ての方を追悼し、核兵器のない世界を目指す国際的機運を盛り上げる極めて重要な歴史的機会になる。心より歓迎したい」と述べた。(2016/05/11-11:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100098&amp;g=pol
民主、大統領の決断称賛=長崎訪問求める声も-米

 【ワシントン時事】米民主党下院議員トップのペロシ院内総務は10日、オバマ大統領の広島訪問が発表されたことを受けて声明を出し、「歴史的な決断は勇敢で規律ある指導力の証し。戦後の日米友好関係の大いなる進展を浮き彫りにするものだ」と称賛した。
 ペロシ氏は下院議長時代の2008年に広島を訪問しており、これまでに被爆地を訪れたことがある最高位の米要人だ。ペロシ氏は自身の訪問を振り返り、「広島は深く心を動かされる場所だ」と指摘。大統領の訪問が核軍縮・不拡散の前進につながることに期待感を示した。
 共和党からは「謝罪外交の延長線上にある。広島訪問が国を強くすることはあり得ない」(ゼルディン下院議員)との批判も出ているが、こうした声は今のところ広がりを見せていない。
 日本への原爆投下を命じたトルーマン元大統領の孫、クリフトン・トルーマン・ダニエル氏は、ニュースサイトへの寄稿で「大統領には長崎へも足を運ぶ時間をつくってほしい」と求めた。ダニエル氏は「広島は原爆で破壊された最初の街であり、長崎は最後の街だ」と強調した。(2016/05/11-10:51)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100062&amp;g=pol
オバマ氏、平和公園訪問へ=被爆者との面会は未定-米大統領報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は10日の記者会見で、オバマ大統領が27日に広島を訪問する際に広島平和記念公園を訪れると明らかにした。大統領は戦後70年の日米関係の進展を含め、訪問の意義について自らの考え方を述べるという。
 原爆死没者慰霊碑での献花や、広島平和記念資料館(原爆資料館)視察も検討されているもようだ。大統領と被爆者の面会については、報道官は「訪問計画の詳細は決まっておらず、そうした機会の有無は分からない」と述べるにとどめた。
 報道官は「大統領は米国が核兵器を使用した唯一の国として、核兵器廃絶へ世界をけん引する責任があると理解している」と指摘。「米国と世界の自由を守るために数百万人の米国人が犠牲になったことを大統領は忘れない」と強調した。(2016/05/11-09:40)

787名無しさん:2016/05/14(土) 14:00:15
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100142&amp;g=pol
「謝罪ではない」強調=「被害者イメージ」警戒-韓国紙

 【ソウル時事】11日付の韓国各紙は、オバマ米大統領の広島訪問発表を1面などで詳細に報じた。いずれもホワイトハウスが「謝罪の意味ではない」と説明している点を強調、日本が「被害者」として映ることに警戒感をにじませた。

 東亜日報は「オバマ大統領は、広島での非核化演説を政治的業績として残したい考えを持っているが、(第2次大戦での)『加害者』日本が『被害者』のイメージを強める契機になりかねないという声も高まっている」と伝えた。
 韓国日報も「日本の『被害者コスプレ(扮装=ふんそう)』を警戒してきた韓国や中国など周辺国が反発する可能性もあり、波紋が予想される」と指摘。さらに「ホワイトハウスは謝罪の意味はないと強調しているが、大統領選期間中、共和党から攻撃を浴びる可能性がある」と報じた。(2016/05/11-08:43)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100025&amp;g=pol
核軍縮の「世界的メッセージに」=国連総長-オバマ米大統領広島訪問

 【ニューヨーク時事】国連のドゥジャリク事務総長報道官は10日の記者会見で、オバマ米大統領が広島訪問を決めたことについて「潘基文事務総長は米大統領の決定を大変歓迎している」と述べた上で、「訪問が核軍縮の必要性に関する世界的メッセージになることを期待する」と強調した。(2016/05/11-01:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100020&amp;g=pol
日米友好と同盟の成果=ケネディ駐日大使-オバマ米大統領広島訪問

 ケネディ駐日米大使は10日、オバマ米大統領の広島訪問決定に関して声明を発表し、「安倍晋三首相と一緒に訪れるという大統領の決断は、日米の友好精神と揺るぎない同盟関係のたまものだ」と歓迎した。(2016/05/11-01:16)

788名無しさん:2016/05/14(土) 14:03:19
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051001011&amp;g=pol
オバマ氏、27日広島訪問=現職米大統領で初-安倍首相も同行・日米両政府発表

 【ワシントン時事】日米両政府は10日、オバマ大統領が5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)閉幕後の27日、安倍晋三首相と共に広島を訪問すると発表した。オバマ氏は現職米大統領として初めて被爆地を訪れ、自身が唱えてきた「核兵器なき世界」への取り組みの重要性を訴える。

 広島、長崎への原爆投下がもたらした悲劇と向き合うよう米大統領に求めてきた被爆者にとって、長年の願いがかなう歴史的訪問となる。オバマ氏は任期中最後の訪日となる可能性が高く、広島訪問をレガシー(遺産)の一つにしたい考えだ。
 安倍首相は10日夜、記者団に対し、大統領の広島訪問について「全ての犠牲者を日米で追悼する機会とする」と述べ、「被爆地から核兵器のない世界への決意を発信することこそ次の世代に意義がある」と強調した。
 発表によると、大統領は22〜27日の日程でベトナムと日本を訪問し、26、27両日開かれるサミットに出席する。その際、日米首脳会談も行われる。
 大統領はサミット閉幕後に空路で広島入りし、広島平和記念公園を訪問、原爆死没者慰霊碑に献花する。ローズ大統領副補佐官はインターネット上で「大統領は原爆投下の是非を述べない。訪問は第2次世界大戦で犠牲になった全ての罪なき人々を追悼する機会となる」と語った。(2016/05/11-01:14)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051001046&amp;g=pol
オバマ米大統領、広島訪問は「象徴的」=海外メディアも速報

 オバマ米大統領による27日の広島訪問発表について、ロイター通信や英BBC放送など海外の主要メディアも速報し、大きく伝えた。
 フランスのAFP通信は、日本政府が原爆の悲惨さを知るために、世界の指導者に被爆地訪問を訴えてきた経緯を説明。「米国内外で原爆投下の是非が今も割れている中で、象徴的な訪問になる」と伝えた。また、日本に近い北朝鮮が核・ミサイル開発を続けていることも引き合いに「訪問は地域的な反響も呼ぶだろう」と分析した。
 米CNNテレビ(電子版)は「訪問によって、核爆発で多数の日本国民が死亡した感情的な場所を訪れたいというオバマ氏の望みが満たされる」と報道。かねてオバマ氏の広島訪問を促してきた米紙ニューヨーク・タイムズは「(原爆投下に対して)謝罪したと見られたくないオバマ氏にとって、重大な象徴的意味合いを持つ」と歓迎した。
 中国国営新華社通信(英語版)はワシントン発で速報。中国語版の記事では、原爆投下は「侵略戦争を発動した日本を早急に投降させるためだった」と指摘し、「長期にわたり日本は自らを第2次大戦の『被害者』として描写してきたが、原爆の攻撃を受けた歴史的背景に触れることは少ない」と批判的な見方を伝えた。
 韓国の聯合ニュースは東京発で「訪問は二度と核兵器が使われてはならないという被爆地の住民の願いと合致し、核軍縮への国際世論拡大の助けにもなると日本政府は見ている」と報道。「日本政府は強く勇気づけられている」と伝えた。(2016/05/11-00:27)

789名無しさん:2016/05/14(土) 14:03:50
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100004&amp;g=pol
広島訪問、戦後の長い道のり象徴=米大統領副補佐官

 【ワシントン時事】ローズ米大統領副補佐官は10日、インターネット上に投稿し、オバマ大統領の広島訪問について「日米両国が深く持続的な同盟の構築に向けて歩んできた長い道のりを象徴する」と歴史的な意義を強調した。(2016/05/11-00:22)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100002&amp;g=pol
オバマ米大統領広島訪問を評価=国連総会議長

 【ニューヨーク時事】国連のリュッケトフト総会議長は10日、オバマ米大統領の広島訪問が決まったことについて、「そこ(広島)に行き、最初の核兵器使用が多大な苦痛をもたらしたことを認識するのは極めて良いことだと思う」と評価した。国連本部で記者団に語った。議長はオバマ氏の広島訪問が核兵器の廃絶に貢献することを期待していると強調した。(2016/05/11-00:00)

790名無しさん:2016/05/14(土) 14:39:39
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051101037&amp;g=pol
北方領土問題、立場変わらず=安倍首相の8項目案でも-ロ有力紙社説

 【モスクワ時事】11日付のロシア有力紙・独立新聞は、6日の南部ソチでの日ロ首脳会談を受けた社説を掲載し、安倍晋三首相がプーチン大統領に提案した8項目の協力プランでは「クリール諸島(北方領土を含む千島列島)をめぐるロシアの立場の大きな変更にはつながらないだろう」と予想した。
 首相は、領土交渉の「新たなアプローチ」も提案。経済協力をてこに、ロシア世論の軟化を促したい考えとされる。
 しかし、新たなアプローチについて社説は「内容や領土問題をどう打開するかは明らかにされなかった」「新たなアプローチという言葉は双方に受け入れ可能な解決策がないことを隠すために使える」と距離を置いた見方を示した。(2016/05/11-22:10)

791名無しさん:2016/05/14(土) 15:15:12
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160511/k10010517171000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_049
岸田外相 米大統領の広島訪問を核軍縮の機運に
5月11日 21時13分
岸田外務大臣は、衆議院の外務委員会で、アメリカのオバマ大統領の広島訪問を停滞している核軍縮や不拡散の国際的な機運を再び盛り上げる機会にしたいという認識を重ねて示しました。
この中で岸田外務大臣は、アメリカのオバマ大統領が、伊勢志摩サミット終了後の今月27日に、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地・広島を訪問することについて、「犠牲者を追悼するとともに、核兵器の無い世界を目指すという国際的な機運を盛り上げる意味で、極めて重要で歴史的な訪問になると受け止めている」と意義を強調しました。
そのうえで、岸田大臣は、「二度と惨禍が繰り返されない、核兵器の無い世界の実現という高い理想に向けて、日本もアメリカも、多くの国とともに努力をしていくという思いを示したい」と述べ、停滞している核軍縮や不拡散の国際的な機運を再び盛り上げる機会にしたいという認識を重ねて示しました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160511/k10010516191000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_062
官房長官 米大統領広島訪問「核ない世界へ歴史的機会」
5月11日 11時25分
菅官房長官は臨時閣議のあとの記者会見で、アメリカのオバマ大統領の広島の訪問は、核兵器のない世界を目指す国際的な機運を盛り上げる歴史的な機会になるとしたうえで、核兵器が二度と使用されないよう、現実的な努力を積み重ねていく考えを示しました。
この中で菅官房長官は、アメリカのオバマ大統領が伊勢志摩サミット終了後の今月27日に被爆地・広島を訪問することについて、「犠牲になられたすべての方々を追悼するとともに、核兵器のない世界を目指す国際的機運を盛り上げるうえで、極めて重要な歴史的機会になるものと考えている」と述べました。
そのうえで菅官房長官は、「わが国としてはオバマ大統領の思いを受け止め、アメリカ政府と共に、人類に多大な惨禍をもたらした核兵器が将来二度と使用されることがないように、核兵器のない平和で安全な世界の実現を目指して現実的に着実な努力を積み重ねていくことが極めて重要だ」と述べました。
また、菅官房長官は、記者団が「日本政府として原爆投下への謝罪を求めないのか」と質問したのに対し、「オバマ大統領の広島訪問は、犠牲者を追悼し、核兵器のない世界に向けた力強いメッセージを発出するために行われると承知している」と述べるにとどめました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160511/k10010515911000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_066
オバマ大統領の広島訪問を核軍縮や不拡散の弾みに
5月11日 4時01分
日米両政府は、オバマ大統領が伊勢志摩サミット終了後の今月27日、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地・広島を訪問すると発表しました。安倍総理大臣はオバマ大統領に同行することにしていて、停滞する国際的な核軍縮や不拡散の取り組みに弾みをつけるきっかけとしたい考えです。
日米両政府は10日夜、オバマ大統領が伊勢志摩サミット終了後の今月27日に、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地・広島を訪問すると発表しました。
オバマ大統領の広島訪問を巡っては、アメリカ国内に、「原爆投下は、戦争の早期終結のために必要だった」という意見が根強くあることから、日本政府は、日米関係やアメリカの国内世論への影響を考慮して、「アメリカ政府が決めることだ」として、静観する姿勢を堅持してきました。こうしたなか、オバマ大統領が広島訪問を決断したことについて、安倍総理大臣は10日夜、記者団に対し、「心から歓迎する」としたうえで、「今回の訪問を、すべての犠牲者を日米で共に追悼する機会としたい。核兵器のない世界に向けて、大きな力になると信じている」と述べました。
政府内からは、「唯一の被爆国と原爆使用国の首脳が被爆地を訪れること自体が、核軍縮に向けたメッセージになる」という指摘や、「強固な日米関係を示すよい機会になる」といった意見が出ています。
政府は、今回の訪問を通じて、オバマ大統領が目指してきた「核兵器のない世界」への国際的な機運を高めるとともに、核保有国と非核保有国の対立やアメリカとロシアの関係悪化の影響などで停滞する核軍縮や不拡散の取り組みに弾みをつけるきっかけとしたい考えです。

792名無しさん:2016/05/14(土) 15:16:15
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160510/k10010515681000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_067
政府 オバマ大統領広島訪問を発表
5月10日 21時26分
日本政府は、アメリカのオバマ大統領が今月下旬に開かれる伊勢志摩サミットに出席したあと、27日に、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地・広島を訪問することになったと発表しました。安倍総理大臣も、広島訪問に同行するとしています。また、安倍総理大臣は、伊勢志摩サミットに合わせてオバマ大統領との日米首脳会談も行うとしています。
政府のこれまでの取り組み
政府は、核兵器廃絶に向けた国際的な機運を高めるには、被爆地で「被爆の実相」に触れることが欠かせないとして、各国の政治指導者らに、広島・長崎への訪問を呼びかけてきました。ただ、原爆を投下した当事国のアメリカに対しては、アメリカ国内に「原爆投下は、戦争を早期に終結させるために必要だった」と正当化する意見が根強くあることから、直接、働きかけを行うことは控えていました。
2009年4月、当時、アメリカの大統領に就任したばかりのオバマ大統領がチェコの首都プラハで演説し、核兵器の廃絶を目指す決意を表明しました。この「プラハ演説」を受けて、日本国内ではオバマ大統領の広島・長崎訪問への期待が高まりました。
同じ年の11月、オバマ大統領が初めて日本を訪問します。しかし、被爆地を訪れることはありませんでした。
内部告発サイト「ウィキリークス」が、日米間の水面下のやり取りの記録として公表した文書では、当時の外務省の薮中事務次官がルース駐日大使に対し、「原爆投下への謝罪の見込みがない以上、国民の期待を抑える必要があり、広島訪問は時期尚早だ」と伝えていたとされています。ただ、このときオバマ大統領は「今後、広島と長崎を訪れることができれば、名誉なことだと思う」と述べました。
アメリカ政府は、よくとしから、8月6日の広島での原爆の日の式典には必ず、駐日大使や臨時代理大使を出席させるようになりました。しかし、おととし4月にオバマ大統領が再来日した際も、被爆地の訪問は実現しませんでした。政府は「オバマ大統領が、日本側からの働きかけに応じる形で被爆地を訪問しても、アメリカの世論が許さないだろう」とみて、アメリカ側がみずから自然な形で決断できるように環境を整えてきました。
G7=主要7か国の議長国となったことし、政府は、外相会合を広島で開催。アメリカの現職の国務長官による初めての被爆地訪問が実現しました。各国外相は、そろって広島市の平和公園を訪れ、原爆の犠牲者を追悼し、原爆資料館や原爆ドームも訪問。G7として、各国の政治指導者らに被爆地への訪問を呼びかける「広島宣言」も発表しました。
政府内でも、「環境は整った」として、伊勢志摩サミットにあわせたオバマ大統領の被爆地訪問への期待が再び高まりましたが、あくまで「アメリカ政府が判断することだ」として、日本政府が表立ってアメリカ側に働きかけを行うことは控えるようにしてきました。
「核兵器のない世界」へ後押し期待
唯一の戦争被爆国の日本は、核軍縮・不拡散の実現には、世界の政治指導者が被爆地・広島、長崎を訪れて、核兵器の使用がもたらす悲惨な結末、いわゆる「被爆の実相」に触れることが欠かせないという立場です。中でも、原爆を投下した当事国であるアメリカのオバマ大統領が広島を訪問すれば、核軍縮・不拡散の国際的な機運を再び高めるきっかけになるという期待があります。
ただ、核軍縮を巡っては、世界の核兵器のおよそ90%を保有するアメリカとロシアがウクライナ情勢などで対立を強め、新たな交渉を始められるような状況にはありません。
また、国際社会をみますと、核軍縮の速やかな実現のためには、核兵器を全面的に禁止すべきだと主張する非核保有国が急速に増えつつあります。この主張は、「核抑止力による安全保障」を前提とする核保有国には、到底、受け入れられず、双方の溝は深まるばかりで、核軍縮への機運は「冷戦後最悪」とされるほど冷え込んでいました。
こうしたなか、伊勢志摩サミットに先駆けて広島で開かれた、G7=主要7か国の外相会合では、初めて、アメリカの現職の国務長官が原爆資料館を訪れて被爆の実相に触れたほか、核軍縮・不拡散の分野に特化した成果文書「広島宣言」を発表。岸田外務大臣は「歴史的な一歩」と成果を強調しました。
さらに「核兵器のない世界」を提唱し、ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領の広島訪問が実現すれば、核保有国と非核保有国の間を取り持つ役割を積極的に果たし、国際的な議論を主導したい日本にとっても、大きな後押しになると期待を強めていました。

793名無しさん:2016/05/14(土) 15:19:24
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160510/k10010515651000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_069
オバマ大統領 広島訪問へ 米現職大統領で初
5月10日 20時53分
日米関係筋によりますと、アメリカのオバマ大統領は今月下旬に開かれる伊勢志摩サミットに出席したあと、27日に現職のアメリカ大統領として初めて被爆地・広島を訪問することを決め、日本政府に伝達しました。安倍総理大臣はオバマ大統領の広島訪問に同行する方向で調整に入りました。
アメリカのオバマ大統領は、今月26日から2日間の日程で開かれるG7=主要7か国の首脳会合「伊勢志摩サミット」に出席するため日本を訪れる予定で、これに合わせて被爆地・広島を訪問するかどうか検討を進めてきました。
ホワイトハウスのアーネスト報道官は9日の記者会見で、「核兵器のない世界」を目指すとするオバマ大統領が就任当初から任期中の被爆地訪問に前向きな姿勢を示していたと指摘したうえで、近く訪問するかどうか明らかにする考えを示しました。
こうしたなか日米関係筋によりますと、オバマ大統領は伊勢志摩サミットに出席したあと、27日に広島を訪問することを決め、日本政府に伝達しました。
安倍総理大臣は当初予定していたサミット関連行事の日程の一部を変更し、オバマ大統領の広島訪問に同行する方向で調整に入りました。
オバマ大統領が広島を訪問すれば、現職のアメリカ大統領としては初めてのこととなります。
オバマ大統領の広島訪問を巡って、日本政府内では、唯一の戦争被爆国として、核軍縮・不拡散の実現に向けた国際的な議論を主導するためにも大きな後押しになるとして、期待する意見がありました。そして、先月広島で開かれたG7外相会合では、初めてアメリカの現職の国務長官としてケリー国務長官が原爆資料館を訪れ、ケリー国務長官は「すべての人が広島に来るべきで、アメリカ大統領にもその1人になってほしい」と述べました。
一方、アメリカ国内で、原爆投下は戦争の早期終結のために必要だったという意見が根強くあることから、日本政府は日米関係への影響も考慮して静観を続けていて、菅官房長官も被爆地訪問を歓迎する考えを示しながらも、「アメリカ政府が決めることだ」と述べるにとどめていました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160514/k10010520981000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_002
米大統領の広島訪問 首相「争う心と決別する訪問に」
5月14日 12時06分
安倍総理大臣は東京・千代田区で開かれた集会であいさつし、アメリカのオバマ大統領の広島訪問について、「核のない世界」を実現するうえで大きな力になると強調し、「『争う心』と決別する歴史的な訪問にしなければならない」と、決意を述べました。
この中で、安倍総理大臣は「伊勢志摩サミットの終了後、私はアメリカのオバマ大統領とともに被爆地、広島を訪問する。アメリカの大統領が被爆地を訪問するのは戦後71年にして初めての出来事だ。被爆の実相に触れ、そのときの気持ちを思いを世界に向けて発信することが『核のない世界』を実現していく大きな力になる」と述べました。
そのうえで、安倍総理大臣は「世界で唯一の戦争被爆国の首相である私と、世界で唯一核兵器を使用した国の指導者が、ともに犠牲者に哀悼の誠をささげる、それが『核のない世界』に向けての一歩になると信じている。原爆や戦争を恨まず、人の中に巣くう『争う心』と決別する、そのような歴史的な訪問にしなければならないと決意している」と述べました。

794名無しさん:2016/05/14(土) 15:21:21
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160510/k10010515701000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_068
首相 米大統領広島訪問「核兵器のない世界へ大きな力に」
5月10日 21時22分
安倍総理大臣は、アメリカのオバマ大統領が伊勢志摩サミット終了後の今月27日、被爆地・広島を訪問することについて、原爆の犠牲者を日米で共に追悼する機会にしたいと述べたうえで、核兵器のない世界の実現に向けて大きな力になるという認識を示しました。
この中で安倍総理大臣は、アメリカのオバマ大統領が伊勢志摩サミット終了後の27日、被爆地、広島の訪問を決定したことについて、「伊勢志摩サミット終了後、オバマ大統領と共に、被爆地、広島を訪問することを決定した。オバマ大統領の広島訪問を、心から歓迎する」と述べました。そのうえで、安倍総理大臣は「70年前の原爆投下によって、たくさんの人々が無残にも犠牲となった。今回の訪問を、すべての犠牲者を日米で共に追悼する機会としたいと思う」と述べました。
そして、安倍総理大臣は「日本は、唯一の戦争被爆国として、2度とあの悲惨な体験を世界のどんな場所であっても、再び繰り返させてはならない、この思いで核兵器の廃絶を一貫して訴えてきた。今回、オバマ大統領が広島を訪問し、被爆の実相に触れ、その思いを世界に発信することは、核兵器のない世界に向けて大きな力になると信じている。そして、その世界を実現するために、オバマ大統領と共に全力を尽くしていきたい」と述べました。
また、安倍総理大臣は、記者団が「原爆の投下について、アメリカ側の謝罪は必要か」と質問したのに対し、「オバマ大統領が、実際に被爆地に足を運ぶ。それは、アメリカ大統領にとっては大きな決意だったと思う。そして、唯一の戦争被爆国の首相である私と共に、世界で唯一、核兵器を使用した国の指導者が、共に犠牲者に対して哀悼の誠をささげる。このことが、まさに被爆の犠牲となった方々、そして、今も苦しむ人々の思いに応えるものだと、私は信じている」と述べました。
外相「準備に万全を」
岸田外務大臣は、10日夜、外務省で記者団に対し、「オバマ大統領を、私も安倍総理大臣とともに広島で迎えたい。広島で行われたG7=主要7か国外相会合でのケリー国務長官の訪問に続いて、核兵器のない世界を目指すという国際的な機運を盛り上げるうえで、大変重要な歴史的な訪問になると考えている。日本政府として心から歓迎したい」と述べました。
そのうえで、岸田大臣は「私自身も被爆地出身の外務大臣として、一貫して世界の政治指導者が被爆地を訪問することが重要だと訴えてきた。心からうれしく思っているし、今後は準備に万全を尽くしたい」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160514/k10010520501000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_006
ロシア上院議長が広島訪問へ プーチン氏側近は断念
5月14日 5時20分
被爆地・広島への訪問を検討していたロシアのプーチン大統領側近の下院議長が訪問を断念し、代わりにロシア政界のナンバー3とされる上院議長が、ことし後半の広島訪問を調整していることが、政府関係者への取材で分かりました。
被爆地・広島を巡っては、アメリカのオバマ大統領が伊勢志摩サミット終了後の今月27日、現職のアメリカ大統領として初めて訪れることにしています。
一方、ロシアでは、プーチン大統領側近のナルイシキン下院議長が、来月中旬のロシア文化を紹介するイベントに合わせて東京を訪れる際に、原爆の犠牲者を追悼するため広島を訪問することを検討していました。
しかし、政府関係者によりますと、ナルイシキン下院議長は日本に滞在する日程の都合で、広島への訪問を断念したということです。
そして代わりに、ロシア政界のナンバー3とされるマトビエンコ上院議長がことし後半に広島への訪問を調整していることを、日本政府に伝えていたことが分かりました。
核戦力でアメリカと対じするロシアとしては、有力な政治家を広島に派遣し、アメリカによる原爆投下を批判するとともに原爆の被害に向き合う姿勢も示すことで、核を巡る議論がアメリカ主導で進まないよう存在感を示すねらいがあるものとみられます。

795名無しさん:2016/05/14(土) 15:22:46
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160513/k10010519431000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_022
広島市長 米大統領と被爆者の対話機会を要請へ
5月13日 13時05分
広島市の松井一実市長は記者会見で、アメリカのオバマ大統領が広島を訪れる際、被爆者との対話の機会を設けるよう、外務省に要請する考えを示しました。
オバマ大統領は、伊勢志摩サミットに出席したあとの今月27日に、現職のアメリカ大統領として初めて被爆地、広島を訪問し、大々的な演説は行わないものの所感を述べる予定です。
これについて、広島市の松井一実市長は13日の記者会見で、「核軍縮への決意を示した7年前のプラハ演説を一歩でも二歩でも進めるような内容があればいい。『このような思いを誰にもさせてはならない』という被爆者の思いをきちんと受け止めたことが分かるようなメッセージを出してほしい」と述べ、被爆者の思いを踏まえたメッセージの発信に期待感を示しました。そのうえで松井市長は「滞在時間との関係もあるが、被爆者と対面するようなことができないか、被爆者の思いを受け止めたと分かるような対応をしてもらえるよう、外務省に伝えようと思う」と述べ、被爆者との対話の機会を設けるよう外務省に要請する考えを示しました。

796名無しさん:2016/05/15(日) 11:46:43
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051001051&amp;g=pol
オバマ米大統領広島訪問、与野党が歓迎=核廃絶へ行動促す

 オバマ米大統領の広島訪問について、与野党からは10日、歓迎と併せ、核廃絶に向けた行動を促す声が相次いだ。
 自民党の二階俊博総務会長は東京都内で記者団に「日米のために大変良いこと、立派なことだ。再び悲劇を繰り返すことのないよう、両首脳がしっかり誓ってほしい」と強調。公明党の斉藤鉄夫幹事長代行は記者団に「感慨深い。核なき世界へ米国がリーダーシップを取る方向となるよう望む」と述べるとともに、大統領に広島平和記念資料館も見てもらいたいとの考えを示した。
 民進党の福山哲郎幹事長代理は取材に対し、「歓迎したい。原爆の悲惨さを受け止め、核兵器のない世界に向けて一層尽力していただきたい」と期待を示した。一方、共産党の志位和夫委員長は談話で「前向きの一歩だ」と評価しつつ、「(米国は)核兵器禁止条約を求める世界の声に背を向けてきた態度を改めることが必要だ」と指摘した。(2016/05/10-23:47)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051001019&amp;g=pol
「理性と良心に基づく英断」=広島市長ら-オバマ米大統領広島訪問

 広島市の松井一実市長は10日、オバマ米大統領の広島訪問が決まったことについて「大統領の理性と良心に基づく英断を心から歓迎する」とのコメントを発表した。この中で松井市長は、大統領が2009年に提唱した「核兵器のない世界の実現」に向け、「世界の政治指導者が共に歩みを進めるような具体的な道筋を示してほしい」と強調した。
 広島県の湯崎英彦知事もコメントを発表し、「停滞している核兵器廃絶の動きを再起動させる力強いメッセージを発信してほしい」と求めた。(2016/05/10-22:39)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051001006&amp;g=pol
米世論の変化が後押し=オバマ氏広島訪問

 【ワシントン時事】オバマ米大統領が被爆地・広島の訪問を決断した背景には、「核兵器なき世界」を目指す大統領自身の強い意志に加え、戦後70年以上を経て原爆投下に対する米社会の考えが大きく変化したことがある。オバマ氏は任期の締めくくりをにらみながら、機が熟したと判断したようだ。
 原爆を投下した米国の大統領による被爆地訪問の可能性は、オバマ氏の登場以前から問われてきた。ブッシュ前大統領は2008年7月の任期中最後の訪日前、ワシントンで日本人記者に米大統領の広島訪問をどう思うか聞かれたが、「興味深い考えだ」と答えるにとどめている。
 恐らくこの時、ブッシュ氏だけでなく質問した記者も、現職大統領が近い将来、被爆地を訪れるとは本気で思っていなかっただろう。米大統領の訪問自体が日本への「謝罪」と受け取られかねず、米国民の過半数が原爆投下を正当化する中では現実的な選択肢ではなかったためだ。
 一方、戦後の70年間で原爆に対する米社会の態度は確実に変化した。米調査機関ギャラップ社が原爆投下直後の1945年8月10〜15日に実施した調査によると、米国民の85%が支持していた。60年後の2005年の調査では、支持と答えたのは57%だった。
 米調査機関ピュー・リサーチ・センターが15年4月に行った調査では、56%が原爆投下を正当化したものの、18〜29歳では支持が半数を割った。イラン核問題の外交解決を主導したシャーマン前国務次官は、「将来、米国人の過半数が原爆投下を『誤り』と思うかもしれない」と指摘する。
 オバマ大統領は09年4月のプラハ演説で「核兵器を使用した唯一の国として、行動する道義的な責任がある」と表明。翌10年から駐日米大使ら米政府高官が毎年、広島、長崎を訪れるようになった。
 オバマ氏による被爆地訪問は、同氏の取り組みに米社会の変化が相まって現実味を増し、4月のケリー国務長官の広島訪問を日米の世論が前向きに受け止めたことで、実現することになった。(2016/05/10-22:00)

797名無しさん:2016/05/15(日) 11:48:57
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051000987&amp;g=pol
核なき世界へ弾み=広島・長崎、広がる期待-「誤り認めて」要望も・オバマ氏訪問

 オバマ米大統領が27日、現職大統領として初めて被爆地広島を訪問する。「『核なき世界』へ弾みになる」。広島だけでなく長崎でも歓迎と期待の声が高まる中、「原爆投下が間違いだったと認めてほしい」との意見も出た。
 4月に広島市で開催された先進7カ国(G7)外相会合。ケリー米国務長官ら核保有国の外相は初めて広島平和記念資料館を訪れた。予定外の原爆ドーム視察も行われた。
 同行した広島平和文化センター理事長の小溝泰義さん(68)によると、外相らは資料館訪問に予定の倍近く約50分を費やした。ドームに歩いて向かった際は、ケリー氏の表情や発言などから「迷いがなく、ふっきれた」ような印象も受けたという。小溝さんは「核兵器のない世界に向け、重要なメッセージを発する場所として広島が適切だと確信し、大統領に伝えたのでは」と語る。「大統領に具体的なメッセージを出してもらえれば、核のない世界に向け弾みになる」と期待する。
 長崎でも歓迎の声が広がった。被爆者でつくる合唱団「ひまわり」のメンバー長岡幸生さん(78)は「米国では原爆を正当化する議論もありジレンマかもしれないが、被爆地に来て『核なき世界』をもっと強く訴えてもらいたい」と話した。
 核兵器廃絶に向け活動する「ナガサキ・ユース代表団」に昨年参加した長崎大4年の西田千紗さん(21)は「平和記念資料館を見て、自分たちが持つ核兵器がどんなものなのか知ってほしい」と訴える。「過去に何があったのか受け止めて、同じことを繰り返さないようにリーダーシップを取って」と注文した。
 一方、市民団体「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の共同代表、森滝春子さん(77)は歓迎ムード一辺倒の流れを懸念する。森滝さんの父は爆心地から4キロで被爆し、右目を失明した。父の姿に、森滝さんは「原爆がもたらした未曽有の悲惨さを理屈ではなく体で感じた」。「訪問は歓迎、謝罪は求めないと被爆者に言わせる風潮がある。親や身内を奪われた人にとって、許せる行為ではない」と指摘した。
 オバマ氏には「原爆投下が歴史的な間違いだったと表明して」と要望。「明確に表明しなければ、(訪問は)単なるポーズと言われても仕方ないのでは」と話した。(2016/05/10-21:29)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051000648&amp;g=pol
月内にも準備委発足=元慰安婦支援の財団-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は10日の記者会見で、昨年末に日韓が合意した元慰安婦を支援する財団の設立に関し、「上半期の設立を目標としており、月内にも準備委員会を発足させる方針だ」と述べた。
 報道官は「合意履行に当たって最も重要なのは被害者の意見」と強調。関連省庁の当局者が元慰安婦を訪ね、合意内容の説明を続けていることを明らかにし、「財団設立に際し、被害者の意見が十分反映されるよう努めている」と語った。(2016/05/10-16:20)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051000136&amp;g=pol
訪日日程「近く発表」=米大統領報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は9日の記者会見で、オバマ大統領の5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)出席を含むベトナム、日本の歴訪日程について「近く発表されるだろう」と述べた。
 また、大統領が今回、広島訪問を希望しているかどうかを聞かれて「大統領は2009年に訪日した際、広島訪問に関心を抱いていると述べた」と話し、オバマ氏が望んでいると示唆した。(2016/05/10-08:52)

798名無しさん:2016/05/15(日) 11:49:44
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016050900363&amp;g=pol
4島帰属解決の方針不変=菅官房長官

 菅義偉官房長官は9日午前の記者会見で、北方領土問題を含む平和条約交渉の進展に向け安倍晋三首相とプーチン・ロシア大統領が6日の会談で合意した「新しいアプローチ」に関し、「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結するという日本側の基本的立場に変わりはない」と強調した。(2016/05/09-13:01)

799名無しさん:2016/05/15(日) 20:06:04
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051500064&amp;g=pol
少女像問題「解決できる」=元慰安婦支援財団、6月にも設立-準備作業の元韓国外相

 【ソウル時事】慰安婦問題をめぐる日韓合意に基づいて設立される元慰安婦支援財団の準備作業に参加している柳明桓元韓国外相は、ソウルの日本大使館前の少女像撤去問題について「解決できると考えている。ただ、今話し合う段階ではない」と強調した。時事通信のインタビューに応じた。
 財団設立に向けた非公式作業グループの諮問役を務める柳氏は、「近く設立準備のための発起委員会を開き、6月にも財団を設立できるように努力している」と述べた。財団設立と少女像問題を切り離し、合意履行を進めていくべきだという立場を明確にした。
 財団設立の準備に関しては「活動の目的、方法などに関する定款をつくり、財団を構成する理事の候補を広い範囲から募る」と説明。「誰が理事になるかは、まだ分からない。民間人の女性指導者が担わなければならないだろう」と語った。
 少女像問題では「(韓国)政府が先に『ああしろ、こうしろ』と言えば、むしろ反発を招く」と指摘。「政府は政府がやるべきことをやり、元慰安婦が政府の措置に賛成するようになったら、次の段階で元慰安婦や設置した団体と話し合い、解決方法を検討しなければならない」と述べた。
 また、柳氏は「(慰安婦問題に関する合意で)政治的な和解ができたので、今年、来年は韓日関係が良くなると思っている」と楽観。「今年は日本で開かれる韓中日首脳会談など、安倍晋三首相と朴槿恵大統領が会う機会が何度もある。首脳が頻繁に会談すれば、関係発展への期待感が持てる」と表明した。(2016/05/15-14:34)

800名無しさん:2016/05/15(日) 20:06:35
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160515/k10010521741000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_004
沖縄 本土復帰44年「平和行進」で基地閉鎖など訴え
5月15日 11時52分
沖縄が本土に復帰してから、15日で44年となるのに合わせて、市民団体や労働組合が基地の閉鎖などを訴えて県内各地を練り歩く「平和行進」が行われ、およそ2000人が参加しました。
この「平和行進」は、市民団体や労働組合が沖縄が本土復帰した5月15日に合わせて毎年行っているもので、ことしは主催者の発表でおよそ2000人が3つのコースに分かれて、13日から県内各地を練り歩いてきました。
最終日の15日、那覇市内の公園では午前9時ごろ、700人余りが行進に出発し、「基地の県内移設反対」などとシュプレヒコールを上げていました。
3日間の行進で参加者は、返還合意から20年がたった普天間基地や、移設先とされる名護市辺野古のキャンプシュワブなど、アメリカ軍基地の周辺や沖縄戦の激戦地などを巡り、戦争の悲劇を繰り返さないことや基地の閉鎖や撤去を訴えたということです。
那覇市の30代の女性は「沖縄から世界に向けて平和のメッセージを届けたいと思い、参加しました。こうした小さな取り組みが大きな力に広がっていってほしいと思います」と話していました。また、北海道から参加した20代の男性は「基地を減らすためには、沖縄だけでなく県外の人も一緒になって声を上げることが大切だと感じました」と話していました。

801とはずがたり:2016/05/20(金) 03:13:05
カナダ首相が100年ぶり謝罪…インド人乗せた日本の「駒形丸」入国拒否事件で
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160519-00000501-san-pol&amp;pos=2
産経新聞 5月19日(木)10時14分配信

 【ニューヨーク=上塚真由】カナダのトルドー首相は18日、1914年に日本籍の汽船でカナダに入国しようとしたインド系の移民希望者らを拒否した「駒形丸」事件について、下院で公式に謝罪した。約100年前のカナダ政府の移民制限強化措置を批判し、受け入れ拡大の姿勢を改めて強調した格好だ。

 トルドー氏は「カナダ政府を代表し駒形丸事件を謝罪する。100年以上前のことだが、ひどい不正が行われた」と強調。「乗客が経験した痛みや苦しみはどんな言葉をかけても消えることはない」と述べた。

802名無しさん:2016/05/22(日) 16:02:26
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051600005&amp;g=pol
広島訪問、正しい決断=「謝罪しない」と米大統領補佐官

 【ワシントン時事】ライス米大統領補佐官(国家安全保障担当)は15日放送のCNNテレビの番組で、オバマ大統領が27日に広島を訪問することを「正しい決断だ」と明言した。その上で、「日本は(原爆投下に)謝罪を求めていない。われわれも(謝罪を)しない」との立場を明らかにした。
 一部メディアは、ライス氏が中国との関係を重視して大統領の訪問に「後ろ向きだった」と伝えていた。
 ライス氏はまた、大統領が広島訪問の際、戦後の日米同盟の進展を強調するため「協力関係にある米軍兵士と自衛官らと面会する機会がある」と明らかにした。さらに、戦争による市民の甚大な被害や、大統領が唱える「核兵器なき世界」への取り組みについてメッセージを発信すると説明した。(2016/05/16-00:28)

803名無しさん:2016/05/22(日) 16:41:23
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160516/k10010522501000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_125
米大統領広島訪問 補佐官「謝罪はしない」
5月16日 10時51分
アメリカ、ホワイトハウスのライス大統領補佐官は、オバマ大統領の被爆地、広島への訪問について、「興味深いことに、日本側は謝罪を求めていないし、われわれはいかなる状況でも謝罪はしない」と述べ、原爆投下の是非を議論することはないという考えを改めて強調しました。
アメリカのオバマ大統領は、伊勢志摩サミットに出席したあとの今月27日に、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地・広島を訪問する予定です。
これについて、ライス大統領補佐官は15日、アメリカCNNテレビのインタビューで、「興味深いことに、日本側は原爆投下の再評価や謝罪を求めてこなかったし、われわれはいかなる状況でも謝罪はしない」と述べ、オバマ大統領の広島訪問が、原爆投下の是非の議論につながることはないという考えを改めて強調しました。そのうえで、ライス補佐官は「今回の大統領の訪問の第1の目的は、多くの民間人が犠牲になる戦争の大きな代償に目を向けることだ」と述べ、すべての戦争の犠牲者を追悼することが訪問の目的だと説明しました。また、ライス補佐官は「第2の目的は、核兵器のない世界の実現を訴えることだ」と述べ、停滞している核軍縮の機運を再び高めるためのメッセージを発信したいという考えを示しました。
ライス補佐官は先週、退役軍人の団体の代表などと会合を開き、こうした考えを説明しており、アメリカ国内に原爆投下を謝罪しないよう求める声があることに配慮しているものとみられます。

804名無しさん:2016/05/22(日) 16:47:17
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160519/k10010527271000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_051
米大統領の広島訪問 謝罪より非核化の努力が重要 菅長官
5月19日 18時16分
菅官房長官は午後の記者会見で、アメリカのオバマ大統領の広島訪問について、原爆投下への謝罪の有無というよりも、核兵器のない平和で安全な世界の実現を目指し、アメリカ政府とともに努力を重ねることが重要だという認識を示しました。
アメリカのオバマ大統領の広島への訪問を巡り、ライス大統領補佐官は「興味深いことに日本側は原爆投下への再評価や謝罪を求めてこなかったし、われわれはいかなる状況でも謝罪はしない」と述べました。
これについて菅官房長官は午後の記者会見で、「わが国としては、70年を経たきょう、謝罪の有無というよりも、アメリカ政府とともに、人類に多大な惨禍をもたらしうる核兵器が将来2度と使用されるようなことがないよう、核兵器のない平和で安全な世界の実現を目指して、現実的、そして着実に努力を積み重ねていくことが重要だと考えている」と述べました。
そのうえで、菅官房長官は、「わが国として、核兵器のない世界に向けた力強いメッセージを発出するため、大統領の思いを受け止め、広島訪問を心から歓迎する」と述べました。

805名無しさん:2016/05/22(日) 17:28:52
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051900067&amp;g=pol
広島メッセージは数分間=「簡素なセレモニー」計画-オバマ米大統領・広島訪問

 【ワシントン時事】米国家安全保障会議(NSC)のクリテンブリンク・アジア上級部長は18日、ワシントンで記者会見し、オバマ大統領が27日に広島平和記念公園を訪れる際、訪問を受けたメッセージとして数分間発言する意向であることを明らかにした。また、「簡素で威厳のあるセレモニー」を計画していると説明した。
 大統領と被爆者の面会などについては「全体像が固まっていない」と回答を回避。ただ、「訪問は核兵器なき世界への決意を再確認する一方、罪なき全ての戦没者を追悼し、日米両国が歩んできた道のりを象徴的に示すものだ」と述べ、大統領のメッセージや日程はこれらの目的に沿うと説明した。(2016/05/19-06:45)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051900092&amp;g=pol
広島訪問、米国民は好意的=大統領報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は18日の記者会見で、オバマ大統領の広島訪問について「この国には支持しない人もいるだろうが、政権に寄せられている反応の圧倒的多数は積極的か少なくとも好意的だ」と説明した。
 アーネスト氏は「第2次大戦を戦った人々にもそれは当てはまると思う。彼らの多くも日米関係が根本的に変容したことに同意するだろう」と語った。(2016/05/19-07:26)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051900884&amp;g=pol
韓国の被爆者団体代表ら訪日へ

 【ソウル時事】韓国の被爆者団体「韓国原爆被害者協会」は19日、協会の成洛亀代表らがオバマ米大統領の広島訪問に合わせ、日本を訪れると発表した。27日に大統領との面会を要請する計画で、大統領に対し、韓国人被爆者への謝罪や賠償を求める書簡を渡したいという。(2016/05/19-20:59)

806名無しさん:2016/05/22(日) 17:29:37
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051900610&amp;g=pol
歴史問題克服目指す=米大統領、被爆地・広島へ-対越関係の完全正常化図る

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は22〜27日のベトナム、日本両国訪問で、かつて戦火を交えた両国との間にある歴史問題の克服を目指す。ベトナムでは、1995年に回復した国交の完全正常化の象徴となる武器禁輸の全面解除の可能性が議題の一つとなる見通し。日本では主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に出席後、現職大統領として初めて広島を訪問する。
 オバマ大統領のアジア訪問は2009年1月の就任以来10回目で、うち訪日は4回目。米大統領のベトナム訪問は75年の戦争終結後、3人目となる。
 国家安全保障会議(NSC)のクリテンブリンク・アジア上級部長は18日の記者会見で、域内の新興国との関係構築と同盟国との協力強化はオバマ政権が掲げるアジア太平洋へのリバランス(再均衡)政策の「重要な2大要素だ」と説明した。
 一方、中国が反発している対越武器禁輸全面解除の可能性については「武器売却はベトナム国内の人権問題などを考慮しながら、個別に判断する」と述べるにとどめた。
 大統領はハノイでチャン・ダイ・クアン国家主席、共産党のグエン・フー・チョン書記長らと会談。安保と経済の両分野に加えて、軍事交流を含む両国の関係強化や、中国が進出する南シナ海問題への対応について意見交換する。
 大統領は「ベトナム戦争後の世代の大統領」(元米政府高官)として、米越関係の過去の戦争の記憶を拭い去り、現在・未来を見渡す演説をハノイで行う予定だ。
 広島訪問では、オバマ大統領は平和記念公園で数分間の発言を行う。メッセージは被爆地を視察して感じたことが中心となるが、核兵器を使用した唯一の国としての責任に言及して「困難な歴史問題を直視し、現在の日米関係の進展と未来をたたえる」(同上級部長)内容になるとみられる。簡素な式典も執り行う。(2016/05/19-16:23)

807名無しさん:2016/05/22(日) 17:37:36
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052000108&amp;g=pol
広島と長崎「核の犠牲の象徴」=オバマ大統領が言及へ-米高官

 【ワシントン時事】ローズ米大統領副補佐官(戦略広報担当)は19日、電話で記者会見し、オバマ大統領が27日の被爆地・広島訪問で発信するメッセージに関して「(被爆地の)広島と長崎は罪なき人々の犠牲と核兵器による犠牲の両方の象徴」であることに言及する見通しを示した。
 ローズ氏によると、大統領は広島平和記念公園を視察し、原爆死没者慰霊碑に献花。その後、数分間のメッセージを発信する。安倍晋三首相も同行する。簡素な式典を執り行う予定だが、被爆者と面会する機会があるかどうかは「最終決定していない」と説明した。
 メッセージの内容については「指導者と市民は戦争による莫大(ばくだい)な犠牲に留意しなければならない。罪なき人々の犠牲を決して忘れることはできない」とも語った。また、「大掛かりな演説をする場ではない」と指摘し、核軍縮への新政策などは発表しないと話した。
 ローズ氏は一方、安倍首相が日米開戦の舞台となった米ハワイ州ホノルル市の真珠湾を訪れる案に関して「オバマ大統領の広島訪問とつながりはない。首相が自身で決めることだ」と述べた。(2016/05/20-08:30)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052000533&amp;g=pol
広島・長崎の惨禍意識=日米関係強化に寄与-大統領の被爆地訪問・アジア上級部長

 【ワシントン時事】米国家安全保障会議(NSC)のクリテンブリンク・アジア上級部長は19日、オバマ大統領の広島訪問を控えて時事通信との会見に応じた。上級部長は「大統領は困難な歴史的事実を真っ向から誠実に直視したいと考えている」と述べ、原爆投下への謝罪はしないものの、広島・長崎の惨禍を強く意識した訪問になるという見通しを示した。また、広島訪問は「日本政府と日本国民との関係を一段と強化し、絆をさらに深める」と明言した。
 クリテンブリンク氏は広島訪問の意義として、「大統領は核兵器なき世界への取り組みを訴える意向だ。核兵器を使用した唯一の国として、米国には特別な責任がある。広島はこのメッセージを伝えるのに非常に効果的な場所だ」と説明。「大統領は戦争、特に広島での全ての犠牲者に哀悼の意を表したいと考えている」と述べた。
 さらに、「この訪問により、戦争と核兵器の使用で人々が途方もない苦しみを味わったことに世界がはっきりと注目する」と、大統領訪問の象徴的な意味を強調した。ただ、謝罪はしない立場を改めて表明。4月のケリー米国務長官の広島訪問が日本で好意的に受け止められたとし、「大統領訪問も同様だと予想している」と話した。
 クリテンブリンク氏はまた、長崎の原爆犠牲者に対しても「広島と長崎がつながっているという事実を強く意識している」と確認。「大統領訪問の間に、その事実を何らかの方法で明示することができるだろう」と、長崎の犠牲者への配慮を示す方針を明らかにした。
 一方、オバマ政権が核兵器の近代化に取り組んでいるという批判に対しては「大統領は核兵器がある限り、安全に維持する責任があると明言している」と指摘した。また、「米国民と日本のような同盟国の安保にも責任があり、核兵器と抑止力はなお重要な役割を果たしている」と理解を求めた。(2016/05/20-14:55)

808名無しさん:2016/05/22(日) 18:19:46
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052100176&amp;g=pol
原爆投下の検証写真寄贈=政権幹部向け説明資料-米シンクタンク

 【ワシントン時事】原爆開発の「マンハッタン計画」を指揮した米陸軍のレズリー・グローブズ中将(最終階級、故人)がトルーマン政権幹部に広島、長崎への原爆投下の効果について説明する際に用いた写真パネルなど24点が、広島市の平和記念資料館(原爆資料館)に寄贈される方向で調整が進んでいることが21日、分かった。
 資料を保管しているシンクタンク「スティムソン・センター」によると、写真パネルは24点のうち21点。1945年8月の投下直後の広島の市街地を撮影した写真や、長崎への投下時に立ち上るきのこ雲などを捉えている。
 同センターのマイケル・クレポン共同創設者は「核兵器を二度と用いてはならないと思い起こすために保管してきた。資料館の使命も同じで、より多くの人が目にする機会を得られるよう寄贈を決めた」と述べた。(2016/05/21-14:38)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052100106&amp;g=pol
核使用国の「特別な責任」言及=広島訪問時メッセージ-米大統領

 【ワシントン時事】シュルツ米大統領副報道官は20日の記者会見で、オバマ大統領が27日の広島訪問の際に発信するメッセージについて「核兵器を使用した世界で唯一の国として、米国が持っている特別な責任を認めることになると予想している」と述べ、大統領が米国の「特別な責任」に言及するとの見通しを示した。(2016/05/21-09:05)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052200020&amp;g=pol
日越歴訪、広島で追悼へ=沖縄の女性遺棄事件も協議か-米大統領

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は21日、ベトナム、日本を歴訪するため、専用機でワシントン郊外のアンドルーズ空軍基地を出発した。日本滞在中、現職大統領として初めて被爆地である広島を訪問し、全ての犠牲者を追悼する。
 安倍晋三首相は20日、沖縄県の女性会社員死体遺棄事件で米軍属の男が逮捕されたことを受け「徹底的な再発防止など厳正な対応を米国側に求めたい」と述べた。大統領との会談で対策の徹底を求める構えだ。(2016/05/22-06:45)

809名無しさん:2016/05/22(日) 20:54:18
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051700809&amp;g=pol
慰安婦合意の履行確認=日韓議会

 日韓議会未来対話の第1回会合が17日、衆院議員会館で開かれ、慰安婦問題に関する昨年末の政府間合意を着実に履行していくことを確認した。韓国側団長の鄭義和国会議長は閉会式で「両国民の間で温度差がある。本質は人権問題であり、被害者の尊厳と名誉の回復が何よりも大事だ」と述べ、日本側に誠実な対応を求めた。
 韓国側は3月に施行された安全保障関連法を取り上げ、懸念を表明。これに対し、日本側団長の大島理森衆院議長は「日本の基本は平和主義だ。ぜひ(韓国内で)伝えていただきたい」と理解を求めた。双方は北朝鮮の核・ミサイル開発問題での連携も確認した。(2016/05/17-19:02)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051700847&amp;g=pol
日韓、慰安婦合意の履行急ぐ=朴氏側近辞任で不透明感も

 日韓両政府は17日、東京都内で開いた外務省局長協議で、慰安婦問題に関する昨年末の合意を「着実、迅速に履行していく」ことで一致した。しかし、韓国側では、4月の総選挙で与党セヌリ党が惨敗し、朴槿恵大統領側近だった知日派の大統領秘書室長が辞任するなど、不透明感も増している。
 石兼公博アジア大洋州局長は韓国の鄭炳元外務省東北アジア局長との17日の協議で、元慰安婦を支援する財団設立などについて協議した。鄭氏は会談後、記者団に「早い時期に財団を設立できるよう準備している」と語った。月内に財団の準備委員会を立ち上げ、6月にも発足させる方針だ。(2016/05/17-19:44)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051800068&amp;g=pol
原爆の代償「直視して学ぶ」=大統領の広島訪問で-米副補佐官

 【ワシントン時事】ローズ米大統領副補佐官(戦略広報担当)は17日、ワシントン市内で講演し、オバマ大統領の27日の広島訪問について「(原爆投下による)莫大(ばくだい)な被害を認識することになる。大統領は『核兵器なき世界』に取り組むだけでなく、歴史を直視して学ぶことが重要と信じている」と語った。(2016/05/18-06:35)

810名無しさん:2016/05/22(日) 20:58:08
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051700035&amp;g=pol
日韓局長、合意の履行確認=慰安婦支援財団設立へ調整

 外務省の石兼公博アジア大洋州局長は17日午前、同省で韓国の鄭炳元外務省東北アジア局長と会談し、慰安婦問題に関する昨年末の政府間合意を着実に履行していくことを確認した。協議では、元慰安婦支援のため、日本が約10億円の資金を拠出して韓国が設立する財団について意見交換した。韓国政府は6月にも財団を発足させる考えを示している。
 協議は4月にソウルで行われて以来。韓国では総選挙で与党セヌリ党が惨敗し、慰安婦問題の日韓合意に尽力した李丙※(※王ヘンに其)大統領秘書室長が辞任しており、合意実施へ道筋を付けられるどうかが課題となる。(2016/05/17-13:03)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051600658&amp;g=pol
慰安婦合意履行へ協力を=韓国国会議長と会談-大島議長

 大島理森衆院議長は16日午後、韓国国会の鄭義和議長ら超党派議員団と国会内で会談した。大島議長は、昨年末の慰安婦問題に関する日韓合意について「私どもも誠実に実行していかなければならない。サポートしたい」と述べ、履行に向けた日韓の議会の協力を提起した。日本側によると、韓国側はこの問題に言及しなかった。
 鄭議長らは17日に開かれる第1回日韓議会未来対話に出席するため来日した。(2016/05/16-18:01)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051600470&amp;g=pol
元慰安婦支援めぐり協議=日韓局長、17日会談

 日韓両政府は16日、外務省局長級協議を17日に東京で開催すると発表した。慰安婦問題に関する昨年末の日韓合意を踏まえ、韓国側は6月にも元慰安婦を支援する財団を発足させたい考えで、実務者レベルで調整を進める。
 協議は4月にソウルで行われて以来で、日本側から石兼公博アジア大洋州局長、韓国側から鄭炳元東北アジア局長が出席する。日韓合意では、元慰安婦支援の財団に日本側は10億円程度を拠出することになっている。(2016/05/16-15:06)

811名無しさん:2016/05/23(月) 07:38:07
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160522-00000057-mai-int
<米大統領広島訪問>元米兵捕虜も立ち会いへ 米政府が要請
毎日新聞 5月22日(日)21時13分配信

 【ハノイ西田進一郎】オバマ米大統領が27日に被爆地・広島を訪問する際、第二次世界大戦中の元米兵捕虜も立ち会うことが22日、分かった。1942年にフィリピン・バターン半島で米兵捕虜ら多数が死亡した「バターン死の行進」の生存者らで作る「全米バターン・コレヒドール防衛兵記念協会」のジャン・トンプソン代表が明らかにした。

 トンプソン氏によると、大統領の広島訪問の式典に元捕虜の一人を代表として参加させてほしいとホワイトハウスから要請があった。広島訪問が、原爆投下の被害だけでなく、第二次大戦の全ての被害に目を向けたものであることを示す狙いがあるとみられる。

 代表で参加するのは、米東部コネティカット州のダニエル・クローリーさん(94)。フィリピンで旧日本軍の捕虜となり、パラワン島で飛行場建設の作業を素手で行うように強いられた。その後、日本に移送され、栃木県足尾の銅山などで強制労働をさせられた。

 クローリーさんは4月下旬に毎日新聞の取材に当時の生活の過酷さを説明したうえで「兵器は人を殺害するので、全ての兵器は嫌なものだ。しかし、戦争を引き起こしたのは米国ではなく、ドイツと日本だ」と述べ、戦争終結のために原爆投下はやむを得なかったとの認識を示した。一方、「オバマ氏の広島訪問は気にしていない。私が懸念しても世界のどこにだって行ける」と語り、訪問自体には反対しない姿勢を示した。

812名無しさん:2016/05/23(月) 17:42:01
>>811

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052300275&amp;g=pol
大統領広島訪問、元米兵同行へ=ホワイトハウスが招請

 【ワシントン時事】オバマ米大統領が27日に広島を訪問する際、第2次世界大戦中に旧日本軍の捕虜となった元米兵の一人が同行することが22日、分かった。旧日本軍が多くの捕虜を死亡させた「バターン死の行進」の生存者らでつくる「全米バターン・コレヒドール防衛兵記念協会」が明らかにした。
 同協会によると、ホワイトハウスから広島での式典に参加できる元捕虜を紹介してほしいと依頼があったという。ホワイトハウスはかねて「広島訪問で全て戦没者を追悼する」と説明しており、原爆投下だけでなく、第2次大戦がもたらしたあらゆる被害に焦点を当てる狙いがあるとみられる。(2016/05/23-11:40)

813名無しさん:2016/05/28(土) 10:41:40
http://news.infoseek.co.jp/article/sankein_sk220160527554/
原爆ドーム前で在特会とオバマ氏来訪反対のデモ隊が衝突 市民ら困惑「日本人として恥ずかしい」
産経ニュース / 2016年5月27日 16時28分

 オバマ大統領の広島訪問を数時間後に控えた27日午後、広島市中区の原爆ドーム前でオバマ大統領の広島訪問を反対するデモ隊と「在日特権を許さない市民の会」(在特会)のメンバーらが“衝突”した。「オバマは来るな!」と語気を強めるデモ隊に、在特会が「頭のおかしい人たち」「エセ平和団体」と批判するなど、一時緊迫した状態に。20〜30人の警察官が取り囲む中、攻撃的な言い合いが約30分間続いた。

 「目の前の頭のおかしい人たちにだまされないでください。オバマ大統領を歓迎しないなんて、日本人とは思えない」。デモ隊が集まる原爆ドーム前の歩道に立った女性(40)が、マイクごしに叫んだ。

 デモ隊へ抗議していたのは、在特会のメンバーらでつくる市民団体「行動する保守運動」。オバマ大統領に歓迎の気持ちを示したいと、広島を訪れたという。活動に参加した広島市の男性(35)は被爆2世といい、「今日という日が、これから先の平和を見据えた第一歩になってほしい」と強調した。

 一方、デモは「被爆71周年8・6ヒロシマ大行動実行委員会」が主催。26日夕に続き、2度目の集会を原爆ドーム前で開いた。「オバマ来広反対」「全ての米軍基地を撤去せよ」などと書かれたのぼりやプラカードを持った男女30〜40人が集合。メンバーの男性が「謝罪なしにオバマが来ることは絶対反対。再び核兵器を使うに違いない」と語気を強めた。

 その後、デモ隊は「広島を戦争に利用するな」などと拡声器で呼びかけながら、市中心部を行進した。

 デモ行進を見ていた広島市中区の女性(83)は12歳のときに被爆したといい、「オバマ大統領が来るのを皆心待ちにしとるのに、あんなこと言うなんて、日本人として恥ずかしい」と顔をしかめた。

814名無しさん:2016/05/28(土) 11:30:42
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160528-00000002-mai-soci
<米大統領広島訪問>オバマ氏の所感 全文
毎日新聞 5月28日(土)1時49分配信

 オバマ米大統領は27日、広島市の平和記念公園を訪問し、安倍晋三首相とともに原爆慰霊碑に献花し、黙とう。広島市の松井一実市長や長崎市の田上富久市長、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員の坪井直(すなお)さん(91)らを前に所感を述べた。所感の全文は次の通り。

 71年前、晴天の朝、空から死が降ってきて世界が変わりました。閃光(せんこう)と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自分自身を破壊する手段を手に入れたことを示しました。

 私たちはなぜここ広島に来るのでしょうか。それほど遠くない過去に恐ろしい力が解き放たれたことを考えるために来ます。また、10万人を超える日本の男性、女性、子ども、多数の朝鮮半島出身者、12人の米国人捕虜の死者を悼むために来ます。その魂がもっと心の内を見て私たちは何者なのか、私たちはどのようになれるのか、振り返るよう語りかけてきます。

 広島を際立たせているのは戦争という事実ではありません。人間が作った道具は暴力的な紛争が古くから行われてきたことを教えてくれます。私たちの先祖は石から刃物を、木から槍(やり)を作ってきました。これらの道具はただ単に狩りをするためでなく、人間に対しても使われてきました。どの大陸においても文明の歴史は戦争に満ちています。食料不足や黄金への渇望、民族主義的、宗教的な熱狂から戦争が起こり、帝国が台頭し、衰退してきました。そして、人々は支配され、解放されてきました。その時々で数えきれない犠牲者が出て罪のない人々が苦しみ、犠牲者の名前は時とともに忘れ去られました。

 広島と長崎で残虐的な終わりを迎えた世界大戦は、最も豊かで強い国々の間で戦われました。その文明は世界にすばらしい都市や美術を生み出してきました。そして、思想家は正義や調和、真実という進んだ考えを見いだしてきました。しかし、最も単純な部族同士の紛争の原因のように、支配、征服を欲する本能という同じ根本から戦争は起きてきました。つまり、古いパターンが制約が働くことなく、新しい能力により増幅されてきました。ほんの数年間で6000万人が亡くなりました。男性、女性、子ども、私たちと全く変わらない人たちです。銃で撃たれ、殴られ、行進させられ、爆撃され、拘束され、飢餓に苦しみ、毒ガスにより、亡くなりました。

 世界にはこの戦争を記録している施設がたくさんあります。記念碑は勇ましさや英雄的な物語を伝え、墓地や収容所の跡は言い表せないほどの恐ろしい行為がなされたことを示しています。しかし、この空に上がったキノコ雲の姿は、最も明確に人類が抱える矛盾を想起させます。思想、想像、言語、道具作りなど、人類が自然界から離れ、自然を従わせることができると示す能力は、同時に、比類のない破壊力も生み出したのです。

 物質的な進歩や社会の革新が、どのくらいこうした真実を隠してしまっているでしょうか。私たちはどれだけ簡単に、暴力を崇高な理由によって正当化してしまっているでしょうか。すべての偉大な宗教は、愛や平和、公正さにいたる道を説いていますが、どの宗教も信仰の名のもとに人を殺す信者を抱えることを避けられません。

 国は犠牲や協力によって人々が団結するという物語を語り、台頭して偉大な成果を生みました。その同じ物語は、自分とは違う他者を虐げたり、非人間的に扱ったりすることに使われてきました。

 私たちは科学によって海を越えてコミュニケーションできますし、雲の上を飛ぶこともできます。病気の治療や宇宙の解明もできます。しかし、そうした発見が、効率的に人を殺す機械になり得るのです。

 近年の戦争は私たちにこうした真実を伝えています。広島も同じ真実を伝えています。技術のみの発展だけでなく、同様に人間社会が進歩しなければ、我々を破滅させる可能性があります。原子を分裂させた科学の革命は私たちに道徳的な進歩も要求しています。

 これが私たちが広島を訪れる理由です。

815名無しさん:2016/05/28(土) 11:31:03
>>814

 この広島の中心に立つと、爆弾が投下された瞬間を想像させられます。混乱した子供たちが抱いた恐怖感を感じ、声にならない叫びを聞きます。むごたらしい戦争、これまで起きた戦争、そしてこれから起こるかもしれない戦争による、罪のない犠牲者に思いをはせます。言葉だけでは、このような苦しみを表すことはできません。しかし、私たちは正面からこの歴史に向き合い、このような苦しみを再び繰り返さないためにできることを問う責任を共有してきました。

 いつの日か、証言をする被爆者の声を聞くことができなくなります。しかし、1945年8月6日朝の記憶は決して消してはいけません。その記憶があるからこそ、我々は現状に満足せず、道義的な想像力の向上が促され、変われるのです。

 あの運命の日以来、私たちは希望をもたらす選択を行ってきました。米国と日本は同盟を築いただけでなく、友情をはぐくんできました。それは戦争よりもはるかに人々にとって有益でした。

 欧州の国々は貿易と民主主義の結びつきによって戦場に代わって連合を作りました。抑圧された人々や国家は自由を勝ち取ってきました。国際社会は戦争を避け、そして核兵器を規制、削減し、最終的には廃絶することを求めた機構や条約を設けてきました。

 しかし、私たちが世界で目にする、すべての国家間の侵略行為やテロ行為、腐敗、残虐行為、そして抑圧は、私たちの仕事がまだ終わっていないことを示しています。

 私たちは悪を行う人類の能力をなくすことはできないかもしれません。だから、私たちが築いた国家や同盟は、私たち自身を守る手段を持たなければなりません。しかし、我が国のように核兵器を持っている国は恐怖の論理から脱し、核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはいけません。私が生きているうちに、この目標を達成することはできないかもしれませんが、たゆまない努力で破滅の可能性を少なくすることはできます。

 私たちはこれらの核兵器をなくす道のりを描くことができます。私たちは新たな(核兵器の)拡散を止め、狂信者から核物質を守ることができます。これだけでは十分ではありません。なぜならば、原始的なライフルや「たる爆弾」ですら、非常に大きな規模での暴力をもたらせるからです。

 私たちは戦争自体に対する考え方を変えなければいけません。外交を通じて紛争を防ぎ、始まってしまった紛争を終わらせる努力をする。相互依存が深まっていることを、暴力的な競争ではなく、平和的な協力の名分にする。国家を、破壊する能力ではなく、何を築けるかで定義する。そして何よりまして、私たちは人類の一員としてお互いのつながりを再び想起しなければなりません。このつながりこそが我々を人類たるものにしているからです。

 私たちは過去の失敗を繰り返すよう遺伝子で決められているわけではありません。私たちは学ぶことができます。選ぶことができます。子どもたちに違う方法を伝えることができます。共通する人間性を説明し、戦争が起こりにくく、残虐性が簡単には受け入れられないようにする物語です。被爆者の方たちの話から、それらが分かります。原爆を落とした爆撃機を操縦したパイロットを許した女性がいました。それは彼女が、自分が本当に嫌悪しているのは戦争そのものだと気付いたからです。広島で殺された米国人の家族を捜し出した男性がいました。なぜなら彼は、その米国人たちの喪失感は彼自身のものと同じだと確信していたからです。

816名無しさん:2016/05/28(土) 11:31:40
>>815

 私の国の物語は(独立宣言の)簡単な言葉で始まります。「すべての人類は平等に創造され、創造主によって奪うことのできない権利を与えられている。それは生命、自由、幸福追求の権利である」。しかしその理想を実現することは、米国内や米国民の間であっても、決して簡単ではありません。しかし、その物語にあくまでも忠実であろうとすることに価値があります。それは努力しなくてはならない理想であり、大陸と海をまたぐ理想です。

 全ての人のかけがえのない価値です。全ての人命は貴重であるということです。私たちは一つの家族の一部であるという根源的で不可欠な考え方です。それが私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

 だからこそ私たちは広島に来るのです。それによって、私たちは、愛する人たちに思いをはせます。朝一番の子供たちの笑顔。食卓での配偶者との優しい触れ合い。親の心地よい抱擁。そうしたことを思い、そうしたかけがえのない瞬間が71年前のここにもあったのだと考えることができます。亡くなった方々は私たちと全く変わらない人たちでした。

 普通の方々はこうしたことを理解できると思います。彼らの誰もがこれ以上、戦争を望んでいません。むしろ科学の驚異を、命を奪うのではなく、もっと人生を豊かにすることに役立ててほしいと考えています。

 国家が選択をするとき、国家の指導者がこのシンプルな英知をかえりみて選択すれば、広島から教訓を得られたと言えるでしょう。

 世界はここで永遠に変わってしまいました。しかし、広島の子供たちは平和に日々を送っていくでしょう。なんと価値のあることでしょうか。それこそが守り、そして全ての子供たちに広げていく価値があることなのです。

 これこそが、私たちが選択できる未来です。広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの始まりであるべきです。

817名無しさん:2016/05/28(土) 11:52:17
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00010001-aptsushinv-int
【映像】オバマ大統領ヒロシマ演説、被爆者と握手
AP通信 5月27日(金)20時5分配信

 [広島 日本 27日 AP]

 アメリカのバラク・オバマ大統領は27日午後、同国現職の大統領では初めて日本の広島を訪問し、70年前に原子爆弾で犠牲になった14万人に敬意を表した。

 平和公園の原爆慰霊碑で献花を終えたオバマ大統領は被爆者らを前に演説を行い、「71年前、晴れた雲のない朝に、死が空から落ちてきた。そして世界が変わった。閃光と火の壁は都市を破壊し、人類が自滅する手段を備えていることを証明した。
 なぜ、我々はこの場所に来たのか。広島に。我々は10万人以上の日本の男性や女性、子供たち、何千もの韓国人、捕虜になっていたアメリカ人を含む全ての死者を追悼するために来た。彼らの魂は我々に語りかける。我々が何者なのか、そして我々がどのようになろうとしているのか」
 「科学を人生の発展のために使用してほしい。今、広島の子どもたちは幸せに暮らしている。それを世界のすべての子どもたちに。
 広島、長崎が核戦争の夜明けとして知られる未来ではなく、私たち自身の道義的な目覚めとなる未来」と述べた。

 オバマ大統領は演説後、被爆者2人のもとへ向かい握手し、会話を交わした。

(日本語翻訳 アフロ)

(C) AP
最終更新:5月27日(金)20時5分

818名無しさん:2016/05/28(土) 12:53:17
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160528-00000504-san-n_ame
オバマ大統領広島訪問 米メディアはどう伝えたか?「心揺さぶられる瞬間」「日米の特別な関係を明示」
産経新聞 5月28日(土)0時57分配信

 【ワシントン=小雲規生】米主要メディアは27日、オバマ大統領の広島訪問について「繊細さが要求される判断だった」などとして詳しく報じた。いずれもオバマ氏が謝罪を避けながらも、「核なき世界」の実現に向けたメッセージを重視したとしている。

 米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)はオバマ氏が平和記念公園での演説後に被爆者と抱擁しあったことを「心揺さぶられる瞬間」と表現。オバマ氏と安倍晋三首相が献花後に交わした握手は「日米の特別な同盟関係を明確に示すものだ」とした。一方で広島訪問には中国や韓国で懸念が出ていたことも伝えた。

 米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は謝罪との受け止めを避けたいオバマ氏は被爆者と私的な場で会わず、公衆の場での短時間の会話に留めたと指摘。原爆資料館訪問も簡単なものだったとした。米紙ワシントン・ポスト(電子版)はオバマ氏の狙いは「核軍縮と不拡散に向けた米国の決意を改めて示すことだった」と分析した。

 CNNテレビも27日朝から広島訪問をトップニュースとして放送。オバマ氏の演説や被爆者との会話の様子を伝えた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000143-mai-pol
<米大統領広島訪問>「歴史的意義大きい」与野党とも歓迎
毎日新聞 5月27日(金)23時25分配信

 今回のオバマ米大統領の広島訪問を与野党とも歓迎した。自民党の谷垣禎一幹事長は27日の記者会見で「当時戦った米国の大統領が訪れる意義は極めて大きい」と述べた。

 公明党の山口那津男代表も「原爆を投下した国のリーダーとして被爆地を訪問したこと自体が歴史的に大きな意義がある。核のない世界を目指してともに歩んでいきたい」と記者団に語った。

 一方、民進党の岡田克也代表は「核を初めて使った国と被害を受けた国がしっかりと核廃絶に向けて努力をする。日本も具体的な歩みが求められる」と指摘。共産党の志位和夫委員長は「米国の核兵器政策の転換が必要だ」と述べた。

 おおさか維新の会の松井一郎代表は「被爆者、日本国民の心に寄り添う点で大きな意味がある。さらなる相互理解を進めるべきだ」とコメントを発表。社民党の又市征治幹事長は談話で「核兵器は二度と使われてはならないと世界に想起させることとなった」と評価した。【高橋克哉】

819名無しさん:2016/05/28(土) 12:54:53
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-36396490-bbc-int
オバマ米大統領、広島で献花 被爆者の手を握り、抱き寄せ
BBC News 5月27日(金)17時42分配信

バラク・オバマ米大統領が27日、現職大統領として初めて被爆地・広島を訪問し、平和記念公園を訪れた。安倍晋三首相と共にまず平和記念資料館を見学した後、原爆死没者慰霊碑に献花した。第2次世界大戦のすべての犠牲者を追悼した。

大統領は献花の後、所感を読み上げ、広島への原爆投下について「空から死が落下し、世界が変わった」と表明。原爆投下は「人類が自らを滅ぼす手段を手に入れた」ことを意味したと述べ、「核兵器なき世界」への決意を強調。「広島と長崎が核戦争の夜明けとして知られる未来ではなく、私たち自身の道義的な目覚めとなる未来」の実現を呼びかけた。

オバマ氏は1945年8月6日の記憶は決して色あせてはならないと述べ、「広島の記憶によって自分たちは独善と戦える。広島の記憶が自分たちの道徳的想像力をかきたて、変化を促してくれる」と強調。さらに核兵器について、「恐怖の論理から脱却し、(核兵器の)ない世界を追求しなくてはならない」と述べた。

同様に核兵器なき世界実現のため「努力を積み重ねていく」と強調した安倍首相の所感発表の後、大統領は被爆者の人たちと言葉を交わした。日本被団協の坪井直代表委員の手を握りながら話にじっと耳を傾け、被爆米兵を調査してきた被爆者の森重昭さんをそっと抱き寄せた。

大統領はその後、安倍首相や岸田文雄外相の説明を受けながら、原爆ドームをじっと見上げた。

オバマ氏はかねてから表明していたように、原爆投下について謝罪はしなかった。

史上初の原爆投下で、広島では少なくとも14万人が死亡。3日後には長崎へも原爆が落とされ、さらに7万4000人が死亡した。

オバマ大統領は、主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)を終え、山口県にある米海兵隊岩国基地で米兵たちを前に演説した後、大統領専用ヘリで広島入りした。

大統領は岩国基地で「第2次世界大戦で命を落としたすべての人の思い出を尊重するための機会だ」と演説。「平和と、核兵器がもはや必要なくなる(世界の)安全保障を追及していくと、あらためて確認する機会だ」と述べた。

大統領は基地でさらに、米国と日本の同盟関係は「世界で最強の(同盟の)ひとつ」だと強調し、「いかにかつての敵国同士が単なるパートナーというだけでなく、最高の友達になれるか」を自分の訪問が示していると述べた。

米国では大勢が、原爆投下が甚大な惨禍をもたらしたと認めつつ、戦争を終結させたのだから正当だと考えている。

一方で、27日に原爆死没者慰霊碑を訪れた被爆者の家族は、被爆の苦しみが「世代を超えて続いた」と話した。ハン・ジョンスンさん(58)はAP通信に対して、「オバマ大統領にはそれを知ってもらいたい。私たちの苦しみを理解してもらいたい」と語った。

父親が原爆によって孤児となったサトウ・セイキさんは米紙ニューヨーク・タイムズに、「われわれ日本人はアジア各地で、ひどい、ひどいことをした。そしてわれわれ日本人は、それを本当に恥ずかしいと思っているのだし、アジア諸国に誠心誠意謝っていないのだから、謝罪すべきだ。しかし原爆投下はまったくの悪の行いだ」と話した。

広島で取材するBBCのジョン・サドワース記者は、オバマ氏の広島訪問について、中国の軍事的台頭を懸念するアジア地域で、米国と日本の同盟関係強化という戦略的な意味合いもあるだろうと指摘する。

岩国基地でオバマ氏はこの点について、「私は大統領として、米国が再びアジア太平洋地域で主導的立場を確実に担うように努めた。なぜならこの地域は必要不可欠だからだ」と述べた。

<解説>シンボルと暗号――ジョン・サドワース、広島

被爆者を抱きしめるオバマ米大統領の姿は、日本人の間に深い印象を残すだろう。世論調査によると、日本の大半の人が今回の訪問を歓迎しており、謝罪がないこともほとんどの人は気にしていない様子だ。

深い象徴性で十分なのだ。原子爆弾を実際に使用した唯一の国の指導者が、核の時代の危険性の記念碑となった町で、花輪を捧げたのだから。

しかし中には、確かにその演説は高邁な理想に溢れてはいたが、世界最大級の核兵器備蓄量を誇る国の最高司令官であることには変わりないと指摘する人もいるだろう。しかもその核兵器の備えを刷新するため、数十億ドルの予算措置を承認した当人でもあるのだ。

大統領からわずか数列後ろにはいつものように、核攻撃命令の暗号を収めたブリーフケースを手に、将校が待機していた。

(英語記事 Barack Obama makes historic Hiroshima visit)

(c) BBC News
最終更新:5月27日(金)22時5分

820名無しさん:2016/05/28(土) 12:56:31
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000592-san-pol
オバマ大統領広島訪問 おおさか維新・松井一郎代表「日本政府も米国民の心に寄り添う一層の努力を」
産経新聞 5月27日(金)21時58分配信

 おおさか維新の会の松井一郎代表(大阪府知事)は27日、オバマ米大統領の広島訪問について「日本国民の心に寄り添う点で大きな意味がある。日本政府も米国民の心に寄り添う一層の努力を行い、過去の不幸な戦争に関する両国民の更なる相互理解を進めるべきだ」との談話を発表した。 

 松井氏は「日米両国は中国と北朝鮮の核の脅威に直面しており、現状では残念ながらアメリカの核抑止力を必要としている」とも指摘。その上で「将来は核廃絶が実現するようあらゆる努力を傾けるべきだ。オバマ氏が当時の悲惨な状況を知り、核兵器の非人道性を肌で感じていただくことが、その契機になることを期待したい」とした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00050170-yom-int
同盟と核兵器の危険性へ焦点…米主要紙も報じる
読売新聞 5月27日(金)23時11分配信

 【ワシントン=大木聖馬】米主要紙のウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は「オバマ大統領は広島平和記念公園で献花し、原爆投下で苦しんだ無辜(むこ)の人々を悼んだ」と報じた。

 同ワシントン・ポスト(同)はオバマ氏が「核兵器の開発を再考し、完全に廃絶することを呼びかけた」と伝え、オバマ氏が被爆者と会話を交わし、抱きしめた様子などを詳報した。

 同紙はまた、「過去の米大統領は広島訪問を、原爆投下への謝罪と見なされる恐れがあることから避けてきた」とした上で、「オバマ氏は謝罪ではなく、日米同盟と現代の核兵器の危険性への警告に焦点を当てた」と解説した。

最終更新:5月27日(金)23時12分

821名無しさん:2016/05/28(土) 12:58:08
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000009-jct-soci
オバマ大統領広島訪問 あちこち「配慮」と「和解」の演出
J-CASTニュース 5月27日(金)20時35分配信

 米国のオバマ大統領が2016年5月27日夕方、現職の米大統領としては初めて広島市を訪問し、平和記念公園で献花した。直後の演説では、直接的な謝罪の言葉は避けながらも、原爆の被害に向き合う言葉を繰り返した。演説に立ち会った被爆者とも笑顔で言葉を交わしたり抱き合ったりして「和解」を強く演出した。

 異例だったのが、犠牲者についてのくだりで「韓国・朝鮮人」(Koreans)「米国人」についても言及したことだ。韓国や米国の世論にも配慮したとみられる。

■「韓国・朝鮮人」「米国人」にも言及

 オバマ大統領は約50分にわたって平和記念公園に滞在。安倍晋三首相や岸田文雄外相らの出迎えを受け、最初に公園内の広島平和記念資料館を視察。献花に続いて演説に臨んだ。約17分にわたる演説では、

  「8月6日の苦しみは消えることはない」

などと述べ、広島訪問の目的を

  「恐ろしい力がそれほど遠くない過去に解き放たれたことを深く考えるため」
  「10万人を超える日本の男性、女性、子どもたち、何千人もの朝鮮人、数十人の米国人を含む死者を悼むため」

と説明した。

 原爆投下当時、朝鮮半島から徴用された人や、少数の米国人捕虜も広島にいたと考えられている。これに関連して、韓国では5月26日に被爆者団体が記者会見を開き、すべての被爆者に対する謝罪を要求。公園内にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」をめぐる立場を表明しなかったことに対して失望感を表明した。

 一方、米国ではオバマ氏の広島訪問に元米兵捕虜が立ち会う計画が浮上していたものの、直前になって見送られることになった。この計画には、日本の加害者としての側面も強調する狙いがあっただけに、退役軍人関連団体が失望感を表明している。

 オバマ大統領は、こういった経緯に配慮した可能性もある。

『共有された責任』(shared responsibility)を強調
 これに加えて、オバマ大統領は

  「歴史の観点から直視する『共有された責任』(shared responsibility)がある。こういった苦しみを繰り返さないために、我々がどのように(核兵器使用とは)違ったことができるか問わなければならない」

とも発言。核保有国が共同で「核なき世界」を目指す努力をすべきだとした。

 CNNやBBCをはじめとする米欧メディアは、この「共有された責任」(shared responsibility)というキーワードを強調して速報していた。

 また、演説直後にオバマ大統領と言葉を交わした日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の坪井直(つぼい・すなお)さん(91)は、その後のTBSとのインタビューで、

  「我々は恨みや何かは関係ありません。だから、私たちはオバマさんが来られたことは大歓迎します、感謝しております」

とオバマ大統領に伝え、核廃絶に向けた継続的な取り組みを求めたという。これに対して、オバマ大統領は、

  「人間の、人類の幸せをどうしたらなれるのかと、そういうことをとくとくと説いた」

という。歴史的な視点で「核なき世界」を強調してきたオバマ大統領が、やはり「共有された責任」という考えで、自らの広島訪問を意義付けようとしたようだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000588-san-pol
オバマ大統領広島訪問 公明・山口那津男代表 喪服姿で「生涯忘れられないこととして胸に刻む」
産経新聞 5月27日(金)21時22分配信

 公明党の山口那津男代表は27日、オバマ米大統領が米国の現職大統領として初めて被爆地の広島を訪問したことに関し「被爆の実相を見て、感じる機会を現職の大統領が持たれたことを歓迎したい」と評価した。

 同時に「今日を一つの重要な歴史的転換点として核のない世界を目指し、ともに歩んでいきたい。生涯忘れられない重要なこととして、私自身の胸にも刻んでおきたい」とも述べた。

 山口氏は被爆者らへの哀悼の意を示し、喪服姿で国会内での記者団の取材に答えた。

 オバマ氏が被爆者に謝罪しなかったことの是非を記者団から問われると、「被爆した犠牲者に思いをはせたこと自体を評価すべきだ」と述べるにとどめた。

822名無しさん:2016/05/28(土) 12:59:25
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000033-mai-soci
<オバマ氏広島へ>世界が注目する日…外国人から評価、注文
毎日新聞 5月27日(金)11時52分配信

 オバマ米大統領の広島訪問は世界が注目している。平和記念公園や原爆資料館を訪れた各国からの観光客らからは、おおむね訪問を前向きに評価する声が聞かれた一方、核軍縮に向けた具体的な成果を求める声もあった。【蒲原明佳、村瀬優子、伊藤遥】

 米国の大学生、ローレン・リトルペイジさん(22)は日本留学中の2年前に初めて原爆資料館を訪れ、今回は旅行で広島へ。

 原爆の後遺症が今も被爆者を苦しめていることを知り、「絶対に核を使うべきでないと思うようになった」。原爆が戦争を終結させたと考える米国人もいるが、「私たちの世代は違う。多くの人が、核廃絶を難しいと感じる一方で二度と使うべきでないとも考えている。大統領の発言に注目したい」と期待を寄せた。

 一方、原爆ドーム前で、英語の説明に見入っていた米国人のシャウン・ベルクさん(37)は「当時の混乱した状況をふまえ、原爆投下が正しかったかは判断できない。戦争を体験していないオバマ氏が謝ることはできない」と言い切る。

 インドのアンジャン・ボーミックさん(39)は「核兵器削減のための具体的な行動計画を示さなければ不十分だ」とオバマ氏に注文し、「インドも核保有国だが、(領土紛争を抱える)パキスタンとの課題を乗り越え、核兵器を手放さなければならない」と話した。

 原爆の悲劇を自国の痛みと重ねる人たちもいる。バングラデシュのハルン・ラシードさん(68)は「私たちもバングラデシュ独立戦争を経験した。いつも犠牲になるのは一般市民だ。訪問が核兵器廃絶の一歩になれば」と期待を込めた。

 日本の加害の歴史に絡めた声も。香港の大学の歴史講師、張静?さん(34)は「戦争中、中国や韓国、東南アジアでも罪のない人々が日本からひどい仕打ちを受け、米国も真珠湾攻撃を受けた。オバマ氏が原爆投下を謝罪しなくても、私にはその気持ちがよく分かる」と話した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000140-mai-soci
<米大統領広島訪問>歴史的瞬間 市民から拍手
毎日新聞 5月27日(金)22時51分配信

 ◇「スタートを切ることが大切」

 広島の原爆ドーム近くの交差点には多くの市民が集まり、原爆資料館前でオバマ米大統領が車から降りると、携帯電話で中継映像を見ていた人たちから拍手が湧いた。

 看護師の栗矢美紀さん(51)=広島市中区=は、「歴史的な瞬間を見たい」と長女紗良さん(11)と駆けつけた。オバマ氏と安倍晋三首相は核兵器廃絶などには長い時間がかかると述べたが、「スタートを切ることが大切で、今日がその日。行動に移したところを娘に見せたかった」と話した。大学生の藤岡慶一郎さん(22)=同市東区=は「原爆を投下した国のリーダーとして現実に向き合う姿勢が伝わった。米国主導で核軍縮を進めてほしい」と期待した。

 一方、3歳で被爆して孤児となった心理カウンセラーの飯田国彦さん(73)=東広島市=は「核のない世界の実現を『Yes we can』と訴えたプラハ演説に比べて物足りない。放射線による被害が何十年も続く原爆の残虐性に一言触れてほしかった」と厳しい表情を見せた。【伊藤遥、蒲原明佳、藤田愛夏】

823名無しさん:2016/05/28(土) 13:00:34
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160521-00000003-withnews-int
ゲバラが広島で発した「悲痛な言葉」 いま読んでおきたい偉人たちのヒロシマ語録 オバマ氏は何を語る?
withnews 5月22日(日)7時0分配信

 アメリカのオバマ大統領が5月27日、広島を訪問します。実は、これまでにもヒロシマを訪れた著名人はたくさんいます。キューバ革命の伝説的英雄、チェ・ゲバラは急きょ日程を変更して、広島へ足を伸ばし「悲痛な言葉」を残しました。原爆資料館で資料に見入ったマザー・テレサ。慰霊碑の碑文をかみしめた「レッド・ツェッペリン」のジミー・ペイジ……。被爆地で語られた言葉を集めました。

冷戦崩壊後、あの「大物」指導者が
 アメリカと並ぶ核大国の指導者だった「大物」も、今から20年以上前、広島に来ています。旧ソ連の崩壊後、92年に夫婦で訪れたゴルバチョフ元大統領です。「ゴルビー」の愛称で知られる彼は、こんなメッセージを資料館に残しています。

【ゴルバチョフ元大統領】
「歳月がヒロシマの悲劇の痛みを和らげることはできませんでした」
「このことは決して繰り返してはなりません」
「私たちは原子爆弾の犠牲者のことを決して忘れてはなりません」

革命家は親子2世代で
 キューバ革命の伝説的英雄、チェ・ゲバラは半世紀以上も前に訪れていました。革命政権が成立した直後の1959年7月に来日し、池田勇人通産相(当時)と会見した後、予定になかった広島訪問を強く希望したといいます。

 1泊して慰霊碑に献花、資料館や原爆病院を訪れました。「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか」と言い残したことが有名です。カメラ好きで知られ、本人が爆心地近くで撮影したモノクロ写真が見つかっています。

 広島行きを強行したのは、多数の人びとを一瞬で殺傷した原爆の残虐性に関心をもっていたからではないかといわれています。

 また、その足取りを追って、長女アレイダ・ゲバラさんも2008年に来日、広島で講演しました。ゲバラの死後、母親から「平和のために闘うためにはここを訪れるべきだ」と記した(広島訪問時の)絵はがきを見せられたそうです。

【チェ・ゲバラ】
「痛ましいのは原爆が投下されて14年たった今年も後遺症で多くの人が亡くなっていることだ」
「資料館では、胸が引き裂かれるような場面を見た」
(帰国後キューバの新聞に寄稿)

 革命の同志、キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長(当時)も2003年3月に広島を訪問。資料館で「このような野蛮な行為を決して犯すことのないように」と記帳しました。帰国後、このようなメッセージを広島市に届けました。

【カストロ議長】
「何百千万の人々があの地を訪れるべきだ。あそこで起こったことを人類が真に知るために」
「あの攻撃はまったく必要のないもので、モラル上も正当化できない」
「日本国民は一言も恨みを発しなかった。それどころかそのようなことが2度と起こらないよう平和を願う記念碑を建てた」
(帰国後に国会で演説)

824名無しさん:2016/05/28(土) 13:00:59
>>823

法王やマザー・テレサ、ダライ・ラマも
 1945年8月6日午前8時15分。広島に落とされた原爆は、14万人もの命を一瞬で奪いました。ローマ法王のヨハネ・パウロ2世(81年)、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサ(84年)、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世(95年)、世界的な宗教者やノーベル平和賞受賞者らも続々と訪れ、祈りを捧げてきました。

【ヨハネ・パウロ2世】
「過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです」
「ヒロシマを考えることは、平和に対しての責任を取ることです」

【マザー・テレサ】
「ヒロシマに多大な苦痛をもたらした恐るべき罪悪が二度と起こらないよう、神がわれわれ一人ひとりを愛するように互いに愛し合いましょう」
「愛と祈りの行為が平和の行為であることを忘れないようにしましょう」

【ダライ・ラマ14世】
「(平和記念資料館の印象について)本当におそろしい広島の模様をそこで見た」
「核兵器が、絶対的な権力を持っており、激情にかられ理性の入る余地のない人たちの手に入ったらどうなるのか」
「非武装化された世界を目指すべきだ。そのためには、私たちの世代がそのための考えをとりまとめなければならない」

イギリスから「レッド・ツェッペリン」、米国の巨匠監督
 戦後70年という節目の夏に訪れたのが、英国の伝説的ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のギタリスト、ジミー・ペイジさんです。平和記念公園で慰霊碑に献花しました。

 1971年、初来日の際にメンバーとともに広島を訪問。被爆の悲惨さを感じ、心に強く訴えかける体験だったといい、再び訪れたそうです。

【ジミー・ペイジ氏】
「戦後70年間、広島が被爆したことは全世界の人の心にあり続けた。平和を祈りたい」
「(「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文について)犠牲者の気持ちを思い、いまを生きる私たちが平和を守るということですね」

 「プラトーン」「JFK」などの社会派映画で知られる巨匠オリバー・ストーン監督は2013年8月、原爆ドームや資料館を訪れました。

 見学後、「私自身、最初は原爆投下の正当性を信じていた。広島を忘れてはいけない。正しく記憶しておく必要がある」と語っています。インタビューでは、核廃絶を実現するために若い世代へメッセージを送りました。

【オリバー・ストーン監督】
「いまここであの日の瞬間、爆風を感じている」
「瀕死(ひんし)の被爆者がさまよっていた。父と母の姿も見えた。川に浮き沈みする遺体も見えた」
「(米国の歴史を批判する)僕たちの主張は、米国の大手メディアは受け入れない。時々無力感を感じる」
「私の最大のメッセージは、真実を学んでほしいということ。若者に関心を高めてほしい」
「若い世代は、広島についてもっと学ぶべきだ。僕だって5、6年前まで広島の歴史を知らなかった」

オバマ大統領、何を語るか
 オバマ大統領は伊勢志摩サミット閉幕後の5月27日、広島を訪問します。ただ、2009年に「核兵器のない世界」を訴えたプラハ演説のように、広場などで多くの聴衆を集めた大々的な演説は予定していないといいます。

 今回の訪問について、核廃絶を求める活動を続け、オバマ氏を支持してきた米俳優マイケル・ダグラスさん(71)は「彼が米国大統領として決断したことを幸せに感じている。(広島で)核廃絶について強い言葉を発することを望むし、そう期待している」と話しました。

 現職の米大統領としては史上初の被爆地訪問で、何を語り、どんなメッセージを発信するのか。世界の注目が集まります。

825名無しさん:2016/05/28(土) 16:57:26
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160527/k10010537591000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_013
オバマ大統領が所感 核なき世界への決意を表明
5月27日 21時03分
アメリカのオバマ大統領は27日午後、現職の大統領として初めて被爆地・広島を訪問しました。平和公園で原爆慰霊碑に献花したあと、被爆者の人たちを前に「われわれは核兵器のない世界を追い求めなければならない」と述べ、核兵器の廃絶に向けて取り組む決意を表明しました。
オバマ大統領は27日、現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問し、午後5時半ごろ、平和公園に到着しました。
安倍総理大臣の出迎えを受けたオバマ大統領は、まず、原爆資料館で被爆の実相を伝える展示を見学しました。
そして、安倍総理大臣とともに原爆慰霊碑に献花し、黙とうをささげたあと、献花に立ち会った広島と長崎の両市長や被爆者の人たちを前に所感を述べました。
冒頭でオバマ大統領は「71年前、雲ひとつない晴れた朝、空から死が降ってきた。そして世界は一変した。せん光と炎の海がひとつの都市を破壊し、人類がみずからを滅ぼしうる手段を作り出したことが明らかになった」と述べました。
そして、「この地に立つと、私たちは原爆が投下された瞬間を想像せざるをえない。子どもたちが何が起きたのか分からず、恐れおののく姿を感じる。そして静かな叫びが聞こえる。われわれは悲惨な戦争で犠牲になった罪のないすべての人たちを思い起こす」と述べ、戦争のすべての犠牲者に哀悼の意を示しました。
そして「広島で亡くなった人たちは私たちと同じ普通の市民だ。彼らはもう戦争は望まない」と述べて、原爆で犠牲になった人たちの多くが一般市民であったことを強調しました。そのうえで「いつかは被爆者の声を直接、聞くことはできなくなるが、1945年8月6日朝の記憶を決して風化させてはならない」と述べました。
また、「われわれは核兵器を保有する恐怖の論理から脱する勇気を持ち、核兵器のない世界を追い求めなければならない。私が生きている間に実現しないかもしれないが、絶え間ない努力によって破滅を避けることはできる」と述べ、核兵器の廃絶に向けて取り組む決意を示しました。
さらに「われわれは、戦争についての考え方を変え、外交を通じて対立を避けるようにしなければならない。過去の過ちを繰り返してはならない」と述べたうえで、「広島と長崎を核戦争の始まりとして記憶するのではなく、人類の道徳的な目覚めにしなければならない」と述べ、被爆地の経験を伝え、核兵器が2度と使われないようにしなければならないと訴えました。
このあと、オバマ大統領は、握手をしたり抱き合ったりしながら、2人の被爆者と会話を交わしました。
そして、安倍総理大臣とともにゆっくりと歩いて原爆ドームを視察し、平和公園を後にしました。
現職のアメリカ大統領として初めてという歴史的な訪問を終えたオバマ大統領は、午後7時15分ごろ、山口県のアメリカ軍岩国基地を出発し、帰国の途につきました。
オバマ大統領が原爆資料館で記帳
アメリカのオバマ大統領は原爆資料館を視察し、芳名録に「私たちは戦争の苦しみを経験しました。ともに、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」と記帳しました。

また、安倍総理大臣は「原爆によって犠牲となったすべての方々に哀悼の誠を捧げます。恒久平和を祈り核兵器のない世界の実現に全力を尽くします」と記帳しました。

826名無しさん:2016/05/28(土) 16:59:35
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160527/k10010537631000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_012
首相 核兵器ない世界の実現 日米で取り組む決意
5月27日 18時44分
安倍総理大臣は、アメリカのオバマ大統領とともに広島市の平和公園を訪れて所感を発表し、オバマ大統領の広島訪問に「心から敬意を表したい」と述べたうえで、核兵器のない世界の実現に向けて、日米両国が力を合わせて取り組んでいく決意を示しました。
安倍総理大臣は、現職の大統領として初めて被爆地・広島を訪問したアメリカのオバマ大統領とともに平和公園を訪れ、被爆者の人たちが見守るなか、原爆慰霊碑に献花したあと、オバマ大統領に続いて、所感を発表しました。

この中で安倍総理大臣は「アメリカの大統領が被爆の実相に触れ、核兵器のない世界への決意を新たにすることは、『核なき世界』を信じてやまない世界中の人々に、大きな希望を与えてくれた。広島の人々のみならず、すべての日本国民が待ち望んだ歴史的な訪問を心から歓迎したい。日米両国の和解、信頼と友情の歴史に新たなページを刻むオバマ大統領の決断と勇気に心から敬意を表したい」と述べました。
そして、安倍総理大臣は「71年前、この地にあって想像を絶するような悲惨な経験をした方々の思いは筆舌に尽くしがたいものだ。『世界中のどこであろうとも再びこのような悲惨な経験を決して繰り返させてはならない』。この痛切な思いをしっかりと受け継いでいくことが今を生きる私たちの責任だ」と述べました。
そのうえで、安倍総理大臣は「核兵器のない世界の実現について、道のりがいかに長く、いかに困難なものであろうとも絶え間なく努力を積み重ねていくことが今を生きる私たちの責任だ。日本と米国が力を合わせて世界の人々に希望を生みだすともし火となる。この地に立ち、オバマ大統領とともに改めて固く決意している。そのことが広島、長崎で原子爆弾の犠牲となった、あまたのみ霊の思いに応える唯一の道である、私はそう確信している」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160525/k10010535201000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_057
オバマ大統領 広島訪問で「核兵器ない世界 目標再確認」
5月26日 0時05分
日米首脳会談後の共同記者発表で、アメリカのオバマ大統領は被爆地の広島を訪問することについて、「第2次世界大戦で犠牲になったすべての人たちを追悼するためのものだ。そして核兵器のない世界という共通の目標を再確認するとともに、数十年かけて培ってきた日米の特別な同盟関係に光を当てるものだ」と述べました。
そのうえで、オバマ大統領は「今後もアメリカ軍を派遣し、行動しなければならないときもあるだろう。しかし、戦争は苦痛を生むもので、われわれは戦争を避けるため、できるだけのことをすべきだ。それが、私がベトナムで思い起こし、広島でも改めて考えたいと思っていることだ」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160525/k10010535231000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_058
首相 「ハワイを訪問する計画はない」
5月25日 23時57分
安倍総理大臣は、オバマ大統領の広島訪問に関連してアメリカの記者から「パールハーバーを訪問する考えはあるか」と質問されたのに対し、「現在、私はハワイを訪問するという計画はないが、昨年、戦後70年の節目にアメリカを訪問し、アメリカ議会の上下両院の合同会議でスピーチを行った」と述べました。
そのうえで、安倍総理大臣は「その際、私は、先の大戦に対する悔悟の念とともに、かつて敵であった国どうしが今は同盟国となった、この日米の和解に尽力をされた人々に対する敬意と尊敬の念を表明し、感謝を申し上げた。今後はまさに心の紐帯で結ばれた希望の同盟国として、世界のさまざまな課題の解決に協力をしていきたい」と述べました。

827名無しさん:2016/05/28(土) 17:00:46
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160525/k10010534131000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_079
国連加盟60年 平和への誓いなど決議 参院で可決
5月25日 11時05分
日本が国連に加盟してことしで60年になるのにあたり、参議院は25日の本会議で、日本が人類の平和と助け合いのために努力することを誓うとともに、政府に対し核兵器の廃絶などに努めるよう求める決議を全会一致で可決しました。
この決議は、日本が1956年12月18日に国際連合に加盟してからことしで60年になるのにあたり、25日の参議院本会議で全会一致で可決されました。
決議は「国際平和の達成は日本と世界の悲願であるにもかかわらず、世界各地で紛争やテロが続いているほか、大量破壊兵器やミサイル技術の開発や拡散、それに難民・貧困問題など、世界全体で対処すべき課題が山積している」としています。
そのうえで、「国連が創設以来、国際平和の維持と創造のために発揮した英知と努力に深く敬意を表し、今後も日本が率先垂範して人類の平和と助け合いのために努力することを誓う」としています。
そして、政府に対し、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念の下、核兵器の廃絶などに最大限努めるよう求めています。
決議のあと、岸田外務大臣は「国連との連携を一層強化し、国際社会が直面するさまざまな課題の解決に積極的に貢献していく」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160524/k10010533421000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_090
米大統領 被爆者と対話機会を 広島知事らが首相に要請
5月24日 18時28分
安倍総理大臣は広島県の湯崎知事らと会談し、湯崎知事らは今週27日にアメリカのオバマ大統領が広島を訪問する際、オバマ大統領と被爆者との対話の機会を設けるようアメリカ側に伝えてほしいと要請しました。
安倍総理大臣は24日午後、総理大臣官邸で広島県の湯崎知事や広島市の松井市長と会談しました。
この中で湯崎知事らは、今週27日にアメリカのオバマ大統領が広島を訪問することについて、安倍総理大臣に感謝を述べたうえで、「オバマ大統領の訪問が成功裏に終わるよう、地元としてはできることは最大限協力させていただきたい」と述べました。
そのうえで湯崎知事らは、訪問の際、オバマ大統領と被爆者との対話の機会を設けるようアメリカ側に伝えてほしいと要請しました。
会談のあと松井市長は記者団に対し、「うまくいくよう外務省とアメリカが調整していただいていると信じている。被爆者とオバマ大統領が会ってお話しできるような機会を設けてもらえれば、被爆者の気持ちも分かってもらえるのではないか」と述べました。

828名無しさん:2016/05/28(土) 19:55:50
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160528-OYT1T50073.html
オバマ氏と握手の坪井さん「この人は本気だ」
2016年05月28日 16時21分

 27日にオバマ氏としっかり握手し、言葉を交わした日本原水爆被害者団体協議会代表委員の坪井直すなおさん(91)は、「強き味方がおるぞと我々を奮い立たせてくれた。核廃絶という我々の行く道を強めることができるようになった」と振り返った。

 オバマ氏については「底深い人という印象が強かった。便宜上、言っているのではなく、この人は本気だという感じを受けた」とし、「簡単に言葉通りになるとは思えない。それでも半歩でもいいから同じ向きに歩もうとしていることを確かめていきたい」と語った。

 自身も被爆者で、被爆死した米兵について独自に調査してきた歴史研究家の森重昭さん(79)は、オバマ大統領に抱きしめられる写真が世界中で報道された。「これまで被爆死した米兵の歴史を調べてきたが、昨日は自分が新しい歴史をつくることができた」と語った上で、「声明を改めて読むと、核兵器廃絶は容易ではなくても、よく考えてくれていることが伝わった」と感慨深げだった。

2016年05月28日 16時21分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

829名無しさん:2016/05/28(土) 20:17:28
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052500051&amp;g=pol
国連加盟60年で決議=参院

 参院は25日の本会議で、今年が日本の国連加盟から60年に当たることを踏まえ、国際平和への貢献を誓う決議を全会一致で採択した。決議は「国連が創設以来、国際平和の維持と創造のために発揮した英知と努力に深く敬意を表する」と評価した上で、「今後もわが国が率先垂範して人類の平和と助け合いのために努力する」と宣言した。(2016/05/25-10:13)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052500046&amp;g=pol
戦時中の旧外地会計を承認=参院、14年度決算も

 参院は25日の本会議で、戦時中に日本が運営していた朝鮮総督府など旧外地の特別会計のうち、戦後70年以上にわたり手続きが行われていなかった1944、45両年度の決算を承認した。これにより、国の会計上の戦後処理が終結した。
 旧外地特会は、日本が支配していた「朝鮮」「台湾」「樺太」「関東州」「南洋」の5地域の運営に関するもの。資料の散逸で決算処理ができない状態が長く続いていた。44、45両年度の剰余金に積立金を加えた約7億8000万円が2015年度一般会計に組み入れられる。
 また、本会議では14年度決算も承認。警察の捜査書類や証拠品の不適切な管理、NHK関連団体の不正経理など計8件について、内閣に是正を求める警告決議を採択した。(2016/05/25-10:59)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052500451&amp;g=pol
「被爆者との対面重要」=オバマ大統領訪問で-松井広島市長

 広島市の松井一実市長は25日の記者会見で、27日のオバマ米大統領訪問の具体的な日程は知らされていないとする一方、被爆者と大統領との対面について「被爆者と会い話をする重要性を伝えてきた。(実現に向け)日本政府も米当局と調整しているものと期待している」と話した。その上で「被爆者と大統領が会うのは重要だ」と改めて強調した。
 第2次世界大戦中に旧日本軍の捕虜となった元米兵の一人が訪問に同行するという一部報道については「捕虜としての悲惨な戦争体験は、事象の違いはあるが被爆体験と相通ずる」と話した。被爆者や市長との対談が実現した場合、「未来志向の面談になるよう望んでいる」と述べた。(2016/05/25-13:00)

830名無しさん:2016/05/28(土) 20:32:09
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052500525&amp;g=pol
米大統領が来日=27日に広島訪問-戦争犠牲者を追悼

 オバマ米大統領は25日夜、中部国際空港(愛知県)着の大統領専用機で来日した。26、27両日の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に出席後、被爆地・広島を現職米大統領として初めて訪問する。自身が提唱してきた「核兵器なき世界」への取り組みの重要性を訴えるとともに、第2次世界大戦の全ての犠牲者を追悼する。
 オバマ大統領の来日は2014年4月の国賓訪問以来、4回目。今回が任期最後になる見通しで、サミット出席も最後となる。
 大統領は25日の到着後、サミット会場のホテルで安倍晋三首相と会談し、米軍属による女性死体遺棄事件への米側の対応を説明した。26日からの会議の進め方や27日の広島訪問についても擦り合わせた。(2016/05/25-23:22)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052600390&amp;g=pol
被爆者との対話調整=広島訪問の式典で-米大統領

 日米両政府は、オバマ大統領が27日に広島を訪問した際、式典に招待された被爆者と言葉を交わす方向で調整に入った。オバマ氏は1945年8月の原爆投下について「謝罪」をしない方針だが、核の残虐性を再認識し、廃絶に取り組む決意を伝えるとみられる。
 オバマ氏は主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)閉幕後の27日夕、広島の平和記念公園を訪問。平和記念資料館(原爆資料館)を視察し、慰霊碑に献花する。安倍晋三首相も同行する。
 オバマ氏は慰霊碑の横で声明形式の短い所感を読み上げた後、自然な形で被爆者に声を掛けるもようだ。(2016/05/26-12:21)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052600599&amp;g=pol
広島訪問、元捕虜の同行見送り

 【ワシントン時事】オバマ米大統領が27日に広島を訪問する際、第2次大戦中に旧日本軍の捕虜となった元米兵ダニエル・クローリーさん(94)が同行する計画が見送られることになった。元捕虜らでつくる「全米バターン・コレヒドール防衛兵記念協会」が明らかにした。
 同協会によると、ホワイトハウスから21日、広島平和記念公園での式典に参加できる元捕虜を紹介してほしいと依頼があり、クローリーさんを推薦した。しかし、後日、クローリーさんは参加者に含まれないことになったとの連絡があった。
 クローリーさんは「声を掛けておいて参加させないのはばかげている」と話しているという。同協会のジャン・トンプソン代表は「クローリーさんは和解の力強い象徴になっていただろう。政権、米国、日米同盟にとって損失だ」と指摘した。(2016/05/26-15:35)

831名無しさん:2016/05/28(土) 20:36:18
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052600508&amp;g=pol
オバマ大統領の広島訪問、日米指導力の象徴=前米国務次官インタビュー

 【ワシントン時事】米国の対北朝鮮政策やイラン核問題をめぐる交渉などに携わったウェンディ・シャーマン前米国務次官は26日までにインタビューに応じ、オバマ大統領が安倍晋三首相と共に広島を訪れることについて「世界における日米の指導力の象徴になる」と高く評価した。一問一答は次の通り。
 -広島訪問をどう捉えるか。
 (大統領にとっては)困難な決断だったはずだ。大統領と首相が一緒に行くことは極めて重要だ。日米同盟の強さや、世界を舞台にした日米の指導力を象徴することになる。首相と大統領が世界の指導者として、あらゆる核兵器の開発を停止させ、核なき世界を最終的に実現するために、できる限りのことをしようと前進することが重要だ。
 -訪問は謝罪のためではない。
 ホワイトハウスは(原爆投下の)決定を再検討するのではなく、未来を見据えたいと表明してきた。米国は核兵器を使用した唯一の国であることから、核不拡散だけでなく、核なき世界を最終的に実現する特別の責任があることを理解している。米国には、核兵器が再び使われることのないよう懸命に取り組む特別の責任がある。
 -米国として被爆者に謝罪する必要はないのか。
 核兵器の使用が戦争を終わらせ、数百万人がさらに死ぬことを防いだと確信している。起きてしまった恐怖と、広島・長崎の人々の痛みや苦しみを過小評価するわけではない。戦争を終結させるという文脈の中で下された(原爆投下の)決定を再検討したところで、あまり有用だとは思わない。
 -核なき世界を唱えつつ、オバマ政権は北朝鮮の核問題で前向きな結果を得られなかった。
 北朝鮮への制裁を一段と強化しなければならないかもしれない。
 -北朝鮮の内部崩壊に備え、日米中などの間で調整するよう訴えたが。
 備えておかなければ、北朝鮮はわれわれ全員に対し優位に立つ。崩壊の可能性に対処する用意をしていないために、活用可能な全ての手段を行使することをわれわれがためらうと考えるだろうからだ。体制を転換させるという話ではない。(2016/05/26-14:28)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052600801&amp;g=pol
日本は反省を=米大統領の広島訪問で-中国外務省

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は26日の記者会見で、オバマ米大統領の広島訪問について、「日本が国際社会に責任を持つ態度で歴史をかがみとして戦争の悲劇を繰り返さないことを願う」と述べ、過去の戦争に対する日本の反省が必要との認識を改めて表明した。
 一方、主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の首脳宣言で、中国が軍事拠点化を進める南シナ海情勢が取り上げられる見通しであることに関連し、華副局長は「南シナ海問題はサミット参加国と全く関係ない。経済問題に集中すべきだ」と不快感を示した。(2016/05/26-18:33)

832名無しさん:2016/05/28(土) 20:53:34
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052600950&amp;g=pol
中国軍首脳、旧日本軍処理施設を視察=オバマ米大統領の広島訪問前

 【北京時事】中国国防省によると、軍制服組トップの范長竜・中央軍事委員会副主席は26日、吉林省敦化市ハルバ嶺を訪れ、旧日本軍が遺棄した化学兵器の処理施設を視察した。范氏は「処理作業を早めるよう日本側に促す」と述べた。

 ハルバ嶺には30万発以上の砲弾などが埋まっていると推定され、処理に必要な資金は日本が負担。ハルバ嶺の無害化処理施設は2014年に稼働を開始し、22年に廃棄作業を完了する予定。
 今回の視察は、27日に予定されるオバマ米大統領の広島訪問を控え、日本が戦争の「被害者」ではなく、「加害者」であることを印象付けようとする狙いがありそうだ。(2016/05/26-21:38)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052600647&amp;g=pol
大戦の全犠牲者追悼へ=27日に広島訪問-被爆者と対話も・米大統領

 オバマ米大統領は主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)閉幕後の27日午後、現職米大統領として初めて被爆地・広島を訪れる。日本が植民地支配した韓国などアジアを含む第2次大戦の全犠牲者を追悼し、かつて戦火を交えた日米両国が揺るぎない同盟を構築した和解の意義を強調する。被爆者とも対話する見通し。
 オバマ氏が2009年4月にチェコ・プラハで「核兵器なき世界」に取り組む決意を表明してから7年。任期最後の年に訪れた被爆地で、核兵器を使用した唯一の国として核軍縮へ行動する道義的責任を内外に改めて訴え、自身の外交レガシー(遺産)にしたい考えだ。
 大統領は26日夜、サミット会場で記者会見し、1945年8月6日の広島への原爆投下について「現代史の変わり目だった」との見解を示した。
 さらに、広島訪問で「大戦の悲劇を振り返るだけでなく、紛争の危機を減らすための取り組みが終わっていないことを明確にする」と強調した。核軍縮に関連しては、北朝鮮の核問題を「大きな懸念だ」と批判した。
 大統領は27日夕、岩国基地(山口県岩国市)から専用ヘリコプターで広島入り。平和記念公園での式典で慰霊碑に献花し、被爆地を訪れた所感を声明形式で述べる。平和記念資料館(原爆資料館)も視察する。安倍晋三首相が同行する。(2016/05/26-21:01)

833名無しさん:2016/05/28(土) 22:19:14
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052800060&amp;g=pol
安倍首相の真珠湾訪問に期待=大統領への批判は一部-米

 【ワシントン時事】米紙ワシントン・ポスト(電子版)は27日、オバマ大統領の広島訪問を報じた記事で、ホワイトハウスは安倍晋三首相のハワイ・真珠湾訪問を歓迎する意向だと伝えた。真珠湾攻撃から今年12月7日(現地時間)で75年となるが、ある米政府高官は安倍首相が訪問しなければ「驚きだ」と語ったという。
 安倍首相は25日の記者会見でハワイを訪れる予定は現時点でないと述べている。一方、オバマ大統領の広島訪問や平和記念公園での演説について、米国内で批判は一部にとどまっている。(2016/05/28-06:23)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052800011&amp;g=pol
オバマ氏が手作り折り鶴=原爆資料館で小中学生に

 オバマ米大統領は27日に広島市の平和記念資料館(原爆資料館)を訪問した際、「平和の象徴」として自分で作った折り鶴4羽を持参し、広島市の代表として同席した小中学生2人に1羽ずつ、資料館に2羽贈った。資料館に贈った2羽は、オバマ氏が記帳した芳名録の横に飾られた。
 鶴は4色の和風折り紙で作られ、オバマ氏は安倍晋三首相に「少し手伝ってもらったが、私が(事前に)作った」と説明した。オバマ氏は小中学生2人に親しげに語り掛け、「英語も勉強して」と励ましたという。(2016/05/28-00:44)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052800014&amp;g=pol
「原爆の子の像」モデルに関心=オバマ氏、熱心に視察-資料館館長

 原爆死没者慰霊碑での献花に先立ち、オバマ氏は平和記念資料館を視察。岸田文雄外相が案内した。後ろで見守っていた志賀賢治館長(63)によると、「関心が深く、事前に勉強されている。大変に熱心だった」という。
 オバマ氏は資料館全体を回らず、資料館側が用意した原爆を伝える資料を見学した。オバマ氏は、2歳のとき被爆、10年後白血病を発症して死亡し、平和記念公園の「原爆の子の像」のモデルになった佐々木禎子さんに関心が高いと聞いていたため、館長は佐々木さんが作った折り鶴などの資料を準備したという。
 館長は「大統領が国に帰り、見たことを語ると思う。語ったことを聞いた人に(資料館へ)来てもらうことを願う」と述べた。(2016/05/28-00:51)

834名無しさん:2016/05/28(土) 22:21:26
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700769&amp;g=pol
「原爆の惨劇、忘れない」=米大統領、全犠牲者を追悼-歴史的な広島訪問

 オバマ米大統領は27日夕、現職米大統領として初めて被爆地・広島を訪問した。オバマ氏は平和記念公園で「原爆投下の瞬間を想像せずにはいられない。歴史を直視して、何をしなければならないかを自問する共通の責任がある」と演説し、「核兵器なき世界」を追求する重要性を訴えた。1945年8月6日朝の惨劇の記憶を薄れさせてはならないとも語った。その後、参列した被爆者と言葉を交わし、抱き寄せた。

 オバマ氏は2009年1月の大統領就任時から被爆地訪問を模索、7年越しの実現となった。一方、米大統領に原爆投下の事実と向き合うよう求めてきた被爆者にとっては、長年の願いがかなう歴史的訪問となった。
 オバマ氏は約17分間の演説で「広島を訪れるのは朝鮮人と米兵捕虜を含む10万人を超える(原爆の)死者を追悼するためだ」と切り出し、戦争が罪のない市民に多大な悲劇をもたらしたと指摘。その上で、核兵器に対する恐怖の論理から抜け出す勇気を持ち、09年4月のプラハ演説で提唱した「核兵器なき世界」を追求しなければならないと訴えた。
 また、かつて戦火を交えた米国と日本の関係にも言及し「同盟だけでなく、友情も育んだ」と強調した。広島と長崎の未来は「核戦争の夜明けではなく、われわれの道義的な目覚めの始まりである」と結んだ。大統領に同行した安倍晋三首相は「世界中のどこであろうと、このような悲惨な経験を繰り返させてはいけない。核兵器のない世界を必ず実現する」との決意を示した。(2016/05/28-00:50)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700674&amp;g=pol
歴史の旅、未来見渡す=ベトナムと広島を初訪問-アジア重視の集大成・米大統領

 オバマ米大統領は27日、ベトナムと日本での政治日程を終えて帰国の途に就いた。オバマ氏にとっては、かつて激戦を繰り広げた両国との痛みを伴う歴史を直視する旅だった。「最終目的地」は政権が掲げてきたアジア太平洋へのリバランス(均衡)政策を未来に進める道筋を示すことだ。戦後70年を経て、米大統領の被爆地・広島訪問を初めて実現させたことは、アジア重視外交の集大成とも言える。

 ◇原爆の記憶は消えない
 オバマ大統領は27日夕、岩国基地(山口県岩国市)から専用ヘリコプターで広島入りし、平和記念公園に約1時間滞在。平和記念資料館(原爆資料館)で「私たちは戦争の苦しみを経験した。平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と記帳した。

 「1945年8月6日の朝の記憶は決して消えることはない」。オバマ氏は被爆者を含む約100人足らずの招待者を前に、原爆投下の是非には踏み込むことなく「戦争が双方の市民に悲劇をもたらした」ことを繰り返し強調した。原爆投下への謝罪は行わないものの、逆に戦争の是非にも触れないことで「われわれ(米国)も悪かった」(オバマ氏側近)ことをにじませた。
 ◇「対中国ではない」
 来日前に訪れたベトナムでは、対ベトナム武器禁輸の全面解除に踏み切った。両国の共通の課題となっている中国への包囲網といった見方がある一方で、オバマ大統領が「中国は関係ない。両国関係が完全に変化したことを示したかった」と述べた言葉にうそはないだろう。
 米国は2014年に武器禁輸を部分解除しているが、ベトナムはこれまで武器を一切購入していない。ベトナムは南シナ海の領有権をめぐって中国と激しく対立する一方で、インフラや食品の輸入など経済面では中国に依存している。
 大統領は24日、ハノイで学生ら約2300人の聴衆を前に演説し、ベトナム戦争に言及し「300万人のベトナムの兵士と市民、5万8315人の米国民が命を失った」と語った。その上で「両国は痛みと尊い犠牲を忘れてはならない」と誓った。
 ◇旧敵とも和解は可能
 大統領の今回の歴訪には、隠れたテーマがもう一つある。それは原爆投下を含めて戦火を交えた敵同士の「和解は可能」というメッセージだ。ベトナムでは、チャン・ダイ・クアン国家主席との共同記者会見で「相互利益と尊重に基づいて対話すれば、関係を変化させることが可能だ」と強調。広島では「日米は同盟だけではなく、友情を育んだ」と訴えた。
 オバマ氏はこれまで、ウクライナ情勢やシリア情勢で軍事介入を避けていることから、野党共和党から「弱腰」と批判されてきた。だからこそ大統領は、被爆地から戦争の悲惨さと和解、未来への可能性を結び付けることで、あくまで平和を追求する哲学を外交レガシー(遺産)としたい考えだ。(2016/05/27-23:54)

835名無しさん:2016/05/28(土) 22:39:00
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700890&amp;g=pol
「歴史的意義」与野党から評価=オバマ氏広島訪問、核廃絶へ注文も

 オバマ米大統領の広島訪問について、与野党幹部は27日、「歴史的に大きな意義がある」(公明党の山口那津男代表)などとして一様に評価した。ただ、核兵器廃絶に向けた具体的な「行動」を求める声も同時に上がった。
 山口氏は国会内で記者団の取材に対し、大統領の訪問を歓迎した上で、「今日を一つの重要な歴史的転換点として、核のない世界を目指して共に歩んでいきたい」と述べた。
 民進党の岡田克也代表は東京都内で記者団に「現実の被害がどういうものか見ていただいたことは非常に良かった」と語った上で、「日本も(核廃絶へ)具体的な歩みを求められている」と指摘。おおさか維新の会の松井一郎代表は「日米両国は、将来には核廃絶が実現するようあらゆる努力を傾けるべきだ」とする談話を発表した。
 共産党の志位和夫委員長は記者団に「前向きの歴史的な一歩」としつつ、「(核兵器全廃を掲げる)核兵器禁止条約の国際交渉を開始するという具体的な行動に移る必要がある」と米国に促した。社民党の又市征治幹事長も談話で、核保有国に「核軍縮に向けた現実的かつ着実な努力」を求めた。
 生活の党の小沢一郎代表は談話で「広島や長崎の悲劇を絶対に繰り返さないという人類社会全体の約束こそ肝心だ」と強調した。(2016/05/27-21:37)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052701004&amp;g=pol
オバマ米大統領、涙ぐむ被爆者を抱擁=「平和な世界」へ決意-広島の悲劇訴え

 1945年に世界で初めて原爆が投下された広島に27日、現職の米大統領として初めてオバマ大統領が訪問した。「閃光(せんこう)と火の壁が街を破壊した。人類が自分たち自身を破壊する手段を持った」。慰霊碑への献花に続く演説で広島で起こった悲劇を訴えたオバマ氏は厳しい表情を崩さなかったが、柔和な表情で涙ぐむ被爆者を抱擁する象徴的場面もあった。

 終戦から71年間をかけて築いた日米の友好関係を強調したオバマ大統領。被爆地の広島と長崎から「平和な世界」をつくる決意を新たにした。
 午後5時すぎ、大統領専用ヘリ「マリーン・ワン」で、広島西飛行場に着陸し、歴史的訪問をスタート。濃紺のスーツに青色のネクタイといういでたちで平和記念公園に入ると、まず平和記念資料館(原爆資料館)を訪れた。「私たちは戦争の苦しみを経験した。平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と記帳。約10分間の視察中、「平和の象徴」である折り鶴を同席した小中学生2人に贈った。
 その後、晴天の下、前を見つめ安倍晋三首相と並んでゆっくり歩きながら、原爆死没者慰霊碑へ。地元高校生から受け取った花輪を献花した後、黙とうをささげた。一方、米国内で「謝罪」と受け止められることを避けるためか、続いて献花した安倍首相のように頭を下げることはなかった。
 続く17分間の演説は終始、神妙な面持ち。「空に上るきのこ雲の姿は人間性の中心にある矛盾を想起させる」「愛する人々、子供たちの笑顔、夫婦の触れ合い、親の抱擁。71年前、同じようにこういう大切なひとときがあった。亡くなった人々はわれわれと同じだ」-。

 その後、オバマ氏は、被爆者代表として出席していた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の坪井直代表委員(91)の元に歩み寄った。
 「自分は91歳になったが、オバマ大統領が人類の幸せとは何か語るのを見て、心がずいぶん若返った。(2009年に)プラハで語った『核兵器なき世界』の実現に向け一緒に頑張りましょう」。興奮しながらこう話す坪井さんの手を握りながら、耳を傾けたオバマ氏は、時折笑顔を見せ、「ありがとう」と応じた。オバマ氏はこの後、近くに座っていた被爆者の森重昭さん(79)が涙ぐむと背中をさすりながら抱き寄せた。
 最後は慰霊碑から原爆ドームに向かって歩き、岸田文雄外相から説明を聞いた後、こう言い残して平和記念公園を後にした。「平和にとって大切な場所だ」。(2016/05/27-23:52)

836名無しさん:2016/05/28(土) 22:39:49
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700991&amp;g=pol
「核なき世界の出発点」=米大統領の被爆地訪問-広島、長崎両市長

 現職米大統領が初めて被爆地・広島を訪問した27日、広島市の松井一実市長と長崎市の田上富久市長は広島市内でそろって記者団の取材に応じた。平和記念公園でオバマ大統領の原爆死没者慰霊碑への献花に立ち会った両市長は「核なき世界への出発点になる」などと大統領訪問を評価した。
 松井市長は「(オバマ氏には)核兵器のない世界の実現に向けた決意を一層強固なものにしていただけたと思う」と指摘。その上で「(他の)世界の政治指導者の被爆地訪問の流れにつながればと期待している。そうすることが核兵器のない世界に向けてしっかりした歩みを始める歴史的な出発点になる」と強調した。

 同じ被爆地・長崎の米大統領訪問は実現しなかったが、田上市長は「また別の機会にでも、あるいは退任されてからでも(オバマ氏に)長崎にぜひお越しいただきたい」と話した。
 また、湯崎英彦広島県知事は「被爆の実相を伝える努力を続けていかなければならない」と改めて気を引き締めた。(2016/05/27-21:57)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700945&amp;g=pol
オバマ米大統領演説要旨=広島訪問

 オバマ米大統領が27日、広島市の平和記念公園で行った演説要旨は次の通り。
 1、71年前、雲一つない晴れた朝、空から死が降ってきて、世界が一変した。せん光と火の壁が街を破壊した。そして、人類が自分たち自身を破壊する手段を持ったことを明示した。
 1、私たちはなぜこの場所、広島に来るのだろうか。10万人を超える日本人の男女、子供、数千人の朝鮮人、捕らわれた十数人の米国人の死者を悼むためだ。
 1、広島と長崎に残酷な結末をもたらした世界大戦は最も富裕で、強大な諸国によって戦われた。こうした国の文明は世界の偉大な都市や素晴らしい芸術を生んだ。しかし、同じ場所から戦争が起きた。
 1、数年のうちに約6000万人が亡くなった。撃たれ、爆撃を受け、捕らえられ、飢えさせられ、ガスで殺害された。
 1、空に上るきのこ雲の姿は人間性の中心にある矛盾を想起させる。われわれの考えや創意、言葉といった自然界から人類を区別する能力がわれわれに不相応な破壊力も与える。
 1、私たちはこの街の中心に立ち、原爆投下の瞬間を想像せずにはいられない。あの戦争とその前の戦争、それに続く戦争の罪のない犠牲者全員を記憶している。私たちには歴史を直視し、こうした苦しみを止めるには何をすべきかを問う共通の責任がある。
 1、いつの日か被爆者の声は聞けなくなる。しかし、1945年8月6日の朝の記憶は決して薄れさせてはならない。あの運命の日以来、私たちは希望の選択をした。米国と日本は同盟を構築しただけでなく、友情を築き上げた。
 1、国際社会は戦争を回避し、核兵器を制限・削減して究極的には廃絶を目指す制度や条約をつくった。それでもなお、国家間の攻撃やテロ行為が世界中にあり、仕事は決して終わっていない。
 1、私自身の国のような核兵器を持つ国は、恐怖の論理から抜け出す勇気を持ち、そうした兵器のない世界を目指さなければならない。私の人生のうちにこの目標は実現できないかもしれない。しかし、粘り強い努力によって破滅の可能性を低くできる。(核兵器)備蓄の破棄につながる計画を立てることはできるし、他国への拡散や狂信者の手に渡るのも阻止できる。
 1、私たちは戦争そのものに関する考え方を変え、外交によって紛争を防止し、起きてしまった紛争を終結させる努力をしなければならない。
 1、(原爆で)亡くなった人たちは戦争を望んでいない。科学の奇跡は生活を奪うことではなく、その改善に用いることを望むだろう。国家や指導者が選択をするとき、この簡明な知恵を熟慮するなら、広島の教訓は生かされる。
 1、この場所で世界は永遠に変わった。しかしきょう、この街の子どもたちは平和のうちに一日を過ごすだろう。それは何と貴重なことだろうか。これが私たちが選べる未来だ。広島と長崎が核戦争の夜明けとしてではなく、私たち自身の道義的な目覚めの始まりとして知られる未来だ。(2016/05/27-23:51)

837名無しさん:2016/05/28(土) 22:44:05
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700992&amp;g=pol
オバマ大統領の演説全文

 オバマ米大統領が27日に広島市平和記念公園で行った演説全文は次の通り。
 71年前の雲一つない晴れた朝、空から死が降ってきて、世界は一変した。閃光(せんこう)と火の壁が街を破壊した。そして人類が自らを滅ぼす手段を持ったことを明示した。
 なぜわれわれはこの地、広島にやって来るのか。そう遠くない過去に放たれた恐ろしい力について思案するために来るのだ。10万人以上の日本人の男性、女性、子どもたち、数千人の朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために来るのだ。彼らの魂は私たちに話し掛ける。そして彼らは私たちに内面を見つめるように求め、私たちは何者なのか、何者になるかもしれないのかを見定めるよう求めるのだ。
 広島を際立たせているのは戦争の事実ではない。暴力的な紛争は原始人にも見られることが遺物から分かる。石英から刃物を作り、木からやりを作ることを学んだわれわれの祖先は、こうした道具を狩りだけでなく、同じ人類に対して使った。全ての大陸で、文明の歴史は戦争で満ちている。穀物の不足であれ金(ゴールド)への渇望であれ、国粋主義の熱狂的な扇動や宗教的な熱意であれ、帝国は興亡し、人々は支配されたり、解放されたりしてきた。節目節目で、罪のない人々が苦しみ、無数の死者を出し、彼らの名前は時間とともに忘れられた。
 広島と長崎に残酷な結末をもたらした世界大戦は、最も豊かで最も強力な国々の間の戦いだった。彼らの文明は、世界の偉大な都市や素晴らしい芸術を生んだ。その思想家たちは正義と調和と真実についての考えを進展させた。しかし、最も単純な部族間紛争の原因となった支配や征服への同じ基本的な本能によって戦争へと発展した。古いパターンが新しい能力によって、新たな制約もなく増幅した。
 数年の間に、およそ6000万人が亡くなった。われわれと何ら違いのない男性、女性、子供たちが、撃たれ、たたかれ、行進させられ、爆撃され、収容され、飢えさせられ、ガスで殺された。世界中に、この戦争を記録する多くの場所がある。勇気と英雄の物語を示す記念碑、言葉では言い表せない悪行がこだまする墓地や空になった収容所がある。
 しかし、この空に立ち上ったきのこ雲の姿は、人間性の中心にある矛盾を最も鮮明に想起させる。われわれを種として特徴づけるひらめき、思想、創意、言語、道具を作ること、自然界から人類を区別し、自然をわれわれの意志に従わせる能力。これらがいかに、不相応な破壊力もわれわれに与えるかということを。
 物質的な進歩や社会革新が、どれほどこの真実からわれわれの目をそらさせるのだろうか。われわれは、より高度な理由のため、暴力を正当化することをいかに簡単に学んでしまうのだろうか。全ての偉大な宗教は愛と平和と正義への道を約束するが、いかなる宗教にも信教を理由に人を殺すことができると主張した信者がいた。各国は犠牲と協調の元に国民を結束させる話を説きながら台頭し、偉業が成し遂げられるが、同時にこうした話は自分たちとは異なる人々を虐げ、人間性を奪う口実に利用されてきた。
 科学のおかげで私たちは海を越えて交流し、雲の上を飛び、病気を治し、宇宙を理解するが、こうした科学的発見はより性能のいい殺りく兵器にも変わり得る。
 近代の戦争は私たちにこの真実を教えてくれる。広島がこの真実を教えてくれる。技術は、人間社会の進歩を伴わなければわれわれに破滅をもたらす。原子の分裂へと導いた科学的革命は、モラルの革命も必要とする。
 だから私たちはこの場所に来る。私たちはここ、この街の真ん中に立ち、原爆投下の瞬間を想像せずにはいられない。目の当たりにしたことに混乱した子供たちの恐怖を感じずにはいられない。われわれは声なき叫びに耳を傾ける。あのひどい戦争、これまで起きた戦争、そしてこれから起きる戦争で命を落とす全ての罪のない人々のことを忘れない。単なる言葉だけでこれらの苦しみを表すことはできない。しかし、私たちには歴史を直視し、こうした苦しみを食い止めるために何をしなければならないかを自問する共通の責任がある。
 いつの日か、ヒバクシャの証言の声は聞けなくなるだろう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶は決して薄れさせてはならない。その記憶のおかげで、私たちは自己満足と戦うことができる。その記憶が私たちの道義的な想像力をたくましくしてくれる。その記憶が私たちに変化を促してくれる。
 そしてあの運命の日以来、私たちは希望を持てる選択をしてきた。米国と日本は同盟を構築しただけでなく、戦争を通して得られたものよりもはるかに多くのものを私たちにもたらした友情も築き上げた。

838名無しさん:2016/05/28(土) 22:44:16
>>837

 欧州の国々は、戦場を商業と民主主義の結束に変えた連合を構築した。抑圧された人々と国は自由を勝ち取った。国際的な共同体は、戦争を回避し、核兵器の存在を制限、縮小し、究極的には廃絶を目指すための制度と条約をつくった。
 それでもなお、われわれが目にする国家間のあらゆる侵略行為、世界中でのあらゆるテロ、汚職、残虐行為、抑圧は、われわれの仕事が決して終わっていないことを示している。悪事を働く人間の能力をなくすことはできないかもしれない。そのため、国家、そしてわれわれが締結している同盟は、自身を守る手段を持つ必要がある。しかし、私の国のように核兵器の備蓄がある国は、恐怖の論理から抜け出す勇気を持ち、核兵器なき世界を追求しなければならない。私が生きているうちに、この目標を実現できないかもしれない。しかし、粘り強い努力によって破滅の可能性を低くできる。こうした備蓄の破棄につながる計画を立てることはできるし、他国への拡散や致死性の物質が狂信者の手に渡るのも阻止できる。
 しかし、それではまだ十分ではない。今日の世界を見渡すと、最も粗末なライフルやたる爆弾でさえ、恐ろしい規模の暴力をもたらすことができる。われわれは外交を通じて紛争を防ぎ、起きてしまった紛争を終わらすため、戦争自体に関する考え方を変えなければならない。われわれの相互依存の拡大を暴力的な対立ではなく、平和協調への理念と見なそう。破壊の力ではなく、つくり上げるもので国を定義しよう。
 そして、恐らく何にもまして、われわれは一つの人類の仲間として、お互いのつながりを改めて思い起こさなければならない。これも、われわれ人類を類ない存在としている。われわれは遺伝子情報によって、過去の過ちを繰り返すよう規定されてはいない。われわれは学ぶことができる。選ぶことができる。われわれは子供たちに別の物語を話すことができる。共通の人間性を描いたり、戦争の可能性を減らし、残虐さをそれほど簡単には受け入れたりしない物語だ。
 われわれはヒバクシャのこうした話を知っている。原爆を落とした爆撃機のパイロットを許した女性がいる。本当に憎んでいたのが戦争それ自体だったと分かったためだ。この地で死亡した米国人の家族を捜し出した男性がいる。彼らと自分自身の損失は同じと信じていたからだ。
 私自身の国の物語も、簡単な言葉から始まった。「全ての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」(米独立宣言)。この理想の実現は決して容易ではなかった。わが国内や国民の間でさえそうだった。しかし、この話に忠実であろうと努力する価値はある。それは、真剣な努力に値する理想であり、大陸そして海を越えて広がる理想だ。全ての人間の絶対的な価値を示し、全て生命は大切であるという揺るぎない主張だ。われわれは皆一つの人類という家族の一員であるとの根源的で必然的な考え方だ。これこそ、われわれ皆が伝えなければならない物語だ。
 これが広島を訪れる理由だ。愛する人、自分の子供たちの朝一番の笑顔、台所の食卓越しの夫や妻との優しい触れ合い、心安らぐ親の抱擁といったことに思いをはせるためだ。こうしたことに思いを寄せると、71年前にここで同じように大切なひとときがあったということが分かる。亡くなった人々は、われわれのような人たちだ。普通の人には分かることだと思う。皆、戦争はたくさんだと思っている。科学の驚異は暮らしの向上に焦点を当てるべきで、命を奪うものであってはならないと考えている。国々やその指導者が決断を行うときにこの単純な知恵が反映されれば、広島の教訓は生かされたことになる。
 世界はここで永遠に変わってしまった。しかしきょう、この街の子供たちは平和に一日を過ごすだろう。それは何と貴重なことか。それは守るに値することであり、全ての子供がそうあるべきだ。これこそわれわれが選択できる未来だ。広島と長崎が核戦争の夜明けとしてではなく、私たち自身の道義的な目覚めの始まりとして知られる未来だ。(2016/05/27-23:38)

839名無しさん:2016/05/28(土) 22:49:58
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700807&amp;g=pol
核なき世界へ「希望与えた」=米大統領の広島訪問を歓迎-安倍首相

 安倍晋三首相は27日夕、オバマ米大統領と訪れた広島市の平和記念公園で所感を述べ、「米国の大統領が被爆の実相に触れ、核兵器のない世界への決意を新たにする。核なき世界を信じてやまない世界中の人々に大きな希望を与えてくれた」と高く評価した。
 首相は「全ての日本国民が待ち望んだ歴史的訪問を心から歓迎したい」と表明。その上で「日米両国の和解、そして信頼と友情の歴史に新たなページを刻む大統領の決断と勇気に対して、心から敬意を表したい」と述べた。
 核廃絶の決意については、「世界中のどこであろうと、再び悲惨な経験を決して繰り返させてはならない。核兵器のない世界を必ず実現する」と訴えた。日米関係にも触れ、「日米が力を合わせて、世界の人々に希望を生み出すともしびとなる」と述べ、同盟深化の重要性を強調した。(2016/05/27-20:05)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700889&amp;g=pol
安倍首相発言要旨=オバマ米大統領広島訪問

 安倍晋三首相の広島平和記念公園での発言要旨は次の通り。
 日米両国は戦後70年を経て、深い信頼と友情で結ばれる同盟国となった。日米同盟は、世界に希望を生み出す同盟でなければならない。
 米国の大統領が被爆の実相に触れ、核兵器のない世界への決意を新たにする。核なき世界を信じてやまない世界中の人々に大きな希望を与えてくれた。全ての日本国民が待ち望んだ歴史的な訪問を心から歓迎したい。日米両国の和解、そして信頼と友情の歴史に新たなページを刻むオバマ大統領の決断と勇気に対して、心から敬意を表したい。
 世界中のどこであろうと、再び悲惨な経験を決して繰り返させてはならない。この痛切な思いをしっかりと受け継いでいくことが、今を生きる私たちの責任だ。
 核兵器のない世界を必ず実現する。その道のりがいかに長く、いかに困難なものであろうと絶え間なく努力を積み重ねていくことが今を生きる私たちの責任だ。必ずやその責任を果たして、日本と米国が力を合わせて、世界の人々に希望を生み出すともしびとなる。この地に立ち、オバマ大統領と共に改めて固く決意した。(2016/05/27-19:30)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700744&amp;g=pol
原爆投下、なお日本と認識差=「正当化される」過半数-米世論

 オバマ米大統領の広島訪問は、核兵器を実戦で使用した唯一の国の指導者が被爆地に足を踏み入れるという意味で、歴史的機会だ。だが、米国民の多数派は依然として「原爆投下が戦争終結を早め、多数の米兵の命を救った」と考えている。多くの人命を一瞬にして消し去ったキノコ雲の意味をめぐり、両国民の認識の違いはなお大きい。

 米調査機関ピュー・リサーチ・センターが戦後70年に当たる昨年実施した世論調査結果によると、広島・長崎への原爆投下は「正当化される」と考える米国人は56%に上り、「正当化されない」の34%を大きく上回った。同じ質問に日本人の79%が否定的見解を示したのとは対照的だ。
 オバマ氏の広島訪問発表後も、米当局者が「日本は謝罪を求めていない。われわれも(謝罪を)しない」(ライス大統領補佐官)と繰り返してきた背景には、こうした国民世論がある。
 米国民の意識は年代によって差があり、原爆投下が「正当化される」と回答したのは65歳以上で70%に上ったが、18〜29歳の若年層では47%と半数を割った。男女別でみると、肯定的な意見は男性の62%に対し、女性は50%にとどまった。
 米国民の見方は時代によっても変化している。米調査機関ギャラップが原爆投下直後の1945年8月に実施した世論調査では、85%が投下に支持を表明。しかし、この数字は戦後60年の2005年には57%にまで低下した。
 もっとも、同じ調査では05年時点でも、米国人の80%が「原爆投下によって(戦争終結で)米国人の命が救われた」と回答。核兵器が戦争を早期に終わらせたという認識自体は根強いことを示した。一方、「日本人の命が救われた」と答えた米国人は41%で、「そう思わない」の47%を下回った。(2016/05/27-17:45)

840名無しさん:2016/05/28(土) 22:52:18
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700076&amp;g=pol
米大統領、今夕広島訪問=「核なき世界」重要性訴え

 オバマ米大統領は27日夕、現職米大統領として被爆地・広島を初めて訪問する。大統領は安倍晋三首相と共に平和記念公園で所感を述べ、2発目の原爆が投下された長崎を含む第2次世界大戦の全犠牲者を追悼する。また、大統領が提唱している「核兵器のない世界」に取り組む重要性を内外に向けて訴える。(2016/05/27-05:49)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700072&amp;g=pol
外国記者の視線「ヒロシマ」へ=「歴史的」「和解の象徴」-オバマ氏訪問どう見るか

 オバマ米大統領は27日午後、現職米大統領として初めて被爆地・広島の土を踏む。主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)を取材している海外メディア記者や外国人研究者の視線も「ヒロシマ」に注がれる。「歴史的だ」「悲劇から何を学ぶか」「和解の象徴」。歴史的訪問をどう見ているか、聞いてみた。
 「(大統領の決断は)素晴らしい。原爆投下という大きな悲劇の教訓をどうくみ取り、この悲劇から何を学ぶかが問題だ」。サミットの国際メディアセンター(三重県伊勢市)で語ったのは、香港公共ラジオRTHKのワシントン支局で働く米国人記者バリー・ウッドさん(72)。
 英紙フィナンシャル・タイムズ東京支局長で英国人のロビン・ハーディング氏(37)も「(オバマ大統領は)在任中にほとんど進展のなかった『核兵器のない世界』に向けた取り組みを訴えたいのだろう。和解の象徴だ」と高く評価した。
 オバマ大統領は訪日に先立ち、日本と同様にかつて戦火を交えたベトナムを初訪問し、関係の「完全正常化」を宣言した。国営ベトナム通信のグエン・ティ・トエン東京支局長(40)は、「日本とベトナムは、共に米国と戦った国だが(より緊密な)日米関係は米越関係と全く異なる」と指摘。その上で「米越関係が今後(日米関係のように)発展していけばいい」と話した。
 毎年サミット開催地を訪れ、サミットの成果を研究している英シェフィールド大政治学部の米国人研究者ガレット・ブラウン氏(44)は、オバマ大統領の広島訪問の意義をこう解説する。
 「日米双方の戦争犠牲者に対する追悼という面はある。しかし、それだけでなく(広島訪問を通じて)政治面でいかに(両国関係を)前進できるかを表した」。一方、マイナス要因を質問すると、「大統領が仮に謝罪をにおわせれば、退役軍人や共和党から批判が出て、緊張を生む可能性はある。しかし(日米関係にとって)害にはならないだろう」と分析した。(2016/05/27-05:47)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700060&amp;g=pol
「核使わない」自らの言葉で=広島訪問、オバマ氏に期待-鈴木長崎大教授

 現職大統領として初となるオバマ米大統領の広島訪問を27日午後に控え、もう一つの被爆地・長崎でも期待が高まっている。長崎大核兵器廃絶研究センター長の鈴木達治郎教授(65)は「核兵器がもたらす悲惨な結末を身をもって感じてもらうのが最大の意義」と語り、「短くても、オバマ氏自身の言葉で『核兵器は使ってはいけない兵器だ』と言ってほしい」と訴える。(2016/05/27-05:36)

841名無しさん:2016/05/29(日) 15:55:22
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052400730&amp;g=pol
米大統領の被爆者面会要請=広島知事ら

 広島県の湯崎英彦知事と広島市の松井一実市長は24日午後、首相官邸に安倍晋三首相を訪ね、オバマ米大統領が27日に広島市を訪問する際、被爆者との面会が実現するよう改めて要望した。首相からは明確な回答はなかったという。
 松井氏は会談後、記者団に「外務省と米国で鋭意調整していただいていると信じている」と述べ、面会実現に期待をにじませた。(2016/05/24-17:55)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052400403&amp;g=pol
オバマ氏献花に被爆者招待=原爆ドーム視察も検討-日米

 日米両政府は、オバマ米大統領が27日に行う広島平和記念公園での献花に、被爆者を招待する方向で調整に入った。日本政府関係者が24日、明らかにした。同公園内の原爆ドームのオバマ氏による視察も検討している。
 オバマ氏は26日からの主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に出席後、27日午後に平和記念公園を訪れ、平和記念資料館を見学するとともに、慰霊碑に献花する。この後、被爆地を訪れた所感や核廃絶への決意を表明する見通しだ。安倍晋三首相も同行し、オバマ氏訪問の意義などについて見解を述べる。(2016/05/24-12:41)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052400054&amp;g=pol
大統領は謝罪拒否再考を=広島訪問前に書簡-米有識者グループ

 【ワシントン時事】映画監督のオリバー・ストーン氏ら米国の有識者約70人は23日、オバマ大統領が27日に広島を訪問するのを前に、謝罪を拒否する方針を再考するよう促す連名の書簡を大統領に送付した。できる限り多くの被爆者と面会することも求めている。
 名を連ねたのはストーン氏のほか、言語学者のノーム・チョムスキー氏、元国防総省職員のダニエル・エルズバーグ氏、アメリカン大のピーター・カズニック教授ら。
 書簡は「アイゼンハワー大統領やマッカーサー元帥でさえ原爆投下は戦争終結に必要なかったと述べていた」と説明し、訪問時に原爆投下の是非に触れない方針を考え直すよう要求。また、被爆者との面会は「核廃絶への決意を誰もが強固にせざるを得なくなる貴重な経験だ」と指摘した。
 書簡はまた、「大統領は核兵器なき世界に向け、残り任期中にも決定的な指導力を発揮できる」と強調し、核兵器の近代化計画中止や核軍縮交渉の再活性化を求めている。(2016/05/24-05:37)

842名無しさん:2016/05/29(日) 16:00:32
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052300719&amp;g=pol
日米首脳そろって所感表明へ=広島訪問時、核廃絶へ決意

 安倍晋三首相は、オバマ米大統領の27日の広島訪問に同行する際、被爆地を訪れた所感を日米両首脳で、そろって表明する方針を固めた。政府関係者が23日、明らかにした。両首脳は協調して、「核なき世界」に向けた国際社会の一層の取り組みを訴える見通しだ。
 大統領は、26、27両日の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の日程を終えた後、被爆地である広島を訪問。米政府高官によると、大統領は広島で「全ての犠牲者に哀悼の意を表したい」との意向だ。首相も広島入りし、両首脳は広島平和記念資料館を見学するとともに、原爆死没者慰霊碑へ献花。原爆ドームも訪れる方向だ。
 首相は広島での所感で、大統領の広島訪問を歓迎するとともに、核廃絶に向けた決意を表明する方針だ。
 23日の参院決算委員会で、首相は「(大統領の広島訪問は)核兵器のない世界に向けて、大きな力となる」と強調。さらに、「今後とも、オバマ大統領と力を合わせ、(核廃絶)実現に向けて一歩一歩、着実に進んでいくよう努力を重ねたい」と述べた。(2016/05/23-18:50)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052800291&amp;g=pol
謝罪なければ問題ない=オバマ氏広島訪問でトランプ氏

 【ワシントン時事】米大統領選の共和党候補指名が確定した実業家ドナルド・トランプ氏(69)は27日、オバマ大統領の広島訪問について、謝罪しなければ問題ないとの見解を示した。
 トランプ氏はカリフォルニア州サンディエゴの集会で演説し、「(オバマ氏が)謝罪しない限り全く結構なことだ。誰が構うものか」と語った。 
 一方、トランプ氏は民主党候補指名をほぼ確実にしたヒラリー・クリントン前国務長官(68)を批判、「(彼女は)私が日本を核武装させたがっていると言ったが、そんなことは全く話していない」と述べた。トランプ氏は日本の核武装を容認する発言をしたが、積極的に求めはしないことをかねて説明している。(2016/05/28-23:23)

843名無しさん:2016/06/04(土) 20:37:15
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160601/k10010542781000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_051
外相が米大使に謝意 オバマ大統領の広島訪問実現で
6月1日 17時57分
岸田外務大臣はアメリカのケネディ駐日大使と会談し、オバマ大統領の被爆地・広島への訪問が実現したことに謝意を伝えるとともに、今後、「核兵器のない世界」の実現に向けて、日米両国でさらに協力していくことで一致しました。
この中で岸田外務大臣は、先月27日にアメリカのオバマ大統領が広島を訪問したことについて、「現職の大統領に被爆地を訪問してもらったことは、1人の広島市民、そして被爆地出身の外務大臣としてうれしく思っている。ケネディ大使には、さまざまな形で力添えを頂き、心から感謝したい」と述べました。
これに対し、ケネディ大使は「広島の皆さんが、オバマ大統領に示された本当に温かい歓迎の意に心から感謝を申し上げたい。歴史的な訪問に参加することができて大変光栄だ」と応じました。
そのうえで両氏は、「核兵器のない世界」の実現に向けて、日米両国でさらに協力していくことで一致しました。
また、両氏は、沖縄県でアメリカ軍関係者が逮捕された事件を受けて、実効性のある再発防止策を策定し、沖縄県の犯罪を抑止するため、連携して取り組んでいくことを確認しました。

844名無しさん:2016/06/05(日) 00:37:30
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016060100687&amp;g=pol
広島訪問は「歴史的」=米大使、岸田氏に意義強調

 岸田文雄外相は1日、ケネディ駐日米大使と外務省で会談し、オバマ大統領の広島訪問実現への尽力に謝意を伝えた。大使は「大統領個人にとっても非常に意義ある訪問だったし、日米両国にとって歴史的な訪問だった。日米同盟のさらなる大きな舞台が設定された」と強調した。
 広島が地元の岸田氏は「一人の広島市民、被爆地出身の外相として、心よりうれしく思っている」と表明。「今回の訪問は一つのスタートだ。核兵器のない世界に向けて米国と協力し、しっかり努力していきたい」と語った。両氏は米軍属による女性死体遺棄事件についても意見を交わした。 (2016/06/01-21:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016060200083&amp;g=pol
「大統領は何度も書き直した」=広島演説めぐりオバマ氏側近-米

 【ワシントン時事】ローズ米大統領副補佐官は5月31日、オバマ大統領の日本・ベトナム歴訪を振り返るエッセーをインターネット上に投稿した。副補佐官はこの中で、広島平和記念公園での大統領の演説について「大統領は旅の間中、何度も(原稿を)書き直していた」と明らかにした。

 副補佐官は、大統領手書きの原稿を撮影し、その写真を併せて掲載した。「人類は自らを滅ぼす能力を手に入れた」を横線で消して「手段を手に入れた」に書き換えてあり、大統領が一言一句に気を使いながら推敲(すいこう)を重ねた様子がうかがえる。
 副補佐官はまた、「私たちは両国で圧倒的に温かい歓迎を受けた。両国とも米国が20世紀で最も激しい戦争をした国だ」と指摘。「ホーチミンの若者や広島で会った被爆者の中に共通の人間性を見つけることは全く難しくない」と記し、大統領が訴えた平和の達成は可能だと強調している。 (2016/06/02-13:28)

845名無しさん:2016/06/05(日) 11:28:29
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016053100770&amp;g=pol
オバマ氏「広島に来て良かった」

 現職の米大統領として27日に初めて被爆地の広島市を訪れたオバマ氏が、「広島に来て良かった」との感想を周辺に語っていたことが分かった。外務省が31日の自民党外交部会で、オバマ氏側近の話として明らかにした。

 また、オバマ氏は広島市の平和記念公園から移動した際、多くの一般市民から見送られたことに感銘を受けたと話しているという。外務省はオバマ氏サイドの話について、帰国途上の大統領専用機から同省に伝えられたと説明した。 (2016/05/31-19:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016053000024&amp;g=pol
「大統領は真珠湾に触れたか」=トランプ氏、広島訪問で批判投稿-米

 【ワシントン時事】米大統領選で共和党の指名獲得を確実にしている実業家ドナルド・トランプ氏(69)は28日、オバマ大統領の広島訪問に関連し、ツイッターに「大統領は日本にいる間に真珠湾奇襲について議論したのか。何千人もの米国人の命が失われた」と投稿した。

 トランプ氏は27日の演説で、原爆投下について謝罪しない限り、広島訪問は問題ないとの立場を示したが、批判的な立場に転じたようだ。米国が30日に戦没者追悼記念日(メモリアルデー)を迎えることも意識したとみられる。 
 大統領の広島訪問をめぐっては、トランプ氏の選挙運動を支援するペイリン元アラスカ州知事も「米国の退役軍人を侮辱している」などと語っている。(2016/05/30-05:46)

846名無しさん:2016/06/05(日) 21:07:45
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160604-00000027-nnn-soci
米・ケリー国務長官から原爆資料館に手紙
日本テレビ系(NNN) 6月4日(土)17時25分配信
 4月にアメリカの現職閣僚として初めて広島市の原爆資料館を見学したケリー国務長官から一週間前、資料館に手紙が届いた。

 ケリー国務長官からの手紙は、オバマ大統領が広島を訪れた翌日、原爆資料館の館長宛てに届いた。4月に広島市で開かれたG7外相会合に出席したケリー長官は、原爆資料館を見学し、約50分間、被爆者の遺品や資料を見て回った。資料館見学についてケリー長官は、「核兵器の脅威のない世界平和に向け努力することの重要さを確信する」とつづっている。

 原爆資料館・志賀館長「説明も聞きながら一つ一つの展示の説明文をきちんと読みながら熱心に見ていただいた」

 志賀館長は、資料館見学で衝撃を受けたケリー長官の意見がオバマ大統領の広島訪問を後押ししたと思いたいと話している。

847荷主研究者:2016/06/06(月) 22:56:29

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20160517/CK2016051702000048.html
2016年5月17日 中日新聞
内灘に消えた“北陸の宝塚” 大正・昭和「粟ケ崎遊園」

粟ケ崎遊園周辺の鳥瞰(ちょうかん)図の一部分。手前が遊園で右奥が金沢駅方面、左奥が河北潟=内灘町所蔵

本家まねるも経営基盤に難

 石川県内灘町の内灘砂丘に、一大レジャー施設「粟ケ崎遊園」があった。大正末期の1925年に開園し、41年の太平洋戦争開戦直前に閉鎖された。にぎわいを見せた“夢の国”はなぜ砂上の楼閣のごとくなくなってしまったのか。(高橋淳)

 手がかりを求めて向かったのが、「町歴史民俗資料館 風と砂の館」。学芸員の中江麻代さん(31)が、施設の概要などを教えてくれた。千人収容の大劇場や温泉、動物園、野球場、貸別荘、レストラン、六十三メートルのすべり台…。広さは兼六園の二倍近い約二十万平方メートル。「夏は近くの海水浴場と合わせて入り込みは一日一万人といわれています」

 たくさんの人がいろいろなレジャーを楽しんだようだ。にぎわいぶりを知りたいと聞いたのが、当時小学生だった金沢市の斉本信子さん(88)。年に数回、家族で出掛けた。「娯楽のない時代、みんなこぞって行った。遊園に行く電車は、男性客が車両外の手すりか何かにつかまって走る混雑ぶりだった」と振り返った。

人気を博した少女歌劇団=石川県内灘町所蔵

 最大の呼び物は少女歌劇団。とはいえ誰がいたのか、何人いたのかは不明。風と砂の館には、ショーの断片情報をかき集めて「(かつての)女優名鑑」を作ろうと奮闘している人がいた。町文化財保護審議会長の竹田菊夫さん(72)だ。竹田さんは「二百人はいたのではないか」と推測する。

 夢の国の人気はすごかったようだけど、なんで閉鎖されてしまったのか。問題を解くカギは建設のいきさつにありそうだ。

 遊園には「北陸の宝塚」という異名があった。創設者で北陸一の材木商だった平沢嘉太郎(一八六四〜一九三二年)が、阪急電鉄創業者で宝塚歌劇の生みの親・小林一三(一八七三〜一九五七年)のアイデア-鉄道と娯楽施設を組み合わせた事業展開-をまねたためとされる。平沢は金沢から遊園に客を運ぶため、両地点を結ぶ浅野川電気鉄道(現北陸鉄道浅野川線)を敷設している。

 平沢が約四十億円相当の私財を投じた遊園は、「市民の別荘を造りたい」という夢の具現化だった。だが、戦時色が強まる中で客足は遠のき、遊園は四一年に閉鎖される。

(左)粟ケ崎遊園を創設した平沢嘉太郎=内灘町所蔵(右)「女優の全体像を明らかにしたい」と話す竹田菊夫さん=内灘町歴史民俗資料館風と砂の館で

 でも宝塚は戦時中に閉鎖されたが、復活を果たしている。再起できなかった遊園との差は何なのか。

 地域史に詳しい金沢星稜大教授の本康宏史さん(58)が時代背景を解説してくれた。当時は「第二の宝塚」をもくろんで各地に郊外型遊園地を造る動きが広がり、粟ケ崎遊園もその一つだったという。

 本康さんは「小林は鉄道を重視し、宅地開発で乗客を増やして宝塚に集客した。逆に平沢は遊園への思い入れが強く、鉄道は二の次。金沢の客頼みで経営基盤がもろかった」と経営姿勢の違いを指摘する。

 遊園は閉園後、軍需工場となり鉄道事業と分離された。複数の事業で利益を生み出す見通しが立たない中、「夢をもう一度」と遊園事業を引き継ぐ経営者が現れなかったのかもしれない。

848名無しさん:2016/06/11(土) 11:46:23
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016060800591&amp;g=pol
できるだけ早期に設立を=元慰安婦支援財団で準備委員-韓国

 【ソウル時事】韓国外務省傘下のシンクタンク、国立外交院外交安保研究所の※喜庸(※恵の心が日)・日本研究センター所長は元慰安婦支援のための財団について、「韓日両政府が昨年12月28日に(慰安婦問題に関し)合意してから、相当な時間がたっている。できるだけ早く設立するのが望ましい」と強調した。電話インタビューで語った。
 財団準備委員会の委員を務める※氏は「韓日両政府間の協議も経なければならないので、今の段階でいつ創設されるのかを話すのは難しい」と述べ、当初6月中とされた設立がずれ込む見通しを示唆、「あまりに遅れれば、財団の活動に支障が出かねない」と懸念を示した。 
 一方、※氏によると、財団の準備委員長に選出された金兌玄・誠信女子大名誉教授は、財団の活動に賛同するよう説得するため、元慰安婦との面会を開始した。
 ※氏は「金委員長が直接、元慰安婦と話して、『心の傷をいやすための活動を行う』と説明すれば、説得力がはるかに高まる」と指摘し、財団への支持拡大に期待をにじませた。(2016/06/08-15:24)

849名無しさん:2016/06/11(土) 18:18:31
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016060700074&amp;g=pol
「想像できない歴史の重み」=広島訪問で感じる-米大統領

 【ワシントン時事】ローズ米大統領副補佐官(戦略広報担当)は6日、ワシントン市内で記者団に、オバマ大統領が先月27日の広島訪問で「実際に訪れるまでは十分に想像できない被爆地の歴史の重みを感じた」と語った。ローズ氏はオバマ氏の最側近で、今回の広島訪問に深く関与した。
 ローズ氏は、「広島を訪問するしないをめぐり議論はあったものの、間違いなく正しい行動だった。行く前よりそれを確信している」と強調。さらに「被爆地を訪れるまでは、核に関するさまざまな問題の重要性をある意味で完全に理解できない」と述べた。
 ローズ氏はこの日、カナダ在住の被爆者サーロー節子さん(84)と面会、大統領宛ての手紙を受け取った。サーローさんは面会後、大統領の広島演説で新たな政策がなかったことを指摘したとしつつ「広島まで(大統領を)お連れになった努力を感謝すると伝えた」と話した。 (2016/06/07-06:47)

850名無しさん:2016/06/12(日) 21:16:57
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160612/k10010553511000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_006
韓国 元慰安婦支援の財団を来月半ばにも設置へ
6月12日 4時07分
慰安婦問題の最終的な解決に向けて、韓国政府が、日本政府との合意に基づき、来月半ばにも元慰安婦たちを支援する財団を設置する見通しとなり、韓国内で依然として日韓の合意に反発する動きがあるなか、財団の準備委員会は元慰安婦たちのもとを訪れて理解を求めています。
慰安婦問題を巡っては、去年12月に日韓両政府が最終的な解決に向けて合意し、韓国政府が元慰安婦の女性たちの名誉と尊厳の回復や心の傷を癒やすための事業を行う財団を設置し、この財団に日本政府がおよそ10億円を拠出することになりました。
韓国政府の関係者によりますと、財団の名称は「和解・癒やし財団」とし、来月半ばにも設置する見通しとなりました。
財団の準備委員長を務めるソンシン(誠信)女子大学のキム・テヒョン(金兌玄)名誉教授が、これまでに10人ほどの元慰安婦のもとを訪れて、日韓両政府の合意や財団の趣旨に理解を求めています。
韓国内では依然として日韓の合意への反発があり、元慰安婦たちの支援団体「挺対協」は、政府に対抗して独自の財団を設置すると表明し、元慰安婦たちに「和解・癒やし財団」からの支援を受けないよう圧力をかけています。
このため、政府側は今後もできるだけ多くの元慰安婦たちと会い、支援を行う環境を整えたいとしています。

851名無しさん:2016/06/18(土) 22:15:54
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016061600760&amp;g=pol
慰安婦合意、着実に履行を=国交正常化50周年が転機-別所駐韓大使

 【ソウル時事】国連大使に転出する別所浩郎駐韓大使は16日、ソウルの日本大使館で記者会見し、慰安婦問題をめぐる昨年12月の日韓合意について「きっちりと履行し、日韓関係全体を揺るがすことがないようにしていけば、明るい展望がある」と述べ、着実な履行の重要性を強調した。
 別所氏は「日韓国交正常化50周年を迎えた昨年、大きな転機があった」と指摘。昨年6月にソウルと東京で開かれた式典に朴槿恵大統領、安倍晋三首相がそれぞれ出席したことが、11月の首脳会談、12月の慰安婦合意につながったと述べた。「この流れの中で、新しい時代を開いていくという両国首脳の意思が確認された」と強調、「日韓関係には大変な潜在力がある」と語り、一層の関係発展に期待をにじませた。 (2016/06/16-17:59)

852名無しさん:2016/06/19(日) 00:02:46
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016061700881&amp;g=pol
10億円、「少女像」と分離を=慰安婦合意の早期履行重要-駐日韓国大使

 近く離任する柳興洙駐日韓国大使は17日、東京都内の日本記者クラブで会見し、日韓合意に基づく元慰安婦支援の財団への日本政府による10億円拠出と、ソウルの日本大使館前の少女像の移転問題を切り離すよう呼び掛けた。大使は少女像移転について「前提条件ではない」と強調。財団発足後速やかに拠出を実行すべきだと訴えた。
 柳氏は財団について「(7月10日投開票の)参院選後に設立される」と見通しを語った。日本では慰安婦を象徴する少女像の移転が進展しないことに不満が強いが、柳氏は「少女像問題が条件と言ったら(日韓合意に反対する)韓国の世論を説得しにくくなる」と強調した。
 また、合意に反対する市民団体が独自の財団を立ち上げたことに触れ「早く(10億円の拠出が)実行に移され、元慰安婦が直接感じられるようにして、市民団体の活動がうまくいかないようにすることが重要だ」と述べた。 
 柳氏は2014年8月に着任。後任には李俊揆前駐インド大使が内定している。(時事)
柳興洙(ユ・フンス)、李俊揆(イ・ジュンギュ)(2016/06/17-20:17)

853名無しさん:2016/06/19(日) 11:24:42
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160617/k10010560121000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_016
ロシア下院議長 広島でオバマ大統領の謝罪なしを非難
6月17日 21時09分
ロシアのプーチン大統領側近のナルイシキン下院議長が東京都内で記者会見を行い、16日に安倍総理大臣に対して、終戦直後にソビエト軍が広島と長崎の被爆地の状況を撮影した映像を手渡したことを明らかにしたうえで、広島を訪れたアメリカのオバマ大統領が謝罪しなかったことを非難しました。
ロシアのプーチン大統領側近のナルイシキン下院議長は16日から来日しており、17日、東京都内で記者会見を行いました。
この中でナルイシキン議長は、16日に会談を行った安倍総理大臣に対して、終戦直後にソビエト軍が広島と長崎の被爆地の状況を撮影した映像を手渡したことを明らかにしました。
会見でナルイシキン議長は「原爆投下によって数十万人が犠牲になったことは誠に遺憾だ」と述べたうえで、先月、アメリカのオバマ大統領が広島を訪問したことについて、「被爆者に謝罪しなかったことに驚いている。アメリカの軍人と政治家は犯罪の責任がある」と述べ、被爆者に謝罪しなかったことを非難しました。また、ナルイシキン議長は17日に会談を行った公明党の山口代表に対して、日本とアメリカが進めるミサイル防衛システムの配備について、ロシアが憂慮していることを伝えたということで、「ミサイル防衛システムは地域の安定や均衡を壊すことになる。日本側はロシアの懸念と憂慮を理解してほしい」と訴えました。

854とはずがたり:2016/06/20(月) 14:07:42
靖国神社の宮司と聞いて情けない取り込まれて,と思ったけどちゃんとまともな事いっていた。
また明治維新という過ちは彼の発言でも何でも無いようで,官軍・賊軍を東軍・西軍と云っただけのようだ。

靖国神社の徳川宮司「明治維新という過ち」発言の波紋
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20160620/Postseven_422520.html
NEWSポストセブン 2016年6月20日 11時00分 (2016年6月20日 11時33分 更新)

靖国神社の徳川宮司の発言が波紋
[拡大写真]

 靖国神社が揺らいでいる。来る2019年に迎える創立150周年に向けて徳川康久宮司が語ったインタビュー記事の発言が、波紋を呼んでいるのだ。
 記事は共同通信社から配信され、加盟する一部の地方紙(静岡新聞6月9日付、中国新聞6月10日付)に掲載されたのみだった。ところが、地方でしか読まれないはずの記事が各界の識者の注目を集め、にわかに論争へと発展している。
 徳川宮司は靖国神社が抱える課題や、神社の将来像について語った後、「明治維新を巡る歴史認識について発言していますね」という質問を受けて、自らの「明治維新史観」を開陳した。以下が宮司の発言だ。
〈文明開化という言葉があるが、明治維新前は文明がない遅れた国だったという認識は間違いだということを言っている。江戸時代はハイテクで、エコでもあった〉
〈私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった〉
 一連の発言が波紋を呼んだのは、靖国神社創建の「原点」に関わるからだ。靖国神社のルーツは明治2年(1869年)に建てられた東京招魂社に遡る。
 明治維新に際して、薩摩藩・長州藩中心の後の「明治政府軍」と徳川家や会津藩が中心の「幕府軍」が争う「戊辰戦争」が勃発。勝利を収めた明治政府軍が“官軍”、敗北した幕府軍は“賊軍”とされた。

 この時、明治維新を偉業として後世に伝え、近代国家建設のために命を捧げた官軍側犠牲者を慰霊顕彰するため、明治天皇が創建したのが東京招魂社だ。明治12年に社号が「靖国神社」と改められて現在に至る。
 それゆえに、「賊軍vs官軍ではなく、東軍vs西軍」とする発言は、靖国神社の歴史観を揺るがしかねないと受け止められたのだ。
 靖国神社にある遊就館に展示されている「錦の御旗」には、「戊辰戦争で官軍の象徴として使用された」との解説があるように、靖国神社の見解はあくまで、「明治政府軍=官軍」だ。
 発言の背景には、徳川宮司の出自が関係している。徳川宮司は徳川家の末裔であり、“賊軍”の長であった15代将軍・徳川慶喜を曾祖父に持つ。徳川家康を祀った芝東照宮に奉職した後、靖国神社の宮司になった。「賊軍の末裔」が「官軍を祀る神社のトップ」に立ったわけである。

◆「大村益次郎像を撤去せよ」

「明治維新史観」の見直しは最近のムーブメントだった。昨年1月に発売された原田伊織氏の『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(毎日ワンズ刊)がベストセラーになったことを皮切りに、半藤一利氏と保阪正康氏の共著『賊軍の昭和史』(東洋経済新報社刊)など、明治維新の勝者の立場に立った歴史観を見直す論考が相次いで発表されている。
 その流れで徳川宮司の発言が飛び出したことで、騒動が拡大しているのだ。著書で「薩長史観」を鋭く否定した原田氏は徳川宮司に同調するかと思いきや、意外にも「発言は中途半端」と手厳しい。「明治維新当時、東軍・西軍という言葉はほぼ使われていません。徳川家や会津藩に賊軍というレッテルを張ったのは明らかに薩長ですが、その責任や是非を問わず、当時ありもしなかった言葉に置き換えて流布するのはおかしい。また、靖国の持つ歴史観を見直さないのは欺瞞です。“官も賊もない”と言うならば、まず靖国神社の境内にある大村益次郎(官軍側の司令官)の銅像を撤去すべきです」
 そんな意見が飛び出すほど、今回の発言は衝撃だった。波紋が広がる徳川宮司の発言について靖国神社は、「創建の由緒から鑑みて『幕府側に対する表現や認識を修正すること』を神社として行なう考えはなく、今後も同様の考えが変わることはないとの発言と理解しております」と回答した。
 宮司は150年間封印されていたパンドラの箱を開けてしまったのか。

※週刊ポスト2016年7月1日号

855とはずがたり:2016/06/21(火) 14:22:32
北方領土問題は「千島20島」の帰属問題である
択捉・国後・歯舞・色丹だけの問題ではない
http://toyokeizai.net/articles/-/81453
美根 慶樹 :平和外交研究所代表 2015年08月23日

日本とソ連は1955年に交渉を開始。翌年に交渉は妥結し、日ソ共同宣言という形に結実し、戦争状態は終了。外交関係も回復したが、領土問題は解決しなかった。

その後、何回も交渉が行われ、日本とロシアは「歯舞」「色丹」と「国後」「択捉」の北方4島は平和条約において解決されるべき問題であることを双方で確認しあった(1991年4月の日ソ首脳会談)。

「南樺太」は日露戦争の結果、日本が獲得した領土なので、日本は領有権を主張しないことにしていた。なお、北樺太は戦前すでにソ連領となっていたので初めから問題にならなかった。

歯舞・色丹の返還にはすでに合意

一方、「歯舞・色丹」について、日本は、これらは北海道の一部であり、ロシアに対して占領を解いて日本に返還するよう求めた。「2島返還」という場合の「2島」とは「歯舞・色丹」のことだ。

この主張に対してはロシア側も理解し、前述の交渉結果、「ロシアは歯舞および色丹を日本に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、両国間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と両国の共同宣言に明記された。

しかし、両国間の交渉は完了していないので、これら2島も北方4島の一部として交渉対象になっている。

「国後」「択捉」については、日本とロシアがともに領有権を主張しており、これをどう解決するかが問題だが、実は、この問題を解決するだけでは交渉は完了しない。「千島列島」を構成するその他18島(北千島)の領有権がどの国にあるかの確定がされているわけではないのだ。

ロシアは、これら18島も「国後」「択捉」も「第二次世界大戦の結果としてロシアの領土の一部となった」と主張している(日本外務省『われらの北方領土』2011年版)。18島についてはロシア以外に権利を主張している国はないが、法的にはロシア領と確定しているのではない。そのため、正式にロシア領とする決定が必要なのだ。そしてロシアは日本に対して、それをロシア領と認めるよう要求している。

一方、日本は「千島列島」についての交渉の対象を「国後」「択捉」に絞っており、18島については権利を主張していない。

つまり、ロシアは20島について権利を主張しているのに対し、日本は2島だけを交渉の対象としているので、両国の主張は部分的にかみ合っていない。ただそのズレが目立たないのは、18島については争いがないからだ。

しかし、この問題はいずれ出てくる。「国後」「択捉」についての領有権問題について結論が出ると、ロシアは、18島に対して領有権があることを日本に認めるよう要求してくる。日ソ交渉のなかで、ロシアはすでにそのことを要求していたのだが、議論されなかっただけなのだ。

なぜ、ロシアが日本にそのような要求をするかというと、それは18島に対する権利を持っているのは日本だとみなしているからだ。ロシアは、20島すべてを「戦争の結果として取得した」と主張して、すでに権利はロシアに移ったような言い方をしているが、それは主張に過ぎず、法的な権利はないことを自覚しているからこそ日本にそれを認めよと要求しているのだ。

日本にはサンフランシスコ平和条約で「千島列島」を「放棄」したので18島に対するロシアの領有権を認めるような立場にないと誤解している人がいるが、実際はそうではない。国際法的にどのように説明するかはともかく、ロシアは今でも18島の領有権は日本にある、あるいは残っているとみなしている。かりに、日本が「放棄」したことを理由にロシアの要求について応じず、たとえば、「ロシアの千島列島に対する領有権主張について日本は関知しない」と言えば、それだけで交渉はまとまらなくなるだろう。

なお、日本政府は1955年の日ソ交渉において、「千島列島」を交渉対象に含めていた。平和条約で「放棄」したからと言ってロシアとの交渉の対象外となるのではないと、当時の日本政府も考えていたのである。

856とはずがたり:2016/07/22(金) 12:39:20

下賎な安倍や麻生如きをやんごとなき五摂家と比較申し上げるなんて畏れ多いにも程があるww

四条家は院政期に院の近臣としてフィクサー的に活躍したけどその伝統があるのか!?

旧華族に序列が存在 安倍家・麻生家は「五摂家」より格下
http://www.news-postseven.com/archives/20160717_428779.html
2016.07.17 07:00


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「旧家族」の序列とは?(安倍邸)
【「旧家族」の序列とは?(安倍邸)】


「旧華族」とは明治以降の貴族階級のこと。そんな旧華族の末裔たちが人知れず集う「霞会館」は、霞が関ビル(東京都千代田区)の34階にある。ここには一般人は入ることができない。

 その旧華族にも「序列」がある。最高ランクは平安時代にルーツを持つ藤原北家の流れを汲む「五摂家」(近衞家、九条家、鷹司家、一条家、二条家)と武家の「徳川宗家」であり、明治維新後に「公爵」を授けられた。

 中でも五摂家筆頭の近衞家は戦時期の首相・近衞文麿や細川護熙元首相を輩出し、現在の当主・近衞忠煇氏は日本赤十字社の社長を務める。鷹司家の現在の当主(28代目)である鷹司尚武氏は伊勢神宮大宮司の職にある。現首相の安倍晋三(大島家)や副総理の麻生太郎(牧野家)は旧華族といえども発祥は明治期。「五摂家」とは歴史が違うのだ。

 公爵の下には位の順に「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」があり、頑強な華族ヒエラルキーを形成した。戦後、華族制度は廃止されたが、培った「人脈」は失われなかった。

 恵まれた家系から信頼が厚く、各界に幅広い人脈を持つ旧華族は、昔から人と人を“つなぐ”役割を期待された。1200年の歴史を誇る「旧華族」四條家出身で、庖丁道で知られる日本料理の流派・四條司家の第41代当主の四條隆彦氏の父であり、先代の隆貞氏は、「政財界のフィクサー」として名を馳せた。

「父は田中角栄元首相のことを“エイちゃん”と呼んで親しくしていた。旧華族の一員として、霞会館を舞台に様々な業界や身分の人を繋げていた」(隆彦氏)

 影響力は政財界にいまなお現存すると、『日本の華族 その栄光と挫折の一部始終』(新人物往来社刊)の著者で静岡県立大学の前坂俊之名誉教授も指摘する。

「財閥系の閨閥には婚姻を通じて多くの旧華族が繋がっている。今も霞会館というインナーサークルを通じて新しいビジネスが生まれている」

※週刊ポスト2016年7月22・29日号

857荷主研究者:2016/07/26(火) 22:45:39

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160716_13046.html
2016年07月16日土曜日 河北新報
<北北上運河>明治の木製水門出土

公開された木製閘門の基礎部分

木製閘門の当時のイメージ図

 東日本大震災の津波で被災した宮城県石巻市の北北上運河の復旧工事現場で、明治時代に造られた木製水門「釜閘門(こうもん)」跡が発見された。県東部土木事務所は15日、遺構の一部を地元住民らに公開。木製閘門の遺構は珍しく、同事務所は「明治時代の運河が分かる非常に重要な遺構」と説明している。

 北北上運河は、石巻と東松島両市の境を流れる定川と石巻市内の旧北上川を結ぶ運河。釜閘門は、船が円滑に往来できるよう定川と北北上運河の水位を調整した。1907(明治40)年ごろ完成し、13(大正2)年の大潮で破損。16(大正5)年にコンクリート製の閘門となり、震災発生時まで使われた。

 遺構は今年2月に出土した。見つかったのは閘門の基礎部分で、木製の基礎くいや門扉のちょうつがいの役割を果たす鉄製金具「ヒンジ」など。ヒンジの土台部分は地元産の稲井石が使われていた。

 同事務所によると、発見場所には新たな水門を建設予定で、2018年3月の完成を見込む。中断していた工事は来月再開する。

 同事務所の担当者は「当時の技術を知る上で貴重。ヒンジなど回収史料の展示も検討したい」と話した。

858名無しさん:2016/07/30(土) 15:29:22
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072700010&amp;g=pol
来月にも10億円拠出へ=元慰安婦支援、韓国財団に-政府

 政府は昨年12月の日韓合意に基づき、韓国政府が28日に設立する元慰安婦を支援するための財団に対し、来月にも10億円を拠出する方針を固めた。政府関係者が26日、明らかにした。日本側が求めていたソウルの日本大使館前の少女像撤去について、撤去に先立つ資金拠出を容認するもので、日韓関係改善を優先した判断とみられる。 
 慰安婦問題をめぐる日韓合意は、韓国政府が元慰安婦を支援するため財団を設立し、日本政府が10億円を拠出することなどが柱。少女像については、韓国政府が適切に解決させるよう努力することで合意したが、日本側には像の撤去を資金拠出の条件とすべきだとの声もあった。
 菅義偉官房長官は26日の記者会見で、「日韓それぞれが合意に責任を持って実行をしていくことが極めて重要だ」と強調した。政府は像の撤去について、引き続き「適切な対応」を韓国政府に求めていく方針だ。(2016/07/27-00:53)

859名無しさん:2016/07/30(土) 23:45:48
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160730/k10010614421000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_004
元慰安婦への支援事業 韓国と内容の調整急ぐ
7月30日 6時21分
慰安婦問題を巡る日韓両政府の合意に基づき、韓国政府が28日に女性たちを支援する財団を設立したことを受け、日本政府は、財団に拠出する10億円で賄われる支援事業の内容について、来月上旬にも韓国側と事務レベルで協議し、調整を急ぐ方針です。
慰安婦問題を巡り、日韓両政府は去年12月、韓国政府が設置する財団に日本政府が10億円を拠出し、元慰安婦への支援事業を行うことなどで合意し、これに基づいて韓国政府が28日に財団を設立しました。
これについて日本政府内では、岸田外務大臣が「誠実に努力した結果だと受け止めている」と述べるなど、「国内の反発が根強いなかで設置にこぎつけた」などとして、韓国側の努力を評価する声が出ています。
そして政府は、合意に基づいて来月にも財団に10億円を拠出する方針で、拠出金で賄われる支援事業の内容について、来月上旬にも韓国側と外務省の局長レベルで協議し、調整を急ぐ方針です。
ただ、韓国では一部の元慰安婦や市民団体が合意に反発し、日本では自民党内に、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像が撤去されていないことに不満もあるなかで、両政府は合意の着実な履行に向けて緊密に連携して対応していく考えです。

860名無しさん:2016/07/31(日) 12:21:03
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072800631&amp;g=pol
任期内の履行に全力=慰安婦問題で韓国大統領

 【ソウル時事】慰安婦問題に関する日韓合意に基づき元慰安婦の支援などを行う韓国の財団「和解・癒やし財団」が28日発足したことを受けて、朴槿恵大統領は2018年2月までの任期内の合意履行に全力を挙げる。
 財団の金兌玄理事長は記者会見で、生存中の元慰安婦40人のうち、37人と個別に面会したことを明らかにし、「ごく少数を除いて財団の事業に応じる意向を明確にした」と説明。当事者の間で財団への支持が広がっていると強調した。
 「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」の保護を受け、合意への反対を声高に叫んでいる元慰安婦は「例外にすぎない」という認識だ。さらに、「財団の門はいつも開かれている」と述べ、挺対協など反対派の団体にも参加を呼び掛けた。

 財団は理事長を含め現在10人だが、増員は可能で、表向きは反対派との「和解」を目指す姿勢を取っている。だが、「合意を支持し、財団に加われば、挺対協の存在意義はほとんど失われるので、参加する可能性は極めて低い」(日韓関係専門家)。このため、朴大統領としては、表向き「和解」を掲げながらも、元慰安婦への資金分配など合意の履行を通じて支持を広げ、反対派の弱体化を図っていくしかないのが実情だ。
 これに対し、挺対協は大学生、高校生ら若年層を積極的に取り込み、集会などに動員している。財団の記者会見場に大学生が乱入したことは、合意に対する若年層の強い反感を浮き彫りにした。 
 さらに、最大野党「共に民主党」など野党との連携を強めており、17年12月の次期大統領選挙で慰安婦合意の是非が争点となる可能性も否定できない。「共に民主党」は合意の無効確認・再交渉を要求しており、野党候補が当選した場合、合意の履行は不透明となり、「問題の最終的かつ不可逆的な解決」も揺らぎかねない。

◇慰安婦問題の日韓合意骨子
 一、当時の軍の関与の下、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題として、日本政府は責任を痛感
 一、安倍晋三首相は、心からのおわびと反省の気持ちを表明
 一、韓国政府が元慰安婦支援を目的とする財団を設立。日韓両政府が協力し、全ての元慰安婦の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を実施
 一、日本政府は10億円程度の資金を一括拠出
 一、日本大使館前の少女像は、韓国政府が関連団体との協議を通じ、解決に努力
 一、心の傷を癒やす措置の着実な実施を前提に、日韓両国は慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決と確認(2016/07/28-15:57)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072800894&amp;g=pol
10億円、使途明確化要求へ=少女像撤去は条件とせず-日本政府

 昨年末の日韓合意に基づく元慰安婦支援の財団設立を受け、日本政府は8月中の10億円拠出を目指し、近く両国外務省の局長級協議を開いて財団の事業内容を詰める。日本側は資金の使途を明確にするよう韓国側に求めていく方針。一方、懸案となっているソウルの日本大使館前の少女像撤去については、資金拠出の前提条件とはせず、韓国側の対応を静観する考えだ。
 「財団が実施する事業の詳細は、日韓両政府の間で調整中だ」。菅義偉官房長官は28日の記者会見で、日韓合意をめぐる協議状況を説明。その上で「両政府で日韓合意を誠実に守っていくことが大事だ」と強調した。
 局長級協議で日本側は、拠出金の使途について「日韓の未来につながる使い方」(政府筋)を提案する方向で調整している。政府関係者は「医療費補助や青少年交流プログラムなど、形に残るものがいい」と語った。 
 韓国側では、元慰安婦へ直接支給する案が有力とされる。これについて日本側は、「賠償金」と受け止められることを警戒。賠償問題は1965年の日韓請求権協定で解決済みとの立場を堅持しているためで、局長級協議の焦点の一つとなりそうだ。
 一方、日韓合意では、日本側が求める少女像撤去について、韓国側が「解決へ努力する」としている。日韓の協議でも、日本側は改めて合意履行を促すものの、当面は韓国側の取り組みを見守る。政府関係者は「日韓関係を前に進める方が得策だ。少女像の撤去はそれからでもいい」と指摘。早期の資金拠出を通じ、韓国側の前向きな対応を引き出す構えだ。
 ただ、安倍政権を支持する保守層の間では、少女像撤去を10億円拠出の前提とする意見が、依然として根強い。自民党の稲田朋美政調会長は28日の記者会見で、「撤去は重要な要素だ」と述べ、政府の対応をけん制。首相周辺は「日本の国内世論がどう受け止めるか心配だ」との懸念を示しており、日韓の歯車がかみ合うかは不透明な要素が残る。(2016/07/28-19:50)

861名無しさん:2016/07/31(日) 12:21:25
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072800816&amp;g=pol
領土解決「私たちの世代で」=安倍首相

 安倍晋三首相は28日、首相官邸で北方領土元居住者の3世、4世の中学生らと面会し、北方領土問題について、「この問題は日本の悲願であり、私たちの世代において解決していきたい」と述べ、解決に向けた進展に全力を挙げる考えを強調した。
 また、9月にロシアのウラジオストクでプーチン大統領と会談することに言及し、「ここで平和条約の問題についても話をしたい」と説明。「皆さんが東京にやって来るのと同じように北方四島に足を運べる、そういう新しい時代をつくっていきたい」などと語った。 (2016/07/28-18:24)

862名無しさん:2016/07/31(日) 15:01:53
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160727-00000091-sasahi-peo
米国に嫌われた宰相・田中角栄の孤独 「秘密指定」解除された米公文書を徹底検証〈週刊朝日〉
dot. 7月28日(木)11時30分配信

 高等小学校卒ながら、首相に上り詰め、「今太閤」と呼ばれた田中角栄が逮捕されて、7月27日で40年になる。空前の角栄ブームとなった今、「米国の虎の尾を踏み、失脚した」との説が有力視されている。朝日新聞編集委員の奥山俊宏氏が裏付ける証拠を見つけ出そうと、解禁された米公文書の密林に分け入って見えてきたものとは――。

*  *  *
 ホワイトハウスの文書の数々を読むと、田中はたしかに、米政府の「虎の尾」を踏んでいた。

 国務次官だったジョンソンの回想録によれば、「田中は安保条約に不満を持っている」という記事がニューヨーク・タイムズに掲載され、ニクソンがとても腹を立てたことがあった。

 ニクソン大統領の怒りの原因となったと見られる記事は、田中の話を情報源と明示したうえで、両首脳の間で日米安保条約と台湾防衛の関係について突っ込んだやりとりがあったように紹介されている。

 その記事によれば、米国は条約上、中国本土の共産党政府の脅威から台湾を防衛する義務を負っており、その義務を果たすために沖縄など日本列島に在日米軍がある。ところが、記事によれば、田中は「日米安保条約は基本的には日本防衛を目的としており、台湾防衛については台北とワシントンの問題だ」と述べた、とされている。

 記事によれば、田中の見方は米国の立場と異なる。記事は「日本防衛は自衛隊が責任を負っている。在日米軍は、韓国、台湾、フィリピン、南ベトナムに対する米国の約束を果たすために存在している」と指摘している。

 日米双方の記録によれば、首脳会談で田中はニクソンに「日本にとっていつまでも中国との国交断絶状態を継続することはできない」と言い、台湾との断交は避けられないだろうと述べた。米側の記録によれば、ニクソンは「日中の国交回復は友人の負担の上になされるべきではない」と答えた。

 この会談の3週間余り後の9月25日、田中は北京を訪問し、29日、中華人民共和国との間で外交関係を樹立し、台湾政府と日本の国交は断絶した。

863名無しさん:2016/07/31(日) 15:02:11
>>862

 田中は、キッシンジャー国務長官に以前語った自身の言葉とは異なり、一貫して米国と歩調を合わせることなく、台湾断交に向かって突き進んだ。その結果、台湾が中国に攻撃された場合の問題は未解決のまま残され、日米安保体制は大きな矛盾を抱え続けることになった。

 73年8月1日の日米首脳会談に関するホワイトハウスの会議録には「最重要の課題を最少の準備で持ち出すのは田中首相の性癖である」と記載された。

 同8月3日に開かれた大統領外交情報諮問委員会でキッシンジャーは日本について「彼らは何でもリークする」「付き合うのが難しい」「狭量で冷血だ」「生き残るために周囲に同調できる」と評した。

 74年1月6日、電話の中で、キッシンジャーは国務省幹部に、田中の言動への不満をぶつけ、「気が狂っている」と吐き捨てるように言った。

 同11月11日朝、現職大統領として初めての訪日を控えたフォードにキッシンジャーは念押しした。

「彼らは、あなたがしゃべったことをすべてリークするだろうということを覚えておかねばなりません。あなたがしゃべっていないこともたくさんリークするのです!」

 同16日、ホワイトハウスの大統領執務室で、キッシンジャーはフォードに日本の危険性を語った。

「日本は大変な脅威です。歴史上、彼らが恒久的な同盟を持ったことは一度もありません。日本人は何でも受け入れます。何にでも適合できる異常な社会です。彼らの社会の基礎的な構造はいかなる体制にも順応できます。もし我々が大国としての地位を失えば、我々は日本も失うでしょう」

 同18日、フォードは米国の現職大統領として史上初めて日本の土を踏んだ。キッシンジャーはこれに同行した。翌19日に東京で大平に会うと、キッシンジャーは「もしあなたが田中の後任になるのなら、私は必ずしも悲嘆に暮れませんよ」と言った。(敬称略)

※週刊朝日 2016年8月5日号より抜粋

864名無しさん:2016/07/31(日) 15:07:54
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160728-00068696-playboyz-ent
田中角栄より“所得倍増計画”の池田勇人が漫画的に面白いワケ
週プレNEWS 7月28日(木)6時0分配信

先の参院選挙に続き、都知事選真っ只中ーー選挙権は18歳に引き下げられ、憲法改正論議に沖縄問題、原発再稼働の是非、そして若者らによるデモ…。

今また政治に注目が集まっている中、漫画『疾風の勇人』(モーニング連載中)が話題になっている!

戦後の日本復興から政治に関わり、GNP(国民総生産)を13兆円から26兆円まで倍増させる経済政策〝所得倍増計画〟をぶち上げ、中小企業や農業の近代化、地方の国土開発などを実施し、日本を経済大国に導いた池田勇人(はやと)内閣総理大臣の物語だ。

なぜこの時代にその人物を題材として選んだのか? 「池田勇人を主人公にした戦後政治モノをやりたい」と自ら担当編集者に提案したという作者・大和田秀樹先生に発想の動機や池田勇人の魅力を聞いた!

―ちょうど田中角栄ブームもきてますが、彼を描こうとは思わなかったんですか?

大和田 迷いましたよ(笑)。小学校までしか卒業していないのに総理大臣になる人生はめちゃくちゃ漫画になりやすいですからね。企画が立ち上がった頃は田中角栄語録ブームの前でしたけど。

ただ、角栄さんって総理になる前と辞めた後の闇将軍時代が輝いていて、総理大臣時代はたいしたことを手がけていない。語録的なものには向いていると思いますが、これは少年漫画っぽくないなぁと候補から外しました。

―池田勇人なら、少年漫画っぽくなれると?

大和田 ええ、〝おっさん向け〟の少年漫画という感じの構図がすぐ浮かびましたね。大学入試では東大を落ちて、病気(落葉状天疱瘡)で大蔵省を退職してエリートコースからも落ちこぼれて、最初の奥さんを病気で亡くした…そんな男が総理大臣になる。資料を読み進めるほど、池田勇人の人生が面白いと思ったんですよ。

それに、他には特別に有名になった映像や漫画の作品もなく、名前を知っているけど具体的には何をしたのか、いつ頃の政治家だったのか人の記憶に曖昧(あいまい)な存在だったのも良いかなと思いまして(笑)。



―単行本1巻の帯に書いてある名前は、戦後の混乱期の日本復興の礎(いしずえ)を築いた吉田茂、非核三原則の提唱や沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作、敗戦後GHQとの折衝にあたった白洲次郎、答弁の際に前置きする「あー」「うー」が流行語になった内閣総理大臣の大平正芳、そして名言集も話題の田中角栄…その中で主人公が最も知名度が低そうですからね(笑)。それでも、人物像を掘り下げていけばその成り上がり感が面白く、また田中角栄と違って清々しいと。

大和田 ドラマティックな人生の物語は読んでいる人も気持ち良くなれますから。角栄さんは王様になった後、ロッキード事件(米・ロッキード社からの旅客機導入における汚職事件)などをやらかしていますから感情移入もしにくいですよ。

―この時代でいえば、他に吉田茂も歴史に残る迷言があったり小説や映画にもなってますが、池田勇人のドラマティックさには敵(かな)わない?

大和田 スンナリ入ってこなかったですね。元々が貴族的な雰囲気なので、あまり共感できないというか。ただ、この時代を取り上げるキッカケにはなりましたよ。「バカヤロー解散」(※)なんて、言葉の響きが面白いですよね。資料を読みながら、オッと思ったんです。
(※)1953年3月の衆議院解散の俗称。同年2月の衆議院予算委員会の質疑応答中に「バカヤロー」と発言したことがキッカケになった。

―そもそも、なぜその時代の資料を読んでいたんですか?

大和田 前作の『ムダツモ無き改革』(近代麻雀コミックス)のためです。

―小泉ジュンイチロー首相やタイゾー、パパ・ブッシュや金将軍、さらにアドルフ・ヒトラーが月面に〝新たなるドイツ〟を建国する等々、実在の人物によく似た政治家キャラが時代を問わずに登場するギャグ麻雀漫画ですね!

大和田 これを描いていた時に第2次大戦を調べたんですが、そうすると必然的に戦後について知ることになる。

―確かに第2次大戦の頃の政治家も多く登場していましたよね。

大和田 そこで、戦後をあまり知らなかったことに気付いたんです。僕らの時代は日本史の授業ではサラッとだけしかやらなかったですからね。改めて本を読んでみたら、その面白さに興味を持ったんです。

865名無しさん:2016/07/31(日) 15:08:10
>>864

―『疾風の勇人』を描くにあたっては、どのような資料を読んだんですか?

大和田 宮澤喜一(大蔵官僚、大蔵大臣などを経て総理大臣に。タレントの宮澤エマの祖父)や大平正芳らの元秘書や番記者の書いた本ですね。辞任後、すぐに亡くなったので池田本人が書いた回顧録は出版されていないんですが、周辺者が書いた本が意外と残っていて。

―漫画の中の池田勇人像はその資料から作り上げたんですね。

大和田 資料を読んだらなんとなく人物像は浮かんで、そのまま描いた感じですね。キャラ作りに苦労をしたわけでも、僕なりの付け加えもほとんどしていません。顔つきをイケメンにしたくらいです。

―実際のお写真よりシュッとして、若い印象はありますね(笑)。

大田和 やっぱり今時はイケメンにしないといけませんから(笑)。そういう意味で影響を受けたのは、渡辺謙さんがドラマで演じた吉田茂です。ムチャクチャ、イケメンだったじゃないですか。似顔絵的なことを考えていたんですが、ドラマを見てこれでいいんだと。他にもスティーブン・スピルバーグ監督の映画『リンカーン』のダニエル・デイ=ルイスも実物よりイケメンでしょ?

―確かにそうですね!

大田和 他にも登場人物のほとんどは当時50歳くらいだけど、スーツをシングルで描くことで若々しい雰囲気を出す工夫をしていますね。

―ストーリーでは独自の解釈を盛り込んだり、推理的なことは入れているんですか?

大和田 オリジナリティは意外と入れてないんです。誇張はしていますけど、基本は〝池田勇人を中心として戦後史をなぞる〟展開をしています。史実通りになぞるだけでも、意外と知らない人が多いというか。

知らないから、戦後史はまだ陰謀論や〝実は○○だった〟などエンターテインメントの創作をしていいところまで到達していないというのはありますね。例えば、戦国時代であれば〝家康が影武者だった〟幕末であれば〝実は沖田総司が女だった〟などエンターテインメントとして成立しますよね。

866名無しさん:2016/07/31(日) 15:08:20
>>865

―史実通りに進んでも面白いのは、戦後の復興から日本が成長している時代だからでしょうか?

大和田 あと景気がいいですよね、この時代は。

―42ヵ月間続いた好景気の岩戸景気(1958年7月〜1961年12月)もありますしね。前作の『ムダツモ無き改革』で現代を描いている先生なら、調べて描き比べて過去の景気の良さや勢いが肌感覚でわかるかと思いますが…。

大和田 そうですね。だって、舛添(要一)さんってトータル数百万円の世界ですよね。『ホテル三日月』に泊まった、泊まらないって…角栄さんと比べると、みみっちいなぁと(笑)。

―最近の政治家と比べると、この時代の政治家は総じて魅力的ですかね?

大和田 皆が亡くなって随分と経ったことを考慮しても、今の人よりエネルギッシュでしょうね。国会で「バカヤロー」と言う人も今はいないでしょう。

―そんな元気な時代だから、読むことで読者の活力にもなるように思えますが、先生自身も?

大和田 僕は描いていて、全部が面白いです。池田勇人の失言「中小企業経営者の5人や10人、自殺してもかまわぬ」(※1)や昭和電工事件(※2)など名前だけ知っていた歴史上の事件を〝コレはこういう事件だった〟と描くと満足感がありますね。

※1)朝鮮戦争の特需が後退して中小企業の倒産が続いていたころ、通産大臣だった池田の衆院本会議(1952年)での発言「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」を、新聞が言葉尻を捉えて報道した。

※2)1948年に起きた贈収賄汚職事件。復興金融金庫から融資を引き出すために、昭和電工の日野原節三社長が政府高官や政府金融機関幹部に対して収賄し、GHQ高官らも失脚した。

―そんな史実のホントも含めて、今後の展開も気になるところですが…。

大和田 まだまだ歴史上のスーパースターや、戦後の日本復興と高度成長期に関わる(アメリカ大統領の)ケネディ、アイゼンハワー、ニクソンなども登場して、おなじみの歴史上の話も出てきます。

―連載中のエピソードでは池田勇人はまだ通産大臣ですが、池田内閣も発足して…続きますね!

大和田 それはもう読者様の反応次第で…僕はどこまでも描きたいんですけど、厳しい世界でシビアに切られる時もありますから(笑)。

(取材・文/渡邉裕美 撮影/松井秀樹)

■大和田秀樹(おおわだ・ひでき)
マンガ家。98年、『たのしい甲子園』(角川書店)でデビュー。代表作は『ムダツモ無き改革』(竹書房)、『機動戦士ガンダムさん』(角川書店、連載中)。『週刊モーニング』で連載中の『疾風の勇人』(講談社)、第2巻は8月23日発売予定。

867名無しさん:2016/07/31(日) 18:59:23
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49263
2016年07月31日(日) 魚住 昭
昭和の妖怪・岸信介は「アヘン密売」で絶大な権力を得た!? 今さら聞けない「満州国の裏面史」

アヘンがあってこその満州国

アカデミズムの世界で広くその名を知られる京大人文科学研究所の山室信一教授は、私の高校時代のクラスメートだ。

といっても彼は飛び切りの秀才。私は部活が命の体育会系だったから、一緒に遊んだ記憶はない。私が今もかすかに覚えているのは、小柄なわりに頭が大きくて、生真面目な顔をした山室君の学生服姿である。

その山室君の労作『キメラ―満洲国の肖像 増補版』(中公新書)を読んだ。23年前に初版が出たとき、ずいぶん話題になったから、すでに読まれた方も多いにちがいない。

今ごろになって言うのも失礼だが、一読三嘆。中国東北部の大地に忽然と現れて消えた幻の国の本質に迫った傑作だった。

私は半世紀前の熊本でこんな立派な仕事をすることになる人と机を並べていた。と思うだけでちょっぴり誇らしくなった。

本の中には最近、私が追いかけている「昭和の妖怪」岸信介も登場する。とくに興味深かったのは、増補版で新たに加筆された「補章」の記述だった。

山室教授は、満州国政府で岸の忠実な部下だった古海忠之(前回登場したアヘン取引の責任者である)の言葉を引きながら、こう述べている。

〈総務庁次長を務めた古海忠之は、「満洲国というのは、関東軍の機密費作りの巨大な装置だった」とみていますが、満洲国のみならず、陸軍がアジア各地で広汎な活動ができたのも、満洲国が吸い上げる資金をつぎ込めたからだともいわれています。基本的な資金源はアヘンでした〉

山室教授によると、アヘンは満州国の財政を支えただけでなく、機密費の主な資金源になった。そのため満州や蒙古各地でケシを栽培させたほか、ペルシャなどから密輸した大量のアヘンを満州国に流し込んだという。

それが莫大な利益を生み、軍の謀略資金になった。関東大震災(1923年)直後、無政府主義者の大杉栄ら3人を殺したとされる元憲兵大尉・甘粕正彦が、満州で「影の皇帝」といわれるほどの権勢をふるったのもそうした裏金があったからだと指摘して教授はこう語る。

868名無しさん:2016/07/31(日) 18:59:43
>>867

〈甘粕はまた中国人労働者を満洲に雇い入れる斡旋事業においても、裏金をつくり出していました。岸信介にしても一介の官僚でありながら、甘粕の特務工作に対してその当時の額面で一〇〇〇万円(卸売物価の上昇率からみて現在の八〇億〜九〇億円にも相当します)を手渡したりしています〉

ただし、甘粕はこれらの資金を着服したりはせず、満州国から華北や蒙疆へ日本が進攻していくための特務工作に使用したといわれている。だから〈満洲国はそうした「第二の満洲国」造り工作の策源地であり、資金源であったということになります〉と教授は解説する。

なるほど、そう考えると、関東軍が陸軍中央の統制を無視して暴走を繰り返した理由も分かってくる。彼らは満州でアヘンという打ち出の小づちを手に入れた。だから中央の顔色をうかがう必要がなかったのだ。

それにしても、岸から甘粕に渡されたという1000万円は眉に唾をつけたくなるほど巨額のカネである。ホントだろうか。

山室教授が根拠にしているのは、戦後になってからの古海の証言だ。その全容は『新版 昭和の妖怪 岸信介』(岩見隆夫著・朝日ソノラマ刊)に収録されているのでご紹介しておく。

あの男から取ってきてやる

古海によると、岸が満州国政府の高官だった1930(昭和5)年代後半、岸と甘粕を中心に古海らを加えて約10人が会を作っていた。会の名はなかったが、そこでアジア政策をどうするか、日本での情宣活動はどうあるべきかが話し合われた。

会は単なる懇談に止まらず、具体的な行動もとった。日本内地の新聞の乗っ取りを企てたり、甘粕による排英工作(=英国勢力をアジアから駆逐する謀略工作)を支援したりした。その意味では会というより一派と呼んだほうがふさわしかった。

古海が言う。

869名無しさん:2016/07/31(日) 19:00:01
>>868

〈甘粕という人はたくさんのカネを持っていたが、使う方もバカ大きくて、そういう意味では、ケタ外れのスケールをもっていましたね。大量の工作資金を必要とするのに、甘粕は決して自分で資金づくりをしない。そのため、随分私どもも甘粕のために資金作りをしたものです〉

当初、甘粕には満州国総務庁の機密費を支出していた。ところが、1937(昭和12)年に大蔵省出身の星野直樹が総務長官になって「機密費の流用はまかりならん」ということになり、甘粕は資金の調達に困ってしまった。そのため甘粕から頼まれた古海が岸に取り次いだ。

「甘粕が困っている。1000万円必要だといっている」

古海が言うと、岸が答えた。

「何か担保はないか」

「鉱山の採掘権を持っている」

「そうか。採掘権さえあれば大丈夫だ。それくらいはたいしたことではない。いままで一度も鮎川から搾ったことがないから、あの男から取ってきてやる」

岸はあっさり資金調達を引き受けた。鮎川とは新興財閥・日産コンツェルンの総帥・鮎川義介(岸の縁戚)のことだ。日産は1937年末、岸らの誘致で本社を満州の新京(現・長春)に移転し、社名を満州重工業開発に変更した。古海が言う。

〈岸さんは鮎川に甘粕の採掘権を一千万円で売りつけたわけです。甘粕は満州建国の功労で関東軍からあちこちの鉱山の採掘権をもらっていたのです。その後、鮎川は岸さんの斡旋で甘粕にカネを出し続けていました〉

額が真実かどうかはともかく岸は膨大なカネを自由に動かしたようだ。『岸信介-権勢の政治家-』(岩波新書)の著者・原彬久東京国際大学名誉教授は〈岸は同僚官吏はもとより、民間人、それもいわゆる満州浪人、無頼漢に至るまで彼のそばに来るものには惜しげもなくカネを与えたといわれる〉と記している。

私が気になるのは、岸の豊富な資金がアヘンの密売によって作られたものだったのかだ。その謎に迫るには、上海の「阿片王」里見甫の証言に耳を傾けなければならない。

『週刊現代』2016年8月6日号より

870とはずがたり:2016/08/04(木) 20:55:40
この辺迄は対等にやり合ってたんですなぁ。。

アメリカ本土空襲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

ドーリットル空襲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AB%E7%A9%BA%E8%A5%B2

871名無しさん:2016/08/06(土) 17:00:26
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080300614&amp;g=pol
元慰安婦支援財団の解体要求=少女像撤去に反対-韓国野党

 【ソウル時事】日韓合意に基づいて元慰安婦への支援などを行う韓国の「和解・癒やし財団」が発足し、日本からの10億円の拠出時期が焦点となる中、韓国の野党は合意や財団への批判を強めている。財団の解体などを要求するとともに、日本大使館前の少女像撤去に反対する立場も、一層鮮明にしている。
 最大野党「共に民主党」は、3日までに出した声明で「日本政府は財団発足直後から、10億円に関し『賠償金ではない』という立場を示し、『少女像撤去が合意の重要な要素だ』と主張するなど、本音をあらわにし始めた」と指摘。「韓国政府は、10億円拠出と少女像撤去を関連付けようとする日本側の主張を絶対受け入れてはならない」と訴えた。
 さらに「日本側は10億円を『賠償』ではなく『未来への投資』に使いたいと望んでいる」という見方を示し、「財団の本来の目的や趣旨は失われており、存廃を検討すべきだ」と主張した。 
 第2野党「国民の党」も、3日の声明で「財団の設立は、運営に必要な10億円がいつ拠出されるのかも分からないまま強行された」と非難。少女像の撤去が10億円拠出の「必須条件」となっていると主張した上で、「少女像はいかなる歴史教科書よりも『正しい歴史』を語る象徴であり、どんな理由であれ撤去することはできない」と強調した。(2016/08/03-16:05)

872名無しさん:2016/08/06(土) 17:03:37
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080600193&amp;g=pol
10億円使途、文書で確認へ=元慰安婦支援で調整難航も

 日本政府は、昨年末の韓国との合意に基づき拠出する元慰安婦支援の10億円について、具体的な使途を確認する公式な文書を韓国側と交わす調整に入った。元慰安婦には現金支給への期待が高いが、日本側では「第2の賠償金」と受け取られかねないとして慎重論が強い。日本政府としては使途をあらかじめ限定することで、請求権問題は「解決済み」との立場を明確にしたい考えだ。
 日韓合意に基づき、韓国では7月28日、元慰安婦を支援する「和解・癒やし財団」が発足。日本政府は今後、「元慰安婦の心の傷を癒やす措置」として10億円を拠出する。ただ、具体的な使途に関しては、従来堅持してきた法的立場から注文を付けざるを得ない状況だ。
 日本側では、財団が10億円を元手に元慰安婦や遺族に現金を支給した場合、賠償請求権をめぐる問題は1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決済み」としてきた政府の立場に矛盾しかねないとの懸念が強い。自民党からは、強制労働を強いられた韓国人徴用工の賠償請求訴訟などへの波及を懸念する声も上がっている。
 このため、日本政府としては10億円の拠出に合わせ、日本側の法的立場を損ねない形で具体的な使途を列挙し、確認する文書を韓国政府と交わしたい考え。併せて、確認事項を徹底するよう財団への指導を求める方針だ。
 両政府は近くソウルで外務省局長級協議を開き、財団の事業内容に関する詰めを急ぐ。日本政府は元慰安婦や遺族に対する直接の現金支給でなく、10億円を原資とした医療・福祉支援などで理解を得たい考え。ただ、韓国政府の説得で日韓合意を受け入れた元慰安婦の多くは現金支給の形を希望しており、韓国側がこうした立場に固執すれば、調整が難航する可能性もある。(2016/08/06-15:12)

873名無しさん:2016/08/06(土) 19:50:38
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080200369&amp;g=pol
財団への拠出に慎重論も=自民部会

 自民党は2日、党本部で外交部会などの合同会議を開き、昨年末の日韓合意に基づく元慰安婦支援の財団設立について議論した。出席議員からは、財団への10億円拠出に関し、7月下旬に韓国の野党議員が日韓が領有権を主張する島根県竹島に上陸したことなどに触れ、「今の状態では出すべきではない」と慎重な対応を求める意見も出た。(2016/08/02-11:43)

874名無しさん:2016/08/07(日) 14:45:00
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080500394&amp;g=pol
靖国参拝「稲田氏は適切対応を」=岸田外相

 岸田文雄外相は5日の記者会見で、稲田朋美防衛相が15日に靖国神社を参拝するかどうかについて、「内閣の一員として適切に対応されるものと考える」と述べた。中国や韓国との関係悪化を招かないよう稲田氏に参拝見送りを促す発言とみられる。
 稲田氏は行政改革担当相として2013、14両年の8月15日に参拝している。 (2016/08/05-12:02)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080500906&amp;g=pol
稲田防衛相に「強く憤慨」=「百人斬り」否定発言を批判-中国

 【北京時事】中国国防省新聞局は5日、日中戦争の南京攻略戦で行われたと報じられた日本兵による中国兵の「百人斬り」競争を稲田朋美防衛相が否定したことについて「強烈に憤慨させられる」と批判する論評を発表した。

 稲田防衛相は4日のインタビューで「百人斬り」に関し、「なかったと思っている」と語った。論評はこの発言に対する見解を問う記者の質問に答える形で、「日本軍は理性のかけらもない『殺人競争』を行った」と主張。「歴史を否定すれば、中日関係に未来はない」と強調した。 (2016/08/05-20:59)

875とはずがたり:2016/08/13(土) 08:50:17
岸信介とアヘン王の関係を追う〜密売で儲けた「数兆円」はどこに消えた?
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160807-00049375-gendaibiz-soci
現代ビジネス 8月7日(日)13時1分配信

上海の「阿片王」といわれた里見甫…は戦後の1965(昭和40)年、69歳で亡くなった。われらが先達、草柳大蔵は『実録・満鉄調査部』(朝日新聞社刊)で里見をこう描いている。

 〈五尺五寸ほどの痩せた男である。頭の頂天が尖っていることのほかは、何の変哲もない風貌をしている。むしろ柔和である。路傍の地蔵尊や野際の石小法師の前をとおるときは、必ず足を停めて掌をあわせる。物静かな語り口であり、周囲の人が「どうして生きているのか」と訝るほど食事を摂らない〉

 さすが草柳である。里見の人間像が眼前に浮かぶ。里見はアヘンで中国に途方もない害毒を垂れ流したが、彼自身は私利私欲とは縁遠い、恬淡とした男だったらしい。

 草柳によれば、里見は上海・虹口の乍浦路に面したピアス・アパート3階に住んでいた。6畳と3畳の二間しかない家で、秘書はおかず、「おちかさん」という身の回りの世話をする女性が通いで来ていた。

 乗用車はビュイックの中古車で、しばしば藍衣社(=蒋介石直属の秘密結社)の狙撃の的になったが、運の強い男で、かすり傷ひとつ負わなかったそうだ。

里見と岸の関係
 里見と岸の間にはいったいどんな交流があったのだろう。岸は戦後になって『岸信介の回想』(矢次一夫・伊藤隆との鼎談・文藝春秋刊)でアヘンについてこう語っている。

 〈満州国ではアヘンの吸飲は厳重に禁止したけれど、陰で吸っているのはいたでしょう。(中略)いずれにせよ満州ではアヘンを禁止し、生産もさせないし、吸飲もさせなかった〉

 読者はすでにおわかりと思うが、この発言は著しく事実に反する。満州国は表面上はアヘン根絶を目標に掲げたが、熱河地方ではケシの栽培を奨励した。それでも足りない分は華北などから輸入し、アヘンの専売で莫大な利益をあげていた。

 岸がつづけて語る。

 〈しかしアヘンを扱ったものとして里見という男のことは知っています。ただ私が満州にいた頃は里見は上海で相当アヘンの問題にタッチしていて、金も手に入れたのでしょうが、満州には来ていないから私は知らない。里見を知ったのは帰国後で、満映にいた茂木久平の紹介です。里見が死んで墓碑に字を書いたことがあるけれど、これも茂木に頼まれたからですね〉

 茂木久平とは、満州の「夜の帝王」甘粕正彦が理事長をつとめる満州映画協会の東京支社長だった男である。どうやら岸は、里見とはそんなに深い関係ではなかったと言いたいらしい。

 たしかに岸と里見の直接的な交流を示すデータはほとんどない。唯一、佐野眞一さんの『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社刊)に、戦後、里見の秘書役をつとめた男の証言が出てくる。

 岸は満州から帰国後の1942(昭和17)年、翼賛選挙に立候補して当選した。秘書役によれば、このとき里見は、岸に200万円(現在の約16億円相当)を提供した。「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の佐藤栄作(後に首相)が運び屋になって岸に渡したんだ。これは里見自身から聞いた話だから間違いない」という。

 しかし、これは残念ながらまた聞きである。真偽の判断はつかない。それより東京裁判に提出された里見の宣誓口述書を読んだほうが、戦時中の岸と里見の関係のバックグラウンドを知る手掛かりになりそうだ。

 〈私即ち李鳴(=里見の中国名)事里見甫は良心にかけて次のことが真実である事を誓ひます。

 1937年9月又は10月私は新聞記者として上海に参りました。私はそれ以前天津に居つたのであります。

 1938年1月又は2月に楠本実隆中佐が私に特務部(=支那派遣軍参謀部の一部)のために多量の阿片を売つて呉れるかどうか尋ねました。彼は此の阿片がペルシヤから来る途中にあると云ひました〉

 里見はこの後、ペルシャ産アヘンで得た利益は約2000万ドル(現在の日本円で数兆円相当)に上ること、その利益は特務部(後に廃止)がある間は特務部に、それがなくなってからは興亜院(占領地の政務・開発にあたる日本の機関)に支払われたこと、1939年の末ごろには蒙古産アヘンも販売し、その大部分は中華航空機で運ばれてきたことなどを語っている。

 問題は興亜院などに送られた金がその後、どこに行ったのかだ。里見は知っているはずだが口をつぐんでいる。私はいろんな文献にあたるうち、『阿片吸煙禁止処理経過事情』という文書に突き当たった。宣誓口述書と同じく東京裁判の検察側証拠として提出されたものだ。

 そこには〈売上金ノ大部分ハ東条内閣ノ補助資金、及議員ヘノ補助金ニ割当テラレル為東京ニ送ラレタ〉という衝撃的な記述があった。以下次号。

『週刊現代』2016年8月13日号より

876名無しさん:2016/08/13(土) 12:25:07
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081100315&amp;g=pol
元慰安婦支援「相当な進展」=近く協議結果発表-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は11日、ソウルで9日に行われた日韓局長級協議で、元慰安婦支援のための「和解・癒やし財団」の事業や、日本からの10億円の拠出問題に関し「相当な進展があった」と強調、「極めて近いうちに関連内容を説明する機会があるだろう」と語った。別の韓国外務省当局者は「来週中には発表されるだろう」という見通しを示した。 
 報道官は「協議の具体的内容について、上部への報告手続きが進められているところだ」と説明、詳細には言及しなかった。
 日本からの拠出に関しては「財団の事業の円滑な実施に支障を来さない時期に行われると考えている」と述べた。(2016/08/11-16:04)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200856&amp;g=pol
合意履行へ「緊密に協力」=財団、理事会で活動具体化へ-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は12日夜、日韓外相の電話会談に関して声明を出し、岸田文雄外相が慰安婦問題をめぐる合意に基づき、韓国の「和解・癒やし財団」に対し「10億円を迅速に拠出することを決めたと述べた」と発表した。また、「両外相は、合意の忠実な履行を通じ、一日も早く被害者の名誉と尊厳回復、心の傷の癒やしを実現することが重要だと再確認した」と説明。「緊密に協力していくことにした」と強調した。
 当初発表された声明は「少女像撤去に向けた努力」や「10億円の使途についての合意」には触れていなかった。ただ、韓国外務省は追加資料で「少女像問題に関し、日本側が関心を表明し、わが方は基本的立場に沿って対応した」と明らかにした。「基本的立場」については「昨年12月の合意発表時に表明した」と説明、解決に向けた努力を約束したとみられる。
 財団の事業の具体的内容に関しては「今後、財団で決定する予定で、決まっていない」と述べるにとどめた。日韓政府の発表を受け、財団の金兌玄理事長は「理事会を来週、開催する予定だ」と明らかにした。元慰安婦支援策の具体化に向けて協議するとみられる。 (2016/08/12-21:51)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200872&amp;g=pol
10億円拠出、見切り発車=少女像撤去は見通せず

 日本政府が元慰安婦を支援する韓国の「和解・癒やし財団」に10億円を拠出することになり、昨年末の日韓合意に基づく支援事業は実行段階に入る。ただ、韓国が「解決に努力する」と約束した、慰安婦問題を象徴するソウルの日本大使館前の少女像が撤去される見通しは立っていない。早期に事業を具体化したい韓国政府に配慮した「見切り発車」とも言える。
 「日本側の責務はこの10億円の支出によって果たしたことになる」。岸田文雄外相は12日夜、記者団にこう強調。自民党内などに10億円拠出の前提とすべきだとの声が強かった少女像撤去に関しては、「韓国政府が適切に対応する」と述べるにとどめた。
 日本政府が10億円の先行拠出を決めたのは、「少女像を今持ち出せば、韓国の反対論が強まって合意が宙に浮く」(外務省幹部)との懸念があるからだ。韓国では日韓合意に反対する団体が元慰安婦を独自に支援する動きを見せており、少女像に敏感な韓国世論に火を付けることになれば、元慰安婦一人一人に理解を求めてきた韓国政府の努力が水泡に帰しかねない。
 10億円を元手にした元慰安婦や遺族に対する財団を通じての支援について、日本側に慎重論があった現金支給が認められる見通しだ。1965年の日韓請求権協定で全ての賠償問題は「解決済み」としてきた日本の立場と矛盾しかねない現金支給には、「第2の賠償」との懸念があったが、「医療・介護目的」に限定することで日本側が折れた。
 韓国外務省は12日夜発表したコメントで、日韓合意を「忠実に履行していく」と強調したが、少女像には言及しなかった。一方、日本政府関係者は「朴槿恵大統領を信じるしかない」と述べた。元慰安婦への支援事業が動きだす中、少女像撤去は日韓間の重い課題として持ち越された。(2016/08/12-21:24)

877名無しさん:2016/08/13(土) 12:25:38
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200464&amp;g=pol
元慰安婦の医療・介護支援=日韓、10億円使途で合意

 岸田文雄外相は12日、韓国の尹炳世外相と電話会談し、元慰安婦を支援するため日本側が拠出する10億円の使途について、医療や介護目的などとすることで合意した。岸田氏は「速やかに10億円を支出すべく、必要な手続きを進める」と伝達。昨年末の慰安婦問題をめぐる日韓合意は、大きく前進した。一方、ソウルの日本大使館前の慰安婦少女像の移転については、韓国側が引き続き努力することを確認した。
 10億円の使途が決まったことについて、岸田氏は電話会談後、記者団に「支出が完了すれば、合意に基づく日本側の責務は果たしたことになる」と語った。日本側は、月内の資金拠出を目指し調整を進めるとともに、少女像移転について、韓国に前向きな対応を促していく考えだ。
 韓国外務省は「両外相は、一日も早い被害者の名誉と尊厳回復、心の傷の癒やしが実現することが重要だと再確認した」との声明を発表した。
 元慰安婦への支援は、韓国側が7月に設立した「和解・癒やし財団」を通じて実施する。使途が特定されているものに限り、元慰安婦やその家族に一定額を支給する。現金での支給も想定している。
 ただ、現金給付に対しては自民党の保守系議員を中心に「賠償金と受け取られる」などと異論が残る。これに関して岸田氏は「事業を行うための支出という性格は明らかで、請求権の問題は法的に解決済みであるとの立場に変わりはない」と強調した。
 慰安婦問題は日韓間の長年の懸案だったが、昨年末に両国政府が「最終かつ不可逆的な解決」を目指すことで合意。日本側が撤去を要求している少女像について、韓国側は「関連団体との協議を通じて適切に解決されるよう努力する」こととなっているが、元慰安婦の支援団体が強く反対している。 

◇日韓合意後の動き
【2015年】
12月28日 日韓外相が会談し、慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決で合意
【16年】
 3月31日 ワシントンで安倍晋三首相と韓国の朴槿恵大統領が会談。合意の着実な履行を確認
 4月13日 韓国総選挙で与党が過半数割れ
 5月31日 日韓合意に基づく元慰安婦支援のための財団準備委員会が発足
 7月10日 参院選で与党勝利
     同 元慰安婦1人が死去。生存者は40人に
   15日 ウランバートルで安倍首相と朴大統領が合意の誠実な履行を確認
   28日 元慰安婦を支援する「和解・癒やし財団」発足
  8月9日 ソウルで日韓局長級協議
   12日 日韓外相が電話会談し、財団への拠出金の使途を医療、介護目的とすることで合意(2016/08/12-21:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200869&amp;g=pol
岸田外相発言要旨=日韓合意

 日韓合意に関する岸田文雄外相の発言要旨は次の通り。
 これまでの日韓局長協議や12日の(尹炳世韓国外相との)電話会談を通じて、財団の事業の内容について大筋で合意に至った。韓国政府が今後も日韓合意を誠実に実施していくことを改めて確認できた。日本政府としても、昨年末の日韓合意にある通り、速やかに10億円の資金を支出すべく必要な手続きを進める考えだと伝えた。
 10億円に基づき、財団が元慰安婦の方々のための事業を実施する。具体的には、財団が元慰安婦の方々やその家族からニーズを調査した上で、日韓両政府が合意する使途の範囲内で、資金が支出される。われわれは医療や介護関係という使途を想定している。
 日本政府による資金の支出が完了すれば、日韓合意に基づく日本側の責務は果たしたことになる。韓国側には合意に基づき少女像の問題の適切な解決のための努力を強く求めてきており、日韓合意の着実な実施を求め続けていく。
 -少女像の撤去は。
 韓国政府が日韓合意を誠実に実施していくと確信している。尹外相から「日韓合意を誠実に実施していく」という発言もあった。こうした考え方に基づいて、韓国側が適切に対応されるものだと考えている。
 -財団の事業内容は。
 大筋合意に至っているが詳細を引き続き事務レベルで詰めていく。
 -拠出金の渡し方は。
 10億円は元慰安婦の方々のための事業を行う支出だ。この点において合意している。
 -日韓請求権協定に基づいて賠償金ではないと確認したか。
 10億円は事業を行うための支出だ。この性格は明らかだ。慰安婦問題に関する請求権の問題は法的に解決済みだという立場は全く変わりない。(2016/08/12-21:13)

878名無しさん:2016/08/13(土) 12:25:58
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200764&amp;g=pol
慰安婦少女像

 慰安婦少女像 元慰安婦を支援する「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」が2011年12月、慰安婦問題の象徴としてソウルの日本大使館前に設置した像。日本政府は、外国公館の品位維持を定めたウィーン条約に反するとして撤去を求めている。15年12月の日韓合意では、「韓国政府は関連団体との協議を通じて適切に解決されるよう努力する」とされた。記念館や公園を新設して移設する案が検討されているが、挺対協は強く反発している。(2016/08/12-18:20)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200763&amp;g=pol
韓国政府、独自に実施=元慰安婦への支援事業

 【ソウル時事】元慰安婦に対する支援事業は韓国政府も独自に取り組んできた。事業は元慰安婦への支援金支給のほか、介護費や生活面での活動費支援など多岐にわたる。
 韓国政府は元慰安婦として238人を登録。だが、2002年に134人いた元慰安婦は現在、40人(国外居住が2人)にまで減少した。年齢も84〜100歳と高齢となり、病気を抱える元慰安婦も少なくない。
 女性家族省は登録した元慰安婦に対し、「生活安定支援金」として1人当たり毎月126万ウォン(約12万円)を支給。これとは別に登録後、一時金として4300万ウォン(約400万円)も支給している。事業は1993年に開始。毎月の支給額は年々増加傾向にあり、一時金も98年に500万ウォンから今の支給額に拡大した。
 体の不自由な元慰安婦の介護支援もある。元慰安婦を通じ、介護する側に「看病費」が支払われ、年間で最大1600万ウォンが手当てされる。介護支援の予算は06年の開始時から2倍以上に増加し、今年は4億4300万ウォンに達した。
 さらに、元慰安婦への医療支援や住宅改修費用などを手当てする「治療事業」も行われている。昨年の予算額は2億8500万ウォンで、病院などに支払われた。 
 10億円の拠出先となる元慰安婦支援の「和解・癒やし財団」の金兌玄理事長は7月、財団発足後の記者会見で「(元慰安婦の)37人に直接会った。人によって使途は違う」と話した。政府の支援事業との違いをどう出すか、財団側の事業の進め方が今後の鍵となる。(2016/08/12-18:20)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081300162&amp;g=pol
「少女像と関係なく拠出」=元慰安婦支援の10億円-韓国紙

 【ソウル時事】13日付の韓国紙は、日韓外相の電話会談で元慰安婦支援財団への10億円の拠出が決まったことについて「日本、少女像と関連付けず」(中央日報)、「少女像と関係なく10億円拠出」(朝鮮日報)などと報じた。
 中央日報は「これにより、昨年12月の合意を受けた政府レベルの後続協議は大枠で終了した。財団は本格的な活動に入れる」と伝えた。ただ、朝鮮日報は、日本側が10億円の使途に関し「医療や介護」を挙げているのに対し、韓国側は「決まっていない」と説明していると指摘した。
 京郷新聞は、朴槿恵大統領が植民地支配からの解放記念日(光復節)に当たる15日の演説で「慰安婦問題をめぐる合意が履行されたと強調し、『新たな次元の韓日関係』に言及するとみられる」と展望。一方で「国内的には合意への批判が強く、混乱が続くとみられる」と予測した。 (2016/08/13-09:03)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081300077&amp;g=pol
「和解と癒やし示す」=日韓合意を評価-米国務省

 【ワシントン時事】米国務省報道担当者は12日、声明を出し、旧日本軍の元従軍慰安婦を支援するため日本側が拠出する10億円の使途で韓国と合意したことについて「これらの重要な措置は、2015年末の日韓合意で具体化された和解と癒やしへの取り組みを示している」と評価した。
 声明は、韓国が7月に設立した「和解・癒やし財団」に日本の資金が拠出されるという発表を「歓迎する」と表明。ただ、日韓の今後の行動については「両政府に聞いてほしい」と述べるにとどめた。 
 米政府は歴史問題をめぐる一連の日韓対立を受けて、オバマ大統領が14年3月に安倍晋三首相、朴槿恵・韓国大統領との日米韓首脳会談を主導するなど同盟国の日韓両国の和解に尽力していた。(2016/08/13-06:03)

879名無しさん:2016/08/13(土) 12:35:58
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081100551&amp;g=pol
安倍首相、15日の靖国参拝見送り=4年連続、玉串料奉納へ

 安倍晋三首相は11日、終戦記念日の15日に合わせた靖国神社参拝を見送る方針を固めた。自民党総裁として、私費で玉串料を奉納する予定だ。関係者が明らかにした。終戦記念日の靖国参拝見送りは4年連続。参拝に反対する中国、韓国両国や、東アジア地域の安定を求める米政府との関係に配慮した。 
 首相は、2012年12月の政権復帰から1年を迎えた13年12月26日に靖国神社を参拝。中韓両国は激しく反発した。13〜15年の終戦記念日は参拝を見送り、いずれも代理人を通じて私費で玉串料を奉納。今年は自民党の西村康稔総裁特別補佐を通じて納める方向だ。(2016/08/11-23:27)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200731&amp;g=pol
稲田氏、終戦記念日に靖国参拝せず=高市総務相は参拝へ

 防衛省は12日、稲田朋美防衛相が13〜16日の日程でアフリカ北東部のジブチを訪問し、自衛隊の派遣部隊を視察すると発表した。これにより、稲田氏は15日の終戦記念日に合わせた靖国神社の参拝を行わない。自衛隊を指揮する防衛相としての立場を勘案した判断とみられ、中韓両国などとの関係悪化はひとまず回避された。
 15日は、安倍晋三首相も4年連続で参拝を見送り、自民党総裁として私費で玉串料を奉納する予定。閣僚では、高市早苗総務相が昨年に続いて参拝する方向だ。
 ジブチには、ソマリア沖アデン湾での海賊対策に当たる自衛隊が活動拠点を置いている。発表に先立ち稲田氏は12日、石川県小松市で記者団に、靖国参拝について「靖国の問題は心の問題であり、安倍内閣の一員として適切に判断したい」と述べた。
 稲田氏は行政改革担当相在任中の2013、14年とも、自民党有志議員による「伝統と創造の会」会長として終戦記念日に靖国神社を参拝。自民党政調会長だった昨年も15日に参拝した。
 こうした経緯から、中国は稲田氏の防衛相就任に関して「日本の防衛政策が右傾化する」と懸念を表明。韓国とともに防衛相としての参拝を警戒していたほか、米政府も東アジア地域の安定確保の観点から慎重な対応を求めていた。このため稲田氏は、15日の参拝を断念し、海外視察を決めたもようだ。 (2016/08/12-20:32)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200227&amp;g=pol
「歴史的事実の尊重を」=閣僚靖国参拝で米国務省

 【ワシントン時事】米国務省のトルドー報道部長は11日の記者会見で、今村雅弘復興相が靖国神社を参拝したことについて「歴史的事実を尊重することが重要だ」と指摘し、慎重に対応すべきだという立場を示した。
 報道部長は、安倍政権の他の閣僚による靖国神社参拝の可能性に関しては「日本政府に問い合わせてほしい」と述べるにとどめた。 
 国務省はこれまで、歴史問題をめぐる日本と中韓両国の対立について「癒やしや和解を促進するようなやり方で歴史問題に臨むことの重要性を引き続き強調する」(トナー副報道官)と繰り返している。(2016/08/12-09:54)

880名無しさん:2016/08/13(土) 21:01:04
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160812/k10010633181000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_006
元慰安婦への支援事業で大筋合意 速やかに10億円拠出へ
8月12日 20時50分
慰安婦問題をめぐって、12日夕方、岸田外務大臣は韓国のユン・ビョンセ(尹炳世)外相と電話で会談し、日本政府が拠出する10億円で賄われる元慰安婦への支援事業について大筋で合意しました。会談のあと、岸田大臣は記者団に対し、資金は医療や介護関係に充てられることを想定しているとしたうえで、速やかな10億円の拠出に向けて手続きに入ることを明らかにしました。
慰安婦問題をめぐる去年12月の日韓両政府の合意に基づき、韓国政府が元慰安婦の女性たちを支援する財団を先月設立したことを受けて、日韓両政府は日本政府が拠出する10億円で賄われる元慰安婦への支援事業の内容について、事務レベルで詰めの調整を続けてきました。
これについて12日夕方、岸田外務大臣はユン・ビョンセ外相と電話で会談し、元慰安婦への支援事業について大筋で合意しました。
会談のあと、岸田大臣は記者団に対し、日本政府が拠出する資金は、医療や介護関係に充てられることを想定しているという考えを示しました。そして、岸田大臣は、速やかな10億円の拠出に向けて手続きに入ることを明らかにしたうえで、資金の拠出にあたって慰安婦問題をめぐる賠償請求権は法的に解決済みだという、これまでの立場に変わりないという認識を改めて示しました。
さらに、資金の拠出が完了すれば、合意に基づく日本側の責務は果たしたことになるという考えを強調しました。
一方、岸田大臣はソウルの日本大使館の前に設置された少女像の撤去について、韓国側に対し、合意に基づいて引き続き適切に対応するよう求めたのに対し、ユン外相は「日韓合意を誠実に履行していく」と述べたということです。
岸田外相 資金支出で責務果たしたことに
岸田大臣は、支援事業の内容について「財団が、元慰安婦の方々や、その家族からニーズを調査したうえで、日韓両政府が合意する使途の範囲内で資金が支出されることになる。われわれとしては、医療や介護関係といった使途を想定している。日本政府による資金の支出が完了すれば、日韓合意に基づく日本側の責務は果たしたことになる」と述べました。
韓国外務省 早く女性たちの名誉回復を
韓国外務省は12日行われた日韓外相の電話会談について、元慰安婦の女性たちを支援する財団に、日本政府が速やかに10億円を拠出することになったと発表し、「一日も早い、元慰安婦の女性たちの名誉回復が重要だと再確認した」とする一方、具体的な支援事業の内容については説明を避けました。
日本の岸田外務大臣と韓国のユン・ビョンセ外相は12日夕方、電話で会談し、慰安婦問題の最終的な解決をめぐって意見を交わしました。
これについて韓国外務省は、元慰安婦の女性たちを支援するために韓国で発足した「和解・癒やし財団」に対し、日本政府が速やかに10億円を拠出するという説明があったと発表しました。そのうえで、「両外相は、合意の忠実な履行を通じて、一日も早く元慰安婦の女性たちの名誉と尊厳の回復、それに心の傷の癒やしが行われることが重要だと再確認した」としています。
これにより、問題の最終的な解決に向けた取り組みが近く始まることになりましたが、韓国外務省は財団がどのような支援事業を行うかについては明らかにしませんでした。
これまで財団の関係者たちは、10億円の大部分を元慰安婦たちやその家族に支給する考えを示してきましたが、日本側が「直接的な支給は賠償だと誤解されかねない」と懸念を示していることに配慮して、10億円の使い方に関する説明を避けたものと見られます。
また、ソウルの日本大使館前の少女像についても、韓国外務省は12日の発表では触れていません。

881名無しさん:2016/08/13(土) 21:01:34
>>880

慰安婦問題 これまでの経緯は
慰安婦問題をめぐっては、日韓国交正常化50年にあたる去年の11月に行われた、安倍総理大臣とパク・クネ(朴槿恵)大統領との初めての首脳会談をきっかけに、解決に向けた流れが加速しました。
そして、去年12月、両首脳の指示を受けて、日本と韓国の外相会談が行われ、慰安婦問題をめぐって、韓国政府が設立する財団に日本政府の予算でおよそ10億円を拠出し、元慰安婦への支援事業を行うことなどで合意するとともに、この問題を「最終的かつ不可逆的に」解決することを確認しました。
これを受けて、韓国政府は、先月28日に元慰安婦の女性たちを支援するための財団「和解・癒やし財団」を設立しました。日本政府は、今月にも10億円を拠出する方針を固め、韓国側との事務レベルの協議で、10億円で賄われる支援事業の内容について調整を進め、今月9日に行われた両国の外務省の局長レベルの協議では、詰めの作業が行われていました。
一方、日韓両政府の合意をめぐっては、韓国では、一部の元慰安婦や市民団体が反発しているほか、日本でも、ソウルの日本大使館前の少女像の速やかな撤去を求める声があがっています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160813/k10010633561000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_003
元慰安婦への支援事業 韓国に少女像の撤去促す方針
8月13日 7時57分
慰安婦問題をめぐり、政府は12日の日韓外相会談を受けて、元慰安婦への支援事業に充てられる10億円を速やかに拠出するため、手続きを進めることにしています。一方で、ソウルの日本大使館の前の少女像の撤去はめどが立っておらず、韓国側の一層の努力を促していく方針です。
慰安婦問題をめぐり、岸田外務大臣は12日、韓国のユン・ビョンセ(尹炳世)外相と電話で会談し、日本側が拠出する10億円で賄われる、元慰安婦への支援事業について大筋で合意しました。
これを受けて、政府は日本側が拠出する資金は、医療や介護関係に充てられることを想定していて、10億円を速やかに拠出するため手続きを進めることにしています。
岸田大臣は12日、記者団に対し、「資金の支出が完了すれば、日韓合意に基づく日本側の責務は果たしたことになる」と強調しました。
一方で、去年12月の日韓合意で、韓国側が「適切に解決されるよう努力する」とされた、ソウルの日本大使館の前の慰安婦を象徴する少女像については、撤去のめどがたっておらず、自民党内などからは不満の声が上がっています。
これに関連して、外務省幹部は「日本は行うべき事は行っており、ボールは韓国側にある」と指摘していて、政府は少女像の撤去に向けて、韓国側の一層の努力を促していく方針です。
韓国の市民団体は少女像移転に応じない姿勢
慰安婦問題の最終的な解決に向け、日本政府が韓国の財団に10億円を拠出すると伝えたのを受けて、韓国政府は元慰安婦たちへの支援を進めることで少女像の問題でも進展をはかりたい考えですが、像を設置した市民団体は移転に応じない姿勢を崩していません。

12日に行われた日韓外相の電話会談で、日本政府は元慰安婦の女性たちを支援するために韓国で発足した「和解・癒やし財団」に速やかに10億円を拠出すると伝え、これにより慰安婦問題の最終的な解決に向けた取り組みが始まることになりました。
一方、日本大使館前の少女像の問題について、12日、韓国外務省の報道官は何も触れませんでした。
韓国政府や財団の関係者たちは、10億円をもとに元慰安婦たちやその家族への支援を進めていくことで、日本との合意に対する韓国国民の理解を高め、少女像を設置した市民団体と話し合う環境を整えたい考えです。
すでに、財団の理事長は生存している元慰安婦の女性40人のうち、これまでに37人と面会し、多くの元慰安婦らが支援を受ける意向を示していると明らかにしており、一定の手応えを感じています。
しかし、少女像を設置した市民団体は依然、日韓の合意に反対していて、像の移転には応じない姿勢を崩しておらず、像の問題が進展するかどうかは韓国の世論の動向が鍵を握りそうです。

882とはずがたり:2016/08/15(月) 21:50:29
“最高のシンクタンク”満鉄調査部の系譜が九州に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160815-00010001-newswitch-bus_all
ニュースイッチ 8月15日(月)8時40分配信

“最高のシンクタンク”満鉄調査部の系譜が九州に
満鉄OBが多く参画した九州経済調査協会は今年設立70年の節目
設立趣意書には「調査の不備と統計の貧困が敗戦を招いた」
 九州経済調査協会(福岡市中央区)が設立70年の節目を迎えた。記念セミナーなどを開催するとともに、30年後の九州のあり方について数年がかりでまとめる。

 初代理事長の松岡瑞雄氏は、旧南満州鉄道の調査部出身。他にも九経調設立には多数の満鉄OBが関わった。満鉄調査部は日本における草分けかつ最高のシンクタンクと称され、満鉄設立の翌年、1907年に産声を上げた。

 帝国主義時代の日本が中国東北部に建国した満州国は、かいらい国家であると同時に先進的な社会実験の場でもあった。その一翼を担った満鉄は調査部や日本の広報活動のルーツとされる「弘報係」を置いた。

 九経調が生まれた1946年は戦後の混乱期。61年の九州経済連合会の発足より15年も早い。こんな時期に、シンクタンクという発想があったのは驚異的ですらある。

 設立趣意書も興味深い。「調査の不備と統計の貧困が敗戦を招いた」として「国民経済の科学的究明による正しい判断」の必要を説き、同時に「九州人が九州を正しく理解すること」が郷土建設の第一歩とする。志の高さを感じさせられる。”シンクタンク冬の時代”といわれて久しいが、こうした過去を思い、未来を展望することには意味がある。

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883名無しさん:2016/08/20(土) 20:27:42
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160815/k10010636281000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_047
靖国神社 首相が私費で玉串料 高市・丸川大臣は参拝
8月15日 14時29分
終戦の日の15日、安倍総理大臣は、自民党の西村総裁特別補佐を通じて、自民党総裁として、靖国神社に私費で玉串料を納めました。一方、安倍内閣の閣僚では、高市総務大臣と丸川オリンピック・パラリンピック担当大臣が午後、靖国神社に参拝しました。
終戦の日の15日、安倍総理大臣は、靖国神社に参拝せず、自民党の西村総裁特別補佐を通じて、「自民党総裁・安倍晋三」として、私費で玉串料を納めました。
西村氏は、記者団に対し「総理からは玉串料を納め、参拝してくるように指示があった」と述べました。
安倍総理大臣は、第2次安倍内閣が発足して1年後となる平成25年12月に靖国神社に参拝しましたが、それ以降は参拝しておらず、終戦の日には毎年、私費で玉串料を納めています。
一方、安倍内閣の閣僚では、高市総務大臣と丸川オリンピック・パラリンピック担当大臣が午後、靖国神社に参拝しました。
参拝を終えたあと、高市大臣は記者団に対し「国策に殉じた方々に尊崇の念を持って感謝の誠をささげた。あわせて戦没者の皆様のみ霊が安らかでありますように、ご遺族の皆様が健康でいらっしゃいますようにとお祈りをした」と述べました。また高市大臣は、記者団が「閣僚の靖国神社参拝に対し、例年、中国や韓国から反発が出ているが」と質問したのに対し、「本来、自国のために殉じられた方々の慰霊の在り方は外交問題になるべきものではないと考えている。世界中の国々が遠い過去までさかのぼって慰霊の在り方や慰霊施設の是非を論じ始めたら大変なことになる」と述べました。
丸川大臣は、記者団に対し「私たちの国を取り巻く状況が緊張感を増している中で、かけがえのない平和を守るために正しい選択ができるようにお守りくださいという気持ちを込めて、平和への誓いを新たにした」と述べました。そのうえで、丸川大臣は「国策に殉じて亡くなられた方たちをどのようにおまつりするかは、その国のやり方があり、外交問題としてとらえるものではない」と述べました。
安倍内閣の閣僚では、このほか、山本農林水産大臣が閣議のあとの記者会見で、今月6日に参拝したことを明らかにしたほか、今村復興大臣が今月11日に、一般の参拝者と変わらない方法で参拝しました。
官房長官「首相が適切に判断する事柄」
菅官房長官は、閣議のあとの記者会見で、安倍総理大臣が靖国神社に私費で玉串料を納めたことについて、「政府として見解を申し上げることではない。靖国神社に参拝するかどうかは安倍総理大臣が適切に判断する事柄だ」と述べました。
また、菅官房長官は今村復興大臣や萩生田官房副長官が参拝したことについて、「閣僚等が靖国神社に参拝したことは承知しているが、あくまで私人として参拝したと理解している。閣僚が私人として参拝することに対して、個人の信教の自由に関するものであり、政府として立ち入るべきではないというのが従来の政府の立場だ」と述べました。
一方、菅官房長官は、みずからが参拝するかどうかについて、「適切に判断する」と述べるにとどめました。
共産党書記長「私費でも許されない」
共産党の小池書記局長は、東京都内で街頭演説し、「靖国神社は、軍国主義による侵略戦争を美化している神社だ。たとえ私費であっても、玉串料を奉納するということは、安倍総理大臣が、侵略戦争を肯定し、美化する立場に立つことを国内外に示すことになり、絶対に許されない」と批判しました。

884名無しさん:2016/08/20(土) 20:27:52
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160815/k10010636461000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_044
靖国神社 超党派の国会議員約70人が参拝
8月15日 11時58分
終戦の日の15日、超党派の国会議員でつくる「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の衆参両院の国会議員およそ70人が靖国神社に参拝しました。
「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は、毎年、春と秋の例大祭と8月15日の終戦の日に東京・九段の靖国神社に参拝しています。
終戦の日の15日は、会長を務める自民党の尾辻元参議院副議長や民進党の羽田元国土交通大臣、日本のこころを大切にする党の中山代表ら、超党派の衆参両院の国会議員およそ70人が、午前11時すぎに靖国神社の本殿に昇殿し、そろって参拝しました。安倍内閣からは岸外務副大臣や水落文部科学副大臣、それに石原内閣府副大臣らが参拝しました。
このあと、尾辻氏が記者会見し「安倍総理大臣が参拝しないのは、よほどの事情があると察するしかないが、国益のためだと言うのであれば理解する」と述べました。
稲田防衛相が会長の議員グループも参拝
これに先立って、稲田防衛大臣が会長を務める自民党の議員グループ「伝統と創造の会」のメンバーも靖国神社に参拝しました。
稲田大臣は、自民党の政務調査会長を務めていた去年は参拝しましたが、ことしはソマリア沖の海賊対策で派遣されている海上自衛隊の部隊の視察でアフリカのジブチを訪れているため、15日は参拝しませんでした。

稲田大臣は訪問先のジブチで記者団に対し、終戦の日に靖国神社に参拝しなかったことについて「今の平和な日本は、いかなる歴史観に立とうとも、この国のために、家族を守るため、ふるさとや国を守るために出撃していった多くの方々の命の積み重ねの上にあると思う。そういった感謝の気持ちを日本人は忘れてはいけないと思う」と述べました。そのうえで、稲田大臣は「毎年『伝統と創造の会』で参拝していた。ことしも、私はいないが、『伝統と創造の会』で参拝し、会として玉串料を奉納したと承知している」と述べました。

885名無しさん:2016/08/20(土) 20:41:54
http://mainichi.jp/articles/20160815/k00/00e/040/279000c
終戦記念日
天皇陛下おことば(全文)…戦没者追悼式
毎日新聞2016年8月15日 12時26分(最終更新 8月15日 13時02分)

 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来既に71年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。

 ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

886名無しさん:2016/08/20(土) 20:43:28
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081500003&amp;g=pol
終戦記念日で与野党談話

 与野党が15日の終戦記念日に当たって談話を発表した。要旨は次の通り。
 【自民】日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増す中で、国民の命と平和な暮らしを守り抜かねばならない。その責任を全うするため平和安全法制を整備した。国民の理解を求めながら、子や孫の世代に平和な日本を引き渡す努力を続ける。
 【民進】戦後、日本人が育んできた平和主義が脅かされようとしている。安倍政権が目指す集団的自衛権を制約なく行使し、海外で武力行使できる国と、民進党が目指す憲法の平和主義の理念に基づき武力行使に抑制的な国のどちらを選択するか、いま一度国民にも考えてほしい。
 【公明】戦後日本は、平和憲法と国連憲章の理念を基礎として平和国家の歩みを始めた。憲法の「国民主権」「基本的人権の尊重」「恒久平和」の3原理を守り発展させていくべきだ。
 【共産】安倍政権は、憲法の平和主義を根底から覆す暴走を続けている。安倍(政権による)改憲を許さず、憲法の平和主義を守り生かすため、恒久平和を希求する全ての人が力を合わせることを呼び掛ける。
 【おおさか維新】政府の安全保障政策の合憲性を判定するため、憲法裁判所を設置すべきだと考える。わが国が国民生活を守り、世界の平和と安定に向けた主導的な役割を果たせるよう取り組んでいく。
 【生活】今この国の政治は大きな分岐点に差し掛かっている。再びこの国が判断を誤り、途方もない苦難を人々に与える惨禍をもたらすことのないよう、全力で取り組んでいく。
 【社民】安倍政権の発足以降、憲法解釈はねじ曲げられ、戦前回帰への扉が開かれようとしている。日本は平和憲法の下で「戦争しない国」を貫き、憲法9条は多くの国々の信頼と羨望(せんぼう)を得てきた。憲法改悪を断固阻止する。
 【こころ】先人たちの犠牲に応えるため、今こそ日本の歴史、伝統、文化に立脚した自主憲法を制定し、真の独立を回復し、平和を維持し、全世界の繁栄と平和に貢献することを誓う。(2016/08/15-00:13)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081500421&amp;g=pol
安倍首相式辞=終戦記念日

 15日の全国戦没者追悼式での安倍晋三首相の式辞全文は次の通り。
 本日ここに、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式を挙行するに当たり、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。
 あの、苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられたみ霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、はるかな異郷に亡くなられたみ霊、皆さまの尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを、片時たりとも忘れません。衷心より、哀悼の誠をささげるとともに、改めて、敬意と感謝の念を申し上げます。
 いまだ、帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、脳裏から離れることはありません。おひとりでも多くの方々が、ふるさとに戻っていただけるよう、全力を尽くします。
 わが国は、戦後一貫して、戦争を憎み、平和を重んじる国として、孜々(しし)として歩んでまいりました。世界をよりよい場とするため、惜しみない支援、平和への取り組みを、積み重ねてまいりました。
 戦争の惨禍を決して繰り返さない。
 これからも、この決然たる誓いを貫き、歴史と謙虚に向き合い、世界の平和と繁栄に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。あすを生きる世代のために、希望に満ちた国の未来を切りひらいてまいります。そのことが、み霊に報いる途(みち)であると信じて疑いません。
 終わりに、いま一度、戦没者のみ霊に永久の安らぎと、ご遺族の皆さまには、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。(2016/08/15-12:24)

887名無しさん:2016/08/20(土) 20:45:32
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081500403&amp;g=pol
玉串料奉納を批判=共産・小池氏

 共産党の小池晃書記局長は15日午前、安倍晋三首相が代理人を通じて靖国神社に玉串料を奉納したことについて、「たとえ私費でも、侵略戦争を肯定、美化する立場に首相自身が立つことを内外に示すことになる」と批判した。JR新宿駅前での街頭演説で語った。
 小池氏は「靖国神社は、過去の日本の侵略戦争を自存自衛の戦い、アジア解放の戦争だと美化している神社だ。それを宣伝することを自らの存在意義にしている特殊な施設だ」と指摘した。(2016/08/15-12:14)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081500159&amp;g=pol
安倍首相、靖国に玉串料=高市、丸川氏が参拝-超党派議員は集団で

 安倍晋三首相は終戦記念日の15日午前、自民党総裁として代理人の西村康稔総裁特別補佐を通じ、東京・九段北の靖国神社に私費で玉串料を奉納した。自身の参拝は見送った。閣僚では、高市早苗総務相、丸川珠代五輪担当相が同日午後、参拝。一方、超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長・尾辻秀久元参院副議長)のメンバー約70人が同日午前、集団で参拝した。
 首相の終戦記念日の靖国参拝見送りと玉串料の奉納は4年連続。靖国参拝に反対している中国、韓国に配慮した。9月に中国・杭州で開く20カ国・地域(G20)首脳会議の際に合わせて調整している日中首脳会談への影響も考慮した。

 首相は15日午前、東京・三番町の千鳥ケ淵戦没者墓苑で献花。この後、政府主催の全国戦没者追悼式に参列し、式辞を述べた。
 菅義偉官房長官は記者会見で「靖国に参拝するか否かは首相が適切に判断する事柄だ」と説明。「閣僚の私人としての参拝は、個人の信教の自由に関する問題で、政府として立ち入るべきではない」と語った。尾辻氏は集団参拝後の会見で、首相の参拝見送りについて「国益での判断というなら理解していただける」と述べた。
 山本有二農林水産相は15日の記者会見で、6日に靖国を参拝したことを明らかにした。今村雅弘復興相も11日に参拝を済ませた。

 また、首相側近の萩生田光一官房副長官は15日午前に参拝。「大戦で犠牲となられた先人のみ霊に哀悼の誠をささげた。恒久平和への誓いを新たにした」と記者団に語った。
 これまで終戦記念日の参拝を続けてきた稲田朋美防衛相は、自衛隊部隊視察のためアフリカ北東部ジブチを訪問中で、15日の参拝を見送った。稲田氏が会長を務める自民党議員による「伝統と創造の会」のメンバーは同日参拝した。 (2016/08/15-13:43)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081600665&amp;g=pol
「責任、謝罪、反省」裏付け=日本拠出の10億円-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は16日の記者会見で、慰安婦問題をめぐる合意に基づき日本政府が韓国の財団に拠出する10億円について、「賠償金と理解できるか」という質問に直接は答えず、「岸田文雄外相が昨年12月に表明した日本政府の責任、謝罪や反省の立場を実質的に裏付ける履行措置だ」と述べた。

 「賠償金」と断定することを避けながらも、事実上、賠償金の性格を帯びているという認識を示唆した。 
 日本政府は、拠出金が「賠償金」と受け止められることを警戒。岸田外相は12日、尹炳世外相との電話会談後、記者団に対し「慰安婦問題に関する請求権の問題は法的に解決済みだという立場は、全く変わりない」と述べている。(2016/08/16-17:00)

888名無しさん:2016/08/21(日) 10:42:59
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081800651&amp;g=pol
10億円の使途、決定先送り=元慰安婦の支援財団-韓国

 【ソウル時事】日韓政府間合意に基づき元慰安婦の支援を行う韓国の「和解・癒やし財団」の金兌玄理事長は18日、時事通信の取材に対し、前日に理事会を開いたものの、日本が拠出する10億円の具体的な使途については決定を先送りしたことを明らかにした。金理事長は「支援方法をめぐりたくさんの意見が出たが、事業の具体的内容については決まらなかった」と述べた。
 ただ、金理事長は「支援策としては医療・介護関連が想定されている」と説明し、大枠の方向性に関しては合意が得られているという認識を示した。
 韓国外務省当局者も18日、記者団に「10億円の具体的な使途や財団の事業に関しては、まだ決まっていない」と語った。理事会関係者は「1回の理事会で決められることではない。改めて開き、論議していく」と述べた。 
 岸田文雄外相と韓国の尹炳世外相は12日の電話会談で、10億円の使途に関し、医療や介護目的などとすることで合意した。岸田外相は「速やかな拠出」を表明しているが、具体的な事業内容を詰めるまでには、なお時間がかかりそうだ。(2016/08/18-16:21)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081800156&amp;g=pol
事業内容、非公開で協議=韓国の元慰安婦支援財団

 【ソウル時事】日韓政府間合意に基づき元慰安婦への支援などを行う韓国の「和解・癒やし財団」(金兌玄理事長)は17日夜、約3時間にわたり非公開で理事会を開き、具体的な事業内容について協議した。関係者が18日、明らかにした。

 岸田文雄外相と韓国の尹炳世外相は12日に電話会談し、日本側が拠出する10億円の使途に関し、医療や介護目的などとすることで合意、岸田外相は「速やかな拠出」を表明した。これを受けた理事会では、元慰安婦支援で突っ込んだやりとりが交わされた。
 関係者によると、一部の理事は「合意では、すべての元慰安婦の名誉と尊厳の回復、心の癒やしのための事業を行うことになっている」と指摘。「存命中の40人を支援するだけでなく、亡くなった方々の追悼事業も行うべきだ」という考えを示した。(2016/08/18-09:53)

889とはずがたり:2016/08/22(月) 14:04:05

北方領土、進むロシア化 元島民「試練は増すばかり」
http://www.asahi.com/articles/ASJ743WB5J74UTFK007.html?ref=goonews
藤田直央2016年7月10日08時33分

 ロシアの前身にあたるソ連が戦後に占領し、日本が返還を求め続ける北方領土問題。定住が進むロシア人の数は、かつて島を追われた日本人の元島民とほぼ同じ約1万7千人になる。5月の首脳会談を機に交渉が再び動き出す中、北方領土最大の島・択捉(えとろふ)島を7月初め、元島民や子孫の人たちと訪れた。

 海に突き出た約150メートルの桟橋、室内プールや全室監視カメラ付きの保育園、島内二つ目の空港から飛び立つ飛行機――。元択捉島民で神戸市の山本忠平さん(81)は3年ぶりの訪問で、様変わりに驚いた。

 今回の日本人訪問団に、博物館館長は「日本時代」を過去のものとする島の歴史の展示を説明し、中等学校では生徒が「択捉島のエコツーリズムの展望」のプレゼンで将来を語った。山本さんは1991年以来5回目の訪問。進む故郷のロシア化を痛感し、「どうしようもない」ともらした。

 北方領土は寒冷、強風の地だ。日本政府はソ連崩壊期の91年度に始めた人道支援で、主に漁業や水産加工業で暮らす住民への影響力を強めようと発電施設まで提供。だが、ロシア政府から09年に経済安定で物資すら不要と伝えられ、今は高度な治療が必要な患者の受け入れなどにとどまる。

 一方、ロシア側は07年からの「発展計画」でインフラや公共施設の整備を進めた。この地域は歳入の9割を補助金などに依存。国防相が今年3月に軍備強化を表明するなど中央政府は「国境の島々」を重視する。択捉島に住む地区行政長(56)は訪問団に、「次の訪問でもさらなる発展を見てほしい」と語った。

 山本さんはソ連支配下の択捉島で12歳になる47年まで過ごし、国籍変更を拒んだ母らと貨物船に乗せられ「送還」。ソ連兵が来た時の怖さや、樺太の収容所を経て函館にたどり着いた苦難を語り部として伝える。

 今回は訪問団が移動する船中での研修で話した。「実効支配は強まり、試練は増すばかり。私の世代では力不足で、若い力が必要です。自由に往来できる島々に早く戻ってほしい」

890とはずがたり:2016/08/23(火) 20:45:27
宋教仁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%95%99%E4%BB%81

宋 教仁(そう きょうじん)は清末民初の革命家・政治家。湖南省桃源県の小地主の家に生まれる。字は得尊、号は敦初。漁夫などの書名を用いた。

幼少より私塾で学び、1900年には生員の資格を得る。1903年に黄興と知り合った後は排満革命思想に目覚め、黄興、陳天華らと共に華興会を創設し副会長に選出された。1904年、西太后の誕生日に合わせ蜂起計画を立てるが清朝当局に露見し計画は失敗、同年末日本に亡命する。
日本亡命期間中は1905年6月に法政大学に入学、雑誌『二〇世紀之支那』を発行する。7月、宮崎滔天により孫文を紹介され。8月には広東派の興中会、浙江派の光復会、湖南派の華興会が合併して中国同盟会が成立する。12月、文部省の「清国留学生取締規則」に抗議して陳天華が自殺、宋教仁は遺体を引き取りに行き、留学生の帰国を訴える。1906年、早稲田大学留学生予科に学ぶ。1907年3月、大陸浪人古河清らと馬賊工作のため満州に赴く。夏、日本に帰る。1908年、『間島問題』を著す。1910年末、帰国する。1911年7月、中国同盟会中部総会を設立する。
同年10月、武昌蜂起が発生すると宋教仁も武昌に入った。11月、北一輝と上海に滞在、また各省都督代表連合会に湖南省都督府代表として出席。翌1912年1月、中華民国が成立し孫文が臨時大総統に就任した。翌月宣統帝が退位して清朝が滅亡、さらに翌月、孫文に代わって前政権の実力者であり、大きな軍事力を持つ袁世凱が臨時大総統に就任した。
しかし、袁は彼を大総統につかしめた革命勢力を好まず、インフラ整備などの近代化政策を自らの手で強権的に進めようとした。宋は最高権力者が専権を振るう状況よりも、議院内閣制に基づいた法による統治、大総統の権限を制限することが、中国を安定させしめると考えた(詳しくは後述)。そこで革命組織を改組して国民党を組織、事実上の党首として活躍、同年12月の選挙では圧勝した。
この間、袁世凱は宋の懐柔を図るがことごとく失敗した。業を煮やした袁は刺客を放ち、1913年3月、上海駅頭で宋を射殺した。なお、宋教仁の唯一無二の理解者であった北一輝は、宋暗殺の刺客を放ったのは孫文であったとしている。

宋教仁の思想[編集]

宋教仁
宋教仁は、中国の伝統的学問を身につけていたが、科挙の廃止に伴い革命を志向するようになった。
宋は終始孫文に対立した革命家であると言われる。革命戦略については孫文の唱えた辺境根拠地革命に対し、宋は長江流域における都市革命を主張し、中部総会を設立した。また、宋は孫文の唱えた大総統制に対し、議院内閣制を主張した。孫文が強力な権限を持つ大総統による統治を望んだのに対し、宋は民主的な議院内閣制を主張したのである。
無論、その背景には袁世凱大総統の独裁をどう抑えるか、という問題があったのだが、宋は議院内閣制により大総統の権限を抑制しようとしたのであった。そしてこの法を以て対立するという態度が袁世凱に恐れられ、ついには暗殺されるに至った。実際、民国初期の段階で政治的主導権を握ったのは、孫文派ではなく、宋教仁であった。
このように孫文と対立し、また孫文が軍事力で袁世凱に対決しようとしたのに対し、宋は法を以て対決しようとした事から妥協的であるといわれ、「革命右派」と呼ばれ、中国では批判されてきた。しかし1970年代以後、日本でも宋教仁研究が進み、現在では現実的な愛国者であると評価されるようになってきた。

891とはずがたり:2016/08/24(水) 23:35:17
2016年 08月 24日 18:31 JST
コラム:なぜドル円だけが3桁なのか=佐々木融氏
http://jp.reuters.com/article/column-forexforum-tohru-sasaki-idJPKCN10Z0O8?sp=true
佐々木融JPモルガン・チェース銀行 市場調査本部長

[東京 24日] - 先進国通貨の対ドルレートを見ると、円だけ異なる点があることに気づく。他は整数が1桁だが、円の対ドルレートだけが3桁なのだ。

実は、ドル円相場も最初は1桁だった。何しろ、もともとは1ドル=1円だ。

円は、1871年(明治4年)に「新貨条例」という法律で日本の貨幣単位として採用された。純金1.5グラム=1円と定められ、1円、2円、5円、10円、20円の金貨が製造された。

一方、米国のドルはその79年前の1792年に「貨幣鋳造法」によって公式に採用され、1ドル金貨の金の含有量が決められたが、1871年時点での日米両国の金貨幣の純金含有量を比較すると、日本の10円金貨が15グラム、米国の10ドル金貨が15.05グラムでほぼ同じとなっている。

つまり、円という通貨は、そもそも1ドル=1円という価値になるように作られたと考えられる。

<戦前にたどったヘリマネへの道>

しかし、1877年に勃発した西南戦争の戦費調達のために、政府の不換紙幣が大量に発行されると、円の価値が下落し、1897年には1ドル=2円程度まで円安が進んだ。

戦費調達のために、政府が紙幣を大量に刷って市中に供給した結果、円の価値が下がり、インフレ、他国通貨に対する円安を引き起こしたのだ。当時、東京のコメ価格は、4年間で倍になったと記録されている。

こうした事態を背景に、1882年、松方正義大蔵卿(現在の財務大臣)は、日本銀行(日銀)を創設。日銀が唯一の中央銀行として、本位貨幣(金貨や銀貨)と必ず交換する銀行券(兌換銀行券)を独占的に発行するという制度を作った。

1897年に公布された「貨幣法」では、「1円=純金750ミリグラム」と定め、5円、10円、20円金貨を鋳造した。1円は、当初定められた純金含有量のちょうど半分と同等の価値ということになったのである。

このような措置をとったのは、それまでの物価上昇を反映するためだった。そして、日銀が発行する兌換銀行券も、金貨と兌換することを定め、これによって日本の貨幣制度は完全に金本位制度になったのである。

こうした政策のおかげもあって、ドル円は1897年から1931年までの34年間もの間、1ドル=2円前後で安定的に推移した。

しかし、ここから事情が変わってくる。1929年10月24日の米国での株価大暴落(暗黒の木曜日)を発端として世界的な大不況となり、他の主要国同様、日本でも物価が大幅に下落し、デフレに陥ったのだ。

この状況下、1931年12月13日に大蔵大臣に就任した高橋是清は、金の輸出を禁止し、日銀の発行している兌換銀行券を金貨に交換することを法律で制限した。つまり、金本位制度の停止である。

さらに高橋蔵相は1932年3月、金融関係者に対し、財政政策の拡張と満州事変の戦費調達のために、国債の日銀引き受けを実施する準備がある旨を伝えた。高橋蔵相の強い意向を受け、日銀も同意した。まさに、ヘリコプター・マネーが行われたわけだ。

892とはずがたり:2016/08/24(水) 23:35:34
>>891-892
<1ドル=1万円になったのと同じ衝撃>

さて、この結果、円は暴落し、対ドルで2円前後から1932年12月の4.86円まで急速な円安が進行するとともに、日本はデフレから脱却した。

しかし、高橋蔵相は、経済が回復した後は当然、日銀直接引き受けを止めるつもりでいた。1935年10月に発表した1936年度予算編成方針では「公債漸減方針」を掲げた。

ちなみに、当時日銀は国債を直接引き受けていたが、引き受けた国債を市中に売却していた。直接引き受けは行っていなくとも、市中から購入した国債をそのまま保有し続けている現在の状況に比べると、直接引き受けていた当時の方が健全だったとも言えるかもしれない。実際、1936年当時の日銀のバランスシートの大きさは対国民所得比で20%前後であり、現在と比較しても極めて小規模にとどまっている。

日銀は引き受けた国債のうち、当初98―99%は市中で売却できていたが、1935年度には77%しか売却できなかった。公債の市中消化が滞り、日銀が発行公債を背負い込む状況を受け、高橋蔵相は、公債政策の行き詰まりを指摘し、悪性インフレーションの弊害が現れることへの警告を発した。

もっとも、健全財政路線にシフトすることで、高橋蔵相は軍部と対立。1936年2月26日に暗殺された(二・二六事件)。その後、公債漸減方針が撤回され、「対満州政策の遂行」「国防の充実」「農村の経済更生」「税制大改革」の名のもとに国債が野放図に発行され、戦争に突入していったことは歴史が示すとおりだ(国債発行額は1932年度の7.7億円から1945年度には334億円へと13年間で40倍以上に膨れ上がった)。

そして、戦後の日本は復興資金を日銀信用により賄ったことなどにより、ハイパーインフレに悩まされることになる。1944年から1951年までの8年間の物価上昇率は年率平均プラス100%にも達した。こうしたハイパーインフレを受けて、ドル円は円安方向へと大幅に修正されたのである。

ちなみに、第2次世界大戦が勃発した1939年当時は、1ドル=4.25円程度だったが、1945年8月に戦争が終結すると、軍用交換相場として1ドル=15円に設定され、1947年3月にはこれが1ドル=50円に、さらに1948年7月には270円に引き上げられた。そして、1949年4月に、連合国軍総司令部(GHQ)が発表したレート(一般に利用される相場)は、1ドル=360円となった。

1ドル=4.25円だったドル円は、たった10年間で360円までの大幅な円安になったということだ。これが先進国通貨の中で、ドル円だけが3桁になっている理由である。

要するに、日本という国は、たかだか80年ほど前に現在と同じような政策を採用しており、その結果が現代の為替相場に残っているのだ。4.25円が360円になるのは、120円が10000円(1万円)になるのと同じマグニチュードである。

後世の為替ストラテジストが、なぜドル円だけが5桁なのかを説明する時のキーワードは、「アベノミクス」「量的・質的金融緩和(QQE)」なのだろうか。

893名無しさん:2016/08/26(金) 23:28:27
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082100221&amp;g=pol
領土問題に冷や水=「引き分け」期待に予防線-ロシア

 【モスクワ時事】国後島での邦人足止めには、北方領土問題解決に向けた日本の期待に冷や水を浴びせる狙いがありそうだ。プーチン・ロシア大統領は2012年、領土問題解決に関し「引き分け」と発言した。12月のプーチン大統領来日が確実視される中「引き分け」の中身に日本の関心は高まらざるを得ない。その期待値を下げるため、ロシア側が予防線を張り始めた可能性がある。
 安倍晋三首相とプーチン大統領は5月にロシア南部ソチで行った首脳会談で、年内の大統領訪日で基本合意している。安倍首相は13日、地元の山口県下関市でプーチン大統領を「ぜひ山口にお連れしたい」と踏み込んだ。
 しかし、山口での会談で、北方領土問題が大きく動く保証はまだ何もない。日ロ間の平和条約締結交渉は重ねられ、原田親仁日ロ関係担当大使とロシアのモルグロフ外務次官は6月に続き、26日に再びモスクワで会うが、外務省高官の話し合いで打開できるほど甘い話ではない。
 領土問題解決へ厳しい認識が日本国内で広まれば、年末の山口での首脳会談では「協議継続」で合意しても成果らしく見える。一方で安倍首相は5月のソチでの会談で「今までの発想にとらわれない新アプローチ」を提案。これは「平和条約交渉を続けつつ、それとは別に経済関係を活発化させるアプローチ」とロシア側では解釈されている。領土問題置き去りへの懸念は深まりそうだ。 (2016/08/21-23:05)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082200543&amp;g=pol
安倍首相夫人が真珠湾訪問

 安倍晋三首相夫人の昭恵さんは22日、自身のフェイスブックで、米ハワイの真珠湾を訪問したことを明らかにした。昭恵さんは旧日本軍の攻撃で撃沈された戦艦アリゾナの記念館で撮った写真を投稿し、「お花と祈りをささげました」と記した。

 菅義偉官房長官は同日の記者会見で、昭恵さんが自ら主催する日米国際海洋環境シンポジウムに出席するためハワイ入りしたことを説明。「ハワイ訪問は私的なものであり、政府としてのコメントは控える」と述べた。首相のハワイ訪問の予定は「全くない」とも語った。 (2016/08/22-15:37)

894名無しさん:2016/08/27(土) 00:17:06
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082400096&amp;g=pol
10億円拠出を閣議決定=元慰安婦支援、日韓外相会談で伝達へ

 政府は24日午前の閣議で、日韓合意に基づいて元慰安婦の女性を支援するため韓国が設立した「和解・癒やし財団」へ10億円を拠出することを決定した。岸田文雄外相が同日午後に会談する韓国の尹炳世外相に直接伝える。
 両外相は12日の電話会談で、10億円の使途を元慰安婦の医療や介護とすることで大筋合意。岸田氏は、手続きを速やかに進めると伝えていた。政府は10億円を予備費で支出する。
 岸田氏は、10億円の拠出によって「日韓合意に基づく日本側の責務は果たしたことになる」としており、今後はソウルの日本大使館前に設置された慰安婦少女像の速やかな移転を韓国側に求めていく方針だ。 
 菅義偉官房長官は閣議後の記者会見で、「韓国側に対して、それぞれの問題の解決に向けた努力を含め、引き続き日韓合意の着実な実施を求めていきたい」と語った。(2016/08/24-12:02)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082400786&amp;g=pol
元慰安婦に1000万円=政府、月内に10億円拠出

 外務省は24日、日韓政府間合意に基づき元慰安婦を支援する韓国の「和解・癒やし財団」に日本が拠出する10億円の使途に関し、生存者1人につき1000万円程度、死亡者には200万円程度支出すると発表した。日本政府は財団への10億円を今月中に送金する方針だ。

 元慰安婦への支援は、財団が対象者の個別の需要を把握し、日韓が合意した使途の範囲内で、現金で支出する。具体的な使途としては医療・介護、葬儀関係費、親族の奨学金などを想定している。 
 昨年12月末の日韓合意の時点で、支援の対象となる元慰安婦のうち生存者は46人、死亡者は199人。財団は両政府に事業の実施状況を定期的に通知する。(2016/08/24-21:52)

895名無しさん:2016/08/27(土) 00:18:06
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082400593&amp;g=soc
日本の10億円「受け取るな」=元慰安婦支援で韓国挺対協

 【ソウル時事】日本政府が元慰安婦を支援する韓国の財団への10億円拠出を閣議決定したことについて、韓国の民間団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」の尹美香常任代表は24日、「問題の最終的解決にはならないし、賠償金でもない。受け取ってはならない」と強調した。日本大使館前で開いた水曜日恒例の抗議集会に参加した際、語った。(2016/08/24-16:13)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082400749&amp;g=pol
少女像撤去、誠実に履行=対北朝鮮で連携-日韓外相会談

 岸田文雄外相は24日、韓国の尹炳世外相と外務省で約50分間会談し、元慰安婦の女性を支援するため韓国が設立した「和解・癒やし財団」に、日本政府として10億円を拠出することを同日決定したと伝えた。その上で、ソウルの日本大使館前に設置された少女像の撤去を含め、昨年末の日韓合意を着実に実施するよう要請。双方は合意を誠実に履行することを確認した。

 10億円拠出決定に関し、尹氏は「岸田氏のリーダーシップの下、資金拠出の手続きが順調に進んでいることを評価する」と謝意を示した。
 両外相は、24日に潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を発射するなど核・ミサイル開発を加速させる北朝鮮への対応も協議した。岸田氏は「日米韓の緊密な連携は不可欠だ。尹外相とも引き続き緊密に連携をしたい」と表明。尹氏は、北朝鮮の核・弾道ミサイル能力向上に深刻な憂慮を示し、「日韓がいつにも増して緊密に協力していくべきだ」と応じた。
 岸田氏は、韓国国会議員団が島根県・竹島(韓国名・独島)に上陸したことを取り上げ、尹氏に直接抗議した。中国が軍事拠点化を進める南シナ海問題に関しては、関係各国が国際社会で確立されたルールに基づいて行動することが重要だとの認識で一致した。 (2016/08/24-21:23)

896名無しさん:2016/08/27(土) 14:34:43
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160824/k10010651691000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_077
政府 韓国への10億円拠出を閣議決定へ
8月24日 4時19分
政府は、24日の閣議で、慰安婦問題をめぐり韓国側が行う元慰安婦への支援事業に充てられる10億円の拠出について、今年度予算の予備費から支出することを決定する方針です。
慰安婦問題をめぐっては、岸田外務大臣と韓国のユン・ビョンセ(尹炳世)外相が今月中旬、電話で会談し、韓国の財団が行う元慰安婦への支援事業の内容について大筋で合意し、日本側が10億円を速やかに拠出するため手続きを進めることを確認しました。
そして、政府は24日の閣議で、財団への10億円の拠出について、今年度予算の予備費から支出することを決定する方針です。
岸田大臣は24日の日中韓3か国の外相会議にあわせて行われる日韓外相会談で、こうした内容を韓国側に伝えることにしています。
また、「10億円の拠出で日本は責務を果たしたことになる」として、去年12月の日韓合意で、韓国側が「適切に解決されるよう努力する」とされた、ソウルの日本大使館前の慰安婦を象徴する少女像の撤去に向けて、韓国側のいっそうの努力を促す考えです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160824/k10010652991000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_050
元慰安婦の支援事業 本人には1000万程度の支払い
8月24日 21時29分
外務省は韓国側が行う元慰安婦への支援事業に充てられる10億円について、本人に1000万円程度、亡くなっている場合は200万円程度を現金で支払うと発表しました。
政府は24日の閣議で、慰安婦問題をめぐって韓国側が行う元慰安婦への支援事業に充てられる10億円の拠出について、今年度予算の予備費から支出することを決め、これを受けて外務省は1人当たりの支出額や使いみちを発表しました。

それによりますと、去年12月の日韓合意の時点で、韓国政府に登録された元慰安婦245人を対象とし、支援事業を行う韓国の財団が対象者本人や遺族などの代理人から使いみちを聞き取ったうえで、現金で支払うとしています。
支払う金額は元慰安婦本人に対し、日本円で1000万円程度、去年12月の時点で亡くなっている場合は200万円程度とし、使いみちは本人の場合は医療や介護などが、亡くなっている場合は葬儀に関係する費用や遺族の奨学金などが想定されるとしています。
また、支払いが適切に行われているかどうか確認するため、財団は事業の実施状況を日韓両政府に定期的に通知するとしています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160825/k10010654031000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_027
韓国外務省「少女像は非常に敏感な問題」
8月25日 21時18分
日韓外相会談で、岸田外務大臣がソウルの日本大使館前にある慰安婦問題を象徴する少女像を撤去するよう改めて求めたことについて、韓国外務省の報道官は「国内的に非常に敏感な問題だ」と述べ、少女像をめぐって具体的な動きが出るまで時間がかかるという認識を示唆しました。
岸田外務大臣は、24日に行われた韓国のユン・ビョンセ(尹炳世)外相との会談で、慰安婦問題に関して、元慰安婦たちやその家族への支援事業を行う韓国の「和解・癒やし財団」に10億円を拠出することを閣議決定したと伝えたうえで、ソウルの日本大使館前にある慰安婦問題を象徴する少女像を撤去するよう、改めて求めました。

これについて、韓国外務省のチョ・ジュンヒョク(趙俊赫)報道官は25日に開いた記者会見で、「少女像の問題は国内的に非常に敏感な問題であるため、政府はそうした敏感さを十分に勘案しながら、関連する議論を進めている」と述べ、韓国政府内でこの問題についての協議を行っていることを説明する一方、韓国内では少女像の撤去や移転に反対する世論が強く、具体的な動きが出るまで時間がかかるという認識を示唆しました。

韓国政府や「和解・癒やし財団」の関係者たちは、支援事業を進めていくことで慰安婦問題での日本との合意に対する韓国国民の理解を高め、少女像を設置した市民団体と話し合う環境を整えたい考えですが、市民団体側は移転に応じない姿勢を崩していません。

897名無しさん:2016/08/27(土) 16:16:20
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082500368&amp;g=pol
元慰安婦1000万円に異論=自民

 自民党は25日、外交部会などの合同会議を党本部で開き、日韓政府間合意に基づき、日本が元慰安婦の生存者1人につき1000万円程度を支出することについて議論した。出席議員からは「事実上の一括支給で個人賠償と取られる。納得できない」などの異論が出た。
 これに対し、外務省側は「金額は目安であって、(賠償問題は解決済みとする)日韓請求権協定には違反しない」と理解を求めた。会合ではこのほか、ソウルの日本大使館前に設置された少女像撤去に向け、「韓国側の努力の内容をきちんと国民に説明できるようにしてほしい」と求める声も上がった。(2016/08/25-12:08)

898とはずがたり:2016/08/31(水) 10:38:13
2016.8.31 05:00
【歴史戦】
習近平氏が「日本の暴行暴いた」と称賛した英国人記者、「南京事件」の現場に居合せず 在職記録もなし
http://www.sankei.com/world/news/160831/wor1608310007-n1.html

 【ロンドン=岡部伸】中国の習近平国家主席が昨年10月に訪英した際、第二次大戦で「侵略者日本の残虐行為を暴いた」と称賛した英国人記者が、所属していたとされる英新聞社に在職記録はなく、中国側が「日本の残虐行為だ」と主張する「南京事件」の現場にもいなかったことが30日までに明らかになった。

 習氏がエリザベス女王主催の公式晩餐(ばんさん)会で取り上げたのは英国人のジョージ・ホッグ氏。「第二次大戦の際、記者として侵略者日本の残虐行為を暴く記事を発表した」と紹介した。

 中国は2008年にドイツなどと合作で、ホッグ氏を主人公にした映画『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥(はる)かなる希望の道』を制作した。この中でホッグ氏は赤十字職員と偽って南京に入り、中国市民を殺害する日本兵を写真撮影。日本兵に見つかり処刑される寸前に中国共産党の軍人に助けられる。

 しかし、映画の原作となった『オーシャン・デビル』を執筆した英タイムズ紙記者のジェームズ・マクマナス氏は、「ホッグ氏の中国入りは1938年2月で、彼は南京に行っていない。映画は脚色され、事実ではない」と証言した。

 中国側が主張する「南京事件」は日本軍が南京を占領した37年12月13日から6週間程度。2月に上海入りしたホッグ氏が目撃するのは不可能だったというわけだ。

 ホッグ氏は大学卒業後、英紙マンチェスター・ガーディアンやAP通信の記者を務めたとされている。ところが、産経新聞が後継紙である英紙ガーディアンに問い合わせたところ、ホッグ氏の署名記事はもちろん、在職記録もなかった。

 AP通信やUPI通信には署名記事はあったが、紀行文などで、「日本軍の虐殺行為を暴いた」という署名記事は見つからなかった。

 マクマナス氏の著書などによると、ホッグ氏は上海入りした後、湖北省黄石市に移り、孤児施設で教師を務めた。中国の国民党政府軍が孤児たちを徴兵しようとしたため44年11月、孤児60人を連れてモンゴル国境に近い甘粛省山丹まで移動。戦火から子供たちを守った「中国版シンドラー」と評されている。

 45年8月24日付のマンチェスター・ガーディアンによると、ホッグ氏は同年7月に破傷風で病死した。

 ホッグ氏の両親からの依頼で死因を調べた在重慶英国領事館から英外務省に宛てた46年1月9日付公文書(英国立公文書館所蔵FO369/3426)は「ホッグ氏が校長を務めた山丹の学校教育が中国で最も素晴らしい教育の一つで、ホッグ氏が誠実に天職(教師)に尽くし、協同組合活動の指導者として修練を重ねる極めて良質な人物」と記している。

899名無しさん:2016/09/03(土) 11:04:51
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160903-00000058-san-pol
日露首脳会談 「経済」先行にリスク
産経新聞 9月3日(土)7時55分配信

 「この後、1対1の時間を取って議論したい」

 安倍晋三首相は2日のプーチン露大統領との会談中、通訳だけを交えた“サシ”の対話に持ち込んだ。会談は夕食も含め約3時間10分に及んだが、うち55分間は2人だけの会談だった。その結果を首相は「道筋が見えてきた。手応えを強く感じることができた」と表現。首相はプーチン氏との親密な関係を軸に北方領土問題の解決に挑むが、乗り越えなくてはならないハードルは依然高い。

 ◆ぶつかる「国益」

 「これまで築いた信頼関係に基づき、くつろいだ雰囲気だった」

 日本同行筋は2日夜、首脳会談の様子をこう説明した。とはいえ、両首脳が意見を異にする場面がなかったわけではない。核・ミサイル開発を強行する北朝鮮への対応だ。

 首相「北朝鮮が発射した潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)は新たな脅威だ。国連安全保障理事会で厳しい対応を取る必要がある」

 大統領「問題解決のためには6者協議を再開することが重要だ」

 首相「会議のための会議は意味がない。具体的な成果が出るような協議でなくてはならない」

 首相はプーチン氏と2人きりで会談した後、同行筋に「それぞれの国益を総合的な観点から判断すべきだと一致した」と説明した。しかし、両首脳の「国益」を測る尺度はそれぞれ違う。北方領土問題の解決の前には、この大きな溝が横たわっている。

 ◆「食い逃げ」懸念

 「ウラジーミル(プーチン氏のファーストネーム)の訪日では新たな歴史を開く成果を…」。首相はこの日の会談で、大統領の訪日時に領土交渉の一定の“成果”を得たい考えをにじませた。その仕掛けとなるのが、5月の日露首脳会談で打ち出した8項目の経済協力だ。ただ、経済協力と引き換えにロシア側が領土返還に前向きな姿勢に転じる保証はない。プーチン氏は5月に「何も売るものはない」と明言しており、「食い逃げ」の懸念も残る。

 また、プーチン氏は2012年3月に「引き分け」という柔道の用語を引用して日露双方による妥協の必要性を指摘した。日本政府内では平和条約締結後に歯舞、色丹を返還するとした日ソ共同宣言を根拠に「2島先行返還」が過去に検討された経緯がある。ただ、2島先行返還を容認すれば、交渉は一気に進展するとの見方もあるが、ロシア側に主導権を握られかねない。会談に同席した日本同行筋はこう断言した。

 「4島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する日本の基本的立場に変更はない。そこから離れるような提案は行っていない」(ウラジオストク 峯匡孝)

900名無しさん:2016/09/03(土) 21:36:17
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082900021&amp;g=pol
第五福竜丸

 第五福竜丸 静岡県焼津市のマグロ漁船。1952年に水爆実験を成功させていた米国は、53年にソ連が行った「強化原爆(ブースト型核分裂弾)」の実験を水爆開発成功と誤認し、水爆の小型化による実用化を急ぐため54年3〜5月、太平洋のマーシャル諸島で「キャッスル作戦」と呼ばれる6回の核実験を行った。3月1日の最初の実験「ブラボー」の際、第五福竜丸の乗員23人は近海で死の灰を浴びた。2週間後に帰港するが、半年後に「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」と遺言して、無線長の久保山愛吉さん=当時(40)=が死去。日本中に大きな衝撃を与えた。(アスタナ時事)(2016/08/29-05:43)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082900020&amp;g=pol
マーシャル諸島

 マーシャル諸島 海抜の平均が約2メートルと低く、気候変動に伴う海面上昇で水没が危惧される太平洋中央部の国家。人口は約5万人。いくつもの環礁を構成する小さな島々を合計した全国土は180平方キロで、日本で一番面積が小さい香川県(1900平方キロ)の10分の1以下。任期4年の一院制の国会(定数33)があり、総選挙は4年に1回、投票日は11月の第3月曜日と憲法で定められている。第1次大戦に伴い、日本がドイツから奪い、第2次大戦終結まで統治下にあった。戦後は米国が支配していたが、1986年に独立した。(アスタナ時事)(2016/08/29-05:41)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082900019&amp;g=pol
人類と核兵器、共存不能=核実験被害共通のカザフで語る-マーシャル諸島議長

 【アスタナ時事】太平洋の島国マーシャル諸島の国会をまとめるケネス・ケディ議長は28日、核軍縮国際会議参加のため訪れた中央アジアのカザフスタンで「カザフとマーシャル諸島は、大国の核実験場にされたという一点で結び付いている」と強調した。マーシャル諸島では米国の核実験が繰り返され、1954年には近くで操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくした。議長は「人類と核兵器は絶対に共存できない」と訴えている。
 首都アスタナで、時事通信社の取材に答えた。カザフ北東部のセミパラチンスクは旧ソ連の核実験場にされた。これに対し、マーシャル諸島のビキニ環礁とエニウェトク環礁で核実験を行ったのは「米政府と米軍だ」と議長は語り、広島・長崎に続く米軍の核爆弾投下がマーシャル諸島で繰り返された点を強調した。
 実験が行われたのは46〜58年。計67発の核爆弾が爆発した。最も威力が大きかったのは、第五福竜丸を襲った54年の実験だ。議長は「54年の実験『ブラボー』で爆発させた水爆『シュリンプ』は(高性能火薬TNT換算で)15メガトンだ。広島の原爆(15キロトン以上と推定)の1000倍だ」と述べ、ビキニ環礁の東方にあり、第五福竜丸と共に死の灰を浴びたロンゲラップ環礁の住民を忘れないでほしいと訴えた。

 核実験が続いた12年間について「広島の原爆1.6発分を毎日落とされたのと同じ規模の実験が行われた。(日本では)広島に続いて長崎に原爆投下が繰り返された。マーシャル諸島では最初の投下に続いて全部で67回、同じことが繰り返された」と米国を批判。「それが今、カザフに私たちが来ている理由だ。同じことを繰り返してはいけない。マーシャル諸島はもう十分苦しんだ」と世界に呼び掛けた。 (2016/08/29-05:39)

901名無しさん:2016/09/03(土) 22:12:43
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082900575&amp;g=pol
少女像移設に反対=慰安婦追悼公園の推進委員長-韓国

 【ソウル時事】ソウルの韓国統監官邸跡地で29日、旧日本軍の慰安婦を追悼する公園「記憶の場」の除幕式が行われた。崔英姫・造成推進委員長はあいさつで、日本大使館前に設置されている少女像について「だれも動かすことはできない」と述べ、追悼公園に移設する案に断固反対する立場を表明した。

 慰安婦だった韓国人女性、金福童さん(90)も「わが国に建てた少女像に対し、(日本が)移せとは何だ」と語り、日本側の移転要請に強く反発した。 
 岸田文雄外相は24日、韓国の尹炳世外相と外務省で会談した際、少女像の撤去を含め、昨年末の日韓合意を着実に実施するよう要請している。
 しかし、設置した民間団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」の尹美香常任代表も移転に応じない考えを強調しており、早期実現は難しそうだ。(2016/08/29-17:13)

902名無しさん:2016/09/03(土) 22:53:31
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090200795&amp;g=pol
北方領土は「大戦の結果」=パンドラの箱に等しい-ロシア大統領

 【ウラジオストク時事】ロシアのプーチン大統領は米ブルームバーグ通信が2日配信したインタビューで、日本との北方領土問題について、2004年の中ロ国境の最終画定と異なり、「第2次大戦の結果だ」と強調した。大統領はさらに、大戦結果の見直しは「パンドラの箱」を開けるに等しいと指摘し、北方領土問題の解決は容易ではないとの立場を示唆した。
 プーチン大統領は、04年に中ロ国境地帯を流れるアムール川のタラバロフ島を中国領と認めた時と同じように解決できないのかと問われ、「(中ロ国境画定は)非常に高いレベルの信頼を背景にしてのみ可能になった」と説明。「日本との信頼もこうした高いレベルに達すれば、何らかの妥協を見いだせるだろう」との見方を示した。
 ただ、中国および日本との領土問題には「根本的な違いが存在する」と持論も展開。「日本との問題は第2次大戦の結果生まれたが、中国との国境画定問題はそうではない」と語った。その上で、大戦の結果を見直すなら、大戦を経て旧ソ連への帰属が決まった旧ドイツ領のカリーニングラードや旧ソ連軍の占領下にあったドイツ東部地域の扱いも議論しなければならなくなると指摘し、見直しを「パンドラの箱」と形容した。(2016/09/02-19:09)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090200370&amp;g=pol
ロシア大統領、北方領土問題解決に意欲=引き分け論に言及

 【ウラジオストク時事】ロシアのプーチン大統領は米メディアとのインタビューで、北方領土問題の解決に意欲を示した。「交換したり売却したりするのではなく、一方の国が勝者や敗者と感じないように解決したい」と述べ、「引き分け論」に再び言及した。ロシア大統領府が2日、会見録を公表した。
 この中で大統領は「日本との平和条約締結は最重要問題であり、日本の友人と問題の解決策を見いだしたいと強く思うが、ロシアは領土を取引するつもりはない」と述べた。
 ただ、2日夕の日ロ首脳会談で「この問題を協議することになると確信する」とも語っている。さらに、問題の解決は「損失を与えるのではなく、長期的かつ歴史的な2国間関係の発展の条件をつくるようにしなければならない」と強調した。 
 大統領の発言は安倍晋三首相との首脳会談を前に、領土問題の解決に意欲を示すことで、経済・民生分野の8項目の協力プラン具体化へ向け追い風にしたい考えとみられる。「経済が先行して領土が置き去りにされるのではないか」という日本側の懸念に配慮した可能性もある。(2016/09/02-13:11)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090200067&amp;g=pol
極東で対日戦勝行事=北方領土支配を誇示-ロシア

 【ウラジオストク時事】ロシアは2日、旧ソ連の対日戦勝を祝う「第2次大戦終結の日」を迎え、極東各地で記念行事を開催した。戦勝70年の昨年と比べて規模は小さいが、北方領土支配の根拠とする「大戦の結果」を改めて誇示。日本の領土返還要求をけん制する狙いもありそうだ。
 関係者によると、ロシア政府主催の愛国集会「全ロシア青年教育フォーラム」が行われている択捉島では、中心地・紗那(クリリスク)の学校外壁に「対日戦勝記念日おめでとう」と記された横断幕が掲げられた。 
 安倍晋三首相が2日に訪問するウラジオストクでは、記念セレモニーや戦没者への献花などを実施。ハバロフスクでも、市民が献花や退役軍人との対話に参加するよう呼び掛けられた。ロシアが北方領土を編入するサハリン州のユジノサハリンスク(豊原)ではコンサートを行い、戦勝ムード一色になる。
 ロシアは、メドベージェフ首相が大統領だった2010年、日本が降伏文書に調印した9月2日を「第2次大戦終結の日」に制定した。(2016/09/02-09:23)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090100368&amp;g=pol
財団への入金確認=慰安婦支援の10億円-韓国

 【ソウル時事】韓国外務省は1日、元慰安婦を支援する「和解・癒やし財団」の銀行口座に、日本政府から10億円が入金されたと発表した。日本政府は8月、生存者1人につき約1000万円、死亡者には約200万円支給すると発表。8月中にも財団に送金する方針を示していた。
 韓国外務省によると、10億円は8月31日に入金され、9月1日に確認された。今後、昨年末の日韓合意の時点で生存していた元慰安婦46人と死亡者199人に対し、合意で決まった使途に沿う形で現金支給される。(2016/09/01-11:51)

903とはずがたり:2016/09/06(火) 20:21:10
薩長同盟、倒幕狙ってなかった? 龍馬の役割にも異説
http://www.asahi.com/articles/ASJ9142H3J91ULZU004.html?iref=com_favorite_03
編集委員・宮代栄一2016年9月4日11時30分

異説あり、薩長同盟
 今から150年前、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允(きどたかよし)が京都で会談して締結し、両藩が倒幕へと突き進む出発点となったとされる「薩長同盟」。だが近年、「軍事同盟ではなかった」との見方が浮上している。

 「薩長同盟」は1866(慶応2)年、京都市上京区にあった薩摩藩の小松帯刀(こまつたてわき)邸で締結された。

 歴史上、この「同盟」が画期的とされるのは、「八月十八日の政変」や「禁門の変」などで直接砲火を交えた薩摩藩と長州藩が、この時、幕府を倒すために初めて協力して軍事的行動を起こす約束をしたとされるからである。

 戦いに敗れた長州の恨みは深く、薩摩藩を「薩賊」と呼ぶほどだったが、土佐藩の脱藩浪士だった坂本龍馬と中岡慎太郎が仲介。歴史ドラマなどでは、朝敵の汚名を着せられて窮地に陥った長州藩を救うため、坂本が渋る西郷隆盛を説得して会談を実現。二大倒幕勢力がようやく手を結ぶ場面として描かれることが多い。

 だが、その実情はいささか違っていたようだ。

 当事者の木戸孝允の手紙による…

904とはずがたり:2016/09/06(火) 22:18:05
北朝鮮帰国事業 全マスコミが「北朝鮮は天国」と騙された
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20160718/Postseven_428951.html
NEWSポストセブン 2016年7月18日 07時00分 (2016年7月18日 07時33分 更新)

905とはずがたり:2016/09/07(水) 10:26:26

知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記
明治大正期の貴重な証言
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49332
原 武史

906とはずがたり:2016/09/09(金) 19:59:37
日本は「無条件降伏」をしていなかった 教科書が教えない歴史の事実
http://www.dailyshincho.jp/article/2016/08240600/?all=1
『歴史問題の正解』有馬 哲夫[著]
ネット書店で購入する
■無条件降伏のウソ

 8月になると、戦争関連の記事や番組が増える。多くの日本人は、1945年に日本は連合国に対して「無条件降伏」をした、と習ってきたし、今もそう信じている人がほとんどだろう。

 しかし、有馬哲夫早稲田大学教授は、新著『歴史問題の正解』の中で、その見方に異を唱えている。第6章のタイトルは、そのものズバリ「日本は無条件降伏していない」である。

 このような見解を聞くと、「戦争を正当化するある種の人たちのトンデモ説だろう」と警戒する人もいるかもしれない。

 しかし、有馬氏はあくまでも第一次資料をもとに、それを論証している。そこで提示している事実は、私たちが信じ込んでいた「日本は無条件降伏した」という見方を覆す内容だ。

 以下、同書をもとに「無条件降伏の真実」を見てみよう。(「 」内は引用)

■海軍作戦部長も「間違い」


「無条件降伏の真実」とは
 ルーズヴェルト米大統領が、無条件降伏という方針を唱え始めたのは開戦から1年以上経った1943年のこと。敵国が無条件降伏するまで戦争を止めない、というこの方針に、陸海空軍の幹部はもとより、当時の国務長官コーデル・ハルまでもが反対した。

 なぜなら、このような方針を採れば日本など敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせることになる。そうなれば自国の兵士たちへの影響もはかりしれない。

 当時のアメリカ海軍作戦部長にいたっては、このように侮蔑的に述べている。

「このルーズヴェルトのお気に入りのスローガン(無条件降伏)は間違いであることを(戦争が進むにつれて)ますます確信するようになった」

 要するに、大統領が国民受けを狙ってぶち上げた方針に対して、政府も軍人もこれは政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると考えていた。

 ところが、ルーズヴェルトがこの世を去り、あとを継いだトルーマンもまたこの方針を受け継いでしまう。そこで、実際の交渉にあたってアメリカから日本に対しては、「無条件降伏」は、あくまでも「軍事的指導者の影響力が除去されること」であって、「日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない」というメッセージを発していた。

 日本を災厄に導いたのは軍閥であって、天皇でも日本政府でも国民でもない、ということである。

 日本政府側も、このメッセージの真意を受け止めたうえで終戦に向けて動くようになったのである。

■国際法上認められない「無条件降伏」

 有馬氏は次のように指摘している。

「私たち日本人は『日本は無条件降伏をした』と繰り返し教わってきたので、『無条件降伏』という言葉に違和感を持つ者はあまりいない。しかし、国際法の観点から見た場合、『無条件降伏』を相手に求めるというのは、当時も今も、相当異常なことだ、ということは理解しておく必要がある。

 近代の戦争においては、降伏した国から主権や基本的権利を奪うことはできず、まったくの無条件ということありえない。

 もしあるならその国民を皆殺しにし、領土をすべて奪ってもいいことになる。実際、こんなことが出来ないように、1941年に行われた大西洋会談では、すべての国には政体選択の自由、領土保全、交易の自由があり、敗戦国も例外ではないとしている。逆説的だが、無条件降伏という言葉は、何が『無条件』なのかを定義しないと使えないのだ」

 有馬氏は、同書で示した事実に関してはすべて根拠(第一次資料)を明記しているので、事実誤認だと思う方も、根拠をもとに反論してほしい、そうした事実をもとに議論することが重要だ、と述べている。

デイリー新潮編集部

907名無しさん:2016/09/10(土) 11:45:26
http://www.jiji.com/jc/article?g=soc&amp;k=2016061800189
「黒焦げの少年」身元判明か=原爆写真展で、「兄だ」-長崎

 長崎原爆の爆心地付近で全身黒焦げで亡くなった少年を写した1枚の写真。身元などは不明だったが、長崎平和推進協会の調査で、少年が旧制中学1年の谷崎昭治さん=当時(13)=である可能性が高いことが分かった。同協会が昨年7月に長崎市で開催した原爆写真展で2人の妹が気付いたのがきっかけだった。

 妹の西川美代子さん(78)と山口ケイさん(76)は、これまで少年の写真が収蔵されている長崎原爆資料館などで谷崎さんの姿を探してきた。昨年7月の写真展で大きく引き延ばされた写真を見た時、「じっちゃん(谷崎さんの愛称)だ」と直感した。
 2人は知人を介し、同協会で原爆関連写真を調査している深堀好敏さん(87)に面会。深堀さんが九州大の法医学者に鑑定を依頼し、顔の特徴などから少年が谷崎さんの可能性が高いという鑑定結果を得た。

 谷崎さんは爆心地近くに下宿しており、原爆投下の日に実家がある現在の長崎県西海市に帰る予定だった。投下後、谷崎さんの父親は何度も下宿があった場所を訪れ、母親も谷崎さんが送った最後の手紙を肌身離さず持っていた。
 2人は昨年秋、少年の写真を手に両親の墓前に報告。山口さんは取材に「両親もほっとしたと思う」とほほ笑み、西川さんも「どこかで生きているのではと思い、気持ちの整理が付かなかった。やっと会えて安心した」と語った。
 自身も被爆者の深堀さんは「遺族の元に帰すことができ、長い間、写真展をやってきて良かった」とうれしそうに話した。(2016/06/18-15:01)

908名無しさん:2016/09/10(土) 14:35:56
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090700845&amp;g=pol
安倍首相、少女像撤去を要請=北朝鮮へ圧力強化-日韓

 【ビエンチャン時事】安倍晋三首相は7日、ラオスのビエンチャンで韓国の朴槿恵大統領と会談した。首相は、慰安婦問題をめぐる昨年末の日韓合意について「(ソウルの日本大使館前の)少女像の問題を含め、着実な実施に向けた努力をお願いしたい」と述べた。韓国政府が努力すると明記した合意を踏まえ、少女像撤去を求めた発言だ。

 両首脳の会談は今年3月にワシントンで行って以来。朴大統領は「日韓合意を着実に実施していくことが重要だ」と応じた。
 挑発行為を繰り返している北朝鮮に対し、両首脳は日米韓が連携して圧力を強化すべきだとの認識で一致した。首相は「日韓、日米韓の防衛協力の強化は不可欠だ」と強調。朴大統領は、中国が反発している在韓米軍への高高度防衛ミサイル(THAAD)配備について「北朝鮮の脅威に対応するための安全保障策として必要だ」と指摘した。(2016/09/07-21:32)

909名無しさん:2016/09/11(日) 10:52:21
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090600695&amp;g=pol
「現状では推進せず」=少女像撤去問題で韓国高官

 【ソウル時事】韓国外務省の林聖男第1次官は6日、国会外交統一委員会で答弁し、日本大使館前にある慰安婦を象徴する少女像の撤去問題について「政府も国民の世論を把握しながら動くため、今の状況では、政府が前に出てこの問題(の解決)を推進する考えはない」と述べた。 
 民間調査機関・韓国ギャラップが2日公表した世論調査結果によれば、76%が「日本政府が慰安婦問題をめぐる合意を履行したかどうかにかかわらず、移転に反対」と回答しており、撤去に向けた環境が整っていないと判断したとみられる。
 昨年末の日韓合意は「韓国政府は関連団体との協議を通じて、(少女像問題が)適切に解決されるよう努力する」とうたっているが、韓国政府としては当面、具体的な動きが取れないことを認めた格好だ。(2016/09/06-18:30)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090600441&amp;g=pol
対日関係「破綻回避を」=慰安婦問題で韓国側議連幹事長

 【ソウル時事】韓日議員連盟幹事長の姜昌一議員は、慰安婦問題をめぐる日韓の政府間合意について「韓国では反発が強い」と指摘しながらも、「この問題で韓日関係を破綻させてはならない」と強調した。9日からの訪日を前に5日、時事通信とのインタビューで語った。
 合意に反対している最大野党「共に民主党」所属の姜議員は「(合意は)国家を拘束する条約や協定ではなく、安倍(晋三)政権と朴槿恵政権の約束にすぎない」という見方を示した。また、「両政権がやったことだから、再交渉の必要はないが、われわれは認めていない」と断言した。新任の長嶺安政駐韓大使と5日に会談し、こうした認識を伝えたという。 
 一方で「韓日関係は慰安婦問題がすべてではない。経済、文化交流など問題が山積している」と指摘。「互いに良い方向を模索していくべきだ」と呼び掛けた。
 姜議員は韓日・日韓議員連盟の合同幹事会出席のため、9日から議員10人前後と共に訪日する。(2016/09/06-14:27)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090600066&amp;g=pol
安倍首相が長崎に招待=カザフ大統領

 【モスクワ時事】カザフスタン大統領府は4日、今秋訪日予定のナザルバエフ大統領が安倍晋三首相から被爆地・長崎を訪れるよう招請されたと発表した。両首脳は20カ国・地域(G20)首脳会議が開かれた中国・杭州で会談。安倍首相は「カザフは核軍縮に多大な貢献をした」と指摘したという。
 1991年まで旧ソ連セミパラチンスク核実験場があったカザフは、今も放射能汚染の後遺症に苦しんでいる。今年8月に首都アスタナで核実験場閉鎖25年に合わせた核軍縮国際会議を開催。ソ連崩壊後、ウクライナとともに一時的に核保有国となったが、核弾頭をロシアに移管して廃絶した。 (2016/09/06-07:23)

910名無しさん:2016/09/11(日) 16:44:44
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160911-00000012-jij_afp-int
タイムズスクエアで終戦を祝う「キス写真」の女性が死去 92歳
AFP=時事 9月11日(日)12時10分配信

【AFP=時事】第2次世界大戦(World War II)の終結を喜ぶ水兵からドラマチックにキスをされる姿が、後に世界的に有名になった写真に撮影されていた女性グレタ・ジマー・フリードマン(Greta Zimmer Friedman)さんが8日、肺炎のため死去した。92歳だった。ニューヨーク・タイムズ(New York Times)が息子ジョシュア(Joshua Friedman)さんの発言として伝えた。

 日本の降伏が伝えられた1945年8月14日、フリードマンさんは米ニューヨーク(New York)のタイムズスクエア(Times Square)で水兵に抱きしめられてキスをされた。その場面をカメラマンのアルフレッド・アイゼンスタット(Alfred Eisenstaedt)氏が撮影した。当時フリードマンさんは21歳の歯科助手だった。この写真は米誌ライフ(Life)に全面掲載され、20世紀の米国を語る一枚だと言われている。

 米海軍協会出版局(Naval Institute Press)が2012年に出版した「The Kissing Sailor: The Mystery Behind the Photo That Ended World War II(キスをする水兵:第2次世界大戦を終わらせた写真の謎)」という書籍で、この写真の女性はフリードマンさんで、水兵はジョージ・メンドンサ(George Mendonsa)さんだと特定されていた。

 情熱的な写真からフリードマンさんとメンドンサさんは恋人同士だったように思えるかもしれないが、実際には知り合いでさえなく、その場に居合わせただけだった。この写真には、ジョージさんの肩の上に将来の妻リタ・メンドンサ(Rita Mendonsa)さんの笑顔も写っている。

「退役軍人の歴史プロジェクト(Veterans History Project)」が2005年に記録に加えたインタビューで、フリードマンさんは1960年代にアイゼンスタット氏の写真集を見るまでこの写真を見たことはなかったと語っていた。

 インタビューの中でフリードマンさんは「このキスのことはあまり覚えていません…単に誰かがお祝いをしている、というだけなんです」と当時を振り返った。「ロマンチックな出来事ではなかったんです。『戦争が終わった、ああ本当に良かった』というだけだったんです」

【翻訳編集】 AFPBB News

911とはずがたり:2016/09/11(日) 23:24:07

アメリカの原爆や空襲も国際法違反だしソ連の対日参戦も同じだ。
そしてアメリカの原爆とソ連の対日参戦が日本の降伏を導いた訳だ。

「約束守るべきだった」1945年の旧ソ連対日参戦、正当化論調に異議 KGB元大佐インタビュー
http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/160819/wor16081910190013-n1.html
2016.8.19 10:19

 第二次大戦後の北方領土問題や「シベリア抑留」の悲劇を生んだ旧ソ連の対日参戦(1945年8月9日)について、ロシアでは当時の日ソ中立条約(41年締結)の効力を否定して正当化する論調が強まっている。ソ連による抑留問題の実態を暴露したソ連国家保安委員会(KGB)元大佐の歴史家、アレクセイ・キリチェンコ氏(79)は産経新聞のインタビューに応じ、こうした見方が誤っていると論破した。一問一答は次の通り。

 --ソ連は45年4月5日、中立条約を延長しない旨を日本に通告した。これをもって、対日参戦に問題はなかったとの主張がある

 「ソ連のモロトフ外相は当時、日本の佐藤尚武大使に条約を延長する意思がないことを表明した。しかし、老練な佐藤大使は、条約が46年4月25日まで有効であることをモロトフに認めさせている。後にスターリン首相がこれを“修正”して対日参戦したということになるが、外相の約束は破られるべきでなかった」

 --ある日本専門家は最近の論文で、41年の日本軍人らの発言や松岡洋右外相の「北進論」を挙げ、日本には中立条約を守る意思がなかったと強調している

 「戦争のことを考えるのが軍人の仕事である。ソ連との戦争に反対する者が陸軍にも海軍にも存在していた。松岡は政府と見解が相いれず、同年7月に更迭されている。誰にどんな『計画』があったとしても、それに意味はない」

--ソ連の極東戦力が日本の対ソ攻撃を抑止したとも主張されている

 「実際には、日本は41年秋、満州の関東軍からの部隊引き抜きも含め、南方へと兵力を迅速に集中させた。9月にはソ連にも、当時の関東軍の構成では、日本に戦争はできないということが明らかだった。10月末には、スターリンが極東の軍や共産党指導者との少人数の会合を持ち、極東の部隊を西部(対ドイツ戦)に投じることが決まった。日本が攻撃してこないとの確信があったのだ」

 「ほかならぬ極東の部隊が41年11月7日にモスクワの『赤の広場』でのパレードを行い、そこから(西部の)戦闘に向かった。それによってモスクワは攻撃されることを免れたのだ。41年から43年の間に、極東から西部へと完全に訓練・武装された42個師団が振り向けられた」

 --満州からソ連への国境侵犯が頻発し、それが日本の「攻撃意図」の表れだともされている

 「日本はノモンハン事件(39年)以降、ソ連国境を破らないようにということを徹底していた。日中戦争があり、ソ連を挑発して『2正面』で戦うことはできなかったためだ。逆に、関東軍がソ連からの脱走兵や送り込まれた諜報員を収容所に入れていた事実があり、越境はソ連からの方が活発だったのではないか」

912とはずがたり:2016/09/11(日) 23:24:21
>>911-912

--ソ連はどう対日参戦に向かったのか

 「戦争の前半には、中立条約はソ連にとっても日本にとってもきわめて有利なものだったのだと考える。しかし、独ソのスターリングラード攻防戦(42〜43年)の後、ソ連は自らの力を認識し、日本との戦争準備を始めた。国防委員会は対日戦に備え、シベリア鉄道の予備支線としてコムソモリスク・ナ・アムーレ-ソビエツカヤ・ガバニ間の鉄道敷設を決め、それは予定された45年8月1日より数日早く完了している」

 --原爆投下でなく、ソ連こそが第二次大戦を終結させたのだとして対日参戦を正当化する主張も強い

 「満州の実態を見るならば、当時、片道分の燃料しかない航空機が380しかなく、その多くは8月半ばに日本に戻ってしまった。ソ連側は5000機以上も戦闘態勢にあったが、空中戦はほとんどなかった。満州には戦車もたいへん少なく、この頃には完全に弱体化していたというのが事実だ」

 --“公式史観”と異なる見方を公にする理由は

 「私は、日本をソ連の敵国の一つとして研究し始めた。だが、日本の現実を深く知るにつけ、ソ連とその後のロシアが少なからぬ過ちを犯し、それが今日に至るまで両国関係に本質的な影響を与えていることを理解した。むろん、日本も天使にはほど遠かった。将来の悲劇と困難を避けることには意味があると考える」(モスクワ 遠藤良介)

 ソ連の対日参戦 ソ連軍は1945年8月9日、当時有効だった日ソ中立条約を破って日本に対する戦闘を開始し、満州(中国東北部)や樺太(サハリン)などに侵攻。日本がポツダム宣言を受諾し、15日に終戦の詔書が発表された後も一方的な侵略を続けた。ソ連軍が日本の北方四島を占拠し終えたのは、日本が降伏文書に調印した9月2日よりも遅い同5日だった。ソ連はまた、武装解除した日本将兵など約60万人を旧ソ連各地に連行して強制労働を課し、6万人以上の死者が出た(「シベリア抑留」)。

 ◆アレクセイ・キリチェンコ氏 ソ連国家保安委員会(KGB)元大佐、ロシア科学アカデミー東洋学研究所上級研究員。1936年、旧ソ連のベラルーシ生まれ。64年にKGB大学を卒業しKGB第2総局で対日防諜を担当。80年代に研究所入りして日本人強制抑留問題に取り組み、日露間での真相解明に向けた原動力となった。著書に「知られざる日露の二百年」(現代思潮新社)がある。

913名無しさん:2016/09/19(月) 20:46:04
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160912-00050105-yom-pol
新党大地・鈴木代表と三浦瑠麗氏、日露関係議論
読売新聞 9月12日(月)23時33分配信

 新党大地の鈴木宗男代表と国際政治学者の三浦瑠麗氏が12日、BS日テレの「深層NEWS」に出演し、日露関係について議論した。

 鈴木氏は今月2日に行われた安倍首相とプーチン大統領の会談について「(首脳間で)相当な信頼関係ができ、(北方領土問題解決に)お互い自信を持っているのではないか」と評価。色丹、歯舞の2島引き渡しを明記した1956年の「日ソ共同宣言」を「(交渉の)スタートライン」と強調した。三浦氏は「(2島返還で)手打ちとなったときの日本国民の怒りは甘く見てはいけない」と述べた。

914名無しさん:2016/09/19(月) 22:56:35
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016091900201&amp;g=pol
安倍首相から「おわびの手紙」を=元慰安婦支援の韓国財団要請

 【ソウル時事】慰安婦問題をめぐる日韓政府間合意に基づき設立された韓国の「和解・癒やし財団」(金兌玄理事長)が、安倍晋三首相から元慰安婦に宛てた「おわびの手紙」を要請していることが分かった。財団関係者が19日明らかにした。

 財団は日本政府からの10億円の入金を受け、生存者1人につき約1000万円、死亡者には約200万円支給することになっており、支給の際に手紙を添えて渡したい考えという。
 一部の元慰安婦は「日本政府は責任を認めておらず、謝罪もしていない」と主張。受け取りを拒否する立場を示している。首相名の手紙要請は合意に反発している元慰安婦や関連団体を説得する狙いもあるとみられる。 
 昨年12月28日、日韓外相が合意を発表した際、日本政府は慰安婦問題への旧日本軍の関与を認め、安倍首相名で「心からのおわびと反省の気持ち」を表明した。だが、韓国では岸田文雄外相の「代理謝罪」と受け止める向きもあり、韓国民間機関が今月2日公表した世論調査では、「日本は謝罪していないとみている」という回答が84%に上っている。(2016/09/19-16:26)

915名無しさん:2016/09/24(土) 11:54:30
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20160922-OYT1T50090.html
北方領土、2島返還が最低限…対露交渉で条件
2016年09月23日 06時07分
 政府は、ロシアとの北方領土問題の交渉で、歯舞群島、色丹島の2島引き渡しを最低条件とする方針を固めた。

 平和条約締結の際、択捉、国後両島を含めた「4島の帰属」問題の解決を前提としない方向で検討している。安倍首相は11月にペルー、12月には地元・山口県でロシアのプーチン大統領と会談する。こうした方針でトップ交渉に臨み、領土問題を含む平和条約締結に道筋をつけたい考えだ。

 複数の政府関係者が明らかにした。択捉、国後については日本に帰属するとの立場を堅持する。その上で、平和条約締結後の継続協議とし、自由訪問や共同経済活動などを行いながら、最終的な返還につなげる案などが浮上している。

(ここまで290文字 / 残り595文字)
2016年09月23日 06時07分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

916とはずがたり:2016/09/29(木) 17:37:55
面倒くさいけど何故今実現?
>このタイムカプセルの存在は何十年もの間知られていたが、カプセルに近づくには、ナチスの地雷を避け、施設の地下の分厚いコンクリートを貫かねばならず、複雑な掘削計画と根気のいる作業が必要だった。

ナチス・ドイツが80年以上前に埋めたタイムカプセルが発見される(ポーランド)
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52225318.html
2016年09月29日

 ポーランドの北西部の都市にて、ナチス・ドイツが80年以上も前に埋めたタイムカプセルが発掘され、ポーランドの国立博物館で開封作業が行われた。このカプセルはかつてのドイツ領に建てられたナチスの訓練施設の下に埋まっていたものだった。

 ようやく発掘されたタイムカプセルの中にはヒトラーの著作やナチスにまつわる物品のほか、発掘者を想定した手紙などが入っていたという。

 これらの品が入っていたタイムカプセルは、ポーランド北西部のズウォチェニエツナチス(旧ドイツ領)で、当時その地に建設されたナチスの労働者や職員の教育や訓練を行う施設の下に埋められていた。

 カプセルの形状は大きな黒色の円筒で、埋められた日はその施設の建設開始と同時期である1934年の4月22日とみられている。

 このタイムカプセルの存在は何十年もの間知られていたが、カプセルに近づくには、ナチスの地雷を避け、施設の地下の分厚いコンクリートを貫かねばならず、複雑な掘削計画と根気のいる作業が必要だった。

917名無しさん:2016/10/01(土) 20:04:32
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016092900593&amp;g=pol
慰安婦合意で追加措置を=「おわびの手紙」念頭-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は29日の記者会見で、昨年末の慰安婦問題をめぐる日韓政府間合意に関連し、「日本側が慰安婦被害者の心の傷を癒やすため、感情に訴える追加的な措置を取ることを期待している」と述べた。「安倍(晋三)首相が元慰安婦におわびの手紙を書くべきだという主張が日本でも出ており、政府の立場を聞きたい」という質問に答えた。
 日韓合意に一部元慰安婦や関連団体が反発する中、合意に基づき設立された韓国の「和解・癒やし財団」(金兌玄理事長)は、安倍首相からの「おわびの手紙」を元慰安婦に渡す案を検討しており、報道官は韓国政府としても後押しする立場を明確にした。 
 財団の金理事長は取材に対し、「被害者や関連団体は、日本政府がもっと感情に訴える措置を取るべきだと強く求めており、財団内にも(そうした措置に向け)努力すべきだという意見がある」と説明している。(2016/09/29-15:31)

918名無しさん:2016/10/01(土) 20:45:33
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016093000212&amp;g=pol
「おわびの手紙」に消極的=岸田外相

 岸田文雄外相は30日の閣議後の記者会見で、慰安婦問題をめぐる日韓合意に基づき設立された韓国財団が安倍晋三首相による元慰安婦宛ての「おわびの手紙」を求めていることについて、「日韓合意は昨年12月に発表した通りだ。追加的な措置は一切合意されてはいない」と述べ、消極的な考えを示した。(2016/09/30-09:51)

919名無しさん:2016/10/02(日) 18:06:40
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100100317&amp;g=pol
北方領土交渉、2島では駄目=自民・石破氏

 自民党の石破茂前地方創生担当相は1日、東京都内で開かれたパネルディスカッションで、安倍晋三首相が意欲を示すロシアとの北方領土交渉について「4島一括(返還)が一番望ましい」と語った。その上で「仮に(歯舞、色丹の2島)先行だとしたら、あとの2島がどうなるか、先送ってはいけない話だ」と述べ、国後、択捉両島の返還についても同時に道筋を付けるよう求めた。 
 政府が臨時国会への提出を見送った「共謀罪」創設のためのテロ対策関連法案については、来年の通常国会冒頭での衆院解散が取り沙汰されていることに絡め、「次の国会で、この法律だけはきちんと成立させて解散する。それは私たちが国民に対して果たすべき責任だ」と、法整備の必要性を訴えた。(2016/10/01-22:24)

920名無しさん:2016/10/09(日) 09:56:01
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100300024&amp;g=pol
安倍首相「北方四島の帰属解決」=慰安婦へおわびの手紙否定-衆院予算委

 安倍晋三首相は3日の衆院予算委員会で、ロシアとの北方領土問題を含む平和条約交渉について「四島の帰属問題を解決して平和条約を締結していく考えに変わりはない」と述べ、従来の政府方針は不変と説明した。民進党の前原誠司元外相が「(歯舞群島と色丹島の)2島先行返還はあり得るか」とただしたのに対して答えた。

 また、ロシアによるウクライナ南部クリミア半島併合に関し「現状変更の試みは認めるわけにはいかないというのが日本の一貫した立場だ。それを率先して変えることはない」と表明。米政府はウクライナ情勢を理由に対ロ関係進展に慎重な対応を日本に求めているが、首相は12月のプーチン大統領訪日について「米国側から基本的に了解されている」と述べた。
 その上で「どういう考え方で訪日を実現しようとしているか、どう平和条約交渉を進めていくか(米側に)説明している」と語った。
 慰安婦問題をめぐる日韓合意に基づき韓国政府が設立した財団が、首相による元慰安婦宛ての「おわびの手紙」を求めていることについて、首相は「(合意)内容の外であって、毛頭考えていない」と否定。「合意内容を両国が誠実に実行していくことが求められる」とも語り、追加的な要求は受け入れられないとの立場を示した。民進党の小川淳也氏への答弁。 (2016/10/03-12:10)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100400785&amp;g=pol
おわびの手紙、応じぬ構え=追加要請に政府不快感-慰安婦問題

 元慰安婦を支援する韓国の財団が安倍晋三首相の「おわびの手紙」を求めている問題で、日本政府が不快感を強めている。手紙の送付は、財団設立などに関する昨年末の日韓両政府の合意に含まれておらず、韓国側が追加で要請してきたためだ。ソウルの日本大使館前の少女像撤去に進展が見られない中、日本は手紙の要請には応じない構えだ。
 首相は3日の衆院予算委員会で、手紙の要請への対応について「(合意)内容の外であって、毛頭考えていない」と強調。岸田文雄外相も4日の記者会見で「合意は日韓両国外相が発表した内容に尽きている。それ以上でも以下でもない」との認識を示した。
 村山富市氏から小泉純一郎氏までの各首相は、「女性のためのアジア平和国民基金」を通じた元慰安婦支援事業に関連して「おわびと反省」を表した手紙を送ってきた。韓国側はこうした手紙を念頭に置いているとみられ、日韓合意に反発する国内勢力の理解を得る材料としたい考えだ。
 しかし、日本政府は合意に基づく財団への10億円拠出で「やるべきことはやった」との立場。手紙を追加要請した韓国側の対応について、政府高官の一人は「ゴールポスト(決着点)を動かすものだ」と厳しく批判する。別の政府関係者は「相手にしないのが一番」と切り捨てた。
 自民党内でも、要請に応じない政府の姿勢を支持する声が多い。新藤義孝前総務相は4日、島根県・竹島問題に関する集会告知の記者会見で「後からハードルを上げるのは絶対に受け入れられない」と語った。(2016/10/04-19:35)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100400600&amp;g=pol
慰安婦問題で日本と協力継続=「手紙否定」言及せず-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は4日の記者会見で、安倍晋三首相が元慰安婦宛ての「おわびの手紙」に関し「毛頭考えていない」と断言したことについて見解を問われ、「言及を控える」と述べた。一方で、「(慰安婦)合意の精神と趣旨を尊重し、被害者の名誉、尊厳の回復、心の傷の癒やしが早期に実現するよう日本側と引き続き協力していく」と強調した。
 報道官は先に「日本側が追加的な措置を取ることを期待している」と語っており、「おわびの手紙」を含め、合意を後押しする措置を引き続き求めていく考えを示唆したとみられる。 (2016/10/04-15:55)

921名無しさん:2016/10/09(日) 09:56:12
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100300835&amp;g=pol
2島先行返還が現実的=鈴木宗男氏

 地域政党「新党大地」の鈴木宗男代表は3日のBSフジの番組で、北方領土交渉に関し、歯舞、色丹2島の返還を実現させ、国後、択捉2島に関する協議を継続する「2島先行返還」が「一番現実的だ」との認識を示した。

 鈴木氏は「私の受け止めでは、安倍晋三首相も現実的な解決しかない、1956年の日ソ共同宣言から60年の節目の年に、大きな決断をしなくてはいけないという強い意志を持っている」と指摘した。 (2016/10/03-23:32)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100500783&amp;g=pol
北方四島、帰属譲らず=戦略対話前に日本けん制-ロシア

 【モスクワ時事】ロシア外務省のザハロワ情報局長は5日、日本との北方領土問題について「ロシアの立場は一貫しており不変だ。(四島は)第2次大戦の結果、ロシアに帰属しており、ロシアが主権を持つことに疑問の余地はない」と述べた。モスクワで外務次官級の日ロ戦略対話が近く開催されるのを前に声明を出した。

 安倍晋三首相は3日、衆院予算委員会で「四島の帰属問題を解決して平和条約を締結していく考えに変わりはない」と表明したばかり。プーチン大統領の12月の公式訪日を前に日本国内で領土問題解決への期待が高まっていることを踏まえ、ザハロワ局長は改めて日本側をけん制した格好だ。(2016/10/05-19:52)

922名無しさん:2016/10/09(日) 13:09:41
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100600462&amp;g=pol
戦没者遺品の取引「自粛を」=閣僚が呼び掛け-参院予算委

 6日の参院予算委員会で、戦没者の遺品がインターネットのオークションサイトで取引されていることについて、閣僚からサイト運営会社などに出品自粛を促す発言が相次いだ。
 質問した自民党の有村治子氏は「遺族に返還されるべきものだ」と、ネット上の売買に疑問を呈した。これに対し、塩崎恭久厚生労働相は「ご遺族の心情を害する」と述べ、世耕弘成経済産業相も「遺品の横に値段が付いて並んでいる姿は、はっきり言って見るに堪えない」と語り、ともに取引自粛を訴えた。
 岸田文雄外相は「大変心の痛む思い」と述べた上で、米国などの在外公館を通じて遺品の提供を呼び掛け、遺族への返還を進める考えを示した。(2016/10/06-14:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100700844&amp;g=pol
幕府軍、西郷隆盛の合祀を=超党派議員ら靖国に申し入れへ

 超党派の国会議員らが12日、戊辰戦争で旧幕府軍として戦った会津藩など諸藩の将兵や、西南戦争で敗死した西郷隆盛ら、幕末・明治時代に新政府と対立し「賊軍」とされた人々を合祀(ごうし)するよう靖国神社(東京都千代田区)に申し入れる。石原慎太郎元東京都知事や亀井静香元金融担当相らが呼び掛けた。
 申し入れ書は「西郷氏ら賊軍と称された方々も、近代日本のために志を持って行動したことは勝敗の別なく認められるべきだ。過去の内戦で亡くなった全てのみ霊を合祀(ごうし)願う」と要請。天皇陛下の靖国神社参拝についても「国家安寧のために必須と信ずる」としている。(2016/10/07-20:41)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100700292&amp;g=pol
明治維新150年で記念施策

 菅義偉官房長官は7日の閣僚懇談会で、2018年に明治維新から150年となることを記念し、関連施策の検討を始めるよう各省庁に指示した。具体策を調整する連絡会議も設置する。
 菅長官はこの後の記者会見で、「わが国にとって一つの大きな節目になる。明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは極めて重要だ」と強調。国立公文書館の移転・新設に伴い、明治期に関する資料の収集・整理、デジタル化を推進する方針を説明するとともに、地方公共団体や民間の取り組みを支援する意向も明らかにした。(2016/10/07-17:22)

923名無しさん:2016/10/09(日) 22:55:51
日本のもう一人のキングの末裔

http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/02/higa-manami_n_12302650.html
比嘉愛未「琉球王朝の末裔だった」 101歳の曾祖母から明かされたと報告
ORICON STYLE | 執筆者: オリコンNewS
投稿日: 2016年10月03日 09時00分 JST 更新: 2016年10月03日 09時00分 JST HIKA

比嘉愛未、琉球王朝の末えいだった 101歳の曾祖母から知らされ「ビックリした」

女優の比嘉愛未が2日、都内で行われた映画『カノン』公開記念舞台あいさつに登壇。同作の内容にちなみ「家族から聞いてビックリしたことは?」とのテーマで、「最近(地元の)沖縄に帰った時に、101歳のひいおばあちゃんから『ウチは、琉球王朝の末えいだったんだよ』と言われました」と明かした。

会場がどよめく中、比嘉は「家の額縁に不思議な紋章が掲げられていて『あれ、何?』と聞いてみたら、そういう風に言われまして…」と説明。「そんなスゴいことを何で言ってくれなかったんだろうという、ビックリした感じがありました」と笑顔を見せると、MCも「ずいぶんの品のある顔をされているので、その流れでということですね」と納得した様子で語っていた。

同作は、祖母が遺した手紙により死んだはずの母が生きていたことを知らされた三姉妹が、自分たちの傷に向き合いながら未来への一歩を踏み出そうとする物語。過去のトラウマを乗り越えようとする次女役を比嘉、夫からの自立を願う専業主婦の長女役をミムラ、老舗料亭の新女将としてのプレッシャーと戦う三女役を佐々木希が演じる。

舞台あいさつにはそのほか、ミムラ、佐々木、鈴木保奈美、桐山漣、多岐川裕美、雑賀俊朗監督も登壇した。同映画は10月1日より公開中。

924名無しさん:2016/10/11(火) 00:21:49
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161005-00000003-pseven-soci
靖国「賊軍」合祀計画に会津出身者「戊辰戦争の総括が必要」
NEWS ポストセブン 10月5日(水)7時0分配信

 2019年に創立150周年を迎える靖国神社に祀られるのは「国のために殉じた人々」だけである。つまり神社がつくられた当時の「国=明治政府」に刃向かった幕府軍・会津軍や、西南戦争で敗れた西郷隆盛らは「賊軍」となるため、祀られる“資格”がない。

 だが、彼らの合祀を求める会を国会議員らが立ち上げ、靖国神社に申し入れをするというのだ。発起人を務めるのは保守派の重鎮、亀井静香・衆院議員。そのほか森喜朗氏や福田康夫氏ら首相経験者、二階俊博・自民党幹事長ら与党幹部、さらに、野党議員など70人を超える政治家の賛同を得ているという。

 政界重鎮たちによる申し入れは無視できない重みがありそうだが、そもそも靖国神社への合祀は可能なのか。靖国神社は、この動きについて「存じておりません」とした上で、「当神社は明治2年の御創建から終戦に至るまで、当時の国の合祀判断に基づき、その都度合祀が重ねられてまいりました。当時に遡り、その基準を変更することはございません」と否定的だ。

 だが戦後、靖国神社は国家機関から民間の宗教法人となった。そのため、合祀の可否は神社の最高責任者である宮司の判断に委ねられる部分が大きい。1978年10月には、当時の松平永芳宮司の判断で、A級戦犯14人が合祀されている。亀井氏は自信を見せる。

「A級戦犯とは異なり、中国も文句は言わないだろう。神社と一体となって事業を行なう靖国神社崇敬奉賛会の理解が必要なので、同会の扇千景会長(元国交相)にも根回しを進めている。ただし、最終的な権限は宮司にあるはずなので、徳川(康久)宮司の背中を押したい」

 今回の申し入れについて、当事者の受け止めは様々だ。明治維新後、司法卿として司法制度確立に尽力した江藤新平は征韓論を唱えた西郷隆盛に同調して下野した後、「佐賀の乱」を起こして敗れた「賊軍」だが、佐賀県選出の原口一博・衆院議員(民進党)は合祀に賛同し、提出者を買って出た。

925名無しさん:2016/10/11(火) 00:22:32
>>924

「『乱』という表現は支配者サイドからの観点であり、佐賀県民は江藤の反乱を『佐賀の乱』ではなく、『佐賀の役』と言います。支配者側の一方的な見方ではなく、日本の夜明けのために命を失った方々を改めて評価するのは重要なことです。英霊を鎮魂する場である靖国に敗者を合祀することで、平和への祈りにもなるはずです」

 一方、戊辰戦争の「賊軍」代表、会津出身の小熊慎司・衆院議員(民進党)は、「合祀には賛成」としつつも、複雑な思いをのぞかせる。

「戊辰戦争では会津側の戦死者が長期間、放置されるなど非人道的行為もあった。1864年の蛤御門の変では、会津と薩摩が御所を守り、長州が御所に発砲した賊軍です。それなのに維新後、その長州で維新への功績もない人物までが祀られたのは明らかにおかしい。単なる官軍と賊軍の戦いという見方を改めるためにも、合祀の前に戊辰戦争の総括が必要です」

 会津藩が戊辰戦争で降伏した9月22日に会津で行なわれる会津戊辰戦争慰霊の集いでは、さっそくこの話題が上がったという。しかしながら、合祀は靖国神社の意義を揺るがしかねない問題を孕む。『靖国誕生 幕末動乱から生まれた招魂社』の著者で歴史家の堀雅昭氏が指摘する。

「靖国神社は紛れもなく、明治維新の官軍vs賊軍という戦いの延長線上にある神社です。西郷以下、西南戦争を戦った面々は鹿児島の照国神社に祀られている。それぞれの故郷で祀られ、語り継がれることで、賊軍として戦った意味や、維新の『負の側面』が語り継がれます。安易な合祀は、賊軍側の行為まで蔑ろにしかねない。なによりこれを認めたら、靖国神社が依って立つ歴史的基盤がおかしくなってしまいます」

 賛否両論が渦巻く靖国合祀。当の亀井氏も敗者側の複雑な思いを認める。

「新たに合祀する側の遺族の意向は聞きません。なかには、複雑な感情を抱えて、『もう触れないでくれ』という方もいるだろうが、これまでも合祀に遺族の了承は取っていない。われわれが崇敬の心をもってお祀りするということ。合祀については、あとは宮司の対応を待つのみです」

 折しも2018年の大河ドラマが「西郷隆盛」に決まり、賊軍側に注目が集まっている。靖国神社の歴史観と自らの信念の間で、宮司はどのような判断を下すのだろうか。

※週刊ポスト2016年10月14・21日号

926名無しさん:2016/10/11(火) 00:24:00
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161004-00000010-pseven-soci
靖国神社150周年 西郷隆盛や幕府軍の合祀計画が急浮上
NEWS ポストセブン 10月4日(火)7時0分配信

 来る2019年に創立150周年を迎える靖国神社が、歴史的な大転換点を迎えるかもしれない。靖国に祀られるのは「国のために殉じた人々」だけである。つまり神社がつくられた当時の「国=明治政府」に刃向かった幕府軍・会津軍や、西南戦争で敗れた西郷隆盛らは「賊軍」となるため、祀られる“資格”がない。

 だが、彼らの合祀を求める会を国会議員らが立ち上げ、靖国神社に申し入れをするというのだ。発起人を務める保守派の重鎮、亀井静香・衆院議員が言う。

「日本は戊辰戦争、西南戦争という内戦を経て近代国家に生まれ変わった。当時は薩長と幕府・会津が二手に分かれて対立したが、敗者がいるからこそ争いが鎮まった。明治維新から150年も経つのに、内戦の死者が『賊軍』として祀られないのはおかしい。そこで有志に呼びかけて会を立ち上げ、靖国神社に合祀を求める申し入れをすることにした」

 歴史を繙(ひもと)くと、靖国神社のルーツは明治2年(1869年)に建てられた「東京招魂社」に遡る。戊辰戦争、士族の乱などで命を落とした薩摩・長州軍らを「官軍」として慰霊顕彰し、明治維新を偉業として後世に伝えるための社だった。そのため官軍と戦って破れた幕府軍、会津軍らは「賊軍」とされ、祀られなかった。明治12年に社号が「靖国神社」に改められて以降も、「賊軍史観」は変わっていない。

 これに一石を投じたのが、現在の靖国神社宮司・徳川康久氏である。第15代将軍・徳川慶喜を曾祖父にもつ徳川宮司は、徳川家康を祀った芝東照宮に奉職した後、靖国神社の宮司となった。「賊軍の長の末裔」が「官軍を祀る神社のトップ」に就任したのである。
 
 2013年1月の就任時、「幕末の動乱期、曾祖父の慶喜は身を挺して朝廷と御所を守った」と発言して注目された徳川宮司は、今年6月に共同通信のインタビューで、自らの「明治維新史観」を一歩進めてこう語った。

〈文明開花という言葉があるが、明治維新前は文明がない遅れた国だったという認識は間違いだったということを言っている。江戸時代はハイテクで、エコでもあった〉

927名無しさん:2016/10/11(火) 00:24:24
>>926

〈私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった〉

「公式見解」を覆す靖国神社の根幹にかかわる大胆な発言だったが、記事は一部の地方紙にのみ掲載されたのみで反響は少なかった。しかし本誌・週刊ポスト7月1日号が、「徳川宮司『明治維新という過ち』発言の波紋」とのタイトルで大々的に報じると状況は一変し、靖国関係者や政界関係者に大きな波紋を呼んだ。

◆宮司は「私もそう思う」

 亀井氏も本誌報道に影響されたと明かす。

「私は以前からこの問題に関心があり、ポストの記事が出た後、徳川宮司に会って、『それでは、具体的に靖国合祀を呼びかけますよ』と話した。3年ほど前、徳川宮司に『賊軍が祀られてないのはおかしい』と尋ねると、『私もそう思う』と言われたことがあって以来、ずっと構想を練っていた」

 靖国神社への「合祀申し入れ書」はすでに作成済みで、こんな文面となっている。

〈白虎隊や新選組、西郷南州(西郷隆盛)、江藤新平などの賊軍と称された方々も近代日本のために志をもっていたことは、勝者、敗者の別なく認められるべきで、これらの諸霊が靖国神社に祀られていないことは誠に残念極まりないことです〉

〈有史以来、日本人が育んできた魂の源流を今一度鑑み、未来に向けて憂いなき歴史を継いでいくためにも、靖国神社に過去の内戦においてお亡くなりになった全ての御霊を合祀願うよう申し出る次第です〉

 亀井氏によると、今回の申し入れには、森喜朗氏や福田康夫氏ら首相経験者、二階俊博・自民党幹事長ら与党幹部、さらに、野党議員など70人を超える政治家の賛同を得ているという。

「山口(長州)出身の安倍首相にも申し入れ書は渡してある。政教分離の原則があるから、立場上『やれ』とは言えないだろうが……。多くの政治家に受け入れられているが、自民党の日本会議系議員の何人かは反対のようだ。彼らは皇国史観に立ち、『なぜ今さら賊軍を祀るのか』という考え方なので話にならない(苦笑)」

 この10月初旬にも、亀井氏、森氏、そして民進党の原口一博・衆院議員の3氏が靖国神社に赴き、徳川宮司に文書を手渡す予定だ。

※週刊ポスト2016年10月14・21日号

928とはずがたり:2016/10/11(火) 08:34:42
俺も西郷軍や旧幕府軍を祀ってないから靖国は日本国民(や日本の為に犠牲になった台湾や韓国・北朝鮮の方々)全体の忠魂の組織たりえないと思ってたけど,西郷軍や旧幕府軍の合祀には反対だなぁ。
じゃあ佐賀の江藤はどうなるとかそういうのではなく,帝国主義というトチ狂った時代ではあったけど日本が列強として活躍した時代の価値観をそのまま保守しとく組織として残しとくべきで,東条なんかの分祀は絶対にせず東京裁判も頑として認めないし从って現行憲法下の政治家なんかは絶対に参詣出来ないそういう施設であって欲しい。

929とはずがたり:2016/10/13(木) 21:43:26
東洋のセシル・ローズを自認する帝国主義者。首相が外相兼務した田中義一内閣で当選二回ながら事実上の外相格の外務次官に就任し東方会議を開催。
五・一五事件でさあこれからという時に病に斃れ死去。彼が死んでも日本の帝国主義政策が停まる事はなかった訳だが。一応政党政治家の森が首班となったら軍国主義を少しは抑制できたのかねぇ?

森恪
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%81%AA

森 恪(もり かく、1882年(明治16年)2月28日 - 1932年(昭和7年)12月11日)は、昭和戦前期の日本の政治家、衆議院議員。名の「恪」を「かく」と読むのは有職読みで、本来の読みは「つとむ」。
「東洋のセシル・ローズ」を自認した帝国主義者。軍部と提携し、日本の中国侵出に大きな役割を果たした。

経歴[編集]
1882年2月28日[1]、大阪府大阪市西区江戸掘に生まれる。父は判事・大阪市議会議長を務めた森作太郎。慶應義塾幼稚舎を卒業したが、成績不良と素行不良のため慶應義塾普通部に進めず、大阪に帰郷。その後、東京商工中学校卒業。1901年(明治34年)東京高等商業学校(現一橋大学)入学試験に不合格となる。
父と旧知の仲であった三井物産上海支店長で、後年、立憲政友会幹事長、南満州鉄道総裁を歴任する山本条太郎の縁故で、同支店支那修業生として中国に渡る。上海支店社員時代に中国語(北京語、広東語)、英語に通じたほか、日露戦争では、東シナ海洋上を接近するバルチック艦隊の航跡をいち早く発見、打電して、日本海海戦の勝利に民間から貢献した。また、辛亥革命では孫文に対し革命資金の斡旋を行った。三井物産天津支店長を経て、1916年(大正5年)に上仲尚明と共に塔連炭砿鉱業権を得ると、翌1917年(大正6年)より東洋炭砿、小田原紡績、東洋藍業、東洋製鉄など次々と事業を興して事業家となった。

1918年(大正7年)に政友会に入党して政界に進出、党に多額の献金(推定5万円)をする。1920年(大正9年)に三井物産を退社し、政友会公認で神奈川県第7区(足柄上郡・足柄下郡)から第14回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。選挙に多額の資金をつぎ込み、金の出所をめぐり「満鉄事件」といわれる疑獄事件に発展している。この疑惑がたたり、次の第15回衆議院議員総選挙では落選する。その間1923年(大正12年)には政友会院内幹事となっている。1925年(大正14年)、栃木県選出の横田千之助が亡くなると、横田の地盤を引き継いで補欠選挙に当選し、国政に復帰する。1927年(昭和2年)田中義一内閣で外務政務次官に就任する。当選2回でありながら政務次官となるのは異例のことであったため、党内からは反対論が噴出したが、院外団の支持と、森が地盤を受け継いだ横田千之助が田中義一を陸軍から政界に進出させた立役者であったため、就任にこぎつけた。田中義一首相が外務大臣を兼摂(兼任)したため、森は政務次官ながら事実上の外相として辣腕を振るう。田中政権下で対中国強硬外交を強力に推進し、山東出兵、東方会議開催などに奔走した。また、満蒙を中国本土から分離することを目論み、張作霖爆殺事件にも関係を取りざたされた。

田中内閣が総辞職すると、1929年(昭和4年)政友会幹事長に就任する。ロンドン海軍軍縮条約をめぐり、1931年(昭和6年)2月、首相臨時代理の幣原喜重郎外相を攻撃し、浜口内閣を揺さぶる。第2次若槻内閣を経て、同年12月13日政友会の犬養内閣が成立すると内閣書記官長となる。しかし、軍部との関係を政治基盤としていた森と、生粋の政党政治家である犬養は、大陸政策をめぐって対立する。森は犬養に対して内閣改造を提言するが容れられず、辞表を提出、預かりとされる。1932年(昭和7年)5月15日の五・一五事件では、会心の笑みを漏らした様子が語られている。同年7月に発病。12月11日、持病の喘息に肺炎を併発し、滞在先の鎌倉海浜ホテルにて十河信二と鳩山一郎・薫夫妻に看取られ死去。享年50。

930名無しさん:2016/10/14(金) 22:41:46
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100900067&amp;g=pol
四島返還「2段階論」浮上=国後・択捉先送りも-政府

 ロシアとの北方領土交渉をめぐり、歯舞群島と色丹島の返還合意で平和条約を締結し、残る国後、択捉両島は将来の課題として先送りする「2段階論」が政府内で浮上している。北方領土問題の解決に強い意欲を示す安倍晋三首相は11月にペルーで、12月には地元の山口県長門市にロシアのプーチン大統領を迎えて会談する。四島一括での返還合意にこだわらない柔軟な姿勢で臨み、領土問題の活路を見いだしたい考えだ。

 複数の政府関係者によると、国後、択捉両島は当面、両国政府の共同管理とし、協力して開発や経済振興に取り組む案などが検討されている。日本から旅券や査証(ビザ)なしでの訪問も拡大し、交流を促進する。両島の返還については、時機を見て話し合いを行う。
 歯舞群島と色丹島の先行返還が実現すれば、日本の排他的経済水域(EEZ)が拡大することになる。政府は領土交渉と併せて漁業権についても議題とする方針だ。
 歯舞群島と色丹島の扱いに関し、旧ソ連との国交を回復した1956年の日ソ共同宣言には「平和条約締結後に引き渡す」と明記されている。それでも、旧島民や保守層の一部には、なお一括返還を求める声が根強く、かつては日本政府もそうした立場を重視していた。
 しかし、ロシアが「第2次世界大戦の結果、(北方四島は)自国領になった」と主張し、平行線をたどってきた日ロ交渉の現実を直視。関係者によると、首相は「一括返還合意に固執すれば問題解決の妨げになる」として、「新しいアプローチ」が必要だと判断しているという。(2016/10/09-19:20)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101100201&amp;g=pol
北方領土交渉「幅広い選択肢で」=岸田外相、2島先行返還に含み

 岸田文雄外相は11日の閣議後の記者会見で、ロシアとの北方領土交渉に関し、「立場の隔たりがある中での交渉で、幅広いオプションを議論していく」と述べた。岸信夫外務副大臣が北方四島のうち歯舞群島と色丹島の先行返還も排除しない考えを示した、との一部報道に関する質問に答えたもので、2島先行に含みを持たせた形だ。
 岸氏は日本テレビのインタビューで「2島先行返還も選択肢か」と問われたのに対し、「できるだけ広いオプションの中で解決策を見いだしていく」などと語った。これについて外相は「当然のことを発言した」との認識を示した。(2016/10/11-10:12)

931名無しさん:2016/10/15(土) 14:01:53
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161014/k10010730241000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_007
元慰安婦29人 日韓合意に基づく支援受け入れ
10月14日 19時36分
慰安婦問題での日韓両政府の合意をめぐって、元慰安婦への支援事業を実施するため韓国政府が設立した財団は、これまでに元慰安婦29人が合意に基づく支援を受ける考えを示し、来週から現金の支払いを始めることを明らかにしました。
去年12月の慰安婦問題をめぐる日韓両政府の合意では、韓国政府が設立した「和解・癒やし財団」に日本政府が10億円を拠出し、元慰安婦245人を対象に支援事業を行うことになりました。

財団は14日、合意の時点で生存していた46人のうち、これまでに29人が面会に応じ、合意に基づく支援を受ける考えを示したと発表しました。そのうえで、支援事業の内容について、元慰安婦本人に対し日本円で1000万円程度、合意の時点で亡くなっている場合は遺族に200万円程度とし、来週から、現金の支払いを始めることを明らかにしました。

ただ、合意をめぐって韓国では、市民団体を中心に日本の法的責任が認められなかったなどとして反対する声が根強くあり、財団との面会を拒否している人もいます。
これについて財団は「被害者の方々と痛みを共有し、心の傷を癒やすため、すべての元慰安婦や遺族の方々と面会したい」として、引き続き支援事業への理解を求めていくことにしています。財団のキム・テヒョン(金兌玄)理事長は「支援を受けようとしない方々に対しては、日本政府が謝罪し反省したことも説明しながら引き続き説得していきたい」と述べました。

一方、ソウルの日本大使館前にある慰安婦問題を象徴する少女像を支援事業と引き換えに撤去するのではないかと、市民団体などから指摘されていることについて、キム理事長は「日本政府から拠出された10億円は元慰安婦の方々の心の傷を癒やす支援事業のためのもので、少女像の撤去とは別の問題だと考えている」と述べ、財団が行う活動とは関係がないという認識を示しました。
官房長官「誠実に合意履行が大事」
菅官房長官は午後の記者会見で、「日韓それぞれが昨年末の日韓合意にもとづいて、責任を持って合意を実践することが極めて重要だ。日本は合意に基づいて10億円を拠出したわけだが、そうした中で財団によって事業が行われることについては歓迎したい。引き続き合意を誠実にお互いが履行することが大事だ」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161012/k10010727511000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_047
「西郷隆盛や白虎隊も靖国神社に合祀を」亀井氏ら
10月12日 20時39分
亀井静香衆議院議員や石原元東京都知事らは、12日、靖国神社を訪れ、西郷隆盛や白虎隊など明治維新前後の戦いで敗れた人たちも近代日本のために志を持って行動したことは認めるべきだとして、神社に合祀するよう申し入れました。
申し入れを行ったのは、亀井静香衆議院議員と石原元東京都知事のほか、自民党の平沢元内閣府副大臣と民進党の原口元総務大臣の4人です。
4人は、戊辰戦争で敗れた白虎隊や新選組、それに、西南戦争で敗れた西郷隆盛などは「賊軍」とされて靖国神社に祭られていないが、近代日本のために志を持って行動したことは、勝者、敗者に関係なく認めるべきだとして、神社に合祀するよう申し入れました。
このあと、亀井氏は記者団に対し、「神社側は『直ちに承知するとは言えない』ということだったが、いろいろ皆さんと相談されると思う。靖国神社は日本人の心のふるさとのような所だ。この問題には、右も左もなく、国民の中にも理解が広がっていってるので、われわれはそういう声を靖国神社に届けたい」と述べました。

932名無しさん:2016/10/15(土) 18:17:46
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101200617&amp;g=pol
「賊軍」の靖国合祀要請=石原元都知事らが宮司に

 石原慎太郎元東京都知事と超党派の有志衆院議員が12日、東京・九段北の靖国神社で徳川康久宮司と会い、幕末・明治時代に新政府との争いに敗れて「賊軍」とされた人々を同神社に合祀(ごうし)するよう申し入れた。これに対し、徳川氏は「直ちにそうするとは言えない」と慎重な姿勢を示した。
 要請に訪れた議員は自民党の平沢勝栄、民進党の原口一博、無所属の亀井静香の各氏。「賊軍と称された方々も、近代日本のために志を持って行動した」として、旧幕府軍の将兵や西南戦争で敗死した西郷隆盛らの合祀を求める要望書を手渡した。要望書には首相経験者の中曽根康弘、村山富市、福田康夫各氏らも名を連ねている。
 亀井氏は同神社で記者団に「世界が相争っている中で、日本が平和を発信していく基本になる」と語った。(2016/10/12-16:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101300904&amp;g=pol
「国民は失望」=「謝罪の手紙」否定で韓国外相

 【ソウル時事】韓国の尹炳世外相は13日の国会で、安倍晋三首相が元慰安婦宛ての「おわびの手紙」に関し、「毛頭考えていない」と断言したことについて問われ、「韓国国民をかなり失望させた」「韓国国民の心を傷つけた」と述べた。

 尹外相は慰安婦問題をめぐる日韓合意について、「政府として求めてきたことが大部分実現したとみているが、『おばあさん(元慰安婦)』の立場からすれば、足りない部分もあると考えるかもしれない」と指摘。「感情に訴える措置では、さらに努力が必要とみている。当事国がいつでも、自らの判断で提起できるとみている」と語り、日本側の今後の対応に期待を表明した。(2016/10/13-22:18)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101500108&amp;g=pol
「慰安婦登録阻止の狙い」=日本のユネスコ分担金未拠出-韓国紙

 【ソウル時事】日本政府が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に対する今年の分担金約39億円を拠出していないことについて、15日付の韓国紙・東亜日報は、市民団体が申請した旧日本軍の慰安婦問題関連資料の「世界の記憶」(旧「世界記憶遺産」)登録を阻止する狙いがあるとの見方を示した。
 ハンギョレ新聞も「(拠出保留は)昨年10月に『南京大虐殺』関連資料が登録され、慰安婦関連資料の登録に向けた審査が始まるためだ」と報道。「日本は審査過程で関係国が意見を表明することができるよう、制度の改善が必要だと主張し、ユネスコを圧迫している」と指摘した。
 日中韓など8カ国・地域の市民団体が加わる連帯組織は今年6月、慰安婦問題関連資料2744件について登録を申請している。(2016/10/15-09:59)

933名無しさん:2016/10/15(土) 20:58:35
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161011-00000034-jij-pol
北方領土交渉「幅広い選択肢で」=岸田外相、2島先行返還に含み
時事通信 10月11日(火)10時9分配信

 岸田文雄外相は11日の閣議後の記者会見で、ロシアとの北方領土交渉に関し、「立場の隔たりがある中での交渉で、幅広いオプションを議論していく」と述べた。

 岸信夫外務副大臣が北方四島のうち歯舞群島と色丹島の先行返還も排除しない考えを示した、との一部報道に関する質問に答えたもので、2島先行に含みを持たせた形だ。

 岸氏は日本テレビのインタビューで「2島先行返還も選択肢か」と問われたのに対し、「できるだけ広いオプションの中で解決策を見いだしていく」などと語った。これについて外相は「当然のことを発言した」との認識を示した。

934名無しさん:2016/10/16(日) 19:40:13
【社会】靖国神社に会津藩など「賊軍」も合祀を 亀井静香氏、石原慎太郎氏らが宮司に申し入れ★2 [無断転載禁止]©2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1476285034/971

971 :名無しさん@1周年:2016/10/14(金) 00:52:21.78 ID:Rk/JlszP0
★ご賛同いただける方は下記までお問い合わせください
「合祀申し入れ」事務局
東京都新宿区左門町6-4 JASSETビル6階 亀井静香事務所内

【呼びかけ人】
石原慎太郎 亀井静香 原口一博
森山裕 平沢勝栄 武田良太

【賛同者】
中曽根康弘 村山富市 森喜朗
福田康夫 綿貫民輔 伊吹文明
伊藤淳二 稲盛和夫 岡村正 小松玄澄

(以下五十音順)
青山周平 秋元司 荒井聰 荒井広幸
石関貴史 石破茂 石原宏高 今村洋史
浦田勝 江藤拓 遠藤利明 大家敏志
大塚耕平 岡下昌平 奥野信亮 小熊慎司
小里泰弘 小沢一郎 尾辻秀久 小渕優子
勝沼栄明 金子万寿夫 鹿野道彦 狩野安
鴨下一郎 河井克行 河村建夫 木内孝胤
岸本周平 熊田篤嗣 小林史明 佐々木知子
佐藤公治 佐藤静雄 塩谷立 篠原孝
島村宣伸 下村博文 鈴木克昌 竹本直一
田中康夫 玉木雄一郎 柘植芳文 長崎幸太郎
中曽根弘文 中谷真一 中村喜四郎 二階俊博
野田国義 野田聖子 野間健 野村哲郎
林幹雄 原田義昭 平沼赳夫 平野達男
平野博文 福島伸享 細田博之 牧義夫
増子輝彦 松木けんこう 松島みどり 松永光
松野頼久 松原仁 御法川信英 宮内秀樹
宮崎岳志 宮路拓馬 宗清皇一 村上誠一郎
村上正邦 森本真治 保岡興治 柳田稔
矢野絢也 山口壯 山下貴司 鷲尾英一郎

及び地方自治体、民間の方々多数

935名無しさん:2016/10/16(日) 19:41:00
http://www.asahi.com/articles/ASJBD5HRTJBDUTFK017.html
「西郷隆盛や新選組、靖国合祀を」 石原氏らが申入書
2016年10月12日19時46分

 西郷隆盛や新選組、白虎隊も靖国に合祀(ごうし)を――。石原慎太郎・元東京都知事や亀井静香衆院議員らが12日、東京・靖国神社を訪れ、国家に敵対した「賊軍」と称される人々の合祀を求める申入書を渡した。

 申入書では、中曽根康弘氏、森喜朗氏ら元首相をはじめ、与野党の国会議員、経済人らが賛同者に名を連ねた。靖国には国家側で戦った官軍だけがまつられ、賊軍は除外されている。申入書は2018年に明治維新から150年を迎えることを踏まえ、「近代日本のために志を持って行動したことは、勝者・敗者の別なく認められるべきだ」として合祀を求めている。

 亀井氏によると、応対した徳川康久宮司は「ただちにそういたしますとは言えません」と答えたという。

936名無しさん:2016/10/16(日) 19:41:44
http://www.sankei.com/politics/news/161012/plt1610120024-n1.html
2016.10.12 18:04
靖国神社に会津藩など「賊軍」も合祀を 亀井静香、石原慎太郎両氏が申し入れ 

 亀井静香元金融担当相や石原慎太郎元東京都知事らが12日、東京・九段北の靖国神社を訪れ、西南戦争で倒れた西郷隆盛や戊辰戦争で敗れた旧幕府軍など「賊軍」とされた戦没者を合祀するよう徳川康久宮司に申し入れた。

 亀井、石原両氏らを呼び掛け人に、自民党の二階俊博幹事長や中曽根康弘元首相、村山富市元首相ら政界関係者のほか、稲盛和夫京セラ名誉会長ら財界人も賛同者になっている。

 申し入れ書では「賊軍と称された方々も、近代日本のために志をもって行動した」とした上で、「過去の内戦においてお亡くなりになった全ての御霊を合祀願う」としている。

 亀井氏は申し入れ後、記者団に「(合祀は)世界の中で日本が平和を発信をしていく基本になる」と語った。靖国神社側は「ただちにそういたしますとは言えない」と述べたという。

937名無しさん:2016/10/16(日) 23:11:32
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20161012-00000090-jnn-pol
西郷隆盛も合祀を、石原元知事らが申し入れ
TBS系(JNN) 10月12日(水)19時5分配信
 東京都の石原慎太郎元知事らが、西南戦争で倒れた西郷隆盛ら明治政府と対立し「賊軍」とされた人々を合祀するよう靖国神社に申し入れました。

 「靖国神社、これは日本人全体のね、心の故郷のような社ですよ。そこに賊軍と称せられた方が祀られてない」(亀井静香元金融担当相)

 石原元都知事と亀井元金融担当大臣ら超党派の議員らは、西南戦争で政府軍と戦い敗れた西郷隆盛や、白虎隊、新撰組など、「賊軍」とされた戦没者を靖国神社に合祀するよう、宮司に申し入れました。

 石原氏らは、「近代日本のために志を持って行動したことは勝者・敗者の別なく認められるべき」だとしていて、申し入れには、自民党の二階俊博幹事長や福田元総理、社民党の村山元総理らも賛同しています。(12日16:40)
最終更新:10月13日(木)2時14分

938名無しさん:2016/10/18(火) 22:26:41
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101700315&amp;g=pol
北方領土、共同統治考えていない=菅長官

 菅義偉官房長官は17日午前の記者会見で、北方領土問題の打開策として日本政府が日ロ両国による共同統治案の検討に入ったとの一部報道について、「全く考えていない」と述べた。菅長官は「北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する従来の方針に全く変わりはない」と強調した。(2016/10/17-12:23)

939名無しさん:2016/10/22(土) 16:37:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081600162&amp;g=soc
「天皇、今年も深い反省」=安倍首相「謝罪なし」と対比-韓国紙

 【ソウル時事】「日王(天皇)、今年も『深い反省』」「安倍(首相)、謝罪せず」。16日付の韓国紙は、終戦記念日の全国戦没者追悼式での天皇陛下のお言葉と安倍晋三首相の式辞を対比させて報じた。
 朝鮮日報は1面の記事で、天皇陛下のお言葉について「軍国主義を追求し戦争へ突き進んだ責任を認めた」と解釈、一方で「安倍首相は、日本が戦争の加害国であることを認定する発言はしなかった」と伝えた。中央日報も「安倍首相は4年連続で、日本の加害事実と反省に言及しなかった」と指摘した。(2016/08/16-08:47)

940名無しさん:2016/10/22(土) 16:39:08
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101900346&amp;g=pol
法整備、通常国会目指す=生前退位で菅官房長官

 菅義偉官房長官は19日の衆院内閣委員会で、天皇陛下が意向を示唆された生前退位に関する法整備について、来年1月召集の通常国会への法案提出を目指す考えを表明した。政府高官が提出時期を明言するのは初めて。国会提出前の十分な与野党調整が必要との認識も示した。
 民進党の岡田克也前代表の質問に答えた。法整備をめぐり、皇室典範の改正か、今の天皇陛下に限って退位を認める特例法かは明確にしなかった。岡田氏が次期通常国会を目指すかただしたのに対し、菅長官は「私どもの思いとすればそうだ。有識者の論点整理で方向を出し、(衆参の)両院議長を中心に立法府で議論し、方向が決定すれば法律として、できれば通常国会に出したい」と述べた。
 政府は特例法案を来年5月の大型連休明けにも閣議決定し国会に提出。通常国会での成立を図る日程を想定している。法整備に当たっては、与野党で賛否が割れないよう合意形成を図ることが「一番望ましい」との考えも示した。
 菅長官はまた、生前退位に関する政府の有識者会議がまとめる論点の公表時期について「年明けになる」と指摘。ただ、有識者会議で女性・女系天皇や女性宮家を議論するかどうかについては、「そうした問題まで(議論が)広がってしまうと意見が拡散してしまう」と否定的な見解を示した。(2016/10/19-11:40)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101900896&amp;g=pol
20日の日程協議見送り=衆院憲法審

 衆院憲法審査会は19日、与野党筆頭幹事がいったん合意していた20日の幹事懇談会開催を見送ることを決めた。環太平洋連携協定(TPP)の承認案審議をめぐる与野党の対立激化が飛び火した格好だ。
 与党は20日の幹事懇で日程協議に入り、早ければ27日にも昨年6月以来の実質審議を再開することを目指していた。(2016/10/19-22:06)

941名無しさん:2016/10/22(土) 23:03:01
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101800539&amp;g=pol
北方領土解説サイトを増補=政府

 政府は、日ソ共同宣言の署名から19日で60年を迎えるのを機に、北方領土問題について解説する内閣府のインターネットのサイトを増補する。北方四島の返還への思いを語る元島民の声などを新たに紹介、領土問題の歴史的経緯もより分かりやすく解説する。
 鶴保庸介沖縄・北方担当相は18日の記者会見で「事実を知りたいと思う国民のニーズに応えられるようにしていきたい」と述べた。内閣府の北方対策本部のホームページで見ることができる。(2016/10/18-15:06)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101700408&amp;g=pol
ロシア、2島で幕引きも=プーチン氏の姿勢一貫-日ソ共同宣言60年

 【モスクワ時事】日本とソ連(当時)が、平和条約締結後に北方領土の歯舞群島と色丹島の2島を引き渡すことを明記した日ソ共同宣言に署名して19日で丸60年を迎える。「引き分け」による領土問題の解決を目指すロシアのプーチン大統領は「両国が署名・批准した唯一の文書」と共同宣言を重視する姿勢で一貫。安倍晋三首相が「新しいアプローチ」で譲歩を示唆する中、ロシア側は2島返還で事実上の幕引きを図りたい考えとみられる。
 ◇影落とす歴史認識
 1956年10月、当時の鳩山一郎首相ら日本政府代表団は、モスクワの外務省迎賓館を交渉の拠点とした。今月13日、ここで12月のプーチン氏訪日を前に日ロ戦略対話が開かれ、杉山晋輔外務事務次官は「平和条約がない異常な状況が続いており、早期解決の必要がある」と訴えた。
 プーチン氏は9月、記者団に「ソ連は長く粘り強い交渉の結果、日ソ共同宣言に署名した。そこには2島を引き渡すと書いてある」と改めて強調。国後、択捉2島は交渉の対象外とする考えを示唆した。対象内の歯舞、色丹2島については、引き渡し方法や日ロどちらの主権に属させるかが検討課題だと述べた。
 プーチン氏の持論は、2島からロシア側がさらに譲歩する「2島プラスアルファ」どころか、2島返還にさえ条件を付けるものだ。
 ザハロワ外務省情報局長も「(四島は)第2次大戦の結果、ロシアに帰属しており、ロシアが主権を持つことに疑問の余地はない」「平和条約締結問題の進展に向けた前提条件は、日本が大戦後の領土を含む現実を認めることだ」と主張した。日ソ中立条約を無視したソ連の対日参戦を不法と見なすかどうかという歴史認識も影を落とし、問題を複雑にしている。

 ◇先行返還論に熱
 事態を打開すべく、安倍首相は5月のソチでの首脳会談で、平和条約締結に向けた新しいアプローチを提唱。プーチン氏に、経済分野など8項目の協力プランを提示し、全面的な日ロ関係の発展と、首脳間の信頼に基づく領土問題の解決に強い意欲を示した。両首脳はファーストネームで「君と僕」の間柄で呼び合い、9月のウラジオストク会談に続き、11月にペルーでも政治対話を重ねる。
 ロシア側には、プーチン氏の訪日時に領土問題で合意に達しなくても「今後の交渉の進め方やガイドラインで合意することは可能」(識者)と冷静に見る向きもある。
 一方、日本側ではこのところ「2島先行返還論」が再び熱を帯び、世論調査でも容認する意見が5割近くに上っている。しかし、仮に歯舞、色丹2島が返還された場合も、ロシア側が残る国後、択捉2島の交渉継続に応じる保証はない。「平和条約が締結されれば、領土問題は終わり」(外交筋)という声も出ている。(2016/10/17-16:50)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101700315&amp;g=pol
北方領土、共同統治考えていない=菅長官

 菅義偉官房長官は17日午前の記者会見で、北方領土問題の打開策として日本政府が日ロ両国による共同統治案の検討に入ったとの一部報道について、「全く考えていない」と述べた。菅長官は「北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する従来の方針に全く変わりはない」と強調した。(2016/10/17-12:23)

942名無しさん:2016/10/30(日) 08:20:20
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161024/k10010741831000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_104
上海で少女像設置 官房長官「未来志向の姿勢が重要」
10月24日 12時33分
菅官房長官は午前の記者会見で、中国・上海の大学に慰安婦問題を象徴する少女の像が設置されたことについて、過去の不幸な歴史に過度に焦点を当てるのではなく、未来志向で取り組む姿勢が重要だという考えを示しました。
中国・上海の大学に慰安婦問題を象徴する2人の少女の像が設置され、現地の日本総領事館が大学関係者に懸念を伝えました。
これについて菅官房長官は午前の記者会見で、「こうした動きは、日中関係の改善に資するものとは言えず極めて残念だ。わが国としては、過去の不幸な歴史に過度に焦点を当てるのではなく、国際社会が直面する共通の課題に未来志向で取り組んでいく姿勢が重要だと考えている」と述べました。

また菅官房長官は、ソウルの日本大使館の前に設置されている慰安婦を象徴する少女像が撤去されていないことについて、「日韓両国の合意に基づいて、それぞれの国々が誠実に実行していくことが極めて重要だと思っている」と述べました。

943名無しさん:2016/10/30(日) 10:08:15
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016102500752&amp;g=pol
「東京に慰安婦像を」=菅官房長官発言に不快感-中国

 【北京時事】中国外務省の陸慷報道局長は25日の定例会見で、上海の大学での旧日本軍の慰安婦を象徴する少女像設置を踏まえ、ドイツは首都ベルリンにホロコースト(ユダヤ人大虐殺)記念碑を建立したと指摘した上で「東京にも慰安婦像を設置できれば、日本が歴史における負担を取り除き、アジアの隣国の理解を得るのに役立つかもしれない」と訴えた。

 陸局長は、上海の慰安婦像設置に菅義偉官房長官が「極めて残念だ」と述べたことに対し、「慰安婦強制は現在でも被害者と家族の心を傷つけている。時代が変わっても、歴史は変わらない。日本は軍国主義が犯した深刻な罪を直視、反省してほしい」と不快感を示した。(2016/10/25-18:15)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016102400322&amp;g=pol
慰安婦像設置は残念=菅官房長官

 菅義偉官房長官は24日午前の記者会見で、中国・上海市内の大学に旧日本軍の慰安婦を象徴する少女像が設置されたことについて、「日中関係の改善に資するものと言えず、極めて残念だ」と述べた。その上で「過去の不幸な歴史に過度に焦点を当てるのではなく、国際社会が直面する共通の課題に未来志向で取り組んでいく姿勢が重要だ」と語った。(2016/10/24-12:17)

944名無しさん:2016/10/30(日) 11:03:19
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016102900167&amp;g=pol
「2島+アルファ」で解決を=北方領土交渉で鈴木宗男氏

 ロシア外交に詳しい鈴木宗男元北海道・沖縄開発庁長官は時事通信のインタビューに応じ、北方領土交渉について、歯舞群島と色丹島の返還に加え、国後島の共同統治などで合意する「2島プラスアルファ」の解決策が現実的だとの考えを明らかにした。
 鈴木氏はプーチン政権要人らとパイプがあり、安倍晋三首相と北方領土問題をめぐり意見交換を重ねている。
 平和条約締結後の歯舞、色丹2島の引き渡しを明記した1956年の日ソ共同宣言について、鈴木氏は「プーチン大統領も認めている。ここがスタートラインだ」と指摘。その上で「何がプラスアルファで出てくるかで判断すべきだ」と述べ、国後島の共同統治のほか、同島への経済特区導入や元島民の自由往来、周辺海域の漁業権獲得などをロシア側が受け入れれば、平和条約締結に踏み切るべきだと主張した。
 鈴木氏は、国後、択捉両島について「その2島を返せ、と声高に唱えることは現実的ではない」との認識を表明。「ロシアの世論調査で8割が(北方領土を)返す必要がないと言っている。全部返すなら、プーチン氏は大変なリスクを負う」と語った。(2016/10/29-14:59)

945名無しさん:2016/11/05(土) 22:25:19
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161104/k10010756231000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_012
再来年は「明治150年」 関連施策の考え方取りまとめへ
11月4日 20時34分
政府は、再来年(平成30年)に明治元年から150年を迎えることに合わせた関連施策を検討する、関係府省庁の連絡会議の初会合を開き、議長を務める野上官房副長官は、施策の基本的な考え方を年内に取りまとめるよう指示しました。
政府は、平成30年に明治元年から150年を迎えるのに合わせて、明治時代の資料の収集や保存、それに各地で行われるイベントへの支援などの関連施策を検討していて、4日、総理大臣官邸で関係府省庁による連絡会議の初会合を開きました。
この中で、議長を務める野上官房副長官は「『明治150年』をきっかけに、明治以降の歩みを次世代に残すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要だ」と述べ、施策の基本的な考え方を年内に取りまとめるよう指示しました。
また、会合に出席した東京大学の山内昌之名誉教授は、明治時代に活躍した女性や若者に注目することや、日本で活躍した外国人の功績から和魂洋才の精神やグローバル化について考える機会を設けることなどを提案しました。
政府は、年内に有識者からのヒアリングを数回行うなどして、基本的な考え方を取りまとめたうえで、再来年度(平成30年度)の予算編成を見据えて、具体的な施策を決めていきたいとしています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161105/k10010756631000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_005
慰安婦問題 韓国野党議員も日韓両政府の合意趣旨には賛同
11月5日 8時43分
日本と韓国の超党派の国会議員で作る議員連盟はソウルで合同総会を開き、慰安婦問題について、日韓両政府の合意に反対する立場の韓国の野党議員も、「被害者の名誉と尊厳を回復する」として、合意の趣旨には賛同する考えを示しました。
日本の国会議員で作る日韓議員連盟と、韓国の国会議員で作る韓日議員連盟の合同総会が、4日、両国の超党派の議員が参加してソウルで開催され、安全保障や経済などについて意見交換を行ったあと、共同声明を発表しました。
共同声明では、慰安婦問題について、「被害者の名誉と尊厳を回復するという両国政府の合意の趣旨に基づいて、ともに努力を続ける」とし、双方が協力していくことを確認しました。
慰安婦問題をめぐっては、韓国の野党は、日本政府が法的責任を認めていないとして合意に反対する立場を取っていますが、今回、参加した野党の議員は、その趣旨には賛同する考えを示した形です。
ただ、知人の女性実業家が職権乱用の共犯などの疑いで逮捕されたことを受けて、パク・クネ(朴槿恵)大統領の求心力が大きく低下している中、合意の履行への影響は避けられないのではないかという見方が出ています。
総会のあと、日本側の幹事長を務める自民党の河村元官房長官は「韓国の国内政治を早く正常に戻していただきたい。韓国の与野党の意見も踏まえながら、合意にのっとってやっていきたい」と述べ、韓国側に合意を着実に履行するよう求めました。

946名無しさん:2016/11/06(日) 06:50:38
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110400413&amp;g=pol
慰安婦問題、合意推進=菅長官

 菅義偉官房長官は4日午前の記者会見で、慰安婦問題をめぐる日韓合意について「責任を持って実施することは両国にとって極めて重要だ。しっかりと連携して進めていきたい」と強調した。韓国の朴槿恵大統領が親友の国政介入疑惑で捜査の受け入れを表明したことに関連して答えた。(2016/11/04-12:34)

947名無しさん:2016/11/06(日) 12:40:33
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161106-00000006-nkgendai-ent
欅坂46の衣装はどこがアウトなのか 服飾史評論家に聞いた
日刊ゲンダイDIGITAL 11/6(日) 9:26配信

 人気アイドルグループ「欅坂46」のハロウィーンライブ衣装が、ナチス・ドイツの軍服を彷彿とさせるとして世界的に物議を醸している。“やっちまった感”たっぷりだが、具体的には衣装のどこがアウトだったのか? 

「軍装・服飾史カラー図鑑」(イカロス出版)の著者で服飾史評論家の辻元よしふみ氏はこう分析する。

「ワンピースやマントは確かに黒色で、ナチスの親衛隊をイメージさせなくもありませんが、デザイン的にはごく平凡。帽子もどこにでもある19世紀以来の官帽子で、これがダメなら世界中のお巡りさんや警備員が訴えられます。ただ一点、帽子に付いていた“銀色のワシ”が決定的にアウトです」

■「デザイナーは軽率」

 ワシのマークは正式に「鷲章」という。辻元氏によれば、そもそも古代ローマ帝国の国家章で、その後、ロシア帝国やナポレオン帝国、ドイツ帝国などが採用。米国がワシを用いているのもその影響だ。ナチス帝国もこれを流用。ワシが鉤十字をつかんだマークを親衛隊や国防軍の制服に採用したといういきさつがある。

「ワシはまさにナチスのシンボル。ナチスのワシは足で輪の中の鉤十字をつかんでいますが、欅坂46のものは鉤十字を他のマークに差し替えています。デザイナーは“鉤十字を使っていないから大丈夫”と判断したのでしょうが、軽率でしたね」

 もし意図的な差し替えなら、それがナチスのマークで、“そのまま使ったらやばい”ということを把握していた証拠だ。

 過去には、沢田研二も“そのまんま”な衣装を着てトラブルになった。写真や映像があっという間に世界中に拡散される今、芸能人でなくても同じような“被害”に巻き込まれる恐れがあるかもしれない。これからの忘年会シーズン、そのコスプレがアウトかセーフか、着る前に冷静に考えた方がよさそうだ。

948名無しさん:2016/11/06(日) 12:41:17
http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/334732/
韓国アイドルグループのナチス風衣装に欧米から批判
2014年11月17日 17時58分

 韓国のアイドルグループがナチスをほうふつとさせる衣装を着ていると欧米を中心に批判を浴びている。

 問題となっているのは今年5月にデビューした4人組新人アイドルの「PRITZ」。今月上旬に韓国の釜山競馬公園でライブを行った際、黒のゴスロリ風ドレス、左腕に腕章をつけて登場した。腕章には赤地に白円、中にX模様の黒十字が描かれていた。

 ライブの様子がSNSやYoutubeを通して広まると、欧米からは
腕章がナチスの親衛隊などがつけた「かぎ十字(ハーケンクロイツ)」の腕章を思わせるとして批判を浴びた。

 さらにウォールストリートジャーナル電子版が13日付の記事で「韓国のガールズグループがナチのようなロゴをつけて批判を浴びている」と報じ、このニュースは一気に拡散。欧米はもとより、地元の韓国からも「恥ずかしくて声もでない」など国内からも非難の声が上がった。

 所属事務所は紋章について「速度制限の交通標識に着目した」とナチスとの関連はないと釈明した。所属事務所のホームページは騒動以来サーバーはダウンした状態が続いている。

 一方、日本のアイドルファンからは「PRITZ」のゴスロリ風の衣装やグループのロゴがそっくりなことから世界的に人気のアイドルメタルユニット「BABYMETAL」のパクリ疑惑も指摘されている。

949名無しさん:2016/11/06(日) 12:46:25
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50128
欅坂46「ナチス風衣装」の世界的炎上、いったい何が問題なのか?
アイドルはこうして政治色を帯びていく
辻田 真佐憲文筆家
近現代史研究者プロフィール

「欅坂46」のコスチューム騒動

日本の女性アイドルグループのコスチュームが世界的に物議を醸している。

「欅坂46」が、10月22日に横浜で行われたハロウィーンコンサートにおいて、ナチス・ドイツの軍服(制服)に似たコスチュームを着用。これがSNS上で問題視され、海外メディアにも波及し、31日、ついに米国のユダヤ系人権団体「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」が謝罪を求める声明を出すにいたったのである。

これに対する対応は早かった。11月1日、「欅坂46」所属元の親会社であるソニー・ミュージックエンタテインメントはウェブ上で「認識不足」だったと謝罪し、プロデューサーの秋元康も「ありえない衣装」だったと同じく謝罪のコメントを発した。

この騒動が今後どこまで大きくなるのかはまだ予断を許さない。だが、現在のところ次のことがいえる。

(1)これまで日本で寛容に扱われてきた「ナチカル」が、情報環境や政治情勢の変化によって、許容されなくなりつつある。

(2)一般論として、政権に近い文化人の作品は批判的に検証されるべきだ。だが、今回の騒動に関しては「認識不足」以上とはいいがたい。これのみをもって政権批判にまで持っていくのは無理がある。

(3)ただし、アイドルと政治の関係は近年東アジアで密接になりつつある。今後の動きは大いに警戒するべきだ。

以下、具体的にひとつひとつ説明していこう。

戦後日本の「ナチズム消費」

まず、戦後日本の特別な事情に言及しておかなければならない。

戦後日本には、マス・メディアを中心に、ナチズムが大衆文化として消費されてきたという歴史がある。佐藤卓己はこれを「サブカルチャー」の1ジャンルとして「ナチカル」と名付け、分析している(『ヒトラーの呪縛』単行本2000年、文庫版2015年)。

日本は、ナチス・ドイツの同盟国だったとはいえ、ユダヤ人虐殺などに直接加担しておらず、ナチズムに対する忌避感がそれほどない。ドイツなどのように、厳しい取り締まりもない。そのため、ナチズムは「悪の象徴」としてサブカルチャー全般において気軽に使われてきた。

前掲書によれば、その範囲はきわめて広い。

・新聞報道における「ヒトラーというレッテル」
・文庫本を中心に翻訳される「ナチ冒険小説」
・劇場映画で作られるナチ・イメージ
・ロック音楽に寄り添うヒトラーの影
・軍事オタクの必須アイテムであるプラモデル
・「ヒトラー・マンガ」とコミケ(コミックマーケット)文化
・ユダヤ陰謀論からUFOまでオカルト世界の「トンデモ・ナチズム」
・純文学や戯曲から中間小説まで日本文芸におけるナチ受容
・ビジネスマン文化となった新書版架空戦記
・WWWで拡大した電脳ナチズム

具体的な作品名をあげれば、『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『キン肉マン』『鷲は舞い降りた』『わが友ヒットラー』『紺碧の艦隊』『20世紀最後の神話』など。「ナチカル」の幅広い影響がうかがい知れる。

こうした「ナチカル」はときに社会問題ともなった。だが、その多くは見過ごされ、現在に比べれば平穏に消費されてきた。

今回のコスチューム騒動について、「欅坂46」の関係者は、ナチス・ドイツの軍服との関係を否定している。とはいえ、ああいう「ナチス・ドイツっぽい」コスチュームが気軽に、無意識に使われてしまうことこそ、まさに「ナチカル」の例である。

仮にナチス・ドイツの軍服を参照していたとしても、これまでの「ナチカル」の延長線上で、まさかここまで問題になるとは思っていなかったのではないか。

しかるに、今回は「炎上」騒動に発展した。いまや「ナチカル」は急速に許容されなくなりつつあるのだ。

その理由はふたつ考えられる。

950名無しさん:2016/11/06(日) 12:47:35
>>949

時代の変化と「ナチカル」の限界

ひとつは、情報環境の変化である。SNSの普及により、どんな情報でもすぐに拡散されて「炎上」し、場合によっては海外にまで波及してしまう。これでは、日本固有の事情は通用しなくなる。

もうひとつは、政治情勢の変化である。現在世界では排外主義が広がっている。日本でも、レイシストの集団がハーケンクロイツを掲げて街頭デモを行ったことがある。こうしたなかで、ナチズムの消費はもはやブラックジョークとしても成り立ちにくくなっている。

実際、2014年に韓国でも同じような騒動があった。「PRITZ」というアイドルグループが、ナチス・ドイツの軍服風のコスチュームを着て、批判されたのである。

よく見れば、「欅坂46」のコスチュームにハーケンクロイツはない。ナチの軍服や制服と似てない点も多々あげられる。今日のように、政治情勢が険しくなく、SNSのようなツールもなければ、ここまで問題化していなかったかもしれない。

それに加え、「欅坂46」があまりにメジャーで目立ったグループであること、今回のコスチュームにあまりに必然性がなかったことなども「炎上」の一因だろう。要するに、あれだけの大組織の運営にしては、あまりに不用意だったということに尽きる。

時代が急速に変化するなかで、「ナチカル」もまた曲がり角に来ている。今後の情勢いかんによっては、似たような騒動が起きる可能性も否定できない。

個人的には、ナチス・ドイツの所業について十分な知識が共有され、排外主義の運動など起こらず、ブラックジョークも苦笑とともに放置してもらえるほどに、啓蒙された社会こそ理想だと考える。

だが、趣味とて社会の相関物だ。遺憾ながら、いまの状況下では問題視されるのはやむをえないし、これ以降はより注意深く扱っていかなければならなくなるだろう。

安倍政権批判はさすがに無理筋

今回のコスチューム騒動は、現在までの情報を見る限り、単に「認識不足」の結果であると考えられる。当事者たちに何かの信念があったならば、また議論の余地もあっただろうが、実際はそうではあるまい。

サイモン・ヴィーゼンタール・センターの抗議にあわててすぐに謝罪して幕引きを図った。この対応がすべてを表している。

しかし、今回の騒動を通じて、政権批判にまで持っていく向きもあるようだ。プロデューサーの秋元康は安倍政権と近しい。だから、そのコントロール下にあるアイドルの行動にも、何らかの政治的な意図があるのではないかというわけだ。

また、「欅坂46」の楽曲「サイレントマジョリティー」(2016年4月発売)のPVの一部が「ナチ式敬礼」に見えることなどをあげて、全体主義的な思想を継続的に広めようとしているとの批判も見られる。

たしかにプロデューサーの秋元康は、クールジャパン推進会議の議員や、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の理事を務めている。安倍政権との関係は決して浅くはない。

そして一般論として、このように政権と近い距離にある文化人が関わる作品は、特に批判的に検証されるべきだ。癒着の可能性があるし、文化芸術を使って政治宣伝を行う可能性もあるからである。

とはいえ、今回の「欅坂46」のコスチュームに政治的な意図があったとは考えにくい。女性アイドルがナチス・ドイツの軍服らしきものを着て踊ったからといって、何の意味があるというのだろう。むしろ、実際にそうなったように、「クールジャパン」政策にとってマイナスの効果しかない。

繰り返すが、政権に近しい文化人に対する批判的な検証は大いにやるべきだ。だが、今回のコスチューム騒動のみをもって政権批判にまで持っていくのは、さすがに無理筋だと思われる。

念のためいえば、「サイレントマジョリティ」PVの「ナチ式敬礼」批判もかなり無理がある。どう見ても、一連の動作の一部分を切り取ったにすぎない。そもそも同曲の歌詞は、同調圧力に対する批判と読み取れる。これを全体主義的な思想の宣伝と捉えるのは、明らかに飛躍である。

無理筋の批判は、かえって批判の矛先を鈍らせる。本当に問題があるものが出てきたときのために、その矛先は大事に磨いておいたほうがよい。

951名無しさん:2016/11/06(日) 12:48:01
>>950

中国、韓国、北朝鮮でも…

むろん、アイドルと政治の関係には警戒が必要である。というのも、東アジアにおいてこの両者は急速に結びつきつつあるからだ。

北朝鮮では、金正恩第一書記(当時)の肝いりで、2013年にガールズグループ「モランボン楽団」が結成された。彼女たちは、固くなりがちなプロパガンダ曲を現代風にアレンジし、国内外で大きな反響を巻き起こした。

中国でも、2015年に事実上の官製アイドルグループである「56輪の花」(フラワーズ56)が結成され、「中国の夢はもっとも美しい」などの愛国歌を様々なイベントで披露している。「中国の夢」は、習近平国家主席が唱えるスローガンのひとつである。

また、SNH48は、2016年10月の国慶節(建国記念日)を前に、「私と私の祖国」という愛国歌を現代風にアレンジしたMVを発表した。「私と私の祖国は片時も離れられない」という内容だ。

ちなみにSNH48は、秋元康のプロデュースで2012年上海に誕生したアイドルグループだが、2016年6月にAKB48グループを離れて独立し活動している。

そのほか、韓国ではK-POPのアイドルによる慰問公演が行われ、兵役のイメージアップのため、K-POP風の軍歌(「自分を超える」)も作られている。台湾でもかつてはアイドルの慰問公演が行われていたようである。

政治とアイドルの関係には警戒せよ

由来、プロパガンダは最新の娯楽を取り込もうとする。楽しくなければ、民衆を引きつけることができず、効果をあげられないからだ。

筆者はこうした動きをかつて「楽しいプロパガンダ」と名付けた。昨今のアイドルブームに鑑み、為政者がアイドルを取り込もうとしてもそれほどふしぎではない。

幸いに、日本は以上の国々ほど露骨にアイドルが政治利用されているわけではない。慰問の例もなくはないが、多くは自衛隊の募集ポスターやCMに使われている程度だ。

だが、押田信子が『兵士のアイドル』(2016年)で明らかにしたように、アジア太平洋戦争下の日本ではアイドルが戦争動員に利用されたことがある。アイドルは、慰問公演や慰問雑誌などを通じて、兵士のメンタルケアに使われたのである。

それゆえ、現代日本で政治とアイドルが再び結びつく可能性はゼロではない。まして巨大なアイドルグループを率いる秋元康は、安倍政権ときわめて近しい。今回のコスチューム騒動は「認識不足」にすぎないと思われるが、今後はどうかはわからない。継続してウォッチしておく必要がある。

コスチュームが本物の軍服や制服となったとき、歌詞が「同調圧力」を肯定するようになったとき、あるいは国策イベントに動員されるようになったとき──。もっと明白なサインはいくらでもある。

今回のコスチューム騒動を通じて、政治とアイドルの関係にもっと注目が集まれば、もっけの幸いである。

952名無しさん:2016/11/06(日) 15:02:30
人類史の曲がり角!? 私たちは今、どのような時代を生きているのか 【新連載】たそがれる国家(1)
現代ビジネス 10/30(日) 11:01配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161030-00050071-gendaibiz-bus_all

953名無しさん:2016/11/06(日) 15:21:53
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161101-00000362-oric-ent
欅坂46の衣装騒動 所属レコード会社が謝罪
オリコン 11/1(火) 18:49配信

 アイドルグループ・欅坂46が10月22日に開催されたコンサートで着用した衣装が「ナチス・ドイツ」の軍服を思わせるデザインであるとネットを中心に物議を醸した問題で、所属レコード会社のソニー・ミュージック公式サイトがきょう1日、コメントを掲載。「ご不快な思いをさせてしまったことに対し、心よりお詫び申し上げます」と謝罪した。また、プロデューサーの秋元康氏もグループ公式サイトで「プロデューサーとして、監督不行き届きだったと思っております。大変申し訳なく思っています」とコメントを発表した。

 先月22日に行われたイベントで着用した帽子や黒のマントなどの衣装が、公演直後から「ナチス・ドイツの軍服」に似ているなどとSNSを中心に指摘する声が多くあがり、米国のユダヤ系人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)」が31日、レコード会社などに対し謝罪を要求する事態となっていた。

■ソニー・ミュージック公式サイト、コメント全文
「平素は欅坂46を応援していただき、誠にありがとうございます。
10月22日に開催されましたハロウィンイベントにおいて、欅坂46が着用した衣装について、『ナチスドイツの軍服がモチーフではないか』とのお問い合わせ・ご指摘をいただいております。
私どもの認識不足により、衣装の色やその他を含む全体のデザインが、そのようなイメージを想起させる部分があり、ご不快な思いをさせてしまったことに対し、心よりお詫び申し上げます。
また、当該の衣装に関しては、今後一切着用いたしません。
今回のご指摘を真摯(しんし)に受け止め、再発防止に努めてまいります。
多くのみなさまにご心配とご迷惑をおかけいたしましたこと、重ねてお詫び申し上げます」。

■秋元康氏コメント全文
「ニュースで知りました。ありえない衣装でした。
事前報告がなかったので、チェックもできませんでした。
スタッフもナチスを想起させるものを作った訳ではないと思いますが、プロデューサーとして、監督不行き届きだったと思っております。
大変申し訳なく思っています。
再発防止に向けて、すべて事前にチェックし、スタッフ教育も徹底して行いたいと思います」。

954名無しさん:2016/11/06(日) 16:51:22
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161104-00000526-san-pol
抑留死亡者、新たに22人特定
産経新聞 11/4(金) 14:16配信

 厚生労働省は4日、第二次大戦後に旧ソ連に抑留され、シベリア地域と千島列島で死亡した日本人計22人を新たに特定し、都道府県別の出身地とともにホームページで公表した。これで抑留死亡者の特定はシベリア地域(モンゴル地域を含む)で3万9634人、それ以外の地域で968人となった。

 公表された22人は次の通り。(漢字の字体は厚労省発表に基づく。敬称略)

 ◇シベリア地域(21人) 【北海道】佐藤賢、【福島県】橋本利吉、【茨城県】粕谷茂、【新潟県】渡邊利衛、【石川県】前田清、吉野治夫、【福井県】土●(橋)満雄、【長野県】堀廣司、【岐阜県】杉岡一郎、【愛知県】中根三郎、【徳島県】前田茂雄、矢倉清一、【香川県】中村善吉、【福岡県】金子勝次、尾家修、【熊本県】髙山浩己、内田正美、【大分県】盛田平藏、三ヶ尻敏明、【鹿児島県】三差政夫、下温湯喜作

 ◇千島列島(1人) 【北海道】前田●(=徳の心の上に一)太郎

955名無しさん:2016/11/13(日) 11:55:57
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110900778&amp;g=pol
「われわれは同じ被ばく者」=カザフ大統領が広島初訪問

 来日中のカザフスタンのナザルバエフ大統領は9日、被爆地・広島市を訪れた。同大統領の広島訪問は初めて。広島国際会議場で開かれた歓迎行事で、大統領は旧ソ連の度重なる核実験でカザフの国土や国民が受けた被害に触れ、「(国によって)言葉は違うが、われわれが被ばく者であることは同じだ」と述べ、核廃絶へ向けた連携を訴えた。
 歓迎行事に先立ち、大統領は平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑を訪れ、黙とうをささげた。平和記念資料館(原爆資料館)も見学した。
 大統領は、自分の目で見た原爆の被害に心が動かされたと振り返り、「われわれは核廃絶と核不拡散に向け共通目的を持っている。核兵器のない世界をつくるためにがんばろう」と呼び掛けた。
 行事では、市内の幼稚園児や母親ら約40人がカザフ国民の歌と呼ばれている「ザマナイ-時代よ」を合唱。カザフの核実験場を閉鎖に追い込む市民運動の象徴となった歌で、日本語とカザフ語で核の恐ろしさを歌い上げた。大統領は熱心に耳を傾け、「核兵器のない世界に向け、両国の象徴になる歌だ」と話した。(2016/11/09-20:15)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110600047&amp;g=pol
外国要人、被爆地へ続々=オバマ氏訪問契機か

 今月に入り、被爆地の広島、長崎両市への外国要人の訪問が目立ち始めた。3日のマトビエンコ・ロシア上院議長を皮切りに、カザフスタンのナザルバエフ大統領ら計4人が続々と来訪。今年5月のオバマ米大統領による歴史的な広島訪問に触発された可能性もありそうだ。
 3日に長崎市を訪問したマトビエンコ氏は、原爆資料館を視察、平和祈念館で献花した後、記者団に「長崎市を最後の被爆地にという活動を全面的に支持する」と表明した。
 同市によると、2000年からの16年間で現職の元首または国会議長は同氏で4人目。中旬にはドイツのガウク大統領も資料館や平和公園を訪れる予定で、これまでと比べ「ハイペース」な印象だ。
 広島市の方は14年度と15年度で計9人いるが、元首はこの2年間で14年度のアキノ・フィリピン大統領(当時)だけ。それが今年度はオバマ氏に続き、9日にナザルバエフ氏が訪問を予定しており、16年度だけで元首は二人となる。
 カザフスタンには旧ソ連のセミパラチンスク核実験場があり、周辺住民は今も放射能汚染に苦しむ。同氏は核軍縮に積極的に取り組んでいることで知られる。4日にはスイスのコント連邦議会議長が広島市を訪問した。
 外務省幹部は、オバマ氏訪問が影響を与えた可能性を指摘し、「世界の要人が核兵器の実相に触れるいい機会だ。核なき世界に向けて効果的なメッセージを期待できる」と語る。国連で15、16両年、日本主導で「指導者や若者らの被爆地訪問」を奨励する核廃絶決議が採択された効果もあるとみられる。(2016/11/06-14:26)

956名無しさん:2016/11/19(土) 23:35:41
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016111600963&amp;g=pol
韓国財団、元慰安婦23人に現金支給=支援団体は大統領退陣要求

 【ソウル時事】慰安婦問題をめぐる日韓政府間合意に基づき設立された韓国の「和解・癒やし財団」の関係者は16日、元慰安婦23人に対し、1人当たり1億ウォン(約900万円)の現金を支給したことを明らかにした。
 日韓両政府が合意を発表した昨年12月28日時点での生存者は46人(その後6人死亡)で、財団は日本政府からの10億円の拠出を受け、1人当たり1億ウォンを支給することになっている。このうち、本人または家族29人が受け取る意思を示していた。29人のうち、残る6人についても支給手続きを行っており、財団関係者は「年内の支給を目標としている」と述べた。
 一方、合意に反対している韓国の民間支援団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」の尹美香常任代表は16日、時事通信の取材に、朴槿恵大統領の親友、崔順実容疑者の国政介入疑惑発覚を受け、朴大統領の退陣を求めていく方針を明らかにした。(2016/11/16-23:46)

957名無しさん:2016/11/20(日) 14:47:17
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161120/k10010775651000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_009
首相 ペルーの日系人に日本での教育機会を提供へ
11月20日 6時02分
ペルーを訪れている安倍総理大臣は日本時間の19日夜、日系人協会が主催した歓迎会に出席し、ペルーの日系人を日本に招き、研究や教育などの機会を提供する事業を推進していく考えを示しました。
APEC=アジア太平洋経済協力会議の首脳会議に出席するためペルーを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の19日夜、首都リマの劇場で開かれた日系人協会主催の歓迎会に昭恵夫人とともに出席し、あいさつしました。

この中で安倍総理大臣は、20年前にリマで起きた日本大使公邸が占拠された事件で日系人も人質になったことに触れたうえで、「中南米の中で、ひときわ団結力の強いペルー日系人の皆さんが当地で培ってこられた高い評価に接するたび、身の引き締まる思いがする。日本国民は皆、これを誇りに思う」と述べました。

そのうえで、安倍総理大臣は「次の世代をになう日系人の若者にも、日本を知り、愛してもらいたいと願わずにはいられない。若い世代の日系人を日本にお招きする事業に力を注ぐ」と述べ、ペルーの日系人を日本に招き、研究や教育などの機会を提供する事業を推進していく考えを示しました。

958名無しさん:2016/11/20(日) 18:49:32
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112000001&amp;g=pol
「心の絆は永遠」=安倍首相、日系ペルー人と交流

 【リマ時事】安倍晋三首相は19日午前(日本時間同日深夜)、ペルーの首都リマで開かれた日系ペルー人による歓迎会に出席した。首相は「太平洋のあちらとこちら、距離は離れているが、心は永遠につながっている」と述べ、日系人が両国の懸け橋となることに期待を示した。
 歓迎会には元国家警察長官で、1996年発生の在ペルー日本大使公邸占拠事件で人質となった日系3世マルコ・ミヤシロさん(63)ら数百人が出席。首相はミヤシロさんに「その節は本当にご苦労をお掛けしました」と声を掛けた。(2016/11/20-00:05)

959名無しさん:2016/11/20(日) 19:42:03
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112000182&amp;g=pol
4島の帰属確認を=蓮舫民進代表

 民進党の蓮舫代表は20日、ロシアとの北方領土交渉に関し「4島の帰属を認めるとの前提条件を譲ることなく、しっかりとした協力、対話になることを期待したい」と述べ、帰属問題を曖昧にした形での決着は認められないとの姿勢を示した。また、ウクライナ情勢を受けた対ロ制裁に触れ、「日本だけが前のめりにならないよう注意してもらいたい」と注文を付けた。高知市で記者団に語った。(2016/11/20-18:40)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161120/k10010776381000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_001
北方領土の元島民「領土問題 着実に前進を」
11月20日 18時47分
安倍総理大臣がロシアのプーチン大統領と会談したことを受けて、北方領土の元島民などで作る団体は、北海道根室市で記者会見し、来月の首脳会談に向けて「経済協力だけでなく、領土問題も車の両輪のように、着実に前進させてほしい」と訴えました。
安倍総理大臣は日本時間の20日朝、訪問先のペルーでロシアのプーチン大統領と会談し、会談後、記者団に対し領土交渉を大きく前進させるのは容易ではないものの、着実に進展を図りたいという考えを示しました。

これを受けて、北方領土の元島民などで作る「千島歯舞諸島居住者連盟」は根室市で記者会見し、この中で、宮谷内亮一根室支部長は「会談後の発言から領土問題の難しさを感じた」と述べました。

そのうえで、宮谷内支部長は「経済協力だけでなく領土問題も車の両輪のように着実に前進させるよう交渉してほしい。今こそ最後のチャンスだと思うので、一歩でも半歩でも前進させて、先送りにすることがないようにしてほしい」と訴えました。

960名無しさん:2016/11/23(水) 22:37:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112000192&amp;g=pol
領土交渉、見えぬ進展=安倍首相周辺「やはり厳しい」-日ロ首脳会談

 【リマ時事】北方領土交渉の進展に向け「詰め」の協議と位置付けられた19日の日ロ首脳会談。安倍晋三首相はロシアが期待する経済協力プランの着実な実施を約束すると同時に、領土問題で踏み込んだ提案を行ったもようだ。だが、プーチン大統領の反応は芳しくなかったとされ、首相同行筋は「首相は『やっぱり領土問題は厳しい』と実感したようだ」と明かした。
 首相は会談後、こわばった表情で「そう簡単ではない」「一歩一歩前進していきたい」と繰り返した。9月のロシア・ウラジオストクでの会談後、「手応えを強く感じ取ることができた」と語ったのとは対照的だ。同行筋は「首相は表情が明るくなかった」と認め、「理由を聞くのはつらいから聞いていない」と心中をおもんぱかった。
 今回の会談に当たり、両政府は8項目の経済協力プランの作業計画を取りまとめた。プーチン氏の関心が高いロシア極東での医療事業や都市環境整備、エネルギー開発など広範な案件を盛り込み、政府関係者が「日本側の本気度が伝わるはずだし、手応えはあった」と胸を張る内容だ。
 実際、プーチン氏は首脳会談の全体会合で「作業計画を1ページ目からじっくり読み込んでいた」(同行筋)。しかし、この後、通訳を交えた首脳2人だけの会談では、作業計画に高い関心を示す一方、首相の話は「あまり聞いていなかったらしい」(同)という。
 9月の前回会談後、目立った変化は、米大統領選でロシア寄りとも取れる発言をしてきたトランプ氏の勝利と、日ロ経済協力を担当したウリュカエフ前経済発展相の訴追・解任だが、ロシア側の対応にどう影響したかは不明だ。外務省幹部は「一つの節目に近づけば近づくほど、交渉が難しくなるのは自然だ」と解説した。
 首相は、あくまで経済協力をテコに領土交渉を動かしたい考えだ。19日の会談後、12月15日に地元の山口県長門市で予定する次回会談に向け「経済協力はしっかりやってくれ」と周辺に指示した。
 だが、会談結果を受け、政府内からは領土問題で目に見える成果を上げるのは厳しいとみて、期待値を下げるかのような声も漏れ始めた。ある関係者は「12月15日はゴールではなくスタート。今後の方向性を確認できれば十分だ」と語った。(2016/11/20-18:53)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112100346&amp;g=pol
法的立場守るのが前提条件=菅官房長官-日ロ関係

 菅義偉官房長官は21日午前の記者会見で、ロシアのプーチン大統領が安倍晋三首相との首脳会談で北方領土での「共同経済活動」を協議したと明らかにしたことに関し、「(日本の)法的立場を害さないことが前提条件だ」と述べ、ロシアの領有権を前提とした共同経済活動には応じられないとの認識を示した。(2016/11/21-12:33)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112100755&amp;g=pol
政府、実効支配追認を警戒=ロ大統領の「共同経済活動」に

 19日の日ロ首脳会談で協議された北方領土での「共同経済活動」は、プーチン・ロシア大統領が提案したとみられる。これに対し、日本政府は慎重姿勢を示している。ロシアの実効支配を追認することになりかねず、北方四島の返還が実現しない上に経済協力だけ「食い逃げ」される恐れがあるからだ。プーチン氏訪日を来月15日に控え、政府は難しい対応を迫られている。
 「わが国の法的立場を害さないことが前提だ」。菅義偉官房長官は21日の記者会見で、プーチン氏が明らかにした共同経済活動について警戒感をあらわにした。
 共同経済活動は、そもそもエリツィン政権下でロシア側が提案したもので、1999年から日ロ両政府が協議した経緯がある。日本の法的立場を損なわないよう、陸上ではなく周辺海域での稚貝や稚魚を一定期間育てて放流する栽培漁業が検討されたが、実現しなかった。ロシア側はその後も、水産加工や農業、観光などの共同活動をたびたび提案している。
 今回の協議内容は不明だが、4島に対するロシア側の施政権を認めた形であれば、世論の反発は避けられない。民進党の野田佳彦幹事長は記者会見で、「『はい、そうですか』という話ではない」と政府をけん制した。
 プーチン氏の日本重視には、先進7カ国(G7)にくさびを打ち込む思惑があった。米大統領選でロシアとの関係改善を唱えるトランプ氏が当選したことで、こうしたプーチン氏の姿勢が変化した可能性があると日本政府関係者は指摘する。
 日ロの立場の隔たりが改めて鮮明になっているが、次回首脳会談では具体的な成果が不可欠。政府の一部には共同経済活動を「日本の潜在施政権を認めるということだ」と肯定的に受け止める向きもある。ただ、与党内では「経済協力だけ取られて終わりだ」(自民党閣僚経験者)との懸念が広がっている。(2016/11/21-20:23)

961名無しさん:2016/11/23(水) 22:39:20
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112200494&amp;g=pol
ロシア側、これ以上の譲歩困難=日本との共同経済活動で専門家

 【モスクワ時事】日ロ関係に詳しいロシア科学アカデミー極東研究所のビクトル・クジミンコフ日本研究センター上級研究員は21日、時事通信の取材に応じ、リマの日ロ首脳会談で協議された北方領土での「共同経済活動」について、「領土問題で、ロシアにとって実現可能で最大限譲れる提案はこれになる」と語り、ロシア側が領土問題でこれ以上譲歩するのは現時点では難しいとの認識を示した。
 プーチン大統領は北方領土について「第2次大戦の結果、ロシアに主権がある」という見解を繰り返し表明。一方、日本政府は北方領土での共同経済活動はロシアの主権を認めることになるとして、容易に応じられないという立場を取っている。(2016/11/22-14:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112200872&amp;g=pol
北方領土に最新鋭ミサイル=軍事化が一層鮮明-ロシア報道

 【モスクワ時事】インタファクス通信は22日、ロシア太平洋艦隊(司令部ウラジオストク)機関紙の報道として、ロシアが実効支配する北方領土の国後島と択捉島に、最新鋭の地対艦ミサイルシステム「バル」と「バスチオン」が配備されたと伝えた。国後にバル、択捉にバスチオンが配備されたという。これらの最新鋭ミサイルが北方領土に配備されたのは初めてとみられる。
 ロシアのショイグ国防相は3月、年内にクリール諸島(北方領土と千島列島)にミサイルを配備する計画を明らかにしていた。報道が事実なら、北東アジアの要衝として国後、択捉の軍事化を進めるロシアの姿勢が、一層鮮明になったと言えそうだ。プーチン大統領も20日、リマでの記者会見で、北方領土について「ロシアに主権がある」と明言している。
 バルは射程130キロ、バスチオンは同300キロ。バスチオンはロシアが編入したウクライナ南部クリミア半島を皮切りに順次配備されており、ロシア太平洋艦隊は7月、沿海地方から日本海に向けて発射演習を行ったと発表していた。(2016/11/22-22:18)

962名無しさん:2016/11/23(水) 22:47:13
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112100803&amp;g=pol
「アルゼンチンとの懸け橋に」=安倍首相、日系人と交流

 【ブエノスアイレス時事】安倍晋三首相は21日午前(日本時間同日夜)、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの「在亜沖縄県人連合会会館」で開かれた日系アルゼンチン人による歓迎会に出席した。首相は「(日系人が)勝ち得た揺るぎない信頼は日本人全体の誇りだ。引き続き日本と結ぶ懸け橋になっていただきたい」と呼び掛けた。
 歓迎会には約1000人の日系人が出席。首相は日系人がブエノスアイレスで運営する診療所に血液分析を行う機器などを贈ると発表した。(2016/11/21-22:03)

963名無しさん:2016/11/23(水) 23:28:58
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161121/k10010777091000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_051
官房長官 北方領土 政府の基本的立場変更ない
11月21日 12時29分
菅官房長官は午前の記者会見で、ロシアのプーチン大統領が、安倍総理大臣との会談で北方領土での共同経済活動についても話し合ったことを明らかにしたことに関連して、4島の帰属の問題を解決し、平和条約を締結する日本政府の基本的立場に変更はないという考えを示しました。
この中で、菅官房長官は安倍総理大臣とロシアのプーチン大統領との会談について、「首脳間の信頼関係にもとづき、くつろいだ雰囲気の中で北方領土問題をはじめとする二国間関係を中心に議論を行い、平和条約締結問題については、通訳のみを交えて、率直な意見交換が行われた。有意義な会談だった」と述べました。

そして、菅官房長官は、プーチン大統領がその後の記者会見で、北方領土での共同経済活動についても話し合ったことを明らかにしたことに関連して、「2人だけの会談なので、私から言うのは控えたい。4島の帰属の問題を解決し、平和条約を締結する基本的立場に変更はない」と述べました。
そのうえで、菅官房長官は「70年間解決できなかった領土問題なので、一挙に解決できるような、なまやさしい問題ではない。1歩1歩、超えていくべきことを超えながら、4島の帰属の問題を解決して、平和条約を締結するという立場で交渉していく」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161121/k10010777791000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_038
首相 中南米各国との関係強化に日系人の役割に期待
11月21日 22時47分
アルゼンチンを訪れている安倍総理大臣は、中南米各地の日系人との交流行事であいさつし、「皆さまが『架け橋』になっているからこそ、日本と中南米は共にやっていける」と述べ、日本と中南米各国との関係強化に向け、日系人の役割に期待を示しました。
ペルーでのAPEC=アジア太平洋経済協力会議の首脳会議を終えた安倍総理大臣は日本時間の21日午後9時半ごろから、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、中南米各国の日系人との交流行事に昭恵夫人とともに出席し、あいさつしました。

この中で、安倍総理大臣は「日本から遠く離れたこの地域にやってきて、いろいろな困難を歯を食いしばって乗り越え、尊敬の念を集めた皆さまに改めて敬意を表したい。皆さまが勝ち得た揺るぎのない信頼こそ日本人全体の誇りだ」と述べました。そのうえで、安倍総理大臣は「皆さま方のようにアルゼンチンで、中南米の至るところで、現地の人々から不動の信頼を集める方々がいてくださる。そんな皆さまが『懸け橋』になっているからこそ、日本と中南米は共にやっていける」と述べ、日本と中南米各国との関係強化に向け、日系人の役割に期待を示しました。

964名無しさん:2016/11/27(日) 22:47:14
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161125-00145689-toyo-bus_all
鈴木宗男氏「北方領土への誤解が多すぎる」
東洋経済オンライン 11/25(金) 6:00配信

第10回は新党大地の鈴木宗男代表。1956年の「日ソ共同宣言」から60年。2016年の12月15日、舞台は山口県・長門市の「大谷山荘」。日ロ関係の改善に執念を燃やす安倍首相とロシアのプーチン大統領との会談が予定され、北方領土への関心が急速に高まっている。
その安倍首相とたびたび意見交換をしているのが、日ロ関係に命を懸けてきた鈴木氏だ。波乱万丈の政治家人生を生き抜いてきた鈴木氏に、再び天が大きな仕事を与えようとしている。誤解が多い北方領土問題の「基本」から「今後のゆくえ」について、有馬氏が迫る(登場人物の肩書きは当時)。

■「日本が無条件降伏した」という事実は重い

 有馬:日本と旧ソ連が「日ソ共同宣言」に署名したのは1956年の10月19日。この時、旧ソ連との第2次世界大戦からの戦争状態が終わったわけですが、その60年後の今年12月15日、安倍首相が地元の山口県長門市の「大谷山荘」でロシアのプーチン大統領と会談します。

  北方領土やロシアとの平和条約を締結するうえで、極めて重要な会談になりそうですが、実は北方領土(歯舞<はぼまい>諸島・色丹<しこたん>島・択捉<えとろふ>島・国後<くなしり>島)の問題は、事実を知らない読者が大半です。「4島」なのか「2島」なのかという議論が漠然と盛り上がっていますが、北方領土問題の解決や平和条約締結に向けては、何がポイントとなるのでしょうか。

 鈴木:北方領土問題は、日本の戦後処理で解決されていない問題です。改めて歴史を振り返りながら、お話ししましょう。まず、旧ソ連時代のポイントは少なくとも4つあります。

 はじめに1956年の日ソ共同宣言(両国の議会によって批准された国際条約)が結ばれた背景を知る必要があります。1945年8月15日の終戦後すぐの同年9月2日、日本は東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で無条件降伏文書に署名するわけですが、これが戦勝国側から見た国際標準のスタートラインです。

 それに先立つ同年の2月、クリミア半島でヤルタ協定が結ばれます。英国チャーチル首相、米国ルーズベルト大統領、ソ連の最高指導者スターリンという3カ国の首脳によって戦後の処理方針を決めた秘密協定ですが、北方領土問題との絡みで言えば、ソ連の対日参戦と、ソ連への千島列島の引き渡しが書かれています。実際、ソ連は同年の8月9日に対日参戦してきました。

 これは1941年に結ばれた日ソ中立条約に対する明らかな違反ですが、戦勝国のソ連からすれば「日独伊3国同盟」で、ナチスドイツによって3000万人の犠牲者が出たという主張になるわけです。国際社会の中でも、ヤルタからの議論が認められているのですから、ここが最初の重要なポイントになります。

965名無しさん:2016/11/27(日) 22:48:04
>>964

国後島、択捉島についての理解が足りない
 次の二つ目のポイントは1951年のサンフランシスコ講和条約。日本が国際舞台に復帰した条約ですね。日本は千島列島と北緯50度以南の南樺太を放棄したわけですが、大事なことは、この時、日本は国後島、択捉島を放棄しているのです。

 同年条約署名後の10月の国会で、吉田茂首相の答弁に引き続き、西村熊雄外務省条約局長が、「千島列島の範囲とは北千島と南千島の両者を含む。その一方で歯舞と色丹は千島に含まれないことはアメリカ外務当局も明言している」という趣旨の答弁をしています。

■国後・択捉の放棄後、再び4島返還論になった

 この事実を多くの政治家も、マスコミもわかっていないのです(内閣府は北方領土4島が日本固有の領土であり、千島列島の範囲に含まれないとし、米国もこの立場を支持するという説明をしている)。ですから、日本が国際舞台で北方領土4島の議論をするときは、日本は決して有利とはいえず、私は、サンフランシスコ講和条約を歴史の事実として考えないといけないと思います。

 しかも、その後外務省は「物語」を作ります。サンフランシスコ講和条約にソ連は署名しませんでした。それを持って、「国後島と択捉島は放棄していない」という、いわば「議論のすり替え」をするのです。

 有馬:今のような背景を知ってから、1956年の日ソ共同宣言の話を考えないといけないわけですね。

 鈴木:そのとおりです。三つ目のポイントは1956年10月の日ソ共同宣言です。鳩山一郎首相は日ソ共同宣言に署名しますが、歯舞・色丹の2島だけでも平和条約を結ぼうという意見もありました。

 しかし、国内世論や閣議の結果、2島では平和条約までは結ばないということを同年の8月に閣議決定します。ところが、この後、こうした決定をしているにもかかわらず、米国が「もし2島で日ソ平和条約を結ぶなら、沖縄を返還しないぞ」と言ってくるわけです。これがいわゆる「ダレス(国務長官)の恫喝」です。冷戦が激しくなってきたために、米国が日本に圧力をかけてきたわけですが、この「上から目線」がソ連の態度を硬化させ、問題を複雑化しました。

 そして四つ目のポイントは1960年の日米安保条約の改定時。1956年の日ソ共同宣言の直前に交わされた「松本・グロムイコ書簡」では、「日ソの外交関係再開後も領土問題を含む平和条約交渉を継続する」とされていましたが、共同宣言では最高指導者であるフルシチョフ氏の反対で、「領土問題を含む」という文言が削除されました。

 日本側は松本・グロムイコ書簡と共同宣言を一体のものと説明しながら、平和条約の前提としても4島返還を求めてきたわけですが、1960年には「外国の軍隊が駐留する国には領土を渡さない」という新たなグロムイコ外相の書簡が出ます。これによって、1956年の宣言は反故にされ、これ以降、ソ連時代、ソ連から見れば、領土問題は事実上存在しないことになってしまったのです。

 その後、1972年の田中首相とブレジネフ書記長の会談でも、田中首相は「戦後の諸問題の中に、北方領土問題は入っているな?」と、ソ連側に迫りましたが、ソ連側は聞くだけで、まったく取り合いませんでした。

966名無しさん:2016/11/27(日) 22:48:30
>>965

外務省は事実上「4島一括返還」の旗を降ろしている
 有馬:ところが、ソ連が崩壊しロシアになったことで、話が変わってくるわけですね。

 鈴木:1991年4月、ソ連時代の最後の指導者だったゴルバチョフ大統領と海部首相の間で「北方領土4島を話し合いで解決する」と変化していましたが、同年にソ連は崩壊します。ソ連は、自由と民主のロシアになり、エリツィン氏が大統領になります。彼は「戦勝国、敗戦国という枠組みにとらわれず、法と正義に基づいて話し合いで解決する」と言いました。

■外務省はエリツィン大統領登場で対応を事実上変えた

 ここで大事なことは、日本政府も、1991年10月以降は「4島一括返還の旗」を降ろしたことです。つまり、「ロシアが4島の帰属さえ認めれば、その返還時期や条件については柔軟に対応する」と事実上、対応を変えたのです。この事実は一部では報道されていますが、外務省が政治家や国民に明確に伝えていないため、さまざまな誤解が生じているのです。

 その後、1993年10月、エリツィン大統領は細川首相と会談した際には国会でシベリア抑留を謝罪。北方領土4島の名前を列挙して「4島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」という東京宣言に署名するなど、旧ソ連時代とはまったく違った姿勢で臨んできました。

 さらに、1997年と98年には、橋本首相とエリツィン大統領とがそれぞれロシアのクラスノヤルスク、川奈(静岡県伊東市)で会談を行い、1997年には「2000年までの平和条約締結に向けて全力を尽くす」と決定。1998年には非公式に「北方4島の北側で両国の国境を画定し、当面はロシアによる4島の施政権を認める」という「川奈提案」も行いましたが、ロシア側が拒否しました。

 有馬:このあと2000年にプーチン大統領が登場したことで、どう変わったのでしょうか。鈴木さんも、プーチン氏に特使として会うなど、交渉には深くかかわっています。またその後は、いろいろ大変なことになりました。

 鈴木:話はここからが本番です。2000年の3月に当選したプーチン大統領(就任5月)は、1960年の安保条約改定以後のソ連・ロシアの首脳の中で、1956年の日ソ共同宣言の有効性を認めてくれた初めての最高首脳です。逆に言えば、日ロ双方にとって、国境画定の議論や領土問題は法律的に裏付けられているものは日ソ共同宣言だけという立場を明確にしました。私は小渕内閣の時に当選直後のプーチン氏と会った経験がありますし、森次期首相とプーチン氏との会談をセットしたこともあるからはっきりといえますが、プーチン大統領は約束を守る政治家です。また法律の専門家でもあります。

 プーチン大統領は2000年の9月に日本にやって来ると、日ソ共同宣言の存在を認めたうえで、「今回は記者会見だけ。文書にするのは次の首脳会談で」といい、そのとおり2001年の3月25日に文書にしてくれました。これが森首相とのイルクーツク宣言です(日ソ共同宣言を、交渉の出発点と位置付けた宣言)。私に言わせれば、日本がもっとも北方領土に近づいた日でした。

 ではイルクーツクでの首脳会談の大事な部分とは何でしょうか。ポイントは2つです。歯舞・色丹の2島について、日本への具体的引き渡しの協議をしようということ。もう一つは、国後・択捉についてはどちらに帰属するかの協議を行おう、というものです。日ソ共同宣言の引き渡し交渉と、国後・択捉の帰属も同時に話し合う並行協議案ですが、これについて、プーチン大統領は「承った」と、持ちかえって協議することになったのです。

 しかし、2001年4月に小泉政権が誕生すると、話が変わってしまいます。

 信じられないことに、2002年5月ラブロフ外相と会った川口外相は、このとき日本の側から交渉の旗を降ろしてしまうのです。米国一辺倒になった小泉政権の方針ですが、同じ政党なのに政策を大転換してきた日本の態度に、プーチン政権側がびっくりして、不信感を強めたのは想像に難くありません。このあと2012年末に第2次安倍政権が誕生するまで、日ロ関係は「空白の10年」になりました。

 私も、歴史を踏まえて行動をしているにもかかわらず、こうした「2島先行返還論」を主張したことなどで「2島返還論者」「売国奴」などとののしられることになりました。しかし、そのようなときにあっても、当時小泉首相の官房副長官だった安倍首相は、「鈴木さんは政府の方針を踏まえて日ロ外交を行っており、何の問題もない」と言ってくれていたのです。

967名無しさん:2016/11/27(日) 22:48:50
>>966

安倍首相はプーチン大統領の琴線を揺さぶった
 有馬:もともと2島先行返還でも問題なかった安倍首相ですから、首相になってからも、地球儀を俯瞰する外交で、ロシアにはかなり精力を傾けてきました。

 鈴木:安倍首相はお父さんの安倍晋太郎外相が日ソ関係の改善に尽力したこともあり、2012年末に首相に再度就任すると、翌年の2013年にはモスクワを訪問して交渉の活性化で合意しています。2014年には欧米とロシアの関係が冷え込む中、ソチ五輪の開会式にも出席しました。しかも、クリミア半島の問題が深刻化してからも、日ロ交渉の進展に向けて、態度を変えませんでした。クリミアの停戦合意後はそれこそ、さまざまなチャネルを通じてロシア側の出方を探ってきたわけです。

 それが一つの形となって表に出たのが、2016年5月のロシアのソチでの首脳会談です。ここで安倍首相はいわゆる「新しいアプローチ」として8つの経済協力を示しました。

 これにプーチン大統領はびっくりしたと思います。彼の琴線を揺さぶった。プーチン大統領はこの新しいアプローチに同意しましたが、一方で、9月2日の東方経済フォーラムへの出席を要請した。私が思うに、プーチン大統領は安倍首相の本気度を試したのです。この日は日本が無条件降伏した日です。しかし、安倍首相は即決した。

 この時の会談では、安倍首相は8つのアプローチについて具体的な説明をし、エネルギー政策・医療・インフラ・環境などの分野について丁寧に説明しました。東方経済フォーラムでプーチン大統領は公の席で初めて安倍首相に「シンゾー」と呼びかけ、安倍首相も「ウラジミール」と応じましたが、これが二人の信頼関係を物語っています。

■長門会談は日本とロシア双方にリスクがある

 有馬:ということは、12月15日の長門会談の下準備は完全だ、ということでしょうか。

 鈴木:長門会談は昨日今日に考えられたわけではありません。すでに3年前の会談で安倍首相が申し出ているように、安倍首相は用意周到にスケジュールを考えています。

 今、北方領土4島について言えば、大事なことは、一方的な期待感や期待値を上げないことです。外交には相手があり、お互いの名誉と尊厳がかかっています。静かな落ち着いた環境で首脳会談を行うのが一番です。

 両首脳の波長がとてもあっており、しかも、両首脳は現在、国民からの高い支持率を得ています。領土や国境の画定は結局トップの決断によるしかありません。

 もう一つ大事なことは、両首脳ともリスクを抱えながらの決断になるということです。1956年の日ソ共同宣言に基づいて交渉が行われると言っても、ロシア国民の約8割は「日本に領土など返す必要はない」という意見です。もしプーチン大統領がこれは義務だからなどといってカードを切ったら、いかにプーチン大統領でも大変なリスクになります。

 一方、日本の安倍首相にとってもリスクがあります。今回前半でお話したように、国民の大半は、日ソ、日ロの交渉の詳細を知りません。こうしたところで安倍首相が大きな決断をするには大きなリスクがあるのです。

 「1956年の日ソ共同宣言で、平和条約締結の後、歯舞・色丹の2島は引き渡されることになっているじゃないか」というのが漠然とした国民の理解かもしれません。よく「返還」と言われますが、正しい理解は、あくまでも「引き渡し」なのです。これは旧ソ連の善意で返してあげる、という意味で、「返還」ではないのです。過去の歴史を振り返るとき、「戦争でとられた領土は、戦争で取り返す」という繰り返しでした。一滴の血も流さず、領土が戻ってくるとしたら、これは大変なことなのです。落ち着いた雰囲気の中で、日本もロシアも良かったという決着を図らなければいけません。

968名無しさん:2016/11/27(日) 22:49:29
>>967

「落としどころ」はどうなるのか?
 有馬:過去には、北方領土問題は、麻生財務大臣が外相だった2006年に4島の面積を等分する「3・5島返還論」などが出たこともあるのですが、こうした分割による「引き分け論」はないわけですね? 

 鈴木:ないと思います。これに関連して言えば、先般、民進党の野田幹事長が歯舞・色丹の面積をもとに「ロシアは日本から昔100万円強盗しておいて、今になって7万円くらい返すといっているのと同じだ。けしからん」などという趣旨のことをブログで綴っていますが、これは首相経験者の話とは思えないほどの、低い見識に基づいた発言です。

 まず歴史の経緯から見て、世界の大国ロシアを強盗呼ばわりして、いいはずがない。もうひとつは、北方領土は陸の面積もさることながら、200カイリの排他的経済水域の概念などでわかるとおり、海の面積が非常に重要だということです。例えば今年サケマスの流し網漁は禁止されていますが、色丹島が日本の領域ということになれば、流し網漁ができる。これだけで、根室市の1年分の予算250億円に匹敵するほどなのです。野田幹事長の主張は、こうしたことがわかっていない、とんちんかんな発言だといわざるをえません。

■旧西ドイツから学べ

 有馬:結局のところ、落としどころはどうなるのでしょうか?  1956年の日ソ共同宣言をベースにするにしても、今のお話にあったように、当時は排他的経済水域のような概念はありませんでした。また強力な在日米軍もいませんでした。条件が変わっており、2島が直ちに引き渡しされることも考えにくい、というのが現実的でしょうか。プーチン大統領は、北方領土問題を機に、日米安保体制にくさびを打ち込もうとしているとも考えられますね。

 鈴木:外交には相手があります。お互いの国益を考えての結論を出すしかありません。日本もロシアもリスクを負うという中で、1956年宣言を元に決着を図るのは一つの手です。しかし、例えば極端な話、引き渡しは歯舞諸島だけだが、それをもとに次の展開が見込めるというなら、私はそれを了としなければならないと思うのです。

 この話に関しては、旧西ドイツから学ぶべきです。1972年、東方外交を進めていた西ドイツのブラント首相は、東ドイツを承認、それは東西ドイツ基本条約の形で締結され、東西ドイツは相互承認をしました。この17年後の1989年11月9日にベルリンの壁は崩壊して、1990年には統一ドイツが誕生しました。ですから、歯舞・色丹の2島だけでも主権が戻ってきて国後・択捉島には出て行ける、共同経済活動ができる、となれば状況は変わってきます。

 また、日米安全保障条約など、米国との同盟関係については極めて重要です。安倍首相は、ことあるごとにオバマ大統領やバイデン副大統領に直接会って話をして、日本とロシアの領土問題についての理解を求め、納得を得てきました。

 トランプ新大統領になっても、それは変わりないと思います。私は安倍首相が、日本の国益を損なわず、日米同盟に配慮しながら、さらに日ロ関係を強固にすることで、中国を見据えたアジアの安定にも貢献するという「地球儀を俯瞰する外交」が実行できると信じています。ロシアも日本と結ぶことで、対中国や対朝鮮半島の関係からも安定が図れるのです。

 有馬:「8つの経済協力」への不安はありませんか? やはり、もし関係がぎくしゃくしたら、いざとなったらロシアが施設を接収するなどの問題も考えておく必要はありませんか? 

 鈴木:「ロシアは経済協力が目当てだ」などという議論は、さきほどの「100万円強盗して7万円返還する」と同じくらいレベルが低い議論だと、私は思います。「ソ連=ロシア」ではありません。そもそもロシア人は高い人的能力を持っていますし、今のロシアは信頼に足るエネルギー大国です。現在は財政が厳しいと言ってもソ連時代とは比べ物になりません。日本人はいいかげん、頭を切り替えなければいけません。

969名無しさん:2016/11/27(日) 22:49:40
>>968

 一方で、ロシアは日本の農業や医療などの応用技術に関心を持っています。これは20年違うかもしれず、ロシアにとっては魅力です。世界一の応用技術を持つ日本と、世界一のエネルギー資源大国であるロシアが協力することによって、世界の平和と安定につながります。

 有馬:最後に、次の衆議院選挙には出馬しますか? 

 鈴木:私の公民権は2017年の4月29日に回復します。その後に国政選挙があり、もし北海道のみなさんが「鈴木出るべし」ということなら、出馬します。もし年末の安倍・プーチン会談で北方領土の問題に道筋がついても、その仕上げには2年、3年、5年とかかるでしょう。2島だけでなく、国後・択捉などとの向き合い方にも課題が出てくるはずです。今後とも、生涯日ロ関係に命を懸けたいと思います。

【有馬の目】4島一括でなければ評価しないという意見があるなか、一歩でも進めることが大切と期待する鈴木宗男氏。安倍首相とプーチン大統領の個人的な関係は、日ソ共同宣言以来60年の歳月を埋めるチャンスと見る。北方領土に拘る族議員が見当たらないなか、ライフワークを自負する鈴木氏に丁寧に解説願った。
 (撮影:尾形文繁、構成:福井 純)

有馬 晴海

970名無しさん:2016/12/03(土) 10:53:21
http://www.sankei.com/world/news/161203/wor1612030005-n1.html
2016.12.3 00:31
北方領土の領有容認を要求 平和条約交渉の前提とロシア

 2日のロシア通信によると、ロシアのモルグロフ外務次官は、日本と平和条約締結交渉を本格的に始めるには、第二次大戦の結果、北方領土がロシア領になったと日本が認める必要があると述べた。また、3日にモスクワで行われるラブロフ外相と岸田文雄外相の会談では平和条約問題には触れるが、本格協議は予定されていないとも述べた。

 プーチン大統領の訪日が今月15〜16日に迫る中、ロシアが従来の強硬姿勢を崩していないことが鮮明に。モルグロフ氏は「平和条約問題の交渉に関する私たちの立場は変わっていない」と前置きし、「日本は南クリール諸島(北方領土)の領有も含めた第二次大戦の結果を無条件で認める必要がある」と強調。「これが平和条約問題の真剣な議論の出発点になる」とした。

 モルグロフ氏は原田親仁・日露関係担当政府代表と平和条約締結交渉を続けているロシア側の担当者。(共同)

971名無しさん:2016/12/04(日) 21:59:31
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%B2%A1%E9%96%A5
甲州財閥

甲州財閥(こうしゅうざいばつ)とは、明治期の東京や横浜で顕著な経済活動を行っていた甲州(山梨県)出身の実業家たちのことで、著名な人物は、若尾逸平、若尾幾造、若尾璋八、雨宮敬次郎、根津嘉一郎、小野金六、穴水要七、小池国三、佐竹作太郎、神戸挙一である[1]。その中でも若尾逸平と雨宮敬次郎は二大巨頭と言われている[2]。甲州財閥の実業家たちは協力し合うこともあったが、対立することもあった[2]。例えば、雨宮敬次郎は1893年10月に東京市街鉄道の設立を申請しているが、若尾逸平は翌11月に東京馬車鉄道の電化を申請しており、東京市街の鉄道(路面電車)において二人は対立していた[3]。

972名無しさん:2016/12/07(水) 22:33:37
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161205-00000101-jij-pol
安倍首相、真珠湾訪問へ=歴代初「未来に不戦の決意」―26日から、オバマ氏と慰霊
時事通信 12/5(月) 19:04配信

 安倍晋三首相は5日、今月26、27両日の日程で米ハワイを訪れ、第2次世界大戦で日米開戦の舞台となったホノルル市の真珠湾を訪問すると発表した。

 日本の現職首相が真珠湾を訪れるのは初めて。オバマ米大統領とともに犠牲者を慰霊し、併せて最後となる首脳会談も行う。首相は「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないという未来に向けた決意を示したい」と訪問の意義を訴えた。首相官邸で記者団に語った。

 オバマ氏は今年5月、現職の米大統領として初めて、米国が原子爆弾を投下した広島市を訪問している。旧日本海軍が奇襲攻撃を行った真珠湾を日本の首相が訪れることは、その返礼の意味合いがあるとみられる。首相とオバマ大統領は27日に奇襲攻撃で沈んだ戦艦アリゾナの記念館を訪問する方向だ。岸田文雄外相が首相に同行する。

 首相は真珠湾訪問について「犠牲者の慰霊のための訪問だ」と説明し、「日米の和解の価値を発信する機会にもしたい」と表明。日米の戦後に終止符を打つとともに、同盟深化を内外にアピールする狙いを強調した。

 昨年4月に米議会上下両院合同会議で戦後70年の節目を踏まえて演説したことにも触れ、「(それ以降)真珠湾を訪問することの意義、象徴性、和解の重要性について発信したいとずっと考えてきた」と説明。11月にペルーでオバマ大統領と立ち話した際、最終的に決まったと明かした。

 首相はオバマ大統領との会談を「これまでの集大成」と位置付け、「この4年間、あらゆる面で日米関係を発展させ、アジア太平洋地域や世界の平和と繁栄のためともに汗を流してきた」と指摘。先の広島訪問に関し、「核なき世界に向けた大統領のメッセージは、今も多くの日本人の胸に刻まれている」とも述べた。

 真珠湾攻撃は1941年12月8日(日本時間)に行われ、米側に多数の犠牲者が出た。今年は75周年の節目で、日本政府はオバマ大統領の広島訪問と並行して、水面下で米政府と調整していた。

973名無しさん:2016/12/08(木) 06:28:51
「日本を殺せ」が米国で大ヒット、東京だった次の原爆
JBpress 12/8(木) 6:15配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161208-00048575-jbpressz-n_ame

974とはずがたり:2016/12/08(木) 15:12:35

70年後に見えてきた白洲次郎の意外な事実
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20161019-OYT8T50024.html?from=yartcl_outbrain1
読売新聞調査研究本部主任研究員 舟槻格致
2016年10月21日 12時30分

 日本国憲法は11月3日に、「公布70周年」の節目を迎える。連合国軍総司令部(GHQ)による「押し付け」で作られたとされる憲法の制定当時、GHQとの交渉で苦闘しながら活躍したことで知られる白洲次郎の実像に、読売新聞調査研究本部で憲法問題担当の舟槻格致主任研究員が迫る。

今なお「日本で一番カッコイイ男」

 白洲次郎(1902〜85年)の典型的なイメージといえば、戦前のヨーロッパ大陸で、ベントレーやブガッティを乗り回したダンディーな日本人。イギリス貴族仕込みのブリティッシュ・イングリッシュで、憲法を巡っては、政府の「終戦連絡中央事務局次長」として連合国軍総司令部(GHQ)に正面から戦いを挑み、吉田茂首相を助けた男――。こんな辺りだろうか。

 NHKのドラマなどを通じて人気が沸騰し、今なお「日本で一番カッコイイ男」とまで言われる人物の生き方は、調べれば調べるほど興味深い。だが、女婿の牧山圭男よしお・長女の牧山桂子かつらこ夫妻に話を伺うと、一般的に抱かれる人物像とはちょっと違う白洲の姿も浮かび上がってくる。夫妻の話も踏まえて、白洲の実像と日本の戦後史に与えた影響を考えてみたい。

疑問1・白洲はマッカーサーを怒鳴りつけたか

 東京郊外・町田市。小田急線鶴川駅から15分ほど歩いた緑あふれる住宅地に旧白洲邸「武相荘ぶあいそう」はある。かつて農家を買い取って白洲次郎・正子(1910〜98年)夫妻が暮らした邸宅が、今は一般に公開されている。その一室で牧山さん夫妻にお会いし、白洲の思い出を語ってもらった。

 「天皇の贈り物を『その辺に置け』とは何事か!」

 白洲を一躍ヒーローにしたのは、昭和20(1945)年のクリスマスのエピソードだろう。白洲が届けた天皇のプレゼントを、マッカーサーが「そのあたりにでも置いておいて」と、絨毯じゅうたんの上を指さしたところ、このセリフが飛び出したとされる。プレゼントを持ち帰ろうとする白洲の姿にあわてたマッカーサーは、台を用意させたという。

 当時の日本は、米国に敗れて国土は焦土となっていた。精神的にも、日本人の誰もが絶対的な存在と信じていたはずの天皇陛下すら「碧あおい眼めの大君」マッカーサーに屈従せざるを得ず、うちひしがれていた。そんな中にあって、一人の日本の男がマッカーサーを面前で一喝したというのだから、空手チョップで外国人レスラーをやっつけた、かの力道山並みにカッコ良すぎる逸話と言えよう。

 ところが、桂子さんは「そんな失礼なこと言いませんよ」と、このエピソードに否定的な見方を示す。以下は、圭男さんの解説である。

 「白洲は、評論家の河上徹太郎さん(1902〜80年)と非常に仲が良かった。生前、白洲はよく『若いやつが生意気なことを言うから、怒鳴りつけてやった』とか『ぶん殴ってやった』ということがあった。でもそれは心情を吐露しているだけであって、本当に殴るわけではない。白洲はマッカーサーとのことも、『マッカーサーを怒鳴りつけてやった』というように話し、それを聞いて面白がった河上さんが書いて広まったエピソードではないでしょうか。白洲は失礼なことはしないんです」

 要するに、多分に脚色が入っていたのではないか、というのである。もっともマッカーサーが慌てて台を取ってきたのはどうも事実だったようで、「白洲が紳士的に苦言を呈した」というあたりが事実に近いのかもしれない。

975とはずがたり:2016/12/08(木) 15:13:10

 「怒鳴りつけた」が仮に本当でないとしても、それで白洲の株が下がるとは全く思わない。天皇の贈り物が軽んじられないようにきちんと英語で伝え、しかもそれをマッカーサーに実行させるというスマートなことができた日本人が当時、果たして白洲以外にいただろうか。天皇に敬意を払う日本人の思いをマッカーサーに率直に伝えたことは、東京裁判などから天皇の身柄を守る意向に傾いていたとされるマッカーサーの決意を、さらに固めたに違いないとも思う。

疑問2・白洲は「押し付け憲法」を嫌ったか

 白洲が日本の現代史上、最も活躍したのは、日本国憲法の原案が作られた46年の2月から3月にかけて、当時の吉田茂外相や松本烝治じょうじ・憲法担当国務相と一緒にGHQとの厳しい交渉に当たった時期ではないだろうか。GHQは、自ら作った「マッカーサー草案」をほとんど日本側に直させないまま、3月7日には「憲法草案要綱」が新聞などで発表された。

 煮え湯を飲まされた格好の白洲は、同日付の手記に「『今に見ていろ』と云フ気持抑ヘ切レス。ヒソカニ涙ス」と書いている。

 白洲は後に、新憲法は「押し付け」られたものであると明言している。「この憲法は占領軍によって強制せられたものである」「歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大なる罪悪である」(エッセー集『プリンシプルのない日本』)とも書いている。

 こうした白洲の証言は、「今の憲法は押し付けだ」と強調する“改憲派”知識人たちの議論のよりどころの一つともなってきた。

 ところが、当の憲法の中身について、白洲は内心では評価していたというから、意外である。圭男さんが語る。

 「白洲は、『押し付けられたのは事実だし、素人が作った憲法だが、内容は良い。人の良いアメリカ人が占領軍となって作ったから、ずいぶん助かったんだ』と話していました」

 特に9条を評価していたという。朝鮮戦争を契機に米側から日本の再軍備の要請が強まり、警察予備隊が発足し、やがて自衛隊になっていくわけだが、白洲は再軍備に批判的だったという。憲法の問題点と指摘していたのは、「国の根幹にかかわるものなのに、細かく書かれすぎている。もっとザックリ書けば良かった」という点だった。

 現在の厳しい国際情勢は、9条制定当初からは一変しているし、憲法学者からは「日本国憲法は先進諸国の憲法と比べて条文が大ざっぱすぎる」という指摘はあっても逆は皆無だ。白洲の考えは、今日的に見ると正しいとばかり言いづらい面もあろうが、白洲が一筋なわでは理解できない人物であったことは、確かだ。


疑問3・白洲はGHQと対立したか

 GHQでマッカーサーの腹心だったコートニー・ホイットニー准将に「英語がうまいですね」と褒められた白洲は、こう切り返している。

 “If you study a little harder, you will improve your English.”(あなたももう少し勉強すれば、英語が上達しますよ)

 ホイットニーといえば、マッカーサーに次ぐGHQのナンバー2で、日本統治の要であった民政局の局長。ロースクールで法律を学んで弁護士も経験し、将官にまで上り詰めた人物だ。知識人であり、たたき上げの軍人ではない。だが、ケンブリッジ大学を卒業し、英国の貴族階級から英語を学んでいた白洲は、自らの英語の方が正統であると感じたに違いない。心理的には引け目を感じるどころか、優位に立っていたのだろう。

976とはずがたり:2016/12/08(木) 15:14:15
>>794-796
 「いやみったらしい英語で言う白洲の様子が、目に浮かぶようね」と、桂子さん。

 このホイットニーとのやり取りだけを見ると、学歴や階級をひけらかしたようなイヤらしさを感じる向きもあるかもしれないが、白洲のイギリス英語の使い手としての力量は、そうした表面的なものだけではなかったようだ。

 GHQの憲法原案を押し付けて完成させようとしたホイットニーに宛てて、性急すぎると白洲が苦言を呈したことで有名なのが、いわゆる「ジープウェー・レター」(46年2月15日付)だ。先進的すぎる民主主義的な憲法の拙速な導入は、本来ジープで山道を越えていくべきところを飛行機で一足飛びに目指すようなもので、過激な反動を招きかねないと、たとえ話を交えて切々と訴えた。緊張感があふれる2枚紙の英文の手紙の最後は、こう締めくくられている。

“I am afraid I have already accelerated the paper shortage by writing this mumble but I know you will forgive me for my shortcoming for which my late father is also partly responsible.”(私がブツブツと文句を書き連ねたことで紙不足に拍車をかけてしまいましたが、これは亡父の性格を一部受け継いだゆえの私の短所によるものです。どうかお許しを)

 物資が払底していた終戦直後でも、さすがに紙2枚を政府が使えないことはなかっただろう。白洲の父は、貿易会社を興した大金持ちで後に会社を倒産させ、豪放な人物として知られた白洲文平。厳しい内容が続いた文面の最後で、英国紳士を彷彿ほうふつとさせるユーモアを見せられたホイットニーは、思わずクスッと笑ったのではないか。日本語にしてみると何と言うこともないが、何とも書き手のスマートさを感じさせる機知に富んだ文章だ。

 こうした人間的な面白みも手伝ってか、GHQの人たちは、桂子さんによると、幹部クラスを含むかなりの数が鶴川の自宅を頻繁に訪れて、白洲と親しく交わっていた。白洲はGHQにはっきりとモノを申したが、それは「喧嘩けんか」ではない「主張」だったということだろう。

「誇りある文明国」GHQに印象づける

 白洲次郎が終戦直後の日本にいなかったら、どうなっていたか。

 おそらく「押し付け憲法」の内容はほとんど変わらなかったし、その後の自衛隊発足、経済復興といった日本の戦後史も、基本的にたどったコースは同じだったろう。

 だが、白洲が憲法交渉に加わっていなかったら、「押し付け」を巡る日米の亀裂はさらに深刻になり、現代にまで一層暗い影を落としたのではなかったか。プライドの高い松本国務相は、怒りのあまり交渉の途中で席を立って出て行ってしまい戻って来ないほどだった。交渉団に入っていた吉田外相が後に首相になれたのは、GHQとの折衝の前面に立つ汚れ役を白洲が引き受けたからだという見方は、決して誇張ではないだろう。白洲の能力に目を付けて引っ張り出してきた吉田の人を見る力は大したものだったと言っても良い。

 白洲は、「確かに日本は戦争には負けたが、決して野蛮な未開国ではない。誇りある文明国だ」ということを、自らの行動を通じて、GHQの幹部たちに印象づけたのだろうと思うのである。

舟槻 格致( ふなつき・かくち )
 調査研究本部主任研究員。専門分野は憲法と政治。憲法を中心とした政治の動きを、政治部で担当。首相官邸のほか与野党、国会、外務省、法務省などを取材し、憲法、衆院選、統括担当の次長を経て現職。著書「政治はどう動くか」(書肆侃侃房)、共著「基礎からわかる 憲法改正論争」(中公新書ラクレ)など。

977名無しさん:2016/12/10(土) 13:45:31
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120500735&amp;g=pol
安倍首相発言全文=米真珠湾訪問

 安倍晋三首相が5日、今月下旬の米真珠湾訪問を発表した発言の全文は次の通り。
 今月26、27日、ハワイを訪問し、オバマ大統領と首脳会談を行う。この4年間、オバマ大統領とはあらゆる面で日米関係を発展させ、アジア太平洋地域、世界の平和と繁栄のためにともに汗を流してきた。
 先のオバマ大統領の広島訪問に際し、核なき世界に向けた大統領のメッセージは今も多くの日本人の胸に刻まれている。ハワイでの会談は、この4年間を総括し、未来に向けてさらなる同盟の強化の意義を世界に発信する機会にしたい。
 これまでの集大成となる最後の首脳会談となる。この際、オバマ大統領とともに真珠湾を訪問する。犠牲者の慰霊のための訪問だ。二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。未来に向けた決意を示したい。
 同時に、日米の和解の価値を発信する機会にもしたい。今や日米同盟は、世界の中の日米同盟として、ともに力を合わせて世界のさまざまな課題に取り組む希望の同盟となった。その価値、意義は、過去も現在も未来も変わらない。このことを確認する意義ある会談となると思う。
 -訪問を決断したのはいつか。
 昨年、戦後70年を迎え、米議会で演説を行い、私の70年を迎えての思い、考えについて発信したところだ。その中で、真珠湾を訪問することの意義、象徴性、和解の重要性について発信したいとずっと考えてきた。
 同時に、オバマ大統領との4年間を振り返る首脳会談も行うことができればと考えてきたが、先般の(ペルーの)リマでの短い会談で、12月に会談を行おう、そしてその際に二人で真珠湾を訪問しようと確認し、合意をした。(2016/12/05-20:04)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120500798&amp;g=pol
日米和解、未来志向でアピール=同盟の意義再確認へ-安倍首相

 安倍晋三首相はオバマ米大統領とともに行う真珠湾訪問で、日米和解を内外にアピールし、戦後に区切りを付けたい考えだ。オバマ氏による5月の広島訪問と併せ、日米の指導者が未来志向で平和を誓う舞台として周到に準備を進めてきた。来年1月のトランプ次期政権への交代を前に、日米同盟の意義を再確認する狙いもある。
 「この4年間を総括する場をつくろう」。首相は11月中旬のペルー・リマで行ったオバマ氏との短時間の立ち話で、こう呼び掛け、ハワイでの首脳会談を提案。オバマ氏は快諾した。
 関係者によると、オバマ氏は5月に来日して首相と会談した際、真珠湾攻撃のあった12月8日の訪問を打診した。しかし、日本側は「謝罪色が強くなりすぎる恐れがある」(政府関係者)との理由で、同月下旬にずらせた。
 オバマ氏の被爆地・広島訪問では、日本は原爆投下への「謝罪」を求めず、未来志向を演出することに心を砕いた。これと同様に、首相は自身の真珠湾訪問でも未来志向を重視した。
 首相は昨年4月の訪米時に議会で演説し、真珠湾や太平洋戦争の激戦地に触れながら、「悔悟」の気持ちを表明。同年8月に発表した戦後70年談話でも「私たちの子や孫に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と、戦後に終止符を打つ必要性を強調していた。
 首相はその当時からハワイ訪問の構想を温めてきた。首相は5日夜、「真珠湾を訪問する意義、象徴性、和解の重要性について発信したいとずっと考えてきた」と記者団に明かした。
 一方、トランプ次期大統領は選挙戦で、在日米軍駐留経費を日本が全額負担しない場合の米軍撤退や日本の核武装に言及したことから、日米同盟の先行きを不安視する向きもある。
 「日米同盟の価値は、過去も現在も未来も変わらない。このことを確認する意義ある会談になる」。首相はオバマ氏とハワイで行う首脳会談をこう位置付け、次期政権との間でも「希望の同盟」として堅持していきたいとの考えをにじませた。 (2016/12/05-22:33)

978名無しさん:2016/12/10(土) 13:47:03
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120500667&amp;g=pol
安倍首相、真珠湾訪問へ=歴代初「未来に不戦の決意」-26日から、オバマ氏と慰霊

 安倍晋三首相は5日、今月26、27両日の日程で米ハワイを訪れ、第2次世界大戦で日米開戦の舞台となったホノルル市の真珠湾を訪問すると発表した。日本の現職首相が真珠湾を訪れるのは初めて。オバマ米大統領とともに犠牲者を慰霊し、併せて最後となる首脳会談も行う。首相は「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないという未来に向けた決意を示したい」と訪問の意義を訴えた。首相官邸で記者団に語った。

 オバマ氏は今年5月、現職の米大統領として初めて、米国が原子爆弾を投下した広島市を訪問している。旧日本海軍が奇襲攻撃を行った真珠湾を日本の首相が訪れることは、その返礼の意味合いがあるとみられる。首相とオバマ大統領は27日に奇襲攻撃で沈んだ戦艦アリゾナの記念館を訪問する方向だ。岸田文雄外相が首相に同行する。
 首相は真珠湾訪問について「犠牲者の慰霊のための訪問だ」と説明し、「日米の和解の価値を発信する機会にもしたい」と表明。日米の戦後に終止符を打つとともに、同盟深化を内外にアピールする狙いを強調した。
 昨年4月に米議会上下両院合同会議で戦後70年の節目を踏まえて演説したことにも触れ、「(それ以降)真珠湾を訪問することの意義、象徴性、和解の重要性について発信したいとずっと考えてきた」と説明。11月にペルーでオバマ大統領と立ち話した際、最終的に決まったと明かした。
 首相はオバマ大統領との会談を「これまでの集大成」と位置付け、「この4年間、あらゆる面で日米関係を発展させ、アジア太平洋地域や世界の平和と繁栄のためともに汗を流してきた」と指摘。先の広島訪問に関し、「核なき世界に向けた大統領のメッセージは、今も多くの日本人の胸に刻まれている」とも述べた。
 真珠湾攻撃は1941年12月8日(日本時間)に行われ、米側に多数の犠牲者が出た。今年は75周年の節目で、日本政府はオバマ大統領の広島訪問と並行して、水面下で米政府と調整していた。(2016/12/05-23:30)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120500762&amp;g=pol
ホワイトハウス、日米が「和解の力示す」=安倍首相の真珠湾訪問

 【ワシントン時事】米ホワイトハウスは5日、安倍晋三首相のハワイ・真珠湾訪問について声明を出し、「(オバマ大統領と首相は)共通の利益や価値で結び付いて、かつての敵を最も緊密な同盟国にした和解の力を示す」と述べた。旧日本軍による真珠湾攻撃から75年の節目を迎えることから、全ての関係者が歓迎しているとみられる。
 ホワイトハウスによると、オバマ大統領は27日、安倍首相に同行し、真珠湾にある慰霊施設のアリゾナ記念館を訪問する。声明は「(首相との)会談は、日米同盟の強化に向けた過去4年間の努力を振り返る機会となる」と述べた。
 安倍首相による真珠湾訪問案は、オバマ大統領が5月に被爆地・広島を米大統領として初めて訪問した際、日米の当局者間で浮上していた。オバマ氏は毎年12月下旬に冬休みをハワイで過ごしており、この時期に照準を合わせて首相訪問を水面下で調整していた可能性がある。
 ハワイでは今月7日(日本時間8日)、真珠湾攻撃から75年になるのに合わせて式典が行われる。米メディアによると、ハワイ選出の日系議員らがオバマ、安倍両氏に式典への招待状を送っていた。真珠湾攻撃で米側は約2300人が犠牲になった。
 米国内では現在、第2次世界大戦をめぐる反日感情が目立った形では表面化していない。安倍首相が戦後70年の2015年4月に米議会で行った演説も肯定的に受け止められており、真珠湾訪問で謝罪を求める動きが広がることはないとみられる。(2016/12/05-22:35)

979名無しさん:2016/12/10(土) 14:25:21
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600010&amp;g=pol
安倍首相の真珠湾訪問、与党は歓迎=「謝罪はしない」の見方も

 安倍晋三首相の今月下旬の真珠湾訪問について、与党からは歓迎する声が相次いだ。自民党の保守系議員も「騒ぐことはない」「いいことだ」などとおおむね理解を示した。一方、首相に近い党幹部の一人は、真珠湾攻撃の加害責任に関し「首相は謝罪はしない」との見方を示した。
 自民党の河村建夫元官房長官は5日夜、東京都内で記者団に対し、「一つの大きなタイミングだ。首相が言う『戦後の総決算』という感じがする」と評価。「オバマ米大統領が広島を訪れたということもあると思う」と述べ、大統領の被爆地訪問への答礼の意味合いもあるとの認識を示した。
 公明党の大口善徳国対委員長は記者団に「米国民の心情に寄り添う姿を示すことは大事だ」と語った。(2016/12/06-00:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600015&amp;g=pol
中国メディアも詳報=ネットでは「なぜ南京に来ない」-安倍首相の真珠湾訪問

 【北京時事】中国国営新華社通信(英語版)は5日、安倍晋三首相が米ハワイの真珠湾を訪問することを詳しく伝えた。オバマ米大統領が5月に米大統領として初めて被爆地・広島を訪問したと指摘した上で、「安倍首相が真珠湾訪問を決断したのは、トランプ次期政権でも日米同盟を強化する狙いがある」との見方を伝えた。

 一方、中国のインターネットでは「なぜ(中国の)南京を訪れ、大虐殺の犠牲者を弔わないのか」などと南京事件と関連付け、安倍首相の対応の違いを批判する書き込みが目立っている。(2016/12/06-00:43)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600115&amp;g=pol
日本の核廃絶決議採択=23年連続、保有国の米賛成-国連総会

 【ニューヨーク時事】国連総会(193カ国)は5日の本会議で、核兵器の全面廃絶に向け、すべての国が共同行動を取る決意を新たにするとした日本主導の決議を167カ国の賛成を得て採択した。核廃絶決議の採択は23年連続。
 北朝鮮とシリアのほか、核兵器保有国の中国とロシアは反対。保有国の英仏を含む16カ国が棄権した。米国は賛成した。
 決議はオバマ米大統領の5月の被爆地・広島訪問を評価。また、核保有国と非保有国が核軍縮と不拡散の実践的措置を促進する「有意義な対話」に一層関与するよう奨励している。(2016/12/06-07:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600174&amp;g=pol
「国民は温かく受け入れる」=安倍首相の真珠湾訪問-米報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は5日の記者会見で、安倍晋三首相が今月末にハワイの真珠湾を訪問すると発表したことについて「ほとんどの米国民は温かく受け入れるだろう」と述べた。また、オバマ大統領と安倍首相が真珠湾でそれぞれ所感を述べる見通しだと語った。
 5月のオバマ大統領の広島訪問で「米大統領と日本の首相が立ち並んだ姿には心を動かされた」と振り返った。真珠湾のアリゾナ記念館で2人が並んで立つ姿は「同じように心を動かされるだろう」と期待している。
 その上で「(首相訪問に)感情を害する人もいるかもしれないが、多くの人が個人的な敵意を脇に置いてくれると信じている」と強調。それは「安倍首相の言葉に満足するからでなく、この機会が米国にとって非常に大切だと認識しているからだ」と訴えた。(2016/12/06-09:26)

980名無しさん:2016/12/10(土) 14:25:32
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600176&amp;g=pol
「歴史的和解」「同盟誇示」=安倍首相の真珠湾訪問-韓国紙

 【ソウル時事】6日付の韓国各紙は、安倍晋三首相の米ハワイ・真珠湾訪問発表について「歴史的和解」「米日同盟誇示」などと詳しく報じ、高い関心を示した。
 ソウル新聞は「第2次大戦で激しい戦いを繰り広げた両国の歴史的和解を象徴している」と伝え、「安倍首相は戦後史に区切りを付け、米日同盟関係をさらに高い段階に引き上げる主役となる」と指摘した。さらに、トランプ次期米大統領も安倍首相の真珠湾訪問を求めており、次期政権との円滑な関係を望む日本側の意向も込められていると分析した。
 ハンギョレ新聞は、安倍首相とトランプ氏のニューヨークでの会談にオバマ大統領が不快感を示したという報道を引用、「真珠湾訪問はオバマ大統領への最後の外交的な贈り物になる」と伝えた。ただ、韓国日報などは「国内の保守勢力の反発を考慮し、踏み込んだ謝罪はしない可能性が大きい」と報じている。(2016/12/06-09:27)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600365&amp;g=pol
真珠湾訪問、謝罪でない=閣僚は安倍首相の決断評価-菅官房長官

 菅義偉官房長官は6日午前の記者会見で、安倍晋三首相が今月下旬に米ハワイの真珠湾をオバマ大統領と訪問することについて、「戦没者の慰霊のためで、謝罪のためではない」と強調した。首脳会談に関しては27日(日本時間28日)に行うと明らかにした。
 各閣僚の閣議後の記者会見では、首相の決断を評価する声が相次いだ。
 岸田文雄外相は「(首相の訪問は)二度と戦禍を繰り返してはならないという未来に向けた強い意志や、強い日米同盟のありようを示すものだ」と述べた。
 山本幸三地方創生担当相も「本当の意味で大戦の処理が終わることになる。トランプ政権の誕生に当たり、日米の和解、絆の強さを世界に示すことは非常に意義がある」と語った。
 麻生太郎副総理兼財務相は「日米関係で、広島と真珠湾の話は、第2次世界大戦に関する一番の象徴的なことだから、首相と大統領が相互訪問するということだろう」と説明した。(2016/12/06-11:53)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600835&amp;g=pol
真珠湾訪問、米新政権にらむ=安倍首相、同盟強化の継承促す

 安倍晋三首相は今月下旬の真珠湾訪問を、オバマ米大統領と取り組んできた同盟強化の「総決算」(外務省幹部)と位置付け、来年1月に就任するトランプ次期大統領に「継承してもらう」(同)考えだ。トランプ氏就任から1週間後となる1月27日の首脳会談も調整しており、歴史的訪問をてこに同盟関係の重要性への理解を促す。
 真珠湾訪問の意向を明かして一夜明けた6日、首相はカーター米国防長官と首相官邸で会談。訪問の目的を「犠牲者の慰霊」と説明し、「二度と戦争の惨禍を繰り返さないという未来に向けての強い意志と決意を、世界に向けて発信したい」と伝えた。カーター氏も「オバマ大統領をはじめ、われわれは非常に喜んでいる」と歓迎した。
 首相はオバマ政権との間で、同盟強化に腐心してきた。集団的自衛権行使を可能にした安全保障法制整備により、日米防衛協力の水準を引き上げた。中国の強引な海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル開発に歯止めをかけるには、アジア太平洋地域に確固たる日米同盟が不可欠との信念からだ。
 だが、トランプ氏は先の大統領選で、日本が在日米軍駐留経費の負担増に応じなければ撤収も辞さない姿勢を示すなど、同盟軽視とも取れる発言を繰り返してきた。首相は当選直後の11月17日にトランプ氏と会談し、「まさに信頼できる指導者」と称賛したが、新政権の外交政策は依然、不透明で、不安が解消されたわけではない。
 こうした中、首相は真珠湾への歴史的訪問を果たすことで、時の政権の外交政策に左右されない普遍的な「日米の絆」を内外に示したい考え。政府関係者は「トランプ支持者を含め、米国全体へのメッセージになる。高い発射台から次期政権との関係をスタートできる」と狙いを話す。
 先の大戦で戦火を交えた米国との和解を一段と進めることで、日本の戦争責任を繰り返し追及してきた中韓両国をけん制する意図も透けて見える。「世界の多くは歓迎する。『もっと反省しろ』と言うのは少数だ」。外務省幹部は、「歴史カード」に固執する中韓が国際社会で「異端視」されることに期待を示した。 (2016/12/06-19:57)

981名無しさん:2016/12/10(土) 14:44:37
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120700916&amp;g=pol
真珠湾攻撃75年で追悼式=9日に初の日米共催

 太平洋戦争開戦の引き金となった旧日本軍による真珠湾攻撃から75年となるのを機に、在ホノルル日本総領事館と米海軍は8日(日本時間9日)、米ハワイの真珠湾に浮かぶフォード島で追悼式典を共同開催する。日本政府関係者が7日、明らかにした。
 日米共催の式典は初めて。日本の国会議員や米軍関係者らが参加し、日米双方の犠牲者を慰霊する。安倍晋三首相とオバマ米大統領が今月下旬にそろって真珠湾を訪れるのに先立ち、日米和解を確認することになる。(2016/12/07-22:29)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120700755&amp;g=pol
中国にも「弔う場所ある」=安倍首相の真珠湾訪問

 【北京時事】安倍晋三首相が今月下旬に米ハワイの真珠湾を訪問することについて、中国外務省の陸慷報道局長は7日の記者会見で、南京大虐殺記念館のほか、満州事変の発端となった柳条湖事件を記念した博物館や731部隊跡地を挙げ、「日本が深刻に反省し本当に謝罪したいなら、中国には多くの弔うべき場所がある」と述べた。(2016/12/07-18:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120700522&amp;g=pol
「真珠湾」75年で追悼声明=安倍首相訪問には触れず-米大統領

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は6日、旧日本軍による1941年12月7日(日本時間8日)の真珠湾攻撃から75年となるのを前に、犠牲者を追悼する声明を発表し、「自由と民主主義の名の下にささげられた犠牲は、決して無駄ではなかった」と強調した。また、政府機関や国民に対して、7日は半旗を掲げるよう要請した。
 オバマ大統領は声明で、真珠湾攻撃やノルマンディー上陸作戦など第2次大戦で犠牲になった米兵について、「自由のために戦い、ファシズムを打倒し、敵国を同盟国に変えた」と称賛した。
 大統領は26、27の両日、安倍晋三首相と共に真珠湾を訪問し、犠牲者の慰霊をする予定だが、声明ではこの訪問について触れなかった。
 一方、トランプ次期大統領も6日、ノースカロライナ州フェイエットビルの集会で「あすは真珠湾攻撃から75年だ。偉大な軍服を身にまとった人々が尊い犠牲になった出来事の節目になる」と述べた。(2016/12/07-14:58)

982名無しさん:2016/12/10(土) 14:44:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120800827&amp;g=pol
吉田首相の真珠湾訪問確認できず=政府

 安倍晋三首相が今月下旬に米ハワイの真珠湾を訪れることに関し、菅義偉官房長官は8日の記者会見で「米国の大統領とともに真珠湾を訪問するのは初めてだ」と意義を強調した。ハワイのホノルルには1951年に当時の吉田茂首相も訪れていたことに触れ、真珠湾については「範囲が広大なこともあり、吉田氏が訪問したかどうかは確認できない状況だ」と説明した。(2016/12/08-18:28)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120800093&amp;g=pol
「自由のともしび消せない」=真珠湾攻撃75年で次期米大統領

 【ワシントン時事】トランプ次期米大統領は7日、旧日本軍によるハワイの真珠湾攻撃から75年となるのに際して声明を出し、次世代のためにも、戦争で多くの犠牲を払った勇敢な米国人から引き継いだ「自由のともしびを消すことは許されない」と呼び掛けた。
 トランプ氏は「過去75年、米国はさまざまな敵と対峙(たいじ)してきた。しかし、レーガン元大統領が述べたように『平和を追求する上で、勝利に代わる物はない』という事実は不変だ」と強調した。 (2016/12/08-06:53)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120700931&amp;g=pol
安倍首相訪問「待ち望む」=真珠湾攻撃75年で声明-オバマ米大統領

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は7日、旧日本軍による1941年12月7日(日本時間8日)の真珠湾攻撃から75年となるのに際して声明を出し、慰霊施設である沈没した戦艦アリゾナの記念館を「安倍晋三首相と一緒に訪問するのを待ち望んでいる」と述べた。大統領が今月下旬の首相の真珠湾訪問に言及したのは初めて。
 大統領はこの中で、「この歴史的な訪問は、米国と日本が75年前には想像できなかった同盟で結ばれ、世界の平和と安全のために手を携えて働き続ける証しになる」と強調した。
 また、「真珠湾攻撃で2400人以上の米国の愛国者が命を失った。妻ミシェルと私は本日、犠牲者の追憶と遺族らへの称賛に加わる」と追悼の意を表明した。
 大統領はこれに先立ち、政府機関や国民に対し、7日は半旗を掲げるよう要請した。
 一方、トランプ次期大統領も6日、ノースカロライナ州フェイエットビルの集会で「あすは真珠湾攻撃から75年だ。偉大な軍服を身にまとった人々が尊い犠牲になった出来事の節目になる」と述べた。(2016/12/08-00:15)

983名無しさん:2016/12/10(土) 15:19:59
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120900128&amp;g=pol
日米、初の合同追悼式=真珠湾攻撃75年、安倍首相訪問控え-ハワイ

 【ロサンゼルス時事】1941年の旧日本海軍による米ハワイの真珠湾攻撃から75年を迎え、在ホノルル日本総領事館と米海軍は8日(日本時間9日)、真珠湾攻撃で戦死した両国の兵士を慰霊する合同追悼式典を真珠湾で初めて開催した。安倍晋三首相の訪問を前に、参列者らは日米の友好と将来の平和を誓った。
 総領事館などによると、式典には約80人が参列。地元では日本人兵士を慰霊することに抵抗もあり、「75年の節目にひっそりと犠牲者を悼みたい」(関係者)として、招待者以外には非公開で行われた。
 出席者によると、ジョン・フラー・ハワイ海軍地域司令官は式典で「日本は米国にとってさらに重要な同盟相手となる」とあいさつ。三沢康ホノルル総領事は「かつて敵同士だった日米がどれだけ関係を前進させることができたかを示す大きな出来事だ」と式典の意義を強調した。
 日本からは武田良太元防衛副大臣、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六連合艦隊司令長官の故郷である新潟県長岡市の磯田達伸市長のほか、自衛隊関係者も出席した。安倍首相が今月下旬に訪問する予定の戦艦アリゾナの記念館を見渡せる米軍敷地内で行われ、参加者らが黙とうをささげた後、日米の国歌が演奏された。

 磯田市長は「日米関係の新たなスタートと未来志向がはっきりと打ち出された追悼式典だった」とコメントした。
 真珠湾攻撃では停泊中の戦艦アリゾナなどが沈没し、米側に約2400人の死者が出た。日本側もゼロ戦パイロットなど65人が死亡した。
 安倍首相は26、27の両日にハワイを訪問し、オバマ大統領と犠牲者を慰霊する。(2016/12/09-12:09)

984名無しさん:2016/12/10(土) 23:00:48
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796011000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_118
安倍首相 今月下旬にハワイへ 真珠湾攻撃の犠牲者慰霊
12月5日 19時24分
安倍総理大臣は、5日夜、総理大臣官邸で記者団に対し、今月26日と27日にハワイを訪れ、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者をアメリカのオバマ大統領とともに慰霊することを明らかにしました。現職の総理大臣が真珠湾を訪れて犠牲者を慰霊するのは初めてです。
この中で、安倍総理大臣は、「今月の26日、27日、ハワイを訪問し、オバマ大統領と首脳会談を行う。ハワイでの会談はこの4年間を総括し、未来に向けてさらなる同盟の強化の意義を世界に発信する機会にしたいと思う。これまでの集大成となる最後の首脳会談となる」と述べました。

そのうえで、安倍総理大臣は、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者をオバマ大統領とともに慰霊することを明らかにし、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。未来に向けた決意を示したいと思う。同時に、日米の和解の価値を発信する機会にもしたいと考えている」と述べました。さらに、安倍総理大臣は、「昨年、戦後70年を迎え、アメリカ議会で演説を行い、私の思いや考えを発信した。その中で、真珠湾を訪問することの意義や象徴性、和解の重要性について発信したいということは、ずっと考えてきた。同時に、オバマ大統領との4年間を振り返る首脳会談も行うことができればと考えてきた」と述べました。

また、安倍総理大臣は、ハワイ訪問と真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊について、先月、APEC=アジア太平洋経済協力会議の首脳会議に出席するため、ペルーを訪れた際に、オバマ大統領との間で確認したことを明らかにしました。現職の総理大臣が、真珠湾を訪れて犠牲者を慰霊するのは初めてのことです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796101000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_116
米報道官 ハワイで日米首脳会談を発表
12月5日 20時23分
アメリカのホワイトハウスはオバマ大統領が安倍総理大臣と今月27日にハワイで会談するとともに、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため記念館を訪れると発表しました。
これはホワイトハウスのアーネスト報道官が5日早朝、日本時間の夜8時すぎに声明を出して発表したものです。

それによりますと、オバマ大統領は今月27日にハワイのホノルルで安倍総理大臣と会談するということです。そして「今回の会談は両首脳が安全保障や経済、それに地球規模の課題における緊密な協力を含め、過去4年間にわたる日米同盟を強化する取り組みを総括する機会になる」としています。

また、オバマ大統領は安倍総理大臣とともに、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため海底に沈んだ戦艦アリゾナの上につくられたアリゾナ記念館を訪れるということです。そのうえで「両首脳の訪問はかつての敵どうしが共通の利益や価値によって団結した最も緊密な同盟国に変わるという和解の力を示すものになる」としています。

985名無しさん:2016/12/10(土) 23:03:56
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796151000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_115
真珠湾での慰霊 被爆者の反応
12月5日 20時55分
安倍総理大臣が戦没者の慰霊のためハワイの真珠湾を訪れることを明らかにしたのを受けて、ことし、オバマ大統領が広島市の平和公園を訪れた際に言葉を交わした日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の代表委員を務める坪井直さんは「オバマ大統領は広島に来て戦争を乗り越え、未来志向で進むことを表明した。これに対して、安倍総理も真珠湾を訪問するというのは筋の通ったことだと思う」と評価する考えを示しました。
そのうえで、坪井さんは、「戦争で人の命が失われることは大問題であり、アメリカ人であろうと日本人であろうと犠牲者を慰霊することは非常に大事なことだ。少し時期が遅かった気はするがしっかりと弔ってきてもらいたい」と述べ、戦争のない世界の実現のために日本とアメリカが友好を深めることに期待を寄せていました。

また、ことし、オバマ大統領が広島を訪問した際に大統領と肩を抱き合って言葉を交わした被爆者の森重昭さん(79)は「すばらしいのひと言です。オバマ大統領が広島に来たのだから、安倍総理大臣も太平洋戦争のきっかけとなった真珠湾に行くべきだと思っていました」と話していました。そして、「真珠湾への攻撃があった12月に訪問することは慰霊にはいいタイミングであり、安倍総理大臣とオバマ大統領が本当に平和を願っているというメッセージがよく伝わることになると期待しています」と話しました。

一方、日本被団協の田中煕巳事務局長は、5日夜、滞在している沖縄県内でNHKの取材に対し、「戦争への関心を思い起こせさせる効果はあると思うが、ことし、オバマ大統領が広島を訪問したことへの返礼のように思える。安倍総理大臣は、日米同盟の強化を考えていると思うが、私たちが求めているのは市民が戦争で犠牲にならない安全であり、今の姿勢が本当の平和につながるか疑問に感じる」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796181000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_114
首相の真珠湾訪問 海外メディアも速報で伝える
12月5日 21時15分
安倍総理大臣が今月26日と27日にハワイを訪れ、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊すると発表したことについて海外メディアも速報で伝えました。
このうち、ニューヨーク・タイムズは、安倍総理大臣が記者団に述べた「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない」や「日米の和解の価値を発信する機会にもしたい」などの発言を引用したうえで、「安倍総理大臣は、真珠湾を訪れる最初の現職の日本の指導者になる」と伝えました。また、ワシントン・ポストは、オバマ大統領の広島訪問や8月に昭恵夫人が真珠湾を訪れたことなどを紹介したうえで、「安倍総理大臣は政権内の右派への共感もあるが、戦後70年にあたっての談話を出すなどプラグマティックな判断をする」との分析を伝えています。

986名無しさん:2016/12/10(土) 23:05:32
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796191000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_113
ジャーナリスト松尾文夫氏「日米間のとげが抜ける」
12月5日 21時22分
元共同通信のワシントン支局長でジャーナリストの松尾文夫さんは、日米の相互理解のために「アメリカの大統領は原爆の慰霊碑に、日本の総理大臣は真珠湾に献花をすべきだ」とする提言を執筆した本などでおこなってきました。
安倍総理大臣が、オバマ大統領とともに真珠湾を訪れて慰霊すると発表したことについて、松尾さんは「これまで日米は互いに死者を弔うことをせず、過去の清算をしてこなかった。オバマ大統領の広島訪問に続いて、安倍総理が真珠湾を訪問することによって、これまであった日米間のとげが抜けることになり、非常に評価できる」と話しています。また、ことし5月にオバマ大統領が広島を訪問した際に、トランプ次期大統領が「オバマ大統領は、日本での滞在中に真珠湾の奇襲について議論したのか。何千人ものアメリカ人の命が失われているのだ」などとツイッターで投稿したことについて、松尾氏は「安倍総理もこの発言を意識しているはずで、今後の日米関係を良好なものとするために訪問を決意したとも考えられる」と指摘しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796231000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_110
真珠湾訪問 首相の狙いは? 米国の受け止めは?(動画解説)
12月5日 22時02分
安倍総理大臣が明らかにした真珠湾の訪問。どんな狙いがあるのでしょうか。また、アメリカ側はどのように受け止めているのでしょうか。担当記者が解説します。(VTR9分30秒)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796301000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_109
真珠湾訪問 決断までの経緯(動画解説)
12月5日 22時12分
安倍総理大臣は5日夜、記者団に対し、今月26日と27日にハワイを訪れ、太平洋戦争の発端となった旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を、アメリカのオバマ大統領とともに慰霊することを明らかにしました。真珠湾訪問を決断するまでの経緯をまとめました。(VTR3分20秒)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796281000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_108
首相「大統領が広島訪れたから真珠湾に行くわけではない」
12月6日 0時15分
安倍総理大臣は、5日夜、自民党の高村副総裁や二階幹事長らとの会合で、今月下旬にハワイを訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者をアメリカのオバマ大統領と共に慰霊することについて、「オバマ大統領が5月に広島を訪れたから真珠湾に行くわけではない。オバマ大統領と最後の首脳会談を行うということだ」と説明したということです。

987名無しさん:2016/12/10(土) 23:06:33
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796291000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_101
首相 真珠湾訪問で米新政権発足後も日米関係維持を
12月6日 6時01分
安倍総理大臣は今月下旬にハワイを訪れ、現職の総理大臣として初めて真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することにしています。安倍総理大臣としては、今回の訪問を、トランプ新政権発足後も安定的な日米関係を維持することにつなげたい考えです。
安倍総理大臣は5日夜、今月26日と27日にハワイを訪れて、来月任期が切れるアメリカのオバマ大統領と日米首脳会談を行い、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者をオバマ大統領とともに慰霊することを明らかにしました。現職の総理大臣が真珠湾を訪れて、犠牲者を慰霊するのは初めてです。

安倍総理大臣は、5日夜、記者団に対し、真珠湾訪問について、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。未来に向けた決意を示したいと思う。同時に日米の和解の価値を発信する機会にもしたい」と述べました。安倍総理大臣は、ことし5月のオバマ大統領の広島訪問に続いて、みずからが真珠湾を訪問することで、両国の信頼関係を国民レベルでより確かなものにしたい考えです。さらに、アメリカのトランプ次期大統領が、大統領選挙の期間中、日本を含む同盟国との関係見直しを示唆する発言をしてきたことも念頭に置いて、オバマ大統領との首脳会談で、地域の平和と安定に貢献する日米同盟の重要性を確認することにしています。そして、中国による海洋進出の強化や北朝鮮による弾道ミサイルの発射など、日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増す中で、安倍総理大臣としては、今回の訪問を、トランプ新政権発足後も安定的な2国間関係を維持することにつなげたい考えです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796541000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_100
首相の真珠湾訪問 ホワイトハウスが評価
12月6日 6時34分
安倍総理大臣が今月下旬にハワイを訪れ、アメリカのオバマ大統領とともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、ホワイトハウスは「平和と和解を追求する意義を強調するものになる」と評価しました。
ホワイトハウスのアーネスト報道官は、5日の記者会見で「安倍総理大臣とオバマ大統領が真珠湾で並んで立つことは広島訪問の時と同様に力強いものになるだろう。また、最も偉大な世代の犠牲や愛国心を思い出す機会ともなる」と指摘しました。そのうえで「真珠湾訪問は平和と和解を追求する意義を強調するものになる」と評価しました。

そして、真珠湾攻撃に対する謝罪があるかどうかについては「安倍総理大臣が何を言うか現時点で予測したくない」と述べるにとどめました。一方で「安倍総理大臣が、犠牲者の慰霊のために真珠湾を訪問すると発言した気持ちを多くのアメリカ国民が温かく受け止めると思う」と説明しました。また、謝罪がない場合、退役軍人がどのように感じると思うか記者団から質問されたのに対し、「気分を害する人がいるかもしれないが、多くの人が訪問はアメリカにとって重要だと認識し、個人的な恨みは脇に置くと確信している」と述べました。

そして、両首脳が真珠湾を訪れる際に所感を述べることを明らかにするとともに、「真珠湾訪問は、安倍総理大臣自身の決断だ」と述べ、オバマ大統領の広島訪問と直接リンクしていないと強調しました。
米知日派 真珠湾訪問を歓迎
安倍総理大臣が今月下旬、ハワイを訪れて日本の総理大臣として初めて真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、アメリカで知日派として知られるアーミテージ元国務副長官は、首都ワシントンで5日、記者団に対し、「安倍総理大臣の訪問は非常によいことだ」と述べ、訪問を歓迎しました。そのうえで、アーミテージ氏は、「安倍総理大臣が真珠湾攻撃を謝罪することは想像できない。真珠湾攻撃によって、アメリカと日本は戦争に突入したが、それは歴史の一部だ。安倍総理大臣が真珠湾を訪れること自体がよい意思表示だと思う」と述べ、謝罪は必要ないとの考えを示しました。

988名無しさん:2016/12/10(土) 23:07:38
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796641000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_099
外相 首相に同行してハワイへ「日米の和解を示す」
12月6日 10時36分
岸田外務大臣は、閣議のあと記者団に対し、今月下旬にハワイを訪れ真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する安倍総理大臣にみずからも同行することを明らかにしたうえで、「訪問は、戦禍を繰り返さない強い意志や日米の和解を示すものだ」と述べました。
安倍総理大臣は、今月26日と27日にハワイを訪れ、アメリカのオバマ大統領と日米首脳会談を行い、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者をオバマ大統領とともに慰霊することにしています。

これに関連し岸田外務大臣は、閣議のあと記者団に対し、「アジア太平洋地域、さらには国際社会の平和と安定に、日米同盟が大きな役割を果たしていくことを発信するいい機会だ。私も、この4年間、外務大臣として務めてきたので、ぜひ同行したい」と述べました。そのうえで岸田大臣は、「今回の訪問は亡くなられた方への慰霊であり、未来に向けて二度と戦禍を繰り返してはならないという強い意志を示し、日米の和解をしっかり示すものだ」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796671000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_098
官房長官 首相の真珠湾訪問は謝罪のためではなく慰霊
12月6日 10時49分
菅官房長官は閣議のあとの記者会見で、安倍総理大臣が今月下旬、ハワイを訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、今回の訪問は慰霊が目的で謝罪のためではないとしたうえで、不戦の決意や日米の和解の価値を発信する機会になるという認識を示しました。
安倍総理大臣は、今月26日と27日にハワイを訪れ、アメリカのオバマ大統領と日米首脳会談を行うとともに、現職の総理大臣として初めて、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することにしています。

これについて、菅官房長官は閣議のあとの記者会見で、「先の大戦に関する安倍総理大臣の考え方は、昨年8月の戦後70年談話にすべて尽くされており、今回の訪問は戦没者の慰霊のためであって謝罪のためではない」と述べました。そのうえで菅官房長官は、「訪問は、『二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない』との決意を未来に向けて示すとともに、日米の和解の価値を発信する機会になる」と述べました。また、菅官房長官は、記者団が今回の真珠湾訪問と、ことし5月のオバマ大統領の広島訪問との関係について質問したのに対し、「関係するものではないと思っている」と述べました。

989名無しさん:2016/12/10(土) 23:09:42
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796731000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_096
首相の真珠湾訪問 閣僚から評価する意見相次ぐ
12月6日 11時15分
安倍総理大臣が今月下旬ハワイを訪れ、現職の総理大臣として初めて真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、閣議の後の記者会見などで各閣僚からは日米同盟の強化につながるなどと評価する意見が相次ぎました。
このうち麻生副総理兼財務大臣は「第2次世界大戦に関して象徴的な場所のひとつはアメリカにとってはパールハーバーであり、日本にとっては広島だ。広島をアメリカの現職の大統領が初めて訪問し、パールハーバーに日本の総理大臣が初めて行くのはよいことではないか」と述べました。

石原経済再生担当大臣は「ことしは先の大戦から考え歴史的な年になるのではないか。象徴的な場所に日米両国の首脳が立ち、日米安保体制を基軸として国際社会の平和に貢献していくというメッセージを出すというすばらしい機会になるのではないか」と述べました。

稲田防衛大臣は「安倍政権になってから、日米関係は非常に強固なものになっている。今回の訪問は、未来に向けて強固な日米同盟を再確認し、希望の同盟として、アジア太平洋地域、さらには国際社会の平和と繁栄に貢献することを世界に向けて力強く発信する機会になると思う」と述べました。

山本地方創生担当大臣は「アメリカ国民にとって意義深く認識されると思うし、本当の意味で先の大戦の処理が終わることになると思う。トランプ政権が誕生するにあたって、日米の和解や絆の強さを世界に示すことは意義がある」と述べました。

また丸川オリンピック・パラリンピック担当大臣は「同盟関係のさらなる強化や国民の理解に大きなインパクトを与えるものになる」と述べたほか、加藤一億総活躍担当大臣は「今回の訪問は同盟関係をさらに強固なものにするのではないか」と述べました。さらに加藤大臣は、記者団が「内閣支持率が上がれば安倍総理大臣は衆議院を解散するのではないか」と質問したのに対し、「直接関係ないのではないか」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010797161000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_079
首相 米国防長官と会談 真珠湾訪問で不戦の決意示したい
12月6日 17時09分
安倍総理大臣は、来日しているアメリカのカーター国防長官と会談し、今月下旬の真珠湾訪問で、二度と戦争の惨禍を繰り返さないという強い決意を示したいという考えを伝えたのに対し、カーター国防長官は訪問を歓迎する意向を示しました。
この中で安倍総理大臣は、今月下旬ハワイを訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、「日米首脳会談を行い、その際、真珠湾のアリゾナ記念館を訪問する。犠牲者を慰霊し、二度と戦争の惨禍を繰り返さないという未来に向けた強い意志、そして決意を示したい」と述べました。

これに対しカーター国防長官は、「オバマ大統領や私にとって喜びだ。双方が平和において確固たるコミットメントを示すものだ」と述べ、訪問を歓迎する意向を示しました。

また会談で、安倍総理大臣が、沖縄県最大のアメリカ軍の演習場・北部訓練場の一部返還について、「4000ヘクタールの返還を日米が協力して、今月22日に実現したい」と述べたのに対し、カーター国防長官も、「歴史上初めて大きな返還を達成できる。22日に達成することを約束する」と応じました。

990名無しさん:2016/12/11(日) 20:34:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016121100054&amp;g=pol
慰安婦合意見直さず=日韓情報協定も維持を-萩生田官房副長官

 萩生田光一官房副長官は11日のフジテレビ番組で、韓国の朴槿恵大統領に対する弾劾訴追案可決を受け、慰安婦問題の日韓合意の扱いについて、「どなたが大統領になっても、もう一回やり直してくれと言われても、受け付けるつもりはない」と強調した。また、「合意は不可逆的に問題を終了しようというもので、2国間だけで誓い合ったわけではなく、米国を含め国際社会の前で約束したことだ」とも指摘した。

 日韓両政府が先月締結した軍事情報包括保護協定(GSOMIA)については、「この1年間、北朝鮮に対しての情報共有が的確にできてきた。その必要性を理解できない人が大統領になることは好ましくない」と述べ、韓国側に維持を求めていく考えを示した。(2016/12/11-15:14)

991名無しさん:2016/12/18(日) 11:30:29
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016121400697&amp;g=pol
「慰安婦合意、無効化を」=朴氏弾劾受け韓国団体

 【ソウル時事】日韓両政府間の慰安婦合意に反対している韓国の民間団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」は14日、ソウルの日本大使館前で水曜恒例の抗議集会を開いた。朴槿恵大統領の弾劾訴追案可決後初めてとなったこの日の集会には、小雪がぱらつく中、数百人が参加し、「朴槿恵退陣せよ」「慰安婦合意を即刻無効化せよ」と気勢を上げた。

 挺対協は声明文を発表し、「崔順実被告の操り人形、朴槿恵がついに国民から弾劾された。朴政権は、大多数の国民の反対にもかかわらず、合意を押し付けた」と批判。さらに「日本政府は、慰安婦問題の真実をカネで覆い隠そうとせず、合意を全面的に無効化すべきだ」と主張。「被害者に謝罪し、法的責任を認め、再交渉しなければならない」と訴えた。(2016/12/14-17:19)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016121600383&amp;g=pol
吉田首相の真珠湾訪問確認=菅官房長官

 菅義偉官房長官は16日午前の記者会見で、1951年に当時の吉田茂首相が米ハワイの真珠湾に面した米太平洋軍司令部を訪問していたことを確認した。これまでは、安倍晋三首相の今月下旬の真珠湾訪問が現職首相として初めてかどうかは未確認としていた。
 菅氏は「当時はアリゾナ記念館は建設されておらず、この記念館で現職首相が慰霊を行うのは今回が初めてだ」と強調した。(2016/12/16-12:09)

992とはずがたり:2016/12/23(金) 13:04:31
やりなおす戦後史
【第5回】 2015年8月10日
蔭山克秀
今、戦後史から知っておきたい
日本を「経済の国」へと変えた男
http://diamond.jp/articles/-/76354

黄金の昭和30年代、「所得倍増計画」によって一気に高度経済成長を遂げ、「経済大国ニッポン」をつくった一人の男。それが池田勇人である。池田はどのように今の日本を形づくったのか? 東京オリンピックまでの日本の変貌を駆け足で見る。

経済の国へ――池田勇人の所得倍増計画

?第4回で見たように、新安保条約の強行採決を経て岸信介が首相を辞任した後、日本は「政治の時代」から、本格的に「経済の時代」へと移行する。

?日本はこの時期、“世界の経済大国”としての地位を確立した。そして、そのかなりの部分は、池田勇人の功績だ。

?元大蔵官僚の池田勇人は、官僚時代に病に倒れて退職した後、新規採用扱いで再び大蔵省に入省するなど苦労もあったが、最終的には最高ポスト・事務次官まで務め上げた、経済政策のスペシャリストだ。経済事情に明るく数字に強い彼の、経済偏重ともいえる政策や外交努力の数々によって、日本は戦後、驚くほど短期間で一流国家への階段を上ることができたのだ。

「経済成長をめざす首相なんて、普通じゃないか」――今の僕らはそう思ってしまうが、それは間違いだ。実は池田まで、経済政策を全面に押し出す首相なんて、ほとんどいなかったのだ。

「不況でもないのに経済しか見ない首相なんて、どうかしている。政治家は政治をしっかりやれよ」――これが昔の当たり前だった。つまり、あくまで経済は“政治の一部”、日本全体の設計図の一部にすぎず、それらは大蔵省や経済企画庁、あるいは日銀に任せるべき事柄だったのだ。

?しかし、池田は「日本らしさ=経済」に変えていく青写真を持ち、軍隊のない日本は、政治よりも経済をアイデンティティにすべきという明確なビジョンを持っていた。

?池田勇人は吉田茂の腹心中の腹心で、「吉田学校」の優等生だ。彼は官僚生活を経て1949年の衆院選で政界入りし、いきなり吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された。そこで経済政策のすべてを任され、その後も大蔵大臣・通産大臣・自民党幹事長・政調会長などを歴任した。そして岸内閣の退陣後、池田は自民党総裁選に打って出て、見事総理の座を射止めた。

?その池田が、政策の目玉として打ち出したのが「所得倍増計画」。彼は岸内閣が日米安保という「政治」で討ち死にしたのを目の当たりにし、自身は得意分野の「経済」に活路を見出すことにしたのだ。

?所得倍増計画は、一橋大の中山伊知郎教授が1959年に読売新聞に寄稿した「賃金二倍論」を、池田がアレンジして「月給二倍論」としたのが始まりだ。

?彼はこのフレーズが気に入り、選挙演説で使いまくった。そして1960年に総理となり、自身の政策として具体化した。その大まかな方針は、1961年から70年までの10年間で、GNP(国民総生産)を13兆円から26兆円に倍増させるという、長期的な経済成長戦略である。

?10年でGNPを2倍にする――途方もない夢に聞こえるが、実はそうでもない。幸い日本は、吉田茂や岸信介の努力(つまり安保条約)によって、軍事コストのかからない国になっている。ならその利点を活かして、浮いた金を重化学工業の後押し、社会資本の整備、低金利での企業融資などに回せば、決して不可能な数字ではない。

?それどころか、地方・農業・中小企業など弱い産業分野の所得底上げ、人材育成への投資、産業構造の高度化、科学技術の振興、住宅建設、工業用地開発なども行っていけば、十分現実的な数字だ。

?軍事費をできる限り節約して、経済で身を立てる――これはまさに、師匠・吉田茂が夢見た「通商国家・日本」だ。池田はその実現に向けて精力的に政策目標に取り組み、経済立国に必要な成長基盤を築き上げた。そしてその結果、日本経済は池田退陣後も成長を続け、わずか4年で名目GNPを2倍増、10年でなんと4倍増を達成したのだ。

993とはずがたり:2016/12/23(金) 13:05:14

先進国への仲間入り――GATT、IMF、OECDへの加入

?また池田の経済政策は、国内政策だけでなく、外交面にも及んだ。池田は「一流の経済立国」に必要な外交面での課題に次々と取り組み、その結果「GATT11条国への移行」「IMF8条国への移行」「OECDへの加盟」という、先進国への“大人への階段”を、一気に駆け上ったのだ。

?まず取り組んだのは、GATT11条国への移行。GATT(関税と貿易に関する一般協定)とは「世界の自由貿易の守り神」的な協定で、その12条国が保護貿易の許される“途上国扱い”の国々、そして11条国が世界に向けて市場を開かないといけない“先進国扱い”の国々だ。

?日本は「戦後弱者」として、今まで12条国の地位に甘えていた。でも一流国になるためには、過保護な坊やのままではいけない。11条国になれば、外国製品に日本市場を荒らされるリスクも生まれるけど、逆に日本製品を優秀にして外国にガンガン売るチャンスも広がる。

「野党の連中は自由化を『黒船来航だ!?欧米支配の始まりだ!』と騒ぐけど、俺のこれまでの努力を見ろよ。俺はちゃんと国内政策で、いいモノを作れる基盤は整えてきてるぞ。最近はアメリカも『市場を開け』と言ってきてるし、ヨーロッパもうるさい。やっぱここは開かないと損だ」

?池田はそう考えて「貿易為替自由化計画大綱」を発表し、段階的に自由化枠を拡大させた後、1963年、日本をGATT11条国へ移行させた。

?次に取り組んだのは、IMF8条国への移行だ。IMF(国際通貨基金)は「世界の通貨体制の守り神」的な組織で、その一四条国が通貨交換の制限が許される“途上国扱い”の国、そして8条国がそれを認めない“先進国扱い”の国だ。

?日本はこれまで14条国として、企業が輸入の支払いでドルが必要になっても、通産大臣がなかなか許可を出さず、結果的に通貨交換を厳しく制限してきた。これを「為替割当制度」という。

?これさえやれば、日本から海外への支払いが減り、貿易赤字の拡大を防げる。しかし、同時に貿易のジャマにもなる。ちょうどIMFから「そろそろ日本も大丈夫でしょ?」と打診されていたし、IMFと弟分のIBRD(国際復興開発銀行。俗に“世界銀行”)からは、戦後復興資金を借りまくった恩もある。

?また、日本が反撃に転じて輸出攻勢に出るためにも、為替は自由化されたほうがいい。
?ならここは思い切って、為替割当も廃止するか――池田はこう考えて為替割当を一部除いて廃止し、1964年、日本をIMF8条国へと移行させた。

?さらに日本は、これらの移行で先進国と認められ、同年、IMF8条国入りと同時に「OECD(経済協力開発機構)」への加盟も認められた。OECDは西側先進国だけで作られた“先進国クラブ”だ。世界経済の成長目標や途上国へのODA配分目標などが話し合われる。日本はここに、アジアから初めて加盟を認められ、これで三役揃い踏み、日本は晴れて先進国の仲間入りをした。

?池田勇人はこのように、日本が一流の先進国になるための基盤づくりに大いに貢献した“経済の人”だったが、同時に名言・失言・暴言の多い“一人名言bot”みたいな人でもあった。

「貧乏人は麦を食え」「中小企業の5人や10人自殺してもやむを得ない」――これらは池田の国会発言が曲解されて新聞報道された失言だが、所得倍増計画の説明では、その暴言吐きのイメージを逆手に取り、嘘のつけない正直な首相という体で「私は嘘は申しません」の名言を残した。

?よく考えると、そもそも「所得倍増計画」そのものがその年の流行語だし、他にも「寛容と忍耐」なんていうのもある。本当にツイッター向きの人だ。

「消費は美徳である」――経済成長と岩戸景気

?池田の「所得倍増計画」に乗せられて、この時代は景気もグングン拡大した。この頃の好景気を「岩戸景気」という。

?正確には1958年から始まった好況だが、その牽引役となったのは、「なべ底不況」で中断していた民間設備投資の再開と、池田のがむしゃらな「経済成長優先政策」だ。おかげで日本経済は再び活気を取り戻し、企業の成長だけでなく、個人消費も順調に伸びた。「消費は美徳」という言葉が流行ったのも、この頃だ。

994とはずがたり:2016/12/23(金) 13:05:26
>>992-994
?他にも1958年から61年といえば、東京タワーが完成し、民放テレビ局が次々と開局し、巨人の長嶋茂雄が4打席4三振でデビューし、南極昭和基地のタローとジローの生存が確認された時期だ。

?世の中ではフラフープが大流行し、「イカす」「シビれる」などの言葉が流行り、スバル360やスーパーカブが街中を走り回り、ファンタやチキンラーメンが発売された。

?しかし残念ながら、岩戸景気の構造は「神武景気の続き」だ。ドルがたまって、中断していた輸入中心の設備投資が再開しただけだ。だからどうしても、最後にはドル不足から輸入が限界になる「国際収支の天井」にぶつかるのは避けられない。

?結局この後には、また「なべ底不況」みたいな不況になるんだろうな――誰しもがそう覚悟した。しかしそうはならなかった。実はこの後、輸入や輸出とは無関係の好景気がやってくるのだ。それが「オリンピック景気」だ。

世界中に日本の復活を見せつけろ――東京オリンピック

?1959年、西ドイツのミュンヘンで開かれた第55回IOC(国際オリンピック委員会)総会にて、東京はデトロイト、ウィーン、ブリュッセルを大差で破り、見事1964年の東京オリンピック開催を射止めた。

?国内は沸きに沸いた。そしてそれと同時に、少し焦った。ヤバい、この夢の祭典まで、あと5年しかないぞ。5年後に世紀の一大イベントが東京で開かれる以上、それまでに大急ぎで国内を“化粧”しないと。せっかく世界中から多くの人が集まってくれるのに、日本が戦後丸出しのボロ雑巾みたいな国のままじゃ恥ずかしい。

「わっ、なんて野蛮な国でオリンピックをやるんだ!??とか思われたくない。なら、この5年でやれることはやらないと」

?政府はただちに「東京オリンピック組織委員会」を結成し、オリンピック開催に必要な施設や社会資本の整備を大々的に始めた。その結果、日本武道館や国立競技場が造られ、ホテルや宿舎、観光施設が整備され、東海道新幹線や首都高速道路、営団地下鉄などが次々と造られた。

?こんな流れでオリンピックの直前に、何だかんだトータルで一兆円規模の金が動いたとされる。しかも、その多くが社会資本の整備。つまり日本は、図らずも「一兆円規模の公共事業」を行ったのと同じ形になり、その景気浮揚効果で、岩戸景気後のわずかな不況をあっという間に払拭したのだ。

?こういうラッキーな好景気がオリンピック景気だ。輸入に頼らない、国内完結型の好景気。日本経済はこれでさらに躍進し、世界45ヵ国に中継されるテレビ放送の中で、夢の祭典とともに、戦後の奇跡の成長ぶりを見せつけたのだ。


東京オリンピック(1964年)
?また国民の間では、この東京オリンピックを機にカラーテレビが大きく普及し、「テレビで観るオリンピック」の先駆けとなった。国民はお茶の間にいながらにしてオリンピックに釘づけになり、“東洋の魔女(女子バレーボール)”たちの活躍、マラソン・アベベの激走、柔道無差別級での神永vsヘーシンク、体操・遠藤の男子個人総合優勝、重量挙げ・三宅の金メダルなどに夢中になった。このオリンピックでの瞬間最高視聴率は85%を記録した。

?そして東京オリンピック閉会直後の1964年10月、病気を理由に池田勇人は辞任し、後継に佐藤栄作を指名した。さらに翌年、池田はガンで死んだ。「経済大国ニッポン」の牽引者は、わずか16年で政治家生活の幕を閉じた。

※ここから先の内容に興味をお持ちの方は、書籍『やりなおす戦後史』をぜひお買い求めください。

995名無しさん:2016/12/24(土) 16:34:05
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122100893&amp;g=pol
日米戦後和解に尽力=ケネディ大使

 キャロライン・ケネディ大使が平和への思いを強く抱くようになったきっかけは、1978年の被爆地・広島訪問だ。当時20歳で、叔父の故エドワード・ケネディ上院議員と共に平和記念公園などを訪れ「深く心を動かされた」。それから38年。現職米大統領として初めて被爆地を訪れたオバマ大統領に同行した。
 日米外交筋は「オバマ大統領の広島訪問にケネディ大使が果たした役割は大きい」と指摘する。大使は自らの役割について詳細は語らず「オバマ大統領の広島訪問は最も印象に残る経験になるだろう」と述べるにとどめた。
 大使は、今月末に予定される安倍晋三首相のハワイ真珠湾訪問の際、オバマ大統領と共に同行する意向を表明。オバマ大統領の広島訪問、安倍首相の真珠湾訪問を「日米同盟を最強にした数十年にわたる友情、協力、信頼がもたらした歴史的瞬間だ」と強調した。
 外交経験がないケネディ氏の駐日大使就任には、オバマ大統領誕生への貢献に対する「論功行賞」と批判の声も上がった。しかし、大使就任後、ケネディ氏は被爆地の広島、長崎や米軍基地問題で揺れる沖縄のほか、東日本大震災の被災地にも頻繁に足を運び日米友好強化に貢献したのは間違いない。
 特に沖縄への思い入れは強く、大使就任後の訪問回数は7回に上る。米軍基地の過剰負担に苦しむ沖縄県民との交流も積極的に行い、大使公邸には文化交流で訪れた首里高校の染色デザイン科の生徒から贈られた2枚のタペストリーが飾られている。オスプレイ事故などで反米感情が高まる中、「沖縄県民の友情、協力には非常に感謝している」と述べた。(2016/12/21-21:47)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122100805&amp;g=pol
真珠湾「全ての犠牲者」追悼へ=安倍首相、日米和解アピール

 安倍晋三首相は27日(日本時間28日)の米ハワイ・真珠湾訪問で予定する演説について、日米が戦端を開いた1941年の真珠湾攻撃の「全ての犠牲者を追悼する」ことを表明する方向で調整に入った。首相は今回の訪問で日米の和解をアピールしたい考えで、先の大戦への「痛切な反省」を表明した昨年4月の米議会演説も踏襲する。
 菅義偉官房長官は21日の記者会見で、首相の演説について、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないとの決意を未来に向けて示し、日米和解の価値を発信する機会になる」と語った。
 首相はハワイで、オバマ大統領とともに真珠湾のアリゾナ記念館を訪れ、献花し慰霊。演説も行う。(2016/12/21-19:43)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122100302&amp;g=pol
安倍首相、米国立墓地訪問へ=真珠湾慰霊に合わせ

 安倍晋三首相が米ハワイの真珠湾を訪れて慰霊するのに合わせ、ホノルルの米国立太平洋記念墓地(通称パンチボウル)も訪問することが21日分かった。同墓地には、第2次世界大戦などで戦死した米兵らが眠っており、日米の和解をアピールする狙いがある。
 首相は、2001年にハワイ沖で米原子力潜水艦と衝突して沈没した「えひめ丸」の慰霊碑も訪れる。えひめ丸は愛媛県立宇和島水産高校の実習船で、生徒や指導教官ら9人が犠牲となった。(2016/12/21-11:29)

996名無しさん:2016/12/24(土) 17:30:13
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161224/k10010818401000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_003
首相の真珠湾慰霊 捕虜になった元米兵の団体も出席へ
12月24日 4時52分

安倍総理大臣が来週、アメリカのオバマ大統領と真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する際、太平洋戦争中に旧日本軍の捕虜となった元アメリカ兵の関係団体が、ホワイトハウスから招待を受けて立ち会うことになりました。
安倍総理大臣は、来週26日からハワイを訪れ、27日にオバマ大統領と首脳会談を行うとともに、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊します。

これについて、太平洋戦争中にフィリピンで旧日本軍の捕虜となった元アメリカ兵やその家族で作る団体はNHKの取材に対し、両首脳が真珠湾のアリゾナ記念館で献花したあと所感を述べる場に立ち会うことを明らかにしました。ホワイトハウスから招待を受け、団体の会長で元捕虜の娘のジャン・トンプソンさんなどが出席するということです。

トンプソン会長は、「歴史的な式典に招かれ、とても光栄だ。日米同盟はかつての敵国が今は強い同盟国であることを示す世界の模範だ」と述べました。ホワイトハウスは、両首脳が所感を述べる場に、当時真珠湾で攻撃を受けた元兵士や太平洋戦争を経験した退役軍人なども招待していて、日米両国の和解や日米同盟の重要性を内外に発信したい考えです。

997名無しさん:2016/12/24(土) 21:05:37
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122400097&amp;g=pol
鳩山、岸首相も真珠湾訪問=60年前、現地邦字紙が報道-米ハワイ

 【ロサンゼルス時事】米ハワイの邦字日刊紙「ハワイ報知」は22日、鳩山一郎氏と岸信介氏がそれぞれ首相だった1956年と57年に、米ハワイの真珠湾を訪問していたと報じた。当時の紙面で確認されたという。報道通りだとすると、現職首相による真珠湾訪問が確認されたのは、51年の吉田茂氏を含め3人となる。

 日本の主要メディアは当初、現職首相の真珠湾訪問は今月の安倍晋三首相が初めてと報道。その後、吉田氏が51年に真珠湾の米太平洋軍司令部を訪問していたことが確認された。

 日本政府によると、攻撃で沈没した戦艦の真上にある慰霊施設「アリゾナ記念館」は62年に建てられたため、同記念館で慰霊を行う現職首相は安倍氏が初めてになる。
 ハワイ報知は22日付の1面トップで「鳩山一郎、岸両首相も訪れていた」と報じた。ハワイ報知や他の地元紙の記事で確認されたという。
 鳩山氏は56年10月、モスクワで日ソ共同宣言に調印し、欧州、米国経由で帰国する際、ホノルルに立ち寄った。ハワイ報知は当時、その様子を写真付きで報じていた。
 岸氏は57年6月、米国でアイゼンハワー大統領と会談後、帰国前にホノルルで2泊した。「ハワイタイムズ」(85年廃刊)には、岸氏が米兵の眠る米国立太平洋記念墓地(パンチボウル)や、真珠湾の「マカラパ司令部」を訪問したと記されている。
 鳩山、岸両氏とも「礼砲の歓迎」を受けるなどしたといい、ハワイ報知は「公式の訪問とみられる」と報じている。(2016/12/24-13:03)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122400098&amp;g=pol
元米兵捕虜遺族も出席=安倍首相の真珠湾慰霊式典

 【ワシントン時事】元米兵捕虜と遺族らで運営する「全米バターン・コレヒドール防衛兵記念協会」のトンプソン代表は23日、安倍晋三首相とオバマ大統領が27日(日本時間28日)にハワイの真珠湾で行う慰霊式典に出席すると明らかにした。
 トンプソン氏は取材に対し、「ホワイトハウスから歴史的な行事に招かれ、安倍首相とオバマ大統領の所感を聞けることは大変光栄だ」と述べた。
 トンプソン氏の父親は第2次大戦中、米兵として出征していたフィリピンで、日本軍の捕虜となった。同氏は「敵国同士が今や強力な同盟国となった。しかし、依然として(和解に向けて)なすべきことも残されている」と語った。(2016/12/24-09:52)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122200126&amp;g=pol
真珠湾攻撃の生存者ら招待=安倍首相訪問「和解がテーマ」-米高官

 【ワシントン時事】米国家安全保障会議(NSC)のクリテンブリンク・アジア上級部長は21日、ワシントン市内で記者会見し、安倍晋三首相とオバマ大統領が27日(日本時間28日)にハワイ・真珠湾で行う慰霊式典に、日本軍による真珠湾攻撃の生存者や第2次大戦の退役米軍人らを招待すると明らかにした。
 クリテンブリンク氏は、一連の行事について「和解が重要なテーマになる」と強調。生存者らの出席に関し「大統領の広島訪問で招かれた被爆者と同じで、(その意義は)とても力強いものとなる。両国の今日の指導者との交流があればよいと思う」と語った。
 日米首脳は27日午前(同28日早朝)に首脳会談を行い、「同盟の強さ」を確認。日本軍の攻撃で沈没した戦艦アリゾナの記念館で献花した後、それぞれ所感を述べる。大統領の記者会見は予定されていない。
 クリテンブリンク氏は、オバマ大統領は所感で「和解の力に焦点を当てる。(首相の真珠湾訪問は)日米両国が苦しい歴史をいかに乗り越えて、最も緊密な同盟国、友人になれるかという証左であることを語る」と述べた。(2016/12/22-12:06)

998名無しさん:2016/12/24(土) 21:21:38
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161224/k10010818911000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_001
官房長官 歴史的価値ある国の施設を積極公開
12月24日 20時16分

菅官房長官は、24日から夜間公開が行われている東京・港区の迎賓館を訪れ、ライトアップされた本館などを視察したあと、記者団に対し、引き続き歴史的価値のある国の施設を積極的に公開していく考えを示しました。
首脳会談などに使われて国宝にも指定されている東京・港区の迎賓館は、ことし4月から、外交行事などに支障がない範囲で一般公開されていて、24日と25日の2日間限定で夜間公開と本館のライトアップが行われています。

これに合わせて菅官房長官が視察に訪れ、本館の中で外国要人との会談や晩さん会、記者発表などが行われる部屋を順番に見て回りました。

視察のあと、菅官房長官は記者団に対し「迎賓館は明治期のわが国の総力を結集して造られた、すばらしい価値のある建築物であり、ふだんとは違う夜間の視察で新たな魅力を感じることができた」と述べました。

そのうえで、菅官房長官は「今回のような取り組みを通じて、若い人たちにも日本のすばらしさを知ってもらいたい。アンケートなどを踏まえて、次の夜間公開も検討する」と述べ、引き続き歴史的価値のある国の施設を積極的に公開していく考えを示しました。

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122400192&amp;g=pol
迎賓館、初の夜間公開=機会拡大も検討

 政府が管理する東京・元赤坂の迎賓館で24日、初めて夜間公開が行われた。政府は4月から、日中に観光客らへの公開を実施しているが、24、25両日の夜はクリスマスに合わせて施設をライトアップし、予約制で計2400人を対象に公開することにした。
 視察に訪れた菅義偉官房長官は「昼とは雰囲気が全然違う。ゴールデンウイーク(春の大型連休)の時などにも検討していく価値はある」と記者団に語り、夜間公開の機会拡大を検討する意向を示した。(2016/12/24-20:18)

999名無しさん:2016/12/25(日) 14:48:42
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122500026&amp;g=pol
揺るぎない同盟、真珠湾で発信=トランプ氏へ「針路」-首相、27日米ハワイ慰霊

 安倍晋三首相は26日(日本時間27日)、米ハワイを訪れる。太平洋戦争で日米両国が戦端を開いた真珠湾での慰霊行事にオバマ米大統領とともに臨むほか、オバマ氏の任期中で最後の首脳会談も行う。両首脳は、かつて敵対した日米が和解の歩みを経て揺るぎない同盟関係を築いた姿を国際社会に発信し、絆をさらに深める決意を表明する。日米同盟の在り方の見直しに言及したトランプ次期大統領に「針路」を示す狙いもありそうだ。
 首相は東京を26日夜に出発。ホノルルには現地時間26日午前(同27日未明)に入り、真珠湾攻撃で犠牲となった米兵の墓地や日本人戦死者の慰霊碑などで献花を行う。27日午前(同28日朝)にオバマ氏と首脳会談を行った後、真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの上に建つ追悼施設「アリゾナ記念館」をそろって訪問。献花と黙とうに続き、両首脳が演説する。 
 日米両首脳が一緒に真珠湾で慰霊するのは初めて。5月の両首脳による被爆地・広島への訪問と併せ、和解を象徴する歴史的な節目となる。首相は真珠湾での演説で、敵味方の区別なく全ての戦没者に哀悼の意を表し、不戦の誓いを新たにする。その上で、アジア太平洋地域の平和と安定や国際的課題の解決にとって「日米同盟は死活的に重要」との認識を示し、同盟の深化を訴える。
 首相はこうした路線をオバマ氏と再確認することで、来年1月20日に大統領に就任するトランプ氏に着実に継承してもらいたい考え。首相は1月下旬のワシントン訪問を調整しており、トランプ氏に同盟強化の重要性を直接説く意向だ。
 ただ、トランプ氏の外交・安全保障政策には不透明感も漂う。選挙戦時に在日米軍駐留経費を日本が全額負担しない場合の米軍撤退を示唆したほか、22日には「米国の核能力強化」を主張し、核軍縮を志向してきたオバマ氏との違いが表面化。米中関係の悪化も懸念されている。米政権移行で首相は細心の注意が求められそうだ。

◇安倍首相とオバマ大統領の4年間
【2013年】
 2月    安倍晋三首相とオバマ大統領がワシントンで初会談
11月    ケネディ駐日大使が着任
12月    首相が靖国神社を参拝。在日米大使館が「米政府は失望」との声明発表
【14年】
 4月    大統領来日。首脳会談で尖閣諸島が日米安全保障条約の適用対象と明言
【15年】
 4月    日米防衛協力の指針(ガイドライン)再改定
       首相が米議会上下両院合同会議で演説。先の大戦への「痛切な反省」を表
       明
 9月    集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法が成立
【16年】
 5月    大統領が広島訪問。「核なき世界」の追求表明
11月    首相、ニューヨークでトランプ次期米大統領と会談
       ペルーで日米首脳が立ち話。首相のハワイ真珠湾訪問と首脳会談開催で合
       意
12月27日 両首脳がハワイ真珠湾で会談、戦没者を慰霊
 (2016/12/25-14:05)

1000とはずがたり:2016/12/28(水) 09:53:42
「山本五十六は開戦反対」展示 真珠湾のアリゾナ記念館
http://www.asahi.com/articles/ASJDW7H69JDWUTIL04P.html?iref=com_alist_8_03
ホノルル=高野裕介2016年12月28日07時42分

 安倍晋三首相とオバマ大統領が訪れた米ハワイ・真珠湾のアリゾナ記念館は、日本軍の攻撃を受け沈没した戦艦アリゾナの上に、1962年に開館した慰霊施設だ。アリゾナでは乗組員ら1177人が死亡し、今も約900人の遺体が艦内に残っている。

特集:首相、真珠湾訪問
 白い外観が特徴の全長約56メートルの施設は、船でしか行き来できない。中の壁には犠牲になった乗組員らの名前がびっしりと刻まれている。年間約160万人が訪れるという。

 記念館に向かう船の発着場付近は、国立公園局などが管理するビジターセンターの施設が並び、戦争資料などが展示されている。かつては、米国側の被害中心の展示内容だったが、今は規模も広げ、日米双方の視点から歴史を語り継ぐ場へと様変わりしている。

 2005年ごろ、ダニエル・マルチネス主任学芸員らが「戦争の悲劇を理解するためには、日米双方の等身大の姿を示す必要がある」として展示内容の変更を計画。10年にリニューアルオープンした。

 展示施設内では、真珠湾攻撃の生存者や元零戦パイロットのインタビューを流す。真珠湾攻撃を指揮した山本五十六・連合艦隊司令長官が米国留学の経験があることや、対米戦争には反対していたことも紹介。広島で被爆し、12歳で亡くなった佐々木禎子さんが作った折り鶴も、禎子さんの紹介文とともに展示している。

 マルチネスさんは「キーワードはバランス。互いの国の当時の状況を理解することで和解に向かうことができる。この場所がそのきっかけになれば」と話す。(ホノルル=高野裕介)

1001名無しさん:2016/12/30(金) 16:41:07
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122600469&amp;g=pol
安倍首相、28日に真珠湾訪問=オバマ米大統領と慰霊

 安倍晋三首相は26日、米ハワイの真珠湾を訪問するため、政府専用機で羽田空港を出発した。オバマ米大統領とともに真珠湾のアリゾナ記念館を現職首相として初めて訪問し、先の大戦の犠牲者を慰霊する。日米開戦の地で両国の和解と、未来志向の同盟深化を内外に発信したい考えだ。
 首相は出発に先立ち、羽田空港で記者団に「真珠湾攻撃から75年目、日本国民を代表して慰霊のために真珠湾を訪問する。戦争の惨禍は二度と繰り返してはならないという未来への誓い、和解の価値をオバマ大統領と世界に発信したい」と表明した。
 首相は27日午前(日本時間28日午前)、オバマ大統領とアリゾナ記念館を訪れ慰霊式典に出席。場所を移して共に演説し、大戦の全ての犠牲者を追悼する。謝罪には言及しない見通しだ。退役米軍人や旧日本軍による真珠湾攻撃の生存者と交流し、良好な日米関係をアピールする。
 式典に先立ち、来年1月に任期を迎えるオバマ大統領と最後の首脳会談に臨む。首相が取り組んできた日米関係強化の重要性を再確認し、日米同盟見直しの懸念が残るトランプ次期大統領に理解を促したい考えだ。首相は羽田空港で「この4年間を総括する首脳会談にしたい」とも語った。
 26日(日本時間27日)には、真珠湾攻撃の犠牲者らが眠る米国立太平洋記念墓地(通称パンチボウル)や日系移民の共同墓地などで慰霊。28日夜に帰国する。(2016/12/26-21:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122600276&amp;g=pol
鳩山一郎、岸両首相も真珠湾訪問=菅長官

 菅義偉官房長官は26日午前の記者会見で、鳩山一郎、岸信介両氏が1950年代の首相当時、それぞれ米ハワイ・真珠湾を訪れていたと発表した。これまでに吉田茂首相の訪問が判明しており、過去の現職首相の真珠湾訪問は計3人となる。

 菅氏によると、鳩山氏は56年、岸氏は57年に、それぞれ真珠湾に面した米太平洋軍司令部を訪問したという。
 その上で、菅氏は「(アリゾナ)記念館において現職首相が慰霊を行うのは安倍晋三首相が初めての機会で、米大統領と共に慰霊を行うのも初めてだ」と強調した。(2016/12/26-13:00)

1002名無しさん:2016/12/30(金) 18:33:13
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122700022&amp;g=pol
安倍首相、えひめ丸犠牲者に献花=ホノルルの慰霊碑で

 【ホノルル時事】安倍晋三首相は26日午前(日本時間27日午前)、ホノルル市のカカアコ臨海公園を訪れ、ハワイ沖を航行中に米原潜と衝突して沈没した愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」の慰霊碑前で献花した。

 慰霊碑は2001年2月の事故から1年後、沈没現場が見渡せる場所に建立された。船体から引き揚げられたいかりが設置されている。献花には、岸田文雄外相と稲田朋美防衛相も同行した。
 事故では生徒ら9人が犠牲となった。原潜が積極的な救助活動を怠ったため、日本国内で対米感情が悪化。当時のブッシュ米大統領が遺族に謝罪するため政府特使を派遣した。
 一方、日本側でも当時の森喜朗首相が事故後もゴルフを続けて反発を浴び、官房副長官だった安倍首相が対応に追われた。(2016/12/27-06:38)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122700021&amp;g=pol
安倍首相が米兵墓地献花=日本人犠牲者も慰霊-真珠湾訪問

 【ホノルル時事】安倍晋三首相は26日午前(日本時間27日未明)、米ハワイ・ホノルルに到着した。オバマ米大統領と27日(同28日)に真珠湾を訪問するのに先立ち、首相は旧日本軍の真珠湾攻撃で犠牲となった米兵らを埋葬した国立太平洋記念墓地(通称パンチボウル)を訪れ、献花した。

 小雨の降る中、首相は関係者の案内で献花台へ進み黙とう。日系人部隊の一員として欧州戦線に参加し、後に日米関係の進展に尽力した故ダニエル・イノウエ元米上院議員の墓標にも花を手向けた。
 首相はこの後、日本人移民や真珠湾攻撃で戦死した日本人兵士の慰霊碑があるマキキ日本人墓地を訪問。日米の犠牲者をともに慰霊することで、不戦の誓いをアピールした。
 26日午後は、ホノルル市内のカネオヘ海兵隊基地へ移動し、旧日本軍の飯田房太中佐の記念碑に献花。記念碑は、真珠湾攻撃後に被弾して燃料切れとなりながら、同基地に突入した飯田中佐の勇敢さをたたえた米軍が後に建立した。

 首相は同日午後、行方不明兵士の消息調査を行う米国防総省捕虜・行方不明者調査局(DPAA)を訪問し、日系人との夕食会に出席する。
 首相は27日午後、1月に任期を終えるオバマ大統領との最後の首脳会談に臨んだ後、共に真珠湾のアリゾナ記念館を訪問、演説する。(2016/12/27-07:51)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122700696&amp;g=pol
「パフォーマンス」と批判=安倍首相の真珠湾訪問-中国

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は27日の記者会見で、安倍晋三首相の真珠湾訪問について、「謝罪のない慰霊というだけでなく、かなりの部分が主に中国に向けられたパフォーマンスだ」と述べ、日米同盟強化の誇示が目的だと批判した。(2016/12/27-19:05)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122700510&amp;g=pol
「和解の力、世界に示す」=日米首脳、28日に真珠湾慰霊

 【ホノルル時事】米ハワイ入りした安倍晋三首相は26日(日本時間27日)、日米双方の戦没者の墓地などを訪れ、哀悼の意を表した。首相はホノルル市内で開かれた日系人との夕食会であいさつし、「慰霊と和解の力を、日米そして世界に示したい。これからも日米は希望の同盟として地域や世界のさまざまな課題に共に立ち向かっていきたい」と強調した。
 首相は27日(同28日)には、オバマ米大統領と共に真珠湾を訪問。旧日本軍による真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの上に建つ追悼施設「アリゾナ記念館」で犠牲者を慰霊し、黙とうをささげる。日米首脳がそろって真珠湾で慰霊を行うのは初めて。(2016/12/27-19:21)

1003名無しさん:2016/12/30(金) 20:33:22
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800082&amp;g=pol
安倍首相演説全文=真珠湾訪問

 【ホノルル時事】安倍晋三首相が27日(日本時間28日)、米ハワイの真珠湾訪問後に「和解の力」と題して行った演説の全文は次の通り。

 オバマ大統領、ハリス(米太平洋軍)司令官、ご列席の皆さま、そして、全ての、米国民の皆さま。パールハーバー、真珠湾に、今私は、日本国総理大臣として立っています。
 耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、柔らかな光に照らされた、青い、静かな入り江。私の後ろ、海の上の、白い、アリゾナ・メモリアル。あの、慰霊の場を、オバマ大統領と共に訪れました。
 そこは、私に、沈黙を促す場所でした。亡くなった、軍人たちの名が、記されています。祖国を守る崇高な任務のため、カリフォルニア、ミシガン、ニューヨーク、テキサス、さまざまな地から来て、乗り組んでいた兵士たちが、あの日、爆撃が戦艦アリゾナを二つに切り裂いた時、紅蓮の炎の中で、死んでいった。
 75年がたった今も、海底に横たわるアリゾナには、数知れぬ兵士たちが眠っています。耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と、波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。
 あの日、日曜の朝の、明るくくつろいだ、弾む会話の声。自分の未来を、そして夢を語り合う、若い兵士たちの声。最後の瞬間、愛する人の名を叫ぶ声。生まれてくる子の、幸せを祈る声。
 一人、ひとりの兵士に、その身を案じる母がいて、父がいた。愛する妻や、恋人がいた。成長を楽しみにしている、子どもたちがいたでしょう。それら、全ての思いが断たれてしまった。その厳粛な事実をかみしめる時、私は、言葉を失います。
 そのみ霊よ、安らかなれ-。思いを込め、私は日本国民を代表して、兵士たちが眠る海に、花を投じました。
 オバマ大統領、米国民の皆さん、世界の、さまざまな国の皆さま。私は日本国総理大臣として、この地で命を落とした人々のみ霊に、ここから始まった戦いが奪った、全ての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった、数知れぬ、無辜(むこ)の民の魂に、永劫(えいごう)の、哀悼の誠をささげます。
 戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を造り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
 この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、米国民の皆さまに、世界の人々に、固い、その決意を、日本国総理大臣として、表明いたします。
 昨日、私は、カネオヘの海兵隊基地に、一人の日本帝国海軍士官の碑(いしぶみ)を訪れました。その人物とは、真珠湾攻撃中に被弾し、母艦に帰るのを諦め、引き返し、戦死した、戦闘機パイロット、飯田房太中佐です。
 彼の墜落地点に碑を建てたのは、日本人ではありません。攻撃を受けた側にいた、米軍の人々です。死者の、勇気をたたえ、石碑を建ててくれた。碑には、祖国のため命をささげた軍人への敬意を込め、「日本帝国海軍大尉(だいい)」と当時の階級を刻んであります。

1004名無しさん:2016/12/30(金) 20:33:33
>>1003

 The brave respect the brave.
 「勇者は、勇者を敬う」。
 アンブローズ・ビアスの、詩は言います。戦い合った敵であっても、敬意を表する。憎しみ合った敵であっても、理解しようとする。そこにあるのは、米国民の、寛容の心です。
 戦争が終わり、日本が、見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、米国民でありました。皆さんが送ってくれたセーターで、ミルクで、日本人は、未来へと、命をつなぐことができました。
 そして米国は、日本が、戦後再び、国際社会へと復帰する道を開いてくれた。米国のリーダーシップの下、自由世界の一員として、私たちは、平和と繁栄を享受することができました。敵として熾烈(しれつ)に戦った、私たち日本人に差し伸べられた、こうした皆さんの善意と支援の手、その大いなる寛容の心は、祖父たち、母たちの胸に深く刻まれています。私たちも、覚えています。子や、孫たちも語り継ぎ、決して忘れることはないでしょう。
 オバマ大統領と共に訪れた、ワシントンのリンカーン・メモリアル。その壁に刻まれた言葉が、私の心に去来します。
 「誰に対しても、悪意を抱かず、慈悲の心で向き合う」。
 「永続する平和を、われわれ全ての間に打ち立て、大切に守る任務を、やり遂げる」。
 エイブラハム・リンカーン大統領の、言葉です。私は日本国民を代表し、米国が、世界が、日本に示してくれた寛容に、改めて、ここに、心からの感謝を申し上げます。
 あの「パールハーバー」から75年。歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く、強く結ばれた同盟国となりました。それは、今までにも増して、世界を覆う幾多の困難に、共に立ち向かう同盟です。あすを開く、「希望の同盟」です。
 私たちを結び付けたものは、寛容の心がもたらした、the power of reconciliation、「和解の力」です。
 私が、ここパールハーバーで、オバマ大統領と共に、世界の人々に対して訴えたいもの。それは、この、和解の力です。戦争の惨禍は、いまだに世界から消えない。憎悪が憎悪を招く連鎖は、なくなろうとしない。
 寛容の心、和解の力を、世界は今、今こそ、必要としています。憎悪を消し去り、共通の価値の下、友情と、信頼を育てた日米は、今、今こそ、寛容の大切さと、和解の力を、世界に向かって訴え続けていく、任務を帯びています。日本と米国の同盟は、だからこそ、「希望の同盟」なのです。
 私たちを見守ってくれている入り江は、どこまでも静かです。パールハーバー。真珠の輝きに満ちた、この美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。
 私たち日本人の子どもたち、そしてオバマ大統領、皆さん米国人の子どもたちが、またその子どもたち、孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれることを私は願います。そのための努力を、私たちはこれからも、惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに、固く、誓います。ありがとうございました。(2016/12/28-07:48)

1005名無しさん:2016/12/30(金) 20:34:18
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800084&amp;g=pol
日米の戦後に区切り=真珠湾訪問

 【ホノルル時事】安倍晋三首相とオバマ米大統領による真珠湾訪問は、戦火を交えた両国の歴史に新たなページを加えた。5月の大統領の被爆地広島訪問と併せ、戦後に大きな区切りを付けたと言える。首相にとっては、トランプ次期米大統領との間で、日米同盟堅持にどうつなげるかが今後の課題となる。
 首相が2013年末に靖国神社を参拝し、米国では「歴史修正主義者」との批判が出た。その後の首相は、懸念を取り除くことに心を砕いてきた。15年4月の米議会演説では「痛切な反省」に言及。同年8月の戦後70年談話でも「深い悔悟の念」を表明した。今回の真珠湾訪問も、こうした流れの中にある。
 日米両国民には、第2次世界大戦をめぐるわだかまりも残る。日本人には広島、長崎への原爆投下が、米国人には真珠湾奇襲が、その象徴だ。大統領が米国内の一部の批判を押し切って広島訪問を決断したことが、首相の背を押したのは間違いない。
 来年1月20日に就任するトランプ氏は、「米国第一主義」を掲げ、日米同盟の見直しにも言及してきた。首相が27日の演説で「(日米は)世界を覆う幾多の困難に、ともに立ち向かう同盟だ」と訴えたのは、アジア太平洋地域の安定には揺るぎない日米同盟が必要との立場からだ。
 地域の安定には、近隣諸国との和解も欠かせない。首相は演説で、真珠湾攻撃を発端とする戦争の犠牲となった「無辜(むこ)の民の魂に、永劫(えいごう)の、哀悼の誠をささげる」と述べた。アジアの民間人の犠牲が念頭にあるとみられる。(2016/12/28-07:31)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800080&amp;g=pol
安倍首相演説要旨=真珠湾訪問

 【ホノルル時事】安倍晋三首相の真珠湾での演説要旨は次の通り。
 真珠湾に今、私は首相として立っている。追悼施設「アリゾナ記念館」をオバマ米大統領と共に訪れた。あの日、爆撃が戦艦アリゾナを切り裂いた時、兵士たちが炎の中で死んでいった。その厳粛な事実をかみしめる時、私は言葉を失う。
 この地で命を落とした人々のみ霊に、ここから始まった戦いが奪った全ての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった数知れぬ無辜(むこ)の民の魂に、永劫(えいごう)の、哀悼の誠をささげる。
 戦争の惨禍は二度と繰り返してはならない。私たちはそう誓い、戦後、自由で民主的な国を造り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを貫いてきた。
 戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は静かな誇りを感じながら、この不動の方針をこれからも貫いていく。この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たち、米国民、世界の人々に、固い決意を表明する。
 あの真珠湾攻撃から75年。歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く、強く結ばれた同盟国となった。それは今までにも増して、世界を覆う幾多の困難に共に立ち向かう同盟だ。あすを開く「希望の同盟」だ。
 私たちを結び付けたものは、寛容の心がもたらした「和解の力」だ。憎悪を消し去り、共通の価値の下、友情と信頼を育てた日米は、今こそ寛容の大切さと、和解の力を世界に向かって訴え続けていく任務を帯びている。日米の同盟はだからこそ「希望の同盟」なのだ。
 日本人の子どもたち、そしてオバマ大統領、米国人の子どもたち、またその子どもたち、孫たちが、そして世界中の人々が、真珠湾を和解の象徴として記憶し続けてくれることを私は願う。そのための努力をこれからも惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに固く誓う。(2016/12/28-07:52)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800157&amp;g=pol
安倍首相帰国の途に=真珠湾訪問

 【ホノルル時事】安倍晋三首相は27日午後(日本時間28日午前)、米ハワイの真珠湾訪問を終え、ヒッカム空軍基地から政府専用機で帰国の途に就いた。28日夜に帰国する。(2016/12/28-09:13)

1006名無しさん:2016/12/30(金) 21:13:27
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800072&amp;g=pol
日米首脳、静かに目を閉じ=生存者から歓迎の声-真珠湾訪問

 【ホノルル時事】日米関係にとり歴史的な節目となった安倍晋三首相による27日の米ハワイ・真珠湾訪問。初夏を思わせる陽光が降り注ぎ、ワイキキビーチ沿いの繁華街が観光客でにぎわう中、20キロほど離れた慰霊施設「アリゾナ記念館」は厳粛な雰囲気に包まれた。「和解の力」をうたった首相の演説に、真珠湾攻撃の生存者からは歓迎の声が上がった。

 記念館は1962年、真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの真上に建てられた。手すり越しにのぞき込むと、海底に横たわる船体が透けて見え、海面には漏れ続ける油が浮かぶ。戦死した1177人のうち900人以上の遺体が、今も艦内に残されたままだ。

 ダークカラーのスーツに紺のネクタイ姿の首相は27日午前、オバマ大統領と船に乗って記念館の船着き場に到着した。館内に入ると、大理石の壁に戦死者の名前が刻まれた慰霊の間に進み、少数の政府関係者が見守る中、2人で花輪を整える形で献花。黙とうをささげた。
 慰霊の間を出た2人は、床が吹き抜けになったスペースから、海面下の船体に向かって花びらを散らし、再び静かに目を閉じた。
 両首脳はこの後、近くの波止場に移り、強風にたなびく両国旗や日本が降伏文書に調印した戦艦ミズーリ、アリゾナ記念館を背に演説。真珠湾攻撃を生き抜いた元米兵3人をはじめ150人超の列席者が見守る中、首相は一言一言をかみしめるように「この地で命を落とした人のみ霊に永劫(えいごう)の哀悼の誠をささげる」と語った。
 大統領が演説を終えると、首相は大統領の誘導で真珠湾攻撃を生き延びた元米兵3人に歩み寄り、「サンキュー・ベリーマッチ」などと声をかけながら一人ひとりを抱擁。その一人、アル・ロドリゲスさん(96)は「訪問を楽しみにしていた。首相は期待していた以上のことをしてくれた」と、首相の訪問と演説を笑顔で歓迎した。(2016/12/28-10:27)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800139&amp;g=pol
安倍首相、次期米政権にTPP働き掛け=日米首脳、中国空母の動向注視

 【ホノルル時事】安倍晋三首相は27日午前(日本時間28日朝)、オバマ米大統領とハワイのホノルルで会談した。来年1月に任期を終えるオバマ氏との会談は今回が最後。首相は環太平洋連携協定(TPP)について、「発効に至らなかったが、引き続き自由貿易を後退させてはならないとの考えで(トランプ)次期政権にも働き掛けていく」との意向を示した。
 東アジア情勢については、中国の空母「遼寧」が西太平洋に進出したことを取り上げ、「中長期的観点から注視すべき動向だ」との認識を共有した。中国の活発な海洋進出をにらみ、日米にオーストラリアやインドを交えて安全保障協力を拡大する「同盟ネットワーク」の重要性も確認した。(2016/12/28-10:55)

1007名無しさん:2016/12/30(金) 21:14:44
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800079&amp;g=pol
日米首脳が真珠湾慰霊=安倍首相「和解の力」発信-75年の節目、同盟深化誓う

 【ホノルル時事】安倍晋三首相とオバマ米大統領は27日午前(日本時間28日朝)、旧日本軍が1941年に米国との戦端を開いたハワイの真珠湾を訪れ、犠牲者を慰霊した。首相はこの後の演説で、二度と戦争を繰り返さない決意を表明するとともに、戦後に強固な同盟を築いた日米の「和解の力」を国際社会に向けて発信した。謝罪や反省の言葉は盛り込まなかった。

 日米の首脳がそろって真珠湾を訪れるのは開戦後の75年間で初めて。攻撃を受けて沈没した戦艦アリゾナの上に建つ追悼施設「アリゾナ記念館」で献花し、黙とう。この後、海に花を投じ、犠牲者を悼んだ。
 首相と大統領はこの後、アリゾナ記念館から対岸の埠頭(ふとう)に移動し、並んで演説した。
 首相は「日米は歴史にまれな、深く強く結ばれた同盟国になった」と指摘。「私たちを結び付けたものは、寛容の心がもたらした『和解の力』だ」と語り、戦後の平和と繁栄を下支えした米国への謝意を示した。

 真珠湾攻撃に関して、首相は「ここから始まった戦いが奪った、全ての勇者たちの命に、無辜(むこ)の民の魂に哀悼の誠をささげる」と強調。謝罪や反省には直接言及しない一方、「(兵士らの犠牲という)厳粛な事実をかみしめるとき、私は言葉を失う」との心情を表すとともに、「戦争の惨禍は、二度と繰り返してはならない。この不動の方針をこれからも貫いていく」と力説した。
 首相は演説の最後で「世界中の人々がパールハーバーを和解の象徴として記憶し続けることを願う」と訴えた。
 一方、オバマ氏は演説で、「一番の敵対国であっても一番力強い同盟国にもなり得る。それこそがこの真珠湾が示す真実の和解の力だ」と述べ、首相の真珠湾訪問の意義を強調。日米同盟について「アジア太平洋の平和と繁栄の礎となっている。かつてなく強固だ」との認識を示し、「亡くなった人たちを悼みながら、この二つの国が共に勝ち取ってきたものに感謝をささげたい」と語った。
 両首脳は記念館訪問に先立ち、大統領の任期中では最後の会談を行った。両首脳は「日米同盟をさらなる高みに押し上げる」考えで一致。来年1月に発足するトランプ次期政権を念頭に、同盟深化への決意を誓った。(2016/12/28-11:27)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800039&amp;g=pol
オバマ大統領、日米は「友情と平和選択」=安倍首相訪問の真珠湾で演説

 【ホノルル時事】オバマ米大統領は27日、安倍晋三首相とアリゾナ記念館を慰霊訪問した後の演説で、戦火を交えた日米両国が「友情と平和を選択した」と強調した。その上で「一番の敵対国が最も力強い同盟国になることができる。平和の果実は常に、戦争による略奪よりも重い」と述べ、日米両国が戦後に築いた同盟関係をたたえた。

 オバマ氏は、旧日本軍による攻撃を受けた真珠湾は「とても聖なる場所だ」と切り出し、勇敢に対応した兵士らの名前に言及。日系人部隊の一員として欧州戦線に参加し、後に日米関係の進展に尽力した故ダニエル・イノウエ元上院議員ら日系人を含む全兵士に謝意を表明した。
 また、大戦中に戦艦ミズーリのキャラハン艦長が特攻で死亡した日本人パイロットを米兵がつくった旭日旗にくるんで水葬した例を紹介し、日本語で「お互いのために」という言葉を思い起こすと述べた。
 日米同盟については、「アジア太平洋の平和と安定の礎石であり、かつてなく強固だ」と指摘。「和解こそが何よりも大きな褒美だと思う。二つの国が友人として、これまで勝ち取ってきたものに感謝をささげたい」と語った。
 オバマ氏はこれに先立ち、安倍首相と最後の会談に臨んだ。来年1月に退任するオバマ氏にとって、外国首脳との最後の公式会談になる見通し。
 オバマ氏は2009年1月の就任からアジア重視戦略を提唱。同盟網の再構築と併せて、ミャンマーとの歴史的な関係改善や旧敵ベトナムとの和解などを進めてきた。今年5月には、現職の米大統領として初めて被爆地・広島を訪問した。
 オバマ氏は演説で「内向きになることや、自分と違う人を悪者とすることに抵抗しなければならない」とも主張した。オバマ政権が追求した国際協調主義に否定的なトランプ次期大統領を念頭に、日米同盟を含むアジア重視の政策が今後も継続されるよう促した形だ。(2016/12/28-11:48)

1008名無しさん:2016/12/30(金) 21:17:59
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800396&amp;g=pol
日米同盟は不変=菅官房長官

 菅義偉官房長官は28日午前の記者会見で、安倍晋三首相が米ハワイの真珠湾を訪問して日米同盟を堅持する意向を表明したことに関し、「トランプ政権が発足してもこの日米同盟は変わらない」と述べた。首相の演説については「悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、二度と戦火を交えることなく、今後とも米国と協力して世界の平和と繁栄に貢献していくことを伝えることができた」と意義を強調した。(2016/12/28-12:41)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800360&amp;g=pol
オバマ米大統領演説要旨=真珠湾訪問

 【ホノルル時事】オバマ米大統領が27日、真珠湾で行った演説要旨は次の通り。

 一、安倍晋三首相の歴史的な行動は、日米両国民の和解の力と同盟関係を示すものだ。戦争の最も深い傷でさえ、友情と永遠の平和に転じ得るということを思い起こさせる。
 一、米国人にとって、この港は神聖な場所だ。花を手向けたり、海に花をささげたりする時、2400人以上の犠牲者に思いをはせる。
 一、われわれはここで、戦争が、われわれの不朽の価値観にどれほど試練を与えるかに思いを巡らせる。日系米国人が戦時中、自由を剥奪されていたにもかかわらず、米国史上で最も勲章を授与された部隊の一つが日系2世らでつくる第442部隊、その中の第100歩兵大隊だった。
 一、人類史上最も恐ろしい時代の一つを経て、米国と日本は友情と平和を選んだ。
 一、日米同盟は、新たな世界大戦を防いだ国際秩序の構築を支えてきた。アジア太平洋の平和と安定の礎石となり、かつてなく強固だ。
 一、5年前に壁のような津波が日本を襲い、福島の原発で炉心溶融(メルトダウン)が起きたとき、米軍兵士は日本の友人を助けた。日米は肩を並べて、アジア太平洋や世界の安全保障の強化に努めている。
 一、安倍首相の訪問は、戦争は終わらせることができ、最も激しく対立した敵同士が最も強固な同盟関係になれると気付かせる。平和の恩恵は常に戦争の略奪品に勝るのだ。
 一、憎しみが燃え上がるときでさえ、内向きになることや、自分と異なる人々を悪者扱いすることに抵抗しなければならない。真珠湾での犠牲や戦争の悲しみによって、われわれはすべての人類に共通する崇高な啓示に従おうと気付く。
 一、われわれは受け継いだ歴史を選ぶことはできないが、歴史から引き出す教訓を選択し、未来像を描くのに生かすことができる。
 一、われわれは共に、世界に対し、報復よりも和解の恩恵の方が大きいというメッセージを発していくことを希望する。この静かな湾で、犠牲者に敬意を払いつつ。(2016/12/28-13:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800495&amp;g=pol
真珠湾訪問「謝罪も同然」=生存元米兵3人が評価-安倍首相演説に列席

 【ホノルル時事】安倍晋三首相が27日に真珠湾で行った演説の会場には、75年前の旧日本軍の攻撃を生き延びた元米兵3人が駆け付け、首相の言葉に耳を傾けた。首相は演説後、3人に歩み寄り、一人ひとりを抱擁した。退役軍人の一部には謝罪を求める声もあるものの、3人は「謝罪は必要ない。真珠湾で献花すれば謝罪したのと同じだ」(スターリング・ケールさん)などと訪問を評価した。

 真珠湾攻撃の生存者は高齢化し、年々、減少しつつある。関係者によると、今月中旬には27日の首相の訪問を心待ちにしていた一人が死去。そうした中、3人は記憶を後世に伝えようと、アリゾナ記念館行きのフェリーが発着するビジターセンターで長年、「語り部」を続けている。
 ケールさん(95)は当時、基地内の診療所で働く衛生兵だった。攻撃時は引火した油が浮く海に入り、負傷者の救助や遺体の回収に当たった。
 各国メディアの記者に囲まれたケールさんは「首相の訪問は素晴らしい。何十年も待ち続けてきた」と強調。首相が攻撃を謝罪しなかったことを問われると、「申し訳なかったと言ってもらうより、行動で示してもらった方がいい。言葉は2分で忘れる。行動は永遠に記憶に残る」と指摘した。
 戦艦ペンシルベニアに乗務していたエベレット・ハイランドさん(93)は攻撃で全身に大やけどを負った。「首相が来てくれてうれしい。(日米は)かつては敵同士だったが、今は友人だ」と笑顔を見せ、「謝ることは何もない。戦争になればいつも人は死ぬ」と語った。
 アル・ロドリゲスさん(96)は「彼はありがとうと言い、ハグしてくれた。期待していた以上のことをしてくれた」と歓迎。「首相が来てくれて本当に感謝している。これは和解(の象徴)だ」と話した。(2016/12/28-14:53)

1009名無しさん:2016/12/30(金) 21:20:15
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800626&amp;g=pol
日米首脳が真珠湾で慰霊=攻撃75年、「和解の力」訴え-同盟強化確認も

 【ホノルル時事】安倍晋三首相とオバマ米大統領は27日(日本時間28日)、日米が太平洋戦争の戦端を開いたハワイの真珠湾を訪問し、戦没者を追悼した。日米首脳が真珠湾攻撃の犠牲者をともに慰霊するのは初めて。1941年の日米開戦から75年で日米関係は一つの節目を迎えた。
 首相とオバマ氏は、真珠湾に停泊中に撃沈された戦艦アリゾナの真上に建つ追悼施設「アリゾナ記念館」で犠牲者の名前が刻まれた白壁に向かって献花。黙とうをささげた。
 両首脳はこの後、演説し、戦後日米が成し遂げた「和解」の意義を強調。国際社会が抱える問題解決に主導的役割を果たしていく考えを示した。
 首相は演説で、敗戦国日本を国際社会復帰に導いた米国の寛容さに謝意を示すとともに、「私たちを結び付けたものは、寛容の心がもたらした『和解の力』だ」と強調。「日米は、寛容の大切さと和解の力を世界に向けて訴え続ける任務を帯びている」と語った。
 真珠湾攻撃に関して、首相は謝罪や反省には直接触れず、全ての犠牲者に対する哀悼の意を表明。「戦争の惨禍は、二度と繰り返してはならない」と不戦の誓いを新たにした。さらに「世界中の人々がパールハーバーを和解の象徴として記憶し続けることを願う」と訴えた。首相は演説後、真珠湾攻撃を経験した米退役軍人と言葉を交わした。
 一方、オバマ氏は演説で「一番の敵対国であっても一番力強い同盟国にもなり得る。平和の果実は常に、戦争による略奪よりも重い」と指摘。「和解こそが何よりも大きな褒美だと世界中に向けて発信したい」と語った。
 記念館訪問に先立ち、首相は1月に退任するオバマ氏と最後の会談を行い、日米同盟をさらに強化する考えで一致。活発な海洋進出を繰り広げる中国を念頭に、オーストラリアやインドを交えた安全保障協力を進める重要性も確認した。中国の空母「遼寧」が西太平洋に進出したことに関しては「注視すべき動向だ」との認識を共有した。(2016/12/28-17:09)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800652&amp;g=pol
深い反省必要=安倍首相の真珠湾訪問を批判-中国

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は28日の記者会見で、安倍晋三首相の真珠湾訪問について、「(戦争の)加害者と被害者の和解は加害者の深い反省の上に成り立つ。何度も器用にパフォーマンスをするよりも、一回の心からの深い反省をする方が未来にとって有益だ」と批判した。
 一方、28日付の中国共産党機関紙・人民日報は「日本が侵略したアジアの被害者に向けた謝罪を優先せず、米国まで行き『慰霊』したことは日米両国で批判を受けている」と伝えた。人民日報系の環球時報は社説で「訪れる場所が間違っている」と主張し、旧日本軍による南京事件の犠牲者を追悼する記念館などを訪問するよう求めた。(2016/12/28-17:53)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800658&amp;g=pol
「寛容」「和解」7回ずつ=反省・謝罪に言及せず-安倍首相演説

 【ホノルル時事】米ハワイ・真珠湾での安倍晋三首相の演説は、米国が第2次世界大戦後に日本に示した「寛容」と、日米両国の「和解」の力を訴えることに主眼を置き、この二つの言葉を表題を含め7回ずつ使用した。一方で、首相の昨年4月の米議会演説などでキーワードとなった先の大戦への「深い悔悟」や「痛切な反省」には言及せず、謝罪もしなかった。
 「寛容」や「和解」は首相の米議会演説や昨年8月の戦後70年談話でも使われたが、1、2回程度。今回の演説で多用したことについて、首相周辺は首相自身の判断があったとし、「日米の和解の価値を内外に発信する歴史的な機会にするためだ」と解説する。
 政府が公表した真珠湾演説の英訳は、寛容が「tolerance」、和解が「reconciliation」。「和解」については、オバマ大統領も真珠湾での演説で同じ英語表現で2回言及した。
 「悔悟」や「反省」は米議会演説や戦後70年談話で使われ、談話では歴代首相の言葉を引用する形で「心からのおわび」にも触れた。しかし、今回の真珠湾訪問について、菅義偉官房長官は当初から「戦没者の慰霊のためで、謝罪のためではない」と明言。犠牲者への「哀悼の誠」や「不戦の誓い」の表明にとどめ、全体として「未来志向」の内容とすることに意を用いた。(2016/12/28-17:59)

1010名無しさん:2016/12/30(金) 21:21:40
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800407&amp;g=pol
オバマ米大統領演説全文=真珠湾訪問

 安倍首相、米国民を代表し、思いやりのある言葉とこの地への訪問に感謝する。歴史的な行動は、和解の力や日米両国民の同盟関係を示しており、戦争の最も深い傷でさえ、友情と永遠の平和に転じ得るということを思い起こさせる。

 来賓、米軍将兵、そして何より真珠湾を生き抜いた人々とその愛する家族の皆さん、こんにちは(アロハ)。
 米国民、中でもハワイを故郷と呼ぶ人々にとって、この港は神聖な場所だ。花を手向けたり、いまだに涙が浮かぶ海に花をささげたりする時、われわれは永遠に天国に並ぶ2400人以上の愛国の士、父親たち、夫たち、妻たち、娘たちに、思いをはせる。われわれは、12月7日を迎えるたびに少し居住まいを正すオアフ島の守護者たちに敬意を表し、75年前に示された英雄的行為を振り返る。
 あの12月の日、夜が明けた時、楽園はこれまでにないほど魅惑的に思われた。水は温かく、これ以上ないほど青く澄んでいた。水兵たちは食堂で食事したり、教会に行く支度を整えたり、さっぱりした白いショートパンツとTシャツに着替えたりしていた。港には、カリフォルニア、メリーランド、オクラホマ、テネシー、ウェストバージニア、ネバダといった船がいかりを下ろして整然と浮かんでいた。アリゾナの甲板では、海軍の音楽隊が調律の最中だった。
 あの朝、肩に示された階級に関係なくあらゆる軍人が勇気を奮い起こした。訓練用の砲弾を発射し、旧式のライフルを取り、島中で米国人があらゆる手段を使ってとにかく自らを守った。普段なら清掃業務を担当していたアフリカ系米国人の給食陸曹は上官を安全な場所に移した後、弾薬が尽きるまで対空砲を発射し続けた。
 われわれはウェストバージニアのジム・ダウニング一等兵曹のような米国人をたたえる。真珠湾に駆けつける前、彼の新妻は彼の手に聖書の一節を託した。「永遠なる神はなんじのよりどころ とこしえなる腕の支えているところ」。ジムは乗艦を救おうと戦いながら、遺族に知らせることができるよう、戦死者の名前を控えていた。あの場にいたら誰もがそうしたでしょう、と彼は語った。
 ホノルルの消防士、ハリー・ペインのような米国人をわれわれは忘れない。彼は燃え盛る炎の中、力尽きるまで航空機の鎮火作業に当たった。彼はパープルハート(名誉負傷)勲章を受章した数少ない民間人消防士となった。
 われわれはジョン・フィン上等兵曹のような米国人をたたえる。彼は20カ所以上負傷しながらも、50口径の機関銃を2時間以上発射し続け、米軍最高の名誉勲章を与えられた。

1011名無しさん:2016/12/30(金) 21:22:13
>>1010

 この場所でわれわれは、戦争が私たちの最も不朽の価値観にどれほど試練を与えるかに思いを巡らせる。日系米国人が戦時中、自由を奪われていたにもかかわらず、米国史上最も勲章を授与された軍部隊の一つは日系2世らでつくる第442連隊、その中の第100歩兵大隊だった。
 その第442連隊には、私の友人で誇り高きハワイ出身者だったダニエル・イノウエ氏がいた。私の人生のほとんどを通じてハワイ選出の上院議員を務め、上院の議場で一緒に働けることが誇らしく思える人物だった。名誉勲章と大統領自由勲章を授与されただけでなく、彼の世代で最も傑出した政治家の一人でもあった。
 ここ真珠湾で、米国にとって第2次大戦最初の戦闘が国を目覚めさせた。ここは多くの意味で、米国が成長した場所だ。私の祖父母を含む米国人の世代、あの最も偉大な世代の彼らは戦争を求めなかったが、戦争にひるむことも拒んだ。そして彼らは皆、前線や工場で、自らの役割を果たした。75年が過ぎ、誇り高き真珠湾の生存者は時間の経過とともに少なくなってきたが、ここで思い起こす勇敢さは永遠にわれわれ国民の心に刻み込まれている。真珠湾と第2次大戦の全ての退役軍人の方々で可能な人は、起立するか挙手していただきたい。恩を感じる国が感謝しているからだ。
 国家の品格は戦争で問われるが、品格を決めるのは平和な時代だ。この海原で激しい戦いがあり、数万どころか数千万人もの命が失われた。こうした人類史上最も恐ろしい時代の一つを経て、米国と日本は友情、そして平和を選択した。
 日米同盟は過去数十年にわたり、両国を成功へと導いた。新たな世界大戦を防いだ国際秩序の構築を支え、10億人以上の人々を極度の貧困から救い出した。日米同盟は今日、共通の利害だけでなく共通の価値観に根差し、アジア太平洋の平和と安定を礎石として支え、世界の進歩の原動力となっている。われわれの同盟は、かつてなく強固だ。
 良い時も悪い時も、われわれはお互いに支え合っている。5年前を思い起こしてほしい。壁のような津波が日本を襲い、福島で炉心溶融(メルトダウン)が起きた。米国の軍人男女が、日本の友人を助けに駆け付けた。地球上の至る所で、日米は肩を並べてアジア太平洋と世界の安全保障の強化に努めている。海賊行為を撃退し、疫病と闘い、核兵器拡散を抑制し、戦地の平和を維持している。
 この真珠湾の近くで、日本は今年、20余の国々と共に世界最大級の軍事演習に参加した。この演習には、ハリー・ハリス司令官が率いる米太平洋軍も加わった。ハリス司令官は、米海軍士官と日本人の母の息子だ。テネシーなまりからは分からないが、横須賀生まれだ。ハリー、傑出した指導力に感謝している。
 こうした意味で、安倍首相と私がきょう、ここを訪れたこと、すなわち政府同士だけでなく国民同士のつながりは、両国間そして両国民間で成し遂げ得るものを思い起こさせる。戦争は終わらせることができる。最も激しく対立した敵同士が、最も強固な同盟関係になれる。平和の恩恵は常に、戦争の略奪品に勝る。これこそが、この神聖な真珠湾の不朽の真実だ。

1012名無しさん:2016/12/30(金) 21:23:25
>>1011

 われわれは、憎しみが燃え上がるときでさえ、最も原始的な部族間争いのときでさえも、内向き志向には抵抗しなければならないと改めて思う。自分たちと異なる人々を悪者扱いする欲求に、立ち向かわなければならない。ここで払われた犠牲、戦争の苦悩を考えれば、われわれは人類全てに共通する崇高な啓示に従う必要があると気付く。日本の友人が「お互いのために」と呼ぶ行動に努めることが求められている。共に、互いのために、ということだ。
 これは、戦艦ミズーリのウィリアム・キャラハン艦長の教訓からも分かる。艦長は、自分の船が攻撃を受けたにもかかわらず、軍葬の礼をもって日本人パイロットを葬るよう命じた。パイロットをくるんだ日本の旗は、米国人の水兵が縫った。同様に、日本の別のパイロットの教訓もある。このパイロットは何年か後に、この湾を訪れて米海兵隊のラッパ担当だった元兵士と親しくなり、永別のラッパを吹いて、この記念館に毎月2本のバラを供えるよう彼に頼んだ。1本は米国人犠牲者、もう1本は日本人の犠牲者のためだ。
 われわれ両国民が、平凡な日常から日々学んでいる教訓もある。米国人は東京で学び、若い日本人も米国各地で学んでいる。両国の科学者は協力し、がんの未解明な部分を解き明かしたり、気候変動と闘ったり、星を探査したりしている。マイアミの球場を輝かせるイチローのような野球選手は、平和と友好で団結した米国人と日本人共通の誇りによって支えられている。
 国や国民として、われわれは受け継ぐ歴史を選ぶことはできない。だが、歴史から教訓を選び取ることはできる。われわれ自身の未来像を描くのに、その教訓を生かすこともできる。
 安倍首相、日本国民がいつも私を歓迎してくれるように、私はあなたを友好の精神でここに歓迎する。私は、われわれが世界に対し、戦争の中からより平和の中から勝ち取るものの方が多いというメッセージを共に送ることを望む。和解は報復よりも多くの恩恵をもたらすということだ。
 この静かな湾で、われわれは失った人々に敬意を表する。そして、友人として両国が共に勝ち取ってきた全てに感謝する。神のとこしえの腕の中に戦死者が居続けられますように。神がわが退役軍人や、われわれのため警戒の番をする全ての人々を見守ってくれますように。われわれ皆に神の祝福がありますように。ありがとう。(2016/12/28-23:51)

1013名無しさん:2016/12/30(金) 21:24:22
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800739&amp;g=pol
和解へ「一層の努力」要求=安倍首相、真珠湾訪問-韓国

 【ソウル時事】韓国外務省関係者は28日、米ハワイの真珠湾を訪問した安倍晋三首相が「不戦の誓い」を表明したことについて、「日本は正しい歴史認識を基に、軍国主義の被害者だった周辺国との和解と協力のため、さらなる努力を傾けなければならない」と注文を付けた。
 聯合ニュースは、安倍首相が集団的自衛権の行使容認や安全保障関連法の成立などを進めてきたことに触れ、「就任後に見せた行動は平和国家の堅持とは正反対だった」と批判。中央日報(電子版)は「(真珠湾で)謝罪しなかったのは右翼の反発を考慮したためだ」と分析した。(2016/12/28-20:10)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800435&amp;g=pol
今村復興相が靖国参拝=「被災地の再生祈念」

 今村雅弘復興相は28日、東京・九段北の靖国神社を参拝した。今村氏は参拝の趣旨について、「1年間の仕事の報告と感謝、被災地の一日も早い復興再生、わが国の安寧と繁栄を祈念してきた」と記者団に説明した。

 今村氏は本殿には入らず、一般の参拝客と同様に拝殿前で礼をし、さい銭を納めた。時期が重なった安倍晋三首相の米ハワイ・真珠湾での慰霊に関し「(み霊に)報告しておいた」と語った。
 今村氏は終戦記念日に先立つ8月11日にも同神社を参拝している。(2016/12/28-14:49)

1014名無しさん:2016/12/31(土) 08:38:40
古い記事

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-12-28/2013122801_03_1.html
2013年12月28日(土)
安倍政権 孤立深まる

靖国参拝 ロシア・EUも批判

 安倍晋三首相による靖国神社参拝についてのアジアと世界の非難は鳴りやまず、安倍政権は世界の中で孤立を深めています。

 政府レベルではロシア外務省高官が26日発表の声明で遺憾を表明し、“歴史への正しい理解が近隣諸国との関係の重要な土台”と強調。欧州連合(EU)の報道官も同日、靖国参拝は地域の緊張緩和に「貢献しない」と指摘する声明を発表しました。

 米国のメディア(電子版いずれも26日付)の記事には「政治的に無分別だ」(ワシントン・ポスト)、隣国の共有する過去についての「傷つきやすい感情を踏みつける」(CNNテレビ)など、安倍首相に対するいらだちと批判のコメントがあふれました。ウォール・ストリート・ジャーナルは、今回の参拝が「日本の軍国主義復活という亡霊を自国の軍事力拡張の口実にしてきた中国指導部に対する贈り物になった」と指摘しました。

 日本の侵略を受けた韓国、台湾では27日、日本の大使館などの前で市民らが抗議集会を行い、「日本は侵略の歴史を反省すべきだ」などの声を響かせました。

1015名無しさん:2016/12/31(土) 08:39:30
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161229/k10010823881000.html
稲田防衛相 靖国神社に就任後初の参拝 「どの国でも理解頂ける」
12月29日 16時06分

稲田防衛大臣は29日午前、就任後初めて東京・九段の靖国神社に参拝し、「祖国のために命をささげた方々に対し、感謝と敬意と追悼の意を表することは、どの国でも理解して頂けると考えている」と述べました。
稲田防衛大臣は29日午前8時ごろ、東京・九段の靖国神社を訪れ、防衛大臣に就任してから初めて参拝しました。稲田大臣は靖国神社に参拝したあと、記者団に対し、私費で玉串料を納め、「防衛大臣・稲田朋美」と記帳したことを明らかにしたうえで、「防衛大臣である稲田朋美が一国民として参拝したということだ」と述べました。

そして、稲田大臣は「ことしは原爆を投下した国の大統領が広島を訪問し、きのうは安倍総理大臣が真珠湾に行って慰霊の言葉を述べた。最もしれつに戦った日本とアメリカが、今や最も強い同盟関係にあるなど、未来志向に立って、しっかりと日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝した」と述べました。

一方、稲田大臣は、記者団が「中国や韓国の反発も予想されるが」と質問したのに対し、「いかなる歴史観に立とうとも、いかなる敵、味方であろうとも、祖国のために命をささげた方々に対し、感謝と敬意と追悼の意を表することは、どの国でも理解して頂けると考えている」と述べました。

稲田大臣は例年、終戦の日の8月15日などに靖国神社に参拝していますが、ことしの終戦の日は、防衛大臣としての海外視察のため、参拝していませんでした。

首相「ノーコメント」
安倍総理大臣は、稲田防衛大臣が靖国神社に参拝したことについて、29日午前、神奈川県茅ヶ崎市で記者団に対し、「それについてはノーコメント」と述べました。

民進 野田幹事長「自身が内外に説明する責任」
民進党の野田幹事長は党本部で記者団に対し、「安倍総理大臣とオバマ大統領が真珠湾に行き、『不戦の誓い』で共同行動がとれたことは一定の評価をしているが、そこに同行していた方がその直後に参拝というのは、どういう意味なのか。諸外国へ与える影響も含めて、きちんと稲田防衛大臣自身が内外に説明する責任がある」と述べました。

中国外務省報道官「断固として反対」
稲田防衛大臣が就任後初めて靖国神社に参拝したことについて、中国外務省の華春瑩報道官は29日の記者会見で、「中国は断固として反対する」と述べて非難しました。
そのうえで華報道官は、稲田大臣が安倍総理大臣とともに旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を追悼する施設を訪れたことに触れ、「今回の参拝は、一部の日本人のかたくなで誤った歴史観を表しているだけではなく、真珠湾のいわゆる『和解の旅』をこれ以上ない皮肉なものにし、世の人々の日本の行動や意図に対する警戒を高めただけだ。日本の指導者が国内外の正義の声に耳を傾け、侵略の歴史を直視し、深く反省するよう求める」と述べました。

また、関係者によりますと、29日午後、中国外務省の肖千アジア局長が北京に駐在する日本の伊藤康一公使を呼んで抗議したということです。

韓国外務省報道官「嘆きを禁じえない」
稲田防衛大臣が就任後初めて靖国神社に参拝したことについて、韓国外務省のチョ・ジュンヒョク(趙俊赫)報道官は29日の記者会見で、「日本の責任ある政治家が過去の植民地支配と侵略戦争を美化し、戦争犯罪者を合祀する靖国神社に参拝したことに政府として嘆きを禁じえない」と述べ批判しました。そのうえで、「歴史を正しく直視し、謙虚で誠実な反省を実際の行動で示すことでのみ周辺国と国際社会の信頼をえることができる」と強調しました。

また、これに先立って韓国外務省のチョン・ビョンウォン(鄭炳元)北東アジア局長は、ソウルにある日本大使館の丸山浩平公使を呼び、「日韓関係を改善しようとする努力に逆行する行為で非常に不適切だ」と抗議しました。

一方で、韓国国防省も「韓国政府が未来志向の両国関係を作っていくべきだと強調してきたにもかかわらず、日本の防衛大臣が、靖国神社に参拝したことに深刻な憂慮と遺憾を表明する」との声明を発表しました。

1016名無しさん:2016/12/31(土) 10:59:15
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161226/k10010819621000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_081
首相 真珠湾攻撃の犠牲者慰霊へ 今夜ハワイに出発
12月26日 4時19分

安倍総理大臣は、太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、26日夜、ハワイに向けて出発します。安倍総理大臣は、アメリカのオバマ大統領との日米首脳会談にも臨むことにしていて、敵国だった日本とアメリカの和解の価値を内外に示し、来月のトランプ新政権の発足を前に日米同盟の重要性を確認する機会としたい考えです。
安倍総理大臣は、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、26日夜、羽田空港を政府専用機で出発し、ハワイに向かうことにしています。

安倍総理大臣は、ハワイ到着後太平洋戦争などで犠牲になったアメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地や、15年前ハワイ沖でアメリカ軍の潜水艦に衝突され沈没し、生徒ら9人が亡くなった愛媛県の高校の実習船「えひめ丸」の慰霊碑を訪れ、献花することにしています。

また、安倍総理大臣は日本時間28日、来月任期を終えるアメリカのオバマ大統領との最後の日米首脳会談に臨んだあと、オバマ大統領とともに真珠湾攻撃の犠牲者を追悼するアリゾナ記念館を訪れ、献花したうえで所感を発表することにしています。

安倍総理大臣は今回の訪問を通じて、二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないという決意と、敵国だった日本とアメリカの和解の価値を内外に示し、来月のトランプ新政権の発足を前に、日米同盟の重要性を確認する機会としたい考えです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161226/k10010820071000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_070
戦後3首相が真珠湾訪問 官房長官
12月26日 13時47分

菅官房長官は記者会見で、安倍総理大臣のハワイ訪問に関連し、戦後、吉田茂総理大臣に加えて、鳩山一郎総理大臣や岸信介総理大臣が、真珠湾に面した当時のアメリカ太平洋軍司令部を訪れていたことを明らかにしました。
この中で、菅官房長官は、安倍総理大臣が真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、26日からハワイを訪問することに関連し、戦後の昭和26年に、吉田茂総理大臣が真珠湾に面した当時のアメリカ太平洋軍司令部を訪れたのに加えて、昭和31年に鳩山一郎総理大臣が、昭和32年に岸信介総理大臣が、同じ司令部を訪れていたことを明らかにしました。

そのうえで、菅官房長官は、「当時は、真珠湾攻撃の犠牲者を追悼するアリゾナ記念館は建設されておらず、記念館で現職の総理大臣が慰霊を行うのは、今回の安倍総理大臣が初めての機会であり、アメリカの大統領とともに慰霊を行うのも初めてだ」と述べました。

1017名無しさん:2016/12/31(土) 11:00:33
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161226/k10010820831000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_060
首相がハワイへ出発 真珠湾攻撃の犠牲者慰霊へ
12月26日 21時39分

安倍総理大臣は、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、26日夜、政府専用機でハワイに向けて出発しました。出発に先立って安倍総理大臣は記者団に対し、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという思いや、日米の和解の価値をオバマ大統領とともに世界に発信したいという考えを示しました。
安倍総理大臣は、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、26日夜9時半ごろ、羽田空港を政府専用機で出発し、ハワイに向かいました。出発に先立って、安倍総理大臣は記者団に対し、「戦争の惨禍は二度と繰り返してはならないというこの未来への思いを、誓いを、そして和解の価値を、オバマ大統領とともに世界に発信したい」と述べました。また、安倍総理大臣は「オバマ大統領との首脳会談は最後の首脳会談となる。この4年間を総括する首脳会談にしたいと思うし、2人でともに取り組んできたさまざまな課題や、残された課題、さらに、ともに強化してきた同盟の価値を2人で世界に発信する首脳会談にしたい」と述べました。

安倍総理大臣はハワイ到着後、太平洋戦争などで犠牲になったアメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地や、ハワイに移住し、亡くなった日本人らが埋葬されている日本人墓地などを訪れることにしています。そして日本時間の28日、オバマ大統領との最後の首脳会談を行ったあと、大統領とともに真珠湾にあるアリゾナ記念館で献花を行って、犠牲者を追悼し、その後、所感を発表することにしています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821011000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_058
首相 ハワイに到着 あす真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊
12月27日 4時10分

安倍総理大臣は、旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、日本時間の午前4時ごろ、政府専用機でハワイに到着しました。
26日夜、羽田空港を政府専用機で出発した安倍総理大臣は、日本時間の27日午前4時ごろ、ハワイのアメリカ軍基地に到着しました。

安倍総理大臣は、太平洋戦争などで犠牲になったアメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地や、ハワイに移り住み、亡くなった日本人の墓地などを訪れることにしています。

そして安倍総理大臣は、日本時間の28日、来月任期を終えるオバマ大統領との最後の首脳会談を行ったあと、大統領とともに、真珠湾にあるアリゾナ記念館を訪れて献花を行い、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することにしています。

そのあと安倍総理大臣は、太平洋戦争の際、アメリカ軍の一員として戦った日系アメリカ人などを前に所感を発表し、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという決意と、かつて敵国だった日本とアメリカの和解の価値を内外に示すことにしています。

1018名無しさん:2016/12/31(土) 11:01:33
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821021000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_055
首相 ハワイの国立太平洋記念墓地で黙とう
12月27日 5時58分

ハワイに到着した安倍総理大臣は、日本時間の27日朝、太平洋戦争などで犠牲になったアメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地などを訪れ、献花し、黙とうをささげました。
日本時間の27日午前4時すぎに政府専用機でハワイに到着した安倍総理大臣は、国立太平洋記念墓地を訪れ、献花をし、黙とうをささげました。国立太平洋記念墓地には、太平洋戦争やベトナム戦争などで犠牲となったアメリカ軍の兵士など、およそ5万人が埋葬されていて、戦後、当時の吉田総理大臣など複数の総理大臣が訪れたことがあります。

このあと安倍総理大臣は、ハワイに移り住んだ日本人らが埋葬されている日本人墓地や、15年前、ハワイ沖でアメリカ軍の潜水艦に衝突されて沈没し、乗っていた生徒ら合わせて9人が犠牲となった愛媛県の宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」の慰霊碑を訪れ、献花し、黙とうしました。

安倍総理大臣は、日本時間の28日、真珠湾を訪れ、オバマ大統領との最後の日米首脳会談を行ったあと、旧日本軍の攻撃を受けて沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館で、ともに犠牲者を慰霊することにしています。その後、両首脳は、太平洋戦争をアメリカ軍の一員として戦った日系アメリカ人などを前に所感を発表することにしています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821111000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_052
首相 米大統領と真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊へ
12月27日 11時10分

ハワイに到着した安倍総理大臣は、アメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地などを訪れ、献花して黙とうをささげました。安倍総理大臣は28日、オバマ大統領とともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊したあと、不戦の決意と日本とアメリカの和解の価値を強調する所感を発表することにしています。
日本時間の午前4時すぎにハワイに到着した安倍総理大臣は、岸田外務大臣や稲田防衛大臣らを伴って、太平洋戦争やベトナム戦争などで犠牲となったアメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地を訪れ、献花して黙とうをささげました。

このあと安倍総理大臣は、ハワイに移り住んだ日本人らが埋葬されている日本人墓地や、15年前、ハワイ沖でアメリカ軍の潜水艦に衝突されて沈没し、生徒ら合わせて9人が犠牲となった愛媛県の宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」の慰霊碑を訪れて、追悼しました。
日本人墓地や「えひめ丸」の慰霊碑には、アメリカのケネディ駐日大使も同行しました。

安倍総理大臣は、日本時間の28日、真珠湾を訪れます。
そして、オバマ大統領との日米首脳会談に臨んだあと、太平洋戦争の発端となった75年前の真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館で、ともに犠牲者を慰霊することにしています。

その後、両首脳は、太平洋戦争をアメリカ軍の一員として戦った日系アメリカ人らを前に所感を発表することにしています。
この中で、安倍総理大臣は、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという不戦の決意と、日本とアメリカの和解の価値を強調し、強固な同盟関係を内外に示したい考えです。

1019名無しさん:2016/12/31(土) 11:03:34
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821571000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_042
首相の真珠湾訪問 米専門家「おおむね好意的に受け止め」
12月27日 17時59分
首相の真珠湾訪問 米専門家「おおむね好意的に受け止め」
安倍総理大臣の真珠湾訪問について、日米関係に詳しいカーネギー国際平和財団のジェームズ・ショフ上級研究員は、NHKのインタビューで、「アメリカでは、おおむね好意的に受け止められている」と述べました。
そのうえで、「複雑な面もあり、オバマ大統領が広島を訪問したすぐあとに、安倍総理大臣が真珠湾を訪れれば、アメリカでは『お返し』のように受け止められる懸念もあった。これは外交や政治の行事ではない」と述べました。

そして、真珠湾攻撃について、日本側の謝罪が必要かどうかについては、「アメリカ国内には謝罪を求める声は、わずかながら存在する。しかし、両国の幅広い友好関係を背景に、日米の和解はもっとも成功をおさめてきた」と述べ、日米両国の間では、謝罪は必要ないという見方を示しました。

さらに、オバマ大統領の2期8年間の日米関係については、「両国にとっては、おそらくもっとも心地よい時期だったと思う」と述べたうえで、「今回の首脳会談は、その関係と成果の最終章を記すものとなり、アメリカの新しい政権の下での日米関係の基調を定義しようとする試みだ」と述べました。

また、来月、就任する予定のトランプ次期大統領については、「考え方も手法も正反対の軍事力を背景にした古いスタイルの外交姿勢で、国際協調にも関心がない。日米関係にとって大きな試練となるだろう」と述べるとともに、トランプ氏の政権移行チームでは、対日政策をはじめ、包括的なアジア政策の行方が依然、見えていないと指摘しました。
ハワイの地元紙「決定的瞬間になる」
安倍総理大臣が日本時間の28日、アメリカのオバマ大統領とともに、旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、ハワイの地元紙「スター・アドバタイザー」は、26日付けの紙面の一面で大きく取り上げています。
この中で「現職の日本の総理大臣として初めてとなる、安倍総理大臣のアリゾナ記念館訪問は、道義的にも戦略的にも決定的瞬間になるだろう」という専門家の見方を伝えています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821321000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_046
首相 戦死したゼロ戦パイロットの記念碑で献花
12月27日 15時20分
首相 戦死したゼロ戦パイロットの記念碑で献花
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の27日午後、アメリカ軍が、真珠湾攻撃で戦死したゼロ戦のパイロットの勇敢さをたたえて建立した記念碑を訪れ、献花して黙とうをささげました。
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、太平洋戦争などで犠牲となったアメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地を訪れたのに続き、日本時間の27日午後、ハワイ最大のアメリカ海兵隊の基地であるカネオヘ航空基地を訪れました。

そして、安倍総理大臣は、アメリカ海兵隊の幹部から説明を聞きながら、基地の滑走路脇に設けられた旧日本軍の飯田房太中佐の記念碑に献花し、黙とうをささげました。

飯田中佐は、太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃に参加したゼロ戦のパイロットで、攻撃中に燃料タンクに被弾したため、燃料切れを意味する手信号を送ったあと、基地の格納庫に突入して戦死しました。

アメリカ軍が、飯田中佐の勇敢さをたたえて基地内に埋葬し、記念碑を建立したことから、日米友好の象徴として、毎年両国の関係者が参加して慰霊法要が行われていて、27日の安倍総理大臣の献花にもアメリカ海兵隊の幹部らが同行しました。

安倍総理大臣はこのあと、遺骨のDNA鑑定などを通じて、過去の紛争で行方不明となった兵士などの消息調査を行っている、アメリカ国防総省の捕虜・行方不明者調査局の中央身元鑑定研究所を訪れ、関係者から説明を受けながら、保管されている遺骨や鑑定作業の様子を視察しました。

1020名無しさん:2016/12/31(土) 11:04:48
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821681000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_043
首相「慰霊と和解の力を世界に示したい」
12月27日 17時58分

ハワイを訪れている安倍総理大臣は、日系人らとの夕食会であいさつし、日本時間の28日にオバマ大統領と会談したあと、ともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、「慰霊と和解の力を世界に示したい」と述べ、日米の和解の価値や強固な同盟関係を内外にアピールする機会にしたいという考えを示しました。
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の午後、ハワイ最大のアメリカ海兵隊の基地である、カネオヘ航空基地を訪れ、基地の滑走路脇に設けられた旧日本軍の飯田房太中佐の記念碑に献花し、黙とうをささげました。

飯田中佐は、太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃に参加したゼロ戦のパイロットで、攻撃中に燃料タンクに被弾したため、基地の格納庫に突入して戦死しました。

アメリカ軍が、飯田中佐の勇敢さをたたえて基地内に埋葬し、記念碑を建立したことから、日米友好の象徴として毎年、両国の関係者が参加して慰霊法要が行われていて、27日の安倍総理大臣の献花にも、アメリカ海兵隊の幹部らが同行しました。

このあと、安倍総理大臣は太平洋戦争をアメリカ軍の一員として戦った日系人らとの夕食会に出席して、あいさつしました。
この中で、安倍総理大臣は28日にオバマ大統領とともに、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、「慰霊と和解の力を日米に、そして世界に示したい。これからも日米は『希望の同盟』として、地域や世界のさまざまな課題にともに立ち向かい、ともに取り組んでいきたい」と述べ、強固な日米同盟を内外にアピールする機会にしたいという考えを示しました。

安倍総理大臣は28日、真珠湾を訪れてオバマ大統領と会談したあと、太平洋戦争の発端となった75年前の真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館で、ともに犠牲者を慰霊することにしています。

戦後、日本の総理大臣が真珠湾を訪れたことはありますが、現職のアメリカの大統領とともに犠牲者を慰霊するのは初めてです。

その後、両首脳は太平洋戦争をアメリカ軍の一員として戦った日系アメリカ人らを前に所感を発表することにしていて、安倍総理大臣はこの中で、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという不戦の決意と、日本とアメリカの和解の価値を強調することにしています。
真珠湾攻撃とは
太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃は、75年前の昭和16年12月に旧日本軍の空母機動部隊や潜水部隊がハワイのオアフ島にある真珠湾のアメリカ軍基地などに行った奇襲攻撃です。

戦後、旧防衛庁防衛研修所が編さんした「戦史叢書」によりますと、空母機動部隊による攻撃は日本時間の12月8日(現地時間12月7日の午前8時)ごろに始まりました。

オアフ島の北、およそ400キロに展開した旧日本軍の空母6隻から爆撃機や戦闘機、合わせて350機が2度にわたって出撃し、真珠湾に停泊していたアメリカ軍の艦艇や航空基地を攻撃しました。

当時、真珠湾には空母は停泊していませんでしたが、戦艦や駆逐艦など数十隻がいて、攻撃によって戦艦「アリゾナ」など6隻が沈没したほか、12隻が損傷しました。

死者・行方不明者は日本側が64人だったのに対し、アメリカ側では民間人数十人を含む、およそ2400人に上るなど、大きな被害が出ました。

真珠湾攻撃をめぐっては、日本は当初、アメリカに開戦の通告をしたあと攻撃を行う計画でしたが、不手際のために通告が遅れ、攻撃のあとになったことから、アメリカは「だまし討ちだ」などと強く非難しました。

1021名無しさん:2016/12/31(土) 11:04:59
>>1020

米での市民の反応は
飲食店や商店が集まるホノルルの市街地では、日本時間の28日に安倍総理大臣が真珠湾を訪れ犠牲者を慰霊することについて、「知らなかった」と答えた人も多くいた一方で、地元の人たちからは歓迎する声が聞かれました。

9歳の時に真珠湾攻撃を目撃した84歳の男性は「当時、家にいたが、飛行機が真珠湾に向かって飛んで行き、その後、炎や煙が見えた。おそろしい出来事だったことを今でも覚えている」と話しました。
そのうえで、今回の訪問について、「とてもいいことだと思う。日本の総理大臣がここに来て、75年前の出来事を再認識してもらうことは重要なことだ思う」と歓迎していました。

また、近くに住む58歳の男性は「両国の首脳が真珠湾を訪れるのはすばらしいことだと思う。日本とは観光をはじめ、いい関係を築いている。戦争は昔の出来事で、地元の人たちも日本へのわだかまりはないと思う」と今回の訪問を肯定的に捉えていました。

また、真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館を訪れたアメリカの人たちからは歓迎する声が聞かれました。

このうち男性の1人は「とてもいいことだと思う。私たちは悲劇的な戦争を経験した。過去に起きたことを思い起こすことはすべての人にとって重要だ」と話していました。

また、別の男性は「過去は過去であり、私たちは今、未来に生きている。かつて日米ともに苦しんだ人たちはいるが、今は強固な同盟国として協力する必要がある」と述べ、安倍総理大臣の真珠湾訪問を機に日米同盟が一層強化されることに期待を示しました。

一方で、真珠湾攻撃によって祖父の友人が戦艦アリゾナで犠牲になったという女性は「安倍総理大臣が訪問するのはいいことだと思うが、真珠湾攻撃について謝罪すべきだと思う」と話していました。
民進 蓮舫代表「不戦の誓い語ることは大きな意味」
民進党の蓮舫代表は、千葉県匝瑳市で記者団に対し、「オバマ大統領と、わが国の総理大臣が、そろって不戦の誓いを真珠湾で語るのは、とても大きな意味がある。ただ、オバマ大統領が目指している『核なき世界』について、残念ながらアメリカの次期大統領は方向性が大きく違うのではないかと受け止められる言動が目立っており、安倍総理大臣からオバマ大統領に対して懸念を伝えてもらいたい」と述べました。

1022名無しさん:2016/12/31(土) 11:05:59
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821561000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_041
真珠湾攻撃参加の男性「平和考えるきっかけに」
12月27日 18時01分
安倍総理大臣のハワイ訪問について、75年前、日本海軍による真珠湾攻撃の作戦に参加した97歳の男性は、若い世代が平和について考えるきっかけにしてほしいと語りました。
さいたま市に住む市來俊男さん(97)は、元日本海軍の大尉で、75年前、駆逐艦の乗組員として真珠湾攻撃作戦に参加し、爆撃機を載せた空母の後方支援などを行いました。

市來さんは「『アメリカやイギリスに負けるな』という教育を受けてきたので、特に恐怖はなかった。『トラ、トラ、トラ』と攻撃成功が伝えられると、沸き立つように喜んだ」と述べ、日米開戦に突き進んだ当時の日本軍の状況について振り返りました。

真珠湾攻撃での日本側の戦死者は64人で、市來さんも兵学校時代の同期2人を亡くしました。

市來さんは安倍総理大臣とオバマ大統領がそろって真珠湾で戦没者を慰霊することについて、「戦争のない平和な世の中を、日本とアメリカが一緒に築いていくというシンボルになるのではないか」と歓迎したうえで、「先の大戦で亡くなった人たちのおかげで戦争が終わり、あとの世代が平和を受け継いできた。今回の機会を通じて、若い人たちに『歴史』というものを勉強してほしい」と述べ、若い世代が平和について考えるきっかけにしてほしいと期待を寄せました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010822001000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_036
首相の真珠湾慰霊 新潟 長岡市長が立ち会いへ
12月27日 21時43分
安倍総理大臣が旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、アメリカのオバマ大統領とともに日本時間の28日に予定しているハワイの真珠湾への訪問に、長年、ホノルル市と平和交流を続けている新潟県長岡市の市長が立ち会うことがわかりました。
安倍総理大臣は日本時間の28日、オバマ大統領とともにハワイの真珠湾を訪れ、旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊したあと、所感を発表し、不戦の決意と日本とアメリカの和解の価値を強調することにしています。

この両首脳の真珠湾訪問に、ホノルル市の姉妹都市である新潟県長岡市の磯田達伸市長が立ち会うことがわかりました。
長岡市は、真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官、山本五十六の出身地である一方、太平洋戦争ではアメリカ軍の空襲を受けました。

長岡市とホノルル市は、こうした歴史を超えて平和の尊さを若い世代に伝えたいと平和交流を続けていて、今回、日本の地方自治体で唯一、立ち会いの招待を受けたということです。

磯田市長はNHKの取材に対し、「これまでの平和交流が今回の総理訪問の地ならしとなったのではないか。交流に携わってきた市民を代表して、その瞬間を見届けたい」と話していました。

1023名無しさん:2016/12/31(土) 11:07:52
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822301000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_034
まもなく日米首脳会談 真珠湾慰霊へ
12月28日 4時01分

ハワイを訪れている安倍総理大臣は、まもなくオバマ大統領との日米首脳会談に臨み、この4年間で、さまざな分野で日米の協力が深まってきたとしてさらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致するものと見られます。首脳会談のあと、安倍総理大臣はオバマ大統領とともに、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊し、不戦の誓いと日米の和解の価値を強調する所感を発表することにしています。
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の28日午前4時前から、旧日本軍の真珠湾攻撃の資料などを展示している「真珠湾ビジターセンター」を視察に訪れています。

安倍総理大臣は、まもなく、アメリカ太平洋軍の基地で、来月任期を終えるオバマ大統領との最後の日米首脳会談に臨むことにしています。

この中で、安倍総理大臣は、この4年間の双方の取り組みを通じて、安全保障や経済など、さまざな分野で日米の協力が深まってきたことなどを総括したうえで、北朝鮮の核開発や中国の海洋進出などを念頭に、日米同盟の重要性を確認することにしています。

そのうえで、会談では、日米同盟は、自由、民主主義、法の支配などの基本的価値を共有する国々との連携を強化する土台となるとして、さらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致するものと見られます。

首脳会談のあと、安倍総理大臣は、オバマ大統領とともに、真珠湾を訪れ、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館を訪れて献花し、犠牲者を慰霊することにしています。

戦後、日本の総理大臣が、真珠湾を訪れたことはありますがアメリカの大統領とともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するのは初めてのことになります。

そして、安倍総理大臣とオバマ大統領は、真珠湾を望むキロふ頭で、所感を発表することにしています。

所感の中で、安倍総理大臣は、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという、未来に向けた不戦の決意と、かつて敵国だった日本とアメリカの和解の価値を強調し、強固な同盟関係を内外に示したい考えです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822331000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_033
日米首脳会談開始 真珠湾慰霊へ
12月28日 5時01分
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、オバマ大統領との日米首脳会談に臨んでいて、この4年間で、さまざな分野で日米の協力が深まってきたとしてさらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致するものと見られます。首脳会談のあと、安倍総理大臣はオバマ大統領とともに、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊し、不戦の誓いと日米の和解の価値を強調する所感を発表することにしています。
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の28日午前4時前から、旧日本軍の真珠湾攻撃の資料などを展示している「真珠湾ビジターセンター」を視察しました。

このあと安倍総理大臣は、午前5時前からアメリカ太平洋軍の基地で、来月任期を終えるオバマ大統領との最後の日米首脳会談に臨んでいます。

この中で、安倍総理大臣は、この4年間の双方の取り組みを通じて、安全保障や経済など、さまざな分野で日米の協力が深まってきたことなどを総括したうえで、北朝鮮の核開発や中国の海洋進出などを念頭に、日米同盟の重要性を確認したものと見られます。

そのうえで、安倍総理大臣は、日米同盟は、自由、民主主義、法の支配などの基本的価値を共有する国々との連携を強化する土台だとして、さらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致するものと見られます。

首脳会談のあと、安倍総理大臣は、オバマ大統領とともに、真珠湾を訪れ、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館を訪れて献花し、犠牲者を慰霊することにしています。

戦後、日本の総理大臣が、真珠湾を訪れたことはありますがアメリカの大統領とともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するのは初めてのことになります。

そして安倍総理大臣とオバマ大統領は、真珠湾を望むキロふ頭で、所感を発表することにしています。

所感の中で、安倍総理大臣は、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという、未来に向けた不戦の決意と、かつて敵国だった日本とアメリカの和解の価値を強調し、強固な同盟関係を内外に示したい考えです。

1024名無しさん:2016/12/31(土) 11:08:49
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822311000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_031
真珠湾慰霊 米メディア「歴史的な訪問」
12月28日 5時07分

安倍総理大臣がアメリカのオバマ大統領とともに旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、アメリカの主要メディアは、「歴史的な訪問」だと伝えています。
このうち有力紙の「ワシントン・ポスト」は、27日付けの紙面で、「安倍総理大臣は、真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの上で慰霊を行う初めての日本の総理大臣になる」と紹介しています。

そのうえで、「安倍総理大臣はオバマ大統領が広島を訪れた際、原爆投下について謝罪しなかったように日本の奇襲攻撃を謝罪する予定は無いが、戦争を繰り返さないという決意を示すことになる」と今回の訪問の意義を伝えています。

また、有力紙の「ニューヨーク・タイムズ」は、27日の電子版で、安倍総理大臣が海洋進出を進める中国を念頭に日米の関係強化を重視してきたとして、「今回の訪問はその象徴的な仕上げとなるはずだ」と伝えています。

一方で、「両国の関係強化のアプローチはこれまでになく試されている」として、TPP=環太平洋パートナーシップ協定からの離脱などを掲げるトランプ次期大統領の就任で日米関係の先行きに不透明感も漂っていると指摘しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822351000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_030
日米首脳会談終了 真珠湾で慰霊 所感発表へ
12月28日 6時34分

ハワイを訪れている安倍総理大臣は、オバマ大統領との日米首脳会談を終え、オバマ大統領とともに、真珠湾攻撃の犠牲者を追悼する施設で献花し黙とうをささげ、犠牲者を慰霊しました。両首脳は、真珠湾を一望できるキロふ頭で、このあと所感を発表することにしていて、この中で、安倍総理大臣は、不戦の誓いと日米の和解の価値を強調することにしています。
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の28日午前4時前から、旧日本軍の真珠湾攻撃の資料などを展示している「真珠湾ビジターセンター」を視察しました。

このあと安倍総理大臣は、午前5時前から、アメリカ太平洋軍の基地で、来月任期を終えるオバマ大統領との最後の日米首脳会談に臨みました。この中で、両首脳は、この4年間の双方の取り組みを通じて、安全保障や経済など、さまざな分野で日米の協力が深まってきたことなどを総括したうえで、北朝鮮の核開発や中国の海洋進出などを念頭に、日米同盟の重要性を確認したものと見られます。そのうえで、日米同盟は、自由、民主主義、法の支配などの基本的価値を共有する国々との連携を強化する土台だとして、さらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致したものと見られます。

首脳会談を終えた安倍総理大臣はオバマ大統領とともに、真珠湾を訪れ、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館を訪れ、献花し黙とうをささげ、犠牲者を慰霊しました。その後、両首脳は、記念館内に設けられた吹き抜けから戦艦アリゾナに向けて花びらを海面にまき、再び、黙とうしました。戦後、日本の総理大臣が真珠湾を訪れたことはありますがアメリカの大統領とともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するのは初めてのことになります。

両首脳は、このあと真珠湾を一望できるキロふ頭で、所感を発表することにしています。所感の中で、安倍総理大臣は、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという、未来に向けた不戦の決意と、かつて敵国だった日本とアメリカの和解の価値を強調し、強固な同盟関係を内外に示したい考えです。

1025名無しさん:2016/12/31(土) 11:09:43
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822371000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_029
安倍首相所感「和解の力」全文
12月28日 7時26分

安倍総理大臣の所感の全文です。
オバマ大統領、ハリス司令官、ご列席の皆さま、そして、すべての、アメリカ国民の皆さま。
パールハーバー、真珠湾に、いま私は、日本国総理大臣として立っています。
耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。
降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い、静かな入り江。
私のうしろ、海の上の、白い、アリゾナ・メモリアル。
あの、慰霊の場を、オバマ大統領とともに訪れました。
そこは、私に、沈黙をうながす場所でした。
亡くなった、軍人たちの名が、しるされています。
祖国を守る崇高な任務のため、カリフォルニア、ミシガン、ニューヨーク、テキサス、さまざまな地から来て、乗り組んでいた兵士たちが、あの日、爆撃が戦艦アリゾナを二つに切り裂いたとき、紅蓮の炎の中で、死んでいった。
75年が経ったいまも、海底に横たわるアリゾナには、数知れぬ兵士たちが眠っています。
耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と、波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。
あの日、日曜の朝の、明るく寛いだ、弾む会話の声。自分の未来を、そして夢を語り合う、若い兵士たちの声。最後の瞬間、愛する人の名を叫ぶ声。
生まれてくる子の、幸せを祈る声。
一人、ひとりの兵士に、その身を案じる母がいて、父がいた。
愛する妻や、恋人がいた。
成長を楽しみにしている、子どもたちがいたでしょう。
それら、すべての思いが断たれてしまった。
その厳粛な事実を思うとき、私は、言葉を失います。
その御霊よ、安らかなれー。
思いを込め、私は日本国民を代表して、兵士たちが眠る海に、花を投じました。

***

オバマ大統領、アメリカ国民の皆さん、世界の、さまざまな国の皆さま。
私は日本国総理大臣として、この地で命を落とした人々の御霊に、ここから始まった戦いが奪った、すべての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった、数知れぬ、無辜の民の魂に、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。
私たちは、そう誓いました。
そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。
戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、アメリカ国民の皆さまに、世界の人々に、固い、その決意を、日本国総理大臣として、表明いたします。

***

昨日、私は、カネオへの海兵隊基地に、一人の日本帝国海軍士官の碑(いしぶみ)を訪れました。
その人物とは、真珠湾攻撃中に被弾し、母艦に帰るのをあきらめ、引き返し、戦死した、戦闘機パイロット、飯田房太中佐です。
彼の墜落地点に碑を建てたのは、日本人ではありません。
攻撃を受けた側にいた、米軍の人々です。
死者の、勇気を称え、石碑を建ててくれた。
碑には、祖国のため命を捧げた軍人への敬意を込め、「日本帝国海軍大尉」と、当時の階級を刻んであります。

The brave respect the brave.
「勇者は、勇者を敬う」

アンブローズ・ビアスの、詩(うた)は言います。
戦い合った敵であっても、敬意を表する。
憎しみ合った敵であっても、理解しようとする。
そこにあるのは、アメリカ国民の、寛容の心です。
戦争が終わり、日本が、見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました。
皆さんが送ってくれたセーターで、ミルクで、日本人は、未来へと、命をつなぐことができました。
そして米国は、日本が、戦後再び、国際社会へと復帰する道を開いてくれた。
米国のリーダーシップの下、自由世界の一員として、私たちは、平和と繁栄を享受することができました。
敵として熾烈に戦った、私たち日本人に差しのべられた、こうした皆さんの善意と支援の手、その大いなる寛容の心は、祖父たち、母たちの胸に深く刻まれています。
私たちも、覚えています。
子や、孫たちも語り継ぎ、決して忘れることはないでしょう。

***

オバマ大統領とともに訪れた、ワシントンのリンカーン・メモリアル。
その壁に刻まれた言葉が、私の心に去来します。

「誰に対しても、悪意を抱かず、慈悲の心で向き合う」。
「永続する平和を、われわれすべてのあいだに打ち立て、大切に守る任務を、やりとげる」。

エイブラハム・リンカーン大統領の、言葉です。
私は日本国民を代表し、米国が、世界が、日本に示してくれた寛容に、改めて、ここに、心からの感謝を申し上げます。

***

1026名無しさん:2016/12/31(土) 11:09:54
>>1025

あの「パールハーバー」から75年。
歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く、強く結ばれた同盟国となりました。
それは、いままでにもまして、世界を覆う幾多の困難に、ともに立ち向かう同盟です。
明日を拓く、「希望の同盟」です。
私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした、the power of reconciliation、「和解の力」です。
私が、ここパールハーバーで、オバマ大統領とともに、世界の人々に対して訴えたいもの。
それは、この、和解の力です。
戦争の惨禍は、いまだに世界から消えない。
憎悪が憎悪を招く連鎖は、なくなろうとしない。
寛容の心、和解の力を、世界はいま、いまこそ、必要としています。
憎悪を消し去り、共通の価値のもと、友情と、信頼を育てた日米は、いま、いまこそ、寛容の大切さと、和解の力を、世界に向かって訴え続けていく、任務を帯びています。
日本と米国の同盟は、だからこそ「希望の同盟」なのです。

***

私たちを見守ってくれている入り江は、どこまでも静かです。パールハーバー。
真珠の輝きに満ちた、この美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。
私たち日本人の子どもたち、そしてオバマ大統領、皆さんアメリカ人の子どもたちが、またその子どもたち、孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれる事を私は願います。
そのための努力を、私たちはこれからも、惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに、固く、誓います。
ありがとうございました。

1027名無しさん:2016/12/31(土) 11:12:20
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822401000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_026
安倍首相 真珠湾での慰霊終え帰国の途に
12月28日 8時43分
ハワイを訪れていた安倍総理大臣は、旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊や、来月、任期を終えるオバマ大統領との最後の日米首脳会談など、一連の日程を終え、政府専用機で帰国の途につきました。
今月26日に日本を出発し、ハワイを訪れていた安倍総理大臣は、日本時間の28日朝早く、来月、任期を終えるオバマ大統領との最後の日米首脳会談に臨み、日米同盟の重要性を確認し、さらに関係強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致しました。

このあと、安倍総理大臣は、オバマ大統領とともに真珠湾を訪れ、旧日本軍による攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館で献花し、黙とうをささげ、犠牲者を慰霊しました。続いて、安倍総理大臣は、真珠湾に面した「キロふ頭」で、不戦の誓いや日米の和解の意義を強調した所感を発表しました。

一連の日程を終えた安倍総理大臣は、日本時間の午前8時すぎ、政府専用機でハワイを出発し、帰国の途につきました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822381000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_028
オバマ大統領「総理の所感は和解の力示す歴史的行為」
12月28日 7時30分

アメリカのオバマ大統領は、日本時間の28日朝、ハワイの真珠湾で安倍総理大臣とともに、旧日本軍による攻撃の犠牲者を慰霊したあと、所感を述べ、「安倍総理大臣の所感は和解の力を示す歴史的な行為だ」と述べて日米同盟がアジア太平洋と世界の発展を推進してきたと強調しました。
オバマ大統領は安倍総理大臣とともにハワイで真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊したあと、安倍総理大臣に続いて、およそ15分間にわたって、所感を表明しました。

この中でオバマ大統領は、「安倍総理大臣の所感は和解の力を示す歴史的な行為だ」と述べて安倍総理大臣の発言に感謝するとともに、日米両国が戦争による深い傷を乗りこえ、強固な同盟関係を築いたことを強調しました。

そのうえで「最も厳しい敵対関係にあったものでも、最も強い同盟関係を結ぶことができる。平和の果実は、戦争による略奪をはるかに上回る。これが真珠湾の揺るぎない事実だ」と述べました。

そして、「同盟は、新たな世界大戦を防ぎ、国際秩序の強化に貢献している」と述べ、日米両国が戦後、利益と価値を共有することで、アジア太平洋と世界の発展に貢献してきたと強調しました。

そのうえで、オバマ大統領は「国家や国民はみずから引き継ぐ歴史を選ぶことはできない。しかし私たちは歴史から教訓を学んで将来を描くことは可能だ。報復よりも和解がより多くの果実をもたらすというメッセージを世界に送りたい」と述べて、所感を締めくくりました。

任期終了まで、残り1か月足らずとなったオバマ大統領は、安倍総理大臣の今回のホノルル訪問を通して、みずからの8年間の任期中、強化に努めてきた日米同盟の価値について、世界に発信したいとしていました。

アメリカでは、来月20日に就任するトランプ氏次期大統領が、TPP=環太平洋パートナーシップ協定からの離脱を就任初日に表明すると明言したり、選挙期間中には、在日アメリカ軍の駐留経費の負担増額を訴えたりしていて、新政権のもとでの日米関係の行方が今後の焦点となっています。

1028名無しさん:2016/12/31(土) 11:12:38
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822391000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_027
安倍首相 所感発表 不戦の誓いと和解の意義強調
12月28日 7時35分

ハワイを訪れている安倍総理大臣は、オバマ大統領とともに、旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を追悼する施設を訪れ、献花し黙とうをささげました。このあと安倍総理大臣は所感を発表し、不戦の誓いを堅持していく決意を表明したうえで、日米の和解の意義を強調し、世界の平和と安定にアメリカと協力して取り組んでいく考えを示しました。
ハワイを訪れている安倍総理大臣は日本時間の28日朝早く、来月任期を終えるアメリカのオバマ大統領との日米首脳会談に臨んだあと、そろって太平洋戦争の発端となった、75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼する「アリゾナ記念館」を訪れ、献花して黙とうをささげました。

そして安倍総理大臣は、オバマ大統領とともに真珠湾を一望できるキロふ頭で、太平洋戦争をアメリカ軍の一員として戦った日系人などを前に所感を発表しました。

この中で、安倍総理大臣は、真珠湾攻撃を振り返ったうえで、「私は日本国総理大臣として、この地で命を落とした人々のみ霊に、ここから始まった戦いが奪った、すべての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった数知れぬ無辜(むこ)の民の魂に、永劫の哀悼の誠を捧げます」と述べました。

そのうえで、安倍総理大臣は、「戦争の惨禍は二度と繰り返してはならない。私たちは、そう誓い、ひたすら不戦の誓いを貫いてまいりました。この不動の方針をこれからも貫いてまいります。この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、アメリカ国民の皆様に、世界の人々に、固いその決意を、日本国総理大臣として表明いたします」と述べました。

また、安倍総理大臣は、「あの『パールハーバー』から75年。歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな深く、強く結ばれた同盟国となりました。それは、今までにも増して世界を覆う幾多の困難に、ともに立ち向かう同盟です。明日を拓く『希望の同盟』です。私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした『和解の力』です」と述べました。

そして、安倍総理大臣は、「戦争の惨禍はいまだに世界から消えない。寛容の心、和解の力を世界は今こそ必要としています。憎悪を消し去り、共通の価値のもと、友情と信頼を育てた日米は、今こそ寛容の大切さと和解の力を世界に向かって訴え続けていく任務を帯びています。そのための努力を、私たちはこれからも、惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに固く、誓います」と述べ、世界の平和と安定にアメリカと協力して取り組んでいく考えを示しました。
元日系人部隊兵士「すばらしい」
真珠湾攻撃の後、アメリカへの忠誠心を示すために志願して日系人部隊に入隊したハワイ出身で日系2世のハーバート・ヤナムラさん(92)は、会場に招待されて両首脳の所感を聞きました。
今回の安倍総理大臣の所感についてヤナムラさんは、「すでに友好関係を築いている日本とアメリカは、この関係を永久に続ける努力をすべきだということを訴えていたのだと思う。とてもすばらしいことだ」と歓迎しました。そのうえで「大事なのは戦争が始まった理由ではなく、二度と戦争を起こさないこと。謝罪は不要で、友好関係を続けていくことこそ重要だ」と話していました。

1029名無しさん:2016/12/31(土) 11:12:49
>>1028

米軍元兵士「とても満足」
所感の発表が終わったあと、安倍総理大臣とオバマ大統領は最前列で聞いていた真珠湾攻撃を経験した3人の元アメリカ軍兵士に歩み寄りました。
安倍総理大臣は座っている3人に対してにこやかな表情を浮かべて、しゃがみ込み1人ずつ握手をしながら語りかけました。
その後、3人の元兵士1人ずつと抱擁を交わしました。さらにそのほかの出席者と挨拶をした後、再び3人に歩み寄り最後に握手をして会場を後にしました。

このうちアルフレッド・ロドリゲスさんは「期待以上の所感で、私はとても満足だ。安倍総理大臣は私のところに歩み寄って抱擁し『ありがとう』と言った。安倍総理大臣は謝罪する必要はない。最高の人物だ」と述べました。

また、スターリング・ケールさんは「この場に招待されてとても幸せな気分だ。安倍総理大臣と抱擁を交わすとは思いもしなかった。オバマ大統領にも会えて感謝している」と話していました。そのうえで「安倍総理大臣は謝罪する必要はない。献花が謝罪のメッセージであり安倍総理大臣は何も言う必要はない」と述べました。
元捕虜遺族「所感は力強く意義深かった」
また会場には、太平洋戦争中にフィリピンで旧日本軍の捕虜となった元アメリカ兵の家族などで作る団体も招待されました。
団体の会長で元捕虜の娘のジャン・トンプソンさんは「安倍総理大臣の所感は非常に力強く意義深いものだった。歴史的な日だ」と述べました。そのうえで「私は父親がこの日をどう思うか考えていた。定かではないが、父親は所感を聞いて心が安らかになったと思いたい」と述べました。また、「安倍総理大臣が謝罪しなかったことで失望し、憤りを感じる退役軍人もいるかもしれないが、安倍総理大臣が真珠湾を訪れたことが非常に重要だ」と述べました。

1030名無しさん:2016/12/31(土) 11:45:46
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822551000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_024
真珠湾慰霊 官房長官「和解の力を世界に示した」
12月28日 12時06分

安倍総理大臣がアメリカのオバマ大統領とともに旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊し、所感を述べたことについて、菅官房長官は、記者会見で、「今回の訪問で、二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないとの、未来に向けた新たな決意を示すとともに、かつて敵国として戦った日米両国を、戦後、価値を共有する同盟国へと変容させた日米の和解の力を世界に示すことができた。日米の同盟関係をさらに強化し、アジア太平洋地域、さらには、国際社会の平和と繁栄に貢献していきたい」と述べました。
また、菅官房長官は、今後の日米関係について、「安倍総理大臣は、トランプ次期大統領とすでに会談を行い、日米同盟の重要性を確認しており、トランプ政権が発足しても、日米同盟は変わらない」と述べました。
さらに、菅官房長官は、記者団が、「安倍総理大臣の所感などで、先の大戦への謝罪の表現は盛り込まれていないが」と質問したのに対し、「今回の真珠湾訪問は、戦没者への慰霊のためであり、謝罪のためではない。平和で安全な世界の実現を目指して、現実的で着実な努力を積み重ねていくことが極めて重要であり、今後とも、アメリカと協力して、世界の平和と安定に貢献していくということをしっかりと伝えられた」と述べました。
自民 二階幹事長「歴史に残る立派な演説」
自民党の二階幹事長は、記者団に対し、安倍総理大臣の所感について、「真摯(しんし)な態度で不戦の誓いを心の底から述べ、戦争の犠牲となった人に、日本国民を代表して思いを伝えた、大変感銘深い、歴史に残る立派な演説だった。オバマ大統領との合意に基づいて、真珠湾という歴史上、特殊な場所で、お互いにそれぞれの国に思いやりを示しながら、懸命に訴えたことは非常によかった」と述べました。
公明 山口代表「未来に向けて不戦の決意を」
公明党の山口代表は記者団に対し、「アメリカと激しい戦争を行った国が、寛容や和解の精神を示し、その意義を国際社会に発信したことは重要で、画期的だ。過去の歴史的な評価はいろいろ意見があるかもしれないが、そこにこだわっていることは生産的ではなく、人間が再び愚かな行為に至らないよう、未来に向けて不戦の決意をしっかりと固めることが大事だ。アメリカの次の政権も、これまで両国が築いてきた基軸を大切にしながら、世界に向けて役割を果たしていくべきだ」と述べました。

1031名無しさん:2016/12/31(土) 11:45:56
>>1030

民進 蓮舫代表「意義あるが引っかかることある」
民進党の蓮舫代表は党の仕事納めで「安倍総理大臣とオバマ大統領がそろって真珠湾で不戦の誓いを語ったことは大変大きな意義があるが、引っかかっていることが1つだけある。安倍総理大臣は不戦の誓いを言いながら、なぜ、憲法解釈を変えて安保法制に突き進んだのかということだ。世界で最も必要とされているのは、日本が中心となって平和への道を進めていくことだ。民進党は平和を基軸にしっかりと足を踏みしめて国際平和を作り上げていきたい」と述べました。
共産 志位委員長 反省なければ和解なし
共産党の志位委員長は、「日本の総理大臣が真珠湾を訪問するのであれば、アメリカ国民に対してだけでなく、アジアの諸国民や日本国民に甚大な惨害をもたらしたアジア・太平洋戦争に真摯に向き合い、この戦争をどう認識し、どう反省しているかを語るべきだった。過去の日本の戦争を『間違った戦争』と決して認めようとしない反省なき外交では、世界とアジアの諸国民との真の意味での和解と友好を築くことはできない」などとする談話を発表しました。
維新 松井代表 「未来志向で世界平和に貢献を」
日本維新の会の松井代表は、大阪市内で記者団に対し、「当時を知るアメリカの高齢者の皆さんは、今回の訪問を高く評価していると思う。長年の日米同盟の中でも小骨が刺さっていたというのが現実で、それを取り払うことができたと思う。これから未来志向で日米が同盟を深化させながら、世界の平和に貢献してもらいたい」と述べました。
社民 又市幹事長「具体的な中身は軍事面だ」
社民党の又市幹事長は、党の仕事納めで、「日本が真珠湾攻撃や侵略戦争に乗り出していったことに対する真摯な反省と謝罪が求められていたが、安倍総理大臣の演説は、そういう方向のものではなかった。日米同盟を『希望の同盟』と大きく打ち出しているが、具体的な中身は軍事面だ。『国際紛争を解決する手段として武力行使はしない』と誓った日本国憲法に基づく理念を世界に発信すべきであり、非常に残念な印象を持った」と述べました。
こころ 中野幹事長「歴史的に意義深い」
日本のこころを大切にする党の中野幹事長は、「かつて死力を尽くして戦った敵同士が、和解の努力を重ね、今や最も親密な同盟関係を構築した姿を全世界に示したことは、歴史的に大変意義深く、高く評価したい。今回の安倍総理大臣の真珠湾訪問により、今後、日米両国が、同盟関係をあらゆる面でさらに深化させ、アジア太平洋地域と世界の平和と発展に一層貢献していくことを期待する」などとする談話を発表しました。

1032名無しさん:2016/12/31(土) 11:47:25
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822431000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_025
日米首脳会談 さらなる同盟強化の必要性で一致
12月28日 9時59分
安倍総理大臣は、ハワイで、来月、任期を終えるアメリカのオバマ大統領との最後の首脳会談に臨み、日米同盟は、法の支配などの基本的価値を共有する国々との連携を強化する土台だとして、さらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致しました。
会談の冒頭、安倍総理大臣は、「この4年間、オバマ大統領とともに努力し、日米同盟は、経済、安全保障、人的交流を含む幅広い分野で協力が深化したことを感謝する」と述べたうえで、ことし5月のオバマ大統領の広島訪問を高く評価する考えを伝えました。

これに対し、オバマ大統領は、「地域と国際社会のために貢献するという共通の目標のために協力できたことをうれしく思う。日米同盟がこれまで以上に盤石となることを期待している」と応じました。

そして、両首脳は、日米同盟は、自由、民主主義、法の支配などの基本的価値を共有する国々との連携を強化する土台であり、さらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致しました。

さらに、安倍総理大臣は、オバマ大統領がアメリカの大統領として初めて沖縄県の尖閣諸島に日米安全保障条約が適用されると明言したことは力強いメッセージだとして、評価する考えを伝えました。
そして、両首脳は、中国海軍の空母が初めて太平洋に進出したことについて、「注視すべき動向だ」として、海洋の自由を確保するため、インドやオーストラリアなども含めた同盟のネットワークを広げることが重要だという認識で一致しました。

また、安倍総理大臣は、TPP=環太平洋パートナーシップ協定について、「自由貿易を後退させてはならない」と述べ、トランプ新政権に対しても、協定の発効に向けて、粘り強く働きかけていく考えを伝え、オバマ大統領も、TPPの推進に引き続き努力する考えを示しました。

一方、安倍総理大臣は、先に、沖縄県でアメリカ軍の新型輸送機オスプレイが不時着して大破した事故に対する遺憾の意を伝え、さらなる安全確保や情報提供を求めました。

また、沖縄県最大のアメリカ軍の演習場・北部訓練場のうち、半分以上が日本側に返還されたことは、沖縄の負担軽減に大きく貢献するものだと評価するとともに、普天間基地の移設に向けて工事を再開したことを伝えました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822721000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_020
新潟 長岡市長 ホノルル市との平和交流の意義強調
12月28日 14時24分

日本時間の28日朝に行われた日米両首脳によるハワイの真珠湾訪問で、ホノルル市と姉妹都市である新潟県長岡市の磯田達伸市長が日本の地方自治体で唯一立ち会い、磯田市長はNHKの取材に対し、ホノルル市と続けてきた平和交流の意義を強調しました。
真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官、山本五十六の出身地である新潟県長岡市は、ハワイのホノルル市との間で平和交流を続けていて、磯田市長が今回の真珠湾訪問に日本の地方自治体で唯一招待を受けて立ち会いました。

磯田市長は28日午前、NHKの電話取材に応じ、安倍総理大臣が所感で日米の和解の意義を強調したことについて、「過去の傷つけ合った歴史を互いにこえて友好関係を築こうという長岡市民の思いと重なる。現地の関係者からは『これまでの長岡の取り組みが今回の訪問につながった』という言葉も受けた。市民とともに率直に喜びたい」と述べました。そのうえで、磯田市長は「自治体どうしの濃密な交流が国どうしの関係の根底にあると思う。長岡市は今後も、青少年の交流を中心に未来に平和を伝え続けていきたい」と述べました。

1033名無しさん:2016/12/31(土) 11:48:32
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010823161000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_017
安倍首相 真珠湾慰霊など終え帰国
12月28日 18時06分
ハワイを訪れていた安倍総理大臣は、真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊や、不戦の誓いや日米の和解の意義を強調する所感の発表などを終え、午後6時前、政府専用機で帰国しました。
安倍総理大臣は、日本時間の28日未明、訪問先のハワイで、来月退任するオバマ大統領との最後の日米首脳会談に臨み、日米同盟の重要性を確認し、さらに関係強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致しました。

そして安倍総理大臣は、オバマ大統領とともに真珠湾を訪れ、旧日本軍による攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館で犠牲者を慰霊したのに続いて、所感を発表し、不戦の誓いや日米の和解の意義を強調しました。

ハワイでの日程を終えた安倍総理大臣は、午後6時前、政府専用機で羽田空港に到着しました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822171000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_032
慰安婦問題 日韓合意から1年
12月28日 5時04分

慰安婦問題をめぐる日韓両政府の合意から、28日で1年です。韓国では、合意に基づく元慰安婦への支援事業が進む一方で、政治状況が混乱する中、合意への批判の声も上がっており日本政府は、合意を着実に履行するよう引き続き働きかけていく方針です。
慰安婦問題をめぐっては、去年12月の日韓外相会談で、韓国政府が設置する財団に日本政府が、10億円を拠出し、元慰安婦への支援事業を行うことなどで合意し、この問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認しました。

この合意に基づいて、韓国政府が設立した財団は、支援事業として元慰安婦への現金の支給を進めていて、財団によりますと、合意の時点で生存していた元慰安婦46人のうち、これまでに34人が合意を受け入れる意向を示したということです。

一方で、韓国では、パク・クネ(朴槿恵)大統領の弾劾をめぐり国内の政治状況が混乱する中、次の大統領選挙への立候補が有力視される野党の議員らからは「パク大統領の代表的な失政だ」として、合意への批判の声も上がっています。

さらに、日本政府が求めている、ソウルの日本大使館前にある慰安婦を象徴する少女像の撤去は依然としてめどがたっていません。

こうした現状について、政府内からは、選挙の結果しだいでは合意が履行されなくなるおそれがあると指摘する声も出ています。

菅官房長官は、27日の記者会見で、「日韓それぞれが責任を持って合意を実行していくことが極めて重要だ。着実な実施のために韓国政府と連携していきたい」と述べました。

日本政府は、合意の履行が滞れば、日韓関係にも影響が及びかねないとして、引き続き、合意を着実に履行するよう韓国側に働きかけていく方針です。

1034名無しさん:2016/12/31(土) 11:50:02
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822791000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_019
今村復興相 靖国神社を参拝
12月28日 14時48分

今村復興大臣は、28日午後、東京・九段の靖国神社に参拝しました。
今村復興大臣は、28日午後1時ごろ、東京・九段の靖国神社を訪れ、本殿の手前の拝殿で、さい銭を入れて深く頭を下げ、一般の参拝者と変わらない方法で参拝しました。記帳などはせず、本殿にも上がりませんでした。
このあと今村大臣は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れて、戦没者の霊をなぐさめました。

今村大臣は記者団に対し、「1年間の仕事のご報告と感謝、そして、わが国の安寧と繁栄を祈念した。一日本国民として、一国会議員として、一閣僚としての立ち場だ」と述べ、さい銭はポケットマネーで支払ったと説明しました。

また今村大臣は、記者団が安倍総理大臣の真珠湾訪問との関連性を質問したのに対し、「たまたま重なっただけで何かの偶然かと思う。御用納めという1つの区切りだから、きょう参拝したので、総理と直接は関係ない」と述べました。
今村大臣は、大臣に就任した直後のことし8月にも靖国神社に参拝しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161229/k10010823861000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_014
稲田防衛相 きょう靖国神社に参拝へ
12月29日 6時35分

稲田防衛大臣は29日午前、防衛大臣に就任してから初めて、東京・九段の靖国神社に参拝することになりました。
稲田防衛大臣は例年、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が主権を回復した4月28日と、終戦の日の8月15日に、みずからが会長を務める党の議員グループとともに東京・九段の靖国神社に参拝しており、行政改革担当大臣や自民党の政務調査会長を務めていた時も参拝しました。

一方で、稲田大臣は、ことし8月に防衛大臣に就任したあとは、13日からアフリカのジブチを訪れ、ソマリア沖の海賊対策のために派遣されている海上自衛隊の部隊を視察していたことから、終戦の日の参拝は行われませんでした。こうした中、稲田大臣は29日午前、防衛大臣に就任してから初めて、靖国神社に参拝することになりました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161230/k10010824541000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_006
稲田防衛相の靖国参拝 米「和解への取り組み望む」
12月30日 5時33分
稲田防衛大臣が29日、靖国神社に参拝したことについてアメリカ国務省の当局者は「アメリカは歴史問題に関してすべての当事者の癒やしと和解につながる取り組みの重要性を強調し続けている」と述べ、日本政府が歴史認識をめぐって和解に向けた取り組みを続けるよう望む考えを示しました。
稲田防衛大臣は安倍総理大臣とともにハワイを訪れ、現地時間の今月27日に行われたアメリカのオバマ大統領との、真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊に立ち会ったのに続いて29日、防衛大臣に就任してから初めて靖国神社に参拝しました。

これについてアメリカ国務省の当局者は29日、NHKの取材に対して「アメリカは歴史問題に関してすべての当事者の癒やしと和解につながる取り組みの重要性を強調し続けている」と述べ、日本政府が歴史認識をめぐって和解に向けた取り組みを続けるよう望む考えを示しました。

一方、アメリカの有力紙ウォール・ストリート・ジャーナルは29日の電子版で「真珠湾での慰霊を終えて帰国したあとに、近隣諸国から『軍国主義の過去を美化する場所』と見られている神社に参拝した」と批判的なトーンで伝えています。

1035名無しさん:2017/01/01(日) 08:23:20
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122900566&amp;g=pol
慰安婦合意「維持望む」=韓国首相

 【ソウル時事】韓国の朴槿恵大統領の代行を務める黄教安首相は29日、韓国の記者団に対し、昨年末に交わされた慰安婦をめぐる日韓合意について「国家間の協議を経て決定された。維持されるのが望ましい」と語った。聯合ニュースが伝えた。
 日韓合意をめぐっては、韓国野党から見直しを求める声が強まっている。だが、黄首相は「再交渉を求めても日本が応じないだろう」と見直しの可能性を否定。「すべての国民が願う合意になるのが一番だが、相手がいることで容易ではない」と指摘し、「さらに良い合意とは、どんなものか」と問い返す場面もあったという。(2016/12/29-21:08)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800480&amp;g=pol
和解の新たな一章に=真珠湾訪問、「謝罪なし」指摘も-米メディア

 【ワシントン時事】米主要メディアは27日、安倍晋三首相の真珠湾訪問について、「犠牲者への哀悼の意を示した」(CNNテレビ)、「日米和解の新たな一章となった」(ニューヨーク・タイムズ紙電子版)とおおむね好意的に伝えた。一方で「真珠湾攻撃への謝罪はなかった」とも報じた。
 28日付のニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ウォール・ストリート・ジャーナルの3紙は、安倍首相とオバマ米大統領が追悼施設「アリゾナ記念館」で慰霊する写真を1面に掲載した。
 ロサンゼルス・タイムズ紙(電子版)は「オバマ大統領と安倍首相が真珠湾に花をささげたのは、75年前の日本の攻撃に対する憎しみを鎮めるための象徴的行動だった」と評価した。ケネディ駐日米大使は、ABCテレビに「(首相の訪問は)両国にとって歴史的な瞬間だ」と意義を強調した。
 ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)は、安倍首相が真珠湾で行った演説全文の英訳を掲載。今回の訪問への注目の大きさを示した。
 一方、ロサンゼルス・タイムズ紙は、日米同盟の重要性を訴え、「自分たちと異なる人々を悪者扱いする欲求に、立ち向かわなければならない」などと語ったオバマ大統領の演説に言及。同盟関係を軽視したり、移民や少数派に激しい言葉を用いたりしてきたトランプ次期大統領に「警鐘を鳴らした」と指摘した。(2016/12/29-00:57)

1036名無しさん:2017/01/01(日) 08:23:31
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122900489&amp;g=pol
稲田氏、政治信条を優先=遠のく中韓との防衛交流-靖国参拝

 稲田朋美防衛相が靖国神社を参拝した。中韓両国への配慮から、就任直後の終戦記念日の参拝は見送ったものの年内参拝にはこだわりを示し、保守的な自身の政治信条を優先させた格好だ。中韓両政府は早速反発。北朝鮮の核・ミサイル開発への対応で不可欠な日韓防衛協力や中国との政治対話に支障が出れば、国益を損ねたとの批判を招く可能性もある。
 稲田氏は今年8月の防衛相就任後、靖国参拝に関し「心の問題だ。安倍内閣の一員として適切に判断し、行動する」と言い続けてきた。例年、8月15日の終戦記念日など歴史の節目に、自民党保守系議員の「伝統と創造の会」会長として参拝。今年の終戦記念日は海外視察の日程を入れ、参拝できない状況を自らつくったが、周辺によると年内参拝に意欲を示していたという。
 韓国政府は国内世論の根強い批判にもかかわらず、日本との間で11月に軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を締結しただけに、冷や水を浴びせられた形だ。協定締結を後押ししたのは、来年末までの核の弾頭化を目指しているとされる北朝鮮の脅威。協定運用に及ぼす影響について、日本の防衛省幹部は「計り知れない」と指摘した。
 中国軍空母の西太平洋進出が初めて明らかになるなど、同国が軍事力を誇示する中、自衛隊と中国軍の偶発的衝突を防ぐ海空連絡メカニズム構築も急務だが、防衛当局間で進む協議にも影響が出かねない。稲田氏は就任後5カ月近くたっても、中韓の国防相と会談するめどは立っておらず、両国との防衛交流は一段と遠のきそうだ。(2016/12/29-17:54)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122900071&amp;g=pol
稲田氏が靖国参拝=防衛相初、対中韓で影響も

 稲田朋美防衛相は29日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。防衛省によると、2007年1月の省昇格後、防衛相の靖国参拝は初めてで、担当閣僚としては02年8月15日の中谷元・防衛庁長官以来とみられる。中国、韓国両政府は稲田氏の対応を批判。北朝鮮の核・ミサイル開発をにらんだ韓国との防衛協力や、中国との防衛交流にも影響しそうだ。

 参拝後、稲田氏は記者団に「今の平和な日本は祖国のために命をささげられた方々の尊い命の積み重ねの上にある。未来志向に立ってしっかりと日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝した」と説明した。「防衛大臣 稲田朋美」と記帳し、玉串料は私費で支払ったという。
 稲田氏は安倍晋三首相の米ハワイ・真珠湾訪問に同行し、28日に帰国したばかり。稲田氏はこのことに触れ、「最もし烈に戦った日本と米国が今や最も強い同盟関係にある。真珠湾訪問も報告してきた」と語った。
 自衛隊の統率を含む防衛政策の担当閣僚が靖国神社を参拝したことで、安倍政権の右傾化を警戒する中韓両国を刺激したのは間違いない。特に、北朝鮮が核実験や弾道ミサイル発射など挑発行為を繰り返す中、急務となっている韓国との連携強化に支障を来す恐れもある。
 これに関し、稲田氏は「いかなる歴史観に立とうとも、祖国のために命をささげた方々に対し、感謝と敬意と追悼の意を表するのはどの国でも理解していただけるものだ」と主張した。稲田氏の靖国参拝について、首相は神奈川県茅ケ崎市で「ノーコメントだ」と記者団に述べた。
 弁護士出身の稲田氏は保守的な政治信条で知られ、例年8月15日の終戦記念日などに合わせて靖国神社を参拝してきた。就任直後の今年は、アフリカ北東部のジブチでの自衛隊部隊視察を理由に参拝を見送っていた。(2016/12/29-17:36)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122900468&amp;g=pol
靖国参拝、断固反対=日本政府に抗議へ-中国

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は29日の記者会見で、稲田朋美防衛相が靖国神社を参拝したことについて、「断固として反対する」と述べた上で、日本政府に抗議する考えを示した。
 華氏は「日本の侵略の歴史を美化する靖国神社を参拝したことは、日本の一部の人物の頑固な誤った歴史観を反映している。真珠湾(訪問)の『和解の旅』を大いなる皮肉にした」と批判した。
 さらに、「侵略の歴史を正視し、深く反省し、歴史と未来に責任を負う態度で適切に対応するよう、日本の指導者に促す」と語った。(2016/12/29-17:21)

1037名無しさん:2017/01/01(日) 09:22:38
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016123000124&amp;g=pol
相次ぐ日本の首相交代に困惑=サッチャー政権外交文書-英

 【ロンドン時事】1980年代、英国のサッチャー政権関係者が、目まぐるしい日本の首相交代に困惑していたことが、30日解禁の英外交文書で明らかになった。79〜90年の長期政権を担ったサッチャー氏の在任中、日本では大平正芳氏から海部俊樹氏まで6人が首相を務めている。
 文書は89年9月20日付で、同月訪日したサッチャー首相に同行した外交顧問が作成した。
 文書は、東京で行われた海部首相(当時)との会談を「とても友好的だった」と評価する一方、海部氏が関税など2国間の重要課題でサッチャー氏と話し合いを持った「4人目の日本の首相」であることに2度にわたり言及。交渉相手が頻繁に交代するのは「われわれ(日英)の関係(構築)にとって悩みの種だ」と記した。
 文書はまた、サッチャー氏が海部氏について「誠実で真面目、善意的だが、どちらかというと軽量(な人物)だという印象を持った」と報告している。(2016/12/30-09:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016123000005&amp;g=pol
稲田防衛相の靖国参拝、慎重な対応求める=米

 【ワシントン時事】米国務省当局者は29日、稲田朋美防衛相の靖国神社参拝について「われわれは歴史問題には癒やしと和解を促進して取り組むことが重要だと強調し続ける」と述べ、慎重な対応を求めた。閣僚の靖国訪問でコメントを出すのは異例。
 米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は、安倍晋三首相に同行した真珠湾での慰霊から帰国した後に、「近隣諸国から軍国主義の過去を美化すると見なされている神社を訪問した」と批判的に報じた。(2016/12/30-00:56)

1038名無しさん:2017/01/01(日) 11:35:20
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161226-00010001-nishinpc-soci
「真珠湾」通告遅れは意図的か 対米開戦に新説 九大教授が米記録発見
西日本新聞 2016/12/26(月) 10:29配信

 太平洋戦争の開戦通告が遅れたのは、ワシントンの在米日本大使館の怠慢だったとする通説を覆し、日本外務省が意図的に電報発信を遅らせたことが原因とする説が浮上している。九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が、通告の訂正電報を外務省が13〜14時間遅らせて発信していた記録を、米国公文書館(メリーランド州)で発見した。開戦から75年。安倍晋三首相がハワイ・真珠湾を訪問するが、通告の遅れに関する真相究明が進んでいる。

 日本が日米交渉の打ち切りを米国に伝えた「対米覚書」が、開戦通告と位置付けられている。

 三輪教授が発見したのは、覚書の一部である二つの電報の発信記録。外務省が大使館に発信し、米海軍が傍受したもので、1941年12月7日の「午前0時20分」と「午前1時32分」(いずれも米東部時間)とある。この電報の存在と時刻が何を意味するのか。

電報は14部に分けて発信
 旧日本軍が真珠湾攻撃を開始したのは、同7日午後1時19分。覚書が当時のハル米国務長官に手渡されたのは1時間後の午後2時20分だった。この遅れが、米国から「だまし討ち」と批判される原因となった。

 覚書は、外務省が発信した暗号電報を大使館が解読し、英文に直してタイプライターで作成した。長文のため、電報は14部に分けて発信された。

 1〜13部は同6日午前8時〜11時25分に発信されており、内容はこれまでの日米交渉を確認するにとどまる。交渉を打ち切るという「結論」は14部で初めて分かるが、ぎりぎりまで機密を保持するため、13部から約15時間後の7日午前2時38分に発信された。

二つの訂正電報が出されるまで13〜14時間の「空白」
 現在の通説はこうだ。大使館は6日中に13部までをタイプライターで清書し、7日朝に14部を追加すれば開戦前に通告できたはず。しかし、大使館は7日朝から1〜14部の清書を始めたため、間に合わなかった。6日夜に大使館内で送別会があっていたことなどから、大使館の「怠慢」が通告遅れを招いた-。

 だが、三輪教授は、元外務省ニュージーランド大使の井口武夫氏が2008年の著書で触れた訂正電報の存在に注目した。当時、大使館の1等書記官だった奥村勝蔵氏が、1945年に「夜半までに13通が出そろったが、後の訂正電信を待ちあぐんでいた」と陳述していた。

 三輪教授は、大使館が1〜13部の「訂正電報」を待っていたため、清書ができなかったとする仮説を立てた。訂正が175字に上っていたことも外交資料で分かった。当時のタイプライターは途中で挿入や訂正ができない。大使館は「訂正電報」が届くまで清書ができなかったのではないか。

 発見した二つの電報は、他の電報の詳細と突き合わせた結果、「訂正電報の可能性が極めて高く、奥村証言を裏付ける証拠」と三輪教授は読む。13部が発信された6日午前11時半から、二つの訂正電報が出されるまで13〜14時間の「空白」がある。この間、大使館は清書ができない。

 これが事実とすれば、では何のために、外務省は訂正電報を遅らせたのか。

=2016/12/26付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞社

1039名無しさん:2017/01/01(日) 12:12:24
http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/25/story_n_13854564.html
安倍首相へオリバー・ストーン監督ら公開質問状「日本が攻撃したのは真珠湾だけではない」【全文】
The Huffington Post | 執筆者: ハフィントンポスト編集部
投稿日: 2016年12月26日 10時48分 JST 更新: 2016年12月26日 10時53分 JST SHINZO ABE

安倍晋三首相がハワイの真珠湾訪問するのを前に、日米の歴史学者ら約50人が12月25日、首相宛てに歴史認識を問いただす公開質問状を発表した。真珠湾だけでなく、中国や朝鮮半島、アジア諸国の戦争犠牲者の慰霊に行く予定があるかなどと質問している。共同通信などが報じた。

質問状を出したのは、映画監督オリバー・ストーン氏や、米プリンストン大学のリチャード・フォーク名誉教授(国際法)、アメリカン大学の歴史学の教授で核問題研究所長のピーター・カズニック氏、哲学者で東大教授の高橋哲哉氏、 放射線防護学者で立命館大学名誉教授の安斎育郎氏(平和学)ら53名。

質問状は、1941年12月8日に日本が攻撃した場所について、「真珠湾だけではありません」と指摘。安倍首相は真珠湾攻撃で死亡した約2400人のアメリカ人の慰霊のために訪問することを挙げ、「それなら、中国や、朝鮮半島、他のアジア太平洋諸国、他の連合国における数千万にも上る戦争被害者の『慰霊』にも行く予定はありますか」などと尋ねている。

また、安倍首相が2013年に国会で、「侵略の定義は定まっていない」と答弁したことにも言及。「連合国およびアジア太平洋諸国に対する戦争と、すでに続行していた対中戦争を侵略戦争とは認めないということでしょうか」と問いただした。

以下に、公開質問状の全文を紹介する。

1040名無しさん:2017/01/01(日) 12:12:45
>>1039

真珠湾訪問にあたっての安倍首相への公開質問状
2016年12月25日
親愛なる安倍首相、
安倍首相は先日、1941年12月8日(日本時間)に日本海軍が米国の海軍基地を攻撃した際の「犠牲者を慰霊する」目的で、12月末にハワイの真珠湾を訪問する計画を発表しました。
実際のところ、その日に日本が攻撃した場所は真珠湾だけではありませんでした。その約1時間前には日本陸軍はマレー半島の北東沿岸を攻撃、同日にはアジア太平洋地域の他の幾つかの英米の植民地や基地を攻撃しています。日本は、中国に対する侵略戦争を続行するために不可欠な石油や他の資源を東南アジアに求めてこれらの攻撃を開始したのです。
米日の開戦の場所をあなたが公式に訪問するのが初めてであることからも、私たちは以下の質問をしたく思います。
1) あなたは、1994年末に、日本の侵略戦争を反省する国会決議に対抗する目的で結成された「終戦五十周年議員連盟」の事務局長代理を務めていました。その結成趣意書には、日本の200万余の戦没者が「日本の自存自衛とアジアの平和」のために命を捧げたとあります。この連盟の1995年4月13日の運動方針では、終戦50周年を記念する国会決議に謝罪や不戦の誓いを入れることを拒否しています。1995年6月8日の声明では、与党の決議案が「侵略的行為」や「植民地支配」を認めていることから賛成できないと表明しています。安倍首相、あなたは今でもこの戦争についてこのような認識をお持ちですか。
2) 2013年4月23日の国会答弁では、首相として「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と答弁しています。ということは、あなたは、連合国およびアジア太平洋諸国に対する戦争と、すでに続行していた対中戦争を侵略戦争とは認めないということでしょうか。
3) あなたは、真珠湾攻撃で亡くなった約2400人の米国人の「慰霊」のために訪問するということです。それなら、中国や、朝鮮半島、他のアジア太平洋諸国、他の連合国における数千万にも上る戦争被害者の「慰霊」にも行く予定はありますか。
首相としてあなたは、憲法9条を再解釈あるいは改定して自衛隊に海外のどこでも戦争ができるようにすることを推進してきました。これがアジア太平洋戦争において日本に被害を受けた国々にどのような合図として映るのか、考えてみてください。

1041名無しさん:2017/01/01(日) 12:13:13
>>1040

1. Ikuro Anzai, Professor Emeritus, Ritsumeikan University 安斎育郎、立命館大学名誉教授
2. Herbert P. Bix, emeritus professor of history and sociology, Binghamton University, SUNY ハーバート・P・ビックス、ニューヨーク州立大学ビンガムトン校歴史学・社会学名誉教授
3. Peter van den Dungen, Formerly, Lecturer in Peace Studies, University of Bradford, UK, and general coordinator of the International Network of Museums for Peace ピーター・バン・デン・デュンゲン、元ブラッドフォード大学(英国)平和学教員、世界平和博物館ネットワーク総括コーディネーター
4. Alexis Dudden, Professor of History, University of Connecticut アレクシス・ダディン、コネチカット大学歴史学教授
5. Richard Falk, Albert G. Professor of International Law and Practice, Emeritus, Princeton University リチャード・フォーク、プリンストン大学国際法名誉教授
6. John Feffer, Director, Foreign Policy In Focus, ジョン・フェッファー、「フォーリン・ポリシー・イン・フォーカス」ディレクター
7. Norma Field, Professor emerita, University of Chicago ノーマ・フィールド、シカゴ大学名誉教授
8. Kay Fischer, Instructor, Ethnic Studies, Chabot Collegeケイ・フィッシャー、シャボット・カレッジ(カリフォルニア州)講師
9. Atsushi Fujioka, Emeritus Professor, Ritsumeikan University 藤岡惇、立命館大学名誉教授
10. Joseph Gerson (PhD), Vice-President, International Peace Bureau ジョセフ・ガーソン、国際平和ビューロー副会長
11. Geoffrey C. Gunn, Emeritus, Nagasaki University ジェフリー・C・ガン、長崎大学名誉教授
12. Kyung Hee Ha, Assistant Professor, Meiji University 河庚希、明治大学特任講師
13. Laura Hein, Professor, Northwestern University ローラ・ハイン、ノースウェスタン大学教授(米国シカゴ)
14. Hirofumi Hayashi, Professor, Kanto Gakuin University 林博史、関東学院大学教授
15. Katsuya Hirano, Associate Professor of History, UCLA平野克弥、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授
16. IKEDA Eriko, Chair of the Board, Women's Active Museum on War and Peace(wam) 池田恵理子 アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)館長
17. Masaie Ishihara, Professor Emeritus Okinawa International University 石原昌家、沖縄国際大学名誉教授
18. Paul Jobin, Associate Research Fellow, Academia Sinica, Institute of Sociology
ポール・ジョバン 台湾国立中央研究院社会学研究所 アソシエート・リサーチ・フェロー
19. John Junkerman, Documentary Filmmaker ジャン・ユンカーマン、ドキュメンタリー映画監督
20. Nan Kim, Associate Professor, University of Wisconsin-Milwaukee ナン・キム(金永蘭)、ウィスコンシン大学ミルウォーキー校准教授
21. KIM Puja, Professor of Gender History, Tokyo University of Foreign Studies金 富子、ジェンダー史、東京外国語大学教授
22. Akira Kimura, Professor, Kagoshima University 木村朗、鹿児島大学教授
23. Tomomi Kinukawa, Instructor, San Francisco State University絹川知美、サンフランシスコ州立大学講師
24. Peter Kuznick, Professor of History, American University ピーター・カズニック、アメリカン大学歴史学教授
25. Kwon, Heok-Tae, Professor, Sungkonghoe University, Korea 権赫泰(クォン・ヒョクテ)、韓国・聖公会大学教授

1042名無しさん:2017/01/01(日) 12:13:23
>>1041

26. Lee Kyeong-Ju, Professor, Inha University (Korea) 李京柱、仁荷大学教授
27. Miho Kim Lee, Co-founder of Eclipse Rising ミホ・キム・リー、「エクリプス・ライジング」共同創立者
28. Lim Jie-Hyun, Professor of transnational history, director of Critical Global Studies Institute, Sogang University 林志弦(イム・ジヒョン)、西江大学教授(韓国)
29. Akira Maeda, Professor, Tokyo Zokei University 前田 朗、東京造形大学教授
30. Janice Matsumura, Associate Professor of History, Simon Fraser University, Canada ジャニス・マツムラ、サイモンフレイザー大学(カナダ)歴史学准教授
31. Tanya Maus, PhD, Director, Wilmington College Peace Resource Center, Wilmington, Ohio タニア・マウス、ウィルミントン大学(オハイオ州)平和資料センターディレクター
32. David McNeill, Adjunct Professor, Sophia University デイビッド・マクニール、上智大学非常勤講師
33. Gavan McCormack, Emeritus Professor, Australian National University ガバン・マコーマック、オーストラリア国立大学名誉教授
34. Katherine Muzik, Ph.D., marine biologist, Kauai Island キャサリン・ミュージック、海洋生物学者(ハワイ・カウアイ島)
35. Koichi Nakano, Professor, Sophia University 中野晃一、上智大学教授
36. NAKANO Toshio, Professor Emeritus, Tokyo University of Foreign Studies中野敏男、社会理論・社会思想、東京外国語大学名誉教授
37. Narusawa Muneo, Editor, Weekly Kinyobi, 成澤宗男、『週刊金曜日』編集部
38. Satoko Oka Norimatsu, Editor, Asia-Pacific Journal: Japan Focus 乗松聡子、『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』エディター
39. John Price, Professor of History, University of Victoria, Canada ジョン・プライス、ビクトリア大学(カナダ)歴史学教授
40. Steve Rabson, Professor Emeritus, Brown University (U.S.A.) Veteran, United States Armyスティーブ・ラブソン、ブラウン大学(米国)名誉教授 米国陸軍退役軍人
41. Sonia Ryang, Director, Chao Center for Asian Studies, Rice University ソニア・リャン、ライス大学(テキサス州)チャオ・アジア研究センターディレクター
42. Daiyo Sawada, Emeritus Professor, University of Alberta ダイヨウ・サワダ、アルバータ大学名誉教授
43. Mark Selden, Senior Research Associate, East Asia Program, Cornell University マーク・セルダン、コーネル大学東アジア研究プログラム上級研究員
44. Oliver Stone, Academy Award-Winning Filmmaker オリバー・ストーン、アカデミー賞受賞映画監督
45. Tetsuya Takahashi, Professor, University of Tokyo 高橋哲哉、東京大学教授
46. Nobuyoshi Takashima, Professor Emeritus, the University of Ryukyus 高嶋伸欣、琉球大学名誉教授
47. Akiko Takenaka, Associate Professor of Japanese History, University of Kentucky竹中晶子、ケンタッキー大学准教授
48. Wesley Ueunten, Associate Professor, Asian American Studies Department, San Francisco State University ウェスリー・ウエウンテン、サンフランシスコ州立大学アジア・アメリカ研究学部准教授
49. Aiko Utsumi, Professor Emeritus, Keisen University内海愛子、恵泉女学園大学名誉教授
50. Shue Tuck Wong, Professor Emeritus, Simon Fraser University シュエ・タク・ウォング、サイモンフレーザー大学(カナダ)名誉教授
51. Yi Wu, Assistant Professor, Department of Sociology and Anthropology, Clemson University イー・ウー、クレムゾン大学社会学・人類学部助教授
52. Tomomi Yamaguchi, Associate Professor of Anthropology, Montana State University 山口智美、モンタナ州立大学人類学准教授
53. Lisa Yoneyama, Professor, University of Toronto リサ・ヨネヤマ、トロント大学教授
**********************************************************
Those whose signatures arrived after we released the letter. 発表後に署名が届いた人たちをここに記します(到着順)
Jenny Chan 陳慧玲, Assistant Professor of Sociology and China Studies, Department of Applied Social Sciences, The Hong Kong Polytechnic University 
Matthew Penny, Associate Professor, Concordia University (Canada)
 
(Peace Philosophy Centre: オリバー・ストーン監督、米日韓加中英豪沖台の専門家など53名 真珠湾訪問に際し安倍首相の歴史認識を問う Oliver Stone and internatonal scholars and activists send an Open Letter to Prime Minister Abe on the eve of his Pearl Harbor visitより 2016/12/25)

1043とはずがたり:2017/01/03(火) 09:22:17
奈良の空襲をググってたら引っ掛かった。

☆米軍は京都の文化財を守ってくれたのに、何故日本軍は残虐なことをしたのですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1138917786

messihoukou_1944さん2010/4/215:25:00
☆米軍は京都の文化財を守ってくれたのに、何故日本軍は残虐なことをしたのですか?

補足
http://jig111.mobile.ogk.yahoo.co.jp/fweb/0312zvPQUO8mYCI6/0?_jig_=...

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fuji_mikasaさん 2010/4/809:38:31
京都は、関西の他の都市を爆撃したB29が京都上空で爆弾を捨てた時の被害は受けましたが、『本格的な空襲』は受けていません。その理由は
「空襲の順番が回ってこなかったから」
です。

アメリカ軍は、日本の各都市を分析して「空襲の優先順位」を設定しておりました。その優先順位に従って空襲を行ったので、昭和20年8月15日までに空襲の順番が来なかった都市は、ある程度大きな都市でも空襲を免れました。
非常に運が悪い都市は、昭和20年8月14日の夜に「最後の空襲」を受けて市街地の74%が焼失した埼玉県の熊谷市です。
アメリカ軍のリスト上の順番が一つ違えば、空襲を受けずに済んだと思われます。

『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』 (朝日文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/402261353X/

に、その「アメリカ軍が作った空襲の優先順位リスト」が載っております。

さて、文化財がたくさんある京都市や奈良市は、「人口は比較的多いが、軍事的に重要でない」と判定されて、このリストの下位に位置していたので、空襲を免れました。

よく言われる「京都や奈良は、文化財の焼失を恐れる親日家の学者の努力で空襲を免れた」という話が、根拠がないことも上記の本で論証されています。

上記の本には
「京都や奈良の空襲を防いだとされる親日家の学者は、実際にはアメリカ軍の依頼に応じて 『日本が降伏したら、日本から賠償金代わりに持ち去ることが出来る文化財のリスト』を作っていた。かなり杜撰なリストで、持ち去ることが不可能なもの、既に存在しないものも入っていた」
というオチも書いてあります。

1044名無しさん:2017/01/07(土) 15:25:23
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170106-00000076-yonh-kr
日本との慰安婦合意交渉文書 一部公開命じる判決=韓国裁判所
聯合ニュース 1/6(金) 17:33配信

【ソウル聯合ニュース】韓国の弁護士団体「民主社会のための弁護士会」の宋基昊(ソン・ギホ)弁護士が外交部を相手取り、旧日本軍の慰安婦問題をめぐる2015年末の韓日合意の交渉に関する文書の一部を公開するよう求めた訴訟で、ソウル行政裁判所行政6部は6日、文書を公開するよう言い渡した。

 判決が確定する場合、外交部は日本との交渉で日本軍と官憲の強制連行を認めるかどうかを協議した文書を公開しなければならない。第1〜12回の局長級協議の全文などが該当する。

 判決は「情報公開法の目的は国民の知る権利を保障し、国政運営の透明性を確保するためのもの」とした上で、「慰安婦被害者問題は被害者個人では決して消し切れない人間の尊厳性侵害、身体自由の剥奪という問題であり、韓国国民の慰安婦被害者を守れず、しっかり面倒をみられなかったことへの意識、もしくは責任感の問題で、事案の重要性が大きい」と指摘。「慰安婦合意でこの問題が最終的・不可逆的に解決されるのなら、被害者だけでなく韓国の国民は日本政府がいかなる理由で謝罪と支援をするのか、その合意過程がどのような方法で行われたかを知る必要がある」とした。

 また、「日本は慰安婦合意に至る過程で、韓日外交当局の過去の協議内容を詳しく紹介し、外交慣行に反した前例もある」とも指摘した。これは韓国政府だけが非公開にする必要はないとの意味に受け止められる。

 宋弁護士は両国が合意の発表で「軍の関与」との用語を選択し、その意味を協議した文書、「性奴隷」「日本軍慰安婦」などの用語使用について協議した文書まで公開するよう求めていたが、裁判を進める中で争点を強制連行を認めるかどうかについて協議した文書に絞った。

 一方、同団体が大統領秘書室長を相手取り、朴槿恵(パク・クネ)大統領と安倍晋三首相の電話会談の内容を公開するよう求めた訴訟で、ソウル行政裁判所行政1部は「外交的、政治的な攻防の対象になる憂慮が大きく、今後の他国との首脳会談でも韓国政府の信頼性にとって大きなダメージとなり、外交交渉力が弱まりかねない」として棄却した。

1045名無しさん:2017/01/07(土) 15:26:24
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170106-00000040-cnippou-kr
釜山少女像、韓日外交戦に飛び火…日本が超強硬対応
中央日報日本語版 1/6(金) 13:48配信

日本政府が6日、釜山(プサン)の日本総領事館前に設置された旧日本軍慰安婦少女像に対する抗議の表示として在韓日本大使と釜山総領事を「一時帰国」させることにした。これに対し韓国政府は直ちに遺憾を表明した。釜山少女像問題が韓日外交戦に飛び火した。

日本政府は「釜山少女像」設置に対する「即刻対抗措置」として長嶺安政駐韓国大使と森本康敬釜山総領事を一時帰国させる一方、釜山総領事館職員の釜山市関連行事参加を見合わせることにした。また日本政府は韓国政府と進めてきた通貨スワップ交渉の中断を宣言し、韓日高官級経済協議も延期すると発表した。

日本側が釜山総領事館前の少女像設置に超強硬対応措置を取ったことで、韓日関係の悪化を警戒する韓国外交当局の悩みも深まる見込みだ。韓国政府はこの日、外交部報道官の論評を通じて「政府は日本政府が在釜山日本総領事館前の少女像に関連して今日閣議で決めた措置について非常に遺憾に思う」と明らかにした。また「政府は両国間に難しい問題があっても両国政府間の信頼関係を基礎に韓日関係を持続的に発展させていくべきだという点を改めて強調する」と述べた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170106-00000049-reut-bus_all
日韓通貨スワップ協議中断、麻生財務相「信頼ないと安定しない」
ロイター 1/6(金) 12:35配信

[東京 6日 ロイター] - 麻生太郎財務相は6日の閣議後会見で、日本政府が協議の中断を表明した日韓通貨スワップに関し、「信頼関係を作った上でやらないとなかなか安定しない」との見方を示した。

これに先立って記者会見した菅義偉官房長官は、韓国の市民団体が釜山市にある日本の総領事館に面した歩道に従軍慰安婦を象徴する少女像を設置したことを受け、日韓通貨スワップ協議の中断などを韓国側に伝えたと明らかにした。

麻生財務相はこれまでの協議の経緯を踏まえ、まずは両国の信頼関係構築が必要と強調。「当面の措置として官房長官からの談話の発表があった。中断することにしたというのは間違いない」と語った。

一方、米国のトランプ次期大統領がトヨタ自動車のメキシコ工場建設を巡って、自身のツイッターで批判したことについては、「北米自由貿易協定(NAFTA)の合意の中での話」とし「それをどういわれても、こちらとしてはどうしようもない」と明言を避けた。

その上で、トヨタが米国内でも工場を展開していることにも触れ「(トヨタは米国でも)大きな雇用を抱えてやっている」と述べた。

麻生財務相はまた、20日から始まる通常国会では「予算の成立に全力を挙げたい。早期成立が一番の景気対策になると確信している」と強調。

アベノミクスで円安・株高が進んだことなどを念頭に「これまでやってきた経済政策は間違っていなかった」と指摘した。

1046名無しさん:2017/01/07(土) 15:29:35
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20170106-00000062-nnn-pol
慰安婦像設置への対抗措置、その背景は…
日本テレビ系(NNN) 1/6(金) 18:59配信
 韓国・釜山の日本総領事館前に先月、慰安婦像が設置された問題をめぐり、菅官房長官は6日、長嶺駐韓国大使の一時帰国などの対抗措置を取ることを発表した。国会記者会館から青山和弘記者がその背景を解説する。

■なぜ政府は今回、厳しい対抗措置に踏み切ったのか

 一言で言えば、「面目が立たない」ということ。一昨年の慰安婦問題をめぐる日韓合意の際、安倍首相は冷え切った日韓関係を改善するため自らを支持する保守層の反発も覚悟して合意を決断した。そして去年9月には韓国の財団に10億円を拠出している。

 ところが合意に反する形で新たに慰安婦像を設置されてしまっては「面目が立たない」。首相周辺は「我慢の限界だ」と話している。

■今後の展開は?

 政府・与党内には日韓関係はしばらく冷え込むのではとの懸念が出ている。自民党のある閣僚経験者は「振り上げた拳をどう下ろすのか。慰安婦像が撤去されるまでとなると時間がかかるのではないか」と話している。

 政府高官は「日本は別に何も困らない」と強気の姿勢も見せているが、北朝鮮への対応などで韓国との連携が求められる上、同盟国アメリカからは日韓合意への支持と同時に良好な関係を保つように要請されている。そうした中、韓国大使が不在という状況をいつまで続けるのか。

 日本政府は今後、難しい判断が迫られることになる。

1047名無しさん:2017/01/07(土) 22:30:57
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010400921&amp;g=pol
釜山少女像「極めて遺憾」=菅長官

 菅義偉官房長官は4日のBSフジの番組で、韓国南部・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置されたことについて「極めて遺憾だ。国際条約の中で国家としてしっかり対応してほしい」と述べ、韓国政府に善処を求めた。慰安婦をめぐる日韓合意にも触れ、「約束したことだから合意に基づいて努力することが極めて大事なことだ」と指摘した。(2017/01/04-23:16)

1048名無しさん:2017/01/07(土) 22:52:54
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170103/k10010827541000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_072
明治元年から150年へ 文書のネット公開など検討
1月3日 4時41分

政府は、来年、平成30年に明治元年から150年を迎えることに合わせて、明治期の貴重な文書などをインターネットで公開することや、当時活躍した若者や女性らの伝記を出版することなどについて、検討を進めていく方針です。
政府は、来年、平成30年に明治元年から150年を迎えることから、明治時代の資料の収集や保存、それに各地で行われるイベントへの支援などの関連施策を検討していて、このほど関係府省庁でつくる連絡会議が基本的な考え方を取りまとめました。

この中では、立憲政治や議会政治の導入といった明治以降の歩みを次世代に残すほか、機会の平等や和魂洋才などの明治の精神に学び、さらに飛躍する国を目指すとしています。そして、明治期の貴重な文書や写真などの資料を収集・整理し、インターネットで公開するデジタルアーカイブ化を進めることや、明治期に日本各地で活躍した若者や女性、外国人の伝記を出版したり、明治にゆかりのある建築物を公開したりして、当時の文化遺産に触れる機会を充実させることなどを、施策の方向性として示しています。

政府は、これらの施策の実現に向けて、ことし夏の平成30年度予算案の概算要求を見据え、関係府省庁ごとに検討を進めていく方針です。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010830491000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_028
韓国の日本総領事館前の少女像撤去を要求 外務省杉山次官
1月6日 4時37分

外務省の杉山事務次官が韓国外務省のイム・ソンナム第1次官と会談し、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことについて、「到底許容できない」として直ちに撤去するよう強く求めました。
アメリカを訪れている外務省の杉山事務次官は5日、首都ワシントンで韓国外務省のイム・ソンナム第1次官と会談しました。この中で杉山次官は、韓国プサンの日本総領事館の前に学生などでつくる団体が慰安婦問題を象徴する少女像を設置したことを取り上げました。

そして、「おととしの日韓合意で長年にわたる慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを両国で確認しているが、このようなことは合意の大切な基礎を韓国側が一方的に崩すことを意味しており、到底許容できない」と述べ、直ちに少女像を撤去するよう強く求めました。

これに対し、イム第1次官は、「韓国政府としても、おととしの合意を着実に履行していく立場に変わりはなく、申し入れの内容は確実に政府の責任者たちに伝達する」と述べたということです。このあと杉山次官は記者団に対し、「1時間余りの会談のほとんどを少女像の問題に費やした。引き続き韓国政府や関係自治体に強く申し入れていくつもりだ」と強調しました。

1049名無しさん:2017/01/07(土) 22:54:55
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010830651000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_025
韓国駐在の長嶺大使ら一時帰国へ 少女像設置で対抗措置
1月6日 11時28分

菅官房長官は閣議のあとの記者会見で、韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に、慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことは極めて遺憾だとして、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使らを一時帰国させることなどを発表しました。
この中で、菅官房長官は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことについて、「おととしの日韓合意では、慰安婦問題が最終的で不可逆的に解決されることを確認している。にもかかわらず少女像が設置されたことは、日韓関係に好ましくない影響を与えるとともに、ウィーン条約に規定する領事機関の威厳等を侵害するもので極めて遺憾だ」と述べました。

そのうえで、菅官房長官は、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使と森本プサン総領事の一時帰国、緊急時に通貨を融通しあう通貨スワップ協定の再開に向けた協議の中断、日韓ハイレベル経済協議の延期、それにプサン総領事館の職員による、プサン市関連行事への参加見合わせを発表しました。

そして、菅官房長官は「政府としては少女像を早急に撤去するよう、引き続き韓国政府や関係自治体に強く申し入れていく。引き続き韓国側に対し、少女像の問題を含め、日韓合意の着実な実施を求めていきたい」と述べたうえで、すでに対抗措置を講じることを韓国側に通報したことを明らかにしました。

また菅官房長官は、記者団が対抗措置をいつまで続けるのか質問したのに対し、「状況を総合的に判断して対応していきたい」と述べるとともに、「韓国はまさに隣国で極めて重要な国だ。そういう中で、今回このような措置をとらざるを得なかったのは極めて残念だが、そこはお互いに国と国として約束したことは履行してほしいという強い思いだ」と述べました。
石破氏 出たとこ勝負でない対応を
石破前地方創生担当大臣は東京都内で記者団に対し、「政府は、出たとこ勝負ではなくて、どういう収め方をしていくのか判断しながら対応しなければならない。日韓両国で、お互いに感情がエスカレートしていくことは決してよいことではなく、この地域の平和と安定のために何が一番大事で、北朝鮮を利することがないように何をすべきか、よくよく考える必要がある」と述べました。
大使の一時帰国は過去にも
外務省によりますと、抗議の意思を示すため、韓国に駐在している日本の大使を一時帰国させるのは、平成24年8月に、当時のイ・ミョンバク(李明博)大統領が島根県の竹島に上陸したことを受けて、当時の武藤大使を帰国させた時以来です。この時は10日余り、韓国に大使が不在となりました。

このほか、平成22年11月に、当時ロシアの大統領だったメドベージェフ氏が北方領土の国後島を訪問した際や、平成24年7月に、中国が沖縄県の尖閣諸島の周辺で領海侵入を繰り返した際にも、日本政府は、対応を協議するためなどとして、大使を一時帰国させました。

今回の対応について、外務省幹部は「日本がとった措置は強いものだが、韓国との扉を閉ざしたわけではなく、よい方向に向かうよう願っている」と話しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010830841000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_020
通貨スワップ協定の再開協議も中断 麻生氏「当面の措置」
1月6日 13時50分
韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことへの当面の対抗措置として、政府は、緊急時に通貨を融通しあう「通貨スワップ協定」の再開に向けた協議を中断することになりました。これについて麻生副総理兼財務大臣は、閣議のあとの会見で、「信頼関係をきちんと作った上でやらないとなかなか安定したものにならないので、当面の措置ということで理解している」と述べました。
日本と韓国は、金融市場が混乱し外貨の確保が困難になった場合などにドルなどの通貨を融通しあう通貨スワップ協定を2001年に結びました。両国の関係悪化などを背景におととし(2015年)2月に終了しましたが、去年8月、世界経済の先行きに不透明感が増しているとして、韓国側から協定の締結が提案され、日本としては協定の再開に向けて議論を始めることに合意していました。

1050名無しさん:2017/01/07(土) 23:07:07
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010831301000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_012
韓国 日本の大使呼び遺憾の意 少女像への対抗措置で
1月6日 19時05分

韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に、慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことに対する日本政府の措置について、韓国のユン・ビョンセ(尹炳世)外相は、韓国駐在の長嶺大使を呼んで会談し、遺憾の意を伝えました。
韓国南東部のプサンでは先月30日、日本総領事館の前に学生などで作る団体が慰安婦問題を象徴する少女像を設置し、日本政府は6日、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使らを一時帰国させ、緊急時に通貨を融通しあう通貨スワップ協定の再開に向けた協議を中断することなどを発表しました。

これを受けて、韓国のユン・ビョンセ外相は6日夕方、長嶺大使を韓国外務省に呼び、およそ1時間にわたって会談しました。

韓国外務省によりますと、会談でユン外相は、日本の対抗措置について遺憾の意を伝えたということです。
そのうえで、「両者は慰安婦合意を着実に履行していくという立場を再確認するとともに、両国関係を継続的に発展させていかなければならないという点で一致した」としています。

これに先立ち、韓国外務省のチョ・ジュンヒョク報道官は、「日本政府の措置は非常に遺憾だ」としたうえで、「両国間に困難な問題があったとしても信頼に基づいて継続して関係を発展させていかなければならないという点を改めて強調したい」と述べました。

また、企画財政省もコメントを発表して遺憾の意を示しましたが、その一方で「政治や外交に関係なく、経済と金融の分野での協力が継続されることを願っている」とも表明し、経済面に影響が及ばないことに期待をにじませました。
少女像設置した団体は
日本政府の対抗措置について、像を設置した団体がコメントを発表し、日本政府の対応を非難したうえで、「日本政府は慰安婦問題をはじめとする植民地支配と戦争犯罪について、公式な謝罪と法的な賠償を行わなければならない」と主張しました。
さらに、韓国政府に対しても「日本にあいまいな態度をとり続けるのならば、国民の怒りはさらに高まるだろう」として、慰安婦問題をめぐる日韓両政府の合意は見直すべきだと主張しました。
韓国メディアも詳しく報道
日本政府が発表した対抗措置について、韓国の各メディアもその内容を詳しく報道しています。
このうち、公共放送KBSは、午後5時からのニュースで、「日本政府が少女像の撤去を要求し、報復措置を発表した」としたうえで、東京から特派員が菅官房長官の記者会見の様子などを詳しく伝えました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170107/k10010831521000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_009
少女像撤去の見通し立たず 日韓関係悪化は不可避
1月7日 5時18分

政府は、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する大使を一時帰国させることなどを決めましたが、少女像が撤去される見通しは立っておらず、改善の流れにあった日韓関係が再び悪化するのは避けられない情勢です。
政府は、韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことに抗議し、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使らを一時帰国させることや、緊急時に通貨を融通し合う「通貨スワップ協定」の再開に向けた協議を中断することなどを決めました。

政府は「少女像の設置は、慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓両政府間の合意だけでなく、国際条約にも反している」として、韓国側に対し、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含めて、早期に撤去するよう求めていくことにしています。

菅官房長官は6日の記者会見で、「韓国はまさに隣国で極めて重要な国だ。今回、このような措置を取らざるをえなかったのは極めて残念だが、国と国として約束したことは履行してほしいという強い思いだ」と述べました。

政府としては、核実験や弾道ミサイルの発射を繰り返す北朝鮮に対応するためにも、日韓関係の悪化は避けたい考えで、防衛協力などは推進する方針です。

ただ、韓国のパク・クネ(朴槿恵)大統領の職務が停止されて求心力が低下する中、少女像が撤去される見通しは立っておらず、改善の流れにあった日韓関係が再び悪化するのは避けられない情勢です。

1051名無しさん:2017/01/08(日) 21:21:36
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600311&amp;g=pol
駐韓大使ら一時帰国へ=少女像設置へ対抗措置-政府

 菅義偉官房長官は6日午前の記者会見で、韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置されたことに関し、長嶺安政駐韓大使を一時帰国させるなどの対抗措置を講じると明らかにした。一昨年の日韓合意の精神に反するとして、異例の強い措置に踏み切った。

 菅長官は少女像設置について「日韓関係に好ましくない影響を与えるとともに、領事機関の威厳を侵害するもので極めて遺憾だ」と表明。当面の間、(1)長嶺大使、森本康敬釜山総領事の一時帰国(2)釜山総領事館職員の釜山市関連行事への参加見合わせ(3)日韓通貨スワップ(交換)協議の中断(4)日韓ハイレベル経済協議の延期-の四つの措置を取ると説明した。
 政府は6日までに、外交ルートで韓国側に伝達。措置をいつ解除するかについて、菅長官は「状況を総合的に判断する」と述べ、韓国政府の対応を注視する姿勢を示した。
 2015年12月の日韓合意では、ソウルの日本大使館前に設置された少女像に関し、「韓国政府は関連団体との協議を通じて適切に解決されるよう努力する」とされた。だが、その後、撤去などの動きは進まず、釜山の像についても韓国政府は積極的に阻止しなかった。日本政府高官は対抗措置について「日本の強い抗議の姿勢を示した」と語った。(2017/01/06-12:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600072&amp;g=pol
釜山少女像、即時撤去を=外務次官が韓国に要求

 【ワシントン時事】訪米中の杉山晋輔外務事務次官は5日、日米韓3カ国の次官協議に先立って韓国の林聖男外務第1次官とワシントンで会談し、韓国・釜山の日本領事館前に設置された慰安婦を象徴する少女像について「到底許容できない」と述べ、即時撤去するよう求めた。杉山次官が明らかにした。

 杉山次官は、慰安婦問題の最終解決をうたった2015年末の日韓合意に触れ、「日本は既に(合意に基づく)10億円の拠出を済ませ、ソウルの日本大使館前の少女像撤去について、韓国の努力を固唾をのんで見守っていた」と指摘。「そのような中での新たな像の建立は、韓国が大切な合意の基礎を一方的に崩すことを意味する。直ちに撤去すべきだ」と強調した。
 これに対し、林次官は「合意を着実に履行していく立場に変わりはない。申し入れの内容は確実に、中央政府の責任者に伝達する」と応じたという。
 杉山次官は林次官に、駐韓大使の一時帰国などの対抗措置も説明したとみられる。
 杉山次官はこの後、ブリンケン米国務副長官とも会談。杉山次官が「日韓合意に逆行することは建設的でない」との考えを示したのに対し、ブリンケン副長官は「合意が双方によって着実に履行されることを強く期待する」と語った。(2017/01/06-12:48)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600412&amp;g=pol
日韓関係、また冷却化へ=少女像撤去の見通し立たず

 【ソウル時事】韓国・釜山の日本総領事館前での少女像設置を受け、日本政府が6日、長嶺安政駐韓大使の一時帰国など対抗措置を発表したことで、2015年12月の慰安婦問題をめぐる政府間合意を機に好転するかに見えた日韓関係が再び冷却するのは避けられない見通しとなった。

 韓国外務省は同日、「大変遺憾に思う」との論評を発表。「両国間で難しい問題があっても、政府間の信頼関係を基に、日韓関係を引き続き発展させていかなければならない」と強調した。
 ただ、釜山の総領事館前の少女像をめぐっては、釜山市東区がいったん強制的に撤去したものの、市民からの激しい抗議を受けて、一転、設置を認めた経緯がある。このため、再び撤去するのは極めて困難で、見通しは立っていない。
 韓国外務省も論評の中で「難しい問題」があることは認めたものの、少女像問題への具体的な対応には触れなかった。
 慰安婦合意を主導した朴槿恵大統領は、国会の弾劾訴追案可決で職務停止に追い込まれている。野党は慰安婦合意の履行中断や再協議を求めており、日本の対抗措置に強く反発するのは必至だ。(2017/01/06-12:55)

1052名無しさん:2017/01/08(日) 21:24:30
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600406&amp;g=pol
少女像設置は「非建設的」=安倍首相-米副大統領、着実な履行期待

 安倍晋三首相は6日、バイデン米副大統領と電話で会談した。韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置されたことを念頭に、バイデン氏は「米政府として慰安婦問題に関する日韓合意を支持しており、着実に履行されることを強く期待する」と述べた。首相は「日韓両政府が責任を持って実施していくことが重要で、これに逆行することは建設的ではない」と応じた。

 首相は、日米同盟について「かつてないほど強固な希望の同盟だ」との認識を示した。昨年末の真珠湾訪問で「オバマ大統領とともに日米の和解の価値を世界に向けて発信できた」と強調した。(2017/01/06-13:18)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600697&amp;g=pol
韓国外相、日本大使に遺憾表明=少女像問題、次期政権に-関係停滞長期化も

 【ソウル時事】韓国南東部・釜山の日本総領事館前に少女像が設置された問題で、日本政府が長嶺安政大使の一時帰国など対抗措置を発表したことを受け、尹炳世外相は6日午後、長嶺大使を呼んで約1時間会談し、「遺憾の意」を表明した。尹外相と長嶺大使はまた、慰安婦問題に関する日韓合意を着実に履行していく立場を再確認した。

 日本政府は、少女像の設置が合意に反するだけでなく、外国公館の安全や権威維持をうたったウィーン条約にも違反しているとして、即時撤去を求めている。長嶺大使はこうした立場を伝えたとみられる。
 釜山の少女像に対し、韓国政府は撤去への具体的な措置を取れない状況だ。朴槿恵大統領の親友、崔順実被告の国政介入事件を受け、弾劾訴追案が可決され、職務停止となる中、ソウルの日本大使館前にある少女像を含め、問題解決は次期政権に持ち越される可能性が高い。勢いを増す野党は、合意の破棄を求めており、次期政権の対応次第では日韓関係が長期停滞局面に入る恐れもある。(2017/01/06-20:39)

1053名無しさん:2017/01/10(火) 22:18:36
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010700060&amp;g=pol
日韓合意、着実に履行を=釜山の少女像設置で-岸田外相

 【パリ時事】フランスを訪問中の岸田文雄外相は6日夜(日本時間7日午前)、韓国・釜山で慰安婦を象徴する新たな少女像が設置された問題について、慰安婦問題に関する2015年12月の日韓合意の履行を韓国側に求めていく考えを示した。パリで開かれた日仏外務・防衛担当閣僚協議(2プラス2)終了後、記者団に語った。
 日本政府は6日、長嶺安政駐韓大使を近く一時帰国させるなどの対抗措置を発表している。これに関し、外相は「こうした措置は残念だが、少女像の問題も含め日韓合意の着実な履行を求めていきたい」と述べた。
 外相は韓国について「重要な隣国であるという認識は変わらない」と指摘。その上で「日韓合意は多くの国が高く評価した。しっかり履行することが両国の大きな責任だ」と語り、韓国政府に責任ある対応を取るよう促した。(2017/01/07-08:07)

1054名無しさん:2017/01/14(土) 00:13:43
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011000004&amp;g=pol
10億円、日本に返還を=慰安婦合意で韓国野党幹部

 【ソウル時事】韓国最大野党「共に民主党」の禹相虎院内代表は9日の幹部会議で、慰安婦問題をめぐる合意に基づき日本政府が韓国の財団に拠出した10億円について「早期に返すべきだ」と述べた。「予算が足りないなら、国会で予備費を計上すればいい」と指摘した。

 安倍晋三首相は、釜山の日本総領事館前の少女像設置に関し、「日本は10億円の拠出を既に行った。次は韓国がしっかり誠意を示していただかなければならない」と述べたが、禹氏は10億円の拠出と少女像設置問題の関連付けに強く反発した格好だ。
 禹氏は「韓国が日本を相手に詐欺を働いたというような話まで出ている」と述べ、「韓国外相は抗議もできない。このような屈辱があろうか」と批判した。(2017/01/10-00:05)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011000377&amp;g=pol
韓国首相「言動自制を」=慰安婦問題の応酬過熱で

 【ソウル時事】韓国の朴槿恵大統領の職務を代行する黄教安首相は10日の閣議で、慰安婦問題について「状況悪化をもたらす言動は自制することが望ましい」と述べ、日韓双方に冷静な議論を呼び掛けた。釜山の日本総領事館前に設置された慰安婦を象徴する少女像をめぐり、日韓双方で応酬が過熱していることが念頭にあるとみられる。

 黄首相は2015年末の日韓合意に基づく事業では、被害者の名誉と尊厳回復、心の傷の癒やしが重要だと指摘。「両政府だけでなく、すべての利害当事者が合意の趣旨と精神を尊重し、努力することが必要だ」と訴えた。(2017/01/10-11:51)

1055名無しさん:2017/01/14(土) 00:13:53
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011000254&amp;g=pol
安倍首相、駐韓大使から報告聴取=釜山の少女像設置で協議

 安倍晋三首相は10日午前、首相官邸で、韓国・釜山の慰安婦問題を象徴する新たな少女像設置に抗議して一時帰国させた長嶺安政駐韓大使から報告を受けるとともに、今後の対応について協議した。

 これに先立ち、長嶺氏は菅義偉官房長官に報告した。菅氏はこの後の記者会見で、「(慰安婦問題に関する日韓)合意を責任を持って実施することが極めて重要だ。引き続き韓国政府に対し、合意の着実な実施を求めていく」と語った。
 日本政府は、ソウルの日本大使館前に続き、昨年末、釜山の日本総領事館前に少女像が設置されたことに「合意の精神に反する」と反発。長嶺氏らの一時帰国や通貨スワップ(交換)協議の中断など4項目の対抗措置を発表した。(2017/01/10-12:09)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010800156&amp;g=pol
駐韓大使ら、9日に一時帰国=釜山の少女像設置で対抗措置

 【ソウル時事】韓国・釜山の日本総領事館前に昨年末、慰安婦を象徴する少女像が新たに設置されたことを受け、長嶺安政駐韓大使と森本康敬釜山総領事は9日、日本に一時帰国する。日本の外務省が8日、発表した。
 長嶺大使と森本総領事の一時帰国は、釜山の少女像設置をめぐる日本政府による対抗措置の一つ。長嶺大使は日本に数日間滞在する見通しで、安倍晋三首相や岸田文雄外相に状況を報告し、今後の対応を協議するとみられる。
 日本政府は2012年8月、李明博大統領(当時)による竹島(韓国名・独島)上陸に抗議するため、武藤正敏駐韓大使(当時)を一時帰国させたことがある。当時、武藤氏の日本滞在は12日間に及んだ。
 ソウルの日本大使館前に続き、釜山の総領事館前に少女像が設置されたことを受け、日本政府は6日、駐韓大使や総領事の一時帰国のほか、通貨スワップ(交換)協議の中断、日韓ハイレベル経済協議の延期などの対抗措置を発表していた。(2017/01/08-19:50)

1056名無しさん:2017/01/14(土) 16:43:33
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170110/k10010833991000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_076
少女像設置 一時帰国の駐韓大使ら首相に報告 対応を協議
1月10日 11時57分

安倍総理大臣は、10日午前、総理大臣官邸で、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として一時帰国させた韓国駐在の長嶺大使らから韓国国内の現状の報告を受け、今後の対応などを協議しました。
韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことをめぐり、政府は、おととしの日韓両政府の合意に反するなどとして撤去を求めていますが、改善が図られないため対抗措置として、9日、韓国に駐在する長嶺大使と森本プサン総領事を一時帰国させました。

長嶺大使らは10日午前、外務省で杉山事務次官らと協議したあと、総理大臣官邸で、安倍総理大臣や菅官房長官と面会しました。
安倍総理大臣は、長嶺大使らから、少女像設置後の韓国政府の対応などの報告を受け、少女像の撤去に向けた今後の対応などを協議しました。

面会後、長嶺大使は記者団に対し、「内容について申し上げることはできないが、総理、官房長官にしっかりとご報告したということだ」と述べました。
また、同席した外務省幹部は「総理から指示があったが、内容は言えない」と述べました。

政府は、慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓合意に反するなどとして、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含めて撤去を求めており、韓国政府の対応も見ながら長嶺大使らを韓国に戻す時期などを決めることにしています。
官房長官「合意の着実な実施求める」
菅官房長官は閣議のあとの記者会見で「おととしの日韓合意では、慰安婦問題が最終的で不可逆的に解決をされると両政府で確認している。韓国政府も『合意を着実に実行していくという立場には変わりはない』としており、引き続き韓国側に対してこの慰安婦像の問題も含め、合意の着実な実施を求めていきたい」と述べました。

また、菅官房長官は長嶺大使らが韓国に戻る時期について「現時点では決まっているわけではなく、今後の諸状況を総合的に判断して検討していきたい」と述べました。

一方、菅官房長官は、韓国との関係について「極めて重要な同じ価値観を共有する国だと理解している。特に北朝鮮問題が厳しい中にあって、日米韓はしっかり連携して対応していく必要がある」と述べました。
防衛相「誠実に合意履行を」
稲田防衛大臣は閣議の後の記者会見で、「歴史的な日韓合意に反する行動には強く抗議し撤去を求めていく。日韓双方が誠実に合意を履行していくことが求められている」と述べました。そのうえで、稲田大臣は、「わが国と韓国は、ともにアメリカの同盟国として、東アジアの平和と安定に共通の利益を有している。長年の懸案であった、GSOMIA=安全保障上の機密情報を共有・保護するための協定の発効は、地域の平和と安定に資するものであり、安全保障をめぐる協力を強化していきたい」と述べました。
自民 二階幹事長「それほど長くはならない」
自民党の二階幹事長は、記者会見で、「韓国は、日本と緊密な歴史がある国なので、丁寧に対応することが大事だ。大使の帰国は、どこの国でもそういう対応をとることがしばしばあるが、用が済めば再び戻ることが通例であり、今回もそんなに長く引っ張ることにはならないと思う」と述べました。

1057名無しさん:2017/01/14(土) 16:45:45
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170111/k10010834911000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_058
駐韓大使ら戻す時期 韓国政府の対応見極め判断
1月11日 5時29分

政府は慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置された問題で一時帰国させた長嶺大使らを韓国に戻す時期について、北朝鮮の動向を踏まえれば長引かせるのは得策ではないという意見もあり、撤去に向けた韓国政府の対応も見極めながら判断することにしています。
政府は韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国駐在の長嶺大使と森本プサン総領事を一時帰国させ、安倍総理大臣は10日、長嶺大使らから少女像設置後の韓国政府の対応などの報告を受けました。

長嶺大使らは外国訪問を終えて11日に帰国する岸田外務大臣とも面会する予定で、少女像の撤去に向け、今後の対処方針などを協議することにしています。

政府は「パク・クネ(朴槿恵)大統領の職務停止など、韓国国内の状況にかかわらず、2国間の合意は引き継がれるべきだ」として、韓国政府に対し、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含めて撤去を求めていく考えです。

ただ、政府内には長嶺大使らを韓国に戻す時期について、北朝鮮がミサイルの発射実験を強行する可能性を示唆していることなどから、長引かせるのは得策ではないという意見もあり、政府は少女像の撤去に向けた韓国政府の対応も見極めながら判断することにしています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170110/k10010833921000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_077
少女像設置 一時帰国の駐韓大使 官邸で首相と対応協議か
1月10日 11時22分
慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、一時帰国した韓国駐在の長嶺大使らは10日午前、総理大臣官邸に入り、安倍総理大臣に韓国国内の現状などを報告し、今後の対応を協議しているものと見られます。
韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことをめぐり、政府はおととしの日韓両政府の合意に反するなどとして撤去を求めていますが、改善が図られないため対抗措置として9日、韓国に駐在する長嶺大使と森本・プサン総領事を一時帰国させました。

長嶺大使らは10日午前、外務省で杉山事務次官らと協議したあと総理大臣官邸に入りました。長嶺大使らは安倍総理大臣に、少女像が設置されたあとの韓国政府の対応などの状況を報告したうえで、少女像の撤去に向けた今後の対応などを協議しているものと見られます。

政府は、少女像の設置について慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓合意などに反しているとして、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含め撤去を求めていて、今後の対処方針が決まり次第、長嶺大使らを韓国に戻し、韓国政府への働きかけを強めていくことにしています。

1058名無しさん:2017/01/14(土) 16:47:05
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170109/k10010832921000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_086
駐韓国大使 きょう一時帰国 少女像設置への対抗措置
1月9日 4時18分

政府は、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使を、9日、一時帰国させて今後の対応を協議することにしていて、少女像の撤去に向け韓国政府への働きかけを強めていくことにしています。
政府は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使と森本・プサン総領事を9日、一時帰国させることにしています。長嶺大使らは、チェコなどの訪問を終えて11日帰国する岸田外務大臣らと面会して、現状を報告したうえで、今後の対応を協議する予定です。

これに関連して、安倍総理大臣はNHKの番組で、「慰安婦問題の日韓合意は最終的かつ不可逆的な合意だとお互いに確認している。日本は誠実に義務を実行し10億円をすでに拠出している。次は韓国がしっかりと誠意を示していただかなければならない。それはたとえ政権が代わろうとも実行するのが国の信用の問題だ」と述べました。

政府は、少女像の設置について、日韓合意に反しているなどとして、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含め撤去を求めていく考えで、今後の対処方針が決まり次第、長嶺大使らを韓国に戻し、韓国政府への働きかけを強めていくことにしています。
外相 「合意内容の着実な実施求めたい」
岸田外務大臣は訪問先のチェコで記者会見し、「日韓合意で、慰安婦問題が最終的、不可逆的に解決されることが確認されたにもかかわらず、わが国の公館の前に少女像が新たに設置された事態は極めて遺憾だ」と述べました。

そのうえで、岸田大臣は「日韓合意は、世界の多くの国々が高く評価しており、日本も韓国も、合意の内容を履行する責任を持っている。日本は履行しており、引き続き韓国側に対し、少女像の問題も含め、合意内容の着実な実施を求めたい」と述べました。
韓国メディア 問題長期化との見方
長嶺大使の一時帰国など日本政府の一連の対抗措置について、韓国メディアは問題が長期化するとの見方を伝えています。

このうち、公共放送KBSは、8日午後9時のニュースの中で安倍総理大臣がNHKの日曜討論に出演し、プサンの日本総領事館の前にある少女像の撤去を求めていく考えを示したことなどを詳しく伝えました。

そして、「韓国外務省は、慰安婦問題をめぐる日韓両政府の合意を着実に履行する立場を示すなど原則的な対応を示していて、日本側との摩擦が大きくなることを避けている」として韓国政府の対応を擁護したうえで、「日韓関係は当分の間、冷え込むことが予想されるという分析が出ている」として、問題が長期化するとの見方を伝えています。

一方、通信社の連合ニュースは、安倍総理大臣が「次は韓国がしっかりと誠意を示していただかなければならない」と述べたことについて、「日本側は合意の核心部分である謝罪と反省を誠実な態度で示さずに慰安婦問題の解決だけを求めているという批判が少なくない」として、日本側の対応を批判的に伝えています。

少女像の問題について、韓国政府は「外国の公館の保護という観点から慎重に判断する必要がある」とする立場ですが、具体的な解決策は示しておらず、パク・クネ(朴槿恵)大統領の職務が停止され、求心力が低下するなか、韓国政府が主体となって像を撤去すれば、世論の反発が強くなることを懸念しているものと見られます。

1059名無しさん:2017/01/14(土) 16:52:27
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170109/k10010833211000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_082
一時帰国の駐韓国大使 ソウルを出発
1月9日 12時37分

韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことへの対抗措置として、政府が一時帰国させることにした韓国に駐在する長嶺大使はソウルの空港で、「少女像の設置はきわめて遺憾だ」と述べて帰国後、今後の対応を協議する考えを示しました。
政府は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使を9日、一時帰国させることを決めました。

長嶺大使は午前11時すぎソウルのキンポ空港で記者団に対し、「少女像が設置されたことはきわめて遺憾だ。これから日本に帰国し関係者の間で打ち合わせをすることにしている」と述べました。長嶺大使はこのあとソウルを出発し、日本に向かっています。
一方、長嶺大使とともに一時帰国することになった森本プサン総領事は、9日午前、日本に到着しました。

政府は慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓両政府の合意に反しているとして少女像の撤去を求めています。

一方、韓国政府は日韓合意を着実に履行する立場ですが、パク・クネ(朴槿恵)大統領の職務停止で求心力が低下する中、撤去に踏み切れば世論の強い反発を招くとの懸念もあり、具体的な解決策を示していません。
東京のコリアンタウン「残念だ」
韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことへの対抗措置として、政府が韓国に駐在する大使を一時帰国させることについて、国内最大規模のコリアンタウンがある東京・新大久保周辺では「残念だ」という声が聞かれました。

新大久保の近くに長年住んでいるという80代の日本人の男性は「慰安婦の問題に関しては、おととし両国の間で合意したと思っていたのに残念だ。韓国では政府と国民で思いが食い違っているのではないか」と話していました。

新大久保周辺で韓国の料理や化粧品などを扱うおよそ130の店が加盟する新宿韓国商人連合会のシン・デーヨン(申大永)専務理事は「政府どうしで同じ話を何度も繰り返しているようで残念だし、きちんと信頼関係を築いて大人の対応を取ってほしい。コリアンタウンに大きな影響が出るかはわからないが、こんな時だからこそ、新大久保を活気づけて街を盛り上げていきたい」と話していました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170108/k10010832731000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_087
政府 少女像設置への対抗措置 駐韓国大使あす一時帰国へ
1月8日 18時39分

政府は、韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使を、9日、一時帰国させると発表しました。
政府は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことに抗議し、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使らを一時帰国させることや、緊急時に通貨を融通し合う「通貨スワップ協定」の再開に向けた協議を中断することなどを決めました。

これを受けて、政府は8日夕方、長嶺大使と森本プサン総領事を、9日、一時帰国させると発表しました。このあと長嶺大使らは、チェコなどの訪問を終えて今月11日に帰国する岸田外務大臣と面会して現状を報告したうえで、今後の対応を協議することにしています。

政府は、少女像の設置が慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓両政府の合意に反しているとして、韓国側に対し早急に撤去するよう求めていて、韓国政府の対応が焦点となっています。
韓国では問題長期化の見方も
韓国外務省のチョ・ジュンヒョク報道官は公共放送KBSの電話インタビューに対し、「経済や交流に影響を及ぼしてはならず、日本側は積極的に韓国側と問題を解決してほしい」と述べました。

少女像の問題について韓国政府は、「外国の公館の保護という観点から慎重に判断する必要がある」とする立場ですが、像を撤去すれば世論の強い反発を招くだけに具体的な解決策を示すことができない状況で、問題は長期化するという見方も出ています。
韓国メディアも、問題を早期に収束させるのは難しいという見通しを伝えており、このうちKBSは、「長嶺大使が帰国したあと、日韓関係は重要な局面を迎えることになる」としたうえで「少女像の設置に対して日本国内の世論は悪化しており、問題を早期に収束させるのは難しいだろう」と伝えています。

1060名無しさん:2017/01/14(土) 16:53:01
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170108/k10010832431000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_092
安倍首相 少女像の撤去求める考え示す
1月8日 11時37分

安倍総理大臣はNHKの「日曜討論」で、韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことについて、韓国は慰安婦問題をめぐる日韓合意の義務を履行する必要があるとして、ソウルの日本大使館前の像も含め撤去を求めていく考えを示しました。
この中で、安倍総理大臣は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する新たな少女像が設置されたことについて、「慰安婦問題の日韓合意は最終的かつ不可逆的な合意だとお互いに確認している。日本は誠実に義務を実行し10億円をすでに拠出している」と指摘しました。
そのうえで安倍総理大臣は、「次は韓国がしっかりと誠意を示して頂かなければならない。それはたとえ政権が代わろうとも実行するのが国の信用の問題だ」と述べ、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含め撤去を求めていく考えを示しました。

また安倍総理大臣は、先の日ロ首脳会談で北方領土での共同経済活動の実施に向け検討を始めることで合意したことについて、「北方四島に住むロシア人の人々が理解を示さなければ北方領土は返ってこないという現実に向き合わなければならない」と述べました。
そのうえで安倍総理大臣は、「日本人とロシア人が四島で共同経済活動をする。これは間違いなく平和条約の締結に向けて大きなプラスになる。四島の帰属を解決して平和条約を結ぶ道筋の中に共同経済活動がある」と述べました。

1061名無しさん:2017/01/14(土) 17:43:31
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011100787&amp;g=pol
岸田外相、長嶺大使らと協議=韓国帰任「総合的に判断」-少女像問題

 岸田文雄外相は11日午後、韓国・釜山の慰安婦少女像設置への対抗措置として一時帰国している長嶺安政駐韓大使、森本康敬釜山総領事と外務省で会い、報告を受けた。少女像撤去の見通しが立たない中、今後の韓国当局への要求事項などをめぐり協議したとみられる。
 岸田氏はこの後、安倍晋三首相を首相官邸に訪ね、自身の欧州訪問について報告。併せて少女像問題への対応や長嶺大使らの帰任時期をめぐっても意見調整したもようだ。岸田氏は大使らの帰任に関し、記者団に「総合的に判断する」との考えを示した。(2017/01/11-21:07)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010900108&amp;g=pol
駐韓大使が一時帰国=10日にも安倍首相と協議-釜山・少女像に対抗措置

 韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、長嶺安政駐韓大使と森本康敬釜山総領事が9日、それぞれ一時帰国した。長嶺氏らの日本滞在は数日間となる見通し。10日にも安倍晋三首相や菅義偉官房長官に状況を報告し、今後の対応を協議する。日本としては、少女像撤去を含め、慰安婦問題に関する2015年末の日韓合意の着実な履行を韓国側に求めていく方針だ。
 長嶺氏は9日午後、羽田空港着の民間機で帰国。これに先立ち、ソウルの金浦空港で記者団に「少女像設立は極めて遺憾だ」と改めて強調した。森本氏は同日午前に成田空港に到着した。両氏は外務省で金杉憲治アジア大洋州局長と会い、首相への報告を前にすり合わせを行った。
 少女像はソウルの日本大使館前に続き、釜山の総領事館前に昨年12月末に設置された。これを受け日本政府は今月6日、日韓合意の精神に反するとして、大使と総領事の一時帰国に加え、通貨スワップ(交換)協議の中断や日韓ハイレベル経済協議の延期などの対抗措置を発表した。
 駐韓大使の一時帰国は、12年8月の李明博大統領(当時)の竹島上陸への抗議で実施して以来。日韓合意に基づき元慰安婦支援のため10億円を拠出した日本としては、強力な対抗措置により韓国側の誠実な対応を引き出したい考えだ。
 しかし、朴槿恵大統領の職務停止で韓国の内政は混乱しており、少女像撤去などは見通せない状況だ。日本外務省幹部は「出口戦略は描けてない。韓国側の対応を見て考える」と語った。
 韓国内では日本の対抗措置に反発する声が出ており、柳一鎬副首相兼企画財政相は8日、与野党議員らに「外交問題が経済的な影響を与えるのではないか」と懸念を示した。(2017/01/09-18:23)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010900020&amp;g=pol
駐韓大使、午後帰国=釜山・少女像設置に抗議

 【ソウル時事】韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置された対抗措置として一時帰国する長嶺安政駐韓大使は9日昼、ソウルの金浦空港を出発した。出発前、同空港で記者団に対して「少女像設立は極めて遺憾だ」と述べた。同日午後に羽田空港に到着する。森本康敬釜山総領事は9日午前、成田空港に到着した。
 長嶺大使は日本に数日間滞在する見通し。安倍晋三首相や岸田文雄外相らに韓国の状況を報告し、今後の対応を協議するとみられる。(2017/01/09-12:25)

1062名無しさん:2017/01/14(土) 18:26:07
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011300422&amp;g=pol
潘氏「10億円返すべきだ」=少女像撤去と関連なら-韓国

 【ソウル時事】韓国次期大統領選の有力候補とされる潘基文前国連事務総長が、慰安婦問題をめぐる日韓合意に基づき日本が拠出した10億円について「少女像撤去に関わるものならば、それは間違ったことだ」と指摘し、「そうならば返した方がよい。話にならない」と発言していたことが分かった。韓国メディアが13日、伝えた。

 韓国紙・朝鮮日報などによると、12日に帰国した潘氏は、帰国途中の機内で韓国記者団のインタビューに応じた。
 また、潘氏は安倍晋三首相と昨年末に電話で会談したことを明らかにした。安倍首相に対し、「慰安婦や歴史問題で公平に歩み寄り、未来志向で解決しなければならない」と話したという。(2017/01/13-12:19)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011300588&amp;g=pol
日韓関係「変わらず」46%=慰安婦問題で対立後-時事世論調査

 時事通信が6〜9日に行った世論調査で、今後の日韓関係の見通しについて尋ねたところ、「変わらない」と答えた人が46.9%で最も多く、半数近くを占めた。「今より悪くなる」は36.8%で、「今より良くなる」は4.4%にとどまった。11.9%が「分からない」と答えた。
 韓国・釜山の日本総領事館前に昨年末、市民団体が慰安婦を象徴する少女像を新たに設置。これを積極的に阻止しようとしなかった韓国政府への対抗措置として、日本政府は今月6日、長嶺安政駐韓大使らの一時帰国を発表した。(2017/01/13-15:08)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011300803&amp;g=pol
少女像移転に「努力」=関係者協議に前向き-韓国外相

 【ソウル時事】韓国の尹炳世外相は13日、国会の外交統一委員会に出席し、釜山に設置された慰安婦を象徴する少女像の移転について「関係当事者と一緒に可能な解決策を見つけることができるよう努力していきたい」と述べ、関係者との移転協議に前向きな姿勢を示した。

 韓国政府はこれまで「適切な場所について知恵を絞ることを期待する」との表現にとどめていた。日本政府が対抗措置として駐韓大使を一時帰国させ、帰任時期が見通せない中、慰安婦をめぐる日韓合意を着実に履行する姿勢を示す狙いとみられる。
 ただ尹氏は、市民団体との協議は「特に進展があると言えない」と明かした。合意の無効を訴える市民団体が協議に応じる見込みも薄く、移転の先行きは依然不透明だ。(2017/01/13-19:09)

1063名無しさん:2017/01/21(土) 21:44:45
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011600697&amp;g=pol
崔被告、慰安婦合意と無関係=在日学者聴取の結果-韓国

 【ソウル時事】韓国の朴槿恵大統領の親友、崔順実被告の国政介入事件などを調べている特別検察官チームは16日午後、慰安婦問題をめぐる2015年末の日韓合意に崔被告が関与した疑惑について、「確認した結果、崔被告とは関係ないと判断した」と明らかにした。
 特別検察官チームは14日、崔被告とともに日韓合意に影響力を行使した疑いがあるとして、日韓関係を専門とする在日韓国人学者を事情聴取していた。
 尹炳世外相は昨年12月、国会で「私が知る限り、難度の高い外交政策に(崔被告が)関与する可能性はない」と答えていた。(2017/01/16-19:10)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011800507&amp;g=pol
広島市長、オバマ大統領に書簡=昨年の訪問「大きな希望」と謝意

 広島市の松井一実市長は18日の記者会見で、20日に退任するオバマ米大統領宛てに書簡を送ったことを明らかにした。この中で昨年5月の大統領の広島訪問について「被爆者の思いを受け止めてもらったことに市民は感銘を受け、被爆体験を原点に未来志向の重要性を強調したことに大きな希望を抱いた」と謝意を伝えた。
 書簡は昨年12月16日付。市長はまた、オバマ氏が退任後も「核兵器のない世界」実現に向けて尽力するとともに、都市間の連携を通じた核廃絶を目指す「平和首長会議」(会長・松井氏)と「バラク・オバマ財団」が連携を深めるよう求めた。
 同会議の事務局がある広島平和文化センターによると、同センターの小溝泰義理事長が12月20日、ケネディ駐日大使に面会した際に書簡を手渡した。大使は「広島の願いを大統領は真剣に受け止めるでしょう」と話したという。(2017/01/18-14:48)

1064名無しさん:2017/01/22(日) 23:34:05
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170119/k10010845281000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_036
一時帰国の駐韓大使ら 帰任は当面見送る方向に
1月19日 17時11分

安倍総理大臣は、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことを受けた韓国への対応をめぐって、岸田外務大臣と協議し、韓国側の対応を見極める必要があるとして、一時帰国させている韓国駐在の長嶺大使らを戻すのは、当面、見送る方向となりました。
安倍総理大臣は19日午前、総理大臣官邸で、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されて以降、関係が停滞している韓国への対応をめぐり、岸田外務大臣と協議しました。

その結果、韓国側の対応を見極める必要があるとして、一時帰国させている韓国駐在の長嶺大使らを戻すのは、当面、見送る方向となりました。

これに関連して、菅官房長官は午前の記者会見で、長嶺大使らを戻す時期について「諸般の状況を総合的に判断して時期は検討していく考えに変わりはない」と述べたほか、外務省幹部は「日本側が動くより、まずは韓国側が日韓合意に基づいて対応を示すべきだ」と話しています。

韓国国内では、島根県の竹島に新たに少女像を設置する動きもあり、政府は、こうした韓国側の動きも見ながら長嶺大使らを戻す時期を検討するものと見られます。
官房長官「帰任は諸般の状況で判断」
菅官房長官は午後の記者会見で、記者団が「慰安婦像が撤去されないかぎり、駐韓大使の帰任は考えられないのか」と質問したのに対し、「総合的に判断して検討していくという考えに変わりはない。諸般の状況などを見ながら判断していきたい」と述べました。

そのうえで、菅官房長官は「日韓合意で、慰安婦問題の最終的で不可逆的な解決を確認したにもかかわらず、在プサン総領事館前に慰安婦像が設置された事態は、日韓関係に好ましくない影響を与えるとともに、領事関係に関する国際的なウィーン条約に照らしても問題であり、極めて遺憾だ」と述べました。

そして、菅官房長官は「日韓それぞれ、一昨年の合意に基づいて責任を持って実施することが重要であり、韓国政府も合意を着実に実行していく立場に変わりはないと表明している。引き続き韓国側に対して、粘り強く、あらゆる機会をとらえて慰安婦像の問題を含め合意の着実な実施を強く求めていきたい」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170117/k10010842901000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_063
竹島に少女像設置の動き 官房長官「強く抗議 」
1月17日 18時06分

菅官房長官は、午後の記者会見で、島根県の竹島に慰安婦問題を象徴する少女像を新たに設置する動きが韓国内で出ていることについて、「受け入れられず、極めて遺憾だ」と述べたうえで、韓国側に対して直ちに強く抗議したことを明らかにしました。
この中で菅官房長官は、記者団が、韓国の議員団が慰安婦問題を象徴する少女像を島根県の竹島に新たに設置する動きが出ているとして政府の受け止めをただしたのに対し、「竹島の領有権に関するわが国の立場に照らしても受け入れられず、極めて遺憾だ。韓国側に対しては、報道を受け、直ちに強く抗議を行った」と述べました。

また菅官房長官は、プサン(釜山)の日本総領事館の前に少女像が設置されていることに関連して、「一昨年の日韓合意は、最終的、不可逆的に解決されることを確認している。韓国でも、『日韓合意を守ることも大事だ』とユン・ビョンセ(尹炳世)外相が発言しており、合意をお互いの国が守ることが大事だ」と述べました。
韓国外務省報道官「関連の動向を確認」
島根県の竹島に慰安婦問題を象徴する少女像を新たに設置する動きが韓国内で出ていることについて、韓国外務省のチョ・ジュンヒョク(趙俊赫)報道官は17日の記者会見で、「報道があるのは承知しているが、まずは関連の動向を確認したい」と述べました。

一方で、日本政府が改めて竹島が日本固有の領土だとする立場を示したことについて、「明らかに韓国固有の領土であり、日本政府はつまらない主張を直ちにやめるよう求める」と述べ、ソウルにある日本大使館の鈴木総括公使を呼んで抗議したことを明らかにしました。

1065名無しさん:2017/01/22(日) 23:53:41
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011900604&amp;g=pol
竹島設置「望ましくない」=慰安婦象徴の少女像-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は19日の記者会見で、慰安婦を象徴する少女像を島根県・竹島に設置する動きに関し、「少女像に関連した事案を、性格が全く異なる独島(竹島)と関連付けることは望ましくない」と述べ、反対する立場を示した。

 報道官は「少女像は普遍的人権問題で、日本軍の慰安婦被害に関連している一方、独島は、わが国の領土主権に関わる事案であり、性格が全く違う」と指摘した。
 聯合ニュースによると、中部・京畿道の議会は、竹島での少女像設置を目指し、募金活動を開始。これに対し、韓国で竹島を「管轄」している慶尚北道の知事は「不適切だ」と反対している。(2017/01/19-16:25)

1066とはずがたり:2017/01/25(水) 19:03:16

「慰安婦本」著者に無罪=名誉毀損の刑事裁判―韓国
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20170125/Jiji_20170125X873.html
時事通信社 2017年1月25日 16時41分 (2017年1月25日 18時54分 更新)

 【ソウル時事】韓国の学術書「帝国の慰安婦」で「自発的な売春婦」といった描写により元慰安婦の名誉を傷つけたとして、名誉毀損(きそん)罪で在宅起訴された朴裕河・世宗大教授(59)の判決公判が25日午後、ソウル東部地裁で開かれ、無罪を言い渡した。
 検察側は「歴史的事実を意図的に歪曲(わいきょく)し、全く反省していない」などとして、懲役3年を求刑。これに対し、朴教授は「名誉を傷つける意図はなく、虚偽でもない」「公共の利益が目的だった」と無罪を主張していた。
 元慰安婦らは2014年6月に朴教授を告訴。検察は15年11月、在宅起訴した。

1067とはずがたり:2017/01/29(日) 16:33:11

ベルリン市長「この壁を造るのをやめなさい」
http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/world/20170128-567-OYT1T50095.html
13:21読売新聞

 【ベルリン=井口馨】ベルリンのミヒャエル・ミュラー市長(52)は27日、トランプ米大統領に対し、「孤立と排斥という誤った道」に進まないように警告し、メキシコ国境沿いに壁を建設する計画の撤回を強く求めた。

 独DPA通信などが伝えた。

 ベルリンは東西冷戦時代に「ベルリンの壁」で街が分断された経験がある。ミュラー氏は「ベルリンに住む人々は、有刺鉄線とコンクリートの壁による分断が引き起こす苦しみを最もよく知っている」と指摘した。

 1987年に当時のレーガン米大統領がベルリンで行った演説でソ連側に「この壁を壊しなさい」と迫ったエピソードにも言及し、「大統領、この壁を造るのをやめなさい」と諭した。

 ベルリンの壁は、西独への住民流出を防ぐため東独が61年に建設した。89年に東西の市民が取り壊し、撤去。冷戦終結の象徴となった。

1068とはずがたり:2017/01/31(火) 13:52:45
旅順攻囲戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6

しりとり歴史人物館
乃木希典
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/siritori/nogi.html

1069とはずがたり:2017/01/31(火) 19:10:41
<ナチス医学>20万人以上障害者が安楽死、調査へ
毎日新聞社 2017年1月31日 13時49分 (2017年1月31日 18時12分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20170131/Mainichi_20170131k0000e030250000c.html

 ◇ドイツの研究機関、「負の歴史」に向き合う

 ナチス政権下で20万人以上の障害者が強制的に安楽死させられた事件を巡り、ドイツを代表する研究機関・マックスプランク研究所が近く、犠牲者の生涯や脳などの人体標本の行方について、外部研究者による委員会を設けて実態調査を始めることが分かった。同研究所は犠牲者の人体標本を使って医学研究を進めた経緯があり、戦争犯罪に加担した「負の歴史」に向き合う取り組みだ。【千葉紀和】

 ナチス政権はホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の前に、「民族衛生」を名目に障害者をガス室などで殺害した。「T4作戦」と呼ばれ、殺された人々の脳などは、マックスプランク研究所の前身のカイザー・ウィルヘルム協会に送られ、医学研究に利用された。

 こうした標本の存在はかつて問題化し、同研究所は1990年に約10万点を国内の墓地に埋葬。ドイツ精神医学会は2010年に障害者安楽死に関与したことを認めて謝罪した。しかし、一昨年に安楽死の犠牲者とみられる組織標本が同研究所にまだ残っていることが判明。また、脳標本の一部は他機関の医学者らに研究材料として提供されたとみられ、標本の行方の全容は分かっていない。

 このため、米国やオーストリアの歴史家ら4人を中心に3年間で、同研究所に残る資料や散在した標本の状況を調査。非倫理的に集められた標本がどう取り扱われたかを探るほか、犠牲者の特定も試みるという。同研究所のハインツ・ベッスレ名誉教授は「犠牲者は忘れられるべきでなく、彼らの人生を再構築することで人間としての尊厳を回復したい」と話す。

 戦時中は日本の医学者も731部隊などに参加し、中国などで細菌や毒物を使う非倫理的な人体実験を試み、戦後にその成果や関連研究で医学論文を書いたことが判明している。「戦争と医の倫理」の検証を進める会世話人の吉中丈志・京都民医連中央病院院長は「日本も調査を進めるべきだ」と指摘する。

 ◇T4作戦

 優生思想に基づく独ナチス政権の障害者安楽死政策。知的障害者や精神障害者のほか、遺伝性の視覚障害者らの一部も対象となった。公式には1939?41年に実施され、犠牲者は約7万人だが、実際はその後も続き、少なくとも20万人が殺害されたとされる。名称は作戦本部があったベルリンのティーアガルテン通り4番地に由来する。

1070とはずがたり:2017/02/09(木) 09:54:30
あ,朝日新聞が中曽根を絶賛している(;´Д`)右傾化だっヽ(`Д´)ノw

安倍・トランプ会談、80年代にタイムスリップ?
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%AE%89%E5%80%8D%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E4%BC%9A%E8%AB%87%E3%80%81%EF%BC%98%EF%BC%90%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%EF%BC%9F/ar-AAmJi9b#page=2
朝日新聞デジタル
10 時間前

 10日に米ワシントンで行われる安倍晋三首相とトランプ大統領の首脳会談の最大のテーマは、「通商」になりそうだ。自動車を含む対日貿易赤字、為替操作問題……。たびたび日本を名指しで批判するトランプ氏。外務省幹部は「1980年代にタイムスリップしたようだ」と当惑する。

 その80年代は、現在より激しい貿易摩擦が日米間に横たわっていた。外務省が1月に公開した外交文書には、両国のやりとりの内幕を書き留めた約千ページの記録があった。当時、日本のかじ取りを担ったのは中曽根康弘首相。手書きの文面に宿る生々しいやりとりから、難局を切り抜けようと奮闘する中曽根氏の姿が浮かび上がった。

 米国人労働者が日本車をハンマーでたたき壊す映像を思い出す人もいるだろう。米国の貿易赤字の大部分を日本が占め、貿易摩擦問題は再選を目指す共和党のレーガン大統領への格好の批判材料となっていた。

 そのような情勢の中、首相に就任したばかりの中曽根氏は初めての日米首脳首脳会談に臨む。拡張政策をとるソ連に対抗するためにも、同盟国・米国との関係悪化は避けなければならない。

 公開された記録を読むと、会談では初めてとは思えない突っ込んだ議論を展開していた。米側が牛肉・オレンジの関税引き下げを迫ると、中曽根氏は「オレンジの皮は固い」と切り返した。代わりに、米側が望む防衛協力について踏み込んだ。結局、レーガン氏は通商問題は軽く触れただけで先鋭化させなかった。中曽根氏にとっては、狙い通りの会談だったと思う。

 良好な日米関係は、日中関係の発展にもつながったようだ。胡耀邦総書記との関係は「友」と呼び合う間柄になり、当時の最高権力者・鄧小平氏には「43世紀まで友好を続けよう」と、言わしめた。日米をテコに日中関係を強める――。

 文書を繰りながら感じたのは、中曽根外交に一貫した戦略性だ。その根幹となった「ロン・ヤス」関係について、識者の一人は「両者には大局観で一致する胆力があった」と指摘した。翻って現在。尖閣問題もあって日中関係は悪化し、トランプ氏の就任で日米関係も揺らいでいる。40年前の為政者たちは、会談に臨もうとする今の両首脳をどう見るのだろうか。(古賀大己)

     ◇

 経済部・古賀大己 1976年生まれ。首相官邸や外務省で経済政策や通商交渉を担当している。トランプ大統領の政策が、世界の通商秩序にどう影響するのか、注視している。

1071とはずがたり:2017/02/20(月) 12:14:42
ハルノートと書いてhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1399200577/813改めてwikiを読んで復習したが,太平洋戦争は多大な,余りに多大な貴い犠牲を出しながらも,日本に所謂戦後民主主義を確立する契機となったと評価せざる得ないし,戦没者は全て日本の民主改革の革命の英雄として靖国に(w),まあ千鳥ヶ淵に祀られて然るべきであるかと思うが,そもそも戦争が回避出来なかったのかと云う思いはなくもない。

で,戦争の原因に石油の確保があった訳で,ナチス・ドイツが振り返れば無謀とも思える独ソ戦に踏み切った原因の一つにバクー油田の確保があり(他方に思想的に優性民族のゲルマン人はスラブ人を奴隷として使っても良いと云う考えもあったようだ),日本の南方進出もアメリカに依存していた石油資源の確保と云ふ狙いがあった事も良く云はわれてゐる。

wikiのハルノートにはじり貧論って記述があって石油の自給は2年分だそうな。まんが日本の歴史かなんかでも2年分とあったけど,この2年分ってのはどういう積算根拠なんだ?
と思って検索かけてみた。ちゃんと誰かが答えてるもんだ♪
しかし当時はまああんま使わなかったから2年分も貯め込めてたんだな〜。今では2年分も備蓄するとか夢の又夢だw

太平洋戦争開始の時、日本の石油備蓄は1年〜1年半くらいだったはずです しかし...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1320719753
nezubadonさん2008/11/1623:41:21

太平洋戦争開始の時、日本の石油備蓄は1年〜1年半くらいだったはずです
しかしその後4年も戦争続けていたとはどういうことでしょうか?
東南アジアからそんなに大量に石油を運んでいたとは考え難いんですが

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nmurasさん 編集あり2008/11/1719:37:23
当時の統計資料から、ごく大雑把に数字を引用すると、こんな感じになります。

開戦時点での国内備蓄: 800万キロリットル
開戦前の年間消費量予測: 500万キロリットル(現実には400万キロリットル程度で収まった or それしか使えなかった)

戦争中の全消費量: 1300万キロリットル
戦争中の国内生産量: 150万キロリットル
東南アジアからの輸入総量: 500万キロリットル

東南アジアに展開した軍や企業が現地で直接消費した分は入っていない数字ですが、まあ、こうなります。
終戦の年である1945年には輸入が途絶え、燃料備蓄の減少から消費量も極端に減っているので、これらの数字の大半は1942〜1944年の3年分だと考えた方が良いかもしれません。
「800万(事前備蓄)+150万(国内生産)+500万(輸入)-1300万(消費) = 150万(残り)」ですから、輸入の途絶えた1945年にはまともに活動できるだけの燃料が残っていない現実が判ると思います。

そして事前予測通りに年間500万キロリットルのペースで石油を消費すれば、3年もたずに石油供給が破綻したであろうことも判ります。
例えば、戦争中ずっと海軍の艦隊の動きが鈍い(戦艦や空母がなかなか出動しない)大きな理由は燃料を節約するためなのですが、そうやって燃料を節約したから、4年近くも戦い続けることができたわけです。

また南方からの石油輸入は、現地の生産量にはゆとりがあり、主にタンカーの不足によって日本本土への輸送が滞っています。

1072とはずがたり:2017/04/10(月) 14:17:47
近代教育と識字率: 日本の統治が近代教育を施し、識字率を上げた説
http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10-literacy.html
 
日本が学校を建ててやってハングルをどうのこうの、という物言いが本当に成り立つのか、数字で検証してみます。

 まずは手っ取り早く、大日本帝国の栄えある朝鮮文明統治20年の成果を、帝国の正確無比な(たぶん、ね)統計で確かめてみましょう。
 下記に、1930年(昭和5年)の国勢調査結果から作成した識字率のグラフを示します。

(図略)

学齢期の10代ですら識字率が男性で半分いかず、女性に至っては1割台なかばです。
 併合後に日本帝国より賜ったとかいう近代教育が朝鮮人の識字率を劇的に上げたなら、こんな事起こる筈がありません。

 この時点で早くも、日本帝国は初等教育の普及を怠っていたことが露見されます。実際、朝鮮総督府は最後まで義務教育を施行しませんでした。

 更に、併合のかなり前から朝鮮・韓国自前で、16〜20%程度の識字率を確保し、漸次改善していた事をこのデータは強く示唆しています。

1073とはずがたり:2017/05/30(火) 21:16:55
ナチスもソ連に攻め込まなければもっと延命してたかと思うとぞっとするがその思想の中に崩壊の萌芽が仕込まれてたって訳か。
さて現代資本主義・グローバリゼーション・人権というイデオロギーセットはどうだろうか?

ナチスドイツはどうしてソ連の資源を目がけて行ったのでしょうか?南に行けば石油...
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14100880204
efudetarou1さん2013/1/2522:08:24

ナチスドイツはどうしてソ連の資源を目がけて行ったのでしょうか?南に行けば石油資源は手に入ったんじゃないでしょうか?どっちにしてもやらねばやられてやんでしょうか?
そういえばアフリカにも侵攻してましたよね。石油資源なら中東かアフリカに行けばよかったんじゃないでしょうか?どうして見るからに強そうなソ連を相手にクマを起こすようなことをしたんでしょうか?ソ連へ侵攻さえなかったらまだドイツは戦えていたんじゃないでしょうか?

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kdkosfpさん 2013/1/2523:45:58
『我が闘争』を読めばわかります。
東方植民を行い、劣等民族のスラブ人を農奴としてドイツ人農民の大農園でこき使うのが目的です。
ヒトラーの戦争目的はロシアを植民地にするためで、フランスやイギリスと戦ったのは成り行き上の前哨戦にすぎません。
他の人も言っていますが、当時の主要産油地はアメリカ、バルカン半島、ソ連のコーカサス地方で、中東ではボチボチと油田が発見された頃でした。
ドイツ軍がアフリカに行ったのは、同盟国イタリアが植民地リビアからイギリスの植民地のエジプトに侵攻して返り討ちにあったから尻拭いに行っただけです。

1074とはずがたり:2017/06/01(木) 14:43:53

橋下徹氏 日韓慰安婦問題で提案「他国の事例を参考にして謝罪方法の基準をつくる」
http://news.livedoor.com/article/detail/13099516/
2017年5月23日 9時56分 トピックニュース

22日放送の「橋下×羽鳥の番組」(テレビ朝日系)で、橋下徹氏が日韓の従軍慰安婦問題をめぐって、日本の謝罪の方法を見直すべきと提案した。

番組では、従軍慰安婦問題をテーマに、橋本氏と東海大学教授の金慶珠(キム・キョンジュ)氏らを交えて激論が戦わされた。

橋下氏は、2015年の慰安婦問題日韓合意について、国会は批准しておらず「(法的効力は)まずないでしょう」と、断言した。そして、韓国の立場から日本の謝罪について「『謝り、謝罪が足りない』と思っているのでしょう」と、韓国側の心情を推察する。

その上で、橋下氏は「謝りのレベルは何で決めるのか」と問題提起し、その解決策として他国の事例を参考にして、謝罪方法の基準を設けなくては、韓国側は納得しないと力説したのだ。

また、橋下氏は米、英、仏、独における慰安婦問題の事後処理を引き合いにして、日本の謝罪対応の評価を仰ぎながら、韓国側の納得を得るしかないと打開策を語った。

しかし、これに金氏は異論を唱えた。金氏は、韓国は諸外国の事例や基準を求めているのではないと断じ「真心のこもった謝罪を求めてるの!」と反論しながら、安倍晋三総理大臣からの謝罪の重要性を強調していた。

1075とはずがたり:2017/06/10(土) 07:57:21
なぜ樺太放棄した? 面積だけでは測れない「樺太千島交換条約」の真意
https://thepage.jp/detail/20161129-00000009-wordleaf
2016.11.30 12:00

 終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。12月15日にはプーチン大統領が来日し、山口県長門市で首脳会談が行われます。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、平和条約や領土交渉の進展はあるのでしょうか。

 あらためて、日ロ間にはどのような領土をめぐるやりとりがあったのか。歴史を振り返ります。

もっと知りたい北方領土
日魯通好条約の20年後に行われた領土交換

樺太を放棄し、全千島列島の領有権を得た「樺太千島交換条約」(内閣府北方対策本部ホームページ参考)

 日ロ間で初めて法的に国境を決めた1855(安政元)年、「日魯通好条約(日露和親条約)」では、樺太を両国民混住の地とし、千島列島の択捉島と得撫(ウルップ)島の間に国境線を定め、択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領と決めました。

 しかし、その20年後の1875(明治8)年、樺太はロシア領、代わりにウルップ島以南を含む全千島列島を日本領とする「樺太千島交換条約」を日ロ間で交わします。なぜ、このような領土の交換があったのでしょうか。

両国民混住の樺太 たびたび日ロの紛争の種に

樺太千島交換条約には全権公使として榎本武揚の名が記されている

 日魯通好条約の後、樺太は松前藩領から江戸幕府の直轄地に。その後、明治政府の成立に伴い、1869(明治2)年には太政官直属の開拓使所管となります。一方、両国民混住の地と決めたロシアは、クリミア戦争終結後、樺太開発に乗り出し、たびたび両国間の紛争が起こるようになりました。

 事態を受け、両国間で樺太の国境線を決めることは重要な問題でした。新政府には、樺太全島もしくは半分で境界線を引き、南半分を日本のものとするという意見と、遠隔地である樺太を放棄し、北海道開拓に注力する、という2つの意見がありましたが結局、樺太放棄論が優勢になりました。

国際法に長けていた全権公使・榎本武揚

樺太千島交換条約には千島列島の島としてウルップ島以北の18島名のみ書かれている

 交渉は1874(明治7)年から、ロシアのサンクトペテルブルクで行われました。日本から派遣された旧幕府海軍副総裁・榎本武揚です。榎本は新政府と旧幕府側の最後の戦いとなった箱館戦争(五稜郭の戦い)で破れ、投獄されますが、オランダ留学中から肌身離さず海洋法に関する「海律全書(海上国際条規)」を持つなど国際法に通じていたことから、助命され、明治政府の一員となりました。交渉時は日本初の海軍中将、駐ロ特命全権公使に任命され、約1年近い交渉の末に、ロシア外務大臣ゴルチャコフとの「樺太千島交換条約」締結にこぎつけます。

地政学上重要だった千島列島の領有

 新政府にとり、財政力でも防衛力でも広大な樺太を統括する力がなかったとはいえ、面積的に見れば7万6400平方キロメートルある樺太を放棄し、総面積1万数千平方キロメートルしかない千島列島との交換は割に合わないようにみえます。

 しかし、ロシアの海洋進出を警戒していた英国政府のアドバイスもあり、地政学上、オホーツク海と太平洋を分ける千島列島は海洋戦略上、重要な地点という認識を、明治政府が持っていたとみられます。また千島列島は南北に約1200キロの長さがあり、水産業にとっては大きな意味を持ちました。

 また、「樺太千島交換条約」の文面をみると、日本に譲渡されるウルップ島以北の18島の名称はありますが、択捉・国後・色丹・歯舞の北方四島は含まれていません。既に先の「日魯通好条約」で択捉島以南が日本領であるということが両国間で明確に認識されていたようです。

1076荷主研究者:2017/07/02(日) 11:35:58

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201706/CK2017061702000147.html
2017年6月17日 東京新聞
陸軍板橋火薬製造所跡 近代産業遺産「高い価値」

現存する国内最古の射撃場跡。燃焼実験室(奥の建物)から弾道管が延びる=板橋区で

 16日に国の文化審議会が史跡に指定するよう答申した陸軍板橋火薬製造所跡(板橋区加賀1)には、現存する国内最古の火薬研究所と射撃場の跡があり、近代の産業遺産として価値が認められた。区は製造所跡を、史跡公園として整備。東京五輪・パラリンピックがある2020年に一部オープンし、23年に全面開業する。 (増井のぞみ)

 特に貴重とされる射撃場は一八七七(明治十)年にできた。小銃などの弾の速さを計測する弾道管が火薬の燃焼実験室から延び、五十メートルあったうち三十メートルが今も残る。現在は区立加賀公園として使われている場所の築山には、射撃場から弾を撃ち込んだレンガ積みの標的がある。

 また、敷地の一部は戦後の一時期、理化学研究所(理研)板橋分所として使われた。共にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や朝永(ともなが)振一郎が研究室を構えた、一部レンガ造りの物理試験室が建つ。

 史跡公園は面積約一万三千平方メートル。区は本年度中に、跡地を所有者から購入。二〇二〇年、旧理研分所に湯川や朝永の研究室を再現し、区の産業史を学べる博物館を開館する。二三年には射撃場を復元するなどする。

レンガの壁が残る旧理化学研究所板橋分所の物理試験室

 いたばし観光ボランティアの辺見美代治さん(72)は「地元の小学生の郷土学習にも役立てられる」と期待する。区教育委員会の吉田政博学芸員は「火薬製造所跡は軍事研究の先駆けとなった場所で、欧米の最先端の技術を導入した日本の近代工業発祥の地。東京五輪に向け、国内外から多くの人が訪れる場所にしたい」と意気込んだ。

<陸軍板橋火薬製造所跡> 明治政府が国内で初めて建設した火薬工場。加賀藩前田家下屋敷跡に1876年に開所し、1945年8月の終戦まで稼働した。明治から昭和にかけての火薬の研究、実験、製造、貯蔵など一連の工程を示す遺構がそろっている。1903年に設けられた火薬研究所は日本初の近代的な理工学系研究所とされる。

1077とはずがたり:2017/07/12(水) 01:11:44
金正恩氏斬首後の「不統一国家」 度を超す自己主張+激高しやすい民族性+偏狭な民族&共産主義者が入り乱れ…
http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/170508/wor17050810120016-n1.html
2017.5.8 10:12
【野口裕之の軍事情勢】

 韓国の新政権発足に伴い、米トランプ政権にはぜひ、大東亜戦争(1941〜45年)後の朝鮮半島情勢を学習してほしい。朝鮮人が国家体制にかかわらず、いかに統治能力を欠く致命的欠陥を持っているかを知ることは、朝鮮労働党の金正恩委員長が主導する北朝鮮を排除して誕生する?「新国家」との付き合い方や間合いの取り方に資するためだ。

 折しも、…CIA(米中央情報局)のマイク・ポンペオ長官が4月末、韓国入りした。韓国大統領選挙後の米韓関係や金正恩政権崩壊後の国体や半島情勢などについて、韓国の情報機関・国家情報院の李炳浩院長らと意見交換したもようだ。

 ■強弁だけの「抗日戦」

 大日本帝国は1945年8月15日、大東亜戦争敗戦を国民に知らせた。無政府状態を憂うわが国の朝鮮総督府は《朝鮮建国準備委員会》設置を比較的冷静・公平に対処できる朝鮮人指導者に要請した。ソ連軍侵攻→朝鮮人政治・思想犯の釈放・流出→朝鮮共産化→日本人への掠奪・暴行…が想定され、朝鮮人釈放や治安維持への協力を取り付ける意図もあった。

 だが、自治組織に過ぎぬ朝鮮建国準備委員会は1945年9月6日《朝鮮人民共和国》を樹立し“独立”を宣言してしまう。

 一連の流れの中で、朝鮮総督の阿部信行・陸軍大将(元首相/1875〜1953年)や朝鮮軍管区司令官の上月良夫・陸軍中将(1886〜1971年)が総督府はじめ主要な建物から日章旗を降ろし、太極旗(現韓国国旗)を掲揚させる。

 しかし“独立宣言”直後、進駐してきた米軍は太極旗を降ろさせ、日章旗を再び掲揚させた。米軍の軍政が本格的に始まるや、日章旗が星条旗へと付け替えられた。なぜか-。

 米国は日章旗掲揚で朝鮮=日本だと公認。自らの軍政に正当性を持たせた。朝鮮が日本と別国家ならば、米国が朝鮮を「解放」したことになり、解放後は統治を朝鮮に任せる過程を生む。これを嫌った米国は終戦直後、米軍上陸前の統治を総督府に密命した。治安も朝鮮軍管区や日本の官憲に担わせた。

 上陸後も、日本人官吏は相当期間米軍の軍政を支援、治安も軌道に乗るまで日本側が協力した。日本側の統治能力や軍紀を大いに評価していた背景もあった。反面、米国は当初、朝鮮人を軍政より徹底的に遠ざけた。結果、朝鮮人の軍政登用は牛歩で進められた。なぜか-。

 統治能力欠落+度を超した自己主張+激高しやすい民族性+偏狭な民族主義者&共産主義者が入り乱れ=一致団結して建国に邁進するまとまりに欠けている…など、こと朝鮮人に関し米国の学習能力は高かった。

 実際1945年秋、30もの朝鮮人軍閥が警察署や新聞社、企業・工場・商店を勝手に接収。米軍は武装解除を強制したが効果は限られた。政党や政治結社も200近くにのぼり、指導者は内部抗争を繰り返し暗殺・テロが横行した。

 そもそも、自治組織がなぜか“独立宣言”(とは註:自治組織が独立宣言してもかまわんだろーが。)して出来上がった《朝鮮人民共和国》ですら中華民国に建てた韓国臨時政府と対立。2つの“政府”それぞれの内部でも抗争に明け暮れた。米国は朝鮮人の政党も政治活動も全く認めなかったのに、この有り様であった。

 かくなる混乱では、38度線の北側に陣取るソ連軍に対する力の均衡維持はおぼつかない。米国の最重要課題はソ連の半島支配阻止で、南朝鮮独立は副次程度の認識だった。米国は、曲がりなりにも内閣・政府を通じ権力を行使した日本と同じ統治形態ではなく、韓国に直接軍政を敷いた正解を噛み締めた。

 ■日本の欠陥憲法よりひどい韓国の歪曲憲法

 さて、統一国家か南北分断国家か、あるいは民主国家か否かは別として、「新国家」樹立に伴い、新生政府は「史実の貼り替え」に着手。憲法改正、いや憲法粉飾で「見事な腕前」を発揮するに違いあるまい。

 韓国では憲法上、韓国が日本となった《日韓併合/1910〜45年》は存在せず、代わりに併合期の《3・1運動/1919年3月1日》を起点とする建国物語が記されている。

 筆者は3・1を反日暴動、韓国は「独立運動」と認識するが、たった2カ月で収束。米国の独立戦争(1775〜83年)のような長期・大規模戦争を思い描くのは誤り。日本国憲法は“不磨の大典”を気取り進化を放棄しているが、韓国憲法は研磨し過ぎでバーチャル世界に踏み込んだ。生い立ちのいかがわしさ故に出来の悪い日本の欠陥憲法の方が、まだマシか…。

 韓国憲法前文にはこうある。

 《悠久の歴史と伝統に輝くわが大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国(韓国)臨時政府の法統…を継承》

1078とはずがたり:2017/07/12(水) 01:14:30
>>1077-1078
 朝鮮人が日韓併合期の3・1運動に際し独立を宣言した点は史実。ただ、憲法が宣言を捉え、建国をうたうのは無理スジだ。このシナリオだと、韓国は大韓帝国の正統後継国家で、日韓併合は史上存在しなくなる。《大韓帝国→大日本帝国→米国軍政→韓国》との正史ではなく《大韓帝国→日本の植民地→韓国臨時政府→韓国》との虚構だ。日韓併合は国際法上合法なのだが(とは註:歴史修正主義者なら欧米列強の植民地侵掠の正当化も修正しろよなあ)、韓国は朝鮮も大韓帝国も世界地図から消えた哀史を正視できないでいる。

 3・1運動は2カ月で終わった上、参加者は多いが逮捕→服役者は少なく、量刑も軽かった。何よりも初代大統領・李承晩(1875〜1965年)が大東亜戦争後の1948年に行った独立宣言の正当性まで問われかねず、運動に建国の起点を見いだすのは難しい(諸説アリ)。

 確かに韓国臨時政府は1919年、中華民国・上海で結成され、その後、各地を転々とした。ところが、適性を疑われ連合・枢軸国双方が国際承認を拒んだ。

 現に、「韓国臨時政府主席」の金九(1876〜1949年)は戦後、個人資格で“帰国”。自伝で憂いた。

 《心配だったのは(大東亜)戦争で何の役割も果たしていないため、将来の国際関係において、発言権が弱くなること》

 ■一蹴された連合国資格と棚ぼた式の独立

 そう。近代に入り、日本と朝鮮は本格的に矛を交えておらぬ。まともな対日ゲリラ抗戦もゼロ(とは註:こいつ(野口某)は北朝鮮の淵源の抗日パルチザンはどう評価してるのかな?まともには活動してないという評価?)。韓国は「日帝を負かして独立した」のではない。先述したが、終戦3年後、半島で統一国家建設をたくらむソ連に対抗した対日戦勝国・米国が長期信託統治を断念。米国に独立を大きく前倒ししてもらった棚ぼた式だった。

 だのに、韓国の「連合国願望」は筋金入りだ。

 李承晩は長崎県・対馬の「返還」要求と抱き合わせで、領土も画定する「サンフランシスコ講和条約署名国の資格が有る」と1949年、米国に訴えた。戦勝国=連合国入りさせろ-とゴネたのだ。駐韓米大使は米政府に口添えした。ワケがある。韓国は在日朝鮮民族の連合国民扱い=賠償を求めるなど国際の法・常識を無視する数多の無理難題を吹っ掛けたが、日本は無論、米国もほぼ呑めぬ内容だった。米国は難題を押さえ込むべく、韓国の署名要求を預かり、条約草案で一旦は締結国リストに加えた。

 けれども、日韓は戦っていないと英国が異を唱え、朝鮮戦争(1950〜53年休戦)を共に戦っていた米国も英国にならう。米国は《連合国共同宣言》への署名(1942年)がないとも指摘したが、韓国は執拗に食い下がった。連合国共同宣言参加国は最終的に47カ国。全物的・人的資源を対枢軸国用戦力に充てる方針に同意していた。

 間の悪いことに、フィリピン独立準備政府や多くの亡命政府も参加していた上、連合国(United Nations)なる用語が共同宣言で正式採用された。交渉過程で韓国は、日本の講和条約締結を終始妨害し、島根県・竹島の韓国編入すら主張した。結局、韓国が得たのは在朝鮮半島の日本資産移管のみ。講和会議へのオブザーバー参加も拒絶された。

 日本だった朝鮮の人々は、欧州列強の植民地兵のごとく人間の盾にされもせず、日本軍将兵として戦った。朝鮮人高級軍人の武勇は目覚ましく、触発された朝鮮人が志願兵募集に殺到した。1942年と43年の場合、募集各4000名/6000名にそれぞれ25万5000人と30万人超が受験。競争倍率63〜50倍が裏付ける朝鮮人の戦意に日本=朝鮮一体を確信する米国専門家もいた。朝鮮人の軍人・軍属は24万2000人以上。2万1000柱の朝鮮人英霊が靖国神社に祭られる。(とは註:英霊を崇めるならもっと朝鮮人リスペクトしやがれよなあ。)

 国際社会に連合国資格を一蹴されても、韓国は歴史の粉飾・捏造に耽った。韓国臨時政府は1940年、中華民国内で《韓国光復軍》を立ち上げる。韓国の教科書にも載るが、2013年の光復軍創立73周年、韓国メディアは光復軍について講釈した。

 《英軍と連合して1944年のインパール戦闘をはじめ、45年7月までミャンマー(ビルマ)各地で対日作戦を遂行した》

 実は、光復軍の動員計画は遅れ、創設1年目の兵力は300人。米CIAの前身で抵抗活動を支援するOSS(戦略諜報局)協力の下、朝鮮半島内で潜入破壊活動を考えたが、日本降伏が先になった。…

1079とはずがたり:2017/07/12(水) 01:14:52

韓国光復軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%85%89%E5%BE%A9%E8%BB%8D

韓国光復軍(かんこくこうふくぐん、英: Korean Liberation Army)は、1940年9月17日、中華民国の支援のもとに同国臨時首都重慶で創立された大韓民国臨時政府(通称:臨政)の軍事組織である。単に光復軍とも呼ぶ。
軍隊を称していたが、連合軍の参加は認められておらず、臨政が国家として承認されなかったので国軍でもない。参戦の計画はあったが、その前に終戦に至り、9名をインドに派遣した以外はほぼ戦闘に参加することもなく、連合軍によって解体を命じられた。

概要
大韓民国臨時政府を正式な交戦国・交戦団体に昇格させて連合国の一員とするという政治目標を持った組織であり、正式な軍隊[1]を“目指した”点で、他の抗日組織とは一線を画した。
重慶では、蒋介石を長とする国民党政府軍事委員会の傘下にあった。中国全域では中国共産党影響下の朝鮮人抗日組織の方が勢力が強かったが、「光線(光復戦線)」と「民線(民族戦線)」の統合が要求されて、直接の指揮下にない朝鮮人部隊も名目上は光復軍を名乗ることがあった。結果、国家主義者と共産主義者が混在することになって、日中戦争中も消えることがなかった中国大陸内における国共内戦の対立構造の中で不和が目立った。光復軍は朝鮮半島への潜入などいくつかの計画を温めていたが、1945年の日本のポツダム宣言受諾により、実戦にほとんど参加することなく終わった。
軍政期、冷戦対立が顕在化する中で、大韓民国臨時政府は正式な政府とは認められず、光復軍も民線(左派)が含まれていたことからすでに解体を命じられ、兵士と将校はばらばらに帰国するように指示された[2]。結局、大韓民国臨時政府および光復軍を朝鮮独立の礎となすという構想は実現せず、韓国陸軍の前身もアメリカ軍政時代にアメリカ軍政庁が結成した南朝鮮国防警備隊に譲ることになった。
皮肉にも、この組織は日本軍および満州国軍の朝鮮人将校(右派)を中心幹部としていた。さらに、最大の支援者であった中国国民党も、戦後の内戦で中国共産党に敗北して中国大陸から追われて台湾に逃れ、中国には中国共産党の中華人民共和国が成立した。臨時政府の幹部の中では、臨政初代大統領も務めた李承晩がアメリカでのロビー活動で得た人脈を活かして首班候補にまでなり、1948年8月15日に建国された大韓民国でも初代大統領に擁立された一方で、光復軍を構想から立ち上げた金九は、その李承晩との政争に敗れ、1949年に暗殺された。

詳細は「大韓民国臨時政府」、「李承晩」、「連合軍軍政期 (朝鮮史)」、および「大韓民国陸軍」を参照

1080とはずがたり:2017/08/06(日) 15:42:29
引き揚げ者多く住んだ「樺太団地」姿消す 札幌 年内に1棟に
https://news.goo.ne.jp/article/hokkaido/region/hokkaido-123939.html
08月05日 12:45北海道新聞

 戦後、サハリン(樺太)から引き揚げてきた人が多く住み、かつて「樺太団地」とも呼ばれた札幌市北区北24条周辺の市営住宅が、老朽化による取り壊しで姿を消しつつある。かつて23棟あった建物は現在3棟まで減り、年内には1棟のみとなる見通し。引き揚げ者の多くは別の土地に移ったり、亡くなったりして少なくなったが、元住民らは、まちの歴史を語る建物の最後を惜しんでいる。

 この地区の発展は、戦後間もない1948年ごろから建設された引き揚げ者住宅が原点だ。辺りは舗装路もない湿地で、住民たちはぬかるむ道を夏でもゴム長靴で歩いたという。49年には市内で戦後最初の町内会「北札幌振興会」を発足。「たすけあい金庫」をつくり、生活に困る会員に無利子無担保で金を貸し出すなど地域を支えた。

 引き揚げ者住宅は61年から順次建て替えられ、引き揚げ者以外も住むことができる市営住宅「幌北団地」となったが、継続して住む人も多く「樺太団地」と呼ぶ人もいた。主に鉄筋コンクリート造3階建てで、23棟に約400戸が入居。2006年になると樺太団地も老朽化に伴う取り壊しが始まり、住民は、付近に建て替えられた市営住宅か、他地域へ移転した。

1081とはずがたり:2017/08/14(月) 09:47:27
なんだ、寧ろ向いてたじゃねえか。

昭和天皇
「不向きな性格」死去直後、英大使が報告書
https://mainichi.jp/articles/20170720/k00/00e/040/228000c?inb=ys
毎日新聞2017年7月20日 10時32分(最終更新 7月20日 10時49分)

 若き日の昭和天皇は「性格的に天皇を務めるのに向いていなかった」。1989年1月7日の昭和天皇死去の約2週間後、英国のジョン・ホワイトヘッド駐日大使(当時、故人)がこうした内容の報告書を作成していたことが、20日に英公文書館が機密解除した公文書で分かった。

 報告書は1月23日付でサッチャー政権のハウ外相(同)宛て。天皇の来歴や太平洋戦争などへの関与、戦後に果たした役割を11ページにわたって記していた。

 ホワイトヘッド氏が「性格的に不向き」と述べたのは「(天皇の)青年期」の項目の冒頭。「明治維新の指導者の後継者たちはカリスマ性のある戦闘的な天皇を望んだ」ものの、即位前の昭和天皇は「内省的で、練兵場より科学実験室にいるほうが向いている」性格だったと描写。将来の軍最高司令官として軍事教育を受けたが「ほとんど熱意を示さなかったようだ」と述べた。

 ホワイトヘッド氏は報告書で、日中戦争や太平洋戦争に日本が突き進んでいった30〜40年代、天皇自身は穏健派としてこうした動きを食い止めようとしていたというのが研究者らの共通認識だとも指摘した。

 報告書では言及がないが、死去の数カ月前、英大衆紙が天皇を戦争指導者と位置付けて病状悪化を歓迎するような記事を掲載、日本外務省が抗議する騒動があり、ホワイトヘッド氏は記事のような見方があることに懸念を持っていたとみられる。

 ホワイトヘッド氏は55年に外務省に入り、86〜92年に大使を務めたのを含めて日本に4回駐在し、計17年間を過ごした。英国の日本研究者らでつくる日本協会の理事長も務め、2013年11月に81歳で死去した。(共同)

1082とはずがたり:2017/08/20(日) 22:28:39
インパール作戦も見入ってしまった。

NHKが731部隊の人体実験証言テープを公開し、安倍政権につながる重大な問題を指摘! ネトウヨが錯乱状態に リテラ 2017年8月16日 13時33分 (2017年8月20日 22時18分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20170816/Litera_3392.html

…今回、NHKは、1949年にソ連で開かれた軍事裁判「ハバロフスク裁判」の音声データを発掘。この裁判では731部隊の関係者も被告や証人となったが、そこで発せられた当事者たちの生々しい証言の数々を、テレビで放送したのだ。

「昭和18年の末だと記憶しています。ワクチンの効力検定をやるために、中国人それから満(州)人を約50名あまり人体実験に使用しました。砂糖水を作って砂糖水の中にチブス菌を入れて、そして、それを強制的に飲ませて、細菌に感染をさせて、そして、その人体実験によって亡くなった人は12から13名だと記憶しています」(731部隊隊衛生兵・古都良雄)

「ペスト蚤(ペストに感染させた蚤)の実験をする建物があります。その建物の中に、約4〜5名の囚人を入れまして、家の中にペスト蚤を散布させて、そうしてその後、その実験に使った囚人は全部ペストにかかったと言いました」(731部隊軍医・西俊英)

 さらに、731部隊では人体実験だけでなく、当時すでに国際条約で禁じられていた生物兵器の実践も行っていた。番組では、大量感染させる目的で集落に細菌を蒔いたとする裁判での証言音声も放送された。

「使われる細菌は、主として、ペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌であることが決定しました。ペスト菌は主として、ペスト蚤の形で使われました。その他のものはそのまま、水源とか井戸とか貯水池というようなところに散布されたのであります」
「あの当時、現地に中国人の捕虜収容所が2カ所ありました。その人員は約3000名と言われていました。その饅頭をつくりに参加しました。少し冷やしてから、それに注射器でもって、菌を注射しました」(731部隊第一部〔細菌研究〕部長・川島清)

●「人体実験はなかった」「NHKの捏造」とネトウヨがまたぞろトンデモ攻撃

 証言によれば、その後、細菌を注射した3000個の饅頭を収容所の中国人に食べさせたうえで解放。
"パラチフスに大量感染させる目的だったか"との問いに、「はい。自分はそのように聞きました」と答えている。

 生きた人間を生体実験に用い、さらに大量感染させるという極めて非人道的な戦争犯罪の実態。今回、NHKが初めて報じたハバロフスク裁判での証言音声は、これまでの研究を裏付ける貴重な新資料だ。

 ところが、放送後、ネトウヨたちがNHKに対して、またぞろ「人体実験はなかった」「NHKの捏造」なるトンデモ攻撃をがなりたて始めた。…

 過去の戦争犯罪を正視できず、条件反射的に「捏造」「反日」と騒ぎ立てる知性のなさは今に始まったことではないが、まさか、731部隊まで否定するとは......。

 ネトウヨたちは〈森村誠一が書いた「悪魔の飽食」によって事実がゆがめられた防疫部隊の話〉などと言って〈人体実験は捏造〉と吠えまくっているが、そもそも731部隊の話を書いてセンセーショナルな話題となった本『悪魔の飽食』が出たのは80年代初頭の話だ。現在では前述のとおり、常石敬一氏らの実証的な研究や関係者の証言及び手記等により、731部隊による人体実験の存在は事実と確定している。

 とりわけ人体実験の有無については、秦郁彦氏をはじめとする保守派の歴史学者でも異論を挟む者はもはや皆無だ。というか、だいたい『Nスペ』を見れば、番組が『悪魔の飽食』を下敷きにしていないのは誰にだってわかるだろう。まったく、お話にならない。

 しかし、これは逆にいうと、ネトウヨたちが錯乱し、こんな噴飯モノのいちゃもんしかつけられないくらい、今回の『Nスペ』の内容が実証的で決定的だったということでもある。しかも、同番組を評価すべき点は、裁判証言の音声データを放送したことだけではない。『Nスペ』は膨大な資料と丹念な取材から、731部隊を生み出した背景に、大学と研究者の全面的な協力があったことを浮かび上がらせた。

 そして、これは、現在の安倍政権が推し進める"軍学共同"政策につながる問題だった。…

1083とはずがたり:2017/08/23(水) 18:21:01
中韓は日本のせいで植民地になったから植民地に侵掠した他の東南アジア諸国とは逆だよなあ。。台湾は中国が侵略者であったという事か。

台湾やミャンマーも侵略されたのに・・・なぜ中国と違って「日本を恨まないのか」
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170823/Searchina_20170823034.html
サーチナ 2017年8月23日 11時42分 (2017年8月23日 18時05分 更新)

 中国で根強い反日感情が存在することは日本でも広く知られている。だが、歴史問題を理由とした反日感情が存在する国は中国と韓国くらいであり、過去に日本の統治を受けた台湾や東南アジア諸国には根強い反日感情が存在するという話は聞かない。

 中国メディアの今日頭条はこのほど、東南アジア諸国も第2次世界大戦中に日本によって侵略されたというのに、「なぜ日本を恨まないのか」と疑問を投げかける記事を掲載した。

 記事は、アジアの近代化の歴史は、西洋の侵略者への対応の歴史であったとし、第2次世界大戦までに独立を維持できたのは日本とタイと中国だけだったと指摘。そのほかの国は西洋の列強に植民地にされていたと伝え、なかでも日本はもっとも近代化に成功した国であり、その日本が西洋の列強によるアジア侵略に危機感を抱いたのもごく自然な流れだったとした。

 続けて、「日本の軍国主義者が中国を侵略したことを弁護するわけではない」とする一方、第2次世界大戦で、日本の多くのエリート達が植民地化されたアジア諸国の解放を目指していたのも事実であるとし、戦争が、西洋諸国とアジア人による戦いだったという側面は否定できないとした。

 さらに、ミャンマーのヤンゴン大学の教授がかつて「東南アジアの植民地政権は日本によって打ち破られ、日本は東南アジア諸国の人びとに民族独立の鼓動を与えた」と考察していることを伝え、日本人のなかには、「第2次世界大戦の終結によって、西洋の白人はアジアの植民統治を維持できなくなり、アジア諸国は解放されたのだ」と考える人がいると指摘した。

 中国人の立場からは「賛同できない」としながらも、こういった考え方は東南アジア諸国では比較的認知された考え方であり、こうした「歪んだ考え方」があるから「東南アジア諸国は日本を恨まないのではないか」と主張した。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

1084とはずがたり:2017/08/24(木) 15:25:06
小池も歴史を直視出来ないタイプなのか?

関東大震災朝鮮人犠牲者への追悼文取りやめ 小池知事
https://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASK8S3K4NK8SUTIL00P.html
12:45朝日新聞

 東京都の小池百合子知事が、9月1日に市民団体の日朝協会などが主催する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に、都知事名の追悼文を送らない方針を決めたことが分かった。都知事は例年、追悼文を出してきたが、小池氏は今春、見直しを示唆していた。主催者からは「突然の方針転換は納得できない」と非難する声が上がっている。

 追悼式は毎年、日朝協会や日中友好協会などが、都立横網町公園(東京都墨田区)で開いている。1923年の関東大震災時には「朝鮮人が暴動を起こした」といったデマが広がり、多数の朝鮮人や中国人が虐殺された。式典では、その犠牲になった人たちも追悼している。

 都や式典の主催団体によると、式典には例年、石原慎太郎元都知事らが知事名で追悼文を寄せてきた。小池氏も昨年、「多くの在日朝鮮人の方々が、言われのない被害を受け、犠牲になられたという事件は、わが国の歴史の中でもまれに見る、誠に痛ましい出来事」などとする文を主催者に送っている。だが今年は、主催団体が5月に追悼文送付を要請したところ、担当する都建設局が今月、送付中止の方針を伝えたという。

1085とはずがたり:2017/08/26(土) 22:46:06
防衛・安全保障国家・民族
昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52568
「独白録」「実録」から聖断を再考する
栗原 俊雄

1086とはずがたり:2017/09/04(月) 22:43:52
濡れ衣「戦犯」の名誉守りたい-熊本県白菊会、英霊47柱を追悼 「真面目な人ほど罪着せられ犠牲に」
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%BF%A1%E3%82%8C%E8%A1%A3%E3%80%8C%E6%88%A6%E7%8A%AF%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%90%8D%E8%AA%89%E5%AE%88%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%EF%BC%8D%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E7%99%BD%E8%8F%8A%E4%BC%9A%E3%80%81%E8%8B%B1%E9%9C%8A%EF%BC%94%EF%BC%97%E6%9F%B1%E3%82%92%E8%BF%BD%E6%82%BC-%E3%80%8C%E7%9C%9F%E9%9D%A2%E7%9B%AE%E3%81%AA%E4%BA%BA%E3%81%BB%E3%81%A9%E7%BD%AA%E7%9D%80%E3%81%9B%E3%82%89%E3%82%8C%E7%8A%A0%E7%89%B2%E3%81%AB%E3%80%8D/ar-AAregUG#page=2
産経新聞
15 時間前

 敗戦後、「戦犯」として戦勝国に裁かれ、処刑された熊本県出身の英霊47柱を追悼する慰霊祭が3日、立田霊園(熊本市中央区)の英霊慰霊碑前で営まれた。遺族8人や隊友会関係者ら約30人が参列し、鎮魂の祈りをささげた。

 「熊本県昭和殉難者慰霊祭」は、BC級戦犯として処刑された人々の遺族でつくる「熊本県白菊会」が主催した。同会は昭和33年に発足し、37年に立田山山上に慰霊碑を建立した。

 慰霊祭で、白菊会の寺岡節会長(64)は「戦後72年がたち、ようやくあの戦争の真実が暴かれ始めた。今こそ国民が真実を知り、自覚しなければならない。海外に眠る113万柱のご遺骨を迎えに行かなくては、日本の戦後は終わらない」と述べた。

 寺岡氏の祖父、中村鎮雄・陸軍大佐は戦時中、タイにあった捕虜収容所の所長を務めた。日本軍は泰緬(たいめん)鉄道(タイ-ミャンマー)の建設を進めたが、栄養失調や疫病で、従事した捕虜らが亡くなった。中村大佐は戦後、捕虜に対する虐待(ジュネーブ条約違反)を問われ、逮捕された。

 中村大佐はシンガポールに送られ、英軍の軍事法廷で、捕虜管理の責任者として死刑判決を受けた。中村大佐が捕虜に手を下した事実はなく、英軍捕虜が減刑を嘆願するほどだったという。

 だが、死刑は執行された。享年63。辞世の句は「敗戦の贄(にえ)と散りゆく 我(われ)はまた ただ立ち上がる国 祈るのみ」だった。

 寺岡氏は「祖父は国際法にのっとった行動をしていた。戦犯は濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)。その中で、覚悟をもって刑を受けた英霊には、感謝の気持ちでいっぱい」と話した。

 慰霊祭の斎主を務めた熊本県護国神社の坂本泰彦宮司も「真面目な人ほど、罪を着せられて犠牲になられた。英霊の名誉を守らなければ、浮かばれない」と述べた。

1087とはずがたり:2017/09/05(火) 19:31:38
どっかで書いたhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1043205301/4642けど,国連軍の金看板が有りながら開城とソウル北部近郊を確保出来なかった事が朝鮮戦争休戦での大失敗だけえがこの2人が戦犯か。。

「北朝鮮」を存続させた2人のダメ指揮官
プレジデントオンライン 2017年9月3日 11時15分 (2017年9月4日 11時11分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/economy_clm/20170903/President_22992.html

1950年に勃発した朝鮮戦争で、国連軍は一時北朝鮮を中朝国境まで追い詰めている。その後、中国の介入によって国連軍は押し戻され、現在の38度線に国境が引かれた。その結果、韓国と北朝鮮は現在も休戦状態にある。アメリカのマッカーサー、韓国の李承晩。2人の「ダメ指揮官」の“呪い”は、現在の朝鮮半島にも影を落としている――。

■闇に葬られたある事件
朝鮮戦争が勃発して間もない1950年7月11日、まだアメリカの占領下にあった日本で、忌まわしい事件が発生しました。福岡県小倉市(当時。現在は北九州市の一部)の城野基地に一時駐屯していた米陸軍第25歩兵師団第24歩兵連隊の数千名の兵士のうち、約200名(『福岡県警史 昭和前編』による)が夜間に武装して基地を脱走。周辺の民家に侵入し、略奪や婦女暴行を働いたのです。
当時朝鮮半島では、アメリカ軍が劣勢に追い込まれていました。事件を起こした兵士たちは、日をおかず危険な前線に送られる予定であり、死を覚悟していたとされます。脱走兵たちはほどなく米軍の手で鎮圧され、部隊に連れ戻されましたが、多数の女性が被害に会いました。当時の日本は占領下にあったため、ほとんど何の対応もできず、報道もされませんでした。被害の詳細はわからず、事件は闇に葬られたままです。ただ、『福岡県警史 昭和前編』には、42〜43歳の主婦が夫の目の前で兵士たちに集団暴行されたことが記されており、松本清張はこの夫婦をモデルに小説『黒地の絵』を書いています。
この部隊はその後、小倉から朝鮮半島に派遣されて激戦地を転戦し、大きな犠牲を出すことになります。

■マッカーサーとトルーマンの対立
朝鮮戦争で米韓側の指揮をとっていた連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーは、何の根拠もなく「中国の半島介入はない」と大見得を切っていました。「ない」という誤った前提で作戦が展開されたため、中国「義勇軍」の介入によってアメリカ軍をはじめとする国連軍は大打撃を受け、敗走しました。そして、再び、ソウルを奪われました。2カ月後、前線の指揮を任されたマシュー・リッジウェイ中将により、国連軍はソウルの再奪還に成功しますが、戦線は膠着(こうちゃく)します。
マッカーサーは自分の大失態をごまかすため、「中国東北部に原爆を落とせ」と主張します。もちろん、そんなことをすれば中国やソ連との全面戦争となるため、ハリー・トルーマン大統領らワシントン中枢は誰一人、賛同しません。
マッカーサーはトルーマン大統領が作戦の障害となっていると批判。トルーマンは激怒し、「上級機関の了承を得て、意見表明をするように」と指示しましたが、マッカーサーはこの指示を無視。「中国をたたきのめす」と勝手に声明を出し、中国との全面戦争を主張しています。
中国が介入したことで、トルーマン大統領は停戦の方向へかじを切ります。マッカーサーはこれを非難し、両者の確執はいっそう高まります。さらにマッカーサーは、とんでもない主張をはじめます。
中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に50個もの原爆を投下し、さらに中国国境に放射性コバルトを散布して、中国軍の侵入を防ごうというのです。
トルーマン大統領は温厚な調整型の政治家でしたが、そのトルーマンもマッカーサーには我慢がなりませんでした。「なぜ、ルーズヴェルト(前任の大統領)はあのうぬぼれ屋を登用したんだ?」と、トルーマンは言っています。
イギリスなどの同盟国も、マッカーサーの資質にはっきりと疑問を呈しています。トルーマンは国務長官ディーン・アティソン、国防長官ジョージ・マーシャルとも相談していますが、彼らもまた「マッカーサーはふさわしくない」と答えています。トルーマンはついにマッカーサーの解任を決意します。
1951年4月19日、マッカーサーはワシントンで退任演説を行い、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という有名な言葉を発しています。最後の最後まで、パフォーマンスづくしでした。

1088とはずがたり:2017/09/05(火) 19:31:55
>>1087-1088
■絶たれた大統領選への野望
マッカーサーは「自分は『中国の介入はない』と言ったことはない」と主張していました。しかし、ニューヨーク・タイムズ紙にトルーマンとマッカーサーの会議録が掲載され、マッカーサーが「中国の介入はない」と断言していることが明らかになります。これは政府のリークによるものでした。当初、マッカーサーはこの件に関し、名誉毀損(きそん)だとわめいていました。議会の公聴会で、民主党議員がこの件をマッカーサーに追及したところ、マッカーサーはまともに答えることができませんでした。
虚言癖が明らかになりながらも、マッカーサーは国民から絶大な人気を誇っていました。マッカーサーは翌年に控えていた大統領選に出馬するため、全国を遊説してまわります。最初は各地で熱狂的に迎えられましたが、聴衆は次第にマッカーサーの中身のない演説に飽き飽きしていきます。マッカーサーが話せば話す程、彼の人間性の浅さが露呈し、人々の支持は急速に失われていきます。
最終的に、共和党の大統領候補者に指名されたのは、マッカーサーの元部下のドワイト・アイゼンハワーでした。

■自軍の兵士を横領で餓死させた韓国軍幹部
さてこの間に、韓国では常識では考えられないような事件が起こっています。劣勢に追い込まれていた韓国軍は、新たに徴兵制による「国民防衛軍」を創設し、戦力の増強をはかりました。ところが、その兵士たちに届くはずの食料が横領され、なんと約9万人の兵士が餓死してしまいました。1951年1月に起きた「国民防衛軍事件」です。
国民防衛軍にかき集められた新兵たちには未成年や病人も多く含まれ、そのほとんどは銃の扱い方も分からないような状態でした。中国「義勇軍」と北朝鮮軍にソウルを奪い返されると、50万人の国民防衛軍はなすすべもなく、南の大邱や釜山へと後退しました。
その過程で、国民防衛軍のために用意された軍事物資や兵糧米などを、同軍の幹部たちが横流ししてしまったのです。極寒の中、徒歩で撤退していた国民防衛軍の兵士は食糧不足でバタバタと倒れ、文字通り「死の行進」となりました。…

この横領の背後には、国防長官の申性模(シン・ソンモ)ら、政府中枢からの指示があったことが明らかになっています。横領で得た利益の一部は、李承晩大統領の政治資金に回されたとされます。
これらのことは韓国メディアによって報じられ、焦った李承晩は国民防衛軍幹部数人を処刑し、申性模国防長官を解任しました。申性模以外にも、複数の軍幹部が関わっていたはずです。

■戦いを継続できる状況ではなかった
アメリカのマッカーサー、韓国の李承晩。連載でみてきたように、このコンビは米韓側に最悪の状況をもたらしていました。米韓側は、北朝鮮や中国とまともに戦争を続けられる状況ではなかったのです。こうした状況を踏まえ、トルーマン大統領は停戦を模索しはじめます。
1951年6月にソ連がこれに応じ、以後、休戦に向けた交渉が続きますが、難航しました。1952年の1年間は交渉が放棄されていた時期が多かったのですが、1953年3月、ソ連のヨシフ・スターリン書記長が死去すると交渉が動きはじめました。アメリカでは1月に、大統領がトルーマンからアイゼンハワーに交代しています。
1953年7月27日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれました。この休戦協定は「停戦の合意」に過ぎず、いまだに朝鮮戦争は正式に終わっていません。2人の「ダメ指揮官」の呪いは、現在まで続いているのです。
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宇山卓栄(うやま・たくえい)

1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。個人投資家として新興国の株式・債券に投資し、「自分の目で見て歩く」をモットーに世界各国を旅する。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』 (三笠書房) などがある。
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(著作家 宇山 卓栄 写真=時事通信フォト)

1089とはずがたり:2017/09/05(火) 19:39:50
マッカーサーはなぜ大統領選で落選したのですか? アイゼンハワーとかは当選し...
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13101197083
ID非公開さん2013/1/3113:45:53

マッカーサーはなぜ大統領選で落選したのですか?

アイゼンハワーとかは当選したのに

ベストアンサーに選ばれた回答
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kouyouchinbutaiさん 2013/2/213:07:14
大統領選には出ませんでした。マッカーサーは大統領職に興味を持った時期はありましたが、結局高齢の為(大統領になっていたら73歳の時だった)陸軍士官学校の後輩でマッカーサーが陸軍参謀総長そしてフィリピン軍総司令官の時の副官だったアイゼンハワーに譲りました。別にアイゼンハワーと大統領候補の座を争ったわけではなく、共和党のシニアの連中がアメリカでは英雄として崇拝されていたマッカーサーを押し立てて独走気味で大統領候補に推薦、その時点ではマッカーサー自身も余り乗り気ではなく結局尻すぼみで10歳若いアイゼンハワーに落ち着きました。

アメリカに於けるマッカーサーとアイゼンハワーの人気の差を気にする人もいる様ですが、マッカーサーは生粋の軍人。朝鮮戦争に関してトルーマン大統領と意見を異にして解任され14年ぶりにアメリカに帰った時は「アメリカン・シーザー」と呼ばれて各地で熱狂的な大歓迎を受けました。

あの有名な「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という演説を議会で行ったのちワシントン市で凱旋パレードを行いましたが、ワシントン市建設以来最高の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送りました。そしてその翌日、ニューヨーク市のマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋のパレードの時の4倍、約700万人がマッカーサーが乗ったオープン・カーが通る沿道を埋め尽くしてマッカーサーを祝福したといいます。

(ニューヨーク市内のパレードで沿道に集まった市民とビルの窓からの紙テープの大歓迎を受けるマッカーサー元帥の車列)

1090とはずがたり:2017/09/05(火) 19:51:08
産経大好きなブロガーみたいなんでどうでも良い事をうだうだ書いてるけえが興味深い。
自衛だろうが侵掠だろうが無能な旧日本軍の醜態を忘れてはならんし,日本人が負け戦するとああなる事をキモに命じておかねばならんだらう。

マッカーサーは,事実上第三次世界大戦を煽動して解任されたのであり,言動に不信感をもたれこの後の大統領選に出られもしなかったのだ。
また極東軍事裁判の時点とこの時点での状況の変化も見逃せない。

極東軍事裁判の無謬性に固執しても日帝の無謬性に固執しても真実は明らかに出来ないのだよ┐('〜`;)┌

マッカーサーは52年の大統領選に共和党から出馬し、民主党候補として再選を狙うであろうトルーマンを
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/ee73689ae1fa81b116f1ccfc8571d3a1
2015-12-26 08:57:03 | 日記

友人が、昨日の産経新聞の特集もとても良いよ、と言って、手渡してくれたのが、以下の本文である。
朝日や毎日を購読している世帯に育った人たちは、全く知らなかった事実である。
朝日や毎日の人間たちにとっては、正に不都合な真実だろう。

報道とは、簡単に言えば、事実を伝える事である。
その観点からも、今の産経新聞は、日本で最もまともな新聞社だと言えるだろう。

「日本は自衛の戦争だった」
「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ。神が示すところに従い自己の任務を果たさんと試みた一人の老兵として。さようなら」 

1951年4月19日。米上下院合同会議で、連合国軍最高司令官(SCAP)として日本を占領統治した陸軍元帥のダグラス・マッカーサーは半時間の退任演説をこう締めくくった。 

後に第37代大統領となる共和党上院議員のリチャード・ニクソンは演説を聴き、その感激は自著「指導者とは」にこう記した。

「マッカーサーは古代神話の英雄のようだった。彼は力強く議場全体が魔術にしびれ、演説は何度も拍手で中断された。ある上院議員は『共和党員は感激でまぶたを濡らし、民主党員は恐怖でパンツを濡らした』と語った。

8日前の11日、マッカーサーは第33代米大統領、ハリー・トルーマンに全ての役職を解任され、帰国した。

マッカーサーは52年の大統領選に共和党から出馬し、民主党候補として再選を狙うであろうトルーマンを完膚なきまでにたたき潰す腹づもりだったのだ。

演説でも「私の朝鮮政策だけが勝利をもたらす。現政権の政策は長く終わりのない戦争を継続するだけだ」とトルーマンを批判した。

米国内のマッカーサー人気は絶大だった。

愛機」「バターン号」がサンフランシスコに到着した際は50万人以上が出迎え、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、ミルウォーキーの各地で行われたパレードには総勢数百万人が集まった。

逆に「英雄」を解任したトルーマンに世論は冷ややかで、マッカーサーの第二の人生は順風満帆に見えた。

マッカーサーの戦略の正当性を補強するのが徂いだったが、マッカーサーの回答は予想外だった
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/74b5e2d639cfb444a3019d2a70f3f469
2015-12-26 09:00:47 | 日記

共和党の策謀

米上院軍事・外交合同委員会はマッカーサーを聴聞会に召喚した。
テーマは 「極東の軍事情勢とマッカーサーの解任」背景にはトルーマン政権に打撃を与えようという共和党の策謀がめった。

マッカーサーは快諾した。
大統領選の指名争いに有利だと考えたからだ。
狙い通り、世界中のメディアが聴聞会の動向に注目し、事前から大々的に報じた。

1091とはずがたり:2017/09/05(火) 19:51:31

5月3日の聴聞会初日。証言台に立ったマッカーサ-は質問に誠実に応じ、1950年6月に勃発した朝鮮戦争の経緯をよどみなく説明し続けた。

質問者の共和党上院議員、バーク・ヒッケンルーパーは「赤化中国を海と空から封鎖するという元帥の提案は米国が太平洋で日本を相手に勝利を収めた際の戦略と同じではないか」とただした。

マッカーサーの戦略の正当性を補強するのが徂いだったが、マッカーサーの回答は予想外だった。
「日本は4つの小さい島々に8千万人近い人口を抱えていたことを理解しなければならない」
「日本の労働力は潜在的に量と質の両面で最良だ。彼らは工場を建設し、労働力を得たが、原料を持っていなかった。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在していた」
「もし原料供給を断ち切られたら1000万〜1200万の失業者が日本で発生するだろう。それを彼らは恐れた。従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」

会場がどよめいた。
証言通りならば、日本は侵略ではなく、自衛のために戦争したことになる。
これは「侵略国家・日本を打ち負かした正義の戦争」という先の大戦の前提を根底から覆すどころか、東京裁判(極東国際軍事裁判)まで正当性を失ってしまう。
もっと言えば、5年8ヵ月にわたり日本を占領統治し「民主化」と「非軍事化」を成し遂げたというマッカーサーの業績までも否定しかねない。

この発言は共和党の期待を裏切り、激しい怒りを買った。
マッカーサー人気はこの後急速にしぼみ、大統領の夢は潰えた。

軍人マッカーサー偽らざる思い なぜマッカーサーはこのような証言をしたのか。
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/da0eecbe455cab65982bc16446224a08
2015-12-26 09:18:00 | 日記

なぜマッカーサーはこのような証言をしたのか。

日本の「自衛戦争」を認めた理由についてマッカーサーは回顧録でも触れていない。
だが、マッカーサーが朝鮮戦争でどのような戦略を描いたかをひもとくと答えが見えてくる。
マッカーサーは、朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中国(中華人民共和国)という共産主義国の脅威を痛感した。 朝鮮と台湾が共産主義国の手に落ちれば、日本も危うく、極東での米国の陣地は失われ、防衛線は米西海岸まで後退しかねない。
それを防ぐには朝鮮半島を死守するしかない。
この見解は国務省や国防総省にも根強くあった。

ところが、トルーマンは、北大西洋条約機構(NATO)加盟国が「中ソが徹底的に対立すれば、欧州はソ連の報復攻撃を受けかねない」と動揺したこともあり、北緯38度線付近で「痛み分け」にする策を練っていた。

これに対して、マッカーサーは中国を海と空で封じ込め、毛沢東率いる共産党政権を倒さねば、将来の米国の安全を脅かすと主張して譲らなかった。

これがトルーマンがマッカーサーを解任した理由だった。
マッカーサーの主張は、その後の歴史をたどっても説得力がある。

日本政府が独立を守るために日清戦争以来とってきた戦略と変わりない。
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/28e0880dbbc7dc71d69a36e9eac68d86
2015-12-26 09:24:18 | 日記

ただ、朝鮮半島を死守しつつ、大陸の中ソと対峙するという戦略は、日本政府が独立を守るために日清戦争以来とってきた戦略と変わりない。

「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」 マッカーサーはこうも語った。

マッカーサーは日本の占領統治と朝鮮戦争を通じて日本の地政学的な重要性に気づいたに違いない。

1092とはずがたり:2017/09/05(火) 19:51:45
>>1090-1092
交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/c8e5575de803db29381a64b72d62c287
2015-12-26 09:26:46 | 日記

他にもマッカーサーは重要な証言を残した。

民主党上院議員、ラッセル・ロングが「連合国軍総司令部(GHQ)は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」とたたえたところ、マッカーサーは真っ向から否定した。
「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ」「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」 

それならば日本の占領統治や東京裁判は一体何だったのかとなるが、これ以上の追及はなかった。

別の上院議員から広島、長崎の原爆被害を問われると「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えた。
原爆投下を指示したトルーマンを批判したかったようだが、原爆を「虐殺」と表現した意義は大きい。

このように3日間続いた聴聞会でのマッカーサー証言は日本人を喜ばせたが、ある発言で一転して激しい怒りと失望を招いた。

治世を称賛した。マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」に映ったのではないか。
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/2dfd30ddfe06699fcedea121ffad744f
2015-12-26 09:28:29 | 日記

「科学、芸術、神学、文化においてアングロサクソンが45歳だとすれば、ドイツ人も同程度に成熟していた。日本人はまだわれわれの45歳に対して12歳の少年のようである」。ただ、この発言の前後で「学びの段階に新しい思考様式を取り入れるのも柔軟だ。日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受容力がある」とも述べている。

日本人は大戦で勇猛に戦い、米軍を震撼させながら、敗戦後は驚くほど従順でマッカーサーの治世を称賛した。 マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」に映ったのではないか。

1952年7月の共和党大会で、かつての部下で欧州戦線の最高司令官を務めたドワイト・アイゼンハワーが指名され、53年に第34代大統領に就任した。

マッカーサーを尊敬するニクソンは、GHQ民政言長だったコートニー・ホイットニーを通じてホテルの自室に招かれ、その後何度も教えを請うた。ただ、欠点も見抜いていた。「マッカーサーの最大の過誤は政治的野心を公然と示し、軍事的声望を政治的資産に転じようとしたことだった…」

64年4月5日午後2時30分、マッカーサーはワシントン近郊のウォルター・リード陸軍病院で84年の生涯を閉じた。
元首相、吉田茂は産経新聞に「天皇制守った恩人」と題した追悼文を寄せた。
昭和天皇も米大統領宛てに弔電を打った。葬儀は8日に米議会議事堂で営まれ、吉田も参列した。

毀誉褒貶の激しい人生だった。
マッカーサーの評価は日本でもなお定まらない。

1093とはずがたり:2017/09/05(火) 20:26:58
>マッカーサーを尊敬するニクソンは、GHQ民政言長だったコートニー・ホイットニーを通じてホテルの自室に招かれ、その後何度も教えを請うた。>>1092
だそうだがアイゼンハワーは少なくとも後年はマッカーサーを評価してなかった様だし耄碌してまともな戦略を描けなくなった様だ。。

ダグラス・マッカーサー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC

退任

1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。最後に、ウェストポイントに自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ[注釈 13]」と述べ、有名になった。

議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨークのマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まってマッカーサーを祝福した。その日ビルから降り注いだ紙吹雪やテープは、清掃局の報告によれば2,859トンにもなった。また、1942年にマッカーサーがコレヒドールで孤軍奮闘し国民的人気を博していた時に、コーンパイプやマッカーサーを模したジョッキなどのキャラクターグッズで儲けた業者が、また大量のマッカーサー・グッズを販売したが、飛ぶように売れた。住居としていたマンハッタンの高級ホテル「ウォルドルフ=アストリア」のスイートルームには15万通の手紙と2万通の電報と毎日3,000件の電話が殺到し、家族にも各界から膨大な数のプレゼントが送られてくるほど、マッカーサーの国民的人気は頂点に達した[212]。

5月3日から、マッカーサーにとって最後の公務となる、上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席した。議題は「マッカーサーの解任」と「極東の軍事情勢」についてであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマンら民主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政治ショーとの意味合いも強かった。しかし、この公聴会に先立つ4月21日に、トルーマン政権側のリークによりニューヨーク・タイムズ紙にトルーマンとマッカーサーによるトラック島会談の速記録が記事として掲載された。これまでマッカーサーは「中国の参戦はないと自分は言っていない」と嘘の主張を行っており、この速記録によりこれまでの主張を覆されたマッカーサーは「中傷だ」と激怒し必死に否定したが、この記事は事実であり、この記事を書いたニューヨーク・タイムズの記者トニー・リヴィエロは1952年にピューリッツァー賞を受賞している[213]。この記事により、マッカーサーの国民的人気を背景にした勢いは削がれていた。

1094とはずがたり:2017/09/05(火) 20:28:35

公聴会が始まると、マッカーサーは「ソ連は朝鮮戦争に深く関与していない」「中共が朝鮮半島から追い出されるくらいの敗北はソ連に大した影響は与えない」「極東地域のソ連軍にアメリカ軍と戦うだけの実力はなく、核兵器も劣っている、従ってソ連と戦うのなら今の方がよい、時間と共にアメリカの優位性は失われていく」など、自身のソ連への評価と情勢判断を雄弁に証言したが、統合参謀本部と議員にはソ連が例えマッカーサーの分析通りであったとしても超大国ソ連を刺激する覚悟はなく、マッカーサーの大胆な提案が現実離れしているという考えが大勢を占めていた。ブラッドレーはマッカーサーの提案を「我々を誤った場所で、誤った時期に、誤った敵との誤った戦争に巻き込むことになったであろう」と切り捨てている[214]。
また、マッカーサーのソ連への過小評価を聞き、大戦前に日本を過小評価して敗北したマッカーサーの前の過ちを思い出す議員も多かった[215]。
しかし、雄弁に公聴会をリードしてきたマッカーサーも、民主党のブライアン・マクマーン上院議員からの、ニューヨーク・タイムズの記事に書かれた通り「あなたは中国は参戦しないと確信していたのではなかったのか?」との質問を受けると、これまでのように否定することもできず「私は中国の参戦はないと思っていた」と認めざるを得なくなった。この白状によりマッカーサーの立場は弱くなっていき、マクマーンがたたみかけるように「将軍はアメリカと西側連合軍が西ヨーロッパでソ連軍の攻撃に耐えることができるとお思いか?」と質問すると、マッカーサーは「私の責任地域(極東)以外のことに巻き込まないでほしい。グローバルな防衛に関する見解はここで証言すべきことではない」と答えたが、リンドン・B・ジョンソン上院議員からのその責任地域の「中国軍が鴨緑江以北に追いやられた場合、中国軍は再度国境線を突破し朝鮮半島に攻め込んではこないのか?」という質問に対しては、まともな返答を行うことができなかった。それまで専門家を自認し自説を雄弁に語っていた強気な姿勢は完全に失われ、政権側の民主党の容赦ない質問に一方的な守勢となっていった[216]。

マッカーサーへの質疑は3日間にわたり、トルーマン政権はマッカーサーに対し勝利を収めたが、これでトルーマンが責任追及から逃れられたわけではなく、鴨緑江流域での敗北はマッカーサーと同様にトルーマン政権をも破壊し、この後民主党は政権を失うこととなる[217]。しかし、マッカーサー解任当時は「これほど不人気な人物がこれほど人気がある人物を解任したのははじめてだ」とタイム誌に書かれるほどの不人気さで、大統領再選を断念したトルーマンも、文民統制の基本理念を守り、敢然とマッカーサーに立ち向かったことが次第に評価されていき、在職時の不当な低評価が覆され、今日ではアメリカ国民から歴代大統領の中で立派な大統領の1人と看做されるようになっている[218]。
この3日間にわたる質疑中に、今日でもよく日本で引用される「中国に対しての海空封鎖戦略」や「日本人は12歳」証言もなされている(#マッカーサーのアメリカ議会証言録を参照)。 この聴聞会の後は軍人として活動することはなく、事実上退役したが、アメリカ軍において元帥には引退の制度がないため、軍籍そのものは生涯維持された[220]。

1095とはずがたり:2017/09/05(火) 20:28:50
>>1093-1094
退任後

マッカーサーはその後、全国遊説の旅に出発した。テキサス州を皮切りに11州を廻ったが、いく先々で熱狂的な歓迎を受けた。マッカーサーは各地の演説で1952年の大統領選を見据えて、上院聴聞会では抑えていたトルーマンへの個人攻撃や高い連邦税の批判など、舌鋒鋭い政治的発言を繰り返したが、時が経つにつれ次第に聴衆は減少していった[201]。

1951年9月にサンフランシスコで日本国との平和条約が締結されたが、その式場にマッカーサーは招かれなかった。トルーマン政権はマッカーサーにとことん冷淡であり、フランクリン・ルーズヴェルトの元大統領顧問バーナード・バルークなどはトルーマン政権にマッカーサーにも式典への招待状を送るようにと強く進言していたが、ディーン・アチソン国務長官はそれを断っている。首席全権であった吉田茂が、マッカーサーと面談し平和条約についての感謝を表したいと国務省に打診したが、国務省よりは「望ましくない」と拒否されるほどの徹底ぶりであった。

その後も相変わらずマッカーサーの政権批判は続いたが、英雄マッカーサーの凱旋を当初熱狂的に歓迎していた全米の市民も、1952年に入る頃には熱気も冷め始めており、ジャクソンで行われた演説は反対の叫び声などで25回も演説が中断した、と『ニューヨーク・タイムズ』紙で報じられた。マッカーサーに対する共和党内の支持は広がらなかったが、大統領の座に並々ならぬ執着を見せ、同じく劣勢であった候補者ロバート・タフトと選挙協力の密約を行うなど最後の挽回を試み、7月のシカゴであった共和党大会の基調演説のチャンスを与えられたが、その演説は饒舌で演説上手なマッカーサーのものとは思えない酷いもので、演説に集中できない聴衆が途中から私語を交わし始め、最後は演説が聞き取れないほどまでになった。マッカーサーも敗北を悟るとひどく落胆したものの、即座にニューヨークに戻り、結局共和党の大統領候補には元部下のアイゼンハワーが選出された[222]。
大統領候補となったアイゼンハワーとマッカーサーは、共和党大会後の11月に6年ぶりに再会した。かつての上司の顔を立てる意味であったのか、アイゼンハワーからの会談の申し出であったが、マッカーサーはアイゼンハワーに自らが作成した14箇条の覚書を手渡した。その内容は、ヨシフ・スターリンと首脳会談を開き、「東西ドイツ及び南北朝鮮の統一」「アメリカとソ連の憲法に交戦権否定の条項を追加」などを提案し、スターリンが尻込みするようであれば北朝鮮で核兵器を使用せよ、などという、大胆だという以外は何の価値もない提案であった。その後、アイゼンハワーは大統領本選にも勝利して第34代大統領に就任したが、アイゼンハワーらホワイトハウスもペンタゴンもマッカーサーに意見を求めるようなことはなかった[223]。

1096とはずがたり:2017/09/05(火) 21:18:39
https://books.google.co.jp/books?id=e_MkDwAAQBAJ&amp;pg=PP57&amp;lpg=PP57&amp;dq=%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%80%80%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E9%81%B8&amp;source=bl&amp;ots=jh8gDmAi1_&amp;sig=XTnzYboaTnue-Eu-LXzRZWACQkk&amp;hl=ja&amp;sa=X&amp;ved=0ahUKEwix9dDU-I3WAhUJTrwKHRU_ARE4ChDoAQhEMAg#v=onepage&q=%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%80%80%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E9%81%B8&f=falseで一部中身を見れたが面白そうだ♪

嘘だらけの日米近現代史 (扶桑社新書) 新書 ? 2012/9/1
https://www.amazon.co.jp/%E5%98%98%E3%81%A0%E3%82%89%E3%81%91%E3%81%AE%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2-%E6%89%B6%E6%A1%91%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%80%89%E5%B1%B1-%E6%BA%80/dp/4594066623
倉山 満 (著)

1097とはずがたり:2017/09/05(火) 22:58:42

ウィリアム・ミッチェル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB

ウィリアム・ランドラム・ミッチェル(William Lendrum "Billy" Mitchell、1879年12月28日-1936年2月19日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。アメリカ空軍の父。

生涯
1879年12月28日フランスのニースで生まれる。ミルウォーキーで育ち18歳でウィスコンシン州歩兵志願兵の二等兵として入隊する。米国陸軍で最年少の23歳で大尉になった。この間に陸軍通信隊として、キューバ、1899年フィリピン革命、1901年アラスカで活動する。1913年最年少のワシントンの陸軍省部員となる。1916年陸軍通信隊の航空部門で飛行訓練を行う[1]。
1917年第一次世界大戦のアメリカ参戦が決定する。在仏米陸軍航空隊司令官としてミッチェルも参加。この戦争でミッチェルは敵地を飛行したアメリカ初の飛行将校となる。ミッチェルは遠征軍の航空将校としてアメリカ初の航空隊であるハット・イン・ザ・リング隊を組織する。また単独で偵察任務を行い、ドイツに対する奇襲成功に大きな貢献をした[1]。1918年9月サンミエール攻勢でミッチェルが完全な航空優勢の獲得を図り、ドイツ軍陣地の突出部を孤立分断するように集中攻撃した。その後も類似作戦が展開され兵力の集中使用の重要性を立証した[2]。
1917年に「イギリス諸島はいつか大量の空中攻撃に対して脆弱になる」と語った。1919年に「空挺部隊は壊滅的効果がある敵地の背後へ侵入できる」と語った。1920年に「ドイツの軍国主義が世界を脅かす」と語った。1925年に「日本は太平洋で戦争を引き起こす。はじめに晴れた日曜日の朝にハワイを叩くことでアメリカに攻撃する」と語った[1]。…

ミッチェルは空軍独立論者であり、戦艦無用論の提唱者であった。1921年7月13日〜21日、ミッチェルによって陸海軍協同で戦艦に対する大規模な爆撃実験を行なわれた。陸軍航空隊のマーチン爆撃機(MB-2)で大西洋岸に浮かべた実験艦に対艦爆撃を行い、ドイツの戦艦オストフリースランドを900キロ爆弾で撃沈した。実験では他に数隻の旧式戦艦、巡洋艦なども撃沈させている。ミッチェルはその後、アメリカ空軍の設立を各方面に説いてまわったが容れられず、ついには軍首脳の不興を買い、米陸軍航空隊副司令官の要職を追われてテキサス州サンアントニオに左遷され、その後も相変わらず、戦艦無用論をしつこく宣伝したため、ついに予備役に編入されたが、自説を曲げることはなかった[4]。彼は非常に先見的ではあったがその自説はかなり過激なもので、戦艦無用論どころか海軍無用論とも取れるほどの過激さを含んでいた。上記の実験でも、海軍としては停船中かつ大戦時の損傷を受けたままで、さらになんらのダメージコントロールを施さない戦艦は航空攻撃で沈んでも当たり前だという態度をとっていた。しかしそうしたミッチェルの常軌を逸した海軍嫌いが米軍上層部からの忌避を誘ったことは否めない。

1925年、悪天候によって飛行船シェナンドー (ZR-1)が墜落した事件で、ミッチェルは友人を失い、「勇敢な飛行士が安全を処置しない無知な提督に死へ送られた」「無能、犯罪にも等しい職務怠慢、国益に反する国防行政」と新聞に声明を発表して、陸海軍統帥部を激しく批判した。このためカルビン・クーリッジ大統領はこの反抗を軍法会議にかけた。判決は軍法96条により有罪となり、「階級、指揮権、職務の五年間停止、給与、手当の没収」という処分を受けた[1][5]。唯一、少年時代からの友人であるダグラス・マッカーサーだけがこの判決に反対した[1]。ミッチェルは1926年に除隊する。除隊時の階級は准将。


除隊後はバーモント州の生家へ戻る。 1930年「将来、子供たちは生活において航空機を世界中の防衛や輸送の最大の手段とみるようになるだろう」と語った[1]。
1936年2月19日死去[1]。
1946年、アメリカ政府はミッチェルの功績と先見の明を認め、少将に任命するとともに、議会名誉黄金勲章を授けた。

1098とはずがたり:2017/09/22(金) 12:44:45
ポツダム宣言仲介のスイス、「日本と断交」検討
https://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/world/20170922-567-OYT1T50017.html
09:14読売新聞

 1945年8月のポツダム宣言受諾の仲介という日本の終戦に大きな役割を果たしたスイスが、同年5月、日本と断交しようとしていたことが、スイスの外交文書から分かった。

 国文学研究資料館の加藤 聖文 きよふみ准教授がスイス連邦公文書館で確認した。断交が行われていた場合、スイスを通じてのポツダム宣言受諾ができず、終戦が遅れて日本の被害が拡大していた可能性もある。知られざる歴史の一面を語る貴重な史料だ。

 日米開戦直前の41年7月、米国は日本人の在米資産を凍結し、翌年には日本大使館員も国外退去となった。日本にとって中立国のスイスは外交の窓口で、対米関係では紛争当事国の利益を守る唯一の「利益代表国」だった。同宣言受諾までの米国とのやり取りは、スイスを通じて行われた。

1099とはずがたり:2017/09/26(火) 08:29:51

大阪市、慰安婦像設置の姉妹都市に抗議へ「関係解消も」
http://news.livedoor.com/article/detail/13662588/
2017年9月25日 21時29分 朝日新聞デジタル

 大阪市の吉村洋文市長は25日、姉妹都市の米サンフランシスコ市に建てられた旧日本軍の慰安婦像をめぐり、現地の市営公園に組み込まれれば「姉妹都市関係は解消する」と述べた。市役所で報道陣に語った。

 大阪市によると、像は今月22日にサンフランシスコ市の市営公園に隣接する土地に中国系米国人らの民間団体が建てた。同市は今後、像のある土地を取得して公園の一部にする方針。像の碑文に「数十万人の女性が性奴隷にされた」とあり、吉村氏は「日本政府の見解と違う。一方的な主張に基づく日本バッシング」と主張した。今月中にも抗議の文書を送るという。

 両市は1957年10月に姉妹都市になった。市民の語学交流や市長の相互訪問を続け、60周年を迎える来月にはサンフランシスコから市民の代表団が大阪市を訪問する予定だが、吉村氏は「サンフランシスコ市が市の意思として(慰安婦像を)受け入れるなら、笑顔で握手できる関係じゃない」と姉妹都市解消の可能性に言及した。

 サンフランシスコ市議会は2015年9月、慰安婦像の設置を支持する決議案を採択。橋下徹・前大阪市長と吉村氏はこれまで計5回、サンフランシスコ市に抗議の文書を送っている。(半田尚子)

1100とはずがたり:2017/10/27(金) 16:30:40
2代目国連総長は暗殺か…墜落死は「外部攻撃」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171026-00050135-yom-int
10/26(木) 19:24配信 読売新聞
 【ニューヨーク=橋本潤也】第2代国連事務総長のダグ・ハマーショルド氏を乗せた航空機が1961年9月にアフリカで墜落したことを巡り、国連が設置した調査委員会の報告書が25日公表された。

 報告書は、墜落原因が「外部からの攻撃や脅威」だった可能性があると指摘し、断定は避けつつも、ハマーショルド氏が暗殺されたことを示唆する内容になっている。

 墜落当時、航空機にはボイスレコーダーなどがなく、飛行高度を見誤るなど、パイロットのミスやその他の原因による「事故」と結論づけられた。ところが近年、ミサイルによる撃墜の可能性を指摘する専門家の声などを受け、国連は潘基文(パンギムン)事務総長時代の2013年、事故の再調査を決めた。

1101荷主研究者:2017/10/27(金) 22:42:57

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20171009000108
2017年10月09日 21時00分 京都新聞
戦時中の京都「独仏」火花散らす 京大調査で判明

フランスの外交文書館で見つかった1930年代の関西日仏学館(奥)の写真。手前はドイツ文化研究所で、現在は京大の施設が立っている=アンスティチュ・フランセ関西提供

 戦前にフランス政府による語学学校として日本で初めて京都市内に設立された「関西日仏学館」(現アンスティチュ・フランセ関西)が第2次世界大戦に際し、隣接する「ドイツ文化研究所」と火花を散らしていた様子が、京都大人文科学研究所の調査で明らかになった。敵対する本国の緊張関係を反映し、ドイツ文化研が展覧会中止を要求する一方、フランス側も運営面で張り合おうとしていた。立木康介准教授は「表面上は良好な関係を保ちながら、水面下では独仏の文化宣伝活動が京都でも激しさを増していたことが分かる」と話す。

 調査は「アンスティチュ-」(左京区)が創立90周年を今月迎えるのに合わせ、3年前から行われた。資料の多くが戦時中に廃棄されたため、フランスの外交文書館が保管する事業報告書を分析した。

 調査によると、フランスがドイツの占領下に置かれていた41年1月、関西日仏学館で開かれた展覧会「医学の発展におけるフランスの貢献」に対し、ドイツ文化研が「今のフランスにふさわしくない」と当局に中止を求めたことが書かれていた。一方、開戦前の38年7月16日付で駐日フランス大使が本国の外務大臣に宛てた書簡では、ナチス党の元極東担当部長で知日派の人物がドイツ文化研の所長に就くことが報告され、関西日仏学館として「ライバル」への優位性を維持するために次期館長に適した人材を注文している。

 調査の成果は、25日にアンスティチュ・フランセ関西で始まる創立90年記念の展覧会で紹介する。28日には立木准教授ら研究者が歴史を振り返るシンポジウムも開く。いずれも入場無料。問い合わせは「アンスティチュ-」075(761)2105。

■関西日仏学館
 1927年、詩人でもあった駐日フランス大使ポール・クローデルの提唱で九条山(京都市山科区)に設立。36年に現在の左京区東大路通東一条上ルに移転。戦時中も講演会やコンサートを続けた。45年4月に軍需工場として接収され、教職員が投獄されたが、終戦後に建物が返還された。2012年に現名称に変更した。ドイツ文化研究所は戦後に西洋文化研究所に改組され、のちに京大人文研所属になった。

1102とはずがたり:2017/11/04(土) 18:09:24

徳川慶朝さん死去 67歳 写真家、将軍慶喜のひ孫
https://this.kiji.is/285236032426001505
2017/9/26 10:569/27 13:56updated

江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜の直系のひ孫に当たる徳川慶朝(とくがわ・よしとも)さんが25日午前5時12分、心筋梗塞のため、水戸市内の病院で死去した。67歳。自宅はひたちなか市金上。通夜や葬儀は親族のみで執り行う。後日、お別れ会を検討している。

静岡県生まれ。カメラマンや大学講師として活躍した。2007年にひたちなか市に自宅を建てて移り住んだ後は、茨城県の風景などをテーマにした写真展を開いた。同市内のコーヒー店と連携し、自身が焙煎した「徳川将軍珈琲」を販売するなど、コーヒー研究家としても知られた。

1103とはずがたり:2017/11/05(日) 08:20:06

<訃報>荒井信一さん91歳=戦争責任資料センター共同代表
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20171105k0000m040009000c.html
02:00毎日新聞

 荒井信一さん91歳(あらい・しんいち=日本の戦争責任資料センター共同代表、茨城大名誉教授、西洋史専攻)10月11日、胆管がんのため死去。葬儀は近親者で営んだ。後日お別れ会を開く予定。喪主は長男潤(じゅん)さん。

 著書に「戦争責任論」「空爆の歴史」「ゲルニカ物語」など。

1104とはずがたり:2017/11/14(火) 11:53:57
2017.9.28 11:30
「反日」の韓国 偽りの歴史教育で日本への見方ゆがんでいる 同じテーブルに着くのはやめていい 元閣僚が激白
http://www.sankei.com/politics/news/170928/plt1709280037-n1.html

 北朝鮮が「核・ミサイル開発」を強行するなか、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権の対応がおかしい。15日に米国領グアムに届くほどの弾道ミサイルを発射するまで、800万ドル(約8億8000万円)もの人道支援を検討していたうえ、隙あらば、事実無根の慰安婦や徴用工の問題を蒸し返そうとしているのだ。国家公安委員長や自民党総務会長などを歴任し、韓国要人に知己も多かった深谷隆司元通産相が激白した。(夕刊フジ)

 あの国には常識が通用しない。北朝鮮の「核・ミサイル」は韓国にも脅威のはずだ。それなのに、なぜ文政権は北朝鮮におもねるのか。あの政権の存在自体が、極東の不安定要因に思える。

 日韓間には、慰安婦や竹島、日本海呼称の問題などが横たわる。加えて最近、徴用工問題が再燃した。文氏が演説で「個人の請求権は消滅していない」と述べたためだ。

 もっとも、安倍晋三首相と8月25日に行った日韓首脳電話会談では、文氏は発言を一部修正したが、油断はできない。

 盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時の2005年、韓国政府は徴用工問題について「1965年の日韓請求権協定で解決済み」と認め、韓国政府の責任として取り組むことを表明した。

 文氏は当時、盧氏の主席秘書官を務めており、その事実を知らないはずがない。

 そもそも、日本は65年当時、徴用工問題について「個人には直接補償したい」と韓国側に申し出た。ところが、韓国側がそれを断り、すべての賠償を受け取ることを主張した。結果、日本が韓国政府に支払った賠償金は5億ドルにのぼった。当時の日本の国家予算のほぼ2倍に相当する。

 この賠償金で韓国は「漢江の奇跡」を実現した。いわば日本のおかげで、韓国は近代化を成し遂げたといえるのだ。

 そうした歴史的事実を知っている世代が生きている間はまだ良かった。私が通産相をやっていたころは、親日派の友人がたくさんいたものだ。

 しかし、今では真実を知る韓国人は少なくなった。偽りの歴史教育のせいで、日本に対する見方が歪められている。

 「最終的かつ不可逆的に解決」とされた2015年12月の慰安婦問題に関する日韓合意も、日本は10億円を拠出したのに、韓国側の義務は果たされていない。それどころか、慰安婦像はバスの中にも設置されている。もう「狂気の沙汰」としか思えない。

 韓国では政権が代わるたび、「反日」が政治的安定の道具として使われてきた。その傾向は改まるようには見えない。

 そうした国と同じテーブルに着くのは、もうやめてもいいのではないか。日本や極東アジアの安全保障にも、資することは少ないだろう。(ジャーナリスト・安積明子)

1105とはずがたり:2018/01/24(水) 09:05:59
誰だ?近衛家ちゃうの?
>であれば、次に今上陛下に近いのは、誰か。「新潮45」本誌では、その人物の意外な素顔を明らかにしている。

今上天皇に血統の近い、知られざる「男系男子」の存在が!
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/12261605/?utm_source=yahoo&amp;utm_medium=http&amp;utm_campaign=link_back&amp;ui_medium=http&amp;ui_source=yahoo&amp;ui_campaign=link_back&amp;all=1
社会新潮45 2017年1月号掲載

 皇位継承者の不足は、かねてより問題視されてきた。悠仁さまお一人しか将来の候補がいない現状には、旧宮家の復帰、あるいは女系天皇といったことが話題になるが、

〈意外に議論されていないのが、男系でならどういった人たちがいるかということだ〉〈皇室に近い人々の全体像を明らかにしないまま、皇位継承についての議論をすると、得た結論も粗雑で「正統性」が薄いものになりかねない〉

 と説くのは、評論家で徳島文理大学教授の八幡和郎氏だ。「新潮45」1月号に寄せた「今上天皇に血統の近い知られざる『男系男子』たち」で、現在の皇室に近い人々の存在を明かしている。※〈〉は本文より引用、以下同

 ***

 八幡氏が試みるのは、皇室典範でも採用されている「サリカ法典式」で男系男子を長子優先で系図をたどって探す〈頭の体操〉である。

“今上天皇に近い血統”と聞いてまず思いつくのは、昭和22年に皇籍離脱された11宮家ではないだろうか。JOC竹田恒和会長の「竹田宮」など、男系男子での継承が今後も見込まれる旧宮家はあるが、そのルーツはいずれも伏見宮邦家親王であるという。

〈伏見宮家は、男系では南北朝時代の北朝崇光天皇の子である伏見宮栄仁親王に始まる。孫の彦仁親王が後花園天皇となって現皇室につながり、その弟の貞成親王の子孫が伏見宮家を継いだ。

 そして、幕末の邦家親王が子だくさんだったので、その子孫がこの11宮家となった〉

 だが意外にも〈男系ということでいえば、伏見宮家の御当主と今上陛下は36親等も離れている〉という。実はより今上陛下に近い血統が存在する。例えば「華園家」である。

■今上天皇の14親等
 “華園”は、明治の苗字義務付けで、浄土真宗興正寺の僧侶である本寂が「華園摂信」を名乗ったことに始まる。

 京都の西本願寺の南にある興正寺に養子に入った本寂は、文政6年から30年にわたって関白を務めた鷹司政通の次男にあたる。さらに政通の曾祖父は東山天皇の第6皇子の直仁親王であるといい、

〈政通の嫡男輔煕の系統は絶えたので、もっとも皇室に近いのは、政通の次男で浄土真宗興正寺の門跡になった本寂の子孫ということになる〉

 その子孫というのが、本寂の玄孫に当たり、現在の興正寺の門主である第31世本顕(華園真暢)。さらには、父親である前門主真準も健在で、皇族を除けばこの人物がもっとも今上天皇に近い(14親等)という。

 ところが「華園家」には“男系男子”にあたる存在がいない。

〈真暢(59)に男子はなく、長女・沙弥香(22)、法名・真慶(しんきょう)さんが2017年4月1日に門主後継者である「嗣法(しほう)」に就任する予定だ〉

 であれば、次に今上陛下に近いのは、誰か。「新潮45」本誌では、その人物の意外な素顔を明らかにしている。

1106とはずがたり:2018/03/22(木) 12:56:40

福岡に「幻の首都」構想 太平洋戦争中に政府が検討 極秘文書に明記
https://www.nishinippon.co.jp/feature/attention/article/328970/
2017年04月18日 17時26分

 八女が日本の首都になっていたかもしれない。突拍子もない冗談のようだが、実は太平洋戦争中に政府が検討していた歴史的事実だ。「事実は小説より奇なり」とはまさにこのこと。当時の資料をひもとき「八女遷都論」について調べてみた。

 「八女遷都論」が明記されているのは、1943年10月付の極秘文書「中央計画素案」だ。内閣総理大臣直属の組織で、戦時下の国家総動員体制の諸計画を立案した「企画院」が作成した。現在は、国立公文書館の「アジア歴史資料データベース」で公開されている。

 この文書は朝鮮、中国、東南アジアにおける権益確立を目指す「大東亜共栄圏」建設を見据え、政治、経済、産業、文化、防衛などを含めた国のあり方について方向性を示したもの。計画の対象は日本、朝鮮、台湾。遂行目標を「一応15年」としていた。

 「首都」の項目では、候補地として岡山県行幸村(現・瀬戸内市)、朝鮮京畿道京城府(同・ソウル)と並び福岡県福島町(同・八女市)が挙げられていた。条件として、全国土の中心▽地震、風水害など天災地変が少ない▽寒さや暑さが厳しくない▽用水、電力、食料など物資が豊富▽既成の都市とは適当に離れている、など計6項目を明示。福島町は条件をクリアしていたようだ。

 首都を構成する機能を、皇居のほか、政府各機関や生活必需物資配給機関、外国公館などとしているが、「極力不要なる機能の集中を抑制する」とも記載。「防空、耐火、耐震および美術上の見地において最も完全なる都市の造成に重点を指向する」と目標を掲げており、あらたに計画都市を造ろうとしていたことがうかがえる。

 極秘文書は1967年、福岡県立花町(現八女市)出身の県職員だった故松延茂さんが発見した。松延さんは地域文芸誌「飛形」への寄稿で発見の経緯を振り返っている。当時、松延氏は県の企画室企画主査として県総合開発計画の策定に当たっていた。その参考資料を集める中で、戦前、戦中の膨大な公文書に触れる機会があり、その中から見つけたのだという。

 この「中央計画素案」策定から2年後に日本は敗戦。遷都案も消えた。松延氏は寄稿の中で、矢部川の自然豊かな風情を表現した洋画家・青木繁の書簡の一節を紹介しながら思いを語っている。「福島町中心地区が首都になっていたら、わが故郷の様相はどうなっていたことか。時折、白昼夢にも似たまぼろしの首都を思い描いてみることを楽しみにしているが、そのようなとき、青木繁の詩情が私の心をゆさぶるふるさとである」

 もし、福島町に首都が置かれたら、現在、八女はどうなっていただろう。国会や中央省庁が集まり、周辺も高層ビルが立ち並んでいるのではないか。人口も比べものにならないほど増えていたはずだ。一方で、伝統的な白壁の町並みや、丘陵地に広がる茶畑など現在の八女ならではの風景は失われていた可能性が高い。

 いずれにせよ、多くの謎を残し、八女遷都論は歴史の中に消えた。

この記事は2017年04月18日付で、内容は当時のものです。

1108とはずがたり:2018/04/13(金) 09:42:51

 その一方で第5次吉田内閣に国務相として入閣した安藤正純と大野伴睦は鳩山自由党の復党工作を展開していた。安藤と大野は「このまま党外にいたら政権は緒方に行ってしまう。へたをしたら重光に横取りされるかもしれない。吉田ももう長くはないから早く復党した方がよい」と鳩山を説得した。自由党と改進党の提携が進んで鳩山自由党は政界で孤立しており、鳩山の心境も復党に大きく傾いた。

 鳩山復党の総仕上げは松野の出番である。松野は安藤と大野の工作をじっくり見守っていたが、緒方副総理や佐藤幹事長の意向も確認した上で、吉田首相と会い、11月17日に吉田が鳩山邸を訪問して復党要請するという段取りを決定した。吉田・鳩山会談には安藤国務相と松野が同席した。吉田は「鳩山自由党の全党一致の復帰を期待しているが、それが困難なら君一人でも帰ってきてほしい」と懇請した。

 鳩山自由党は11月30日、鳩山、石橋ら27名が自由党に復帰した。当初は三木、河野らも「恥を忍んで復党する」意向だったが、松田竹千代、山村新治郎らが「吉田の軍門に下るのはいやだ」と復党を拒否したため、「彼らを見殺しにできない」として復党せず、わずか8名で日本自由党を名乗った。自由党が鳩自党を吸収したことに改進党は「保守連携への裏切り」と反発したが、防衛問題に限って自由党との連携は維持することにした。

 1954年(昭和29年)に入ると保全経済会事件、造船疑獄が明るみに出て吉田政権は三たび動揺した。同年2月、鳩山は病床にある前田米蔵を訪ねて鳩山政権実現へ協力を求めた。鳩山と前田は戦前、犬猿の仲と言われる間柄だった。前田は追放解除後、吉田首相に接近したが、選挙違反事件で摘発され、さらに病床に伏し、前年の総選挙では落選して不遇をかこっていた。

 鳩山は「その時前田君は『三木と松野はどうかね。大丈夫君の方の側かね』と聞いた。三木君とはその時一応分かれた形になっているし、松野君は吉田君の指南番のように思われている最中だったからだろう。そこで私は『三木君はもちろん問題はない。松野も大丈夫だと思う』と答えた。この話をあとですると大抵の人は『さあ松野はどうですかね』と、不満げに言葉をさしはさむけれども、私はその当時は本当にそう思っていた」と回顧している。

 息子の松野頼三は「私は吉田首相の秘書官もしているので吉田7、鳩山3のスタンスだったが、オヤジは鳩山7、吉田3のスタンスだった」と述べている。松野鶴平の行動は結果的に見ると常に吉田寄りに見えたが、これは戦前、2回も政友会分裂を経験した松野の「党を割ってはいけない」という信念に基づくもので、心情的には鳩山への思いも強かったのは事実であった。

■「総裁といえども除名するぞ」と一喝

 造船疑獄の広がりで吉田政権は窮地に陥った。吉田首相は緒方副総理、松野鶴平らと連日協議を重ね、検察当局の佐藤幹事長逮捕許諾請求に法相の指揮権を発動することを決定した。緒方副総理は局面打開のため、改進党に保守合同を呼びかけた。保守合同に向けた自由党、改進党、日自党の協議は総裁問題で行き詰まった。改進、日自両党は吉田退陣を明確にするよう求めたが、自由党は「総裁は公選で」との立場を崩さなかった。この時の保守合同運動は結局、鳩山の下に改進党、日自党、さらに自由党の鳩山派と岸派が合流する形で実現した。昭和29年11月22日、鳩山を総裁とする日本民主党が結成された。副総裁重光葵、幹事長岸信介、所属衆議院議員125名。

 吉田長期政権は最後の局面を迎えた。12月6日、民主党は左右社会党と共同で内閣不信任案を提出した。可決は確実であった。すでに人心は吉田内閣から離反していた。吉田は解散するつもりだったが、緒方副総理が解散に強く反対し、総辞職を主張した。12月7日朝の臨時閣議でも吉田の解散方針に異論が出て閣議は中断した。閣議と並行して外相公邸内の隣室では自由党幹部会が開かれていた。幹部会でも解散反対論が大勢を占め、吉田の方針を支持する池田幹事長は孤立していた。

 吉田首相は幹部会に顔を出し、大野に向かって「総務会長、誰が何といっても解散に決めましたから」と言った。大野は声を荒げて「そんなはずはない。われわれは閣議でも解散反対が多いのを知っている」と公然と反駁した。これに追い打ちをかけたのは松野である。「吉田、君は今になって何を言うか。総裁あっての党ではない。党あっての総裁であることを知らないのか。解散すれば党は壊滅するのだぞ。解散するなら総裁と言えども除名してしまうぞ」と怒鳴りつけた。普段はめったに怒った顔を人に見せたことがない松野の一喝がとどめの一撃となり、吉田は解散を断念して総辞職を決意した。

1109とはずがたり:2018/04/13(金) 09:43:31

 昭和29年12月10日、鳩山一郎は念願かなって民主党内閣を発足させた。自由党は野党になった。鳩山首相は左右社会党との約束に従って昭和30年1月24日、衆議院を解散した。この選挙で民主党は大きく議席を伸ばしたが、過半数には達せず、自由党は議席を大幅に減らして惨敗した。選挙後、民主党の三木総務会長は自由党に保守合同を呼びかけた。民主党と自由党の保守合同協議は総裁問題で難航したが、総理は鳩山、総裁は鳩山、緒方、三木、大野の4人を代行委員とすることで妥協が成立し、昭和30年11月15日、保守勢力を結集した自由民主党が発足した。松野は参議院自民党議員会長になった。

 1956年(昭和31年)1月、次期首相間違いなしと言われた自民党総裁代行委員の緒方竹虎が急死した。三木、大野両代行委員と岸幹事長、石井光次郎総務会長が協議した結果、緒方に代わる総裁代行委員に松野を決定した。緒方の死去で鳩山首相の対抗馬がいなくなったため、自民党は4月5日の党大会で鳩山を正式に初代総裁に選出した。この直前の4月3日、松野鶴平は第4代参議院議長に当選した。緑風会出身の河井弥八議長が同年7月の改選を控えて「選挙準備に専念したい」と突如辞意表明をした結果であった。
 参議院議長は初代が松平恒雄、第2代が佐藤尚武、第3代が河井でいずれも緑風会出身であった。松野議長の誕生は保守合同と左右社会党の統一で参議院でも政党化が急速に進み、「参議院の良識」を代表していた緑風会が凋落しつつあることの象徴であった。松野が議長になったばかりの第24通常国会は自民党と社会党が激突して参議院では新教育委員会法案をめぐって会期末に乱闘騒ぎの大混乱が起きた。

 自治体の教育委員会を公選制から任命制に改めるこの法案は鳩山内閣の目玉政策の一つで、すでに小選挙区制法案の成立断念に追い込まれた自民党執行部は何が何でも成立させる意気込みを見せた。社会党は日教組の突き上げを受けて実力で成立を阻止する構えをとった。本会議採決の攻防が始まると社会党の議員・秘書団が議長室を取り囲み、松野議長は軟禁状態になった。ようやく本会議を開いて議長席に座っても社会党議員が殺到して議事妨害を行い、隣の事務総長が負傷する事態も起きた。

 徹夜国会になり、71歳の松野議長は体力の限界に達した。混乱した議場の秩序を回復するため、松野議長は自民党執行部の要請を入れて参議院では初めて警官隊の導入を決断した。2泊3日の徹夜攻防の末に新教育委員会法は緑風会も賛成して賛成143、反対69で可決・成立した。自民党の岸幹事長が議長室を訪れ、松野議長と抱き合って喜ぶ場面が見られた。

 昭和31年7月の参議院議員通常選挙で自民党は改選議席を維持し、さらに保守系議員を糾合して過半数を確保した。社会党も憲法改正阻止に必要な3分の1の議席を確保した。これにより参議院に一定の平和と秩序が訪れた。選挙後、松野は議長に再選され、翌昭和32年1月の通常国会再開の際、自民党と社会党は衆参両院で国会正常化を申し合わせた。

1110とはずがたり:2018/04/13(金) 09:43:41
>>1107-1110
■党籍離脱を拒否、政防法案握りつぶす

 1959年(昭和34年)7月、岸内閣の下で行われた参議院選挙で自民党は71議席を獲得し、非改選と合わせて135議席に達した。松野もこの選挙で3回目の当選を果たし、選挙後に三たび参議院議長に選出された。選挙後の岸内閣の改造で松野頼三が労相として入閣し、野田卯太郎―松野鶴平に続く憲政史上初めての親子3代大臣の誕生が話題になった。

 議長3選にあたって社会党と緑風会は松野に党籍離脱を強く要求した。これは前年、警職法改正案をめぐって国会が紛糾した際に川島正次郎自民党幹事長と浅沼稲次郎社会党書記長の間で衆議院の正副議長は党籍を離脱することを申し合わせ、参議院についても「自主性は尊重するがこの申し合わせに従って運営するよう要請する」としていたからである。松野は「私は母の胎内にいた時からの政党人だ」と言い放って党籍離脱を断固拒否した。

 松野は、国会の混乱を防ぐために議長の権威を高める必要があるが、それは党籍離脱という手段ではなく、むしろ多数党の党籍を持って多数党の横暴を内部から抑える力を持つことが大事である、という信念を持っていた。社会党の浅沼書記長が議長室に乗り込み、党籍離脱を直接勧告したが、松野は軽く一蹴した。この後、記者団の質問に答え「みんなコドモだから親爺の言うことは判ってくれるよ」と平然としていた。

 松野はこの信念を口先だけでなく、自らの行動で実行に移した。昭和36年の通常国会に自民党は民社党と共同で政治的暴力行為防止法案を提出した。社会党が強く反対し、衆議院は強行採決で通過した。池田勇人首相はこの法案の成立に強くこだわっていた。審議に協力的な民社党のメンツを立てる必要があり、国会後の訪米を控えてこの法案が不成立なら国際信用が傷つくことを懸念していた。益谷自民党幹事長が松野議長を訪ねて法案成立への協力を強く求めたが、松野は「参議院の自主性に任せてくれ」とやんわり拒否した。益谷は池田首相と会談するよう松野に求めたが、これも拒絶した。

 松野は佐藤栄作と極めて親しかったが、池田とはソリが合わなかった。参議院自民党も、この国会は農業基本法の成立で手いっぱいで政防法案の成立は無理と判断していた。結局、政防法案は参議院で握りつぶされ、継続審議となった。池田首相は政防法案不成立の経緯を見て岸・佐藤兄弟が松野と組んで倒閣を仕掛けたとにらんだ。池田は訪米帰国後の内閣改造で岸派、佐藤派を遠ざけ、大野派、河野派、三木・松村派を取り込んだ内閣改造に踏み切った。

 1962年(昭和37年)7月の参議院通常選挙を機に松野鶴平は参議院議長を辞任した。前年、糖尿病の悪化で入院するなど松野の体力は衰えが隠せなくなった。選挙後、後任の議長には岸、佐藤兄弟と並んで「長州ご三家」と言われた自民党の重宗雄三が選出された。松野は議長退任からわずか2カ月後の10月18日に日本医大病院で永眠した。77歳だった。

 松野鶴平は議長退任の際に参議院本会議で次のように述べている。「私は国会運営の根本は、国会議員の心構えにあると存じます。各党各派ないし各議員が、国民に対する責任を自覚し、お互いに参議院を辱めないようにとの気持ちをもって、忍耐強く話し合えば、大抵のことは解決するものと信じます。肝要なことは、本院は良識に従い常に自主的な態度を持するということであります。院内の事の処理に当たっては、みだりに院外の運動に左右されたり、利害団体の圧力に屈することのないようにいたさねばなりません。対衆議院の関係においても同様でありまして、両院が協調しながらも、各自が自主性を堅持することが、二院制度の要諦であります。かくして初めて参議院の権威が高まり、使命は達成されるのであります」。=敬称略

1111とはずがたり:2018/04/13(金) 09:48:43
松野の党籍離脱拒否に関しては其の後の重宗得宗体制をもたらしたそうな。
因みに緑風会出身の参院議長河井弥八は掛川の人♪

松野鶴平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8E%E9%B6%B4%E5%B9%B3

参議院議長
戦後の参議院では、議事の遂行において公平を期すために議長在任中は党籍を離脱する慣例となっていた(松野以前の3人が所属していた緑風会は無所属議員のための会派であって身分的には無所属である)。だが、戦前の帝国議会で唯一の公選によって選ばれていた衆議院の議長(通常は第一党から選出)は、その党籍を維持してその権威によって議事運営を行う一方で、第一党の独断的な動きに対しては党員としての発言力によって阻止し続ける事によってその暴走を食い止めるという慣例が存在していた。

戦前立憲政友会に在籍していた松野はその時代の議長観を戦後になっても保持しており、他党の党籍離脱要求にも関わらず参議院議長在任中も党籍を維持。自民党会派にも所属し続けた。日米安保条約改訂などで政局が流動的な情勢の中、松野は己の議長観に忠実に従うことによって自民党側の強引な議事運営を防止しつつ、円滑な審議に尽力して一定の成果を収めたが、それは同時に「参議院の政党化」を促進する事にも繋がった。

松野の後任となった重宗雄三も同様に自民党所属のまま参議院議長を9年間務め、党内で絶対的な権力を持つに至った。議長の党籍、ないしは院内会派からの離脱が定着するのは、重宗の後任となった河野謙三が党籍を離脱してからである。

河野謙三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E8%AC%99%E4%B8%89

参議院副議長などを経て、参議院自民党の重鎮として存在感を増す中、佐藤栄作内閣末期に持ち上がったのが、重宗雄三参議院議長をめぐる問題で中心となって動く。重宗は1962年(昭和37年)8月から1971年(昭和46年)7月まで3期9年参議院議長をつとめる中で参議院自民党は重宗王国といわれるようになっていたが、このような長期独裁体制打破を求めて1971年(昭和46年)7月に参議院改革を内容とする「河野書簡」を発表した。河野の動きをきっかけに参議院自民党の中にも新谷寅三郎、迫水久常、鍋島直紹ら反重宗の参議院議員は桜会を結成。7月17日、この自民党首脳部から造反した桜会と野党の支持を受けて、重宗雄三の後継議長候補であった木内四郎を128票対118票と10票差で破って参議院議長に選出された。当選後、自民党籍を離脱し、在任6年間、参議院改革に努力した。

1977年(昭和52年)7月に参議院議長を退任。1983年(昭和58年)に立候補せず、政界を引退した。

なお、長男の河野鉄雄は1983年の第38回衆議院議員総選挙に自民党の公認を得て神奈川2区から立候補したが落選し[1]、続く1986年(昭和61年)の第39回衆議院議員総選挙では無所属で再び神奈川2区から立候補したが議席には届かなかった[2]。

河井弥八
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%BA%95%E5%BD%8C%E5%85%AB

静岡県立掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)を経て、1904年東京帝国大学卒業後、内務省に入省して佐賀県内政部長代理などを歴任する。1918年に内閣法制局に移り、翌年に貴族院書記官長、1926年に内大臣府秘書官長となり、1930年から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。

1938年1月7日に貴族院議員に任命された[1]。貴族院では同成会に所属した。この間、鉄道会議議員を兼ねた。また大日本報徳社社長ともなっている。

サツマイモ栽培や砂防林の普及運動に力を尽くし「サツマイモ博士」とあだ名された[2]。

戦後、第1回参議院議員通常選挙に静岡県選挙区から立候補し、参議院議員に当選した。当選後は緑風会に所属し、3年後の第2回参議院議員通常選挙でも再選された[3]。

1953年には参議院議長に就任した。1956年の第4回参議院議員通常選挙では議長在任中だったが落選し、高齢だったこともあり政界引退を表明した。死後、従二位と勲一等旭日桐花大綬章を贈られた。

1112とはずがたり:2018/04/13(金) 09:53:51
急逝と云えば石橋湛山が返す返すも惜しいのだが,鳩山ではなく緒方の総裁当選の可能性も高かったのに急逝したのだそうな。緒方氏に関しては戦後政治史に疎い俺としては惜しいとか以前にあんま良く知らん。

松野の一喝より緒方の根回しが効いたのかも。

緒方竹虎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E

吉田内閣退陣と緒方総裁選出
吉田政権末期、バカヤロー解散や造船疑獄をめぐり吉田が法務大臣・犬養健に命じて指揮権を発動させ、側近の自由党幹事長・佐藤栄作の逮捕を阻止したことなどにより、急速に政権は求心力を失っていった。そうした中、1954年(昭和29年)3月に緒方は保守合同を呼びかける「緒方構想」を発表した。しかし「緒方構想」による新党推進勢力には、吉田退陣を前提とする吉田棚上げ論者が予想外に多数を占めたため、吉田が消極的であり、「緒方構想」は6月にいったん打ち切られた。結局、12月に鳩山一郎を中心とする反吉田勢力は、左右両派社会党と連携し吉田内閣不信任決議案を提出する。自由党は、衆議院解散総選挙による吉田内閣延命か、吉田内閣総辞職かで真っ二つに別れる。

吉田は政権維持に執念を燃やして解散を主張したが、緒方は内閣総辞職を主張し、1954年(昭和29年)12月7日朝、「もし総理が解散を強行すれば私は閣僚として解散書類に署名しません。むしろ政界から引退します。かっこうの悪い西郷になりますよ」[12]と、自らの政治生命を賭けて吉田に直言した。吉田は緒方を罷免してでも解散するつもりだったが、同日の閣議では文部大臣・大達茂雄、運輸大臣・石井光次郎、国務大臣・加藤鐐五郎が総辞職を主張し、自由党幹部会は全員解散反対だったため[13]、吉田は解散を断念、内閣総辞職した。翌12月8日の議員総会で自由党は吉田総裁の辞任を了承し、正式に後任総裁に緒方が選出され、石井光次郎を幹事長とした。吉田内閣総辞職にともなう首班指名選挙で、緒方派の代議士らは、同じ早稲田大学出身の右派社会党書記長・浅沼稲次郎、左派社会党委員長・鈴木茂三郎らをはじめ、左右両派社会党議員に緒方への投票をはたらきかけたといわれるが、両派社会党は鳩山に投票し、第1次鳩山内閣が成立した。

保守合同と急逝
翌1955年(昭和30年)1月の「天の声解散」による第27回衆議院議員総選挙で、鳩山の与党日本民主党は185議席と単独過半数を得ることが出来ず、緒方の自由党は112議席だった。この選挙結果は、与党民主党が保守合同なしで政局運営を行っていくことが困難であることを示していた。そのため、自由党と民主党による保守合同論の気運が再び高まりを見せる中、緒方はこれを積極的に推進した。新党総裁をめぐる難航した協議の結果、総裁代行委員による集団指導体制に落ち着いた。11月15日、自由民主党が結党され、緒方、鳩山の両党総裁と、三木武吉、大野伴睦の両党総務会長の4人が総裁代行委員に就任した。

しかし、同年12月に全国各県で結成された党支部結成大会の巡回旅行で睡眠不足と過労が続き、途中でひいた風邪をこじらせて12月25日に帰京してからは静養につとめたが、翌1956年(昭和31年)1月8日に心臓発作を起こした。それでも1月25日に国会が再開されると登院、自民党の代議士会にも出席し、1月27日の福岡県人会にも出席したが、翌1月28日に東京都品川区五反田の自宅で急性心臓衰弱のため急逝した。67歳。緒方の死去によって、4月5日に実施された自民党総裁公選では鳩山一郎が初代総裁に選出された。総裁公選となれば、旧民主党が「反吉田」の寄り合い所帯のため緒方に流れる可能性のある票も少なくなかったのに対し、旧自由党の方が結束力が固く、緒方が初代自民党総裁に選出される可能性が高かった。同年末に鳩山は、日ソ国交正常化を花道として、後継者を指名せず退陣を表明し、岸信介、石橋湛山、石井光次郎(緒方派の継承者)による総裁公選が行われた。緒方の急死がなければ、戦後政治史の歩みも大きく変わったと言われる所以である。また後任の石橋が病気で短期で退陣したのち、田中角栄の登場まで15年間余り、岸・池田・佐藤の官僚出身者3名が総理総裁となった。

言論界の象徴として、左派からもその人格・識見を肯定的に評価された一方で、吉田内閣時代、1952年(昭和27年)の東南アジア歴訪の途上、中華民国国民政府の拠る台湾を訪問、総統・蒋介石に謁見し、日華軍事同盟に言及したり、前述のように1954年(昭和29年)、戦前の情報局総裁の経験から政府直属の情報機関設置構想を打ち出したりしたため、当時のジャーナリズム主流派からは「特高的言論統制復活」と揶揄された。

1113荷主研究者:2018/04/15(日) 11:32:54

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180321_63022.html
2018年03月21日水曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(1)「官名乗る賊徒に従わず」

[はらだ・いおり]1946年、京都市生まれ。大阪外語大卒。広告代理店勤務後に独立。編集ライターなどを経て2005年に作家デビュー。主な著書に「明治維新という過ち」「官賊と幕臣たち」「大西郷という虚像」など。東京都在住。

戊辰戦争後の若松城(鶴ケ城)。1カ月にわたる籠城戦で受けた砲弾跡が生々しく残る(会津若松市蔵)

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(上)作家・原田伊織さん

 <「明治維新という過ち」などの著書で知られる作家の原田伊織さん(71)は、東北における戊辰戦争を「討幕戦争とは別物だった」と指摘する>

◎私怨を晴らす戦

 いわゆる戊辰戦争を「討幕戦争」と位置付けるなら、会津戦争などは討幕とは無関係で性格が異なるというのが私の主張だ。1868年4月4日、江戸城に東征軍の勅使が入り、徳川家への沙汰状を公式に交付した。この日をもって徳川政権は公式に終わった。

 東征軍の江戸入城(11日)や大総督府有栖川宮熾仁(たるひと)親王の入城(21日)など、どのタイミングをとっても4月中には江戸幕府は歴史の幕を閉じたと断定できる。だから、その後の東北での戦争は論理的に討幕戦争とは言えない。

 <それでもなぜ東北戦争は起きたのか>

 平たく言えば報復だ。会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職時代、テロ活動を妨害された薩摩や長州、土佐藩の恨みだ。大義名分がない私怨(しえん)を晴らす戦だ。恭順が拒否された会津藩は戦うしかなかった。

 会津は奥羽鎮撫(ちんぶ)使に何度も嘆願書を出したが、下参謀の世良修蔵が拒否する。容保の斬首にこだわった。和平工作を行った仙台藩や米沢藩なども、世良の品性の欠ける行状もあって「ならば戦うしかない」という流れになる。

 錦の御旗を振りかざして進軍した官軍は、奥羽諸藩も簡単に恭順すると読み違えた。だが、奥羽諸藩の思考回路は「長いものには巻かれろ」ではなかった。「朝廷には恭順するが、官を名乗る賊徒には従わない」という心理だった。

 官軍を名乗った薩長に、もう少しまともな人材がいたら戦争は避けられた。会津戦争や二本松戦争は無益な殺生だった。ただ、「不幸だ」だけで終わらせては意味がなく、歴史から何かを学ぼうとするなら、史実は検証されるべきだ。

 <東北の諸藩は「朝廷に逆らった賊軍」という「官軍史観」が今も残る>

◎前政権を全否定

 新政権は前政権、前時代を全否定し、自分たちを正当化する歴史を書く。これは古今東西を問わずよくあること。ただ多くの民族は一定期間を経て誤った歴史を修正する。日本人はそれをやらずに大東亜(太平洋)戦争に突き進み、国家を滅ぼした。

 戦後も検証されず、そこへ連合国軍総司令部(GHQ)支配の鬱屈(うっくつ)した社会心理を打ち払うかのような作品とともに司馬遼太郎さんが登場し、たちまち国民的作家となった。大学の大先輩で尊敬する面は多々あるが、吉田松陰、坂本龍馬をはじめ、明治維新に関して書いているものは大半がフィクション。「官軍史観」に「司馬史観」が重なり、明治維新に対する誤った理解が定着してしまった。

 <政府は「明治に学ぶ」として、国の行事に150年の冠を付ける考えだ>

 同じようなことが言われた時代があった。軍国主義がピークに達した昭和10年代だ。「明治精神への回帰」をうたう「昭和維新運動」が燃え盛り、もてはやされたのが吉田松陰の思想だ。

 そこから日本の侵略戦争が始まる。日本軍の進出した国や地域は松陰が唱えた対外侵出エリアと全くと言っていいほど一致する。日本に近代をもたらしたとされる明治維新という出来事を、われわれは一度白紙に戻し、冷静に総括しなければならない。

[松平容保]1836〜93年。会津藩9代藩主。62年に京都の治安維持のために新設された京都守護職に就く。「8月18日の政変」で長州派を追放するなどした功績で、孝明天皇から絶大な信頼を得た。
[世良修蔵]1835〜68年。長州藩士。奇兵隊出身。奥羽鎮撫総督府下参謀を務め会津討伐を声高に主張。「奥羽皆敵」と記した密書などが仙台藩士らの怒りに火を注ぎ、福島藩内で捕らえられ殺害された。

1114荷主研究者:2018/04/15(日) 11:33:23

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180322_63027.html
2018年03月22日木曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(2)新政府に国の青写真なし

二本松城を巡る戦いでは、二本松藩の12〜17歳の少年たちも戦闘に加わった。「二本松少年隊」の史実を伝える銅像が城跡に立つ=二本松市

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(下)作家・原田伊織さん

 <戊辰戦争から150年。奥羽諸藩を「賊軍」におとしめた明治維新の実像をどうみるか。作家の原田伊織さん(71)は「偽りの革命」だったと言い切る>

◎模倣にすぎない

 テロリズムを背景にしたクーデターにすぎない。「明治維新がなければ植民地化されていた」「日本を近代に導いた」といった歴史認識は真っ赤なうそだ。幾つもの隠蔽(いんぺい)や捏造(ねつぞう)を繰り返さなければ、そのような認識にはならない。

 大隈重信が維新後に語った言葉が象徴的だ。「われわれがやっていることは小栗忠順(ただまさ)の模倣にすぎない」と言っている。「明治維新至上主義者」とも言える司馬遼太郎さんですら小栗を「明治の父」と評価した。時代の違う2人が同じことを言っている。

 桂小五郎(後の木戸孝允)、西郷隆盛、大久保利通が「維新三傑」と呼ばれている。だが彼らは幕府を挑発し戦争を起こしたものの、その後の国の青写真を持っていなかった。だから倒幕後に個々人は強烈な虚脱感に襲われ、組織は腐敗していった。

 <尊皇攘夷(じょうい)の旗印の下、列強との不平等条約を正すために倒幕に踏み切った印象が定着している>

 「尊皇」は武家社会の教養、常識として当たり前の概念だった。(薩長の)偽勅や偽の錦旗が効力を発揮し、幕府や諸藩が恭順していくのも、そういう背景があったから。佐幕人の高い教養に裏打ちされた尊皇意識を背景として、幕末になって長州人、薩摩人が天皇を政治の表舞台に引っ張り出して「政争ツール」としてうまく利用した。

◎外面だけの勤皇

 桂は「玉を動かし」「玉を抱く」などと発言している。長州藩は天皇の拉致を計画し、御所に大砲を放つ暴挙に及んだ。外面だけの勤皇だ。薩摩・長州は「攘夷」と叫んでいる最中に大英帝国の支援を受けた。「尊皇攘夷」は単なるキャッチフレーズ。政権を奪うやいなや卑しいほどの西洋崇拝に走った。

 倒幕勢力は不平等条約の中身も分かっていない。岩倉使節団は条約改正の意識や目的を持って出発したものではない。全権委任状すら持っていなかった。そもそも政府首脳が2年も国を空けてどうするのか。新政権になって新しくできたのは、西郷、大隈、江藤新平らの留守政府による制度がほとんどだ。

 <新政府は富国強兵の名の下、殖産興業を進めた>

◎長州型政権 今も

 新政府は、国の予算で造ったものを商人や同郷の士に払い下げるなどして長州、薩摩出身者らに甘い汁を吸わせた。尾去沢銅山事件などが象徴的。歴史学者の毛利敏彦氏の言葉を借りればまさに「長州汚職閥」だ。

 「明治6年の政変」(1873年)で下野した西郷の言葉が残っている。「我脱出する人間虎狼(ころう)の群れ」。福沢諭吉も明治の要人を「人面獣心」と評した。面識のない2人が似通ったことを言っている。それほど新政府が腐敗していた。彼らが何のグランドデザインも持っていなかったことにも通じる。

 明治維新50年は寺内正毅内閣、100年は佐藤栄作内閣、そして150年は安倍晋三内閣と、いずれも長州内閣であることは単なる偶然だと思いたい。だが、森友・加計(かけ)問題などの官民癒着に限らず、展望のないキャッチフレーズを連呼するところなど、「長州型政権」は今も続いていると言わざるを得ない。

[小栗忠順]1827〜68年。幕臣。外国奉行、勘定奉行などを務め、幕府の財政改革、軍制改革を進める。大政奉還に反対し、戊辰戦争では将軍徳川慶喜に徹底抗戦するよう訴えた。新政府軍に捕らわれ処刑された。
[岩倉使節団]1871年12月〜73年9月、岩倉具視を特命全権大使とし、欧米を歴訪した使節団。政府首脳や留学生らを含む107人で構成された。
[尾去沢銅山事件]1872年、長州藩出身の大蔵大輔(大蔵省次官)井上馨が尾去沢銅山(鹿角市)を私物化しようと鉱山を没収した事件。井上は訴えられ逮捕寸前まで追い込まれたが長州閥が抵抗し、辞職するだけで罪を問われなかった。

1115荷主研究者:2018/04/15(日) 11:33:48

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180323_63003.html
2018年03月23日金曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(3)京都守護職を辞退できず

中村彰彦(なかむら・あきひこ)1949年6月、栃木市生まれ。東北大文学部卒。「二つの山河」で直木賞、「落花は枝に還らずとも」で新田次郎文学賞。会津藩関係の本を数多く執筆。東京都在住。

京都守護職時代の松平容保の肖像写真(会津若松市蔵)

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎会津藩の悲劇 なぜ起きた?(上)作家・中村彰彦さん

 <戊辰戦争は会津藩の存在抜きに語れない。幕末に京都の治安を守った雄藩が一転して「朝敵」とされ、蹂躙(じゅうりん)された悲劇はなぜ起きたのか。作家中村彰彦さん(68)は「藩の歴史を藩祖保科正之、中興の名家老田中玄宰(はるなか)、幕末の3段階で考える必要がある」と言う>

◎東北の藩を救う

 1643年に初代藩主になった保科正之はユートピア思想を持っていた。農民が十分に食べ、農作業にいそしむ。被支配階層が飢えずに人生を楽しむ姿にするのが王道政治と考えた。

 第2次世界大戦後の英国の福祉制度は「揺り籠から墓場まで」と言われるが、正之は既に実践していた。新生児の間引きを禁止し、年貢率を下げ、無料の医療制度を作った。

 90歳以上には身分や男女の区別なく、終生一人扶持(いちにんぶち)(1日玄米5合)を与える「年金制度」を創設。年金保険は18世紀末にドイツのビスマルクが作ったとされるが200年以上早い。

 正之の世話になっていない東北の藩はないと言っても過言ではない。米沢藩は3代藩主が跡継ぎを決めずに亡くなった時、お家断絶の危機を救われた。伊達騒動が起きた仙台藩については、藩を取りつぶさないよう将軍に穏便な処置を助言した。

 戊辰戦争時、仙台、米沢を中心とした東北諸藩は、朝敵とされた会津藩を救うため嘆願書を新政府に提出し、奥羽越列藩同盟を結成した。会津藩への恩義が形になった。軍事同盟というより友情同盟だった。

 正之は15カ条の「会津藩家訓(かきん)」を残した。第1条には「将軍家に忠義を尽くせ。他藩と同程度の忠義で満足してはいけない」とある。自分を大藩の藩主に抜てきしてくれた腹違いの兄、3代将軍徳川家光に感謝する気持ちを持続的に伝えてほしいと願った。

 <正之の死後、鎖国の影響で藩財政は次第に傾く>

◎国防の第一線に

 田中玄宰が登用された18世紀後半、藩には大借金があった。天明の大飢饉(ききん)が起こり、食糧備蓄制度があった藩にも餓死者が出た。子捨てや放火などモラル低下を象徴する出来事が起きた。

 玄宰は教育改革で藩校日新館を創設。入学前の子どもに「什(じゅう)の誓い」を朗唱させた。「うそを言ってはいけない」など7項目のエチケット集で、「ならぬことはならぬ」と戒めた。

 玄宰は最新兵学「長沼流」を導入し、軍を立て直した。19世紀初めに樺太がロシアに攻撃されると、家訓の精神で北辺警備を買って出る。借金を返したばかりなのに、国家のための出費をいとわなかった。

 黒船来航の時も江戸湾警備を担当し、会津藩は日本の国防の第一線に立った。この頃から「困った時の会津藩頼み」という感覚が出てくる。全国に会津藩士の墓が残るのは広範囲で国防に挺身(ていしん)した証拠だ。

 <幕末、京都で「天誅(てんちゅう)」の名を借りた過激な尊皇攘夷(じょうい)派のテロが横行。会津藩が歴史の表舞台に出る>

 幕府は治安を守る京都守護職を新設し、会津藩主松平容保(かたもり)を指名した。尊攘派の憎しみを一身に集める要職。容保は断ったが、政事総裁職松平春嶽に「正之公が生きていれば引き受けただろう」と家訓を持ち出され、逃げられなかった。京都守護職を引き受けざるを得なかったところに会津の悲劇が生まれた。

[保科正之]1611〜73年。高遠藩主、山形藩主を経て初代会津藩主。玉川上水開削などを実行し、将軍補佐役として活躍。
[田中玄宰]1748〜1808年。会津藩家老。軍や教育の藩政改革を進め、絹織物や清酒、漆器など地場産業を育成。
[伊達騒動]1671年3月、仙台藩で実権を握った伊達兵部と、反対派との権力闘争で起きた同藩最大の政争。
[松平春嶽]1828〜90年。幕末の福井藩主。「幕末四賢侯」の一人。

1116荷主研究者:2018/04/15(日) 11:34:13

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180324_65004.html
2018年03月24日土曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(4)孝明天皇崩御一転「賊」に

孝明天皇が松平容保に贈った御宸翰の写本。会津藩への感謝の思いがつづられている(会津若松市蔵)

◎会津藩の悲劇なぜ起きた?(下)作家・中村彰彦さん

 <作家の中村彰彦さん(68)は、京都守護職を務めた会津藩主松平容保(かたもり)について「誠実な人柄で、孝明天皇の信頼が厚かった」と話し、天皇崩御で会津藩を取り巻く形勢が急激に変わっていったと指摘する>

◎容保に感謝の意

 1863年2月、容保が京都に入ると、テロが鳴りを潜めた。容保が天皇との信頼関係を確実にしたのが同年の「8月18日の政変」。会津、薩摩藩は天皇の命を受け、過激な尊皇攘夷派の長州藩士や公家を京都から追放した。

 喜んだ天皇は、容保に感謝の意を伝える御宸翰(ごしんかん)と和歌2首を与えた。容保は死ぬまで御宸翰を肌身離さず持っていた。「賊と言われても、先帝と自分の関係は知る人ぞ知る」と言いたかったのだろう。

 御宸翰については明治時代、長州出身の陸軍中将三浦梧楼がその存在を示す本の出版を金を払って差し止めた。出版されれば「戊辰戦争は官軍が賊軍を討った正義の戦い」という薩長寄りの歴史観が崩れる、と考えた。

 <64年の池田屋事件、禁門の変で、会津藩は長州藩の恨みを買う>

 67年に孝明天皇が亡くなった。毒殺説があるが、天皇が代替わりした途端、容保は「幕賊」の一味と呼ばれるようになる。

 容保が「賊」とされた最初の文書は薩摩、長州藩に出された「討幕の密勅」だが、明治天皇の署名、押印「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」がない。討幕派公家3人の署名は1人の筆跡だ。明治維新は偽文書から始まった。

 江戸城開城後、容保は将軍徳川慶喜の代わりに幕賊の首魁(しゅかい)にされる。会津藩は恭順姿勢を示したが、新政府は聞く耳を持たない。会津藩は理不尽な言い掛かりをつけられ、1カ月の籠城戦を強いられた。

 容保は良識的に戦った。戦況が不利になった時、プロシア人商人がベトナムから雇い兵を連れてくることを提案するが、内戦にとどめるため言下に断った。最後の一兵まで戦うことはせず、約5000人が城から出た。次世代を残すために戦をやめたのだと思う。

 <戦後、新政府に東北差別の意識が残った>

◎明治政府の恥部

 最も虐げられたのは会津藩で、領地23万石を全部没収される滅藩処分を受けた。69年に斗南(となみ)藩3万石(青森県下北半島など)として復活を許されたが、当時の稲作の北限より北の土地で「死んでくれ」と言っているのと同じだ。明治政府の政策の恥部だった。

 77年の西南戦争で手柄を立てた元会津藩家老山川浩が陸軍少将に昇進した。昇進決定の会議を欠席した長州出身の陸軍中将兼内務大臣山県有朋は「山川は会津ではないか」と怒った。差別は太平洋戦争まで続いた。

 会津の人々は苦難にめげず、各方面で名を残した。山川の弟で東京、京都、九州の3帝大で総長を歴任した山川健次郎ら、教育界で活躍した人が多かった。第1次大戦中、板東俘虜(ふりょ)収容所(徳島県鳴門市)所長の松江豊寿(とよひさ)はドイツ人捕虜を人道的に扱い、たたえられた。

 山川捨松や新島八重らは篤志看護師として活躍した。彼女たちは鶴ケ城に籠城し、親しい人が死んでいくのを目の当たりにした悔しさがあった。会津の人々は、戦の後も目的を持ち、毅然(きぜん)として知的に生きた。

[池田屋事件]1864年7月、京都の旅館「池田屋」に集まった長州藩などの過激派志士が新選組に襲撃され、多数の死傷者を出した事件。
[禁門の変]1864年8月、池田屋事件に怒った長州藩急進派が挙兵し、京都・蛤御門で会津藩などと交戦、敗走した事件。
[西南戦争]1877年、下野した西郷隆盛が挙兵した士族の武力反乱。政府軍に阻まれ敗走した。
[山川捨松]1860〜1919年。山川浩、健次郎兄弟の妹。薩摩藩出身の大山巌と結婚。「鹿鳴館の華」と言われた。
[新島八重]1845〜1932年。戊辰戦争時に籠城して銃を取り戦う。同志社大学創設者新島襄の妻。

1117荷主研究者:2018/04/15(日) 11:34:37

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180325_63007.html
2018年03月25日日曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(5)天皇を抱き込み権力掌握

白虎隊自刃の石版画が祭られている山口県萩市の唐樋地蔵堂。会津藩と長州藩の因縁を超え、地域の人が供養を続けている

いちさか・たろう 1966年11月、兵庫県芦屋市生まれ。大正大文学部卒。至誠館大特任教授、防府天満宮歴史館顧問。著書に「長州奇兵隊」「明治維新とは何だったのか」など。山口県下関市在住。

◎長州藩はなぜ官軍になったか(上)萩博物館特別学芸員・一坂太郎さん

 <幕末の動乱期に一度は「朝敵」となった長州藩は薩摩藩と手を組んで倒幕に成功する。長州藩をはじめとする西南諸藩がなぜ「官軍」となり得たのか。萩博物館(山口県萩市)の特別学芸員一坂太郎さん(51)は「天皇を抱き込んだことが大きかった」と話す>

<嘆願はねつける>
 長州藩にとって許せなかったのは1863年の「8月18日の政変」だった。当時、孝明天皇は長州藩や急進派公家ら攘夷(じょうい)派の操り人形にされていた。

 天皇は権威を利用され、大和行幸などの勅を出す。攘夷派の暴走を危険視する天皇の真意を知った会津、薩摩藩などが政変を起こし、攘夷派を京都から駆逐する。

 天皇は「18日以降の勅は全て本物」と政変の正当性を認めたが、それ以前の勅は「真偽不分明」とし、どれが「真」でどれが「偽」かは分からなかった。長州藩は「天皇の御前で申し開きをしたい」と何度も嘆願したが、はねつけたのが会津藩だった。

 会津藩は「天皇が駄目というから駄目」と話し合いを一切させなかったため、長州藩は会津を恨むようになった。

 戊辰戦争では、逆に会津藩が謝罪恭順を嘆願する立場になる。仙台藩は「なぜ長州は許されたのに、会津は許されないのか」と新政府に言ったが、相手にされなかった。政変で会津が同じことをしたからだ。

 歴史は話し合いがなくなった時に狂う。太平洋戦争時の軍部の増長など、その後の歴史にも言える。理屈が通らなくなり、感情や数の力、雰囲気で時代を押そうとすると、「悔いが残る歴史」になると思う。

<幕末動乱のキーマンは孝明天皇だった>

◎どちらが取るか
 会津藩主の京都守護職松平容保(かたもり)は孝明天皇から個人的に信頼されていた。一方、長州藩は毛利家が天皇家の子孫とされ、伝統的に天皇家は忠義の対象だった。天皇への忠誠心を全国版にしようとしたのが明治の国家づくりだった。

 長州藩は禁門の変で御所に発砲したため、孝明天皇は幕府に長州藩を討つよう命じた。この第1次長州征伐は「幕府対長州」ではなく、「天皇対長州」の戦いだった。

 67年に孝明天皇は崩御する。会津藩を信頼し、長州を憎んだ天皇の死は政局を揺さぶる。長州藩主は「玉(ぎょく)」を奪われないよう、薩摩藩士の大久保利通に注意を与える。玉は天皇を指す隠語。天皇の旗印をどちらが取るかが焦点だった。

 公家の岩倉具視らの画策で武力討幕派が朝廷を乗っ取り、68年1月、明治天皇が王政復古の大号令を下す。新政府は一度の会議も開かずに誕生した。開けば、将軍徳川慶喜がトップになっていたからだ。「天皇の意思だから」が絶対的な一言になる天皇制近代国家の始まりとなる。

<鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍は天皇の軍であることを示す錦旗を掲げた>

◎政治の駆け引き
 日本人は水戸黄門のような分かりやすさが好きで、印籠を見て「偽物だ」という人はいない。錦旗も皇室に代々伝わる旗ではなく、岩倉が作らせたものだったが、疑う人はなかった。効果は絶大で、旗一枚で官と賊、善と悪を色分けした。錦旗を見た各藩は雪崩を打って新政府側に付いた。

 江戸時代の天皇は基本的に政治の権限がなかったが、幕末は敵も味方も天皇を神格化した。新政府が幕府を倒せたのは、天皇を抱き込んだことが大きかった。奥羽越列藩同盟が負けたのも、政治の駆け引きで差があったからだろう。

[大和行幸]攘夷派の討幕計画。天皇が神武天皇陵を参拝し、攘夷の軍議を開くことを企てた。
[王政復古の大号令]倒幕派が天皇親政の新政府樹立を宣言した政変。幕府を廃止、政府機関として総裁など3職を創設した。

1118荷主研究者:2018/04/15(日) 11:34:59

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180326_65003.html
2018年03月26日月曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(6)朝敵は征伐 見せしめ徹底

新政府が「官軍」の戦没者を祭った靖国神社。「賊」と扱われた会津藩士らは慰霊されなかった

◎長州藩はなぜ官軍になったか(下)萩博物館特別学芸員・一坂太郎さん

 <明治天皇を擁し「官軍」となった長州、薩摩両藩を中心とする新政府軍は、「朝敵」となった会津藩の征伐に向かう。萩博物館(山口県萩市)特別学芸員の一坂太郎さん(51)は「新政府軍が東北を攻撃した理由は(長州藩士)木戸孝允の言葉に象徴される」と言う>

◎禍根残さぬよう

 木戸は戊辰戦争について「大政一新の最良法」と述べていた。岩倉具視らに宛てた手紙には「『膏薬(こうやく)療治』で速やかに表面の形だけ整えては、他日再び禍害が生じる」とある。徹底的に武力でつぶさなければ、禍根を残すと考えた。

 新政府軍の表の大義は、錦旗に発砲し、朝廷に逆らった会津藩を倒すこと。裏の大義は、天皇の名の下に統一国家を築くため「逆らえばこうなる」という見せしめをつくることだった。

 <戊辰戦争後、新政府は東北などの「賊軍」の復権を認めなかった>

◎靖国 対象色分け

 その象徴が靖国神社(東京)だ。新政府は幕府が加護した仏教ではなく、招魂という神事で戊辰戦争の戦没者を祭ろうとした。1869年、招魂場の全国版である東京招魂社を創建。10年後に靖国神社と改称した。

 古来、日本では戦死者の慰霊は敵味方の区別なく行われてきた。「禁門の変」後も会津藩、長州藩などが一緒に慰霊された。

 しかし、新政府は敵の戦死者はあくまで「賊」として扱い、慰霊対象にしなかった。同じ国民同士を色分けしたところに、靖国神社の矛盾点があった。

 靖国神社の大祭は9月22日、会津落城の日だった。他の大祭は鳥羽・伏見の戦いの1月3日、彰義隊が壊滅した5月15日、五稜郭が陥落した5月18日。政権に逆らうことがいかに不義かを知らしめた。

 明治維新は近代化の出発点になった。近代国家を造り、独立国として生き残ったことは評価できる。しかし、近代化を急ぐあまり、考える暇を与えずに力ずくで政策を進め、日本を有らぬ方向へと導いた。

 <戊辰戦争と明治維新から150年を迎える>

◎反省の視点必要

 戦争から60年後、実際に見聞きした人々を取材した「戊辰物語」が東京日日新聞に連載された。岩波文庫で出版もされているが、江戸っ子に「薩長の田舎侍が自分たちの都をめちゃくちゃにした」という意識があったことが分かる。

 100年後の1968年は政府が明治維新を美化して催しを開いた。太平洋戦争から約20年しかたっておらず、「近代化は日本やアジアにとって良かったか」と疑問視する声があった。

 150年を迎えた今年、明治維新はイベントの材料でしかなくなった。一方で「明治維新は間違い」とあおるような本の出版が相次いでいるが、どっちが正しい、悪いという話ばかりだ。そんなことで歴史は評価できない。

 歴史は「英雄偉人たちの紙芝居」ではない。吉田松陰が「老中を殺せ」などと言ったのも事実。そこを切っては歴史ではなくなる。会津戦争は悲惨だった。一般人が巻き込まれ、会津の人は大変な辛酸をなめた。多くの人が決して忘れてはいけない歴史だ。

 明治維新150年は歴史を考える年にしなければならない。その中に反省という視点が絶対に不可欠。今の政府のような、ひたすら美化して都合が悪いものにはふたをする姿勢では歴史は見えなくなる。どこで、なぜ、道を誤ったかは常に議論が必要だ。

[彰義隊]15代将軍徳川慶喜の復権を掲げ、旧幕臣らが結成。上野・寛永寺に立てこもり、新政府軍に壊滅させられた。

1119荷主研究者:2018/04/15(日) 11:35:41

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180327_63007.html
2018年03月27日火曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(7)白河口の大敗 軍内に亀裂

奥羽越列藩同盟が使用したとされる旗。作製の時期や経緯、使われた場所などは分かっていない(米沢市の宮坂考古館所蔵)

ほし・りょういち 1935年5月、仙台市生まれ。東北大文学部卒。著書に「奥羽越列藩同盟」「偽りの明治維新」「東北を置き去りにした明治維新」など。NHK東北ふるさと賞など受賞。郡山市在住。

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎奥羽越列藩同盟はなぜ敗れたか(上)歴史作家・星亮一さん

 <戊辰戦争をテーマに小説を書き続ける歴史作家星亮一さん(82)は、奥羽越列藩同盟の目的を「薩長を駆逐し、新政権をつくることだった」と語る>

◎官軍へ反感募る

 1868年1月の鳥羽・伏見の戦い後、15代将軍徳川慶喜は謹慎した。幕府の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会談し、江戸城は無血開城となった。割を食い、いけにえにされたのが会津藩。将軍が恭順した以上、会津藩に罪はなかった。

 新政府は奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府を仙台に派遣。総督府は仙台藩に会津藩の攻撃を命じたが、仙台には「なぜ会津を攻撃するのか」という疑問があった。玉虫左太夫らを派遣し、会津藩の意向を探った。

 藩主松平容保(かたもり)は玉虫らに幕府に倣って恭順する意向を示したにもかかわらず、総督府の下参謀世良修蔵は怒り、仙台藩に容保の斬首を命じた。

 仙台藩と米沢藩は、会津藩の首謀者(家老)の首を条件に仲介しようと試みる。会津藩は断ったが「戦争と首謀者の首を出すのとどちらがいいか」と説得され、両藩にげたを預けた。だが、世良の要求はあくまで容保の首だった。

 怒った仙台藩士は世良を殺す。世良ら新政府軍兵士の官軍らしからぬ傍若無人な振る舞いが背景にある。仙台人を侮辱し、反感を買っていた。

 同時期に奥羽越の各藩が集まって列藩同盟を結成した。当初は会津藩への寛大な処置を嘆願する平和同盟だったが、拒否されたことで軍事同盟に転換した。

<68年6月、白河口で戦いが始まる>

◎兵器の差は歴然

 仙台藩と会津藩が白河を死守する盟約だった。ところが、戦争が始まると、午前中に負けてしまう。同盟にとって大誤算だった。

 十分な打ち合わせの時間がないまま戦闘に突入したため、両藩の連携が良くなかった。加えて主力の会津藩の総督西郷頼母に実戦経験がなかった。

 西郷は非戦派で容保の京都守護職就任に反対した。結局、会津藩は京都から戻り、藩内に西郷が正しかったという雰囲気が広がった。容保が西郷を総督にしたのは懐柔策だったのかもしれない。

 同盟はゲリラ戦法で時間を稼ぐ必要があった。新選組から夜襲を仕掛ける提案があったが、西郷は「堂々と戦う」と断った。どういう作戦を取るべきか分からない人を選んだことが失敗だった。

 兵器の差も歴然としていた。同盟軍の人数は相手の倍以上いたが、大砲は旧式。連発銃も少なく、旧態依然の軍備だった。対する新政府軍は最新式の大砲や連発銃で圧倒した。

<白河口の戦いの大敗はどう影響したか>

 同盟軍内に「大丈夫か」という疑問が湧き、仙台藩のうち水沢の軍は白河から引き上げた。白河城奪還は約3カ月試みたが、実現できなかった。

 仙台藩内部でも厭戦(えんせん)気分が出た。「会津を支援するべきだ」という主流派と、「薩長と手を握った方がいい」という反主流派の対立があり、次第に反主流派が力を付けた。

 初戦は何としても勝つ必要があった。戦争後、会津藩士秋月悌次郎は「白河が全てだった」と無念の詩を詠んでいる。

[玉虫左太夫]1823〜69年。仙台藩士。世界1周から帰国後、藩校養賢堂指南統取。
[西郷頼母]1830〜1903年。会津藩家老。非戦和平を主張した。会津戦争で一家21人が自刃した。
[新選組]京都守護職の下で京都の治安維持に当たり、尊攘(そんじょう)派を制圧した。近藤勇、土方歳三らが中心メンバー。
[秋月悌次郎]1824〜1900年。会津藩軍事奉行添役。戊辰戦争後、教育者として活躍した。

1120荷主研究者:2018/04/15(日) 11:37:01

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180328_63004.html
2018年03月28日水曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(8)仙台藩 人質手放す大失態

1995年に復元された白石城。戊辰戦争勃発後、奥羽越列藩同盟締結の舞台になった

◎奥羽越列藩同盟はなぜ敗れたか(下)歴史作家・星亮一さん

 <歴史作家星亮一さん(82)は、奥羽越列藩同盟の盟主、仙台藩の責任は重大だったとみる>

≪秋田藩が寝返り≫

 仙台藩の戦略は稚拙だった。仙台に滞在していた奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府総督の九条道孝は会津藩の降伏謝罪を認め、奥羽越列藩同盟と運命を共にする意向を示していた。九条は同盟にとって大切な人質だった。

 だが、仙台藩は九条奪還をもくろむ佐賀藩士前山清一郎にだまされてしまう。前山は「九条総督と、秋田にいる副総督を一緒に連れて京都に戻り、朝廷に戦争中止を訴える」と語った。仙台藩は信じて総督を手放してしまった。

 この失態は大きい。九条総督一行が秋田入りすると、秋田藩は反同盟に傾く。仙台藩は使節を派遣したが、新政府軍に同調した若い秋田藩士に皆、斬殺された。秋田藩は同盟に宣戦を布告。仙台藩は秋田攻撃に向かわざるを得なくなり、白河方面と兵力を二分された。

 <同盟に参加した各藩の意識はさまざまだった>
 秋田藩は「官軍」になったが、庄内、仙台藩などと壮絶な戦いを強いられた。戦争後は石高が少し増えただけで、得た物は多くはなかった。

 仙台藩と共に同盟を主導した米沢藩は、上杉家がかつて越後の領主で、「戦争に勝てば、越後に戻れる」と意欲を燃やした。だが、江戸家老が「江戸は薩長が支配し、大勢は決まった」という情報を入れ、同盟に疑心暗鬼になった。白河で敗れた会津藩の援軍要請を断り、越後の戦闘も及び腰となった。

 庄内藩は薩摩藩と因縁がある。庄内藩は江戸の薩摩藩邸焼き打ちを実行し、会津藩と共に朝敵とされた。焼き打ちは、江戸で騒乱を起こし、戦争に持ち込むという薩摩藩士西郷隆盛の謀略で引き起こされたとする説がある。

 秋田藩を攻めた庄内藩は、豪商本間家が金を出して新式銃を買ったため連戦連勝だった。降伏後は西郷が寛大な態度を示し、薩摩との交流が続いた。

 長岡藩は家老河井継之助が中立を宣言したが、新政府軍に受け入れられず戦いを始めた。河井は「越後の竜」といわれた傑出した人物だが、中央では無名。京都で存在感を示しておくべきだった。

 盛岡藩は家老楢山佐渡が列藩同盟は正義と信じた。同盟を裏切った秋田を攻めたが、新政府軍にしてみれば仲間同士の戦いにすぎなかった。

 戊辰戦争から50年後、藩出身の原敬は「戊辰戦役は政見の異同(考え方の違い)のみ。勝てば官軍、負くれば賊軍」と語っている。薩長藩閥政治に挑んだ原は東北初の総理大臣に就任し、佐渡の恨みを晴らしたといえる。

 <奥羽越列藩同盟の意義は何だったのか>

≪北方政権目指す≫

 歴史上初めて東北は一つという発想で連携できたのは画期的。今の地方の時代につながる先駆的な行動だったと言えるだろう。

 基本にあったのは仙台藩の玉虫左太夫が米国で見た共和政治。公正正義、衆議、弱者への思いやりを込めた画期的な連帯だった。幕府再興ではなく、薩長新政府に対抗する北方政権を旗揚げしようとした。

 同盟はうまく戦えば、新政府に日本をリードする人材を出したかもしれない。しかし、そうならず、東北は「白河以北 一山百文」という汚名に泣いた。

[薩摩藩邸焼き打ち]1868年1月、浪士らの略奪や暴行に手を焼いた徳川幕府の江戸警備担当、庄内藩が三田の薩摩藩邸を焼き打ちした。
[河井継之助]1827〜68年。長岡藩家老。戊辰戦争で一度落城した長岡城を取り返し、奮闘した。
[楢山佐渡]1831〜69年。盛岡藩家老。奥羽越列藩同盟入りを決断。敗戦の責任を負って切腹した。
[原敬]1856〜1921年。盛岡藩出身。立憲政友会総裁を経て首相。爵位を持たず平民宰相と呼ばれた。

1121荷主研究者:2018/04/15(日) 11:37:26

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180329_73045.html
2018年03月29日木曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(9)強い大藩意識 同盟を主導

[くりはら・しんいちろう]1975年3月、上山市生まれ。東北大大学院文学研究科修了。著書に「戊辰戦争と『奥羽越』列藩同盟」「幕末戊辰仙台藩の群像-但木土佐とその周辺」など。仙台市青葉区在住。

家名断絶になった仙台藩士の名簿「明治5年 官省願伺綴」。戊辰戦争後、多くの藩士が過酷な処分を受けたことを示す(宮城県公文書館蔵)

◎仙台藩は何を考えていたのか/宮城県公文書館専門調査員・栗原伸一郎さん

 <奥羽越列藩同盟は仙台藩が主導し、動かなければ誕生しなかった。幕末の仙台藩は何を考え、どう行動したのか。宮城県公文書館専門調査員の栗原伸一郎さん(43)は「大藩としての強い自意識があった」と語る>

◎密約口伝の覚書
 仙台藩は国持ち大名の大藩だった。幕末の時点で直臣約1万人、陪臣約2万4000人を抱え、石高は62万石と全国で3番目。官位も高く、加賀、薩摩藩と並ぶ「外様御三家」としての自己認識があった。

 奥羽の主導者という意識も持っていた。幕末の資料に「伊達家は鎮守府将軍」という話が出てくる。鎮守府将軍は古代に蝦夷に対処するため陸奥国に置かれた軍政府長官で、実際は江戸時代になった人はいない。奥羽で問題が起きれば、解決するのが自分たちの役割と考えた。

 さらに朝廷や幕府を助ける存在だと自覚していた。真偽は不明だが、ある重臣の家には、非常時に仙台藩が江戸を守り、水戸藩が京都を守るという密約が両藩間で結ばれていたという口伝の覚書が残る。

 仙台藩が何か行動を起こす場合、奥羽の大藩としてふさわしい振る舞いかという問題が常につきまとった。藩内ではよく意見が衝突したが、どの藩士も「大藩としてどうするか」を考えた点は同じだった。

 <仙台藩は京都の政局に関与しようとする姿勢が乏しかったと指摘される>

◎国政関与を議論
 理由の一つに奥羽地域を重視する意識があったと考えられる。地域を守る「鎮守府将軍」として警護や治安維持に当たることに意義を見いだし、政局から距離を保つことを正当化した。

 ただ、京都の仙台藩士は積極的に動いた。大政奉還後は対応を協議するため奥羽各藩に呼び掛けて会議を開いた。奥羽以外の藩とも接触し、熊本藩と連携する動きにつながった。後に熊本藩内では奥羽越列藩同盟との連携を念頭に挙兵する計画も浮上した。

 政治秩序が激変すると、仙台藩内では「今こそ動いて薩長と対峙(たいじ)するべきだ」「奥羽諸藩を率いて京都に行くべきだ」などと、自藩領に待機せず、国政に積極的に関与しようという議論が展開された。

 戊辰戦争勃発後、藩内では、武力を用いずに会津藩を開城させて時局を収拾することによって発言力を得ようとする意見が出た。こうした奥羽を主導しようという大藩意識が奥羽越列藩同盟の結成につながった。

 仙台藩は薩摩、長州藩を「公論を無視し、私心で戦争や改革を進めている」と対決姿勢を鮮明にし、中央政局を転換しようとした。しかし、同盟は軍事行動を展開したため崩壊した。

 <幕末の仙台藩ではどんな人物が活躍したのか>

 あまり知られていないが、波瀾(はらん)万丈の人生を送った藩士が多い。藩全般のかじ取りをしたのは奉行の但木土佐(ただきとさ)。玉虫左太夫は全国で情報収集し、藩主に直接意見を言った。玉虫のような100石以下の、家格が高くない藩士が登用され、藩を動かした。

 但木、玉虫らは資料が少なく、不明な点が多い。幕末仙台藩の歴史は研究が少なく、まだまだ基本的なことが分かっていない。藤原相之助の「仙台戊辰史」が基本文献になり、それ以外のことがあまり調べられていない。調査は難しいが、少しでも明らかにする努力が必要だ。

[但木土佐]1817〜69年。幕末仙台藩の奉行。新政府軍の標的となった会津藩の救済を目指し、奥羽越列藩同盟を主導した。
[藤原相之助]1867〜1947年。ジャーナリスト。歴史家。東北新聞などを経て河北新報主筆。著書に「仙台戊辰史」「平泉情史 藤原秀衡」など。

1122荷主研究者:2018/04/15(日) 11:37:49

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180330_63003.html
2018年03月30日金曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(10完)「辺境」イメージ 決定的に

河西英通(かわにし・ひでみち)1953年11月、北海道生まれ。弘前大卒、北海道大大学院博士課程満期退学。上越教育大助教授を経て2007年から現職。著書に「東北-つくられた異境」「『東北』を読む」など。

会津藩主松平容保らが臨んだ降伏式の様子を描いた「会津軍記 会津藩降伏の図」(会津若松市蔵)

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎軍事的敗北の影響は/広島大大学院教授・河西英通さん

 <戊辰戦争の敗北は東北にどんな影響をもたらしたのか。東北の近代史を研究する広島大大学院教授の河西英通さん(64)は「東北イコール辺境のイメージを決定づけ、その後も印象の再生産が続いた」と指摘する>

◎未開の地 固定化

 江戸時代の日本は基本的に親藩・譜代・外様といった来歴や、財政規模を示す石高で藩のステータスが決まっていた。「東北」「西南」など地域区分はなく、モザイク状の社会だった。

 中央集権的な政治行政が定着した途端、東北が「貧しい未開の地」で、西南が文明的で「進んでいる」というイメージが固定化していった。「白河以北一山百文」史観が成立する。

 近代になって進んだモノカルチャー化が背景にある。東北の産業がコメ作りに集約される中、経済発展の歴史や可能性も消えていく。凶作・飢饉(ききん)も、一元的農業ゆえの落とし穴だった。

 植民地ができてコメの輸入が増えると、東北の産業が空洞化する。宿命的な遅れではなく、国の政策的な判断もあり、結果的に「遅れた地域」とみなされていった。

 <軍事的敗北は、東北人の自己認識にどんな影響を与えたのか>

◎西南日本に対抗

 東北と一口に言っても太平洋側と日本海側で気候・風土は異なる。県内でも青森の「津軽」「南部」のように地域の成り立ちが違う。都市と地方の格差や対抗意識もある。ばらばらなのに、藩閥政府批判や西南日本に対抗するため「東北意識」が育まれていく。

 (1887年からの)明治20年代の自由民権運動の中で「第二維新論」と東北主義が生まれる。東北の運動家は「第二の維新を起こそう」と、とりあえず明治維新を「第一の維新」として肯定する。その上で「これから求められる『第二維新』はわれわれがやらせていただく」と訴える。

 明治22、23年の青森県の新聞記事などには地域や歴史への複雑な思いが語られている。レトリックの側面もあると思うが「自虐史観」。未開だから「開発されなければならない」という東北開発論につながった。

 <凶作や身売りといった東北の貧困は1935年からの昭和10年代、昭和維新運動に結び付く>

◎「正義」の視点に

 貧しさは東北だけの問題ではないのに、ひたすら東北の貧しさが強調され、帝国主義的対外膨張に突き進む。東北人自身も国家的使命感を強く意識する。自分たちは強い兵士であり、東北は食料や資源を供給し戦時体制を支える-というプライドを持つ。

 ナショナリズムの高まりの中で否定的イメージは薄まるが、敗戦で植民地を失うと東北は再び「辺境」に戻る。一方で「資源は東北にしかない」と、また東北開発論に注目が集まる。高度成長期には、失われた日本の「原郷」「異境」という印象も付与された。東日本大震災でも「我慢強い東北の人々」が称賛された。

 戊辰戦争は東北全体が敗者だったわけではない。秋田藩や弘前藩など官軍についた藩もあった。しかしその後の歴史を見ると、東北は全体として後進地化、植民地化されていく。

 戊辰後150年の歩みを眺め、これからの150年を展望するとき、浮かれた勝者や中央ではなく、苦汁をなめた東北や周辺側によって立つことが大事。その時、東北の視点は決して「敗北」ではなく、新しい歴史像を描く「勝利」「正義」の視点になるはずだ。

1123とはずがたり:2018/05/02(水) 10:17:22
「うそで政権短命化、歴史が証明する教訓」磯田道史さん
https://www.asahi.com/articles/ASL4Q52YSL4QUPQJ001.html?ref=tw_asahi
聞き手・後藤太輔2018年4月25日08時13分

 歴史家として過去の様々な記録を読むと分かるのは、江戸から明治までの日本は、細かく正確に文書を残す記録大国だったということです。その国がいま「改ざんする」「うそを書く」「残さない」という公文書3悪で歴史に残る問題を起こしてきました。

「公文書焼かれた国、歴史の空白生まれる」保阪正康さん
 江戸時代に細かく記録を残すようになったのは、農民と武士が離れて暮らすようになり、武士が統治の役割を担うようになったからです。武士は、領地での出来事の細かい記録を積み重ね、よりよい統治を行おうとしたのです。

 250年を超える江戸時代に日本人に染みついた記録をとる癖は、明治時代に力を発揮します。福沢諭吉や岩倉具視の海外使節団が残した西洋の詳細な記録は共有され、急激な近代化を支えました。

 しかし日露戦争に勝ってから記…

1124とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:18
宗教よりこっちだな。

「潜伏キリシタン」世界遺産へ…日本人がしがちな誤解を解いておこう
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180701-00056354-gendaibiz-bus_all&amp;p=1
7/1(日) 13:00配信 現代ビジネス

大浦天主堂を建てたのは誰か?
 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産への登録が決定された。

 ニュース映像では、たびたび教会の映像が流れていた。大浦天主堂や黒島天主堂である。

 見逃しそうなところだけれど、しかし考えてみると、奇妙な取り合わせである。

 「潜伏キリシタン」はキリスト教徒であることを隠し、「潜伏」していたから(表面上は仏教徒であったから)潜伏(隠れ)キリシタンなのであって、その文化に「どこから見てもキリスト教の象徴」である教会は存在しないはずだ。

 日本独自の文化である潜伏キリシタンと、大浦天主堂は、本来は直接関係がない。大浦天主堂は潜伏キリシタンが建てたものではない。

 しかしニュース映像では、教会を映したいのだろう。日本人が見たときに、あ、キリスト教徒の文化が登録されるのだ、とわかりやすい。

 大浦天主堂は、フランス人が自分たちのために長崎に建てた教会堂である。

 建てられたのは元治2年(1865年)だから明治マイナス3年、つまり3年後が明治元年になるという、幕末ぎりぎりの建立である。

 日本人が、キリスト教を信仰するのは犯罪だった時代だから、日本人信者のための教会ではない。

 ただ、建立してまもなく、浦上村の潜伏キリシタンがここを訪れ、自分たちもカトリック教徒である、とフランス人神父に告白した。そういう「隠れ(潜伏)信徒の発見」の場所であるため、今回の「潜伏キリシタン遺産」に入っている。

 しかし、その告白が遠因となったのだろう、しばらく経ってから浦上村の潜伏キリシタンはそれまでの埋葬方法を拒否した。つまりキリスト教方式による埋葬を自分たちでやろうとしたのだ。

 残念ながら、フランス人の教会が建立されようと、日本人のキリスト教信仰は犯罪である。幕府に通報され、浦上村の信者は大量検挙され、やがて流刑になり、流刑先で多くの信者が死んだ。

 浦上四番崩れ、と呼ばれる事件である。

 浦上村の史上四回目の信者摘発、という意味の呼称である。つまり江戸期を通して、それまで三度、同様の摘発があったのだ。

本部からの「勧告」
 教会堂として単体で登録されるのは、この大浦天主堂だけである。

 他のものは「長崎の教会群」で申請されたときは却下され、周辺の「潜伏キリシタン施設」を含めたものとして、つまり風景の一部として、申請しなおされたものである。

 そういう教会には以下のものがある(カッコ内は建設完成年)。

 黒島天主堂(1902年。初期建立は1878年)
旧五輪教会堂(1881年のものを1931年に移築)
旧野首教会(1908年。初期建立は1882年)
出津天主堂(1909年。初期建立は1882年)
大野教会堂(1893年)
頭ケ島天主堂(1919年)

1125とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:29

 もっとも古いものが、久賀島の五輪教会堂1881年建立であるが、それはこの島の入り口に近い浜脇地区に建てられた教会を、1931年(昭和6年)に五輪地区の山のエリアに移築したものである。

 ここへはいまだにクルマで行けないらしい。最後は山道を10分ほど歩くため、雨天やその直後には到達困難との案内がある(それで世界遺産として大丈夫なのかしら、とちょっと心配ですが)。

 たしかに他の教会に比べると、日本家屋のような建築で、西洋建築が本格化する前の、土着の教会という雰囲気がある。潜伏キリシタン時代に近い感じがしている。でも、潜伏キリシタンの施設ではない。

 ほかの施設は明治の後半から大正時代に建てられたもので、西洋建築が流行していた時代の立派な教会堂である。

 なかでも黒島天主堂が象徴的存在なので、ここもニュースで映されていた。

 立派な西洋建築で、威風堂々という印象を持った。

 でも「潜伏キリシタン」(関連)施設として紹介されているのは違和感がある。映像だけを見たとき、一瞬、ここはキリシタンが繋がれた牢獄かなんかだったのか、と奇妙な連想をしてしまった。キリスト教信仰が犯罪だった時代は、見つかれば牢獄に繋がれてたわけだから。

 最初、長崎の古い教会群を世界遺産に申請していたのが、潜伏キリシタン施設に限って申請しなさい、と勧告されたのは、そこに日本の独自性があるからで、その勧告の意味はすごくわかる。

 ただ、残念ながら「潜伏」の文化である。キリスト教徒であることが外側からわかってはいけない文化だ。

 隠れていた人たちの文化遺産というのは、犯罪者が仕方なく残した証拠のようなもので(実際にキリストを祀る道具が見つかれば犯罪者として捕縛される状況だから、比喩ではない)、人を圧倒するようなビジュアルを持っていない。

 言ってしまえば地味である。

 その背後にある精神史まで見ないと、感得できない遺産であり、おそらく指示した本部はそういう意味合いを持たせていたのだろう。

 しかし、残念ながら、日本人にはあまり“キリスト教文化理解の基盤”がないようにおもう。

 クリスマス歴史の新書(『愛と狂瀾のメリークリスマス』)を書くために日本のキリスト教史を調べて以来、とても強く感じていることである。

潜伏か、隠れか
 そもそも「潜伏キリシタン」という言葉にあまり馴染みがない。今回の世界遺産報道で初耳という人もいるだろう。

 ふつう「隠れキリシタン」と呼ばれている。

 「鎖国」が「海禁」とされているのと同じく、歴史の視点を変えて、それに沿って歴史用語も変えていくようである。ただ、この変換が「新しい発見によっていままでの概念では通用しなくなったから」ではないように見える。

 『潜伏キリシタン』(大橋幸泰=著、2014年刊)の説明によると、こういうものである(ちなみに当書は新しい知見に満ちた刺激的な好著である)。

 隠れるように活動していたことは事実なので、江戸時代のキリシタンを“隠れキリシタン”と呼ぶことが直ちに誤りだとはいえないが、「潜伏キリシタン」の呼称を使うのは、明治時代以降、禁教が解除されていったにもかかわらず、隠れるように活動していた近現代のキリシタン継承者との差異を意識するためである。江戸時代のほうはむしろ潜伏状態にあった、というのがもっとも事実に近い。

1126とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:41

 つまり、完全な禁教下で、見つかれば殺される(つまり犯罪者として死刑になる)可能性の高い時代の信仰を「潜伏」、表立った禁教が解かれた時期以降、それでも隠れて活動していたキリシタンを「隠れ」と分けているのである。一瞬、なるほどと納得してしまうが、しかし日本語として考えてみるとよくわからない。

 「隠れ」と「潜伏」の使い方の差異が明確ではない。

 そもそも「犯罪を犯した者の長期逃亡」を必ず「潜伏」というわけではない。

 「彼は隠れている」
「彼は潜伏している」

 この二文の違いをどう感じるかという問題である。

 たしかに潜伏のほうが、やや強めな印象を受けるが、あくまで印象でしかない。どちらも自分の意志で身を隠しているという意味に取れる。外的な要因によってやむなく、という意味が、どちらかに必ず含まれているわけではない。

 わかりにくい。

 しかし学術用語を決める権利は学者にあるのだがら、学者がそういう意味で使っているなら従うしかない。

 ただ、「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」の意味の違いは、通常日本語の範疇ではわかりにくいのはたしかである。あまりセンスのいい言い換えではない。

明治政府もキリスト教を禁じていた?
 「潜伏キリシタン遺産」はいくつも登録されており、かなりの長い期間にわたる遺産が並ぶ。

 ただ、じつは「日本ではいつ、キリスト教の禁教は解かれたのか」というポイントがはっきりしておらず、少しわかりにくくなっている。禁教時代の終わりが明確ではないのだ。

 「徳川幕府が倒れて、明治になったらキリスト教は許されたんじゃないの」、とざっくり考えている人もいるだろう。でもそれは違う。

 明治新政府は、べつだん開明的な存在ではなかった。

 古い徳川政府から新しい明治政府になって世の中がすべてよくなった、というのは、明治政府自身がしきりに流し続けた政治的プロパガンダであり、現実はかなり違う。

 明治新政府は、キリスト教は禁教のまま、その信者は強く弾圧した。

 政府発足当初は、仏教さえも外来宗教として扱い、神仏分離令を出して、全国の寺々の仏像が壊された時代を作った政府である(その廃仏毀釈の騒動はわりと早々におさまったが)。キリスト教信仰など認めるわけがない。

 五箇条の御誓文とほぼ同時期に「五榜の掲示」を布告し、キリスト教禁止を明確に打ち出している。

キリスト教は「解禁」されていない
 秀吉が1587年に布告した伴天連追放令に始まったキリスト教禁教の流れは、徳川幕府も継承し、1610年代に禁教令を次々と出し、1637年の島原の乱以降、国内のキリスト教徒を一掃する政策を打ち出した(俗に鎖国政策と呼ばれる「キリスト教徒の殲滅施策」である)。

 明治政府もその流れを継承した。

 キリスト教信仰は引き続き禁止。

 ただ、徳川時代とは状況がかなり違う。

 なにせ、横浜や築地あたりに限られるにしろ、異人さんがそこにいるのである。

 キリスト教徒が我が物顔で歩いてる時代のキリスト教禁教は、それまでと変わらざるをえない。

 またキリスト教を信じる日本人を捕縛し、牢に放り込んでいるのを知った西洋列強は、強く非難しはじめた。欧米を歴訪している政府高官たちから、キリスト教禁止を緩めないと、条約改正がうまくいかないと報告もあり、政府も譲歩していく。

 しかし明確に「これから日本人がキリスト教を信じても、罪とはしません」と国民に向かって明言したことはついになかった。ずっと「黙許」でしかない。

 日本のキリスト教に多くの人が興味ないのはしかたがないことであるが、そのポイントだけは押さえておいてほしい。

1127とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:58

 「明治政府は発足時に「キリスト教信仰は禁止」と明言したあと、その禁止を取り消すことは一度もなかった」

 つまりキリスト教信仰解禁の年、というのは、政府の公式発表を追う限り、日本史上、存在していないのである。

 今回の潜伏キリシタン世界遺産への報道では、「1873年にキリスト教解禁」という文字が見えた。

 どうやら、それが歴史的事実という認識があるようだ。

 残念ながら、錯誤である、というしかない。世界キリスト教史に、わざと錯誤されるように流された情報であり、日本史としては、間違っている、というべき事項である。

 少なくとも「解禁」という事実はない(日本人がなぜ、日本史側から追わないで、世界キリスト教史から追おうとするのか、その態度も問題だとおもうが)。

7/1(日) 13:00配信 現代ビジネス
明治政府の公式見解
 1873年の解禁と言われるのは「五榜の掲示の撤去」のことである。

 「五榜の掲示」は明治政府の民衆への五つの禁令である。

 「五輪の道の遵守」「徒党して強訴や逃散することの禁止」「切支丹邪宗門の禁止」「攘夷行為の禁止(外国人への暴力禁止)」「郷村からの逃散禁止」

 これは新政府樹立のとき(戊辰戦争の真っ最中)に打ち出された新政府の禁令である。徳川時代と同じく、高札に書かれ、辻々に立てられた。

 この五榜の掲示の立て札が1873年(明治6年)に撤去されたのだ。

 各キリスト教国は、これにて日本国はキリスト教信仰を認めたとして、自国へ打電した。

 しかし、明治政府の見解は違う。

 この撤去のあと、イギリスの新聞が「日本政府はキリスト教徒を処罰する法典を廃棄した」と報じたのを見た外務省が驚き、太政官政府にこれは本当なのかと問い質した。 

 政府の回答は「高札の文面は人民があまねく熟知したので、取り除いたまでである。もとよりキリスト教を黙許するという意思はない」というものであった。

 高札での告知では、これからあらゆる分野の新法典を公布していくのに追いつかないので、告知スタイルを変えただけで、書かれた内容は今後も続行である、というのが、政府が行政機関に告知した内容である。

 これが明治政府の公式見解だというしかない。

 1873年の日本政府には「もとよりキリスト教を黙許するという意思はない」のである。

ひねり出された苦肉の策
 じつは、明治政府がとった立場はダブルスタンダードだった。

 外国に対する態度と、日本人に対する態度を変えていたのだ。

 簡単に言えば「日本人に向かってはキリスト教信仰は禁止」「外国人に向かっては、キリスト教に対して宥和的態度をとりはじめたかも、と勝手に誤解したとしても、敢えて否定しない」という面倒な両面である。

 日本の国際的な評判を落とさないための苦肉の策である。

 五榜の掲示を撤去したことによって、キリスト教宥和に動き始めたと勝手に誤解した外国人たちは、あえてそのままにしておいた。それは違う、まだキリスト教信仰は許してない、とこちらから出向いて通告することはしなかった。それは世界相手に喧嘩を売るようなものだからだ。

 日本人に向けては、「日本人のキリスト教信仰は今後も認めない」という態度は崩していない。おそらく明治6年という時期に、日本人のキリスト教信仰を認める、などという衝撃的な発表をすると、日本国中が大きく動揺し、政府転覆勢力に利用される、という恐れを抱いたのだろう。

 理由はどうあれ、200年間、犯罪者だと指定していた切支丹をいきなり解き放つと聞かされたら、ふつうの庶民はただ驚いて怖がるだけである。思想的背景まで考えて喜ぶ庶民が多かったとはおもえない。だから切支丹禁制は継続である。

1128とはずがたり:2018/07/04(水) 18:47:15

 そういうダブルスタンダードである。

 国際的立場の弱い国の政府判断としては、しかたのないところだったのだろう。正論だけを通したり、本音をぶちまけてしまっては、政治は成り立たない。苦しい政治判断である。

 この前年、1872年(明治5年)には「自葬の禁止」を通達している。

 自葬の禁止というのは、仏式か神道式でしか埋葬をしてはいけないというものである。日本人のキリスト教式の埋葬は「自葬」とされ、たびたび捕縛されている。明治政府による明確なキリスト教信仰禁止(信仰は犯罪とする)という告知である。

 明治6年に、その自葬禁止の令は継続中である。

 日本人には、キリスト教信仰を許さず、目立つ布教などは取り締まっていた。

そして黙許へ
 1875年(明治8年)には、函館でのキリスト教布教が妨害されたので、イギリス領事が抗議したところ、外務卿(つまり外務大臣)寺島宗則はこう答えている。

 「耶蘇教(キリスト教)はいまもって我が政府の制禁するところであって、いまだこの制禁を廃したことはない」

 こうイギリス領事へ明言している。

 1875年になってもキリスト教信仰は「解禁」されたとはいえない。

 外務省のトップがそう通告し、それが記録として残っている。

 何度か、キリスト教解禁を告知すべし、とキリスト教国側から要求されたことがあるが、明治政府は絶対それに応じなかった。

 ついぞ「日本人のキリスト教信仰を認める」とは一度たりとも告知していない。

 ただ、取り締まらなくなっただけである。つまり黙許である。

 だから、日本国内でキリスト教信仰が許された年は、明確には特定できない。

 これが歴史事実に対する謙虚な態度だとおもう。

 あまりテレビで「1873年キリスト教解禁」という文字を出さないほうがいいとおもいます(インターネットや雑誌でもですけど)。

 それは、私たちは、自国日本のキリスト教の歴史についてさほど関心を持っていない、と表明しているようなものだ。キリスト教徒に対して優しい気持ちで言っているようでいて、じつは真逆の態度になっている。

大日本国憲法下の「信教の自由」
 「自葬の禁止」は1884年(明治17年)に規制が解かれる。

 人種や宗旨にかかわらず、その土地で死んだ者(およびその土地に本籍を持つ者)は、そこに埋葬していい、ということになった。

 地味な政令であるが、これがかなりわかりやすいキリスト教信仰“黙許”の政令である。ひとこともキリスト教に触れてないが、そういうことである。1884年(明治17年)はひとつのわかりやすい黙許の転換点である。

 明治政府樹立当初の理念のひとつに「神道」を国の中心に置くことがあった(少なくとも狂信的にそれを目指す集団がいた)。

 しかしいくつかの挫折があり10年で諦めざるをえなくなった。

 その明治10年までは、政府首脳は(幕末の志士上がりの元勲たちは)、日本人のキリスト教信仰を認めるつもりはまったくなかったとおもわれる。あらたな宗教的理念を作り出そうとしているときに、そんなものを解き放つわけがない。

 しかし神道国教化は失敗する。やがて民権運動も起こる。

 明治10年代(1877-1886)に入り、社会は別のタームへ入りだした。

 その状況で、キリスト教信仰は黙許されるようになったようだ。

 民衆レベルでは、キリシタンであると告白すると、かなりの差別を受けたようだが(ときに宣教師が暴力的に襲撃されることも起こった)、政府が弾圧することは、なくなっていく。

1129とはずがたり:2018/07/04(水) 18:47:41
>>1124-1129
 1889年発布の大日本国憲法には信教の自由の条文がある。

 キリスト教信者である、ということだけで、捕縛され処刑される可能性は低くなった。

 「なくなった」のではなく「低くなった」というのは、この信教の自由の条文には留保事項があるからだ。

 「安寧秩序を妨げす及び臣民たるの義務に背かざる限において」信教の自由を有す、とされている。日本国の安寧秩序を妨げたり、臣民の義務に背くような宗教であれば、断固、取り締まるというもので、そこにはキリスト教徒を想定しているようにおもえる。

 明治政府の立場からじっくり見ると、常にキリスト教信仰は警戒されており、国家安寧の敵になる可能性を秘めていると見なされていただろう。

日本人とキリスト教の距離感
 今回の世界遺産には、各時代の遺産が登録されている。

 鎖国以前の島原の乱の戦場である「原城跡」がもっとも歴史的に古い。ただ、この時代のキリシタンは「棄教しなかった者たち」であり、潜伏キリシタンとは少し違う。

 鎖国時代(1639年から1853年)が、まさに潜伏キリシタンの時代である。この時代の遺物を中心にキリスト教遺産が選ばれている。しかし、見た目は地味である。

 たぶんその地味さゆえに、幕末開国期(1853年から1867年)、明治禁教期(始まりは1868年、終息は1880年代から1890年代)の「西洋ものらしい文物」が取り入れられている。わかりやすくいえば「古い教会堂」である。

 目立つアイコンが欲しいからだろう。

 おそらく、どこまで行っても、キリスト教文化は日本人にとって異文化なのだ。

 観光施設の目玉としてシンボリックな「教会群」を何とか入れたい。

 ただそうしたことによって「潜伏キリシタンの遺産」というイメージがわかりにくくなってしまった。繰り返しになるが、潜伏と教会は、基本、両立しない。

 そのあたりは、世界遺産センターの指示と、地元の思惑とが、少し行き違っている感じがする。

 世界の視点から見れば、「日本のキリスト教文化」というのは、あまりめぼしいものがない。世界的に見て、キリスト教信者がおっそろしく少ない国である。比較のうえなら、ほぼ信者がいない、と言ってもいいくらいだ(信者が全人口の1%に満たない)。

 そんな国においては、国内的視点で見れば、150年前から存在している教会堂群は、とても珍しく、保存して残し、また多くの人に見てもらって、観光資材としたいものだろう。

 しかしそれは「キリスト教徒のほとんどいない日本」だからこその感覚である。

 日本の神社もキリスト教施設と変わらない古さを持っている。2000年レベルで存在する神社たちのなかで、「明治になってから創建された神社群」だけを歴史遺産として保護しようという申請があったら「それに意味はないと言わないけど、それ以前にもっと守るべき古い神社があるんじゃないですか」と指摘されそうだ。

 世界レベルで見れば、日本の教会群は、そういう「最近できたもの」グループに入るはずである。

 世界遺産なんだから、世界レベルで判断するしかない。

 2000年近くに及ぶキリスト教文化とその遺産を持つ人たちから見れば、「日本にしか見られないキリスト教文化の特徴」は「200年を越えた国を挙げての徹底した禁教時代に、それでも信仰を守り続けた潜伏キリシタンという凄まじい土俗の力」にしかないのである。

 今回の指摘はそういう意味を持つと私はおもっている。

 世界で共有できる独特の遺産は、おそらくその「精神性」にある。

 ただ日本人は、あまりそういうことを想像しない。

 一部の人をのぞき、日本でのキリスト教の活動に、あまり興味を持っていないようにおもう。

 キリスト教施設は、いつも「エキゾチックでロマンチックで荘厳」という気分で捉えられている。

 おそらく世界遺産センターは、日本人のそういう気分を見抜いて「自国向けの視点ではなく、きちんと世界向けの視点を持ちなさい」という意味で、潜伏キリシタンに焦点を当てよ、と指導してきたのだろう。教育的指導である。

 日本人が自力でその視点を持つのは、なかなかむずかしいのだ。

 日本にとって、どこまでもキリスト教文化は異文化である。

 ひょっとしたら「日本」があり続けるかぎり、そうなのかもしれない、とあらためておもう。

堀井 憲一郎

1130とはずがたり:2018/07/18(水) 12:09:06
韓国元慰安婦支援団体「挺対協」が「正義連」に名称変更
https://www.asahi.com/articles/ASL7J6WS7L7JUHBI033.html?ref=goonews
ソウル=武田肇2018年7月16日21時30分

 韓国の元慰安婦支援団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」(挺対協)は16日、組織改編を行い、新たに「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)の名称で活動に取り組むと明らかにした。挺対協は韓国で最大の元慰安婦支援団体。名称変更は1990年の発足以来初めて。

 発表によると、挺対協は、2015年の日韓慰安婦合意に対抗し、元慰安婦を対象に独自に福祉事業を行うために設立された「正義記憶財団」と組織統合する。

 今後は、①戦時性暴力の再発防止②日本軍慰安婦問題に関する調査・研究▽次世代に歴史を継承する活動に力点をおくという。理事長には尹美香(ユンミヒャン)挺対協常任代表が就いた。

 挺対協は元慰安婦の証言集の出版や生活支援を手がけ、ソウルの日本大使館周辺で毎週水曜日、日本に謝罪と賠償を求める「水曜デモ」を主宰している。11年には同大使館前に設置した「少女像」が日韓の外交問題となった。また最近はベトナム戦争での韓国兵による性暴力や、アフリカ・コンゴ紛争での性暴力の被害者も支援している。(ソウル=武田肇)

1131とはずがたり:2018/07/20(金) 18:45:27

大西洋は「大」、太平洋は「太」になった“本当の理由”
https://excite.co.jp/News/it_g/20180720/Itmedia_nl_20180719089.html
ねとらぼ 2018年7月20日 11時00分

「タイセイヨウ」「タイヘイヨウ」と音が似ているのもあって、ややこしい。

 ヨーロッパ、アメリカのあいだに位置する海は「『大』西洋」。アメリカ、アジアのあいだにあるのは「『太』平洋」。よく似ていますが、後者は「大」に点が入ります。テストでうっかり間違ってしまった経験がある人も多いのでは?

 この違いについて「太平洋は『Pacific Ocean』を翻訳したもの。Pacificには平和、太平という意味があるから『太』と書く」などと説明されることがありますが、これは誤りなんだとか。一体、どういうことなんです?

●大西洋は「大」、太平洋は「太」になった“本当の理由”

 16世紀、史上初の世界一周に成功したとされるマゼランは、ある大洋をラテン語で『Mare Pacificum(平穏な海)』と命名。この英語訳が「Pacific Ocean」で、日本語訳は「太平洋」――。このような説明は辞典などにも掲載されているものの、岩手大学名誉教授・米地文夫氏によると“短絡的な理解”とのこと。

 同氏の解説をざっくりまとめると「そもそも太平洋にはさまざまな呼称や書き方があり、スムーズに定着したわけではない」というものになります。

 例えば、イタリア人宣教師マテオ・リッチが17世紀初頭に作成した「坤輿万国全図」(こんよばんこくぜんず)では、太平洋がいくつかに分けられ、以下のような呼称が使われているとのこと。

・大東洋

・墨瓦蝋泥海

・寧海

 この他にも「東海」「東洋海」「大日本海」などさまざまな名前があり、太平洋という表現が初めて使われたのは、マゼランの航海から約300年後のこと。…

イギリス人宣教師が手掛けた「地理全誌」(1853〜1854年)に見られるそうです。しかし、ややこしいことに、その著者自身は点が入らない「『大』平洋」を用いているといいます。

※Pacific Oceanには「Grand Ocean」という呼び方も存在。米地文夫氏は、両者を合わせた「Grand Pacific Ocean」の訳として『大』平洋が採用されたとしている。

 また、明治初期の日本でも「『大』平洋」という書き方が見られ、「大」「太」のどちらも使われていたとか。この表現の混在は1903年、国定教科書に「『太』平洋」と記載されたことで収まったとのこと。

 つまり、歴史をさかのぼると「『太』平洋」「『大』平洋」はともに間違いではなかったというわけ。元も子もない話になってしまいますが、その片方「『太』平洋」だけが正解とされるようになった理由は「教科書にそう書いてあるから」ということができそうです。

●主要参考文献

・太平洋は当初「大平洋」であった ?(季刊地理学/米地文夫氏)

・How the oceans got their names(OxfordWords blog)

1132名無しさん:2018/08/12(日) 23:21:43
http://jyouhouya3.net/2013/07/_1950.html

2013/07/05
[貴重画像] ロシアのサイトに掲載された1950年代の日本

共有ツイートピンメールロシアのフォーラムで紹介されていた1950年代の日本の画像。撮影したのは旧軍パイロットのアメリカ人。日本に訪問した際に撮影したものです。似たような画像で、元米軍の方が、撮影した、昭和40年頃の自衛隊駐屯地の画像を見たことがありますが、日本のこういった画像は海外の方が持ってる場合もあるんだなぁと実感させられます。今回紹介する画像は、カラー写真で写りも綺麗です。
[貴重画像] ロシアのサイトに掲載された1950年代の日本

1133とはずがたり:2018/08/14(火) 13:43:29
平和教育に赤信号 沖縄県・ひめゆり資料館の来館者はほぼ観光客
2017年6月19日 07:55
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/103431

 沖縄戦の記録や証言などを展示している糸満市の沖縄県平和祈念資料館とひめゆり平和祈念資料館の県内の入館者数が低迷している。県資料館の2016年度の県内有料観覧者数(無料の学校団体除く)は7963人で、開業翌年の01年度と比べて8割減少。ひめゆりでは県内の利用状況が分かる小中高校の来校数が、ピークだった1995年度の140校から2016年度は72校と、ほぼ半減した。終戦から72年を迎え、沖縄戦の証言者が年々少なくなる中、施設関係者は「平和学習も含め、県民の関心の薄れを感じる」と危機感を抱いている。(学芸部・座安あきの)

 観光客を含めた全体の入館者総数も減少傾向。県資料館の16年度の入館者は37万2502人で10年前の06年度に比べて17%減。ひめゆりは同比約36%減の57万9865人となり、初めて60万人を割り込んだ。来館者のほとんどを観光客が占める。国内は減少傾向にあるが数年前から海外が増加し、県資料館の担当者は「全体的には下げ止まりつつある」と話す。

 一方、県内の入館者数は依然低迷が続く。県資料館の県内(有料)は開館効果があった00年度の約11万人を除くと、01年度の4万3820人が最多。08年度からは1万人を下回る。有料観覧者に占める県内の割合は05年度まで10%前後だったが、08年度以降は2%台で推移。県内小中高校の利用も00年度の368校(3万1947人)から、16年度は224校(1万8982人)に減った。

 県資料館は開館当初から、ひめゆりは08年度から県内の学校団体の入館料を無料にしているが、入館者の増加にはつながっていないという。識者や関係者は、県内客が低迷する要因の一つに、学校現場での平和教育の取り組みに課題があるとみている。

 平和祈念資料館学芸班長で、中学校で社会科を教えていた古謝将史さんは「県内の学校現場はここ数年、学力向上に力を入れ、校外学習行事を減らす傾向がある。一方で地域の身近な戦跡を活用した学習を進める学校も出始めている」と話す。「沖縄戦の体験者が少なくなる分、記憶を残す『場所』が一層重要になる。教育現場でも『場所』を活用し、共感する場面をどうつくるか、考えていく必要がある」と指摘した。

1134とはずがたり:2018/08/21(火) 12:37:42
正統史観年表
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-565.html

「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判

産経ニュース 2011.12.7 22:41
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n2.htm

ハーバート・フーバー第31代米大統領(1874〜1964年)が、
日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の
大統領だったフランクリン・ルーズベルト
(第32代、1882〜1945年)について、
「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った
『狂気の男』」と批判していたことが分かった。

1135とはずがたり:2018/08/23(木) 19:48:00
昭和天皇、戦争責任で苦悩=晩年の姿、元侍従が日記に
https://www.excite.co.jp/News/society_g/20180823/Jiji_20180823X137.html
時事通信社 2018年8月23日 16時35分



 昭和天皇が85歳だった1987年4月、太平洋戦争の責任をめぐり苦悩する姿を、元侍従の小林忍氏(故人)が日記に書き残していたことが23日分かった。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記されていた。

 小林氏は人事院出身で、74年4月に昭和天皇の侍従に就任。89年1月の昭和天皇逝去後も香淳皇后に仕え、2001年6月に皇太后宮職御用掛で退任した。06年7月に83歳で死去した。

 日記は74年から香淳皇后が逝去した00年まで27冊あり、家族が保管。共同通信を通じて、23日公開した。85歳だった昭和天皇が戦争責任を気に掛けていたとの内容は87年4月7日の欄に「昨夕のこと」として記述。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減を検討しており、同年2月には弟の高松宮が逝去した。

 これに対し、小林氏は「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と述べたと記している。

 75年11月24日の欄には、同22日の侍従長の話として、「訪米、帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており、自信を失っておられる」と記述。訪米後の75年10月の記者会見で原爆投下や戦争責任についての発言が波紋を呼んでいた。「お上の素朴な御行動が反(かえ)ってアメリカの世論を驚異的にもりあげたことなど申しあげ、自信をもって行動なさるべきことを申し上げたところ、涙をお流しになっておききになっていた」と記している。 



Read more: https://www.excite.co.jp/News/society_g/20180823/Jiji_20180823X137.html#ixzz5OzsyonXa

1136とはずがたり:2018/09/02(日) 09:56:02

会津藩士への弔辞見つかる
汚名返上の思い伝わる史料
https://this.kiji.is/408526774184477793
2018/9/1 16:38
c一般社団法人共同通信社

 150年前の戊辰戦争で犠牲になった会津藩士の家族らが、戦争から22年後に移住先の青森県で営んだ法要で読み上げたとみられる弔辞6通が、仙台市の藩士子孫宅から見つかった。専門家は「朝敵の汚名を着せられ、一刻も早く名誉を回復したい会津出身者の思いが伝わる貴重な史料だ」としている。

 弔辞は仙台市の小池純一さん(70)が自宅で発見した。1890年5月、円通寺(青森県むつ市)で開かれた二十三回忌で男女6人が読んだとみられる。

 「弾丸を援軍のない城に受けたが、盾を布団に、矛を枕にして国のために戦死した」「諸君の忠義は世の中の称賛を浴びるだろう」などとつづられていた。

1137とはずがたり:2018/09/02(日) 09:59:43
1918年米騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95

騒動の広がり
第一次世界大戦による好景気がまだ続いていた1918年(大正7年)に伊勢の福寅一派の相場師の買いあおりにより米穀取引所における期米相場は遂に50円(1石当たり)に迫り、小売価格も1升30銭から50銭を超すに至り世の中は物情騒然となった[17]。

米価の暴騰はとどまりを見せず、1918年(大正7年)8月1日には1石35円を超え、同5日には40円を超え、9日には50円を超えた。8月10日には京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。8月12日には鈴木商店が大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)とのねつ造記事を書かれたことにより焼き打ちに遭った。米騒動は移出の取り止め、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約20,000人の群集が集結した。同じく京都では柳原町(現在の京都市下京区の崇仁地区)において騒動が始まり、米問屋を打ち壊すなどして1升30銭での販売を強要した。

東京市では、北陸での暴動発生の報を受けても主要な政治団体は静観の構えを見せた[18]。しかし、8月10日に宮武外骨を発起人として山本懸蔵ら政治・労働運動弁士による野外演説会を日比谷公園で8月13日に開催する広告が打たれ、警察が禁止の決定をしたにも関わらず当日には約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった。200人の警官が包囲する中で行われた即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れて怒号と興奮が高まっていた[18]。事態は警官との衝突に発展し、暴徒となった群衆は3派に分かれ、派出所や商業施設への投石、電車や自動車の破壊、吉原遊郭への襲撃・放火を行った。浅草方面に向かった一派は翌14日に浅草・本庄近辺の米商に押し寄せ、暴力的な廉売交渉を行った。8月15日には軍が出動し、翌16日に暴動は鎮圧され総計299人が検挙されている[18]。東京市での暴動は、他の地域と比較して反ブルジョア思想を背景とした都市暴動の性格を持っており、暴動参加者の多くは若年層の男性だった[18]。

こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、8月17日頃からは都市部から町や農村へ、そして8月20日までにほぼ全国へ波及した。騒動は次第に米問屋から炭坑へと場所を移し、9月12日の三池炭坑の騒動終了まで、50日間を数えた。

炭坑への飛び火
8月17日以降には、米騒動は山口県や北九州の炭坑騒動へ飛び火する。山口県沖の山炭坑、福岡県峰地炭坑などにおいて、炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転化した。沖の山炭坑の騒動は付近住民を加えた数千人規模の騒動に発展し、米問屋、屋敷の打ち毀しや遊郭への放火などが起こった。出動した軍隊に対してもダイナマイトで対抗するなど(陸軍のねつ造)、死者13名を数える惨事となった。陸軍が発砲理由とした坑夫のダイナマイト(爆弾)使用は、陸軍が発砲を正当化するためにねつ造したコメントを、『大阪朝日新聞』(大正7年8月23日付)などが取材なしに記事化したことにより流布された可能性が高い[19]。

1138とはずがたり:2018/09/02(日) 09:59:59
>>1137
騒動の発生地域・参加人員と軍隊出動、検挙者の処遇
「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間に渡る一連の騒動は最終的に、1道3府37県の計369か所に上り、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された[20]。呉市では、海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙する中、銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出たことが報告されている。検挙された人員は25,000人を超え、8253名が検事処分を受けた。また7786名が起訴[21]され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。

被差別部落との関わり
米騒動での刑事処分者は8185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。部落の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では3割から4割が被差別部落民であり、女性の検挙者35人のうち34人が部落民であった[22]。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったからである。京都市の米騒動も、市内最大の部落である柳原(現・崇仁地区)から始まっており、同地区では50人以上の部落民が逮捕されている[23]。処分は死刑をも含む重いものであった。死刑判決を受けた和歌山県伊都郡岸上村(現・橋本市)の2人の男性、すなわち中西岩四郎(当時19歳)ならびに同村の堂浦岩松(堂浦松吉とする資料もある。当時45歳)も被差別部落民であった。

1920年(大正9年)、事態を重く見た原内閣は部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。

軍人の参加、警官による暴動への加担
呉市では、水兵が騒動に参加して検挙された。また、一部の地域では制止すべき警官が暴動を黙認した。

政府対応
政府は8月13日に1000万円の国費を米価対策資金として支出する事を発表し、各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが、騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から8月28日にはこの指令を撤回し、安売りを打ち切った。結果として発表時の4割程度の支出に留まり、米価格の下落には至らず、1918年(大正7年)末には米騒動当時の価格まで上昇したが、国民の実質収入増加によって騒動が再発することはなかった。

平民宰相の誕生
米騒動の影響を受け、世論は寺内内閣の退陣を求めた。

寺内は体調不良もあり8月31日に山縣有朋に辞意を告げ、9月21日に正式に辞表を提出した。

山縣は西園寺公望に組閣を命じたが、西園寺はこれを固辞し、原敬を推薦した。そして9月27日に原に組閣が命じられ、日本で初の本格的な政党内閣である原内閣が誕生した。

爵位を持たない衆議院議員を首相とする初の内閣となったということで、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。

1140荷主研究者:2018/09/02(日) 22:14:57

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/218167?rct=n_hokkaido
2018年08/14 16:57 北海道新聞
検体求め倫理を逸脱? 北大教授、旧満州で人体実験か

 戦時下、北海道帝国大教授が軍の協力を得て、被験者の同意を得ずに人体を使った実験を行っていたことが明らかになった。背景には当時の外地の国民に対する人権意識の低さがあるが、近年、民生分野にも活用できる「デュアルユース(軍民両用)」の研究の是非が議論になる中、軍事と科学技術の距離は今も問われている。

 「この材料からどういふ方法で睾丸(こうがん)をとり出して薬品処理したかといふ事ですが(中略)相当重大な問題でもあり(中略)口を緘(とざ)して置きます」

 中国人から摘出した睾丸で染色体を観察する研究を行った北海道帝国大教授の小熊捍(おぐままもる)氏は、1939年の講演でこう述べ、手法の詳細への言及を避けた。当時は、医学研究について被験者の同意が不可欠とする国際倫理指針「ニュルンベルク綱領」が作られる前だが、小熊氏に非倫理的な人体実験との自覚があったことをうかがわせた。

 旧満州(現中国東北地方)では、関東軍防疫給水部本部(通称・731部隊)が36〜45年、生物兵器開発などのため中国人らに対する人体実験を繰り返した。犠牲者は2千〜3千人に上るとされる。

 31年の満州事変以降、日本の占領政策に抵抗する武装勢力による襲撃が相次いだ。戦時下の人体実験に詳しい神奈川大の常石(つねいし)敬一名誉教授(科学史)は当時の時代背景について「抗日運動に対する憎しみが日本で高まり、殺してもいいという考えが広がった」と語る。

 731部隊の上位部隊・関東軍の元参謀副長だった旧日本陸軍大将は回顧録で「某国立大学の外科教授が来訪し、匪賊(ひぞく)処分の機会を与えてくれと頼まれた」と振り返った。常石名誉教授は「満州は人体実験など『国内ではできない研究』ができるとされ、多くの研究者が訪れた。小熊氏も検体が欲しいあまり、非倫理的な手段をとったのだろう。資料を読む限り被験者の同意はなく、戦時とはいえ生命倫理に反する研究だった」と話す。

 見返りに軍は大学から優秀な人材を送ってもらえる利点があり、時流に乗って軍と科学者が互いに利用し合っていた構図が浮かぶ。

 各分野の科学者でつくる日本学術会議は2016年、軍事的な研究を行わないとする声明の見直しを議論。結局、昨年3月に従来の声明を継承することを決めたが、研究者の間には「自衛のための研究は許される」「基礎研究の段階では軍民の区別はない」などの声もある。戦後、科学者が一線を引いてきた軍事と科学技術の関わりは、転換点を迎えている。

 小熊氏について調べている北大大学院の川本思心(ししん)准教授(科学技術社会論)は「小熊氏の研究は軍事応用ではなく基礎的研究だが、社会環境によって研究者の良識のたがが外れ得ることを示している」と指摘。「重要なのは資金源だけでなく、研究結果がどう利用されるか。今の研究者も望んだ研究ができる環境になったとき、一線を越えないか深く考えるべきだ」と警鐘を鳴らす。(吉田隆久)

1141荷主研究者:2018/09/02(日) 22:20:54

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180814_13029.html
2018年08月14日火曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(上)勤労の日々/貴重な青春、無為に消費

火薬廠で働いていた当時の笠松さん(手前左)=1945年4月ごろ

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 大河原町の市場貞子(ていこ)さん(89)が火薬廠に動員されたのは1944年11月。旧白石高等女学校に通う15歳だった。

 「女の自分でも国のために働ける」。動員が決まった時は、不安よりも喜びが勝った。

 工場に入ると、身なりは一変する。セーラー服から作業着、スカートからもんぺ。頭には日の丸の鉢巻きを結んだ。

 寮の起床時間は午前5時。シューマンの「トロイメライ」が流れると、急いで身支度を整えた。

 食事は白米にサツマイモの葉を混ぜてかさを増やした「糧飯(かてめし)」やかゆ。粗末なものばかりだった。

 火薬廠の入り口に着くと、班長の市場さんが「白石高女隊100人入ります」と守衛に敬礼。履き慣れない地下足袋で「丘にはためく あの日の丸を…」と軍歌を歌いながら歩いた。

 敷地は530万平方メートルと広大で、入り口から持ち場まで歩いて1時間近くかかった。

 機銃火薬を定規に合わせて切断するのが市場さんの仕事。火薬はプレス機械で圧縮され、うどんのように落ちてきた。仕事は12時間勤務で夜勤もあった。

 45年3月に女学校を卒業するまで、火薬廠で働き続けた。「10代半ばの少女にとっては大変な重労働だった」と振り返る。

 火薬を取り扱うだけに仕事は危険を伴った。やけどを負ったり、機械で指を切断したりする人がいたという。

 中には命を落とす学徒もいた。旧角田中の男子生徒が作業中、機械の歯車にマントを引き込まれ、頭を強く打って亡くなる事故があった。

 「戦争で勝つにはみんなが働かなくちゃいけない」。旧大河原高等女学校から火薬廠に動員された笠松ヤエ子さん(88)=仙台市=は当時、自分の置かれた状況を当然のことと捉えた。

 終戦から時間がたつにつれ、考えが改まる。「二度と来ない青春を無為に消費させられた」。そんなやりきれなさを感じるようになった。

 一方で「女学校時代から学徒動員を取ったら何も残らない」とも思う。同級会の話題は火薬廠ばかり。当時歌った軍歌を合唱したり、習った手旗信号をしたりして昔を懐かしむ。

 貴重な学業の時間を戦争によって奪われた学徒たち。理不尽な目に遭いながらも、類を見ない経験を共にして互いの絆を強めた。

[メモ]第一海軍火薬廠は1939年、現在の柴田町船岡地区と角田市北郷地区に海軍火薬支廠として開庁し、41年に改称。機銃火薬や爆弾用爆薬の補充、供給のほか、東北開発が開設目的だった。太平洋戦争末期には学徒を含め毎日1万人が働き、終戦まで操業を続けた。

1142荷主研究者:2018/09/02(日) 22:21:31

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180815_13009.html
2018年08月15日水曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(中)戦火の中で/「敵機近づけぬ」神話も

陸上自衛隊船岡駐屯地に残る第一海軍火薬廠時代の防空壕。現在は立ち入り禁止となっている=柴田町

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 太平洋戦争末期、第一海軍火薬廠(しょう)(宮城県柴田町、角田市)の動員学徒らの間で一つの「安全神話」がささやかれていた。

 「蔵王連峰の影響で起きる乱気流のため、火薬廠に敵機が近づけない。阿武隈川から立ち上る霧で下界も見えない」

 実際には、多くの米軍機が火薬廠の上空を飛んでおり、単なるうわさ話にすぎなかった。

 話の信ぴょう性を高める事故が起こった。1945年3月10日未明。蔵王連峰の不忘山で、3機の米爆撃機B29が相次いで墜落した。

 旧白石中から火薬廠に動員された阿部雄次さん(89)=白石市=は「B29が落ちたぞ」と聞き、寮から蔵王連峰を眺めた。「確かに山が燃えていた」と振り返る。

 動員学徒は皆が皆、火薬の製造ラインに配置されたわけではない。阿部さんは防空壕(ごう)の掘削に汗を流した。「ただ国が勝つことだけを信じて働いた」と言う。

 動員学徒が火薬廠時代を追想した冊子「戦争の頃の思い出」では、旧角田中の卒業生が「火薬を作りながら、竹やりの訓練も受けた」とつづる。

 指導官は「隠れていて敵が来たら、一突きすればいい。一人一殺だ」と厳命。「アメリカが来たら、女は強姦(ごうかん)され、男は睾丸(こうがん)を抜かれる」とも語ったという。

 空襲警報が鳴ると、学徒たちは敷地内のあちこちにある防空壕に駆け込んだ。「暑いし、蚊が多いし、気持ちのいい場所ではなかった」と思い起こすのは、旧黒沢尻高等女学校(北上市)から来ていた小原崇(たか)さん(89)=北上市=だ。

 B29が火薬廠の上空に飛来することもしばしば。威嚇のためか、地上数メートルの高さまで急降下することがあった。「パイロットのゴーグルまではっきり見えた。おっかない顔だと感じた記憶がある」

 45年7月10日には、火薬廠周辺から仙台空襲の光景が見えた。空が真っ赤に染まっていたことだけが脳裏に焼き付いている。

 B29や仙台空襲を目の当たりにしても、不思議と怖さは感じなかった。「当時の自分たちには兵隊さんと同じような覚悟があったのかもしれない」と振り返る。

 結局、火薬廠は爆撃を受けずに終戦を迎える。大規模な軍需工場が標的にならなかった理由は不明だ。いずれにしても「安全神話」のおかげではないだろう。

 学徒たちの覚悟は幸いにも、空振りに終わった。

[メモ]1941年12月に太平洋戦争が開戦し、国は43年6月、労働力を補うため学徒戦時動員体制確立要綱を閣議決定。44年3月には動員の通年実施を決めた。同8月には学徒勤労令が発布され、第一海軍火薬廠にも学徒が逐次動員された。

1143荷主研究者:2018/09/02(日) 22:22:09

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180816_13012.html
2018年08月16日木曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(下)迎えた終戦/放心 絶望 交錯した感情

終戦直後、動員学徒が仲間からノートに寄せてもらったサインやメッセージ

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 1945年8月15日。今年の夏のように、うだるような暑さだった。

 正午、第一海軍火薬廠(宮城県柴田町、角田市)の工員が広場に集まった。旧黒沢尻高等女学校(北上市)から動員された佐々木静子さん(88)=北上市=もその一人だ。

 ラジオからの玉音放送は雑音も多く、よく聞こえなかった。「日本は戦争に負けた」。誰かがそう言うと、周りは一気に騒がしくなった。泣きだす人もいた。

 動員された旧制二高(現東北大)の学生は「慚愧(ざんき)、慚愧」と悔しがり、地面に拳をたたきつけた。

 一般の工員の一人は、やり場のない怒りを抑えられず、工場の椅子を倒し、そばにあった物を放り投げた。

 佐々木さんは「今まで頑張ったのは何だったのか」と放心状態になった。「戦争に負けたら男も女も奴隷として連れて行かれる」。そんなことを聞いていただけに絶望感にも襲われた。

 午後になると、動員学徒たちが再び広場に出てきた。旧制二高の学生は「日本は確かに戦争に負けた。だが、民族の誇りを失わず、国の再建のために頑張ろう」と年下の学徒たちを鼓舞した。

 「私は朝鮮で生まれ、幼い頃に日本に来た」。旧制中学のある生徒が立ち上がり、告白した。「日本が敗戦国となり、朝鮮に帰ることになる。けれど、日本国民だったことを忘れず、再建に力を尽くしたい」。声を詰まらせながら訴えた。

 佐々木さんは生徒の心情を思い、胸が苦しくなった。涙と汗でハンカチがぐっしょりとぬれた。

 敵機が上空を飛び交うごう音は、もう聞こえない。ジー、ジー、ジー。セミの鳴き声が久しぶりに耳に響いた。

 終戦により、数日で片付けを済ませ、古里に帰ることになった。動員学徒の仲間たちとの別れを惜しみ、佐々木さんら女学生たちはそれぞれ、ノートにサインを求めて回った。

 「作業中に明るい声で笑っていたね」。言葉を交わしたことのない二高生からこんなメッセージを贈られ、驚くような恥ずかしいような気分も味わった。

 「あの朝鮮出身の生徒は母国に帰った後、日本に戻ろうとし、スパイ容疑で処刑された」。後に風のうわさでそんなことを聞いた。

 火薬廠を離れてから73年。「さまざまな感情が押し寄せたあの日のことを忘れることはできない」。今年も終戦記念日を迎え、胸がざわめいた。

[メ モ]終戦後の1945年9月、米軍が第一海軍火薬廠に進駐。同11月に火薬廠が閉庁した後、米軍が敷地や建物を接収した。58年3月、火薬廠の接収を解除し、日本政府に返還。跡地には現在、仙台大や陸上自衛隊船岡駐屯地、角田宇宙センターなどがある。

1144とはずがたり:2018/09/05(水) 08:44:36

おお,未だお元気そうでなによりだ。今年は平成の最後にして余りにも多くの昭和人が逝ったからな。。

熊谷空襲
「戦争、国が人生奪う」 作家・森村誠一さん、終戦前夜を語る /埼玉
https://mainichi.jp/articles/20180828/ddl/k11/040/215000c
会員限定有料記事 毎日新聞2018年8月28日 地方版

埼玉県
 「人間の証明」などの作品で知られる作家森村誠一さん(85)は、終戦前夜の1945年8月14日夜から15日未明にかけ、故郷の熊谷市で空襲を経験した。闇夜を切り裂く焼夷(しょうい)弾に、川を埋め尽くした無数の遺体。玉音放送を聴いて感じた喜び。共同通信の取材に「戦争とは、国が人々の人生を奪うこと」と、平和への思いを語った。

 森村さんは当時12歳。8月14日深夜、米軍機が次々に落とす焼夷弾で、熊谷市中心部にあった自宅も瞬く…

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1145とはずがたり:2018/09/16(日) 20:24:48

発掘された「西郷どん」の新史実 最後の内戦、西南戦争
https://www.asahi.com/articles/ASL8T6W4WL8TUCLV005.html?ref=tw_asahi
編集委員・宮代栄一2018年9月16日18時59分

 元号が明治に変わって150年。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」など、その時代に注目が高まっている。近代日本を方向付け、日本最後の内戦となった西南戦争。熊本城炎上や田原坂(たばるざか)の戦いについて近年、発掘の成果をもとに研究が進み、新たな史実が見えてきている。

 事件は、1877年2月19日に起きた。官軍がこもる熊本城の天守閣が「謎の失火」で焼失。薩軍(鹿児島軍)の工作員が火をつけたという放火説のほか、官軍関係者による失火説などが従来は唱えられてきた。

 出火元とされる本丸御殿跡を、熊本市が1999〜2006年に発掘。報告書を作る過程で新事実が判明する。御殿の中でも「小広間」と呼ばれる部分が激しく焼けており、詳細な火元がほぼ特定されたのだ。

 市文化振興課によると、小広間は出土品などからみて、官軍幹部の執務室だった可能性が高い。小広間が位置するのは御殿の一番奥。そこまでに火をつけやすい場所はたくさんあり、「工作員がわざわざそこまで潜入して放火したとは考えにくい」と同課の美濃口雅朗主幹は推理する。

 ではなぜ出火したのか。「特定の軍関係者以外は入れない場所から火が出、かなり離れた天守閣に延焼するまで有効な消火活動が行われた節がない。官軍の幹部が自ら火をつけたとみていいのではないか」。この説は昨年、熊本市で開かれた西南戦争に関するシンポジウムで発表され、大きな反響を呼んだ。

 官軍による自焼説は、熊本博物…

1146とはずがたり:2018/10/03(水) 09:08:01
超特急の阪和電鉄の凄さはどっかで読んだことあったけど,それよりなにより昭和16年位迄豊かに白浜観光出来る人が多かったのは暗い世情だからこそ無理して遊んでたのかアメリカ並みの大衆消費社会の萌芽が日本にもあったのか元々日本人遊び好きなのに戦争でねじ曲げられて今でもこじらせているのか?

2017-05-04
天王寺駅の怪と阪和電気鉄道の歴史 前編【昭和考古学】
https://parupuntenobu.hatenablog.jp/entry/%E9%98%AA%E5%92%8C%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%A8%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E9%A7%85#%E9%98%AA%E5%92%8C%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%B3%E8%B6%85%E7%89%B9%E6%80%A5

1147とはずがたり:2018/10/05(金) 13:39:18

中国の正体にやっと気付いたドイツ 「中独合作」は崩壊するのか?
https://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/180806/wor18080610300006-n1.html
2018.8.6 10:30
【野口裕之の軍事情勢】

 憲法改正で「終身皇帝」への道筋を切り開いた中国の習近平国家主席は「独裁者」と批判されるが、「予言者」と称賛されたとは寡聞にして知らない。2017年、習氏はドイツのアンゲラ・メルケル首相と会談し、投資協定早期締結などを確認し、中独関係をこう表現した。

 「ドイツとの関係は、新たな段階に入ろうとしている」

 確かに、1年ちょっとたった現在、中独関係は「新たな段階」を迎えた。が、習氏も予想外だったに違いない。関係に陰りが見える点が新しい。中独蜜月を「中独合作」と警戒してきた小欄だけに、独伝統の「中華大好き文化」が消滅したとは思わない。ただ、冷戦時代の真っ最中に中国へ兵器&関連機器を供給していたドイツが、やっと邪悪な正体を正視するようになった、とは感じる。

 独メディアによると、独政府は8月にも、中国企業のライフェルト・メタル・スピニングの買収申請を却下する方針だった。同社は宇宙船や航空機の部品製造技術で知られ、原発など核関連分野にもノウハウを持つ。独政府関係者はDPA通信に「公的秩序や安全保障を危険にする可能性がある」と却下理由を明らかにした。もっとも、独政府の動きを察知した中国企業は自ら買収を撤回した。

 小欄も繰り返し批判したが、ドイツでは2016年に産業用ロボット大手クーカが中国家電大手・美的集団に買収された後、技術流出懸念が深刻化した。クーカの技術は米軍の最新鋭戦闘機F-35の機体製造に使われており、身売りは同盟国を裏切る行為。クーカ買収を機に17年、欧州連合(EU)域外企業による買収規制を強化。政府の審査・却下対象を国防関連からIT・通信や電力・水道など「戦略的重要分野」に広げた。スピニング社買収を却下すれば初適用となるはずだった。

 さらに、独経済・エネルギー省は7月、送電大手50ヘルツの株式を20%取得すると発表した。同社株式はベルギーの電力会社が80%を保有。中国国営送電会社・国家電網は豪州の投資会社が有する残り20%の取得を目指したが、独側が買い取った。50ヘルツは「脱原発」の下で再生可能エネルギー普及を目指す独戦略上極めて重要な企業で、中国は技術獲得を狙ったようだ。規制適用はEU域外企業が議決権の25%以上を取得することが前提で、政府が株式買い取り阻止に動いた。

今も昔もドイツが舌なめずりする対中貿易

 かくして、中国企業による独企業買収・出資件数は減少傾向にあるが、筆者は毎年の如くドイツにドキリとさせられる。

 例えば、2016年の伊勢志摩サミット=主要国首脳会議。先進7カ国は、東シナ海や南シナ海における中国の海洋侵出に対する厳しい現状認識を共有し、首脳宣言に盛り込んだ。中国をカネのなる木としか見られず、凶暴性を実感できぬ欧州勢にしては上出来だった。半面、ミキモト真珠島で、メルケル首相の夫君らが体験したサミットに伴うイベント=真珠の取り出しで「ドイツ・裏切りの歴史」が唐突に脳裏に浮かんだ。

 第1次世界大戦(1914〜18年)開始直後、大日本帝國はドイツに宣戦布告した。独降伏で「東洋の真珠」と呼ばれた文化都市・青島は日本統治となり、ドイツの一大権益は吹っ飛んだ。以来、後述するが、日本に恨みを抱くドイツの中国への肩入れは、日独伊三国同盟締結後もひそかに続けられた(とは註:ドイツを参考に君主権の強い憲法を作り,ドイツとしては中立を期待してた日本の裏切りと見えたであろう。)。

1148とはずがたり:2018/10/05(金) 13:39:28

 同盟関係を裏切るドイツのDNAを、中国は見逃さない。習氏は日本も標的に、「中独合作」の21世紀復活を謀る。

 習氏は2013〜14年にかけ、経済を武器に影響力圏を拡大していく《一帯一路》戦略を明らかにした。けれども、もっと早く「中独合作」は進行していた。中国製生活用品を積んだ試験運行の貨物列車がドイツに着いたのは08年1月。ドイツは今も昔も有数の武器輸出国であり、北京を出発して1万キロの旅を終えた列車は「中独合作」の幕開けに映った。“日独親善”に隠れ、しぶとく密着していた薄汚い近代史=中独関係の復活を予感した。

 ドイツが舌なめずりする対中貿易は1750年代以来の国家的課題で、英国に対抗し1885年、清国直行汽船への補助金を支出、英国に次ぐ貿易量を達成した。英国やフランスに比し帝国主義色が薄いドイツに、清国が日清戦争(1894〜95年)で日本の大脅威と化す東洋一の巨大堅艦《定遠/鎮遠》建造や、日露戦争(1904〜05年)で日本軍におびただしい数の犠牲を強いた旅順要塞の造成を要請したのもこの時代だ。

 その後、ドイツは帝国主義を強め、1897年にはドイツ人宣教師殺害を機に出兵、清国に山東省膠州湾岸の租借をのませた。以後、中心都市・青島は要塞・文化双方の顔を見せつつ急成長する。陸上兵力は2200人を数え、周囲の山や海岸に築いた砲台が援護。海上では独東洋艦隊が南太平洋の独植民地との間を遊弋した。

 一方で港/鉱山/銀行/鉄道/麦酒会社/学校/病院/ホテル/教会/食肉処理場を建設。郵政にも着手し、消印で青島が独支配下にあることを世界に宣言した。650種・数百万本もの木が世界中で集められ植樹(1240ヘクタール)されてもいる。

 先述したが、第1次大戦開始直後、日本はドイツに宣戦布告した。独降伏で「東洋の真珠」「小ベルリン」と称された青島は日本統治となり、一大権益が吹っ飛ぶ。ドイツの“日本嫌い”は「青島の恨み」が起点だと思っている。

 清国同様に対日戦略上、軍近代化を迫られた中国・国民党は満州事変(1931〜33年)後、独ワイマール共和国や次のナチス政権に接近。ドイツは1927〜38年まで軍事顧問団を送り続けた。 

 とりわけ、1934年より団長を務めたハンス・フォン・ゼークト退役陸軍上級大将(1866〜1936年)は、第1次大戦で壊滅状態に陥った独軍の再建と将来(電撃)戦への青写真を確立し「独軍の頭脳」と畏敬された名将。国民党の蒋介石前国民政府主席(当時/1887〜1975年)に、大規模・低練度だった国民党軍の装備や機動性の向上を具申した。後継団長アレクサンドル・フォン・ファルケンハウゼン退役陸軍中将(後に歩兵科大将に現役復帰/1878〜1966年)も、独式教育訓練を踏襲した。

 方針に沿い、8割が非近代兵器だった国民党軍に鉄帽/小銃/各種大砲をはじめ戦車や戦闘機まで輸出。ドイツで教育した中国人技術者運営の各種工廠では双眼鏡/狙撃銃用照準/小銃/機関銃/迫撃砲/装甲偵察車両/大砲/ガスマスクを生産した。国民党軍の軍装が独軍ソックリなのは当然といえた。毒ガス製造施設建設こそ中止されたが、化学研究所は独企業の支援で完成した。

 折しも、国民党軍の攻撃に日本軍が応じ第2次上海事変(1937年)が勃発するや、ファルケンハウゼンは蒋に消耗・ゲリラ戦に持ち込み大日本帝國陸海軍を疲弊させる作戦を進言。塹壕とトーチカが造る要塞線=ゼークト線に日本軍をおびき寄せんとした。日本軍は圧勝したが損害は予想外に大きかった。

1149とはずがたり:2018/10/05(金) 13:39:44
>>1147-1149
 軍事資源を産む鉱山・工業地帯と沿岸を結ぶ鉄道敷設でも中独は利害が一致。独技術を投じた貴陽〜南昌〜杭州や漢口(現・武漢)〜広州路線は、軍用としても日本軍を悩ませる。

 ようやく、独総統アドルフ・ヒトラー(1889〜1945年)の政策転換で「中独合作」は変質する。とはいえ「青島の恨み」はゾッとするほど根深い。1936年に(対ソ)日独防共協定を結びながら、対中武器密輸を継続。37年の中ソ不可侵条約で態度を硬化させたヒトラーが新たな兵器輸出を禁じるまで続く。

 それでも受注済み兵器は契約通り輸出され、完全な禁輸・顧問団撤退はドイツが満州国を承認した38年。国民政府と断交、“親日”の汪兆銘政権(1940〜1945年)を認めたのは、何と日独伊三国同盟締結後1年近くもたった41年になってだった。

「空母技術」を中国に売り渡したドイツ

 「中独合作」は今も存在する。中国化工集団公司がドイツの重機大手クラウス・マッファイを買収したときものけ反った。

 マッファイは磁気浮上鉄道の業界で一目置かれる。日本も実用化を目指すリニア・モーターカーもそうだが、磁気浮上技術は空母のカタパルト技術につながる。

 カタパルトは、滑走環境が制約される空母上にある艦上機を射出する、パチンコのゴムに例えられる。カタパルトの有無や性能は、艦上戦闘機の搭載兵器の数・重量や発艦機数など航空戦力に巨大な影響を及ぼす。高い技術力が必要で、空母を建造する中国が開発に困り果て、米国などより盗みたがっている筆頭格のシステムだ。しかも、マッファイ分社化後、他社との合併で再編された系列会社は、戦車大国ドイツでも屈指の戦車・自走砲メーカーとくる。

 ドイツの半導体製造装置メーカー=アイクストロンの、中国・福建芯片投資ファンドによる買収は2016年9月に承認されたが翌月、撤回となった。半導体製造装置は軍事技術の一角で、独経済・エネルギー省の「承認当時に安全保障情報を把握していなかった」との弁明は、あきれるほかない。

 ところで、外国の投資は被投資国の経済成長を促し、雇用を創出する。しかし、中国の対外投資は、投資で被投資国の企業を買収→開かれた外国市場内で先端技術をごっそり頂戴し→閉鎖された中国市場内で莫大な利益を上げる。やがて、「合法的」に頂戴した先端技術が生み出した中国の閉鎖市場における莫大な利益を元手に、巨大国営企業を設立する。

 巨大国営企業は、技術供与でお世話になった被投資国の企業と競合関係となり、被投資国の同業他社は、中国政府の為替操作支援を受けた中国巨大国営企業の攻勢を前に経営が圧迫される。

 独政府には、こんな言葉を贈ろう。

 「閉鎖的で排他的なやり方は正しい選択ではない」

 正論である。ただし、中国が入れぬ環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)を念頭に、習氏の口から出た言葉でなければ…。

1150とはずがたり:2018/10/09(火) 10:59:12
「慰安婦問題いじめ」右翼団体に相談しろと言う日本政府
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181009-00031805-hankyoreh-kr&amp;pos=2
10/9(火) 7:37配信 ハンギョレ新聞

ニューヨークの日本領事館相談窓口で 右翼団体紹介して物議 民間団体「ひまわりJAPAN」、慰安婦記念碑設置に反対 「慰安婦は売春婦、報酬も十分に受けた」主張 歴史問題でいじめ主張自体が無理という指摘も
 ニューヨークの日本総領事館が、歴史問題でいじめにあった場合、相談を要請できる窓口として右翼団体を紹介し物議をかもしていると東京新聞が8日伝えた。

 駐ニューヨーク日本総領事館は、6月から「歴史問題によっていじめ被害を受けたり被害の事実を知っている人は領事館に連絡するなり、以下の民間団体に相談することを望む」という案内文をホームページに出した。日本総領事館が相談窓口の運営を委託した民間団体は「ひまわりJAPAN」という団体だ。米国に建てる慰安婦被害者記念碑建設反対運動の先頭に立ってきた団体だ。

 この団体は、ホームページで自分たちを「2016年6月ニューヨークとニュージャージーに住む日本女性たちが集まって結成し、米国に住む日本人に正しい日本の歴史を伝え子どもたちが日本人として誇らしく生きていくよう支援する団体」と紹介した。

 ひまわりJAPANは、ホームページに他の極右団体である「なでしこアクション」が作成した日本軍「慰安婦」資料集を載せた。資料集には「慰安婦は“慰安所”で売春婦として仕事をした女性」とし「報酬も十分に受けた」という主張が含まれている。この団体が結成後に主催した初の講演会には「LGBT(性的少数者)は子どもを産むことができない。生産性がない」という話で波紋を起こした杉田水脈・自民党議員など極右が参加した。

 日本の外務省は、慰安婦問題をめぐる韓日間の葛藤が尖鋭化すると、2014年からワシントンの駐米日本大使館と駐サンフランシスコ、駐ロサンゼルス領事館などに「慰安婦問題を含む歴史問題によるいじめ」にあった場合に相談できる窓口を作り始めた。

 一方、読売新聞はこの日、複数の韓日関係消息筋を引用して、カン・ギョンファ外交部長官が先月11日、ベトナムのハノイで日本の河野太郎外相に対し、年内に「和解・癒やし財団」を解散する計画を通知したと伝えた。文在寅(ムン・ジェイン)大統領は先月25日、ニューヨークで安倍晋三首相に「慰安婦被害女性たちと国民の反対で和解・癒やし財団が正常に機能できず枯死せざるをえない状況」とし解散の方針を示唆したことがある。河野外相はこの出会いで、文大統領の早期訪日を要請したが、カン長官が文大統領の訪日は和解・癒やし財団の解散以後になるだろうと答えた同新聞は伝えた。

東京/チョ・ギウォン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

1151とはずがたり:2018/10/12(金) 08:04:07

知りたかったなんで韓国・中国を初めとする諸国が黙っていたのかが書いてないが,当時は韓国とも国交恢復前どころかり李承晩ライン(1952.1.18宣言)の頃で日本の漁船とか拿捕しまくってた頃。国交がないから文句も着けてこなかったと見える。中国も1950年には大陸を失い(アメリカが傍観してたのが今にしてみれば最大の誤りであったねえ。1950.6の朝鮮戦争で一旦拡大が停まったのが大きかったか),中共が支配していたが1952年に日本は桑港平和条約と共に台湾と日華平和条約を締結して国交を恢復。昭和29年当時文句を云えるのは中華民国だったが国共内戦を抱えそれどころではなかったということか。

■ JOG Wing ■ 国際派日本人の情報ファイル■
旭日旗がそのまま自衛艦旗として受け継がれた経緯
伊勢雅臣
■転送歓迎■ No.1427 ■ H20.04.14 ■ 9,690 部
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h20/wing1427.html

 海上自衛隊の艦艇が掲げる旭日旗(自衛艦旗)をご存じだろうか。日の丸から16条の旭光が出ているデザインである。各国の海軍軍艦は、それぞれの軍艦旗を掲げるが、「自衛艦」は国際的には日本海軍の軍艦であり、自衛艦旗はその「軍艦旗」にあたる。

 軍艦は国土の延長とされ、軍艦旗を掲揚する艦艇に行き会った民間船は自らの国旗を少し下げ、元の位置に戻す、という形で敬礼をするのが国際慣行である。

 実は自衛艦旗は戦前の日本海軍の軍艦旗そのままのデザインなのである。海軍が「海上自衛隊」、軍艦が「自衛艦」などと戦後の言い換えが進められた中で、なぜそのシンボルである軍艦旗のデザインがそのまま護られたのか。そこには軍艦旗を護ろうとした人々の陰ながらの苦心があった。

 昭和29年(1954年)の自衛隊創設の際に、当時の反軍的世論を鑑みて、軍艦旗のデザインも再考することとなり、米内穂豊画伯に図案作成の依頼が持ち込まれた。

 画伯は悩み抜いた末、結論に至る。
「軍艦旗は黄金分割による形状、日章の大きさ、位置光線の配合など実に素晴らしいもので、これ以上の図案は考えようがない。それで、軍艦旗そのままの寸法で1枚書き上げた。お気に召さなければご辞退致します。画家としての良心が許しませんので」

  “画伯の作品”は「創設する海自への影響」「国民感情」などを焦点に庁議にかけられたが、保安庁長官は裁可した。

 …説明を聞いた(自衛艦旗を最終的に承認した吉田茂)首相は、こう語っている。

「世界中でこの旗を知らぬ国はない。どこの海に在っても日本の艦だと一目瞭然(りょうぜん)で誠に結構だ。海軍の良い伝統を受け継ぎ、海国日本の守りをしっかりやってもらいたい」[1]

 こうして日本海軍の旭日旗は、そのまま海上自衛隊の自衛艦旗として引き継がれた。…

■参考■
1. 産経新聞、H20.04.03「【野口裕之の安全保障読本】軍艦旗救った画家の良心」、東京朝刊、5頁

1152とはずがたり:2018/10/21(日) 11:28:16
知ってはいけない──隠された日本支配の構造
http://book-sp.kodansha.co.jp/topics/japan-taboo/
矢部宏治著

定価 本体予価840円 + 税
発売日 2017年8月16日
発行 講談社 現代新書
ISBN 978-4-06-288439-6
判型 新書判
ページ数 264ページ
旭屋書店さんの「本TUBE」に、著者・矢部宏治氏のインタビュー動画が公開されました!
【著者出演】知ってはいけない隠された日本支配の構造<前編>
概要
私たちの未来を脅かす「9つの掟」、
最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」とは?
なぜ日本はアメリカの意向を「拒否」することができないのか?
3分でわかる日本の深層!
みなさんは、世田谷区や中野区、杉並区の上空が米軍に支配されていることをご存じですか?

あるいは、米軍に与えられた治外法権が、日本の国土全体に及んでいることを知っていましたか?

「なにをバカなことを……」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。

しかし、これらは複数の公文書によって裏付けられた、疑いようのない事実なのです。

じつは、私たちが暮らす「戦後日本」という国には、国民はもちろん、首相やエリート官僚でさえもよくわかっていない、「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を大きく歪めています。

そうした「ウラの掟」のほとんどは、じつはアメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としているのです。

3つの「裏マニュアル」ともいうべき最高裁の「部外秘資料」、検察の「実務資料」、外務省の「日米地位協定の考え方」を参照しながら、日米合同委員会の実態と対米従属の根幹に迫るとともに、日本における「真の権力構造」を徹底解明します。

累計17万部を突破したベストセラー『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』の著者・矢部宏治氏が、「戦後史の闇」に光をあてた渾身の決定版!

1153とはずがたり:2018/10/27(土) 15:38:44
まあ独裁者は客死した土地で眠るしか無いだろな。革命家への列席の栄誉なんか認められんだろう。

革命家墓地受け付けず
https://this.kiji.is/428803004221703265
2018/10/27 15:31
c一般社団法人共同通信社

 【ベルリン共同】旧東ドイツの共産党独裁政権を率いたホーネッカー元国家評議会議長(1912〜94年)の遺灰の埋葬先が死後24年たっても宙に浮いている。ホーネッカー氏には墓がなく、ドイツ共産党の革命家らが眠るベルリンの墓地に葬りたいと親族が表明。地元当局は90年のドイツ統一前から現地での埋葬は行われておらず「不可能」と説明したという。地元紙が22日伝えた。

 ホーネッカー氏は70年代から東ドイツ政権を率いてきたが、89年の民主化運動で失脚した。ドイツ統一後、娘が暮らす南米チリへの出国を許され、94年に同国で死去、火葬された。妻も2016年にチリで亡くなった。

1154荷主研究者:2018/11/03(土) 16:31:27

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201809/20180928_33047.html
2018年09月28日金曜日 河北新報
<原敬>「平民宰相」誕生100年(上)原点/東北蔑視に強い反感

原敬(原敬記念館提供)

 今からちょうど100年前の1918年9月29日、爵位を持たない初の「平民宰相」が誕生した。日本の本格的な政党政治は、ここに始まる。盛岡市出身の第19代内閣総理大臣原敬(たかし)(1856〜1921年)。その足跡を訪ねた。(盛岡総局・北村早智里)

 17年9月8日の盛岡市の報恩寺。戊辰戦争で死亡した盛岡藩士らの50回忌に、立憲政友会総裁で、1年後に首相となる原の姿があった。

 「戊辰戦役は政見の異同(考え方の違い)のみ。当時勝てば官軍、負くれば賊との俗謡(言い習わし)あり。其(その)真相を語るものなり」

 原は旧藩士を代表して祭文を朗読。記録に残る限り、12歳で経験した戊辰戦争について原が心情を口外したのは生涯でこの一度きりだった。

 原は幼名を健次郎という。1856年2月9日、盛岡藩士の家に生まれた。盛岡市本宮(旧本宮村)には今も生家が残る。

 戊辰戦争に敗れた盛岡藩は領地の召し上げ、70万両の制裁金といった新政府による重い処罰に疲弊していく。家老格だった原家は制裁金を用立てなければならない藩に備蓄米や骨董(こっとう)を献納。家屋の5分の4も売却して没落に至った。

 「よしこの家運挽回してみせる」。窮地に奮い立つ年若い原を、弟の誠は後にこう回想している。

 その言葉通りに19歳で上京。司法省法学校などで法学や歴史学を修め、郵便報知新聞の記者を経て外務省に入省。卓抜した交渉術から伊藤博文、陸奥宗光ら新政府の大立者に引き立てられ、政界に転じた。

 親交のあった新聞記者前田蓮山は著書「原敬伝」に「南部藩(盛岡藩)は亡(ほろ)びた。然るに天は、一人の復讐(ふくしゅう)者を残した」と記し、原を政治に駆り立てたのは薩長への恨みであったと断じた。

 その根拠が原の俳号「一山(いっさん)」だったと前田は論じる。東北をあざ笑う「白河以北一山百文」から採った俳号に原の反骨がみて取れるという。

 ただ、政治家原の深奥に薩長閥への恨みがあったことをうかがわせる史料は、いまだ見つかっていない。生前の原が長く残すよう指示した「原敬日記」(全83冊)にも。

 原敬記念館(盛岡市)の田崎農巳(あつみ)主任学芸員は「原が戊辰戦争の『復讐者』だったとは言い切れない。むしろ東北蔑視への反感の方が強かった」と推測する。

 「各種史料からせり出す原敬像は、歴史を公平中立に捉えようとする冷静な政治家だ。『藩閥政治と渡り合って賊軍の汚名をそそいだ平民宰相』のイメージは、戊辰戦争以来虐げられてきた東北の人々の思いが作り上げたのかもしれない」

[戊辰戦争]「鳥羽・伏見の戦い」に始まる新政府軍と旧幕府軍の内戦。薩摩、長州両藩を中心とする新政府軍は、仙台藩と奥羽諸藩に会津、庄内両藩の追討を命令。これに反発した陸奥、出羽、北越の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成して抵抗するも敗れた。

戊辰戦争殉職者50回忌で原がささげた祭文の碑=盛岡市内丸のもりおか歴史文化館

1155荷主研究者:2018/11/03(土) 16:31:47

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201809/20180929_33026.html
2018年09月29日土曜日 河北新報
<原敬>「平民宰相」誕生100年(下)信条/清廉潔白自ら奉じる

19歳から亡くなる直前までしたためた全83冊の「原敬日記」=原敬記念館収蔵

 今からちょうど100年前の1918年9月29日、爵位を持たない初の「平民宰相」が誕生した。日本の本格的な政党政治は、ここに始まる。盛岡市出身の第19代内閣総理大臣原敬(たかし)(1856〜1921年)。その足跡を訪ねた。(盛岡総局・北村早智里)

 憲法や議会といった近代政治の道具立てが未整備だった明治前期。政府を牛耳る「藩閥政治」と言論の自由を求める「自由民権運動」の対立は日々激しさを増していった。

 盛岡から上京して5年、24歳になった原敬(はらたかし)(1856〜1921年)は、郵便報知新聞の記者として健筆を振るっていた。

 「理を以(もっ)て交わるの間に情を存し、情を以て接するの間に理を存す」。1880年の新聞論説「官民相対するの道を論ず」から、後の政党政治家原の信条が読み取れる。

 原は「官(藩閥政治)」と「民(自由民権運動)」の反目をいさめつつ、英国に倣った二大政党制の導入を提唱。平穏な政権交代による治安の安定、殖産興業の推進による国際競争力の強化をたびたび論じた。

 論説執筆から38年後の1918年9月29日、立憲政友会総裁の原を首相とする政党内閣が成立した。

 高校新設による教育の充実、地方鉄道網の整備など「平民宰相」の功績は数多い。一方で「平民出」らしからぬ政治判断が大衆の落胆を招く。

 男子普通選挙の即時実施を求める世論を「時期を見て」と一蹴し、衆院を解散してまで選挙法改正を阻止。野党は「西にレーニン、東に原」とやゆした。

 岩手大副学長の丸山仁教授(政治学)は「理想を実現するために現実的な手段を選択する政治家だった」と評する。

 立憲政友会員らによる汚職事件の処理に追われていた21年11月4日、原は東京駅で右翼テロの凶刃に倒れる。65歳だった。

 原内閣で朝鮮総督府政務総監を務めた水野錬太郎は、原が「平民宰相」と呼ばれる真の理由を「自ら奉ずるところが清廉潔白で、すべての行状がいかにも平民主義であったから」と振り返っている。

 「平民主義」の政治は、原の古里に今日も息づいていた。盛岡市議会の会派「盛友会」の名称は、原が率いた立憲政友会に由来する。

 盛友会幹事長の遠藤政幸議員は「常に市民目線で声を拾い、伝えるのが地方議会の使命。原さんが公利を追い求めたように、まちの隅々まで行き届く政治を目指したい」と話す。

1156とはずがたり:2018/11/06(火) 16:05:14
徴用工「解決済み」企業に説明、安易な和解警戒
2018年11月01日 16時06分
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20181101-OYT1T50101.html

 政府は、韓国大法院(最高裁)による元徴用工を巡る判決を受け、同様の訴訟を起こされている企業向けの説明会を始めた。「徴用工問題は解決済み」とする政府方針を説明し、損害賠償や和解に応じないよう周知を徹底する方針だ。

 韓国では係争中の同様の訴訟が計14件ある。新日鉄住金に対する今回の判決を受け、他の被告企業である三菱重工業や不二越などに対しても裁判所の賠償命令が相次ぐ可能性がある。

 説明会は、外務省や経済産業省、国土交通省、法務省が合同で10月31日から始めており、2日まで計3回開く。徴用工問題は1965年の日韓請求権・経済協力協定で解決済みとする政府の立場を改めて紹介し、韓国政府に国際法違反の状態の是正を求めている現状などを説明している。

(ここまで322文字 / 残り587文字)
2018年11月01日 16時06分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

1157名無しさん:2019/01/02(水) 17:12:11
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181215-00000157-sph-soci
【平成回顧】〈1〉新元号発表会見の裏側…流行語「24時間タタカエマスカ」
1/2(水) 14:04配信 スポーツ報知
 天皇陛下の生前退位により4月30日で30年の歴史を終える「平成」。スポーツ報知では、平成の30年間を1年ごとにピックアップし、あらためて当時を振り返る。初回は平成元年。新元号ができるまでの経緯と、象徴的な場面としていまだに映像で流される「新元号発表会見」の裏側を追った。また、この年には栄養ドリンク「リゲイン」のCMがブレイク。話題を呼んだキャッチフレーズ「24時間タタカエマスカ」にも迫る。(この記事は2018年5月6日の紙面に掲載されたものです)

 平成が始まる3年半前の1985年7月。内閣内政審議室長に就任した的場順三氏は、新元号制定の担当者として水面下で動き始めた。頭を悩ませたのが秘密保持。的場氏によると、79年の元号法制定前後から、有事に備えて各界の学者らが選んだ「新元号候補」が存在していたという。今では知られた事実だが、当時は「天皇の生前に元号候補を決めていた」とは明かせない。自身の在任中、中曽根、竹下両首相ら以外には伏せていた。

 隠密活動を続けるなか、87年2月にアクシデントが起こる。候補考案者3人のうち2人が相次いで亡くなったのだ。建前上「天皇崩御後に元号考案を学者に依頼する」ことになっていたので、故人の案はボツ。急きょ新しい学者を見つけ、考えてもらう必要があった。大人数で探せば周囲にバレる。文科省職員と2人だけで選定。適任の学者2人をようやく探し出した。

 当時は天皇陛下の容体悪化によりマスコミの新元号スクープ合戦も過熱。ある候補の学者の自宅に依頼のあいさつに行くと、大勢の記者が張り込んでいた。考案者の名前もマル秘。自宅訪問を断念し、学者の会議に紛れて面会、ようやく依頼にこぎつけた。最終的に東大の宇野精一名誉教授(中国哲学)、九大の目加田誠名誉教授(中国文学)、東大の山本達郎名誉教授(東洋史)に考案を依頼。宇野氏が「正化」、目加田氏が「修文」、山本氏が「平成」を第一候補とし、郵送で届けられた。

 1989年1月7日午前6時33分、天皇陛下崩御。この時点でどれが元号に採用されるかは決まっていなかった。当日午後に予定していた新元号発表会見まで約8時間。有識者による「元号に関する懇談会」や衆参両院の正副議長の意見聴取、全閣僚会議など各機関の了承を経て決定する手はずだった。「各所でアレコレ議論されちゃったら、時間的に間に合わない。すんなり決まるよう、こちらが『誰もが納得できる1案』を提示しなければいけなかったんですよ」

 午前8時20分の臨時閣議が近づいた。3案を見つめていた的場氏に妙案が浮かんだ。元号をアルファベットの頭文字を使って表すと「修文」「正化」は旧元号の「昭和」の「S」と重なる。これは後々、不都合が起こるのではないか―。各会議ではポイントを絞って説明、熱弁が効いたのか各会議が全会一致で「平成」支持となった。まさに綱渡り。想定通りに改元手続きを進めることができた。

 胸をなで下ろしたのも束の間。後日、予想外の落とし穴が待っていた。元号の制定手続きの要領には「俗用されているものでないこと」の条件がある。人名や商品名に使われていればアウト。岐阜県のある村の小字(こあざ)に「平成(へなり)」という地名があったのだ。「中華料理店の屋号とかまでチェックし、探し尽くしたつもりだったんですが…」。幸い大事には至らなかった。「正直、小字まで調べられるか!って心境でしたよ」。新元号制定の立役者は、約30年前の冷や汗止まらぬ瞬間を、苦笑いで振り返った。(樋口 智城)

1158名無しさん:2019/01/02(水) 17:12:28
>>1157

 ◆的場 順三(まとば・じゅんぞう)1934年9月15日、滋賀県生まれ。大蔵省主計局主計官などを経て、86年から内閣官房内閣審議室長。退任後は国土事務次官を務めた。退官後は中小企業金融公庫副総裁などを歴任。06〜07年に安倍内閣の内閣官房副長官を務めた。

 「新しい元号は『平成』であります」。小渕恵三官房長官は白木の額縁に飾られた「平成」の書を顔の右横に掲げた。傍らで会見をプロデュースした小渕氏秘書官・石附弘氏が安どの表情で見つめていた。

 テレビの生中継で新年号を発表するのは史上初。石附氏は見せ方次第で「新時代への期待感や雰囲気」が変わると考え、会見を重視していた。「昭和」は発表前に「新元号は光文」と報じられたほか、主要メディアがラジオで漢字の持つ独特の雰囲気を伝えられず、大衆の期待感を高められなかった経緯があった。

 各有識者と相談の上、まず「会見で年号が記された書を見せる」と決めた。「テレビの利点を生かせるのはこれしかないと思った。一発で『平成』を印象づけられる」。元号を披露する際の動きも研究。顔の横に掲げるのが最も印象的だと結論づけた。「半紙をアクリル板に貼り付ける」予定だったが、直前に相談したメディアに「カメラのフラッシュで光って見えない」と指摘され「半紙プラス白木の枠組み、アクリル板なし」となった。

 会見当日。石附氏は「平成」の文字を見て、書道につきものの「かすれ」がほとんどないことに気づいた。後に文字を書いた書家の河東純一氏に聞くと「確たる未来と新時代への力強さを見せるため、あえて抑えました」と説明された。テレビ会見の重要性は、全員が理解していた。

 後に小渕氏は、「ちびっ子に『テレビで見た平成オジサン』とはやされて困っているんだ」とうれしそうに話していたという。平成の幕開けを告げる会見は、昭和が作ったテレビ時代の集大成だった。

 ◆バブル時代の象徴フレーズ「24時間戦えますか」 「24時間タタカエマスカ」。栄養ドリンク「リゲイン」の広告に使われたキャッチコピーは、1989年の流行語大賞で銅賞に選ばれた。リゲインは製薬メーカー三共(現・第一三共ヘルスケア)が1988年4月に発売開始。翌年、俳優の時任三郎をCMのイメージキャラクターに起用すると、エネルギッシュな時代にマッチして大ブレイクした。

 時はバブル景気真っただ中。日本企業は次々と海外に進出。当時を知る同社関係者は「風邪薬のルルに代表される温かく優しい(企業)イメージだったので、挑戦的なコピーは経営陣の了承をすぐに得られたわけではなかった」と回想。「当時の事業部トップの決断でCMが誕生した。攻めたものであることは社内共通の認識だった」。世はイケイケの時代だったのだ。

 狙いは当たった。CD化したテーマ曲「勇気のしるし」は約60万枚の大ヒットに。忘年会シーズンのカラオケで定番となったのはもちろん、入社式や運動会、90年の夏の甲子園でまで流れるようになった。

 時任が出演したシリーズは15編作られ、91年に終了。働き方への意識の変化などとともにキャッチコピーも変わっていく。2014年に同社とライセンス契約したサントリーフーズから出た「リゲインエナジードリンク」のCMソングの歌詞は「24時間戦うのはしんどい」だった。

 働き方改革が進められ、今はパワハラや過労死が問題視される時代。このコピーが象徴するイケイケ時代は、今や「遠くなりにけり」だ。(甲斐 毅彦)

1159名無しさん:2019/01/02(水) 17:12:39
>>1158

 【元号アラカルト】  

 ▼ルール 閣議決定された元号制定手続きによると〈1〉よい意味〈2〉漢字2字〈3〉書きやすい〈4〉読みやすい〈5〉これまでに元号又はおくり名として用いられたものでない〈6〉俗用されてないもの、の中から選ぶ

 ▼元号数 645年制定の「大化」から「平成」まで247個。漢字4文字は5つ、それ以外は2文字

 ▼使用漢字 トップは「永」の29回。「平成」の「平」は12回で19位、「成」は初使用だった。

 ▼過去に候補 「平成」は、明治の1つ前の「慶応」改元の際にも候補に。「大正」は過去5回の候補入りの末に採用。

 ▼決定機関 昭和以前は菅原道真の末裔「菅原家」が中心になって制定。平成から学者が考案し、政府が決定するシステムに。

1160名無しさん:2019/01/03(木) 14:56:22
会員が告白「フリーメイソンへの不正確な報道を正したい」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190103-00000002-courrier-soci

1161名無しさん:2019/01/19(土) 19:21:56
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190119-00055248-jbpressz-int
北方領土「二島先行」に世論が反対しなくなった理由
1/19(土) 6:35配信 JBpress
 (舛添要一・国際政治学者)

 1月14日、北方領土・平和条約問題をめぐって、モスクワで日露外相会談が行われた。これは、22日に行われる安倍首相とプーチン大統領の首脳会談の準備と位置づけられる。

 昨年(2018年)の11月14日、シンガポールで日露首脳会談が行われ、安倍首相とプーチン大統領は、1956年の日ソ共同宣言に基づいて、問題解決のための交渉を加速化させることで合意した。日ソ共同宣言を基礎にするということは、平和条約締結後に歯舞・色丹二島が日本に引き渡されるということである。

 しかし、国後・択捉については、これからの協議次第である。これは、「四島一括返還、その後に平和条約」という我が国の従来からの主張とは大きくかけ離れている。歯舞・色丹二島のみを切り離し、先行して返還することを是とする理由は何か。

■ 圧倒的だった「四島一括」より「二島先行」が多数派に

 12月8、9日に産経新聞社とFNNが実施した世論調査で、北方領土帰属問題についてどの案を目指すべきかを問うたところ、「歯舞・色丹二島返還先行、国後・択捉引き続き協議」が50.0%、「四島一括返還」が30.8%、「歯舞・色丹の二島だけでよい」が7.7%であった。

 かつては「四島一括返還」が圧倒的に多かったが、今回「二島先行論」が過半数になったとことに驚いている。しかもこの調査は、保守色の強い新聞社・テレビ局が行ったものだけに尚更である。他のマスコミの調査でも、6割前後が二島先行返還論に賛成しているのである。

 この変化はなぜ起こったのか。私は、日本人が北方領土問題への関心を失いつつあるからではないかと思っている。北方領土担当大臣が、四島の名称を正しく発音できない時代である。

 「戦後外交の総決算」という安倍首相の決意を評価する雰囲気が支配的になり、「四島一括返還、その後に平和条約」という日本のこれまでの主張が一気に反古にされそうである。それでも構わないということを、安倍首相は内外に説明することができるのであろうか。

■ 「日本は第二次世界大戦の結果を認めない唯一の国」

 タテマエ上は、「まず平和条約締結、そして二島返還、その後に四島を取り戻す」ということであろうが、平和条約を締結することがそんなにも重要なのであろうか。1956年の日ソ共同宣言以降は、平和条約が存在しているのと同じ状況にあり、日露両国民とも何の不便も感じていない。形式的には、平和条約締結が「戦後外交の総決算」となるのかもしれないが、実質的にはほとんど意味の無いことである。

 ロシアには国後・択捉を返還する意思はないので、二島先行返還論は、結局は二島のみ返還になってしまうということである。

 ロシア側は、北方領土は、第二次大戦の結果、ロシア(当時のソ連)が獲得したものであり、不法な占拠ではないと主張している。ラブロフ外相は、「北方領土」という呼称も批判しているし、16日の記者会見では、国連憲章107条(旧敵国条項)に言及し、「日本は第二次世界大戦の結果を認めない唯一の国」と批判した。そして、日露関係は「国際関係でパートナーと呼ぶにはほど遠い」と厳しい見方をした。

 このようなロシアが二島を日本側に引き渡すのは、一つの恩恵を与えることを意味し、経済支援など何らかの見返りが必要だとロシア側が考えて当然である。この論理を突き詰めれば、かつてアラスカをアメリカに売ったように、自らの領土を売却するということになる。

 二島の引き渡しにしても、歯舞島には軍関係者しかいないが、色丹島には約3000人のロシア人が住んでおり、土地の所有権をはじめ、彼らの処遇をどうするのか、旧日本人住民の権利や賠償をどうするのかといった様々な問題が出てくる。

1162名無しさん:2019/01/19(土) 19:24:21
>>1161

 北方領土解決策としては、従来の四島一括返還論と「二島+α」論がある。後者は、「平和条約締結後に歯舞・色丹二島が返還される、その後、国後・択捉については協議を進め、共同で開発を進めたり、日本人の自由往来を可能にする措置をとったりする」という考え方である。

 この考え方の人たちは、サンフランシスコ平和条約で千島列島の放棄を定めたときには、国後・択捉は千島列島に含まれていると解釈されていたと主張する。吉田茂首相は、両島を「千島南部」と呼び、歯舞・色丹の二島については「北海道の一部」という異なった表現をしたことを根拠とする。

 安倍首相がこの主張を取り入れて国境線の画定を行えば、ロシアとの間で協議がまとまるかもしれないが、従来の主張との整合性がとれなくなる。この点を考えると、解決が容易ではないことが分かる。安倍首相の支持基盤である保守層は、四島一括返還論に固執するであろう。

 四島一括論を弊履のように捨て去ると、それは他の領土問題にも影響する。竹島や尖閣諸島は、それぞれ韓国と中国が領有権を主張している。日本は容易に主張を撤回する国と見られれば、韓国や中国はますます態度を硬化させるであろう。

 一方、四島一括返還に固執すれば、一島たりとも永遠に戻ってこないという観測もまた成り立つ。つまり、時間が経てば経つほど、北方領土のロシア化が進み、返還はますます困難になる。従って、二島だけでも帰ってくるときにチャンスを逃すなというわけである。

 つまり、「時間の経過がどちらの側に有利に働くか」という観点からは、四島一括論者は日本、「二島+α」論者はロシアと考えるのである。そこで、前者は「焦る必要はない」、後者は「急げ」となる。

■ ロシアにとって認めがたい「北方領土への米軍駐留」

 交渉が順調に進む前提は、安倍首相、プーチン大統領の権力基盤が強固であることであるが、日本では春に統一地方選挙、夏に参議院選挙が行われる。その結果次第では、安倍首相のレームダック化の可能性もある。

 ロシアにとっては、アメリカ政府の意向も問題となる。ロシアが絶対に避けたいのは、返還した北方領土に米軍が展開することである。トランプ政権が、米軍を駐留させないことを日本側に約束できるのか、これも大きな論点である。

 先に北方領土に対する国民の関心が薄まっていることに言及したが、その背景には領土の経済的効用についての冷徹な視点が広まっているのではあるまいか。石油や金が大量に埋蔵されているような領土なら別だが、寒冷地の領土の資源的価値は大きくない。北方領土の場合、水産資源が最大の経済的利益をもたらすが、島を管理するためにかかるコストと経済的利益を天秤にかける発想が出てくるのも仕方ない。

 1970年代に中国が尖閣列島に対する領有権を声高に主張し始めたのは、周辺海域に石油資源が眠っているという観測が1960年代に出たからである。竹島に関しては、漁業資源以外にはめぼしいものはない。

 しかしながら、領土は、単に経済的利益のみならず、ナショナリズムのシンボルとして大きな意味を持っている。韓国が竹島を実効支配しているのは、反日ナショナリズムの砦にしたいからであるが、ナショナリズムは高くつくこともある。20世紀が生んだナショナリズムや民族自決主義のイデオロギーは21世紀には克服する対象と考えてもよいのかもしれない。

 いずれにしても、平和条約締結・北方領土問題の解決はロシアという相手との交渉次第である。両国の国民世論をはじめ、乗り越えなければならないハードルが山積している。

舛添 要一

1163名無しさん:2019/01/19(土) 22:52:43
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190119-00010003-wordleaf-pol
「2島返還プラスアルファ」論も記載 公開された「外交文書」とは?
1/19(土) 20:15配信 THE PAGE
 昨年末に公開された「外交文書」に、北方領土交渉に絡み、歯舞群島(はぼまいぐんとう)と色丹島(しこたんとう)返還を軸とした「2島返還プラスアルファ」論が記述されていたことがニュースになりました。アメリカでは一定期間を過ぎて公開された外交文書からさまざまな歴史の真相が判明する例がありますが、日本では外交文書の扱いはどうなっているのでしょうか。元外交官で平和外交研究所代表の美根慶樹氏に解説してもらいました。

2010年から30年経過した文書は原則公開に
 昨年12月19日、外務省は1950年代から80年代にかけての外交文書22冊を公開しました。

 1957年の岸信介首相の訪米や、沖縄返還交渉などに関する記録が主であり、その中には北方領土問題に関係する言及も含まれています。そのため、今回の外交文書公開は現在行われているロシアとの平和条約交渉と関連があるのではないかと注目されました。

 そもそも外交文書とは、外務本省と在外公館の間で交わされた電信や各国との交渉の記録などであり、それを綴じて「ファイル」になったものが保管されています。1冊のファイルはざっと5センチくらいの厚さですが、キリのよいところで綴じられます。大きさはA4版が大多数です。

 外務省では、2001(平成13)年4月の情報公開法施行に先立つ1976(昭和51)年から、自主的な取組みとして外務省「外交史料館」において戦後の外交文書の公開を開始しました。そして2010(平成22)年、外部有識者が参加する外交記録公開推進委員会を設置し、その審査を経た上で,国民の関心の高い外交記録を自主的に公開しています。

 2010年からは、30年を経過した外交文書は原則すべて公開されています(30年ルール)。公開された文書はだれでも閲覧可能であり、また、原則インターネットで見ることができます。なお、古い外交文書(実物)は外交史料館で閲覧できます。

交渉中などの理由で公開できない文書もある
 外交文書の公開からどのようなことが判明するでしょうか。公開されたものを見ていくのには、いくつか注意が必要です。

 第1に、1950年代から80年代に至る期間の外交活動のすべてが今回公開されたのではありません。公開されたのはごく一部です。同じ期間の記録でもすでに公開されていたものは多数あります。例えば今回公開された「岸総理第1次訪米関係一件」では第1巻、第2巻、第6巻というラインナップでした。国連や関連機関で進められてきた軍縮に関する諸交渉の記録はすでに公開されています。

 また今回の公開後も、未公開の文書は残るでしょう。外交文書全体の中ではごく一部ですが、ファイルの数で言えば、推測ですが、数十冊に上る可能性があります。

 第2は、公開の定期性です。外交文書の公開あるいは未公開が恣意的に決定されてはなりません。外務省もそのことについては注意を払い、定期的な外交文書の公開に努めてきました。最初の公開は前述したように1976年でしたが、それ以来、2年に約1.5回の頻度で公開が実施されています。

 しかしながら外交記録の中には、現在も交渉が進行中のため公開するのが困難なものがあります。国民の側からすればそのような例外は作らず、すべてルールに従って公開してもらいたいところですが、交渉中にこちらの手の内を見せてしまえば相手国との関係で著しく不利をこうむることになるので、原則として案件が終わったことを公開の条件とするのはやむを得ないでしょう。

 ロシアとの平和条約・北方領土に関する交渉の記録は膨大な量にのぼりますが、原則として公開されていないと思います。

1164名無しさん:2019/01/19(土) 22:53:18
>>1163

米国の外交記録公開で判明した「核密約」
 第3に、外交文書公開は米国が先輩格になっています。米国では民主的な外交の伝統が強く、情報公開法(FOIA: Freedom of Information Act)に基づき、作成後30年以内に外交文書を公開することになっています。30年以内に公開という点では日本と同じ、というより、日本は米国に倣ったのです。

 例外的に公開しないことがありうることは日米共通ですが、どの文書を例外とするか、つまり公表しないこととするかの判断は各国が独自に判断しています。その結果、例えば、日米間の特定の交渉に関する記録が、日本では公開されないのに米国で公開されることが起こります。そういうことが起こらないよう両国とも気を付けていますが、それでも時折生じています。ただし、日本が先で米国が後ということはなく、いつも米国の方が先になるので、研究者にとっては米国の公開記録が貴重な情報源となります。

 実際、沖縄返還の際(1972年)に日米間で核に関する密約があったことが米国で公開された外交文書から2007年に発覚しました。沖縄返還時の米国大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーが、1969年11月19日から21日にかけての日米首脳会談のためにニクソン大統領に宛て作成したメモの中に、それをうかがわせる記述があったのです。

 そして、民主党政権時代の2010年、外務省は岡田克也外相の下で調査を行い、核の持ち込みについて、「広義の」という形容詞をつけてはいましたが、密約があったことを確認しました。

ファイルを開けてみないと詳しい中身は分からない
 第4に、外交記録は「ファイル」に収められています。ファイルがどのように作成されるか決まったルールはありません。執務上、便利なように作成されるといっても過言でないでしょう。ファイルは、首相の訪米であれば何冊にもなりますが、もっと簡単なケースであれば、他の案件と一緒に一つのファイルに収められることがあります。

 1冊のファイルの中には、さまざまな記録が収録されていますが、完璧な索引はありません。例えば、今回公開された岸首相の訪米に関するファイルの一つは、「岸総理第1次訪米関係一件 第1巻」です。外務省はその内容について簡単な説明を加えていますが、それだけで本当に必要な記録にたどり着くのは困難でしょう。他にも昭和天皇の「終戦の詔書」は「ポツダム宣言受諾関係一件」という名称のファイルに収められています。1945年9月27日の昭和天皇とマッカーサー連合国軍最高司令官との最初の会見記録は、「本邦における外国人謁見及び記帳関係雑件 米国人の部」の中に含まれています。要するに、ファイルを実際に開いてみなければ、書いてある中身は分からないのです。

 公開された外交文書を読み解く際には、以上に注意しつつ、どのような外交状況であったか経験と知識により補い、推測しながら能率よく記録を探すことが必要です。例えば、ファイルからは分からなくても、同時期に進められていた第三国との交渉や国内情勢にも注意が必要です。それを頭に入れておくと、ファイルの中の外交記録の背景が分かりやすくなります。

今回の公開に政府の意図は関係しているのか?
 最後に、今回の公開において日本政府が進めようとしているロシアとの平和条約・領土問題交渉に関係する意図が働いていたかの問題ですが、「歯舞、色丹プラスアルファ」に関する記述は政府の考えを記したものではなく、新聞報道の中で言及されたことでした。また「沖縄返還が北方領土問題の解決に役立つ」というのは、1950年代、ソ連との交渉が始まる前から常識でした。

 ロシアとの交渉記録は別にまとめられていることは前述しましたが、重要な記録はすべてそちらの方にあります。岸首相の訪米に関する記録の中で北方領土問題に関係する言及があったのは事実ですが、外務省としては現在の日露交渉への影響はないと判断して公開したと思います。

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■美根慶樹(みね・よしき) 平和外交研究所代表。1968年外務省入省。中国関係、北朝鮮関係、国連、軍縮などの分野が多く、在ユーゴスラビア連邦大使、地球環境問題担当大使、アフガニスタン支援担当大使、軍縮代表部大使、日朝国交正常化交渉日本政府代表などを務めた。2009年退官。2014年までキヤノングローバル戦略研究所研究主幹

1165名無しさん:2019/01/21(月) 07:58:20
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190121-00000004-kyodonews-pol
安倍政権、2島決着案を検討 北方4島返還「非現実的」
1/21(月) 2:00配信 共同通信
 安倍晋三首相は北方領土問題に関し、北方四島のうち色丹島と歯舞群島の引き渡しをロシアとの間で確約できれば、日ロ平和条約を締結する方向で検討に入った。複数の政府筋が20日、明らかにした。2島引き渡しを事実上の決着と位置付ける案だ。4島の総面積の93%を占める択捉島と国後島の返還または引き渡しについて、安倍政権幹部は「現実的とは言えない」と述べた。首相はモスクワで22日、ロシアのプーチン大統領との首脳会談に臨む。

 「2島決着」に傾いた背景には、択捉、国後の返還を求め続けた場合、交渉が暗礁に乗り上げ、色丹と歯舞の引き渡しも遠のきかねないとの判断がある。

1166名無しさん:2019/01/25(金) 01:19:16
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190124-00000188-kyodonews-pol
新元号は「日本を元気に」 衛藤首相補佐官が予想
1/24(木) 18:03配信 共同通信
 衛藤晟一首相補佐官は24日、東京都内で開かれた共同通信加盟社論説研究会で講演した。5月の新天皇即位に伴う改元で、4月1日に公表される新元号に関し「今回は喪に服する期間がない。『日本はもう一回、元気を出そう』という方向で選ばれるのではないか」と予想した。前回は昭和天皇逝去による改元だったが、今回は天皇陛下の退位と皇太子さまの即位による祝賀ムードの中で行われることを理由とした。

 新元号の選定に関し「有識者会議には絞り込んだ3案が示されると思うが、一つでも漏れたらボツになって次の案に代わるだろう」と語った。

1167とはずがたり:2019/01/27(日) 12:00:25
興味深い論攷である。

2018.12.08
「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々
戦争責任の苦悩も明らかになったが…
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58837
辻田 真佐憲文筆家
近現代史研究者

12月8日は、太平洋戦争開戦の日である。

この戦争を巡っては、昭和天皇が晩年の1987年まで「辛い」「戦争の責任のことをいわれる」などと悩んでいたことが、今年発見された資料で明らかになった(「小林忍侍従日記」)。

日本軍は緒戦で驚異的な快進撃を続けた。1941年12月に開戦するや、日本海軍は、真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊主力を戦闘不能ならしめ、またマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊主力を海の藻屑と葬り去った。

日本陸軍もこれに負けじと同月に香港を占領し、1942年1月にマニラ、2月にシンガポール、3月にラングーンおよび蘭印(オランダ領東インド諸島)をつぎつぎに占領、連戦連勝の凱歌をあげた。

続々ともたらされる勝報に、不安に苛まれていた天皇も気が大きくなっていった。1941年12月25日には早くも、

「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」(「小倉庫次侍従日記」)

と戦勝後のことを語り、南方作戦が一段落した1942年3月9日には、

「余り戦果が早く挙がりすぎるよ」(『木戸幸一日記』)

といって、喜びを隠さなかった。

そのため、同年4月にアメリカの空母部隊によって東京が初空襲されても(ドゥーリトル爆撃)、なかなか信用せず、すぐに避難しようとしないぐらいだった。

――よく知られるように、1942年6月、日本海軍はミッドウェー海戦で主力空母4隻を失うなど大敗を喫し、戦争の主導権をアメリカ側に譲り渡してしまった。祝杯の準備までして戦果報告を待っていた海軍中央は、これに大きな衝撃を受けた。

この敗北は国民には伏せられたが、天皇には正確に伝えられた。天皇は6月7日に永野修身軍令部総長より報告を聞くや、

「之により士気沮喪を来さゞる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざるようにせよ」(『木戸幸一日記』)

といって、注意を与えた。残念な気持ちはあったものの、それほど動揺せず、むしろ大局的観点から士気を励ましたのである。

しかるに、天皇はいつまでもその態度を貫けなかった。同年8月、今度は南太平洋のガダルカナル島で日米の攻防戦がはじまった。日本軍は、米軍の本格的な反攻を読みきれず、戦力を小出しにして、いたずらに消耗を重ねていった。

1168とはずがたり:2019/01/27(日) 12:00:38


天皇も段々と不安になり、ガダルカナル島の戦況を尋ね、大丈夫か、どうなっているのか、確保できるのかと質問を繰り返した。

「近頃我戦果揚らざる傾向あるが如何」(『侍従武官城英一郎日記』)

これは、8月28日の「お言葉」である。3月には「戦果は早く挙がりすぎる」といっていたのに、この変化には驚かざるをえない。

数多の戦闘を重ねたにもかかわらず、日本軍は結局ガダルカナル島の確保を果たせなかった。そして12月31日、ついに同島からの撤退を決するのやむなきに至った。天皇はこの決定を受けて、

「ただガ島攻略を止めただけでは承知し難い。何処かで攻勢に出なければならない」(井本熊男『作戦日誌で綴る大東亜戦争』)

とこぼした。急速な戦局の悪化に焦った天皇は、もはや以前のようにどっしりと構えられなくなっていた。

1943年は、太平洋戦争の攻守が完全に逆転した年だった。米軍は、新型空母や戦闘機を次々に配備して、戦力を大幅に強化した。日本軍はこれに抗しきれず、各地で後退を強いられた。

4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が南太平洋で戦死し、5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した。

天皇は焦燥を隠せず、陸海軍に対して露骨に決戦を要求しはじめた。その頻度はいささか異常だった。

「何んとかして『アメリカ』を叩きつけなければならない」(6月9日、『眞田穰一郎少将日記』)
「何処かでガチッと叩きつける工面は無いのかね」(7月8日、同上)
「何れの方面も良くない。米をピシャッとやることは出来ぬか?」(8月5日、同上)

いつ決戦か。いつ叩くのか。いつ攻撃をやるのか。天皇の矢のような催促は延々と続いた。1944年に入っても、

「各方面悪い、今度来たら『ガン』と叩き度いものだね」(2月16日、上同)

といった有様だった。だが、米軍を叩きつける日はこなかった。日米の戦力差はもはや広がるばかりで、1944年7月には絶対国防圏の一角に設定されていたマリアナ諸島のサイパン島まで陥落してしまった。

つぎの主戦場は、フィリピンだった。天皇はこの戦いについても多くの言葉を残したが、ここでは特攻に関するものを見てみたい。

よく知られるとおり、日本軍の組織的な特攻はこのフィリピン戦で開始された。まず10月26日、及川古志郎軍令部総長より、海軍の神風特別攻撃隊敷島隊などの戦果が報告された。天皇は、こう述べてその功績を讃えた。

「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」(読売新聞社編『昭和史の天皇1』)

1169とはずがたり:2019/01/27(日) 12:00:50
>>1167-1169
つぎに11月13日、梅津美治郎参謀総長より陸軍特別攻撃隊万朶隊の戦果が報告された。天皇はこれについても「お言葉」を与えた。

「体当りき[機]は大変良くやって立派なる戦果を収めた。命を国家に捧げて克くもやって呉れた」(『眞田穰一郎少将日記』)

こうして日本軍では、特攻が広く行なわれるようになった。もっとも、これで破滅的な戦局を挽回することなどできようはずもなかった。米軍は日本軍の抵抗を排して1945年3月、マニラを奪還した。

昭和天皇と特攻といえば、4月からの沖縄戦についても言及しておかなければならない。天皇は海軍の作戦に関して、

「航空部隊だけの総攻撃か」(防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)』)

と述べ、暗に海上部隊の参加を求めたといわれる。そしてこの発言が、戦艦大和の海上特攻につながったとの指摘が存在する。

これについては、本当にそんな発言があったのか疑う声も少なくない。『昭和天皇実録』にも、別の「お言葉」が採用されている。

「現地軍は何故攻撃に出ぬか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」(『戦史叢書 大本営陸軍部(10)』)

制海権・制空権がないなかでの逆上陸は、特攻的といえなくもない。これはこれでかなり厳しく重い「お言葉」ではあった。

天皇はいつ敗戦を覚悟したのか。これも諸説紛々たるところだ。

天皇が早く手を打たなかったので戦禍が拡大したとの批判がある一方で、ここまで待たなければ軍部を抑えられず、終戦処理など不可能だったとの見解もある。

いずれにせよ、1945年7月米英中三国の連名でポツダム宣言が発表された。日本への降伏勧告だった。日本は、ソ連を通じての和平交渉に望みを託す傍ら、本土決戦も覚悟せざるをえなくなった。

そうこうする間に8月になり、米軍が広島と長崎に原爆を投下し、また頼みの綱だったソ連が対日参戦するに至った。万策尽きた日本は、国体護持の条件が容れられたとみなし、同月14日、米英中ソの四国に対してポツダム宣言の受諾を通告した。有名な玉音放送が行なわれるのはその翌日のことである。

単純な二者択一では実態に迫れない
以上をみてもわかるとおり、昭和天皇は戦時中たいへん多弁だった。一旦開戦した以上、大元帥としての役割を果たそうとしたのかもしれない。明治天皇はここまでではなかったので、これは昭和天皇に顕著な特徴だった。

もちろん、これのみをもって好戦的だと断ずるのは早計すぎる。昭和天皇の「お言葉」は、平時の平和志向のものも実に多いからだ。だからこそ議論を引き起こして止まない。

平和主義者か、軍国主義者か。そんな単純な二者択一から卒業しなければ、その実態に迫ることはできないだろう。来年の改元で、昭和もいよいよ遠くなる。これをより冷静で多元的な議論のきっかけにしたいところである。

1170とはずがたり:2019/02/01(金) 13:18:50

成金がお金を燃やす風刺画はいかにして出来上がったか?
http://onew-web.net/6125.html
2017/2/13

1171とはずがたり:2019/02/06(水) 08:52:32
残虐な日本兵をアピールしたい時期のアメリカの公文書だから多めに書いてあろうけど有る無しに関しては無かったとか云ってる奴の気が知れない。

2019.02.01 2019.02.02
南京大虐殺の犠牲者は「50万人」以上??アメリカ公文書「RG59-793.94/11631」が従来説を大きく覆す
https://rondan.net/14536

1172とはずがたり:2019/04/15(月) 14:23:41
ベルギー、過去の強制連行謝罪
数千人の子供を植民地から
https://this.kiji.is/486795004733604961?c=39546741839462401
2019/4/5 16:084/5 16:17updated
c一般社団法人共同通信社

 【ブリュッセル共同】ベルギーのミシェル首相は4日、同国がかつて植民地にしていたコンゴ(旧ザイール)など現在のアフリカ中部3カ国から1959〜62年、ベルギー男性が現地女性との間にもうけた子供数千人を強制的にベルギーに連れ去ったことを、国家として初めて謝罪した。欧州メディアが伝えた。

 ベルギーは現地で人種隔離政策を行い、ベルギー人と現地住民の結婚を法律で禁止したが、違反が目立ち、子供が多数誕生。ベルギー当局はこうした子供らの存在は政策遂行を妨げ植民地支配を脅かすと考え、本国の孤児院などに送っていた。

1173とはずがたり:2019/04/15(月) 14:26:15
ベルギー国王は可成り陰惨な植民地支配してた筈。その一環か延長かに起きた出来事か。

1174とはずがたり:2019/06/09(日) 22:28:46
日鐵め,日清戦争の賠償金で生まれ太平洋戦争にも組み込まれた反省や自己認識が全くないな

日鉄、北九州市の平和資料館に懸念 「戦争の内容多い」
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/516842/
2019/6/8 6:00 (2019/6/8 17:23 更新)

 北九州市が建設準備中の「平和資料館(仮称)」を巡り、新日鉄住金(現日本製鉄)八幡製鉄所が展示計画について「戦争に関する内容が多い」との懸念を市側に伝えていたことが分かった。資料館は終戦直前の八幡大空襲を映像やコンピューターグラフィックス(CG)で追体験できる展示などを予定。空襲の標的が同製鉄所や市街地だったとされ、結果的に県内最大規模の空襲被害となったことを踏まえ、識者は「歴史的な経緯に会社が敏感になっているのではないか」とみている。

 資料館は、戦争の悲惨さなどを考える機会を提供する目的で、市役所近くに約8億円を投じて建設予定。開館は2021年度の見込みで、18年11月の市議会では基本的な展示内容案などが示された。

 直前の同年10月31日、市は主要な関係先として新日鉄住金に同案を説明。西日本新聞の情報公開請求で市から開示された「対応メモ」で、同社は「当初聞いていた内容に比べ、戦争に関する内容が多いという印象」との見方を伝え、市側は「空襲の話なども避けては通れないものである」と理解を求めていた。

 八幡製鉄所総務部は取材に「17年12月に説明を受けた時は戦時中の市民生活の紹介を主体とするとのことだったが、(内容が)戦争そのものになっていると伝えた。設立趣旨は理解しているが、(建設については)否定も肯定もしない」との見解を示した。

 市総務局は今後、同社に関連資料の提供を要請する計画だが「今回の件は開館スケジュールには影響しない」としている。市は有識者による懇話会を本年度中に設け、展示案に対する最終的な意見を集める方針。

 九州大の施光恒(せてるひさ)准教授(政治学)は「製鉄所があったから北九州が発展したことも事実だろう。平和資料館が何を継承していく施設なのか議論を深め、コンセプトをしっかり固めるべきだ」と話している。

1175とはずがたり:2019/06/14(金) 15:19:39

可成り率直に語っていて好感が持てる。
>私は、歴代の総理大臣のうち、ベストは伊藤博文(1841〜1909)だと考えています。明治維新の原動力になったのは坂本竜馬(1836〜1867)でもなければ西郷隆盛(1828〜1877)でもなく、岩倉具視(1825〜1883)でさえない。木戸孝允(1833〜1877)だと私は考えております。
>自民党にも友人は少なくないですが、実は最も知人が多いのは国民民主党です。

榛葉さん激推しの小笠・掛川人だけど住民票あっても家広さんに投票してしまいそうだなぁ〜。

徳川宗家「第19代目」が参院選に出馬 自民党ではなく立憲民主党を選んだ理由
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190613-00565651-shincho-pol
6/13(木) 6:00配信 デイリー新潮

反原発の“お殿様”
 新聞各紙は、政治経済評論家の徳川家広氏(54)が5月28日に会見を開き、今夏、参院選静岡選挙区から出馬すると報じた。まずは朝日新聞(電子版)の「参院選静岡選挙区に徳川家19代目 立憲が擁立発表」からご紹介しよう。

 ***

《立憲民主党は28日、夏の参院選静岡選挙区(改選数2)に、徳川宗家19代目に当たる政治経済評論家の徳川家広氏(54)を公認したと発表した。初代家康が駿府城を居城にしたこともあり、徳川氏は会見で「先祖代々縁が深い。土地勘も愛着もある」と述べた。

 徳川氏は徳川宗家18代当主・恒孝(つねなり)氏の長男。徳川記念財団の理事や家康をまつる久能山東照宮(静岡市駿河区)の祭司を務めている》

 徳川家というだけでもインパクトは充分だが、ご本人の経歴も華やかである。慶応大経済学部を卒業し、アメリカのミシガン大学大学院で経済学、コロンビア大学大学院で政治学の修士を取得した。

 また、国連食糧農業機関(FAO)に勤務後、2001年から日本でフリーの翻訳家として多くの書籍を上梓している。中でもジョージ・ソロス著『ソロスは警告する 超バブル崩壊=悪夢のシナリオ』(講談社)はベストセラーになった。

 しかしながら、“華麗なる経歴”を見れば見るほど、「なぜ立候補するのか?」という素朴な疑問は増すばかりだ。そこでインタビューを依頼し、数々の疑問をぶつけさせてもらった。以下は、その一問一答である。

――改めて、なぜ出馬を決心されたんですか? 

徳川家広氏(以下、徳川):私は19代ですが、16代の徳川家達(1863〜1940)は1898(明治31)年に東京市長選に担ぎ出されそうになりました。そこで勝海舟(1823〜1899)に相談へ行ったんですね。

 すると勝から「徳川家の人間なのだから、よほどのことがない限り、政治に関わってはならない」とアドバイスされたそうです。

 家達は1884(明治17)年の華族令で侯爵となり、90(明治23)年に帝国議会が開設されると貴族院議員となりました。

 1903(明治36)年から33(昭和8)年までは貴族院議長を務めました。貴族院に選挙はありません。人選は内閣が行い、陛下のご下命で就任いたします。(註:正確には満25歳に達した伯爵・子爵・男爵に叙されている者の同じ爵位の華族による互選で選ばれた)

 その後、家達は「よほどのこと」が起こり、国際政治の表舞台に立ちました。1922(大正11)年に、世界初の軍縮会議となったワシントン軍縮会議で全権を務めたのです。

1176とはずがたり:2019/06/14(金) 15:19:53


 会議では保有艦の総排水量比率を、米と英が5に対して日本は3と定められました。更に日英同盟が失効し、米・英・仏・日の四カ国条約を結びました。会議の結果に反発する世論も少なくなかったわけですが、だからこそ家達しかできない仕事だったのではないかと思っております。

 私も、今の日本では「よほどのこと」が起きていると判断して立候補を決断いたしました。今年4月に行われた北海道知事選に出馬するか検討していた際も、同じ問題意識を持っていました。

 日本は少子高齢化から人口減少社会に突入しました。加えて、公文書の改竄や、首相が省庁幹部と面談した際の議事録を作成しない事実が発覚するなど、日本が文明国の座から滑り落ちているという恐怖感を覚えます。怒りではございません。恐怖心です。日本で底なしの堕落と衰退が始まっているという恐怖があって、「これを建て直す必要があります」と有権者に訴える必要性を痛感しているのです。

――出馬会見では“反原発”を訴えました

 そもそも中部電力が持つ発電所のうち、浜岡原発は中電本社からの距離が最も遠いとされております。この姿勢が大問題ですし、危険な状態にあることは言うまでもありません。

 もし浜岡原発がシビアアクシデント(過酷事故)を引き起こせば、静岡県が人口稠密地帯です。更に東京と名古屋、大阪を結ぶ大動脈が壊滅的被害を受けます。もちろん私のルーツという観点からも、他人事ではございません。

 2011年に東日本大震災が発生し、参院選は13年と16年に実施されました。ところが静岡県選挙区で、原発問題は全く争点になっていないわけです。これは非常に問題ではないかと考えております。

 原発の現場レベルでは、メーカーや電力会社、経産省などの関係者であっても、「原子力政策を今のまま継続させることは無理」だと分かっているのではないでしょうか。

 そういう声が表に出ないのは、「確かに日本は原発ゼロにしなければならないが、そうすると自分の仕事はどうなるんだろう?」という不安や、仲間から「反原発を口にするなんて裏切り者だ」と非難されるのが辛いということがあるのだと思います。

 もちろん私は、「電力がなくても幸せに生きられる」などと主張したいわけではありません。そうではなく、「浜岡原発を廃炉とし、その跡地に火力発電所を建設すれば、誰も文句を言わないのではないですか?」と問いかけたいのです。

 世界最先端の火力発電所を建設することは、メーカーにとってもビジネスチャンスです。メイドインジャパンの名にふさわしいものが誕生すれば、世界的なニーズが起こるでしょう。また、日本が世界中で植林事業を行うなど、二酸化炭素の排出問題に関して断固たる姿勢を示すことも重要でしょう。

 日本における原発政策は失敗だったとはっきり受け止める。前向きに打開策、他のエネルギー政策を探す。それを強く訴えれば、静岡県選挙区で有権者の意識、考え方が変わる。それを日本中に広げていく、というのが私のビジョンです。

歴代総理大臣のベストは? 
――憲法改正には否定的という理解でよろしいでしょうか? 

徳川:安倍晋三首相(64)は憲法改正を既定路線のように語っておられますが、私は護憲を訴えたいと思っています。日本国憲法とは、進駐軍が資金力と軍事力にものをいわせ、日本人が嫌がる新憲法を無理矢理に呑みこませたということではありません。

 そもそも太平洋戦争で、日本人は全員が死ぬかというところまで追い詰められました。文字通りの一億玉砕です。そして、あの大戦を「自衛戦争」と呼ぶ人もおられますが、他国が日本の領土を侵略した事実はありません。

1177とはずがたり:2019/06/14(金) 15:20:07

 1943(昭和18)年、大本営は絶対国防圏を設定しますが、44年7月にサイパンは陥落します。国防圏が破られたら停戦交渉を始めるはずだったのですが、政府は戦争を続行してしまいます。

 神風特攻隊だけでなく、桜花(航空特攻兵器)、回天(人間魚雷)、震洋(爆装特攻艇)、伏龍(人間機雷)といった特攻・自殺兵器を開発します。(註:マルカッコ内は編集部が補った)

 惨(むご)いのは開発段階のテストで多くの若い兵士が命を落としていることです。そして最後には竹槍が登場しました。

 45(昭和20)年8月15日、終戦を迎えます。日本は何とか、あそこで踏みとどまったわけです。それも自然に停戦が成立したわけではありません。陛下の御聖断があったわけですが、そこに持っていくまでに大変な苦労が、あまり語られない苦労があったわけですね。

 あの時の日本人は「あの戦争が、あともう少し続いたら、みんな死ぬところだった」と真摯に反省し、それが帝国議会における新憲法の議論に反映されます。憲法9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入した「芦田修正(編註:日本政府憲法改正小委員会において委員長の芦田均[1887〜1959]が加えた修正)」は、その代表例です。

 ダグラス・マッカーサー(1880〜1964)も、「日本の皆さんで、しっかり議論してください」と言いました。貴族院も、自分たちの名誉と天皇陛下に対する忠誠心から、極めて真面目に議論しています。その上で日本国憲法が誕生し、陛下の御裁可をいただきました。これを“GHQの押し付け憲法”と評するのは無茶苦茶です。

 日本人が真摯に議論して作った憲法という事実を無視し、「もう憲法は時代に合っていない」とか「緊急事態条項を創設しよう」という指摘は、あまりに乱暴です。昨年7月に西日本を中心に大豪雨が発生しましたが、被害者の皆さんは改憲が必要だと指摘されたでしょうか? 

 敗戦における軍部の責任は否定できません。つまり憲法9条とは、「日本を敗戦に追い込んだ旧日本軍を復活させない」ことを主旨としたのです。警察予備隊、自衛隊を創った方々は、そのことを熟知していました。もっと言えば、自衛隊に入隊される方々も、同じです。

 中には漫画『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ:講談社)に憧れた人もいるでしょうが、それは極めて少数で、自ら戦争を引き起こすことはない、よほどのことがない限り戦場には駆り出されない、という前提で自衛官になられた人が大半でしょう。ですから、安保法制を審議した際、「裏切られた」という声が自衛官の方々からも漏れたわけです。

――徳川さんのような“エリート”が、ドブ板選挙を戦えますか? 

 戦前、徳川家は、国が認める特権階級でした。華族令で伯爵になりましたが、私の父である徳川恒孝(79)は、会津松平家の分家に産まれましたから華族ではありません。

 祖父の松平一郎(1907〜1992)は、太平洋戦争中、横浜正金銀行職員としてシンガポールに行っておりました。終戦で収容所に入れられますが、父とその兄、私の祖母は御殿場に疎開しており、秩父宮さまの元に身を寄せておりました。秩父宮さまは立派な方なので、一切、ヤミ物資には手を付けられません。ですので皆さま、戦後の平均的な日本人の中でも、相当に貧しい暮らしをしておられたんですね。

 祖母は結核で片肺しかなかったのですが、それでも懸命に畑を耕しました。貧しい食べ物を3人で分け合い、たまに宮さまから卵を賜わると、父は泣いたそうです。旧華族は1000軒に達しましたが、あれほど貧しかったのは我が家だけだったでしょう。

 だから特権階級どころか、実情は庶民と全く変わりませんでした。皆さんと同じように空襲で逃げ惑い、疎開先でいじめられ、食糧難に苦しんだのです。戦争で本当に酷い目に遭ったという認識を持っているからこそ、そうした歴史的事実をすっ飛ばして改憲議論が行われるのには賛成できません。

 私がドブ板の選挙活動を行うことは当然ですし、それをしなければならないと思っております。日本人が滅亡寸前まで追い詰められたからこそ、私たちは1票を持っているのです。

1178とはずがたり:2019/06/14(金) 15:20:19

 政治家として、その貴重な1票を分けてくださいとお願いするわけです。敗戦を経て、日本人は自分たちの血で1票を購(あがな)いました。よく「日本人は戦わずして民主主義を手に入れた」と指摘する方もおられます。確かに内戦などが起きたわけではありませんが、充分すぎる犠牲を払っている。血まみれの1票なのですから、ドブ板選挙を行わなければ、政治家になってはいけないとも思います。

――安倍首相の選挙区は山口4区、つまり昔の長州です。「徳川家が長州に挑戦状」と面白おかしく書かれたら、どう感じますか? 

 実は薩摩の方々は、徳川幕府に対して非常に同情的だった歴史があります。篤姫、つまり天璋院(1836〜1883)は島津家の一門に産まれ、徳川家に嫁ぎました。薩摩の皆さまが徳川家を守ったという表現もできるでしょう。

 私の母親も薩摩の出身です。私には会津家だけでなく、島津家の血も入っています。実は旗本の子孫が薩摩藩の子孫と結婚したというケースは、意外に多いんです。薩摩人と江戸っ子は相性がいい。私は“黒潮連合”と呼んでいます(笑)。

 また私は、歴代の総理大臣のうち、ベストは伊藤博文(1841〜1909)だと考えています。明治維新の原動力になったのは坂本竜馬(1836〜1867)でもなければ西郷隆盛(1828〜1877)でもなく、岩倉具視(1825〜1883)でさえない。木戸孝允(1833〜1877)だと私は考えております。

 もちろん伊藤も木戸も長州人です。私は長州人というのは大したものだと思っております。確かに私が立候補すると、安倍首相のルーツが長州であることを面白おかしく書くメディアがあるかもしれません。ですが私としては、長州にそういう考えを持っているということは知ってほしいですね。

なぜ立憲民主党なのか? 
――なぜ立憲民主党から立候補されたのですか? 北海道知事選では自民党の候補として出馬すると報道されました。

徳川:北海道知事選では、自民党の皆さんと相談していたことが、たまたま記事になりました。しかし、他党ともやり取りはあったんです。北海道は衰退する日本の象徴と言えます。ここで対策を講じることができたなら、それは日本全体で参考になる政策でしょう。

 その経験を踏まえて、参院選では静岡選挙区から立候補することを決めました。なぜ立憲民主党かと言えば、私の考えは立憲民主党の政策と同じだからです。

 徳川幕府の最高法規の1つに、禁中並公家諸法度があります。天皇陛下の政治的中立が謳われており、これを当時の“憲法”と表現することが可能です。

 そして諸法度は制定されてから大政奉還までの250年間、ただの1行も変えられていません。天皇陛下から国政を預っているという意識を徳川家は強く持っていました。つまり徳川家の基本方針は、立憲主義と平和主義だったのです。

 また現在、日本の有権者の平均的な感覚は、立憲民主党の主張に近いと思うんです。自民党ではない。

 例えば、今の上皇が退位の意向を明らかにされた際、朝日新聞の世論調査では90%以上、産経新聞でも60%近くが賛成しました。つまり日本人の85%くらいが賛成したと考えられるでしょう。

 ところが当初、官邸も自民党も難色を示していたことは、皆さんもご記憶でしょう。天皇の政治的中立を問題視したわけですが、そんな話ではなかったのです。

 個人の幸福追求権や生存権という文脈で受け止められるべきことでした。上皇陛下は当時、「85歳になったので辞めさせてください」と国民に相談されたわけで、それに圧倒的多数の国民が共感と賛意を示した。それが今の日本人の感覚ですが、与党自民党の感覚はズレていたと思います。

1179とはずがたり:2019/06/14(金) 15:20:47
>>1175-1179
 丸山穂高議員(35)の戦争発言も、1つだけ良いところを見つけるなら、日本人全体の感覚と政治家の感覚がズレていることを、如実に示したわけです。これだけは不幸中の幸いと考えられます。

――反アベノミクス、反新自由主義も主張しておられます。

徳川:反原発、護憲、そして反アベノミクス(反新自由主義)が、私の主張の3本柱です。2008年のリーマンショックを経て、日本の経済学会も、新自由主義的な理論を主張する経済学者が増えています。

 しかし、それが散々たる結果に終わっているのは、私たちの生活実感からも明らかでしょう。どこの会社も苦しいのです。日本の人口の1%に満たない人はアベノミクスの恩恵を受けたかもしれませんが、残りの方は生活が苦しく、将来に対する不安を抱えています。

 バブル景気は1986年から始まったとされていますが、その前の経済水準と比べても現在は貧困が拡大し、経済格差は広がっています。

 国民の誰もが「おかしい」と思っているのですが、テレビを筆頭とする大手メディアは「安倍政権の経済政策はおかしい」と指摘しないため、誰も「おかしい」とは言えない状況になってしまっています。

 戦後、日本経済が生んだ最高傑作は、1979年にソニーが発売したウォークマンかもしれません。あれは日本ではないと開発されなかった。満員電車で通勤・通学する人たちが、「ぎゅうぎゅうの車内でも、なんとかプライベートな空間を確保できないか」と願ったのが原点です。

 普通の日本人の希望が反映されたわけですが、重要なのは、当時の日本人は“夢の新商品”を買うお金を持っていたということです。日本人なりの幸せが製品の形で具現、更に世界中に輸出され、「メイドインジャパン」の名を高めていった。

 ビデオデッキもそうです。当時の日本人は残業が多かったので、ニーズがあったんですね。当時の10万円というのは相当な高価格ですが、非常に早いスピードで普及していった。あの頃の日本には、しっかりとした中間層が存在していたのです。

――最近、立憲民主党の支持率が低下していることは、どうお考えですか? 

徳川:自民党で上手くいくように見えてしまっているのが原因でしょう。総理大臣が「高度経済成長の時代に戻れます」と旗を振り、国民もファンタジーを信じてしまう。信じざるを得ないという側面もあるでしょう。

 一方の立憲民主党は、結党して間もないという点もあります。ただ、野党共闘が進み、立憲民主党が「私たち日本人の伝統的な価値観に照らし合わせると、自民党の主張はここが間違っています」という主張をできるようになれば、きっと支持率は上がっていくと思います。

――政治家になろうと決心されたのは、いつ頃からですか? 

徳川:一昨年か去年というところでしょうか。私は翻訳と著述をしていましたので、活字文化の衰退を通して日本の衰退を実感するようになりました。

 北海道知事選もそうですが、もともと政治家の皆さんと話をする機会は多かったのです。自民党にも友人は少なくないですが、実は最も知人が多いのは国民民主党です。

 そういうことになりますと、私は旧民主党における右派に最も知り合いが多いということになります。とはいえ、政治家としてどこの党から出馬するか、各党の皆さんとお話をさせていただく中で、最終的に一番主張が合う立憲民主党にしました。

週刊新潮WEB取材班

2019年6月13日 掲載

1180とはずがたり:2019/07/12(金) 20:09:05
フィリピン戦没者遺骨収集“日本人ゼロ”疑惑…厚労省が隠蔽した真実
https://dot.asahi.com/aera/2019051700022.html?page=2
大平誠2019.5.20 07:00AERA

1181とはずがたり:2019/08/17(土) 17:40:34
戦没者を追悼する像が安置される平和祈念堂 参観収益減り運営の危機 運営する沖縄協会が寄付呼び掛け
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/444020
2019年7月12日 08:00

 沖縄県糸満市摩文仁の沖縄平和祈念堂を管理している公益財団法人沖縄協会(野村一成会長)が、参観料や資産運用収入の減少に伴う財政難に陥っている。経費節減に努めてきたが、経年劣化による補修工事などの予算確保に苦慮し、毎年約2千万円を財団の資産から取り崩している。このままでは継続的な運営も危ぶまれ、協会側は支援の寄付を募っている。

 1978年に開堂した祈念堂内に安置されている高さ約12メートルの平和祈念像は、戦没者を追悼し世界平和を希求する象徴として、芸術家の故山田真山さんが18年余りをかけて原型を制作。建造から41年がたち、数年後に1億円前後をかけて大規模な防水補修工事が必要になるという。

 協会によると、参観者は減少傾向で、2018年度の有料入館者は約6万1千人。参観料収益は17年度2032万円から18年度1797万円に減った。金融機関に委託した資産運用も、近年の低金利などの影響で思わしくないという。

 協会側は「協会のみの努力では予算確保が限界に来ている」とし、祈念堂の安定した管理・運営のため、県内外からの寄付を呼び掛けている。

 協会は16年から税額控除対象法人と認定され、寄付した人は税制優遇措置が受けられる。本年度の寄付目標は200人。新垣昌頼専務理事は「平和祈念のシンボルでもある祈念堂を守っていきたい。ぜひ協力をお願いしたい」と話した。

 東京都内の県関係者でつくる「三月会」の重田辰弥会長が9日、都内の協会本部を訪れ「窮状に役立ててほしい」と同会と個人分を合わせて計10万円を寄付した。

1182とはずがたり:2019/09/12(木) 14:41:37
インド訪問の英国教会大主教、植民地時代の虐殺現場でひれ伏す
https://www.afpbb.com/articles/-/3244048?cx_part=top_latest
2019年9月11日 23:23 発信地:アムリツァル/インド
[ インド アジア・オセアニア 英国 ヨーロッパ ]

インド北部アムリツァルにあるジャリヤーンワーラー・バーグ記念碑で、犠牲者を追悼する英国国教会のジャスティン・ウェルビー大主教(2019年9月10日撮影)。(c)NARINDER NANU / AFP
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【9月11日 AFP】英国の植民地下にあったインド北部アムリツァル(Amritsar)で1919年に起きた大虐殺をめぐり、英国国教会のジャスティン・ウェルビー(Justin Welby)カンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)は10日、個人の立場で謝罪の意を伝えるべく、事件現場でひれ伏した。この出来事をめぐって英政府は、これまで謝罪したことはない。

 インド・アムリツァルで1919年4月13日、武器を持たない男性や女性、子どもたちに向かって英国軍部隊が発砲。当時の記録によると、犠牲者は379人とされているものの、インド側の数字では計1000人近くとされている。


 アムリツァルを訪れたウェルビー大主教は、「政府当局者ではないので、英国政府を代表することはできない。だが私は、キリスト(Christ)の名の下に話すことができる」と発言。「犯された罪が及ぼした影響について、私は恥じ入り、申し訳ないと思っている。私は宗教の指導者であり、政治家ではない。宗教指導者として、ここで起きた悲劇を悼む」と語った。

 さらに、ウェルビー氏はフェイスブック(Facebook)への投稿で、現地ではジャリヤーンワーラー・バーグ(Jallianwala Bagh)と呼ばれる現場への訪問が「この場所で起きたことへの強い恥じらい」を喚起したとし、「英国の歴史に残る数々の深刻な汚点の一つだ。世代を超えて続く痛みと悲しみは、決してはねつけられたり、否定されたりしてはならない」と訴えた。

 100年前に起きたこの事件は、英国のインド統治における最悪の事態とされ、インド人のナショナリズムを高め、独立への支持を強固なものとすることにつながった。

 英国のエリザベス女王(Queen Elizabeth II)も1997年、インド訪問中に現地で花輪を手向けたが、失言癖で知られる夫のフィリップ殿下(Prince Philip)が、死者数に関するインド側の推定は「大きく誇張」されていると発言したと報じられ、見出しをさらった。(c)AFP

1183とはずがたり:2019/09/12(木) 14:42:00
(世界発2019)奴隷の子孫に補償、米で高まる声 初の「上陸」から400年
有料記事
https://www.asahi.com/articles/DA3S14172859.html
2019年9月11日05時00分

 黒人奴隷が英植民地に初めて連れてこられてから400年。米国で、奴隷の子孫への補償を求める声が高まっている。社会に深い傷を残す人種間の差別や格差が背景にあるが、かえって分断を深めるとの懸念も出ている。(ハンプトン=沢村亙)

 ■経済格差や人種偏見、背景

 6月19日、ワシントンの米下院司法委員会で…

残り:1690文字/全文:1840文字

1184荷主研究者:2019/09/15(日) 22:25:16

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48326750X00C19A8AA1P00/
2019/8/8 7:00 日本経済新聞 関西
明治元年、幻の大阪遷都論 大久保利通に前島密が反論

1185とはずがたり:2019/09/23(月) 19:41:51
2019年05月07日 08時00分メモ
第二次世界大戦中にナチス・ドイツとイギリスが繰り広げた「電波の戦争」とは?
https://gigazine.net/news/20190507-battle-of-the-beams/

1186とはずがたり:2019/10/09(水) 10:11:23
フランス紙記者が見る日韓対立「徴用工問題と似たようなことが戦後のヨーロッパでも起きていた」
2019年10月03日
https://wpb.shueisha.co.jp/news/politics/2019/10/03/109847/
取材・文/川喜田 研 撮影/長尾 迪

悪化の一途をたどり、改善の糸口も見えない日韓関係。日本と韓国の双方を取材するヨーロッパメディアのジャーナリストはこの問題を客観的にどう見ているのか? 「週プレ外国人記者クラブ」第144回は、フランス「ル・モンド」紙の東京特派員、フィリップ・メスメール氏に聞いた――。

***

──いわゆる「徴用工訴訟問題」に端を発した今回の日韓対立を、メスメールさんはどう見ていますか?

メスメール 徴用工訴訟問題は、日韓双方が輸出管理の優遇対象国から排除する「貿易問題」や、韓国政府によるGSOMIA(軍事情報包括保護協定)の破棄という「安全保障問題」といった、まったく別の問題にまで発展しています。私が気になるのは、両国の「対立」ばかりが注目されていて、個々の問題を切り分けた冷静な議論が行なわれていない点です。

政府、民間の両面で関係が修復不能に陥らないための努力が続いていて、話し合いのチャンネルが完全に閉ざされてしまったわけではありませんが、ここまでこじれると修復にはかなりの時間が必要でしょう。

両国の対立が深まった経緯を振り返ると、昨年10月に韓国の最高裁にあたる「大法院」が日本製鉄に対し、戦時中、徴用工として動員された韓国人4人へ1人あたり約1000万円の損害賠償を命じた判決がきっかけでした。この判決に対して、日本政府は徴用工への補償問題は「1965年の日韓請求権協定ですべて解決済み」と主張し、「司法の判断を尊重する」とする韓国政府と激しく対立しています。

ここで検証する必要があるのは、日韓請求権協定が結ばれた1965年当時の韓国の状況です。この合意は、日韓の和解を強く望んでいたアメリカの強い意向を受け、当時、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の独裁政権下にあった韓国と日本政府の間で結ばれたものです。このとき、朝鮮戦争で荒廃した韓国は戦後復興のために巨額の資金援助が必要な状況でした。一方、すでに戦後の経済成長が軌道に乗り始めていた日本は新たなマーケットを求めていて、韓国はそのひとつでした。

個人への補償分も含め、日本政府が韓国に巨額の賠償金を支払う形で合意に至ったわけですが、朴政権は経済復興を優先し、賠償金の大部分をインフラの建設などに使ったため、戦争や日本統治下での被害者には十分な補償が行なわれなかった。当然、「その責任は誰にあるのか?」という議論はあるでしょう。ただし、韓国には日本統治下で徴用工として働きながら未だに補償を受けられていない人たちが存在するというのは紛れもない事実で、人権的な観点で言えば、彼らが救済を求めて声を上げる権利そのものは否定できないと思います。

もうひとつ考慮しなければいけないのは、日韓請求権協定が結ばれた当時の韓国には、「自らの被害を名乗り出られずにいた人たち」が数多くいたという点です。これは従軍慰安婦問題にも共通することですが、韓国には戦後長い間、日本統治下で自分が徴用工や従軍慰安婦として働かされたことを心理的に「恥」と感じ、その事実を隠していた人たちが少なくありませんでした。

そうした「隠れた被害者」たちが、ようやく公に声を上げられるようになったのは独裁政権が終わり、民主化が始まった80年代後半に入ってから。つまり、日韓請求権協定が結ばれた65年時点で彼らの被害は表面化していなかったのです。

──65年時点では明らかになっていなかった「被害」があり、彼らが未だに補償を受けられずにいるという現実は無視できないと?

メスメール 第二次大戦後のヨーロッパでもこれと似たようなことが起きていて、戦争中に迫害されたユダヤ人の中にも、終戦直後には心理的な被害を名乗り出ることができなかった人たちが数多くいました。第二次大戦中にナチスの占領下にあったフランスでもユダヤ人に対する迫害はあり、その被害者たちの存在は1960年代後半になるまで、なかなか表面化しませんでした。

先日亡くなったシラク元大統領が、戦時中のユダヤ人迫害に対する政府の責任を初めて認めて謝罪したのは、終戦から半世紀を経た1995年のこと。このように、戦争や植民地支配などが残した傷は戦争が終わると同時に全貌が明らかになるわけではなく、30年、40年という長い年月を経て表面化するものも少なくないのです。過去の戦争や植民地支配がもたらした傷は、条約や賠償金だけで癒えるものではなく、それで不幸な歴史が消えてしまうわけでもありません。

1187とはずがたり:2019/10/09(水) 10:11:44
>>1186
例えば、ポーランドへの戦後補償についてドイツは「政治的・法的に解決済み」という立場を取っています。それでもナチス・ドイツのポーランド侵攻から80年の節目にポーランドで行なわれた、今年9月1日の式典にはドイツのシュタインマイヤー大統領が出席し、「かつて、独裁国家だったドイツの犠牲者となったポーランド国民の前に私は頭を下げ、許しを乞う」とポーランド語で謝罪の言葉を述べました。日本の安倍首相もアメリカに対しては、ハワイの真珠湾を訪問したときに、真珠湾攻撃の犠牲者たちに頭を下げ、哀悼の意を表していたではありませんか。

おそらく、日本政府が韓国に対してこれだけ強硬な態度を取っているのは、元徴用工の個人的請求権を認め日本企業への賠償を求めた韓国大法院の判決が、今後、他の日本企業への大量提訴に発展することを危惧しているからでしょう。しかし、そうした「現実的な理由」を差し引いても、両国間の歴史的背景を考えれば、強硬な態度が韓国側の強い反発を招くことは、日本政府にとって十分に予想できたことだと思います。

ちなみに日中間の徴用工問題について言えば、1972年の日中共同声明で解決済みということになっていますが、2000年代に入ってから、戦時中の中国人強制徴用について西松建設や三菱マテリアルなどの日本企業が賠償や和解に応じているケースもあります。

いずれにせよ、「補償の責任が誰にあるのか」という議論はともかく、徴用工の問題が「日本の植民地支配下で起きた」という歴史的背景があるのですから、日本政府は「補償問題はすべて解決済み」という公式な立場を頑なに繰り返すだけでなく、この問題の「当事者のひとり」として韓国政府と協力し、被害者の救済のためにあらゆる可能性を検討する必要があると思います。そのためには日韓両国がお互いをリスペクトする姿勢が欠かせませんが、現状はそれとは程遠いところにあるのが残念です。

──「嫌韓」や「反日」といった言葉に代表される、両国の感情的な対立の背景には何があると思いますか?

メスメール その点に関しては2点ほど指摘したいと思います。ひとつは、日韓両国の首脳の、あまりにも対照的な政治的バックグラウンドの存在です。

日本の戦争責任や従来の歴史認識に否定的な「右派的ナショナリズム」を背後に抱える安倍首相は、日本会議などに象徴される右派の支持を得るために、今回の徴用工を巡る問題でも、韓国に対して常に強硬な態度を取り続ける必要がある。

一方、学生時代から韓国の民主化運動に関わり、長く人権派弁護士として活動してきた経歴を持つ文在寅大統領にとっては、旧日本軍の朝鮮人将校だった朴正煕大統領が交わした日韓請求権協定は、忌まわしい独裁政権時代の遺物だと感じているはずです。こうした韓国の「左派的ナショナリズム」を背景に持つ彼も、日本に対して強硬な態度を貫かざるを得ない。

こうした日韓のリーダーの「極端に異なる政治的背景」が対立を必要以上に悪化させ、両国民の間に感情的な対立を引き起こしているように感じます。

──では、もうひとつのポイントは?

メスメール もうひとつは「メディアの問題」です。先日、大きな批判を受けた「韓国なんていらない」という週刊誌の特集が象徴的ですが、テレビや新聞、ラジオなども連日のように日韓対立を報じている。

しかし、冒頭でも述べたように、その多くは個々の対立点について丁寧な検証を行なうのではなく、単に日本政府や韓国側の公式見解を伝えるだけのものや、相手側の問題を批判するだけで、この問題について国民が深く理解し、議論するための材料を提供しているとは言い難い。しかし、本当はそれこそがジャーナリズムの果たすべき大切な役割のはずで、こうしたメディアの現状も両国の感情的な対立を深めている、大きな要因ではないかと思います。

繰り返しますが、過去の戦争や植民地支配によって生まれた傷は、簡単に癒えるものではありません。それは日韓の問題だけでなく、フランスを含め、かつて多くの植民地を支配したヨーロッパの国々も、そうした歴史がもたらした被害について、すべての責任を果たしているとは言い難い。その傷を癒すためには、過去の歴史と正面から向き合うことが必要ですし、何よりもお互いが敬意を持って、丁寧な対話を続けていくしかない。それは簡単なことではないと思いますが、結局、それ以外に解決の道はないと思います。

●フィリップ・メスメール
1972年生まれ、フランス・パリ出身。2002年に来日し、夕刊紙「ル・モンド」や雑誌「レクスプレス」の東京特派員として活動している

1188荷主研究者:2019/12/29(日) 19:18:44

https://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20191215/CK2019121502000039.html
2019年12月15日 中日新聞
火薬庫立哨台が門横に戻る 関ケ原の戦跡を後世に

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2019121402100338_size0.jpg
門の横に戻された立哨台に触れる岩津区長=関ケ原町玉で

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2019121402100339_size0.jpg

 関ケ原町の旧日本陸軍の火薬庫「名古屋陸軍兵器補給廠(ほきゅうしょう)関ケ原分廠」の入り口にあり、終戦直後に仮置き場に放置されていた「立哨台」が、数十年ぶりに当時あった場所に復元された。地元住民は「あの頃を乗り越えて今の平和がある。そんな思いを、実際に見て、かみしめてほしい」と話す。

 名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠は一九一二〜四三年にかけて、滋賀県境に近い旧玉村(関ケ原町玉)から買収した軍用地(二百二十ヘクタール)に作られた。鉄筋コンクリート製倉庫の上に土を盛って木を植えたり、山腹に横穴を掘ったりと、米軍の飛行機から分からないように工夫されており、全体で二百カ所近く。その規模は当時、東洋一ともいわれた。

 火薬庫一帯の警備体制は厳重で、入り口の門のそばには、高さ二メートルの立哨台があり、衛兵が目を光らせていた。柵で囲われた用地に入るには、中に耕作地を持つ農民でも「門鑑(もんかん)」と呼ばれる木製の通行証を見せる必要があり、所持品検査もあったとされる。

 終戦後、火薬庫はすぐに閉鎖された。今では門柱や洞窟など一部が公開されているが、当時の面影はほとんど見られない。

 そんな中、地元の戦跡を後世に伝えようと、住民有志が五年前から、一帯の草刈りをするなど整備を進めてきた。その過程で、立哨台が本来の位置から七百メートルほどずれた場所に放置されていたことが判明。

 住民の間から「門柱の横の元の場所に戻そう」との声が高まり、十月、業者に依頼して移転、復元した。

 玉地区の岩津隆之区長(74)は「昔はここに大規模な火薬庫があり、地元住民でさえ入るのに厳しいチェックがあったということを、若い人たちにも知ってもらい、平和の思いを継いでいきたい」と願っている。

 (服部桃)

1189荷主研究者:2019/12/29(日) 20:01:49

https://www.yamagata-np.jp/news/201912/20/kj_2019122000352.php
2019年12月20日 09:22 山形新聞
「蔵王山測候所」現した姿 1940年代に観測、山形大・柳沢教授が写真入手

柳沢文孝教授が入手した「蔵王山測候所」の写真(山形大提供)

 蔵王周辺の自然環境などを調べている山形大の柳沢文孝教授は19日、1943(昭和18)〜47(同22)年に蔵王山の地蔵岳山頂で気象観測を行っていた「蔵王山測候所」の写真と地図を入手したと発表した。文献を通じて存在は知られていたが、建物の外観などがはっきりと分かる資料が見つかるのは初めてという。

 柳沢教授によると、測候所は第2次世界大戦時、軍用機の通過ルートの安全確保を目的に、風速などの情報を収集する施設だったとみられる。戦後は連合国軍総司令部(GHQ)の許可を経て気象観測を行っており、そのころの観測データと現在のデータの比較解析から、現在の樹氷の衰退は山頂気温の上昇によると断定している。

 今回、柳沢教授が入手したのは、絵はがきとして使われていた写真。52年から使用されている「第五種郵便」の記載があることや、51年に蔵王が観光地百選に選ばれた際のスタンプが押されていることから、その当時に撮られたとみられる。地図は観光目的の内容で、地蔵岳山頂に測候所を意味する記載を確認。49年に山形大となった「山形高等学校」の位置が表記され、戦時中に印刷地図が作られたとは考えにくいことなども踏まえると、46年ごろに作成されたものと推測されるという。

 文献を通じ、測候所は平屋の一部3階建てで、平屋部分は居住スペースだと考えられてきた。それを裏付ける一つの資料となり、柳沢教授は「どのような施設だったかが写真で証明された」と価値を話している。

1190とはずがたり:2020/03/20(金) 00:27:57
「絶対に勝てるか」“抹殺できなかった公文書”が伝える昭和天皇の大声
残された重要史料が今に教えるもの
辻田 真佐憲文筆家
近現代史研究
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68981

「太平洋はなお広いではないか!」

アジア太平洋戦争の開戦へ突き進む中、昭和天皇が杉山元参謀総長をこのように叱責したことはよく知られている。1941年9月5日のことである。

昭和天皇ははじめ、杉山に「日米事起こらば、陸軍としては幾許の期間に片づける確信ありや」と質問した。これに杉山は、「南洋方面だけは3ヶ月くらい」と答えた。

これに満足しなかった昭和天皇は、続けて問うた。「汝は支那事変[日中戦争]当時の陸相なり。その時陸相として『事変は1ヶ月くらいにて片づく』と申せしことを記憶す。しかるに4ヶ月の長きにわたり、いまだ片づかんではないか」。

厳しい追及を受けた杉山は恐懼(きょうく)して、「支那は奥地が開けており、予定どおり作戦し得ざりし事情」をくどくどと弁明した。これにしびれを切らした昭和天皇は、励声一番、最初に引いた発言を行ったのである。

「支那の奥地が広いと言うなら太平洋はなお広いではないか。如何なる確信あって3ヶ月と申すか」

杉山はこれに答えられず、隣にいた永野修身軍令部総長に「統帥部として大局より申し上げます……」と助け舟を出してもらったのだった。
別の史料では「絶対に勝てるか」と質問
以上は、当時の首相・近衛文麿の手記に見えるやり取りである(『近衛文麿手記集成』より。なお引用にあたって、表記を一部改めた。以下同じ)。

ところで、この場面を記録した別の史料があることを知っているだろうか。

杉山自身の記録がそのひとつである。より正確には、歴代の参謀本部戦争指導班(第20班)長が杉山の伝達事項を聞き取り、浄書・整理したもので、今日『杉山メモ』というかたちで公刊されている。

これを読むと、会話の内容が近衛手記と微妙に異なっている。

たしかに昭和天皇は、杉山にたいして「予定通り出来ると思うか。お前の大臣の時に蒋介石は直ぐ参ると云うたが、未だやれぬではないか」と同じ主旨の質問をしている。だが、その後の「太平洋はもっと広いではないか」という厳しい発言は記されていない。

昭和天皇にやり込められた恥ずかしい場面は、部下に伝達しなかったのだろうか。

そのいっぽうで、近衛手記にない記述も見られる。

昭和天皇は、大声で「絶対に勝てるか」と質問した。これに対して、永野が「絶対とは申し兼ねます」と言いながらも、「半年や1年の平和を得ても、続いて国難が来るのではいけないのであります。20年、50年の平和を求むべきであると考えます」などと答えた。

昭和天皇はこれに対して、やはり大声で「ああ分った」と答えたという。

この翌日(9月6日)、御前会議で「対米、(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」などとする「帝国国策遂行要領」が可決された。

その会議の最後、昭和天皇は「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という明治天皇の御製を詠んだ。これは一般に平和への意志を示したとされている。

とすれば、「ああ分った」という声も、開戦同意の意味ではなかったのだろう。

杉山は、自分の意志がなく、押したほうに動くことから「便所の扉」とあだ名され、永野も、会議でよく居眠りしていた(若い後妻をもらったためと陰口された)ことから「ぐったり大将」とあだ名されていた。

昭和天皇が大声になったのも、こんなふたりへの苛立ちのあらわれだったのかもしれない。

焼却処分をまぬかれた重要文書
それはともかく、実はこの『杉山メモ』(の原形)を含む重要文書は、ほかの公文書と同じく、終戦時に焼却処分されるはずのものだった。

ところが、陸軍省軍務課庶務将校・中根吾一少尉が、高級課員山田成利大佐の許可を得て、これを密かに自宅に持ち帰り、ドラム缶につめて地下に埋めたことで、焼失をまぬかれた。

1191とはずがたり:2020/03/20(金) 00:28:13
>>1190

その後同文書は、各地で分割保管されるなどしながら、最終的に1960年6月以降、防衛庁防衛研修所戦史室にすべて移管された。

そしてこの史料群の一部が、のちに『杉山メモ』として公刊されるにいたったのである。なお同書以外の部分も、『敗戦の記録』『機密戦争日誌』として公刊されており、いずれも昭和史の研究に欠かせないものとなっている。

以上は、昭和史に通じたものにはよく知られたことだが、過日、昨今の杜撰な公文書管理に絡めてツイッターで言及したところ、思わぬ反響を引き起こした。そこで、今日に教えるところもあろうかと思い、あらためて記した次第である。

「大東亜共栄圏」の実態を明らかに
もうひとつ『杉山メモ』から貴重な記録を取り上げて、公文書が残された有り難みを噛み締めておきたい。

1943年11月、東京で大東亜会議が開かれた。東条英機首相、中華民国の汪兆銘行政院長、満洲国の張景恵国務総理、タイのワンワイタヤーコン首相名代、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバモオ首相が参加し、さらにオブザーバーとして自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が陪席し、「大東亜共同宣言」が採択された。

この宣言については、「大東亜各国」の共存共栄、自主独立の尊重、人種差別の撤廃などをうたったことから、現在でも高く評価する声がないではない。

だが、『杉山メモ』に収録された「大東亜政略指導大綱」を見ると、その裏事情が浮かび上がってくる。

「大東亜政略指導大綱」は、同年5月31日の御前会議で決定された「大東亜」地域に関する基本方針である。大東亜会議の開催も、これにもとづいて決定されたものだった。

その内容を見ると、フィリピンの独立などを打ち出すいっぽうで、一部の占領地については「帝国領土」とする決定が下されている。

 「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定し、重要資源の供給源として極力之が開発並に民心の把握に努む。
つまり、現在のマレーシアやインドネシアにほぼ相当する地域を、日本の領土に組み込むとされていたのである。これは明らかに、「自主独立の尊重」などと相反するものだった。

だからこそ、上記の条項は「当分発表せず」と秘匿されなければならなかった。千言万語を尽くすより、この箇所は「大東亜共栄圏」の実態をよく示してくれている。

今日「大東亜共同宣言」が一部でしか評価されていないのは、こうした史料も関係しているのである。

大事な政治的記録は何らかのかたちで残る
中国の古典『春秋左氏伝』に、こんな話が載っている。

春秋時代、斉の崔杼(さいちょ)が荘公を殺した。史官はこれを「崔杼、荘公を弑(しい)す」と記録した。「弑す」とは主君を殺すという意味である。

怒った崔杼はこの史官を殺した。ところが、その弟が史官を継いで、また「崔杼、荘公を弑す」と記録した。崔杼はふたたび史官を殺した。それなのに、またその弟が史官を継いで、やはり「崔杼、荘公を弑す」と記録した。さすがの崔杼も、ついに記録の改竄を諦めた――。

どんなに消そうとしても、大事な政治的記録は何らかの形で残されてしまうものなのである。この『左伝』の箇所がたびたび参照されるのは、そうした真実を衝いているからにほかならない。

もちろん、「役人は殺されても記録せよ」と言いたいのではない。そんな使命感に訴えなくても、何らかの記録は残されるだろう。というのも、記録を完全に破棄してしまうと、政治家/上司に「官僚/部下が勝手にやった」などと責任を押し付けられるリスクがあるからだ。

仮に公文書自体は完全に処分されているとしても、担当者が身を守るために記したメモや日記、下書きなどは数年後に出てくるのではないか。

終戦時にさえ抹殺できなかった公文書の存在は、そんな期待をわれわれに抱かせてくれる。そして未来に出てくるであろう「史料」は、目の前の倒閣運動には役立たなくても、長い目で見たとき、かならず後世のひとびとの役に立つはずである。

1192荷主研究者:2020/03/29(日) 15:40:32

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=622618&amp;comment_sub_id=0&amp;category_id=112
2020/3/14 中国新聞
海自呉基地れんが倉庫群研究に力 呉高専と広島工業大

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200314chugoku01.JPG
海自呉基地内のれんが倉庫の前で現状を確認する呉高専と広島工業大の教員と学生有志

 呉高専(呉市)と広島工業大(広島市佐伯区)の教員と学生が、呉市の海上自衛隊呉基地に現存するれんが倉庫群の研究に力を入れている。これまでは昭和初期以前の経過が詳しく分からなかったが、倉庫が明治期に建設されたことなどが徐々に分かってきた。

 れんが倉庫群は海自呉地方総監部南側の一角にあり、同じ大きさの倉庫が3棟建つ。2階建て延べ約690平方メートルの倉庫は縦8・7メートル、横36メートル、高さ11・3メートル。倉庫は戦時中に市中心部で大規模な被害が出た空襲で旧海軍の呉鎮守府庁舎(現・同総監部第1庁舎)と同様に屋根が焼け落ちたが、その後に修復された。現在は同総監部が備品などを保管するために使う。

 海自呉基地に残り、旧海軍が使っていた地下施設の研究を進める呉高専と広工大が本年度から、れんが倉庫群についても本格的に調査に乗り出した。これまでは海自の台帳に記載されている1930年以前の経緯は詳しく分からなかったという。

 調査を通じて、防衛省防衛研究所(東京)で倉庫の図面などを見つけ、明治後期の00年に完成したことを確認。オーストラリア戦争記念館所蔵の写真なども入手し、明治期に発生した芸予地震や空襲で被害を受けた後に屋根の形状が変わっていることも把握した。

 海自の協力を得た上で、今後は保存の観点で参考になるような研究も進めたい考え。呉高専の専攻科2年難波宗功さん(22)は「外壁は建設当時のままで、呉鎮守府の歴史を物語る倉庫。役割を変えずに今も使われている点が興味深い」と話している。(浜村満大)

1193とはずがたり:2020/06/02(火) 17:17:49

大本営発表はなぜ「ウソの宣伝」に成り果てたか
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180808-OYT8T50018/2/
2018/08/15 05:20

… 私がキャスターを務める「深層NEWS」では、『大本営発表 改竄かいざん・隠蔽いんぺい・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎新書)を書いた近現代史研究者の辻田真佐憲つじたまさのりさんをお招きして話を聞いた。辻田さんは、でたらめ発表が行われた背景に、「情報軽視」と「内部対立」という2つの構造的な欠陥があったと分析している。

情報軽視の悪癖、現場の報告を鵜呑みに
 大本営発表が最初からでたらめだったわけではない。真珠湾攻撃の戦果は、航空写真を綿密に確認するなどした上で、3度も修正されている。戦闘機から見た艦船は点のようなもので、本当に沈んだのか、沈んだ艦は戦艦なのか、駆逐艦なのかを判別するのは、熟練度が高い搭乗員でも簡単ではないからだ。

「深層NEWS」より
 戦線が拡大し、熟練度が低い搭乗員が増えるにつれ、戦果の誤認が急増した。誤認は米軍にもあったが、大本営には情報を精査したり、複数の情報を突き合わせたりする仕組みがなかった。特に作戦部には現場からの情報を軽視する悪癖があった。根拠もなく報告を疑えば「現場の労苦を過小評価するのか」と現場に突き上げられる。誤った報告は鵜呑うのみにされ、そのまま発表されていった。

「敵空母11隻、戦艦2隻撃沈…」幻だった大戦果

 誤報の極みとされるのが、1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦に関する大本営発表だ。5日間の航空攻撃の戦果をまとめた発表は、「敵空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を轟ごう撃沈、空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻を撃破」。米機動部隊を壊滅させる大勝利に、昭和天皇(1901〜89)からは戦果を賞する勅語が出された。だが、実際には米空母や戦艦は1隻も沈んでおらず、日本の惨敗だった。


 熟練度の高い搭乗員はすでに戦死し、作戦に参加したのは初陣を含む未熟な兵卒が大半だった。多くは米軍の反撃で撃墜され、鹿屋基地(鹿児島県)に帰還した搭乗員の報告は「火柱が見えた」「艦種は不明」といったあいまいな内容ばかりだった。だが、基地司令部は「それは撃沈だ」「空母に違いない」と断定し、大本営の海軍軍令部に打電した。翌日に飛んだ偵察機が「前日は同じ海域に5隻いた空母が3隻しか発見できない」との報告が「敵空母2隻撃沈」の根拠とされ、さらに戦果に上乗せされた。

 さすがに疑問を感じた海軍軍令部は内部で戦果を再検討し、「大戦果は幻だった」ことをつかんだが、それを陸軍の参謀本部に告げなかった。陸軍は大本営発表の戦果をもとにフィリピン防衛作戦を変更し、レイテ島に進出して米軍を迎え撃ったが、台湾沖で壊滅させたはずの米空母艦載機の餌食となり、壊滅した。各部署は大本営発表から戦果を差し引いた独自の内部帳簿を持っていたが、その数字は共有されず、共有しても相手は参考にしなかったという。

「水増しと隠ぺい」内部対立がさらに歪める
 情報の軽視によって水増しされた戦果は、公表範囲を決める幹部会議に持ち込まれ、「軍事上の機密」を理由に都合の悪い部分が隠ぺいされた。報道部が大本営発表の文書を起案する時点で、すでに戦果の水増しと隠ぺいが実施済みだったわけだが、ここからは「内部対立」でさらに戦果は歪められていく。

 大本営発表は軍の最高の発表文で、起案された文書は主要な部署すべてのハンコがなくては発表できない。陸軍を例にとると、参謀本部に参謀総長、参謀次長、作戦部長、作戦課長、情報部長、主務参謀などがいて、陸軍省に陸相、次官、軍務局長、軍務課長らがいた。特に、作戦部にはエリート中のエリートが集まり、他の部署を下に見ていたという。他の部署は作戦部を快く思わず、何かにつけていがみあっていたから、すべてのハンコをそろえるのは大変な作業だった。

1194とはずがたり:2020/06/02(火) 17:18:08
>>1193
 それでも勝っているうちはよかったが、日本が負け始めると、どの部署もハンコをなかなか押さなくなった。「そのまま発表すれば国民の士気が下がる」というのは建前にすぎず、「敗北を認めると、その責任を負わされかねない」というのが本音だった。発表が遅れれば、報道部の責任が問われる。報道部はハンコが早くもらえるように、戦果をさらに水増しし、味方の損害を減らした発表文を起案するようになった。

予期せぬ敗北で損害隠し…ミッドウェー海戦「日本の勝ち」
ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を回避しようとする日本海軍の空母「赤城」(1942年)
 軍内部の対立で大本営発表が歪められるきっかけとなったのが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦の大本営発表だ。霞が関の海軍省・軍令部では祝杯の準備をして戦勝報告を待っていたが、飛び込んできたのは空母4隻を失う予想外の知らせだった。開戦以来初めてとなる大敗に直面し、これをどう発表するかをめぐる調整は難航を極めたという。

予期せぬ敗北で損害隠し…ミッドウェー海戦「日本の勝ち」
ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を回避しようとする日本海軍の空母「赤城」(1942年)
 軍内部の対立で大本営発表が歪められるきっかけとなったのが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦の大本営発表だ。霞が関の海軍省・軍令部では祝杯の準備をして戦勝報告を待っていたが、飛び込んできたのは空母4隻を失う予想外の知らせだった。開戦以来初めてとなる大敗に直面し、これをどう発表するかをめぐる調整は難航を極めたという。


 報道部は「空母2隻沈没、1隻大破、1隻小破」とする発表文を起案したが、作戦部が猛反対した。3日後に発表された味方の損害は「空母1隻喪失、1隻大破、巡洋艦1隻大破」に減らされた。一方で、敵の損害は「空母1隻の大破」が「2隻撃沈」に水増しされ、「沈めた空母の数で日本の勝ち」と発表された。

 報道部の担当者は戦後、ミッドウェー海戦の大本営発表のなりゆきについて、「真相発表とか被害秘匿とかそんなものを飛び越えた自然の成り行きであった。理屈も何もない」と述懐している。誰かの決定も指示もなく、あうんの呼吸で部署間のバランスに配慮した結論が出された。情報軽視と軍内部の対立という欠陥は放置されたまま、空気を読んで戦果を忖度そんたくし、でたらめを発表する仕組みができ上がった。

 良心の呵責かしゃくもあったのか、ミッドウェー海戦以降、いったん大本営発表の回数は激減する。しかし、しばらくして再び増え始めた大本営発表には、当たり前のようにウソが混じるようになる。辻田さんは「ウソをつくことを覚えたのだろう」と分析する。海軍はミッドウェーでのごまかしは、すぐに勝って帳尻を合わせればよいと思っていたようだが、戦いの主導権は二度と戻らなかった。

 一部の海戦については後から戦果を訂正する発表もあったが、これは誤りが判明したからでなく、過去のウソから生じた矛盾を取り繕うためだった。しかし、同時に新たなウソをついていたから、実際の戦果との開きは拡大するばかりだった。

「撤退」は「転進」…言い換えで責任不問に

 1943年(昭和18年)になると、ごまかしは戦果以外にも及ぶ。ガダルカナル島からの撤退は「転進」に、アッツ島の守備隊全滅は「玉砕」に言い換えられ、大本営の作戦や補給の失敗は不問とされた。

 44年(昭和19年)以降、本土が空襲にさらされ、戦いの前線が迫ってきても、大本営はウソを発表し続けた。ごまかしや帳尻あわせが破綻した後は、神風特別攻撃隊の攻撃が発表の目玉に据えられた。特攻隊の戦果は大幅に水増しされたが、国に身を捧ささげて得た戦果を疑うことは許されない。大本営は特攻隊まで戦果の取り繕いに利用したのだ。

 辻田さんの集計によると、大本営発表では太平洋戦争中に敵の空母は84隻、戦艦は43隻が撃沈されているが、実際は空母は11隻、戦艦は4隻しか沈んでいなかった。でたらめな戦果は昭和天皇にも奏上され、天皇は戦争末期に「(米空母)サラトガが沈んだのは、今度で確か4回目だったと思うが」と苦言を呈したといわれる。



 でたらめな大本営発表には、記者発表で仕上げの尾ひれがつけられた。発表後に軍の担当者が「この発表の意図はこうだ」「ここはこう書いてくれ」とオフレコでレクチャーし、記者たちは軍の意向に寄り添った記事を書いた。軍の意向に逆らわず、むしろ積極的に空気を読んで戦争の片棒を担いだメディアの責任も大きい。

1195とはずがたり:2020/06/03(水) 17:29:53
この流れでイランにいたポーランド軍がクマを軍役に就かせる一幕https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%AF_(%E5%85%B5%E9%9A%8A%E3%82%AF%E3%83%9E)があったのか

ポーランド亡命政府
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BA%A1%E5%91%BD%E6%94%BF%E5%BA%9C
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポーランド亡命政府(ポーランドぼうめいせいふ、ポーランド語: Rz?d Rzeczypospolitej Polskiej na uchod?stwie)は、1939年のポーランド侵攻後のナチス・ドイツ及びソビエト連邦による国土の分割占領により、ポーランド第二共和国政府を継承して組織された亡命政府である。

ポーランド亡命政府は、ポーランド地下国家(英語版)と国内軍の組織構造を通し、第二次世界大戦期間に影響力があったとされる。終戦後、ポーランドはソ連の衛星国ポーランド人民共和国の管理下となり、亡命政府は存在したが影も薄く影響力も無かった。共産主義支配の終了後、亡命政府は正式に責務を新政府の第3共和制に移行した。

ポーランド亡命政府は1939年にパリで発足し、1940年にアンジェに移転。その後、1940年から1990年までの間はロンドンを拠点とした。

歴史
独ソ両国のポーランド侵攻を受け、1939年9月17日、ポーランド大統領イグナツィ・モシチツキは上院議長ヴワディスワフ・ラチュキェヴィチ(英語版)を、憲法規定に従い後継指名する。9月30日、モシチツキの辞任を受けたラチュキェヴィチは、亡命先のパリにおけるポーランド大使館で大統領への就任を宣誓し、首相にヴワディスワフ・シコルスキを任命。ポーランド亡命政府が発足する。ポーランド海軍の大部分は脱出していたためこれを指揮下に収め、さらに脱出に成功した一部の陸軍将兵も指揮下に入る。翌年アンジェに移転。そしてフランスが降伏しヴィシー政権が立ち上がると、ロンドンに移された。

1939年、ソ連のポーランド侵攻により亡命政府はソ連と外交を断絶する。

ほとんどのポーランド海軍は英国へ逃げた[1]。数万のポーランド軍人らはハンガリーやルーマニアを越えて逃げ、フランスで続けて戦った。多くは同盟国ノルウェー軍の戦いに参戦した。バトル・オブ・ブリテン、大西洋の戦い (第二次世界大戦)、アフリカではトブルク包囲戦、イタリアのアンコーナやモンテ・カッシーノの戦いなど他の同盟国と共に戦った。ポーランドとソ連は、シコルスキー・マイスキー協定(英語版)により、ソ連管理下に置かれたポーランド市民の解放およびナチス・ドイツに抗戦する同盟軍の軍隊を組織する。

1941年、ドイツがソ連を攻撃した(独ソ戦)。これを期に亡命政府はソ連との外交関係を築く[5][6]。

1196とはずがたり:2020/06/03(水) 17:30:12
>>1195
1941年12月11日、ポーランド亡命政府が日本に宣戦布告した[7]。

ポーランド軍人は独ソ両国の捕虜となっていたが、独ソ開戦に際し、ソ連側の捕虜は連合国側の戦力に目されるが、ナチス・ドイツとの秘密議定書により本土を蹂躙したソ連の指揮下で戦うことは無理があるため、英ソの勢力が隣り合っていたイランにおいてイギリスに引き渡された。彼らはポーランド亡命政府の指揮下に収められ、エルヴィン・ロンメルのドイツアフリカ軍団の抗戦(北アフリカ戦線、ガザラの戦い)において英国のために戦った。この軍隊は、後にポーランド第2軍団(英語版)となり連合国と共に戦う。

1943年、ドイツはカティンの森で、ソ連に虐殺された多数のポーランド軍人捕虜の死体を発見した事を公表した[10]。ソ連は、ドイツの仕業であると主張し、亡命政府に同調を要求したが、拒否されたため亡命政府と断交した。1943年、亡命政府とポーランド軍のリーダーであったシコルスキを含む政府・軍関係者13人が飛行機事故(en)で亡くなった[11]。

1943年 - 1944年、同盟国のウィンストン・チャーチルはソ連と亡命政府の会談再開を試みたが、幾つかの問題(カティンの森事件、領土問題など)により放棄された[12]。亡命政府の党首ミコワイチクは領土問題において拒否した。

1944年8月には東側からナチス・ドイツを攻めるソ連の呼び掛けに応じ亡命政府の国内軍主導によりワルシャワ蜂起が起きるが、ソ連のワルシャワ進撃がなかったため、国内軍と多数のワルシャワ市民が犠牲となる。11月ミコワイチクはソ連に不信を持つにも関わらず辞任[13]、ポーランドに戻りソ連占領下の新政府の挙国一致臨時政府(英語版)において副総理となり、首相は社会主義者のモラフスキ、もう1人の副総理は共産主義者のリーダー、ゴムウカとなる。

1945年6月、亡命政府と共産主義系のルブリン政権が合同し、国民統一臨時政府(RTRP)(英語版)が成立した。ルブリン政権発足当初は、ボレスワフ・ビェルト (ソ連のNKVDエージェント)が国家法議会議長に就任し、労働者党書記長をヴワディスワフ・ゴムウカが務めた。

1945年7-8月のポツダム会談までにポーランドはソビエトの勢力範囲となり、亡命政府の放棄は西欧の背信行為(en:ProvisionalWestern betrayal)と批難された[14]。

1945年、国内軍は切り捨てられ、ソ連の傀儡政権であった共産政権側による亡命系の大臣や政治家の逮捕や国外追放などで安全な帰国ができず、さらに7月、英国とアメリカ合衆国は亡命政府に対する正統政府としての承認を取り下げた。ロンドンのポーランド人はポーランド大使館から撤退しなければならなかった。亡命政府系のポーランド人の多くはアメリカ合衆国等に移住した。

東欧革命の流れで1990年に共産主義政権が崩壊、レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)政権(ポーランド第三共和国)が成立した。これに伴い、亡命政府大統領のリシャルト・カチョロフスキはそれまで保持していた政権の正統性を示すレガリア(1918年ポーランド憲法〈ポーランド第二共和国憲法〉正文、ポーランド国旗正旗など)を第三共和国へと承継し、その役割を終えて消滅した。ワレサ政権は成立式典にポーランド亡命政府を招き、自らを第二共和国の正統な後継者として位置づけたが、前共産主義政権のヴォイチェフ・ヤルゼルスキ前大統領の式典招待はなかった。

1197とはずがたり:2020/06/11(木) 00:42:58

https://twitter.com/laurusesq/status/1270686785366978566
百年前新聞社・社主
@laurusesq
返信先:
@laurusesq
さん,
@100nen_
さん
長崎海軍伝習所のオランダ人カッテンディーケの『日本滞在記録抄』によると、

・すぐどこかに行って帰ってこない
・注文したものが期日までに届かない
・正月の挨拶まわりに数日かける

(孫引きです。原典にあたってません)

と言って呆れているようです。

1198さがら療法(さがらセラピー)心の健康法うつ病の予防と改善:2020/06/12(金) 11:48:04
うつ病の予防と改善の他、引きこもり不登校いじめパニック障害潔癖症摂食障害睡眠障害不安悩みイライラストレス自信がない勇気がないなどの改善方法や人材育成の方法を紹介しています

1199とはずがたり:2020/06/17(水) 23:32:55
日本は良い事もした厨はいい加減滅んで欲しいけど,最近はその前に日本人は好かれてる(から酷い事しなかった)厨が出てきてどうにもならん。

インドネシア中学歴史教科書-第21章 インドネシアにおける日本の占領
http://honnesia.doorblog.jp/archives/39352526.html
2014年07月29日

1200荷主研究者:2020/06/21(日) 21:43:51

https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/202004/CK2020040902000273.html
2020年4月9日 東京新聞 夕刊
<新型コロナ>警察、戦前は防疫担う 首相、協力要請の可能性言及で物議

弥生慰霊堂には、防疫活動で命を落とした警察官ら殉職者がまつられている=東京都千代田区の北の丸公園で

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い緊急事態宣言が発令され、安倍晋三首相らが外出自粛要請などで警察の協力に言及したことが議論を呼んでいる。現在の防疫業務は政府と地方自治体が当たるが、戦前は感染症対策も警察の重要任務で、多くの犠牲者も出ていた。 (木原育子)

 一八八六(明治十九)年に国内でコレラが大流行し、東京府内(当時)では七〜九月の三カ月間に九千八百七十九人の死者を出した。現在の東京都民に換算すると、十一万人が亡くなる割合だ。

 「一(ひと)たび伝染病が蔓延(まんえん)すると、その防圧には昼夜の別なく必死の活動を続けねばならなかった」。警視庁史明治編にはそう記され、「その惨状は目をおおわすものがあって、市民を極度の恐怖に落入(おとしい)れた」と伝えている。

 警察行政は戦前、特別高等警察を所管する「警保局」や、地方行財政を担当する「地方局」を持つ内務省に管轄された。防疫は警保局の仕事で、感染症が流行すれば、現在の厚生労働省のように対策や予防広報などで活動した。

 警視庁によると、明治時代に防疫活動中に亡くなった警察官は少なくとも百十五人に上り、北の丸公園内(東京都千代田区)の弥生慰霊堂に鎮魂されている。

 一九二九(昭和四)年の警視庁内の広報雑誌「自警」には、ある署長が明治時代に体験した防疫活動を回顧している。患者を病院に隔離したり、遺体を運んだりする際に感染することを恐れた警察官たちを鼓舞するため、警察署の玄関に酒が入った大樽(たる)が備えてあったという。当時は珍しかったブランデーでねぎらわれ、「今考えてもぞっとするようなものだった」と振り返っている。

 大正時代も警察官の防疫活動は続いた。警視庁史大正編によると、一九一三(大正二)年のペスト菌の流行時には、日本橋の下水にいたネズミがペスト菌を持っていたことが分かり、警視庁が「捕鼠隊」を組織。一日に八千匹のネズミを捕らえたと記されている。

 一七(大正六)年に入り、スペイン風邪といわれるインフルエンザが流行した際には「マスクをお用いなさい〜身の為(た)め人の為(た)め〜」「予防注射をなさい〜転ばぬ先の杖(つえ)〜」などと書かれた「予防心得書」を東京府内の各家庭に配布。百年以上たった現在のコロナ対策を彷彿(ほうふつ)とさせる文言にあふれている。

 元新聞記者で至誠館大の三木賢治教授(マスメディア論)は「警察は当時、現在の厚労省業務も担う内務省の管轄だったため、防疫活動を担ったのは必然だろう。一方で、ハンセン病においては強制隔離政策の最前線で、偏見と差別に満ちた方法で連行していった史実も忘れてはならない」と指摘する。

1201とはずがたり:2020/06/26(金) 14:35:31
興味深い。我が父母の故地各和は今では掛川市内に在るけどもともと袋井の方が近いしな。

2020年03月31日
塘沽停戦協定の駐屯部隊
http://szkganz.seesaa.net/article/474338521.html

日中戦争が始まる1年前、昭和11(1936)年8月24日に静岡・袋井局で引き受け、中国河北省馬蘭峪(ばらんこく)の部隊に宛てられた軍事郵便はがきです。裏面の中国印から河北省唐山局を8月28日に経由し、表面の着印で8月29日に馬蘭峪局に着いたことが分かります。

馬蘭峪とは聞き慣れない地名ですが、「馬蘭関」と記す資料もあるように、万里の長城の南壁に沿った関門の1つでした(下地図参照)。古北口と喜峰口の中間ぐらいに位置し、関門としては小規模なものだったようです。山海関や唐山、塘沽などの中都市に比べれば奥地の小集落に過ぎなかったと思われます。

塘沽停戦区域図.jpgそんな辺鄙な場所になぜ日本軍がいたのでしょうか。天津に司令部を置く日本の支那駐屯軍は北平(北京)-天津-山海関を結ぶ北寧鉄道沿線にしか駐屯できない取り決めだったので、それではありません。調べてみると、1933年に日中間で結ばれた塘沽停戦協定による関東軍からの派遣隊と分かりました。

関東軍は本来は「満州国」を守備する部隊です。万里の長城が中国との国境だったので、長城の南側(関内)に部隊を侵出させることはできません。しかし、関東軍はこの一帯を南京の中国国民政府から切り離して傀儡政権を建て、満州国を防衛する中立地帯とすることを目論んでいました。「華北分離工作」と呼ばれます。

それを初めて実行に移したのが1933年5月に発動した関内作戦でした。1月に始めた熱河平定作戦に乗じて関東軍の大部隊が長城の各関門から一挙に南下、侵攻します。北平(北京)や天津の陥落を恐れた中国側が停戦を申し入れ、5月31日に塘沽で関東軍との間に停戦協定が結ばれました。

勝ち誇る関東軍は中国側に強請して延慶と芦台を結ぶ停戦ラインの北方、長城線までの区域を「停戦地帯」に設定し、中国軍を停戦ライン南方に追いやりました。引き換えに関東軍も長城より北側(満州国内)に撤退したのですが、長城線確保のため長城南壁に沿った戦略的重要地点への駐屯を中国側に無理やり認めさせました。

長城南側の駐屯地名は停戦協定本文ではなく、協定の「善後申合せ」に付属する「了解事項」という秘密協定に書き込まれました。それが馬蘭峪を含む山海関、喜峰口、古北口など6地点です。関東軍・満州国が中国本土内に打ち込む侵略のクサビとなりました。満州国が領土外なのに山海関と古北口に堂々と郵便局を開設できたのは、このためです。

話が長くなりすぎましたが、馬蘭峪に日本軍が駐屯していたのにはこういう事情がありました。塘沽停戦協定は出先同士の現地協定という扱いで、本文は公表されませんでした。まして付属秘密協定は南京の国民政府にさえ報告されていません。この1通のはがきはそうした歴史の闇を暴く証拠物件となっています。

(この記事を書くに当たって、アジア歴史資料センター(JACAR)の「北支停戦協定ノ成立」「停戦協定善後処理ニ関スル北平会議々事録」を参照しました。)

1202とはずがたり:2020/06/26(金) 14:38:03
まあこれは俺も読んでてエビデンスは持ってなかったがそう思ったな。

2011-02-01
Wikipediaにおける山海関事件記述の嘘
https://marc73.hatenadiary.jp/entry/20110201/1296580393

Wikipediaでは「外国の信頼できる情報源の多くは日本側の報道を支持した」とあるが、これは日本軍の行動を正当化するのに都合のよい報道を集めたに過ぎない*2。

参考文献となる[21][22]は、いずれも「North-China Daily News」*3である*4が、これは上海国際租界の英仏米の大商人たちによる御用新聞である。1930年代当時の中国ナショナリズムによる利権回収運動で中国側と対立する利害関係を持っており、山海関事件では日本側に偏った見解を出しているにすぎない。
なお、山海関事件に関しては、「サンフランシスコ・クロニクル」、「ポートランド・オレゴニアン」、「シカゴ・デイリーニュース」、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」、「ワシントン・ポスト」、「ボルチモア・サン」、「ニューヨーク・アメリカン」、「ニューヨーク・ワールド・テレグラフ」、「ニューヨーク・イブニング・ポスト」(以上、アメリカ)、「ガーディアン」、「クロニクル」、「ヘラルド」(以上、イギリス)、「アルゲマイネ・ツァイツング」、「フルンクフルター・ツァイツング」、「フォルヴェルツ」(以上、ドイツ)が、日本側の侵略行為であると非難する論調を掲げている*5。

1203とはずがたり:2020/07/13(月) 20:32:16
『戦場の兵士の大部分は敵を射撃しない』という神話
dragoner | Webライター(石動竜仁)
https://news.yahoo.co.jp/byline/dragoner/20200521-00179236/
5/21(木) 11:05

1204荷主研究者:2020/07/14(火) 21:40:10

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/429836?rct=n_hokkaido
2020年06/11 23:15 北海道新聞
稚内赤れんが通信所修復完了 真珠湾攻撃暗号を中継

屋根を修復した稚内赤れんが通信所のB棟

 【稚内】稚内市恵北にある歴史的建造物「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」(通称・稚内赤れんが通信所)で、壊れていた屋根などを修復する工事が終わった。1941年の日米開戦時、真珠湾攻撃を命じる大本営の暗号電文「ニイタカヤマノボレ」を中継送信したとされる施設で、修復に取り組んだ市民団体は7月以降、一般公開を目指している。

 修復されたのはA〜Cの3棟あるうちのB棟(木造平屋建て480平方メートル)で、中央にシンボルの望楼がある。老朽化が進み、雪害で全体的に屋根が崩れ落ちていた。資金的な制約もあるため、望楼を含む中央部分の屋根や窓を修復し、正面と側面の2カ所に扉も取り付けた。

残り:165文字/全文:455文字

1205とはずがたり:2020/08/19(水) 18:27:37
日本が太平洋戦争に総額いくらを費やしたか、知っていますか
国家予算の280倍、今で換算すると…
加谷 珪一 プロフィール
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52599?page=2

1206荷主研究者:2020/09/05(土) 15:00:22

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/448584?rct=n_hokkaido
2020年08/08 05:00 北海道新聞
文化財33件、政令市で最少 札幌市、指定増やす方策探る

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200808hokkaido01.JPG

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200808hokkaido02.JPG
2018年に札幌市の有形文化財に指定された旧札幌控訴院(札幌市資料館)

 国や道、市町村が指定する文化財について、札幌市内は33件と全国20の政令指定都市の中で最も少ない。最多は京都市の2870件。札幌で都市開発が本格的に始まったのは明治時代で、他市に比べて古い建造物や美術工芸品が少ないことが理由とされる。一方で、市は「文化財となるメリットが所有者に周知されていない」として、文化財を増やす方策を検討している。

 市内の文化財は、国指定が旧札幌農学校演武場(時計台)や道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)など17件、道指定は旧永山武四郎邸など4件、市指定は旧札幌控訴院(札幌市資料館)など12件。最近30年間で新たに指定されたものは、市が4件、道は1件にとどまる。

 国や道は、それぞれの文化財保護審議会や市町村の推薦を受けて文化財を指定するが、道の担当者は「札幌市からの推薦が少ない」と説明する。市指定文化財については、市文化財保護条例で「国または道が指定したものを除き、市にとって文化的価値が高いと認めるものを、所有者らの同意を得て市の文化財に指定することができる」と規定。所有者の申請を前提とし、市文化財保護審議会で諮った上で指定する。

 文化財に指定されれば、所有者は補修などに対して補助金を受けられるほか、知名度が向上して観光客の増加が期待できるなどのメリットもある。一方、所有者には文化財を管理する義務が生じ、建造物の場合は改修などが大幅に制限される。市文化財課は「指定されれば規制が増えるため申請が少ない」と分析する。

 7月に開かれた本年度最初の市文化財保護審議会では、市内の文化財の少なさについて協議。委員からは「文化財(の価値があるもの)がどれだけあるか精査すべきだ」「文化財に指定されるメリットをもっとPRすべきだ」などの意見が上がった。市文化財課は「札幌は歴史が浅いという認識が市民にあり、文化財に関心が低いのではないか。市指定を年1件でもできるよう調査を進めたい」としている。(久保吉史)

1207名無しさん:2020/09/17(木) 03:15:47
https://news.yahoo.co.jp/articles/9fbfd0c36cccf36dc3c95188abd8f49153185b16
「戦争は悲惨という以前に…」記録への意識低い日本 “美談”が後世への冒涜に
9/14(月) 12:16配信

 戦後75年に合わせて考えている「平和学習」。世界史や教育の意義を読み解く多くの著書がある立命館アジア太平洋大(APU)の出口治明学長に現状や課題を聞いた。

-平和学習の現状をどう見ているか。
 「情緒的に平和が尊い、戦争は悲惨だということ以前にまずなすべきことは、過去と向き合うには正確な記録を残すという教育だ。正確な過去が分からなければ反省もできず、教訓も引き出せない」

-日本では記録することへの意識が低い。
 「今夏に見たNHKの戦後企画は、米国の公文書館の新たな公表資料を基にしていた。米国との戦争だったので米国に記録が残っており検証できたが、日本に資料がないということ自体が恥ずかしい。一部の政治家は『秘密は墓まで持って行く』ことを“美談”として語るが、これは後世の人々に対する冒涜(ぼうとく)。少なくとも米国並みに公文書を残し、一定のルールで公開すべきだ。最近では新型コロナウイルス対策に対する政府の専門家会議で、議事録を作っていなかった」

-日本が例外なのか。
 「何百年も前から海外では歴史を記録してきた。(唐の太宗・李世民の言行録)『貞観政要(じょうがんせいよう)』に関する本を著したが、この時代にも歴史を記録する役職を置いていた。太宗が『良く書いてくれよ』というと、記録係は『良いことも悪いことも全部書き留めております』と返答し、干渉させないよう記述内容を見せることも拒んだ。当時から、国のトップの言動はしっかり残さなければ、後世の人が善しあしを判断できないという知恵があった」

-記録があれば、それを基に教育もできる。
 「教育基本法を読んでみたが、教育の目的は二つある。一つは、自分の頭で考え、自分の言葉で意見を言えるようにする。もう一つは、社会に生きていく上での武器(知識)を与えること。政府や政治、選挙やお金とは何か。抽象論ではなく、具体的に社会で役に立つことを教える必要がある」

-二つの目的に基づく教育は行われているか。
 「戦後の日本は復興が第一だった。結果的に学校は製造業の工場で働く人を育成してきた。今もその傾向にあり、(1)偏差値がそこそこ高い(2)素直(3)我慢強い(4)協調性が高い(5)先生の言うことを聞く-の5要素がベースになっている。素直であれば常識を疑わず、我慢強ければブラック企業でも耐え、協調性が高いと周囲に忖度(そんたく)し、先生の言うことを聞く人は上司に反抗しない。工場労働ならそれでもいいが、これだけでは新しいアイデアや豊かな個性が生まれるはずがない」

1208名無しさん:2020/09/17(木) 03:16:33
>>1207

-学校は子どもの自由な発想を育んでいないのか。
 「現在の日本の教育が全て悪いという意味ではない。小中学校の先生は努力している。経済協力開発機構(OECD)加盟国のうち、国内総生産(GDP)に占める教育への公的支出の割合は、日本はいつも最低水準。ところが、15歳を対象にした学習到達度調査(PISA)の結果では、先進7カ国(G7)の中で最良。お金をかけていないのに子どもが優秀な理由は先生の情熱だ。でも、情熱におんぶに抱っこのままではいけない。国民の税負担を引き上げ、教育にもっとお金をかけないと」

-文部科学省の対応は。
 「文科省も気が付いている。(本年度から小中高に順次導入する)学習指導要領は、問いを立てる力、探究力が何よりも大事だといっている。要するに社会常識を疑う力を養うということだ。まず探究力を大人が持たないといけない。大人ができないことを子どもに教えられる訳がない」

-探究力は浸透しているか。
 「していない。問いを立てる力や探究力があれば、(生活維持に不可欠な)エッセンシャルワーカーに対して、新型コロナウイルスに感染したといって差別するなんてあり得ない。私たちがステイホームできるのはエッセンシャルワーカーのおかげ。国が感染者を差別しないよう通達を出すのは恥ずかしいことだ」

-今後の平和学習の在り方をどう思うか。
 「平和学習ではもちろんだが、データ(数字)、ファクト(事実)、ロジック(論理)で考える癖を身に付けてほしい。探究力を育てず5要素のままでは、日本は衰退していく。情緒的な議論がファシズム(全体主義)のベースになったことはナチスの歴史が物語っている」

 (編集委員・四宮淳平)

出口治明(でぐち・はるあき)さん
 1948年、三重県生まれ。72年、京大法卒、日本生命入社。2008年にライフネット生命を開業し、18年からAPU学長。著書に「『教える』ということ」など。

西日本新聞

1209荷主研究者:2020/09/23(水) 22:29:27

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/451526?rct=n_hokkaido
2020年08/19 05:00 北海道新聞
戦争遺跡保存の動きなく 旧日本軍沼ノ端飛行場の掩体壕跡 「歴史の証し失う」 住民懸念

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200819hokkaido01.JPG
沼ノ端飛行場の掩体壕の跡地。コの字形の盛り土は木々に溶け込み、小高い土手のように見える=2019年11月(藤原康成さん提供)

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200819hokkaido02.JPG

 人口増が続き、住宅が立ち並ぶ苫小牧市沼ノ端地区には太平洋戦争中、広大な旧日本軍の沼ノ端飛行場があった。終戦から75年、飛行場の痕跡は開発で消え、現在確認されているのは戦闘機を格納する掩体壕(えんたいごう)跡が1カ所のみだ。行政側には保存に向けた動きはなく、一部住民からは「このままでは貴重な戦争遺跡が失われてしまう」と懸念の声も上がる。

 市沼ノ端のJR日高線沿いの国有地に一辺25メートル前後のコの字形をした、高さ数メートルの盛り土がある。現存する唯一の沼ノ端飛行場の掩体壕跡。戦時中はネットなどで上部を覆い、戦闘機を隠したとの話も伝わる。ただ、ここがそうした戦跡であることの案内板や説明文などは見当たらない。

 「開発されにくい場所にあるため、残ったと思う。ただ、草木が生えて今は人工物だと分かりづらい」。戦争遺跡に詳しい勇武津資料館の藤原康成学芸員(63)は、こう説明する。7年前には2基が確認されていたが、1基はその後、工場建設でなくなったという。「掩体壕は盛り土で、いつかはなくなってしまう。貴重な戦争遺跡を保存したい」と危機感をにじませる。

 沼ノ端飛行場は、現在の東開町や沼ノ端一帯に広がっていた。1943年(昭和18年)12月、旭川に司令部を置く陸軍第七師団が整備した。滑走路は1500メートル2本と1200メートル1本の計3本。兵器製造工場があった室蘭の防衛が目的で、住民も動員し、数カ月程度の突貫工事で完成させた。

 旧日本軍の掩体壕はコンクリート製が多いが、沼ノ端飛行場では土製で36基あった。戦闘機「隼(はやぶさ)」が一時配備されたが、戦況悪化に伴い、道外へ送られた。同飛行場からの出撃記録は45年7月14、15日の北海道空襲時を含め、ないという。

 沼ノ端生まれの不動産経営の星野邦夫さん(77)によると、飛行場は終戦直後、米軍が滑走路を爆破。残った掩体壕は冬場、子どもたちがスキーで遊んだという。昭和40年代から宅地造成が始まり、飛行場の痕跡は消えていった。

 星野さんは「戦争遺跡を残すのは正直難しい。ただ、忘れてはいけない歴史の証しが消えていくのもどうなのか」と歯がゆさをにじませる。

 戦争遺跡の保存に積極的な自治体もある。東京都府中市は2007年、旧陸軍の調布飛行場の掩体壕1基を市の文化財に指定した。年1回、内部を一般公開している。市の担当者は「文化財に指定したことで市民に周知され、平和について考えるきっかけになっていると思う」と話す。

 一方、苫小牧市教委は沼ノ端の掩体壕跡を把握しているものの、「負の遺産を残すことには賛否ある。市民の保存活動の動きもなく、市として保存に向けた検討はしていない」(生涯学習課)としている。(山田一輝)

1210名無しさん:2020/10/19(月) 12:28:15
https://news.yahoo.co.jp/articles/2752e0e301faa55211ce13bd8ca2cf293e7bc1fb
【NEW】安倍前首相が靖国参拝
10/19(月) 9:42配信

安倍晋三前首相は19日朝、東京・九段北の靖国神社を秋の例大祭にあわせて参拝した。
安倍前首相は、参拝後、記者団に対し、「ご英霊に尊崇の念を表するため参拝した」と語った。
安倍前首相は、9月に首相を退任した直後に、靖国神社を参拝していて、退任後二度目の参拝になる。
首相在任中は、例大祭にあわせての参拝は行ってこなかった。

FNN

1211とはずがたり:2020/10/28(水) 14:49:20
2020-08-22
憲兵までゆるふわ化してしまった『この世界の片隅に』
https://vergil.hateblo.jp/entry/2020/08/22/083835

1212とはずがたり:2020/11/18(水) 20:35:14
財界四天王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E7%95%8C%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

財界四天王(ざいかいしてんのう)は、池田勇人内閣を表裏で支えた4名を指す。経済記者の重鎮、三鬼陽之助によって命名された。

氏名 出生年 死亡年 財界役職 自社役職
小林中 1899年 1981年 富国生命保険社長、日本開発銀行初代総裁、アラビア石油社長
水野成夫 1899年 1972年 経済同友会幹事 産経新聞社長、フジテレビジョン社長
永野重雄 1900年 1984年 日本商工会議所会頭 富士製鐵社長
櫻田武 1904年 1985年 日経連会長 日清紡績社長
概略
財界四天王の呼称は、1961年(昭和36年)『文藝春秋』新年号で三鬼陽之助により初めて使用された。それ以後、池田内閣のご意見番として君臨する4名を示す言葉として広く使用されるようになった。

そもそも、池田勇人を支持するきっかけとなったのは、財界四天王の師匠、宮島清次郎(日本工業倶楽部元会長、日清紡績元社長)の存在に尽きる。宮島は吉田茂元首相と東京帝国大学時の同級生であり、一緒に下宿する程の大親友であった。さらに第1次吉田内閣当時には資金援助もしていた。そのような関係もあり、吉田は第3次内閣を組閣する際、財界の重鎮となっていた宮島に大蔵大臣就任を要請した。宮島は若き頃、首相を務めた犬養毅に一時師事し、代議士経験もあるなど政治に精通していたものの、これを拒否し、逆に櫻田武の推挙により池田を大蔵大臣に推薦し就任させた。ここから、財界四天王と池田との深い関係が始まる。

敗戦からまだ20年前後で、旧財閥は以前ほどの力がなく、働き盛りの4人が日本の財界を牛耳った[1]。この4人が相談すると、日本国の大抵のことは決められるともいわれた[1]。政治資金規正法という面倒な法律もなく、この4人を中心に集金して、ジャンジャン政治家に献金した。スポンサーとして金も出し意見もした。財界優位の時代で、ときの総理といえども聞かざるを得なかった[1]。池田内閣の「所得倍増計画」という根幹の政策からして、財界の意見をそのまま政策に反映するもので、貧乏だった日本経済が急激に上昇した時代であった。財界四天王は池田内閣時、財務面でのバックアップのみならず、政策にも大きくかかわった。池田の死後も、池田派により結成された宏池会の後見人として、政治の世界に影響力を持ち続けた。

1213名無しさん:2020/11/21(土) 22:02:58
https://news.yahoo.co.jp/articles/1a9fb9f448cdf02bd33652d98c246d6ae403a8cc
田中角栄に向けてニクソン大統領が放った、ヤバい「差別発言」をご存じか?
11/21(土) 6:02配信

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1973年7月31日、田中角栄はニクソン米大統領と2度目の首脳会談に臨んだ。しかし日中国交正常化に不満を抱くアメリカ側は、角栄に対して高圧的な態度で接する。そしてとうとう、ニクソンの口から衝撃的な「差別発言」が飛び出した…! 緊張が高まる当時の日米関係の様子を、新刊『ロッキード疑獄』から一部編集して紹介する。
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角栄とニクソンの関係悪化
 この頃、双方は7月31日〜8月1日に設定された、田中とニクソンの2回目の首脳会談の準備作業にとりかかっていた。

 両首脳にとって悩みは、大統領も首相も支持率が低下していたことだ。ニクソンはウォーターゲート事件、田中は金権政治が問題にされ、両者は人気回復策で悩んでいた。

 当時、日米間の主要課題は、(1)対中国政策の調整と、(2)日米貿易不均衡だった。しかし、(1)は既に「主要な論点」ではなく、(2)は「解決への道筋が付けられたよう」に見えた。

 だから、キッシンジャーはニクソンに「相互に関心がある多国間問題での協力」について、次のような協議をするよう提案した(注1)。

 ・日本の経済力に比例した役割を地域および世界で演じるよう求める。
・日本はエネルギー問題で、日本の協力が重要とされる地域で建設的に取り組む。
・新しい分野で米国とともに同盟関係への新たな日本の関心を創出する。

 「こうした議題は、CIAの報告によれば、田中が好む」と付記されている。

 二度目の田中との会談に向け、ニクソンは手ぐすね引いていたとみられる。田中に意見してやる、と意気込んでいたのだろう。

 第一に、両首脳は一緒にゴルフする計画だったが、理由もなく止めた。

 前年、1972年のハワイでの首脳会談の際、ロジャーズ国務長官は、次にワシントンで会う時は大平と「一緒にゴルフしないか」と話していた。今回、大平からインガソル駐日大使を通じて「プレーのお招きをいただけたら大平も田中も大変ありがたい」と提案した。

 だから、首脳同士のゴルフも「同意されるなら、(会談前日の)7月30日でアレンジする」とロジャーズはニクソンに伝えた(注2)。

 しかし、この計画について、キッシンジャーの部下は、7月18日付のキッシンジャーあてメモで「先月日本側から提案があったが、あきらめた」と連絡。キッシンジャーも、大統領あてメモで「ゴルフの可能性はない」と伝えた(注3)。ニクソンが断ったとみられる。

 第二に、8月1日の会談終了後に、ホワイトハウスの「ローズガーデンを両首脳が散策し、2人で共同声明を発表。宇宙中継で日本のテレビにライブ映像を送信する」という日本側提案の演出も、同じ憂き目に遭った。

 日本の提案は会談前日の7月30日、キッシンジャーに伝えられた(注4)。しかし、当日の「大統領日誌」によると、「大統領は別れのあいさつをして、3分後に執務室に戻った」。米国側は、会談開始予定を30分繰り上げて午前9時半とし、テレビの宇宙中継はやるが、両首脳による共同声明発表には応じなかったのだ(注5)。

1214名無しさん:2020/11/21(土) 22:03:32
>>1213

争点は貿易赤字と日中関係
 日米首脳会談前、課題とされていたのは二つ。第一に米国の対日貿易赤字削減、第二に対中関係で異なる日米の政策をいかにして両立させるか、だった。第二点、日米の対中政策の相違は、まだ問題化していなかった。

 米国の対日貿易赤字は前年の約40億ドルの半分以下に削減されることが確実となっていたので、ニクソンが高く評価して当然だった。

 だが、会談1日目、7月31日のニクソンは上から目線で、傲慢な話し方が目立つ(注6)。

 田中は「1973年上半期、日本の対米輸出額は前年同期比8%しか増加せず、逆に米国からの輸入額は49%増加して、日本の貿易黒字額は約12億ドルに大幅削減となった。日本政府の景気刺激策で内需が拡大し、達成した」と成果を明らかにした。

 しかし、ニクソンはこれに対し、労をねぎらうわけでもなく、「日米のような高度に発達した先進国は競争の運命にある。……こうした競争が激しい政治的対決に発展しないようにすべきだ」と将来の日米対決に警告した。

 その上で、ニクソンは「首相は『コンピューター付きブルドーザー』と呼ばれている。どれほど難しくても首相のような指導者は、危機回避に貢献してくれる」と期待感も示している。

日本人は「裸で立っているピグミー」
 その後、ニクソンは次のように、計3回、日本をアフリカの「ピグミー族」にたとえる差別的な発言をした。

 ニクソン「自分の基本的な見方だと、経済大国は政治的なピグミーにとどまることができないということだ。それは自然の法則に反する。経済大国は政治的ピグミーにとどまれない……首相は日本が将来歩むべき道をどう考えるのか」
田中「すべての日本国民は米国が過去四半世紀、日本に与えた援助に感謝している。それによって、日本は全面的敗北から復興するまれな成果を挙げた。日本国民の基本的な願いは、米国と緊密に協議し、永久に自由諸国とともに地位を維持することだ」

 ニクソン「中国、ソ連、日本、米国を見ると、一つの事実が際立っている。日本は近隣諸国の中でソ連などとは対照的に、経済大国ながら軍事的かつ政治的にはピグミーとして裸で立っている。……現在の安保関係の取り決めは、それら諸国が熟れたスモモのような日本を見ても、むしり取ろうと思わないよう、最良の保障となっている」
田中「大統領の見方と同感です。米国と日本の固い結合が他のあらゆる関係にとっても重要です。それなしに日本は中国と国交正常化できなかった」(太線筆者)

 田中はニクソンから「ピグミー」と侮辱されても、反発することなく、戦後米国から受けた支援に感謝し、安保条約のおかげで日本は守られていると認めた。そして、日米安保があったから日中国交正常化ができた、とも主張した。論理的には、のれんに腕押しのような反論だ。

 では、「5年後の世界」はどうなるか。ニクソンは「日米安保条約が廃棄され、日本で支持されなくなったら、多くのアメリカ人は喜んで出て行く。韓国から米軍も撤退する」と言った。言うことを聞かなければ米軍を撤退させる、というカードをここで見せた(注7)。

 それにしても、日本と日本人に対して、これほど侮辱的な言葉を使った米大統領がいただろうか。日本側の会談記録はどうなっているのか。外務省に情報公開請求して入手した(注8)。

 外務省の会談記録では、ピグミーを訳さず「政治的な小人(political pygmy)」とカッコ付き、あるいはカッコなしで英文のまま記していた。

 「田中総理・ニクソン大統領会談の模様」と題する1973年8月23日付9ページの文書は、こうした刺激的な発言を省いていた。この会談が外交問題化しないよう配慮した形だ。

 「ピグミー」は、『リーダーズ英和辞典』(研究社)によると、「アフリカ赤道森林地帯の矮小黒人種」とある。それが転じて「こびと」「知力の劣った人」という意味もあるとしていて、差別的に使用され得る言葉であることが分かる。

1215名無しさん:2020/11/21(土) 22:07:10
>>1214

ニクソンはさらに醜態を重ねる…
 ニクソンの荒っぽい発言はそれにとどまらなかった。同日夜の公式夕食会で、乾杯の際に、ニクソンはもっとひどい醜態をさらけ出している。

 あきれるほどの不規則発言をしてしまって米政府高官を慌てさせ、後になって発言が日本側に勘付かれてしまっていないか、とキッシンジャーが通訳に確認を求めた。通訳がまとめたメモが残されていた(注9)。

 アメリカ大使館の通訳、ジェームズ・ウィッケルがまとめたメモは、「注」として、次のような経緯を説明している。

 大統領は投げやりな様子で、低い声でブツブツ言いながら、「あなたは自分が望めば誰を祝して乾杯してもいい……やりたければ、悪魔に乾杯してもいいんだよ」と言った。田中首相は、通訳してもらいたいとウィッケルの方を向いたので、ウィッケルは「誰でも、望む人を祝して乾杯をしてもかまわない」と訳した。しかし、外務省の通訳、沼田はやり取り全体を聞いていたようで、田中首相の耳元でささやいた……ウィッケルが聞き取れた唯一の単語は「悪魔」だった。田中首相が一連の言葉と翻訳をどのように受け止めたかは分からない。(……は原文の通り。太線は筆者)

 メモから想像すると、夕食会で、ニクソンと田中は誰を祝して乾杯すべきか、と短い会話を交わしていた。ニクソンが外交儀礼上、日本の国家元首とされる天皇陛下の健康を祝して乾杯すべきだと言い、田中は「私は大統領の健康を祝して乾杯したい」と話した。しかし、ニクソンは脱線して「悪魔に乾杯してもいいんだよ」と言ったようだ。

 1ページのこの文書、「7月31日ホワイトハウス」、キッシンジャーあて。「シークレット、センシティブ(機微)、アイズオンリー」と、最高ランクに次ぐ機密に指定されている。キッシンジャーは、日本側に本当の発言を気付かれていたら大変だと考え、具体的な経緯をウィッケルに報告させたのだ(注10)。

 「沼田」とあるのは、田中、福田、大平の歴代三首相らの英語通訳を務めた外務省の沼田貞昭(後にカナダ大使)のこと。筆者は沼田の知己を得ていたので、2009年、沼田と駐日米大使公邸のレセプションで偶然会った機会に、このことを確かめようとしたが、「覚えていない」と確認を拒否された。

 当時の田中の秘書、木内昭胤は「ピグミー」の件も「悪魔に乾杯」の件も「まったく記憶がない」、としている(注11)。

 こうした事実は、ニクソン回想録で確認されていた。1978年に出版された回想録で、ニクソン自身がこの舌禍事件を認めていたのだ。

 田中に対する失礼な発言は「3カ月にわたりウォーターゲート事件による業務の停止で、国内問題、国際問題で議会の仕事はほとんど止まった。この状況への私の怒りは、7月の田中首相との公式夕食会での私の乾杯スピーチの際に突出した」と白状している(注12)。

 原因は、ウォーターゲート事件で追及され、イライラしていたからだった。田中はそんな怒りをぶつけるのに便利なサンドバッグだったようだ。古い友人の国務省元高官によると、ニクソンは泥酔していたとみられている。

1216名無しさん:2020/11/21(土) 22:07:20
>>1215

 〈注釈〉

 (注1)NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council Institutional (“H”)Files, Study Memorandums(1969-1974), National Security Memorandums, NSSM-172 (2 of 3), Box H-197、Memorandum For: The President, From: Henry A. Kissinger, Subject: Japanese Prime Minister Tanaka’s Visit: The Question of Focus

 (注2)NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council (NSC) Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973 (1 of 3 ) to (3 of 3), Box 927, Secretary of State, June 7, 1973, Memorandum For The President, Subject: Possible Golf Match with Japanese Prime Minister Tanaka and Foreign Minister Ohira

 (注3)同、National Security Council, July 18, 1973, Memorandum For : Mr. Kissinger From: John A. Froebe, JR. Subject: Proposed Schedule for U.S. Visit by Japanese Prime Minister Tanaka

 (注4)同、National Security Council, Urgent Action, July 30, 1973, Memorandum For: Mr. Kissinger From: John A. Froebe, Subject: Prime Minister Tanaka Request

 (注5)President Richar Nixon’s Daily Diary, August 1, Nixon Library,  2019年11月26日アクセス

 (注6)FRUS, 1969-1976, Volume E-12, Documents On East And Southeast Asia, 1973-1976, Document 179. Memorandum of Conversation, Washington, July 31, 1973,11 a.m.

 (注7)同

 (注8)外務省情報公開第00014令和2年4月2日、開示請求番号2019-00903

 (注9)NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council (NSC) Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973 (1 of 3), Box 927、Secret Sensitive Eyes Only- Henry Kissinger, July 31, 1973 The White House, Subject: Remark Before / President’s Toast, James J. Wickel, American Embassy - Tokyo August 4, 1973

 (注10)同、NSC Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973, Box 927, Secret Sensitive, Eyes Only - Henry Kissinger, July 31, 1973, the White House

 (注11)2020年1月29日インタビュー

春名 幹男(国際ジャーナリスト)

1217荷主研究者:2020/11/21(土) 22:19:27

https://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20201105579279.html
2020/11/05 11:00 新潟日報
戦争遺跡 五泉で発見
旧陸軍の「秘匿飛行場」や塹壕

塹壕とみられる跡=五泉市

秘匿飛行場の滑走路があったとみられる場所=五泉市

 新潟大人文学部の清水香助教(48)=考古学=の研究チームが、新潟県五泉市の新大農学部付属フィールド科学教育研究センター村松ステーション(村松ST)内で、旧陸軍の「秘匿飛行場」の滑走路や塹壕(ざんごう)の跡とみられる戦争遺跡を発見した。新大の史料や聞き取り調査で施設の存在は知られていたが、考古学の面からも裏付けが取れた形だ。清水氏は「県内にも戦争遺跡があると知ってもらうきっかけになってほしい」と期待している。

◎新大研究チーム 史料や住民証言裏付け

 新大は2014年から当時の建物の配置図を分析。周辺住民らへの聞き取り調査を続けている。発掘の実績がある清水氏が18年に新大に赴任。分析結果などを基に今年8月、発掘調査が行われた。現在はほ場として使われている4カ所の試掘で、塹壕の凹型のくぼみが埋め戻されたような形跡を発見した。その上の層からは自然堆積では形成されない石や砂が混ざった地質も確認できた。

 清水氏は「石や砂が含まれている層は人為的に搬入されたと考えられる」とする。これは聞き取り調査で複数の住民が語った「練兵場には塹壕があり、それを平らにした」「滑走路はローラーで固めた」などの証言と符合し「この場所に秘匿飛行場があったと思われる」と説明する。

 これまでの研究で「陸軍用地」と記された石の標柱が複数見つかった敷地南西部の森林も調査した。この周辺でも今回、塹壕とみられる幅2メートル、深さは最大1・6メートルの落ち込みが確認された。清水氏らは「くぼみの規模や地質からほ場の塹壕と同時期に作られたものだと推測できる」とみている。

 南部の一角からは医療用アンプルや1920〜50年代のものとみられる酒の王冠や歯磨き粉、統制品の陶器も見つかっている。清水氏は「塹壕の地質からもこうしたものが見つかれば、ほぼ間違いなく戦争遺跡であることが分かる」と指摘する。

 今回の発見について清水氏は「住民の口承証言を考古学的に目に見える形で示せた」とし「本県では戦争遺跡の調査がまだ進んでいない。身近な所にある戦争の記憶を後世に残していくことは大きな意義がある」と語った。

<新潟大農学部付属フィールド科学教育研究センター村松ステーション> 広さ約33ヘクタール。日清戦争後の1897年に国の軍備拡張の一環として兵営が置かれ、陸軍歩兵30連隊が駐屯した区域に立地する。太平洋戦争末期には村松少年通信兵学校が設置され約7千人の少年兵を養成したが、終戦で解散。米軍の駐屯地を経て、1946年に新潟大農学部の前身となる県立農林専門学校が移転した。兵舎もそのまま使用されていたが、新施設の建設に伴って解体された。

1218名無しさん:2020/11/25(水) 19:03:38
https://news.yahoo.co.jp/articles/3fab4f61b1914286e17a1c5fc3a1f75241ad7ff2
加藤長官「衝撃的な出来事でしっかり覚えている」 三島由紀夫決起から50年
11/25(水) 18:37配信

 加藤勝信官房長官は25日午後の記者会見で、作家の三島由紀夫が昭和45年に陸上自衛隊施設に立てこもり自決してから50年たったことについて「私も15歳のときだったが、大変衝撃的な出来事だったとしっかり覚えている」と述べた。

 三島は自決の4カ月前に将来の日本について「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目(ぬけめ)がない、或(あ)る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」との文章をサンケイ新聞(現・産経新聞)に寄稿した。

 加藤氏はこれに対し「三島氏の言葉に反論するということではないが、この間、先人、現在いる方々の努力でこの国は繁栄と平和を構築してきた。少子高齢化、コロナ禍などさまざまな課題はあるが、そうした形で国づくりをしっかり進めてきたと認識している」と強調した。

1219とはずがたり:2020/12/01(火) 21:54:16
# 戦争# 国家・民族# 日本
インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理
本当に、牟田口ひとりの責任だったか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56995?page=3
広中 一成 プロフィール

河辺は唯一、作戦を支持した
作戦は雨季に入る前の春先一ヶ月間とされた。しかし、上述のとおり、インパールまでの道のりは険しく、正攻法で挑んでも作戦を達成することが難しかった。

そこで、牟田口は行軍を少しでも早めるため、作戦に参加する将兵に持たせる食料や装備をできるだけ少なくした。そして、作戦中に将兵の食料が足りなくなったら、道端に生える野草を食べるか、作戦部隊が引き連れてきた羊や牛などの家畜を殺して食べるよう命じた。

この計画を、牟田口はかつてモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンが家畜を率いて戦いに出た故事から「ジンギスカン作戦」と名づけて自賛した。

この荒唐無稽な作戦計画は、当然ながら軍司令部の誰もが反対した。しかし、そのなかで、唯一、牟田口の計画を支持したのが河辺だった。河辺の存在は、インパール作戦の実現に邁進する牟田口の心の支えとなった。

1944年3月、日本軍は兵力約9万人を擁してインパール作戦を発動した。しかし、多くの軍司令部幕僚の不安は的中し、インパール作戦は日本軍に3万人あまりの戦死者を出して失敗に終わった。食料を失った日本軍将兵は、撤退途中で次々と倒れ、命を落とした。屍が並んだ道は別名「白骨街道」と呼ばれた。

牟田口は、インパール作戦の責任を取って、第十五軍司令官の職を解かれた後、陸軍を退官し、召集先の陸軍予科士官学校で敗戦を迎えた。

あなたも「牟田口」にされるかもしれない
戦後、牟田口はインパール作戦を実行した敗戦の将として、世間から猛烈に批判され、「愚将」という不名誉なレッテルを貼られたままこの世を去った。

インパール作戦は、牟田口が勝手に始めたのでなく、上官の河辺、さらには東条首相の支持がなければ実現できなかった。よって、本来であれば、インパール作戦の敗北の批判は、牟田口だけでなく、河辺らにも向けられなければならなかったはずだった。



しかし、河辺はインパール作戦後、ビルマ方面軍司令官の職を退くが、特に作戦の責任を問われることなく、終戦前に陸軍大将にまで進んだ。そして、河辺は世間から「愚将」と罵られた牟田口とは対照的に、戦後静かな余生を送った。

河辺にとって、牟田口はインパール作戦の批判を一身に受けたスケープゴートだった。

昨今、様々な不祥事が起き、誰かひとりが批判の矢面に立つと、加熱する報道やSNSでの書き込みも手伝って、国民総出でそのひとりを徹底的に追いつめる風潮がある。みんなが集まりよってたかって敵を叩く習性は、よそ者に厳しい日本人独特の「島国根性」の表れなのかもしれない。

しかし、敵を批判することに熱中するあまり、私たちはその不祥事がなぜ起きたのかという問題全体を見通す視野を失っていないだろうか。しかし、実はその「敵」はスケープゴートに過ぎず、「敵」の裏に潜んでいるのが、本当の批判の対象かもしれない。

愚かな判断の裏には、それを黙認し、かつ支持しながら、いざ失敗が明るみになると、「自分は関係ない」と姿を隠す人間が必ずいる。

いま、あなたは気づかないうちに「牟田口」になっているかもしれない。もしそうなら、あなたの後ろには「河辺」がいる。

1220とはずがたり:2020/12/08(火) 15:59:08

その朝の授業は鬼のあだなで畏怖された教授の英語だった。その…
https://www.tokyo-np.co.jp/article/73024/
2020年12月8日 06時40分

 その朝の授業は鬼のあだなで畏怖された教授の英語だった。その朝とは、一九四一(昭和十六)年十二月八日。日米開戦の日だという▼開戦の臨時ニュースが校内に伝えられた。教授は廊下に飛び出し、「万歳」と叫んだそうだ。当時の学生が書き残している▼作家、半藤一利さんの『十二月八日と八月十五日』にあったが、とりわけ珍しい話ではなかろう。<やみがたくたちあがりたる戦(たたかい)を利己妄慢(ぼうまん)の国国よ見よ>斎藤茂吉。長く続く米英との緊張。当時の国民はうっとうしさや閉塞(へいそく)感の中にあり、真珠湾攻撃はその暗雲を吹き飛ばすかのように受け止められた。「利己妄慢」の米英という大国に挑む痛快さもあったという。茂吉もそうだったのだろう▼十一年後の五二年に建立された、広島の原爆死没者慰霊碑。碑文は<安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから>である。その言葉を考案したのは十二月八日に「万歳」を叫んだあの教授だそうだ▼歴史の皮肉を書きたいわけではない。教授の名は当時広島大学教授の雑賀忠義さんとおっしゃる。この人も被爆している▼あの日、今から考えれば、勝てるはずもない日米の開戦に国民の大半が高揚した。記憶にとどめなければならぬ戦争の過ち。それは軍や政府によるものだが、感情に任せたわれわれの側の「万歳」をそこから除く理由もまた見当たらぬ。繰り返すまい。

雑賀忠義
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%91%E8%B3%80%E5%BF%A0%E7%BE%A9-1076528
1894-1961 大正-昭和時代の英文学者。
明治27年3月25日生まれ。大正13年広島高教授,昭和24年広島大教授となる。同年,浜井信三市長の依頼で広島市平和記念公園の原爆慰霊碑文に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の一文をえらび,揮毫(きごう)した。昭和36年2月8日死去。66歳。和歌山県出身。京都帝大卒。著作に「英詩入門」など。

1221とはずがたり:2020/12/11(金) 15:17:46
戦時補償債務
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E6%99%82%E8%A3%9C%E5%84%9F%E5%82%B5%E5%8B%99
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

戦時補償債務(せんじほしょうさいむ)とは、太平洋戦争中に当時の政府が命令または契約の形で支払を約束した保証や戦争保険金などを指す。主に軍需品の未払代金や徴用された後に撃沈された船舶に対する補償、工場の疎開経費などがこれにあたる。


概要
1945年の敗戦後、幣原内閣は個人財産増加税や財産税の臨時賦課を財源としてこれらを支払う方針であったが、連合国はインフレーション促進につながるこの方針に反対した。そもそも連合国は日本の企業が政府とともに自分達と敵対したことに対して何らかの制裁を課す必要があると考え、戦時補償債務打ち切りもその一環であった。

1945年11月24日にGHQは「戦時利得の除去および国家財政の再編成に関する覚書」を日本側に通告した。1946年4月、連合国は日本に対して戦時補償債務支払の打ち切りを正式に要求したが、直後に就任した第1次吉田内閣の石橋湛山大蔵大臣は、自由経済の根幹にある契約の論理が破壊されることによる日本経済への打撃を危惧して強く反対した。だが、対日理事会におけるソビエト連邦の強い要求によって8月8日になって日本政府はこれを受け入れることとし、形式上は戦時補償債務は全額支払うが別途新税を設けて支払額に対して100%の税率を賦課することで連合国側の同意を得た。

1946年10月29日に戦時補償特別措置法が公布され、同法に基づく「戦時補償特別税」が戦時補償債務917億円余に課税、実質無効とされた。このため、多くの銀行や企業の資金繰が困難となったため、会社経理応急措置法・金融機関経理応急措置法などが公布されて救済策が講じられた。

1222とはずがたり:2020/12/15(火) 00:03:22

三菱、中国の強制徴用被害者に初めての補償金支給…「不法は認めていない」(1)
https://s.japanese.joins.com/Jarticle/273315
? 中央日報/中央日報日本語版
2020.12.14 07:34

中国山東省の済南時報は今月7日、三菱重工業が第2次大戦中に強制的に連行した中国人30人に対する補償金を支給したと報じた。遺族30人は1人あたり10万人民元(158万円)を受け取った。日本戦犯企業の三菱が中国人に初めて支給した補償金だった。

山東省強制徴用被害者連合会の劉煥新会長は「たとえ金額は大きくなくても、これは数十年間続いてきた問題提起を通じて勝ち取った結果」とし「戦争がもたらした罪悪と犯罪は忘れられてはならず、今後三菱の『黒歴史』を明らかにしていく開始点になるだろう」と強調した。

補償を受けるまでのこれまでの過程は長く険しいものだった。中国政府は1972年「日中共同声明」で戦後補償問題に対して明確に言及せず、問題を避けた。

民間から問題提起があったのは1990年に入ってからだ。1944年9月、旧日本軍によって33歳という年齢で故郷の山東省から日本の三菱鉱業株式会社のある鉱山に連れて行かれた劉連仁さんが1996年に日本政府を相手に最初の損害賠償訴訟を起こした。

東京地方裁判所は2001年7月、劉さんの訴えを認めた。日本政府が戦後救済義務を違反したとし、遺族に2000万円の損害賠償をするよう命じる判決を下した。

しかしその4年後、東京高等裁判所が判決を覆した。2007年最高裁判所は原審を確定し、中国が請求権を放棄したので賠償責任はないとの結論を下した。その後、この最高裁の判決はその他の一連の中国被害者の訴訟に引用されてすべて棄却される根拠になった。

反転の契機は中国政府の介入が始まってからだ。2014年、中国人民抗日戦争博物館が日本強制徴用対象者3万4282人の名簿を公開した。終戦70年を控えてのことだった。

山東省から強制連行された人だけで9177人にのぼる。その年2月に三菱を相手取って訴訟が再開された。死亡者722人を含めた3765人の遺族が原告として参加した。生存者はたった4人、10代の時に日本に連れて行かれた80〜90代の高齢者だった。彼らは老骨に鞭打って東京の法廷に出席し、自分たちが体験した強制労役の惨状を証言した。

1223名無しさん:2020/12/21(月) 23:45:12
https://news.yahoo.co.jp/articles/1891bcd748733cc8aba27189bd1bc056b287399c
【75年目の告白】岐阜・黒川開拓団 満州で性的な接待を強いられた女性たち「歴史の渦の中で引き回され、きょうまで生きるとは」
12/21(月) 18:09配信

中京テレビNEWS

中京テレビNEWS

1224名無しさん:2020/12/23(水) 23:01:02
https://news.yahoo.co.jp/articles/ca0bca32e7688a717dbc7a53987c4c448a25d3ec
基地と男性に頼りたくない 20歳の女性は沖縄を旅立った【#コザ騒動50年】
12/23(水) 18:12配信

琉球新報

琉球新報社

1225名無しさん:2021/02/13(土) 21:18:43
https://news.yahoo.co.jp/articles/0c456a793d4afdb9646cc778c237aad67df59615
「もし、東京五輪が中止になったら…」研究者が“警戒”すること
2/13(土) 15:09配信
BuzzFeed Japan
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、患者や事業者への罰則を設けたふたつの改正法が2月13日に施行された。戦前の歴史に詳しい研究者は、「戦前と同じように、人々が自ら自由や権利を差し出してしまった」と懸念する。空気による同調圧力、美談や恐怖に巻き起こされる感情的な議論。その先に待っているものとは何なのか。そして、なぜ私たちは東京五輪の「あと」を警戒しなければいけないのか。【BuzzFeed Japan / 籏智広太】

「外側からくる戦前ではなく、人々の内側からくる戦前を、懸念しています。われわれが自発的に、自由や権利を差し出してはいけないはずなのに……」

BuzzFeed Newsの取材にそう語るのは、近現代史研究者の辻田真佐憲さんだ。

「日本人にとって、太平洋戦争は大きな教訓であり、失敗の比喩として用いられます。私はあらゆることについて『戦前』ということに対しては反対ですが、いまこそ言わなければならないと感じています」

「戦前の歴史で気をつけなければいけないのは、政府からではなく、民衆の側から私権制限を求めてしまうという動きがあったことです。私たちは政府から押しつけられたものには警戒感を持っている一方で、我々が自発的に権利を差し出してしまうことには無警戒なのです」

辻田さんがこのように「警戒」するのは、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い今国会で改正された特措法と感染症法をめぐる議論だ。

改正されたふたつの法律では、都道府県知事の営業時間の短縮の命令に従わない事業者や、入院拒否や逃亡をした患者、保健所の調査を拒否した人には行政罰としての「過料」が科されることになった。

私権制限に前のめりだった「リベラル」
一時は「懲役」を含む刑事罰の導入も議論の遡上にあがったが、結核やハンセン病の強制隔離で患者の人権が侵害された歴史を踏まえ、患者に対する差別や偏見を煽りかねないとして、専門家らが強く反対。行政罰である過料にとどまった。

なお、特措法においては特定地域における重点的取り組みを実施するための「まんえん防止措置」も新設された。緊急事態宣言と同様に罰則を伴う措置にもかかわらず、その発動要件に対しては恣意的な運用への懸念もあがっている。

一方で、多くの世論調査では強制力のある法改正を求める声が高まっていたのも事実だ。

NHKの昨年6月の世論調査では、「外出を禁止したり休業を強制したりできるようにする法律の改正が必要」と答えた人は42%に対し、「必要ない」は18%だった。

また、毎日新聞の今年1月の世論調査でも、罰則が「必要だ」との回答は51%で、「必要ない」の34%を上回った。辻田さんはいう。

「このような感染症ですから、市民が自分で考えて、自らの行動を制限するのは問題がないと思います。しかし、政府による私権制限や、それをもとにした同調圧力が用いられていることについて、私たち市民はもっと自覚、危機感を持つべきだと思います」

「また、感染拡大の防止策をめぐっては、リベラルと言われる野党側やその支持者も私権制限に前のめりだったように感じています。そうなってしまうと、制限によって奪われる移動の自由や集会の自由を擁護するのは誰になるのでしょうか」

1226名無しさん:2021/02/13(土) 21:18:55
>>1225

美談、恐怖、そして空気
戦争協力のため「慰問金品受付所」に自らの貴金属を寄付する人たち(1937年)

日中戦争から太平洋戦争に突き進んだ日本。メディアや多くの企業もそれに乗じ、熱狂が生まれた。人々は率先して戦争に協力し、多くの権利を「お上」へと差し出した。その悲惨な結果は、今を生きる私たちが知る通りである。

「前線も苦労している、人も亡くなっているのだから、少しだけでも辛抱しなければならないーー。美談や恐怖など、感情を刺激するような報道がメディアを通じて流れ、人々がそうした『空気』に煽られ、同調圧力に走り、政府が私権制限へと動いていくのは、戦前とまったく同じです」

「医療従事者がいかに大変なのか、重症患者がいかに苦しんでいるのかを伝えることは、止むを得ないでしょう。しかし、そうした感情的なものと私権制限は本来であれば切り離して議論をしなくてはいけないと思います。こういうことをいうと、反発が寄せられると思うのですが……そこまで、戦前と同じですよね」

戦前といま。日本社会において、変わらず大きな力を発揮しているのが、「空気による同調圧力」だ。

戦時中は「隣組」によって相互監視をし、戦争協力をしない人たちが「非国民」と後ろ指を刺されていた。これは近代日本社会において、普遍的なものであると辻田さんはいう。

「『空気』を気にして生まれる日本社会の同調圧力は、戦時中に限ってあったわけではありません。東日本大震災のときにも『節電警察』のような振る舞いがあったように、非常時に現れやすいものなのだと思います」

評論家の山本七平はいまから40年以上前の『「空気」の研究』(1977年)で「『空気』とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である」と指摘している。

日本社会では「いざというときは(…)すべてが空気によって決定され」、合理的な判断から遠ざかっていく、というものだ。辻田さんはこの考え方に触れながら、コロナ禍の特殊性についても言及した。

「いまの日本社会では東京五輪が予定されていたため、みんなでやろう、感情でひとつになろうという同調圧力が広がっていました。それがコロナに置き換わり、自粛の同調圧力へと変化した。政府も五輪を開催したいがために本来は強制力を用いたいがそれをせず、人々の同調圧力を煽るような振る舞いをみせた」

「警察が警棒を持って巡回したり、自治体が県外ナンバーを監視したり……。そうしてできた特有の空気によって差別なども横行し、SNSでの特定など人権侵害に近いようなことも起きてしまった。ハンセン病などの教訓が普段はあれだけ叫ばれているにもかかわらず、非常時にはここまで変わってしまうのだな、と感じましたね」

1227名無しさん:2021/02/13(土) 21:20:52
>>1226

もし、東京五輪が中止になったら…
今回の法改正は、第3波における緊急事態宣言下という、やはり特殊な「空気」のなかで議論が進んだ。懲役刑などの刑事罰の制定は回避されたとはいえ、罰則付きの法改正がされたことには変わりがない。

「本来であれば、冷静なときに議論をすべきだったのに、なぜそれをしなかったのか。この法改正では、さらなる感染拡大が起きた場合、営業している店舗の通報合戦や脅迫など、より激しい同調圧力を目覚めさせてしまう恐れもあると思います」

「また、日本は先進国のなかでも強制力を持たずに感染者を比較的抑えられてきている。第3波も減少傾向に入っています。それにもかかわらず、ここで自由を捨ててしまうのであれば、次の感染拡大では際限なく私権制限が広がり、歯止めが効かなくなってしまうという怖さもある」

このように語る辻田さんが特に警戒するのは、東京五輪が中止になった場合だという。

「いまの自民党政府は、その憲法改正草案からもわかる通り、国民に権利よりも義務を科したいと考えている。五輪があるからそのような強権的な姿勢は出していなかったわけですが、中止になれば、ロックダウンができないのならできるように憲法改正をしよう、という流れになりかねないと思っています」

実際、新型コロナウイルスの感染拡大当初の昨年1月末には、自民党の重鎮である伊吹文明元衆院議長が、コロナ禍が「緊急事態のひとつ」として、「憲法改正の大きな実験台と考えた方がいいかもしれない」などの発言が飛び出したこともあった。

「憲法改正そのものは否定しませんし、変わっていくべきだと思っていますが、政府ではなく国民を縛るための改正には反対です。非常時にこうした議論をすれば、感情的に進んでしまうわけですから、私たちは次の感染拡大のときに、どう振る舞えるのか、政府が何をしようとするのかを、より警戒しないといけないと感じています」

新たな「失敗」にならないために
では、そうした政府の振る舞いを警戒するために、どうすべきなのか。辻田さんは「冷静でいるために、歴史を参照するべき」と語る。

「法律や憲法を変えるような、われわれの権利や自由に関わる議論をするときは、冷めた態度をどこかで持つことが大切だと思っています。沸騰した議論を冷静にするために、効果を発揮するが過去の非常時の『失敗』なのです。現代日本社会のおける最大の失敗は、やはり戦争ですよね」

「一方で、戦争から教訓を学ぶというパターンに、『昔の話でしょ』と感じてしまう人が多くなっているのも事実です。政権批判のたびに『戦前』が用いられすぎたことも関係しているでしょう。政治の側だけではなく、自分たちの内側にある『戦前』の要素にも自覚的になるように、言葉の使い方や、歴史を伝えるアプローチを変えるべきなのかもしれません」

「このような非常事態は、何十年に一度しか訪れません。社会は進歩したところもある一方で、やはりパニック状態における振る舞いは変わらない。歴史を知っていれば、政治も、私たちも、同じことをやっているなと冷静になれるはずだと思っています。いまのコロナ禍が、後世に『失敗』として参照されないためにも、まず自分のなかにある『戦前』を見つめて見ると良いのかもしれません」

あの戦争は政府によって生み出された失敗であるという、わかりやすい「戦前」だけではなく。人々が率先して熱狂という空気を作り出し、自らすべてを捧げていった「戦前」を、私たちは改めて知る必要がある。

______

1984年、大阪府生まれ。評論家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。近刊『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文春新書)、『教養としての歴史問題』(共著、東洋経済新報社)、『新プロパガンダ論』(共著、ゲンロン)。

1228名無しさん:2021/03/11(木) 19:07:05
https://news.yahoo.co.jp/articles/b4007683a9bee4d37b3671ecd035e9f0eb1bf813
空襲補償法案、今国会成立目指す 超党派議連が確認
3/10(水) 20:09配信
時事通信
 太平洋戦争中の空襲で被害を受けた民間人への補償を目指す超党派の「空襲議連」(会長・河村建夫元官房長官)は10日、衆院議員会館で総会を開いた。

 一定の要件を満たせば特別給付金50万円を支給する議連がまとめた法案を今国会に提出し、成立を目指すことを確認した。

 この日は推定10万人以上が亡くなった東京大空襲から76年目。河村氏は「全国で空襲があったが、民間被害者への対応は何もできていない」と訴え、その後、自民党本部で二階俊博幹事長に面会して協力を求めた。二階氏は「われわれの代でやらないといけない課題だ」と答えた。

1229名無しさん:2021/03/23(火) 17:46:08
https://news.yahoo.co.jp/articles/5be2ad91f4d389de55cfa9fc0ce6822657853171
大出世蹴った首相、馬肉の委員長、総務省疑惑に想う清廉な政治家
3/23(火) 12:40配信
Wedge
 近年、あまり聞かれなくなった言葉に、「清廉潔白」、「謹厳実直」がある。「井戸塀政治家」もそのひとつだろう。

 古い言葉を持ち出したのは、総務省の接待疑惑に関与した政治家、役人の卑しさに呆れたからだ。

 かつては、金銭、名誉などに目もくれず、ひたすら国のために奔走した人たちがいた。官僚時代に出世を2度も辞退した総理大臣、馬肉が唯一の好物という野党第一党委員長……。清貧に甘んじた大先輩たちは、不肖の後輩のご乱行に眉をひそめているかもしれない。

“ライオン首相”の自宅は借家
 古くは明治の元勲、西郷隆盛、自由民権運動の闘士、板垣退助らを思いうかべるむきもあろう。そんな歴史上の人物にまでさかのぼらなくとも、昭和以降でも、偉大な政治家は何人もいた。

 筆者は“独断と偏見”で、昭和初期の宰相、浜口雄幸を真っ先にあげたい。

 1929(昭和4)年に総理大臣に就任、日本経済を世界の標準に合わせることを目的に金輸出解禁(金解禁)を断行した。主要艦以外の制限をめざしたロンドン軍縮会議では、海軍軍令部の猛反対を押し切って調印。強い信念、誠実、剛毅な人柄とその容貌から“ライオン宰相”と親しまれた。

 しかし、世界恐慌のあおりで景気は悪化、軍縮会議では補助艦のトン数で欧米より不利を強いられたため、不満を持つ青年に東京駅ホームで撃たれ、志半ばで倒れた。 

 浜口が偉かったは、まず公私混同をしない。破格の収入を伴う高い地位にも目をくれず、ひたすら自らの職務に精励した。質素、謹厳実直という表現は、数多くある浜口の伝記に必ずと言っていいほど登場する。

 首相の印綬を帯びて自宅で新聞社の写真撮影に応じた時、カメラマンに「あまりマグネシウムをたかんでくれ。借家だから天井を焦がしては家主にすまぬ」とあわてて制止した。当時はカメラの照明用にマグネシウムを発火させていたため、熱で家を傷めることを心配したらしい。記者団は笑って相手にしなかったが、本人はいたってまじめだったという(城山三郎『男子の本懐』)。 

 首相に就任してから、鎌倉の別荘で週末の静養をとることがあった。わずか4、50坪、2階屋ながら階段は段梯子というあばら家。ゴルフをするでもなく、随筆を書いたり、思索にふけった。その鎌倉行ですら、「面倒だ」といってめったに出かけなかった。

1230名無しさん:2021/03/23(火) 17:46:19
>>1229

出世断り地味な仕事に精励
 破格の出世を2度断っている。

 最初は専売局長官として塩田整理という厄介な仕事に取り組んでいるとき。初代満鉄総裁の後藤新平が、堂々たる見識を持ちながら誠実な態度で地味な仕事に黙々と取り組む浜口にほれ込み、満鉄理事に来てほしいと口説いた。

 国策会社、南満州鉄道の理事といえば、中央官庁の次官以上といわれ、報酬もはるかに多かった。華やかさに欠け、中小の製塩業者からの恨みを買う損な役回りから逃げ出すには、渡りに船という以上だったろう。

 浜口は惜しげもなく断った。「今の仕事を途中で投げ出すわけにはいきません」というのが理由だった。 

 後藤の誘いはこれで終わらない。第2次桂太郎内閣の逓信大臣に就任すると、今度はその次官の椅子を用意した。浜口はまたも「塩田整理がまだ終わっていませんから」とにべもなかった。

 こうなるともはや頑迷という方が適当だろうが、後藤もしぶとい。桂の3回目の組閣で逓信大臣に再度就任したのを機に3たび浜口を口説く。

 延々と続いた塩田整理も終了していたため、浜口も今度は断る理由がみつからず、ついに逓信次官のポストを受けざるをえなかった。

 内閣が短命であることを承知で、後藤の恩義に応えるためにあえて引き受けた(川田稔『浜口雄幸 たとえ身命を失うとも』など)あたり、いかにも浜口らしい。

 大風呂敷というあだ名を奉られた後藤と、正反対のタイプの浜口の心の触れ合いも興味深い。 

 近年、政界の有力者とのコネクションを求め、その力を利用してのし上がろうという目前が利く官僚が少なくないことを考えると、浜口の行動は愚直とでも評すべきか。

 現代史研究家の間でも浜口の点は高い。波多野勝は「金権腐敗で名を高めた首相は数多いが、公明正大、謹厳実直という視点で国民の付託を受けた首相は浜口ただ一人と言い切っても過言ではない」(『浜口雄幸 政党政治の試験時代』)と激賞する。

1231名無しさん:2021/03/23(火) 17:46:42
>>1230

ぼろアパートが終の棲家
 もうひとり筆者が触れたいのは、浜口同様、暗殺という非業の死を遂げた元日本社会党(現社民党)委員長の浅沼稲次郎だ。

 年配の読者は覚えているだろう。1960(昭和35)年、革命前夜を思わせた日米安保条約改定反対の闘争を指導、その年の10月、日比谷公会堂で演説中に右翼少年の凶刀に倒れた。

 魁偉な容貌でエネルギッシュ、それでいて気さくに国民に語りかける活動ぶりから、親しみを込めて“人間機関車” “ 演説百姓”などというニックネームで呼ばれた。 

 死後出版された追悼集『邁進 人間機関車ヌマさんの記録』の中で、生前ゆかりの人たちが大衆政治家・浅沼をいきいきと描いている。

 驚くのは、死去するまで住んでいた東京の下町、深川のアパートだ。

 戦前の建設当初はモダンさを誇ったようだが、浅沼の晩年は、壁や窓は荒れ放題。洗濯物があちこちに干され、質素という表現すら誉め言葉に聞こえるほどのぼろアパート。いわれなければ、社会党現職委員長が住んでいるとは到底想像できなかったろう。

 浴衣姿の浅沼が当時の子供たちの娯楽、紙芝居をベランダからニコニコしながら、のぞき込んでいる写真が残っている。どうみても下町の好々爺だ。

楽しみは“馬肉パーティー”
 食べ物にしても贅沢なものは好まず、好物はさくら肉、つまり馬肉だ。党本部の職員を慰労するときなど、かならず登場する。もちろん、自分も大いに食べる。

 浅沼の前任委員長の河上丈太郎は何度か“馬肉パーティー”によばれたことがある。多くの人に囲まれてうまそうに頬張る浅沼は楽しそうだったと回想している。

 夜討ちに訪れる新聞記者にふるまわれるのはカクテル「深川割り」。何のことはない国産3級ウィスキーを番茶で割っただけの代物。味などはおかまいなし。

 子宝に恵まれず、かわいがっていた秋田犬が唯一の自慢の種という嘘のような話もある。

 昨今のコロナ対策のために、自衛隊の看護師らが迷彩服姿で他の病院に応援に出動している中、最高指揮官の総理大臣が高級レストランで夜の会食を楽しんだり、総務省の役人が業者の接待で7万円ものステーキに舌鼓を打つなどとは、時代も違うが、まるで別世界の出来事のようだ。

 浅沼が亡くなった時、当時の首相、池田勇人が衆議院本会議で追悼演説をした。さわりを引用する。

 「君は、日ごろ清貧に甘んじ、30年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます」――。

 浅沼について、すべて言いつくされているだろう。 

 池田の秘書官だった伊藤昌哉の筆になるこの演説は国民の間に感動を呼んだ。池田は後に「5億円か10億円の価値があった」と、好敵手の死を悲しみながらも満足気げだった(伊藤昌哉『池田勇人 その生と死』)。

1232名無しさん:2021/03/23(火) 17:47:03
>>1231

疑惑の時代の清涼剤
 身辺清潔だったのは浜口、浅沼だけではない。冒頭に触れた西郷、板垣のほか、憲政の神様といわれた尾崎行雄、「五・一五」事件で暗殺された犬養毅、最近では、「首相の座を蹴った男」、元官房長官、伊東正義らの名もしばしば聞かれる。

 浜口、浅沼についても異なった評価もあるだろう。しかし、あえて取り上げたのは、総務省のスキャンダルにうんざりしている国民も、かつて身辺清潔な政治家、官僚が活躍していたことに救われる思いを感じるだろうと思うからだ。

誠実さ欠く疑惑の政治家、官僚
 総務省の問題に少しだけ触れてみたい。

 今回の問題は、多額のワイロが動いたケースではなく、高額ではあるものの接待、饗応だ。そのせいか、検察など捜査当局に表立った動きはみられないようだ。

 しかし、国会でのやり取りなどからみるかぎり、総務省の当事者はじめ、菅首相ら政府首脳に誠実さ、正直さの欠けることが、国民の強い反発を呼んでいると思えてならない。

 国会で追及を受けた同省の官僚がうそを重ね、省内調査が進行中であることを盾に答弁を拒む。総務相自ら委員会の席で事務方に「記憶にないと言え」と指示、追及されると「無意識に口に出た」と人を食ったような弁明をする。

 野党の舌鋒が政権の失点探しと感じられることを割り引いても、不十分な省内調査を国権の最高機関に優先させ、大臣が不誠実な答弁を指示したりすることは許されまい。

 2人の総務大臣経験者にも驚いた。元部下が国会で窮地に立っているときに、同様に業者と会食していた事実をひた隠し、発覚すると、「会費を払った。それを上回る費用がかかっていたなら先方の約束違反だ」と開き直る。職務に関する依頼はなくとも、饗応を受けただけでも収賄になることを知らないのだろうか。

  追及逃れのように辞職した官邸の高官の退職金は5000万円にものぼるという。

 饗応役人に平均的な国民の何倍もの退職金を税金から払うほうも払うほうだが、罪の意識もなく受け取る方も受け取る方だ。実際に支給されたとしたら、コロナ騒ぎに苦しみながら額に汗して働く納税者の悔しさをどう感じるか。  

 疑惑の時代にあって、私利私欲がなく、身辺を飾らない政治家がいかに新鮮に思えることか。

 かれらがいま健在だったら、何と言うだろう。

樫山幸夫 (元産經新聞論説委員長)

1233とはずがたり:2021/03/28(日) 12:17:57
和田 豊治
わだ とよじ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E8%B1%8A%E6%B2%BB

生年月日 1861年12月19日
(文久元年11月18日)
出生地 日本の旗豊前国
没年月日 1924年3月4日(62歳没)
出身校 慶應義塾
前職 富士紡績社長
日華紡績社長
明治神宮奉賛会理事長
称号 従五位勲三等瑞宝章(1924年)
藍綬褒章(1911年)
日本の旗 貴族院議員
選挙区 貴族院勅選議員
在任期間 1922年 - 1924年

和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年11月18日) - 1924年(大正13年)3月4日)は、日本の明治・大正期の財界人、貴族院勅選挙議員。富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に続く大正時代の「財界世話人」として君臨した。

従五位勲三等瑞宝章(1924年)。藍綬褒章(1911年)。

人物

豊前国(現・大分県)生まれ。中津藩士・和田薫六の長男。

はじめ川端楊坪の塾で書を学び、次いで大久保逕造の塾で四書五経を修める。藩校・進脩館の後身校「中津市学校」に入学し、村上家に奇食して医者を目指す。上京し、小幡篤次郎の推薦で1882年(明治15年)に慶應義塾へ入学。明治17年(1884年)7月に慶應義塾を卒業して翌年に渡米し、甲斐織衛の商店や葉巻煙草製造所で職工として働く。

1891年(明治24年)に帰国し、日本郵船神戸支店へ入社したが翌年退社し、三井銀行を経て鐘淵紡績東京本店支配人に就任。欧州の先進技術を導入して同社の経営を立て直し、その功績により1911年(明治44年)に藍綬褒章を受けることになる[1]。 1893年(明治26年)から1900年(明治33年)まで中国に漫遊し、日清戦争や遼東還附、義和団の乱を見聞した。帰朝後の1901年(明治34年)に三井家を辞職し、富士紡績に身を移し、専務取締役となった。東洋協会評議員、南亜公司相談役となり、大正元年(1912年)にエジプトで行われた万国紡織聯合会に日本国代表者として出席。

1913年(大正2年)に東京商業会議所特別議員となり、日本興業銀行総裁を辞退、以来政府の国策政策に次々と関わるようになり、大正4年(1915年)正六位、同年に明治神宮奉賛会理事長。大正6年(1917年)日本郵船取締役、東洋製鐵会社取締役、翌年日華紡績会社社長。大正8年(1919年)輸出綿織物連合会組長、第一生命保険会社相談役。大正9年(1920年)日華実業協会副会長。大正10年(1921年)皇典研究所理事、同仁会理事に就任し、理化学研究所創立に奔走した。大正11年(1922年)貴族院勅選議員、日本経済連盟会常務理事、南洋協会副会頭、山東鉱業会社を創立し、中国を漫遊。南満州鉄道株式会社に入り社長に推されるも辞退。大正12年(1923年)には、山本内閣の下で帝都復興審議会委員(大臣待遇)として聘され、内務省社会局参与に就任した。大正13年(1924年)に多忙により健康を損ね、胃癌のため早世した。叙従五位勲三等瑞宝章。

「鴎会」を創立してよく中国を漫遊し、中国と日本の間の友好と相互的経済発展を促進したことでも知られる。ワシントン会議と期を同じくして、原敬内閣の下では、首相官邸で話し合いが行われ渋沢栄一以下、井上準之助、和田、藤山雷太、団琢磨の五人が発起人となって実業団を編成して「英米訪問実業団」が途についた。財界に大きな足跡を残し、渋沢敬三の晩酌人を務めた。渋沢栄一が財界から身を引いた後は、和田と井上準之助の二人が「財界世話役」としてこれを継がんとしたが、両君ともに他界してからは、政界と密接に癒着して頭角をあらわしてきた「番町会」のパトロン・郷誠之助がその座に就いた。

皇典講究所理事としては、國學院大學(当時皇典講究所が経営母体であった)の渋谷移転に尽力。皇典講究所・國學院大學の創立以来、校地に神殿がないことを遺憾とし、校庭に学神を鎮祭する神殿建立を希望してその費用1万5千円を指定寄付したが、関東大震災で着工が遅れ、1930年(昭和5年)5月1日の鎮座を目にすることなく死去した[1]。

1234名無しさん:2021/03/29(月) 06:47:34
https://news.yahoo.co.jp/articles/964543370be0c6c8641f58c031ad68af0d297663
李鶴来さん死去 96歳 韓国人元BC級戦犯の政府補償求め活動
3/28(日) 19:57配信
毎日新聞
 元日本人軍属で、日本政府に補償を求めている韓国人元BC級戦犯者でつくる「同進会」会長の李鶴来(イ・ハンネ)さんが28日、外傷性くも膜下出血のため亡くなった。96歳だった。葬儀は家族で営む。

 日本統治時代の朝鮮半島全羅南道出身。1942年、17歳で日本軍の軍属となった。タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設現場で捕虜監視員として働いたが敗戦後、シンガポールでの裁判で「戦犯」とされ死刑判決を受けた。懲役20年に減刑され、56年まで巣鴨プリズンに収容された。日本が52年に独立した際、旧植民地出身者は日本国籍を失い、日本政府は日本人の元軍人や軍属に対しては行う補償や援護を拒んだ。李さんは仲間とタクシー会社を起こす一方で、歴代の首相に解決の要望書を出すなど活動を続けた。司法にも訴えたが99年に最高裁で敗訴が確定。その後、立法による救済を求めて活動していたが、近年は病気などで入退院を繰り返していた。今月24日、自宅で転倒して頭を打ち入院していた。

1235とはずがたり:2021/04/05(月) 10:23:15
旧日本軍を学ぶためにおすすめ本
2021年3月25日2021年4月4日 5分
https://www.paya-paya-kun.jp/?p=442

1236とはずがたり:2021/07/13(火) 13:20:28
五輪控えた日本が公開的赤恥…ユネスコ「軍艦島歪曲」に警告
? 中央日報/中央日報日本語版
2021.07.12 18:03
https://s.japanese.joins.com/JArticle/280680?sectcode=A10&amp;servcode=A00

ユネスコが日本の強制徴用被害歪曲の試みに公開的に警告状を投げかけた。

ユネスコ世界遺産委員会は12日、日本が2015年6月に「軍艦島」(端島)など7カ所の朝鮮人強制労働施設を含む23カ所の近代産業施設が世界文化遺産として登録された当時に約束した「犠牲者を記憶にとどめるための適切な対応」をまともに履行していないと指摘した。

この日公開された世界遺産委員会の決定文には、1940年代に該当施設で韓国人などが強制労働の被害を受けたという事実をしっかり伝えておらず、犠牲者に対する追悼措置もやはり不十分だったとされている。特に決定文には日本の後続措置未履行に対し「強い遺憾を示す」という表現が盛り込まれた。「強い遺憾」という表現自体も強度が高い上に通常は政治的な判断をしないユネスコがこのような形で事実上の警告をしたこともまた異例と評価される。日本としては東京五輪開幕をわずか11日後に控えて強制徴用問題で国際的に恥をかいた格好だ。

1237とはずがたり:2021/09/24(金) 21:30:35

731部隊や関東軍の文書公開 ロシアが歴史問題で日本けん制か
https://mainichi.jp/articles/20210911/k00/00m/030/011000c
イチオシ 前谷宏
毎日新聞 2021/9/12 14:00(最終更新 9/12 14:00) 有料記事 1396文字

 ロシアのプーチン政権が第二次大戦中の日本軍の戦争責任を強調する動きを続けている。8月には旧関東軍の細菌兵器開発などに関する文書を公開。今月には旧ソ連が日本の戦犯を裁いた「ハバロフスク裁判」に関する学術会議を開き、プーチン大統領が歴史の「改ざん」を批判するメッセージを寄せた。専門家の見方を交え、その背景を考える。

 「事実や公文書に基づく議論は、第二次世界大戦の歴史をゆがめる試みに対抗するために重要だ」

 ロシア極東ハバロフスクで6日に開かれた学術会議の冒頭で、司会者がプーチン氏のメッセージを読み上げた。ラブロフ外相も「日本の軍国主義者の残虐行為を将来まで記憶することが重要」と述べるビデオメッセージを送った。

 ハバロフスク裁判は1949年に関東軍の幹部や、細菌兵器の開発などに取り組んだ731部隊の隊員らを裁いたソ連の軍事裁判だ。ロシアの情報機関・連邦保安庁(FSB)は8月、学術会議に先立って、関連する文書を機密解除し、国営メディアが大きく報じた。731部隊がソ連兵らの捕虜を細菌兵器の人体実験に使ったとの文書や、関東軍がソ連との戦争を準備していたとする文書が含まれているという。

 学術会議はナルイシキン対外情報庁長官が代表を務めるロシア歴史協会や内務省、国防省などが主催者となり、「ソ連軍が日本軍の細菌戦を防ぎ、世界を救った」ことが強調された。

 プーチン政権は北方領土交渉で、「第二次大戦の正当な結果として北方領土の主権がソ連に移った」と主張するなど、しばしば日本に対し歴史問題を取り上げてきた。学術会議にオンラインで参加したナルイシキン氏も「日本が大戦の結果を認めることが、最も敏感な問題も含めて露日関係を新たな水準に発展させる基礎となる」と発言。ソ連軍による北方領土の不法占拠を訴える日本の立場をけん制した。

この時期に歴史問題を持ち出す理由は
 ただ、ロシアの歴史問題での「攻撃」がどの程度まで対日関係に影響するのかについて、学術会議に出席したドミトリー・ストレリツォフ・モスクワ国際関係大教授(日本史)は「それほど深刻にはならない」との見方を示す。機密解除された文書の内容はすでに知られている事実がほとんどで、日本の新たな「戦争犯罪」を追及するような資料ではないためだという。

 むしろストレリツォフ氏が指摘するのは…

1238とはずがたり:2021/10/15(金) 21:10:19
北海道と北方領土つなぐ海底通信ケーブル、ついに発見…専門家ら40人が発掘
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211011-OYT1T50002/
2021/10/11 09:03

1239荷主研究者:2021/11/27(土) 22:54:42
>>1238
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/598325?rct=n_hokkaido
2021年10/09 20:00 北海道新聞
根室と国後島を結んだ通信用海底ケーブル発見 陸揚庫で初の発掘調査

陸揚庫海側の敷地内で発掘されたケーブル(手前)

 【根室】終戦直後まで根室と北方領土国後島を結んだ通信用海底ケーブルの中継施設「陸揚(りくあげ)庫」周辺で9日、初めての発掘調査が行われた。施設海側の地下から、国後島方面に延びるケーブルの一部が見つかった。陸揚庫は国の登録有形文化財になることが決まっており、根室市は調査結果を今後の保存や活用に役立てる。

 陸揚庫は鉄筋コンクリート造り平屋建て。ケーブルは旧逓信省が1900年(明治33年)に国後島との間に38キロにわたって敷設し、戦後は切断されたまま放置されていた。99年にホタテ漁に支障があることから沿岸近くの1・5キロを撤去したが、陸上部分は手つかずだった。

 市が実施した調査にはボランティアら約30人が参加。施設の海側を重機やスコップで掘ると、深さ約50センチの場所で直径5・5センチのケーブルが見つかり、陸揚庫内部にも通じていた。

 調査を指導した北海道博物館(札幌)の右代啓視(うしろ・ひろし)学芸員は「建物がケーブルの中継に使われていたことが明確になった。北方四島とのつながりを示す象徴的な建物だ」と話した。(武藤里美)


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