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日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

410荷主研究者:2020/03/29(日) 16:13:19

https://www.at-s.com/news/article/local/west/748181.html
2020/3/19 13:50 静岡新聞
浜松城 堀の規模克明 幕末の絵図発見、袋井の収集家保管

新たに見つかった浜松城絵図の複製を手に解説する神谷昌志さん=浜松市中区

絵図に記された浜松城の堀の規模

 江戸時代末期ごろとみられる浜松城(浜松市中区)の堀の幅や長さが記入された絵図がこのほど、袋井市の個人宅で確認された。絵図の記述は、過去の地籍図から推定された堀の位置や規模とほぼ合致するという。浜松城整備専門委員を務める郷土史家神谷昌志さん(90)=同区=は「堀の規模が克明に記された絵図を初めて見た。堀があった中心市街地は考古学調査が難しく、貴重な史料」と意義を説明する。

 堀は同区連尺町の国道交差点近くにあった大手門の周囲に掘られていた。「遠州濱松」と題した絵図によると、堀の幅16メートル、長さは大手門の西側111メートル、同東側102メートル。現在の市道(通称二俣街道)に沿って造られた空堀は291メートル、瓦門北側の水堀は55メートルだったことが分かる。

 絵図は古文書の収集家鈴木邦彦さん(73)=袋井市=が保管していた。浜松市が城の図面や写真を集めているのを受け、神谷さんが親交のある鈴木さんに連絡し、存在が判明した。

 鈴木さんと神谷さんによると、絵図は幕末期に描かれ、討幕の動きに関わりがあるとみられる。鈴木さんが絵図とともに入手した古文書によると、官軍が江戸に向かう際、浜松城下の商人に兵士の配置や宿泊場所を告知していた。城下に迎えるにあたり、「浜松側から絵図を渡したのでは」(鈴木さん)と推測できるという。

 鈴木さんは似た形式で描かれた東海道沿いにある他の城の絵図も複数持っていて、官軍の進軍に伴い他藩で同様の動きがあった可能性があるとみている。磐田市歴史文書館の木村弘之館長は「絵図を作った目的や時期はまだ断定できない。官軍が宛てた文書が他地域で見つかれば、進軍と関連があった可能性が高まる」と話した。

 浜松市博物館によると、浜松城の堀の規模を記した絵図は他にも存在する。担当者は「収集家が持っている絵図は多く、さらに表に出てくる可能性がある」と期待を寄せる。

411荷主研究者:2020/06/20(土) 22:10:28

http://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1583890328822/index.html
2020年3月11日 山陰中央新報
月山富田城跡の竹伐採 大土塁、全長130メートル一望

伐採後に見えるようになった大土塁の北端部を指し示す長谷川弘治さん

 国史跡・月山富田城跡(島根県安来市広瀬町富田)近くに住む農業長谷川弘治さん(72)が、かつて城の防御機能を担った大土塁の全容を見てもらおうと、北側部分に繁茂していた竹を約2カ月かけて伐採した。全長130メートルの土塁が見渡せるようになり、長谷川さんは「全国屈指の広さと堅さを誇った山城に思いをはせてほしい」と願う。

412荷主研究者:2020/06/20(土) 23:13:36

https://this.kiji.is/616044326708937825?c=92619697908483575
2020/3/27 08:00 (JST)熊本日日新聞社
熊本城の宇土櫓、解体復旧へ 熊本市が方針

熊本城の宇土櫓(右)。熊本地震で倒壊は免れたものの、建物全体が傾いているという。奥左は小天守、奥右は大天守=1月、熊本市中央区本丸

 熊本市は、熊本地震で被災した熊本城の国重要文化財・宇土櫓[やぐら]を全て解体した上で復旧する方針を固めた。市役所で26日開いた第2回熊本城文化財修復検討委員会(12人)で報告した。

 宇土櫓(高さ19メートル)は慶長年間(1596〜1615年)の創建とされ、3層5階・地下1階。既に解体した続[つづき]櫓が付属している。当時から唯一残る多層櫓で、全て解体されれば1927年の大規模な解体修理以来となる。

 市によると、宇土櫓は地震による倒壊は免れたものの、基礎や柱の破損が地階と1階に集中して42カ所ある。柱の傾斜も各階で見られ、1階は東側に、4・5階は北側に傾き、全体が変形している。

 櫓の石垣は一部が変形しており、復旧方法を検討中。このため櫓の解体着手時期は未定。市は「部分的な修理での復旧は難しい。解体を進めながら調査し最終的に判断するが、全ての解体を見据えて進める方針」と説明した。

 委員からは「激しい破損状況なので、解体による修理はやむを得ない」「石垣の復旧は造形も守る必要があるのではないか」などの意見が出た。

 熊本城には国重文が13棟あり、これまで7棟を解体している。(園田琢磨)

413荷主研究者:2020/07/14(火) 21:57:08

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=653266&comment_sub_id=0&category_id=112
2020/6/17 中国新聞
福山城北面の鉄板復元、400年事業 21年度完成予定、市が7月からCF

福山城天守の北側。今後、鉄板張りが施される

鉄板張りが施された往時の福山城天守を再現したCG(福山市提供)

 福山市は、かつて福山城天守の北側の壁に施されていた鉄板張りの「復元」に乗り出す。7月から、必要な資金をふるさと納税制度を使ったクラウドファンディング(CF)で募る。寄付した人には、返礼品の代わりに鉄板の裏に自分の名前や城への思いを書いてもらう。2022年の築城400年に向けた事業の一環で、21年度の完成を予定する。

 市によると、1622年に築城された福山城の天守北側には最上階を除く壁一面に黒色の鉄板が張られていた。北側は防御が弱く、砲撃から城を守るためだったとされる。福山空襲で焼失した後の1966年に天守は再建されたが、鉄板は張っていなかった。

 市が今秋から始める耐震工事の計画段階で、城の専門家が「鉄板が張られた城は唯一無二。耐震化に合わせて復元してはどうか」と提案。市も城の魅力向上につながると判断した。

 市は復元と同時に、劣化したり、割れたりした瓦約4千枚も取り換える計画で同様に寄付を募る。鉄板が1口10万円で600口、瓦は同1万円で4千口とし、目標額は計1億円。寄付した人を21年夏ごろに城周辺で開くイベントに招待し、鉄板と瓦の裏面に自分の名前や城の思いを書いてもらう。鉄板などは寄付の口数に応じて割り当てる。

 市によると、天守を再建した当時の事業費1億8千万円のうち、約9割の1億6千万円は寄付で賄ったという。渡辺真悟・築城400年事業推進担当課長は「城の知名度を高めるとともに、市民や全国の城のファンに親しんでほしい」と意気込む。CFによる寄付は市のホームページなどで募り、21年3月末に締め切る予定。(門戸隆彦)

414名無しさん:2021/03/30(火) 13:09:45
国宝 犬山城の天守 調査で現存する最古の天守との裏付け 愛知
2021年3月29日 18時26分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210329/k10012942841000.html

愛知県の国宝 犬山城の天守は、秀吉と家康が争った小牧長久手の戦いの直後に建てられたとみられ、これまで考えられていたより50年ほど新しいものの、現存する最も古い天守であることが裏付けられたことが名古屋工業大学大学院などが行った建築材の調査で分かりました。

愛知県犬山市にある犬山城の天守は、昭和36年から行われた大規模な修理に伴う調査の結果、2階までの下層階は1537年ごろに織田信長の叔父の信康が建築し、3、4階はそのおよそ60年後に増築されたという説が有力でした。

犬山市の依頼を受けた名古屋工業大学大学院の麓和善教授らが、おととしから初めて年輪年代法という手法で分析したところ、柱やはり、床板など天守の主な建築材は、いずれも西暦1585年からの3年間に伐採されていて、1階から4階まで一気に建設されたとみられることが分かったということです。
この時期は、豊臣秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いの直後で、犬山城は信長の次男の信雄の勢力圏にあったということです。

市によりますと、これまで考えられていたより50年ほど新しいものの、関ヶ原の戦いより前にあたり、現存する天守の中では最も古い天守であることが裏付けられたということです。

専門家「今回の調査は非常に重要な意味を持つ画期的な成果」
調査にあたった名古屋工業大学大学院の麓和善教授は「今回の調査によって犬山城の天守が最初からほぼ、今の形で建てられたことが分かった。年代が科学的に特定できたので非常に重要な意味を持つ画期的な成果だ」と話しています。

また、調査に協力した奈良文化財研究所の光谷拓実客員研究員は「犬山城の目に見える建材をすべて調査した。創建の経緯の解明に役割を果たせたと思う」と話していました。

415名無しさん:2021/04/03(土) 07:59:26
https://news.yahoo.co.jp/articles/c1d57ba96e99c908233e5b3c11f138f005a413ae
幻となった不遇の城・江戸城4代天守はなぜ再建されなかったのか?
4/3(土) 6:09配信
サライ.jp
【第4代幻の天守】明暦3年(1657)の大火で3代天守は焼失。天守の再建計画が立てられた。しかし保科正之が中止した。3代天守と同じ構造とされる。CG制作/中村宣夫。

家綱の叔父・保科正之が天守無用論を唱えて中止
3代将軍家光が没し、嫡男家綱が4代将軍となってから6年が経過した明暦3年(1657)正月の大火により江戸の四分の三が灰燼に帰した。江戸城も免れることができず、西の丸を残して焼き尽くされ、家光が造営した寛永度天守も類焼した。幕府は江戸城の再建を修復程度に止め、町人地と武家地の屋敷復興に努めている。ようやく9月になってから、幕府は、江戸城本丸の再建工事を来年に行なうこと、御手伝普請(天下普請)の助役大名は1万石に100人の人夫を出すことを命じた。天守台の担当となったのは、加賀金沢藩主前田綱紀だった。

翌明暦4年(万治元年、1658)正月に諸老臣とともに将軍補佐役の井伊直孝と保科正之が本丸工事を監視することになる。前田家による天守台の築造工事は5月に始まった。6月になると、将軍家綱が本丸工事の進捗を見舞い、前田綱紀・細川綱利ら助役大名に炎暑慰労の詞を掛けたという。8月18日に天守台の角石が据えられたことにより、10月初めに至り完工した。現在、本丸跡に残る天守台はこの時のもので、天守台本体はすべて御影石からなるが、南側の小天守台は伊豆石の安山岩である。御影石は瀬戸内海の小豆島と犬島から運ばれたものという。石垣の高さは6間である。「加賀百万石」の前田家は、人夫1万人を動員し、天守台築造を行なった計算になる。

天守台は成ったが、天守は築かれていない。あるいは、天守台のみ築く計画だったのか、それとも計画はあったがなんらかの理由で工事が中止となったのか、いずれであったとしても史実を語る史料は残っていない。これに関しては、保科正之(陸奥会津藩主)が天守無用論を唱えたという逸話がある。正之は将軍家綱の叔父に当たり、補佐役の立場を考慮すると可能性は高いといえる。明暦3年は家光の法会の年にあたり、4月20日の7回忌法会の前後に決断したのかもしれない。当日の正之は、本丸の留守居を務めており、上野寛永寺に赴いていない。

その時から40年以上が過ぎ、6代将軍家宣の正徳2年(1712)に儒者新井白石の建言によって天守の再建計画が進められ、5層の「江戸御城御殿守正面之絵図」が伝来する。また、翌正徳3年(1713)の「御天守絵図」も伝存する。後者は詳細な図面で、南側(正面)の妻側と平側の5層の外観図と、穴蔵の地階、高さ6間の天守台上の初重から5重目までの平面図があり、階段も描かれており、穴蔵の図には小天守台もある。再建が検討されたが、正徳2年10月の家宣没により中断し、翌正徳3年に再度再度俎上に上ったものの、家宣の子の7代将軍家継が正徳6年に没してしまい、4代天守は実現に至らなかったのだろう。

江戸城天守の高さと形状比較
【初代天守】

家康が建てた初代天守は大天守と小天守を伴う連立式。壁は白漆喰総塗籠でまるで姫路城のような白亜の天守だった。高さ22間5尺。CG制作/中村宣夫。

【2代天守】

家康が死去すると2代将軍秀忠は家康が築いた天守を取り壊し、本丸御殿を大幅に拡張し、天守は北側に設けた天守台に新たに築いた。家康の連立式天守ではなく、独立した天守だった。元和9年(1623)に完成。五重五階で壁面は白漆喰。層塔型で下階から上階になるに従い、間口と奥行きが狭くなっていく。高さは22間5尺。CG制作/中村宣夫。

【3代天守】

秀忠死後の寛永14年(1637)、2代天守を解体して造る。権威を誇示する独立式大天守。基部に入母屋(いりもや)屋根はなく、最上階のみが入母屋造り。青海波(せいがいは)という文様を打ち出した銅張の千鳥破風が12個あるのも特徴である。瓦はすべて銅瓦で、最上部に金鯱があった。各階に銅板張の突上窓がある。高さは22間5尺と現代の15階建てのビルに相当。CG制作/中村宣夫。

徳川家康が築城した初代江戸城は「日本最強の要塞」だった!に続きます。

監修・文/菅野俊輔
早稲田大学政治経済学部卒業。江戸文化研究家。早稲田大学エクステンションセンター講師。現在、江戸のくずし字や江戸学など“江戸を楽しむ講座”の講師を務めながら、講演、著述、テレビ・ラジオ出演など多方面で活躍。主な著書に『図説世界を驚かせた 頭のいい江戸のエコ生活』『古地図と名所図会で味わう 江戸の落語』『江戸の長者番付』(以上、新書、青春出版社)、『書いておぼえる 江戸のくずし字いろは入門』(柏書房)、『江戸っ子が惚れた忠臣蔵』(小学館)などがある。

サライ.jp

416とはずがたり:2021/08/28(土) 12:03:38
安土桃山の話なので此処で。

信長「最愛の女性」菩提寺取り壊しへ 630年以上の歴史に幕
8/28(土) 7:30配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/827ec400e767b88cea6dedff1946c4c88fab7a5e
毎日新聞

 戦国武将・織田信長の最愛の女性で、信長との間に後の岐阜城主となる信忠らをもうけたとされる側室、吉乃(きつの)の墓がある久昌寺(きゅうしょうじ)(愛知県江南市田代町)が近く取り壊されることが分かった。老朽化に伴い維持管理が難しくなったためで、跡地は市に売却され、公園として整備される見込み。市民や歴史ファンらからは「貴重な歴史遺産を残してほしかった」と惜しむ声が上がるが、630年以上とされる歴史に幕を下ろすことになる。【川瀬慎一朗】

 「江南市史」などによると、吉乃は地元有力者だった生駒氏の娘。寺は1384年創立で生駒家の菩提寺にあたる。吉乃は生駒家の屋敷で暮らしていた時に信長と出会い側室となった。長男信忠、次男信雄、後に徳川家康の長男信康の妻となった徳姫をもうけたとされる。信長は正室、濃姫との間に子どもがおらず、吉乃は織田家の中で存在感があったとみられる。若くして亡くなったとされ、冷酷非情とされる信長がその死に涙を流して惜しんだと伝わる。信長は香華料として660石を寺に与えたという。

 寺の現在の本堂は1925年建築。庫裏は不明だが、江戸期とみられる。寺の西側にある吉乃の墓は、生駒家歴代当主の墓と共に市文化財に指定されており、今回の取り壊しや売買の対象にはならない。しかし、寺がなくなった後にも墓標は立ち続けることになり、どのように保存、継承していくかが課題となる。

 寺を所有する宗教法人役員の19代生駒家当主、生駒英夫さん(48)によると、寺には約60年前から専属住職はおらず、檀家も約10軒という。長年維持管理が課題になっており、約5年前から取り壊しを検討。耐震化や雨漏りの問題があるが、費用面から改修は困難だったという。本堂内にあった吉乃や信長の位牌はすでに別の寺などに移しており、英夫さんは「信長ゆかりで先祖の菩提寺でもある歴史的な寺なので残したい思いはあったが、檀家も少なく財政的にやむを得ない」と話した。

 市によると、寺の境内南側は92年、北側は2012年から市に無料貸与され久昌寺公園として整備。20年8月、所有者側がこの無料貸与している土地を無償で市に譲渡し、本堂と庫裏の取り壊し後の跡地約1600平方メートルの買い取りを要望。市は所有者側と交渉を重ね購入の方針を決めた。

 9月2日開会の9月定例議会に土地鑑定、測量予算約59万円を計上する。22年度中に取り壊し・購入、23年度に公園として整備するという。

 同寺の案内もするボランティア団体「市歴史ガイドの会」の川田圭一会長は「歴史を伝える寺が無くなることは寂しい。皆で維持費を集められれば良かったが」と肩を落とした。その上で、「忘れ去られてしまわないよう、どこかに寺のことを伝える場を作ってほしい」と望んだ。

417荷主研究者:2022/01/09(日) 15:48:06

https://www.chunichi.co.jp/article/164837
2020年12月4日 05時00分 (12月4日 09時50分更新)
二の丸御殿 復元へ一歩 金沢城 基礎部分を発見 石川県教委

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20201204chunichi01.JPG
発見された金沢城・二の丸御殿の基礎部分=3日、金沢城公園で

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20201204chunichi02.JPG

位置、規模を把握へ

 江戸時代に金沢城の中心だった二の丸御殿の玄関口に当たる北東地点で、建物の基礎部分が金沢城公園(金沢市)で見つかった。三日に発表した石川県教委の金沢城調査研究所は、御殿の正確な位置や規模の把握につながるとみている。御殿の復元整備を目指す石川県は、年度内にまとめる復元整備の基本方針に生かす。

 発見されたのは、二の丸御殿の中でも公務の場である「表向(おもてむき)」の一角。柱を支えた礎石は撤去されていたが、礎石を安定させるための川原石や戸室(とむろ)石を詰めた土台部分が複数にわたり並んでいた。公式行事用の玄関「表式台(おもてしきだい)」と大広間につながる廊下「広縁(ひろえん)」に対応する部分という。

 一八〇八(文化五)年に火災で焼失した後の一八一〇年に再建され、一八八一(明治十四)年まであった二の丸御殿の基礎部分とみられている。古絵図や、再建時の古文書と照合した。

 今回の成果について、谷本正憲知事は三日の県議会代表質問の答弁で「史実に沿った二の丸御殿復元の精度をより高めるものと考えている。復元は県の最大の個性である文化の集積にさらなる厚みを加える」と強調した。復元整備の基本方針には事業の進め方や御殿内部の活用方法、事業全体の日程などを盛り込む。

 二の丸御殿は東から、公務の場である「表向」、藩主が住む「御居間廻(おいままわ)り」、藩主の母親や側室らが住む「奥向(おくむき)」で構成される。復元を巡っては、今年二月に有識者でつくる検討委員会が「表向の復元整備を進めることは可能」、御居間廻り、奥向は「引き続き調査検討が必要」と報告した。

 このほか、一九六九年度に県教委と金沢大が発掘調査した遺構の一部も再検出。表向の主要部と南に位置する台所の境にあり、中庭に出入りした通路「くぐり抜け階段」や表向と御居間廻りの境にあった排水施設なども姿を現した。

 一般市民向けの現地説明会は五日午後一時半から。参加無料。

【メモ】金沢城二の丸御殿=加賀藩主の住まいや政務の場として金沢城の中枢を占めた。1631(寛永8)年の大火を機に本丸から移って建築され、2度の焼失を経験しながら、幕末まで機能を保った。明治期に入り、陸軍の兵舎として利用されたが、1881年の失火で失われた。

418とはずがたり:2022/05/10(火) 13:42:57

彦根城天守前でラジオ体操続けたい 市「文化財保護のため場所変更を」
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/776604
2022年4月24日 6:00

 2024年の世界遺産登録を目指す彦根城(滋賀県彦根市)の国宝・天守前で、早朝にラジオ体操をしている市民に対し、市が場所を変えて行うよう求めている。開場時間外で文化財の管理面などが理由。参加者らは陳情書を提出し、継続できる環境づくりを求めている。

 天守前には広場があり、市民らが一年中集い、毎朝6時半にラジオ体操を始める。30年前から続ける男性(80)によると、市民らが自然に集まるようになり、昨年は家族連れや高齢者ら延べ約6800人が足を運んだ。

 琵琶湖や城下町の町並みの眺望も魅力で、男性は「城はもちろん、朝日を受けた一帯の景色を見ることができる超一流の場所で健康増進ができ、値打ちがある」と話す。これまで大きなけが人が出るなどトラブルはないという。

 世界遺産登録活動を進める中、市は3月中旬、参加者側に口頭で場所を変えるよう求めた。文化財課は「そもそも開場時間(午前8時半〜午後5時)外」とし、国宝や重要文化財の保全や防災・防犯面から、城の内堀沿いの金亀児童公園などでの活動に移行するよう伝えた。

 これに対し、男性らは「天守で健康づくりをする会」(仮称)を立ち上げ、4月4日、市に陳情書を提出。約140人分の署名を添え、「長年ラジオ体操を通じ、生活リズムや郷土愛を育んできた。城内の異変や不審者にも注意を払い、一定の防犯、抑止効果も担っている」とし、理解を求めている。

 市も、市民らの長年の生活習慣を突然断ち切るような事態は避けたいとし、対応に頭を痛める。

 井伊岳夫文化財課長は「参加者の方々の城を大切にされる思いはありがたい」とする一方、各地の社寺で液体がまかれた事件や3年前の首里城(沖縄)での火災などを念頭に、「市としても国宝などの文化財を保護し、将来に伝えなければならない。何とか場所を変えてお願いできないか」とし、今後、参加者との話し合いの場を設けるとしている。

419とはずがたり:2023/04/07(金) 22:54:22

美術よりこっちが近いんちゃうか。

刀剣は行方不明の旧国宝・伝則重か? 「刀剣乱舞」俳優も驚き
石田宗久
https://mainichi.jp/articles/20230106/k00/00m/040/117000c?cx_testId=0&cx_testVariant=cx_0&cx_artPos=4#cxrecs_s
毎日新聞 2023/1/8 07:00(最終更新 1/19 17:06) 有料記事 1897文字

 戦後、連合国軍総司令部(GHQ)により接収され所在不明だった旧国宝の日本刀「無銘伝則重(のりしげ)」と刀身や装具の特徴が一致する刀剣が、オーストラリアで確認された。かつて鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)が保有していた実物の可能性が高いとみられる。ネットオークションで落札した愛刀家の男性が、史料を分析するなどしてその来歴に迫った。

ある刀剣との出合い

 「これまで見た刀剣の中では最も質が良い」。メルボルン在住の弁護士、イアン・ブルックスさん(66)は、10代からの日本刀ファンだ。日課であるオークションサイトのチェックをしていた2018年10月、一振りの刀剣に目を奪われた。

 刀剣は、米ニューヨークの個人が出品していた脇差しだという。刀装具である鐔(つば)は柳の木の下を走る馬の群れの細工があり、「桂永寿」の銘があった。ブルックスさんは迷わず落札し、コレクションに加えた。翌19年1月、何気なく愛好家団体の会報を眺めていると「行方不明の重要な日本刀一覧」の記事があった。記載されたリストを見て、落札した刀剣を急いで取り出した。
一致した特徴

 リストの記述は、手元の刀に当てはまった。さらに日本の旧国宝の刀剣に関する別の文献に照らすと、約60センチの刀長や刀を納める鞘(さや)、握るための柄(つか)といった刀装具の特徴が一致した。「私は行方不明の刀剣を手に入れた」との思いに至った。

 調べると、伝則重は鎌倉時代に活動した刀工、則重の作で、松の木肌のような見た目から「松皮肌」と呼ばれる太い鍛え肌が特徴だという。桂永寿が福岡県出身の優れた刀装具職人だったことも分かった。また、落札した刀剣に添えられたラベルは、判別が難しい2文字を挟むように「官幣大社……島神宮」の文字や「三二」などの数字が読み取れた。

 刀剣が鹿児島神宮に関係すると考えたブルックスさんは、来日して文部科学省や文化庁に照会した…
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