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日本中世史スレ

1 名前:■とはずがたり 投稿日: 2002/11/04(月) 21:53
日本中世史を語る

68 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/10/28(土) 12:34:14
http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub217.htm
【鎌倉幕府の成立はいつか】

69 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2006/11/29(水) 02:27:50
立派ですねぇ。

島根県が石見銀山産の丁銀を購入
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=334887006

 島根県が石見銀山産の銀で造られた「石州文禄丁銀(せきしゅうぶんろくちょうぎん)」と、「御公用丁銀(ごくようちょうぎん)」の2枚を購入した。いずれも16世紀に鋳造された完全品で希少価値が高い。石見銀山の歴史を語る「物証」の本家帰りで、来年夏に迫った世界遺産登録にもはずみがつきそうだ。

 石州文禄丁銀は、豊臣秀吉が文禄の役(1592―93年)で朝鮮出兵した大名への褒美用として鋳造させたとされる銀貨。表面に「石州銀文禄二卯月日」と、石見銀山で1593(文禄2)年4月に製造されたことを示す刻印が施されている。完全品は国内で5点程度しか確認されておらず、希少価値が極めて高い。長さ14・9センチ、幅4・6センチ、重さ201・6グラムで、購入価格は1397万円。

 御公用丁銀も、一部が欠けているものの完全品。1564(永禄7)―99(慶長4)年ごろに製造され、当時、石見銀山を管理していた毛利家が、朝廷や室町幕府に献上したとされる。表面には「御公用」との刻印があり、長さ15・3センチ、幅4・6センチ、重さ164・3グラム。1029万円で購入した。

 丁銀は、石見銀山の世界遺産登録を目指し始めた10年前から県教委などが情報収集し、貨幣商(東京)の仲介によって手に入れた。

 同県は1999年にも、石見銀で造られ現在1点しか存在しない特別鋳造の「御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん)」を購入しており、来年7月から古代出雲歴史博物館(同市大社町)で開かれる「石見銀山展」で3点を併せて一般公開する。

 丁銀 室町時代から江戸時代にかけて流通した板状やナマコ型の銀貨。重さも不定で160グラム前後が多い。額面は記されておらず、重量によって貨幣価値が決まる。取引の度に適度な重量に切って使用されたため、完全品が残る例は少ない。

70 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/01/06(土) 19:33:41

銀閣寺、銀箔なかった
科学の目 通説裏付ける
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007010500076&genre=J1&area=K10

 世界文化遺産・銀閣寺(慈照寺、京都市左京区)には銀箔(ぎんぱく)がまったく使われていないことが、お寺の初めての科学的調査で確認された。金箔が豪華に張られた金閣寺(北区)と違い、漆塗りの建物だったことで通説を裏付けたかたちとなったが、お寺は「銀箔がなくても銀閣の価値は変わらない」としている。

 調査は国宝・銀閣(観音殿)の二層外壁のうち、表面のすり減り具合の顕著な部分を大規模な修理の行われた大正時代以前のものと判断。その部分から試料を採取して行われた。エックス線による元素分析とICP/MS(誘導結合プラズマ質量分析法)と呼ばれるごく微量の元素でも検出できる分析法を用いたが、銀は検出されなかった。

 銀閣寺は室町幕府の足利義政(1436−90)が造営した山荘の東山殿を義政の死後、禅寺に改めて現在に至っている。銀閣はこけらぶき二層の楼閣建築で、数度の修理を経て、創建当時の姿をとどめている。

 「銀閣」の通称は江戸時代以降に使われ始めたといわれる。金閣に対する呼び方、あるいは池の反射光が漆塗りの外壁に映ったことからそう呼ばれたというのが通説となっている。幕府の財政難や完成直前に義政が死去したために銀箔が張られなかったともいわれ、一部では実際に銀箔が張られていたという説もある。
 今回の調査結果に、坂根孝慈執事長は「これで銀箔がなかったことが確定した。東山文化は幽玄やわびさびの美意識の枯淡美(こたんび)を基調としている。たとえ銀箔が使われていなくても、銀閣の価値はまったく変わらない」と話している。

71 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/01/10(水) 00:18:48
古代だけど周防内侍ちょっちお気にっす。百人一首にも載ってる歌なんかの経緯など聞くと俺だって手枕のオファーぐらいしたくなるってものだ。

夜をかさね待ちかね山の郭公雲ゐのよそに一声ぞきく(新古205)

歌枕紀行 待兼山
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utamaku/matikane_u.html

千載和歌集 ―『定家八代抄』による抜萃 206首―
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/hatidai/senzai_s.html
二月ばかり、月のあかき夜、二条院にて人々あまた居明かして物語などし侍りけるに、内侍周防寄り臥して「枕をがな」としのびやかにいふを聞きて、大納言忠家、「是を枕に」とて、かひなを御簾の下よりさし入れて侍りければよみ侍りける
                          周防内侍
0964 春の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)にかひなく立たむ名こそ惜しけれ (0954)
といひ出だし侍りければ、返り事によめる
                         大納言忠家
0965 契りありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき (0955)


周防内侍 すおうのないし 生没年未詳(1037頃-1109以後) 本名:平仲子
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/suounai.html

父は和歌六人党の一人、従五位上周防守平棟仲。母は加賀守従五位下源正?の娘で後冷泉院女房、小馬内侍と称された人だという(後拾遺集勘物)。金葉集に歌を残す比叡山僧忠快は兄。

後冷泉天皇代に出仕を始め、治暦四年(1068)四月、天皇の崩御により退官したが、後三条天皇即位後、再出仕を請われた(後拾遺集雑一の詞書)。その後も白河・堀河朝にわたって宮仕えを続け、掌侍正五位下に至る。天仁二年(1109)頃、病のため出家し、ほどなく没したらしい。七十余歳か。

寛治七年(1093)の郁芳門院根合、嘉保元年(1094)の前関白師実家歌合、康和二年(1100)の備中守仲実女子根合、同四年の堀河院艶書合などに出詠。後拾遺集初出。勅撰入集36首。家集『周防内侍集』がある。女房三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。

女房三十六歌仙 撰者不明
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36wk.html
小野小町 伊勢 中務 斎宮女御 右近 右大将道綱母 馬内侍 赤染衛門 和泉式部 三条院女御蔵人左近 紫式部 小式部内侍 伊勢大輔 清少納言 大弐三位 高内侍 一宮紀伊 相模 宮内卿 周防内侍 俊成卿女 待賢門院堀河 宜秋門院丹後 嘉陽門院越前 二条院讃岐 小侍従 後鳥羽院下野 弁内侍 少将内侍 殷富門院大輔 土御門院小宰相 八条院高倉 後嵯峨院中納言典侍 式乾門院御匣 藻壁門院少将

鎌倉時代中期の成立と推測される「女房三十六人歌合」によるもの。左方に小野小町から相模までを配し、右方に式子内親王から藻壁門院少将までを配して、一歌人三首ずつを合わせている。伊勢は宮内卿と、和泉式部は小侍従と、紫式部は弁内侍と対戦する、といった具合である。

72 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/02/12(月) 18:11:47
母親孝行でちょいと奈良の柳生の里迄行って来た。
高校日本史選択者なら誰でも知ってる「正長元年ヨリ先ハ神戸四ヶ郷ニ負ヒ目アルヘカラス」が実は柳生にあるのを現地で知って捜して拠った。非常に判りにくい場所にあったが日本民主主義の原点としての室町時代wを高く評価する俺にとっては一寸した聖地だ。(こんな所にあるとは知らなかったのだけど(恥)富貴寺大堂@豊後も白水阿弥陀堂@磐城も近く迄行く機会があってこんな所にあったのかと思う事になったのだが・・)
柳生・大柳生・阪原・邑地の四ヶ郷は春日神社の社領地で即ち神戸であったのだそうな。いや感動である。
この書き込みは疱瘡地蔵(これもまた凄い名前だ)という地蔵が彫り込まれた巨石の脇腹に彫り込まれているのだそうな。

疱瘡(ほうそう)地蔵
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/page4.htm
http://www1.kcn.ne.jp/~yosikatu/yagyu4.htm
http://miyosida.hp.infoseek.co.jp/yagyuu/housou/housou.html
「正長元年ヨリサキ者カンヘ四カンカウニヲヰメアルヘカラス」。
実際は摩耗してしまってか全く読めません。拓でも取れば違うのかもしれませんけど。

あと山岡荘八が柳生藩の家老の屋敷を一時期所有して小説書いてたそうな。今は整備・公開されてうらさびれた観光地になっている。これは娘婿の山岡賢二@栃木4区が死後寄贈したのだそうな。

73 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2007/02/13(火) 22:53:26
こういう奇説から真実が見えるときもありますので、要注目です。
なお、私の中では、上杉謙信女性説が8割方、固まってきてる。貴城けいか瀬奈じゅんあたりに謙信やらせて大河一本打てないか。って、全然宝塚好きじゃないんだけど。

『桶狭間の戦い』で新説 信長 略奪中の敵急襲
http://www.tokyo-np.co.jp/00/gnm/20070212/lcl_____gnm_____000.shtml

 戦国武将・織田信長が天下統一のきっかけをつかんだ尾張の「桶狭間の戦い」(一五六〇年)。信長の勝因は「民家の略奪行為で油断する敵を急襲したから」という新説を、県立歴史博物館(高崎市)の黒田日出男館長=東京大名誉教授=が、教授を務める立正大(東京)の「立正史学」に発表した。NHK大河ドラマ「風林火山」の種本ともいえる「甲陽軍鑑」を解読して導いた新説。この新説をテーマに三月三日、同博物館で講演する。 (菅原洋)
 桶狭間の戦いは、何倍もの軍勢を率いた駿河の戦国武将・今川義元に対し、信長がいかにして勝ったかが長年論争の的になってきた。
 明治時代に陸軍が出した本などがまず、信長が迂回(うかい)して近づいたとする「迂回奇襲説」を主張して定説化。この説は近年は学界で否定され、信長の伝記「信長公記」に基づいて正面から攻め込んだとする「正面攻撃説」が主流となった。両説とも、豪雨が信長に有利に働いたとの見解は共通する。
 これに対し、黒田館長は信長公記よりも古く、甲斐の戦国武将・武田信玄の合戦などを伝える「甲陽軍鑑」に着目した。甲陽軍鑑はこれまで、誤記の多さから学界では史料としての価値が低くみられてきた。
 しかし中世史が専門の黒田館長は、全二十数冊に及ぶ膨大な甲陽軍鑑を分析。「記憶違いはあるが、悪意のねつ造はなく、体験に基づく良質な史料」との結論に至った。
 さらに、桶狭間の戦い当時は武田氏と今川氏は同盟していたため「戦いの敗因を間違えるとは考えにくく、第三者が敗者から得た信頼できる情報に基づく」とみている。
 その上で、黒田館長は甲陽軍鑑に多い桶狭間の戦いに関する記述の中に「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」という意味の内容を見つけた。
 こうした記述はこれまで学界でまったく無視されていた部分。黒田館長は甲陽軍鑑に関連する別の史料の中でも、桶狭間の戦いに今川方で参戦した、後の徳川家康が「今川軍が略奪し、油断していた」と証言したのも確認。黒田館長は略奪を歴史用語で「乱取り」と呼ぶため、新説を「乱取状態急襲説」と名付けた。
 黒田館長は「戦国時代に戦い後の乱取りは常識。信長公記は信長の立場に立つため、略奪に付け込んだ勝因を『みっともない』と避けたのでは」と指摘している。
 講演会は既に定員を超えており、同博物館で三月三日から今回の論文を販売する予定。
<メモ>甲陽軍鑑 1573−86年に武田信玄の重臣・高坂弾正らが記し、甲州流軍学者・小幡景憲が写本を完成させた。大河ドラマ「風林火山」では主人公・山本勘助が今川家に関与する場面があり、桶狭間の戦いでは勘助が情報源の一つだった可能性もある。

74 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/12/23(日) 22:55:30
「教行信証」に親鸞の書き込み発見、角筆のくぼみ
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20071222STXKG010822122007.html

 浄土真宗の宗祖・親鸞(1173―1262年)が教義の根本を記した「教行信証」の自筆本「坂東本」(国宝)に、先のとがった木や象牙などで紙にくぼみを付ける「角筆」の書き込みが約700カ所見つかっていたことが22日、分かった。

 角筆による書き込みは一般的に、漢字の振り仮名や送り仮名などが多いとされるが、見つかったのは文字や棒線のようなもので詳細は調査中という。

 坂東本の修復にかかわった広瀬杲・元大谷大学長は「坂東本は親鸞が生涯手元に置いており、書き込みは直筆の可能性が高い。教行信証の解釈にも影響するのではないか」と話している。

 坂東本はとじ目付近に裂け目が生じるなど劣化が進んでいたため、所蔵する真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)が2003年から04年にかけて修復。

 その際、修復を指導した京都国立博物館の調査員らが偶然、小さなへこみを発見。角筆の可能性があるとして、紙を傷つけない発光ダイオード(LED)の光で詳しく調べ、角筆と判断した。〔共同〕 (14:37)

75 名前:荷主研究者 投稿日: 2008/02/28(木) 23:55:31

http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2008/01/20080105t75021.htm
2008年01月04日金曜日 河北新報
頼朝軍との戦い解明へ 奥州藤原氏が築造・阿津賀志山防塁

3重の土塁と、その間に走る堀が確認できる阿津賀志山防塁

 奥州藤原氏が源頼朝との戦いに備えて現在の福島県国見町に築いた国内最大級の「阿津賀志(あつかし)山防塁」の発掘調査に、同町教委が新年度着手する。800年以上前に造られた全長3キロの防塁は今もほぼ原形をとどめる。調査によって、奥州藤原氏の東北統治の実態や、平安から鎌倉時代に移る日本史の転換点となった阿津賀志山の戦い(1189年)の実像が解明されそうだ。

 防塁は阿津賀志山の戦いの直前に完成したとされる。幅15メートルの間に二重の堀と三重の土塁を張り巡らし、阿武隈川と西側の山間部に挟まれた平野部を遮断した。藤原氏が頼朝軍の北進を止め、この地で合戦をするために築いた。

 鎌倉幕府が造った元寇防塁(福岡市)に次ぐ規模で、完成まで延べ25万人が投入されたと推定されている。

 調査は4年かけて、3キロの防塁のうち1.8キロほどの区間で堀の埋め土を取り除くなどして当時の姿に復元。奥州藤原氏の土木技術を調べるほか、要した作業員数を精査して周辺人口や東北支配の実態を探る。

 兵士の骨などが発掘されれば、両軍の交戦場所や本営と武将の配置など戦いの様子が浮かび上がる。出土例がない奥州藤原氏方の武具が見つかる可能性もある。

 防塁跡は1970年代の圃場整備で整備地域に含まれたが、町が県と交渉し対象から外した。高さ5メートルの土塁と深さ2―3メートルの堀は人が歩けるよう一部埋められたものの希少性が高く、国史跡に指定された。

 町は発掘調査と復元整備を目指し80年代から防塁跡の土地買収を進めた。ここ数年、耕作を放棄する農家が増えたことから買収が進み、本格的な発掘調査が可能になった。

 阿津賀志山の戦いでは10万人以上とされる頼朝軍が3日間総攻撃を仕掛けても防塁を突破できず、2万人の藤原勢に苦戦。頼朝軍は正面突破を断念して藤原勢の背後を奇襲して勝利した。この戦いで頼朝は全国統一を決定的にし、鎌倉幕府誕生につながった。

 平泉研究の第一人者の入間田宣夫・東北芸術工科大教授は「奥州藤原氏の行政、軍事システムの解明などにつながれば、世界遺産登録を目指す平泉の研究にとって朗報となる。阿津賀志山の戦いは平安末期の天下分け目の戦いと言える重要な合戦だけに、実像解明を期待したい」と話した。

76 名前:荷主研究者 投稿日: 2008/06/30(月) 00:59:03

http://www.kahoku.co.jp/news/2008/06/20080614t15036.htm
2008年06月14日土曜日 河北新報
600メートル大路発見 平城京と類似 加美

加美町・壇の越遺跡で発掘された道路

 宮城県教委は13日、奈良・平安期の役人の居住区跡とみられる加美町宮崎地区の「壇の越遺跡」と、北側にある郡役所跡「東山官衙(かんが)遺跡」との境界にある道路が、壇の越遺跡内で既に発掘されている大路と同規模だったことが分かったと発表した。

 両遺跡は、陸奥国府・多賀城から出羽国に向かうルート上にある律令(りつりょう)国家の最前線基地。壇の越遺跡は都を模して、碁盤の目状に造られていたことが既に判明している。居住区と役所との境界に大規模な道路を敷くスタイルも平城京と類似しており、県教委文化財保護課は「壇の越遺跡が、平城京に似ていることがあらためて分かった」としている。

 確認されたのは壇の越遺跡の北側の境界で、東西に走る道路。8世紀前半に造られ、幅4―5.6メートル、長さ600メートル以上とみられている。
 東山官衙遺跡は国の史跡に指定されており、多賀城の下で郡を治めた役所とされている。東山官衙遺跡の南門から壇の越遺跡には南北に幅6メートルの大路が延び、南門から200メートル付近で今回発掘された道路と交差している。
 これまでの発掘で、東山官衙遺跡と壇の越遺跡を取り囲む外郭施設の範囲が東西1.2キロ、南北1.4キロ以上であり、外周が3.1キロ以上に及ぶことも確認された。
 15日午前10時半から、現地で一般を対象にした説明会が開かれる。

77 名前:石垣眞人 投稿日: 2008/07/29(火) 14:42:44
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.saces.live.com にアクセスしてください。



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